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保元の乱

索引 保元の乱

保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代末期の保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変である。この公家の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。.

312 関係: しゅ子内親王千覚千葉常胤南都古事談台風右大臣受領吾妻鏡吉川弘文館堀河天皇多田盛綱多田頼盛多田頼憲多田源氏大庭景義大庭景親大和源氏大内裏大炊寮大殿天保暦太上天皇太政大臣外戚女御妹尾兼康宣命宣明暦宣旨家司安元寒河尼寛遍尋範岡部忠澄崩御崇徳天皇工藤茂光左大臣左衛門尉上奏上総広常上総国上田秋成上杉氏上洛与謝蕪村不孝師岡重経...中宮中世中御門流中務省三条家三条公教三波春夫下総国下野国下毛野氏平基盛平家弘平家貞平安京平安時代平山季重平常澄平忠盛平忠正平信兼平信範平等院平経盛平盛俊平盛兼平盛国平頼盛平貞能平重盛平長盛平正衡乳母平治平治の乱平清盛平滋子平成平教盛久安久寿京職康治二条天皇仁平仁和寺伊勢平氏伊豆大島伊豆国弁官式部省佐々木秀義佐々木氏御教書御所徳大寺実能徳大寺家後白河天皇保延保元保元物語保元新制信実信西信濃村上氏信濃源氏北面武士メトロポリタン美術館ユリウス暦ウォーゲーム日本史グレゴリオ暦内大臣内覧出家八田知家公卿公家六条天皇六波羅元服元木泰雄兵範記兵衛府勧修寺流皇后皇后宮職皇太子皇子石清水八幡宮祭文秩父氏範長綸旨美濃源氏猪俣党猪俣範綱猶子統子内親王熊谷直実片切景重相模国白河天皇鎌倉氏鎌倉時代鎌田政清預所西党覚性入道親王馬寮讃岐国貴族鳥羽天皇鳥羽離宮越後平氏足利俊綱足利氏足利氏 (藤原氏)鹿ケ谷の陰謀軍記物語近衛基実近衛天皇近衛府近江国近江源氏能登国興福寺関白薬子の変閑院流藤原多子藤原家長藤原家成藤原宗忠藤原宗能藤原師長藤原幸子藤原仲麻呂の乱藤原伊通藤原得子藤原保成藤原忠実藤原忠通藤原忠清藤原信隆藤原信頼藤原信輔藤原忻子藤原呈子藤原兼長藤原経憲藤原璋子藤原盛憲藤原隆長藤原聖子藤原道長藤原頼長藤原顕季藤原泰子藤原惟方藤原成隆藤原成親藤原教長藤原景綱藤氏長者蔵人野口実重仁親王里内裏金子家忠長寛長男難波頼輔雨月物語逡巡院近臣院政暲子内親王東宮傅東三条殿村山党村上信国村上源氏根井行親検非違使横山党正一位武士武家政権武蔵国永治江戸時代池禅尼没官河内祥輔河内経国河内源氏河越重頼治天の君波多野義通法勝寺法曹類林淳仁天皇清和源氏源季実源師光源光保源義康源義朝源為宗源為仲源為国源為義源為朝源為成源頼仲源頼賢源頼清源頼朝源頼政源親治源資賢源重貞源重成源雅定源満政源朝長源有仁源成雅朝廷朱器台盤昇殿流罪海野幸親斎藤実盛文徳源氏摂家摂津源氏悔返愚管抄慈円承和の変思文閣出版1138年1141年1147年1151年1153年1155年1156年1158年1159年1164年1176年1177年1191年2002年2004年2007年2009年7月 (旧暦)7月11日 (旧暦)7月29日8月5日 インデックスを展開 (262 もっと) »

しゅ子内親王

姝子内親王(しゅし(よしこ)ないしんのう、永治元年11月8日(1141年12月7日) - 安元2年6月13日(1176年7月20日))は、二条天皇の中宮、女院。女院号は高松院(たかまついん)。.

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千覚

千覚(せんがく、康和3年(1101年) - 没年未詳)は平安時代末期の僧侶。藤原北家勧修寺流、土佐守藤原盛実の子。兄弟姉妹に藤原顕憲、藤原忠実室(頼長母)らがある。.

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千葉常胤

千葉 常胤(ちば つねたね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武将。千葉氏を地方豪族から大御家人の地位まで登らしめた千葉家中興の祖といわれる。常胤以降、一族は諱に「胤」の一字を受け継ぐことが多くなる。.

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南都

南都(なんと)は、複都制において「南の都」を意味する語である。.

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古事談

『古事談』(こじだん)は、鎌倉初期の説話集。村上源氏出身の刑部卿源顕兼(源顕房5代目の子孫、1160年-1215年)の編。建暦2年(1212年)から建保3年(1215年)の間に成立。 顕兼は、長年刑部卿を務める一方で、藤原定家や栄西らとも親交があった教養人であり、有職故実にも精通していた。 奈良時代から平安中期に至るまでの462の説話を収める。王道后宮・臣節・僧行・勇士・神社仏寺・亭宅諸道の6巻からなり、巻ごとに年代順で配列。文体は真字(まな)を主とし、仮名交じり文もある。 貴族社会の逸話・有職故実・伝承などに材を取り、『小右記』『扶桑略記』『中外抄』『富家語』などの先行文献からの引用が多い。同時期の作品と比べて尚古傾向が薄く、天皇を始めとする貴人に関しても憚らずその秘事を暴き、正史とは別世界の人間性あふれる王朝史を展開している。あまりな醜聞暴露に恐れをなしたためか、称徳と道鏡、宇多と京極御息所、花山と馬内侍らの淫猥な説話を削った略本もある。天皇・貴族・僧の世界の珍談・秘話集。 説話文学史上、重要な作品であり、承久元年(1219年)成立の『続古事談』を始め、『宇治拾遺物語』など以降の説話集に影響を及ぼした。.

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台風

宇宙から見た台風(平成16年台風第18号) 日本の南にある3つの台風(平成18年台風7, 8, 9号)。2006年8月7日。 台風(たいふう、颱風)は、北西太平洋に存在する熱帯低気圧のうち、低気圧域内の最大風速が約17m/s(34ノット、風力8)以上にまで発達したものを指す呼称 気象庁 2016年9月3日閲覧。。強風域や暴風域を伴って強い雨や風をもたらすことが多く、しばしば気象災害を引き起こす。.

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右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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受領

受領(ずりょう)とは、国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者を平安時代以後に呼んだ呼称。 実際に現地に赴任する国司が前任者から文書や事務の引継を受けることを「受領(する)」と言い、それが職名になった(なお、後任者に文書や事務の引継を行うことを「分付(する)」と称した)。.

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吾妻鏡

『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮の序文 『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。 編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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堀河天皇

堀河天皇内裏跡 堀河天皇(ほりかわてんのう、承暦3年7月9日(1079年8月8日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))は平安時代後期の第73代天皇(在位:応徳3年11月26日(1087年1月3日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))。諱は善仁(たるひと)。 白河天皇の第二皇子、母は藤原師実の養女・中宮賢子。准母に同母姉媞子内親王(郁芳門院)。.

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多田盛綱

多田 盛綱(ただ もりつな、生年不詳 - 保元元年(1156年))は、平安時代末期の武将。多田源氏の一族である散位源頼憲(多田蔵人大夫)の子。源 盛綱(みなもと の もりつな)とも。 保元元年(1156年)に起きた保元の乱に際して、藤原頼長の家人であった父頼憲に従い崇徳上皇方として出陣しその主力の一翼を形成したが、敗北により父と共に捕らえられ斬首された。.

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多田頼盛

多田 頼盛(ただ よりもり、生没年不詳)あるいは源 頼盛(みなもと の よりもり)は、平安時代末期の武将。摂津源氏(多田源氏)源行国の長男。弟に源国章・多田頼憲・源行智・源仲国らがあり、子に多田行綱・多田知実・能瀬高頼・多田高実らがある。従五位下、蔵人、摂津守。 平安中期に源満仲によって拓かれた多田荘を継承した多田源氏の7代目惣領であったが、弟の頼憲とは多田荘の相続を巡り対立した。当時、多田源氏が代々近侍してきた摂関家は、藤原忠通・頼長兄弟の対立により分裂状態にあった為、弟の頼憲が頼長に仕えたのに対し頼盛は忠通に仕えた。そして、仁平3年(1153年)に父行国が死去すると、頼憲との遺領を巡る対立は摂津国内において激しい合戦となるまでに発展した(『本朝世紀』同年閏12月1日条)。 その後の保元の乱では、頼盛は忠通に近侍していた事から後白河天皇方として参陣し、数百の郎党を率いて天皇の警護の任に就くなどした(『兵範記』保元元年(1156年)7月11日条)。一方、弟の頼憲は崇徳上皇方として出陣しており、天皇方の頼盛は勝利したが、敗れた上皇方の頼憲は嫡子と共に斬首された。これにより多田荘は頼盛の嫡子行綱に継承された。.

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多田頼憲

多田 頼憲(ただ よりのり、生年不詳 - 保元元年(1156年))は平安時代末期の武将。散位・源行国の三男。源 頼憲(みなもと の よりのり)とも。「多田蔵人大夫」を名乗る。兄に頼盛、甥に行綱・高頼らがある。従五位下、蔵人、文章生。 兄・頼盛と多田荘の相続を巡って対立し、頼憲も「多田」を号した。摂関家の内部で藤原忠通・頼長兄弟の対立が起こると、頼盛が忠通に従属したのに対して、頼憲は頼長に仕えその勾当となる。久安3年(1147年)には頼長の推挙により内昇殿を許されており、仁平元年(1151年)には頼長の命により、同じく頼長の家人である源為義の摂津国の旅亭を焼却したこともあった。 保元元年の保元の乱に際しては頼長の指揮の下、崇徳上皇方として参陣し、為義や平忠正らとともにその主力を形成する。しかし上皇方が敗北するとともに捕虜となり、嫡男・盛綱とともに斬首された。 なお、『平治物語』には「摂津守多田頼範」なる人物が源義朝方として戦ったとあるが、この人物が頼憲の事なのかは不明である。.

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多田源氏

多田源氏(ただげんじ)は、清和源氏において源満仲(多田満仲)に始まる摂津国多田の地を本拠とした系統を指した呼称。.

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大庭景義

大庭 景義(おおば かげよし)は平安時代後期から鎌倉時代初期の武将。景能とも表記。桓武平氏支流、鎌倉景正の曾孫(『尊卑分脈』)。.

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大庭景親

大庭 景親(おおば かげちか)は、平安時代末期の相模国の武将。平良文の末裔である鎌倉景正の流れを汲む大庭氏の一族(景親は景政の曾孫にあたる)。 平治の乱後に平家の忠実な家人になり、治承4年(1180年)に義朝の遺児・源頼朝が挙兵すると平家方の武士を率いて石橋山の戦いで頼朝を撃破した。しかし、安房国へ逃れた頼朝が再挙して多くの東国武士に迎えられて鎌倉へ入ると抗する術を失う。頼朝が富士川の戦いで平氏に大勝した後に降伏し、処刑された。.

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大和源氏

大和源氏(やまとげんじ)は、清和源氏の一流であり、源満仲の次男の頼親に始まる。.

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大内裏

平安京大内裏の位置 平安京大内裏(平安宮) 大内裏(だいだいり)とは、平安京の宮城である。別名平安宮。.

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大炊寮

大炊寮(おおいりょう/おおいのつかさ/おほい-)は、日本の律令制において宮内省に属する機関の一つである。大炊とは大飯炊(おおいかしぐ)の略称といわれる。.

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大殿

大殿(おおとの)とは、摂関家において摂関経験者にして現在の摂関の父親にあたる人物に対する尊称。摂関(藤氏長者)とは別に独自の家政機関を持ち、家長としての権限を行使していた。.

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天保暦

天保暦(てんぽうれき)は、かつて日本において使用された太陰太陽暦の暦法である。過去に中国に同名の「天保暦」が存在するため、「天保壬寅元暦」(てんぽうじんいんげんれき)と呼ぶこともある。太陰太陽暦は、日本において改暦を繰り返しながら何度か採用されたが、天保暦はそれらの中で最後に使用された暦法である。 明治改暦(グレゴリオ暦#日本におけるグレゴリオ暦導入)により新暦のグレゴリオ暦に改暦され、天保暦は旧暦となった。その後現在まで日本では改暦が無いことから、「旧暦」で狭義には天保暦を指すことがある。なお明治維新の際、陰陽頭・土御門晴雄が太陽暦導入に反対して太陰太陽暦に基づく改暦を企図したが、晴雄の急逝により計画が中止されたため、天保暦に代わる太陰太陽暦への改暦は実施されなかった。 以下、明治5年以前の和暦の日付は天保暦により、西暦および明治6年以降の和暦の日付はグレゴリオ暦による。.

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太上天皇

太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)とは、譲位により皇位を後継者に譲った天皇の尊号、または、その尊号を受けた天皇。由来は、中国の皇帝が位を退くと「太上皇」と尊称されたことにあるとされる。元々は譲位した天皇が自動的に称する尊号であったが、嵯峨天皇の譲位以降は新天皇から贈られる尊号に変化した。 略称は「上皇」である。また、出家した太上天皇を、「太上法皇(法皇)」と称する。ただし、これは法的な根拠のある身位ではなく、太上法皇も太上天皇に含まれる。また、太上法皇の称号が用いられた初例は宇多法皇とされており、聖武上皇や清和上皇などそれ以前の退位後に出家した太上天皇には太上法皇(法皇)を用いるのは正確な表現ではない。 「院」とも称され、太上天皇が治天の君として政務を執った場合、その政治を院政という(太上天皇がみな院政をしいた訳ではない)。三宮(后位)と合わせて「院宮」といい、更に、皇族や有力貴族を含めた総称を「院宮王臣家」といった。院の御所が仙洞御所と呼ばれたことから、「仙洞」も上皇の謂として用いられる。.

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太政大臣

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.

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外戚

外戚(がいせき)とは、皇帝、王の母親または妃の一族のことである。.

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女御

女御(にょうご)は、天皇の後宮の身位の一つで、天皇の寝所に侍した。官名は中国・周代の官制を記した『周礼』に由来し、位は皇后・中宮に次ぐ。また、女御のうち、女性皇族たる女王が女御となった場合の呼称を王女御という。 初見は『日本書紀』雄略天皇の条であるが、実際は桓武天皇の代に紀乙魚・百済王教法などを女御としたのに始まる。当初、その位は低かったが次第に高まり、平安時代中期以降は、皇后は女御から昇進する慣例が確立した。最後の女御は孝明天皇の女御である九条夙子(英照皇太后)。 定員はなく、複数の女御がいる場合は住まう殿舎の名を取って「承香殿女御」などと呼んだ。 応仁の乱以後、上流貴族の娘の入内が絶えると、女御も存在しなくなった。後陽成朝に近衛前久の娘の前子が豊臣秀吉の養女として女御となり、ついで後水尾朝に徳川秀忠の娘の和子が女御になり、さらに中宮へ昇った。江戸時代には歴代天皇の正妻として摂家や世襲親王家の娘が一人だけ女御となり、しばしば准三宮となった。しかし霊元天皇や光格天皇などは女御を中宮に立てたものの、立后させない例の方が多かった。.

