ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
ダウンロード
ブラウザよりも高速アクセス!
 

奥州合戦

索引 奥州合戦

奥州合戦(おうしゅうかっせん)は、文治5年(1189年)7月から9月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏との間で東北地方にて行われた一連の戦いの総称である。この戦役により、源頼朝による武士政権が確立した。また治承4年(1180年)に始まる内乱時代(治承・寿永の乱)の最後にあたる戦争でもある。.

104 関係: 城長茂城氏 (平氏)厚樫山千葉常胤吾妻鏡多賀城大庭景義大河兼任大河兼任の乱奥州総奉行奥州藤原氏宣明暦宇都宮二荒山神社安倍貞任尊卑分脈小山朝政上野国常陸国下総国下野国下河辺行平一条能保平氏平治の乱平泉建仁の乱伊佐為宗伊達郡佐竹秀義佐竹氏佐藤基治佐藤忠信佐藤継信御家人後白河天皇後拾遺和歌集北陸道初秋和田義盛和歌出羽国入間田宣夫八田知家前九年の役国見町石那坂の戦い玉葉玉造郡秋田致文紀清両党...統子内親王田川行文由利維平畠山重忠盛岡市白河の関鎮守府将軍鎌倉幕府衣川館越後国能因阿武隈川阿津賀志山防塁閏月関幸彦藤原基衡藤原基成藤原忠衡藤原国衡藤原秀衡藤原頼衡藤原高衡藤原通衡藤原泰衡藤原清衡葛西清重金砂城の戦い長田忠致陸奥国柴田町東北地方栗原市梶原景季梶原景高梶原景時比企能員河田次郎治承治承・寿永の乱源義仲源義経源義朝源頼義源頼朝本歌取文治日本の合戦一覧1180年1186年1188年1189年1978年7月29日 (旧暦)9月18日 インデックスを展開 (54 もっと) »

城長茂

城 長茂(じょう ながもち)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての越後国の武将。初諱は助茂で後に長茂に改称した。越後平氏の一族で城資国の子、資永(助長)の弟。.

新しい!!: 奥州合戦と城長茂 · 続きを見る »

城氏 (平氏)

城氏(じょうし)は、平安時代から鎌倉時代初期に越後国に栄えた豪族。本姓は平氏。常陸平氏大掾氏の傍系で越後平氏ともいわれる。.

新しい!!: 奥州合戦と城氏 (平氏) · 続きを見る »

厚樫山

厚樫山(あつかしやま)は、福島県国見町にある標高289.4mの低山である。福島県と宮城県の県境近くに位置しており、麓を東北自動車道、国道4号、東北本線が束になって通っており、交通の要衝といっても過言ではない。1189年(文治5年)の奥州合戦の際にはこの山一帯が古戦場(阿津賀志山の戦い)となっており、その時の遺跡である二重堀(阿津賀志山防塁)が山中から山麓にかけて現存している。 現在は山頂まで車道が通じている。山頂には展望台が設けられており、福島盆地を望むことが出来る。特に盆地一帯に桃の花が咲く春の景色は美しい。.

新しい!!: 奥州合戦と厚樫山 · 続きを見る »

千葉常胤

千葉 常胤(ちば つねたね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武将。千葉氏を地方豪族から大御家人の地位まで登らしめた千葉家中興の祖といわれる。常胤以降、一族は諱に「胤」の一字を受け継ぐことが多くなる。.

新しい!!: 奥州合戦と千葉常胤 · 続きを見る »

吾妻鏡

『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮の序文 『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。 編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。.

新しい!!: 奥州合戦と吾妻鏡 · 続きを見る »

多賀城

多賀城(たがじょう/たがのき、多賀柵)は、現在の宮城県多賀城市にあった日本の古代城柵。国の特別史跡に指定されている(指定名称は「多賀城跡 附 寺跡」)。 奈良時代から平安時代に陸奥国府や鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・文化・軍事の中心地であった。なお、多賀城が存在した頃は「平安海進」により、周囲は現在と大きく異なる地形をしていたため注意が必要。.

新しい!!: 奥州合戦と多賀城 · 続きを見る »

大庭景義

大庭 景義(おおば かげよし)は平安時代後期から鎌倉時代初期の武将。景能とも表記。桓武平氏支流、鎌倉景正の曾孫(『尊卑分脈』)。.

新しい!!: 奥州合戦と大庭景義 · 続きを見る »

大河兼任

大河 兼任(おおかわ かねとう、生年不詳 - 1190年辰守弘「大河兼任」『秋田大百科事典』 秋田魁新報社、1981年、ISBN 48702000744月16日(文治6年3月10日))は、平安時代後期から鎌倉時代前期の武将。奥州藤原氏の藤原泰衡の郎党。大河兼任の乱を引き起こした。.

新しい!!: 奥州合戦と大河兼任 · 続きを見る »

大河兼任の乱

大河兼任の乱(おおかわかねとうのらん)は、文治5年(1189年)12月から翌年3月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏残党である大河兼任らとの間で東北地方にて行われた戦いである。.

