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源氏

索引 源氏

源氏(げんじ、みなもとうじ)は、「源」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。 日本において皇族が臣下の籍に降りる(臣籍降下)際に名乗る氏の1つで、多数の流派がある。清和天皇の子孫である清和源氏が有名である。.

668 関係: 加賀国加賀美遠光半家 (公家)千種家南部光行南部氏南涼右大臣受領名字吉川弘文館坊門姫 (一条能保室)堂上家堀川通具堀頼重堀河天皇多田基綱多田知実多田盛綱多田頼盛多田頼憲多田行綱多田源氏大原家大姫 (源頼朝の娘)大宰帥大宰府大弐局 (加賀美氏)大和源氏大内惟信大内惟義大納言大蔵省大臣家天皇太田頼基太武帝太政大臣娟子内親王嫡流定朝定海実仁親王 (平安時代)宍戸氏室町幕府室町時代宮家宮菊姫家系...家紋家格宜秋門院丹後守邦親王宗尊親王宗康親王宇多天皇宇多源氏安徳天皇安和の変安田義定安田義資安法寛遍寛朝寛意尊卑分脈小学館小笠原長清小早川景平山名義範山田重忠山田重満山本義経岡本氏岩倉宮忠成王岩倉家島津氏左大臣上田萬年上野国中務省中納言中院家中院通方常明親王七条仏所三上参次三幡三条天皇一幡一条天皇一条忠頼平家物語平安時代平賀義信平賀朝雅平賀有義平氏平氏政権久世家久良親王久我家久我通光久明親王庭田家康助康子内親王康尚康弁康勝康運康朝康慶人康親王二十一流二条道平二条院讃岐広幡家広平親王広沢義実五位五辻家五胡十六国時代亀山天皇今川氏仁寛仁明天皇仏師代明親王以仁王以仁王の挙兵仲恭天皇伏見天皇式明親王住蓮佐々木氏佐竹秀義佐竹隆義佐竹氏佐竹昌義征夷大将軍徳川家光徳川氏徽子女王後三条天皇後一条天皇後嵯峨天皇後冷泉天皇後白河天皇後鳥羽院宮内卿後醍醐天皇後深草天皇後朱雀天皇得川義季従五位従四位待賢門院堀河俊寛俊恵保明親王忠良親王忠房親王信実快誉土岐光衡土岐氏土御門定通在原氏北畠家北魏リンドウ嵯峨天皇嵯峨源氏善統親王周防国カバネ冷泉天皇円融天皇内匠寮出家出雲源氏公卿公胤公暁六条家六条斎院宣旨具平親王兼明親王元利親王元良親王元海兵部省光孝天皇克明親王勝覚勤子内親王勘解由使因幡国国史大系四辻善成皇女皇子皇室皇別皇嘉門院別当皇胤皇族石川光家石川源氏王 (皇族)神祇官神道祥寿姫禅暁秋山光朝秀良親王章子内親王竹御所竹内家竹紋箕浦義明細川氏綾小路家美濃源氏義円羽林家真寂法親王猶子為平親王田中義清田代信綱甲斐源氏畿内煕子女王盛明親王白川仲資王白川伯王家白川顕広王白河天皇花山天皇隆姫女王鎌倉将軍一覧鎌倉幕府聖恵法親王道元運助運賀運慶頼助順徳天皇額戸経義行尊行慶覚助 (仏師)覚猷覚行法親王覚法法親王覚源馨子内親王親王親王宣下貞保親王貞元親王貞純親王貞辰親王貞暁貞数親王貴族鳥居禅尼鳥羽天皇足助重長足利将軍家足利義兼足利義純足利義長足利義氏 (足利家3代目当主)足利義満足利氏黒板勝美輔仁親王近江国近江源氏能世国能能瀬高頼能瀬資国阿野全成阿野時元藤原げん子藤原頼通藤原賢子藤原氏葦敷重隆葦敷重頼蒲池久直蒲池氏脩子内親王醍醐天皇醍醐源氏重明親王臣籍降下致平親王里見義俊里見義成長男良子内親王若槻頼胤雅子内親王雅慶逸見光長院政陽成天皇柏木義兼東久世家松浦久松浦氏板垣兼信村上天皇村上源氏栄実桃井義助梅溪家森頼定植松家業良親王橘氏正子内親王正二位正四位正親司正親町天皇武士武家武田信光武田信義武田氏武田有義殿上人氏族江戸時代河内国河内経国河内源氏治部省治承淳和天皇渡辺綱渡辺氏済信清和天皇清和源氏清華家湛慶源効源基子源基平源博雅源多源季邦源定源定房源実国源実朝源家賢源宗城源宗于源宗綱源宗明源安源宛源寛源師仲源師俊源師忠源師光源師隆源師頼源師房源師時源常源希義源希望源平交代思想源平盛衰記源庶明源広綱源仲家源仲光源仲綱源仲政源延光源仕源伊陟源弘源彦仁源彦良源俊実源俊隆源俊頼源俊賢源俊房源俊明源保光源忠宗源忠国源忠隆源忠重源忠清源信 (公卿)源信雅源信明源信時源冷源啓源公忠源具親源兼忠源兼善源兼綱源兼澄源光 (公卿)源光基源光宗源光保源光信源光国源光経源光重源光長源勝源勤源国基源国俊源国信源国直源国房源国明源国政源範頼源維義源義基源義家源義宗源義平源義康源義広 (志田三郎先生)源義広 (紺戸氏祖)源義広 (毛利治部丞)源義仲源義仲 (曖昧さ回避)源義弘源義忠源義信源義公源義兼源義光源義国源義範源義綱源義経源義直源義隆源義親源義高 (左兵衛権佐)源義高 (清水冠者)源義賢源義資源義門源義重源義雄源義業源義清 (左京権大夫)源義清 (矢田判官代)源義清 (武田冠者)源義朝源義明源義時源経基源経信源経光源経頼源経房源為宗源為仲源為義源為朝源為成源生源盛義源盛経 (醍醐源氏)源盛長源隆俊源隆国源隆綱 (醍醐源氏)源融源鎮源道良源道済源道方源頼基源頼季源頼定源頼実源頼家源頼平源頼仲源頼弘源頼俊源頼信源頼兼源頼光源頼国源頼範源頼綱源頼義源頼隆源頼遠源頼行源頼親源頼貞源頼賢源頼資源頼茂源頼治源頼清源頼朝源頼成源頼房源頼明源頼政源行家源行宗源行国源行有源顕基源顕定源顕仲源顕信源顕雅源顕通源顕房源覚源親弘源親義源親治源高明源貞恒源資兼源資綱源資賢源資通源賀源麗子源近善源能有源興基源興扶源重実源重宗源重之源重信源重光源重遠源重貞源重成源自明源致公源致方源長季源英明源雅定源雅実源雅信源雅兼源雅通源雅通 (宇多源氏)源通宗源通親源正明源氏源氏の人物一覧源氏物語源氏長者源泰清源済政源清源清平源清光源清蔭源湛源満季源満仲源満快源満末源満政源潔姫源朝任源朝長源本有源有仁源有光源有綱源有賢源有雅源成頼源成雅源明源明国源是茂源是恒源昇源斉頼源旧鑑源政長源憲定源扶義源時中源時光朝廷朝臣本姓本康親王本朝皇胤紹運録朱雀天皇有栖川宮幸仁親王有明親王有智子内親王最雲法親王惟康親王惟彦親王惟喬親王惟恒親王成尋阿闍梨母成朝明雲明治維新昭登親王是忠親王是貞親王流罪浦野重直浅利義遠新田義兼新田義房新田氏文徳天皇文徳源氏斉中親王日本日本大百科全書摂津国摂津源氏愛宕家愛智義成敦実親王敦平親王敦康親王敦明親王敦文親王敦慶親王慶頼王慈光寺家拓跋氏性信入道親王1180年12世紀1961年 インデックスを展開 (618 もっと) »

加賀国

加賀国(かがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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加賀美遠光

加賀美 遠光(かがみ とおみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。甲斐源氏の祖とされる源義光の孫源清光の四男(清光の父義清の子とする説もある)。 加賀美氏の初代であり、武田氏初代武田信義の弟(あるいは叔父)となる。甲斐国巨麻郡加賀美郷(現在の山梨県南アルプス市の一部)一帯に所在する加々美荘を本領とした。.

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半家 (公家)

半家(はんけ)とは、鎌倉時代以降に成立した公卿の家格で堂上家の中でも最下位の貴族である。源平藤橘も含めて、特殊な技術を以って朝廷に仕えた。.

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千種家

千種家(ちぐさけ)は、羽林家の家格を有する公家。村上源氏久我流岩倉家庶流。堂上源氏十家の一つ。久我晴通の孫で、岩倉具尭の四男有能を家祖とする。家名は、南北朝時代に六条家から分家した千種忠顕に因むか(別系を参照のこと)。.

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南部光行

南部 光行(なんぶ みつゆき)は、日本の平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。加賀美遠光の三男。南部氏の始祖。.

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南部氏

南部氏(なんぶし)は、陸奥の武家で本姓は源氏。本貫地は甲斐国南部郷で家祖は南部光行。南部氏初代の光行は、平安時代に活躍した清和源氏の一流である河内源氏 源義光や、その孫で平安時代末期に活躍した黒源太清光、その子である甲斐源氏・加賀美遠光の子孫である。.

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南涼

南涼(なんりょう、397年 - 414年)は五胡十六国時代に鮮卑禿髪部の禿髪烏孤によって建てられた国。南涼の禿髪氏は拓跋氏から派出したため、この国は拓跋涼国とも称される。.

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右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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受領

受領(ずりょう)とは、国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者を平安時代以後に呼んだ呼称。 実際に現地に赴任する国司が前任者から文書や事務の引継を受けることを「受領(する)」と言い、それが職名になった(なお、後任者に文書や事務の引継を行うことを「分付(する)」と称した)。.

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名字

名字(みょうじ、苗字)は、家(家系、家族)の名のこと。法律上は氏と呼ばれ(民法750条、790条など)、一般には姓ともいう。.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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坊門姫 (一条能保室)

後藤実基と坊門姫/明治時代『前賢故実』より。画:菊池容斎 坊門姫(ぼうもんひめ、久寿元年(1154年)または久安元年(1145年) - 建久元年4月20日(1190年5月25日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。『平治物語』で坊門の姫と呼ばれる。本名は不明。.

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堂上家

堂上家(とうしょうけ、どうじょうけ)は、公家の家格の一つ。御所の清涼殿南廂にある殿上間に昇殿する資格を世襲した家柄。また、公卿になれる家柄。同時に上級貴族とも呼ばれる。 中級貴族である地下の官人を除く公家を指す。江戸時代末期には137家があった。.

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堀川通具

堀川 通具(ほりかわ みちとも)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の人物。公卿、歌人。正二位大納言。堀川大納言と号す。内大臣右大将源通親の次男。堀川家の祖。.

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堀頼重

堀 頼重(ほり よりしげ、生没年不詳)は、平安時代末期の武士。摂津源氏の流れを汲む源光重(深栖三郎)の三男。子に頼時(九条家勾当)、重胤らがある。諸陵頭、皇后宮侍長。堀三郎と号した。下総国を本拠とする豪族・深栖氏の一族で、父光重は美濃源氏の源光信の子であったが後に源仲政の養子となっていた。 『平治物語』に源頼政の近親者として登場し、源義経(遮那王)が鞍馬山を抜け出し東国へと向かう際、奥州の金売吉次と共に同伴しその道案内を務め、さらに義経を下総の自領に迎え入れ一年ほど匿ったとされる。また、『尊卑分脈』の義経の項目にも「鞍馬寺において、東国旅人諸陵助重頼(頼重)を相語らい、約諾せしめ」と『平治物語』とほぼ同様の記載がある。.

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堀河天皇

堀河天皇内裏跡 堀河天皇(ほりかわてんのう、承暦3年7月9日(1079年8月8日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))は平安時代後期の第73代天皇(在位:応徳3年11月26日(1087年1月3日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))。諱は善仁(たるひと)。 白河天皇の第二皇子、母は藤原師実の養女・中宮賢子。准母に同母姉媞子内親王(郁芳門院)。.

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多田基綱

多田 基綱(ただ もとつな、生年不明 - 承久3年6月(1221年))は、鎌倉時代初期の武将。多田行綱の四男。子に重綱(多田三郎)、親綱(修理亮)、行成らがある。号は多田蔵人。 多田源氏の惣領であった父行綱は、源頼朝の粛清により累代の所領多田荘を奪われ没落しており、以降の行綱及びその子らの動向は不明となっているが、承久3年(1221年)に後鳥羽上皇が倒幕の兵を挙げると基綱は上皇方として参加し、その敗北とともに討ち取られ梟首されたとの記録が残る(『吾妻鏡』同6月20日条)。上皇方への参加は多田荘の奪回を図ったものであろうと考えられている。 子の重綱と親綱は甥の多田光綱が猶子とし、重綱の子孫が3代後まで存続していることが『尊卑分脈』に記されている。.

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多田知実

多田 知実(ただ ともざね、生没年不詳)は、平安時代末期の武将。源 知実(みなもと の ともざね)とも。多田源氏の惣領であった源頼盛の次男。兄に行綱(多田蔵人大夫)、弟に高頼(皇嘉門院蔵人)、高実(高松院蔵人)がいる。別名は多田二郎。 『平家物語』巻四にある「源氏揃え」では兄の行綱が鹿ケ谷の陰謀による密告を批判される一方、摂津国の源氏として弟の高頼や太田頼基らと共に「多田次郎朝実」としてその名が挙げられているが、詳しい事跡は全く不明であり早逝した可能性が高い。『尊卑分脈』によると判官代を務めていたとされる。.

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多田盛綱

多田 盛綱(ただ もりつな、生年不詳 - 保元元年(1156年))は、平安時代末期の武将。多田源氏の一族である散位源頼憲(多田蔵人大夫)の子。源 盛綱(みなもと の もりつな)とも。 保元元年(1156年)に起きた保元の乱に際して、藤原頼長の家人であった父頼憲に従い崇徳上皇方として出陣しその主力の一翼を形成したが、敗北により父と共に捕らえられ斬首された。.

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多田頼盛

多田 頼盛(ただ よりもり、生没年不詳)あるいは源 頼盛(みなもと の よりもり)は、平安時代末期の武将。摂津源氏(多田源氏)源行国の長男。弟に源国章・多田頼憲・源行智・源仲国らがあり、子に多田行綱・多田知実・能瀬高頼・多田高実らがある。従五位下、蔵人、摂津守。 平安中期に源満仲によって拓かれた多田荘を継承した多田源氏の7代目惣領であったが、弟の頼憲とは多田荘の相続を巡り対立した。当時、多田源氏が代々近侍してきた摂関家は、藤原忠通・頼長兄弟の対立により分裂状態にあった為、弟の頼憲が頼長に仕えたのに対し頼盛は忠通に仕えた。そして、仁平3年(1153年)に父行国が死去すると、頼憲との遺領を巡る対立は摂津国内において激しい合戦となるまでに発展した(『本朝世紀』同年閏12月1日条)。 その後の保元の乱では、頼盛は忠通に近侍していた事から後白河天皇方として参陣し、数百の郎党を率いて天皇の警護の任に就くなどした(『兵範記』保元元年(1156年)7月11日条)。一方、弟の頼憲は崇徳上皇方として出陣しており、天皇方の頼盛は勝利したが、敗れた上皇方の頼憲は嫡子と共に斬首された。これにより多田荘は頼盛の嫡子行綱に継承された。.

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多田頼憲

多田 頼憲(ただ よりのり、生年不詳 - 保元元年(1156年))は平安時代末期の武将。散位・源行国の三男。源 頼憲(みなもと の よりのり)とも。「多田蔵人大夫」を名乗る。兄に頼盛、甥に行綱・高頼らがある。従五位下、蔵人、文章生。 兄・頼盛と多田荘の相続を巡って対立し、頼憲も「多田」を号した。摂関家の内部で藤原忠通・頼長兄弟の対立が起こると、頼盛が忠通に従属したのに対して、頼憲は頼長に仕えその勾当となる。久安3年(1147年)には頼長の推挙により内昇殿を許されており、仁平元年(1151年)には頼長の命により、同じく頼長の家人である源為義の摂津国の旅亭を焼却したこともあった。 保元元年の保元の乱に際しては頼長の指揮の下、崇徳上皇方として参陣し、為義や平忠正らとともにその主力を形成する。しかし上皇方が敗北するとともに捕虜となり、嫡男・盛綱とともに斬首された。 なお、『平治物語』には「摂津守多田頼範」なる人物が源義朝方として戦ったとあるが、この人物が頼憲の事なのかは不明である。.

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多田行綱

多田 行綱(ただ ゆきつな/源 行綱、みなもと の ゆきつな)は、平安時代末期の武将。摂津源氏の流れを汲む多田源氏の多田頼盛の長男。官位は従五位下・伯耆守。 摂津国多田の地に武士団を形成した源満仲(多田満仲)より数えて八代目に当たる多田源氏の嫡流。.

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多田源氏

多田源氏(ただげんじ)は、清和源氏において源満仲(多田満仲)に始まる摂津国多田の地を本拠とした系統を指した呼称。.

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大原家

大原家(おおはらけ)は宇多源氏の流れを引く堂上家。江戸時代に庭田重条(しげなが、従一位・権大納言、1650年 - 1725年)の猶子大原栄顕(従四位下・左近衛少将、1696年~1723年)を祖とする。 家格は羽林家。大原栄敦(ひであつ、1704年 - 1758年)の養子大原重度(しげよし、1725年 - 1793年)以降は権中納言を極官とする。幕末には大原重徳が尊攘派公卿として活躍した。 家業は神楽。江戸時代の家禄は30石。明治時代は重徳の功績により伯爵。.

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大姫 (源頼朝の娘)

大姫(江戸時代、菊池容斎画『前賢故実』より) 大姫(おおひめ、治承2年(1178年) - 建久8年7月14日(1197年8月28日))は、平安時代末期、鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の長女で母は北条政子(頼朝の子としては第2子で長女、政子の子としては第1子で長女)。大姫というのは「長女」を意味する通称で、本名は一幡とする説があるが不明。 6歳の時に頼朝と対立した源義仲との和睦のため、義仲の嫡男・義高と婚約するが、義仲の敗北に伴い義高が処刑されたことに衝撃を受け心を病む。のちの縁談も拒み通し、後鳥羽天皇への入内の話も持ち上がったが実現する事無く20歳で早世した。.

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大宰帥

大宰帥(だざいのそち/だざいのそつ)は、大宰府の長官。唐名は都督、和名は「おほみこともちのかみ」。律令制において西海道の9国2島を管轄し、九州における外交・防衛の責任者となった。9世紀以降は親王の任官で、大宰府に赴任しないことが慣例となり、実権は次官の大宰権帥(だざいのごんのそち)及び大宰大弐(だざいのだいに)に移った。.

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大宰府

大宰府(だざいふ)は、7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。多くの史書では太宰府とも記され、おもに8世紀の大和朝廷内部で作られた史書で「大宰府」と記されている。.

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大弐局 (加賀美氏)

大弐局(だいにのつぼね、生没年未詳)は、鎌倉時代初期の女性。甲斐源氏の一族である加賀美遠光の娘で、母は和田義盛の娘(もしくは姉妹)。兄弟に秋山光朝、小笠原長清、南部光行らがいる。鎌倉幕府2代将軍源頼家・3代将軍実朝二代の養育係を務めた。.

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大和源氏

大和源氏(やまとげんじ)は、清和源氏の一流であり、源満仲の次男の頼親に始まる。.

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大内惟信

大内 惟信(おおうち これのぶ)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府御家人。清和源氏義光流平賀氏の一族で、大内惟義の嫡男。母は藤原秀宗の妹(藤原秀康の叔母)。.

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大内惟義

大内 惟義(おおうち これよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・鎌倉幕府御家人。清和源氏一門の重鎮であった平賀義信の長男。新羅三郎義光の曾孫にあたる。 惟義が伊賀国に赴任した時期に大内姓を称したが、後に戦国大名となる周防国の多々良姓大内氏とは関係がない。.

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大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

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大蔵省

旧大蔵省庁舎(現・財務省庁舎) 大蔵省(おおくらしょう、Ministry of Finance, MOF)は、明治維新から2001年(平成13年)1月6日まで存在した日本の中央官庁である。後継官庁は財務省と金融庁。前近代の律令制による大蔵省も奈良時代の大宝律令から明治維新まで存続していたため、「大蔵省」という名称は1300年の長きにわたって用いられたことになる。.

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大臣家

大臣家(だいじんけ)とは、公家の家格のひとつで、摂家、清華家に次ぐ家格。 大臣家は元は清華家の庶流から生まれた家であり、清華家に準じて昇進(ただし、摂家・清華家が任じられない参議を経て中納言となる)して、大臣に欠員が出た場合、大納言から近衛大将を経ずに直接内大臣に昇進する家柄である(清華家とは異なり近衛大将を兼ねることはできない)。極官は太政大臣(ただし、江戸時代の太政大臣は摂政・関白経験者に限られた)であるが、希に右大臣に昇進した例(三条西実条・中院通躬)がある程度で、現実には大臣家から内大臣を超えて昇進した事例は少ない。准大臣以上に昇進したのは中院家(通方から通富まで25代)で10人18代通躬が右大臣、2代通成、4代通重、5代通顕、10代通秀、13代通為、15代通村、17代通茂が内大臣、3代通頼、9代通淳が准大臣、正親町三条家(公氏から公勝まで29代)で8人5代公秀、6代実継、7代公豊、10代実雅、12代実望、13代公兄が内大臣、9代公雅に贈内大臣、15代公仲に贈准大臣、三条西家(公時から公允まで17代)で6人5代公条、8代実条が右大臣、3代公保、4代実隆、6代実枝、7代公国が内大臣と、大臣輩出率は高いとは言えない。維新後は伯爵となったが、嵯峨家(正親町三条家)はのちに侯爵となった。 大臣家は、以下の3家。.

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天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

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太田頼基

太田 頼基(おおだ よりもと、生没年未詳)は、平安時代末期の武士。大和源氏の系譜を引く所雑色頼資の子で、兄弟に頼康がある。官位については不明。号は太田太郎。.

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太武帝

太武帝(たいぶてい)は、北朝北魏の第3代皇帝。第2代明元帝の長子。字の仏狸は古代テュルク諸語の で、狼を意味する。.

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太政大臣

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.

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姓(せい)とは、東アジアの漢字文化圏で用いられる血縁集団の名称。その範囲は地域や時代によって変動し、氏や名字といった他の血縁集団名と様々な階層関係にあった。近代以降、ヨーロッパなどの他の文化圏の血縁集団名、家系名の訳語としても用いられている。.

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娟子内親王

娟子内親王(けんしないしんのう、長元5年9月13日(1032年10月19日) - 康和5年3月12日(1103年4月20日))は、第67代後朱雀天皇第2皇女。母は皇后・禎子内親王。賀茂斎院、のち源俊房の正室。同母姉に良子内親王(伊勢斎宮)、同母弟に第69代後三条天皇がいる。 父・後朱雀天皇の即位により、姉・良子内親王の伊勢斎宮卜定と同日の長元9年(1036年)11月28日、賀茂斎院に卜定され、翌長暦元年(1037年)4月13日初斎院入りする。この人事は姪の禎子内親王と不仲だった藤原頼通が禎子内親王をくじくために娘を遠方に引き離す戦略だったと説明されることが多い。だが、去ること長元4年(1031年)、当時の伊勢斎宮であった具平親王第3王女・嫥子女王が酒乱に乗じて「ご託宣」と称し「斎宮の冷遇は天皇の失政」として非難した事件があった。このため、伊勢・賀茂の祭祀を天皇家が怠っていないことを表明するため、天皇実娘を斎宮、斎院に任命したとする説が近年有力である。 寛徳2年(1045年)1月18日、後朱雀上皇の崩御により退下。その後は禎子内親王の下で生活していたが、天喜5年(1057年)、3歳年下の源俊房と密通し、遂に俊房の屋敷へ駆け落ちしてしまった。俊房は伯母・隆姫女王が藤原頼通の正妻、母は頼通の異母妹尊子という「摂関家よりの人物」であり、これを知った弟の東宮・尊仁親王(後の後三条天皇)は怒り狂ったが、俊房が摂関家の縁者であることもあり、除位などの具体的な処罰までには至らなかった。しかしこの事件で皇女らしからぬ軽率な行動をとった娟子内親王は、その後狂斎院と呼ばれるようになる。 俊房との間には子女に恵まれなかったが、その後は俊房正室として厚く遇された。しかし、甥の白河天皇が即位すると、「後三条天皇の遺言」を盾に白河天皇の異母弟・実仁親王、輔仁親王を東宮に推す夫・俊房と、自分の子孫を天皇に据えたい白河天皇は次第に対立するようになる。 康和5年(1103年)、白河天皇の息子・堀河天皇に皇子(後の鳥羽天皇)が生まれる。この皇子が生後間もなく東宮とされ、俊房は失脚、その後は失意の生涯を送った。娟子内親王は鳥羽天皇と入れ替わるようにこの年薨去、夫の零落を見ることはなかった。 Category:日本の内親王 category:平安時代の女性皇族 Category:斎院 Category:平安時代の公卿の妻室 Category:1032年生 Category:1103年没.

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嫡流

嫡流(ちゃくりゅう)とは、氏族の本家を継承する家筋・家系のことをいう。正嫡、正系、嫡系ともいう。対義語は庶流という。敬って「御嫡々の家系」という場合もある。嫡流の家を宗家、総本家、嫡家、大本家、本家という。  ちなみに、「直系」を嫡流の意味で用いるのは誤用で、直系とは正しくは親の親もしくは子の子といった関係の連鎖で結ばれる生物学的関係をいい、直系・傍系はあくまで純粋な生物学的血統上の語であり家筋・家系とは関係がない。例えば、ある人物から見たときその子孫はすべて直系卑属であるから、分家・庶流の子孫も直系であるし、また、傍系は相対的な系統上の関係をいうから、分家からみた本家は傍系である。詳しくは、 親族を参照。  あくまで当家の祭祀を継承する家系を意味するのであるから、長男が継承者となることが多いものの、必ずしも長男が継承するとは限らず、次男以下あるいは養子の子孫が嫡流となる場合もある点に注意。.

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定朝

定朝(じょうちょう、生年不明 - 天喜5年8月1日(1057年9月2日))は平安時代後期に活躍した仏師。寄木造技法の完成者とされる。.

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定海

定海(じょうかい、承保元年1月3日(1074年2月1日) - 久安5年4月12日(1149年5月20日))は、平安時代後期の真言宗の僧。俗姓は源氏で、村上源氏の出身。父は右大臣源顕房。藤原賢子(白河天皇中宮)・太政大臣源雅実・源師子(藤原忠実室)らの異母弟。三宝院大僧正・上生僧正とも称された。.

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実仁親王 (平安時代)

実仁親王(さねひとしんのう、延久3年2月10日(1071年3月14日) - 応徳2年11月8日(1085年11月27日))は、平安時代の皇族。後三条天皇の第二皇子。母は源基平の娘である女御・源基子。異母兄・白河天皇の皇太弟となる。同母弟に輔仁親王がいる。 父・後三条天皇は、傍流とはいえ藤原北家の血を引く長男の貞仁親王(白河天皇)よりも、同家と外戚関係を有しない源基子との子供に皇位継承候補者として期待をかけた。そこで延久4年(1072年)の白河天皇即位の際、実仁親王はわずか2歳で皇太弟として立てられ、更に翌年の輔仁親王誕生直後に上皇となっていた後三条が重態に陥ると、実仁親王が即位した後には輔仁親王を皇太弟とするよう遺言した。承保2年(1075年)に着袴、承暦2年(1078年)に読書始の儀式、永保2年(1081年)に元服の儀式が行われている。誕生前に外祖父・源基平は既に死去しており、後見がいなかったものの、祖母である陽明門院の寵愛を得ていたことから、世間からも「いと清らかなる男」称されて、将来を期待されていた。 しかし応徳2年、実仁親王は疱瘡により倒れ、15歳の若さで急死してしまう。白河天皇は翌年には父の遺言を無視して実子・善仁親王(堀河天皇)を皇太子に立て、その日のうちに譲位を宣言して院政を開始する事になった。.

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宍戸氏

宍戸氏(ししどし、ししどうじ)は、日本の氏族の一つ。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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宮家

宮家(みやけ)とは、日本において、宮号を賜った皇族の一家のことである。親王および諸王の家を指すこともある。 宮(みや)とは、元々、天皇および皇族の邸の事を指し、転じて住んでいる皇族のことを指すに至った。さらに、親王の身位とともに「○○宮」との称号(宮号)を世襲することが認められる例が生じ、これが「宮家」と呼ばれるものであり、個別には宮号に応じて「○○宮家」と呼ばれることがある。ただし、現行法上はいずれも法的な根拠を持つものではない。「○○宮」の称号は宮家の当主たる(あるいは生前当主であった)親王個人の称号であり、その家族は用いない。 宮家のうち天皇の子女や兄弟が創設した宮家を直宮家という。 当今の天皇との血統の遠近にかかわらず、代々親王宣下を受けることで親王の身位を保持し続けた宮家を世襲親王家という。.

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宮菊姫

宮菊姫(みやぎくひめ、生没年未詳)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の女性。源義賢の娘。源義仲(木曾義仲)の妹。 寿永3年(1184年)1月に源義仲が源頼朝の軍勢によって滅ぼされると、義仲の妹である宮菊姫は、頼朝の妻北条政子の猶子として美濃国に一村を与えられて在国していた。そのうち在京するようになり、付き従う周辺の者が政子猶子である宮菊の威を借りて権門の荘園や公領を横領する押妨を行った。文治元年(1185年)3月、宮菊周辺の悪評が鎌倉に届き、頼朝は畿内の御家人に押妨を行った周辺の者を捕らえるように命じて朝廷には「物狂いの女房」の仕業であるとして弁明し、源氏一門への世間の非難をはばかって宮菊を鎌倉へ呼び出した。 5月、都から鎌倉に参上した宮菊は、所領の押領は自分の名を勝手に利用した者たちが行ったことであり、自らは関わりがない事を陳弁し、憐れんだ頼朝から美濃国遠山荘の一村を与えられた。政子が特に同情していたという。義仲恩顧の信濃国の御家人たちに、宮菊の所領に課せられる公事に大切に奉仕するよう命が出されている。 生年は不明だが、義賢の死没年(1155年)から、宮菊姫は1157年生まれの政子より年長と思われるので、その猶子というのは不自然なので、義仲の妹ではなく娘ではないかとの見方もある(山本幸司『頼朝の天下草創』講談社学術文庫)。.

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家系

家系(かけい)または血統(けっとう)とは、親子・兄弟・婚姻・養子など様々な関係性で結ばれる特定の家族、血族集団を指す。一定の血族集団の中で同一の階級または地位、氏、家名、家格、家業、家財を世襲で継承する場合に使われることが多い。類似概念に家柄などがある。.

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家紋

家紋(かもん)とは、日本固有の紋章である。.

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家格

家格(かかく)とは、歴史において、ある氏族や家系が得た又は与えられた格式・評価をいう用語。.

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宜秋門院丹後

宜秋門院丹後 - 寛文年間 清原雪信 宜秋門院丹後(ぎしゅうもんいんのたんご、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての歌人である。女房三十六歌仙の一人。丹後守源頼行の娘。源兼綱らの兄妹。源頼政は伯父にあたり、従姉妹に二条院讃岐がいる。摂政家丹後、丹後少将、丹後禅尼とも呼ばれる。.

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守邦親王

守邦親王(もりくにしんのう)は、鎌倉幕府9代(最後の)征夷大将軍で、鎌倉幕府将軍の中で24年9カ月と在職期間が最長であった。8代将軍久明親王の子。.

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宗尊親王

宗尊親王(むねたかしんのう)は、鎌倉幕府6代将軍(在任:建長4年(1252年)4月 - 文永3年(1266年)6月、皇族で初めての征夷大将軍)。後嵯峨天皇の第一皇子。.

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宗康親王

宗康親王(むねやすしんのう、天長5年(828年) - 貞観10年6月11日(868年7月4日))は、平安時代前期の皇族。仁明天皇の第二皇子。母は贈皇太后・藤原沢子(藤原総継の娘)。光孝天皇の同母兄。官位は四品・中務卿。.

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宇多天皇

宇多天皇(うだてんのう、貞観9年5月5日(867年6月10日) - 承平元年7月19日(931年9月3日))は、日本の第59代天皇(在位:仁和3年8月26日(887年9月17日) - 寛平9年7月3日(897年8月4日))。 諱は定省(さだみ)。後の佐々木氏などに代表される宇多源氏の祖先にもあたる(詳細は皇子女の欄参照)。.

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宇多源氏

宇多源氏(うだげんじ)は、第59代宇多天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。源姓では清和源氏や嵯峨源氏などと並び称されて著名である。.

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安徳天皇

安徳天皇(あんとくてんのう、安德天皇、治承2年11月12日(1178年12月22日) - 寿永4年3月24日(1185年4月25日))は、第81代天皇(在位:治承4年4月22日(1180年5月18日) - 寿永4年3月24日(1185年4月25日))。 諱は言仁(ときひと)歴代天皇総覧200-202頁『第八十一代 安徳天皇 一一七八~一一八五(在位一一八〇~一一八五)』。 高倉天皇の第一皇子名前で読む天皇歴史207-208頁『安徳天皇【あんとくてんのう】在位 治承四(一一八〇)-承永四(一一八五)年』。母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)国史大系14巻コマ209(原本402頁)〔安徳―後鳥羽〕『安德。三年。 諱言トキ仁。治承四年二月廿一日受禪。。同二年十二月日立坊。高倉院長子。母中宮徳子。 攝政基通。内大臣平宗盛。 養和一年。七月十四日改元。壽永二年。五月廿七日改元。此時遷都ノ事有ケリ。委在二別帖一。此天皇ハコノ壽永二年七月廿五日ニ、外祖ノ清盛入道殿反逆ノ後。外舅内大臣宗盛。源氏ノ武士東國北陸等攻上リシカバ。城ヲ落テ西國ヘ具シマイラセテ後。終ニ元暦二年三月廿四日ニ。長門國文字ノ關壇ノ浦ニテ。海ニ入テ失サセ給ヒンケリ。七歳。寶劒ハ沈ミテ失ヌ。神璽ハ筥浮テ返リマイリヌ。又内侍所ハ時忠取テ参リニケリ。此不思議ドモ細在二別帖一。』。.

