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洞院公賢

索引 洞院公賢

洞院 公賢(とういん きんかた、正応4年8月(1291年) - 延文5年/正平15年4月6日(1360年4月21日))は、南北朝時代の公家。正式な名乗りは藤原公賢。父は左大臣洞院実泰。母は実泰の叔父にあたる小倉公雄の娘・季子。洞院家は藤原氏北家閑院流西園寺家の庶流。通称は中園相国。出家して空元。また遍昭光院とも称された。.

135 関係: 側室即位南北朝時代 (日本)南朝 (日本)右大臣参議吉川弘文館大納言大日本史料天皇太政大臣尊卑分脈小倉公雄崇光天皇左大臣中納言一条経通平凡社久良親王庶家康永延文延慶 (日本)建武 (日本)建武の新政弁官式部省侍従徳大寺公清徳治後伏見天皇後光厳天皇後醍醐天皇後村上天皇従三位従一位従二位従五位従四位北朝 (日本)園太暦嘉元内大臣出家公家元弘元徳元服兵衛府光厳天皇...国史大辞典 (昭和時代)皇太子皇代暦石山寺縁起絵巻笠間書院美濃国鎌倉幕府衛門府西園寺実俊西園寺家観応観応の擾乱角川書店魚魯愚鈔貞和鷹司師平近衛大将近衛府近衛道嗣阿野廉子関白閑院流藤原北家藤原氏邦良親王雑訴決断所陸奥国林屋辰三郎森茂暁正室正安正中 (元号)正三位正平 (日本)正二位正五位正応正和正四位永仁洞院実夏洞院実守洞院実世洞院実泰洞院家洞院公定朝廷有職故実春宮坊文保文和日外アソシエーツ1291年1294年1296年1297年1298年1299年1300年1305年1306年1308年1309年1310年1311年1314年1318年1325年1326年1330年1334年1335年1343年1348年1351年1353年1359年1360年1991年1994年2005年2013年4月21日4月6日 (旧暦) インデックスを展開 (85 もっと) »

側室

側室(そくしつ)とは、一夫多妻制の下の身分の高い階層における夫婦関係において、夫たる男性の本妻である正室に対する概念で、本妻以外の公的に認められた側妻や妾にあたる女性を指す。.

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即位

即位(そくい)とは、亡くなったり、譲位した君主(皇帝、国王など)の跡を継いで、その君主位に就くことである。君主の第一子や弟が皇太子(王太子)や皇太弟(王太弟)に就任し、先代君主が亡くなった後に継ぐことがある。最大の式典という意味の「大典(たいてん)」の語を以て即位を指す(反対語は君主の死と葬儀を指す「大喪」)。 即位に際して儀式を執り行うことも多く、戴冠式(即位式)と呼ばれる。一般的に即位時期に合わせて行われるが、国内の政情不安や先代君主への服喪、財政難などを理由に数年後に実施されることもある。.

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南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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南朝 (日本)

南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。.

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右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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参議

参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

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大日本史料

『大日本史料』(だいにほんしりょう)は、1901年(明治34年)から現在まで刊行が続けられている日本史の史料集である。 六国史(『日本書紀』 - 『日本三代実録』)の後、国史の編纂事業が行われていないため、その欠落部分を埋めるべく編纂が始まった。 平安時代の宇多天皇(887年即位)から江戸時代までを対象とし、歴史上の主要な出来事について年代順に項目を立て、典拠となる史料を列挙する。.

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天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

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太政大臣

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.

