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北条貞時

索引 北条貞時

北条 貞時(ほうじょう さだとき)は、鎌倉時代後期の北条氏一門の武将。北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第9代執権(在職:弘安7年(1284年) - 正安3年(1301年))。 第8代執権・北条時宗の嫡男。母は安達義景の娘・堀内殿(覚山尼)。.

209 関係: 執権すだれ千葉貞胤千葉胤貞吾妻鏡吉川弘文館塩冶貞清大友貞宗大友貞順大友貞親大友貞載太平記太田時連奥富敬之嫡男守邦親王宇都宮貞綱宇都宮景綱安田元久安達宗景安達義景安達氏安達泰盛安達時顕寄合衆小城市小山貞朝小笠原貞宗小田氏小池城太朗少弐貞経山川氏山ノ内 (鎌倉市)峰岸純夫島津貞久工藤貞祐工藤貞行工藤氏市村高男平禅門の乱平頼綱平高望平貞盛平資盛平政連幼名久明親王享年二階堂行貞二階堂貞衡...二階堂貞藤二階堂氏延慶 (日本)建治建治三年記弘安弘安徳政引付衆佐保祐樹佐々木道誉佐々木貞宗佐々木貞氏佐竹貞義佐賀県彗星征夷大将軍御家人御内人御簾中徳治後醍醐天皇得宗応長土岐光定北条千代寿丸北条守時北条宗宣北条宗方北条宗政北条師時北条久時北条公時北条維貞北条義時北条経時北条煕時北条菊寿丸北条顕時北条高家北条高時北条貞宣北条貞家北条貞宗北条貞国北条貞直北条貞顕北条貞規北条貞房北条金寿丸北条氏北条氏 (宗政流)北条氏 (佐介流)北条氏 (赤橋流)北条泰家北条泰時北条時基北条時家北条時宗北条時宗 (NHK大河ドラマ)北条時光北条時頼北条時村 (政村流)ハレー彗星嘉元嘉元の乱円覚寺内管領入間田宣夫元寇元弘の乱元服前賢故実国史大辞典 (昭和時代)国司石川貞光細川重男群書類従烏帽子烏帽子親結城市結城貞広田中大喜相模国白根靖大鎮西探題鎌倉鎌倉大地震鎌倉市鎌倉幕府鎌倉時代菊池容斎頓阿飯沼資宗覚山尼覚海円成馬寮足利尊氏足利直義足利貞氏足利貞数霜月騒動葛西貞清金子雄長崎円喜長井宗秀長井貞秀長井貞頼長井貞重連署東京大学史料編纂所松本一夫桜田時厳桃井直常桃井直信森茂暁正安正応武将武内宿禰毛利貞親永井晋永仁永仁の徳政令河越貞重渋川貞頼服部英雄本郷和人惟康親王戎光祥出版戸次氏斯波宗氏新人物往来社文永悪党敬称数え年教育委員会思文閣出版10月26日 (旧暦)1272年1277年1281年1282年1284年1285年1287年1289年1293年1297年12月12日 (旧暦)12月2日 (旧暦)12月6日1301年1305年1308年1309年1311年1月14日 インデックスを展開 (159 もっと) »

執権

執権(しっけん)は、鎌倉幕府の職名。鎌倉殿を助け政務を統轄した。元来は、政所の別当の中心となるものの呼称であった。 ただし、朝廷においても用いられた語であり、鎌倉幕府独自の職名ではないことに注意を要する。.

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すだれ

立すだれ すだれ(簀垂れ、簾)とは、竹や葦などを編んで部屋の仕切りあるいは日よけのために写真のように吊り下げて用いるもの 特許庁。.

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千葉貞胤

千葉 貞胤(ちば さだたね)は、鎌倉幕府末期から南北朝時代の武将。千葉氏の第11代当主。第10代当主・千葉胤宗の子。.

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千葉胤貞

千葉 胤貞(ちば たねさだ)は、鎌倉幕府末期から南北朝時代の武将。千葉氏の第9代当主千葉宗胤の長男。.

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吾妻鏡

『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮の序文 『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。 編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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塩冶貞清

塩冶 貞清(えんや さだきよ安田、1990年、p.240 「佐々木貞清」の項(執筆:勝山清次)より。『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(コトバンク所収)「」の項 より。、旧字体:鹽冶 貞淸『尊卑分脈』より。、生年不詳 - 正中3年3月28日(1326年5月1日)西ヶ谷、1998年、P.301掲載 佐々木氏系図。)は、鎌倉時代後期の武将。 塩冶頼泰の子(長男とされるが兄弟に塩冶秀時がいたようである「」より。)。通称は孫二郎。佐々木貞清(ささき -)とも呼ばれる。近江判官、塩屋判官と称したとも伝わる。 生誕年は不明だが、鎌倉幕府第9代執権の北条貞時が北条氏得宗家当主であった期間(1284年-1311年)内に元服して、貞時と烏帽子親子関係を結んでその偏諱(「貞」の字)を受けた紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、p.15系図・p.21)。人物とみられる。 父・頼泰より出雲守護を継承し、左衛門尉・検非違使・近江守(近江判官)に任ぜられ、従五位下に叙任。主な活動としては、正中2年(1325年)5月に鰐淵寺内の守護使入部を停止したり、翌3年(1326年)に杵築大社頭役の勤否を六波羅に注進したりしたことが伝わっている。後者と同年の3月28日に死去。子には塩冶高貞・塩冶時綱・塩冶貞泰がおり(他に寂阿・宗貞・宗泰・泰綱・高顕がいたとする系図もある)、嫡子であった高貞が跡を継いだ。.

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大友貞宗

大友 貞宗(おおとも さだむね)は、鎌倉時代末期の武将。大友氏の6代当主。「貞」の字は鎌倉幕府の執権・北条貞時から賜ったものと思われる。.

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大友貞順

大友 貞順(おおとも さだより)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。.

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大友貞親

大友 貞親(おおとも さだちか)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武士・御家人。大友氏の5代当主。「貞」の字は幕府の執権・北条貞時から賜ったものと思われる。 永仁3年(1295年)、兄(または父)である親時が死去したため、父(または祖父)の命を受けて後を継いだ。嘉元3年(1305年)、得宗の北条貞時の命を受けて翌4年(1306年)、豊後国に万寿寺を建立している。 応長元年(1311年)に66歳で死去し、家督は弟の貞宗が継いだ。法号は正温。 Category:鎌倉幕府御家人 さたちか Category:1246年生 Category:1311年没.

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大友貞載

大友 貞載(おおとも さだとし/さだのり)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。豊後国大友氏の一族。立花氏の祖であり立花貞載ともよばれる。筑前国立花山城の築城者とされる。.

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太平記

『太平記』(たいへいき)は、日本の古典文学作品の1つである。歴史文学に分類され、日本の歴史文学の中では最長の作品とされる。 全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。 第二次世界大戦後、「太平記」を称する小説やテレビドラマが多く作られたため、混同を避けるために『古典太平記』と呼ばれることもある。.

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太田時連

太田 時連(おおた ときつら、1269年(文永6年) - 1345年3月13日(興国6年/康永4年2月9日))は鎌倉幕府後期の実務官僚。幕府滅亡後は室町幕府に仕えた。三善康信の子孫で父は『建治三年記』を表した太田康有。『永仁三年記』の著者で、『吾妻鏡』の主要な編纂者と目されている。官位は信濃守、勘解由判官。 三善氏は代々問注所執事を世襲する。初期には町野氏が二代に渡って問注所執事を世襲するが、町野を名乗る三善康持が宮騒動に連座して失脚、その後太田を名乗る三善康連が問注所執事となり、その職は子の太田康有を経て太田時連へと世襲される。 1285年(弘安8年)の霜月騒動後に罷免されるが、1293年(永仁元年)北条貞時が平頼綱を討った平禅門の乱で、貞時は霜月騒動以降に平頼綱が主導した人事を否定し、同年10月19日に太田時連は25歳で再び問注所執事に再任され、更に評定衆となる。 鎌倉滅亡後は足利尊氏に仕え室町幕府初代問注所執事となる。.

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奥富敬之

奥富 敬之(おくとみ たかゆき、1936年9月2日 - 2008年7月7日)は、日本の歴史学者、日本医科大学名誉教授。日本中世史・日本医学史専攻。.

