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藤原師実

索引 藤原師実

藤原 師実(ふじわら の もろざね)は、平安時代中期から後期(院政期)にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原頼通の六男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。.

143 関係: てい子内親王右大臣堀河天皇大納言大炊御門家天喜太政大臣外戚実仁親王 (平安時代)宣旨官位寛治尊卑分脈尋範左大臣中右記中宮中納言一上一座平安時代康平康和延久任官侍従御堂流後宮後三条天皇後冷泉天皇後拾遺和歌集従三位従一位従二位従四位応徳僧位嘉保和歌内大臣内覧公卿勅撰和歌集琵琶篤子内親王為房卿記白河天皇花山院家隆姫女王...音楽荘園整理令行玄覚信覚円輔仁親王近衛大将近衛府関白藤原基隆藤原基貞藤原げん子藤原南家藤原家忠藤原宗俊藤原寛子 (藤原頼通女)藤原師通藤原彰子藤原忠実藤原忠綱 (御堂流)藤原忠教藤原信家藤原信長藤原北家藤原経実藤原道長藤原頼宗藤原頼通藤原貞嗣藤原賢子藤原能実藤原通房藤原氏藤原清衡藤原教通藤氏長者蔵人別当長久難波家院庁院政東宮傅村上源氏橘俊綱正三位正二位正五位正四位歌人永保治暦法眼源師賢源師房源俊房源頼国源顕房源資通源麗子源憲定是定昇殿日記摂家摂関政治摂政敦康親王敦文親王扶桑略記承保1042年1053年1054年1055年1056年1058年1060年1062年1063年1065年1068年1069年1075年1083年1086年1088年1089年1090年1091年1094年1101年2月13日 (旧暦)3月14日 インデックスを展開 (93 もっと) »

てい子内親王

媞子内親王(ていし(やすこ)ないしんのう、承保3年4月5日(1076年5月10日) - 嘉保3年8月7日(1096年8月27日))は、第72代白河天皇の第1皇女。母は中宮藤原賢子。伊勢斎宮、のち同母弟堀河天皇の准母・中宮。女院号は郁芳門院(いくほうもんいん)。.

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右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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堀河天皇

堀河天皇内裏跡 堀河天皇(ほりかわてんのう、承暦3年7月9日(1079年8月8日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))は平安時代後期の第73代天皇(在位:応徳3年11月26日(1087年1月3日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))。諱は善仁(たるひと)。 白河天皇の第二皇子、母は藤原師実の養女・中宮賢子。准母に同母姉媞子内親王(郁芳門院)。.

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大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

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大炊御門家

大炊御門家(おおいのみかどけ)は、清華家の家格をもつ公家。家業は筆道・和歌・笛・装束。江戸時代の家禄は400石。家紋は菱に片喰。明治以降は侯爵。.

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天喜

天喜(てんぎ)は、日本の元号のひとつで永承の後、康平の前。1053年〜1058年の期間を指す。この時代の天皇は後冷泉天皇。.

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太政大臣

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.

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外戚

外戚(がいせき)とは、皇帝、王の母親または妃の一族のことである。.

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実仁親王 (平安時代)

実仁親王(さねひとしんのう、延久3年2月10日(1071年3月14日) - 応徳2年11月8日(1085年11月27日))は、平安時代の皇族。後三条天皇の第二皇子。母は源基平の娘である女御・源基子。異母兄・白河天皇の皇太弟となる。同母弟に輔仁親王がいる。 父・後三条天皇は、傍流とはいえ藤原北家の血を引く長男の貞仁親王(白河天皇)よりも、同家と外戚関係を有しない源基子との子供に皇位継承候補者として期待をかけた。そこで延久4年(1072年)の白河天皇即位の際、実仁親王はわずか2歳で皇太弟として立てられ、更に翌年の輔仁親王誕生直後に上皇となっていた後三条が重態に陥ると、実仁親王が即位した後には輔仁親王を皇太弟とするよう遺言した。承保2年(1075年)に着袴、承暦2年(1078年)に読書始の儀式、永保2年(1081年)に元服の儀式が行われている。誕生前に外祖父・源基平は既に死去しており、後見がいなかったものの、祖母である陽明門院の寵愛を得ていたことから、世間からも「いと清らかなる男」称されて、将来を期待されていた。 しかし応徳2年、実仁親王は疱瘡により倒れ、15歳の若さで急死してしまう。白河天皇は翌年には父の遺言を無視して実子・善仁親王(堀河天皇)を皇太子に立て、その日のうちに譲位を宣言して院政を開始する事になった。.

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宣旨

宣旨(せんじ)は、律令期以降の日本において天皇・太政官の命令を伝達する文書の形式名。朝廷が出す文書の形態の一つ。詔勅の変体。.

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官位

日本における官位(かんい)は、日本史では人が就く官職と、人の貴賤を表す序列である位階の総称、古代朝鮮史(高句麗・百済・新羅)においては人の貴賤の序列として定められた位のことである。ともに中国の影響を受けたものだが、中国史では官位という言葉は用いない。 官職と位階との相当関係を定めたものを官位相当といい、各官職には相当する位階(品階)に叙位している者を任官する制度を官位制(官位制度、官位相当制)という『日本歴史大事典 1』小学館、2000年(平成12年)、768頁。日本において、官職と位階は律令法(律令制)によって体系的に整備された。位階制度については「位階」の項目を、官職については「日本の官制」を参照のこと。以下、日本における官位制について概説する。.