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妹尾兼康

妹尾 兼康(せのお かねやす、保安4年(1123年) - 寿永2年閏10月12日(1183年11月28日))は、平安時代末期の平氏方の武将。瀬尾兼康とも呼ばれる。通称は太郎。.

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宣命

宣命(せんみょう)とは、天皇の命令を漢字だけの和文体で記した文書であり、漢文体の詔勅に対していう。この文体を宣命体(-たい)、その表記法を宣命書(-がき)、また宣命を読み上げる使者を宣命使(-し)、宣命を記す紙を宣命紙(-し)という。宣命体は、漢字仮名交じり文の源泉となった文体で、かなの発達史上、大変重要な文書である。.

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宣明暦

宣明暦(せんみょうれき)は中国暦の一つで、かつて中国や日本などで使われていた太陰太陽暦の暦法である。正式には長慶宣明暦(ちょうけいせんみょうれき)と言う。特に日本においては中世を通じて823年間継続して使用され、史上最も長く採用された暦となった。 以下、和暦の日付は旧暦表示である。また、西暦の日付は1582年10月4日まではユリウス暦表示、1582年10月15日以降はグレゴリオ暦表示となっている。.

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宣旨

宣旨(せんじ)は、律令期以降の日本において天皇・太政官の命令を伝達する文書の形式名。朝廷が出す文書の形態の一つ。詔勅の変体。.

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家司

家司(けいし、いえのつかさ)とは、親王・内親王家および職事三位以上の公卿・将軍家などの家に設置され、家政を掌る職員。 本来は律令制で定められた職員であったが、平安時代中期以後は公卿・官人・地下の中から私的に任用され、国政機関の職員が権門の私的な家政職員である家司を兼ねる仕組が形成された。.

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安元

安元(あんげん)は、日本の元号の一つ。承安の後、治承の前。1175年から1177年までの期間を指す。この時代の天皇は高倉天皇。.

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寒河尼

寒河尼/寒川尼(さむかわのあま/さむかわに、保延3年(1137年)- 安貞2年2月4日(1228年3月11日))は、平安時代末期、鎌倉時代初期の女性。八田宗綱の娘。下野国の豪族・小山政光の後妻で、結城朝光の母。源頼朝の乳母も務めた。本名は不詳。『吾妻鏡』で「寒河尼」と記されている。寒川郡の他にも地頭として補任された地である阿志土郷(小山市網戸)から網戸尼(あじとに)とも称された『郷土史事典 栃木県』。.

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寛遍

寛遍(かんぺん、康和2年(1100年) - 永万2年6月30日(1166年7月28日))は、平安時代後期の真言宗の僧。父は大納言源師忠。尊勝院大僧正・忍辱山大僧正とも称される。 山城国円教寺の寛蓮に師事して出家し、寛助に灌頂を受けた。その後大和国忍辱山円成寺を再興し、一字金輪法を日課とした。広隆寺別当・東寺長者・東寺法務・東大寺別当・仁和寺別当・円教寺別当を歴任し、1161年(応保元年)大僧正に至った。この間には、高野山大塔落慶供養の導師をつとめ、また、尊寿院を建立し、鳥羽天皇の皇后美福門院(藤原得子)が寄進した「御手印縁起」を尊寿院におさめた。事相にすぐれ、その後忍辱山流の祖とされる。 Category:平安時代の僧 Category:真言宗の僧 Category:村上源氏 Category:1100年生 Category:1166年没.

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尋範

尋範(じんぱん、寛治7年(1093年) - 承安4年4月9日(1174年5月11日))は、平安時代末期の僧侶。藤原師実の十七男。母は源師房の娘或いは藤原忠俊(藤原隆家の孫)の娘で同母弟に行玄がある。『尊卑分脈』には「尋覚」とも。.

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岡部忠澄

岡部忠澄の墓所(埼玉県深谷市) 岡部 忠澄(おかべ ただずみ)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての武将、御家人。武蔵七党の猪俣党の庶流岡部氏の当主。事績については詳細に乏しいが、『平家物語』における平忠度を討ち取ったエピソードで知られている。.

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崩御

崩御(ほうぎょ)は、天皇、皇帝、国王、太皇太后、皇太后、皇后、君主等の死亡を表す敬語。.

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崇徳天皇

崇徳天皇(すとくてんのう、元永2年5月28日(1119年7月7日) - 長寛2年8月26日(1164年9月14日))は日本の第75代天皇(在位保安4年2月19日(1123年3月18日) - 永治元年12月7日(1142年1月5日))。譲位後は新院、 配流後は讃岐院とも呼ばれた。諱を顕仁(あきひと)という。 鳥羽天皇の第一皇子。母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。.

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工藤茂光

工藤 茂光(くどう もちみつ/しげみつ)は、平安時代末期の武将・豪族。藤原南家の流れを汲む工藤氏の一族。狩野氏の祖であり、狩野茂光(かのう-)とも呼ばれる。.

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左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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左衛門尉

左衛門尉(さえもんのじょう)とは、日本の律令制下の官職のひとつ。左衛門府の判官であり、六位相当の官職であった。五位の者が任ぜられた場合、左衛門大夫または大夫尉という他、検非違使と兼ねた場合には廷尉と俗称された。平家追討において活躍した源義経も任ぜられている。鎌倉時代以降、官職としては有名無実化したが、武士の任官が広くなされるようになるにつれ、左衛門尉などの武官の職は武士から広く好まれるようになり、鎌倉~江戸期を通じて多くの武将たちが任ぜられるか、受領名として使用されるようになっていった。.

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上奏

上奏(じょうそう)とは、天子(皇帝・天皇)に意見・事情等を申し上げることである。奏上ともいう。.

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上総広常

上総 広常(かずさ ひろつね)は平安時代末期の武将、豪族。上総権介上総常澄の八男(嫡男)。上総介広常(かずさのすけひろつね)の呼称が広く用いられる。 房総平氏惣領家頭首であり、源頼朝の挙兵に呼応して平氏との戦いに臨んだ。.

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上総国

上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。.

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上田秋成

上田 秋成(うえだ あきなり、享保19年6月25日(1734年7月25日) - 文化6年6月27日(1809年8月8日))は、江戸時代後期の読本作者、歌人、茶人、国学者、俳人。怪異小説『雨月物語』の作者として特に知られる。.

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上杉氏

上杉氏(うえすぎし / うえすぎうじ)は、公家である藤原家の支族の一つ。1252年、公家である藤原重房が、宗尊親王の鎌倉幕府・将軍(皇族初の征夷大将軍)就任に従って京都から鎌倉へ下向して、武家化し「上杉」姓を賜われたのが上杉氏の祖。室町時代には関東管領を世襲し、越後・上野・武蔵・相模の守護を務める有力守護大名として栄えた。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母は上杉家出身。鎌倉時代、室町時代から江戸時代にかけて栄えた武家の一族(山内上杉家)が著名。山内上杉家15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。豊臣政権の五大老の一人であった山内上杉家17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いにて西軍に付いて敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。本貫地は丹波国何鹿郡上杉荘(現在の京都府綾部市上杉)。 江戸時代には、大名2家、旗本4家(うち高家1家)があり、子孫は現代まで続いている。.

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上洛

上洛(じょうらく)とは、主に京都に入ることを意味する言葉である。入洛とも言った。.

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与謝蕪村

与謝 蕪村(よさ ぶそん、享保元年(1716年) - 天明3年12月25日(1784年1月17日))は、江戸時代中期の日本の俳人、画家。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章。通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩「帰去来辞」に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」、「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」、「謝寅(しゃいん)」など複数ある。 鳶鴉図(重要文化財) 紙本着色.

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不孝

不孝(ふきょう).

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師岡重経

師岡 重経(もろおか しげつね、生没年未詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した武将。諱は重保(しげやす)とも。武蔵国師岡保(現在の横浜市神奈川区)を本拠地とする鎌倉幕府の御家人。葛貫能隆の三男で、河越重頼の弟。桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族。 保元元年(1156年)7月、兄・重頼と共に保元の乱で源義朝の陣に従う。 治承4年(1180年)義朝の遺児・源頼朝が挙兵したのち傘下に入り、頼朝の嫡男・源頼家が誕生した際に鳴弦役を務めている。 寿永3年(1184年)8月6日、一ノ谷の戦い後に頼朝の弟、源義経が鎌倉の許可無く朝廷から検非違使の任官を受け、頼朝の怒りを買う。この時、重経も共に兵衛尉に任官しており、後白河法皇の元に任官の挨拶に行った義経に「御共衛府」(おとものえふ)として随行している(大夫尉義経畏申記)。のちに頼朝から重経の任官について「勘当を許して本領を返してやろうとしたものを、今となっては本領を返す事は出来ない」と罵られている。(「勘当」は頼朝の挙兵当初に秩父一族が敵対した事を指すと思われる) この直後に姪である重頼の娘(郷御前)が義経に嫁ぐ。一年後に頼朝と義経が対立すると、重頼は嫡男・重房と共に頼朝によって誅殺されたが、重経はその後も御家人として幕府に仕え、義経が自害した後の文治5年(1189年)7月19日の奥州合戦に従軍している。 Category:平安時代の武士 Category:鎌倉幕府御家人 しけつね Category:武蔵国の人物 Category:生没年不詳.

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中宮

中宮(ちゅうぐう)は、日本の天皇の妻たちの呼称の一つ。.

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中世

中世(ちゅうせい、英語:middle ages)は、狭義には西洋史の時代区分の一つで、古代よりも後、近代または近世よりも前の時代を指す。17世紀初頭の西洋では中世の観念が早くも定着していたと見られ、文献上の初見は1610年代にまでさかのぼる。 また、広義には、西洋史における中世の類推から、他地域のある時代を「中世」と呼ぶ。 ただし、あくまでも類推であって、西洋史における中世と同じ年代を指すとは限らないし、「中世」という時代区分を用いない分野のことも多い。 また、西洋では「中世」という用語を専ら西洋史における時代区分として使用する。 例えば英語では日本史における「中世」を通常は「feudal Japan」(封建日本)や「medieval Japan」(中世日本)とする。.

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中御門流

中御門流(なかみかどりゅう)は、藤原北家の流れを汲む公卿の一門。御堂流摂政藤原道長の子・右大臣頼宗の子孫。松木家(中御門家)を宗家とする。.

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中務省

中務省(なかつかさしょう)は、律令制における八省のひとつ。和名はナカノマツリゴトノツカサ。唐名は中書省など。「中」は禁中の意。.

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三条家

三条家(さんじょうけ、正字体:三條)は、藤原氏北家閑院流の嫡流にあたる日本の公家。公家としての家格は清華家。明治以降は華族として三条実美の功により公爵を授けられた。家業は笛と香道。家紋は唐菱花(三条花角、三条家花角とも)。通字は「公」と「実」を交互に用いる。やはり家号を略して単に「三条」と呼ばれることもあった正親町三条家や三条西家とは区別して、転法輪三条家(てんぽうりんさんじょうけ、てぼりさんじょうけ)と呼ぶこともある。 明治維新までに三条家が輩出した公卿の数は39名。うち太政大臣まで昇った者が5名、左大臣まで昇った者が5名、右大臣まで昇った者が8名、内大臣まで昇った者が7名となっている。大臣家の正親町三条家と三条西家を筆頭に分流も多くある。.

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三条公教

三条 公教(さんじょう きみのり/さんじょう きんのり)は、平安時代後期の公卿。藤原北家閑院家流三条家当主。太政大臣三条実行の子。正二位・内大臣。.

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三波春夫

三波 春夫(みなみ はるお、1923年7月19日 - 2001年4月14日、本名・北詰 文司(きたづめ ぶんじ))は、新潟県三島郡越路町(現・長岡市)出身の浪曲師、演歌歌手。紫綬褒章受章、勲四等旭日小綬章受章、新潟県民栄誉賞受賞。自身の長編歌謡浪曲などの作詞・構成時のペンネームとして「北村 桃児(きたむら とうじ)」を用いた。俳号は「北桃子(ほくとうし)」。.

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下総国

下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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下野国

下野国(しもつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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下毛野氏

下毛野氏(しもつけのうじ/しもつけぬうじ江戸時代から近年まで、「しもつけの」は「しもつけぬ」とも呼ばれた。現在は「しもつけの」が正しい読みとされる(「毛野#「毛野」の由来と読み」参照)。)は、「下毛野」を氏の名とする氏族。 第10代崇神天皇皇子の豊城入彦命の後裔を称する皇別氏族で、「下毛野君(公)」のち「下毛野朝臣」姓を称した。.

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平基盛

平 基盛(たいら の もともり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の次男。同母兄に重盛がいる。.

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平家弘

平 家弘(たいら の いえひろ、生年未詳 - 保元元年(1156年))は、平安時代末期の武将。伊勢平氏の傍流平正弘の子。母は主計允佐伯貞義の娘。官職は従五位下右衛門大夫。 一族は平正度の弟正済の流れを汲み、信濃国に高田郷・市村郷(水内郡)、麻績御厨(筑摩郡)、矢原郷(安曇郡)の4箇所の所領を持っていた。家弘は京において崇徳上皇に近侍し、久安6年(1150年)の興福寺の強訴の際には、検非違使として崇徳院御所に詰める。仁平3年(1152年)には崇徳院御所に乱入した源満義を捕縛している。 こうした縁から保元元年(1156年)の保元の乱においては、一族を率いて崇徳上皇方に参加。藤原頼長の行った除目によって源為義とともに判官代に任ぜられ、春日面の門の守護にあたる。味方の敗戦が決まり総崩れとなると、子の光弘とともに上皇を警護して戦場を脱出。この際、上皇の後を追って出家しようとしたが、上皇の反対によって思い止まったという。最後は京都大江山にて、子弟とともに源義康の手によって斬首されている。 いえひろ category:平安時代の武士 Category:刑死した人物 Category:生年不明 category:1156年没.

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平家貞

平 家貞(たいら の いえさだ)は、平安時代後期の武将。伊賀を本拠とする伊勢平氏譜代の有力家人である。平忠盛・平清盛の二代に渡って仕え、「一ノ郎等」(『愚管抄』)といわれた。.

