ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
インストール
ブラウザよりも高速アクセス!
 

田楽

索引 田楽

楽(でんがく)は、平安時代中期に成立した日本の伝統芸能。楽と躍りなどから成る。「田植えの前に豊作を祈る田遊びから発達した」「渡来のものである」などの説があり、その由来には未解明の部分が多い。.

108 関係: 執権おでんえんぶりささら堀河天皇塩原の大山供養田植増阿弥大和猿楽大江匡房天台座主太平記室町幕府安芸のはやし田寺社山屋の田植踊中世世阿弥三河の田楽下呂の田の神祭一忠平安時代京都予祝芸能今昔物語集仏教住吉の御田植征夷大将軍御宝殿の稚児田楽・風流御田御田八幡宮御田植祭御霊会北条高時味噌田楽国際連合教育科学文化機関石井の七福神と田植踊睦月神事磯部の御神田秋保の田植踊猿楽田原の御田田の神田遊び田植え無形文化遺産相撲白鬚神社の田楽隠岐の田楽と庭の舞花園の御田舞...芸人鎌倉幕府鎌倉時代風流西角井正慶西浦の田楽高足豊作貴族足利義持都々古別神社の御田植能楽藤守の田遊び那智の田楽重要無形民俗文化財松尾神社板橋の田遊び杉野原の御田舞栄花物語比叡山水海の田楽・能舞永長永長の大田楽洛陽田楽記流鏑馬料理日本日本伝統芸能日本紀略1096年12月15日12月26日12月27日12月28日1976年1977年1978年1979年1981年1987年1990年1992年1995年1997年1月21日2000年2002年2004年2009年2月12日2月3日2月6日3月11日3月29日5月17日5月22日5月4日 インデックスを展開 (58 もっと) »

執権

執権(しっけん)は、鎌倉幕府の職名。鎌倉殿を助け政務を統轄した。元来は、政所の別当の中心となるものの呼称であった。 ただし、朝廷においても用いられた語であり、鎌倉幕府独自の職名ではないことに注意を要する。.

新しい!!: 田楽と執権 · 続きを見る »

おでん

おでん(御田)は日本料理のうち、煮物料理の一種である。鍋料理にも分類される。 鰹節とコンブでとった出汁(だし)に味を付け、さつまあげ・はんぺん・焼きちくわ・つみれ・蒟蒻(こんにゃく)・大根・芋・がんもどき・ちくわ・すじ(牛すじ)・ゆで卵、厚揚げ、その他いろいろな種を入れて、長時間煮込む。おでん種、つけだれの種類は地域や家庭によって異なる。 「おでん」は元々、田楽を意味する女房言葉である。田楽、もしくは味噌田楽は室町時代に出現した料理で、種を串刺しにして焼いた「焼き田楽」のほか、種を茹でた「煮込み田楽」があった。江戸時代になって「おでん」は「煮込み田楽」を指すようになり、「田楽」は「焼き田楽」を指すようになった丸善食品総合辞典 P.164(味噌田楽も参照)。 素材にもよるが、前処理として下茹でや油抜きなどした上で、つゆに様々なおでん種を入れて調理を行う。地域や店により種やつゆの違いも大きく、子供が買うような駄菓子屋から、屋台、専門店、コンビニエンスストア、比較的立派な日本料理店のメニューにまで、広く扱われている。家庭でも調理でき、家庭料理を扱う料理本にもしばしば作り方が書いてある。また、テレビの料理番組、旅行番組などで紹介されることもある。.

新しい!!: 田楽とおでん · 続きを見る »

えんぶり

えんぶり(朳)とは、初春の神事として青森県八戸市一円を中心とする東北各地で広く行われる予祝芸能の一種である。八戸市における保護団体は八戸地方えんぶり連合協議会。.

新しい!!: 田楽とえんぶり · 続きを見る »

ささら

びんざさら(こきりこささら) ささらとは、.

新しい!!: 田楽とささら · 続きを見る »

堀河天皇

堀河天皇内裏跡 堀河天皇(ほりかわてんのう、承暦3年7月9日(1079年8月8日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))は平安時代後期の第73代天皇(在位:応徳3年11月26日(1087年1月3日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))。諱は善仁(たるひと)。 白河天皇の第二皇子、母は藤原師実の養女・中宮賢子。准母に同母姉媞子内親王(郁芳門院)。.

新しい!!: 田楽と堀河天皇 · 続きを見る »

塩原の大山供養田植

塩原の大山供養田植(しおはらのだいせんくようたうえ)は、広島県庄原市(旧・東城町大字塩原)に伝わる民俗芸能の田楽。 太鼓や歌の囃子に合せて共同で田植えをし、併せて鳥取県にある名峰伯耆大山の牛馬守護信仰を背景に農作業で使った牛馬の供養も行う行事である。田植踊、牛馬供養、牛による田の代かき、太鼓と歌にあわせた田植と、翌日の大仙神社(多飯が辻山)へのお札納めで構成される。従来、田植の終わる時期に随時行われていたが 1985年(昭和60年)から塩原地区の石神社前の水田で 4年目毎の5月31日に公開されている。 楽器や歌で囃す田植は平安時代の『栄花物語』などにみられ、現在でも広島県西部の安芸地方では安芸のはやし田や壬生の花田植などが伝えられている。安芸のはやし田は、太鼓の打ち手が体をそらせたり互いにバチを投げ合って交換するなど華やかに行われるが、大山供養田植はそれらとは異なり太鼓を主とした囃子方は田の中には入らずあぜで囃し、農作業を効率的に行うために太鼓と歌で田植の調子を整えた実際的な田植を継承したもので、芸能的に華やかに展開する以前の田植の様子を示している。 2002年(平成14年)2月12日に国の重要無形民俗文化財に指定された。.

新しい!!: 田楽と塩原の大山供養田植 · 続きを見る »

増阿弥

増阿弥(ぞうあみ、生没年未詳)は、室町時代の田楽法師、田楽新座の役者。世阿弥と同時期に活躍し、田楽能の名手として世阿弥と人気を争った。「冷えに冷えたり」(『申楽談義』)と評されるように、幽玄な芸風の持ち主であったらしく、応永20年代ごろ足利義持の後援を受けて活躍した。 生年未詳ではあるが、応永21年(1414年)の年紀を持つ『竹生島縁起』に勧進者として名が挙がり、逆算して世阿弥と同年代かあるいはやや年下と考えられる。詳細不明ながら、『申楽談義』によれば「閑花風」(『九位』の第三位)の芸風で、東北院の立合能では「感涙も流るるばかり」の名演を見せたという。また「冷えに冷えたり」という有名な評言で知られる「尺八の能」を演じたことからも推測されるように、尺八をよくしたらしく、『体源抄』や『ささめごと』には豊原量秋に師事して名手であった旨の記載がある。 『仮面譜』以来、女面の増の作者もしくはモデルとなった女性の夫に擬せられることがあるが、真偽不明。 Category:芸道 Category:室町時代の人物 Category:生没年不詳.

