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元 (王朝)

索引 元 (王朝)

元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.

430 関係: 南宋南京市南画台北市吐蕃壱岐島大宰府大徳 (元)大都天山ウイグル王国天元 (北元)天順 (元)天暦 (元)天津市女真女真文字契丹契丹文字孟子孔子宣光宮脇淳子宋 (王朝)寺田隆信対馬尚書省封建制小説小松久男小氷期少林寺山西省山東省山水画岡田英弘崖山の戦い上都両税法中央アジア中峰明本中世中国中国本土中統中華人民共和国中書省丘長春三国志演義三省六部...一山一寧交鈔京都大学学術出版会広西チワン族自治区五斗米道事林広記延祐征東等処行中書省征服王朝御史台後金後漢従属国律令忠宣王土司北宋北京市北アジア北元ナヤンペルシア語ペストナスィールッディーン・トゥースィーミョウバンノムガンマラーゲマルコ・ポーロマー・ワラー・アンナフルチャブイチャガタイ・ハン国チュベイチラウンチンキムチンギス・カンチベットチベット仏教ネパールネストリウス派バヤン (バアリン部)バヤン (メルキト部)バラク (チャガタイ家)バガンムカリムスリムモンケモンケ・テムルモンゴル (曖昧さ回避)モンゴルのビルマ侵攻モンゴルの樺太侵攻モンゴル帝国モンゴル帝国帝位継承戦争モンゴル語モンゴル高原モンゴル文字モスクヨーロッパラマリンダン・ハーンルイ9世 (フランス王)ボルテボルジギン氏ボロクルボオルチュトルコトレビュシェットトプカプ宮殿トク・テムルトクトトグス・テムルトゴン・テムルブハラブルガンパンデミックパクパパクス・モンゴリカパスパ文字テムルテュルク系民族テングリフレグドゥアホラーサーンホンタイジホエルンダヤン・ハーンダルマバラダルガチダギベルケベトナム呉鎮アナンダアバカアムダリヤ川アユルバルワダアユルシリダラアリギバアリクブケアルマリクアルダビールアルグアントン (ジャライル部)アフマド・ファナーカティーイランイリイリ地方イリンジバルイルハン朝インドイブン・バットゥータイェスン・テムルイェスゲイイスラム教イスタンブールウルスウィリアム・ルブルックウイグルウイグル文字エル・テムルエジェイ・ハーンエセン・ハーンオルトクオルドオンニュド旗オイラトオゴデイオゴデイ・ハン国オスマン帝国オセット人カマラ (元朝)カラ・スゥ平原の戦いカラコルムカイドゥカイシャンカシミールカタパルト (投石機)ガズニーキリスト教キリスト教徒キプチャククリルタイクーデタークビライグユクケレイトケシクゲル (家屋)コバルトコンギラトココジンコシラゴビ砂漠シムルトゥ・ノールの戦いシャーマニズムシリギシルクロードシデバラジャマールッディーンジャワ島ジョチ・ウルスジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノジョゼフ・ニーダムタラス川タタールサマルカンドサファヴィー朝サキャ・パンディタサキャ派儒教内モンゴル自治区全真教元史元寇元統 (元)元貞元朝秘史元末四大家元曲回回砲回鶻国立故宮博物院倪サン皇慶 (元)王蒙 (画家)科挙紅巾の乱紙幣縁故主義絵画熱河省牛街清真寺白藤江の戦い (1288年)白蓮教鎌倉幕府鎌倉時代遊牧国家道観道教運河華南華北青磁類書行中書省西安市西遊記襄陽市襄陽・樊城の戦い高麗講談社現代新書賈魯趙孟フ黄公望黄河輟耕録農桑輯要農書近体詩范ホウ郭守敬赤峰市薩都剌至大至元 (元世祖)至元 (元順帝)至順至正至治 (元)致和金 (王朝)長江腹裏色目人雲南省雑劇集史進士耶律楚材虞集院体画陰山山脈陳朝染付枢密院 (中国)授時暦恭帝 (宋)杭州市東アジア東道諸王杉山正明楊載正一教歴史歴史的シリア水滸伝江南河北省泰定 (元)泉州市消費財渤海 (国)満州民族漢詩漢民族漢文木綿朱子学朱元璋朱熹戯曲 (中国)戸籍戸部 (六部)易経浄土宗浄土教浙江省斯波義信方国珍日本愛宕松男教皇曲阜市書道039A型潜水艦1206年1227年1229年1241年1246年1248年1251年1259年1260年1261年1263年1264年1265年1266年1267年1268年1269年1270年1271年1273年1274年1276年1279年1281年1284年1285年1286年1287年1288年1292年1294年1295年1297年12月18日1301年1304年1307年1308年1311年1312年1313年1314年1320年1321年1322年1323年1324年1328年1329年1330年1332年1333年1335年1340年1341年1347年1348年1349年1351年1354年1356年1363年1367年1368年1370年1371年1378年1379年1388年1438年14世紀15世紀1635年1636年1644年1996年2004年2月5月6月907年 インデックスを展開 (380 もっと) »

南宋

南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現杭州)であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝) で解説することとする。 この項目では全般にわたって山川出版社『中国史3』と講談社学術文庫『五代と宋の興亡』を使用している。この二書に関しては特に必要のない限りは出典としては挙げない。.

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南京市

南京市(ナンキンし、、、)は、中華人民共和国の副省級市で、江蘇省の省都。古くから長江流域・華南の中心地で、かつては三国・呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳(以上の6朝を総称して六朝)、十国の南唐や明といった王朝や南京国民政府の首都であった。中国四大古都の一つ。14世紀から15世紀にかけて、世界最大の都市であった。2016年の都市的地域の人口は678.14万人であり、総人口は827万人である。 金陵(きんりょう)は南京の別名である。また清朝のころには江寧(こうねい、簡体字:江宁)と呼ばれたことから略称は「寧(簡体字:宁)」である。夏はとても暑く、重慶、武漢と並ぶ中国三大ボイラー(三大火炉)の一つと言われている。.

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南画

南画(なんが)は、中国の南宗画に由来する 日本的解釈の江戸時代中期以降の画派・画様の用語である。文人画ともいう。.

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台北市

台北市(たいほくし/タイペイし、、、)は、中華民国の首都である。 2,695,652人(2016年11月)が居住しており、市域の人口では衛星都市の新北市に抜かれたものの、台湾(中華民国)の首都である。台湾最大の都市圏である台北都市圏の中枢都市であり、アジア屈指の世界都市でもある。面積は約272平方キロメートルで四方を新北市に囲まれている。 日本統治時代は「たいほく」と日本語読みしていた。現在でもNHKの放送では「たいほく」の呼称を採用している。北京語発音では「タイペイ」 (Táiběi) 、台湾語発音ではタイパック (tâi-pak) である。.

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吐蕃

吐蕃(とばん、拼音:TŭbōまたはTŭfān、チベット語:、ワイリー転写:Bod chen po)は、7世紀初めから9世紀中ごろにかけてチベットにあった統一王国。.

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塩の結晶 塩(しお)は、塩化ナトリウムを主な成分とし、海水の乾燥・岩塩の採掘によって生産される物質。塩味をつける調味料とし、また保存(塩漬け・塩蔵)などの目的で食品に使用されるほか、ソーダ工業用・融氷雪用・水処理設備の一種の軟化器に使われるイオン交換樹脂の再生などにも使用される。 日本の塩事業法にあっては、「塩化ナトリウムの含有量が100分の40以上の固形物」(ただし、チリ硝石、カイニット、シルビニットその他財務省令で定める鉱物を除く)と定義される(塩事業法2条1項)。.

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壱岐島

壱岐島(いきのしま)は、九州北方の玄界灘にある南北17km・東西14kmの島である。九州と対馬の中間に位置する。『古事記』によれば、別名を天比登都柱(あめひとつばしら)という。 周囲には23の属島(有人島4・無人島19)が存在し、まとめて壱岐諸島と呼ぶ。ただし、俗にこの属島をも含めて壱岐島と呼び、壱岐島を壱岐本島と呼ぶこともある。官公庁の定義では「壱岐島」と呼ぶ場合、周囲の属島は含めない。 現在は長崎県壱岐市の1市体制で、長崎県では島内に壱岐振興局(旧・壱岐支庁、壱岐地方局)を置いている。また、全域が壱岐対馬国定公園に指定されている。.

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大宰府

大宰府(だざいふ)は、7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。多くの史書では太宰府とも記され、おもに8世紀の大和朝廷内部で作られた史書で「大宰府」と記されている。.

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大徳 (元)

大徳(だいとく)は、中国・元の成宗テムルの治世で用いられた元号。1297年 - 1307年。.

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大都

大都(だいと)は、モンゴル帝国(元朝)のクビライ・カアンが1267年から26年を費やして現在の北京の地に造営した都市で、元朝の冬の都(冬営地)である。現在の中華人民共和国の首都、北京の直接の前身であり旧市街に匹敵するほどの規模を持つ、壮大な都市だった。.

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天山ウイグル王国

天山ウイグル王国(てんざんウイグルおうこく)とは、11世紀から13世紀に現在の新疆ウイグル自治区に存在したウイグルのつくった王国である。西ウイグル王国、高昌回鶻、西州回鶻とも称される。都はビシュバリク。主に東西の中継交易で栄えた。.

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天元 (北元)

天元(てんげん)は、中国・北元のトグス・テムルの治世で用いられた元号。1379年 - 1388年。 史書によって元年と末年には異説がある。.

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天順 (元)

天順(てんじゅん)は、中国・元のアリギバの治世で用いられた元号。1328年旧9月 - 旧10月。アリギバは即位後2ヶ月で廃位され、廟号を贈られなかったため、この元号を用いて天順帝と呼ばれる。.

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天暦 (元)

天暦(てんれき)は、中国・元の文宗トク・テムル及び明宗コシラの治世で用いられた元号。1328年 - 1330年。.

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天津市

天津市(てんしんし/ティエンジンし、、、)は、中華人民共和国に位置する直轄市。国家中心都市の一つ。略称は津。 天津は華北平原海河の五大支流の合流する所に位置し、東に渤海を、北に燕山を臨む。市内を流れる海河は天津の母親河とも呼ばれる。 環渤海湾地域の経済的中心地であり、中国北方最大の対外開放港である。首都北京市とは高速道路、高速直通列車、京津城際線によって、0.5〜2時間以内で結ばれている。元々は海河の河港であったが、河口の塘沽に大規模な港湾やコンテナターミナル、工業地帯が形成されている。経済成長率の高さはここ数年に渡り、全国トップである。2017年の第13期の全国体育大会の開催が決まっており、夏季ダボスフォーラム常駐開催都市でもある。 市区人口は506万人、都市圏人口は720万人。.

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女真

女真(女眞、じょしん、ᠵᡠᡧᡝᠨ 転写:jušen)は、女直(じょちょく)ともいい、満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満州にかけて居住していたツングース系民族。民族の聖地を長白山とする。10世紀ごろから記録に現れ、17世紀に「満洲」(「マンジュ」と発音)と改称した。「女真」の漢字は女真語の民族名「ジュシェン」(または「ジュルチン」)の当て字である。「女直」は遼興宗の諱(耶律宗真)に含まれる「真」の字を避けた(避諱)ため用いられるようになったたんに「真」の字を「直」と書き誤った、という説もある。。金朝を滅ぼしたモンゴル帝国および元朝時代の漢文資料では「女直」の表記が多く見受けられ、同じくモンゴル帝国時代に編纂されたペルシア語の歴史書『集史』などでも金朝や女真人について言及される場合、「女直」の音写である جورچه jūrcha で呼ばれている。.

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女真文字

女真文字(じょしんもじ、女真文: 、発音: )は、中国の華北、東北部に金(アルチュフ)を建てた女真族が使用した文字。女真大字と女真小字の2種類の文字があるとされる。.

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契丹

宋代に描かれた契丹人の絵 契丹(きったん、キタン、キタイ、)は、4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。10世紀初頭に現在の中華人民共和国に相当する地域の北部に帝国を建国し、国号を遼と号した。しかし12世紀に入り次第に勢力を強める女真が宋と結び南下し、挟撃された遼は1125年に滅ぼされた。契丹人の多くは女真に取り込まれ、一部は中央アジアに逃れて西遼(カラ・キタイ)を建てた。.

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契丹文字

契丹文字(きったんもじ)は、10-12世紀にかけて、現在の中国北部とモンゴル高原にあたる地域を支配していた半農半牧民族の契丹(キタイ)人によって使用された文字。遼の太祖耶律阿保機が制定したとされる表意文字(契丹大字)と、太祖の弟であった耶律迭剌が制定したとされる表音文字(契丹小字)の2種類の文字が存在する。.

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孟子

孟子(もうし、紀元前372年? - 紀元前289年)は戦国時代中国の儒学者。姓は不詳、氏は孟、諱は軻(か)、字は子輿(しよ)。亜聖(あせい)とも称される。孟子の「子」は先生という意味。儒教では孔子に次いで重要な人物であり、そのため儒教は別名「孔孟の教え」とも呼ばれる。 あるいはその言行をまとめた書『孟子』(もうし)。性善説を主張し、仁義による王道政治を目指した。.

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孔子

孔夫子の像 孔子(こうし、くじ、、공자〈〉、蔵: ;、紀元前552年9月28日‐紀元前479年3月9日)は、春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。氏は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。ヨーロッパではラテン語化された"Confucius"(孔夫子の音訳、夫子は先生への尊称)の名で知られている。読みの「こうし」は漢音、「くじ」は呉音。 有力な諸侯国が領域国家の形成へと向かい、人口の流動化と実力主義が横行して旧来の都市国家の氏族共同体を基礎とする身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。 3000人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有・子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。 孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。 孔子の死後、孟子・荀子といった後継者を出したが、戦国から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。しかし前漢・後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は中国思想の根幹たる存在となった。 20世紀、1910年代の新文化運動では、民主主義と科学を普及させる観点から、孔子及び儒教への批判が雑誌『新青年』などで展開され、1949年に成立した中華人民共和国では、1960年代後半から1970年代前半の文化大革命において、毛沢東とその部下達は批林批孔運動という孔子と林彪を結びつけて批判する運動を展開。孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。近年、中国では、中国共産党が新儒教主義また儒教社会主義を提唱し(儒教参照)、また、「孔子」がブランド名として活用されている(孔子鳥、孔子学院を参照)。.

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宣光

宣光(せんこう)は、中国・北元の昭宗アユルシリダラ及びトグス・テムルの治世で用いられた元号。1371年 - 1379年。 史書によって元年と末年に異説がある。.

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宮脇淳子

宮脇 淳子(みやわき じゅんこ、1952年9月21日 - )は、日本の歴史学者。専門は東洋史(中央アジア)。本名は岡田淳子。東洋史学者の岡田英弘は夫である。.

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宋 (王朝)

宋(そう、拼音 Sòng、960年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号は宋であるが、春秋時代の宋、南北朝時代の宋などと区別するため、帝室の姓から趙宋とも呼ばれる。国号の宋は趙匡胤が宋州(河南省商丘県)の帰徳軍節度使であったことによる。通常は、金に華北を奪われ南遷した1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けている。北宋、南宋もともに、宋、宋朝である。首都は開封、南遷後の実質上の首都は臨安であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分し易い歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区別し難い分野を本記事で解説する。.

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寺田隆信

寺田 隆信(てらだ たかのぶ、1931年5月-2014年8月11日)は、中国史学者、東北大学名誉教授。 兵庫県姫路市生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程(東洋史専攻)単位取得退学。74年「山西商人の研究 明代における商人および商業資本」で京都大学文学博士。京都大学人文科学研究所教授、83年東北大学教授、94年定年退官、名誉教授、いわき明星大学学長。鹿角市(秋田県)先人顕彰館名誉館長。 1985年に高句麗広開土王碑を調査した。.

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対馬

対馬(つしま)は、日本の九州の北方の玄界灘にある、長崎県に属する島である。面積は日本第10位である国立天文台編『平成19年 理科年表』p.565 ISBN 4621077635。島内人口は3万1105人である(2018年4月現在)。.

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尚書省

尚書省(しょうしょしょう)とは、中国で後漢代から元代まで存在した省。唐の三省六部体制の元で中書省・門下省の取り決めた事を六部に伝える役割を果たした。.

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封建制

封建制(ほうけんせい)は、君主の下にいる諸侯たちが土地を領有してその土地の人民を統治する社会・政治制度。諸侯たちは、領有統治権のかわりに君主に対して貢納や軍事奉仕などといった臣従が義務づけられ、領有統治権や臣従義務は一般に世襲される。日本史においては主に、鎌倉時代から江戸時代にかけての「武家の世」の社会・政治制度を表す言葉として用いられている。封建制は、中国古代の統治制度に由来する概念であるとともに、ヨーロッパ中世の社会経済制度であるフューダリズムの訳語でもあり、2つの意味が相互に影響している面もある。 中国では、封建制と郡県制の是非について「歴千百年」の議論が続いた。日本では中国古典とともに封建制の概念も持ち込まれ、頼山陽など江戸時代の知識人は、鎌倉幕府成立以来の武家政権体制を中国古代と似たものと考え、封建制の概念を用いて日本史を論じた。明治維新で実施された版籍奉還や廃藩置県には、こうした頼山陽らの封建制についての議論が影響している。一方、ヨーロッパ特にドイツでは、中世を特徴づける社会経済制度としてフューダリズム(ドイツ語:Feudalismus、英語:Feudalism)やレーエン(ドイツ語:Lehen)が盛んに研究されていた。明治時代半ばにレーエンを中心にフューダリズムが日本に紹介されると、フューダリズムと封建制は類似しているとされ、フューダリズムの訳語として封建制が用いられるようになった。その後、ドイツの歴史学派による経済発展段階説やマルクス経済学の唯物史観が日本に紹介されると、封建制(フューダリズム)は農奴制に結びつく概念となった。.

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小説

小説(しょうせつ、fiction(総称)、novel(長編)、story(短編)、roman(長編)、nouvelle(中編)、conte(短編))とは、文学の形式の一つである。.

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小松久男

小松 久男(こまつ ひさお、1951年2月 - )は、日本の歴史学者、中央アジア史学者、東京大学名誉教授、東京外国語大学大学院総合国際学研究院特任教授。 妻はオスマン帝国史研究者・筑波大学教授の小松香織。東京都出身。.

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小氷期

小氷期(しょうひょうき、英:Little Ice Age, LIA)とは、ほぼ14世紀半ばから19世紀半ばにかけて続いた寒冷な期間のことである。小氷河時代、ミニ氷河期ともいう。この気候の寒冷化により、「中世の温暖期」として知られる温和な時代は終止符を打たれた。当初、小氷期は全球的な現象だったと考えられていたが現在はその規模に疑問の声が投げかけられている。例えば、過去1,000年間の北半球の気温の推定値は明白な寒冷期を示してはいない。気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は、小氷期を「期間中の気温低下が1℃未満に留まる、北半球における弱冷期」と記述している。なお、氷河学的にはこの間や現在なども含めて氷期の中でも比較的温暖な時期が続く、間氷期にあたる。.

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少林寺

少林寺(しょうりんじ).

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山西省

山西省(さんせいしょう、中国語:山西省、拼音:Shānxī Shěng、英語:Shanxi)は、中華人民共和国の行政区分の一つ。省都は太原市。略称は晋。.

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山東省

山東省(さんとうしょう、中国語:山东省、拼音:Shāndōng Shěng、英語:Shandong)は、中華人民共和国の省の一つ。略称は周代の国名より魯。山東とは太行山脈の東方の意。北には渤海、東には黄海があり、黄河の下流に位置する。人口9579.3万人、面積157,126平方キロメートル。省都は、済南。他に青島、泰安などの主要都市がある。.

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山水画

山水画(さんすいが)は、中国で発達した絵画のジャンルである。現実の景色の再現を意図した作品もあるが、型による山岳樹木岩石河川などの添景を、再構成した「創造された景色」が多い。.

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岡田英弘

岡田 英弘(おかだ ひでひろ、1931年1月24日 - 2017年5月25日)は、日本の東洋史学者。東京外国語大学名誉教授。東洋文庫専任研究員。 専攻は満洲史、モンゴル史であるが、中国・日本史論についても多くの著作がある。.

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崖山の戦い

崖山の戦い(がいざんのたたかい)は、1279年3月19日(祥興2年2月6日)に中国大陸の広州湾で、元の軍勢が南宋の海軍を破った戦いである。この戦いで南宋は敗北、最後の皇帝衛王は宰相陸秀夫ととも入水し、名実ともに南宋は滅亡した。.

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上都

上都(じょうと、)は、モンゴル帝国(元)のクビライが、モンゴル高原南部(現在の内モンゴル自治区シリンゴル盟正藍旗南部)に設けた都。正藍旗の南のドロンノール県中心市街地から北西へ28km離れており、灤河上流の閃電河の河畔に位置する。上都鎮からは東北20km、北京からは北へ275km。元朝の夏の首都として使われた。 1275年に上都を訪問したマルコ・ポーロが『東方見聞録』に記録したことによりヨーロッパ人にその存在が知られるようになった。西洋ではザナドゥ(Xanadu あるいは Xanadumoo、Zanadu、Shangdu)とも呼ばれる。2012年、遊牧文明と農耕文明の衝突と融合を示す貴重性が認められ、UNESCOの世界遺産に登録された。.

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両税法

両税法(りょうぜいほう)は、中国に於いて唐中期から明中期まで行われた税制のことである。夏と秋の二回徴税されるのでこの名前がある。均田制・租庸調制に代わって施行された。.

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中央アジア

東南アジア 中央アジアのいくつかの定義。狭い順に濃茶: ソ連の定義+茶: 現代的な定義+淡茶: UNESCOの定義 中央アジアの位置 中央アジア(ちゅうおうアジア)は、ユーラシア大陸またアジア中央部の内陸地域である。18世紀から19世紀にかけては一般にトルキスタンを指したが、現在でも使用される。トルキスタンとは「テュルクの土地」を意味し、テュルク(突厥他)系民族が居住しており、西トルキスタンと東トルキスタンの東西に分割している。 西トルキスタンには、旧ソ連諸国のうちカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの5か国が含まれる(以下、中央アジア5か国と記す)。 東トルキスタンは中華民国に併合されて以降、新疆省と成り、中華人民共和国に併合されて以降は新疆ウイグル自治区と成った。中国領トルキスタン、ウイグルスタンともいう。 広義には、「アジアの中央部」を意味し、東西トルキスタンのほか、カザフステップ、ジュンガル盆地、チベット、モンゴル高原、アフガニスタン北部、イラン東部、南ロシア草原を含む。UNESCOはトルキスタン以外にも、モンゴル地域、チベット地域、アフガニスタン、イラン北東部、パキスタン北部、インド北部、ロシアのシベリア南部などを中央アジア概念の中に含めている。.

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中峰明本

中峰明本(ちゅうほう みんぽん、中統4年11月2日(1263年12月3日) - 至治3年8月14日(1323年9月14日))は、中国の元代の禅僧である。南嶽懐譲下の第22世に当たる。俗姓は孫氏、杭州銭塘県(浙江省杭州市)の出身。字が中峰であり、幻住道人と号した。諡は智覚禅師。.

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中世

中世(ちゅうせい、英語:middle ages)は、狭義には西洋史の時代区分の一つで、古代よりも後、近代または近世よりも前の時代を指す。17世紀初頭の西洋では中世の観念が早くも定着していたと見られ、文献上の初見は1610年代にまでさかのぼる。 また、広義には、西洋史における中世の類推から、他地域のある時代を「中世」と呼ぶ。 ただし、あくまでも類推であって、西洋史における中世と同じ年代を指すとは限らないし、「中世」という時代区分を用いない分野のことも多い。 また、西洋では「中世」という用語を専ら西洋史における時代区分として使用する。 例えば英語では日本史における「中世」を通常は「feudal Japan」(封建日本)や「medieval Japan」(中世日本)とする。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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中国本土

清 (Chinese Empire) の地図(1910年)。凡例によれば、濃い黄色は旧明領 (China) 、薄い黄色は中国の属領 (Dependencies of China)。旧明領の中に、雲南省と広西チワン族自治区を除いた地域は中国本土である。 中国本土(ちゅうごくほんど、中國本土、中国本土、China Proper)は、漢民族が多数派民族である歴史的な中国の領土を、中国の他の地域と対比して指す表現。日本の人文科学で「シナ」(カタカナ表記)と呼ばれる歴史的領域の、現代の姿にほぼ一致する。かつては支那、支那本部(しなほんぶ)と呼ばれていた。 歴史的に中国の内地・本土とは見なされない「外中国」地域には、新疆(東トルキスタン)、チベット、満洲(中国東北部)、内モンゴルが含まれる。中国本土の面積は、およそ390万km2とされている 。中国本土は、北方の外中国の広大な領域とは、おおむね万里の長城によって区画されている。中国本土では「省」が各地に設置され中央の直轄支配下にあったが、外中国では主に、中国皇帝に臣属する各民族の諸侯らの自治に任せる方法が取られていた。.

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中統

中統(ちゅうとう)は、モンゴル帝国の大ハーン・クビライ(元の世祖)の治世で用いられた元号。1260年旧5月 - 1263年(1264年旧8月)。.

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中華人民共和国

中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく、中华人民共和国、中華人民共和國、People's Republic of China, PRC)、通称中国(ちゅうごく、China)は、東アジアに位置する主権国家である。 中華人民共和国は、13億8千万人以上の人口で世界一人口が多い国である。中華人民共和国は、首都北京市を政庁所在地とする中国共産党により統治されるヘゲモニー政党制である。.

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中書省

中書省(ちゅうしょしょう)は、中国で魏代から明代初期まで存在した中央官庁の名称。主に詔勅の立案・起草を司った。.

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丘長春

丘 長春(きゅう ちょうしゅん、、1148年(皇統8年)-1227年(太祖22年))は、道教の一派、全真教の金末期から元初期の道士。 姓は丘、諱は処機、字は通密。道号は長春()、全真教における尊称として「長春真人」と呼ばれる。.

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三国志演義

劉備と関羽、張飛(桃園の誓い) 『三国志演義』(さんごくしえんぎ、 )は、中国の明代に書かれた、後漢末・三国時代(魏、蜀、呉)を舞台とする時代小説・通俗歴史小説である。四大奇書の一つに数えられる。書名については下記。 著者は定説をみず、施耐庵あるいは羅貫中の手によるものと伝えられている。.

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三省六部

三省六部(さんしょうりくぶ)は中国の隋唐王朝で行われた政治制度。また中国におけるその後の政治制度にも大きく影響を及ぼしている。.

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一山一寧

一山一寧(いっさん いちねい、宝治元年(南宋の淳祐7年、1247年) - 文保元年10月24日(1317年11月28日))は元の渡来僧。寧一山ともいう。.

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交鈔

交鈔(こうしょう)とは中国の金王朝と元王朝の時代に発行された紙幣を指す。元のもとでは1260年から1356年にかけて中国で流通した。世界初の紙幣としては宋の交子があり、交鈔はさらに広範な領域で通貨として流通した。宋の交子が当初は鉄貨の引換券だったのに対して、交鈔は当初から通貨として発行されたという特徴をもつ湯浅 (1998) p.170。.

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京都大学学術出版会

一般社団法人京都大学学術出版会(きょうとだいがくがくじゅつしゅっぱんかい、英称:Kyoto University Press)は、京都大学の出版部に当たる一般社団法人で、大学出版部協会の会員。主として京都大学における学術的成果を出版活動を通じて公表・普及することを目的とする。現会長は山極寿一、理事長は末原達郎。同会の出版活動に対して、梓会出版文化賞第20回記念特別賞、2011年度地中海学会賞が授与されている。.

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広西チワン族自治区

広西チワン族自治区(広西壮族自治区)(こうせいチワンぞくじちく、Gvangjsih Bouxcuengh Swcigih、广西壮族自治区)は、中華人民共和国南部の自治区。中国最大の少数民族チワン族(壮族そうぞく、チョワン族とも)の原住地。隣の広東省と併せて「両広」と言われることもある。首府は南寧市。.

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五斗米道

五斗米道(ごとべいどう)は、通説では後漢末に張陵(張道陵とも)が、蜀(四川省)の成都近郊の鶴鳴山(あるいは鵠鳴山とも、現在の大邑県)で起こした道教教団。2代目の張衡の死後、蜀では巴郡巫県の人である張脩(張修)の鬼道教団が活発化した、益州牧劉焉の命で、3代目の張魯とともに漢中太守蘇固を攻め滅ぼしたが、後に張魯が張脩を殺害してそれを乗っ取り、漢中で勢力を固めた。.

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事林広記

事林広記(じりんこうき)は、南宋の末に福建崇安の陳元靚(ちんげんせい)が著した、日用の百科事典タイプの民間書籍である。当時の民間の生活に関する資料を大量に含んでおり、かつ挿絵入りの類書という新しいジャンルを切りひらいた。わかりやすいために、広く普及した。『事林広記』の「帝系」の項には「大元聖朝」の一節があり、そこに「今上皇帝中統五年」(1246年)「至元万万年」とあることから、元初のフビライの中統年間から至元年間のはじめ(13世紀中ごろ)に書が完成したことがわかる。この本の原刊本は失われており、現在は元・明の刻本および和刻本などが知られているが、いずれも増改を経ている。.

