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北面武士

索引 北面武士

北面武士(ほくめんのぶし)とは、院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士のこと。11世紀末に白河法皇が創設した。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員された。.

92 関係: 南部為重南部重清大江公朝太上天皇室町時代家柄安土桃山時代中右記中央公論新社三上景文平宗実平忠盛平信兼平知康平直方平盛兼平正盛平正衡平成康和延暦寺伊勢平氏強訴佐藤氏御所公卿元永兵衛府禁門の変竹内理三範俊美濃源氏男色白河天皇西面武士西行諸大夫高橋昌明越後平氏足利氏軍事貴族近世郎党興福寺関白藤原南家藤原師通藤原北家藤原秀康...藤原秀郷藤原秀能藤原秀澄藤原盛重藤原貞嗣東寺検非違使武士江戸時代河内国河内源氏清和源氏源季実源光保源光信源光国源義家源義康源義国源義朝源為義源重成源重時源満政滝口武者明治維新昭和文徳源氏文覚摂家愚管抄承久の乱1099年1103年1104年1113年1118年11世紀1965年1990年2002年2004年 インデックスを展開 (42 もっと) »

南部為重

南部 為重(なんぶ ためしげ)は南北朝時代の武将。南部氏初期の系譜は異同が激しいため、系譜位置については一定しない。.

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南部重清

南部 重清(なんぶ しげきよ)は、室町時代後期の甲斐南部氏の武将で北面武士。甲斐の高下村で隠居後、仙洞田氏を興す。.

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大江公朝

大江 公朝(おおえ の きみとも、? - 正治元年(1200年))は、平安時代末期、鎌倉時代初期の後白河院の北面武士。宮内判官。公友とも。子に公澄。大江氏であるが、詳しい系譜は不明。.

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太上天皇

太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)とは、譲位により皇位を後継者に譲った天皇の尊号、または、その尊号を受けた天皇。由来は、中国の皇帝が位を退くと「太上皇」と尊称されたことにあるとされる。元々は譲位した天皇が自動的に称する尊号であったが、嵯峨天皇の譲位以降は新天皇から贈られる尊号に変化した。 略称は「上皇」である。また、出家した太上天皇を、「太上法皇(法皇)」と称する。ただし、これは法的な根拠のある身位ではなく、太上法皇も太上天皇に含まれる。また、太上法皇の称号が用いられた初例は宇多法皇とされており、聖武上皇や清和上皇などそれ以前の退位後に出家した太上天皇には太上法皇(法皇)を用いるのは正確な表現ではない。 「院」とも称され、太上天皇が治天の君として政務を執った場合、その政治を院政という(太上天皇がみな院政をしいた訳ではない)。三宮(后位)と合わせて「院宮」といい、更に、皇族や有力貴族を含めた総称を「院宮王臣家」といった。院の御所が仙洞御所と呼ばれたことから、「仙洞」も上皇の謂として用いられる。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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家柄

家柄(いえがら)とは、先祖からの家すじを意味する。家格と同義とされることもある。.

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安土桃山時代

安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。 なお、美術史では1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡までを「安土桃山時代」と称するのが一般的である。.

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中右記

『中右記』(ちゅうゆうき)は、藤原宗忠が寛治元年(1087年)から保延4年(1138年)まで書いた日記である。筆者には『愚林』と名付けられたようだが、「中御門右大臣の日記」を略して『中右記』と呼ばれる。.

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中央公論新社

株式会社中央公論新社(ちゅうおうこうろんしんしゃ)は、日本の出版社である。読売新聞グループ本社の傘下。略称は中公(ちゅうこう)。 本項では、旧法人の株式会社中央公論社(ちゅうおうこうろんしゃ)についても述べる。.

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三上景文

三上 景文(みかみ かげふみ、寛政元年8月28日(1789年10月16日) - ?)は、江戸時代の官人。本姓は秦宿禰。身分は地下人で、北面武士に所属した。確認されている最後の官位は従四位下大和守。地下家伝の編者である。.