新しい!!: 奥州合戦と大河兼任の乱 · 続きを見る »

奥州総奉行

奥州総奉行、奥州惣奉行(おうしゅうそうぶぎょう)とは、文治5年9月22日、源頼朝が文治五年奥州合戦の戦後処理のために任じた臨時職。守護相当の職制と考えられるが不明な点も多い。奥州合戦に功のあった下総国の住人葛西清重が任じられた。北条時政によって文筆能力を買われ、その推挙によって御家人となった京都出身の伊沢家景もしばしば「奥州総奉行」のひとりと見なされる。.

新しい!!: 奥州合戦と奥州総奉行 · 続きを見る »

奥州藤原氏

毛越寺所蔵の三衡画像(江戸時代) 奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)は、前九年の役・後三年の役の後の寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)までの間、陸奥(後の陸中国)平泉を中心に出羽を含む東北地方一帯に勢力を張った豪族。藤原北家秀郷流を称した。.

新しい!!: 奥州合戦と奥州藤原氏 · 続きを見る »

宣明暦

宣明暦(せんみょうれき)は中国暦の一つで、かつて中国や日本などで使われていた太陰太陽暦の暦法である。正式には長慶宣明暦(ちょうけいせんみょうれき)と言う。特に日本においては中世を通じて823年間継続して使用され、史上最も長く採用された暦となった。 以下、和暦の日付は旧暦表示である。また、西暦の日付は1582年10月4日まではユリウス暦表示、1582年10月15日以降はグレゴリオ暦表示となっている。.

新しい!!: 奥州合戦と宣明暦 · 続きを見る »

宇都宮二荒山神社

宇都宮二荒山神社(うつのみやふたあらやまじんじゃ、-ふたらやまじんじゃ)は、栃木県宇都宮市にある神社。式内社(名神大社)論社、下野国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「三つ巴(菊に三つ巴)」。 正式名称は二荒山神社であるが、日光の二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)との区別のために鎮座地名を冠して「宇都宮二荒山神社」と呼ばれる。古くは宇都宮大明神などとも呼ばれた。現在は通称として「二荒さん」とも呼ばれる。.

新しい!!: 奥州合戦と宇都宮二荒山神社 · 続きを見る »

安倍貞任

安倍 貞任 (あべ の さだとう)は、平安時代中期の武将。安倍氏の棟梁で、奥六郡を支配する俘囚長・安倍頼時の第2子(次男)。厨川柵主として、安倍厨川次郎貞任とも。妹聟に藤原経清(奥州藤原氏初代藤原清衡の父)がおり、貞任と清衡は伯父と甥の関係にあたる。.

新しい!!: 奥州合戦と安倍貞任 · 続きを見る »

尊卑分脈

『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく、異体字で『尊卑分脉』とも)は、日本の初期の系図集。正式名称は『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(しんぺん さんず ほんちょう そんぴぶんみゃく けいふざつるい ようしゅう、旧字体:新編纂圖本朝尊卑分脈系譜雜類要集)、また『諸家大系図』(しょか だいけいず)あるいは単に『大系図』(だいけいず)とも呼ばれる。 姓氏調査の基本図書のひとつで、南北朝時代から室町時代初期に完成した。編者は洞院公定で、主に永和3年(1377年)から応永2年(1395年)にかけて編纂された。ただし、公定死後も養子満季、孫の実煕ら洞院家の人によって編集・改変・訂正・追加が行われた。室町時代以降、広く増補改訂されたため、異本が多く、30巻本・20巻本・14巻本が流布した。 成立当初は帝皇系図・神祇道系図・宿曜道系図を伴ったらしいが失われ、現存する部分は源平藤橘のうちいずれも長く宮廷社会の中枢にいた藤原・源の両氏に詳しい。直線で父系を結び、女性は后妃など極めて一握りの人を除き「女子」と省略されている。系図に名の見える男性官人には、実名とともに生母・官歴・没年月日と享年の注記を含む略伝が付され、貴重である。平安時代および鎌倉時代に関する記載は一級史料として採用される。 ただし当時の記録や公卿の日記に見える人物の名がなかったり、また逆に実在が疑わしい人物が記載されていたり、年代的におかしい部分もある(例えば平忠盛の娘が源義忠に嫁いだと書かれているが、これは忠盛の父平正盛の娘の誤り)等、一部信憑性に欠ける部分もあり、公定死後の部分や加筆された部分に関しては他の史料との整合性や比較批評が必要である。.

新しい!!: 奥州合戦と尊卑分脈 · 続きを見る »

小山朝政

小山 朝政(おやま ともまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。小山氏2代当主。 下野国寒河御厨(小山庄)を本貫地とする。源頼朝に挙兵の頃から仕え、下野国守護の他、播磨国守護に補されたほか、晩年に下野守にも任ぜられた。.

新しい!!: 奥州合戦と小山朝政 · 続きを見る »

上野国

上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 常陸国・上総国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上野介であった類聚三代格。.

新しい!!: 奥州合戦と上野国 · 続きを見る »

常陸国

常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。.

新しい!!: 奥州合戦と常陸国 · 続きを見る »

下総国

下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

新しい!!: 奥州合戦と下総国 · 続きを見る »

下野国

下野国(しもつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

新しい!!: 奥州合戦と下野国 · 続きを見る »

下河辺行平

下河辺 行平(しもこうべ ゆきひら)は、 平安時代末期(1180年頃)から鎌倉時代初期の武将。源頼朝の近臣で鎌倉幕府の御家人。父は下河辺行義。 記録は十分ではないが、『吾妻鏡』などの記述で、その行跡を知ることができる。.