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尊卑分脈

『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく、異体字で『尊卑分脉』とも)は、日本の初期の系図集。正式名称は『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(しんぺん さんず ほんちょう そんぴぶんみゃく けいふざつるい ようしゅう、旧字体:新編纂圖本朝尊卑分脈系譜雜類要集)、また『諸家大系図』(しょか だいけいず)あるいは単に『大系図』(だいけいず)とも呼ばれる。 姓氏調査の基本図書のひとつで、南北朝時代から室町時代初期に完成した。編者は洞院公定で、主に永和3年(1377年)から応永2年(1395年)にかけて編纂された。ただし、公定死後も養子満季、孫の実煕ら洞院家の人によって編集・改変・訂正・追加が行われた。室町時代以降、広く増補改訂されたため、異本が多く、30巻本・20巻本・14巻本が流布した。 成立当初は帝皇系図・神祇道系図・宿曜道系図を伴ったらしいが失われ、現存する部分は源平藤橘のうちいずれも長く宮廷社会の中枢にいた藤原・源の両氏に詳しい。直線で父系を結び、女性は后妃など極めて一握りの人を除き「女子」と省略されている。系図に名の見える男性官人には、実名とともに生母・官歴・没年月日と享年の注記を含む略伝が付され、貴重である。平安時代および鎌倉時代に関する記載は一級史料として採用される。 ただし当時の記録や公卿の日記に見える人物の名がなかったり、また逆に実在が疑わしい人物が記載されていたり、年代的におかしい部分もある(例えば平忠盛の娘が源義忠に嫁いだと書かれているが、これは忠盛の父平正盛の娘の誤り)等、一部信憑性に欠ける部分もあり、公定死後の部分や加筆された部分に関しては他の史料との整合性や比較批評が必要である。.

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小倉公雄

小倉 公雄(おぐら きんお)は鎌倉時代中期から後期の公卿。正二位権中納言。小倉と号する。小倉家の始祖とみなされている。 従一位左大臣洞院実雄の二男。母は従二位左兵衛督藤原頼氏の娘。妻は姉小路実世の娘、九条良平の娘など。子には実教、證季、実覚、従一位季子(洞院実泰の室、洞院公賢の母)、女子(惟雲親王の母)、女子(権中納言冬良の室)。.

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崇光天皇

崇光天皇(すこうてんのう、建武元年4月22日(1334年5月25日) - 応永5年1月13日(1398年1月31日))は、南北朝時代の北朝第3代天皇(在位:正平3年10月27日(1348年11月18日) - 正平6年11月7日(1351年11月26日))。諱を益仁(ますひと)といい、後に興仁(おきひと)と名乗った。.

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左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

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一条経通

一条 経通(いちじょう つねみち)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿。1336年の南北分裂後は北朝側に属し、北朝第2代光明天皇の下で、建武5年(暦応改元前、1338年)から暦応5年(康永改元前、1342年)まで関白を務め、同時に藤氏長者となった。.

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平凡社

株式会社平凡社(へいぼんしゃ)は、日本の出版社。百科事典の出版社として有名で、多様な一般書のほか岩波書店、筑摩書房と並んで学術・教養性の強い出版物を多く刊行する。現在も継続刊行中の東洋文庫(1963年創刊)、『別冊 太陽』(1972年創刊)などは歴史が古い。社名の「平」の字は、厳密には二つの点が末広がりになった旧字体「」を用いる(大正末期創業のため)。.

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久良親王

久良親王(ひさながしんのう/ひさよししんのう)は鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・皇族。土御門入道親王と称される。式部卿久明親王(鎌倉幕府第8代将軍)の二男。母は権中納言冷泉為相の娘。異母兄に守邦親王(鎌倉幕府第9代将軍)。無品王から従三位左中将を経て親王に復した。子は従一位・権大納言に至った源宗明。.

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庶家

庶家(しょけ)とは、宗家ないし本家より別れた一族のことをいう。嫡流に対し庶流の家柄。主に日本の封建時代においてみられた血族集団である。分家、庶流、庶子家ともいう。なお、ときたま混同されるが、傍系とは、本家・分家とは無関係に、ある人物から見て共通の祖先のいる者たちを言う(例えば、兄弟姉妹、直系尊属の兄弟姉妹の子孫など)。.

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康永

康永(こうえい)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。暦応の後、貞和の前。1342年から1344年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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延文

延文(えんぶん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。文和の後、康安の前。1356年から1360年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏、足利義詮。.

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延慶 (日本)

延慶(えんきょう、えんぎょう、えんけい)は、日本の元号の一つ。徳治の後、応長の前。1308年から1310年までの期間を指す。この時代の天皇は花園天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、守邦親王、執権は北条師時。.

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建武 (日本)

建武(けんむ)は、日本の元号の一つ。南朝方では元弘の後、延元の前で日_(旧暦)|1月29日〜1336年2月19日までの期間を指す。北朝方では正慶の後、暦応の前で、1334年1月29日〜1338年8月28日までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方後醍醐天皇、北朝方光明天皇。.

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建武の新政

建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。 名は、翌年の元弘4年/建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。近年の歴史学では「建武政権」という表現もある。後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。.

