446 関係: 劉邦、占い、南宋、南北朝時代 (中国)、古代ローマ、古代エジプト、史記、双頭の鷲、君主、君主号、君主制、夏 (三代)、大帝、大ブルガリア公国、大国、大王、大空位時代、大統領、大韓帝国、大辞林、大正、大日本帝国、大日本帝国憲法、天子、天下、天皇、天皇の一覧、天皇大帝、天照大神、天武天皇、天智天皇、女帝、女王、女性、始皇帝、子嬰、孝謙天皇、宝亀、宇宙、宇文化及、安禄山、尊号、岡本隆司、帝国、帝王、中央アフリカ帝国、中央アフリカ共和国、中国、中国の歴史、中国帝王一覧、...、中国語、中華帝国 (1915年-1916年)、中華思想、世界大百科事典、世襲、三十年戦争、三国時代 (中国)、三国時代 (朝鮮半島)、三皇五帝、三省堂、下関条約、一人称、一神教、平将門、幼主、五代十国時代、五胡十六国時代、仁明天皇、後漢、北宋、ナポレオン3世、ナポレオン・ボナパルト、ペルシア語、ペドロ1世 (ブラジル皇帝)、ペドロ2世 (ブラジル皇帝)、ミハエル・シューマッハ、ミヒャエル・バラック、ミカエル8世パレオロゴス、マリ帝国、マリア・テレジア、マリク、マルティヌス1世 (ローマ教皇)、マルクス・アウレリウス・アントニヌス、マクシミリアン (メキシコ皇帝)、ハンガリー王国、ハーン、ハプスブルク家、ハプスブルク帝国、ハプスブルク=ロートリンゲン家、ハイチ、ハイレ・ゲブレセラシェ、ハイレ・セラシエ1世、バチカン、バトゥ、バシレウス、ポルトガル王国、ムラト1世、ムガル帝国、メネリク1世、メフメト2世、メキシコ、メキシコ皇帝、メソポタミア、モナコ、モンテネグロ公国、モンゴル帝国、モスクワ大公国、ヤハウェ、ユスティニアヌス1世、ヨハネス12世 (ローマ教皇)、ヨーロッパ、ラージャ、ラテン帝国、ラテンアメリカ、ラテン語、ライン同盟、ラストエンペラー、ルーシ、ルクセンブルク大公、レオ3世 (ローマ教皇)、ローマ帝国、ローマ人、ローマ皇帝、ローマ皇帝一覧、ローマ王、ロシア帝国、ロシア・ツァーリ国、ロシア皇帝、ロシア連邦大統領、僭称、ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)、トラスカラ王国、トルコ革命、トルコ語、トレビゾンド帝国、ヘラクレイオス、ブラジル、ブラジル帝国、ブリタニカ百科事典、ブルネイ、ブルガリア帝国、ブルガリア王国 (近代)、プリンキパトゥス、プロトコル、プロイセン王国、パルティア、パーディシャー、ヒスパニア、ビン王 (斉)、ピョートル1世、ツァレーヴィチ、ツァーリ、テトラルキア、テオドシウス1世、ディオクレティアヌス、フランツ2世、フランツ・ベッケンバウアー、フランク・ローマ皇帝、フランク王国、フランス、フランス皇帝、フランス第一共和政、フランス第二帝政、フランス革命、フランス語、ファラオ、フェルナンド1世 (カスティーリャ王)、フェルディナンド1世 (ブルガリア王)、ドイツ、ドイツ帝国、ドイツ皇帝、ニニギ、ニカイア帝国、ホノリウス、ベトナム、周、呉 (三国)、アミール、アメリカ合衆国、アルブレヒト2世 (神聖ローマ皇帝)、アルカディウス、アントニヌス・ピウス、アッラーフ、アウグストゥス、アウグストゥス (称号)、アグスティン・デ・イトゥルビデ、アケメネス朝、アステカ、イラン、インペラトル、インペリウム、インド、インド皇帝、インカ帝国、イヴァン3世、イヴァン4世、イベリア半島、イエス・キリスト、イギリス、イギリスの君主、イギリス帝国、イギリス領インド帝国、イクノ・アムラク、イコノクラスム、イスラム帝国、イスラム世界、イタリア、ウラジーミル・プーチン、エチオピア帝国、エメリヤーエンコ・ヒョードル、エンゲルベルト・ケンペル、エピロス専制侯国、エフゲニー・プルシェンコ、エイレーネー (東ローマ女帝)、オマーン、オーストリア大公、オーストリア皇帝、オーストリア=ハンガリー帝国、オットー1世 (神聖ローマ皇帝)、オドアケル、オスマン帝国、オスマン帝国の君主、カリフ、カール4世 (神聖ローマ皇帝)、カール大帝、カトリック教会、カエサル (称号)、カガン、ガリヴァー旅行記、ガーナ王国、ガイウス・ユリウス・カエサル、ギリシア語、クーデター、グレゴリウス1世 (ローマ教皇)、グプタ朝、ゲルマン人、コンスタンティノープル、コンスタンティノス11世、コンスタンティノス6世、コンスタンス2世、シメオン1世、シメオン・ベクブラトヴィチ、シャー、シンボリルドルフ、ジャン=ベデル・ボカサ、ジャン=ジャック・デサリーヌ、ジョチ・ウルス、ジョアン6世 (ポルトガル王)、ジョシュア・ノートン、スラヴ語派、スルターン、スレイマン1世、ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン、セルビア帝国、セルビア王国 (中世)、ゼノン (東ローマ皇帝)、ソンガイ帝国、ゾイ・パレオロギナ、サンチョ3世 (ナバラ王)、サーサーン朝、サパ・インカ、サファヴィー朝、唐、冊封、公、公国、公用語、共同体、共和制、共和政ローマ、元首、元老院 (ローマ)、元老院 (日本)、光仁天皇、前漢、国、国史大辞典、国家、国家主席、国王、国際関係、国民投票、皇后、皇太子、皇室、皇帝 (中国)、皇帝 (タロット)、皇帝祭祀、皇族、王、王権、王政ローマ、社会秩序、神聖ローマ帝国、神聖ローマ皇帝一覧、神権政治、神武天皇、秦、称号、立憲君主制、第4回十字軍、第一次世界大戦、第一次ブルガリア帝国、第二次ブルガリア帝国、糸部、紀元前10世紀、紀元前27年、紀元前7世紀、続日本紀、継体天皇、総統、義帝、爵位、甲骨文字、煬帝、白村江の戦い、銅貨、隋、選帝侯、遼、聖徳太子、聖武天皇、聖書、順 (王朝)、項籍、袁世凱、袁術、養老律令、西洋紀聞、観念、首長、覇王、詔、語源学、諸侯王、諸王の王、高宗 (唐)、高麗、魏 (三国)、象徴、賢者、蜀漢、郡国制、部族、舎人親王、阮朝、金 (王朝)、金印勅書、配偶者、英語、TBSブリタニカ、李完用、李自成、李氏朝鮮、東ローマ帝国、東ローマ帝国の皇帝一覧、東海大学出版部、松村明、植民地、楚 (春秋)、模倣、武則天、殷、氏族、民族、江戸時代、法 (法学)、淡海三船、淳仁天皇、清、漢、朝鮮、朝貢、戦国時代 (中国)、明、明治、昭襄王 (秦)、新井白石、新皇、新羅、日米和親条約、日韓議定書、日清修好条規、日朝修好条規、日本、日本国大君、日本国皇帝、日本国籍、日本国憲法、日本誌、日本文徳天皇実録、愛新覚羅溥儀、教皇、教義、1018年、1188年、1224年、1345年、1356年、1371年、1396年、13世紀、1438年、1453年、1472年、14世紀、1502年、1547年、1576年、15世紀、1644年、16世紀、1721年、1804年、1806年、1822年、1831年、1849年、1852年、1864年、1870年、1871年、1889年、1897年、1910年、1936年、1974年、1976年、1979年、19世紀、1月16日、20世紀、293年、395年、476年、628年、6世紀、774年、797年、7世紀、800年、812年、920年、939年、962年、9世紀。 インデックスを展開 (396 もっと) »
劉邦
劉 邦(りゅう ほう、、)は、前漢の初代皇帝。 沛県の亭長(亭とは当時一定距離ごとに置かれていた宿舎のこと)であったが、反秦連合に参加した後に秦の都咸陽を陥落させ、一時は関中を支配下に入れた。その後項羽によって西方の漢中へ左遷され漢王となるも、東進して垓下に項羽を討ち、前漢を興した。正式には廟号が太祖、諡号が高皇帝であるが、通常は高祖と呼ばれることが多い。.
