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肥前国

索引 肥前国

肥前国(ひぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

241 関係: 加納藩加賀藩基山町基肄郡みやき町千栗八幡宮南島原市南高来郡南松浦郡名神大社吉備真備吉野ヶ里町壱岐市多久市大友氏泰大久保氏大内教弘大給松平家大村喜前大村藩大村氏天平宝字天平勝宝天領天正遣欧少年使節嬉野市宇久氏宇佐神宮宇都宮持綱寺沢広高対馬市対馬府中藩小城市小城郡少弐経資少弐頼尚少弐資元少弐資能少弐政資山崎藩島原の乱島原市島原藩上国丹南藩三養基郡三根郡三潴県一宮一色範光...一色直氏平戸平戸市平戸藩五島市五島純玄今山の戦い今川仲秋今川貞世仁和寺令制国延喜式神名帳任官廃藩置県伊万里市佐世保市佐賀市佐賀県佐賀郡佐賀藩彼杵郡志々伎神社地方知行北高来郡北条定宗北条藩北条時定 (時氏流)北松浦郡ポルトガルレトヴィザン (戦艦)嘉瀬川スペイン唐津市唐津藩前田利常前田利長前田綱紀前田重教前田氏前田斉広国府国衙火国神埼市神埼郡福岡藩福江藩筑後川続日本紀総社織田長亮美濃国田島神社田手畷の戦い町奉行相良前頼芝村藩鎮西探題遠国荒穂神社鍋島直茂鍋島直正鍋島氏鍋島治茂鍋島斉直菊池武光菊池武澄風土記飛地養父郡 (佐賀県)西彼杵郡西松浦郡西海市西海道角川日本地名大辞典諫早市高来郡高木正善高木正豊豊臣秀吉鳥栖市鶴牧藩鹿島市黒田宣政黒田綱政龍造寺氏龍造寺政家與止日女神社藤原福当麻呂藤津郡那須光資那須頼資那須資村肥後国肥前国庁跡肥前国分寺跡肥前国風土記肥前有馬氏長崎長崎奉行長崎市長崎府長崎県長崎貿易雲仙市東彼杵郡東福寺東松浦郡松浦市松浦久信 (平戸藩主)松浦篤信松浦熈松浦隆信 (平戸藩主)松浦鎮信松浦詮松浦郡松浦重信松浦氏杵島郡根岸鎮衛武藤資頼武雄市水野忠位水野忠順水野忠見永井尚佐永井尚典永井尚服河尻秀隆河尻秀長沖田畷の戦い波多親波多氏深溝松平家渋川尹繁渋川義俊渋川満直渋川満頼渋川教直持統天皇本多忠辰本多忠鄰本多忠英本多忠明有馬晴信成就院戸田氏明治昭和日本旧高旧領取調帳播磨国慶応11月14日 (旧暦)12月25日1530年1570年1584年1637年1638年1868年1869年1870年1871年1872年1876年1883年1896年1975年1984年2月24日2月2日 (旧暦)4月18日5月24日5月29日 (旧暦)5月4日 (旧暦)5月9日696年6月20日 (旧暦)6月21日6月23日750年754年7月14日 (旧暦)7月28日7月4日893年8月21日8月29日8月7日 (旧暦)9月12日 インデックスを展開 (191 もっと) »

加納藩

加納藩(かのうはん)は、江戸時代の日本で、美濃国厚見郡加納(現在:岐阜県岐阜市加納)を本拠地にして、美濃国中部(現在の岐阜県中南部)を領土とした藩である。藩庁は加納城。.

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加賀藩

金沢城石川門(重文) 加賀藩(かがはん)は、江戸時代に加賀、能登、越中の3国の大半を領地とした藩。藩祖前田利家の妻である芳春院(まつ)の死後、芳春院の化粧料(婦女に対して生活補助として与えられた領地(石高))だった近江弘川村(現在の滋賀県高島市今津町)を飛び地として加える。.

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基山町

基山町(きやまちょう)は、佐賀県東部の三養基郡に属する町。周辺の鳥栖市や福岡県小郡市、久留米市とともに、一大経済圏を形成している。.

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基肄郡

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みやき町

みやき町(みやきちょう)は、佐賀県東部に位置する町。三養基郡に属する。.

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千栗八幡宮

一の鳥居(町指定文化財)慶長14年(1609年)鍋島藩祖・鍋島直茂奉納の石造肥前鳥居 本殿 境内中央の建物は粥祭で参拝者に「お粥試」の粥を供覧するお粥堂、右奥は摂社・武雄神社。 千栗八幡宮(ちりくはちまんぐう)は、佐賀県三養基郡みやき町にある神社。肥前国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。.

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南島原市

南島原市(みなみしまばらし)は、長崎県島原半島南部に位置する市である。.

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南高来郡

長崎県南高来郡の位置 南高来郡(みなみたかきぐん)は、長崎県にあった郡。 長崎県内では所在・管轄する地域を示す郡名の略称として南高(なんこう)とも呼ばれた。.

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南松浦郡

長崎県南松浦郡の位置(緑:新上五島町) 南松浦郡(みなみまつうらぐん)は、長崎県の郡。 長崎県内では所在・管轄する地域を示す郡名の略称として南松(なんしょう)とも呼ばれる。 以下の1町を含む。.

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名神大社

名神大社(みょうじんたいしゃ)とは、日本の律令制下において、名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社である。古代における社格の1つとされ、その全てが大社(官幣大社・国幣大社)に列していることから「名神大社」と呼ばれる。『延喜式』巻3の「臨時祭」の「名神祭」の条下(以下「名神祭式」という)と、同巻9・10の「神名式」(「延喜式神名帳」)に掲示され、後者の記載に当たっては「名神大」と略記されている。.

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吉備真備

吉備 真備(きび の まきび)は、日本の奈良時代の学者・公卿。元の名は下道 真備(しもつみち の まきび)。氏姓は下道朝臣のち吉備朝臣。右衛士少尉・下道圀勝の子。官位は正二位・右大臣。勲等は勲二等。.

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吉野ヶ里町

吉野ヶ里町(よしのがりちょう)は、佐賀県東部に位置する町。神埼郡に属する。.

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壱岐市

壱岐市(いきし)は、長崎県の壱岐島を主な行政区域とする市である。壱岐振興局の所在地。.

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多久市

多久市(たくし)は、佐賀県の中央部に位置する市。.

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大友氏泰

大友 氏泰(おおとも うじやす)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将・守護大名。大友氏の7代当主。 幼名は千代松丸。元弘3年/正慶2年(1333年)、父が鎮西探題・北条英時(赤橋英時)を攻める前、決死の覚悟で幕府に反逆しようとする父から家督を譲られた。五男である氏泰に家督を譲ったのは、当時成人していた四男までの息子より、幼少の氏泰に譲っておけば、仮に自身が敗死してもその後、幕府から咎められて取り潰される可能性は低いであろうと考えたためだと言われている。同年12月、父が京都で急死したため、正式に当主となったが、幼少だったために兄・貞載の補佐を受けた。 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて九州に落ち延びてきたときは、尊氏の再挙に貢献した。この頃がちょうど元服の時期で尊氏から「氏」の字を与えられて氏泰と名乗ったものとみられる。また、尊氏が九州に滞在していた建武3年(1336年)2月に大友氏を味方に引き入れるために千代松丸(氏泰)とその兄弟を自分の猶子に迎えるという御判御教書を与えており、それ以降大友氏一族は「源氏」を称することができるようになった。尊氏再挙に尽くした功績により室町幕府開設後、豊後の他に肥前・豊前・日向の守護に任じられた。 正平17年/貞治元年(1362年)に死去し、家督は弟の大友氏時が継いだ。.

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大久保氏

大久保氏(おおくぼし)は、日本の氏族。.

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大内教弘

大内 教弘(おおうち のりひろ)は、室町時代中期の守護大名。周防・長門・筑前・豊前・肥前守護。大内氏第13代当主。第11代当主大内盛見の子(一説には大内持盛の次男)。教幸の弟。妻は山名宗全の養女(山名熙貴の娘)。政弘、娘(大友政親室)、娘(山名政理室)、娘(佐伯親春室)の父。 幼名は六郎、のち元服に際して6代将軍・足利義教より偏諱を受け教弘と名乗る。通称は新介、周防介。官位は左京大夫、大膳大夫、従五位下、従四位下、死後に従三位。.

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大給松平家

大給松平家(おぎゅうまつだいらけ)は、松平親忠の次男・乗元を祖とする松平氏の庶流。十八松平の一つ。三河国加茂郡大給(現在の愛知県豊田市)を領したことから大給松平家と称する。松平宗家(徳川氏)に仕え、甲陽軍鑑に「荻生の少目」として登場する松平親乗が有名であると新井白石「藩翰譜」にはある。当主は武勇に優れ、「藩翰譜」にはあちこちの戦いで兜首を多数挙げたことが特筆されている。 江戸時代には譜代大名4家のほか、数多くの旗本を出した。なお新井白石の藩翰譜では、「荻生松平」と表記する。.

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大村喜前

大村 喜前(おおむら よしあき、永禄12年(1569年) - 元和2年8月8日(1616年9月18日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。肥前国大村藩初代藩主。大村純忠の長男。母は西郷純久の娘。正室は有馬義純の娘。子に大村純頼。官位は従五位下丹後守。嘉前とも表記される。.

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大村藩

大村藩(おおむらはん)は、肥前国彼杵地方を領した藩。藩庁は玖島城(現在の長崎県大村市)。.

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大村氏

大村氏(おおむらし)は、日本の氏族のひとつ。戦国時代の戦国大名。江戸時代の肥前大村藩主。.

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天平宝字

天平宝字(てんぴょうほうじ、正字体:天平寶字)は、日本の元号の一つ。天平勝宝の後、天平神護の前。757年から765年までの期間を指す。この時代の天皇は孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇(孝謙天皇重祚)。.

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天平勝宝

天平勝宝(てんぴょうしょうほう、正字体:天平勝寶)は、日本の元号の一つ。天平感宝の後、天平宝字の前。749年から757年までの期間を指す。この時代の天皇は孝謙天皇。 天平勝宝7年1月4日、勅命により「年」が「歳」に改められた。このため以後は、天平勝宝七歳・天平勝宝八歳・天平勝宝九歳と表記されたが、天平宝字へ改元した際に「歳」を「年」へ復している。.