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弁官

弁官(べんかん、辨官)は、朝廷の最高機関、太政官の職である左大弁(さだいべん)・右大弁(うだいべん)・左中弁(さちゅうべん)・右中弁(うちゅうべん)・左少弁(さしょうべん)・右少弁(うしょうべん)の総称である。唐名(漢風名称)は尚書。通説においては四等官の中の判官(じょう)に相当するが、異説として弁官を含めた弁官局を太政官の別局として捉え、元は本来の四等官の系列には含まない品官であったする説もある。また、『延喜式』においても、季禄・時服・馬料・要劇料などの給与の支給手続やそのために必要な上日の集計・考文の送付などが太政官とは別個に行われ、人事・財政体系における太政官からの独立性が確認できる。 大弁は従四位上、中弁は正五位上相当、少弁は正五位下相当(養老令官位令)。 官庁を指揮監督する役を負っていたため、後には少納言より高位に位置づけられ、参議と大弁を兼任する者もいた。また、蔵人頭と大弁または中弁を兼ねる者もおり、特に頭弁(とうのべん)と称された。 左中弁以上の経験者には参議に昇進する資格があり(右中弁以下にはない)、将来三位以上に昇る道が開かれた出世の登竜門であった。.

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式部省

式部省(しきぶしょう)は、日本の律令制における八省のひとつ。和名は「のりのつかさ」。天平宝字2年(758年)から同8年(764年)の間のみ文部省(ぶんぶしょう)に改称された。大学寮・散位寮の二寮を管掌していた。.

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侍従

服をまとった侍従(大阪歴史博物館) 侍従(じじゅう)とは、広義では(しばしば高貴な立場の)ある人物に付き従い、身の回りの世話などをする行為、または従う者そのものを指す。日本においては、特に天皇に側近奉仕する文官や位を意味するため、この項目ではこれについて解説する。なお、武官による侍従武官や皇太子に付される東宮侍従については、それぞれ項目を参照のこと。.

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徳大寺公清

徳大寺 公清(とくだいじ きんきよ)は、鎌倉時代から南北朝時代の公卿。従一位内大臣。後野宮と号す。父は権中納言徳大寺実孝。母は太政大臣西園寺公相の女。子には太政大臣に至った実時、久我具通の室となった女がいる。.

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徳治

徳治(とくじ)は、日本の元号の一つ。嘉元の後、延慶の前。1306年から1307年までの期間を指す。この時代の天皇は後二条天皇、花園天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条師時。.

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後伏見天皇

後伏見天皇(ごふしみてんのう、弘安11年3月3日(1288年4月5日)- 延元元年4月6日(1336年5月17日))は、鎌倉時代の第93代天皇(在位:永仁6年7月22日(1298年8月30日)- 正安3年1月21日(1301年3月2日))。諱は胤仁(たねひと)。 伏見天皇の第一皇子。母は、参議左近衛中将五辻経氏の娘、経子。持明院統。.

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後光厳天皇

後光厳天皇(ごこうごん てんのう、建武5年3月2日(1338年3月23日)- 応安7年1月29日(1374年3月12日))は、南北朝時代の北朝第4代天皇(在位:観応3年8月17日(1352年9月25日)- 応安4年3月23日(1371年4月9日))。諱は弥仁(いやひと、旧字体:彌仁)。.

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後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.

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後村上天皇

後村上天皇(ごむらかみてんのう)は、南北朝時代の第97代天皇にして、南朝の第2代天皇(在位:延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日) - 正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日))。諱は初め義良(のりよし / のりなが)、後に憲良に改めた。名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。父・後醍醐天皇の遺志を継いで南朝の京都回復を図り、大和(奈良県)の吉野・賀名生、摂津(大阪府)の住吉などを行宮とした。 明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として認定されるようになった。.

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従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

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従一位

従一位(じゅいちい)は、日本の位階及び神階の位の一つ。正一位の下に位し、正二位の上位にあたる。.

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従二位

従二位(じゅにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。正二位の下、正三位の上に位する。.

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従五位

従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.

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従四位

従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.

