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院派

索引 院派

院派(いんぱ)は、平安時代後期から鎌倉時代の仏師の一派。七条大宮仏所、六条万里小路仏所を形成した。祖は、定朝の孫とされる院助。 鎌倉時代、新様式と言う点では慶派の作品が目立つが、記録によると貴族の世界では院派、ついで円派の仏師が前代からの基盤を受け継いで活躍した。ただし、旧来の伝統を引いて、仏像に銘記を施す事例が慶派に比べて圧倒的に少なく、仏師個人の作例を追っていくことは出来ない。 14世紀に入ると、真言律宗との関わりが生まれ、律宗が東国に教線を伸ばすのに従い、院派も東国へ進出した。南北朝時代に入ると、室町幕府といち早く結びついた。院吉は、等持院大仏師職と丹波国国分寺地頭職を安堵され、その子院広はそれを継いで広範に活躍した。彼らの作風は、「唐様」とも言うべき独特の形式美をもつもので、他派や後世に少なからぬ影響を与えた。.

22 関係: 南北朝時代 (日本)定朝定朝様室町幕府丹波国七条大宮仏所平安時代仏師地頭善派円派六条万里小路仏所等持院真言律宗鎌倉時代院助院吉院尊院覚院朝法印慶派

南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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定朝

定朝(じょうちょう、生年不明 - 天喜5年8月1日(1057年9月2日))は平安時代後期に活躍した仏師。寄木造技法の完成者とされる。.

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定朝様

平安時代を代表する平等院鳳凰堂は定朝様の彫刻群で知られる 定朝様(じょうちょうよう)は、平安時代の仏師・定朝にはじまる和様の仏像彫刻様式。密教仏、木彫仏、木心乾漆仏、檀像などの多様な造仏技術を集大成し独自の様式を完成した。 定朝様の影響が指摘される東寺薬師如来.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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丹波国

丹波国(たんばのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陰道に属する。.

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七条大宮仏所

七条大宮仏所(しちじょうおおみやぶっしょ)は、平安時代の仏師工房。定朝の子覚助の次男、院助を祖とする仏所。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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仏師

仏師(ぶっし)は、彫刻家の中で特に仏像を専門に作る者を指す。.

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地頭

地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。地頭職という。守護とともに設置された。 平氏政権期以前から存在したが、源頼朝が朝廷から認められ正式に全国に設置した。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。.

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善派

善派(ぜんぱ)は、鎌倉時代に大和国(奈良県)を中心に活躍した仏師の一派。大和に多く残る天平彫刻に範をとりながらも、あわせて定朝様の名残ともいえる平安時代の穏やかな作風も残し、名に善の字を付けた一派。.

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円派

円派(えんぱ)は、 平安時代中期から鎌倉時代の仏師の一派。祖は定朝の弟子長勢、三条仏所を形成し京都を中心に活躍。仏師号に「円」の一字を持つことから名付けられ、同じく仏師号の一字に由来する慶派・院派とともに京都に仏所を構え、造仏活動を行う。 円派は明円以降、奈良、鎌倉に主流が移り衰微する。.

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六条万里小路仏所

六条万里小路仏所(ろくじょうまでのこうじぶっしょ)は、平安時代の仏師工房。定朝の子孫院朝を祖とし、七条大宮仏所から分派した仏所。.

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等持院

等持院(とうじいん)は、京都府京都市北区にある臨済宗天龍寺派の寺院。山号は萬年山。足利氏の菩提寺であり、足利尊氏の墓所としても知られる。.

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真言律宗

西大寺境内) 真言律宗(しんごんりっしゅう)は、真言密教の宗義に基づいて「根本仏教」の出家戒である『具足戒』と、金剛乗の戒律である『三昧耶戒』を修学する一派。また、南都六宗の1つである律宗精神の再興の意義も併せて有している。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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院助

院助(いんじょ、生年不詳 - 天仁元年12月12日(1109年1月14日))は、平安時代の仏師。七条大宮仏所と院派の祖。定朝の孫または孫弟子で覚助または長勢の実子とも弟子とも言われる。(当時仏師の地位は低く血縁の有無は判然としない。).

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院吉

院吉(いんきち、生没年未詳)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍したの院派仏師。.

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院尊

院尊(いんそん、保安元年(1120年) - 建久9年10月29日(1198年11月29日))は、平安時代後期-鎌倉時代の院派仏師。法印。.

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院覚

院覚(いんかく、生没年不詳) は、平安時代後期の院派仏師。院助の実子または弟子。.

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院朝

院朝(いんちょう、生没年不詳)は、 平安時代後期に活動した院派の仏師。院助の実子または弟子で、院覚の実弟または弟弟子。六条万里小路仏所の祖。定朝を最初期に評価し後世定朝様とよばれる様式を確立した人物の一人。.

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法印

法印(dharmoddāna, 音訳: 達磨憂檀那)とは、仏教の特徴をあらわすしるしを意味する。法印とされる3つないし4つの経句は三法印、四法印と呼ばれ、中国仏教で経典の仏説・非仏説を識別する判定規準とみなされた。三法印、四法印を構成する教説は初期仏教から存在するが、法印という用語自体は後代に成立したものであり、漢訳語の初出は5世紀の鳩摩羅什と言われる。法印のパーリ語における対応語は現存資料には見出されない。.

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慶派

慶派(けいは)は、平安時代末期から江戸時代の仏師の一派。定朝の孫頼助に始まる奈良仏師の傍系出身だが、七条仏所を形成、主流派をなす。.

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