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北条氏

索引 北条氏

北条氏(ほうじょうし、)は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。戦国大名後北条氏との混同を避けるため、代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏もしくは鎌倉北条氏と呼ばれることもある。通字は時(とき)。.

295 関係: 執権千葉氏千葉時胤南朝 (日本)古河公方名 (単位)名田吾妻鏡吉川弘文館大友親時大和国大神氏大神氏 (豊後国)太平記嫡男嫡流宝治合戦室町幕府室町時代宮将軍家老守護守邦親王宗家宗尊親王安達時顕尊卑分脈小山氏小笠原貞宗小田氏尾張国尾張藩山川出版社上野国上杉重房上横手雅敬中公文庫中先代の乱中条世襲三島三嶋大社三浦氏平禅門の乱平維衡平直方平頼綱平高望平賀氏平賀朝雅...平野長泰幼名交代寄合京都京極氏庶子二階堂氏仮名 (通称)建武 (日本)建武の新政建治三年記伊予国伊勢平氏伊勢氏伊豆の国市伊豆国伊豆国造弁才天佐々木氏佐藤和彦征夷大将軍御家人御内人御成敗式目後北条氏後鳥羽天皇後醍醐天皇得宗得宗専制律令制信濃国修善寺俳句俳優北条基時北条定宗北条実泰北条実時北条宣時北条守時北条宗宣北条宗頼北条宗方北条宗政北条宗時北条師頼北条師時北条久時北条仲時北条忠時北条公義北条兼時北条維貞北条義宗北条義政北条義時北条経時北条為時北条為時 (政村流)北条煕時北条顕時北条高直北条高時北条貞将北条貞国北条貞顕北条貞規北条貞時北条茂時北条邦時北条重時北条長時北条業時北条氏 (名越流)北条氏 (塩田流)北条氏 (大仏流)北条氏 (宗政流)北条氏 (伊具流)北条氏 (佐介流)北条氏 (阿蘇流)北条氏 (赤橋流)北条氏 (金沢流)北条氏 (極楽寺流)北条氏 (政村流)北条氏 (普恩寺流)北条氏綱北条氏邸・円成寺跡北条治時北条泰家北条泰時北条朝直北条朝時北条有時北条早雲北条政子北条政範北条政村北条時定北条時定 (北条時政の甥)北条時定 (時氏流)北条時実北条時宗北条時兼北条時光北条時継北条時盛北条時頼北条時行北条時輔北条時茂北条時茂 (宗政流)北条時村北条時村 (政村流)北条時氏北条時朝北条時房北条時政和田合戦内管領公家六角氏六角時信六波羅探題六波羅殿御家訓元 (王朝)元寇元弘元弘の乱元服石井進 (歴史学者)石橋山の戦い福井藩秩父氏細川重男烏帽子親結城時広田中大喜田方郡男爵熊本藩狩野川相模国鎮西探題鎌倉鎌倉幕府鎌倉公方鎌倉郡鎌倉時代静岡県養珠院殿西園寺公宗西国観応の擾乱評定衆高倉健高澤等講談社護良親王豪族越前国越前松平家足利基氏足利家時足利尊氏足利将軍家足利義詮足利義氏 (足利家3代目当主)足利直義足利頼氏足利高義足利貞氏足利氏足利泰氏赤目城赤橋登子関幸彦関東門葉藤原頼嗣藤原頼経肥後国金沢文庫長崎円喜長井氏長井時秀長門探題連署東勝寺合戦桜田時厳横井小楠横井也有樋口州男正中の変正慶武士団武家武田信時武田時綱武蔵国比企能員の変毛利時親氏族永井晋江の島江戸時代河越氏津軽地方淵辺義博清和源氏源実朝源平闘諍録源頼家源頼朝源氏嫡流惟康親王戎光祥出版戦国大名戦国時代 (日本)明治海西郡 (愛知県)斯波氏新人物往来社新田義貞文治日向国日下部氏摂家将軍愛西市承久の乱思文閣出版1189年1333年1335年1958年1974年1979年2000年2003年2004年2009年2011年2012年2013年 インデックスを展開 (245 もっと) »

執権

執権(しっけん)は、鎌倉幕府の職名。鎌倉殿を助け政務を統轄した。元来は、政所の別当の中心となるものの呼称であった。 ただし、朝廷においても用いられた語であり、鎌倉幕府独自の職名ではないことに注意を要する。.

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千葉氏

千葉氏(ちばし、ちばうじ)は、坂東八平氏・関東八屋形の一つに数えられる下総の豪族で、守護大名・戦国大名となった一族である。桓武平氏良文流。通字は「胤」。.

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千葉時胤

千葉 時胤(ちば ときたね)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府御家人。千葉氏第7代当主。『千葉大系図』によれば、千葉成胤の三男とされてきたが、近年になって千葉胤綱(成胤長男)の長男とする見方が有力視されている。.

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南朝 (日本)

南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。.

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古河公方

古河公方(こがくぼう)は、室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となった。(享徳の乱) その後も政氏・高基・晴氏・義氏へと約130年間引き継がれる。御所は主に古河城。古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。.

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名 (単位)

名(みょう)は平安時代から中世の国衙領や荘園において徴税のために設けられた単位。 かつては、名に編まれた田地を名田と称し、「名=名田」という図式のもとに論じられてきたが、近年においては「名」の概念と「名田」の概念の間のずれの存在が指摘されるようになり、両者は区別して考えられるようになっている。.

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名田

名田(みょうでん)は、日本の平安時代中期から中世を通じて見られる、荘園公領制における支配・収取(徴税)の基礎単位である。名(みょう)とも呼ばれるが、名と名田を本来は別のものとする見方もある。.

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吾妻鏡

『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮の序文 『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。 編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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大友親時

大友 親時(おおとも ちかとき)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将・御家人。大友氏の4代当主。 元寇の際は一族と共に出陣し、活躍したと思われる。隠居した父から家督を譲られたが、父に先立って永仁3年(1295年)に死去し、後を弟(または子)の貞親が継いだ。 他の子、秀直や師親はそれぞれ入田氏や野津氏を興し、娘は島津貞久に嫁ぎ、師久、氏久を生んでいる。 Category:鎌倉幕府御家人 ちかとき Category:1236年生 Category:1295年没.

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大和国

大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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大神氏

大神氏(おおみわうじ)は、「大神」を氏の名とする氏族。 大神神社(奈良県桜井市三輪)をまつる大和国磯城地方(のちの大和国城上郡・城下郡。現在の奈良県磯城郡の大部分と天理市南部及び桜井市西北部などを含む一帯)の氏族。三輪氏あるいは大三輪氏とも表記する。氏の名は大和国城上郡大神郷の地名に由来する。古代氏族の研究⑦『三輪氏』(宝賀寿男著)より、三輪氏は姓(カバネ)は初め君だったが、天武天皇13年(684年)11月に朝臣姓を賜り、改賜姓五十二氏の筆頭となる。飛鳥時代の後半期の朝廷では、氏族として最高位にあったとする。また宝賀氏はこの書籍の冒頭で、三輪氏は元海人族の系譜であって、本願は北部九州の博多平野から、大和の三輪山麓への東遷により築かれた氏族であると記述している。.

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大神氏 (豊後国)

大神氏(おおがし)は、平安時代に豊後国に土着した武士の有力な氏族。大和国の大神氏(おおみわし)の傍流で豊後大神氏とも呼ばれる。 大野川及び大分川の流域の大野郡や直入郡を本拠地とし、豊後国の南部へ勢力を伸ばしたが、鎌倉幕府から大友氏が入国してきたことから、次第に衰退した。.

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太平記

『太平記』(たいへいき)は、日本の古典文学作品の1つである。歴史文学に分類され、日本の歴史文学の中では最長の作品とされる。 全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。 第二次世界大戦後、「太平記」を称する小説やテレビドラマが多く作られたため、混同を避けるために『古典太平記』と呼ばれることもある。.

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嫡男

嫡男(ちゃくなん)とは、嫡子(嫡嗣、ちゃくし)とも呼ばれ、一般に正室(正嫡)の生んだ男子のうち最も年長の子を指す。女子の場合は嫡女となる。長男と同一視されることもあるが、たとえ長男であっても側室の生んだ子である場合、正室の生んだ弟が嫡男となることもあることから、嫡男と長男は必ずしも同一ではない。特に嫡男ではない長男は庶長子、長庶子、庶子とも称される。嫡男の嫡男は嫡孫(ちゃくそん)と呼ばれる。また、代々嫡男の家系である血筋を嫡流という。また、内孫(うちまご)とも称される。 ただし、正室が生んだ男子全員を指す場合もある。日本における現行の皇室典範の「嫡男」の語はこの意である。更に明治以後の民法では、かつての正室に相当する妻が生んだ子供を女子を含めて嫡出子と呼称している。.

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嫡流

嫡流(ちゃくりゅう)とは、氏族の本家を継承する家筋・家系のことをいう。正嫡、正系、嫡系ともいう。対義語は庶流という。敬って「御嫡々の家系」という場合もある。嫡流の家を宗家、総本家、嫡家、大本家、本家という。  ちなみに、「直系」を嫡流の意味で用いるのは誤用で、直系とは正しくは親の親もしくは子の子といった関係の連鎖で結ばれる生物学的関係をいい、直系・傍系はあくまで純粋な生物学的血統上の語であり家筋・家系とは関係がない。例えば、ある人物から見たときその子孫はすべて直系卑属であるから、分家・庶流の子孫も直系であるし、また、傍系は相対的な系統上の関係をいうから、分家からみた本家は傍系である。詳しくは、 親族を参照。  あくまで当家の祭祀を継承する家系を意味するのであるから、長男が継承者となることが多いものの、必ずしも長男が継承するとは限らず、次男以下あるいは養子の子孫が嫡流となる場合もある点に注意。.

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宝治合戦

宝治合戦(ほうじかっせん)は、鎌倉時代中期に起こった鎌倉幕府の内乱。執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立から宝治元年(1247年)6月5日に鎌倉で武力衝突が起こり、北条氏と外戚安達氏らによって三浦一族とその与党が滅ぼされた。三浦氏の乱とも呼ばれる。この事件は、得宗専制政治が確立する契機として評価されている。また、この事件の推移、経過を記述する史料は、『吾妻鏡』しか現存しない。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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宮将軍

宮将軍(みやしょうぐん)は、鎌倉時代後期に征夷大将軍に任じられた宗尊親王・惟康親王・久明親王・守邦親王の4親王を指す歴史用語。現代では皇族将軍(こうぞくしょうぐん)、親王将軍(しんのうしょうぐん)とも呼ぶ。また彼らを総称して鎌倉宮家(かまくらのみやけ)と表現することもある。 なお、建武の新政期に後醍醐天皇より任じられた護良親王と成良親王も宮将軍と呼ぶことがある。しかし前者の4親王は鎌倉政権の形式上の長で実権を持たないのに対し、後者の2親王は建武政権において短期間ではありながら重要なその一翼を担った実務者だったことが根本的に異なる。.

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家老

家老(かろう)は、武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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守邦親王

守邦親王(もりくにしんのう)は、鎌倉幕府9代(最後の)征夷大将軍で、鎌倉幕府将軍の中で24年9カ月と在職期間が最長であった。8代将軍久明親王の子。.

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宗家

宗家(そうけ)は、ある一族、一門において正嫡(嫡流)の家系。またその家系の当主。本家。 日本ではこれから転じて、能楽などの伝統芸能や古武道などで家元の言いかえとして用いられる称号として用いられる。もとは能楽のシテ方観世流で観世銕之丞家に対して家元家を宗家と呼んだところからおこったものである。宗家位、宗家号とも。流派の経営、普及活動及び一門の統率、門下生の教育を旨とする。流派により宗家自ら師範となる場合、弟子に門下生の指導を委ねる場合とがある。.

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宗尊親王

宗尊親王(むねたかしんのう)は、鎌倉幕府6代将軍(在任:建長4年(1252年)4月 - 文永3年(1266年)6月、皇族で初めての征夷大将軍)。後嵯峨天皇の第一皇子。.

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安達時顕

安達 時顕(あだち ときあき)は、鎌倉時代末期の鎌倉幕府の有力御家人。秋田城介。安達氏の一族で、父は霜月騒動で討たれた安達宗顕(むねあき、顕盛の子)。.