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北朝 (日本)

北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代に、足利氏を頂点に、全国の多くの武士、及び大多数の公家が支持した持明院統の朝廷である。同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統の南朝(吉野朝廷)に対比する。 南北朝の分裂は後醍醐天皇の建武政権が崩壊した建武3年/延元元年(1336年)以後であるが、鎌倉幕府末期の元弘の乱時に鎌倉幕府が後醍醐天皇に代わって擁立し、後醍醐天皇の京都復帰後にその即位の事実を否認した持明院統の光厳天皇を含んだ6代の天皇が北朝の天皇とされている。.

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園太暦

『園太暦』(えんたいりゃく)は、“中園太政大臣”と称された南北朝時代の公卿・洞院公賢の日記。『中園相国記』とも。南北朝時代における基本史料。 著者の洞院公賢は、太政大臣という高官に就き、また有職故実に通じていたために、天皇や公卿からの相談も多く、この時期における朝廷の動きについて詳細に記している。記載時期は、延慶4年(1311年)2月から延文5年(1360年)3月にわたり、123巻から成る。大半は散逸したものの、自筆原本も一部現存している(重要文化財)。また、甘露寺親長や三条西実隆(親長の甥)による抄本も残されている。 公賢没後、子実夏より三代を経て公数に至り家門断絶となったが、公数在世中に家の記録を順次売却して家計を維持していた。『園太暦』も文明14年(1482年)元月に中院通秀へ1000余疋をもって譲渡された。その通秀の日記『十輪院入道内府記』によると、当時の現存状況は次の通りであった。.

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嘉元

嘉元(かげん)は、日本の元号の一つ。乾元の後、徳治の前。1303年から1305年までの期間を指す。この時代の天皇は後二条天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条師時。.

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内大臣

内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。.

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出家

出家(しゅっけ、pabbajja、pravrajyaa、प्रव्रज्या) とは、師僧から正しい戒律である『沙弥戒』や『具足戒』を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教に入ることである。落飾(らくしょく)ともいう。対義語は還俗(げんぞく、“俗界に還る”の意)。 在家(ざいけ)と対比される。インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行にいそしんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、釈迦もその沙門の1人であった。 仏教における出家の伝統はこれに由来する。仏教教団において剃髪(ていはつ)して袈裟を被い、「正式に受戒(じゅかい)して入門した沙弥や沙弥尼」になることを言うが、その後、「具足戒を受けて正規の僧となった比丘や比丘尼」を呼ぶ場合にも使う。.

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公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

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元弘

元弘(げんこう)は、日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年から1333年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

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元徳

元徳(元德、げんとく)は、日本の元号の一つ。嘉暦の後。大覚寺統(南朝)では元弘の前で、1329年から1330年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。 後醍醐天皇が元弘に改元した直後に倒幕の兵を挙げて失敗、隠岐に流され(元弘の乱)、持明院統(北朝)の光厳天皇が立てられた。光厳天皇と幕府は元弘改元を認めず、1331年まで元徳の元号を使用し、1332年に正慶に改元した。.

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元服

元服(げんぶく、げんぷく)とは、奈良時代以降の日本で成人を示すものとして行われた儀式。通過儀礼の一つである。 「元」は首(=頭)、「服」は着用を表すので、「頭に冠をつける」という意味。加冠とも初冠(ういこうぶり)とも言われる。なお、公家の女子の成人式は裳着(もぎ)と言う。民間においては褌親(へこおや・ふんどしおや)の元で、初めてふんどしを付け、性に関する知識を授かる褌祝(ふんどしいわい)と呼ばれる儀式がある。.

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兵衛府

兵衛府(ひょうえふ)とは、律令制における官司。左兵衛府と右兵衛府の二つが存在する。長は兵衛督 (左兵衛督・右兵衛督)である。左右近衛府、左右衛門府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。和訓では「つはもののとねりのつかさ」という。唐名は武衛(ぶえい)。.

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光厳天皇

光厳天皇(こうごんてんのう 正和2年7月9日(1313年8月1日) - 正平19年7月7日(1364年8月5日))は、鎌倉時代末期の持明院統の天皇(在位:元弘元年9月20日(1331年10月22日) - 元弘3年5月25日(1333年7月7日))。諱を量仁(かずひと)という。 後醍醐天皇の失脚を受けて皇位に就いたが、鎌倉幕府の滅亡により復権した後醍醐が自身の廃位と光厳の即位を否定したため、歴代天皇125代の内には含まれず、北朝初代として扱われている。ただし、実際には弟の光明天皇が北朝最初の天皇であり、次の崇光天皇と合わせた2代15年の間、光厳上皇は治天(皇室の長)の座にあって院政を行った。.