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延祐

延祐(えんゆう)は、中国・元の仁宗アユルバルワダの治世で用いられた元号。1314年 - 1320年。.

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征東等処行中書省

征東等処行中書省(せいとうとうしょこうちゅうしょしょう、征東行省ともいう)は、モンゴル帝国(後の元)が高麗を従属させた後に、政治と軍事を統括するために設置した機関で、行中書省の一つ。日本攻略の前線機構とされたことから日本行省または征日本行省とも称される。1次2次の征東行省では次官の行省左丞相に高麗王が就き税賦も行省内で運用された。1290年前後に行省が常設組織へ変わると、税賦を中央に納め他の行中書省と同じく高麗地区の行政と統治を担うこととなった。高麗は第23代高宗の1258年に元の属国となり、その後、元の支配が更に強まり元朝の領土となった。恭愍王時代の1356年に元の衰退とともにその支配を脱して高麗国が再興されたが、その間の時代は征東等処行中書省が置かれ、3代の高麗王が元朝の行政官によって廃位させられている。.

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征服王朝

征服王朝(せいふくおうちょう、Conquest Dynasty)とは、中国史における用語であり、漢族以外の民族によって支配された王朝を総称して、こう呼んでいる。ただし、この語をもって呼ばれるのは、遼・金・元・清の4王朝であり、五胡十六国の諸国や北朝は「浸透王朝」という用語で定義され、征服王朝とは呼ばれない。4王朝のうち中国全土を支配したのは後二者のみであり、金は北半分のみ、遼に至ってはほぼ辺境王国に近いが、現在の北京などを含む重要区域に食い込んで多数の漢民族を長期間支配したため同列に扱われる。.

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御史台

御史台(ぎょしだい)は、中国歴史上の官署の一つである。秦、漢の時代にあっては、御史が監察事務の任にあたった。御史の執務する役所を御史府といい、蘭台、憲台とも称した。南朝の梁、陳や北魏、東魏、西魏、北斉の時代に御史台と称された。隋、唐、五代、宋、金及び元の歴代の王朝においても設置された。御史台は中央政府の行政の監察機関であり、また中央司法機関の一つであって、百官の糾察、弾劾、綱紀の粛正にあたった。 唐朝の貞観年間以前は、御史台はただ百官の風聞を上奏するのみで、実質的な司法権力を持っていなかった。貞観年間に御史台に台獄(監獄)が設置され、特殊な案件を受理した。開元14年(726年)後半、御史をもってあてられる案件の受理を専門とする御史が設けられ、毎日一人が輪番で訴状を受理した。このときからすべての重大案件は、御史台、刑部及び大理寺(zh)の3司法機関で連合して審理した。大理寺は犯人の尋問と判決案の起草を、刑部は再審査を担当し同時に御史台に監督と審査の報告をした。 御史台は御史大夫を長官とし、御史中丞が次官となって侍御史、殿中侍御史(zh)、監察御史(zh)を統率した。中唐以後御史大夫は欠員となることが多くなり、御史中丞が実際上の長官となった。宋代では、御史は寄禄官となり、御史台のことには携わらず、監察事務の実際は門下省の給事中(zh)、などの官職の任務となった。金、元朝でも、御史大夫及び御史中丞が併せて設置されたものの、御史大夫は御史台の実務にはたずさわらず御史中丞が実質的な長官となった。 唐朝の光宅元年(684年)に御史台が改められ、京官(中央官)及び軍隊の監察を専門に左粛政台が設置され、別に地方の監察のために右粛政台が設置された。しばらく後に、左粛政台も地方の監察ができることとなった。両台は毎年春と秋に特使を巡察のため州県へ派遣し、春に派遣された者を風俗使、秋に派遣された者を廉察使と呼んだ。神龍元年(705年)に再び左右の御史台に改められた。太極元年(712年)に右台が廃止されたが、翌年再び設置され、さらにしばらく後にまた廃止された。唐朝はまた洛陽に御史台を設置し、東都留台と称した。中唐以後、節度使、刺史などの外官であっても御史台官衔を置けるようになり、これを外台と呼んだ。 宋代では、元豊の改革の後、再び官署として御史台が設置されたが、留台は設けられず、外官も御史台官衔を置けなかった。 元代では、御史制度が空前の発達をし、地方に行枢密院及び行中書省と同様に御史台の機能を持つ行御史台が設立された。 明代で、御史台が廃止され、改めて都察院が設けられ、清朝でも引き続き設置された。.

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後金

後金(こうきん、1616年 - 1636年(1912年)(z、金國)は、17世紀前半に満洲に興った満洲人(女真人、jušen)の国家で、清の前身。 1588年までに女真の建州女直を統一し、マンジュ国(z, 滿洲國)を建てていたアイシン=ギョロ(愛新覚羅)氏のヌルハチ(z、努爾哈赤)は、1593年に海西女直との戦争に入って勢力を拡大した。ヌルハチは1616年までにイェヘ(z)部族を除く全女真を統一して、この年ハンの位につき、天命の年号を立てて建国を宣言した。ヌルハチはこのとき国号をアイシン国(z, 金國)と定めたので、かつて12世紀に完顔阿骨打の立てた金と区別してこの国を「後金」と呼ぶ。はじめ首都は1603年以来のヌルハチの居城ヘトゥアラ(z、興京)に置かれた。.

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後漢

後漢(ごかん、東漢、、25年 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。.

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従属国

従属国(じゅうぞくこく、Client state)は、事実上、政治的、経済的に従属関係にある国。 狭義では、付庸国と被保護国を意味する。属国(ぞっこく)ともいう。.

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律令

律令(りつりょう)とは、東アジアでみられる法体系である。律は刑法、令はそれ以外(主に行政法。その他訴訟法や民事法も。)に相当する。律令国家の基本となる法典。成文法。日本統治下の台湾において台湾総督が法律に代わるものとして制定した律令については律令(日本統治下の台湾法制)を参照。.

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忠宣王

忠宣王(ちゅうせんおう、1275年10月20日 - 1325年6月23日)は第26代高麗王(在位1298年、1308年 - 1313年)高麗史 卷三四 忠宣王世家 。 第25代国王忠烈王とクビライの娘荘穆王后との間の長男として生まれ、元の宮廷で育った。妃はクビライの曾孫娘、薊国大長公主、宝塔実憐、子は忠粛王(次男)。姓は王、名は璋、初名は謜。蒙古名は益知礼普花(イジリブカ、、Iǰirbuka)。諡号は忠宣憲孝大王(太尉王)。 治世中に権塩法を施行し塩の専売制を実施した。.

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土司

土司(どし)は、中国王朝が、中国に隣接する諸民族の支配者たちに授ける特定タイプの官職に対する総称。 中国の歴代王朝は、近隣の諸国・諸民族との間で冊封・朝貢という君臣関係に擬した外交関係を築き、その際、中国との交際を求める諸国・諸民族の勢力の大小に応じて、王号や州・県の知事職、軍事指揮官の称号を与えた。土司は、それらの諸民族の首長のうち、軍事指揮官の称号をうけたものに対する総称。.

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北宋

北宋(ほくそう、拼音:Bĕisòng、960年 - 1127年)は、中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた。国号は宋であるが、金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。北宋期の首都は開封であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋で解説することにする。.

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北京市

北京市(ペキンし、、)は、中華人民共和国の首都である。 行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。人口は2152万(2014年)であり、中国では上海に次ぐ第二の都市。世界有数のメガシティであり、高い影響力を有する世界都市でもある。古くは大都・燕京・北平とも呼ばれた。.

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北アジア

北アジア(きたアジア)は、ユーラシア大陸のアルタイ山脈以北を指し、シベリアを主とする地域をいう。 モンゴルおよびロシア(ウラル連邦管区、シベリア連邦管区、極東連邦管区の各連邦管区)の領土が含まれるが、モンゴルおよびロシア極東部は東アジアの一部とされることや、東アジアと併せて北東アジアとされることもある。中華人民共和国東北部(旧満州)の一部や内蒙古、カザフスタン北部を北アジアに含むこともある。 Phillips "Illustrated Atlas of the World"による北アジアの定義は旧ソ連とされる。.

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北元

北元(ほくげん、拼音:Bĕiyuán)は、1368年に、元(大元)の第14代大ハーンのトゴン・テムル・ハーン(在位:1333年 - 1370年)が長江流域に興った明の北伐を逃れて大都(現在の北京)からモンゴル高原に撤退し、中国の漢民族定住農耕地域を失ってから後の大元ウルス(モンゴル帝国の皇帝直轄政権)についての後世の呼び方のことである。この政権に属する遊牧諸部族を同時代の漢文史料では韃靼(だったん、拼音:dádá)と呼び、日本では韃靼のカタカナ表記であるタタールという名称も用いられる。.

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ナヤン

ナヤン(1258年 - 1287年)は、東方三王家の一つであるテムゲ・オッチギン家の当主。チンギス・カンの弟テムゲ・オッチギンの玄孫で、祖父はモンケ・クビライに仕えた有力重臣のタガチャルで、父はアジュルである。 クビライに仕えていたが、1287年春にオゴデイ・カン国のカイドゥと通じ、同じ東方三王家の(カチウン家当主)やシクドゥル(ジョチ・カサル家当主)らと手を組んで反乱を起こした。しかしカラコルムはクビライ配下の名将・バヤンに守られてカイドゥは封じ込められ、ナヤンに至ってはクビライ自らが直属の5衛軍を率いて親征を始める。皇帝自らの親征だったため元軍の士気は高く、ナヤンはわずか1日で敗れて逃走を図るも捕らえられた。そして、クビライの命令で2枚の毛布に包まれた上で、激しく振り回される方法で処刑されたという。 ナヤンはキリスト教徒で、反乱のときも軍旗に十字架を掲げていたといわれているが、それを語るエピソードがある。クビライが凱旋して勝利の宴会を開いていると、キリスト教徒に対して配下の将軍が「お前達の神の十字架は何をしていた。ナヤンを護ってやれなかったではないか」とからかった。それを聞いたクビライは「キリストなる神がナヤンに加護を与えなかったのは当然のことだ。神は公正であり、罪と不正を行なった者に恩恵は与えぬ。ましてやナヤンは反逆者であり、誤った行為による神の加護を願っていたのだから、善良にして公正なるキリストが邪悪な企みを保護しようと欲しなかったのは当然である」と答えて、キリスト教徒を感嘆させたという。 ナヤンの死後も、カダアンらは生き延びて反乱を続けたが、1288年までにテムルによって全て平定され、東方三王家は当主を全て交替させられることになった。 Category:モンゴル帝国の皇族 Category:東方三王家 Category:刑死した人物 Category:1258年生 Category:1287年没.

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ペルシア語

ペルシア語のファールシー ペルシア語(ペルシアご、فارسی‌, پارسی‌; Fārsī, Pārsī)は、イランを中心とする中東地域で話される言語。ペルシャ語、ファールシー語、パールシー語ともいう。 言語学的にはインド・ヨーロッパ語族-インド・イラン語派-イラン語群に分類される。ペルシア語は高度な文明を持っていた古代ペルシア帝国から現在に至るまでイラン高原を中心に使われ続けてきた言語であり、文献によって非常に古くまで系統をさかのぼることができる。ただし、現在のペルシア語にはアラビア語からの借用語が非常に多く、その形態は古代ペルシア語とはかなりの断絶がある。.

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ペスト

ペスト(, )とは、ヒトの体にペスト菌(Yersinia pestis 腸内細菌科 通性嫌気性/グラム陰性/無芽胞桿菌)が感染することにより発症する伝染病である。黒死病(, )とも。.

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ナスィールッディーン・トゥースィー

ナスィールッディーン・トゥースィー(ペルシア語: محمد بن محمد بن حسن طوسی Muḥammad ibn Muḥammad ibn Ḥasan Ṭūsī アラビア語: ナスィールッディーン・アッ=トゥースィー Naṣīr al-Dīn Abū Ja‘far Muḥammad b. Muḥammad b. Ḥasan al-Ṭūsī、 نصير الدين ابو جعفر محمد بن محمد بن حسن الطوسي 1201年2月18日 –1274年6月25日)はシーア派を代表するペルシャ人 の神学者である。またイブン・スィーナーら系譜に連なる逍遥学派の中興の祖と目される哲学者であり、数学者、天文学者であり、13世紀のイスラーム世界を代表する偉大な学者である。トゥースィーはイランのホラーサーン地方のトゥース生まれの人物を示す呼称で多くの学者がトゥースィー(アラビア語でアル=トゥースィー at-Tûsî)と呼ばれている。また「学識者トゥースィー」 محقِّقِ طوسى muḥaqqiq-i Ṭūsī、ホージャ・ナスィール・トゥースィーخواجه نصير طوسى Khwāja Naṣīr Ṭūsī、「人類の師」 استادِ بشر Ustād-i Bashar などの尊称で呼ばれて来た。 Nasir al-Din Tusi.

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ミョウバン

ミョウバン(明礬、Alum)とは、1価の陽イオンの硫酸塩 M^_2(SO4) と3価の金属イオンの硫酸塩 M^_2(SO4)3 の複塩の総称である。 M^M^(SO4)2\cdot 12H2O または M^_2M^_2(SO4)4\cdot 24H2O, M^_2(SO4)\cdot M^_2(SO4)3\cdot 24H2O などで表され、陽イオン1モルあたり12モルの結晶水を含む。 ^+, ^ 及び2個の SO4^から構成され、結晶構造は 等軸晶系に属する。 溶解度は温度によって大きく変わる。水に高温でより多く溶ける。水溶液は弱酸性である。 単にミョウバンといった場合、硫酸カリウムアルミニウム十二水和物 AlK(SO4)2 \cdot 12H2O を示すことが多いが、このほかにも鉄ミョウバン、アンモニウム鉄ミョウバンなどがあり、混同を避けるためにしばしばカリミョウバンまたはカリウムミョウバンと呼ばれる。特に、カリミョウバンの無水物を焼きミョウバンといい、食品添加物として乾物屋などで販売している。.

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ノムガン

ノムガン(Nomuγan, 生没年不詳)は、モンゴル帝国(元)の皇族。漢字表記は那木罕、『集史』などのペルシア語表記では نوموغان Nūmūghān などと書かれる。世祖クビライが皇后チャブイの間にもうけた4人の嫡子のうちの四男。 モンゴルの末子相続の制度により、両親の財産を最も多く相続できる立場にある嫡子中の末子であったことから、クビライの有力な後継者候補であった。1266年に北平王の称号を与えられて、父クビライの北方方面における代行者となり、モンゴル民族の本土であるモンゴル高原に駐留、高原における全遊牧民軍団の兵馬を統括した。ノムガンの王府は旧都カラコルム近郊の牧地を遊牧移動し、チンギス・ハーンの4大オルドで執り行われるチンギス・ハーンの祭祀を管理した。 ノムガンの主要な軍事的任務は、アルタイ山脈の西にあるオゴデイ家とチャガタイ家のウルス(国)に対して軍事的圧力をかけて、大ハーンの影響力を伸ばすことにあり、1275年にクビライの中央政府の高官である中書右丞相アントンを附属されて、中央アジア遠征に進発した。ノムガンは高原の諸王族を率い、当主の座をめぐってチャガタイ家に混乱が続くのに乗じてチャガタイ家のウルスの本拠地イリ川渓谷に侵入、その中心都市アルマリクに駐留した。しかし翌1276年夏、従軍していたノムガンの従兄弟シリギらが軍中で反乱を起こし、ノムガンとアントンは捕らえられて、アルマリクに駐留する北平王軍は瓦解した。 ノムガンはシリギによってジョチ・ウルスに引き渡され、中央アジアで虜囚生活を送った。しかしシリギの期待に反して、ジョチ・ウルスはノムガンの身柄を受け取ってもシリギに対する援助を行わず、クビライに表立って反抗する姿勢をとらなかったため、その反乱はクビライによって鎮圧された。1282年、ノムガンは釈放されて父クビライのもとに帰ることができた。 帰国後、ノムガンは北安王の称号を与えられて、再びモンゴル高原での駐留を命じられたが、モンゴル高原方面の主力は中央から派遣されてきたバヤン率いる軍隊になっており、ノムガンはその後のカイドゥとの戦いにほとんど活躍しないまま、数年のうちに没した。ノムガンに子はなかったので、北安王家は1代で断絶し、その軍隊は1291年に晋王に封ぜられた甥のカマラに引き継がれた。 Category:元の皇族 Category:クビライの子女 Category:クビライ家 Category:生没年不詳.

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マラーゲ

マラーゲ (مراغه.、ラテン文字:Marāgheh、マラーガと表記されることもある)はイランの東アーザルバーイジャーン州にある都市である。2006年の国勢調査では、マラーゲの人口は38,891世帯146,405人となっている。 マラーゲはスーフィー・チャーイ川のほとりにある。マラーゲ住民の大部分はアゼルバイジャン語を話すことができる。マラーゲは州都であるタブリーズより130kmの地点に位置する。.

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マルコ・ポーロ

マルコ・ポーロ(Marco Polo、1254年 - 1324年1月9日)は、ヴェネツィア共和国の商人であり、ヨーロッパへ中央アジアや中国を紹介した『東方見聞録』(写本名:『イル・ミリオーネ (Il Milione)』もしくは『世界の記述 (Devisement du monde)』) を口述した冒険家でもある。.

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マー・ワラー・アンナフル

マー・ワラー・アンナフル(ما وراء النهر Mā-warā' an-Nahr)とは、中央アジア南部のオアシス地域の歴史的呼称である。 アラビア語で「川の向うの土地」を意味する言葉で字義通りにはアム川北岸の地域を指し堀川「マー・ワラー・アンナフル」『中央ユーラシアを知る事典』、487頁久保「マー・ワラー・アン=ナフル」『岩波イスラーム辞典』、939頁、ギリシア語やラテン語で書かれたヨーロッパの史料に見られる「トランスオクシアナ(Transoxiana、オクサス川(アム川)より向こうの地)」と同じ意味を持つ間野「マー・ワラー・アンナフル」『新イスラム事典』、466頁川口『ティムール帝国』、116頁。日本では、英語読みの「トランスオキジアナ」と表記されることもある。実際にはアム川とシル川の間の地域を指す言葉として使われ、その領域には、今日のウズベキスタンとタジキスタン、それにカザフスタンの南部とクルグズスタンの一部が含まれている。北はカザフステップ、西にカスピ海、南東に天山山脈とパミール高原が位置し、西南にキジルクム砂漠とカラクム砂漠が広がる。北から南、西から東へ向かうにつれて海抜高度が上がり、一年を通じて乾燥した気候にあり、気温の年較差は大きい。 「マー・ワラー・アンナフル」と呼ばれる地域は、イスラーム以前のサーサーン朝がアケメネス朝の行政単位をそのまま用いてソグディアナと呼んでいた領域とほぼ重なる。また、サマルカンドやブハラなどのマー・ワラー・アンナフル南部の地域はかつてのソグディアナの名称がそのまま残り、特に「スグド地方( بلاد سغد bilād-i Sughd)」とも呼ばれ、現在のタジキスタンのソグド州に名称が受け継がれている。 「マー・ワラー・アンナフル」は主としてイスラーム化後の時代を指して使用される語であり松田「マーワラー・アンナフル」『アジア歴史事典』8巻、381頁、イラン(イーラーン)と対峙する地域であるトゥーラーン( توران Tūrān)と呼ばれた地域とほぼ同一である。ティムール朝の時代にはマー・ワラー・アンナフルとトゥーラーンの呼称が併用され、トゥーラーンはアム川からホータンの境界に至る広範な地域を指し示していた。 7世紀以降、アラビア語、ペルシア語の地理書などでは、マー・ワラー・アンナフルの領域はおおよそアム川(ジャイフーン川)を西境とし、東はシル川(サイフーン川)までの地域を指す場合が多かった。マー・ワラー・アンナフルの北限は不明確であり、イスラーム時代の初期にはアラブの征服地の範囲とほぼ一致し、15世紀のティムール朝の歴史家ハーフィズ・アブルーはシル川より北の地域をマー・ワラー・アンナフルに含めていた川口『ティムール帝国』、115-116頁。テュルク(トルコ)系民族の諸勢力が多いシル川よりも北の地域は「トルキスタン」と呼ばれ、10世紀末からマー・ワラー・アンナフルのテュルク化が進行すると、シル川以北の地域と同じようにトルキスタンと呼ばれるようになる。シル川以北の「東トルキスタン」に対して、この地域は「西トルキスタン」と呼称されることもある。トルキスタンの地名が広まった後、「マー・ワラー・アンナフル」の呼称は雅称としても使われるようになる。.

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チャブイ

チャブイ(Čabui, ? - 1281年)は、モンゴル帝国(元)の大ハーン(カアン)、世祖クビライの皇后。漢字表記は察必、『集史』のペルシア語表記では چابوى خاتون Chābū'ī Khātūn または چابون خاتون Chābūn khātūn として表れる。諡は昭睿順聖皇后。 コンギラト部族の出身で、父の・ノヤン(按陳那顏)はチンギス・カンの第一夫人ボルテの弟である。伯母ボルテの孫にあたるクビライと結婚し、夭折したドルジと、後にクビライ政権で活躍するチンキム、マンガラ、ノムガンの4子を産んだ。 チャブイはチンギス・カン家の姻族としてモンゴル帝国の中でも特に有力な部族の出であり、実家のコンギラト部族をはじめとする五投下と呼ばれる部族集団は、兄である皇帝モンケによって中国の経略を委ねられたクビライを支えて活躍した。特に同母姉が嫁いだジャライル部のムカリの子・ボオルの三男バアトルはクビライの腹心となり、1259年のモンケ死後のクビライのカアン位奪取に功があった。またチャブイ自身、その宮廷(オルド)にアフマドら有能な商人を個人的な用人に集めて利殖を行い、財産を蓄えて勢力があった。 1271年にクビライが樹立した元では、次男のチンキムが燕王、三男のマンガラが安西王、四男のノムガンが北平王に封ぜられ、それぞれが中国北部、中国西部、モンゴル高原を分担して統治した。中央政府ではチンキムが行政機関である中書省と軍政機関の枢密院を統括し、さらにバアトル夫妻の子でチャブイの甥にあたるアントンが中書省の長官となった。加えて、クビライによって新設された財務部局の長官として、チャブイの用人であるアフマドが抜擢され、元の政権中枢部にチャブイの縁者によって占められるようになった。このような状況を指して、大元王朝とはチャブイを扇の要とするコンギラト政権であったと評価する歴史家もいる。 やがて、中央政府で実権を握るチンキムの権勢が高まり、1273年に皇太子の称号を与えられるが、同時にチャブイには皇后の印璽が与えられた。この頃、帝国の財務部門を握り、中書省の勢力をアントンと二分するアフマドの権勢も高まり、その党派がチンキム・アントンのもとに集まったモンゴル貴族・漢人官僚と反目を深めていくが、両者の接点としてチャブイがあったために、対立は決定的なものにはならなかった。 1281年にチャブイが死ぬと、たちまちチンキム派とアフマド派の反目は激化し、翌年にはアフマドの暗殺に至る。 1294年2月18日(至元31年1月癸酉)にクビライが没し、同年6月3日(5月戊午)に聖徳神功文武皇帝と諡され、廟号を世祖とすると、チャブイも昭睿順聖皇后と追諡を受けた。 チャブイの築いた莫大な財産は、同じコンギラト部族出身のチンキムの夫人ココジンが相続した。 Category:元の皇后 Category:クビライ Category:コンギラト部 Category:1281年没.

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チャガタイ・ハン国

チャガタイ・ハン国は、13世紀から17世紀にかけて中央アジアに存在した遊牧国家(ウルス)である。 モンゴル帝国の建国者であるチンギス・ハーンの次男チャガタイを祖とし、その子孫が国家の君主として君臨した。14世紀半ばにチャガタイ・ハン国は東西に分裂し、東部のチャガタイ・ハン国はモグーリスタン・ハン国とも呼ばれる。内乱、外部の遊牧勢力の攻撃、スーフィー教団の台頭の末、18世紀末にモグーリスタン王家を君主とする政権は滅亡した。西部のチャガタイ・ハン国ではハンに代わって貴族が実権を握るようになり、地方勢力間の抗争とモグーリスタン・ハン国の侵入を経てティムール朝が形成された。西チャガタイ・ハン国の貴族やティムール朝の創始者ティムールは傀儡のハンを置き、ティムールはチャガタイの弟オゴデイの子孫をハンとしたが、1403年以降はハンを擁立しなかった。 チャガタイ・ハン国の軍事力の基盤となった遊牧民たちは王朝の創始者であるチャガタイの名前から「チャガタイ人」と呼ばれ、「チャガタイ」は中央アジアに存在するモンゴル国家を指す言葉として使われるようになるバルトリド『トルキスタン文化史』1巻、216頁。中央アジアで成立したトルコ系の文語は「チャガタイ語(チャガタイ・トルコ語)」と呼ばれ、ティムール朝の時代に確立される。.

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チュベイ

チュベイ(Čübei, 生没年不詳)は、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢語表記は豳王出伯、『集史』などのペルシア語表記はچوبی(Chūbaī)。チャガタイ・ウルスの第5代当主アルグの次男で、チンギス・ハーンの玄孫、チャガタイの曾孫にあたる。.

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チラウン

チラウン(赤老温、 、生没年不詳)は、モンゴル帝国初期の武将。四駿の1人。スルドス氏出身のソルカン・シラの子。兄のチンベ(沉白、 )とともに知られていた。.

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チンキム

チンキム(Činkim, 1243年 - 1286年1月5日)は、モンゴル帝国(元)の皇族。クビライと皇后チャブイの次男。漢字表記は真金。『集史』のペルシア語表記では چيم كيم Chīm-kīm と書かれる。父クビライの治世に皇太子の称号を帯びて中国の政務を委ねられ、絶大な権力を誇ったが、父に先立って早世した。没後、彼の三男で正妃ココジンとの子である成宗テムルによって、裕宗の廟号と文恵明孝皇帝の諡号を贈られた。.

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チンギス・カン

チンギス・カン(モンゴル語:、キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字:成吉思汗、1162年5月31日 - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。 大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。 死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている一般的に1162年説が流布しているが、これは『元史』太祖本紀などに「(太祖二十二年)秋七月壬午、不豫。己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。」とあり(太祖二十二年秋七月己丑=1227年8月25日)、ここから逆算したものである。1155年説については、主にイルハン朝でガザン、オルジェイトゥの勅命によって編纂された『集史』などに基づくもので、同書「チンギス・ハン紀」では「彼の誕生した時は、ブタの年(亥年)であるヒジュラ暦549年であり、ズー=ル=カアダ月に起きたことであった」" az waqt-i walādat-i ū az ibtidā'-yi Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast, muwāfiq-i shuwūr-i sanna-yi tis`a wa arba`īna wa khamsa-mi'a Hijrī ki dar māh-i Dhī al-Qa`da wāqi` shuda …(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.309)"(1155年1月6日 - 2月4日)とあり、『元朝秘史』と同じくこれが父イェスゲイによるタタル部族への遠征とその首長コリ・ブカ(Qūrī Būqā)とテムジン・ウゲ(Tamūjīn Ūka)捕縛の年であったことが説明されている(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.310)。また没年も「ブタの年(Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast)」であり「彼の生涯は72年間であり、73年目に逝去した」"muddat-i `umr-i ū haftād u du sāl būda, wa dar sāl-i haftād u siyyum wafāt yāfta." とあり、生没年が同じ「ブタの年」であったと述べる(没年である1227年は実際に丁亥年である)。『集史』の後に編纂されたイルハン朝時代の他の歴史書でもこの生年の情報は踏襲されたようで、例えば『バナーカティー史』(アブー・サイード即位の1317年まで記述)では「ブタの年であるヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月」(1155年1月6日 - 2月5日)、同じくムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』(1330年)ではもう少し詳しく「ヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月20日」(1155年1月25日)とする。一方、1167年については、『聖武親征録』諸本のひとつに1226年(丙戌年)の記事において「上年六十」とするものがあることから(王国維の校訂では「六十五」に改める)ここから逆算してこの年時としている。他の資料の年代としては、1221年にムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使節、珙の撰(王国維の研究により著者は趙珙と校正された)による『蒙韃備録』では「今成吉思皇帝者甲戌生彼俗…」とあり、甲戌、すなわち1154年とする。このようにチンギス・カンの生年の年代については資料によって様々であり、多くの学説が立てられ現在でも結論が出ていない。元朝末期の陶宗儀編『南村輟耕録』において元朝末から明朝初の文人・楊維禎(1296年 - 1370年)の言として「太祖の生年は宋の太祖の生年である丁亥と干支を同じくする」(四部叢刊本 第三巻 「正統辯」 第六葉「宋祖生于丁亥而建國于庚申。我太祖之降年與建國之年亦同…」)というようなことを述べており、清朝末期の学者洪鈞は丁亥年すなわち1167年ではなく乙亥年の誤り、つまり、『集史』その他の西方資料にあらわれるものと同じ1155年に比定する説を唱えた。この説は『新元史』の著者忞(かしょうびん)や『蒙兀児史記』の著者屠寄など当時の学者たちの賛同を得た。しかし、フランスの東洋学者ポール・ペリオは、それならばこの場合、楊維禎の言に従い丁亥年すなわち1167年とした方が良く、この丁亥年説であればチンギスの生涯における諸事件の年月日とよく合致し、チンギス・カンは1167年に生まれ、1227年に60歳、『聖武親征録』のいう数え年61歳で死んだと考えた方が妥当であろう、と述べている。『元朝秘史』には生年についての情報は載っていない。。.