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安和の変

安和の変(あんなのへん)は、平安時代の969年(安和2年)に起きた藤原氏による他氏排斥事件。謀反の密告により左大臣源高明が失脚させられた。.

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安田義定

安田 義定(やすだ よしさだ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。甲斐源氏の祖とされる源義光の孫源清光の子(清光の父義清の子とする説もある)。.

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安田義資

安田 義資(やすだ よしすけ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、鎌倉御家人。甲斐源氏の一族で、父は安田義定。.

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安法

安法(あんぽう、生没年不詳)は、平安時代中期の僧・歌人。俗名は源趁(みなもとのしたごう)。嵯峨源氏で左大臣・源融の曾孫にあたる。内蔵頭・源適の六男。母は大中臣安則の娘。中古三十六歌仙の一人。.

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寛遍

寛遍(かんぺん、康和2年(1100年) - 永万2年6月30日(1166年7月28日))は、平安時代後期の真言宗の僧。父は大納言源師忠。尊勝院大僧正・忍辱山大僧正とも称される。 山城国円教寺の寛蓮に師事して出家し、寛助に灌頂を受けた。その後大和国忍辱山円成寺を再興し、一字金輪法を日課とした。広隆寺別当・東寺長者・東寺法務・東大寺別当・仁和寺別当・円教寺別当を歴任し、1161年(応保元年)大僧正に至った。この間には、高野山大塔落慶供養の導師をつとめ、また、尊寿院を建立し、鳥羽天皇の皇后美福門院(藤原得子)が寄進した「御手印縁起」を尊寿院におさめた。事相にすぐれ、その後忍辱山流の祖とされる。 Category:平安時代の僧 Category:真言宗の僧 Category:村上源氏 Category:1100年生 Category:1166年没.

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寛朝

寛朝(かんちょう、かんじょう 『国史大辞典』、916年(延喜16年) - 998年7月13日(長徳4年6月12日))は、平安時代中期の真言宗の僧。父は宇多天皇の皇子敦実親王。真言声明の第一人者でもあった。洛外・広沢池ほとりの遍照寺の住持であったことから「広沢僧正」「遍照寺僧正」とも呼ばれた。 926年(延長4年)祖父宇多法皇の下で出家し、948年(天暦2年)寛空から灌頂を受けた。967年(康保4年)仁和寺別当を経て、貞元2年(977年)6月権律師、同10月権少僧都・法務、11月東寺三長者・西寺別当に補任、加えて広沢房を御願寺として別当に補せられたため、年に六度の賀ありと言われ、986年(寛和2年)真言宗では初めて、また、日本では三番目の大僧正に至った。この間、円融天皇が受戒する際の戒和尚を勤めている。989年(永祚元年)10月26日円融天皇の命により広沢湖畔に遍照寺を建立した。この際の供養の記事が藤原実資の日記小右記に載っており、円融法皇を始めとして多くの公卿が参列したことが分かる。密教の事相・教相に詳しく「金剛界次第」「不動次第」などを著している。また「理趣経」読誦の音調を整備するなど声明に通じ、東密声明中興の祖とされる。 平将門が関東で反乱を起こした際には自ら関東に下向し祈祷をした。その時に祈祷した不動明王を本尊として創建されたのが「成田不動」で有名な成田山新勝寺である。.

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寛意

寛意(かんい、康平5年(1062年) - 康和3年6月15日(1101年7月12日))は、平安時代後期の真言宗の僧。父は小一条院敦明親王の子敦貞親王。観音院僧都・宮僧都とも称される。.

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尊卑分脈

『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく、異体字で『尊卑分脉』とも)は、日本の初期の系図集。正式名称は『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(しんぺん さんず ほんちょう そんぴぶんみゃく けいふざつるい ようしゅう、旧字体:新編纂圖本朝尊卑分脈系譜雜類要集)、また『諸家大系図』(しょか だいけいず)あるいは単に『大系図』(だいけいず)とも呼ばれる。 姓氏調査の基本図書のひとつで、南北朝時代から室町時代初期に完成した。編者は洞院公定で、主に永和3年(1377年)から応永2年(1395年)にかけて編纂された。ただし、公定死後も養子満季、孫の実煕ら洞院家の人によって編集・改変・訂正・追加が行われた。室町時代以降、広く増補改訂されたため、異本が多く、30巻本・20巻本・14巻本が流布した。 成立当初は帝皇系図・神祇道系図・宿曜道系図を伴ったらしいが失われ、現存する部分は源平藤橘のうちいずれも長く宮廷社会の中枢にいた藤原・源の両氏に詳しい。直線で父系を結び、女性は后妃など極めて一握りの人を除き「女子」と省略されている。系図に名の見える男性官人には、実名とともに生母・官歴・没年月日と享年の注記を含む略伝が付され、貴重である。平安時代および鎌倉時代に関する記載は一級史料として採用される。 ただし当時の記録や公卿の日記に見える人物の名がなかったり、また逆に実在が疑わしい人物が記載されていたり、年代的におかしい部分もある(例えば平忠盛の娘が源義忠に嫁いだと書かれているが、これは忠盛の父平正盛の娘の誤り)等、一部信憑性に欠ける部分もあり、公定死後の部分や加筆された部分に関しては他の史料との整合性や比較批評が必要である。.

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小学館

株式会社小学館(しょうがくかん)は、東京都千代田区にある日本の総合出版社。系列会社グループの通称「一ツ橋グループ」の中核的存在である。.

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小笠原長清

小笠原 長清(おがさわら ながきよ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の甲斐国の武将。甲斐源氏の一族である加賀美遠光の次男。 信濃守護家小笠原氏、弓馬術礼法小笠原流の祖。.

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小早川景平

小早川 景平(こばやかわ かげひら)は、鎌倉時代初期の武将、安芸国沼田荘を支配した鎌倉幕府御家人。.

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山名義範

山名 義範(やまな よしのり)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。山名氏の祖。.

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山田重忠

山田 重忠(やまだ しげただ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。山田重満の次男。仮名は二郎。史料によっては重広、重定、重貞と記されるほか、泉重忠とも呼ばれる。承久の乱で宮方の武将として活躍した。尾張国星崎城主。.

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山田重満

山田 重満(やまだ しげみつ、生年不明 - 治承5年3月10日(1181年4月25日))は、平安時代末期の武将。浦野重直の長男。弟に彦坂重親、高田重宗(高田重家?)、白川重義、小島重平、足助重長らがあり、子に重義(泉太郎)、重忠がある。治部丞。号は山田太郎、和泉冠者など。諱は重光とも記される。 父より尾張国山田郡の所領を継承したほか「和泉」の地なども併せて領していたが、治承5年(1181年)の墨俣川の戦いで一族と共に源行家の軍勢に加勢し敗北、重満は高橋盛綱の弟・盛久に討ち取られた(『吾妻鏡』同年3月10日条)。.

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山本義経

山本 義経(やまもと よしつね)は、平安時代末期の武将。源義光の系譜を引く近江源氏。父は義光の長男で佐竹氏の祖となった源義業の次男山本義定。治承・寿永の乱の初期に近江国で挙兵した。本姓が源氏であるため正式な姓名は源義経であり、源頼朝の弟として有名な河内源氏の源義経と同姓同名であったため「義経二人説」で知られる。.

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岡本氏

岡本氏(おかもとし)は、日本の氏族。.

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岩倉宮忠成王

岩倉宮忠成王(いわくらのみやただなりおう、承久3年(1221年) - 弘安2年3月11日(1279年4月23日))は、鎌倉時代の皇族。順徳天皇の第五皇子。品位は無品。岩倉宮、広御所宮を号す。.

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岩倉家

岩倉家(いわくらけ)は、村上源氏久我家の流れを汲む公家の家柄。羽林家。新家。堂上源氏十家のひとつ。鎌倉幕府の源頼朝と対立した源通親の子孫である。村上源氏の名門ではあったが家禄は150石で、中級の公家だった。通字は「具」(とも)。.

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島津氏

島津氏(しまづし)は、日本の氏族。鎌倉時代から江戸時代まで続いた、薩摩を根拠地とする大名家のほかに、多数の分家がある。通字に「忠」「久」(初名も含めると基本的な通字は全時代を通じて「忠」の字が多く、江戸時代初期までは執権や将軍の偏諱を受けた場合に『「偏諱」+「久」』が多い。明治以降現在は嫡男に「忠」、次男に「久」)を用いる。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。本項は主に、薩摩の島津氏を主軸とした記述である。その他の島津氏についてはそれぞれ越前島津氏、信濃島津氏、若狭島津氏、江州島津氏などの項目または島津氏族の段を参照の事。.

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左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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上田萬年

上田 萬年(うえだ かずとし、1867年2月11日(慶応3年1月7日) - 1937年(昭和12年)10月26日)は、日本の国語学者、言語学者。東京帝国大学国語研究室の初代主任教授、東京帝国大学文科大学長や文学部長を務めた。小説家円地文子の父。教え子に新村出、橋本進吉、金田一京助、亀田次郎らがいる。また、文部省専門学務局長や、1908年に設置された臨時仮名遣調査委員会の委員等を務めた。1908年帝国学士院会員。.

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上野国

上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 常陸国・上総国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上野介であった類聚三代格。.

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中務省

中務省(なかつかさしょう)は、律令制における八省のひとつ。和名はナカノマツリゴトノツカサ。唐名は中書省など。「中」は禁中の意。.

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中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

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中院家

中院家(なかのいん け)は、大臣家の家格を持つ公家。村上源氏久我家支流。内大臣源通親(土御門通親)の五男通方を家祖とする。家名は、嫡流久我家の4代雅定が中院町(六条室町)に住んで中院右大臣と称したことに拠るが、狭義にはその曾孫通方から分かれた後を中院家と呼ぶ。またこれとは別に、村上源氏久我流の六条家から分かれた別系の中院家もあった。.

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中院通方

中院 通方(なかのいん みちかた)は、鎌倉時代前期の公卿、故実家で歌人。正二位・源通親の五男。中院家の祖とされている。土御門通方とも。.

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常明親王

常明親王(つねあき/つねあきらしんのう、延喜6年(906年) - 天慶7年11月9日(944年11月27日))は平安時代中期の皇族。醍醐天皇の第五皇子。母は女御・源和子。四品・刑部卿。初名は将明。.

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七条仏所

七条仏所(しちじょうぶっしょ/ななじょうぶっしょ)は、慶派の京都七条にあった仏所(仏師の工房)。定朝の子とされる覚助を祖とする。.

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三上参次

三上 参次(みかみ さんじ、慶応元年9月10日(1865年10月29日) - 1939年6月7日)は、日本史学者。.

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三幡

三幡(さんまん、文治2年(1186年) - 正治元年6月30日(1199年7月24日))は、鎌倉時代初期の女性。源頼朝と北条政子の次女(頼朝の子としては第5子で次女、政子の子としては第3子で次女)。三幡は字であり、通称は乙姫。大姫・頼家の妹で、実朝の姉にあたる。貞暁とは異母兄妹(もしくは異母姉弟)。.

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三条天皇

三条天皇(さんじょうてんのう、天延4年1月3日(976年2月5日) - 寛仁元年5月9日(1017年6月5日))は第67代天皇。諱は居貞(おきさだ / いやさだ)。享年42。在位は寛弘8年6月13日(1011年7月16日)から長和5年1月29日(1016年3月10日)まで。 冷泉天皇の第二皇子。母は摂政太政大臣藤原兼家の長女・贈皇太后超子。花山天皇の異母弟。.

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一幡

一幡(いちまん、建久9年(1198年) - 建仁3年9月2日(1203年10月8日))は、鎌倉幕府第2代征夷大将軍、源頼家の嫡男。母は比企能員の娘若狭局。公暁、栄実、禅暁は異母弟、竹御所は同母妹と考えられている。.

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一条天皇

一条天皇(いちじょう てんのう、天元3年6月1日(980年7月15日) - 寛弘8年6月22日(1011年7月25日))は、平安時代中期の第66代天皇(在位:寛和2年6月23日(986年8月1日) - 寛弘8年6月13日(1011年7月16日))。諱は懐仁(やすひと)。 円融天皇の第1皇子。母は藤原兼家の娘、詮子。兄弟姉妹はない。.

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一条忠頼

一条 忠頼(いちじょう ただより)は、平安時代末期の武将。甲斐国山梨郡一条郷を領し、一条氏と名乗った。.

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平家物語

『平家物語』(へいけものがたり)は、鎌倉時代に成立したと思われる、平家の栄華と没落を描いた軍記物語である。 保元の乱・平治の乱勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出している。平易で流麗な名文として知られ、「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しをはじめとして、広く知られている。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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平賀義信

平賀 義信(ひらが よしのぶ/源 義信 みなもと の よしのぶ)は、平安時代末期の河内源氏の武将。父は新羅三郎義光の四男で、平賀氏の祖である源盛義。諱は義宣とも。.

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平賀朝雅

平賀 朝雅(ひらが ともまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての鎌倉幕府の御家人。新羅三郎義光流で源氏門葉として源頼朝に重用された平賀義信の次男。母は頼朝の乳母である比企尼の三女。.

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平賀有義

平賀 有義(ひらが ありよし、生没年未詳)は、平安時代後期の武将。清和源氏。源義光流と源義家流の人物がいる(『尊卑分脈』)。.

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平氏

平氏(へいし、たいらうじ)は、「平」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。家紋は揚羽蝶、鱗など。 日本において皇族が臣下に下る(臣籍降下)際に名乗る氏の一つで、有名な桓武平氏を含め4つの流派がある。.

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平氏政権

平氏政権(へいしせいけん)は、平安時代末期(1160年代 - 1185年)に登場した平清盛を中心とする伊勢平氏による政権。清盛の館が京都六波羅にあったことから、六波羅政権ともいう。.

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久世家

久世家(くぜけ)は、村上源氏系の堂上公家の一つ。家格は羽林家(新家、外様)。江戸時代の家禄は200石。 久我家から分岐した公家諸家には、この久世家の他にも中院家・六条家・岩倉家・千種家・東久世家・梅渓家・愛宕家・植松家の8家がある。.

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久良親王

久良親王(ひさながしんのう/ひさよししんのう)は鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・皇族。土御門入道親王と称される。式部卿久明親王(鎌倉幕府第8代将軍)の二男。母は権中納言冷泉為相の娘。異母兄に守邦親王(鎌倉幕府第9代将軍)。無品王から従三位左中将を経て親王に復した。子は従一位・権大納言に至った源宗明。.

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久我家

久我家(こがけ)は、日本の氏族のひとつ。村上源氏(中院流)の総本家にあたる。貴族・公家・華族の家柄。公家としては清華家、華族としては侯爵家の家格を有した。源氏堂上十家のひとつ。家紋は竜胆紋のひとつである久我山竜胆こがやまりんどう/久我竜胆こがりんどう。 久我家が明治維新までに輩出した公卿の数は35名。うち内大臣まで昇った者6名、右大臣まで昇った者4名、太政大臣まで昇った者7名である。.

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久我通光

久我 通光(こが みちてる)は、鎌倉時代前期の公卿・歌人。内大臣・源通親の三男であるが、後鳥羽天皇の乳母・藤原範子所生のため嫡男の扱いを受ける事になった。範子の連れ子で異父姉の承明門院が土御門天皇を生んでいる。一般的には久我家の祖と考えられている。官位は従一位・太政大臣。後久我太政大臣と号す。新三十六歌仙の一人。.

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久明親王

久明親王(ひさあきしんのう/ひさあきらしんのう)は、鎌倉幕府8代征夷大将軍。第89代後深草天皇の第六皇子。.

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庭田家

庭田家(にわたけ)は宇多源氏の流れを引く堂上家(堂上源氏)。左大臣源雅信の子孫経資(正二位・権中納言)(1241年 - 没年不明)を祖とする。綾小路家の祖信有(正二位・権中納言)(1269年 - 1324年)は経資の弟に当たる。 家格は羽林家。鎌倉時代末期から南北朝時代の庭田重資(1306年 - 1389年)以降、権大納言を極官とする。代々の庭田家の女性は皇室及び伏見宮家に仕え、親王を産むこととなる。なお室町時代の後花園天皇(現在の皇室の先祖)及び伏見宮貞常親王(旧皇族11宮家の先祖)の生母である庭田幸子、後柏原天皇の生母である庭田朝子はそれぞれ庭田家の出身である(即ち、現在の皇室と旧皇族には庭田家の血が流れている)。また、戦国時代には本願寺顕如の生母を出した事から、本願寺(一向一揆)と諸大名の仲介役を行った事がある。江戸時代には大原家が分かれ出た。 家業は神楽。江戸時代の家禄は350石。明治維新後は重直が伯爵に叙せられた。.

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康助

康助(こうじょ、生没年不詳)は、平安時代後期の仏師。頼助の子とされる。法眼。.

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康子内親王

康子内親王(やすこないしんのう/こうしないしんのう、延喜19年(919年) - 天暦11年6月6日(957年7月10日)は、平安時代の皇族、藤原師輔の4番目の正妻とされる。一品、准三后。.

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康尚

康尚(こうしょう、生没年未詳)は、平安時代中期の仏師。「仏師職の祖」と称される。光孝源氏で、日向守・源康行の子。定朝の父。 官人として従五位下・尾張介に至るが出家。 康尚が最初どのような仏所組織に属していたかは不明だが、やがて寺院付属の工房から離れ私立の工房を形成、定朝をはじめ多くの弟子を抱える専業的な造像体制を確立し、皇室、摂関家などの造寺発願や、高野山、比叡山などで造仏に従事した。.

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康弁

康弁(こうべん)は鎌倉時代の仏師。運慶の三男。生没年未詳。伝記も不明の部分が多い。父に従って、東寺南大門の金剛力士(仁王)像(現存せず)や興福寺北円堂諸像の分担制作を行った他、興福寺の「天燈鬼・龍燈鬼立像」を制作した。.

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康勝

康勝(こうしょう、生没年不詳)は、日本の鎌倉時代の仏師。運慶の四男。湛慶は兄。慶派。.

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康運

康運(こううん、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての慶派仏師。法橋(一説に法印とも伝えられる)。運慶の次男とされる。生没年不詳だが、一説には嘉禎2年(1236年)10月卒去と伝えられる。.

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康朝

康朝(こうちょう、生没年未詳)は、平安時代の奈良仏師。 従来の慣習にとらわれない異質で革新的な仏像を製作した。父は康助、子に成朝、慶派の康慶は弟子。.

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康慶

康慶(こうけい、生没年不詳)は、平安時代末期 - 鎌倉時代初期の仏師。運慶の父。平重衡の南都焼き討ち(治承4年(1180年))後の復興造仏の中心人物として活躍し慶派の基礎を築いたが、詳しい経歴には不明の部分が多い。.

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人康親王

人康親王(さねやすしんのう)は、平安時代初期から前期にかけての皇族。仁明天皇の第四皇子。光孝天皇の同母弟。官位は四品・弾正尹。山科宮と号す。.

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二十一流

二十一流(にじゅういちりゅう)または源氏二十一流(げんじにじゅういちりゅう)は、源氏の21の系統。.

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二条道平

二条 道平(にじょう みちひら)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期の公家。摂政・関白二条兼基の子。官位は従一位・関白・左大臣。号に後光明照院関白。.

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二条院讃岐

二条院讃岐 - 土佐光貞画 芝山持豊筆 文化五年版百人一首 二条院讃岐(にじょういんのさぬき、生没年不詳:1141年(永治元年)頃 - 1217年(建保5年)以降)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての歌人である。女房三十六歌仙の一人。父は源頼政。母は源斉頼の娘。同母兄に源仲綱があり、従姉妹に宜秋門院丹後がある。内讃岐、中宮讃岐とも称される。.

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広幡家

廣幡家(ひろはたけ、新字体:広幡)は、清華家(新家、内々)の家格をもつ公家。桂宮家の分家。本姓は源氏。家系は正親町源氏で、豊臣秀吉の猶子となった八条宮智仁親王から始まる八条宮家の流れをくむ。 家紋は十六葉裏菊。官位は従一位内大臣を極官とした。江戸時代の家禄は500石(当初は1000石)。 廣幡家が明治維新までに出した公卿の数は8名。うち内大臣まで昇った者5名、大納言まで昇った者3名である。.

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広平親王

広平親王(ひろひらしんのう、天暦4年(950年) - 天禄2年9月10日(971年10月1日))は平安時代の皇族で村上天皇第一皇子。母は大納言藤原元方の娘の更衣藤原祐姫。同母妹に緝子内親王がいる。 誕生直後、同年生まれで右大臣藤原師輔の娘で中宮安子が生んだ異母弟で第二皇子の憲平親王と東宮の地位を争ったが、外戚の力関係で憲平親王が立太子し、後の冷泉天皇となる。 外祖父元方は無念の思いで天暦7年(953年)に病死する。後ろ盾を失った広平親王は政界では蚊帳の外に置かれた。963年(応和3年)に元服し、三品に叙任され、のち兵部卿などを歴任したが、971年に22歳で没する。後代、元方と広平親王の恨みが冷泉天皇とその子である花山天皇の奇行や三条天皇の病となって現れたと噂された。.

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広沢義実

広沢 義実(ひろさわ よしざね、生没年不詳)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。通称を広沢判官代といい、矢田義実、足利義実とも記される。仁木氏、細川氏、戸賀崎氏(戸崎氏)の祖。 河内源氏義国流。足利氏の一族源義清 (矢田判官代)の次男。子は仁木実国、細川義季、戸賀崎(戸崎)義宗。.

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五位

五位(ごい)とは、仏教においてあらゆる事象を5種類の範疇(カテゴリー)に分類して、人間の精神や物質など全ての現象の要素(法、もしくは ダルマ)をまとめたもの。五法(ごほう)・五品(ごほん)などとも。.

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五辻家

五辻家(いつつじけ)は、半家の家格を持つ公家(堂上家)。家系は宇多源氏庭田同祖。源時方(ときまさ)を祖とし、鎌倉時代初期の五辻仲兼以降に五辻家を称する。極官は従二位、非参議。家業は神楽。旧家。江戸時代の家禄は200石。居所は西殿町北側。菩提寺は洛東西方寺。 家祖の時方は左大臣・源雅信の子だが、五位少将まで昇進するも若くして卒去。その後、子孫は受領となり代々五位止まりであった。 鎌倉時代初期の仲兼は四ヶ国の国司を務め従四位上まで昇進し、この頃より五辻の家号を称するようになった。 仲兼以降は蔵人や北面武士を務める地下家だったが、室町時代末期の天文7年(1538年)に五辻諸仲が従三位に叙せられて、堂上家に加わる。 明治維新後、安仲が子爵に叙せられた。 支流に、明治維新後興福寺明王院住職から還俗した文仲が興した奈良華族の西五辻家、仲兼の孫・仲清を祖とする慈光寺家及び、その庶流の中川家(二条家諸大夫)・三木家(伏見宮家諸大夫)、時方の玄孫にあたる仲親の子・仲康を祖とする春日家(久我家諸大夫)がある。.

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五胡十六国時代

五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)は、中国の時代区分のひとつ。304年の漢(前趙)の興起から、439年の北魏による華北統一までを指す。五胡十六国(ごこじゅうろっこく)は、当時、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。十六国とは北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づくものであり、実際の国の数は16を超える。 後漢末期から北方遊牧民族の北方辺境への移住が進んでいたが、西晋の八王の乱において諸侯がその軍事力を利用したため力をつけ、永嘉の乱でそれを爆発させた。.

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亀山天皇

亀山上皇像(福岡市博多区、東公園) 亀山天皇(かめやまてんのう、建長元年5月27日(1249年7月9日) - 嘉元3年9月15日(1305年10月4日))は、鎌倉時代の第90代天皇(在位:正元元年11月26日(1260年1月9日) - 文永11年1月26日(1274年3月6日))。諱は恒仁(つねひと)。 後嵯峨天皇の第七皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。后腹では後深草天皇に次ぐ次男。大覚寺統の祖。父母から鍾愛され、兄の後深草天皇を差し置いて治天の君となり、やがて亀山系の大覚寺統と後深草系の持明院統との対立が生じる端緒となった。.

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今川氏

今川氏(いまがわうじ)は、日本の武家。本姓は源氏で、家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏御一家・吉良家の分家にあたる。吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有しており、斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあった。今川家はその分家として、駿河の守護に代々任命された。さらに遠江守護家も分流する。初期の分家である今川関口家は幕府の奉公衆であった。.

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仁寛

仁寛(にんかん、生年不詳 - 永久2年3月23日(1114年4月29日))は、立川流の創始者とされる僧である。のちに改名して蓮念(れんねん)と名乗った。.

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仁明天皇

仁明天皇(にんみょうてんのう、弘仁元年(810年) - 嘉祥3年3月21日(850年5月6日)、在位:天長10年3月6日(833年3月30日) - 嘉祥3年3月19日(850年5月4日))は、平安時代初期の第54代天皇。諱は正良(まさら)。 嵯峨天皇の第二皇子。母は橘清友の娘、皇后橘嘉智子(檀林皇后)。正子内親王は同父母の妹でありかつ同年の生まれのため、双子の妹と推測される。.

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仏師

仏師(ぶっし)は、彫刻家の中で特に仏像を専門に作る者を指す。.

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代明親王

代明親王(よしあきらしんのう)は平安時代中期の皇族。第60代醍醐天皇の第三皇子。母は更衣藤原鮮子。官位は三品中務卿。.

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以仁王

以仁王(もちひとおう、仁平元年(1151年) - 治承4年5月26日(1180年6月20日))は、平安時代末期の皇族。後白河天皇の第三皇子。「以仁王の令旨」を出して源氏に平氏打倒の挙兵を促した事で知られる。邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮、高倉宮と称された。.

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以仁王の挙兵

以仁王の挙兵(もちひとおうのきょへい)は、治承4年(1180年)に高倉天皇の兄宮である以仁王と、源頼政が打倒平氏のための挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発した事件。 計画は準備不足のために露見して追討を受け、以仁王と頼政は宇治平等院の戦いで敗死、早期に鎮圧された。しかしこれを契機に諸国の反平氏勢力が兵を挙げ、全国的な動乱である治承・寿永の乱が始まる。以仁王の乱、源頼政の挙兵とも呼ばれる。.

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仲恭天皇

仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう、建保6年10月10日(1218年10月30日) - 天福2年5月20日(1234年6月18日))は、鎌倉時代の第85代天皇(在位:承久3年4月20日(1221年5月13日) - 承久3年7月9日(1221年7月29日))。諱は懐成(かねなり)。 順徳天皇の第四皇子。母は、九條良経の娘、中宮・立子(東一条院)。.

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伏見天皇

伏見天皇(ふしみてんのう、文永2年4月23日(1265年5月10日) - 文保元年9月3日(1317年10月8日))は日本の第92代天皇(在位:弘安10年10月21日(1287年11月27日) - 永仁6年7月22日(1298年8月30日))。諱は熈仁(ひろひと)。書道の伏見院流の祖、京極派の有力歌人としても知られる。 後深草天皇の第二皇子。母は、左大臣洞院実雄の娘、愔子(玄輝門院)。.

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式明親王

式明親王(のりあきらしんのう、延喜7年(907年) - 康保3年12月17日(967年1月30日))は、平安時代中期の皇族。醍醐天皇の第六皇子。官位は三品・中務卿。.

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住蓮

住蓮(じゅうれん、生年不詳 - 建永2年2月9日(1207年3月9日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての法然門下の浄土宗の僧。大和源氏の流れを汲む東大寺の僧実遍を父として生まれる。.

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佐々木氏

佐々木氏(ささきし)は、日本の氏族のひとつ。家系は宇多天皇の第8皇子・敦実親王の流れをくむ宇多源氏、源成頼の孫・佐々木経方を祖とする一族。近江国蒲生郡佐々木荘を発祥に、軍事貴族として繁栄した。後に源平合戦(治承・寿永の乱)で活躍し全国に勢力を広げた。.

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佐竹秀義

佐竹 秀義(さたけ ひでよし)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。清和源氏義光流。源義光(新羅三郎)の孫の源昌義が常陸国佐竹郷に住んで、佐竹を号したことに始まる佐竹氏第3代当主。2代当主佐竹隆義の三男。長兄・義政が金砂城の戦い以前に上総広常により謀殺され、次兄の義清は庶子のために、その嫡男となった。.

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佐竹隆義

佐竹 隆義(さたけ たかよし)は平安時代末期の武将。佐竹氏の第2代当主。新羅三郎源義光の曾孫で、初代当主・佐竹昌義の三男。母は藤原清衡女。.

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佐竹氏

佐竹氏(さたけし)は、日本の氏族のひとつ。日本の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れをくみ、新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の嫡流。武田氏に代表される甲斐源氏と同族である。通字は「義」。佐竹氏は家紋として定紋の「扇に月」(一般的には日の丸扇と呼ばれている)の他に、源氏香(花散里)・笹竜胆・佐竹桐・丸に釘貫・丁子巴・鉄線を加えた七つの家紋を「御当家七ッ御紋」としている。源氏から中近世大名、華族として明確な系譜として現代まで残った中ではもっとも大きな流れの一つである。.

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佐竹昌義

佐竹 昌義(さたけ まさよし)は、平安時代後期の武将。清和源氏義光流、源義業(進士判官)の子。佐竹氏の祖。 嘉承元年(1106年)の常陸合戦の際には祖父の義光・父の義業、外祖父の大掾重幹とともに下野を地盤とする従父の源義国と戦い、義国の勢力の常陸への浸透を防いだ。義国は足利氏・新田氏の祖であり、以降、両氏は下野・上野にそれぞれ勢力基盤を築いている。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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徳川家光

徳川 家光(とくがわ いえみつ)は、江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)。2代将軍秀忠の次男(嫡男)である。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江。乳母は春日局(福)、乳兄弟に稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利がいる。 15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみである。.

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徳川氏

徳川氏(とくがわし/とくがわうじ、)は、徳川家康が創始した日本の氏族。新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称した際に嘉字を用いて徳川と称したことが始まりとなり、江戸幕府将軍家と親族の家名とした。しかし『徳川家譜』に記される家系に関しては『尊卑分脈』の該当記録に似通った流れはあるものの、当代史料による検証がならず、得川氏と家康の家系との同一性は実証できていない。.

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徽子女王

徽子女王(きし(よしこ)じょおう、延長7年(929年) - 寛和元年(985年))は平安時代中期の皇族、歌人。式部卿宮・重明親王の第1王女(醍醐天皇の皇孫)。母は藤原忠平の次女・寛子。朱雀天皇朝の伊勢斎宮、のち村上天皇女御。斎宮を退下の後に女御に召されたことから、斎宮女御と称され、また承香殿女御、式部卿の女御とも称された。三十六歌仙および女房三十六歌仙の1人。.

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後三条天皇

大炊御門万里小路殿址、源高房、後三条天皇はこの地で崩御、京都府京都市中京区富小路通夷川上る西側 後三条天皇(ごさんじょうてんのう、長元7年7月18日(1034年9月3日) - 延久5年5月7日(1073年6月15日))は、第71代天皇(在位:治暦4年4月19日(1068年5月22日) - 延久4年12月8日(1073年1月18日))。諱は尊仁(たかひと)。宝算40。 後朱雀天皇の第二皇子。母は三条天皇第三皇女・皇后禎子内親王(陽明門院)。後冷泉天皇の異母弟。宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇である(ただし、生母の禎子内親王は藤原道長の外孫である)。.

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後一条天皇

後一条天皇(ごいちじょうてんのう、寛弘5年9月11日(1008年10月12日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))は、平安時代中期の第68代天皇(在位:長和5年2月7日(1016年3月18日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))。諱は敦成(あつひら)。一条天皇の第二皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母弟に後朱雀天皇。.

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後嵯峨天皇

後嵯峨天皇(ごさがてんのう、承久2年2月26日(1220年4月1日) - 文永9年2月17日(1272年3月17日))は、鎌倉時代の第88代天皇(在位:仁治3年1月20日(1242年2月21日) - 寛元4年1月29日(1246年2月16日))。諱は邦仁(くにひと)。 土御門天皇の皇子。母は、源通宗の娘、通子。.

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後冷泉天皇

後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう、万寿2年8月3日(1025年8月28日) - 治暦4年4月19日(1068年5月22日))は、日本の第70代天皇(在位:1045年 - 1068年)。後朱雀天皇の第一皇子。母は藤原道長女藤原嬉子(贈皇太后)。諱を親仁(ちかひと)。紫式部の娘大弐三位が乳母である。.

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後白河天皇

後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。.

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後鳥羽院宮内卿

宮内卿(くないきょう)または後鳥羽院宮内卿(ごとばのいんくないきょう、生没年不詳)は、鎌倉時代初期の歌人である。新三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。父は右京権大夫源師光(大納言師頼の子)、母は後白河院の女房安芸。兄に源泰光、源具親がいる。 後鳥羽院宮内卿 - 寛文年間 清原雪信.

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後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.

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後深草天皇

後深草天皇(ごふかくさてんのう)は、鎌倉時代中期の第89代天皇(在位:寛元4年1月29日(1246年2月16日) - 正元元年11月26日(1260年1月9日))。諱は久仁(ひさひと)。 後嵯峨天皇の皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。持明院統の祖。父母が自身より弟の亀山天皇を寵愛し、亀山天皇を治天の君としたことに不満を抱き、やがて後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立が生じる端緒となった。.