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平宗実

平 宗実(たいら の むねざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。平重盛の七男。『吾妻鏡』では末子とされる。平清盛の孫。.

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平忠盛

平 忠盛(たいら の ただもり)は、平安時代末期の武将。平清盛の父。烏帽子親は義兄の源義忠。 伊勢平氏で初めて昇殿を許された。北面武士・追討使として白河院政・鳥羽院政の武力的支柱の役割を果たすとともに、諸国の受領を歴任し、日宋貿易にも従事して莫大な富を蓄えた。その武力と財力は次代に引き継がれ、後の平氏政権の礎となった。歌人としても知られ、家集『平忠盛集』がある。.

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平信兼

平 信兼(たいら の のぶかね、生没年不詳)は平安時代末期の武将。桓武平氏大掾氏の一族で、父は平盛兼。子に源頼朝挙兵で最初の標的とされた山木兼隆(山木判官代)のほか、兼衡、信衡、兼時がある。大掾信兼・関信兼とも呼ばれる。官職は出羽守または和泉守。.

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平知康

平 知康(たいら の ともやす、生没年不詳)は、平安時代末期の武士。壱岐守平知親の子。検非違使・左衛門尉。鼓の名手で鼓判官(つづみのほうがん)と呼ばれた。.

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平直方

平 直方(たいら の なおかた、生没年未詳)は、平安時代中期の武将。桓武平氏の当主で、摂関家の家人として在京軍事貴族でもあった。平忠常の乱の際には、追討使として、討伐した人物である。 父は平維時。兄は平中方、子は維方、孫は平盛方(阿多美聖範)、時直。女婿は源頼義、藤原惟経、藤原憲輔など。.

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平盛兼

平 盛兼(たいら の もりかね、生没年不詳)は、平安時代末期の北面武士。桓武平氏大掾氏の一族で、平貞盛の弟平繁盛の子平兼忠の孫・平兼衡の子。右衛門尉。大掾盛兼とも呼ばれる。 また、『吾妻鏡』では、伊勢平氏の平維衡の末裔と記されている。 保元の乱の際、鳥羽法皇の遺勅によって集められた中に和泉守として名があり、藤原忠通方として戦った。子に平信兼・平経隆がいる。孫は山木兼隆。.

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平正盛

平 正盛(たいら の まさもり)は、平安時代後期の伊勢平氏の武将。北面武士。父は平正衡。平清盛の祖父にあたる。.

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平正衡

平 正衡(たいら の まさひら、生没年不詳)は、平安時代中期の武将。伊勢平氏の棟梁・平正度の五男。官位は従四位下(一説には従五位下)、検非違使、右衛門尉、出羽守。子に正盛がある。 父祖同様に伊勢国を本拠地として活動、承保2年(1075年)には天台宗の僧良心と結託し同国桑名郡における東寺の末寺多度神宮寺を天台の別院と称してその所領荘園などを押妨した。これは結果的に朝廷の裁定により認められなかったが、伊勢における正衡の活発な軍事行動の一端を示す事例と言える。 他方、都で藤原師実に仕え、京周辺の警察活動にも従事する。承暦3年(1079年)に起こった延暦寺の僧兵による強訴に際しては、源頼綱や兄の季衡らとともに出動し都の防衛に当たっている。康和元年(1099年)の除目で出羽守に就任。それ以降の事績は不詳である。 嫡男の正盛は白河院の庇護の下中央政界に進出、忠盛、清盛と続く平家隆盛の基礎を築いたことで知られる。.

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平成

平成(へいせい)は日本の元号の一つ。昭和の後。今上天皇在位中の1989年(平成元年)1月8日から現在に至る。2001年(平成13年)の始まりには西暦における20世紀から21世紀への世紀の転換もあった。2019年(平成31年)4月30日に今上天皇退位により終了する予定であり、予定通り終了した場合、30年113日間(=11,070日間)にわたることとなる。なお、日本の元号では昭和(64年)、明治(45年)、応永(35年)に次いで4番目の長さである(5番目は延暦の25年)。 西暦2018年(本年)は平成30年に当たる。本項では平成が使われた時代(平成時代)についても記述する。.