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チベット

チベットの旗(雪山獅子旗) チベット(英語:Tibet,,,, )は、東経77-105度、北緯27-40度に至る地域を占め、南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈、東は邛崍山脈に囲まれた地域、およびこの地域に成立した国家や政権、民族、言語等に対して使用される呼称。.

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チベット仏教

チベット仏教(チベットぶっきょう)は、チベットを中心に発展した仏教の一派。チベット仏教は、根本説一切有部律の厳格な戒律に基づく出家制度から、大乗顕教の諸哲学や、金剛乗の密教までをも広く包含する総合仏教である。また、独自のチベット語訳の大蔵経を所依とする教義体系を持ち、漢訳経典に依拠する北伝仏教と並んで、現存する大乗仏教の二大系統をなす。 教義としては、智慧と方便を重視する。インド後期密教の流れを汲む無上ヨーガ・タントラが実践されている。ニンマ派、カギュ派、サキャ派、ゲルク派の4宗派が存在するが、いずれも顕教と密教の併修を柱とする。チベットでは、7世紀から14世紀にかけてインドから直接に仏教を取り入れた。そのため、インド仏教の伝統が途絶える寸前の時代に伝来した後期密教が保存されていることが特徴である。 ラマと呼ばれる高僧、特に化身ラマを尊崇することから、かつては一般にラマ教(喇嘛教、Lamaism)と呼ばれ、ややもすると、仏教とは異質な宗教と見なす向きもあったが、その実態が一般の認識を得るにつれ、ラマ教という呼称は不適切だとして、現在では使用されなくなっている。.

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ネパール

ネパール連邦民主共和国(ネパールれんぽうみんしゅきょうわこく)、通称ネパールは、南アジアの連邦共和制国家。 東、西、南の三方をインドに、北方を中国チベット自治区に接する西北から東南方向に細長い内陸国である。国土は世界最高地点エベレスト(サガルマータ)を含むヒマラヤ山脈および中央部丘陵地帯と、南部のタライ平原から成る。ヒマラヤ登山の玄関口としての役割を果たしている。面積は約14.7万km。多民族・多言語国家であり、民族とカーストが複雑に関係し合っている。また、宗教もヒンドゥー教(元国教)、仏教、アニミズム等とその習合が混在する。 農業を主たる産業とし、ヒマラヤ観光などの観光業も盛んである。後発開発途上国であると分類されている。世界で唯一矩形(長方形)でない国旗を持つ国である。.

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ネストリウス派

ネストリウス派とは、古代キリスト教の教派の1つ。コンスタンティノポリス総主教ネストリオスにより説かれた。431年のエフェソス公会議において異端認定され、排斥された。これにより、ネストリウス派はペルシャ帝国へ移動し、7世紀ごろには中央アジア・モンゴル・中国へと伝わった。唐代の中国においては景教と呼ばれる。のちアッシリア東方教会が継承した。.

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バヤン (バアリン部)

バヤン(Bayan, 1236年 - 1295年)は、モンゴル帝国の将軍で、元を開いた大ハーン、クビライの重臣。漢字表記は伯顔。元が南宋を併合したとき、南宋討伐軍の総司令官として活躍した。.

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バヤン (メルキト部)

バヤン(Bayan, ? - 1340年)は、元朝後期の将軍。漢字表記は伯顔。アスト人親衛軍を率いる軍閥の長で、中国を支配した最後のモンゴル帝国大ハーンとなったトゴン・テムル(順帝)の治世初期に専権を振るった。 出自であるメルキト部は、元来チンギス・ハーンのモンゴル高原統一に抵抗して滅ぼされた部族(ウルス)であったが、バヤンの曽祖父は大ハーンの本営(オルド)に従士として仕えており、モンゴルの譜代部将の家柄に属している。祖父はモンケの南宋遠征に従軍し、父はクビライの皇太子チンキムの家に仕えた。バヤンも若くしてモンゴル軍人となり、アルタイ山脈方面の前線に派遣される懐寧王カイシャンに付属され、カイドゥとの戦いで戦功をあげて「バートル」(勇者)の称号を与えられた。 1307年、大ハーンのテムルが崩ずると政変が起こり、モンゴル高原の全遊牧民の軍団を後ろ盾とするカイシャンが勝利した。カイシャンのハーン即位により、カイシャンの部下であったバヤンも中央政府の高官である吏部尚書に任命され、カイシャン政権の有力者に列した。1309年には宰相格の尚書平章政事にすすめられるとともに、アスト人親衛軍の指揮官(阿速親軍都指揮使)に任命される。アスト人はバトゥの征西のとき征服された北カフカスのイラン系民族で現在のオセット人の先祖であり、バヤンが指揮を委ねられたアスト人親衛軍は、アスト征服の折りにモンゴル帝国に降伏したアスト人兵士からなるカイシャン子飼いの精鋭部隊であった。 しかし、1311年にカイシャンが急死を遂げ弟のアユルバルワダが即位すると、カイシャン政権の中核だった尚書省は解体され、カイシャン・アユルバルワダ兄弟の母である皇太后ダギの息のかかった将軍が取り立てられた。尚書省のメンバーだったバヤンのアスト人軍閥もカイシャン派として左遷され、中央から遠く離れた南方の地方官に転出する。1323年、晋王イェスン・テムルがハーンに即位すると、モンゴル高原から自らの子飼いの部将を引き連れてきたイェスン・テムルによってダギ派に属する有力者が一掃されたため、カイシャン派の残党であるバヤンの待遇も和らいで、1326年に中央に近い河南行省の平章政事に任ぜられた。 1328年、イェスン・テムルが上都で急死すると、再び大ハーンの座を巡って政変が起こり、大都に駐留していたカイシャン恩顧のキプチャク人親衛軍の将軍エル・テムルが決起を企てて江陵にいたカイシャンの遺児トク・テムルを迎えるための使者を送り出した。この使者が河南を通過する際にバヤンは計画を聞きつけ、エル・テムルの決起に協力、トク・テムルを河南に迎えてともに大都に向かった。こうしてトク・テムルがハーンに即位すると、朝廷ではハーンを擁立したエル・テムルのキプチャク人軍閥、バヤンのアスト人軍閥ら非モンゴル系の軍閥が実権を握ることになり、バヤンは中書左丞相、知枢密院事などの肩書きを与えられた上、ついには浚寧王の王号まで名乗って皇族なみの待遇を受けるに至った。 1332年にトク・テムルが没すると、バヤンはエル・テムルとはかってまだ幼児のイリンジバルをハーンに立てる。しかし、新ハーンはわずか2ヶ月で死んでしまい、翌1333年にはエル・テムルが病没した。エル・テムルに代わる朝廷の最有力者となったバヤンは代わりのハーンとしてイリンジバルの兄トゴン・テムルを擁立し、自ら中央政府の首班である右丞相に就任。1335年にはエル・テムルの遺児タンキシの起こしたクーデターを鎮圧し、ついに独裁権を掌握する。 やがてトゴン・テムルは成人するにつれてバヤンの専権を疎ましく思うようになったが、丁度バヤンの甥トクトが伯父を排斥しようとトゴン・テムルに接近してきた。1340年、トゴン・テムルの後援を受けたトクトはバヤンが宮廷を留守にした隙にクーデターを起こし、バヤンを失脚させた。バヤンは広東への流刑に処され、南に向かう途上で病死した。 バヤンは元では細々と実施されていた科挙を廃止したり、漢族を虐殺して人口を減らすことを提案するなど、中国文化を排撃したことで有名である。彼にかわって政権を握った甥のトクトが科挙を復活し、欧陽脩以来の正史となる『遼史』『金史』『宋史』の修史事業を行うなど、伯父とは対照的に中国文化に理解の深い為政者であったことから、トクトによるバヤンの追放は高原派と漢地派による対立であったと説明されることも多い。 はやん、めるきと はやん、めるきと はやん、めるきと.

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バラク (チャガタイ家)

バラク(Barāq、? - 1270年もしくは1271年)は、モンゴル帝国の皇族で、チャガタイ家の第7代当主(1266年 - 1271年)。漢語表記は八刺。ペルシア語資料では براق (Barāq)。チンギス・ハーンの次男チャガタイの長男であったモエトゥケンの三男イェスン・トアの次男である。チャガタイの曾孫にあたり、伯父にブリ、叔父に第2代当主カラ・フレグ、従兄弟に第6代当主ムバーラク・シャーがいる。.

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バガン

バガン(ビルマ文字: 、ラテン文字表記: Bagan)は、ミャンマー・マンダレー地方域にある地名で、旧名はパガン。カンボジアのアンコール・ワット、インドネシアのボロブドゥールとともに、世界三大仏教遺跡のひとつと称され、イラワジ川中流域の東岸の平野部一帯に、大小さまざまな仏教遺跡が林立している。バガンとは、広くこの遺跡群の存在する地域を指し、ミャンマー屈指の仏教聖地である。その一部の城壁に囲まれたオールドバガンは、考古学保護区に指定されている。点在するパゴダや寺院のほとんどは11世紀から13世紀に建てられたもので、大きいものや小さいものがある。本来は漆喰により仕上げられた鮮やかな白色をしているが、管理者のない仏塔は漆喰が剥がれレンガの赤茶色の外観となる。仏塔の数は、3000を超えるといわれている。.

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ムカリ

フバートル広場の記念像 ムカリ(Muqali guy-ong、1170年 - 1223年)は、モンゴル帝国の初代ハーンであるチンギス・カンの家臣。チンギス・カンの左翼諸軍に属す24の諸千戸隊を統括する万戸(トゥメン)の長であった。『元朝秘史』に載る1206年のチンギス・カン即位時の功臣表では、モンリク・エチゲ、ボオルチュに次ぐ第3位に数えられる。『元朝秘史』『元史』などの漢語表記では木華黎、木合黎、木花里、謀合理、摩睺羅など。『集史』のペルシア語表記などでは「ムカリ国王」の音写である、 موقلىكويانك Mūqalī Kūyānk などと書かれる。『元朝秘史』『集史』によれば、チンギス・カンによって右翼諸軍を統括するボオルチュとならび、カラウン・チドンとよばれる地域を統べる左翼万戸長に任じられたと言う。ボオルチュとならぶモンゴル帝国創業の大勲臣のひとりであり、死後に東平王、魯国王に封じられる。 ジャライル部族の首長家であるジャアト・ジャライル氏族(チャアト〜ジャアト Ča'at〜Čaγat<Jaad, جات Jāt)の出身。ジャアト・ジャライル氏族長テレゲトゥ・バヤンの息子グウン・ウアの子。兄弟にタイスン、ブカなどがいたことが知られている。ジャアト・ジャライル氏族、なかでも彼を祖とするムカリ国王家は、大元ウルス時代を含めモンゴル帝国東部でもっとも影響力の強かったモンゴル諸侯家のひとつであった。.

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ムスリム

ムスリム(مسلم、Muslim)とは、「(神に)帰依する者」を意味するアラビア語で、イスラム教の教徒のことである。.

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モンケ

モンケ(Möngke、、 1209年1月10日 - 1259年8月11日)は、モンゴル帝国の第4代皇帝(カアン、大ハーン)(在位1251年7月1日 - 1259年8月11日)。漢字表記は蒙哥、蒙哥皇帝で、ペルシア語表記では منگو قاآن (mankū qā'ān) または مونگكه قاآن (mūngke qā'ān) 。元から贈られた廟号は憲宗、諡は桓粛皇帝。モンケ(メンゲ)という名は、中世モンゴル語で「永遠」を意味する。チンギス・ハーンの四男トルイとその正妃ソルコクタニ・ベキの長男。子にシリギがいる。.

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モンケ・テムル

モンケ・テムル(Mängü-Temür, Möngke-Temür, ? - 1280年?)は、ジョチ・ウルスの第6代宗主(ハン)である。(在位:1267年-1280年?) バトゥ(チンギス・ハーンの長男・ジョチの次男)の次男の次男であり、バトゥの孫に当たる。モンケ・テムルは中世モンゴル語発音で、テュルク語発音でマング・ティムールとも呼ばれている。漢語資料では忙哥帖木兒、蒙哥鐵木と表記され、ペルシア語資料では مونككه تيمور Mūnkka Tīmūr と表記される。.

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モンゴル (曖昧さ回避)

モンゴル (Монгол) 民族.

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モンゴルのビルマ侵攻

モンゴルのビルマ侵攻(モンゴルのビルマしんこう)は、1277年から1287年にかけて行われた戦争である。元緬戦争(げんめんせんそう)とも呼ばれる。.

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モンゴルの樺太侵攻

樺太とその周辺の地形 モンゴルの樺太侵攻(モンゴルのからふとしんこう)とは、13世紀半ばから14世紀初頭にかけて断続的に行われたモンゴル帝国(元朝)による樺太(サハリン)アイヌ(骨嵬)への攻撃を指す。史料が少ないこともあり、その実体には不明な点が多い。同時期にモンゴルによって日本の九州北部に対して行われた元寇(文永の役・弘安の役)と比較されて「北からの蒙古襲来」「もうひとつの蒙古襲来」「北の元寇」などと呼ばれるが、両者の間に関連性があるかどうかは疑わしい(後述)。.

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モンゴル帝国

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。 モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・カンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。 中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライは1271年に、大都(現在の北京)に遷都して緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年の北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カンの末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。.

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モンゴル帝国帝位継承戦争

モンゴル帝国帝位継承戦争(モンゴルていこくていいけいしょうせんそう、1260年 - 1264年)は、モンゴル帝国の第4代大ハーン(皇帝)モンケの死後に、その一つ下の弟・クビライと、一番下の弟・アリクブケの兄弟が共に大ハーン継承を宣言したことから起きた内乱。当初はアリクブケが優勢だったが、最終的にはクビライが勝利を収め名実共に第5代大ハーンとなった。 古来「アリクブケの乱」の呼ばれてきたモンゴル帝国の内戦を、歴史理論学の立場から言い換えた現代的表現である。『集史』を始めとするペルシア方面で書かれた多くの史書がアリクブケを大ハーンの一人として扱っており、開戦当初はジョチ家・チャガタイ家などほとんどの帝国の構成員がアリクブケを支持する立場をとったことを示す資料が数多く残っている。このことから、クビライこそが当初は反乱者であり、「アリクブケの乱」という名称は勝者クビライによって後に捏造されたと考えられる。.

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モンゴル語

モンゴル文字で書かれた「モンゴル」 モンゴル語(モンゴルご、Монгол хэл、Mongol hel、、mongGul kele)は、モンゴル諸語に属する言語であり、モンゴル国の国家公用語である。モンゴル語を含むモンゴル語族は、テュルク語族及びツングース語族とともにアルタイ諸語と呼ばれる。 第8条はモンゴル語をモンゴル国の国家公用語に規定している。モンゴル国では、行政・教育・放送のほとんどがモンゴル語でなされるが、バヤン・ウルギー県では学校教育をカザフ語で行うことが認められている。こうした地域の人々の中にはモンゴル語を全く解さない者もいる。モンゴル国外には10万人以上のモンゴル国民が居住(日本国内にも合法・不法合わせ数千人が滞在しているものと推定されている)しており、かれらの母語でもある。 モンゴル諸語のうち、どこまでを「モンゴル語」と呼ぶのか明確な定義はないが、一般的にはモンゴル国や中国の内モンゴル自治区でも話されているものがモンゴル語とされる。.

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モンゴル高原

モンゴル高原(モンゴルこうげん)は、東アジアの北に位置する内陸の高原地帯で、モンゴル民族やテュルク系民族の居住地。モンゴル国とロシア極東の南部と中国の内モンゴル自治区をあわせた領域にほぼ一致する。漢語では蒙古(もうこ)あるいは蒙古高原(もうここうげん)と言う。 標高およそ1000m前後の草原からなり、中央部は乾燥地帯(ゴビ砂漠)である。ゴビ砂漠を境目として、北部はモンゴル国にあり、外蒙古または漠北とも呼ばれ、南部は南モンゴル(内蒙古)あるいは漠南と呼ばれ、歴史的・政治的に2地域に分かれている。北部はサヤン山脈を境界としてシベリアに接する。降水量は少なく、寒暖差の激しい、厳しい気候である。 Category:中央ユーラシアの歴史的地域 Category:中国の高原 Category:モンゴル国の地形 Category:高原 Category:分割地域.

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モンゴル文字

ンの勅…」とある モンゴル文字(モンゴルもじ、蒙古文字〔もうこもじ〕/モンゴル語キリル文字表記:、モンゴル文字:、モンゴル文字ローマ字(ラテン文字)転写:)は、13世紀ごろウイグル文字から派生した文字で、主にモンゴル語を表記する。フドゥム、胡都木とも。専ら縦書きされ、行は左から右へ綴られる(左縦書き)。 現在は主に中華人民共和国内モンゴル自治区で使われているが、モンゴル国では 1994 年以降義務教育化され、歴史と伝統・文化の象徴として書道やクラフトアートをはじめとした芸術作品に活用されている。.

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モスク

モスク(mosque)は、イスラム教の礼拝堂のことである。 アラビア語ではマスジド(, masjid, 「ひざまずく場所」(サジダ を行う場所)の意)といい、マスジドの訛った語で、イスラーム帝国がスペイン地方を占領したときマスジドがスペイン語でメスキータ (mezquita) となり、それが英語ではさらに訛ってモスク (mosque) となった。中国ではモスクを清真寺(せいしんじ、清真はイスラム教の中国での通称)と呼んでいる。 モスクは欧米、日本、韓国などにおける呼び名である。しばしばイスラーム寺院または回教寺院と訳されるが、モスクの中には崇拝の対象物はなく、あくまで礼拝を行うための場である。.

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ヨーロッパ

ヨーロッパ日本語の「ヨーロッパ」の直接の原語は、『広辞苑』第5版「ヨーロッパ」によるとポルトガル語・オランダ語、『デジタル大辞泉』goo辞書版「」によるとポルトガル語。(、)又は欧州は、地球上の七つの大州の一つ。漢字表記は欧羅巴。 地理的には、ユーラシア大陸北西の半島部を包括し、ウラル山脈およびコーカサス山脈の分水嶺とウラル川・カスピ海・黒海、そして黒海とエーゲ海を繋ぐボスポラス海峡-マルマラ海-ダーダネルス海峡が、アジアと区分される東の境界となる増田 (1967)、pp.38–39、Ⅲ.地理的にみたヨーロッパの構造 ヨーロッパの地理的範囲 "Europe" (pp. 68-9); "Asia" (pp. 90-1): "A commonly accepted division between Asia and Europe...

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ラマ

ラマ (lama, rama, llama 他) 生物.

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リンダン・ハーン

リンダン・ハーン(Лигдэн хаан、 英語:Ligdan Khan、1590年 - 1634年)は、モンゴル帝国の第40代(北元としては第26代)皇帝(大ハーン)であり、チャハル・トゥメンの当主である。ブヤン・セチェン・ハーンの孫で、マングス太子の長男。漢字表記は林丹汗、虎墩兔。.

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ルイ9世 (フランス王)

ルイ9世(Louis IX, 1214年4月25日 - 1270年8月25日)は、フランス王国カペー朝第9代の国王(在位:1226年 - 1270年)。ルイ8世とカスティーリャ王アルフォンソ8世の娘ブランシュの子。死後、カトリック教会より列聖され、ここから、Saint-Louis(サン=ルイ)と呼ばれるようになった。これは日本語では聖ルイあるいは聖王ルイと訳される。米国の都市、セントルイス(ミズーリ州)の地名の由来ともなった(セントルイスはSaint-Louisを英語読みしたもの)。ブルボン家の先祖でもあり、同家の王の多くがルイを名乗るのも彼に由来すると思われる。同じく聖王と称されたカスティーリャ王フェルナンド3世は従兄。 内政に力を入れ長期の平和を保ったため、彼の治世の間、フランス王国は繁栄した。国内外を問わず、争いを収めるよう努力したためヨーロッパの調停者と呼ばれ、高潔で敬虔な人格から理想のキリスト教王と評価されている。ただ、宗教的情熱から2回の十字軍を行ったが、莫大な費用を費やし、自身も捕虜となるなど散々な負け戦を喫し、失敗に終わっている。.

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ボルテ

ボルテ・ウジン(、 1161年? - ?)は、モンゴル帝国の始祖チンギス・カンの第一皇后。コンギラト部族出身。漢字表記は孛児台、『元朝秘史』では孛児帖旭真、『集史』のペルシア語ではと表記される。「ウジン」とは漢語の夫人に由来する称号でモンゴル王族の正妃が名乗る尊称である。元朝から光献翼聖皇后と諡名される。名はモンゴル部族の始祖として夙に有名な「蒼き狼(ボルテ・チノ)」のボルテと同じで、「灰色のまだら模様」を意味する。.

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ボルジギン氏

ボルジギン氏(Borjigin)は、モンゴル帝国のカアン(ハーン)の家系となったモンゴル部の中心氏族。モンゴル帝国、元の国姓である。 12世紀頃、アルグン川渓谷流域にいた蒙兀室韋(蒙瓦部)の後身で、モンゴル高原北東部において一大勢力を築いたモンゴル部の有力氏族で、ボドンチャルという人物を始祖とする男系から成る。この氏族は史上初めて全モンゴル部族を支配したとされるカブル・カンを出して以来、モンゴル部のカン(王)を独占した。そして13世紀にモンゴルのチンギス・カンがモンゴル高原の全遊牧部族を統一してモンゴル帝国を興してから後はモンゴル高原で最も高貴な氏族とみなされるに至る。チンギス・カンの男系は現在まで連綿と続いているため、現在のモンゴル国や中華人民共和国においても氏族の名は残っている。.

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ボロクル

ボロクルまたはボロウル(Boroqul, Buroγul〜Boro'ul、?-1217年)は、モンゴル帝国初期の武将。『元朝秘史』では孛囉忽勒、孛囉兀勒、『元史』では博爾忽などと記され、『集史』では بورقول نويان Būrqūl Nūyān または بورغول نويان Būrghūl Nūyān などと表記される。いわゆる四駿(Dörben külü'üd)の1人。フウシン部族出身。『元朝秘史』巻八に載る1206年のチンギス・カン第2即位での功臣リストでは第15位にあたる。.

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ボオルチュ

スフバートル広場の記念像 ボオルチュ(Bo'orču, Boγorču.

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トルコ

トルコ共和国(トルコきょうわこく、Türkiye Cumhuriyeti)、通称トルコは、西アジアのアナトリア半島(小アジア)と東ヨーロッパのバルカン半島東端の東トラキア地方を領有する、アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる共和国。首都はアナトリア中央部のアンカラ。 北は黒海、南は地中海に面し、西でブルガリア、ギリシャと、東でジョージア(グルジア)、アルメニア、アゼルバイジャン、イラン、イラク、シリアと接する。.

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トレビュシェット

トレビュシェ(仏: Trébuchet)は、固定式の攻城用兵器の一種。 南フランス・プロバンス地方、レ・ボー城塞のトレビュシェ 平衡錘投石機(へいこうすいとうせきき)とも訳される。巨大なおもりの位置エネルギーを利用して石を投げる。攻城用の投擲兵器としては後発にあたる。大型で威力と安全性に信頼の置ける火砲が出現するまで利用された。 動物の腱などの弾力を利用するバリスタなどの他の投擲兵器と違い、岩石などを詰めた箱の重量を利用するので、大きく造ればそれだけ威力が増した。また、詰め物の重量を変えることで射撃距離を自由に調整でき、精度も高かった。この投石器は最大のものは140キログラムの石を最大300メートルも飛ばすことができた。小型の物や原型となったマンゴネルはおもりではなく人力で投擲し、その際は竿にかけた何本かの紐を複数の人間が同時に引くことで投擲した。 石のほか、伝染病が当該地域に蔓延することを狙って、人や牛の死骸を目標に投下することもあった。 良く似た兵器としてカタパルトがある。こちらは威力や射程はトレビュシェに劣ってはいたが移動できたので、トレビュシェの登場後も併用して用いられた。 中国においては、三国時代に霹靂車と呼ばれた投石機が発明されていたが、マンゴネル同様に人力によるものであった。元軍による南宋の都市襄陽の包囲攻撃(襄陽・樊城の戦い)の際にトレビュシェットが導入された。ペルシアから来た回教徒の技術者により導入され使用されたので、襄陽砲もしくは回回砲と呼ばれる。霹靂車の石弾の投射能力が48kgが限界だったのに対し、襄陽砲は89kgの石弾の投射能力があった。 アルキメデスが発明したという伝説も伝わる。シラクサに侵攻した古代ローマ軍をアルキメデスの発明した新兵器が撃退したという逸話、アルキメデスがてこの原理を発見していることが根拠とされるが、その後の歴史を見るに信憑性はない。最古の記録は1165年東ローマによるものである。また、東ローマによる1097年のニケーア包囲戦で使用された投擲機が最初のトレビュシェである可能性がある.

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トプカプ宮殿

トプカプ宮殿(土:Topkapı Sarayı、「大砲の門宮殿」の意)は、15世紀中頃から19世紀中頃までオスマン帝国の君主が居住した宮殿。イスタンブール旧市街のある半島の先端部分、三方をボスポラス海峡とマルマラ海、金角湾に囲まれた丘に位置する。 発音は「トプカプ」()が正しいが、日本語ではしばしば「トプカピ宮殿」と表記されることがある。 トプカプ宮殿と呼ばれるようになったのは19世紀の皇帝が去った後からで、それ以前はに元々あった宮殿(旧宮殿)に対する「新宮殿」ということで、新宮殿を意味する「イェニ・サライ」、帝国新宮殿を意味する「サライ・ジェディード」(オスマン語: سراى جديد عامره)と呼ばれた。また、イスタンブールに営まれた多くの宮殿のうちの正宮殿として「帝王の宮殿」(サライ・ヒュマーユーン)とも呼ばれた。 宮殿はよく保存修復され、現在は博物館として公開されているが、15世紀に建設されて以来増改築を繰り返しており、現在見られる姿を保ちつづけているわけではない。.

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トク・テムル

トク・テムル(モンゴル語:、Toq-Temür、漢字:図帖睦爾、 1304年2月16日 - 1332年9月2日)は、モンゴル帝国(元)の第12代皇帝(大ハーン)。 武宗カイシャンの次男。母はタングト部の人(唐兀氏、文献昭聖皇后)で、明宗コシラの異母弟にあたる。.

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トクト

トクト(托克托・脱脱、1314年 - 1355年)は、元の宰相。漢名の字は大用。メルキト族の出身で、父はバヤンの弟であるマジャルダイ。.

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トグス・テムル

トグス・テムル(モンゴル語:、Tögüs-Temür)は、モンゴルの第17代大ハーン(北元としては第3代皇帝)。昭宗アユルシリダラの弟。治世の元号から天元帝と呼ばれることもある。クビライ以来続いてきた元朝の王統から出た最後の大ハーンとなった。.

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トゴン・テムル

トゴン・テムル(モンゴル語:、Toγon-Temür、漢字:妥懽帖睦爾、 1320年5月25日 - 1370年5月23日)はモンゴル帝国(元朝)の第15代皇帝(大ハーン)。廟号は恵宗であるが、明朝による追諡である順帝の名称が使用されることが多い。モンゴル語での尊号はウカアト・カアン Uqaγatu Qa'anで、『蒙古源流』『アルタン・ハーン伝』等ではオハート・トゴン・テムル・ハーン Uqaγatu Toγan Temür Qaγan 、トガン・テムル・ウハート・ハーン Toγan Temür Uqaγatu Qaγan と呼ばれている。 至正28年(1368年)に大都を放棄してモンゴル高原に撤退したため、『明史』では1368年に帝位を失い、元は滅亡したとして扱われる。.