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嫡男

嫡男(ちゃくなん)とは、嫡子(嫡嗣、ちゃくし)とも呼ばれ、一般に正室(正嫡)の生んだ男子のうち最も年長の子を指す。女子の場合は嫡女となる。長男と同一視されることもあるが、たとえ長男であっても側室の生んだ子である場合、正室の生んだ弟が嫡男となることもあることから、嫡男と長男は必ずしも同一ではない。特に嫡男ではない長男は庶長子、長庶子、庶子とも称される。嫡男の嫡男は嫡孫(ちゃくそん)と呼ばれる。また、代々嫡男の家系である血筋を嫡流という。また、内孫(うちまご)とも称される。 ただし、正室が生んだ男子全員を指す場合もある。日本における現行の皇室典範の「嫡男」の語はこの意である。更に明治以後の民法では、かつての正室に相当する妻が生んだ子供を女子を含めて嫡出子と呼称している。.

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守邦親王

守邦親王(もりくにしんのう)は、鎌倉幕府9代(最後の)征夷大将軍で、鎌倉幕府将軍の中で24年9カ月と在職期間が最長であった。8代将軍久明親王の子。.

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宇都宮貞綱

宇都宮 貞綱(うつのみや さだつな)は、鎌倉時代中・後期の武将。鎌倉幕府御家人宇都宮氏第8代当主。宇都宮景綱の子。母は安達義景の娘。興禅寺を開基したことで知られる。北条氏得宗家(鎌倉幕府第9代執権)の北条貞時の偏諱を受けて貞綱と名乗る。 弘安4年(1281年)の元寇の弘安の役では8代執権・北条時宗の命を受けて山陽、山陰の6万もの御家人を率いて総大将として九州に出陣した。その功績により戦後、引付衆の一人に任じられた。 時宗の死後は北条貞時に仕えて嘉元3年(1305年)、嘉元の乱では貞時の命を受けて北条宗方誅殺に協力した。 正和元年(1312年)、亡母の13回忌に全国的にも珍しい巨大鉄製塔婆を奉納した(宇都宮市清巌寺蔵:国の重要文化財)と言われている。 正和5年(1316年)7月25日、51歳にて死去した。法名は蓮昇、法号は興禅寺。.

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宇都宮景綱

宇都宮 景綱(うつのみや かげつな)は鎌倉時代中期の鎌倉幕府の御家人。宇都宮氏第7代当主。父は宇都宮泰綱。母は北条朝時の娘。.

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安田元久

安田 元久(やすだ もとひさ、1918年10月19日 - 1996年1月23日)は、日本の歴史学者。元学習院大学学長。文学博士(東京大学、1962年)。専門は日本中世史・鎌倉時代史研究。.

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安達宗景

安達 宗景(あだち むねかげ)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人。安達氏の一族で、安達泰盛の嫡男。秋田城介。.

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安達義景

安達 義景(あだち よしかげ)は鎌倉時代中期の武将。安達景盛の嫡男。鎌倉幕府の有力御家人。子に安達泰盛、覚山尼(北条時宗室)がいる。.

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安達氏

安達氏(あだちし、あだちうじ)は、鎌倉幕府の有力御家人の氏族。藤原氏魚名流を称する。 家紋は連銭。.

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安達泰盛

安達 泰盛(あだち やすもり)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。安達義景の三男。評定衆、御恩奉行。 鎌倉幕府第8代執権・北条時宗を外戚として支え、幕府の重職を歴任する。元寇・御家人の零細化・北条氏による得宗専制体制など、御家人制度の根幹が変質していく中で、その立て直しを図り、時宗死後に弘安徳政と呼ばれる幕政改革を行うが、内管領・平頼綱との対立により、霜月騒動で一族と共に滅ぼされた。 元寇にあたって御恩奉行を務め、自邸で竹崎季長の訴えを聞く姿が『蒙古襲来絵詞』に描かれている。.

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安達時顕

安達 時顕(あだち ときあき)は、鎌倉時代末期の鎌倉幕府の有力御家人。秋田城介。安達氏の一族で、父は霜月騒動で討たれた安達宗顕(むねあき、顕盛の子)。.

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寄合衆

寄合衆(よりあいしゅう)とは、武家における合議体である寄合の構成員であるが、狭義では北条氏得宗を中心とした鎌倉幕府の方針決定会議としての寄合の構成員を指す。.

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小城市

小城市(おぎし)は、佐賀県の中央部に位置する市である。.

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小山貞朝

小山 貞朝(おやま さだとも)は、鎌倉時代末期の武将。鎌倉幕府御家人。小山宗長(むねなが)の嫡男で、下野国の有力豪族・小山氏の7代当主。小山城城主。.

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小笠原貞宗

小笠原 貞宗(おがさわら さだむね)は、鎌倉時代後期から室町時代前期の武将。信濃小笠原氏の当主。信濃守護。.

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小田氏

小田氏(おだし).

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小池城太朗

小池 城太朗(こいけ じょうたろう、1992年3月23日 - )は、日本の俳優である。キリンプロ所属。.

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少弐貞経

少弐 貞経(しょうに さだつね)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。少弐氏5代当主。.

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山川氏

山川氏(やまかわ し)は、結城朝光(結城氏始祖・小山政光三男)の子である山川重光(しげみつ)を祖とする結城氏の庶流である。.

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山ノ内 (鎌倉市)

建長寺 山ノ内(やまのうち)は、鎌倉市の大字。住居表示未実施区域。郵便番号247-0062。.

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峰岸純夫

峰岸 純夫(みねぎし すみお、1932年5月5日 - )は、日本の歴史学者である。専門は日本中世史。東京都立大学名誉教授、元歴史学研究会委員長、慶應義塾大学文学博士。.

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島津貞久

島津 貞久(しまづ さだひさ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。島津氏第5代当主。薩摩・大隅・日向の守護大名。島津忠宗の嫡男。領国の在地化を進め、島津氏の守護大名としての基礎を作った。.

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工藤貞祐

工藤 貞祐(くどう さだすけ)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家被官である御内人。.

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工藤貞行

工藤 貞行(くどう さだゆき、生没年不詳)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての津軽の武将。黒石工藤氏。.

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工藤氏

工藤氏(くどうし)は、藤原南家の流れをくむ日本の氏族のひとつ。.

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市村高男

市村 高男(いちむら たかお、1951年-)は、日本の歴史学者。専門領域は日本中世史。文学博士(史学)。.

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平禅門の乱

平禅門の乱(へいぜんもんのらん)は、鎌倉時代後期の正応6年4月22日(1293年5月29日)に鎌倉で起こった政変。鎌倉幕府を支配する北条氏得宗家の内管領として絶大な権勢を振るった平頼綱が、主君である9代執権北条貞時によって滅ぼされた。.

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平頼綱

平 頼綱(たいら の よりつな)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家の御内人。鎌倉幕府8代執権北条時宗・9代執権北条貞時の執事で、貞時の乳母父。父は歴代執権の執事を務めた平盛時。 御内人の筆頭格として時宗の専制体制を補佐した。時宗死後に対立した有力御家人の安達泰盛を霜月騒動で滅ぼし、内管領として時宗の嫡子貞時を擁し幕府内外で絶大な権勢を振るうが、頼綱の恐怖政治に不安を抱いた貞時の命によって誅殺された(平禅門の乱)。.

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平高望

平 高望(たいら の たかもち / 高望王(たかもちおう)、生没年不詳没年月日は、延喜11年5月24日(911年6月28日)(『千葉大系図』)と、延喜11年(911年)5月4日(『平姓葛西系図』)、延喜12年(912年)9月24日(『盛岡葛西系図』)、延喜17年(917年)1月24日(『千馬系図』)とする資料がある。)は、平安時代中期の賜姓皇族。桓武天皇の孫(もしくは曾孫)にあたり、高望王流桓武平氏の祖。従五位下・正親正・上総介。.

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平貞盛

平 貞盛(たいら の さだもり)は、平安時代中期の武将。平国香(良望)の嫡男。.

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平資盛

赤間神宮の七盛塚。前列右から三番目が資盛の墓石 平 資盛(たいら の すけもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の嫡男である平重盛の次男。母は藤原親盛の娘。位階は従三位まで昇叙、新三位中将と称された。 和歌に優れ「新勅撰和歌集」「風雅和歌集」に名を残している。.

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平政連

平 政連(たいら の まさつら、生没年不詳)は、鎌倉時代末期の幕府官僚『コンサイス日本人名事典』三省堂、P764より。。 一説によれば、1308年(徳治3年)北条得宗家内管領長崎宗綱に宛てに書かれた『平政連諫草』の筆者だとされているが、確証はない。ちなみに、同文書は北条貞時への諫言を目的として作られたものとなっている。 その前後の経歴および家系は不詳である。.