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後朱雀天皇

後朱雀天皇(ごすざくてんのう、寛弘6年11月25日(1009年12月14日) - 寛徳2年1月18日(1045年2月7日))は、平安時代中期の第69代天皇(在位:長元9年4月17日(1036年5月15日) - 寛徳2年1月16日(1045年2月5日))。諱は敦良(あつなが)。 一条天皇の第三皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母兄に後一条天皇。.

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得川義季

得川 義季/世良田 義季(とくがわ よしすえ/せらだ よしすえ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期頃にかけての武士・御家人。得川氏・世良田氏の祖。のちに徳川家康によって、徳川氏・松平氏の遠祖とみなされる。また名字の表記について「得川(徳川)」か「世良田」かで論争がある。.

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従五位

従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.

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従四位

従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.

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待賢門院堀河

小倉百人一首80番 待賢門院堀河 待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ、生没年不詳)は、平安時代後期の歌人である。女房三十六歌仙・中古六歌仙の一人。父は神祇伯・源顕仲。姉妹に、顕仲卿女(重通妾)、大夫典侍、上西門院兵衛がいる。前斎院六条とも呼ばれる。.

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俊寛

俊寛の墓(喜界島) 俊寛(しゅんかん、康治2年(1143年) - 治承3年3月2日(1179年4月10日))は平安時代後期の真言宗の僧。僧位の「僧都」を冠して俊寛僧都(しゅんかん そうず)と呼ばれることも多い。 村上源氏の出身で、父は木寺(仁和寺院家)の法印寛雅、母は宰相局(源国房の娘で八条院暲子内親王の乳母)。姉妹に大納言局(八条院女房で平頼盛の妻)。.

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俊恵

俊恵(しゅんえ、永久元年(1113年) - 建久2年(1191年)頃?)は、平安時代末期の僧・歌人。父は源俊頼。母は橘敦隆の娘。早くに東大寺の僧となり、俊恵法師とも呼ばれる。 十七歳のときに父と死別してから、約二十年もの間、作歌活動から遠ざかっていた。現在、俊恵作と伝えられている歌は千百首あまりであるが、その多くは四十歳以降に詠まれたものである。白川の自坊を「歌林苑」と名付け、そこに藤原清輔・源頼政・殷富門院大輔など多くの歌人を集めてさかんに歌会・歌合を開催し、衰えつつあった当時の歌壇に大きな刺激を与えた。鴨長明の師で、その歌論は『無名抄』などにもみえる。 風景と心情が重なり合った象徴的な美の世界や、余情を重んじて、多くを語らない中世的なもの静かさが漂う世界を、和歌のうえで表現しようとした。同じく幽玄の美を著そうとした藤原俊成とは事なる幽玄を確立したといえる。 「詞花和歌集」以下の勅撰集に入集。「歌苑抄」「歌林抄」などの選集を編集し、家集には「林葉和歌集」がある。 なお、無名抄の俊成自讃歌事によると、自らの自讃歌は、 み吉野の 山かき曇り 雪ふれば ふもとの里は うちしぐれつつ(新古今和歌集 冬) で「もし世の末におぼつかなく云ふ人もあらば、かくこそいひしかと語り給へ」とある。.

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保明親王

保明親王(やすあきらしんのう、延喜3年11月20日(903年12月16日) - 延喜23年3月21日(923年4月14日))は、平安時代の皇族。醍醐天皇の第二皇子でその皇太子となる。母は藤原穏子(藤原基経の娘)。朱雀天皇・村上天皇の同母兄。初名は崇象(むねかた)。諡は文献彦太子。.

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忠良親王

忠良親王(ただよししんのう、弘仁10年(819年) - 貞観18年2月20日(876年3月19日)は、平安時代初期から前期にかけての皇族。嵯峨天皇の第四皇子。官位は二品・式部卿。.

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忠房親王

忠房親王(ただふさしんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の皇族・公卿。親王宣下を受けるまでは源 忠房と記される。順徳天皇の曾孫。正三位・源彦仁の子。臣籍時の官位は従二位・権中納言。.

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信実

信実(しんじつ、生没年未詳)は、平安時代末期の僧侶。父は大和源氏の源頼安(法華経太郎)。頼兼、義忠の兄、玄実、仲房(大和越智氏の祖)、頼清の父(奈良県史所収『越智氏略系図』と戦国大名系譜人名事典所収『越智氏系図』)。 興福寺の権寺主、寺主、上座を歴任し、別当の覚晴の死後は寺務を掌握する。「日本一悪僧武勇」と称され、大和国内にて同族の源親治と抗争した他、天養2年(1145年)には興福寺の大衆を率いて金峯山を襲撃するなど、武装化傾向を強める興福寺の中にあって中心的な役割を果たした。 藤原忠実、頼長父子との関係が深く、保元元年(1156年)の保元の乱においては崇徳上皇方に加勢する。上皇方が敗北した後は、南都に逃れてきた忠実を尋範・千覚らとともに守護し、朝廷から挙兵の疑いをかけられたという。このため、乱の直後は所領を没収されたが、保元3年(1158年)には法橋に任ぜられており、依然として朝廷から一目置かれる存在であったことが窺える。 Category:平安時代の僧 Category:大和源氏 Category:越智氏.

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快誉

快誉(かいよ、長元9年(1036年) - 天永3年8月14日(1112年9月6日))は、平安時代末期(院政期)の僧侶。源頼義の庶長子あるいは四男。園城寺に出家し、西蓮房阿闍梨、伊予阿闍梨と号す。兄あるいは弟に源義家、義綱、義光がいる。 特に義光と関係が懇意であり、天仁2年(1109年)に義光が甥の義忠を暗殺(源義忠暗殺事件)した際にはその計画と実行に深く関わったと伝わる。義忠暗殺の下手人である平成幹(鹿島三郎)は、暗殺実行の後この快誉の下に身を潜めるよう義光から指示を受けていたが、快誉は成幹を受け入れると生き埋めにして殺してしまった。これは事件の口封じのために、義光・快誉兄弟があらかじめ示し合わせた上での所業であったとされる。 Category:平安時代の僧 Category:河内源氏 Category:1036年生 Category:1112年没.

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土岐光衡

土岐 光衡(とき みつひら)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。美濃源氏嫡流である土岐氏。伯耆守源光長の三男。鎌倉幕府御家人。.

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土岐氏

土岐氏(ときし)は、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏流摂津源氏系美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた軍事貴族の系統。 南北朝時代から戦国時代にかけて美濃国守護を務めるとともに室町幕府の侍所頭人として五職家の一角を占め、最盛期には美濃、尾張、伊勢の3か国の守護大名となった。戦国時代には近江の六角氏、京極氏、越前の朝倉氏・尾張の織田氏・伊勢の北畠氏など周辺大名と争うも、斎藤道三の下克上により没落した。庶流にあたる明智光秀・浅野長政・土岐定政(菅沼藤蔵)らは戦国武将として各地の大名に仕え頭角を現し、江戸時代には浅野家、土岐定政家が大名として存続した。.

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土御門定通

土御門 定通(つちみかど さだみち)は、鎌倉時代前期から中期の公卿。源通親の四男。村上源氏土御門家の祖。.

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在原氏

在原氏(ありはらうじ/ありわらうじ)は、「在原」を氏の名とする氏族。 平城天皇皇子の阿保親王・高岳親王が臣籍降下したことに興る皇別氏族(賜姓皇族参照)。「在原」とは、『詩経』小雅「常棣」の中にある“脊令在原 兄弟急難(脊令(セキレイ)、原にありて、兄弟(けいてい)難を急にす)”の句から取ったと言われている(仁平道明説)。 一般に知られるのは阿保親王流で、賜姓に与った行平・業平兄弟の子孫が栄えた。.

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北畠家

北畠家(きたばたけけ、または北畠氏(きたばたけし))は、公家の一つ。村上源氏中院家庶流。武家としての通字は「具(とも)」。 南北朝時代に南朝の忠臣として重きをなし、伊勢国に進出して南北朝合一後も国司として勢力を保ち、公家大名、戦国大名として戦国時代まで命脈を保った「三国司家」『世界大百科事典』。また、大名化しても公家としての意識は持ち続け、伊勢国司家の歴代当主の花押は武家ではなく公家のものであった (三重県HP)。 なお、明治維新後、北畠家の家名は中院流久我家の分家として再興され、男爵に叙されている。.

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北魏

北魏(ほくぎ、、386年 - 534年)は、中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国。前秦崩壊後に独立し、華北を統一して五胡十六国時代を終焉させた。 国号は魏だが、戦国時代の魏や三国時代の魏などと区別するため、通常はこの拓跋氏の魏を北魏と呼んでいる。また三国時代の魏は曹氏が建てたことからこれを曹魏と呼ぶのに対して、拓跋氏の魏はその漢風姓である元氏からとって元魏(げんぎ)と呼ぶこともある(広義には東魏と西魏もこれに含まれる)。さらに国号の由来から、曹魏のことを前魏、元魏のことを後魏(こうぎ)と呼ぶこともある。.

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リンドウ

リンドウ(竜胆)とは、リンドウ科リンドウ属の多年生植物である。1変種 をさすことが多いが、近縁の他品種や他種を含む総称名のこともある。 古くはえやみぐさ(疫病草、瘧草)とも呼ばれた。.

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嵯峨天皇

嵯峨天皇(さがてんのう、延暦5年9月7日(786年10月3日) - 承和9年7月15日(842年8月24日))は、日本の第52代天皇(在位:大同4年4月1日(809年5月18日) - 弘仁14年4月16日(823年5月29日))。 諱は神野(賀美能・かみの)。 桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子(檀林皇后)。 嵯峨天皇宸翰『哭澄上人詩』部分(最澄の死を悼む詩)釈文:(香煙は)像爐に(続く) 蒼生橋梁に少なく 緇侶(しりょ)律儀疎(うと)し 法軆何ぞ久しく住(とど)まらん 塵心傷みて餘り有り.

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嵯峨源氏

嵯峨源氏(さがげんじ)は、第52代嵯峨天皇の皇子・皇女を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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善統親王

善統親王(よしむねしんのう、貞永2年(1233年) - 文保元年3月29日(1317年5月10日))は、鎌倉時代の皇族 - コトバンク。四辻宮初代。子孫は源氏を賜姓され順徳源氏となった。 順徳天皇の第六皇子で、母は藤原範光の娘(督典侍)。兄弟に仲恭天皇、岩倉宮忠成王、尊覚法親王、覚恵法親王らがいる。子に尊雅王、孫には左大臣源善成(四辻善成)がいる。.

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周防国

周防国(すおうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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カバネ

姓(カバネ、可婆根)は、古代日本の大和王権において、大王(おおきみ、天皇)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示す称号である。 以下、特別の補足がない限り「氏」は「うじ」、「姓」は「かばね」と読む。.

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冷泉天皇

冷泉天皇(れいぜいてんのう、天暦4年5月24日(950年6月12日)- 寛弘8年10月24日(1011年11月21日)、在位:康保4年10月11日(967年11月15日) - 安和2年8月13日(969年9月27日))は、日本(平安時代中期)の第63代天皇。村上天皇の第二皇子で、諱は憲平(のりひら)。母は藤原師輔の娘・中宮安子。円融天皇の同母兄。.

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円融天皇

円融天皇(えんゆうてんのう、天徳3年旧3月2日(959年4月12日) - 正暦2年旧2月12日(991年3月1日); 在位:安和2年旧9月23日(969年11月5日) - 永観2年旧8月27日(984年9月24日))は、第64代天皇。諱は守平(もりひら)。 村上天皇の第五皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘・中宮安子。冷泉天皇の同母弟。.

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内匠寮

内匠寮(ないしょうりょう)は、律令制において中務省に属する令外官の一つである。訓読みは「たくみりょう」・「うちたくみのつかさ」など。また、近代の宮内省に設置された内部部局の一つ。.

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出家

出家(しゅっけ、pabbajja、pravrajyaa、प्रव्रज्या) とは、師僧から正しい戒律である『沙弥戒』や『具足戒』を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教に入ることである。落飾(らくしょく)ともいう。対義語は還俗(げんぞく、“俗界に還る”の意)。 在家(ざいけ)と対比される。インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行にいそしんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、釈迦もその沙門の1人であった。 仏教における出家の伝統はこれに由来する。仏教教団において剃髪(ていはつ)して袈裟を被い、「正式に受戒(じゅかい)して入門した沙弥や沙弥尼」になることを言うが、その後、「具足戒を受けて正規の僧となった比丘や比丘尼」を呼ぶ場合にも使う。.

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出雲源氏

出雲源氏(いずもげんじ)は、鎌倉時代以降に出雲国を本拠として土着した源氏の流れを汲む一族の呼称。宇多源氏佐々木氏流に属し、近江源氏の分流にあたる。雲州源氏(うんしゅうげんじ)とも呼ばれる。家紋は佐々木流として珍しく「四つ目結い」を使わず(一部例外あり)、「花輪違い」を使うなどの特徴がある。出雲国神門郡塩冶郷(現 島根県出雲市)を本拠として発祥し、のち能義郡(現 安来市)に本拠が移った。.

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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公胤

公胤(こういん、久安元年(1145年)- 建保4年閏6月20日(1216年8月5日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての天台宗の僧・歌人。村上源氏出身で、父は中院右少将源憲俊。号は明王院。従兄弟に俊寛がいる。 園城寺(三井寺)に入って叔父行顕に天台・密教を学び、阿闍梨となる。1183年(寿永2年)律師に任じられている。源氏将軍家の帰依を受け、度々鎌倉に下向した。後に北条政子の願いにより源頼家の遺児である公暁を弟子として預かった。一方で後鳥羽上皇の信望も厚く、園城寺長吏・法勝寺別当・僧正に任じられている。当初は1198年(建久9年)法然が「選択本願念仏集」を著したとき、これを批判した「浄土決疑抄」を著した。曹洞宗の祖道元に臨済宗の栄西への入門を勧めたことでも知られる。 歌人でもあり、『新古今和歌集』に1首(歌番号1935)入集している。.

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公暁

公暁(くぎょう、こうきょう、正治2年(1200年) - 建保7年1月27日(1219年2月13日))は、鎌倉時代前期の僧侶。鎌倉幕府2代将軍源頼家の次男(尊卑分脈等)または三男(『鶴岡八幡宮寺社務職次第』等)。 母は吾妻鏡によれば足助重長(加茂重長)の娘(源為朝の孫娘)、尊卑分脈等によれば一幡の母と同じく比企能員の娘、ある源氏系図(縣篤岐本『源氏系図』)によれば三浦義澄の娘。一幡とは異母兄弟または同母兄弟、栄実、禅暁は異母弟、竹御所は異母妹にあたる。幼名は善哉(ぜんざい)。 叔父である第3代将軍源実朝を「父の仇」として暗殺したが、自身も直後に討ち取られた(なお、公暁は実朝の猶子であったため、義理の父親を殺害したことになる)。 名前の読みは「くぎょう」とされてきたが、近年は「こうきょう」である可能性が高いとされている。.

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六条家

六条家(ろくじょうけ)は、羽林家の家格を有する公家。村上源氏久我家庶流。太政大臣・久我通光の五男・六条通有を家祖とする。家名は、2代・有房が京都六条に住した事による。歌道家として著名な六条藤家は別系(藤原北家末茂流)である。.

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六条斎院宣旨

六条斎院宣旨(ろくじょうさいいんのせんじ、長保頃 - 寛治6年2月22日(1092年))は、平安時代後期の女流歌人・作家。父は源頼国。兄弟に頼弘、頼資、頼実、実国、頼綱、国房、師光らがある。六条斎院(禖子内親王)家女房。 主家である禖子内親王家で催された「六条斎院歌合」に16度出詠したことが確認される。はじめ藤原高定の妻となったが、後に源隆国と再婚したものと推測されている。天喜3年(1055年)の「六条斎院禖子内親王家物語合」では物語「玉藻に遊ぶ権大納言」を提出した。また『狭衣物語』の作者であると考えられている。 その詠歌は『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に入集している。.

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具平親王

具平親王(ともひら しんのう)は、平安時代中期の皇族。第62代村上天皇の第七皇子、母は女御荘子女王(醍醐天皇の第三皇子代明親王の次女)。官位は二品・中務卿。後中書王(のちの ちゅうしょ おう)、千種殿(ちぐさ どの)、六条宮(ろくじょうの みや)左京六条に営んだ豪邸に因む。の通称がある。.

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兼明親王

兼明親王(かねあきらしんのう)は、平安時代中期の公卿、皇族。 醍醐天皇の第十六皇子。朱雀天皇・村上天皇・源高明の異母兄弟にあたる。一時期臣籍降下して源 兼明(みなもと の かねあきら)と名乗ったが、晩年になって皇籍に復帰し中務卿となったことから中書王(ちゅうしょおう)あるいは前中書王(さきの ちゅうしょおう)と呼ばれる。「後中書王」と呼ばれた甥の具平親王と共に並び称される博学多才の主で、藤原佐理・藤原行成と共に三蹟の一人に数えられる場合もある。.

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元利親王

元利親王(もととししんのう、生年不詳 - 応和4年6月17日(964年7月28日))は平安時代中期の皇族。陽成天皇の第四皇子。母は姣子女王。 延喜17年(917年)4月29日、同母兄弟の元長親王とともに元服する。天暦元年(947年)頃に上野太守に任官。その他兵部卿・式部卿を経て、三品・弾正尹に至った。応和4年(964年)6月17日に薨去。邸宅は上東門の北、富小路の東に位置していたが、承平5年(935年)正月22日の夜に火災により焼失した。.

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元良親王

元良親王(もとよししんのう、890年(寛平2年) - 943年9月3日(天慶6年7月26日))は、平安時代中期の皇族、歌人。三品兵部卿にまで昇った。 陽成天皇の第1皇子で、父帝の譲位後に生まれた。母は藤原遠長の娘。同母弟に元平親王。異母兄は源清蔭。妻室には、神祇伯藤原邦隆女・修子内親王(醍醐天皇皇女)・誨子内親王(宇多天皇皇女)らがいる。子に佐材王・佐時王・佐頼王・佐兼王・源佐芸・源佐平・源佐親らがいた。 延喜3年(903年)及び延喜7年に、当年巡給により年給を賜る。延長7年(929年)10月、彼の四十の算賀に際して妻の修子内親王は紀貫之に屏風歌を作らせた。承平6年(936年)3月、右大臣藤原仲平らともに醍醐寺に塔の心柱を施入した。天慶6年7月26日に薨去。 色好みの風流人として知られ大和物語や今昔物語集に逸話が残るが、とくに宇多院の妃藤原褒子との恋愛が知られる。 後撰和歌集に20首入集した他、『元良親王集』という歌集も後世になって作られている。 Category:日本の親王 Category:平安時代の男性皇族 Category:平安時代の歌人 Category:小倉百人一首の歌人 Category:890年生 Category:943年没.

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元海

元海(げんかい、寛治7年(1093年)- 保元元年8月18日(1156年9月4日))は、平安時代後期の真言宗の僧。父は大納言源雅俊。松橋大僧都とも称される。.

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兵部省

兵部省(ひょうぶしょう、つわもののつかさ)はかつて日本にあった軍政(国防)を司る行政機関。.

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光孝天皇

光孝天皇(こうこうてんのう、天長7年(830年) - 仁和3年8月26日(887年9月17日)は、第58代天皇(在位:元慶8年2月23日(884年3月23日) - 仁和3年8月26日(887年9月17日))。諱は時康(ときやす)。 仁明天皇の第三皇子。母は藤原総継の娘、贈皇太后沢子。.

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克明親王

克明親王(よしあきらしんのう / かつあきらしんのう、延喜3年(903年) - 延長5年9月24日(927年10月22日))は、平安時代の皇族。醍醐天皇の第一皇子。初名は将順(まさのぶ)。.

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勝覚

勝覚(しょうかく、天喜5年(1057年)- 大治4年4月1日(1129年4月21日))は、平安時代後期の真言宗の僧。父は源俊房。立川流の祖仁寛の兄。 醍醐寺座主定賢から灌頂を受け、また義範・範俊に師事して真言密教の奥義を伝授された。醍醐寺三宝院に住し、1085年(応徳2年)醍醐寺座主に就任し、1092年(寛治6年)に広隆寺、ついで1104年(長徳元年)には東大寺に移った。1107年(嘉承2年)に権少僧都に任じられる。度々神泉苑で祈雨法を修し、1120年(保安元年)に少僧都に任じられ、以後東寺長者・同寺法務・同寺寺務を経て権僧正に任じられて東寺別当に至った。弟子には三宝院流の祖定海・理性院流の祖賢覚・金剛王院流の祖聖賢などがいる。 Category:真言宗の僧 Category:真言宗醍醐派 Category:平安時代の僧 Category:村上源氏 Category:1057年生 Category:1129年没.

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勤子内親王

勤子内親王(きんし/いそこないしんのう、延喜4年(904年) - 天慶元年11月5日(938年11月29日))は、平安時代中期の皇族。醍醐天皇の第5皇女。四品。母は更衣・源周子。女四の宮と称される。源順に『和名類聚抄』の編纂を命じた。.

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勘解由使

勘解由使(かげゆし)は、日本の律令制下の令外官の一つ。平安時代初期、地方行政を監査するために設置された。その後、監査の対象は内官(京都の各官職)へと拡大した。勘解由使の官庁である勘解由使庁は、太政官の北西、中務省の南に位置した。和名は「とくるよしかんがふるのつかさ」。.

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因幡国

因幡国(いなばのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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国史大系

国史大系(こくしたいけい)は、日本史を研究する上での基礎史料たる古典籍を集成し、校訂を加えて刊行した叢書である。その編纂は3次に亙って行われた。.

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四辻善成

四辻 善成(よつつじ よしなり)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての公家・学者・歌人。従一位左大臣。順徳天皇の曽孫。四辻宮尊雅王の子。関白・二条良基の猶子となり、その庇護を受けた。.

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皇女

皇女(ひめみこ/こうじょ/おうじょ)とは、天皇または皇帝の女子(娘)を指す。日本においては、内親王号が成立する以前に存在した女性皇族の身位でもある。これに対して男子(息子)を皇子という。.

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皇子

皇子(みこ、おうじ)は、皇帝または天皇の男子。広義には男女を問わない(皇室典範第6条参照)が、かかる用法はまれである。国によって「親王」「郡王」「王」「大公」などの称号が与えられることがある。これに対して女子を皇女(おうじょ)という。.

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皇室

皇室(こうしつ)は、天皇および皇族の総称。 狭義には内廷皇族、広義には天皇とその近親である皇族を意味するが、皇族の範囲は時期によって異なる。 近代(明治維新)以降は、天皇と内廷皇族を家族とする内廷と皇太子以外の皇族男子及びその家族で構成される宮家を意味する。 皇室典範第五条に定める、天皇の配偶者である皇后、先代の天皇の未亡人である皇太后、先々代の天皇の未亡人である太皇太后、また、皇太子(皇太孫)、皇太子妃(皇太孫妃)、皇族男子たる親王、王、さらには生まれながらの皇族女子である内親王、女王がある。親王妃、王妃は親王、王の配偶者となることをもって、皇族とされる。戦前(大日本帝国憲法下、日本国憲法施行まで)においては、帝室(ていしつ)とも呼ばれていた。 一般国民の女性は、皇族男子との婚姻により皇族になることができる。また、15歳以上の内親王、王、女王はその意思により、皇太子、皇太孫を除く親王、内親王、王、女王は、その意思によるほかにやむをえない特別の事由があるとき、皇室会議の議決を経て皇族の身分を離脱できる。なお、皇族女子は天皇、皇族以外の者と婚姻したとき皇族の身分を離れる(臣籍降下・臣籍降嫁)。.

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皇別

皇別(こうべつ)もしくは王孫(おうそん)とは、王家や帝家、とりわけ日本の皇室の一門の中で臣籍降下した分流・庶流の氏族を指す言葉である。皇室同様男子血統でつながらなければならない。皇別とは弘仁6年(815年)に朝廷が編纂した古代氏族の系譜集『新撰姓氏録』が、皇別(天皇・皇子の子孫)・神別(天津神・国津神の子孫)・諸蕃(朝鮮半島・中国大陸その他から渡来した人々の子孫)の3種に氏族を分類していることにちなむ用語である。江戸時代以降は王孫という呼び名も用いられた。.

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皇嘉門院別当

皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう:生没年不詳)は、平安時代末期の女流歌人。父は源俊隆。大蔵卿源師隆の孫にあたる。 崇徳天皇の中宮皇嘉門院藤原聖子(摂政藤原忠通の娘)に仕えた。皇嘉門院聖子が忠通の子で兼実の姉であることから、1175年(安元元年)の『右大臣兼実家歌合』や1178年(治承2年)の『右大臣家百首』など、兼実に関係する歌の場に歌を残している。1182年(養和元年)皇嘉門院聖子が没したときにはすでに出家していた。 『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に入集している。小倉百人一首から.

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皇胤

皇胤(こういん)とは、広く天皇の男系子孫を指す言葉である。.

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皇族

女王旗)皇室儀制令19条では「親王旗親王妃旗内親王旗王旗王妃旗女王旗」。 皇族(こうぞく)は、天皇の親族のうち、男系の嫡出の血族(既婚の女子を除く)およびその配偶者の総称。すなわち、皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃および女王の総称であり、天皇は含まれない。天皇を含む場合は「皇室」という。.

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石川光家

石川光家(いしかわ みついえ、生没年不詳)は、平安時代後期の武将。.

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石川源氏

石川源氏(いしかわげんじ)は、河内源氏の本拠地である河内国石川を相続したと言われる源氏。 源義家(八幡太郎義家)の六男の源義時を祖とする河内源氏の義時流石川氏のことだが、義時自身の官位や当時の知名度を考えると疑わしい部分もある。 河内源氏の本流が、義家以降に本拠地の河内国を離れた後、義時の一族が盤拠し、それらを源義家の荘園の石川荘の名称から石川源氏と呼ぶ。石川氏の他に、平賀氏、万部氏、万力氏、紺戸氏、板金氏、中川氏などがある。.

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王 (皇族)

王(おう、みこ、古くはおおきみ)は、皇族の身位または称号の一つ。または、王の身位を授けられた皇族のこと。現行の皇室典範では天皇からみて直系で嫡男系嫡出の三親等以遠の男性に与えられる。皇室典範で定められた敬称は殿下。.

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神祇官

祇官(じんぎかん、かみづかさ、かんづかさ).

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神道

道(しんとう)は、日本の宗教。教典や具体的な教えはなく、開祖もおらず、神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとずく多神教。自然と神とは一体として認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。 天照大御神の孫であるニニギノミコトが降臨した高千穂河原 樹齢約3000年の武雄神社の御神木.

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祥寿姫

祥寿姫(しょうじゅひめ、生没年不詳)は、平安時代末期の新田氏一族の女性。源義重の娘。源義平の正室。実名は不明。祥寿姫の名は菩提寺である群馬県太田市の祥寿山曹源寺の寺伝による。法名は妙満尼とも。 夫である義平は平治元年(1159年)12月の平治の乱で敗れたのち、翌年1月に捕らえられて20歳の若さで斬首され、祥寿姫は未亡人となる。平治の乱から20年後の治承4年(1180年)8月、義平の異母弟源頼朝が挙兵し東国の主となると、去就を迷っていた父義重は参陣が遅れ12月になって鎌倉を訪れたため、頼朝の不興を買った。 『吾妻鏡』寿永元年(1182年)7月14日条によると、頼朝は伏見広綱に命じて、密かに兄の未亡人である祥寿姫に艶書を送っていた。祥寿姫は全く受け入れる気配がなく、頼朝は直接父の義重に申し入れたところ、頼朝の妻北条政子の怒りを畏れた義重は祥寿姫をすぐさま師六郎に嫁がせたことから、頼朝の勘気を被ったという。この事が頼朝による後の新田氏冷遇に繋がったとされている。 ちなみに、政子の嫉妬深さを物語る逸話として有名な亀の前事件はこの年の11月の事である。 祥寿姫のその後は不明だが、曹源寺の寺伝によれば、文治3年(1187年)に義重が祥寿姫の菩提寺として建立した六角堂が曹源寺の起源となったといい、父に先立って死去したものと見られる。.

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禅暁

禅暁(ぜんぎょう、生年未詳 - 承久2年4月14日(1220年5月17日))(仁和寺御日次記)または 承久2年4月11日(1220年5月14日))(尊卑分脈等)は、鎌倉時代前期の僧。鎌倉幕府二代将軍源頼家の四男。母は一品房昌寛の娘または足助重長(加茂重長)の娘とする。一幡、公暁の異母弟(もしくは同母兄)、竹御所の異母兄妹(もしくは異母姉弟)。同母兄に栄実。.

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秋山光朝

秋山 光朝(あきやま みつとも)は、平安時代末期の武将。秋山氏の祖。 甲斐源氏・加賀美遠光の長男として誕生。秋山氏は甲斐国巨摩郡秋山村に光朝が居住して「秋山太郎」を名乗ったこと始まるとされる。治承4年(1180年)4月、源頼朝挙兵後、源義経の指揮下に加わり、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いに参加。西上遠征の途中、平重盛の娘を室に迎える。 平家滅亡後、鎌倉に加賀美一党の館を構え頼朝警護の役職に就くも、甲斐源氏の勢力拡大を恐れる頼朝に疎まれ謀反の罪で鎌倉において処刑された。 みつとも Category:平安時代の武士 Category:甲斐国の人物 Category:刑死した人物 Category:12世紀生 Category:1185年没.

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秀良親王

良親王(ひでながしんのう/ひでよししんのう、弘仁8年(817年) - 寛平7年正月23日(895年2月21日))は、平安時代初期から中期にかけての皇族。嵯峨天皇の皇子。母は皇后橘嘉智子。官位は二品・上野太守。.

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章子内親王

子内親王(しょうし(あきこ)ないしんのう、万寿3年12月9日(1027年1月19日) - 長治2年9月17日(1105年10月26日))は第68代後一条天皇第一皇女。母は藤原道長女・中宮藤原威子。第70代後冷泉天皇中宮、女院。院号は二条院(にじょういん)。同母妹に馨子内親王(後三条天皇中宮)。.

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竹御所

竹御所(たけのごしょ、建仁2年(1202年) - 天福2年7月27日(1234年8月23日))は、鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府第2代将軍源頼家の娘。位記の名は鞠子。妙本寺の寺伝よれば媄子(よしこ)。一幡の同母妹、公暁、栄実の異母妹、禅暁とは異母兄妹(もしくは異母姉弟)と考えられている。.

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竹内家

竹内家(たけのうちけ)は公家のひとつ。本姓は源氏。いわゆる堂上源氏で家系は清和源氏の一家系・河内源氏傍流の信濃源氏平賀氏の一族の流れである。家格は半家、家業は弓箭と笙と和歌。.

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竹紋

竹紋(たけもん)とは、イネ科タケ連のおもにタケやササなどの植物を図案化した家紋である。「竹紋」、「笹紋」、「竹に雀紋」に細分類することがある。日本家紋研究会の調べによれば「丸に九枚笹」が最も使用されている高澤等著『家紋の事典』東京堂出版 2008年。 この項目で述べる「竹紋」は「笹紋」ともいうが便宜上「竹紋」に統一した。.

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箕浦義明

箕浦 義明(みのうら よしあき、生年不明 - 治承5年2月(1181年))は、平安時代末期の武将。山本義経の長男。兄弟に義弘、義兼(叔父とも)、義高、義成らがある。近江国坂田郡箕浦(滋賀県米原市箕浦)の地を本拠とした。号は箕浦冠者。 近江国の反平家蜂起(近江攻防)が鎮圧されると美濃国へ移り、治承5年(1181年)2月の一斉蜂起(美濃源氏の挙兵)に加わったが、平知盛率いる追討軍に敗れて、尾張源氏の葦敷重義や小河重清ら源氏方諸将と共に討ち取られた(『吾妻鏡』同年2月12日条)。.

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細川氏

細川氏(ほそかわし)は、本姓は源氏、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏の名門足利氏の支流。名字は鎌倉時代に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことに由来する。 南北朝時代に足利尊氏に従って発展し、嫡流は室町幕府の管領家に列する有力守護大名となる。また江戸時代には、傍流から肥後熊本藩54万石の藩主家を出した。.

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綾小路家

綾小路家(あやのこうじけ)は宇多源氏の流れを汲む堂上家。左大臣・源雅信の子孫綾小路信有(正二位・権中納言)(1269年 - 1324年)を祖とする。兄は庭田家の祖庭田経資(正二位・権中納言)(1241年 - 没年未詳)である。 家格は羽林家。当初の極官は権中納言。戦国時代の綾小路俊量(正二位・権中納言)(1451年 - 1518年)以降中絶。慶長18年(1613年)に五辻家から綾小路高有(正三位・参議)(1595年 - 1644年)が入り家名再興。そして綾小路俊宗(1690年 - 1770年)以降は権大納言を極官とする。 雅楽の中で郢曲や和琴・箏・笛関する知識は庭田家ではなく綾小路家に伝わったために、以降は雅楽の師範家として朝廷に仕えることとなる。 江戸時代の家禄は200石。明治時代後は、有良が子爵に叙せられた。.

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美濃源氏

美濃源氏(みのげんじ)とは、中世に美濃国に土着し本拠とした清和源氏の流れを汲む一族の呼称。.

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義円

義円公園入口(岐阜県大垣市)源義円供養塔(義円公園内) 義円または源義円(ぎえん, みなもとのぎえん、久寿2年(1155年) - 治承5年3月10日(1181年4月25日))は平安時代末期の僧侶で、源義朝の八男。 母は常盤御前で、幼名は乙若丸。に阿野全成(幼名:今若丸)、に源義経(幼名:牛若丸)がいる。源頼朝の異母弟。子に愛智義成。.