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天領

天領(てんりょう)は、江戸時代における江戸幕府の直轄地の俗称で、このほか幕府直轄領、徳川幕府領、徳川支配地、幕府領、幕領など様々な呼称があり、必ずしも絶対的な単一の歴史用語ではない村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。幕府直轄領は元禄以降、全国で約400万石あった。その領地は日本全国に散らばっており、江戸時代を通じて何らかの形で幕府直轄地が存在した国は51ヶ国と1地域(蝦夷地)に及び、年貢収取の対象となる田畑以外に交通・商業の要衝と港湾、主要な鉱山、城郭や御殿の建築用材の産出地としての山林地帯が編入され江戸幕府の主要な財源であった村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。 幕府直轄地が「天領」と呼ばれるようになったのは明治時代である。大政奉還後に幕府直轄地が明治政府に返還された際に、「天朝の御料(御領)」などの略語として「天領」と呼ばれたのがはじまり。その後、この呼称が江戸時代にもさかのぼって使われるようになった。よって、江戸時代に使われていた呼称ではない。江戸幕府での正式名は御料・御領(ごりょう)であり、その他、江戸時代の幕府法令には御料所(ごりょうしょ、ごりょうじょ)、代官所、支配所(しはいしょ、しはいじょ)とある。江戸時代の地方書では大名領や旗本領を私領としたのに対して公領・公料、また公儀御料所(こうぎごりょうしょ)とある。 大政奉還後の慶応4年(1868年、同年明治元年)には徳川支配地を天領と呼んだ布告があるが、同時期の別の布告では「これまで徳川支配地を天領と称し居候は言語道断の儀に候、総て天朝の御料に復し、真の天領に相成候間」とある。 幕府の直轄地についての呼称については、従来は「天領」と表記していたが、この「天領」という呼称が明治以降の俗称であるという点から、近年では「幕領」と呼ぶ傾向になっており、全国の歴史教科書なども「幕領」への表記の変更が進められている。.

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天正遣欧少年使節

天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)は1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれる。.

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嬉野市

嬉野市(うれしのし)は、佐賀県西部に位置する市。嬉野温泉が所在する。.

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宇久氏

宇久氏(うくし)は、日本の氏族の一つ。上松浦党。肥前国松浦郡宇久島より起こる。.

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宇佐神宮

宇佐神宮(うさじんぐう)は、大分県宇佐市にある神社。式内社(名神大社3社)、豊前国一宮、勅祭社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 全国に約44,000社ある八幡宮の総本社である。石清水八幡宮・筥崎宮(または鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一つ。古くは八幡宇佐宮または八幡大菩薩宇佐宮などと呼ばれた。また神仏分離以前は神宮寺の弥勒寺(後述)と一体のものとして、正式には宇佐八幡宮弥勒寺と称していた神仏習合の時代にあっても、多くの神社では神社を管理運営する寺院(いわゆる神宮寺)が同一敷地にあるといった形式が主流である。しかし宇佐神宮を筆頭とする全国の八幡宮の場合はそもそも八幡神自体が同時に八幡大菩薩という仏でもあったため、八幡宮と神宮寺は一体のものであり、「八幡宮」=「八幡大菩薩を本尊とする寺院」であった。宇佐神宮の場合は、その寺としての名称が弥勒寺であったのである。例えば、京都の石清水八幡宮の場合は神仏分離以前の正式には「石清水八幡宮護国寺」と称していた。このような事情から、神社のなかでも八幡宮はもっとも早くから神仏習合が進んだ神社であった。また同時に、神仏分離の際にも神宮寺が別個に境内外へ移転することもなく、そのまま寺としては廃寺となり、比較的早く神仏分離を完了した。宇佐神宮の場合、かつて弥勒寺として多数の塔頭・伽藍が立ち並んでいた菱形池周辺は今では茫漠とした広大な社叢となっている。ちなみに現在の呉橋を渡ったところには弥勒寺の楼閣がそびえていたが、これは戦前まで残っていた。。 現在でも通称として宇佐八幡とも呼ばれる。.

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宇都宮持綱

宇都宮 持綱(うつのみや もちつな、応永3年(1396年) - 応永30年8月9日(1423年9月13日))は室町時代中期の武将で、下野国の宇都宮氏第13代当主。武茂綱家の三男で12代当主宇都宮満綱の婿養子。第14代当主宇都宮等綱、芳賀成高室、蘆名盛詮室の父。常陸介。 下野宇都宮氏の一族、武茂氏の出身。応永14年(1407年)に急逝した宇都宮氏本家の満綱に男子がいなかったのでその養子となり家督を継承した。鎌倉公方足利持氏に臣従してその偏諱を受けて持綱と名乗る。上杉禅秀の乱では関東の諸将が上杉方につき一族にも呼応の動きがある中で、室町幕府の討伐軍に協力して乱を鎮圧、その功によって上総国守護、京都扶持衆に任じられるなど幕府に重用されたが、持氏より那須郡三依郷を長沼義秀に譲って欲しいと懇願された時に拒否したことなどから持氏に警戒されるようになり、のち小栗満重の乱に荷担したとして討伐を受けた。持綱は反鎌倉府の活動を命じる幕府からの御内書を受けていたとみられている。応永30年(1423年)8月9日、一族の塩谷教綱によって殺害された。塩谷氏・芳賀氏ら、家中の親鎌倉府派による離反があったとみられている。.

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寺沢広高

寺沢 広高(てらざわ ひろたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。肥前唐津藩の初代藩主。.

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対馬市

対馬市(つしまし)は、長崎県の対馬に位置する市である。対馬振興局の所在地。 本項では、地方自治体としての対馬市について記述する。島としての対馬に関する事柄は、対馬を参照のこと。.

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対馬府中藩

対馬府中藩(つしまふちゅうはん)は、江戸時代に対馬国(長崎県対馬市)全土と肥前国田代(佐賀県鳥栖市東部及び基山町)及び浜崎(佐賀県唐津市浜玉町浜崎)を治めていた藩で、別名厳原藩(いづはらはん)。一般には単に対馬藩(つしまはん)と呼称される事が多い。「府中」は当時厳原の城下町をこう称していたことに由来する。藩庁は当初金石城(対馬市厳原町西里)、のち桟原城(対馬市厳原町桟原)。藩主は宗氏で初代藩主義智以来、位階は従四位下を与えられ、官職は主に対馬守・侍従を称した。 対馬府中藩の在郷支配は近世諸藩のなかでも特殊な性格を有しており、兵農分離はあまり明確でなく、多くの地方給人があり、給人の下に名子・被官がいて、多くの点で中世的性格を保った。.

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小城市

小城市(おぎし)は、佐賀県の中央部に位置する市である。.

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小城郡

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少弐経資

少弐 経資(しょうに つねすけ)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。少弐資能の子。少弐氏3代当主。.

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少弐頼尚

少弐 頼尚(しょうに よりひさ/よりなお)は、南北朝時代から室町時代にかけての武将。少弐氏6代当主。.

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少弐資元

少弐 資元(しょうに すけもと)は、戦国時代の大名。少弐氏16代当主。.

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少弐資能

少弐 資能(しょうに すけよし)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将・御家人。少弐氏2代当主。.

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少弐政資

少弐 政資(しょうに まさすけ)は、室町時代から戦国時代初期にかけての武将。少弐氏15代当主。筑前国高祖城主。初名は頼忠、父の死後家督を継ぐ際に8代将軍・足利義政より偏諱を受け政尚を名乗り、後、政資に改名。.

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山崎藩

山崎藩(やまさきはん)は、播磨国宍粟郡周辺を知行した藩。藩庁として山崎(現在の兵庫県宍粟市山崎町)に山崎陣屋が置かれた。宍粟藩(しそうはん)とも呼ばれる。.

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島原の乱

島原の乱(しまばらのらん)は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦である。島原・天草の乱、島原・天草一揆とも呼ばれる。寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされている。乱のきっかけは圧政・重税であったが、乱勃発後にはキリスト教が一揆のよりどころとされた。鎮圧の1年半後にはポルトガル人が日本から追放され、いわゆる「鎖国」が始まった。.

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島原市

島原市(しまばらし)は、長崎県南東部の島原半島にある市。島原半島の中心都市。島原城や武家屋敷など旧城下町の街並みが残り、市内に湧水群のある観光都市である。有明海(島原湾)を介して、フェリーや高速船で結ばれている対岸の熊本県熊本市や福岡県大牟田市などとの関係も深い。旧南高来郡。.

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島原藩

島原藩(しまばらはん)は、肥前国島原周辺を支配した藩。初期は日野江藩(ひのえはん)と呼ばれる。藩庁は初期は日野江城(長崎県南島原市)、のち島原城(長崎県島原市)。.

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上国

上国(じょうこく、じょうごく)とは、律令国の等級区分の一つである。.

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丹南藩

丹南藩(たんなんはん)は、河内国丹南郡などに1万石を領有した藩。藩主は譜代大名の高木氏。藩庁は丹南郡丹南村(現在の大阪府松原市丹南)の丹南陣屋。.

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三養基郡

佐賀県三養基郡の位置(1.基山町 2.上峰町 3.みやき町) 三養基郡(みやきぐん)は、佐賀県の郡。 以下の3町を含む。.

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三根郡

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三潴県

三潴県(みずまけん)は、明治4年(1871年)に筑後国を管轄するために設置された県。管轄地域は、当初は現在の福岡県筑後地方、のちに佐賀県が合併された。.

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一宮

一宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。一の宮・一之宮などとも書く。.

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一色範光

一色 範光(いっしき のりみつ)は、南北朝時代の武将、守護大名。一色氏5代当主。.

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一色直氏

一色 直氏(いっしき なおうじ / ただうじ)は、南北朝時代の武将、守護大名。一色氏4代当主。室町幕府の第2代九州探題。.

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平戸

平戸 特記以外の読みは「ひらど」。; 長崎県の地名.

