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光厳天皇

索引 光厳天皇

光厳天皇(こうごんてんのう 正和2年7月9日(1313年8月1日) - 正平19年7月7日(1364年8月5日))は、鎌倉時代末期の持明院統の天皇(在位:元弘元年9月20日(1331年10月22日) - 元弘3年5月25日(1333年7月7日))。諱を量仁(かずひと)という。 後醍醐天皇の失脚を受けて皇位に就いたが、鎌倉幕府の滅亡により復権した後醍醐が自身の廃位と光厳の即位を否定したため、歴代天皇125代の内には含まれず、北朝初代として扱われている。ただし、実際には弟の光明天皇が北朝最初の天皇であり、次の崇光天皇と合わせた2代15年の間、光厳上皇は治天(皇室の長)の座にあって院政を行った。.

166 関係: ばさら南北朝時代 (日本)南朝 (日本)右京区吉川弘文館吉野夢窓疎石大乗院日記目録大和国大炊御門冬氏大覚寺統天皇天皇陵太平記女御奈良県妙法院宝鏡寺宣旨室町幕府宮中三殿宮内庁宸翰守護尼五山山城国岩佐美代子崩御崇光天皇左大臣中村直勝常照皇寺丹波国三種の神器平安時代京都京都市京都府京都御所京極為兼京極派康永五條市仁和寺延元建武 (日本)建武の新政廃太子伏見天皇伏見区...佐々木道誉征夷大将軍徳治徽安門院一条後宇多天皇後二条天皇後伏見天皇後光厳天皇後醍醐天皇後村上天皇土岐頼遠北条仲時北条時益北朝 (日本)嘉暦准太上天皇八幡市六波羅探題典侍元弘元弘の乱元徳光明天皇皇太子皇室皇居火葬立太子笠置山 (京都府)米原市紀伊国綸旨美濃国猶子直仁親王隠岐国花園天皇鎌倉幕府鎌倉時代風雅和歌集飯倉晴武西園寺実衡西園寺寧子西園寺公衡観応の擾乱角川春樹事務所貞治賀名生足利尊氏軍記物語近江国興国赤松俊秀関城書門跡藤井譲治邦良親王里内裏金剛寺 (河内長野市)院宣院政暦応森真沙子正安正平 (日本)正和正親町三条公秀正親町三条秀子正親町公蔭正慶河内国治天の君法隆寺深津睦夫滋賀県持明院統木寺宮康仁親王春屋妙葩浄土宗新田義貞文保懽子内親王敦明親王10月22日10月27日 (旧暦)10月6日 (旧暦)1301年1308年1313年1318年1326年1331年1333年1336年1339年1340年1342年1343年1348年1351年1352年1354年1355年1357年1362年1364年4月13日 (旧暦)5月25日 (旧暦)7月7日7月7日 (旧暦)7月9日 (旧暦)8月15日 (旧暦)8月1日8月5日9月20日 (旧暦) インデックスを展開 (116 もっと) »

ばさら

ばさらとは、日本の中世、主に南北朝時代の社会風潮や文化的流行をあらわす言葉であり、実際に当時の流行語として用いられた。婆娑羅など幾つかの漢字表記がある。.

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南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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南朝 (日本)

南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。.

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右京区

右京区(うきょうく)は、京都市を構成する11区のひとつ。市内西北部に位置し、旧京北町合併後は京都市の区の中では最大の面積である(それまでは左京区が最大だった)。 区南部は古くは都の皇族や公家の別荘が点在していたが、現在は主として住宅地になっている。 区西部や北部は山間地である。かつては山国郷(京北山国・黒田地区)の木材が桂川を下り、下流の嵯峨・梅津などで陸揚げされて京都に運ばれた。.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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吉野

吉野(よしの)は、大和国南部(現在の奈良県南部)一帯を指す地名である。特に吉野山から大峰山にかけての山岳地帯をいう。狩りに適した良い野という意味である。吉野は口吉野と奥吉野に分かれる。奥吉野は山々が連なる山岳地帯で、古くは大峰とよばれ、厳密には吉野に含まれなかった。大峰の山々は熊野まで連なる。大峰への道は修験者によって、熊野から開かれた。 記紀には応神や雄略の吉野での狩りの伝承が載せられている。.

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夢窓疎石

夢窓 疎石(むそう そせき、道号が夢窓、法諱が疎石、建治元年(1275年) - 観応2年/正平6年9月30日(1351年10月20日))は、鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧。七朝帝師。父は佐々木朝綱(ともつな)、母は平政村(北条政村か?)の娘。佐々木頼綱(六角頼綱)の兄・経泰(つねやす)の孫とされる。.

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大乗院日記目録

『大乗院日記目録』(だいじょういんにっきもくろく)は、奈良興福寺の門跡寺院である大乗院に伝来した日記類を、第27代門跡尋尊が編集した書物。全4巻。記録された範囲は1065年(康平3年/治暦元年)から1504年(文亀3年/永正元年)までにおよぶ。原本は国立公文書館内閣文庫蔵。1428年(正長元年)に起こった正長の土一揆などの大事件に関する記述がある。.

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大和国

大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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大炊御門冬氏

大炊御門冬氏(おおいのみかど ふゆうじ)は、鎌倉時代後期の公卿。光福寺と号す。従一位内大臣。父は大納言大炊御門良宗、母は修理大夫朝氏の娘。.

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大覚寺統

大覚寺統(だいかくじとう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた皇室の系統で、持明院統と対立していた。名の由来は、第88代後嵯峨天皇の子である第90代亀山天皇の子孫である、亀山天皇の子である後宇多天皇が京都の外れの嵯峨にあった大覚寺の再興に尽力したこと、及び、出家後は大覚寺に住んで院政を行ったことによる。.

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天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

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天皇陵

大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵) 天皇陵(てんのうりょう)は、天皇の墓。.

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太平記

『太平記』(たいへいき)は、日本の古典文学作品の1つである。歴史文学に分類され、日本の歴史文学の中では最長の作品とされる。 全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。 第二次世界大戦後、「太平記」を称する小説やテレビドラマが多く作られたため、混同を避けるために『古典太平記』と呼ばれることもある。.

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女御

女御(にょうご)は、天皇の後宮の身位の一つで、天皇の寝所に侍した。官名は中国・周代の官制を記した『周礼』に由来し、位は皇后・中宮に次ぐ。また、女御のうち、女性皇族たる女王が女御となった場合の呼称を王女御という。 初見は『日本書紀』雄略天皇の条であるが、実際は桓武天皇の代に紀乙魚・百済王教法などを女御としたのに始まる。当初、その位は低かったが次第に高まり、平安時代中期以降は、皇后は女御から昇進する慣例が確立した。最後の女御は孝明天皇の女御である九条夙子(英照皇太后)。 定員はなく、複数の女御がいる場合は住まう殿舎の名を取って「承香殿女御」などと呼んだ。 応仁の乱以後、上流貴族の娘の入内が絶えると、女御も存在しなくなった。後陽成朝に近衛前久の娘の前子が豊臣秀吉の養女として女御となり、ついで後水尾朝に徳川秀忠の娘の和子が女御になり、さらに中宮へ昇った。江戸時代には歴代天皇の正妻として摂家や世襲親王家の娘が一人だけ女御となり、しばしば准三宮となった。しかし霊元天皇や光格天皇などは女御を中宮に立てたものの、立后させない例の方が多かった。.