占い
占い(うらない)とは様々な方法で、人の心の内や運勢や未来など、直接観察することのできないものについて判断することや、その方法をいう。卜占(ぼくせん)や占卜(せんぼく)ともいう。 予言とは違い、必ずしも未来を当てるものではなく対象を意図する方向へ導く事が目的であるので、単なる予言と混同するのは適切でない。.
南宋
南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現杭州)であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝) で解説することとする。 この項目では全般にわたって山川出版社『中国史3』と講談社学術文庫『五代と宋の興亡』を使用している。この二書に関しては特に必要のない限りは出典としては挙げない。.
南北朝時代 (中国)
北魏と宋 北魏と南斉 東西魏と梁 北周、北斉と後梁、陳 中国史における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。 この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。同じく建康(建業)に都をおいた三国時代の呉、東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代を六朝時代とも呼ぶ。この時期、江南(長江以南)の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。 また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、北方遊牧民の部族制を解体し、貴族制に基づく中国的国家に脱皮しつつあった。北魏は六鎮の乱を経て、534年に東魏、西魏に分裂した。東魏は550年に西魏は556年にそれぞれ北斉、北周に取って代わられた。577年、北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一する。その後、581年に隋の楊堅が北周の譲りを受けて帝位についた。589年、隋は南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一した。普通は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝を北朝と呼ぶが、これに隋を加える説もある。李延寿の『北史』が隋を北朝に列しているためである。.
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古代ローマ
古代ローマ(こだいローマ、Roma antiqua)は、イタリア半島中部に位置した多部族からなる都市国家から始まり、領土を拡大して地中海世界の全域を支配する世界帝国までになった国家の総称である。当時の正式な国号は元老院ならびにローマ市民(Senatus Populusque Romanus)であり、共和政成立から使用されて以来滅亡まで体制が変わっても維持された。伝統的には476年のロムルス・アウグストゥルスの退位をもって古代ローマの終焉とするのが一般的であるが、ユスティニアヌス1世によってイタリア本土が再構成される554年までを古代ローマに含める場合もある。ローマ市は、帝国の滅亡後も一都市として存続し、世界帝国ローマの記憶は以後の思想や制度に様々な形で残り、今日まで影響を与えている。.
古代エジプト
古代エジプト(こだいエジプト、Ancient Egypt)は、古代のエジプトに対する呼称。具体的にどの時期を指すかについては様々な説が存在するが、この項においては紀元前3000年頃に始まった第1王朝から紀元前30年にプトレマイオス朝が共和制ローマによって滅ぼされるまでの時代を扱う。.
史記
『史記』(しき)は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書である。正史の第一に数えられる。二十四史のひとつ。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻から成る紀伝体の歴史書で、叙述範囲は伝説上の五帝の一人黄帝から前漢の武帝までである。このような記述の仕方は、中国の歴史書、わけても正史記述の雛形となっている。 二十四史の中でも『漢書』と並んで最高の評価を得ているものであり、単に歴史的価値だけではなく文学的価値も高く評価されている。 日本でも古くから読まれており、元号の出典として12回採用されている。.