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平戸市

北松浦半島側から見た平戸市中心部 平戸城から見た平戸瀬戸(対岸が北松浦半島) 平戸市(ひらどし)は、長崎県北西部の平戸島とその周辺を行政区域とする市で長崎県と九州本土の市としては最西端に位置する都市。旧平戸藩松浦氏の城下町で、鎖国前は中国やポルトガル、オランダなどとの国際貿易港だった。 旧平戸市は、平戸島と度島などの離島を行政区域としていたが、2005年10月1日に周辺の北松浦郡田平町・生月町・大島村と合併(新設合併)して新たに平戸市となった。これにより本土にも市域が拡大した。市役所は旧平戸市役所の建物が引き続き使用されている。.

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平戸藩

平戸藩(ひらどはん)は、肥前国松浦郡と彼杵郡の一部、および壱岐国を領した藩。藩庁は平戸城(現在の長崎県平戸市)。.

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五島市

浜海水浴場 五島市(ごとうし)は、長崎県の西部、五島列島の南西部に位置する市。.

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五島純玄

五島 純玄(ごとう すみはる)は、戦国時代から安土桃山時代の大名。初めは宇久次郎純玄を名乗り、宇久氏第20代当主、五島氏の初代。.

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今山の戦い

今山の戦い(いまやまのたたかい)は、元亀元年(1570年)4月から始まった豊後の戦国大名・大友宗麟軍と肥前の戦国大名・龍造寺隆信軍との戦い。特に元亀元年8月20日(1570年9月19日)に行われた激戦が有名であり、この日の戦闘を指して今山合戦とする場合もある。.

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今川仲秋

今川 仲秋(いまがわ なかあき)は、南北朝時代後期から室町時代前期の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、遠江・尾張守護。今川氏の分家・遠江今川氏の第2代当主。初名は国泰(くにやす)、後に頼泰(よりやす)、仲秋と名乗る。法名は仲高(ちゅうこう)。父は今川範国、兄に範氏、貞世(了俊)、氏兼。子に貞秋(さだあき)、氏秋(うじあき)、直秋(なおあき)、国秋(くにあき)。官位は中務少輔、右衛門佐。 正平23年/応安元年(1368年)に次兄了俊の後任として侍所頭人兼山城守護に就任。続く建徳2年/応安4年(1371年)には九州探題に就任した兄に従い長門から九州肥前に下向、翌文中元年/応安5年(1372年)2月に肥前に攻めてきた菊池武政を破って筑前に上陸していた兄の軍勢と合流、大宰府を落とした。以後は兄の代官として肥前に赴き、松浦党の結集と南朝勢力の駆逐に務めた。 元中3年/至徳3年(1386年)頃に帰京、元中5年/嘉慶2年(1388年)に遠江守護に任命、翌年の3代将軍足利義満の厳島神社参詣に同行、明徳4年(1393年)に尾張守護を務め、応永2年(1395年)の義満の出家にならい出家、同年に九州探題を解任された兄と遠江を半国守護として共同統治、後年は兄の養子となった。遠江今川氏当主となるも実権は兄にあったとされるが、甥で了俊の子貞臣の後見役として貞臣を養育している。但し、遠江はもう1人の甥泰範に取り上げられている。 在任中は目立った記録はないものの、堅実な中継ぎという評価がある。応永19年(1412年)、了俊の今川状は仲秋に与えられ、以後治世の教訓、手本となり継承されていく。 肥前に残された末子の国秋(くにあき、母は九州千葉氏)は、肥前佐嘉郡を幕府より与えられ、肥前今川家(今川佐賀家)の祖となった。.

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今川貞世

今川 貞世(いまがわ さだよ)は、鎌倉時代後期から南北朝・室町時代の武将、守護大名。室町幕府の九州探題、遠江、駿河半国守護。九州探題赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ねた。歌人としても名高い。法名は了俊(りょうしゅん)で、今川了俊と呼ばれる事も多い。没年は異説あり。.

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仁和寺

双ヶ岡より仁和寺を望む 仁和寺(にんなじ)は、京都府京都市右京区御室にある真言宗御室派総本山の仏教寺院。山号は大内山。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は宇多天皇。「古都京都の文化財」として、世界遺産に登録されている。.

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令制国

北海道11か国(ただし、千島を除く)追加を反映した。 令制国(りょうせいこく)とは、日本の律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分である。律令国(りつりょうこく)ともいう。奈良時代から明治初期まで、日本の地理的区分の基本単位だった。 令制国の行政機関を国衙(こくが)または国庁(こくちょう)といい、国衙の所在地や国衙を中心とする都市域を国府(こくふ)といった。また、国府は府中と呼ばれることもあった。.

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延喜式神名帳

延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である。.

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任官

任官(にんかん)とは、官職に任用されることをいう。古くは奈良時代の律令制導入の際より日本の官制において用いられた用語であり、今日の政府や国家機関等においても使用されている。今日では国家公務員の職、特に裁判官、検察官、自衛官(即応予備自衛官、予備自衛官を含む)、警察官、海上保安官、刑務官、労働基準監督官などに任ぜられる場合に用いられる。対義語は「免官」、「退官」。 なお、関連用語として、「任官拒否」という用語もある。用法としては、司法試験合格者のうち、裁判官等への任官を拒否するために用いられ、その他には防衛大学校卒業者が自衛官への任官を拒否する場合にも用いられる。なお、国家公務員が異なる官庁・職種に転じる場合、転官ともいう。.

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廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

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伊万里市

伊万里市街地遠景 伊万里市(いまりし)は、佐賀県の西部にある市である。かつて伊万里港から積み出しを行っていた磁器(伊万里焼)で有名である。.

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佐世保市

アルカスSASEBO 佐世保市(させぼし)は、長崎県北部地方にある市。 長崎県北部の中心都市で、長崎県では長崎市に次いで2番目、九州では9番目に多い人口を擁する。県庁所在地ではない「非県都」としては比較的大きな規模を持つ都市であり、国から中核市及び保健所政令市の指定を受けている。 かつて旧海軍四軍港(横須賀・呉・佐世保・舞鶴)の一つとして鎮守府が置かれ、現代でも自衛隊や在日米軍の基地として伝統を受け継ぐ、造船および国防の町として知られる。また、西海国立公園に指定されている九十九島や日本最大級のテーマパークであるハウステンボスに代表される観光都市でもある。市制施行当時の市域は旧東彼杵郡佐世保村市町村変遷パラパラ地図 完全版 長崎県 のみで、その後の合併により旧東彼杵郡の一部、旧北松浦郡の一部地域も市域に含む。長崎市とは離れているため、経済圏は異なる。.

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佐賀市

佐賀市中心部の航空写真。中央やや右下に「逆コの字型」の佐賀城跡の堀がある。 佐賀市中心部。佐賀県庁より佐賀駅方面 佐賀市中心部及び周辺住宅街。佐賀県庁より東側 嘉瀬川 佐賀市(さがし)は、佐賀県の県庁所在地で、同県最大の人口を擁する市である。施行時特例市。 佐賀県の経済・行政の中心地。有明海から脊振山地までを縦断する市域を有し、市街地は佐賀平野の中心付近に位置する。秋には嘉瀬川河川敷を中心に佐賀インターナショナルバルーンフェスタが開催され、バルーン(熱気球)の街として賑わう。.

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佐賀県

佐賀県(さがけん)は、日本の九州地方の北西部にある県である。県庁所在地は佐賀市。 唐津・伊万里・有田などは古くから陶磁器の産地として有名。玄界灘と有明海の2つの海に接する。令制国の肥前国東部に相当する。明治の府県制成立の際、同国は佐賀県と長崎県の2県として分立した。.

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佐賀郡

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佐賀藩

佐賀藩(さがはん)は、肥前国佐賀郡にあった外様藩。肥前藩(ひぜんはん)ともいう。鍋島氏が藩主であったことから鍋島藩(なべしまはん)と呼ばれることもある。明治維新を推進した薩長土肥のひとつである。現在の佐賀県、長崎県の一部にあたる。藩庁は佐賀城(現在の佐賀市)。 藩主ははじめ龍造寺氏、後に鍋島氏。石高は35万7千石。支藩として蓮池藩、小城藩、鹿島藩があった。.

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彼杵郡

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志々伎神社

志々伎神社(しじきじんじゃ)は、長崎県平戸市野子町にある神社。志志伎神社あるいは志自伎神社とも表記する。式内小社、旧社格は県社。.

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地方知行

地方知行(じがたちぎょう)とは、江戸時代に将軍あるいは大名が家臣に対して禄として与える知行を、所領(地方と呼ばれる土地)及びそこの付随する百姓の形で与え、支配させること。将軍が大名に土地を与える場合には特に大名知行(だいみょうちぎょう)と呼ばれている。 ここにおける地方知行の解説に大名知行は含めないが、必要に応じて大名知行の例についても言及するものとする。.

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北高来郡

長崎県北高来郡の位置(薄黄:後に他郡に編入された区域) 北高来郡(きたたかきぐん)は、長崎県にあった郡。 長崎県内では所在・管轄する地域を示す郡名の略称として北高(ほっこう)とも呼ばれた。.

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北条定宗

伝北条時宗像、実際には定宗像とも。 北条 定宗(ほうじょう さだむね、文永5年(1268年) - 永仁3年8月19日(1295年9月29日))は、鎌倉時代後期の武将。北条氏の一門。阿蘇流2代当主。鎌倉幕府8代執権・北条時宗の甥にあたる。 時宗の異母弟で、得宗家傍流である桜田時厳の子。阿蘇家の祖・北条時定の養子。阿蘇定宗とも呼ばれる。肥前国守護、修理亮、大友左近大夫将監。 元寇に際して鎮西に下向した大叔父である北条時定の養子となり、阿蘇家の家督を継ぐが、時定の死去から5年後の永仁3年(1295年)8月19日、現地で死去。享年28。 家督は子の随時が継いだ。墓所は熊本県阿蘇郡満願寺。 北条時宗像として知られる満願寺所蔵の肖像画は、各史料から実際には定宗の肖像と見られている。.

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北条藩

北条藩(ほうじょうはん)は、江戸時代初期から後期にかけて、安房国に存在した藩。藩庁は安房郡北条村(現在の千葉県館山市北条)の北条陣屋。 1638年の立藩以後、屋代氏が3代約70年にわたって治めたが、1711年に発生した万石騒動によって改易された。中断期間を挟んで水野氏が入り、3代約100年にわたって存続した。.