新しい!!: 奥州合戦と下河辺行平 · 続きを見る »

一条能保

一条 能保(いちじょう よしやす)は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原北家中御門流、藤原通重の長男。一条二位入道と号す。.

新しい!!: 奥州合戦と一条能保 · 続きを見る »

平氏

平氏(へいし、たいらうじ)は、「平」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。家紋は揚羽蝶、鱗など。 日本において皇族が臣下に下る(臣籍降下)際に名乗る氏の一つで、有名な桓武平氏を含め4つの流派がある。.

新しい!!: 奥州合戦と平氏 · 続きを見る »

平治の乱

平治の乱(へいじのらん)は、平安時代末期の平治元年12月9日(1160年1月19日)、院近臣らの対立により発生した政変である。.

新しい!!: 奥州合戦と平治の乱 · 続きを見る »

平泉

平泉(ひらいずみ)は、日本の東北地方、岩手県南西部(古代の陸奥国磐井郡)にある古くからの地名であり、現在の岩手県西磐井郡平泉町の中心部にあたる。 この地域一帯には、平安時代末期、奥州藤原氏が栄えた時代の寺院や遺跡群が多く残り、そのうち5件が「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の名で、2011年(平成23年)6月26日(現地時間:6月25日)にユネスコの世界遺産リストに登録された(岩手県教育委員会)。日本の世界遺産の中では12番目に登録された文化遺産であり自然遺産も含めた全体では16番目。同じ年に「小笠原諸島」も登録されたが、世界遺産センターの公式発表は、小笠原諸島が6月24日、平泉が6月25日である(cf.

新しい!!: 奥州合戦と平泉 · 続きを見る »

建仁の乱

建仁の乱(けんにんのらん)は、鎌倉時代前期、建仁元年(1201年)正月23日から5月にかけて、城長茂ら城氏一族が起こした鎌倉幕府への反乱。城長茂の乱とも。 正治2年(1200年)正月、梶原景時の変によって源頼朝の寵臣であった梶原景時が滅ぼされると、景時の庇護を受けていた城長茂は変の1年後に上洛し、京において幕府打倒の兵を挙げ、同時期に本領である越後国で甥の城資盛・姉妹の坂額御前ら城一族が反乱を起こすが、いずれも幕府軍によって鎮圧された。.

新しい!!: 奥州合戦と建仁の乱 · 続きを見る »

伊佐為宗

伊佐 為宗(いさ ためむね、? - 承久3年(1221年)?)は、鎌倉時代初期の御家人。常陸冠者為宗。皇后宮大進。伊佐大進。.

新しい!!: 奥州合戦と伊佐為宗 · 続きを見る »

伊達郡

*.

新しい!!: 奥州合戦と伊達郡 · 続きを見る »

佐竹秀義

佐竹 秀義(さたけ ひでよし)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。清和源氏義光流。源義光(新羅三郎)の孫の源昌義が常陸国佐竹郷に住んで、佐竹を号したことに始まる佐竹氏第3代当主。2代当主佐竹隆義の三男。長兄・義政が金砂城の戦い以前に上総広常により謀殺され、次兄の義清は庶子のために、その嫡男となった。.

新しい!!: 奥州合戦と佐竹秀義 · 続きを見る »

佐竹氏

佐竹氏(さたけし)は、日本の氏族のひとつ。日本の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れをくみ、新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の嫡流。武田氏に代表される甲斐源氏と同族である。通字は「義」。佐竹氏は家紋として定紋の「扇に月」(一般的には日の丸扇と呼ばれている)の他に、源氏香(花散里)・笹竜胆・佐竹桐・丸に釘貫・丁子巴・鉄線を加えた七つの家紋を「御当家七ッ御紋」としている。源氏から中近世大名、華族として明確な系譜として現代まで残った中ではもっとも大きな流れの一つである。.

新しい!!: 奥州合戦と佐竹氏 · 続きを見る »

佐藤基治

佐藤 基治(さとう もとはる)は、奥州信夫郡(現在の福島県福島市飯坂地区)に勢力を張り大鳥城(現在の舘の山公園)に居城した武将。源義経の従者佐藤継信・忠信の父である。.

新しい!!: 奥州合戦と佐藤基治 · 続きを見る »

佐藤忠信

佐藤 忠信(さとう ただのぶ)は、平安時代末期の武将で、源義経の家臣。『源平盛衰記』では義経四天王の1人。佐藤継信の弟。父は奥州藤原氏に仕えた佐藤基治、もしくは藤原忠継。.

新しい!!: 奥州合戦と佐藤忠信 · 続きを見る »

佐藤継信

屋島での継信最後(赤間神宮所蔵) 佐藤 継信(さとう つぐのぶ)は、平安時代末期の武将で、源義経の家臣。『源平盛衰記』では義経四天王に数えられる。奥州藤原氏の家臣・佐藤基治の子。.

新しい!!: 奥州合戦と佐藤継信 · 続きを見る »

御家人

御家人(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の家人の身分を指す語であるが、中世と近世では意味合いが異なる。.

新しい!!: 奥州合戦と御家人 · 続きを見る »

後白河天皇

後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。.