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ブハラ

ブハラ(;)は、ウズベキスタンの都市で、ブハラ州の州都。ザラフシャン川下流域に古代より栄えたオアシス都市で、1993年には、旧市街地がユネスコの世界遺産に登録されている。人口は約23万7千人(1995年)。 都市名は、ソグド語では、pwγ'r/puχār と呼ばれていたようで、イスラーム時代以降、アミール国期までこの地域の伝統的な書写言語であった近世ペルシア語・チャガタイ語では (Bukhārā; ブハーラー)と表記される。諸外国語による表記ではBukharaあるいはBokharaとされることが多く、古くは日本語でもボハラと書かれることがあった。「ブハーラー」とは元来サンスクリット語で「僧院」を意味する Vihāra ないし Vihāraḥ に由来すると考えられている。 古代からサマルカンドと並ぶいわゆるソグディアナの中心都市であり、イスラーム時代以降、特にサーマーン朝の首都となってからもイラン・中央アジアにおける最も重要な都市のひとつであった。また近代でも20世紀の初頭までブハラ・アミール国(ブハラ・ハン国)の首都が置かれ、西トルキスタンにおける政治・文化の中心都市であった。特にサーマーン朝にはじまる近世ペルシア語文学の発信源としてこの都市が残した足跡は大きい。また、シャイバーニー朝やジャーン朝においてはブハラの宮廷でペルシア語に加え、チャガタイ語文芸運動を隆盛させその中心都市としても発展した。このような歴史背景から、現在は住民の大多数が民族籍上ウズベク人とされているものの、住民の間ではペルシア語系のタジク語が広く話され、タジク人としてのアイデンティティを有する者も数多く存在する複雑な民族構成をもつ。.

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ブルガン

ブルガン(ᠪᠦᠯᠭᠠᠨ 転写: bülγan、Bulγan, ? - 1307年)は、モンゴル帝国(元)の大ハーン、成宗テムルの皇后。漢字表記は卜魯罕、『集史』のペルシア語表記では بولوغان خاتون Būlūghān khātūn 。バヤウト部族の出身。.

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パンデミック

300px パンデミック()あるいは世界流行とは、ある感染症(特に伝染病)が、顕著な感染や死亡被害が著しい事態を想定した世界的な感染の流行を表す用語である。ただし英語のの意味は、「流行」という現象と「流行病」という病気との双方である。前者は不可算名詞で、後者は可算名詞である。 語源はギリシア語の(pandemia)で、(pan, 全て)+ (demos, 人々)を意味する。 2014年現在の世界は、航空機などの輸送機関の発達によりパンデミックが起こりやすい状況になっているため、検疫を行うなど感染症の流入を防ぐ対策がとられている。.

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パクパ

パクパ (、(1235年3月6日 - 1280年11月22日)は、 チベット仏教サキャ派(赤帽派)の座主。元王朝の初代皇帝・クビライに招請された帝師。モンゴル語化したパスパの名前で表記されることも多く佐藤「パクパ」『世界伝記大事典 世界編』7巻、296-297頁、漢語史料では八思巴、発思八、抜合思巴とも表記される藤枝「パスパ」『アジア歴史事典』7巻、372頁。本名はロテ・ギャンツェンであり、幼年期に利発さを示したため、「聖者」を意味するパクパの名前で呼ばれた。 チベットの有力氏族の一つであるコン氏の出身であり、ソェナム・ギャンツェンを父に持つ。先代の座主サキャ・パンディタの甥にあたる。.

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パクス・モンゴリカ

パクス・モンゴリカ(Pax Mongolica, 「モンゴルの平和」)またはパクス・タタリカ(Pax Tatarica, 「タタールの平和」)とは、13世紀から14世紀に渡りユーラシア大陸を支配したモンゴル帝国の覇権による平和で安定した時代を指す。いずれもパクス・ロマーナから派生した言葉。パクス・シニカとは区別される。 ユーラシア大陸の大部分はモンゴル帝国によって統一され、必然的に陸路による物流が活発になった。帝国領土内の様々な人々が自由に行き交う時代が到来し、モンゴル政府は関税を撤廃して商業を振興した。その結果、モンゴルに征服されなかった地域(日本、東南アジア、インド、中東、北アフリカ、ヨーロッパ)も海路を通じて交易ネットワークに取り込まれ、経済活動は更なる発展を遂げることとなる。ただし、被支配民族にとっては、自国を滅ぼされ、従属を強いられた苦難の時代でもある(タタールのくびき参照)。また、14世紀のペストの大流行は、モンゴル帝国の時代にユーラシア大陸を横断する広大なネットワークが形成された影響も指摘されている。.

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パスパ文字

パスパ文字(パスパもじ、八思巴文字、дөрвөлжин үсэг、dörvöljin üseg、〔モンゴル文字:〕 「方形文字」、ཧོར་ཡིག་གསར་པ་、hor yig gsar pa 「モンゴル新字」、中国語:蒙古新字 Měnggǔ xīnzì、八思巴字 Bāsībā zì)は、13世紀にモンゴル語など、大元ウルス(元朝)の各種言語表記に用いるために制定された表音文字。上から下へと縦に綴る。パクパ文字、方形文字(ほうけいもじ)とも呼ばれる。 パスパ文字は発明から100年間ほどしか使われなかったが、チベットでは1642年に発足したガンデンポタン政権のもとで、ダライ・ラマがチベット・ハルハ・オイラトなどの諸国のモンゴル人王公たちに称号を授与する際、印章に称号を刻むための文字として採用された。.

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テムル

テムル(モンゴル語:、Temür、漢字:鐵穆耳、1265年10月15日 - 1307年2月10日)は、モンゴル帝国の第6代、大元ウルスの君主としては第2代の大ハーン。『集史』などのペルシア語表記では تيمور قاآن Tīmūr Qā'ān。テムルはモンゴル語で「鉄」を意味する名前で、ペルシャ語などのティムールに通じる。.

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テュルク系民族

世界のテュルク系民族の分布。濃い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている国。薄い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている自治地域。 テュルク系民族の分布。 テュルク系民族(テュルクけいみんぞく、 または、 、 )は、中央アジアを中心にシベリアからアナトリア半島にいたる広大な地域に広がって居住する、テュルク諸語を母語とする人々のことを指す民族名称である。.

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テングリ

モンゴルの宇宙三界説 テングリ(天神、匈奴語: 、突: 、回語: 、現代(『元朝秘史』の蒙古語: 騰格里、)、、チャガタイ語: )は、アジア北方の遊牧民族に共通な、「天上世界」もしくは「天上神」「運命神」「創造神」を意味する概念。中国史の史料上はしばしば「天」と訳されている。.

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フレグ

フレグ(Hülegü, Hülägü 生没年:1218年 - 1265年)、あるいはフラグ、またはフラクは、イルハン朝(フレグ・ウルス)の創始者(在位:1260年 - 1265年)。アバカ、テグデル・アフマドの父。『世界征服者史』『集史』等のペルシア語、アラビア語文献では 転写: Hūlākū Khān、『元史』等の漢語文献では旭烈兀 大王、『五族譜(Shu'`ab-i Panjgāna)』のウイグル文字モンゴル語表記では 'wl'kw(ulaku 『集史』トルイ・ハン紀ではトルイの(異母兄弟を含めた)五男(Rashīd al-Dīn Faḍl Allāh Hamadanī, Jāmi'al-Tawārīkh, (ed.)Muḥammad Rawshan & Muṣṭafá Mūsawī, vol.2, Tehran,1373/1994, p.781)、『元史』宗室世系表ではトルイ(睿宗皇帝)の六男としている(『元史』巻107/表2 宗室世系表「睿宗皇帝、十一子:長憲宗皇帝、(中略)次六旭烈兀大王」)。。モンケ、クビライ、アリクブケは同母兄弟であり、チンギス・カンの孫にあたる。イル・ハン Īl-khān の尊称で呼ばれた。.

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ドゥア

ドゥア(Du'a, ? - 1307年頃)は、モンゴル帝国の皇族、チャガタイ家の第10代当主(在位:1283年 - 1307年)で、チャガタイ・ハン国の実質的な建国者である。『集史』などのペルシア語表記では دوا Dūā、『元史』などでの漢字表記は諸王都哇。第7代当主バラクの子。 1270年に父のバラクがオゴデイ家のカイドゥと対立中に、カイドゥによる毒殺と言われる謎の急死を遂げると、父の仇敵であるカイドゥと対立し、カイドゥの側についた第5代当主アルグの遺児チュベイらと激しい抗争を10年近くに渡って繰り広げた。 その後、情勢の変化からカイドゥに服属することになり、逆にカイドゥと対立するようになったチュベイらが、モンゴル帝国の大ハーンであるクビライの政権、大元に逃亡したので、1282年になってカイドゥによって空席となっていたチャガタイ家の当主の座に据えられた。しかし実際にはドゥアはカイドゥの傀儡であり、カイドゥが中央アジアに成立させた「カイドゥ・ウルス」の一部をなす諸王に過ぎなかった。 1301年、カイドゥが元との戦いで陣没するとカイドゥ王国内における長老として発言力を増し復権をはかった。ドゥアはまずカイドゥによって生前後継者に指名されていたオロスを遠ざけてカイドゥの長男チャパルを後継者に推し、チャパルの即位を実現させた。1304年にはチャパルとともに、クビライの孫テムルのもとに使者を送り、大ハーンへの臣従を誓ってモンゴル帝国の再統合を実現した。 この後、チャパルとオロスがオゴデイ家の主導権をめぐって抗争をはじめると、ドゥアはオゴデイ家の内紛を好機とみてアルタイ山脈を越え、ジュンガリアに侵攻してきた元軍と連携してオゴデイ家の各勢力を各個撃破していった。 1306年、ドゥアはチャパルの追放に成功し、アルタイ山脈以西の「カイドゥ・ウルス」の旧勢力圏を統一して、中央アジア一帯にチャガタイ・ハン国の広大な支配圏を築き上げた。このとき、モンケの粛清以後、政権としては解体同然であったチャガタイ家のウルスが、実質的に後世「チャガタイ・ハン国」と呼ばれる姿で建国を果たしたのであった。 ドゥアはさらにヒンドゥークシュ方面にも進出してアフガニスタンまで勢力下に置きチャガタイ・ハン国の最盛期を築き上げたが、まもなく病を得て死去した。 とうあ とうあ とうあ.

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ホラーサーン

ホラーサーン(、Khorasan)は、イラン東部の州の名称で、この州は広大であったため、2004年9月29日、北ホラーサーン州、南ホラーサーン州、ラザヴィー・ホラーサーン州の3州に再編された。旧ホラーサーン州の州都は、マシュハド。「太陽の登るところ」を意味する。現在はラザヴィ・ホラーサーン州の州都となっている。.

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ホンタイジ

ホンタイジ(ᡥᠣᠩᡨᠠᡳᠵᡳ 転写:hong taiji、皇太極)は、清(後金)の第2代皇帝。君主としての称号は満州語でスレ・ハン(sure han)、モンゴル語でセチェン・ハーン。皇太極は皇太子、黄台吉とも表記される。三田村泰助は明の陳仁錫『山海紀聞』や李朝の『朝鮮王朝実録』の「仁祖実録」などを根拠に、本名は「ヘカン」であったとする説を提示している。 皇太子とも表記されることから、ヌルハチの生前から後継者と目されていたと考える向きもあるが、ヌルハチが死の際にそれに触れていないことと矛盾する。ヌルハチは自分を部族連合体の長であるとしか考えていなかったので、後継者も自分と同じように周囲の推戴によって選ばれるべきである、と認識していたと考える方が妥当であろう。史書(『清実録』)にはホンタイジは順当に何事もなく即位したように書かれているが、このあたりの記述には潤色があると考えられる。 なお、「ホンタイジ」という単語は上述の通り「皇太子」や「王」「福王」などの意味を含んでおり、満州族以外のユーラシア大陸北方遊牧民の間で広く使われた君主号の一種であり、彼以外にも「ホンタイジ」を名乗った者は多く、同時代だけを見ても複数いる。例えばホンタイジの死後、乾隆帝によって滅ぼされたジュンガルの歴代王は「ホンタイジ」の称号を名乗っていた。.

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ホエルン

ホエルン(ほえるん、)は、モンゴル帝国の創設者チンギス・カンの母親である。コンギラト部族のオルクヌウト氏族出身である。元朝から宣懿皇后と追諡される。.

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ダヤン・ハーン

ダヤン・ハーン(Даян хаан、 Dayan Khan、1464年 - 1524年)は、モンゴルの第34代(北元としては第20代)大ハーン。長らく分裂状態にあったモンゴル諸部を再統一し、ハーンの権威を回復させた。本名はバト・モンケ(Batu Möngke、Батмөнх)。明朝で編纂された漢文史料では大元大可汗や小王子、或いは達延汗と記されている。 ダヤン・ハーンはモンゴル中興の祖として称賛されており、モンゴルの諸王公はチンギス・カン(太祖テムジン)、セチェン・カーン(世祖クビライ)に次ぐ偉人としてダヤン・ハーンを位置づけている。現在のモンゴル国における「チンギス・カンの末裔」は大部分がダヤン・ハーンの流れをくんでいる。.

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ダルマバラ

ダルマバラ(Darmabala, 1264年 - 1292年)は、元の皇族。漢字表記は答剌麻八剌太子、『集史』のペルシア語表記では ترمه بلا Tarma Balā 。世祖クビライ時代の皇太子チンキムの次男で、父の死後には祖父クビライの有力な後継者候補として将来を嘱望されたが、早世した。諡は昭聖衍孝皇帝、廟号は順宗。 ダルマバラは、チンキムがコンギラト部族出身の妻ココジンとの間にもうけた3人の嫡子のうちの次男で、兄にカマラ、弟にテムルがいる。幼い頃から常にチンキムのもとに留められて膝下に育てられ、子供のうちに名門コンギラト部族出身のダギを妻に迎え入れるなど、皇孫として恵まれた環境に育った。 クビライの後継者の最有力候補として権勢を誇ったチンキムが1285年に没すると、その子である皇孫たちが後継者として重要な候補となった。ダルマバラは皇孫たちの中でも最も祖父に愛され、しばしば宮廷に呼ばれたので、後継者候補として有力になった。 1291年、ダルマバラはクビライの命令を受け、所領である河南の懐州に赴いたが、旅程上で病を発し、大都に呼び戻された。翌年初頭、クビライの移動宮廷(オルド)が夏の都上都に向かって季節移動を始めた後も病気の治療のため大都に留まったが、まもなく病死した。 親王ダルマバラは妃のダギとの間にカイシャン、アユルバルワダの2子を残した。弟テムルの死後、1307年になってカイシャンが即位すると、亡父ダルマバラは順宗昭聖衍孝皇帝と諡され、皇帝に准ずる祭祀を受けた。.

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ダルガチ

ダルガ(daruγa)ないしダルガチ(daruγa-či)とは、モンゴル帝国の官職。モンゴル帝国の初期において、モンゴル軍団の軍政や諸事の裁定を行ったジャルグチ、財政の一切を管理したビチクチとならぶモンゴル帝国初期の重要官職である。主に政権中央から派遣され、各々の領地の民政統治官、行政長官としての業務を行う。漢語資料では達魯花赤占と書かれ、『集史』などのペルシア語文献ではダルガ(ダールーガ) داروغه dārūgha として表れる言葉であり、テュルク語のバスカク بسقاق basqāq 、アラビア語のシャフナ شحنة shahna (軍政管民官)といったものと同義語として用いられた。大元ウルスやイルハン朝といったモンゴル諸王家だけではなく、ティムール朝など後のテュルク・モンゴル系の政権などへも受け継がれた。 もともと、モンゴル高原を統一してモンゴル帝国の始祖となったチンギス・カンが東西へ行った遠征以降に、占領した旧金朝の華北やホラズム・シャー朝の領域だった中央アジア、イランなどの各地域に対し、モンゴル皇帝であるカアン(大ハーン)の代官として設置したもの。その主な任務は、徴税、戸口調査、駅伝事務、民政一般、治安維持などである。 東方においては、クビライ・カアンにより大元ウルス(元朝)が成立すると、その行政組織の中で正式に制度化され、地方行政官庁などに必ず置かれた。元の行政では人間集団ごと(モンゴル人、西域人(色目人)、漢人など)による階級差別 が存在しており、この達魯花赤に任命されるのはほとんどモンゴル人、稀に西域人や女真人で、漢人が任命されることはなかった。.

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ダギ

ダギ(モンゴル語: 転写: taǰi、Dagi, ? - 1322年11月1日)は、モンゴル帝国(元)の世祖クビライの皇孫ダルマバラの夫人で、武宗カイシャンと仁宗アユルバルワダの母(皇太后)。漢字表記は答己。 コンギラト部族の出身で、チンギス・ハーンの正夫人ボルテの弟アルチ・ノヤンの曾孫にあたり、アルチ・ノヤンの四男ナチンの息子テムルの娘である。クビライの皇后チャブイは大おばにあたる。幼少のうちから燕王チンキム(のち皇太子)の宮廷に迎え入れられてその次男ダルマバラに近侍し、成人とともにダルマバラと結婚、カイシャンとアユルバルワダの2子をもうけた。 夫の早世後、遊牧民の間では一般的な嫂婚制(父や兄の未亡人を娶ることでその財産を引き継ぐ制度)により、夫の弟にあたる成宗テムルとの結婚が検討されたこともあったといわれるが、再婚は行われなかった。このためかテムルの皇后ブルガンとは不和であり、テムル晩年の1305年にはブルガンによって首都大都を遠ざけられ、次男のアユルバルワダとともに河南の懐州にあるダルマバラ家の所領にあった。 1307年、テムルが死ぬと、傍系の王族アナンダを即位させようと目論むブルガンに反対する重臣たちによってアユルバルワダとともにひそかに呼び戻され、大都に入ってブルガンとアナンダを打倒するクーデターに関与した。続いてアルタイ山脈方面に駐留していた長男の懐寧王カイシャンが帰国し大ハーンに即位すると、アユルバルワダは皇太子として立てられ、ダギも皇太后に立てられる(この時、亡夫ダルマバラも昭聖衍孝皇帝と追諡され、廟号を順宗とされた)。 ダギはかつて亡夫ダルマバラの母ココジンが領していた隆福宮を継承し、まもなくダギのために興聖宮が立てられて隆福宮を併せた。興聖宮は代々コンギラト部出身の皇后によって所有されてきた莫大な財産と所領を継承し、その管理のためにいくつもの官庁が設けられ、それ自体がひとつの王国に匹敵するほどの規模を誇った。 1311年にカイシャンが30歳ほどの若さで突如急死し、ダギの溺愛する弟のアユルバルワダがハーンに即位すると、カイシャンの側近たちは突如追放され、ダギの寵臣テムデルをはじめとする興聖宮の重臣が権勢を振るうようになり始めた。カイシャンが弟のアユルバルワダを皇太子に立てたとき、その次のハーンはカイシャンの子のコシラとするよう兄弟の間で約束されていたが、ダギはコシラが幼くして英気があり将来思い通りにならないことを怖れ、約束を破ってアユルバルワダの子で柔弱なシデバラを皇太子に立てさせた。 アユルバルワダの治世ではハーンにはほとんど実力がなく、ダギとその側近たちが政治を自由に動かした。ハーンの勅旨よりも皇太后の懿旨のほうが権威をもつと言われ、シデバラを皇太子に立てるのもダギの懿旨によって行われた。 アユルバルワダは即位して程なく、1315年4月(延祐二年三月)、ダギに皇太后に加えて、儀天興聖慈仁昭懿壽元全德泰寧福慶皇太后という尊号を贈った。 1320年にアユルバルワダがやはり若くして亡くなると、その遺児でまだ10代のシデバラがハーンに即位し、ダギは太皇太后に立てられた。シデバラの治世ではダギの権勢はますます盛んになり、アユルバルワダの末年に罷免されていたテムデルが右丞相に返り咲くなど、ダギの意志が押し通された。 しかし、シデバラは成長するとともに毅然として政治に乗り出そうとする傾向を見せ始めたので、ダギはシデバラを擁立したことを後悔しながら2年後に亡くなった。ダギが死ぬとシデバラはテムデルの遺族を追放し、その財産を没収するなど強硬的な改革を進め、ダギの党派は一掃されてしまった。 Category:元の追封皇后 Category:中国の皇族の妃 Category:コンギラト部 Category:1322年没.

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ベルケ

ベルケ(Berke, ? - 1266年?)は、バトゥの弟で、ジョチ・ウルスの実質の第5代君主(在位:1257年-1266年)。ジョチの三男で、母はスルターン・ハトゥン(エミン部族)。漢語表記では別児哥、ペルシア語資料では بركاى Barkāy または بركهBarka と綴られる。.

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ベトナム

ベトナム社会主義共和国(ベトナムしゃかいしゅぎきょうわこく、)、通称 ベトナム()は、東南アジアのインドシナ半島東部に位置する社会主義共和国。首都はハノイ。ASEAN加盟国、通貨はドン、人口9,250万人(2014年末)。 国土は南北に細長く、北は中華人民共和国、西はラオス、南西はカンボジアと国境を接する。東は南シナ海に面し、フィリピンと相対する。.

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呉鎮

洞庭漁隠 呉 鎮(ご ちん、Wu Zhen、1280年(至元17年) - 1354年(至正14年))は、元時代の文人画家。字は仲圭、号を梅花道人(梅道人)、梅花和尚。嘉興(現在の浙江省)の魏塘鎮出身。黄公望、倪瓚、王蒙と並ぶ元末四大家の一人で、元の山水画様式を確立した。.

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アナンダ

アナンダ(Ananda, ? - 1307年)は、元の皇族。『集史』などでのペルシア語表記では اَنَنْدَه Ananda または آننده Ānanda、『元史』での漢字表記は安西王 阿難答。.

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アバカ

アバカ(Abaqa/阿八哈、اباقا خان Ābāqā khān、1234年2月27日 - 1282年4月1日)は、イルハン朝の第2代ハン(1265年 - 1282年)。父は初代ハーンのフレグ・ハン、母はフレグの第5位の妃でスルドゥス部族出身のイェスンジン・ハトゥン。.

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アムダリヤ川

アムダリヤ川(アムダリヤがわ、ペルシア語:آمودریا, Āmū Daryā)は、パミール高原・ヒンドゥークシュ山脈から発するパンジ川とヴァクシュ川が合流し、北西へ向かって流れる。元々はアラル海に注いでいたが、現在は河口部ではほぼ干上がっている。延長2574km、全長1415km「シルクロードの古代都市」P6, 8。.

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アユルバルワダ

アユルバルワダ(モンゴル語:、Ayurbarwada、漢字:愛育黎抜力八達、 1285年4月9日 - 1320年3月1日)は、モンゴル帝国(元)の第8代皇帝(大ハーン)。『集史』などのペルシア語表記では اجورپريه بتره Ayūrparīya-bhadra など。名はアユルバリバドラとも読まれる。.

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アユルシリダラ

アユルシリダラ(モンゴル語:、Ayurširidara)はモンゴル帝国の第16代大ハーン(北元としては第2代皇帝)。恵宗トゴン・テムルの長男。モンゴル人と高麗人の混血である。.

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アリギバ

アリギバ(モンゴル語: Razibaγ、ར་ཁྱི་ཕག Ra khyi phag、 1320年? - 1328年11月14日?)は、モンゴル帝国(元)の第11代皇帝(大ハーン)。漢字表記は阿剌吉八、阿里吉八など。読みはアリギバ(中国語)、ラジバグ(モンゴル語)、ラキパク(チベット語)。 第10代の泰定帝イェスン・テムルを継いで即位したため、本来であれば第11代ハーンであるが、即位直前のクーデターにより擁立された対立ハーンのトク・テムルに敗れて廃されたため、一般に歴代には数えられない。漢風の廟号も持たないが、2ヶ月間の短い治世に天順の元号を立てたので天順帝と呼ばれることもある。.

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アリクブケ

アリクブケ(モンゴル語:, ラテン文字転写: )は、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。漢文史料では阿里不哥、ペルシア語史料では()と書かれる。書籍によってはアリクブカとも表記される。.

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アルマリク

アルマリク(Almalik)は中央アジア、イリ川渓谷(イリ地方)の歴史的都市。モンゴル帝国時代の13世紀から14世紀頃にイリ川渓谷を経て天山山脈北麓を通る交易路の拠点として栄え、またイリ地方の周辺に広がる草原地帯の遊牧民たちが拠点として利用した。正確な位置は明らかではないが、現在の中国新疆ウイグル自治区北西部、サリム湖の南バットゥータ『大旅行記』4巻、229頁、カザフスタンとの国境に近いイーニン(クルジャ)の近辺に存在していたと考えられている松田「アルマリク」『アジア歴史事典』1巻、120頁。 アルマリクの前身は、唐の史書に表れる「弓月城」と推定されている。アルマリクの名は13世紀にはじめて歴史にあらわれ、耶律楚材や長春真人の旅行記には「阿里馬里城」、アルメニア国王の旅行記には「ハルアリク(Halualekh)」と記される。この名はテュルク語で「リンゴのなる町」を意味している。 13世紀初頭、カルルク族の首長オザルがアルマリクを中心に勢力を形成すし、西遼(カラキタイ)に臣従していたドーソン『モンゴル帝国史』1巻、97頁。モンゴル帝国が勢力を拡大すると、1211年頃にオザルは西遼から離反してチンギス・ハーンに帰順するが、オザルは西遼の帝位を簒奪したナイマンのクチュルクに殺害される。オザルの死後、チンギスの命によってオザルの子スクナーク・テギンがアルマリクの指導者の地位を継ぎ、チンギスの長子ジョチの娘を娶った。 チンギスの死後、アルマリクはイリ地方一帯の遊牧地を所領(ウルス)とするチンギスの次男チャガタイに与えられる。チャガタイは春夏の期間をアルマリクの周辺とイリ川南のクヤスで過ごし、アルマリクはスクナーク・テギンとその一族によって統治されていた。14世紀初頭にいわゆるチャガタイ・ハン国が形成されるとその中心都市となった。アルマリクはチャガタイ・ハン国の中心地とされてから重要性を帯び、14世紀には東方におけるキリスト教の拠点の一つとして機能した。 14世紀中頃には東チャガタイ・ハン国の再建者でモグーリスタンの遊牧民たちをイスラム教に改宗させたトゥグルク・ティムールがこの地を本拠地とし、1362年に亡くなるとアルマリクに葬られた。その後もモグーリスタン・ハン国と呼ばれるトゥグルク・ティムールの後裔たちはこの地方を拠点としたが、15世紀に入るとカザフスタンの草原地帯にウズベクやカザフが興って圧迫を受け、モグーリスタンのハンたちは草原地帯を捨ててタリム盆地のオアシス都市に移っていった。ウズベクによる破壊を受けたアルマリクも衰亡し、イリ地方の中心都市としての機能はクルジャに移って歴史から姿を消した。 現在は、トゥグルク・ティムールの霊廟もクルジャにある。.

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アルダビール

アルダビール(اردبیل; Ardabīl)はイラン北西部の歴史的都市。アルダビールの名はおそらくゾロアスター教の聖地を意味する「アルタヴィル」に由来する。アルダビール州の州都であり、人口は340,386人。住民の大多数は民族的にアゼリーである。伝統的に絹および絨毯交易で名が知られ、古来のアルダビール絨毯はペルシア絨毯のなかでも最良のものとされる。アルダビールはサファヴィー朝の名祖たるシャイフ・サフィーユッディーンの聖廟の在所でもある。.

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アルグ

アルグ(? - 1266年)は、モンゴル帝国の皇族で、チャガタイ・ハン国の第5代君主(在位:1260年 - 1266年)である。父はチャガタイの子バイダルで、チンギス・カンの曾孫にあたる。チャガタイ家の中では傍流であったが、第4代大ハーン・モンケの急死、それに伴う混乱の中で急速にその地位を高めた。 1260年、クビライとアリクブケの間で帝位継承戦争が勃発すると、最初チャガタイ家は、夫亡き後、監国(摂政)として政務を担っていたオルガナの下、アリクブケを支持した。しかし、アリクブケはクビライに連敗した上、経済封鎖策によって深刻な食料不足に陥った。追い詰められたアリクブケはカラコルムに食料を送る事を条件に側近だったアルグをチャガタイ家当主に任命、チャガタイ家に送り込んだ。実権を奪われたオルガナはアルグの妃になるように強要され、オルガナはカラ・フレグとの間の息子であるムバーラク・シャーを後継者にすることを条件に受け入れたという。 しかし、チャガタイ家領に入りオルガナから実権を奪うと、アルグはアリクブケに対して反旗を翻した。これには、即位時にチャガタイ家の有力者の多くを粛清したモンケ政権の後を継ぐ形でできたアリクブケ政権に対するチャガタイ家の反発が背景にあったとも言われる。一時攻めてきたアリクブケに本拠地アルマリクを占領され、サマルカンドに退却することもあったが、1264年にアリクブケがクビライに降伏したことで、ついに全チャガタイ家領を統一した。 帝位継承戦争集結後、クビライが統一クリルタイの開催を提唱したとき、アルグは真っ先に参加を表明したものの、実現される前に病没した。 Category:チャガタイ・ウルスの君主 Category:生年不明 Category:1266年没.