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幼名

幼名(ようみょう/ようめい)は、幼少時の名前の事。おさな名・童名・小字とも言う。 主に平安時代~江戸時代にかけて、武士や貴族の子が幼児である期間につけられる名前で、だいたい元服して諱をつけるまでその名前でいる。江戸期では、多くの慈善活動をした豪商が、その活動を認められ、公での苗字帯刀を許された場合、その商人の子も幼名を持つ例がある。農民の名前も幼名と呼ばれるが、武士とは違って諱をつける事は無い。 現在でも幼少時に改名した場合は、以前の名前を幼名と呼ぶ。.

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久明親王

久明親王(ひさあきしんのう/ひさあきらしんのう)は、鎌倉幕府8代征夷大将軍。第89代後深草天皇の第六皇子。.

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享年

享年(きょうねん)とは人が「天から享(う)けた年数」という意味であり、この世に存在した年数である。「行年(ぎょうねん)」ともいい「娑婆で修行した年数」、「行(時が進むの意味)『漢字源』学研、「行」の項を参照。の年数」の意味。「享年70(満68歳)」(数え年の場合)のように用いる。享年を数え年ではなく満年齢で表し「享年68(歳)」と表すこともある。.

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二階堂行貞

二階堂 行貞(にかいどう ゆきさだ).

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二階堂貞衡

二階堂 貞衡(にかいどう さだひら)は、鎌倉時代後期の御家人。鎌倉幕府政所執事。.

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二階堂貞藤

二階堂 貞藤(にかいどう さだふじ)は、鎌倉時代後期の御家人。鎌倉幕府政所執事。.

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二階堂氏

二階堂氏(にかいどうし)は公家、武家の一氏族。特に陸奥国の岩瀬郡を支配し須賀川城を居城とした戦国大名が著名。.

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延慶 (日本)

延慶(えんきょう、えんぎょう、えんけい)は、日本の元号の一つ。徳治の後、応長の前。1308年から1310年までの期間を指す。この時代の天皇は花園天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、守邦親王、執権は北条師時。.

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建治

建治(けんじ)は、日本の元号の一つ。文永の後、弘安の前。1275年から1277年までの期間を指す。この時代の天皇は後宇多天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、執権は北条時宗。.

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建治三年記

建治三年記(けんじさんねんき)は鎌倉時代の史料。筆者は評定衆、問注所執事を担当した太田康有。記述は建治3年(1277年)の1年間のうち、68日のみしかないが、史料として貴重視されている。康有の息子太田時連の執筆した永仁三年記と並ぶ、鎌倉時代後期における重要な史料である。.

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弘安

弘安(こうあん)は、日本の元号の一つ。建治の後、正応の前。1278年から1287年までの期間を指す。この時代の天皇は後宇多天皇、伏見天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、執権は北条時宗、北条貞時。.

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弘安徳政

弘安徳政(こうあん(の)とくせい)とは、弘安7年(1284年)の執権北条時宗の死去から翌年の霜月騒動にかけての約1年半の間に鎌倉幕府で実施された幕政改革のこと。ただし、同時期に治天の君である亀山上皇の下で行われた朝廷改革も同様に称される場合もある。.

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引付衆

引付衆(ひきつけしゅう)は、鎌倉幕府の職名の一つ。.

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佐保祐樹

佐保 祐樹(さほ ゆうき、1989年12月23日 - )は、宝映テレビプロダクションに所属していた元子役。『虹色定期便』(2000年度)にレギュラー出演していたことで知られる。.

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佐々木道誉

佐々木 道誉/佐々木 高氏(ささき どうよ/- たかうじ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、守護大名。若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津守護。 一般的に佐々木佐渡判官入道(佐々木判官)や佐々木道誉の名で知られる。後者の道誉(導誉とも)は法名であり、諱(実名)は高氏(たかうじ)という。鎌倉幕府創設の功臣で近江を本拠地とする佐々木氏一族の京極氏に生まれたことから、京極 道誉(導誉)(きょうごく どうよ)または 京極 高氏(きょうごく たかうじ)とも呼ばれる。.

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佐々木貞宗

佐々木 貞宗(ささき さだむね)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将・御家人。佐々木氏支流京極氏3代当主。京極貞宗とも。.

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佐々木貞氏

佐々木 貞氏(ささき さだうじ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。鏡貞氏とも。.

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佐竹貞義

佐竹 貞義(さたけ さだよし)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。佐竹氏の第8代当主。.

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佐賀県

佐賀県(さがけん)は、日本の九州地方の北西部にある県である。県庁所在地は佐賀市。 唐津・伊万里・有田などは古くから陶磁器の産地として有名。玄界灘と有明海の2つの海に接する。令制国の肥前国東部に相当する。明治の府県制成立の際、同国は佐賀県と長崎県の2県として分立した。.

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彗星

アメリカ合衆国アリゾナ州のカタリナ天文台で1974年11月1日に撮影されたコホーテク彗星 クロアチアのパジンで1997年3月29日に撮影されたヘール・ボップ彗星 彗星(すいせい、comet)は、太陽系小天体のうち主に氷や塵などでできており、太陽に近づいて一時的な大気であるコマや、コマの物質が流出した尾(テイル)を生じるものを指す。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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御家人

御家人(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の家人の身分を指す語であるが、中世と近世では意味合いが異なる。.

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御内人

御内人(みうちびと、みうちにん)は、鎌倉時代に執権北条氏の家督・得宗に仕えた、武士、被官、従者。.

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御簾中

御簾中(ごれんじゅう)は、かつて日本で貴人の正妻を指して言った敬称のこと。江戸時代以降、江戸幕府により使用に厳しい制限をされるようになった。.

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徳治

徳治(とくじ)は、日本の元号の一つ。嘉元の後、延慶の前。1306年から1307年までの期間を指す。この時代の天皇は後二条天皇、花園天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条師時。.

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後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.

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得宗

得宗(とくそう)は、鎌倉幕府の北条氏惣領の家系。徳崇、徳宗とも(読みは同じ)。幕府の初代執権の北条時政を初代に数え、2代義時からその嫡流である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9代を数える。「得宗」とは2代義時に関係する言葉で、研究者によって義時の別称、戒名、追号など意見が異なる。近年では「徳崇」の当て字・略字で、禅宗に帰依した5代時頼が、浄土宗系の宗派を信仰していた義時に贈った禅宗系の追号の可能性が指摘されている。義時流、得宗家という呼び方もある。史料においては北条氏嫡流の当主を「得宗」と指した例は少なく、行政用語であったとも考えられている。.

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応長

応長(おうちょう)は、日本の元号の一つ。延慶の後、正和の前。1311年の期間を指す。この時代の天皇は花園天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条師時、北条宗宣。.

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土岐光定

土岐 光定(とき みつさだ)は、鎌倉時代後期の武将。美濃源氏嫡流の土岐氏。土岐光行の五男。母は千葉氏の娘。正室は執権北条貞時の娘。.

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北条千代寿丸

北条 千代寿丸(ほうじょう ちよじゅまる)は、鎌倉時代後期の執権北条氏(得宗家)の一族である。同時代に2人存在し、叔父と甥の関係にあたる。.

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北条守時

州崎古戦場蹟に建てられた石碑 北条 守時(ほうじょう もりとき)は、鎌倉時代末期の武将。北条氏の一門。鎌倉幕府第16代・最後の執権(在職:正中3年4月24日(1326年5月26日) - 正慶2年/元弘3年5月18日(1333年6月30日))。赤橋 守時(あかはし もりとき)とも呼ばれる。 鎌倉幕府第6代執権・北条長時の曾孫にあたる。父は赤橋流の北条久時。同幕府を滅ぼし、室町幕府初代将軍となった足利尊氏は妹婿(義弟)にあたる。.

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北条宗宣

北条 宗宣(ほうじょう むねのぶ)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。大仏 宗宣(おさらぎ むねのぶ)とも称される。鎌倉幕府第11代執権(在職:応長元年10月3日(1311年11月13日) - 正和元年5月29日(1312年7月4日))。.

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北条宗方

北条 宗方(ほうじょう むねかた)は鎌倉時代後期の北条氏の一門。長門探題・北条宗頼の次男。鎌倉幕府8代執権北条時宗の甥にあたり、その猶子となる。.

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北条宗政

北条 宗政(ほうじょう むねまさ)は、鎌倉時代中期の北条氏(得宗家)の一門。.

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北条師時

北条 師時(ほうじょう もろとき)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。鎌倉幕府第10代執権(在職:正安3年8月22日(1301年9月24日) - 応長元年9月22日(1311年11月3日))。.

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北条久時

北条 久時(ほうじょう ひさとき)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。父は赤橋流の北条義宗。赤橋 久時(あかはし ひさとき)とも。.