双頭の鷲
ルジューク朝の紋章(11-12世紀) 1370年代に描かれた、教会会議を主宰する東ローマ皇帝ヨハネス6世カンタクゼノス。彼の足元に金の双頭の鷲が描かれている。 ro)の双頭の鷲の壁画。 双頭の鷲(そうとうのわし、Δικέφαλος αετός、Doppeladler、Double-headed eagle)とは、鷲の紋章の一種で、頭を2つ持つ鷲の紋章。 主に東ローマ帝国や神聖ローマ帝国と、関連したヨーロッパの国家や貴族などに使用された。現在でもセルビア、アルバニア、ドイツ、ロシアなどの国章や、ギリシャ正教会などで使用されている。.
君主
フランス国王ルイ14世 君主(くんしゅ)とは、一般に、世襲により国家を治める最高位の人。伝統的に、国家で特定の一人が主権を持つ場合、その主権者が君主であり、王・帝王・天子・皇帝・きみ等ともいう。.
君主号
君主号(くんしゅごう)とは、君主の称号のこと。そもそもは、その文明や国家、民族特有の尊称により呼ばれていたが、中華文明のように、「皇帝」を称して近隣諸国の王を臣従させ、国王の封号と官爵を与え、さらに臣従の見返りとして文明や交易の利潤を与えるなど、君主の称号にも優劣が生ずるようになった。西欧においても、神聖ローマ皇帝が近隣諸国の国王よりも優位に立つなど、君主号はたんなる名称の域を超えて、その国の由緒や国力を誇示する重要な意味を持っていた。また、君主号を国内における表記・呼称と対外的呼称とで使い分ける場合、対外的に称する君主号を外交称号という。.
君主制
君主制または君主政(くんしゅせい、英:monarchy)とは、君主が存在する政体である。君主制を支持・志向する思想や立場は君主主義(monarchism)と呼ばれる。対義語はそれぞれ共和制・共和政(republic)と共和主義(republicanism)である。.
夏 (三代)
夏(か、紀元前1900年頃 - 紀元前1600年頃 )は、中国の史書に記された最古の王朝。夏后ともいう。夏・殷・周を三代という。『史記』『竹書紀年』などの史書には初代の禹から末代の桀まで14世17代、471年間続いたと記録されている。殷に滅ぼされた。従来、伝説とされてきたが、近年、考古学資料の発掘により実在の可能性もある。.
大帝
大帝(たいてい)は、立派な治績を残した偉大な皇帝を指す称号。偉大なる王に与えられる称号は「大王」となる。ただし原語は例えば英語であれば、大帝も大王も「The Great」である。日本語訳する際に皇帝なら大帝、王なら大王と、意訳して使い分けられている。.
大ブルガリア公国
大ブルガリア公国(だいブルガリアこうこく、Княжество България / Knyazhestvo Bulgaria)は、1878年3月に露土戦争の講和条約として結ばれたサン・ステファノ条約によって、一時的にブルガリアに成立した公国。 ロシア帝国からの影響が強く、この新たな国家はロシアの地中海への南下政策を容易にするものであったためイギリス、オーストリアの反発を招き、事態の収拾を図ったドイツが主催したベルリン会議の結果、ベルリン条約によって大きく領土を縮小された。.
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大国
大国(たいこく)とは、.
大王
大王;地位.
大空位時代
大空位時代(だいくういじだい、Interregnum)は、神聖ローマ帝国で王権が不安定であった時代のことである。期間は1250年菊池『神聖ローマ帝国』、129頁、1254年山内進「苦闘する神聖ローマ帝国」『ドイツ史』収録(木村靖二編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2001年8月)、71-72頁または1256年から1273年まで。この時期にローマ王(ドイツ王)を世襲する有力な家門はなかった。そこで、選帝侯など有力諸侯が帝国の直轄領を蚕食し、帝国の権利の多くを奪った。彼らはライン都市同盟までも分解し、影響力を極端に増した。.