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康和

康和(こうわ)は、日本の元号の一つ。承徳の後、長治の前。1099年から1103年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.

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延暦寺

延暦寺(えんりゃくじ、正字: 延曆寺)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので南都の興福寺と対に北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。1994年には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。.

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伊勢平氏

伊勢平氏(いせへいし)は、承平天慶の乱に功のあった平貞盛の四男平維衡よりはじまる平氏一族の一つ、高望王流坂東平氏の庶流である。平氏の中でも伊勢平氏、特に平正盛の系統(六波羅家あるいは六波羅流)を平家(へいけ)と呼ぶ場合がある。.

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強訴

強訴(ごうそ)とは強硬な態度で相手に訴えかける行動を指す。「嗷訴」とも。とくに、平安時代中期以後、僧兵・神人らが仏神の権威を誇示し、集団で朝廷・幕府に対して行なった訴えや要求、江戸時代に農民が領主に対して年貢減免などを要求したことを指す。.

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佐藤氏

佐藤氏(さとうし)は、日本の氏族のひとつ。藤原秀郷をその源流とする。その由来は、左衛門尉の藤原氏の略とされる他、佐野の藤原氏、佐渡の藤原氏などの諸説がある。 130px 130px.

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一回遣欧使節(撮影:ナダール) 侍(さむらい)は、古代から中世にかけての日本における官人の身分呼称、あるいはそこから発展的に生じた武士の別名である。「伺候(しこう)祗候・伺候:[しこう] 謹んで貴人のそば近く仕えること。する」「従う」を意味する「さぶらう」(旧仮名遣いでは「さぶらふ」〈候ふ/侍ふ〉)に由来する。.

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御所

御所(ごしょ)とは、主に天皇など特に位の高い貴人の邸宅、またはその人を指す、歴史上の称号のひとつ。そのいくつかは現代にも名称を残している。.

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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元永

元永(げんえい)は、日本の元号の一つ。永久の後、保安の前。1118年から1119年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇。.

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兵衛府

兵衛府(ひょうえふ)とは、律令制における官司。左兵衛府と右兵衛府の二つが存在する。長は兵衛督 (左兵衛督・右兵衛督)である。左右近衛府、左右衛門府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。和訓では「つはもののとねりのつかさ」という。唐名は武衛(ぶえい)。.

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禁門の変

蛤御門の門柱に残る弾痕(2005年10月) 禁門の変(きんもんのへん)は、元治元年7月19日(1864年8月20日)に、京都で起きた武力衝突事件。蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、元治の変(げんじのへん)とも呼ばれる。.

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竹内理三

竹内 理三(たけうち りぞう、1907年(明治40年)12月20日 - 1997年(平成9年)3月2日)は、日本の歴史学者。東京大学史料編纂所所長。東京大学名誉教授。文学博士。専門は日本古代史・中世史。号は竹犂(ちくり)。愛知県出身。.

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範俊

範俊(はんしゅん、長暦2年(1038年) - 天永3年4月24日(1112年5月21日))は、平安時代後期の真言宗の僧。父は興福寺大威儀師仁静。 初め興福寺伝法院末明に師事し、その後小野曼荼羅寺(後の随心院)成尊僧都から金剛界・胎蔵界の両部の秘法を学んだ。1082年(永保2年)祈雨法を修して霊験を著したが、義範の妨害にあい那智山に隠遁した。その後、白河天皇は範俊を召し出して小野曼荼羅寺に住まわせ、堀河天皇に譲位した後はその護持僧とした。1100年(康和2年)興福寺寺務、1106年(嘉承元年)東寺長者、1110年(天永元年)権僧正に至った。 Category:真言宗の僧 Category:平安時代の僧 Category:1038年生 Category:1112年没.