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国史大辞典 (昭和時代)

國史大辭典(こくしだいじてん)とは、昭和54年(1979年)から平成9年(1997年)にかけて吉川弘文館から刊行された、日本で最大級の歴史百科事典である。四六倍判で全15巻(17冊)、総収録項目数は54000余である。各巻は平均して1000ページ、うち平均150ページは原色図版など。第45回菊池寛賞を受賞した。 2010年7月1日よりデジタル版「国史大辞典」が、インターネット百科事典「ジャパンナレッジ」の新しいコンテンツとして公開された。.

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皇太子

皇太子(こうたいし、Crown Prince)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号。一般的には皇室ならびに海外の王室における君主位の法定推定相続人の敬称として使われる。.

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皇代暦

皇代暦(こうだいれき)は、南北朝時代から室町時代にかけてに書かれた年代記。著者は洞院公賢。後に甘露寺親長の増補によって今日の姿になったとされる。江戸時代に徳川光圀によって、歴代皇紀(れきだいこうき)という表題が与えられている。 神代から後土御門天皇の文明9年(1477年)までを記述している。同年に甘露寺親長から後土御門天皇に献上された原本は全5巻で現存はしていないが、江戸時代に柳原紀光が当時まだ現存していた原本から写本したもの(「柳原本」)が宮内庁書陵部に蔵書されている。これとは別に尊経閣文庫には、加賀藩主前田綱利所蔵本が残されている。.

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石山寺縁起絵巻

石山寺縁起絵巻(いしやまでらえんぎえまき)とは、石山寺の創建と、本尊の観世音菩薩の霊験あらたかな功徳の数々を描き表した寺社縁起絵巻。全7巻、計33段。石山寺蔵、重要文化財。1巻から3巻は、正中年間頃の鎌倉時代末に、『春日権現験記絵』の作者・高階隆兼率いる高階派の工房で描かれたと見られる。しかし、紆余曲折を経て全7巻が完成したのは、500年近くたった1805年頃である(後述)。石山寺の歴史や信仰だけでなく、当時の貴族や庶民の生活を窺える点でも貴重な史料であり、教科書などの図版としてもしばしば用いられる。.

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笠間書院

有限会社笠間書院(かさましょいん)は、日本の出版社である。日本語学、日本文学の学術書を専門とする。社名の「笠間」は、創業者の出身地である茨城県笠間市から採られている。 笠間書院は、2006年に本社を現在地へ移転、さらに6月には公式サイトを改装し、専門とする日本語学、日本文学とその周辺分野についての情報発信を積極的に行っている。公式サイトはブログ形式となっており、笠間書院のみならず他社からの献本、学会、研究会、展覧会や他のウェブサイトの情報など様々に掲載、毎日更新されている。 年に一度、PR誌の『リポート笠間』を作成し、無料配布する。毎号で日本文学の一分野に関する特集を組み、そのテーマに即した座談会の模様を掲載している。.

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美濃国

美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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衛門府

衛門府(えもんふ)とは、律令制における官司。当初は1つであったが、大同3年(808年)に(左右)衛士府と統合されて一旦廃止され、弘仁3年(811年)に左右衛士府の改称に伴って復置された際、左衛門府と右衛門府の2つが置かれた。和訓にて「ゆげひのつかさ」と呼び、「靫負」という漢字をあてる場合がある。「ゆげひ」とは「ゆぎおひ(靫負ひ)」の転訛で「靫」とは弓を入れる容器のこと。「ゆげひ」がさらに訛って「ゆぎえ」とも称される。唐名は金吾。監門。監府。長は衛門督 (後に左衛門督・右衛門督)である。「柏木」は王朝和歌における衛門府、衛門督の雅称である。 ※当初、(左右)衛士府、(左右)兵衛府とあわせて「五衛府」と呼ばれ、復置後は(左右)近衛府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。ここでは便宜上、衛士府統合以前を「前期」、衛士府の改称による復置以後を「後期」と表記する。.

