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土御門天皇

索引 土御門天皇

土御門天皇(つちみかどてんのう、建久6年11月1日または12月2日(1195年12月4日または1196年1月3日) - 寛喜3年10月11日(1231年11月6日))は、鎌倉時代の第83代天皇(在位:建久9年1月11日 (1198年2月18日) - 承元4年11月25日(1210年12月12日))。諱は為仁(ためひと)。 後鳥羽天皇の第一皇子。母は、源通親の養女(法勝寺執行法印能円の女)承明門院・源在子。.

109 関係: 即位大炊御門麗子大麻町大阪府天台座主天皇天皇陵太上天皇宮中三殿宮内庁守護寛喜尊助法親王島本町平滋子平時信京都京都府仁助法親王建久建仁建永御家人御所神社 (阿波市)御所村 (徳島県)徳島県後嵯峨天皇後白河天皇後鳥羽天皇土佐国北陸宮北条時政園城寺別当出家准后元久四天王寺皇居火葬立太子熊野三山検校鎌倉鎌倉幕府鎌倉時代順徳天皇高倉天皇譲位鳥羽天皇...鳴門市践祚能円阿波市阿波国阿波神社藤原信隆藤原信輔藤原範子藤原範兼藤原範光藤原璋子藤原盛実藤原頼実藤原通基 (大蔵卿)藤原殖子長岡京市退位院政正治水無瀬神宮池谷法住寺 (京都市)法勝寺源在子源頼朝源通子源通宗源通親源有雅斎宮承久の乱承元曦子内親王10月11日 (旧暦)10月25日 (旧暦)1195年1196年1198年1199年11月1日 (旧暦)11月25日 (旧暦)11月6日1201年1204年1206年1207年1210年1221年1231年12月12日12月2日 (旧暦)12月4日1月11日 (旧暦)1月3日2月13日 (旧暦)2月18日2月20日 (旧暦)4月27日 (旧暦) インデックスを展開 (59 もっと) »

即位

即位(そくい)とは、亡くなったり、譲位した君主(皇帝、国王など)の跡を継いで、その君主位に就くことである。君主の第一子や弟が皇太子(王太子)や皇太弟(王太弟)に就任し、先代君主が亡くなった後に継ぐことがある。最大の式典という意味の「大典(たいてん)」の語を以て即位を指す(反対語は君主の死と葬儀を指す「大喪」)。 即位に際して儀式を執り行うことも多く、戴冠式(即位式)と呼ばれる。一般的に即位時期に合わせて行われるが、国内の政情不安や先代君主への服喪、財政難などを理由に数年後に実施されることもある。.

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大炊御門麗子

大炊御門 麗子(おおいのみかど/おおいみかど れいし、元暦2年/文治元年(1185年) - 寛元元年9月18日(1243年11月1日))は、鎌倉時代の后妃、女院。太政大臣大炊御門頼実の女(母は左京大夫藤原定隆の女、藤原隆子)で、土御門天皇の中宮となる。院号は陰明門院(おんめいもんいん)。 建久9年(1198年)、土御門天皇の大嘗祭の際に女御代を務め、元久2年(1205年)4月、21歳で10歳年下の土御門天皇のもとに入内して女御宣下を受け、同年7月に中宮に冊立される。子を産むこともないまま、承元4年(1210年)3月に院号宣下を受け、同年11月には土御門天皇が異母弟の守成親王(順徳天皇)に譲位した。 承久3年(1221年)1月に麗子は出家し、法号を清浄妙と称する。同年5月には承久の乱が勃発し、乱の終結後、土御門上皇は乱に直接関与していなかったにもかかわらず、父後鳥羽上皇の隠岐国への配流が決定すると、自ら望んで土佐国に配流されたが、麗子は同行せず京に留まった。 寛喜3年(1231年)、土御門上皇が配流先の阿波国で崩御すると、麗子は自身の封戸、年官、年爵を辞して隠遁し、寛元元年(1243年)、59歳で崩御した。.