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美濃源氏

美濃源氏(みのげんじ)とは、中世に美濃国に土着し本拠とした清和源氏の流れを汲む一族の呼称。.

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男色

男色(なんしょく、だんしょく)とは、男性同士の性愛(男性同性愛)を指す言葉である。女色(男性の異性愛)の対語に相当する。発音は異なるが中国伝来の言葉であり、朝鮮半島でも用いられる。日本に入ってきてからは寺院や武家社会、歌舞伎の世界などで独自に発展を遂げた(衆道参照)。.

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白河天皇

白河天皇(しらかわ てんのう)は、第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日) - 応徳3年11月26日(1087年1月3日))。諱を貞仁(さだひと)という。 後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。.

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西面武士

西面武士(さいめんのぶし、西面の武士とも)は、鎌倉時代、上皇に仕え、身辺の警衛、奉仕などにあたった武家集団のこと。 1200年ごろ、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の軍事力に対抗して結成したとされる。倒幕準備のために創設したとする説の他、武芸を好んだ上皇が幕府とは関係なく創設したとする説もある。院御所の西面に詰め所などがあったので、この名がついている。 関東や在京の御家人を中心に構成されており、西日本の有力御家人、武勇に優れた武家(武士)が多く所属していた。すでに上皇警護には白河上皇によって創設された北面武士があり、ともに院の軍事の中枢を担った。 1221年の承久の乱においては上皇軍として参戦したが、1ヶ月あまりで鎮圧された。乱後、上皇の配流に伴い廃止された。.

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西行

西行像(MOA美術館蔵) 西行(さいぎょう)、元永元年(1118年) - 文治6年2月16日(1190年3月31日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。父は左衛門尉・佐藤康清、母は監物・源清経女。同母兄弟に仲清があり、子に隆聖、女子(単に西行の娘と呼ばれる)がある。俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。出家して法号は円位、のちに西行、大本房、大宝房、大法房とも称す。 勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)『山家心中集』(自撰)『聞書集』、その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と目される。.

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諸大夫

諸大夫(しょだいぶ)は、日本の古代から中世、近世にかけての官人の階層の名称。.

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高橋昌明

髙橋 昌明(たかはし まさあき、1945年1月27日- )は、日本の歴史学者、神戸大学名誉教授。日本中世史専攻。.

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越後平氏

越後平氏(えちごへいし)は、桓武平氏繁盛流惣領家の常陸平氏(大掾氏)のうち越後国で分岐した奥山氏と城氏を中心に発展した氏族。同族に鎮西平氏(伊佐氏)、海道平氏(岩城氏)、信濃平氏(仁科氏)がある(海道平氏と信濃平氏に関しては同族ではない説もある)。.

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足利氏

足利氏(あしかがし)は、日本の武家のひとつの軍事貴族。本姓は源氏。家系は清和天皇清和源氏の一族の河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府においては御家人であると同時に将軍家一門たる御門葉の地位にあった。室町時代には嫡流が足利将軍家として天下人となった。藤原秀郷の子孫の藤原姓足利氏(藤姓足利氏)に対して源姓足利氏という場合がある。 通字は、「義」(よし、足利将軍家ほか)または「氏」(うじ、鎌倉時代の歴代当主および鎌倉公方・古河公方家など)。.

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軍事貴族

軍事貴族(ぐんじきぞく)は、日本の古代後期から中世最初期にかけて出現した軍事専門の貴族・公家(地下人)のことをいう。武家貴族とも呼ばれ、成立期の武家(武士)の母体となった。為憲流藤原南家、利仁流と秀郷流と勧修寺流上杉氏の藤原北家、国香流桓武平氏、清和源氏、広元流大江氏、嵯峨源氏の渡辺氏と瓜生氏、宇多源氏の佐々木氏、多々良姓大内氏、日下部姓朝倉氏、大蔵姓諸氏、中原姓諸氏、惟宗姓諸氏などが代表的な軍事貴族である。.

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近世

近世(きんせい、英語:early modern period)とは、歴史学における時代区分のひとつ。中世よりも後で、近代よりも前の時期を指す。.

