1221 関係: 功山寺、加古川市、加藤景正、執権、埼玉県、厳島、厳島神社、お歯黒、たまきはる、とはずがたり、とりかへばや物語、えくぼ、こけら葺、博多、十三重石塔、十二天、十六夜日記、十訓抄、卜部兼方、卜部氏、千五百番歌合、千載和歌集、千葉県、千手観音、南大門、南宋、南区 (京都市)、南北朝時代 (日本)、南禅寺、南部実長、南都、南都六宗、南朝 (日本)、叡尊、古事談、古今和歌集、古今著聞集、古式競馬 (日本)、古瀬戸様式、右大臣、叙事詩、名古屋市、吾妻鏡、向嶽寺、吉川弘文館、吉田兼好、吉田精一、吉野町、吉野郡、吉野水分神社、...、坊津、坐禅、坂誥秀一、堀、堀川通具、境内、増鏡、声聞師、売春、壺、多宝塔、夢窓疎石、大報恩寺、大宰府、大山祇神社、大乗仏教、大仏、大仏様、大徳寺、大和絵、大倉集古館、大義名分、大番役、大隅和雄、大隅国、大鏡、大覚寺統、大谷石、大谷磨崖仏、大阪府、大江広元、大津市、大日如来、大日房能忍、天 (仏教)、天台宗、天平文化、天井、天神信仰、天福 (日本)、天童如浄、天照大神、天満宮、天智天皇、太山寺 (松山市)、太鼓、太政大臣、外港、奥州合戦、奥州後三年記、奥州藤原氏、女神、女真、女性、奈良、奈良市、奈良仏師、奈良県、奈良時代、如意輪観音、妓王、妙心寺、婆藪仙人、孤雲懐奘、学問、学研ホールディングス、定覚、定朝、定慶、宝物集、室町時代、家永三郎、守護、守邦親王、官吏、官僧、宗尊親王、宗峰妙超、宇都宮、宇都宮市、宇都宮頼綱、宇治、宇治拾遺物語、安宅の関、安居院、安倍文殊院、安田元久、安芸国、安貞、安良岡康作、安東氏、安楽寺 (上田市)、宋 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功山寺
毛利家墓所 功山寺(こうざんじ)は、山口県下関市長府にある曹洞宗の寺。長府毛利家の菩提寺。山号は金山(きんざん)。中国三十三観音霊場第十九番札所、山陽花の寺二十四か寺第九番。 仏殿は、善福院釈迦堂とともに鎌倉時代の禅宗様建築を代表するもので、国宝に指定されている。.
加古川市
加古川市(かこがわし)は、兵庫県の市。特例市に指定されており、東播磨地方の中核都市として機能している。兵庫県東播磨県民局に区分される。.
加藤景正
加藤 景正(かとう かげまさ、仁安3年(1168年)? - 建長元年3月19日(1249年5月3日)?元暦元年(1184年) - 文暦元年(1234年)とする異説のほか様々な説がある。)は、鎌倉時代前期の陶工で、愛知県瀬戸市域を中心とする瀬戸焼(瀬戸窯)の開祖とされる。.
執権
執権(しっけん)は、鎌倉幕府の職名。鎌倉殿を助け政務を統轄した。元来は、政所の別当の中心となるものの呼称であった。 ただし、朝廷においても用いられた語であり、鎌倉幕府独自の職名ではないことに注意を要する。.
埼玉県
埼玉県(さいたまけん)は、関東地方の中央西側内陸部に位置する県。県庁所在地はさいたま市。都道府県別の人口は東京、神奈川、大阪、愛知に次ぐ全国第5位。人口密度は東京、大阪、神奈川に次ぐ全国第4位である。県の愛称は「彩の国」。.
厳島
厳島(いつくしま)は、日本の瀬戸内海西部、広島湾の北西部に位置する島。通称は宮島(みやじま)、また安芸の宮島ともいう。行政区分は広島県廿日市市宮島町。.
厳島神社
境内 全景(弥山中腹より) 2016年G7広島外相会合における平舞台での雅楽。 厳島神社(いつくしまじんじゃ、公式表記:嚴島神社)は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社。式内社(名神大社)、安芸国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」。 古くは「伊都岐島神社」とも記された。全国に約500社ある厳島神社の総本社である。ユネスコの世界文化遺産に「厳島神社」として登録されている。.
お歯黒
お歯黒(おはぐろ)とは、明治時代以前の日本や中国南西部・東南アジアの風習で主として既婚女性、まれに男性などの歯を黒く染める化粧法のこと。.
たまきはる
たまきはる(発音:たまきわる)とは.
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とはずがたり
『とはずがたり』(とわずがたり)は、鎌倉時代の中後期に後深草院二条が綴ったとみられる日記および紀行文。.
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とりかへばや物語
『とりかへばや物語』(とりかえばやものがたり)は平安時代後期に成立した物語である。作者は不詳。「とりかへばや」とは「取り替えたいなあ」と言う意の古語。.
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えくぼ
えくぼ(笑窪、靨、ゑくぼ)は、人が笑うとき、頬にできる小さなくぼみのこと。顔の筋肉の大きな歪みにより隙間が生じるため上部皮膚が窪んでできる。 子供のえくぼは魅力的であるとされるが、大人の場合は顔面の頬がコケて見えるため嫌う人が多い。また大きなものは成長に伴い二重顎やほうれい線と繋がり、深いシワを形成する。 整形手術でも治すことができるが、専門のマッサージや筋肉をほぐす効果のある美顔器でも時間はかかるが消すことができる。 あばたもえくぼ(痘痕も靨)とは、親の目には、子供のあばた(痘瘡によって生じた丘疹が治癒時に残った瘢痕)でもえくぼのように見える、ひいき目で見れば欠点も長所に見えるというたとえ。.
こけら葺
杮葺の屋根(慈照寺) 杮葺(こけらぶき)は、屋根葺手法の一つで、木材の薄板を用いて施工する工法である。板葺(いたぶき)の代名詞にも使われる。日本に古来伝わる伝統的手法で、多くの文化財の屋根で見ることができる。 なお、「杮(こけら)」と「柿(かき)」とは非常に似ているが別字である。「杮(こけら)」は「こけらおとし」の「こけら」同様、木片・木屑の意味。ただし、両者は混用された(「こけら落し」参照)。.
博多
博多総鎮守櫛田神社 博多(はかた)は、九州北部筑前国、現在の福岡県福岡市の地域。 博多湾に面する港町・港湾都市で、博多津などとも呼ばれた。古代からの歴史を持ち、中世には、大商人達による合議制で治められた日本史上初の自治都市として栄えた。江戸時代に黒田氏が入国し那珂川を挟んで城下町福岡を築き、二極都市の性格を持った。明治時代には博多・福岡をまとめて1つの市・福岡市として市制施行されて現在に至り、博多の地名は博多区として残るが同義ではない。.
十三重石塔
浮島十三重石塔 浮島十三重石塔(うきしま じゅうさんじゅうせきとう)は、日本の近畿地方、京都府宇治市宇治塔川とうがわ(京都府立宇治公園塔の島。江戸時代においては山城国久世郡宇治郷内)にあって「浮島」「浮舟ノ島」など地名であり、通用語の「浮島」とは異なる。と呼ばれてきた人工島の一つである「塔の島」に所在する、1基の石塔である。塔高ここでいう塔高は、台石の頂上と相輪の頂上との垂直距離。約15.2メートルの石造・十三重の層塔で、石塔婆(石造供養塔)。文化財としての指定名称は浮島十三重塔(うきしま じゅうさんじゅうのとう)(後述)。 地名を冠せず「十三重石塔」と呼ばれることも多いが、この語は、「石造りで十三重構造の層塔」もしくは「石造りで十三層構造の塔婆」を意味するのであって、アジア各地に数多く存在し、日本国内だけでもかなりの数に上る。また、「十三重塔(じゅうさんじゅうのとう)」という名称では複数の石塔が国指定重要文化財になっており、紛らわしい。飛び抜けて大きい浮島十三重石塔は十三重石造大塔(じゅうさんじゅう せきぞうだいとう)などとも呼ばれるが、これもまた「浮島十三重石塔」独自の名称ではない。 1953年(昭和28年)3月31日、国指定重要文化財となった(指定名称:浮島十三重塔)。2003年(平成15年)3月14日には、納置品が京都府指定有形文化財となった(指定名称:浮島十三重塔納置品)。.
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十二天
十二天(じゅうにてん)は、仏教の護法善神である「天部」の諸尊12種の総称である。密教では四天王とともに重視されている。十二天のうち、特に八方(東西南北の四方と東北・東南・西北・西南)を護る諸尊を八方天あるいは護世八方天といい、更に天地を護る諸尊を加えて十天ともいう児玉義隆『印と梵字ご利益・功徳事典』学研パブリッシングpp256、2009、ISBN 9784054041875。.
十六夜日記
『十六夜日記』(いざよいにっき)は、藤原為家の側室・阿仏尼によって記された紀行文日記。中世三大紀行文(ほかに『海道記』、『東関紀行』)のうちの一つ。内容に所領紛争の解決のための訴訟を扱い、また女性の京都から鎌倉への道中の紀行を書くなど他の女流日記とは大きく趣きを異としている。鎌倉時代の所領紛争の実相を当事者の側から伝える資料としても貴重である。一巻。大別すると鎌倉への道中記と鎌倉滞在期の二部構成。弘安6年(1283年)ころ成立か。 阿仏尼自筆の原本は下冷泉家(安土桃山時代まで播磨国細川庄を伝領していた公家)に伝来していた。 成立当初、作者はこの日記に名前をつけておらず、単に『阿仏日記』などと呼ばれていたが、日記が10月16日に始まっていることを由来として後世に現在の名前が付けられた。.
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十訓抄
『十訓抄』(じっきんしょう、じっくんしょう)は鎌倉中期の教訓説話集。編者は未詳、菅原為長、六波羅二臈左衛門入道(湯浅宗業に充てる説と佐治重家に充てる説がある)説がある。 仏典「十善業道経」に発想し、「十訓」こと十ヶ条の教誡を掲げ、古今和漢の教訓的な説話約280話を通俗に説く。儒教的な思想が根底を流れる。年少者の啓蒙を目的に編まれ、その後の教訓書の先駆となった。三巻/十編。 序文には「広く和漢の書物に目を通し、その中から教訓となる話を集めた」と書かれている。平安朝を中心に本朝・異邦の説話280を収め、『大和物語』『江談抄』『古事談』などの先行説話集や『史記』『漢書』など引用書の範囲は広い。また、平清盛など平家一門の生活圏における説話に、作者が直接見聞したと考えられるものも含まれている。『古今著聞集』と重複する話も多い。 「新訂増補国史大系」(吉川弘文館)、「新編日本古典文学全集」(小学館)、「岩波文庫」(岩波書店)所収。.
卜部兼方
卜部 兼方(うらべ の かねかた /やすかた、生没年不詳)は、鎌倉時代中・後期の神祇をつかさどる官人、神道家。名は懐賢とも。神祇権大副・卜部兼文の子。子に兼彦がいた。官位は正四位下・神祇権大副、平野神社社務。 父兼文ら平野社系卜部氏に代々伝わる家説と奈良時代以降の数々の『日本書紀』注釈を基に『釈日本紀』を著し、後に吉田神道に大きな影響を与えた。『釈日本紀』との関係を示す兼方の書写になる弘安9年(1286年)の奥書のある『日本書紀』神代巻二巻の卜部家本が、文化庁に所蔵されている。 弘安10年(1287年)2月から正応元年(1288年)2月にかけて山城守に任ぜられていたという記録がある。 卜部氏は古代の祭祀貴族の一つで、卜占(ぼくせん)による吉凶判断を業としていた氏族である。大中臣氏とともに代々神祇大副・少副を継承した。平安時代中期には平野社系と吉田社系の二流に分かれ、兼方の平野社系は卜部氏始祖卜部平麻呂が平野社領となっていることから本来なら宗家の立場であるが、吉田神社が藤原氏の氏神であることもあり勢力は二分され、氏長者も二流が交替で受け継ぎ、それぞれ家学として日本書紀等の古典の研究をしていた。 室町時代に入り、吉田社系が公卿を出したこともあり盛んになると、平野社系は衰え、兼方の8代孫兼緒の代で絶えた。平野社系は、吉田社系から兼永が養子に入り継承し、その子孫が藤井充行の代以降藤井家を称し堂上家となっている。.
卜部氏
卜部氏(うらべうじ)は、「卜部」を氏の名とする氏族。 古代の祭祀貴族の一つで、卜占(ぼくせん)による吉凶判断を業としていた氏族である。占部・浦部・浦邊とも表記する。.
千五百番歌合
千五百番歌合(せんごひゃくばんうたあわせ)は、鎌倉時代に後鳥羽院が主催した歌合。仙洞百首歌合とも言う。松野陽一・𠮷田薫編『藤原俊成全歌集』笠間書院、2007年 ISBN 978-4305703286 pp.1032 和歌史上最大規模の歌合であり、「新古今和歌集」撰集資料としても第1位である(90首入集)。田渕句美子『新古今集 後鳥羽院と定家の時代』角川学芸出版、2010年 ISBN 978-4047034815 pp.76-85.
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千載和歌集
『千載和歌集』(せんざいわかしゅう)とは、平安時代末に編纂された勅撰和歌集。全二十巻。『詞花和歌集』の後、『新古今和歌集』の前に撰集され、勅撰和歌集の第七番目に当たる。略称『千載集』(せんざいしゅう)。.
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千葉県
千葉県(ちばけん)は、日本の関東地方の南東側、東京都の東方に位置する県。房総半島と関東平野の南部にまたがる。県庁所在地は千葉市。 平野と丘陵が県土の大半を占め、海抜500m以上の山地がない日本で唯一の都道府県である。地勢上、広大な可住地と、長大な海岸線を有している。.
千手観音
千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ)、सहस्रभुज、、サハスラブジャ)は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。 「サハスラブジャ」とは「千の手」あるいは「千の手を持つもの」の意味である。この名はヒンドゥー教のヴィシュヌ神やシヴァ神、女神ドゥルガーといった神々の異名でもあり、インドでヒンドゥー教の影響を受けて成立した観音菩薩の変化身(へんげしん)と考えられている。六観音の一尊でもある。 三昧耶形は開蓮華(満開のハスの花。聖観音の初割蓮華と対をなす)、蓮華上宝珠。種字はキリーク(ह्रीः hrīḥ)。 眷属として二十八部衆を従える。.
南大門
南大門(なんだいもん)は、仏教寺院や都城などで南に面した正門のこと。.
南宋
南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現杭州)であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝) で解説することとする。 この項目では全般にわたって山川出版社『中国史3』と講談社学術文庫『五代と宋の興亡』を使用している。この二書に関しては特に必要のない限りは出典としては挙げない。.
南区 (京都市)
南区(みなみく)は、京都市を構成する11区のひとつである。.
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南北朝時代 (日本)
南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.
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南禅寺
南禅寺 (なんぜんじ)は、京都市左京区南禅寺福地町にある、臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)である。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門(大明国師)。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ。.
南部実長
南部 実長(なんぶ さねなが)は、鎌倉時代中期の御家人。南部光行の三男。八戸氏(根城南部氏)の祖。日蓮の有力壇越として知られ、また甲斐国波木井(はきり)に居住したことから波木井実長とも呼ばれる。.
南都
南都(なんと)は、複都制において「南の都」を意味する語である。.
南都六宗
南都六宗(なんとろくしゅう/- りくしゅう)とは、奈良時代、平城京を中心に栄えた日本仏教の6つの宗派の総称。奈良仏教(ならぶっきょう)とも言う。.
南朝 (日本)
南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。.
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叡尊
叡尊(えいそん、えいぞん、建仁元年〈1201年〉 - 正応3年8月25日〈1290年9月29日〉)は、鎌倉時代中期の日本の人物で、真言律宗の僧。字は思円(しえん)。謚号は興正菩薩(こうしょうぼさつ)。興福寺の学僧・慶玄の子で、大和国添上郡箕田里(現・奈良県大和郡山市内)の生まれ。廃れかけていた戒律を復興し、衰退していた勝宝山西大寺(南都西大寺)を再興したことで知られる。.
古事談
『古事談』(こじだん)は、鎌倉初期の説話集。村上源氏出身の刑部卿源顕兼(源顕房5代目の子孫、1160年-1215年)の編。建暦2年(1212年)から建保3年(1215年)の間に成立。 顕兼は、長年刑部卿を務める一方で、藤原定家や栄西らとも親交があった教養人であり、有職故実にも精通していた。 奈良時代から平安中期に至るまでの462の説話を収める。王道后宮・臣節・僧行・勇士・神社仏寺・亭宅諸道の6巻からなり、巻ごとに年代順で配列。文体は真字(まな)を主とし、仮名交じり文もある。 貴族社会の逸話・有職故実・伝承などに材を取り、『小右記』『扶桑略記』『中外抄』『富家語』などの先行文献からの引用が多い。同時期の作品と比べて尚古傾向が薄く、天皇を始めとする貴人に関しても憚らずその秘事を暴き、正史とは別世界の人間性あふれる王朝史を展開している。あまりな醜聞暴露に恐れをなしたためか、称徳と道鏡、宇多と京極御息所、花山と馬内侍らの淫猥な説話を削った略本もある。天皇・貴族・僧の世界の珍談・秘話集。 説話文学史上、重要な作品であり、承久元年(1219年)成立の『続古事談』を始め、『宇治拾遺物語』など以降の説話集に影響を及ぼした。.
古今和歌集
『古今和歌集』(こきんわかしゅう)とは、平安時代前期の勅撰和歌集。全二十巻。勅撰和歌集として最初に編纂されたもの。略称を『古今集』(こきんしゅう)という。.
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古今著聞集
古今著聞集(ここんちょもんじゅう)は鎌倉時代、13世紀前半の人、伊賀守橘成季によって編纂された世俗説話集。単に『著聞集』ともいう。事実に基づいた古今の説話を集成することで、懐古的な思想を今に伝えようとするものである。20巻30篇726話からなり、『今昔物語集』に次ぐ大部の説話集である。建長六年(1254)10月頃に一旦成立し、後年増補がなされた。今昔物語集・宇治拾遺物語とともに日本三大説話集とされる。.
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古式競馬 (日本)
この項目では、競馬(くらべうま・きおいうま・きそいうま)、または駒競(こまくらべ)とも呼ばれる、日本の古式競馬について記述する。競馬とは、馬を走らせてその馬の走行速度や、騎手の乗馬技術・作法を競う競技であり、神事としても存在する。.
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古瀬戸様式
古瀬戸(こせと)ないし古瀬戸様式(-ようしき)とは、平安時代末から室町時代中期まで現在の愛知県尾張地方の瀬戸市周辺で生産された陶器類やその様式をいう。 古瀬戸灰釉菊花文壺(13世紀後半~14世紀前半:メトロポリタン美術館蔵) 滋賀県八幡山城出土の古瀬戸の瓶子(近江八幡市立図書館蔵).
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右大臣
右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.
叙事詩
多くの演劇の題材に用いられるアジアの代表的叙事詩『ラーマーヤナ』(インドネシア、サヌール海岸) 叙事詩(じょじし、epic)とは、物事、出来事を記述する形の韻文であり、ある程度の長さを持つものである。一般的には民族の英雄や神話、民族の歴史として語り伝える価値のある事件を出来事の物語として語り伝えるものをさす。 口承文芸として、吟遊詩人や語り部などが伝え、その民族の古い時代には次世代の教養の根幹を成したり、教育の主要部分となることも多かった。後世に書き残され、歴史資料に保存されることになったものが多い。.
名古屋市
名古屋市(なごやし)は愛知県西部(尾張地方)にある市。政令指定都市であり、同県の県庁所在地である。全16区から構成される。.
吾妻鏡
『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮の序文 『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。 編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。.
向嶽寺
向嶽寺(こうがくじ)は、山梨県甲州市にある禅寺で臨済宗向嶽寺派の大本山。山号は塩山。本尊は釈迦如来。 非公開寺院のため建物内部や庭園は原則的に拝観不可である。.
吉川弘文館
吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.
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吉田兼好
吉田 兼好(よしだ けんこう)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家。治部少輔・卜部兼顕の子。本名は卜部兼好(うらべ かねよし/うらべ の かねよし)。 卜部氏の嫡流は兼好より後の時代に吉田家と称するようになり、江戸時代以降は吉田兼好と通称されるようになった。また出家したことから兼好法師(けんこうほうし)とも呼ばれ、中学校国語の検定済み教科書ではすべて「兼好法師」と表している。また、兼好と呼ぶこともある。 日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者であり、また私家集に『兼好法師家集』がある。.
吉田精一
吉田 精一(よしだ せいいち、1908年〈明治41年〉11月12日 - 1984年〈昭和59年〉6月9日)は、日本の国文学者。近代文学専攻。.
吉野町
吉野山の紅葉 吉野町(よしのちょう)は、奈良県中部に位置する町。桜で有名な吉野山があり、近隣の吉野山地(紀伊山地)から切り出される吉野杉・檜の集散地でもある。2012年に「日本で最も美しい村」連合に加盟。.
吉野郡
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吉野水分神社
吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)は、奈良県吉野郡吉野町子守地区(吉野山上千本)にある神社。式内社で、旧社格は村社。 葛城水分神社・都祁水分神社・宇太水分神社とともに大和国四所水分社の一つとして古くから信仰されてきた。また、「みくまり」が「みこもり」となまり、子守明神と呼ばれ子授けの神として信仰を集めている。宣長の両親の子守明神への祈願により本居宣長が授けられたといわれている。 2004年7月に、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部として登録された。.
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坊津
坊津(ぼうのつ)は、薩摩国川辺郡坊津(現在の鹿児島県南さつま市坊津町坊)の地名であり、日本の古代に栄えた港名。.
坐禅
半跏趺坐。タイの僧侶 坐禅(ざぜん、座禅とも)とは、仏教で姿勢を正して坐った状態で精神統一を行う、禅の基本的な修行法。 坐禅はMeditation(瞑想)と翻訳される場合があるが、眼を閉じて思考する瞑想と坐禅は別概念である。 なお、『ヨーガ・スートラ』に説かれる古典的な意味でのヨーガ(瑜伽)も、坐禅と同じようなものである。対になる概念として、立禅や動禅・歩行禅・経行(きんひん)などがある。.
坂誥秀一
坂誥 秀一(さかづめ ひでいち、1936年1月26日 - )は、日本の考古学者。立正大学名誉教授・元学長(第27代)、品川区立品川歴史館館長。武蔵野文化協会会長。.
堀
松本城の堀 大坂城の堀 堀(ほり)は、敵や動物の侵入を防ぐため、古代から近世にわたって、城、寺、豪族の住居、集落、古墳などの周囲に掘られた溝のことである。.
堀川通具
堀川 通具(ほりかわ みちとも)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の人物。公卿、歌人。正二位大納言。堀川大納言と号す。内大臣右大将源通親の次男。堀川家の祖。.
境内
#境内(けいだい)とは、神社・寺院・教会などの宗教施設が占有している土地のこと。境内地。境内の定義は様々で、例えば、全ての占有地を境内と呼ぶとは限らず、聖域として他から区別している敷地のみを境内と呼ぶこともある。飛地境内のことを境外(けいがい)と呼ぶこともある。.
増鏡
『増鏡』(ますかがみ)は、歴史物語。成立は南北朝時代と推定される。作者は未詳だが、二条良基説や洞院公賢説、四条家関係者説などがある。いわゆる「四鏡」の成立順では最後に位置する作品である。内容的には最も新しい時代を扱っている。.
声聞師
声聞師(しょうもじ)は、中世(12世紀 - 16世紀)期に存在した日本の芸能者である''声聞師''、世界大百科事典 第2版、コトバンク、2012年8月20日閲覧。''声聞師''、百科事典マイペディア、コトバンク、2012年8月20日閲覧。''唱門師''、デジタル大辞泉、コトバンク、2012年8月20日閲覧。。陰陽師の文化を源流とした読経、曲舞、卜占、猿楽等の呪術的芸能、予祝芸能を行った。「声聞師」は「しょうもんじ」「しょもじ」とも読み、また同様の読みで、唱門師、唱聞師、聖問師、唱文師、誦文師とも漢字標記した。江戸時代(17世紀 - 19世紀)に盛んになった「門付」芸能の源流でもあり、2012年8月20日閲覧。、大和猿楽から発展し、能楽に発展させた観阿弥・世阿弥をも生むことになる池上、p.134.
売春
ベルリンの売春婦 中国深圳の売春宿 売春が合法化されているオランダ飾り窓地区(アムステルダム) 売春婦とポン引き 売春(ばいしゅん)とは、対価を得る目的の性交である。「春(情愛の比喩)を売る」ためにそう呼ばれる。対価を得る側の性別は問わない。.
壺
壺(壷、つぼ)は、主として、食糧の貯蔵や水や酒などの飲料の運搬という用途に用いられる器である。焼き物が多いが、ステンレス鋼製(医療用などに)やプラスチック製もある。 一般的に丸い袋状で、通常は、器体に頸の部分を伴う開口部(口縁部)や注口を持ち、人間が1人で運搬可能な大きさの器のことを壺と呼ぶ。.
多宝塔
石山寺多宝塔 (国宝)、鎌倉時代初頭、年代の明らかなものとしては日本最古の木造多宝塔 根来寺大塔 (国宝)、室町時代後期、日本最大の木造多宝大塔 多宝塔(たほうとう)は、寺院建築のうち仏塔における形式のひとつである。現代の寺院建築用語・文化財用語としては、一般に、平面が方形の初層の上に平面が円形の上層を重ね、宝形造(四角錐形)の屋根を有する二層塔婆を「多宝塔」と呼称する。宝塔という呼称もあり、現代の寺院建築用語・文化財用語では円筒形の塔身に宝形造(四角錐形)の屋根を有するものを「宝塔」と称して「多宝塔」と区別している。ただし、「宝塔」はもともと塔婆一般の美称であり、これらの呼称の区別は便宜的なものである。また、多宝塔は主に真言宗系の寺院で見られるのも特徴である。.
夢窓疎石
夢窓 疎石(むそう そせき、道号が夢窓、法諱が疎石、建治元年(1275年) - 観応2年/正平6年9月30日(1351年10月20日))は、鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧。七朝帝師。父は佐々木朝綱(ともつな)、母は平政村(北条政村か?)の娘。佐々木頼綱(六角頼綱)の兄・経泰(つねやす)の孫とされる。.
大報恩寺
大報恩寺(だいほうおんじ)は、京都市上京区にある真言宗智山派の寺院。山号は瑞応山(ずいおうざん)。千本釈迦堂と通称される。おかめの物語や、12月の風物詩である大根焚きで知られる。また、智積院能化の隠居所として、護持された。.
大宰府
大宰府(だざいふ)は、7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。多くの史書では太宰府とも記され、おもに8世紀の大和朝廷内部で作られた史書で「大宰府」と記されている。.
大山祇神社
大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、愛媛県今治市大三島町宮浦にある神社。式内社(名神大社)、伊予国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社である。また、主祭神の大山祇神は「三島大明神」とも称され、当社から勧請したとする三島神社は四国を中心に新潟県や北海道まで分布する。.
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大乗仏教
大乗仏教(だいじょうぶっきょう、महायान Māhāyāna, Mahāyāna Buddhism)は、伝統的にユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されてきた仏教の一派。大乗仏教が発祥した背景としてはさまざまな説が唱えられているが、部派仏教への批判的見地から起こった側面があるとされている。.
大仏
大仏(だいぶつ)とは、大きな仏像を指す通称。中国などアジアの仏教圏では、天然の岩壁を彫刻した磨崖仏などが古くから造られてきた。日本においては、奈良時代に聖武天皇が、国家の安寧と民の幸福を祈願して東大寺に奈良の大仏(東大寺大仏)を造立したのを嚆矢とする。以降、現代に至るまで、大きな功徳を求めた願主によって各地に大きな仏像が造られてきた。 釈迦の背丈が1丈6尺あったという伝説から、その高さで造られた仏像を丈六仏(じょうろくぶつ)という。背丈を基準としているため坐像の場合は、約半分の大きさになる。一般的には「丈六仏」より大きい仏像を「大仏」というが、その定義より小さくても「大仏」と称するものもある。 また、大仏を安置する仏堂を大仏殿(だいぶつでん)と呼ぶことがあり、東大寺の大仏殿(金堂)が有名である。.
大仏様
大仏様(だいぶつよう)は、日本の伝統的な寺院建築様式の一つ。かつては天竺様と呼ばれていた。 平重衡らによる南都焼討で焼け落ちた東大寺の再建の際、入宋経験のある僧重源によってもたらされた建築様式。従来の寺院建築様式である和様、また鎌倉時代後期から禅宗寺院に採用された禅宗様に対する言葉。禅宗様とは共通する部分も多く、あわせて鎌倉新様式または宋様式と総称される。.
大徳寺
大徳寺(だいとくじ、旧字体:大德寺)は、京都府京都市北区紫野大徳寺町にある寺で、臨済宗大徳寺派大本山である。山号は龍宝山(りゅうほうざん)。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。 京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。.
大和絵
源氏物語絵巻(東屋)徳川美術館蔵 大和絵(やまとえ)は日本絵画の様式概念の1つ。中国風の絵画「唐絵」(からえ)に対する呼称であり平安時代の国風文化の時期に発達した日本的な絵画のこと。「やまと絵」「倭絵」「和絵」などとも表記され、「日本画」と書いて「やまとえ」と読むこともある。源氏物語絵巻などの絵巻物に典型的に見られる。土佐派などの流派に受け継がれ、近代・現代の日本画にも影響を及ぼしている。狩野派は大和絵の伝統と、中国の水墨画の技法・主題を統合したと評される。.
大倉集古館
大倉集古館(おおくらしゅうこかん)は、東京都港区虎ノ門二丁目にある、日本・東洋の古美術が中心の私立美術館である。運営は、公益財団法人大倉文化財団。.
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大義名分
大義名分(たいぎめいぶん)とは、儒教に由来する考え方で、本来は臣下として守るべき道義や節度、出処進退などのあり方を指した。今日では転じて、「行動を起こすにあたってその正当性を主張するための道理・根拠」を指す事が多い。 儒教文化圏では古くから、君臣・父子などの関係(名)には、相応の責任・役割(分)が付随し、それは正当なる人倫の分限に基づいた価値判断(大義)に基づいて正否が定まると考えられていた。このため、古来より現実及び過去の経験的実証的知識の蓄積である史実と「華夷内外」・「是非善悪」といった名分を組み合わせて大義名分の有り様についての議論が行われるとともに、これに基づいた倫理的価値判断をもって現実の事象を評価することが試みられた(ただし、それは時に抽象的にあるいは相対的で価値基準自体が不安定になりがちである)。その理念的源泉は孔子がまとめたとされる『春秋』であり、宋・司馬光の『資治通鑑』や朱熹の『資治通鑑綱目』はこれを継承しようとする試みであった。 日本では儒学者のみならず国学者の間でも様々な説が立てられた(大義名分論)。特にその延長上に位置づけられるのが、幕末の尊王攘夷論である。ただし、尊王論も攘夷論も本来は内に「君臣の義」、外に「華夷の弁」を強調するもので実際の政治体制(幕藩体制)と直ちに対立するものではなかった。しかし、その価値基準は個々の価値判断(大義)に基づくものであったから、社会の安定期には儒教と皇室の権威に基づいた保守的な現状維持論に過ぎなかった尊王攘夷論が、江戸時代後期の政治・社会の不安定期には一転して政治の革新を求める運動に転化することとなり、山縣大弐の『柳子新論』(1759年)や藤田東湖の『正名論』(1791年)のように体制変革に踏み出す主張も現れるようになったのである。更に幕末最末期すなわち尊王攘夷運動終盤には中岡慎太郎のように尊王攘夷論を外圧に対抗して国家の独立を維持するための理念と捉えて本来は排撃すべきである「夷狄」アメリカ合衆国の建国者たちの活躍をその模範とすべしと唱える者まで現れるようになり、現実的な内外認識に合わせて変革思想の合理的解釈と正当化のための理論武装として大義名分論が持ち出されるようになった。.
大番役
大番役(おおばんやく)は、平安時代後期から室町時代初期にかけて、地方の武士に京を、鎌倉時代に入ってからは京と鎌倉の警護を命じたもの。 鎌倉時代の武家法である御成敗式目が制定されると、大犯三ヶ条において御家人の職務として明文化された。鎌倉時代以降は、各国に振り分けられ、各守護が責任者となり、国内の御家人に振り分けして指揮に当たった(大番催促)。その後南北朝時代に廃れた。.
大隅和雄
大隅 和雄(おおすみ かずお、1932年10月10日 - )は日本の歴史学者、思想史家。専攻は中世思想史(仏教思想)。東京女子大学名誉教授。 福岡県生まれ。父は鉱山学者・大隅芳雄。外祖父は日本史学者・長沼賢海。 長男は大隅清陽(1962年-、山梨大学教育人間科学部教授、歴史学者、日本古代史専攻)。生物学者の大隅良典は弟。.
大隅国
大隅国(おおすみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
大鏡
『大鏡』(おおかがみ)は、平安時代後期(白河院政期)に成立したとされている紀伝体の歴史物語である。.
大覚寺統
大覚寺統(だいかくじとう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた皇室の系統で、持明院統と対立していた。名の由来は、第88代後嵯峨天皇の子である第90代亀山天皇の子孫である、亀山天皇の子である後宇多天皇が京都の外れの嵯峨にあった大覚寺の再興に尽力したこと、及び、出家後は大覚寺に住んで院政を行ったことによる。.
大谷石
切り出された大谷石 大谷石(おおやいし)は軽石凝灰岩で、栃木県宇都宮市北西部の大谷町付近一帯で採掘される石材である。柔らかく加工がしやすいことから、古くから外壁や土蔵などの建材として使用されてきた。.
大谷磨崖仏
大谷磨崖仏(おおやまがいぶつ)は、栃木県宇都宮市大谷にある磨崖仏である。千手観音像、伝釈迦三尊像、伝薬師三尊像、伝阿弥陀三尊像の4組10体の石心塑像が4区に分かれて彫出されている。このうち千手観音像は、現在大谷寺の本尊である。 臼杵磨崖仏(大分県臼杵市)と並び学術的に非常に価値の高い石仏とされ、1954年(昭和29年)3月20日に「大谷磨崖仏」として国の特別史跡に指定され、1961年(昭和36年)6月30日には同名称で国の重要文化財(彫刻)に指定されている。.
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大阪府
大阪府(おおさかふ)は、近畿地方に属する日本の都道府県の一つ。府庁所在地は大阪市。.
大江広元
大江 広元(おおえ の ひろもと、旧字体:廣元)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての朝臣。はじめは朝廷に仕える下級貴族(官人)だったが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、鎌倉幕府の政所初代別当を務め、幕府創設に貢献した。.
大津市
大津市(おおつし)は、滋賀県の南西端に位置する市で、同県の県庁所在地である。中核市に指定されている。.
大日如来
胎蔵曼荼羅の胎蔵大日如来(中央) 胎蔵曼荼羅 金剛界曼荼羅 大日如来(だいにちにょらい、Mahāvairocana)は、真言密教の教主である仏であり、密教の本尊。一切の諸仏菩薩の本地。.
大日房能忍
大日房 能忍(だいにちぼう のうにん、生没年不詳)は、筑前博多(現在の福岡県福岡市)出身の日本の平安時代末から鎌倉時代初期の禅宗僧侶。日本達磨宗の開祖。 能忍に関する明確な記録はとぼしく、その行跡には謎や異説が多い。出自も未詳であるが、一説に平家の家人・藤原景綱の子であるとされる。没後、深法禅師と諡号されたともいう。.
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天 (仏教)
天(てん、deva)は、仏教において、下記の2つの意味がある。.
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天台宗
天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経(法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる - コトバンク/世界大百科事典。天台教学は中国に発祥し、入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられ、多くの日本仏教の宗旨がここから展開した。.
天平文化
東大寺盧舎那仏像 天平文化(てんぴょうぶんか)は、時期では8世紀の中頃までをいい、奈良の都平城京を中心にして華開いた貴族・仏教文化である。この文化を、聖武天皇のときの元号天平を取って天平文化と呼ぶ。.
天井
天井(てんじょう)とは、部屋など構造物内部の上側の面である。天井仕上材及び天井下地構成材の総称である。.
天神信仰
天神信仰(てんじんしんこう)は、天神(雷神)に対する信仰のことである。特に菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰のことをいう。 本来、天神とは国津神に対する天津神のことであり特定の神の名ではなかったが、道真が没後すぐに、天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)という神格で祀られ、つづいて、清涼殿落雷事件を契機に、道真の怨霊が北野の地に祀られていた火雷神と結び付けて考えられ火雷天神(からいてんじん)と呼ばるようになり、後に火雷神は眷属として取り込まれ新たに日本太政威徳天(にほんだいじょういとくてん / にほんだじょういとくてん)などの神号が確立することにより、さらには、実道権現(じつどうごんげん)などとも呼ばれ、『渡唐天神』『妙法天神経』『天神経』など仏教でもあつい崇敬をうけ、道真の神霊に対する信仰が天神信仰として広まった。.
天福 (日本)
天福(てんぷく)は、日本の元号の一つ。貞永の後、文暦の前。1233年の期間を指す。この時代の天皇は四条天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。.
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天童如浄
天童如浄(てんどう にょじょう、1163年(隆興元年) - 1228年(紹定元年))は、中国・宋の曹洞宗の禅僧である。天童山景徳寺(浙江省寧波地区)の第31世住職を務めた。『如浄禅師語録』が伝えられる。日本曹洞宗の開祖道元が師事したことで知られる。.
天照大神
天照大神(あまてらすおおみかみ、あまてらすおおかみ)は、日本神話に登場する神。皇室の祖神で、日本国民の総氏神ともされる。『延喜式』では自然神として神社などに祀られた場合の「天照」は「あまてる」と称されている。 天岩戸の神隠れで有名であり、記紀によれば太陽を神格化した神であり、皇室の祖神(皇祖神)とされる。神社としては伊勢神宮が特に有名『八百万の神々』。.
天満宮
天満宮(てんまんぐう)は、菅原道真を祭神とする神社である。.
天智天皇
天智天皇(てんじてんのう/てんぢてんのう、推古天皇34年(626年) - 天智天皇10年12月3日(672年1月7日))は、第38代天皇(在位:天智天皇7年1月3日(668年2月20日) - 10年12月3日(672年1月7日))。和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる。.
太山寺 (松山市)
太山寺(たいさんじ)は、愛媛県松山市にある真言宗智山派の寺院。瀧雲山(りゅううんざん)、護持院(ごじいん)と号す。本尊は十一面観世音菩薩。四国八十八箇所霊場の第五十二番札所。伊予十三仏霊場の第三番札所。 本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか ご詠歌:太山に 登れば汗の 出でけれど 後の世思えば 何の苦もなし.
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太鼓
太鼓(たいこ)は、動物の皮などで作った薄い膜を枠(胴)に張り、それをたたいて音を出す楽器である。楽器分類学では「膜鳴楽器」と呼ぶが、実用上の楽器分類では「体鳴楽器」とともに打楽器に分類される。太鼓は古くから存在する楽器のひとつで、世界各地に広く分布し、その地域によって特色ある太鼓が存在している。楽器として使用されるほか、かつて西アフリカにおいては太鼓によって遠距離通信を行う、いわゆるトーキングドラムという使用法が広く行われていた。 胴と膜の枚数によって、以下のように分類される。.
太政大臣
太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.
外港
外港(がいこう、outer harbor)とは、主に内陸に位置するなどの理由により港をもたないか、港があっても機能が不十分な中枢都市の比較的近くの海浜部または川沿にあり、その都市の港湾機能を果たす港湾・港湾都市(港町)のこと。また、主要港の機能の一部を分担する港湾のことを指すこともある。 さらに上記の意味とは別に、防波堤などの内側にある内港に対して、その外側にあるという意味で外港(outer port)といわれることもある。.
奥州合戦
奥州合戦(おうしゅうかっせん)は、文治5年(1189年)7月から9月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏との間で東北地方にて行われた一連の戦いの総称である。この戦役により、源頼朝による武士政権が確立した。また治承4年(1180年)に始まる内乱時代(治承・寿永の乱)の最後にあたる戦争でもある。.
奥州後三年記
奥州後三年記(おうしゅうごさんねんき)は、平安時代後期の永保3年(1083年)から、寛治2年(1088年)にかけての、陸奥・出羽両国にまたがった争乱、いわゆる「後三年の役」、または「義家合戦」と呼ばれるものを描いたものである。実際には永保3年(1083年)から寛治元年(1087年)の5年間の戦いであったが、「十二年合戦」(前九年合戦の古称)が前九年・後三年の両方を指すとする誤解が鎌倉後期に生じ、前者を9年間(実際には12年間)、後者を3年間(実際には5年間)と振り分ける呼称が成立した。 その成立については、長らく南北朝時代の貞和3年(1347年)とされてきたが、野中哲照は丁寧語「侍り」の用法などから院政初期の成立であることを明らかにした。 『後三年合戦絵詞』の「雁行の乱れ」 『後三年合戦絵詞』の源義家.
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奥州藤原氏
毛越寺所蔵の三衡画像(江戸時代) 奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)は、前九年の役・後三年の役の後の寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)までの間、陸奥(後の陸中国)平泉を中心に出羽を含む東北地方一帯に勢力を張った豪族。藤原北家秀郷流を称した。.
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女神
リシア神話の女神アプロディーテー 女神(めがみ)とは、女性の姿を持つ神のこと。.
女真
女真(女眞、じょしん、ᠵᡠᡧᡝᠨ 転写:jušen)は、女直(じょちょく)ともいい、満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満州にかけて居住していたツングース系民族。民族の聖地を長白山とする。10世紀ごろから記録に現れ、17世紀に「満洲」(「マンジュ」と発音)と改称した。「女真」の漢字は女真語の民族名「ジュシェン」(または「ジュルチン」)の当て字である。「女直」は遼興宗の諱(耶律宗真)に含まれる「真」の字を避けた(避諱)ため用いられるようになったたんに「真」の字を「直」と書き誤った、という説もある。。金朝を滅ぼしたモンゴル帝国および元朝時代の漢文資料では「女直」の表記が多く見受けられ、同じくモンゴル帝国時代に編纂されたペルシア語の歴史書『集史』などでも金朝や女真人について言及される場合、「女直」の音写である جورچه jūrcha で呼ばれている。.
女性
パイオニア探査機の金属板(部分)に描かれた女性像 女性器の構造 女性器の外観 成長した女性の下半身 女性(じょせい、γυναίκα、woman)は、男性と対比されるヒト(人間)の性別のこと。一般には生物学のメスと同義だが、社会・個人の価値観や性向に基づいた多様な見方が存在する。.
奈良
奈良(なら)は、日本国の発祥とされる歴史的地名である。 異表記として那羅・平城・寧楽などがある(読みは全て「なら」)。平安京(京都)に都が遷った後は南都(なんと)とも呼ばれた。古くは大和と呼ばれ、また平城京にも相当した。.
奈良市
奈良市(ならし)は、日本の奈良県の北部に位置する市で、同県の県庁所在地である。中核市に指定されている。.
奈良仏師
奈良仏師(ならぶっし)は、平安時代末期(11世紀末期)頃から、興福寺に拠点を置いて活動した仏師集団。御寺仏師、南都仏師、南京仏師などともいう。.
奈良県
奈良県(ならけん)は、日本の都道府県の一つ。本州中西部、紀伊半島内陸部、近畿地方の中南部に位置する県である。 令制国の大和国の領域を占め、県庁所在地は奈良市。北西部の盆地部を除き、険しい山々がそびえている。都道府県面積は全国で8番目に狭く内陸8県では最も狭いが、最小の香川県の約2倍でもある。.
奈良時代
奈良時代(ならじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つで、平城京(奈良)に都が置かれた時代である。平城時代(へいじょうじだい)ともいう。日本仏教による鎮護国家を目指して、天平文化が花開いた時代である。.
如意輪観音
如意輪観音(にょいりんかんのん)、梵名チンターマニチャクラ (चिन्तामणिचक्र)は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身(へんげしん)の一つであり、六観音の一尊に数えられる。 三昧耶形は如意宝珠、紅蓮華。種字はキリーク(ह्रीः、)。.
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妓王
妓王(ぎおう、生年不詳 - 承安2年8月15日(1172年9月4日)?)は、平安時代末期の白拍子。祇王とも。.
妙心寺
妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院。山号を正法山と称する。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(無相大師)。寺紋は花園紋(妙心寺八つ藤)。 日本にある臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺を妙心寺派で占める。近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭が建ち並び、一大寺院群を形成している。平安京範囲内で北西の12町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている。.
婆藪仙人
婆藪仙人(ばすせんにん、ばそせんにん、ばすうせんにん、ばそうせんにん)とは仏教における護法善神の仏である。梵名はvasuである。基本的には婆藪仙人は二十八部衆の1尊として置くが、必ずしも二十八部衆のみ登場する仏尊とは限らない。例えば熊本県の水上村龍泉寺木造婆藪仙人立像は脇侍として安置されている仏尊である。なお、八部衆、二十四諸天、二十八天では見られない。婆藪仙人は殺生の罪を犯したことにより生きながら地獄に落ちたがけしゅう菩薩の力によって救われ地獄を脱し、釈迦の元に生き衆世を救うと誓った。.
孤雲懐奘
孤雲懐奘(こうんえじょう、懐弉とも。建久9年(1198年)- 弘安3年8月24日(1280年9月19日))は鎌倉時代の禅宗僧侶。 曹洞宗の第2祖、永平寺の第2世(在任、建長5年(1253年)7月-文永4年(1267年)。再任、文永9年(1272年)2月-弘安3年8月)。諡号は道光普照国師(どうこうふしょうこくし)。.
学問
学問(がくもん)とは、一定の理論に基づいて体系化された知識と方法であり、哲学や歴史学、心理学や言語学などの人文科学、政治学や法律学などの社会科学、物理学や化学などの自然科学などの総称。英語ではscience(s)であり、science(s)は普通、科学と訳す。なお、学問の専門家を一般に「学者」と呼ぶ。研究者、科学者と呼ばれる場合もある。.
学研ホールディングス
株式会社学研ホールディングス(がっけんホールディングス)は、日本の教育事業・出版社を統括する持株会社である。2009年(平成21年)10月1日に学習研究社(がくしゅうけんきゅうしゃ)より組織改編・社名変更を実施した。.
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定覚
定覚(じょうかく、生没年未詳)は日本の鎌倉時代に活動した慶派の仏師。康慶の次男とされ、これが正しいとすれば運慶の弟に当たる。息子または弟子に覚円。.
定朝
定朝(じょうちょう、生年不明 - 天喜5年8月1日(1057年9月2日))は平安時代後期に活躍した仏師。寄木造技法の完成者とされる。.
定慶
定慶(じょうけい、大仏師法師定慶、だいぶっしほうしじょうけい、生没年不詳)は、12世紀後半の慶派仏師。作風から康慶の弟子という説が有力である。彼の名は文献上には現れず、僧綱位にもついた形跡はなく、その活動が興福寺内に限定されていることから、興福寺専属の仏師だったと想像される。作品は康慶の作風の延長上にある高い写実表現を持ち、定慶の運慶にも匹敵する高い実力がうかがわれる。.
宝物集
『宝物集』(ほうぶつしゅう)は、平安末期の仏教説話集。著者は平康頼(たいらのやすより)。別名は「康頼宝物集」。治承年間(1177 - 81年)の成立。 本によって一巻・二巻・三巻・七巻の違いがあり、本文の異同も甚だしい。原型に近いのは一巻本だという。嵯峨釈迦堂(清涼寺)での僧俗の対話形式をとり、多数の説話を援引し、仏法こそが至高の宝物であると語る。 概して四部に分けることができ、第1部と第2部は、全体から見る序章のようなものである。第3部から、「この世で一番の宝物は何か?」ということが議論になり、最終的には第4部で「仏法こそが第一の宝」だということに落ち着く。世間で大切だとされているものは功罪半ばして、幸せになる反面、不幸せにもなるのだから、何よりも尊いものは世俗を越えた仏法だ、という教えを説いている。 作者の平康頼(法名性照)は後白河院の北面武士で、検非違使兼左衛門尉に任ぜられたが、安元三年(1177)、鹿ケ谷の謀議に与り、事敗れて鬼界ヶ島(薩摩沖の硫黄島)に流刑されたが、翌年、中宮徳子平産のための大赦によって召還され帰京。その後は東山双林寺に住み、この説話集を編んだ。 『新日本古典文学大系40』に(岩波書店)第二種七巻本系統の吉川本を底本として収録。七巻に注釈が施された初のものである。.
室町時代
室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.
家永三郎
家永 三郎(いえなが さぶろう、1913年9月3日 - 2002年11月29日)は、日本の歴史家(日本思想史)、東京教育大学名誉教授。文学博士(東京大学)。.
守護
守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.
守邦親王
守邦親王(もりくにしんのう)は、鎌倉幕府9代(最後の)征夷大将軍で、鎌倉幕府将軍の中で24年9カ月と在職期間が最長であった。8代将軍久明親王の子。.
官吏
官吏(かんり)とは、公法上の任命行為に基づいて任命され、官公庁や軍などの国家機関に勤務する者を指す。憲法により指す内容が異なる。「官人胥吏」の合成語。 大日本帝国憲法の下では天皇の官制大権および文武官の任免大権(大日本帝国憲法10条)によって任免される者を指し、軍務に服する武官とそれ以外の文官を包含する。 日本国憲法の下では公務員または国家公務員を指す(日本国憲法7条5号、73条4号)(高級官吏および各国の官吏については官僚の項目を参照のこと)。 また、天皇が認証する官吏を認証官という。.
官僧
官僧(かんそう)とは、天皇から得度を許され、戒壇において授戒をうけた仏僧のこと。出家した者は、授戒をうけることで正式な僧尼として認められた。官僧は、「養老律令」僧尼令や「延喜式」に規定された様々な制約にしばられていた反面、数々の特権があたえられていた。.
宗尊親王
宗尊親王(むねたかしんのう)は、鎌倉幕府6代将軍(在任:建長4年(1252年)4月 - 文永3年(1266年)6月、皇族で初めての征夷大将軍)。後嵯峨天皇の第一皇子。.
宗峰妙超
宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう、弘安5年(1282年) - 延元2年/建武4年12月22日(1338年1月13日))は、鎌倉時代末期の臨済宗の僧。一般には大燈国師の名で知られている。 諱は妙超、道号は宗峰。播磨(兵庫県)の出身。同国浦上荘の豪族・浦上氏の一族・浦上一国(掃部入道覚性)の子として生まれた。朝廷から興禅大灯、高照正灯の国師号が与えられた。京都の大徳寺の開山。 .
宇都宮
宇都宮(うつのみや).
宇都宮市
餃子像(JR宇都宮駅旧東口広場) 宇都宮中心市街地 宇都宮市(うつのみやし)は、栃木県の中部に位置する市で、同県の県庁所在地である。1996年4月1日より、中核市に指定されている。北関東最大の都市かつ、首都圏の都市としても10位の人口を擁する。本市を中心市とする宇都宮都市圏は、政令指定都市を除く都市圏として日本最大である。.
宇都宮頼綱
宇都宮 頼綱(うつのみや よりつな)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武士・御家人・歌人。藤原姓宇都宮氏5代当主。伊予国守護を歴任。歌人としても著名で藤原定家との親交が厚く京都歌壇、鎌倉歌壇に並ぶ宇都宮歌壇を築いた。.
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宇治
宇治(うじ)は西日本に多く見られる地名。宇遅、莵道、菟道などの異表記がある。.
宇治拾遺物語
『宇治拾遺物語』(うじしゅういものがたり)は、13世紀前半頃に成立した、中世日本の説話物語集である。『今昔物語集』と並んで説話文学の傑作とされる。編著者は未詳。.
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安宅の関
安宅関址碑 安宅関跡にある銅像。左から源義経、武蔵坊弁慶、富樫 安宅の関(あたかのせき)は、石川県小松市の日本海側にある安宅に守護、富樫氏が設けたと言われる関所。.
安居院
安居院(あんごいん、あごいん、あぐい)と呼ばれる寺がいくつかある。.
安倍文殊院
安倍文殊院(あべもんじゅいん)は奈良県桜井市にある華厳宗の寺院である。山号は安倍山。本尊は文殊菩薩。開基(創立者)は安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)である。切戸文殊(京都府宮津市)・亀岡文殊(山形県高畠町)とともに日本三文殊に数えられる。宗教法人としての公称は文殊院である。 大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の一つに数えられる。.
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安田元久
安田 元久(やすだ もとひさ、1918年10月19日 - 1996年1月23日)は、日本の歴史学者。元学習院大学学長。文学博士(東京大学、1962年)。専門は日本中世史・鎌倉時代史研究。.
安芸国
安芸国(あきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.
安貞
安貞(あんてい)は、日本の元号の一つ。嘉禄の後、寛喜の前。1227年から1228年までの期間を指す。この時代の天皇は後堀河天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。.
安良岡康作
安良岡 康作(やすらおか こうさく、1917年9月14日 - 2001年10月1日)は、日本の国文学者。東京学芸大学名誉教授。日本中世文学、国語教育専攻。.
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安東氏
安東氏(あんどううじ、あんどうし)は、日本の鎌倉時代から戦国時代の末まで、陸奥国・出羽国の北部に勢力を張った武士の一族である。本姓は安倍を称した。 なお諸史料に現れるアンドウの表記について、主として鎌倉時代から南北朝時代にかけての津軽時代には「安藤氏」、室町時代中期以降の秋田時代には「安東氏」とされている例が多いことから世界大百科事典第2版 1998、個人名表記は概ね15世紀半ばまでを「安藤」、以降を「安東」とするが、本稿では便宜上、他氏族との混同を避けるため、氏族名を「安東」で統一して叙述する。なお、安藤氏と表記する場合、他の家系と区別するため津軽安藤氏と呼ぶ例がある小口 1995,書名。.
安楽寺 (上田市)
安楽寺(あんらくじ)は長野県上田市別所温泉にある曹洞宗の寺院。山号を崇福山と称する。院号は護国院。開山は樵谷惟仙(しょうこくいせん)。本尊は釈迦如来。国宝の八角三重塔があること、また長野県で最古の禅寺であることで知られる。.
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宋 (王朝)
宋(そう、拼音 Sòng、960年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号は宋であるが、春秋時代の宋、南北朝時代の宋などと区別するため、帝室の姓から趙宋とも呼ばれる。国号の宋は趙匡胤が宋州(河南省商丘県)の帰徳軍節度使であったことによる。通常は、金に華北を奪われ南遷した1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けている。北宋、南宋もともに、宋、宋朝である。首都は開封、南遷後の実質上の首都は臨安であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分し易い歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区別し難い分野を本記事で解説する。.
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宋銭
北宋銭 北宋銭(左上3枚)南宋銭(その他) 宋銭(そうせん)は、中国・宋代に鋳造された貨幣である銅銭のことである。また、宋代には鉄銭も鋳造されたが、一般的には、圧倒的に多い銅銭のことを指して宋銭と呼んでいる。.
寺社
寺社(じしゃ)は、日本における寺院と神社の総称である。社寺(しゃじ)あるいは神社仏閣(じんじゃ ぶっかく)とも呼ばれる。 寺社という言葉は江戸時代までの仏主神従の考えによるもので、一方、社寺という言葉は平安時代頃から使われた形跡があるが、主に神社優先の考えに基づいた明治期以降に多く使われた。.
寺院
日本の寺院の地図記号 寺院(じいん、梵、)は、仏像が祀られ、仏教の出家者が起居し、修行を行う施設である。寺(てら)、仏閣(ぶっかく)ともいう。 本来は仏教用語であるが、神道を除く諸宗教の教会・神殿を指す語としても広く用いられている(ごく稀に神社にも用いられることがある)。.
富士の巻狩り
富士の巻狩り(ふじのまきがり)とは、建久4年(1193年)5月に源頼朝が多くの御家人を集め、富士の裾野付近を中心として行った壮大な巻狩のことである。.
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富士野
富士野(ふじの)は、富士山南麓一帯を指す名称。.
富樫泰家
富樫 泰家(とがし やすいえ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。富樫氏6代当主。能の演目『安宅』、歌舞伎の演目『勧進帳』の安宅の関関守・富樫左衛門のモデルとしても知られる。.
寂蓮
寂蓮(じゃくれん、1139年(保延5年)? - 1202年8月9日(建仁2年7月20日))は、平安時代末から鎌倉時代初期にかけての歌人、僧侶である。俗名は藤原定長。.
寄付
寄付(きふ)とは、金銭や財産などを公共事業、公益・福祉・宗教施設などへ無償で提供すること。災害の際に被災地・被災民へ送られる'''義捐金'''・'''義援金'''(ぎえんきん)も寄付の一つである。経済において、寄付は福祉に係る費用の一部を担う重要な経済活動でもある。また、教育機関(学校や博物館、図書館など)や医療機関などに寄付することを寄贈(きそう・きぞう)、宗教施設に寄付することを寄進(きしん)と称することもある。 寄付は、寄付者が自らの意思に基づき金銭・財産を対象機関・施設へ無償で供与することで行われる。寄付の多くは、公共事業や公益機関、福祉機関、医療機関、教育機関、宗教施設などに対して行われている。これらの事業・機関・施設は、公共的・公益的な社会役割を担っているが、安定した収入源を持たず、そのため、寄付を主要な収入源の一つとしていることが多い。世界の多くの地域では、寄付が福祉の一部を担っており、社会の中で重要な地位を占めている。 一企業が個人から寄付金を集め、赤十字などの他団体へ寄付するという行為が存在する。この時、企業は寄付金を利用して寄附金控除を行い自身の法人税の節約を行っている。 なお、法律用語で使われる「寄附行為」は、財団における基本規則(「定款」に相当する)のことを指す。たとえば財団法人日本相撲協会では勝負規定を寄附行為細則の一部として定めている。語源については諸説あり、詳しくは寄附行為#語源を参照してね。.
寄進
寄進(きしん, )とは、ものを「寄せまいらせる」の意であり、寺院や神社などに土地や金銭、財物を寄付することである。 寄進の類義語に「勧進」があり、「勧進」が人に勧めて金銭や物品を奉納せしむる行為であるのに対し、「寄進」はみずから進んで奉納寄付するというニュアンス上のちがいがある。寄進の趣旨や品目などを書いた文書を寄進状という。寄進される財物は寄進物とよばれ、日本では太刀や甲冑、弓矢などの武具や馬、米、銭貨などが寄進物となった。なお、中世日本では「寄進されたものは悔返や徳政令の対象にならない」という慣習があった。 歴史的にみて重要な寄進物は土地であり、土地を寄進する行為は、しばしば世俗の権力と宗教権力とをとりむすぶ役割を果たしてきた。.
寄棟造
寄棟造(よせむねづくり)は、建築物の屋根形式のひとつで、4方向に傾斜する屋根面をもつものをいう。広義では同様の屋根をもつ建物のことを指す。屋根の形式を指す場合には、単に寄棟ということも多い。四注(しちゅう)ともいう。日本では、切妻造に次いで多く用いられている形式である。.