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大麻町

大麻町(おおあさちょう)は、かつて徳島県板野郡にあった町。 現在の鳴門市大麻町(萩原・三俣・川崎・津慈・桧・板東・姫田・大谷・池谷・松村・高畑・牛屋島・東馬詰・中馬詰・西馬詰・市場)。.

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大阪府

大阪府(おおさかふ)は、近畿地方に属する日本の都道府県の一つ。府庁所在地は大阪市。.

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天台座主

天台座主(てんだいざす)は、日本の天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職。「山の座主」とも呼ばれた。ただし、比叡山に居住することは少なく、重要な修法、儀式の時のみ入山する座主が多かった。.

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天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

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天皇陵

大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵) 天皇陵(てんのうりょう)は、天皇の墓。.

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太上天皇

太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)とは、譲位により皇位を後継者に譲った天皇の尊号、または、その尊号を受けた天皇。由来は、中国の皇帝が位を退くと「太上皇」と尊称されたことにあるとされる。元々は譲位した天皇が自動的に称する尊号であったが、嵯峨天皇の譲位以降は新天皇から贈られる尊号に変化した。 略称は「上皇」である。また、出家した太上天皇を、「太上法皇(法皇)」と称する。ただし、これは法的な根拠のある身位ではなく、太上法皇も太上天皇に含まれる。また、太上法皇の称号が用いられた初例は宇多法皇とされており、聖武上皇や清和上皇などそれ以前の退位後に出家した太上天皇には太上法皇(法皇)を用いるのは正確な表現ではない。 「院」とも称され、太上天皇が治天の君として政務を執った場合、その政治を院政という(太上天皇がみな院政をしいた訳ではない)。三宮(后位)と合わせて「院宮」といい、更に、皇族や有力貴族を含めた総称を「院宮王臣家」といった。院の御所が仙洞御所と呼ばれたことから、「仙洞」も上皇の謂として用いられる。.

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宮中三殿

宮中三殿(きゅうちゅうさんでん)は、皇居にある、賢所(かしこどころ、けんしょ)、皇霊殿(こうれいでん)、神殿(しんでん)の総称。吹上御苑の東南にある。.

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宮内庁

宮内庁(くないちょう、Imperial Household Agency)は、日本の行政機関の一つである。 「皇室関係の国家事務、天皇の国事行為にあたる外国の大使・公使の接受に関する事務、皇室の儀式に係る事務をつかさどり、御璽・国璽を保管する内閣府の機関」である。 なお、宮内庁はかつて総理府の外局」であったが、現在は内閣府の外局(内閣府設置法第49条・第64条)ではなく「内閣府に置かれる独自の位置づけの機関」とされている(内閣府設置法48条)。官報の掲載では内閣府については「外局」ではなく「外局等」として宮内庁を含めている。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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寛喜

寛喜(かんぎ、かんき)は、日本の元号の一つ。安貞の後、貞永の前。1229年から1231年までの期間を指す。この時代の天皇は後堀河天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。.

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尊助法親王

尊助法親王(そんじょほっしんのう、建保5年(1217年) - 正応3年12月1日(1291年1月2日))は、鎌倉時代中期の法親王。父は土御門天皇。母は法印尋恵の娘。後嵯峨天皇らの異母兄弟。青蓮院・大原宮と号した。.

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島本町

役場付近から天王山を望む 島本町(しまもとちょう)は、大阪府北部の北摂三島地域に位置する町。 京都府南西部の乙訓郡大山崎町と隣接。桂川・宇治川・木津川が山崎地峡で合流して淀川となる場所にあり、京都盆地から大阪平野へ抜ける交通の要衝として古くから栄えた。大阪市や京都市のベッドタウンとして住宅地開発も進んでいる。.