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羽林家

羽林家(うりんけ)は、鎌倉時代以降の公家の家格のひとつで、摂家、清華家、大臣家の下、名家と同列、半家の上の序列に位置し、江戸時代の武家官位においては各大名家に与えられる家格に相当する。.

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真寂法親王

真寂入道親王(しんじゃく にゅうどうしんのう、正字体:眞寂、仁和2年(886年) - 延長5年9月10日(927年10月13日))は、平安時代中期の皇族・入道親王。宇多天皇の第3皇子。母は橘義子。出家前は斉世親王(ときよ しんのう、正字体:齊世)。三品、兵部卿。 寛平8年(896年)11歳の時に大学寮において講書初めが行われ、昌泰元年(898年)11月に元服した。その後兵部卿・上総太守などを歴任した。しかし延喜元年(901年)、岳父の菅原道真が、斉世親王の兄である醍醐天皇から斉世親王に譲位させようとしたという嫌疑で九州大宰府に左遷される(昌泰の変)と、斉世親王は仁和寺に入って真寂と名乗った。その後は欣求修行につとめ7回の灌頂を受けたという。三品に叙された。.

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猶子

子(ゆうし)とは、兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度。漢文訓読では「なほ子のごとし」(訳:あたかも実子のようである)という意味。 中国における本義は兄弟の子の意味。養子との違いは、家督や財産などの相続を必ずしも目的の第一義とはせず、実力や「徳」に優れた仮親の権勢を借りたり、一家・同族内の結束を強化するために行われた。具体的には、官位などの昇進上の便宜、婚姻上の便宜、他の氏族との関係強化が図られる場合に組まれるようである。そのため、子供の姓は変わらない場合があったり、単なる後見人としての関係であるなど、養子縁組と比べて単純かつ緩やかで擬制的な側面が大きい。 ただし、相続に関しての実際は明確な区別はなく、猶子であっても相続がなされる場合も多い。ときに両者をまったく同義で使用している場合がある。.

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為平親王

平親王(ためひらしんのう)は平安時代の皇族で村上天皇の第四皇子。母は中宮藤原安子。同母兄弟に冷泉天皇、円融天皇。妻は源高明の娘。官位は一品式部卿まで昇った。染殿式部卿と称された。.

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田中義清

中 義清(たなか よしきよ、生没年不詳)は、平安時代の武将。里見義俊の次男で、里見義成の弟。子に田中重政。.

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田代信綱

田代 信綱(たしろ のぶつな)は源頼朝挙兵時の武士の一人。伊豆国司と伊豆の豪族・狩野茂光の娘との間の子。田代冠者信綱と言われる。前田青邨画伯の代表作「洞窟の頼朝」にも描かれている。平家物語の三草山の合戦の場面にも登場。 Category:生没年不詳.

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甲斐源氏

斐源氏(かいげんじ)は、甲斐国に土着した清和源氏の河内源氏系一門で、源義光(新羅三郎義光)を祖とする諸家のうち武田氏をはじめとする、甲斐を発祥とする諸氏族の総称。 同じ義光を祖とする佐竹氏(常陸源氏)や平賀氏(信濃源氏)とは同族である。また、武田氏と同祖となる加賀美氏流の小笠原氏系統は早い時期に隣国信濃に移ったため、信濃源氏にも含まれる。 「甲斐源氏」の呼称について、治承・寿永の乱期の史料には一切見られず、甲斐源氏の一族を指す呼称には「武田党」などが用いられている。鎌倉時代には『吾妻鏡』をはじめ『帝王編年記』、『日蓮遺文』などにおいて「甲斐源氏」の呼称が用いられはじめ、軍記物語などにおいても頻出する。.

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畿内

畿内(きない、きだい、うちつくに)とは、.

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煕子女王

煕子女王(きし(ひろこ)じょおう、生年不詳 - 天暦4年5月5日(950年5月24日))は、保明親王(醍醐天皇皇太子)第一王女。母は藤原時平の娘・仁善子。朱雀天皇女御。別名王女御。同母兄に皇太孫慶頼王。 延長元年(923年)、父・保明親王が皇太子のまま21歳の若さで薨御し、その後を追うように同3年(925年)、兄慶頼王も幼くして死没した。相次ぐ後継者の死に、祖父醍醐天皇や周囲は菅原道真の祟りと恐れたという。 承平7年(937年)2月、叔父朱雀天皇に入内し女御宣下。天慶元年(938年)12月、従四位下に叙される。天慶8年(945年)、母・藤原仁善子が逝去。同9年(946年)4月20日、夫朱雀天皇が譲位。天暦4年(950年)5月5日、一人娘の昌子内親王を出産、従三位に進むが同日薨去。尚、薨去の日付については3月15日とする説がある。 煕子女王に先立たれた朱雀天皇が詠んだ和歌一首が『玉葉集』にある。 Category:日本の女王 (皇族) Category:平安時代の女性皇族 Category:平安時代の后妃後宮 Category:難産死した人物 Category:10世紀生 Category:950年没.

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盛明親王

盛明親王(もりあきらしんのう、延長6年(928年) - 寛和2年5月8日(986年6月17日))は平安時代中期の皇族。醍醐天皇の皇子。一度臣籍降下して源盛明と名乗った。四品・上野太守。.

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白川仲資王

白川仲資王(しらかわ・なかすけおう、保元2年(1157年) - 貞応元年(1222年))は平安時代後期から鎌倉時代初期の公卿。官位は正三位兵部卿。神祇伯。本姓は源氏。家系は花山天皇を祖とする花山源氏の嫡流の家柄。人臣でありながら王氏を任ずべき神祇伯を家職としていたため、任伯している間に限り、源姓を離れ王号を名乗る格式を保持していた。子に業資王と資宗王がいる野島寿三郎編『公卿人名大事典』(日外アソシエーツ、1994年) 382頁参照。。.

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白川伯王家

白川伯王家(しらかわはくおうけ)、又は白川家(しらかわけ)とは花山天皇の皇孫の延信王(清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家である。皇室の祭祀を司っていた伯家神道(白川流神道)の家元。.

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白川顕広王

白川顕広王(しらかわ・あきひろおう、嘉保2年(1095年) - 治承4年7月19日(1180年8月18日))は、平安時代の貴族。顕康王の子。白川伯家の祖で、神祇伯世襲の初。.

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白河天皇

白河天皇(しらかわ てんのう)は、第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日) - 応徳3年11月26日(1087年1月3日))。諱を貞仁(さだひと)という。 後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。.

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花山天皇

花山天皇(かざんてんのう/かさんてんのう、安和元年10月26日(968年11月29日) - 寛弘5年2月8日(1008年3月17日)、在位:永観2年10月10日(984年11月5日) - 寛和2年6月23日(986年8月1日))は、日本(平安時代中期)の第65代天皇。諱は師貞(もろさだ)。花山院(かさんいん)や花山法皇とも呼ばれる。 冷泉天皇の第一皇子。母は、摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子。三条天皇の異母兄。花山源氏(神祇伯を世襲した伯王家、のち断絶)の祖。.

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隆姫女王

隆姫女王(たかひめじょおう、長徳元年(995年) - 寛治元年11月22日(1087年12月19日))は村上天皇第7皇子・具平親王の長女。母は為平親王の次女。後に藤原頼通の正室となり、高倉北政所と呼ばれた。弟に夫・頼通の猶子となった源師房、妹に敦康親王妃、嫥子女王(藤原教通室)がいる。なお史料によっては隆子女王、隆姫子女王とする表記もある。.

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鎌倉将軍一覧

鎌倉将軍一覧(かまくらしょうぐんいちらん)では、鎌倉幕府の征夷大将軍の一覧を示す。.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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聖恵法親王

聖恵法親王(しょうえほっしんのう、嘉保元年(1094年) - 保延3年2月11日(1137年3月4日))は、平安時代後期の真言宗の僧。白河天皇の第5皇子。母は藤原師兼の娘(郁芳門院女房春日殿)。.

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道元

道元(どうげん、正治2年1月2日(1200年1月19日)- 建長5年8月28日(1253年9月22日))は、鎌倉時代初期の禅僧。日本における曹洞宗の開祖。晩年に希玄という異称も用いた。同宗旨では高祖と尊称される。諡号は仏性伝燈国師、承陽大師。諱は希玄。一般には道元禅師と呼ばれる。徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅を伝えた。『正法眼蔵』は、和辻哲郎など西洋哲学の研究家からも注目を集めた。.

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運助

興福寺北円堂 運助(うんじょ、生没年未詳) は、鎌倉時代の仏師で運慶の六男とされる人物。.

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運賀

興福寺北円堂の世親 運賀(うんが、生没年未詳)は、 鎌倉時代の慶派仏師。号は大和君、別名に、雲賀、運雅。運慶の五男。.

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運慶

東大寺金剛力士像(阿形像) 運慶(うんけい、生年不詳 - 貞応2年12月11日(1224年1月3日))は、平安時代末期、鎌倉時代初期に活動した仏師。.

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頼助

助(らいじょ).

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順徳天皇

順徳天皇(じゅんとくてんのう)は、鎌倉時代の第84代天皇(在位:承元4年11月25日(1210年12月12日) - 承久3年4月20日(1221年5月13日)) - コトバンク - コトバンク 『秋山喜代子』 - コトバンク 『山本博也』。諱は守成(もりなり)。 後鳥羽天皇の第三皇子。母は、藤原範季の娘・重子(修明門院)。.

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額戸経義

額戸 経義(ごうど/ぬかど つねよし)は、平安時代末期頃の武士。新田義重の五男。額戸氏の祖。.

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行尊

行尊(ぎょうそん、天喜3年(1055年)- 長承4年2月5日(1135年3月21日))は、平安時代後期の天台宗の僧侶・歌人。平等院大僧正とも呼ばれる。.

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行慶

行慶(ぎょうけい、康和3年(1101年) - 永万元年7月16日(1165年8月24日))は、平安時代後期の天台宗の僧。父は白河天皇。母は備中守源政長の娘。狛僧正・桜井僧正とも称される。 出家して園城寺に住し、1128年(大治3年)には大僧正に任じられた。その後、1135年(保延元年)に四天王寺別当、1152年(仁平2年)には園城寺長吏に任じられている。近衛・後白河・二条の三代に亘って天皇の護持僧となるが、特に後白河院の信任が厚かったとされる。また、藤原忠通が出家する際、御戒師を務めた。.

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覚助 (仏師)

覚助(かくじょ、生年不詳 - 承暦元年(1077年)10月)は、平安時代中期から後期の仏師。定朝の子とも弟子とも言われている。七条仏所の祖。 事績については、康平2年(1059年)の法成寺阿弥陀堂・五大堂の造仏についてが初見である。治暦3年(1067年)興福寺金堂などの造仏を行った功により法橋に任じられ、翌4年(1068年)には法眼となっている。承暦元年(1077年)、法勝寺の造営中に没してしまったが、その後は弟子の院助が引き継いで完成させている。 覚助の作品と推定される仏像として、延久3年(1071年)に復興された祇園社観慶寺の旧本像で、現在大蓮寺にある薬師如来像(重要文化財)が挙げられる。.

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覚猷

覚猷(かくゆう、天喜元年(1053年) - 保延6年9月15日(1140年10月27日))は、平安時代後期の天台僧。鳥羽僧正(とばそうじょう)と世に呼ばれ、日本仏教界の重職を務めた高僧であるのみならず、絵画にも精通し、鳥獣人物戯画などの作者に擬せられている。そのユニークでユーモアあふれる作風から、漫画の始祖とされることもある。.

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覚行法親王

覚行法親王(かくぎょうほっしんのう、承保2年(1075年)4月 - 長治2年11月18日(1105年12月26日))は、平安時代中期から後期にかけての皇族・僧。白河天皇の第二皇子。母は藤原経平の娘経子。覚念・中御室とも称される。真言宗仁和寺の第3世門跡。.

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覚法法親王

覚法法親王(かくほうほっしんのう、寛治5年12月29日(1092年2月9日) - 仁平3年12月6日(1153年12月22日))は、平安時代後期の皇族・僧。白河天皇の第四皇子。母は源顕房の娘師子。真言宗仁和寺第四世門跡。高野御室・勝蓮華寺獅子王宮とも称される。 異母兄である覚行法親王のもとで出家・受戒し、法名ははじめ真行と称し、のちに行真と改め、さらに覚法と改めた。長治2年(1105年)覚行の没後に仁和寺寺務に就任。寛助・範俊から灌頂を受け、天永3年(1112年)親王宣下を受けている。保延5年(1139年)には自らの観音院を御願寺として東寺に準じる灌頂会を開催することを勅許された。保延7年(1141年)には鳥羽上皇受戒の際には受戒の師をつとめた。皇子誕生や天皇の病気平癒のために孔雀経法を修している。真言密教の事相に詳しく仁和寺御流を創唱している。 背が高く声が美しかったとされ、能筆でもあったという。.

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覚源

覚源(かくげん、長保2年(1000年) - 治暦元年8月18日(1065年9月20日))は、平安時代後期の真言宗の日本の僧。花山天皇の第3皇子。母は不詳だが、一説には平平子(若狭守平祐忠女)とも言われている。法名は覚深とも表記する(『東大寺別当次第』)。宮僧正と呼ばれた。.

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馨子内親王

子内親王(けいし(かおるこ)ないしんのう、長元2年2月2日(1029年2月17日) - 寛治7年9月4日(1093年9月26日))は、第68代後一条天皇第2皇女。母は中宮藤原威子。賀茂斎院、のち後三条天皇中宮。号西院皇后。同母姉に章子内親王(後冷泉天皇中宮)。 長元4年(1031年)着袴、二品に叙される。同年賀茂斎院に卜定、准三宮。同9年(1036年)に父後一条天皇が崩御したため斎院を退下、さらにその後半年足らずで母威子も後を追うように他界した。 その後は上東門院彰子の元で養育され、永承6年(1051年)皇太子尊仁親王(のちの後三条天皇)に入内。治暦4年(1068年)後三条天皇が即位、それに伴い翌延久元年(1069年)中宮に冊立される。同4年(1072年)後三条天皇譲位、翌同5年(1073年)病の後三条上皇と共に出家するがまもなく上皇は崩御。延久6年(1074年)皇后宮となり、寛治7年(1093年)崩御。享年65。.

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親王

親王(しんのう)は、東アジアにおいて、嫡出の皇子や最高位の皇族男子に与えられる称号。もともと中国諸王朝(晋以後)において用いられ、日本や、朝鮮(大韓帝国期)、ベトナムにおいても採用された。 これらに倣って、非漢字圏の君主の親族男子を親王と呼ぶことや、プリンスの訳語として用いることもままある。.

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親王宣下

親王宣下(しんのうせんげ)、または内親王宣下(ないしんのうせんげ)とは、皇族の子女に親王および内親王の地位を与えることである。ここでは、主に日本の皇室について記載する。 明治時代以前には、たとえ天皇の子女であっても親王宣下を受けない限り、親王および内親王を名乗ることはできなかった(参考:良岑安世・源高明・以仁王)。逆に、世襲親王家の当主など天皇の孫以下の世代に相当する皇族であっても、親王宣下を受けて親王および内親王となることもあった。 親王宣下が始まったのは淳仁天皇以後である。 たとえば、以仁王、後西天皇の皇女貞宮、後世の比丘尼御所は宣下がなかったので、諸王である。 これに対して、孫王であっても宣下を賜れば親王であり、その最初は小一条院の子敦貞、敦元の2王および儇子、嘉子の2王女である。2王は三条天皇の皇子に準じて親王であり、2王女は天皇の養女として内親王の宣下があった。 この制度によって親王宣下を受けた者で、最後の生存者は1945年(昭和20年)5月に薨去した閑院宮載仁親王である。最後に親王宣下を受けた人物は1886年(明治19年)5月に宣下を受けた東伏見宮依仁親王、親王宣下を受けた最も若い人物は1875年(明治8年)1月生の華頂宮博厚親王である。 現代では皇室典範により、嫡出の皇子及び嫡男系嫡出の皇孫が親王及び内親王であると定められており、皇族は生まれながらにして地位が決まっているため、親王宣下という形で王などの皇族に親王位を与える制度はなくなっている。ただし、王が天皇に即位した場合、その天皇の兄弟姉妹たる王及び女王に親王及び内親王の地位を与えるものとすることが皇室典範第7条に定められている。 Category:身位 *しんのうせんけ.

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貞保親王

貞保親王(さだやすしんのう)は、平安時代前期から中期にかけての皇族。清和天皇の第四皇子で、母は藤原高子。陽成天皇の同母弟にあたる。南院式部卿宮、桂親王と号す。.

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貞元親王

貞元親王(さだもとしんのう、870年? - 910年1月10日(延喜9年11月26日))は、清和天皇の第三皇子。873年5月21日(貞観15年4月21日))親王宣下。887年1月(仁和3年1月))四品。887年2月(仁和3年2月17日))上野太守。号は閑院を号したといわれているが、明確ではない。 1678年(延宝6年)に、現在の千葉県君津市貞元に建立された貞元親王墓(ていげんしんのうはか)は、1970年9月21日に市指定文化財に指定された。.

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貞純親王

貞純親王(さだずみしんのう)は、日本の平安時代前期の皇族。清和天皇の第六皇子。母は棟貞王の娘。王子に経基王・経生王がある。桃園親王と号す。.

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貞辰親王

貞辰親王(さだときしんのう)は、平安時代前期から中期にかけての皇族。清和天皇の第七皇子で、母は藤原基経の娘である女御藤原佳珠子。 貞観17年に親王宣下を受ける。清和天皇の数多くの皇子の中で時の権力者である藤原基経の唯一の外孫であることから、陽成天皇退位後の有力な皇位継承者の一人だったが、結局皇位は光孝天皇から宇多天皇と継承され、貞辰が天皇になることはなかった。 光孝天皇は即位後に子女全員を臣籍降下しているが、これは基経と貞辰に配慮したとする説がある。.

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貞暁

貞暁(じょうぎょう/ていぎょう、文治2年2月26日(1186年3月18日) - 寛喜3年2月22日(1231年3月27日)) は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての僧侶。源頼朝の三男で第4子(庶子)。母は伊達氏の祖と言われる常陸入道念西の娘・大進局。異母兄頼家の4歳年下、異母弟実朝より6歳年長になる。通称を鎌倉法印といった。.

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貞数親王

貞数親王(さだかずしんのう、貞観17年(875年) - 延喜16年5月19日(916年6月22日))は、平安時代の皇親。清和天皇の第8皇子。品位は四品。.

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貴族

貴族(きぞく)とは、特権を備えた名誉や称号を持ち、それ故に他の社会階級の人々と明確に区別された社会階層に属する集団を指す。 その社会的特権はしばしば強大であるが、同時に国や地域により異なり、同じ国・地域であっても時代によって変遷する。また貴族階級は伝統的な概念ではあるものの、時に新たな人員を迎え入れ、常に人員は更新され続けている。 貴族階級は多くの場合は君主制の下に維持され、称号の付与や特権の保証なども君主によって行われる。一般的に、貴族などという特権階級を認めてしまうということは反民主主義とされている。フランスでは、貴族階級をものともしないヴォルテールの姿勢がフランス的民主主義の基礎となり、フランス革命でそうした考え方は公認のもの、正統なものとなり、ここに民主主義が実現したとされている。しかし共和制など君主の存在を持たない制度においても貴族制度が存在した場合もある。 西洋では特に青い血という言葉が貴族の血筋を意味する慣用句として用いることがある。ただし、これはあくまでもスペイン語由来のものであるため限定的ではある。日本の場合、貴族の起源について穀物の貯蔵が貴族制度の遠因となったと考える論者もある。.

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鳥居禅尼

鳥居禅尼(とりいぜんに、生没年不詳)、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した女性。源為義の娘で、源義朝の異母姉とも妹ともいう。源平の乱の際に反平氏をよびかける以仁王の令旨を諸国の源氏に伝え歩いた源行家(源義盛)は同母弟。.

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鳥羽天皇

鳥羽天皇(とばてんのう、旧字体:鳥羽、康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日(1107年8月9日) - 保安4年正月28日(1123年2月25日))。諱は宗仁(むねひと)。 堀河天皇の皇子。母は贈皇太后・藤原苡子。子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年に渡り院政を敷いた。.

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足助重長

足助 重長(あすけ しげなが)は、平安時代末期の武将。浦野重直の六男。号は加茂六郎。足助氏の祖。.

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足利将軍家

足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)は、足利氏の惣領家(宗家)のうち、とくに足利尊氏以来の、代々室町幕府の将軍職を世襲した一家(軍事貴族)。初代尊氏の後は2代として嫡男義詮が継ぎ、3代足利義満を経て、15代義昭まで続く。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。.

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足利義兼

足利 義兼(あしかが よしかね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府の御家人。足利氏2代当主。.

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足利義純

足利 義純・畠山 義純(あしかが よしずみ/はたけやま よしずみ)は、鎌倉時代初期の足利一族の武将。源姓畠山氏・岩松氏の祖。.

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足利義長

足利 義長(あしかが よしなが)は、平安時代末期の武将。足利氏初代・足利義康の子。上西門院蔵人。 父・義康から継承した下野国足利荘に拠った異母弟・義兼とは異なり、義長は同母兄の義清と共に京において活動、上西門院に仕えた。 その後義清と共に源義仲の麾下に参加。寿永2年(1183年)の水島の戦いにおいても義仲軍の総大将を務める義清に従い出陣し、伊勢平氏と対峙する。しかし船戦を得意とする平家方の前に義仲軍は大敗を喫し、義清や海野幸広らと共に、義長も壮絶な戦死を遂げた。 よしなか Category:平安時代の武士 Category:治承・寿永の乱で戦死した人物 Category:12世紀生 Category:1183年没.

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足利義氏 (足利家3代目当主)

足利 義氏(あしかが よしうじ)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府の御家人。足利義兼の三男。母は北条時政の娘時子。.

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足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.

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足利氏

足利氏(あしかがし)は、日本の武家のひとつの軍事貴族。本姓は源氏。家系は清和天皇清和源氏の一族の河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府においては御家人であると同時に将軍家一門たる御門葉の地位にあった。室町時代には嫡流が足利将軍家として天下人となった。藤原秀郷の子孫の藤原姓足利氏(藤姓足利氏)に対して源姓足利氏という場合がある。 通字は、「義」(よし、足利将軍家ほか)または「氏」(うじ、鎌倉時代の歴代当主および鎌倉公方・古河公方家など)。.

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黒板勝美

黒板 勝美(くろいた かつみ、1874年9月3日 - 1946年12月21日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学名誉教授。文学博士。専門は、日本古代史、日本古文書学。号は虚心。エスペラントの普及に努める。.

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輔仁親王

輔仁親王(すけひとしんのう、延久5年1月19日(1073年2月28日) - 元永2年11月28日(1119年12月31日))は、平安時代の皇族。後三条天皇の第三皇子。母は源基平の娘基子。異母兄に白河天皇、同母兄に実仁親王がいる。.

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近江国

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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近江源氏

近江源氏(おうみげんじ)とは、中世に近江国に土着し本拠とした源氏の流れを汲む一族の呼称。以下の数流がある。最も著名な佐々木氏一族については佐々木源氏などとも呼ばれる。.

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能世国能

能世 国能(のせ くによし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武士。源国基(能勢国基)の次男。 父より能勢氏の惣領を継承し京武者として朝廷に出仕する一方、御家人の列にも加わったとされる。『吾妻鏡』建久6年(1195年)3月10日条の東大寺供養に随行した「野瀬判官代」は、確証はないものの、年代や通称などから国能を指すと比定されている。 後代、子孫も在京御家人として活動したことが史料上の所見より明らかにされている。 Category:平安時代の武士 Category:鎌倉幕府御家人 くによし.

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能瀬高頼

能瀬 高頼(のせ たかより)は平安時代末期の武将。多田頼盛の三男。 摂津国能勢庄(現在の大阪府能勢町)の開発領主。多田源氏の一族であるが、一族の他の武士達のように京都の情勢に関心を持たず、領地の開発に邁進した。多田源氏の嫡流(多田氏)が本拠地の多田(現在の兵庫県川西市多田)から勢力を拡大していないのに対して、高頼の代には既に現在の大阪府能勢町および豊能町に勢力を拡大していた。それが後の多田氏と能勢氏の勢力の差につながったことから、能勢氏の最大の功労者といえる。 治承・寿永の乱においては『平家物語』に兄の知実と共にその名が挙がっており、『玉葉』の記述によると、治承4年(1180年)11月23日に福原にて「人宅」に火を放ち東国に向けて逐電したとある事から、高頼も当初は他の摂津源氏と同様平家に服属していたものと思われる。そして12月1日、反平家の狼煙が上がる近江国において近江源氏の軍勢と合流し挙兵を企てるも、平清盛による討伐の命を受けて近江に攻め込んできた平家の家人平家継によって討たれ、仲間及び郎党と合わせて16人が斬首、2人が捕縛されたとある。.

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能瀬資国

能瀬 資国(のせ すけくに)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武士・官人。能瀬高頼の長男。.

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阿野全成

阿野 全成(あの ぜんじょう / - ぜんせい)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶で、源義朝の七男。源義経の同母兄、源頼朝の異母弟。阿野氏の祖。通称醍醐禅師、もしくはその荒くれ者ぶりから悪禅師とも呼ばれた(『平治物語』)。.

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阿野時元

阿野 時元(あの ときもと)は、鎌倉時代初期の武将。源頼朝の異母弟である阿野全成の四男。『尊卑分脈』によると、隆元(たかもと)とも呼ばれる。.

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藤原げん子

藤原 嫄子(ふじわら の げんし(もとこ)、長和5年7月19日(1016年8月24日) - 長暦3年8月28日(1039年9月19日))は、平安時代中期の皇妃。一品式部卿敦康親王の長女、母は具平親王の次女。後朱雀天皇中宮。初名は嫄子女王。.

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藤原頼通

藤原 頼通(ふじわら の よりみち)は、平安時代中期から後期にかけての公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣藤原道長の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。 父・道長から若くして後一条天皇の摂政を譲られ、その後見を受ける。父の死後は朝政の第一人者として後朱雀天皇・後冷泉天皇の治世にて、関白を50年の長きに亘って務め、父道長と共に藤原氏の全盛時代を築いた。現代に残るその栄華の象徴が頼通が造営した平等院鳳凰堂である。 しかし、天皇の后にした娘が男子に恵まれなかったばかりか、刀伊の入寇・平忠常の乱・前九年の役など戦乱が相次ぐなど、朝廷の内外からそれまでの絶対的な権力体制を揺さぶられる事態が生じた。そこに加えて晩年には頼通と疎遠な後三条天皇が即位したこともあり、摂関家の権勢は衰退へ向かい、やがて院政と武士の台頭の時代へと移ることになる。.

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藤原賢子

藤原 賢子(ふじわら の けんし/かたいこ、天喜4年(1057年) - 応徳元年9月22日(1084年10月24日))は、第72代白河天皇の中宮、第73代堀河天皇の国母。父は右大臣・源顕房、母は源隆俊の女・隆子。太政大臣・藤原師実の養女。.

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藤原氏

藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.

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葦敷重隆

葦敷 重隆(あじき しげたか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。葦敷重頼の次男。源重隆とも記される。.

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葦敷重頼

葦敷 重頼(あじき しげより)は、平安時代末期の武将。安食重頼とも表記される。 源満政から七代の孫、源重遠(川辺重遠)の次男である。本拠地は尾張国安食(葦敷)荘(現在の名古屋市北区から春日井市にかかる地域)の広瀬島。長承年間に起こった墨俣合戦で、大きく功を挙げる。その時戦死した、子安食重義をはじめとする部下の菩提を弔うために安食荘内に聖徳寺を創建した。晩年出家し、常観坊隆憲を称す。聖徳寺に伝わる文書によれば官位は従六位下、右衛門少尉1176年(安元2年)2月21日に没した。また同荘内には葦敷・山田一族の菩提寺で重頼の法名にちなんだ常観寺があった。.

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蒲池久直

蒲池 久直(かまち ひさなお)は、平安時代末期から鎌倉時代初頭の武将。掃部頭。蒲池氏(前蒲池)の祖。正式な名乗りは源 久直(みなもと の ひさなお)。 肥前国の皇室直轄荘園の神埼荘(鳥羽院領)に荘官として下向した嵯峨源氏の源満末の孫(あるいは子)。源貞宗の子(あるいは弟)。.

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蒲池氏

蒲池氏(かまちし)は、鎌倉時代以来の筑後国の一族。鎌倉時代は地頭職、室町時代は大身の国人領主、戦国時代は筑後十五城の旗頭の大名分で柳川城主であった。 蒲池氏は歴史的に見ると、嵯峨源氏そして嵯峨源氏渡辺党松浦氏族の「前蒲池」時代(鎌倉時代~南北朝時代)と、藤原氏系宇都宮氏族の「後蒲池」時代(室町時代~戦国時代)がある。.

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脩子内親王

脩子内親王(しゅうしないしんのう、長徳2年12月16日(997年1月27日) - 永承4年2月7日(1049年3月13日))は、第66代一条天皇の第1皇女で、母は皇后・藤原定子。『大日本史』では「修子」と表記。名は「ながこ」とも読む。同母弟妹に敦康親王、媄子内親王。 早くに母を亡くしたが、父の意向で宮中で育った。鍾愛の皇女であったことから、父は脩子を著裳とともに三品に直叙、寛弘4年(1007年)1月、12歳の時には、一品に叙すとともに准三宮の待遇を与え、本封のほか1,000戸を加えた。このときの詔書は『大日本史』に収録されている。父の死後、藤原道長、彰子の庇護のもとにいるのを潔しとせず、両人の不興を承知のうえで叔父・藤原隆家の屋敷へ移った。その後、長和2年(1013年)1月27日に三条宮に遷御したことが『小右記』に見える。 彰子のもとに引き取られた同母弟の敦康親王とは別々に暮らしていたが『栄花物語』は敦康が20歳で死去した際には非常に嘆き悲しんだという逸話を伝える。たいへん信心深く、治安4年(1024年)3月に落飾、入道一品宮などと称された。高貴な皇女の多くがそうであったように、終生未婚であったが、藤原頼宗の次女・延子(母は藤原伊周女で脩子内親王の従姉妹)を養女とし、延子が後朱雀天皇に入内した際には養母として付き添った。『栄花物語』によれば脩子は書に長じ、またそのそばには琴や琵琶を能く弾く人々が多くはべっていたため、延子も箏の琴に優れていたという。永承4年に死去した際、葬送の日がちょうど釈迦入滅の日であったため、時人は「成仏間違いなし」と称したと『後拾遺和歌集』は伝えている。 脩子は外戚の零落後に生まれ、同母弟の敦康親王同様、後見人に恵まれなかったが、父・一条天皇は長女である内親王を非常に可愛がり、また天皇の近臣たちもそれを熟知していたために、彼女のためによく奉仕したことが『権記』『小右記』などに散見する。また彼女は後一条・後朱雀の両天皇(ともに彰子所生)にとって、異母姉とはいえただひとりの姉であったため、生涯を通して朝廷でそれなりに尊重された。 なお、彼女は『枕草子』の伝来に関係したらしい(枕草子能因本奥書)。また、歌人・相模が仕えたことでも知られる。 寛仁4年(1020年)ごろ、三条宮西に住む菅原孝標女が内親王家から「めでたき草子ども」を下賜されたというエピソードが『更級日記』にある。.

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醍醐天皇

醍醐天皇(だいごてんのう、元慶9年1月18日(885年2月6日)- 延長8年9月29日(930年10月23日))は、平安時代の第60代天皇(在位:寛平9年7月13日(897年8月14日)- 延長8年9月22日(930年10月16日))。臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源 維城(みなもと の これざね)といった。のち父の即位とともに皇族に列し親王宣下ののちに敦仁(あつぎみ・あつひと)に改めた。 宇多天皇の第一皇子。母は内大臣藤原高藤の女藤原胤子。養母は藤原温子(関白太政大臣基経の女)。.

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醍醐源氏

醍醐源氏(だいごげんじ)は、第60代天皇である醍醐天皇の皇子を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓は朝臣。.

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重明親王

重明親王(しげあきらしんのう、延喜6年(906年) - 天暦8年9月14日(954年10月13日))は、平安時代の皇族。醍醐天皇の第四皇子。官位は三品・式部卿。別名吏部王(式部卿の唐名)。.

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臣籍降下

臣籍降下(しんせきこうか)は、皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りることをいう。賜姓降下(しせいこうか)とも言い、そのような皇族を俗に賜姓皇族という。皇族女子が臣下に嫁すことで皇族でなくなる場合は臣籍降嫁(しんせきこうか)とも言った。また日本国憲法施行後は皇籍離脱(こうせきりだつ)の語が用いられる。.

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致平親王

致平親王(むねひらしんのう、天暦5年(951年)- 長久2年2月20日(1041年3月24日))は、平安時代の皇族。村上天皇の第三皇子、母は更衣正妃(左大臣藤原在衡女)。冷泉天皇・円融天皇らの異母兄弟。同母兄弟姉妹に保子内親王(藤原兼家室)・昭平親王がいた。子に源成信(藤原道長の養子)、源致信、永円(園城寺平等院大僧正)。妻は源雅信の娘。法名は悟円。 康保2年(965年)、清涼殿において元服。このときの加冠を中納言源兼明が、理髪を頭中将源延光がそれぞれ務めた。同年、上野太守になる。康保4年、四品に叙される。安和2年(969年)帯剣を許される。天禄2年(971年)兵部卿に任ぜられる。貞元元年(976年)大宰帥になる。981年(天元4年)に園城寺の余慶に従って出家し、智弁に師事した。法名を悟円といい、明王院宮・法三宮と呼ばれた。出家に際し、徽子女王や中務から歌を贈られている。長久2年2月、91歳で薨去した。.

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里見義俊

里見 義俊(さとみ よしとし)は、平安時代末期の武将。.