密教
密教(みっきょう)とは、秘密の教えを意味し、一般的には、大乗仏教の中の秘密教を指し、秘密仏教の略称とも言われる。金剛乗、あるいは金剛一乗教、金剛乗教ともいう。中国語圏では一般に密宗(ミイゾン)という。.
寛喜の飢饉
寛喜の飢饉(かんきのききん)とは、1230年(寛喜2年)から1231年(寛喜3年)に発生した大飢饉。鎌倉時代を通じて最大規模。.
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寛元
寛元(かんげん)は、日本の元号の一つ。仁治の後、宝治の前。1243年から1247年までの期間を指す。この時代の天皇は後嵯峨天皇、後深草天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、藤原頼嗣、執権は北条経時、北条時頼。.
尊円法親王
尊円法親王(そんえんほうしんのう、永仁6年6月23日(1298年8月1日) - 正平11年9月13日(1356年10月7日)は、青蓮院第十七世門跡。伏見天皇の第6皇子。母は三善俊衡の娘。初名は守彦親王。尊円入道親王とも。.
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尊円流
尊円流(そんえんりゅう)は、尊円法親王が興した書の流派(書流)である。青蓮院流(しょうれんいんりゅう)、御家流(おいえりゅう)、粟田流(あわたりゅう)とも呼ばれる。.
封建領主
『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より絵暦(6月)中世の西ヨーロッパでは、封建領主の館を中心とする自給自足を原則とした荘園制が形成された 封建領主(ほうけんりょうしゅ、feudal lords)又は領主(りょうしゅ、lords)とは、封建制における領主階級をさす用語。ヨーロッパ中世の封建制において見られる。日本の中世・近世における領主層が封建領主と呼ばれたこともあった。。.
小学館
株式会社小学館(しょうがくかん)は、東京都千代田区にある日本の総合出版社。系列会社グループの通称「一ツ橋グループ」の中核的存在である。.
小山富士夫
小山 富士夫(こやま ふじお、1900年3月24日 - 1975年10月7日)は、日本の陶磁器研究者・陶芸家で、中国陶磁器研究の大家。 岡山県浅口郡玉島町(現・倉敷市玉島)出身。小山が土を弄(いじ)りだしたのは25歳からで、きっかけは2年前に近衛歩兵第3連隊に1年志願で入隊したとき、同期生の中に陶器好きの岡部長世(岸和田藩主の子孫で国立近代美術館館長・岡部長景〈ながかげ〉子爵の弟)がおり、彼の影響を強く受けたことからである。主に鎌倉市を拠点にして執筆。陶磁器研究では、中国北宋時代の名窯、定窯跡を発見し世界的な陶磁学者として名声を確立。晩年に至るまで実証的東洋陶磁研究をして、古陶磁研究書など多く執筆寄稿。晩年には、岐阜県土岐市泉町に「花の木窯」を開き作陶。陶芸家としても茶器を始め多様な作品を造った。.
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小袖
菱川師宣筆「見返り美人」 江戸時代(17世紀)東京国立博物館蔵 女性は緋色地に花輪模様の元禄小袖を着用する。模様は綸子地に刺繍で表したものとみられる長崎巌『染と織を訪ねる』、p.67。 小袖(こそで)は、日本の伝統的衣装の一つ。現代日本で一般的に用いられている、和服(着物)の元となった衣類である。袖口の開きが大きく、袖丈一杯まで開いている袖の形状を、大袖(おおそで)と言うのに対し、「小袖」は袖口の開きが狭いことから付いた名称である。.
小野小町
小野小町(『前賢故実』菊池容斎画、明治時代) 歌碑(京都随心院)「花の色は」の歌が刻まれている。 小野 小町(おの の こまち、生没年不詳)は、平安時代前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。.
小野市
小野市の全景北播磨総合医療センターより 小野市(おのし)は、兵庫県の中南部・東播磨のほぼ中心に位置する市で、兵庫県北播磨県民局に区分されている。.
尾張国
尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
尾藤正英
尾藤 正英(びとう まさひで、1923年9月1日 - 2013年5月4日)は、日本の歴史学者。東京大学名誉教授。.
山
蓼科山 山(やま)とは、周囲よりも高く盛り上がった地形や場所のことを言い、平地と比べ、傾斜した地形から成る。また、地形学では丘陵や台地よりも高度や起伏が大きいものを指す。.
山城国
山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.
山口市
山口市(やまぐちし)は、中国地方西部(九州・山口地方北東部)の市。山口県の県庁所在地である。.
山口県
山口県(やまぐちけん)は、日本の県の一つ。本州最西端に位置する。中国地方を構成する五県のうちの一つで、九州地方との連接点の地域となっている。県庁所在地は山口市。.
山家集
『山家集』(さんかしゅう)は、平安末期の歌僧西行法師の歌集。成立年は不詳、治承・寿永の乱(源平合戦)の最中か直後だと思われる。俊成・良経・慈円・定家・家隆ら5人の家集とともに六家集の一に数えられ、『山家和歌集』、『西行法師歌集』の別名がある。西行生前の撰を後人が増補したと見られ、西行の自撰なる『山家心中集』や、『西行上人集』との関連が注目される。自然と人生を詠い無常の世をいかに生きるかを問いかけている。.
山川出版社
山川出版社(やまかわしゅっぱんしゃ)は、高校教科書(地歴公民科)・参考書・歴史関係の一般書などを刊行する日本の出版社である。.
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山伏
野山中でほら貝を吹き修行中の山伏 山伏問答の様子(伽耶院採燈大護摩供) 山岳修行者の出で立ち(都年中行事画帖〈1928年〉) 山伏(やまぶし)とは、山中で修行をする修験道の行者。「修験者」(しゅげんじゃ)とも言う。.
山王神道
山王神道(さんのうしんとう)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、天台宗の総本山である比叡山延暦寺で生まれた神道の流派である。狭義には、江戸時代の天海より以前のものを山王神道という。.
山茶碗
山茶碗(やまぢゃわん)は、日本の平安時代末(12世紀)から室町時代(15世紀)にかけて生産された無釉の陶器である。灰釉陶器の系譜を引き、美濃・尾張・三河・遠江などの東海地方の窯跡で生産された。.
山梨県
山梨県(やまなしけん)は、本州の内陸部に位置する日本の県の一つ。県庁所在地は甲府市。令制国の甲斐国に相当する。.
山槐記
山槐記(さんかいき)は、中山忠親の日記。中山忠親は平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿で内大臣を務めた人物で、書名の「山槐」とは忠親の家号「中山」と、大臣家の唐名(槐門)を合わせたものに由来する。現存する伝文によれば、記載時期は仁平元年(1151年)から建久5年(1194年)までの40年間あまりである。詳細な記事が多いが、欠失部分も少なくない。 忠親は後白河院や源頼朝に重用され、日記の現存期間は平氏の興隆から全盛、滅亡の時期にあたる。平氏政権時代から治承・寿永の乱での東国情勢などについて独自の記事も多く、重要史料として扱われている。保元の乱・平治の乱の記事は欠けているが、治承2年(1178年)の安徳天皇誕生、同4年(1180年)の即位、元暦元年(1184年)の後鳥羽天皇の即位と大嘗会の記事は緻密で、忠親が朝儀や政界の情勢に通じていたことが分かる。 平重盛の出家、清盛による大輪田泊の改修、以仁王の挙兵、富士川の戦いなどにおいて、平家物語や源平盛衰記などの軍記物語とは異なる記述があり、史実との相違を示している。 Category:平安時代の日記 Category:鎌倉時代の日記 Category:12世紀の書籍.
山本勉
山本 勉(やまもと つとむ、1953年 - )は日本の美術史学者。日本彫刻史専攻。清泉女子大学文学部文化史学科教授。.
居城
居城(きょじょう)とは、領主が普段から住む城。または、領主が拠点とする城をいう。しばしば本城と呼ばれる場合もある。城に領主などが住む、または本拠としていることを意味する形容動詞の言葉として使われることがある。 また、拠点とする建造物が館である場合には居館(きょかん)という。館は城郭に比して防御力に劣るため、合戦に備えて防衛拠点(山城や支城など)を近くに設けることが多く、戦国時代中期ごろまでは、平時は山麓などの居館に領主が住み、合戦が始まると山城などに籠もった。戦国時代後期以降は、平時・有事ともに対応する大規模な城郭(平城・平山城)を構築するようになり、居館は城郭と一体化するようになった。.
岡屋関白記
岡屋関白記(おかのやかんぱくき)は、鎌倉時代の関白近衛兼経の日記。 宇治にあった別業「岡屋殿(おかのやどの)」に居住していたことに由来する。散逸が激しく、貞応元年(1222年)から建長3年(1251年)のうち、一部分が残るのみである。特に自筆本は陽明文庫所蔵の建長元年(1249年)春の部分のみである。貞永元年(1232年)冬の部分は後堀河天皇の譲位について書かれていることで知られている。 Category:鎌倉時代の日記 Category:13世紀の書籍.
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岡崎義実
岡崎 義実(おかざき よしざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。三浦氏の庶家・岡崎氏の祖。三浦義明の弟。三浦義継の末子で三浦悪四郎と呼ばれた。相模国大住郡岡崎(神奈川県平塚市岡崎・伊勢原市岡崎)を領し、岡崎氏を称した。 三浦氏は古くからの源氏の家人で、義実は忠義心厚く平治の乱で源義朝が敗死した後に鎌倉の義朝の館跡の亀谷の地に菩提を弔う祠を建立している。義朝の遺児源頼朝の挙兵に参じ石橋山の戦いで嫡男の義忠を失ったが、挙兵直後の頼朝をよく助け御家人に列した。晩年は窮迫したが89歳の長寿を全うした。 土肥実平の姉妹を妻にしており、本家の三浦氏とともに土肥氏とも関係が深い。.
岩波新書
岩波新書(いわなみしんしょ)は、1938年(昭和13年)11月20日に岩波書店が創刊した新書赤版として。創刊の辞は、「岩波新書創刊50年、新版の発足に際して」(1998年1月)に「道義の精神に則らない日本の行動を深慮し、権勢に媚び偏狭に傾く風潮と他を排撃する驕慢な思想を戒め、批判的精神と良心的行動に拠る文化日本の躍進を求めての出発である」と引用されている。シリーズである。.
岩波書店
株式会社岩波書店(いわなみしょてん、Iwanami Shoten, Publishers. )は、日本の出版社。.
島本町
役場付近から天王山を望む 島本町(しまもとちょう)は、大阪府北部の北摂三島地域に位置する町。 京都府南西部の乙訓郡大山崎町と隣接。桂川・宇治川・木津川が山崎地峡で合流して淀川となる場所にあり、京都盆地から大阪平野へ抜ける交通の要衝として古くから栄えた。大阪市や京都市のベッドタウンとして住宅地開発も進んでいる。.
巡礼
巡礼(じゅんれい、pilgrimage)とは、 日常的な生活空間を一時的に離れて、宗教の聖地や聖域に参詣し、聖なるものにより接近しようとする宗教的行動のことスーパーニッポニカ「巡礼」星野英紀 執筆。.
巻狩
巻狩(まきがり)とは中世に遊興や神事祭礼や軍事訓練のために行われた狩競(かりくら)の一種である。鹿や猪などが生息する狩場を多人数で四方から取り囲み、囲いを縮めながら獲物を追いつめて射止める大規模な狩猟である。「巻狩り」とも表記する。.
上総広常
上総 広常(かずさ ひろつね)は平安時代末期の武将、豪族。上総権介上総常澄の八男(嫡男)。上総介広常(かずさのすけひろつね)の呼称が広く用いられる。 房総平氏惣領家頭首であり、源頼朝の挙兵に呼応して平氏との戦いに臨んだ。.
上総国
上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。.
上田市
上田市(うえだし)は、長野県の東部(東信地方)にある市である。東信地方および上小地域(じょうしょうちいき)の中心都市で、長野県内では長野市、松本市に次ぐ3番目の規模の都市である。日本国内で現在53都市が指定されている国際会議観光都市に指定されている。また、計量特定市に指定されている。 千曲川右岸の旧市街は、戦国時代に真田氏が築いた上田城を中心とする城下町。千曲川左岸の塩田は鎌倉時代の執権北条氏の一族塩田北条氏の所領で、安楽寺、北向観音などの多くの文化遺産が残されており「信州の鎌倉」の異称で呼ばれる。上田市街地から北に向かうと真田氏発祥の地とされる真田郷(旧・真田町)に達する。都市圏は佐久地域にまでおよび、都市圏人口は定義次第では37万人になる。.
上杉重房
上杉 重房(うえすぎ しげふさ)は、鎌倉時代中期の公家(公家貴族)・武家(軍事貴族)。上杉氏の祖。.
上杉氏
上杉氏(うえすぎし / うえすぎうじ)は、公家である藤原家の支族の一つ。1252年、公家である藤原重房が、宗尊親王の鎌倉幕府・将軍(皇族初の征夷大将軍)就任に従って京都から鎌倉へ下向して、武家化し「上杉」姓を賜われたのが上杉氏の祖。室町時代には関東管領を世襲し、越後・上野・武蔵・相模の守護を務める有力守護大名として栄えた。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母は上杉家出身。鎌倉時代、室町時代から江戸時代にかけて栄えた武家の一族(山内上杉家)が著名。山内上杉家15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。豊臣政権の五大老の一人であった山内上杉家17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いにて西軍に付いて敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。本貫地は丹波国何鹿郡上杉荘(現在の京都府綾部市上杉)。 江戸時代には、大名2家、旗本4家(うち高家1家)があり、子孫は現代まで続いている。.
上横手雅敬
上横手 雅敬(うわよこて まさたか、1931年(昭和6年)3月7日 - )は、日本の歴史学者。京都大学名誉教授。専門は日本中世政治史、日本中世社会史。文学博士(京都大学、1971年)(学位論文「日本中世政治史研究」)。和歌山県出身。.
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与謝野晶子
与謝野 晶子(正字: 與謝野 晶子、よさの あきこ、1878年(明治11年)12月7日 - 1942年(昭和17年)5月29日)は、日本の歌人、作家、思想家。 戸籍名与謝野 志やう(よさの しょう)。旧姓鳳(ほう)。ペンネームの「晶子」の「晶」は、本名の「しょう」から取った。夫は与謝野鉄幹(与謝野寛)。 雑誌『明星』に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物となった。.
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不動堂
不動堂(ふどうどう).
不動明王
不動明王 (ふどうみょうおう)、梵名アチャラナータ (अचलनाथ)は、仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊。大日如来の化身とも言われる。また、五大明王の中心となる明王でもある。真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されている。 五大明王の一員である、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王らと共に祀られる。.
不空羂索観音
不空羂索観音坐像(香川県・法蓮寺、重要文化財) 不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん/ふくうけんじゃくかんのん)、梵名アモーガパーシャ(अमोघपाश )は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。六観音あるいは七観音の一尊に数えられる。三昧耶形は羂索(狩猟用の投げ縄、または両端に金具を付けた捕縛縄)、開蓮華(満開のハスの花。聖観音の初割蓮華と対をなす)。種字は(サ、)「印と真言の本」、学研、2004年2月、 p.105。 日本では「不空羂索観音菩薩」や、「不空羂索観世音菩薩」などさまざまな呼称がある。尊名の「不空」とは「むなしからず」、「羂索」は鳥獣等を捕らえる縄のこと。従って、不空羂索観音とは「心念不空の索をもってあらゆる衆生をもれなく救済する観音」を意味する。.
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両部神道
金剛界曼荼羅 胎蔵曼荼羅 両部神道(りょうぶしんとう)とは、仏教の真言宗(密教)の立場からなされた神道解釈に基づく神仏習合思想である。両部習合神道(りょうぶしゅうごうしんとう)ともいう。.
中央公論新社
株式会社中央公論新社(ちゅうおうこうろんしんしゃ)は、日本の出版社である。読売新聞グループ本社の傘下。略称は中公(ちゅうこう)。 本項では、旧法人の株式会社中央公論社(ちゅうおうこうろんしゃ)についても述べる。.
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中尊寺
中尊寺(ちゅうそんじ)は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗東北大本山の寺院。奥州三十三観音番外札所。山号は関山(かんざん)、本尊は釈迦如来 。寺伝では円仁の開山とされる。実質的な開基は藤原清衡。 奥州藤原氏三代ゆかりの寺として著名であり、平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めた金色堂を始め、多くの文化財を有する。 境内は「中尊寺境内」として国の特別史跡に指定されている。2011年(平成23年)6月26日、「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の構成資産の一つとして世界遺産に登録された。 平泉毛越寺、松島瑞巌寺、山形立石寺と共に「四寺廻廊」という巡礼コースを構成している。.
中山忠親
中山 忠親(なかやま ただちか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家師実流(花山院家)・藤原忠宗の三男。官位は正二位・内大臣。中山内大臣・堀河内大臣と号した。中山家の始祖。.
中巌円月
中巌円月(ちゅうがんえんげつ、正安2年1月6日(1300年1月28日) - 文中4年/応安8年1月8日(1375年2月9日))は、南北朝時代の臨済宗の僧。相模国鎌倉の出身で、俗姓は土屋氏。中巌は道号で、諡号は仏種慧済禅師。 年少期に鎌倉寿福寺(臨済宗建長寺派)に入った後、醍醐寺に入って密教を学び、また曹洞宗の東明慧日に師事した。1325年(正中2年)中国の元に入り、1332年(元弘2年)日本に戻った。その後、万寿寺・建仁寺・建長寺などの住持を歴任し、臨済宗における一派を形成した。 また、数学に詳しく、随筆の『文明軒雑談』には数学や度量衡の話題を多く記している他、自身でも『觽耑算法』という数学書を著しているが、後者は現存していない川本慎自「禅僧の数学知識と経済活動」中島圭一 編『十四世紀の歴史学 新たな時代への起点』(高志書院、2016年) ISBN 978-4-86215-159-9。 神武天皇については、「呉の太伯の子孫」であるとして、「天皇中国人説」を唱えた(山本七平 『現人神の創作者たち』)。.
中公文庫
中公文庫(ちゅうこうぶんこ)は、株式会社中央公論新社(読売新聞グループ)が発行している文庫レーベル。.
中務内侍日記
『中務内侍日記』(なかつかさのないしにっき)は、鎌倉時代の宮廷文学作品。著者は伏見院中務内侍こと藤原経子で、仮名文による日記である。 1280年(弘安3年)伏見天皇の東宮時代から、1292年(正応5年)に自らの病が重くなったことで里下がりするまでの13年に渡る宮廷生活の思い出を記したもの。 上下二巻構成。上巻は弘安3年から9年までの伏見天皇東宮時代、下巻は天皇時代の奉仕の思い出を記している。有職故実の詳しい資料としても群書類従に記載され、国文学者により書写された。 京極派の歌人京極為兼が春宮に初出仕する弘安3年に日記は語り起こされていて、150首あまりの和歌が詠まれている。作者は病弱であったためか、憂愁の色が濃い作品となっていて『弁内侍日記』の明朗さと対照的である。 岩佐美代子は『中務内侍日記』が『源氏物語』、『狭衣物語』等の強い影響下にあることを指摘している。.
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中国
中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.
中国の書家一覧
中国の書家一覧(ちゅうごくのしょかいちらん)は、中国の能書家を時代別に分類した一覧である。現存する書家は掲載しない。.
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中国文明
中国文明(ちゅうごくぶんめい)また中華文化(ちゅうかぶんか)は、中国大陸における文明・文化などの総称である。中華文明とも。世界最古の文明の一つであり、東アジアにおける中心文化でもある。歴史的には同文化圏内で広大な地域や人口を保有し、各地の文化は四千年もの発展を経て、「共通性を持ちながらも、鮮明な地方特色を帯びている」という中国独自な特徴になった。そして、中国大陸だけでは限らず、台湾・香港・マカオ・シンガポール等の中華圏や、日本・韓国・ベトナム・モンゴル等の漢字文化圏の国々にもかなり重要な影響を与えた。.
常磐津節
常磐津節(ときわづぶし/ときわずぶし)は、三味線音楽の一種。浄瑠璃を語る太夫と、三味線弾きで構成される。重要無形文化財(総合指定)。初代常磐津文字太夫(1709年-1781年)が、延享4年 (1747年) に豊後節より創設した。語り物の浄瑠璃の一つで、全盛期を迎えていた江戸歌舞伎とともに発展した。語りと歌との均衡が取れ、整然とまとめられた旋律「オトシ」と呼ばれる独自の技法を持ち、この特徴から常磐津節は劇付随音楽として歌舞伎など舞踊劇になくてはならない音曲といわれる。三味線方は、中棹の紅木三味線と象牙の撥(ばち)を用い、太夫の語りに合わせた絶妙な間合いで相方をつとめる。創流当初は佐々木市蔵などの佐々木姓、鳥羽屋里長などの鳥羽姓が見受けられるが、江戸時代を通して明治期に至るまで岸澤式佐を家元とする岸澤派が主流となる(現在は常磐津姓の三味線弾きが多数を占める)。また、歌舞伎出語りの時には、柿色の肩衣、蛸足と呼ばれる独自の見台を用いるのが特色である。現在では歌舞伎伴奏のほか、日本舞踊の伴奏音楽として、また、素浄瑠璃の演奏会などで頻繁に演奏されている。定紋は角木瓜、替紋は松皮菱である。.
常陸国
常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。.
常滑焼
常滑焼(とこなめやき)は、愛知県常滑市を中心とし、その周辺を含む知多半島内で焼かれる炻器。日本六古窯の一つ。 常滑市栄町の窯業施設.
丹波国
丹波国(たんばのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陰道に属する。.
丹波立杭焼
中尾城跡で出土した丹波立杭焼の甕(室町時代、兵庫県立考古博物館蔵) 丹波立杭焼(たんばたちくいやき)は兵庫県篠山市今田地区付近で焼かれる陶器、炻器。主に生活雑器を焼いてきた。丹波焼、または立杭焼ともいう。起源は平安時代にまで遡るといわれ、六古窯の一つに数えられる。 中世の丹波焼の特徴は赤っぽい土肌にかかる、焼き締めによる自然釉に特徴がある。備前焼、信楽焼に比べ、若緑色のおとなしめで爽やかな作品が多い。江戸時代以後は釉薬や技法が多様になったが、現代の丹波焼でもその風合いを引き継いだ民芸調の作品が多く見られる。.
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世尊寺流
世尊寺流(せそんじりゅう)は平安時代、藤原行成を祖とする和様書道の流派の一つ。小野道風、藤原佐理のあとをうけて上代様の書風を完成したとされる。書風は、世尊寺様とも呼ばれ、宮廷や貴族などでは最も権威ある書法として用いられた。 藤原行成が晩年、母の里方の代明親王の邸宅に隠棲し、邸宅内に世尊寺を建立し、またその子孫が世尊寺家を名乗り、代々そこを住居としたためこの名で呼ばれた。 初代藤原行成から17代を数えるが、1529年(享禄2年)、17代目世尊寺行季没をもって、世尊寺家は断絶し、それにより世尊寺流は断絶した。.
世界文化社
世界文化社(せかいぶんかしゃ)は、日本の出版社である。.
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世親
世親(せしん、वसुबन्धु vasubandhu)は、古代インド仏教瑜伽行唯識学派の僧である。世親はサンスクリット名である「ヴァスバンドゥ」の訳名であり、玄奘訳以降定着した。それより前には「天親」(てんじん)と訳されることが多い。「婆薮般豆」、「婆薮般頭」と音写することもある。 唯識思想を大成し、後の仏教において大きな潮流となった。また、多くの重要な著作を著し、地論宗・摂論宗・法相宗・浄土教をはじめ、東アジア仏教の形成に大きな影響を与えた。浄土真宗では七高僧の第二祖とされ「天親菩薩」と尊称される。.
市場
ポルトガルの市場 シンガポールの市場 市場(いちば、しじょう、market、 マーケット)とは、定期的に人が集まり商いを行う場所、あるいは、この市場(いちば)における取引機構に類似した社会機構の概念を指す。「市(いち)」「市庭」とも言う。.
万葉集
元暦校本万葉集 『万葉集』(まんようしゅう、萬葉集)は、7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3年)以後とみられる。 日本文学における第一級の史料であることは勿論だが、方言による歌もいくつか収録されており、さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても非常に重要な史料である。.
三の丸尚蔵館
狩野永徳 唐獅子図屏風 三の丸尚蔵館(さんのまるしょうぞうかん、Museum of the Imperial Collections)とは、東京都千代田区千代田の皇居東御苑内にある博物館施設。宮内庁が所管する。 昭和天皇の崩御後の1989年(平成元年)6月に皇室から寄贈されて国庫に帰属した美術品を保存、研究、公開するための施設として1993年(平成5年)11月3日に開館した。.
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三十三間堂
---- 三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は京都府京都市東山区三十三間堂廻町にある寺院の仏堂。建物の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)。同じ京都市東山区にある天台宗妙法院の境外仏堂であり同院が所有・管理している。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂。本尊は千手観音で蓮華王院は千手観音の別称蓮華王に由来する。.
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三島神社
三島神社、三嶋神社、三嶌神社(みしまじんじゃ)、あるいは三島社(みしましゃ)は、「三島」を社名とする神社。神社系列は「三島・山祇信仰」に属し、大半は伊予の大山祇神社(大三島神社)か伊豆の三嶋大社と関係のある神社である。.
三嶋大社
三嶋大社(みしまたいしゃ、三島大社)は、静岡県三島市大宮町にある神社。式内社(名神大社)、伊豆国一宮、伊豆国総社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。.
三帖和讃
親鸞筆「三帖和讃」(専修寺蔵)「文明本」などでは、「像末五濁ノ世トナリテ 釋迦ノ遺敎カクレシム 彌陀ノ悲願ヒロマリテ 念佛往生サカリナリ」。 三帖和讃(さんじょうわさん)は、親鸞の著作である『浄土和讃』、『高僧和讃』、『正像末和讃』の総称である。南北朝時代には、この総称が用いられるようになる。高田派では、『皇太子聖徳奉讃』75首を加えて「四帖和讃」と総称することも。三帖和讃は1953年(昭和28年)11月14日、国宝に指定された。 親鸞は、晩年まで加筆、再訂する。真跡本は、完全なものは発見されていない。専修寺蔵の「国宝本」に一部が真跡と認められる限りである。「文明本」など書写本が数多く残る。書写する際に加筆・再訂され、和讃数や順序などが写本により異なる。後に本願寺第八世 蓮如によって「正信念仏偈」とともに「三帖和讃」(文明本)が開版され、門徒の朝夕の勤行に用いられるようになる。.
三浦義明
三浦 義明(みうら よしあき)は、平安時代末期の相模国三浦郡衣笠城の武将。三浦荘(現神奈川県横須賀市)の在庁官人。桓武平氏の平良文を祖とする三浦氏の一族。相模介・三浦義継の子。三浦義村の祖父。.
下北半島
下北半島のランドサット。スペースシャトル 下北半島(しもきたはんとう)は、青森県の北東部にある半島。半島全体が下北半島国定公園となっており、本州最北端の地である大間崎や、日本三大霊場の恐山などがある。 旧斗南藩(「北斗以南皆帝州」から命名)にちなみ「斗南半島」とも呼ばれ、半島が「鉞(まさかり)」の形に似ているので「鉞半島」「まさかり半島」の別名もある。.
下関市
火の山から下関市中心部を望む 下関市(しものせきし)は、山口県西部に位置する中核市。本州の最西端に位置し、関門海峡北岸に面する。山口県最大の人口を擁する都市である。.
下野国
下野国(しもつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.
一山一寧
一山一寧(いっさん いちねい、宝治元年(南宋の淳祐7年、1247年) - 文保元年10月24日(1317年11月28日))は元の渡来僧。寧一山ともいう。.
一遍
一遍(いっぺん、延応元年(1239年) - 正応2年(1289年))は鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。.
一遍聖絵
一遍聖絵」第7巻 四条釈迦堂 一遍聖絵(いっぺんひじりえ)または、一遍上人絵伝(いっぺんしょうにんえでん) は、伊予国(現在の愛媛県)に生まれ浄土宗を修めたのち、新しく独自の宗旨である時宗を興した開祖一遍(遊行上人)を描いた絵巻。国宝。.
九州
九州(きゅうしゅう)は、日本列島を構成する島の一つで島国 (領土がすべて島から成る国)である日本を構成する6,852の島に対する『国土交通省』による区分け ⇒ 6,852島(本土5島・離島6,847島)。<出典>『国土交通省』サイト 離島振興課 離島とは(島の基礎知識) 2009年11月27日閲覧。ただし、島について地理学上はこのような分類・区分けはない。、その南西部に位置する。 北海道・本州・四国とともに主要4島の一つでもあり、この中では3番目に大きい島で【参考】 日本の島の面積順に上位10島 ⇒ 本州、北海道、九州、四国、択捉島、国後島、沖縄本島、佐渡島、奄美大島、対馬。 国立天文台 (編)理科年表 平成19年版 P565、ISBN 4621077635。、世界の島の中では、スピッツベルゲン島(ノルウェー)に次ぐ第37位の大きさである。 地質学や考古学などでは九州島という名称も使用される。 九州とその付随する島を合わせて九州地方(きゅうしゅうちほう)と言う。九州の最高標高は1,791メートル (m) で、大分県の九重連山・中岳の標高である。また、九州地方の最高標高は1,936 mで、鹿児島県の屋久島・宮之浦岳の標高である。(「#地理」および「日本の地理・九州」を参照) 九州には7つの地方公共団体(県)があり、7県総人口は13,108,027人、沖縄県を含めた8県総人口は14,524,614人である。都道府県の人口一覧#推計人口(右表 九州地方のデータ参照) 九州の古代の呼称は、「筑紫島」・「筑紫洲」(つくしのしま)である(#歴史書における呼称)。.
九条基家
九条 基家(くじょう もといえ)は、鎌倉時代中期の公卿・宮廷歌人。正二位内大臣。後九条内大臣、または鶴殿と号す。摂政太政大臣九条良経の三男。九条道家の異母弟。.
九条兼実
九条 兼実(くじょう かねざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原忠通の六男。官位は従一位・摂政・関白・太政大臣。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれる。通称は後法性寺関白(ごほっしょうじ かんぱく)。五摂家の一つ、九条家の祖であり、かつその九条家から枝分かれした一条家と二条家の祖でもある。五摂家のうちこの3家を九条流という。 摂政・関白藤原忠通の六男。母は、家女房で太皇太后宮大進・藤原仲光の娘・加賀。同母兄弟4人の中の長子である。同母弟には、太政大臣となった兼房・天台座主となった慈円などが、また異母兄には近衛基実、松殿基房が、異母弟には興福寺別当となった信円らがいる。 兼実が40年間書き綴った日記『玉葉』は、当時の状況を知る上での一級史料となっている。.
九条道家
九条 道家(くじょう みちいえ)は、鎌倉時代前期の公卿。摂政九条良経の長男。妻は太政大臣西園寺公経の娘等。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経の父。官位は従一位・准三宮・摂政・関白・左大臣。光明峯寺殿、峯殿を号す。通称に光明峯寺関白(こうみょうぶじ かんぱく)。京都九条通に東福寺を建立した。.
九条良経
九条 良経(くじょう よしつね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。従一位、摂政、太政大臣。後京極殿と号した。通称は後京極摂政(ごきょうごく せっしょう)、中御門摂政。摂政関白・九条兼実の次男。 小倉百人一首では「後京極摂政前太政大臣」。 「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかもねむ.
平家物語
『平家物語』(へいけものがたり)は、鎌倉時代に成立したと思われる、平家の栄華と没落を描いた軍記物語である。 保元の乱・平治の乱勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出している。平易で流麗な名文として知られ、「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しをはじめとして、広く知られている。.
平安京
平安京復元模型写真(大内裏付近) 平安京(へいあんきょう/たいらのみやこ)は、延暦13年10月22日(西暦794年11月22日)から、一説には明治2年(1869年)まで日本の首都であった都市である。平安城ともいい、桓武天皇によって長岡京からの遷都地に選ばれ、唐の首都長安城に倣って計画都市として建設された。現在の京都府京都市・京都市街であり、当時の街路をほぼそのままに主要都市として現存している。明治2年(1869年)に政府(太政官)が東京(旧江戸)に移転して首都機能を失った。平安京が置かれてから鎌倉幕府が成立するまでの約400年間を日本史では「平安時代」という。.
平安時代
平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.
平康頼
平 康頼(たいら の やすより、久安2年(1146年)? - 承久2年(1220年))は、平安時代の武士。信濃権守・中原頼季の子『勅撰作者部類』。官位は六位・左衛門大尉。後白河法皇の近習として北面に仕える。平判官入道と称された。.
平重盛
『紫宸殿の橘』(尾形月耕『日本花図絵』)平重盛と源義平 平 重盛(たいら の しげもり)は、平安時代末期の武将・公卿。平清盛の嫡男。 保元・平治の乱で若き武将として父・清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身に伴って累進していき、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。嫡男ではあったが継室の時子の子である宗盛や徳子とは母が異なり有力な外戚の庇護はなく、正室が藤原成親の妹・経子であったため、成親失脚後は一門のなかでは孤立気味であった。政治的には平氏一門の中で最も後白河法皇に近い立場にあった。清盛の後継者として期待されながらも、清盛と後白河法皇の対立では有効な対策を取ることができないまま、父に先立ち病没した。 六波羅小松第に居を構えていたことから、小松殿ないし小松内大臣とも、またその邸宅に48の灯籠(灯篭)を建てていたことから灯籠大臣とも称された。.
平重衡
東大寺盧舎那仏像 神戸市須磨区にある平重衡捕らわれの遺跡 平 重衡(たいら の しげひら)は、平安時代末期の平家の武将・公卿。平清盛の五男。母は清盛の継室・平時子。三位中将と称された。 平氏の大将の一人として各地で戦い、南都焼討を行って東大寺大仏や興福寺を焼亡させた。墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍するが、一ノ谷の戦いで捕虜になり鎌倉へ護送された。平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首された。その将才は「武勇の器量に堪ふる」(『玉葉』治承5年閏2月15日条)と評される一方、その容姿は牡丹の花に例えられたという。.
平治の乱
平治の乱(へいじのらん)は、平安時代末期の平治元年12月9日(1160年1月19日)、院近臣らの対立により発生した政変である。.
平治物語
『平治物語』(へいじものがたり)は平治の乱の顛末を描いた軍記物語。.
平泉
平泉(ひらいずみ)は、日本の東北地方、岩手県南西部(古代の陸奥国磐井郡)にある古くからの地名であり、現在の岩手県西磐井郡平泉町の中心部にあたる。 この地域一帯には、平安時代末期、奥州藤原氏が栄えた時代の寺院や遺跡群が多く残り、そのうち5件が「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の名で、2011年(平成23年)6月26日(現地時間:6月25日)にユネスコの世界遺産リストに登録された(岩手県教育委員会)。日本の世界遺産の中では12番目に登録された文化遺産であり自然遺産も含めた全体では16番目。同じ年に「小笠原諸島」も登録されたが、世界遺産センターの公式発表は、小笠原諸島が6月24日、平泉が6月25日である(cf.
平清盛
平 清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の武将・公卿。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。.
平戸記
『平戸記』(へいこき)は正二位民部卿平経高が記した日記。『経高卿記』とも。平姓と民部卿の唐名「戸部尚書」を書名の由来とする。内閣文庫に22冊が所蔵されており、史料大成にも収録されている。経高の自筆本は消失してしまっており、現存するのは写本のみである。写本はいくつか存在するが、南北朝時代に成立した伏見宮本と呼ばれる写本が最も信頼性が高いとされる。 現存する内容は嘉禄3年(1227年)から寛元4年(1246年)までをカバーしている。欠落が多数見られ、記述は断片的であるものの、鎌倉時代前期の時代の流れを描いた史料は少なく、価値は高いとされる。経高が民部卿に就任した直後の記録が、最も保存状態が良好である。 経高の広汎な知識が反映され、控訴制度に関する深湛な記述が多く、鎌倉時代の法の研究に役立っている。『吾妻鏡』をはじめとする他の史料が欠損している年代も補填しており、交渉をはじめとする公武の関係に関する記述も豊富であるため、鎌倉時代初期の京都の朝議や政局、朝廷の視点から見た幕府などを検証、研究するための史料としても重宝される。.
平曲
平曲(へいきょく)は、語りもの音楽の一ジャンルもしくは一演奏様式吉川(1990)pp.37-38。盲目の琵琶法師が琵琶をかき鳴らしながら語った『平家物語』のメロディおよびその演奏様式で、物語琵琶平曲をはじめとする物語琵琶のなかに『浄瑠璃姫物語』と称する演目を手がける一派があり、かれらのレパートリーの総称として後世「浄瑠璃」の呼称がうまれている。吉川(1990)p.43のひとつ。.
幕府
幕府(ばくふ)は、日本の中世及び近世における征夷大将軍などの武家の最高権力者を首長とする武家政権のことをいう。あるいはその武家政権の政庁、征夷大将軍の居館・居城を指す名称としても用いられる。近衛大将の唐名。.
久遠寺
師堂の御影 本堂内陣 祖師堂(撮影:2006年2月) 三門(撮影:2006年2月) 五重塔外観 五重塔内部 久遠寺(くおんじ)は、山梨県南巨摩郡身延町にある、日蓮宗の総本山(祖山)。山号は身延山。.
交通
交通(こうつう)とは、人や物が物理的に行き交うことであり、人間の社会活動に伴って発生する社会現象である。「交通」は広義には思想の場所的移動(通信)も含む概念である靑野寿郎・保柳睦美監修『人文地理事典』 p.212 1951年 古今書院。ただし、一般に「交通」という場合には通信を含まない語として使われる場合がほとんどであり、例えば学問上も交通工学や交通経済学、交通地理学といった学問領域は通信を対象に含めない。.
度会家行
度会 家行(わたらい いえゆき、康元元年(1256年) - 正平6年/観応2年(1351年)?)は、伊勢神宮の外宮(豊受大神宮)の神官で、伊勢神道の大成者。没年は正平17年/貞治元年(1362年)という説もある。.
座
座(ざ)は、平安時代から戦国時代まで存在した主に商工業者や芸能者による同業者組合のこと。朝廷や貴族・寺社などに金銭などを払う代わりに営業や販売の独占権などの特権を認められた。.
京都
京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.
京都国立博物館
京都国立博物館(きょうとこくりつはくぶつかん)は、独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館。1897年(明治30年)5月に開館した。2018年時点の館長は佐々木丞平。 主に平安時代から江戸時代にかけての京都の文化を中心とした文化財を、収集・保管・展示するとともに、文化財に関する研究、普及活動を行っている。平常展示のほかに特別展が1年に2~4回行われている。.
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京都新聞
京都新聞販売店例・河丸販売所、京都市上京区 京都新聞(きょうとしんぶん)は、京都府と滋賀県を中心に発行されている地方紙である。.
京極為兼
京極 為兼(きょうごく ためかね)は、鎌倉時代後期の公卿・歌人。名前の読みを「ためかぬ」とする説もある。.
京極為教
京極 為教(きょうごく ためのり)は、鎌倉時代中期の公卿・歌人。藤原北家御子左流、権大納言藤原為家の三男。京極家の祖。.
庭園
庭園(ていえん)は、見て、歩いて楽しむために、樹木を植えたり、噴水・花壇を作ったりなど、人工的に整備された施設。日本では、自然を模して川・池・築山などが作られ、木や草が植えられているものもある。.
庶民
庶民(しょみん)とは、人口の多数を占める一般的な人々のことである。 庶民には、通例、平民などが該当し、貴族などの特権階級に対して、一般階級の人々を指すことが多い。現代社会においては、一般市民とも呼ばれることも多い。また庶民と言う言葉を大衆と同義で用いられることもあるが、厳格に区別して用いられることもある。庶民は、風俗の担い手でもあり、民俗学や文化人類学などにおいても注目されている。 古代中国では、士大夫以上の階級に対して「庶民に落とす」という処罰が存在し、これを恥辱として自殺した例もあった。.
康弁
康弁(こうべん)は鎌倉時代の仏師。運慶の三男。生没年未詳。伝記も不明の部分が多い。父に従って、東寺南大門の金剛力士(仁王)像(現存せず)や興福寺北円堂諸像の分担制作を行った他、興福寺の「天燈鬼・龍燈鬼立像」を制作した。.
康円
康円(こうえん、康縁、幸縁、承元元年(1207年) - 没年不詳)は、鎌倉時代の慶派仏師。大仏師、法眼。.
康勝
康勝(こうしょう、生没年不詳)は、日本の鎌倉時代の仏師。運慶の四男。湛慶は兄。慶派。.
康永
康永(こうえい)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。暦応の後、貞和の前。1342年から1344年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.
康朝
康朝(こうちょう、生没年未詳)は、平安時代の奈良仏師。 従来の慣習にとらわれない異質で革新的な仏像を製作した。父は康助、子に成朝、慶派の康慶は弟子。.
康慶
康慶(こうけい、生没年不詳)は、平安時代末期 - 鎌倉時代初期の仏師。運慶の父。平重衡の南都焼き討ち(治承4年(1180年))後の復興造仏の中心人物として活躍し慶派の基礎を築いたが、詳しい経歴には不明の部分が多い。.
人間界
人間界(にんげんかい、Skt:Manussya)は、人間がいる世界のこと。.
二条為定
二条 為定(にじょう ためさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿・歌人。(為通)の子。 父は早くに死去し、元亨3年(1323年)に参議となる。叔父のの感化を受け、正中2年(1325年)に後継者として『続後拾遺和歌集』を撰集した。はじめ姉妹の権大納言三位局(懐良親王らの母)が宮人として仕えていた後醍醐天皇に近侍したが、元弘の変以後は天皇に従わず、北朝側に通じて延文4年/正平14年(1359年)に『新千載和歌集』(二条良基や足利尊氏の推挙による)を撰出し、南北朝動乱の時期の歌道師範の家を守った。なお、文和4年/正平10年(1355年)8月17日に出家し釈空と称するようになった。 為定の和歌は、『玉葉和歌集』以下の勅撰和歌集や『続現葉和歌集』以下の私撰和歌集に多数入集し、『文保御百首』などの定数歌もある。彼の詠歌を集めた『為定集』は2系統あり、一方は私撰集で、他方は為定の家集だが、いずれも為定自身ではなく、後人の撰によるものである。 ためさた Category:鎌倉時代の公家 Category:室町・安土桃山時代の公家 Category:鎌倉時代の歌人 Category:室町・安土桃山時代の歌人 Category:1293年生 Category:1360年没.
二条為世
二条 為世(にじょう ためよ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての公卿・歌人。歌道二条派の祖二条為氏の長男。極官が権大納言だったので藤大納言とも呼ばれた。.
二条為氏
二条 為氏(にじょう ためうじ)は、鎌倉時代中期の公卿・歌人。藤原北家御子左家の嫡流で、権大納言藤原為家の長男。和歌の家である二条家(二条派)の祖。.
二条良基
二条良基邸・二条殿址・京都市中京区両替町通御池上る東側 二条良基邸・二条殿御池址・京都市中京区室町通押小路下る東側 二条 良基(にじょう よしもと)は、の公卿、歌人であり連歌の大成者である。従一位。摂政、関白、太政大臣。 最初の関白は在任13年間の長期にわたり、死の間際まで通算5度(数え方によっては4度(理由は後述))にわたって北朝4代の天皇の摂政・関白を務めた。.
広島県
広島県(ひろしまけん)は、日本の中国地方に位置する都道府県の一つ。瀬戸内海に面する。県庁所在地は広島市。.
五台山 (高知市)
青柳橋西袂から望む五台山 五台山から望む高知市中心部 高知市の五台山(ごだいさん)は、高知市郊外の山及び同市の地名。なお本稿では「山」について記述する。標高146m。.
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五山文学
五山文学(ござんぶんがく)は、鎌倉時代末期から室町時代にかけて禅宗寺院で行われた漢文学である。.
五島美術館
五島美術館(ごとうびじゅつかん)は、東京都世田谷区上野毛(かみのげ)にある美術館。1960年(昭和35年)4月18日に開館し、所蔵品は日本・東洋の古美術を中心に国宝5件、重要文化財50件を含む約5000件にのぼる。運営主体は公益財団法人五島美術館で、同法人は五島美術館および大東急記念文庫の運営を行っている。.
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五味文彦
五味 文彦(ごみ ふみひこ、1946年(昭和21年)1月30日 - )は、日本の歴史学者、東京大学名誉教授。山梨県甲府市出身。.
五輪塔
西大寺奥の院) 五輪塔(ごりんとう)は、主に供養塔・墓として使われる塔の一種。五輪卒塔婆とも呼ばれる。 一説に五輪塔の形はインドが発祥といわれ、本来舎利(遺骨)を入れる容器として使われていたといわれるが、インドや中国、朝鮮に遺物は存在しない。日本では平安時代末期から供養塔、供養墓として多く見られるようになる。このため現在では経典の記述に基づき日本で考案されたものとの考えが有力である。 教理の上では、方形の地輪、円形の水輪、三角の火輪、半月型の風輪、団形の空輪からなり、仏教で言う地水火風空の五大を表すものとする。石造では平安後期以来日本石塔の主流として流行した。五輪塔の形式は、石造では、下から、地輪は方形(六面体)、水輪は球形、火輪は宝形(ほうぎょう)屋根型、風輪は半球形、空輪は宝珠型によって表される。密教系の塔で、各輪四方に四門の梵字を表したものが多い。しかし早くから宗派を超えて用いられた。 石造のものは石造美術の一分野として重要な位置を占める。.
五重塔
五重塔(ごじゅうのとう)は、仏塔の形式の一つ。層塔と呼ばれる楼閣形式の仏塔のうち、五重の屋根を持つものを指す。下から地(基礎)、水(塔身)、火(笠)、風(請花)、空(宝珠)からなるもので、それぞれが5つの世界(五大思想)を示し、仏教的な宇宙観を表している。.
井上光貞
井上 光貞(いのうえ みつさだ、1917年(大正6年)9月19日 - 1983年(昭和58年)2月27日)は、日本の歴史学者。東京大学名誉教授。国立歴史民俗博物館初代館長。紫綬褒章受章者。文学博士。専門は日本古代史(上代日本史)。井上馨と桂太郎の孫に当たる。.
亀山天皇
亀山上皇像(福岡市博多区、東公園) 亀山天皇(かめやまてんのう、建長元年5月27日(1249年7月9日) - 嘉元3年9月15日(1305年10月4日))は、鎌倉時代の第90代天皇(在位:正元元年11月26日(1260年1月9日) - 文永11年1月26日(1274年3月6日))。諱は恒仁(つねひと)。 後嵯峨天皇の第七皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。后腹では後深草天皇に次ぐ次男。大覚寺統の祖。父母から鍾愛され、兄の後深草天皇を差し置いて治天の君となり、やがて亀山系の大覚寺統と後深草系の持明院統との対立が生じる端緒となった。.
亀山市
亀山市(かめやまし)は、三重県中北部に位置する市。.
亀菊
亀菊(かめぎく、生没年未詳)は、鎌倉時代前期の白拍子。後鳥羽上皇の愛妾。伊賀局とも。『承久記』によると、佐目牛西洞院(平安京の小路と大路)の住人で、父は刑部丞。 江口の遊女であったと見られ、この地域と関連のある摂津国長江・倉橋(大阪府豊中市)の荘園を上皇より与えられる。鎌倉で上皇と良好な関係を持っていた鎌倉幕府3代将軍源実朝が暗殺されると、幕府は上皇の親王を新たな将軍として鎌倉へ迎えることを要請した。上皇は亀菊の所領である両荘の地頭が領主の命令を聞かないので免職にして地頭を廃止せよと要求して、幕府に譲歩を迫る。幕府は上皇の要求を拒否して両者の交渉は決裂、この亀菊の所領問題を絡めた将軍東下問題は、上皇と幕府の関係を悪化させ、2年後の承久の乱の一因となる。 『承久記』流布本によると、亀菊は乱後の上皇の隠岐島配流に同行したという。.
今鏡
『今鏡』(いまかがみ)は、歴史物語。10巻。成立は平安時代末期であり、『今鏡』序文によれば、高倉天皇の嘉応2年(1170年)とされるが、それ以降とする説もある。作者は藤原為経(寂超)とするのがほぼ定説になっている。ほかに、中山忠親、源通親説もある。『今鏡』は『続世継』(しょくよつぎ)とも『小鏡』(こかがみ)とも呼ばれる。『続世継』は、『大鏡』の続きであるという意味で、『小鏡』とは、現在の歴史という意味である。『つくも髪の物語』ともいう。 いわゆる「四鏡」の成立順では2番目に位置する作品である。内容的には『大鏡』の延長線上に位置し、3番目に古い時代を扱う。なお、描く年代が4番目の『増鏡』との間には13年間の空白があり、藤原隆信(寂超在俗の子)の著である歴史物語『弥世継』(いやよつぎ、現存しない)がその時代を扱っていたためとされる。.
今様
今様の碑、永観堂内、京都市東山区 今様(いまよう)は、日本の歌曲の一形式。今様とは「現代風、現代的」という意味であり、当時の「現代流行歌」という意味の名前であった。.
今治市
今治市(いまばりし)は、愛媛県の北東部に位置する市である。.
今昔物語集
『今昔物語集』(こんじゃくものがたりしゅう)とは平安時代末期に成立したと見られる説話集である。全31巻。ただし8巻・18巻・21巻は欠けている。 『今昔物語集』という名前は、各説話の全てが「今ハ昔」という書き出しから始まっている事に由来する便宜的な通称である。.
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仁治
仁治(にんじ)は、日本の元号の一つ。延応の後、寛元の前。1240年から1242年までの期間を指す。この時代の天皇は四条天皇、後嵯峨天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時、北条経時。.
仁明天皇
仁明天皇(にんみょうてんのう、弘仁元年(810年) - 嘉祥3年3月21日(850年5月6日)、在位:天長10年3月6日(833年3月30日) - 嘉祥3年3月19日(850年5月4日))は、平安時代初期の第54代天皇。諱は正良(まさら)。 嵯峨天皇の第二皇子。母は橘清友の娘、皇后橘嘉智子(檀林皇后)。正子内親王は同父母の妹でありかつ同年の生まれのため、双子の妹と推測される。.
仏 (曖昧さ回避)
佛がもとの漢字。国語国字改革以後は「仏」(当用漢字、常用漢字)。.
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仏御前
仏御前(ほとけごぜん、永暦元年1月15日(1160年2月23日) - 治承4年8月18日(1180年9月14日))は、平安時代末期の白拍子。.
仏像
仏像(ぶつぞう)は、仏教の信仰対象である仏の姿を表現した像のこと。仏(仏陀、如来)の原義は「目覚めた者」で、「真理に目覚めた者」「悟りを開いた者」の意である。初期仏教において「仏」とは仏教の開祖ゴータマ・シッダールタ(釈尊、釈迦如来)を指したが、大乗仏教の発達とともに、弥勒仏、阿弥陀如来などの様々な「仏」の像が造られるようになった。 「仏像」とは、本来は「仏」の像、すなわち、釈迦如来、阿弥陀如来などの如来像を指すが、一般的には菩薩像、天部像、明王像、祖師像などの仏教関連の像全般を総称して「仏像」ともいう。広義には画像、版画なども含まれるが、一般に「仏像」という時は立体的に表された丸彫りの彫像を指すことが多い。彫像の材質は、金属製、石造、木造、塑造、乾漆造など様々である。.
仏眼仏母
明恵念持 仏眼仏母 (高山寺蔵) 仏眼仏母 (ぶつげんぶつも)、(बुद्धलोचना)は、仏教、特に密教で崇められる仏の一尊。真理を見つめる眼を神格化したものである。 なお、所依の経典によって、大日如来所変、釈迦如来所変、金剛薩埵所変の三種類の仏眼仏母が説かれる。 三昧耶形は如来眼(肉髻と微笑む両目)、金剛眼(独鈷金剛杵の両側に微笑む眼)、あるいは如意宝珠。種子はギャ(ga)、またはシリー(zrii)。 その姿は、日本では一般に装身具を身に着けた菩薩形で、喜悦微笑して法界定印の印相をとる姿に表される。 人は真理を見つめて世の理を悟り、仏即ち「目覚めた者」となる。これを「真理を見つめる眼が仏を産む」更に「人に真理を見せて仏として生まれ変わらせる宇宙の神性」という様に擬人化して考え、仏母即ち「仏の母」としての仏眼信仰に発展した。 また『大日経疏』では、「諸々の仏が人々を観察し、彼らを救うために最も相応しい姿を表す」という大乗仏教の下化衆生思想に基づく解釈も行われている。 密教においては「目を開いて仏として生まれ変わらせる」その役割から、仏像の開眼儀式でその真言が唱えられる。 また、仏眼仏母は胎蔵界大日如来が金剛界月輪三昧という深い瞑想の境地に至った姿ととも解釈され、一字金輪仏頂とは表裏一体の関係にあるとされる。例えば、一字金輪仏頂がその輪宝で悪神を折伏するとすれば、仏眼仏母は悪神を摂受によって教え導くという。 そのため仏眼仏母の曼荼羅には必ず一字金輪仏頂も描かれ、一字金輪仏頂曼荼羅にも必ず仏眼仏母が描かれる。.
仏舎利塔
仏舎利塔(ぶっしゃりとう)とは、仏舎利(釈迦の遺骨)を納めるとされる仏塔。一般に仏塔の原型であるインドの「ストゥーパ」の様式をそのまま模して建てられた仏教建築物である。 ドーム状の構造物の上に相輪をもつ。日本では近代になって建てられたものも多い。また本来の舎利を祀るだけでなく、太平洋戦争でなくなった戦没者を祀る仏舎利塔もある。.
仏法
仏法 (ふっぽう、ぶっぽう).
令旨
令旨(りょうじ)とは、律令制のもとで出された、皇太子・三后(太皇太后・皇太后・皇后)の命令を伝えるために出した文書。 中国(唐)では皇太子の命令を伝える文書を「令」といったが、それが日本に伝わり、日本では皇太子の命令を伝える文書を令旨といい、太皇太后・皇太后・皇后の出す文書もこれに準じた。平安時代中期以降は、皇太子・三后に加えて女院や親王などの皇族の命令も令旨と呼ばれるようになった。 歴史上有名な令旨としては、治承・寿永の乱(源平合戦)の際に諸国の源氏に挙兵を命じるために以仁王が発した「以仁王の令旨」があるが、これは皇太子でも親王でもない以仁王が命令の正統性を高めるためにあえて親王の身位を冒して発したもので、本来ならば王の命令書は「御教書」と呼ばれるべきものだった。 なお、天皇の命令を伝える文書に宣旨・綸旨などがある。.
仮名
仮名(かな、けめょう、かめい、かりな).
延暦寺
延暦寺(えんりゃくじ、正字: 延曆寺)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので南都の興福寺と対に北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。1994年には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。.
建久
建久(けんきゅう)は、日本の元号の一つ。文治の後、正治の前。1190年から1198年までの期間を指す。この時代の天皇は後鳥羽天皇、土御門天皇。.
建仁
建仁(けんにん)は、日本の元号の一つ。正治の後、元久の前。1201年から1203年までの期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源頼家、源実朝、執権は北条時政。.
建仁寺
建仁寺(けんにんじ)は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。山号を東山(とうざん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。 京都五山の第3位に列せられている。俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や、漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られる両足院などが見られる。また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺である。寺号は「けんにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。なお、しばしば日本最初の禅寺と言われるが、これは間違いで博多の聖福寺が最初の禅寺である。.
建長寺
建長寺(けんちょうじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山。山号を巨福山(こふくさん)と称し、寺号は詳しくは建長興国禅寺(けんちょう こうこく ぜんじ)。 鎌倉時代の建長5年(1253年)の創建で、本尊は地蔵菩薩。開基(創立者)は鎌倉幕府第5代執権・北条時頼、開山(初代住職)は南宋の禅僧・蘭渓道隆で、第二世は同じく南宋の兀庵普寧である。鎌倉五山の第一位。境内は「建長寺境内」として国の史跡に指定。.
建長寺船
建長寺船(けんちょうじぶね、けんちょうじせん)は、相模国鎌倉(神奈川県鎌倉市)に所在する臨済宗の寺院勝長寿院・建長寺の修復のため、正中2年(1325年)に鎌倉幕府公認で元におくられた民間の貿易船。社寺の造営料を得る目的で派遣された寺社造営料唐船のひとつで、特定の条件下にある入元の船である。正確には「勝長寿院・建長寺造営料唐船」であるが、一般に「建長寺船」と称される。典拠となる史料は『広瀬文書』『比志島文書』である。.
建暦
建暦(けんりゃく)は、日本の元号の一つ。承元の後、建保の前。1211年から1214年までの期間を指す。この時代の天皇は順徳天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府征夷大将軍は源実朝、執権は北条義時。.
建武の新政
建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。 名は、翌年の元弘4年/建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。近年の歴史学では「建武政権」という表現もある。後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。.
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建治
建治(けんじ)は、日本の元号の一つ。文永の後、弘安の前。1275年から1277年までの期間を指す。この時代の天皇は後宇多天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、執権は北条時宗。.
廿日市市
弥山からみた厳島神社および対岸の阿品・地御前 廿日市市(はつかいちし) は、広島県西部にある市。 郵便番号の上3桁は738、739。市外局番は、0829(一部地域を除く)。.
他力本願
他力本願(たりきほんがん).
他阿
他阿(たあ、嘉禎3年(1237年)- 文保3年1月27日(1319年2月17日))は、鎌倉時代後期の時宗の僧。遊行上人2世。正しくは他阿弥陀仏と称し、他阿と略する。法諱は真教(ただし同時代史料にはみえず、初出は『本朝高僧伝』。燈心文庫に真教と署名のある文書があり、他阿に同定する説あり)。俗姓は源氏久我家ともいわれる。.
仙覚
仙覚(せんがく)は鎌倉時代初期における天台宗の学問僧。権律師。中世万葉集研究に大きな功績を残した。建仁3年(1203年)生れとする説が有力。没年不詳。文永9年(1272年)、70歳の年まで存命したことは確実であるが、その生涯の伝記的事項には不明な部分が多い。.
伊勢国
伊勢国(いせのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
伊勢神宮
伊勢神宮(いせじんぐう)は、三重県伊勢市にある神社。なお「伊勢神宮」とは通称であり、正式名称は地名の付かない「神宫(じんぐう)」法人としての名称も「神宮」であり、事務をつかさどる機関として「神宮司庁」がある。主たる事務所の所在地は伊勢市宇治館町1番地(神宮司庁の所在地)。。他の神宮と区別するため「伊勢の神宮」と呼ぶこともあり、親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」とも称される。神社本庁の本宗(ほんそう)である。 二十二社(上七社)の一社。また、神階が授与されたことのない神社のひとつ神宮で神階が無いのは、伊勢神宮と日前神宮、國懸神宮の3宮だけである。。古代においては宇佐神宮、中世においては石清水八幡宮と共に二所宗廟のひとつとされた。明治時代から太平洋戦争前までの近代社格制度においては、すべての神社の上に位置する神社として社格の対象外とされた。.