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奈良県

奈良県(ならけん)は、日本の都道府県の一つ。本州中西部、紀伊半島内陸部、近畿地方の中南部に位置する県である。 令制国の大和国の領域を占め、県庁所在地は奈良市。北西部の盆地部を除き、険しい山々がそびえている。都道府県面積は全国で8番目に狭く内陸8県では最も狭いが、最小の香川県の約2倍でもある。.

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妙法院

妙法院(みょうほういん)は、京都市東山区妙法院前側町にある天台宗の寺院。山号を南叡山と称する。本尊は普賢菩薩、開基は最澄と伝える。皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称するが、妙法院は青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と並び称されてきた名門寺院である。また、後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院としても知られる。近世には方広寺(大仏)や蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置き、三十三間堂は近代以降も引き続き妙法院所管の仏堂となっている。.

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宝鏡寺

宝鏡寺(ほうきょうじ)は、京都市上京区にある禅宗寺院。宗旨は臨済宗系の単立。近世には皇女が入寺する尼門跡寺院であった。山号は西山(せいざん)。通称人形寺(にんぎょうでら)。普段は拝観できないが、定期的に特別拝観が行われる。.

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宣旨

宣旨(せんじ)は、律令期以降の日本において天皇・太政官の命令を伝達する文書の形式名。朝廷が出す文書の形態の一つ。詔勅の変体。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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宮中三殿

宮中三殿(きゅうちゅうさんでん)は、皇居にある、賢所(かしこどころ、けんしょ)、皇霊殿(こうれいでん)、神殿(しんでん)の総称。吹上御苑の東南にある。.

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宮内庁

宮内庁(くないちょう、Imperial Household Agency)は、日本の行政機関の一つである。 「皇室関係の国家事務、天皇の国事行為にあたる外国の大使・公使の接受に関する事務、皇室の儀式に係る事務をつかさどり、御璽・国璽を保管する内閣府の機関」である。 なお、宮内庁はかつて総理府の外局」であったが、現在は内閣府の外局(内閣府設置法第49条・第64条)ではなく「内閣府に置かれる独自の位置づけの機関」とされている(内閣府設置法48条)。官報の掲載では内閣府については「外局」ではなく「外局等」として宮内庁を含めている。.

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宸翰

嵯峨天皇宸翰 光定戒牒(延暦寺) 後宇多天皇宸翰御手印遺告(大覚寺) 高倉天皇宸翰消息(仁和寺) 後嵯峨天皇宸翰消息(仁和寺) 宸翰(しんかん)は、天皇自筆の文書のこと。宸筆(しんぴつ)、親翰(しんかん)ともいう。鎌倉時代以降、室町時代までの宸翰を特に宸翰様と呼ぶ。中世以前の天皇の真跡で現存するものは数が少なく、国宝や重要文化財に指定されているものが多い。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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尼五山

尼五山(あまござん)とは、室町時代に五山の制に倣って尼寺に導入された臨済宗の寺格。尼寺五山(あまでらござん)という。 京都五山・鎌倉五山に倣って京都と鎌倉に各5ヶ寺が定められた。 住持には皇室や摂関家以下有力公家、足利将軍家(鎌倉では鎌倉公方家)などから輩出される事が多かった。応仁の乱後に衰微し、護念寺・檀林寺・東慶寺が男性住持に改めたり改宗したりして尼寺の形式を失った姿で存続しているのみで、他はいずれも廃絶した。.

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山城国

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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岩佐美代子

岩佐 美代子(いわさ みよこ、1926年3月1日 - )は、日本の国文学者。法学者・穂積重遠の娘で、渋沢栄一の血を引いている。母方の祖父は児玉源太郎。.

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崩御

崩御(ほうぎょ)は、天皇、皇帝、国王、太皇太后、皇太后、皇后、君主等の死亡を表す敬語。.

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崇光天皇

崇光天皇(すこうてんのう、建武元年4月22日(1334年5月25日) - 応永5年1月13日(1398年1月31日))は、南北朝時代の北朝第3代天皇(在位:正平3年10月27日(1348年11月18日) - 正平6年11月7日(1351年11月26日))。諱を益仁(ますひと)といい、後に興仁(おきひと)と名乗った。.

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左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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中村直勝

中村 直勝(なかむら なおかつ、1890年6月7日 - 1976年2月23日)は、大正・昭和期の歴史学者。.

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常照皇寺

常照皇寺(じょうしょうこうじ)は、京都府京都市右京区京北井戸町にある臨済宗天龍寺派の寺院。本尊は釈迦如来。詳名は大雄名山万寿常照皇寺(だいおうめいざん まんじゅじょうしょうこうじ)。かつては常照寺(じょうしょうじ)と呼ばれていた。.

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丹波国

丹波国(たんばのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陰道に属する。.

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三種の神器

三種の神器(みくさのかむだから、さんしゅのしんき(じんぎ、しんぎ))は、日本神話において、天孫降臨の時に、瓊瓊杵尊が天照大神から授けられたという鏡・玉・剣のこと。また、神話に登場した神器と同一とされる、あるいはそれになぞらえられる、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物のこと。 三種の宝物とは、八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣を指す。中でも八尺瓊勾玉・草薙剣は併せて剣璽と称される。皇族はもとより天皇でさえもその実見はなされておらず、多くの面が謎に包まれている。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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京都市

京都タワーと京都中心部 京都市中心部四条河原町 京都市(きょうとし )は、京都府南部に位置し、同府最大の市で、府庁所在地である。政令指定都市に指定されており、11区を置く。日本の市で8番目の人口を有する。延暦十三年(794年)から明治二年(1869年)までの1,000年以上にわたって日本の都が置かれていたため、古都として認識されている。.

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京都府

京都府(きょうとふ)は、日本の近畿地方の都道府県の一つ。延暦13年(794年)の平安京遷都以来、天皇の御所がある。令制国でいう山城国の全域、丹波国の東部および丹後国の全域を府域とする。府庁所在地は京都市。.

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京都御所

京都御所(模型) 京都御所(きょうとごしょ)は、京都府京都市上京区にある皇室関連施設。 14世紀から明治2年(1869年)までの間の「内裏(禁裏)」、すなわち歴代天皇が居住し儀式・公務を執り行った場所である。現在は宮内庁京都事務所が管理している。.