新しい!!: 田楽と増阿弥 · 続きを見る »

大和猿楽

大和猿楽(やまとさるがく)とは、大和国(現在の奈良県)を中心として活躍した猿楽の座。大和猿楽四座は現在の能楽協会の直接の母体である。 古くから興福寺や春日大社などの神事に奉仕することを職務とし、外山(とび)座、坂戸座、円満井(えんまんい)座、結崎(ゆうざき)座の4座が特に知られて、大和四座と称された。室町時代に入って結崎座の観阿弥・世阿弥父子が将軍家に重んじられて猿楽を現在の能楽とほぼ同等の芸能に発展させている。以後、豊臣氏・徳川氏にも重んじられ、外山座は宝生座、坂戸座は金剛座、円満井座は金春座、結崎座は観世座となり、元和年間に金剛座から分かれた喜多流を加えた四座一流の系譜(原則として世襲)を継ぐ能楽師によって、現在の能楽協会が構成されている。.

新しい!!: 田楽と大和猿楽 · 続きを見る »

大江匡房

大江 匡房(おおえ の まさふさ)は、平安時代後期の公卿、儒学者、歌人。大学頭・大江成衡の子。官位は正二位・権中納言。江帥(ごうのそつ)と号す。藤原伊房・藤原為房とともに白河朝の「三房」と称された。小倉百人一首では前中納言匡房。.

新しい!!: 田楽と大江匡房 · 続きを見る »

天台座主

天台座主(てんだいざす)は、日本の天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職。「山の座主」とも呼ばれた。ただし、比叡山に居住することは少なく、重要な修法、儀式の時のみ入山する座主が多かった。.

新しい!!: 田楽と天台座主 · 続きを見る »

太平記

『太平記』(たいへいき)は、日本の古典文学作品の1つである。歴史文学に分類され、日本の歴史文学の中では最長の作品とされる。 全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。 第二次世界大戦後、「太平記」を称する小説やテレビドラマが多く作られたため、混同を避けるために『古典太平記』と呼ばれることもある。.

新しい!!: 田楽と太平記 · 続きを見る »

室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

新しい!!: 田楽と室町幕府 · 続きを見る »

安芸のはやし田

安芸のはやし田(あきのはやしだ)は、広島県山県郡北広島町(旧・大朝町大字新庄)、安芸高田市(旧・高宮町大字原田)に伝わる民俗芸能、重要無形民俗文化財。 安芸のはやし田は、田植時の休日に定められた田圃で行われる。飾り牛が一列縦隊で田圃内を踏み歩く「代掻き」、田面を平らにならす「えぶり」、早乙女や楽器奏者などの一行が田圃に行進してくる「道行き」、サンバイ棚と呼ばれる祭壇の前での「田の神降しの神事」、「苗取」、「田植」と進められる。行事の中心となる「田植」では、早乙女たちが後下がりしながら苗を植えて行く。その際、早乙女たちに面して立った田の神サンバイと早乙女との間で歌が掛け合わされる。早乙女たちの後方では、サンバイ竹と呼ばれる雌雄一組の棒ささらを打ち合わせて拍子を取り小沢康甫『みるきくたべる 祭ーリズム:中四国を歩く』 南々社 2012年 ISBN 9784864980014 pp.70-73.

新しい!!: 田楽と安芸のはやし田 · 続きを見る »

寺社

寺社(じしゃ)は、日本における寺院と神社の総称である。社寺(しゃじ)あるいは神社仏閣(じんじゃ ぶっかく)とも呼ばれる。 寺社という言葉は江戸時代までの仏主神従の考えによるもので、一方、社寺という言葉は平安時代頃から使われた形跡があるが、主に神社優先の考えに基づいた明治期以降に多く使われた。.

新しい!!: 田楽と寺社 · 続きを見る »

山屋の田植踊

山屋の田植踊(やまやのたうえおどり)は、岩手県紫波郡紫波町山屋に伝わるに民俗芸能、重要無形民俗文化財。 田植踊りは、稲田の作業を舞踊化し真似ることで、その年の豊年を祈願する「予祝」の意味を持つ芸能で、一般的には正月期間に行われ、屋外で演じる「庭田植え」と、室内で演じる「座敷田植え」があるが、「山屋の田植踊」は早乙女の笠ふりと間をつなぐ仲踊が中心となり、座敷で踊る「座敷田植え」と呼ばれるものである。 前口上から始まり「三番叟」から、1年の稲作過程を歌と踊りで順々に演じてみせる。さらに、囃子舞などの余興も加えられ進行に興が添えられる。初春の予祝の行事が風流化され、きわめて多彩な芸内容を持った田植踊りである。.

新しい!!: 田楽と山屋の田植踊 · 続きを見る »

中世

中世(ちゅうせい、英語:middle ages)は、狭義には西洋史の時代区分の一つで、古代よりも後、近代または近世よりも前の時代を指す。17世紀初頭の西洋では中世の観念が早くも定着していたと見られ、文献上の初見は1610年代にまでさかのぼる。 また、広義には、西洋史における中世の類推から、他地域のある時代を「中世」と呼ぶ。 ただし、あくまでも類推であって、西洋史における中世と同じ年代を指すとは限らないし、「中世」という時代区分を用いない分野のことも多い。 また、西洋では「中世」という用語を専ら西洋史における時代区分として使用する。 例えば英語では日本史における「中世」を通常は「feudal Japan」(封建日本)や「medieval Japan」(中世日本)とする。.

新しい!!: 田楽と中世 · 続きを見る »

世阿弥

世阿弥(ぜあみ、世阿彌陀佛、正平18年/貞治2年(1363年)? - 嘉吉3年8月8日(1443年9月1日)?)は、日本の室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師。父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽(申楽とも。現在の能)を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。 幼名は鬼夜叉、そして二条良基から藤若の名を賜る。通称は三郎。実名は元清。父の死後、観世大夫を継ぐ。40代以降に時宗の法名(時宗の男の法名(戒名)は阿弥陀仏(阿彌陀佛)号。ちなみに世は観世に由来)である世阿弥陀仏が略されて世阿弥と称されるようになった。世の字の発音が濁るのは、足利義満の指示によるもの。正しくは「世阿彌」。.

新しい!!: 田楽と世阿弥 · 続きを見る »

三河の田楽

三河の田楽(みかわのでんがく)は、愛知県北東部(奥三河)の田峯、鳳来寺、黒沢に伝わる民俗芸能・田楽の総称。これら3つの地区の田楽は俗に三河の三田楽と呼ばれ、明治まで盛大に行われていた。国指定(1978年5月22日)の重要無形民俗文化財。.

新しい!!: 田楽と三河の田楽 · 続きを見る »

下呂の田の神祭

下呂の田の神祭(げろのたのかみまつり)は、岐阜県下呂市森の、森水無八幡神社に伝わる祭りである。1981年(昭和56年)1月21日に重要無形民俗文化財に指定された。 創始年代は不明であるが、「田遊び」がその元となっているとされる豊作予祝祭である。明治初年までは1月14日に行われていたが、現在は2月7日から14日までの8日間に亘って祭事が行なわれる。圧巻は、花笠をかぶった踊り子たちが踊りを披露、会場に設けられたやぐらから一斉に観客にむかって花笠、だんご、小竹箸などを投げ入れ、奪い合いとなる場面である。その間に踊り子は、かぶった笠をふところに納め、踊りながら祭場から出て行く。 この「下呂の田の神祭」の芸能は、昔の祭をそのまま現代に伝えるものであり、祭礼としてだけではなく貴重な文化遺産として保護・伝承して行く必要のあるものである。.