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北条時定 (時氏流)

北条 時定(ほうじょう ときさだ)は、鎌倉時代中期の北条氏の一門。北条時氏の三男。母は松下禅尼で、第4代執権・北条経時、第5代執権・北条時頼の同母弟にあたる。得宗家から鎮西に下向した阿蘇家の祖。諱はのちに為時(ためとき)と改名している。.

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北松浦郡

長崎県北松浦郡の位置(1.小値賀町 2.佐々町) 北松浦郡(きたまつうらぐん)は、長崎県の郡。 長崎県内では所在・管轄する地域を示す郡名の略称として北松(ほくしょう)とも呼ばれる。 以下の2町を含む。.

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ポルトガル

ポルトガル共和国(ポルトガルきょうわこく、República Portuguesa、República Pertuesa)、通称ポルトガルは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家である。北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアソーレス諸島とマデイラ諸島を領有している。首都はリスボン。 ポルトガルはユーラシア大陸最西端の国家である。ヨーロッパで最初に海路で中国や日本など東アジアとの接触を持った。.

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レトヴィザン (戦艦)

レトヴヰザン#達明治38年9月p.13『達第百三十七號 戰利軍艦「レトヴヰザン」ヲ肥前ト命名セラル 明治三十八年九月二十四日 海軍大臣男爵山本権兵衛』、レトヴィザン、レトヴィザーン(ロシア語:Ретвизанリトヴィザーン)は、ロシア帝国海軍の戦艦。 日露戦争の旅順攻囲戦で沈没。 引揚げ後、修理されて日本海軍の戦艦「肥前」となった#帝国軍艦帖コマ38-39『戰艦肥前(舊名レトウヰザン) 一、進水年月日 明治三十三年(月日不明)/一、排水量 一萬二千七百二十五噸/一、馬力 一萬六千馬力/一、速力 十九節七/一、主砲 四十口經露式十二吋砲四門、六吋砲十二門/一、建造地及建造所 米國費府クラムブ造船所/一、日清戰爭に参加したる際重要なる事項 /一、日露戰爭に参加したる際需要なる事項 露國太平洋第一艦隊に属し、旅順口にありて皇國海軍に對抗すること数月、終に明治三十七年十二月六日旅順西港内に於て我軍の爲め撃沈せられ、三十八年九月二十二日浮揚同二十四日肥前と命名せられ、帝國軍艦に列せらる/一、日獨戰爭に参加したる際重要なる事項 大正三年十月八日艦長川浪海軍大佐式下に横須賀軍港出發布哇「ホノルヽ」沖に至り獨砲艦「ガイヱル」を監視し同十一月八日之が武装解除を行はしめ爾後森田遣米枝對司令官の指揮下に入り南北米西海岸に遊弋索敵行動を取り四年二月十四日横須賀軍港に凱旋す/一、其他特に重要なる事項 明治四十四年艦長依田海軍大佐指揮下に第一艦隊に属し海軍戰技に於て第一等の集合成蹟を擧げ戰技優勝旗を授けられ御下賜品(銀盛花鉢一個)を辱ふす 以上』。 艦名は旧国名の肥前国に由来する#幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ72(原本110頁)『肥前(ひぜん) 艦種一等戰艦 二檣(戰闘檣あり) 艦名考國名なり、肥前國に採る。艦歴米國費府造船所に於て建造、明治33年進水、舊露國軍艦、原名「レトヴヰザン」。日露戰役中露國太平洋艦隊に属し明治37年8月10日黄海々戰に参加、後ち旅順港内に於て破壊沈没、同38年1月1日(旅順の露軍降伏開城の日)我が海軍之が収容引揚に着手、同年9月24日帝國軍艦と定め「肥前」と命名、同年12月戰艦の等級を廢せらる。大正3乃至9年戰役(日獨)從軍:同3年10月遣米支隊に属し布哇・北米・中米方面の警備(艦長大佐川浪安勝)、同7年7月第三艦隊に属し露領沿岸警備(艦長大佐生野太郎八)、同8年9月同前の任務に就く(艦長大佐匝瑳胤次)、同10年一等海防艦に編入、同12年9月20日除籍、廢棄(華府條約による)。―要目― 長372呎/幅72呎/吃水24.9呎/排水量12,700噸/機關 三汽筩聯成汽機2基、ニクローズ式/馬力16,000/速力18/乗組人員750/船材 鋼(甲帶225粍)/兵装 12吋砲 4/6吋砲 12/12听砲 14/5听砲 4/機砲 4/發射管 2/起工 明治31-12/進水 同33-10-23/竣工 同35-3-25/建造所 米國費府』。.

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嘉瀬川

嘉瀬川(かせがわ)は佐賀県中東部を流れる嘉瀬川水系の本流で、一級河川である。 毎年11月に河川敷で佐賀インターナショナルバルーンフェスタが行われることで有名である。また上流には北山ダムや嘉瀬川ダム、川上峡があり、周辺は観光地になっている。.

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スペイン

ペイン王国(スペインおうこく、Reino de España)、通称スペインは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置し、同半島の大部分を占める立憲君主制国家。西にポルトガル、南にイギリス領ジブラルタル、北東にフランス、アンドラと国境を接し、飛地のセウタ、メリリャではモロッコと陸上国境を接する。本土以外に、西地中海のバレアレス諸島や、大西洋のカナリア諸島、北アフリカのセウタとメリリャ、アルボラン海のアルボラン島を領有している。首都はマドリード。.

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唐津市

虹の松原(国の特別名勝) 唐津市(からつし)は、佐賀県の北西に位置し玄界灘に面する市。福岡都市圏(福岡相対都市圏)を形成する都市の一部である。.

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唐津藩

唐津藩(からつはん)は、肥前国唐津を支配した藩。居城は唐津城(佐賀県唐津市)。.

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前田利常

前田 利常(まえだ としつね)は、安土桃山時代末期から江戸時代初期の武将・大名。加賀藩第2代藩主。加賀前田家3代。.

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前田利長

前田 利長(まえだ としなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。加賀藩初代藩主。加賀前田家2代。藩祖である前田利家の長男(嫡男)。母は篠原一計の娘のまつ(芳春院)。正室は織田信長の娘の永姫(玉泉院)。初名は利勝、天正17年(1589年)頃に利長と改名する。若年より織田信長・豊臣秀吉旗下の指揮官として転戦した。秀吉死後から江戸幕府成立に至る難局を、苦渋の政治判断により乗り越え、加賀藩の礎を築いた。.

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前田綱紀

前田 綱紀(まえだ つなのり)は、加賀藩の第4代藩主。加賀前田家5代。先代藩主前田光高の長男。母は徳川家光の養女・水戸藩主徳川頼房の娘、清泰院。.

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前田重教

前田 重教(まえだ しげみち)は、加賀藩の第9代藩主。加賀前田家10代。第5代藩主前田吉徳の七男で、母は側室の流瀬(辻氏・実成院)。吉徳の息子で藩主についた5人(宗辰、重煕、重靖、重教、治脩)のうち4番目の藩主である。.

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前田氏

前田氏(まえだし)は、日本の氏族の一つ。戦国時代に尾張の前田家が台頭し、江戸時代には大名家となった。通字は「利」(とし)。.

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前田斉広

前田 斉広(まえだ なりなが)は、加賀藩の第11代藩主。加賀前田家12代。第9代藩主前田重教の次男。.

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国府

国府(こくふ、こう)は、日本の奈良時代から平安時代に、令制国の国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた都市。 国府付近には国庁のほかにも国分寺・国分尼寺、総社(惣社)が設置され、各国における政治的中心都市であるとともに司法・軍事・宗教の中心部であった。なお『和名抄』によると、古くは「国」ではなく「島」とされた壱岐や対馬には「島府」が置かれたとされる(まだ確定はされていない)。 律令制の衰退にともない立地の優位性を失い廃れたり所在不明になった国府もある一方、いくつかの国府所在地は、現在でも静岡市・姫路市・岡山市・大分市など大きな都市として発展している。.

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国衙

国衙(こくが)は、日本の律令制において国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画である。 国衙に勤務する官人・役人(国司)や、国衙の領地(国衙領)を「国衙」と呼んだ例もある。 各令制国の中心地に国衙など重要な施設を集めた都市域を国府、またその中心となる政務機関の役所群を「国衙」、さらにその中枢で国司が儀式や政治を行う施設を国庁(政庁)と呼んだ。.

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火国

火国・肥国(ひのくに)は、令制国以前に存在した国の一つ。 『国造本紀』によれば、大分国造と同祖で神八井耳命の後裔の志貴多奈彦命の子遅男江命が、崇神朝に火国造に任じられたとされる。また、健磐龍命を火国造の祖とする説もある。 後の肥前国と肥後国であり、あわせてまたはいずれか一国を指して肥州(ひしゅう)と呼ぶことがある。また、肥前国と肥後国の両国をさす語としては、二肥(にひ)も用いられる。のちには火の国・肥の国とも書くが、火の国と書いた場合は、阿蘇山を擁する肥後(あるいは熊本県)の意味で使われることが多い。 この地方は元々火山が多いことから「火の国」と呼ばれ、転じて「肥の国」となったのち、前・後に分けられ「肥前」「肥後」となった。肥前国の長崎には雲仙普賢岳、肥後国には阿蘇山があるからである。肥前国の佐賀には、多良山系に火山があるが、しばらく活動をしていない。 有明海を挟むことから、肥前国と肥後国を一つの国と考えていたというより、一地方と捉えていたと考えられる。 廃藩後曲折を経て、肥前は「長崎県」「佐賀県」となり、肥後は「熊本県」となった。 『古事記』・国産み神話においては、隠岐の次、壱岐の前に生まれた筑紫島(九州)の四面のひとつとして語られ、別名を「建日向日豊久士比泥別(タケヒムカヒトヨクジヒネワケ)」といったとされる。.

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神埼市

埼市(かんざきし)は、佐賀県東部に位置する市。.

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神埼郡

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福岡藩

福岡藩(ふくおかはん)は、筑前国のほぼ全域を領有した大藩。筑前藩とも呼ばれる。藩主が黒田氏であったことから黒田藩という俗称もある。藩庁は福岡城(現在の福岡県福岡市)に置かれた。歴代藩主は外様大名の黒田氏。支藩として秋月藩、また一時、東蓮寺藩(直方藩)があった。 福岡藩領域図(慶長期).