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西園寺実俊

西園寺 実俊(さいおんじ さねとし、建武2年(1335年) - 元中6年/康応元年7月6日(1389年7月28日))は、南北朝時代の公卿。西園寺公宗の長男、母は典侍日野名子(日野資名の娘、『竹向きが記』の作者)。初名は実名(さねかた)。従一位右大臣。 父西園寺公宗は建武2年(1335年)、北条氏と謀った後醍醐天皇の暗殺計画に失敗して同年8月2日に処刑されており、実俊はその後に生まれ、探索の眼を逃れて養育された。このとき、西園寺家の家督は暗殺計画を密告した叔父公重に渡っている。実俊は北朝のもとで建武4年(1337年)従五位下となり、暦応3年(1340年)、母名子とともに西園寺家北山第に入った。康永3年(1344年)に従三位、貞和5年(1349年)正三位権中納言となる。叔父公重が文和2年(1353年)南朝に仕えたため、実俊が家督を相続し、同年権大納言となった。貞治3年(1364年)内大臣、貞治5年(1366年)右大臣。永和元年(1375年)従一位。康応元年(1389年)6月8日出家、同年7月6日に55歳で薨去した。.

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西園寺家

西園寺家(さいおんじけ)は、清華家の家格を有する公家。藤原北家閑院流の一門で、支流に洞院家・今出川家(菊亭家)・伊予西園寺氏などがある。家名は、4代公経が北山に建立した西園寺(北山殿)にちなむ。家紋は左三つ巴を使用。.

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観応

観応(かんのう、かんおう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方が使用した。貞和の後、文和の前。1350年から1352年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が崇光天皇・後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。正平一統による4か月間の中断を経たのち復活している。.

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観応の擾乱

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた抗争で、観応年間に頂点に達した足利政権(室町幕府)の内紛。実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、それを支持する武家や、公家と武家どうしの確執なども背景とする。 この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である正平一統についても併せて解説する。.

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角川書店

角川書店(かどかわしょてん)は、日本の出版社・KADOKAWAのブランドの一つ。東京都千代田区に事業所を置く。 本項では、ブランドカンパニー化以前の株式会社角川書店についても解説する。.

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魚魯愚鈔

魚魯愚鈔(ぎょろぐしょう)は、除目に関する申文や大間書などの資料や『清涼記』・『西宮記』などの除目関係記事を集成した有職故実書。著者は太政大臣洞院公賢。全8巻及び別巻にあたる『魚魯愚別録』全8巻からなる。なお、古くは江戸時代の平田職忠の著作とされてきた(『国書総目録』説)が、時野谷滋や細谷勘資の研究によって洞院公賢の著作と結論付けられた。 平安時代の承和5年(838年)から南北朝時代の貞和3年(正平2年/1347年)までの記録が採録されている。公賢の死去は延文5年(正平15年/1360年)であること、実弟で猶子となった洞院実守が奥書に公賢「老後」の著書であると記していることから、貞和3年以降の13年間のうちに書かれたと推定されている。 本編は、第一・二は蔵人(上下)、第三-六は外記(甲乙丙丁)、第七は外記蔵人方随召文書、第八は雑々任人諸例となっており、先例と実務関連記事の引用を行い、別巻では関連儀式についての記述が行われている。大きく分けて原本に近いと考えられる本(内閣文庫・平安博物館所蔵本など)と洞院実守書写と伝えられるものの、一部に脱落と錯簡が見られる系統(尊経閣文庫所蔵本など)のものが存在する。.

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貞和

貞和(じょうわ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。康永の後、観応の前。1345年から1349年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、崇光天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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鷹司師平

鷹司師平(たかつかさ もろひら)は、日本の鎌倉時代から南北朝時代にかけての公卿。.

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近衛大将

近衛大将(このえ の だいしょう)は、日本の律令官制における令外官の一つ。宮中の警固などを司る左右の近衛府の長官。左近衛府には左近衛大将(さこんえのだいしょう)、右近衛府には右近衛大将(うこんえのだいしょう)が置かれ、それぞれ略して「左大将」「右大将」ともいう。定員は各1名で、権官はない。官位相当は従三位。常設武官の最高職で、馬御監の兼任とされた。和訓は「ちかきまもりのつかさのかみ」。.

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近衛府

近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。.

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近衛道嗣

近衛道嗣(このえ みちつぐ)は、日本の南北朝時代の公卿。.