新しい!!: 田楽と下呂の田の神祭 · 続きを見る »

一忠

一忠(いっちゅう、? - 文和3年(1354年)5月)は、南北朝時代に活躍した田楽法師。別名を石松。当時を代表する田楽の名人であり、猿楽を大成した観阿弥・世阿弥父子に大きな影響を与えた。鬼など各種の物真似芸に通じさらに舞歌幽玄の風を兼ね備えた名人として、世阿弥が『風姿花伝』で「此道の聖」、『三道』で「三体相応の達人」と絶賛している。.

新しい!!: 田楽と一忠 · 続きを見る »

平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

新しい!!: 田楽と平安時代 · 続きを見る »

座(ざ)は、平安時代から戦国時代まで存在した主に商工業者や芸能者による同業者組合のこと。朝廷や貴族・寺社などに金銭などを払う代わりに営業や販売の独占権などの特権を認められた。.

新しい!!: 田楽と座 · 続きを見る »

京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

新しい!!: 田楽と京都 · 続きを見る »

予祝芸能

予祝芸能(よしゅくげいのう)とは、伝統芸能を信仰の面からとらえたときの、萬歳や春駒など新春をことほぐ芸能や、農作業のあらましをあらかじめ一通り演じて順調に稲が実るように祈願する田遊び・御田などを指す。あらかじめ祝福することで、そのことの実現を祈るもので、その背景には言霊の信仰・思考法がある。獅子舞や風流踊りにおける「屋敷ぼめ」の歌などにも、同様の性格がみてとれる。予祝芸能に対し、災害を取り除く意味合いの強いものを除災芸能と呼ぶことがある。 * Category:言霊信仰 Category:日本の民間信仰.

新しい!!: 田楽と予祝芸能 · 続きを見る »

今昔物語集

『今昔物語集』(こんじゃくものがたりしゅう)とは平安時代末期に成立したと見られる説話集である。全31巻。ただし8巻・18巻・21巻は欠けている。 『今昔物語集』という名前は、各説話の全てが「今ハ昔」という書き出しから始まっている事に由来する便宜的な通称である。.

新しい!!: 田楽と今昔物語集 · 続きを見る »

仏教

仏教寺院 仏教(ぶっきょう、旧字体:佛敎、サンスクリット:बौद्धधर्मः 、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、もしくはガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。キリスト教・イスラム教と並んで、日本では出版点数の多い宗教の一つに数えられる。仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである。 その教義は、苦しみの輪廻から解脱することを目指している。原因と結果の理解に基づいており、諸々の現象が縁起するとされる。 仏教は仏、その教えである法、その実践者である僧からなる三宝を中心に組織されている。実践における戒定慧の三学は、戒律、心を集中する禅定、ものごとの縁起を観察する智慧であり、後ろ二つは併せて止観とも呼ばれる仏教の瞑想法である。実践にて重要となる能力は六波羅蜜や八正道のように、いくつかの方法でまとめらている。 紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、今では初期仏教として研究されている。釈迦は、他の苦行などの実践者の主張であるアートマン(真我)の存在を否定して無我とした。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、大きく大衆部と上座部とに、さらに細かく分かれたが、今なお大きな勢力として続いているのは南伝した上座部仏教であり、初期の教えを模範としている。紀元前の終わりごろには北伝し日本にも伝わることになる大乗仏教が開始され、教義や団体は多彩に発展しており、禅の瞑想法の様々、チベットや日本の真言宗に残る密教、一方で浄土信仰のような信仰形態の変化など多様である。『日本書紀』によれば仏教が伝来したのは飛鳥時代552年(欽明天皇13年)である(日本の仏教)。.

新しい!!: 田楽と仏教 · 続きを見る »

住吉の御田植

住吉の御田植(すみよしのおたうえ)は、大阪府大阪市住吉区住吉の住吉大社に伝わる民俗芸能の田楽(御田植祭)である。 稲作の歴史始まって以来、田の神をまつる田植行事は日本の全国各地で行われているが、なかでも当社の御田は神功皇后が水田を設けたことに始まるとされ、五穀豊穣に関わる神聖な行事が現在でも厳格に伝承されている。母なる大地に植られたイネの苗には強力な穀霊が宿り、田植えに際して音楽を奏で歌を歌い踊りや舞を演じるのは、水田や植えられる苗に宿る穀物の力を増すためのものと考えられ、穀物が豊かに育ち稲穂が十分に実る秋を迎えるための儀式として、おごそかに執り行われている。 この御田植は、現在は6月14日に催され、当日の午前、神館で植女や稚児、御稔女らが衣装を改め化粧を施し神酒をいただく粉黛式と戴盃式が行われる。ついで石舞台において神事に奉仕する全員が修祓を受け、第一本宮で神事の奉告祭を行い、楽人、八乙女、御稔女、植女、替植女、稚児、風流武者、住吉踊りの踊子などが行列を整えて御田へ向かう。その後、御神水を御田の四方に注ぎ清め、早苗の授受が行なわれる。植女から替植女に早苗が渡されると田植えがはじまり、その間、舞台と田の畔とで八乙女による田舞、風流武者が紅白に分かれ、陣鐘・太鼓・ほら貝を鳴らしながら六尺棒を打ち合う棒打合戦、長柄の傘を開いて持つ音頭取の歌につれ、菅笠をつけた僧形の子供たちが、団扇を打ちながら傘のまわりを踊りまわる住吉踊など、様々な芸能が奉納される。 1979年(昭和54年)2月3日に重要無形民俗文化財に指定された。.

新しい!!: 田楽と住吉の御田植 · 続きを見る »

征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

新しい!!: 田楽と征夷大将軍 · 続きを見る »

御宝殿の稚児田楽・風流

御宝殿の稚児田楽・風流(ごほうでんのちごでんがく・ふりゅう)は、福島県いわき市に伝わる民俗芸能。錦町御宝殿の熊野神社で毎年7月31日と8月1日に奉納される。 稚児田楽の舞方は、露払い2名とビンザサラ6名で、10歳前後の男子があたり、年少の男子が舞う例は全国的に見ても少ないとされている。舞は4人ずつ向き合い、総めぐり・親と子の取り替え・一列の組打ち・二列の組打ち・親は親、子は子・の4種を組み合わせている。伝来については定かでは無いが、舞の一部は那智の田楽と類似しており、所作は簡潔であるが田楽としての形態は整っている。 熊野神社の8月1日の祭りには常設の舞台で獅子舞が行われる。獅子舞とはいっても獅子神楽や鞨鼓獅子舞とは全く異なる風流であり、鷺の舞・龍の舞・鹿の舞・獅子舞の4種からなる舞で、この舞は芸能化する前の古風な姿をとどめたものといわれている。 いずれも全国的にも例の少ない貴重な文化遺産であり、1975年(昭和50年)の文化財保護法の改正によって制定された重要無形民俗文化財の第1回の指定を受けた。.

新しい!!: 田楽と御宝殿の稚児田楽・風流 · 続きを見る »

御田

御田(おた、みた、おみた、おんた、おんだ、おでん)は、寺社や皇室等が所有する領田のこと、またその領田で行われる行事。 日本人と稲作の深い関わりを示すものとして、多くの御田に関する行事が日本各地に伝承されている。田原の御田、磯部の御神田、吉良川の御田祭は重要無形民俗文化財に指定され、御田植祭、田遊び、田植踊と呼ばれる行事や芸能なども伝承されている。皇居内の御田では天皇自らが田植えと稲刈りを行う。 明治初頭の上知令で寺社の領地(寺社領)が廃止されたため、一時的に日本全国の寺社の御田が消滅した。その後周辺の住民の寄贈などにより御田が再興された寺社があり、伊勢神宮は2ヶ所に御田を残している。.