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里見義成

里見 義成(さとみ よしなり)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての上野国の武将。里見義俊(里見氏の祖)の子。源義重の孫。妻は足利義清の娘。.

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長男

長男(ちょうなん)とは、親から見て最も年長の男子をいう。長男についで親から二番目、三番目の男子を二男(次男)、三男という。 長子(ちょうし)ともいい、史的には「はじめに生まれた男子、総領」を長子と呼ぶ。.

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良子内親王

良子内親王(ながこ(りょうし)ないしんのう、長元2年12月13日(1030年1月25日) - 承暦元年8月26日(1077年9月15日))は、第67代後朱雀天皇第1皇女。母は皇后・禎子内親王。一品准三宮、伊勢斎宮。同母妹に娟子内親王(賀茂斎院)、同母弟に第69代後三条天皇がいる。.

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若槻頼胤

若槻 頼胤(わかつき よりたね、生没年不詳)は鎌倉時代の武将。本姓は源氏。父は鎌倉幕府御家人で源義家の孫にあたる若槻頼隆。官位は従五位下、下総守。子に押田頼広がいる。 頼胤は下総守を称して千葉氏に仕えた。子の頼広は押田氏の祖となる。押田氏は千葉氏の庇護を受け、子孫は千葉氏に近侍、江戸時代には幕府の旗本となる。江戸幕府12代将軍徳川家慶の生母・香琳院は押田氏の娘である。また、若槻姓を受け継いだ子孫は信濃国の国人となり、後に村上氏の配下となる。.

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雅子内親王

雅子内親王(がしないしんのう、延喜10年(910年) - 天暦8年8月29日(954年9月28日))は、第60代醍醐天皇第10皇女。母は更衣・源周子。伊勢斎宮、のち藤原師輔室。西四条斎宮と呼ばれた。同母兄弟に源高明、時明親王、盛明親王、同母姉妹に勤子内親王、郁子内親王(都子内親王とも)、源兼子がいる。子女は藤原高光、藤原為光、尋禅、愛宮。.

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雅慶

雅慶(がきょう・がけい、生年不詳 - 長和元年12月25日(1013年2月8日))は、平安時代中期の真言宗の僧。父は宇多天皇の皇子敦実親王。渚ノ僧正とも称される。生年については、924年・926年・932年とする説がある。 寛朝僧正のもとで得度し、寛朝から灌頂を受けて勧修寺長吏となった。ついで元杲(げんこう)から灌頂をうけ、真言宗広沢流・小野流双方の法を受けた。986年(寛和2年)に仁和寺別当、998年(長徳4年)に東寺一長者兼高野山座主となり、翌999年(長徳5年)には東大寺別当に任じられた。1002年(長保4年)に僧正、1011年(寛弘8年)には大僧正に任じられ、一条院で大蔵経供養を行い、宝満院を創建した。 Category:平安時代の男性皇族 Category:平安時代の僧 Category:真言宗の僧 Category:真言宗山階派 Category:10世紀生 Category:1013年没.

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逸見光長

逸見 光長(へんみ みつなが)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。逸見氏の祖。 大治(1128年)8月15日、新羅三郎義光の孫である源清光の長男として誕生。母は駿河国手越宿の遊女とされ、武田信義は双子の弟と伝わる。 武田信義とは一卵性双生児として生まれた。逸見光長は巳刻に生まれ、武田信義は午刻に生まれる。.

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院政

院政(いんせい)は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治である。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治形態である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。.

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陽成天皇

陽成天皇(ようぜいてんのう、貞観10年12月16日(868年1月2日) - 天暦3年9月29日(949年10月23日))は、平安時代前期の第57代天皇(在位:貞観18年11月29日(876年12月18日) - 元慶8年2月4日(884年3月4日))。諱は貞明(さだあきら)。.

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柏木義兼

柏木 義兼(かしわぎ よしかね、生没年不詳)は平安時代末期の武将。新羅三郎義光の系譜を引く近江源氏。父は山本義定。兄は山本義経(源頼朝の弟の源義経とは同名の別人)。治承・寿永の乱の初期に兄義経とともに近江国で挙兵した。 出家して甲賀入道を名乗る。『吉記』、『源平盛衰記』によると法名は成覚。 治承4年(1180年)11月21日、諸国の源氏の旗上に同調して、兄の山本義経とともに近江国の勢多・野路で挙兵。義経と義兼は琵琶湖をおさえて北陸道からの年貢を止め、水軍をもって三井寺に討ち入り、寺々に押し入った。九条兼実の『玉葉』は、義兼は左右なく(京へ?)打ち入ろうと欲するが、甲斐源氏が使者を送って、無勢で攻め寄せても追い返される恐れがあるので、援軍が到着するまで暫く攻撃を止めさせているという伝聞を記している。 12月1日、平氏方の平家継(平田入道)が近江へ攻め込み、源氏方の手嶋冠者を討ち、更に義兼の居城を落とした。美濃源氏の軍勢が義経・義兼の援軍に到着するが、12月5日に平知盛を大将軍とする追討使に追い散らされる。義経・義兼は三井寺に拠るが、平氏軍がこれを攻めて落とす。義経・義兼は逃れて山本城に籠るが、12月15日に知盛・資盛の軍勢に攻められて落城。『玉葉』は討ち取られた首級に義兼の首があったとの噂を伝えるが、これは誤報であったと訂正している。 この後、兄の義経は落ち延びて、鎌倉の源頼朝を頼っている。 『源平盛衰記』によると、寿永2年(1183年)義兼は源義仲の軍に加わり、信濃国、加賀国の住人とともに先陣の大将として越前国へ攻め込み、燧城を構えて立て籠もっている。 義仲が平氏を逐って入京すると、義兼は兄の義経とともに京の警護に任じられた(『吉記』『源平盛衰記』)。 以後の消息は不明。.

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東久世家

東久世家(ひがしくぜけ)は、羽林家の家格を有する公家。村上源氏久我流。家紋は笹竜胆。30石3人扶持。江戸時代初期に創設された新家。明治維新後、伯爵。 権大納言久我通堅の三男・参議久我通廉によって江戸時代当初に創設されたというが、その他、東久世家の起源には諸説あり、通廉を通堅の子東久世祖秀(下津俸庵)の子とする説や、または、祖秀は久我晴通の孫で、祖秀の孫が通廉とする説などがある。祖秀は武士になり、加藤清正に仕えていたが、後に帰洛したらしい。 幕末の通禧は、尊王攘夷派の少壮公家の一人で、文久3年(1863年)八月十八日の政変後に「七卿落ち」を余儀なくされた。明治維新後、通禧は外国事務総督、神奈川府知事、開拓使長官、侍従長、元老院副議長、貴族院副議長、枢密院副議長を歴任した。 明治17年(1884年)東久世家は通禧が伯爵に叙された。叙爵基準に照らせば羽林家として子爵が妥当だったが、通禧の勲功が特別に考慮された。また通禧の四男・東久世秀雄も男爵に叙されている。.

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松浦久

松浦 久(まつら ひさし)は、平安時代後期の武士。肥前国松浦氏の祖。渡辺綱の曾孫。.

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松浦氏

松浦氏(まつらし)は、日本の氏族の一つ。.

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板垣兼信

板垣 兼信(いたがき かねのぶ、生没年不詳)は平安時代末期の武将。清和源氏義光流、甲斐源氏の武田信義の三男。通称は板垣三郎。板垣氏の始祖。.

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村上天皇

村上天皇(むらかみてんのう、延長4年旧6月2日(926年7月14日)- 康保4年旧5月25日(967年7月5日))、は、平安時代中期の第62代天皇(在位:天慶9年(946年)旧4月28日 - 康保4年(967年)旧5月25日)。諱は成明(なりあきら)。 第60代醍醐天皇の第十四皇子。母は藤原基経女中宮穏子。第61代朱雀天皇の同母弟。.

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村上源氏

村上源氏(むらかみげんじ)は、第62代村上天皇の皇子を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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栄実

栄実(えいじつ、建仁元年(1201年) - 建保2年11月13日(1215年1月14日))は、鎌倉幕府第2代将軍源頼家の三男(『尊卑分脈』等)または次男(『北条九代記』)。清和源氏。母は法橋・一品房昌寛の娘。一幡、公暁の異母弟であり、竹御所の異母兄でもあり、禅暁の同母兄。幼名を千寿丸(『尊卑分脈』等)または千手丸(『北条九代記』等)といった。 父頼家が没したときは僅か4歳だった。父の死後、尾張中務丞によって養育されていたところ、北条氏に反感を持つ信濃国(現在の長野県)の御家人泉親衡に大将軍として擁立されて北条義時誅殺の陰謀に加担させられるが、建保元年(1213年)2月にこれが露見して北条氏によって捕縛された(泉親衡の乱)。同年11月、祖母北条政子の命によって出家し、栄西の弟子になって法名を栄実とした。建保2年(1214年)、京都滞在時に和田氏の残党に擁立されて六波羅を襲撃しようとしたが計画が幕府方に露見し、同年11月13日、一条北辺の旅亭で幕府方の襲撃を受けて自殺した。享年14だったという。 ただし、『吾妻鏡』には、「栄実」、「千寿丸」、「千手丸」といった名前は登場せず、泉親衡に源頼家の「若君」が擁立され、北条政子の計らいによって頼家の「若公」が出家させられ、和田氏の残党に頼家の「御息」が擁立されたことが記載されているだけである。また、『尊卑分脈』等の多くの史料では、栄実は承久元年(1219年)10月6日に自害したことになっている。このため、従来の通説で栄実の事績とされてきたことには疑義が呈されている。.

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桃井義助

桃井 義助(もものい よしすけ、生年不詳 - 承久3年6月12日(1221年7月3日))は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。足利義兼の次男。足利義純の異母弟、足利義氏の庶兄。通称を足利次郎といい、足利義助とも表記する。官位は左兵衛尉。 父同様に鎌倉幕府に仕える。承久3年に勃発した承久の乱において幕府方の将として出陣し、宇治川における幕府軍と朝廷軍の会戦の際、6月12日に戦死を遂げた 『尊卑分脈』〈清和源氏義家流〉。または6月15日とも伝わる 『鑁阿寺新田足利両家系図』。 上野国群馬郡桃井郷(群馬県榛東村大字山子田字御堀)に桃井城を築き、桃井を名乗ったとされる。義助の死後、その遺児である義胤は正式に桃井郷の地頭となり、桃井を苗字とした。子孫は桃井氏として存続し、足利一門の一家として室町幕府の草創に参加した。.

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梅溪家

梅溪家(うめたにけ)は、村上源氏久我流の公家である。家格は羽林家。江戸時代前期の左近衛中将久我通世の子・季通を祖とする。江戸時代の石高は150石。3代通条の女・幸子は、将軍徳川家重の側室となり将軍徳川家治の生母となった至心院。明治維新後は、9代通善が子爵に叙せられた。12代通虎は貴族院子爵議員を務めた。通虎の三女・保子は華道家の池坊専永の夫人となり衆議院議員当選5回の政治家。.

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森頼定

森 頼定(もり よりさだ)は鎌倉時代の武将。鎌倉幕府御家人で源義家の孫にあたる若槻頼隆の次男。森氏の祖。 父より相模国毛利庄を継承して森姓を称し、安嘉門院判官代などを務めた。子孫には織田信長の家臣である森可成、長可、成利、忠政らの他、讃岐国の豪族となった家系が派生したともいうが、忠政を祖とする近世大名の家系は仮冒とする説もある。 康元2年(1257年)1月13日、79歳で死去。.

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植松家

植松家(うえまつけ)は、日本の公家。村上源氏岩倉家の分家、千種家家祖の千種有能の末男、植松雅永を祖とする。堂上源氏十家の一つ。家格は羽林家(新家、内々)。 明治維新後華族に列し、10代雅徳が子爵に叙せられた。 江戸時代の家禄は130石。家業は華道で、今日に至るまで代々の当主が日本生花司 松月堂古流の家元を継承している。墓所は浄土宗大本山金戒光明寺。.

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業良親王

業良親王(なりよししんのう、生年不詳 - 貞観10年正月11日(868年2月8日))は、平安時代初期の皇族。嵯峨天皇の第二皇子『日本三代実録』貞観10年正月11日条。.

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橘氏

橘氏(たちばなうじ)は、「橘」を氏の名とする氏族。 県犬養三千代(橘三千代)・葛城王(橘諸兄)を祖とする皇別氏族で、飛鳥時代末から橘宿禰(のち朝臣)姓を称した。.

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正子内親王

正子内親王(まさこないしんのう).

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正二位

正二位(しょうにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。従一位の下、従二位の上に位する。.

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正四位

正四位(しょうしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。 従三位の下、従四位の上に位する。贈位の場合、贈正四位という。.

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正親司

正親司(おおきみのつかさ)は日本古代の律令制において宮内省に属する機関の一つである。 「おおきんだちのつかさ」とも。.

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正親町天皇

正親町天皇(おおぎまちてんのう、永正14年5月29日(1517年6月18日) - 文禄2年1月5日(1593年2月6日))は、第106代天皇(在位:弘治3年10月27日(1557年11月17日) - 天正14年11月7日(1586年12月17日))。諱は方仁(みちひと)。.

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武士

武士(ぶし)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在した、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。「もののふ」(cf. wikt) とも読み倣わすが、その起源については大伴氏や物部氏の名に求めるなど諸説がある。 同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(用例:武者絵、武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者などさらには、「影武者」のように、本義のほかに一般用語としても使われるようになった語もある。)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士とは言え、呼ぶことが間違いというわけではない。はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、侍、兵/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は性別を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、女性の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って女武者(おんなむしゃ)という呼び方をする「女武士」や「姫武士」などという呼称は見られない。。 武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめ、古代を終焉させたとする理解が通常されている。旧来の政権を傀儡として維持したまま自らが実質的に主導する中世社会を構築した後は、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。近代に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府(明治政府)であった。.

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武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

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武田信光

武田 信光(たけだ のぶみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。源義光(新羅三郎)を始祖とする甲斐武田氏の第5代当主。第4代当主・武田信義の5男。伊豆守。甲斐国・安芸国守護。甲斐国八代郡石和荘に石和館を構えて勢力基盤とし、石和五郎と称する。 馬術・弓術に優れた才能を発揮し、小笠原長清、海野幸氏、望月重隆らと共に弓馬四天王と称された。.

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武田信義

武田 信義(たけだ のぶよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。源清光の次男。逸見光長は双子の兄になる(一説に逸見光長とは異母兄弟)。甲斐源氏4代当主であり、武田氏の初代当主である。.

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武田氏

武田氏(たけだし)は、平安時代末から戦国時代の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流・河内源氏の一門、源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家である。安芸国・若狭国に分派が存在し、上総国などにも庶流があったが、いずれも通字として「信」(のぶ)が使用されている。古代の国造である武田臣(皇別)の後裔が河内源氏義光流の棟梁と婚姻したという説も伝わっている。 河内源氏の名族の一つとして戦国時代には戦国大名化し、武田晴信(信玄)の頃には領国拡大し中央の織田・徳川勢力に対抗するが勝頼期には領国の動揺を招いて宗家は滅亡し、江戸時代には庶家だけがわずかに残った。 家宝は御旗(後冷泉天皇から下賜された日章旗)・楯無(楯無の鎧、源頼義が御旗とともに授けられたという)。.

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武田有義

武田 有義/逸見 有義(たけだ ありよし/へみ ありよし)は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。清和源氏義光流、甲斐源氏の棟梁・武田信義の四男(あるいは長男、三男)。後に伯父の逸見光長の養子になった。.

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殿上人

殿上人(てんじょうびと)とは、9世紀以降の日本の朝廷において、天皇の日常生活の場である清涼殿の殿上間に昇ること(昇殿)を許された者である。狭義には、公卿を除いた四位以下の者を指す。またその中から更に蔵人も除いて指す場合もある。雲上人(くものうえびと、うんじょうびと)、上人(うえびと)、雲客(うんかく)、堂上(とうしょう)、簡衆(ふだのしゅう)などとも称す。殿上人に対する概念として、昇殿を許されない「地下」(じげ)がある。 狭義の殿上人は、蔵人とともに、殿上間に置かれた日給簡(殿上簡、仙籍)に登録され、蔵人頭の管理下に、交替で天皇の身辺に日夜、仕えた。昇殿制の始まった当初は数名の六位の殿上人もいたが、おおよそは四位・五位に限られた。これに対し、蔵人は六位からも任じられた。 また、院や東宮等にも昇殿の制度があり、昇殿を許されたものを「院殿上人」等と称した。院の殿上人と内裏の殿上人を区別して、後者を「内の殿上人」(うちのてんじょうびと)等とも言う。 昇殿を許されるのは、天皇や院、東宮の一代限りであり、代替わりにあたっては昇殿許可を失い、再び昇殿するには改めて勅許が必要であった。また殿上人本人の昇階の際にも、再度の勅許が必要であった。.

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氏.

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氏族

氏族(しぞく、うじぞく、clan)とは、共通の祖先を持つ血縁集団、または、共通の祖先を持つという意識・信仰による連帯感の下に結束した血縁集団のこと。 単系出自集団(unilineal descent group。特定の祖先から男性または女性のみを通じて親子関係がたどれる子孫の作る集団)の一つ。特定の男性祖先から男性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を父系出自集団といい、特定の女性祖先から女性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を女系出自集団という。 これらの集団のうち、成員が互いの系譜関係、あるいは共通祖先との系譜関係を把握している集団はリニエッジ(lineage)といい、伝説上・神話上の共通祖先を持っているという意識・信仰があるのみで、系譜関係がはっきりしない集団をクラン(clan)と呼んで、両者を区別する。 同じ氏族の男女の結婚を禁じる結婚規制が広く見られる(氏族外婚)。これは、互いの系譜関係がたどれぬ場合であっても同じ氏族であれば血縁関係を擬制して規制することから、必ずしも近親婚の禁止とは重ならない。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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河内国

河内国(かわちのくに/かはちのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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河内経国

河内 経国(かわち つねくに)は平安時代後期から末期の武将。河内源氏第4代の源義忠の嫡男。 父方の祖父は河内源氏第3代の源義家、母方の祖父は伊勢平氏棟梁の平正盛という源平両氏の血を引く。父が河内守(『河源記』では、領地の地名、『稻澤氏家譜系図』では河内権守)であったことに由来して、河内源太と称した。.

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河内源氏

河内源氏(かわちげんじ)は、河内国(現在の大阪府の一部)に根拠地を置いた清和源氏の一流。一般的に武士で「源氏」という場合、この系統を指す。また、「平家」と称される伊勢平氏と併称される場合には源家(げんけ)という呼称も古くは用いられていた。.

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治部省

治部省(じぶしょう)は律令制における八省のうちのひとつ。和名は「おさむるつかさ」。.

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治承

治承(じしょう / ちしょう)は、日本の元号の一つ。安元の後、養和の前。1177年から1181年までの期間を指す。この時代の天皇は高倉天皇、安徳天皇。 治承期は、平氏政権の本格的な確立期および、それに反発して起こった全国的な内乱、すなわち治承・寿永の乱の初期に当たる。源頼朝の関東政権では、この先の養和・寿永の元号を使わず、治承を引き続き使用した。.

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淳和天皇

淳和天皇(じゅんなてんのう、延暦5年(786年) - 承和7年5月8日(840年6月11日)、在位:弘仁14年4月27日(823年6月9日) - 天長10年2月28日(833年3月22日))は、平安時代初期の第53代天皇。西院帝ともいう。諱は大伴(おおとも)。 桓武天皇の第七皇子。 母は、藤原百川の娘・旅子。平城天皇、嵯峨天皇は異母兄。.

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渡辺綱

渡辺 綱(わたなべ の つな)は、平安時代中期の武将。嵯峨源氏の源融の子孫で、正式な名のりは源綱(みなもと の つな)。通称は渡辺源次。頼光四天王の筆頭として知られる。渡辺氏の祖。.

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渡辺氏

渡辺氏(わたなべし/わたべし).

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済信

済信(さいじん・せいじん、天暦8年1月30日(954年3月12日) - 長元3年6月11日(1030年7月14日))は、平安時代中期の真言宗の僧。父は左大臣源雅信(敦実親王という説もある)。真言院僧正・北院大僧正・仁和寺僧正・観音院僧正とも称される。 雅慶に師事して真言密教を学び、法相教学も兼習している。989年(永祚元年)寛朝に灌頂を受け、権律師に任じられた。以後、東大寺別当・勧修寺長吏・東寺長者法務を歴任している。1019年(寛仁3年)大僧正に至り翌1020年(寛仁4年)僧として初めての牛車宣旨をうけた。灌頂大会や修法の導師を多くつとめ、1027年(万寿4年)には藤原道長の葬儀における導師を勤めた。弟子(付法)に延尋・性信入道親王・念縁・賢尋・永照らがいる。 Category:平安時代の僧 Category:真言宗山階派 Category:真言宗の僧 Category:宇多源氏 Category:954年生 Category:1030年没.

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清和天皇

清和天皇(せいわてんのう、嘉祥3年3月25日(850年5月10日) - 元慶4年12月4日(881年1月7日))は、平安時代前期の第56代天皇。在位は天安2年11月7日(858年12月15日) - 貞観18年11月29日(876年12月18日)。諱は惟仁(これひと)。後世、武門の棟梁となる清和源氏の祖。 文徳天皇の第四皇子。母は太政大臣・藤原良房の娘、女御・明子。.

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清和源氏

清和源氏(せいわげんじ)は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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清華家

清華家(せいがけ)とは、公家の家格のひとつ。最上位の摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることのできる7家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)を指すが、のちに、広幡・醍醐を加えて9家となった。また、豊臣政権時に五大老だった徳川・毛利・小早川・前田・宇喜多・上杉らも清華成を果たしており、清華家と同等の扱い(武家清華家)を受けている。.

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湛慶

湛慶(たんけい、 承安3年(1173年) - 建長8年5月19日(1256年6月13日))は、鎌倉時代の慶派仏師。運慶のもうけた男子、次男康運、三男康弁、四男康勝など皆、仏師になったが、なかでも嫡男の湛慶は、運慶、快慶とならぶ大家として知られる。.

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源効

源 効(みなもと の いたる、生没年不詳)は、平安時代前期の貴族。仁明天皇の皇子。官位は従四位上・備前権守。.

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源基子

源 基子(みなもと の きし(もとこ)、永承4年(1049年) - 長承3年7月7日(1134年7月29日))は、源基平の娘、小一条院敦明親王の孫。母は藤原良頼女。後三条天皇女御。別名源氏御息所、兵部女御。実仁親王・輔仁親王母。 延久3年(1071年)に実仁親王を出産。同年従五位下、女御宣下を受ける。同4年(1072年)准三宮。同5年(1073年)輔仁親王出産、同年後三条上皇崩御で出家。長承3年(1134年)没。享年88。 始めは後三条天皇第一皇女・聡子内親王に女房として仕える。やがて後三条天皇の寵愛を受け、実仁・輔仁の二皇子を産んで、亡き父基平が参議という低い身分でありながら女御とされた。その後実仁親王が東宮に立てられるも、親王は応徳2年(1085年)に15歳で薨去。後三条天皇は実仁親王の次には弟輔仁親王を皇太子に立てるよう遺言していたが、白河天皇はその遺志に背いて翌年皇子善仁親王(堀河天皇)を立坊・即位させた。また基子の姉妹は輔仁親王を支持する源俊房の妻であったが、俊房は永久元年(1113年)永久の変で鳥羽天皇に対する謀反の嫌疑により失脚、輔仁親王も閉門に追いやられ、失意のうちに元永2年(1119年)母基子に先立って没した。遺された基子は親王の菩提を弔う余生を送り、孫にあたる源有仁の京極殿で薨じた。 Category:平安時代の后妃後宮 きし Category:1049年生 Category:1134年没.

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源基平

源 基平(みなもと の もとひら)は、平安時代中期の公卿。御子宰相と号す。.

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源博雅

源 博雅(みなもと の ひろまさ)は、平安時代中期の公卿・雅楽家。醍醐天皇の孫。兵部卿・克明親王の長男。官位は従三位・皇后宮権大夫。博雅三位(はくがのさんみ)、長秋卿と呼ばれる。管弦の名手。.

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源多

源 多(みなもと の まさる、天長8年(831年) - 仁和4年10月17日(888年11月24日))は、平安時代初期から前期にかけての公卿。仁明天皇の皇子(仁明第一源氏)。.

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源季邦

源 季邦(みなもと の すえくに)は、平安時代末期の武将。.

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源定

源 定(みなもと の さだむ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。嵯峨天皇の子(第六源氏)。淳和天皇の猶子。官位は正三位・大納言、贈従二位。四条大納言または賀陽院大納言(陽院大納言とも)と号した。.

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源定房

源 定房(みなもと の さだふさ)は、平安時代後期の公卿・歌人・能書家。権中納言・源雅兼の子。官位は権大納言・従二位。堀川大納言と号す。.

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源実国

源 実国(みなもと の さねくに)は、平安時代中期の武士・官人。源頼国の四男。官位は従四位上、蔵人、検非違使、左衛門尉、春宮大進、備前守、土佐守、播磨守、常陸介(『尊卑分脈』)。.

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源実朝

源 実朝(みなもと の さねとも、實朝)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍。 鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡出の次男頼朝の子としては第6子で四男、北条政子の子としては第4子で次男として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。 歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として『金槐和歌集』がある。小倉百人一首では鎌倉右大臣とされている。.

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源家賢

源 家賢(みなもと の いえかた)は平安時代中期から後期にかけての公卿。醍醐源氏、源資綱の長男。本名は師信。.

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源宗城

源 宗城(みなもと の むねざね、生年不明 - 承平3年5月12日(933年6月7日))は平安時代中期の貴族・歌人。二品兵部卿・敦固親王の次男。官位は従四位下・侍従。名は宗成または巨城とも表記される。 延長6年(928年)従四位下に初叙。当時は宗城王と名乗っていた。その後、臣籍降下。侍従に任ぜられた。しかし、承平3年(933年)5月、民部史生諸藤(姓は不明)に母とともに殺害された。殺害に至る経緯は不明である。 歌人として活躍。平中興の娘と交わした歌など、『後撰和歌集』以下の勅撰和歌集に2首が入集している。.

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源宗于

源 宗于(みなもと の むねゆき、生年不詳 - 天慶2年11月23日(940年1月5日)は、平安時代前期から中期にかけての貴族・歌人。光孝天皇の孫。式部卿・是忠親王の子。官位は正四位下・右京大夫。三十六歌仙の一人。 源宗于朝臣(百人一首より).

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源宗綱

源 宗綱(みなもと の むねつな、生年不明 - 治承4年5月26日(1180年6月20日))は、平安時代末期の摂津源氏の武将。源仲綱の嫡男。源頼政の嫡孫。官職は従五位下、左衛門尉、肥後守。源宗仲の父。 治承4年(1180年)5月、祖父・頼政、父・仲綱らは以仁王を擁して平家に叛旗を翻す(以仁王の挙兵)。宗綱はこの戦いに一家の嫡男として参加し奮戦するが、やがて衆寡敵せず敗北し、宇治平等院にて一族もろとも自害して果てた。 宗綱本人は若くして死去したが、孫の源宗重(蓮位)が親鸞の弟子となったことを契機に、その子孫は本願寺の重臣下間氏として発展する。戦国時代には一向一揆において中心的役割を果たし、さらに降って江戸時代には一族から池田重利が出て一万石を領し、大名に列した。 むねつな Category:下間氏 Category:平安時代の武士 Category:生年不明 Category:1180年没 Category:切腹した人物.

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源宗明

源 宗明(みなもと の むねあきら)は南北朝時代の公卿。従一位、権大納言。宮大納言と号す。 父は久良親王(鎌倉幕府第8代将軍久明親王の息子)。母は不詳。 『玉英記』や『師守記』の内容から判断すると、宗明が元服する頃に実父の久良親王は既に出家していたため二条家が後見となったのではないかと推測できる。.

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源安

源 安(みなもと の やすし、弘仁13年(822年)- 仁寿3年4月18日(853年5月29日))は、平安時代初期の貴族。嵯峨天皇の皇子。官位は従四位上・備中守。.

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源宛

源 宛(みなもと の あつる)は、平安時代中期の武士。名は充とも表記される。嵯峨源氏、左大臣・源融の曾孫。.

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源寛

源 寛(みなもと の ひろし、弘仁4年(813年) - 貞観18年5月27日(876年6月22日))は、平安時代初期から前期にかけての貴族。嵯峨天皇の皇子。官位は正四位下・宮内卿。.

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源師仲

源 師仲(みなもと の もろなか、永久4年(1116年) - 承安2年5月16日(1172年6月9日))は、平安時代後期の公卿、歌人。村上源氏の権中納言源師時(左大臣源俊房の子、『長秋記』作者)の三男。母は待賢門院の女房であった源師忠の女。従二位権中納言に列し、称号を「伏見源中納言」といった。室は石清水別当光清の女紀家子、子には源雅仲がいる。 後白河上皇の院政に参画、その一翼を担う有力な廷臣となるが、信西と対立したことからその政敵である藤原信頼に接近する。信西打倒のための武力蜂起計画が進行する過程で、伏見の自領を信頼の武芸の訓練のために提供するなど、深く謀議に関与している。 平治元年(1159年)、かねてからの計画通り信頼や源義朝らとともに挙兵(平治の乱)。上皇と上西門院を内裏に幽閉するに当たり、その護送用の車を用意するという任務を果たしている。 当初、戦局は信頼方に有利に展開するが、藤原惟方・藤原経宗らが敵方に寝返り二条天皇を内裏から脱出させたことから状況は一変、上皇も脱出し、信頼らは一転して賊軍としての立場に追い込まれる。こうした情勢を見て師仲は、味方陣中にあった三種の神器の一つである八咫鏡などを自らの手中に納め、早くも降伏を想定した保身行動に入っていたとされる。 やがて信頼・義朝らの敗戦を見届けた後、神鏡を姉小路東洞院にあった自邸に保管し、自らは六波羅に出頭する。しかし八咫鏡を守った功による減刑は認められず、永暦元年(1160年)3月31日に下野国に配流となった。この際、配所に赴く途上で詠んだ歌が、後に勅撰集『千載和歌集』に収録されている。 仁安元年(1166年)に赦され、3月29日に帰洛。戦前の地位である正三位に復位し、翌年従二位に進んでいる。しかし散位に留められて官職に就くことはなかった。承安2年(1172年)5月16日に57歳で没した。 Category:平安時代後期の貴族 もろなか Category:1116年生 Category:1172年没.

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源師俊

源 師俊(みなもと の もろとし、承暦4年(1080年) - 永治元年12月7日(1142年1月5日))は、平安時代後期の公卿・歌人。村上源氏、左大臣・源俊房の子。大納言・源師忠の養子。官位は従三位・権中納言。.

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源師忠

源 師忠(みなもと の もろただ)は、平安時代後期の公卿。村上源氏、右大臣・源師房の四男。官位は正二位・大納言。壬生大納言または沢大納言と号した。 歌人であり、『新古今和歌集』以下の勅撰和歌集に3首が入首。また和琴にも秀でていた。.

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源師光

源師光(みなもと の もろみつ).

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源師隆

源 師隆(みなもと の もろたか、承保2年(1075年) - 長承3年(1134年))は平安時代後期の貴族。村上源氏、大納言・源師忠の子。官位は正四位下・大蔵卿。.

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源師頼

源 師頼(みなもと の もろより、治暦4年(1068年) - 保延5年12月4日(1139年12月26日))は、平安時代後期の公卿・歌人。村上源氏、左大臣・源俊房の嫡男。修理大夫・橘俊綱の養子。官位は正二位・大納言。小野宮大納言と号す。.

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源師房

源 師房(みなもと の もろふさ)は、平安時代中期の公卿・歌人。村上源氏中院流の祖。村上天皇の皇子具平親王の子。従一位・右大臣。土御門右大臣と号した。幼名は万寿宮。.

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源師時

源 師時(みなもと の もろとき、承暦元年(1077年) - 保延2年4月6日(1136年5月8日))は、平安時代後期の公卿・歌人。村上源氏、左大臣・源俊房の次男。白河上皇・鳥羽上皇に信任され、正三位・権中納言に至るが、父祖の官位に達することはなかった。日記『長秋記』は院政期初期の重要史料の一つとして重んじられている。 詩歌に優れ、和歌では『金葉和歌集』(5首)以下の勅撰和歌集に20首が入集、また兄の源師頼とともに『堀河百首』の詠み手の一人である。漢詩においても師である大江匡房から「この君は、詩の心得て、よく作り給ふ」と賞賛されている。父俊房を継いで有職故実に通じ、源有仁等にも教導した。また、作庭をよくし、鳥羽殿の庭園の造営を手がけたという。.

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源常

源 常(みなもと の ときわ)は、平安時代初期の公卿。嵯峨天皇の子(嵯峨第三源氏)。官位は正二位・左大臣、贈正一位。東三条左大臣とも呼ばれる。.

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源希義

源 希義(みなもと の まれよし)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源義朝の五男。源頼朝の同母弟で、同母姉妹に一条能保室の坊門姫がいる。.

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源希望

源 希望(みなもと の まれもち)は鎌倉時代初期の武将。源希義の次男。吉良 希望とも。土佐吉良氏の祖。.

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源平交代思想

源平交代思想(げんぺいこうたいしそう)または源平交代説は、日本史上の武家政権は平氏(桓武平氏)と源氏(清和源氏)が革命(易姓革命)的に交代するという俗説のこと。室町時代ごろから一部で信じられていたと言われている。.

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源平盛衰記

『源平盛衰記』(げんぺいせいすいき/げんぺいじょうすいき)は、軍記物語の『平家物語』の異本のひとつ。48巻。著者不明。読み本系統に分類される。(詳しくは『平家物語』を参照).

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源庶明

源 庶明(みなもと の もろあきら/もろあき)は、平安時代中期の公卿・歌人。宇多天皇の孫で、兵部卿・斉世親王の三男。.