伊行末
伊 行末(いぎょうまつ、い の ゆきすえ、? - 1260年8月19日(文応元年7月11日))は、鎌倉時代の石工。南宋時代に現在の中国浙江省寧波付近で生まれ、鎌倉時代初頭に来日し南都焼討後の東大寺復興にあたった。.
伊豆の国市
伊豆の国市(いずのくにし)は、静岡県の伊豆半島北部に位置する市。.
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伊豆山神社
伊豆山神社(いずさんじんじゃ)は、静岡県熱海市伊豆山上野地、JR熱海駅の北東約1.5kmにある神社。全国各地に点在する伊豆山神社や伊豆神社(いずじんじゃ)、走湯神社(そうとうじんじゃ、はしりゆじんじゃ)などの起源となった事実上の総本社格である。.
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伊賀国
伊賀国(いがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
伊都郡
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弁内侍日記
『弁内侍日記』(べんのないしにっき)は、鎌倉時代の女流歌人で、藤原信実の娘にあたる弁内侍によって記された日記である。.
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式子内親王
式子内親王(しょくし/しきし(のりこ)ないしんのう、久安5年(1149年) - 建仁元年1月25日(1201年3月1日))は、平安時代末期の皇女、賀茂斎院である。新三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。後白河天皇の第3皇女。母は藤原成子(藤原季成の女)で、守覚法親王・亮子内親王(殷富門院)・高倉宮以仁王は同母兄弟。高倉天皇は異母弟にあたる。萱斎院、大炊御門斎院とも呼ばれた。法号承如法。.
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伏見天皇
伏見天皇(ふしみてんのう、文永2年4月23日(1265年5月10日) - 文保元年9月3日(1317年10月8日))は日本の第92代天皇(在位:弘安10年10月21日(1287年11月27日) - 永仁6年7月22日(1298年8月30日))。諱は熈仁(ひろひと)。書道の伏見院流の祖、京極派の有力歌人としても知られる。 後深草天皇の第二皇子。母は、左大臣洞院実雄の娘、愔子(玄輝門院)。.
伏見区
伏見区(ふしみく)は、京都市を構成する11の行政区の一つで、京都市の南部に位置する。.
伝統
伝統(でんとう)は、信仰、風習、制度、思想、学問、芸術などの様々な分野において、古くからのしきたり・様式・傾向、血筋、などの有形無形の系統を受け伝えることをいう。.
伝香寺
伝香寺(でんこうじ)は奈良県奈良市小川町にある律宗の寺院。山号はなし。本尊は釈迦如来。花びらが一枚ずつ散ってゆく散り椿は、東大寺開山堂の糊こぼし・白毫寺の五色椿と並び「奈良三名椿」に数えられる。.
伝記
伝記(でんき)とは、広義には書き記された記録の総称だが、狭義には個人の事績の記録を指す。現代においては、狭義に使われることが多い。以下にそれぞれについて記す。英語名は biography である。 語源である中国語(中期漢語)としての伝記については伝(儒教における伝記)の記事を参照。.
弧
弧(こ、arc).
伴奏
伴奏(ばんそう)は、主として西洋音楽で使われる音楽用語で、主たる旋律を演奏する単数または複数の歌手または奏者に対し、副次的な演奏をすることをいう。 また、演劇や映画・ドラマなどで流れる音楽のことも「伴奏」といい、劇伴という。.
似絵
似絵(にせえ)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけて流行した大和絵系の肖像画を指す絵画用語。.
伽藍
法隆寺西院伽藍。正面が中門 伽藍(がらん)は、僧侶が集まり修行する清浄な場所の意味であり、後には寺院または寺院の主要建物群を意味するようになった。サンスクリット語のの音写で、「僧伽藍摩(そうぎゃらんま)」「僧伽藍」が略されて「伽藍」と言われた。漢訳の場合は「衆園(しゅおん)」「僧園(そうおん)」などと訳された例があるが、通常「伽藍」とのみ呼ばれる。.
弘安
弘安(こうあん)は、日本の元号の一つ。建治の後、正応の前。1278年から1287年までの期間を指す。この時代の天皇は後宇多天皇、伏見天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、執権は北条時宗、北条貞時。.
弘仁・貞観文化
弘仁・貞観文化(こうにん・じょうがんぶんか)とは、日本史において、弘仁・貞観年間を中心とする平安時代前期(ほぼ9世紀に相当)の文化。この期間を弘仁・貞観時代という。なお、日本美術史では20世紀末頃から「弘仁・貞観時代」という表記をあまり用いなくなり、「平安時代前期」と称することが多くなっている。.
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住吉物語
『住吉物語』(すみよしものがたり)は鎌倉前期の擬古物語。1221年ごろ成立したものと考えられる。作者未詳。全2巻。 継子いじめの物語。『源氏物語』『枕草子』中にも名称が見られることから、物語の原型自体は平安時代に成立したとみられる。但し、鎌倉時代に編纂された物語歌集『風葉和歌集』に採録された和歌7首の内、2首は現存の『住吉物語』に見えないことから後人が改作したものと推定される。『落窪物語』を模している。現存諸本は室町時代以降のものが夥しく存在し、伝本間の本文の異同が激しい。本文の固定は室町末期以降の古活字本のころと見てよい。.
住宅
住宅(じゅうたく)は、人の居住を用途とする建築物。「住居」とも言う。生活範囲となる環境を含める場合もある。 ひとつの敷地に一世帯が居住する「一戸建(て)」(戸建(て)、個人住宅とも言う。建築基準法においては専用住宅)と、複数世帯が居住する「集合住宅」(建築基準法においては共同住宅)とに大別される。また、自己が所有し居住する持ち家と、他人が所有する住宅を借りて居住する貸家(貸間)・賃貸住宅に分けることもできる。 その形には、社会の変化に応じて流行もあり、和風住宅、洋風、欧風住宅といった呼び名があり、また、高齢者の在宅ケアなどのための同居する人が増えるようになり、二世帯、三世帯住宅や、高齢者住宅、バリアフリー住宅といった呼称も出てきた。.
住蓮
住蓮(じゅうれん、生年不詳 - 建永2年2月9日(1207年3月9日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての法然門下の浄土宗の僧。大和源氏の流れを汲む東大寺の僧実遍を父として生まれる。.
佐倉市
ユーカリが丘の超高層マンション群 佐倉市(さくらし)は、千葉県の北部に位置する市。人口約17万2千人で、千葉県では流山市に次いで人口第9位である。東京都特別区部への通勤率は20.4%(平成22年国勢調査)。.
当道座
当道座(とうどうざ)とは、中世から近世にかけて日本に存在した男性盲人の自治的互助組織。.
征夷大将軍
征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.
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征服王朝
征服王朝(せいふくおうちょう、Conquest Dynasty)とは、中国史における用語であり、漢族以外の民族によって支配された王朝を総称して、こう呼んでいる。ただし、この語をもって呼ばれるのは、遼・金・元・清の4王朝であり、五胡十六国の諸国や北朝は「浸透王朝」という用語で定義され、征服王朝とは呼ばれない。4王朝のうち中国全土を支配したのは後二者のみであり、金は北半分のみ、遼に至ってはほぼ辺境王国に近いが、現在の北京などを含む重要区域に食い込んで多数の漢民族を長期間支配したため同列に扱われる。.
侍所
侍所(さむらいどころ)は、鎌倉幕府と室町幕府において、軍事・警察を担った組織。 侍所は古く「さぶらいどころ」ともいわれ、「侍(さぶら)い」、すなわち貴人の傍に控え、家政を取り仕切ったり、その身辺を警護する従者の詰所という意味であった。平安時代末期には親王、内親王、摂関家の邸宅に置かれ、家人や東国武士などが常駐した。.
御子左家
御子左家(みこひだりけ)は、藤原北家嫡流藤原道長の六男・権大納言 藤原長家を祖とする藤原氏の系流。御子左流(みこひだりりゅう)ともいう。ただし「御子左」を家名として名乗った者はない。 「御子左」は、醍醐天皇の第十六皇子で左大臣に上った兼明親王の通称「御子左大臣」(みこさだいじん、御子=皇子)に由来する。親王の邸宅・御子左第を伝領した長家が「御子左民部卿」と呼ばれたことから、彼以後その流れをこう呼ぶようになった。.
御家人
御家人(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の家人の身分を指す語であるが、中世と近世では意味合いが異なる。.
御家流
御家流(おいえりゅう)とは、身分の高い家において伝承される流儀、あるいは藩における公式の流儀のこと。したがって、本来は家や藩によって異なる流儀を指すことになるが、芸道では単に御家流と言った場合に特定の流儀を指すことがある。.
御幣
御幣(ごへい)とは、神道の祭祀で用いられる幣帛の一種で、2本の紙垂を竹または木の幣串に挟んだものである。幣束(へいそく)、幣(ぬさ)ともいう。 通常、紙垂は白い紙で作るが、御幣にとりつける紙垂は白だけでなく五色の紙や、金箔・銀箔が用いられることもある。 かつて、神に布帛を奉る時には木に挟んで供えていたが、それが変化したのが今日の御幣である。その由来から、元々は神に捧げるものであったが、後に、社殿の中に立てて神の依代あるいは御神体として、あるいは祓串のように参拝者に対する祓具として用いるようになった。 なお、長い棒や竹の先端に幣束を何本か取付けたもののことを、特に梵天(ぼんてん)という。 紙が普及する以前は、ヤナギ、ニワトコ、ヌルデ、クルミ、マツなどの木の肌の一部を薄く削ぎ、渦状にちぢらせて残し垂らしておく飾り棒削り掛けも、御幣、幣の古い形の祭具として用いられた『広辞苑』第五版、岩波書店、1998年。『マイペディア』平凡社、1997年。。削り花(削花、ハナとも)、穂垂(ほたれ)、掻垂(かいたれ)とも。アイヌにも同様のイナウがある。.
御霊
御霊(みたま、ごりょう) 本来、荒魂・和魂などの魂の様相を指す神道用語である。.
微妙 (白拍子)
微妙/江戸時代『前賢故実』より。画:菊池容斎 微妙(びみょう、生没年未詳)は、鎌倉時代前期の白拍子。父は右兵衛尉・藤原為成。.
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徳地町
徳地町(とくぢちょう)は、山口県中部にあった町。一町で佐波郡をなしていた。非常に広い地域で、山口市全域の40%近くを占める山梨県立大学人間福祉学部紀要 5, 1-15, 2010-03-05。 2005年10月1日、山口市および吉敷郡3町(小郡町・秋穂町・阿知須町)と合併(新設合併)し、新たに山口市となり消滅した。.
後三年の役
後三年の役(ごさんねんのえき)は、平安時代後期の陸奥・出羽(東北地方)を舞台とした戦役である。前九年の役の後、奥羽を実質支配していた清原氏が消滅し、奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦いである。後三年合戦(ごさんねんかっせん)ともいう。.
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後伏見天皇
後伏見天皇(ごふしみてんのう、弘安11年3月3日(1288年4月5日)- 延元元年4月6日(1336年5月17日))は、鎌倉時代の第93代天皇(在位:永仁6年7月22日(1298年8月30日)- 正安3年1月21日(1301年3月2日))。諱は胤仁(たねひと)。 伏見天皇の第一皇子。母は、参議左近衛中将五辻経氏の娘、経子。持明院統。.
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後光厳天皇
後光厳天皇(ごこうごん てんのう、建武5年3月2日(1338年3月23日)- 応安7年1月29日(1374年3月12日))は、南北朝時代の北朝第4代天皇(在位:観応3年8月17日(1352年9月25日)- 応安4年3月23日(1371年4月9日))。諱は弥仁(いやひと、旧字体:彌仁)。.
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後白河天皇
後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。.
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後鳥羽天皇
後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇(在位:寿永2年8月20日(1183年9月8日) - 建久9年1月11日(1198年2月18日))。諱は尊成(たかひら・たかなり)。高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。 文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが、この承久の乱で朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。.
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後醍醐天皇
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.
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後深草院二条
後深草院二条(ごふかくさいんのにじょう、正嘉2年(1258年) - 没年不詳)は鎌倉時代中期の女性。『とはずがたり』の作者とされている。没年は嘉元4年(1306年)以後とされる。.
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後漢
後漢(ごかん、東漢、、25年 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。.
徒然草
徒然草の作者 吉田兼好(『前賢故実』 菊池容斎画 明治時代) 『徒然草』(つれづれぐさ)は、吉田兼好(兼好法師、兼好、卜部兼好)が書いたとされる随筆。清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』と合わせて日本三大随筆の一つと評価されている。.
律宗
律宗(りっしゅう)は、戒律の研究と実践を行う仏教の一宗派である。中国で東晋代に戒律について翻訳されると、唐代には道宣が成立させた。日本には鑑真が伝来させ、南都六宗の日本仏教の一つとなった。.
律令制
律令制(りつりょうせい)は、律令に基づく制度のこと。主に古代東アジアで見られた中央集権的な統治制度であるといわれることもあるが、唐制に倣った体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである山内昌之・古田博司。日本では律令制または律令体制や律令国家と呼ばれるが、中国にはこのような呼称は存在しない菊池秀明p8 (日中歴史共同研究報告書 p153)。中国において「律令」という言葉は秦から明まで長期にわたって使われており、その間にその内容や位置づけは大きな変遷をみている。そのため、日本の律令制の直接的モデルとなった隋や唐の国家体制をもって「律令制」と定義することは、中国の律令の変遷の実情を無視することとなり、また秦から明までのおよそ1800年間(律のみ存在した清も加えれば2100年間)の制度を一括りにすることにはあまり意味がないとする考えもある廣瀬薫雄『秦漢律令研究』2010年、汲古書院、第一部第一章「律令史の時代區分について」。.
供御人
供御人(くごにん)とは、日本中世において、朝廷に属し天皇・皇族などに山海の特産物などの食料や各種手工芸品などを貢納した集団である。後に、貢納する物品の独占販売権を取得し、座に属する商人と同様の活動を行った。禁裏供御人とも。.
供養
供養(くよう)とは、サンスクリット語のプージャーまたはpūjanā(プージャナー)の訳で、仏、菩薩、諸天などに香・華・燈明・飲食などの供物を真心から捧げること。 日本の民間信仰では死者・祖先に対する追善供養のことを特に供養ということが多く、これから派生して仏教と関係なく死者への対応という意味で広く供養と呼ぶこともある。また動物等に対する供養、さらには針供養や人形供養のように生き物でない道具等に対する供養もある。.
往生
往生(おうじょう)とは、大乗仏教の中の成仏の方法論の一つである。 現実の仏である釈迦牟尼世尊のいない現在、いかに仏の指導を得て、成仏の保証を得るかと考えたところから希求された。様々な浄土への往生があるが、一般的には阿弥陀仏の浄土とされている極楽への往生を言う。これは極楽往生(ごくらくおうじょう)といわれ、往とは極楽浄土にゆく事、生とは、そこに化生(けしょう)する事で、浄土への化生は蓮華化生という。 化生とは生きものの生まれ方を胎生・卵生・湿生・化生と四種に分けた四生(ししょう)の中の一つ。.
俊じょう
俊芿(しゅんじょう、仁安元年8月10日(1166年9月6日)- 嘉禄3年閏3月8日(1227年4月25日))は、鎌倉時代前期の僧。出自については不詳である。肥後国飽田郡の出身。字は我禅。号は不可棄。勅号は大興正法国師。一般には、月輪大師 (がちりんだいし)と呼ばれることが多い。真言宗泉涌寺派の宗祖とされる。.
忍性
忍性(にんしょう、建保5年7月16日(1217年8月19日) - 乾元2年7月12日(1303年8月25日))は、鎌倉時代の律宗(真言律宗)の僧である。房名(通称)は良観。貧民やハンセン病患者など社会的弱者の救済に尽力したことで知られる。資産家としても知られ、鎌倉に入る主要な街道の関所で、「通行税」を人ごとに徴収していた。これが後の15世紀の土民一揆の原因と言われている。.
保元の乱
保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代末期の保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変である。この公家の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。.
保元物語
『保元物語』・文保本(1318年写) 『保元物語』(ほうげんものがたり)は、保元の乱の顛末を描いた作者不詳の軍記物語である。.
信仰
信仰(しんこう、英語 faith)とは、.
信心
信心(しんじん)とは、神や仏を信じる心。また、神や仏を信じて祈ることをいう。.
信西
信西(しんぜい、嘉承元年(1106年) - 平治元年12月13日(1160年1月23日))は、平安時代後期の貴族、学者、僧侶。信西は出家後の法名、号は円空、俗名は藤原 通憲(ふじわら の みちのり)、または高階 通憲(たかしな-)。藤原南家貞嗣流、藤原実兼の子。正五位下、少納言。.
信楽焼
信楽焼の店舗(信楽町) 信楽焼(しがらきやき)は、滋賀県甲賀市信楽を中心に作られる炻器で、日本六古窯のひとつに数えられる。一般には狸の置物が著名であるが、後述のように多様な発展を遂げている。 信楽は、付近の丘陵から良質の陶土がでる土地柄である。長い歴史と文化に支えられ、伝統的な技術によって今日に伝えられて、日本六古窯のひとつに数えられている。信楽特有の土味を発揮して、登窯、窖窯の焼成によって得られる温かみのある火色(緋色)の発色と自然釉によるビードロ釉と焦げの味わいに特色づけられ、土と炎が織りなす芸術として“わび・さび”の趣を今に伝えている。信楽の土は、耐火性に富み、可塑性とともに腰が強いといわれ、「大物づくり」に適し、かつ「小物づくり」においても細工しやすい粘性であり、多種多様のバラエティーに富んだ信楽焼が開発されている。.
信教の自由
信教の自由(しんきょうのじゆう)とは、信仰の自由などから構成される宗教に関する人権。信教の自由(宗教の自由)とは、特定の宗教を信じる自由または一般に宗教を信じない自由をいう。 西欧では、教会権力からの自由を求める帰結として確立された。世界人権宣言や市民的及び政治的権利に関する国際規約の共に第18条で規定される。日本国憲法においては20条である。.
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快慶
快慶(かいけい、生没年不詳)は、鎌倉時代に活動した仏師。運慶とともに鎌倉時代を代表する仏師の一人である。この流派の仏師は多く名前に慶の字を用いるところから慶派と呼ばれる。快慶は安阿弥陀仏とも称し、その理知的、絵画的で繊細な作風は「安阿弥様」(あんなみよう)と呼ばれる。三尺前後の阿弥陀如来像の作例が多く、在銘の現存作も多い。.
修験道
野の深山にて修行中の修験者 修験道(しゅげんどう)は、山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の宗教である。修験宗ともいう。修験道の実践者を修験者または山伏という。.
俳句
俳句(はいく)とは、五・七・五の十七音から成る日本語の定型詩である。世界最短の定型詩とされ、十七文字(じゅうしちもじ)、十七音(じゅうしちおん)、十七語(じゅうしちご)とも呼ばれる。俳句の有季定型性を捨象する形で派生した自由律俳句や無季俳句などもある。俳句を詠む(作る)人を俳人と呼ぶ。.
俳諧
俳諧(はいかい)とは、主に江戸時代に栄えた日本文学の形式、また、その作品のこと。誹諧とも表記する。正しくは俳諧の連歌あるいは俳諧連歌と呼び、正統の連歌から分岐して、遊戯性を高めた集団文芸であり、発句や連句といった形式の総称である。.
応安
応安(おうあん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。貞治の後、永和の前。1368年から1374年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇、後円融天皇。南朝方が長慶天皇。室町幕府将軍は足利義満。.
応永
応永(おうえい、旧字体:應永)は、日本の元号の1つ。明徳の後、正長の前。1394年から1427年までの期間を指す。この時代の天皇は後小松天皇、称光天皇。室町幕府将軍は足利義満、足利義持、足利義量。日本の元号の中では、昭和、明治に次いで3番目の長さ(35年)であり、一世一元の制導入以前では最長である。また、応永10年から22年までの約10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われる。.
念仏
念仏(ねんぶつ)とは、仏教における行のひとつで、仏の姿や功徳を思い描いたり、その名号を口に出して呼ぶこと。サンスクリット語では"buddha-anusmRti"で、仏陀に対する帰敬、礼拝、讃嘆、憶念などの意。日本では一般的には、浄土教系の宗派において合掌礼拝時に「南無阿弥陀仏」と称える「称名念仏」を指すことが多い。.
土塁
土塁(どるい、earthwork fortification)とは、敵や動物などの侵入を防ぐために築かれた土製の堤防状の壁である。.
土師器
半坂峠南尾根支群1号墳(兵庫県豊岡市)から出土した古墳時代前期の壺(兵庫県立考古博物館蔵) 土師器(はじき)とは、弥生土器の流れを汲み、古墳時代~奈良・平安時代まで生産され、中世・近世のかわらけ(土器)・焙烙(ほうろく)に取って代わられるまで生産された素焼きの土器である。須恵器と同じ時代に並行して作られたが、実用品としてみた場合、土師器のほうが品質的に下であった。埴輪も一種の土師器である。.
土佐国
土佐国(とさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.
土御門天皇
土御門天皇(つちみかどてんのう、建久6年11月1日または12月2日(1195年12月4日または1196年1月3日) - 寛喜3年10月11日(1231年11月6日))は、鎌倉時代の第83代天皇(在位:建久9年1月11日 (1198年2月18日) - 承元4年11月25日(1210年12月12日))。諱は為仁(ためひと)。 後鳥羽天皇の第一皇子。母は、源通親の養女(法勝寺執行法印能円の女)承明門院・源在子。.
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在家
在家(ざいけ)は、仏教において、出家せずに、家庭にあって世俗・在俗の生活を営みながら仏道に帰依する者のこと。出家に対する語で、仏教用語の1つ。比丘・比丘尼と合わせて四衆(ししゅ)という。 仏教徒のなかで、在家の信者は、男性は優婆塞(うばそく、upāsaka)、女性は優婆夷(うばい、upāsikā)と呼ばれる。「upāsaka」という語には、仕える、敬う、礼拝するという意味があり、一般に在家信者は出家者に布施を行うことによって功徳を積む。また、出家者からは教えを受けて(法施)、生活の指針とする。 在家の仏教徒は、出家者と同じく仏・法・僧の三宝に帰依するが、戒律の種類は出家者ほど多くなく、五つの生活規則、即ち五戒と、さらに進んで八斎戒を守り、戒律を維持するための「布薩会」(懺法)に参加することが前提とされる。(ただし末法無戒を唱える一部の法華系宗派では、在家であっても五戒は無用とされる。).
地獄
地獄(じごく)は、宗教的死生観において、複数の霊界(死後の世界)のうち、悪行を為した者の霊魂が死後に送られ罰を受けるとされる世界。厳しい責め苦を受けるとされる。素朴な世界観では地面のはるか下に位置することが多い。.
地獄草紙
地獄草紙 東博本 雲火霧 地獄草紙(じごくぞうし)は、地獄を描いた12世紀の絵巻物。地獄草紙と呼ばれる絵巻物は、東京国立博物館本(国宝)、奈良国立博物館本(国宝)、旧益田家本甲巻、旧益田家本乙巻の4巻があった。このうち旧益田家本乙巻は、現在では、地獄を描いたものではないとされ、「辟邪絵」(へきじゃえ)と呼ばれるようになっている。 東博本は、髪火流地獄、火末虫地獄、雲火霧地獄、雨炎火石地獄の4図がある。奈良博本は、屎糞所、函量所、鉄磑所、鶏地獄、黒雲沙、膿血所、狐狼地獄の7図がある。旧益田家本甲巻は、火象地獄、咩声地獄、飛火地獄、剥肉地獄、沸屎地獄、解身地獄、鉄山地獄の7図がある。 奈良国立博物館本、東京国立博物館本は、『餓鬼草紙』、『病草紙』、『辟邪絵』(いずれも国宝)などとともに、後白河法皇が制作させ、蓮華王院の宝蔵に納められていたことが記録されている「六道絵」の一部であったとする説がある。これらが蓮華王院の宝蔵にあったものだと断定はできないが、時代的には後白河の時代、すなわち12世紀頃の制作と考えられている。.
地頭
地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。地頭職という。守護とともに設置された。 平氏政権期以前から存在したが、源頼朝が朝廷から認められ正式に全国に設置した。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。.
地蔵菩薩
地蔵菩薩(じぞうぼさつ)は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。 サンスクリット語ではクシティガルバ(क्षितिघर्भ )と言う。クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」としている。また持地、妙憧、無辺心とも訳される。三昧耶形は如意宝珠と幢幡(竿の先に吹き流しを付けた荘厳具)、錫杖。種字は ह (カ、)。 大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々を、その無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられたとされる。 日本における民間信仰では道祖神としての性格を持つと共に、「子供の守り神」として信じられており、よく子供が喜ぶ菓子が供えられている。 一般的に、親しみを込めて「お地蔵さん」、「お地蔵様」と呼ばれる。.
地方窯
地方窯(じかたよう)は、日本における製陶産業における、製陶施設の分類法の一種。.
北宋
北宋(ほくそう、拼音:Bĕisòng、960年 - 1127年)は、中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた。国号は宋であるが、金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。北宋期の首都は開封であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋で解説することにする。.
北山十八間戸
北山十八間戸(きたやまじゅうはちけんこ/きたやまじゅうはちけんと/きたやまじゅうはっけんこ)は鎌倉時代に奈良につくられたハンセン病などの重病者を保護・救済した福祉施設。1921年3月3日、国の史跡に指定された。.
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北畠親房
北畠 親房(きたばたけ ちかふさ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。著書の『神皇正統記』で名高い。.
北面武士
北面武士(ほくめんのぶし)とは、院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士のこと。11世紀末に白河法皇が創設した。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員された。.
北野天満宮
北野天満宮(きたのてんまんぐう)は、京都市上京区にある神社。旧称は北野神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「星梅鉢紋」。 通称として天神さん・北野さんとも呼ばれる。福岡県太宰府市の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、当社から全国各地に勧請が行われている。近年は学問の神として多くの受験生らの信仰を集めている。.
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北陸地方
北陸地方(ほくりくちほう)は、本州中央部に位置する中部地方のうち日本海に面する地域である。新潟県、富山県、石川県、福井県の4県『日本地名大百科』、小学館、1996年、p.1041 ISBN 4-09-523101-7、あるいは富山県、石川県、福井県の3県を指す。区別のため前者を「北陸4県」「新潟県を含む北陸地方」、後者を「北陸3県」などと表現することがある。北陸3県の繋がりについては「北陸3県について」の節を参照。 名称は、畿内から見て北方にある五畿七道の北陸道に由来し、中世以前では、この地域を北国(ほっこく)と称していた。.
北条実時
北条 実時(ほうじょう さねとき)は、鎌倉時代中期の武将。北条氏一門。金沢流北条氏の実質初代で、金沢 実時(かねさわ さねとき)とも。父は北条実泰。母は天野政景の娘。.
北条顕時
北条 顕時(ほうじょう あきとき)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将。北条氏の一門・金沢流北条氏の第3代当主。金沢顕時とも称される。父は第2代(実質的には初代)当主で鎌倉幕府の重職を歴任した北条実時。正室は安達泰盛の娘・千代野。 安達泰盛が霜月騒動で粛清されたことにより逼塞を余儀なくされたが、その後に第9代執権・北条貞時の信頼を回復して復権。顕時の代に、金沢流北条氏は全盛期を迎えた。.
北条貞顕
北条 貞顕(ほうじょう さだあき)は、鎌倉時代末期の武将。北条氏の一門で鎌倉幕府第12代連署(在職:正和4年(1315年)7月12日 - 嘉暦元年(1326年)3月16日)、第15代執権(在職:正中3年3月16日(1326年4月19日) - 正中3年3月26日(1326年4月29日))。 父は金沢流の北条顕時。母は摂津の御家人である遠藤為俊の娘・入殿。金沢文庫で有名な北条実時の孫に当たる。金沢 貞顕(かねさわ さだあき)とも呼ばれる。.
北条貞時
北条 貞時(ほうじょう さだとき)は、鎌倉時代後期の北条氏一門の武将。北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第9代執権(在職:弘安7年(1284年) - 正安3年(1301年))。 第8代執権・北条時宗の嫡男。母は安達義景の娘・堀内殿(覚山尼)。.
北条氏
北条氏(ほうじょうし、)は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。戦国大名後北条氏との混同を避けるため、代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏もしくは鎌倉北条氏と呼ばれることもある。通字は時(とき)。.
北条泰時
北条 泰時(ほうじょう やすとき)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の長男。鎌倉幕府第3代執権(在職:貞応3年(1224年) - 仁治3年6月15日(1242年7月14日))。鎌倉幕府北条家の中興の祖として、御成敗式目を制定した人物で有名である。.
北条政子
北条政子(菊池容斎画、江戸時代) 北条 政子(ほうじょう まさこ、保元2年(1157年) - 嘉禄元年7月11日(1225年8月16日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。伊豆国の豪族、北条時政の長女。子は頼家、実朝、大姫、三幡。兄弟姉妹には宗時、義時、時房、阿波局、時子など。 周囲の反対を押し切り、伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所と呼ばれる。夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名を安養院(あんにょういん)といった。頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。 なお、「政子」の名は建保6年(1218年)に朝廷から従三位に叙された際に、父・時政の名から一字取って命名されたものであり、それより前の名前は不明。.
北条時宗
北条 時宗(ほうじょう ときむね)は、鎌倉時代中期の武将・政治家。鎌倉幕府第8代執権。 鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家に生まれ、世界帝国であったモンゴル帝国(大元朝)の圧力が高まるなかで執権に就任。内政にあっては得宗権力の強化を図る一方、モンゴル帝国(大元朝)の2度にわたる侵攻を退け(元寇)、戦前までは日本の国難を救った英雄と評された。官位は、正五位下相模守。贈従一位。.
北条時頼
北条 時頼(ほうじょう ときより)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第5代執権(在職:1246年 - 1256年)である。北条時氏の次男で、4代執権北条経時の弟。北条時輔、第8代執権北条時宗、北条宗政、北条宗頼らの父。通称は五郎、五郎兵衛尉、武衛、左近大夫将監、左親衛、相州、また出家後は最明寺殿、最明寺入道とも呼ばれた。.
北条時政
北条 時政(ほうじょう ときまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。伊豆国の在地豪族の北条時家か北条時方(もしくは時兼)の子。源頼朝の正室・北条政子の父。鎌倉幕府の初代執権。 家系は桓武平氏平直方流を称する北条氏であるが、直方流は仮冒で伊豆国の土豪出身という説もある。.
北海道
北海道(ほっかいどう)は、日本の北部に位置する島。また、同島および付随する島を管轄する地方公共団体(道)である。島としての北海道は日本列島を構成する主要4島の一つである。地方公共団体としての北海道は47都道府県中唯一の「道」で、道庁所在地は札幌市。.
マツ
マツ属(マツぞく、学名:)は、マツ科の属の一つ。マツ科のタイプ属である。日本に広く分布するアカマツ、クロマツは英語でそれぞれJapanese red pine、Japanese black pineと呼ばれる。.
ハンセン病
ハンセン病(ハンセンびょう、Hansen's disease, Leprosy)は、抗酸菌の一種であるらい菌 の皮膚のマクロファージ内寄生および末梢神経細胞内寄生によって引き起こされる感染症である。 病名は、1873年にらい菌を発見したノルウェーの医師、アルマウェル・ハンセンに由来する。かつての日本では「癩(らい)」、「癩病」、「らい病癩が常用漢字に含まれないため、平仮名で書かれることが多い。」とも呼ばれていたが、それらを差別的に感じる人も多く、歴史的な文脈以外での使用は避けられるのが一般的である。その理由は、「医療や病気への理解が乏しい時代に、その外見や感染への恐怖心などから、患者への過剰な差別が生じた時に使われた呼称である」ためで、それに関連する映画なども作成されている。 感染経路は、らい菌の経鼻・経気道よりのものが主であるが、他系統も存在する(感染経路の項にて後述)。感染力は非常に低く、治療法も確立した現状では、重篤な後遺症を残すことや感染源になることは稀であるものの、適切な治療を受けない・受けられない場合、皮膚に重度の病変が生じ、他者へ感染することもある。 2007年の統計では、世界におけるハンセン病の新規患者総数は年間約25万人である。一方、近年の日本国内の新規患者数は年間で0〜1人に抑制され、現在では稀な疾病となっている。ハンナ・リデルは日本のハンセン病史に名を刻んだ。.
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メロディ
メロディ(Melody)は、ある高さと長さを持ついくつかの楽音が前後に連続して、それがリズムに従って、連続的に進行する(演奏される)ことによって、何らかの音楽的内容をもつもの。したがって、一連の音の高さの比率が同じならば, 最初の1音の高さが違っても、同一のメロディーとなる。和訳は旋律。節(ふし)のこと。 特に西洋音楽において、このメロディはハーモニー(和声)、リズム(律動)と共に、音楽の三要素のひとつとされる。 旋律理論では、最初に現れた音をもとにして、反復または緊張という役割をもつ音が続き、解決をする音で終了すると考える。さらに、数秒または数小節の短いメロディ(楽句、フレーズ)を一つの単位としてとらえ、長いメロディを構成する各単位に反復、緊張、解決という役割を与えることができる。 一般的にメロディは音階や旋法といった音組織の上に成り立つ。特に西欧の古典音楽(ルネサンス後期の調性が確立した以降の音楽で、シェーンベルクのような調性を持たない音楽以前のもの)においては、音階の選択は調性が強く意識されており、和音進行が重要な意味を持つ。その意味において、より緊張や解決という役割はハーモニーの考え方からよく理解できる、また反復とはリズムそのものである。それぞれは重なり合い明確に区別することはできない。 人は大量の音が含まれる音楽でも、印象的な音のつながりを直感的に認識しメロディとして楽しむことができる。 多くの西洋系音楽は、中心となるメロディを印象付けるように意図的に作曲されている。直感的に認識しがたいことを意図した楽曲もある。.
ユーモア
ユーモア(humour、Humor, )とは、人を和ませるような《おかしみ》のこと。日本語ではこうした表現を諧謔(かいぎゃく)とも呼ばれ、「有情滑稽」と訳されることもある。.
僧
僧(そう、संघ Saṃgha)はサンガを音写した「僧伽」の略で仏教の戒律を守る、男性の出家修行者である「比丘(びく)」と女性の出家修行者である「比丘尼(びくに)」の集団のこと。仏教の三宝の一つ。在家信者を含めた教団を僧(サンガ)とは呼ばず、出家者が四人以上集まったとき僧となる。男性の出家修行者の集団を比丘僧といい、女性の場合は比丘尼僧という。衆あるいは和合衆と訳される。.
レンズ
レンズ レンズの断面形状の種類 レンズ()とは、.
ボストン美術館
内部 ボストン美術館 (Museum of Fine Arts, Boston、略称はMFA) は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン市にある、全米有数の規模を持つ美術館。.
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ヒノキ
ヒノキ(檜、桧、学名:)は、ヒノキ科ヒノキ属の針葉樹。人工林として多く植栽されている。.
デザイン
デザイン(英語: design)とは、オブジェクト、システム、さらに測定可能な人間とのインタラクション(建築設計図、 エンジニアリング図面、ビジネスプロセス、回路図、縫製パターンなど)を構築するための計画またはコンベンションを作成する行為。デザインは、さまざまな分野で異なる意味を持っている(#デザイン分野を参照)。場合によっては、オブジェクトの直接構築(陶器、工学、管理、コーディング、グラフィックデザインなど )もデザイン思考を使用すると解釈されうる。 「意匠設計」(他に「造形デザイン」など)の意味で単にデザインの語が使われていることも大変多く、デザインすなわち意匠のことだと思われていることも非常に多い。 英語では意匠については「スタイル」という語があるためそちらが使われる場合・分野もあり、例えば日本でいう「建築様式」に近いフレーズとして architectural style がある。.
別当
別当(べっとう)は、本来、律令制において本官を持つ者が他の官司の職務全体を統括・監督する地位に就いた時に補任される地位。後に官司の長官一般を指すようになり、このことから転じて、以下のような複数の意味を持つ。.
別所
別所(べっしょ).
刀剣
刀剣(とうけん)とは、握りと同じ位かそれより長い刃もしくは剣身を備えている武器の総称。一般的には剣は両刃のものを指し刀は片刃のものを指すが、これに限らないものも存在する。 詳細はそれぞれの項目を参照。.
嘉禎
嘉禎(かてい)は、日本の元号の一つ。文暦の後、暦仁の前。1235年から1237年までの期間を指す。この時代の天皇は四条天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。.
嘉禄
嘉禄(かろく)は、日本の元号の一つ。元仁の後、安貞の前。1225年から1228年までの期間を指す。この時代の天皇は後堀河天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。.
嵯峨野
嵯峨野竹林 嵯峨野(さがの)は、京都府京都市右京区の地名。太秦・宇多野の西、桂川の北、小倉山の東、愛宕山麓の南に囲まれた付近に広がる広い地域の名称で、単に「嵯峨(さが)」と呼称される事もある。ただし、観光地としての「嵯峨(野)」は嵐山から小倉山に沿った社寺の立ち並ぶ地域(概ね車折神社より西側)を指す。平安京の西方の郊外になることから別名、西郊と公家達はよんだ。 地名の由来については坂あるいは険し(さがし)などの地形に由来するという説と中国西安(長安)郊外の「巀嶭山(さつがつさん)」を「嵯峨山」とも書いたからだという説がある。.
善福院
善福院(ぜんぷくいん)は和歌山県海南市下津町梅田にある仏教寺院。天台宗、山号は宝遊山。 1215年、栄西禅師により廣福寺五ヶ院の一つとして創建されて以来廣福禅寺という寺号であったが、明治初期の廃仏毀釈を経て現在の寺号に改められた。安土桃山時代は加茂氏の菩提寺として栄え七堂伽藍を有していたが、釈迦堂が現存するのみである。釈迦堂は、功山寺仏殿とともに鎌倉時代の禅宗様建築を代表するもので、国宝の指定を受けている。.
善財童子
善財童子(ぜんざいどうじ、)は、仏教の童子の一人であり、『華厳経入法界品』、『根本説一切有部毘奈耶薬事』などに登場する。.
善派
善派(ぜんぱ)は、鎌倉時代に大和国(奈良県)を中心に活躍した仏師の一派。大和に多く残る天平彫刻に範をとりながらも、あわせて定朝様の名残ともいえる平安時代の穏やかな作風も残し、名に善の字を付けた一派。.
善慶
善慶(ぜんけい、建久8年(1197年) - 正嘉2年(1258年)7月頃)は、日本の鎌倉時代に活動した仏師。南都(奈良)を中心に活動した「善派」と称される系統に属する。同じ善派仏師の善円の実子(または弟子)と考えられてきたが、1983年に善円と善慶の生年が一致することが判明、以降両者は同一人物とされる。同じく善派仏師の善春は息子。.
周防国
周防国(すおうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.
和田義盛
和田 義盛(わだ よしもり)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。初代侍所別当。 三浦氏の一族で源頼朝の挙兵に参加。鎌倉に頼朝の初期武家政権がつくられると初代侍所別当に任じられる。治承・寿永の乱では源範頼の軍奉行となり、山陽道を遠征し九州に渡り、平家の背後を遮断した。平家滅亡後は奥州合戦に従軍して武功を立てた。頼朝の死後、梶原景時の変での景時弾劾追放では中心的な役割を果たし、比企能員の変や畠山重忠の乱などの御家人の乱では北条氏に与した。しかし、2代執権・北条義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、幕府軍を相手に鎌倉で戦うが敗死し、和田一族も滅亡した(和田合戦)。館は若宮大路にあった。.
和様
和様(わよう)とは、日本風あるいは、日本様式の事物を意味し、中国風・中国様式を意味する唐様に対して用いられる。狭義では和様建築を指して用いられる場合が多いが、書道をはじめとして絵画や彫刻など、日本美術史において日本風が顕著になった平安時代中期から後期にかけての作品に対して広く用いられる用語である。ただし、和様とされるものの多くは純粋な意味での日本古来のものではなく、その原形は飛鳥・奈良時代に唐から受容された文物を日本の風土と日本人の感性に合わせる形で改良することによって成立した文化様式である。 9世紀半ば以後、中国を支配してきた唐の衰退に伴って遣唐使が派遣されることが無くなり(894年に正式に廃止)、代わって日本独自の文化(国風文化)が登場するようになった。特に日本語表記が確立された点が大きく、平仮名の使用は長い間女性に限定されていたと言われてきたが、実際には和歌を中心として男性が非公式の場において平仮名を用いる事もあり、日本最初の勅撰和歌集『古今和歌集』も平仮名交じりの文体が採用されている。日本語の表記において漢字と仮名が交用されていく中で漢字の点画も平仮名のような曲線を帯びるようになっていった。こうした中で書道において、和様の書道が形成されるようになる。王羲之の書法を範としながらも新たな書法を生み出した小野道風をはじめ、藤原行成・藤原佐理らによって上代風とも呼ばれる新たな書風を生み出し、後に法性寺流・世尊寺流などの和様書法が出現した。また、大仏様などの大陸の影響を受けた寺院の建築様式に代わって日本独自の要素を取り込んだ和様建築が出現するようになった。.
和歌山県
和歌山県(わかやまけん)は、日本の近畿地方の都道府県の一つ。県庁所在地は和歌山市。日本最大の半島である紀伊半島の西側に位置し、県南部には大規模な山地を有する。.
和歌集
和歌集(わかしゅう)とは、和歌を編集したもの。単に歌集(かしゅう)ともいう。.
和漢混淆文
和漢混淆文(わかんこんこうぶん)は、現在の日本語の表記体系の元となる文体である。和漢混交文ともいう。.
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アイヌ文化
アイヌ文化(アイヌぶんか)とは、アイヌが13世紀(鎌倉時代後半)ころから現在までに至る歴史の中で生み出してきた文化である。現在では、大半のアイヌは同化政策の影響もあり、日本においては日常生活は表面的には和人と大きく変わらない。しかし、アイヌであることを隠す人達もいる中、アイヌとしての意識は、その血筋の人々の間では少なからず健在である。アイヌとしての生き方はアイヌプリとして尊重されている。アイヌ独特の文様(アイヌ文様)や口承文芸(ユーカラ)は、北海道遺産として選定されている。前時代の擦文文化とアイヌ文化の違いについては、「蝦夷#えぞ」の項を参照。.
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アジア大陸
アジア大陸(アジアたいりく)は、巨大な大陸であるユーラシア大陸の東側の大きな部分を占める亜大陸である。西のヨーロッパ大陸とはウラル山脈を介して一体となっており、南のアフリカ大陸とはスエズ地峡でつながっている。周囲は、太平洋・インド洋の大洋、北極海・ヨーロッパ地中海・黒海・紅海・ペルシア湾などの地中海、ベーリング海・オホーツク海・東シナ海・黄海・日本海・アラビア海・ベンガル湾などの縁海などに面している。 大陸・亜大陸の定義は任意であるため、アジアとヨーロッパの境界は非常にあいまいなものであるが、ダーダネルス海峡、マルマラ海、黒海、カフカース山脈、カスピ海、ウラル川、ウラル山脈、ノヴァヤゼムリャを結んだ線上にあるとされている。 アジア大.
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イノシシ
イノシシ(猪・豬、英名: boar 学名:)は、鯨偶蹄目イノシシ科の1種。十二支の12番目「亥」であり、犬と同じくらい鼻が非常に敏感だが、神経質な動物でもある。本種の家畜化がブタである。.
インド
インドは、南アジアに位置し、インド洋の大半とインド亜大陸を領有する連邦共和制国家である。ヒンディー語の正式名称भारत गणराज्य(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ、Republic of India)を日本語訳したインド共和国とも呼ばれる。 西から時計回りにパキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、バングラデシュ、ミャンマー、スリランカ、モルディブ、インドネシアに接しており、アラビア海とベンガル湾の二つの海湾に挟まれて、国内にガンジス川が流れている。首都はニューデリー、最大都市はムンバイ。 1947年にイギリスから独立。インダス文明に遡る古い歴史、世界第二位の人口を持つ。国花は蓮、国樹は印度菩提樹、国獣はベンガルトラ、国鳥はインドクジャク、国の遺産動物はインドゾウである。.
ウダヤナ
ウダヤナ(Skt:udayana、訳:出愛・日子など)は、インドのコーサンビー(कौशाम्बी / kosambī、憍賞弥国)の王である。釈迦在世中の仏教を保護した王として知られる。漢字では優填(うでん)もしくは于闐(うでん)、また優陀延(うだえん)と音写する。 なお『増一阿含経』五王品には、波斯匿王・毘沙王・優填王・悪生王・優陀延王の5人の王名が挙げられており、優填王と優陀延王は別人ともされる。『四分律』には優陀延王は拘睒弥国(コーサンビー)の王とする。.
オホーツク文化
ホーツク文化(オホーツクぶんか)は、3世紀から13世紀までオホーツク海沿岸を中心とする北海道北海岸、樺太、南千島の沿海部に栄えた古代文化である。この文化の遺跡が主としてオホーツク海の沿岸に分布していることから名付けられた。このうち、北海道に分布している遺跡の年代は5世紀から9世紀までと推定されている。 海獣狩猟や漁労を中心とする生活を送っていたオホーツク文化の担い手を、オホーツク文化人、また単にオホーツク人とも呼ぶ。オホーツク人は『日本書紀』に現れる粛慎と考える見方が有力であったが、近年行われた人骨の遺伝子調査から、ニヴフ人やコリヤーク人との近似性が示されている。同時期の日本の北海道にあった続縄文文化や擦文文化とは異質の文化である。 なお、トビニタイ文化をオホーツク文化に含めるかどうかについては、現在のところ意見が分かれている。トビニタイ文化は9世紀から13世紀まで北海道東部にあり、擦文文化の影響を受け、海岸から離れた内陸部にも展開した。両者の継続性を認めてオホーツク文化の一部にする考えと、生活の違いを重視してオホーツク文化に含めない考えとがある。本項では煩を避けるためトビニタイ文化を含めずに説明する。.
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カルタ
ルタ(Carta).
カツラ (植物)
ツラ(桂、学名:Cercidiphyllum japonicum)は、カツラ科カツラ属の落葉高木。.
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ガンダーラ
インド(紀元前6世紀)の十六大国左上の Gandhara がガンダーラ ガンダーラ(Gandhāra、Gāndhāraḥ)は、現在のアフガニスタン東部からパキスタン北西部にかけて存在した古代王国。北岸に位置し、その東端はインダス川を越えてカシミール渓谷の境界部まで達していた。 ガンダーラの王国は紀元前6世紀~11世紀の間存続し、1世紀から5世紀には仏教を信奉したクシャーナ朝のもとで最盛期を迎えた。1021年にガズナ朝のスルタン・マフムードにより征服された後、ガンダーラの地名は失われた。イスラム支配下ではラホール、またはカーブルが周辺地域の中心となり、ムガル帝国の支配下ではカーブル州の一部とされた。.
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コンブ
ンブ(昆布)は、不等毛植物門褐藻綱コンブ目コンブ科 (学名: )に属する数種の海藻の(一般的)名称である。生物学が生まれる以前からの名称であるため、厳密な定義はできないが、葉の長細い食用のものがコンブと呼ばれる傾向がある。コンブ科に属する海藻でも、オオウキモ(ジャイアントケルプ)は通常、コンブとは呼ばれない。 生物学ではカタカナ書きの「コンブ」が使われるが、単なる「コンブ」という種は存在せず、マコンブやリシリコンブ、ミツイシコンブなどのように、コンブ科植物の種の標準和名に用いる。他方、食品など日常的には昆布やこんぶ(こぶ)の表記も使われる。ウェブスター辞典などにもそのままkombuとして記載されている。.
ザクロ
(石榴、柘榴、若榴、学名: )は、ミソハギ科ザクロ属の1種の落葉小高木、また、その果実のこと。 庭木などの観賞用に栽培されるほか、食用になる。.
シカ
(鹿)は、鯨偶蹄目シカ科 に属する哺乳類の総称である。ニホンジカ、トナカイ、ヘラジカなどが属しており、約16属36種が世界中の森林に生息している。.
ゾウ
ゾウ(象)は、哺乳綱ゾウ目(長鼻目)ゾウ科の総称である。 アジアゾウとアフリカゾウ、それとおそらくはマルミミゾウの、2属3種が現生し、これらは現生最大の陸生哺乳類である。他に絶滅したマンモスやナウマンゾウなどを含む。.
タマヨリビメ
タマヨリビメ(タマヨリヒメ、玉依姫)は霊(たま)の憑(よ)りつく巫女『百科事典マイペディア 電子辞書版』「たまよりひめ」 All Rights Reserved.
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サントリー美術館
入口 ロビー 館内の階段 サントリー美術館 (サントリーびじゅつかん)は、東京都港区赤坂九丁目にある、日本の古美術が中心の私立美術館である。運営は、公益財団法人サントリー芸術財団。.
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サケ
0歳の稚魚(2004年5月 札幌市豊平川さけ科学館) 遡上する鮭(2005年11月) 産卵後の死骸。生息個体が特に多い小規模河川の河口部では、産卵期に多数見られる。'''ホッチャレ'''とも呼ばれる。 孵化したてのサケ サケ(鮭 Oncorhynchus keta)は、サケ目サケ科サケ属の魚。狭義には種としてのO.
傀儡
傀儡(かいらい).
備前国
備前国(びぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.
備前焼
備前焼 備前焼(びぜんやき)は、岡山県備前市周辺を産地とする炻器。日本六古窯の一つに数えられる。備前市伊部地区で盛んであることから「伊部焼(いんべやき)」との別名も持つ。同地区で数多く見られる煉瓦造りの四角い煙突は備前焼の窯のものである。.
唐招提寺
唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良市五条町にある鑑真が建立した寺院。南都六宗の1つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を始め、多くの文化財を有する。 唐招提寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。.
唯円
唯円(ゆいえん)は、鎌倉時代の浄土真宗の僧。同時代に同名の僧侶が幾人かいる。『歎異抄』の実質的著者もその一人であるが、つまびらかではない。.
唱導
唱導(しょうどう)は、仏法を説いて衆生を導く語りものであり、数ある日本の話芸にとって、その源流のひとつでもある釈(2011)pp.9-14吉川(1990)p.40。日本史上では、とくに中世において大きな展開を遂げた。唱導はまた「唱道」とも表記し、「演説」「説法」「説教」「法説」「法談」「講義」など様々に呼称される五来(1988)pp.484-485。本来的には、唱導ないし説経とは仏教の経典を講じ教義を説くことであって、それ自体は文学でも芸能でもなかったが、文字の読み書きのできない庶民への教化という契機から音韻抑揚をともなうようになったものである荒木「解説・解題」(1973)pp.313-317。それはまた、比喩・因縁など文学方面の関心を強めることにもつながり、これを「唱導文学」と称する。 唱導は、古代の中国においても盛んで、ことに東晋代の高僧で仏教の中国化に功のあった廬山の慧遠はその達人であったといわれる。.
唇
唇(くちびる、脣)とは、哺乳類の口の回りにある器官である。解剖学的には口唇(こうしん)という。.
儀式
儀式(ぎしき)は、特定の信仰、信条、宗教によって、一定の形式、ルールに基づいて人間が行う、日常生活での行為とは異なる特別な行為。宗教的色彩の薄いものは式典とも称される。.
冷泉為相
冷泉 為相(れいぜい ためすけ)は、鎌倉時代中期から後期にかけての公卿・歌人。冷泉家の祖。権大納言民部卿・藤原為家の晩年の子。母は『十六夜日記』作者として知られる阿仏尼(安嘉門院四条)。官位は正二位・権中納言。.
円伊
円伊(えんい、生没年不詳)は鎌倉時代後期の画僧。僧位は法眼和尚位で国宝である一遍聖絵を描いた。 生まれや生い立ちは不明だが時宗の開祖である一遍の生い立ちを描いたり当時の庶民の生活などを描いた作品も遺している。.
円爾
円爾(えんに、建仁2年10月15日(1202年11月1日) - 弘安3年10月11日(1280年11月10日))は、鎌倉時代中期の臨済宗の僧。駿河(静岡県)の出身。諡号(しごう)は聖一国師(しょういちこくし)。.
円照 (鎌倉時代)
円照(えんしょう、承久3年(1221年) - 建治3年10月22日(1277年11月18日))は、鎌倉時代中期の律宗の僧。父は東大寺厳寛で、戒壇院中道聖守の弟。号は実相。 叡尊・円爾・良忠・覚盛・良遍などに師事して仏教教学を学び、三論・法相・天台・真言密教・禅など8宗を修学した。1251年(建長3年)東大寺戒壇院の院主に任じられ、1258年(正嘉2年)造東大寺大勧進に就任し、堂塔の復興に尽力し戒壇院の中興開山となった。1269年(文永6年)には後嵯峨上皇に戒師として戒を授けている。弟子には凝然・真照などがいる。 Category:鎌倉時代の僧 Category:律宗 Category:東大寺 Category:1221年生 Category:1277年没.
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円柱 (数学)
数学において円柱(えんちゅう、cylinder)とは二次曲面(三次元空間内の曲面)の一種で、デカルト座標によって次の方程式で定義されるものである: この方程式は楕円柱を表し、a.
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円派
円派(えんぱ)は、 平安時代中期から鎌倉時代の仏師の一派。祖は定朝の弟子長勢、三条仏所を形成し京都を中心に活躍。仏師号に「円」の一字を持つことから名付けられ、同じく仏師号の一字に由来する慶派・院派とともに京都に仏所を構え、造仏活動を行う。 円派は明円以降、奈良、鎌倉に主流が移り衰微する。.
凝灰岩
二上山屯鶴峯産出) 凝灰岩(ぎょうかいがん、、タフ)は、火山から噴出された火山灰が地上や水中に堆積してできた岩石。成分が火山由来であるが、生成条件から堆積岩(火山砕屑岩)に分類される。 典型的な凝灰岩は数mm以下の細かい火山灰が固まったもので、白色・灰色から暗緑色・暗青色・赤色までさまざまな色がある。塊状で割れ方に方向性はない。凝灰岩は層状構造(層理)を持たないことも多いが、大規模な噴煙から降下した場合や水中でゆっくり堆積した場合は層状をなすこともある。.
凝然
凝然(ぎょうねん、仁治元年3月6日(1240年3月30日) - 元亨元年9月5日(1321年9月26日))は、鎌倉時代後期の東大寺の学僧。インド・中国・日本にまたがる仏教史を研究してその編述をおこない、日本仏教の包括的理解を追究して多くの著作をのこした凝然の著述は、鎌倉時代のいわゆる「旧仏教」の僧侶たちが、「日本にとって仏教とは何であったか」を追究しようとした意思の現れのひとつととらえることができる。大隅(1989)p.210。.
出羽清原氏
出羽清原氏(でわきよはらし)は、平安時代の豪族である。出羽国(後の羽後国)の在庁官人、清原令望が俘囚長に任ぜられ、仙北三郡を支配したとする説があるが定説はない。.
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出雲大社
出雲大社(いずもおおやしろ、正仮名遣いでは「いづもおほやしろ」/ いずもたいしゃ)は、島根県出雲市大社町杵築東にある神社。式内社(名神大)出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人出雲大社教の宗祠。.
商人
商人(しょうにん、しょうひと、あきびと、あきんど、あきゅうど).
入間田宣夫
入間田 宣夫(いるまだ のぶお、1942年3月31日 - )は、日本の歴史学者、東北大学名誉教授。専門は、日本中世史。.
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入母屋造
right 錣屋根 入母屋造(いりもやづくり)は、東アジアの伝統的屋根形式のひとつである。広義には当該形式の屋根をもつ建築物のことを指す。単に入母屋ということもある。.
八幡宮
八幡宮(はちまんぐう)は、八幡神を祭神とする神社。八幡神社、八幡社、八幡さまとも表記・呼称される。 全国に約44,000社あり、大分県宇佐市の宇佐神宮を総本社とする。.
八幡神
八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)は、日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、神社内に神宮寺が作られた。.
八乙女
八乙女(やおとめ)とは、主に神楽や舞(いわゆる巫女神楽・巫女舞)をもって奉仕する8人の巫女のこと。八社女・八少女・八乎止女とも書く。また、略して八女(やめ)とも。.
八戸市
八戸市(はちのへし)は、青森県東部に位置し、太平洋に面する中核市。青森市・弘前市と共に、青森県主要3市の一角を構成する。 三八地域県民局が設置されており、三戸郡を包含する八戸圏域連携中枢都市圏の中心となっている。.
公家
公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.
公案
1, 中国で、古代から近世までの役所が発行した文書。調書・裁判記録・判例など。唐代の通語に由来する。 2, 禅宗において雲水が修行するための課題として、老師(師匠)から与えられる問題である。 日本では昔から1千7百則とも言われ、法身、機関、言詮、難透などに大別されるが、その他に様々な課題がある。ほとんどがいわゆる「禅問答」的な、にわかに要領を得ず、解答があるかすら不明なものである。有名な公案として「隻手の声」、「狗子仏性」、「祖師西来意」などがある。 例: 両手を叩くと音がする。では片手の音とはなんだろう。(隻手の声) 公案を与えられた雲水は数年をかけてこれに取り組むのであるが、その過程を修行とする禅風を看話禅と呼び、臨済宗が看話禅のスタイルをとる。近世には一定の数の公案を解かないと住職になれない等、法臘(年数)の他に僧侶の経験を表す基準となった。.
公権
公権(こうけん)とは、私権に対し公法関係における権利で公義務に対応する。「職権(しょっけん)」ともいう。 公権に関する紛争の裁判的解決については、行政事件訴訟法の定める手続による。 公務員が職権を濫用した場合、公務員職権濫用罪に問われる。.
六古窯
日本六古窯(にほんろっこよう)とは、日本古来の陶磁器窯のうち、中世から現在まで生産が続く代表的な6つの窯の総称。.
六百番歌合
六百番歌合(ろっぴゃくばんうたあわせ)とは、鎌倉時代に藤原良経主催でなされた歌合。判者藤原俊成の判詞「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」などで知られ、後の千五百番歌合とならび歌合の最高峰と評される。.
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六道絵
thumb 六道絵(ろくどうえ)は、仏教で説く六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人道、天道)の世界を絵画化した仏画。.
六波羅蜜寺
本堂正面 弁財天堂 六波羅蜜寺 (ろくはらみつじ)は、京都府京都市東山区にある真言宗智山派の寺院である。山号は補陀洛山。本尊は十一面観音。開基(創建)は空也。西国三十三所第17番札所。.
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六浦
六浦(むつうら、むつら)は、神奈川県横浜市金沢区にある地名。かつては武蔵国久良岐郡に属し、江戸湾の港町として栄えた。現在は「むつうら」と呼ばれているが、以前は「むつら」と呼ばれ、中世の文書には「六面」・「六連」とも書かれた。 本項では、隣接する六浦町(むつうらちょう)、六浦東(むつうらひがし)、六浦南(むつうらみなみ)についてもあわせて述べる。住居表示は六浦町が未実施区域、六浦、六浦東、六浦南が実施済み区域。.