新しい!!: 奥州合戦と後白河天皇 · 続きを見る »

後拾遺和歌集

『後拾遺和歌集』(ごしゅういわかしゅう)は八代集の第四、『拾遺集』の後継たるべく編まれた勅撰和歌集である。勅命は白河天皇、撰者は藤原通俊。承保二年(1075年)奉勅、応徳3年(1086年)9月16日完成を見、同年10月奏覧された。二十巻、総歌数1218首(新編国歌大観本)。 構成は『古今和歌集』を基とし、春(上・下)、夏、秋(上・下)、冬、賀、別、羇旅、哀傷、恋(四巻)、雑(六巻)からなる。巻二十(雑歌六)に収める「神祇」「釈教」の分類は勅撰集における初見。選歌範囲は『古今集』『後撰集』以後、村上朝から白河朝までの約130年間である。 この歌集は、絢爛たる王朝文化が衰退しはじめた頃、華やかなりし昔を振り返ったともいうべきものである。主な歌人としては、和泉式部(67首)・相模(39首)・赤染衛門(32首)・能因法師(31首)・伊勢大輔(26首)と、一条朝前後の宮廷で活躍した歌人が上位を占め、女流歌人の比重も3割と大きい。そのほかにも、清原元輔・大中臣能宣・源道済・藤原長能・藤原公任ら後撰・拾遺時代の歌人も重視されている。和泉式部の激情がほとばしる恋歌から、赤染衛門の細やかな思い遣りの贈答歌、能因・良暹ら僧侶歌人の旅情豊かな歌、曾禰好忠の大胆で型破りの歌まで、その作者・作風ともに多種多様である。また詠歌背景を詳しく説明する長文の詞書が多く、散文的特色が指摘されている。 しかし『後拾遺集』は格調よりも率直な情感を重んじ過ぎたため、撰者が若輩の歌人だったこともあいまって、撰進当時から批判の声が高かった。歌壇の重鎮でありながら撰者の任に漏れた大納言源経信に至っては、わざわざ『難後拾遺』を著してこれを散々に論難するほどだった。.

新しい!!: 奥州合戦と後拾遺和歌集 · 続きを見る »

北陸道

北陸道 北陸道(ほくりくどう、ほくろくどう、くぬがのみち)は、五畿七道の一つ。本州日本海側の中部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から近世)を指す。.

新しい!!: 奥州合戦と北陸道 · 続きを見る »

初秋

初秋(しょしゅう).

新しい!!: 奥州合戦と初秋 · 続きを見る »

和田義盛

和田 義盛(わだ よしもり)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。初代侍所別当。 三浦氏の一族で源頼朝の挙兵に参加。鎌倉に頼朝の初期武家政権がつくられると初代侍所別当に任じられる。治承・寿永の乱では源範頼の軍奉行となり、山陽道を遠征し九州に渡り、平家の背後を遮断した。平家滅亡後は奥州合戦に従軍して武功を立てた。頼朝の死後、梶原景時の変での景時弾劾追放では中心的な役割を果たし、比企能員の変や畠山重忠の乱などの御家人の乱では北条氏に与した。しかし、2代執権・北条義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、幕府軍を相手に鎌倉で戦うが敗死し、和田一族も滅亡した(和田合戦)。館は若宮大路にあった。.

新しい!!: 奥州合戦と和田義盛 · 続きを見る »

和歌

和歌(わか)とは、短歌型式の古典詩。古典短歌。広義には『万葉集』に所収される歌体の総称。 「和歌」の訓は「やまとうた」である。「和」の代わりに「倭」の字が、「歌」の代わりに「謌」、「哥」の字が宛てられたこともある。なお、歌謡と混同されるおそれがない文脈においては「歌」「うた」と表記され、呼ばれることもある。 長連歌、俳諧、狂歌、川柳風狂句は定型の古典詩であるが、和歌には含まれない。また、明治の和歌革新家とその後継者の短歌作品、すなわち近現代短歌は「短歌」と称され、「和歌」とは称されない。近現代短歌はこの項では取り上げない。.

新しい!!: 奥州合戦と和歌 · 続きを見る »

出羽国

出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.

新しい!!: 奥州合戦と出羽国 · 続きを見る »

入間田宣夫

入間田 宣夫(いるまだ のぶお、1942年3月31日 - )は、日本の歴史学者、東北大学名誉教授。専門は、日本中世史。.

新しい!!: 奥州合戦と入間田宣夫 · 続きを見る »

八田知家

八田 知家(はった ともいえ)は平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府御家人。下野宇都宮氏の当主・宇都宮宗綱(八田宗綱)の四男。 系図などによる異説としては源義朝の落胤で、母は宇都宮朝綱の娘八田局で初め朝家(読み同じ)と名乗ったという記述もある。鎌倉幕府の十三人の合議制の一人。小田氏の始祖であり小田城の築城者。.

新しい!!: 奥州合戦と八田知家 · 続きを見る »

前九年の役

前九年の役(ぜんくねんのえき)は、平安時代後期の陸奥国(東北地方)で起こった戦争である。.

新しい!!: 奥州合戦と前九年の役 · 続きを見る »

国見町

国見町(くにみまち)は、福島県伊達郡にある町である。.

新しい!!: 奥州合戦と国見町 · 続きを見る »

石那坂の戦い

飯坂(舘の山公園) 石那坂の戦い(いしなざかのたたかい)は、奥州合戦の際に行われた合戦の一つ。.