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阿野廉子

阿野 廉子(あの れんし/やすこ/かどこ、正安3年(1301年) - 正平14年/延文4年4月29日(1359年5月26日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての後宮・女院。後醍醐天皇の寵妃にして、後村上天皇(義良親王)・恒良親王・成良親王・祥子内親王・惟子内親王などの母である。院号宣下を受けて、新待賢門院と号し、また三位局とも呼ばれた。 父は右近衛中将・阿野公廉、母は不詳だが、後に洞院公賢の養女となった。実家の阿野家は藤原北家閑院流の公家であり、阿野全成の外孫・実直を始祖としている。.

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関白

関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.

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閑院流

閑院流(かんいんりゅう)とは、三条家・西園寺家・徳大寺家をはじめとする藤原北家支流の公家の一門。院政期に外戚の立場を得たことで大きな勢力を獲得した。.

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藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

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藤原氏

藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.

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邦良親王

北白川陵) 邦良親王(くによししんのう/くにながしんのう、正安2年(1300年) - 正中3年3月20日(1326年4月23日))は、大覚寺統の後二条天皇の第一皇子。叔父である後醍醐天皇の皇太子となるが即位することなく薨去する。木寺宮家の祖となった。名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇#皇子の読みを参照。.

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雑訴決断所

雑訴決断所(ざっそけつだんじょ)とは、日本の南北朝時代、いわゆる建武の新政期に朝廷に設置された訴訟機関。公家・武家出身者が混在した組織で、主に土地(所領)の相論を扱い、後には後醍醐天皇の綸旨の施行にもあたったが、建武政権の崩壊に伴い、短期間で消滅した。 ※以下、日付はすべて宣明暦によるものである。.

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院(いん)は、元の意味は高い垣に囲まれた大きな建築物のことで、そこから以下のような意味を表す。.

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陸奥国

奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.

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林屋辰三郎

林屋 辰三郎(はやしや たつさぶろう、1914年4月14日 - 1998年2月11日)は、日本の歴史学者・文化史家。中世史の研究において大きな足跡を残した。.

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森茂暁

森 茂暁(もり しげあき、1949年9月9日 - )は、日本の歴史学者。福岡大学教授 。専門は中世日本の政治と文化。文学博士(1985年、九州大学にて取得)。.

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正室

正室(せいしつ)は、高貴な人物の正式な妻のこと。正妻、本妻とも言う。律令制の元では嫡妻(ちゃくさい)とも呼ばれていた(原則一人)。これに対し、正室以外を側室(『大辞泉』)という。.

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正安

正安(しょうあん)は、日本の元号の一つ。永仁の後、乾元の前。1299年から1301年までの期間を指す。この時代の天皇は後伏見天皇、後二条天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条貞時、北条師時。.

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正中 (元号)

正中(しょうちゅう)は、日本の元号の一つ。元亨の後、嘉暦の前。1324年から1326年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。.

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正三位

正三位(しょうさんみ)とは、位階及び神階のひとつ。従二位の下、従三位の上に位する。日本では「おおいみつのくらい」とも読む。.

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正平 (日本)

正平(しょうへい)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。興国の後、建徳の前。1346年から1370年までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方が後村上天皇、長慶天皇。北朝方が光明天皇、崇光天皇、後光厳天皇。室町幕府将軍は足利尊氏、足利義詮、足利義満。 昭和、明治、応永、平成、延暦に次ぎ、歴代で6番目に長い元号である。一世一元の制制定以前の元号では3番目に長い。.

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正二位

正二位(しょうにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。従一位の下、従二位の上に位する。.

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正五位

正五位(しょうごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。従四位の下、従五位の上に位する。贈位の場合、贈正五位という。.

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正応

正応(しょうおう)は、日本の元号の一つ。弘安の後、永仁の前。1288年から1292年までの期間を指す。この時代の天皇は伏見天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、久明親王、執権は北条貞時。.

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正和

正和(しょうわ)は、日本の元号の一つ。応長の後、文保の前。1312年から1317年までの期間を指す。この時代の天皇は花園天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条宗宣、北条煕時、北条基時、北条高時。.

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正四位

正四位(しょうしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。 従三位の下、従四位の上に位する。贈位の場合、贈正四位という。.

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永仁

永仁(えいにん)は、日本の元号の一つ。正応の後、正安の前。1293年から1298年までの期間を指す。この時代の天皇は伏見天皇、後伏見天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条貞時。.