新しい!!: 田楽と御田 · 続きを見る »

御田八幡宮

御田八幡宮(おんだはちまんぐう)は高知県室戸市吉良川町(土佐国安藝郡)にある神社。旧・郷社。 応神天皇を主祭神として、神功皇后、比咩神を祀る。.

新しい!!: 田楽と御田八幡宮 · 続きを見る »

御田植祭

香取神宮御田植祭 御田植祭(おたうえまつり)は、寺社や皇室の領田で行われる行事である。.

新しい!!: 田楽と御田植祭 · 続きを見る »

御霊会

御霊会(ごりょうえ)とは、思いがけない死を迎えた者の御霊(ごりょう)による祟りを防ぐための、鎮魂のための儀礼であり、御霊祭とも呼ばれている。 御霊自体は本来はミタマの意であった。平安時代、不慮の死を遂げた者の死霊(しりょう)=怨霊(おんりょう)へと意味が転化する。そして、天変地異はすべて御霊の所業と考えられ、御霊に対する信仰が出来上がった。また、平安時代には、863年(貞観5年)5月20日、神泉苑において御霊会が行われた。 『金光明経』・『般若心経』と言った仏教経典の読経とともに、歌舞音曲や民衆参加の踊りなども行われた。これはこの行事が神道的な祟の除去を目的としたことや民衆の参加を許すことで政治への不満や社会への不安から目を逸らさせる効果があったからだと考えられている。後に各地の寺社で同様の行事が開催されて神輿渡御などの行列や風流・田楽と呼ばれる踊りなども加えられ、時期も疫病が多発する旧暦の5月から8月にかけてに集中するようになった。.

新しい!!: 田楽と御霊会 · 続きを見る »

北条高時

北条 高時(ほうじょう たかとき)は、鎌倉時代末期の北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第14代執権(在職:1316年 - 1326年)。第9代執権・北条貞時の三男。.

新しい!!: 田楽と北条高時 · 続きを見る »

味噌田楽

味噌田楽(みそでんがく)は、豆腐やこんにゃく、茄子や里芋などを串に刺し、砂糖や味醂を配合し柚子や木の芽などで香りをつけた味噌を塗りつけて、焼いた料理である。魚も同様に調理する事があり、これは『魚田(ぎょでん)』とも呼ぶ。「田」は田楽の略である。.

新しい!!: 田楽と味噌田楽 · 続きを見る »

国際連合教育科学文化機関

フランス、パリのユネスコ本部庁舎と平和の庭園(日本庭園) 日本ユネスコ国内委員会が入居する東京都の霞が関コモンゲート東館(右側) 国際連合教育科学文化機関(こくさいれんごうきょういくかがくぶんかきかん、Organisation des Nations unies pour l'éducation, la science et la culture、United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization, UNESCO ユネスコ)は、国際連合の経済社会理事会の下におかれた、教育、科学、文化の発展と推進を目的とした専門機関である。 1945年11月に44カ国の代表が集い、イギリス・ロンドンで開催された国連会議 "United Nations Conference for the establishment of an educational and cultural organization" (ECO/CONF)において11月16日に採択された 「国際連合教育科学文化機関憲章」(ユネスコ憲章)に基づいて1946年11月4日に設立された。 分担金(2016年現在)の最大の拠出国はアメリカ合衆国(22%)、2位は日本(9%)である(米国は拠出金支払いを全額停止しているため、実質的に最大の拠出国は日本であるなおアメリカは2018年12月31日付でのユネスコ脱退を表明している。)。.

新しい!!: 田楽と国際連合教育科学文化機関 · 続きを見る »

石井の七福神と田植踊

石井の七福神と田植踊(いしいのしちふくじんとたうえおどり)は、福島県二本松市鈴石東町・錦町・北トロミに伝わる民俗芸能の田楽(田植踊)である。1995年(平成7年)12月26日に重要無形民俗文化財に指定された。保護団体は、石井芸能保存会。 石井の七福神と田植踊は、その年の豊作を祈念し田植えなどの農作業の行程を踊りで模擬的に演じる小正月の予祝芸能であり、かっては集落の家々を巡って行われたが、現在は特に依頼された家でのみ行われている。最初は七福神であり、まず稲荷が扇子を持って踊り、毘沙門天、弁財天、布袋、福禄寿、寿老人、恵比寿、大黒天の順に呼び招く。ひょっとこの面をつけた道化役の2人がおどけたしぐさで槌で藁を打ち、注連縄と蚕のまぶしを編んで当主に差し出し、稲作・養蚕が順調であることを祈願する。続いて田植踊りである。はちまき姿に軍配(花輪)を持った奴5人と、花笠をかぶり扇子を持った早乙女4人が、鍬頭の久六の指示したがって、正月の祝い踊りを踊り、その後稲作の行程を模擬した踊りがあり、最後に秋の取入れの祝い踊りを踊る。.

新しい!!: 田楽と石井の七福神と田植踊 · 続きを見る »

睦月神事

月神事(むつきしんじ)は、福井県福井市大森町(旧・丹生郡清水町大森)に伝わる伝統行事。 大森の賀茂神社に天下泰平・国家安穏・五穀豊穣などを願って行われる800年の伝統のある神事で、越前猿楽の本貫の地らしく延年の面影を遺しており、大行列や田楽を模した稚児舞、農耕を模した太夫の田遊び儀礼等、中世芸能の生きた姿を見ることができる。4年に1度の2月14日に奉納される。次回は2019年(平成31年)2月14日。 1978年5月22日に重要無形民俗文化財に指定された。.

新しい!!: 田楽と睦月神事 · 続きを見る »

磯部の御神田

磯部の御神田(いそべのおみた)は、三重県志摩市の伊雑宮に伝わる民俗芸能の田楽。保護団体は、磯部の御神田奉仕会。1973年12月4日に記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財(選択無形民俗文化財)に選択三重県教育委員会事務局社会教育・文化財保護課""(2013年12月18日閲覧。)、1990年3月29日に重要無形民俗文化財に指定された。また東海農政局による「東海美の里百選」に選定されている。 毎年6月24日に行われる伊雑宮御田植祭で披露される。祭りそのものも御神田と呼ばれる。開催日の6月24日は、倭姫命の巡幸の際に7匹のサメが野川を遡上(そじょう)し、命に伊雑宮の鎮座地を示したという「七本鮫」伝承に基づく海の博物館・石原(1996)16ページ。毎年この日には7匹のサメが伊雑宮に参詣するとされ、近隣の漁師は休漁する習慣がある。.

新しい!!: 田楽と磯部の御神田 · 続きを見る »

秋保の田植踊

秋保の田植踊(あきうのたうえおどり)は、宮城県仙台市太白区秋保町に伝わる民俗芸能の田植踊。.

新しい!!: 田楽と秋保の田植踊 · 続きを見る »

猿楽

猿楽(さるがく、猿樂)は、平安時代に成立した日本の伝統芸能。能は江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである。.