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京極為兼

京極 為兼(きょうごく ためかね)は、鎌倉時代後期の公卿・歌人。名前の読みを「ためかぬ」とする説もある。.

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京極派

京極派(きょうごくは)は、鎌倉中期から室町初期にかけての和歌の流派の一つ。 「和歌の家」としての京極派は、藤原北家御子左流に属し、御子左家の嫡男二条為氏の庶弟京極為教とその子為兼に始まるが、実質的には為兼によって和歌の流派としての京極派は生まれた。御子左嫡流で、大覚寺統(のちの南朝)と結びついた二条派に対し、為兼は伏見院の歌道師範として迎えられたのを契機に持明院統(のちの北朝)宮廷において歌壇を築き、斬新な歌風を流行させた。実感を尊び繊細な感覚的表現による歌は鎌倉時代末期の沈滞していた当時の歌壇に新鮮味を与えたが、その奇抜で型破りな表現によって二条派からつよい非難を浴びることになった。為兼の歌論書として『為兼卿和歌抄』がある。 京極派歌壇には、(1)歌の家としての京極家(および当時はまだ一家を成すにいたっていなかった冷泉家)、(2)京極派歌風を信奉する歌人たちの集まり、(3)伏見院宮廷における文学サロンの三つの面があり、それぞれが互いに重なりあいつつ全体として「京極派」と呼ぶべきものをかたちづくっている。通常鎌倉期のそれを前期、南北朝期以降のそれを後期と呼んで区分しているが、前期京極派においては京極為兼、伏見院、久明親王、永福門院、藤原為子(従三位為子)、冷泉為相(娘が持明院統の久明親王に嫁す)らが主要な歌人として活躍し、十三番目の勅撰集『玉葉和歌集』(伏見院下命、為兼撰)が編まれた。後期京極派においては、永福門院、花園院、光厳院らが主要な歌人として活躍し、十七番目の勅撰集『風雅和歌集』(花園院下命、光厳院親撰)が編まれたが、観応の擾乱によって光厳院ら持明院統の要人が南朝側に監禁された結果、持明院統宮廷が大きな打撃を受け、そして光厳院が監禁されている間に持明院統を継いだ後光厳院が二条派を重んじたため、思わしい後嗣を得ないままに断絶した。 中世・近世においては高く評価されることがなく、長らく埋もれたままになっていた京極派ではあるが、近代に入ってから再評価が行われ、特に折口信夫や土岐善麿がその歌風をつよく称揚した。戦後に入って岩佐美代子らによる研究が進み、その全貌が徐々にあきらかになりつつある。.

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康永

康永(こうえい)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。暦応の後、貞和の前。1342年から1344年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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五條市

京奈和自動車道(五條道路)から市街を望む 五條市(ごじょうし)は、奈良県南西部の市。南和地域の中心都市。.

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仁和寺

双ヶ岡より仁和寺を望む 仁和寺(にんなじ)は、京都府京都市右京区御室にある真言宗御室派総本山の仏教寺院。山号は大内山。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は宇多天皇。「古都京都の文化財」として、世界遺産に登録されている。.

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延元

延元(えんげん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。建武の後、興国の前。1336年から1339年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後醍醐天皇、後村上天皇。北朝方が光明天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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建武 (日本)

建武(けんむ)は、日本の元号の一つ。南朝方では元弘の後、延元の前で日_(旧暦)|1月29日〜1336年2月19日までの期間を指す。北朝方では正慶の後、暦応の前で、1334年1月29日〜1338年8月28日までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方後醍醐天皇、北朝方光明天皇。.

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建武の新政

建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。 名は、翌年の元弘4年/建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。近年の歴史学では「建武政権」という表現もある。後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。.

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廃太子

廃太子(はいたいし)は、皇室、王室における廃嫡のことをいう。皇太子、王太子など皇位、王位継承者がその位を廃されることであり、廃された本人をもそう呼ぶ。なお、立太子されていない儲君が廃された場合や、即位前に死去した場合などは廃太子とは言わない。.

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伏見天皇

伏見天皇(ふしみてんのう、文永2年4月23日(1265年5月10日) - 文保元年9月3日(1317年10月8日))は日本の第92代天皇(在位:弘安10年10月21日(1287年11月27日) - 永仁6年7月22日(1298年8月30日))。諱は熈仁(ひろひと)。書道の伏見院流の祖、京極派の有力歌人としても知られる。 後深草天皇の第二皇子。母は、左大臣洞院実雄の娘、愔子(玄輝門院)。.

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伏見区

伏見区(ふしみく)は、京都市を構成する11の行政区の一つで、京都市の南部に位置する。.

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佐々木道誉

佐々木 道誉/佐々木 高氏(ささき どうよ/- たかうじ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、守護大名。若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津守護。 一般的に佐々木佐渡判官入道(佐々木判官)や佐々木道誉の名で知られる。後者の道誉(導誉とも)は法名であり、諱(実名)は高氏(たかうじ)という。鎌倉幕府創設の功臣で近江を本拠地とする佐々木氏一族の京極氏に生まれたことから、京極 道誉(導誉)(きょうごく どうよ)または 京極 高氏(きょうごく たかうじ)とも呼ばれる。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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徳治

徳治(とくじ)は、日本の元号の一つ。嘉元の後、延慶の前。1306年から1307年までの期間を指す。この時代の天皇は後二条天皇、花園天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条師時。.

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徽安門院一条

徽安門院一条(きあんもんいんのいちじょう、生没年不詳)は、南北朝時代の宮廷女官・女流歌人。本名は不詳。 正親町公蔭の娘で、母は北条久時の娘。徽安門院寿子内親王(花園天皇皇女・光厳天皇妃)に仕えて一条局と名乗る。その後、光厳院の寵愛を受けて義仁親王(正親町宮)を産む。 後期京極派の歌人で、興国4年(1343年)冬以前の院六首歌合に出詠。また貞和百首・延文百首にも和歌が収録されている。『風雅和歌集』以下の勅撰和歌集に22首入集。家集『徽安門院一条集』を残す。.

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後宇多天皇

後宇多天皇(ごうだてんのう、文永4年12月1日(1267年12月17日) - 元亨4年6月25日(1324年7月16日)は、鎌倉時代の第91代天皇(在位:文永11年1月26日(1274年3月6日) - 弘安10年10月21日(1287年11月27日 ))。諱は世仁(よひと)。.