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寛治

寛治(かんじ)は、日本の元号の一つ。応徳の後、嘉保の前。1087年から1094年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.

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尊卑分脈

『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく、異体字で『尊卑分脉』とも)は、日本の初期の系図集。正式名称は『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(しんぺん さんず ほんちょう そんぴぶんみゃく けいふざつるい ようしゅう、旧字体:新編纂圖本朝尊卑分脈系譜雜類要集)、また『諸家大系図』(しょか だいけいず)あるいは単に『大系図』(だいけいず)とも呼ばれる。 姓氏調査の基本図書のひとつで、南北朝時代から室町時代初期に完成した。編者は洞院公定で、主に永和3年(1377年)から応永2年(1395年)にかけて編纂された。ただし、公定死後も養子満季、孫の実煕ら洞院家の人によって編集・改変・訂正・追加が行われた。室町時代以降、広く増補改訂されたため、異本が多く、30巻本・20巻本・14巻本が流布した。 成立当初は帝皇系図・神祇道系図・宿曜道系図を伴ったらしいが失われ、現存する部分は源平藤橘のうちいずれも長く宮廷社会の中枢にいた藤原・源の両氏に詳しい。直線で父系を結び、女性は后妃など極めて一握りの人を除き「女子」と省略されている。系図に名の見える男性官人には、実名とともに生母・官歴・没年月日と享年の注記を含む略伝が付され、貴重である。平安時代および鎌倉時代に関する記載は一級史料として採用される。 ただし当時の記録や公卿の日記に見える人物の名がなかったり、また逆に実在が疑わしい人物が記載されていたり、年代的におかしい部分もある(例えば平忠盛の娘が源義忠に嫁いだと書かれているが、これは忠盛の父平正盛の娘の誤り)等、一部信憑性に欠ける部分もあり、公定死後の部分や加筆された部分に関しては他の史料との整合性や比較批評が必要である。.

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尋範

尋範(じんぱん、寛治7年(1093年) - 承安4年4月9日(1174年5月11日))は、平安時代末期の僧侶。藤原師実の十七男。母は源師房の娘或いは藤原忠俊(藤原隆家の孫)の娘で同母弟に行玄がある。『尊卑分脈』には「尋覚」とも。.

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左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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中右記

『中右記』(ちゅうゆうき)は、藤原宗忠が寛治元年(1087年)から保延4年(1138年)まで書いた日記である。筆者には『愚林』と名付けられたようだが、「中御門右大臣の日記」を略して『中右記』と呼ばれる。.

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中宮

中宮(ちゅうぐう)は、日本の天皇の妻たちの呼称の一つ。.

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中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

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一上

一上(いちのかみ)とは、筆頭の公卿を意味する一ノ上卿(いちの しょうけい)を略した語で、通常は左大臣のことを指した。.

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一座

一座(いちざ)とは、朝廷における宮中座次の最上位のことである。本来は太政官の筆頭大臣である太政大臣が一座に座り、不在の場合は左大臣が座ることになる。摂政・関白が設置されると、摂政・関白が一座に座った。ただし、摂政・関白が務める大臣職よりも上位の大臣が存在したり、摂政・関白が現在大臣の職に無い(前大臣)場合には、当該摂政・関白を一座に定める宣旨が出されることになっていた。これを一座宣旨(いちざのせんじ)と称した。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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康平

康平(こうへい)は、日本の元号の一つ。天喜の後、治暦の前。1058年から1064年までの期間を指す。この時代の天皇は後冷泉天皇。.

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康和

康和(こうわ)は、日本の元号の一つ。承徳の後、長治の前。1099年から1103年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.

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延久

延久(えんきゅう)は、日本の元号の一つ。治暦の後、承保の前。1069年から1073年までの期間を指す。この時代の天皇は後三条天皇、白河天皇。.

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任官

任官(にんかん)とは、官職に任用されることをいう。古くは奈良時代の律令制導入の際より日本の官制において用いられた用語であり、今日の政府や国家機関等においても使用されている。今日では国家公務員の職、特に裁判官、検察官、自衛官(即応予備自衛官、予備自衛官を含む)、警察官、海上保安官、刑務官、労働基準監督官などに任ぜられる場合に用いられる。対義語は「免官」、「退官」。 なお、関連用語として、「任官拒否」という用語もある。用法としては、司法試験合格者のうち、裁判官等への任官を拒否するために用いられ、その他には防衛大学校卒業者が自衛官への任官を拒否する場合にも用いられる。なお、国家公務員が異なる官庁・職種に転じる場合、転官ともいう。.

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侍従

服をまとった侍従(大阪歴史博物館) 侍従(じじゅう)とは、広義では(しばしば高貴な立場の)ある人物に付き従い、身の回りの世話などをする行為、または従う者そのものを指す。日本においては、特に天皇に側近奉仕する文官や位を意味するため、この項目ではこれについて解説する。なお、武官による侍従武官や皇太子に付される東宮侍従については、それぞれ項目を参照のこと。.

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御堂流

御堂流(みどうりゅう)とは、藤原北家九条流藤原道長(摂政・太政大臣)の子孫の一門及び彼を祖とする有職故実及び作法の流派の呼称。「御堂」とは、道長が法成寺を創建して「御堂関白」の異名を得ていたことに由来する(ただし、実際に関白には就任していない)。.

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後宮

後宮(こうきゅう)は、皇帝や王などの后妃が住まう場所。日本では、平安京内裏の七殿五舎、江戸城大奥が該当する。 一般的に、後宮は男子禁制というイメージがあるが、日本の内裏では必ずしもそうではなく、平安時代中期に書かれたとされる『源氏物語』や『枕草子』といった物語や随筆では殿上人のうちでも家族や親しい人間は頻繁に出入りしていたように描写されている。平安時代には天皇やそのきさきの側に控えた女房と呼ばれる女性たちが、内裏を舞台とした内容の宮廷文学を生み出したことはよく知られている(それらが書かれた場所が後宮であったとは限らない。実家などに戻った際に書いたものとされることもある)。ただし、平安末から鎌倉時代頃から徐々に男子禁制の場となり、江戸時代においては男性が入る余地はなくなってしまっていた。江戸時代の江戸城大奥は、完全な男性禁制の場であり、火事など緊急時以外の男性の出入りは厳しく制限された。 男子禁制をとっているのはオスマン帝国などのイスラム諸王朝や中国などであり、去勢された宦官が、家政一般にあたった。これに対して日本では、宦官は置かれずに宮人とも呼ばれる女官が発達して女性たちによって秩序が維持された。 また、後宮を意味するハレム(harem)は、オスマン帝国の後宮がそう呼ばれていたところから来ている。.

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後三条天皇

大炊御門万里小路殿址、源高房、後三条天皇はこの地で崩御、京都府京都市中京区富小路通夷川上る西側 後三条天皇(ごさんじょうてんのう、長元7年7月18日(1034年9月3日) - 延久5年5月7日(1073年6月15日))は、第71代天皇(在位:治暦4年4月19日(1068年5月22日) - 延久4年12月8日(1073年1月18日))。諱は尊仁(たかひと)。宝算40。 後朱雀天皇の第二皇子。母は三条天皇第三皇女・皇后禎子内親王(陽明門院)。後冷泉天皇の異母弟。宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇である(ただし、生母の禎子内親王は藤原道長の外孫である)。.

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後冷泉天皇

後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう、万寿2年8月3日(1025年8月28日) - 治暦4年4月19日(1068年5月22日))は、日本の第70代天皇(在位:1045年 - 1068年)。後朱雀天皇の第一皇子。母は藤原道長女藤原嬉子(贈皇太后)。諱を親仁(ちかひと)。紫式部の娘大弐三位が乳母である。.

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後拾遺和歌集

『後拾遺和歌集』(ごしゅういわかしゅう)は八代集の第四、『拾遺集』の後継たるべく編まれた勅撰和歌集である。勅命は白河天皇、撰者は藤原通俊。承保二年(1075年)奉勅、応徳3年(1086年)9月16日完成を見、同年10月奏覧された。二十巻、総歌数1218首(新編国歌大観本)。 構成は『古今和歌集』を基とし、春(上・下)、夏、秋(上・下)、冬、賀、別、羇旅、哀傷、恋(四巻)、雑(六巻)からなる。巻二十(雑歌六)に収める「神祇」「釈教」の分類は勅撰集における初見。選歌範囲は『古今集』『後撰集』以後、村上朝から白河朝までの約130年間である。 この歌集は、絢爛たる王朝文化が衰退しはじめた頃、華やかなりし昔を振り返ったともいうべきものである。主な歌人としては、和泉式部(67首)・相模(39首)・赤染衛門(32首)・能因法師(31首)・伊勢大輔(26首)と、一条朝前後の宮廷で活躍した歌人が上位を占め、女流歌人の比重も3割と大きい。そのほかにも、清原元輔・大中臣能宣・源道済・藤原長能・藤原公任ら後撰・拾遺時代の歌人も重視されている。和泉式部の激情がほとばしる恋歌から、赤染衛門の細やかな思い遣りの贈答歌、能因・良暹ら僧侶歌人の旅情豊かな歌、曾禰好忠の大胆で型破りの歌まで、その作者・作風ともに多種多様である。また詠歌背景を詳しく説明する長文の詞書が多く、散文的特色が指摘されている。 しかし『後拾遺集』は格調よりも率直な情感を重んじ過ぎたため、撰者が若輩の歌人だったこともあいまって、撰進当時から批判の声が高かった。歌壇の重鎮でありながら撰者の任に漏れた大納言源経信に至っては、わざわざ『難後拾遺』を著してこれを散々に論難するほどだった。.

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従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

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従一位

従一位(じゅいちい)は、日本の位階及び神階の位の一つ。正一位の下に位し、正二位の上位にあたる。.