新しい!!: 田楽と猿楽 · 続きを見る »

田原の御田

原の御田(たわらのおんだ)は、京都府南丹市日吉町田原の多治神社に伝わる神事・芸能。毎年5月3日に奉納される、国指定(2000年〈平成12年〉12月27日)の重要無形民俗文化財。 籾の準備から刈り入れまで、稲作の過程を模擬的に演じてその年の豊作を祈願する。立人(たちうど)と呼ばれる演者2人(作太郎と作次郎)の軽妙なやり取りに即興的な要素が見られることから、狂言成立当初の芸態を残しているといわれる。ほかに、田植えの所作を演じる早乙女役の女子4人、田すきをする牛役の男子1人が出演し、10人程の歌い手の男衆が古風な田植歌を囃す。田植えの苗や牛の角の見立てにはショウブが使われる。 14世紀頃多治神社を中心に組織された宮座による行事を起源としており、かつて御田の行事に用いられた鍬と鋤にそれぞれ「天禄4年」(1691年)、「元文4年」(1739年)と記した墨書が残る。記録によれば、遅くとも天保14年(1843年)には現在と同様の形式で芸能が行われている。 午前10時半より神事が営まれ、同11時より御田が始まる。御田の次第は以下の通り。 (1)日柄改め(2)籾種揃え(3)池さらえ(4)種漬け(5)種上げ(6)苗代つくり=畔ぬりと水戸切り(7)種蒔き(8)鳥追い(9)牛買い(10)田すき(11)苗取り(12)田植え(13)見回り(14)刈り入れ(15)刈り終い。.

新しい!!: 田楽と田原の御田 · 続きを見る »

田の神

水稲 田の神(たのかみ)は、日本の農耕民の間で、稲作の豊凶を見守り、あるいは、稲作の豊穣をもたらすと信じられてきた神である。作神、農神、百姓神、野神と呼ばれることもある。 穀霊神・水神・守護神の諸神の性格も併せもつが、とくに山の神信仰や祖霊信仰との深い関連で知られる農耕神である。.

新しい!!: 田楽と田の神 · 続きを見る »

田遊び

遊び(たあそび)は、模擬的な稲作所作を行う日本の民俗芸能。.

新しい!!: 田楽と田遊び · 続きを見る »

田植え

昔の田植え風景の再現 現代の機械化された田植え 田植え(たうえ)は、水田にイネの苗を植えること。.

新しい!!: 田楽と田植え · 続きを見る »

無形文化遺産

無形文化遺産(むけいぶんかいさん、)は、民族文化財、フォークロア、口承伝統などの無形文化財を保護対象とした、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の事業の一つ。2006年に発効した無形文化遺産の保護に関する条約に基づく。無形文化遺産に対して、ユネスコの世界遺産は建築物など有形文化財を対象とする。関係して2001年から3回行われた傑作宣言による90件を引き継いて含まれる。 これまでに対象とされた無形文化遺産は、各国の音楽、舞踏、祭り、儀式のほか、インドのヨーガ(2016年)、日本の和紙(2014年)、和食(2013年)など伝統習慣、工芸など多岐にわたる。.

新しい!!: 田楽と無形文化遺産 · 続きを見る »

相撲

隅田川テラスにかかる歌川広重の「相撲の図」の模写 相撲(すもう)は、土俵の上で力士が組合って戦う形を取る日本古来の神事や祭りであり、同時に武芸でもあり武道でもある(「弓取り式」の本来の意味から)。古くから祝儀(懸賞金という表現)を得るための興行として、大相撲が行われている。日本由来の武道・格闘技・スポーツとして国際的にも行われている。.

新しい!!: 田楽と相撲 · 続きを見る »

白鬚神社の田楽

白鬚神社の田楽(しらひげじんじゃのでんがく)は、佐賀県佐賀市久保泉町大字川久保に伝わる民俗芸能の田楽。 この田楽は、毎年10月18日、19日に行われる白鬚神社の祭礼に川久保地区の人達によって奉納される芸能で、子どもが演じることから「稚児田楽」ともよばれ、青竹で囲まれた正方形の舞台を境内に設け、ゴザを敷いて演じられる。 鉢巻を締めて手に造花をつけた棒と扇を持ったハナカタメ(幼児1名)と、金色の立烏帽子をかぶり手に小鼓と扇を持ったスッテンテン(幼児1名)、ビンザサラを持ち、大きな花笠をかぶりその上から華やかな女帯を垂らし美しく女装したササラツキ(少年4名)、腰の前に太鼓を吊し背中に金銀で飾った木刀を負ったカケウチ(若者2名)、大人の笛役(7名)により演じられる。一部カケウチの活発な動きはあるものの、全体としてはゆっくりとした曲と動きで、約1時間半にわたって演じられる。 田楽がいつ頃から始まったか正確な記録は無いが、伝承によると6世紀半ばから7世紀の初めにかけて近江国から移住してきた人達がおり、白鬚神社の祭りを先祖祭りと併せて行ったといわれている。この白鬚神社における田楽の記録は、享保19年(1734年)建立の石鳥居に「時奏村田楽」とあるのが最初とされているが、起源は平安時代、田植の折り、鼓を打って田植歌の伴奏をしたものが、次第に形変えて現在のようになったものとされている。 2000年(平成12年)12月27日に重要無形民俗文化財に指定された。.

新しい!!: 田楽と白鬚神社の田楽 · 続きを見る »

隠岐の田楽と庭の舞

岐の田楽と庭の舞(おきのでんがくとにわのまい)は、島根県隠岐郡西ノ島町美田・浦郷に伝わる民俗芸能の田楽。保護団体は、隠岐の田楽と庭の舞保存連合会(美田八幡宮田楽保存会、日吉神社庭の舞保存会)。 島根県隠岐諸島には、隠岐国分寺蓮華会舞を初め古風をとどめた多くの芸能が伝承されているが、西ノ島町の美田八幡宮で奉納される『田楽』は、美田郷全体の祭として郷内の七里の氏子が、舞、囃子、舞台・楽屋作りその他の諸役を分担して行ってきたものであり、「神の相撲」「獅子舞」「田楽躍」が伝承されている。 一方、同じく西ノ島町の日吉神社の『庭の舞』は、古くは「五木の祭」といわれたものであり、「真言」「庭の舞」「神の相撲」「十方拝福」「神楽」の5つの芸能が演じられていたが、明治の神仏分離の影響で「真言」は行われなくなり「神楽」も絶えてしまい、現在では「庭の舞」「神の相撲」「十方拝礼(田楽躍)」の三つが伝えられている。 このように内容の類似した芸能が、ほぼ同一地域で隔年に実施される美田八幡宮と日吉神社の祭礼に奉納されており、両者を併せ隠岐の田楽と庭の舞という名称で、1992年(平成4年)3月11日に重要無形民俗文化財に指定された。.

新しい!!: 田楽と隠岐の田楽と庭の舞 · 続きを見る »

花園の御田舞

花園の御田舞(はなぞののおんだまい)は、和歌山県伊都郡かつらぎ町大字花園梁瀬に伝わる民俗芸能。重要無形民俗文化財。 弘法大師の高野山開創とともに拓かれ、その寺領として保護を受けてきた旧・花園村は、山内へ花を奉献したことから花園村の名があるなど高野山との深い関わりがあり、伝統的な民俗芸能が長く伝えられてきた。御田舞もそうした文化遺産の一つであり、平安中期から行われてきた田遊びの一つである。 旧花園村梁瀬の遍照寺の大日堂で、年の始めに豊年を予祝して隔年の旧暦の1月8日に行われる行事であり、田の水迎えから収穫まで米作りの1年間を、太鼓や笛、たたき棒などの囃子に合わせ華やかに舞い、田の神に奉納して1年の豊作を祈願する。こうした御田の芸能は、日本人と稲作との長く深い係わりを表すものとして貴重なもので、花園の御田舞はその典型とされる。 日本全国に伝承されている御田のほとんどが田植で終わるといわれ、収穫までの全生産過程を演じる例はめずらしく、有田川町の杉野原の御田舞とともにこの地方特有のものである。.