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アントン (ジャライル部)

アントン(Anton, Antum, Hantun, 安童、1245年 - 1293年)は、大元朝時代にその初代でもある第5代モンゴル帝国皇帝(カアン)クビライに仕えた政治家、宰相(中書右丞相)。『元史』などでは安童、『集史』などのペルシア語史料では هنتون نويان Hatūn Nūyān、 انتون نويان Antūn Nūyān などと書かれる。チンギス・カンに仕えたジャアト・ジャライル部族出身の功臣、ムカリ国王家の出身で、ムカリの曾孫。ムカリの子・ボオルの3男・バアトルが父にあたる。母親はチンギス・カンの第一夫人ボルテの姪で、クビライの皇后チャブイの姉にあたる。息子にウドゥルタイ(兀都帯、バイジュの父)がいる。 13歳で宿衛(ケシク)に入る。クビライの信任が厚く、それに近侍した。クビライがモンゴル帝国帝位継承戦争に勝利した際にアリクブケ側に付いた者たちに対する寛大な処分を勧めてクビライに評価され、1265年には早くも光禄大夫、中書右丞相に抜擢され食邑四千戸まで加増を受けた。後に平章政事であるアフマド・ファナーカティーと対立するが、1274年に彼の不正行為をあばいて失脚させる。翌1275年には皇太子チンキムや北平王ノムガンとともにカイドゥ討伐に向かい、カラコルムに入ったノムガンとその庶弟である皇子ココチュに扈従し、カラコルム周辺を領していたモンケ家、アリクブケ家などの王族との調停に勤めた。しかし、1276年にノムガン率いる遠征軍がカイドゥの支配領域の面前であるアルマリクに駐留していた時、軍中のモンケ家の四男シリギが、モンケ、クビライらの庶弟ソゲトゥの息子(ないし孫)トク・テムルの先導によっての他のトルイ家をはじめてとする王族たちと共謀して反乱を起こした。(シリギの乱) このため、アントンはノムガンとココチュらととも捕縛され、トクテムルとシリギはノムガンとココチュの兄弟をジョチ・ウルスの当主モンケ・テムルに引き渡し、アントンはカイドゥに引き渡して両陣営に対して自らの反乱への参加を促した。しかし、カイドゥもモンケ・テムルもこの誘いをほぼ黙殺し、シリギの乱はバヤンの派遣などによって鎮圧された。1284年に大都に帰還すると、右丞相に復職し、翌1285年にはアントン不在中に専権を振るった盧世栄の不正行為をあばいて失脚させて、獄死に追い詰めた。ところが、1287年に新しく平章政事となったサンガと対立してその不正を糾弾するも、フビライに取り上げられなかったことから権威が失墜し、1291年に右丞相を退いた。この年、サンガの不正行為があばかれて失脚するものの、アントンは復権することができずに2年後に没した。.

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アフマド・ファナーカティー

アフマド・ファナーカティー(Ahmad Fanākatī, احمد فناكتى, 生没年: ? - 1282年)は、モンゴル帝国(元)の大ハーン、クビライに仕えたムスリム(イスラム教徒)の財務官僚。漢字表記は阿合馬。「アクマト」とも呼ばれる。.

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イラン

イラン・イスラム共和国(イラン・イスラムきょうわこく、جمهوری اسلامی ایران)、通称イランは、西アジア・中東のイスラム共和制国家。ペルシア、ペルシャともいう。北にアゼルバイジャン、アルメニア、トルクメニスタン、東にパキスタン、アフガニスタン、西にトルコ、イラクと境を接する。また、ペルシア湾をはさんでクウェート、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦に面する。首都はテヘラン。 1979年のルーホッラー・ホメイニー師によるイラン・イスラーム革命により、宗教上の最高指導者が国の最高権力を持つイスラム共和制を樹立しており、シーア派イスラームが国教である。世界有数の石油の産出地でもある。.

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イリ

イリ.

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イリ地方

イリ地方は、中央アジアの中央部、イリ川畔の地域。イリ渓谷、イリ河谷、イリ盆地などとも称される。現在は中華人民共和国新疆ウイグル自治区北部のイリ・カザフ自治州の中にある。.

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イリンジバル

イリンジバル(モンゴル語: Rinčinbal、རིན་ཆེན་དཔལ། rin chen dpal、懿璘質班 Irinjibar、 1326年5月1日 - 1332年12月14日)は、モンゴル帝国(元)の第14代皇帝(大ハーン)。読みは、イリンジバル(中国語)、リンチンバル(モンゴル語)、リンチェンパル(チベット語)。.

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イルハン朝

14世紀のフレグ・ウルスとその周辺国 イルハン朝(ペルシア語: ايلخانيان Īlkhāniyān、英語:Ilkhanate)は、現在のイランを中心に、アムダリヤ川からイラク、アナトリア東部までを支配したモンゴル帝国を構成する地方政権(1256年/1258年 - 1335年/1353年)。首都はタブリーズ。.

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インド

インドは、南アジアに位置し、インド洋の大半とインド亜大陸を領有する連邦共和制国家である。ヒンディー語の正式名称भारत गणराज्य(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ、Republic of India)を日本語訳したインド共和国とも呼ばれる。 西から時計回りにパキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、バングラデシュ、ミャンマー、スリランカ、モルディブ、インドネシアに接しており、アラビア海とベンガル湾の二つの海湾に挟まれて、国内にガンジス川が流れている。首都はニューデリー、最大都市はムンバイ。 1947年にイギリスから独立。インダス文明に遡る古い歴史、世界第二位の人口を持つ。国花は蓮、国樹は印度菩提樹、国獣はベンガルトラ、国鳥はインドクジャク、国の遺産動物はインドゾウである。.

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イブン・バットゥータ

イブン・バットゥータ(、, アブー・アブドゥッラー・ムハンマド・イブン・アブドゥッラー・アッ=ラワーティー・アッ=タンジー、1304年2月24日/25日 - 1368年/69年)は、マリーン朝のベルベル人の探検家である。彼の旅行記『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』(تحفة النظار في غرائب الأمصار وعجائب الأسفار 、通称Rihla)にまとめられた広範にわたる旅行で知られ、30年間をかけ既知のイスラム世界、そして非イスラムの地を旅した。彼の旅した地には北アフリカ、アフリカの角、西アフリカ、東ヨーロッパ、中東、南アジア、中央アジア、東南アジア、中国が含まれる。イブン・バットゥータは史上最も偉大な旅行家の一人と考えられている。.

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イェスン・テムル

イェスン・テムル(モンゴル語:、Yesün-Temür、漢字:也孫鉄木兒、 1293年11月28日 - 1328年8月15日)は、モンゴル帝国(元)の第10代皇帝(大ハーン)。『集史』などのペルシア語表記では ييسون تيمور Yīsūn Tīmūr。漢風の廟号はなく、一般に即位当時の元号を用いて泰定帝と呼ばれる。 伝統的な遊牧生活を重んじる人物であったが、しばしば研究者からは暗愚な人物と評価される。.

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イェスゲイ

イェスゲイ(Есүхэй、、Yesügei, 生没年不詳)は、12世紀中頃にモンゴル高原の北東部で活動したモンゴル部のうちボルジギン氏系キヤト氏の首長のひとり。モンゴル帝国を築いたチンギス・カンの父であり、キヤト・ボルジギン氏の祖である。バアトルという称号を帯び、イェスゲイ・バアトル (Yesügei Ba'atur) の名で知られている。『元史』における漢字表記は也速該、『集史』のペルシア語表記ではイースーカーイー・バハードゥル(ييسوكاى بهادر Yīsūkāī bahādur) と書かれる。書籍によってはエスゲイ(エスゲイ・バートル)とも表記される。.

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イスラム教

イスラム教(イスラムきょう、イスラーム教、イスラーム、和名・漢字圏名:回教)は、唯一絶対の神(アラビア語でアッラー)を信仰し、神が最後の預言者を通じて人々に下した(啓示した)とされるクルアーンの教えを信じ、従う一神教である。 ユダヤ教やチゲリスト教の影響を受けた唯一神教で、偶像崇拝猶、いわゆる『偶像崇拝』が神像を用いた礼拝と同義であるのかを巡っては、宗教や個人により大きな開きがあるを徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。アッラーを崇拝するが、アッラーとは、もともとアラビアの多神教の神々の中の一人であったが、ムハンマドがメッカを占領すると、他の多神教の神々の像は全て破壊され、そして作ることや描くことも禁止され、その神だけを崇拝するようになった。.

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イスタンブール

イスタンブール(İstanbul 、Istanbul 、Constantinopolis コーンスタンティーノポリス、Κωνσταντινούπολις コーンスタンティヌーポリス /現代ギリシア語 Κωνσταντινούπολι コンスタンディヌーポリ)は、トルコ最大の都市であり、経済・文化・歴史の中心地。トルコ語の発音に準じて「イスタンブル」と表記される場合もある。.

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ウルス

ウルス(中世モンゴル語: 、 現代、オルス)は、モンゴル語で「国家」「人々」を意味する単語である。原義は「人の渦」。遊牧民であるモンゴル人にとっては、国家とはすなわち人々の集合体であったことから同義語となっている。.

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ウィリアム・ルブルック

ウィリアム・ルブルック(Guillaume de Rubrouck、1220年? - 1293年?)は、フランス(当時はフランドル伯領)のフランシスコ会修道士。読みはギヨーム・リュブリキとも。1253年にフランス国王ルイ9世の命を受けてモンゴル帝国に派遣された。翌年モンゴル帝国の都カラコルムを訪れ、モンケ・ハン(憲宗)に謁見した。その時の見聞にもとづき、モンゴル・中央アジア各地の地理・風俗・宗教・言語などを伝える貴重な旅行記「東方諸国旅行記」を書き残した。.

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ウイグル

ウイグル(、、)は、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族並びにその国家『突厥与回鶻史』では、モンゴル高原東部に興り、後に西トルキスタンや甘粛省・新疆ウイグル自治区に移住したトルコ系民族」としている。及びその後裔とも『大辞林』(三省堂、1988年)の「ウイグル」項20世紀の政治的必要性からの名乗りともされる「ウイグル」を自らの民族呼称とする民族を指し、後者は現在中華人民共和国の統治する新疆ウイグル自治区やカザフスタン・キルギス・ウズベキスタンなど中央アジアに居住している。人口は約1千万人。テュルク諸語のウイグル語を話すムスリム(イスラム教徒)である 。 本項では、古代から現在にいたるウイグルが興した国家や政権、および居住地域など、関連情報について概説する。.

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ウイグル文字

ウイグル文字(Old Uyghur alphabet)は、8世紀頃から中央アジアで主に用いられたウイグル語の表記に使用された文字。.

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エル・テムル

エル・テムル(El-Temür, ? - 1333年)は、元朝後期の将軍。漢字表記は燕鉄木児。キプチャク親衛軍を率いる軍閥で、1328年の内乱に勝利して大ハーンを擁し、独裁権力をふるった。 もとモンゴル帝国によって征服されたキプチャクの部族長の家柄で、祖父トクトガはモンケに従って中国に移り、モンケの弟クビライに仕えて諸戦役に活躍した。父のチョンウルもクビライの曾孫カイシャンが王族時代にカイシャンを助けてオゴデイ家のカイドゥを破るのに大きな功があったが、このとき少年だったエル・テムルも父に従ってカイシャンの幕下にあってカイシャンの寵愛を受け、カイシャンが即位すると知宣徽院事を経て左親軍都指揮使に昇進した。その後もキプチャク軍閥の司令官として軍中に重きをなし、泰定帝イェスン・テムルのとき軍政機関枢密院の要職である僉枢密院事にのぼる。 1328年夏にイェスン・テムルが夏の都上都で急死したとき、エル・テムルは子飼いのキプチャク軍団とともに冬の都大都に駐留して留守を守っていた。もともとカイシャン恩顧の将軍であって、イェスン・テムルの側近ダウラト・シャーらの専制をこころよく思っていなかったエル・テムルは、この機会をとらえてカイシャンの遺児を即位させることをもくろみ、反乱を起こして大都の政府機関を接収した。エル・テムルはその軍事力によって大都駐留の軍隊と官僚を味方につけると、カイシャンの次男トク・テムルを抑留先の江陵から迎えいれ、遠方にいる兄のコシラの到着を待ってハーン位を譲り渡そうと主張するトク・テムルを説得してハーンに即位させた。エル・テムルは擁立の功をもって開府儀同三司、上柱国、録軍国重事、中書右丞相、監修国史、知枢密院事に任ぜられ、さらに太平王の王号まで授けられてトク・テムルの政府の最高実力者となる。 時にダウラト・シャーらは上都に留まったままイェスン・テムルの遺児アリギバを即位させたので、元はふたつの首都を南北に分けた内戦となった。しかしエル・テムルが大都に進軍してきた上都側の軍を迎撃して打ち破ると遼東にいた王族が大都側について上都を包囲し、ついにアリギバとダウラト・シャーを降伏させた。大都側の勝利によって中国各地の諸軍はトク・テムルとエル・テムルに従ったが、今度はアルタイ山脈の西側という遠方にいたトク・テムルの兄コシラがモンゴル高原に入り、旧都カラコルムで高原の諸王族・有力者の支持を取り付けてハーン位を請求した。 1329年4月、エル・テムルは自ら高原に赴いてコシラに謁し、玉璽を奉じてハーンに推戴した。コシラは政権奪取の功を賞してエル・テムルに軍権の最高官である太師の称号を贈り、トク・テムルを皇太子としたが、8月に上都の郊外で兄弟会見した直後に急死した。コシラの側近たちに政権を奪われることを恐れたエル・テムルが毒殺したと言われる。皇太子トク・テムルはすぐさまハーンに復位し、コシラの側近たちはエル・テムルによって追放、処分された。 トク・テムルの朝廷のもと、エル・テムルはさまざまな特権を与えられ、ハーンをまったくの傀儡とする権力者として君臨した。エル・テムルはイェスン・テムルの未亡人を自ら娶り、トク・テムル・ハーンの長男エル・テグスを自邸で養育し、かわりにエル・テムルの子がハーンの養子として宮廷で育てられた。また、コシラの長男トゴン・テムルを実はコシラの子ではないと称し、高麗に追放した。 1332年、トク・テムルは29歳の若さで死亡するにあたり、兄コシラの子を即位させるように遺言した。しかしそれにもかかわらず、エル・テムルは自身の養い子であるエル・テグスを即位させようと試み、トク・テムルの未亡人でエル・テグスの母であるブダシリにエル・テグス擁立を提議した。しかし、ブダシリは亡夫の遺志を尊重してコシラの子を立てることを要求したので、エル・テムルはコシラの次男でわずか7歳のイリンジバルを即位させ、自らはその摂政となったが、幼帝イリンジバルは即位からわずか43日後に亡くなった。 ここにおいてエル・テムルは再びエル・テグス擁立をブダシリに要請したが、ブダシリは我が子が幼いことを理由に断ったので、エル・テムルはやむなく広西に流されていたイリンジバルの兄トゴン・テムルを呼び戻すことに同意した。トゴン・テムルが大都に至ると、エル・テムルはこれを出迎えて大都まで馬を並べて歩みながら今後のことを話したが、トゴン・テムルはエル・テムルを恐れて黙り込んだままだった。これを見たエル・テムルはトゴン・テムルが思い通りにならないことを恐れ、即位の式を先延ばしにしたが、その3か月後の1333年4月に病死した。 エル・テムルの死後も、その弟サトン、次いで子のタンキシが中書左丞相となり、また娘のダナシリはトゴン・テムル・ハーンの皇后となってエル・テムル家の権勢は続いた。しかし、行政機関中書省の長官である中書右丞相にはエル・テムルに協力した軍閥バヤンが就任し、バヤンが政権の最高実力者として振舞っていた。1335年、左丞相タンキシは右丞相バヤンから政権を取り戻そうとして反乱を起こしたが、バヤンによって鎮圧された。タンキシをはじめエル・テムルの一門は皇后ダナシリを含めてすべて殺害され、元で権勢をふるったエル・テムル家のキプチャク軍閥はエル・テムルの死からわずか2年後に滅亡した。 Category:元代の人物 Category:キプチャク Category:生年不明 Category:1333年没.

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エジェイ・ハーン

ェイ・ハーン (Эжэй хаан 、額哲孔果爾、生年不詳 - 1641年)、あるいはエルケ・ホンゴル・ハーン(Erke qonγgor qaγan)は、モンゴル帝国最後の皇帝(大ハーン、第41代 北元としては第27代、1634年 - 1635年)、チャハル・トゥメンの当主。チャハル部の親王(チンワン、1635年 - 1641年)。リンダン・ハーンの息子。後金(清)のホンタイジに敗れて降伏し、チンギス・ハン以降429年続いたボルジギン氏のモンゴル帝国は終焉を迎えた。.

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エセン・ハーン

ン・ハーン(、、? - 1454年)は、15世紀中頃のオイラトの首長。はじめエセン・タイシと称し、漢文史料では也先と表記される。 オイラトの最大版図を築き、1449年には明に侵攻して土木堡(現在の河北省張家口市懐来県)の地で明軍を破り、皇帝・英宗正統帝を捕虜とした(土木の変)。その後、非チンギス・カン裔のモンゴル貴族として初めてハーンを称したが、部下の反乱によって滅ぼされた。.

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オルトク

ルトク(Ortogh)または斡脱(あつだつ)とは、トルコ語で「仲間」「友」「パートナー」を意味する共同出資の組織。元朝支配下の中国で支配機構の一翼を担い、ムスリムの特権御用商人によって構成された。モンゴルが一時代を形成した13世紀後半から14世紀中葉にかけての特異な商業形態のひとつ。オルトクをあらわす漢語「斡脱」は、トルコ語発音を漢字で音写したものである。。.

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オルド

ルド/オルダ(古テュルク語: 𐰇𐱃𐰀 転写: uta、、転写: ordo、中:斡魯朶/兀魯朶)とは、契丹・蒙古などのモンゴル・テュルク系民族におけるカンや后妃の宿営地のこと。日本語訳では、行宮・宮帳・幕営と表記する。ゲル(パオ(包)、ユルト)とほぼ同義語である。.

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オンニュド旗

ンニュド旗(オンニュドき、モンゴル語:、 Oŋniɣud qosiɣu、漢字:翁牛特)は中華人民共和国内モンゴル自治区赤峰市に位置する旗。.

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オイラト

イラト(Oirad、Oyirad、瓦剌、衛拉特)は、モンゴル高原の西部から新疆の北部にかけて居住する民族。.

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オゴデイ

デイ(Ögödei、Ögedei、20px)はモンゴル帝国の第2代モンゴル帝国皇帝(カアン、大ハーン)。モンゴル帝国の君主で初めて自らの君主号をカンに代えてカアン(Qa'an<Qaγan)と名乗った人物と考えられている。 漢語表記では窩闊台、月闕台など。資料によっては、哈罕皇帝/合罕皇帝(カアン皇帝)とも書かれる(後述)。モンゴル帝国時代のウイグル文字モンゴル語文や前近代の古典モンゴル語文では 'WYK'D'Y Q'Q'N/Ögedei Qaγan、パスパ文字モンゴル語文では "ö-kˋö-däḙ q·a-n/Öködeï Qa'an 。ペルシア語表記では『集史』などでは اوگتاى قاآن Ūgtāy Qā'ān 、『五族譜』では اوُكَدى خان Ūkaday Khān などと綴られる。オゴタイ、エゲデイは、日本語表記。元朝によって贈られた諡は英文皇帝、廟号は太宗。 チンギス・カンの三男。母はボルテ。ジョチ、チャガタイの弟、トルイの兄。.

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オゴデイ・ハン国

デイ・ハン国とは、中央アジアのエミル川流域を中心とする地域(現在の中国新疆ウイグル自治区北部ジュンガリア地方)に13世紀前半から1306年まで一貫して存続していたとかつて想定されていたモンゴル帝国の分枝政権。国名はチンギス・ハーンの三男で、モンゴル帝国の第2代ハーンとなったオゴデイ(オゴタイ)の名から取られているが、当時の史料にある用語ではなく、歴史家による通称である。.

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オスマン帝国

マン帝国(オスマンていこく、)は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブールと通称されるようになる)。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域に及んだ。.

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オセット人

北オセチアと南オセチア オセット人(オセットじん、Осетин; Osetin)は、カフカース地方の山岳地帯に住むイラン系民族。主な居住地域はカフカース山脈をまたいで南北に広がり、ロシア連邦の北オセチア共和国と(2015年4月まで日本国政府が「グルジア」の外名で呼称していた)ジョージア国の南オセチア自治州に分かれている。総人口はおよそ60万人。オセチア人とも呼ばれる。 独自の言語としてインド・ヨーロッパ語族のイラン語群に属するオセット語が使用されている。 主な宗教はキリスト教で70%以上が正教会の信徒であるが、イスラム教を信仰する者も15%ほどいる。 古代東ヨーロッパで活動した民族アラン人の後裔と考えられており、中世にはアス人と呼ばれていた。民族名のオセットは、アス人(As)をオウス(Ovs)と呼んでいたグルジア人が、アス人の居住地域を指してOvsetiと言っていたのがロシア語に取り入れられて広まった他称である。もっとも、自称としてはアスの名は失われ、オセット語による自称はイロン(Iron)あるいはディゴル(Digor)、ディゴロン(Digoron)である。.

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カマラ (元朝)

マラ(Kammala, 1263年 - 1302年2月8日)は、元の皇族。漢字表記は甘麻剌、『集史』などのペルシア語表記では كملا (Kamalā)。名はカンマラとも読む。イェスン・テムルによって諡号は光聖仁孝皇帝、廟号は顕宗とされた。 世祖クビライの皇太子チンキムがコンギラト部族出身の妻ココジンとの間にもうけた3人の嫡子のうちの長男で、弟にダルマバラとテムルがいる。クビライの嫡長孫であるカマラは、幼い頃から祖母であるクビライの皇后チャブイによって育てられ、長ずると祖父クビライに侍したが、弁舌が苦手で無口であり、あまり聡明に見える性質ではなかった。 成人すると祖父クビライにより、オゴデイ家のカイドゥに西部の諸王が与して戦乱の激しくなっていたモンゴル高原での駐留を命ぜられたが、1289年にカイドゥに手痛い敗戦を喫した。1290年には梁王に封ぜられ、雲南への出鎮を命ぜられたが、翌年に晋王に改封され、高原に移鎮した。晋王の封は数年前に北平王ノムガンが死んで以来、無主となっていたチンギス・ハーンの四大オルドと、その配下にある高原の遊牧軍団を領する重職であり、その相続はチンギス・ハーンの遺産を受け継ぐとともに、モンゴル人の本土である北方における大ハーン(皇帝)の副王に就任したことを意味する。 1294年にクビライが死ぬと、上都で開かれたクリルタイで、先に祖父から皇太子の印綬を与えられていた弟のテムルとどちらが後継者にふさわしいか議論された。しかし、このクリルタイでは中央政府の軍権を握る知枢密院事バヤンがテムルの支持を表明し、他の将軍たちや兄弟の母ココジンもこれに賛成したので、カマラはテムルにハーン位を譲った。ラシードゥッディーンの『集史』によれば、摂政としてクリルタイを主催したココジンは、「誰であれ(モンゴルにとって重要な掟である)チンギス・ハーンの訓言を最もよく知っている者がハーンに即位すべきである」というクビライの遺言を持ち出して兄弟に訓言を知っているかを問うと、テムルは聡明で弁舌と記憶力にすぐれていたので多くの訓言を雄弁に答えたが、弁舌の苦手なカマラは口篭もって上手に答えることが出来なかった。そこで将軍たちは一致してテムルがハーンにふさわしいと認め、テムルがハーンに即位したという。 1300年、カイドゥが中央アジアの諸王の全軍を率いて最後の大攻勢をかけてくると、カマラの高原駐留軍は打ち破られて苦境に陥った。しかし、テムルによって派遣されてきたダルマバラの遺児カイシャン率いるハーン直轄のキプチャク親衛軍や安西王アナンダの中国西部駐留軍団の増援を受けて、元軍は翌年にはカイドゥの軍を撃退し、カイドゥを戦傷によって死去させた。カマラはこの戦争からまもなく、1302年初頭に亡くなった。 一連の戦争における不手際、晋王カマラの急死、年若いイェスン・テムルの即位と前後して、晋王家の所領は大幅に削減されてしまい、1323年にイェスン・テムルがハーンに即位するまで目立った活躍はなかった。イェスン・テムルは即位すると亡父カマラを顕宗光聖仁孝皇帝と諡し、皇帝に準ずる祭祀を行った。しかし、1328年にイェスン・テムルの子アリギバが倒されてトク・テムルが即位すると、晋王家のハーンたちは傍系の簒奪者とみなされ、皇帝の祭祀から外されてしまった。.

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カラ・スゥ平原の戦い

ラ・スゥ平原の戦いは、1270年にフレグ・ウルスの第2代君主アバカと、ムバーラク・シャーからチャガタイ家当主の座を奪ったバラクとの間で行われた戦い。この戦いでアバガは大勝し、フレグ・ウルスの基盤を強固なものとした。.

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カラコルム

ラコルム( 転写:Qaraqorum)は、モンゴル高原中央部のモンゴル国首都ウランバートルから西へ230km、ウブルハンガイ県のオルホン河畔に位置する都市、かつてのモンゴル帝国の首都である。 カラコルムとはテュルク語・モンゴル語で「黒い砂礫」を意味する。ペルシア語資料では قراقوروم Qarā-qūrūm と表れ、漢語資料では哈剌和林、略して和林と表記される。また現代モンゴル語ではハラホリン(Хархорин)と表記される。 「黒い砂礫」の名前の通り、カラコルムの遺跡周辺は現在でも安山岩や玄武岩などの黒い河原石が一面に転がっており、雨水などで濡れると地面が黒っぽく見えるという。1260年に書かれたペルシア語資料『世界征服者史』によれば、カラコルムの名前の由来は都市の近くにある「カラコルム山」という黒色の石材が取れる山の名前に由来していると伝えられている。.

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カイドゥ

イドゥ(Qaidu, Khaidu, ? - 1301年)は、13世紀の後半に中央アジアに独立王国を建設したモンゴル皇族。チンギス・ハーンの三男オゴデイの五男カシン(モンゴル語: 転写: Kašin)の子。『集史』などのペルシア語史料では قايدو Qāydū 、漢語史料では海都と書かれる。現代モンゴル語の発音に基づいてハイドゥあるいはハイドともいう。 30年以上にわたってモンゴル皇帝(大ハーン)、クビライ率いる大元朝と対立し、中央アジア以西のモンゴル諸勢力のモンゴル皇帝権力からの分離独立を決定づけた。このカイドゥの一連の行動は一般に「カイドゥの乱」と呼ばれる。.

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カイシャン

イシャン(モンゴル語:、Qayšan、漢字:海山、1281年8月4日 - 1311年1月27日)は、モンゴル帝国(元)の第7代皇帝(大ハーン)。『集史』および『ヴァッサーフ史』『選史』などのペルシア語資料の表記では、ハイシャン(خايشانك Khāīshān, خيشان Khayshān)など。.

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カシミール

ミールあるいはカシュミール(کٔشِیر / कॅशीर, Kashmir, کشمیر)は、インド北部とパキスタン北東部の国境付近にひろがる山岳地域である。標高8000m級のカラコルム山脈があり、パキスタンとの国境には世界第2の高峰K2がそびえる。.

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カタパルト (投石機)

タパルト(Catapult)は、石などを投擲して敵の人馬もしくは城などの建築物を標的とし射出攻撃する兵器(攻城兵器)である。 カタパルトに改良を加えたものにオナガーやトレビュシェットがある。これらの兵器を総称してカタパルトと呼ぶ場合もある。日本では投石機(とうせきき)あるいは投石器とも表記される。後者のように表記すれば、Y字型の投石器(スリングショット、ぱちんこ)や紐状の投石器(スリング)と同じ表記となり、しばしば両者が混同される原因ともなっている。射程距離は大型のものでも数百メートルに留まった。.

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ガズニー

ナ朝時代のミナレット ガズニー(Ghazni, ダリー語: غزنى Ghaznī)はアフガニスタンの都市。ガズニー州の州都。人口は141,000人 (2006年の公式推計)。ペルシア語、アラビア語ではガズニーン غزنين Ghaznīn とガズナغزنة Ghazna の双方で呼ばれた。 カーブルとカンダハールの間に位置する交通の要所。標高約2220メートルの高地にある。商工業が盛んなほか、農作物の集散地としての役割も果たす。約130キロ北東にカーブルが位置している。住民はパシュトゥーン人が多く、ハザーラ人とタジク人がそれに続く。.

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キリスト教

リスト教で最も頻繁に用いられるラテン十字 アギア・ソフィア大聖堂にある『全能者ハリストス』と呼ばれるタイプのモザイクイコン。 キリスト教(キリストきょう、基督教、Χριστιανισμός、Religio Christiana、Christianity)は、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教「キリスト教」『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、146頁。「キリスト教」『大辞泉』増補・新装版、小学館、1998年11月20日、第一版、714頁。 小学館、コトバンク。。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(正教会正教会からの出典:・東方諸教会東方諸教会からの出典:・カトリック教会カトリック教会からの出典:・聖公会聖公会からの出典:・プロテスタントルーテル教会からの出典:改革派教会からの出典:バプテストからの出典:メソジストからの参照:フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』p103 - p105, 教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353など)は「父なる神」「御父」(おんちち、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)。と「その子キリスト」「御子」(みこ、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)・「子なる神」。と「聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。 世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。.