新しい!!: 奥州合戦と石那坂の戦い · 続きを見る »

玉葉

『玉葉』(ぎょくよう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて執筆された、日本の公家九条兼実の日記。.

新しい!!: 奥州合戦と玉葉 · 続きを見る »

玉造郡

*.

新しい!!: 奥州合戦と玉造郡 · 続きを見る »

秋田致文

秋田 致文(あきた むねぶみ)は、鎌倉時代初期の豪族。奥州藤原氏の郎党。出羽国秋田郡(現・秋田市)を本拠地とした。名前の読みは定かではなく、「ゆきぶみ」、「ただぶみ」など諸説ある。.

新しい!!: 奥州合戦と秋田致文 · 続きを見る »

紀清両党

紀清両党(きせいりょうとう)とは下野国宇都宮大明神の座主である宇都宮氏の家中の精鋭として知られた武士団。東国武士の武勇を代表する武士団として有名である。.

新しい!!: 奥州合戦と紀清両党 · 続きを見る »

統子内親王

統子内親王(むねこないしんのう、大治元年7月23日(1126年8月13日) - 文治5年7月20日(1189年9月2日))は、平安時代後期の皇族。初名は恂子。鳥羽天皇第2皇女、母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。同母兄弟に崇徳天皇、後白河天皇、覚性入道親王、禧子内親王らがいる。崇徳朝賀茂斎院。後白河天皇の准母・皇后宮、のち女院。院号は上西門院(じょうさいもんいん)。法名は金剛親・真如理。 大治元年(1126年)8月17日に内親王宣下があり、同年12月27日に着袴。間もなく斎院に卜定され、翌大治2年4月6日准三后に叙される。大治4年(1129年)4月19日、紫野院に入るが、長承元年(1132年)6月29日病をえたことにより退下した。 長承3年(1134年)6月16日、名を統子に改める。保元3年(1158年)2月3日、後白河天皇の准母として立后。翌保元4年2月13日に院号宣下。永暦元年(1160年)2月17日、母の待賢門院から相続していた仁和寺法金剛院で出家。寿永元年(1182年)7月8日には、没落した前摂政関白松殿基房の次男・藤原家房を猶子としている。 文治5年(1189年)7月20日、六条院において64歳で崩御。花園東陵に葬られた。.

新しい!!: 奥州合戦と統子内親王 · 続きを見る »

田川行文

川 行文(たがわ ゆきぶみ)は、鎌倉時代前期に出羽国田川郡(現・鶴岡市田川)を本拠地として、田川郡郡司を自称した豪族。奥州藤原氏の郎党。.

新しい!!: 奥州合戦と田川行文 · 続きを見る »

由利維平

由利 維平(ゆり これひら、生年不詳 - 文治6年(1190年)斎藤寿胤「由利氏【維平 これひら】」『秋田大百科事典』 秋田魁新報社、1981年、ISBN 4870200074)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。出羽国(秋田県)を本拠地とした豪族で、藤原泰衡の郎党から御家人となったと見られている。由利維安(維友とも)の八男で、子に維久。中八と号した。.

新しい!!: 奥州合戦と由利維平 · 続きを見る »

畠山重忠

山 重忠(はたけやま しげただ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。 源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して治承・寿永の乱で活躍。知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられて子とともに討たれ(畠山重忠の乱)た。館は、鎌倉筋替橋の東南。 存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された。.

新しい!!: 奥州合戦と畠山重忠 · 続きを見る »

盛岡市

盛岡市(もりおかし)は岩手県の県庁所在地。中核市に指定されている。.

新しい!!: 奥州合戦と盛岡市 · 続きを見る »

白河の関

白河の関(しらかわのせき)は、鼠ヶ関(ねずがせき)・勿来関(なこそのせき)とともに、奥州三関の一つに数えられる関所である。都から陸奥国に通じる東山道の要衝に設けられた関門として史上名高い。 福島県白河市旗宿がその遺構として認定されており、国の史跡に指定されている。.

新しい!!: 奥州合戦と白河の関 · 続きを見る »

鎮守府将軍

鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)は、奈良時代から平安時代にかけて陸奥国に置かれた軍政府である鎮守府の長官。令外官である。平安時代中期以降は武門の最高栄誉職と見なされたが、鎌倉幕府の成立で征夷大将軍が武家の首長職として常置されるに及び、鎮守府将軍の権限と地位はその中に吸収された。.

新しい!!: 奥州合戦と鎮守府将軍 · 続きを見る »

鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

新しい!!: 奥州合戦と鎌倉幕府 · 続きを見る »

衣川館

義経堂 衣河館(ころもがわのたち)は、現在の岩手県西磐井郡平泉町高館にあったとされる奥州藤原氏の居館である。源義経の最期の場所として知られる。高館義経堂(たかだちぎけいどう)、判官館(はんがんだて、ほうがん- )とも呼ばれる。.

新しい!!: 奥州合戦と衣川館 · 続きを見る »

越後国

越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

新しい!!: 奥州合戦と越後国 · 続きを見る »

能因

能因(のういん、永延2年(988年) - 永承5年(1050年)あるいは康平元年(1058年))は、平安時代中期の僧侶・歌人。俗名は橘永愷(たちばな の ながやす)。法名は初め融因。近江守・橘忠望の子で、兄の肥後守・橘元愷の猶子となった。子に橘元任がいた。中古三十六歌仙の一人。.