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北条公時

北条 公時(ほうじょう きみとき)は、鎌倉時代中期から後期にかけての北条氏の一門。名越流の第3代当主。名越 公時(なごえ きみとき)とも呼ばれる。 第2代当主・北条時章の嫡男。母は二階堂行有の娘。吾妻鏡、関東開闢皇代並年代記事の『北条系図』に見られる「尾張次郎」の通称から、次男であったと考えられる。.

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北条維貞

北条 維貞(ほうじょう これさだ)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門、大仏流の当主。大仏 維貞(おさらぎ -)ともいう。父は北条宗宣。六波羅探題南方・連署などを歴任した人物である。.

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北条義時

北条 義時(ほうじょう よしとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の第2代執権。伊豆国の在地豪族・北条時政の次男。源頼朝の正室・北条政子の弟。得宗家2代目当主。 源氏将軍が途絶えた後の、鎌倉幕府の実質的な最高指導者。幕府と朝廷の対立が激化すると、後鳥羽上皇より北条義時追討の宣旨が全国に発布され朝敵となるも、幕府軍は京都に攻め上り、朝廷を制圧(承久の乱)。戦後に天皇を廃し3人の上皇を配流した。.

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北条経時

北条 経時(ほうじょう つねとき)は、鎌倉時代前期の北条氏得宗家の一門。鎌倉幕府の4代執権(在職:仁治3年6月15日(1242年7月14日) - 寛元4年3月23日(1246年4月10日))。 第3代執権の北条泰時の嫡男であった北条時氏の長男。母は賢母で名高い松下禅尼(安達景盛の娘)で、第5代執権となる北条時頼や北条時定の同母兄にあたる。.

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北条煕時

北条 煕時(ほうじょう ひろとき)は、鎌倉時代後期の北条氏一門の武将。鎌倉幕府12代執権(在職:応長2年6月2日(1312年7月6日) - 正和4年7月11日(1315年8月11日))である。 父は北条為時 (政村流)で、第7代執権・北条政村の曾孫にあたる。正室は第9代執権の北条貞時の娘。.

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北条菊寿丸

北条 菊寿丸(ほうじょう きくじゅまる)とは、鎌倉時代後期の執権北条氏(得宗家)の一族。同時期に2人存在し、この2人は伯父、甥の関係にあたる。.

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北条顕時

北条 顕時(ほうじょう あきとき)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将。北条氏の一門・金沢流北条氏の第3代当主。金沢顕時とも称される。父は第2代(実質的には初代)当主で鎌倉幕府の重職を歴任した北条実時。正室は安達泰盛の娘・千代野。 安達泰盛が霜月騒動で粛清されたことにより逼塞を余儀なくされたが、その後に第9代執権・北条貞時の信頼を回復して復権。顕時の代に、金沢流北条氏は全盛期を迎えた。.

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北条高家

北条 高家(ほうじょう たかいえ)は、鎌倉時代末期の武将。北条氏の一門。名越流・北条時家の子。尾張守。名越 高家(なごえ たかいえ)とも表記される。.

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北条高時

北条 高時(ほうじょう たかとき)は、鎌倉時代末期の北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第14代執権(在職:1316年 - 1326年)。第9代執権・北条貞時の三男。.

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北条貞宣

北条 貞宣(ほうじょう さだのぶ)は、鎌倉時代末期の武将。北条氏の一門。父は大仏流北条宣時とされるが、北条政忠(まさただ)とする系図もある。 元服時に得宗家当主・北条貞時より偏諱(「貞」の1字)を受けて貞宣と名乗る。もう一方の「宣」の字は宣時に由来すると考えられる。 正宗寺本「北条系図」、佐野本「北条系図」、前田育徳会所収の「平氏系図」による記述と「公衡公記」における正和4年(1315年)の鎌倉大火の記事で「丹波守貞宣の屋敷が類焼した」と書かれていることから、官途は丹波守であったと推定される。子には時英、高貞、貞芙、女子がいたと伝わる。 政治的な活動としては、正和2年(1313年)、甥の北条維貞と交替で引付頭人に就任、死去する元応2年(1320年)5月まで務めたとされる。 「続千戴和歌集」「続後拾遺和歌集」に、それぞれ一首歌が採録されている。.

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北条貞家

北条 貞家(ほうじょう さだいえ、生没年不詳)は、鎌倉時代後期の北条氏の一族。名越 貞家(なごえ さだいえ)とも呼ばれる。官位は遠江守北条氏研究会、2001年、p.167。 父は北条時家。母は不詳。北条時章の曽孫に当たる。子に北条周時と北条高家がいるが、2人は弟とする説がある。これは貞家が早世したため、父の時家が孫らを養子にして引き取ったと見られている。そのため、系図によっては時家と高家の間に貞家を挟むものもあるが、細川重男は年代的な理由からこれを否定する見解を示している。.

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北条貞宗

北条 貞宗(ほうじょう さだむね).

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北条貞国

北条 貞国(ほうじょう さだくに)は、鎌倉時代末期の北条氏の一門。桜田 貞国(さくらだ さだくに)とも呼ばれる。.

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北条貞直

北条 貞直(ほうじょう さだなお).

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北条貞顕

北条 貞顕(ほうじょう さだあき)は、鎌倉時代末期の武将。北条氏の一門で鎌倉幕府第12代連署(在職:正和4年(1315年)7月12日 - 嘉暦元年(1326年)3月16日)、第15代執権(在職:正中3年3月16日(1326年4月19日) - 正中3年3月26日(1326年4月29日))。 父は金沢流の北条顕時。母は摂津の御家人である遠藤為俊の娘・入殿。金沢文庫で有名な北条実時の孫に当たる。金沢 貞顕(かねさわ さだあき)とも呼ばれる。.

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北条貞規

北条 貞規(ほうじょう さだのり)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。.

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北条貞房

北条 貞房(ほうじょう さだふさ安田元久編 『鎌倉・室町人名事典 コンパクト版』(新人物往来社、1990年)p.539 「北条貞房」の項(執筆:奥富敬之)より。、文永9年(1272年) - 延慶2年12月2日(1310年1月3日))は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。通称は大仏(おさらぎ)貞房。.

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北条金寿丸

北条 金寿丸(ほうじょう かねじゅまる)は、鎌倉時代後期の執権北条氏の一族。同姓同名の人物が同時期に2人存在し、叔父と甥の関係になる。.

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北条氏

北条氏(ほうじょうし、)は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。戦国大名後北条氏との混同を避けるため、代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏もしくは鎌倉北条氏と呼ばれることもある。通字は時(とき)。.

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北条氏 (宗政流)

宗政流北条氏(むねまさりゅうほうじょうし)は鎌倉時代の北条氏の一族。得宗家から分家した一族で、始祖は北条宗政の子・北条師時である。.

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北条氏 (佐介流)

佐介流北条氏(さすけりゅうほうじょうし)は、鎌倉時代の執権北条氏の一族。鎌倉幕府連署をつとめた北条時房の長男で、二代六波羅探題南方・北条時盛を祖とする。 時盛は元仁元年(1224年)、3代執権北条泰時の嫡男・時氏と共に上洛し、父時房の後任として六波羅南方に就任し、以後18年間務める。この時点では時房の後継者の地位にあったと思われるが、鎌倉へ戻って以降は要職に就任せず、多くの息子達も要職に付いていない事から、9歳下の弟である朝直(大仏家)との家督争いに敗北したと見られる。 その後、二月騒動をきっかけに時盛の六男時員の子で孫にあたる北条時国が六波羅探題南方に就任し、復興の兆しも見られたが、弘安7年(1284年)4月に執権・北条時宗が死去して間もない6月に時国が悪行を理由に関東へ召し出され、常陸国へ配流となった後、10月に誅殺された。また同年8月に時盛の次男・時光が陰謀が露見したとして拷問を受けたのち、佐渡国へ配流となり、佐介流は再び没落。その後時盛の次男政氏の子・盛房が評定衆・引付衆となって復興するが、時房流における地位は嫡流の大仏家に圧倒されている。.

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北条氏 (赤橋流)

赤橋流北条氏(あかはしりゅうほうじょうし)は、鎌倉時代の北条氏の一族。赤橋家ともいう。.

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北条泰家

北条 泰家(ほうじょう やすいえ)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての北条氏の一族。鎌倉幕府の第9代執権・北条貞時の四男。14代執権・北条高時の同母弟に当たる。.

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北条泰時

北条 泰時(ほうじょう やすとき)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の長男。鎌倉幕府第3代執権(在職:貞応3年(1224年) - 仁治3年6月15日(1242年7月14日))。鎌倉幕府北条家の中興の祖として、御成敗式目を制定した人物で有名である。.

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北条時基

北条 時基(ほうじょう ときもと)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、北条氏の一門。名越流の祖・北条朝時の子。.