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キリスト教徒

リスト教徒(キリストきょうと、Christianus; クリスティアーヌス)あるいはクリスチャン(Christian)とは、キリスト教の信徒のことである。 キリスト教はいくつかの教派に分かれているが、ナザレのイエスを救世主キリスト(メシア)と信じ、旧約聖書に加えて、新約聖書に記されたイエスや使徒たちの言行を信じ従い、その教えを守る者がキリスト教徒であると言える。 日本では、明治時代以前、キリスト教徒のことを「キリシタン」と呼んだ。近現代の日本のキリスト教徒はキリスト者(きりすとしゃ)と自称することがある。日本正教会ではロシア語から「ハリスティアニン(Христианин)」との転写も用いられる。.

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キプチャク

『ルーシ年代記』で見られるポロヴェッツ人の一家。 「バーバ」と呼ばれるクマン人が立てた石像(ドニプロペトロウシク、ウクライナ)。 キプチャク(Qipchaq)は、11世紀から13世紀にかけて、ウクライナからカザフスタンに広がる草原地帯に存在したテュルク系遊牧民族。ルーシの史料ではポロヴェツ(ポロヴェッツ)、東ローマやハンガリーの史料ではクマンもしくはコマンと記された。現在のカザフスタンからモルドバにかけて広がる平原地帯は、キプチャクの名前にちなんでキプチャク草原(Dasht-i Qipchāq)と呼ばれるが、キプチャク草原を支配したモンゴルのジョチ・ウルスが通称キプチャク・ハン国と呼ばれるのは、このためである。.

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クリルタイ

リルタイ(モンゴル語:, Хуралдай, Khuruldai; トルコ語: Kurultay))は、中世から近世にかけて開催されたモンゴルの最高意志決定機関である。有力者が集まってハーンの位の決定、戦争、法令などを議題にした。『元朝秘史』では忽鄰塔、『集史』などのペルシア語資料では قوريلتاى Qūrīltāī などと表記される。 『元朝秘史』などの中世モンゴル語では qurilta と言うが、これは「(血縁関係の者が)集まる」を意味する語幹 quri- に動詞から実詞を形成する接尾辞 -lta〜lte が付された形で、いわば動詞 quri- の名詞形にあたり、「集まり」ほどの意味になる。ただ、この qurilta とはただの「集まり」ではなく、「血族類縁者の集まり」である。 モンゴル皇帝(カアン)の命のもとに広く召集された王族および有力諸部族の首長、重臣たちからなる遊牧国家の最高の政治会議である。その役割は、第一に皇帝候補者の選定と即位、第二に諸外国への遠征計画、第三に法令の制定、などが含まれていた。開催時期は春期や夏期が多く、大河の水源地域など牧草地や水情に恵まれた土地が開催地として選ばれた。また回数も、皇帝一代のうちでせいぜい2、3回程度で、皇帝のオルドの近傍で定められ、国政についての様々な討議ののちに、場合によっては1週間以上にもわたる長い祝宴(トイ toi )が常に伴った。 モンゴル皇帝や皇族たちがウルスの方針を決めるために主催するこれらのクリルタイは、特に大クリルタイ(Yeke Qurilta、 ペルシア語では Qūrīltāī-yi Buzurg)と呼ばれた。その他の集会をジェルゲ(jerge)と呼んでいたが、現在のアフガニスタンにおいて国会に相当するローヤ・ジルガの「ジルガ」はこのモンゴル語のジェルゲに由来する。.

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クーデター

ーデター()は、一般に暴力的な手段の行使によって引き起こされる政変を言う。 フランス語で「国家の一撃」もしくは「国家に対する一撃」を意味し、発音は(ク・デタ) 、(クーデイター)である。日本語では「クーデタ」や「クー・デ・タ」と表記することもある。英語では単に「coup(クー)」と表記されることが多い。 社会制度と支配的なイデオロギーの政治的な転換については革命、統治機構に対する政治的な対抗については反乱、政治的な目的を達成するための計画的な暴力の行使についてはテロリズム、単一国家の国民が階級や民族・宗派などに分かれて戦う武力紛争については内戦をそれぞれ参照されたい。.

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クビライ

ビライ(モンゴル語: Qubilai, Khubilai、1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、大元王朝の初代皇帝、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文字転写では Qubilai Qa'an、Qubilai Qaγan。現代モンゴル語のキリル文字転写では。漢字表記は忽必烈。『集史』をはじめとするモンゴル帝国時代のペルシア語表記(『集史』「クビライ・カアン紀」など)では قوبيلاى قاآن Qūbīlāī qā'ān など書かれる。死後に尊号を追諡され「賢きカアン」を意味するセチェン・カアン(Sečen Qa'an 薛禪皇帝)と号した。 大元ウルス時代に書かれたパスパ文字モンゴル語での表記や上述のペルシア語文献といった同時代における多言語資料の表記などによって、当時の発音により近い形への仮名転写として、クビライ・カアン(カーン)という表記がされる。一方、現代モンゴル語では (Khubilai khaan) と書かれ、また近現代のモンゴル文字文献の表記や発音に基づいてフビライ・ハーンと表記することも多く見られる。 その即位にあたる内紛からモンゴル帝国は皇帝であるカアン (Qa'an) を頂点とする緩やかな連合体となり解体が進んだ。これに対してクビライは、はじめて国号を「大元」と定め、帝国の中心をモンゴル高原のカラコルムから中国の大都(現在の北京)に移動させるなど様々な改革を打ち出した。クビライの代以降、カアンの直接支配領域はモンゴル帝国のうち中国を中心に東アジアを支配する大元ウルス(大元大蒙古国)に変貌した。.

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グユク

1246年にグユクがインノケンティウス4世へ宛てた勅書に捺された印璽 グユク(Güyük、、 1206年3月19日 - 1248年4月20日)は、モンゴル帝国の第3代皇帝(在位1246年8月24日 - 1248年4月20日)。漢語資料の表記では貴由、古余克、谷由皇帝。ペルシア語資料での表記では كيك خان kuyuk khān ないし گيوك خان Guyūk khān など。大元ウルスによって贈られた廟号は定宗。 第2代皇帝オゴデイの長子で第6皇后ドレゲネとの間に生まれた長男である。グユクは第3代モンゴル皇帝であるが、先代のオゴデイがモンゴル皇帝として初めて「カアン」(Qaγan, Qa'an)を名乗ったものの、グユクはこの「カアン」(哈罕皇帝/合罕皇帝)を父オゴデイのみの称号と考えたのか、自らは名乗りとして用いず、もっぱらカン(ハン Qan/χan 〜 خان khān)の称号のみを名乗ったと考えられている。.

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ケレイト

13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。 ケレイト(Kereid, Kerait)は、モンゴル帝国以前の時代にモンゴル高原中北部のハンガイ山脈付近に割拠していたテュルク遊牧民の部族集団である。漢字表記では客烈亦、怯烈、怯烈亦など。ペルシア語史料では كرايت Kirāyt などと表される。.

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ケシク

()とはモンゴル帝国において君主(カーン)・皇族を昼夜護衛した親衛隊。モンゴル語でkesikとは「恩寵」を意味し、これに-tei(〜を有する者)を附して「ケシクテイ(kesiktei)」とも呼称される。 ケシクはカーンの親衛隊・軍の精鋭という軍事的側面の他、カーンの身の回りの世話を行う家政機関としての側面、将来の国政を担う幹部の養成機関としての側面も有しており、多様な目的を持つモンゴル帝国の重要機関であった。そのため、ケシク制度は千人隊制度と並ぶモンゴル帝国の根幹となる制度と評されている。.

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ゲル (家屋)

モンゴルのゲル thumb thumb ゲル(гэр、 転写:ger、満州語: 転写:boo)は、主にモンゴル高原に住む遊牧民が使用している、伝統的な移動式住居のこと。日本では、中国語の呼び名に由来するパオ(包)という名前で呼ばれることも多い。 テュルク語では古くから「ユルト、あるいはユルタ(يورت)」と呼ばれたもので、現在でもテュルク系遊牧民のカザフ人やキルギス人が用いるユルトはほぼ同じ形状である。緩やかな草原地帯に適しており、より乾燥し起伏の多い西アジアではテュルク系遊牧民も方形の移動式住居を使っている。.

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コバルト

バルト (cobalt、cobaltum) は、原子番号27の元素。元素記号は Co。鉄族元素の1つ。安定な結晶構造は六方最密充填構造 (hcp) で、強磁性体。純粋なものは銀白色の金属である。722 K以上で面心立方構造 (fcc) に転移する。 鉄より酸化されにくく、酸や塩基にも強い。.

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コンギラト

ンギラト(Qonggirad)とは、モンゴル高原東部に存在したモンゴル系遊牧民族である。モンゴル帝国-元朝時代を通じてチンギス・カン家に多くの后妃(ハトゥン)を輩出しており、最も有力な姻族として繁栄した。「翁吉剌」という表記からオンギラト(ウンギラト)、現代モンゴル語発音からホンギラト(フンギラト)と記されることも多い。.

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ココジン

ココジン(Kökejin, ? - 1300年)は、モンゴル帝国(元)の世祖クビライの皇太子チンキムの妃。漢字表記は闊闊真。別名はバイラム・エゲチ(伯藍也怯赤)。 コンギラト部族の出身。大ハーンのクビライが出猟したときにその目に止まり、クビライの次男チンキムの妻に迎えられて、1263年から1265年までの3年間にカマラ、ダルマバラ、テムルの3人の男子を産んだ。賢夫人としても知られ、皇太子の称号を与えられてクビライの後継者の最有力候補となったチンキムの宮廷(オルド)をよく守るとともに、チンキムの母にあたる同じコンギラト部族出身の皇后チャブイに近侍してよく仕えた。 1281年にチャブイが亡くなると、君主の后妃のオルドとその所領・財産を同一部族出身の后妃が相続するモンゴルの伝統に従って、生前のチャブイが蓄えていた莫大な財産を受け継いだ。1285年にはチンキムがクビライに先立って没するが、チャブイの保護とチンキムの権勢の下、元において最も権力と財産のある勢力となっていた皇太子府の管理権はココジンが持ったので、チンキムの死後もココジンの3人の男子はクビライの最有力後継者候補であり続けることができた。 1294年に老帝クビライが没すると、ハーンの未亡人が主催する後継のハーンを選出するためのクリルタイをココジンが開いた。このクルリタイでは早世したダルマバラを除く、カマラとテムルの兄弟が候補となったが、ココジンはバヤンら重臣らと協力して、クビライが生前に皇太子の称号を与えていた弟のテムルを推し、即位させる。 テムルがハーンになると、その母ココジンは皇太后となり、皇太子府は隆福宮と改称された。ココジンは隆福宮の勢力を背景にテムルの後見者として活躍し、1300年に没した。 のちにココジンの領した隆福宮は、テムルの皇后でバヤウト部族出身のブルガンと、ダルマバラの未亡人でやはりコンギラト部出身のダギに相続の可能性があったが、1307年のテムル死後の政変でダギの領有に帰す。その後、隆福宮はダギの興聖宮に併せられ、ダギ率いるコンギラト派の重臣たちの牙城として、ココジンの遺産は仁宗アユルバルワダから英宗シデバラの時代に絶大な権力を保ち続けることになる。 Category:元の追封皇后 Category:中国の皇族の妃 Category:コンギラト部 Category:13世紀生 Category:1300年没.

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コシラ

ラ(モンゴル語:、Qošila、漢字:和世㻋、 1300年12月22日 - 1329年8月30日)は、モンゴル帝国(元)の第13代皇帝(大ハーン)。第7代大ハーン・武宗カイシャンの長男。.

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ゴビ砂漠

ビ砂漠(ゴビさばく、,,(かへき)、 )は、中国の内モンゴル自治区からモンゴルにかけて広がる砂漠。東西約1600km、南北約970km、総面積は約130万kmで、世界で4番目の大きさを誇る。古くから匈奴を始め、柔然、突厥、回鶻、モンゴル帝国などの活躍の場であり、シルクロードの重要な拠点都市が幾つか存在した。また、恐竜の化石がよく発見されており、卵をだいたオビラプトルやプロトケラトプスとヴェロキラプトルの格闘の化石など珍しい形の化石が続々発見されている。黄砂(こうさ)とはこの地などから巻き上げられ気流に乗り運ばれる砂の事であり、春先には日本にも多く飛来する。.

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シムルトゥ・ノールの戦い

ムルトゥ・ノールの戦いとはモンゴル帝国帝位継承戦争の中で1261年クビライ軍とアリクブケ軍との間で行われた最大の戦闘。.

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シャーマニズム

ャーマニズムあるいはシャマニズム(Shamanism)とは、シャーマン(巫師・祈祷師)の能力により成立している宗教や宗教現象の総称であり佐々木 (1973), pp.

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シリギ

リギ(Širigi, 生没年不詳)は、モンゴル帝国(元)の皇族。『集史』などのペルシア語表記では شيركى (Shīrikī) 、漢字表記は失列吉、昔列吉、習列吉など一定しない。.

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シルクロード

ルクロード(絹の道、Silk Road, Seidenstraße, 繁体字:絲綢之路, 簡体字:丝绸之路)は、中国と地中海世界の間の歴史的な交易路を指す呼称である。絹が中国側の最も重要な交易品であったことから名付けられた。その一部は2014年に初めて「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」としてユネスコの世界遺産に登録された。 シルクロードの主要なルート.

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シデバラ

デバラ(モンゴル語:、Šidebala、漢字:碩徳八剌、 1302年2月22日 - 1323年9月4日)は、モンゴル帝国(元)の第9代皇帝(大ハーン)。名はシッディバーラとも読まれる。.

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ジャマールッディーン

ジャマールッディーン(アラビア語・ペルシア語:جمال الدين Jamāl al-Dīn, ? - 1301年)は、モンゴル帝国時代のイラン出身の天文学者。『元史』漢字表記は札馬剌丁。モンゴル皇帝モンケ、クビライに仕え、元の首都大都(現在の北京)にイスラム天文学の様式による天文台・回回司天台を建設した。 東アジアに来る以前のことは不詳であるが、『集史』などのペルシア語史料にモンゴル帝国のフレグに仕え、のちにモンケに招請されてカラコルムに赴いた天文学者ジャマールッディーン・ムハンマドの名が見え、同一人物とみられる。 中国の史料によれば、ジャマールッディーンはモンケの弟クビライが即位以前の王子だった時代に招かれて中国に至り、ともに招請された他の天文学者と協力して天体観測にあたった。クビライ即位後の1267年に観測結果を『万年暦』にまとめて西アジア式の天文観測器具とともに献上し、1271年には大都に建設された回回天文台の長官(提点)に任命された。回回は元代の用語でムスリム(イスラム教徒)のことで、伝統的な中国式の天文台である司天監とは別に設置されたためにこのように呼ばれる。彼らが持ち込んだ西アジアの優れた天文学は中国式の天文学にも影響を与え、元を倒した明も回回天文台を継承している。また、1280年に郭守敬が編纂し、明末にヨーロッパから新しい天文観測法が伝えられるまで用いられた授時暦はジャマールッディーンによる回回司天台の観測結果をもとにすると言われている。 1273年には司天監の上級官庁である秘書監の長官(知秘書監事)を兼任し、西アジア式の天文観測のみならず全ての天文、暦、図書の官吏などを兼ねる重職に就任するなど、西域(西アジア)の進んだ科学技術(アラビア科学)に通じた学者官僚として重用された。ジャマールッディーンら西アジア出身者(色目人)の学者が勤めた元朝の秘書監には、中国伝来の陰陽・科学の書だけではなく、西アジア経由のギリシャ・イスラム科学や数学の書がもたらされたことが知られている。 没年は不詳であるが、1301年に別の西域出身者が回回天文台の長官に任命されたことが記録に残っているので、この頃に没したとするのが通説である。 Category:イランの天文学者 Category:ペルシアの天文学者 Category:モンゴル帝国の人物 Category:元代の人物 Category:クビライ Category:12世紀の学者.

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ジャワ島

18世紀初頭のジャワ島の地図 ジャワ島(ジャワとう、, )は、インドネシアを構成する島の一つ。スマトラ島などとともに、大スンダ列島を形成する。形状は東西に細長い。スマトラ島の東、カリマンタン島の南、バリ島の西に位置する。ジャワ島には4つの州と2つの特別州がある。.

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ジョチ・ウルス

ョチ・ウルス()は、13世紀から18世紀にかけて、黒海北岸のドナウ川、クリミア半島方面から中央アジアのカザフ草原、バルハシ湖、アルタイ山脈に至る広大なステップ地帯を舞台に、チンギス・カンの長男ジョチの後裔が支配し興亡した遊牧政権(ウルス)。一般にキプチャク・ハン国の名で知られる国とほぼ同じものである。.

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ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノ

ョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノ(Giovanni di Montecorvino、1247年-1328年)はイタリア・モンテコルヴィーノ・ロヴェッラ出身のカトリック司祭、宣教師。インドを経て中国で宣教活動を行い、多くの信徒を獲得した。フランシスコ・ザビエルに先んずること200年、アジアへのキリスト教伝播に大きな役割を果たした。.

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ジョゼフ・ニーダム

ノエル・ジョゼフ・テレンス・モンゴメリー・ニーダム(Noel Joseph Terence Montgomery Needham, 1900年12月9日 - 1995年3月24日)は、イギリスの生化学者・科学史家。勲爵士(CH)、王立協会フェロー(FRS)、イギリス学士院フェロー(FBA)。中国科学史の権威で、1983年11月29日に中国社会科学院より名誉博士号が授与される。中国では李約瑟(Lǐ Yuēsè)という中国名で知られる。 ライフワークであった大著『中国の科学と文明』は中国文明のみならず非ヨーロッパ文明に対する知識人の見方を一変させるほどの衝撃を西洋世界にもたらす。.

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タラス川

タラス川(タラスがわ、英:Talas River、露:Талас река、中:塔拉斯河)は、中央アジアのイリ地方を流れる国際河川である。流域の主要都市としてはキルギス共和国のタラス(Talas)とカザフスタン共和国のタラズ(Taraz)があり、ともにオアシス都市である。おもな支流を20ほどもつが、いずれも小河川である。.

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タタール

18世紀のタタールの女性 タタール(Tatar)は、北アジアのモンゴル高原とシベリアとカザフステップから東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い地域にかけて活動したモンゴル系、テュルク系、ツングース系およびサモエード系とフィン=ウゴル系の一部など様々な民族を指す語として様々な人々によって用いられてきた民族総称である。日本では、中国から伝わった韃靼(だったん)という表記も用いてきた。.

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サマルカンド

マルカンド(Samarkand, سمرقند (Samarqand), Самарқанд (Samarqand))は、中央アジア、ウズベキスタンの古都。アムダリヤ川の支流であるザラフシャン川河岸にあり、機械・化学・綿花・絹・皮革関係の工業が行われる。人口約38万人(2001年)。ウズベキスタンの初代大統領イスラム・カリモフはこの町の出身。 ステップ気候から地中海性気候への移行部特有の抜けるような青空とモスクの色から「青の都」と呼ばれる。.

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サファヴィー朝

ファヴィー朝(ペルシア語:صفويان Safaviyān)は、16世紀から18世紀前半にかけてペルシア (現在のイランを中心とした地域)を支配したイスラーム王朝(1501年 - 1736年)。.

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サキャ・パンディタ

ャ・パンディタ・クンガ・ゲンツェン(、; 漢字表記: 薩斯迦班弥怛功嘉監蔵、1182年 - 1251年)は、チベット仏教サキャ派(赤帽派)の五先師の4番目に数えられる宗教指導者。略して「サパン()」とも。中世チベットの有力氏族であるコン氏()の出身。俗名はペンデントンドゥプ()。.

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サキャ派

ャ派(、)はチベット仏教4大宗派の1つ。時として赤帽をかぶることから、ニンマ派、カギュ派とともに西欧人に赤帽派と呼ばれている宗派の1つでもあり、古くは「花派」と表記されたこともある。 後期密教の代表的な経典の1つである「喜金剛タントラ」(ヘーヴァジュラ・タントラ)を依経として、初発心と行道とが覚りの境地に等しいと説く「ラムデ」(道果:どうか)を最奥義とする密教の教義、大成就法が他の宗派と異なる。チベット仏教の古い流れを伝えてはいるが、無上瑜伽タントラの主要な五タントラを体系化した「五大金剛法」を取り入れ、顕教と密教の双方を重んじている。.

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唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

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儒教

儒教の始祖、孔子 董仲舒 儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。.

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内モンゴル自治区

内モンゴル自治区(うちモンゴルじちく、モンゴル語: 転写:Öbür Moŋɣol-un öbertegen jasaqu orun、中国語:内蒙古自治区、拼音:Nèi Měnggǔ Zìzhìqū、英語:Inner Mongolia)は、中華人民共和国が1947年にモンゴルの南部に設置した省級の自治体。中国領土の北沿に位置する自治区。内蒙古自治区(うちもうこじちく)とも。モンゴル語での名称は日本語に直訳すると「南モンゴル自治区」となる。.

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全真教

全真教(ぜんしんきょう)は、金の支配下にあった中国の華北の人、王重陽(1112年 - 1170年)が開いた道教の一派である。七真人と呼ばれる七人の開祖の高弟たちが教勢の拡大に努め、次第に教団としての体制を整えていった。.

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元史

『元史』(げんし)は、中国元王朝について書かれた歴史書(正史)。二十四史の一。編纂者は宋濂・高啓など。本紀47、表8、志58、列伝97の計210巻からなる紀伝体。成立は明の1369年(洪武3年)。収録年代はモンゴル帝国チンギス・カンの1206年から順帝トゴン・テムルの1367年まで。拙速な編纂により、二十四史の中でも最も評判が悪く、20世紀になって『新元史』が編纂されることになった。.

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元寇

元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時中国大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。 特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の艦隊であった村井章介『北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む』日本放送出版協会 2001年 126頁。 主に九州北部が戦場となった。.

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元統 (元)

元統(げんとう)は、中国・元の順帝(恵宗)トゴン・テムルの治世で用いられた元号。1333年 - 1335年。.

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元貞

元貞(げんてい)は、中国・元の成宗テムルの治世で用いられた元号。1295年 - 1297年。.

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元朝秘史

『元朝秘史』(げんちょうひし)は、中世モンゴルの歴史書。『モンゴル秘史』と呼ばれることもある。チンギス・カンの一代記を中核に、その族祖伝承から後継者オゴデイの治世の途中までの歴史が記されている。作者は不明。成立年は諸説あるが、13世紀中とする見解が主流である一方、14世紀前半であるとする説得力ある仮説も存在する(後述)。.

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元末四大家

元末四大家(げんまつしたいか)は、中国元代末期の文人画家である4人のこと。.

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元曲

元曲(げんきょく)とは、宋の時代に始まった歌劇で、元代に隆盛した雑劇と散曲を総称したもの。ともに当時、北方で流行した曲調である北曲を用いた。 元代、この両者において優れた作家・作品がたくさん現れ、この時代の文学を代表するほどであったので、漢文・唐詩・宋詞・元曲というように他の時代の文学とともに顕彰された。とりわけ雑劇の方で優れた業績があり、元雑劇(元人雑劇)は雑劇の代表とされる。.

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回回砲

回回炮(かいかいほう)、もしくは西域炮、巨石炮、襄陽炮とは、投石機の一種である。.

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回鶻

回鶻(かいこつ、ウイグル、拼音:Huígŭ、古代テュルク語:10px10px10px10px【Uyγur】、ウイグル語:ئورخۇن ئۇيغۇر خانلىقى)は、テュルク系遊牧民族鉄勒(てつろく)の一部族である回紇(かいこつ、ウイグル)部を中心に、モンゴル高原からジュンガル盆地東部に勢力を誇った遊牧国家(遊牧帝国、可汗国)。ウイグル帝国森安孝夫『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』,ウイグル国小松久男『世界各国史4 中央ユーラシア史』,遊牧ウイグル国,ウイグル国家とも呼ばれ、可汗(カガン:Qaγan)を奉じていたので回鶻可汗国,ウイグル可汗国,東ウイグル可汗国とも、鉄勒(トクズ・オグズ)を中心としたためトクズ・オグズ国とも呼ばれる。中国の史書による漢字表記には迴紇『旧唐書』列伝第一百四十五 迴紇、回紇『新唐書』列伝第一百四十二上 回鶻上、列伝第一百四十二下 回鶻下、迴鶻、回鶻などがある。.

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国立故宮博物院

国立故宮博物院(こくりつこきゅうはくぶついん)は、中華民国の台北市にある博物館である。この博物館は、中華民国の国立博物館のうちの1つであり、最大のもので、697,000個以上の古代の中国の人工品および美術品を所蔵している.

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倪サン

倪 瓚(げい さん、1301年 - 1374年)は、元末の画家。元末四大家の一人に挙げられる。字は元鎮、号は雲林、他に別号が多い。.

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皇慶 (元)

皇慶(こうけい)は、中国・元の仁宗アユルバルワダの治世で用いられた元号。1312年 - 1314年。.

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王蒙 (画家)

王 蒙(おう もう、ピンイン:Wáng Méng、、1308年 - 1385年)は、元末期の画家である。黄公望、呉鎮、倪瓚らと並ぶ元末四大家の一人である。呉興(現在の浙江省湖州市呉興区)の人。王国器の子。.

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禅(ぜん)は、大乗仏教の一派である禅宗(ぜんしゅう)の略、もしくは、サンスクリット語の dhyāna (ディヤーナ)の音写、禅那(ぜんな)の略である『広辞苑』「禅」。また坐禅(座禅)の略としての意もある。本項では宗派についての禅宗について述べる。.

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科挙

科挙の合格者発表(放榜) 貢院の号舎 科挙(かきょ、)とは、中国で598年~1905年、即ち隋から清の時代まで、約1300年間にわたって行われた官僚登用試験である。.

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紅巾の乱

紅巾の乱(こうきんのらん、、、1351年 - 1366年)は、中国元末期の1351年(至正11年)に起こった宗教的農民反乱。白蓮教を紐帯とし、目印として紅い布を付けた事からこの名がある。反乱軍は紅巾賊または白蓮教徒が弥勒に焼香をするため香軍と呼ばれる。この大乱の中から明の太祖朱元璋が登場することとなる。.

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紙幣

紙幣(しへい)とは、紙製の通貨の事である。.

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縁故主義

縁故主義(えんこしゅぎ、népotisme)とは、親族の縁、地縁、血縁などの縁がある縁故者のほうを重用する考え方や、ものごとの正しさよりも縁故を優先してしまう考え方のこと。 社会学の分野においては、同族・同郷者に限らず同じ共同体に属する人間の意見ばかりを尊重し、排他的な思想に偏る内集団偏向のことを指す。 一般に、権力者はしばしば縁故者を自らの側近や部下として配することで知られる。.

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省(しょう)は、国の行政機関の呼称である。本来、中国における行政機関の名称であったが、現在の中国では用いられない。 中国等においては行政区分の一種で、地方行政区画のうち最上位のものを指す。.

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絹 蚕の繭 絹(きぬ、sericum、Seide、silk、soie)は、蚕の繭からとった動物繊維である。独特の光沢を持ち、古より珍重されてきた。蚕が体内で作り出すたんぱく質・フィブロインを主成分とするが、1個の繭から約800 - 1,200メートルとれるため、天然繊維の中では唯一の長繊維(フィラメント糸)である。絹織物などに用いる。 蚕の繭(まゆ)を製糸し、引き出した極細の繭糸を数本揃えて繰糸の状態にしたままの絹糸を生糸(きいと)というが、これに対して生糸をアルカリ性の薬品(石鹸・灰汁・曹達など)で精練してセリシンという膠質成分を取り除き、光沢や柔軟さを富ませた絹糸を練糸(ねりいと)と呼ぶ。ただし、100%セリシンを取り除いたものは数%セリシンを残したものに比べ、光沢は著しく劣る。生糸は化学染料、練糸はいわゆる草木染めに向くが、歴史的に前者の手法が用いられはじめたのは明治維新以降であり、昔の文献や製品にあたる際、現在の絹織物とは別物に近い外観と性質をもつ。また、養殖(養蚕)して作る家蚕絹と野性の繭を使う野蚕絹に分けられる。.

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絵画

絵画(かいが)は、物体の形象を平面に描き出したもの広辞苑。 日本語では類語の絵が幅広く用いられ、絵画という語は、特に芸術作品としての絵を指す場合がある。ただし、絵と絵画を区別して用いるとは限らない。また画を後ろにつけて描写の技法や対象を示す用語もある(水墨画、静物画など)。 フランス語の peinture(パンチュール)、英語の painting(ペインティング)、日本語の雅言的表現で絵と呼ぶこともある。 文字などを「書く」ことより早く、絵画を「描く」行動は幼少期から見られる行動である。発達心理学などの分野では、14歳から18歳程度で完成期と呼ばれる時期を迎え、多くの人はその頃から、ほとんど描かなくなる。子どもの絵に関する社会科学的研究は豊富だが、大人の絵に関する同様の研究は少ない。その一方で、多くの人が描かなくなる年齢を過ぎても活動的に絵を描く人々が居る。歴史的に代表的なのは画家であると言えるが、現代ではより多くの業種に見出される傾向である。なお、人間の発達には個人差があり、柔軟な姿勢が必要である。.