新しい!!: 奥州合戦と能因 · 続きを見る »

阿武隈川

郡山市郊外を流れる阿武隈川、河川改修前の河道跡が残る。 角田盆地から仙台平野へ抜ける阿武隈川と阿武隈大堰。 阿武隈川河口部拡大写真と旧河口跡鳥の海。画像下中央貞山運河が接続する。 中通り地方の郡山市を流れる阿武隈川。分水嶺である奥羽山脈と日本海へ注ぐ阿賀川の水源のひとつ猪苗代湖を望む。 解説付き画像」 阿武隈川(あぶくまがわ)は、福島県および宮城県を流れる阿武隈川水系の本流で、一級河川である。水系としての流路延長239kmは、東北で北上川に次ぐ長さの川である。古くは大隈川と呼ばれていた。.

新しい!!: 奥州合戦と阿武隈川 · 続きを見る »

阿津賀志山防塁

阿津賀志山防塁(あつかしやまぼうるい)は、福島県伊達郡国見町にある平安時代末期の防塁跡である。二重の堀と三重の土塁で形成されていることから「阿津賀志山二重堀」(あつかしやまふたえぼり)ともいわれる。1189年(文治5年)の阿津賀志山の戦いの主戦場であり、国の史跡に指定されている。.

新しい!!: 奥州合戦と阿津賀志山防塁 · 続きを見る »

閏月

閏月(うるうづき / じゅんげつ)とは、太陰太陽暦において加えられる「月」のこと。これによって一年が13か月となる。.

新しい!!: 奥州合戦と閏月 · 続きを見る »

関幸彦

関 幸彦(せき ゆきひこ、1952年(昭和27年)5月 - )は、日本の歴史学者。日本大学文理学部教授。専門は日本中世史。.

新しい!!: 奥州合戦と関幸彦 · 続きを見る »

藤原基衡

藤原 基衡(ふじわら の もとひら)は、平安時代後期の豪族。奥州藤原氏第2代当主。藤原清衡の次男に当たる。.

新しい!!: 奥州合戦と藤原基衡 · 続きを見る »

藤原基成

藤原 基成(ふじわら の もとなり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての貴族。大蔵卿・藤原忠隆の子。『平治物語』には基通の名で登場する。.

新しい!!: 奥州合戦と藤原基成 · 続きを見る »

藤原忠衡

藤原 忠衡(ふじわら の ただひら)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の奥州藤原氏の武将。奥州藤原氏第3代当主藤原秀衡の三男。第4代当主藤原泰衡の異母弟ですぐ下の弟。秀衡の館柳之御所にほど近い泉屋の東を住まいとしていた。父の遺言である義経保護を強く主張し、その扱いを巡り泰衡と対立、誅殺された。.

新しい!!: 奥州合戦と藤原忠衡 · 続きを見る »

藤原国衡

藤原 国衡(ふじわら の くにひら)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の奥州藤原氏の武将。奥州藤原氏第3代当主・藤原秀衡の長男。母は側室で信夫佐藤氏の娘とも蝦夷の娘であったとも言われる。父の正室(義母)を娶り、泰衡とは義理の父子関係となる。しかし、庶子という身分からか、一族内での発言権には乏しかったようで、高衡を除いた四人の弟をはじめとする一族の相克を傍観するしかなかった。奥州合戦では阿津賀志山の戦いに総大将として参戦するも、戦死した。.

新しい!!: 奥州合戦と藤原国衡 · 続きを見る »

藤原秀衡

藤原 秀衡(ふじわら の ひでひら)は、平安時代末期の武将。奥州藤原氏第3代当主。鎮守府将軍、陸奥守。藤原基衡の嫡男。.

新しい!!: 奥州合戦と藤原秀衡 · 続きを見る »

藤原頼衡

藤原 頼衡(ふじわら の よりひら)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の奥州藤原氏の武将。奥州藤原氏第3代当主藤原秀衡の六男。秀衡の6人の息子の中では末男にあたる。五兄・通衡と同様に、四人の兄達(国衡、泰衡、忠衡、高衡)と比べて記録が極端に少なく、人物像がはっきりしていない。代わりに伝承が多く、一部では非実在説が唱えられている(後述)。.

新しい!!: 奥州合戦と藤原頼衡 · 続きを見る »

藤原高衡

藤原 高衡(ふじわら の たかひら)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の奥州藤原氏の武将。奥州藤原氏第3代当主藤原秀衡の四男。次兄・泰衡が討った源義経の首を鎌倉に持参したとされる。後に奥州合戦に参戦。その結果、秀衡の6人の息子かつ参戦した3人の秀衡の息子(国衡、泰衡、高衡)の中で唯一、奥州合戦後も生き残るが、自身の庇護者の様な存在であった梶原景時が梶原景時の変で討ち取られると、建仁の乱の首謀者の1人となり、幕府転覆を狙う。乱での敗北が決定的となると一味からの離脱を図り、父と親交があった藤原範季の邸宅に逃げ込むが、同じ乱の首謀者である城長茂の郎党が唐橋(信濃)小路にある範季邸に押しかけて高衡は連れ出された。最期は幕府軍に討ち取られ、敗死した。.