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平安京

平安京復元模型写真(大内裏付近) 平安京(へいあんきょう/たいらのみやこ)は、延暦13年10月22日(西暦794年11月22日)から、一説には明治2年(1869年)まで日本の首都であった都市である。平安城ともいい、桓武天皇によって長岡京からの遷都地に選ばれ、唐の首都長安城に倣って計画都市として建設された。現在の京都府京都市・京都市街であり、当時の街路をほぼそのままに主要都市として現存している。明治2年(1869年)に政府(太政官)が東京(旧江戸)に移転して首都機能を失った。平安京が置かれてから鎌倉幕府が成立するまでの約400年間を日本史では「平安時代」という。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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平山季重

平山 季重(ひらやま すえしげ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武蔵七党の一つ西党(日奉氏)の武将。平山直季の子。多西郡舟木田荘平山郷(現東京都日野市平山)を領し、院武者所に伺候したため平山武者所と呼ばれた。.

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平常澄

平 常澄(たいら の つねずみ)は、平安時代後期の武将。上総氏3代当主。平常晴の子。子に上総広常などがいる。諱は常隆、常高、常尊、また名を上総常澄とも。.

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平忠盛

平 忠盛(たいら の ただもり)は、平安時代末期の武将。平清盛の父。烏帽子親は義兄の源義忠。 伊勢平氏で初めて昇殿を許された。北面武士・追討使として白河院政・鳥羽院政の武力的支柱の役割を果たすとともに、諸国の受領を歴任し、日宋貿易にも従事して莫大な富を蓄えた。その武力と財力は次代に引き継がれ、後の平氏政権の礎となった。歌人としても知られ、家集『平忠盛集』がある。.

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平忠正

平 忠正(たいら の ただまさ)は、平安時代末期の伊勢平氏の武将。平正盛の子、忠盛の弟。平清盛の叔父にあたる。.

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平信兼

平 信兼(たいら の のぶかね、生没年不詳)は平安時代末期の武将。桓武平氏大掾氏の一族で、父は平盛兼。子に源頼朝挙兵で最初の標的とされた山木兼隆(山木判官代)のほか、兼衡、信衡、兼時がある。大掾信兼・関信兼とも呼ばれる。官職は出羽守または和泉守。.

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平信範

平 信範(たいら の のぶのり、天永3年(1112年) - 文治3年2月12日(1187年3月23日))は、平安時代末期の公卿。桓武平氏高棟王流、兵部大輔・平知信の三男。母は主殿頭・藤原惟信の娘。兄弟に時信・知範。正室は少納言藤原能忠の娘。子に信基・信国・信季らがある。正三位、兵部卿。字は平能。日記『兵範記』の作者として著名である。また、国宝平家納経の筆者のうちの一人と目される。.

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平等院

平等院(びょうどういん)は、京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院。平安時代後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園等を今日に伝え、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。山号を朝日山と称する。宗派は17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね、現在は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院となっている。本尊は阿弥陀如来、開基は藤原頼通、開山は明尊である。.

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平経盛

平 経盛(たいら の つねもり)は、平安時代末期の平家の武将。平忠盛の三男。平清盛の異母弟。平敦盛らの父。.

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平盛俊

平 盛俊(たいら の もりとし)は、平安時代末期の武将。伊勢国一志郡須賀郷を基盤とする伊勢平氏に連なる有力家人。「彼の家、第一の勇士」(『玉葉』寿永2年6月5日条)といわれた。.

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平盛兼

平 盛兼(たいら の もりかね、生没年不詳)は、平安時代末期の北面武士。桓武平氏大掾氏の一族で、平貞盛の弟平繁盛の子平兼忠の孫・平兼衡の子。右衛門尉。大掾盛兼とも呼ばれる。 また、『吾妻鏡』では、伊勢平氏の平維衡の末裔と記されている。 保元の乱の際、鳥羽法皇の遺勅によって集められた中に和泉守として名があり、藤原忠通方として戦った。子に平信兼・平経隆がいる。孫は山木兼隆。.

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平盛国

平 盛国(たいら の もりくに)は、平安時代末期の伊勢平氏の武将。平清盛の側近。 父は平盛康、または平盛遠(『平家物語』)、平季衡(『尊卑分脈』)など諸説あるが、平正度に連なる一族と見られる。 子息・盛俊と共に「主馬判官管親子」などと称される事から、本拠は伊勢国壱志郡須可郷(現三重県津市)で、その荘官を務めていたと考えられている。他に鎮西にも知行所を有している。.

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平頼盛

平 頼盛(たいら の よりもり)は、平安時代末期の平氏一門の武将・公卿。平忠盛の五男。母は修理大夫・藤原宗兼の女、宗子(池禅尼)。通称は池殿、池大納言。平清盛の異母弟。清盛の男兄弟の中で壇ノ浦の戦い後も唯一生き残った人物である。.

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平貞能

平 貞能(たいら の さだよし)は平安時代末期の武将。伊賀国を本拠とする平氏譜代の有力家人である。父は平氏の「一ノ郎等」(『愚管抄』)である平家貞。.

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平重盛

『紫宸殿の橘』(尾形月耕『日本花図絵』)平重盛と源義平 平 重盛(たいら の しげもり)は、平安時代末期の武将・公卿。平清盛の嫡男。 保元・平治の乱で若き武将として父・清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身に伴って累進していき、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。嫡男ではあったが継室の時子の子である宗盛や徳子とは母が異なり有力な外戚の庇護はなく、正室が藤原成親の妹・経子であったため、成親失脚後は一門のなかでは孤立気味であった。政治的には平氏一門の中で最も後白河法皇に近い立場にあった。清盛の後継者として期待されながらも、清盛と後白河法皇の対立では有効な対策を取ることができないまま、父に先立ち病没した。 六波羅小松第に居を構えていたことから、小松殿ないし小松内大臣とも、またその邸宅に48の灯籠(灯篭)を建てていたことから灯籠大臣とも称された。.

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平長盛

平長盛(たいら の ながもり)は、平安時代末期の武将。平忠正の長男。弟に忠綱、正綱、通正がある。長盛のみ父の偏諱が含まれない名前だが、「長」の字は父が仕えていた藤原頼長からの偏諱(「盛」は伊勢平氏の通字)と考えられる。 崇徳上皇に親しく仕え、その北面・蔵人となり、新院蔵人と呼ばれた。保元元年(1156年)の保元の乱においては、父や三人の弟とともに上皇方として参戦。敗戦に伴い、一家全員捕虜となり、従兄弟の平清盛の手によって処刑された。 一女は宇都宮業綱に嫁ぎ、頼綱の母となったという(『系図纂要』)。また後世、江戸幕府幕臣の服部氏は、伊賀国に住んだ長盛の一子長光の後裔を称している。 Category:平安時代の武士 Category:刑死した人物 なかもり Category:1156年没.

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平正衡

平 正衡(たいら の まさひら、生没年不詳)は、平安時代中期の武将。伊勢平氏の棟梁・平正度の五男。官位は従四位下(一説には従五位下)、検非違使、右衛門尉、出羽守。子に正盛がある。 父祖同様に伊勢国を本拠地として活動、承保2年(1075年)には天台宗の僧良心と結託し同国桑名郡における東寺の末寺多度神宮寺を天台の別院と称してその所領荘園などを押妨した。これは結果的に朝廷の裁定により認められなかったが、伊勢における正衡の活発な軍事行動の一端を示す事例と言える。 他方、都で藤原師実に仕え、京周辺の警察活動にも従事する。承暦3年(1079年)に起こった延暦寺の僧兵による強訴に際しては、源頼綱や兄の季衡らとともに出動し都の防衛に当たっている。康和元年(1099年)の除目で出羽守に就任。それ以降の事績は不詳である。 嫡男の正盛は白河院の庇護の下中央政界に進出、忠盛、清盛と続く平家隆盛の基礎を築いたことで知られる。.

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乳母

乳母(うば、めのと)とは、母親に代わって子育てをする女性のこと。.

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平治

平治(へいじ)は、日本の元号の一つ。保元の後、永暦の前。1159年の期間を指す。この時代は二条天皇による治世。.

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平治の乱

平治の乱(へいじのらん)は、平安時代末期の平治元年12月9日(1160年1月19日)、院近臣らの対立により発生した政変である。.

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平清盛

平 清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の武将・公卿。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。.

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平滋子

平 滋子(たいら の しげこ、康治元年(1142年) - 安元2年7月8日(1176年8月14日))は、後白河天皇の譲位後の妃。高倉天皇の生母。女御、皇太后、女院。桓武平氏高棟流、いわゆる堂上平氏の生まれ。父は兵部権大輔・平時信(贈左大臣)、母は中納言・藤原顕頼の娘、祐子(すけこ)。兄弟に時忠・親宗、姉妹に二位尼時子(平清盛継室)・冷泉局(建春門院女房)・清子(宗盛の室)・坊門殿(重盛の室、維盛母の可能性あり)・藤原親隆の室(権少僧都・全真の母)・帥局(建礼門院女房)がいる。院号は建春門院(けんしゅんもんいん)。.

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平成

平成(へいせい)は日本の元号の一つ。昭和の後。今上天皇在位中の1989年(平成元年)1月8日から現在に至る。2001年(平成13年)の始まりには西暦における20世紀から21世紀への世紀の転換もあった。2019年(平成31年)4月30日に今上天皇退位により終了する予定であり、予定通り終了した場合、30年113日間(=11,070日間)にわたることとなる。なお、日本の元号では昭和(64年)、明治(45年)、応永(35年)に次いで4番目の長さである(5番目は延暦の25年)。 西暦2018年(本年)は平成30年に当たる。本項では平成が使われた時代(平成時代)についても記述する。.

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平教盛

平 教盛(たいら の のりもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平忠盛の四男。平清盛の異母弟。母は藤原家隆の娘(待賢門院に仕えた女房)。平通盛、平教経の父。 保元の乱、平治の乱で兄の清盛に従って戦う。邸宅が六波羅の総門にあったことから門脇殿と通称され、さらに平氏政権での栄達に従って門脇宰相・門脇中納言と呼ばれた。鹿ケ谷の陰謀事件では娘婿の藤原成経が罪に問われたため、その赦免に奔走した。治承・寿永の乱では主に後方の守りについた。一ノ谷の戦いで嫡男の通盛を始め子息を失う。壇ノ浦の戦いの敗戦の中で兄の経盛とともに入水した。.

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久安

久安(きゅうあん)は、日本の元号の一つ。天養の後、仁平の前。1145年から1150年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇。.

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久寿

久寿(きゅうじゅ)は、日本の元号の一つ。仁平の後、保元の前。1154年から1155年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇、後白河天皇。.

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京職

京職(きょうしき)とは、日本の律令制において京(みやこ)の司法、行政、警察を行った行政機関である。古訓はミサトヅカサ。京は碁盤の目状に大路・小路が整備され(条坊制)、京内の東側を「左京(さきょう=南面する玉座より見て左)」、西側を「右京(うきょう=南面する玉座より見て右)」と呼び、「左京職(さきょうしき)」・「右京職(うきょうしき)」に分かれていた。なお、京職(きょうしょく)は京都所司代の別称。.

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康治

康治(こうじ)は、日本の元号の一つ。永治の後、天養の前。1142年から1143年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇。.

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二条天皇

二条天皇(にじょうてんのう、康治2年6月18日(1143年7月31日) - 永万元年7月28日(1165年9月5日))は第78代天皇(在位:保元3年8月11日(1158年9月5日) - 永万元年6月25日(1165年8月3日))。諱は守仁(もりひと)。 後白河天皇の第一皇子。母は、大炊御門経実の娘で、源有仁の養女・贈皇太后懿子。.

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仁平

仁平(にんぺい、にんぴょう)は、日本の元号の一つ。久安の後、久寿の前。1151年から1153年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇。.

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仁和寺

双ヶ岡より仁和寺を望む 仁和寺(にんなじ)は、京都府京都市右京区御室にある真言宗御室派総本山の仏教寺院。山号は大内山。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は宇多天皇。「古都京都の文化財」として、世界遺産に登録されている。.

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伊勢平氏

伊勢平氏(いせへいし)は、承平天慶の乱に功のあった平貞盛の四男平維衡よりはじまる平氏一族の一つ、高望王流坂東平氏の庶流である。平氏の中でも伊勢平氏、特に平正盛の系統(六波羅家あるいは六波羅流)を平家(へいけ)と呼ぶ場合がある。.

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伊豆大島

伊豆大島(いずおおしま)は、伊豆諸島北部に位置する伊豆諸島最大の島。本州で最も近い伊豆半島からは南東方約25kmに位置する。大島と名のつく島は日本各地にあるが、国土地理院では伊豆大島と表記する。面積は91.06km2。行政区域は、東京都大島町である。.

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伊豆国

伊豆国(いずのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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弁官

弁官(べんかん、辨官)は、朝廷の最高機関、太政官の職である左大弁(さだいべん)・右大弁(うだいべん)・左中弁(さちゅうべん)・右中弁(うちゅうべん)・左少弁(さしょうべん)・右少弁(うしょうべん)の総称である。唐名(漢風名称)は尚書。通説においては四等官の中の判官(じょう)に相当するが、異説として弁官を含めた弁官局を太政官の別局として捉え、元は本来の四等官の系列には含まない品官であったする説もある。また、『延喜式』においても、季禄・時服・馬料・要劇料などの給与の支給手続やそのために必要な上日の集計・考文の送付などが太政官とは別個に行われ、人事・財政体系における太政官からの独立性が確認できる。 大弁は従四位上、中弁は正五位上相当、少弁は正五位下相当(養老令官位令)。 官庁を指揮監督する役を負っていたため、後には少納言より高位に位置づけられ、参議と大弁を兼任する者もいた。また、蔵人頭と大弁または中弁を兼ねる者もおり、特に頭弁(とうのべん)と称された。 左中弁以上の経験者には参議に昇進する資格があり(右中弁以下にはない)、将来三位以上に昇る道が開かれた出世の登竜門であった。.

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式部省

式部省(しきぶしょう)は、日本の律令制における八省のひとつ。和名は「のりのつかさ」。天平宝字2年(758年)から同8年(764年)の間のみ文部省(ぶんぶしょう)に改称された。大学寮・散位寮の二寮を管掌していた。.

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佐々木秀義

佐々木 秀義(ささき ひでよし)は、平安時代末期の武将。源頼朝の挙兵を助けた佐々木四兄弟の父。.

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佐々木氏

佐々木氏(ささきし)は、日本の氏族のひとつ。家系は宇多天皇の第8皇子・敦実親王の流れをくむ宇多源氏、源成頼の孫・佐々木経方を祖とする一族。近江国蒲生郡佐々木荘を発祥に、軍事貴族として繁栄した。後に源平合戦(治承・寿永の乱)で活躍し全国に勢力を広げた。.

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御教書

御教書(みぎょうしょ、みきょうしょ)とは平安時代後期から室町時代にかけて、三位以上及びそれに准じる地位にある人の家司が主の意思を奉じて発給した古文書の形態。四位以下の公家や守護大名クラスの武士の家司・家僕が主の意思を奉じて発給した同形式の文書は奉書という。.

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御所

御所(ごしょ)とは、主に天皇など特に位の高い貴人の邸宅、またはその人を指す、歴史上の称号のひとつ。そのいくつかは現代にも名称を残している。.

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徳大寺実能

鳥羽法皇に献じ御所となった、京都市中京区三条通烏丸西入ル南側 徳大寺 実能(とくだいじ さねよし、永長元年(1096年) - 保元2年9月2日(1157年10月6日))は、平安時代後期の公卿。父は藤原公実。母は但馬守・藤原隆方の娘で、堀河・鳥羽両天皇の乳母・藤原光子。待賢門院の同母兄であり、徳大寺家の祖となる。久安3年(1147年)徳大寺を建立し、徳大寺左大臣と称された。子に徳大寺公能、徳大寺公親、徳大寺公保がいる。従一位・左大臣。.

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徳大寺家

徳大寺家(とくだいじけ、正字体:德大寺)は、日本の公家、藤原氏北家閑院流。公家としての家格は清華家で、三条家や西園寺家とは兄弟筋にあたる。明治以降は華族として徳大寺実則が侯爵を授けられ、のちにその功により公爵に陞爵した。家業は笛。家紋は木瓜花菱浮線綾(徳大寺家花角)。通字は「公」と「実」を交互に用いる。 家祖の左大臣徳大寺実能は、閑院流の流祖である太政大臣藤原公季の五世孫・権大納言藤原公実の四男で、平安時代末期に崇徳・後白河両帝の国母となった待賢門院の同母兄にあたる。実能は葛野郡衣笠岡(現在の京都市北区)の西南麓に山荘を営み、その中に持仏堂を建ててこれを得大寺あるいは徳大寺と呼んでいたが、のちにはこの山荘自体が徳大寺殿と呼ばれるようになり、これが家名の由来となった。 江戸時代には禁裏北の公家屋敷の一角、今出川烏丸東入北側に屋敷を構えていた。その跡地には明治になって華族会館が建てられ、戦後は同志社大学が取得して同大学大学院の図書館が建てられたが、烏丸今出川交差点と京都市バスの烏丸今出川停留所の間に今日もたたずむ旧徳大寺家の表門がかろうじて往時の名残をその地に留めている。.

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後白河天皇

後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。.

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保延

保延(ほうえん)は、日本の元号の一つ。長承の後、永治の前。1135年から1141年までの期間を指す。この時代の天皇は崇徳天皇。.

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保元

保元(ほうげん、ほげん)は、日本の元号の一つ。久寿の後、平治の前。1156年から1158年までの期間を指す。この時代の天皇は後白河天皇、二条天皇。.

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保元物語

『保元物語』・文保本(1318年写) 『保元物語』(ほうげんものがたり)は、保元の乱の顛末を描いた作者不詳の軍記物語である。.

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保元新制

保元新制(ほうげんのしんせい)とは、保元元年閏9月18日(1156年11月2日)に出された宣旨7ヶ条のこと。保元元年令とも。また、翌保元2年3月17日(1157年4月27日)に出された太政官符5ヶ条及び同年10月8日(1157年11月11日)宣旨35ヶ条との総称として用いられる場合もある。荘園整理令として重視する観点からは保元の荘園整理令と呼ばれる場合もある。.

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信実

信実(しんじつ、生没年未詳)は、平安時代末期の僧侶。父は大和源氏の源頼安(法華経太郎)。頼兼、義忠の兄、玄実、仲房(大和越智氏の祖)、頼清の父(奈良県史所収『越智氏略系図』と戦国大名系譜人名事典所収『越智氏系図』)。 興福寺の権寺主、寺主、上座を歴任し、別当の覚晴の死後は寺務を掌握する。「日本一悪僧武勇」と称され、大和国内にて同族の源親治と抗争した他、天養2年(1145年)には興福寺の大衆を率いて金峯山を襲撃するなど、武装化傾向を強める興福寺の中にあって中心的な役割を果たした。 藤原忠実、頼長父子との関係が深く、保元元年(1156年)の保元の乱においては崇徳上皇方に加勢する。上皇方が敗北した後は、南都に逃れてきた忠実を尋範・千覚らとともに守護し、朝廷から挙兵の疑いをかけられたという。このため、乱の直後は所領を没収されたが、保元3年(1158年)には法橋に任ぜられており、依然として朝廷から一目置かれる存在であったことが窺える。 Category:平安時代の僧 Category:大和源氏 Category:越智氏.

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信西

信西(しんぜい、嘉承元年(1106年) - 平治元年12月13日(1160年1月23日))は、平安時代後期の貴族、学者、僧侶。信西は出家後の法名、号は円空、俗名は藤原 通憲(ふじわら の みちのり)、または高階 通憲(たかしな-)。藤原南家貞嗣流、藤原実兼の子。正五位下、少納言。.

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信濃村上氏

信濃村上氏(しなのむらかみし)は、戦国時代の村上義清に代表される河内源氏の庶流村上氏の嫡流を指す。.

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信濃源氏

信濃源氏(しなのげんじ)は、中世に信濃国に土着し本拠とした源姓の氏族を指した呼称。いずれも清和源氏で、以下の数流がある。.

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北面武士

北面武士(ほくめんのぶし)とは、院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士のこと。11世紀末に白河法皇が創設した。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員された。.

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メトロポリタン美術館

メトロポリタン美術館(メトロポリタンびじゅつかん、The Metropolitan Museum of Art、通称:The Met)は、アメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタンにある世界最大級の美術館。5番街(ミュージアム・マイルの区間)に面するセントラル・パークの東端に位置する。.

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ユリウス暦

ユリウス暦(ユリウスれき、、、)は、共和政ローマの最高神祇官・独裁官・執政官ガイウス・ユリウス・カエサルにより紀元前45年1月1日から実施された、1年を365.25日とする太陽暦である。もともとは共和政ローマおよび帝政ローマの暦であるが、キリスト教の多くの宗派が採用し、西ローマ帝国滅亡後もヨーロッパを中心に広く使用された。 ローマ教皇グレゴリウス13世が1582年、ユリウス暦に換えて、太陽年との誤差を修正したグレゴリオ暦を制定・実施したが、今でもグレゴリオ暦を採用せずユリウス暦を使用している教会・地域が存在する。グレゴリオ暦を導入した地域では、これを新暦(ラテン語: Ornatus)と呼び、対比してユリウス暦を旧暦と呼ぶことがある。 なお、天文学などで日数計算に用いられるユリウス通日があるが、これはユリウス暦とは全く異なるものである。.

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ウォーゲーム日本史

『ウォーゲーム日本史』は、国際通信社が発行する解説書付きウォーシミュレーションゲームである。アナログゲームとしてのウォーゲームを扱う。1,4,7,10月の季刊として発行され、発売は発行前月の20日前後である。国際通信社ではコマンドマガジン日本版の姉妹誌として紹介している。2012年5月現在、一般書店で入手可能(取り扱いは星雲社)。26号を最後に休刊することが、ホームページで告知され無期休刊となった。2016年10月、単発刊行の27号がボックス仕様で発売された。.

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グレゴリオ暦

レゴリオ暦(グレゴリオれき、、、)は、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ、1582年10月15日(グレゴリオ暦)から行用されている暦法である。現行太陽暦として世界各国で用いられている。グレゴリオ暦を導入した地域では、ユリウス暦に対比して新暦()と呼ばれる場合もある。紀年法はキリスト紀元(西暦)を用いる。 大辞林 第三版、など。、暦法と紀年法とが混同されている。--> グレゴリオ暦の本質は、平年では1年を365日とするが、400年間に(100回ではなく)97回の閏年を置いてその年を366日とすることにより、400年間における1年の平均日数を、365日 + (97/400)日.

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内大臣

内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。.

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内覧

内覧.

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出家

出家(しゅっけ、pabbajja、pravrajyaa、प्रव्रज्या) とは、師僧から正しい戒律である『沙弥戒』や『具足戒』を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教に入ることである。落飾(らくしょく)ともいう。対義語は還俗(げんぞく、“俗界に還る”の意)。 在家(ざいけ)と対比される。インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行にいそしんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、釈迦もその沙門の1人であった。 仏教における出家の伝統はこれに由来する。仏教教団において剃髪(ていはつ)して袈裟を被い、「正式に受戒(じゅかい)して入門した沙弥や沙弥尼」になることを言うが、その後、「具足戒を受けて正規の僧となった比丘や比丘尼」を呼ぶ場合にも使う。.

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八田知家

八田 知家(はった ともいえ)は平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府御家人。下野宇都宮氏の当主・宇都宮宗綱(八田宗綱)の四男。 系図などによる異説としては源義朝の落胤で、母は宇都宮朝綱の娘八田局で初め朝家(読み同じ)と名乗ったという記述もある。鎌倉幕府の十三人の合議制の一人。小田氏の始祖であり小田城の築城者。.

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

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六条天皇

六条天皇(ろくじょうてんのう、長寛2年旧11月14日(1164年12月28日) - 安元2年旧7月17日(1176年8月23日))は日本の第79代天皇(在位:永万元年旧6月25日(1165年8月3日) - 仁安3年旧2月19日(1168年4月9日))。諱を順仁(のぶひと)という。.

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六波羅

六波羅(ろくはら)は、京都の鴨川東岸の五条大路から七条大路一帯の地名。現在の京都市東山区の一部。六原とも記される。.

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元服

元服(げんぶく、げんぷく)とは、奈良時代以降の日本で成人を示すものとして行われた儀式。通過儀礼の一つである。 「元」は首(=頭)、「服」は着用を表すので、「頭に冠をつける」という意味。加冠とも初冠(ういこうぶり)とも言われる。なお、公家の女子の成人式は裳着(もぎ)と言う。民間においては褌親(へこおや・ふんどしおや)の元で、初めてふんどしを付け、性に関する知識を授かる褌祝(ふんどしいわい)と呼ばれる儀式がある。.

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元木泰雄

元木 泰雄(もとき やすお、1954年12月7日 - )は、日本の歴史学者である。京都大学大学院人間・環境学研究科教授。兵庫県西宮市出身。.

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兵範記

『兵範記』(へいはんき/ひょうはんき)は、平安時代の公家平信範の日記。書名は信範の極官である兵部卿と信範の名から。また住所であった洞院を取って『平洞記』とも、信範の二字の偏を取って『人車記』とも呼ばれる。記載時期は天承2年(1132年)から承安1年(1171年)に至るまで約40年間を網羅する。 信範は、桓武平氏高棟流の流れをくむ「日記の家」と呼ばれた実務官僚の家系であり、その日記は平安時代後期の朝廷や公家たちの活動、朝廷の儀典について知るための基本史料となっている。特に信範は摂関家の藤原忠通・基実らに家司として仕えたため、当時の上級公家などの動きに詳しく、なかでも保元の乱および乱後の後白河院・平家などについての詳細な記述は、他の諸記録の追随を許さないといえる。 さらに『兵範記』原本の特長としては、大量の紙背文書の存在が挙げられる。信範が摂関家政所別当職や蔵人頭を務めていた際の訴訟・行政文書の裏が日記用の紙に使われており、摂関家の内部事情や蔵人頭の業務内容が窺える貴重な史料ともなっている。.

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兵衛府

兵衛府(ひょうえふ)とは、律令制における官司。左兵衛府と右兵衛府の二つが存在する。長は兵衛督 (左兵衛督・右兵衛督)である。左右近衛府、左右衛門府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。和訓では「つはもののとねりのつかさ」という。唐名は武衛(ぶえい)。.

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勧修寺流

勧修寺流(かじゅうじりゅう、かんじゅじりゅう)は、藤原北家高藤流の公家(公家貴族)の一流である。.

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皇后

皇后(こうごう、Empress)は、天皇や皇帝の正妃(正妻)、およびその人物に与えられる称号。 一夫多妻制のもとでは、天皇や皇帝の複数の妻のうち最上位の者となる。.

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皇后宮職

皇后宮職(こうごうぐうしょく、こうごうぐうしき)は皇后の家政機関を指す。日本の宮内庁においては宮内庁侍従職が天皇と皇后に関する事務をあわせて担当するため、現在はおかれていない。.

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皇太子

皇太子(こうたいし、Crown Prince)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号。一般的には皇室ならびに海外の王室における君主位の法定推定相続人の敬称として使われる。.

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皇子

皇子(みこ、おうじ)は、皇帝または天皇の男子。広義には男女を問わない(皇室典範第6条参照)が、かかる用法はまれである。国によって「親王」「郡王」「王」「大公」などの称号が与えられることがある。これに対して女子を皇女(おうじょ)という。.

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石清水八幡宮

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、京都府八幡市にある神社。旧称は「男山八幡宮」。二十二社(上七社)の1つで、伊勢神宮(三重県伊勢市)とともに二所宗廟の1つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 宇佐神宮(大分県宇佐市)・筥崎宮(福岡市東区)または鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)とともに日本三大八幡宮の1つ。また宮中の四方拝で遥拝される神社の1つである。本殿を含む建造物10棟が国宝に指定されている。.

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祭文

祭文とは、.

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秩父氏

秩父氏(ちちぶし)は、日本の武家のひとつ。本姓は平氏。桓武平氏の一門、坂東平氏の流れで、坂東八平氏のひとつに数えられる。鎮守府将軍・平良文の孫で、桓武天皇6世にあたる平将恒を祖とし、平将門の女系子孫でもある。後に秩父平氏と呼ばれる多くの支流を出した名族で、「武蔵国留守所総検校職」として武蔵国内の武士を統率・動員する権限を有し、秩父氏館(吉田城)を居城とした。秩父氏一門の諸氏族は主に「重」の字を通字とした。.

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範長

長(はんちょう、久安元年(1145年) - 没年未詳)は、平安時代末期の法相宗の僧侶。左大臣藤原頼長の四男で末子。母は源師俊の娘で、同母兄に兼長、隆長がいる。幼名は乙麿、また乙法師とも。『保元物語』には範長禅師と記載。.

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綸旨

綸旨(りんじ)とは、蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文書。 綸旨とは本来は「綸言の旨」の略であり、天皇の意そのものを指していたが、平安時代中期以後は天皇の口宣を元にして蔵人が作成・発給した公文書の要素を持った奉書を指すようになった。御綸旨(ごりんじ・ごりんし)とも呼ぶ。.

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美濃源氏

美濃源氏(みのげんじ)とは、中世に美濃国に土着し本拠とした清和源氏の流れを汲む一族の呼称。.

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猪俣党

俣党(いのまたとう)は、武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町の猪俣館)を中心に勢力のあった武士団。武蔵七党の一つ。小野篁の末裔を称す横山党と同族である。主に猪俣氏を名乗った。 分布地域は二つに分かれ、神流川扇状地の条理地域と利根川南岸の旧河道の間の台地上で、当時の条里水田に立地したものと思われる。 保元の乱や平治の乱、一ノ谷の戦いで活躍した猪俣小平六範綱と岡部六弥太忠澄が有名。.