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後二条天皇

後二条天皇(ごにじょうてんのう、弘安8年旧2月2日(1285年3月9日) - 徳治3年旧8月25日(1308年9月10日))は、鎌倉時代の第94代天皇(在位:正安3年旧1月21日(1301年3月2日) - 徳治3年旧8月25日(1308年9月10日))。諱は邦治(くにはる)。大覚寺統の天皇である。 後宇多天皇の第一皇子。母は太政大臣堀川基具の養女で実孫の基子(西華門院)。後醍醐天皇の異母兄にあたる。 後二条天皇の即位は鎌倉幕府が朝廷に治天と天皇の交代を要求したことから実現したものだったが、ここまで半世紀以上にわたって持明院統と大覚寺統による両統迭立を重ねてきた結果、この天皇の即位後3年半にわたって史上最多となる5代の上皇(後深草院・亀山院・後宇多院・伏見院・後伏見院)が同時に存在することになった。.

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後伏見天皇

後伏見天皇(ごふしみてんのう、弘安11年3月3日(1288年4月5日)- 延元元年4月6日(1336年5月17日))は、鎌倉時代の第93代天皇(在位:永仁6年7月22日(1298年8月30日)- 正安3年1月21日(1301年3月2日))。諱は胤仁(たねひと)。 伏見天皇の第一皇子。母は、参議左近衛中将五辻経氏の娘、経子。持明院統。.

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後光厳天皇

後光厳天皇(ごこうごん てんのう、建武5年3月2日(1338年3月23日)- 応安7年1月29日(1374年3月12日))は、南北朝時代の北朝第4代天皇(在位:観応3年8月17日(1352年9月25日)- 応安4年3月23日(1371年4月9日))。諱は弥仁(いやひと、旧字体:彌仁)。.

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後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.

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後村上天皇

後村上天皇(ごむらかみてんのう)は、南北朝時代の第97代天皇にして、南朝の第2代天皇(在位:延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日) - 正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日))。諱は初め義良(のりよし / のりなが)、後に憲良に改めた。名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。父・後醍醐天皇の遺志を継いで南朝の京都回復を図り、大和(奈良県)の吉野・賀名生、摂津(大阪府)の住吉などを行宮とした。 明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として認定されるようになった。.

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土岐頼遠

土岐 頼遠(とき よりとお)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、守護大名。美濃守護。土岐頼貞の七男。兄弟に頼清、長山頼基、頼兼、頼明など多数。子に氏光、光明、光行、直頼。.

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北条仲時

北条 仲時(ほうじょう なかとき)は、鎌倉時代末期の北条氏一門。鎌倉幕府最後の六波羅探題北方である。普恩寺流で第13代執権である北条基時の子。普恩寺 仲時(ふおんじ なかとき)とも呼ばれる。.

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北条時益

北条 時益(ほうじょう ときます)は、鎌倉時代末期の武士。北条氏の一門。鎌倉幕府最後の六波羅探題南方。父は北条氏政村流の北条時敦。.

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北朝 (日本)

北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代に、足利氏を頂点に、全国の多くの武士、及び大多数の公家が支持した持明院統の朝廷である。同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統の南朝(吉野朝廷)に対比する。 南北朝の分裂は後醍醐天皇の建武政権が崩壊した建武3年/延元元年(1336年)以後であるが、鎌倉幕府末期の元弘の乱時に鎌倉幕府が後醍醐天皇に代わって擁立し、後醍醐天皇の京都復帰後にその即位の事実を否認した持明院統の光厳天皇を含んだ6代の天皇が北朝の天皇とされている。.

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嘉暦

嘉暦(かりゃく)は、日本の元号の一つ。正中の後、元徳の前。1326年から1329年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時、北条貞顕、北条守時。.

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准太上天皇

准太上天皇(じゅんだいじょうてんのう)とは、太上天皇に准じた待遇のこと。 『源氏物語』に、主人公光源氏が「太上天皇になずらふ御位」に就いた旨の記述がなされていることから、しばしばあたかもそのような具体的な地位や称号が存在したかのように誤解されるが、准太上天皇は、地位や称号ではなくあくまでも待遇である。「じゅんだいじょうてんのう」という名詞はもともと存在せず、本来は「太上天皇に准ず」「太上天皇になずらふ」と文として読み下すのが正しい。 歴史上、准太上天皇の実例は、寛仁元年(1017年)に敦明親王が皇太子の地位を辞退する見返りとして、小一条院の院号と年官年爵を与えられ、上皇同様に院庁を設置されたのが唯一である。これも「准太上天皇」という具体的な称号が与えられたわけではない。院号の授与や院庁の設置、年爵の賦与により上皇に准じた待遇を与えられたにとどまる。 なお、女院も、院号の授与、年官年爵の賦与、院庁の設置などにより、ある意味で上皇に准じた立場と言うことができる。正暦2年(991年)に最初の女院となった東三条院藤原詮子の待遇を定めるについては、まったく前例がない新儀であったことと、一条天皇の生母ではあるが、皇后の経歴がないために権威において一段劣る彼女をあえて三宮よりも上位に位置づける必要があったことから、上皇の待遇が参考とされ、これがその後の女院の待遇の先例となった。もっとも、本来、天皇の生母への優遇措置であった女院の地位に至る要件が時代がくだるとともに次第に多様化したことから、すべての女院が上皇と同じ待遇を受けることができたわけではない。.

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八幡市

八幡市(やわたし)は、京都府の南部に位置する人口約7万人の市である。市名は市内に鎮座する日本三大八幡宮の一社、石清水八幡宮に由来する。.

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六波羅探題

六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つ。承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。探題と呼ばれた初見が鎌倉末期であり、それまでは単に六波羅と呼ばれていた。.

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典侍

典侍(ないしのすけ/てんじ)とは、律令制における官職で、内侍司(後宮)の次官(女官)。単に「すけ」とも呼ばれた。 長官は、尚侍であったが、後に后妃化して設置されなくなったため、典侍が実質的に長官となった。准位では、従四位であったが、実際には女叙位を受けて二、三位に昇る者も多かった。なお、「藤典侍」、「源典侍」や「大納言典侍」などと、前に姓や、父親の官職名を付けて称する者が多かった。.

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元弘

元弘(げんこう)は、日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年から1333年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

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元弘の乱

元弘の乱(げんこうのらん)は、元弘元年(1331年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府倒幕運動である。元弘3年/正慶2年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱を含めることも多い。以下では1331年から1333年までの戦乱について述べる。元弘の変(げんこうのへん)とも呼ばれる。.

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元徳

元徳(元德、げんとく)は、日本の元号の一つ。嘉暦の後。大覚寺統(南朝)では元弘の前で、1329年から1330年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。 後醍醐天皇が元弘に改元した直後に倒幕の兵を挙げて失敗、隠岐に流され(元弘の乱)、持明院統(北朝)の光厳天皇が立てられた。光厳天皇と幕府は元弘改元を認めず、1331年まで元徳の元号を使用し、1332年に正慶に改元した。.