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源広綱

源 広綱(みなもと の ひろつな、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。家系は清和源氏の一家系、摂津源氏の出である。源頼政の末子。長兄・仲綱の養子となる。官位は従五位下・駿河守。.

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源仲家

源 仲家(みなもと の なかいえ)は、平安時代末期の河内源氏の武将。八条院蔵人。帯刀先生・源義賢の嫡男。源義仲(木曾義仲)の異母兄。源頼朝・義経の従兄弟にあたる。 久寿2年(1155年)、父・義賢が大蔵合戦で甥の源義平に襲撃され戦死すると、父と共に大蔵にいた2歳の異母弟・駒王丸(義仲)は逃れて中原氏に庇護される。母と共に京にいたと思われる仲家は摂津源氏の源頼政に保護され、その養子となって京で成長した。朝廷の官職として八条院蔵人をつとめていた。ただし『平家物語』は六条院蔵人としている。 治承4年(1180年)5月、以仁王と養父・頼政による挙兵計画が露見して、仁和寺にこもった際に、嫡男の仲光とともに馳せ参じた。のち以仁王らと奈良へ向かったが、5月17日、宇治平等院のあたりで平家の追討軍に追いつかれて仲光ともども戦死した。.

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源仲光

源 仲光(みなもと の なかみつ、生年不詳 - 治承4年5月26日(1180年6月20日))は平安時代末期の武将。源仲家の嫡男で弟に仲賢がある。木曾義仲は叔父に当たる。九条院判官代。蔵人太郎と号した。 1180年、父の仲家の養父である摂津源氏の源頼政が挙兵すると、父と共にこれに従い、宇治平等院の戦いにおいて、頼政、仲家らとともに討死を遂げた。.

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源仲綱

源 仲綱(みなもと の なかつな)は、平安時代末期の武将・歌人。源頼政の嫡男。母は源斉頼女。官位は正五位下、隠岐守、伊豆守。.

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源仲政

源 仲政(みなもと の なかまさ)は、平安時代後期の武将・歌人。三河守源頼綱の次男。馬場仲政(ばば の なかまさ)ともいう。.

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源延光

源 延光(みなもと の のぶみつ)は平安時代中期の公卿、歌人。代明親王の第3王子。枇杷大納言と号す。.

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源仕

源 仕(みなもと の つこう)は、平安時代中期の軍事貴族。大納言・源昇の次男。官位は従五位上、武蔵守、修理大夫。.

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源伊陟

源 伊陟(みなもと の これただ)は、平安時代の日本の公卿。.

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源弘

源 弘(みなもと の ひろむ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。嵯峨天皇の皇子(第二源氏)。官位は正三位・大納言。広幡大納言と号す。.

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源彦仁

源 彦仁(みなもと の ひこひと)は、鎌倉時代中期から後期の皇族・公卿。順徳天皇の第五皇子・岩倉宮忠成王の子。.

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源彦良

源 彦良(みなもと の ひこよし)は鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿。参議左中将、従二位。 父は弾正尹忠房親王、母は権大納言小倉実教の娘。子は源彦忠。.

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源俊実

源俊実(みなもと の としさね)は、日本の平安時代中期から後期にかけての公卿。.

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源俊隆

源 俊隆(みなもと の としたか、生没年不詳)は平安時代後期の貴族。村上源氏、大蔵卿・源師隆の子。官位は正五位下・皇太后宮亮。歌人として有名な皇嘉門院別当の父。 元永元年(1118年)10月2日に藤原忠通のもと開かれた「内大臣家歌合」に名前がある。『中右記』の記録によれば、元永3年(1120年)当時治部少輔を務めていたようである。.

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源俊頼

源 俊頼(みなもと の としより、天喜3年(1055年) - 大治4年1月1日(1129年1月22日))は、平安時代後期の官人・歌人。宇多源氏。大納言・源経信の三男。官位は従四位上・木工頭。.

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源俊賢

源 俊賢(みなもと の としかた)は平安時代中期の廷臣。西宮左大臣源高明の三男。藤原公任、同斉信、同行成と並んで一条朝の四納言と呼ばれ、摂関政治の一角を担う能吏として知られた。.

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源俊房

源 俊房(みなもと の としふさ、長元8年(1035年) - 保安2年11月12日(1121年12月23日))は、平安時代後期の公家。村上源氏、源師房の子。従一位・左大臣。堀川左大臣とも称される。.

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源俊明

源 俊明(みなもと の としあき、寛徳元年(1044年) - 永久2年12月2日(1114年12月30日))は平安後期の公卿。醍醐源氏で、源隆国(宇治大納言)の三男。官位は正二位大納言。 祖父・源俊賢以来、3代続けて大納言の顕官に至った。『古事談』などに能吏としての逸話を残す一方、『続後撰和歌集』『続拾遺和歌集』等の勅撰和歌集に和歌が入集している。.

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源保光

源 保光(みなもと の やすみつ、延長2年(924年) - 長徳元年5月9日(995年6月9日))は、平安時代の公卿。醍醐源氏。代明親王の次男。官位は従二位・中納言。桃園中納言と号す。.

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源忠宗

源 忠宗(みなもと の ただむね、生没年不詳)は、平安時代の河内源氏の武将。 源義家(八幡太郎)の四男(三男)の源義忠の三男。飯富源太。内舎人(「尊卑分脈」)。正しくは「飫富」であるが、飯富と書かれることが多い。「尊卑分脈」には子孫が見えず、中世の飯富氏との関係は不詳である。 Category:平安時代の武士 たたむね Category:飯富氏 Category:生没年不詳.

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源忠国

源 忠国(みなもと の ただくに、生没年不詳)は、平安時代の武将。源満政の五男。兄に忠重、忠隆、姉妹に源重文室がいる。 『尊卑分脈』によると官位は従五位下、刑部大輔、出羽守。 治安2年(1022年)には、摂津豊能郡能勢町山田にある山田城(亀ノ屋城)を居城としていた(『多田社記』)。 たたくに Category:平安時代の武士 Category:生没年不詳.

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源忠隆

源 忠隆(みなもと の ただたか、生没年不詳)は、平安時代中期の武士・官人。源満政の次男。.

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源忠重

源 忠重(みなもと の ただしげ)は、平安時代中期の武士・官人。源満政の長男。.

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源忠清

源 忠清(みなもと の ただきよ)は平安時代中期の公卿。兵部卿・有明親王の長男。官位は正三位・参議。.

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源信 (公卿)

源 信(みなもと の まこと、弘仁元年(810年) - 貞観10年閏12月28日(869年2月13日))は、平安時代前期の公卿。嵯峨天皇の七男(第一源氏)。官位は正二位・左大臣、贈正一位。初代源氏長者。北辺大臣と号した。.

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源信雅

源 信雅(みなもと の のぶまさ、承暦3年(1079年) - 保延元年5月15日(1135年6月27日))は、平安時代末期の貴族。初名は家定。村上源氏、右大臣・源顕房の六男。官位は正四位下・陸奥守。.

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源信明

源 信明(みなもと の さねあきら、延喜10年(910年) - 天禄元年(970年))は、平安時代中期の貴族・歌人。光孝源氏、右大弁・源公忠の子。官位は従四位下・陸奥守。父と同じく三十六歌仙の一人。.

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源信時

源 信時(みなもと の のぶとき/さねとき、生年不詳 - 応保3年(1163年)6月)は平安時代後期の貴族。村上源氏、権中納言・源国信の子。官位は正四位下・越後守。 備前守を経て、仁平2年(1152年)正月28日に伊賀守に任ぜられる。その後さらに越後守に転じるなど主に各国の受領を歴任した。位階は正四位下。.

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源冷

源 冷(みなもと の すずし)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。仁明天皇の皇子。.

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源啓

源 啓(みなもと の ひらく、天長6年(829年) - 貞観11年8月27日(869年10月6日))は、平安時代初期から前期にかけての貴族。嵯峨天皇の皇子。官位は従四位上・越前守。.

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源公忠

源 公忠(みなもと の きんただ、寛平元年(889年)- 天暦2年10月28日(948年12月1日))は、平安時代中期の貴族・歌人。光孝天皇の孫。大蔵卿・源国紀の次男。官位は従四位下・右大弁。三十六歌仙の一人。滋野井弁と号す。.

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源具親

源 具親(みなもと の ともちか、生没年不詳)は、鎌倉時代初期の貴族・歌人。村上源氏俊房流、右京権大夫・源師光の次男。官位は従四位下・左近衛少将。小野宮少将と号す。新三十六歌仙の1人。.

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源兼忠

源 兼忠(みなもと の かねただ)は平安時代中期の公卿。清和天皇の孫で、貞元親王の子。.

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源兼善

源 兼善(みなもと の かねよし、生年不明 - 元慶3年4月25日(879年5月19日))は平安時代初期の貴族。光孝天皇の皇子で兼善王を名乗るが、後に臣籍降下。官位は従四位上・侍従。 貞観11年(869年)従四位下に叙され、翌貞観12年(870年)侍従に任ぜられる。同年、是忠王・近善王・旧鑑王・是貞王・貞恒王・篤行王・音恒王らとともに源朝臣姓を賜姓され臣籍に降りる。この当時、父・光孝天皇は竜潜の身であった。この後従四位上に叙されるが、元慶3年(879年)4月25日卒去。享年不明。.

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源兼綱

源 兼綱(みなもと の かねつな)は、平安時代末期の武将。丹後守源頼行の次男(あるいは三男、五男)。源頼政の養子。.

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源兼澄

源 兼澄(みなもと の かねずみ、生没年不詳)は平安時代中期の貴族、歌人。光孝源氏、鎮守府将軍・源信孝の子で、祖父は同じく歌人して活躍した源公忠。官位は正五位下・加賀介。名は兼隆とも表記される。 東宮帯刀を経て、五位蔵人に補任される。一条天皇の御世にて陪膳を務め、永延2年(988年)時に蔵人・左衛門尉・検非違使であった。右馬允・式部丞・若狭守・加賀守・介を歴任して正五位下に至った。歌人として活躍し、長保5年(1003年)5月に『藤原道長家歌合』に出詠。寛弘9年(1012年)の大嘗会にて和歌を詠進する。『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に11首が入り、周囲の歌人とも多く交流した。家集に『兼澄集』がある。.

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源光 (公卿)

源 光(みなもと の ひかる、承和12年6月2日(845年7月9日) - 延喜13年3月12日(913年4月21日))は、平安時代の公卿。仁明天皇の皇子(第三源氏)。官位は正二位・右大臣、贈正一位。西三条右大臣を号す。.

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源光基

源 光基(みなもと の みつもと)は、平安時代末期の武将。左衛門尉源光信の長男。土岐光基とも記される。.

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源光宗

源 光宗(みなもと の みつむね、康治元年(1142年)頃 - 永暦元年(1160年))は、平安時代末期の武将。出雲守源光保の長男。兄弟に光盛、重子、土佐局(鳥羽天皇後宮)らがあり、子に宗保、兼綱がある。『尊卑分脈』による官位は従四位下、左衛門尉、伯耆守、備後守。また「木田」を号したとされる。 鳥羽院の近臣であった光保の嫡子として久寿2年(1155年)に14歳で蔵人に補され、その後も順調に昇進を重ねた。光宗も父と同じく守仁親王(二条天皇)に近侍したと考えられ、平治元年(1159年)の平治の乱では父と行動を共にする。しかし、乱の後に反院政派の排除を進める後白河上皇の手によって永暦元年(1160年)6月に父と共に薩摩国へ配流となり、護送中に父が誅殺されると光宗もその後を追って自害した(『尊卑分脈』)。.

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源光保

源 光保(みなもと の みつやす)は、平安時代末期の武将・院近臣。摂津源氏の流れを汲む出羽守源光国の三男。諱は光泰(『平治物語』)、光康(『愚管抄』)とも記される。.

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源光信

源 光信(みなもと の みつのぶ)は、平安時代末期の武将。出羽守源光国の長男。通称は出羽判官、土佐判官。鳥羽院四天王の一人。土岐光信とも記される。.

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源光国

源 光国(みなもと の みつくに)は、平安時代後期の武将。伊豆守源国房の長男。初名は師時(『尊卑分脈』)。.

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源光経

源 光経(みなもと の みつつね、生年不明 - 寿永2年11月19日(1184年1月3日))は、平安時代末期の武将。源光長の次男。兄弟に国長、土岐光衡があり、子に光房(八条院蔵人)、光助(出羽守)がある。 美濃源氏土岐氏の棟梁であった父と共に在京し、検非違使・左衛門尉を務めたとされる(『尊卑分脈』)が、寿永2年(1184年)の法住寺合戦で父が後白河院方に加わったため光経もこれに従い、死闘の末に父と共に討ち取られ梟首された。 後代、次男・光助が越中国長沢に居住したことからその子孫が長沢氏として存続し、戦国時代には長沢光国などを輩出している。 みつつね Category:平安時代の武士 Category:生年不明 Category:1184年没 Category:治承・寿永の乱で戦死した人物.

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源光重

源 光重(みなもと の みつしげ、生没年不詳)は、平安時代末期の武士。源光信(あるいは源基国)の子。源仲政の養子。義兄弟に頼政、頼行、泰政らがあり、子に重清、重高、頼重、光貞、仲重、保綱らがある。仮名は三郎。深栖氏の祖。 養父・仲政が国司として東国に下向した際、兄たちと共に同行し現地に所領を得て居住したとされる。しかし、所領の位置については下総国とも下野国とも云われており明確でない。『平治物語』には子の頼重が京から東国の深栖一族の所領にまで源義経を招き入れた際にこれを出迎える存在として登場している。『尊卑分脈』には光重が「波多野御曹司」と称したと記載されているが、その詳細については不明である。 本拠地・深栖の所領は五男仲重の子孫が代々相伝し、鎌倉時代以降も御家人として続いたことが『吾妻鏡』にみえている。.

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源光長

源 光長(みなもと の みつなが)は、平安時代末期の美濃源氏の武将。源光信の子。土岐光長とも記される。通称は「出羽判官」。.

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源勝

源 勝(みなもと の まさる、生年不詳 - 仁和2年7月4日(886年8月7日))は、平安時代前期の貴族・僧侶。法名は由蓮。嵯峨天皇の皇子。位階は従四位上。竹田禅師と称された。.

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源勤

源 勤(みなもと の つとむ、天長元年(824年) - 元慶5年5月16日(881年6月16日))は、平安時代初期から前期にかけての貴族。嵯峨天皇の皇子(第十三源氏)。官位は従三位・参議。西七条宰相と号した。.

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源国基

源国基は、.

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源国俊

源 国俊(みなもと の くにとし、生年不明 - 承徳3年3月18日(1099年4月11日))は平安時代中期から後期にかけての貴族。醍醐源氏、権中納言・源隆国の六男。官位は従五位上・陸奥守。.

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源国信

源 国信(みなもと の くにざね)は、平安時代後期の公卿、勅撰歌人。村上源氏で、右大臣・源顕房の四男または三男。.

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源国直

源 国直(みなもと の くになお、生没年不詳)は、平安時代後期の武将。三河守源頼綱の三男。山県国直とも記される。山県氏の祖。.

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源国房

源 国房(みなもと の くにふさ)は、平安時代中期から後期にかけての武将。源頼国の六男。後に摂津源氏を継いだ五兄・頼綱の養子となっていたとされる。美濃源氏の祖。.

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源国明

源 国明(みなもと の くにあき)は平安時代後期の廷臣。史料上では源・藤原両姓の表記が錯綜している。.

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源国政

源 国政(みなもと の くにまさ)は、平安時代末期の武将。源国直の長男。山県国政とも記される。.

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源範頼

源 範頼(みなもと の のりより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。 遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため、とも呼ばれる。その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経と共にこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。その後も源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ伊豆国に流された。 武蔵国横見郡吉見(現在の埼玉県比企郡吉見町)のあたりを領して吉見御所と尊称された。.

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源維義

源維義(みなもと の これよし、生没年不明)は、平安時代の武士。源為義の十四男とされ、その人物像は資料が乏しく、詳細は不明。惟義とも書く。通称を松井冠者と称したとされ、子孫にこれを起源とする為義流松井氏がある。この松井氏は山城国出身とされ、同国葛野郡松井の出という。松井季義の父。.

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源義基

源 義基(みなもと の よしもと、生年不詳 - 治承4年(1180年))は、平安時代末期の河内源氏の武将。従五位下。源義家の六男・義時(陸奥六郎義時、陸奥五郎とも)の三男。義兼、頼隆、義宗、義信の父。.

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源義家

源 義家(みなもと の よしいえ)は、平安時代後期の武将。伊予守・源頼義の長男。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる。 比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となった時、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約10年間は閉塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された。 その活動時期は摂関政治から院政に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。このため歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ、後三年の役の朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な憶測がされてきた。生前の極位は正四位下。.

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源義宗

源 義宗(みなもと の よしむね)は、平安時代の河内源氏の武将。源義家の子。『尊卑分脈』では長男とされる。 若くして死去したが、戦死か病没かは不詳。兵庫允・左衛門少尉の官職に就任した(『尊卑分脈』)。また、甥の忠宗(次弟・義忠の子)が義宗の養子となっている。 『平泉志』巻之上(一関藩教成館學頭、高平眞藤編)によると、後三年の役の金澤柵の攻防の記事に、 との記事を載せるが、この記事の寛治4年(1090年)では、嫡子とされる源義忠はわずか7歳でしかないため、一軍を率いていたとは考え難い。そのため、義忠の他の兄弟であると考え、嫡子というのが単に長男であることを意味すると理解すれば、上記の記事の嫡子は義宗のことと考えられる。 Category:平安時代の武士 よしむね Category:生没年不詳.

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源義平

源 義平(みなもと の よしひら)は、平安時代末期の武将。源義朝の庶子で長男。通称は鎌倉悪源太(悪源太、鎌倉源太とも)。母は京都郊外の橋本の遊女または三浦義明の娘であり、源頼朝・義経らの異母兄にあたる。.

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源義康

源 義康(みなもと の よしやす/足利 義康 あしかが よしやす)は、平安時代末期の武将。足利氏の祖。陸奥判官とも称した。.

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源義広 (志田三郎先生)

源 義広(みなもと の よしひろ/志田 義広 しだ よしひろ)は、平安時代末期の武将。河内源氏第五代・源為義の三男。志田三郎先生(しだ さぶろう せんじょう)。またの名を義範、義憲(よしのり)とも。.

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源義広 (紺戸氏祖)

源 義広(みなもと の よしひろ/紺戸 義広 こんど よしひろ/錦織 義広 にしきおり よしひろ、生年不詳 - 治承4年(1180年)?)は、源義時の四男、義澄の父。平安時代末期の武将。 源義家(八幡太郎義家)の六男の源義時の四男。石川源氏一族の紺戸氏の祖。 治承四年(1180年)に源頼朝が挙兵すると、それに呼応し、先祖の河内源氏の本拠地の河内国石川郡で挙兵したが、平清盛が派遣した飯富季貞、平盛澄の軍に宇治で戦い大敗。捕らわれたとも、討ち死にしたともいうが、詳細は不明。 Category:平安時代の武士 よしひろ.

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源義広 (毛利治部丞)

源 義広(みなもと の よしひろ、生没年不詳)は平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。治部丞。毛利義広とも。源義家(八幡太郎義家)の七男・源義隆の長男。子に毛利義昭。弟に源頼隆、高松定隆らがいる。 父以来の相模国愛甲郡毛利庄を相伝し、鎌倉幕府の御家人となる(源姓毛利氏の祖)。子孫は美濃国に至り、摂津源氏系の美濃源氏の土岐氏をはじめ、斎藤氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏と主家を転じ、尾張藩の藩士となる。子孫には毛利広盛、毛利広義などがいる。 Category:平安時代の武士 Category:鎌倉幕府御家人 よしひろ Category:生没年不詳.

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源義仲

源 義仲 (みなもと の よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。 以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。.

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源義仲 (曖昧さ回避)

源 義仲(みなもと の よしなか).

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源義弘

源 義弘(みなもと の よしひろ、生年未詳 - 天仁2年(1109年)は平安時代後期の武将。源義綱の長男、嫡男。母は藤原季定の娘。左衛門尉、検非違使。弟に義俊、義明、義仲、義範、義公、義直。.

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源義忠

源 義忠(みなもと の よしただ)は平安時代後期の武将。清和源氏の中の河内源氏四代目棟梁。源義家の死後河内源氏の家督を相続、伊勢平氏と和合して勢力の維持を図ったが、同族に暗殺された。.

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源義信

源 義信(みなもと の よしのぶ、生没年不詳)は、平安時代後期の河内源氏の武将。源義親の長男で、源義家の孫。通称対馬太郎。官位は『尊卑分脈』によると従四位下、左兵衛佐。.

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源義公

源 義公(みなもと の よしきみ、生年不詳 - 天仁2年(1109年)は平安時代後期の武将。源義綱の六男。五条院の判官代。兄に義弘、義俊、義明、義仲、義範。弟に義直。.

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源義兼

源 義兼(みなもと の よしかね、生没年不詳)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源義家(八幡太郎)の曾孫で、河内石川源氏棟梁の源義基の長男。石川判官代。石川義兼とも。.

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源義光

源 義光(みなもと の よしみつ)は、平安時代後期の武将。河内源氏の2代目棟梁である源頼義の三男。兄に源義家(八幡太郎)や源義綱(賀茂次郎)がいる。近江国の新羅明神(大津三井寺新羅善神堂)で元服したことから新羅三郎(しんらさぶろう)と称した。.

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源義国

源 義国(みなもと の よしくに)は、平安時代後期の河内源氏の武将。源義家の子。新田・足利両氏の祖にあたる。.

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源義範

源 義範(みなもと の よしのり、生年不詳 - 天仁2年(1109年)は平安時代後期の武将。源義綱の五男。鳥羽天皇の皇后美福門院得子の判官代。兄に義弘、義俊、義明、義仲。弟に義公、義直。.

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源義綱

源 義綱(みなもと の よしつな)は、平安時代後期の河内源氏の武将。源頼義の子。母は平直方の娘で、兄の源義家(八幡太郎)、弟の源義光(新羅三郎)と同腹である。.

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源義経

源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。 河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名をと呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。 その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき判官とは義経が後白河法皇より任じられた左衛門尉・検非違使を兼ねた官職名。通常は「はんがん」だが、『義経』の伝説や歌舞伎などでは「ほうがん」と読む。)という言葉を始め、多くの伝説、物語を生んだ。.

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源義直

源義直(みなもと の よしなお、生没年未詳)は、平安時代後期の武将。源義綱の七男。 旧駒ヶ谷村の歴史愛好者が発行した村史に「幼子源義直は、石橋の祖である」との記載があり、現在、通法寺在住の石橋氏は、この子孫である。 よしなお Category:平安時代の武士.

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源義隆

源 義隆(みなもと の よしたか)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源義家の七男(六男とも)。 森冠者、陸奥冠者、陸奥六郎または陸奥七郎などと号した。七男であるが、六郎ともいう。官位は無位無官と看做されることが多いが、宮内少大輔従五位下に任ぜられるとも。子には毛利義広、若槻頼隆、高松定隆らがいる。.

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源義親

源 義親(みなもと の よしちか)は、平安時代後期の武将。源義家の子。尊卑分脈では次男、源為義の父とされるが異説あり。 河内源氏3代目棟梁・源義家の嫡男だったが、対馬守に任じられたとき九州で略奪を働き、官吏を殺害したため、隠岐国へ流された。だが、出雲国へ渡って再び官吏を殺して官物を奪ったために、平正盛の追討を受けて誅殺された。剛勇の義親が簡単に討たれたことを人々は疑い、その後に幾度も義親を名乗る者が現れている。.

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源義高 (左兵衛権佐)

源 義高(みなもと の よしたか、生没年不詳)は、平安時代末期の河内源氏の流れを汲む武将。源義忠の次男。 父が暗殺されると、母方の平家で育てられた。左兵衛尉、左馬允、兵庫助などを歴任し、ついに官位は父を凌ぎ、従四位下左兵衛権佐にまでなった。そのため、当時の史料では源氏の棟梁を自負していたともされる。 兄に経国がいるが、経国が関東に下ったのに対し、義高は都に住し、平家が勢力を強めるに従って順調な官途を進んだ。 子に、従五位上河内守源義成がいる。実質的に源義忠の系統の嫡流は兄の経国に代わり、義高の子孫が継承する。義高の子孫は代々北面武士で河内国に領地を持つ武士として続いた。 Category:平安時代の武士 よしたか Category:12世紀生 Category:没年不明.

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源義高 (清水冠者)

源 義高(みなもと の よしたか)は、平安時代末期の河内源氏の流れを汲む信濃源氏の武将。清水冠者(志水冠者)と号す。木曾義高とも。源義仲の嫡男。母は中原兼遠の娘。諱(実名)は文献によって異なり「義高」は『吾妻鏡』の記述によるものである。『尊卑分脈』では「義基」、『平家物語』では「義重」となっているが他の史料との整合性や比較批評が必要である。説話的な題材や虚構も交えられていることもあり信憑性に乏しい。.

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源義賢

源 義賢(みなもと の よしかた)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の次男。源義朝の異母弟。源義仲(木曾義仲)の父。.

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源義資

源 義資(みなもと の よしすけ、生年不詳 - 治承4年(1180年))は、平安時代末期の武将。二条院判官代であったことから二条義資と称した。河内源氏(石川源氏)の源義時の子。子に有義(一説に武田信義の子ともいう)。孫の信盛が万力氏を称した。.

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源義門

源 義門(みなもと の よしかど、生没年不詳)は、平安時代末期の河内源氏の棟梁源義朝の四男。 義門については早世したと伝わるのみで生没年や事績は明らかでない。頼朝のすぐ下の弟で、『系図纂要』によれば母は頼朝と同じ藤原季範の娘、由良御前とされているが、同時代的にそれを裏付ける資料は確認されていない。 ただし宮内丞の官職に任じられていることから、平治の乱で一時的に義朝軍が内裏を占拠した際には存命しており、その際に任官したのではないか、そして直後の源氏軍敗北の中において戦死したのではないか、などと推測されている(奥富敬之著「清和源氏の全家系」)。 みなもと の よしかと よしかと.

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源義重

源 義重(みなもと の よししげ / 新田 義重 にった よししげ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。新田氏の祖。武家の棟梁として名を馳せた八幡太郎義家の孫。新田氏本宗家(上野源氏)の初代であり、上野国新田荘を本拠としたため新田義重と称する。.

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源義雄

源 義雄(みなもと の よしかつ、生没年不詳)は、平安時代末期の河内源氏の流れを汲む武将。源義家(八幡太郎義家)の四男の源義忠の五男。 源義忠が暗殺されると、母方の平家で育てられた。兄に源経国、源義高、源忠宗、源義清がいるが、経国、忠宗が関東にあったのに比べ、義高らと同じく都に住し、平家が勢力を強めるに従って順調な官途を進んだ。 Category:平安時代の武士 よしかつ.

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源義業

源 義業(みなもと の よしなり)は、平安時代後期の武将。実質的な佐竹氏初代。佐竹義業とも呼ばれる。.

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源義清 (左京権大夫)

源 義清(みなもと の よしきよ、生没年未詳)は源義忠の四男。従五位下、左京権大夫。 『尊卑分脉』の系図によると母は平忠盛の娘とされているが、年代的に考えてこれは誤りであり、平正盛の娘、即ち忠盛の姉妹が正しいと思われる。いずれにせよこれは、義忠と伊勢平氏一族の繋がりを暗示する記述であり、後世治承・寿永の乱において、義忠の子孫の一部が平家方に与したことの遠因の一つとして考えられている。また、平清盛(忠盛の子)の「清」の一字は、義清が烏帽子親となったことに由来するともいい、清盛の父・忠盛の「忠」の一字も、義清の父・源義忠が烏帽子親であったことに由来し、忠盛、清盛親子と、義忠、義清親子の親密さを伝えている。 右衛門尉、兵庫助などを歴任した。子に従五位下左衛門尉、因幡介となった源義久がいる。義久には一子があり、従五位下宮内少輔源義高がそれである。 よしきよ Category:平安時代の武士.

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源義清 (矢田判官代)

源 義清(みなもと の よしきよ)は、平安時代末期の武将。仁木氏、細川氏、戸賀崎氏(戸崎氏)の祖。通称は矢田判官代(やたのはんがんだい)。.

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源義清 (武田冠者)

源 義清(みなもと の よしきよ、承保2年4月16日(1075年5月3日) - 久安5年7月23日(1149年8月27日))は、平安時代後期の武将。『尊卑分脈』によれば、河内源氏の一族で甲斐源氏の祖となる源義光(新羅三郎義光)の三男(次男とも)佐藤(1986)、p.22。母は平清幹の娘(平成幹の姉または妹にあたる)。 『尊卑分脈』によれば源義光には七男がおり、義清の兄には佐竹氏の祖となった義業・石井氏の祖となった源実光、弟には盛義(形部四郎・平賀冠者)・親義(形部五郎・岡田冠者)・祐義(形部六郎・覚義(寺阿闍梨)がいる。 幼名は音光丸。通称は刑部三郎・武田冠者で、「形部」は義光が形部丞であったことに由来していると考えられている。武田義清・逸見義清とも。子に清光(逸見清光)、師光、加賀美遠光、安田義定らがある。.

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源義朝

源 義朝(みなもと の よしとも)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の長男。母は白河院近臣である藤原忠清の娘。源頼朝・源義経らの父。 源義家の死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていた。都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で家人に裏切られ謀殺された。.

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源義明

源 義明(みなもと の よしあき、生年未詳 - 天仁2年2月16日(1109年3月19日))は平安時代後期の武将。源義綱の三男。母は大舎人頭藤原親明の娘。通称は美濃三郎。兄は義弘、義俊。弟は義仲、義範、義公、義直。.

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源義時

源 義時(みなもと の よしとき)は、平安時代後期の河内源氏の武将。源義家の六男、一説に五男とも。.

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源経基

源 経基(みなもと の つねもと、源 經基)は、平安時代中期の皇族・武将。経基流清和源氏の初代。 『保元物語』によれば、父は清和天皇の第 6皇子・貞純親王で、母は右大臣・源能有の娘。皇族に籍していたとき「六孫王」と名乗ったとされるが、当時の文献には見られない。居館は六宮とも八条御所ともいう。.

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源経信

源 経信(みなもと の つねのぶ)は、平安時代後期の公家・歌人。宇多源氏、権中納言・源道方の六男。官位は正二位・大納言。桂大納言と号す。小倉百人一首では大納言経信。.

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源経光

源 経光(みなもと の つねみつ、生年未詳 - 久安2年3月9日(1146年4月21日))は、平安時代後期の武士。下野守源明国の次男。兄弟に源行国、源有頼、源盛隆らがあり、子に源清綱、源頼元、源頼定がある。蔵人であったとされる(『尊卑分脈』)。 久安2年(1146年)3月9日の夜半に経光の従兄妹にあたる官子内親王(白河天皇第五皇女)の邸宅が落雷により焼失した際、兵仗を手に執り轟く雷を追い払おうとしたところ邸に雷が落ちて震死(感電死)したとの記事が『本朝世紀』にみえている。事件の詳細については不明であるが、同書翌日条には経光が近江国建部大社の社務(具体的な経緯・詳細は不明)を執行した際に非法を行ったことから神罰が下ったとの噂が流布したとある。また、事件当日は経光の妻も側にあったが彼女は奇跡的に無事であり、官子内親王も無事で近隣の藤原定信宅に避難したという。 なお、『本朝世紀』にはこの経光の所持していた兵仗に対し「俗に之奈木奈多と号す」との記述があり、薙刀の初見とされている。.

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源経頼

源 経頼(みなもと の つねより、寛和元年(985年)または貞元元年(976年) - 長暦3年8月24日(1039年9月15日))は、平安時代中期の公卿。宇多源氏、左大臣・源雅信の孫。参議・源扶義の次男。官位は正三位・参議。.

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源経房

源 経房(みなもと の つねふさ、安和2年(969年)治安3年10月12日(1023年11月27日))は、平安時代中期の廷臣。醍醐源氏。西宮左大臣・源高明の五男。官位は正二位・権中納言。.

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源為宗

源 為宗(みなもと の ためむね、生年未詳 - 保元元年7月30日(1156年8月17日))は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の六男。母は源基実の娘。源頼賢、源頼仲は同母兄。通称は丹波冠者、また丹波六郎、賀茂六郎とも。.

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源為仲

源 為仲(みなもと の ためなか、康治元年(1142年)? - 保元元年7月30日(1156年8月17日))は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の九男。母は江口の遊女であり、鎮西八郎為朝は同母兄にあたる。通称は九郎。.

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源為義

源為義(みなもとのためよし)は、平安時代末期の武将。祖父は源義家、父は源義親。叔父の源義忠暗殺後に河内源氏の棟梁と称す。なお父は源義家で、源義親と義忠は兄にあたるという説もある。通称は六条判官、陸奥四郎。源頼朝・源義経らの祖父。 当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の源為朝の乱行により解官となる。保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の源義朝の手で処刑された。.

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源為朝

源 為朝(みなもと の ためとも、旧字体:爲朝)は、平安時代末期の武将。源為義の八男。母は摂津国江口(現・大阪市東淀川区江口)の遊女。源頼朝、義経兄弟の叔父にあたる。 身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛弓の使い手で剛勇無双を謳われた。生まれつき乱暴者で父の為義に持てあまされ、九州に追放されたが手下を集めて暴れまわり、一帯を制覇して鎮西八郎を名乗る。保元の乱では父とともに崇徳上皇方に参加し、強弓と特製の太矢で大いに奮戦するが敗れ、伊豆大島へ流される。しかしそこでも国司に従わず、大暴れして伊豆諸島を事実上支配したので、追討を受け自害した。.

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源為成

源 為成(みなもと の ためなり、生年未詳 - 保元元年7月30日(1156年8月17日))は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の七男。母は賀茂神社の神主・賀茂成宗の娘。通称は八幡七郎、また賀茂七郎とも。.