新しい!!: 田楽と花園の御田舞 · 続きを見る »

芸人

記載なし。

新しい!!: 田楽と芸人 · 続きを見る »

鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

新しい!!: 田楽と鎌倉幕府 · 続きを見る »

鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

新しい!!: 田楽と鎌倉時代 · 続きを見る »

風流

流(ふりゅう)とは、中世以後の日本において高揚した美意識の1つ。人目を驚かすために華美な趣向を凝らした意匠を指し、婆娑羅や数寄とともに侘び・寂びと対峙する存在として認識された。後にはこうした意匠に沿った芸能や美術・建築などにも用いられた。なお、室町時代の漢和辞典である『下学集』には「風流の義也。日本の俗、拍子物を呼びて風流と曰ふ」とある。 風流のひとつである田楽の起源について大江匡房の『洛陽田楽記』には、「初め閭理よりして、公卿に及ぶ」(初めは田舎の人々が行い、やがて公家に及んだ)とあるように、風流は平安時代半ばから江戸時代まで続いた庶民による文化運動だった。 風流に属する分野は多岐にわたる。例えば本田安次は『日本の伝統芸』において、風流の全体を以下のように分類している。.

新しい!!: 田楽と風流 · 続きを見る »

西角井正慶

西角井 正慶(にしつのい まさよし、1900年5月22日 - 1971年1月22日)は、埼玉県生まれの国文学者、民俗学者。歌人としても著名で、見沼 冬男(みぬま ふゆお)のペンネームを持つ。折口信夫に師事し、折口信夫の五博士のうちの一人である。國學院大學教授。文学博士。 西角井家は明治以前は代々、大宮氷川神社の社家を務め、埼玉県大麻(おおぬさ)頒布事務所を務める名門であった。父・正男は國學院大學卒業後、埼玉師範学校教諭、一時は町長も務め、さらに氷川神社禰宜から上総一宮玉前神社宮司になっていた。母・佐登子は、國學院大學学長河野省三の姉で、女子学習院では貞明皇后と同期であった。西角井正慶は、折口信夫より「よい星の下に生まれた人」といわれた。.

新しい!!: 田楽と西角井正慶 · 続きを見る »

西浦の田楽

西浦の田楽(にしうれのでんがく)は、静岡県浜松市天竜区水窪町奥領家(西浦)の西浦観音堂において催される催事であり、民俗芸能である。1975年(昭和50年)の文化財保護法の改正によって制定された重要無形民俗文化財の第1回の指定を受けた。なお名称は、元々現地では単に「おまつり」あるいは「木の根祭り」と呼ばれていた。 養老3年(719年)に行基がこの地を訪れ、観音像と仮面を奉納したことが西浦の所能観音堂の創始で、その年に現在の別当家の先祖にあたる吉朗別当なる者が祭礼を始めたと伝えられている。現存する最古の史料は延宝(1681年)のものであるが、その芸態や周辺地域の芸能史料から、室町時代までは歴史を遡ることができるとされている。 三遠南信(三河・信濃・遠江)地域には、多くの田楽系の芸能が残されているが、特に長野県阿南町新野の雪祭には、その昔西浦から面を盗もうとしたという言い伝えが残されているなど、両者の深い関係がうかがわれる。 田遊び・猿楽能を中心として、神楽風の演目などを含んでおり、修正会の祭事、すなわち延年・おこないの芸能と考えられるものである。.

新しい!!: 田楽と西浦の田楽 · 続きを見る »

高足

足(たかあし、こうそく)とは田楽で行われる、足場の付いた一本の棒に乗って飛び跳ねる芸。鷺足(さぎあし)とも呼ばれる。 古くは1096年(永長元年)に京都で発生した永長の大田楽にて、「高足・一足」が行われていたと記録されている。.

新しい!!: 田楽と高足 · 続きを見る »

豊作

豊作(ほうさく)は、農作物が平年より多く収穫できること。豊作の年を豊年(ほうねん)と言い、主に穀物が豊作の場合は満作(まんさく)と表現する場合がある。反対の状況を不作(ふさく)あるいは凶作(きょうさく)という。 豊作は気候変動や土壌の状態が農作物にとって理想とする状態で収穫期までの間、推移することにより起こるが、ある農産物には気候の推移が理想になっても全ての農産物にとって理想となるわけではないので別の農産物が不作になる場合もあり、その逆も起こりうる。したがって年や地域により豊作となる農産物が異なる。近年ではハウス物など気候要素を管理する物も多くなり、そのような農作物においてはある程度の需給調整が行えるため、一般的には天候に左右される農作物に限定して豊作・不作と言う場合が多い。.

新しい!!: 田楽と豊作 · 続きを見る »

貴族

貴族(きぞく)とは、特権を備えた名誉や称号を持ち、それ故に他の社会階級の人々と明確に区別された社会階層に属する集団を指す。 その社会的特権はしばしば強大であるが、同時に国や地域により異なり、同じ国・地域であっても時代によって変遷する。また貴族階級は伝統的な概念ではあるものの、時に新たな人員を迎え入れ、常に人員は更新され続けている。 貴族階級は多くの場合は君主制の下に維持され、称号の付与や特権の保証なども君主によって行われる。一般的に、貴族などという特権階級を認めてしまうということは反民主主義とされている。フランスでは、貴族階級をものともしないヴォルテールの姿勢がフランス的民主主義の基礎となり、フランス革命でそうした考え方は公認のもの、正統なものとなり、ここに民主主義が実現したとされている。しかし共和制など君主の存在を持たない制度においても貴族制度が存在した場合もある。 西洋では特に青い血という言葉が貴族の血筋を意味する慣用句として用いることがある。ただし、これはあくまでもスペイン語由来のものであるため限定的ではある。日本の場合、貴族の起源について穀物の貯蔵が貴族制度の遠因となったと考える論者もある。.

新しい!!: 田楽と貴族 · 続きを見る »

足利義持

足利 義持(あしかが よしもち)は、室町幕府第4代将軍(在任:応永元年(1394年) - 応永30年(1423年))。父は3代将軍・足利義満。母は安芸法眼の娘で側室の藤原慶子。 父の死後、勢力を盛り返す守護大名の中にあって調整役として機敏に立ち回った将軍で、室町幕府の歴代将軍の中で比較的安定した政権を築き上げた。なお、義持の将軍在職28年は歴代室町将軍中最長の在任期間である。.

新しい!!: 田楽と足利義持 · 続きを見る »

能(のう)は、日本の伝統芸能である能楽の一分野。江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治維新後のことである。 能(翁奉納 春日神社 (篠山市)).