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従二位

従二位(じゅにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。正二位の下、正三位の上に位する。.

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従四位

従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.

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応徳

応徳(おうとく)は、日本の元号の一つ。永保の後、寛治の前。1084年から1086年までの期間を指す。この時代の天皇は白河天皇、堀河天皇。.

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僧位

僧位(そうい)とは日本において僧侶に対し与えられた位階のことである。.

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嘉保

嘉保(かほう)は、日本の元号の一つ。寛治の後、永長の前。1095年から1096年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.

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和歌

和歌(わか)とは、短歌型式の古典詩。古典短歌。広義には『万葉集』に所収される歌体の総称。 「和歌」の訓は「やまとうた」である。「和」の代わりに「倭」の字が、「歌」の代わりに「謌」、「哥」の字が宛てられたこともある。なお、歌謡と混同されるおそれがない文脈においては「歌」「うた」と表記され、呼ばれることもある。 長連歌、俳諧、狂歌、川柳風狂句は定型の古典詩であるが、和歌には含まれない。また、明治の和歌革新家とその後継者の短歌作品、すなわち近現代短歌は「短歌」と称され、「和歌」とは称されない。近現代短歌はこの項では取り上げない。.

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内大臣

内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。.

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内覧

内覧.

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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勅撰和歌集

勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)は、天皇や上皇の命により編集された歌集のことである。古今和歌集(延喜5年(905年)成立)に始まり、新続古今和歌集(永享11年(1439年)成立)までの534年間で21の勅撰和歌集があり、総称して「二十一代集」という。このほかに南朝で編纂された新葉和歌集を準勅撰集とする。 また編集時期による分類として、三代集(古今集・ 後撰和歌集・拾遺集)・八代集(古今集から新古今集)・十三代集(新勅撰集から新続古今集)とする。(三代集と八代集の対象は重複していることに注意).

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琵琶

琵琶(びわ、, 特に日本のものは )は、東アジアの有棹(リュート属)弦楽器の一つ。弓を使わず、もっぱら弦をはじいて音を出す撥弦楽器である。古代において四弦系(曲頚琵琶)と五弦系(直頚琵琶)があり、後者は伝承が廃絶し使われなくなったが、前者は後に中国及び日本においていくつもの種類が生じて発展し、多くは現代も演奏されている。ヴェトナムにはおそらく明代に伝播した四弦十数柱のものが伝承され、ダン・ティ・バと呼ばれる。なお、広義には阮咸(げんかん)や月琴などのリュート属弦楽器も琵琶に含めることもある。 四弦系(曲頚)琵琶は、西アジアのウード、ヨーロッパのリュートと共通の起源を持ち、形もよく似ている。すなわち卵を縦に半分に割ったような形の共鳴胴に棹を付け、糸倉(ヘッド)がほぼ直角に後ろに曲がった形である。五弦系(直頚)琵琶はインド起源とされ、糸倉は曲がらず真っすぐに伸びている。正倉院に唯一の現物である「螺鈿紫檀五絃琵琶」(らでんしたんごげんのびわ、図参照)が保存されている。.

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笛(ふえ)は気流によって音を出す器具一般を指す。元来「吹き鳴らすもの」を意味し、現在では楽器、玩具、合図、警報など広い用途で用いられる。特にエアリード構造のものを指すことが多い。 語源は吹柄、吹枝(いずれもフキエないしフクエ)といわれるが異説も多い。文献上の初出は日本書紀の「天之鳥笛」であるが詳しい形状などは不明である。万葉仮名では「輔曳」と表記された。.

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篤子内親王

子内親王(とくしないしんのう、康平3年(1060年) - 永久2年10月1日(1114年10月30日))は、第71代後三条天皇の第4皇女。母は滋野井御息所藤原茂子(藤原能信養女)。同母兄に白河天皇。賀茂斎院、のち堀河天皇の皇后(中宮)。.

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為房卿記

房卿記(ためふさきょうき)は、後三条・白河・堀河・鳥羽天皇に蔵人・蔵人頭として仕え、大蔵卿・参議として活躍した藤原為房の日記で、「大記」「大御記」「大府記」とも呼ばれる。 延久2年(1070年)から永久2年(1114年)までの記録があるが、治暦年間(1065年-1068年)頃から記していたとも言われるが、京都大学文学部所蔵の自筆1巻を残し、ほとんどが散逸する。ただ、鎌倉期の古写本が京都大学や陽明文庫・宮内庁書陵部などに残る。院政政治についての内容が現存しているが、一年分を完備した年はなく断続的である。また、永保元年(1081年)秋の熊野詣の記事は特に「為房卿熊野参詣日記」として取り上げられることがある。 当時の政治や社会状況を知る上では重要な歴史資料。刊本としては、部分的ではあるが、『大日本史料』第3編や『歴代残闕日記』第7冊、『翻刻為房卿記』(『史聚』第10号)に掲載。.

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白河天皇

白河天皇(しらかわ てんのう)は、第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日) - 応徳3年11月26日(1087年1月3日))。諱を貞仁(さだひと)という。 後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。.