兼明親王
兼明親王(かねあきらしんのう)は、平安時代中期の公卿、皇族。 醍醐天皇の第十六皇子。朱雀天皇・村上天皇・源高明の異母兄弟にあたる。一時期臣籍降下して源 兼明(みなもと の かねあきら)と名乗ったが、晩年になって皇籍に復帰し中務卿となったことから中書王(ちゅうしょおう)あるいは前中書王(さきの ちゅうしょおう)と呼ばれる。「後中書王」と呼ばれた甥の具平親王と共に並び称される博学多才の主で、藤原佐理・藤原行成と共に三蹟の一人に数えられる場合もある。.
元 (王朝)
元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.
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元寇
元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時中国大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。 特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の艦隊であった村井章介『北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む』日本放送出版協会 2001年 126頁。 主に九州北部が戦場となった。.
元亨
元亨(げんこう、げんきょう)は、日本の元号の一つ。元応の後、正中の前。1321年から1323年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。.
元亨釈書
元亨釈書(げんこうしゃくしょ)は日本の歴史書。鎌倉時代に漢文体で記した日本初の仏教通史。著者は臨済宗の僧、虎関師錬(1278年 - 1346年)。全30巻。 1322年(元亨2年)に朝廷に上程されたので、書名に「元亨」が冠せられる。「釈書」は釈、つまり仏の書物。収録年代は、仏教初伝以来、鎌倉後期まで700余年に及び、僧の伝記や仏教史を記す。南北朝時代に大蔵経に所収された。 活字翻刻本としては『大日本仏教全書』本と『国史大系』本がある。注釈本としては江戸期の『元亨釈書和解』が著名。参考書としては『国史大系第31巻 日本高僧伝要文抄・元亨釈書』(丸山二郎校注、吉川弘文館)等がある。.
元亀
元亀(げんき)は、日本の元号の一つ。永禄の後、天正の前。1570年から1573年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義昭。.
元徳
元徳(元德、げんとく)は、日本の元号の一つ。嘉暦の後。大覚寺統(南朝)では元弘の前で、1329年から1330年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。 後醍醐天皇が元弘に改元した直後に倒幕の兵を挙げて失敗、隠岐に流され(元弘の乱)、持明院統(北朝)の光厳天皇が立てられた。光厳天皇と幕府は元弘改元を認めず、1331年まで元徳の元号を使用し、1332年に正慶に改元した。.
元暁
元暁(がんぎょう、或いはげんぎょう、ハングル表記 원효、本名:薛思、 諡号:和諍国師、617年 - 686年3月30日)は新羅の華厳宗の僧侶である。新羅浄土教の先駆者。俗姓は薛、名前は誓幢、新幢である。 新羅の押梁郡(現在の慶尚北道)に生まれ、29歳のときに皇龍寺で出家。興輪寺の法蔵に華厳を学ぶ。教学と論争に優れた人物であった。650年, 義湘と共に唐に渡ろうとしようとしたが、高句麗軍に阻まれ失敗した。661年また義湘と唐に渡ろうとしようとしたが、党項城の古塚にとどまっているときに、偶然に骸骨に溜まった水を飲んで、「真理は遠くにあるものではない。枕元で甘く飲めた水が、起きた後に骸骨に溜まっていたことを知った時、気に障り吐きたくなった。だが、世の中への認識は心にこそある」と悟って帰って来た。その後は華厳学の研究に専念し、240巻もの著作を成した。 ある日、元曉が街で「誰許沒柯斧 我斫支天柱」という歌を歌った。誰も意味が分からなかったが, 武烈王だけは意味を理解し未亡人だった瑤石宮の公主を嫁がせ、彼女は薛聡を生んだ。その後、元曉は「小姓居士」と名を変えて、芸人が与えた瓠に「無碍」という名を付けて、歌を作って仏教を庶民に普及させた。 弟子の審祥が日本に華厳宗を伝えたため、東大寺を始めとする南都の諸寺院でもてはやされるようになり、高山寺にある『華厳縁起』には、元暁にまつわる様々な伝説が語られている。.
兵庫県
兵庫県(ひょうごけん)は、日本の都道府県の一つ。本州の中西部に位置し、近畿地方に属する。県庁所在地は神戸市。.
光忠
光忠(みつただ)は、鎌倉時代中期の備前国(岡山県)の刀工。日本刀の主要産地の一つである備前国において中世を通じて栄えた長船派(おさふねは)の実質的な祖であり、古備前派に見られる小沸づいた小乱れの作から、華やかな乱れ刃を焼いた豪壮な作刀まで作行が広い。.
光明寺 (綾部市)
光明寺(こうみょうじ)は、京都府綾部市にある真言宗醍醐派の寺院。山号は君尾山(きみのおさん)、本尊は千手観音。聖徳太子による開創を伝える古刹である。.
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兀庵普寧
兀庵普寧(ごったん ふねい、慶元3年(1197年) - 景炎元年11月24日(1276年12月30日))は、鎌倉時代中期に南宋から渡来した臨済宗の僧。諱は普寧。兀庵は字。諡号は宗覚禅師。 無準師範に師事。文応元年(1260年)、蘭渓道隆・円爾の招きにより来日し、博多の聖福寺に入った。鎌倉幕府執権北条時頼の要請により鎌倉建長寺2世となる。建長寺の本尊は地蔵菩薩であるが、兀庵は地蔵菩薩は自分より下位であるとして礼拝しなかったという。時頼は兀庵に師事して参禅・問法を重ね印可を受けた。弘長3年(1263年)、時頼が亡くなると支持者を失い、文永2年(1265年)に帰国してしまった。晩年は温州(浙江省)の江心山龍翔寺に住んだ。 当時としては先鋭的な思想を持ち、難解な講釈を行ったことから、日本語の慣用句の「ごたごた」(元の単語は「ごったんごったん」)の語源になった、と謂れる。.
前九年の役
前九年の役(ぜんくねんのえき)は、平安時代後期の陸奥国(東北地方)で起こった戦争である。.
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前庭
前庭(ぜんてい、まえにわ).
勧進
勧進(かんじん)は、仏教の僧侶が衆庶の救済のための布教活動の一環として行う行為の1つで勧化(かんげ)ともいう。勧請ともいう。直接民衆に説いて念仏・誦経などの行為を勧める者や寺院・仏像などの新造あるいは修復・再建のために浄財の寄付を求める者がいたが、中世以後には後者の行為を指すことが一般的となった。 なお勧請も、もともと仏教で仏に教えを請い、いつまでも衆生を救ってくれるよう請願することを指したが、日本では神仏習合によって神仏の霊を迎えての祈願を指すようになり、後に現在の意味に変化した。勧請は神道神社で使われることが多く、分霊ともいう。.
勧進帳
勧進帳(かんじんちょう)は、如意の渡しでの出来事を基軸にした能の演目『安宅』を元に創られた歌舞伎の演目。歌舞伎十八番の一つで、松羽目物の先駆けとなった作品である。.
勅
勅(ちょく)は、皇帝、天皇の命令、または、その命令が書いてある文書。勅が書いてあるものを勅書(ちょくしょ)と言う。なお、秘密裏に行われるものを密勅(みっちょく)という。.
勅撰和歌集
勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)は、天皇や上皇の命により編集された歌集のことである。古今和歌集(延喜5年(905年)成立)に始まり、新続古今和歌集(永享11年(1439年)成立)までの534年間で21の勅撰和歌集があり、総称して「二十一代集」という。このほかに南朝で編纂された新葉和歌集を準勅撰集とする。 また編集時期による分類として、三代集(古今集・ 後撰和歌集・拾遺集)・八代集(古今集から新古今集)・十三代集(新勅撰集から新続古今集)とする。(三代集と八代集の対象は重複していることに注意).
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因果
因果(いんが、梵 hetu-phala)は、もとは仏教用語であった。時代の関係を考慮し、ヴェーダ、仏教の順で解説する。.
図像資料
図像資料(ずぞうしりょう)とは、歴史資料のうち、絵画やデザイン、絵はがき、ポスター、写真、漫画、地図・絵図などビジュアルなものの総称。文献資料を理解するときに大きな威力を発揮するだけではなく、文献資料だけでは得られない情報も非常に多いため、今日では歴史理解に必須の資料とされるようになった。.
国学
国学(こくがく、正字・國學)は、日本の江戸時代中期に勃興した学問である。蘭学と並び江戸時代を代表する学問の一つで、和学・皇朝学・古学(古道学)などの別名がある。その扱う範囲は国語学、国文学、歌道、歴史学、地理学、有職故実、神学に及び、学問に対する態度も学者それぞれによって幅広い。.
国師
国師(こくし 、くす)は、高僧に対して皇帝(朝廷)から贈られる諡号の1つであり、特に皇帝の師への尊称である。 僧侶に贈られる諡号としては、他にも大師号、禅師号などがある。 中国では、北宋初の賛寧による『大宋僧史略』巻中「国師」によれば、北斉の法常に国師号が贈られたのが最初であるとする。また、陳隋の頃には、天台智顗を国師と号していた。唐代に入ると、禅宗の北宗六祖の神秀を国師とした。憲宗の元和年間には、知玄を悟達国師とした、という例を挙げている。 また日本では奈良時代に1国(地方行政単位)ずつに国師を置き、それぞれの国の仏教行政を統括させた。.
国立歴史民俗博物館
国立歴史民俗博物館(こくりつれきしみんぞくはくぶつかん)は、千葉県佐倉市城内町にある、大学共同利用機関法人人間文化研究機構が運営する博物館。日本の考古学、歴史、民俗について総合的に研究・展示する博物館である。通称、歴博(れきはく)。佐倉城趾の一角にある。 法的根拠は、国立大学法人法第2条第3項及び第4項並びに第5条である。.
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国衙
国衙(こくが)は、日本の律令制において国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画である。 国衙に勤務する官人・役人(国司)や、国衙の領地(国衙領)を「国衙」と呼んだ例もある。 各令制国の中心地に国衙など重要な施設を集めた都市域を国府、またその中心となる政務機関の役所群を「国衙」、さらにその中枢で国司が儀式や政治を行う施設を国庁(政庁)と呼んだ。.
国風文化
国風文化(こくふうぶんか)とは、日本の歴史的文化の一つである。10世紀の初め頃から11世紀の摂関政治期を中心とする文化であり、12世紀の院政期文化にも広く影響を与えた。 江戸時代から用例はあるが、「国風文化」という用法は小島憲之の『国風暗黒時代の文学』により国文学史の分野で一般的となり、その後歴史や美術史へ転用された。原義の「国風」とはくにぶり(地方の習俗)の意味であり「雅(みやび)」に対置される概念であるが、日本での国風文化は雅風への展開という意味合いで使われている。.
四箇格言
四箇格言(しかかくげん)は、日蓮宗の宗祖日蓮が他の仏教宗派を批判した言葉である。所謂、真言亡国(しんごんぼうこく)、禅天魔(ぜんてんま)、念仏無間(ねんぶつむけん)、律国賊(りつこくぞく)の四つをいう。『諌暁八幡抄』、『御義口伝上』等に書かれている。.
個人
個人(こじん)とは、.
個性
個性(こせい)とは、個人や個体の持つ、それ特有の性質・特徴。特に個人のそれに関しては、パーソナリティと呼ばれる。.
犬追物
追物(いぬおうもの)は、鎌倉時代から始まったとされる日本の弓術の作法の一つ。流鏑馬、笠懸と共に騎射三物の一つに数えられる。.
皿
釉薬を塗る前の皿が並んでいる 中央がくぼんだ皿 トルコの絵皿(タバック) 皿(さら)とは、浅く平たい形状の容器。一般的には上面が広く開いている食器のうち浅く平たい形状のものを指す 横須賀市教育研究所。深い形状のものは鉢、中間的な形状のものは皿鉢という。 形としては円形のものが多いが、四角や細長いものなどがあり、いずれも周辺が多少とも上に上がっていて、食品を納めるのに都合よくなっている。.
矢部良明
部 良明(やべ よしあき、1943年 - )は、日本の陶磁器・茶道史研究家。 神奈川県生まれ。東北大学文学部美術史学科卒。東京国立博物館に入り、工芸課長を経て、現在、人間国宝美術館館長。 2011年に、裏千家から第9回茶道文化賞を受賞した - 47NEWS(共同通信)2011年2月18日。.
知行国
知行国(ちぎょうこく)とは、古代・中世の日本において、有力貴族・寺社・武家が特定の国の知行権(国務権・吏務ともいう)を獲得し収益を得た制度、およびその国。知行権を獲得した有力貴族・有力寺社らを知行国主といい、知行国主は、知行国の国司推薦権や官物収得権を保有した。知行国は「沙汰国」、「給国」ともいった。.
知恩院
遠景(左三門、右本堂、後方比叡山) 知恩院(ちおんいん)は、京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院。山号は華頂山(かちょうざん)。詳名は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)。本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)、開基(創立者)は法然である。 浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。 なお他流で門跡に当たる当主住職を、知恩院では浄土門主(もんす)と呼ぶ。.
石山寺
本堂 (国宝) 珪灰石 (国の天然記念物) 石山寺(いしやまでら)は、滋賀県大津市石山寺1丁目にある東寺真言宗の寺院。本尊は如意輪観音、開基(創立者)は良弁。当寺は京都府の清水寺や奈良県の長谷寺と並ぶ、日本でも有数の観音霊場であり、西国三十三所観音霊場第13番札所となっている。また当寺は『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者紫式部は、石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られる。 紅葉の名所としても知られ、秋にはライトアップが行われており、2015年に日本夜景遺産に認定された。 洋画家の三谷祐幸から寄付される形で関西美術院の所有者となっている。.
石山寺縁起絵巻
石山寺縁起絵巻(いしやまでらえんぎえまき)とは、石山寺の創建と、本尊の観世音菩薩の霊験あらたかな功徳の数々を描き表した寺社縁起絵巻。全7巻、計33段。石山寺蔵、重要文化財。1巻から3巻は、正中年間頃の鎌倉時代末に、『春日権現験記絵』の作者・高階隆兼率いる高階派の工房で描かれたと見られる。しかし、紆余曲折を経て全7巻が完成したのは、500年近くたった1805年頃である(後述)。石山寺の歴史や信仰だけでなく、当時の貴族や庶民の生活を窺える点でも貴重な史料であり、教科書などの図版としてもしばしば用いられる。.
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石井進 (歴史学者)
石井 進(いしい すすむ、1931年7月2日 - 2001年10月24日)は、日本の歴史学者。東京大学名誉教授。専門は日本中世史。文学博士(東京大学、1964年)。正四位勲三等旭日中綬章。.
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石仏
石仏(せきぶつ)とは、石に彫られた仏像である。日本ではかつて神仏習合が定着し、仏以外も篤く信仰する人が多かったため、道祖神などの石の神像も多く建てられた。その規模は寺院や神社の境内、路傍などで見られる小さな「野仏」から、臼杵磨崖仏、インドのアジャンター石窟、エローラ石窟、中国の雲岡石窟、龍門石窟などに代表されるような巨大な岩盤に彫られた磨崖仏まで多様である。以下は日本の石仏について記述する。 大日如来像(臼杵磨崖仏).
石英
水晶砂 石英(せきえい、、、クォーツ、クオーツ)は、二酸化ケイ素 (SiO₂) が結晶してできた鉱物。六角柱状のきれいな自形結晶をなすことが多い。中でも特に無色透明なものを水晶(すいしょう、、、ロッククリスタル)と呼び、古くは玻璃(はり)と呼ばれて珍重された。 石英を成分とする砂は珪砂(けいしゃ・けいさ、、)と呼ばれ、石英を主体とした珪化物からなる鉱石は珪石と呼ぶ。.
石清水八幡宮
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、京都府八幡市にある神社。旧称は「男山八幡宮」。二十二社(上七社)の1つで、伊勢神宮(三重県伊勢市)とともに二所宗廟の1つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 宇佐神宮(大分県宇佐市)・筥崎宮(福岡市東区)または鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)とともに日本三大八幡宮の1つ。また宮中の四方拝で遥拝される神社の1つである。本殿を含む建造物10棟が国宝に指定されている。.
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玄奘三蔵
奘(げんじょう、602年 - 664年3月7日)は、唐代の中国の訳経僧。玄奘は戒名であり、俗名は。諡は大遍覚『全唐文』「s:zh:大唐三藏大遍覺法師塔銘(並序)」で、尊称は法師、三蔵など。鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。 629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなった。.
玄恵
恵(げんえ・げんね、1269ー1350 文永6年- 正平5年/観応元年3月2日(1350年4月9日))は、南北朝時代の天台宗の僧・儒学者。号は独清軒・健叟。玄慧とも。虎関師錬の弟とも言われる。玄恵法印。 天台教学を学び法印大僧都に就任したが、一方で儒学や漢詩文にも通じていた。「太平記」によれば倒幕の密議の場で書を講じ、後醍醐天皇や公卿に宋学や古典を講じたとある。また、建武の新政が崩壊した後には、足利氏に用いられ「建武式目」の起草に関与したともされるが、いずれも不明である。 また、寺子屋で習字や読本として使用された『庭訓往来』の作者という説が有力である。また、『源平盛衰記』の編者の一人とも言われている。玄慧は等持院で足利直義の前で、『太平記』を朗読したといわれる。『太平記』27巻には玄慧の死である「玄慧法師末期事」が記されているが、『太平記』40巻本のうち巻初の1巻から10巻までは玄慧の作であり、11巻から12巻も玄慧が拘わりをもった作ではないかと言われている。(『太平記と仏教』古田紹欽) 男鹿半島の先端の漁港である男鹿市北浦入道崎(畠崎)には、この地が玄慧法師の出身地であるとする伝承が残されていたことが菅江真澄によって記録されている。.
玉眼
玉眼(ぎょくがん)は、仏像の目をより本物らしくみせるために水晶の板をはめ込む技法。制作年代の判明する最古例は仁平元年(1151年)作の奈良長岳寺阿弥陀三尊像である。鎌倉時代に一般化し、後の多くの仏像に用いられている。.
玉葉
『玉葉』(ぎょくよう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて執筆された、日本の公家九条兼実の日記。.
玉葉和歌集
『玉葉和歌集』(ぎょくようわかしゅう)は、鎌倉時代後期の勅撰和歌集である。和歌数約2800首と勅撰和歌集中最大であり、中世和歌に新風を吹き込んだ京極派和歌を中核とした和歌集として知られる。.
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王朝国家
王朝国家(おうちょうこっか)は、日本が律令国家体制から中世国家体制へ移行する過渡期の国家体制を表す歴史概念。王朝国家体制とも。10世紀初頭に成立し、11世紀中期ないし12世紀後期までの期間に存続したとされる。 律令国家体制は、中央集権的な政治機構に立脚し、個別人身支配を人民支配・租税収取の原則としていたが、それらを実際に支えていたのは現地で人民支配・租税収取にあたる地方行政であった。9世紀後期に至って律令制的な人民支配・租税収取に限界が生じたため、10世紀初頭より、地方政治への大幅な統治委任や個別人身支配から土地課税原則への方針転換が進められ、こうして新たに構築された統治体制が王朝国家体制であるとされている。 11世紀中期から12世紀・13世紀初頭にかけて、荘園公領制の成立や院政・武家政治の登場などに対応した中世国家体制が漸進的に構築されていったため、この時期に王朝国家体制は終期を迎えた。ただし、王朝国家の終期をめぐっては複数の説が提示されている。 王朝の語は、戦前期より、鎌倉時代以降を武家時代と称したのに対し奈良時代・平安時代を王朝時代と称したことに由来する。戦後、日本史研究の進展に伴い、律令支配を原則としていた奈良期-平安前期と、律令を必ずしも支配原則としなくなった平安中期・後期とを別個の時代ととらえる考えが主流を占めていった。それに伴い、前者の時代区分を律令時代、前者の国家体制を律令国家と称したのに対し、王朝時代は後者の時代区分として認識され、同様に後者の国家体制を指して王朝国家という語が使用されるようになった。.
火灯窓
火灯窓・花頭窓(かとうまど)は、おもに日本の、寺社建築・城郭建築・住宅建築などに見られる、上枠を火炎形(火灯曲線)または、花形(花頭曲線)に造った特殊な窓である。ほかに、華頭窓、架灯窓、瓦灯窓などと表記する。また、石山寺の「源氏の間」に見られることより通称「源氏窓」ともいう近藤豊著『古建築の細部意匠』大河出版 1972年。.
灰釉陶器
釉陶器(かいゆうとうき)は、日本の平安時代に生産された、植物灰を使った施釉陶器。緑釉陶器と共に、人工的に施釉された陶器として国内最初期のものに位置づけられている。.
獅子
獅子(しし).
獅子舞
街道を行く獅子舞 歌川国貞画。江戸時代 獅子舞(ししまい)とは、伝統芸能の一つで、祭囃子にあわせて獅子が舞い踊るものである。 16世紀初頭、伊勢国(三重県)で飢饉や疫病除けに獅子頭を作り、正月に獅子舞を舞ったのが発祥と言われている。その後、17世紀に伊勢より江戸へ上り、悪魔を祓い、世を祝う縁起ものとして江戸に定着。祝い事や祭礼で獅子舞が行われるようになった。 獅子舞が日本の各地に急速に広まったのは、室町時代から江戸時代初期に伊勢大神楽の伊勢派(現代の伊勢大神楽講社)や熱田派(現代の江戸大神楽、水戸大神楽)が獅子舞を舞いながら全国を業脚し、悪魔祓いをしたのがきっかけであると言われている。 また本項では、中国の獅子舞(舞獅)、いわゆるライオンダンスについてもあわせて解説する。.
現世
世(げんせ、げんせい、うつしよ)とは、現在の世のこと広辞苑第五版デジタル大辞泉。古くは「げんぜ」とも読む。.
琵琶
琵琶(びわ、, 特に日本のものは )は、東アジアの有棹(リュート属)弦楽器の一つ。弓を使わず、もっぱら弦をはじいて音を出す撥弦楽器である。古代において四弦系(曲頚琵琶)と五弦系(直頚琵琶)があり、後者は伝承が廃絶し使われなくなったが、前者は後に中国及び日本においていくつもの種類が生じて発展し、多くは現代も演奏されている。ヴェトナムにはおそらく明代に伝播した四弦十数柱のものが伝承され、ダン・ティ・バと呼ばれる。なお、広義には阮咸(げんかん)や月琴などのリュート属弦楽器も琵琶に含めることもある。 四弦系(曲頚)琵琶は、西アジアのウード、ヨーロッパのリュートと共通の起源を持ち、形もよく似ている。すなわち卵を縦に半分に割ったような形の共鳴胴に棹を付け、糸倉(ヘッド)がほぼ直角に後ろに曲がった形である。五弦系(直頚)琵琶はインド起源とされ、糸倉は曲がらず真っすぐに伸びている。正倉院に唯一の現物である「螺鈿紫檀五絃琵琶」(らでんしたんごげんのびわ、図参照)が保存されている。.
琵琶法師
琵琶法師(びわほうし)は平安時代から見られた、琵琶を街中で弾く盲目の僧である。琵琶を弾くことを職業とした盲目僧の芸人で、平安時代中期におこった吉川英史は、琵琶法師をアジア大陸から渡来した人びとが起源であるとしている。吉川(1990)p.42。.
砂金
歴舟川の砂金 砂金(さきん・沙金)とは、砂状に細粒化した自然金のこと。山腹に露出した金鉱脈が雨風などの流水で洗われ下流の川岸の砂礫の間に沈殿する。大がかりな選鉱施設が不要で採取方法が簡単であることから、古くから個人単位での採取が行われてきた。現在では、砂金取りを体験できる施設が各地で営業しているほか、一部の河川では今でも実際に砂金を採取することが可能である。また、アマゾン川流域などではアマルガム法による採取が行われており、河川の深刻な水銀汚染を引き起こしている。.
磁器
磁器(じき、Porcelain)とは、高温で焼成されて吸水性がなく、叩いた時に金属音を発する陶磁器を一般に指す。しかし西洋などでは陶器と区別されないことが多く、両者の間には必ずしも厳密な境界が存在するわけではない。素地が白くて透光性があり、機械的強度が高いという特徴がある。また、焼成温度の高い硬質磁器と、比較的低温で焼成される軟質磁器に分けられる。 Porcelainの語源は『東方見聞録』にある。マルコポーロが磁器を見た際に、白地で硬い殻をもつポルセーラ貝に似ているということでポルセーラと表記したことによる。.
磨崖仏
臼杵磨崖仏(古園石仏群大日如来像) 磨崖仏(まがいぶつ)は、そそり立つ岩壁や岩壁を龕状に彫った内側に刻まれるなど、自然の岩壁や露岩、あるいは転石に造立された仏像を指す。切り出された石を素材に造立された石仏(独立石仏)は移動することが可能であるが、磨崖仏は自然の岩壁などに造立されているため移動することができない。.
礼
(れい)とは、さまざまな行事のなかで規定されている動作や言行、服装や道具などの総称。春秋戦国時代、儒家によって観念的な意味が付与され、人間関係を円滑にすすめ社会秩序(儒家にとっては身分制階級秩序)を維持するための道徳的な規範をも意味するようになった。.
社会
会(しゃかい)は、人間と人間のあらゆる関係を指す。 社会の範囲は非常に幅広く、単一の組織や結社などの部分社会から国民を包括する全体社会までさまざまである。社会の複雑で多様な行為や構造を研究する社会科学では人口、政治、経済、軍事、文化、技術、思想などの観点から社会を観察する。.
社会事業
会事業(しゃかいじぎょう)は、社会貢献をする活動、事業の総称。民間等の手で宗教や道徳動機に基づき孤児や病人貧民などの社会的弱者救済のために行われるフィランソロピー・慈善事業のほか、行政や団体による福祉事業・救済事業などがあり、日本の社会福祉法では、社会福祉事業が定められている。今日の福祉という言葉が普及するまでは、社会政策や社会事業などの用語が使われていたことが知られている。 英語では:en:Social workとあらわされ、アメリカの:en:White House Social Servicesはホワイトハウス社会事業室、:en:White House Social Secretaryは、ホワイトハウス社会事業担当官 などと訳されるが、日本ではカタカナでソーシャルワークとあらわすのは社会福祉援助技術と訳されて、ソーシャルワークに従事する者をソーシャルワーカーとしている。社会事業を行う社会事業家はフィランソロピスト・篤志家と呼ばれる。 社会事業を歴史として研究する社会事業史という分野もあり、研究団体として社会事業史学会(日本学術会議協力学術研究団体)がある。 日本には、社会福祉事業法の前身に社会事業法を制定しており、これにより療養所などが多く設立されている。診療所として社会事業の一施設として開設された病院も多く、現在でも内部組織名称として医療社会事業係、医療社会事業部などがあり、医療に関連した事業を医療社会事業とも呼ばれる。少年審理手続 (スコットランド)の制度は、もともとは同国での1968年社会事業法 (スコットランド)によって導入されている。.
祟り
祟り(たたり)とは、神仏や霊魂などの超自然的存在が人間に災いを与えること、また、その時に働く力そのものをいう。人間社会の法則や論理では制御不能な出来事が起こった際に、それを強大な霊力の発現であると考える解釈・説明。 類似の概念として呪(のろ)いがある。祟りは神仏・妖怪による懲罰など、災いの発生が何らかの形で予見できたか、あるいは発生後に「起こっても仕方がない」と考えうる場合にいう(「無理が祟って」などの表現もこの範疇である)。これに対し呪いは、何らかの主体による「呪う」行為によって成立するものであり、発生を予見できるとは限らない。何者かに「呪われ」た結果であり、かつそうなることが予見できたというケースはあり得るので、両概念の意味する範囲は一部重なるといえる。.
神埼荘
埼荘(かんざきのしょう)は、平安時代~室町時代にかけて肥前国にあった荘園。神崎荘とも。皇室領。.
神奈川県
奈川県(かながわけん)は、日本の県の一つ。関東地方の南西端、東京都の南に位置する。県庁所在地は横浜市。県名は東海道筋に古くから栄えた宿場町神奈川宿(現・横浜市神奈川区)、および幕末に戸部町(現・横浜市西区紅葉ヶ丘)に置かれた神奈川奉行所に由来する。これら「神奈川」の由来は、京急仲木戸駅近くに流れていた長さ300メートル (m) ほどの小川の名前からで、現在は道路になっている。 都道府県別の人口は東京都に次ぐ第2位、人口密度は東京都、大阪府に次ぐ第3位である。県内総生産も東京都、大阪府、愛知県に次ぐ第4位となっている。県内の政令指定都市数は3つと日本最多で、面積は第43位の規模である(平成19年度面積)、国土地理院。。.
神官
官(しんかん)とは、国家の官吏として、何らかの神に仕える、または神を祀る施設に奉職する者のことである。現在、日本には神官は存在しない。 日本の神道に関しては、古文献に神職(神社の祭祀や事務に従事する者)を指す語として用いられる例が散見され、現在も日常語では神職の通称として用いられている。明治時代初期に神祇官が再興された際、全ての神職が官吏(神職=神官)になったが、制度上の問題から伊勢神宮・官国幣社の神職に限定され、1894年(明治27年)以降は伊勢神宮の神職のみが官職としての神官とされた。太平洋戦争(大東亜戦争)敗戦の後、GHQによって出された神道指令によって、制度上の神官は廃止された。 また、古代エジプト、古代ギリシア、古代ローマなどで神殿に奉職していた者(主として男性)のことも神官と呼ばれる。.
神人
人(じにん、じんにん / しんじん、かみびと / かみんちゅ)とは日本(琉球を含む)の神職である。読みにより意味が異なる。; じにん、じんにん; しんじん、かみびと; かみんちゅ.
神仏習合
仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が混淆し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。明治維新に伴う神仏判然令以前の日本は、1000年以上「神仏習合」の時代が続いた。.
神国
国(しんこく)とは、「神の国」を意味する語で、日本では「神である天皇が治める国」、「神明に加護された国」あるいは「神々の宿る国」という意味合いの語である。神州(しんしゅう)ともいう。.
神社
出雲大社(神代創建と言われる、島根県出雲市) 八坂神社(飛鳥時代創建)(京都府京都市東山区) 蒙疆神社(昭和時代創建、張家口。写真は1952年のもので、当時はもう廃社された) 神社(じんじゃ・かむやしろ)とは、日本固有の宗教である神道の信仰に基づく祭祀施設。産土神、天神地祇、皇室や氏族の祖神、偉人や義士などの霊などが神として祀られる。文部科学省の資料では、日本全国に約8万5千の神社がある。登録されていない数万の小神社を含めると、日本各地には10万社を超える神社が存在している。また、近畿地方には生国魂神社など創建が古い神社が多く存在する。.
神照寺
照寺(しんしょうじ).
神道
道(しんとう)は、日本の宗教。教典や具体的な教えはなく、開祖もおらず、神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとずく多神教。自然と神とは一体として認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。 天照大御神の孫であるニニギノミコトが降臨した高千穂河原 樹齢約3000年の武雄神社の御神木.
神託
デルポイに残るアポロンの神殿の遺跡。ここでデルポイの神託が行われた。 神託(しんたく、)とは、神の意を伺う事。また、その時伝えられた言葉。 道具により神の意を推し測る占いに近いものと、トランス状態になったシャーマンの口から伝えられるものとに分けられるが、何かを媒介にする点では同じである。.
神護寺
護寺(じんごじ)は、京都市右京区高雄にある高野山真言宗遺迹(ゆいせき)本山の寺院で、山号を高雄山と号する。本尊は薬師如来、開基は和気清麻呂である。.
神護寺三像
護寺三像(じんごじさんぞう)は、京都神護寺が所蔵する三幅の肖像画。「絹本著色伝源頼朝像、絹本著色伝平重盛像、絹本著色伝藤原光能像」の名称で1951年(昭和26年)に国宝に指定された。.
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神輿
日吉大社の神輿 敏馬神社の神輿 神輿、御輿(みこし、しんよ)は、通常、神道の祭の際に、普段は神社にいる神霊が氏子町内、御旅所などへ渡御するに当たって一時的に鎮まるとされる輿である。輿であるから通常は担ぎ上げて移動するものを指して言うが、それを台車(御所車、牛車)に乗せて曳くものなど別形態のものも指すことがある。 祭りによっては、御輿の巡行に山車(山)、鉾(ほこ)、だんじり、などの屋台が随行することもある。 「御輿」は「輿」に「御」を付けたものであるが、さらに「御」をつけて「おみこし」と呼ばれる場合がある。神が乗る輿であるので「御神輿」とも書かれる。 神社の神輿を一般に「本社神輿」(神社神輿・宮神輿)と言い、神社に本社神輿が1基のみ存在する神社もあれば、三社祭で有名な浅草神社のように1社で3基の神社神輿を持つ神社もある。氏子町会が神輿を持っている場合はこれを「町会神輿」と呼び、この中で青壮年部が担ぐものを「大人神輿」、女性が担ぐ輿を「女神輿」子供は「子供神輿」と呼んでいる。 特に胴が箱型で内部が空洞の物を鳳輦(ほうれん)と呼び、実際に人間(主に天皇)や大きめの神器・依代が乗るものとして造られたのが起源とされるため小型の物は存在しない。神輿と鳳輦の定義で議論になるが、文字通りの意味を定義と捉えた場合、鳳凰(ほうおう)を付けた神輿全てが鳳輦(ほうれん)になってしまい、逆に鳳凰を冠してない鳳輦も存在するため、「皇族などの貴人が乗る輿」と定義としている書籍が多い 。 これに比べて神輿は諸説あるが、鳳輦から発展し、神霊が乗ることに特化したものであるという解釈ができ、後述のように成人男性が1人で持てそうな小型の物から、中に入れそうな大型のものまである。 神輿と鳳輦を合わせて「輦輿」(れんよ)と呼ぶが、定義もさることながら、外見では判断しにくいため(特に垂幕や瓔珞が付いている場合)、双方とも「神輿」と総称されているのが現状である。.
神楽
巫女神楽 神楽(かぐら)は、日本の神道の神事において神に奉納するため奏される歌舞。.
神武天皇
武天皇(じんむてんのう、庚午年1月1日 - 神武天皇76年3月11日『歴代天皇・年号事典』 吉川弘文館、2003年、p.
神木
木(しんぼく)とは、古神道における神籬(ひもろぎ)としての木や森をさし、神体のこと。また依り代・神域・結界の意味も同時に内包する木々。御神木とも称される。 一般的に神社神道の神社、神宮の境内にある神体としての木や神聖視される木、その周りを囲む鎮守の森や、伐採をしないとされる木を指す。 この他、神社の所有地、民間の所有地にあって民間伝承などの特別な謂われのある木を指す。神社の造営に当たってその木材となる植林または自生する特別に伐採された木を指す場合もある。.
祭
祭(まつり)とは、感謝や祈り、慰霊のために神仏および祖先をまつる行為(儀式)である。供物そのほかが捧げられる。 祭祀(さいし)、祭礼(さいれい)、祭儀(さいぎ)。また、まつりの漢字の表記(祀り・祭り・奉り・政りなど)によって、用途や意味合いが少し異なってくる(詳細は後述)。.
祈り
りを捧げるマグダラのマリア (19世紀、アリ・シェフェールによる) 祈り(いのり)とは、神などの人間を超える神格化されたものに対して、何かの実現を願うことである。祈祷(きとう)、祈願(きがん)ともいう。儀式を通して行う場合は礼拝(れいはい)ともいう。.
祇園精舎
祇園精舎(ぎおんしょうじゃ Jetavana-vihāra、正式名:祇樹給孤独園精舎、ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ、梵語: jetavane ’nāthapiṇḍadasya-ārāme)は、インドのコーサラ国首都シュラーヴァスティー(舎衛城)、現ウッタル・プラデーシュ州シュラーヴァスティー県にあった寺院である。釈迦が説法を行った場所であり、天竺五精舎(釈迦在世にあった5つの寺院)の1つである。.
禁秘抄
『禁秘抄』(きんぴしょう)は、第84代順徳天皇自身の手による有職故実の解説書である。現存するのは、上下二巻の体裁をとっているが本来三部構成であることから三巻であったとされる。成立は1221年(承久3年)である。『禁中抄』(きんちゅうしょう)・『建暦御記』(けんりゃくぎょき)などの別称もある。.
福原
福原、福原, 福厡(ふくはら);地名・地.
福岡一文字
福岡一文字(ふくおかいちもんじ)は、鎌倉時代の初期に興った備前国の日本刀刀工の一派。.
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禅
禅(ぜん)は、大乗仏教の一派である禅宗(ぜんしゅう)の略、もしくは、サンスクリット語の dhyāna (ディヤーナ)の音写、禅那(ぜんな)の略である『広辞苑』「禅」。また坐禅(座禅)の略としての意もある。本項では宗派についての禅宗について述べる。.
禅宗様
功山寺仏殿(山口県、国宝) 禅宗様(ぜんしゅうよう)は、日本の伝統的な寺院建築の様式の一つ。唐様とも言う。 鎌倉時代初期から禅宗寺院で取り入れられ始め、武士の帰依を受けたことで13世紀後半から盛んになった様式で、当時の中国建築の直写が目指された。従来の寺院建築様式である和様、また鎌倉時代初期にもたらされた大仏様に対する言葉。大仏様とは共通する部分も多く、あわせて鎌倉新様式または宋様式と総称される。.
秩父地方
秩父地方(ちちぶちほう)とは、秩父山地に囲まれた埼玉県の地方である。同県の最西部に位置し、概ね秩父市と秩父郡の地域である。.
称名寺
名寺、正字: 稱名寺(しょうみょうじ)は仏教の寺院で各地に存在する。.
称名寺 (横浜市)
名寺 称名寺(しょうみょうじ)は、神奈川県横浜市金沢区金沢町にある真言律宗別格本山の寺院。山号は金沢山(きんたくさん)。本尊は弥勒菩薩。新四国東国八十八箇所霊場七十五番。.
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稚児
児(ちご)には、概ね、以下の意味がある。.
種子 (密教)
子(しゅじ、बीजाक्षर )は密教において、仏尊を象徴する一音節の呪文(真言)。チベット密教ではサポン(蔵: )と訳される。種子真言(しゅじしんごん)ともいう。 梵字で表記したものを、日本密教では特に種子字(しゅじじ)と言い、また種字(しゅじ)とも略称し、一般にはこの「種字」という表記が多用される。これは通常一文字で表記されるが、極めて稀に閉音節の物があり、この場合は二文字で表記される。 種子の例を挙げると、वं()は金剛界大日如来、ह्रीः()は阿弥陀如来、स()は聖観音、हां()は不動明王、सु()は弁才天を象徴するものである。種子は梵字の神秘的解釈(悉曇五十字門)から作られるほか、その仏尊の真言から一文字取ったり、仏尊の梵名の頭文字を取って作ることも多い。 これら種子は、密教の修法において本尊となる仏を想起するためのシンボルとなるので、これを植物の種に譬えて種子という。 また護符や曼荼羅などに、仏尊の絵姿の代わりに種子を書くことも多い。 これには、絵姿を描くより梵字で済ませた方が手間がかからないという実用的な意味もある。.
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穢れ
れ(けがれ)とは、忌まわしく思われる不浄な状態。死・疫病・月経などによって生じ、共同体に異常をもたらすと信じられ避けられる。.
穴八幡宮
八幡宮(あなはちまんぐう)は、東京都新宿区西早稲田二丁目の市街地に鎮座している神社。蟲封じのほか、商売繁盛や出世、開運に利益があるとされている。旧称は高田八幡宮。.
空也
也(くうや)は、平安時代中期の僧。阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人と称される。口称念仏の祖、民間における浄土教の先駆者と評価される。空也流の念仏勧進聖は鎌倉仏教の浄土信仰を醸成したとされる。 俗に天台宗空也派と称する一派において祖と仰がれるが、空也自身は複数宗派と関わりを持つ超宗派的立場を保ち、没後も空也の法統を直接伝える宗派は組織されなかった。よって、空也を開山とする寺院は天台宗に限らず、在世中の活動拠点であった六波羅蜜寺は現在真言宗智山派に属する(空也の没後中興した中信以降、桃山時代までは天台宗であった)。 踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれるが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したという確証はない。 門弟は、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に多大な影響を与えた。 .
空海
海(くうかい、宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日(835年4月22日))は、平安時代初期の僧。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号(921年、醍醐天皇による)で知られる真言宗の開祖である。俗名(幼名)は佐伯 眞魚(さえき の まお)。日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。.
竹崎季長
竹崎 季長(たけさき/たけざき すえなが)は、鎌倉時代中期の武士。鎌倉幕府御家人。元寇における自身の戦いを描かせた『蒙古襲来絵詞』で知られる。.
竺仙梵僊
仙梵僊(じくせん ぼんせん、至元29年11月15日(1292年12月24日)- 貞和4年/正平3年7月16日(1348年8月11日))は、鎌倉時代末期に中国の元から来日した臨済宗(楊岐派)の高僧。俗姓は徐氏。梵僊が法諱。竺仙は字。号は来来禅子。出身は明州。 古林清茂の法を継いだ。1329年(元徳元年)6月九州豊後の守護大名大友貞宗の要請を受け、明極楚俊に従って日本へ渡来した。 1330年(元徳2年)鎌倉にくだり足利尊氏・直義の帰依を受けた。 その後浄妙寺・浄智寺を経て、京都南禅寺・鎌倉建長寺の住持となった。学識は一山一寧の次位とされ、各寺において多くの弟子を養成した。公武の帰依を受け、五山文学発展の基礎を築いた。 浄智寺の山内に塔頭である楞伽院を建立したことでも知られる。.
竜泉市
泉市(りゅうせん-し)は中華人民共和国浙江省麗水市に位置する県級市。陶器・シイタケが特産。.
立正安国論
『立正安国論』(巻頭部分、日蓮撰・筆、法華経寺蔵、国宝) 『立正安国論』(りっしょうあんこくろん)は日蓮が執筆し、文応元年7月16日(ユリウス暦1260年8月24日、グレゴリオ暦1260年8月31日)に時の最高権力者にして先の執権(得宗)である北条時頼(鎌倉幕府第5代執権)に提出した文書。.
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笠置寺
置寺(かさぎでら)は、京都府相楽郡笠置町にある真言宗智山派の仏教寺院。山号は鹿鷺山(しかさぎさん)。本尊は弥勒仏。開基は大友皇子または天武天皇と伝える。歴史的に南都(奈良)の東大寺や興福寺などと関係が深く、貞慶などの著名な僧が当寺に住したことで知られ、日本仏教史上重要な寺院である。また、境内は鎌倉時代末期、元弘の乱の舞台となったことで知られる。.
笠懸
懸(かさがけ)とは、疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を放ち的を射る、日本の伝統的な騎射の技術・稽古・儀式・様式のこと。流鏑馬と比較して笠懸はより実戦的で標的も多彩であるため技術的な難易度が高いが、格式としては流鏑馬より略式となり、余興的意味合いが強い。流鏑馬、犬追物と並んで騎射三物と称された。現在は笠掛とも表記する。群馬県新田郡笠懸(かさかけ)町(現みどり市)の名は、源頼朝がこの地で笠懸を行ったことに由来するという。.
箱根権現
箱根権現(はこねごんげん)は、箱根山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、文殊菩薩・弥勒菩薩・観世音菩薩を本地仏とする。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、箱根権現社・箱根山東福寺で祀られた。箱根大権現、箱根三所権現とも呼ばれた。.
米
米(こめ、rice)は、稲の果実である籾から外皮を取り去った粒状の穀物である。穀物の一種として米穀(べいこく)とも呼ぶ。東アジア・東南アジア・南アジア以外では一般的に主食として特別視することが希薄であり、日本語でいう「米」「稲」「飯」といった、収穫前・収穫後・調理前・調理後などによる区別がない言語が多数ある。例えば英語圏ではすべてriceという同一の単語で扱われる。.
粟田口吉光
粟田口 吉光(あわたぐち よしみつ、13世紀頃)は鎌倉時代中期の刀鍛冶。正宗と並ぶ名工で、特に短刀作りの名手として知られる。.
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粉河寺
粉河寺(こかわでら)は、和歌山県紀の川市粉河にある天台系の寺院。西国三十三所第三番札所。山号は風猛山(ふうもうざん、かざらぎさん)。宗派は天台宗系の粉河観音宗総本山。 本尊は、千手千眼観音菩薩。伝承によれば創建は宝亀元年(770年)、大伴孔子古(おおとものくじこ)によるとされる。.
粉河寺縁起絵巻
一段、猟師孔子古の自宅を訪れた童(右端) 第二段、孔子古は千手観音像出現の奇瑞を家族に伝える 第二段、千手観音を拝する老若男女 第三段、病に苦しむ長者の娘のために加持を行う童行者(左端) 第四段、長者夫妻と娘は童行者に病気平癒のお礼をしようとするが、童行者は娘の袴と提鞘だけを受け取る。 第五段、粉河を渡り、千手観音の庵を探す長者一行 第五段、庵の前で千手観音にひれ伏す長者一行、観音の手には娘の紅の袴がある 粉河寺縁起絵巻(こかわでら えんぎ えまき)は、和歌山県にある粉河寺の縁起を描いた絵巻物である。紙本著色、1巻、縦30.8cm、横1984.2cm。恐らく天正年間、豊臣秀吉の根来寺焼き討ちにより罹災し、巻首部分と、全巻にわたる上下に甚だしい焼損が見られる。 作者不詳で、成立は12世紀後半頃と推定されている。絵巻物の代表的作品の一つに数えられ、国宝に指定されている。現在の所有者は粉河寺であるが、京都国立博物館に寄託されている。.
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紫式部日記
『紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)は、紫式部によって記された日記とされる。藤原道長の要請で宮中に上がった紫式部が、1008年(寛弘5年)秋から1010年(寛弘7年)正月まで、宮中の様子を中心に書いた日記と手紙からなる。 写本は宮内庁書陵部蔵の黒川本が最もよいとされているが一部記載については他の写本がすぐれているとも。写本の表紙の表題は『紫日記』とあり、内容にも紫式部の名の記載はなく、いつから『紫式部日記』とされたかは不明。 全2巻であり1巻は記録的内容、2巻は手紙と記録的内容である。『源氏物語』の作者が紫式部であるという通説は、伝説とこの『紫日記』にでてくる記述に基づいている。 鎌倉時代初期の13世紀前半ころに、紫式部日記のほぼ全文を絵画化した「紫式部日記絵巻」が制作された。.
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紫式部日記絵巻
紫式部日記絵巻(むらさきしきぶにっきえまき)は、紫式部によって記された『紫式部日記』を元に制作された絵巻物。「紫式部日記絵詞」( - えことば)ともいう。.
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紀伊国
紀伊国(きいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.
紀行
紀行(きこう)は、旅行の行程をたどるように、体験した内容を記した文。紀行文・旅行記・道中記ともいう。.
続千載和歌集
『続千載和歌集』(しょくせんざいわかしゅう)は、文保2年(1318年)、後宇多法皇の命によって編纂された15番目の勅撰和歌集。20巻。二条為世撰。主な歌人は、二条為氏、西園寺実兼、藤原為家、藤原定家など。歌数はおよそ2100首。 Category:鎌倉時代の歌集 Category:14世紀の書籍 Category:14世紀の詩.
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続古今和歌集
『続古今和歌集』(しょくこきんわかしゅう)は鎌倉時代の勅撰集で、二十一代集の第十一番目。春(上・下)、夏、秋(上・下)、冬、神祇、釈教、離別、羇旅、恋(五巻)、哀傷、雑(三巻)、賀の全20巻からなる。総歌数1915首(伝本によって異同がある)。.
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続後撰和歌集
『続後撰和歌集』(しょくごせんわかしゅう)は、後嵯峨上皇の命により宝治二年(1248)七月二十五日、奉勅。建長三年(1251)十月二十七日、奏覧された10番目の勅撰和歌集。撰者は藤原為家。20巻。歌人は藤原定家、藤原俊成、後鳥羽上皇、後嵯峨上皇などでおよそ1400首を納める。 なお、冷泉家時雨亭文庫に、撰者自筆本が伝存しており、昭和59年に重要文化財に指定された。 Category:鎌倉時代の歌集 Category:13世紀の書籍 Category:13世紀の詩.
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続後拾遺和歌集
『続後拾遺和歌集』(しょくごしゅういわかしゅう)は、勅撰和歌集。20巻。二条為藤、二条為定撰。十三代集の8番目。.
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続拾遺和歌集
『続拾遺和歌集』(しょくしゅういわかしゅう)は、建治2年(1276年)、亀山上皇の命によって編纂された12番目の勅撰和歌集。20巻。撰者は二条為氏。歌人は後嵯峨上皇、藤原為家、藤原定家、西園寺実氏、藤原俊成、藤原信実などで、約1500首を収める。序がなく、また武士の歌も収録されているという。 Category:鎌倉時代の歌集 Category:13世紀の書籍 Category:13世紀の詩.
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維摩居士
維摩居士(ゆいまこじ、Skt:Vimala-kīrti、ヴィマラ・キールティ、音写:毘摩羅詰、維摩詰、漢訳:浄名(旧訳)、無垢称(新訳)、生没年未詳)は、古代インドの商人で、釈迦の在家の弟子(居士とは在家の弟子のこと)。 古代インド毘舎離城(ヴァイシャーリー)の富豪で、釈迦の在家弟子となったという。もと前世は妙喜国に在していたが 化生して、その身を在俗に委し、大乗仏教の奥義に達したと伝えられ釈迦の教化を輔(たす)けた。無生忍という境地を得た法身の大居士といわれる。 なお、彼の名前は維摩経を中心に、大般涅槃経などでも「威徳無垢称王」などとして挙げられている。したがって北伝の大乗経典を中心として見られるもので、南伝パーリ語文献には見当たらない。これらのことから彼は架空の人物とも考えられるが、実在説もある。 彼が病気になった際には、釈迦が誰かに見舞いに行くよう勧めたが、舎利弗や目連、大迦葉などの阿羅漢の声聞衆は彼にやり込められた事があるので、誰も行こうとしない。また弥勒などの大乗の菩薩たちも同じような経験があって誰も見舞いに行かなかった。そこで釈迦の弟子である文殊菩薩が代表して、彼の方丈の居室に訪れた。 そのときの問答は有名である。たとえば、文殊が「どうしたら仏道を成ずることができるか」と問うと、維摩は「非道(貪・瞋・痴から発する仏道に背くこと)を行ぜよ」と答えた。彼の真意は「非道を行じながら、それに捉われなければ仏道に通達できる」ということを意味している。 大乗経典、特にこの維摩経では、このような論法が随所に説かれており、後々の禅家などで多く引用された。一休宗純などはその典型的な例であると考えられる。.
維摩経
『維摩経』 (ゆいまきょう、Vimalakīrti-nirdeśa Sūtra 藏:དྲི་མ་མེད་པར་གྲགས་པས་བསྟན་པ་ཞེས་བྱ་བ་མདོ ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ)は、大乗仏教経典の一つ。別名『不可思議解脱経』(ふかしぎげだつきょう)。 サンスクリット原典と、チベット語訳、3種の漢訳が残存する。漢訳は7種あったと伝わるが、支謙訳『維摩詰経』・鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』・玄奘訳『説無垢称経』のみ残存する。一般に用いられるのは鳩摩羅什訳である。 日本でも、仏教伝来間もない頃から広く親しまれ、聖徳太子の三経義疏の一つ『維摩経義疏』を始め、今日まで多数の注釈書が著されている。.
網野善彦
網野 善彦(あみの よしひこ、1928年(昭和3年)1月22日 - 2004年(平成16年)2月27日)は、日本の歴史学者。専攻は中世日本史。.
編年体
編年体(へんねんたい)とは歴史の記述法の一つで、起こった出来事を年代順に記してゆく方法を指す。対して、個人や一つの国に関しての情報をまとめて記述するのを紀伝体という。 日本の六国史のうち『日本書紀』を除くものは国史体とよばれる独特の記述法になっている。これは編年体を基本としつつ、重要人物の死亡記事があるごとに簡単な列伝(薨伝と呼ばれる)を挿入するものであるが、編年体の一種とされる。.
緑青
鎌倉大仏の表面は緑青に覆われている 自由の女神の緑色も緑青による 緑青(ろくしょう)とは、銅が酸化することで生成される青緑色の錆である。銅青(どうせい)や銅銹(どうしゅう)ともいう。銅合金の着色に使用されたり、銅板の表面に皮膜を作り内部の腐食を防ぐ効果や抗菌力がある。.
緑釉陶器
緑釉陶器(りょくゆうとうき)は、日本の平安時代に生産された、鉛釉を使った施釉陶器。灰釉陶器と共に、人工的に施釉された陶器として国内最初期のものに位置づけられている。.
縁語
縁語(えんご)とは、一首の中に意味上関連する語を連想的に2つ以上用いることで歌に情趣を持たせる、和歌の修辞技法のひとつ。 ただし、単なる日常語のイメージからなる連想ではなく、古今和歌集などに掲載される和歌で繰返し連想的に用いられているものでなければ、縁語にはならない。 掛詞と合わせて用いることも多い。.
縁起
縁起(えんぎ、pratītya-samutpāda, プラティーティヤ・サムトパーダ、paṭicca-samuppāda, パティッチャ・サムッパーダ)とは、他との関係が縁となって生起するということ。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す。仏教の根本的教理・基本的教説の1つであり、釈迦の悟りの内容を表明するものとされる。因縁生、縁生、因縁法、此縁性ともいう。 種々の縁起説は、〈煩悩(惑)→行為(業)→苦悩(苦)〉を骨格とするが、無明を根本原因とする12の項目からなる縁起説(十二因縁)が次第に定着した。後世には、縁起の観念を分けて、業感縁起や頼耶縁起などの諸説が立てられた。.
罪
罪(つみ)とは、規範や倫理に反する行為をさす。.
置文
置文(おきぶみ)とは、一族や子孫に対して、現在および将来にわたって遵守すべきことを書き記した中世日本の文書。近世以後の遺言の原型とされる。.
美学
美学(びがく、aesthetics、またæsthetics、estheticsとも、Αισθητική (本文の2. 名称の項、参照)、「感性の学問」)とは美の本質や構造を、その現象としての自然・芸術及びそれらの周辺領域を対象として、経験的かつ形而上学的に探究する哲学の一領域である。森鴎外により「審美学」という訳語が与えられた美学が日本に輸入された際の訳語の確定までの経緯については、浜下昌宏「森鴎外『審美学』の研究(1)ー序説」, "Studies" 45(1), pp.69-78 (神戸女学院大学, 1998年7月) を参照。西周、中江兆民らも各々「善美学」「佳趣論」等の訳語を創出した。なお、明治14年(1881年)初版の井上哲次郎編『哲学字彙』(東洋館)では、美学の訳語として「美妙学」が採用されていた。が、現在では美学と呼称される。.
美濃国
美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.
群書治要
群書治要(ぐんしょちよう)は、中国・唐代初期に、治世のための参考書として編まれた書籍である。太宗の奉勅撰。50巻。.
義太夫節
義太夫節(ぎだゆうぶし)とは、江戸時代前期、大坂の竹本義太夫がはじめた浄瑠璃の一種。略して義太夫(ぎだゆう)ともいう。国の重要無形文化財。.
義湘
義湘(ぎしょう、625年 - 702年)は、新羅の僧で、新羅における華厳宗の祖。海東華厳宗の祖ともいわれる。.
真言宗
右 真言宗(しんごんしゅう)は、空海(弘法大師)によって9世紀(平安時代)初頭に開かれた、大乗仏教の宗派で日本仏教のひとつ。真言陀羅尼宗(しんごんだらにしゅう) - コトバンク/世界大百科事典、曼荼羅宗(まんだらしゅう)、秘密宗(ひみつしゅう)とも称する。 空海が長安に渡り、青龍寺で恵果から学んだ密教を基盤としている。.
猿まわし
洛中洛外図屏風に描かれた猿曳(さるひき)と猿。 猿まわし、猿回し(さるまわし)とは、猿使いの口上や太鼓の音に合わせて猿が踊りや寸劇などを見せる大道芸の一種。猿飼、猿曳、猿舞、野猿まわしなどとも呼ばれている。.
猿投窯
猿投窯(さなげよう)は、愛知県名古屋市東部から豊田市西部、瀬戸市南部から大府市および刈谷市北部の、約20km四方に集中する1000基を越す古窯跡の総称。日本三大古窯の一つ。猿投山窯、猿投山西南麓窯跡(址)群とも呼ばれる。 古墳時代後期から鎌倉時代初期まで、700年余の長きにわたり焼き物の生産を続け、その文化・社会的背景は複雑かつ流動的であり、全体像を一元化することは困難であるが、大きく「古墳後期 - 奈良中期・須恵器の時代」「奈良中期 - 平安中期・灰釉陶器の時代」「平安中・後期 - 鎌倉初期・山茶碗の時代」の三期に分けることができる。.
猿楽
猿楽(さるがく、猿樂)は、平安時代に成立した日本の伝統芸能。能は江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである。.
眉毛
眉毛(まゆげ、英語:eyebrow)とは、目の上部に弓状に生える毛のこと。眉(まゆ)とも呼ばれる。.
結界
結界(けっかい)とは、仏教において、サンガ(saṃgha, 僧伽(そうぎゃ)四人以上の比丘(びく)または比丘尼(びくに)により構成される出家者の集団)がひとつの「現前(げんぜん)サンガ」(sammukhībhūta-saṃgha)理念の上で全世界のあらゆる比丘・比丘尼によって形成される「四方(しほう)サンガ」(cātuddisasaṃgha)に対し、特定の拠点において、四人以上の比丘(または比丘尼)をメンバーとして活動する個々のサンガを指す。の空間領域(sīmā.
結晶片岩
アメリカ合衆国ニューヨーク州産のManhattan Schist。雲母片岩に分類される 緑泥石片岩 結晶片岩(けっしょうへんがん、文部省 『学術用語集 地学編』 日本学術振興会、1984年、ISBN 4-8181-8401-2。())は、変成岩の一種。片岩(へんがん、)ともいう。広域変成作用により地下深部で剪断応力を受けて再結晶したため、雲母のような板状の鉱物や角閃石のような柱状の鉱物が方向性をもって配列し、岩石は片理(へんり、)と呼ばれる、面状構造を持つ。岩石は片理に沿って板状に割れやすい。 鉱物の粒度が大きくなり縞状の構造が顕著になったものを片麻岩という。.
経済
経済(けいざい、οικονομία、oeconomia、economy)とは、社会が生産活動を調整するシステム、あるいはその生産活動を指す。.
絵巻物
源氏物語絵巻(東屋)徳川美術館蔵 平治物語絵巻(三条殿夜討の巻)ボストン美術館蔵 蒙古襲来絵詞 三の丸尚蔵館蔵 鳥獣人物戯画 高山寺蔵(甲巻、兎と蛙の相撲の場面) 絵巻物(えまきもの)は、日本の絵画形式の1つで、横長の紙(または絹)を水平方向につないで長大な画面を作り、情景や物語などを連続して表現したもの。「絵巻」とも言う。絵画とそれを説明する詞書が交互に現われるものが多いが、絵画のみのものもある。 最初の絵巻物は、奈良時代に制作された『絵因果経』であると言われる。これは巻物の下段に経文、上段にそれを絵解きする絵画を配したものである。 平安時代になると、王朝文学の物語、説話などを題材とした絵巻が制作されるようになった。これらは、金銀箔や野毛、砂子を撒き、花鳥などの下絵をあしらった料紙に連綿体で書かれた詞書と、それに対する絵を交互に配する独特の様式を生み出した。 物語絵巻は、『枕草子』『伊勢物語』『源氏物語』『宇治拾遺物語』などを、独特の表現で描写し、特に『源氏物語絵巻』は、濃厚な色彩で貴族の生活を描き、家屋は屋根を省略した吹抜屋台で描かれていて、当時の住居の状況や建具の使用状況などが一望できる。 鎌倉時代には、歌仙絵巻、戦記絵巻、そして寺社縁起や高僧の伝記絵巻などが多く制作された。 『源氏物語絵巻』・『信貴山縁起』・『伴大納言絵巻』・『鳥獣人物戯画』を、日本の四大絵巻物と称される。.