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源生

源 生(みなもと の いける/なる、弘仁12年(821年) - 貞観14年8月2日(872年9月8日))は、平安時代初期の公卿。嵯峨天皇の皇子(第九源氏)。官位は正四位下・参議。.

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源盛義

源 盛義(みなもと の もりよし)は、平安時代末期の武将。源義光の四男。平賀盛義とも呼ばれる。平賀氏の祖。 信濃国佐久郡平賀郷に本拠を置いて平賀冠者を称した。父義光は平賀郷に隣接する甲斐国の国司を務めた事があり、兄の源義清は甲斐国に配流されて以降、甲斐北西部に勢力を扶植して甲斐源氏の祖になっている事から、盛義は兄の勢力と連携しながら甲斐国から信濃国への進出の流れで平賀郷に所領を形成したと考えられる。 子の平賀義信は17歳で源義朝の下で平治の乱に加わり、義朝の遺児・源頼朝が挙兵して東国を支配したのち、鎌倉幕府において御家人筆頭の地位を占め、源氏門葉として頼朝に重用されている。.

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源盛経 (醍醐源氏)

源盛経(みなもと の もりつね 生没年不詳)は平安時代の人物。 醍醐源氏。左大臣源高明の曾孫の土佐守源長季の孫。源盛長の子。兄弟に盛家、盛季らがいる。子は、経光、長経、盛光がある。また息女は、藤原忠通の側室となる。典型的な摂関家の家司。寂蓮や大原三寂との交流が史料に見られる。 みなもと の もりつね もりつね.

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源盛長

源 盛長(みなもと の もりなが、生没年不詳)は平安時代後期の貴族。醍醐源氏、備前守・源長季の子。官位は従四位下・淡路守。蹴鞠の名手として知られた。.

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源隆俊

源隆俊(みなもと の たかとし)は、日本の平安時代の公卿。.

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源隆国

源 隆国(みなもと の たかくに)は、平安時代後期の公卿。醍醐源氏、大納言源俊賢の子。幼名は宗国。官位は正二位権大納言。宇治大納言と称された。.

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源隆綱 (醍醐源氏)

源隆綱(みなもと の たかつな)は、日本の平安時代中期から後期にかけての公卿。.

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源融

源 融(みなもと の とおる)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。嵯峨天皇の皇子(嵯峨第十二源氏)。嵯峨源氏融流初代。.

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源鎮

源 鎮(みなもと の しずむ、生没年不詳)は、平安時代初期の貴族。嵯峨天皇の皇子。母は女御・百済王慶命。官位は散位従四位上。.

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源道良

源 道良(みなもと の みちよし、永承5年(1050年) - 天永2年4月24日(1111年6月2日))は平安時代後期の公卿。醍醐源氏、中納言・源資綱の次男。.

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源道済

源 道済(みなもと の みちなり、生年不詳 - 寛仁3年(1019年))は、平安時代中期の貴族・歌人。光孝源氏、陸奥守・源信明の孫。能登守・源方国または伊豆守・源有国の子。官位は正五位下・大宰少弐。中古三十六歌仙の一人。.

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源道方

源 道方(みなもと の みちかた)は、平安時代中期の公卿。宇多源氏、左大臣・源重信の五男。官位は正二位・権中納言。.

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源頼基

源 頼基(みなもと の よりもと).

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源頼季

源 頼季(みなもと の よりすえ)は、平安時代中期の武将。信濃源氏・井上氏の祖。.

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源頼定

源 頼定(みなもと の よりさだ、貞元2年(977年) - 寛仁4年6月11日(1020年7月4日))は、平安時代中期の公卿。村上源氏。村上天皇の第四皇子・一品式部卿為平親王の次男。官位は正三位・参議。.

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源頼実

源 頼実(みなもと の よりざね)は、平安時代中期の官人・歌人。源頼国の三男。和歌六人党の一人。.

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源頼家

岡八幡宮参道の段葛 源 頼家(みなもと の よりいえ)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男で母は北条政子(頼朝の子としては第3子で次男、政子の子としては第2子で長男)。 父・頼朝の急死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、征夷大将軍となる。若年の頼家による従来の習慣を無視した独裁的判断が御家人たちの反発を招き、疎外された母方の北条氏を中心として十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられたとされるが、当事者である北条氏の史書以外にそういった記録は存在せず、真偽は定かではない。 合議制成立の3年後に頼家は重病に陥ったとされ、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡した。頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉された後、暗殺された。頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握る事になる。.

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源頼平

源 頼平(みなもと の よりひら)は、平安時代中期の武士・官人。源満仲の四男。一説に兄・頼光の養子となっていたとされるほか、従兄弟・頼季(源満快の子)と同人物ともされる(『尊卑分脈』)。.

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源頼仲

源 頼仲(みなもと の よりなか、生年未詳 - 保元元年7月30日(1156年8月17日))は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の五男。母は源基実の娘。あるいは文徳源氏の源資遠(資道)の娘とも。同母兄に源頼賢、同母弟に源為宗。掃部助・左兵衛尉。通称は五郎掃部助、また掃部五郎とも。 保元の乱では父為義に従い、崇徳上皇・藤原頼長方として参戦。敗北し、父とともに兄義朝のもとに降参する。義朝によって助命嘆願されるも叶わず、義朝の手によって船岡山(京都市北区)において、父や兄弟らとともに斬られた。この時頼仲は、「兄上(義朝)は心狭く、自分一人生き残ろうとしている。万が一の事があれば後悔するであろう」と高笑いしていたという。 子の加茂冠者源義嗣は1183年に淡路で従兄弟の源義久とともに平教経と戦うが、義嗣は討ち取られてしまった(六ヶ度合戦)。.

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源頼弘

源 頼弘(みなもと の よりひろ)は、平安時代中期の武士・官人。美濃守源頼国の長男。官位は従五位下、讃岐守(『尊卑分脈』)。.

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源頼俊

源 頼俊(みなもと の よりとし、生没年不詳)は、平安時代後期の武将・歌人。加賀守源頼房の長男。.

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源頼信

源 頼信(みなもと の よりのぶ)は、平安時代中期の武将。摂津国多田現・兵庫県川西市多田。の地に源氏武士団を形成した源満仲の三男。河内国石川郡壺井現・大阪府羽曳野市壺井。を本拠地とする河内源氏の祖。.

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源頼兼

源 頼兼(みなもと の よりかね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。源頼政の次男。父に続き大内守護を務める。.

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源頼光

源 頼光(みなもと の よりみつ)は、平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍・源満仲、母は嵯峨源氏の近江守・源俊の娘。諱はしばしば「らいこう」と有職読みされる。 満仲の長子で清和源氏の3代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる。異母弟に大和源氏の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいる。.

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源頼国

源 頼国(みなもと の よりくに)は、平安時代中期の武将・官人。源頼光の長男。.

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源頼範

源 頼範(みなもと の よりのり)は、平安時代中期の武士・官人。源満仲の七男。長兄・頼光の養子となっていたとされる。.

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源頼綱

源 頼綱(みなもと の よりつな)は、平安時代後期の武将・歌人。美濃守源頼国の五男。母は尾張守藤原中清女。多田頼綱(ただ の よりつな)とも呼ばれる。.

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源頼義

源 頼義(みなもと の よりよし)は、平安時代中期の武士。河内源氏初代棟梁・源頼信の嫡男で河内源氏2代目棟梁。.

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源頼隆

源 頼隆(みなもと の よりたか)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の河内源氏の武将。源義家の七男・陸奥七郎義隆の三男。父義隆が相模国毛利庄を領していた事から、毛利頼隆とも呼ばれる。信濃国水内郡若槻庄を領してからは若槻を号する。.

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源頼遠

源 頼遠(みなもと の よりとお)は、平安時代中期の武将。源頼親の三男。柳瀬氏を名乗ったとも。陸奥石川氏の祖。 父頼親の土佐配流の原因となった興福寺との合戦に加わらなかったため、処分を受けることはなかった。永承6年(1051年)、安倍頼良が乱を起こすと(前九年の役)、源頼義に従い陸奥に赴いて戦う。康平5年(1062年)、安倍氏の重要な拠点である厨川柵の攻略の際に戦死。兵の指揮は次男の有光が引き継ぎ戦功を挙げた。 戦功により陸奥仙道を下賜された有光は、岩峯寺を建てて父を葬った。また、末子有遠は矢吹氏(屋葺氏)を名乗ったとある。.

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源頼行

源 頼行(みなもと の よりゆき)は、平安時代末期の武将。兵庫頭源仲政の次男。母は藤原友実女。源頼政と同母兄弟。小国頼行とも記される。 蔵人を務めたとされるほか、丹後守となっていたことが確認できる(『尊卑分脈』『吾妻鏡』建暦2年正月10日条)。明確な動向は不明であるが、保元の乱を経た保元2年(1157年)7月16日に、濫りに軍兵を発したとして安芸国への配流を命じた官符が下され、翌17日に京都西七条辺で領送使の検非違使信澄(氏不詳)を殺害し自害して果てたという(『兵範記』各同年同月日条)。 これにより子息たちは兄頼政の養子となったとされる。また一子宗頼の子孫は頼行の代から関係があったともされる越後国刈羽郡小国保(現在の新潟県長岡市内旧小国町付近)を代々本拠とする豪族・小国氏として存続した。.

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源頼親

源 頼親(みなもと の よりちか)は、平安時代中期の武将。源満仲の次男。大和源氏の祖。河内源氏の祖・源頼信とは同母兄弟にあたる。.

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源頼貞

源 頼貞(みなもと の よりさだ)は、平安時代中期の武士・官人。.

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源頼賢

源 頼賢(みなもと の よりかた、生年未詳 - 保元元年7月30日(1156年8月17日))は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の四男。母は源基実の娘。あるいは文徳源氏の源資遠(資道)の娘とも。同母弟に源頼仲・源為宗がいる。左衛門尉。 次兄・義賢と仲がよく、父子の盟約を交わしたと言われる。久寿2年(1155年)、義賢が甥・義平に討ち取られると、その復仇を果たすべく信濃国に下向、鳥羽法皇領を侵犯する。これを知った法皇は、義平の父で頼賢の長兄にあたる義朝に対して、頼賢追討の院宣を下す。これにより、河内源氏一族内に緊張が高まったが、直前で義朝は頼賢追討を回避、頼賢もほどなく帰京した。 保元の乱では為義に従い、崇徳上皇・藤原頼長方として活躍。義朝軍を相手に奮闘する様が『保元物語』に活写されている。崇徳上皇方の敗北に伴い、乱の後捕らえられ、義朝の手によって船岡山(京都市北区)において斬首された。 子の淡路冠者源義久は、1183年に従兄弟の源義嗣とともに淡路国で平教経と戦うが、義久は捕虜にされてしまった(六ヶ度合戦)。.

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源頼資

源 頼資(みなもと の よりすけ)は、平安時代中期の武士・官人。源頼国の二男。.

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源頼茂

源頼茂(みなもと の よりしげ、治承3年(1179年)? - 承久元年7月13日(1219年8月24日))は、鎌倉時代前期の武将。源頼兼の長男。正五位下、大内守護、安房守、近江守、右馬権頭。 父頼兼と同じく都で大内裏守護の任に就く一方、鎌倉幕府の在京御家人となって双方を仲介する立場にあった。しかし、承久元年(1219年)7月13日、突如、頼茂が将軍職に就くことを企てたとして後鳥羽上皇の指揮する兵にその在所であった昭陽舎を襲撃される。頼茂は応戦し抵抗するものの仁寿殿に篭り火を掛け自害し、子の頼氏は捕縛された。 上皇が突如頼茂を攻め滅ぼした明確な理由はわかっていないが、鎌倉と通じる頼茂が京方の倒幕計画を察知した為であろうとする説もある。また、この合戦による火災で仁寿殿・宜陽殿・校書殿などが焼失し、仁寿殿の観音像や内侍所の神鏡など複数の宝物が焼失したという。 『尊卑分脈』には享年41であったと記されている。.

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源頼治

源頼治(みなもと の よりはる、生没年不詳)は平安時代後期の武将。大和源氏源頼俊の次男。母は播磨守藤原定輔女。通称宇野冠者。中務丞。子に頼隆、頼賢、親弘、親通らがある。宇野氏の祖。 嘉保2年(1095年)に延暦寺の僧兵が源義綱の配流を要求して強訴を起こした際に、関白藤原師通の命により賀茂川原の守備に就き、これを撃退する。しかしその際、頼治の手勢が日吉神社の神輿を射たことが、さらなる延暦寺側の態度の硬化を招くこととなった。降って4年後の承徳3年(1099年)には、師通が38歳にして急死。これを神罰と恐れた朝廷は、ついに頼治を処罰することを決断し、佐渡国(一説には土佐国)への配流とした。 曾祖父頼親、祖父頼房に次ぐ頼治の失脚は、大和源氏の勢力衰退に一層拍車をかけることとなった。 Category:平安時代の武士 よりはる.

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源頼清

源 頼清(みなもと の よりきよ).

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源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.

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源頼成

源 頼成(みなもと の よりなり、生没年不詳)は、平安時代中期の武将。通称は越智太郎。大和源氏の祖である源頼親の長子、宇野頼房奈良県史所収『越智氏略系図』と戦国大名系譜人名事典所収『越智氏系図』によると、頼房は頼成の子と記されている。・石川頼遠・太田頼基の兄、頼房・仲綱・成綱の父。 官職は左衛門尉・蔵人・肥後守などを歴任し、藤原道長に仕えたという。彼の子孫は越智氏と称して、大和国高市郡越智荘で勢力を保ったという。.

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源頼房

源 頼房(みなもと の よりふさ、生没年未詳)は、平安時代中期の武将。大和守源頼親の次男。兄弟に頼成、頼遠、頼基がある。頼俊、親宗、為房、清仁親王室の父。従五位下、蔵人、兵庫助、加賀守、肥前守。荒加賀と呼ばれた。 加賀守任期後の永承4年(1049年)12月、長らく対立関係にあった興福寺の大衆が国司である父頼親の邸宅に攻め寄せ、頼房がこれに矢で応戦して多数の僧を殺害したことから、激昂した興福寺の訴えにより翌年(1050年)正月、父頼親は土佐国に、頼房は隠岐国に配流されることとなった(『扶桑略記』)。 康平5年(1063年)12月、赦免されて、本位に復する。しかし承保3年(1076年)、再び興福寺の訴えにより肥前国へ配流となり、同地において間もなく没したという。.

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源頼明

源 頼明(みなもと の よりあき)は、平安時代中期の武士・官人。.

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源頼政

源 頼政(みなもと の よりまさ)は、平安時代末期の武将・公卿・歌人。兵庫頭源仲政の長男。朝廷で平家が専横を極める中、それまで正四位下を極位としていた清和源氏としては突出した従三位に叙せられたことから源三位(げんざんみ)と称された。また、父と同じく「馬場」を号とし馬場頼政(ばば の よりまさ)ともいう。 保元の乱と平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まった。平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列した。だが、平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えた。計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、そのまま平家の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れ自害した(以仁王の挙兵)。.

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源行家

行家が大敗を喫した墨俣川の戦いの碑(岐阜県安八郡墨俣町) 源 行家(みなもと の ゆきいえ)は、平安時代末期の武将。河内源氏第五代源為義の十男。初めの名乗りを義盛(よしもり)という。新宮十郎、新宮行家とも。以仁王の挙兵に伴い、諸国の源氏に以仁王の令旨を伝え歩き、平家打倒の決起を促した。.

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源行宗

源 行宗(みなもと の ゆきむね)は平安時代後期の公卿。歌人。参議・源基平の子。.

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源行国

源 行国(みなもと の ゆきくに)は、平安時代後期の武将。摂津源氏(多田源氏)源明国の長男。号に「多田蔵人大夫」。.

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源行有

源 行有(みなもと の ゆきあり、斉衡元年(854年) - 仁和3年6月20日(887年7月14日))は、平安時代前期の貴族。文徳天皇の皇子。官位は従四位上・大宰大弐。.

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源顕基

源 顕基(みなもと の あきもと)は平安時代中期の公卿。醍醐源氏、安和の変で失脚した源高明の孫で、権大納言・源俊賢の子。後一条天皇の側近として仕えた。.

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源顕定

源 顕定(みなもと の あきさだ)は、平安時代中期の貴族。村上天皇の孫で、一品式部卿・為平親王の子。.

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源顕仲

源 顕仲(みなもと の あきなか)は、平安時代後期の公卿、歌人。村上源氏、右大臣・源顕房の子。.

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源顕信

源 顕信(みなもと の あきのぶ)は平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての公卿。越後守・源信時の子。本名は国時。坊城を号す。.

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源顕雅

源 顕雅(みなもと の あきまさ)は平安時代後期の公卿。村上源氏、右大臣・源顕房の六男。楊梅大納言と号す。.

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源顕通

源 顕通(みなもと の あきみち)は平安時代後期の公卿。太政大臣・源雅実の長男。久我大納言と号す。.

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源顕房

源 顕房(みなもと の あきふさ)は、平安時代後期の公卿・歌人。村上源氏。右大臣源師房の次男。兄は源俊房。妻は源隆俊の娘・隆子。六条右大臣とも称される。生年は1026年説もある。.

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源覚

源 覚(みなもと の さとる、嘉祥2年(849年) - 元慶3年10月20日(879年11月7日))は、平安時代前期の貴族。仁明天皇の子。官位は正四位下・宮内卿。.

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源親弘

源 親弘(みなもと の ちかひろ、生没年不詳)は、平安時代末期の武将。中務丞源頼治(宇野冠者)の子。陸奥守源頼俊の孫にあたる。源親治、源基親、源基弘、源基重、源親満、高倉院女房伊予内侍、源義重室らの父。対馬守、下野権守(『保元物語』によれば下野守)。摂津国豊島郡に住し「豊島権守」と号した。諱は後に宇野頼弘と改名したという。 本貫の地であった大和国宇野荘は子の親治との不和によりその弟妹に譲渡していたが、相論の末、久寿2年(1155年)に宣旨によって親治の知行が認められた。これにより親治は同荘を醍醐寺三宝院の勝尊に寄進し、自ら知行安泰を図っている。 子孫は大和と摂津に分かれ、それぞれ宇野氏、岑田氏、豊島氏となった。伊予国の大森氏の一族の大森彦七は親弘の玄孫と称した。.

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源親義

源 親義(みなもと の ちかよし、生年不詳 - 寿永2年(1183年))は、平安時代末期の武将。源義光の五男。岡田親義とも呼ばれる。通称は刑部五郎。兄に義業、義清、盛義らがいる。 仕官を求めて上洛後、左衛門尉となった。保元元年(1156年)に平野神社領(のちに岩清水八幡宮領)であった信濃国筑摩郡岡田郷の浅間神社領の荘官として下向し、岡田冠者と称した。 治承4年(1180年)に以仁王の令旨での指名を受け、同族の源義仲の重臣として、子の太郎重義・小次郎久義を率いて挙兵した。会田・麻績の戦いや横田河原の戦いで信濃の平氏軍を破るが、寿永2年(1183年)に越中国倶利伽羅峠の戦いで、平知度と相打ちとなり戦死した。.

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源親治

源 親治(みなもと の ちかはる、永久4年3月3日(1116年4月17日) - 文治2年8月7日(1186年9月21日))は、平安時代末期の武将。下野権守源親弘の子。兄弟に基親、基弘、基重、親満、伊予内侍、新田義重室らがあり、子に有治、清治、満治(光治)、義治(俊治)、親家、業治、頼基、季治らがある。大和源氏の祖源頼親から数えて五代目にあたる。または宇野七郎とも名乗る。 大和国宇智郡宇野荘に住した。久安元年(1145年)、興福寺の衆徒が金峰山寺を攻めた時には、金峰山側について戦った。保元元年(1156年)に勃発した保元の乱において、崇徳上皇、藤原頼長方に加担。兵を率いて京に入ろうとするところを、警護にあたっていた敵方の平基盛に見咎められ、合戦の末に敗れて捕虜となる。本戦の間は獄舎につながれていたが、戦後赦免されて本拠の大和国に帰された。これは、親治が大和国内で興福寺と対立関係にあることに目をつけた後白河天皇による、興福寺牽制のための政治的措置だったと言われている。治承4年(1180年)の以仁王の挙兵の際は、息子を源頼政に応じさせた。 後代、南北朝期の武将4代孫の大森彦七や戦国期の武将土方雄久、隈部親永などが親治の末裔を称している。.

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源高明

源 高明(みなもと の たかあきら)は、平安時代の公卿。醍醐天皇の第10皇子。母は源周子。法名は覚念。官位は正二位・左大臣。京都右京四条に壮麗な豪邸を建設し、西宮左大臣と呼ばれた。 一世源氏の尊貴な身分であり、学問に優れ朝儀に通じており、また実力者藤原師輔、その娘の中宮安子の後援も得て朝廷で重んじられた。師輔・安子の死後、藤原氏に忌まれて安和の変で失脚し、政界から退いた。.

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源貞恒

源 貞恒(みなもと の さだつね、天安元年(857年) - 延喜8年8月1日(908年8月30日))は、平安時代中期の公卿。光孝天皇の第十皇子。子に仲宣がいる。官位は正三位・大納言。.

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源資兼

源 資兼(みなもと の すけかね、生没年不詳)は、平安時代後期の武士。下野守源頼資の五男。兄に国宗、長資、致義、基国があり、弟に真国、国貞、国俊らがある。溝杭氏の祖。 受領や摂関家勾当などを務めた兄たちに対し資兼は官歴が伝わらずその経歴も詳らかでないが、従五位下の位階を帯びていたとされ、母方の所領であった摂津国島下郡溝杭(現在の大阪府茨木市内)の地を相続したことから溝杭大夫と号したという。溝杭の所領は子の資時(溝杭源二)に継承され、代々子孫が相続した。.

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源資綱

源 資綱(みなもと の すけつな)は平安時代中期から後期にかけての公卿、歌人。醍醐源氏、権中納言・源顕基の長男。.

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源資賢

源 資賢(みなもと の すけかた)は、平安時代末期の公卿・雅楽家。宇多源氏、宮内卿・源有賢の長男。官位は正二位・権大納言。.

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源資通

源 資通(みなもと の すけみち)は、日本の平安時代中期の公卿。播磨守・源済政の長男。.

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源賀

源賀(げん が、407年 - 479年)は、南涼から北魏にかけての軍人・政治家。もとの姓は禿髪、もとの名は破羌。南涼の景王禿髪傉檀の子。本貫は西平郡楽都県。.

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源麗子

源 麗子(みなもと の れいし、長久元年(1040年) - 永久2年4月3日(1114年5月9日))は、平安時代の貴族女性。関白藤原師実の北政所。師実が京極関白と呼ばれたのに対し、その正妻として「京極北政所」と称された。.

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源近善

源 近善(みなもと の ちかよし、生年不詳 - 延喜18年7月14日(918年8月23日))は、平安時代前期の公卿。光孝天皇の皇子だが母は不詳。子に宗海・師尚がいる。官位は従三位・治部卿。.

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源能有

源 能有(みなもと の よしあり)は、平安時代前期の公卿。文徳天皇の皇子。官位は正三位・右大臣、贈正二位。号は近院大臣。.

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源興基

源 興基(みなもと の おきもと、承和12年(845年) - 寛平3年9月10日『日本紀略』。『公卿補任』では11日。(891年10月16日))は、平安時代初期の皇族・公卿。もと興基王と名乗るが、臣籍降下して仁明源氏となる。四品・人康親王の長男。官位は正四位下・参議。.

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源興扶

源 興扶(みなもと の おきすけ、生年不明 - 元慶8年正月19日(884年2月19日))は、平安時代前期の貴族。仁明天皇の孫。弾正尹・人康親王の子。官位は従四位下・侍従。始め興扶王と名乗る。 元慶6年(882年)正月に従四位下の蔭位を受け、同年7月に源朝臣姓を賜姓されて臣籍降下する。その後侍従に任ぜられるが、元慶8年(884年)正月卒去。最終官位は従四位下行侍従。.

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源重実

源 重実(みなもと の しげざね、生没年不詳)は、平安時代後期の武将。佐渡守源重宗の長男。通称は佐渡源太。八島重実とも称した。.

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源重宗

源 重宗(みなもと の しげむね、生没年不詳)は、平安時代後期の武将。駿河守源定宗(満政の嫡男・忠重の子)の子。母は大納言藤原斉信女。官位は従五位下、佐渡守(『尊卑分脈』)。八島氏(羽島氏)の祖。.

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源重之

源 重之(みなもと の しげゆき、生年未詳 - 長保2年(1000年)頃?)は、平安時代中期の歌人・貴族。清和源氏、上野太守・貞元親王の孫で、三河守・源兼信の子。伯父の参議・源兼忠の養子。官位は従五位下・筑前権守。三十六歌仙の一人。.

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源重信

源 重信(みなもと の しげのぶ)は、平安時代中期の公卿。宇多天皇の皇子である式部卿・敦実親王の四男。官位は正二位・左大臣、贈正一位。六条左大臣と号す。.

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源重光

源 重光(みなもと の しげみつ)は平安時代中期の公卿、歌人。代明親王の長男。致仕大納言と称す。.

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源重遠

源 重遠(みなもと の しげとお、生没年不詳)は、平安時代末期の武将。源重実の子。尾張源氏の祖。.

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源重貞

源 重貞(みなもと の しげさだ)は、平安時代末期の武将。源重実の子。清和源氏満政流で、近江矢島(現在の滋賀県守山市矢島町)を本拠とする在京軍事貴族(京武者)である。保元の乱では源為朝を捕縛した。平治の乱で多くの軍事貴族が淘汰された後も活動を続け、平氏政権下においても一定の勢力を保持した。諱は重定とも記される。.

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源重成

源 重成(みなもと の しげなり)は、平安時代末期の武将。源重実の長男。八島重成とも。.

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源自明

源 自明(みなもと の よりあきら)は平安時代中期の公卿。醍醐天皇の第10皇子、源高明の兄。臣籍降下して源姓(醍醐源氏)を賜った。.

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源致公

源 致公(みなもと の むねきみ、天徳元年(957年) - 寛仁2年(1018年)8月)は、平安時代中期の武将。清和源氏、源経基の三男である満季の養子。醍醐源氏、左大臣・源高明の長男である忠賢の子。子に致任(従五位下・式部丞・越前守)がいる。官位は従五位下・下総守。 清和源氏源満季の猶子となり家督を継ぎ、兵部丞・蔵人・下総守を歴任した。正暦元年(991年)春に源頼光と共に鬼賊を討つ。寛仁2年(1018年)8月に62歳で卒去。 むねきみ むねきみ category:平安時代の武士 Category:957年生 Category:1018年没.

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源致方

源 致方(みなもと の むねかた、天暦5年(951年) - 永延3年3月19日(989年4月27日))は平安時代中期の貴族、歌人。宇多源氏、左大臣・源重信の長男で、母は中納言・藤原朝忠の娘。藤原伊尹の娘を妻とした。官位は正四位下・右大弁。 左大臣重信の一男として生まれ、早く天延2年(974年)に右衛門佐に任ぜられる。その後、天延4年(976年)5月の除目で右少弁に任ぜられ、同年従五位上に昇叙、翌貞元2年(977年)に円融天皇の五位蔵人に補任された『蔵人補任』。。天元3年(980年)に従四位下に叙せられ、天元4年(981年)には東大寺俗別当・権左中弁となった。 永延元年(987年)頃に右大弁に昇任するが、公卿昇進を目前として永延3年(989年)3月父に先立って急逝した。享年39。最終官位は右大弁正四位下。 歌人として活動し、『拾遺和歌集』には藤原実資との連歌、『安法法師集』にも致方の和歌が載せられている。また、日記『致方記』があったが散逸。.

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源長季

源 長季(みなもと の ながすえ、生没年不詳)は、平安時代後期の貴族。醍醐源氏、左大臣・源高明の曾孫。右馬頭・源守隆の子。官位は従四位上・備前守。 少納言・右衛門権佐(検非違使佐)・右馬頭・土佐守、備前守などを歴任した。摂関家に仕える家司であるとともに、朝廷に仕える官人でもあった。地方官として各地の受領を務め、地方の発展に尽くし、盗賊の捕縛などの記録のある人物で、在世中に良吏であると名を馳せたという。 藤原頼通と親密であったとする逸話がある。.

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源英明

源 英明(みなもと の ふさあきら/つねよし、延喜11年(911年)? - 天慶2年(939年))は、平安時代中期の歌人。宇多源氏の出で、三品斉世親王の子。従四位上・左近衛中将。 昌泰の変により、父斉世親王が舅である菅原道真に連座して出家。それに伴い、幼年時代は不遇であった。16歳で従四位、翌年侍従に叙せられた。醍醐天皇の信任厚く右近衛中将・左近衛中将を経て、延長5年(927年)蔵人頭に任ぜられる。7月頃から病となり、翌年の2月に卒したといわれるが、天慶2年(939年)に卒去した説と、天慶3年(940年)に卒去した説が有る。 父の遺言で『慈覚大師伝』を完成した。また、家集『源氏小草』(全五巻)があったとされるが伝わらず、『扶桑集』などに数十首の作品が残る。.

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源雅定

源 雅定(みなもと の まささだ)は平安時代後期の公卿、歌人。中院右大臣と号す。右大臣、正二位、左近衛大将。源雅実の次男。.

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源雅実

源 雅実(みなもと の まさざね)は、平安時代後期の公卿。源顕房の長男。久我家の祖。源氏初の太政大臣まで昇進したほか、舞楽や文学に長じた文化人としても名を残す。『久我相国記』を著す。.

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源雅信

源 雅信(みなもと の まさざね、延喜20年(920年) - 正暦4年7月29日(ユリウス暦993年8月19日))は、平安時代中期の貴族。宇多天皇の皇子である敦実親王の三男で宇多源氏の祖。藤原氏全盛期を築いた藤原道長の正室である源倫子の父。従一位・左大臣。贈正一位。一条左大臣又は鷹司左大臣と号した。出家後の法名は覚実。.

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源雅兼

源 雅兼(みなもと の まさかね、承暦3年(1079年) - 康治2年11月8日(1143年12月15日))は、平安時代後期の公卿。村上源氏の出で、右大臣・源顕房の八男。従三位・権中納言。薄雲中納言と呼ばれた。 白河院の近臣として信任厚く、長治元年(1104年)堀河天皇の五位蔵人となり、嘉承2年(1107年)の崩御まで務める。天永2年(1111年)からは鳥羽天皇の五位蔵人を務め、弁官の労にて永久5年(1117年)正月、従四位下に叙される。保安3年(1122年)から、鳥羽・崇徳二代の蔵人頭を務め、大治5年(1130年)十月参議左大弁となる。天承5年(1131年)に従三位・権中納言に至る。長承3年(1134年)治部卿を兼ね、長承4年(1135年)病気により辞職して出家。礼部禅門と呼ばれた。 学才に優れ、朝廷の政務にも通じており、白河院・鳥羽院の信頼が厚かった。白河院は藤原通俊や大江匡房と並んで評価をしたといい(『古事談』)、鳥羽院は雅兼の出家後も、しばしば呼び出して重要事について相談したとされる(『今鏡』300段)。また、源師時は、天下を支える名臣として、源師時・藤原忠宗・源師俊とともに雅兼を挙げている(『長秋記』長承2年9月5日条)。 詩歌もよくし、家集として『中納言雅兼卿集』(83首)がある。『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に9首が入集。.

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源雅通

源 雅通(みなもと の まさみち)は、平安時代後期の公卿。権大納言源顕通(1081-1122)の次男。 幼少時に父を失い、叔父の右大臣源雅定の養嗣子となる。兵部権大輔・近江権介・皇后宮権亮・備後権守などを歴任し、久寿2年(1155年)大嘗会国司賞として従三位となる。また、奨学院別当・検非違使別当なども務めた。正二位内大臣まで昇進したが、嘉応元年(1169年)以降は病気になり、承安5年(1175年)に久我別荘にて薨去した。享年58。 歌人としては、『千載和歌集』以下の勅撰集に10首入集する他、『続詞花集』などの私撰集にも入集がある。.

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源雅通 (宇多源氏)

源 雅通(みなもと の まさみち、生年不詳 - 寛仁元年7月10日(1017年8月4日))は、平安時代中期の官人・歌人。宇多源氏敦実親王流。左大臣源雅信の孫。権左少弁源時通の子。母は但馬守源堯時女。子に源雅孝(従五位下)・念真(東寺阿闍梨)・行源(延暦寺阿闍梨)・雅尊(延暦寺阿闍梨)・念尊(園城寺阿闍梨) らがいる。丹波中将と呼ばれた。 永延元年(987年)父が出家した後、祖父雅信の養子になる。そして雅信の死後は藤原穆子(雅信の室)に養育された(『栄花物語』巻12)。また、叔母にあたる源倫子(藤原道長室)の縁故から、道長夫妻の庇護をも受けた。長徳4年(998年)右近衛権将監に任ぜられ、その後、右近衛権中将・五位蔵人・敦成親王(後一条天皇)家別当・木工頭・冷泉院御厨別当・丹波守・中宮(藤原妍子)亮などを歴任した。寛仁元年(1017年)7月10日、当時流行していた疫病によって卒去したが、最終官位は従四位下右近衛中将だった。 人柄は正直で人に媚びることはなかったが、春秋の逍遥遊戯に惹かれ、狩猟に耽り、栄華を好むなど罪業を積んだが、道心あって平素より法華経を読んだことから往生を得ることができたとされる(『本朝法華験記』ほか)。歌人でもあり、『後拾遺和歌集』に1首、『和泉式部集』に1首、『伊勢大輔集』に2首の和歌が収録されている。.

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源通宗

源 通宗(みなもと の みちむね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。内大臣・源通親の長男。後嵯峨天皇の外祖父。.