新しい!!: 奥州合戦と藤原高衡 · 続きを見る »

藤原通衡

藤原 通衡(ふじわら の みちひら)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の奥州藤原氏の武将。奥州藤原氏第3代当主藤原秀衡の五男。六弟・頼衡と同様に、四人の兄達(国衡、泰衡、忠衡、高衡)と比べて記録が極端に少なく、人物像がはっきりしていない。.

新しい!!: 奥州合戦と藤原通衡 · 続きを見る »

藤原泰衡

藤原 泰衡(ふじわら の やすひら)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。奥州藤原氏第4代(最後)の当主。藤原秀衡の嫡男(次男)。兄(庶長兄、異腹の兄)に国衡、弟に忠衡、高衡、通衡、頼衡がいる。.

新しい!!: 奥州合戦と藤原泰衡 · 続きを見る »

藤原清衡

藤原 清衡(ふじわら の きよひら)は、平安時代後期の武将で奥州藤原氏初代当主。.

新しい!!: 奥州合戦と藤原清衡 · 続きを見る »

葛西清重

葛西 清重(かさい きよしげ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。桓武平氏の流れを汲む秩父氏・豊島氏の庶流にあたる葛西氏。源頼朝に従って歴戦し、鎌倉幕府初期の重臣になった。初代の奥州総奉行、葛西氏の初代当主である。.

新しい!!: 奥州合戦と葛西清重 · 続きを見る »

金砂城の戦い

金砂城の戦い(きんさじょうのたたかい)とは、治承4年11月4日(1180年11月22日)、常陸国金砂城(現茨城県常陸太田市金砂郷地区)における源頼朝率いる軍と常陸佐竹氏との戦いである。平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱のうちの一つ。.

新しい!!: 奥州合戦と金砂城の戦い · 続きを見る »

長田忠致

長田 忠致(おさだ ただむね、生年不詳 - 建久元年(1190年)?)は、平安時代末期の武将。父は長田致俊、兄は長田親致、子に長田景致、鎌田政清室。.

新しい!!: 奥州合戦と長田忠致 · 続きを見る »

陸奥国

奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.

新しい!!: 奥州合戦と陸奥国 · 続きを見る »

柴田町

船岡城址公園から見る柴田町中心部(船岡地区)の街並み 柴田町(しばたまち)は、宮城県南部の仙南圏に位置する町である。.

新しい!!: 奥州合戦と柴田町 · 続きを見る »

東北地方

東北地方(とうほくちほう)は、日本の地域のひとつであり、本州東北部に位置している。「奥羽地方(おううちほう)」ともいう。 その範囲に法律上の明確な定義はないものの「そもそも『〜地方』といわれる範囲に、法律上の明確な定義はない(総務省)」 首都圏と関東地方・山梨県を含むか含まないか 『日本経済新聞』 平成24年6月16日S3面、一般には青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県の6県を指す『日本地名大百科』、小学館、1996年、pp.776-777 ISBN 4-09-523101-7。これら6県は、本州の約3割の面積を占める。東北地方は東日本に位置するが、気象や歴史地理学などでは北海道と一緒に北日本とされる。.

新しい!!: 奥州合戦と東北地方 · 続きを見る »

栗原市

栗駒地区は稲屋敷に広がる水田地帯2005年9月撮影。 栗原市(くりはらし)は、宮城県北西部に位置する市。市全域で栗駒山麓ジオパークをなす。.

新しい!!: 奥州合戦と栗原市 · 続きを見る »

梶原景季

梶原 景季(かじわら かげすえ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。梶原景時の嫡男。梶原源太景季とも。 源頼朝に臣従し、治承・寿永の乱で活躍。父とともに鎌倉幕府の有力御家人となるが、頼朝の死後に没落して滅ぼされた。.

新しい!!: 奥州合戦と梶原景季 · 続きを見る »

梶原景高

梶原 景高(かじわら かげたか、永万元年(1165年) -正治2年1月20日(1200年2月6日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府御家人・梶原景時の次男。通称は平次。妻は小野成綱の娘。.

新しい!!: 奥州合戦と梶原景高 · 続きを見る »

梶原景時

梶原 景時(かじわら かげとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人。 石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となる。教養があり、和歌を好み、武家百人一首にも選出されている。頼朝の信任厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた。一方で、源義経と対立し頼朝に讒言して死に追いやった「大悪人」と古くから評せられている。鎌倉幕府では権勢を振るったが頼朝の死後に追放され、一族とともに滅ぼされた(梶原景時の変)。.

新しい!!: 奥州合戦と梶原景時 · 続きを見る »

比企能員

比企 能員(ひき よしかず)は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。阿波国または安房国出身とみられる。藤原秀郷の流れを汲む比企氏の一族。源頼朝の乳母である比企尼の甥で、のちに養子となる。 比企尼の縁から鎌倉幕府二代将軍・源頼家の乳母父となり、娘の若狭局が頼家の側室となって嫡子一幡を産んだ事から権勢を強めたが、能員の台頭を恐れた北条時政との対立により比企能員の変(比企の乱)が起こり、比企一族は滅亡した。.