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花山院家

花山院家(かざんいんけ/かざのいんけ/かさんのいんけ)は、清華家の家格を有する公家。藤原北家師実流の嫡流に当たる。京極摂政藤原師実の次男家忠を家祖とする。家名は、家忠が舅から花山院第(東一条殿)を伝領したことによる。.

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隆姫女王

隆姫女王(たかひめじょおう、長徳元年(995年) - 寛治元年11月22日(1087年12月19日))は村上天皇第7皇子・具平親王の長女。母は為平親王の次女。後に藤原頼通の正室となり、高倉北政所と呼ばれた。弟に夫・頼通の猶子となった源師房、妹に敦康親王妃、嫥子女王(藤原教通室)がいる。なお史料によっては隆子女王、隆姫子女王とする表記もある。.

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音楽

音楽(おんがく、music)の定義には、「音による芸術」といったものから「音による時間の表現」といったものまで、様々なものがある。 音楽は、ある音を選好し、ある音を選好しない、という人間の性質に依存する。 音楽には以下の3つの要件がある。.

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荘園整理令

荘園整理令(しょうえんせいりれい)は、平安時代に発布された一連の法令のこと。 特に有名なものは、1069年(治暦5年.

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行玄

行玄(ぎょうげん、承徳元年(1097年)- 久寿2年11月5日(1155年12月1日))は、平安時代後期の天台宗の僧。父は藤原師実。母は源師房の娘或いは藤原忠俊(藤原隆家の孫)の娘で、同母弟に尋範がいる。.

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覚信

覺信(かくしん、治暦元年(1065年) - 保安2年2月8日(1121年2月26日))は平安時代の法相宗の僧。摂政関白太政大臣・藤原師実の子。母は源則成の娘『尊卑分脈』。一乗院大僧正と号した。 興福寺の頼信について出家。康和2年(1100年)興福寺別当に補任され、永久4年(1116年)大僧正に任ぜられるが、南都の僧が大僧正となるのは行基以来であった。一乗院本願。保安2年(1121年)入滅。享年57。.

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覚円

覚円(かくえん、長元4年(1031年)- 承徳2年4月16日(1098年5月19日))は、平安時代後期の天台宗の僧。摂政関白太政大臣藤原頼通の子。宇治僧正とも称される。 園城寺明尊のもとで出家し、顕教・密教を学んだ。天喜2年(1054年)権少僧都、天喜3年(1055年)法印、康平6年(1063年)園城寺長吏、康平7年(1064年)平等院第2代執印、康平8年(1065年)大僧正に任じられた。承暦元年(1077年)に天台座主就任の勅許を受けたが、延暦寺門徒の反対により3日で辞任に追い込まれ、代わりに法勝寺初代別当となった。その後は、宮中で修法を行い霊験が著しかったという。宮中や貴族たちの信任が厚く、嘉保3年(1096年)1月には牛車宣旨を賜っている。.

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輔仁親王

輔仁親王(すけひとしんのう、延久5年1月19日(1073年2月28日) - 元永2年11月28日(1119年12月31日))は、平安時代の皇族。後三条天皇の第三皇子。母は源基平の娘基子。異母兄に白河天皇、同母兄に実仁親王がいる。.

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近衛大将

近衛大将(このえ の だいしょう)は、日本の律令官制における令外官の一つ。宮中の警固などを司る左右の近衛府の長官。左近衛府には左近衛大将(さこんえのだいしょう)、右近衛府には右近衛大将(うこんえのだいしょう)が置かれ、それぞれ略して「左大将」「右大将」ともいう。定員は各1名で、権官はない。官位相当は従三位。常設武官の最高職で、馬御監の兼任とされた。和訓は「ちかきまもりのつかさのかみ」。.

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近衛府

近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。.

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関白

関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.

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藤原基隆

藤原 基隆(ふじわら の もとたか)は、平安時代後期の公卿。藤原北家道隆流、大膳大夫・藤原家範の長男。官位は従三位・非参議。.

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藤原基貞

藤原 基貞(ふじわら の もとさだ、寛仁4年(1020年) - 没年不詳)は、平安時代中期から後期にかけての貴族。藤原北家、右大臣・藤原頼宗の三男。官位は正四位下・美濃守。.

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藤原げん子

藤原 嫄子(ふじわら の げんし(もとこ)、長和5年7月19日(1016年8月24日) - 長暦3年8月28日(1039年9月19日))は、平安時代中期の皇妃。一品式部卿敦康親王の長女、母は具平親王の次女。後朱雀天皇中宮。初名は嫄子女王。.

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藤原南家

藤原南家(ふじわら なんけ)とは、奈良時代の藤原不比等の長男である藤原武智麻呂に始まる藤原氏の一流。「南家」の称は、武智麻呂の邸宅が弟房前の邸宅に対し南に位置したことに由来する。子孫は、房前を祖とする藤原北家に押されて振るわなかったが、為憲流藤原南家の伊東氏・二階堂氏・相良氏など武家(軍事貴族)の名族を多く輩出した。.