絵画
絵画(かいが)は、物体の形象を平面に描き出したもの広辞苑。 日本語では類語の絵が幅広く用いられ、絵画という語は、特に芸術作品としての絵を指す場合がある。ただし、絵と絵画を区別して用いるとは限らない。また画を後ろにつけて描写の技法や対象を示す用語もある(水墨画、静物画など)。 フランス語の peinture(パンチュール)、英語の painting(ペインティング)、日本語の雅言的表現で絵と呼ぶこともある。 文字などを「書く」ことより早く、絵画を「描く」行動は幼少期から見られる行動である。発達心理学などの分野では、14歳から18歳程度で完成期と呼ばれる時期を迎え、多くの人はその頃から、ほとんど描かなくなる。子どもの絵に関する社会科学的研究は豊富だが、大人の絵に関する同様の研究は少ない。その一方で、多くの人が描かなくなる年齢を過ぎても活動的に絵を描く人々が居る。歴史的に代表的なのは画家であると言えるが、現代ではより多くの業種に見出される傾向である。なお、人間の発達には個人差があり、柔軟な姿勢が必要である。.
病草紙
病草紙(やまいのそうし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期頃に描かれた絵巻物。絵、詞書ともに作者は未詳。当初は巻子本だったが、現在は場面ごとに切り離されている。簡単な説話風詞書に一図の絵を添え構成された、当時の種々の奇病や治療法など風俗を集めたものである。1巻の巻物であった16段と、これとは別に伝来した断簡5段の計21段分が残り、現在は各段ごとに分断され、国宝9段など各地に分蔵。この他、別系統の模本も伝わる。 ※作品名称中に今日(21世紀)では一部不適切な表現があるが、時代背景や作品の歴史的価値を尊重し、詞書中の用語をそのまま用いている。.
瑞泉寺 (鎌倉市)
泉寺(ずいせんじ)は、神奈川県鎌倉市二階堂にある臨済宗円覚寺派の寺院。山号は錦屏山(きんぺいさん)。本尊は釈迦如来で、開基は二階堂道蘊である。鎌倉随一の花の寺、紅葉の名所としても知られている。.
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瓦葺き
葺きの町並み(佐賀県伊万里市 鍋島焼の里) 八幡山城の出土瓦 瓦葺き(かわらぶき)は、陶器製(粘土瓦)や石(石瓦)、セメント(セメント瓦)、金属製(銅瓦など)のものを用いた、全世界で行われている瓦を用いた屋根仕上げ。建材である瓦で屋根を葺いたもの。.
瓷器
瓷器(しき、またはじき)とは奈良・平安時代の史料にみられる、釉薬をかけた陶器(施釉陶器)を表す語。.
生仏
生仏(しょうぶつ)とは、平家琵琶(平曲)の開祖とされる人物のこと。生没年未詳。.
田楽
楽(でんがく)は、平安時代中期に成立した日本の伝統芸能。楽と躍りなどから成る。「田植えの前に豊作を祈る田遊びから発達した」「渡来のものである」などの説があり、その由来には未解明の部分が多い。.
甲州市
州市中心部(旧塩山市)周辺の空中写真。市街地の北西に隣接した単独峰は、塩山の地名の由来となった塩ノ山である。1976年撮影の2枚を合成作成。国土航空写真。 甲州市(こうしゅうし)は、山梨県北東部に位置する市である。.
甲冑
冑(かっちゅう)とは、胴部を守る'''鎧'''('''甲'''、よろい)と、頭部を守る'''兜'''('''冑'''、かぶと)からなる武具。主として刀剣や弓矢を用いた戦闘の際に侍・武士が身につける日本の伝統的な防具である。.
甲斐国
斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
男衾三郎絵詞
男衾三郎絵詞」第二段の笠懸の場面。笠懸は本作と「伊勢新名所絵合」の異本1本にのみしか描かれず貴重。 男衾三郎絵詞(おぶすまさぶろうえことば)は、日本の鎌倉時代に描かれた絵巻物。1巻、東京国立博物館蔵、重要文化財。「男衾三郎絵巻」( - えまき)ともいう。.
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無名草子
無名草子(むみょうぞうし)は鎌倉時代初期の評論。女性の立場から述べる王朝物語で、日本の散文作品に対する文芸評論書としては最古のものである。.
無名抄
『無名抄』(むみょうしょう)は、鴨長明による鎌倉時代の歌論書(和歌に関する理論および評論の書)。正確な成立年は不詳であるが、建暦元年(1211年)10月以降、鴨長明没の1216年までに成立したと考えられている。別名『長明無名抄』『無名密抄』など。約80段からなる。全1巻。6種類以上の諸本が存在するが、その違いは後の人による付加部分の違いに由来する。 歌論としては、幽玄論、題詠論、本歌取りなどの技術論などを記述している。そのほかにも、先人の逸話や同時代の歌人に対する論評など多岐にわたる内容を持ち、随筆風な記述である。後に醒睡笑などに取り入られた逸話を含んでいる。.
無学祖元
無学祖元(むがく そげん、嘉禄2年(1226年) - 弘安9年9月3日(1286年9月22日))は、中国明州慶元府(浙江省寧波市)出身の鎌倉時代の臨済宗の僧。諡は仏光国師・円満常照国師。日本に帰化して無学派(仏光派)の祖となる。字は子元。 建長寺・円覚寺に兼住して日本の臨済宗に影響を与える。その指導法は懇切で、老婆禅と呼ばれ、多くの鎌倉武士の参禅を得た。.
無常
無常(むじょう、anicca, アニッチャ、梵: anitya, アニトヤ)とは、生滅変化してうつりかわり、しばらくも同じ状態に留まらないこと。非常ともいう。 あらゆるもの(有為法)が無常であることを諸行無常といい、三法印の1つに数える。.
無住
無住(むじゅう、1227年1月17日(嘉禄2年12月28日) - 1312年11月9日(正和元年10月10日))は鎌倉時代後期の僧。字は道暁、号は一円。宇都宮頼綱の妻の甥。臨済宗の僧侶と解されることが多いが、当時より「八宗兼学」として知られ、真言宗や律宗の僧侶と位置づける説もある他、天台宗・浄土宗・法相宗にも深く通じていた。 梶原氏の出身と伝えられる。18歳で常陸国法音寺で出家。以後関東や大和国の諸寺で諸宗を学び、また円爾に禅を学んだ。上野国の長楽寺を開き、武蔵国の慈光寺の梵鐘をつくり、1262年(弘長2年)に尾張国長母寺(ちょうぼじ)を開創してそこに住し、80歳の時、寺内桃尾軒に隠居している。和歌即陀羅尼論を提唱し、話芸の祖ともされる。 80の時に「28日の卯の刻に生まれた」と記しており、この年でこの時代の人間として誕生日を覚えていることは稀な例とされる。伝承によっては長母寺ではなく、晩年、たびたび通っていた伊勢国蓮華寺で亡くなったともされる。様々な宗派を学びながらも、どの宗派にも属さなかった理由については、自分の宗派だけが正しいとか貴いものと考えるのは間違いで、庶民は諸神諸仏を信仰していて、棲み分けており、場合や状況によって祀るものが異なり、そうした平和的共存を壊すのは間違った仏教の行き方だと考えていたためとされ、諸宗は平等に釈迦につながるため、どれも間違ってはいないという立場であったとする。また、説法の対象は読み書きのできない層だった。 著書は、『沙石集』『妻鏡』『雑談集(ぞうだんしゅう)』など。『沙石集』は54歳の時に執筆し、数年かけて5巻を完成させたが、死ぬまで手を加え続けた結果、全10巻となり、書いている過程で、他の僧侶に貸したものもあり、どの段階の本が無住の考えた最終的な本かを判断するのは難しいとされる。また無住の経歴については、『雑談集』巻三の終わりに自叙伝が書かれている。 大隅和雄は、無住は鎌倉の生まれで、梶原氏の子孫と考えてよいとの判断をしている。.
無関普門
無関普門(むかんふもん、建暦2年(1212年)- 正応4年12月12日(1292年1月3日))は、鎌倉時代中期の臨済宗の僧。諱は玄悟。房号は普門房。諡号は大明国師。出生は信濃国高井郡。信濃源氏井上氏の一族で、生母が越後平氏の出身であったため、越後国で養育される。.
無著
無著(無着 むじゃく / むぢゃくAsaṅga アサンガ)は、インドの大乗仏教唯識派の学者。生没年は不詳だが、310 - 390年ころの人とされる。.
焔摩天
摩天(えんまてん)または閻摩天・閻魔天は、インド神話のヤーマ(Yama)が仏教に取り入れられ、天部となったものである。運命、死、冥界を司る。密教においては各方位を守護する八方天、十二天の一尊となり、南方焔摩天とも呼ばれる。 ここでは主に、密教の曼荼羅における焔摩天について述べる。.
熊谷市
谷市(くまがやし)は、埼玉県北部にある人口約20万人の市である。.
熊野三山
野三山 熊野那智大社 熊野三山(くまのさんざん)は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つの神社の総称。熊野三山の名前からもわかる通り、仏教的要素が強い。日本全国に約3千社ある熊野神社の総本社である。熊野権現も参照のこと。 2004年7月に、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産として登録された。.
熊野権現
野権現(くまのごんげん、または熊野神〈くまののかみ〉、熊野大神〈くまののおおかみ〉とも)は、熊野三山に祀られる神であり、本地垂迹思想のもとで権現と呼ばれるようになった。熊野神は各地の神社に勧請されており、熊野神を祀る熊野神社・十二所神社は日本全国に約3千社ある。.
熱海市
熱海市(あたみし)は、静岡県の市。静岡県の最東部に位置し、神奈川県と接する。.
畠山記念館
山記念館(はたけやまきねんかん)は、東京都港区白金台2丁目にある美術館。所蔵品は茶道具を中心とした日本・東洋の古美術品であり、国宝6件を含む。実業家畠山一清(号:即翁、1881 - 1971)が自らの収集品を公開するために開館した。運営主体は公益財団法人畠山記念館である。.
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畠山重忠
山 重忠(はたけやま しげただ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。 源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して治承・寿永の乱で活躍。知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられて子とともに討たれ(畠山重忠の乱)た。館は、鎌倉筋替橋の東南。 存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された。.
畜生
生(ちくしょう、tiryañc ティリヤンチュ、tiracchāna )とは、仏教において、鳥・獣・虫・魚などの全ての人間以外の動物のこと。傍生(ぼうしょう)、横生(おうしょう)とも訳される。衆生の生存の状態を五道や六道とするうちで、畜生の世界を指す畜生道は三悪道(三悪趣)の1つ。.
煩悩
煩悩(ぼんのう、、クレーシャ、kilesa、キレーサ、Kleshas)とは、仏教の教義の一つで、身心を乱し悩ませ智慧を妨げる心の働き(汚れ)を言う。同義語として、漏(ろ、、アーシュラヴァ、asava、アーサヴァ)、随眠(ずいめん、, アヌシャヤ、anusaya、アヌサヤ)等、数多くの表現が用いられたりもする。 仏教では、人の苦の原因を自らの煩悩ととらえ、その縁起を把握・克服する解脱・涅槃への道が求められた。部派仏教の時代になると、煩悩の深い分析が行われた。 大乗仏教でもこの分析は続けられ、特に唯識が示した心と煩悩の精緻な探求は大乗仏教を観念論へと導く端緒でもあった。それによりこの時代には、煩悩を否定しないという真正の仏教には無かった発想も生じてきた(如来蔵)。この両者の思想はその後の大乗仏教に深く影響を与えた。 煩悩を要約すれば、自己を中心に据えて思考したときに起きる数々の心の働きである。他者や社会全体を思考の中心に据えれば煩悩は菩提となる。.
牙
牙(きば)は、動物が口に持つ、骨格と同一または近い組織でできた、大型で細長い錐形の器官。口器の一種である。.
狩衣
狩衣(和漢三才図会) 狩衣(かりぎぬ)は、平安時代以降の公家の普段着。もともとは狩の時に着用したのでこの名前がついたが、活動的であることから次第に普段着として定着した。その後、時代を経るに従って公服としての色彩を増し、直垂に継ぐ四位の武家の礼服ともなった。ただし、狩衣姿での参内(御所への出入り)は一切認められなかった。現在では、神職の常装となっている。 狩衣装束の構成は、下着を着て指貫(あるいは差袴)をはき、狩衣を着るだけである。また、立烏帽子をかぶる。 普段着という性質上、狩衣の色目・紋様は全くの自由である。ただし、禁色は避けられた。 なお、白色の無紋狩衣・無紋指貫の形を「浄衣(じょうえ)」といい、専ら神事に用いられた。.
目
(眼、め)は、光を受容する感覚器である。光の情報は眼で受容され、中枢神経系の働きによって視覚が生じる。 ヒトの眼は感覚器系に当たる眼球と附属器解剖学第2版、p.148、第9章 感覚器系 1.視覚器、神経系に当たる視神経と動眼神経からなる解剖学第2版、p.135-146、第8章 神経系 4.末端神経系。眼球は光受容に関連する。角膜、瞳孔、水晶体などの構造は、光学的役割を果たす。網膜において光は神経信号に符号化される。視神経は、網膜からの神経情報を脳へと伝達する。付属器のうち眼瞼や涙器は眼球を保護する。外眼筋は眼球運動に寄与する。多くの動物が眼に相当する器官を持つ。動物の眼には、人間の眼と構造や機能が大きく異なるものがある。 以下では、まず前半でヒトの眼について、後半では動物全体の眼についてそれぞれ記述する。.
直垂
垂 『和漢三才図会』(1702年) thumb 直垂(ひたたれ)は、主に武家社会で用いられた男性用衣服、日本の装束の一つである。 直垂からは「大紋直垂」・「素襖直垂」・鎧下に着る「鎧直垂」・「肩衣」などが時代と共に生じていく。.
直衣
衣(和漢三才図会) 直衣(のうし、なおし)は、平安時代以降の天皇、皇太子、親王、および公家の平常服。 外見上は衣冠とほとんど同じであるが、「直(ただ)の衣」の意味より平常服とされ、色目・紋様も自由であった。成人前の若年者は「童直衣(わらわのうし)」を着用した。.
相模国
模国(さがみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
相撲
隅田川テラスにかかる歌川広重の「相撲の図」の模写 相撲(すもう)は、土俵の上で力士が組合って戦う形を取る日本古来の神事や祭りであり、同時に武芸でもあり武道でもある(「弓取り式」の本来の意味から)。古くから祝儀(懸賞金という表現)を得るための興行として、大相撲が行われている。日本由来の武道・格闘技・スポーツとして国際的にも行われている。.
発心集
『発心集』(ほっしんしゅう)鎌倉初期の仏教説話集。『方丈記』の作者として知られる鴨長明(1155-1216年)晩年の編著。建保四年(1216年)以前の成立。「長明発心集」とも。仏の道を求めた隠遁者の説話集で『閑居友』、『撰集抄』などの説話集のみならず、『太平記』や『徒然草』にまで影響を及ぼし、これぞ説話の本性というべきものを後世に伝えている。 流布本は全八巻・102話であるが、現存しない三巻本が最も原型に近いと考えられ、そのほか五巻62話の異本もある。伝本に古写本は無く、慶安四年片仮名本と寛文十年平仮名本が版本として刊行された流布本であり、神宮文庫本が五巻の近世写本である。 天竺・震旦よりは本朝に重心を置き、発心譚・遁世譚・極楽往生譚・仏教霊験談・高僧伝など、仏教関係の説話を集録。仏伝からの引用が多い。長明自身を含む隠遁者(西行が有名)が登場人物の主体をなす。盛名を良しとせず隠遁の道を選んだ高僧(冒頭の玄賓僧都の話など)をはじめ、心に迷いを生じたため往生し損なった聖、反対に俗世にありながら芸道に打ち込んで無我の境地に辿り着いた人々の生き様をまざまざと描き、編者の感想を加えている。人間の心の葛藤、意識の深層を透視したことで、従来の仏教説話集にはない新鮮さがある。 なお梁瀬一雄など一部の研究者からは、流布本の巻一~六と巻七・八では、背景となる思想などが異なっているとして「流布本の巻七・八は別人による増補ではないか」との指摘がされている。 高尾稔など増補説に否定的な見解を取る研究者も多い。いずれにせよ古写本が現存していない状況のため、論争に決着をつけるのは困難な状況である。.
発掘調査
掘調査(はっくつちょうさ、)とは、.
白川
白川/白河(しらかわ)、白川(はくせん、ペチョン)、白河(はくが).
白川仲資王
白川仲資王(しらかわ・なかすけおう、保元2年(1157年) - 貞応元年(1222年))は平安時代後期から鎌倉時代初期の公卿。官位は正三位兵部卿。神祇伯。本姓は源氏。家系は花山天皇を祖とする花山源氏の嫡流の家柄。人臣でありながら王氏を任ずべき神祇伯を家職としていたため、任伯している間に限り、源姓を離れ王号を名乗る格式を保持していた。子に業資王と資宗王がいる野島寿三郎編『公卿人名大事典』(日外アソシエーツ、1994年) 382頁参照。。.
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白井永二
白井 永二(しらい えいじ、1915年 - 2008年1月1日)は、日本の民俗学者、神職。.
白磁
景徳鎮の白磁 白磁(はくじ)とは、白素地に無色の釉薬をかけた磁器の総称である。 ケイ酸とアルミニウムを主成分とする白色の粘土の素地に、鉄分のない植物灰と高陵石から精製された透明釉薬を掛け、高温の還元炎で焼き上げて作る磁器の一種。 また青白磁(せいはくじ)とは、白磁の一種であるが、とくに釉薬が文様の溝にたまって青みを帯び美しい水色に見えるものをいう。青白磁は宋代の景徳鎮産の梅瓶や香炉、鉢、水差の優品がその典型例で、宮廷や日本では大名クラス以上の人々に珍重された。 なお白磁や青白磁は日本において、色の表現としても使用されている。.
白氏文集
『白氏文集』(はくしもんじゅう、はくしぶんしゅう)は、中国唐の文学者、白居易の詩文集。数次の編集を経て、最終的に75巻本として会昌5年(845年)に完成、現在は71巻本が通行する。最初のものが長慶4年(824年)に成り、『白氏長慶集』と名付けられたため、後世もその名を以て呼ばれる。白居易自身は『文集』とのみ称した。.
白拍子
肉筆画で描写された白拍子姿の静御前(葛飾北斎筆、北斎館蔵、文政3年(1820年)頃) 白拍子(しらびょうし)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種。及びそれを演ずる芸人。 主に男装の遊女や子供が今様や朗詠を歌いながら舞ったものを指すが、男性の白拍子もいた。素拍子(しらびょうし)とも書き、この場合は無伴奏の即興の舞を指す。.
百人一首
人一首のかるた読み札(天智天皇) 百人一首(ひゃくにんいっしゅ、ひゃくにんしゅ)とは、100人の歌人の和歌を、一人一首ずつ選んでつくった秀歌撰(詞華集)。 中でも、藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだとされる小倉百人一首(おぐら-ひゃくにんいっしゅ)は歌がるたとして広く用いられ、通常、百人一首といえば小倉百人一首を指すまでになった。本記事では主に、この小倉百人一首について解説する。.
随筆
随筆(ずいひつ)とは、文学における一形式で、筆者の体験や読書などから得た知識をもとに、それに対する感想・思索・思想をまとめた散文である。随想(ずいそう)、エッセイ、エッセー(essai新村出編『広辞苑』「エッセー」による直接の伝来元, essay)などともいう。「」の原義は「試み」であり、「試論(試みの論文)」という意味を経て文学ジャンルとなった。 ミシェル・ド・モンテーニュの『エセー』(1580年)がこのジャンルの先駆者であり、欧米においては綿密な思索を基にした論文的なスタイルを念頭に置いてこの語を用いることがあるが、日本においては後述する江戸時代後期の日記的随筆のイメージもあって、もうすこし気楽な漫筆・漫文のスタイルを指して用いることがある。.
隠岐国
岐国(おきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.
隠者
者(いんじゃ)とは、一般社会との関係を絶ち(隠遁)、生活する人のこと。特にキリスト教や仏教など多くの宗教の宗教者、または宗教的背景をもった隠者が多数知られる。 キリスト教では、この言葉は宗教的信念、特に旧約聖書(つまり、40年間シンの荒野を放浪して心境が変化したくだり(民数記第13章))に影響された砂漠の神学から隠遁生活を送った人々に使われる。 伝統的にキリスト教では隠遁生活は修道生活の先駆けとみなされている。聖ベネディクトの戒律の1は4種類の修道僧の中に隠者を数えている。カトリック修道会の隠者に加えて、カトリック教会の宗教法(カノン603)では当該管区の司教の指示に従って隠者が奉献生活を送ることを認めている。同じことが米国聖公会を含む多くの聖公会でも認められている。聖公会のカノン法では自分の管区の司教に従い、司教の要求する準備計画に耐える者は生涯独身であることを誓う。彼らは隠者というよりむしろ独居者と言われる。めいめいの隠者が自分の管区の司教よりもむしろ別の司教を選んで付加的な心のよりどころとして、さらに必要ならば仲介人とする。 宗教的な文学でも世俗の文学でもしばしば「隠者」という言葉が人間不信者を含めて孤独な生活を送っているものをゆるく指して使われている。 近代の口語的な用法では、「隠者(hermit)」という言葉は一般社会から離れた生活を送っているものや社会的行事に参加していないものを指して使われる。.
銭貨
銭貨(せんか)は、主に東アジアで流通した硬貨を指す。同音で泉貨とも記述される。多くは円形で中心部に方形の穴が開けられた(円形方孔)有孔貨幣であることが多い。金貨や銀貨といった貴金属製の硬貨の対義語として、卑金属製の硬貨を指すこともあるが、金貨および銀貨のうち円盤状で中央に孔が開いた形状をしているものを含めて銭貨ということもある。多くは銅貨であるが、銅の不足などにより、鉄製のものや錫等との合金とした真鍮製の物が銭貨として発行されたこともある。 銭貨の通貨単位としては、一般に文が用いられた。.
花崗岩
深成岩のQAPF図; Q:石英、A:アルカリ長石、P:斜長石、F:準長石 花崗岩(かこうがん、)とは、火成岩の一種。流紋岩に対応する成分の深成岩である。石材としては御影石(みかげいし)とも呼ばれる。.
花園天皇
花園天皇(はなぞのてんのう、永仁5年7月25日(1297年8月14日) - 正平3年11月11日(1348年12月2日))は鎌倉時代の第95代天皇(在位:延慶元年11月16日(1308年12月28日)- 文保2年2月26日(1318年3月29日))。諱は富仁(とみひと)。 伏見天皇の第四皇子。母は、左大臣洞院実雄の娘、顕親門院・洞院季子。鎌倉時代の二つの皇統のうち持明院統に属する。.
花園天皇宸記
『花園天皇宸記』(はなぞのてんのうしんき)は、花園天皇の日記。現存数は全35巻、宮内庁書陵部蔵。現存部分のほとんどが花園天皇宸筆であり、鎌倉時代後期を研究する上で貴重な一次史料。また、特に正中の変・元弘の変などに関する記事が豊富かつ詳細であるため、後醍醐天皇の活動状況を研究する上での基本史料となっている。.
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芸能
芸能(げいのう)とは、芸術の諸ジャンルのうち人間の身体をもって表現する技法のことである『大百科事典 4』、1202頁。。職業として芸能に携わる者を芸能人と呼ぶ。 また、日本に古くからあった芸術と技能は特に日本伝統芸能を参照。.
隆円
隆円(りゅうえん、天元3年3月4日(980年3月22日) - 長和4年2月4日(1015年2月25日))は平安中期の天台宗延暦寺派の僧侶。小松僧都、または普賢院僧都と呼ばれた。 中関白藤原道隆の息男で、母は高階貴子。同母の兄に内大臣伊周・中納言隆家、姉妹に一条天皇中宮定子・三条天皇東宮女御原子らがいる。兄弟姉妹の仲はよく、一家没落して姉定子が不如意をかこった中で、常に彼女の身辺にあった。長保2年(1000年)12月、定子の葬送に際し、大雪のなかを徒歩で霊柩車に従い、「ふるさとにゆきも帰らで君ともに同じ野辺にてやがて消えなむ」の哀傷歌を残している。.
韻文
韻文(いんぶん)とは、聴覚に一定の定まった形象を感覚させる一定の規則(韻律)に則って書き表された文章。散文の反意語。多く詩において用いられる。 一定のリズムを持ち、暗誦されるのに適しているため、古代から神話や歴史の叙述に用いられてきた。俳句、和歌、漢詩、連歌、連句、四行詩、脚韻詩などの韻文詩なども韻文に含まれる。.
鎮護国家
鎮護国家(ちんごこっか)は、政府が仏教を利用して内政の安定を図ろうとした政策、または、仏教には国家を守護・安定させる力があるとする思想。.
螺鈿
片輪車螺鈿蒔絵手箱、平安時代後期、12世紀。東京国立博物館。国宝。 螺鈿(らでん)は、主に漆器や帯などの伝統工芸に用いられる装飾技法のひとつ。貝殻の内側、虹色光沢を持った真珠層の部分を切り出した板状の素材を、漆地や木地の彫刻された表面にはめ込む手法、およびこの手法を用いて製作された工芸品のこと。螺は貝、鈿はちりばめることを意味する。 使用される貝は、ヤコウガイ(夜光貝)、シロチョウガイ(白蝶貝)、クロチョウガイ(黒蝶貝)、カワシンジュガイ(青貝)、アワビ、アコヤガイなどが使われる。はめ込んだ後の貝片に更に彫刻を施す場合もある。.
鎌倉
鎌倉(かまくら)は、現在の神奈川県鎌倉市の中心部に当たる地域。源頼朝を旗頭として、北条時政、北条義時らによって鎌倉幕府が置かれた都市であり、三浦半島の付け根に位置し、相模湾に面している。古くは鎌府(れんぷ)とも呼ばれた。三方を山に、一方を海に囲まれている。 鎌倉大仏.
鎌倉市
鎌倉大仏(高徳院) 建長寺 鎌倉宮(大塔宮) 荏柄天神社 鎌倉市(かまくらし)は、神奈川県、三浦半島西側の付け根に位置し、鎌倉を中心部とする市である。.
鎌倉幕府
鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.
鎌倉仏教
鎌倉仏教(かまくらぶっきょう)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて興起した日本仏教の変革の動きを指す。特に浄土思想の普及や禅宗の伝来の影響によって新しく成立した仏教宗派のことを鎌倉新仏教(かまくらしんぶっきょう)と呼称する場合がある。しかし、「鎌倉新仏教」の語をめぐっては後述のように研究者によって様々な見解が存在する(→ 「鎌倉仏教論」 節)。.
鎌倉時代
伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).
遊女
遊女(ゆうじょ、あそびめ)は、遊郭や宿場で男性に性的サービスをする女性のことで、娼婦、売春婦の古い呼称『大百科事典』 (平凡社, 1935)。「客を遊ばせる女」と言う意味が一般的である。.
遁世僧
遁世僧(とんせいそう)とは、官僧に対してその世界から離脱して仏道修行に努める仏僧のこと。鎌倉仏教において重要な役割を担った。.
遷都
遷都(せんと)は、都(みやこ)を他所へうつす(遷す)こと広辞苑 第五版。、都を替えることを意味する漢字文化圏の語。日本語では古くは都遷り大辞林 第三版。/都移り(みやこうつり)とも言った。反対に、かつて都であった場所に都を戻す(還す)ことは還都(かんと)と言い(cf. #還都の一覧)、日本語では古くは都還り(みやこがえり)とも言った。ただし、日本語に限っては、還都は遷都と同義で用いられることもある。現代では、首都機能の全部もしくは重要な一部を他に遷すことを指して首都機能移転という語も用いられる(後述)。.
選択本願念仏集
『選択本願念仏集』(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう、せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)は、建久9年(1198年)、関白九条兼実の要請によって、法然が撰述した2巻16章の論文。略称は『選択集』(せんちゃくしゅう、せんじゃくしゅう)である。浄土宗は「選択」を「せんちゃく」と、浄土真宗では「せんじゃく」と呼称について差異がある。「浄土三部経」の経文を引用し、それに対する善導の解釈を引き、さらに法然自身の考えを述べている。 法然真筆の冒頭文「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為先」の書かれた草稿本は京都の廬山寺に蔵されている。 末法においては称名念仏だけが相応の教えであり、聖道門を捨てて浄土門に帰すべきで、雑行を捨てて念仏の正行に帰入すべきと説いている。それまでの観想念仏を排して阿弥陀仏の本願を称名念仏に集約することで、仏教を民衆に開放することとなり、日本の浄土教において重要な意義を持つ文献の1つである。 浄土真宗の開祖とされる親鸞は、法然の思想、および著書である『選択本願念仏集』の影響を受けている。.
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遺跡
遺跡(いせき、Site)は、.
遺構
遺構(いこう)は、過去の建築物、工作物、土木構造物などが後世に残された状態、言い換えれば過去の人類の活動の痕跡のうちの不動産的なものを指す。現在まで残存している部分のみを言ったり、かつての建造物の構造の痕跡が確認される全体を指したりする。英語で言うところのが、日本語の遺構に近い概念だが、一般的にFeatureには、垂直的なもの(ピット、壁、溝など)は含まれるが、水平的なもの(生活面、床面、庭、道路など)は含まれないとされる。 縄文時代の柱穴遺構(青森県三内丸山遺跡六本柱建物跡).
遵西
遵西(じゅんさい、生年不詳 - 建永2年2月9日(1207年3月9日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての浄土宗の僧。父は中原師秀。房名は安楽房(この房名から安楽とも称される)。俗名は中原師広。.
聖
聖(ひじり)とは、日本において諸国を回遊した仏教僧をいう。その語源は仏教伝来以前の民間信仰の司祭者とされ、特にこれを指して民俗学上では「ヒジリ」とも表記される。.
道場
講談社旧野間道場 道場(どうじょう)は、武道の稽古を行う施設である。.
道元
道元(どうげん、正治2年1月2日(1200年1月19日)- 建長5年8月28日(1253年9月22日))は、鎌倉時代初期の禅僧。日本における曹洞宗の開祖。晩年に希玄という異称も用いた。同宗旨では高祖と尊称される。諡号は仏性伝燈国師、承陽大師。諱は希玄。一般には道元禅師と呼ばれる。徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅を伝えた。『正法眼蔵』は、和辻哲郎など西洋哲学の研究家からも注目を集めた。.
道路
道路(どうろ、ラテン語 strata、 フランス語 route、ドイツ語 Straße、英語 road)とは人や車両などが通行するためのみち、人や車両の交通のために設けられた地上の通路である。.
達磨
石榴紅釉達摩(灣溪劉傳 款)香港藝術館 藏 菩提達磨(ぼだいだるま、、、ボーディダルマ)は、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧である。達磨、達磨祖師、達磨大師ともいう。「ダルマ」というのは、サンスクリット語で「法」を表す言葉。達摩との表記もあるが、いわゆる中国禅の典籍には達磨、古い写本は達摩と表記する。画像では、眼光鋭く髭を生やし耳輪を付けた姿で描かれているものが多い。 弟子の曇林が伝えるところによると、南インドのタミル系パッラヴァ朝において国王の第三王子として生まれ、中国で活躍した仏教の僧侶。5世紀後半から6世紀前半の人で、道宣の伝えるところによれば南北朝の宋の時代(遅くとも479年の斉の成立以前)に中国にやって来たとされている。中国禅の開祖。『景德傳燈錄』によれば釈迦から数えて28代目とされている。インドから中国南方へ渡海し、洛陽郊外の嵩山少林寺にて面壁を行う。確認されているだけで曇林、慧可の弟子がいる。彼の宗派は当初楞伽宗(りょうがしゅう、楞伽経にちなむ)と呼ばれた。彼の事績、言行を記録した語録とされるものに『二入四行論』などがある。.
運助
興福寺北円堂 運助(うんじょ、生没年未詳) は、鎌倉時代の仏師で運慶の六男とされる人物。.
運賀
興福寺北円堂の世親 運賀(うんが、生没年未詳)は、 鎌倉時代の慶派仏師。号は大和君、別名に、雲賀、運雅。運慶の五男。.
運慶
東大寺金剛力士像(阿形像) 運慶(うんけい、生年不詳 - 貞応2年12月11日(1224年1月3日))は、平安時代末期、鎌倉時代初期に活動した仏師。.
荘園領主
荘園領主(しょうえんりょうしゅ)とは、荘園を支配する領主のこと。一般的には荘園支配の上層部に立つ本家・領家などを指す。ただし、これは歴史学において荘園現地の大土地所有者である「在地領主」との対比として用いられている用語であり、当時において実際に用いられていた用語ではない。.
草庵
草庵(そうあん)とは、日本の上古から中世期に出現する建築様式で、「草」は草葺ないし草壁を意味する。 古来から日本では農事用の仮小屋をイホ、イホリ、カリホと呼び、万葉集など上代の文学では「故郷を離れた孤独な住まい」という情趣を込めて詠み込まれている。 日本に寺院が造られるようになった飛鳥時代から奈良時代にかけて、本院とは別に人里離れた山林に庵を結んで修行を行う山林修行が行われていた。山林修行は教学と併せて修めるべきものと考えられ、空海や最澄も草庵を結んで修行を行っている。密教や修験道が隆盛した平安時代には、山林修行はますます盛んとなった。 山林修行に使われた草庵も農事用の仮小屋と「仮初めの住宅」という共通する意味からイホと呼ばれた。当時のもので現存する草庵はないが、廃寺となった山林寺院の遺跡や、現在山林にある寺院には草庵の系譜を引くものもあると考えられる。 中世にも出家した僧や隠遁者が人里離れて草庵に住んだ。鴨長明『方丈記』などの文学や絵巻物に見られ、明恵や一遍、西行や日蓮らが草庵を拠点とした宗教活動を行なっている。 撰集抄などの仏教説話に見られる草庵の描写では、木の枝や木の葉、竹、筵など粗末な材料で周囲を囲っただけの住処であったという。これは行者の生活が貧しいほど物欲や我執から遠く、聖性や陰徳が高いという仏教説話ならではの文学的な表象であり、実際の草庵が粗末な小屋ばかりということではない。 小泉和子に拠れば草庵は宗教空間である持仏堂と日常生活を送る居間、世辞の三つの空間で構成されるという。.
菟玖波集
『莬玖波集』(つくばしゅう)は、南北朝時代に撰集された連歌集。巻数は20巻。句数は2190句。以上の構成は、勅撰和歌集の部立てに倣ったものである。.
菩提心
菩提心(ぼだいしん、bodhi-citta)とは、さとり(菩提)を求める心のこと中村元 『広説佛教語大辞典』下巻 東京書籍、2001年6月、1528頁。。大乗仏教に特有の用語である。菩提心は阿耨多羅三藐三菩提心の略とされ、無上道心、無上道意、道心ともいう。.
華厳宗
華厳宗(けごんしゅう)は、大乗仏教の宗派のひとつ。『大方広仏華厳経』(『華厳経』)を拠り所とした宗派で、開祖は杜順。日本仏教における華厳宗は、審祥により736年に伝えられた。南都六宗の一つ。東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)が建立された。.
菅原道真
菅原道真(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。 忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣・藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。 小倉百人一首では菅家。.
落窪物語
『落窪物語』(おちくぼものがたり)は、10世紀末頃に成立したとされる中古日本の物語である。全4巻。作者は不明。源順、源相方などが候補に挙がっており、巻四は清少納言が書き加えたとする説まであるが、いずれも確定に至っていない。.
非人
非人(ひにん)は、主に、.
蝦夷管領
蝦夷管領(えぞ かんれい)は、鎌倉時代に蝦夷関連の諸職を統括したと推定されている役職である。なお蝦夷管領の語は南北朝時代以降に見える名称であり、鎌倉時代には蝦夷沙汰職(えぞ さたしき)、蝦夷代官(えぞ だいかん)と呼ばれた。 鎌倉幕府草創期より蝦夷地は重犯罪人の流刑地になっており、蝦夷管領は流人達の送致、監視が主な役目といわれている。また、蝦夷との交易にも関与していたと推定されている。 建保5年(1217年)、時の執権・北条義時が陸奥守となったころ、安藤太郎堯秀を蝦夷管領に任命したのがはじまりといわれているが、安藤氏の系図には異伝が多く詳しいことは分かっていない。 この職は安藤氏の世職で、政務を行う役所・営所は津軽の十三湊にあったという。しかし、諸史料によると安藤氏は北条得宗家の代官として配置されたとなっているため、実際には得宗家のための役職であって、北条家の委託を受けた安藤氏が交易船からの収益を徴税し、それを北条得宗家に上納していたと推定されている。 鎌倉幕府滅亡後、安藤氏は安東氏と姓の表記を変え、「東海将軍」「日の本将軍」を名乗り蝦夷管領家の権威権限を実際に行使するかたちで蝦夷地を統治していたことが分かっているが、この安東氏とはまた別に安藤氏の子孫を名乗る家系もあり、その詳細は今後の研究に委ねられている。.
青磁
青磁(せいじ)とは、青磁釉を施した磁器(Porcelain)または炻器(Stoneware)のこと。 透明感のある青緑色の磁器で、紀元前14世紀頃の中国(殷)が起源とされる、後漢代に流行し以後次第に普及した。 製造技術は日本や高麗にも伝播した。 特徴的な青緑色は、釉薬や粘土に含まれる酸化第二鉄が、高温の還元焼成によって酸化第一鉄に変化する事で発色する。色艶は全く異なるが、酸化クロムの還元で発色させる物も青磁と呼ばれる。.
青蓮院
宸殿前庭、右近の橘、左近の桜 青蓮院(しょうれんいん)は、京都市東山区粟田口(あわたぐち)三条坊町にある天台宗の寺院。青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)とも称する。山号はなし。開基(創立者)は伝教大師最澄、本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)である。現在の門主(住職)は、旧伯爵東伏見家出身の東伏見慈晃。.
青森県
青森県(あおもりけん)は、日本の本州最北端に位置する県。県庁所在地は青森市である。県の人口は全国31位、面積は全国8位。令制国の陸奥国(むつのくに、りくおうのくに)で構成されている。.
青江派
青江派(あおえは)は、備中国青江(現・岡山県倉敷市)の日本刀刀工一派。平安末期に始まり、鎌倉・南北朝時代に栄え、室町時代には衰退。.
静御前
肉筆画で描写された白拍子姿の静御前(葛飾北斎筆、北斎館蔵、文政3年(1820年)頃) 時代祭での扮装 静御前(しずかごぜん、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性、白拍子。母は白拍子の磯禅師。源義経の妾。.
静嘉堂文庫
静嘉堂文庫(せいかどうぶんこ)は、東京都世田谷区岡本2丁目23番1号にある専門図書館及び美術館。日本および東洋の古典籍及び古美術品を収蔵する。事業主体は公益財団法人静嘉堂。同財団は三菱財閥の第2代総帥岩崎弥之助・第4代総帥岩崎小弥太父子の所有した庭園と遺品の古典籍・古美術コレクションを基礎として発足した。「静嘉堂」は弥之助の堂号である。東京都世田谷区岡本の岡本静嘉堂緑地にある。 数多くの貴重な古典籍と古美術品を収蔵しており内外の古典籍を研究者向けに公開する私立の専門図書館であると同時に、併設する静嘉堂文庫美術館を通じて収蔵品を広く一般に公開する美術館活動を行っている。.
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頬
を側面から見たところ 頬(ほお、ラテン語:buccae、英語:cheek チーク)とは、.
須菩提
菩提(しゅぼだい、スブーティ、सुभूति, )は、釈迦十大弟子の一人である。無諍第一と称される。.
須恵器
恵器(すえき)は、日本で古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器(炻器)である。青灰色で硬い。同時期の土師器とは色と質で明瞭に区別できるが、一部に中間的なものもある。 日下部遺跡(兵庫県神戸市)から出土した飛鳥時代の甕(兵庫県立考古博物館蔵).
頂相
無準師範像 蘭渓道隆像 大燈国師像 頂相(ちんぞう/ちんそう/ちょうそう)または頂像は、禅僧の肖像画、または肖像彫刻のこと。.
順徳天皇
順徳天皇(じゅんとくてんのう)は、鎌倉時代の第84代天皇(在位:承元4年11月25日(1210年12月12日) - 承久3年4月20日(1221年5月13日)) - コトバンク - コトバンク 『秋山喜代子』 - コトバンク 『山本博也』。諱は守成(もりなり)。 後鳥羽天皇の第三皇子。母は、藤原範季の娘・重子(修明門院)。.
衣笠家良
衣笠 家良/藤原 家良(きぬがさ/ふじわらの いえよし)は鎌倉時代初期から中期にかけての公卿、歌人。大納言・粟田口忠良の次男。衣笠内大臣(内府)と号す。新三十六歌仙の一人。.
題目
(だいもく)とは、日蓮系・法華経系の宗教団体などにおいて勤行の際に用いられる南無妙法蓮華経の文句のことである。「お題目」とも言う。元来は題名(だいめい)の意であり、法華経(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)の翻訳題(あて字)である妙法蓮華経(鳩摩羅什による訳)の五字のことを指しているが、南無(帰依するの意)を加えて七字にしても「題目」と呼ぶ。 なお、お題目は、建前の意味で使用されることもある。ここでは、上記いずれについても記載する。.
願成就院
成就院(がんじょうじゅいん)は、静岡県伊豆の国市にある、高野山真言宗の寺院。山号は天守君山。境内は国の史跡に指定されている。仏師運慶の数少ない真作の一つである阿弥陀如来坐像などの仏像を安置する。.
衆生
衆生(しゅじょう、sattva सत्त्व、、bahujana बहुजन、jantu、jagat)は、一切の生きとし生けるもの(生類)のこと。普通は、迷いの世界にある生類を指すが、広義には仏・菩薩をも含めることがある。.
顕密体制
顕密体制(けんみつたいせい)とは、歴史学者黒田俊雄が提唱した日本の中世宗教体制に関する学説。岩波書店『日本中世の国家と宗教』(1975年)で「中世における顕密体制の展開」というタイトルで発表した。.
顕浄土真実教行証文類
『顕浄土真実教行証文類』(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)は、鎌倉時代初期の日本の僧・親鸞の著作である。全6巻からなる浄土真宗の根本聖典である。正式な表題は『顯淨土眞實敎行證文類』と記述されている。;略称;浄土真宗立教開宗の書;真跡本;;「坂東本」の修復.
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顕教
顕教(けんきょう、けんぎょう)とは、仏教の中で、秘密にせず明らかに説かれた教えのこと。密教の反対語。真言宗の開祖である空海が、密教が勝れているという優位性の観点から分類した教相判釈の一つである。 空海は、顕教と密教を次のように区別した。;顕教;密教 空海の解釈では、経典をそれぞれ次のように位置づけた。.
風神
竹原春泉画『絵本百物語』(1841年)より「風の神」 風神(ふうじん)、風の神(かぜのかみ)、風伯(ふうはく)は、風を司る神。風の精霊、或いは妖怪をそう呼ぶこともある。また対になる存在として、雷神がある。.
風流踊
狩野長信『花下遊楽図屏風』左隻 ---- 安土桃山時代の風流踊のようすが描かれている。 風流踊(ふりゅうおどり)または風流(ふりゅう)とは、中世芸能のひとつで、鉦・太鼓・笛など囃しものの器楽演奏や小歌に合わせて様々な衣装を着た人びとが群舞する踊りである西角井(2004)。室町時代に流行した。.
袴
袴(はかま)とは、日本で下半身に着用する伝統的な衣類の一つ。.
袿
袿(うちき、うちぎ)は公家装束を構成する着物の一つである。主に女性の衣だが、男性が中着として着用する場合もある。.
袈裟
袈裟(けさ)とは仏教の僧侶が身につける布状の衣装のことである。梵語で「壊色・混濁色」を意味するカーシャーヤ()を音訳したもの。糞掃衣(ふんぞうえ)、福田衣(ふくでんね)、法衣(ほうえ)ともいう。.
飢饉
飢饉(ききん、Famine)とは、何らかの要因により人々が飢え苦しむことを指す。狭義においては、一地域における死亡率を急激に上げるような極端な食料不足の事態を指すことが多い。主食とする農産物の大規模な不作を契機とする場合が多い。.
装飾経
装飾経(そうしょくきょう)は、仏教で使用される経典のうち、料紙に美麗な装飾を施したものを指す。紫、紺などの染紙を用い、金銀泥で経文を書写したもの、料紙に金銀泥などで下絵を描き、金銀の箔を散らした上に書写したものなどがある。美術史、書道史で「装飾経」という場合、日本の平安時代に貴族などの発願によって制作された美麗な経典を指すことが多い。.
飛騨国
飛騨国(ひだのくに、)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.
飛鳥井家
飛鳥井邸跡に建つ白峯神宮 飛鳥井家(あすかいけ)は、藤原北家師実流(花山院家)の一つである難波家の庶流である。家格は羽林家。.
飛鳥井雅経
飛鳥井 雅経(あすかい まさつね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公家・歌人。刑部卿・難波頼経の次男。二条または明日香井を号す。飛鳥井家の祖。小倉百人一首では参議雅経。.
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養和
養和(ようわ)は、日本の元号の一つ。治承の後、寿永の前。1181年の晩夏から翌年初夏にかけての10か月間にあたる。この時代の天皇は安徳天皇。源平合戦の時代で、源頼朝の源氏方では、この元号を使用せず治承を引き続き使用していた。.
餓鬼
餓鬼 旧河本家本『紙本著色餓鬼草紙』第3段「食糞餓鬼図」/平安京域内(洛中)の小路で排便する人間達(庶民)と、人間の糞便を食いたくてたむろしている食糞餓鬼が描かれている。「餓鬼草紙」項に詳説あり。 餓鬼(がき、preta、peta、音写: 薜茘多〈へいれいた〉)とは、仏教の世界観である六道において餓鬼道(餓鬼の世界)に生まれた者。原語の preta はかつては死者の霊を指したが、仏教において輪廻転生の生存形態である六道に組み込まれた。preta は鬼とも訳される。.
餓鬼草紙
旧河本家本『紙本著色餓鬼草紙』第3段「食糞餓鬼図」 ---- 主題は餓鬼であるが、平安時代と鎌倉時代の端境期にあたる12世紀後期中葉の日本の都市における庶民の排便の様子も反映していると考えられる。描かれているのは、平安京域内(洛中)の小路で排便する人間達(庶民)と、人間の糞便を食いたくてたむろしている食糞餓鬼じきふんがき(伺便餓鬼しべんがきとも称す)である。餓鬼は、髪が逆立ち、腹だけが膨れ上がり、四肢や胸などが酷く痩せこけた、浅黒い体の7匹。人間は白っぽく描かれている5人で、まず、画面中央左寄りには、恥知らずなのか無警戒なのか古今の日本人に共通するうんこ座り(ヤンキー座りと同様)で小路のおもてのほうを向いて用便中の若い女がいる。この女は餓鬼どもに好かれているようで、画面手前の2匹などは姿勢を低くして女の股を覗き見していると思われる。女の背後にも3匹が控えている。しかしそのうちの1匹は左側にいる翁おきなが中腰のまま脱糞し始めたことにひどく驚いて腰を抜かしたようなコミカルな表情をしている。また画面中央には、服が汚れないように全裸で用便中の童子がいるが、傍らにいるほっかむりをした用便中の女のほうへ顔を向けている。言葉を交わしているのであろうか、恐らくは母子である。最後に、左端の網代壁網代壁(あじろかべ)とは、枌板(へぎいた。竹材を加工した薄手の板)を主材とした網代編みの壁。http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp/tag/%E5%85%A8%E8%A8%B3%E8%AA%AD%E8%A7%A3%E5%8F%A4%E8%AA%9E%E8%BE%9E%E5%85%B8/page/9/ 第7回『年中行事絵巻』「毬杖」を読み解く - 絵巻で見る 平安時代の暮らし - 三省堂の近くでは媼おうなが用便中である。人間は全員が高下駄を履いているが、これは用便中の跳ね返りを防ぐためと考えられるhttp://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp/tag/%E5%85%A8%E8%A8%B3%E8%AA%AD%E8%A7%A3%E5%8F%A4%E8%AA%9E%E8%BE%9E%E5%85%B8/page/8/ 第10回『伴大納言絵巻』中巻「子どもの喧嘩(けんか)」を読み解く その2 - 絵巻で見る 平安時代の暮らし - 三省堂。また、籌木(用便中に体のバランスを取ったり、尻に着いた糞便を掻き落としたりするための道具)が、紙(反故紙か)と共に人々の足元に散乱している。童子は右手に持った籌木を地面に立てて転ぶのを防いでいる。ところで、背後に見える築地塀は土壁が大きく剥がれて木枠が露出し、屋根に瓦は1枚も見られない。ずんぶん荒廃している印象を受ける。 餓鬼草紙(がきぞうしe国宝。、がきそうし)は、地獄の餓鬼道世界を主題とした、日本の絵巻である。「正法念処経」の説く、現世の「原因(所業)」に対する来世の「結果(応報)」が描かれている。.
西大寺 (奈良市)
西大寺(さいだいじ)は、奈良県奈良市西大寺芝町にある真言律宗総本山の寺院。奈良時代に孝謙上皇(重祚して称徳天皇)の発願により、僧・常騰を開山(初代住職)として建立された。南都七大寺の1つとして奈良時代には壮大な伽藍を誇ったが、平安時代に一時衰退し、鎌倉時代に叡尊によって復興された。山号は勝宝山。現在の本尊は釈迦如来である。.
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西京区
西京区(にしきょうく)は、京都市を構成する11区のひとつ。桂川以西の西京区と、乙訓郡(向日市・長岡京市を含む)をあわせて、西ヶ岡あるいは西山とよばれる。 山科区と同時に誕生した、京都市で最も新しい区のひとつである。 関西地方で広く食される西京味噌はさいきょうみそと読むため、よくさいきょうくと読み間違えられる。.
西園寺
西園寺(さいおんじ)は、京都市上京区にある浄土宗の寺院。山号は宝樹山で、院号は竹林院。本尊は阿弥陀如来。.
西園寺公経
小倉百人一首より 西園寺 公経(さいおんじ きんつね、正字体:西園寺公經)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿・歌人。西園寺家の実質的な祖とされている。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇の中宮姞子の祖父、四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・5代将軍藤原頼嗣の曾祖父となった稀有な人物である。また、姉は藤原定家の後妻で、定家の義弟でもある。 小倉百人一首では入道前太政大臣。.
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西国三十三所
西国三十三所札所(京都府に所在するものを除く) 西国三十三所札所(京都府に所在するもの) 西国三十三所(さいごくさんじゅうさんしょ、さいこくさんじゅうさんしょ)は、近畿2府4県と岐阜県に点在する33か所の観音信仰の霊場の総称。これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れている。 「三十三」とは、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)に説かれる、観世音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に与るために三十三の霊場を巡拝することを意味し、西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされる。.
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西芳寺
西芳寺(さいほうじ)は、京都市西京区松尾にある臨済宗の寺院。天龍寺の境外塔頭である。一般には苔寺(こけでら)の通称で知られる。山号を洪隠山と称する。本尊は阿弥陀如来、開山は行基と伝え、中興開山は夢窓疎石である。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。.
西行
西行像(MOA美術館蔵) 西行(さいぎょう)、元永元年(1118年) - 文治6年2月16日(1190年3月31日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。父は左衛門尉・佐藤康清、母は監物・源清経女。同母兄弟に仲清があり、子に隆聖、女子(単に西行の娘と呼ばれる)がある。俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。出家して法号は円位、のちに西行、大本房、大宝房、大法房とも称す。 勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)『山家心中集』(自撰)『聞書集』、その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と目される。.
襖
襖(ふすま)は、木などでできた骨組みの両面に紙や布を張ったものでそれに縁や引手を付けたもの 特許庁。和室の仕切りに使う建具の一つである。「襖障子」(ふすましょうじ)または「唐紙障子」(からかみしょうじ)と呼ばれることもある。単に「唐紙」と呼ばれることもある。.
親王
親王(しんのう)は、東アジアにおいて、嫡出の皇子や最高位の皇族男子に与えられる称号。もともと中国諸王朝(晋以後)において用いられ、日本や、朝鮮(大韓帝国期)、ベトナムにおいても採用された。 これらに倣って、非漢字圏の君主の親族男子を親王と呼ぶことや、プリンスの訳語として用いることもままある。.
親鸞
親鸞(しんらん、承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日 )は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧。浄土真宗の宗祖とされる。 法然を師と仰いでからの生涯に渡り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。、既成の仏教教団や、宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)が完成した寛元5年(1247年)とされるが、定められたのは親鸞の没後である。.
観心寺
観心寺(かんしんじ)は、大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺院。山号を檜尾山と称し、遺跡本山である。本尊は如意輪観音、開基(創立者)は実恵である。 仏塔古寺十八尊第十三番。奥河内の観光地の一つ。大阪みどりの百選に選定されている。.
香取市
香取市(かとりし)は、千葉県北東部にある人口約7万人の市。成田市への通勤率は12.7%(平成22年国勢調査)。 2006年(平成18年)3月27日に、佐原市と香取郡小見川町、山田町、栗源町が合併して成立。.
駿河国
駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
角
角(つの)とは、動物の主に頭部にある堅く突き出た構造のこと。また、それに似た形状のものを指して角と呼ぶこともある。.
騎射三物
騎射三物(きしゃみつもの)とは馬上の弓術、犬追物・笠懸・流鏑馬を総称して言ったもの。元々は武者が騎乗から敵を射抜くための稽古法で、それぞれ平安時代〜鎌倉時代に成立する。武士の中でも騎乗が許されるのは一部の武士のみということもあり、馬上の弓術『騎射』は武芸の中でも最高位のものとされ、中世の武士達は武芸練達のために様々な稽古をした。『騎射』稽古で上記3つは代表的な稽古法であり、総称してこう呼ばれることが多い。近代までにそれぞれ独立した競技、儀礼的神事として作法や規則が整備された。.
訴訟
訴訟(そしょう)とは、紛争の当事者以外の第三者を関与させ、その判断を仰ぐことで紛争を解決すること、またはそのための手続のことである。対義語に自力救済がある。現代においては、国家の司法権の行使によって、その権力を背景に紛争を強制的に解決するための手続のことを訴訟といい、調停、仲裁、和解などと区別される。 さらに狭い意味では広義の訴訟のうち判決手続のことのみを訴訟とよび、強制執行手続等と区別される。 訴訟を提起する行為は一般に提訴と言われる。.
証書
証書(しょうしょ)とは、権利・義務・事実等を証明する書類・文書をいう。.
語りもの
語りもの(かたりもの)は日本中世にはじまった口承文芸・音楽もしくは芸能のジャンルまたは演目。 伝統的な日本音楽(邦楽)において、声楽はその大部分を占めているが薦田(1990)p.116、日本音楽における声楽は、「歌いもの」と「語りもの」に大きく分けられる。「歌いもの」は、旋律やリズムなど、その音楽的要素が重視される楽曲であるのに対し、「語りもの」は詞章が何らかの物語性をもつ楽曲であり、語られる内容表現に重点が置かれる音楽である。.
説経節
天下無双佐渡七太夫正本『せつきやうしんとく丸』(正保5年3月刊、九兵衛板)の挿図 説経節(せっきょうぶし)は、日本の中世に興起し、中世末から近世にかけてさかんに行われた語りもの芸能・語りもの文芸『世界大百科事典』(1988)pp.576-577, 岩崎・山本「説経節」。仏教の唱導(説教)から唱導師が専門化され、声明(梵唄)から派生した和讃や講式などを取り入れて、平曲の影響を受けて成立した民衆芸能である郡司(1953)pp.388-389。近世にあっては、三味線の伴奏を得て洗練される一方、操り人形と提携して小屋掛けで演じられ、一時期、都市に生活する庶民の人気を博し、万治(1658年-1660年)から寛文(1661年-1672年)にかけて、江戸ではさらに元禄5年(1692年)頃までがその最盛期であった室木「解説」(1977)pp.393-399。 単に「説経(せっきょう)」でこの芸能をさすこともある。古くは「せつきやう」と仮名書きする場合が多く、「説経」「説教」両方の字があてられるが、現代では「説経」と表記するのが一般的である。説経(説教)はまた、これを演ずる芸能者をさすこともあり、その意味では「説経の者」、「説教者」(蝉丸神社文書)や「説経説き」(『日葡辞書』)のことばがある。 説経が唱門師(声聞師)らの手に渡って、ささらや鉦・鞨鼓(かっこ)を伴奏して門に立つようになったものを「門説経」(かどせっきょう)、修験者(山伏)の祭文と結びついたものを「説経祭文」(せっきょうさいもん)と呼んでおり、哀調をおびた歌いもの風のものを「歌説経」、ささらを伴奏楽器として用いるものを「簓説経」(ささらせっきょう)、操り人形と提携したものを「説経操り(せっきょうあやつり)」などとも称する唱門師(声聞師)は、陰陽師を源流として当初は庶民向けに読経や卜占をおこなっていたが、曲舞や猿楽などもおこなうようになった。「しょうもじ」「しょうもんじ」「しょもじ」と読み、「唱聞師」「聖問師」「唱文師」「誦文師」とも表記する。散所(寺社の附属地でその雑役にあてられた)に集住したところから「散所非人」ないし単に「散所」と称されることもあった。塩見(2012)pp.87-93。また、近世以降に成立した、本来は別系統の芸能であった浄瑠璃の影響を受けた説経を「説経浄瑠璃」(せっきょうじょうるり)と称することがある。 徹底した民衆性を特徴とし、「俊徳丸(信徳丸))」「小栗判官」「山椒大夫」などの演目が特に有名で、代表的な5曲をまとめて「五説経」と称する場合がある(詳細後述)岩崎(1973)pp.7-30。.
説話
説話(せつわ)は、近代に造語された言葉で、明瞭な概念規定なしに国文学・民俗学・民族学・神話学などの領域で使用される。広義には、古くより伝承されて来た話・物語一般を意味する。しかし狭義には、民話(昔話)、伝説を指す。また、民話と同義の意味で使用されることもある。 ここでは狭義の意味の説話を説明する。 ドイツ語のメルヘン/メルヒェン(Märchen)、英語のフェアリーテイル(fairy tale)を含んでいる。メルヘンは、スティス・トンプソン以降、英語圏でもよく使われるようになった。.