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北条時家

北条 時家(ほうじょう ときいえ)は、鎌倉時代後期の武将、北条氏の一門。名越流の第4代当主。名越 時家(なごえ ときいえ)とも呼ばれる。.

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北条時宗

北条 時宗(ほうじょう ときむね)は、鎌倉時代中期の武将・政治家。鎌倉幕府第8代執権。 鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家に生まれ、世界帝国であったモンゴル帝国(大元朝)の圧力が高まるなかで執権に就任。内政にあっては得宗権力の強化を図る一方、モンゴル帝国(大元朝)の2度にわたる侵攻を退け(元寇)、戦前までは日本の国難を救った英雄と評された。官位は、正五位下相模守。贈従一位。.

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北条時宗 (NHK大河ドラマ)

『北条時宗』(ほうじょうときむね)は、2001年1月7日から12月9日にNHKで放送された第40作目の大河ドラマ。全49回。12月16日・23日に総集編が放送された。.

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北条時光

北条 時光(ほうじょう ときみつ)は、鎌倉時代の北条氏の一族。同姓同名の人物が佐介流北条氏に3名確認できる。.

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北条時頼

北条 時頼(ほうじょう ときより)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第5代執権(在職:1246年 - 1256年)である。北条時氏の次男で、4代執権北条経時の弟。北条時輔、第8代執権北条時宗、北条宗政、北条宗頼らの父。通称は五郎、五郎兵衛尉、武衛、左近大夫将監、左親衛、相州、また出家後は最明寺殿、最明寺入道とも呼ばれた。.

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北条時村 (政村流)

北条 時村(ほうじょう ときむら)は、鎌倉時代中期の北条氏の一門。鎌倉幕府第7代執権・北条政村の嫡男。.

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ハレー彗星

ハレー彗星(ハレーすいせい、1P/Halley、ハリー彗星とも)は、約76年周期で地球に接近する短周期彗星である。公転周期は75.3年。多くの周期彗星の中で最初に知られた彗星であり、古来多くの文献に記録されている。前回は1986年2月に回帰し、次回は2061年夏に出現すると考えられている。.

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嘉元

嘉元(かげん)は、日本の元号の一つ。乾元の後、徳治の前。1303年から1305年までの期間を指す。この時代の天皇は後二条天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条師時。.

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嘉元の乱

嘉元の乱(かげんのらん)は、鎌倉時代後期の嘉元3年(1305年)に発生した鎌倉幕府内での騒乱。北条宗方の乱とも呼ばれる。.

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円覚寺

円覚寺(えんがくじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある寺院。山号を瑞鹿山(ずいろくさん)と称し、正式には瑞鹿山 円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)と号する。臨済宗円覚寺派の大本山であり、鎌倉五山第二位に列せられる。本尊は宝冠釈迦如来、開基は北条時宗、開山は無学祖元である。なお、寺名は「えんがくじ」と濁音で読むのが正式である。 鎌倉時代の弘安5年(1282年)に鎌倉幕府執権・北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護された。 JR北鎌倉駅の駅前に円覚寺の総門がある。境内には現在も禅僧が修行をしている道場があり、毎週土曜・日曜日には、一般の人も参加できる土日坐禅会が実施されている。かつて夏目漱石や島崎藤村、三木清もここに参禅したことが知られる。.

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内管領

内管領(ないかんれい/うちのかんれい)とは、鎌倉幕府の執権北条氏の宗家である得宗家の執事で、得宗被官である御内人の筆頭である。御内頭人(みうちとうにん)ともいう。「得宗の家政を司る長」の意味であり、幕府の役職名ではない。.

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入間田宣夫

入間田 宣夫(いるまだ のぶお、1942年3月31日 - )は、日本の歴史学者、東北大学名誉教授。専門は、日本中世史。.

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元寇

元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時中国大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。 特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の艦隊であった村井章介『北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む』日本放送出版協会 2001年 126頁。 主に九州北部が戦場となった。.

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元弘の乱

元弘の乱(げんこうのらん)は、元弘元年(1331年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府倒幕運動である。元弘3年/正慶2年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱を含めることも多い。以下では1331年から1333年までの戦乱について述べる。元弘の変(げんこうのへん)とも呼ばれる。.

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元服

元服(げんぶく、げんぷく)とは、奈良時代以降の日本で成人を示すものとして行われた儀式。通過儀礼の一つである。 「元」は首(=頭)、「服」は着用を表すので、「頭に冠をつける」という意味。加冠とも初冠(ういこうぶり)とも言われる。なお、公家の女子の成人式は裳着(もぎ)と言う。民間においては褌親(へこおや・ふんどしおや)の元で、初めてふんどしを付け、性に関する知識を授かる褌祝(ふんどしいわい)と呼ばれる儀式がある。.

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前賢故実

前賢故實(ぜんけんこじつ)は、江戸時代後期から明治時代に刊行された伝記集。全10巻20冊。菊池容斎筆。上古から南北朝時代(後亀山天皇の代)までの皇族、忠臣、烈婦など585人を時代を追って肖像化し、漢文で略伝を付す。日本の歴史上の人物を視覚化したものとしては画期的であり、明治中期頃から国家意識の高まりにつれ盛んに描かれた歴史画において、バイブルとしての役割を果たした。.

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国史大辞典 (昭和時代)

國史大辭典(こくしだいじてん)とは、昭和54年(1979年)から平成9年(1997年)にかけて吉川弘文館から刊行された、日本で最大級の歴史百科事典である。四六倍判で全15巻(17冊)、総収録項目数は54000余である。各巻は平均して1000ページ、うち平均150ページは原色図版など。第45回菊池寛賞を受賞した。 2010年7月1日よりデジタル版「国史大辞典」が、インターネット百科事典「ジャパンナレッジ」の新しいコンテンツとして公開された。.

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国司

国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す(詳細は古代日本の地方官制も併せて参照のこと)。守の唐名は刺史、太守など。 郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。任期は6年(のちに4年)であった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。.

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石川貞光

石川 貞光(いしかわ さだみつ、生年不詳 - 興国2年/暦応4年6月3日(1341年7月17日))は、南北朝時代の武将。陸奥石川氏14代目当主。石川家光の長男。詮持らの養父。従五位下美作守、従四位下兵部大輔。夫人は二階堂行藤の娘。.

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細川重男

細川 重男(ほそかわ しげお、1962年『鎌倉幕府の滅亡』ISBN 978-4-642-05716-5 より - )は、日本の歴史学者。東洋大学・國學院大學非常勤講師。博士(文学)(立正大学、1997年)。東京都出身。 専門は日本中世政治史、古文書学。金本正之・百瀬今朝雄に師事。.

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群書類従

『群書類従』(ぐんしょるいじゅう)は、塙保己一が編纂した国文学・国史を主とする一大叢書。 塙保己一が古書の散逸を危惧し、1779年(安永8年)、菅原道真を祀る北野天満宮に刊行を誓った。江戸幕府や諸大名・寺社・公家などの協力を得て、収集・編纂した。古代から江戸時代初期までに成った史書や文学作品、計1273種を収めている。寛政5年(1793年) - 文政2年(1819年)に木版で刊行された。 歴史学・国文学等の学術的な研究に、多大な貢献をしている。.

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烏帽子

烏帽子(えぼし)とは平安時代から近代にかけて和装での礼服着装の際に成人男性が被った帽子のこと。.

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烏帽子親

烏帽子親(えぼしおや)とは、元服儀式の際に加冠を行う者のこと。 中世武家社会においては、男子が成人に達して元服を行う際に特定の人物に依頼して仮親に為って貰い、当人の頭に烏帽子を被せる役を務めることが通例とされていた。この仮親を烏帽子親と呼び、被せられた成人者を烏帽子子と呼んだ。また、この際に童名を廃して、烏帽子親が新たな諱を命名する場合があったその諱を烏帽子名という。その名は烏帽子親からの偏諱を受けることが多くなった。 『吾妻鏡』によれば、治承4年10月2日(1180年10月22日)、源頼朝が乳母である寒河尼の息子(小山朝光)の烏帽子親を務めている。このように、烏帽子親には主君や一門の棟梁、信頼の置ける地域の有力者などに委嘱する例が多かった。鎌倉幕府においては、烏帽子親と烏帽子子は実際の血縁関係が無くてもこれに准じるものとされ、文暦2年(1235年)の追加法における評定の際の退座分限(参加禁止者)として親族と並んで烏帽子子が含まれている。 室町時代以後の元服の儀では烏帽子を被せる代わりに前髪をそり落とす事例が増えるが、それを行うのが烏帽子親の役目とされていた。また、武家社会以外でも王朝時代から続く公家社会での冠礼における引入及び裳着における腰結、近世民間における親方・子方制や女子の鉄漿親(筆親・歯黒親)なども烏帽子親の類似した仮親による成人儀式であり、こうした仮親による成人儀式は現在でも日本の一部地域にて残されている。 また幼くして即位した天皇が在位中に元服の儀式を執り行う場合は皇族の長老などではなく、幼帝在位時にその政務を代行する摂政の職と天皇の師範である太政大臣の職を兼ねる者が加冠役を務めた。.