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平滋子

平 滋子(たいら の しげこ、康治元年(1142年) - 安元2年7月8日(1176年8月14日))は、後白河天皇の譲位後の妃。高倉天皇の生母。女御、皇太后、女院。桓武平氏高棟流、いわゆる堂上平氏の生まれ。父は兵部権大輔・平時信(贈左大臣)、母は中納言・藤原顕頼の娘、祐子(すけこ)。兄弟に時忠・親宗、姉妹に二位尼時子(平清盛継室)・冷泉局(建春門院女房)・清子(宗盛の室)・坊門殿(重盛の室、維盛母の可能性あり)・藤原親隆の室(権少僧都・全真の母)・帥局(建礼門院女房)がいる。院号は建春門院(けんしゅんもんいん)。.

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平時信

平 時信(たいら の ときのぶ)は、平安時代末期の公家。桓武平氏高棟王流・堂上平氏の一族。兵部大輔・平知信の子。高倉天皇の外祖父。官位は正五位下・検非違使・兵部権大輔、贈正一位・左大臣。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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京都府

京都府(きょうとふ)は、日本の近畿地方の都道府県の一つ。延暦13年(794年)の平安京遷都以来、天皇の御所がある。令制国でいう山城国の全域、丹波国の東部および丹後国の全域を府域とする。府庁所在地は京都市。.

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仁助法親王

仁助法親王(にんじょほうしんのう、建保2年(1214年) - 弘長2年8月11日(1262年9月25日))は、鎌倉時代中期の皇族・天台宗寺門派の僧侶。土御門天皇の皇子。母は源通子。後嵯峨天皇は同母弟にあたる。 土御門天皇と源通子の間の子は、承久の乱後に父である土御門天皇が土佐国に配流されたこともあって皇位継承の可能性が失われており、最年長の皇子であった仁助を始めとする男子は園城寺に入って出家している。仁助は円浄を師として、仁治2年(1241年)に灌頂の儀式を行って円満院門跡となっている。ところが、翌仁治3年(1242年)に四条天皇が崩御し、諸事情で出家が遅れていた仁助の実弟・邦仁王が急遽皇位に就くと、新帝・後嵯峨天皇の兄ということで同年4月15日に親王宣下を受けて法親王となり(『百錬抄』)、続く7月17日には園城寺の長吏に任じられた(『三井続灯記』長吏次第)。更に寛元元年(1243年)に土御門天皇の中宮であった大炊御門麗子(陰明門院)が没すると、彼女の邸宅である四条坊城殿や所領が仁助に与えられた。なお、土御門天皇の御陵は京都郊外の金ヶ原にあったため、それ以前は京都市中で大規模な法要を行う機会を持てなかったが、この相続により、仁助は自己の所有となった四条坊城殿にて父母の法華八講を行っている。建長元年(1249年)には四天王寺の別当に任ぜられる。 後嵯峨天皇の治世、続く同上皇の院政下において仁助はその相談役的存在であり、近衛兼経・西園寺実氏・土御門定通・久我通光ら朝廷の重鎮とともにたびたび重要政策や人事に関する諮問を受けている。また、鎌倉幕府も仁助を後嵯峨天皇(院)とのパイプ役として重視しており、京都の朝廷に派遣された使者が仁助とも会見を持っている。僧侶である仁助による朝廷・院政への公然・非公然の関与は異例ではあったものの、後見人のいないまま即位した後嵯峨天皇を支える存在として公家社会でも広く認識されていた。公家の1人である葉室定嗣は仁助の活躍で朝廷の中興が進み、朝廷から佞臣がいなくなったとして、仁助の政務関与を肯定している(『葉黄記』宝治2年11月21日条)。 弘長2年(1262年)、49歳で没した。.

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建久

建久(けんきゅう)は、日本の元号の一つ。文治の後、正治の前。1190年から1198年までの期間を指す。この時代の天皇は後鳥羽天皇、土御門天皇。.

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建仁

建仁(けんにん)は、日本の元号の一つ。正治の後、元久の前。1201年から1203年までの期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源頼家、源実朝、執権は北条時政。.

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建永

建永(けんえい)は、日本の元号の一つ。元久の後、承元の前。1206年から1207年の期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府征夷大将軍は源実朝、執権は北条義時。.

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御家人

御家人(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の家人の身分を指す語であるが、中世と近世では意味合いが異なる。.

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御所神社 (阿波市)

御所神社(ごしょじんじゃ)は、徳島県阿波市土成町吉田に鎮座する神社である。土御門上皇御終焉地とも表記される。.

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御所村 (徳島県)

御所村(ごしょそん)は、徳島県にあった村。1955年 (昭和30年) 3月31日に合併して板野郡土成町になり消滅した。村名は、京都から流刑された土御門上皇が晩年を過ごした土地であることから命名された。.

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徳島県

徳島県(とくしまけん)は、日本の県の一つ。四国の東部に位置する。県庁所在地は徳島市。.

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後嵯峨天皇

後嵯峨天皇(ごさがてんのう、承久2年2月26日(1220年4月1日) - 文永9年2月17日(1272年3月17日))は、鎌倉時代の第88代天皇(在位:仁治3年1月20日(1242年2月21日) - 寛元4年1月29日(1246年2月16日))。諱は邦仁(くにひと)。 土御門天皇の皇子。母は、源通宗の娘、通子。.

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後白河天皇

後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。.

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後鳥羽天皇

後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇(在位:寿永2年8月20日(1183年9月8日) - 建久9年1月11日(1198年2月18日))。諱は尊成(たかひら・たかなり)。高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。 文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが、この承久の乱で朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。.

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土佐国

土佐国(とさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

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北陸宮

北陸宮(ほくろくのみや、永万元年(1165年) - 寛喜2年7月8日(1230年8月17日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期の皇族。源義仲軍に挙兵の正当性として奉じられていた。木曾宮・還俗宮・加賀宮・野依宮・嵯峨の今屋殿などと呼ばれる。.

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北条時政

北条 時政(ほうじょう ときまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。伊豆国の在地豪族の北条時家か北条時方(もしくは時兼)の子。源頼朝の正室・北条政子の父。鎌倉幕府の初代執権。 家系は桓武平氏平直方流を称する北条氏であるが、直方流は仮冒で伊豆国の土豪出身という説もある。.

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園城寺

園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗の総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。 開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩である。日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。 なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。.

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別当

別当(べっとう)は、本来、律令制において本官を持つ者が他の官司の職務全体を統括・監督する地位に就いた時に補任される地位。後に官司の長官一般を指すようになり、このことから転じて、以下のような複数の意味を持つ。.

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出家

出家(しゅっけ、pabbajja、pravrajyaa、प्रव्रज्या) とは、師僧から正しい戒律である『沙弥戒』や『具足戒』を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教に入ることである。落飾(らくしょく)ともいう。対義語は還俗(げんぞく、“俗界に還る”の意)。 在家(ざいけ)と対比される。インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行にいそしんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、釈迦もその沙門の1人であった。 仏教における出家の伝統はこれに由来する。仏教教団において剃髪(ていはつ)して袈裟を被い、「正式に受戒(じゅかい)して入門した沙弥や沙弥尼」になることを言うが、その後、「具足戒を受けて正規の僧となった比丘や比丘尼」を呼ぶ場合にも使う。.

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准后

准后(じゅごう)は、日本の朝廷において、太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられた者、またその待遇・称号。正式には准三宮(じゅさんぐう)といい准三后(じゅさんごう)ともいう。准后は略称である。清和天皇外祖父の藤原良房に三宮に準じた待遇を与えたのをはじめとし、当初は経済的処遇が主であったが、のちには称号を与えるだけとなった。.

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元久

元久(げんきゅう)は、日本の元号の一つ。建仁の後、建永の前。1204年から1206年までの期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源実朝、執権は北条義時。.

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四天王寺

四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区四天王寺にある寺院。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音菩薩(くせかんのんぼさつ)である。「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)ともいう。 『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている。 宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に「和宗」の総本山として独立している。.

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皇居

皇居の正門石橋(この奥に正門鉄橋(通称二重橋が架かる) 皇居(こうきょ)は、天皇の平常時における宮殿・住居である。現在は東京都千代田区にある。「皇居」の呼称が広く用いられるようになったのは現在の皇居からである。.

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火葬

火葬(かそう)とは、葬送の一手段として遺体を焼却することである。また、遺体の焼却を伴う葬儀全体も指す。 火葬を行う施設や建築物を火葬場と呼ぶ。.

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立太子

立太子(りったいし)は、広く東アジアにおいて広まった儀礼で、日本の天皇・中国の皇帝の皇子等を跡継ぎとして太子に立てることである。また、日本においてはこの概念が定着していることから、ヨーロッパの王家に対しても、「立太子」の語を用いることがある。.

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熊野三山検校

野三山検校(くまのさんざんけんぎょう)は、京都において熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の統轄に当った役職で、11世紀末に現地を統括していた熊野別当の上に設置された。.

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鎌倉

鎌倉(かまくら)は、現在の神奈川県鎌倉市の中心部に当たる地域。源頼朝を旗頭として、北条時政、北条義時らによって鎌倉幕府が置かれた都市であり、三浦半島の付け根に位置し、相模湾に面している。古くは鎌府(れんぷ)とも呼ばれた。三方を山に、一方を海に囲まれている。 鎌倉大仏.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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順徳天皇

順徳天皇(じゅんとくてんのう)は、鎌倉時代の第84代天皇(在位:承元4年11月25日(1210年12月12日) - 承久3年4月20日(1221年5月13日)) - コトバンク - コトバンク 『秋山喜代子』 - コトバンク 『山本博也』。諱は守成(もりなり)。 後鳥羽天皇の第三皇子。母は、藤原範季の娘・重子(修明門院)。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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高倉天皇

倉天皇(たかくらてんのう、応保元年9月3日(1161年9月23日) - 治承5年1月14日(1181年1月30日))は、平安時代末期の第80代天皇(在位:仁安3年2月19日(1168年4月9日) - 治承4年2月21日(1180年3月18日))。諱は憲仁(のりひと)という。 後白河天皇の第7皇子。母は皇太后平滋子(建春門院)。安徳天皇、後鳥羽天皇らの父。.

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譲位

譲位(じょうい)は、君主が生きている間に、その地位を後継者へ譲り渡す行為である。.

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鳥羽天皇

鳥羽天皇(とばてんのう、旧字体:鳥羽、康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日(1107年8月9日) - 保安4年正月28日(1123年2月25日))。諱は宗仁(むねひと)。 堀河天皇の皇子。母は贈皇太后・藤原苡子。子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年に渡り院政を敷いた。.

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鳴門市

市(なるとし)は、四国の東端、徳島県の北東端に位置し、鳴門海峡の西側に位置する市。旧板野郡。 兵庫県神戸市方面に通じる神戸淡路鳴門自動車道の四国側玄関口である。淡路島との間には市名の由来となった鳴門海峡があり、渦潮(鳴門の渦潮)が有名である。 鳴門公園やドイツ館など多数の観光地を抱える徳島県下有数の観光都市であると同時に、地元発祥の大塚グループ関連の工場や企業、施設が多数立地する企業城下町としての側面も持ち合わせている。 第一次世界大戦当時には、板東俘虜収容所と呼ばれたドイツ人の収容所があり、日本で初めてベートーヴェンの第九の演奏が行われた。また、大麻地区には四国八十八箇所霊場の1番札所である霊山寺があり、季節を問わず、白衣を着た遍路の姿が絶えない。特産品として、鳴門金時(なるときんとき)(金時)や鳴門わかめなどが有名である。.

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践祚

践祚(せんそ)とは、天子の位を受け継ぐことであり、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われる。古くは「践阼」と書き、「践」とは位に就くこと、「阼」は天子の位を意味する。これに続いて位に就いたことを内外に明らかにすることを即位という。.

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能円

能円(のうえん、保延6年(1140年) - 正治元年8月24日(1199年9月16日)は平安時代末期の僧侶。皇后宮亮・藤原顕憲(藤原盛実の子)の子。母は令子内親王に仕えた下女(一説には藤原家範の娘)で、異父兄姉に平時子・平時忠らがある。異母兄弟には藤原盛憲・憲親・経憲・玄顕らがあり、息女には在子(承明門院)・信子(堀川通具室)らがある。.

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阿波市

切幡寺大塔(国の重要文化財) 熊谷寺山門 阿波市(あわし)は、徳島県北東部の吉野川北岸に位置する市。人口は小松島市に次いで徳島県内で6番目に多い。.

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阿波国

阿波国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

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阿波神社

阿波神社(あわじんじゃ)は、徳島県鳴門市大麻町池谷に位置する神社。旧県社。.

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藤原信隆

藤原 信隆(ふじわら の のぶたか)は平安時代後期の公卿。藤原北家道隆流、右京大夫藤原信輔の子。後鳥羽天皇の外祖父。従三位・修理大夫。贈従一位・左大臣。七条修理大夫と号す。坊門家の祖であり、坊門 信隆とも記される。.

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藤原信輔

藤原 信輔(ふじわら の のぶすけ)は、平安時代後期の貴族。藤原北家道隆流、中納言・藤原経忠の子。官位は正四位下・右京大夫。.

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藤原範子

藤原 範子(ふじわら の はんし/ のりこ、1152年頃? - 正治2年8月4日(1200年9月13日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期の女官。刑部卿藤原範兼の娘。後鳥羽天皇の乳母。同じく乳母で権勢を誇ったことで知られる兼子(卿局)は妹。能円の妻、のち源通親の妻。後鳥羽天皇の妃である源在子の母で、土御門天皇の外祖母にあたる。従三位。通称は刑部卿局。子は他に源通光、源定通、源通方。.

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藤原範兼

藤原 範兼(ふじわら の のりかね)は、平安時代末期の公家。藤原南家貞嗣流。従三位大学頭、刑部卿。従四位下式部少輔藤原能兼(1086年 - 1139年)の長男。弟に範季。子に従二位権中納言範光、後鳥羽天皇の乳母で権勢を誇った事で知られる範子・兼子姉妹がいる。叔母(能兼の妹)は源頼政の母。.

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藤原範光

藤原 範光(ふじわら のりみつ、仁平4年(1154年) - 建暦3年4月5日(1213年4月27日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。従二位権中納言。.

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藤原璋子

藤原 璋子(ふじわら の しょうし / たまこ、康和3年(1101年)久安元年8月22日(1145年9月10日))は、平安後期の国母。鳥羽天皇の中宮で、崇徳・後白河両天皇の母。女院号は待賢門院(たいけんもんいん)。.

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藤原盛実

藤原 盛実(ふじわら の もりざね)は、平安時代後期の貴族。藤原北家勧修寺流、宮内卿・藤原憲輔の子。官位は正四位下・治部卿。藤原頼長の外祖父。.

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藤原頼実

藤原 頼実(ふじわら の よりざね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原北家大炊御門家、左大臣・藤原経宗の長男。官位は従一位・太政大臣。六条または中山を号す。大炊御門家3代当主。.

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藤原通基 (大蔵卿)

藤原 通基(ふじわら の みちもと)は、平安時代後期の貴族。鎮守府将軍藤原基頼の次男。母は筑前守藤原国仲の娘。正四位下、能登守、大蔵卿、左京大夫。持明院通基とも呼ばれる。.

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藤原殖子

藤原 殖子(ふじわら の しょくし(たねこ)、保元2年(1157年) - 安貞2年9月16日(1228年10月15日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。高倉天皇の後宮。後高倉院(守貞親王)と後鳥羽天皇の母。女院。坊門 殖子とも。父は従三位藤原(坊門)信隆。母は藤原休子(大蔵卿藤原(持明院)通基の女)。内大臣坊門信清は同母弟。院号は七条院(しちじょういん)。.

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長岡京市

長岡天満宮 長岡天満宮の霧島つつじ 光明寺「もみじ参道」 長岡京市(ながおかきょうし)は、京都府の南西に位置する市。.

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退位

退位(たいい、)は、君主がその地位を手放すことである。対義語は即位。権力を手放すかどうかはケースバイケースである。.

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院政

院政(いんせい)は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治である。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治形態である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。.

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正治

正治(しょうじ)は、日本の元号の一つ。建久の後、建仁の前。1199年から1200年までの期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源頼朝(死後は空位)。.

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水無瀬神宮

水無瀬神宮(みなせじんぐう)は、大阪府三島郡島本町にある神宮。旧社格は官幣大社。旧称は水無瀨宮。 後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇を祀る。 境内には、環境庁認定「名水百選」に選ばれた「離宮の水」がある。.

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池谷

池谷(いけや / いけたに / いけだに / いけのたに / いけがや).

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法住寺 (京都市)

法住寺(ほうじゅうじ)は、日本の京都市東山区にある天台宗の仏教寺院である。.

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法勝寺

京都市勧業館にあった法勝寺の模型(現在は京都市平安京創生館に移設) 法勝寺(ほっしょうじ)は、平安時代から室町時代まで平安京の東郊、白河(現在の岡崎公園、京都市動物園周辺)にあった、六勝寺のひとつである。 白河天皇が1076年(承保3年)に建立した。皇室から厚く保護されたが、応仁の乱以後は衰微廃絶した。.

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源在子

源 在子(みなもと の ありこ/ざいし、承安元年(1171年) - 正嘉元年7月5日(1257年8月15日))は、第82代後鳥羽天皇の妃で第83代土御門天皇の国母、女院。院号は承明門院(しょうめいもんいん)。父は法勝寺執行能円で母は藤原範兼の女藤原範子。源通親の養女。同母弟に久我通光、土御門定通、中院通方がいる。法名は真如妙。.

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源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.

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源通子

源 通子(みなもと の つうし、生年未詳 - 承久3年(1221年)8月)は、第83代土御門天皇の後宮で第88代後嵯峨天皇の生母。父は参議正四位下左近衛中将源通宗(源通親の長男、贈従一位左大臣)。 典侍となり、土御門天皇の寵愛を受けた。建暦元年(1211年)春子女王、建保元年(1213年)覚子内親王(准三宮、正親町院)、建保2年(1214年)仁助法親王、建保4年(1216年)静仁法親王、承久2年(1220年)邦仁王(のちの後嵯峨天皇)を産む。承久3年(1221年)8月、死去。後嵯峨天皇の即位により仁治3年(1243年)7月11日、贈皇太后。.

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源通宗

源 通宗(みなもと の みちむね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。内大臣・源通親の長男。後嵯峨天皇の外祖父。.

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源通親

源 通親(みなもと の みちちか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。七朝にわたり奉仕し、村上源氏の全盛期を築いた。内大臣正二位右大将。土御門 通親(つちみかど -)と呼ばれるのが一般的で、曹洞宗などでは久我(こが)通親と呼ばれている。.

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源有雅

源 有雅(みなもと の ありまさ)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての公卿。参議・源雅賢の長男。佐々木野を号し、佐々木野中納言と呼ばれた。.

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斎宮

斎宮の復元擬態(斎王まつり)三重県明和町 斎宮(さいぐう/さいくう/いつきのみや/いわいのみや)は古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所(現在の斎宮跡)であるが、平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指した。後者は伊勢斎王や伊勢斎宮とも称する。.

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承久の乱

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。承久の変、承久合戦ともいう。 日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。 1185年に鎌倉幕府が成立した以降、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていた。その間、幕府の初代将軍の源頼朝が落馬で死亡、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺され、天皇家の血を引く源氏将軍が鎌倉から滅亡した。その1219年以降、鎌倉は伊豆を収める世襲一族の北条氏が実権を握り、さらに北条氏は、幕府内で朝廷の代理人である執権であったが、幕府を実質的に手中に収めるに至り、日本を統治するのは朝廷であり朝廷主導の政治が本来の姿とする朝廷側の怒りが高まっていった。この2年後に起きた承久の乱の結果、鎌倉幕府主導の政治体制が固まり、朝廷を監視する六波羅探題を京都に置き、朝廷の権力は制限され、皇位継承等にも鎌倉幕府が影響力を持つようになった。.

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承元

承元(じょうげん)は、日本の元号の一つ。建永の後、建暦の前。1207年から1210年までの期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇、順徳天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源実朝、執権は北条義時。.

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曦子内親王

曦子内親王(ぎし(あきこ)ないしんのう、元仁元年(1224年) - 弘長2年8月21日(1262年10月5日))は、鎌倉時代の皇族。土御門天皇皇女。生母は源有雅の女(大宮局)。伊勢斎宮。後嵯峨天皇准母・皇后宮、のち女院。院号は仙華門院(せんかもんいん)。.

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10月11日 (旧暦)

旧暦10月11日は旧暦10月の11日目である。六曜は友引である。.

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10月25日 (旧暦)

旧暦10月25日は旧暦10月の25日目である。六曜は仏滅である。.

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1195年

記載なし。

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1196年

記載なし。

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1198年

記載なし。

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1199年

記載なし。

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11月1日 (旧暦)

旧暦11月1日(きゅうれきじゅういちがつついたち)は旧暦11月の1日目である。六曜は大安である。.

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11月25日 (旧暦)

旧暦11月25日は旧暦11月の25日目である。六曜は大安である。.

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11月6日

11月6日(じゅういちがつむいか)はグレゴリオ暦で年始から310日目(閏年では311日目)にあたり、年末まであと55日ある。.

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1201年

記載なし。

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1204年

記載なし。

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1206年

記載なし。

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1207年

記載なし。

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1210年

記載なし。

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1221年

記載なし。

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1231年

記載なし。

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12月12日

12月12日(じゅうにがつじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から346日目(閏年では347日目)にあたり、年末まであと19日ある。.

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12月2日 (旧暦)

旧暦12月2日(きゅうれきじゅうにがつふつか)は旧暦12月の2日目である。六曜は先勝である。.

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12月4日

12月4日(じゅうにがつよっか)はグレゴリオ暦で年始から338日目(閏年では339日目)にあたり、年末まであと27日ある。.

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1月11日 (旧暦)

旧暦1月11日は旧暦1月の11日目である。六曜は大安である。.

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1月3日

1月3日(いちがつみっか)はグレゴリオ暦で年始から3日目に当たり、年末まであと362日(閏年では363日)ある。日本ではこの日まで正月休みとされることがある。誕生花はクロッカス。.

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2月13日 (旧暦)

旧暦2月13日は旧暦2月の13日目である。六曜は友引である。.

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2月18日

2月18日(にがつじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から49日目にあたり、年末まであと316日(閏年では317日)ある。.

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2月20日 (旧暦)

旧暦2月20日は旧暦2月の20日目である。六曜は先負である。.

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4月27日 (旧暦)

旧暦4月27日は旧暦4月の27日目である。六曜は赤口である。.

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