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尊卑分脈

『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく、異体字で『尊卑分脉』とも)は、日本の初期の系図集。正式名称は『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(しんぺん さんず ほんちょう そんぴぶんみゃく けいふざつるい ようしゅう、旧字体:新編纂圖本朝尊卑分脈系譜雜類要集)、また『諸家大系図』(しょか だいけいず)あるいは単に『大系図』(だいけいず)とも呼ばれる。 姓氏調査の基本図書のひとつで、南北朝時代から室町時代初期に完成した。編者は洞院公定で、主に永和3年(1377年)から応永2年(1395年)にかけて編纂された。ただし、公定死後も養子満季、孫の実煕ら洞院家の人によって編集・改変・訂正・追加が行われた。室町時代以降、広く増補改訂されたため、異本が多く、30巻本・20巻本・14巻本が流布した。 成立当初は帝皇系図・神祇道系図・宿曜道系図を伴ったらしいが失われ、現存する部分は源平藤橘のうちいずれも長く宮廷社会の中枢にいた藤原・源の両氏に詳しい。直線で父系を結び、女性は后妃など極めて一握りの人を除き「女子」と省略されている。系図に名の見える男性官人には、実名とともに生母・官歴・没年月日と享年の注記を含む略伝が付され、貴重である。平安時代および鎌倉時代に関する記載は一級史料として採用される。 ただし当時の記録や公卿の日記に見える人物の名がなかったり、また逆に実在が疑わしい人物が記載されていたり、年代的におかしい部分もある(例えば平忠盛の娘が源義忠に嫁いだと書かれているが、これは忠盛の父平正盛の娘の誤り)等、一部信憑性に欠ける部分もあり、公定死後の部分や加筆された部分に関しては他の史料との整合性や比較批評が必要である。.

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小山氏

小山氏(おやまし)は、平安時代に武蔵国に本領を有し藤原秀郷の後裔と称した太田氏を出自とする地方豪族。1150年頃、政光がはじめて下野国小山に移住して小山氏を名乗った。政光は八田宗綱の娘(後に源頼朝の乳母である寒河尼)を妻とし、頼朝の信頼厚く鎌倉幕府において重用されることとなった。関東八屋形の一つ。.

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小笠原貞宗

小笠原 貞宗(おがさわら さだむね)は、鎌倉時代後期から室町時代前期の武将。信濃小笠原氏の当主。信濃守護。.

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小田氏

小田氏(おだし).

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尾張国

尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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尾張藩

尾張名古屋藩屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 名古屋城(1979年) 尾張藩(おわりはん)は、愛知県西部にあって尾張一国と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、明治の初めには「名古屋藩」とも呼ばれた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石。.

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山川出版社

山川出版社(やまかわしゅっぱんしゃ)は、高校教科書(地歴公民科)・参考書・歴史関係の一般書などを刊行する日本の出版社である。.

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上野国

上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 常陸国・上総国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上野介であった類聚三代格。.

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上杉重房

上杉 重房(うえすぎ しげふさ)は、鎌倉時代中期の公家(公家貴族)・武家(軍事貴族)。上杉氏の祖。.

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上横手雅敬

上横手 雅敬(うわよこて まさたか、1931年(昭和6年)3月7日 - )は、日本の歴史学者。京都大学名誉教授。専門は日本中世政治史、日本中世社会史。文学博士(京都大学、1971年)(学位論文「日本中世政治史研究」)。和歌山県出身。.

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中公文庫

中公文庫(ちゅうこうぶんこ)は、株式会社中央公論新社(読売新聞グループ)が発行している文庫レーベル。.

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中先代の乱

中先代の乱(なかせんだいのらん)は、1335年(建武2年)7月、北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児時行が、御内人の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから中先代の乱と呼ばれている。また、鎌倉支配が20日余りしか続かなかったことから、廿日先代(はつかせんだい)の異名もある。.

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中条

中条・中條(なかじょう、ちゅうじょう、なかすじ).

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世襲

世襲(せしゅう)とは、特定の地位(官位や爵位など)や職業、財産等を、子孫が代々承継することである。家に伝わる爵位を継承することを襲爵、位階・地位などを世襲することを襲位、先祖伝来の名跡などを世襲することを襲名という。法的な根拠を有する場合に限らず、事実上の場合についていうこともある。近代の政治家の世襲については、世襲政治家も参照のこと。.

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三島

三島(みしま、さんとう).

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三嶋大社

三嶋大社(みしまたいしゃ、三島大社)は、静岡県三島市大宮町にある神社。式内社(名神大社)、伊豆国一宮、伊豆国総社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。.

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三浦氏

三浦氏(みうらし)は、平安時代の相模国の武家。三浦党(みうらとう)とも呼ばれる。.

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平禅門の乱

平禅門の乱(へいぜんもんのらん)は、鎌倉時代後期の正応6年4月22日(1293年5月29日)に鎌倉で起こった政変。鎌倉幕府を支配する北条氏得宗家の内管領として絶大な権勢を振るった平頼綱が、主君である9代執権北条貞時によって滅ぼされた。.

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平維衡

平 維衡(たいら の これひら、生没年不詳)は、平安時代の武将。平貞盛の四男。子に正度、正済、正輔、正能らがある。官位は、従四位上、下野守、伊勢守、上野介、常陸介。伊勢国に地盤を築き、伊勢平氏の祖となった。.

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平直方

平 直方(たいら の なおかた、生没年未詳)は、平安時代中期の武将。桓武平氏の当主で、摂関家の家人として在京軍事貴族でもあった。平忠常の乱の際には、追討使として、討伐した人物である。 父は平維時。兄は平中方、子は維方、孫は平盛方(阿多美聖範)、時直。女婿は源頼義、藤原惟経、藤原憲輔など。.

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平頼綱

平 頼綱(たいら の よりつな)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家の御内人。鎌倉幕府8代執権北条時宗・9代執権北条貞時の執事で、貞時の乳母父。父は歴代執権の執事を務めた平盛時。 御内人の筆頭格として時宗の専制体制を補佐した。時宗死後に対立した有力御家人の安達泰盛を霜月騒動で滅ぼし、内管領として時宗の嫡子貞時を擁し幕府内外で絶大な権勢を振るうが、頼綱の恐怖政治に不安を抱いた貞時の命によって誅殺された(平禅門の乱)。.

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平高望

平 高望(たいら の たかもち / 高望王(たかもちおう)、生没年不詳没年月日は、延喜11年5月24日(911年6月28日)(『千葉大系図』)と、延喜11年(911年)5月4日(『平姓葛西系図』)、延喜12年(912年)9月24日(『盛岡葛西系図』)、延喜17年(917年)1月24日(『千馬系図』)とする資料がある。)は、平安時代中期の賜姓皇族。桓武天皇の孫(もしくは曾孫)にあたり、高望王流桓武平氏の祖。従五位下・正親正・上総介。.

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平賀氏

平賀氏(ひらがし)は、日本の氏族。.

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平賀朝雅

平賀 朝雅(ひらが ともまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての鎌倉幕府の御家人。新羅三郎義光流で源氏門葉として源頼朝に重用された平賀義信の次男。母は頼朝の乳母である比企尼の三女。.

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平野長泰

平野 長泰(ひらの ながやす)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・旗本。賤ヶ岳の七本槍の1人。.

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幼名

幼名(ようみょう/ようめい)は、幼少時の名前の事。おさな名・童名・小字とも言う。 主に平安時代~江戸時代にかけて、武士や貴族の子が幼児である期間につけられる名前で、だいたい元服して諱をつけるまでその名前でいる。江戸期では、多くの慈善活動をした豪商が、その活動を認められ、公での苗字帯刀を許された場合、その商人の子も幼名を持つ例がある。農民の名前も幼名と呼ばれるが、武士とは違って諱をつける事は無い。 現在でも幼少時に改名した場合は、以前の名前を幼名と呼ぶ。.

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交代寄合

交代寄合(こうたいよりあい)は、江戸幕府における旗本の家格の一つ。広義の寄合に含まれる。江戸定府の旗本寄合に対して参勤交代を行う寄合の意。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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京極氏

京極氏(きょうごくし)は、日本の武家の一つ。本姓は源氏。宇多源氏の流れを汲む近江源氏、佐々木氏の別家である。.

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庶子

庶子(しょし)は、正室ではない女性から生まれた子供を指す語。結婚(婚姻)制度の確立により生じた概念である。そのような制度が確立していない社会においては、母親の身分や両親の関係によって区別を受けた以外に嫡出庶出といった区別は意味を持たなかった。 結婚制度は、(1)相続権、親族関係の明確化といった世俗的な要求と、(2)性交渉に拘わるモラルの確立といった道徳的、宗教的な要求から生じて来たものであり、その枠外である庶子は、世俗的権利とモラルの両面において嫡子と差別をこうむることになる。 大小の差別を受けるにも拘わらず、庶子が存在したのは次のような理由が考えられる。.

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二階堂氏

二階堂氏(にかいどうし)は公家、武家の一氏族。特に陸奥国の岩瀬郡を支配し須賀川城を居城とした戦国大名が著名。.

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仮名 (通称)

仮名(けみょう)は、江戸時代以前に諱を呼称することを避けるため、便宜的に用いた通称のこと。.

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建武 (日本)

建武(けんむ)は、日本の元号の一つ。南朝方では元弘の後、延元の前で日_(旧暦)|1月29日〜1336年2月19日までの期間を指す。北朝方では正慶の後、暦応の前で、1334年1月29日〜1338年8月28日までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方後醍醐天皇、北朝方光明天皇。.

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建武の新政

建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。 名は、翌年の元弘4年/建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。近年の歴史学では「建武政権」という表現もある。後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。.

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建治三年記

建治三年記(けんじさんねんき)は鎌倉時代の史料。筆者は評定衆、問注所執事を担当した太田康有。記述は建治3年(1277年)の1年間のうち、68日のみしかないが、史料として貴重視されている。康有の息子太田時連の執筆した永仁三年記と並ぶ、鎌倉時代後期における重要な史料である。.

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伊予国

伊予国(いよのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。.

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伊勢平氏

伊勢平氏(いせへいし)は、承平天慶の乱に功のあった平貞盛の四男平維衡よりはじまる平氏一族の一つ、高望王流坂東平氏の庶流である。平氏の中でも伊勢平氏、特に平正盛の系統(六波羅家あるいは六波羅流)を平家(へいけ)と呼ぶ場合がある。.

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伊勢氏

伊勢氏(いせし)は、日本の氏族で桓武平氏維衡流の氏族。室町時代には室町幕府の政所執事を世襲、江戸時代には旗本として仕え、武家の礼法である『伊勢礼法』を創始し、有職故実の家として知られた。.

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伊豆の国市

伊豆の国市(いずのくにし)は、静岡県の伊豆半島北部に位置する市。.

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伊豆国

伊豆国(いずのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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伊豆国造

伊豆国造(いずのくにみやつこ・いずこくぞう)は、伊豆国を支配した国造。.

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弁才天

蔵-->京都府・浄瑠璃寺伝来(鎌倉時代 吉祥天像厨子絵) 弁才天(べんざいてん)は、仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー()が、仏教に取り込まれた呼び名である。神仏習合によって神道にも取り込まれ、様々な日本的変容を遂げた。.

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佐々木氏

佐々木氏(ささきし)は、日本の氏族のひとつ。家系は宇多天皇の第8皇子・敦実親王の流れをくむ宇多源氏、源成頼の孫・佐々木経方を祖とする一族。近江国蒲生郡佐々木荘を発祥に、軍事貴族として繁栄した。後に源平合戦(治承・寿永の乱)で活躍し全国に勢力を広げた。.

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佐藤和彦

佐藤 和彦(さとう かずひこ、1937年3月17日 - 2006年5月13日)は、日本史学者。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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御家人

御家人(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の家人の身分を指す語であるが、中世と近世では意味合いが異なる。.

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御内人

御内人(みうちびと、みうちにん)は、鎌倉時代に執権北条氏の家督・得宗に仕えた、武士、被官、従者。.

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御成敗式目

御成敗式目(ごせいばいしきもく)は、鎌倉時代に、源頼朝以来の先例や、道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳をもとに制定された、武士政権のための法令(式目)である。貞永元年8月10日(1232年8月27日:『吾妻鏡』)制定。貞永式目(じょうえいしきもく)ともいう。ただし貞永式目という名称は後世に付けられた呼称で、御成敗式目の名称が正式である。また、関東御成敗式目、関東武家式目などの異称もある。 1185年に鎌倉幕府が成立以降、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていたが、1221年(承久3年)の承久の乱で、鎌倉幕府執権の北条義時が朝廷を武力で倒し、朝廷の権力は制限され、幕府の権力が全国に及んでいったが、日本を統治する上で指標となる道徳や倫理観そして慣習が各地で異なるため、武家社会、武家政権の裁判規範として制定された。.