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結城市

結城市(ゆうきし)は、茨城県の西部に位置する市である。.

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結城貞広

結城 貞広(ゆうき さだひろ)は、鎌倉時代後期の武士・御家人。下総結城氏5代当主。.

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田中大喜

中 大喜(たなか ひろき、1972年 - )は、日本の日本史学者、国立歴史民俗博物館准教授。 専門分野は日本中世史で、特に武士団や武家政権を研究の主な専門としている。.

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相模国

模国(さがみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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白根靖大

白根 靖大(しらね やすひろ、1965年 - )は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。博士(文学)。.

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鎮西探題

鎮西探題(ちんぜいたんだい)は、鎌倉時代に幕府が西国(九州)の統括のために設置した機関である。行政・訴訟(裁判)・軍事などを管轄した。.

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鎌倉

鎌倉(かまくら)は、現在の神奈川県鎌倉市の中心部に当たる地域。源頼朝を旗頭として、北条時政、北条義時らによって鎌倉幕府が置かれた都市であり、三浦半島の付け根に位置し、相模湾に面している。古くは鎌府(れんぷ)とも呼ばれた。三方を山に、一方を海に囲まれている。 鎌倉大仏.

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鎌倉大地震

鎌倉大地震(かまくらだいじしん)とは、正応6年4月12日(ユリウス暦1293年5月19日)以降に関東地方南部に被害をもたらした地震。震源域は鎌倉周辺、規模はM7以上と推定される。永仁の関東地震、鎌倉強震地震、永仁鎌倉地震、建長寺地震などさまざまな名で呼ばれている。.

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鎌倉市

鎌倉大仏(高徳院) 建長寺 鎌倉宮(大塔宮) 荏柄天神社 鎌倉市(かまくらし)は、神奈川県、三浦半島西側の付け根に位置し、鎌倉を中心部とする市である。.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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菊池容斎

菊池 容斎(きくち ようさい、天明8年11月1日(1788年11月28日) - 明治11年(1878年)6月16日)は、幕末から明治時代初期にかけての絵師。旧姓は河原。本名は量平または武保、別号に雲水无尽庵など。『前賢故実』の作者として広く知られている。.

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頓阿

頓阿(二階堂貞宗) 頓阿(とんあ / とんな、正応2年(1289年) - 文中元年/応安5年3月13日(1372年4月17日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代の僧・歌人。父は二階堂氏一族の二階堂光貞(みつさだ)とされるが、藤原師実の子孫という説もある。俗名は二階堂貞宗(にかいどう さだむね、「貞」字は父・光貞または生まれた当時の執権北条貞時の1字、「宗」字は光貞の父・二階堂宗実(むねざね)の1字と思われる)。子に僧・歌人の経賢がいる。 若い頃に比叡山で篭居して天台教学を学び、その後高野山でも修行。20歳代後半に金蓮寺の真観に師事し時衆となった。西行を史蹟を慕って諸国を行脚、京都東山双林寺の西行の旧跡に草庵を構えるなど隠遁者の生活を送った。二条為世に師事して活躍、二条派(歌道)再興の祖とされ、20歳代で慶運・浄弁・吉田兼好とともに和歌四天王の一人とされた。地下(じげ)の歌人であり、歌壇での活躍は晩年であった。「新拾遺和歌集」撰進の際には撰者二条為明(ためあき、為世の次男・為藤の子)が選集の途中で亡くなったことから、頓阿がそれを引き継いで完成させたが、撰者となったのは76歳の時である。北朝の実力者二条良基(二条派とは別系の五摂家の一つ、二条家の当主)の保護を受けた。 『続千載集』以下の勅撰和歌集に44首が入集。著書に『井蛙抄』、『愚問賢註』などがある。 Category:鎌倉時代の僧 Category:鎌倉時代の歌人 Category:室町・安土桃山時代の歌人 Category:南北朝時代の人物 (日本) Category:二階堂氏 Category:1289年生 Category:1372年没.

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飯沼資宗

飯沼 資宗(いいぬま すけむね)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家の御内人。鎌倉幕府第9代執権北条貞時の執事(内管領)として、絶大な権勢を振るった平頼綱の次男。諱は助宗とも。御内人で国司(安房守)に任命されるケースは稀である。.

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覚山尼

覚山尼(かくさんに、建長4年7月4日(1252年8月10日) - 徳治元年10月9日(1306年11月15日))は、鎌倉時代中期の安達一族の女性。鎌倉幕府の第8代執権・北条時宗の正室。父は有力御家人・安達義景、母は北条時房の娘。兄(養父)に安達泰盛。堀内殿、松岡殿、覚山志道、潮音院殿とも。.

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覚海円成

覚海円成(かくかいえんじょう、生年未詳 - 興国6年/康永4年8月12日(1345年9月9日))は、鎌倉時代末期、南北朝時代初期の女性。安達氏の一族で安達(大室)泰宗の娘。鎌倉幕府9代執権北条貞時の側室。北条氏最後の得宗、北条高時の母。子は他に泰家など。覚海円成は出家後の法名で、実名は不明。覚海尼、大方殿とも。鎌倉の山内に住んでいた事から山内禅尼とも呼ばれる。.

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馬寮

寮(めりょう/うまのつかさ)は、律令制における官司の一つ。唐名では典厩(てんきゅう)。左馬寮(さめりょう/さまりょう)と右馬寮(うめりょう/うまりょう)に分かれていた。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.

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足利直義

足利 直義(あしかが ただよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の三男。室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟。 将軍尊氏を補佐して政務面を統括し、草創期室町幕府の体制は尊氏・直義兄弟による「二頭政治」だったと言われるが、実際は将軍就任当初から尊氏はすでに隠居状態にあり、幕政の運営は直義の下で行われていた。それでも、清和源氏の嫡流であり武将としての器量にも優れる尊氏は全国の武士を統合する機能を果たしており、直義が取って代わることはできなかった。 尊氏の執事高師直との間に派閥対立を生じ、師直の追い落としを図り却って失脚したものの、やがて南朝と結んで師直一族を討ち幕政を掌握した。しかし対立は尊氏・直義両者による全国を巻き込む戦乱に発展し、直義は東国に逃れたが最後は鎌倉に幽閉され急死を遂げた(観応の擾乱)。.

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足利貞氏

足利 貞氏(あしかが さだうじ)は、鎌倉時代後期から末期にかけての鎌倉幕府の御家人。足利家時の嫡男。室町幕府初代将軍となる足利尊氏やその異母兄・足利高義、その弟・足利直義の父。.

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足利貞数

足利 貞数(あしかが さだかず、生没年不詳)は、鎌倉時代中期の武士。 鎌倉幕府の有力御家人・足利家氏の子で、母は星名(保科)守隆女。兄弟に斯波氏(足利尾張家)を継いだ宗家、後の石橋氏の祖となった義利がいる。「貞」字は執権・北条貞時からの偏諱。大板次郎と称したことから大板貞数とも記される。.

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霜月騒動

月騒動(しもつきそうどう)とは、鎌倉時代後期の弘安8年11月17日(1285年12月14日)に鎌倉で起こった鎌倉幕府の政変。8代執権北条時宗の死後、有力御家人・安達泰盛と、内管領・平頼綱の対立が激化し、頼綱方の先制攻撃を受けた泰盛とその一族・与党が滅ぼされた事件である。弘安合戦、安達泰盛の乱、秋田城介(あきたじょうのすけ)の乱ともいう。 源頼朝没後に繰り返された北条氏と有力御家人との間の最後の抗争であり、この騒動の結果、幕府創設以来の有力御家人の政治勢力は壊滅し、平頼綱率いる得宗家被官(御内人)勢力の覇権が確立した。.

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葛西貞清

葛西 貞清(かさい さだきよ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代前期の武将。葛西氏の当主。葛西 清貞(かさい きよさだ)とも呼ばれる。.

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金子雄

金子 雄(かねこ ゆう、1996年9月14日 - )は、日本の俳優、タレントである。 セントラルプロダクション所属。.