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郎党

郎党(ろうとう、ろうどう)は、中世日本の武士社会における主家の一族や従者。郎等とも。 平安時代中期に承平天慶勲功者やその子孫の中から登場した武士階層は、田堵負名、すなわち田地経営者としての側面も持っていた。武士たちは在地にあって田地経営を行いながら武芸の鍛錬に励み、国衙から軍事動員が課せられたときは軍事活動に参加した。こうして彼らは国衙から「国内武士」としての認知を受け、それによって武士身分を獲得していた。(→国衙軍制) 上記のような在地武士たちは、戦力を一定以上確保するために、自らに従う者を「郎党」と呼んで主従関係を結んだ。郎党は、武士と同身分であるとは言い切れないものの、在地武士と同様に騎乗する権利を持ち、戦闘に参加する義務を負っていた。郎党の出自を見ると、下人・所従から郎党になった者もいれば、百姓身分の者が在地武士と主従関係を持って郎党となった者もいた。 郎党と同様、武士に従いながら戦闘に参加したのが「家の子」(子弟)である。家の子と郎党の差異は、家の子が武士の一族・子弟であり、血縁関係を有していたのに対し、郎党はそうでなかったという点にある。 武士間で主従関係を結んで、ある武士が別の武士の郎党となることもあった。11世紀ごろに武家の棟梁と呼ぶべき指導的な武士(例えば源頼信など)が登場すると、多数の武士が棟梁と主従関係を結んで、棟梁の郎党となっている。.

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興福寺

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。.

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関白

関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.

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藤原南家

藤原南家(ふじわら なんけ)とは、奈良時代の藤原不比等の長男である藤原武智麻呂に始まる藤原氏の一流。「南家」の称は、武智麻呂の邸宅が弟房前の邸宅に対し南に位置したことに由来する。子孫は、房前を祖とする藤原北家に押されて振るわなかったが、為憲流藤原南家の伊東氏・二階堂氏・相良氏など武家(軍事貴族)の名族を多く輩出した。.

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藤原師通

藤原 師通(ふじわら の もろみち)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、関白・藤原師実の子。官位は従一位、関白、内大臣。.

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藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

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藤原秀康

藤原 秀康(ふじわら の ひでやす)は、鎌倉時代前期の武将。承久の乱での後鳥羽上皇側の大将軍。.

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藤原秀郷

藤原 秀郷(ふじわら の ひでさと)は、平安時代中期の貴族、豪族、武将。下野大掾・藤原村雄の子。 室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足退治の伝説で有名。もとは下野掾であったが、平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。死後、正二位を追贈された。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出した。.

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藤原秀能

藤原 秀能(ふじわら の ひでよし/ひでとう)は、鎌倉時代前期の武士・廷臣・歌人。.

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藤原秀澄

藤原 秀澄(ふじわら の ひでずみ)は、鎌倉時代前期の武士。承久の乱での後鳥羽上皇側の大将軍。.

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藤原盛重

藤原 盛重(ふじわら の もりしげ、生没不詳)は、平安時代後期の武士。藤原北家良門流。藤原国仲(平国仲)の子。兄弟に盛仲、定重、隆仲、国盛、念尊らがあり、子に盛俊、盛道、盛賢、盛宗、盛成、盛綱、盛景、重舜などがある。従五位上、検非違使。相模守、信濃守。近藤右衛門尉と号す。 周防国の出身で幼名を今犬丸(あるいは千寿丸)といい、初め東大寺に侍童として仕えていたが、白河院が南都御幸の際にその眉目秀麗なるを見初め、寵童(男色相手)として召し出したという。以後白河院に近侍し、元服して後は高階経敏に家人として仕える。北面武士としては寛治2年(1088年)『白河上皇高野御幸記』にその名が見え、『中右記』では康和4年(1102年)4月25日以降、検非違使在職が確認できる。 嘉承3年(1108年)には、藤原佐実が源仲政との乱闘の末に髻を切られるという事件に際し、白河院の意を受けた摂政藤原忠実の命により、犯人を逮捕して名を挙げた。永久元年(1113年)、いわゆる「永久の強訴」に当たっては、平正盛、平忠盛、源為義、源光国らとともに興福寺大衆の鎮圧に派遣され、また同年、いわゆる「永久の変」に当たっては、鳥羽天皇呪詛の罪状を得た醍醐寺の僧仁寛の逮捕にも当たっている。この功績により、検非違使尉の地位を嫡男の盛道に譲ることを許されている。.