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福江藩

福江藩(ふくえはん)は、江戸時代の肥前国において、五島列島全域を治めた藩。五島藩(ごとうはん)とも呼ばれる。藩の成立から版籍奉還まで外様大名の五島氏が藩主を務めた。石高は1万5000余石(一時、富江領に3000石を分知し1万2000余石となる)で、藩庁は石田城(当初は江川城。現在の長崎県五島市)で城主大名だった。.

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筑後川

筑後川(ちくごがわ)は、阿蘇山を水源として九州地方北部を東から西に流れ有明海に注ぐ川である。河川法に基づき国土交通省政令によって1965年(昭和40年)に指定された一級水系・筑後川水系の本流で、一級河川に指定されている。 流路延長143.0キロメートル、流域面積約2,860平方キロメートルの河川で規模としては九州地方最大の河川である。利根川(坂東太郎)・吉野川(四国三郎)とともに日本三大暴れ川のひとつと言われ、筑紫次(二)郎(つくしじろう)の別名で呼ばれることもある。また、上流部では田の原川・杖立川・大山川・三隈川とも呼ばれる(詳細は後述)。.

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続日本紀

『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記である。略称は続紀(しょっき)。.

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総社

備中国総社宮(岡山県総社市)創祀当時に備中国にあった神社計304社を合祀する。 総社、惣社(そうじゃ、そうしゃ、すべやしろ)とは、日本で、特定地域内の神社の祭神を集めて祀った(.

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織田長亮

織田 長亮(おだ ながあき、元禄11年(1698年) - 享保18年6月7日(1733年7月17日))は、大和国芝村藩第6代藩主。長政流織田家6代。 第4代藩主織田長清の五男。正室は細川有孝の養女(細川利昌の娘)。子は織田輔宜(長男)、織田益聡(次男)、織田長教(三男)、娘(南部信興正室)、娘(本善寺住詮室)など3男4女。初名は輔世。通称は又助。官位は従五位下、肥前守。.

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美濃国

美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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田島神社

島神社(たじまじんじゃ)は、佐賀県唐津市の加部島にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は国幣中社。現在は神社本庁の別表神社。.

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田手畷の戦い

田手畷の戦い (たてなわてのたたかい)は、享禄3年(1530年)、北九州の覇権をめぐり周防国の大名大内氏と肥前国の大名少弐氏との間で起きた戦い。 大内氏と少弐氏とは、室町時代を通じて北九州(大宰府)の覇権を争う宿敵同士であった。明応6年(1497年)には大内義興は少弐政資を滅ぼし、かつては鎮西の覇者であった少弐氏を肥前の一地方勢力に転落させることに成功している。 大内義隆(義興の子)は宿敵の少弐資元(政資の子)に止めを刺すべく筑前国守護代杉興運に命じて大内方の北九州の諸将を率いさせ、資元の居城肥前勢福寺城を攻撃させた。少弐方の諸将(龍造寺家兼や馬場頼周など)が奮戦するが、兵力で劣勢の少弐勢は、敗色が濃厚であった。しかし、鍋島清久・清房父子や石井党らが率いる赤熊奇襲隊の活躍もあって、遠征してきた興連を敗走させた。大内方は横岳資貞・筑紫尚門などが戦死している。 この戦いの後、佐賀平野南部の有力領主らを味方につけ戦勝に貢献した龍造寺氏が、少弐家中での発言権を強め、戦国大名化していく契機となった。 この勝利に勢いづいた少弐氏は逆に大宰府に侵攻するなど一時勢力を回復させたが、大内家の周防国守護代陶興房が九州に乗り込んでくると再び劣勢になり、さらには義隆が自身で大軍を率いて攻勢をかけて来ると、頼みの家兼にも見放された。 天文4年(1535年)には、資元は自刃して果てたため、少弐氏は一時滅亡した。 Category:日本の戦国時代の戦い 戦たてなわて 戦たてなわて 戦たてなわて Category:1530年の日本 Category:1530年の戦闘.

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町奉行

奉行(まちぶぎょう)とは江戸時代の職名で、領内の都市部(町方)の行政・司法を担当する役職。幕府だけでなく諸藩もこの役職を設置したが、一般に町奉行とのみ呼ぶ場合は幕府の役職である江戸町奉行のみを指す。また、江戸以外の天領都市の幕府町奉行は大坂町奉行など地名を冠し、遠国奉行と総称された。.

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相良前頼

良 前頼(さがら さきより、生年不詳)は、南北朝時代の武将。相良氏の第7代当主。第6代当主相良定頼の長男。幼名は伊井之助、通称は近江守。法名は立阿。.

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芝村藩

芝村藩(しばむらはん)は、大和国式上郡芝村(現在の奈良県桜井市芝)に存在した藩。もとは戒重村(現在の奈良県桜井市戒重)に芝村陣屋を構えていたため、戒重藩(かいじゅうはん)とも呼ばれるが、第7代藩主・織田輔宜の代に移転した。.

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鎮西探題

鎮西探題(ちんぜいたんだい)は、鎌倉時代に幕府が西国(九州)の統括のために設置した機関である。行政・訴訟(裁判)・軍事などを管轄した。.

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遠国

遠国(おんごく、えんごく)とは、律令国の等級区分の一つである。 古代日本の律令制の下において、地方行政区画の一環として、畿内からの距離によって国を分けた。その結果、「遠い位置にある国」が遠国とされた。「近国」「中国」「遠国」の3分類の中で最も数が多い。.

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荒穂神社

荒穂神社(あらほじんじゃ)は、佐賀県三養基郡基山町に鎮座する神社である。社格は式内小社、県社。.

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鍋島直茂

鍋島 直茂(なべしま なおしげ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、実質的には大名。戦国大名・龍造寺隆信の家老。肥前佐賀藩の藩祖。 なお数回改名しており、本項では便宜的に後期の名乗りである直茂で統一して解説する。.

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鍋島直正

鍋島 直正(なべしま なおまさ)は、江戸時代末期の大名。第10代肥前国佐賀藩主。9代藩主・鍋島斉直の十七男。母は池田治道の娘。正室は徳川家斉の十八女・盛姫(孝盛院)、継室は徳川斉匡の十九女・筆姫。明治維新以前の名乗りは斉正(なりまさ)。号は閑叟(かんそう)。「佐賀の七賢人」の一人。.

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鍋島氏

鍋島氏(なべしまし)は、近世の佐賀藩藩主の氏族。血縁的には武藤氏の一族・少弐氏の男系である(系譜を参照)。.

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鍋島治茂

鍋島 治茂(なべしま はるしげ)は、肥前国鹿島藩第7代藩主、のち肥前国佐賀藩第8代藩主。佐賀藩第5代藩主・鍋島宗茂の十男で、第6代藩主・宗教と第7代藩主・重茂の弟。藩政の抜本的な改革に着手した名君として知られ、佐賀藩中興の祖と呼ばれている。 鹿島藩主時代は直煕(なおひろ)、佐賀藩主となってからは将軍徳川家治から偏諱の授与を受けて治茂と名乗った。.

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鍋島斉直

鍋島 斉直(なべしま なりなお)は、肥前国佐賀藩の第9代藩主。第8代藩主・鍋島治茂の長男。母は側室・福岡氏。正室は池田治道の娘(浄諦院)。側室に石井尚方の娘、石井本昭の娘など。幼名は祥太郎。初名は直懿(なおたか)。.

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菊池武光

菊池 武光(きくち たけみつ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。菊池氏第15代当主。第12代当主・菊池武時の子で九男とも。.

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菊池武澄

菊池 武澄(きくち たけずみ、生年不詳 - 正平11年/延文元年6月29日(1356年7月27日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。菊池氏第12代当主・菊池武時の子。子に菊池武安。詫磨(詫間)氏の祖で、菊池氏第25代当主となる菊池武包は来孫にあたる。.

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風土記

土記(ふどき)とは、一般には地方の歴史や文物を記した地誌のことをさすが、狭義には、日本の奈良時代に地方の文化風土や地勢等を国ごとに記録編纂して、天皇に献上させた報告書をさす。正式名称ではなく、ほかの風土記と区別して「古風土記」ともいう。律令制度の各国別で記されたと考えられ、幾つかが写本として残されている。.

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飛地

飛地(とびち、飛び地)とは、一つの国の領土や行政区画、町会等の内、地理的に分離している一部分である。土地の一部が「他所に飛んでいる」と見られることからこう呼ばれる。 オエクシ)が飛地にあたる。.

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養父郡 (佐賀県)

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西彼杵郡

長崎県西彼杵郡の位置(1.長与町 2.時津町 水色:後に他郡から編入した区域) 西彼杵郡(にしそのぎぐん)は、長崎県の郡。 長崎県内では所在・管轄する地域を示す郡名の略称として西彼(せいひ)とも呼ばれる。 以下の2町を含む。.

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西松浦郡

佐賀県西松浦郡の位置(緑:有田町) 西松浦郡(にしまつうらぐん)は、佐賀県の郡。 以下の1町を含む。.

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西海市

西海市(さいかいし)は、長崎県西彼杵半島の北部に位置する市。.

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西海道

西海道(さいかいどう、にしのみち)は、五畿七道の一つ。九州とその周辺の島々の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。.

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角川日本地名大辞典

『角川日本地名大辞典』(かどかわにほんちめいだいじてん)は、角川書店の出版による日本の地名辞典である。 著者は「角川日本地名大辞典」編纂委員会で、委員長を務めた竹内理三は本書を制作する目的として「民族遺産としての地名を将来に伝えること」、現代の地名を収録したことについては「現代の社会生活上の必要を満たし、地域の現状を歴史として後世に伝えること」としている(それぞれ本書冒頭の「編纂のことば」より引用)。.

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諫早市

2005年3月の合併直前の諫早市域 諫早市(いさはやし)は、長崎県の中央部にある市。長崎市、佐世保市に次ぎ長崎県で第3位、九州では第12位の人口を有する都市である。.

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高来郡

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高木正善

木 正善(たかぎ まさよし、嘉永6年(1853年)9月 - 大正9年(1920年)1月27日)は、河内丹南藩の第13代(最後)の藩主、明治維新後は子爵。.

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高木正豊

高木 正豊(たかぎ まさとよ、寛文2年(1662年) - 延宝9年5月20日(1681年7月5日))は、河内丹南藩の第5代藩主。 第4代藩主・高木正盛の長男。母は板倉重矩の娘。官位は従五位下。肥前守。 1670年、父の死去により跡を継ぐ。 1681年5月20日、嗣子無くして20歳で死去し、跡を弟の正陳が継いだ。墓所は東京都杉並区永福の栖岸院。 まさとよ *05 Category:1662年生 Category:1681年没.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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鳥栖市

鳥栖ジャンクションの位置 鳥栖市(とすし)は、佐賀県の東端に位置する市である。.

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鶴牧藩

牧藩(つるまきはん)は、上総国(現在の千葉県市原市椎津)に存在した藩。.

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鹿島市

鹿島市(かしまし)は、佐賀県の南部にある市である。旧藤津郡。.

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黒田宣政

黒田 宣政(くろだ のぶまさ)は、筑前福岡藩の第5代藩主。 貞享2年(1685年)、福岡藩第4代藩主・黒田綱政の次男として、江戸桜田の藩邸にて生まれた。初名は政則(まさのり)。兄の黒田吉之が早世したため、福岡藩嫡子となり、正徳元年(1711年)の父の死去により後を継いだ。藩主就任時に将軍徳川家宣より偏諱を受けて宣政と名乗った。 しかし生来から病弱で政務を執れず、また嗣子にも恵まれなかったため、叔父で支藩の直方藩主・黒田長清の子で、従弟にあたる黒田継高を養嗣子として迎え、享保4年(1719年)11月に隠居して家督を継高に譲った。病弱のため、領地筑前国に入ることが中々できず、藩政は代理で叔父の長清が行っている。宣政時代の黒田家の文書類はほぼ焼失、散逸しており従姉妹の酒井河内守(酒井忠挙)娘、市子(松壽院)との交換書状が唯一残る。 延享元年(1744年)、江戸桜田藩邸にて死去。享年60。.

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黒田綱政

黒田 綱政(くろだ つなまさ)は、江戸時代中期の大名。筑前国東蓮寺藩3代藩主、筑前福岡藩4代藩主。.

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龍造寺氏

龍造寺氏(りゅうぞうじし)は、日本の氏族。戦国時代に肥前国の東部の国人から、九州の北西部を支配する戦国大名に成長した一族である。.

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龍造寺政家

龍造寺 政家(りゅうぞうじ まさいえ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。肥前国の戦国大名。戦国大名としての龍造寺氏最後の当主。.

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與止日女神社

與止日女神社(よどひめじんじゃ、与止日女神社)は、佐賀県佐賀市にある神社。式内社、肥前国一宮で、旧社格は県社。 「淀姫神社」とも書き、別称として「河上神社」、通称として「淀姫さん」とも呼ばれている。.

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藤原福当麻呂

藤原 福当麻呂(ふじわら の ふたきまろ/ふたぎまろ)は、平安時代初期の貴族。藤原北家、右大臣・藤原内麻呂の五男。官位は従五位下・肥前守。.

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藤津郡

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那須光資

那須 光資(なす みつすけ)は、鎌倉時代の武士・御家人。那須氏5代当主。 4代当主・那須頼資の子として誕生。 建久4年(1193年)、源頼朝から下野国内に領地を拝領し、さらに那須において巻狩を催した際、接待役を務め、鎌倉幕府御家人としての那須氏の地位向上に努めた。正治元年(1199年)には領内に天性寺を創建している。 なお、建久4年に催された那須巻狩の際に、那須与一が梶原景時と諍いをおこし、出家遁世したという説があるが、『吾妻鏡』のその前後の時期の記述には「那須太郎光助」しか登場しない。.

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那須頼資

那須 頼資(なす よりすけ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。那須氏4代当主。 宇都宮朝綱の子で那須氏3代当主・那須資之の養子とされるが、初代当主・那須資隆と朝綱の娘との庶子(那須小太郎宗高)とする説もある。実名については、寺山観音寺所蔵の「那須継図次第」等では資頼(すけより)、『玉燭宝典』紙背文書所収の那須系図等では頼資としているが、いずれの名乗りを見ても、烏帽子親である源頼朝から偏諱(「頼」の一字)を与えられたということが窺える(資頼を初名、頼資をその改名後の諱とする説もある)。 建久4年(1193年)、頼朝が那須へ巻狩に出かけた際には既に当主は子・光資となっていたと伝わっていることから、系図通りの順「(資隆(太郎)→資隆(与一)→資之→頼資」に継承があったと仮定するならば当主として活動した時期は短期間であったと推測される。 子・資長は、後の那須七騎・伊王野氏の祖であり、その他の子も荏原氏や河田氏などの支族を興している。なお、娘の一人は小栗頼重(常陸小栗氏)に嫁いだが、その際に同行した侍女と小栗一族の男との間に生まれた子の末裔が後の那須七騎・大関氏となったという。.

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那須資村

那須 資村(なす すけむら)は、鎌倉時代の武士。那須氏6代当主。 5代当主・那須光資の子として誕生。 念仏宗に帰依し、親鸞上人の弟子となり信願房教念と号し、貞応2年(1223年)に慈願寺を創設した。78歳の長寿を保ったという。 ただし、近年の異説として那須氏の家督は光資の後はその弟・伊王野資長及びその系統が継承したために資村は家督を継ぐことが出来ず、資家の代になって北条得宗家との関係から家督を回復したとする説もある。.

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肥後国

肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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肥前国庁跡

肥前国庁跡(ひぜんこくちょうあと)は、佐賀県佐賀市大和町大字久池井に所在する、律令制下における地方行政機関の中心施設跡である。1989年(平成元年)9月22日、国の史跡に指定される。.

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肥前国分寺跡

肥前国分寺跡(ひぜんこくぶんじあと)は、佐賀県佐賀市にある寺院跡。現在は佐賀市の史跡に指定されている。 奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、肥前国国分寺の寺院跡にあたる。本項では肥前国分尼寺跡についても解説する。.

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肥前国風土記

『肥前国風土記』(ひぜんのくにふどき)は、奈良時代初期に編纂された肥前国(現在の佐賀県・長崎県)の風土記である。現存する5つの風土記のうちの1つ。.

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肥前有馬氏

肥前有馬氏(ひぜんありまし)は、日本の氏族。通字は「純」または「澄」で、いずれも「すみ」または「ずみ」と読む。.

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長崎

長崎(ながさき).

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長崎奉行

長崎奉行(ながさきぶぎょう)は江戸幕府の遠国奉行の一つ。遠国奉行首座。.

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長崎市

佐山から望む長崎市街地。長崎市の夜景は世界新三大夜景・日本三大夜景にも数えられている。 長崎市(ながさきし)は、九州の北西部に位置する都市で、長崎県の県庁所在地である。国から中核市に指定されている。 古くから、外国への玄関口として発展してきた港湾都市である。江戸時代は国内唯一の貿易港出島を持ち、ヨーロッパ(主にオランダ)から多くの文化が入ってきた。外国からの文化流入の影響や、坂の多い街並みなどから、日本国内の他都市とは違った景観を保持している。 人口は長崎県で最大である。市域面積の13.1%である市街地に人口の約78%が住み、市街地の人口密度は7,900人/km2となっている。人口密度が高いため山間部にも建物が密集する。.

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長崎府

長崎府(ながさきふ)は江戸時代に設置された長崎奉行所に代わり、1868年(明治元年)に明治政府によって長崎に設置された行政機関。1年あまりで長崎県となった。.

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長崎県

長崎県(ながさきけん)は、日本の九州地方北西端に位置する県である。県庁所在地は長崎市。 五島列島、壱岐島、対馬など、数多くの島嶼を含み、47都道府県中最も島が多いことで知られる。また、多島であるうえにリアス式海岸を多く擁することから、海岸線の長さは47都道府県中第2位もしくは第1位である(※「地形」節にて詳説)。.

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長崎貿易

江戸に向かうオランダ人たちの行列を描いたイラスト(17世紀) 江戸に向かうオランダ人たちの行列を描いた浮世絵(19世紀) 長崎貿易(ながさきぼうえき)は、日本の安土桃山時代から江戸時代に長崎において行われた貿易である。.

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雲仙市

雲仙市(うんぜんし)は、長崎県島原半島西部に位置する市。.

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東彼杵郡

長崎県東彼杵郡の位置(1.東彼杵町 2.川棚町 3.波佐見町) 東彼杵郡(ひがしそのぎぐん)は、長崎県の郡。 長崎県内では所在・管轄する地域を示す郡名の略称として東彼(とうひ)とも呼ばれる。 以下の3町を含む。.

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東福寺

京都名所之内 通天橋紅楓(歌川広重) 通天橋 東福寺(とうふくじ)は、京都市東山区本町十五丁目にある臨済宗東福寺派大本山の寺院。山号を慧日山(えにちさん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は、九条道家、開山(初代住職)は円爾である。京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄えた。明治の廃仏毀釈で規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭(山内寺院)を有する大寺院である。.

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東松浦郡

佐賀県東松浦郡の位置(緑:玄海町) 東松浦郡(ひがしまつうらぐん)は、佐賀県の郡。 以下の1町を含む。.

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松浦市

松浦市(まつうらし)は、長崎県北部、北松浦半島に位置する市。離島部も市域に含む。松浦党発祥の地として知られる。.

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松浦久信 (平戸藩主)

松浦 久信(まつら ひさのぶ、元亀2年(1571年) - 慶長7年8月29日(1602年10月14日))は、安土桃山時代の武将。平戸松浦氏第27代当主。肥前平戸藩第2代藩主。.

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松浦篤信

松浦 篤信(まつら あつのぶ、1684年8月26日〈貞享元年7月16日〉 - 1757年1月22日〈宝暦6年12月3日〉)は、肥前平戸藩の第6代藩主。.

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松浦熈

松浦 熈(まつら ひろむ、寛政3年4月11日(1791年5月13日) - 慶応3年6月27日(1867年7月28日))は、肥前国平戸藩の第10代藩主。 第9代藩主・松浦清の三男。母は側室・鎌奥氏(実は外山光時の娘)。正室は久松松平定信の娘。子に松浦曜(長男)、松浦啓(次男)、松浦秋(三男)、熊沢正観(四男)、松浦欽明(五男)、娘(日野資宗室)、富子(中山忠光室)。官位は従五位下、肥前守。幼名は三穂松。 平戸において生まれる。寛政7年(1795年)、江戸に移る。同年、父・清の嫡子となる。長兄・章の廃嫡、次兄・武の死去にともなう措置であった。なお、年齢の上積みをはかり(官年参照)、幕府には8歳と届け出た。 享和3年(1803年)6月1日、将軍徳川家斉に御目見する。同年12月16日、従五位下肥前守に叙任する。天保5年(1834年)3月、若年寄・永井尚佐の官名と重なるため、幕府に肥前守の改名伺いを提出した。同年8月、改名は必要ないとの返答を受けた。 文化3年(1806年)11月、父清の隠居により家督を相続する。文化5年(1808年)、松平定信の娘と結婚した。天保12年(1841年)閏1月、隠居して長男の曜に家督を譲った。父・清の意向により平戸で隠居し、曜とその跡を継いだ詮(三男・秋の子)の後見にあたった。慶応3年(1867年)、77歳で死去した。法号は龍瑞院殿前肥州大守乾乾観中大居士。.

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松浦隆信 (平戸藩主)

松浦 隆信(まつら たかのぶ、天正19年11月29日(1592年1月13日) - 寛永14年5月24日(1637年7月16日))は、江戸時代前期の大名。平戸の松浦氏第28代当主。肥前平戸藩第3代藩主。曾祖父の道可と同名を名乗った。 第2代藩主松浦久信の長男。母はキリシタン大名大村純忠の娘ソニカ(松東院)。正室は大胡藩主牧野康成の娘、継室は大村喜前の娘。官途は従五位下、肥前守、壱岐守。.

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松浦鎮信

松浦 鎮信(まつら しげのぶ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名。平戸の松浦氏第26代当主。肥前国平戸藩初代藩主。 戦国大名大友義鎮(宗麟)より偏諱を与えられ鎮信を名乗る。晩年、山城上醍醐行樹院にて出家し、法号は宗信、後に無外庵宗静と称した。出家後は法眼に叙されて法印に昇り、式部卿に任ぜられたため式部卿法印、平戸法印とも呼ばれた。なお、曾孫にあたる第4代平戸藩主も、隠居後に重信から同じ字の鎮信に改名しており、改名後の表記で主に知られる。.

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松浦詮

松浦 詮(まつら あきら、天保11年10月18日(1840年11月11日) - 明治41年(1908年)4月13日)は、肥前国平戸藩第12代(最後の)藩主。松浦家第37代当主、茶人。書家。麝香間祗候、伯爵。 松浦秋(第10代藩主・松浦熈の三男。母は政野氏)の長男。正室は松浦晧の娘、継室は青山幸哉の娘。子は松浦厚(長男、伯爵家を継ぐ)、松浦靖(次男、分家の子爵家を継ぐ)、稲葉正縄(三男)、佐竹義準(四男)、大隈信常(五男、侯爵)、本多正復(六男、子爵)、松浦廉(七男)、井上勝純(八男、子爵)、長女・宣子(前田利嗣夫人)、次女・逸子(松平頼温夫人)、三女・都子(伊達宗基夫人)、正子(松井康義夫人)、冏子(伊達武四郎夫人)。官位は従五位下、肥前守。.

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松浦郡

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松浦重信

松浦 重信(まつら しげのぶ、元和8年3月13日(1622年4月23日) - 元禄16年10月6日(1703年11月14日))は、江戸時代前期の大名。肥前平戸藩の第4代藩主。平戸松浦氏第29代当主。隠居の後に諱を曾祖父と同じ鎮信(しげのぶ)へと改めており、その漢字表記でよく知られている。 第3代藩主・松浦隆信の長男。母は牧野康成の娘・充。正室は明石藩主松平忠国の娘。幼名は千代鶴、通称が源三郎。官位は従五位下、肥前守。 宋の文人文天祥を尊敬して天祥庵を結び、天祥と号する。後年、退静爺や、徳祐とも称した。法名は圓惠(円恵)。.

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松浦氏

松浦氏(まつらし)は、日本の氏族の一つ。.

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杵島郡

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根岸鎮衛

根岸 鎮衛(ねぎし しずもり / やすもり)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本。勘定奉行、南町奉行を歴任した。.

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武藤資頼

武藤 資頼(むとう すけより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人・守護。.

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武雄市

武雄市(たけおし)は、佐賀県の西部に位置する市。中心には開湯以来1300年経つ武雄温泉があり、この温泉には日本銀行や東京駅の設計を行った辰野金吾設計の楼門があり、国の重要文化財に指定されている。.

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水野忠位

水野 忠位(みずの ただたか)は、江戸時代前期から中期の旗本、大名。忠位系水野家初代。.

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水野忠順

水野 忠順(みずの ただより、文政7年9月17日(1824年11月7日) - 明治17年(1884年)12月9日)は|江戸時代後期(幕末)の上総鶴牧藩の第3代(最後)の藩主。忠位系水野家6代。従五位下、山城守、壱岐守、周防守、肥前守、子爵。正室は前田利之の三女・建子。養子に水野忠義、水野忠宝。.

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水野忠見

水野 忠見(みずの ただちか、享保15年(1730年)- 安永4年8月19日(1775年9月13日))は、安房北条藩の第2代藩主。忠位系水野家3代。 初代藩主・水野忠定の次男。母は水野忠位の娘。正室は板倉勝清の娘。子に水野忠韶(長男)、杉浦正僖(次男)、水野忠晋(三男)、溝口直静(四男)、娘(加藤明陳正室)、娘(内田正純正室)、娘(小浜寿隆正室)。官位は従五位下、肥前守、壱岐守。 幼名は吉次郎。寛保3年(1743年)、兄・忠寛の早世により世子となる。延享元年(1744年)12月、従五位下肥前守に叙任される。延享5年(1748年)、父の死去により跡を継いだ。寛延2年(1749年)8月に大番頭となり、宝暦7年(1757年)3月に奏者番、同年11月に壱岐守に任官される。宝暦8年(1758年)9月には西の丸若年寄となった。安永4年(1775年)8月19日、46歳で死去した。 はじめ兄・忠寛の長男・忠廉を嫡子としていたが家督相続前に早世したため、跡は長男の忠韶が継いだ。法号は本誉常自寂湛法従院。墓所は東京都文京区小石川の伝通院。 Category:江戸幕府若年寄 水02 たたちか Category:1730年生 Category:1775年没.

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永井尚佐

永井 尚佐(ながい なおすけ、1783年(天明3年)- 1839年6月28日(天保10年5月18日))は、美濃加納藩の第4代藩主。尚庸系永井家7代。.

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永井尚典

永井 尚典(ながい なおのり)は、美濃加納藩の第5代藩主。尚庸系永井家8代。 文化7年(1810年)8月25日、第4代藩主永井尚佐の三男として生まれる。幼名は銑之助。長兄陽之助、次兄大学の早世により、嫡子となる。文政10年(1827年)12月16日、従五位下伊豆守に叙任する。後に山城守、肥前守に改める。天保10年(1839年)7月10日、父の死去により家督を継いだ。 各門番や麻布山のアメリカ合衆国公使館警固などを務めたのち、文久元年(1861年)8月22日、奏者番に任ぜられる。文久2年(1862年)閏8月23日、免職となる。同年10月2日に隠居し、3人の男子はいずれも早世していたため、家督は養子の尚服に譲った。隠居後は松涛と号した。 明治18年(1885年)正月7日(異説として5月7日)に死去した。 なおのり Category:加納藩主 Category:幕末の大名 Category:1810年生 Category:1885年没.

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永井尚服

永井 尚服(ながい なおこと、1834年1月16日(天保4年12月7日) - 1885年(明治18年)6月11日)は、美濃加納藩の第6代(最後)の藩主。尚庸系永井家9代。.

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河尻秀隆

河尻 秀隆(かわじり ひでたか)は、戦国時代の武将。織田氏の家臣。黒母衣衆筆頭で、のちに織田信忠の補佐役及び、美濃岩村城主や甲斐府中城(甲府城)城主も務めた。秀隆および河尻氏に関係する文書は少なく、事跡の多くは『信長公記』や『甲陽軍鑑』、徳川氏関係の記録に記されている。.

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河尻秀長

河尻 秀長(かわじり ひでなが、生年不詳 - 慶長5年(1600年))は、安土桃山時代の武将・大名。苗木城城主。河尻秀隆の子。通称は、与四郎。名は直次、宗久とも。肥前守。.

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沖田畷の戦い

沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)は、日本の戦国時代の天正12年3月24日(1584年5月4日)に肥前島原半島(長崎県)で勃発した戦い。九州の戦国大名である龍造寺隆信と有馬晴信・島津家久の合戦である。「畷」とは湿地帯の中に延びた小道の意味である。.

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波多親

波多 親(はた ちかし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。肥前国鬼子岳城(岸岳城)主。波多氏17代当主。元服後の初名は鎮(しげし)。.

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波多氏

波多(はた)氏は、平安時代末期から戦国時代末期まで肥前松浦地方で活躍した上松浦党の最大の一族。 嵯峨源氏の流れをくむ渡辺党松浦氏の一統(松浦党)で、渡辺綱の曽孫にあたる松浦久の二男の松浦持が波多の地に移り康和四年(1102年)から波多持と波多姓を名乗り、岸岳城を本拠として発展した。ただし、佐志氏の一派から波多姓の人物が分かれた形跡も存在し、その実際の系譜は不明瞭なものとなっている。 一時は壱岐に進出し壱岐守護を称するなど全盛期を迎えたが、戦国時代には、波多盛(はた さこう)の死後にお家騒動が勃発し、有馬氏や龍造寺氏、そして同じ松浦党の一派下松浦党である平戸氏(平戸松浦氏)の干渉にあい、それに従属するようになる。 波多親(肥前松浦8万石)は有馬氏からの養子であったが、有馬氏が衰退すると龍造寺隆信へ従属し、その勢力を保持した。龍造寺隆信が戦死すると薩摩より九州一円を制覇しつつあった島津氏寄りとなる。そのため、豊臣秀吉が兵を九州に送った際も(九州平定)、秀吉への臣従の姿勢をはっきりとせず改易されかかったが、その時は鍋島直茂のとりなしにより許された。しかし、朝鮮出兵の時、鍋島直茂に従うよう命ぜられたが、それに反発、出陣後に独自行動をとったため、文禄2年(1593年)に秀吉から知行を没収され、武士・大名としての波多氏は滅亡した(滅亡理由については異説もある)。.