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長崎円喜

長崎 円喜(ながさき えんき)は、鎌倉時代後期から末期にかけての武士。北条氏得宗家被官である御内人・内管領。長崎氏の一族。父は長崎光綱。円喜(圓喜・円基)は法名で、俗名は系図類では高綱(たかつな)とされるが、当時の文書では盛宗(もりむね)と記されている。 『太平記』や『保暦間記』において、嫡子高資と共に、北条得宗家以上の絶大な権力をふるった様子が描かれている。.

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長井宗秀

長井 宗秀(ながい むねひで:1265年(文永2年) - 1327年12月20日(嘉暦2年11月7日)『鎌倉・室町人名事典 コンパクト版』「長井宗秀」の項では生没年未詳となっているが、『尊卑分脈』には宗秀について「甲斐守 宮内大輔 掃部頭」との記載があり、他に「掃部頭」を称した人物が見当たらないことから、『常楽記』嘉暦2年条に「十一月七日 長井掃部頭入道他界。六十三乙丑誕生」と見られる「長井掃部頭入道」が宗秀を指すと考えられている(紺戸淳論文(『中央史学』二、1979年、p.16))。『鎌倉・室町人名事典 コンパクト版』「長井宗秀」の項にも出家して「掃部入道道雄」と称した旨の記載がある。)は鎌倉時代後期の人物、鎌倉幕府の御家人安田、1990年(『鎌倉・室町人名事典 コンパクト版』)、p.432・433。。 父は長井時秀『尊卑分脈』。永井晋「長井貞秀の研究」(『金沢文庫研究(第315号)』(金沢文庫、2005年)、永井晋『金沢北条氏の研究』(八木書店、2006年)P.199)。、母は安達義景の娘。北条実時(金沢実時)の娘を妻とし、その間の子に長井貞秀がいる。その他の男子に、長井時千、長井冬時がいる。.

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長井貞秀

長井 貞秀(ながい さだひで)は、鎌倉時代後期の政治家・武将。.

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長井貞頼

長井 貞頼(ながい さだより)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。備後国人長井氏4代当主。.

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長井貞重

長井 貞重(ながい さだしげ安田、1990年、p.431~432 「長井貞重」の項(執筆:下山忍)。、文永9年(1272年)長井氏泰重流の歴代当主については生没年等を伝える史料が残っていないためその元服時期を推定することは難しいが、『常楽記』元徳3年2月12日条に「長井縫殿頭他界。貞重六十」と貞重が60歳で死去したことが窺え、その元服時期を1281年~1286年と推定することができ、貞重がその当時の得宗家当主・北条貞時と烏帽子親子関係を結んだと考えることができる。よって、その名前からして泰重が泰時、頼重が時頼、貞重が貞時、高広が高時、といったように、嫡流(泰秀流)と同様に北条氏得宗家当主と烏帽子親子関係を結んでいたことが言える(以上、紺野淳論文(『中央史学』二、1979年、p.15系図・16~17)より)。貞重の生没年については服部、1995年、p.418にも同様の言及がなされている。長井氏は大江広元の次男・時広を始祖とする鎌倉幕府の有力御家人であり(『世界大百科事典 第2版』「」の項)、時広の子・泰重の系統も北条氏得宗家の烏帽子親関係による一字付与による統制下にあったことが窺える(山野龍太郎論文(山本、2012年、p.163)、→北条氏#北条氏による一字付与について)。- 元徳3年2月12日『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(コトバンク所収)「」の項 より。(1331年3月21日))は、鎌倉時代後期の人物、鎌倉幕府の御家人。長井氏の庶流、六波羅評定衆家(泰重流)の当主。.

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連署

連署(れんしょ)とは、鎌倉幕府の役職。執権の補佐役であり執権に次ぐ重職で、実質上の「副執権」である。1224年(元応3年)、北条泰時が叔父の北条時房を任命したのが最初。幕府の公文書に執権と連名で署名したためにこの名がある。執権複数制とも称される。.

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東京大学史料編纂所

東京大学史料編纂所(とうきょうだいがくしりょうへんさんじょ、英称:Historiographical Institute, the University of Tokyo)は、東京大学の附置研究所(共同利用・共同研究拠点)の一つであり、日本史に関する史料の編纂と刊行を行っている。.

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松本一夫

松本 一夫(まつもと かずお、1959年 - )は、日本の日本史学者。 栃木県生まれ。慶應義塾大学文学部卒。2001年「南北朝・室町前期における東国守護の研究」で慶大博士(史学)。栃木県立宇都宮工業高等学校教諭など、栃木県公立学校教員を経て栃木県立文書館副主幹、館長補佐、栃木県立宇都宮商業高等学校定時制教頭、栃木県芳賀青年の家所長。中世から戦国期の下野国の歴史を研究している。.

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桜田時厳

桜田 時厳(さくらだ じごん、生年未詳 - 応長元年10月26日(1311年12月6日))は、鎌倉時代中期から後期にかけての僧。父は鎌倉幕府5代執権・北条時頼。8代執権北条時宗の異母弟。母は不明。桜田禅師、相模禅師とも。名は時教とする系図もある。子に師頼、貞国、定宗、他。 教〈厳〉恵法印(または左大臣法印厳恵〈忠〉)の弟子。桜田流北条氏の祖。名字は武蔵国桜田郷(現東京都)に由来するという。時厳に関する『吾妻鏡』『尊卑分脈』での記録は見られないが、桜田流の一族は鎮西に下向し、子の三河守師頼は鎌倉時代最末期に大隅国守護となり、鎮西評定衆を務めている。その弟貞国(瓜連とも)は鎌倉にあって元弘の乱で有力武将として戦っている。.

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桃井直常

桃井 直常(もものい ただつね)は、南北朝時代の武将、守護大名。足利氏一門で家臣。父は桃井貞頼。弟に直信、直弘。子に直和、直知、橋本直安、直久、直政、康儀、直藤、正雲禅師(高岡国泰寺住持)、養子:直弘 桃井氏は下野の足利氏の支族で、上野国群馬郡桃井(現在の群馬県榛東村、旧名桃井村)を苗字の地とする。.

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桃井直信

桃井 直信(もものい ただのぶ、生没年不詳)は、南北朝時代の武将、守護大名。越中守護。桃井貞頼(さだより)の子で直常の弟、直弘の兄。子に桃井詮信、温井景信。官位は兵庫頭、修理大夫、刑部大輔。 延元3年/暦応元年(1338年)に越前金ヶ崎城と敦賀の南朝軍と戦ったことが初見で、以後は兄と行動を共にし、観応の擾乱では足利直義に付き従い、正平5年/観応元年(1350年)11月に能登の足利尊氏派と交戦、直義没後は南朝に降り直義の養子直冬に与したが、正平22年/貞治6年(1367年)の斯波高経・義将父子の失脚(貞治の変)に伴い兄と共に室町幕府に帰順、義将の領国だった越中守護に任命された。しかし翌正平23年/応安元年(1368年)の義将の幕政復帰と共に越中守護を解任された。「祇園執行日記」によれば文中元年/応安5年(1372年)になると六角室町に宿所を構え在京していることが分かるので、兄と別行動を取っていたことが分かる。没年は不明。 後を継いだ子の詮信(あきのぶ)は尊氏の子・足利義詮から偏諱(「詮」の字)を与えられてその名を称し、将軍直臣として義詮とその子・義満の二代に仕えた。子孫は室町幕府奉公衆のうち二番衆の番頭となっている。 直信の嫡男景信が((藤姓))温井景直に迎え桃井氏から温井氏へと姓を改めた。.

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森茂暁

森 茂暁(もり しげあき、1949年9月9日 - )は、日本の歴史学者。福岡大学教授 。専門は中世日本の政治と文化。文学博士(1985年、九州大学にて取得)。.

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正安

正安(しょうあん)は、日本の元号の一つ。永仁の後、乾元の前。1299年から1301年までの期間を指す。この時代の天皇は後伏見天皇、後二条天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条貞時、北条師時。.

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正応

正応(しょうおう)は、日本の元号の一つ。弘安の後、永仁の前。1288年から1292年までの期間を指す。この時代の天皇は伏見天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、久明親王、執権は北条貞時。.

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武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

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武内宿禰

武内宿禰(たけしうちのすくね/たけうちのすくね読みに関しては、「タケシ(猛し)」はク活用であるため、「タケウチ」としか読めないとする指摘がある。なお、弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)の「ウマシ」はク活用・シク活用の両用があるため、「ウマシウチ」と読みうる (『新編日本古典文学全集 1 古事記』小学館、2004年(ジャパンナレッジ版)、p. 173)。/たけのうちのすくね、景行天皇14年 - 没年不詳)は、記紀に伝わる古代日本の人物。 『日本書紀』では「武内宿禰」、『古事記』では「建内宿禰」、他文献では「建内足尼」とも表記される。「宿禰」は尊称で、名称は「勇猛な、内廷の宿禰」の意とされる。 景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣である。紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる。.