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光明天皇

光明天皇(こうみょうてんのう、元亨元年12月23日(1322年1月11日) - 天授6年6月24日(1380年7月26日))(在位:延元元年8月15日(1336年9月20日)- 正平3年10月27日(1348年11月18日))は、南北朝時代の天皇で、諱を豊仁(ゆたひと)という。 その即位によって北朝が成立したので北朝最初の天皇ということになるが、鎌倉時代末期に在位した兄の光厳天皇が後醍醐天皇によって即位を否定され、歴代天皇125代に含まれない北朝初代天皇として扱われているため、光明は北朝第2代とされている。.

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皇太子

皇太子(こうたいし、Crown Prince)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号。一般的には皇室ならびに海外の王室における君主位の法定推定相続人の敬称として使われる。.

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皇室

皇室(こうしつ)は、天皇および皇族の総称。 狭義には内廷皇族、広義には天皇とその近親である皇族を意味するが、皇族の範囲は時期によって異なる。 近代(明治維新)以降は、天皇と内廷皇族を家族とする内廷と皇太子以外の皇族男子及びその家族で構成される宮家を意味する。 皇室典範第五条に定める、天皇の配偶者である皇后、先代の天皇の未亡人である皇太后、先々代の天皇の未亡人である太皇太后、また、皇太子(皇太孫)、皇太子妃(皇太孫妃)、皇族男子たる親王、王、さらには生まれながらの皇族女子である内親王、女王がある。親王妃、王妃は親王、王の配偶者となることをもって、皇族とされる。戦前(大日本帝国憲法下、日本国憲法施行まで)においては、帝室(ていしつ)とも呼ばれていた。 一般国民の女性は、皇族男子との婚姻により皇族になることができる。また、15歳以上の内親王、王、女王はその意思により、皇太子、皇太孫を除く親王、内親王、王、女王は、その意思によるほかにやむをえない特別の事由があるとき、皇室会議の議決を経て皇族の身分を離脱できる。なお、皇族女子は天皇、皇族以外の者と婚姻したとき皇族の身分を離れる(臣籍降下・臣籍降嫁)。.

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皇居

皇居の正門石橋(この奥に正門鉄橋(通称二重橋が架かる) 皇居(こうきょ)は、天皇の平常時における宮殿・住居である。現在は東京都千代田区にある。「皇居」の呼称が広く用いられるようになったのは現在の皇居からである。.

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火葬

火葬(かそう)とは、葬送の一手段として遺体を焼却することである。また、遺体の焼却を伴う葬儀全体も指す。 火葬を行う施設や建築物を火葬場と呼ぶ。.

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立太子

立太子(りったいし)は、広く東アジアにおいて広まった儀礼で、日本の天皇・中国の皇帝の皇子等を跡継ぎとして太子に立てることである。また、日本においてはこの概念が定着していることから、ヨーロッパの王家に対しても、「立太子」の語を用いることがある。.

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笠置山 (京都府)

置山(かさぎやま)は、京都府相楽郡笠置町にある標高288mの山である。.

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米原市

米原市(まいばらし)は、滋賀県の北東部(湖北地域)に位置する市。旧坂田郡。 交通都市として知られ、古くから中山道と北陸道の分岐点として発達した。市の中心部である米原が北国街道の米原宿に当たり、市域南部を東西に通過する中山道には「番場の忠太郎」で有名な番場宿、醒井宿、柏原宿の3ヶ所の宿場町が置かれていた。また現在でも、国道8号と国道21号が分岐し、米原JCTでは、名神高速道路と北陸自動車道が分岐するなど、交通の結節点としての役割を果たしている。 滋賀県内で唯一、東海道新幹線の駅が設置されている。そのため、関西圏・中京圏ともにアクセスが良く、新幹線では米原駅から京都駅まで19分、新大阪駅まで35分、一方名古屋駅までは27分で到着する。 自然資源も豊富であり、日本百名山に数えられる高山植物の宝庫・伊吹山、ゲンジボタルの群生地として有名な天野川中流域と三島池、滋賀県・岐阜県にのみ生息する魚ハリヨや希少植物バイカモ(梅花藻)といった貴重な生物が見られる地蔵川などがある。市内の甲津原にスキー場がある。.

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紀伊国

紀伊国(きいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

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綸旨

綸旨(りんじ)とは、蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文書。 綸旨とは本来は「綸言の旨」の略であり、天皇の意そのものを指していたが、平安時代中期以後は天皇の口宣を元にして蔵人が作成・発給した公文書の要素を持った奉書を指すようになった。御綸旨(ごりんじ・ごりんし)とも呼ぶ。.

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美濃国

美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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猶子

子(ゆうし)とは、兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度。漢文訓読では「なほ子のごとし」(訳:あたかも実子のようである)という意味。 中国における本義は兄弟の子の意味。養子との違いは、家督や財産などの相続を必ずしも目的の第一義とはせず、実力や「徳」に優れた仮親の権勢を借りたり、一家・同族内の結束を強化するために行われた。具体的には、官位などの昇進上の便宜、婚姻上の便宜、他の氏族との関係強化が図られる場合に組まれるようである。そのため、子供の姓は変わらない場合があったり、単なる後見人としての関係であるなど、養子縁組と比べて単純かつ緩やかで擬制的な側面が大きい。 ただし、相続に関しての実際は明確な区別はなく、猶子であっても相続がなされる場合も多い。ときに両者をまったく同義で使用している場合がある。.

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直仁親王

仁親王(なおひとしんのう、建武2年(1335年) - 応永5年5月14日(1398年6月2日))は、南北朝時代の持明院統の皇族。花園天皇の皇子で、母は宣光門院正親町実子とされているが、実際には光厳天皇(花園天皇の甥)が正親町実子と通じて産ませた皇子であった。 北朝崇光天皇の皇太弟に立てられたが、正平一統の際に南朝方によって廃位され吉野へ連れ去られた。花園上皇の御所だった「萩原殿」を相続したことから萩原宮(はぎわらみや)とも通称された。.