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藤原家忠

藤原 家忠(ふじわら の いえただ)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、関白藤原師実の次男。官位は従一位・左大臣。花山院左大臣と呼ばれ、花山院家の祖となった。.

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藤原宗俊

藤原 宗俊(ふじわら の むねとし)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。.

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藤原寛子 (藤原頼通女)

藤原 寛子(ふじわら の かんし/ ひろこ、長元9年(1036年) - 大治2年8月14日(1127年9月30日))は、関白藤原頼通の長女。母は藤原祇子。後冷泉天皇の皇后。別名四条宮。同母弟に藤原師実。.

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藤原師通

藤原 師通(ふじわら の もろみち)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、関白・藤原師実の子。官位は従一位、関白、内大臣。.

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藤原彰子

藤原 彰子(ふじわら の しょうし/あきこ、永延2年(988年) - 承保元年10月3日(1074年10月25日)は、第66代一条天皇の皇后(号は中宮)。第68代後一条天皇・第69代後朱雀天皇の生母(国母)、女院。院号を上東門院(じょうとうもんいん)といい、のちには大女院(おおにょいん)とも呼ばれた。 女房に『源氏物語』作者の紫式部、王朝有数の歌人として知られた和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門、続編の作者と伝えられる出羽弁、そして「古の奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬる哉」の一句が有名な歌人の伊勢大輔などを従え、華麗な文芸サロンを形成していた。.

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藤原忠実

藤原 忠実(ふじわら の ただざね)は、平安時代後期から末期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原師通の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。日記『殿暦』の著者。.

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藤原忠綱 (御堂流)

藤原 忠綱(ふじわら の ただつな)は、平安時代中期から後期にかけての貴族。藤原北家、関白・藤原頼通の五男。官位は正四位下・春宮亮。 頼通の正室・隆姫女王への配慮により、従兄に当たる大納言・藤原信家の養子とされる。近江守・春宮亮を歴任した。.

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藤原忠教

藤原 忠教(ふじわら の ただのり)は、平安時代後期の公卿・歌人。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原師実の五男。官位は正二位・大納言。難波家の祖。.

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藤原信家

藤原 信家(ふじわら の のぶいえ)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家、関白太政大臣・藤原教通の長男。官位は正二位・権大納言。山井第を伝領したことから山井大納言と号した。.

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藤原信長

藤原 信長(ふじわら の のぶなが)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家、関白太政大臣・藤原教通の三男。官位は従一位・太政大臣。.

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藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

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藤原経実

藤原 経実(ふじわら の つねざね)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、摂政藤原師実の三男。官位は正二位・大納言、贈正一位、太政大臣。二条天皇の外祖父。大炊御門家の祖。.

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藤原道長

藤原 道長(ふじわら の みちなが)は、平安時代の中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男(または四男)。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。 父・兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男・伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。 一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが三条天皇とは深刻な対立が生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。さらには、六女の嬉子を後の後朱雀天皇となる敦良親王に入侍させた。晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けた。.

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藤原頼宗

藤原 頼宗(ふじわら の よりむね)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の次男。官位は従一位・右大臣。堀河右大臣と号す。.

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藤原頼通

藤原 頼通(ふじわら の よりみち)は、平安時代中期から後期にかけての公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣藤原道長の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。 父・道長から若くして後一条天皇の摂政を譲られ、その後見を受ける。父の死後は朝政の第一人者として後朱雀天皇・後冷泉天皇の治世にて、関白を50年の長きに亘って務め、父道長と共に藤原氏の全盛時代を築いた。現代に残るその栄華の象徴が頼通が造営した平等院鳳凰堂である。 しかし、天皇の后にした娘が男子に恵まれなかったばかりか、刀伊の入寇・平忠常の乱・前九年の役など戦乱が相次ぐなど、朝廷の内外からそれまでの絶対的な権力体制を揺さぶられる事態が生じた。そこに加えて晩年には頼通と疎遠な後三条天皇が即位したこともあり、摂関家の権勢は衰退へ向かい、やがて院政と武士の台頭の時代へと移ることになる。.

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藤原貞嗣

藤原 貞嗣(ふじわら の さだつぐ)は、平安時代初期の公卿。名は貞継とも記される。藤原南家、参議・藤原巨勢麻呂の十男。.

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藤原賢子

藤原 賢子(ふじわら の けんし/かたいこ、天喜4年(1057年) - 応徳元年9月22日(1084年10月24日))は、第72代白河天皇の中宮、第73代堀河天皇の国母。父は右大臣・源顕房、母は源隆俊の女・隆子。太政大臣・藤原師実の養女。.

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藤原能実

藤原 能実(ふじわら の よしざね)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原師実の四男。官位は正二位・大納言。.

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藤原通房

藤原 通房(ふじわら の みちふさ)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原頼通の長男。官位は正二位・権大納言、右近衛大将。.

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藤原氏

藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.

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藤原清衡

藤原 清衡(ふじわら の きよひら)は、平安時代後期の武将で奥州藤原氏初代当主。.

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藤原教通

藤原 教通(ふじわら の のりみち)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の五男。官位は従一位・関白、太政大臣、贈正一位。.