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熱河省

熱河省(ねっかしょう)は、かつて存在した省。中華民国から満州国を経て中華人民共和国まで沿用された。現在の河北省、遼寧省及び内モンゴル自治区の交差地域に相当する。 ジェホール(Jehol)とも称され、漢字名称はその音訳である。.

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牛街清真寺

牛街清真寺(ぎゅうがいせいしんじ)は中華人民共和国北京市西城区牛街に位置するモスク。現存する北京市最古のモスクである。周辺に住む一万人に及ぶムスリム(回族)の精神的な中心地である。また、牛街付近は北京の回族が居住する最大のエリアでもある。 牛街清真寺の面積は6,000平方キロメートルに及び、イスラム文化と中国文化が入り交じった建築物である。牛街清真寺の外観は中国の伝統的な建築そのものだが、内観はほとんどイスラム風の装飾になっている。牛街清真寺は清朝の皇帝の1694年(康熙33年)の公布が刻まれた石碑など多くの歴史的な遺物をも保有している。.

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白藤江の戦い (1288年)

白藤江の戦い(はくとうこうのたたかい、バクダンの戦い、)は、1288年にベトナムで行われた陳朝ベトナム軍と元軍との戦いである。.

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白蓮教

白蓮教(びゃくれんきょう)は、中国に南宋代から清代まで存在した宗教。本来は東晋の廬山慧遠の白蓮社に淵源を持ち、浄土教結社(白蓮宗)であったが、弥勒下生を願う反体制集団へと変貌を遂げた。.

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隋(呉音: ずい、漢音: すい、 、581年 - 618年)は、中国の王朝。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城(現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。当時の日本である倭国からは遣隋使が送られた。.

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銀(ぎん、silver、argentum)は原子番号47の元素。元素記号は Ag。貴金属の一種。.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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遊牧国家

遊牧国家(ゆうぼくこっか)とは、遊牧民が支配階層を形成して組織された国家のこと。面的に広がる集約農耕の展開が困難ではあるが、遊牧による牧畜に適した乾燥地帯が広がる中央アジア、イラン高原などに多く存在した。 有史以来、遊牧国家を築いたのは、紀元前9世紀、中央ユーラシアのキンメリアとスキタイである。ただし彼らはその地に安住することはなかったので、国家と呼べるかは謎である。一方イラン高原では、ペルシア系の民族が団結して遊牧国家を築いていく。紀元前6世紀にアケメネス朝が成立し、遊牧国家の基礎が造られた。しかし本格的な遊牧国家としては、8世紀の回鶻可汗国の誕生を待たなくてはならない。回鶻可汗国は遊牧国家としてはじめて都城を建設し、国家体制を整えた。そして、その後に現われたモンゴル帝国の成立によって遊牧国家は完成された。 モンゴル帝国が北ユーラシアを征服し空前の大国家を築いたことは、分裂していた東洋と西洋を結びつけ、世界史と言う言葉が誕生した要因となった。その体制は、パクス・モンゴリカといわれるモンゴル人による覇権と平和の時代を生み出した。しかし広大な国家は、領土が分割相続されたことや、政権を構成する諸部族が分裂抗争するなどにより、緩やかな連合政権の形状を保ちつつも次第に統一政権の形を弱めていき、わずか1世紀あまりで後継諸政権に分裂した。.

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遼(りょう、簡体字:辽、拼音:Liáo)は、遼朝(りょうちょう)ともいい、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝。916年から1125年まで続いた。中原に迫る大規模な版図(現在の北京を含む)を持ち、かつ長期間続いた最初の異民族王朝であり、いわゆる征服王朝(金、元、清が続く)の最初とされる。ただし、後の3つの王朝と異なって中原を支配下にはおいていない。.

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道観

道観(どうかん、)とは、道教教団において、出家した道士が集住し、その教義を実践し、なおかつ祭醮を執行する施設である。道教寺院。道教宮観の略。宮観(きゅうかん、)とも呼ばれる。.

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道教

道教(どうきょう、)は、中国三大宗教(三教と言い、儒教・仏教・道教を指す)の一つである。中国の歴史記述において、他にも「道家」「道家の教」「道門」「道宗」「老氏」「老氏の教」「老氏の学」「老教」「玄門」などとも呼称され、それぞれ若干ニュアンスの違いがある横手(2008)、p.001-008、中国史の中の道教。.

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運河

運河(うんが)とは、船舶の移動のために人工的に造られた水路であり、河川・湖沼を利用しているものもある。鉄道同様経路中に、橋梁や隧道なども見られる。産業革命以前は船舶を騾馬などが牽引したため、経路に沿って曳舟道(トウパス、towpath、船曳道、牽引路)が設けられている。.

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華南

華南地区の都市 中華民国の地方区分を表した図。水色の部分が華南。 華南(かなん、、)とは、中国南部を指す。 最も広義には淮河以南を指し、狭義では広東省・海南省・広西チワン族自治区の3省区(南嶺山脈の南、嶺南地方)を指す。また広東省・海南省・福建省の3省と、結びつきの強い香港・マカオを総称して、華南経済圏と呼ぶことがある。なお、第二次世界大戦頃まで日本では同地域を南支、南支那などの名称で呼んでいた。.

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華北

華北地域 華北(かほく、North China)とは、中国北部地域の呼称である。華北平原とは、多分に重なるが、必ずしも完全に一致しない。.

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青磁

青磁(せいじ)とは、青磁釉を施した磁器(Porcelain)または炻器(Stoneware)のこと。 透明感のある青緑色の磁器で、紀元前14世紀頃の中国(殷)が起源とされる、後漢代に流行し以後次第に普及した。 製造技術は日本や高麗にも伝播した。 特徴的な青緑色は、釉薬や粘土に含まれる酸化第二鉄が、高温の還元焼成によって酸化第一鉄に変化する事で発色する。色艶は全く異なるが、酸化クロムの還元で発色させる物も青磁と呼ばれる。.

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類書

類書(るいしょ)とは、各種の書籍より、一つないしは複数の部門の資料を集め、分類順または韻順に編集し、検索の便をはかった、中国や日本古来の参考図書のことである。一種の百科事典のようなものである。(ある書物と内容の類似する他の書物を指して「類書」と呼ぶことがあるが、本項では参考図書の一種としての類書について扱う) 内容は、史実・名称・成語・典故・詞賦・文章・名詞解釈などの項目により分類される。 歴代の類書中には、あらゆる領域の各種書籍からの引用文章が収められている。それぞれの類書の成立以後、引用した底本となった書籍が散逸してしまうケースも多々生じた。散逸した書籍を「佚書」、佚書より類書に引用された文章を「佚文」と呼び、その文献学的価値は高く評価されている。.

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行中書省

元の行中書省の配置 行中書省(こうちゅうしょしょう)は、モンゴルの王朝元が中国の地方統治の最高単位として設置した行政機関。行省(こうしょう)ともいう。現在の中国における地方行政の最高単位である省は、元の行省に由来している。.

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西安市

西安市(せいあんし/シーアンし、、、)は中華人民共和国陝西省の省都であり、古くは中国古代の諸王朝の都となった長安である。国家歴史文化名城に指定され、世界各国からの観光客も多い。経済的重要性から大幅な自主権をもつ副省級市にも指定されている。.

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西遊記

西遊記の登場人物を描いた絵画(頤和園) 京劇の『西遊記』 『西遊記』(さいゆうき、、、)は、中国で16世紀の明の時代に大成した伝奇小説で、唐僧・三蔵法師が白馬・玉龍に乗って三神仙(神通力を持った仙人)、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を供に従え、幾多の苦難を乗り越え天竺へ取経を目指す物語、全100回。中国四大奇書に数えられる。 著者は、『淮安府史』(明、天啓年間成立)に、呉承恩(1504年頃 - 1582年頃、江蘇省出身)の著書として「西遊記」という書名が記述されていることから、彼が作者であると20世紀の中国では定説化していたが、後述のように批判的な説が存在し、明確な結論は出ていない。詳しくは後述。 『西遊記』の流行を受けて、明代から清代にかけ呉元泰、呉政泰と余象斗が、仏教と道教に関わる戯曲・雑劇と神話伝説に基づいて編纂したのが『東遊記』・『南遊記』・『北遊記』で『四遊記』と称される。.

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襄陽市

襄陽市(シアンヤンし、じょうようし)は、中華人民共和国湖北省に位置する地級市。2010年12月、襄樊市から襄陽市に改名された。旧名・襄樊の名は、襄陽、樊城から得ている。漢水(漢江)の重要な内陸河川港。.

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襄陽・樊城の戦い

襄陽・樊城の戦い(じょうよう・はんじょうのたたかい)は、1268年から1273年にわたってモンゴル帝国と南宋との間で行われた戦闘。襄陽・樊城は南宋にとって国土防衛の最重要拠点であり、40年近くにわたって行われたモンゴル・南宋戦争においてよくモンゴル軍の攻撃対象となったが、ここでは第3次モンゴル・南宋戦争において行われた戦いについて述べる。.

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詞(し)は、中国における韻文形式の一つ、あるいは歌謡文芸の一つ。 宋代に隆盛したので宋詞(そうし)ともいう。唐・五代では曲・雑曲・曲子詞(きょくしし)とも呼ばれた。また詩に対して詩余(しよ)とも言われ、長短不揃いの句で構成されることから長短句(ちょうたんく)ともいう。曲に合わせて詞が書かれたので、詞を埋めるという意味で填詞(てんし)、音楽に合わせるという意味で倚声(いせい)とも言われる。日本語では詩(し)と同音であるため、区別しやすく中国語音からツーと呼ばれることがある。 後代には音楽に合わせて作られるのではなく、前人の作品の平仄に合わせて作られるようになったため、詩と同様、朗読される詩歌の一種となった。.

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諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。.

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高麗

麗(こうらい、ハングル:고려;、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。 高麗の名称は朝鮮半島を表す「Korea(英語)」や「Corée(フランス語)」などの語源ともなった。 Map of Goryeo.

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講談社現代新書

講談社現代新書(こうだんしゃげんだいしんしょ、Kodansha's new library of knowledge)とは、講談社が発行する教養新書のシリーズである。1964年(昭和39年)4月に創刊した。.

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賈魯

賈 魯(か ろ、1297年 - 1353年)は、中国・元王朝に仕えた漢人官僚。字は友恒。河東・高平(現在の山西省高平市)の人。黄河の改修工事を行ったとで知られている。 明経をもって2度官に挙げられて泰定年間に東平路儒学教授に任じられ、以後地方官や戸部主事を歴任する。至正年間にトクトが丞相となると、宋史の編纂に携わる。これが縁でトクトの信任を受けると、貧民救済策を纏めた。至正4年(1344年)に黄河の大氾濫が起きると、大都周辺の治水を預かる行都水監に任じられる。彼は被害地域を視察して、大規模な治水工事の必要性を訴えて2度にわたってその計画図を提出した。だが、トクトの父・マジャルダイが無実の罪で流されると、トクトも辞任してしまい賈魯自身も工部への移動が命じられて計画は中止される。だが、至正9年(1349年)にトクトが丞相に復帰すると、賈魯はかつて提案した治水計画の必要性を再び訴えた。2年後、賈魯の提案が認められ、彼は工部尚書総治河防使に任じられて工事の総責任者となった。彼は13路(地域)から官民合わせて17万人を動員してわずか3ヶ月で工事を完成させる。これによって黄河の氾濫は食い止められ、彼が築いた水路は「賈魯河」と呼ばれるようになった。続いて、河南・鄭州の治水工事にも辣腕を振るい、その功によって集賢大学士・中書左丞に任じられて多額の褒賞を授かった。だが、この工事によって直接恩恵を受けない江南地域を中心に民衆の不満が高まり、紅巾の乱が勃発する。賈魯はトクト率いる討伐軍に従って濠州に立て籠もる郭子興を攻めるが、戦闘中に落馬してその傷が元で病死した。 賈魯は雨期に入って黄河が増水して再び氾濫を起こす前に工事を終えようと考えて、余りにも大規模な工事を行ったために、古くはこの工事が元王朝滅亡の遠因の一つであると考えられてきた。だが、近年では元王朝の衰退は既に覆い難い状態であり、その中で賈魯が洪水を防いだ事が結果的には華北住民の元王朝に対する信頼を取り戻す結果となったため、結果的には元王朝を延命させる効果があったとする歴史学者も存在する。 Category:元代の人物 Category:1297年生 Category:1353年没.

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趙孟フ

『鵲華秋色図』 趙 孟頫(Zhào Mèngfǔ、ちょう もうふ、1254年(宝祐2年) - 1322年(至治2年))は、南宋から元にかけての政治家、文人(書家、画家)。字は子昂、号は松雪。呉興(現在の浙江省湖州市呉興区)の人。出自は宋の宗室で、南宋の2代皇帝孝宗の兄の趙伯圭の玄孫である。字から趙子昂、号から趙松雪と呼ばれることも多い。 妻のも画家として有名である。父は趙与訔。兄は趙孟頔、趙孟頒、趙孟碩、趙孟頌、趙孟頖、趙孟顥。弟は趙孟龥ら。王蒙は外孫にあたる。.

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黄公望

公望 黄 公望(こう こうぼう、1269年 - 1354年)は、中国元朝末期の水墨画家。倪瓚、呉鎮、王蒙と並び「元末四大家」と賞され、その中でも、もっとも広い画風をもち、後代に与えた影響も一番大きいと言われる。.

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黄河

河流域 黄河(こうが、、ファンフー)とは、中国の北部を流れ、渤海へと注ぐ川。全長約5,464kmで、中国では長江(揚子江)に次いで2番目に長く、アジアでは長江とエニセイ川に次いで3位、世界では6番目の長さである。なお、河という漢字は本来固有名詞であり、中国で「河」と書いたときは黄河を指す。これに対し、「江」と書いたときは長江を指す。現在の中国文明の直接の母体である黄河文明を育んだ川であり、中国史上において長江と並び巨大な存在感を持つ河川である。.

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輟耕録

『輟耕録』(てっこうろく)は、元末の1366年に書かれた陶宗儀の随筆。30巻。正式な題名は『南村輟耕録』(なんそんてっこうろく)という(南村は陶宗儀の号)。主に元の時代のさまざまな事柄を詳しく記している。.

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農桑輯要

農桑輯要(のうさんしゅうよう)は中国・元の繆啓愉が著した官撰の農書。.

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農書

農書(のうしょ)とは、広義には農業に関する書物の総称である。 より狭義には、近代的農学が成立する以前の農業技術・農民生活についての著作物を指し、「古農書」とも呼ばれる(当然この場合、近代以後の農学書(農学を参照のこと)は農書に含まれない)。以下は狭義の「農書」について述べる。.

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近体詩

近体詩(きんたいし)とは、漢詩の詩体の一つ。今体詩(きんたいし)、唐詩ともいう。古体詩に対する。古体詩より遅れて唐代初期に完成した。近体(今体)詩とは、「現代の詩体」の意味で、唐代の呼称がそのまま伝わったものである。一定の格律(字数・句数・平仄・押韻・対句といった形式や韻律のこと)の制約を受けることが特徴である。.

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日本で一般的な煎茶 抹茶を点てる様子 広見町) 茶(ちゃ)、チャノキ(学名: Camellia sinensis (L.) Kuntze)の葉や茎風味の違いなどから日本茶や中国茶、紅茶などは別の植物の葉であると誤解されることもあるが、種の違いを除き、分類学上はすべて同一(ツバキ目ツバキ科ツバキ属に分類される常緑樹)である。を加工して作られる飲み物である。 また、これに加えて、チャノキ以外の植物の部位(葉、茎、果実、花びら、根等)や真菌類・動物に由来する加工物から作られる飲み物(「茶ではない「茶」」の節、茶外茶を参照)にも「茶」もしくは「○○茶」と称するものが数多くある。.

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范ホウ

范梈(はん ほう、1272年 - 1330年)元代中国の詩人。字は亨父、または徳機という。楊載・掲傒斯・虞集とともに元詩の四大家ともいわれる。.

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郭守敬

郭 守敬(かく しゅけい、拼音:Guō Shǒujìng、1231年 - 1316年)は、元朝に仕えた天文学者、暦学者、水利事業家である。字は若思。邢台(河北省)出身。中国暦法の画期となる「授時暦」の作成で知られる。.

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赤峰市

赤峰市(せきほうし、モンゴル語: Ulaɣanqada qota)は中華人民共和国内モンゴル自治区東南部に位置する地級市。市名の赤峰はモンゴル語のウランハダ(赤い山)に由来する。.

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薩都剌

薩都剌(さつとら、1308年? - ?)は中国、元代の詩人・画家・書家。字は天錫、号は直斎。ムスリム(イスラム教徒)家庭の出身でいわゆる色目人だが、優れた漢詩を残し、元代最高の漢詩人と呼ばれることもある。名は、「サドゥラ」に類する音の漢字音写とみられ、薩都拉とも書く。生没年は異説も多く、1272年生まれ1340年没とも、1307年生まれ1359年没とも。 元の戸籍制度においてイスラム指導者が属した答失蛮(タシマン、ペルシア語で学識者を意味する dānishmand の音訳)の出自だが、祖父の代からモンゴルに軍人として仕えて西方から中国に移り住み、父の阿魯赤(アルチ)はクビライに仕えて山西道雁門(今の山西省代県)の守備隊長となった。雁門で生まれ育った薩都剌は幼い頃から漢文化に親しみ、泰定帝イェスン・テムル治世の1327年に実施された科挙に及第し、進士となった。しかし、もともと貴族の家ではないため元の官界ではさほど出世せず、地方官の属官を歴任しただけに終わる。一説には、御史として御史台にあったとき、権臣の党派を弾劾して疎まれ、左遷されたのだという。元末の混乱が激しくなると官界を退き、江南の杭州に隠棲して余生を送った。詩集に『雁門集』がある。 詩風は元詩の特徴である清新、流麗をよくあらわすと評価される。また、理知的な宋詩の風を脱しむしろ抒情的で唐詩の風があるといわれ、李白など唐代の詩人に影響を受けたとみられる。詞曲、書画にもすぐれ、宮詞の作品も残されている。その作品は明以来広く流布し、近代の文豪魯迅は『雁門集』を愛読したことを作品中に書き残している。日本にも南北朝時代には早くも紹介されて和刻本も印刷され、よく読まれた。.

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至大

至大(しだい)は、中国・元の武宗カイシャンの治世で用いられた元号。1308年 - 1311年。.

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至元 (元世祖)

至元(しげん)は、モンゴル帝国の大ハーン・クビライ(元の世祖)の治世で用いられた元号。1264年 - 1294年。.

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至元 (元順帝)

至元(しげん)は、中国・元の順帝(恵宗)トゴン・テムルの治世で用いられた元号。1335年 - 1340年。後世、世祖クビライ時代の至元と区別して後至元(こうしげん)と呼ぶことがある。.

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至順

至順(しじゅん)は、中国・元の文宗トク・テムル及び寧宗イリンジバルの治世で用いられた元号。1330年 - 1333年。.

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至正

至正(しせい)は、中国・元の順帝(恵宗)トゴン・テムルの治世で用いられた元号。1341年 - 1370年。1368年に元が大都(現在の北京)を追われた後も、北元の元号として使用された。.

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至治 (元)

至治(しち)は、中国・元の英宗シデバラの治世で用いられた元号。1321年 - 1323年。.

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致和

致和(ちわ)は、中国・元の泰定帝イェスン・テムルの治世で用いられた元号。1328年旧2月 - 旧9月。.

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自然金 金(きん、gold, aurum)は原子番号79の元素。第11族元素に属する金属元素。常温常圧下の単体では人類が古くから知る固体金属である。 元素記号Auは、ラテン語で金を意味する aurum に由来する。大和言葉で「こがね/くがね(黄金: 黄色い金属)」とも呼ばれる。。 見かけは光沢のある黄色すなわち金色に輝く。日本語では、金を「かね」と読めば通貨・貨幣・金銭と同義(お金)である。金属としての金は「黄金」(おうごん)とも呼ばれ、「黄金時代」は物事の全盛期の比喩表現として使われる。金の字を含む「金属」や「金物」(かなもの)は金属全体やそれを使った道具の総称でもある。 金属としては重く、軟らかく、可鍛性がある。展性と延性に富み、非常に薄く延ばしたり、広げたりすることができる。同族の銅と銀が比較的反応性に富むこととは対照的に、標準酸化還元電位に基くイオン化傾向は全金属中で最小であり、反応性が低い。熱水鉱床として生成され、そのまま採掘されるか、風化の結果生まれた金塊や沖積鉱床(砂金)として採集される。 これらの性質から、金は多くの時代と地域で貴金属として価値を認められてきた。化合物ではなく単体で産出されるため精錬の必要がなく、装飾品として人類に利用された最古の金属で、美術工芸品にも多く用いられた。銀や銅と共に交換・貨幣用金属の一つであり、現代に至るまで蓄財や投資の手段となったり、金貨として加工・使用されたりしている。ISO通貨コードでは XAU と表す。また、医療やエレクトロニクスなどの分野で利用されている。.

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金 (王朝)

金(きん、拼音:Jīn、女真語: 、1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、中国の北半を支配した女真族の征服王朝。 国姓は完顔氏。遼・北宋を滅ぼし、西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。都は初め会寧(上京会寧府、現在の黒竜江省)、のち燕京(中都大興府、現在の北京)。『金史』、欽定満洲源流考には「金の始祖函普は高麗からやって来た」とある。『函普』は阿骨打(あこつだ、女真音:アクダ)の7代祖である。.

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長江

長江(ちょうこう、中国語拼音字母: )は、青海省のチベット高原を水源地域とし中国大陸の華中地域を流れ東シナ海へと注ぐ川である。全長は6300kmで、中華人民共和国およびアジアで最長、世界でも第3位。 中国国外では、最下流部の異称である「揚子江」(ようすこう、Yangtze River)の名で良く知られる。古語では江(こう)。音訳する場合は「長」のみを音訳しチャン川 (Chang River) とすることもあるが、「江」が本来の河川名であることから、(他の中国の河川を「片仮名+川」とする場合でも)チャンチアンとすることもある。 青海省のタンラ山脈からチベット高原、四川盆地、三峡を経て湖北省宜昌市に至るまでが長江上流(最上流の通天河、四川西部の金沙江、四川東部の川江)、宜昌から江西省湖口県までが中流(荊江)、湖口から上海市の東シナ海河口までが下流(揚子江)にあたる。 その流域には成都、武漢、重慶などの重要工業都市、上海、南京などの商業都市を含む中国の19の省(市、自治区)があり、全流域の人口は4億5000万にも達している。古くから水上交易の盛んだった華中でも中心的な交通路として利用されてきた。.

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腹裏

腹裏(ふくり)とは元の行政区画。中書省が直轄する現在の河北省、山西省、山東省の地域を総称した。腹裏は29路、8直隷州、3属府、91属州、346県を管轄した。上都や大都の所在地である腹裏地区は元朝の政治の中心地として他の行省より重視されていたと考えられる。 「腹裏」は「内地」を示す言葉であり宋代よりその用法が見られる。元代においては河北、山西、山東というモンゴル草原に比較的近い地域を示す用語として用いられ、元朝が最初に征服した中原地区であり、その後全国統一を行うための基地としての性格を有していた。 それまで京師直轄地域は「三輔」や「京畿」、「直隷」と称されていたが、元朝の使用した「腹裏」は他王朝が使用した京師直轄地域とは比較にならない規模を有していた。腹裏は大量のモンゴル人、色目人が居住していた地域である。また金朝の中原統治の中枢地区であったため金代の行政制度の影響を強く受けていた。 腹裏は中書省直轄とされ行省のような行政機構は設置されなかったため、他の行省が設置された地域に比べ行政機構が1段階省略された構造となっている。行政機構は中書省の下部に山東東西道及び河北東西道宣慰司が設置されていた。.

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様々な種類の酒 缶チューハイに記された点字"おさけ" 酒(さけ)は、エタノール(アルコールの一種)が含まれた飲料の総称で、抑制作用があるため飲むと酩酊を起こす。お酒という丁寧な呼び方もよく用いられ、酒類やアルコール飲料、またソフトドリンクに対して「ハードドリンク」とも呼ばれることがある。西洋ではワインに相当する語彙が総称として用いられることがある。 酒は人類史において最古から存在する向精神薬の一つである。人間には普遍的に「自分以外の存在になりたい」という潜在的願望があり、酒による酩酊はその願望を叶える有効な手段の一つだった。しかし、酩酊は往々にして混乱や無秩序をもたらし、社会から忌避される。「百薬の長とはいへど、よろづの病は酒よりこそ起これ」などと言われ、古来より酒は社会にとって両価値的存在だった。 酒の歴史は古く、有史以前から作られていたと見られている(→#歴史)。製造方法や原料等多種多様であるが、原材料から発酵によってエタノールを生成することで共通している。果実原料ではブドウを使ったワインやリンゴなど果実酒、穀物原料では大麦によるビールや米など、イモ類ではサツマイモを使った焼酎など。様々なアルコール度数を持った酒が作られる(→#種類)。 効用としては、俗にストレスの解消、コミュニケーションの円滑化、疲労回復が挙げられる(→#効用)。しかし脳を委縮させ、時に違法薬物を上回ると言われる最も有害な薬物であり、世界で毎年250万人の死亡につながり死因の4%を占める。作用量と致命的な量が近く急性アルコール中毒になりやすい薬物であり、アルコール乱用や、禁断症状が致命的な振戦せん妄となりうるアルコール依存症となることもあり、アルコール飲料はIARC発がん性でグループ1(発がん性あり)にも分類される。(→#健康への影響)判断力が低下し、交通事故などの事故、また一時的に記憶が完全になくなることもある。社会的には暴力や自殺が挙げられる(→#飲酒と社会)。 このように及ぼす影響が大きいため、2010年に世界保健機関のアルコールの有害な使用を低減するための世界戦略が採択されており、また政府の税収確保のため、酒の製造および流通(販売)は、多くの国において法律により規制されている(→#法律)。宗教ごとに酒の扱いは異なっており、儀式に用いられたり、神への捧げものであったり、また身を清め神との一体感を高めるための飲み物とされている。宗教によっては、飲酒を禁じているものもある(→#宗教と酒)。.

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色目人

色目人(しきもくじん)とは、中国の歴史上における人間集団の分類の一種で、元朝治下における西域(中央アジア・西アジア)諸国出身者を指したもの。色目人の語は、「諸色目人」の略で、さまざまな種目(諸色目)の人という意味。元朝においては支配階級である遊牧民出身のモンゴル人の下に色目人が置かれ、この2つの階級が金の遺民である華北の漢人、南宋の遺民である江南の南人の階級を支配していたとされる。.

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雲南省

雲南省(うんなんしょう、中国語:云南省、拼音:Yúnnán Shěng、英語:Yunnan)は、中華人民共和国西南部に位置する省。略称は滇(てん)。省都は昆明市。省名は雲嶺(四川省との境の山地)の南にあることに由来する。.

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雑劇

雑劇(ざつげき)とは、中国の古典的な演劇である戯曲形式の一つ。主として北方系の曲調である北曲を用い、宋・元時代において隆盛した。ただし、「雑」とあるようにさまざまな時代や地域のものを含む。一般には多く元雑劇(元人雑劇)のことを指す。雑劇は曲(うた)・科(しぐさ)・白(せりふ)を伴った歌劇の一種である。.

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集史

『集史』(しゅうし、جامع‌التواریخ. Jāmi` al-Tavārīkh、جامع التواريخ. Jāmi` al-Tawārīkh)は、イルハン朝の第7代君主ガザン・ハンの勅命(ヤルリグ)によってその宰相であったラシードゥッディーンを中心に編纂された歴史書である。イラン・イスラム世界、さらに言えばモンゴル君主ガザン自身の視点が反映されたモンゴル帝国の発祥と発展を記した記録として極めて重要な文献である。 モンゴル史部分の編纂には、ガザン自身も多くの情報を口述しこれがモンゴル史の根本となったことはラシードゥッディーンも序文で述べているが、これらのことからも『集史』はガザン自身の見解が色濃く反映された歴史書である。その性格のため『集史』はペルシア語で編纂された歴史書であるが、13、14世紀のモンゴル語やテュルク語やその他の多言語の語彙・用語を多く含み、そのペルシア語の用語も多く含まれている。このため『集史』は、モンゴル帝国が持つユーラシア規模の世界性をまさに体現した希有の資料と評されている。 ペルシア語で書かれたものであるが、タイトルである Jāmi` al-Tawārīkh はアラビア語で「諸々の歴史を集めたもの」を意味し、日本語では『集史』と翻訳されている。ちなみにロシアの東洋学者ベレジンによる校訂本に基づいたモンゴル史までの中国語訳があるが、この題は『史集』と訳されている。.

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進士

明代の進士服 進士(しんし、満州語:dosikasi)とは、隋から北宋中期にかけては科挙の六科の一つ。王安石の改革で進士科以外が廃止された後は、科挙の登第者(合格者)を指し、以降の南宋から清まで続いた制度である。.

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耶律楚材

武夷山茶博園にある耶律楚材像 耶律 楚材(やりつ そざい、、1190年7月24日 - 1244年6月20日)は、初期のモンゴル帝国に仕えた官僚。字は晋卿。禅に深く帰依し、湛然居士と号した。モンゴル名はウルツ・サハリ、またはウト・サカル(「髭の長い人」の意)。.

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虞集

虞集(ぐ しゅう、1272年 - 1348年)は、元代中国の儒学者。字は伯生、号は道園、邵庵先生と称された。 宋代に活躍した虞允文の五世の孫にあたる。柳貫・黄溍・掲傒斯とともに「儒林四傑」と称せられる。楊載・掲傒斯・范梈とともに元詩の四大家ともいわれる。.

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院体画

山径春行図」(馬遠) 院体画(いんたいが)は、中国における宮廷画家の画風。伝統を重視し、花鳥や山水など写実的で精密に描くのが特徴。 唐代に起源を持つ画院(翰林図画院、徽宗の時代に最も盛ん)で描かれるような画であり、花鳥・人物・山水などを宮廷趣味に即して描いた。代表的画家としては、北宋の徽宗や南宋の夏珪、馬遠、梁楷などが挙げられる。.

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陰山山脈

山山脈(In Mongolia: Mony Uul、いんざんさんみゃく)とは、中国北部の内モンゴル自治区(一部は河北省)にある山脈である。.

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陳朝

陳朝(チャンちょう、ちんちょう、、)は、現在のベトナム北部を1225年から1400年まで支配した王朝。国号は大越。首都は昇龍(タンロン、現在のハノイ)。.

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染付

染付(そめつけ)とは、白色の胎土で成形した素地の上に酸化コバルト(II)を主とした絵の具で模様を絵付し、その上に透明釉をかけて高温焼成した陶磁器。おもに磁器で、模様は藍青色に発色する。 中国語で""(、日本語読み:せいか)、または""(、日本語読み:ゆうりせい.

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枢密院 (中国)

枢密院(すうみついん)は、唐代中期に設置された主として軍制を掌った中央官庁である。軍政を統轄したが、軍隊の指揮権はなかった。以後、五代の各王朝、遼、金、宋、元と歴代王朝に継承され、明代に廃止された。.

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授時暦

授時暦(じゅじれき)は、中国暦の一つで、元の郭守敬・王恂・許衡らによって編纂された太陰太陽暦の暦法。名称は『書経』堯典の「暦象日月星辰、授時人事」に由来する。至元18年(1281年)から実施され、明でも大統暦(だいとうれき)と名を変えられて明の末年(1644年)までの364年間に渡って使用された。.

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恭帝 (宋)

恭帝(きょうてい)は、南宋の第7代皇帝(在位:1274年8月12日 - 1276年2月4日)。諱は㬎(けん。「㬎」は「顯」(「顕」の旧字体)の「頁」の代わりに「こざと偏を付けたもの」をつけた文字。資料によっては類似文字で代用されることもある)。度宗の四男。廟号はない。.

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杭州市

杭州市(こうしゅうし、中国語:杭州市、、英語:Hangzhou)は中華人民共和国浙江省の省都(副省級市)。浙江省の省人民政府の所在地。中国八大古都の一であり、国家歴史文化名城に指定されている。13世紀は世界最大の都市であった。 隋代以降、江南運河の終着点として経済文化が発達し、「上に天国あり、下に蘇州・杭州あり。(上有天堂、下有蘇杭。)」とたたえられた。また、五代十国の時代、呉越国の都となり、南宋時代には事実上の首都、臨安府が置かれた。市中心部の西には世界遺産の西湖という湖があり、国の内外より多くの観光客が訪れる。 一般に「こうしゅう」と日本語読みされるが、広州市との区別が必要な場合に「くいしゅう」と湯桶読みされることがある。.

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東アジア

東アジア(ひがしアジア)は、ユーラシア大陸の東部にあたるアジア地域の一部を指す地理学的な名称である。北西からモンゴル高原、中国大陸、朝鮮半島、台湾列島、琉球諸島、日本列島などを含む。北東アジア(東北アジア)、極東、東亜などと呼ぶ場合もある。.

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東道諸王

東道諸王(東方諸王、左翼諸王)とは、モンゴル帝国におけるチンギス・カンの諸弟(ジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギン、ベルグテイ)を始祖とする、モンゴル高原東方に領地を持つ諸王家の総称である。この内、ベルグテイ王家のみ始祖が庶出のため格式が低く、これを外して東方三王家と呼称する場合もある。これに対し、チンギス・カンの諸子(ジョチ、チャガタイ、オゴデイ、コルゲン)を始祖とする、モンゴル高原西方に領地を持つ諸王家を西道諸王、西方諸王、右翼諸王とも呼称する。 西道諸王が中央アジア・東欧に大規模な領土を得てそれぞれ独立した政権(ジョチ・ウルス、チャガタイ・ウルス、オゴデイ・ウルス)として振る舞うようになっていったのに対し、東道諸王はカーン(大ハーン)の勢力下に留まり続け、また政変に当たってはオッチギン王家を中心として一体的行動をとることが多かった。 東道諸王は北元時代を経て清代にまで存続し、「旗」に編制された。中華人民共和国の行政区分においても、東道諸王に由来する旗名が現在でも多く残っている。.

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杉山正明

杉山 正明(すぎやま まさあき、1952年3月1日 - )は、静岡県生まれの日本の歴史学者。京都大学文学研究科名誉教授。主要研究テーマはモンゴル時代史、中央ユーラシア史。日本におけるモンゴル史研究の第一人者である。.

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楊載

楊載(よう さい)は、中国史の人物。.

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正一教

正一教(しょういつきょう)は、道教の宗派の一つ。現在の道教の教派は全真教(全眞敎)と正一教の二つに大別されて考えられている。日本語読みの問題ではあるが、道教は儒教と共に中国で起こった宗教であるため、漢音読みをする習慣がある。例えば、「道教経典」も「どうきょうけいてん」と読む場合がある。同様に、正一教の読みに対しても、「せいいちきょう」または「せいいつきょう」と読む場合がある。.

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歴史

Historia (Allégorie de l'Histoire). ニコラオス・ギジス(Nikolaos Gysis) (1892年) The Historian E. アービング・クーゼ(1902年) 歴史(れきし、羅: historia)は、何かしらの事物が時間的に変遷したありさま、あるいはそれに関する文書や記録のことをいう。主に国家や文明など人間の社会を対象とする。記述されたことを念頭に置いている。ヴィルヘルム・ヴィンデルバントの科学分類に拠れば、「自然科学が反復可能な一般的法則であるのに対し、歴史科学が対象とする歴史は反復が不可能である一回限りかつ個性を持つもの」と定義している。また、現在に至る歴史を「来歴」と言う。.

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歴史的シリア

マン帝国時代のシリアを示した地図。歴史的シリアに当たる領域が含まれている。 歴史的シリア(れきしてきシリア)は、大シリア、シリア地方ともいわれ、現在のシリア・アラブ共和国およびレバノン、ヨルダン、パレスチナ、イスラエルを含む地域の歴史的な呼称。西は地中海に面し、北は現在のトルコの一部、東はゴラン高原などの山地をはさんでイラクと接し、南は紅海およびアラビア半島に通じる。イスラーム勃興時代からアラビア語でシャーム地方(bilād al-Shām)と呼ばれた地域はほぼこの範囲に該当する。 なお、このシャームという単語は、単に地中海の東部沿岸地方のみを指したり、シリアの首都ダマスカスを指す場合もある。ヨーロッパではレバントとも訳される。 考古学によれば歴史的シリアは人類文明が早期に芽生えた土地のひとつである。1975年に発掘された古代都市エブラの発掘調査によれば、紀元前2500年から紀元前2400年にかけて、南の紅海から北はアナトリア、東はイラクに及ぶアッカドが広がっていた。当時のエブラの人口は、26万人に達した。研究者はエブラで話された言語は最古のセム語であると考えている。 時代により、カナン人、フェニキア人、ヘブライ人、エジプト人、アラム人、アッシリア人、バビロニア人、ヒッタイト人、ペルシア人、マケドニア人、ローマ人、ナバタイ人、ギリシャ人、アラブ人、十字軍、モンゴル人、テュルク人によって支配された。歴史的シリアはまた宗教にとって重要な役割を果たした。古代末期に築かれた港町アンティオキアはシルクロードの西端として、地中海貿易の拠点であるだけでなく、ユーラシア大陸における東西の交易路の拠点として繁栄した。 第一次世界大戦の後、オスマン帝国は解体され、1922年国際連盟において、シリアをイギリスとフランスの二国が分割、支配することを決めた。イギリスはトランスヨルダン地方とパレスチナ地方を奪い、フランスは現在のシリア・アラブ共和国およびレバノンを奪った。 フランスが植民地に組み込んだ地域はシリアの名前を継承して1941年に独立を宣言したが、すぐには承認されず、1944年1月1日国際的に承認された。フランス植民地時代にアンティオキア(現・アンタキヤ)周辺の北西地域はトルコに割譲され、現在ではトルコのハタイ県となっているが、この地域も歴史的シリアの一部である。.

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水滸伝

『水滸伝』(すいこでん、水滸傳)は、明代の中国で書かれた伝奇歴史小説の大作、「四大奇書」の一つ。 施耐庵(あるいは羅貫中)が、それまでの講談(北宋の徽宗期に起こった反乱を題材とする物語)を集大成して創作されたとされる。なお、「滸」は「ほとり」の意味であり、『水滸伝』とは「水のほとりの物語」という意味である(「水のほとり」とは、本拠地である梁山泊を指す)。.

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江南

江南(日本語:こうなん、中国語:チャンナン、朝鮮語:カンナム).

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河北省

河北省(かほくしょう、中国語:河北省、拼音:Héběi Shěng、英語:Hebei)は、中華人民共和国の行政区画の一つ。省都は、石家荘市。河北の省名は、黄河の北にあることに由来する。河北省の旧称冀州から、略称は冀。.

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泰定 (元)

泰定(たいてい)は、中国・元のイェスン・テムルの治世で用いられた最初の元号。1324年 - 1328年旧2月。イェスン・テムルは廟号を贈られなかったため、この元号を用いて泰定帝と呼ばれる。.

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泉州市

泉州市(せんしゅうし)は中華人民共和国福建省に位置する地級市である。かつては海上交易の中心地として繁栄し、イブン・バットゥータやマルコ・ポーロはこの都市(ザイトン、イタリア語:Zaiton、閩南語:刺桐)の繁栄を記録に残している。ザイトンは街路樹のアブラギリがある街とアラビア人が命名、しヨーロッパに伝わった名前。.

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消費財

消費財(しょうひざい)とは経済学用語の一つ。これは生産される財の中でも、消費を目的として家庭に需要とされるような財やサービスのことを言う。 これに対して、生産を目的として企業で消費されるような財は生産財という。同じ商品であっても家庭で消費されるならば消費財となり、企業で消費されるならば生産財という形に分類される。この消費財とは、ゴミ袋のように一度きりの使用のみとなる非耐久消費財と、家電製品など数年にわたって使用をし続けられる耐久消費財に分けられる。.

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渤海 (国)

渤海(ぼっかい、698年 - 926年)は、現中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて、かつて存在した国家。大祚栄により建国され、周囲との交易で栄え、唐からも「海東の盛国」(『新唐書』)と呼ばれたが、最後は契丹(遼)によって滅ぼされた。 大祚栄や渤海国の成り立ちに関して『旧唐書』渤海靺鞨伝は「渤海靺鞨大祚榮者,本高麗別種也。高麗既滅,祚榮率家屬徙居營州。(渤海靺鞨の(建国者)大祚栄は、もと高(句)麗の別種である。高(句)麗が既に滅亡(六六八)してしまったので、(大)祚栄は一族を率いて営州(遼寧省朝陽市)へ移り住んだ。)」と記し、『新唐書』はより具体的に「渤海,本粟末靺鞨附高麗者,姓大氏。(渤海は、もとの粟末靺鞨で、高(句)麗に付属していた。姓は大氏である。)と記しており、高句麗に服属していた粟末靺鞨の出とある。 『大金国志』には、女直(女真)は粛慎の遺種であり、渤海の別種(又曰女直、粛慎氏遺種、渤海之別種也。)と記す。 渤海の風俗は高句麗・契丹と同じ(風俗瑟高麗及契丹同「風俗は高麗契丹に重なり同じくする」)とある。 「渤海」の名は本来、遼東半島と山東半島の内側にあり黄河が注ぎ込む湾状の海域のことである。初代国王大祚栄が、この渤海の沿岸で現在の河北省南部にあたる渤海郡の名目上の王(渤海郡王)に封ぜられたことから、本来の渤海からやや離れたこの国の国号となった。.

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清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

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満州民族

満州民族(満洲民族、まんしゅうみんぞく、マンジュみんぞく)、満州族(満洲族、まんしゅうぞく、マンジュぞく、ᠮᠠᠨᠵᡠᡠᡴᠰᡠᡵᠠ 、転写:manju uksura)は、満洲(中国東北部、沿海州など)に発祥したツングース系民族。古くは女真族といった。17世紀に現在の中国およびモンゴル国の全土を支配する清を興した。清朝では、民族全体が八つのグサ(.

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漢詩

漢詩(かんし)とは、中国の伝統的な詩。韻文における文体の一つ。狭義には後漢時代に確立した中国の国家芸術としての詩のこと。中華文明の伝来に伴い、8世紀から日本でも詠まれた。.

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漢民族

漢民族(かんみんぞく)は、中華人民共和国(中国大陸)、中華民国(台湾)、シンガポールで大多数を占める民族。人類の20%を占める世界最大の民族集団である。 中華人民共和国の民族識別工作では漢族と呼ばれ、中華人民共和国の人口の94%以上を占める。漢人ともいい、華僑として中国を離れ、移住先に定着した人は華人、唐人と自称することが多い。.

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漢文

漢文(かんぶん)とは、古代中国の文語体の文章のこと。または近代中国人・朝鮮人・日本人・ベトナム人によって書かれる古典的な文章語のうち、漢字を用いて中国語の文法で書かれたものをいう。.

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木綿

収穫期の綿 走査型電子顕微鏡で見た木綿繊維 木綿・木棉(もめん)は、ワタの種子から取れる繊維。コットン(cotton)とも。ワタ自体のことを木綿と呼ぶこともあるが、ここでは繊維としての木綿について述べる。 ワタとはアオイ科ワタ属の多年草の総称で、木綿は種子の周りに付いている。繊維としては伸びにくく丈夫であり、吸湿性があって肌触りもよい。このため、現代では下着などによく使われるが、縮みやすいという欠点もある。主成分はセルロース。 単に棉・綿(めん)とも言う。摘み取った状態までのものが棉、種子を取り除いた後の状態のものが綿だが、区別しないことも多い。 ただし、「綿」と書いて「わた」と読むのは、本来は塊状の繊維全般を指す語である。布団や座布団の中身を繊維の種類を問わず「綿(わた)」と呼ぶが、これはその本来の用法である。古くは、中でも真綿(絹の原料)を意味することが多かった。.

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朱子学

朱子学(しゅしがく)とは、南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学(程朱理学)・程朱学派と呼ばれ、宋明理学に属す。当時は、程頤ら聖人の道を標榜する学派から派生した学の一つとして道学(Daoism)とも呼ばれた。 陸王心学と合わせて人間や物に先天的に存在するという理に依拠して学説が作られているため理学(宋明理学)と呼ばれ、また、清代、漢唐訓詁学に依拠する漢学(考証学)からは宋学と呼ばれた。.

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朱元璋

朱 元璋(しゅ げんしょう)は、明の始祖であり、初代皇帝である。廟号は太祖(たいそ)。その治世の年号を取って、洪武帝(こうぶてい)と呼ばれる。また、生まれた頃の名は、朱重八(しゅ じゅうはち)といい、後に朱興宗(しゅ こうそう)と改名し、紅巾(こうきん)軍に参加する頃にさらに朱元璋と改名し、字を国瑞(こくずい)とした。.

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朱熹

朱 熹(しゅ き、1130年10月18日(建炎4年9月15日) - 1200年4月23日(慶元6年3月9日))は、中国南宋の儒学者。字は元晦または仲晦。号は晦庵・晦翁・雲谷老人・滄洲病叟・遯翁など。また別号として考亭・紫陽がある。謚は文公。と尊称される。祖籍は徽州婺源県(現在の江西省)。 南剣州尤渓県(現在の福建省)に生まれ、建陽(現在の福建省)の考停にて没した。儒教の精神・本質を明らかにして体系化を図った儒教の中興者であり、いわゆる「新儒教」の朱子学の創始者である。.

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戯曲 (中国)

戯曲(ぎきょく)とは、中国の古典的な演劇の一種。「戯」は舞踊や雑技、「曲」は歌謡の意味で、劇中に舞踏や歌謡が用いられることを特徴とする。科(しぐさ)・白(せりふ)・曲(うた)によって構成され、科白のない散曲と対照される言葉である。日本で一般に戯曲とは文学作品のことを指すので、英語でチャイニーズ・オペラと呼ぶことがある。.

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戸籍

戸籍(こせき)とは、戸と呼ばれる家族集団単位で国民を登録する目的で作成される公文書である。 かつては東アジアの広い地域で存在していた。21世紀の現在では中華人民共和国(事実上形骸化している)と日本と中華民国(台湾)のみに現存する制度である。.

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戸部 (六部)

戸部(こぶ)は六部の一で、土地管理、戸籍、官人への俸給などの財務関連の行政を司掌した。 祖型は三国時代の度支尚書であり、隋にて民部と改称され、更に唐より太宗の諱世民の民字を避諱して戸部と称されるようになった。長官は(戸部尚書)で次官は侍郎(戸部侍郎)。隋唐期に戸(民)部、度支(たくし)、金部(きんぶ)、倉部(そうぶ)の4司が属し、それぞれに判官であるとが置かれた。 その後、安史の乱以降の財政難に対して戸部尚書の下の戸部司と新たに設けられた使職の度支使・塩鉄使が財政を司るところとなり、戸部は有名無実化した。 これが北宋の元豊の改革の際に再び実権を取り戻し、再び財政を司るところと成った。清光緒32年(基督教暦1906年)のにより戸部は度支部と改称され、宣統3年(同1911年)の内閣官制実施で完全に廃止された。.

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明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.

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易経

『易経』(えききょう、正字体:易經、)は、古代中国の書物。『卜』が動物である亀の甲羅や牛や鹿の肩甲骨に入ったヒビの形から占うものであるのに対して、『筮』は植物である『蓍』の茎の本数を用いた占いである。商の時代から蓄積された卜辞を集大成したものとして易経は成立した。易経は儒家である荀子の学派によって儒家の経典として取り込まれた。現代では、哲学書としての易経と占術のテキストとしての易経が、一部重なりながらも別のものとなっている。中心思想は、陰陽二つの元素の対立と統合により、森羅万象の変化法則を説く。著者は伏羲とされている。 中国では『黄帝内經』・『山海經』と合わせて「上古三大奇書」とも呼ぶ。.

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浄土宗

#伝統宗派としての浄土宗。浄土宗諸派の総称としての浄土宗。鎮西派と西山派に分かれる。.

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浄土教

浄土教(じょうどきょう)とは、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く教え。浄土門、浄土思想ともいう。阿弥陀仏の本願に基づいて、観仏や念仏によってその浄土に往生しようと願う教え。.

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浙江省

浙江省(せっこうしょう、中国語:浙江省、拼音:Zhèjiāng Shěng、英語:Zhejiang)は、中華人民共和国の省の一つ。略称は浙。華東地区中部に位置し、東シナ海に面す。省都は杭州市。浙とは省内最大の河川・銭塘江を指す。銭塘江は蛇行が激しいことから曲江・之江・折江・浙江などと呼ばれてきた。.

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斯波義信

斯波 義信(しば よしのぶ、1930年10月20日 - )は日本の歴史学者。専門は中国史、特に宋代の商業史、華僑・華人研究など。財団法人東洋文庫特別顧問、大阪大学名誉教授。2003年日本学士院会員。2006年文化功労者。2017年文化勲章。2018年唐奨。.

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方国珍

方 国珍(ほう こくちん 1319年 - 1374年)は中国元末期の反乱指導者。浙江にて反乱を起こし、元末の戦乱の嚆矢となった。 黄巌(浙江省海岸部)出身。塩の密売を行っていたが、1348年(元至正八年)に海賊と繋がっているとの讒言を受け、やむを得ず数千の衆を集めて弟の国瑛と共に反乱を起こした。 元はこれに対して討伐軍を出してくるが、その軍は弱く、方国珍は大勝して将軍トルチパン(朶児只班)を虜にした。討伐が難しいと思った元政府は方国珍に対して県尉の役職を授けて懐柔しようとし、方国珍も一旦はこれを受けて矛を収めたが、その後再び背く。再び送られた政府の討伐軍はまたも敗れ、その将軍ボロト・テムル(孛羅帖木児)は虜となった。その後、方国珍に対して政府は前よりも高い官職を授けた。 その後、何度もこれを繰り返し、その度に官職が高くなり、最終的に1366年(至正26年)九月に江浙行省左丞相・衢国公にまで登る。 その頃の情勢は、同年に白蓮教の教祖であった韓林児が朱元璋によって殺され、朱元璋は最大の敵陳友諒を3年前に滅ぼしており、江南で残すのは蘇州の張士誠と方国珍だけであった。同年の十一月、朱元璋は蘇州を包囲し、張士誠も包囲に耐えたものの翌年の九月に陥落し、張士誠は朱元璋の首都・応天府(南京)に送られて殺された。 あとに残った方国珍は朱元璋に敵し得ず、朱元璋の部下湯和の討伐を受け、逃れて海上に出たものの抵抗をあきらめて降伏した。この時に自分の名前の国珍が朱元璋の字の国瑞に触るので、同音の谷珍に改めている。その後、方国珍は名目上の地位として広西行省左丞相を与えられ、応天府にて死去した。方国珍は朱元璋と争った群雄の中で唯一天寿を全うした。 方国珍を下した朱元璋は大都の元に対して北伐を行い、平行して帝位に即位して明を建て、中国は明による統一時代へと収束していく。 方国珍自身はその決起の時からもわかるように、別段天下を狙うなどと言う気概は無かったようだ。覇権を競うなどとは考えず、朱元璋・陳友諒・ココ・テムルなどと通好を続けており、決定的な敵対関係を作らない事に意を砕いて、成り行きに任せた末にこのようなことになったようである。 Category:元代の人物 Category:1319年生 Category:1374年没.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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愛宕松男

愛宕 松男(おたぎ まつお、1912年2月8日 - 2004年6月)は、東洋史学者、東北大学名誉教授。 京都府出身。京都帝国大学卒業。1951年東北大学教授。1959年「キタイ部族制社会の研究」で京大文学博士。1974年定年退官、名誉教授、京都女子大学教授。専攻は元朝史など中国の征服王朝史。また陶磁器を中心とした産業史、戯曲・演劇史研究もある。 マルコ・ポーロの「東方見聞録」の翻訳で知られる。子息愛宕元も東洋史学者(京大名誉教授)。.

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教皇

教皇(きょうこう、Pāpa、Πάπας Pápas、The Pope)は、キリスト教の最高位聖職者の称号。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。ヴァティカン市国の首長。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。現在の教皇はフランシスコ(第266代)。 日本語では「ローマ法王」と表記されることも多いが、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨している(後述)。またカトリックの内部では「教父」の呼称を用いる場合もある。なお、退位した教皇の称号は名誉教皇(名誉法王とも)という。 本項では主にローマ教皇について記述する。その他の教皇については称号の変遷とその他の「教皇」の節を参照。.

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曲阜市

曲阜市(きょくふ-し)は中華人民共和国山東省済寧市に位置する県級市。省都・済南からは約130kmに位置する。泗河(泗水)が東から西へ流れている。 周・春秋時代の魯国の故地であるほか、孔子の生地として世界に知られている。曲阜は中国政府の「国家歴史文化名城」(歴史都市)の称号が真先にあたえられたほか、1994年にユネスコの世界遺産にも登録された。.

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書道

京都・東寺蔵 『蘭亭序』(部分)王羲之 書道(しょどう)または書(しょ)とは、書くことで文字の美しさを表そうとする東洋の造形芸術である。カリグラフィーの一種。中国が起源であるが、日本語圏においては漢字から派生した仮名、ベトナム語圏では同じく漢字から派生したチュノムやローマンアルファベットを使用するクォック・グーなどでも創作活動が行われている。2009年に中国の書道が、ユネスコの無形文化遺産に登録された。 本項では主に中国語圏及び日本語圏の書道について述べる。その他の文字・地域における書道は他の文字による書道を参照。.

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039A型潜水艦

039A型潜水艦(039Aがたせんすいかん、)は、中国人民解放軍海軍の運用する攻撃型潜水艦の艦級。NATOコードネームは元朝に因んで元型()。なお艦型番号は041型ともいわれている。.

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1206年

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1227年

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1229年

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1241年

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1246年

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1248年

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1251年

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1259年

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1260年

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1263年

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1265年

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1266年

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1267年

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1268年

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1269年

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1270年

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1271年

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1273年

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1274年

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1276年

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1279年

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1281年

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1286年

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1288年

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1292年

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1294年

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1295年

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12月18日

12月18日(じゅうにがつ じゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から352日目(閏年では353日目)にあたり、年末までは、あと13日となる。.

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1301年

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1304年

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1307年

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1308年

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1314年

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1322年

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1323年

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1324年

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1329年

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1335年

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1340年

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1341年

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1347年

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1349年

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1354年

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1356年

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1367年

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1368年

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1370年

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1371年

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1378年

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1379年

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1388年

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1438年

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14世紀

ナスル朝。イベリア半島最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有のアラベスクに彩られたアルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」。 Gilles Le Muisitの年代記』の挿絵)。 エドワード3世率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いたジャン・フロワサールの『年代記』写本の挿絵。 ユダヤ人迫害。中世末期の不穏な情勢の中でスケープゴートとして標的にされたのがユダヤ人であった。画像は15世紀にまとめられた『ニュルンベルク年代記』の木版挿絵で、1338年に起きたバイエルン地方のデッゲンドルフでの「聖餅󠄀冒瀆」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。 カルマル同盟。デンマーク摂政(事実上の女王)マルグレーテ1世がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像はロスキレ大聖堂に安置されたマルグレーテの石棺。 七選帝侯。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は金印勅書で法制化されることになる。 原初同盟は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。 アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口。 ダンテとベアトリーチェ。ダンテは地獄・煉獄・天国をまわる壮大な『神曲』を書いた詩人。画像は19世紀のヘンリー・ホリデーによるもの(ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)。 シエナ。この街は黒死病の被害の影響が大きかったため景観が変化せず中世都市の面影を強く残した街となっている。画像はアンブロージョ・ロレンツェッティによるシエナのプブリコ宮殿(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。 セルビア人の帝国。ネマニッチ朝のステファン・ウロシュ4世ドゥシャンは東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建されたコソボのデチャニ修道院にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。 Codex Mendoza」。 後醍醐天皇。鎌倉幕府を亡ぼし建武の新政を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は清浄光寺所蔵の肖像画。 足利義満。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は鹿苑寺所蔵の肖像画。 西アフリカのマリ王国の王マンサ・ムーサ。イスラム教徒としてメッカに巡礼に向かう旅路で黄金を惜しみなく使った逸話で知られる。 Baptistère de Saint Louis」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、マムルーク朝時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在はルーヴル美術館が所蔵している。 歴史家ラシードゥッディーン。その当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主ガザンとオルジェイトゥの兄弟を描いた『集史』の挿絵。 草原の英雄ティムール。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本の挿絵。 ハンピ)のヴィルーパークシャ寺院。 チベット仏教の改革者ツォンカパ。綱紀粛正に努め左道密教を退けて現在のダライラマに連なるゲルク派(黄帽派)を大成した。 青花の誕生。元朝後期に西アジア産のコバルト顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺(ブルックリン美術館蔵)」。 明の洪武帝朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画(台北国立故宮博物院蔵)。 14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。.

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15世紀

大航海時代。大西洋を渡り新世界を発見したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子ととされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 Musée des Augustins蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」。ロランはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 鄭和の南海大遠征。永楽帝時代には明の国威を示す大艦隊が各地に派遣された。画像は1417年にベンガルから運ばれたキリンを描いた「瑞應麒麟図」。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北故宮博物院蔵)。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 文化を極めた。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。.

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1635年

記載なし。

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1636年

記載なし。

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1644年

記載なし。

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1996年

この項目では、国際的な視点に基づいた1996年について記載する。.

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2004年

この項目では、国際的な視点に基づいた2004年について記載する。.

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2月

2月(にがつ)はグレゴリオ暦で年の第2の月に当たり、通常は28日、閏年では29日となる。 他の月の日数が30または31日なのに対して、 英語の呼び名である February はローマ神話のフェブルウス (Februus) をまつる祭りから取ったと言われている。.

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5月

『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より5月 5月(ごがつ)はグレゴリオ暦で年の第5の月に当たり、31日ある。.

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6月

6月(ろくがつ)はグレゴリオ暦で年の第6の月に当たり、30日ある。 梅雨の季節である。.

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907年

記載なし。

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