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隠岐国

岐国(おきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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花園天皇

花園天皇(はなぞのてんのう、永仁5年7月25日(1297年8月14日) - 正平3年11月11日(1348年12月2日))は鎌倉時代の第95代天皇(在位:延慶元年11月16日(1308年12月28日)- 文保2年2月26日(1318年3月29日))。諱は富仁(とみひと)。 伏見天皇の第四皇子。母は、左大臣洞院実雄の娘、顕親門院・洞院季子。鎌倉時代の二つの皇統のうち持明院統に属する。.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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風雅和歌集

『風雅和歌集』(ふうがわかしゅう)は、室町時代の勅撰集。第17勅撰集。20巻、総歌数2211首。構成上、先行する『玉葉集』と異なるのは、春・秋を各三巻に増大した代わり、雑歌を玉葉の五巻から三巻に縮め、また賀歌を掉尾に置き換えたことである。春・秋の歌各三巻という構成は『後撰和歌集』を模した可能性が指摘されている。 貞和2年(1346年)頃、風雅集編纂のために貞和百首が詠進され、選考資料となった。北朝の貞和2年(1346年)11月9日、竟宴が催され、同4年頃までに成立。 学芸諸般に優れた花園院の監修のもと、光厳院が親撰。正親町公蔭(京極為兼の養子)・藤原為基・冷泉為秀らが寄人を勤めた。真名序・仮名序は共に花園法皇の筆。2人の上皇が深く関わった、二十一代集の中でも特異な集。『園太暦』によると、本来、「正しき風」(由緒正しい和歌の道)という意の「正風和歌集」に命名すべきところを、呉音で「傷風」に通じるのを忌み「風雅」に改めたという。 持明院統の天皇による勅撰集では『玉葉集』に次ぎ、完成された京極派の歌風を継承する。前期京極派の庇護者兼主将、伏見院(85首)と永福門院(68首)を筆頭に、上位入集歌人は花園院(54首)・京極為兼(52首)・藤原為子(39首)の順に並ぶ。花園院のほか、後伏見院・光厳院・徽安門院ら後期京極派の代表歌人も30首以上の入集を果たした。なお前代歌人では紀貫之・俊成・定家・後鳥羽院らが勅撰集の慣例に沿って尊重されている。 玉葉・風雅は共に清新自然な風体を特色とするが、風雅集においてその純度は一層高く、繊細な自然観照と深沈な心境の描写を本領とし、南北朝の乱世に生きる人々の感慨を映している。閑寂な境界を現出した冬歌や、内省的な述懐歌に秀歌が多く、恋歌にさえ孤独な哀感が漂う。 玉葉集同様に笠間書院に、国文学者岩佐美代子による全注釈(上中下巻)と、岩佐編で次田香澄『玉葉集風雅集攷』がある。また井上宗雄校注・訳で、小学館の『新編日本古典文学全集49 中世和歌集』に抄録されている。 Category:南北朝時代 (日本) Category:室町時代の歌集 Category:14世紀の書籍 Category:14世紀の詩.

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飯倉晴武

飯倉 晴武(いいくら はるたけ、1933年 - )は、日本の歴史学者。.

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西園寺実衡

西園寺 実衡(さいおんじ さねひら)は、鎌倉時代後期の公卿。内大臣正二位。西園寺内大臣、又は今出河と号す。左大臣西園寺公衡の子、母は中御門経任の娘の中御門経子。.

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西園寺寧子

西園寺 寧子(さいおんじ ねいし/やすこ、正応5年(1292年) - 正平12年閏7月22日(1357年9月6日))は、鎌倉時代から南北朝時代の女性。後伏見上皇の女御であり、光厳天皇及び光明天皇の実母。院号は広義門院。北朝を存続させるため、事実上の治天の君の座に就き、天皇家の家督者として君臨した。女性で治天の君となったのも、皇室に出自せず治天の君となったのも、日本史上で広義門院西園寺寧子が唯一である。.

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西園寺公衡

西園寺 公衡(さいおんじ きんひら)は、鎌倉時代後期の公卿。従一位左大臣。竹林院左大臣、または竹中と号する。父は太政大臣西園寺実兼。母は内大臣中院通成の娘顕子。.

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観応の擾乱

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた抗争で、観応年間に頂点に達した足利政権(室町幕府)の内紛。実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、それを支持する武家や、公家と武家どうしの確執なども背景とする。 この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である正平一統についても併せて解説する。.

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角川春樹事務所

株式会社角川春樹事務所(かどかわはるきじむしょ)は、東京都千代田区に本社を置く日本の出版社。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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貞治

貞治(じょうじ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。康安の後、応安の前。1362年から1367年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利義詮、足利義満。.

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賀名生

堀家住宅(賀名生行宮跡) 賀名生(あのう)は、奈良県五條市(旧吉野郡西吉野村)にある丹生川の下流沿いの谷である。南北朝時代(吉野朝時代)、南朝(吉野朝廷)の首都(ただし行宮であるため正式な首都ではない)となった地域の一つ。 もと「穴生」(あなふ)と書いたが、後村上天皇が行宮を吉野(吉野山)からこの地に移した際に、南朝による統一を願って叶名生(かなう)と改め、さらに1351年(正平6年、北朝の観応2年)、いったん統一が叶うと(正平一統)「賀名生」に改めたという。明治になって、読みを「かなう」から原音に近い「あのう」に戻した。 後村上天皇の遷幸より前の1336年(延元元年、北朝の建武3年)12月21日、後醍醐天皇は京都の花山院から逃れ出て、同月23日穴生に至ったが、行宮とすべきところがなかったのと高野山衆徒の動向を警戒してここに留まるのを断念し、同月28日吉野山に至った。.

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足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.

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軍記物語

軍記物語(ぐんきものがたり)とは、鎌倉時代から室町時代にかけて書かれた歴史上の合戦を題材とした文芸のこと。実際の史実を元にしているが、説話的な題材や虚構も交えられていることもある。語り物の題材にもされ、『平家物語』は琵琶法師によって広く伝えられた。軍記物、戦記物語ともいう。合戦などの歴史上の背景を探る史料ともなる。.

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近江国

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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興国

興国(こうこく)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。延元の後、正平の前。1340年から1346年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後村上天皇、北朝方が後光厳天皇、光明天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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赤松俊秀

赤松 俊秀(あかまつ としひで、1907年4月28日 - 1979年1月24日)は、北海道旭川市出身の日本史学者。.

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関城書

関城書(かんじょうしょ)は、南北朝時代に常陸国関郡の関城(現在の茨城県筑西市)に籠城していた北畠親房が、南朝方の有力武将結城宗広の子である親朝に対して充てた書状のこと。全部で約70通に昇るが、特に興国3年2月15日(康永元年/1342年3月22日)付の書状を指すのが一般的である。 北畠親房とともに関東地方を北朝方足利氏から奪還すべく奮闘して志半ばで客死した結城宗広の没後、奥州の入口である白河関を支配している後継者の結城親朝の動向は南北双方が注目していた。常陸で孤軍奮闘する親房は親朝を味方にすべく書状による説得工作を続けていたが、その中の1通が関城書である。 全文格調高い漢文によって記された関城書は南朝と自己の苦戦振りを率直に伝える一方で、日本の神代以来の国体を論じ、朝廷に対して忠節を尽くすことが武士の本分であると説いて親朝の決起を促した。 だが、所領の給付と官位の任命は朝廷にあると信じる親房の主張は自らの手で所領を守り続けてきたと自負する親朝の失望を買って、結果的には北朝方への離反を促す事になった。 江戸時代に『本朝通鑑』や『大日本史』に採録されて、後世の南朝正統論・尊皇思想に影響を与えた。.