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後北条氏

後北条氏(ごほうじょうし/ごほうじょううじ、旧字体表記:後北條氏)は、関東の戦国大名の氏族。本姓は平氏。家系は武家の桓武平氏伊勢氏流。室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる「北条早雲」こと伊勢盛時(1432年/1456年 - 1519年)をその祖とする。正式な名字は「北条(北條)」だが、代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏とは傍系の遠い血縁関係にあるとされるものの直接の後裔ではないことから、後代の史家が両者を区別するため伊勢氏流北条家には「後」を付して「後北条」と呼ぶようになった。また居城のあった相模国小田原の地名から小田原北条氏(おだわら ほうじょうし/おだわら ほうじょううじ)あるいは相模北条氏とも呼ばれる。最大時(氏政)には関八州で240万石の一大版図を支配していた。 通字は「氏(うじ)」。代々の家督は御本城様(ごほんじょうさま)と呼ばれ、「祿壽應穏(禄寿応穏)」と刻銘された「虎の印章」を使用した。これは「禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし、領民全ての禄を寿を北条氏が守っていく」という政治宣言であった。 近代には、初代・早雲(盛時)の素性が伊勢の素浪人と誤認され、下克上を初めて現実のものとして伊豆一国の主となり、そこから戦国大名にまでのし上がったとされていたが、後述のように近年の研究で否定されている。.

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後鳥羽天皇

後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇(在位:寿永2年8月20日(1183年9月8日) - 建久9年1月11日(1198年2月18日))。諱は尊成(たかひら・たかなり)。高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。 文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが、この承久の乱で朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。.

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後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.

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得宗

得宗(とくそう)は、鎌倉幕府の北条氏惣領の家系。徳崇、徳宗とも(読みは同じ)。幕府の初代執権の北条時政を初代に数え、2代義時からその嫡流である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9代を数える。「得宗」とは2代義時に関係する言葉で、研究者によって義時の別称、戒名、追号など意見が異なる。近年では「徳崇」の当て字・略字で、禅宗に帰依した5代時頼が、浄土宗系の宗派を信仰していた義時に贈った禅宗系の追号の可能性が指摘されている。義時流、得宗家という呼び方もある。史料においては北条氏嫡流の当主を「得宗」と指した例は少なく、行政用語であったとも考えられている。.

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得宗専制

得宗専制(とくそうせんせい)は、鎌倉幕府において執権を務める平氏一門の北条氏の惣領である得宗に幕府権力が集中して専制政治が行われたこと、またその時期を指す。鎌倉幕府の歴史を3つに分けた場合、源氏将軍・執権政治に続く第3の時期にあたる。.

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律令制

律令制(りつりょうせい)は、律令に基づく制度のこと。主に古代東アジアで見られた中央集権的な統治制度であるといわれることもあるが、唐制に倣った体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである山内昌之・古田博司。日本では律令制または律令体制や律令国家と呼ばれるが、中国にはこのような呼称は存在しない菊池秀明p8 (日中歴史共同研究報告書 p153)。中国において「律令」という言葉は秦から明まで長期にわたって使われており、その間にその内容や位置づけは大きな変遷をみている。そのため、日本の律令制の直接的モデルとなった隋や唐の国家体制をもって「律令制」と定義することは、中国の律令の変遷の実情を無視することとなり、また秦から明までのおよそ1800年間(律のみ存在した清も加えれば2100年間)の制度を一括りにすることにはあまり意味がないとする考えもある廣瀬薫雄『秦漢律令研究』2010年、汲古書院、第一部第一章「律令史の時代區分について」。.

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信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

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修善寺

修善寺(しゅぜんじ).

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俳句

俳句(はいく)とは、五・七・五の十七音から成る日本語の定型詩である。世界最短の定型詩とされ、十七文字(じゅうしちもじ)、十七音(じゅうしちおん)、十七語(じゅうしちご)とも呼ばれる。俳句の有季定型性を捨象する形で派生した自由律俳句や無季俳句などもある。俳句を詠む(作る)人を俳人と呼ぶ。.

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俳優

俳優(はいゆう、actor)は、演劇、映画等において、その人物に扮して台詞、身振り、表情などで演じる人のこと。またその職業。役者(やくしゃ)とも呼ばれる。.

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北条基時

北条 基時(ほうじょう もととき)は、鎌倉時代末期の北条氏一門の武将。鎌倉幕府の第13代執権(在職:正和4年7月11日(1315年8月11日) - 正和5年7月9日(1316年7月28日))である。普恩寺 基時(ふおんじ もととき)とも呼ばれる。.

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北条定宗

伝北条時宗像、実際には定宗像とも。 北条 定宗(ほうじょう さだむね、文永5年(1268年) - 永仁3年8月19日(1295年9月29日))は、鎌倉時代後期の武将。北条氏の一門。阿蘇流2代当主。鎌倉幕府8代執権・北条時宗の甥にあたる。 時宗の異母弟で、得宗家傍流である桜田時厳の子。阿蘇家の祖・北条時定の養子。阿蘇定宗とも呼ばれる。肥前国守護、修理亮、大友左近大夫将監。 元寇に際して鎮西に下向した大叔父である北条時定の養子となり、阿蘇家の家督を継ぐが、時定の死去から5年後の永仁3年(1295年)8月19日、現地で死去。享年28。 家督は子の随時が継いだ。墓所は熊本県阿蘇郡満願寺。 北条時宗像として知られる満願寺所蔵の肖像画は、各史料から実際には定宗の肖像と見られている。.

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北条実泰

北条 実泰(ほうじょう さねやす)は、鎌倉時代前期の北条氏の一門。金沢流北条氏の祖で、金沢 実泰(かねさわ さねやす)とも。 父は鎌倉幕府第2代執権・北条義時、母は継室の伊賀の方で、北条政村・北条時尚と同母兄弟(『明月記』天福2年(1234年)7月12日条によれば母は一条実有の娘だが、「入来院家所蔵平氏系図」に「伊賀守朝光女」、「桓武平氏系図」では政村の同母弟であることを示す「同」の文字が見られることから、研究においては『明月記』の記載は風説とみなされている)。.

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北条実時

北条 実時(ほうじょう さねとき)は、鎌倉時代中期の武将。北条氏一門。金沢流北条氏の実質初代で、金沢 実時(かねさわ さねとき)とも。父は北条実泰。母は天野政景の娘。.

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北条宣時

北条 宣時(ほうじょう のぶとき)は、鎌倉時代中期の武将。北条氏の一門。鎌倉幕府連署。大仏 宣時(おさらぎ のぶとき)とも称される。.

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北条守時

州崎古戦場蹟に建てられた石碑 北条 守時(ほうじょう もりとき)は、鎌倉時代末期の武将。北条氏の一門。鎌倉幕府第16代・最後の執権(在職:正中3年4月24日(1326年5月26日) - 正慶2年/元弘3年5月18日(1333年6月30日))。赤橋 守時(あかはし もりとき)とも呼ばれる。 鎌倉幕府第6代執権・北条長時の曾孫にあたる。父は赤橋流の北条久時。同幕府を滅ぼし、室町幕府初代将軍となった足利尊氏は妹婿(義弟)にあたる。.

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北条宗宣

北条 宗宣(ほうじょう むねのぶ)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。大仏 宗宣(おさらぎ むねのぶ)とも称される。鎌倉幕府第11代執権(在職:応長元年10月3日(1311年11月13日) - 正和元年5月29日(1312年7月4日))。.

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北条宗頼

北条 宗頼(ほうじょう むねより)は、鎌倉時代中期の武将。北条氏得宗家の一門。父は鎌倉幕府5代執権北条時頼。8代執権北条時宗の異母弟にあたる。.

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北条宗方

北条 宗方(ほうじょう むねかた)は鎌倉時代後期の北条氏の一門。長門探題・北条宗頼の次男。鎌倉幕府8代執権北条時宗の甥にあたり、その猶子となる。.

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北条宗政

北条 宗政(ほうじょう むねまさ)は、鎌倉時代中期の北条氏(得宗家)の一門。.

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北条宗時

北条 宗時(ほうじょう むねとき、生年不明 - 治承4年8月24日(1180年9月14日)は、平安時代末期の武将。父は北条時政。兄弟姉妹に政子、義時、時房、ほか。通称は三郎。.

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北条師頼

北条 師頼(ほうじょう もろより)は、鎌倉時代末期の北条氏の一族。北条時頼の孫。父は桜田時厳。母は不詳。桜田 師頼(さくらだ もろより)とも呼ばれる。通称は桜田 七郎(さくらだ しちろう)。.

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北条師時

北条 師時(ほうじょう もろとき)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。鎌倉幕府第10代執権(在職:正安3年8月22日(1301年9月24日) - 応長元年9月22日(1311年11月3日))。.

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北条久時

北条 久時(ほうじょう ひさとき)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。父は赤橋流の北条義宗。赤橋 久時(あかはし ひさとき)とも。.

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北条仲時

北条 仲時(ほうじょう なかとき)は、鎌倉時代末期の北条氏一門。鎌倉幕府最後の六波羅探題北方である。普恩寺流で第13代執権である北条基時の子。普恩寺 仲時(ふおんじ なかとき)とも呼ばれる。.

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北条忠時

北条 忠時(ほうじょう ただとき、建長元年(1249年) - 弘安7年10月2日(1284年11月10日))は、鎌倉時代の武士。北条重時の十男だが、他の兄弟達の中に夭折するなどして業績を残せず、日の目を浴びなかった者もいたため、六男として扱われることもある。通称は陸奥十郎。子に親時がいる。 弘長3年(1263年)、椀飯の儀式に参列。宗尊親王の鶴岡八幡宮参詣に際し供奉を担当。建治3年(1277年)に従五位下、左近将監に叙位される。同年、北条貞時が元服した折、儀式で馬の牽引を担当した。弘安4年(1281年)、引付衆に補任される。同7年(1284年)死去。『続拾遺和歌集』に歌が一首採録されている。.

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北条公義

北条 公義(ほうじょう きみよし、仁治2年(1241年) - 没年不詳)は、鎌倉時代前期の北条氏の一族。鎌倉幕府第3代執権・北条泰時の三男。公喜とも。無量寿大夫。子に泰茂、泰瑜。 すでに長兄の時氏や次兄の時実らが死去していたため、泰時は時氏の長男・北条経時を嗣子に迎えていた。さらに公義自身も泰時が59歳という高齢で生まれた息子で、翌年に父が死去したときはわずか2歳だったために後継者候補には挙げられず、僧侶として余生を送ったといわれる。 没年など詳しい業績は不明である。 Category:鎌倉幕府御家人 きみよし Category:1241年生 Category:没年不明.

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北条兼時

北条 兼時(ほうじょう かねとき)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。父は第8代執権・北条時宗の異母弟である北条宗頼。.

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北条維貞

北条 維貞(ほうじょう これさだ)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門、大仏流の当主。大仏 維貞(おさらぎ -)ともいう。父は北条宗宣。六波羅探題南方・連署などを歴任した人物である。.

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北条義宗

北条 義宗(ほうじょう よしむね)は、鎌倉時代中期の北条氏一門。赤橋 義宗(あかはし よしむね)とも称される。鎌倉幕府第6代執権・北条長時の嫡男。赤橋流北条氏第2代当主。.

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北条義政

北条 義政(ほうじょう よしまさ)は鎌倉時代中期の北条氏の一門。鎌倉幕府の第6代連署(在任:文永10年(1273年)6月17日 - 建治3年(1277年)4月4日)。六波羅探題北方、連署を務めた北条重時の五男。母は側室の少納言局。信濃国塩田荘に住したことから、義政から孫の俊時までの3代は塩田北条氏と呼ばれる。.

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北条義時

北条 義時(ほうじょう よしとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の第2代執権。伊豆国の在地豪族・北条時政の次男。源頼朝の正室・北条政子の弟。得宗家2代目当主。 源氏将軍が途絶えた後の、鎌倉幕府の実質的な最高指導者。幕府と朝廷の対立が激化すると、後鳥羽上皇より北条義時追討の宣旨が全国に発布され朝敵となるも、幕府軍は京都に攻め上り、朝廷を制圧(承久の乱)。戦後に天皇を廃し3人の上皇を配流した。.

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北条経時

北条 経時(ほうじょう つねとき)は、鎌倉時代前期の北条氏得宗家の一門。鎌倉幕府の4代執権(在職:仁治3年6月15日(1242年7月14日) - 寛元4年3月23日(1246年4月10日))。 第3代執権の北条泰時の嫡男であった北条時氏の長男。母は賢母で名高い松下禅尼(安達景盛の娘)で、第5代執権となる北条時頼や北条時定の同母兄にあたる。.

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北条為時

北条 為時(ほうじょう ためとき)は、鎌倉時代の北条氏の一族。.

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北条為時 (政村流)

北条 為時(ほうじょう ためとき)は、鎌倉時代中・後期の北条氏の一門。 六波羅探題や連署などを務めた北条時村の嫡男。鎌倉幕府第7代執権・北条政村の嫡孫、第12代執権・北条煕時の父にあたる。 弘安9年(1286年)10月6日、六波羅探題であった父に同行した先の京都において死去したとされ(享年22)、ここまでの業績としては特に伝わっていない。ただ、和歌には秀でていたようで、「新後撰和歌集」や「玉葉和歌集」に入集している。.