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藤氏長者

藤氏長者(とうしのちょうじゃ)は、藤原氏一族全体の氏長者のこと。.

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蔵人別当

蔵人別当(くろうどのべっとう)とは、令外官の役職で、蔵人所の長官にあたる。組織上は蔵人頭以下を指揮する立場にあるが、所内の実務全般は蔵人頭が責任を負い、蔵人別当は対外的な代表者の地位として蔵人頭の任免や昇殿定、蔵人所の管轄下に置かれた所の人事などに関与したが、実際の実務には携わらなかった。 定員は1名。殿上人を束ねる役目なので「殿上の別当」とも言う。詔勅を各省に伝達することが役目である。なお、通常、大臣が兼職して二位の者が補任されるが、令外官であるものの官位相当は無い。 897年(寛平9年)、平安時代前期の公卿藤原時平が任じられたのが最初であるが、後に左大臣が兼任することとなる。ただし、一上と同様に左大臣が関白であった時は、右大臣が別当となる。例としては室町幕府の将軍である足利義満が1382年2月9日(弘和2年/永徳2年1月26日)に、左大臣就任の後、3月4日(閏1月19日)、蔵人別当を兼務している。.

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長久

長久(ちょうきゅう)は、日本の元号の一つ。長暦の後、寛徳の前。1040年から1043年までの期間を指す。この時代の天皇は後朱雀天皇。.

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難波家

難波家(なんばけ)は、羽林家の家格を有する堂上家の一つをなす公家。分家の飛鳥井家と並ぶ蹴鞠の二大流派のひとつ。藤原北家花山院流の系統。南北朝時代に断絶したが、戦国時代に入って、飛鳥井雅庸の次男宗勝によって再興された。江戸時代の家禄は300石。明治維新後に宗美が子爵位を授けられた。.

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院庁

院庁(いんのちょう)は、日本の古代・中世において、院政を布いた上皇直属の政務機関、または女院の所務・雑務を処理した機関。院庁の実務は院司が担当した。.

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院政

院政(いんせい)は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治である。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治形態である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。.

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東宮傅

東宮傅(とうぐうのふ)は、律令制に定められた皇太子(東宮)付きの教育官の一つである。 皇太子に道徳を説いて輔導する常設官である。定員一名で官位は従四位上相当。大臣が兼ねることが多く、大納言が兼任する例も見られる。 唐の太子三師を模倣したものである。東宮において太政大臣に相当するが皇太子の家政を担当する春宮坊や東宮学士とは独立の関係にあり指揮権限はないに等しい。東宮学士同様、下部機構も上部機構も持たないため式部省が勤務評定を行う。平安時代中期から春宮坊に対して東宮学士と併せて「東宮職」と呼ばれることがある。皇太子傅とも。.

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村上源氏

村上源氏(むらかみげんじ)は、第62代村上天皇の皇子を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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橘俊綱

橘 俊綱(たちばな の としつな)は、平安時代中期から後期にかけての貴族・歌人。藤原北家、関白・藤原頼通の次男。官位は正四位上・修理大夫。讃岐守・橘俊遠の養子。.

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正三位

正三位(しょうさんみ)とは、位階及び神階のひとつ。従二位の下、従三位の上に位する。日本では「おおいみつのくらい」とも読む。.

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正二位

正二位(しょうにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。従一位の下、従二位の上に位する。.

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正五位

正五位(しょうごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。従四位の下、従五位の上に位する。贈位の場合、贈正五位という。.

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正四位

正四位(しょうしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。 従三位の下、従四位の上に位する。贈位の場合、贈正四位という。.

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歌人

歌人(かじん)とは、和歌または短歌を詠む人物のことをいう。歌詠み(うたよみ)ともいう。.

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永保

永保(えいほう、えいほ)は、日本の元号の一つ。承暦の後、応徳の前。1081年から1083年までの期間を指す。この時代の天皇は白河天皇。.

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治暦

治暦(じりゃく)は、日本の元号の一つ。康平の後、延久の前。1065年から1068年までの期間を指す。この時代の天皇は後冷泉天皇、後三条天皇。.

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法眼

法眼(ほうげん).

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源師賢

源 師賢(みなもと の もろかた)は平安時代中期から後期にかけての貴族・歌人。.

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源師房

源 師房(みなもと の もろふさ)は、平安時代中期の公卿・歌人。村上源氏中院流の祖。村上天皇の皇子具平親王の子。従一位・右大臣。土御門右大臣と号した。幼名は万寿宮。.

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源俊房

源 俊房(みなもと の としふさ、長元8年(1035年) - 保安2年11月12日(1121年12月23日))は、平安時代後期の公家。村上源氏、源師房の子。従一位・左大臣。堀川左大臣とも称される。.

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源頼国

源 頼国(みなもと の よりくに)は、平安時代中期の武将・官人。源頼光の長男。.

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源顕房

源 顕房(みなもと の あきふさ)は、平安時代後期の公卿・歌人。村上源氏。右大臣源師房の次男。兄は源俊房。妻は源隆俊の娘・隆子。六条右大臣とも称される。生年は1026年説もある。.

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源資通

源 資通(みなもと の すけみち)は、日本の平安時代中期の公卿。播磨守・源済政の長男。.

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源麗子

源 麗子(みなもと の れいし、長久元年(1040年) - 永久2年4月3日(1114年5月9日))は、平安時代の貴族女性。関白藤原師実の北政所。師実が京極関白と呼ばれたのに対し、その正妻として「京極北政所」と称された。.

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源憲定

源 憲定(みなもと の のりさだ)は、平安時代中期の公卿。村上源氏で、一品・為平親王の長男。官位は従三位・右兵衛督。.

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是定

是定(ぜじょう)は、氏長者が推挙した者を従五位下に叙す氏爵において、その職務を他氏の人が代行すること。王氏と橘氏に見られる。.

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昇殿

昇殿(しょうでん)とは、平安時代以降の日本の朝廷において、内裏清涼殿の南廂にある殿上の間に昇ることを許すことである。昇殿による身分体系の制度を昇殿制(しょうでんせい)という。 公卿(三位以上および四位を含む参議以上の議政官)は原則的に昇殿が許され、この他に四位以下(参議を除く)の特定の官人および蔵人に、勅許(宣旨)によって昇殿が許された。この勅許は、天皇の代替わりによって効力を失なった。四位以下の昇殿を許された者は殿上人として特権的な待遇を受けたため、位階・官職を補う身分制度として、重要な意味を有した。中世以降には家格によって昇殿の対象者が決まるようになり、殿上人となり得る家を堂上家と呼んだ。 院や女院、皇后や東宮も、それぞれの御所において昇殿の制度があった。これらを内裏の昇殿と区別するには、内裏のものを「内の昇殿」(うちのしょうでん)、院のものを「院の昇殿」等と言う。 また、有力家の子弟が、元服前に小舎人として昇殿を許されて宮中に参仕する制度があり、童殿上(わらわてんじょう)と言った。.

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日記

日記(にっき)とは、日々の出来事を紙などに記録したものである。単なる記録として扱われるものから、文学として扱われるものまで、その内容は様々である。ある人物の生涯にわたって記されるような長期にわたるものから、ある旅、ある職務、ある事件などの間だけ記された短期のものまで、期間・分量も様々であり、西洋・東洋を問わず、世界的に存在する。.

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摂家

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.

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摂関政治

摂関政治(せっかんせいじ)とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、天皇の外戚として摂政や関白あるいは内覧といった要職を占め、政治の実権を代々独占し続けた政治形態である。.

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摂政

摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことが出来ない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。 多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。.

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敦康親王

敦康親王(あつやす しんのう、長保元年11月7日(999年12月17日) - 寛仁2年12月17日(1019年1月25日))は平安時代中期の皇族。第66代一条天皇の第1皇子、母は皇后藤原定子。.

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敦文親王

敦文親王(あつふみしんのう、承保元年12月26日(1075年1月15日) - 承保4年9月16日(1077年9月25日))は平安時代後期の皇族。白河天皇の第一皇子。母は中宮藤原賢子(藤原師実養女、源顕房女)。.

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扶桑略記

『扶桑略記』第21巻 『扶桑略記』(ふそうりゃくき)は、平安時代の私撰歴史書。総合的な日本仏教文化史であるとともに六国史の抄本的役割を担って後世の識者に重宝された。 寛治8年(1094年)以降の堀河天皇代に比叡山功徳院の僧・皇円が編纂したとされるが、異説もある。全30巻より成り、このうち巻二~六、巻二十~三十の計16巻と、巻一及び巻七~十四の抄記が現存する。 内容は、神武天皇より堀河天皇の寛治8年(1094年)3月2日までの国史について、帝王系図の類を基礎に和漢年代記を書入れ、さらに六国史や『慈覚大師伝』などの僧伝・流記・寺院縁起など仏教関係の記事を中心に、漢文・編年体で記している。多くの典籍を引用していることは本書の特徴の一つであるが、その大半が今日伝存せず、出典の明らかでない記事も当時の日記・記録によったと思われる。『水鏡』・『愚管抄』など鎌倉時代の歴史書にもしばしば引用され、後世に与えた史的意義は大きい。.

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承保

承保(じょうほ、じょうほう)は、日本の元号の一つ。延久の後、承暦の前。1074年から1076年までの期間を指す。この時代の天皇は白河天皇。.

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1042年

記載なし。

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1053年

記載なし。

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1054年

記載なし。

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1055年

記載なし。

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1056年

記載なし。

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1058年

記載なし。

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1060年

記載なし。

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1062年

記載なし。

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1063年

記載なし。

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1065年

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1068年

記載なし。

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1069年

記載なし。

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1075年

記載なし。

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1083年

記載なし。

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1086年

記載なし。

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1088年

記載なし。

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1089年

記載なし。

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1090年

記載なし。

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1091年

記載なし。

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1094年

記載なし。

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1101年

記載なし。

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2月13日 (旧暦)

旧暦2月13日は旧暦2月の13日目である。六曜は友引である。.

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3月14日

3月14日(さんがつじゅうよっか、さんがつじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から73日目(閏年では74日目)に当たり、年末まであと292日ある。.

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