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門跡

跡(もんせき、もんぜき)は、皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことである。寺格の一つ。元来は、日本の仏教の開祖の正式な後継者のことで「門葉門流」の意であった(この場合は門主とも)。鎌倉時代以降は位階の高い寺院そのもの、つまり寺格を指すようになり、それらの寺院を門跡寺院と呼ぶようになった。 浄土宗の知恩院門跡は浄土門主(もんす)という。 浄土真宗本願寺派の本願寺住職は門主(もんしゅ)、真宗大谷派の僧侶及び門徒の代表者は門首(もんしゅ)と書き、いずれも親鸞の子孫の大谷家から出ている。.

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藤井譲治

藤井 譲治(ふじい じょうじ、1947年- )は、日本の歴史学者、京都大学名誉教授。専門は日本近世史。福井県生まれ。.

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邦良親王

北白川陵) 邦良親王(くによししんのう/くにながしんのう、正安2年(1300年) - 正中3年3月20日(1326年4月23日))は、大覚寺統の後二条天皇の第一皇子。叔父である後醍醐天皇の皇太子となるが即位することなく薨去する。木寺宮家の祖となった。名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇#皇子の読みを参照。.

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里内裏

里内裏(さとだいり)は、平安時代以降、平安宮内裏以外の邸宅を天皇の在所(皇居)として用いたものを指す。「里」とは平安京の里坊(「里」「坊」はいずれも方形に区切られた街区)のことであり、すなわち里内裏とは「京内に置かれた内裏」という意味である。.

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金剛寺 (河内長野市)

金堂 多宝塔 摩尼院 庭園 金剛寺(こんごうじ)は大阪府河内長野市にある真言宗御室派の大本山である。山号は天野山(あまのさん)。高野山が女人禁制だったのに対して女性も参詣ができたため、「女人高野」とも呼ばれる。奥河内の観光地の一つ。大阪みどりの百選に選定されている。.

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院宣

院宣(いんぜん)とは、上皇からの命令を受けた院司が、奉書形式で発給する文書。天皇の発する宣旨に相当する。院庁下文よりも私的な形式。 『法曹至要抄』によれば、養老律詐偽律の解釈を巡る明法家の先例の学説として「太上天皇宣」の偽造は詔書と同一の罪に当たるとする説を挙げており早くから知られていた可能性があるが、院宣に関する記録の初見は延長7年(927年)の宇多上皇が伊勢神宮に宣旨を下されたことを受けて神宮側がその指示を神郡に向けて発した「延長七年大神宮勘注」(『大日本史料』一之六)である。院宣の重要度は、天皇の宣旨と同等、またはそれ以上とされていた。平安時代後期に院政が始まると、治天の君(院政を行う上皇)は、院宣や院庁下文を発給することで、自らの政治意思を明示・具現化していった。 院庁下文が、詔勅や太政官符などの政府として最終決定意思を表示する文書と、同等の効力が認められていたのに対し、院宣は形式の面でも効力の面でも、簡易なものとして発給されていた。すなわち、政府の重要事項については院庁下文で対応し、より即効的または柔軟な対応が必要なときは院宣を発給していたのである。.

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院政

院政(いんせい)は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治である。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治形態である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。.

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暦応

暦応(りゃくおう、れきおう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。建武の後、康永の前。1338年から1341年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、南朝方が後醍醐天皇、後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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森真沙子

森 真沙子(もり まさこ、1944年1月4日 - )は、日本の小説家、推理作家、ホラー作家、時代小説作家。 神奈川県横浜市生まれ。本名は深江雅子。北海道函館西高等学校を経て奈良女子大学文学部を卒業する。雑誌、週刊誌の記者を経る。1979年、「バラード・イン・ブルー」で第33回小説現代新人賞を受賞し、小説家デビュー。初期には、ミステリーやサスペンスを発表し、後にホラー、時代小説と執筆ジャンルの幅を広げている。.

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正安

正安(しょうあん)は、日本の元号の一つ。永仁の後、乾元の前。1299年から1301年までの期間を指す。この時代の天皇は後伏見天皇、後二条天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条貞時、北条師時。.

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正平 (日本)

正平(しょうへい)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。興国の後、建徳の前。1346年から1370年までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方が後村上天皇、長慶天皇。北朝方が光明天皇、崇光天皇、後光厳天皇。室町幕府将軍は足利尊氏、足利義詮、足利義満。 昭和、明治、応永、平成、延暦に次ぎ、歴代で6番目に長い元号である。一世一元の制制定以前の元号では3番目に長い。.

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正和

正和(しょうわ)は、日本の元号の一つ。応長の後、文保の前。1312年から1317年までの期間を指す。この時代の天皇は花園天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条宗宣、北条煕時、北条基時、北条高時。.

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正親町三条公秀

正親町三条 公秀(おおぎまちさんじょう きんひで)は鎌倉時代後期の公卿。正二位内大臣。正親町、または八条と号す。父は権大納言正親町三条実躬、母は僧聖海の娘。 崇光天皇と後光厳天皇の外祖父である。.

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正親町三条秀子

正親町三条 秀子(おおぎまちさんじょう ひでこ、応長元年(1311年) - 正平7年11月28日(1353年1月12日))は、南北朝時代・室町時代の女性。光厳天皇の典侍で、崇光天皇・後光厳天皇の生母。父は内大臣正親町三条公秀。准三宮。院号は陽禄門院。 延元2年(1337年)3月に従三位に叙任。正平7年(1352年)10月に院号宣下と同時に准三宮となり、同年出家して、11月28日に42歳で薨去した。 Category:室町・安土桃山時代の后妃後宮 Category:女院 ひてこ Category:1311年生 Category:1353年没.

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正親町公蔭

正親町 公蔭(おおぎまち きんかげ)は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。正二位権大納言。権大納言正親町実明の子として生まれるが、京極為兼の養子となり、京極家の後継者と目されていた。しかし、為兼の失脚により正親町家を継いだ。後期京極派の歌人として活躍。.

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正慶

正慶(しょうきょう、しょうけい)は、日本の元号の一つ。持明院統(後の北朝)方にて使用された。元徳の後、元弘の前。1332年から1333年5月25日までの期間を指す。この時代の天皇は大覚寺統(南朝)の後醍醐天皇だが、幕府方は持明院統の光厳天皇を立てた。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

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河内国

河内国(かわちのくに/かはちのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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治天の君

治天の君(ちてんのきみ)は、日本の古代末期から中世において、天皇家の家督者として政務の実権を握った上皇又は天皇を指す用語。治天の君は事実上の君主として君臨した。但し、「治天の君」については在位の天皇を含める立場美川圭 『院政―もう一つの天皇制―』中公新書 (2006年)ISBN 4-12-101867-2 黒田俊雄『日本の歴史 蒙古襲来』中公文庫 (1974年)ISBN 4-12-200071-8と在位の天皇を含めず院政を行う上皇に限る立場とがある。 上皇が治天の君である場合、天皇は在位の君とよばれる。また上皇が治天の君として行う院政に対して、天皇が治天の君として政務に当たることを親政という。治天の君は、治天下(ちてんか)、治天(ちてん)、政務(せいむ)などとも呼ばれた。以下、本項では治天の君を「治天」という。.