新しい!!: 奥州合戦と比企能員 · 続きを見る »

河田次郎

河田 次郎(かわだ の じろう、不詳 - 文治5年9月6日(1189年10月17日))は平安時代末期、鎌倉時代初期の武士。藤原泰衡の郎党。安田次郎とも。諱は守継。 文治5年(1189年)、源頼朝の奥州征伐によって主人・藤原泰衡が敗走すると、比内郡贄柵(現秋田県大館市)の領主であった河田次郎は裏切って9月3日未明に泰衡を殺害した。6日、河田が泰衡の首級を持ち、陣岡に進んでいた頼朝の下へ参じる。頼朝は実検を行うと、泰衡の首はかつて源頼義が安倍貞任の首を釘で打ち付けさせた例に倣わせた。 その後、河田はかつての桐生六郎と同様に主君を討った不義を頼朝によって「泰衡は既にわが掌中に収まっている。何ぞ汝ごときの手を借りようや。汝は旧恩に背き、反逆を敢てするとは許し難い」と激しく、咎められ斬罪に処せられた。 以前に頼朝の父・源義朝も同じような状況で家人・長田忠致に裏切られて殺されており、頼朝の立場として河田次郎を許せなかったと考えられる。.

新しい!!: 奥州合戦と河田次郎 · 続きを見る »

治承

治承(じしょう / ちしょう)は、日本の元号の一つ。安元の後、養和の前。1177年から1181年までの期間を指す。この時代の天皇は高倉天皇、安徳天皇。 治承期は、平氏政権の本格的な確立期および、それに反発して起こった全国的な内乱、すなわち治承・寿永の乱の初期に当たる。源頼朝の関東政権では、この先の養和・寿永の元号を使わず、治承を引き続き使用した。.

新しい!!: 奥州合戦と治承 · 続きを見る »

治承・寿永の乱

治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模な内乱である。古代最後の内乱であり中世最初の内乱である。後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。 一般的には「源平合戦(げんぺいかっせん、げんぺいがっせん)」あるいは「源平の戦い(げんぺいのたたかい)」などの呼称が用いられることがあるが、こうした呼称を用いることは適当でないとする議論がある(詳しくは後述)。また、奥州合戦終結までを治承寿永の乱に含めるという見解もある。.

新しい!!: 奥州合戦と治承・寿永の乱 · 続きを見る »

源義仲

源 義仲 (みなもと の よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。 以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。.

新しい!!: 奥州合戦と源義仲 · 続きを見る »

源義経

源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。 河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名をと呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。 その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき判官とは義経が後白河法皇より任じられた左衛門尉・検非違使を兼ねた官職名。通常は「はんがん」だが、『義経』の伝説や歌舞伎などでは「ほうがん」と読む。)という言葉を始め、多くの伝説、物語を生んだ。.

新しい!!: 奥州合戦と源義経 · 続きを見る »

源義朝

源 義朝(みなもと の よしとも)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の長男。母は白河院近臣である藤原忠清の娘。源頼朝・源義経らの父。 源義家の死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていた。都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で家人に裏切られ謀殺された。.

新しい!!: 奥州合戦と源義朝 · 続きを見る »

源頼義

源 頼義(みなもと の よりよし)は、平安時代中期の武士。河内源氏初代棟梁・源頼信の嫡男で河内源氏2代目棟梁。.

新しい!!: 奥州合戦と源頼義 · 続きを見る »

源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.

新しい!!: 奥州合戦と源頼朝 · 続きを見る »

本歌取

本歌取(ほんかどり)とは、歌学における和歌の作成技法の1つで、有名な古歌(本歌)の1句もしくは2句を自作に取り入れて作歌を行う方法。主に本歌を背景として用いることで奥行きを与えて表現効果の重層化を図る際に用いた。 例えば、.

新しい!!: 奥州合戦と本歌取 · 続きを見る »

文治

文治(ぶんじ)は、日本の元号の一つ。元暦の後、建久の前。1185年から1189年までの期間を指す。この時代の天皇は後鳥羽天皇。.

新しい!!: 奥州合戦と文治 · 続きを見る »

日本の合戦一覧

日本の合戦一覧(にほんのかっせんいちらん)は、日本の歴史上で発生した武力を以って行った主要な争いの一覧である。 概ね「戦い」や「合戦」は軍隊同士の大規模な戦闘、「乱」は国家や公的な組織に対する内戦・反乱・クーデターに当たる争い、「変」は国家や公的な組織による内戦・反乱・クーデター、「役」は外国・異民族との戦争。.

新しい!!: 奥州合戦と日本の合戦一覧 · 続きを見る »

1180年

記載なし。

新しい!!: 奥州合戦と1180年 · 続きを見る »

1186年

記載なし。

新しい!!: 奥州合戦と1186年 · 続きを見る »

1188年

記載なし。

新しい!!: 奥州合戦と1188年 · 続きを見る »

1189年

記載なし。

新しい!!: 奥州合戦と1189年 · 続きを見る »

1978年

記載なし。

新しい!!: 奥州合戦と1978年 · 続きを見る »

7月29日 (旧暦)

旧暦7月29日は旧暦7月の29日目である。年によっては7月の最終日となる。六曜は大安である。.

新しい!!: 奥州合戦と7月29日 (旧暦) · 続きを見る »

9月18日

9月18日(くがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から261日目(閏年では262日目)にあたり、年末まであと104日ある。.

新しい!!: 奥州合戦と9月18日 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

奥州征伐

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »