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国母

索引 国母

国母(こくも/こくぼ)は、東アジアにおいて天皇や皇帝、国王の生母を指して用いられた呼称。また、「国の母」、「国民の母」の意で、皇后・王妃や国家指導者(国民の父)の配偶者等を指して使われることもある。.

377 関係: 垂仁天皇反正天皇名前吉川弘文館吉備姫王堀川基子堀川具守堀河天皇壺井義知大彦命大炊御門信子大炊御門信宗大正天皇大江磐代天皇天豊津媛命天足彦国押人命天武天皇天智天皇太上天皇太皇太后女官女御女院女房姪娘姉小路定子嫡出孝安天皇孝徳天皇孝元天皇孝謙天皇孝霊天皇孝明天皇孝昭天皇宣化天皇守貞親王宇多天皇安寧天皇安康天皇安徳天皇安閑天皇尾張草香履中天皇岩室宗賢崩御崇峻天皇崇徳天皇崇光天皇...崇神天皇上皇中宮中山忠能中山慶子中御門天皇丹波道主命世襲親王家世襲足媛市辺押磐皇子万里小路栄子三条厳子三条天皇三条公忠一条天皇一条富子一条兼香九条しゅん子九条立子九条道孝九条道家九条良経平城天皇平徳子平清盛平滋子平時信久邇宮邦彦王庭田幸子庭田経有庭田朝子二条吉忠二条天皇二条舎子広橋仲子広橋兼綱五十鈴依媛命五辻忠子五辻忠継五辻経子五辻経氏事代主亀山天皇仁孝天皇仁徳天皇仁賢天皇仁明天皇仲姫命仲哀天皇仲野親王仲恭天皇伊香色謎命伏見天皇伏見宮貞成親王弘文天皇彦主人王当麻山背当麻老御間城姫徳川和子徳川秀忠後堀河天皇後奈良天皇後宇多天皇後小松天皇後三条天皇後一条天皇後二条天皇後亀山天皇後伏見天皇後土御門天皇後嵯峨天皇後冷泉天皇後円融天皇後光厳天皇後光明天皇後白河天皇後花園天皇後西天皇後鳥羽天皇後醍醐天皇後陽成天皇後柏原天皇後村上天皇後桜町天皇後桃園天皇後水尾天皇後深草天皇後朱雀天皇忍坂大中姫応神天皇志貴皇子土御門天皇北朝 (日本)園基任園基音園光子園国子ヤマトタケルワタツミヒメタタライスズヒメ嘉喜門院嵯峨天皇ウガヤフキアエズタマヨリビメ冷泉天皇円融天皇内裏出家准母允恭天皇八坂入媛命六条天皇典侍元正天皇元明天皇元慶光厳天皇光孝天皇光仁天皇光格天皇光明光明天皇勧修寺ただ子勧修寺経逸勧修寺藤子勧修寺教秀勧修寺晴子勧修寺晴秀国史大辞典 (昭和時代)国王国民国民の父四条天皇皇后皇太后皇太夫人皇帝石姫皇女王妃班子女王磐之媛命神功皇后神武天皇禎子内親王称光天皇稚野毛二派皇子糠手姫皇女細媛命紀諸人紀橡姫続柄綏靖天皇継体天皇用明天皇白河天皇花山天皇花山院師継花園天皇遠智娘聖武天皇草壁皇子順徳天皇顕宗天皇西園寺きつ子西園寺実氏西園寺寧子西園寺公衡親王妃香淳皇后誠仁親王高倉天皇高野新笠貞明皇后鳥羽天皇鴨王身延線身位近衛天皇近衛家熙近衛尚子近衛前子近衛前久霊元天皇茅渟王能円舎人親王舒明天皇阿野廉子蘇我堅塩媛蘇我小姉君蘇我倉山田石川麻呂蘇我稲目閑院宮典仁親王開化天皇藤原基経藤原嬉子藤原実季藤原宮子藤原安子藤原不比等藤原師実藤原師輔藤原乙牟漏藤原伊尹藤原彰子藤原得子藤原信隆藤原冬嗣藤原公実藤原公成藤原兼家藤原穏子藤原範季藤原総継藤原経実藤原璋子藤原百川藤原道長藤原順子藤原詮子藤原高子藤原高藤藤原賢子藤原超子藤原茂子藤原胤子藤原能信藤原重子藤原長実藤原長良藤原良継藤原良房藤原苡子藤原殖子藤原氏藤原沢子藤原明子 (染殿后)藤原旅子藤原懐子葛城円葛城韓媛葛城襲津彦醍醐天皇采女長慶天皇配偶者雄略天皇陽成天皇押坂彦人大兄皇子押媛柳原愛子推古天皇掌侍息石耳命息長宿禰王東山天皇東アジア東海旅客鉄道松木宗子村上天皇桜井皇子桜町天皇桃園天皇桓武天皇橘嘉智子橘清友櫛笥隆子櫛笥隆致櫛笥賀子欝色謎命欽明天皇正子内親王 (嵯峨天皇皇女)正室正親町天皇正親町実光正親町三条公秀正親町三条秀子正親町雅子武烈天皇母親洞院いん子洞院季子洞院実雄洞院佶子洞院公賢淳仁天皇淳和天皇渟名底仲媛清寧天皇清和天皇源在子源顕房源通子源通宗源通親源氏源有仁源懿子 (後白河天皇妃)持統天皇持明院基家持明院陳子朱雀天皇成務天皇明仁明正天皇明治天皇明治維新春日大娘皇女昭和天皇文徳天皇文武天皇斉明天皇日葉酢媛命日野西資子日野西資国日本三代実録摂政懿徳天皇敏達天皇手白香皇女景行天皇3月25日 (旧暦)4月20日879年 インデックスを展開 (327 もっと) »

垂仁天皇

垂仁天皇(すいにんてんのう、崇神天皇29年1月1日 - 垂仁天皇99年7月14日)は第11代天皇(在位:垂仁天皇元年1月2日 - 垂仁天皇99年7月14日)。 伊勢神宮の建立や大規模な灌漑事業を行った。相撲、埴輪など著名な神事の起源もこの天皇の治世にあるとされる。活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)・活目尊等と称され、『古事記』には「伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)」、『常陸国風土記』には「伊久米天皇」、『令集解』所引「古記」に「生目天皇」、『上宮記』逸文に「伊久牟尼利比古(いくむにりひこ)大王」と見える。『日本書紀』、『古事記』に見える事績は総じて起源譚の性格が強いとして、その史実性を疑問視する説もあったが、近年においてはその実在を認めることが多い。.

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反正天皇

反正天皇(はんぜいてんのう、仁徳天皇24年? - 反正天皇5年1月23日)は、第18代天皇(在位:反正天皇元年1月2日 - 同5年1月23日)。多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)・水歯別命(古事記)。 『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」のうち珍(彌)に比定する説が有力視される。.

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名前

名前(なまえ、όνομα、nomen、name)とは、物や人物に与えられた言葉のことで、対象を呼んだりする際に使われる。名称、あるいは単に名とも言う。名前をつけることを「名付ける」「命名(めいめい)する」という。名前として使われる言葉を名詞という。 多くの場合、名前とは人名である。また、人名のうち、家族を表す姓(名字)でない方、個人を識別する名を指すことも多い。ただし、名ではなく姓を指して「名前」と呼ぶこともある。.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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吉備姫王

吉備姫王(きびひめのおおきみ・きびひめのみこ、生年不詳 - 皇極天皇2年9月11日(643年10月28日)) は、飛鳥時代の日本の皇族(王族)。吉備島皇祖母命と尊称を受ける。桜井皇子(欽明天皇の皇子)の王女。母は未詳。茅渟王(押坂彦人大兄皇子の子)の妃となり、宝皇女(皇極天皇・斉明天皇)・軽王(孝徳天皇)を儲けた。.

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堀川基子

堀川 基子(ほりかわ もとこ(きし)、文永6年(1269年) - 正平10年/文和4年8月26日(1355年10月10日))は、鎌倉時代から南北朝時代の女性。後宇多天皇の宮人で、後二条天皇の生母。准三后。院号は西華門院。法名は清浄法。父は内大臣堀川具守。太政大臣堀川基具の養女(実は孫に当たる)。 弘安8年(1285年)に邦治親王(後の後二条天皇)を生む。しかし、太政大臣の孫という生まれながらも処遇には恵まれず、「増鏡」によれば、永仁6年(1298年)の邦治親王立太子後も、正安3年(1301年)の即位後も叙位がなく、基子が従三位に叙せられたのは徳治3年(1308年)8月に後二条天皇が亡くなって出家して後、同じ年(元号は延慶に改元後)の11月27日であった。更に同年1月2日に准三宮・院号宣下がなされて、西華門院と称した。 正平10年/文和4年(1355年)、87歳で死去。 Category:女院 もとこ Category:鎌倉時代の后妃後宮 Category:南北朝時代の人物 (日本) Category:室町時代の女性 Category:1269年生 Category:1355年没.

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堀川具守

堀川 具守(ほりかわ とももり)は鎌倉時代中期から後期にかけての公卿。従一位内大臣左近衛大将。堀川内大臣と号す。太政大臣堀川基具の長男。後二条天皇の外祖父。.

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堀河天皇

堀河天皇内裏跡 堀河天皇(ほりかわてんのう、承暦3年7月9日(1079年8月8日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))は平安時代後期の第73代天皇(在位:応徳3年11月26日(1087年1月3日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))。諱は善仁(たるひと)。 白河天皇の第二皇子、母は藤原師実の養女・中宮賢子。准母に同母姉媞子内親王(郁芳門院)。.

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壺井義知

壺井 義知(つぼい よしちか(よしとも)、明暦3年2月9日(1657年3月23日) - 享保20年10月24日(1735年12月8日))は、江戸時代の有職故実家。 河内国出身。初名は韶政、字は子安、通称は安左衛門、字は子安、鶴翁・鶴寿と号し、堂号に温故軒。 信州、加賀を遍歴した後京に出て貞享2年(1685年)四辻家に仕え、平田内匠に官職を学ぶ。公家の典拠故実に通じ、多くの著述をなし、和歌をもよくした。.

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大彦命

武渟川別比古伊那許志別命(古事記のみ) | 父親.

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大炊御門信子

大炊御門 信子(おおいのみかど のぶこ、応永18年(1411年) - 長享2年4月28日(1488年6月8日))は、後花園天皇の下臈。女院号は嘉楽門院(からくもんいん)。右馬助藤原孝長女で大炊御門信宗の猶子。子に後土御門天皇・観心女王。 初め、非参議和気郷成の猶子となり、郷子と呼ばれる。その後、和気保家(郷成の子)の猶子となる。後花園天皇の寵愛を受けて宮中に召され、大炊御門信宗の猶子となって宮中に上がり「伊与」と号した。嘉吉2年(1441年)に儲君成仁親王(後土御門天皇)を生んだことから、准后とされ居住していた正親町東洞院殿より「東洞院殿」と呼ばれた。後土御門天皇即位後、女院とする話がたびたび上がるが実父の身分の低さが障害となり実現しなかった。文明13年(1481年)に重篤に陥ったことから急遽、7月26日になって嘉楽門院の称号が授けられたが、程なく快方に向かった。ただし、その後も『御湯殿上日記』などには「東洞院殿」という称号は登場しても「女院」の敬称はほとんど用いられていない。78歳で没した。 なお、実父の右馬助藤原孝長を『尊卑分脈』でたどると以下の通り。.

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大炊御門信宗

大炊御門 信宗(おおいのみかど のぶむね)は、室町時代の公卿。 応永25年(1418年)1月従三位となり、公卿に列する。応永26年(1419年)3月陸奥権守を兼任。応永28年(1421年)正三位権中納言、応永32年(1425年)従二位権大納言に叙任される。永享元年(1429年)右近衛大将を兼ね、さらに左近衛大将に転じる。永享4年(1432年)1月正二位に昇り、8月内大臣に任じられたが、11月左大将を辞任し、翌年(1433年)10月内大臣を辞任した。嘉吉2年(1442年)1月従一位に昇叙。享徳2年(1453年)に出家したが、その後の消息は明らかでない。 後土御門天皇の養外祖父であることから、文明12年(1480年)1月26日に太政大臣を追贈された。『宣胤卿記』によれば、当日は信宗の十三年忌に当たるという。 のふむね Category:室町・安土桃山時代の公家 Category:1391年生 Category:1468年没.

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大正天皇

大正天皇(たいしょうてんのう、1879年(明治12年)8月31日 - 1926年(大正15年)12月25日)は、日本の第123代天皇。諱は嘉仁(よしひと)。幼少時の御称号は明宮(はるのみや)。お印は壽(じゅ)。 明治以降で初の一夫一妻制を採った天皇。.

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大江磐代

大江 磐代(おおえ いわしろ、延享元年(1744年)- 文化9年12月9日(1813年1月11日))は、日本の皇族。閑院宮典仁親王の女房。光格天皇の生母で、明治天皇の高祖母にあたる。.

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天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

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天豊津媛命

天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)は、欠史八代、懿徳天皇の皇后。孝昭天皇と武石彦奇友背の生母。 『日本書紀』本文での皇后で、息石耳命の娘。 なお『古事記』での皇后は、師木県主の祖である賦登麻和訶比売(飯日比売)、『日本書紀』第1の一書では磯城県主葉江の男弟猪手の娘である泉媛、第2の一書では磯城県主太眞稚彦の娘である飯日媛である。 SVGで表示(対応ブラウザのみ).

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天足彦国押人命

(あまたらしひこくにおしひとのみこと) | 各国語表記.

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天武天皇

天皇系図38~50代 天武天皇(てんむてんのう、? - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。.

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天智天皇

天智天皇(てんじてんのう/てんぢてんのう、推古天皇34年(626年) - 天智天皇10年12月3日(672年1月7日))は、第38代天皇(在位:天智天皇7年1月3日(668年2月20日) - 10年12月3日(672年1月7日))。和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる。.

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太上天皇

太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)とは、譲位により皇位を後継者に譲った天皇の尊号、または、その尊号を受けた天皇。由来は、中国の皇帝が位を退くと「太上皇」と尊称されたことにあるとされる。元々は譲位した天皇が自動的に称する尊号であったが、嵯峨天皇の譲位以降は新天皇から贈られる尊号に変化した。 略称は「上皇」である。また、出家した太上天皇を、「太上法皇(法皇)」と称する。ただし、これは法的な根拠のある身位ではなく、太上法皇も太上天皇に含まれる。また、太上法皇の称号が用いられた初例は宇多法皇とされており、聖武上皇や清和上皇などそれ以前の退位後に出家した太上天皇には太上法皇(法皇)を用いるのは正確な表現ではない。 「院」とも称され、太上天皇が治天の君として政務を執った場合、その政治を院政という(太上天皇がみな院政をしいた訳ではない)。三宮(后位)と合わせて「院宮」といい、更に、皇族や有力貴族を含めた総称を「院宮王臣家」といった。院の御所が仙洞御所と呼ばれたことから、「仙洞」も上皇の謂として用いられる。.

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太皇太后

太皇太后(たいこうたいごう、Grand Empress Dowager)は、先々代の帝王の正妻(皇后)もしくは、当代の帝王の祖母に対して用いる尊称である。.

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女官

女官(にょかん/にょうかん)とは、官職を持ち宮廷に仕える女性のこと。官女(かんじょ)・宮女(きゅうじょ)ともいう。.

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女御

女御(にょうご)は、天皇の後宮の身位の一つで、天皇の寝所に侍した。官名は中国・周代の官制を記した『周礼』に由来し、位は皇后・中宮に次ぐ。また、女御のうち、女性皇族たる女王が女御となった場合の呼称を王女御という。 初見は『日本書紀』雄略天皇の条であるが、実際は桓武天皇の代に紀乙魚・百済王教法などを女御としたのに始まる。当初、その位は低かったが次第に高まり、平安時代中期以降は、皇后は女御から昇進する慣例が確立した。最後の女御は孝明天皇の女御である九条夙子(英照皇太后)。 定員はなく、複数の女御がいる場合は住まう殿舎の名を取って「承香殿女御」などと呼んだ。 応仁の乱以後、上流貴族の娘の入内が絶えると、女御も存在しなくなった。後陽成朝に近衛前久の娘の前子が豊臣秀吉の養女として女御となり、ついで後水尾朝に徳川秀忠の娘の和子が女御になり、さらに中宮へ昇った。江戸時代には歴代天皇の正妻として摂家や世襲親王家の娘が一人だけ女御となり、しばしば准三宮となった。しかし霊元天皇や光格天皇などは女御を中宮に立てたものの、立后させない例の方が多かった。.

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女院

女院(にょいん/にょういん)とは、三后(太皇太后・皇太后・皇后)や、それに準ずる身位(准后、内親王など)の女性に宣下された称号を指し、平安時代中期から明治維新まで続いた制度である。「院」はすなわち太上天皇、「女院」とはそれに準ずる待遇を受けた女性のことである。上皇に倣って院庁を置き、別当・判官代・主典代その他諸司を任じ、殿上を定め、蔵人を補した。.

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女房

女房(にょうぼう)とは、平安時代から江戸時代頃までの貴族社会において、朝廷や貴顕の人々に仕えた奥向きの女性使用人。女房の名称は、仕える宮廷や貴族の邸宅で彼女らにあてがわれた専用の部屋に由来する。 もっぱら主人の身辺に直接関わる雑務を果たす身分の高い使用人であり、場合によっては乳母、幼児や女子の主人に対する家庭教師、男子の主人に対する内々の秘書などの役割を果たした。主人が男性の場合には主人の妾(召人)となったり、女性の場合には主人の元に通う男と関係を持つことが多く、結婚などによって退職するのが一般的であった。 尚、内裏で働く女房のうち、天皇に仕えるのは「上の女房」(内裏女房)と呼ばれる女官で、後宮の妃(ひいてはその実家)に仕える私的な女房とは区別される。後宮の妃に仕える女房である「宮の女房」のほとんどが、妃の実家から妃に付けられて後宮に入った人々で、清少納言や紫式部なども女叙位は受けていたものの、この身分であったと考えられている。かつて、「女房の中に女官としての性格を持つ公的な女房と、私的な女房に分かれる」とする、加納重文と、「全ての女房は、朝廷から位階と禄を受ける公的存在」とする角田文衛による論争が存在したが、今日の研究においては収入面においては、中宮や皇后に仕える女房には、妃自身の封戸や年給からの収入などからも給与を受けていたと考えられるものの、大勢の女房の生活を支えるためには、妃の実家の支援も必要としていたと考えられている。一方、宮中に仕える主立った女房は女叙位は受けていたと考えられるが、全ての女房に女官としての公的な地位を与えられていたのか否かについては、今日でも議論がある。 平安時代中期以降の社会においては、受領階級などの中級貴族の娘が出仕することが多く、そのため教養に優れていた。ひらがなの使用など国風文化に大きな影響を与えた。和歌や和文文学に優れた人物も多く、平安時代から鎌倉時代にかけての、この階層の作者の手になるものを、特に「女房文学」と呼ぶ。.

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妃(ひ)は、後宮における后妃の身分の一つ。日本の律令制では皇后に次ぐ第2位に位置づけられている。現代日本では転じて天皇以外の男性皇族の配偶者に対して用いられている(例:皇太子妃・親王妃)が、本項目では本来の意味である后妃身分について解説する。.

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姪娘

姪娘(めいのいらつめ、生没年不詳)は、蘇我倉山田石川麻呂の娘。 天智天皇の妃となり、御名部皇女と阿閇皇女(後の元明天皇)を生む。姉には、同じく天智天皇の妃となった遠智娘がいる。同じ天智天皇の妃となった、蘇我赤兄の娘常陸娘・天武天皇に嫁いだ大蕤娘姉妹とは従姉妹にあたる。 姉の死後は、自身の2人の娘とともに、姉の遺した2人の皇女も一緒に育てたといわれる。そのため、姉の子供である鸕野讃良皇女(持統天皇)は、のちに、我が子草壁の妃に姪娘の娘の阿陪皇女(元明天皇)を、草壁の死後、片腕となった高市皇子の妃に御名部皇女を迎えた。.

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姉小路定子

姉小路 定子(あねがこうじ さだこ、享保2年7月18日(1717年8月24日) - 寛政元年9月22日(1789年11月9日))は江戸時代中期の女性。桜町天皇の典侍で、桃園天皇の母。父は参議・正四位上姉小路実武。女房名は権典侍、宰相典侍、大典侍、また三位局とも。女院号は開明門院で、法名は哲堂。 享保13年(1728年)3月ごろに東宮上臈として出仕。延享4年(1747年)5月1日に従三位。桃園天皇の急死後、同天皇が青綺門院を「実母」としていたため処遇に問題が発生し、稀な例ではあるが、准三宮を経ないで宝暦13年(1763年)2月1日に院号宣下を受ける。天明2年(1782年)2月に剃髪し、寛政元年(1789年)9月22日、72歳で逝去。 墓所は京都市上京区の清浄華院(菩提所は塔頭の松林院)。 Category:女院 Category:江戸時代の后妃後宮 さたこ Category:1717年生 Category:1789年没.

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嫡出

嫡出(ちゃくしゅつ)とは、婚姻関係にある男女(夫婦)から生まれること。対義語は「庶出」である。 実子の嫡出子には、出生と同時に嫡出の身分を取得する「生来嫡出子」のほか、準正によって嫡出子となる「準正嫡出子」がある(準正嫡出子を参照)。なお、法定親子関係である養子は法律上の血縁関係が擬制され縁組の日から嫡出子の身分を取得する(民法第809条。養親子関係については養子を参照)。 「嫡出」という語は「正統」という意味を持ち、「庶出」という語は「異端」という意味を持っている。子は生まれの正統や異端を選べないのに、子を「庶出」「異端」呼ばわりして蔑むのは誤った行為だという批判もあり、近年では「嫡出子」を「婚内子」、「非嫡出子」を「婚外子」と称する場合もある。 日本の法制においては婚姻の有無とは関係なく血族関係は発生するが、ただし、後に述べられるように非嫡出子において父子関係が発生するためには認知を要する(779条、784条)。.

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孝安天皇

孝安天皇(こうあんてんのう、孝昭天皇49年 - 孝安天皇102年1月9日)は、日本の第6代天皇(在位:孝安天皇元年1月7日 - 孝安天皇102年1月9日)。 和風諡号は、『日本書紀』では「日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)」、『古事記』では「大倭帯日子国押人命」。 『日本書紀』・『古事記』とも系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。.

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孝徳天皇

孝徳天皇(こうとくてんのう、推古天皇4年(596年) - 白雉5年10月10日(654年11月24日))は、日本の第36代天皇(在位:孝徳天皇元年6月14日(645年7月12日) - 白雉5年10月10日(654年11月24日))。諱は軽(かる)。和風諡号は天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)。その在位中には難波宮に宮廷があったことから、後世その在位時期をその政策(後世でいうところの大化の改新)などを含めて難波朝(なにわちょう)という別称で称されることがあった。.

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孝元天皇

孝元天皇(こうげんてんのう、孝霊天皇18年 - 孝元天皇57年9月2日)は、日本の第8代天皇(在位:孝元天皇元年1月14日 - 孝元天皇57年9月2日)。 和風諡号は、『日本書紀』では「大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)」、『古事記』では「大倭根子日子国玖琉命」。 『日本書紀』・『古事記』とも系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。.

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孝謙天皇

孝謙天皇(こうけんてんのう)、重祚して称徳天皇(しょうとくてんのう;稱德天皇、養老2年(718年) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日))は、日本の第46代・第48代天皇。 在位期間は、孝謙天皇として天平勝宝元年7月2日(749年8月19日) - 天平宝字2年8月1日(758年9月7日)、称徳天皇として天平宝字8年10月9日(764年11月6日) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日)。 父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。即位前の名は「阿倍内親王」。生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られている。『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)」とも称された。 史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代明正天皇(在位:1629年 - 1643年)に至るまで、850余年、女帝が立てられることはなかった。.

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孝霊天皇

孝霊天皇(こうれいてんのう、正字体:孝靈天皇、孝安天皇51年 - 孝霊天皇76年2月8日)は、日本の第7代天皇(在位:孝霊天皇元年1月12日 - 孝霊天皇76年2月8日)。 和風諡号は、『日本書紀』では「大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)」、『古事記』では「大倭根子日子賦斗邇命」。 『日本書紀』・『古事記』ともほぼ系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。.

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孝明天皇

孝明天皇(こうめいてんのう、天保2年6月14日(1831年7月22日) - 慶応2年12月25日(1867年1月30日))は、第121代天皇(在位:弘化3年2月13日(1846年3月10日)‐ 慶応2年12月25日(1867年1月30日))。諱は統仁(おさひと)。仁孝天皇の皇子、明治天皇の父。.

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孝昭天皇

孝昭天皇(こうしょうてんのう、懿徳天皇5年 - 孝昭天皇83年8月5日)は、日本の第5代天皇(在位:孝昭天皇元年1月9日 - 孝昭天皇83年8月5日)。 和風諡号は、『日本書紀』では「観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)」、『古事記』では「御真津日子訶恵志泥命」。 『日本書紀』・『古事記』とも系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。.

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宣化天皇

宣化天皇(せんかてんのう、雄略天皇11年?(467年?) - 宣化天皇4年2月10日(539年3月15日?))は、第28代天皇(在位:宣化天皇元年12月(536年1月?) - 宣化天皇4年2月10日(539年3月15日?))。.

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守貞親王

守貞親王(もりさだ しんのう)は、鎌倉時代前期の皇族。高倉天皇の第二皇子であり、母は坊門信隆の女・殖子(七条院)。安徳天皇は異母兄、後鳥羽天皇は同母弟に当たる。初め持明院宮(じみょういんの みや)を号し、出家した後は行助入道親王(ぎょうじょ にゅうどう しんのう)を名乗ったが、子の後堀河天皇が即位すると、治天の君として異例の太上天皇号を奉られ法皇として院政を敷いた。薨去の後に後高倉院(ごたかくら いん)の院号が贈られた。.

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宇多天皇

宇多天皇(うだてんのう、貞観9年5月5日(867年6月10日) - 承平元年7月19日(931年9月3日))は、日本の第59代天皇(在位:仁和3年8月26日(887年9月17日) - 寛平9年7月3日(897年8月4日))。 諱は定省(さだみ)。後の佐々木氏などに代表される宇多源氏の祖先にもあたる(詳細は皇子女の欄参照)。.

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安寧天皇

安寧天皇(あんねいてんのう、綏靖天皇5年 - 安寧天皇38年12月6日)は、日本の第3代天皇(在位:綏靖天皇33年7月15日 - 安寧天皇38年12月6日)。 和風諡号は、『日本書紀』では「磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)」、『古事記』では「師木津日子玉手見命」。 神武天皇(初代天皇)の孫。『日本書紀』・『古事記』とも系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。.

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安康天皇

安康天皇(あんこうてんのう、履中天皇2年? - 安康天皇3年8月9日)は、第20代天皇(在位:允恭天皇42年12月14日 - 安康天皇3年8月9日)。穴穂天皇・穴穂皇子(あなほのみこ)。中国の『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王興に比定されている。.

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安徳天皇

安徳天皇(あんとくてんのう、安德天皇、治承2年11月12日(1178年12月22日) - 寿永4年3月24日(1185年4月25日))は、第81代天皇(在位:治承4年4月22日(1180年5月18日) - 寿永4年3月24日(1185年4月25日))。 諱は言仁(ときひと)歴代天皇総覧200-202頁『第八十一代 安徳天皇 一一七八~一一八五(在位一一八〇~一一八五)』。 高倉天皇の第一皇子名前で読む天皇歴史207-208頁『安徳天皇【あんとくてんのう】在位 治承四(一一八〇)-承永四(一一八五)年』。母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)国史大系14巻コマ209(原本402頁)〔安徳―後鳥羽〕『安德。三年。 諱言トキ仁。治承四年二月廿一日受禪。。同二年十二月日立坊。高倉院長子。母中宮徳子。 攝政基通。内大臣平宗盛。 養和一年。七月十四日改元。壽永二年。五月廿七日改元。此時遷都ノ事有ケリ。委在二別帖一。此天皇ハコノ壽永二年七月廿五日ニ、外祖ノ清盛入道殿反逆ノ後。外舅内大臣宗盛。源氏ノ武士東國北陸等攻上リシカバ。城ヲ落テ西國ヘ具シマイラセテ後。終ニ元暦二年三月廿四日ニ。長門國文字ノ關壇ノ浦ニテ。海ニ入テ失サセ給ヒンケリ。七歳。寶劒ハ沈ミテ失ヌ。神璽ハ筥浮テ返リマイリヌ。又内侍所ハ時忠取テ参リニケリ。此不思議ドモ細在二別帖一。』。.

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安閑天皇

安閑天皇(あんかんてんのう、雄略天皇10年?(466年?) - 安閑天皇2年12月17日(536年1月25日?))は、第27代天皇(在位:継体天皇25年2月7日(531年3月10日?) - 安閑天皇2年12月17日(536年1月25日?))。.

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尾張草香

尾張 草香(おわり の くさか、生没年不詳)は古代の地方豪族・尾張氏の首長。姓は連。尾張岐閉(黄畔)の子とする系図がある。 継体天皇の最初の妃であったとされる目子媛(めのこひめ)の父親で、安閑・宣化両天皇の外祖父にあたる。断夫山古墳が彼の墓であるとの説がある。.

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履中天皇

履中天皇(りちゅうてんのう、仁徳天皇24年? - 履中天皇6年3月15日)は、第17代天皇(在位:履中天皇元年2月1日 - 同6年3月15日)。名は大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)、大江之伊邪本和気命。中国の『宋書』に見える「倭の五王」中の倭王讃に比定する説がある(応神天皇もしくは仁徳天皇とする説もあり)。また古事記には「壬申年正月三日」に64歳で崩ずとの記事が見え、これが正しければ、在位期間が427年から432年となり、生年が逆算して369年という事になるが、定かではない。.

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岩室宗賢

岩室 宗賢(いわむろ そうけん、正徳3年(1713年) - 寛政4年6月17日(1792年8月4日))は、日本の医師。大江磐代の父、光格天皇の祖父。別名、常右衛門。.

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崩御

崩御(ほうぎょ)は、天皇、皇帝、国王、太皇太后、皇太后、皇后、君主等の死亡を表す敬語。.

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崇峻天皇

崇峻天皇(すしゅんてんのう、欽明天皇14年(553年?) - 崇峻天皇5年11月3日(ユリウス暦592年12月12日?))は、第32代天皇(在位:用明天皇2年8月2日(587年9月9日?) - 崇峻天皇5年11月3日(592年12月12日?))。諱は泊瀬部(はつせべ)、即位前は泊瀬部皇子(はつせべのみこ)と称した。『古事記』には長谷部若雀天皇(はつせべのわかささぎのすめらみこと)とある。.

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崇徳天皇

崇徳天皇(すとくてんのう、元永2年5月28日(1119年7月7日) - 長寛2年8月26日(1164年9月14日))は日本の第75代天皇(在位保安4年2月19日(1123年3月18日) - 永治元年12月7日(1142年1月5日))。譲位後は新院、 配流後は讃岐院とも呼ばれた。諱を顕仁(あきひと)という。 鳥羽天皇の第一皇子。母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。.

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崇光天皇

崇光天皇(すこうてんのう、建武元年4月22日(1334年5月25日) - 応永5年1月13日(1398年1月31日))は、南北朝時代の北朝第3代天皇(在位:正平3年10月27日(1348年11月18日) - 正平6年11月7日(1351年11月26日))。諱を益仁(ますひと)といい、後に興仁(おきひと)と名乗った。.

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崇神天皇

崇神天皇(すじんてんのう、開化天皇10年 - 崇神天皇68年12月5日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日)。 和風諡号は『日本書紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)。四道将軍を派遣して支配領域を広げ、課税を始めて国家体制を整えたことから御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『古事記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)。.

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上皇

上皇(じょうこう)とは、東アジアにおいて、退位した皇帝または天皇を指す語。.

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中宮

中宮(ちゅうぐう)は、日本の天皇の妻たちの呼称の一つ。.

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中山忠能

中山 忠能(なかやま ただやす、文化6年11月11日(1809年12月17日) - 明治21年(1888年)6月12日)は、江戸時代末期から明治時代前期にかけての公家、政治家である。明治政府の議定。父は藤原北家の花山院流権大納言・中山忠頼、母は正親町三条実同の娘・綱子。子に中山忠愛、中山忠光、正親町公董。娘の中山慶子が孝明天皇の典侍で、明治天皇を産んだことから、忠能は明治天皇の外祖父に当たる。.

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中山慶子

中山 慶子(なかやま よしこ、天保6年11月28日〈1836年1月16日〉 - 明治40年(1907年)10月5日)は、明治天皇の生母。孝明天皇の典侍。号は中山一位局など。権大納言・中山忠能の次女で、母は平戸藩主・松浦清(靜山)の十一女・愛子。侯爵を授けられた中山忠愛は長兄。天誅組の主将・中山忠光は同母弟。従一位勲一等。.

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中御門天皇

中御門天皇(なかみかどてんのう、 元禄14年12月17日(1702年1月14日) - 元文2年4月11日(1737年5月10日))は、江戸時代の第114代天皇(在位:宝永6年6月21日(1709年7月27日) - 享保20年3月21日(1735年4月13日))。幼名を長宮(ますのみや)、諱を慶仁(やすひと)という。追号の「中御門」は、平安京大内裏の門の一つである待賢門の別称に因む。.

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丹波道主命

丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと/たにはのみちぬしのみこと、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。 『日本書紀』では「丹波道主命」・「丹波道主王」、『古事記』では「丹波比古多多須美知能宇斯王(たんば(たには)ひこたたすみちのうしのみこ)」と表記される。 第9代開化天皇の皇孫で、第12代景行天皇の外祖父である。四道将軍の1人で、丹波に派遣されたという。.

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世襲親王家

世襲親王家(せしゅうしんのうけ)は、江戸時代において、当今の天皇との血統の遠近にかかわらず、代々親王宣下を受けることで親王の身位を保持し続けた四つの宮家をいう。定親王家ともいう。.

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世襲足媛

世襲足媛(よそたらしひめ)は、欠史八代、孝昭天皇の皇后。孝安天皇と天足彦国押人命の生母。 『古事記』では尾張連祖奥津余曾の妹である余曾多本毘娘。『日本書紀』本文では尾張連祖瀛津世襲の娘である世襲足媛である。 なお『日本書紀』第1の一書での皇后は、磯城県主葉江の娘である渟名城津媛、第2の一書では、倭國豊秋狭太媛の娘である大井媛。 SVGで表示(対応ブラウザのみ).

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市辺押磐皇子

市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ、? - 安康天皇3年10月)は、記紀・『風土記』に伝えられる5世紀頃の皇族(王族)。磐坂皇子(いわさかのみこ)・磐坂市辺押羽皇子・天万国万押磐尊(あめよろずくによろずおしはのみこと、以上『日本書紀』)・市辺之忍歯王・市辺忍歯別王(いちのへのおしはわけのみこ、以上『古事記』)・市辺天皇命(いちのへのすめらみこと、『播磨国風土記』)とも。履中天皇の第1皇子で、母は葛城葦田宿禰(あしたのすくね)の女・黒媛である。また、顕宗天皇・仁賢天皇(・飯豊青皇女)の父、安康天皇・雄略天皇の従兄弟に当たる。.

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万里小路栄子

万里小路 栄子(までのこうじ えいこ、明応3年(1494年) - 大永2年10月10日(1522年11月8日))は、室町時代の女性。後奈良天皇の後宮で、正親町天皇・永寿女王の生母。父は参議右大弁、従三位万里小路賢房。院号は吉徳門院。 知仁親王(後の後奈良天皇)に入内し、方仁親王(後の正親町天皇)・永寿女王ら2男2女を出産した。しかし、知仁親王が践祚する前の大永2年(1522年)に29歳で薨去。その後、永禄元年(1558年)9月26日に皇太后を追贈された。 えいこ Category:室町・安土桃山時代の后妃後宮 category:日本の贈后 Category:1494年生 Category:1522年没.

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三条厳子

三条 厳子(さんじょう たかこ/いずこ、正平6年(1351年) - 応永13年12月27日(1407年2月14日))は、南北朝時代・室町時代の女性。後円融天皇の後宮で、後小松天皇、珪子内親王の生母。院号は通陽門院。准三宮。父は内大臣三条公忠。.

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三条天皇

三条天皇(さんじょうてんのう、天延4年1月3日(976年2月5日) - 寛仁元年5月9日(1017年6月5日))は第67代天皇。諱は居貞(おきさだ / いやさだ)。享年42。在位は寛弘8年6月13日(1011年7月16日)から長和5年1月29日(1016年3月10日)まで。 冷泉天皇の第二皇子。母は摂政太政大臣藤原兼家の長女・贈皇太后超子。花山天皇の異母弟。.

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三条公忠

三条 公忠(さんじょう きんただ)は南北朝時代の公卿。従一位内大臣。後押小路内大臣と号す。父は内大臣三条実忠、母は左中将藤原公直の娘。 子には太政大臣に至った実冬、藤原(三条)厳子(通陽門院)、実苑、実禅がいる。.

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一条天皇

一条天皇(いちじょう てんのう、天元3年6月1日(980年7月15日) - 寛弘8年6月22日(1011年7月25日))は、平安時代中期の第66代天皇(在位:寛和2年6月23日(986年8月1日) - 寛弘8年6月13日(1011年7月16日))。諱は懐仁(やすひと)。 円融天皇の第1皇子。母は藤原兼家の娘、詮子。兄弟姉妹はない。.

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一条富子

一条 富子(いちじょう とみこ、寛保3年2月4日(1743年2月27日) - 寛政7年11月30日(1796年1月9日))は、桃園天皇の女御、後桃園天皇および伏見宮貞行親王の母。准三宮、皇太后、女院。院号は恭礼門院(きょうらい もんいん)。.

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一条兼香

一条 兼香(いちじょう かねよし/かねか、元禄5年12月16日(1693年1月12日)-寛延4年8月2日(1751年9月21日))は、江戸時代中期の公卿。桜町天皇の側近として活躍し、従一位関白左大臣・太政大臣を歴任して14年にわたって朝廷の中枢にあった。「後円成寺」と号する。.

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九条しゅん子

九条 竴子(くじょう しゅんし/よしこ、承元3年旧5月22日(1209年6月25日)- 天福元年旧9月18日(1233年10月22日))は、鎌倉時代の后妃、国母、女院。後堀河天皇の中宮で、四条天皇と皞子内親王の母。女院号は藻璧門院(そうへきもんいん)。父は摂政関白左大臣九条道家、母は太政大臣西園寺公経女・掄子(綸子)。摂政関白左大臣九条教実、二条家の祖となった関白左大臣二条良実、鎌倉幕府第4代将軍・藤原頼経、一条家の祖となった摂政関白左大臣一条実経らは同母弟にあたる。.

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九条立子

九条 立子(くじょう りっし/たつこ、建久3年(1192年) - 宝治元年12月21日(1248年1月18日))は鎌倉時代の后妃、女院。摂政九条良経の長女(母は権大納言一条能保の女)で、順徳天皇の中宮となる。仲恭天皇の母。院号は東一条院(ひがしいちじょういん)。法名は清浄観。 承元4年(1210年)に順徳天皇のもとへ入内したが、『愚管抄』によれば、当初は土御門天皇に入内させるべく準備が進められていたところを、後鳥羽院たっての要請により弟で東宮の守成親王、後の順徳天皇への入内が決められたという。同年12月29日に女御宣下され、翌承元5年(1211年)1月22日には中宮に冊立。建保5年(1217年)3月22日諦子内親王(明義門院)を出産。建保6年(1218年)10月10日には懐成親王、後の九条半帝(仲恭天皇))を出産する。 承久3年(1221年)の承久の乱で、夫・順徳上皇が佐渡島に配流となると、その翌年の3月25日に院号宣下あって、東一条院となる。嘉禄2年(1226年)8月7日出家。宝治元年(1247年)崩御。享年57。.

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九条道孝

九条 道孝(くじょう みちたか)は、日本の公家、政治家(貴族院議員)。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。最後の藤氏長者。 昭和天皇の外祖父である。.

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九条道家

九条 道家(くじょう みちいえ)は、鎌倉時代前期の公卿。摂政九条良経の長男。妻は太政大臣西園寺公経の娘等。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経の父。官位は従一位・准三宮・摂政・関白・左大臣。光明峯寺殿、峯殿を号す。通称に光明峯寺関白(こうみょうぶじ かんぱく)。京都九条通に東福寺を建立した。.

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九条良経

九条 良経(くじょう よしつね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。従一位、摂政、太政大臣。後京極殿と号した。通称は後京極摂政(ごきょうごく せっしょう)、中御門摂政。摂政関白・九条兼実の次男。 小倉百人一首では「後京極摂政前太政大臣」。 「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかもねむ.

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平城天皇

平城天皇(へいぜいてんのう、宝亀5年旧8月15日(774年9月25日) - 弘仁15年旧7月7日(824年8月5日))は第51代天皇(在位:延暦25年旧3月17日(806年4月9日) - 大同4年旧4月1日(809年5月18日))。小殿(おて)親王、後に安殿親王(あてのみこ)。 桓武天皇の第1皇子。母は皇后・藤原乙牟漏。同母弟に嵯峨天皇。.

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平徳子

水野年方筆「寂光院」徳子を描いた錦絵 平 徳子(たいら の とくし/とくこ/のりこ、久寿2年(1155年) - 建保元年12月13日(1214年1月25日))は、高倉天皇の中宮。安徳天皇の国母。父は平清盛、母は平時子。異母兄に重盛、基盛。同母兄弟に宗盛、知盛、重衡がいる。院号は建礼門院(けんれいもんいん)。 清盛と後白河法皇の政治的協調のため、高倉天皇に入内して第一皇子・言仁親王(後の安徳天皇)を産む。安徳天皇の即位後は国母となるが、高倉上皇と清盛が相次いで没し、木曾義仲の攻撃により都を追われ、壇ノ浦の戦いで安徳天皇・時子は入水、平氏一門は滅亡する。徳子は生き残り京へ送還されて出家、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔った。 『平家物語』「灌頂巻」では大原を訪れた後白河法皇に自らの人生を語り、全巻の幕引き役となっている。.

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平清盛

平 清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の武将・公卿。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。.

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平滋子

平 滋子(たいら の しげこ、康治元年(1142年) - 安元2年7月8日(1176年8月14日))は、後白河天皇の譲位後の妃。高倉天皇の生母。女御、皇太后、女院。桓武平氏高棟流、いわゆる堂上平氏の生まれ。父は兵部権大輔・平時信(贈左大臣)、母は中納言・藤原顕頼の娘、祐子(すけこ)。兄弟に時忠・親宗、姉妹に二位尼時子(平清盛継室)・冷泉局(建春門院女房)・清子(宗盛の室)・坊門殿(重盛の室、維盛母の可能性あり)・藤原親隆の室(権少僧都・全真の母)・帥局(建礼門院女房)がいる。院号は建春門院(けんしゅんもんいん)。.

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平時信

平 時信(たいら の ときのぶ)は、平安時代末期の公家。桓武平氏高棟王流・堂上平氏の一族。兵部大輔・平知信の子。高倉天皇の外祖父。官位は正五位下・検非違使・兵部権大輔、贈正一位・左大臣。.

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久邇宮邦彦王

久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう、1873年(明治6年)7月23日 - 1929年(昭和4年)1月27日)は、日本の皇族、陸軍軍人。階級及び位階勲等は軍事参議官、陸軍大将、大勲位、功四級。贈元帥、贈大勲位菊花章頸飾。 久邇宮朝彦親王の第三王子。香淳皇后(昭和天皇の皇后)の父。第125代今上天皇の外祖父。.

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庭田幸子

庭田 幸子(にわた ゆきこ、元中7年(1390年) - 文安5年4月13日(1448年5月24日))は、室町時代の女性。初名は経子。女房名は今参局、二条局、南御方。院号は敷政門院。父は庭田経有、母は飛鳥井雅冬の娘の善照房。後崇光院伏見宮貞成親王の仕女であるが、親王の『看聞日記』をみるかぎり他に親王の妻に当たる女性はなく、事実上の正室格であったとみられる。二男五女の母で、現在の皇室の先祖に当たる後花園天皇が第一皇子、旧皇族11宮家の先祖に当たる伏見宮貞常親王は第二皇子である(即ち女性としては皇室と旧皇族11宮家の最後の共通先祖に当たる)。 永享6年(1434年)3月16日、従三位に叙任、この時に名を経子とする。文安元年(1444年)4月26日、准三后となり、幸子と改名。文安5年(1448年)3月4日に院号宣下、同年4月13日に59歳で薨去。 ゆきこ Category:女院 Category:1390年生 Category:1448年没 ゆきこ.

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庭田経有

庭田 経有(にわた つねあり)は、室町時代前期の公家。権大納言庭田重資の子。姉資子が崇光天皇の典侍として伏見宮栄仁親王を生んで以来、宮家との関わりが深く、その家司を務めた。後花園天皇の外祖父に当たる。 詳しい経歴は不明であるが、叙爵を受けた後、正平19年/貞治3年(1364年)1月正五位下に叙され、間もなく従四位下・右少将に至る。伏見宮家司を務め、その御領である近江山前北荘を拝領した。応永5年(1398年)5月栄仁親王の落飾に先立ち出家。法名を明堯という。同19年(1412年)5月15日に卒し、伏見に葬られた。享年は60代か。 後花園天皇の外祖父に当たることから、33年忌の文安元年(1444年)5月6日に左大臣・従一位を追贈されたが、当時は出家した人物への贈官は希有な例とされた。『新続古今和歌集』に1首入集した歌人である他、琵琶も嗜んでいる。また、日記の自筆断簡(応永5年5月18日~26日記)が宮内庁書陵部所蔵の伏見宮御記録の中に現存する。.

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庭田朝子

庭田 朝子(にわた あさこ、永享9年(1437年) - 延徳4年7月20日(1492年8月13日))は後土御門天皇の典侍、贈皇太后。父は権大納言庭田長賢(政賢・重賢)。後柏原天皇・尊伝入道親王の生母。後花園天皇の生母敷政門院(庭田幸子)は大叔母にあたる。 元は「近衛局」と称して足利将軍家に仕えていたが、当時親王であった後土御門天皇に召されて寵愛を受け、後に後柏原天皇を儲けた。『親長卿記』文明5年(1473年)8月5日条によれば、この日甘露寺親長が参内した際に広橋綱光から庭田長賢の娘が典侍の宣下を受けたことを知らされたと記述されている。 延徳4年(1492年)7月20日に急逝、死因は中風によるものとされる(『親長卿記』延徳4年7月19日条)。後柏原天皇即位後の永正元年(1504年)7月17日に皇太后宮の称号が贈られた。.

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二条吉忠

二条 吉忠(にじょう よしただ)は、江戸時代中期の公卿。関白左大臣二条綱平の子で、母は霊元天皇皇女・栄子内親王である。安祥院と号する。「吉」の字は将軍徳川綱吉からの偏諱。.

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二条天皇

二条天皇(にじょうてんのう、康治2年6月18日(1143年7月31日) - 永万元年7月28日(1165年9月5日))は第78代天皇(在位:保元3年8月11日(1158年9月5日) - 永万元年6月25日(1165年8月3日))。諱は守仁(もりひと)。 後白河天皇の第一皇子。母は、大炊御門経実の娘で、源有仁の養女・贈皇太后懿子。.

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二条舎子

二条 舎子(にじょう いえこ、享保元年8月24日(1716年10月9日) - 寛政2年1月29日(1790年3月14日))は、桜町天皇の女御で、後桜町天皇の生母。後に皇太后。女院号は青綺門院(せいきもんいん)。.

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広橋仲子

広橋 仲子(ひろはし ちゅうし/なかこ、藤原 仲子、紀 仲子 、延元元年(1336年)または延元4年(1339年) - 応永34年5月20日(1427年6月14日))は、室町時代の女性。女院。後光厳天皇の典侍で、後円融天皇の生母。広橋兼綱の養女で、実父は石清水八幡宮祠官善法寺通清。生母は四辻宮尊雅王の娘(法名智仙聖通)とされる。院号は崇賢門院。姉妹に紀良子(足利義詮側室、足利義満生母)、伊達政宗正室輪王寺殿がいる。比丘尼御所の大慈院(南御所)開基とされる。.

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広橋兼綱

広橋 兼綱(ひろはし かねつな)は南北朝時代の公卿。従一位准大臣。瑞雲院と号す。勘解由小路兼綱とも。贈左大臣。崇賢門院仲子の養父。崇賢門院を養女としたことにより、広橋家では初めて権大納言に任ぜられ、従一位准大臣に至った。父は権中納言広橋光業。母は坊門俊輔の娘。子は仲光、忠業、綱厳、崇賢門院広橋仲子。.

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五十鈴依媛命

五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)は、『日本書紀』、『旧事本紀』によれば、綏靖天皇の皇后で、事代主の娘(母の名は不詳)、安寧天皇の母、五十鈴依姫。姉の姫踏鞴五十鈴媛命は神武天皇の皇后となる。欠史八代であるため夫綏靖天皇とともに実在しないとの説がある。『日本書紀』の安寧紀によると、五十鈴依媛命は事代主神の少女(おとむすめ)とあり、これは綏靖紀二年条に「(安寧天皇の父である綏靖天皇は)五十鈴依媛を立てて皇后と為したまう。すなわち天皇の姨(みおば)なり」とあるのと合致する。なお、『古事記』には五十鈴依媛命は登場せず河俣毘売が綏靖天皇皇后。.

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五辻忠子

五辻 忠子(いつつじ ちゅうし、文永5年(1268年) - 元応元年11月15日(1319年12月27日))は、鎌倉時代の貴族。後宇多天皇の後宮、女院。後醍醐天皇の母。参議五辻忠継の娘で、母は皇后宮亮平高輔の娘。花山院師継の養女。院号は談天門院。.

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五辻忠継

五辻 忠継(いつつじ ただつぐ)は鎌倉時代中期の公卿。従三位、参議、美濃権守。非参議正三位五辻雅継の二男。母は雅楽頭安倍春元の娘。 後醍醐天皇の実外祖父である。.

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五辻経子

五辻 経子(いつつじ つねこ/けいし、生年不詳 - 元亨4年10月11日(1324年11月6日))は、鎌倉時代の女性。伏見天皇の典侍、後伏見天皇の生母。父は従三位参議武蔵守五辻経氏。母は卜部兼直の娘。 伏見天皇の掌侍から典侍となり、中納言典侍といわれた。弘安11年(1288年)3月3日、胤仁親王(のちの後伏見天皇)を産む。胤仁親王は中宮西園寺鏱子の猶子となったため、経子は国母として遇されなかった。従三位、准三宮。中園准后とも呼ばれた。元亨4年(1324年)10月11日に薨去。 Category:鎌倉時代の后妃後宮 つねこ Category:13世紀生 Category:1324年没.

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五辻経氏

五辻 経氏(いつつじ つねうじ)は鎌倉時代中期の公卿。従三位参議武蔵守。父は従三位参議五辻忠継、母は正四位上行神祇大副卜部兼直の娘。息男に五辻俊雅、娘に後伏見天皇の生母となった五辻経子がいる。.

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事代主

事代主(ことしろぬし、言代主神)は、日本神話に登場する神。別名 八重言代主神、八重事代主神(ヤエコトシロヌシ)。.

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亀山天皇

亀山上皇像(福岡市博多区、東公園) 亀山天皇(かめやまてんのう、建長元年5月27日(1249年7月9日) - 嘉元3年9月15日(1305年10月4日))は、鎌倉時代の第90代天皇(在位:正元元年11月26日(1260年1月9日) - 文永11年1月26日(1274年3月6日))。諱は恒仁(つねひと)。 後嵯峨天皇の第七皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。后腹では後深草天皇に次ぐ次男。大覚寺統の祖。父母から鍾愛され、兄の後深草天皇を差し置いて治天の君となり、やがて亀山系の大覚寺統と後深草系の持明院統との対立が生じる端緒となった。.

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仁孝天皇

仁孝天皇(にんこうてんのう、寛政12年2月21日(1800年3月16日) - 弘化3年1月26日(1846年2月21日))は、第120代天皇(在位:文化14年9月21日(1817年10月31日) - 弘化3年1月26日(1846年2月21日))。諱は恵仁(あやひと)。幼称は寛宮(ゆたのみや)。.

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仁徳天皇

仁徳天皇(にんとくてんのう、神功皇后摂政57年 - 仁徳天皇87年1月16日)は、日本の第16代天皇(在位:仁徳天皇元年1月3日 - 同87年1月16日)。善政を敷き、大規模な土木事業を行ったと伝わる。 名は大雀命(おほさざきのみこと)(『古事記』)、大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)・大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)・聖帝(『日本書紀』)・難波天皇(『万葉集』)。.

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仁賢天皇

仁賢天皇(にんけんてんのう、允恭天皇38年 - 仁賢天皇11年8月8日)は、古墳時代の第24代天皇(在位:仁賢天皇元年1月5日 - 同11年8月8日)。名は億計天皇(おけのすめらみこと)・大石尊(おおしのみこと)、意祁命・意富祁王(おおけのみこ)。諱は大脚(おおし)または大為(おおす)、字は嶋郎(しまのいらつこ)。.

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仁明天皇

仁明天皇(にんみょうてんのう、弘仁元年(810年) - 嘉祥3年3月21日(850年5月6日)、在位:天長10年3月6日(833年3月30日) - 嘉祥3年3月19日(850年5月4日))は、平安時代初期の第54代天皇。諱は正良(まさら)。 嵯峨天皇の第二皇子。母は橘清友の娘、皇后橘嘉智子(檀林皇后)。正子内親王は同父母の妹でありかつ同年の生まれのため、双子の妹と推測される。.

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仲姫命

仲姫命(なかつひめのみこと、生没年不詳)は、応神天皇の皇后。『古事記』は中日売命に作る。品陀真若王(五百城入彦皇子の王子、景行天皇の孫王)の王女で、母は金田屋野姫命(建稲種命の女)。応神天皇との間に仁徳天皇を儲ける。仲津姫命とも。ちなみに同母姉の高城入姫命や同母妹の弟姫命も応神天皇の妃となっている。 応神天皇2年2月3日(271年3月1日)、応神天皇の皇后に立后された。仁徳天皇元年1月3日(313年2月14日)、仁徳天皇の即位と同日に皇太后となった。.

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仲哀天皇

仲哀天皇(ちゅうあいてんのう、成務天皇18年? - 仲哀天皇9年2月6日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第14代天皇(在位:仲哀天皇元年1月11日 - 同9年2月6日)。日本武尊命を父に持ち、皇后は三韓征伐を行った神功皇后であり、応神天皇の父である。熊襲を討とうとした橿日宮に至ったが果たせず、即位9年で死去したと伝わる。和風諡号は足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)、帯中日子天皇(古事記)。容姿端正、身長一丈。.

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仲野親王

仲野親王(なかのしんのう)は、平安時代初期から前期にかけての皇族。桓武天皇の第十二皇子。宇多天皇の外祖父。官位は二品・大宰帥、贈一品・太政大臣。.

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仲恭天皇

仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう、建保6年10月10日(1218年10月30日) - 天福2年5月20日(1234年6月18日))は、鎌倉時代の第85代天皇(在位:承久3年4月20日(1221年5月13日) - 承久3年7月9日(1221年7月29日))。諱は懐成(かねなり)。 順徳天皇の第四皇子。母は、九條良経の娘、中宮・立子(東一条院)。.

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伊香色謎命

伊香色謎命(いかがしこめのみこと、生年不詳 - 崇神天皇元年1月13日(前97年2月17日)以降)は、孝元天皇の妃、開化天皇の皇后。古事記には伊迦賀色許売命(読み方同じ)とある。父は大綜麻杵命で、母は高屋阿波良姫。同母兄に伊香色雄命がいる。彦太忍信命(父は孝元天皇。武内宿禰の祖父(記では父)。磐之媛命の高祖父(記では曾祖父))・崇神天皇(父は開化天皇)の母。 孝元天皇2年(前213年)、孝元天皇の妃となった。開化天皇6年1月14日(前152年2月25日)、亡夫孝元天皇と叔母(伯母)・皇后欝色謎命の皇子である開化天皇の皇后となった。崇神天皇元年1月13日(前97年2月17日)、崇神天皇の即位と同日に皇太后となった。.

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伏見天皇

伏見天皇(ふしみてんのう、文永2年4月23日(1265年5月10日) - 文保元年9月3日(1317年10月8日))は日本の第92代天皇(在位:弘安10年10月21日(1287年11月27日) - 永仁6年7月22日(1298年8月30日))。諱は熈仁(ひろひと)。書道の伏見院流の祖、京極派の有力歌人としても知られる。 後深草天皇の第二皇子。母は、左大臣洞院実雄の娘、愔子(玄輝門院)。.

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伏見宮貞成親王

伏見宮貞成親王(ふしみのみや さだふさ しんのう、応安5年3月5日(1372年4月9日) - 康正2年8月29日(1456年9月28日))は、室町時代の皇族。世襲親王家の一つ、伏見宮3代目当主。出家後の法名は道欽入道親王(どうきん にゅうどう しんのう)。太上法皇としての院号は後崇光院(ごすこう いん)。 現在の皇室と旧皇族11宮家の最後の共通の男系祖先として知られる。著作に『看聞日記』『椿葉記』がある。.

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弘文天皇

弘文天皇(こうぶんてんのう、大化4年(648年) - 天武天皇元年7月23日(672年8月21日))は、第39代天皇(在位:天智天皇10年12月5日(672年1月9日) - 天武天皇元年7月23日(672年8月21日))。諱は大友(おおとも)または伊賀(いが)。明治3年(1870年)に諡号を贈られ、天皇として認められたが、即位したかどうか定かではなく、大友皇子と表記されることも多い。.

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彦主人王

『上宮記』逸文に基づく系図(抜粋) 彦主人王(ひこうしのおう/ひこうしのおおきみ、生没年不詳)は、『日本書紀』等に伝わる古代日本の皇族(王族)。 第15代応神天皇の四世孫で、第26代継体天皇の父である。『上宮記』逸文『釈日本紀』巻13(述義9)第17所引『上宮記』逸文。 - (経済雑誌社、1897年-1901年、国立国会図書館デジタルコレクション)354-355コマ参照。では「汙斯王(うしのおおきみ)」と表記される。.

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当麻山背

当麻 山背(たいま の やましろ)とは、奈良時代の女性。舎人親王の妃で、大炊王(淳仁天皇)の生母。.

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当麻老

当麻 老(たいま の おゆ、生没年不詳)は、奈良時代の貴族。姓は真人。淳仁天皇の外祖父。官位は従五位上・上総守。.

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御間城姫

御間城姫(みまきひめ、生没年不詳)は崇神天皇の皇后。古事記には御真津比売(みまつひめ)とある。父は大彦命。垂仁天皇の母。 父の大彦命は、崇神天皇の父開化天皇の兄(孝元天皇の第一皇子)なので(実際、古事記(武埴安彦の乱の条)では、崇神天皇は大彦命を伯父と呼んでいる)、夫・崇神天皇と従兄妹である。 「御間城姫」と崇神天皇の名「御間城入彦五十瓊殖尊」が同じ「御間城」を含んでおり、また、古事記の開化天皇条には崇神天皇(御真木入日子印恵命)の同母妹に后と同名の「御真津比売命」があることから、二人はもともと同母兄妹の伝承であったのを、記紀編纂時に変えたとの見方もある。 Category:日本の皇后 Category:日本の皇太后 Category:古墳時代以前の女性皇族 Category:生没年不詳.

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徳川和子

徳川 和子(とくがわ まさこ・かずこ、慶長12年10月4日(1607年11月23日) - 延宝6年6月15日(1678年8月2日))は、江戸時代前期の女性。徳川秀忠の娘(五女)で、徳川家康の内孫。後水尾天皇の中宮。明正天皇の生母。また女院として東福門院(とうふくもんいん)。.

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徳川秀忠

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。.

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後堀河天皇

後堀河天皇(ごほりかわてんのう、建暦2年2月18日(1212年3月22日) - 天福2年8月6日(1234年8月31日))は、鎌倉時代の第86代天皇(在位:承久3年7月9日(1221年7月29日) - 貞永元年10月4日(1232年11月17日))。諱は茂仁(とよひと)。 高倉天皇の第二皇子の守貞親王(後高倉院)の第三皇子。母は、持明院基家の娘、北白河院・陳子。.

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後奈良天皇

後奈良天皇(ごならてんのう、明応5年12月23日(1497年1月26日) - 弘治3年9月5日(1557年9月27日))は、室町時代・戦国時代の第105代天皇(在位:大永6年4月29日(1526年6月9日)- 弘治3年9月5日(1557年9月27日))。諱は知仁(ともひと)。.

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後宇多天皇

後宇多天皇(ごうだてんのう、文永4年12月1日(1267年12月17日) - 元亨4年6月25日(1324年7月16日)は、鎌倉時代の第91代天皇(在位:文永11年1月26日(1274年3月6日) - 弘安10年10月21日(1287年11月27日 ))。諱は世仁(よひと)。.

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後小松天皇

後小松天皇(ごこまつてんのう、天授3年6月27日(1377年8月1日) - 永享5年10月20日(1433年12月1日))は、室町時代北朝最後の第6代、歴代第100代の天皇(在位:弘和2年4月11日(1382年5月24日) - 応永19年8月29日(1412年10月5日))。諱は幹仁(もとひと)。.

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後三条天皇

大炊御門万里小路殿址、源高房、後三条天皇はこの地で崩御、京都府京都市中京区富小路通夷川上る西側 後三条天皇(ごさんじょうてんのう、長元7年7月18日(1034年9月3日) - 延久5年5月7日(1073年6月15日))は、第71代天皇(在位:治暦4年4月19日(1068年5月22日) - 延久4年12月8日(1073年1月18日))。諱は尊仁(たかひと)。宝算40。 後朱雀天皇の第二皇子。母は三条天皇第三皇女・皇后禎子内親王(陽明門院)。後冷泉天皇の異母弟。宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇である(ただし、生母の禎子内親王は藤原道長の外孫である)。.

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後一条天皇

後一条天皇(ごいちじょうてんのう、寛弘5年9月11日(1008年10月12日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))は、平安時代中期の第68代天皇(在位:長和5年2月7日(1016年3月18日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))。諱は敦成(あつひら)。一条天皇の第二皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母弟に後朱雀天皇。.

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後二条天皇

後二条天皇(ごにじょうてんのう、弘安8年旧2月2日(1285年3月9日) - 徳治3年旧8月25日(1308年9月10日))は、鎌倉時代の第94代天皇(在位:正安3年旧1月21日(1301年3月2日) - 徳治3年旧8月25日(1308年9月10日))。諱は邦治(くにはる)。大覚寺統の天皇である。 後宇多天皇の第一皇子。母は太政大臣堀川基具の養女で実孫の基子(西華門院)。後醍醐天皇の異母兄にあたる。 後二条天皇の即位は鎌倉幕府が朝廷に治天と天皇の交代を要求したことから実現したものだったが、ここまで半世紀以上にわたって持明院統と大覚寺統による両統迭立を重ねてきた結果、この天皇の即位後3年半にわたって史上最多となる5代の上皇(後深草院・亀山院・後宇多院・伏見院・後伏見院)が同時に存在することになった。.

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後亀山天皇

後亀山天皇(ごかめやまてんのう)は、南北朝時代の第99代天皇にして、南朝最後の第4代天皇(在位:弘和3年/永徳3年(1383年)冬 - 元中9年/明徳3年閏10月5日(1392年11月19日))。諱は熙成(ひろなり)。 北朝を擁護する将軍足利義満が提示した講和条件を受諾して、三種の神器を北朝・後小松天皇に伝えて譲位し、南北朝合一を実現した。 明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として公認されるようになった。.

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後伏見天皇

後伏見天皇(ごふしみてんのう、弘安11年3月3日(1288年4月5日)- 延元元年4月6日(1336年5月17日))は、鎌倉時代の第93代天皇(在位:永仁6年7月22日(1298年8月30日)- 正安3年1月21日(1301年3月2日))。諱は胤仁(たねひと)。 伏見天皇の第一皇子。母は、参議左近衛中将五辻経氏の娘、経子。持明院統。.

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後土御門天皇

後土御門天皇(ごつちみかどてんのう、嘉吉2年5月25日(1442年7月3日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日))は、室町時代の第103代天皇(在位寛正5年7月19日(1464年8月21日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日))。諱は成仁(ふさひと)。.

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後嵯峨天皇

後嵯峨天皇(ごさがてんのう、承久2年2月26日(1220年4月1日) - 文永9年2月17日(1272年3月17日))は、鎌倉時代の第88代天皇(在位:仁治3年1月20日(1242年2月21日) - 寛元4年1月29日(1246年2月16日))。諱は邦仁(くにひと)。 土御門天皇の皇子。母は、源通宗の娘、通子。.

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後冷泉天皇

後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう、万寿2年8月3日(1025年8月28日) - 治暦4年4月19日(1068年5月22日))は、日本の第70代天皇(在位:1045年 - 1068年)。後朱雀天皇の第一皇子。母は藤原道長女藤原嬉子(贈皇太后)。諱を親仁(ちかひと)。紫式部の娘大弐三位が乳母である。.

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後円融天皇

後円融天皇(ごえんゆうてんのう、延文3年12月12日(1359年1月11日) - 明徳4年4月26日(1393年6月6日))は、南北朝時代の北朝第5代天皇(在位:応安4年3月23日(1371年4月9日) - 永徳2年4月11日(1382年5月24日))。諱は緒仁(おひと)という。.

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後光厳天皇

後光厳天皇(ごこうごん てんのう、建武5年3月2日(1338年3月23日)- 応安7年1月29日(1374年3月12日))は、南北朝時代の北朝第4代天皇(在位:観応3年8月17日(1352年9月25日)- 応安4年3月23日(1371年4月9日))。諱は弥仁(いやひと、旧字体:彌仁)。.

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後光明天皇

後光明天皇(ごこうみょうてんのう、寛永10年3月12日(1633年4月20日) - 承応3年9月20日(1654年10月30日))は、江戸時代前期の第110代天皇(在位:寛永20年10月3日(1643年11月14日) - 承応3年9月20日(1654年10月30日))。幼名を素鵞宮(すがのみや)、諱を紹仁(つぐひと)という。儒学に傾倒して典礼を重んじ、朝儀再興を目指した。.

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後白河天皇

後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。.

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後花園天皇

後花園天皇(ごはなぞのてんのう)は、室町時代の第102代天皇である(在位:正長元年7月28日(1428年9月7日) - 寛正5年7月19日(1464年8月21日))。諱は彦仁(ひこひと)。 本来は皇統を継ぐ立場にはなかったが、称光天皇の死後に皇位を継いだ。8親等以上離れた続柄での皇位継承は南北朝合一を除くと53代658年ぶりである(称徳天皇→光仁天皇以来)。以後、この天皇の系統が今上天皇をはじめとする現在の皇室に連なっている。.

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後西天皇

後西天皇(ごさいてんのう、寛永14年11月16日(1638年1月1日) - 貞享2年2月22日(1685年3月26日)は、江戸時代の第111代天皇(在位:承応3年11月28日(1655年1月5日) - 寛文3年1月26日(1663年3月5日))。幼名を秀宮、諱を良仁(ながひと)という。花町宮。花町殿。.

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後鳥羽天皇

後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇(在位:寿永2年8月20日(1183年9月8日) - 建久9年1月11日(1198年2月18日))。諱は尊成(たかひら・たかなり)。高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。 文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが、この承久の乱で朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。.

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後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.

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後陽成天皇

後陽成天皇(ごようぜいてんのう、元亀2年12月15日(1571年12月31日) - 元和3年8月26日(1617年9月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての第107代天皇(在位:天正14年11月7日(1586年12月17日) - 慶長16年3月27日(1611年5月9日))。諱は初め和仁(かずひと)、慶長3年(1598年)12月に周仁(かたひと)と改めた。.

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後柏原天皇

後柏原天皇(ごかしわばらてんのう、寛正5年10月20日(1464年11月19日)- 大永6年4月7日(1526年5月18日))は、室町時代、戦国時代の第104代天皇(在位:明応9年10月25日(1500年11月16日) - 大永6年4月7日(1526年5月18日))。諱は勝仁(かつひと)。.

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後村上天皇

後村上天皇(ごむらかみてんのう)は、南北朝時代の第97代天皇にして、南朝の第2代天皇(在位:延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日) - 正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日))。諱は初め義良(のりよし / のりなが)、後に憲良に改めた。名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。父・後醍醐天皇の遺志を継いで南朝の京都回復を図り、大和(奈良県)の吉野・賀名生、摂津(大阪府)の住吉などを行宮とした。 明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として認定されるようになった。.

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後桜町天皇

後桜町天皇(ごさくらまちてんのう、元文5年8月3日(1740年9月23日) - 文化10年閏11月2日(1813年12月24日))は第117代天皇(在位:宝暦12年7月27日(1762年9月15日)- 明和7年4月28日(1770年5月23日))。江戸時代、また今上天皇までで最後の女性天皇。幼名を以茶宮(いさのみや)・緋宮(あけのみや)、諱を智子(としこ)はじめ智子を“さとこ”と訓じたが、霊元天皇諱の識仁(さとひと)と音が通うため、践祚後の宝暦12年7月29日“としこ”に改めた。という。.

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後桃園天皇

後桃園天皇(ごももぞのてんのう、宝暦8年7月2日(1758年8月5日) - 安永8年10月29日(1779年12月6日))は、江戸時代の第118代天皇(在位:明和7年4月28日(1770年5月23日) - 安永8年11月9日(1779年12月16日))。諱は英仁(ひでひと)。 なお、急逝による後継の準備のため、実際よりも後の日付で崩御が発表されており、在位日が崩御後も続いている(宮内庁所蔵「後桃園院御凶事前後記」)。.

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後水尾天皇

後水尾天皇(ごみずのおてんのう、文禄5年6月4日(1596年6月29日) - 延宝8年8月19日(1680年9月11日))は第108代天皇(在位:慶長16年3月27日(1611年5月9日) - 寛永6年11月8日(1629年12月22日))。諱は政仁(ことひと)。.

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後深草天皇

後深草天皇(ごふかくさてんのう)は、鎌倉時代中期の第89代天皇(在位:寛元4年1月29日(1246年2月16日) - 正元元年11月26日(1260年1月9日))。諱は久仁(ひさひと)。 後嵯峨天皇の皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。持明院統の祖。父母が自身より弟の亀山天皇を寵愛し、亀山天皇を治天の君としたことに不満を抱き、やがて後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立が生じる端緒となった。.

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後朱雀天皇

後朱雀天皇(ごすざくてんのう、寛弘6年11月25日(1009年12月14日) - 寛徳2年1月18日(1045年2月7日))は、平安時代中期の第69代天皇(在位:長元9年4月17日(1036年5月15日) - 寛徳2年1月16日(1045年2月5日))。諱は敦良(あつなが)。 一条天皇の第三皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母兄に後一条天皇。.

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忍坂大中姫

忍坂大中姫関係系図 忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)は第19代允恭天皇の皇后であり、木梨軽皇子(允恭天皇の皇太子)・第20代安康天皇・第21代雄略天皇の母。父は稚野毛二派皇子(応神天皇の皇子)。母は弟日売真若比売命(日本武尊の曾孫)。意富富杼王(継体天皇の曾祖父)の同母妹。 日本書紀允恭紀に、允恭天皇2年春2月14日(413年3月31日)立后され、名代部として刑部(おっさかべ)が設定されたとある。このとき設定された名代部の一つが火葦北国(ひのあしきたのくに。熊本県八代・葦北地方)であるとする説がある。当地から阿蘇ピンク石という石材が産出しており、河内平野の古墳の石棺にこの石材が用いられていることから、何らかの関係があるとする見方もある。 允恭天皇42年12月14日(454年1月28日)、安康天皇の即位と同日に皇太后となった。.

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応神天皇

応神天皇(おうじんてんのう、仲哀天皇9年12月14日 - 応神天皇41年2月15日)は、第15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日 - 同41年2月15日)。諱は誉田別尊(ほむたわけのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)。誉田天皇(ほむたのすめらみこと/ほんだのすめらみこと)、胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)とも称される。麛坂皇子と忍熊皇子は異母兄にあたる。.

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志貴皇子

志貴皇子(しきのみこ、? - 霊亀2年8月11日(716年9月1日))は、飛鳥時代末期から奈良時代初期にかけての皇族。芝基皇子または施基皇子、志紀皇子とも記す。天智天皇の第七皇子。位階は二品。 皇位とは無縁で文化人としての人生を送った。しかしその薨去から54年後に、息子の白壁王(第49代光仁天皇)が即位し、春日宮御宇天皇の追尊を受けることとなった。現在の皇室は志貴皇子の子孫となる。.

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土御門天皇

土御門天皇(つちみかどてんのう、建久6年11月1日または12月2日(1195年12月4日または1196年1月3日) - 寛喜3年10月11日(1231年11月6日))は、鎌倉時代の第83代天皇(在位:建久9年1月11日 (1198年2月18日) - 承元4年11月25日(1210年12月12日))。諱は為仁(ためひと)。 後鳥羽天皇の第一皇子。母は、源通親の養女(法勝寺執行法印能円の女)承明門院・源在子。.

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北朝 (日本)

北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代に、足利氏を頂点に、全国の多くの武士、及び大多数の公家が支持した持明院統の朝廷である。同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統の南朝(吉野朝廷)に対比する。 南北朝の分裂は後醍醐天皇の建武政権が崩壊した建武3年/延元元年(1336年)以後であるが、鎌倉幕府末期の元弘の乱時に鎌倉幕府が後醍醐天皇に代わって擁立し、後醍醐天皇の京都復帰後にその即位の事実を否認した持明院統の光厳天皇を含んだ6代の天皇が北朝の天皇とされている。.

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園基任

園 基任(その もとただ/もととう)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公卿。園家12代当主。官位は正四位上・参議(薨去後左大臣追贈)。左近衛中将・園基継の子。後光明天皇の外祖父に当たる。.

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園基音

園 基音(その もとなり)は、江戸時代前期の公卿。園家13代当主。園基任の子。官位は正二位権大納言(薨去後左大臣追贈)。霊元天皇の外祖父に当たる。書道持明院流の名手でもあった。.

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園光子

園 光子(その みつこ、慶長7年(1602年)-明暦2年旧2月11日(1656年3月6日))は、後水尾天皇の後宮の一人。後光明天皇の生母。院号は壬生院(みぶいん)。父は参議園基任(薨去後左大臣追贈)。初名は国子、継子。.

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園国子

園国子(その くにこ、寛永元年(1624年)-延宝5年7月5日(1677年8月3日))は、江戸時代前期の女性。後水尾院の典侍で霊元天皇の国母。女院。院号は新広義門院(しんこうぎもんいん)。父は権大納言園基音(薨去後左大臣追贈)。母は丹波山家藩主谷衛友の娘。兄に准大臣園基福がいる。叔母の園光子(壬生院)も後水尾院の典侍だった。.

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ヤマトタケル

ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。 『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本武尊」の用字が通用される宮内庁治定墓(能褒野墓・大和白鳥陵・河内白鳥陵)での公式表記、および『国史大辞典』(吉川弘文館)の項目名、『日本古代氏族人名辞典』(吉川弘文館)の項目名、『日本人名大辞典』(講談社)の項目名において、「日本武尊」の用字が採用される。。 第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。.

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ワタツミ

ワタツミ・ワダツミ(海神・綿津見)とは日本神話の海の神のこと、転じて海・海原そのものを指す場合もある。 「ワタ」は海の古語、「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意であるので、「ワタツミ」は「海の神霊」という意味になる薗田稔、茂木栄 『日本の神々の事典 神道祭祀と八百万の神々』 学研。.

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ヒメタタライスズヒメ

ヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛命)/ヒメタタライスケヨリヒメ(比売多多良伊須気余理比売命)は、神武天皇の皇后である。 神武天皇は、東征以前の日向ですでに吾平津姫を娶り子供も二人いたが、大和征服後、在地の豪族の娘を正妃とすることで、天津神系と国津神系に分かれた系譜がまた1つに統合されることになった。.

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嘉喜門院

嘉喜門院(かきもんいん、生没年不詳)は、南北朝時代の女院・歌人。南朝後村上天皇の女御にして、長慶天皇の生母と推定されるが、加えて後亀山天皇の生母でもあるか。正平23年(1368年)の後村上天皇崩御の後、女院号宣下を受け、間もなく落飾した。近世の南朝系図によって、関白近衛経忠の女で、名は勝子(かつこ/しょうし)とされることが多いが、それを裏付ける史料はない。ただ、関白二条師基の猶子となったことはほぼ確実である。琴の名手と伝えられる。三位局とも。.

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嵯峨天皇

嵯峨天皇(さがてんのう、延暦5年9月7日(786年10月3日) - 承和9年7月15日(842年8月24日))は、日本の第52代天皇(在位:大同4年4月1日(809年5月18日) - 弘仁14年4月16日(823年5月29日))。 諱は神野(賀美能・かみの)。 桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子(檀林皇后)。 嵯峨天皇宸翰『哭澄上人詩』部分(最澄の死を悼む詩)釈文:(香煙は)像爐に(続く) 蒼生橋梁に少なく 緇侶(しりょ)律儀疎(うと)し 法軆何ぞ久しく住(とど)まらん 塵心傷みて餘り有り.

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ウガヤフキアエズ

ウガヤフキアエズ(日子波限建鵜草葺不合命・彦波瀲武盧茲草葺不合尊)は、日本神話の神。神武天皇の父にあたる。.

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タマヨリビメ

タマヨリビメ(タマヨリヒメ、玉依姫)は霊(たま)の憑(よ)りつく巫女『百科事典マイペディア 電子辞書版』「たまよりひめ」 All Rights Reserved.

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冷泉天皇

冷泉天皇(れいぜいてんのう、天暦4年5月24日(950年6月12日)- 寛弘8年10月24日(1011年11月21日)、在位:康保4年10月11日(967年11月15日) - 安和2年8月13日(969年9月27日))は、日本(平安時代中期)の第63代天皇。村上天皇の第二皇子で、諱は憲平(のりひら)。母は藤原師輔の娘・中宮安子。円融天皇の同母兄。.

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円融天皇

円融天皇(えんゆうてんのう、天徳3年旧3月2日(959年4月12日) - 正暦2年旧2月12日(991年3月1日); 在位:安和2年旧9月23日(969年11月5日) - 永観2年旧8月27日(984年9月24日))は、第64代天皇。諱は守平(もりひら)。 村上天皇の第五皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘・中宮安子。冷泉天皇の同母弟。.

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内裏

内裏(だいり)とは、古代都城の宮城における天皇の私的区域のこと。御所(ごしょ)、禁裏(きんり)、大内(おおうち)などの異称がある。都城の北辺中央に 官庁エリアである宮城(皇城)があり、宮城内部に 天皇の私的な在所である内裏があった。.

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出家

出家(しゅっけ、pabbajja、pravrajyaa、प्रव्रज्या) とは、師僧から正しい戒律である『沙弥戒』や『具足戒』を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教に入ることである。落飾(らくしょく)ともいう。対義語は還俗(げんぞく、“俗界に還る”の意)。 在家(ざいけ)と対比される。インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行にいそしんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、釈迦もその沙門の1人であった。 仏教における出家の伝統はこれに由来する。仏教教団において剃髪(ていはつ)して袈裟を被い、「正式に受戒(じゅかい)して入門した沙弥や沙弥尼」になることを言うが、その後、「具足戒を受けて正規の僧となった比丘や比丘尼」を呼ぶ場合にも使う。.

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准母

准母(じゅんぼ)とは、天皇の生母ではない女性が母に擬されること。また、母に擬された女性の称号。.

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允恭天皇

允恭天皇(いんぎょうてんのう、仁徳天皇64年? - 允恭天皇42年1月14日)は、第19代天皇(在位:允恭天皇元年12月 - 同42年1月14日)。5世紀の天皇。雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)、男浅津間若子宿禰王(古事記)。中国の歴史書『宋書』・『梁書』に記される倭の五王中の倭王済に比定されている。.

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八坂入媛命

八坂入媛命(やさかいりびめのみこと、生没年不詳)は、景行天皇の皇后。古事記には八尺之入日売命(やさかのいりひめのみこと)とある。父は八坂入彦命(崇神天皇の皇子)で、母は未詳。成務天皇・五百城入彦皇子ら七男六女の母。 景行天皇4年2月21日(74年4月5日)、景行天皇の妃となった。元々天皇に見初められたのは同母妹の弟媛であったが、固辞した彼女に推薦されて入内に至ったと伝えられる。同52年5月4日(122年6月25日)に当初皇后だった播磨稲日大郎姫が崩御したことを受け、同年7月7日(8月26日)に新たな皇后に立てられた。成務天皇2年11月10日(132年12月5日)、皇太后となった。.

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六条天皇

六条天皇(ろくじょうてんのう、長寛2年旧11月14日(1164年12月28日) - 安元2年旧7月17日(1176年8月23日))は日本の第79代天皇(在位:永万元年旧6月25日(1165年8月3日) - 仁安3年旧2月19日(1168年4月9日))。諱を順仁(のぶひと)という。.

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典侍

典侍(ないしのすけ/てんじ)とは、律令制における官職で、内侍司(後宮)の次官(女官)。単に「すけ」とも呼ばれた。 長官は、尚侍であったが、後に后妃化して設置されなくなったため、典侍が実質的に長官となった。准位では、従四位であったが、実際には女叙位を受けて二、三位に昇る者も多かった。なお、「藤典侍」、「源典侍」や「大納言典侍」などと、前に姓や、父親の官職名を付けて称する者が多かった。.

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元正天皇

元正天皇(げんしょうてんのう、天武天皇9年(680年) - 天平20年4月21日(748年5月22日))は日本(奈良時代)の第44代天皇。女帝(在位:霊亀元年9月2日(715年10月3日) - 養老8年2月4日(724年3月3日))。父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇。文武天皇の姉。諱は氷高(ひたか)・日高、又は新家(にいのみ)。和風諱号は日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたまみずきよたらしひめのすめらみこと)である。日本の女帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。.

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元明天皇

元明天皇(げんめいてんのう、斉明天皇7年(661年) - 養老5年12月7日(721年12月29日))は、日本(飛鳥時代 - 奈良時代)の第43代天皇。女帝(在位:慶雲4年7月17日(707年8月18日) - 和銅8年9月2日(715年10月3日))。名は阿閇皇女(あへのひめみこ)。阿部皇女とも。和風諡号は「日本根子天津御代豊国成姫天皇」(やまと ねこ あまつみよ(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと、旧字体:−豐國成姬−)である。 天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)。持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文天皇)は異母兄。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母。 藤原京から平城京へ遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。.

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元慶

元慶(がんぎょう、げんけい)は、日本の元号の一つ。貞観の後、仁和の前。877年から885年までの期間を指す。この時代の天皇は陽成天皇、光孝天皇。.

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光厳天皇

光厳天皇(こうごんてんのう 正和2年7月9日(1313年8月1日) - 正平19年7月7日(1364年8月5日))は、鎌倉時代末期の持明院統の天皇(在位:元弘元年9月20日(1331年10月22日) - 元弘3年5月25日(1333年7月7日))。諱を量仁(かずひと)という。 後醍醐天皇の失脚を受けて皇位に就いたが、鎌倉幕府の滅亡により復権した後醍醐が自身の廃位と光厳の即位を否定したため、歴代天皇125代の内には含まれず、北朝初代として扱われている。ただし、実際には弟の光明天皇が北朝最初の天皇であり、次の崇光天皇と合わせた2代15年の間、光厳上皇は治天(皇室の長)の座にあって院政を行った。.

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光孝天皇

光孝天皇(こうこうてんのう、天長7年(830年) - 仁和3年8月26日(887年9月17日)は、第58代天皇(在位:元慶8年2月23日(884年3月23日) - 仁和3年8月26日(887年9月17日))。諱は時康(ときやす)。 仁明天皇の第三皇子。母は藤原総継の娘、贈皇太后沢子。.

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光仁天皇

光仁天皇(こうにんてんのう、和銅2年10月13日(709年11月18日) - 天応元年12月23日(782年1月11日))は、第49代天皇(在位:宝亀元年10月1日(770年10月23日) - 天応元年4月3日(781年4月30日))。和風諡号は「天宗高紹天皇」(あまつむねたかつぎのすめらみこと)。天智天皇の第7皇子・施基親王(志貴皇子)の第6子で白壁王と称した。母は紀橡姫(贈太政大臣紀諸人の娘)。.

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光格天皇

光格天皇御胞塚、光格天皇の胞衣を埋納した塚、京都市上京区荒神口通河原町西入清荒神内 光格天皇(こうかくてんのう、明和8年8月15日(1771年9月23日) - 天保11年11月18日(1840年12月11日))は、江戸時代の第119代天皇(在位:安永8年11月25日(1780年1月1日) - 文化14年3月22日(1817年5月7日))。幼名を祐宮(さちのみや)という。諱は初め師仁(もろひと)としたが、死人(しにん)に音が通じるのを忌み、践祚と同時に兼仁(ともひと)に改めた。傍系の閑院宮家から即位したためか、中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心であり、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。実父閑院宮典仁親王と同じく歌道の達人でもあった。.

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光明

光明(こうみょう)とは、明るい光のこと。.

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光明天皇

光明天皇(こうみょうてんのう、元亨元年12月23日(1322年1月11日) - 天授6年6月24日(1380年7月26日))(在位:延元元年8月15日(1336年9月20日)- 正平3年10月27日(1348年11月18日))は、南北朝時代の天皇で、諱を豊仁(ゆたひと)という。 その即位によって北朝が成立したので北朝最初の天皇ということになるが、鎌倉時代末期に在位した兄の光厳天皇が後醍醐天皇によって即位を否定され、歴代天皇125代に含まれない北朝初代天皇として扱われているため、光明は北朝第2代とされている。.

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勧修寺ただ子

勧修寺 婧子(かじゅうじ ただこ、安永9年11月6日(1780年12月1日) - 天保14年3月21日(1843年4月20日))は、光格天皇の典侍で、仁孝天皇の生母。 幼名は操(みさお)、別名に冬子。号に、新典侍(しん てんじ)、宰相典侍(さいしょう てんじ)、権中納言典侍(ごんちゅうなごん てんじ)、三位局(さんみの つぼね)など。 死後准三后・女院を追贈、院号は東京極院(ひがし きょうごく いん)。 徳川家康の子である松平信康(妻は織田信長の娘である徳姫)、督姫、結城秀康、徳川頼宣の子孫であるため、仁孝天皇以降の天皇とその子孫にあたる現在の皇族(男性皇族との婚姻により皇族になった女性皇族を除く)は織田信長と徳川家康の子孫にもあたる(ちなみに、大正天皇の皇后である貞明皇后も徳川家康の子である結城秀康、徳川秀忠、徳川義直、織田信長の妹のお市の方の子孫であるため、その方面からも家康、織田家の血が流れている)。詳細は。.

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勧修寺経逸

勧修寺 経逸(かじゅうじ つねはや、寛延元年10月6日(1748年10月27日) - 文化2年9月16日(1805年11月6日))は、江戸時代の公家(公卿)。仁孝天皇の外祖父。権大納言勧修寺顕道の次男。母は臼杵藩主稲葉恒通の娘。兄権右中弁勧修寺敬明の養子となる。正二位権大納言。 堂上家(家格は名家、藤原北家高藤流甘露寺支流)である勧修寺家の23代当主。.

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勧修寺藤子

勧修寺 藤子(かじゅうじ ふじこ、寛正5年8月26日(1464年9月27日) - 天文4年1月11日(1535年2月13日))は、後柏原天皇の典侍で、後奈良天皇の国母。女院。院号は豊楽門院(ぶらくもんいん)。.

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勧修寺教秀

勧修寺 教秀(かじゅうじ のりひで)は、室町時代中期から戦国時代の公卿。勧修寺家第7代当主。武家伝奏を務めた.

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勧修寺晴子

勧修寺 晴子(かじゅうじ はるこ、天文22年(1553年) - 元和6年2月18日(1620年3月21日))は、安土桃山時代から江戸時代の女性。正親町天皇の第五皇子・誠仁親王の女房。後陽成天皇の生母。女院。院号は新上東門院。.

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勧修寺晴秀

勧修寺 晴秀(かじゅうじ はるひで)は、戦国時代から安土桃山時代の公卿。.

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国(くに、こく)は、一般的に、住民・領土・主権及び外交能力(他国からの承認)を備えた地球上の地域のこと。ほとんどの国が憲法を成文法で作成し、自国の権利や能力を他国に表明している。新しい国を作ることに関し、すでに在る国が憲法改正や革命など「新憲法制定」によって生まれ変わる場合もある。.

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国史大辞典 (昭和時代)

國史大辭典(こくしだいじてん)とは、昭和54年(1979年)から平成9年(1997年)にかけて吉川弘文館から刊行された、日本で最大級の歴史百科事典である。四六倍判で全15巻(17冊)、総収録項目数は54000余である。各巻は平均して1000ページ、うち平均150ページは原色図版など。第45回菊池寛賞を受賞した。 2010年7月1日よりデジタル版「国史大辞典」が、インターネット百科事典「ジャパンナレッジ」の新しいコンテンツとして公開された。.

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国王

国王(こくおう、英語:king, フランス語:roi, ドイツ語:König, ノルド語:kong, ラテン語:rex)は、国の君主(王)を指し、その称号(君主号)でもある。特に男性である場合(男王)を指す。.

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国民

国民(こくみん)とは、国に属する個々の人間を指す場合と、国に対応する人間集団をまとめて指す場合とがある。共産主義的なニュアンスを嫌うなどの理由で人民の言い換えとして用いられることも多いが、外国人を含むかどうかなど意味合いも変わるため、「国民」ではなく「人々」などと言い換える場合もある。.

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国民の父

総督 アメリカ合衆国建国の父、ジョージ・ワシントン メキシコ独立の父、ミゲル・イダルゴ シモン・ボリーバル、ベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビアの解放者 ホセ・デ・サン=マルティン、アルゼンチン、チリ、ペルーの解放者 テオドール・ヘルツル、シオニズムの父でイスラエルの父 辛亥革命を主導した孫文、中華民国(台湾)の国父 国民の父(こくみんのちち)とは、多くの国家において、独立期や発展期に活躍した象徴的な人物や政治的な指導者を称賛する際に使われる呼称である。英語からの訳語であるこの呼称の他、似た概念を表す呼称として「祖国の父」、「国家の父」、「建国の父」、「独立の父」、「国父」があり、それぞれニュアンスが異なる。.

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四条天皇

四条天皇(しじょうてんのう)は、鎌倉時代の第87代天皇(在位:貞永元年10月4日(1232年11月17日) - 仁治3年1月9日(1242年2月10日))。諱は秀仁(みつひと)。 後堀河天皇の第一皇子。母は、九条道家の娘、中宮・竴子(藻璧門院、竴は「立尊」)。.

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皇后

皇后(こうごう、Empress)は、天皇や皇帝の正妃(正妻)、およびその人物に与えられる称号。 一夫多妻制のもとでは、天皇や皇帝の複数の妻のうち最上位の者となる。.

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皇太后

皇太后(こうたいごう、Empress Dowager)は、先代の天皇・皇帝の皇后であった者、およびその称号。ただし必ずしもこの定義にあてはまらない事例もある。.

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皇太夫人

皇太夫人(こうたいふじん・すめみおや)は、天皇の生母で、前天皇の夫人(のち女御)であった人をさす。醍醐天皇より前には、皇太后を「帝の母で后」、皇太妃を「帝の母で妃」と称したのに対しこう呼ばれた。ただし、天皇の即位前に薨去した生母については、生前に皇后になっていなくても皇太后を追贈された。また、皇太夫人となった後に皇太后とされることも多かった。醍醐天皇生母の藤原胤子は天皇即位前に薨去し皇太后を追贈され、また、朱雀天皇以降は生母が皇后であることが続いた。一条天皇生母の藤原詮子は皇后を経ずに一条天皇即位後に皇太后となり、結局、醍醐天皇養母である藤原温子を最後に皇太夫人の称は用いられなくなった。.

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皇帝

皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.

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石姫皇女

石姫皇女(いしひめのひめみこ/いしひめのおうじょ、生没年不詳)は、欽明天皇の皇后。『古事記』には石比売命(いしひめのみこと)とある。父は宣化天皇、母は橘仲皇女(仁賢天皇の皇女)。敏達天皇の母。 同母妹の小石姫皇女(記のみ)・倉稚綾姫皇女・日影皇女(以上紀のみ)と共に欽明天皇の妃となった。欽明天皇元年1月15日(540年2月8日)に欽明天皇の皇后に立てられた。敏達天皇元年4月3日(572年4月30日)、息子敏達天皇の即位と同日に皇太后に立てられた。.

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王妃

王妃(おうひ)は、王の正妃(第一夫人)のことである。君主としての王の妃の意味で用いられる場合と、諸侯または皇族としての王の妃の称号として用いられる場合がある。ヨーロッパの諸言語では前者の意味の王妃と、自身が君主である女王に同じ単語が用いられる。英語を例に挙げると、queen で両者を共に意味し、区別する場合には王妃を queen consort 、女王を queen regnant と呼び分ける。.

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班子女王

班子女王(はんし(なかこ)じょおう、天長10年(833年) - 昌泰3年4月1日(900年5月2日))は、平安時代の皇族。光孝天皇の女御。宇多天皇の母、皇太后。洞院后と称された。仲野親王(桓武天皇皇子)の娘で、母は贈正一位当宗氏。寛平御時后宮歌合の主催者。.

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磐之媛命

之媛命陵と治定されている佐紀盾列古墳群に属するヒシアゲ古墳(奈良県奈良市佐紀町)(国土航空写真) 磐之媛命(いわのひめのみこと、生年不詳 - 仁徳天皇35年6月(347年)は、古墳時代の皇妃。『日本書紀』では磐之媛、『古事記』では石之日売、その他、いはのひめ、磐姫とも記すKotobank。仁徳天皇の4人の皇后のうちのひとり大久間喜一郎.

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神功皇后

功皇后(じんぐうこうごう、成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は、仲哀天皇の皇后。『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は天日矛(あめのひぼこ)裔・葛城高顙媛。応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫あり。 三韓征伐を指揮した逸話で知られる。.

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神武天皇

武天皇(じんむてんのう、庚午年1月1日 - 神武天皇76年3月11日『歴代天皇・年号事典』 吉川弘文館、2003年、p.

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禎子内親王

子内親王(ていし ないしんのう、長和2年7月6日(1013年8月15日) - 寛治8年1月16日(1094年2月3日))は、第67代三条天皇の第3皇女で、第69代後朱雀天皇の皇后、女院。「ていし」は仮の読みで、実際の読みは「さだこ」または「よしこ」だったと推測されている。 母は摂政藤原道長女・皇后妍子。院号は陽明門院(ようめいもんいん)。所生の子女に、尊仁親王(後三条天皇)、伊勢斎宮良子内親王、賀茂斎院娟子内親王がいる。.

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称光天皇

光天皇(しょうこうてんのう、応永8年3月29日 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.59(1401年5月12日) - 正長元年7月20日(1428年8月30日)は、室町時代の第101代天皇(在位: 応永19年8月29日(1412年10月5日) - 正長元年7月20日(1428年8月30日)。諱ははじめ躬仁(みひと)、のち實仁(みひと)に改めた。.

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稚野毛二派皇子

野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ/わかぬけふたまたのおうじ)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。 『日本書紀』では「稚野毛二派皇子」のほか「稚渟毛二岐皇子」、『古事記』では「若沼毛二俣王」・「若野毛二俣王」、他文献では「稚渟毛二俣王」・「稚渟毛二派王」・「稚沼毛二俣命」などとも表記される。 『日本書紀』『古事記』とも事績の記載はない。 第15代応神天皇の皇子、第20代安康天皇・第21代雄略天皇の外祖父、第26代継体天皇の高祖父とされる人物である。.

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糠手姫皇女

糠手姫皇女(ぬかでひめのひめみこ、生年不詳 - 天智天皇3年(664年)6月)は、古墳時代末期から飛鳥時代にかけての皇族。『日本書紀』では他に田村皇女、『古事記』では宝王、糠代比売王と表記されている。押坂彦人大兄皇子の妃。舒明天皇の母。父は第30代敏達天皇、母は伊勢大鹿首小熊の女。同母姉妹には太姫皇女がいる。.

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細媛命

細媛命(くわしひめのみこと/ほそひめのみこと)は、欠史八代、孝霊天皇の皇后。孝元天皇の生母。 『日本書紀』本文における皇后で、磯城県主大目の娘。『古事記』では十市県主祖大目の娘である細比売。 なお、『日本書紀』第1の一書での皇后は春日千乳早山香媛(かすがのちちはややまかひめ)。第2の一書の皇后は十市県主等の祖である真舌媛(ましたひめ)。.

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紀諸人

紀 諸人(き の もろひと、生没年不詳)は、飛鳥時代末期・奈良時代の貴族。従五位下・紀国益の子?『尊卑分脈』では園益の子とし、園益は『続日本紀』の国益と同人との附註がある。。官位は従五位上・内蔵頭、贈正一位・太政大臣。光仁天皇の外祖父。.

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紀橡姫

紀 橡姫(き の とちひめ、生年不詳 - 和銅2年9月14日(709年10月21日)?)は、飛鳥時代の女性。紀諸人の娘で、志貴皇子(施基親王)の妃。光仁天皇の生母。贈皇太后。.

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続柄

続柄の関係図 続柄(つづきがら)とは、血縁関係あるいは婚姻関係を指す語である。俗に「ぞくがら」と読まれることもある。 血族と姻族、直系と傍系、尊属と卑属の意味や親等については「親族」を参照。 本項目において「親族」とは、民法第725条「親族の範囲」で定める「法定親族」を指す。.

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綏靖天皇

綏靖天皇(すいぜいてんのう、神武天皇29年 - 綏靖天皇33年5月10日)は、日本の第2代天皇(在位:綏靖天皇元年1月8日 - 綏靖天皇33年5月10日)。 和風諡号は、『日本書紀』では「神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと)」、『古事記』では「神沼河耳命」。 神武天皇(初代天皇)の皇子。『日本書紀』・『古事記』ともほぼ系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。.

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継体天皇

継体天皇(けいたいてんのう、允恭天皇39年(450年?) - 継体天皇25年2月7日(531年3月10日?))は、日本の第26代天皇。在位は継体天皇元年2月4日(507年3月3日?) - 同25年2月7日(531年3月10日?)。 諱はヲホド。『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記される。また、『筑後国風土記』逸文に「雄大迹天皇(をほどのすめらみこと)」、『上宮記』逸文に乎富等大公王(をほどのおおきみ)とある。 なお、隅田(すだ)八幡神社(和歌山県橋本市)蔵の人物画像鏡銘に見える「孚弟王(男弟王?)」は継体天皇を指すとする説がある(後述)別名として、『日本書紀』に彦太尊(ひこふとのみこと)とある。.

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用明天皇

明天皇(ようめいてんのう、生年不詳 - 用明天皇2年4月9日(587年5月21日?))は、日本の第31代天皇(在位:敏達天皇14年9月5日(585年10月3日?) - 用明天皇2年4月9日(587年5月21日?))。.

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白河天皇

白河天皇(しらかわ てんのう)は、第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日) - 応徳3年11月26日(1087年1月3日))。諱を貞仁(さだひと)という。 後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。.

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花山天皇

花山天皇(かざんてんのう/かさんてんのう、安和元年10月26日(968年11月29日) - 寛弘5年2月8日(1008年3月17日)、在位:永観2年10月10日(984年11月5日) - 寛和2年6月23日(986年8月1日))は、日本(平安時代中期)の第65代天皇。諱は師貞(もろさだ)。花山院(かさんいん)や花山法皇とも呼ばれる。 冷泉天皇の第一皇子。母は、摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子。三条天皇の異母兄。花山源氏(神祇伯を世襲した伯王家、のち断絶)の祖。.

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花山院師継

花山院 師継(かざんいん もろつぐ、貞応元年(1222年) - 弘安4年4月9日(1281年4月28日))は鎌倉時代の公卿。花山院忠経の四男。兄に花山院定雅がいる。母は葉室宗行の娘。子に花山院師信、娘(西園寺実兼妻)。養女に後醍醐天皇の生母談天門院がいる。正二位。権大納言。.

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花園天皇

花園天皇(はなぞのてんのう、永仁5年7月25日(1297年8月14日) - 正平3年11月11日(1348年12月2日))は鎌倉時代の第95代天皇(在位:延慶元年11月16日(1308年12月28日)- 文保2年2月26日(1318年3月29日))。諱は富仁(とみひと)。 伏見天皇の第四皇子。母は、左大臣洞院実雄の娘、顕親門院・洞院季子。鎌倉時代の二つの皇統のうち持明院統に属する。.

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遠智娘

遠智娘(おちのいらつめ、生没年不詳)は、飛鳥時代の豪族蘇我氏の蘇我倉山田石川麻呂(蘇我入鹿のいとこ)の娘。またの名を造媛、美濃津子娘とも伝えられている。 遅くとも、大化の改新以前(644年という説有り)に中大兄皇子(後の天智天皇)に嫁した。妹に姪娘がおり、同じく中大兄皇子に嫁して御名部皇女と阿陪皇女(後の元明天皇)の二女を産む。同じ天智天皇に嫁いだ蘇我赤兄の娘、常陸娘と天武天皇に嫁いだ大蕤娘とは従姉妹にあたる。 当時、彼女は古人大兄皇子の娘で天智天皇の皇后である倭姫王に次ぐ高貴な血筋の夫人であった。649年(大化5年)、父蘇我倉山田石川麻呂が謀反の密告をされて自害。この事件は夫である中大兄皇子の陰謀であるという説が有力である。享年は定かではないが、建皇子を産んで間もなく亡くなったとの説が多い。.

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聖武天皇

聖武天皇(しょうむ てんのう、大宝元年(701年) - 天平勝宝8歳5月2日(756年6月4日)、在位:神亀元年2月4日(724年3月3日) - 天平勝宝元年7月2日(749年8月19日))は、日本(奈良時代)の第45代天皇。即位前の名は首皇子(おびとのみこ)。 尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)、沙弥勝満(しゃみしょうまん)とも言う。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。.

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草壁皇子

草壁皇子(くさかべのみこ(おうじ)、天智天皇元年(662年) - 持統天皇3年4月13日(689年5月7日)は、飛鳥時代の皇族。天武天皇と皇后・鸕野讃良皇女(後の持統天皇)の皇子。妃は天智天皇の皇女で持統天皇の異母妹である阿陪皇女(後の元明天皇)。元正天皇・吉備内親王・文武天皇の父。諡号は岡宮御宇天皇(おかのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと、おかのみやぎょうてんのう)。岡宮天皇、長岡天皇とも称される。 天皇系図38~50代.

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順徳天皇

順徳天皇(じゅんとくてんのう)は、鎌倉時代の第84代天皇(在位:承元4年11月25日(1210年12月12日) - 承久3年4月20日(1221年5月13日)) - コトバンク - コトバンク 『秋山喜代子』 - コトバンク 『山本博也』。諱は守成(もりなり)。 後鳥羽天皇の第三皇子。母は、藤原範季の娘・重子(修明門院)。.

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顕宗天皇

顕宗天皇(けんぞうてんのう、正字体:顯宗天皇、允恭天皇39年 - 顕宗天皇3年4月25日)は、記紀・『播磨国風土記』に伝えられる第23代天皇(在位:顕宗天皇元年1月1日 - 同3年4月25日)。弘計天皇(をけのすめらみこと)・来目稚子(くめのわくご)、袁祁王・袁祁之石巣別命(をけのいわすわけのみこと、『古事記』)、袁奚天皇(『播磨国風土記』)とも。.

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西園寺きつ子

西園寺 姞子(さいおんじ きつし、嘉禄元年(1225年) - 正応5年9月9日(1292年10月20日))は、後嵯峨天皇の中宮で後に皇太后。西園寺実氏の長女で、母は四条隆衡の娘・四条貞子(北山准后)。後深草・亀山両天皇の生母、女院。院号は大宮院(おおみやいん)。法名は遍智覚(へんちかく)。.

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西園寺実氏

西園寺 実氏(さいおんじ さねうじ)は、鎌倉時代前期の公卿。従一位太政大臣。常盤井相國と号す。父は准三宮太政大臣西園寺公経。旧字で實氏。.

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西園寺寧子

西園寺 寧子(さいおんじ ねいし/やすこ、正応5年(1292年) - 正平12年閏7月22日(1357年9月6日))は、鎌倉時代から南北朝時代の女性。後伏見上皇の女御であり、光厳天皇及び光明天皇の実母。院号は広義門院。北朝を存続させるため、事実上の治天の君の座に就き、天皇家の家督者として君臨した。女性で治天の君となったのも、皇室に出自せず治天の君となったのも、日本史上で広義門院西園寺寧子が唯一である。.

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西園寺公衡

西園寺 公衡(さいおんじ きんひら)は、鎌倉時代後期の公卿。従一位左大臣。竹林院左大臣、または竹中と号する。父は太政大臣西園寺実兼。母は内大臣中院通成の娘顕子。.

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親王妃

親王妃(しんのうひ/みこのみめ、Princess)は、親王の妃、またはその身位にある人をいう。日本における親王妃は皇室典範第5条により皇族(女性皇族)と規定される。なお、皇太子妃も、親王妃に含まれる。敬称は「殿下」である(同法第23条第2項)。江戸時代までは御息所ともいわれた。 現在、親王妃は皇太子妃を含めて、皇太子徳仁親王妃雅子(皇太子妃)、文仁親王妃紀子(秋篠宮妃)、正仁親王妃華子(常陸宮妃)、崇仁親王妃百合子(三笠宮妃)、寛仁親王妃信子、憲仁親王妃久子(高円宮妃)の6名である。.

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香淳皇后

香淳皇后(こうじゅんこうごう、1903年(明治36年)3月6日 - 2000年(平成12年)6月16日)は、昭和天皇の皇后。今上天皇の実母。名は良子(ながこ)、久邇宮家出身で、皇后となる以前の身位は女王。 歴代皇后の中で最長寿である(満97歳没)。.

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誠仁親王

誠仁親王(さねひとしんのう、天文21年4月23日(1552年5月16日) - 天正14年7月24日(1586年9月7日))は、安土桃山時代の皇族。正親町天皇の嫡男でありながら皇位につくことなく早世したが、遺児である和仁親王(後陽成天皇)が皇位につくと、天皇の実父として太上天皇の尊号を追贈された。上皇としての諡(追号)は陽光院である。.

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諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。.

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高倉天皇

倉天皇(たかくらてんのう、応保元年9月3日(1161年9月23日) - 治承5年1月14日(1181年1月30日))は、平安時代末期の第80代天皇(在位:仁安3年2月19日(1168年4月9日) - 治承4年2月21日(1180年3月18日))。諱は憲仁(のりひと)という。 後白河天皇の第7皇子。母は皇太后平滋子(建春門院)。安徳天皇、後鳥羽天皇らの父。.

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高野新笠

野 新笠(たかの の にいがさ、生年不詳 - 延暦8年12月28日(790年1月17日))は、光仁天皇の宮人、後に夫人。桓武天皇・早良親王・能登内親王の生母。桓武天皇の即位後、皇太夫人。薨去後に贈皇太后、贈太皇太后。諡号は天高知日之姫尊。 父は百済系渡来人の家系の出である和乙継(やまとのおとつぐ)、母は土師真妹(はじのまいも)。父方の和氏は百済武寧王の子孫を称する。高野朝臣(たかののあそみ)という氏姓は、光仁天皇の即位後に賜姓されたもの。.

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貞明皇后

貞明皇后(ていめいこうごう、1884年(明治17年)6月25日 - 1951年(昭和26年)5月17日)は、大正天皇の皇后。九条道孝(華族・公爵)の四女。ハンセン病の予防など救らい事業や福祉事業、蚕糸業(絹糸)奨励などに尽力した。旧名は、九条 節子(くじょう さだこ)。.

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鳥羽天皇

鳥羽天皇(とばてんのう、旧字体:鳥羽、康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日(1107年8月9日) - 保安4年正月28日(1123年2月25日))。諱は宗仁(むねひと)。 堀河天皇の皇子。母は贈皇太后・藤原苡子。子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年に渡り院政を敷いた。.

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鴨王

王(かもおう、生年不詳 - 宝亀11年7月9日(780年8月13日))は、奈良時代の皇族。二品・志貴皇子の孫。官位は従四位上・左大舎人頭。.

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身延線

身延線(みのぶせん)は 静岡県富士市の富士駅と山梨県甲府市の甲府駅を結ぶ東海旅客鉄道(JR東海)の鉄道路線(地方交通線)である。.

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身位

身位(しんい)とは、日本の皇族の皇室内部での身分及び地位の差異を表現するためのことば。 日本の皇室において、皇族の身位とは、皇后、太皇太后、皇太后、皇太子、皇太子妃、皇太孫、皇太孫妃、親王、親王妃、内親王、王、王妃、女王をいう。 「皇族身位令」(明治43年皇室令第2号)では、皇族はそれぞれの身位に応じ、下記のとおり叙勲されることとされていた。.

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近衛天皇

近衛天皇(このえてんのう、旧字体:近衞、保延5年5月18日(1139年6月16日)- 久寿2年7月23日(1155年8月22日))は、日本の第76代天皇(在位:永治元年12月7日(1142年1月5日) - 久寿2年7月23日(1155年8月22日))。諱は躰仁(なりひと)。 鳥羽天皇の第九皇子。母は藤原得子(美福門院)。.

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近衛家熙

近衞 家熈(このえ いえひろ)は、江戸時代前期から中期にかけての公家。.

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近衛尚子

近衛 尚子(このえ ひさこ、元禄15年3月9日(1702年4月5日) - 享保5年1月20日(1720年2月27日))は、江戸時代の中御門天皇の女御で、桜町天皇の生母。女院号は新中和門院(しんちゅうかもんいん)。.

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近衛前子

近衛 前子(このえ さきこ、天正3年(1575年) - 寛永7年7月3日(1630年8月11日))は、織豊期から江戸時代初期の女性。後陽成天皇女御。女院。後水尾天皇母。父は近衛前久、母は若狭武田氏か。猶父は豊臣秀吉。院号は中和門院(ちゅうかもんいん)。.

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近衛前久

近衞 前久(このえ さきひさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての公家。近衞家当主であり、動乱期に関白左大臣・太政大臣を務めた。初名は晴嗣。.

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霊元天皇

霊元天皇(れいげんてんのう、承応3年5月25日(1654年7月9日) - 享保17年8月6日(1732年9月24日))は、江戸時代前期の第112代天皇(在位:寛文3年1月26日(1663年3月5日)- 貞享4年3月21日(1687年5月2日))。幼名は高貴宮(あてのみや)、諱は識仁(さとひと)。「仙洞様」とよばれることが多い(譲位後の期間が長いため)。歌人、能書家でもある。.

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茅渟王

茅渟王(ちぬのおおきみ・ちぬのみこ、生没年不詳)は、飛鳥時代の皇族。押坂彦人大兄皇子の皇子で、母は漢王の妹・大俣王(おおまたのみこ)。異母弟に舒明天皇。桜井皇子の女・吉備姫王(吉備島皇祖母命)を妃とし、宝女王(皇極天皇・斉明天皇)と軽王(孝徳天皇)を儲けた。茅渟皇子、智奴王とも。 系譜記事に名が現われるのみで、事績は全く不明である。歴史学者の塚口義信は、『新撰姓氏録』左京皇別に見える百済王 (百済親王)に同一人とする説を出しているが、確実ではない。『延喜式』諸陵寮によれば、片岡葦田墓(かたおかのあしたのはか) に葬られたとされ、塚口は奈良県香芝市の平野塚穴山古墳(方墳・辺18m、国の史跡)をそれに当てている。.

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能円

能円(のうえん、保延6年(1140年) - 正治元年8月24日(1199年9月16日)は平安時代末期の僧侶。皇后宮亮・藤原顕憲(藤原盛実の子)の子。母は令子内親王に仕えた下女(一説には藤原家範の娘)で、異父兄姉に平時子・平時忠らがある。異母兄弟には藤原盛憲・憲親・経憲・玄顕らがあり、息女には在子(承明門院)・信子(堀川通具室)らがある。.

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舎人親王

舎人親王(とねりしんのう)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族。舎人皇子(とねりのみこ)とも記される。天武天皇の皇子。淳仁天皇の父。 天武天皇の諸皇子の中で最後まで生き残り、奈良時代初期に長屋王とともに皇親勢力として権勢を振るう。『日本書紀』の編集も総裁した。子孫の清原氏は高市皇子裔の高階氏と共に、天武系後裔氏族として長く血脈が続いた。.

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舒明天皇

舒明天皇(じょめいてんのう、推古天皇元年(593年)? - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))は、日本の第34代天皇(在位:舒明天皇元年1月4日(629年2月2日) - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))。 諱は田村(たむら)。 和風諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)。.

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阿野廉子

阿野 廉子(あの れんし/やすこ/かどこ、正安3年(1301年) - 正平14年/延文4年4月29日(1359年5月26日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての後宮・女院。後醍醐天皇の寵妃にして、後村上天皇(義良親王)・恒良親王・成良親王・祥子内親王・惟子内親王などの母である。院号宣下を受けて、新待賢門院と号し、また三位局とも呼ばれた。 父は右近衛中将・阿野公廉、母は不詳だが、後に洞院公賢の養女となった。実家の阿野家は藤原北家閑院流の公家であり、阿野全成の外孫・実直を始祖としている。.

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蘇我堅塩媛

蘇我 堅塩媛 (そが の きたしひめ、生没年不詳)は、飛鳥時代の皇妃。欽明天皇の妃。蘇我稲目の娘。子に用明天皇、推古天皇など。なお、なぜ「かたしお」(片塩:大和高田市にある安寧天皇の宮があった古地名、あるいは固めた塩)でなく、「きたし」と読むかは不明。.

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蘇我小姉君

蘇我小姉君(そがの おあねのきみ、生没年不詳)は、古墳時代の豪族。蘇我稲目の娘で、姉妹に蘇我堅塩媛、兄弟に蘇我馬子がいる。 欽明天皇の妃となり、茨城皇子、葛城皇子、穴穂部間人皇女、穴穂部皇子、泊瀬部皇子(崇峻天皇)を生んだ。.

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蘇我倉山田石川麻呂

SVGで表示(対応ブラウザのみ) 蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだ の いしかわまろ/そがのくらのやまだのいしかわ の まろ、生年不詳 - 大化5年3月25日(649年5月15日))は、飛鳥時代の豪族。 名称は「蘇我倉山田麻呂」「倉山田臣」「山田臣」「山田大臣」などとも。 蘇我馬子の子である蘇我倉麻呂の子であり、蘇我蝦夷は伯父、蘇我入鹿は従兄弟に当たる。兄弟に日向・赤兄・連子・果安。.

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蘇我稲目

SVGで表示(対応ブラウザのみ) 蘇我 稲目(そが の いなめ、生年不詳(一説に武烈天皇8年(506年)頃) - 欽明天皇32年3月1日(570年3月22日))は、古墳時代の豪族。蘇我高麗の子、蘇我馬子ら4男3女の父近藤、p.

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閑院宮典仁親王

閑院宮典仁親王(かんいんのみや すけひとしんのう、享保18年2月17日(1733年4月1日) - 寛政6年7月6日(1794年8月1日))は、江戸時代の宮家当主で皇族。幼名は「寿宮」(ひさのみや)。世襲親王家、閑院宮第二代当主。光格天皇の父。閑院宮典仁親王の呼びかたは江戸期のもので、明治期以後は「慶光天皇」(きょうこうてんのう)または「慶光院」という。墓所は天皇号が追尊されたため「陵」を名乗っている。陵は廬山寺陵(京都市上京区)。 古今伝授伝承者に名を連ねる和歌の名手で、日野資矩などの公卿に指導した。能書家でもある。.

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開化天皇

開化天皇(かいかてんのう、孝元天皇7年 - 開化天皇60年4月9日)は、日本の第9代天皇(在位:孝元天皇57年11月12日 - 開化天皇60年4月9日)。 和風諡号は、『日本書紀』では「稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと)」、『古事記』では「若倭根子日子大毘毘命」。 『日本書紀』・『古事記』とも系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。.

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藤原基経

藤原 基経(ふじわら の もとつね)は、平安時代前期の公卿。藤原北家、中納言・藤原長良の三男。 摂政であった叔父・藤原良房の養子となり、良房の死後、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握った。陽成天皇を暴虐であるとして廃し、光孝天皇を立てた。次の宇多天皇のとき阿衡事件(阿衡の紛議)を起こして、その権勢を世に知らしめた。天皇から大政を委ねられ、日本史上初の関白に就任した。.

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藤原嬉子

藤原 嬉子(ふじわら の きし/ よしこ、寛弘4年1月5日(1007年1月26日) - 万寿2年8月5日(1025年8月30日))は、摂政藤原道長の六女。母は源倫子。尚侍。第69代後朱雀天皇の東宮妃、第70代後冷泉天皇生母。贈皇太后。同母の兄弟に頼通・教通、上東門院彰子・妍子・威子。.

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藤原実季

藤原 実季(ふじわら の さねすえ)は、平安時代後期の公卿。藤原北家閑院流、権中納言・藤原公成の次男。官位は正二位・大納言、贈正一位・太政大臣。後閑院贈太政大臣と呼ばれた。.

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藤原宮子

藤原 宮子(ふじわら の みやこ、? - 天平勝宝6年7月19日〈754年8月11日〉)は、文武天皇の夫人。藤原不比等の長女。母は賀茂比売。異母妹で聖武天皇の皇后光明皇后とは、義理の親子関係にも当たる。.

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藤原安子

藤原 安子(ふじわら の あんし(やすこ)、延長5年(927年) - 応和4年4月29日(964年6月11日))は、右大臣藤原師輔の長女。母は武蔵守藤原経邦の女盛子。第62代村上天皇中宮。第63代冷泉天皇・第64代円融天皇、為平親王、承子内親王、輔子内親王、資子内親王、選子内親王らの生母。同母兄弟に伊尹・兼通・兼家・忠君、登子(重明親王妃)・藤原師輔三女(源高明先妻、俊賢母)・怤子(冷泉天皇女御)など。.

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藤原不比等

藤原 不比等(ふじわら の ふひと)は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿。藤原鎌足の次男。文献によっては史(ふひと)と記されている場合もある。『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇の落胤と書かれる。諡号は文忠公、国公は淡海公。.

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藤原師実

藤原 師実(ふじわら の もろざね)は、平安時代中期から後期(院政期)にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原頼通の六男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。.

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藤原師輔

藤原 師輔(ふじわら の もろすけ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白太政大臣・藤原忠平の次男。官位は正二位・右大臣。 有職故実・学問に優れた人物として知られ、村上天皇の時代に右大臣として朝政を支えた。師輔の没後に長女・中宮安子所生の皇子が冷泉天皇・円融天皇としてそれぞれ即位し、師輔の家系は天皇の外戚として大いに栄えた。.

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藤原乙牟漏

藤原乙牟漏(ふじわら の おとむろ、天平宝字4年(760年)『一代要記』に薨年三十九とあり、これに拠るなら天平勝宝4年(752年)生まれということになる。高島正人は、父藤原良継や桓武の年齢、平城の出生年(続日本紀の記述どおりだとすれば満13あるいは14歳で出産したことになる)からすれば、こちらのほうが合理的だとしている。高島「奈良時代における藤原氏一門の女性」『奈良時代諸氏族の研究』p.397。 - 延暦9年閏3月10日(790年4月28日))は、奈良時代末期の皇妃。第50代桓武天皇の皇后、第51代平城天皇・第52代嵯峨天皇の生母となった.

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藤原伊尹

藤原 伊尹(ふじわら の これただ/これまさ)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、右大臣・藤原師輔の長男。 妹の中宮・安子が生んだ冷泉天皇・円融天皇の即位に伴って栄達し、摂政・太政大臣にまで上り詰めたが、まもなく病気により早逝した。孫に書家として名高い藤原行成がおり、子孫は世尊寺家として書道を世業とした。.

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藤原彰子

藤原 彰子(ふじわら の しょうし/あきこ、永延2年(988年) - 承保元年10月3日(1074年10月25日)は、第66代一条天皇の皇后(号は中宮)。第68代後一条天皇・第69代後朱雀天皇の生母(国母)、女院。院号を上東門院(じょうとうもんいん)といい、のちには大女院(おおにょいん)とも呼ばれた。 女房に『源氏物語』作者の紫式部、王朝有数の歌人として知られた和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門、続編の作者と伝えられる出羽弁、そして「古の奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬる哉」の一句が有名な歌人の伊勢大輔などを従え、華麗な文芸サロンを形成していた。.

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藤原得子

藤原 得子(ふじわら の なりこ、永久5年(1117年)- 永暦元年11月23日(1160年12月22日))は、鳥羽天皇の譲位後の寵妃。近衛天皇の生母。女御、皇后、女院。藤原北家末茂流(藤原魚名の後裔)の生まれ。父は権中納言・藤原長実(贈太政大臣)、母は左大臣・源俊房の女、方子。院号は美福門院(びふくもんいん)。.

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藤原信隆

藤原 信隆(ふじわら の のぶたか)は平安時代後期の公卿。藤原北家道隆流、右京大夫藤原信輔の子。後鳥羽天皇の外祖父。従三位・修理大夫。贈従一位・左大臣。七条修理大夫と号す。坊門家の祖であり、坊門 信隆とも記される。.

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藤原冬嗣

藤原 冬嗣(ふじわら の ふゆつぐ)は、平安時代初期の公卿・歌人。藤原北家、右大臣・藤原内麻呂の次男。官位は正二位・左大臣、贈正一位・太政大臣。閑院大臣と号す。.

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藤原公実

藤原 公実(ふじわら の きんざね)は、平安時代の後期の公卿、歌人。正二位、権大納言に至り、三条大納言と称す。.

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藤原公成

藤原 公成(ふじわら の きんなり)は、平安時代中期の公卿。藤原北家閑院流の流れをつくる。中納言藤原実成の長男。従二位、参議、権中納言。滋野井別当と号す。.

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藤原兼家

東三条院跡、藤原兼家邸、京都市中京区押小路通釜座西北角 藤原 兼家(ふじわら の かねいえ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・藤原師輔の三男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。 策略によって花山天皇を退位させて、娘が生んだ一条天皇を即位させて摂政となった。その後右大臣を辞して摂政のみを官職として、摂関の地位を飛躍的に高め、また子・道隆にその地位を譲って世襲を固める。以後、摂関は兼家の子孫が独占し、兼家は東三条大入道殿と呼ばれて尊重された。 兄・兼通との激しい確執や、室の一人に『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母がいる事でも知られている。.

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藤原穏子

藤原穏子(ふじわら の おんし・やすこ、仁和元年(885年) - 天暦8年1月4日(954年2月9日))は、関白藤原基経女。母は人康親王女。第60代醍醐天皇中宮、第61代朱雀天皇・第62代村上天皇生母。別名五条后。.

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藤原範季

藤原 範季(ふじわら の のりすえ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原南家高倉流の祖。式部少輔・藤原能兼の子。官位は従二位・式部権少輔。後白河法皇の近臣。順徳天皇の外祖父。.

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藤原総継

藤原 総継(ふじわら の ふさつぐ)は、平安時代初期の貴族。美作守・藤原末茂の子。光孝天皇の外祖父。.

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藤原経実

藤原 経実(ふじわら の つねざね)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、摂政藤原師実の三男。官位は正二位・大納言、贈正一位、太政大臣。二条天皇の外祖父。大炊御門家の祖。.

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藤原璋子

藤原 璋子(ふじわら の しょうし / たまこ、康和3年(1101年)久安元年8月22日(1145年9月10日))は、平安後期の国母。鳥羽天皇の中宮で、崇徳・後白河両天皇の母。女院号は待賢門院(たいけんもんいん)。.

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藤原百川

藤原 百川(ふじわら の ももかわ)は、奈良時代の公卿。初名は雄田麻呂。藤原式家の祖である、参議・藤原宇合の八男。官位は従三位・参議、贈正一位・太政大臣。.

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藤原道長

藤原 道長(ふじわら の みちなが)は、平安時代の中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男(または四男)。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。 父・兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男・伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。 一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが三条天皇とは深刻な対立が生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。さらには、六女の嬉子を後の後朱雀天皇となる敦良親王に入侍させた。晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けた。.

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藤原順子

藤原 順子(ふじわら の のぶこ、大同4年(809年) - 貞観13年9月28日(871年11月14日)は、第54代仁明天皇女御。皇太后。藤原冬嗣の長女で母は尚侍藤原美都子。通称:五条后。.

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藤原詮子

東三条殿跡・藤原詮子居住地、京都市中京区押小路通釜座西北角 藤原 詮子(ふじわら の せんし/あきこ、応和2年(962年) - 長保3年閏12月22日(1002年2月7日))は、平安時代、第64代円融天皇女御。第66代一条天皇生母(国母)。院号は東三条院(ひがしさんじょういん)。 摂政関白・太政大臣藤原兼家の次女で、母は摂津守藤原中正の娘時姫。先後して摂関に在職した道隆・道兼・道長、また冷泉天皇女御超子は同母の兄弟。.

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藤原高子

藤原 高子(ふじわら の こうし/たかいこ、承和9年(842年) - 延喜10年3月24日(910年5月6日))は、平安時代、清和天皇の女御、のち皇太后。父は藤原長良。母は贈正一位大夫人藤原乙春。藤原基経の同母妹。通称、二条后。子は陽成天皇、貞保親王、敦子内親王。.

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藤原高藤

藤原 高藤(ふじわら の たかふじ)は、平安時代前期の公家。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の孫。内舎人・藤原良門の次男。官位は正三位・内大臣、贈正一位・太政大臣。小一条内大臣、勧修寺内大臣と号した。.

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藤原賢子

藤原 賢子(ふじわら の けんし/かたいこ、天喜4年(1057年) - 応徳元年9月22日(1084年10月24日))は、第72代白河天皇の中宮、第73代堀河天皇の国母。父は右大臣・源顕房、母は源隆俊の女・隆子。太政大臣・藤原師実の養女。.

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藤原超子

藤原 超子(ふじわら の ちょうし/とおこ、天暦8年(954年)頃 - 天元5年1月28日(982年2月24日))は、平安時代中期の女性。冷泉天皇の女御となり後の三条天皇を産んだが、その即位を見ることなく早世した。贈皇太后。藤原兼家の長女。母は藤原中正の女・時姫。同母兄弟妹に道隆・道兼・道長・詮子(東三条院)がいる。.

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藤原茂子

藤原 茂子(ふじわら の もし/しげこ、生年不詳 - 康平5年6月22日(1062年7月30日))は、第71代後三条天皇の皇太子時代の妃、第72代白河天皇生母。中納言藤原公成の娘で、大納言藤原能信の養女となった。母は藤原知光女。別名は滋野井御息所。.

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藤原胤子

藤原 胤子(ふじわら の いんし/たねこ、生年不詳 - 寛平8年6月30日(896年8月12日))は、内大臣藤原高藤(藤原北家冬嗣の孫)女。母は宮道列子。第59代宇多天皇女御、第60代醍醐天皇・敦慶親王・敦固親王・柔子内親王・敦実親王生母。同母兄弟に大納言右大将藤原定国・右大臣藤原定方。 元慶8年(884年)頃、光孝天皇の第七皇子源定省と結婚。同9年(885年)、長男維城(のち敦仁と改名)を産む。仁和3年(887年)、夫定省が皇族に復帰し即位する(宇多天皇)。同4年(888年)更衣となり、禁色を赦される。寛平4年(892年)1月、従四位下に叙され女御の宣旨を受ける。同年4月、敦仁親王が立太子。同8年(896年)に逝去。同9年、醍醐天皇の即位により皇太后を追贈された。 『今昔物語』によれば、父高藤が山科へ鷹狩に出かけた際雨宿りをした宇治郡司宮道弥益の家で、弥益の娘列子を見初め一夜の契りでもうけたのが胤子である。宇多天皇との間に四男一女をもうけながらも早世したが、所生の醍醐天皇が即位したことによって高藤は内大臣にまで昇進、胤子の兄弟定方も右大臣となり、同家は以後北家勧修寺流と称されることになった。 陵墓は小野陵(京都府京都市山科区勧修寺北大日町)。 いんし category:平安時代の后妃後宮 category:日本の贈后 Category:9世紀生 Category:896年没.

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藤原能信

藤原 能信(ふじわら の よしのぶ)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の四男。官位は正二位・権大納言、贈正一位、太政大臣。.

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藤原重子

藤原 重子(ふじわら の じゅうし / しげこ、寿永元年(1182年) - 文永元年8月29日(1264年9月20日))は、鎌倉時代前期の後鳥羽天皇の寵妃。女院。順徳天皇の母。藤原南家高倉流・藤原範季の娘。母は平家一門の平教子。院号は修明門院(しゅめいもんいん)。後鳥羽天皇の乳母・兼子(卿局)は従姉で義理の叔母。同母弟に範茂。.

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藤原長実

藤原 長実(ふじわら の ながざね)は、平安時代末期の公家・歌人。藤原北家末茂流、修理大夫・藤原顕季の長男。官位は正三位・権中納言、贈正一位・左大臣。八条を号した。.

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藤原長良

藤原 長良(ふじわら の ながら/ながよし)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の長男。官位は従二位・権中納言、贈正一位、太政大臣。陽成天皇の外祖父にあたる。.

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藤原良継

藤原 良継(ふじわら の よしつぐ)は、奈良時代の公卿。初名は宿奈麻呂(すくなまろ)。藤原式家の祖である参議・藤原宇合の次男。官位は従二位・内大臣、贈正一位・太政大臣。勲等は勲四等。平城・嵯峨両天皇の外祖父。.

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藤原良房

東三条殿跡・藤原良房が創設、京都市中京区押小路通釜座西北角 藤原 良房(ふじわら の よしふさ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の次男。官位は従一位・摂政太政大臣、贈正一位。染殿、白河殿と称される。漢風諡号は忠仁公 、国公は美濃公。 皇族以外の人臣として初めて摂政の座に就いた。また、藤原北家全盛の礎を築いた存在であり、良房の子孫達は相次いで摂関となった。.

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藤原苡子

藤原 苡子(ふじわら の いし、承保3年(1076年) - 康和5年1月25日(1103年3月5日))は平安時代後期の皇妃。第73代堀河天皇女御、第74代鳥羽天皇生母。父は大納言藤原実季、母は藤原睦子(藤原経平女)。同母兄に藤原公実がいる。 承徳2年(1098年)堀河天皇に入内、女御の宣旨を受ける。康和2年(1100年)従四位下。 康和5年(1103年)第一皇子宗仁親王(鳥羽天皇)を出産するが、難産のため死去。同年従二位を追贈。嘉承2年(1108年)鳥羽天皇の即位で皇太后を追贈。 苡子は白河院の従姉妹(院の生母茂子の姪)で、入内に当たっては院自ら世話をしたという。中宮篤子内親王は高齢で子女に恵まれず、皇子出産の期待をかけられた苡子はめでたく宗仁親王を産んだが、産後の肥立ちが悪く28歳の若さで亡くなった。しかし苡子の兄公実は鳥羽天皇の外戚に、また姪の璋子は鳥羽天皇の中宮となるなど、閑院流発展の元となった。 いし category:平安時代の后妃後宮 Category:1076年生 Category:1103年没 Category:難産死した人物.

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藤原殖子

藤原 殖子(ふじわら の しょくし(たねこ)、保元2年(1157年) - 安貞2年9月16日(1228年10月15日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。高倉天皇の後宮。後高倉院(守貞親王)と後鳥羽天皇の母。女院。坊門 殖子とも。父は従三位藤原(坊門)信隆。母は藤原休子(大蔵卿藤原(持明院)通基の女)。内大臣坊門信清は同母弟。院号は七条院(しちじょういん)。.

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藤原氏

藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.

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藤原沢子

藤原 沢子(ふじわら の たくし/さわこ、生年不詳 - 承和6年6月30日(839年8月12日))は、藤原総継と藤原数子の娘で仁明天皇の女御。光孝天皇の生母。姉妹の乙春は藤原長良室となり、基経および高子を産む。.

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藤原明子 (染殿后)

藤原 明子(ふじわら の あきらけいこ、ふじわら の めいし、天長6年(829年) - 昌泰3年5月23日(900年6月22日))は、文徳天皇の女御で、清和天皇の母。太政大臣藤原良房と嵯峨天皇皇女源潔姫の娘谷口美樹「藤原明子」『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版 。「藤原明子」『世界大百科事典』平凡社。。のち皇太夫人、ついで皇太后。染殿が里邸だったため、染殿后(そめどのの きさき)とよばれた。.

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藤原旅子

藤原旅子(ふじわら の たびこ、天平宝字3年(759年) - 延暦7年5月4日(788年6月12日))は、平安時代の貴族。桓武天皇の夫人。淳和天皇の母。藤原百川の長女で、母は従三位尚膳藤原諸姉(藤原良継の娘)。.

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藤原懐子

藤原 懐子(ふじわら の かいし/ちかこ、天慶8年(945年) - 天延3年4月3日(975年5月16日))は平安時代中期、北家の摂政藤原伊尹の長女。母は代明親王(醍醐天皇皇子)の娘恵子女王。冷泉天皇女御、花山天皇国母。.

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葛城円

葛城 円(かつらぎ の つぶら、生年不詳 - 安康天皇3年(456年))、紀元5世紀ごろに活躍した葛城氏の豪族。.

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葛城韓媛

葛城 韓媛(かつらぎ の からひめ、生没年不詳)は、古墳時代の豪族、葛城氏の娘。『記紀』に記されている雄略天皇の妃の一人で、白髪武広国押稚日本根子天皇(しらか の たけひろくにおしわかやまとねこ の すめらみこと、清寧天皇)と稚足姫皇女。父は葛城円(かずらき の つぶら)。『古事記』では韓比売あるいは訶良比売『古事記』下巻、安康天皇条。.

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葛城襲津彦

『日本書紀』に基づく関係系図 葛城 襲津彦(かずらき の そつひこ/かづらき-/かつらぎ-/かずらぎ-、生没年不詳:4世紀末から5世紀前半頃と推定)は、記紀等に伝わる古代日本の人物。 武内宿禰の子で、葛城氏およびその同族の祖とされるほか、履中天皇(第16代)・反正天皇(第17代)・允恭天皇(第18代)の外祖父である。対朝鮮外交で活躍したとされる伝説上の人物であるが、『百済記』の類似名称の記載からモデル人物の強い実在性が指摘される。.

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醍醐天皇

醍醐天皇(だいごてんのう、元慶9年1月18日(885年2月6日)- 延長8年9月29日(930年10月23日))は、平安時代の第60代天皇(在位:寛平9年7月13日(897年8月14日)- 延長8年9月22日(930年10月16日))。臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源 維城(みなもと の これざね)といった。のち父の即位とともに皇族に列し親王宣下ののちに敦仁(あつぎみ・あつひと)に改めた。 宇多天皇の第一皇子。母は内大臣藤原高藤の女藤原胤子。養母は藤原温子(関白太政大臣基経の女)。.

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采女

采女(うねめ)とは、日本の朝廷において、天皇や皇后に近侍し、食事など、身の回りの雑事を専門に行う女官のこと。平安時代以降は廃れ、特別な行事の時のみの官職となった。.

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長慶天皇

長慶天皇(ちょうけいてんのう)は、南北朝時代の第98代天皇にして、南朝の第3代天皇(在位:正平23年/応安元年(1368年) 3月鴨脚本『皇代記』によるが、日付を欠くため、3月11日の後村上天皇崩御を受けたものか、あるいは先だって行われた譲位を受けたものか、確認しがたい。 - 弘和3年/永徳3年(1383年)冬)。諱は寛成(ゆたなり)。 南朝関係史料の少なさから、近世以来諸家の間で天皇の在位・非在位をめぐる議論があり、明治44年(1911年)3月に明治天皇が南朝を正統とする勅裁を下した際も在位認定されないままであったが、大正時代に入って、八代国治・武田祐吉の実証的研究が決定的な在位説として評価される。これを受けて宮内省の調査が行われ、大正15年(1926年)10月21日に皇統加列についての詔書発布があり、ここにようやく長慶天皇の在位の事実が公認されるに至った。.

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配偶者

配偶者(はいぐうしゃ)は、婚姻関係にある相手方。居住を共にし、場合によっては間に子供を持ち、それを養育しながら家庭生活を営む。男性配偶者を夫(おっと)、女性配偶者を妻(つま)という。.

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雄略天皇

略天皇(ゆうりゃくてんのう、允恭天皇7年12月 - 雄略天皇23年8月7日)は、第21代天皇(在位:安康天皇3年11月13日 - 雄略天皇23年8月7日)。大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ、大泊瀬幼武尊 おおはつせわかたけるのみこと とも)、大長谷若建命、大長谷王(古事記)、大悪天皇、有徳天皇とも。 また『宋書』、『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武に比定される。その倭王武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されており、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘や熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘を「獲加多支鹵大王、すなわちワカタケル大王と解して、その証とする説が有力である。 『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、まだ朝廷としての組織は未熟ではあったものの、雄略朝をヤマト王権の勢力が拡大強化された歴史的な画期であったと古代の人々が捉えていたとみられる。.

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陽成天皇

陽成天皇(ようぜいてんのう、貞観10年12月16日(868年1月2日) - 天暦3年9月29日(949年10月23日))は、平安時代前期の第57代天皇(在位:貞観18年11月29日(876年12月18日) - 元慶8年2月4日(884年3月4日))。諱は貞明(さだあきら)。.

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押坂彦人大兄皇子

押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ、生没年不詳)は、飛鳥時代の皇族。麻呂古皇子、太子彦人皇子、忍坂日子人太子、皇祖大兄とも。敏達天皇の第一皇子で、母は広姫。子に舒明天皇、茅渟王がいる。.

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押媛

SVGで表示(対応ブラウザのみ) 押媛(おしひめ)は、欠史八代、孝安天皇の皇后。孝霊天皇と大吉備諸進命の生母。 『日本書紀』本文の皇后で天足彦国押人の娘かつ孝安天皇の姪である。『日本書紀』第1の一書での皇后は磯城県主葉江の娘である長媛、第2の一書での皇后は十市県主五十坂彦の娘である五十坂媛。『古事記』の皇后は孝安天皇の姪の忍鹿比売。.

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柳原愛子

柳原 愛子(やなぎわら なるこ、1859年6月26日(安政6年5月26日) - 1943年(昭和18年)10月16日)は、明治天皇の典侍。大正天皇の生母。 位階の正二位をもって二位の局(にいのつぼね)と呼ばれた。死後従一位を追叙されたことから一位の局(いちいのつぼね)と呼ばれることもある。女房名は梅ノ井(うめのい)、早蕨典侍(さわらび てんじ)など。 幕末の議奏・柳原光愛の次女で、伯爵柳原前光の妹。「筑紫の女王」と呼ばれた柳原白蓮は姪にあたる。.

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推古天皇

推古天皇(すいこてんのう、欽明天皇15年(554年) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)『古事記』では戊子年3月15日)は、第33代天皇(在位:崇峻天皇5年12月8日(593年1月15日) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)36年、『古事記』では37年)。(神功皇后を含まない)歴代天皇の中では最初の女帝(女性天皇)であるベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎(翻訳)、78頁。(第2章『女性統治者の出現』、5『最初の「天皇」は女性だった』、『日本で最初の「天皇」』)、また、女性君主は当時の東アジアではまだみられなかった。諱は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと、『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命という)。炊屋姫尊とも称される。『古事記』ではこの天皇までを記している。 天皇号を初めて用いた日本の君主という説もあるが、1998年の飛鳥池工房遺跡での天皇の文字を記した木簡が発見された以後は、天武天皇が最初の天皇号使用者との説が有力となっている。また、容姿端麗であった。.

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掌侍

掌侍(ないしのじょう)とは、律令制における女官の1つ。本来は内侍司の判官だったが、後に尚侍・典侍とともに後宮全体の実務を取り仕切る立場となった。掌侍の第一臈を特に勾当内侍(こうとうのないし)といった。.

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息石耳命

(いきそみみのみこと、おきそみみのみこと) | 各国語表記.

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息長宿禰王

息長宿禰王(おきながのすくねのみこ、生没年不詳)は、2世紀頃の日本の皇族。第9代開化天皇玄孫で、迦邇米雷王の王子。母は丹波之遠津臣の女・高材比売。神功皇后の父王として知られる。気長宿禰王とも。 王は河俣稲依毘売との間に大多牟坂王、葛城之高額比売との間に息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、虚空津比売命(そらつひめのみこと)、息長日子王(おきながひこのみこ)を儲ける。息長帯比売命は後に神功皇后と諡される。 王は少毘古名命・応神天皇と並び滋賀県米原市・日撫神社に祀られている。また、明治15年(1882年)に米原市・山津照神社境内から発見された前方後円墳(山津照神社古墳)は息長宿禰王の墓という。.

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東山天皇

東山天皇(ひがしやまてんのう、延宝3年9月3日(1675年10月21日) - 宝永6年12月17日(1710年1月16日))は江戸時代の第113代天皇(在位:貞享4年3月25日(1687年5月6日) - 宝永6年6月21日(1709年7月27日))。幼名は五宮、諱は朝仁(あさひと)。追号の「東山」は陵所泉涌寺の山号に因む。.

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東アジア

東アジア(ひがしアジア)は、ユーラシア大陸の東部にあたるアジア地域の一部を指す地理学的な名称である。北西からモンゴル高原、中国大陸、朝鮮半島、台湾列島、琉球諸島、日本列島などを含む。北東アジア(東北アジア)、極東、東亜などと呼ぶ場合もある。.

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東海旅客鉄道

東海旅客鉄道株式会社(とうかいりょかくてつどう、)社名ロゴの「鉄」の字は金を失うという意味を避けるため「金偏に矢」という「鉃」の文字を使い、『東海旅客鉃道株式会社』と表記しているが、登記上の正式な社名では常用漢字の「鉄」である(JR四国以外の各社も同じ)。 は、1987年(昭和62年)に日本国有鉄道(国鉄)新幹線総局・静岡局・名古屋局から鉄道事業を引き継いだ旅客鉄道会社の一つ。 東海道新幹線を軸として東海地方を中心とした地域に鉄道路線網を有する。本社は愛知県名古屋市と東京都港区。通称はJR東海(ジェイアールとうかい)、英語略称はJR Central。乗車券などには「海」の略号が使われることもある「東」はJR東日本となっているため。ため、「JR海」(ジェイアールかい、ジェイアールうみ)と呼ばれることもある。コーポレートカラーはオレンジ色。東証・名証一部上場企業。日経225(日経平均株価)およびTOPIX Core30の構成銘柄の一社。.

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松木宗子

松木 宗子(まつのき むねこ、明暦3年12月30日(1658年2月2日) - 享保17年8月30日(1732年10月18日))は江戸時代初期の女性。霊元天皇の典侍で、東山天皇、京極宮文仁親王ら3男4女の母。父は内大臣松木宗条、母は河鰭秀子。女房名は大典侍・上臈局。准三后。女院。院号は敬法門院。 東山天皇即位後の元禄2年(1689年)に准三后となり、東山天皇崩御後の正徳元年12月23日(1712年1月19日)に55歳で出家、女院となる。 享保17年(1732年)8月30日、76歳で薨去。墓所は京都府京都市上京区清浄華院。 Category:1658年生 Category:1732年没 Category:女院 Category:江戸時代の后妃後宮 むねこ.

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村上天皇

村上天皇(むらかみてんのう、延長4年旧6月2日(926年7月14日)- 康保4年旧5月25日(967年7月5日))、は、平安時代中期の第62代天皇(在位:天慶9年(946年)旧4月28日 - 康保4年(967年)旧5月25日)。諱は成明(なりあきら)。 第60代醍醐天皇の第十四皇子。母は藤原基経女中宮穏子。第61代朱雀天皇の同母弟。.

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桜井皇子

桜井皇子(さくらい の みこ、欽明天皇21年(560年)前後? - 用明天皇2年(587年)?)は、古墳時代終末期の皇族。欽明天皇と妃蘇我堅塩媛(蘇我稲目の女)の第六皇子。用明天皇・推古天皇の同母弟。吉備姫王(皇極=斉明天皇・孝徳天皇の母)の父。 家来の桜井部犬が物部氏に味方していたことなどから、587年の丁未の乱で物部氏に味方し、戦死したと思われるが、不明。 Category:古墳時代以前の男性皇族 Category:飛鳥時代の男性皇族.

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桜町天皇

桜町天皇(さくらまちてんのう、享保5年1月1日(1720年2月8日) - 寛延3年4月23日(1750年5月28日))は、江戸時代の第115代天皇(在位:享保20年3月21日(1735年4月13日) - 延享4年5月2日(1747年6月9日))。幼名を若宮、諱を昭仁(てるひと)という。.

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桃園天皇

桃園天皇(ももぞのてんのう、寛保元年2月29日(1741年4月14日) - 宝暦12年7月12日(1762年8月31日))は、江戸時代の第116代天皇(在位:延享4年5月2日(1747年6月9日)- 宝暦12年7月12日(1762年8月31日))。幼名を八穂宮(やほのみや)または茶地宮(さちのみや)、諱を遐仁(とおひと)という。.

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桓武天皇

桓武天皇(かんむてんのう、天平9年(737年) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))は、日本の第50代天皇(在位:天応元年4月3日(781年4月30日) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))。.

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橘嘉智子

橘 嘉智子(たちばな の かちこ、延暦5年(786年) - 嘉祥3年5月4日(850年6月17日))は、第52代嵯峨天皇皇后。橘奈良麻呂の孫、贈太政大臣・橘清友の娘。母は田口家主の娘で、贈正一位・田口三千媛。兄弟に右大臣・橘氏公がいる。諡号は檀林皇后(だんりんこうごう)。.

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橘清友

橘 清友(たちばな の きよとも、天平宝字2年(758年) - 延暦8年(789年))は、奈良時代後期の貴族。名は浄友とも書く。参議・橘奈良麻呂の子。嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子の父で、仁明天皇の外祖父。官位は正五位上・内舎人、贈正一位・太政大臣。.

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櫛笥隆子

櫛笥 隆子(くしげ たかこ、慶長9年(1604年) - 貞享2年5月22日(1685年6月23日))は江戸時代の女性。後水尾天皇の後宮で後西天皇の生母。女院。父は左中将櫛笥隆致(贈従一位、贈左大臣)。出仕名は勾当内侍、御匣殿、四条局。女院号は逢春門院(ほうしゅんもんいん)。.

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櫛笥隆致

櫛笥 隆致(くしげ たかちか、弘治2年(1556年) - 慶長18年7月6日(1613年8月21日))は戦国時代の公卿。正親町三条公兄の孫。父は松陰居士。従四位上左中将。娘隆子(逢春門院)は後西天皇の生母。贈左大臣。.

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櫛笥賀子

櫛笥 賀子(くしげ よしこ、延宝3年(1675年) - 宝永6年12月29日(1710年1月28日))は江戸時代中期の女性。東山天皇の後宮で、中御門天皇の生母。初名は慶子(読み同じ)だったが、父・隆慶が隆賀に改名したのに伴って賀子に改名した。.

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欝色謎命

欝色謎命(うつしこめのみこと、生年不詳 - 開化天皇元年1月4日(紀元前157年2月11日)以降)は、孝元天皇の皇后。古事記には内色許売命(読み方同じ)とある。父は大矢口宿禰命(大水口宿禰命とも)で、母は坂戸由良都姫命。同母兄に欝色雄命(穂積氏祖)がいる。大綜麻杵命(伊香色雄命・伊香色謎命の父)の同母姉(妹)。大彦命・開化天皇の母。 孝元天皇7年2月2日(紀元前208年3月20日)、皇后に立てられた。開化天皇元年1月4日(紀元前157年2月11日)、皇太后となった。.

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欽明天皇

欽明天皇(きんめいてんのう、継体天皇3年(509年?) - 欽明天皇32年4月15日(571年5月24日?))は、第29代天皇(在位:宣化天皇4年12月5日(539年12月30日?) - 欽明天皇32年(571年?)4月15日)。和風諡号は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)。別名、志帰嶋天皇・斯帰斯麻天皇(いずれも「しきしまのすめらみこと」と呼ぶ)。この代に、百済より仏教が公伝し、任那が滅亡した。.

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正子内親王 (嵯峨天皇皇女)

正子内親王(まさこないしんのう、大同4年(810年) - 元慶3年3月23日(879年4月18日))は、第52代嵯峨天皇の皇女。母は皇后橘嘉智子(檀林皇后)。第53代淳和天皇の皇后。同母兄弟に仁明天皇。.

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正室

正室(せいしつ)は、高貴な人物の正式な妻のこと。正妻、本妻とも言う。律令制の元では嫡妻(ちゃくさい)とも呼ばれていた(原則一人)。これに対し、正室以外を側室(『大辞泉』)という。.

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正親町天皇

正親町天皇(おおぎまちてんのう、永正14年5月29日(1517年6月18日) - 文禄2年1月5日(1593年2月6日))は、第106代天皇(在位:弘治3年10月27日(1557年11月17日) - 天正14年11月7日(1586年12月17日))。諱は方仁(みちひと)。.

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正親町実光

正親町 實光(おおぎまち さねみつ)は、日本の江戸時代の公卿。孝明天皇の外祖父。.

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正親町三条公秀

正親町三条 公秀(おおぎまちさんじょう きんひで)は鎌倉時代後期の公卿。正二位内大臣。正親町、または八条と号す。父は権大納言正親町三条実躬、母は僧聖海の娘。 崇光天皇と後光厳天皇の外祖父である。.

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正親町三条秀子

正親町三条 秀子(おおぎまちさんじょう ひでこ、応長元年(1311年) - 正平7年11月28日(1353年1月12日))は、南北朝時代・室町時代の女性。光厳天皇の典侍で、崇光天皇・後光厳天皇の生母。父は内大臣正親町三条公秀。准三宮。院号は陽禄門院。 延元2年(1337年)3月に従三位に叙任。正平7年(1352年)10月に院号宣下と同時に准三宮となり、同年出家して、11月28日に42歳で薨去した。 Category:室町・安土桃山時代の后妃後宮 Category:女院 ひてこ Category:1311年生 Category:1353年没.

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正親町雅子

正親町 雅子(おおぎまち なおこ、享和3年11月1日(1803年12月14日) - 安政3年7月6日(1856年8月6日))は、江戸時代後期の女院(最後の女院)。父は正親町実光。母は四辻公亨の娘千栄子。子に孝明天皇のほか二皇子一皇女をもうけた。正親町家は閑院流洞院家の支流にあたる名門で、家格は羽林家。 1820年(文政3年)仁孝天皇の後宮に入って権典侍となり、翌1821年(文政4年)典侍となる。1842年(天保13年)正五位下に叙され、翌1843年(天保14年)には藤大納言局と称した。1847年(弘化4年)に宮仕えを退いて従三位を与えられて、実家の正親町家に引き取られる。1849年(嘉永2年)剃髪すると、朝廷では女院号と屋敷地を与えることが議論された。幕府は仁孝天皇の正妃である鷹司祺子が既に崩じて女院が不在の状況であったことや既に宮廷を退いて影響力がないことから存命中の女院号贈与に同意、1850年(嘉永3年)准三后となって院号宣下を受け新待賢門院と号した(同院号として後村上天皇の生母阿野廉子がいるが、明治以前の宮廷では南朝の正統性が認められなかったため問題視されなかった)。.

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武烈天皇

武烈天皇(ぶれつてんのう、仁賢天皇2年 - 武烈天皇8年12月8日)は、古墳時代の第25代天皇(在位:仁賢天皇11年12月 - 武烈天皇8年12月8日)。 名は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)・小泊瀬稚鷦鷯天皇(-のすめらみこと、以上『日本書紀』)、小長谷若雀命(『古事記』)。暴君として伝えられているが、実在した人物かどうかについては議論がある。.

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母親

母親と子 母と子供たち 母親(ははおや)とは、女親のことである。 お母さんと一般には言い、親しみをこめて「かあさん」「かあちゃん」「お袋」(おふくろ)などと呼ばれる場合もある。「母」という漢字の成り立ちは「女」に2つの乳房を加えた象形文字であり、子への哺乳者、授乳者であることを意味する。 お母さんという呼称は、.

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洞院いん子

洞院 愔子(とういん いんし、寛元4年(1246年) - 元徳元年旧8月30日(1329年10月1日))は、鎌倉時代の女性。後深草天皇の後宮で、伏見天皇の国母。女院として玄輝門院(げんきもんいん)。法名は自性智。父は従一位左大臣洞院実雄。.

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洞院季子

洞院 季子(とういん すえこ/きし、文永2年(1265年) - 延元元年2月13日(1336年3月26日))は、鎌倉・南北朝時代の女性。父は洞院実雄、母は大神能直の女。伏見天皇妃で、花園天皇、寛性入道親王らの母。院号は顕親門院。 正中3年(1326年)准三宮。後に顕親門院の院号宣下を受けた。 延元元年2月13日に72歳で死去。 すえこ Category:女院 Category:鎌倉時代の后妃後宮 Category:1265年生 Category:1336年没.

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洞院実雄

洞院 実雄(とういん さねお)は、鎌倉時代前期から中期の公卿。洞院家の祖。従一位左大臣。山階左大臣と号す。 娘3人がそれぞれ3人の天皇(亀山天皇、後深草天皇、伏見天皇)の妃となって権勢を誇った。娘たちはいずれも皇子を産み、それぞれ即位したことから、3人の天皇(後宇多天皇、伏見天皇、花園天皇)の外祖父となった。.

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洞院佶子

洞院 佶子(とういん きつし、藤原 佶子(ふじわら の きつし)、寛元3年(1245年) - 文永9年8月9日(1272年9月2日))は、鎌倉時代の女性。亀山天皇の皇后で、後宇多天皇の生母。女院号は京極院(きょうごくいん)。.

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洞院公賢

洞院 公賢(とういん きんかた、正応4年8月(1291年) - 延文5年/正平15年4月6日(1360年4月21日))は、南北朝時代の公家。正式な名乗りは藤原公賢。父は左大臣洞院実泰。母は実泰の叔父にあたる小倉公雄の娘・季子。洞院家は藤原氏北家閑院流西園寺家の庶流。通称は中園相国。出家して空元。また遍昭光院とも称された。.

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淳仁天皇

淳仁天皇(じゅんにんてんのう、天平5年(733年) - 天平神護元年10月23日(765年11月10日))は、日本の第47代天皇(在位:天平宝字2年8月1日(758年9月7日) - 天平宝字8年10月9日(764年11月6日))。諡号は明治時代になってから付けられたもので、古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれる。諱は大炊(おおい)であり、践祚前は大炊王(おおいおう)と称された。.

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淳和天皇

淳和天皇(じゅんなてんのう、延暦5年(786年) - 承和7年5月8日(840年6月11日)、在位:弘仁14年4月27日(823年6月9日) - 天長10年2月28日(833年3月22日))は、平安時代初期の第53代天皇。西院帝ともいう。諱は大伴(おおとも)。 桓武天皇の第七皇子。 母は、藤原百川の娘・旅子。平城天皇、嵯峨天皇は異母兄。.

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渟名底仲媛

渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと)は、安寧天皇の皇后。息石耳命と懿徳天皇と磯城津彦らの生母。 『日本書紀』本文での皇后。渟名襲媛とも。事代主の子鴨王の娘。母は不明。安寧3年に皇后になる。 『先代旧事本紀』では「三世孫 天日方奇日方命 亦名 阿田都久志尼命 此命娶日向賀牟度美良姬 生一男一女 兒 健飯勝命 妹 渟中底姬命 此命 片鹽浮穴宮天皇 安寧 片鹽浮穴宮 或本坐輕地曲峽宮 立為皇后 誕生四兒 即 大日本根子彥耜友天 懿德 次 常津命 次 磯城津彥命 次 手研彥奇友背命也」とあり渟中底姬命といい、天日方奇日方命の娘。 なお、『古事記』での皇后は、師木県主波延の娘 阿久斗比売、 『日本書紀』第1の一書での皇后は磯城県主葉江の娘である川津媛、第2の一書での皇后は大間宿禰の娘である糸井媛。 SVGで表示(対応ブラウザのみ).

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清寧天皇

清寧天皇(せいねいてんのう、允恭天皇33年? - 清寧天皇5年1月16日)は、第22代天皇(在位:清寧天皇元年1月15日 - 同5年1月16日)。御名は白髪皇子(しらかのみこ)。和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)、白髪大倭根子命(古事記)。.

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清和天皇

清和天皇(せいわてんのう、嘉祥3年3月25日(850年5月10日) - 元慶4年12月4日(881年1月7日))は、平安時代前期の第56代天皇。在位は天安2年11月7日(858年12月15日) - 貞観18年11月29日(876年12月18日)。諱は惟仁(これひと)。後世、武門の棟梁となる清和源氏の祖。 文徳天皇の第四皇子。母は太政大臣・藤原良房の娘、女御・明子。.

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源在子

源 在子(みなもと の ありこ/ざいし、承安元年(1171年) - 正嘉元年7月5日(1257年8月15日))は、第82代後鳥羽天皇の妃で第83代土御門天皇の国母、女院。院号は承明門院(しょうめいもんいん)。父は法勝寺執行能円で母は藤原範兼の女藤原範子。源通親の養女。同母弟に久我通光、土御門定通、中院通方がいる。法名は真如妙。.

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源顕房

源 顕房(みなもと の あきふさ)は、平安時代後期の公卿・歌人。村上源氏。右大臣源師房の次男。兄は源俊房。妻は源隆俊の娘・隆子。六条右大臣とも称される。生年は1026年説もある。.

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源通子

源 通子(みなもと の つうし、生年未詳 - 承久3年(1221年)8月)は、第83代土御門天皇の後宮で第88代後嵯峨天皇の生母。父は参議正四位下左近衛中将源通宗(源通親の長男、贈従一位左大臣)。 典侍となり、土御門天皇の寵愛を受けた。建暦元年(1211年)春子女王、建保元年(1213年)覚子内親王(准三宮、正親町院)、建保2年(1214年)仁助法親王、建保4年(1216年)静仁法親王、承久2年(1220年)邦仁王(のちの後嵯峨天皇)を産む。承久3年(1221年)8月、死去。後嵯峨天皇の即位により仁治3年(1243年)7月11日、贈皇太后。.

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源通宗

源 通宗(みなもと の みちむね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。内大臣・源通親の長男。後嵯峨天皇の外祖父。.

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源通親

源 通親(みなもと の みちちか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。七朝にわたり奉仕し、村上源氏の全盛期を築いた。内大臣正二位右大将。土御門 通親(つちみかど -)と呼ばれるのが一般的で、曹洞宗などでは久我(こが)通親と呼ばれている。.

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源氏

源氏(げんじ、みなもとうじ)は、「源」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。 日本において皇族が臣下の籍に降りる(臣籍降下)際に名乗る氏の1つで、多数の流派がある。清和天皇の子孫である清和源氏が有名である。.

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源有仁

源 有仁(みなもと の ありひと)は、平安時代後期の公家。後三条天皇の皇子輔仁親王の第二王子。従一位左大臣。花園左大臣とも称された。皇族時代は有仁王と称する。.

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源懿子 (後白河天皇妃)

源 懿子(みなもと の いし/ よしこ、永久4年(1116年) - 康治2年6月24日(1143年8月6日))は、藤原経実の娘。母は藤原公子(藤原公実の娘)。源有仁の養女。後白河天皇親王時の妃、二条天皇生母。贈皇太后。 母の妹が源有仁の室であった関係で、源有仁の養女として育てられた。保延5年(1139年)の雅仁親王(のちの後白河天皇)の元服の頃、妃となったとみられる。当時、雅仁親王は13歳、懿子は24歳で、懿子の方が11歳年長であった。康治2年(1143年)6月17日、三条高倉第において守仁親王(のちの二条天皇)を産むが、疱瘡を患い、同月24日に28歳で薨去。雅仁親王は久寿2年(1155年)、守仁親王即位までの中継ぎとして即位したが、保元3年(1158年)、守仁親王に譲位。懿子は二条天皇の即位に伴い、皇太后を追贈された。.

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持統天皇

持統天皇(じとうてんのう、大化元年(645年) - 大宝2年12月22日(703年1月13日))は、天武天皇の皇后で、日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(称制:朱鳥元年9月9日(686年10月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日) - 持統天皇11年8月1日(697年8月22日))。諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年(703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』の養老4年(720年)に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある(なお『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは冒頭の第4の一書とこの箇所のみである)。漢風諡号、持統天皇は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から持統と名付けられたという。.

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持明院基家

持明院 基家(じみょういん もといえ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。大蔵卿・藤原通基の三男。初名は通基。後堀河天皇の外祖父。官位は正二位・権中納言。持明院家3代当主。.

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持明院陳子

持明院 陳子(じみょういん ちんし/のぶこ、藤原 陳子、承安3年(1173年) - 嘉禎4年10月3日(1238年11月10日))は、平安時代・鎌倉時代の女性。後高倉院の妃で、後堀河天皇の生母。父は正二位権中納言持明院基家、母は平頼盛の女(宰相局、後高倉院乳母)。同母兄に持明院保家がいる。准三宮。女院号は北白河院(きたしらかわいん)。法名は如律。 承久3年(1221年)、彼女所生の後堀河天皇が即位しているが、その背景として彼女の従兄弟が源頼朝の妹婿である一条能保であったこと、彼女が平治の乱で頼朝の命を救った池禅尼の曾孫にあたり、鎌倉幕府から好感が持たれたとする見方がある。 貞応元年(1222年)4月13日、従三位、准三宮となり、同年7月11日、院号宣下をうけた。同年出家し、如律と号する。嘉禎4年(1238年)10月3日、66歳で薨去した。 嵯峨清凉寺の寺宝の牛皮華鬘は、陳子にまつわる伝承を持つ。陳子所生の安嘉門院が夢で、母が牛に生まれ変わったことを知る。女院はその牛を探し出し、購入して厚遇するが、「慳貪の罪で畜生に生まれ変わった者の苦役をとどめれば、贖罪がかなわない」との釈迦のお告げを得て、泣く泣く元の飼い主に引き渡した。その後まもなく死んだ牛の革で華鬘を作ったという話である。.

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朱雀天皇

朱雀天皇(すざくてんのう、延長元年7月24日(923年9月7日) - 天暦6年8月15日(952年9月6日)、在位:延長8年11月22日(930年12月14日) - 天慶9年4月13日(946年5月16日))は第61代天皇。諱は寛明(ゆたあきら)。 第60代醍醐天皇の第十一皇子。母は藤原基経の娘、中宮藤原穏子。.

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成務天皇

成務天皇(せいむてんのう、景行天皇14年 - 成務天皇60年6月11日)は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる第13代天皇(在位:成務天皇元年1月5日 - 同60年6月11日)。和風諡号は稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)、『古事記』は若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらみこと)とする。『日本書紀』にはこの天皇の事績として、日本全国に数多くの国造を任命したり、稲城を設置したり、国や郡の境を定めたりしたことが記されている。.

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明仁

明仁(あきひと、1933年(昭和8年)12月23日 - )は日本の第125代天皇(在位: 1989年(昭和64年)1月7日 - )である代数は皇統譜による。。現時代においては「在位中の天皇」を意味する今上天皇(きんじょうてんのう)、または敬称をつけて天皇陛下(てんのうへいか)と呼ばれることが多い。 昭和天皇(第124代天皇)の第一皇子。母は香淳皇后。大正天皇の皇孫かつ明治天皇の皇曾孫。 御称号は継宮(つぐのみや)。皇室典範に定める敬称は陛下。お印は榮(えい、文字がお印)。 日本国憲法施行後初めて即位した天皇であり、また京都ではなく東京で即位の礼を執り行った初めての天皇である。.

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明正天皇

明正天皇(めいしょうてんのう、元和9年11月19日(1624年1月9日) - 元禄9年11月10日(1696年12月4日))は、第109代天皇(在位:寛永6年11月8日(1629年12月22日) - 寛永20年10月3日(1643年11月14日))。女帝(女性天皇)。幼名は女一宮、諱は興子(おきこ)。母方の祖父に徳川秀忠、伯父に徳川家光がいる。.

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明治天皇

明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)- 1912年(明治45年)7月30日)は日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれる。功績・人物像から明治大帝(Meiji the Great)・明治聖帝・睦仁大帝(Mutsuhito the Great) とも呼ばれる。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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春日大娘皇女

春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ、生没年不詳)は、記紀に伝えられている皇族。 『古事記』に春日大郎女、『日本書紀』に春日大娘皇女。雄略天皇皇女、仁賢天皇皇后。母の名は『日本書紀』にのみ和珥氏系統の春日臣深目の娘・童女君とある。 『日本書紀』では、仁賢天皇元年2月2日(488年2月29日)に立后し仁賢天皇皇后となった。高橋大娘皇女(たかはしのおおいらつめのひめみこ)・朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)・手白香皇女(たしらかのひめみこ、後に継体天皇皇后、欽明天皇母)・樟氷皇女(くすひのひめみこ)・橘皇女(たちばなのひめみこ、後に宣化天皇皇后・石姫皇女母)・小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)、武烈天皇)・真稚皇女(まわかのひめみこ)を生んだとされる。『古事記』では高木郎女(たかぎのいらつめ)、財郎女(たからのいらつめ)、久須毘郎女(くすびのいらつめ)、手白髪郎女(たしらがのいらつめ)、小長谷若雀命(おはつせわかさざきのみこと)、真若王(まわかおう)とある。.

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昭和天皇

昭和天皇(しょうわてんのう、1901年〈明治34年〉4月29日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇(在位: 1926年〈昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。 幼少時の称号は迪宮(みちのみや)・諱は裕仁(ひろひと)。お印は若竹(わかたけ)。.

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文徳天皇

文徳天皇(もんとくてんのう、天長4年8月(827年) - 天安2年8月27日(858年10月7日))は、平安時代前期の第55代天皇(在位:嘉祥3年3月19日(850年5月4日) - 天安2年8月27日(858年10月7日))。諱は道康(みちやす)。田邑帝とも。 仁明天皇の第一皇子。母は左大臣・藤原冬嗣の娘、皇太后・順子。.

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文武天皇

文武天皇(もんむてんのう、天武天皇12年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))は、日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))。 諱は珂瑠(かる)、軽(かる)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の707年(慶雲4年11月12日)に「倭根子豊祖父天皇」(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−豐祖父)と、『続日本紀』797年(延暦16年)に諡された「天之真宗豊祖父天皇」(あめの まむね とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−眞宗豐祖父)がある。 当時としては異例の14歳の若さで即位。祖母・持統太上天皇(史上初の太上天皇)のもとで政務を行っていた。後の院政形式の始まりである。.

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斉明天皇

皇極天皇(こうぎょくてんのう)、重祚して斉明天皇(さいめいてんのう;齊明天皇、推古天皇2年(594年) - 斉明天皇7年7月24日(661年8月24日))は、日本の第35代・第37代天皇。 在位期間は、皇極天皇として皇極天皇元年1月15日(642年2月19日) - 4年6月14日(645年7月12日)、斉明天皇として斉明天皇元年1月3日(655年2月14日) - 7年7月24日(661年8月24日)。 舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母である。推古天皇から一代おいて即位した女帝(女性天皇)になる。.

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日葉酢媛命

日葉酢媛命(ひばすひめのみこと、生年不詳 - 垂仁天皇32年7月6日)は垂仁天皇の皇后である。「日葉酢媛」は『日本書紀』での記述であるが、同書は「日葉酢根命」、「日葉洲媛命」にも作り、また『古事記』は「氷羽州比売命」、「比婆須比売命」に作る。父は丹波道主王、母は丹波之河上之麻須郎女。垂仁天皇との間に景行天皇のほか2皇子・2皇女を産む。 『日本書紀』によれば、垂仁天皇の皇后狭穂姫命が同天皇5年に薨じた後、その遺志により同15年2月甲子(10日)に丹波(後の丹後国を含む広義の丹波国)から後宮に迎えられ、同年8月壬午(1日)に立后、同32年7月己卯(6日)に薨じたとされる。またその葬儀に際しては、それまで行われていた殉死を悪習と嘆じていた天皇が群卿に葬儀の方法を問うと、野見宿禰が生きた人間の代わりに埴輪を埋納するように進言したため、その陵墓に初めて人や馬に見立てた埴輪が埋納され、以後も踏襲されるようになったという。.

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日野西資子

日野西 資子(ひのにし すけこ、元中元年(1384年) - 永享12年9月8日(1440年10月3日))は、室町時代の貴族。後小松天皇の後宮、女院。称光天皇の母。後花園天皇の准母。日野西資国の娘。権大納言日野資教養女。院号は光範門院。.

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日野西資国

日野西 資国(ひのにし すけくに)は、室町時代前期の公卿。日野時光の子。官位は正三位・准大臣。日野西家の祖。.

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日本三代実録

『日本三代実録』(にほんさんだいじつろく)は、日本の平安時代に編纂された歴史書。六国史の第六にあたり、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の3代である天安2年(858年)8月から仁和3年(887年)8月までの30年間を扱う。延喜元年(901年)に成立。編者は藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平。編年体、漢文、全50巻。.

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摂政

摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことが出来ない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。 多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。.

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懿徳天皇

懿徳天皇(いとくてんのう、綏靖天皇29年 - 懿徳天皇34年9月8日)は、日本の第4代天皇(在位:懿徳天皇元年2月4日 - 懿徳天皇34年9月8日)。 和風諡号は、『日本書紀』では「大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)」、『古事記』では「大倭日子鉏友命」。 『日本書紀』・『古事記』とも系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。.

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敏達天皇

敏達天皇(びだつてんのう、宣化天皇3年?(538年?) - 敏達天皇14年8月15日(585年9月14日?)は、第30代天皇。 在位期間は、敏達天皇元年4月3日(572年4月30日?)から同14年8月15日(585年9月14日?)まで。和風諡号は渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと。『古事記』では沼名倉太珠敷命)。別名、他田天皇。.

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手白香皇女

天皇系図 15~26代 手白香皇女(たしらかのひめみこ、仁賢天皇2年(489年)以前 - 没年不詳)は、古墳時代の皇族。継体天皇の皇后。仁賢天皇の皇女で、母は春日大娘皇女。同母弟に武烈天皇がいる。『古事記』の表記は手白髪郎女。子に欽明天皇。.

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景行天皇

景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年 - 景行天皇60年11月7日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第12代天皇(在位:景行天皇元年7月11日 - 同60年11月7日)。日本武尊(やまとたけるのみこと)の父。『日本書紀』には自ら九州に遠征して熊襲・土蜘蛛を征伐し、東国には日本武尊を遣わして蝦夷を征討させたと伝わる。和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)・大帯日子淤斯呂和氣天皇(古事記)。常陸風土記には大足日足天皇。播磨風土記には大帯日子天皇、大帯日古天皇、大帯比古天皇。 「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇が持ち、時代が下って7世紀前半に在位したことが確実な34代舒明・35代皇極(37代斉明)の両天皇も同じ称号をもつことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであるとして、12,13,14代の称号は後世の造作と考える説があり、景行天皇の実在性には疑問が出されている。.

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3月25日 (旧暦)

旧暦3月25日は旧暦3月の25日目である。六曜は先負である。.

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4月20日

4月20日(しがつはつか、しがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から110日目(閏年では111日目)にあたり、年末まではあと255日ある。誕生花はシバザクラ、ルピナス。.

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879年

記載なし。

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