新しい!!: 田楽と能 · 続きを見る »

都々古別神社の御田植

都々古別神社の御田植(つつこわけじんじゃのおたうえ)は、福島県東白川郡棚倉町八槻の八槻都々古別神社で、毎年旧暦の1月6日に豊作を祈って、神楽などとあわせてせりふと簡単な所作で稲作の作業過程を演じる民俗芸能である。 農の神である都々古別神社の拝殿で行われる最も古典的な豊年予祝の芸能である。杜家の神官が、楽人、舞人となり、せりふと簡単な所作で、堰の様子を確認する「せき検分」が演じられる。さらに拝殿を水田にみたてて「代かき」「畦ぬり」などの田植の諸準備が演じられ「田植」、そして「天狐の舞」が舞われ、最後に昼食として参列者に餅をまく。 年の始めなどに、あらかじめ稲作過程を模擬的に演じて、豊作を祈願する芸能は、田遊びや御田などとも呼ばれ、各地に伝承されている。この御田植は、神楽などとともに、せりふや所作で時に滑稽に稲作の作業過程を演じるもので、狂言をうかがわせる演じ方など、芸能の変遷過程や地域的特色を示している。 2004年(平成16年)2月6日に重要無形民俗文化財に指定された。.

新しい!!: 田楽と都々古別神社の御田植 · 続きを見る »

能楽

中尊寺鎮守 白山神社の能舞台(重要文化財) 日牟禮八幡宮の能舞台 日牟禮八幡宮能舞台の橋がかり 能楽(のうがく)は、日本の伝統芸能であり、式三番(翁)を含む能と狂言とを包含する総称である。重要無形文化財に指定され、ユネスコ無形文化遺産に登録されている。.

新しい!!: 田楽と能楽 · 続きを見る »

藤守の田遊び

藤守の田遊び(ふじもりのたあそび)は、静岡県焼津市(旧志太郡大井川町)字藤守に伝わるに民俗芸能の田楽(田遊び)である。1977年(昭和52年)5月17日に重要無形民俗文化財に指定された。.

新しい!!: 田楽と藤守の田遊び · 続きを見る »

那智の田楽

那智の田楽(なちのでんがく)は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町に伝わる民俗芸能の田楽。熊野那智大社例大祭、扇祭(那智の火祭)で奉納される。1975年(昭和50年)の文化財保護法の改正によって制定された重要無形民俗文化財の第1回の指定を受けた後、2012年12月にユネスコの無形文化遺産に登録された。.

新しい!!: 田楽と那智の田楽 · 続きを見る »

重要無形民俗文化財

重要無形民俗文化財(じゅうようむけいみんぞくぶんかざい)は、衣食住、生業、信仰、年中行事などに関する風俗慣習、民俗芸能、民俗技術など、人々が日常生活の中で生み出し継承してきた無形の民俗文化財のうち、特に重要なものとして国が指定したものである。この指定制度は、1975年(昭和50年)に日本の文化財保護法の改正によって実現し、1976年(昭和51年)5月4日に第1回として30件が指定されて以来、2018年3月8日現在で、合計309件が指定されている。.

新しい!!: 田楽と重要無形民俗文化財 · 続きを見る »

松尾神社

松尾神社(まつおじんじゃ/まつのおじんじゃ)は、「松尾」を社名とする神社。 全国にあり、京都府京都市西京区の松尾大社を総本社とする。多くは松尾大社から勧請して創建され、大社と同じ大山咋神を祭神に祀る。 松尾大社の荘園であった丹波国・摂津国・越中国・甲斐国・遠江国・伯耆国・豊前国などに建立されたり、酒造の守り神として全国へ勧請された。 明治以降、松尾大社は「官幣大社 松尾神社」と呼ばれていたが、終戦後は官幣大社の称号を用いなくなったことから、他の松尾神社との混同を避けるため「松尾大社」に改称した。.

新しい!!: 田楽と松尾神社 · 続きを見る »

板橋の田遊び

板橋の田遊び(いたばしのたあそび)は、東京都板橋区徳丸・赤塚地域に伝わる民俗行事である。 板橋区の徳丸北野神社と赤塚諏訪神社において奉納される。徳丸北野神社は2月11日、赤塚諏訪神社は2月13日の夜に行われる。 田遊びは稲作の季節を前に五穀豊穣を祈る「予祝(よしゅく)」の意味であって、これを夜に行うのはかつては秘事であったからである。種まきから収穫に至る稲作の一連の作業を、所作と唱え言葉で再現していく。 1975年(昭和50年)の文化財保護法の改正によって制定された重要無形民俗文化財の第1回の指定を受けた。.

新しい!!: 田楽と板橋の田遊び · 続きを見る »

杉野原の御田舞

杉野原の御田舞(すぎのはらのおんだまい)は、和歌山県有田郡有田川町杉野原に伝わる民俗芸能。重要無形民俗文化財。 町内では、高野山への街道や竜神往来など山岳遍路の宿場町として古くから栄え、多くの文化財や伝統的な民俗芸能を残している。 御田舞は、古くは当川といわれた有田川沿いの9ヶ村に伝来した田楽から変化した農耕予祝行事であり、杉野原の御田舞は、中世からの舞殿がここにのみ残っている雨錫寺阿弥陀堂で、隔年の2月11日に公開される。春田打ちから籾摺りまでの20数通りの稲作の生産過程を、舅が婿に教えるとして演じものである。冒頭には、屈強な男たちが褌姿で肩を組み、太鼓を打ち、唄囃子に合わせ揉み合い押し合いして舞う、勇壮な「裸苗押し」が展開される。 また、日本全国に伝承されている御田のほとんどが田植で終わるといわれ、収穫までの全生産過程を演じる例はめずらしく、かつらぎ町の花園の御田舞とともにこの地方特有の貴重なものである。.

新しい!!: 田楽と杉野原の御田舞 · 続きを見る »

栄花物語

『栄花物語』(えいがものがたり)は、平安時代の歴史物語。仮名文。女性の手になる編年体物語風史書。.

新しい!!: 田楽と栄花物語 · 続きを見る »

比叡山

比叡山(ひえいざん)は、滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山。大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡(848.3m)と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、838m)の二峰から成る双耳峰の総称である。高野山と並び古くより信仰対象の山とされ、延暦寺や日吉大社があり繁栄した。東山三十六峰に含まれる場合も有る。別称は叡山、北嶺、天台山、都富士など。.

新しい!!: 田楽と比叡山 · 続きを見る »

水海の田楽・能舞

水海の田楽・能舞(みずうみのでんがくのうまい)は、福井県今立郡池田町水海に伝わる伝統行事。1975年(昭和50年)の文化財保護法の改正によって制定された重要無形民俗文化財の第1回の指定を受けた。 鎌倉時代、1250年(建長2年)北条時頼が諸国行脚の折池田を訪れた。時は冬、雪深い池田に滞留し水海にて一冬を過ごす事となる。村人達は宴をひらき田楽を舞い、都を思い恋しくなる時頼を慰めたとのことである。喜んだ時頼が、礼に能を舞って村人達に教え、そして田楽と能を合わせた珍しい田楽能舞がこの地に継がれることとなり、「水海の田楽・能舞」の始まりとなったと伝えられている。 File:Mizuumi 01 みそぎ.jpg|清流での禊ぎ File:Mizuumi 03 田楽.jpg|田楽の奉納 File:Mizuumi 04 能舞.jpg|能舞の奉納.

新しい!!: 田楽と水海の田楽・能舞 · 続きを見る »

永長

永長(えいちょう)は日本の元号のひとつで嘉保の後、承徳の前。1096年 - 1097年の期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.

新しい!!: 田楽と永長 · 続きを見る »

永長の大田楽

永長の大田楽(えいちょうのおおでんがく)とは、嘉保3年(1096年)の夏に京都で発生した田楽の流行のこと。ただし、同年冬に元号が永長と改元されたため、一般的には「永長の大田楽」と称されている。.