説教
説教(せっきょう)とは、宗教の教義・教典を、その信者や民衆に、口頭で説き明かすこと。また、そこで話される内容そのものを指す場合もある。転じて、目下の者に対して、教え導くために言い聞かせることや、堅苦しい教訓をいう場合もある(「親に説教される」など)。 本来の語義における説教の場面では、説教をする者(説教者、説教家)は、一般信徒や民衆よりも高度で専門的な教義・教典についての知識や見識を有する者であること、さらにそれをわかりやすく教え伝える能力に長けていることが期待される。.
高山寺
境内風景 高山寺(こうざんじ、こうさんじ)は、京都市右京区梅ヶ畑栂尾町(とがのおちょう)にある寺院。栂尾は京都市街北西の山中に位置する。高山寺は山号を栂尾山と称し、宗派は真言宗系の単立である。創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基(創立者)は、鎌倉時代の明恵である。もともとここにあった神護寺の子院が荒廃した跡に神護寺の文覚の弟子であった明恵が入り寺としたものである。「鳥獣人物戯画」をはじめ、絵画、典籍、文書など、多くの文化財を伝える寺院として知られる。境内が国の史跡に指定されており、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。.
高山市
山市中心部(本町通商店街) 弥生橋より宮川を望む 東山遊歩道より東山寺町を望む 高山市(たかやまし)は、岐阜県飛騨地方に位置する市である。市町村面積は全国で最も広い。国際会議観光都市に指定されている。.
高徳院
大仏の後部。左下の穴から内部に入れる。 大仏の内部に入り上方を仰ぐ。くぼんだ部分が大仏の頭部。金属製の階段は関係者以外は利用できない。 高徳院(こうとくいん)は、神奈川県鎌倉市長谷にある浄土宗の寺院。本尊は「鎌倉大仏」「長谷の大仏」として知られる阿弥陀如来像(国宝)。山号は大異山。詳しくは大異山高徳院清浄泉寺(しょうじょうせんじ)という。開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳である。 2004年(平成16年)2月27日、境内一帯が「鎌倉大仏殿跡」の名称で国の史跡に指定された。なお、大仏の造立経緯や、大仏殿の倒壊時期については諸説ある(後述)。 現在の住職は慶應義塾大学教授でもある佐藤孝雄が務めている。.
高知市
知市(こうちし)は、四国の中南部に位置する都市で、高知県の県庁所在地である。中核市に指定されている。旧土佐郡・長岡郡・吾川郡。.
高知県
知県(こうちけん)は、日本の県の一つ。四国の太平洋側に位置する。県庁所在地は高知市。.
高階隆兼
階 隆兼(たかしな たかかね、生没年未詳)は、鎌倉時代後期頃に活動した御所絵所の絵師。右近大夫将監。子に高階隆継。.
高麗
麗(こうらい、ハングル:고려;、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。 高麗の名称は朝鮮半島を表す「Korea(英語)」や「Corée(フランス語)」などの語源ともなった。 Map of Goryeo.
高野町
野町(こうやちょう)は、和歌山県北東部の町。 高野山真言宗の聖地高野山を中心とする町で、貴重な文化財・建造物・名所が数多く存在する。2004年には「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録され、日本のみならず世界中から多くの観光客が訪れている。.
高杉晋作
杉 晋作(たかすぎ しんさく、天保10年8月20日(1839年9月27日)- 慶應3年4月14日(1867年5月17日))は、江戸時代後期の長州藩士。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。 諱は春風(はるかぜ)。通称は晋作、東一、和助。字は暢夫(ちょうふ)。号は初め楠樹、後に東行(とうぎょう)と改め、東行狂生、西海一狂生、東洋一狂生とも名乗った。他に些々などがある。変名を谷 潜蔵、谷 梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助など。のち、谷 潜蔵と改名。 栄典は贈正四位(1891年(明治24年)4月8日)。.
謡曲
謡曲(ようきょく)とは、能の詞章のこと。 演劇における脚本に相当する。本来、「謡」と言われていたものが、大正・昭和初期から「謡曲」とも称するようになった。謡曲は「謡の曲」という意味であり、この項目では便宜上能の声楽部分に当たる謡については措き、テキストとしての能の詞章やそれを収めた書籍について取り上げる。謡については謡の項参照。.
鬼
(おに)は、日本の妖怪。民話や郷土信仰によく登場する。 日本語では逞しい妖怪のイメージから「強い」「悪い」「怖い」「ものすごい」「粗い」「大きな」「固い」という意味の冠詞として使われる場合もある(鬼 (曖昧さ回避)も参照)。「仕事の鬼」「相撲の鬼」といった比喩もあり、単独で罵倒として用いられることもある。 鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「鬼」 大江町) 追儺の鬼(兵庫県三木市蓮花寺).
鬼子母神
子母神(きしもじん/きしぼじん)、、 ハーリーティー)は、仏教を守護するとされる夜叉で女神ヤクシニーの一尊。梵名ハーリーティーを音写した訶梨帝母(かりていも)とも言う。 三昧耶形は吉祥果。種字はウーン(हूं )。.
講談社
株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.
講談社現代新書
講談社現代新書(こうだんしゃげんだいしんしょ、Kodansha's new library of knowledge)とは、講談社が発行する教養新書のシリーズである。1964年(昭和39年)4月に創刊した。.
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護良親王
護良親王 護良親王(もりよししんのう / もりながしんのう)、延慶元年(1308年) - 建武2年7月23日(1335年8月12日)は、鎌倉時代後期から建武の新政期の人物。後醍醐天皇の皇子、母は源師親の娘親子。妃は北畠親房の娘。または藤原保藤の娘である南方(みなみのかた)。興良親王の父。大塔宮(だいとうのみや / おおとうのみや)と呼ばれた。天台座主。 名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。.
魔術
術(まじゅつ)とは、仮定上の神秘的な作用を介して不思議のわざを為す営みを概括する用語である。魔法(まほう)とも。 人類学や宗教学の用語では呪術という。魔術の語は手品(奇術)を指すこともある。.
讃岐国
讃岐国(さぬきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.
豊受大神宮
豊受大神宮(とようけだいじんぐう・とゆうけ-)は、三重県伊勢市豊川町にある神社。伊勢神宮の2つの正宮のうちの1つである。一般には外宮(げくう)と呼ばれる。式内社(大社)。.
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貞和
貞和(じょうわ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。康永の後、観応の前。1345年から1349年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、崇光天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.
貞治
貞治(じょうじ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。康安の後、応安の前。1362年から1367年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利義詮、足利義満。.
貞慶
貞慶(じょうけい、久寿2年5月21日(1155年6月22日)- 建暦3年2月3日(1213年2月24日))は、鎌倉時代前期の法相宗の僧である。 祖父は藤原南家の藤原通憲(信西)、父は藤原貞憲。号は解脱房。釈迦如来、弥勒菩薩、観音菩薩、春日明神を深く信仰し、戒律の復興に努め、法相教学の確立に大きな役割を果たした。その一方で朝廷の信任も厚く、勧進僧と力を合わせ、由緒ある寺社の復興にも大きく貢献した。勅謚号は解脱上人。笠置寺上人とよばれた。興福寺の衆徒が法然らの提唱した専修念仏の禁止を求めて朝廷に奏上した『興福寺奏状』の起草者としても知られる。.
貫
貫(かん)は、尺貫法における質量の単位、また江戸時代以前の通貨の単位である。 江戸時代の一貫は分銅および定位貨幣の実測によれば平均して3.736キログラムで年代を通じてほぼ一定であったが、江戸時代後期(19世紀以降)にやや増加して3.75キログラムを超えたという岩田重雄 『計量史研究』 「近世における質量標準の変化」、日本計量史学会、1979年。1貫は1000匁に当たり、明治時代に 1貫.
貴族
貴族(きぞく)とは、特権を備えた名誉や称号を持ち、それ故に他の社会階級の人々と明確に区別された社会階層に属する集団を指す。 その社会的特権はしばしば強大であるが、同時に国や地域により異なり、同じ国・地域であっても時代によって変遷する。また貴族階級は伝統的な概念ではあるものの、時に新たな人員を迎え入れ、常に人員は更新され続けている。 貴族階級は多くの場合は君主制の下に維持され、称号の付与や特権の保証なども君主によって行われる。一般的に、貴族などという特権階級を認めてしまうということは反民主主義とされている。フランスでは、貴族階級をものともしないヴォルテールの姿勢がフランス的民主主義の基礎となり、フランス革命でそうした考え方は公認のもの、正統なものとなり、ここに民主主義が実現したとされている。しかし共和制など君主の存在を持たない制度においても貴族制度が存在した場合もある。 西洋では特に青い血という言葉が貴族の血筋を意味する慣用句として用いることがある。ただし、これはあくまでもスペイン語由来のものであるため限定的ではある。日本の場合、貴族の起源について穀物の貯蔵が貴族制度の遠因となったと考える論者もある。.
鳥羽天皇
鳥羽天皇(とばてんのう、旧字体:鳥羽、康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日(1107年8月9日) - 保安4年正月28日(1123年2月25日))。諱は宗仁(むねひと)。 堀河天皇の皇子。母は贈皇太后・藤原苡子。子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年に渡り院政を敷いた。.
鴨長明
長明 (菊池容斎画、明治時代) 下鴨神社境内にある摂社。河合神社は鴨長明ゆかりの社 河合神社内にある長明の方丈 鴨 長明(かも の ちょうめい、久寿2年(1155年) - 建保4年閏6月10日(1216年7月26日))は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての日本の歌人・随筆家。俗名はかものながあきら。禰宜・鴨長継の次男。位階は従五位下。法名は蓮胤。南大夫、菊大夫とも称される。.
越後国
越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.
越前国
越前国(えちぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.
越前焼
越前焼(えちぜんやき)は、福井県丹生郡越前町の主に宮崎地区(旧宮崎村)・織田地区(旧織田町)で焼かれる陶磁器(炻器)。釉薬を用いずに高温で焼成されるときに薪の灰が器に流れ出し、溶け込む自然釉の風合いで知られる。 歴史は非常に古く、平安時代から始まったといわれるが、長く無名であったが第二次世界大戦後小山富士夫等により日本六古窯の一つにあげられた際に越前焼と名付けられた。それまでは「織田焼」と呼ばれていた。当初から壺や甕、擂り鉢などの台所用品が作られていき、他の古窯が江戸時代に茶器などを焼いていった中で、越前焼だけは決して趣向を変えることなく、雑器を焼き続けていった。そのため江戸末期から明治には衰退の一途を辿り、一時は廃絶の危機に追い込まれた。 復興の契機は1970年(昭和45年)に作られた越前陶芸村で、これを境に窯元が急増、観光客が多く訪れるようになった。今日では若い感覚の作品も多く見受けられるが、基本は古くからの焼き締めが中心となっている。1986年(昭和61年)に通商産業省(現在の経済産業省)から伝統工芸品の指定を受けている。 越前焼の興隆と時を同じくして衰退し消滅した能登半島の珠洲焼とは流通範囲がほぼ重なる点と自然釉等の共通点から、越前焼による珠洲焼の駆逐、或いは珠洲焼の技術者達の集団移動等が研究されている。.
足利尊氏
足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.
足利義兼
足利 義兼(あしかが よしかね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府の御家人。足利氏2代当主。.
足利義詮
足利 義詮(あしかが よしあきら)は、南北朝時代の室町幕府第2代将軍。初代将軍足利尊氏の嫡男足利竹若丸、足利直冬という二人の庶兄に次いで三男とされる。。母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹で正室の赤橋登子。.
足利直義
足利 直義(あしかが ただよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の三男。室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟。 将軍尊氏を補佐して政務面を統括し、草創期室町幕府の体制は尊氏・直義兄弟による「二頭政治」だったと言われるが、実際は将軍就任当初から尊氏はすでに隠居状態にあり、幕政の運営は直義の下で行われていた。それでも、清和源氏の嫡流であり武将としての器量にも優れる尊氏は全国の武士を統合する機能を果たしており、直義が取って代わることはできなかった。 尊氏の執事高師直との間に派閥対立を生じ、師直の追い落としを図り却って失脚したものの、やがて南朝と結んで師直一族を討ち幕政を掌握した。しかし対立は尊氏・直義両者による全国を巻き込む戦乱に発展し、直義は東国に逃れたが最後は鎌倉に幽閉され急死を遂げた(観応の擾乱)。.
足利郡
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足利氏
足利氏(あしかがし)は、日本の武家のひとつの軍事貴族。本姓は源氏。家系は清和天皇清和源氏の一族の河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府においては御家人であると同時に将軍家一門たる御門葉の地位にあった。室町時代には嫡流が足利将軍家として天下人となった。藤原秀郷の子孫の藤原姓足利氏(藤姓足利氏)に対して源姓足利氏という場合がある。 通字は、「義」(よし、足利将軍家ほか)または「氏」(うじ、鎌倉時代の歴代当主および鎌倉公方・古河公方家など)。.
鶴岡八幡宮
岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、神奈川県鎌倉市にある神社。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 別称として鎌倉八幡宮とも呼ばれる。武家源氏、鎌倉武士の守護神。鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社として全国の八幡社の中では関東界隈で知名度が高く、近年では三大八幡宮の一社に入ることがある俗に三大八幡とは「大分の宇佐神宮・京都の石清水八幡宮」に「福岡の筥崎宮」または当社のいずれかを合わせた三社を指す。幕末から明治期の資料では、1868年(慶応4年)4月24日付け太政官達に示す八幡宮の例示3社(田中恆清『謎多き神 八幡神のすべて』 p.198 新人物往来社、2010年、ISBN 4404038291。)として官幣大社に列せられている3社は「宇佐・石清水・筥崎」であるが、近年発行された書籍中では「宇佐・石清水・鶴岡」を八幡神社の代表例としている(『全国八幡神社名鑑(別冊歴史読本―神社シリーズ (99))』新人物往来社、2004年、ISBN 4404030991。白井永二、土岐昌訓『神社辞典』東京堂出版、1997年、ISBN 449010474X。)。境内は国の史跡に指定されている。.
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鶴林寺
林寺(かくりんじ)は仏教の寺院であり、各地に存在する。鶴林の由来は、釈迦が示寂した沙羅双樹の森が、一面に白い花が咲き、鶴が降りて来たような風景となったことによる。.
鶴林寺 (加古川市)
林寺(かくりんじ)は兵庫県加古川市にある仏教寺院。山号を刀田山(とたさん)と称する。宗派は天台宗、本尊は薬師如来である。.
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蹴鞠
談山神社のけまり祭 蹴鞠(けまり/しゅうきく)とは、平安時代に流行した競技のひとつ。鹿皮製の鞠を一定の高さで蹴り続け、その回数を競う競技である。.
鹿苑寺
足利義満 鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺。建物の内外に金箔を貼った3層の楼閣建築である舎利殿は金閣(きんかく)、舎利殿を含めた寺院全体は金閣寺(きんかくじ)として知られる。相国寺の山外塔頭寺院である。 寺名は開基(創設者)である室町幕府3代将軍足利義満の法号・鹿苑院殿にちなむ。山号は北山(ほくざん)。寺紋は五七桐。義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築であったが、昭和25年(1950年)に放火により焼失し、昭和30年(1955年)に再建された。平成6年(1994年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録されている。.
身延山
久遠寺の本堂と身延山 身延山山頂から富士山・富士川と身延町を望む 身延山ロープウェイの索道 身延山ロープウェイ 身延山(みのぶさん)は山梨県南巨摩郡身延町と早川町の境にある山である。標高1,153m。また同地にある日蓮宗総本山久遠寺の山号でもあり、別名としてもよく用いられる。.
身分
身分(みぶん)は、人の社会的状態の中で外形的なもののことである。身分の例としては、地位・職業などがある。.
黒田俊雄
黒田 俊雄(くろだ としお、 1926年1月21日 - 1993年1月26日)は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。文学博士。『黒田俊雄著作集』全8巻(法藏館)がある。.
黒田日出男
黒田 日出男(くろだ ひでお、1943年1月 - )は、日本の歴史学者。東京大学名誉教授。専門は日本中世史(絵画史料論、歴史図像学)。東京大学史料編纂所所長、立正大学文学部史学科教授、群馬県立歴史博物館館長を歴任。.
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黛
黛(まゆずみ).
輪王寺
輪王寺 観音堂(旧四本龍寺所在) 輪王寺 大猷院廟唐門 輪王寺 慈眼堂 神橋(二荒山神社所属) 輪王寺 慈眼堂 天海墓 輪王寺(りんのうじ)は、栃木県日光市にある寺院で、天台宗の門跡寺院である。明治初年の神仏分離令以後、東照宮、二荒山神社とあわせて「二社一寺」と称される。近世まではこれらを総称して「日光山」と呼ばれていた。現在、「日光山」は輪王寺の山号とされている。また、「輪王寺」は日光山中にある寺院群の総称でもある。 輪王寺の境内は東照宮、二荒山神社の境内とともに「日光山内」として国の史跡に指定され、「日光の社寺」として世界遺産に登録されている。.
鼓
鼓(つづみ)は日本特有の伝統的な楽器のひとつで、もっとも狭義には小鼓を指す。砂時計型、または木製、ドラム缶型の胴の両面に革を張ってこれを緒で強く張る。緒は、能楽の世界では調緒(しらべお)または「調べ」という。この緒を締めたり緩めたりすることで音色を調節しながら、一方もしくは両方の革を手または桴で打って演奏する。その形態によって小鼓、大鼓、太鼓、羯鼓などがある。発音については、古代インドの打楽器 dudubhi または dundubhi から出たという説と、中国の都曇鼓(つどんこ)の音から出たという説がある。.
農家
農家(のうか)とは、第一次産業である農業を家業としている世帯や、その家屋のこと。農民(のうみん)、百姓などともいう。農家の定義は、時代や地域によって変わってくる。.
辻説法
辻の本興寺門前の辻説法跡記念碑(大町2丁目) 辻説法跡記念碑(小町2丁目) 辻説法(つじせっぽう)とは、本来の意味において、往来において通行人等に対し行う布教活動を指す。転じて街頭で行われる政治活動等の演説についても、今日では辻説法と呼ばれる。.
近江国
近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.
霊山寺 (奈良市)
霊山寺(りょうせんじ)は奈良市中町にある霊山寺真言宗大本山の寺院。山号は登美山(とみさん)または鼻高山(びこうさん)、開基(創立者)は行基と菩提僊那、本尊は薬師如来である。寺名の読みは「りょうせんじ」が正式であるが、「りょうぜんじ」「れいざんじ」と呼ばれることもあり、地元ではいずれの呼称でも通じる。 奈良市の西郊・富雄川沿いにあり、戦乱に巻き込まれずに古い面影を残す。バラ園があり、世界のバラの花を集めていることで有名である。.
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胸
成人男性の胸 胸(むね)とは、人体において首と腹部に挟まれており、脊椎より前方の部分である。また、動物において、それに対応する部位をさす。内臓部分を意味する場合と、身体の外形、特に乳房を意味する場合がある。ヒトのように肋骨により保護されている場合や、昆虫など外骨格を持つ生物においては胸郭(きょうかく)と呼ばれる(昆虫の構造)。哺乳類の胸郭内の体腔は後方を横隔膜で仕切られて他の体腔から分離するので、胸腔(きょうくう)と呼ばれ、そこに肺と心臓を収める。 また、『心』や『思い』を示す表現に用いられる。.
背びれ
レクマノミのひれ 背びれ(せびれ、背鰭)は魚、クジラ、イルカなどの水生動物の背側に付いているひれである。 背びれの主な機能は、回転を防止して水中での運動を安定させることと、急激な方向転換の際の手助けをすることである。中には敵から自分の身を守るために、鋭利なとげ状の背びれや、毒を持った背びれを発達させた種類もいる。多くのナマズは背びれを伸ばして、捕食者の気をそぐのに用いる。 背びれの形や大きさはさまざまである。.
舞
舞(まい)とは、日本舞踊のうちメロディに合わせた旋回運動を主としたもの。明治以前には、踊りとは明確に区別されていたが、ダンスの和訳として舞踊という言葉ができ、区別が意識されなくなった「踊り」は跳躍運動から芸能化したものである。このことを指摘したのは折口信夫である。池田(1968)p.20。.
舞鶴市
舞鶴市(まいづるし)は、 京都府北部(旧:丹後国) に属する市。中丹地域圏に属し、舞鶴都市圏を形成している。 日本海に面する港湾都市として知られる。.
般若寺
般若寺(はんにゃじ)は、奈良市北部・奈良坂(奈良きたまち)に位置する真言律宗の寺院。山号は法性山、本尊は文殊菩薩。コスモス寺の名で知られる。.
船
''アメリゴ・ヴェスプッチ'' 船(ふね、舟、舩)とは、人や物をのせて水上を渡航(移動)する目的で作られた乗り物の総称である広辞苑 第五版 p.2354「ふね【船・舟・槽】」。 基本的には海、湖、川などの水上を移動する乗り物を指しているが、広い意味では水中を移動する潜水艇や潜水艦も含まれる。動力は人力・帆・原動機などにより得る。 大和言葉、つまりひらがなやカタカナの「ふね」「フネ」は広範囲のものを指しており、規模や用途の違いに応じて「船・舟・槽・艦」などの漢字が使い分けられている。よりかしこまった総称では船舶(せんぱく)あるいは船艇(せんてい)などとも呼ばれる(→#呼称参照)。 水上を移動するための乗り物には、ホバークラフトのようにエアクッションや表面効果を利用した船に近いものも存在する。また、水上機や飛行艇のように飛行機の機能と船の機能を組み合わせた乗り物も存在し、水上機のフロートや飛行艇の艇体は「浮舟」(うきぶね)と表現される。 なお、宇宙船や飛行船などの水上以外を航行する比較的大型の乗り物も「ふね」「船」「シップ」などと呼ばれる。これらについては宇宙船、飛行船などの各記事を参照のこと。また舟に形状が似ているもの、例えば刺身を盛る浅めの容器、セメントを混ぜるための容器(プラ舟)等々も、その形状から「舟」と呼ばれる。これらについても容器など、各記事を参照のこと。.
興福寺
興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。.
興福寺奏状
興福寺奏状(こうふくじそうじょう)とは、元久2年(1205年)、奈良興福寺の衆徒が法然の提唱する専修念仏の禁止を求めて朝廷に提出した文書。法然弾劾の上奏文というべき性格を有していた。全1巻。『大日本仏教全書』に収載されている圭室「興福寺奏状」『日本歴史大事典』(1979)p.418。.
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興禅護国論
『興禅護国論』(こうぜんごこくろん)とは、鎌倉時代初期、日本に臨済宗を伝え広めた栄西による仏教書。栄西が禅の布教にあたったとき、南都北嶺より激しい攻撃が加えられたのに対し、禅宗の要目を論じた著作前田(1979)p.382葉貫(1985)p.419。栄西にとっては主著にあたり、「日本における禅宗独立宣言の書」とも評価される藤井(2004)。.
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蘭渓道隆
蘭溪道隆(らんけい どうりゅう、建保元年(1213年) - 弘安元年7月24日(1278年8月13日))は、鎌倉時代中期の南宋から渡来した禅僧・大覚派の祖。無明慧性の法嗣、建長寺の開山。 諱は道隆、道号は蘭渓。南宋の西蜀(現:中国四川省)の人。諡号は大覚禅師。.
阿吽
阿吽(あうん、)は仏教の呪文(真言)の1つ。悉曇文字(梵字)において、阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であり、そこから、それぞれ宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされた。 また、宇宙のほかにも、前者を真実や求道心に、後者を智慧や涅槃にたとえる場合もある。 次いで、対となる物を表す用語としても使用された。特に狛犬や仁王、沖縄のシーサーなど、一対で存在する宗教的な像のモチーフとされた。口が開いている方を阿形(あぎょう)、閉じている方を吽形(うんぎょう)と言う。 転じて、2人の人物が呼吸まで合わせるように共に行動しているさまを阿吽の呼吸、阿吽の仲などと呼ぶ。 File:Iwaya Jinja Komainu 1.JPG|狛犬阿形 File:Iwaya Jinja Komainu 2.JPG|狛犬吽形 File:Horyu-ji14s3200.jpg|法隆寺中門金剛力士(阿形) File:Horyu-ji15s3200.jpg|法隆寺中門金剛力士(吽形) File:Japanese crest Uwajima Sasa.svg|宇和島藩を治めた伊達氏の家紋。中央の2羽の雀が阿吽。.
阿仏尼
阿仏尼(あぶつに、阿佛尼, 貞応元年(1222年)? - 弘安6年4月8日(1283年5月6日))は鎌倉時代中期の女流歌人。女房名は安嘉門院四条(あんかもんいんのしじょう)または、右衛門佐(うえもんのすけ)。実父母は不明。奥山度繁(おくやまのりしげ)の養女となる(ただし奥山度繁の養女ではなく実の娘であるとする見解もある)。.
阿弥陀堂
阿弥陀堂(あみだどう、 阿彌陀堂) は、阿弥陀如来を本尊とする仏堂のこと。平安時代からの浄土信仰に伴って数多く建てられた。 阿弥陀堂の形式は大別して2つある。1つは、現世に阿弥陀仏を見て、かつ来世に極楽往生を遂げるために、主に修行を目的として造られたものであり、天台宗の常行堂(常行三昧堂)に始まる。もう1つは、この世に阿弥陀仏の極楽世界と、その荘厳を想像して造られたものであり、平等院鳳凰堂がその例である。.
阿弥陀如来
阿弥陀如来(あみだにょらい)は、大乗仏教の如来の一つである。梵名はアミターバ()、あるいはアミターユス ()といい、それを阿弥陀と音写する。阿弥陀仏(阿弥陀佛)ともいい、また略して弥陀仏ともいう。 梵名のアミターバは「量(はかり)しれない光を持つ者」、アミターユスは「量りしれない寿命を持つ者」の意味で、これを漢訳して・無量光仏、無量寿仏ともいう。西方にある極楽浄土という仏国土(浄土)を持つ(東方は薬師如来)。.
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阿修羅
興福寺阿修羅像(奈良時代)。国宝 阿修羅(あしゅら、あすら、)は、八部衆または二十八部衆(中国では二十八天)に属する、仏教の守護神。略して修羅(しゅら)ともいう。六道の一つであり、戦闘をこととする鬼類。.
赤
赤いバラの花 赤いリンゴの実 赤(あか、紅、朱、丹)は色のひとつで、熟したイチゴや血液のような色の総称。JIS規格では基本色名の一つ。国際照明委員会 (CIE) は700 nm の波長をRGB表色系においてR(赤)と規定している。赤より波長の長い光を赤外線と呼ぶが、様々な表色系などにおける赤の波長とは間接的にしか関係ない。語源は「明(アカ)るい」に通じるとされる。「朱・緋(あけ)」の表記が用いられることもある。赤色(セキショク、あかいろ)は赤の同義語。.
関山慧玄
関山慧玄(かんざん えげん、建治3年(1277年) - 正平15年/延文5年12月12日(1361年1月19日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代の臨済宗の僧。 信濃国高井郡の国人領主高梨氏で高梨高家の子とされる。朝廷から本有円成、仏心、覚照、大定聖応、光徳勝妙、自性天真、放無量光の国師号が与えられ、また、明治天皇から無相大師と追諡された。 .
関東管領
関東管領(かんとうかんれい)は、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名である。鎌倉公方の下部組織でありながら、任免権等は将軍にあった。当初は関東執事(かんとうしつじ)と言っていた。上杉氏が世襲した。.
薩摩国
薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
薬師堂
薬師堂(やくしどう)は、薬師如来を本尊とする仏堂の呼称である。 薬師如来は大乗仏教において病気平癒等の現世利益に効験のある仏として信仰されており、アジアの仏教圏の中でも特に日本で広く信仰を集めている仏であることから、日本では薬師如来を本尊とする寺院や薬師如来を祀る仏堂が各地に数多く存在する。ただし、薬師如来を本尊とする仏堂がすべて「薬師堂」と呼称されるわけではなく、寺院ごとにさまざまな名称で呼ばれている。薬師如来像を安置する堂が寺院の中心となる建物である場合は「本堂」「金堂」「根本中堂」などと呼称される場合が多い。 薬師如来を本尊とする寺院の寺号には、「薬師寺」「薬王寺」「医王寺」などのほか、「東光寺」「東明寺」のように「東」の字が付くことが多い。これは、薬師如来が東方浄瑠璃浄土に住すると信じられていることによる。また、薬師如来の詳名「薬師瑠璃光如来」にちなんで「瑠璃光寺」と号する寺院もある。 派生して、薬師如来が病気平癒の仏とされることから、製薬や医療の分野でも「薬師堂」の名前が使われることがある。また、薬師堂があった場所の地名となっているところもある。.
閻魔
閻魔(ヤマ)を描いたチベットの仏画(17-18世紀ごろ) 閻魔(えんま)は仏教、ヒンドゥー教などでの地獄、冥界の主山北篤監修 『東洋神名事典』 。冥界の王として死者の生前の罪を裁く神関根俊一 『仏尊の事典』 。日本の仏教においては地蔵菩薩の化身とみなされ同一視されている久保田悠羅、F.E.A.R. 『密教曼荼羅』 。閻王ともいう。.
閑居友
閑居友(かんきょのとも)は、慶政の作とされる仮名文で書かれた鎌倉初期の仏教説話集。承久4年(1222年)春成立。2巻32話からなり、先行の説話集にない話だけを収める。無名の人や、女性を主人公にとった説話がおおく、その発心の仏道に適うことを称える評論を備えるのを特徴とする。『発心集』を先駆として、遁世者たちの心のありさまを伝え、それを結縁のよすがとし、教化することを目的とする。.
開山堂
開山堂(かいさんどう、かいざんどう)は、仏教寺院において開山の像を祀った堂のこと。寺院の「開山」とは、当該寺院に最初に住した僧のことを指すのが通例で、寺院の創立を発願し、経済的基盤を提供した人物である「開基」とは区別される。開山や宗祖の像を安置する堂を、寺によっては祖師堂(そしどう)、御影堂(みえいどう、ごえいどう)、影堂(えいどう)などともいう。宗派や寺院によっては、祖師堂や御影堂が本尊を安置する本堂よりも規模が大きく重視されることがある。.
開眼法要
開眼法要(かいげんほうよう)は、仏像、仏画、仏壇、墓などの完成の際に営まれる法要のこと。開眼供養、入魂式、魂入れとも言う。 例外として浄土真宗では、「開眼法要」・「入魂式」は営まない(詳細は#御移徙を参照)。.
門
邸 門(もん、かど)とは、敷地と外部を区切る塀や垣に通行のために開けられた出入口のこと。外構の一種。 正面口のことは、特に正門(せいもん)とよばれる。門の脇の柱を門柱(もんちゅう)、門の番人を門番(もんばん)、門の扉を門扉(もんぴ)とそれぞれ呼ぶ。.
藤原定家
藤原 定家(ふじわら の さだいえ/ていか)は、鎌倉時代初期の公家・歌人。諱は「ていか」と音読みされることが多い。小倉百人一首の撰者で権中納言定家を称する。.
藤原家隆 (従二位)
藤原 家隆(ふじわら の いえたか)は、鎌倉時代初期の公卿、歌人。有職読みで「かりゅう」とも呼ばれる。初名は顕隆。法名は仏性。壬生二位と号する。中納言・藤原兼輔の末裔で、権中納言・藤原光隆の次男。官位は従二位・宮内卿。『新古今和歌集』の撰者の一人。小倉百人一首では従二位家隆「風そよぐ 楢の小川の 夕暮は 御禊ぞ夏の しるしなりける」。.
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藤原俊成
藤原俊成歌碑「又や見む交野の御野の桜狩 花の雪散る春の曙」(枚方市) 愛知県蒲郡市竹島園地の藤原俊成卿像。『吾妻鏡』(元暦二年二月十九日条)に竹谷・蒲形荘(現在の蒲郡市)の開発領主として「散位俊成」の名がある蒲郡市ホームページ(http://www.city.gamagori.lg.jp/site/museum/shunzei.html)久曽神昇「特別展『藤原俊成の古典』に寄せて」(蒲郡市博物館『特別展 藤原俊成の古典』、1991年 p.62-64) 藤原 俊成(ふじわら の としなり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。名は有職読みで「しゅんぜい」とも読む。藤原北家御子左流、権中納言・藤原俊忠の子。はじめ勧修寺流・藤原顕頼の猶子となり顕広(あきひろ)を名乗ったが、後に実家の御子左家に戻り、俊成と改名した。法名は釈阿。最終官位は正三位・皇太后宮大夫。『千載和歌集』の撰者として知られる。.
藤原俊成女
皇太后宮大夫俊成女 - 嘉永四年版女百人一首 藤原俊成女(ふじわら-の-としなり/しゅんぜい-の-むすめ、生没年不詳:1171年(承安元年)頃 - 1251年(建長3年)以後)は、鎌倉時代前期の歌人である。新三十六歌仙及び女房三十六歌仙の一人。実父は藤原北家末茂流(善勝寺流)出身の尾張守藤原盛頼。実母は藤原俊成の娘、八条院三条。祖父俊成の養女となった。堀川大納言源通具の妻。皇太后宮太夫俊成女、俊成卿女の名で歌壇で活躍、後には侍従具定母、三位侍従母、晩年出家してからは嵯峨禅尼、越部禅尼と呼ばれた。また、藤原定家の明月記においては、後鳥羽院出仕以降出家までは、俊成女の住んだ押小路万里小路宅から押小路女房と記されている。.
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藤原信実
藤原 信実(ふじわら の のぶざね)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公家・画家・歌人。藤原北家長良流、左京権大夫・藤原隆信の子。官位は正四位下・左京権大夫。.
藤原信頼
藤原 信頼(ふじわら の のぶより)は、平安時代末期の公卿。後白河天皇の寵臣として絶大な権力をふるうが、同じく上皇の近臣であった信西と対立。源義朝と平治の乱を起こし信西を斬首し、朝廷の最大の実力者となるが、二条天皇親政派と組んだ平清盛に敗北。六条河原で斬首された。.
藤原秀衡
藤原 秀衡(ふじわら の ひでひら)は、平安時代末期の武将。奥州藤原氏第3代当主。鎮守府将軍、陸奥守。藤原基衡の嫡男。.
藤原為家
藤原 為家(ふじわら の ためいえ)は、鎌倉時代中期の公家・歌人。正二位・権中納言藤原定家の三男。官位は正二位・権大納言。.
藤原隆信
藤原 隆信(ふじわら の たかのぶ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての貴族・歌人・画家。藤原北家長良流、長門守・藤原為経(寂超)の子。官位は正四位下・左京権大夫。母・美福門院加賀の再婚相手である藤原俊成に育てられる(歌人・藤原定家は異父弟にあたる)。.
藤原行長
藤原 行長(ふじわら の ゆきなが、生没年不詳)は鎌倉時代の公家。藤原北家勧修寺流、藤原行隆の子。母は典薬助藤原行兼の娘(美福門院(藤原得子)女房、のち八条院(暲子内親王)女房「越前」)。中山 行長とも言う。官位は従五位下、下野守(しもつけのかみ)、蔵人(くろうど)。関白九条兼実の家司(けいし)でもあった。 元久2年(1205年)の『元久詩歌合』に出詠するなど、漢詩文にすぐれていた。 吉田兼好が「後鳥羽院の御時、信濃前司行長稽古の譽ありけるが(中略)この行長入道平家物語を作りて、生佛といひける盲目に教へて語らせけり」(徒然草226段)と記した「信濃前司行長」とされている。しかし行長は信濃守となっておらず、行長を平家物語の作者とする説は、「下野前司行長」の誤りとする。 また、父行隆が、法然と関係が深い重源が勧進した、東大寺盧舎那仏像再建の造仏長官に任ぜられており、そして仕えていた九条兼実が、法然に帰依しており、さらに異母弟信空が法然の弟子であった。このような関係性から『平家物語』に底流する情緒的な浄土思想を書いたのではないか、とも主張されている。.
藤原行成
藤原 行成(ふじわら の ゆきなり/こうぜい)は、平安時代中期の廷臣。藤原北家、右少将・藤原義孝の長男。官位は正二位・権大納言。一条朝四納言(「寛弘の四納言」)の一。世尊寺家の祖。 当代の能書家として三蹟の一人に数えられ、その書は後世「権蹟」(ごんせき)と称された。書道世尊寺流の祖。.
藤原長家
藤原 長家(ふじわら の ながいえ)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の六男。官位は正二位・権大納言。大宮または三条を号す。御子左家の祖。母は源明子(高松殿)であるが、後に道長の嫡妻源倫子の養子となった。.
藤原氏
藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.
藤原泰衡
藤原 泰衡(ふじわら の やすひら)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。奥州藤原氏第4代(最後)の当主。藤原秀衡の嫡男(次男)。兄(庶長兄、異腹の兄)に国衡、弟に忠衡、高衡、通衡、頼衡がいる。.
藤原有家
藤原 有家(ふじわら の ありいえ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人。従三位・藤原重家の三男。初名は仲家。官位は従三位・大蔵卿。.
藤田三郎
藤田 三郎(ふじた さぶろう、1902年(明治35年) – 1990年(平成2年))は、全国農業協同組合中央会会長。.
藤田勝也
藤田 勝也(ふじた まさや、1958年 - )は日本の建築史家、工学博士。古代中世の住宅史が専門。発掘調査の成果を重視し、太田静六の「正規寝殿造」概念に批判的な一人。.
藤田美術館
藤田美術館(ふじたびじゅつかん) は、大阪市都島区網島町にある、東洋古美術を中心とした大阪府の登録博物館である。常設展示は行っておらず、春と秋に3か月ずつ企画展の形でのみ開館するのが特徴である。運営は、公益財団法人藤田美術館。.
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藤枝市
藤枝市(ふじえだし)は、静岡県中部に位置する都市。静岡県中部では静岡市に次ぎ二番目に人口が多い。.
藤沢市
藤沢市(ふじさわし)は、神奈川県南部中央に位置する、相模湾に接した市である。「湘南」と呼ばれる地域の中では、最大の人口を有する。.
藩
藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。.
鑁阿寺
鑁阿寺(ばんなじ)は、栃木県足利市家富町にある真言宗大日派の本山である。「足利氏宅跡(鑁阿寺)」(あしかがしたくあと(ばんなじ))として国の史跡に指定されている。日本100名城の一つ。.
鑑真
鑑真(がんじん、旧字体: 鑑眞、、 688年〈持統天皇2年〉 - 763年6月25日〈天平宝字7年5月6日〉)は、奈良時代の帰化僧。日本における律宗の開祖。俗姓は淳于。唐招提寺に安置されている国宝「鑑真和上像.
葉室光俊
葉室 光俊(はむろ みつとし、1203年(建仁3年) - 1276年7月21日(建治2年6月9日))は、鎌倉時代に活躍した歌人である。新三十六歌仙の一人。父は藤原北家高藤流権中納言葉室光親。母は順徳天皇の乳母としても知られる藤原経子。同腹の兄に後嵯峨院の院司葉室定嗣がいる。子に大僧都定円、娘に尚侍家中納言(藤原親子)、鷹司院帥がおり共に勅撰歌人である。出家して真観と称した。右大弁入道等とも呼ばれる。.
蒙古襲来絵詞
蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)は、筆者不明の全2巻の絵巻物。竹崎季長絵詞、蒙古襲来絵巻とも。鎌倉時代後期の作で、肥後国の御家人竹崎季長が元寇における自分の戦いを描かせたものとされている。旧御物で、現在は宮内庁の所蔵となっており、東京都千代田区皇居東御苑内の三の丸尚蔵館に保管されている 高麗王国連合軍へ斬り込んでいく竹崎季長と応戦・逃亡する蒙古兵.
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肥後国
肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
肥前国
肥前国(ひぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
肖像
肖像(しょうぞう)とは、特定の人間の外観を表現した絵画や写真、彫刻である。それぞれ肖像画(絵画)、肖像写真(写真)、肖像彫刻と呼ばれる。肖似性(類似)が求められる場合もあれば、理想化が求められる場合もある。芸術的な造形や精神性を示すこともある。.
蓮
蓮(はす、はちす、れん).
脱毛症
脱毛症(だつもうしょう)、または抜け毛(ぬけげ)とは、本人が生えることを期待していた毛髪(主に過去に生えていた箇所の毛)が生えなくなった状態、あるいは抜けてしまった状態のことである。通俗的には'''禿げ'''(はげ)と言われる。生理学的には、ヒトの頭髪の形状は年齢や個々人の個性により多様であり、こうあらねばならないという正解があるわけではない。医学的には、毛密度が生来の50%以下に低下した場合を指し、他人から見ても目立つ場合が多いとされる。最近では女性のレーザー脱毛と混同されることから、薄毛と言われる事が多い。.
醍醐天皇
醍醐天皇(だいごてんのう、元慶9年1月18日(885年2月6日)- 延長8年9月29日(930年10月23日))は、平安時代の第60代天皇(在位:寛平9年7月13日(897年8月14日)- 延長8年9月22日(930年10月16日))。臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源 維城(みなもと の これざね)といった。のち父の即位とともに皇族に列し親王宣下ののちに敦仁(あつぎみ・あつひと)に改めた。 宇多天皇の第一皇子。母は内大臣藤原高藤の女藤原胤子。養母は藤原温子(関白太政大臣基経の女)。.
醍醐寺
醍醐寺(だいごじ)は、京都府京都市伏見区醍醐東大路町にある仏教寺院、真言宗醍醐派総本山で、山号を醍醐山(深雪山とも)と称する。本尊は薬師如来、開基(創立者)は理源大師聖宝である。古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内を持つ。豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られている。.
重要文化財
建造物の例(通潤橋) 歴史資料の例(123号機関車 京都・宮津海陸運輸所有) 彫刻の例(塑造金剛力士立像 法隆寺蔵) 考古資料の例(埴輪子持家 東京国立博物館蔵) 絵画の例(黒田清輝筆「湖畔」) 建造物(民家)の例:荒井家住宅(栃木県矢板市) 重要文化財(じゅうようぶんかざい)は、日本に所在する建造物、美術工芸品、考古資料、歴史資料等の有形文化財のうち、歴史上・芸術上の価値の高いもの、または学術的に価値の高いものとして文化財保護法に基づき日本国政府(文部科学大臣)が指定した文化財を指す。重文(じゅうぶん)と略称されることが多い。文化庁による英語表記はImportant Cultural Properties。 日本の地方公共団体(都道府県、市町村)がそれぞれの文化財保護条例に基いて指定する有形文化財についても「県指定重要文化財」「市指定重要文化財」等と呼称される場合があるが、文化財保護法に規定する「重要文化財」とは国(日本国文部大臣)が指定した有形文化財のことを指す。本項では特記なき限り、文化財保護法第27条の規定に基づき日本国(文部科学大臣)が指定した重要文化財(いわゆる「国の重要文化財」)について記述する。.
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重源
俊乗房重源上人坐像のレプリカ(大阪府立狭山池博物館所蔵。原品は新大仏寺所蔵で重要文化財) 重源(ちょうげん、保安2年(1121年) - 建永元年6月5日(1206年7月12日))は、中世初期(平安時代末期から鎌倉時代)の日本の僧。房号は俊乗房(しゅんじょうぼう、俊乗坊とも記す)。 東大寺大勧進職として、源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした。.
臨済宗
臨済宗(臨濟宗、りんざいしゅう)は、中国の禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。鎌倉仏教のひとつである。 中国禅宗の祖とされる達磨(5C後半 - 6C前半)から数えて6代目(六祖と呼ばれる)の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の1人である南嶽懐譲(677年 - 744年)から、馬祖道一(709 - 788年、洪州宗)、百丈懐海(749 - 814年)、黄檗希運(? - 850年)と続く法系を嗣いだ唐の臨済義玄(? - 867年)によって創宗された。彼は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。 宋代の大慧宗杲(1089 - 1163年)と曹洞宗の宏智正覚(1091 - 1157年)の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して、公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」(かんなぜん)がその特徴として認識されるようになる。 日本には栄西(1141 - 1215年)以降、中国から各時代に何人もの僧によって持ち込まれ、様々な流派が成立した。黄檗宗も元来、中国臨済宗の一派である。歴史的に鎌倉幕府・室町幕府と結び付きが強かったのも特徴の1つで、京都五山・鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められている他、室町文化の形成にも多大な影響を与えた。江戸時代の白隠慧鶴(1686 - 1769年)が中興の祖として知られる。.
臼杵磨崖仏
大日如来像(古園石仏群) 臼杵磨崖仏(うすきまがいぶつ)は、大分県臼杵市にある磨崖仏である。一般には臼杵石仏(うすきせきぶつ)の名で知られている。1952年(昭和27年)に国の特別史跡に指定され、1995年(平成7年)には、磨崖仏として日本初、彫刻として九州初の国宝に指定された指定対象は臼杵市深田にある4群59躯。。.
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釈迦
釈迦(しゃか)は、紀元前5世紀前後の北インドの人物で、仏教の開祖である。.
釈日本紀
『釈日本紀』(しゃくにほんぎ)は、鎌倉時代末期の『日本書紀』の注釈書。『釈紀』の略がある。全28巻。.
金 (王朝)
金(きん、拼音:Jīn、女真語: 、1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、中国の北半を支配した女真族の征服王朝。 国姓は完顔氏。遼・北宋を滅ぼし、西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。都は初め会寧(上京会寧府、現在の黒竜江省)、のち燕京(中都大興府、現在の北京)。『金史』、欽定満洲源流考には「金の始祖函普は高麗からやって来た」とある。『函普』は阿骨打(あこつだ、女真音:アクダ)の7代祖である。.
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金堂
金堂(こんどう、きんどう)とは、; こんどう.
金光明経
『金光明経』(こんこうみょうきょう、、 スヴァルナ・プラバーサ・スートラ)は、4世紀頃に成立したと見られる仏教経典のひとつ。大乗経典に属し、日本においては『法華経』・『仁王経』とともに護国三部経のひとつに数えられる。 原題は、「スヴァルナ」()が「黄金」、「プラバーサ」()が「輝き」、「スートラ」()が「経」、総じて「黄金に輝く教え」の意。.
金剛力士
東大寺南大門金剛力士(阿形・国宝) 法隆寺中門金剛力士(吽形) 金剛力士(こんごうりきし、वज्रपानि、)は、仏教の護法善神(守護神)である天部の一つ。サンスクリットでは「ヴァジュラダラ」と言い、「金剛杵(こんごうしょ、仏敵を退散させる武器)を持つもの」を意味する。開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体を一対として、寺院の表門などに安置することが多い。一般には仁王(におう、二王)の名で親しまれている。.
金剛峯寺
金剛峯寺(こんごうぶじ)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山真言宗総本山の寺院。 高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地に位置する。100か寺以上の寺院が密集する、日本では他に例を見ない宗教都市である。京都の東寺と共に、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が修禅の道場として開創し、真言密教の聖地、また、弘法大師入定信仰の山として、21世紀の今日も多くの参詣者を集めている。2004年(平成16年)7月に登録されたユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部、pp.39,75。 「金剛峯寺」という寺号は、明治期以降は1つの寺院の名称になっている。しかし金剛峯寺の山号が高野山であることからも分かるように、元来は真言宗の総本山としての高野山全体と同義であった。本項では「金剛峯寺」を中心に、高野山全体の歴史、信仰、文化財について触れる。寺紋は五三桐紋と三つ巴紋。.
金石文
金石文(きんせきぶん)は、金属や石などに記された文字資料のこと。紙、布などに筆で書かれた文字に対し、刀剣、銅鏡、青銅器、仏像、石碑、墓碑などに刻出・鋳出・象嵌などの方法で表された文字を指す。土器や甲骨などの類に刻まれたものを含む場合もある。 ここでは主として記念性、永遠性を持った碑文、銘文などについて述べる。ここでは、碑文(ひぶん)は石碑に記した文、銘文(めいぶん)はそれ以外の金石に記した文と考えて用いる。.
金箔
金箔(きんぱく)は、金を微量の銀や銅とともに金槌で叩いてごく薄く伸ばし、箔状態にしたもの。紀元前1200年頃にエジプトで製造が始まったと考えられている。 現在は真鍮からなる「洋金箔」も普及しており、本来の意味での金箔は「純金箔」として区別されていたが、純金の表示が純金のみで製造されていると誤解を受けるため、金のみで作られたものを「純金箔」、銀および銅を合金しているものを「(本)金箔」とあらわしている。 以下、特に断りがない限り、本金箔について述べる。.
金槐和歌集
『金槐和歌集』(きんかいわかしゅう)は、鎌倉時代前期の源実朝の家集(歌集)。略称で『金槐集』とも呼ばれる。 成立は藤原定家より相伝の『万葉集』を贈られた建暦3年(1213年)12月18日頃とする説が有力。全一巻、663首(貞亨本では719首)掲載されている。『金槐和歌集』の「金」とは鎌の偏を表し、「槐」は槐門(大臣の唐名)を表しているため、別名鎌倉右大臣家集といわれている。但し、実朝の大納言(亜槐)や大臣(内大臣、右大臣)叙任は建保6年1218年である。 昭和4年(1929年)に佐佐木信綱によって発見された定家所伝本と、貞享4年(1687年)に版行された貞享本の2系統が伝えられている。前者は自撰・他撰(定家による撰)両説あるが未詳。後者も、奥書に「柳営亜槐」による改編とあるが、「柳営亜槐(征夷大将軍と大納言)」が誰であるかは諸説ある。江戸時代の国学者賀茂真淵に称賛されて以来『万葉調』の歌人ということになっている源実朝の家集であるが、実際は万葉調の歌は少ない。所収歌の多くは古今調・新古今調の本歌取りを主としている。.
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金沢区
金沢区(かなざわく)は、日本の神奈川県横浜市を構成する18の行政区のうちの一つであり、横浜市18行政区の最南端に位置する。「金沢」はかつては「かねさわ」と読まれていたが、近世以降加賀藩の「かなざわ」が著名になったことから、読みが移り変わったとされている(はまれぽ.com 2014年11月13日).
金沢文庫
在の神奈川県立金沢文庫新館 金沢文庫(かねさわぶんこ、かなざわぶんこ)は、鎌倉時代中期の日本において、金沢流北条氏の北条実時が設けた日本最古の武家文庫。所在地は神奈川県横浜市金沢区金沢町142。 金沢流北条氏が領し、のちに館や菩提寺である称名寺を建立して本拠地として開発し、家名の由来となった地である武蔵国久良岐郡六浦荘金沢郷に所在したことが名称の由来である。現在は「神奈川県立金沢文庫」の名称で県立の歴史博物館となっており、様々な所蔵品を保管・展示している。.
釉薬
釉薬(ゆうやく、うわぐすり、釉、上薬、)とは、陶磁器や琺瑯の表面をおおっているガラス質の部分である。陶磁器などを製作する際、粘土等を成形した器の表面にかける薬品のこと。粘土や灰などを水に懸濁させた液体が用いられる。.
長弓寺
伊弉諾神社 境内 長弓寺(ちょうきゅうじ)は奈良県生駒市上町にある真言律宗の寺院である。山号は真弓山、本尊は十一面観音、開基(創立者)は行基と伝える。国宝の本堂は鎌倉時代の密教仏堂の代表作として知られる。.
長光
長光(ながみつ)は、鎌倉時代後期の備前国(岡山県)長船派(おさふねは)の刀工。長船派の祖・光忠の子とされる。国宝の「大般若長光」をはじめ、華やかな乱れ刃を焼いた豪壮な作から直刃まで作行きが広く、古刀期においてはもっとも現存在銘作刀が多い刀工の一人である。.
長福寺 (京都市)
長福寺(ちょうふくじ)は、京都市右京区梅津にある臨済宗南禅寺派の寺院。山号は大梅山。本尊は阿弥陀如来。.
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長谷寺
二本の杉 長谷寺(はせでら)は、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山の寺。山号を豊山、院号を神楽院と称する。本尊は十一面観音、開基(創立者)は僧の道明とされる。西国三十三所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場として知られる。寺紋は輪違い紋。 大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬〜5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また『枕草子』『源氏物語』『更級日記』など多くの古典文学にも登場する。中でも『源氏物語』にある玉鬘の巻のエピソード中に登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。 大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の一つに数えられる。.
長船派
大石内蔵助の佩刀) 長船派(おさふねは)とは、中世日本に備前国邑久郡長船(現在の岡山県瀬戸内市)を拠点とした刀工の流派。名匠を多数生み出したことから、長船刀工が製作した刀剣は長船物(おさふねもの)として高く評価されている。 なお、通称として単に「長船」「備前長船」とも呼ばれる。.
長野県
長野県空撮画像。長野盆地、富士山、浅間山、日本アルプスなどを望む。 長野県の地形図 長野県(ながのけん)は、本州内陸部に位置する日本の県の一つ。令制国名の信濃国に因み「信州」とも呼ばれている。海に面していないいわゆる内陸県であり、大規模な山岳地があるため可住地面積率は小さい。県庁所在地は長野市。善光寺の門前町として発展し第18回冬季オリンピックの開催地となった自治体でもある。.
長浜市
長浜市(ながはまし)は、滋賀県の北東部(湖北地方)に位置する市である。 中心市街は羽柴秀吉が長浜城の城下町として整備して以来の湖北地方の中心地で、長浜城廃城後は大通寺(長浜御坊)の門前町、北国街道や琵琶湖水運の要衝として発展した。姉川古戦場など戦国時代の史跡が多く、国友は近世に国内有数の鉄砲生産拠点として栄えた。.
長方形
長方形 長方形(ちょうほうけい、rectangle)とは.
腕
腕(うで、かいな)とは、人間の肩から手までの部分のこと。 人間の腕は医学的には、上肢(じょうし)と呼ばれる事が多い。腕は肘を境に、肩に近い方を上腕(じょうわん)、手の方を前腕(ぜんわん)という。.
鉦鼓
鉦鼓(しょうこ)とは、雅楽で使われる打楽器の一つ。仏教で使用される場合は鉦(かね・しょう)とも称される。.
良弁
良弁(ろうべん、りょうべん, p.969 「良辨(りゃうべん)」の項、持統天皇3年(689年) - 宝亀4年閏11月24日(774年1月10日))は、奈良時代の華厳宗の僧。東大寺の開山。通称を金鐘行者といった。.
色紙
色紙(いろがみ、しきし)は、紙製品の一種で、次のような意味がある。.
鋳物
鋳物(いもの、cast metal)とは、加熱して溶かした金属を型に流し込み、冷えて固まった後、型から取り出して作った(鋳造)金属製品。.
難波家
難波家(なんばけ)は、羽林家の家格を有する堂上家の一つをなす公家。分家の飛鳥井家と並ぶ蹴鞠の二大流派のひとつ。藤原北家花山院流の系統。南北朝時代に断絶したが、戦国時代に入って、飛鳥井雅庸の次男宗勝によって再興された。江戸時代の家禄は300石。明治維新後に宗美が子爵位を授けられた。.
難波頼輔
難波 頼輔(なんば よりすけ)は、平安時代後期から末期にかけての公卿・歌人。藤原北家花山院流、大納言・藤原忠教の四男。蹴鞠の二大流派、難波・飛鳥井両家の祖。.
雪蹊寺
雪蹊寺(せっけいじ)は、高知県高知市長浜にある臨済宗妙心寺派の寺院。高福山(こうふくざん)、高福院(こうふくいん)と号する。四国八十八箇所霊場の第三十三番札所である。本尊は薬師如来。 本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか ご詠歌:旅の道 うえしも今は 高福寺 後のたのしみ 有明の月.
雪村友梅
雪村友梅(せっそんゆうばい、正応3年(1290年) - 貞和2年12月2日(1347年1月14日))は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけての臨済宗の禅僧である。.
雷神
雷神図(尾形光琳) 雷神(らいじん、いかづちのかみ)は、日本の民間信仰や神道における雷の神である。「雷様(かみなりさま)」「雷電様(らいでんさま)」「鳴神(なるかみ)」「雷公(らいこう)」とも呼ばれる。.
集英社
株式会社集英社(しゅうえいしゃ)は、日本の総合出版社。『週刊少年ジャンプ』『週刊プレイボーイ』『non-no』『すばる』 『Myojo』などの雑誌を発行している。社名は「英知が集う」の意味。.
造寺司
造寺司(ぞうじし)とは、奈良時代に官寺あるいはこれに准じた寺院を造営するために設置された令外官のこと。.
連歌
連歌(れんが)は、鎌倉時代ごろから興り、南北朝時代から室町時代にかけて大成された、日本の伝統的な詩形の一種。多人数による連作形式を取りつつも、厳密なルール(式目)を基にして全体的な構造を持つ。和歌のつよい影響のもとに成立し、後に俳諧の連歌や発句(俳句)がここから派生している。.
虎御前
大礒之図」虎が雨の中の虎御前を描いた錦絵。 虎御前(とらごぜん、安元元年(1175年) - ?)は、鎌倉時代初期の遊女。曾我祐成の妾。お虎さん、虎女(とらじょ)とも呼ばれる。富士の巻狩りの際に起こった曾我兄弟の仇討ちを描いた『曽我物語』で、この物語を色づけ深みを持たせる役割をしている。『吾妻鏡』にも出てくることから実在した女性とされる。 江戸期に制作された多数の曾我物にも登場し、虎御前の名は広く知られることとなった。.
虎関師錬
虎関師錬(こかんしれん、弘安元年4月16日(1278年5月9日) - 興国7年/貞和2年7月24日(1346年8月11日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧。諱は師錬、字は虎関。父は藤原左金吾校尉で、母は源氏。一説に玄恵と兄弟とする。京都の出身。諡号は本覚国師。.
院宣
院宣(いんぜん)とは、上皇からの命令を受けた院司が、奉書形式で発給する文書。天皇の発する宣旨に相当する。院庁下文よりも私的な形式。 『法曹至要抄』によれば、養老律詐偽律の解釈を巡る明法家の先例の学説として「太上天皇宣」の偽造は詔書と同一の罪に当たるとする説を挙げており早くから知られていた可能性があるが、院宣に関する記録の初見は延長7年(927年)の宇多上皇が伊勢神宮に宣旨を下されたことを受けて神宮側がその指示を神郡に向けて発した「延長七年大神宮勘注」(『大日本史料』一之六)である。院宣の重要度は、天皇の宣旨と同等、またはそれ以上とされていた。平安時代後期に院政が始まると、治天の君(院政を行う上皇)は、院宣や院庁下文を発給することで、自らの政治意思を明示・具現化していった。 院庁下文が、詔勅や太政官符などの政府として最終決定意思を表示する文書と、同等の効力が認められていたのに対し、院宣は形式の面でも効力の面でも、簡易なものとして発給されていた。すなわち、政府の重要事項については院庁下文で対応し、より即効的または柔軟な対応が必要なときは院宣を発給していたのである。.
院尊
院尊(いんそん、保安元年(1120年) - 建久9年10月29日(1198年11月29日))は、平安時代後期-鎌倉時代の院派仏師。法印。.
院派
院派(いんぱ)は、平安時代後期から鎌倉時代の仏師の一派。七条大宮仏所、六条万里小路仏所を形成した。祖は、定朝の孫とされる院助。 鎌倉時代、新様式と言う点では慶派の作品が目立つが、記録によると貴族の世界では院派、ついで円派の仏師が前代からの基盤を受け継いで活躍した。ただし、旧来の伝統を引いて、仏像に銘記を施す事例が慶派に比べて圧倒的に少なく、仏師個人の作例を追っていくことは出来ない。 14世紀に入ると、真言律宗との関わりが生まれ、律宗が東国に教線を伸ばすのに従い、院派も東国へ進出した。南北朝時代に入ると、室町幕府といち早く結びついた。院吉は、等持院大仏師職と丹波国国分寺地頭職を安堵され、その子院広はそれを継いで広範に活躍した。彼らの作風は、「唐様」とも言うべき独特の形式美をもつもので、他派や後世に少なからぬ影響を与えた。.