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毛利貞親

毛利 貞親(もうり さだちか)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。大江姓毛利氏の一族。.

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永井晋

永井 晋(ながい すすむ、1959年 - )は日本の歴史学者。金沢文庫主任学芸員。日本中世前期の政治史・国制史専攻。 群馬県出身。1986年國學院大學大学院博士課程後期中退。2008年「金沢北条氏の研究」で國學院大学博士(歴史学)取得。.

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永仁

永仁(えいにん)は、日本の元号の一つ。正応の後、正安の前。1293年から1298年までの期間を指す。この時代の天皇は伏見天皇、後伏見天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条貞時。.

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永仁の徳政令

永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)は、永仁5年(1297年)3月に鎌倉幕府の9代執権北条貞時が発令した、日本で最初の徳政令とされ、正確な条文は不明だが東寺に伝わる古文書(『東寺百合文書』)によって3か条が知られる。 内容は以下の通りである。 (1)越訴(裁判で敗訴した者の再審請求)の停止。 (2-a)御家人所領の売買及び質入れの禁止。 (2-b)既に売却・質流れした所領は元の領主が領有せよ。ただし幕府が正式に譲渡・売却を認めた土地や領有後20年を経過した土地は返却せずにそのまま領有を続けよ。 (2-c)非御家人・凡下(武士以外の庶民・農民や商工業者)の買得地は年限に関係なく元の領主が領有せよ。 (3)債権債務の争いに関する訴訟は受理しない。 永仁徳政令以前にも類似した政策は行われており、弘安7年(1284年)3月に幕府は越訴に関する訴訟を不受理とする法令を発令し、永仁6年には撤回している。 元寇での戦役や異国警護の負担から没落した無足御家人の借入地や沽却地を無償で取り戻すことが目的と理解されてきたが、現在ではむしろ御家人所領の質入れ、売買の禁止、つまり3ヶ条の(2-a)所領処分権の抑圧が主であり、(2-b)はその前提として失った所領を回復させておくといった二次的な措置であり、それによる幕府の基盤御家人体制の維持に力点があったと理解されている。これは、御家人の所領の分散を阻止するために、惣領による悔返権の強化や他人和与の禁止を進めてきた鎌倉幕府の土地政策の延長上にあると言える。 このうち(1)と(2-a)は翌年に廃止されたが、(2-b)は再確認されており、それに基づく所領の取り戻しはそれ以降にも多く見られる。つまり付随的であったはずのものが一人歩きを始める。また、この法令を楯に所領を取り戻したのは御家人に止まらなかった。東寺に伝わる古文書自体が、東寺領山城国下久世荘(京都市南区)の百姓がこれに基づき売却地を取り戻したことに関する文書である。 貞時の政策は幕府の基盤である御家人体制の崩壊を強制的に堰き止めようとするものであったが、御家人の凋落は、元寇時の負担だけではなく、惣領制=分割相続制による中小御家人の零細化、そして貨幣経済の進展に翻弄された結果であり、そうした大きな流れを止めることは出来なかった。.

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河越貞重

河越 貞重(かわごえ さだしげ)は鎌倉時代末期の武蔵国入間郡河越館の武将。鎌倉幕府御家人。武蔵河越氏の当主。 河越宗重の嫡男とされるが、『常楽記』によると、宗重は文永8年生まれで貞重と一歳しか違わないため、両者は親子ではなく兄弟と考えられる。その場合、貞重の父は河越経重となる。.

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渋川貞頼

渋川 貞頼(しぶかわ さだより)は、鎌倉時代中期から後期にかけての御家人。渋川氏3代当主。 2代当主・渋川義春の子として誕生。母は北条時広の娘。諱は9代執権・北条貞時の偏諱を受けたものか。 子・義季は足利直義に属して中先代の乱で戦死した。娘・本光院は足利直義に嫁いだ。.

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服部英雄

服部 英雄(はっとり ひでお、1949年5月5日 - )は、日本の歴史学者、九州大学比較社会文化研究院名誉教授。専門は日本中世史。.

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本郷和人

本郷 和人(ほんごう かずと、1960年10月12日 - )は、日本中世史を専門とする日本の歴史学者である。東京都生まれ。学位は博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所教授。.

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惟康親王

惟康親王(これやすしんのう)は、鎌倉幕府第7代征夷大将軍。6代将軍宗尊親王の嫡男。.

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戎光祥出版

戎光祥出版株式会社(えびすこうしょうしゅっぱん)は、東京都千代田区にある神道、日本史、鉄道、銭湯などに関する書籍を刊行する出版社。.

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戸次氏

戸次氏(べっきうじ、べっきし)は、日本の氏族。庶家は佐伯氏などが出た。.

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斯波宗氏

斯波 宗氏(しば むねうじ)は、鎌倉時代中期ごろから後期にかけての武将。斯波氏(尾張足利氏)第3代当主。.

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新人物往来社

株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.

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文永

文永(ぶんえい)は、日本の元号の一つ。弘長の後、建治の前。1264年から1274年までの期間を指す。この時代の天皇は亀山天皇、後宇多天皇。鎌倉幕府将軍は宗尊親王、惟康親王、執権は北条長時、北条政村、北条時宗。.

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悪党

悪党(あくとう)は、.

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敬称

敬称(けいしょう)とは、話者が相手や第三者に対して敬意、尊敬の念を込めて用いられる名前(人名)や肩書きの後ろに付ける接尾語、またはその語自体で相手や第三者を表現する代名詞である。後者の場合は、職名などで、一つの名詞としての機能を持っていて、独立して用いられる。.

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数え年

数え年(かぞえどし)とは、年齢や年数の数え方の一つで、生まれてから関わった暦年の個数で年齢を表す方法である。即ち、生まれた年を「1歳」「1年」とする数え方である。 以降、暦年が変わる(元日(1月1日)を迎える)ごとにそれぞれ1歳、1年ずつ“年をとる”(例:12月31日に出生した場合、出生時に1歳で翌日には2歳となる。また1月1日に出生した場合は、2歳になるのは翌年の1月1日になる)。数え歳や数えともいい、年齢以外の項目では足掛け(あしかけ)ともいう。年齢の序数表示(たとえば、満年齢の0歳をあらわす英語の “first year of life” など)とは異なる。 これに対し、誕生日前日24時を過ぎた時点で加齢・加年する数え方を「満年齢」「満」といい、生まれた年を「0歳」「0年」として暦年が変わるごとに加齢加年する数え方を「周年」という。本項においては、主に年齢に関する事柄について記述する。.

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教育委員会

教育委員会(きょういくいいんかい、)は、教育に関する事務をつかさどる行政委員会である。.

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思文閣出版

思文閣出版(しぶんかくしゅっぱん)は、京都府京都市左京区にある出版社。美術商思文閣の出版部で、人文系・美術系の書籍を刊行している。絶版となった古書や花道、歴史、国文、芸術などのオリジナル企画書を刊行している。ベストセラーにならなくても、命の長い本を出版していく方針を取っている[こんな出版社]思文閣出版 命の長い本作る 読売新聞 2007年9月27日 大阪夕刊7頁。所在地同ビルに企画展をメインとする美術館・思文閣美術館(しぶんかくびじゅつかん、2011年4月10日より休館中)、京都市東山区古門前通大和大路東入元町386にぎゃらりぃ思文閣を運営する。.

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10月26日 (旧暦)

旧暦10月26日は旧暦10月の26日目である。六曜は大安である。.

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1272年

記載なし。

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1277年

記載なし。

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1281年

記載なし。

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1282年

記載なし。

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1284年

記載なし。

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1285年

記載なし。

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1287年

記載なし。

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1289年

記載なし。

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1293年

記載なし。

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1297年

記載なし。

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12月12日 (旧暦)

旧暦12月12日(きゅうれきじゅうにがつじゅうににち)は、旧暦12月の12日目である。六曜は大安である。.

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12月2日 (旧暦)

旧暦12月2日(きゅうれきじゅうにがつふつか)は旧暦12月の2日目である。六曜は先勝である。.

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12月6日

12月6日(じゅうにがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から340日目(閏年では341日目)にあたり、年末まであと25日ある。.

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1301年

記載なし。

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1305年

記載なし。

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1308年

記載なし。

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1309年

記載なし。

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1311年

記載なし。

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1月14日

1月14日(いちがつじゅうよっか、いちがつじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から14日目に当たり、年末まであと351日(閏年では352日)ある。誕生花はシクラメン、シンビジューム、スイートピー、サフラン。.

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