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深溝松平家

深溝松平家(ふこうず(ふこうぞ)まつだいらけ)は、松平忠定を祖とする松平氏の分枝。十八松平の一つ。先祖を松平信光まで遡ると徳川家康と共通の祖となる家である。.

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渋川尹繁

渋川 尹繁(しぶかわ ただしげ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将・九州探題。.

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渋川義俊

渋川 義俊(しぶかわ よしとし)は、室町時代中期の武将・守護大名、九州探題。.

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渋川満直

渋川 満直(しぶかわ みつなお)は、室町時代前期から中期にかけての武将・九州探題。.

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渋川満頼

渋川 満頼(しぶかわ みつより)は、室町時代前期から中期にかけての武将・守護大名、九州探題。.

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渋川教直

渋川 教直(しぶかわ のりなお)は、室町時代中期から後期にかけての武将・九州探題。.

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持統天皇

持統天皇(じとうてんのう、大化元年(645年) - 大宝2年12月22日(703年1月13日))は、天武天皇の皇后で、日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(称制:朱鳥元年9月9日(686年10月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日) - 持統天皇11年8月1日(697年8月22日))。諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年(703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』の養老4年(720年)に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある(なお『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは冒頭の第4の一書とこの箇所のみである)。漢風諡号、持統天皇は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から持統と名付けられたという。.

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本多忠辰

本多 忠辰(ほんだ ただとき、正徳元年(1711年) - 寛延3年11月24日(1750年12月22日))は、播磨山崎藩の第3代藩主。政信系本多家4代。 初代藩主・本多忠英の三男。母は側室・小池三平の娘。正室は松平乗賢の娘。子に本多忠堯(長男)、娘(本多忠可正室)、娘(増山正武養女)。官位は従五位下、肥後守、肥前守。幼名は八十郎。 享保16年(1731年)、先代藩主で兄の忠方が早世したため、その跡を継いだ。藩政においては兄の代から続く享保の大飢饉による農村荒廃による救済費、さらには正室が将軍徳川吉宗の側用人を務める松平乗賢の娘である上、兄の本多忠良までもが老中になったことから、その関係で出費が著しく増大して、藩財政が破綻寸前となった。このため、御用商人から莫大な献金を取り立てている。 寛延3年(1750年)11月24日、40歳で死去し、跡を長男・忠堯が継いだ。法号は諦原院殿前肥州宰吏融誉円厳利道大居士。墓所は東京都江東区三好の霊光院。 category:譜代大名 Category:山崎藩主 たたとき Category:1711年生 Category:1750年没.

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本多忠鄰

本多 忠鄰(ほんだ ただちか、文化8年(1811年) - 明治7年(1874年)1月12日)は、播磨山崎藩の第8代藩主。政信系本多家9代。 第6代藩主・本多忠居の四男。母は堀直教の養女(堀直泰の娘)。養母は本多忠顕の娘。正室は五島盛繁の娘・昌子(五島盛成の養女)。側室多数。子は本多忠明(次男)、有馬道純(三男)、本多忠肇(四男)、植村家壷(六男)、本多忠禎(八男)。官位は従五位下、肥前守、大和守、肥後守。幼名は貞之助。 文化9年(1812年)生まれとも言われている。天保5年(1834年)11月27日、先代藩主で兄の忠敬が病弱だったために隠居した後、その跡を継いだ。藩財政再建を目指して、家臣の片桐内蔵治を家老に登用して倹約、経費節減、金融改革などを行なっている。幕末においては大砲の鋳造や海防に尽力し、第一次長州征伐では参加して功を挙げた。しかし第二次長州征伐では軍費不足で出陣できなかった。 また、学問に興味を示して天保年間に堀内次右衛門や大爺円治らを登用して学問奨励を行ない、藩校である思斉館を創設した。これは現在の宍粟市立山崎小学校の基礎になったと言われている。 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、はじめ幕府側に与しようとしたが、後に思い直して新政府側についた。長男の寅次郎は早世していたため、次男の忠明を世子として、明治2年(1869年)正月晦日に家督を譲って隠居した。明治7年(1874年)正月12日に死去した。享年63。法号は大誠院殿前肥州宰吏徳護念徹実道大居士。墓所は兵庫県宍粟市山崎町上寺の大雲寺。 Category:山崎藩主 category:譜代大名 Category:幕末の大名 たたちか Category:1812年生 Category:1874年没.

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本多忠英

本多 忠英(ほんだ ただひで)は、大和郡山新田藩第2代藩主、のち播磨山崎藩初代藩主。政信系本多家2代。大和郡山藩主本多政勝の三男。初名は政貞。.

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本多忠明

本多 忠明(ほんだ ただあき、天保4年4月23日(1833年6月10日) - 明治34年(1901年)12月17日)は、播磨国山崎藩の第9代(最後)の藩主。政信系本多家10代。.

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有馬晴信

有馬 晴信(ありま はるのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての大名で、肥前日野江藩初代藩主。有馬義貞の次男。キリシタン大名で、大村純忠は叔父に当たる。 大友義鎮(宗麟)からは偏諱を賜って初めは鎮純(しげずみ)、鎮貴(しげたか)を名乗っていた。 なお正純、正俊と名乗った一時期があったするが、史料的に裏付けるものはない。名乗りが確認されるだけでも四つ、正純や正俊も含めるとそれ以上の数になり、これはその地位の不安定さによるものとされている。のちに島津義久からの偏諱で久賢(ひさまさ)、そして足利義晴から偏諱を受けた祖父の有馬晴純から一字取って晴信に改名。.

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成就院

成就院(じょうじゅいん).

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戸田氏

戸田氏(とだし)は、日本の氏族、また名字の一つ。発祥を異にする複数の系統が存在する(次項を参照)。もと、三河国渥美郡に根拠地をもった戸田氏からは、徳川氏に属して多くの近世大名・旗本、大藩重臣を輩出した。 三つ葉葵(松本藩) 六星(松本藩)他 九曜(大垣藩).

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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昭和

昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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旧高旧領取調帳

旧高旧領取調帳(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)とは、明治時代初期に政府が各府県に作成させた、江戸時代における日本全国の村落の実情を把握するための台帳である。.

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播磨国

播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.

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慶応

慶応(けいおう、旧字体: 慶應)は日本の元号の一つ。元治の後、明治の前。1865年から1868年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。日本での「一世一元の詔」発布以前では最後の元号。.

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11月14日 (旧暦)

旧暦11月14日は旧暦11月の14日目である。六曜は赤口である。.

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12月25日

12月25日(じゅうにがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から359日目(閏年では360日目)にあたり、年末まであと6日ある。この日はクリスマスである。.

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1530年

記載なし。

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1570年

記載なし。

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1584年

記載なし。

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1637年

記載なし。

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1638年

記載なし。

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1868年

記載なし。

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1869年

記載なし。

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1870年

記載なし。

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1871年

記載なし。

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1872年

記載なし。

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1876年

記載なし。

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1883年

記載なし。

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1896年

記載なし。

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1975年

記載なし。

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1984年

この項目では、国際的な視点に基づいた1984年について記載する。.

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2月24日

2月24日(にがつにじゅうよっか、にがつにじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から55日目にあたり、年末まであと310日(閏年では311日)ある。グレゴリオ暦では、閏年の場合に限り、閏日とも呼ばれる。詳細は閏日の項を参照。.

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2月2日 (旧暦)

旧暦2月2日(きゅうれきにがつふつか)は旧暦2月の2日目である。六曜は先負である。.

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4月18日

4月18日(しがつじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から108日目(閏年では109日目)にあたり、年末まではあと257日ある。誕生花はアカツメクサ、ワスレナグサ。.

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5月24日

5月24日(ごがつにじゅうよっか、ごがつにじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から144日目(閏年では145日目)にあたり、年末まではあと221日ある。誕生花はムギワラギク。.

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5月29日 (旧暦)

旧暦5月29日は旧暦5月の29日目である。年によっては5月の最終日となる。六曜は先負である。.

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5月4日 (旧暦)

旧暦5月4日(きゅうれきごがつよっか)は、旧暦5月の4日目である。六曜は友引である。.

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5月9日

5月9日(ごがつここのか)はグレゴリオ暦で年始から129日目(閏年では130日目)にあたり、年末まではあと236日ある。誕生花はクレマチス。.

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696年

記載なし。

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6月20日 (旧暦)

旧暦6月20日は旧暦6月の20日目である。六曜は先勝である。.

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6月21日

6月21日(ろくがつにじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から172日目(閏年では173日目)にあたり、年末まであと193日ある。誕生花はツキミソウ、マツヨイグサ、サツキ、ウマゴヤシなどがある。.

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6月23日

6月23日(ろくがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から174日目(閏年では175日目)にあたり、年末まであと191日ある。誕生花はササユリ、ムラサキツユクサ。.

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750年

記載なし。

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754年

記載なし。

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7月14日 (旧暦)

旧暦7月14日(きゅうれきしちがつじゅうよっか)は、旧暦7月の14日目である。六曜は友引である。.

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7月28日

7月28日(しちがつにじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から209日目(閏年では210日目)にあたり、年末まであと156日ある。誕生花はオシロイバナ、グロリオーサ。.

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7月4日

7月4日(しちがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から185日目(閏年では186日目)にあたり、年末まではあと180日ある。誕生花はネジバナ、ハナギボシ。.

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893年

記載なし。

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8月21日

8月21日(はちがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から233日目(閏年では234日目)にあたり、年末まであと132日ある。.

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8月29日

8月29日(はちがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から241日目(閏年では242日目)にあたり、年末まであと124日ある。.

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8月7日 (旧暦)

旧暦8月7日(きゅうれきはちがつなのか)は、旧暦8月の7日目である。六曜は友引である。.

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9月12日

9月12日(くがつじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から255日目(閏年では256日目)にあたり、年末まであと110日ある。.

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