院政
院政(いんせい)は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治である。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治形態である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。.
院政期文化
『'''普賢菩薩像'''』(東京国立博物館蔵)普賢菩薩は法華経信者を守護するため白い象に乗って東方より現れると説かれていた。彩色や截金の美麗さに加え余白の情感が幻想的で優美だとされる。銀泥も素材の仲間入りをするが、酸化して黒ずんで見える。国宝。12世紀制作。 院政期文化(いんせいきぶんか)または平安末期文化(へいあんまっきぶんか)とは、平安時代末葉の11世紀後半から鎌倉幕府成立に至る12世紀末にかけての日本の文化。院政期は、日本社会史上、貴族勢力の衰退と武士勢力の伸長という過渡期に位置しており、文化の面でもこのような時代の気風を反映した新しい動きがみられた。.
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陰陽師
江戸時代初期の奈良絵本『たまものまへ』より、算木で占いを行う陰陽師の画。京都大学附属図書館所蔵。 陰陽師(おんみょうじ、おんようじ)は、古代日本の律令制下において中務省の陰陽寮に属した官職の1つで、陰陽五行思想に基づいた陰陽道によって占筮(せんぜい)及び地相などを職掌とする方技(技術系の官人。技官)として配置された者を指すが、それら官人が後には本来の律令規定を超えて占術など方術や、祭祀を司るようになったために陰陽寮に属する者全てを指すようになり、更には中世以降の民間において個人的に占術等を行う非官人の者をも指すようになり、声聞師と重ねられることもあって「声聞師」と呼ばれる場合もあった。中・近世においては民間で私的祈祷や占術を行う者を称し、中には神職の一種のように見られる者も存在する。 なお、本来は「おんようじ」と訓んだが現代は専ら「おんみょうじ」と訓まれ、これは「おんようじ」が連声化して「おんみょうじ」となった(「陰」は中国語中古音で「*ʔi̯əm」、中世日本語音で「*wom」なので、連声化するとま行の音になる)ものとされ、また「おんみょうじ」と先頭を強調する発音が定着しているが、かつては「おんみやうぢ」と2音目に揚音があったと言われている。.
陳和卿
陳和卿(ちん わけい / ちん なけい、生没年未詳)は、鎌倉時代の日本で活動した中国・南宋出身の工人。.
陶磁器
野々村仁清『色絵藤花茶壺』(国宝) 陶磁器(とうじき、pottery and porcelain)は、セラミックの一種で、土を練り固め焼いて作ったものの総称。やきもの。 陶磁器に使われる粘土には、加熱することでアルミニウムやカルシウムなど他の物質と化合しガラス化する珪酸を主成分とする石英などが含まれる。成形後に加熱することで、土粒子の間に溶けて流体となったガラスが入り込み、冷めると固体化し土粒子同士をくっつける。『古陶磁の科学』の著者内藤匡は、この過程をおこしに喩えている。おおまかに言えば、陶器と磁器の違いはこのガラスになる成分と量の違いである。.
陸奥国
奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.
陸奥話記
『陸奥話記』(むつわき)は、日本の戦役である前九年の役の顛末を描いた軍記物語高橋崇 91年。『陸奥物語』、『奥州合戦記』ともいう。『将門記』とともに軍記物語の嚆矢とされる。.
暦仁
暦仁(りゃくにん)は、日本の元号の一つ。嘉禎の後、延応の前。ユリウス暦で1238年-1239年の期間を指す。この時代の天皇は四条天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。 日本の元号の中では最も日数が短い。.
暦応
暦応(りゃくおう、れきおう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。建武の後、康永の前。1338年から1341年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、南朝方が後醍醐天皇、後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.
柏書房
柏書房(かしわしょぼう)は、日本の出版社。人文学、歴史学や図書館学に関する出版が多い。 近年の刊行物では、『アホでマヌケなアメリカ白人』(マイケル・ムーア、松田和也訳)が話題を呼んだ。.
柱
ンタシスの柱(法隆寺) 柱(はしら)は、材を垂直に立てて建築物の支え(ささえ)としたもの。 材料は、古来は木材、石材、竹材などが使われ、近世以降は鋼材、コンクリート、鉄筋コンクリート製のものも現れた。 柱は建築物の構成要素となるほか、電柱や御柱など、それ自身が構築物(内部空間がないので建築物ではない)となっていることもある。 用途、場所、役割によって呼び名が異なる。床の間に使う装飾的な柱を床柱、門を支えるものを門柱、塀を支える柱を控柱、また、大壁を真壁に見せかけるための付け柱などとそれぞれに名称が付けられている。家の中心となるような太い柱は、大黒柱・大極柱(だいこくばしら)と呼ばれる。 物理学(構造力学)においては、軸方向に作用する圧縮荷重に抵抗する細長い直線状の棒材 を柱と呼び、梁(軸に対し直交する方向に作用する荷重に抵抗する棒材)と区別される。.
枕草子
王子猷(王羲之の子)が竹を「此君」と呼んだ事に因む。 『枕草子』(まくらのそうし)とは、平安時代中期に中宮定子に仕えた女房、清少納言により執筆されたと伝わる随筆。ただし本来は、助詞の「の」を入れずに「まくらそうし」と呼ばれたという。「枕草紙」、「枕冊子」、「枕双紙」とも表記され、古くは『清少納言記』、『清少納言抄』などとも称された。.
掛詞
掛詞(かけことば)とは、和歌などにおける修辞技法の一つ。.
来世
古代エジプトにおける死後の世界が描かれたパピルス 莫高窟で発見された死後の世界の図 来世(らいせ、らいしょう)あるいは後世(ごせ、ごしょう)は、今世(今回の人生)を終えた後に、魂が経験する次の人生、あるいは世界のこと。また、動物におけるそれのことを指す場合もある。 神道においては常世(黄泉)のことを指す。仏教では「三世」のひとつ (「前世、現世、来世」のこと。仏教以外においては人生に焦点を当てた「過去生、現在生、未来生」という表現もある)。.
来迎
来迎(らいごう、浄土教諸宗では、らいこう)とは、仏教において、念仏行者の臨終の際に阿弥陀三尊が25人の菩薩と共に白雲に乗ってその死者を迎えに来て極楽に引き取ること。その様子を描いた図様は来迎図(らいごうず/らいこうず)という。.
来派
来派(らいは)は、日本刀の刀工の流派の一つであり、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて山城国(京都府)で活動した。主な刀工に国行、国俊(通称「二字国俊」)、来国俊、来国光、来国次らがいる。.
東大寺
東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。 金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である。現別当(住職・222世)は狹川普文。 奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。 東大寺は1998年12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。.
東大寺大仏殿
東大寺大仏殿 東大寺大仏殿(とうだいじだいぶつでん)は、奈良県奈良市の東大寺にある仏堂。東大寺の本尊、盧舎那仏坐像(奈良の大仏)を安置している。 正式には東大寺金堂というが、「大仏殿」の名で広く知られ、東大寺の公式ホームページでも主に「大仏殿」が使用されている。この記事でも、以下「大仏殿」と表記する。 大仏殿は、1181年(治承4年)と1567年(永禄10年)の戦火で2度にわたり焼失し、現在の建物は1709年(宝永6年)に落慶したもので、日本の国宝に指定されている。.
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東大寺盧舎那仏像
東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿(金堂)の本尊である仏像(大仏)。一般に奈良の大仏(ならのだいぶつ)として知られる。 聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われた。その後、中世、近世に焼損したため大部分が補作されており、当初に制作された部分で現在まで残るのはごく一部である。 「銅造盧舎那仏坐像」の名で彫刻部門の国宝に指定されている。 正式には大仏は「盧舎那仏坐像」、大仏殿は「金堂」というが、本項では以下「大仏」、「大仏殿」とする。また、文中の( )の年はユリウス暦、月日は全て和暦、宣明暦の長暦による。.
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東寺
東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある東寺真言宗の仏教寺院。東寺は真言宗の根本道場であり、東寺真言宗の見解では、真言宗全体の総本山としている。「教王護国寺」(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる(名称については「寺号」の節を参照)。山号は八幡山。本尊は薬師如来。寺紋は雲形紋(東寺雲)。 東寺は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。昭和9年(1934年)に国の史跡に指定、平成6年(1994年)12月には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。.
東山区
東山区(ひがしやまく)は、京都市を構成する11区のうちのひとつ。 区内には祇園や三条京阪周辺などの繁華街がある。鴨川左岸の平野部は早くから市街化されているが、東山の西麓には大規模な寺社が林立する。景観条例等の規制が比較的厳しいこともあって、他の区で見られるような山間部の住宅開発は行われておらず、人口は11区中最も少ない。なお、当区の65歳以上の高齢者比率は11区中最も高く、全国の政令指定都市の行政区の中でも6番目に高い。.
東京堂出版
株式会社 東京堂出版(とうきょうどうしゅっぱん)は、東京都千代田区にある日本の出版社。.
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東京国立博物館
東京国立博物館(とうきょうこくりつはくぶつかん)は、日本と東洋の文化財(美術品、考古遺物など)の収集保管、展示公開、調査研究、普及などを目的として独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館である。館長は銭谷真美。 1872年(明治5年)に創設された、日本最古の博物館である。東京都台東区の上野恩賜公園内にある。本館、表慶館、 東洋館、平成館、法隆寺宝物館の5つの展示館と資料館その他の施設からなる。2017年3月31日時点で、国宝88件、重要文化財636件を含む収蔵品の総数は117,190件(2017年11月時点では国宝89件、重文640件)。これとは別に、国宝55件、重要文化財258件を含む総数3,075件の寄託品を収蔵している。2017年度の陳列総件数は約7,200件。2016年度の来館者数は約191万人である。.
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東区 (名古屋市)
東区(ひがしく)は、名古屋市を構成する行政区16区のうちの一つ。1908年(明治41年)の区成立時の名古屋市において東部に位置した地域であったことからこの名がついた。.
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東北地方
東北地方(とうほくちほう)は、日本の地域のひとつであり、本州東北部に位置している。「奥羽地方(おううちほう)」ともいう。 その範囲に法律上の明確な定義はないものの「そもそも『〜地方』といわれる範囲に、法律上の明確な定義はない(総務省)」 首都圏と関東地方・山梨県を含むか含まないか 『日本経済新聞』 平成24年6月16日S3面、一般には青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県の6県を指す『日本地名大百科』、小学館、1996年、pp.776-777 ISBN 4-09-523101-7。これら6県は、本州の約3割の面積を占める。東北地方は東日本に位置するが、気象や歴史地理学などでは北海道と一緒に北日本とされる。.
東国
関東地方 東国(とうごく、あづまのくに)とは、近代以前の日本における地理概念の一つ。東国とは主に、関東地方(坂東と呼ばれた)や、東海地方、即ち今の静岡県から関東平野一帯と甲信地方を指した。実際、奈良時代の防人を出す諸国は東国からと決められており、万葉集の東歌や防人歌は、この地域の物である。尚、東北地方は蝦夷(えみし)や陸奥(みちのく)と呼ばれていた。.
東福寺
京都名所之内 通天橋紅楓(歌川広重) 通天橋 東福寺(とうふくじ)は、京都市東山区本町十五丁目にある臨済宗東福寺派大本山の寺院。山号を慧日山(えにちさん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は、九条道家、開山(初代住職)は円爾である。京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄えた。明治の廃仏毀釈で規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭(山内寺院)を有する大寺院である。.
東関紀行
『東関紀行』(とうかんきこう)は、仁治3年(1242年)成立と考えられる紀行文。中世三大紀行文(ほかに『海道記』、『十六夜日記』)のうちの一つ。作者は未詳。鴨長明、源光行、光行の子の源親行らを作者とする説があったが、おのおのの経歴と齟齬をきたすことから近年では否定されており、作者未詳とすることが一般的となっている。仁治3年(1242年)の、京都東山から鎌倉に赴くまでの道中の体験や感想を主として構成されている。和漢混淆文で、風景描写などが紀行文の優れた型といわれる。『平家物語』や松尾芭蕉にも影響を与えた。.
東慶寺
東慶寺(とうけいじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺院である。山号は松岡山、寺号は東慶総持禅寺。寺伝では開基は北条貞時、開山は覚山尼と伝える。現在は円覚寺末の男僧の寺であるが、開山以来明治に至るまで本山を持たない独立した尼寺で、室町時代後期には住持は御所様と呼ばれ、江戸時代には寺を松岡御所とも称した特殊な格式のある寺であった寺を指して御所と呼ぶものの初出は1667年(寛文7年)の銅製燈明蓋の銘文であり「鎌倉御所之塔頭二老海珠庵」とある(井上禅定1955 p.39)。現存する中で最古の寺法離縁状は1738年(元文3年)のものであるが、そこでも寺を指して「松ヶ岡御所様」と記している(高木侃2012 p.26)。。また江戸時代には群馬県の満徳寺と共に幕府寺社奉行も承認する縁切寺として知られ、女性の離婚に対する家庭裁判所の役割も果たしていた。.
松尾寺 (舞鶴市)
松尾寺(まつのおでら)は、京都府舞鶴市にある真言宗醍醐派の寺院。西国三十三所第29番札所。.
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松尾剛次
松尾 剛次(まつお けんじ、1954年2月14日『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.343 - )は、日本中世史学者、仏教史学者、山形大学教授。官僧・遁世僧研究を基点に、中世日本宗教史の見直しを行なっている。.
松浦宮物語
『松浦宮物語』(まつらのみやものがたり)は、鎌倉時代初期に成立した物語、小説。成立時期は、『無名草子』が「むげに此頃出で来るもの」として鎌倉時代の物語を評して本作品に及ぶことなどから、12世紀後半であろう。.
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板碑
日本最大の青石塔婆である野上下郷石塔婆 板碑(いたび)は、主に供養塔として使われる石碑の一種である。板石卒塔婆、板石塔婆と呼ばれ、特に典型的なものとしてイメージされる武蔵型板碑は、秩父産の緑泥片岩を加工して造られるため、青石塔婆とも呼ばれる。.
杖
杖(つえ、walking stick)とは、体を支えるために用いられる細長くまっすぐな、手で持つのに適した道具。長くて自分の足の長さ程度のもので、木製である場合が多いが、稀に象牙や金属で作られることもある。英語におけるwandは魔術などとのかかわりで伝説や物語に登場することが多いが、元来は農具だったといわれる。日本語での杖にはステッキ(stick)の意味も含まれる。 古いタロットカードの図柄に、杯、硬貨、剣と並んで杖がモチーフとして使われているが、それぞれに聖職者、商人、騎士、農夫を意味している。杖は、農夫の道具で、これで畑の土を掘り起こしていた。この杖、ワンドと呼ぶものは、現在のトランプでは「クラブ」(クローバとも)に取って代られた。 また白杖は視覚障害者の安全の確保のためにも用いられる。.
村井章介
村井 章介(むらい しょうすけ、1949年3月12日 - )は、日本の歴史学者。専門は日本中世史・対外関係史。立正大学文学部史学科教授、東京大学名誉教授、大阪市出身。.
栃木県
栃木県(とちぎけん)は、日本の都道府県の一つ。関東地方北部に位置する。県庁所在地は宇都宮市。県内には日光国立公園が立地し、日光・那須などの観光地・リゾート地を有する。.
栂尾
栂尾(とがのお、とがお、つがお)は、日本語に見られる古い固有名詞のひとつ。 「栂」はツガに通じ、通常針葉樹の一種を指すが、「栂尾」の語源はつまびらかでない。.
桜井市
桜井市(さくらいし)は、奈良県中部、中和地域に位置する市。 縄文時代や弥生時代の土器の欠片が一般の畑などでも見られるなど歴史の深さを窺わせる。また、弥生時代や古墳時代の前方後円墳などの古墳が多く今日まで残る。そのためヤマト王権の中心的な地域であったと考えられ、その前期は三輪王権とも言われるが、今日の三輪地域を指しているとされる。 日本で最も古い神社の一つともいわれる三輪の大神神社、初瀬の長谷寺、多武峰の談山神社、等弥神社などの由緒ある社寺も数多く見られる。宗教的にも歴史が深く古代信仰の形体を知る上でも重要な地区である。また、土舞台(現桜井公園)は日本芸能発祥の地と言われ、“万葉のあけぼのの地”などと呼称されることもある。.
梵字
梵字(ぼんじ)はインドで使用されるブラーフミー系文字の漢訳名である。ブラーフミーは「ブラフマー(梵天)の創造した文字」を意味する。また、単に「梵語(サンスクリット)を表記するための文字」とも解される。日本では歴史的・伝統的に悉曇文字(しったんもじ)を指すことが多く、本項でも主にそちらを説明していく。.
梵鐘
滋賀・園城寺(三井寺)の「弁慶引き摺り鐘」(奈良時代) 梵鐘(ぼんしょう)は、東アジアの寺院などで使用される仏教法具としての釣鐘(つりがね)。撞木(しゅもく)で撞(つ)き鳴らし、重く余韻のある響きが特徴。一般には除夜の鐘で知られる。 「梵」は梵語(サンスクリット)の Brahma (神聖・清浄)を音訳したものである。作られた国によって中国鐘、朝鮮鐘(高麗鐘・新羅鐘)、和鐘(日本鐘)と呼ばれる。別名に大鐘(おおがね)、洪鐘(おおがね、こうしょう)、蒲牢(ほろう)、鯨鐘(げいしょう)、巨鯨(きょげい)、華鯨(かげい)などがある。 法要など仏事の予鈴として撞(つ)くという、仏教の重要な役割を果たす。朝夕の時報(暁鐘 - ぎょうしょう、昏鐘 - こんしょう)にも用いられる。ただし、梵鐘は単に時報として撞かれたものではなく、その響きを聴く者は一切の苦から逃れ、悟りに至る功徳があるとされる。こうした梵鐘の功徳については多くの鐘の銘に記されている。 青銅製が多いが、小型のものにはまれに鉄製もある。小型のもの(一説には直径1尺7寸以下)は半鐘(喚鐘、殿鐘)といい、高い音で、用途も仏事以外に火事などの警報目的でも使われる。 響きをよくするために鋳造の際、指輪(金)を入れることがあるといわれ、江戸時代には小判を鋳込んだ例もある。雅楽と鐘の関係を記す文献もある。.
椅子
椅子(いす、seat)とは、こしかけるために作られたものや、こしかけるために使われているものOxford Dictionary, "seat".
椀
椀(わん)とは飯や汁物などを盛るための食器日本民具学会 『日本民具辞典』ぎょうせい p.613 1997年。土製、金属製、木製、石製のものがある。木製のものを木偏の椀、陶磁器製のものは石偏の碗、金属製のものには金偏の鋺の字を用いる。 複数用途に用いられる食器で汁物の料理以外でも用いられる。水平投影の形状が円、底部が円形に湾曲しており、糸底があり、片手で持ち上げることのできるものを椀と呼ぶ。 大別して飯椀と汁椀、盛椀の三種類がある。同様の料理を入れる食器に鉢があるが、鉢は皿よりも深く、椀よりも浅い開口部の広く開いた形状の器を呼ぶ。 日本で古くから使用されており、正倉院には玉、ガラス、銀、黄銅製のものがある。鎌倉時代には飯椀と汁椀のほかに、壷椀、腰高椀などが現れた。 塗物椀は漆器産地の隆盛を経て近世以降に民衆にまで普及した日本民具学会 『日本民具辞典』ぎょうせい p.613-614 1997年。磁器製の碗も近世になって量産されるようになったが、全国的に普及したのは鉄道の発達した明治時代になってからである日本民具学会 『日本民具辞典』ぎょうせい p.614 1997年。現代では取り扱いの便利なプラスチック製のものも普及している。.
楠木正成
楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。父は楠木正遠とされる。息子に正行、正時、正儀がいる。 後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の新政の立役者として足利尊氏らとともに天皇を助けた。尊氏の反抗後は新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。 明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。.
楽器
楽器(がっき、musical instrument)とは一般的には「音楽の素材としての音を発するための道具の総称下中直也(編) 『音楽大事典』 全6巻、平凡社、1981年」「音楽に使用される音を出す器具『音楽中辞典』 音楽之友社、1979年」とされる。.
極楽
極楽(ごくらく、sukhāvatī, スカーヴァティー、蔵;, デワチェン)とは、阿弥陀仏の浄土であり、サンスクリット語「スカーヴァティー」は「スカー」(sukhā)に「ヴァティー」(vatī)を加えたもので「幸福のあるところ」「幸福にみちみちてあるところ」の意味。須呵摩提(しゅかまだい)、蘇珂嚩帝(そかばってい)、須摩提(しゅまだい)、須摩題などと音表され、安楽、極楽、妙楽などと訳出された。 『阿弥陀経』には「其の国の衆生、衆苦有ること無く、但だ諸楽を受くるが故に極楽と名づく」という。.
極楽寺 (鎌倉市)
極楽寺(ごくらくじ)は、神奈川県鎌倉市極楽寺三丁目にある真言律宗の寺院である。山号は霊鷲山(りょうじゅさん)。詳名を「霊鷲山感応院極楽律寺」と称する。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は北条重時、開山は忍性である。 鎌倉市の西部、鎌倉七口の1つである極楽寺坂切通の近くにある、鎌倉では珍しい真言律宗の寺院である。僧忍性が実質的な開祖である。中世には子院49箇院を有する大寺院であった。また周辺の町名でもある。.
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横須賀市
横須賀市(よこすかし)は神奈川県南東部の三浦半島に位置する都市である。中核市に指定されている。.
横浜市
横浜市(よこはまし)は、関東地方南部、神奈川県の東部に位置する都市で、同県の県庁所在地。政令指定都市の一つであり、18区の行政区を持つ。現在の総人口は日本の市町村では最も多く、四国地方に匹敵するおおよそ373万人であり1府37県の人口を上回る。人口集中地区人口も東京23区(東京特別区)に次ぐ。神奈川県内の市町村では、面積が最も広い。市域の過半は旧武蔵国で、南西部は旧相模国(戸塚区、泉区、栄区の全域と瀬谷区、港南区の一部)。 幕末以降(詳しくは後述)から外国資本が積極的に当地に進出。そのため近代日本において有数の外資獲得力を誇った。関東大震災後は政府による積極的な振興政策により、京浜工業地帯の中核都市となった。.
樺太
樺太(からふと)、樺太島(からふととう、、)、サハリン、サハリン島は、ユーラシア大陸の東方、オホーツク海の南西部にあるロシア連邦サハリン州の島。広義の日本列島に含む場合もある。南北約948km、東西の幅最大約160kmで南北に細長い。面積76,400kmは世界第22位で21位の北海道(78,073km)より若干小さい。人口約50万人。最大都市はサハリン州の州都でもあるユジノサハリンスク(人口約18万人)。 樺太は、日露戦争後のポーツマス条約により北緯50度線を境界に南北に分割され、それぞれ異なる沿革を経たため、ここでは北緯50度以北を「北樺太」(または「北サハリン」)、以南を「南樺太」と表記する。 現在、サハリンプロジェクトが進められている。.
橘成季
橘 成季(たちばな の なりすえ、生没年不詳)は、鎌倉時代の人物。橘則光の後裔である橘光季の養子。官職は伊賀守。『古今著聞集』の作者。.
橋
橋(はし)、橋梁(きょうりょう)とは、地面または水面よりも高い場所に設けられた道である。.
檜皮葺
檜皮葺(東寺) 檜皮葺(ひわだぶき)とは、屋根葺手法の一つで、檜(ひのき)の樹皮を用いて施工する。 日本古来の伝統的手法で、世界に類を見ない日本独自の屋根工法である。多くの文化財の屋根で檜皮葺を見ることができる。.
櫛引八幡宮
櫛引八幡宮(くしひきはちまんぐう)は、青森県八戸市にある神社(八幡宮)である。旧社格は郷社。境内は「八幡山」と呼ばれ、樹齢100年以上の老杉が立ち並ぶ。 本殿など5棟の社殿が重要文化財に指定され、国宝や重要文化財の甲冑なども境内国宝館において一般公開されている。.
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歎異抄
『歎異抄』(たんにしょう)は、鎌倉時代後期に書かれた日本の仏教書である。作者は、親鸞に師事した唯円とされる。書名は、その内容が親鸞滅後に浄土真宗の教団内に湧き上がった異義・異端を嘆いたものである。『歎異鈔』とも。.
正宗
正宗(まさむね、生没年不詳)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期に相模国鎌倉で活動した刀工。五郎入道正宗、岡崎正宗、岡崎五郎入道とも称され、日本刀剣史上もっとも著名な刀工の一人(おもちゃの刀に「名刀正宗」と刻印されるほどである)。「相州伝」と称される作風を確立し、多くの弟子を育成した。正宗の人物およびその作った刀についてはさまざまな逸話や伝説が残され、講談などでも取り上げられている。「正宗」の名は日本刀の代名詞ともなっており、その作風は後世の刀工に多大な影響を与えた。.
正安
正安(しょうあん)は、日本の元号の一つ。永仁の後、乾元の前。1299年から1301年までの期間を指す。この時代の天皇は後伏見天皇、後二条天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条貞時、北条師時。.
正中 (元号)
正中(しょうちゅう)は、日本の元号の一つ。元亨の後、嘉暦の前。1324年から1326年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。.
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正治
正治(しょうじ)は、日本の元号の一つ。建久の後、建仁の前。1199年から1200年までの期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源頼朝(死後は空位)。.
正法眼蔵
正法眼蔵(しょうぼうげんぞう、正法眼藏)は、主に禅僧である道元が執筆した仏教思想書を指す。正法眼蔵という言葉は、本来は仏法の端的な、すなわち肝心要の事柄を意味する。禅家はこれをもって教外別伝の心印となす。著者によって大別すると、次の3種類に分かれる。.
正法眼蔵随聞記
『正法眼蔵随聞記』(しょうぼうげんぞうずいもんき)は、禅僧で曹洞宗開祖道元禅師の2歳年長の弟子で、永平寺2世である孤雲懐奘が記した曹洞禅の語録書である。嘉禎年間に成立した。 懐奘は約20年間にわたり師・道元に近時(随侍)し、道元が折にふれ弟子たちに説いた言葉や、道元との問答を克明に筆記したのが『正法眼蔵随聞記』である、懐奘没後に弟子たちがまとめた。道元の人となりや『正法眼蔵』を理解する上での基本文献である。.
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武士
武士(ぶし)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在した、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。「もののふ」(cf. wikt) とも読み倣わすが、その起源については大伴氏や物部氏の名に求めるなど諸説がある。 同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(用例:武者絵、武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者などさらには、「影武者」のように、本義のほかに一般用語としても使われるようになった語もある。)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士とは言え、呼ぶことが間違いというわけではない。はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、侍、兵/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は性別を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、女性の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って女武者(おんなむしゃ)という呼び方をする「女武士」や「姫武士」などという呼称は見られない。。 武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめ、古代を終焉させたとする理解が通常されている。旧来の政権を傀儡として維持したまま自らが実質的に主導する中世社会を構築した後は、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。近代に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府(明治政府)であった。.
武家
武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.
武家造
武家造(ぶけづくり)とは、鎌倉時代の武家住宅の様式と想定されたものである。実用性を重視し、簡素な造りであり、貴族文化に対抗した武家にふさわしい住宅様式と考えられた。 しかし、武家も元は貴族の出自を持ち、その邸宅も寝殿造を簡素化したもので、独自の様式とは捉えないのが、建築史(住宅史)の通説になっている。現在では、この語は使用されず、一般に「書院造」の中に含めて説明される。.
武家政権
武家政権(ぶけせいけん)は、日本史の平安時代後期から江戸時代にかけて、武家の棟梁(軍事貴族)を長として、地方社会を実効支配する武士層を掌握した中央政権を指す。武士政権(ぶしせいけん)とも呼ぶ。.
武蔵坊弁慶
『和漢英勇画伝』より「義経 弁慶と五条の橋で戦ふ」(歌川国芳画)五条大橋での戦いを描いた江戸時代の浮世絵 武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい、武藏坊辨慶、? - 文治5年閏4月30日〈1189年6月15日〉?)は、平安時代末期の僧衆(僧兵)。源義経の郎党。 『義経記』では熊野別当の子で、紀伊国出身だと言われるが詳細は不明。元は比叡山の僧で武術を好み、五条の大橋で義経と出会って以来、郎党として彼に最後まで仕えたとされる。講談などでは、義経に仕える怪力無双の荒法師として名高く、ほか創作の世界でも義経と並んで主役格の人気があり、怪力の者や豪傑の代名詞としても広く用いられている。.
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武蔵国
武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。.
歯
歯(は、tooth)は、口腔内にある咀嚼するための一番目の器官。人体でもっとも硬く、遺体ではその治療状況によって人物の特定の重要な手掛かりとなる。人工歯と区別する意味で天然歯と言うこともある。多くの種類の構造を持ち、それぞれが異なる目的を果たす。歯学では、過去には歯牙(しが)と言ったが、現在は使わない傾向にある。 また、それに似たものを歯ということがある。例えば歯車、鋸歯など。 歯の部位を示すために、歯の内側を舌側、口蓋側、外側を唇側、頬側、正中に近い方を近心、反対側を遠心、上端下顎の歯の場合。上顎の歯の場合は下端。を切縁、咬合面という。 多くの高等動物が持つ。人間は乳歯と永久歯の二組を持つが(二生歯性)、ネズミ目のように一組の歯が伸び続ける動物もいれば(一生歯性)、サメのように、二週間に一組ずつ新しい歯が作られていく動物もいる(多生歯性)。化石化した哺乳類においてもっとも特徴的な部位であり、古生物学者達は化石の種類や関係を鑑別するのにしばしば歯を使う。 歯は摂食の際の重要な構造であり、その形は餌のタイプと強く結びついている。.
歴史哲学
歴史哲学(れきしてつがく、英語:philosophy of history)は歴史学のあり方、目的などについて考察を加える哲学の一分野である。.
歴史資料
歴史資料(れきししりょう)とは、歴史を考察する際に必要な資料。「史料」と同義に用いられることも多いいっぽう、「史料」は、より狭義に用いる場合がある。およそ以下の5つに大別できる。.
歌合
歌合(うたあわせ)とは、歌人を左右二組にわけ、その詠んだ歌を一番ごとに比べて優劣を争う遊び及び文芸批評の会。.
歌学
歌学(かがく)は、和歌の本質・作法、古歌の解釈、故実、歴史など和歌に関する総てを研究する学問。通常、和歌の本質論は歌論と称し、それ以外の和歌に関する諸知識を求める学問を歌学と称する。.
歌道
歌道(かどう)とは、和歌の創作や和歌自体に関する学問(歌論・歌学)を追究する学芸を道に擬えたもの。.
歌舞伎
歌舞伎(かぶき)は、日本固有の演劇で、伝統芸能の一つ。重要無形文化財(1965年4月20日指定同日文化財保護委員会告示第18号「無形文化財を重要無形文化財に指定する等の件」)。歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は2005年にユネスコにおいて傑作宣言され、2009年9月に無形文化遺産の代表一覧表に記載された。.
毎月抄
『毎月抄』(まいげつしょう)は、1219年(承久元年)歌人藤原定家が著した歌論書。 形態は、ある人が毎月定家に和歌の添削を請い、それに対し定家が和歌の作法について10種類の有り様(有心体、幽玄な様、事の然るべき様、麗しい様、長高な様、見様、面白い様、一節ある様、濃い様、鬼拉体)を説きながら指導したもので、特に有心体を重要視したものである。 Category:鎌倉時代の文学 Category:鎌倉時代の書籍 Category:歌論 Category:藤原定家 Category:13世紀の書籍.
毘沙門天
多聞天像(東大寺金堂) 毘沙門天(びしゃもんてん、梵名: ヴァイシュラヴァナ、वैश्रवण, 、Vessavaṇa)は、仏教における天部の仏神で、持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神であり、四天王では多聞天として表わされる。また四天王としてだけでなく、中央アジア、中国など日本以外の広い地域でも、独尊として信仰の対象となっており、様々な呼び方がある。種子はベイ(वै, )。.
比叡山
比叡山(ひえいざん)は、滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山。大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡(848.3m)と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、838m)の二峰から成る双耳峰の総称である。高野山と並び古くより信仰対象の山とされ、延暦寺や日吉大社があり繁栄した。東山三十六峰に含まれる場合も有る。別称は叡山、北嶺、天台山、都富士など。.
氏寺
氏寺(うじでら)とは、飛鳥時代に古墳、特に前方後円墳に代わって在地首長やヤマト王権構成員として君臨してきた有力氏族や王族の新たな祭祀儀礼の場として造られるようになった仏教の寺院である。中世頃からしだいに菩提寺とも呼ばれるようになった。 主な代表例としては聖徳太子が建立した法隆寺(斑鳩寺)や蘇我氏が建立した飛鳥寺、それに秦氏が建立した広隆寺がある。 地方では、その土地の豪族が氏寺を建てているのがみられる。例えば、相模国分寺のように伽藍様式が天平様式より古い法隆寺式伽藍であったり、瓦も白鴎様式であったりするのは、郡司の氏寺を改修して国分寺としたと推定される。また、小田原市千代台の千代廃寺からも白鳳様式の瓦が出土しており、これも郡司の氏寺であったと考えられている。 仏教が、限られた皇族や有力豪族が鎮護国家という形で王権、国家、地域共同体の維持繁栄を祈るための信仰として受容されたものから拡大して個人を救う信仰としても貴族社会全般に浸透し、その信仰が武家や一般民衆まで及ぶ中世に入ると、氏寺も古代のそれとは変化していった。「氏」という一グループの信仰や供養を受ける氏寺のみならず、「氏」を構成する「家」それぞれにも氏寺(家寺と呼ぶべきか)が持たれるようになり、それぞれ氏や家に応じた仏事を執り行うようになった。 仏事といった信仰的・宗教的行為の役割のみならず、氏寺の存続・発展の為の荘園経営や、本来主人たる氏や家へ対しての経済援助や助言といった活動を行う氏寺も出てきた。一方的な保護・援助の対象から、氏や家との密接な関係を保ちつつ、存続と自立的発展を目的としており、氏寺の中世的展開として注目される。.
氏神
氏神(うじがみ)は、日本において、同じ地域(集落)に住む人々が共同で祀る神道の神のこと。同じ氏神の周辺に住み、その神を信仰する者同士を氏子(うじこ)という。現在では、鎮守(ちんじゅ)ともほぼ同じ意味で扱われることが多い。氏神を祀る神社のことを氏社という。 本稿では、氏神・鎮守・産土神・氏子などについて記述する。.
水原抄
『水原抄』(すいげんしょう)は、鎌倉時代に河内方によって著されたとされる『源氏物語』の注釈書である。『原中最秘抄』の奥書のように「水原鈔」(「抄」の手偏が金偏になっている)と表記しているものもある。「水原」とは『源氏物語』の「源」の一文字を「偏(サンズイ)=水」と「旁=原」に分割したものであるとされる。.
水干
水干(時代祭) 水干(すいかん)は、男子の平安装束の一つ。名称は糊を付けず水をつけて張った簡素な生地を用いるからとも、晴雨両用に便利なため(『続深窓秘抄』)ともいうが、いずれにせよ簡素な服飾であることからの命名のようである。 狩衣に似て盤領(丸えり)の一つ身(背縫いがない)仕立てである。ただし襟は蜻蛉で止めず、襟の背中心にあたる部分と襟の上前の端につけられた紐で結んで止める。胸元と袖には総菊綴(ふさきくとじ)の装飾がある。袖口部分には袖括りがあり、刺し貫いた長部分を「大針」、短部分を「小針」と言い、下に出た余り部分を「露」と称した。 平安時代末期の絵巻では、都の庶民の多くが水干を着ている様子が見られる。生地は絹や麻布など一定しない。庶民は麻を染めたり摺ったりして色や文様を表した生地を用いていたようであるし、貴族が着る場合は高級な生地を多用した。また鎌倉時代から室町時代には公武の童形(元服前)の礼装として多用される。白拍子の水干も、童形水干と発想がつながるものであろう。 着装は通常袴に籠めて着装するが、寺院の稚児などには掛水干といって狩衣のように袴の上に着て帯を締める着装も行われた。襟の紐は普通に結ぶほか、襟を折って胸前で結ぶなどさまざまな着方が行われ、近世武家故実においては諸説がおこなわれた。 貴族の着装の機会は、院政期から鎌倉時代に、上皇が宇治などの遠所に御幸するときに供奉の貴族が用いた例などを挙げることができ、鎌倉時代後期の「春日権現験記絵」や「なよ竹物語絵巻」では貴族が家庭内での略装として黄色い無文水干を用いている図が見られる。しかし、室町時代に入ると貴族にも直垂が広まり、武家も直垂を多用したので、童水干などを除いて着装機会は減少した。近世では新井白石像に水干着装図が見られるなどしばしば用いられたが、幕府の服飾制度からは脱落している。公家社会では、白生平絹や白精好地に白い紐、黒い袖括りと菊綴をつけ、同じ生地で黒い菊綴を着けた「長絹」という水干が童形の礼装として多用された。またしばしば公家の従者の装束としても使用されている。 女子用としては白拍子が用いたことが良く知られている。第二次世界大戦後は女子神職の略装として掛水干が用いられたが、平成に入って女子神職の装束が新たに制定されて、神社本庁の服制からも脱落することとなった。なお、出雲大社では平成28年の規則改訂後も女性の水干使用が認められている。.
水無瀬神宮
水無瀬神宮(みなせじんぐう)は、大阪府三島郡島本町にある神宮。旧社格は官幣大社。旧称は水無瀨宮。 後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇を祀る。 境内には、環境庁認定「名水百選」に選ばれた「離宮の水」がある。.
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水鏡
『水鏡』(みずかがみ)は、歴史物語。成立は鎌倉時代初期(1195年頃)と推定される。.
水野敬三郎
水野 敬三郎(みずの けいざぶろう、1932年3月29日- )は、日本の仏像美術史学者、東京芸術大学名誉教授、新潟県立近代美術館名誉館長。 東京生まれ。東京大学教養学部卒。同大学院人文科学研究科美術史に学ぶ。東京国立博物館学芸部美術課勤務、東京芸術大学美術学部教授、96年定年退官、名誉教授。新潟県立近代美術館館長、名誉館長。.
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永万
永万(えいまん、正字体:永萬)は、日本の元号の一つ。長寛の後、仁安の前。1165年から1166年までの期間を指す。この時代の天皇は二条天皇、六条天皇。.
永平
永平(えいへい).
永平寺
永平寺(えいへいじ)は、福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の寺院。總持寺と並ぶ日本曹洞宗の中心寺院(大本山)である。山号を吉祥山と称し、寺紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)である。開山は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。.
永仁
永仁(えいにん)は、日本の元号の一つ。正応の後、正安の前。1293年から1298年までの期間を指す。この時代の天皇は伏見天皇、後伏見天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条貞時。.
永保寺
永保寺(えいほうじ)は、岐阜県多治見市にある臨済宗南禅寺派の寺院。山号は虎渓山(こけいざん)。 雲水の修行道場(僧堂)である虎渓山専門道場を併設している。 美濃七福神の一つ(寿老人)。.
永福寺
永福寺(えいふくじ、えいふくてら、ようふくじ)は、各地にある仏教寺院の名称。.
永福寺跡
永福寺跡 永福寺跡(ようふくじあと)は、神奈川県鎌倉市二階堂「旧二階堂村」にある史跡。永福寺は鎌倉時代初期、源頼朝が中尊寺の二階大堂、大長寿院を模して建立した寺院で、鶴岡八幡宮、勝長寿院とならんで当時の鎌倉の三大寺社の一つであった。二階建てであった事から二階堂とも称された。寺跡は国の史跡に指定されている。世界遺産候補となっている武家の古都・鎌倉の構成資産のひとつ。.
永青文庫
永青文庫(えいせいぶんこ)とは、東京都文京区目白台にある、日本・東洋の古美術を中心とした美術館である。旧熊本藩主細川家伝来の美術品、歴史資料や、16代当主細川護立の蒐集品などを収蔵し、展示、研究を行っている。運営主体は公益財団法人永青文庫。理事長は18代当主の細川護煕(元内閣総理大臣)。 熊本市の熊本城二の丸にある熊本県立美術館が「永青文庫展示室」を設け、永青文庫所蔵品の一部を年に数回入れ替えながら展示しているほか、東京国際空港第2旅客ターミナル内にある「ディスカバリーミュージアム」でも所蔵品の一部が企画を替えながら展示されている。.
民間人
民間人(みんかんじん、private citizen)とは、「政府の機関・組織に属さない人」、及び「(軍人等の)戦闘員ではない人々」のこと。 英語ではprivate citizenに相当する。なお、private citizenに近い意味の言葉として:en:private sector(民間部門)という言葉もある。.
江刺
江刺(えさし);地名.
江戸時代
江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.
河内長野市
河内長野市(かわちながのし)は、大阪府南河内地域に位置する市。 この市は、1954年(昭和29年)に長野町をはじめとする6町村が合併しており、市の中心部に対しては旧町名を用いて長野と呼称される。南部の山麓地域では奥河内という観光名称が使われ、滝畑四十八滝や岩湧山などの大自然、観心寺や金剛寺、高野街道などの歴史的価値のある史跡や建造物が残る。楠木氏ゆかりの地としても知られており国宝・重要文化財数に関しては全国の市町村のうち日光市に次いで12番目に多い自治体であることから「文化財のまち 河内長野」と称される。 大阪都心まで約30分、関西国際空港へは約1時間という交通至便の地にありながら、市を囲む山並みは壮観で、市内に居ながらにして大自然を満喫できることなどから、市制施行以降、市内各地にニュータウン(新興住宅地)が造成され、衛星都市として発展してきた。 週刊東洋経済の「日本のいい街ランキング」によると2012年発表の総合ランキングで全国788市中149位(大阪府内33市中8位)と2010年の288位より大きく順位を上げた。同誌の「安全・安心な街ランキング」においては、大阪府内で第1位を記録している。 市内全域において10月2週目にはだんじり祭が盛んに行われており、ぶんまわし(全地区)や、曳き歌(市町東、向野町、三日市地区)、やりまわし(三日市地区)などの泉州や南河内など様々な形態の祭りが盛んに行われている。 また、河内長野市は、爪楊枝(つまようじ)の産地としても知られており、全国の爪楊枝の生産の大半がここ河内長野で行われている。.
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河出書房新社
株式会社河出書房新社(かわでしょぼうしんしゃ)は、日本の出版社である。本社は東京都渋谷区千駄ヶ谷にある。 3代目社長の河出朋久は歌人でもあり、歌集『白葉集』1-3(短歌研究社、2004-06)がある。佐佐木幸綱、高野公彦、小野茂樹など学生歌人を社員登用していたこともある。.
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治承
治承(じしょう / ちしょう)は、日本の元号の一つ。安元の後、養和の前。1177年から1181年までの期間を指す。この時代の天皇は高倉天皇、安徳天皇。 治承期は、平氏政権の本格的な確立期および、それに反発して起こった全国的な内乱、すなわち治承・寿永の乱の初期に当たる。源頼朝の関東政権では、この先の養和・寿永の元号を使わず、治承を引き続き使用した。.
治承・寿永の乱
治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模な内乱である。古代最後の内乱であり中世最初の内乱である。後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。 一般的には「源平合戦(げんぺいかっせん、げんぺいがっせん)」あるいは「源平の戦い(げんぺいのたたかい)」などの呼称が用いられることがあるが、こうした呼称を用いることは適当でないとする議論がある(詳しくは後述)。また、奥州合戦終結までを治承寿永の乱に含めるという見解もある。.
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沿海州
沿海州(えんかいしゅう、Примо́рье)は、19世紀後半から20世紀初頭にかけてロシア帝国が極東地域(極東ロシア)においていた州である。日本語名の「沿海州」は、ロシア語名「プリモーリエ(Приморье)」の訳語である。.
沙石集
『沙石集』(しゃせきしゅう / させきしゅう)は、鎌倉時代中期、仮名まじり文で書かれた仏教説話集。十巻、説話の数は150話前後。無住道暁が編纂。弘安2年(1279年)に起筆、同6年(1283年)成立。その後も絶えず加筆され、それぞれの段階で伝本が流布し異本が多い。記述量の多い広本系と、少ない略本系に分類される。 『沙石集』の名義は「沙から金を、石から玉を引き出す」ことをいい、世俗的な事柄によって仏教の要諦を説く意味であると言われている。僧侶の立場から経典を多く引用しているが、作者が博識であり好奇心に富んでいるため、単なる説教を脱化して興味津々たる文学作品となっている。 日本・中国・インドの諸国に題材を求め、霊験談・高僧伝から、各地を遊歴した無住自身の見聞を元に書いた諸国の事情、庶民生活の実態、芸能の話、滑稽譚・笑話まで実に多様な内容を持つ。その通俗で軽妙な語り口は、『徒然草』をはじめ、後世の狂言・落語に多大な影響を与えた。 完本注解は、「日本古典文学大系.85」(岩波書店)と、「新編日本古典文学全集.52」(小学館)に所収。 category:日本の説話集 Category:仏教文学 Category:鎌倉時代の文学 Category:13世紀の書籍.
波多野義重
波多野 義重(はたの よししげ)は、鎌倉時代中期の武将。波多野氏の一族。父は波多野忠綱(忠経とも)。初名を宣政といった。北条重時の娘を妻とし、重時の被官として活躍した。.
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注釈
注釈(註釈この意味での「註」と「注」は同音同義で、当用漢字以前でも「註釋」と「注釋」の表記がともに用いられた。「註」は常用漢字外。、ちゅうしゃく)とは、既述の文章や専門用語についての補足・説明・解説のこと。補注(補註、ほちゅう)とも、単に注(註、ちゅう)ともいう。※(米印)や・(中黒)、あるいは「注」や「註」の文字に続けて書かれる。 書物においては、注釈は可読性を考慮して本文と同じ頁の下部に置かれることもあるほか、すべてをまとめて巻末に置くこともある。この場合、前者を脚注、後者を後注(または尾注)という。ただし今日ではすべての注釈や補注に「脚注」の語をあてる用法が増えている。.
法師
法師(ほうし或いはほっし、のりのし、)は僧侶に対する呼称の1つ。.
法典
法典(ほうてん、、、)とは、体系的に編成された成文法の集成。伝統的には、特定の法分野について当該分野における一般原則を含みつつ幅広く規律する大規模なものを指すのが通常であったが、ある法域全体の又はそのうちの特定の法分野についての公式の法令集が「法典」と呼ばれることもある。また、その法的性質は、必ずしも法律とは限らない。 法典の整備は国家にとっては、その権力と法秩序の根源を明確化してその正統性を強化するとともに、国内で不統一であった法体系を明確化して法律の安定化を促し、裁判官による恣意的な裁判を抑止する目的もあった。だが、その一方で法の硬直化と欠缺を生み出すとする批判もある。 こうした法典は古くは古代バビロニアの「ハンムラビ法典」、古代ローマの「十二表法」、東ローマ帝国の「ローマ法大全」、神聖ローマ帝国の「カロリーナ刑事法典(カール法典)」、フランス帝国の「ナポレオン法典」などがあり、東アジアの律令法も一種の法典であると言えるが、近代法に則った法典整備が行われるのは、19世紀以後の事である。これを特に「法典化」と呼ぶ。この動きは現代においては、従来衡平法・判例法を重んじて法典編纂に消極的といわれてきた英米法系の国々にも及んでいる。.
法勝寺
京都市勧業館にあった法勝寺の模型(現在は京都市平安京創生館に移設) 法勝寺(ほっしょうじ)は、平安時代から室町時代まで平安京の東郊、白河(現在の岡崎公園、京都市動物園周辺)にあった、六勝寺のひとつである。 白河天皇が1076年(承保3年)に建立した。皇室から厚く保護されたが、応仁の乱以後は衰微廃絶した。.
法然
法然(ほうねん、長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。法然は房号で、諱は源空(げんくう)。幼名を勢至丸。通称は黒谷上人・吉水上人とも。 謚号は、慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・天下上人無極道心者・光照大士である.
法相宗
法相宗(ほっそうしゅう)は、インド瑜伽行派(唯識派)の思想を継承する、中国の唐時代創始の大乗仏教宗派の一つ。645年(唐代、貞観19年)中インドから玄奘が帰国し唯識説が伝えられることになる。その玄奘の弟子の慈恩大師基(一般に窺基と呼ぶ)が開いた宗派である。唯識宗・慈恩宗・中道宗とも呼ばれる。705年に華厳宗が隆盛になるにしたがい、宗派としてはしだいに衰えた。 日本仏教における法相宗は、玄奘に師事した道昭が法興寺で広め、南都六宗の一つとして、8-9世紀に隆盛を極めた。.
法華宗
法華宗(ほっけしゅう)とは、妙法蓮華経を依拠教典とする仏教の宗旨に対して使用される呼称のひとつ。以下の各種の用法で用いられる。.
法華経
法華経の 現代の解説書にはしばしば、このような写真とこのような主旨の解説が添えられている。。 『法華経』(ほけきょう、ほっけきょう)は、大乗仏教の代表的な経典。大乗仏教の初期に成立した経典であり、誰もが平等に成仏できるという仏教思想の原点が説かれているNHK 100分de名著 法華経[新]第1回「全てのいのちは平等である」2018年4月2日放送。聖徳太子の時代に仏教とともに日本に伝来した聖徳太子によって著されたとされる法華経の注釈書「法華経義疏」は、三経義疏の1つである。。.
法要
法要(ほうよう)とは、.
法親王
法親王(ほうしんのう、ほっしんのう)とは、日本の男子皇族が出家して僧籍に入った後に親王宣下を受けた場合の身位・称号。 これに対して、すでに親王宣下を受けている親王が出家(入道)した場合は入道親王と呼んで区別した。.
法輪寺
法輪寺(ほうりんじ).
泉涌寺
泉涌寺 (せんにゅうじ)は、京都市東山区泉涌寺山内町(やまのうちちょう)にある真言宗泉涌寺派総本山の寺院。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏。 平安時代の草創と伝えるが、実質的な開基(創立者)は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)である。東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ばれている。真言宗十八本山8番札所。洛陽三十三所観音霊場20番札所。京都十三仏霊場6番札所。泉山七福神巡り番外(楊貴妃観音)札所。.
津軽半島
津軽半島(つがるはんとう)は、本州の北端の半島のひとつである。東岸は青森湾・陸奥湾とその開口部である平舘海峡を挟んで下北半島に対峙する。一方、北岸は津軽海峡を挟んで北海道松前半島に対峙する。西岸は日本海である。全体が青森県に属する。 最北端は竜飛崎(龍飛崎)と呼ばれる。これは北岸の西端に位置し、北岸の東端の高野崎との間に三厩湾がある。竜飛岬から東南東に向かって津軽山地と呼ばれる山脈が続く。竜飛岬から南に小泊岬がある。さらに西岸を南に進むと、十三湖という内潟がある。そこからの海岸は七里長浜と呼ばれる。この内陸には、田光沼などの湖沼が数多く存在し、半島付け根まで続く。.
添削
添削(てんさく)とは、作文、レポート、答案、文章、詩歌などを、書き加えたり削ったりすることで直す作業のことである。 添削は、教師が学習者(児童・生徒・学生など)の答案や作文、レポートなどを点検する際に行われる学習指導の1つである。添削されたものは学習者が復習などに活用したり、文章や作品をよりよいものにするために参考にしたりする。 普通、添削は赤色の筆記用具を使って行う。そのため、添削された作品あるいは添削された部分を、朱書き(しゅがき)や赤入れ(あかいれ)などということもある。ベネッセコーポレーションの進研ゼミにおける赤ペン先生は、まさに通信教育における添削指導の一例である。.
渡島半島
渡島半島(おしまはんとう)は北海道南西部にある半島。広義には石狩湾から勇払平野にかけての石狩低地帯より西の地域をいうこともあるが、一般には寿都と長万部を結ぶ黒松内低地以南の地域を指す。渡島半島によって北・西・南の三方を囲まれた湾は内浦湾。.
渥美窯
渥美窯(あつみよう・あつみがま)は、愛知県渥美半島(田原市の大部分及び豊橋市の一部)に分布している古窯群。日本三大古窯の一つにも数えられる大阪府「陶邑窯」と愛知県「猿投窯」、および本窯をもって「三大」と数えるが、他2窯が5世紀の須恵器窯に始まるのに対し、本窯は12世紀代以降の山茶碗・瓦窯であるため、福岡県最大の古代須恵器窯である「牛頸窯」を代わりに充てる場合がある。。 秋草文壺(国宝)慶應義塾蔵 平安時代後期.
清少納言
清少納言(せいしょうなごん-->、康保3年頃〈966年頃〉 - 万寿2年頃〈1025年頃〉)は、平安時代中期の女流作家、歌人。随筆『枕草子』は平安文学の代表作の一つ。.
清元節
清元節(きよもとぶし)または清元(きよもと)とは、三味線音楽のひとつで、浄瑠璃の一種。主として歌舞伎や歌舞伎舞踊の伴奏音楽として用いられる。.
清雲寺
清雲寺(せいうんじ)は、日本の寺院。.
清水寺
清水寺(きよみずでら)は、京都府京都市東山区清水にある寺院。山号は音羽山。本尊は千手観音、開基(創立者)は延鎮である。もとは法相宗に属したが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。西国三十三所観音霊場の第16番札所である。.
清水寺 (大阪市)
清水寺(きよみずでら)は、大阪市天王寺区伶人町(れいにんちょう)にある仏教寺院。宗派は天台系の和宗に属する。山号は有栖山であり、詳名は有栖山清光院清水寺(ありすさん せいこういん きよみずでら)である。和宗総本山・四天王寺支院。宗教法人としては清光院で登録よりされている。 大阪市内唯一の天然の滝とされる「玉出の滝」(たまでのたき)があることでも知られている。 京都の清水寺を模して建立されたために、新清水寺(しんきよみずでら)とも呼ばれる。境内の西側の崖に「清水寺舞台」と称するテラスがあり、京都の清水寺を彷彿とさせるが、現在はテラスだけで堂はない。.
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清水眞澄
清水 眞澄(しみず ますみ)は、日本人の人物名。.
清浄光寺
清浄光寺(しょうじょうこうじ)は、神奈川県藤沢市にある時宗総本山の寺院。藤沢山無量光院清浄光寺と号す。近世になって遊行寺(ゆぎょうじ)と通称され、明治時代より法主(ほっす)・藤沢上人と遊行上人が同一上人であるために通称の遊行寺の方が知られている。藤沢道場ともいう。.
湛慶
湛慶(たんけい、 承安3年(1173年) - 建長8年5月19日(1256年6月13日))は、鎌倉時代の慶派仏師。運慶のもうけた男子、次男康運、三男康弁、四男康勝など皆、仏師になったが、なかでも嫡男の湛慶は、運慶、快慶とならぶ大家として知られる。.
源実朝
源 実朝(みなもと の さねとも、實朝)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍。 鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡出の次男頼朝の子としては第6子で四男、北条政子の子としては第4子で次男として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。 歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として『金槐和歌集』がある。小倉百人一首では鎌倉右大臣とされている。.
源家長
源 家長(みなもと の いえなが、嘉応2年(1170年)? - 文暦元年(1234年))は、鎌倉前期の貴族・歌人。醍醐源氏高明流、大膳亮・源時長の子。官位は従四位上・但馬守。新三十六歌仙の一人。.
源平盛衰記
『源平盛衰記』(げんぺいせいすいき/げんぺいじょうすいき)は、軍記物語の『平家物語』の異本のひとつ。48巻。著者不明。読み本系統に分類される。(詳しくは『平家物語』を参照).
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源光行
源 光行(みなもと の みつゆき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての政治家・文学者・歌人。源氏物語の研究者であり、河内方の創始者に位置付けられる。.
源義家
源 義家(みなもと の よしいえ)は、平安時代後期の武将。伊予守・源頼義の長男。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる。 比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となった時、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約10年間は閉塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された。 その活動時期は摂関政治から院政に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。このため歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ、後三年の役の朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な憶測がされてきた。生前の極位は正四位下。.
源義平
源 義平(みなもと の よしひら)は、平安時代末期の武将。源義朝の庶子で長男。通称は鎌倉悪源太(悪源太、鎌倉源太とも)。母は京都郊外の橋本の遊女または三浦義明の娘であり、源頼朝・義経らの異母兄にあたる。.
源義仲
源 義仲 (みなもと の よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。 以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。.
源義経
源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。 河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名をと呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。 その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき判官とは義経が後白河法皇より任じられた左衛門尉・検非違使を兼ねた官職名。通常は「はんがん」だが、『義経』の伝説や歌舞伎などでは「ほうがん」と読む。)という言葉を始め、多くの伝説、物語を生んだ。.
源義朝
源 義朝(みなもと の よしとも)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の長男。母は白河院近臣である藤原忠清の娘。源頼朝・源義経らの父。 源義家の死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていた。都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で家人に裏切られ謀殺された。.
源経信
源 経信(みなもと の つねのぶ)は、平安時代後期の公家・歌人。宇多源氏、権中納言・源道方の六男。官位は正二位・大納言。桂大納言と号す。小倉百人一首では大納言経信。.
源為朝
源 為朝(みなもと の ためとも、旧字体:爲朝)は、平安時代末期の武将。源為義の八男。母は摂津国江口(現・大阪市東淀川区江口)の遊女。源頼朝、義経兄弟の叔父にあたる。 身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛弓の使い手で剛勇無双を謳われた。生まれつき乱暴者で父の為義に持てあまされ、九州に追放されたが手下を集めて暴れまわり、一帯を制覇して鎮西八郎を名乗る。保元の乱では父とともに崇徳上皇方に参加し、強弓と特製の太矢で大いに奮戦するが敗れ、伊豆大島へ流される。しかしそこでも国司に従わず、大暴れして伊豆諸島を事実上支配したので、追討を受け自害した。.
源頼家
岡八幡宮参道の段葛 源 頼家(みなもと の よりいえ)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男で母は北条政子(頼朝の子としては第3子で次男、政子の子としては第2子で長男)。 父・頼朝の急死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、征夷大将軍となる。若年の頼家による従来の習慣を無視した独裁的判断が御家人たちの反発を招き、疎外された母方の北条氏を中心として十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられたとされるが、当事者である北条氏の史書以外にそういった記録は存在せず、真偽は定かではない。 合議制成立の3年後に頼家は重病に陥ったとされ、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡した。頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉された後、暗殺された。頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握る事になる。.
源頼朝
源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.
源親行
源 親行(みなもと の ちかゆき、生没年不詳)は、鎌倉時代前期の文人政治家・古典学者・歌人。いわゆる河内方のひとり。大和守源光行の子。清和源氏義忠流。子に源義行。.
源通親
源 通親(みなもと の みちちか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。七朝にわたり奉仕し、村上源氏の全盛期を築いた。内大臣正二位右大将。土御門 通親(つちみかど -)と呼ばれるのが一般的で、曹洞宗などでは久我(こが)通親と呼ばれている。.