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法隆寺

法隆寺(ほうりゅうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある寺院。聖徳宗の総本山である。別名は斑鳩寺(いかるがでら、鵤寺とも)、法隆学問寺など。 法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。 法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。.

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深津睦夫

深津 睦夫(ふかつ むつお、1953年1月1日 - )は、日本の国文学者。中世文学が専門。現在、皇學館大学文学部教授。博士(文学)。.

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滋賀県

こちら) 滋賀県(しがけん)は、琵琶湖を擁する日本国・近畿地方北東部の内陸県である。県庁所在地は大津市。.

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持明院統

持明院統(じみょういんとう)とは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた日本の皇室の系統で、第88代後嵯峨天皇の子である第89代後深草天皇の子孫である。.

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木寺宮康仁親王

木寺宮康仁親王(きでらのみや やすひとしんのう、元応2年(1320年) - 正平10年4月29日(1355年6月10日))は、南北朝時代の皇族。大覚寺統の後二条天皇の孫。後醍醐天皇の皇太子であった邦良親王の子。持明院統の光厳天皇の皇太子となるがのち廃嫡。官職は中務卿。後に木寺宮家を起こす。禅林寺宮とも号す。.

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春屋妙葩

春屋妙葩(しゅんおくみょうは、応長元年12月22日(1312年1月31日) - 元中5年/嘉慶2年8月12日(1388年9月12日))は、室町時代の臨済宗の禅僧である。室町幕府の帰依を得て臨済宗相国寺の第二世となるが事実上の開山国師。五山文化の発展に寄与した。ほかに天龍寺や臨川寺の住職となる。春屋は道号、別号に芥室、不軽子など。諡号は知覚普明国師。.

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浄土宗

#伝統宗派としての浄土宗。浄土宗諸派の総称としての浄土宗。鎮西派と西山派に分かれる。.

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新田義貞

新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。 鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった。ただし、鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。 鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗した。これにより各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。 死後、江戸時代に義貞が着用していた兜が偶然見つかり、福井藩主松平光通は兜が発見された場所に新田塚を建てた。明治時代、福井知藩事・松平茂昭は新田義貞のために新田塚に祠を建て、のち義貞を主祭神する藤島神社となり、建武中興十五社の一つに列せられた。.

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文保

文保(ぶんぽう)は、日本の元号の一つ。正和の後、元応の前。1317年から1318年までの期間を指す。この時代の天皇は花園天皇、後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。.

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懽子内親王

懽子内親王(きんし(よしこ)ないしんのう、正和4年10月16日(1315年11月13日) - 正平17年5月7日(1362年5月30日))は、鎌倉時代後期から室町時代初期(南北朝時代)にかけての皇族、歌人。後醍醐天皇第2皇女、母は中宮・西園寺禧子(後京極院)。伊勢斎宮、のち光厳上皇妃、女院。院号は宣政門院。 元応元年(1319年)6月26日、内親王宣下。同年10月、一品に叙される。正中2年(1325年)8月16日、裳着。元徳2年12月19日(1331年2月4日)、16歳で父後醍醐天皇の斎宮に卜定。翌元弘元年(同じく1331年)1月、准三宮。同年8月20日、野宮に入る。まもなく元弘の変で後醍醐天皇が退位、隠岐へ配流のため、同年斎宮退下。元弘3年(1333年)12月、光厳上皇の後宮に19歳で入内。建武2年(1335年)2月2日、院号宣下。延元4年(1340年)5月29日、保安寺に入り出家。正平17年(1362年)5月7日、48歳で崩御。 『新千載和歌集』等に、懽子内親王(宣政門院)の詠歌が残っている。.

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敦明親王

敦明親王(あつあきらしんのう、正暦5年5月9日(994年6月20日) - 永承6年1月8日(1051年2月21日))は、平安時代中期の皇族。第67代三条天皇の第一皇子。母は皇后・藤原娍子(大納言・藤原済時の女)。尊号は小一条院(こいちじょういん)。藤原道長の圧力の前に自ら皇太子の身位を辞退し、その見返りに准太上天皇としての待遇を得たことで知られる。.

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10月22日

10月22日(じゅうがつにじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から295日目(閏年では296日目)にあたり、年末まであと70日ある。.

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10月27日 (旧暦)

旧暦10月27日は、旧暦10月の27日目である。六曜は赤口である。.

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10月6日 (旧暦)

旧暦10月6日(きゅうれきじゅうがつむいか)は旧暦10月の6日目である。六曜は先負である。.

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1301年

記載なし。

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1308年

記載なし。

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1313年

記載なし。

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1318年

記載なし。

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1326年

記載なし。

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1331年

記載なし。

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1333年

記載なし。

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1336年

記載なし。

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1339年

記載なし。

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1340年

記載なし。

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1342年

記載なし。

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1343年

記載なし。

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1348年

記載なし。

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1351年

記載なし。

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1352年

記載なし。

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1354年

記載なし。

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1355年

記載なし。

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1357年

記載なし。

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1362年

記載なし。

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1364年

記載なし。

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4月13日 (旧暦)

旧暦4月13日は旧暦4月の13日目である。六曜は仏滅である。.

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5月25日 (旧暦)

旧暦5月25日は旧暦5月の25日目である。六曜は大安である。.

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7月7日

7月7日(しちがつなのか)はグレゴリオ暦で年始から188日目(閏年では189日目)にあたり、年末まであと177日ある。誕生花はスイレン、ヒオウギ。.

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7月7日 (旧暦)

旧暦7月7日(きゅうれきしちがつなのか)は旧暦7月の7日目である。六曜は先勝である。.

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7月9日 (旧暦)

旧暦7月9日(きゅうれきしちがつここのか)は、旧暦7月の9日目である。六曜は先負である。.

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8月15日 (旧暦)

旧暦8月15日は旧暦8月の15日目である。六曜は仏滅である。.

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8月1日

8月1日(はちがつついたち)はグレゴリオ暦で年始から213日目(閏年では214日目)にあたり、年末まではあと152日ある。.

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8月5日

8月5日(はちがついつか)は、グレゴリオ暦で年始から217日目(閏年では218日目)にあたり、年末まであと148日ある。.

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9月20日 (旧暦)

旧暦9月20日(きゅうれきくがつはつか)は旧暦9月の20日目である。六曜は仏滅である。.

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