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北条煕時

北条 煕時(ほうじょう ひろとき)は、鎌倉時代後期の北条氏一門の武将。鎌倉幕府12代執権(在職:応長2年6月2日(1312年7月6日) - 正和4年7月11日(1315年8月11日))である。 父は北条為時 (政村流)で、第7代執権・北条政村の曾孫にあたる。正室は第9代執権の北条貞時の娘。.

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北条顕時

北条 顕時(ほうじょう あきとき)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将。北条氏の一門・金沢流北条氏の第3代当主。金沢顕時とも称される。父は第2代(実質的には初代)当主で鎌倉幕府の重職を歴任した北条実時。正室は安達泰盛の娘・千代野。 安達泰盛が霜月騒動で粛清されたことにより逼塞を余儀なくされたが、その後に第9代執権・北条貞時の信頼を回復して復権。顕時の代に、金沢流北条氏は全盛期を迎えた。.

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北条高直

北条 高直(ほうじょう たかなお)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。北条氏大仏流の一族。大仏 高直(おさらぎ たかなお)とも。.

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北条高時

北条 高時(ほうじょう たかとき)は、鎌倉時代末期の北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第14代執権(在職:1316年 - 1326年)。第9代執権・北条貞時の三男。.

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北条貞将

北条 貞将(ほうじょう さだゆき)は、鎌倉時代末期の北条氏金沢流の武将。鎌倉幕府第17代執権であったとする説もある(後述)。鎌倉幕府15代執権・北条貞顕の嫡男。母は北条時村の娘。屋号を用いて金沢 貞将(かねさわ さだゆき)とも呼ばれる。 鎌倉時代末期の倒幕運動の中で幕府軍の将として各地を転戦して活躍したが、新田義貞軍に敗れてこの時、父と同じく壮烈な最期を遂げた。.

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北条貞国

北条 貞国(ほうじょう さだくに)は、鎌倉時代末期の北条氏の一門。桜田 貞国(さくらだ さだくに)とも呼ばれる。.

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北条貞顕

北条 貞顕(ほうじょう さだあき)は、鎌倉時代末期の武将。北条氏の一門で鎌倉幕府第12代連署(在職:正和4年(1315年)7月12日 - 嘉暦元年(1326年)3月16日)、第15代執権(在職:正中3年3月16日(1326年4月19日) - 正中3年3月26日(1326年4月29日))。 父は金沢流の北条顕時。母は摂津の御家人である遠藤為俊の娘・入殿。金沢文庫で有名な北条実時の孫に当たる。金沢 貞顕(かねさわ さだあき)とも呼ばれる。.

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北条貞規

北条 貞規(ほうじょう さだのり)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。.

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北条貞時

北条 貞時(ほうじょう さだとき)は、鎌倉時代後期の北条氏一門の武将。北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第9代執権(在職:弘安7年(1284年) - 正安3年(1301年))。 第8代執権・北条時宗の嫡男。母は安達義景の娘・堀内殿(覚山尼)。.

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北条茂時

北条 茂時(ほうじょう しげとき 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、p.540/もちとき『鎌倉将軍・執権・連署列伝』P.192(「北条茂時」の項、執筆:鈴木由美)による。)は、鎌倉時代末期の北条氏の一門。鎌倉幕府の最後の連署である。 父は政村流で鎌倉幕府の第12代執権・北条煕時。母は第9代執権・北条貞時の娘。.

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北条邦時

北条 邦時(ほうじょう くにとき)は、鎌倉時代末期の北条氏得宗家の嫡子。鎌倉幕府第14代執権・北条高時の長男『鎌倉年代記裏書』 元徳3年12月15日条。「十二月十五日、太守禅閤第一郎七歳、首服、名字邦時、於御所被執行、」『太平記』巻11「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事」の文中に「相摸入道の嫡子相摸太郎邦時は、此五大院右衛門が妹の腹に出来たる子なれば、…(略)…昨日までは天下の主たりし相摸入道の嫡子にて有しかば、…(略)…朝敵の長男にてをはすれば、」とある。。母は御内人・五大院宗繁の妹(娘とする系図もある)。乳母父は長崎思元。邦時の死後、中先代の乱を起こした北条時行は異母弟である。.

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北条重時

北条 重時(ほうじょう しげとき)は、鎌倉時代前期の北条氏の一門・武将・政治家。極楽寺 重時(ごくらくじ しげとき)とも呼ばれる。 鎌倉幕府2代執権・北条義時の3男。母は正室で比企朝宗の娘・姫の前。初代執権・北条時政の孫。尼将軍・尼御前と呼ばれた北条政子の甥にあたる。極楽寺流の祖。 六波羅探題北方・鎌倉幕府連署など幕府の要職を歴任し、第3代執権の異母兄・北条泰時から娘婿の第5代執権・北条時頼を補佐して幕政を主導しながら鎌倉幕府政治の安定に大きく寄与した。『六波羅殿御家訓』『極楽寺殿御消息』等の家訓の作者でも知られる。.

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北条長時

北条 長時(ほうじょう ながとき)は、鎌倉時代中期の武将。北条氏の一門。鎌倉幕府第6代執権(在職:康元元年11月22日(1256年12月10日) - 文永元年(1264年))である。居所から赤橋 長時(あかはし ながとき)とも称される。.

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北条業時

北条 業時(ほうじょう なりとき)は鎌倉時代中期から後期にかけての北条氏の一門。普恩寺 業時(ふおんじ なりとき)とも呼ばれる。鎌倉幕府の六波羅探題北方・連署である北条重時の四男。普音寺流北条氏の租。母は側室の筑前局。桓武平氏諸流系図や関東閨閥皇代並年代記事所蔵の「北条系図」によると、初めは重長と名乗っていた。 兄弟の序列では年下の異母弟・義政の下位に位置づけられ、義政が四男、業時が五男として扱われた。しかし、8代執権北条時宗の代の後半の義政遁世以降からは、義政の死により空席となっていた連署に就任し、9代執権北条貞時の初期まで務めている。同時に、極楽寺流内での家格は極楽寺流嫡家の赤橋家の下、弟の義政(塩田流)が(業時(普恩寺流)より上位の)2番手に位置づけられていたが、義政の遁世以降は業時の普恩寺家が嫡家に次ぐ2番手の家格となっている。.

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北条氏 (名越流)

名越流北条氏(なごえりゅうほうじょうし)は、鎌倉時代の北条氏の一族。鎌倉幕府2代執権・北条義時の次男・北条朝時を祖とする。名越の地にあった祖父・北条時政の邸を継承した事により名越を称し、母方の比企氏の地盤を継いで代々北陸や九州の国々の守護を務めた。 創設当初の名越流の家格・勢力は得宗家に次ぐものであったが、名越流からは執権・連署・探題は一名も出しておらず、その得宗家に対抗しうる家格の高さが得宗側から警戒されていたと見られる。名越流はその本来は嫡流であるとの意識(後述)の強さから、たびたび得宗家と対立し、数度の討伐を受けている。.

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北条氏 (塩田流)

塩田流北条氏(しおたりゅうほうじょうし)は、鎌倉時代の北条氏の一門。北条重時を祖とする極楽寺流の一支流で、重時の五男・北条義政を祖とする。義政が信濃国塩田荘(現長野県上田市)を領した事から塩田を称した。.

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北条氏 (大仏流)

大仏流北条氏(おさらぎりゅうほうじょうし)は鎌倉時代の北条氏の一族。始祖は北条時房の四男・北条朝直。時房流の嫡流であり、朝直の子から様々な庶流がある。 初代朝直は、従兄で得宗家当主の北条泰時の娘を妻としたことから、北条一族のなかで重んじられていたようであり、子孫は代々鎌倉幕府の要職につき、3代'''宗宣'''は幕府の第11代執権に就任した。但し、宗宣―維'''貞'''(初め貞宗)―'''高'''宣は、時宗―貞時―高時と、得宗家から偏諱の授与を受けており、将軍を烏帽子親として一字を与えられていた得宗家と赤橋流北条氏の当主に対し、大仏流北条氏の当主は金沢流北条氏の当主とともに得宗家を烏帽子親とする、それよりも(家格的には)一ランク低い家と位置づけられていたとの指摘もある。.

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北条氏 (宗政流)

宗政流北条氏(むねまさりゅうほうじょうし)は鎌倉時代の北条氏の一族。得宗家から分家した一族で、始祖は北条宗政の子・北条師時である。.

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北条氏 (伊具流)

伊具流北条氏(いぐりゅうほうじょうし)は、鎌倉時代の北条氏の一門。鎌倉幕府2代執権・北条義時の四男である北条有時を祖とする。有時が陸奥国の伊具郡を領有したことから伊具流を創設した。 有時は義時の側室の所生であり、また病のために政治活動を引退したことから、伊具家は要職就任者を出す家の中での家格は低く、多くの子孫の中で幕府要職に就いたのは有時の子・通時の子である斎時のみであった。その他には、『建治三年記』12月19日条で、六波羅探題評定衆に「駿河次郎」という人物があり、駿河守であった有時の一門、伊具家の人物であると見られている。.

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北条氏 (佐介流)

佐介流北条氏(さすけりゅうほうじょうし)は、鎌倉時代の執権北条氏の一族。鎌倉幕府連署をつとめた北条時房の長男で、二代六波羅探題南方・北条時盛を祖とする。 時盛は元仁元年(1224年)、3代執権北条泰時の嫡男・時氏と共に上洛し、父時房の後任として六波羅南方に就任し、以後18年間務める。この時点では時房の後継者の地位にあったと思われるが、鎌倉へ戻って以降は要職に就任せず、多くの息子達も要職に付いていない事から、9歳下の弟である朝直(大仏家)との家督争いに敗北したと見られる。 その後、二月騒動をきっかけに時盛の六男時員の子で孫にあたる北条時国が六波羅探題南方に就任し、復興の兆しも見られたが、弘安7年(1284年)4月に執権・北条時宗が死去して間もない6月に時国が悪行を理由に関東へ召し出され、常陸国へ配流となった後、10月に誅殺された。また同年8月に時盛の次男・時光が陰謀が露見したとして拷問を受けたのち、佐渡国へ配流となり、佐介流は再び没落。その後時盛の次男政氏の子・盛房が評定衆・引付衆となって復興するが、時房流における地位は嫡流の大仏家に圧倒されている。.

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北条氏 (阿蘇流)

阿蘇流北条氏(あそりゅうほうじょうし)は、鎌倉時代の北条氏の一門。鎌倉幕府4代執権・北条経時、5代執権・北条時頼の同母弟である北条時定(北条為時)を祖とする。 北条氏の祖である北条時政以来、代々継承された肥後国阿蘇社領の預所・地頭両職を時定が継承し、苗字を阿蘇と呼ばれる。元寇にあたり、肥前国の守護となった時定が現地に下向して以降、九州に土着した。時定は阿蘇家と同じく得宗家傍流で鎮西に下向した桜田家で桜田時厳の子の定宗を養子に迎えて家督を譲り、阿蘇家は随時、治時と継承された。 歴代は鎮西に在住していたが、3代随時は鎮西探題就任前の短期間に鎌倉で二番引付頭人を務めており、また4代治時は得宗家の総領である北条高時の猶子となるなど、得宗家との結びつきがつよく、阿蘇家は得宗家による鎮西支配強化の役割を担っていたと見られる。 元弘の乱では当主北条治時が楠木正成の本拠地千早城を攻めたが、鎌倉陥落の報を聞き、般若寺で出家して降伏するが京都阿弥陀寺で処刑されて滅亡した。 ただし戦国期伊勢北畠氏の重臣に阿蘇流北条氏の子孫を名乗るものが複数存在する。 祖の時定が熊本県阿蘇郡南小国町に建立した満願寺には、時定・定宗・随時三代のものと伝えられる五輪塔と、時定・定宗の肖像画がある。.

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北条氏 (赤橋流)

赤橋流北条氏(あかはしりゅうほうじょうし)は、鎌倉時代の北条氏の一族。赤橋家ともいう。.

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北条氏 (金沢流)

金沢流北条氏(かねさわりゅうほうじょうし)は、鎌倉時代の北条氏の一族。武蔵国久良岐郡六浦庄金沢郷(現在の神奈川県横浜市金沢区)の地が家名の由来とされているが、通称として使われるのは南北朝以後。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の五男・'''実泰'''(初め実義)から分かれ、家格は実泰の同母兄・政村の嫡系に次ぎ、'''実時'''が政村の娘を、'''貞顕'''が時村(政村の子)の娘を正室に迎えて姻戚関係を持っている。居館は、'''顕時'''が鎌倉赤橋邸を賜り、以後も使われている。菩提寺は金沢郷の称名寺。.

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北条氏 (極楽寺流)

極楽寺流北条氏(ごくらくじりゅうほうじょうし)は、鎌倉時代の北条氏の一族。「極楽寺殿」と称された北条重時の子孫を極楽寺流と称する。北条氏内部で家格は高く、得宗家に継ぐ家格を持ち、その子孫は執権・連署・六波羅探題をはじめとする幕府重職に就き、また得宗家正室にも入っている『鎌倉将軍・執権・連署列伝』pp081-085。重時から伝わる『六波羅殿御家訓』と『極楽寺殿御消息』の2つの家訓があった。.

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北条氏 (政村流)

政村流北条氏(まさむらりゅうほうじょうし)は鎌倉時代の北条氏の一族。始祖は鎌倉幕府二代執権・北条義時の子北条政村。政村の嫡男北条時村の系統は、得宗家、赤橋家に次ぐ家格であった。分流として、政長流・政頼流がある。.

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北条氏 (普恩寺流)

普恩寺流北条氏(ふおんじりゅうほうじょうし)は鎌倉時代の北条氏の一族。極楽寺流の分流で、始祖は北条重時の四男北条業時。基時が普恩寺を創建したことからこの名が定着した。塩田流の北条義政の出家遁走後、極楽寺流では嫡流の赤橋家に継ぐ家格となった。業時の項目参照。.

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北条氏綱

北条 氏綱(ほうじょう うじつな)は、戦国時代の武将、戦国大名。後北条氏第2代当主。 伊豆国・相模国を平定した北条早雲(伊勢盛時)の後を継いで領国を武蔵半国、下総の一部そして駿河半国にまで拡大させた。また、「勝って兜の緒を締めよ」の遺言でも知られる。 当初は父同様に伊勢氏を称しており、北条氏を称するようになるのは父の死後の大永3年(1523年)か大永4年(1524年)からである。父の早雲は北条氏を称することは生涯なく、伊勢盛時、伊勢宗瑞などと名乗ったが、後北条氏としては氏綱を2代目と数える。なお、氏綱以降の当主が代々通字として用いることとなる「氏」の字は、早雲の別名として伝わる「長氏」・「氏茂」・「氏盛」の偏諱に由来するものと考えられるが、氏綱の元服時に父はまだ今川氏の姻族・重臣であったことから従兄である今川氏当主・今川氏親からの偏諱として与えられたとのではないかとする説がある。.

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北条氏邸・円成寺跡

北条氏邸跡(円成寺跡)(ほうじょうしていあと(えんじょうじあと))は、静岡県伊豆の国市にある国指定の史跡である。.

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北条治時

北条 治時(ほうじょう はるとき)は、鎌倉時代末期の北条氏の一門。父は北条随時。得宗家の傍流・阿蘇家の4代当主。阿蘇 治時(あそ はるとき)とも。.

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北条泰家

北条 泰家(ほうじょう やすいえ)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての北条氏の一族。鎌倉幕府の第9代執権・北条貞時の四男。14代執権・北条高時の同母弟に当たる。.

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北条泰時

北条 泰時(ほうじょう やすとき)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の長男。鎌倉幕府第3代執権(在職:貞応3年(1224年) - 仁治3年6月15日(1242年7月14日))。鎌倉幕府北条家の中興の祖として、御成敗式目を制定した人物で有名である。.

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北条朝直

北条 朝直(ほうじょう ともなお)は鎌倉時代前期から中期の武将。北条氏の一門。鎌倉幕府の評定衆。父は初代連署北条時房。母は正室の足立遠元の娘。大仏流北条氏の祖。.

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北条朝時

北条 朝時(ほうじょう ともとき)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の次男。名越流北条氏の祖。母は正室の姫の前。祖父・北条時政の屋敷であった名越邸を継承した事により、名越 朝時(なごえ ともどき)とも呼ばれる。.

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北条有時

北条 有時(ほうじょう ありとき)は鎌倉時代前期から中期にかけての武将。北条氏の一門。父は鎌倉幕府2代執権北条義時。3代執権北条泰時の異母弟にあたる。母は側室で伊佐朝政(常陸伊佐氏)の娘。伊具流の祖。初代執権北条時政の孫で、源頼朝正室の北条政子は伯母にあたる。.

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北条早雲

北条 早雲(ほうじょう そううん)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。.

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北条政子

北条政子(菊池容斎画、江戸時代) 北条 政子(ほうじょう まさこ、保元2年(1157年) - 嘉禄元年7月11日(1225年8月16日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。伊豆国の豪族、北条時政の長女。子は頼家、実朝、大姫、三幡。兄弟姉妹には宗時、義時、時房、阿波局、時子など。 周囲の反対を押し切り、伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所と呼ばれる。夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名を安養院(あんにょういん)といった。頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。 なお、「政子」の名は建保6年(1218年)に朝廷から従三位に叙された際に、父・時政の名から一字取って命名されたものであり、それより前の名前は不明。.

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北条政範

北条 政範(ほうじょう まさのり、文治5年(1189年) - 元久元年11月5日(1204年11月27日))は鎌倉時代初期の武将。父は北条時政、母は時政の後妻で正室の牧の方。通称は遠江左馬助。官位は従五位下。 母が京の出身と言うこともあり、3代将軍源実朝が都の貴族である坊門信清の娘(信子)を正室に迎える際の使者として上洛した。しかし京で病にかかり、16歳で急死した。若年での官位の高さなどから見て、時政の嫡男は異母兄の北条義時ではなく、貴族出身である牧の方を母とする政範であったと考えられる。時政・牧の方鍾愛の子であり、牧の方所生唯一の男子であった政範の死は、畠山重忠の乱、牧氏事件と続く鎌倉幕府、北条氏一族内紛のきっかけとなっている。.

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北条政村

北条 政村(ほうじょう まさむら)は、鎌倉時代前期から中期にかけての北条氏の一門。鎌倉幕府第7代執権(在職:1264年 - 1268年)。2代執権北条義時の五男。母は継室の伊賀の方。3代執権北条泰時は異母兄にあたる。政村流北条氏の祖であり、12代執権北条煕時は曾孫にあたる。13代執権北条基時も血縁的には曾孫である。 幼少の得宗家北条時宗(泰時の曾孫)の代理として7代執権となり、辞任後も連署を務めて蒙古襲来の対処にあたり、一門の宿老として嫡流の得宗家を支えた。.

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北条時定

北条 時定(ほうじょう ときさだ)は鎌倉時代の武将。北条氏の一族。.

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北条時定 (北条時政の甥)

北条 時定(ほうじょう ときさだ、久安元年(1145年) - 建久4年(1193年)2月25日)は、平安時代末期、鎌倉時代の北条氏の一門。通称平六。父は北条兼時。祖父は北条時方。北条時政の甥にあたる。もしくは従兄弟とも。 治承4年(1180年)8月20日、一族である時政父子と共に源頼朝の挙兵に従った。文治2年(1186年)3月、時政の代官として洛中警備にあたり、六波羅を拠点として都落ちした源義経の郎党の探索・捕縛を行った。義経に協力していた源行家や源有綱を討取っている。7月18日に左兵衛尉に任じられる。文治5年(1189年)1月13日には、義経が京都に還る意志を書いた手紙を持った比叡山の僧・千光房七郎を捕縛した。文治5年(1189年)4月10日、左衛門尉。建久元年(1190年)7月、左衛門尉を辞任。同年8月、時定が河内国の国衙領を陸奥所と自称して占領しているとの朝廷からの訴えにより、頼朝から国司の命に従わねば地頭職を取り上げると命令書が出される。建久2年(1191年)には、かつて時定に討たれた源有綱の家人の前右兵衛門尉平康盛が由比ヶ浜で梶原景時に捕らえられ、時定の暗殺を企んでいたことを認め、死罪に処された。時定は建久4年(1193年)2月25日、京都で死去。享年49。.

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北条時定 (時氏流)

北条 時定(ほうじょう ときさだ)は、鎌倉時代中期の北条氏の一門。北条時氏の三男。母は松下禅尼で、第4代執権・北条経時、第5代執権・北条時頼の同母弟にあたる。得宗家から鎮西に下向した阿蘇家の祖。諱はのちに為時(ためとき)と改名している。.

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北条時実

北条 時実(ほうじょう ときざね)は、鎌倉時代前期の北条氏の一族。鎌倉幕府第3代執権・北条泰時の次男。母は継室の安保実員の娘。妻は、後に謀反を企てたとして流罪に処された北条光時の妹。.

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北条時宗

北条 時宗(ほうじょう ときむね)は、鎌倉時代中期の武将・政治家。鎌倉幕府第8代執権。 鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家に生まれ、世界帝国であったモンゴル帝国(大元朝)の圧力が高まるなかで執権に就任。内政にあっては得宗権力の強化を図る一方、モンゴル帝国(大元朝)の2度にわたる侵攻を退け(元寇)、戦前までは日本の国難を救った英雄と評された。官位は、正五位下相模守。贈従一位。.

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北条時兼

北条 時兼(ほうじょう ときかね、文永3年3月11日(1266年4月17日) - 永仁4年6月14日(1296年7月15日))は、鎌倉時代中 - 後期の北条氏の一族。普恩寺 時兼(ふおんじ ときかね)とも呼ばれる。 父は普恩寺流の北条業時、母は北条政村の娘。父が陸奥守であったことから陸奥三郎と呼ばれる。極官は『尊卑分脈』によれば尾張守、従五位下。子には鎌倉幕府第13代執権となった北条基時がいる。 弘安9年(1286年)に四番引付頭人、永仁3年(1295年)に評定衆であったことが確認される。31歳で没。 Category:鎌倉幕府評定衆 Category:引付衆 Category:鎌倉幕府御家人 ときかね Category:1266年生 Category:1296年没.

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北条時光

北条 時光(ほうじょう ときみつ)は、鎌倉時代の北条氏の一族。同姓同名の人物が佐介流北条氏に3名確認できる。.

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北条時継

北条 時継(ほうじょう ときつぐ/北条 為時 ほうじょう ためとき、安貞2年(1228年) - 没年未詳)は、鎌倉時代中期の北条氏の一門。鎌倉幕府の六波羅探題北方・連署である北条重時の長男。母は正室で苅田義季の娘・荏柄尼西妙(えがらのあまさいみょう)。苅田流北条氏の租。苅田時継とも。式部大夫。子に長重、為宗、娘(足利(斯波)宗家室)、他。 重時の嫡男であったが、嘉禎元年(1235年)、8歳の時に疱瘡にかかって重篤に陥り、それが元で健康を損ない、廃嫡された。この年の『明月記』10月16日条に「重時最愛の嫡男8歳が疱瘡で死去し、乳母夫妻が哀しみの余り出家した」とあり、10月29日条には6歳の次男が夭折したとの誤報が流れた事が記されている。情報が錯綜しているが、のちに家督を継いだ長時は寛喜2年生まれで、この時6歳の「次男」とされ、疱瘡で重篤となった8歳の「嫡男」は為時と見られる。 『北条氏系図』など諸系図によれば、為時はのちに時継と改名して母方の所領陸奥国苅田郡を継承し、苅田時継と名乗り、長重ら5人の子がいた事が記されており、『明月記』の死去の記述は誤報と見られる。ただし、系図に「物狂」とあり、この時の病により精神的な疾患を伴う後遺症が残ったと見られる。没年は未詳だが、若死にしたとされる。為時の母尼西妙は荏柄と呼ばれている事から、鎌倉の荏柄天神社付近に居住していたと思われる。為時の廃嫡により、嫡子となった次男長時の母である平基親の娘が重時の正室となっている。.

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北条時盛

北条 時盛(ほうじょう ときもり)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将。北条氏の一門。鎌倉幕府の初代連署・北条時房の長男。佐介流北条氏の祖。佐介 時盛(さすけ ときもり)とも称される。 弟に大仏流の祖・朝直などがいるが、彼らとは異腹であり、時盛は「庶兄」であったのではないかという見解がある。.

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北条時頼

北条 時頼(ほうじょう ときより)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第5代執権(在職:1246年 - 1256年)である。北条時氏の次男で、4代執権北条経時の弟。北条時輔、第8代執権北条時宗、北条宗政、北条宗頼らの父。通称は五郎、五郎兵衛尉、武衛、左近大夫将監、左親衛、相州、また出家後は最明寺殿、最明寺入道とも呼ばれた。.

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北条時行

北条 時行(ほうじょう ときゆき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。 鎌倉幕府最後の得宗北条高時の遺児。北条氏復興のため、鎌倉幕府の残党を糾合して中先代の乱を引き起こし、一時鎌倉を奪還した。その後、後醍醐天皇から朝敵を赦免されて南朝方の武将として戦い、武蔵野合戦で再び鎌倉を奪還したが、遂には足利方に捕らえられ処刑されたと伝わる。.

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北条時輔

北条 時輔(ほうじょう ときすけ)は、鎌倉時代中期の北条氏の一門。鎌倉幕府の第5代執権・北条時頼の長男で庶長子。8代執権・北条時宗の異母兄。 第6代将軍・宗尊親王の側近として将軍御所に仕え、上洛して六波羅探題南方を務めるが、二月騒動で謀反の疑いを受け、異母弟・時宗の命により誅殺された。.

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北条時茂

北条 時茂(ほうじょう ときしげ/ときもち)は、鎌倉時代中期の武将。北条氏の一門。北条重時の三男で母は正室の平基親の娘。常盤流の祖。六波羅探題北方。.

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北条時茂 (宗政流)

北条 時茂(ほうじょう ときもち)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。.

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北条時村

北条 時村(ほうじょう ときむら)は、鎌倉時代の北条氏の一族。.

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北条時村 (政村流)

北条 時村(ほうじょう ときむら)は、鎌倉時代中期の北条氏の一門。鎌倉幕府第7代執権・北条政村の嫡男。.

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北条時氏

北条 時氏(ほうじょう ときうじ)は、鎌倉時代前期の北条氏の一門。鎌倉幕府3代執権・北条泰時の長男。嫡子だったが早世したため執権にはなっていない。.

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北条時朝

北条 時朝(ほうじょう ときとも)は、鎌倉時代後期の執権北条氏の一族である。同時代に2人存在する。.

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北条時房

北条 時房(ほうじょう ときふさ)は鎌倉時代初期の武将。北条時政の子。北条政子・北条義時の異母弟。鎌倉幕府初代連署。.

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北条時政

北条 時政(ほうじょう ときまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。伊豆国の在地豪族の北条時家か北条時方(もしくは時兼)の子。源頼朝の正室・北条政子の父。鎌倉幕府の初代執権。 家系は桓武平氏平直方流を称する北条氏であるが、直方流は仮冒で伊豆国の土豪出身という説もある。.

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和田合戦

和田合戦(わだがっせん)は、鎌倉時代初期の建暦3年(1213年)5月に鎌倉幕府内で起こった有力御家人和田義盛の反乱である。 鎌倉幕府創業の功臣であり侍所別当の和田義盛は二代執権北条義時に度重なる挑発を受けて、姻戚関係にあった横山党や同族の三浦義村と結んで北条氏を打倒するための挙兵をした。だが、土壇場で三浦義村は北条方に与し、兵力不足のまま和田一族は将軍御所を襲撃し、鎌倉で市街戦を展開する。合戦は2日間にわたり続くが将軍実朝を擁し、兵力に勝る幕府軍が圧倒し、和田一族は力尽き、義盛は敗死した。 この合戦の勝利により、北条氏の執権体制はより強固なものとなる。.

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内管領

内管領(ないかんれい/うちのかんれい)とは、鎌倉幕府の執権北条氏の宗家である得宗家の執事で、得宗被官である御内人の筆頭である。御内頭人(みうちとうにん)ともいう。「得宗の家政を司る長」の意味であり、幕府の役職名ではない。.

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公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

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六角氏

六角氏(ろっかくし)は、日本の氏族。宇多源氏佐々木氏の流れで、鎌倉時代から戦国時代にかけて近江国南部を中心に勢力を持った武家(守護大名)。藤原北家流の公家・六角家とは血の繋がりは無い。佐々木六角氏とも言う。.

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六角時信

六角 時信(ろっかく ときのぶ)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将・守護大名。近江国守護。佐々木氏嫡流六角氏3代当主。佐々木時信とも呼ばれる。.

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六波羅探題

六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つ。承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。探題と呼ばれた初見が鎌倉末期であり、それまでは単に六波羅と呼ばれていた。.

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六波羅殿御家訓

『六波羅殿御家訓』(ろくはらどのごかくん)とは、鎌倉時代の武士、北条重時が執筆、作成した家訓。嫡男である北条長時に宛てて書かれたものとされる。.

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元 (王朝)

元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.

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元寇

元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時中国大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。 特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の艦隊であった村井章介『北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む』日本放送出版協会 2001年 126頁。 主に九州北部が戦場となった。.

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元弘

元弘(げんこう)は、日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年から1333年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

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元弘の乱

元弘の乱(げんこうのらん)は、元弘元年(1331年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府倒幕運動である。元弘3年/正慶2年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱を含めることも多い。以下では1331年から1333年までの戦乱について述べる。元弘の変(げんこうのへん)とも呼ばれる。.

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元服

元服(げんぶく、げんぷく)とは、奈良時代以降の日本で成人を示すものとして行われた儀式。通過儀礼の一つである。 「元」は首(=頭)、「服」は着用を表すので、「頭に冠をつける」という意味。加冠とも初冠(ういこうぶり)とも言われる。なお、公家の女子の成人式は裳着(もぎ)と言う。民間においては褌親(へこおや・ふんどしおや)の元で、初めてふんどしを付け、性に関する知識を授かる褌祝(ふんどしいわい)と呼ばれる儀式がある。.

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石井進 (歴史学者)

石井 進(いしい すすむ、1931年7月2日 - 2001年10月24日)は、日本の歴史学者。東京大学名誉教授。専門は日本中世史。文学博士(東京大学、1964年)。正四位勲三等旭日中綬章。.

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石橋山の戦い

石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)は、平安時代末期の治承4年(1180年)に源頼朝と大庭景親ら平氏方との間で行われた戦いである。治承・寿永の乱と呼ばれる諸戦役のひとつ。 源頼朝は以仁王の令旨を奉じて挙兵。伊豆国目代山木兼隆を襲撃して殺害するが、続く石橋山の戦いで大敗を喫した。敗走した頼朝は山中に逃げ込み、船で安房国へ落ち延びてこの地で再挙することになる。.

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福井藩

松平忠昌上屋敷(龍ノ口屋敷)模型 福井城(現在は福井県庁) 福井藩(ふくいはん)は、越前国にあって現在の福井県嶺北中心部を治めた藩。藩庁は福井城(福井市)。藩主は越前松平家(福井藩主家)。家格は親藩・御家門で、32万石。越前藩(えちぜんはん)とも呼ばれる。また、北の庄(北ノ荘)という地名が「福井(福居)」と改称される以前の、つまり第3代忠昌以前の結城(松平)秀康・忠直時代を故に北ノ荘藩(きたのしょうはん)と称することがある。.

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秩父氏

秩父氏(ちちぶし)は、日本の武家のひとつ。本姓は平氏。桓武平氏の一門、坂東平氏の流れで、坂東八平氏のひとつに数えられる。鎮守府将軍・平良文の孫で、桓武天皇6世にあたる平将恒を祖とし、平将門の女系子孫でもある。後に秩父平氏と呼ばれる多くの支流を出した名族で、「武蔵国留守所総検校職」として武蔵国内の武士を統率・動員する権限を有し、秩父氏館(吉田城)を居城とした。秩父氏一門の諸氏族は主に「重」の字を通字とした。.

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細川重男

細川 重男(ほそかわ しげお、1962年『鎌倉幕府の滅亡』ISBN 978-4-642-05716-5 より - )は、日本の歴史学者。東洋大学・國學院大學非常勤講師。博士(文学)(立正大学、1997年)。東京都出身。 専門は日本中世政治史、古文書学。金本正之・百瀬今朝雄に師事。.

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烏帽子親

烏帽子親(えぼしおや)とは、元服儀式の際に加冠を行う者のこと。 中世武家社会においては、男子が成人に達して元服を行う際に特定の人物に依頼して仮親に為って貰い、当人の頭に烏帽子を被せる役を務めることが通例とされていた。この仮親を烏帽子親と呼び、被せられた成人者を烏帽子子と呼んだ。また、この際に童名を廃して、烏帽子親が新たな諱を命名する場合があったその諱を烏帽子名という。その名は烏帽子親からの偏諱を受けることが多くなった。 『吾妻鏡』によれば、治承4年10月2日(1180年10月22日)、源頼朝が乳母である寒河尼の息子(小山朝光)の烏帽子親を務めている。このように、烏帽子親には主君や一門の棟梁、信頼の置ける地域の有力者などに委嘱する例が多かった。鎌倉幕府においては、烏帽子親と烏帽子子は実際の血縁関係が無くてもこれに准じるものとされ、文暦2年(1235年)の追加法における評定の際の退座分限(参加禁止者)として親族と並んで烏帽子子が含まれている。 室町時代以後の元服の儀では烏帽子を被せる代わりに前髪をそり落とす事例が増えるが、それを行うのが烏帽子親の役目とされていた。また、武家社会以外でも王朝時代から続く公家社会での冠礼における引入及び裳着における腰結、近世民間における親方・子方制や女子の鉄漿親(筆親・歯黒親)なども烏帽子親の類似した仮親による成人儀式であり、こうした仮親による成人儀式は現在でも日本の一部地域にて残されている。 また幼くして即位した天皇が在位中に元服の儀式を執り行う場合は皇族の長老などではなく、幼帝在位時にその政務を代行する摂政の職と天皇の師範である太政大臣の職を兼ねる者が加冠役を務めた。.

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結城時広

結城 時広(ゆうき ときひろ)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武士・御家人。下総結城氏4代当主。.

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田中大喜

中 大喜(たなか ひろき、1972年 - )は、日本の日本史学者、国立歴史民俗博物館准教授。 専門分野は日本中世史で、特に武士団や武家政権を研究の主な専門としている。.

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田方郡

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男爵

男爵(だんしゃく、)は、爵位の一つである。古代中国と近代日本で用いられ、子爵の下位に相当する。ヨーロッパ諸国の最下位の貴族称号の日本語・中国語訳にも用いられ、イギリスのbaronの訳にはこの語が用いられる。.

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熊本藩

本藩(くまもとはん)は、1600年から1871年まで存在した藩。52万石。1871年肥後国(熊本県)の球磨郡・天草郡を除く地域と豊後国(大分県)の一部(鶴崎・佐賀関等)を知行した。肥後藩(ひごはん)とも呼ばれる。藩庁は熊本城(熊本市)に置かれた。.

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狩野川

狩野川(かのがわ)は、静岡県の伊豆半島を流れる狩野川水系の本流で、一級河川。水系の流域面積は852km2で静岡県の面積の11%を占める。 鮎の友釣り発祥の地という説があるほど友釣りが盛んで、「狩野川を制すれば全国を制す」と評されている。源流部では天城山の清流を利用したワサビ栽培が盛んである。.

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相模国

模国(さがみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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鎮西探題

鎮西探題(ちんぜいたんだい)は、鎌倉時代に幕府が西国(九州)の統括のために設置した機関である。行政・訴訟(裁判)・軍事などを管轄した。.

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鎌倉

鎌倉(かまくら)は、現在の神奈川県鎌倉市の中心部に当たる地域。源頼朝を旗頭として、北条時政、北条義時らによって鎌倉幕府が置かれた都市であり、三浦半島の付け根に位置し、相模湾に面している。古くは鎌府(れんぷ)とも呼ばれた。三方を山に、一方を海に囲まれている。 鎌倉大仏.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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鎌倉公方

明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉公方管轄国 新編鎌倉志-関東公方屋敷図 鎌倉公方(かまくらくぼう)とは、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東十か国を統治するために設置した鎌倉府の長官。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称するが、この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれた呼称となる。関東十か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐。 鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となった。 ※鎌倉公方は歴史学用語及び鎌倉公方の自称であって当時の一般呼称ではない。当時の一般呼称は“鎌倉御所”か“鎌倉殿”である。.

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鎌倉郡

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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静岡県

静岡県(しずおかけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は静岡市。中部地方及び東海地方に含まれる。2017年(平成29年)現在、県の人口は約367万人であり都道府県別で第10位である。.

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養珠院殿

養珠院殿(ようじゅいんどの、未詳 - 大永7年7月17日(1527年8月13日))は、戦国時代の女性。戦国大名・北条氏綱の正室。北条氏康の生母。.

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西園寺公宗

西園寺 公宗(さいおんじ きんむね)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初頭(建武の新政期)にかけての公家。.

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西国

近畿地方 九州地方 西国(さいごく、せいごく、さいこく、せいこく)とは、日本西部の諸地域である。.

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観応の擾乱

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた抗争で、観応年間に頂点に達した足利政権(室町幕府)の内紛。実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、それを支持する武家や、公家と武家どうしの確執なども背景とする。 この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である正平一統についても併せて解説する。.

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評定衆

評定衆(ひょうじょうしゅう)とは、鎌倉・室町時代に置かれた役職の一つである。鎌倉時代においては幕府の最高政務機関であり、行政・司法・立法のすべてを司っていた。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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高倉健

倉 健デビューした1950年代にはクレジット表記で「髙」をあてがう作品もある。(たかくら けん、1931年(昭和6年)2月16日 - 2014年(平成26年)11月10日)は、日本の俳優・歌手。愛称、健さん。福岡県中間市出身、身長180cm、体重71kg、血液型はB型。高倉プロモーション所属。1998年に紫綬褒章、2006年に文化功労者、2013年には文化勲章を受章した。.

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高澤等

澤 等(たかさわ ひとし、旧姓:千鹿野等 1959年6月12日 - )は、日本の歴史研究家。日本家紋研究会会長。 1959年埼玉県飯能市に生まれ、錦城高校卒業、城西大学中退。.

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講談社

株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.

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護良親王

護良親王 護良親王(もりよししんのう / もりながしんのう)、延慶元年(1308年) - 建武2年7月23日(1335年8月12日)は、鎌倉時代後期から建武の新政期の人物。後醍醐天皇の皇子、母は源師親の娘親子。妃は北畠親房の娘。または藤原保藤の娘である南方(みなみのかた)。興良親王の父。大塔宮(だいとうのみや / おおとうのみや)と呼ばれた。天台座主。 名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。.

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豪族

豪族(ごうぞく)とは、国家や諸侯などの広域政権の領域の内部に存在し、ある地方において多くの土地や財産や私兵を持ち一定の地域的支配権を持つ一族のこと。地域的支配権の源泉は自分自身の所有する財産や武力であり、広域政権の権威を権力の源泉とする地方官は豪族とは呼ばれない。ただし地方官と豪族は排他的なカテゴリーではなく、同一人物が双方を兼ねたり、カテゴリー間を移行したりするケースは多くある。広域政権側が政権安定のために豪族層の政権内への取り込みを行ったり、逆に広域政権の支配力が弱まると地方官が豪族化することがあるからである。.

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越前国

越前国(えちぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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越前松平家

越前松平家(えちぜんまつだいらけ)は、越前国を発祥とする徳川氏の支流で、御家門のひとつ。単に越前家ともいう。越前松平家または越前家という呼称は、徳川家康の次男秀康を家祖とする一門全体を指す場合と、その領地の場所から福井松平家(福井藩)のみを指す場合とがある。幕末の福井藩主と津山藩主は徳川将軍家から養子を迎えたため、御家門筆頭とほぼ同等の扱いを受けた。.

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足利基氏

足利 基氏(あしかが もとうじ)は、南北朝時代の武将。初代鎌倉公方(在職:正平4年/貞和5年9月9日(1349年10月21日) - 正平22年/貞治6年4月26日(1367年5月25日))。後の古河公方の家系の祖でもある。室町幕府初代将軍足利尊氏の四男で、母は正室の赤橋登子(登子の子としては次男)。.

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足利家時

足利 家時(あしかが いえとき)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府の御家人である。.

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足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.

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足利将軍家

足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)は、足利氏の惣領家(宗家)のうち、とくに足利尊氏以来の、代々室町幕府の将軍職を世襲した一家(軍事貴族)。初代尊氏の後は2代として嫡男義詮が継ぎ、3代足利義満を経て、15代義昭まで続く。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。.

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足利義詮

足利 義詮(あしかが よしあきら)は、南北朝時代の室町幕府第2代将軍。初代将軍足利尊氏の嫡男足利竹若丸、足利直冬という二人の庶兄に次いで三男とされる。。母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹で正室の赤橋登子。.

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足利義氏 (足利家3代目当主)

足利 義氏(あしかが よしうじ)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府の御家人。足利義兼の三男。母は北条時政の娘時子。.

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足利直義

足利 直義(あしかが ただよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の三男。室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟。 将軍尊氏を補佐して政務面を統括し、草創期室町幕府の体制は尊氏・直義兄弟による「二頭政治」だったと言われるが、実際は将軍就任当初から尊氏はすでに隠居状態にあり、幕政の運営は直義の下で行われていた。それでも、清和源氏の嫡流であり武将としての器量にも優れる尊氏は全国の武士を統合する機能を果たしており、直義が取って代わることはできなかった。 尊氏の執事高師直との間に派閥対立を生じ、師直の追い落としを図り却って失脚したものの、やがて南朝と結んで師直一族を討ち幕政を掌握した。しかし対立は尊氏・直義両者による全国を巻き込む戦乱に発展し、直義は東国に逃れたが最後は鎌倉に幽閉され急死を遂げた(観応の擾乱)。.

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足利頼氏

足利 頼氏(あしかが よりうじ)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府の御家人。父は足利泰氏。母は北条時氏の娘。初名は足利利氏(としうじ)。室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏の曽祖父。.

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足利高義

足利 高義(あしかが たかよし)は、鎌倉時代末期の武将。鎌倉幕府御家人。足利貞氏の長男。母は正室で北条顕時の娘・釈迦堂殿。足利尊氏・足利直義の異母兄に当たる。.

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足利貞氏

足利 貞氏(あしかが さだうじ)は、鎌倉時代後期から末期にかけての鎌倉幕府の御家人。足利家時の嫡男。室町幕府初代将軍となる足利尊氏やその異母兄・足利高義、その弟・足利直義の父。.

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足利氏

足利氏(あしかがし)は、日本の武家のひとつの軍事貴族。本姓は源氏。家系は清和天皇清和源氏の一族の河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府においては御家人であると同時に将軍家一門たる御門葉の地位にあった。室町時代には嫡流が足利将軍家として天下人となった。藤原秀郷の子孫の藤原姓足利氏(藤姓足利氏)に対して源姓足利氏という場合がある。 通字は、「義」(よし、足利将軍家ほか)または「氏」(うじ、鎌倉時代の歴代当主および鎌倉公方・古河公方家など)。.

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足利泰氏

足利 泰氏(あしかが やすうじ)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府の御家人。足利家3代目当主足利義氏の嫡男。足利宗家4代当主奥富、2008年、p.92-111。小谷、1980年。。室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏の高祖父。.

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郡(ぐん)は、行政区画の一種。中国・日本・朝鮮などの漢字文化圏に導入されたものである。 なお、欧米などの行政区画の一部を日本語に翻訳するときに、訳語としてこの語を当てることがある(カウンティも参照)。.

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赤目城

赤目城(あかめじょう)は現在の愛知県愛西市赤目町に存在した日本の城(平城)。.

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赤橋登子

赤橋 登子(あかはし とうし / なりここの頃は女性に関する史料が乏しく、今日、その名の読みが分からぬ場合は「彰子」(平安時代)を「しょうし」と読むように完全音読みで読まれるのが通例である。『朝日日本歴史人物事典』(コトバンク所収、西尾和美執筆)では藤原登子(平安時代)と同じ「なりこ」とも併記されている(角田文衛『日本の女性名』(国書刊行会版)P178にも「なりこ」とある)。尚、吉川英治の『私本太平記』及びそれを原作とした大河ドラマ『太平記』では「とうこ」と呼ばれていたが、これはいわゆる重箱読みで正確とは言い難い。、徳治元年(1306年) - 正平20年5月4日(1365年5月25日))は、日本の鎌倉時代から南北朝にかけての女性。室町幕府初代将軍・足利尊氏の正室。.

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関幸彦

関 幸彦(せき ゆきひこ、1952年(昭和27年)5月 - )は、日本の歴史学者。日本大学文理学部教授。専門は日本中世史。.

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関東

関東(かんとう)とは、日本の中の、特定の地域・地方を指す言葉・概念である。.

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門葉

葉(もんよう)とは、一般的に血縁関係がある一族を指す。後に、擬似的な血縁関係で編成された家臣団での格式を指す名称としても使用される。鎌倉幕府においては源頼朝(鎌倉殿)の一門としての処遇を受けた者をいう。御門葉(もんよう)とも。.

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藤原頼嗣

藤原 頼嗣(ふじわら の よりつぐ)は、鎌倉幕府5代将軍。五摂家のひとつ、九条家の出身の摂家将軍。九条頼嗣とも呼ばれる。.

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藤原頼経

藤原 頼経(ふじわら の よりつね)は、鎌倉幕府の第4代征夷大将軍。摂家から迎えられた摂家将軍。九条頼経とも呼ばれる。 両親ともに源頼朝の同母妹坊門姫の孫であり、前3代の源氏将軍とは血縁関係にある。妻は源頼家の娘竹御所。 竹御所は難産の末、母子共に亡くなり、源頼朝直系である源氏将軍の血筋は断絶した。頼経は反執権勢力に利用されるようになり、第5代執権北条時頼によって京都へ追放された(宮騒動)。.

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肥後国

肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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金沢文庫

在の神奈川県立金沢文庫新館 金沢文庫(かねさわぶんこ、かなざわぶんこ)は、鎌倉時代中期の日本において、金沢流北条氏の北条実時が設けた日本最古の武家文庫。所在地は神奈川県横浜市金沢区金沢町142。 金沢流北条氏が領し、のちに館や菩提寺である称名寺を建立して本拠地として開発し、家名の由来となった地である武蔵国久良岐郡六浦荘金沢郷に所在したことが名称の由来である。現在は「神奈川県立金沢文庫」の名称で県立の歴史博物館となっており、様々な所蔵品を保管・展示している。.

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長崎円喜

長崎 円喜(ながさき えんき)は、鎌倉時代後期から末期にかけての武士。北条氏得宗家被官である御内人・内管領。長崎氏の一族。父は長崎光綱。円喜(圓喜・円基)は法名で、俗名は系図類では高綱(たかつな)とされるが、当時の文書では盛宗(もりむね)と記されている。 『太平記』や『保暦間記』において、嫡子高資と共に、北条得宗家以上の絶大な権力をふるった様子が描かれている。.

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長井氏

長井氏(ながいし)は日本の氏族のひとつ。著名なものとして、以下の3氏族がある。.

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長井時秀

長井 時秀(ながい ときひで、生没年不詳)は、鎌倉時代中期の人物、鎌倉幕府の御家人安田、1990年、p.432 「長井時秀」の項(執筆:下山忍)。『朝日日本歴史人物事典』(コトバンク所収)「長井時秀」(執筆:佐々木文昭)より。。長井泰秀の子。母は佐々木信綱の娘。妻は安達義景の娘。大江時秀とも呼ばれる。法名は西規。.

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長門探題

長門探題(ながとたんだい)は、一般には1276年(建治2年)に鎌倉幕府が元寇に対処するため、長門国に設置した最前線防衛機関の呼称として知られる。長門守護の権能を受け継ぎ拡大したものと考えられるが、詳細は不明。初代に相当するとされる北条宗頼以後、北条氏一門が任命された。史料上では、北条時直に対してのみ「長門周防探題」の称が確認されている(『忽那文書』元弘三年三月二十八日「忽那重清軍忠状」)。.

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連署

連署(れんしょ)とは、鎌倉幕府の役職。執権の補佐役であり執権に次ぐ重職で、実質上の「副執権」である。1224年(元応3年)、北条泰時が叔父の北条時房を任命したのが最初。幕府の公文書に執権と連名で署名したためにこの名がある。執権複数制とも称される。.

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東勝寺合戦

東勝寺合戦(とうしょうじがっせん)は、鎌倉時代末期の1333年(元弘3年、正慶2年)に相模国鎌倉(現在の鎌倉市)で行われた戦い。1331年(元弘元年、元徳3年)から開始された後醍醐天皇の倒幕運動である元弘の乱の最後の戦いで、鎌倉幕府は滅亡した。東勝寺は、第3代執権の北条泰時が退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を開山として葛西ヶ谷(鎌倉市小町)に創建した北条氏の菩提寺である。.

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桜田時厳

桜田 時厳(さくらだ じごん、生年未詳 - 応長元年10月26日(1311年12月6日))は、鎌倉時代中期から後期にかけての僧。父は鎌倉幕府5代執権・北条時頼。8代執権北条時宗の異母弟。母は不明。桜田禅師、相模禅師とも。名は時教とする系図もある。子に師頼、貞国、定宗、他。 教〈厳〉恵法印(または左大臣法印厳恵〈忠〉)の弟子。桜田流北条氏の祖。名字は武蔵国桜田郷(現東京都)に由来するという。時厳に関する『吾妻鏡』『尊卑分脈』での記録は見られないが、桜田流の一族は鎮西に下向し、子の三河守師頼は鎌倉時代最末期に大隅国守護となり、鎮西評定衆を務めている。その弟貞国(瓜連とも)は鎌倉にあって元弘の乱で有力武将として戦っている。.

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横井小楠

横井 小楠(よこい しょうなん)は、日本の武士(熊本藩士)、儒学者。横井 時存(よこい ときひろ/ときあり)とも呼ばれる。 熊本藩において藩政改革を試みるが、反対派による攻撃により失敗。その後、福井藩の松平春嶽に招かれ政治顧問となり、幕政改革や公武合体の推進などにおいて活躍する。明治維新後に新政府に参与として出仕するが暗殺された。 本姓は平氏で、北条時行の子孫を称していた。諱は「時存」(「ときひろ」「ときあり」)であり、正式な名のりは平 時存(たいら の ときひろ/ときあり)。通称は「平四郎」で、北条平四郎時存、北条四郎平時存ともいう。 「小楠」は彼が使った号の一つで、楠木正行(小楠公)にあやかって付けたものとされる(熊本市)。他の号に畏斎(いさい)、沼山(しょうざん)がある。字は子操。.

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横井也有

横井 也有(よこい やゆう)は、江戸時代の武士、国学者、俳人。.

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樋口州男

樋口 州男(ひぐち くにお、1945年 - )は、日本の歴史学者。専修大学非常勤講師、拓殖大学非常勤講師。日本中世の武士などを研究する。.

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正中の変

正中の変(しょうちゅうの へん)は、鎌倉時代後期の元亨4年9月(1324年10月)に起きた、後醍醐天皇による討幕計画が事前に発覚し首謀者が処分された事件。この年は12月9日に改元あって正中元年となったため、日本史の上ではこの改元後の元号をとって「正中の変」と呼んでいる。.

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正慶

正慶(しょうきょう、しょうけい)は、日本の元号の一つ。持明院統(後の北朝)方にて使用された。元徳の後、元弘の前。1332年から1333年5月25日までの期間を指す。この時代の天皇は大覚寺統(南朝)の後醍醐天皇だが、幕府方は持明院統の光厳天皇を立てた。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

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武士団

武士団(ぶしだん)とは主に平安時代後半から、鎌倉時代、南北朝時代を中心に室町時代までの武士の集団を指す。1930年代から日本中世史での学術用語として使用され始めた。中世史研究史上においては「武士」と同義語として扱われることもあるが、「武士」は中世から近世(江戸時代)までを対象とし、また「武士」論は「武士団」を率いる「侍」のみを対象とすることもあるに対し、「武士団」ではその郎党も含めた社会的実態が問題とされる。 『後三年合戦絵詞』「雁行の乱れ」の騎馬武者 『後三年合戦絵詞』の「雁行の乱れ.

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武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

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武田信時

武田 信時(たけだ のぶとき、承久2年5月17日(1220年6月19日) - 正応2年2月9日(1289年3月2日)「甲斐信濃源氏綱要」(『系図綜覧』所収)武田信時項の傍注による。)は、鎌倉時代中期の武将。甲斐武田氏の第7代当主。室町・戦国期の甲斐国守護武田宗家に至る信時流武田氏の祖。通称は武田五郎次郎。 父は第6代当主・武田信政。母は大内惟義の娘と伝わる。兄弟に政綱(五郎三郎)。子に武田時頼、武田政頼、武田時綱、武田信実などがいる。.

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武田時綱

武田 時綱(たけだ ときつな、寛元3年1月3日(1245年2月1日) - 徳治2年7月3日(1307年8月1日)「甲斐信濃源氏綱要」(『系図綜覧』所収)武田時綱項の傍注による。)は、鎌倉時代の武将。武田氏の第8代当主。第7代当主・武田信時の子。母は右馬権頭頼茂(源頼茂か)の娘と伝わる。第9代当主・武田信宗の父。.

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武蔵国

武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。.

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比企能員の変

比企能員の変(ひきよしかずのへん)は、鎌倉時代初期の建仁3年(1203年)9月2日、鎌倉幕府内部で起こった政変。2代将軍源頼家の外戚として権勢を握った比企能員とその一族が、北条時政の謀略によって滅ぼされた。.

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毛利時親

毛利 時親(もうり ときちか)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将で安芸毛利氏の当主。毛利経光の四男。大江広元の曾孫にあたる。戦国時代に中国地方の覇者となる安芸毛利氏の祖である。吉田郡山城の築城者とされ、若き頃の楠木正成に兵法(闘戦経)を教えたという伝承もある。.

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氏族

氏族(しぞく、うじぞく、clan)とは、共通の祖先を持つ血縁集団、または、共通の祖先を持つという意識・信仰による連帯感の下に結束した血縁集団のこと。 単系出自集団(unilineal descent group。特定の祖先から男性または女性のみを通じて親子関係がたどれる子孫の作る集団)の一つ。特定の男性祖先から男性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を父系出自集団といい、特定の女性祖先から女性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を女系出自集団という。 これらの集団のうち、成員が互いの系譜関係、あるいは共通祖先との系譜関係を把握している集団はリニエッジ(lineage)といい、伝説上・神話上の共通祖先を持っているという意識・信仰があるのみで、系譜関係がはっきりしない集団をクラン(clan)と呼んで、両者を区別する。 同じ氏族の男女の結婚を禁じる結婚規制が広く見られる(氏族外婚)。これは、互いの系譜関係がたどれぬ場合であっても同じ氏族であれば血縁関係を擬制して規制することから、必ずしも近親婚の禁止とは重ならない。.

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永井晋

永井 晋(ながい すすむ、1959年 - )は日本の歴史学者。金沢文庫主任学芸員。日本中世前期の政治史・国制史専攻。 群馬県出身。1986年國學院大學大学院博士課程後期中退。2008年「金沢北条氏の研究」で國學院大学博士(歴史学)取得。.

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江の島

江の島(えのしま)は、神奈川県藤沢市にある湘南海岸から相模湾へと突き出た陸繋島。また、同島全体を指した地名。片瀬地区(旧片瀬町地域)に属する。現行行政町名は江の島一丁目及び江の島二丁目で、全域が住居表示実施地域。郵便番号は251-0036(藤沢郵便局管区)。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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河越氏

河越氏(かわごえし)は、日本の氏族の一つ。川越・河肥とも表記されることがあった。.

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津軽地方

南部地方 津軽地方(つがるちほう)とは、現在の青森県西部を指して言う地域呼称。江戸時代に津軽氏が支配した領域(弘前藩・黒石藩の領域)および津軽郡の領域にほぼ相当する。 明治維新で陸奥国(むつのくに)が分割されて設置された陸奥国(りくおうのくに。青森県全域と岩手県西北部)の異称「津軽国」とは異なる。.

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淵辺義博

淵辺 義博(ふちべ よしひろ、ふちのべ よしひろ、生年不明 - 建武2年(1335年)は、南北朝時代の武将。相模国高座郡大野村渕辺原(現在の神奈川県相模原市中央区淵野辺周辺)の地頭で、足利直義の家臣。淵野辺城主。通称は伊賀守。淵辺氏は武蔵七党の横山氏一門の野辺氏(矢部氏)の支流といわれている。.

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清和源氏

清和源氏(せいわげんじ)は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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源実朝

源 実朝(みなもと の さねとも、實朝)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍。 鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡出の次男頼朝の子としては第6子で四男、北条政子の子としては第4子で次男として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。 歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として『金槐和歌集』がある。小倉百人一首では鎌倉右大臣とされている。.

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源平闘諍録

『源平闘諍録』(げんぺいとうじょうろく)は、軍記物語のひとつ。一般的に『平家物語』の異本と見なされている。.

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源頼家

岡八幡宮参道の段葛 源 頼家(みなもと の よりいえ)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男で母は北条政子(頼朝の子としては第3子で次男、政子の子としては第2子で長男)。 父・頼朝の急死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、征夷大将軍となる。若年の頼家による従来の習慣を無視した独裁的判断が御家人たちの反発を招き、疎外された母方の北条氏を中心として十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられたとされるが、当事者である北条氏の史書以外にそういった記録は存在せず、真偽は定かではない。 合議制成立の3年後に頼家は重病に陥ったとされ、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡した。頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉された後、暗殺された。頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握る事になる。.

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源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.

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源氏嫡流

源氏嫡流(げんじちゃくりゅう)は、源氏の嫡流、すなわち本家・宗家(またはこれと認められた家)の血統をいう。ただし、そうした地位や名分があったわけではない。親子関係において「嫡子」のようなものは、父親の本拠地の相続した後継者に対してあったともいえるが、それが必ずしも系譜としての嫡流意識となったかどうかは問題がある。.

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惟康親王

惟康親王(これやすしんのう)は、鎌倉幕府第7代征夷大将軍。6代将軍宗尊親王の嫡男。.

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戎光祥出版

戎光祥出版株式会社(えびすこうしょうしゅっぱん)は、東京都千代田区にある神道、日本史、鉄道、銭湯などに関する書籍を刊行する出版社。.

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戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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海西郡 (愛知県)

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斯波氏

斯波氏(しばし)は、日本の武家のひとつ。室町幕府将軍足利氏の有力一門であり、かつ細川氏・畠山氏と交替で管領に任ぜられる有力守護大名であった。越前・尾張・遠江などの守護を世襲し、また分家の大崎氏は奥州探題、最上氏は羽州探題を世襲した。明治維新後に男爵家となった源姓津田氏も、その末裔の一つである。.

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新人物往来社

株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.

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新田義貞

新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。 鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった。ただし、鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。 鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗した。これにより各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。 死後、江戸時代に義貞が着用していた兜が偶然見つかり、福井藩主松平光通は兜が発見された場所に新田塚を建てた。明治時代、福井知藩事・松平茂昭は新田義貞のために新田塚に祠を建て、のち義貞を主祭神する藤島神社となり、建武中興十五社の一つに列せられた。.

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文治

文治(ぶんじ)は、日本の元号の一つ。元暦の後、建久の前。1185年から1189年までの期間を指す。この時代の天皇は後鳥羽天皇。.

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日向国

日向国(ひゅうがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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日下部氏

日下部氏(くさかべうじ)は、「日下部」を氏の名とする氏族。.

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摂家将軍

摂家将軍(せっけしょうぐん)は、鎌倉幕府将軍のうち、摂家から迎えられた将軍のこと。源氏将軍が絶えた後を継いだ第4代・藤原頼経と、その嫡男の第5代・藤原頼嗣の2人がこれにあたる。藤原将軍あるいは公卿将軍とも呼ばれる。.

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愛西市

船頭平閘門 愛西市役所のある旧佐屋町地区周辺の空中写真。1987年撮影の2枚を合成作成。国土航空写真。 愛西市(あいさいし)は、愛知県西部の市である。.

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承久の乱

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。承久の変、承久合戦ともいう。 日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。 1185年に鎌倉幕府が成立した以降、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていた。その間、幕府の初代将軍の源頼朝が落馬で死亡、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺され、天皇家の血を引く源氏将軍が鎌倉から滅亡した。その1219年以降、鎌倉は伊豆を収める世襲一族の北条氏が実権を握り、さらに北条氏は、幕府内で朝廷の代理人である執権であったが、幕府を実質的に手中に収めるに至り、日本を統治するのは朝廷であり朝廷主導の政治が本来の姿とする朝廷側の怒りが高まっていった。この2年後に起きた承久の乱の結果、鎌倉幕府主導の政治体制が固まり、朝廷を監視する六波羅探題を京都に置き、朝廷の権力は制限され、皇位継承等にも鎌倉幕府が影響力を持つようになった。.

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思文閣出版

思文閣出版(しぶんかくしゅっぱん)は、京都府京都市左京区にある出版社。美術商思文閣の出版部で、人文系・美術系の書籍を刊行している。絶版となった古書や花道、歴史、国文、芸術などのオリジナル企画書を刊行している。ベストセラーにならなくても、命の長い本を出版していく方針を取っている[こんな出版社]思文閣出版 命の長い本作る 読売新聞 2007年9月27日 大阪夕刊7頁。所在地同ビルに企画展をメインとする美術館・思文閣美術館(しぶんかくびじゅつかん、2011年4月10日より休館中)、京都市東山区古門前通大和大路東入元町386にぎゃらりぃ思文閣を運営する。.

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1189年

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1333年

記載なし。

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1335年

記載なし。

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1958年

記載なし。

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1974年

記載なし。

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1979年

記載なし。

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2000年

400年ぶりの世紀末閏年(20世紀および2千年紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年のままとなる(グレゴリオ暦の規定による)。。Y2Kと表記されることもある(“Year 2000 ”の略。“2000”を“2K ”で表す)。また、ミレニアムとも呼ばれる。 この項目では、国際的な視点に基づいた2000年について記載する。.

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2003年

この項目では、国際的な視点に基づいた2003年について記載する。.

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2004年

この項目では、国際的な視点に基づいた2004年について記載する。.

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2009年

この項目では、国際的な視点に基づいた2009年について記載する。.

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2011年

この項目では、国際的な視点に基づいた2011年について記載する。.

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2012年

この項目では、国際的な視点に基づいた2012年について記載する。.

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2013年

この項目では、国際的な視点に基づいた2013年について記載する。.

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