新しい!!: 田楽と永長の大田楽 · 続きを見る »

洛陽田楽記

『洛陽田楽記』(らくようでんがくき)は、大江匡房の著書。『朝野群載』所収。堀河天皇の1096年夏に京都で盛大に行われた田楽(永長の大田楽)を記録したもので、漢文で書かれている。匡房はこの流行を、白居易の漢詩を引用して「一城之人皆若狂(一城の人皆狂えるが如し)」と評している。 なお同年の記事は『古事談』の中にも記載がある。 Category:平安時代の書籍 Category:11世紀の書籍 Category:大江氏.

新しい!!: 田楽と洛陽田楽記 · 続きを見る »

流鏑馬

流鏑馬(鏑流馬、やぶさめ)とは、疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を射る、日本の伝統的な騎射の技術・稽古・儀式のことを言う。馬を馳せながら矢を射ることから、「矢馳せ馬(やばせうま)」と呼ばれ、時代が下るにつれて「やぶさめ」と呼ばれるようになったといわれる。 現代では、武田流や小笠原流などの流派、神職・氏子や保存会など各地元に受け継がれている流鏑馬や、騎射競技愛好家によりスポーツ競技として行なわれたり、和装をベースにしているものの時代考証を伴わない新造の馬上弓術を流鏑馬と称したものなどがある。.

新しい!!: 田楽と流鏑馬 · 続きを見る »

料理

料理(りょうり)は、食物をこしらえることで、同時に、こしらえた結果である食品そのもの広辞苑第5版。調理ともいう。 すなわち、食材、調味料などを組み合わせて加工を行うこと、およびそれを行ったものの総称である。.

新しい!!: 田楽と料理 · 続きを見る »

日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

新しい!!: 田楽と日本 · 続きを見る »

日本伝統芸能

日本伝統芸能(にほんでんとうげいのう)は、日本に古くからあった芸術と技能の汎称。特定階級または大衆の教養や娯楽、儀式や祭事などを催す際に付随して行動化されたもの、または行事化したものを特定の形式に系統化して伝承または廃絶された、有形無形のものを言う。詩歌・音楽・舞踊・絵画・工芸・芸道などがある。.

新しい!!: 田楽と日本伝統芸能 · 続きを見る »

日本紀略

日本紀略(にほんきりゃく)は、平安時代に編纂された歴史書で、六国史の抜粋と、六国史以後後一条天皇までの歴史を記す。範囲は神代から長元9年(1036年)まで。編者不詳。漢文、編年体、全34巻。.

新しい!!: 田楽と日本紀略 · 続きを見る »

1096年

記載なし。

新しい!!: 田楽と1096年 · 続きを見る »

12月15日

12月15日(じゅうにがつじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から349日目(閏年では350日目)にあたり、年末まであと16日ある。.

新しい!!: 田楽と12月15日 · 続きを見る »

12月26日

12月26日(じゅうにがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から360日目(閏年では361日目)にあたり、年末まであと5日ある。.

新しい!!: 田楽と12月26日 · 続きを見る »

12月27日

12月27日(じゅうにがつにじゅうななにち、じゅうにがつにじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から361日目(閏年では362日目)にあたり、年末まであと4日ある。.

新しい!!: 田楽と12月27日 · 続きを見る »

12月28日

12月28日(じゅうにがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から362日目(閏年では363日目)にあたり、年末まであと3日ある。.

新しい!!: 田楽と12月28日 · 続きを見る »

1976年

記載なし。

新しい!!: 田楽と1976年 · 続きを見る »

1977年

記載なし。

新しい!!: 田楽と1977年 · 続きを見る »

1978年

記載なし。

新しい!!: 田楽と1978年 · 続きを見る »

1979年

記載なし。

新しい!!: 田楽と1979年 · 続きを見る »

1981年

この項目では、国際的な視点に基づいた1981年について記載する。.

新しい!!: 田楽と1981年 · 続きを見る »

1987年

この項目では、国際的な視点に基づいた1987年について記載する。.

新しい!!: 田楽と1987年 · 続きを見る »

1990年

この項目では、国際的な視点に基づいた1990年について記載する。.

新しい!!: 田楽と1990年 · 続きを見る »

1992年

この項目では、国際的な視点に基づいた1992年について記載する。.

新しい!!: 田楽と1992年 · 続きを見る »

1995年

この項目では、国際的な視点に基づいた1995年について記載する。.

新しい!!: 田楽と1995年 · 続きを見る »

1997年

この項目では、国際的な視点に基づいた1997年について記載する。.

新しい!!: 田楽と1997年 · 続きを見る »

1月21日

1月21日(いちがつにじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から21日目に当たり、年末まであと344日(閏年では345日)ある。.

新しい!!: 田楽と1月21日 · 続きを見る »

2000年

400年ぶりの世紀末閏年(20世紀および2千年紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年のままとなる(グレゴリオ暦の規定による)。。Y2Kと表記されることもある(“Year 2000 ”の略。“2000”を“2K ”で表す)。また、ミレニアムとも呼ばれる。 この項目では、国際的な視点に基づいた2000年について記載する。.

新しい!!: 田楽と2000年 · 続きを見る »

2002年

この項目では、国際的な視点に基づいた2002年について記載する。.

新しい!!: 田楽と2002年 · 続きを見る »

2004年

この項目では、国際的な視点に基づいた2004年について記載する。.

新しい!!: 田楽と2004年 · 続きを見る »

2009年

この項目では、国際的な視点に基づいた2009年について記載する。.

新しい!!: 田楽と2009年 · 続きを見る »

2月12日

2月12日(にがつじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から43日目にあたり、年末まであと322日(閏年では323日)ある。.

新しい!!: 田楽と2月12日 · 続きを見る »

2月3日

2月3日(にがつみっか)はグレゴリオ暦で年始から34日目に当たり、年末まであと331日(閏年では332日)ある。.

新しい!!: 田楽と2月3日 · 続きを見る »

2月6日

2月6日(にがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から37日目に当たり、年末まであと328日(閏年では329日)ある。.

新しい!!: 田楽と2月6日 · 続きを見る »

3月11日

3月11日(さんがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から70日目(閏年では71日目)にあたり、年末まであと295日ある。 日本では2011年に東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生し、東北地方や関東地方の太平洋沿岸等を巨大な津波が襲った。.

新しい!!: 田楽と3月11日 · 続きを見る »

3月29日

3月29日(さんがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から88日目(閏年では89日目)にあたり、年末まであと277日ある。.

新しい!!: 田楽と3月29日 · 続きを見る »

5月17日

5月17日(ごがつじゅうななにち、ごがつじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から137日目(閏年では138日目)にあたり、年末まであと228日ある。誕生花はジャガイモ。.

新しい!!: 田楽と5月17日 · 続きを見る »

5月22日

5月22日(ごがつにじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から142日目(閏年では143日目)にあたり、年末まではあと223日ある。誕生花はフクシア。.

新しい!!: 田楽と5月22日 · 続きを見る »

5月4日

5月4日(ごがつよっか)はグレゴリオ暦で年始から124日目(閏年では125日目)にあたり、年末まではあと241日ある。誕生花はヤマブキ。.

新しい!!: 田楽と5月4日 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

田楽法師

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »