276 関係: 加賀型戦艦、南国市、南村梅軒、南海道、古事記、名神大社、吾川郡、吉川経秋、吉良氏、坂上浄野、坂本龍馬、塚原卜伝、大平氏、大伴古慈斐、大野藩、天平勝宝、天長、天武天皇、天明、姫路藩、姫野々城、室町幕府、室町時代、室戸岬町、守護、宇喜多秀家、宇和郡、安芸国虎、安芸郡 (高知県)、安芸氏、寛弘、寛文、尊良親王、小川祐忠、小京都、小笠原貞信、小野千株、小野藩、小村神社、小早川隆景、山内容堂、山内一豊、山内忠義、山内豊常、山内豊策、山内豊範、山内豊熈、山内豊隆、山内豊資、山内豊興、...、山内豊雍、山内豊惇、山内豊房、山内豊昌、山内豊敷、山内氏、山田氏、岡田以蔵、上総国、中岡慎太郎、中国 (令制国)、丹波国、三宅康勝、三宅康直、三河国、三浦義村、下総国、一宮、一柳直次、一柳氏、一柳末延、一柳末彦、一柳末礼、一柳末英、一柳末昭、一柳末昆、一条家、一条忠頼、一条兼定、一条教房、幡多荘、幡多郡、平安時代、平成、幕末の四賢侯、久安、久寿、庭瀬藩、仁寿、令制国、令制国一覧、延喜式、延喜式神名帳、延長 (元号)、廃藩置県、伊予国、弘前藩、佐々木経高、佐竹親直、佐竹氏、律令制、土佐 (小惑星)、土佐山内氏、土佐七雄、土佐一条氏、土佐勤王党、土佐国の式内社一覧、土佐国分寺、土佐神社、土佐郡、土佐藩、土佐日記、土御門天皇、嘉祥、和銅、備中国、八流の戦い、先代旧事本紀、勝浦藩、国府、四万十川の戦い、福知山藩、租庸調、管領、細川勝元、細川繁氏、細川頼之、細川頼元、細川顕氏、細川高国、細川氏、細川満元、細川澄之、細川澄元、細川持之、細川持元、細川政元、紀夏井、紀貫之、紀船守、総社、美濃国、田原藩、甲斐国、白鳳地震、白河藩、鎌倉時代、遠国、香宗我部氏、香美郡、角川日本地名大辞典、高岡郡、高知市、高知県、高須藩、谷村藩、豊島朝経、豊臣秀吉、豊臣秀長、鳥居成次、越前勝山藩、越前国、路永名、都佐国造、鵜来島、関宿藩、関ヶ原の戦い、藤原定実、藤原師長、藤原信頼、藤原隆季、藤原魚名、藤原末茂、藤原房前、長宗我部兼序、長宗我部元親、長宗我部国親、長宗我部盛親、長宗我部氏、長岡郡、長浜の戦い、陸奥国、松平直良、松平明矩、植村忠朝、植村恒朝、植村正朝、植村氏、植村泰忠、植村泰朝、橘則光、橘時枝、武市瑞山、永正の錯乱、沖の島 (高知県)、波多国造、津軽信寿、津軽信義、津軽信明、津軽氏、津軽承昭、津野氏、津波、清少納言、源希義、源国基、源義朝、源頼朝、源長季、朝倉神社 (高知市)、木本藩、本山茂辰、本山氏、朽木倫綱、朽木玄綱、朽木稙治、朽木綱方、朽木氏、望月亀弥太、最御崎寺、挙母藩、戦国時代 (日本)、戸川安宣、戸川正安、戸田尊次、明応の政変、明治、明治維新、昭和、流罪、浦戸湾、文室笠科、斉衡、日高村、日本、日本書紀、旧高旧領取調帳、摂家、播磨国、改易、承平 (日本)、承和 (日本)、1148年、1155年、1560年、1569年、1575年、1585年、1669年、1785年、1870年、1871年、1876年、1977年、1990年、2月25日、675年、676年、684年、713年、756年、780年、7月14日 (旧暦)、825年、839年、843年、845年、849年、850年、852年、855年、8月25日 (旧暦)、8月29日、930年、935年、9月20日。 インデックスを展開 (226 もっと) »
加賀型戦艦
加賀型戦艦(かががたせんかん)は日本海軍が八八艦隊計画で考案した戦艦#海軍制度沿革(巻8、1940)p.201『◎戰艦加賀及土佐命名ノ件 大正七年五月十五日(達七六)軍備補充費ヲ以テ大正七年度製造ニ着手スヘキ戰艦二隻左ノ通命名セラル 大正七年度着手戰艦二隻 第一隻 加カ賀ガ 第二隻 土ト佐サ』#海軍制度沿革(巻8、1940)p.58『大正七年五月十五日(達七七)艦艇類別等級表中戰艦ノ欄「陸奥」ノ次ニ「、加賀、土佐」ヲ加フ』。長門型戦艦の拡大改良型である。 同型艦2隻(加賀、土佐)ともワシントン海軍軍縮条約により建造中止となったが、「加賀」は航空母艦に改装された。2番艦「土佐」は進水後に標的艦として使用され、1925年(大正14年)2月9日に自沈処分となった.
南国市
南国市の市街地を走るとさでん交通の路面電車 香長平野と南国市街遠望(岡豊城より) 南国市(なんこくし)は、高知県の市である。高知県の中東部に位置し、県庁所在地の高知市の東に隣接する。市の中心地は後免(ごめん)であるものの市役所など行政施設や商業施設は大篠地区の大埇(おおそね)に集中している。 高知県では第2位の人口であるが、都道府県第二の都市としては全国で最も人口が少ない。 四国山地が尽きて高知平野が開ける場所に当たり高知県の空・陸の玄関口となっている。高知龍馬空港があり、鉄道は土讃線・とさでん交通・土佐くろしお鉄道が走る。また道路では高知自動車道が走り、北部四国方面からの国道32号と室戸岬方面からの国道55号、徳島方面からの国道195号が交わる交通の要衝である。 しばしば「なんごくし」と誤読され、高知自動車道の南国サービスエリアも読みは「なんごく」である。 市名は『城東市』『嶺南市』『香長市』『後免市』『南海市』『南国市』の6つの候補の中から選ばれた。なお、国を「こく」と読むようにしたのは、「ごく.
南村梅軒
南村 梅軒(みなみむら ばいけん、? - 天正7年(1579年)?)は戦国時代の儒学者。周防国(現・山口県)出身。江戸時代に発達した土佐儒学(南学)の祖といわれる。 天文年間に土佐国に渡って程朱学を弘岡城主・吉良宣経に講じたという。谷時中らの南学は、彼の学の系統と言われている。主な著書に、「三十六策問」がある。 近年の歴史学の進展に伴い、その存在が疑問視され、2003年度版からは山川出版社の高等学校検定教科書でも記述が削除されている()。 Category:日本の儒学者 Category:16世紀の学者 Category:戦国時代の人物 (日本) Category:周防国の人物 Category:16世紀没.
南海道
南海道(なんかいどう、みなみのみち)は、五畿七道の一つ。紀伊半島、淡路島、四国ならびにこれらの周辺諸島の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。.
古事記
真福寺収蔵の国宝・『古事記』。信瑜の弟子の賢瑜による写本 古事記(こじき、ふることふみ、ふることぶみ)は、日本最古の歴史書である。その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上された。.
名神大社
名神大社(みょうじんたいしゃ)とは、日本の律令制下において、名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社である。古代における社格の1つとされ、その全てが大社(官幣大社・国幣大社)に列していることから「名神大社」と呼ばれる。『延喜式』巻3の「臨時祭」の「名神祭」の条下(以下「名神祭式」という)と、同巻9・10の「神名式」(「延喜式神名帳」)に掲示され、後者の記載に当たっては「名神大」と略記されている。.
吾川郡
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吉川経秋
吉川 経秋(きっかわ つねあき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武士。安芸国国人・吉川氏7代当主。駿河丸城主。.
吉良氏
吉良氏(きらし)は、日本における武士の氏族の一つであり、代表的なものに下の三つの流れがある。.
坂上浄野
坂上 浄野(さかのうえ の きよの、延暦8年(789年) - 嘉祥3年8月4日(850年9月13日))は、平安時代初期の貴族。名は清野とも記される、大納言・坂上田村麻呂の四男。官位は正四位下・右兵衛督。.
坂本龍馬
坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日〈新暦・1836年1月3日〉 - 慶応3年11月15日〈新暦・1867年12月10日〉)は、江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。 諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬「りゅうま」「りょうま」「りゅうめ」などと読み得るが、岩崎弥太郎など同時代人の日記や書簡に「良馬」と記されているし、龍馬自身も書簡の中で「りよふ」と自署しているので「りょうま」と読まれていたと考えられている。なお、「竜」は「龍」の常用漢字表に採用された字体で、江戸時代以来一般には「龍」の略字として認識されていたが、本は古字である。学校教育では、「坂本龍馬」という表記と、「坂本竜馬」という表記の両方が使われているが、どちらでもよい。前者の例としては、平成11年(1999年)3月実施北海道 公立高校 入学試験の社会の大問4問5(2)の選択肢: 「ア 木戸孝允 イ 坂本龍馬 ウ 西郷隆盛 エ 徳川慶喜」などがあり、後者は、『中学社会 歴史』(教育出版。平成8年2月29日文部省検定済。教科書番号: 17教出・歴史762)p.181, 『社会科 中学生の歴史』(帝国書院。平成17年3月30日文部科学省検定済。教科書番号:46帝国 歴史-713)p.144, 『新しい社会 歴史』(東京書籍。平成13年3月30日検定済。教科書番号: 2 東書 歴史702)p.120などで使われている。 。 他に才谷 梅太郎(さいたに うめたろう、さいだに うめたろう)などの変名がある (手紙と変名の項を参照)。 土佐郷士株を持つ裕福な商家に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。薩長同盟の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に関与した。大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺された。1891年(明治24年)4月8日、正四位を追贈される。.
塚原卜伝
塚原 卜伝(つかはら ぼくでん)は、日本の戦国時代の剣士、兵法家。父祖伝来の鹿島古流(鹿島中古流)に加え、天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新当流を開いた。.
大平氏
大平氏(おおひらし)は、土佐国高岡郡の蓮池城を拠点とする豪族。鎌倉時代初期 - 永禄9年(1566年)。藤原秀郷の末裔という。.
大伴古慈斐
大伴 古慈斐(おおとも の こしび、持統9年(695年) - 宝亀8年8月19日(777年9月24日))は、奈良時代の公卿。名は古慈備・祜信備・祜志備とも記される。越前按察使・大伴祖父麻呂の子。官位は従三位・大和守。.
大野藩
大野藩(おおのはん)は、越前国大野(現在の福井県大野市)に存在した藩。居城は大野城(亀山城)。.
天平勝宝
天平勝宝(てんぴょうしょうほう、正字体:天平勝寶)は、日本の元号の一つ。天平感宝の後、天平宝字の前。749年から757年までの期間を指す。この時代の天皇は孝謙天皇。 天平勝宝7年1月4日、勅命により「年」が「歳」に改められた。このため以後は、天平勝宝七歳・天平勝宝八歳・天平勝宝九歳と表記されたが、天平宝字へ改元した際に「歳」を「年」へ復している。.
天長
天長(てんちょう)は、日本の元号の一つ。弘仁の後、承和の前。824年から834年までの期間を指す。この時代の天皇は淳和天皇、仁明天皇。.
天武天皇
天皇系図38~50代 天武天皇(てんむてんのう、? - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。.
天明
天明(てんめい)は日本の元号の一つ。安永の後、寛政の前。1781年から1789年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治、徳川家斉。.
姫路藩
姫路藩歴代藩主居城姫路城 姫路藩(ひめじはん)は、播磨国飾東郡にあって現在の兵庫県西南部を治めた藩。藩庁は姫路城(姫路市)。藩主ははじめ外様の池田氏で、のち譜代大名が転々とした末に、1749年(寛延2年)から廃藩置県までは徳川譜代の名門酒井氏があった。石高ははじめ52万石、のち15万石。.
姫野々城
姫野々城(ひめののじょう)は、高知県高岡郡津野町姫野々にあった日本の城。別名、半月城。津野氏代々の居城。.
室町幕府
花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.
室町時代
室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.
室戸岬町
室戸岬町(むろとみさきちょう)は、高知県室戸市の町丁。2015年3月31日現在の人口は3,109人。郵便番号は781-7101。本項ではかつて同区域に存在した安芸郡津呂村(つろむら)、津呂町(つろちょう)、室戸岬町(むろとみさきちょう)についても記す。.
守護
守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.
宇喜多秀家
宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣政権下(の末期)の五大老の一人で、家督を継いだ幼少時から終始秀吉に重用されていた。通称は備前宰相。父・直家の代に下克上で戦国大名となった宇喜多氏の、大名としての最後の当主であり、関が原の戦いで西軍について敗れ所領を失うまで岡山城主として備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石を領していた。.
宇和郡
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安芸国虎
安芸 国虎(あき くにとら)は、戦国時代の武将。土佐国の国人。.
安芸郡 (高知県)
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安芸氏
安芸氏(あきし)は、土佐の国人領主。土佐国東部の安芸郡を支配したが、戦国時代に長宗我部元親によって滅ぼされた。.
寛弘
寛弘(かんこう)は、日本の元号の一つ。長保の後、長和の前。1004年から1011年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇、三条天皇。.
寛文
寛文(かんぶん)は日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1673年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.
尊良親王
尊良親王(たかよししんのう / たかながしんのう、1310年(延慶3年)? - 1337年4月7日(延元2年 / 建武4年3月6日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。母は二条為世の娘・為子。宗良親王の同母兄。名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の読みを参照。.
小川祐忠
小川 祐忠(おがわ すけただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。伊予国分城主。通称は佐平次、孫一郎。官位は土佐守、左近太夫。別名で小川 宗氏(おがわ むねうじ)とも言う。.
小京都
小京都(しょうきょうと)とは、古い町並みや風情が京都に似ていることから、日本の各地に名づけられた街の愛称である。室町時代以降、各地の大名が京都を真似た町づくりをし、それが小京都の起源となった。 小京都と呼ばれる地域が集まる団体として「全国京都会議」が存在する。全国京都会議は京都市を含む26市町により、1985年(昭和60年)に結成された。1988年(昭和63年)の第4回総会で加盟基準が次のように定められた。.
小笠原貞信
小笠原 貞信(おがさわら さだのぶ)は、下総関宿藩の第2代藩主、のちに美濃高須藩主を経て、越前勝山藩の初代藩主となる。信嶺系小笠原家3代。.
小野千株
小野 千株(おの の ちかぶ、生没年不詳)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。参議・小野岑守の子。官位は従五位上・播磨守。.
小野藩
小野藩(おのはん)は、播磨国加東郡を領した藩。藩庁は王子村敷地(現在の兵庫県小野市)の小野陣屋にある。 外様大名の一柳氏が、江戸時代初期から廃藩置県まで治めた。.
小村神社
小村神社(おむらじんじゃ)は、高知県高岡郡日高村下分にある神社。国史見在社、土佐国二宮で、旧社格は県社。.
小早川隆景
小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。竹原小早川家第14代当主。後に沼田小早川家も継ぐ。 毛利元就の三男で、兄弟に同母兄の毛利隆元・吉川元春などがいる。竹原小早川家を継承し、後に沼田小早川家も継承して両家を統合。吉川元春と共に毛利両川として戦国大名毛利氏の発展に尽くした。毛利水軍の指揮官としても活躍している。豊臣政権下では豊臣秀吉の信任を受け、文禄4年(1595年)に発令された「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条において秀吉に五大老の一人に任じられた。実子はなく、木下家定の五男で豊臣秀吉の養子となっていた羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子として迎え、家督を譲っている。特に豊臣秀吉の信頼は厚く、事実上毛利家の主導者であった。.
山内容堂
山内 容堂 / 豊信(やまうち ようどう / とよしげ)は、幕末の外様大名。土佐藩15代藩主(在任期間:嘉永元年12月27日(1848年1月21日) - 明治5年(1872年)2月)。官位は、従四位下・土佐守・侍従、のちに従二位・権中納言まで昇進、明治時代には麝香間祗候に列し、生前位階は正二位まで昇った。薨去後は従一位を贈位された。諱は豊信。隠居後の号は容堂。 土佐藩連枝の山内南家当主・山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)の長男。母は側室・平石氏。正室は烏丸光政の娘・正子(三条実万の養女)。子は山内豊尹(長男)、光子(北白川宮能久親王妃)、八重子(小松宮依仁親王妃のち秋元興朝継室)。幼名は輝衛。酒と女と詩を愛し、自らを「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称した。藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、当時の志士達からは、幕末の時流に上手く乗ろうとした態度を、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された。.
山内一豊
山内 一豊(やまうち かつとよ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。土佐山内氏、土佐藩初代藩主。家紋は三つ柏紋。 父は岩倉織田氏の重臣・山内盛豊、母は法秀尼。祖父は久豊。兄に十郎、弟に康豊。妻は内助の功で知られる見性院。通称は伊右衛門もしくは猪右衛門(いえもん)。後に康豊の長男・忠義(第2代藩主)を養子とした。豊臣秀吉、徳川家康らに仕え、関ヶ原の戦いの小山評定において率先して徳川方に従った功績により、土佐国9万8千石を与えられた。その後、高直しにより20万2,600石に加増された。.
山内忠義
山内 忠義(やまうち ただよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。土佐藩の第2代藩主。山内康豊の長男で、伯父の山内一豊の養嗣子。.
山内豊常
山内 豊常(やまうち とよつね)は、土佐藩の第7代藩主。.
山内豊策
山内 豊策(やまうち とよかず)は、土佐藩の第10代藩主。.
山内豊範
山内 豊範(やまうち とよのり)は、江戸時代末期の大名。土佐藩の第16代(最後の)藩主。爵位は侯爵。三条実美の従弟にあたる。.
山内豊熈
山内 豊熈(やまうち とよてる)は、江戸時代後期の大名。土佐藩の第13代藩主。.
山内豊隆
山内 豊隆(やまうち とよたか)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。土佐藩6代藩主。.
山内豊資
山内 豊資(やまうち とよすけ)は、土佐藩の第12代藩主。.
山内豊興
山内 豊興(やまうち とよおき、1793年6月24日(寛政5年5月16日) - 1809年5月3日(文化6年3月19日))は、土佐藩の第11代藩主。 第10代藩主・山内豊策の長男。母は児玉氏。官位は従五位下。土佐守。侍従。 文化5年(1808年)2月5日、父の隠居により家督を継ぐ。しかし翌文化6年(1809年)3月19日に17歳で早世した。嗣子がなく、跡を異母弟の豊資が継いだ。法号は寛邦院泰運源心。 とよおき とよおき Category:日本の神 (人物神 江戸時代大名) Category:1793年生 Category:1809年没.
山内豊雍
山内 豊雍(やまうち とよちか)は、土佐藩の第9代藩主。.
山内豊惇
山内 豊惇(やまのうち とよあつ、1824年7月2日(文政7年6月6日)- 1848年10月14日(嘉永元年9月18日))は、土佐藩の第14代藩主。幼名は敏衛。通称は式部、兵部。第12代藩主・山内豊資の次男。母は美芳院。 嘉永元年(1848年)、先代藩主だった兄の豊熈が7月10日に死去したため、同年9月6日に家督を継いだが、2週間足らず後の9月18日に25歳で死去した。嗣子がなく、跡を従弟の豊信(豊資の弟・豊著の長男)が継いだ。あまりに早すぎる死と豊信擁立のため、その死は翌年2月まで隠されたという。法号は譲恭院篤信自省。 とよあつ とよあつ Category:日本の神 (人物神 江戸時代大名) Category:1824年生 Category:1848年没.
山内豊房
山内 豊房(やまうち とよふさ)は、土佐藩の第5代藩主。.
山内豊昌
山内 豊昌(やまうち とよまさ)は、土佐高知藩(土佐藩)の第4代藩主。.
山内豊敷
山内 豊敷(やまうち とよのぶ)は、土佐藩の第8代藩主。.
山内氏
山内氏(やまうちし、やまのうちし)は、日本の氏族の一つ。山内首藤氏(やまのうち すどう)や土佐藩藩主となった山内氏が知られる。.
山田氏
山田氏(やまだし/やまだうじ)は、日本の氏族。.
岡田以蔵
岡田 以蔵(おかだ いぞう、天保9年1月20日(1838年2月14日) - 慶応元年閏5月11日(1865年7月3日))は、江戸時代末期の土佐藩郷士。 司馬遼太郎の小説名から「人斬り以蔵」の名でも知られる。諱は宜振(読みについては「よしふる」の他「たかのぶ」、「のぶたつ」等諸説あり不明)。幕末の四大人斬りの一人。.
上総国
上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。.
中岡慎太郎
円山公園の坂本龍馬と中岡慎太郎像(写真は戦後再建された2代目の像) 中岡 慎太郎(なかおか しんたろう、天保9年4月13日(新暦・1838年5月6日) - 慶応3年11月17日(新暦・1867年12月12日))は、日本の志士(活動家)。陸援隊隊長。名は道正。通称ははじめ福太郎(福五郎とも)、光次、のち慎太郎。号は遠山・迂山など。変名は石川清之助(誠之助)など。坂本龍馬らと共に薩長同盟の斡旋に尽力するも近江屋事件で横死した。贈正四位(1891年(明治24年)4月8日)。.
中国 (令制国)
中国(ちゅうごく)とは、律令国の等級区分の一つである。国力(規模)による分類と、畿内からの距離による分類の2種類の分け方が存在した。.
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丹波国
丹波国(たんばのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陰道に属する。.
三宅康勝
三宅 康勝(みやけ やすかつ)は、三河挙母藩の第2代藩主、後に三河田原藩の初代藩主となる。田原藩三宅家4代。.
三宅康直
三宅 康直(みやけ やすなお、文化8年7月24日(1811年9月11日)- 明治26年(1893年)8月9日)は、江戸時代後期の大名。三河国田原藩の第11代藩主。田原藩三宅家14代。 播磨国姫路藩藩主・酒井忠実の六男。母は忠実の側室・於満寿。正室は西尾忠善の娘、継室は本庄宗秀の養女(本庄道貫の娘)。子に酒井忠顕(長男)、酒井忠敬(三男)、竹腰正旧(四男)、娘(酒井忠彰正室)、娘(三宅康保正室)、娘(水野忠幹継々室)ら。官位は従四位、土佐守。号は王春、巴翁。幼名は稲若。.
三河国
三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部。.
三浦義村
三浦 義村(みうら よしむら)は、鎌倉時代初期の相模国の武将。鎌倉幕府の有力御家人。桓武平氏良文流三浦氏の当主・三浦義澄の次男(嫡男)。.
下総国
下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
一宮
一宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。一の宮・一之宮などとも書く。.
一柳直次
一柳 直次(ひとつやなぎ なおつぐ)は、江戸時代前期の大名。播磨小野藩の第2代藩主。.
一柳氏
一柳氏(ひとつやなぎし)は、日本の氏族(武家)。本姓は越智氏。伊予国(現在の愛媛県)の河野氏の庶流。家紋は一柳釘抜など。.
一柳末延
一柳 末延(ひとつやなぎ すえのぶ、文化11年8月10日(1814年9月23日) - 安政2年3月27日(1855年5月13日))は、播磨小野藩の第9代藩主。 第8代藩主・一柳末周の長男。母は藤堂高嶷の娘。正室は秋月種任の娘。子に一柳末彦(長男)、娘(高木正坦正室、のち朽木之綱正室、のち斯波喜氏室)、娘(青木某室)。官位は従五位下。土佐守。 江戸にて生まれる。天保2年(1831年)11月23日、父が病気を理由に隠居したため跡を継いだ。しかし天保4年(1833年)には加古川で世直し一揆が起こるなどの災難に遭う。天保7年(1836年)には国学者の大国隆正を招聘して藩校・帰正館を創設した。 安政2年(1855年)3月27日、小野にて死去し、跡を長男・末彦が継いだ。墓所は小野市垂井町の光明寺。 すえのふ *09 Category:幕末の大名 Category:1814年生 Category:1855年没.
一柳末彦
一柳 末彦(ひとつやなぎ すえよし、天保14年6月4日(1843年7月1日) - 明治14年(1881年)6月28日)は、播磨小野藩の第10代藩主。 第9代藩主・一柳末延の長男。生涯独身のため、正室・側室ともになし。官位は従五位下、対馬守、土佐守。 小野で生まれる。安政2年(1855年)、父の死去により跡を継ぐが、文久3年(1863年)6月9日に養嗣子の末徳に家督を譲って隠居し、明治14年(1881年)6月28日に39歳で死去した。 すえよし *10 Category:幕末の大名 Category:1843年生 Category:1881年没.
一柳末礼
一柳 末礼(ひとつやなぎ すえひろ)は、江戸時代前期の大名。播磨小野藩の第3代藩主。.
一柳末英
一柳 末英(ひとつやなぎ すえふさ、宝暦8年(1758年) - 文化7年7月14日(1810年8月13日))は、播磨小野藩の第6代藩主。 第5代藩主・一柳末栄の長男。母は真田信弘の娘。正室は板倉勝承の娘(板倉勝任の養女)。子に一柳末昭(次男)、一柳末周(三男)。官位は従五位下、土佐守、左京亮。 江戸で生まれる。安永4年(1775年)8月15日、将軍徳川家治にお目見えする。安永8年(1779年)9月16日、父の隠居で家督を継ぐ。同年12月16日、従五位下土佐守に叙任する。安永9年4月18日、初入国する許可を得る。駿府加番となった。 文化元年(1804年)7月5日、病を理由に次男・末昭に家督を譲って隠居し、文化7年(1810年)7月14日に53歳で死去した。墓所は東京都渋谷区広尾の祥雲寺。 すえふさ *06 Category:1758年生 Category:1810年没.
一柳末昭
一柳 末昭(ひとつやなぎ すえあきら、寛政2年5月7日(1790年6月19日) - 文化9年10月17日(1812年11月20日))は、播磨小野藩の第7代藩主。 第6代藩主・一柳末英の次男。母は板倉勝承の娘。正室は稲葉弘通の娘。官位は従五位下、土佐守。 江戸にて生まれる。文化元年(1804年)7月5日、父が病を理由に隠居したため、その跡を継いだ。文化9年(1812年)10月17日に死去し、跡を弟の末周が継いだ。墓所は東京都渋谷区広尾の祥雲寺。 すえあきら *07 Category:1790年生 Category:1812年没.
一柳末昆
一柳 末昆(ひとつやなぎ すえひで、元禄12年(1699年) - 元文2年8月12日(1737年9月6日))は、播磨小野藩の第4代藩主。 第2代藩主・直次の次男で第3代藩主・末礼の弟かつ養嗣子であった直昌の長男。母は清閑寺熙定の娘。正室は一柳直長の娘。子に一柳末栄(長男)、娘(朽木紀綱正室のち山口弘長継室)。官位は従五位下。対馬守。土佐守。 江戸にて生まれる。通称は民部。父の直昌は先代藩主・末礼の養嗣子であったが、末礼より先に早世したため、正徳元年(1711年)6月6日に直昌の長男である末昆が末礼の嫡孫となった。正徳2年(1712年)4月5日、祖父末礼の死去により跡を継いだ。同年4月15日、将軍徳川家宣にお目見えした。正徳3年3月7日、従五位下対馬守に叙任する。享保3年(1718年)4月15日、初入国の許可を得る。駿府加番となる。 元文2年(1737年)8月12日に39歳で死去し、跡を長男・末栄が継いだ。墓所は東京都渋谷区広尾の祥雲寺。 すえひて *04 Category:1699年生 Category:1737年没.
一条家
一条家(いちじょうけ)は、五摂家のひとつで公家である。桃華(とうか)家とも称される。.
一条忠頼
一条 忠頼(いちじょう ただより)は、平安時代末期の武将。甲斐国山梨郡一条郷を領し、一条氏と名乗った。.
一条兼定
一条 兼定(いちじょう かねさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけてのキリシタン・戦国大名、土佐国司。土佐一条氏の事実上の最後の当主。従三位・一条房基の子。.
一条教房
一条 教房(いちじょう のりふさ)は、室町時代後期から戦国時代の公卿(関白)で、土佐一条氏の祖。一条兼良の長男。 永享10年(1437年)元服。一条家歴代当主の中では初めて足利将軍家からの偏諱の授与を受け、当時の将軍足利義教(第6代将軍)から偏諱を受け教房と名乗る(弟の教賢(きょうけん、僧)も同様である)。長禄元年(1457年)左大臣。長禄2年(1458年)関白となる。寛正4年(1463年)に関白を辞す。応仁の乱が勃発した際、弟の興福寺大乗院門主尋尊を頼って奈良に避難する。さらに父兼良が奈良に避難してきたので、父に奈良の避難所を譲り、応仁2年(1468年)一条家領のあった土佐国幡多荘に下向し、四万十川下流の中村の館に住んだ。土佐国人に迎えられて生活の基盤を確保し、父兼良の下向を誘ってみたり、父が帰洛した後、土佐から邸宅を作るための木材を送ったりしている。文明12年(1480年)10月5日薨去。享年58。長男の政房は既に応仁の乱の中で戦死していたため、家督は40歳ほど年の離れた実弟の冬良が継いだ。 尚、次男・房家はそのまま土佐に土着して在地領主・大名化し、この子孫(系統)が土佐一条氏となった。 File:Tomb of Ichijo Norifusa.jpg|一条教房墓(高知県四万十市).
幡多荘
幡多荘(はたのしょう)とは、土佐国幡多郡のほぼ全域及び高岡郡の一部を占めた荘園。現在の高知県四万十市・宿毛市・土佐清水市・大月町・三原村・黒潮町・四万十町のほぼ全域と中土佐町の一部地域(久礼)にあたる。.
幡多郡
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平安時代
平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.
平成
平成(へいせい)は日本の元号の一つ。昭和の後。今上天皇在位中の1989年(平成元年)1月8日から現在に至る。2001年(平成13年)の始まりには西暦における20世紀から21世紀への世紀の転換もあった。2019年(平成31年)4月30日に今上天皇退位により終了する予定であり、予定通り終了した場合、30年113日間(=11,070日間)にわたることとなる。なお、日本の元号では昭和(64年)、明治(45年)、応永(35年)に次いで4番目の長さである(5番目は延暦の25年)。 西暦2018年(本年)は平成30年に当たる。本項では平成が使われた時代(平成時代)についても記述する。.
幕末の四賢侯
幕末の四賢侯(ばくまつの しけんこう)は、幕末に活躍した4人(松平慶永、山内豊信、島津斉彬、伊達宗城)の大名をいう。 ファイル:Matudaira Syungaku.jpg|福井藩第14代藩主 松平慶永(春嶽) ファイル:Yodo Yamauchi.jpg|土佐藩第15代藩主 山内豊信(容堂) ファイル:Shimazu Nariakira.jpg|薩摩藩第11代藩主 島津斉彬 ファイル:Date Munenari.jpg|宇和島藩第8代藩主 伊達宗城 このうち島津斉彬は安政5年7月(1858年8月)に急死するが、その後も春嶽・容堂・宗城の三侯は公私にわたる会議・会合に薩摩国主斉彬は異母弟・久光の長男・茂久を養子にして世子としていた。しかし、斉彬の急死により、茂久が数え19で藩主となると、久光はその後見人として藩政を牛耳った。以後、薩摩では久光が事実上の藩主として活躍したため、彼のことを特に「国父」あるいは「国主」と呼んだ。の島津久光を加えたので、そうした会合は俗に「四侯会議」「四賢侯会議」などと呼ばれるようになった。 なお、「幕末の四賢侯」とは今日の歴史教科書などで使われている表現で、実際に本人たちが活躍していた時代から昭和の戦前頃までは、単に四賢侯(しけんこう)と呼んでいた。.
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久安
久安(きゅうあん)は、日本の元号の一つ。天養の後、仁平の前。1145年から1150年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇。.
久寿
久寿(きゅうじゅ)は、日本の元号の一つ。仁平の後、保元の前。1154年から1155年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇、後白河天皇。.
庭瀬藩
庭瀬陣屋跡(石垣と堀) 庭瀬藩(にわせはん)は、備中国賀陽郡庭瀬村(岡山県岡山市北区庭瀬)に藩庁(庭瀬陣屋)を構えた藩である。庭瀬陣屋は旧庭瀬城二の丸を使用して築かれた。.
仁寿
仁寿(にんじゅ、正字体:仁壽)は、日本の元号の一つ。嘉祥の後、斉衡の前。851年から854年までの期間を指す。この時代の天皇は文徳天皇。.
令制国
北海道11か国(ただし、千島を除く)追加を反映した。 令制国(りょうせいこく)とは、日本の律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分である。律令国(りつりょうこく)ともいう。奈良時代から明治初期まで、日本の地理的区分の基本単位だった。 令制国の行政機関を国衙(こくが)または国庁(こくちょう)といい、国衙の所在地や国衙を中心とする都市域を国府(こくふ)といった。また、国府は府中と呼ばれることもあった。.
令制国一覧
大宝元年)から702年(大宝2年)まで。黄色で示す地域が制度の及ぶ範囲。 鎌倉時代から1868年(明治元年)まで 明治初期の令制国の配置 令制国一覧(りょうせいこくいちらん)は、7世紀後半からの日本国内の地方行政区分、国(令制国)の一覧である。 令制国の改廃は、奈良時代までと明治時代になされ、その間の平安時代から江戸時代には長期にわたって変更がなかった。.
延喜式
延喜式(えんぎしき)は、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。.
延喜式神名帳
延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である。.
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延長 (元号)
延長(えんちょう)は、日本の元号の一つ。延喜の後、承平の前。923年から931年までの期間を指す。この時代の天皇は醍醐天皇、朱雀天皇。.
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廃藩置県
廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.
伊予国
伊予国(いよのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。.
弘前藩
弘前藩の拠点であった弘前城 弘前藩(ひろさきはん)は、陸奥国にあった藩である。通称は津軽藩(つがるはん)。弘前改称以前を鷹岡藩(高岡藩)、鷹岡移転以前を堀越藩ともいう。藩主は津軽氏で、家格は柳間詰め外様大名、幕末に家格向上して大広間詰めもある国主に準ずる扱いを受けた。藩庁は 弘前城(青森県弘前市下白銀町)に置いた。.
佐々木経高
佐々木 経高(ささき つねたか)は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。 近江の宇多源氏佐々木氏棟梁である佐々木秀義の次男として生まれる。源頼朝に伊豆での挙兵から仕え、鎌倉幕府で三カ国の守護を兼ね、頼朝の死後は承久の乱で官軍に属し、敗北の末に自害した。.
佐竹親直
佐竹 親直(さたけ ちかなお、永禄9年(1566年) - 慶長20年5月6日(1615年6月2日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。長宗我部氏の家臣。上ノ加江城主佐竹義秀の子。蔵人佐。.
佐竹氏
佐竹氏(さたけし)は、日本の氏族のひとつ。日本の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れをくみ、新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の嫡流。武田氏に代表される甲斐源氏と同族である。通字は「義」。佐竹氏は家紋として定紋の「扇に月」(一般的には日の丸扇と呼ばれている)の他に、源氏香(花散里)・笹竜胆・佐竹桐・丸に釘貫・丁子巴・鉄線を加えた七つの家紋を「御当家七ッ御紋」としている。源氏から中近世大名、華族として明確な系譜として現代まで残った中ではもっとも大きな流れの一つである。.
律令制
律令制(りつりょうせい)は、律令に基づく制度のこと。主に古代東アジアで見られた中央集権的な統治制度であるといわれることもあるが、唐制に倣った体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである山内昌之・古田博司。日本では律令制または律令体制や律令国家と呼ばれるが、中国にはこのような呼称は存在しない菊池秀明p8 (日中歴史共同研究報告書 p153)。中国において「律令」という言葉は秦から明まで長期にわたって使われており、その間にその内容や位置づけは大きな変遷をみている。そのため、日本の律令制の直接的モデルとなった隋や唐の国家体制をもって「律令制」と定義することは、中国の律令の変遷の実情を無視することとなり、また秦から明までのおよそ1800年間(律のみ存在した清も加えれば2100年間)の制度を一括りにすることにはあまり意味がないとする考えもある廣瀬薫雄『秦漢律令研究』2010年、汲古書院、第一部第一章「律令史の時代區分について」。.
土佐 (小惑星)
土佐(とさ、3150 Tosa)は小惑星帯に位置する小惑星である。高知県芸西村の芸西観測所で関勉が発見した。 土佐国にちなんで命名された。.
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土佐山内氏
土佐山内氏(とさやまうちし)は、日本の氏族。本家は山内を「やまうち」、各分家は「やまのうち」と称する。通字は「豊」。本来庶流の家ならば、読み仮名は変わらないが何故一説を持ってこのように、土佐山内氏の本家が備後山内氏の(庶流)を称して(やまうち)となって、その分家(支流の支流)が本流の(やまのうち)に回帰しているのか、不明である。.
土佐七雄
土佐七雄(とさしちゆう)は、室町時代末期から戦国時代にかけて土佐国に存在した7つの豪族の総称。.
土佐一条氏
土佐一条氏(とさ いちじょうし)は、日本の武家の一つ。本姓は藤原氏で、五摂家の一条家の分家。家紋は「一条藤」。 戦国時代に土佐国に土着し、武家化した戦国大名。姉小路氏・北畠氏と共に戦国三国司の一つに数えられる。.
土佐勤王党
土佐勤王党(とさきんのうとう)は、幕末の土佐藩において、尊王攘夷を掲げて結成された結社。土佐勤皇党と表記される場合もある。.
土佐国の式内社一覧
土佐国の式内社一覧(とさのくにのしきないしゃいちらん)は、『延喜式』第9巻・第10巻「神名帳上下」(延喜式神名帳)に記載のある神社、いわゆる「式内社」およびその論社のうち、土佐国に分類されている神社の一覧。 また『延喜式』神名帳の編纂当時に存在したが同帳に記載の無い神社、いわゆる「式外社」についても付記する。.
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土佐国分寺
土佐国分寺(とさ こくぶんじ)は高知県南国市にある真言宗智山派の寺院。摩尼山(まにざん)、宝蔵院(ほうぞういん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。四国八十八箇所霊場二十九番札所。札所寺院としては単に国分寺と称するのが通例である。国の史跡に指定されている。 本尊真言:おん ばさら たらま きりく ご詠歌:国を分け 宝を積みて 建つ寺の 末の世までの 利益のこせり.
土佐神社
土佐神社(とさじんじゃ)は、高知県高知市一宮(いっく)しなねにある神社。式内社(大社)、土佐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。.
土佐郡
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土佐藩
土佐藩(とさはん)は、廃藩置県以前に土佐国(現在の高知県)一円を領有した外様藩。明治初年の正称は高知藩(こうちはん)。藩庁は高知城(高知市)にあった。大広間詰国持大名。一貫して山内氏が支配した。 高知城 土佐藩邸跡 京都三条木屋町下ル 山之内氏が用いた家紋『土佐柏(とさかしわ)』 伏見土佐藩邸跡 京都市伏見区.
土佐日記
『土佐日記』(とさにっき)とは、平安時代に成立した日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事をジョークを交えて綴ったもので、成立は承平5年(935年)頃といわれる。古くは『土左日記』と表記されていた。.
土御門天皇
土御門天皇(つちみかどてんのう、建久6年11月1日または12月2日(1195年12月4日または1196年1月3日) - 寛喜3年10月11日(1231年11月6日))は、鎌倉時代の第83代天皇(在位:建久9年1月11日 (1198年2月18日) - 承元4年11月25日(1210年12月12日))。諱は為仁(ためひと)。 後鳥羽天皇の第一皇子。母は、源通親の養女(法勝寺執行法印能円の女)承明門院・源在子。.
嘉祥
嘉祥(かしょう、かじょう)は、日本の元号の一つ。承和の後、仁寿の前。848年から851年までの期間を指す。この時代の天皇は仁明天皇、文徳天皇。.
和銅
和銅(わどう)は、日本の元号のひとつで慶雲の後、霊亀の前。708年から715年までの期間を指す。この時代の天皇は女帝元明天皇である。.
備中国
備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.
八流の戦い
八流の戦い(やながれのたたかい)とは、1569年(永禄12年)、土佐国で長宗我部元親と安芸国虎との間に起こった合戦。.
先代旧事本紀
『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ、先代舊事本紀)は、日本の史書であり、神道における神典である。『旧事紀』(くじき)、『旧事本紀』(くじほんぎ)ともいう。全10巻からなり、天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されている。 序文に聖徳太子、蘇我馬子らが著したとあるが、江戸時代の国学者である多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らによって偽書とされた。現在では大同年間(806年~810年)以後、延喜書紀講筵(904年~906年)以前に成立したとみられている。 物部氏の氏族伝承など部分的に資料価値があると評価する立場の者もいる。.
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勝浦藩
勝浦藩(かつうらはん)は、上総国(現在の千葉県勝浦市串浜、もしくは墨名字庚申山)に存在した藩。.
国府
国府(こくふ、こう)は、日本の奈良時代から平安時代に、令制国の国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた都市。 国府付近には国庁のほかにも国分寺・国分尼寺、総社(惣社)が設置され、各国における政治的中心都市であるとともに司法・軍事・宗教の中心部であった。なお『和名抄』によると、古くは「国」ではなく「島」とされた壱岐や対馬には「島府」が置かれたとされる(まだ確定はされていない)。 律令制の衰退にともない立地の優位性を失い廃れたり所在不明になった国府もある一方、いくつかの国府所在地は、現在でも静岡市・姫路市・岡山市・大分市など大きな都市として発展している。.
四万十川の戦い
四万十川の戦い(しまんとがわのたたかい)は、天正3年(1575年)に勃発した長宗我部氏と土佐一条氏の戦い。この合戦によって長宗我部元親の土佐(高知県)統一が決定的となった。渡川の戦いとも呼ばれる。.
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福知山藩
福知山藩(ふくちやまはん)は、丹波国天田郡(現在の京都府福知山市内記)に存在した藩。居城は福知山城。.
租庸調
租庸調(そようちょう)は、日本、中国及び朝鮮の律令制下での租税制度である。.
管領
管領(かんれい)は、以下の役職・地位およびその座にあった者を指す名称。.
細川勝元
細川 勝元(ほそかわ かつもと)は、室町時代の武将・守護大名。第16、18、21代室町幕府管領。土佐・讃岐・丹波・摂津・伊予守護。第11代細川京兆家当主。父は第14代室町幕府管領、細川持之。政元の父。応仁の乱の東軍総大将として知られている。.
細川繁氏
細川 繁氏(ほそかわ しげうじ)は、南北朝時代の武将、守護大名。細川氏の一門。細川顕氏の子。祖父の頼貞の養子になったと伝わる。.
細川頼之
細川 頼之(ほそかわ よりゆき)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての武将、政治家。第2代室町幕府管領、中国管領、四国管領。阿波・伊予・備後・讃岐・土佐守護。第6代細川京兆家当主。幼名は弥九郎。はじめ武蔵守、後に相模守時野谷(1979)p.555。 足利氏の一門である細川氏の武将として、阿波、讃岐、伊予など四国地方における南朝方と戦い、観応の擾乱では幕府方に属す。管領への就任で幕政を指導し、幼少の足利義満を補佐して半済令の施行や南朝との和睦などを行う。天授5年/康暦元年(1379年)の康暦の政変で失脚するが、その後は赦免されて幕政に復帰する。.
細川頼元
細川 頼元(ほそかわ よりもと)は、室町時代の武将、守護大名。第4代室町幕府管領、小侍所別当、侍所頭人、摂津・土佐・讃岐・安芸・丹波守護。第7代細川京兆家当主。父は細川頼春、母は近衛経忠の娘。兄に頼之、詮春、頼有、弟に満之。異母兄・頼之の養子となる。正室は赤松則祐の娘。子に満元、満国、娘(宇都宮基綱室)。幼名は聡明丸、通称は三郎。初名は頼基(読み同じ)、のち頼元に改名(以後「元」の字は京兆家の家督継承者が用いる通字となる)。官位は右馬助、従四位下右京大夫。.
細川顕氏
細川 顕氏(ほそかわ あきうじ)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての足利直義側の武将。細川氏の一門。細川頼貞の子。.
細川高国
細川 高国(ほそかわ たかくに)は、戦国時代の武将、大名。第31代室町幕府管領。摂津・丹波・山城・讃岐・土佐守護。第15代細川京兆家当主。 細川氏一門・野州家の細川政春の子に生まれ、細川氏嫡流(京兆家)当主で管領の細川政元の養子となった。室町幕府第11代将軍足利義高(のちの義澄)より偏諱(「高」の字)を与えられ、高国と名乗った。弟に晴国(高国の実子とも)、通政(輝政)。実子に稙国ほか、養子に氏綱がいる。 養父政元が暗殺された後の混乱(永正の錯乱)を経て、同じく政元の養子であった阿波守護家出身の細川澄元を結果的に排除し、京兆家の家督を手中にした。澄元とは両細川の乱と呼ばれる抗争を長期にわたって継続したが、管領として幕政の掌握を続けた。ところが、細川氏の権力構造の基礎である「内衆」とよばれる分国の重臣達が、京兆家の抗争に伴って各々対立し大いに疲弊。外様である大内氏を頼ったが、大内勢の帰国後は圧倒的な支持基盤を構築できず、最終的には澄元の嫡男・晴元に敗れて自害に追い込まれた。.
細川氏
細川氏(ほそかわし)は、本姓は源氏、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏の名門足利氏の支流。名字は鎌倉時代に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことに由来する。 南北朝時代に足利尊氏に従って発展し、嫡流は室町幕府の管領家に列する有力守護大名となる。また江戸時代には、傍流から肥後熊本藩54万石の藩主家を出した。.
細川満元
細川 満元(ほそかわ みつもと)は、室町時代前期の守護大名。第11代室町幕府管領。摂津・土佐・讃岐・丹波守護。第8代細川京兆家当主。細川頼元の長男。満国の兄。子に持元、持之、持賢。幼名は聡明丸、のち元服に際して3代将軍・足利義満より偏諱を受け満元に改名。通称は五郎。官位は右馬頭、右京大夫。 応永4年(1397年)、父の死去により家督を継い摂津・土佐・讃岐・丹波の守護となる。応永19年(1412年)3月に管領職に就任した。就任中の北畠満雅の反乱、上杉禅秀の乱、足利義嗣の殺害事件、有力守護大名と4代将軍足利義持及び側近の富樫満成との対立など様々な問題が起こったが、満元は義持をよく補佐してこれを全て処理し、守護連合制度の確立に努めた。 応永28年(1421年)7月に管領を辞任、5年後の応永33年(1426年)10月16日、49歳で死去した。 満済は『満済准后日記』で満元について「天下の重人なり、御政道等一方の意見者」と記し、公家の中山定親も日記『薩戒記』で「執政の器」と評しており、満元が公家からも武家からも幕政における重鎮と評されていたことを示している。.
細川澄之
細川 澄之(ほそかわ すみゆき)は、室町時代後期(戦国時代)の武将。第29代室町幕府管領。第13代細川京兆家当主。第24、26、27、28代室町幕府管領・細川政元の養子となった。.
細川澄元
細川 澄元(ほそかわ すみもと)は、戦国時代の武将・守護大名。第30代室町幕府管領。丹波・摂津・讃岐・土佐守護。第14代細川京兆家当主。 細川高国と争い(両細川の乱)管領に就任し一時的に政権を樹立するも短期間で崩壊、管領の座も高国に奪われる形で解任。養父の細川政元には嫡子として認められていたものの、管領としての力は無きに等しかった。.
細川持之
細川 持之(ほそかわ もちゆき 1400年~1442年9月8日)は、室町時代の武将・守護大名。第14代室町幕府管領。摂津・丹波・讃岐・土佐守護。第10代細川京兆家当主。細川満元の次男で兄に持元、弟に持賢がいる。妻は京極高光の娘。嫡男に勝元、成賢(しげかた、持賢養子)。.
細川持元
細川 持元(ほそかわ もちもと、応永6年(1399年) - 正長2年7月14日(1429年8月14日))は室町時代前期の武将・守護大名。摂津、丹波、讃岐、土佐守護。第9代細川京兆家当主。細川満元の嫡男。持之、持賢の兄。幼名は聡明丸、通称は五郎。官途は右馬助、右京大夫。.
細川政元
細川 政元(ほそかわ まさもと)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、室町幕府守護大名であり、第24、26、27、28代管領。細川氏の第12代当主。丹波・摂津・土佐守護。足利将軍家の在職将軍10代義材を追放して11代義澄を擁立し、政権を掌握。事実上の最高権力者となり、「半将軍」とも呼ばれた。 室町幕府の三管領(足利一門の斯波、畠山、細川)である細川氏本家・京兆家の生まれ。父は応仁の乱時に東軍を率いた細川勝元。母は勝元の正室・山名熙貴の娘(養父は山名宗全)とされるが、根拠となる史料は無い。修験道に没頭して女性を近づけず独身を貫いたため実子はおらず、政元をもって細川家の嫡流は途絶え、養子に澄之、澄元、高国がいる。 将軍を挿げ替え(明応の政変)、管領として幕政を牛耳り(京兆専制)、比叡山焼き討ちを行ったり畿内周辺にも出兵するなど、細川京兆家の全盛期を築き当時日本での最大勢力に広げたが、3人の養子を迎えたことで家督争いが起こり、自らもその争いに巻き込まれる形で家臣に暗殺された(永正の錯乱)。応仁の乱の混乱以来、実力者政元の登場によって小康状態にあった京・畿内周辺は、その死と澄元・高国両派の争いによって再び長期混迷していくこととなる。.
紀夏井
紀 夏井(き の なつい、生没年不詳)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。大納言・紀古佐美の曾孫。美濃守・紀善峯の三男。母は石川氏。官位は従五位上『日本三代実録』貞観8年9月22日条・右中弁。.
紀貫之
紀 貫之(き の つらゆき)は、平安時代前期の歌人・貴族。下野守・紀本道の孫。紀望行の子。『古今和歌集』の選者の一人で、三十六歌仙の一人。.
紀船守
紀 船守(き の ふなもり、天平3年(731年) - 延暦11年4月2日(792年4月27日))は、奈良時代の公卿。従七位下・紀猿取の子。官位は正三位・大納言、贈正二位・右大臣。.
総社
備中国総社宮(岡山県総社市)創祀当時に備中国にあった神社計304社を合祀する。 総社、惣社(そうじゃ、そうしゃ、すべやしろ)とは、日本で、特定地域内の神社の祭神を集めて祀った(.
美濃国
美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.
田原藩
原藩(たはらはん)は、三河国田原(現在の愛知県東部・渥美半島)にあった譜代大名の藩である。本拠は室町時代末期に築かれた田原城。.
甲斐国
斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
白鳳地震
白鳳地震(はくほうじしん)は、白鳳時代(飛鳥時代後期)の天武天皇13年(684年)に起きた、南海トラフ沿いの巨大地震と推定される地震である。南海トラフ巨大地震と推定される地震の確実な記録としては最古のものである。白鳳の大地震(はくほうのおおじしん)、白鳳大地震(はくほうおおじしん) 今村明恒(1941): 白鳳大地震, 地震 第1輯, Vol.13, No.3, 82-86.
白河藩
白河藩(しらかわはん)は、江戸時代に陸奥国白河郡白河(現在の福島県白河市)周辺を知行した藩。藩庁は白河城。支藩として、一時期存在した白河新田藩がある。.
鎌倉時代
伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).
遠国
遠国(おんごく、えんごく)とは、律令国の等級区分の一つである。 古代日本の律令制の下において、地方行政区画の一環として、畿内からの距離によって国を分けた。その結果、「遠い位置にある国」が遠国とされた。「近国」「中国」「遠国」の3分類の中で最も数が多い。.
香宗我部氏
香宗我部氏(こうそかべし)は、日本の氏族。土佐国の豪族であり土佐七雄の一つ。甲斐源氏の子孫と伝えられ、室町時代初期から勢力を伸ばすが、戦国時代末期に長宗我部元親の弟親泰を養子として迎え、以降は長宗我部氏の一族となった。.
香美郡
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角川日本地名大辞典
『角川日本地名大辞典』(かどかわにほんちめいだいじてん)は、角川書店の出版による日本の地名辞典である。 著者は「角川日本地名大辞典」編纂委員会で、委員長を務めた竹内理三は本書を制作する目的として「民族遺産としての地名を将来に伝えること」、現代の地名を収録したことについては「現代の社会生活上の必要を満たし、地域の現状を歴史として後世に伝えること」としている(それぞれ本書冒頭の「編纂のことば」より引用)。.
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高岡郡
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高知市
知市(こうちし)は、四国の中南部に位置する都市で、高知県の県庁所在地である。中核市に指定されている。旧土佐郡・長岡郡・吾川郡。.
高知県
知県(こうちけん)は、日本の県の一つ。四国の太平洋側に位置する。県庁所在地は高知市。.
高須藩
藩(たかすはん)は、江戸時代、美濃国石津郡高須(岐阜県海津市)付近を領有した藩。藩庁は高須陣屋(初期は高須城)。一時期、駒野館(宝暦13年(1763年)- 安永7年(1778年))。江戸中期以降は尾張藩支藩。.
谷村藩
谷村藩(やむらはん)は、江戸時代初期に甲斐国にあった藩。 甲斐国4郡のうち東部の都留郡一帯にあたる郡内地方を支配した。古くから独立性の強い郡内領を治め、別名郡内藩(ぐんないはん)と呼ばれる。領内支配の中心であった谷村城は、郡内地域では数少ない城跡として現在でも残されている。.
豊島朝経
豊島 朝経(としま ともつね、生年不詳-建仁3年10月15日(1203年11月20日))は平安時代末期から鎌倉時代初期の武士。祖父(または父)は豊島清元(清光)。父(または子)は豊島有経。子(または孫)は豊島時光。官位は右馬允。通称は太郎。 治承4年(1180年)8月、平氏打倒の挙兵をした源頼朝は石橋山の戦いで大庭景親ら平氏方に敗れ、安房国へ逃れた。9月3日、頼朝は源氏恩顧の武士である豊島氏当主の清元とその子葛西清重に海路をもって安房国へ参じるよう命じ、また在京中だった朝経には、その妻女に綿衣を進呈するように命じている。 葛西清重は優れた武将で、源範頼に従軍して武功を立て、奥州合戦で活躍して奥州総奉行に任ぜられ、葛西氏は奥州の大族となっている。 建仁元年(1201年)7月、朝経は土佐守護職に任じられた。北条時政の名の書状があり、同国内の深淵郷と香宗我部郷の地頭職に任じられた中原秋通に現地の住民が従わないため、朝経へ地頭職を強制執行するよう命じられている。建仁3年(1203年)8月に土佐守護を三浦義村と交代。 同年10月10日、比叡山衆徒が八王子山に城砦を構築して立て籠もり騒擾を起こす事態となった。朝経は同族(弟?)の葛西重元とともに官軍に加わり、討伐に向かい比叡山衆徒は蹴散らされたが、官軍300人が戦死し、佐々木重綱および、朝経、重元は討ち死にした。 朝経は江戸時代に旗本豊島泰盈が作成した「金輪寺本豊島家系図」「泰盈本豊島家系図」では清元の長子とされ彼の系統が豊島氏の嫡流となるが、一族の旗本宮城氏の「豊島宮城系図」ではその名が現れない(こちらは葛西清重の系統が嫡流になっている)。 系図で子とされる有経が元暦元年(1184年)に既に紀伊国守護人であることが確認されており(『根来要書』)、不自然な点がある。近年になって発見された鎌倉時代末期作成の「桓武平氏諸流系図」には朝経の名がない。このため、朝経の系譜関係は不明である。 豊島氏本宗家は室町時代に滅びており、系図はその200年以上後になって復元されたもので、人物の比定に混乱が見られ、近年の研究では朝経は系図では子になっている有経の子と推定され、親子関係が逆転している。 近年の研究を反映した系図では朝経の子(従来の系図では孫)の時光の時に幕府から所領を没収され、朝経の系統は断絶した。.
豊臣秀吉
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.
豊臣秀長
豊臣 秀長(とよとみ ひでなが / とよとみ の ひでなが)または羽柴 秀長(はしば ひでなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 豊臣秀吉の異父弟(同父弟説もある)。豊臣政権において内外の政務および軍事面で活躍を見せ、天下統一に貢献した。 最終的には大和・紀伊・和泉の3ヶ国に河内国の一部を加え、約110余万石の大名となるに至る。また官位も従二位権大納言に栄進したことから、大和大納言と尊称された。秀吉は秀長を隣に配して重用し、また秀長も秀吉に異を唱え制御できる人物であった。短期間で成長を遂げ、徳川家康や伊達政宗など外様大名を抱える豊臣政権における調整役であり、政権の安定には欠かせぬ貴重な人物だった。.
鳥居成次
鳥居 成次(とりい なりつぐ、元亀元年(1570年)- 寛永8年6月18日(1631年7月17日)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。甲斐国郡内領主・同国谷村藩初代藩主。鳥居元忠の三男。母は形原松平家広の娘。子に鳥居忠房(長男)、鳥居忠春(次男)、娘(井上正利正室)、娘(日向政次室)、娘(八木豊次室)。官位は従五位下、土佐守。.
越前勝山藩
越前勝山藩(えちぜんかつやまはん)は、越前国勝山周辺を支配した藩。居城は勝山城。.
越前国
越前国(えちぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.
路永名
路 永名(みち の ながな、生没年不詳)は、平安時代初期の貴族。姓は真人。官位は従五位上・備前守。.
都佐国造
都佐国造(とさのくにのみやつこ・とさこくぞう)は、後の令制国の土佐国東部、現在の高知県東部を支配した国造。 『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、成務天皇の御世に、長阿比古と同祖の三島溝杭命の9世孫の小立足尼を国造に定められたとされる。 長阿比古は事代主の子孫を称しており、小立足尼の後裔の都佐国造も事代主命系の豪族とされ、その氏姓は凡直を称したという。その他、『続日本紀』神護景雲2年(768年)十一月戊子条で賀茂姓を賜った神依田公も当地の豪族であり土佐高賀茂大社が存在したとされ、式内社都佐坐神社に比定される。 名称については、建依別の示す剛健勇武さに由来する「敏聡」の約語によると見る説、遠狭・土狭・処離といった地勢に基づくとする説などがある。.
鵜来島
来島(うぐるしま)は太平洋上、高知県宿毛市の沖合にある島。足摺宇和海国立公園に指定されている。.
関宿藩
関宿藩(せきやどはん)は、下総国(現在の千葉県野田市関宿三軒家)に存在した藩。藩庁は関宿城にあったが、現在の茨城県猿島郡境町にあたる地域をも城下町とした。 利根川と江戸川の分岐点にあたり、利根川水運の要衝であることから、江戸幕府にとっては重要拠点だった。そのため信頼の厚い譜代大名がその藩主に任じられた。.
関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.
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藤原定実
藤原 定実(ふじわら の さだざね)は、平安時代後期の貴族。権中納言・藤原伊房の子。官位は従四位上・右京大夫。世尊寺家第4代当主。.
藤原師長
嶋川稲荷(名古屋市瑞穂区)の境内にある尾張配流時代の師長の屋敷跡 藤原 師長(ふじわら の もろなが)は、平安時代末期の公卿。藤原北家御堂流、左大臣藤原頼長の長男。官位は従一位・太政大臣。妙音院太相国と号す。.
藤原信頼
藤原 信頼(ふじわら の のぶより)は、平安時代末期の公卿。後白河天皇の寵臣として絶大な権力をふるうが、同じく上皇の近臣であった信西と対立。源義朝と平治の乱を起こし信西を斬首し、朝廷の最大の実力者となるが、二条天皇親政派と組んだ平清盛に敗北。六条河原で斬首された。.
藤原隆季
藤原 隆季(ふじわら の たかすえ)は、平安時代後期の公卿。中納言・藤原家成の長男。官位は正二位・権大納言。四条または大宮を号す。四条家の祖。.
藤原魚名
藤原 魚名(ふじわら の うおな)は、奈良時代の公卿。藤原北家、参議・藤原房前の五男。官位は正二位・左大臣。.
藤原末茂
藤原 末茂(ふじわら の すえしげ/すえもち)は、奈良時代の貴族。藤原北家、左大臣・藤原魚名の三男。官位は従五位上・美作守。.
藤原房前
藤原 房前(ふじわら の ふささき)は、飛鳥時代から奈良時代前期にかけての貴族。藤原不比等を父とする藤原四兄弟の次男で藤原北家の祖。官位は正三位・参議。贈正一位・太政大臣。.
長宗我部兼序
長宗我部 兼序(ちょうそかべ かねつぐ)は、戦国時代の武将。土佐の国人領主。長宗我部雄親の子。.
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長宗我部元親
長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。長宗我部氏第21代当主。位階は従五位下で死後に正五位、昭和3年(1928年)には正三位が贈られた。 長宗我部国親の長男で、母は美濃斎藤氏の娘。正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。 土佐国の守護職を兼ねる細川京兆家当主で管領の細川晴元より、京兆家の通字である「元」の一字を受けたため、かつて同じく細川氏より「元」の字を受けた15代当主(長宗我部元親 (南北朝時代))と同名を名乗ることとなった。 土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国に勢力を広げる。しかし、その後に織田信長の手が差し迫り、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となった。豊臣政権時、戸次川の戦いで愛息・信親を亡くすと生活は荒れ、家中を混乱させたままこの世を去った。.
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長宗我部国親
長宗我部 国親(ちょうそかべ くにちか)は、戦国時代の土佐国の大名。長宗我部兼序の嫡男。長宗我部氏復興に尽力し、野の虎と評される。.
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長宗我部盛親
長宗我部 盛親(ちょうそかべ もりちか)は、安土桃山時代から江戸時代前期の土佐国の大名・武将。長宗我部氏第22代当主。長宗我部元親の四男。戦国大名としての長宗我部氏の最後の当主。 父・元親の死後に長宗我部家の家督を継ぐ。関ヶ原の戦いで西軍に属すが、敗色濃厚と見て戦わず帰国し、徳川氏に謝意を表した。しかし、帰国直後に重臣たちが浦戸一揆を起こしたことをとがめられ、領国を没収され浪人となった。のち豊臣側から故郷の土佐一国の贈与を条件に旧臣と共に大坂城に入城、大坂の陣が勃発し、戦闘に参加したが敗北。再起を図るため、逃亡したが捕らえられた後、処刑された。.
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長宗我部氏
長宗我部氏(ちょうそかべし)は、日本の武家の一つ。平安時代末から戦国時代の武家。戦国時代に土佐を統一し四国に進出した戦国大名、長宗我部元親で有名。長曽我部・長曾我部とも記される。 本姓は秦氏を称した。家紋は「七つ酢漿草かたばみ」。室町時代以降、通字に「親」を用いた。 現・当主は長宗我部(ちょうそ'''が'''べ)友親。.
長岡郡
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長浜の戦い
長浜の戦い(ながはまのたたかい)は永禄3年(1560年)5月28日に戦国時代の土佐国に割拠していた長宗我部氏と本山氏の間で行われた合戦。長浜表の戦いとも呼ばれる。長浜の戦いの本戦である戸ノ本での戦いは、長宗我部元親が初陣を飾った戦いとして有名である。.
陸奥国
奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.
松平直良
松平 直良(まつだいら なおよし)は、江戸時代前期の大名。越前国木本藩主、越前勝山藩主、越前大野藩初代藩主。直良系越前松平家初代。.
松平明矩
松平 明矩(まつだいら あきのり)は、江戸時代中期の大名。直基系越前松平家4代。.
植村忠朝
植村 忠朝(うえむら ただとも)は、江戸時代前期の旗本、のちに上総勝浦藩の初代藩主。忠朝系植村家初代。 寛永7年(1630年)、植村泰朝の次男として生まれる。兄泰治が病弱で家督を継ぐことを辞退したため、世子となった。万治元年(1658年)閏12月、従五位下、土佐守に叙任する。寛文3年(1663年)、父の死去により家督を継いで9000石の旗本となった。 寛文8年(1668年)8月に書院番頭に任じられ、寛文9年(1669年)2月に大番頭に任じられる。天和2年(1682年)4月21日、2000石を加増されて1万1000石の大名、上総勝浦藩主となった。 元禄9年(1696年)11月16日に死去、享年67。跡を嫡男の正朝が継いだ。 たたとも Category:江戸幕府旗本 category:勝浦藩主 Category:1630年生 Category:1696年没.
植村恒朝
植村 恒朝(うえむら つねとも)は、上総勝浦藩の第3代藩主。忠朝系植村家3代。.
植村正朝
植村 正朝(うえむら まさとも)は、上総勝浦藩の第2代藩主。忠朝系植村家2代。.
植村氏
植村氏(うえむらし)は、日本の氏族のひとつ。.
植村泰忠
植村 泰忠(うえむら やすただ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、旗本。 植村氏は清和源氏の一流である摂津源氏の流れを汲む美濃源氏の嫡流・土岐氏の末裔を称する。 幼くして父・植村泰基を亡くし、三河国鳳来寺の大叔父・二位法印教円に育てられ、鳳来寺薬師別当となり、安養院と号する。元亀3年(1573年)、三方ヶ原の戦いに僧兵を率いて徳川家康に加勢した。戦後に還俗し、遠江国榛原郡内に領地を賜る。小田原征伐における武蔵国岩槻城攻略で親族の本多忠政と共に参戦し、武功を挙げ、家康の関東入りに従い、上総国夷隅郡勝浦3000石を賜り、関ヶ原の戦い後に2000石を加増され、勝浦を居所とし、それまでの勝浦城を廃城にし、勝浦の街の基礎を築いた。また、領民に市を開かせて、これが日本三大朝市に数えられる勝浦朝市のはじまりである。 子・泰勝は、大番頭にまで昇進し、4000石の加増を受け、計9000石とり、曾孫の忠朝は、さらに加増され、諸侯に列している。.
植村泰朝
植村 泰朝(うえむら やすとも)は、江戸時代前期の旗本。 寛永12年(1635年)、父・植村泰勝の死去により家督を継ぐ。その際、浄林寺を現在の場所に移設して、父の幼名の覚翁丸を取り出水山覚翁寺と改称し、菩提寺とした。 駿府加番、大坂加番等を歴任し、正保2年(1645年)、大番頭に昇進した。 子・忠朝は、さらに加増され、諸侯に列している。 やすとも Category:江戸幕府旗本 Category:1603年生 Category:1663年没.
橘則光
橘 則光(たちばな の のりみつ、康保2年(965年) - 没年未詳)は平安時代中期の官人。橘氏長者・中宮亮・橘敏政の長男。官位は従四位上、陸奥守。清少納言の夫として知られる。.
橘時枝
橘 時枝(たちばな の ときえだ、生没年不詳)は、平安時代初期の貴族。修理大夫・橘永継の子。官位は従五位下・土佐守。.
武市瑞山
武市邸と道場跡の碑(高知市桜井町) 武市 瑞山(たけち ずいざん、文政12年9月27日(1829年10月24日) - 慶応元年閏5月11日(1865年7月3日))は、日本の志士、武士(土佐藩郷士)。土佐勤王党の盟主。通称は半平太で、武市 半平太(たけち はんぺいた)と呼称されることも多い。幼名は鹿衛。諱は小楯(こたて)。号は瑞山または茗澗。変名は柳川左門。後に柳川左門と変名した際は雅号を吹山とした。 土佐藩郷士・武市正恒(白札格、51石)の長男。母は大井氏の娘。妻は土佐藩郷士・島村源次郎の長女・富子。子女はなし。坂本龍馬とは遠縁にあたる。 優れた剣術家であり、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政・吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功した。京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導し、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が一変すると前藩主・山内容堂によって投獄される。1年8か月20日の獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した。.
永正の錯乱
永正の錯乱(えいしょうのさくらん)は、永正4年(1507年)に室町幕府管領細川政元が暗殺されたことを発端とする、管領細川氏(細川京兆家)の家督継承をめぐる内訌である。背景には京兆家を支えてきた内衆などの畿内の勢力と政元の養子の一人細川澄元を擁する阿波の三好氏などとの対立があり、これに将軍足利義澄に対抗して復権を目指す前将軍足利義稙の動きも絡んでいた。複雑な情勢の推移を経て、政元の暗殺から1年後には畿内勢が支持する別の養子細川高国が家督に就き足利義稙が将軍に返り咲いたが、これに逐われた足利義澄・細川澄元・三好氏の勢力も巻き返しを図り、畿内において長期にわたって抗争が繰り返された(両細川の乱)。.
沖の島 (高知県)
沖の島(おきのしま)は、日本の四国・高知県の南西部、宿毛湾および大月半島の南西沖、北緯32度43分・東経132度32分の太平洋上に所在する島である。面積10.5km2。海岸線長約17km、東西約3.5km、南北約5.8km。最高所(妹背山頂)標高は 404.1m。 孤立小型離島で外海離島、有人島で有人離島2007年時点で全国合わせて461、基準見直し後の2013年時点で254を数える有人離島の一つ。、離島振興法指定離島指定年月日は不明。高知県では沖の島と鵜来島の2島が指定を受けている(2017年時点)。で一次離島一次離島とは、本土(※この定義下での「本土」は、北海道・本州・四国・九州・沖縄本島という5区域それぞれの本島。そのいずれか)と直の交通手段を有する離島を指す公文書用語。法的に定義されていない語ではあるが、実用されている。。 東に蒲葵島と幸島日外アソシエーツ編『島嶼名 漢字よみかた辞典』蒲葵島(びろうじま)は、大月半島先端と沖の島の間に位置する太平洋上の無人島。幸島(こうしま)は、蒲葵島と大月半島の間に位置する太平洋上の無人島。現在行政上は、両島とも高知県幡多郡大月町に所属する。、北に裸島沖の島に最寄りの裸島(はだかじま)は、沖の島の北に位置する無人島。現在行政上は高知県宿毛市沖の島町に所属する。なお、同名の島は少なくとも日本国内に(沖の島最寄りの島を含めて)17箇所もある。と二並島沖の島に最寄りの二並島(ふたならびじま)は、裸島の北に位置する無人島。現在行政上は高知県宿毛市沖の島町に所属する。同名の島が豊後水道上にもあり、こちらは2島からなる無人島で、現在行政上は愛媛県宇和島市に所属する。、北西に鵜来島鵜来島(うぐるしま)は、沖の島の北西に位置する太平洋上の有人島。現在行政上は高知県宿毛市沖の島町に所属し、行政区画名は高知県宿毛市沖の島町鵜来島である。、西に三ノ瀬島三ノ瀬島(さんのせじま)は、沖の島と姫島のちょうど中間地点にある無人島。現在行政上は高知県宿毛市沖の島町に所属する。・姫島沖の島に最寄りの姫島(ひめしま)は、三ノ瀬島の西に位置する無人島。現在行政上は高知県宿毛市沖の島町に所属する。四万十層群のうちの白亜紀四万十帯に属する砂岩泥岩互層(タービダイト)からなり、周囲は50~100mの海食崖に囲まれている。・水島沖の島に最寄りの水島(みずしま)は、姫島の北に位置する無人島。現在行政上は高知県宿毛市沖の島町に所属する。があり、これらの島々の中で沖の島が最も大きい。 地理的に最も近い四国本土の地域は大月半島(高知県幡多郡大月町)であるが、現在行政上では、大月町の北に位置する宿毛市に属し、裸島・二並島・沖の島・鵜来島・三ノ瀬島・姫島・水島の7島などで沖の島町(おきのしまちょう。宿毛市の成立以前に存在した'''沖ノ島村'''と地域的変更なし)を構成する(有人島は鵜来島と沖の島のみ)。沖の島内の行政区画は北の「沖の島町母島(もしま)」と南の「沖の島町弘瀬(ひろせ)」に分かれるこれは「沖の島内」という限定条件下での説明。行政区域としての両者と鵜来島には最寄りの無人島が割り振られている。「沖の島町弘瀬」には姫島の南部が、「沖の島町鵜来島」には姫島の北部が、「沖の島町母島」にはその他すべての無人島が属している(※それぞれの区域名をGoogle地図検索にかければ、一部不完全ながら、区域が赤線で表示される)。。 足摺宇和海国立公園指定地域の一つ。島内集落は「島の宝100景」選定地域の一つ。 古称は「いもせのしま(妹兄島、妹背島)」であった可能性が高い(:いもせじま)。日外アソシエーツ編『島嶼名 漢字よみかた辞典』は、別名として、沖ノ島(おきのしま)、土佐沖の島(とさおきのしま)、妹背島(いもせじま)を挙げている。.
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波多国造
波多国造(はたのくにのみやつこ・はたこくぞう)は、後の令制国の土佐国西部、現在の高知県西部を支配した国造。 『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、崇神天皇の御世に、韓襲命を神の教えにより国造に定められたとされる。 波多国造は後の令制国の土佐国のうち幡多郡を支配したと考えられ、その中心地は、現在の四万十市(しまんとし)中村説と、宿毛市平田の平田曽我山古墳のある平田古墳群の地とする説がある。「国造本紀」に見える都佐国造は波多国造より後の設置とされ、また律令制以前の南海道は伊予から当地を経て都佐国造の地に至っており、土佐中央部よりも先進地帯であったといわれている。.
津軽信寿
津軽 信寿(つがる のぶひさ・津軽 信壽)は、陸奥弘前藩の第5代藩主。.
津軽信義
津軽 信義(つがる のぶよし)は、江戸時代の大名。陸奥弘前藩の第3代藩主。.
津軽信明
津軽 信明(つがる のぶあきら)は、江戸時代後期の大名。陸奥弘前藩(津軽藩)の第8代藩主。.
津軽氏
津軽氏(つがるし、)は、16世紀末から廃藩置県まで、現在の青森県のうち津軽地方を支配した大名の氏族。通字は「信(のぶ)」。.
津軽承昭
津軽 承昭(つがる つぐあきら)は、陸奥国弘前藩の第12代(最後)の藩主。和歌にも優れていたと言われている。.
津野氏
津野氏(つのし)は土佐国高岡郡の豪族。土佐七雄の一つ。高岡郡のうち中西部の津野荘・山間部の津野新荘・檮原荘を拠点とした。.
津波
津波の発生原理を示す図 津波(つなみ、Tsunami)は、地震や火山活動、山体崩壊に起因する海底・海岸地形の急変により、海洋に生じる大規模な波の伝播現象である。まれに隕石衝突が原因となったり、湖で発生したりすることもある。強風により発生する高波、台風や低気圧が引き起こす高潮、副振動(セイシュ)、原因が解明されていない異常潮位とは異なる。 1波1波の間隔である波長が非常に長く、波高が巨大になりやすいことが特徴である。地震による津波では波長600km、波高5m超のものが生じた事がある(津波が陸上に達するとこの値は大きく変わる)西村、1977年、123-124頁。 津波という現象は、例えるならば大量の海水による洪水の様な現象であり、気象など他の要因で生じる波とは性質が大きく異なる。大きな津波は浮遊物と共に陸深くに浸入し、沿岸住民の水死や市街・村落の破壊など、種々の災害を発生させる。.
清少納言
清少納言(せいしょうなごん-->、康保3年頃〈966年頃〉 - 万寿2年頃〈1025年頃〉)は、平安時代中期の女流作家、歌人。随筆『枕草子』は平安文学の代表作の一つ。.
源希義
源 希義(みなもと の まれよし)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源義朝の五男。源頼朝の同母弟で、同母姉妹に一条能保室の坊門姫がいる。.
源国基
源国基は、.
源義朝
源 義朝(みなもと の よしとも)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の長男。母は白河院近臣である藤原忠清の娘。源頼朝・源義経らの父。 源義家の死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていた。都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で家人に裏切られ謀殺された。.
源頼朝
源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.
源長季
源 長季(みなもと の ながすえ、生没年不詳)は、平安時代後期の貴族。醍醐源氏、左大臣・源高明の曾孫。右馬頭・源守隆の子。官位は従四位上・備前守。 少納言・右衛門権佐(検非違使佐)・右馬頭・土佐守、備前守などを歴任した。摂関家に仕える家司であるとともに、朝廷に仕える官人でもあった。地方官として各地の受領を務め、地方の発展に尽くし、盗賊の捕縛などの記録のある人物で、在世中に良吏であると名を馳せたという。 藤原頼通と親密であったとする逸話がある。.
朝倉神社 (高知市)
朝倉神社(あさくらじんじゃ)は、高知県高知市朝倉にある神社。式内社で、土佐国二宮と称される。旧社格は県社。俗称として「木の丸様」とも。.
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木本藩
木本藩(このもとはん)は、越前国(現在の福井県大野市木本)に存在した藩。.
本山茂辰
本山 茂辰(もとやま しげとき)は、戦国時代の武将。土佐七豪族の本山氏当主。本山茂宗の嫡男。 土佐一条氏と敵対の姿勢を見せ、一条氏と通じていた土佐吉良氏の攻撃を決意。天文9年(1540年)、当主の吉良宣直が仁淀川に狩猟に出かけて留守になっていた隙を狙って攻撃を開始。本山氏側は軍を二手に分け、茂辰は城主が不在であった吉良峰城に向かってこれを落とした。一方仁淀川に向かった軍勢も宣直を討ち取り、土佐吉良氏を滅亡させた。 弘治元年(1555年)、父・茂宗の死を受けて跡を継ぎ、中央平野部の朝倉城に拠る。茂辰は依然一条兼定と敵対し、2月25日には高岡郡の蓮池城を落とした。しかし翌年から舅の長宗我部国親が反旗を翻したため、国親及びその子・元親と抗争を続ける。永禄3年(1560年)5月、長浜の戦いで長宗我部氏に大敗。6月には浦戸城を失って朝倉城に立て籠もった。以後も元親によって朝倉支城を悉く落とされ、永禄4年(1561年)3月にも侵攻を受けて敗北した。 永禄5年(1562年)9月には元親の大規模な侵略を受けるが、子の貞茂の活躍で勝利した。しかし本山軍の被害も大きく、以後は長宗我部側の調略により次第に傘下の豪族を切り崩された。このため永禄6年(1563年)1月10日、朝倉城を自ら放棄して山間部の本山城に退く。5月に茂辰は挽回のために岡豊に攻め入るも敗北。永禄7年(1564年)4月には本山城を棄てて瓜生野に籠もって抗戦するが、その最中に病死したとされているが、実はこれについては文献上に茂辰の名前が登場しなくなるというだけで、茂辰の死去日や場所を裏付ける具体的な史料が存在する訳ではなく、「行方不明」というのが正しい。 ところが、永禄7年から20年以上経過した天正年間末期に編纂された『長宗我部地検帳』に「本山大夫法師殿」という人物が登場する。茂辰の嫡男・貞茂(後に親茂)が長宗我部氏に降伏しその家臣となって以降に長宗我部氏の文書で「殿」の称号で呼ばれたのは本山氏嫡流の人物のみであり、貞茂(親茂)兄弟は別に記載があるため、「本山大夫法師殿」に該当する可能性があるのはその先代である茂辰しか考えられず、茂辰は永禄7年以降に出家して長宗我部元親の庇護下にあったする説が浮上した。この説を提唱した朝倉慶景は茂辰は降伏して出家を条件に助命されたものの、これに納得しない茂辰の妻(元親の姉)や家臣が貞茂を擁して抵抗を継続したと推測している。.
本山氏
本山氏(もとやまし)は、土佐国の豪族。土佐七雄の一つに数えられる。.
朽木倫綱
朽木 倫綱(くつき ともつな)は、丹波福知山藩の第9代藩主。福知山藩朽木家10代。 明和4年(1767年)1月7日、第7代藩主朽木舖綱の長男として生まれる。天明6年(1786年)7月9日、第8代藩主朽木昌綱の養子となる。同年12月15日、将軍徳川家斉に拝謁する。天明7年12月18日、従五位下土佐守に叙任する。寛政12年(1800年)閏4月9日、昌綱の隠居により家督を継いだ。10月4日には奏者番に任じられるなど、将来を早くから嘱望されるほど有能だったが、養父の後を追うように享和2年(1802年)12月20日に早世した。享年36。跡を昌綱の実子の綱方が継いだ。 ともつな Category:福知山藩主 Category:譜代大名 Category:1767年生 Category:1803年没.
朽木玄綱
朽木 玄綱(くつき とうつな)は、丹波福知山藩の第5代藩主。福知山藩朽木家6代。.
朽木稙治
朽木 稙治(くつき たねはる)は、丹波福知山藩の第4代藩主。福知山藩朽木家5代。.
朽木綱方
朽木 綱方(くつき つなかた)は、丹波福知山藩の第10代藩主。福知山藩朽木家11代。 天明6年(1786年)12月26日、第8代藩主朽木昌綱の次男として生まれる。寛政10年(1798年)8月20日、第9代藩主倫綱の養子となる。享和3年(1803年)閏1月12日、倫綱の死去により家督を継ぐ。しかし若年により、しばらくは縁戚(第5代藩主玄綱の八男)である松平乗保の後見を受けた。同年9月15日、将軍徳川家斉に拝謁する。文化元年(1804年)12月16日、従五位下土佐守に叙任する。文化7年2月2日、大坂加番を命じられる。文化14年2月2日、大坂加番を命じられる。 綱方の治世は文化4年(1807年)に大火が起こるなど、相次ぐ災害で藩財政が悪化していった。このような多難な中で政務への関心を失った綱方は、文政3年(1820年)6月6日に家督を養子(倫綱の実子)の綱条に譲って隠居し、以後はその後見を務めた。 天保9年(1838年)2月27日に死去した。享年53。 つなかた Category:福知山藩主 Category:譜代大名 Category:1787年生 Category:1838年没.
朽木氏
朽木氏(くつきし)は、日本の氏族の一つ。近江源氏佐々木氏の分流である高島氏の有力庶家。高島郡の中でも、安曇川上流域(高島郡北部)である朽木谷を領した。鎌倉時代から江戸時代にかけて活動した。.
望月亀弥太
望月 亀弥太(もちづき きやた/かめやた) 天保9年10月7日(1838年11月23日) - 元治元年6月5日(1864年7月8日))は、幕末の土佐藩士で、土佐勤皇党の一人。神戸海軍操練所生。諱は義澄。 文久元年(1861年)、兄・望月清平と共に武市半平太の尊皇攘夷思想に賛同して土佐勤王党に加盟し、文久2年(1862年)10月、尊攘派組織五十人組の一人として、江戸へ向かう旧藩主山内容堂に従って上洛する。 文久3年(1863年)、藩命を受けて幕臣・勝海舟の下で航海術を学び、その後、坂本龍馬の紹介で勝が総監を務める神戸海軍操練所へ入所するが、元治元年(1864年)、藩より帰国命令が出されたため脱藩して長州藩邸に潜伏。長州藩の過激尊皇志士達と交流を続けていたため、池田屋事件に遭遇した。池田屋を脱出した望月は幕府方諸藩兵によって取り囲まれて深手を負い、かろうじて長州藩邸に辿り着いたものの中へ入る事を許されずに門前で自刃した。享年27。明治31年(1898年)、従四位を贈られる。 坂本龍馬も勝海舟も、その死を嘆いた。.
最御崎寺
最御崎寺(ほつみさきじ)は、高知県室戸市室戸岬町にある真言宗豊山派の寺院。室戸山(むろとざん)、明星院(みょうじょういん)と号す。本尊は虚空蔵菩薩。四国八十八箇所霊場の第二十四番札所であり、土佐で最初の札所である。 室戸岬では東西に対峙している第二十六番札所の金剛頂寺を西寺(にしでら)と呼ぶのに対し、東寺(ひがしでら)と呼ばれる。寺号は「火つ岬」(火の岬)の意。 本尊真言:のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おんあり きゃまり ぼり そわか ご詠歌:明星の 出ぬる方の 東寺 暗き迷は などかあらまじ.
挙母藩
七州城復興隅櫓 挙母藩(ころもはん)は、三河国の北西部、現在の愛知県豊田市中心部を治めた2万石の譜代大名の小藩。藩庁は挙母城(別名七州城)。挙母藩の歴史は領主により大きく4つに分かれる。.
戦国時代 (日本)
日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.
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戸川安宣
戸川 安宣(とがわ やすのぶ)は、備中庭瀬藩の第3代藩主。第2代藩主戸川正安の次男。 寛文9年(1669年)、父の死去により家督を継ぐ。このとき、弟の安成に1500石を分与したため、2万1000石となる。六間川の開削工事をはじめとする農政に手腕を見せたが、在任5年後の延宝2年(1674年)12月27日に27歳の若さで死去した。跡を長男の安風が継いだ。 同名の戸川安宣 (編集者)は、安宣の叔父である戸川安利(帯江戸川氏)の子孫。 やすのふ Category:外様大名 Category:庭瀬藩主 Category:1648年生 Category:1675年没.
戸川正安
戸川 正安(とがわ まさやす)は、備中庭瀬藩の第2代藩主。初代藩主戸川達安の次男。叔父の戸川正安(達安の弟)と同名となる。.
戸田尊次
戸田 尊次(とだ たかつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。三河田原藩初代藩主、および宇都宮藩戸田家初代となった。家系の詳細については戸田氏の項を参照。.
明応の政変
明応の政変(めいおうのせいへん)は、室町時代の明応2年(1493年)4月に細川政元が起こした室町幕府における将軍の擁廃立事件。 この政変により、将軍は足利義材(義稙)から足利義遐(義澄)へと代えられ、以後将軍家は義稙流と義澄流に二分された。なお、近年の日本史学界においては戦国時代の始期をこの事件に求める説がある。.
明治
明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.
明治維新
Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.
昭和
昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.
流罪
ダンテ』 流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺境や島に送る追放刑である。流刑(るけい、りゅうけい)、配流(はいる)とも言う。特に流刑地が島の場合には島流し(しまながし)とも呼ばれる事もある。 歴史的には、本土での投獄より、遠いところに取り残された方が自分一人の力だけで生きていかなければならなくなり、苦痛がより重い刑罰とされていた。ほか、文化人や戦争・政争に敗れた貴人に対して、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合に用いられた。配流の途中や目的地で独り生涯を終えた流刑者は多いが、子孫を残したり、赦免されたりした例もある。脱走を企てた流刑者や、源頼朝、後醍醐天皇、ナポレオン・ボナパルトのように流刑地から再起を遂げた(一時的な成功も含めて)政治家・武人もいた。 日本では離島への文化伝播に大きな役割を果たしたほか、海外ではシベリアやオーストラリアといった植民地に労働力を送り込む強制移民としても機能した。.
浦戸湾
浦戸湾(うらどわん)は高知県高知市にある土佐湾の支湾のひとつである。浦戸湾内には高知港があり、湾口には高知新港がある。.
文室笠科
文室 笠科(ふんや の かさしな、生没年不詳)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。中納言・直世王の子とする系図がある。官位は従五位上・丹後守。.
斉衡
斉衡(さいこう)は、日本の元号の一つ。仁寿の後、天安の前。854年から857年までの期間を指す。この時代の天皇は文徳天皇。.
日高村
日高村(ひだかむら)は、高知県高岡郡にある村。.
日本
日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.
日本書紀
日本書紀(平安時代の写本) 『日本書紀』(にほんしょき)は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体にて記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。.
旧高旧領取調帳
旧高旧領取調帳(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)とは、明治時代初期に政府が各府県に作成させた、江戸時代における日本全国の村落の実情を把握するための台帳である。.
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摂家
摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.
播磨国
播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.
改易
改易(かいえき)は、律令制度では現職者の任を解き新任者を補任することを、鎌倉時代・室町時代には守護・地頭の職の変更を意味した。江戸時代においては大名・旗本などの武士から身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収すること。除封ともいう。所領を削減されることを減封という。.
承平 (日本)
承平(じょうへい、しょうへい)は、日本の元号の一つ。延長の後、天慶の前。931年から938年までの期間を指す。この時代の天皇は朱雀天皇。.
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承和 (日本)
承和(じょうわ、しょうわ)は、日本の元号の一つ。天長の後、嘉祥の前。834年から848年までの期間を指す。この時代の天皇は仁明天皇。.
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1148年
記載なし。
1155年
記載なし。
1560年
記載なし。
1569年
記載なし。
1575年
記載なし。
1585年
記載なし。
1669年
記載なし。
1785年
記載なし。
1870年
記載なし。
1871年
記載なし。
1876年
記載なし。
1977年
記載なし。
1990年
この項目では、国際的な視点に基づいた1990年について記載する。.
2月25日
2月25日(にがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から56日目にあたり、年末まであと309日(閏年では310日)ある。.
675年
記載なし。
676年
記載なし。
684年
記載なし。
713年
記載なし。
756年
記載なし。
780年
記載なし。
7月14日 (旧暦)
旧暦7月14日(きゅうれきしちがつじゅうよっか)は、旧暦7月の14日目である。六曜は友引である。.
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825年
記載なし。
839年
記載なし。
843年
記載なし。
845年
記載なし。
849年
記載なし。
850年
記載なし。
852年
記載なし。
855年
記載なし。
8月25日 (旧暦)
旧暦8月25日は旧暦8月の25日目である。六曜は友引である。.
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8月29日
8月29日(はちがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から241日目(閏年では242日目)にあたり、年末まであと124日ある。.
930年
記載なし。
935年
記載なし。
9月20日
9月20日(くがつはつか、くがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から263日目(閏年では264日目)にあたり、年末まであと102日ある。.