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源通親

源 通親(みなもと の みちちか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。七朝にわたり奉仕し、村上源氏の全盛期を築いた。内大臣正二位右大将。土御門 通親(つちみかど -)と呼ばれるのが一般的で、曹洞宗などでは久我(こが)通親と呼ばれている。.

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源正明

源正明(みなもと の まさあき)は、平安時代の日本の公卿。.

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源氏

源氏(げんじ、みなもとうじ)は、「源」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。 日本において皇族が臣下の籍に降りる(臣籍降下)際に名乗る氏の1つで、多数の流派がある。清和天皇の子孫である清和源氏が有名である。.

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源氏の人物一覧

源氏の人物一覧(げんじのじんぶついちらん).

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源氏物語

土佐光起筆『源氏物語画帖』より「若紫」。飼っていた雀の子を逃がしてしまった幼い紫の上と、柴垣から隙見する源氏。 朝顔」。雪まろばしの状景。邸内にいるのは源氏と紫の上。 『源氏物語』(げんじものがたり)は、平安時代中期に成立した日本の長編物語、小説。文献初出は1008年(寛弘五年)。作者の紫式部にとって生涯で唯一の物語作品である物語の他には「紫式部日記」や和歌集の「紫式部集」があり「小倉百人一首」にも和歌が収められている(*)。後に、紫式部の「源氏物語」と「紫式部日記」の2作品は絵画化された。約150年後の平安時代末期に「源氏物語絵巻」、約200年後の鎌倉時代初期に「紫式部日記絵巻」が制作された。(*)「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」。主人公の光源氏を通して、恋愛、栄光と没落、政治的欲望と権力闘争など、平安時代の貴族社会を描いた上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。紫式部日記。。 下級貴族出身の紫式部は、20代後半で藤原宣孝と結婚し一女をもうけたが、結婚後3年ほどで夫と死別し、その現実を忘れるために物語を書き始めた。これが『源氏物語』の始まりである。最初は、当時紙が貴重で紙の提供者がいれば、その都度書き江戸時代の松永貞徳の源氏物語の写本全54冊(54帖)の1冊1冊の厚みが示すように、紫式部は当初多くの分量は書けず1冊(1帖)の厚みは薄いが、支援者の藤原道長により安定した紙の供給が行なわれて以降は34帖「若菜」のように1冊(1帖)の厚みが急激に増した。上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。(参考)『源氏物語』与謝野晶子訳、各帖の総ページ数より、1帖「桐壷」26、2帖「帚木」44、3帖「空蝉」12、そして、34帖「若菜」上192、下190。(角川文庫 1999年(平成11年)5月10日)所収、仲間内で批評し合うなどして楽しんでいたが紫式部日記より、当初、紫式部は仲間内で意見を言い合ったり手紙のやり取りで批評し合って楽しんでいたことから「最初は現代の同人誌のような楽しみ方だった」。上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。、その物語の評判から藤原道長が娘の中宮彰子の家庭教師として紫式部を呼んだ。それを機に宮中に上がった紫式部は宮仕えをしながら藤原道長の支援の下で物語を書き続け、54帖からなる『源氏物語』を完成させた中宮彰子は一条天皇の妻であったが、一条天皇のもう一人の妻であり後に亡くなった藤原定子の家庭教師は清少納言だった。なお、藤原道長の要請で宮中に上がった紫式部は、宮中の様子を中心に書いた「紫式部日記」を残している。。 なお、源氏物語は文献初出から150年ほど後の平安時代末期に「源氏物語絵巻」として絵画化された 五島美術館。現存する絵巻物の内、徳川美術館と五島美術館所蔵のものは国宝となっている。また現在、『源氏物語』は日本のみならず20ヶ国語を超える翻訳を通じ世界各国で読まれている 総合研究大学院大学教授 伊藤鉃也 日本文学研究専攻。2009年3月時点、刊行されたもの24種類、現在進行中のもの4種類、未確認(あるらしい、というもの)6種類。。.

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源氏長者

源氏長者(げんじのちょうじゃ)は、源氏一族全体の氏長者の事を指す。原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が源氏長者となる(現任上首)。源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの諸権利を持つ。一般的には、奨学院・淳和院の両別当を兼任するといわれているが、自身も源氏長者だった北畠親房の『職原鈔』によれば、奨学院別当のみでも要件を満たす(その場合、次席が淳和院別当となる)と解説している。.

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源泰清

源 泰清(みなもと の やすきよ)は、平安時代中期の日本の公卿。.

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源済政

源 済政(みなもとのなりまさ、天延3年(975年) - 長久2年2月(1041年))は、平安時代中期の貴族。宇多源氏、大納言・源時中の子。官位は正四位上・播磨守、贈従三位。.

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源清

源 清(みなもと の きよし、源淸、生没年不詳)は、平安時代初期の貴族。嵯峨天皇の皇子。母は更衣秋篠高子。官位は散位正四位下。.

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源清平

源 清平(みなもと の きよひら)は、平安時代前期から中期にかけての公卿。式部卿・是忠親王の次男。.

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源清光

源 清光(みなもと の きよみつ)は、平安時代末期の武将。甲斐源氏の祖。黒源太、逸見清光、武田清光とも呼ばれる。.

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源清蔭

源 清蔭(みなもと の きよかげ、元慶8年(884年) - 天暦4年7月3日(950年8月18日))は、平安時代前期から中期にかけての公卿、歌人。陽成天皇の第一皇子。官位は正三位・大納言。.

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源湛

源 湛(みなもと の たたう)は平安時代前期から中期にかけての公卿。左大臣・源融の長男。.

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源満季

源 満季(みなもと の みつすえ)は、平安時代中期の武将。清和源氏の初代・源経基の三男。満仲・満政の同母弟。兄満仲・満政らと同様に、武力をもって朝廷・上級貴族に仕えた「武勇輩」であった。.

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源満仲

JR川西池田駅前にある満仲のブロンズ像 源 満仲(みなもと の みつなか)は、平安時代中期の武将。清和源氏、六孫王経基の嫡男。多田源氏の祖で、多田 満仲(ただ の みつなか、ただ の まんじゅう)とも呼ばれる。諱は満中とも記される。神号は多田大権現。.

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源満快

源 満快(みなもと の みつよし/みつやす)は、平安時代中期の武将。源経基の五男。満扶(みつすけ)とも記される。.

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源満末

源 満末(みなもと の みつすえ、生没年不詳)は、平安時代後期の武将。従五位下。嵯峨源氏・融流源是茂の子孫。父は源末行。子に貞宗。.

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源満政

源 満政(みなもと の みつまさ)は、平安時代中期の武将。源経基の次男。満仲、満季らの同母兄弟。八島大夫、村岡大夫などと号した。満正とも記される。.

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源潔姫

源潔姫(みなもと の きよひめ、弘仁元年(810年) - 斉衡3年6月25日(856年7月29日))は、嵯峨天皇の皇女。母は当麻治田麻呂女。藤原良房の正妻。清和天皇の外祖母。贈正一位。 臣籍降下後の結婚であるが、史料上確実な「臣下の妻となった初めての皇女」である。良房との間に生まれたのは、後に文徳天皇女御となった明子ただ1人であり、他に妻を迎えられず後嗣に恵まれなかった夫・良房は甥の基経を猶子とした。.

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源朝任

源 朝任(みなもと の あさとう)は平安時代中期の公卿。大納言・源時中の七男。二條別當を号す。.

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源朝長

源 朝長(みなもと の ともなが)は、平安時代末期の武将。源義朝の次男。母は波多野義通の妹。源頼朝・義経の異母兄。相模国松田郷を領して松田冠者(まつだのかじゃ)と号した。また、松田殿とも呼ばれた。 父や兄弟とともに平治の乱で平清盛らと戦うが敗れ、父や兄弟とともに東国へ落ちる途中で僧兵の落人狩りで負傷し、傷が悪化して死亡した。.

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源本有

源 本有(みなもと の もとあり、生没年不詳)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。文徳天皇の皇子。官位は正四位下・治部卿。.

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源有仁

源 有仁(みなもと の ありひと)は、平安時代後期の公家。後三条天皇の皇子輔仁親王の第二王子。従一位左大臣。花園左大臣とも称された。皇族時代は有仁王と称する。.

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源有光

源 有光(みなもと の ありみつ)は、平安時代後期の武将。大和源氏の流れを汲む柳瀬流源頼遠の次男。陸奥石川氏第2代当主。 摂津国物津荘に生まれる。松千代、河内右馬之允師任、源太有光を称し、柳津に住してから柳津源太を称した。永承6年(1051年)、父頼遠とともに源頼義に従い陸奥に下向して安倍氏と戦うが、康平5年(1062年)、厨川柵の戦いで父を失い兵の指揮を引き継ぎ、軍功を以て従五位下安芸守に任ぜられ、奥州仙道七郡(白河、石川、岩瀬、田村、安積、信夫)の中から、石川を中心とした六十六郷の地を与えられた。 当初、石川荘の泉郷(いずみごう)の南、川辺(かわべ)にあった保源城へ住した。 泉郷は、阿武隈川を挟んだ西側が古代の東山道が通じ賑わっていた三条目(三城目)郷であり、賑わった土地である事からこの地を本拠地と定めた。しかし保源城は三方を急勾配に囲まれた山頂にあり、守るに堅牢な城ではあったが、水・交通の便が悪く政務・居住には不向きであった。その為、南に2キロ程の中野の地に藤田城を築くが、ここも何某か不便があり本拠とは成らなかった。.

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源有綱

源 有綱(みなもと の ありつな)は、平安時代末期の武将。伊豆守源仲綱の次男。大内守護源頼政の孫。.

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源有賢

源 有賢(みなもと の ありかた)は平安時代後期の公卿。刑部卿・源政長の子。.

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源有雅

源 有雅(みなもと の ありまさ)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての公卿。参議・源雅賢の長男。佐々木野を号し、佐々木野中納言と呼ばれた。.

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源成頼

ムネイル 源 成頼(みなもと の なりより、天延4年/貞元元年(976年) - 長保5年8月7日(1003年9月5日))は、平安時代中期の貴族。宇多源氏、参議・源扶義の長男。官位は四位・近衛中将。古くから佐々木氏の祖とされ佐々木成頼とも記される。.

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源成雅

源 成雅(みなもと の なりまさ、生没年未詳)は、平安時代後期の貴族。村上源氏、陸奥守・源信雅の四男。官位は正四位下・左近衛中将。近江中将と号す。.

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源明

源 明 (みなもと の あきら、弘仁5年(814年) - 仁寿2年12月20日(853年2月1日))は、平安時代初期の公卿。嵯峨天皇の皇子(嵯峨第五源氏)。官位は正四位下・参議。横川宰相入道と号す。出家後の法名は素然。.

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源明国

源 明国(みなもと の あきくに)は、平安時代後期の武将。初名は行光。三河守源頼綱の長男。「多田」を号したことから多田明国(ただ の あきくに)とも記される。.

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源是茂

源 是茂(みなもと のこれしげ、仁和2年(886年) - 天慶4年6月10日(941年7月11日))は、平安時代前期の貴族。嵯峨源氏、大納言・源昇の子。光孝天皇の養子になり第十三皇子となる。官位は従三位・権中納言。.

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源是恒

源 是恒(みなもと の これつね、生年不詳 - 延喜5年7月28日(905年8月31日))は、平安時代前期の賜姓皇族。光孝天皇の第8皇子だが母は不詳。官位は従四位上・美濃権守。養子に源衆望(嵯峨源氏源昇の子)がいる。 当初是恒王を名乗るが、貞観12年(870年)2月源朝臣の姓を賜与され臣籍降下。その後、出家して空性と号する。またその後、還俗して寛平8年(896年)11月に再び源朝臣姓を賜与される。延喜5年(905年)7月28日に卒去。.

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源昇

源 昇(みなもと の のぼる)は、平安時代初期から中期にかけての公卿。嵯峨源氏、左大臣・源融の次男。官位は正三位・大納言。河原大納言と号す。.

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源斉頼

源 斉頼(みなもと の まさより、なりより)は、平安時代中期の武将・官人・鷹匠。清和源氏満政流。駿河守源忠隆の長男。諱は政頼、正頼とも記され「せいらい」とも呼称される。.

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源旧鑑

源 旧鑑(源 舊鑒、みなもと の もとみ、生年不詳 - 延喜8年2月(908年))は、平安時代前期の賜姓皇族。名は職鑑とも書く。光孝天皇の皇子。官位は正四位下・大蔵卿。.

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源政長

源 政長(みなもと の まさなが)は平安時代中期から後期にかけての貴族・雅楽家。.

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源憲定

源 憲定(みなもと の のりさだ)は、平安時代中期の公卿。村上源氏で、一品・為平親王の長男。官位は従三位・右兵衛督。.

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源扶義

源 扶義(みなもと の すけのり)は、平安時代の貴族。官位は正四位下・参議。字は源叔。.

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源時中

源 時中(みなもと の ときなか)は平安時代中期の公卿。左大臣・源雅信の長男。致仕大納言と号す。.

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源時光

源 時光(みなもと の ときみつ、生没年不詳)は、平安時代末期の武将。文章生・勘解由判官源淳国の次男。兄弟に国光、資成があり、子に時国、頼成(頼氏)、弘国、俊光、頼実(頼房)、頼重、頼継、成国、国平、知光らがある。官位は従五位下、上西門院判官代、主殿助、右馬助、豊前守(『尊卑分脈』)。摂津源氏の一族である源頼弘の曾孫にあたる。.

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朝廷

朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。.

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朝臣

朝臣(あそん、あそみ)は、684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓の制度で新たに作られた姓(カバネ)で、上から二番目に相当する。一番上の真人(まひと)は、主に皇族に与えられたため、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたる。読みは「あそみ」が古い。古くは阿曽美、旦臣とも書いた。 この朝臣が作られた背景には、従来の臣(おみ)、連(むらじ)、首(おびと)、直(あたい)などの姓の上位に位置する姓を作ることで、姓に優劣、待遇の差をつけ、天皇への忠誠の厚い氏(うじ)を優遇し、皇室への権力掌握をはかったと思われる。 『日本書紀』には、684年(天武天皇13年)11月1日に初めて朝臣を賜った52氏として、大三輪氏、大春日氏、阿倍氏、巨瀬氏、膳氏、紀氏、波多氏、物部氏、平群氏、雀部氏、中臣氏、大宅氏、粟田氏、石川氏、桜井氏、采女氏、田中氏、小墾田氏、穂積氏、山背氏、鴨氏、小野氏、川辺氏、櫟井氏、柿本氏、軽部氏、若桜部氏、岸田氏、高向氏、宍人氏、来目氏、犬上氏、上毛野氏、角氏、星川氏、多氏、胸方氏、車持氏、綾氏、下道氏、伊賀氏、阿閉氏、林氏、波弥氏、下毛野氏、佐味氏、道守氏、大野氏、坂本氏、池田氏、玉手氏、笠氏が記されている。 朝臣は、主に壬申の乱で功績の有った主に臣の姓を持つ氏族(古い時代に皇室から分かれたものが多い)に優先的に与えられた。その次に位置する主に連の姓を持つ氏族には宿禰の姓を与えていた。しかしながら、その後も朝廷に功績が有った氏族には朝臣の姓を下賜していき、奈良時代にはほとんどの氏が朝臣の姓を持つようになった。 さらに時代が下ると、大半の貴族や武士は藤原朝臣、源朝臣、平朝臣などの子孫で占められてしまい、また、武家台頭による下級貴族の没落もあり、朝臣は、序列付けの為の姓としての意味を失ってしまい、公式文書で使う形式的なものになっていった。 平安時代以降、公卿(三位以上及び参議)は、氏の下に朝臣、諱の下に公(大臣)ないし卿という敬称を以って称した。四位以下の者は氏、諱の下に姓をつけて呼称した。氏ではなく諱の下に朝臣とつけた者は特に名乗り朝臣という。.

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本姓

本姓(ほんせい)は、日本において、古代以来の氏族名。氏を参照。名字(苗字)や家名とは異なる「本来の姓」という意味である。単純に姓(せい)とも言うが、「姓(かばね)」のことではない。.

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本康親王

本康親王(もとやすしんのう、生年不詳 - 延喜元年12月14日(902年1月26日)は、平安時代初期から前期にかけての皇族。仁明天皇の第五皇子。官位は一品・式部卿。八条宮と号した。.

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本朝皇胤紹運録

本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)は、天皇・皇族の系図。紹運録・紹運図・本朝帝皇紹運録・帝王御系図・帝皇系譜とも。後小松上皇の勅命により、時の内大臣洞院満季が、当時に流布していた『帝王系図』など多くの皇室系図を照合勘案、これに天神七代と地神五代を併せて、応永33年(1426年)に成立した。当初おそらくは称光院までの系譜が編纂され、また本来は満季の祖父の公定編纂の『尊卑分脈』と併せて一対とししていたらしい。名の由来は、中国南宋の『歴代帝王紹運図』。 内容は神代に始まり、天照大神以下の5代を掲げ、神武天皇以下の歴代をそれに続ける。歴代天皇を諡号または院号とともに中心に据え、代数・生母・諱・在位年数や立太子/践祚/即位/譲位/崩御の年月日・御陵などの事項を列記する。その他父子 ・兄弟などの皇族も続柄で系線で結び、右から左に綴る横系図の形式を採用し、生母・略歴・極位・極官・薨年などの注記(尻付)を施している。 後世には、文亀2年(1502年)には三条西実隆による増補が行われたのをはじめ、書写・刊行されるたびごとに当時の天皇・皇族まで増追補が行われ、写本や刊本の間でも内容に異同が多いが、数ある皇室系図の中で権威があるものとされる。刊本では群書類従本が最も著名で、昭和天皇までの系譜が書き継がれている。 ただし現在の皇統譜と異なり、神功皇后を天皇に準じた扱いとする一方、廃帝の弘文天皇や仲恭天皇、南朝の後村上院・長慶院・後亀山院を歴代外とするなど、当時の足利政権を頂く政庁下の北朝正統論に依拠している。現在の皇統譜は、明治維新後に再び南北朝正閏論が活発化して以降に、南朝正統論に基づく南朝天皇を歴代に加えている。元老院が編纂した『纂輯御系図』(明治10年(1877年)初版)では、本系図を基礎にしつつ諸本を校合して、更なる信憑性の向上が図られているとされる。 なお、天明5年(1785年)に津久井尚重の著した『南朝(皇胤)紹運録』(『南朝編年記略』の付録)は全くの別系図で、.

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朱雀天皇

朱雀天皇(すざくてんのう、延長元年7月24日(923年9月7日) - 天暦6年8月15日(952年9月6日)、在位:延長8年11月22日(930年12月14日) - 天慶9年4月13日(946年5月16日))は第61代天皇。諱は寛明(ゆたあきら)。 第60代醍醐天皇の第十一皇子。母は藤原基経の娘、中宮藤原穏子。.

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有栖川宮幸仁親王

有栖川宮幸仁親王(ありすがわのみやゆきひとしんのう 明暦2年3月15日(1656年4月9日) - 元禄12年7月25日(1699年8月20日))は、江戸時代の皇族。後西天皇の第二皇子、母は清閑寺共綱の娘共子。子に正仁親王、幸子女王(東山天皇中宮、承秋門院)、尊統法親王。有栖川宮家第三代当主。 寛文7年(1667年)に高松宮を継承、寛文12年(1672年)に有栖川宮と宮号を変更した。延宝8年(1680年)に将軍徳川家綱が継嗣のないまま死去した際に、大老酒井忠清に徳川将軍に擁立されたとする宮将軍擁立説がある(→江戸時代の宮将軍擁立説を参照)。.

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有明親王

有明親王(ありあきらしんのう)は、平安時代中期の皇族。醍醐天皇の第七皇子。母は女御源和子。四品・大宰帥。.

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有智子内親王

有智子内親王(うちこないしんのう、大同2年(807年) - 承和14年10月26日(847年12月7日))は、第52代嵯峨天皇の第8皇女 。母は交野女王。平安時代初期の皇族、漢詩人。初代賀茂斎院。.

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最雲法親王

最雲法親王(さいうんほっしんのう、長治元年(1104年) - 応保2年2月16日(1162年3月3日)は、平安時代中期の天台宗の僧。父は堀河天皇。 比叡山に上り、天台座主仁豪に師事して出家・受戒し、仁実僧正から顕教・密教を学んだ。1156年(保元元年)延暦寺座主に就任し、1158年(保元3年)には僧正に任じられ、親王宣下を受けて法親王となった。同じ年座主の職を辞して山房に閑居、座禅看経の生活を送った。.

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惟康親王

惟康親王(これやすしんのう)は、鎌倉幕府第7代征夷大将軍。6代将軍宗尊親王の嫡男。.

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惟彦親王

惟彦親王(これひこしんのう、嘉祥3年(850年) - 元慶7年1月29日(883年3月11日))は、平安時代前期の皇族。文徳天皇の第三皇子。官位は四品・中務卿。.

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惟喬親王

惟喬親王(これたかしんのう、承和11年(844年) - 寛平9年2月20日『日本紀略』(897年3月30日)は、平安時代前期の皇族。文徳天皇の第一皇子。官位は四品・弾正尹。小野宮を号す。.

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惟恒親王

惟恒親王(これつねしんのう、生年不詳 - 延喜4年4月8日(904年5月25日))は、平安時代前期の皇族。文徳天皇の皇子。官位は三品・兵部卿。.

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成尋阿闍梨母

成尋阿闍梨母(じょうじんあじゃり の はは、永延2年(988年)? - 没年不詳)は、平安時代中期の女流歌人。源俊賢の娘とされるが、京都大雲寺の縁起によれば、堤大納言の娘とされる。陸奥守藤原実方の子貞叙に嫁し、僧成尋・成尊ら2子を生む。 夫とは1014年 - 1015年頃、早くして死別。家集「成尋阿闍梨母集」(宮崎荘平訳注、講談社学術文庫ほか)は、中国(宋)へ渡る子の成尋を思う母親の心情を詠んだものとして有名である。この歌集は日記的なもので、1073年(延久5年)5月で終わっていることから、これ以降に没したとみられている。 Category:平安時代の女性 Category:平安時代の歌人.

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成朝

成朝(せいちょう、生没年未詳)は、平安時代末から鎌倉時代初期頃に活躍した仏師。康助の孫で康朝の子。定朝の血を引く奈良仏師の正系。.

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明雲

明雲(みょううん)は、平安時代末期の天台宗の僧。久我顕通の長男。弟に久我雅通。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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昭登親王

昭登親王(あきなりしんのう、長徳4年(998年) - 長元8年4月14日(1035年5月23日))は、平安時代の皇族。花山天皇の第二皇子で母は若狭守平祐忠の娘・平平子。 その出生は複雑である。誕生時には父は既に出家しており、母・平子は出自が低かった。更に父・花山法皇は平子の実母(つまり昭登の祖母)の中務と通じて第一皇子清仁親王を儲けるなど余りにも複雑な事情があったために、清仁親王ともども祖父冷泉上皇の子として育てられた。このため世間では清仁親王を「親腹御子」、昭登親王を「女腹御子」と呼んで話題にしたという。 寛弘元年5月4日(1004年)には清仁親王とともに親王宣下を受ける。当時政権の座にあった左大臣藤原道長は、複雑な背景を有する昭登らへの宣下に消極的であったものの花山法皇の意向を受けてやむなく従ったという。寛弘8年8月23日(1011年)、藤原実資の加冠によって元服して、同年9月10日に三条天皇の即位に合わせて四品親王となる。実資の日記『小右記』には、万寿2年2月28日(1027年)に親王邸が火事で焼失した事が記録されている。この時、兵部卿の地位にあった。その後、中務卿に遷りその在任中に薨去した。 Category:日本の親王 Category:平安時代の男性皇族 Category:998年生 Category:1035年没.

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是忠親王

是忠親王(これただしんのう)は、平安時代前期の皇族。光孝天皇の第一皇子。光孝源氏及び光孝平氏の祖。.

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是貞親王

是貞親王(これさだしんのう、生年不詳 - 延喜3年7月25日(903年8月20日))は、平安時代前期の皇族。光孝天皇の第二皇子。母は班子女王。子に源直幹がいる。官位は三品・大宰帥。.

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流罪

ダンテ』 流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺境や島に送る追放刑である。流刑(るけい、りゅうけい)、配流(はいる)とも言う。特に流刑地が島の場合には島流し(しまながし)とも呼ばれる事もある。 歴史的には、本土での投獄より、遠いところに取り残された方が自分一人の力だけで生きていかなければならなくなり、苦痛がより重い刑罰とされていた。ほか、文化人や戦争・政争に敗れた貴人に対して、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合に用いられた。配流の途中や目的地で独り生涯を終えた流刑者は多いが、子孫を残したり、赦免されたりした例もある。脱走を企てた流刑者や、源頼朝、後醍醐天皇、ナポレオン・ボナパルトのように流刑地から再起を遂げた(一時的な成功も含めて)政治家・武人もいた。 日本では離島への文化伝播に大きな役割を果たしたほか、海外ではシベリアやオーストラリアといった植民地に労働力を送り込む強制移民としても機能した。.

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浦野重直

浦野 重直(うらの しげなお、生没年不詳)は、平安時代末期の武将。信濃守源重遠の長男。兄弟に葦敷重頼、小河重房、山田重弘らがあり、子に山田重満、彦坂重親、高田重宗(高田重家?)、白川重義、小島重平、足助重長らがある。浦野太郎、山田先生、河辺冠者などと号した。 その事跡が史料上にみえず系図類でのみ確認できる。ただ、『尊卑分脈』には父より尾張国春日井郡浦野の所領を継承する一方で同山田郡山田庄や同海部郡河辺庄などをも知行したことを示唆する記述がある。これに従えば、合わせて史料上に現れる一世代後以降の子孫たちの活動からも推して、弟たちと共にこの時期の尾張国内に一定の勢力を有していたことが窺われるが、その他の具体的な動向などは不明である。.

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浅利義遠

浅利 義遠(あさり よしとお)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。浅利氏の祖。.

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新田義兼

新田 義兼(にった よしかね)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての武将・御家人。新田氏本宗家総領2代目。長兄・里見義俊が「大新田」と呼ばれたのに対し、惣領を継いだ義兼は「小新田」と呼ばれた。.

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新田義房

新田 義房(にった よしふさ)は鎌倉時代の武将で、新田氏本宗家の3代総領。新田蔵人。新田義兼の長男で一人息子。若いころは上西門院に仕えた。 .

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新田氏

新田氏(にったし)は、上野国発祥の豪族(軍事貴族)。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流河内源氏の棟梁 鎮守府将軍源義家の三男義国の長男新田義重を祖とする上野源氏の総称。義国流足利氏と同族である。上野国(群馬県)を本貫とした。家紋は「大中黒・新田一つ引(おおなかぐろ・にったひとつびき)」。.

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文徳天皇

文徳天皇(もんとくてんのう、天長4年8月(827年) - 天安2年8月27日(858年10月7日))は、平安時代前期の第55代天皇(在位:嘉祥3年3月19日(850年5月4日) - 天安2年8月27日(858年10月7日))。諱は道康(みちやす)。田邑帝とも。 仁明天皇の第一皇子。母は左大臣・藤原冬嗣の娘、皇太后・順子。.

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文徳源氏

文徳源氏(もんとくげんじ、)は、第55代文徳天皇の皇子を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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斉中親王

斉中/齊中親王(ときなかしんのう、仁和元年(885年) - 寛平3年10月13日(891年11月18日))は平安時代初期から中期にかけての皇族。宇多天皇の第二皇子であり、母は参議・橘広相の娘・義子。 仁和5年(889年)の元日に5歳で元服。同年12月(890年1月)に維城王(後の敦仁親王こと醍醐天皇)らとともに親王宣下を受ける。しかし、2年後の寛平3年(891年)10月13日に7歳で夭折。薨奏は行われなかった。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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日本大百科全書

『日本大百科全書:ニッポニカ』(にほんだいひゃっかぜんしょ)は小学館から出版された書籍としての百科事典である。 「日本と日本人について徹底的に、かつ広範囲にわたって一層の記述をすること」を目的として、10年の準備期間を経て、130,000を超える項目と500,000を超える索引が五十音順で23,000を超えるページに編成された。1984年に初版の頒布が開始され、5年の歳月をかけて1989年に全25巻の刊行が成された。最新版である1994年版では、独立した巻となっている索引と補巻を含めて26巻から構成される。現在は絶版である。.

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摂津国

摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.

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摂津源氏

摂津源氏(せっつげんじ)とは、摂津国の多田に根拠地を置いた清和源氏の嫡流(多田源氏と呼ばれることもある)。.

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愛宕家

愛宕家(おたぎけ)は、村上源氏中院庶流の公家である。家格は羽林家。江戸時代前期から中期の権大納言通福を祖とする。通福は英彦山座主権僧正有清の三男で権大納言中院通純の猶子である。江戸時代の石高は130石。 幕末・明治維新では、通致・通旭父子が、朝廷刷新の二二卿建議(廷臣二十二卿列参事件)に加わった『明治維新人名辞典』246頁。『明治時代史大辞典 第一巻』422頁。、維新後、通旭は軍防事務局親兵掛となる『百官履歴 上巻』373-374頁。。以後、参与職親兵掛、神祇官権判事、同判事を歴任した。しかし、官吏減員に伴い免官される。通旭は、王政復古後の物価の騰貴、政府高官の洋風化などに反発し、外山光輔と提携して政権の刷新を画策するが、同志の密告により明治4年3月14日(1871年5月3日)東京で捕縛された(二卿事件)。同年12月3日に自刃を命ぜられ切腹した。華族令施行により、通致は子爵に叙せられた。.

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愛智義成

愛智 義成/源 義成(あいち よしなり/みなもと の よしなり)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。源義円の長男。 外祖父の慶範は尾張国愛智郡(現在の愛知県愛知郡)の郡司であったとされる。この縁により、父義円が墨俣川の戦いで戦死した後は同地において養育され、長じた後は愛智蔵人を名乗り愛智氏の祖となったという。 子孫は数代に渡って尾張の豪族として存続、義円の兄全成後裔の阿野氏とも交流があり、少なくとも南北朝期までは続いていたことを『尊卑分脈』などで確認することができる。それ以降の尾張においても愛智姓(拾阿弥など)は散見されるが、系譜上の関連性は不明である。 Category:鎌倉時代の武士 よしなり Category:生没年不詳.

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敦実親王

敦実親王(あつみしんのう、寛平5年(893年) - 康保4年3月2日(967年4月14日))は、平安時代中期の皇族。宇多天皇の第八皇子。母は贈皇太后・藤原胤子で、醍醐天皇の同母弟。官位は一品・式部卿。六条宮を称した。.

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敦平親王

敦平親王(あつひらしんのう、長保元年(999年) - 永承4年3月18日(1049年4月22日))は平安時代中期の皇族。三条天皇の第三皇子。官位は二品・式部卿。.

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敦康親王

敦康親王(あつやす しんのう、長保元年11月7日(999年12月17日) - 寛仁2年12月17日(1019年1月25日))は平安時代中期の皇族。第66代一条天皇の第1皇子、母は皇后藤原定子。.

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敦明親王

敦明親王(あつあきらしんのう、正暦5年5月9日(994年6月20日) - 永承6年1月8日(1051年2月21日))は、平安時代中期の皇族。第67代三条天皇の第一皇子。母は皇后・藤原娍子(大納言・藤原済時の女)。尊号は小一条院(こいちじょういん)。藤原道長の圧力の前に自ら皇太子の身位を辞退し、その見返りに准太上天皇としての待遇を得たことで知られる。.

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敦文親王

敦文親王(あつふみしんのう、承保元年12月26日(1075年1月15日) - 承保4年9月16日(1077年9月25日))は平安時代後期の皇族。白河天皇の第一皇子。母は中宮藤原賢子(藤原師実養女、源顕房女)。.

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敦慶親王

敦慶親王(あつよししんのう)は、平安時代中期の皇族。宇多天皇の第四皇子。光玉宮と号した。.

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慶頼王

慶頼王(よしよりおう/やすよりおう)は、平安時代の皇族。皇太子保明親王の第一王子で、母は藤原時平の娘・仁善子。同母妹に煕子女王がいる。父親王の薨去に伴い醍醐天皇の皇太子(皇太孫)に立てられたが夭逝した。.

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慈光寺家

慈光寺家(じこうじけ)は宇多源氏の流れを汲む堂上家。左衛門尉・五辻遠兼の次男慈光寺仲清を祖とする。 家格は半家。中務権大輔・慈光寺冬仲の代で堂上家に列せられ、慈光寺澄仲(1713年 - 1795年)が従二位・左馬権頭に叙せられて以降、従二位・非参議が極官となる。 江戸時代の家禄は30石。明治維新後は有仲が子爵に叙せられた。.

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拓跋氏

拓跋氏(たくばつし)は、中国北部からモンゴル高原にかけて勢力を有した鮮卑拓跋部の中心氏族であり、狭義的には拓跋鄰の直系であり、後に鮮卑を統一し中国において北魏を建国した家系である。北魏では第5代献文帝まで国姓であったが、孝文帝の代に元氏と改姓された。.

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性信入道親王

性信入道親王(しょうしんにゅうどうしんのう、寛弘2年6月1日(1005年7月1日) - 応徳2年9月27日(1085年10月18日))は、平安時代中期の皇族・僧。父は三条天皇、母は藤原済時の娘娍子。三条天皇第4皇子。真言宗仁和寺の第2世門跡。通称は大御室。諱は師明、号は光明寿院、密号は金剛行。.

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1180年

記載なし。

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12世紀

アンコールの地にアンコール朝の王スーリヤヴァルマン2世はアンコール・ワットの建設を行い、続くジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムを築いた。画像はアンコール・トムのバイヨン四面像(観世菩薩像)。 12世紀(じゅうにせいき)とは、西暦1101年から西暦1200年までの100年間を指す世紀。.

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1961年

記載なし。

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