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猪俣範綱

猪俣 範綱(いのまた のりつな、生年不明 - 1192年)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての武将、御家人。武蔵七党の猪俣党の当主。 保元の乱で源義朝に仕えた。平治の乱では源義平の下で軍功をあげた十七騎の雄将として知られている。また源頼朝・源義経にも仕え、一ノ谷の戦いで平盛俊を騙し討ちにしたとされている。 範綱の死後、始まりの時代は不詳だが、一族の霊を慰めるため猪俣百八燈という行事が毎年行われている。 Category:平安時代の武士 Category:鎌倉幕府御家人 Category:猪俣党 Category:武蔵国の人物 Category:生年不明 Category:1192年没.

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猶子

子(ゆうし)とは、兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度。漢文訓読では「なほ子のごとし」(訳:あたかも実子のようである)という意味。 中国における本義は兄弟の子の意味。養子との違いは、家督や財産などの相続を必ずしも目的の第一義とはせず、実力や「徳」に優れた仮親の権勢を借りたり、一家・同族内の結束を強化するために行われた。具体的には、官位などの昇進上の便宜、婚姻上の便宜、他の氏族との関係強化が図られる場合に組まれるようである。そのため、子供の姓は変わらない場合があったり、単なる後見人としての関係であるなど、養子縁組と比べて単純かつ緩やかで擬制的な側面が大きい。 ただし、相続に関しての実際は明確な区別はなく、猶子であっても相続がなされる場合も多い。ときに両者をまったく同義で使用している場合がある。.

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統子内親王

統子内親王(むねこないしんのう、大治元年7月23日(1126年8月13日) - 文治5年7月20日(1189年9月2日))は、平安時代後期の皇族。初名は恂子。鳥羽天皇第2皇女、母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。同母兄弟に崇徳天皇、後白河天皇、覚性入道親王、禧子内親王らがいる。崇徳朝賀茂斎院。後白河天皇の准母・皇后宮、のち女院。院号は上西門院(じょうさいもんいん)。法名は金剛親・真如理。 大治元年(1126年)8月17日に内親王宣下があり、同年12月27日に着袴。間もなく斎院に卜定され、翌大治2年4月6日准三后に叙される。大治4年(1129年)4月19日、紫野院に入るが、長承元年(1132年)6月29日病をえたことにより退下した。 長承3年(1134年)6月16日、名を統子に改める。保元3年(1158年)2月3日、後白河天皇の准母として立后。翌保元4年2月13日に院号宣下。永暦元年(1160年)2月17日、母の待賢門院から相続していた仁和寺法金剛院で出家。寿永元年(1182年)7月8日には、没落した前摂政関白松殿基房の次男・藤原家房を猶子としている。 文治5年(1189年)7月20日、六条院において64歳で崩御。花園東陵に葬られた。.

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熊谷直実

谷 直実(くまがい なおざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。武蔵国熊谷郷(現埼玉県熊谷市)を本拠地とした。熊谷直貞の次男。 熊谷氏は桓武平氏・平貞盛の孫・維時(これとき)の六代の孫を称するが、武蔵七党の私市党、丹波党の分かれともされ、彰かではない。直実の祖父・平盛方(もりかた)が勅勘をうけたのち、父直貞の時代から大里郡熊谷郷の領主となり、熊谷を名乗った。 平家に仕えていたが、石橋山の戦いを契機として源頼朝に臣従し御家人となる。のちに出家して法然の門徒となり蓮生(れんしょう / れんせい)と号した。 『平家物語』「敦盛最期」の段における平敦盛との一騎討ちは、直実は敦盛とともにこの故事の主人公として、能の演目『敦盛』、幸若舞の演曲『敦盛』といった作品に取り上げられている。.

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片切景重

片切 景重(かたぎり かげしげ、生年不詳 - 平治元年12月27日(1160年2月6日))は、平安時代末期の武将。兵庫助源為行(片切源八)の子。信濃守源為公の曾孫にあたる。兄弟に為重、行心(片切禅師)、為綱、為遠、行実、宗綱(大島八郎)らがあり、子に為安がある。信濃国伊那郡片切郷を本拠とする豪族・片切氏(片桐氏)の当主。仮名は小八郎大夫。.

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相模国

模国(さがみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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白河天皇

白河天皇(しらかわ てんのう)は、第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日) - 応徳3年11月26日(1087年1月3日))。諱を貞仁(さだひと)という。 後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。.

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鎌倉氏

鎌倉氏(かまくらし)は、武家のひとつ。本姓は桓武平氏。家系は良文流の系統で、相模国鎌倉郡を中心に勢力を伸ばした武士団である。平氏ではなく、相模の豪族の末裔だった可能性も高い。近年では、相武国造の子孫であったという説や、鎌倉別の子孫説もあるが、その説においても確証は曖昧である。秩父平氏が、良質の銅と馬の生産を背景に発展したのと同様に、鎌倉党は製鉄技術により発展した武士団といわれる。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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鎌田政清

鎌田 政清(かまた まさきよ)は、平安時代末期の武将。名は正清、正家、政家とも。藤原秀郷流首藤氏の一族で、相模国の住人鎌田権守通清の子。 源義朝の第一の郎党。政清の母が義朝の乳母だったため乳兄弟として最も信頼された。.

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預所

所(あずかりどころ/あずけしょ/あずがっそ/あずかりしょ)とは、中世の荘園において本所の補任を受けて在地を統括した職。.

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西党

西党(にしとう)は、平安時代から戦国時代にかけて武蔵国西部、多摩川流域を地盤とした武士団である。いわゆる武蔵七党のひとつで、武蔵守日奉宗頼を祖とすることから日奉党(ひまつりとう)ともいう。一族には一ノ谷の戦いで有名な平山季重が居る。.

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覚性入道親王

覚性入道親王(かくしょうにゅうどうしんのう、大治4年閏7月20日(1129年9月5日) - 嘉応元年12月11日(1169年12月30日))は、平安時代後期の皇族・僧・歌人。俗名は本仁親王。父は鳥羽天皇。母は藤原公実の娘待賢門院藤原璋子。真言宗仁和寺の第5世門跡。紫金台寺御室・泉殿御室とも称された。.

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馬寮

寮(めりょう/うまのつかさ)は、律令制における官司の一つ。唐名では典厩(てんきゅう)。左馬寮(さめりょう/さまりょう)と右馬寮(うめりょう/うまりょう)に分かれていた。.

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讃岐国

讃岐国(さぬきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

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貴族

貴族(きぞく)とは、特権を備えた名誉や称号を持ち、それ故に他の社会階級の人々と明確に区別された社会階層に属する集団を指す。 その社会的特権はしばしば強大であるが、同時に国や地域により異なり、同じ国・地域であっても時代によって変遷する。また貴族階級は伝統的な概念ではあるものの、時に新たな人員を迎え入れ、常に人員は更新され続けている。 貴族階級は多くの場合は君主制の下に維持され、称号の付与や特権の保証なども君主によって行われる。一般的に、貴族などという特権階級を認めてしまうということは反民主主義とされている。フランスでは、貴族階級をものともしないヴォルテールの姿勢がフランス的民主主義の基礎となり、フランス革命でそうした考え方は公認のもの、正統なものとなり、ここに民主主義が実現したとされている。しかし共和制など君主の存在を持たない制度においても貴族制度が存在した場合もある。 西洋では特に青い血という言葉が貴族の血筋を意味する慣用句として用いることがある。ただし、これはあくまでもスペイン語由来のものであるため限定的ではある。日本の場合、貴族の起源について穀物の貯蔵が貴族制度の遠因となったと考える論者もある。.

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鳥羽天皇

鳥羽天皇(とばてんのう、旧字体:鳥羽、康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日(1107年8月9日) - 保安4年正月28日(1123年2月25日))。諱は宗仁(むねひと)。 堀河天皇の皇子。母は贈皇太后・藤原苡子。子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年に渡り院政を敷いた。.

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鳥羽離宮

鳥羽離宮(とばりきゅう)は、12世紀から14世紀頃まで代々の上皇により使用されていた院御所。鳥羽殿(とばどの)・城南離宮(じょうなんりきゅう)とも呼ばれる。 場所は、京都市南区上鳥羽、伏見区下鳥羽・竹田・中島の付近で、朱雀大路の延長線上にあった。敷地面積は180万平方メートル。平安京の羅城門から南に約3kmのあたりにある。.

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越後平氏

越後平氏(えちごへいし)は、桓武平氏繁盛流惣領家の常陸平氏(大掾氏)のうち越後国で分岐した奥山氏と城氏を中心に発展した氏族。同族に鎮西平氏(伊佐氏)、海道平氏(岩城氏)、信濃平氏(仁科氏)がある(海道平氏と信濃平氏に関しては同族ではない説もある)。.

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足利俊綱

足利 俊綱(あしかが としつな)は、平安時代末期の武将。鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏4代当主。下野国足利荘を本拠とする。.

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足利氏

足利氏(あしかがし)は、日本の武家のひとつの軍事貴族。本姓は源氏。家系は清和天皇清和源氏の一族の河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府においては御家人であると同時に将軍家一門たる御門葉の地位にあった。室町時代には嫡流が足利将軍家として天下人となった。藤原秀郷の子孫の藤原姓足利氏(藤姓足利氏)に対して源姓足利氏という場合がある。 通字は、「義」(よし、足利将軍家ほか)または「氏」(うじ、鎌倉時代の歴代当主および鎌倉公方・古河公方家など)。.

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足利氏 (藤原氏)

足利氏(あしかがし)は、平安時代の関東北部の豪族。下野国足利荘(現栃木県足利市)を本拠とする。藤原秀郷の後裔で、源姓足利氏とは異なり藤姓足利氏とも呼ばれる。「数千町」を領掌する郡内の棟梁で、同族である小山氏と勢力を争い「一国之両虎」と称されたが(『吾妻鏡』養和元年閏2月23日条、9月7日条)、源頼朝に滅ぼされた。.

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鹿ケ谷の陰謀

鹿ヶ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)は、平安時代の安元3年(1177年)6月に京都で起こった、平家打倒の陰謀事件。京都、東山鹿ヶ谷(現在の京都市左京区)の静賢法印(信西の子)の山荘で謀議が行われたとされ、このように呼ばれる。近年では、この陰謀が平清盛によってでっち上げられたものだとする説など解釈に諸説あり、「鹿ヶ谷事件」と著す学者もいる。.

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軍記物語

軍記物語(ぐんきものがたり)とは、鎌倉時代から室町時代にかけて書かれた歴史上の合戦を題材とした文芸のこと。実際の史実を元にしているが、説話的な題材や虚構も交えられていることもある。語り物の題材にもされ、『平家物語』は琵琶法師によって広く伝えられた。軍記物、戦記物語ともいう。合戦などの歴史上の背景を探る史料ともなる。.

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近衛基実

近衞 基実(このえ もとざね)は、平安時代末期の公卿。藤原北家、関白・藤原忠通の四男。官位は正二位・摂政・関白・左大臣。通称は六条摂政(ろくじょう せっしょう)。五摂家の一つとなった近衞家の祖。.

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近衛天皇

近衛天皇(このえてんのう、旧字体:近衞、保延5年5月18日(1139年6月16日)- 久寿2年7月23日(1155年8月22日))は、日本の第76代天皇(在位:永治元年12月7日(1142年1月5日) - 久寿2年7月23日(1155年8月22日))。諱は躰仁(なりひと)。 鳥羽天皇の第九皇子。母は藤原得子(美福門院)。.

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近衛府

近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。.

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近江国

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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近江源氏

近江源氏(おうみげんじ)とは、中世に近江国に土着し本拠とした源氏の流れを汲む一族の呼称。以下の数流がある。最も著名な佐々木氏一族については佐々木源氏などとも呼ばれる。.

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能登国

能登国(のとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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興福寺

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。.

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関白

関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.

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薬子の変

薬子の変(くすこのへん)は、平安時代初期に起こった事件。大同5年(810年)に平城上皇と嵯峨天皇とが対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着する。平城上皇の愛妾の尚侍・藤原薬子や、その兄である参議・藤原仲成らが処罰された。 なお名称について、かつては藤原薬子らが中心となって乱を起こしたものと考えられており、「薬子の変」という名称が一般的であった。しかし、律令制下の太上天皇制度が王権を分掌していることに起因して事件が発生した、という評価がなされるようになり、2003年頃から一部の高等学校用教科書では「平城太上天皇の変」という表現がなされている。.

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閑院流

閑院流(かんいんりゅう)とは、三条家・西園寺家・徳大寺家をはじめとする藤原北家支流の公家の一門。院政期に外戚の立場を得たことで大きな勢力を獲得した。.

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藤原多子

藤原 多子(ふじわら の まさるこ、保延6年(1140年) - 建仁元年12月24日(1202年1月19日))は平安時代末期の后妃。近衛天皇の皇后、次いで二条天皇の后となり「二代の后」と呼ばれた。父は徳大寺公能で、母は藤原豪子。養父は藤原頼長、養母は藤原幸子。21世紀現在においても最後の太皇太后である(近代以降の皇室典範には「太皇太后」に関する規定がある)。.

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藤原家長

藤原 家長(ふじわら の いえなが)は、平安時代後期の公家。藤原北家末茂流、参議・藤原家保の子。官位は正四位下・刑部卿。.

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藤原家成

藤原 家成(ふじわら の いえなり)は、平安時代末期の公家。参議・藤原家保の三男。官位は正二位・中納言。中御門を号す。.

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藤原宗忠

藤原 宗忠(ふじわら の むねただ)は、平安時代後期の公卿。藤原北家中御門流の権大納言藤原宗俊の長男。従一位・右大臣。別名、中御門宗忠。 日記『中右記』を残した。名称の由来は中御門右大臣の日記から。 音楽の才があり、管弦や笙をよくした。また催馬楽にも秀でた。音律に関する著書『韻花集』『白律韻』があったとされるが現存しない。和歌は『続古今和歌集』『玉葉和歌集』に入集。.

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藤原宗能

藤原 宗能(ふじわら の むねよし、応徳2年(1085年) - 嘉応2年2月11日(1170年2月28日))は、平安時代後期の公卿。本名は宗隆。藤原北家中御門流、右大臣・藤原宗忠の長男。官位は正二位・内大臣。中御門内大臣と号した。.

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藤原師長

嶋川稲荷(名古屋市瑞穂区)の境内にある尾張配流時代の師長の屋敷跡 藤原 師長(ふじわら の もろなが)は、平安時代末期の公卿。藤原北家御堂流、左大臣藤原頼長の長男。官位は従一位・太政大臣。妙音院太相国と号す。.

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藤原幸子

藤原 幸子(ふじわら の こうし、天永3年(1112年) - 久寿2年6月1日(1155年7月2日))は、藤原頼長の正室。父は徳大寺実能、母は藤原顕隆の娘。二条天皇の皇后育子の姉。待賢門院璋子は父・実能の妹で叔母に当たる。 頼長14歳、幸子22歳の年に結婚したが、子宝には恵まれず、弟公能の娘多子(のちの近衛天皇の皇后)を養女とした。 頼長は男女いずれに対しても好色で知られるが、幸子は嫡室として大切にされたようである。.

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藤原仲麻呂の乱

藤原仲麻呂の乱(ふじわらのなかまろのらん)は、奈良時代に起きた叛乱。恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)ともいう。孝謙太上天皇・道鏡と対立した太師(太政大臣)藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)が軍事力をもって政権を奪取しようとして失敗した事件である。.

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藤原伊通

藤原 伊通(ふじわら の これみち、寛治7年(1093年) - 長寛3年2月15日(1165年3月28日))は平安時代末期の公卿。中御門流権大納言藤原宗通の次男で、藤原道長は高祖父にあたる。正二位・太政大臣。九条に邸宅を構えていたことから九条大相国(くじょう だいしょうごく)あるいは大宮大相国と号した。.

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藤原得子

藤原 得子(ふじわら の なりこ、永久5年(1117年)- 永暦元年11月23日(1160年12月22日))は、鳥羽天皇の譲位後の寵妃。近衛天皇の生母。女御、皇后、女院。藤原北家末茂流(藤原魚名の後裔)の生まれ。父は権中納言・藤原長実(贈太政大臣)、母は左大臣・源俊房の女、方子。院号は美福門院(びふくもんいん)。.

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藤原保成

藤原 保成(ふじわら の やすなり)は、平安時代後期の貴族。藤原北家末茂流、参議・藤原家保の子。官位は従四位下(または正四位下)・美濃守。.

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藤原忠実

藤原 忠実(ふじわら の ただざね)は、平安時代後期から末期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原師通の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。日記『殿暦』の著者。.

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藤原忠通

藤原 忠通(ふじわら の ただみち)は、平安時代後期から末期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原忠実の次男。官位は従一位・摂政 関白・太政大臣。通称は法性寺関白(ほっしょうじ かんぱく)。小倉百人一首では法性寺入道前関白太政大臣。.

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藤原忠清

藤原 忠清(ふじわら の ただきよ)は平安時代末期の武将。伊勢国度会郡の古市荘を基盤とする藤原秀郷流伊藤氏の出身で、平氏譜代の有力家人である。伊藤忠清とも。.

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藤原信隆

藤原 信隆(ふじわら の のぶたか)は平安時代後期の公卿。藤原北家道隆流、右京大夫藤原信輔の子。後鳥羽天皇の外祖父。従三位・修理大夫。贈従一位・左大臣。七条修理大夫と号す。坊門家の祖であり、坊門 信隆とも記される。.

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藤原信頼

藤原 信頼(ふじわら の のぶより)は、平安時代末期の公卿。後白河天皇の寵臣として絶大な権力をふるうが、同じく上皇の近臣であった信西と対立。源義朝と平治の乱を起こし信西を斬首し、朝廷の最大の実力者となるが、二条天皇親政派と組んだ平清盛に敗北。六条河原で斬首された。.

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藤原信輔

藤原 信輔(ふじわら の のぶすけ)は、平安時代後期の貴族。藤原北家道隆流、中納言・藤原経忠の子。官位は正四位下・右京大夫。.

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藤原忻子

藤原 忻子(ふじわら の きんし(よしこ)、長承3年(1134年) - 承元3年8月12日(1209年9月12日))は平安時代末期の后妃。第77代後白河天皇中宮。父は徳大寺公能で、母は藤原豪子。妹に近衛天皇皇后(のち二条天皇后)多子がいる。 久寿2年(1155年)に入内し、後白河天皇即位と共に従四位上女御となる。保元元年(1156年)、中宮に冊立。保元3年(1158年)、後白河天皇譲位。平治元年(1159年)、姝子内親王が二条天皇中宮に立后したのに伴い皇后宮。承安2年(1172年)、皇太后。承元3年(1209年)、76歳で崩御。『今鏡』は美貌であったと伝えるが、後白河天皇の寵愛は薄く子女もなかった。 Category:日本の皇后 Category:日本の皇太后 きんし1 category:平安時代の后妃後宮 Category:1134年生 Category:1209年没.

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藤原呈子

藤原 呈子(ふじわら の しめこ/ていし)、天承元年(1131年) - 安元2年9月19日(1176年10月23日))は平安時代末期の皇妃、女院。第76代近衛天皇中宮。父は藤原伊通、母は藤原顕隆の娘・立子。藤原得子(美福門院)と藤原忠通の養女。院号は九条院(くじょういん)。法名は静浄観。.

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藤原兼長

藤原 兼長(ふじわら の かねなが)は、平安時代末期の公卿。藤原北家御堂流、左大臣・藤原頼長の次男。官位は正二位・権中納言、右近衛大将。.

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藤原経憲

藤原 経憲(ふじわら の つねのり、生没年未詳)は、平安時代末期の廷臣。勧修寺流藤原氏の流れを汲む少納言藤原顕憲の子。母は薩摩守藤原時貞の娘。兄弟に盛憲、憲親、玄顕、能円らがある。従五位下、蔵人大夫。 兄弟達と同様、従兄弟である藤原頼長の側近となり、その家司を務める。その容貌は兄達より美麗であったと、頼長によって評されている(『台記・久安3年6月22日条』)。 保元元年(1156年)の保元の乱に当たっては、崇徳上皇、頼長方に参加。敗北後は出家するも捕らえられ、近衛天皇や美福門院を呪詛した嫌疑によって兄盛憲とともに拷問にかけられた後、隠岐国へと流罪となった。没年を含め、その後の足跡は不明である。.

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藤原璋子

藤原 璋子(ふじわら の しょうし / たまこ、康和3年(1101年)久安元年8月22日(1145年9月10日))は、平安後期の国母。鳥羽天皇の中宮で、崇徳・後白河両天皇の母。女院号は待賢門院(たいけんもんいん)。.

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藤原盛憲

藤原 盛憲(ふじわら の もりのり)は、平安時代後期の貴族。勧修寺流藤原氏の流れを汲む少納言・藤原顕憲の長男。官位は正四位下、少納言、式部大輔。.

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藤原隆長

藤原 隆長(ふじわら の たかなが)は、平安時代末期の貴族。藤原北家御堂流、左大臣・藤原頼長の三男。官位は正四位下・左近衛権中将。.

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藤原聖子

藤原 聖子(ふじわら の きよこ、保安3年(1122年) - 養和元年12月4日(1182年1月10日))は平安末期の后妃。崇徳天皇の中宮、近衛天皇の養母、女院。院号は皇嘉門院(こうかもんいん)。 摂政関白太政大臣・藤原忠通の長女、母は北政所従一位・藤原宗子(権大納言・藤原宗通の娘)。忠通の嫡妻腹の子女は彼女一人である。.

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藤原道長

藤原 道長(ふじわら の みちなが)は、平安時代の中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男(または四男)。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。 父・兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男・伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。 一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが三条天皇とは深刻な対立が生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。さらには、六女の嬉子を後の後朱雀天皇となる敦良親王に入侍させた。晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けた。.

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藤原頼長

藤原 頼長(ふじわら の よりなが)は、平安時代末期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣藤原忠実の三男。官位は従一位・左大臣、贈正一位、太政大臣。 通称は宇治左大臣。兄で関白・忠通と対立し、父・忠実の後押しにより藤原氏長者・内覧として旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない性格により悪左府(あくさふ)の異名を取った。後に鳥羽法皇の信頼を失って失脚。政敵の美福門院・忠通・信西らに追い詰められ、保元の乱で敗死した。男色始め当時の風俗を克明に記した日記『台記』でも有名。.

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藤原顕季

藤原 顕季(ふじわら の あきすえ) は、平安時代後期の貴族・歌人。藤原北家魚名流、正四位下美濃守・藤原隆経の次男。官位は正三位・修理大夫。六条修理大夫と号した。歌道家の流派の一つ六条藤家の祖。善勝寺流初代。.

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藤原泰子

藤原 泰子(ふじわらの やすこ/たいし、嘉保2年(1095年) - 久寿2年12月16日(1156年1月10日))は平安末期の后妃、女院。鳥羽上皇の皇后。院号は高陽院(かやのいん)。初名は勲子(やすこ/くんし)。 摂政関白太政大臣・藤原忠実(知足院関白)の三女。母は右大臣・源顕房の女・師子(従一位)。同母弟に摂政関白・藤原忠通(法性寺関白太政大臣)、異母弟に左大臣・藤原頼長(宇治左大臣)がいる。.

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藤原惟方

藤原 惟方(ふじわら の これかた、天治2年(1125年) - 没年不詳)は平安時代末期の公家。藤原北家勧修寺流、藤原顕頼の次男。従三位・参議。通称を粟田口別当という。.

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藤原成隆

藤原 成隆(ふじわら の なりたか)は、平安時代末期の貴族。藤原北家、左京大夫・藤原家隆の長男。官位は従四位上・少納言、皇后宮権亮。.

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藤原成親

藤原 成親(ふじわら の なりちか)は、平安時代末期の公卿。中納言・藤原家成の子。正二位・権大納言。.

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藤原教長

藤原 教長(ふじわら の のりなが)は、平安時代後期から末期にかけての公卿・歌人。藤原北家難波家・飛鳥井家始祖、大納言・藤原忠教の次男。官位は正三位・参議。.

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藤原景綱

藤原 景綱(ふじわら の かげつな)は、平安時代末期の伊勢国度会郡古市荘(現三重県)を本拠とした武将。藤原基信の子。伊藤景綱とも。平忠盛・清盛に仕えた有力家人。古市の伊藤武者と称される。.

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藤氏長者

藤氏長者(とうしのちょうじゃ)は、藤原氏一族全体の氏長者のこと。.

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蔵人

蔵人(くろうど、藏人)は日本の律令制下の令外官の一つ。天皇の秘書的役割を果たした。唐名は侍中(じちゅう)、夕郎(せきろう)、夕拝郎(せきはいろう)。蔵人所は事務を行う場所のことで、内裏校書殿の北部に置かれた。また、蔵人は百官名或いは人名の一つでもあり、この場合は「くらんど」と読む。.

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野口実

野口 実(のぐち みのる、1951年2月23日- )は、日本の歴史学者。日本中世政治史・社会史専攻。京都女子大学宗教・文化研究所教授。.

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重仁親王

重仁親王(しげひとしんのう、保延6年9月2日(1140年10月14日) - 応保2年1月28日(1162年2月13日))は、平安時代後期の皇族。崇徳天皇の第一皇子。母は源行宗養女(法印信縁(藤原北家小野宮流季実の子)の娘)兵衛佐局。乳母は池禅尼。法名は空性。 親王の誕生前年、院政を行う鳥羽上皇の強い意向によって、父である崇徳天皇は自身の異母弟・体仁親王(後の近衛天皇)を皇太弟に立てた。親王は生まれてすぐに体仁親王の生母である藤原得子(美福門院)の養子に迎えられた。近衛天皇が即位した永治元年12月(1142年)、親王宣下を受ける。天養元年(1144年)、着袴。久安6年12月(1150年)、元服して三品に叙される。美福門院は重仁親王を我が子の様にかわいがっており、次の皇太子に最も近い地位にいたともいわれている。 ところが、久寿2年(1155年)に近衛天皇が崩御すると、父の崇徳上皇は重仁親王の即位を望むが、宮廷では上皇が藤原頼長と結んで天皇を呪い殺したという噂が流れ、これに怒った鳥羽法皇は重仁親王ではなく上皇の弟の雅仁親王(後白河天皇)を即位させ、崇徳上皇がこれに強い恨みを抱いたことが保元の乱の原因となる。 乱後、崇徳上皇は讃岐国に流罪となり、重仁親王は仁和寺に入り出家した。寛暁大僧正のもとで仏道に励んだが、応保2年(1162年)に足の病により薨去した。享年23。 なお、重仁親王は出家後、父母の居る讃岐に行き21歳で亡くなるまで父崇徳上皇や母兵衛佐局の近くで暮らしたとの伝説があり、高松市檀紙町には重仁親王廟まである。.

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里内裏

里内裏(さとだいり)は、平安時代以降、平安宮内裏以外の邸宅を天皇の在所(皇居)として用いたものを指す。「里」とは平安京の里坊(「里」「坊」はいずれも方形に区切られた街区)のことであり、すなわち里内裏とは「京内に置かれた内裏」という意味である。.

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金子家忠

金子 家忠(かねこ いえただ)は、平安時代末期・鎌倉時代初期の武蔵国入間郡の武将である。武蔵七党村山党・金子氏の一族。父は金子家範。兄弟に金子親範がいる。.

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長寛

長寛(ちょうかん)は、日本の元号の一つ。応保の後、永万の前。1163年から1164年までの期間を指す。この時代の天皇は二条天皇。.

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長男

長男(ちょうなん)とは、親から見て最も年長の男子をいう。長男についで親から二番目、三番目の男子を二男(次男)、三男という。 長子(ちょうし)ともいい、史的には「はじめに生まれた男子、総領」を長子と呼ぶ。.

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難波頼輔

難波 頼輔(なんば よりすけ)は、平安時代後期から末期にかけての公卿・歌人。藤原北家花山院流、大納言・藤原忠教の四男。蹴鞠の二大流派、難波・飛鳥井両家の祖。.

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雨月物語

『雨月物語』(うげつものがたり)は、上田秋成によって江戸時代後期に著わされた読本(よみほん)作品。 5巻5冊。明和5年(1768年)序、安永5年(1776年)刊。日本・中国の古典から脱化した怪異小説9篇から成る。近世日本文学の代表作で、現代でも引用されることが多い(→#派生作品)。.

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逡巡

逡巡(しゅんじゅん)は、10-14(100兆分の1)であることを示す漢字文化圏における数の単位である。模糊の1/10、須臾の10倍に当たる。 朱世傑『算学啓蒙』(値が異なる)や程大位『算法統宗』に見えるが、現実には使われない。 なお、逡巡という言葉には、「ためらい」などの意味がある。.

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院近臣

院近臣(いんのきんしん、院の近臣)とは、院政を行う治天の君の側近及びその集団の事を指す。摂関期には諸大夫と呼ばれる下級貴族だったが、院政期に乳母の縁故や荘園寄進・財力奉仕などを通して急速に台頭する。院に従属・密着した存在であり、院の権勢を背景に摂関家や有力寺社と対立した。その大半は大国の受領だったが、一部に有能な実務官僚も含まれる。院近臣間の権力闘争は平治の乱の一因となり、院権力の不安定な後白河院政期には、たびたび解官・追放の対象となった。.

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院政

院政(いんせい)は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治である。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治形態である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。.

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暲子内親王

暲子内親王(しょうし/あきこないしんのう、保延3年4月8日(1137年4月29日) - 建暦元年6月26日(1211年8月6日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての皇族。初めて后位を経ずに女院となり、八条院(はちじょういん)と号した。.

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東宮傅

東宮傅(とうぐうのふ)は、律令制に定められた皇太子(東宮)付きの教育官の一つである。 皇太子に道徳を説いて輔導する常設官である。定員一名で官位は従四位上相当。大臣が兼ねることが多く、大納言が兼任する例も見られる。 唐の太子三師を模倣したものである。東宮において太政大臣に相当するが皇太子の家政を担当する春宮坊や東宮学士とは独立の関係にあり指揮権限はないに等しい。東宮学士同様、下部機構も上部機構も持たないため式部省が勤務評定を行う。平安時代中期から春宮坊に対して東宮学士と併せて「東宮職」と呼ばれることがある。皇太子傅とも。.

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東三条殿

東三条殿(ひがしさんじょうどの、とうさんじょうどの、とうさんじょうでん)は、平安時代に平安京左京3条3坊1町及び2町(二条大路南西洞院大路東)の南北2町に跨って建てられた邸宅。東三条院とも。現在の京都市中京区押小路通釜座西北角の付近にあたる。摂関家当主の邸宅の一つで、特に藤原兼家の主邸であったところから彼を「東三条殿」と号し、またその娘藤原詮子の里第であったところから、彼女は出家後に「東三条院」の院号を与えられて、初の女院となった(ただし、女院となってからは東三条殿に住んでいない)。後院や里内裏としても用いられ、特に11世紀後半からは摂関家の象徴的邸宅として重視され、保元の乱の舞台ともなった。また、太田静六によって寝殿造の代表例とされて以来、建築史の研究対象としても重視されている。.

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村山党

村山党(むらやまとう)とは、平安時代から鎌倉時代にかけて、武蔵国多摩郡村山郷(現在の入間川付近)に勢力のあった武士団の事。武蔵七党の一つ。野与党と同族である。.

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村上信国

村上 信国(むらかみ のぶくに、生没年未詳)は、平安時代末期の武将。清和源氏頼清流。源為国(村上判官代)の子。兄弟に道清、基国、宗実、経業、惟国、世延(安信?)、宗信らがあり、子に信実がある。母は信西女。仮名は太郎。官位は従五位下、右馬助(『尊卑分脈』)。 治承・寿永の乱に際して信濃国内で挙兵した木曾義仲に従い上洛し、京中守護軍の一人として都の警護の任にあたった。その後、義仲との関係は不和になったものとみられ、法住寺合戦を経た寿永2年(1183年)12月に同じく京中の守護に名を連ねた葦敷重隆や源有綱といった武将らと共に解官されている(『吉記』)。以後の詳しい動向は不明。.

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村上源氏

村上源氏(むらかみげんじ)は、第62代村上天皇の皇子を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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根井行親

根井 行親(ねのい ゆきちか)は、平安時代末期の武将。木曾義仲揮下の有力家臣にして、義仲四天王の一人。 行親の生まれた望月氏は滋野氏の庶流。滋野氏嫡流の海野幸親(滋野行親)と同一人物とする説もある。 保元元年(1156年)の保元の乱では源義朝に従い、活躍したという。 治承4年(1180年)信濃国小県郡丸子の依田城で挙兵して以後、義仲に従い各地に転戦、養和元年(1181年)9月水津の合戦で平通盛、経正らを破る。 元暦元年(1184年)の宇治川の戦いでは、義仲の命を受け、子・楯親忠や源義広らと共に300余騎で宇治の防衛に当たったが、2万5千騎の源義経軍を防ぎきれず宇治川を突破された。この際、一族の武将らに前後して敗死したとされている。この戦いでは先陣を焦った頼朝方の武将畠山重忠の馬(磨墨)を射たという。 同年1月26日、義仲や今井兼平、高梨忠直らと共に東洞院の北にある獄門の木に梟首された。 長野県佐久市には、行親の供養塔と伝わる多層塔が現存する。.

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検非違使

『伴大納言絵詞』に描かれた検非違使 知恩院を警護する検非違使 検非違使(けびいし、けんびいし)は日本の律令制下の令外官の役職である。「非違(非法、違法)を検察する天皇の使者」の意。検非違使庁の官人。佐と尉の唐名は廷尉。京都の治安維持と民政を所管した。また、平安時代後期には令制国にも置かれるようになった。.

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横山党

横山党(よこやまとう)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、武蔵国多摩郡(現・東京都八王子市)横山荘を中心として、武蔵国(大里郡・比企郡 - 橘樹郡)および相模国北部に割拠した同族的武士団である。武蔵七党の一つ。武蔵七党系図の筆頭。有名人としては、中条家長(初代評定衆として御成敗式目の策定に関与)や愛甲季隆(弓の名手。畠山重忠を討ち取る)、横山時兼(正治2年)(淡路国の守護)などが居る。時兼の叔母は鎌倉幕府侍所別当の和田義盛の妻、妹は和田義盛の長男常盛の妻であった。建暦3年(1213年)和田義盛と執権北条義時とが対峙した和田合戦で姻戚関係にあった和田氏に与したが敗れ衰退した。なお猪俣党も一族である。(八王子市の歴史を参照)横山義隆の弟の時範(時資)が猪俣となった。.

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正一位

正一位(しょういちい)は、位階及び神階のひとつ。諸王及び人臣における位階・神社における神階の最高位に位し、従一位の上にあたる。.

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武士

武士(ぶし)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在した、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。「もののふ」(cf. wikt) とも読み倣わすが、その起源については大伴氏や物部氏の名に求めるなど諸説がある。 同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(用例:武者絵、武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者などさらには、「影武者」のように、本義のほかに一般用語としても使われるようになった語もある。)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士とは言え、呼ぶことが間違いというわけではない。はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、侍、兵/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は性別を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、女性の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って女武者(おんなむしゃ)という呼び方をする「女武士」や「姫武士」などという呼称は見られない。。 武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめ、古代を終焉させたとする理解が通常されている。旧来の政権を傀儡として維持したまま自らが実質的に主導する中世社会を構築した後は、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。近代に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府(明治政府)であった。.

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武家政権

武家政権(ぶけせいけん)は、日本史の平安時代後期から江戸時代にかけて、武家の棟梁(軍事貴族)を長として、地方社会を実効支配する武士層を掌握した中央政権を指す。武士政権(ぶしせいけん)とも呼ぶ。.

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武蔵国

武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。.

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永治

永治(えいじ)は、日本の元号の一つ。保延の後、康治の前。1141年の期間を指す。この時代の天皇は崇徳天皇、近衛天皇。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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池禅尼

池禅尼(いけのぜんに、長治元年(1104年)? - 長寛2年(1164年)?)は、平安時代末期の女性。平忠盛の正室。平清盛の継母に当たる。後に崇徳天皇の皇子・重仁親王の乳母となる。父は藤原宗兼、母は藤原有信の娘。中納言・藤原隆家の後裔。名は宗子。.

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没官

没官(もっかん/ぼっかん)とは、律令法において科された付加刑の1つで、人身または財物を官が没収すること。.

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河内祥輔

河内 祥輔(こうち しょうすけ、1943年10月 - )は、日本の歴史学者。北海道大学名誉教授、元法政大学文学研究科教授。中世史専攻。.

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河内経国

河内 経国(かわち つねくに)は平安時代後期から末期の武将。河内源氏第4代の源義忠の嫡男。 父方の祖父は河内源氏第3代の源義家、母方の祖父は伊勢平氏棟梁の平正盛という源平両氏の血を引く。父が河内守(『河源記』では、領地の地名、『稻澤氏家譜系図』では河内権守)であったことに由来して、河内源太と称した。.

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河内源氏

河内源氏(かわちげんじ)は、河内国(現在の大阪府の一部)に根拠地を置いた清和源氏の一流。一般的に武士で「源氏」という場合、この系統を指す。また、「平家」と称される伊勢平氏と併称される場合には源家(げんけ)という呼称も古くは用いられていた。.

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河越重頼

河越 重頼(かわごえ しげより)は、平安時代末期の武蔵国入間郡河越館の武将。新日吉社領である河越荘の荘官。源頼朝の命令で源義経に娘(郷御前)を嫁がせた事から、源氏兄弟の対立に巻き込まれ、誅殺された人物である。 桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族。秩父党の総領家が代々受け継いできた「武蔵国留守所総検校職」にあり、武蔵国の軍事統率権を有する同国の最大勢力であった。妻は源頼朝の乳母・比企尼の次女(河越尼)で、源頼家の乳母。.

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治天の君

治天の君(ちてんのきみ)は、日本の古代末期から中世において、天皇家の家督者として政務の実権を握った上皇又は天皇を指す用語。治天の君は事実上の君主として君臨した。但し、「治天の君」については在位の天皇を含める立場美川圭 『院政―もう一つの天皇制―』中公新書 (2006年)ISBN 4-12-101867-2 黒田俊雄『日本の歴史 蒙古襲来』中公文庫 (1974年)ISBN 4-12-200071-8と在位の天皇を含めず院政を行う上皇に限る立場とがある。 上皇が治天の君である場合、天皇は在位の君とよばれる。また上皇が治天の君として行う院政に対して、天皇が治天の君として政務に当たることを親政という。治天の君は、治天下(ちてんか)、治天(ちてん)、政務(せいむ)などとも呼ばれた。以下、本項では治天の君を「治天」という。.

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波多野義通

波多野 義通(はたの よしみち)は、平安時代末期の相模国の武将。摂関家領相模国波多野荘(現神奈川県秦野市)を所領とする波多野氏の一族。父は筑後権守・波多野遠義。.

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法勝寺

京都市勧業館にあった法勝寺の模型(現在は京都市平安京創生館に移設) 法勝寺(ほっしょうじ)は、平安時代から室町時代まで平安京の東郊、白河(現在の岡崎公園、京都市動物園周辺)にあった、六勝寺のひとつである。 白河天皇が1076年(承保3年)に建立した。皇室から厚く保護されたが、応仁の乱以後は衰微廃絶した。.

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法曹類林

法曹類林(ほうそうるいりん)は、平安時代後期に成立した法律書。信西の編著。法令集と判例集からなり、全230巻。現存は4巻のみ(うち1巻は法曹類林から引き写した明法肝要鈔の混入とする説が有力)。 内容は古来の法令を事項毎にまとめ、明法勘文などの明法家の慣例(判例)なども収集している。編纂の目的は主に法執行に携わる役人が罪状および刑の判定の参考にするためであった。 現存するのは金沢文庫に伝わっていた内閣文庫所蔵の巻192(諸国の国師・国分寺僧に関する規定)・197(考選・解任・不上などの官吏の人事考課)・200(座次に関する規定)の3巻と『明法肝要鈔』に引用されたものが混入されたと推定されている宮内庁書陵部所蔵の巻226(吏務・戸貫に関する規定)、さらに金沢文庫から称名寺に伝来されて紙背文書となっていた巻208あるいは209と推定される借物関係を扱った断簡部分、巻不詳の断簡しかなく、全体の概要を把握することも困難であるが、初期公家法の状況や信西の法律観などを知るうえで貴重な資料となっている。.

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淳仁天皇

淳仁天皇(じゅんにんてんのう、天平5年(733年) - 天平神護元年10月23日(765年11月10日))は、日本の第47代天皇(在位:天平宝字2年8月1日(758年9月7日) - 天平宝字8年10月9日(764年11月6日))。諡号は明治時代になってから付けられたもので、古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれる。諱は大炊(おおい)であり、践祚前は大炊王(おおいおう)と称された。.

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清和源氏

清和源氏(せいわげんじ)は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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源季実

源 季実(みなもと の すえざね、生年不明 - 平治元年12月30日(1160年2月9日))は、平安時代末期の武将。諱は末実とも記される。文徳源氏、周防守・源季範の次男。官位は従五位下・河内守。周防判官と呼ばれる。.

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源師光

源師光(みなもと の もろみつ).

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源光保

源 光保(みなもと の みつやす)は、平安時代末期の武将・院近臣。摂津源氏の流れを汲む出羽守源光国の三男。諱は光泰(『平治物語』)、光康(『愚管抄』)とも記される。.

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源義康

源 義康(みなもと の よしやす/足利 義康 あしかが よしやす)は、平安時代末期の武将。足利氏の祖。陸奥判官とも称した。.

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源義朝

源 義朝(みなもと の よしとも)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の長男。母は白河院近臣である藤原忠清の娘。源頼朝・源義経らの父。 源義家の死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていた。都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で家人に裏切られ謀殺された。.

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源為宗

源 為宗(みなもと の ためむね、生年未詳 - 保元元年7月30日(1156年8月17日))は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の六男。母は源基実の娘。源頼賢、源頼仲は同母兄。通称は丹波冠者、また丹波六郎、賀茂六郎とも。.

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源為仲

源 為仲(みなもと の ためなか、康治元年(1142年)? - 保元元年7月30日(1156年8月17日))は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の九男。母は江口の遊女であり、鎮西八郎為朝は同母兄にあたる。通称は九郎。.

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源為国

源 為国(みなもと の ためくに、生没年不詳)は、平安時代末期の武士・官人。清和源氏頼清流。蔵人源盛満(盛清)の子。後に源顕清の養子となる。義兄弟に宗清、定国、業国、盛国らがあり、子に道清、基国、宗実、経業、信国、惟国、世延(安信?)、宗信らがある。室は信西女など。崇徳院判官代。号は村上判官代。信濃村上氏の祖。 嘉保元年(1094年)の白河院呪詛事件に連座して信濃国へ配流された大叔父顕清(村上顕清)の養子となり、都で崇徳院判官代を務めた(『尊卑分脈』)。こうした関係から保元元年(1156年)7月の保元の乱では崇徳上皇・藤原頼長方として平家弘らと共に白河北殿に参じたが、敗北後の罪名宣下にその名はなく処罰を免れたものと考えられている(『兵範記』同年7月10日条、同27日条)。これは自身が信西の婿であったことや合戦に深く関与していないことなどが関係したと推測されている。 後代、子孫は信濃村上氏として存続した。なお『尊卑分脈』には同じく信濃国を地盤とした源満快の子孫に源為邦(村上源判官代)という人物がみえ、頼清流村上氏からの養子とされる。子の源基国は高陽院判官代となり同じく「村上判官代」を号し、また弟の源盛国は八条院判官代となり、筑摩郡波多郷に拠って波多判官代を号し、国衙の在庁官人となった。.

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源為義

源為義(みなもとのためよし)は、平安時代末期の武将。祖父は源義家、父は源義親。叔父の源義忠暗殺後に河内源氏の棟梁と称す。なお父は源義家で、源義親と義忠は兄にあたるという説もある。通称は六条判官、陸奥四郎。源頼朝・源義経らの祖父。 当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の源為朝の乱行により解官となる。保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の源義朝の手で処刑された。.

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源為朝

源 為朝(みなもと の ためとも、旧字体:爲朝)は、平安時代末期の武将。源為義の八男。母は摂津国江口(現・大阪市東淀川区江口)の遊女。源頼朝、義経兄弟の叔父にあたる。 身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛弓の使い手で剛勇無双を謳われた。生まれつき乱暴者で父の為義に持てあまされ、九州に追放されたが手下を集めて暴れまわり、一帯を制覇して鎮西八郎を名乗る。保元の乱では父とともに崇徳上皇方に参加し、強弓と特製の太矢で大いに奮戦するが敗れ、伊豆大島へ流される。しかしそこでも国司に従わず、大暴れして伊豆諸島を事実上支配したので、追討を受け自害した。.

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源為成

源 為成(みなもと の ためなり、生年未詳 - 保元元年7月30日(1156年8月17日))は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の七男。母は賀茂神社の神主・賀茂成宗の娘。通称は八幡七郎、また賀茂七郎とも。.

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源頼仲

源 頼仲(みなもと の よりなか、生年未詳 - 保元元年7月30日(1156年8月17日))は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の五男。母は源基実の娘。あるいは文徳源氏の源資遠(資道)の娘とも。同母兄に源頼賢、同母弟に源為宗。掃部助・左兵衛尉。通称は五郎掃部助、また掃部五郎とも。 保元の乱では父為義に従い、崇徳上皇・藤原頼長方として参戦。敗北し、父とともに兄義朝のもとに降参する。義朝によって助命嘆願されるも叶わず、義朝の手によって船岡山(京都市北区)において、父や兄弟らとともに斬られた。この時頼仲は、「兄上(義朝)は心狭く、自分一人生き残ろうとしている。万が一の事があれば後悔するであろう」と高笑いしていたという。 子の加茂冠者源義嗣は1183年に淡路で従兄弟の源義久とともに平教経と戦うが、義嗣は討ち取られてしまった(六ヶ度合戦)。.

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源頼賢

源 頼賢(みなもと の よりかた、生年未詳 - 保元元年7月30日(1156年8月17日))は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の四男。母は源基実の娘。あるいは文徳源氏の源資遠(資道)の娘とも。同母弟に源頼仲・源為宗がいる。左衛門尉。 次兄・義賢と仲がよく、父子の盟約を交わしたと言われる。久寿2年(1155年)、義賢が甥・義平に討ち取られると、その復仇を果たすべく信濃国に下向、鳥羽法皇領を侵犯する。これを知った法皇は、義平の父で頼賢の長兄にあたる義朝に対して、頼賢追討の院宣を下す。これにより、河内源氏一族内に緊張が高まったが、直前で義朝は頼賢追討を回避、頼賢もほどなく帰京した。 保元の乱では為義に従い、崇徳上皇・藤原頼長方として活躍。義朝軍を相手に奮闘する様が『保元物語』に活写されている。崇徳上皇方の敗北に伴い、乱の後捕らえられ、義朝の手によって船岡山(京都市北区)において斬首された。 子の淡路冠者源義久は、1183年に従兄弟の源義嗣とともに淡路国で平教経と戦うが、義久は捕虜にされてしまった(六ヶ度合戦)。.

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源頼清

源 頼清(みなもと の よりきよ).

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源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.

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源頼政

源 頼政(みなもと の よりまさ)は、平安時代末期の武将・公卿・歌人。兵庫頭源仲政の長男。朝廷で平家が専横を極める中、それまで正四位下を極位としていた清和源氏としては突出した従三位に叙せられたことから源三位(げんざんみ)と称された。また、父と同じく「馬場」を号とし馬場頼政(ばば の よりまさ)ともいう。 保元の乱と平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まった。平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列した。だが、平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えた。計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、そのまま平家の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れ自害した(以仁王の挙兵)。.

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源親治

源 親治(みなもと の ちかはる、永久4年3月3日(1116年4月17日) - 文治2年8月7日(1186年9月21日))は、平安時代末期の武将。下野権守源親弘の子。兄弟に基親、基弘、基重、親満、伊予内侍、新田義重室らがあり、子に有治、清治、満治(光治)、義治(俊治)、親家、業治、頼基、季治らがある。大和源氏の祖源頼親から数えて五代目にあたる。または宇野七郎とも名乗る。 大和国宇智郡宇野荘に住した。久安元年(1145年)、興福寺の衆徒が金峰山寺を攻めた時には、金峰山側について戦った。保元元年(1156年)に勃発した保元の乱において、崇徳上皇、藤原頼長方に加担。兵を率いて京に入ろうとするところを、警護にあたっていた敵方の平基盛に見咎められ、合戦の末に敗れて捕虜となる。本戦の間は獄舎につながれていたが、戦後赦免されて本拠の大和国に帰された。これは、親治が大和国内で興福寺と対立関係にあることに目をつけた後白河天皇による、興福寺牽制のための政治的措置だったと言われている。治承4年(1180年)の以仁王の挙兵の際は、息子を源頼政に応じさせた。 後代、南北朝期の武将4代孫の大森彦七や戦国期の武将土方雄久、隈部親永などが親治の末裔を称している。.

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源資賢

源 資賢(みなもと の すけかた)は、平安時代末期の公卿・雅楽家。宇多源氏、宮内卿・源有賢の長男。官位は正二位・権大納言。.

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源重貞

源 重貞(みなもと の しげさだ)は、平安時代末期の武将。源重実の子。清和源氏満政流で、近江矢島(現在の滋賀県守山市矢島町)を本拠とする在京軍事貴族(京武者)である。保元の乱では源為朝を捕縛した。平治の乱で多くの軍事貴族が淘汰された後も活動を続け、平氏政権下においても一定の勢力を保持した。諱は重定とも記される。.

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源重成

源 重成(みなもと の しげなり)は、平安時代末期の武将。源重実の長男。八島重成とも。.

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源雅定

源 雅定(みなもと の まささだ)は平安時代後期の公卿、歌人。中院右大臣と号す。右大臣、正二位、左近衛大将。源雅実の次男。.

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源満政

源 満政(みなもと の みつまさ)は、平安時代中期の武将。源経基の次男。満仲、満季らの同母兄弟。八島大夫、村岡大夫などと号した。満正とも記される。.

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源朝長

源 朝長(みなもと の ともなが)は、平安時代末期の武将。源義朝の次男。母は波多野義通の妹。源頼朝・義経の異母兄。相模国松田郷を領して松田冠者(まつだのかじゃ)と号した。また、松田殿とも呼ばれた。 父や兄弟とともに平治の乱で平清盛らと戦うが敗れ、父や兄弟とともに東国へ落ちる途中で僧兵の落人狩りで負傷し、傷が悪化して死亡した。.

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源有仁

源 有仁(みなもと の ありひと)は、平安時代後期の公家。後三条天皇の皇子輔仁親王の第二王子。従一位左大臣。花園左大臣とも称された。皇族時代は有仁王と称する。.

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源成雅

源 成雅(みなもと の なりまさ、生没年未詳)は、平安時代後期の貴族。村上源氏、陸奥守・源信雅の四男。官位は正四位下・左近衛中将。近江中将と号す。.

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朝廷

朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。.

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朱器台盤

朱器台盤(しゅきだいばん)とは、藤原氏の家宝として歴代藤氏長者に継承されてきた朱塗りの什器のこと。正月の大臣大饗の際に用いた。 平安時代の酒宴は大饗(だいおう)と呼ばれ、テーブルである台盤と椅子を用いて主人と客が卓を囲む共同膳の様式であった。諸記録によれば、大饗の際に用いた朱器(朱塗りの食器・酒器)が長櫃4台に納められ、また朱器を置くための台盤が大きな物が5つありそれを含めて27個存在したとされている。 伝承によれば、藤原冬嗣が勧学院に納めた物とされ、以後代々勧学院の別当を兼務した藤氏長者が所持していたとされている。ただし、記録上実際に確認できるのは藤原兼家以後のこととされ、朱器台盤の授受(「朱器渡りの儀」)が藤氏長者交替の際に東三条殿において行われたのは藤原師実以後とされている。久安6年(1150年)、藤原忠実が長男の関白藤原忠通を義絶して次男の藤原頼長を藤氏長者とした際に武士達に命じて強引に朱器台盤を頼長のもとに移した故事は良く知られている。 ところが、宮中行事などの衰退によって大饗が開かれることがなくなり、朱器台盤も相次ぐ戦乱や五摂家の成立による短期間での藤氏長者の交替などによって散逸してしまったらしく、延文6年(康安元年/1361年)に近衛道嗣が藤氏長者に就任した際には「朱器渡りの儀」が行われていないために、その以前の段階で朱器台盤は既に存在していなかったと考えられている。 なお、南北朝時代から室町時代にかけて酒宴の形式も変化し、台盤を用いずに床に直接着座し、銘々膳を配膳する本膳料理の形式となる。.

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昇殿

昇殿(しょうでん)とは、平安時代以降の日本の朝廷において、内裏清涼殿の南廂にある殿上の間に昇ることを許すことである。昇殿による身分体系の制度を昇殿制(しょうでんせい)という。 公卿(三位以上および四位を含む参議以上の議政官)は原則的に昇殿が許され、この他に四位以下(参議を除く)の特定の官人および蔵人に、勅許(宣旨)によって昇殿が許された。この勅許は、天皇の代替わりによって効力を失なった。四位以下の昇殿を許された者は殿上人として特権的な待遇を受けたため、位階・官職を補う身分制度として、重要な意味を有した。中世以降には家格によって昇殿の対象者が決まるようになり、殿上人となり得る家を堂上家と呼んだ。 院や女院、皇后や東宮も、それぞれの御所において昇殿の制度があった。これらを内裏の昇殿と区別するには、内裏のものを「内の昇殿」(うちのしょうでん)、院のものを「院の昇殿」等と言う。 また、有力家の子弟が、元服前に小舎人として昇殿を許されて宮中に参仕する制度があり、童殿上(わらわてんじょう)と言った。.

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流罪

ダンテ』 流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺境や島に送る追放刑である。流刑(るけい、りゅうけい)、配流(はいる)とも言う。特に流刑地が島の場合には島流し(しまながし)とも呼ばれる事もある。 歴史的には、本土での投獄より、遠いところに取り残された方が自分一人の力だけで生きていかなければならなくなり、苦痛がより重い刑罰とされていた。ほか、文化人や戦争・政争に敗れた貴人に対して、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合に用いられた。配流の途中や目的地で独り生涯を終えた流刑者は多いが、子孫を残したり、赦免されたりした例もある。脱走を企てた流刑者や、源頼朝、後醍醐天皇、ナポレオン・ボナパルトのように流刑地から再起を遂げた(一時的な成功も含めて)政治家・武人もいた。 日本では離島への文化伝播に大きな役割を果たしたほか、海外ではシベリアやオーストラリアといった植民地に労働力を送り込む強制移民としても機能した。.

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海野幸親

海野 幸親(うんの ゆきちか)は平安時代末期の信濃国の武将。滋野行親(しげの の ゆきちか)と記されることもある。.

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斎藤実盛

原古戦場近くにある実盛の首を洗ったとされる池 斎藤 実盛(さいとう さねもり)は、平安時代末期の武将。藤原利仁の流れを汲む斎藤則盛(また斎藤実直とも)の子。越前国の出で、武蔵国幡羅郡長井庄(埼玉県熊谷市)を本拠とし、長井別当と呼ばれる。.

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文徳源氏

文徳源氏(もんとくげんじ、)は、第55代文徳天皇の皇子を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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摂家

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.

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摂津源氏

摂津源氏(せっつげんじ)とは、摂津国の多田に根拠地を置いた清和源氏の嫡流(多田源氏と呼ばれることもある)。.

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悔返

悔返し(くいかえし)とは、中世日本において、和与・寄進などの財産処分を行って所有権の移動が行われた後に元の所有者あるいはその子孫らがその行為を否定して取り戻す行為。悔返し権という権利も存在していた。.

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愚管抄

『愚管抄』(ぐかんしょう)は、鎌倉時代初期の史論書。作者は天台宗僧侶の慈円。全7巻。承久の乱の直前、朝廷と幕府の緊張が高まった時期の承久2年(1220年)頃成立したが、乱後に修訂が加えられている。.

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慈円

慈円(じえん、旧字体:慈圓、久寿2年4月15日(1155年5月17日) - 嘉禄元年9月25日(1225年10月28日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧。歴史書『愚管抄』を記したことで知られる。諡号は慈鎮和尚(じちん かしょう)、通称に吉水僧正(よしみず そうじょう)、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円(さきの だいそうじょう じえん)と紹介されている。 父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光女加賀、摂政関白・九条兼実は同母兄にあたる。.

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承和の変

承和の変(じょうわのへん)は、平安時代初期の842年(承和9年)に起きた廃太子を伴う政変。藤原氏による最初の他氏排斥事件とされている事件である。.

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思文閣出版

思文閣出版(しぶんかくしゅっぱん)は、京都府京都市左京区にある出版社。美術商思文閣の出版部で、人文系・美術系の書籍を刊行している。絶版となった古書や花道、歴史、国文、芸術などのオリジナル企画書を刊行している。ベストセラーにならなくても、命の長い本を出版していく方針を取っている[こんな出版社]思文閣出版 命の長い本作る 読売新聞 2007年9月27日 大阪夕刊7頁。所在地同ビルに企画展をメインとする美術館・思文閣美術館(しぶんかくびじゅつかん、2011年4月10日より休館中)、京都市東山区古門前通大和大路東入元町386にぎゃらりぃ思文閣を運営する。.

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1138年

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1141年

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1147年

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1151年

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1153年

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1155年

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1156年

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1158年

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1159年

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1164年

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1176年

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1177年

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1191年

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2002年

この項目では、国際的な視点に基づいた2002年について記載する。.

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2004年

この項目では、国際的な視点に基づいた2004年について記載する。.

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2007年

この項目では、国際的な視点に基づいた2007年について記載する。.

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2009年

この項目では、国際的な視点に基づいた2009年について記載する。.

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7月 (旧暦)

旧暦7月(きゅうれきしちがつ)は、旧暦(太陰太陽暦)の年初から7番目の月である。 天保暦よりも前の定義では、処暑を含む月を7月とする。新暦では7月下旬から9月上旬ごろに当たる。 7月の別名は文月(ふみづき/ふづき)である。名前の由来は7月を参照のこと。異名は「もうしゅう(孟秋)」。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、7月29日までで7月30日は存在しない年もある。.

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7月11日 (旧暦)

旧暦7月11日は旧暦7月の11日目である。六曜は大安である。.

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7月29日

7月29日(しちがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から210日目(閏年では211日目)にあたり、年末まであと155日ある。誕生花はサボテン、エキザカム。.

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8月5日

8月5日(はちがついつか)は、グレゴリオ暦で年始から217日目(閏年では218日目)にあたり、年末まであと148日ある。.

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