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藤原貞嗣

藤原 貞嗣(ふじわら の さだつぐ)は、平安時代初期の公卿。名は貞継とも記される。藤原南家、参議・藤原巨勢麻呂の十男。.

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東寺

東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある東寺真言宗の仏教寺院。東寺は真言宗の根本道場であり、東寺真言宗の見解では、真言宗全体の総本山としている。「教王護国寺」(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる(名称については「寺号」の節を参照)。山号は八幡山。本尊は薬師如来。寺紋は雲形紋(東寺雲)。 東寺は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。昭和9年(1934年)に国の史跡に指定、平成6年(1994年)12月には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。.

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検非違使

『伴大納言絵詞』に描かれた検非違使 知恩院を警護する検非違使 検非違使(けびいし、けんびいし)は日本の律令制下の令外官の役職である。「非違(非法、違法)を検察する天皇の使者」の意。検非違使庁の官人。佐と尉の唐名は廷尉。京都の治安維持と民政を所管した。また、平安時代後期には令制国にも置かれるようになった。.

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武士

武士(ぶし)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在した、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。「もののふ」(cf. wikt) とも読み倣わすが、その起源については大伴氏や物部氏の名に求めるなど諸説がある。 同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(用例:武者絵、武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者などさらには、「影武者」のように、本義のほかに一般用語としても使われるようになった語もある。)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士とは言え、呼ぶことが間違いというわけではない。はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、侍、兵/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は性別を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、女性の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って女武者(おんなむしゃ)という呼び方をする「女武士」や「姫武士」などという呼称は見られない。。 武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめ、古代を終焉させたとする理解が通常されている。旧来の政権を傀儡として維持したまま自らが実質的に主導する中世社会を構築した後は、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。近代に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府(明治政府)であった。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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河内国

河内国(かわちのくに/かはちのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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河内源氏

河内源氏(かわちげんじ)は、河内国(現在の大阪府の一部)に根拠地を置いた清和源氏の一流。一般的に武士で「源氏」という場合、この系統を指す。また、「平家」と称される伊勢平氏と併称される場合には源家(げんけ)という呼称も古くは用いられていた。.

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清和源氏

清和源氏(せいわげんじ)は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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源季実

源 季実(みなもと の すえざね、生年不明 - 平治元年12月30日(1160年2月9日))は、平安時代末期の武将。諱は末実とも記される。文徳源氏、周防守・源季範の次男。官位は従五位下・河内守。周防判官と呼ばれる。.

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源光保

源 光保(みなもと の みつやす)は、平安時代末期の武将・院近臣。摂津源氏の流れを汲む出羽守源光国の三男。諱は光泰(『平治物語』)、光康(『愚管抄』)とも記される。.

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源光信

源 光信(みなもと の みつのぶ)は、平安時代末期の武将。出羽守源光国の長男。通称は出羽判官、土佐判官。鳥羽院四天王の一人。土岐光信とも記される。.

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源光国

源 光国(みなもと の みつくに)は、平安時代後期の武将。伊豆守源国房の長男。初名は師時(『尊卑分脈』)。.

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源義家

源 義家(みなもと の よしいえ)は、平安時代後期の武将。伊予守・源頼義の長男。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる。 比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となった時、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約10年間は閉塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された。 その活動時期は摂関政治から院政に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。このため歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ、後三年の役の朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な憶測がされてきた。生前の極位は正四位下。.

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源義康

源 義康(みなもと の よしやす/足利 義康 あしかが よしやす)は、平安時代末期の武将。足利氏の祖。陸奥判官とも称した。.

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源義国

源 義国(みなもと の よしくに)は、平安時代後期の河内源氏の武将。源義家の子。新田・足利両氏の祖にあたる。.

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源義朝

源 義朝(みなもと の よしとも)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の長男。母は白河院近臣である藤原忠清の娘。源頼朝・源義経らの父。 源義家の死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていた。都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で家人に裏切られ謀殺された。.

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源為義

源為義(みなもとのためよし)は、平安時代末期の武将。祖父は源義家、父は源義親。叔父の源義忠暗殺後に河内源氏の棟梁と称す。なお父は源義家で、源義親と義忠は兄にあたるという説もある。通称は六条判官、陸奥四郎。源頼朝・源義経らの祖父。 当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の源為朝の乱行により解官となる。保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の源義朝の手で処刑された。.

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源重成

源 重成(みなもと の しげなり)は、平安時代末期の武将。源重実の長男。八島重成とも。.

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源重時

源 重時(みなもと の しげとき)は、平安時代後期の武将。佐渡守源重宗の三男。.

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源満政

源 満政(みなもと の みつまさ)は、平安時代中期の武将。源経基の次男。満仲、満季らの同母兄弟。八島大夫、村岡大夫などと号した。満正とも記される。.

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滝口武者

滝口武者(たきぐちのむしゃ)は、9世紀末頃から蔵人所の下で内裏の警護にあたっていた武士。滝口の武士ともいう。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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昭和

昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.

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文徳源氏

文徳源氏(もんとくげんじ、)は、第55代文徳天皇の皇子を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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文覚

文覚(もんがく、保延5年(1139年) - 建仁3年7月21日(1203年8月29日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧。父は左近将監茂遠(もちとお)。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)。文学、あるいは文覚上人、文覚聖人、高雄の聖とも呼ばれる。弟子に上覚、孫弟子に明恵らがいる。.

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摂家

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.

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愚管抄

『愚管抄』(ぐかんしょう)は、鎌倉時代初期の史論書。作者は天台宗僧侶の慈円。全7巻。承久の乱の直前、朝廷と幕府の緊張が高まった時期の承久2年(1220年)頃成立したが、乱後に修訂が加えられている。.

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承久の乱

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。承久の変、承久合戦ともいう。 日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。 1185年に鎌倉幕府が成立した以降、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていた。その間、幕府の初代将軍の源頼朝が落馬で死亡、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺され、天皇家の血を引く源氏将軍が鎌倉から滅亡した。その1219年以降、鎌倉は伊豆を収める世襲一族の北条氏が実権を握り、さらに北条氏は、幕府内で朝廷の代理人である執権であったが、幕府を実質的に手中に収めるに至り、日本を統治するのは朝廷であり朝廷主導の政治が本来の姿とする朝廷側の怒りが高まっていった。この2年後に起きた承久の乱の結果、鎌倉幕府主導の政治体制が固まり、朝廷を監視する六波羅探題を京都に置き、朝廷の権力は制限され、皇位継承等にも鎌倉幕府が影響力を持つようになった。.

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1099年

記載なし。

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1103年

記載なし。

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1104年

記載なし。

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1113年

記載なし。

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1118年

記載なし。

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11世紀

トスカーナ女伯マティルデ(右)とクリュニー修道院長(左)。 ウィリアム1世になる。 マーストリヒト大聖堂宝物室の写本外装。聖遺物崇敬の高まりとともにモザン美術と呼ばれるマース川流域の低地地方で生み出された金銀やエナメルの細工も巧緻なものとなった。この11世紀に造られた写本外装は現在はルーヴル美術館にある。 藤原道長。御堂関白とも通称された道長の時代に摂関政治は頂点に達した。画像は『紫式部日記』藤田家本第5段から1008年の一条天皇の土御門邸行幸に備え、新造の竜頭鷁首の船を検分する道長。 紫式部と『源氏物語』。かな文字の発達は日本独特の女流文学の発展を促した。画像は12世紀初頭に描かれた『源氏物語絵巻』「竹河」(徳川美術館蔵)。 宇治の平等院鳳凰堂。末法思想の高まりとともに阿弥陀仏の極楽浄土に往生すること(浄土思想)が求められた。平等院は関白藤原頼通によって建てられたもので、中心の鳳凰堂には仏師定朝の手による阿弥陀仏が安置されている。 遼の応県木塔。山西省応県の仏宮寺釈迦塔のことで章聖皇太后の弟蕭孝穆により建立された中国最古の木造の塔とされる。 仁宗の時期までに北宋は国制を整え、遼や西夏とは和平関係を結び、安定期を現出した。画像は仁宗の皇后曹氏(慈聖光献曹皇后)の肖像(台湾故宮博物院蔵)。 北宋の宰相・王安石。慢性的な財政難を克服するため神宗皇帝の熙寧年間に大改革を行った王安石だったが、司馬光らとの党争を惹起し、国内を混乱させることともなった。 山水画の大成。唐末五代から著しい進展を見せた山水画は北宋の李成・范寛・郭熙らの名手により高い技術と深い精神性を得ることになった。画像は台北国立故宮博物院蔵の郭熙の「早春図」。 敦煌楡林窟第3窟壁画「文殊菩薩」。仏教信仰に熱心だった西夏支配の敦煌では最後の繁栄の時代を迎えていた。 チャンパ王国の発展。11世紀初頭にヴィジャヤに遷都した王国はこの地に独特の文化を花開かせた。画像はビンディン省タイソン県にあるズオン・ロン塔で「象牙の塔」の名でも知られている。 カジュラーホーのパールシュバナータ寺院の塔(シカラ)。チャンデーラ朝のダンガ王と続く歴代の王によって建立された。 マフムードの宮廷。 『シャー・ナーメ(王書)』。11世紀初めにフェルドウスィーによってまとめられた長大なペルシア民族叙事詩。画像はサファヴィー朝時代の『シャー・ナーメ』の写本。 イブン・スィーナー。『医学典範』を著した博学な医師であると同時に東方イスラム世界を代表する哲学者としても多くの仕事を残した。 「ハラガーン双子塔」。1067年に建てられたこの建築は、セルジューク朝の二人の王子の墓廟であり、二つの塔にわかれているのでこの名がある。この塔のあるガズヴィーンはイランのカスピ海南岸の街で、近郊には「暗殺教団」ニザール派のアラムート要塞もある。 商業都市フスタート。ファーティマ朝の政治的な首都はカイロであったが、その近郊にあったフスタートが商工業の中心地であり貿易の中心地でもあった。画像はフスタートの工房で造られたラスター彩陶器で独特な色彩と光沢が特徴的である(メリーランド州ボルチモアのウォルターズ美術館蔵)。 Astrolabio de al-Sahlî」(スペイン国立考古学博物館蔵)。 コンスタンティノス9世の肖像。この皇帝の時代に東西教会分裂につながる相互破門事件が発生している。 アレクシオス1世の戦略。混迷の帝国にあって軍事貴族から身を起こし、帝位に就いたのがアレクシオス1世である。ノルマン人やクマン人といった外敵を互いに競わせ、或いは懐柔する巧みな外交手腕を駆使したことで有名である。しかしセルジューク族を排除するため西欧諸国から援軍を募ろうとして大きな誤算を生むのである。 エルサレム攻囲戦の細密画。 トゥーラ・シココティトラン。10世紀から11世紀に栄えたメキシコの後古典期の遺跡で、伝承ではトルテカ帝国の都だとされている。 11世紀(じゅういちせいき、じゅういっせいき)とは、西暦1001年から西暦1100年までの100年間を指す世紀。2千年紀における最初の世紀である。.

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1965年

記載なし。

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1990年

この項目では、国際的な視点に基づいた1990年について記載する。.

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2002年

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2004年

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