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洞院実夏

洞院 実夏(とういん さねなつ、正和4年(1315年) - 貞治6年/正平22年6月1日(1367年6月28日))は、南北朝時代の公卿(内大臣(北朝))。父は太政大臣洞院公賢、子は洞院公定・公頼。.

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洞院実守

洞院 実守(とういん さねもり)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿。左大臣洞院実泰の四男で、母は高倉永康の女・康子。庶兄公賢の養子となり、父から家門継承を期待されるも達せられず、南北朝間を往来した。.

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洞院実世

洞院 実世(とういん さねよ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿。太政大臣洞院公賢の子にして、実夏の庶兄に当たる。北畠親房・四条隆資・二条師基とともに、南朝の重鎮として政務を指導した公家大将である。.

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洞院実泰

洞院 実泰(とういん さねやす)は鎌倉時代後期の公卿。従一位左大臣。洞院左大臣または後山本左府と号す。父は太政大臣洞院公守。母は従三位平親継の娘。子に公賢、公敏、実守らがいる。.

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洞院家

洞院家(とういんけ)は、清華家の家格を有する公家。藤原北家閑院流・西園寺家庶流。西園寺公経の男実雄を家祖とし、鎌倉時代から室町時代にかけて存続した。 分家に羽林家の家格を有し、明治時代に華族に列した小倉家・正親町家がある。.

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洞院公定

洞院 公定(とういん きんさだ)は、南北朝時代の公家。従一位左大臣。後中園左大臣と号す。父は内大臣洞院実夏。祖父は洞院公賢。養子に洞院実信(正親町忠季の子)、洞院満季(洞院実信の子)がいる。.

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朝廷

朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。.

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有職故実

有職故実(ゆうそくこじつ)とは、古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束などのこと。また、それらを研究すること。.

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春宮坊

春宮坊(とうぐうぼう)は日本古代の律令制において存在した機関。和訓は「みこのみやのつかさ」。.

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文保

文保(ぶんぽう)は、日本の元号の一つ。正和の後、元応の前。1317年から1318年までの期間を指す。この時代の天皇は花園天皇、後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。.

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文和

文和(ぶんな、ぶんわ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。観応の後、延文の前。西暦では1352年から1355年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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日外アソシエーツ

日外アソシエーツ株式会社(にちがいあそしえーつ)は東京都品川区に本社を置く出版社・情報提供会社。1965年創業。紀伊國屋書店を主要株主、総発売元とする。出版梓会、日本電子出版協会、日本書籍出版協会加盟。 辞書、事典、年鑑、資料集などを制作するとともに、書籍やCD-ROM、インターネットを介した検索サービスの形で提供している。 日外ドキュメンツ貿易として1965年に設立された『中小公庫マンスリー』2002年3月、30-31ページ「ベンチャー企業訪問レポート インターネットが広げる人物情報データベース検索サービス 日外アソシエーツ株式会社 大高利夫」(調査部 池添誠)。2016年に大田区から品川区に会社を移転。.

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1291年

記載なし。

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1294年

記載なし。

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1296年

記載なし。

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1297年

記載なし。

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1298年

記載なし。

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1299年

記載なし。

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1300年

記載なし。

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1305年

記載なし。

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1306年

記載なし。

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1308年

記載なし。

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1309年

記載なし。

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1310年

記載なし。

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1311年

記載なし。

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1314年

記載なし。

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1318年

記載なし。

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1325年

記載なし。

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1326年

記載なし。

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1330年

記載なし。

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1334年

記載なし。

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1335年

記載なし。

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1343年

記載なし。

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1348年

記載なし。

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1351年

記載なし。

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1353年

記載なし。

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1359年

記載なし。

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1360年

記載なし。

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1991年

この項目では、国際的な視点に基づいた1991年について記載する。.

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1994年

この項目では、国際的な視点に基づいた1994年について記載する。.

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2005年

この項目では、国際的な視点に基づいた2005年について記載する。.

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2013年

この項目では、国際的な視点に基づいた2013年について記載する。.

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4月21日

4月21日(しがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から111日目(閏年では112日目)にあたり、年末まではあと254日ある。誕生花はミヤコワスレ、ムルチコーレ。.

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4月6日 (旧暦)

旧暦4月6日(きゅうれきしがつむいか)は旧暦4月の6日目である。六曜は先負である。.

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藤原公賢

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