源氏物語
土佐光起筆『源氏物語画帖』より「若紫」。飼っていた雀の子を逃がしてしまった幼い紫の上と、柴垣から隙見する源氏。 朝顔」。雪まろばしの状景。邸内にいるのは源氏と紫の上。 『源氏物語』(げんじものがたり)は、平安時代中期に成立した日本の長編物語、小説。文献初出は1008年(寛弘五年)。作者の紫式部にとって生涯で唯一の物語作品である物語の他には「紫式部日記」や和歌集の「紫式部集」があり「小倉百人一首」にも和歌が収められている(*)。後に、紫式部の「源氏物語」と「紫式部日記」の2作品は絵画化された。約150年後の平安時代末期に「源氏物語絵巻」、約200年後の鎌倉時代初期に「紫式部日記絵巻」が制作された。(*)「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」。主人公の光源氏を通して、恋愛、栄光と没落、政治的欲望と権力闘争など、平安時代の貴族社会を描いた上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。紫式部日記。。 下級貴族出身の紫式部は、20代後半で藤原宣孝と結婚し一女をもうけたが、結婚後3年ほどで夫と死別し、その現実を忘れるために物語を書き始めた。これが『源氏物語』の始まりである。最初は、当時紙が貴重で紙の提供者がいれば、その都度書き江戸時代の松永貞徳の源氏物語の写本全54冊(54帖)の1冊1冊の厚みが示すように、紫式部は当初多くの分量は書けず1冊(1帖)の厚みは薄いが、支援者の藤原道長により安定した紙の供給が行なわれて以降は34帖「若菜」のように1冊(1帖)の厚みが急激に増した。上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。(参考)『源氏物語』与謝野晶子訳、各帖の総ページ数より、1帖「桐壷」26、2帖「帚木」44、3帖「空蝉」12、そして、34帖「若菜」上192、下190。(角川文庫 1999年(平成11年)5月10日)所収、仲間内で批評し合うなどして楽しんでいたが紫式部日記より、当初、紫式部は仲間内で意見を言い合ったり手紙のやり取りで批評し合って楽しんでいたことから「最初は現代の同人誌のような楽しみ方だった」。上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。、その物語の評判から藤原道長が娘の中宮彰子の家庭教師として紫式部を呼んだ。それを機に宮中に上がった紫式部は宮仕えをしながら藤原道長の支援の下で物語を書き続け、54帖からなる『源氏物語』を完成させた中宮彰子は一条天皇の妻であったが、一条天皇のもう一人の妻であり後に亡くなった藤原定子の家庭教師は清少納言だった。なお、藤原道長の要請で宮中に上がった紫式部は、宮中の様子を中心に書いた「紫式部日記」を残している。。 なお、源氏物語は文献初出から150年ほど後の平安時代末期に「源氏物語絵巻」として絵画化された 五島美術館。現存する絵巻物の内、徳川美術館と五島美術館所蔵のものは国宝となっている。また現在、『源氏物語』は日本のみならず20ヶ国語を超える翻訳を通じ世界各国で読まれている 総合研究大学院大学教授 伊藤鉃也 日本文学研究専攻。2009年3月時点、刊行されたもの24種類、現在進行中のもの4種類、未確認(あるらしい、というもの)6種類。。.
滋賀県
こちら) 滋賀県(しがけん)は、琵琶湖を擁する日本国・近畿地方北東部の内陸県である。県庁所在地は大津市。.
滋賀県立近代美術館
滋賀県立近代美術館(しがけんりつきんだいびじゅつかん)は滋賀県大津市にある美術館(2017年4月より長期休館)。.
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漢字
漢字(かんじ)は、中国古代の黄河文明で発祥した表語文字。四大文明で使用された古代文字のうち、現用される唯一の文字体系である。また史上最も文字数が多い文字体系であり、その数は10万字を超え、他の文字体系を圧倒する。古代から周辺諸国家や地域に伝播して漢字文化圏を形成し、言語のみならず文化上の大きな影響を与えた。 現代では中国語、日本語、朝鮮語の記述に使われる。20世紀に入り、漢字文化圏内でも日本語と中国語以外は漢字表記をほとんど廃止したが、なお約15億人が使用し、約50億人が使うラテン文字についで、世界で2番目に使用者数が多い。.
漢語
日本語における漢語(かんご)とは、語種の一区分である。比較的古い時代の中国語から借用された形態素、すなわち漢字の字音から構成される語彙体系である。漢字の音読みと対応する語彙体系であるので字音語と称することもある佐藤喜代治(1996)、88頁。。固有語である「和語」、漢語以外の借用語である「外来語(洋語)」と対立する概念である。 漢語の原義は「漢民族の言語」であり、本来は漢民族が母語である中国語を自称する際の用語なのだが、日本においては国語として定着した中国由来の語彙体系を「漢語」と総称することが多い。また、漢字の字音は複合の自由度が高く、日本で独自に造語されたいわゆる「和製漢語」も多い。 日本語以外でも、朝鮮語、ベトナム語などの言語は同様の語彙体系を有している。これら言語が有する中国由来の語彙体系をまとめて「漢語系語彙(Sinoxenic vocabulary)」と呼ぶことがある。.
漆
漆 漆(うるし)とは、ウルシ科のウルシノキ(漆の木;Poison oak)やブラックツリーから採取した樹液を加工した、ウルシオールを主成分とする天然樹脂塗料である。塗料とし、漆工などに利用されるほか、接着剤としても利用される。.
澄憲
澄憲(ちょうけん、大治元年(1126年) - 建仁3年8月6日(1203年9月12日))は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての天台宗の僧。父は藤原通憲(信西)。蓮行房・安居院法印とも号する。娘に勅撰歌人の八条院高倉がいる。.
持仏堂
持仏堂(じぶつどう)は、日常的に礼拝する仏像(念持仏)や位牌を安置する堂(建物、部屋)。念誦堂(ねんずどう)とも呼ばれ、僧侶のみが礼拝する場合は内持仏堂とも呼ぶ。一般世人の家では、仏像や位牌を安置する仏間、あるいは仏壇を指して持仏堂と言うこともある。.
持明院統
持明院統(じみょういんとう)とは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた日本の皇室の系統で、第88代後嵯峨天皇の子である第89代後深草天皇の子孫である。.
朝廷
朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。.
朝日新聞社
株式会社朝日新聞社(あさひしんぶんしゃ、英語:The Asahi Shimbun Company)は、全国紙『朝日新聞』を発行する日本の新聞社である。新聞以外に雑誌・書籍の出版や芸術作品の展示・公演、スポーツ大会の開催などの事業活動も行う例えば、全国高等学校野球選手権大会(いわゆる「夏の甲子園」)を日本高等学校野球連盟と共に主催している。。 新聞販売店の名称は「ASA」(朝日新聞サービスアンカー, Asahi Shimbun Service Anchor)であり、日本全国で約3000か所、従業員数約7万8,000人を擁する。日本ABC協会の調査によると海外を含む。 創立は1879年(明治12年)1月8日、日本国内の本支社数は5社、取材拠点は293か所、印刷拠点は24か所であり、日本国外機関は34拠点存在する。.
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木津川市
木津川市(きづがわし)は、京都府南部の市。奈良時代に恭仁京が置かれた。京都府の市としては最南端に位置し、南は奈良県奈良市に接している。.
末法
末法(まっぽう)とは、仏教で、仏の教のみが存在して悟りに入る人がいない時期のこと。または、釈迦の死後1,500年(または2,000年)以降の時期のことである。.
末法思想
末法思想(まっぽうしそう)とは、釈迦が説いた正しい教えが世で行われ修行して悟る人がいる時代(正法)が過ぎると、次に教えが行われても外見だけが修行者に似るだけで悟る人がいない時代(像法)が来て、その次には人も世も最悪となり正法がまったく行われない時代(=末法)が来る、とする歴史観のこと岩波 哲学思想事典 1998年 p.1523。.
本堂
本堂(ほんどう)とは、仏教寺院において、本尊仏を安置する建物の呼称。仏堂の一種。.
本地垂迹
飯綱権現を祀る高尾山薬王院の権現堂 本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。.
朱
朱(しゅ、あけ、あか).
朱子学
朱子学(しゅしがく)とは、南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学(程朱理学)・程朱学派と呼ばれ、宋明理学に属す。当時は、程頤ら聖人の道を標榜する学派から派生した学の一つとして道学(Daoism)とも呼ばれた。 陸王心学と合わせて人間や物に先天的に存在するという理に依拠して学説が作られているため理学(宋明理学)と呼ばれ、また、清代、漢唐訓詁学に依拠する漢学(考証学)からは宋学と呼ばれた。.
朱熹
朱 熹(しゅ き、1130年10月18日(建炎4年9月15日) - 1200年4月23日(慶元6年3月9日))は、中国南宋の儒学者。字は元晦または仲晦。号は晦庵・晦翁・雲谷老人・滄洲病叟・遯翁など。また別号として考亭・紫陽がある。謚は文公。と尊称される。祖籍は徽州婺源県(現在の江西省)。 南剣州尤渓県(現在の福建省)に生まれ、建陽(現在の福建省)の考停にて没した。儒教の精神・本質を明らかにして体系化を図った儒教の中興者であり、いわゆる「新儒教」の朱子学の創始者である。.
朗詠
朗詠(ろうえい)は、日本の歌曲の一形式。また、中国にも「吟誦」と言う類似な形式がある。.
有職故実
有職故実(ゆうそくこじつ)とは、古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束などのこと。また、それらを研究すること。.
有賀祥隆
有賀 祥隆(ありが よしたか、1940年11月6日- )は、日本の仏教美術史学者、東北大学名誉教授。 岐阜県土岐市生まれ。1963年東北大学文学部東洋芸術史科卒業、助手(~1965年)。1967年7月文化財保護委員会事務局美術工芸課文部技官、1979年奈良国立博物館学芸課普及室長、82年同仏教美術資料研究センター資料管理研究室長、1987年文化庁文化財保護部美術工芸課文化財調査官、89年同主任文化財調査官、1990年東北大学文学部教授、2004年定年退官、名誉教授。東京芸術大学客員教授。1999-2001年美術史学会代表委員。.
成仏
成仏(じょうぶつ)は、仏教用語で、無上の悟りを開くこと、死んでこの世に未練を残さず仏となること、または死ぬことを指す。成仏への捉え方は宗派によって異なる。.
成朝
成朝(せいちょう、生没年未詳)は、平安時代末から鎌倉時代初期頃に活躍した仏師。康助の孫で康朝の子。定朝の血を引く奈良仏師の正系。.
戦争
朝鮮戦争(1950年 - 1953年) 核兵器を使用した戦争・広島市(1945年) 戦争(せんそう)とは、複数の集団の間での物理的暴力の行使を伴う紛争である。国際紛争の武力による解決である。対義語は対話。広義には内戦や反乱も含む(戦争一覧)。人類が、集団を形成するようになる有史以来、繰り返されてきたものである。銀行などが引受けた巨額の戦費は慢性的な租税負担となる。市民生活に対する制限と攻撃は個人の尊厳を蹂躙する。時代ごとの考え方によって違法性が認定されてきた。.
戦闘
戦闘(せんとう、、proeliumプロエリウム)とは、相互に敵対する二つの勢力による暴力の相互作用である。戦斗、戰闘とも。 戦闘が行われている場所を戦場(せんじょう)、戦地といい、歴史的に戦闘(合戦など)が行われた場所は古戦場(こせんじょう)と呼ぶことがある。歴史的な慣習によって、「―の戦い」、「―の合戦」、「―の会戦」という用語も用いられる。 ここでは戦闘一般に関する軍事学の研究を概説する。 戦闘とは一般的に、敵対している部隊が特定の目的を達成するために戦闘力を行使する行動、またはその行動によって引き起こされる一連の交戦状況であり、具体的には発見(索敵)、機動、攻撃・防御、追撃・後退行動と段階的に進展する。戦闘において部隊を指導するのは戦術であり、戦闘の目的や投入される戦力の装備、規模は作戦計画によって決定される。戦闘では敵と敵施設に対して武器、兵器を使用して殺傷することによって抵抗行動を排除、破壊し、作戦目標を達成することが主要な作業となる。戦闘当事者である兵士たちは非常に強い肉体的・精神的なストレスを受けながら戦闘行動をとることになるため、被弾や被爆で死傷するだけでなく、衝撃的な経験からPTSDなどの精神疾患を患う場合もある。また戦闘は戦闘当事者双方ともに生死の狭間という極限状況において活動するため、戦場心理と呼ばれる特別な心理状態になることもある。そのため、戦闘力の要素として火力や機動力などのほかに軍事的リーダーシップが含まれると考えられている。.
戒名
戒名(かいみょう)は、仏教において受戒した者に与えられる名前である。仏門に入った証であり、戒律を守るしるしとして与えられる。 上座部仏教と大乗仏教の両方で行われており、多くの場合、出家修道者に対して授戒の師僧によって与えられる。上座部では出家後に南伝仏典に残る阿羅漢に変名するため、その意味で「法名」と呼ぶ。 また、仏弟子として新たに身につける真の名前という意義から「法諱」(ほうい、ほうき)ともいった。 また日本においては、死生観の変化により死後に成仏するという思想のもと、故人に戒名を授ける風習が生れた。(「成仏#日本文化のなかでの「成仏」」を参照。)死後の戒名は、特に日本において盛んに行われている。寺に支払った金額によって戒名のランクが変化する。とは言うものの、故人の社会的地位始め社会貢献度、またお寺への貢献度などによるため、高額を払ったからといって、高い位の戒名をもらえるわけではない。 一般にカナ文字を用いないため、転じて、「漢字のみの縦書き文字列」の俗的表現として用いられることがあり、特に新聞・雑誌編集においてカナ文字を含まない見出しをこう称し、読者に不快感を催しかねない表現とされる。; 戒名を用いない宗旨.
戒律
戒律(かいりつ)とは、仏教において、修行者の生活規律のこと。自発的に規律を守ろうとする心のはたらきを指す戒(śīla)と、他律的な規則を指す律(vinaya)とを合わせた語。.
明円
明円(みょうえん/めいえん、生年不詳 - 正治元年(1199年))は、平安時代末期-鎌倉時代初期の仏師。円派の優美な伝統的彫刻様式を伝える。.
明王院 (福山市)
明王院五重塔(国宝)(2005年11月27日撮影) 明王院(みょうおういん)は、広島県福山市草戸町にある真言宗大覚寺派の仏教寺院である。.
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明菴栄西
栄西が再建した東大寺鐘楼(奈良市) 茶碑、建仁寺、京都市東山区 明菴栄西(みょうあん えいさい/ようさい、永治元年4月20日(1141年5月27日) - 建保3年7月5日1215年8月1日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧。日本における臨済宗の開祖、建仁寺の開山。天台密教葉上流の流祖。字が明菴、諱が栄西。また、廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られる。.
明恵
紙本著色明恵上人像」(高山寺蔵、国宝) ---- 高弁(明恵)が山中の松林の樹上で坐禅を組むすがたを、弟子の恵日房成忍が筆写したものといわれる。 明恵(みょうえ)は、鎌倉時代前期の華厳宗の僧。法諱は高弁(こうべん)。明恵上人・栂尾上人とも呼ばれる。父は平重国。母は湯浅宗重の四女。現在の和歌山県有田川町出身。華厳宗中興の祖と称される華厳宗は、華厳経にもとづく南都六宗の一学派。奈良時代に隆盛したが平安時代にはいると勢力を失い、天暦元年(947年)に光智が華厳専修道場として東大寺尊勝院を設立してやや衰勢を取り戻したが、それ以後、再び不振に陥った。藤田(1966)p.178。.
明治
明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.
明月記
『明月記』(めいげつき)は、鎌倉時代の公家である藤原定家の日記。治承4年(1180年)から嘉禎元年(1235年)までの56年間にわたる克明な記録である。別名:『照光記』、『定家卿記』。.
明月院
明月院(めいげついん)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗建長寺派の寺院。山号を福源山と称する。本尊は聖観音、開基(創立者)は上杉憲方、開山(初代住職)は密室守厳(みっしつしゅごん)である。アジサイの名所として知られ、「あじさい寺」の通称がある。.
春秋左氏伝
『春秋左氏伝』(しゅんじゅうさしでん、旧字:春秋左氏傳、)は、孔子の編纂と伝えられている歴史書『春秋』の代表的な注釈書の1つで、紀元前700年頃から約250年間の歴史が書かれている。通称『左伝』。『春秋左氏』『左氏伝』ということもある。現存する他の注釈書『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』とあわせて春秋三伝(略して三伝)と呼ばれている。.
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春日大社
一の鳥居 春日大社(かすがたいしゃ)は、中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年に創設された奈良県奈良市にある神社。旧称は春日神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「下がり藤」。 全国に約1000社ある春日神社の総本社である。武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の1つとして登録されている。.
春日神
春日神(かすがのかみ)は、神道の神である。春日明神または春日権現とも称される。春日大社から勧請を受けた神のことであり、神社の祭神を示すときに主祭神と並んで春日大神などと書かれる。春日神を祀る神社は春日神社などという社名になっており、日本全国に約1000社ある。 春日大社の祭神は以下の四柱の神。.
春日権現験記
春日権現験記(かすがごんげんげんき)は、藤原氏の氏神である春日神(春日権現)の霊験を描いた鎌倉時代の絵巻物。春日権現験記絵巻、春日権現霊験記絵巻などの別名がある。絹本著色、巻子装、全20巻(他に目録1巻)、三の丸尚蔵館所蔵。1309年(延慶2年)に時の左大臣・西園寺公衡の発案で、宮廷絵所の長・高階隆兼によって描かれ、春日大社に奉納された。全21巻(うち1巻は目録と序文のみ)。最高峰の大和絵で描かれた社寺縁起絵巻の代表作であると同時に、全巻が揃い、制作者が判明していることや、当時の風俗が細かく描かれていることなどから、日本の中世を知る貴重な歴史的資料とみなされている。.
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昭和
昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.
昭和堂
昭和堂(しょうわどう)は、日本の出版社。主に、歴史、哲学、政治、法学などの専門書の他、高校、専門学校、大学の教科書などを刊行している。.
流鏑馬
流鏑馬(鏑流馬、やぶさめ)とは、疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を射る、日本の伝統的な騎射の技術・稽古・儀式のことを言う。馬を馳せながら矢を射ることから、「矢馳せ馬(やばせうま)」と呼ばれ、時代が下るにつれて「やぶさめ」と呼ばれるようになったといわれる。 現代では、武田流や小笠原流などの流派、神職・氏子や保存会など各地元に受け継がれている流鏑馬や、騎射競技愛好家によりスポーツ競技として行なわれたり、和装をベースにしているものの時代考証を伴わない新造の馬上弓術を流鏑馬と称したものなどがある。.
浪曲
浪曲(ろうきょく)は、明治時代初期から始まった演芸で「浪花節」(なにわぶし)とも言う。三味線を伴奏にして独特の節と語りで物語をすすめる語り芸。一つ30分ほどである。戦後の隆盛後、落語、講談、浪花節と並び称された3演芸のうち、急速に衰えた。 .
海南市
海南市(かいなんし)は、和歌山県北部沿岸部に位置する市。紀州漆器の産地。.
海岸
日本南端の海岸来間島の長間浜 磯の海岸(千葉県鴨川市) フィリピン共和国バタンガス州ナスグブ町の海岸 海岸(かいがん)とは、陸が海に接する部分のこと。海辺(うみべ)、渚・沚(なぎさ)、汀(みぎわ)、水際(みずぎわ・すいさい)などともいう。.
海住山寺
海住山寺(かいじゅうせんじ)は、京都府木津川市加茂町にある真言宗智山派の仏教寺院。かつて恭仁京があった瓶原(みかのはら)を見下ろす三上山(海住山)中腹に位置する。 山号は補陀洛山(ふだらくさん)、本尊は十一面観音。奈良時代の創建を伝え、鎌倉時代、貞慶によって中興された。国宝の五重塔で知られる。仏塔古寺十八尊第三番。.
海道記
『海道記』(かいどうき)は、貞応2年(1223年)成立と考えられる紀行文。内容は貞応2年(1223年)4月4日、白河の侘士なる者が京都から鎌倉に下り、17日鎌倉に着き、善光寺参りの予定をやめて、さらに帰京するまでを描いている。中世三大紀行文(ほかに『東関紀行』、『十六夜日記』)のうちの一つ。作者未詳。.
浄土宗
#伝統宗派としての浄土宗。浄土宗諸派の総称としての浄土宗。鎮西派と西山派に分かれる。.
浄土寺 (小野市)
浄土寺(じょうどじ)は、兵庫県小野市にある高野山真言宗の寺院。山号を極楽山と称する。本尊は薬師如来と阿弥陀如来、開山は重源で、建久年間(1190年~1198年)の創建である。多数の文化財を所有する古刹として知られ、大仏様建築の浄土堂と仏師快慶の大作「阿弥陀三尊像」は特に著名である。.
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浄土寺 (尾道市)
本堂(国宝) 庫裏(左)及び客殿(右奥) 多宝塔(国宝) 浄土寺(じょうどじ)は、広島県尾道市にある真言宗泉涌寺派大本山の寺院。山号は転法輪山(てんぽうりんざん)。院号は大乗院。本尊は十一面観音で、中国三十三観音霊場第九番札所である。.
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浄土式庭園
平等院庭園 浄土式庭園(じょうどしきていえん)とは、平安時代から鎌倉時代にかけて築造された日本庭園の形式である。学術論文ではよく「浄土庭園」という名称が用いられる。この方式の庭園は、仏教の浄土思想の影響を大きく受けたものであり、平等院鳳凰堂に代表されるように、極楽浄土の世界を再現しようとしたため金堂や仏堂をはじめとした寺院建築物の前に園池が広がる形をとっており、寝殿造形庭園、書院造庭園とともに、自然風景式庭園に分類される庭園形式である。.
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浄土真宗
浄土真宗(じょうどしんしゅう)は、大乗仏教の宗派のひとつで、浄土信仰に基づく日本仏教の宗旨である。鎌倉仏教のひとつ。鎌倉時代初期の僧である親鸞が、その師である法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え『岩波仏教辞典』第二版、P.541「浄土真宗」より引用。を継承し展開させる。親鸞の没後にその門弟たちが、教団として発展させる。「浄土真宗」の英訳は、浄土真宗本願寺派ではJodo Shinshuとし、真宗大谷派・真宗佛光寺派ではShin Buddhismとしている。.
浄瑠璃
浄瑠璃(じょうるり)は、三味線を伴奏楽器として太夫がを語る音曲・劇場音楽である。 詞章が単なる歌ではなく、劇中人物のセリフやその仕草、演技の描写をも含み、語り口が叙事的な力強さを持つ。このため浄瑠璃を口演することは「歌う」ではなく「語る」と言い、浄瑠璃系統の音曲をまとめてと呼ぶ。 江戸時代初期以降、個々の太夫の口演が「――節」と呼ばれるようになり、その後流派として成立して、現在は義太夫節義太夫節は浄瑠璃の一流派であるが、上方では義太夫節以外の一中節・豊後節・宮薗節などが早くに廃れたため、「浄瑠璃」がもっぱら義太夫節を意味する場合がある。・河東節・一中節・常磐津節・富本節・清元節・新内節・宮薗節(薗八節)の8流派が存在する。 単独で素浄瑠璃として演じられるほか、流派によっては人形劇である人形浄瑠璃として(文楽など)、歌舞伎音楽として、日本舞踊の伴奏として演じられる(流派ごとの上演形態については後述)。 はリンク切れ)、義太夫節に特有の事項なので、当記事ではなく、記事「義太夫節#演出面から見た人形浄瑠璃と丸本歌舞伎」 での言及が妥当であろう -->.
浄瑠璃寺
浄瑠璃寺(じょうるりじ)は、京都府木津川市加茂町西小札場(にしお ふたば)にある真言律宗の寺院。山号を小田原山と称し、本尊は阿弥陀如来と薬師如来、開基(創立者)は義明上人である。寺名は薬師如来の居所たる東方浄土「東方浄瑠璃世界」に由来する長谷川周、2000、『仏塔巡礼 西国編』、東京書籍 ISBN 4487795966 p.34。 本堂に9体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺(くたいじ)の通称があり、古くは西小田原寺とも呼ばれた。緑深い境内には、池を中心とした浄土式庭園と、平安末期の本堂および三重塔が残り、平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。本堂は当時京都を中心に多数建立された九体阿弥陀堂の唯一の遺構として貴重である。堀辰雄の『浄瑠璃寺の春』にも当寺が登場する。.
浙江省
浙江省(せっこうしょう、中国語:浙江省、拼音:Zhèjiāng Shěng、英語:Zhejiang)は、中華人民共和国の省の一つ。略称は浙。華東地区中部に位置し、東シナ海に面す。省都は杭州市。浙とは省内最大の河川・銭塘江を指す。銭塘江は蛇行が激しいことから曲江・之江・折江・浙江などと呼ばれてきた。.
新古今和歌集
『新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)とは、鎌倉時代初期に編纂された勅撰和歌集。全二十巻。いわゆる八代集の最後を飾るもの。略称を『新古今集』(しんこきんしゅう)と称す。.
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新人物往来社
株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.
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新後撰和歌集
『新後撰和歌集』(しんごせんわかしゅう)は、正安3年(1301年)に、後宇多天皇の命により編纂された13番目の勅撰和歌集。津守集とも。20巻。二条為世撰。歌人は藤原定家、藤原為家、藤原俊成、亀山上皇などで、歌数はおよそ1600首。なお、異称「津守集」は、津守氏の歌が多いことに由来するという。 Category:鎌倉時代の歌集 Category:14世紀の書籍 Category:14世紀の詩.
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新勅撰和歌集
『新勅撰和歌集』(しんちょくせんわかしゅう)は十三代集の最初、通算で第九勅撰和歌集。別名、宇治川集など。 貞永元年(1232年)6月13日、後堀河天皇の下命を受けた藤原定家が単独で撰し、上皇の死後も九条道家・教実父子の後援で編纂事業が引き継がれ、四条天皇代の文暦2年(1235年)3月12日、完成し奏上。仮名序も定家筆。20巻、伝本によって歌数が違うが、1370首強ある。部立は四季(春秋二巻、他一巻)・賀・羇旅・神祇・釈教・恋・雑(恋・雑共に五巻)の順に並び、従来の二十巻の勅撰集において独立した巻を持った哀傷・離別の項目が無く、それぞれ雑歌・羇旅に吸収されている。 最多入集歌人は藤原家隆(43首)で、九条良経(36首)、藤原俊成(35首)、西園寺公経(30首)、慈円(27首)、源実朝・九条道家(共に25首)、飛鳥井雅経(20首)がそれに次ぎ、定家が庇護を受けた九条家・西園寺家の貴顕(公経は定家の義弟にして、関白九条道家の岳父である)の入集が目立つ。ほかに北条泰時ら武家歌人の歌もある。承久の乱以後、流刑地にあった大歌人後鳥羽院と順徳院の歌を除外したのは、他ならぬ幕府への配慮であるが、藤原家隆・源実朝を高く評価する傍ら、自身の歌の入集を最小限に抑えた定家の態度は興味深い。 新勅撰集は華やかな新古今調から一転して平明枯淡な趣向に走り、定家晩年の好みを伺わせる。その保守的な歌風は二条派に「実」として尊重され、中世和歌の手本となった。 Category:鎌倉時代の歌集 Category:藤原定家 Category:13世紀の書籍 Category:13世紀の詩.
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新羅
新羅(しらぎ/しんら、前57年- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「斯蘆」(しろ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした。朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一し、高麗、李氏朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。内乱や飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。 朝鮮の歴史区分では、新羅、高句麗、百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を三国時代、新羅が朝鮮半島唯一の国家であった時代(668年-900年)を統一新羅時代、新羅から後高句麗と後百済が分裂した10世紀の時代を後三国時代という。.
方丈記
前田家本(鎌倉末期 - 室町初期写) 『方丈記』(現代語表記:ほうじょうき、歴史的仮名遣:はうぢやうき)は、鴨長明(かものちょうめい)による鎌倉時代の随筆。日本中世文学の代表的な随筆とされ、約100年後の『徒然草』、『枕草子』とあわせ「日本三大随筆」とも呼ばれる。.
文化
文化(ぶんか、)にはいくつかの定義が存在するが、総じていうと人間が社会の成員として獲得する振る舞いの複合された総体のことである。社会組織(年齢別グループ、地域社会、血縁組織などを含む)ごとに固有の文化があるとされ、組織の成員になるということは、その文化を身につける(身体化)ということでもある。人は同時に複数の組織に所属することが可能であり、異なる組織に共通する文化が存在することもある。もっとも文化は、次の意味で使われることも多い。.
文献資料 (歴史学)
歴史学における文献資料(ぶんけんしりょう)とは、史料のひとつで、文書および古文書(特定の相手に意思を伝える公的文書と、請求書や手紙(電子メールを含む)など私人間でやりとりされる私文書がある)、個人的な日記や備忘録などの古記録、書籍、新聞、雑誌など文字によって伝達あるいは記録された資料の総称である。.
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文選 (書物)
『文選』(もんぜん)は、中国南北朝時代、南朝梁の昭明太子によって編纂された詩文集。全30巻。春秋戦国時代から梁までの文学者131名による賦・詩・文章800余りの作品を、37のジャンルに分類して収録する。隋唐以前を代表する文学作品の多くを網羅しており、中国古典文学の研究者にとって必読書とされる。収録作品のみならず、昭明太子自身による序文も六朝時代の文学史論として高く評価される。.
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文殊菩薩
文殊菩薩(もんじゅぼさつ)、梵名マンジュシュリー(मञ्जुश्री, 、別名:マンジュゴーシャ、मञ्जुघोष、mañjughoṣa)は、大乗仏教の崇拝の対象である菩薩の一尊。一般に智慧を司る仏とされる。 文殊は文殊師利(もんじゅしゅり)の略称。また妙吉祥菩薩(みょうきっしょうぼさつ)などともいう。曼殊室利等とも音写し、妙吉祥、妙徳、妙首などとも訳す。文珠菩薩とも書く。 三昧耶形は青蓮華(青い熱帯睡蓮の花)、利剣、梵篋(椰子の葉に書かれた経典)など。種字はマン (मँ maṃ) 。.
文永
文永(ぶんえい)は、日本の元号の一つ。弘長の後、建治の前。1264年から1274年までの期間を指す。この時代の天皇は亀山天皇、後宇多天皇。鎌倉幕府将軍は宗尊親王、惟康親王、執権は北条長時、北条政村、北条時宗。.
文治
文治(ぶんじ)は、日本の元号の一つ。元暦の後、建久の前。1185年から1189年までの期間を指す。この時代の天皇は後鳥羽天皇。.
文政
文政(ぶんせい)は日本の元号の一つ。文化の後、天保の前。1818年から1831年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。.
日宋貿易
日宋貿易(にっそうぼうえき)は、日本と中国の宋朝の間で行われた貿易である。10世紀から13世紀にかけて行われ、日本の時代区分では平安時代の中期から鎌倉時代の中期にあたる。中国の唐朝に対して日本が派遣した遣唐使が停止(894年)されて以来の日中交渉である。.
日蓮
妙傳寺 本蓮寺 日蓮(にちれん、貞応元年(1222年)2月16日には、「その誕生日の2月16日については自ら記すところではないが、『本門宗要抄』の下巻と、この書と大体同時代の成立と思われる日道の『御伝土代』に誕生を2月16日と記している」とある(但し、漢数字は算用数字に改めた)。なお、『本門宗要抄』には偽書説があるが、それについてはで「日蓮の事蹟・生涯についてはおそらく日蓮の直弟たちの間の周知のこと、またその伝承されていたことがつづられたもので、この両書は日蓮宗の初期の伝承を伝える珍重すべきものである。したがって2月16日の誕生は真を伝えているとみて良い。」としている。 - 弘安5年(1282年)10月13日)ユリウス暦では1222年3月30日 - 1282年11月14日、グレゴリオ暦に換算すると1222年4月6日 - 1282年11月21日。グレゴリオ暦の施行は1582年で日蓮はそれ以前に亡くなっているが、日蓮宗諸派では日蓮の事跡をグレゴリオ暦換算の日付で祝うため、グレゴリオ暦の日付を併記している。なお、換算はによる。は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗後に十三宗のひとつとなる。(法華宗)の宗祖。滅後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。.
日蓮宗
日蓮宗(にちれんしゅう)は、.
日野輝資
日野 輝資(ひの てるすけ、弘治元年(1555年) - 元和9年閏8月2日(1623年9月26日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての公家。正二位権大納言。もともとは広橋家の出身であり、初名は広橋 兼保(ひろはし かねやす)または兼潔(かねきよ、別名)といったが、のちに本家筋の日野家を継いでその第28代当主となる。法号より日野 唯心(ひの ゆいしん)とも呼ばれる。.
日本
日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.
日本の中世文学史
日本の中世文学史(にほんのちゅうせいぶんがくし)は、中世(およそ鎌倉時代から安土桃山時代まで)の日本文学の歴史である。.
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日本の仏教
日本の仏教(にほんのぶっきょう)について解説する。約8470万人が仏教徒であるとされる(2013年統計)。伝統的な仏教の13宗は、華厳宗、法相宗、律宗、真言宗、天台宗、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、時宗、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗である。幕末まで、日本は仏と神を一体で不可分とする神仏習合の時代であった。.
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日本の文化
本項では日本の文化全般について、幅広く過去から現在への事象を取り上げ、概要の説明やリンクを示す。 分類については、まだ発展・整理の途上であり、正式なものではない。日本発祥のもの以外でも、日本に深く根付いているものはこの記事に含まれる。.
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日本達磨宗
日本達磨宗(にほん だるましゅう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶である大日房能忍が興した禅の一派である。.
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日本書紀
日本書紀(平安時代の写本) 『日本書紀』(にほんしょき)は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体にて記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。.
摧邪輪
弁『摧邪輪荘厳記』(執筆1213年、刊行1626年) 摧邪輪(ざいじゃりん)とは、鎌倉時代初期の建暦2年(1212年)、華厳宗中興の祖といわれる明恵上人高弁が法然が撰述した『選択本願念仏集』に対し、それを邪見であるとして反駁するために著述した仏教書柏木(2004)。全3巻。書名は「邪輪(よこしまな法説)を摧(くだ)く」の意。原文は漢文。.
摂家
摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.
摂津国
摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.
撥
撥(ばち)とは、弦楽器の弦をはじく(引っ掛けて離す、または打つ)ために用いる棒状の道具である。 桴・枹(ばち、Percussion mallet)は、楽器という点では共通だが、打楽器を叩く棒である。枹と桴は音(フ)も意味も同じ漢字だが、撥は音(バチ)も意味も異なる別の漢字であり、区別される。.
播磨国
播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.
撰集抄
『撰集抄』(せんじゅうしょう)は、作者不詳の説話集で、西行に仮託されている。跋文に寿永2年(1183年)讃岐国善通寺において作られたとあり、江戸時代まで西行の自作と信じられたが、後人の仮託であることは研究の進展によって明白になった。 鎌倉時代後期、興福寺関係の僧が製作にかかわったという説がある。仮託とはいえ漂泊の歌人としての西行像を形成するのに貢献した。御伽草子・謡曲の素材となったり、室町時代の連歌師の心敬や、江戸時代の俳諧の松尾芭蕉、「雨月物語」などの上田秋成らの創作に影響を与えた。 成立年次には諸説があり、13世紀中葉、建長2年(1250年)頃か、少なくとも弘安10年(1287年)頃までに成立した。9巻からなり、神仏の霊験譚・寺院の縁起譚・高僧譚・往生譚・発心遁世譚など121話(略本は58話)を載せる。あたかも西行が語り手として、自らの諸国行脚の途中見聞を記したかのような体裁をとり、西行が第一人称で名乗り出る場面もある。理想的な遁世者の生活を感想・批評を交えて描き、無常観が濃厚である。玄賓・増賀ら高僧にとどまらず、貴族・武士・遊女ら上下の階層から出た遁世者が登場し、鎌倉時代における遁世思想の受容を今日に伝える。 啓発を受けた『閑居友』と共に、隠者文学として重要な作品であるが、展開される話の信憑性自体は低く、大半は何らかの伝承を手掛かりに存分に脚色を加えたもので、とりわけ年代錯誤では歴史知識の欠如が甚だしく顕著である。.
悟り
悟り(さとり、bodhi)とは、迷いの世界を超え、真理を体得すること。覚、悟、覚悟、証、証得、証悟、菩提などともいう。仏教において悟りは、涅槃や解脱とも同義とされる。 日常用語としては、理解すること、知ること、気づくこと、感づくことなどを意味する。.
悪人
悪人(あくにん)は、 1.
悪人正機
悪人正機(あくにんしょうき)は、浄土真宗の教義の中で重要な意味を持つ思想で、「“悪人”こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機である」という意味である。 阿弥陀仏が救済したい対象は、衆生である。すべての衆生は、末法濁世を生きる煩悩具足の凡夫たる「悪人」である。よって自分は「悪人」であると目覚させられた者こそ、阿弥陀仏の救済の対象であることを知りえるという意である。.
操り人形
操り人形(あやつりにんぎょう).
擦文時代
擦文時代(さつもんじだい)とは、7世紀ごろから13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代後半)にかけて北海道を中心とする地域で擦文文化が栄えた時期である。本州の土師器の影響を受けた擦文式土器を特徴とする。後に土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化にとってかわられた。(詳細は「蝦夷#えみし」の項を参照) この時代、9世紀(平安時代前期)までは擦文文化と並行してこれとは異質なオホーツク文化が北海道北部から東部のオホーツク海沿岸に広がっており、その後13世紀(鎌倉時代後期)まではその系譜を継ぐトビニタイ文化が北海道東部にあって、擦文文化と隣り合っていた。トビニタイ文化はオホーツク文化に擦文文化が取り入れられたものだが、後期には擦文文化との違いが小さくなった。そこで、トビニタイ文化を擦文文化に含める考えがある。.
政治
本記事では政治(せいじ)とは何かについて解説していく。.
愚管抄
『愚管抄』(ぐかんしょう)は、鎌倉時代初期の史論書。作者は天台宗僧侶の慈円。全7巻。承久の乱の直前、朝廷と幕府の緊張が高まった時期の承久2年(1220年)頃成立したが、乱後に修訂が加えられている。.
愛媛県
愛媛県(えひめけん)は、日本の都道府県の一つで四国地方の北西部から北中部に位置する県。県庁所在地は松山市。令制国の伊予国に当たる。.
愛知県
愛知県(あいちけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は名古屋市。.
散楽
散楽(さんがく)は、日本の奈良時代に大陸から移入された、物真似や軽業・曲芸、奇術、幻術、人形まわし、踊りなど、娯楽的要素の濃い芸能の総称。日本の諸芸能のうち、演芸など大衆芸能的なものの起源とされている。.
敦賀
敦賀(つるが).
慶派
慶派(けいは)は、平安時代末期から江戸時代の仏師の一派。定朝の孫頼助に始まる奈良仏師の傍系出身だが、七条仏所を形成、主流派をなす。.
慶政
慶政(けいせい、文治5年(1189年) - 文永5年10月6日(1268年11月11日))は、鎌倉時代の僧。号は証月坊・松月坊・勝月坊・照月坊。猪熊本「比良山古人霊託」によれば藤原道家の兄とされる。 幼時に、抱いていた乳母が誤って落としてしまい、背骨の一部が飛び出るほどの障害を負ったという。出家して天台宗寺門派の僧となり、1208年(承元2年)京都西山に隠棲している。1217年(建保5年)宋(中国)へ渡って翌1218年(建保6年)に帰国、1226年(嘉禄2年)西山に法華山寺を建立している。高弁(明恵)とも交流があった。著作に「比良山古人霊託」、「法華山寺縁起」、1243年(寛元元年)に渡宋の途中で琉球国に漂着した人々の伝聞を記録した「漂到琉球国記」などがあり、「閑居友(かんきょのとも)」の作者とも言われている。 「続古今和歌集」以下の勅撰和歌集に入集。 Category:鎌倉時代の歌人 Category:鎌倉時代の僧 Category:1189年生 Category:1268年没.
慈円
慈円(じえん、旧字体:慈圓、久寿2年4月15日(1155年5月17日) - 嘉禄元年9月25日(1225年10月28日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧。歴史書『愚管抄』を記したことで知られる。諡号は慈鎮和尚(じちん かしょう)、通称に吉水僧正(よしみず そうじょう)、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円(さきの だいそうじょう じえん)と紹介されている。 父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光女加賀、摂政関白・九条兼実は同母兄にあたる。.
扶桑略記
『扶桑略記』第21巻 『扶桑略記』(ふそうりゃくき)は、平安時代の私撰歴史書。総合的な日本仏教文化史であるとともに六国史の抄本的役割を担って後世の識者に重宝された。 寛治8年(1094年)以降の堀河天皇代に比叡山功徳院の僧・皇円が編纂したとされるが、異説もある。全30巻より成り、このうち巻二~六、巻二十~三十の計16巻と、巻一及び巻七~十四の抄記が現存する。 内容は、神武天皇より堀河天皇の寛治8年(1094年)3月2日までの国史について、帝王系図の類を基礎に和漢年代記を書入れ、さらに六国史や『慈覚大師伝』などの僧伝・流記・寺院縁起など仏教関係の記事を中心に、漢文・編年体で記している。多くの典籍を引用していることは本書の特徴の一つであるが、その大半が今日伝存せず、出典の明らかでない記事も当時の日記・記録によったと思われる。『水鏡』・『愚管抄』など鎌倉時代の歴史書にもしばしば引用され、後世に与えた史的意義は大きい。.
承安 (日本)
承安(じょうあん、しょうあん)は、日本の元号の一つ。嘉応の後、安元の前。1171年から1174年までの期間を指す。この時代の天皇は高倉天皇。.
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承久
承久(じょうきゅう)は、日本の元号の一つ。建保の後、貞応の前。1219年から1221年までの期間を指す。この時代の天皇は順徳天皇、仲恭天皇、後堀河天皇。後鳥羽上皇の院政、鎌倉幕府将軍は空位、執権は北条義時。.
承久の乱
承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。承久の変、承久合戦ともいう。 日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。 1185年に鎌倉幕府が成立した以降、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていた。その間、幕府の初代将軍の源頼朝が落馬で死亡、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺され、天皇家の血を引く源氏将軍が鎌倉から滅亡した。その1219年以降、鎌倉は伊豆を収める世襲一族の北条氏が実権を握り、さらに北条氏は、幕府内で朝廷の代理人である執権であったが、幕府を実質的に手中に収めるに至り、日本を統治するのは朝廷であり朝廷主導の政治が本来の姿とする朝廷側の怒りが高まっていった。この2年後に起きた承久の乱の結果、鎌倉幕府主導の政治体制が固まり、朝廷を監視する六波羅探題を京都に置き、朝廷の権力は制限され、皇位継承等にも鎌倉幕府が影響力を持つようになった。.
承久記
『承久記』(じょうきゅうき)は、承久3年(1221年)後鳥羽上皇の挙兵によって起こされた承久の乱を記した公武の合戦記である。『承久軍物語(じょうきゅういくさものがたり)』『承久兵乱記』(同名異書あり)などとも呼ばれる。保元・平治・平家と続く「四部之合戦書」の最後の戦記物で鎌倉武士が王朝を崩壊に追い込むさまと、封建体制確立の過程をえがいている。作品の評価は完成度の点で高くないとされるが、後鳥羽院の描いた王政復古の夢をやや批判的に首尾一貫した姿勢で書いている。.
承元
承元(じょうげん)は、日本の元号の一つ。建永の後、建暦の前。1207年から1210年までの期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇、順徳天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源実朝、執権は北条義時。.
承元の法難
承元の法難(じょうげんのほうなん)は、法然ひきいる吉水教団が既存仏教教団より弾圧され、後鳥羽上皇によって専修念仏の停止(ちょうじ)と、法然の門弟4人の死罪、法然と親鸞ら中心的な門弟7人が流罪に処された事件。建永の法難(けんえいのほうなん)とも。.
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手向山八幡宮
手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)は、奈良県奈良市に鎮座する神社。手向山神社とも。 奈良市街東部の手向山麓に位置。手向山は紅葉の名所として知られ、古今和歌集では菅原道真が「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」と詠んでいる。.
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曲舞
曲舞(くせまい)は、中世に端を発する日本の踊り芸能のひとつで、南北朝時代から室町時代にかけて流行した。単に「舞」と称することもあり、「久世舞」「九世舞」などとも表記する高山(2004)「舞舞」「舞々」の呼称も確認されている。「口宣舞」の表記もある。高山(2004)など。幸若舞の母体になった舞である。.
書写
文化交流の一環として、アメリカ軍人に習字を教える自衛官 書写(しょしゃ)とは、文字を書き取ること。学校教育における教科や単元の呼称としても用いられる。.
書道
京都・東寺蔵 『蘭亭序』(部分)王羲之 書道(しょどう)または書(しょ)とは、書くことで文字の美しさを表そうとする東洋の造形芸術である。カリグラフィーの一種。中国が起源であるが、日本語圏においては漢字から派生した仮名、ベトナム語圏では同じく漢字から派生したチュノムやローマンアルファベットを使用するクォック・グーなどでも創作活動が行われている。2009年に中国の書道が、ユネスコの無形文化遺産に登録された。 本項では主に中国語圏及び日本語圏の書道について述べる。その他の文字・地域における書道は他の文字による書道を参照。.
曹洞宗
曹洞宗(そうとうしゅう)は、中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。鎌倉仏教のひとつである。本山は永平寺(福井県)・總持寺(横浜市鶴見区)。専ら坐禅に徹する黙照禅であることを特徴とするが、仏陀つまり悟りを開いた人・目覚めた人の教えであるので、出家在家に拘らず、求道者各自が悟りを開くことを標榜する。 中国禅宗の祖である達磨(5C後半 - 6C前半)から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638 - 713年)の弟子の1人である青原行思(? - 740年)から、石頭希遷(700 - 790年、石頭宗)、薬山惟儼(745 - 828年))、雲巌曇晟(782 - 841年 )と4代下った洞山良价(807 - 869年)によって創宗された。.
曼荼羅
曼荼羅(まんだら、梵語:मण्डल 、チベット語:མཎྜལ(めんでる, maNDal), དཀྱིར་འཁོར་(きんこる, dkyir 'khor))とは、密教の経典にもとづき、主尊を中心に諸仏諸尊の集会(しゅうえ)する楼閣を模式的に示した図像。ほとんどの密教経典は曼荼羅を説き、その思想を曼荼羅の構造によって表すので、その種類は数百にのぼる。古代インドに起源をもち、中央アジア、日本、中国、朝鮮半島、東南アジア諸国などへ伝わった。21世紀に至っても、密教の伝統が生きて伝存するチベット、ネパール、日本などでは盛んに制作されている。 漢字による表記のバリエーションとして「曼陀羅」があるが、日本の重要文化財等の指定名称は「曼荼羅」に統一されており、ここでも「曼荼羅」と表記する。 日本では、密教の経典・儀軌に基づかない、神仏が集会(しゅうえ)する図像や文字列にも、曼荼羅の呼称を冠する派生的な用法が生じた。またチベットでは、須弥山を中心とする全世界を十方三世の諸仏に捧げる供養の一種を「曼荼羅供養」と称し、この供養に用いる金銅製の法具や、この法具を代替する印契に対しても、「曼荼羅」の呼称が使用されている。 画像:Mandala1 detail.jpg|胎蔵曼荼羅中央部の中台八葉院 画像:Vishnu Mandala.jpg|ヴィシュヌ神の曼荼羅 画像:Hokke mandala.jpg|文字曼荼羅(法華曼荼羅) 画像:Painted 19th century Tibetan mandala of the Naropa tradition, Vajrayogini stands in the center of two crossed red triangles, Rubin Museum of Art.jpg|金剛瑜伽女の曼荼羅(チベット仏教).
曾我兄弟の仇討ち
一万丸 箱王丸(曾我兄弟) 歌川国芳画 曾我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち)は、建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。武士社会において仇討ちの模範とされていた。.
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普賢菩薩
普賢菩薩像(東京国立博物館蔵) 普賢菩薩像(鳥取・豊乗寺蔵) 普賢菩薩像 伊藤若冲筆(相国寺蔵) 普賢菩薩(ふげんぼさつ)、梵名: サマンタ・バドラ (समन्तभद्र)は、大乗仏教における崇拝の対象である菩薩の一尊。文殊菩薩とともに釈迦如来の脇侍として祀られることが多い(参照:釈迦三尊)。法要では四七日の仏とされる。 三昧耶形は剣、五鈷杵。種子(種子字)はアン (aM)、ウーン (huuM)。.
普通唱導集
普通唱導集(ふつうしょうどうしゅう)は僧良季によって編まれた、唱導の参考書。上巻本巻序文に、永仁5年(1297年)に起稿したとあり、中巻末巻の涅槃講表白に正安4年(1302年)の記述があるから、擱筆はこれ以後と考えられる。仏教史のみならず、社会史、文化史、民俗学の資料として注目されている。.
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景光
景光(かげみつ)は、鎌倉時代末期の備前国(岡山県)長船派(おさふねは)の刀工。.
時宗
時宗(じしゅう)は、鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派の日本仏教。開祖は一遍。鎌倉仏教のひとつ。総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)。 時宗の開祖・一遍像。藤沢市清浄光寺。.
1165年
記載なし。
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1175年
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1180年
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1181年
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1185年
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1188年
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1189年
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1192年
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1193年
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1194年
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1195年
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1196年
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1197年
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1199年
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1201年
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1202年
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1203年
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1205年
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1206年
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1207年
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1208年
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1209年
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1212年
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1220年
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1221年
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1223年
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1225年
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1227年
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1228年
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1233年
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1235年
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1238年
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1240年代
1240年代(せんにひゃくよんじゅうねんだい)は、西暦(ユリウス暦)1240年から1249年までの10年間を指す十年紀。.
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1242年
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1243年
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1244年
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1245年
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1249年
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1251年
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1252年
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1260年代
1260年代(せんにひゃくろくじゅうねんだい)は、西暦(ユリウス暦)1260年から1269年までの10年間を指す十年紀。.
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1266年
記載なし。
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1271年
記載なし。
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1272年
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1276年
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1280年
記載なし。
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1296年
記載なし。
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1298年
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1299年
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12世紀
アンコールの地にアンコール朝の王スーリヤヴァルマン2世はアンコール・ワットの建設を行い、続くジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムを築いた。画像はアンコール・トムのバイヨン四面像(観世菩薩像)。 12世紀(じゅうにせいき)とは、西暦1101年から西暦1200年までの100年間を指す世紀。.
1301年
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1312年
記載なし。
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1318年
記載なし。
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1320年
記載なし。
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1321年
記載なし。
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1323年
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1325年
記載なし。
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1327年
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1329年
記載なし。
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1345年
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1347年
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1369年
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1397年
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13世紀
チンギス・ハーン像。 モンゴル帝国の発展。 モンゴル帝国の最大領域。 13世紀(じゅうさんせいき)は、西暦1201年から西暦1300年までの100年間を指す世紀。.
14世紀
ナスル朝。イベリア半島最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有のアラベスクに彩られたアルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」。 Gilles Le Muisitの年代記』の挿絵)。 エドワード3世率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いたジャン・フロワサールの『年代記』写本の挿絵。 ユダヤ人迫害。中世末期の不穏な情勢の中でスケープゴートとして標的にされたのがユダヤ人であった。画像は15世紀にまとめられた『ニュルンベルク年代記』の木版挿絵で、1338年に起きたバイエルン地方のデッゲンドルフでの「聖餅󠄀冒瀆」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。 カルマル同盟。デンマーク摂政(事実上の女王)マルグレーテ1世がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像はロスキレ大聖堂に安置されたマルグレーテの石棺。 七選帝侯。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は金印勅書で法制化されることになる。 原初同盟は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。 アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口。 ダンテとベアトリーチェ。ダンテは地獄・煉獄・天国をまわる壮大な『神曲』を書いた詩人。画像は19世紀のヘンリー・ホリデーによるもの(ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)。 シエナ。この街は黒死病の被害の影響が大きかったため景観が変化せず中世都市の面影を強く残した街となっている。画像はアンブロージョ・ロレンツェッティによるシエナのプブリコ宮殿(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。 セルビア人の帝国。ネマニッチ朝のステファン・ウロシュ4世ドゥシャンは東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建されたコソボのデチャニ修道院にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。 Codex Mendoza」。 後醍醐天皇。鎌倉幕府を亡ぼし建武の新政を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は清浄光寺所蔵の肖像画。 足利義満。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は鹿苑寺所蔵の肖像画。 西アフリカのマリ王国の王マンサ・ムーサ。イスラム教徒としてメッカに巡礼に向かう旅路で黄金を惜しみなく使った逸話で知られる。 Baptistère de Saint Louis」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、マムルーク朝時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在はルーヴル美術館が所蔵している。 歴史家ラシードゥッディーン。その当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主ガザンとオルジェイトゥの兄弟を描いた『集史』の挿絵。 草原の英雄ティムール。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本の挿絵。 ハンピ)のヴィルーパークシャ寺院。 チベット仏教の改革者ツォンカパ。綱紀粛正に努め左道密教を退けて現在のダライラマに連なるゲルク派(黄帽派)を大成した。 青花の誕生。元朝後期に西アジア産のコバルト顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺(ブルックリン美術館蔵)」。 明の洪武帝朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画(台北国立故宮博物院蔵)。 14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。.
1570年
記載なし。
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17世紀
ルイ14世の世紀。フランスの権勢と威信を示すために王の命で壮麗なヴェルサイユ宮殿が建てられた。画像は宮殿の「鏡の間」。 スペインの没落。国王フェリペ4世の時代に「スペイン黄金時代」は最盛期を過ぎ国勢は傾いた。画像は国王夫妻とマルガリータ王女を取り巻く宮廷の女官たちを描いたディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」。 ルネ・デカルト。「我思う故に我あり」で知られる『方法序説』が述べた合理主義哲学は世界の見方を大きく変えた。画像はデカルトとその庇護者であったスウェーデン女王クリスティナ。 プリンキピア』で万有引力と絶対空間・絶対時間を基盤とするニュートン力学を構築した。 オランダの黄金時代であり数多くの画家を輩出した。またこの絵にみられる実験や観察は医学に大きな発展をもたらした。 チューリップ・バブル。オスマン帝国からもたらされたチューリップはオランダで愛好され、その商取引はいつしか過熱し世界初のバブル経済を生み出した。画像は画家であり園芸家でもあったエマヌエル・スウェールツ『花譜(初版は1612年刊行)』の挿絵。 三十年戦争の終結のために開かれたミュンスターでの会議の様子。以後ヨーロッパの国際関係はヴェストファーレン体制と呼ばれる主権国家を軸とする体制へと移行する。 チャールズ1世の三面肖像画」。 ベルニーニの「聖テレジアの法悦」。 第二次ウィーン包囲。オスマン帝国と神聖ローマ帝国・ポーランド王国が激突する大規模な戦争となった。この敗北に続いてオスマン帝国はハンガリーを喪失し中央ヨーロッパでの優位は揺らぐことになる。 モスクワ総主教ニーコンの改革。この改革で奉神礼や祈祷の多くが変更され、反対した人々は「古儀式派」と呼ばれ弾圧された。画像はワシーリー・スリコフの歴史画「貴族夫人モローゾヴァ」で古儀式派の信仰を守り致命者(殉教者)となる貴族夫人を描いている。 スチェパン・ラージン。ロシアではロマノフ朝の成立とともに農民に対する統制が強化されたが、それに抵抗したドン・コサックの反乱を率いたのがスチェパン・ラージンである。画像はカスピ海を渡るラージンと一行を描いたワシーリー・スリコフの歴史画。 エスファハーンの栄華。サファヴィー朝のシャー・アッバース1世が造営したこの都市は「世界の半分(エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン・アスト)」と讃えられた。画像はエスファハーンに建てられたシェイク・ロトフォラー・モスクの内部。 タージ・マハル。ムガル皇帝シャー・ジャハーンが絶世の美女と称えられた愛妃ムムターズ・マハルを偲んでアーグラに建てた白亜の霊廟。 アユタヤ朝の最盛期。タイでは中国・日本のみならずイギリスやオランダの貿易船も来訪し活況を呈した。画像はナーラーイ王のもとで交渉をするフランス人使節団(ロッブリーのプラ・ナーライ・ラーチャニーウエート宮殿遺跡記念碑)。 イエズス会の中国宣教。イエズス会宣教師は異文化に対する順応主義を採用し、中国の古典教養を尊重する漢人士大夫の支持を得た。画像は『幾何原本』に描かれたマテオ・リッチ(利瑪竇)と徐光啓。 ブーヴェの『康熙帝伝』でもその様子は窺える。画像は1699年に描かれた読書する40代の康熙帝の肖像。 紫禁城太和殿。明清交代の戦火で紫禁城の多くが焼亡したが、康熙帝の時代に再建がなされ現在もその姿をとどめている。 台湾の鄭成功。北京失陥後も「反清復明」を唱え、オランダ人を駆逐した台湾を根拠地に独立政権を打ち立てた。その母が日本人だったこともあり近松門左衛門の「国姓爺合戦」などを通じて日本人にも広く知られた。 江戸幕府の成立。徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利して征夷大将軍となり、以後260年余にわたる幕府の基礎を固めた。画像は狩野探幽による「徳川家康像」(大阪城天守閣蔵)。 日光東照宮。徳川家康は死後に東照大権現の称号を贈られ日光に葬られた。続く三代将軍徳川家光の時代までに豪奢で絢爛な社殿が造営された。画像は「日暮御門」とも通称される東照宮の陽明門。 歌舞伎の誕生。1603年に京都北野社の勧進興業で行われた出雲阿国の「かぶき踊り」が端緒となり、男装の女性による奇抜な演目が一世を風靡した。画像は『歌舞伎図巻』下巻(名古屋徳川美術館蔵)に描かれた女歌舞伎の役者采女。 新興都市江戸。17世紀半ばには江戸は大坂や京都を凌ぐ人口を擁するまでとなった。画像は明暦の大火で焼失するまで威容を誇った江戸城天守閣が描かれた「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)。 海を渡る日本の陶磁器。明清交代で疲弊した中国の陶磁器産業に代わり、オランダ東インド会社を通じて日本から陶磁器が数多く輸出された。画像は1699年に着工されたベルリンのシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」。 海賊の黄金時代。西インド諸島での貿易の高まりはカリブ海周辺に多くの海賊を生み出した。画像はハワード・パイルが描いた「カリブ海のバッカニーア」。 スペイン副王支配のリマ。リマはこの当時スペインの南米支配の拠点であり、カトリック教会によるウルトラバロックとも呼ばれる壮麗な教会建築が並んだ。画像は1656年の大地震で大破したのちに再建されたリマのサン・フランシスコ教会・修道院。 17世紀(じゅうしちせいき、じゅうななせいき)は、西暦1601年から西暦1700年までの100年間を指す世紀。.
1820年
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1931年
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1969年
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1978年
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