大統領
大統領(だいとうりょう、President)は、共和国の元首の呼称の一つ。 国によって、正式には共和国大統領や連邦大統領と称することもある。また、例外的に、国家元首たる合議体の議長や政府の長の呼称として用いられることもある。.
大韓帝国
純宗 勲章を纏っている高宗 大日本帝国の大礼服と大勲位菊花章頸飾など様々な勲章を纏った純宗 大日本帝国の大礼服と勲章を纏って座っている純宗 『大韓全図』(1899、玄采『大韓地誌』附図) 大韓帝国(だいかんていこく、대한제국〈テハンジェグク〉)は、1897年から1910年までの間李氏朝鮮が使用していた国号。大韓国(だいかんこく、대한국〈テハングク〉)、韓国(かんこく、한국〈ハングク〉)とも言った。また、現在の大韓民国(韓国)と区別するため、「旧韓国(きゅうかんこく)」と呼ばれることもある。 朝鮮半島最後の専制君主国であるが、日露戦争後は日本の保護国となり、1910年8月の韓国併合によって滅亡した。 現在の韓国政府はこの「大韓帝国」の領土に竹島(韓国名: 独島〈독도; 獨島〉)も含まれていたと主張する。.
大辞林
『大辞林』(だいじりん)は三省堂が発行する中型国語辞典。中型国語辞典としては、岩波書店の『広辞苑』と並ぶ双璧。2006年に11年ぶりの改訂を行い、Web上でも使えるデュアル・ディクショナリーとして発表され、新たな動きがみられる。書籍版は23万8000語、Web版は約26万5千語。.
大正
大正(たいしょう)は日本の元号の一つ。明治の後、昭和の前。大正天皇の在位期間である1912年(明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。.
大日本帝国
大日本帝国(だいにっぽんていこく、だいにほんていこく、大日本帝國)は、日本国の国号の一つ。江戸時代末期に外交文書に使用され始め、1946年頃まで公式に使用された。なお、「大日本帝国」と定めた法律は存在しないため、日本の通称または大日本帝国憲法下の日本の通称の一つとして扱われる。 一般には1889年(明治22年)の大日本帝国憲法発布時に憲法典の名称として使用されたことから権威づけられ、1947年(昭和22年)の日本国憲法施行時までの約58年間、天皇が大日本帝国憲法を通じて統治する日本として使用された国号のひとつとされる。最盛時には現在の日本の領土に加え、南樺太・千島列島・朝鮮半島・台湾・澎湖列島・新南群島などを領有していた他、北東アジアや太平洋にいくつかの委任統治領や租借地を保有した。 以下は国号としての大日本帝国を解説し、また大日本帝国憲法下の日本について記述する。.
大日本帝国憲法
憲法発布略図1889年(明治22年)、楊洲周延画 新皇居於テ正殿憲法発布式之図1889年(明治22年)、安達吟光画 大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう、だいにっぽんていこくけんぽう、旧字体:大日本帝國憲法)は、1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された、外見的立憲主義に基づく日本の憲法 大日本帝国憲法には、表題に「大日本帝国」が使用されているが、詔勅では「大日本憲法」と称しており、正式な国号と規定されたものではない。「大日本帝国」が正式な国号と規定された1936年(昭和11年)まで、他に「日本国」「日本」等の名称も使用された。。 明治憲法(めいじけんぽう)、あるいは単に帝国憲法(ていこくけんぽう)と呼ばれることも多い。現行の日本国憲法との対比で旧憲法(きゅうけんぽう)とも呼ばれる。 短期間で停止されたオスマン帝国憲法を除けば実質上のアジア初の近代憲法である。1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行まで半世紀以上の間正確には56年5か月4日(20608日)、一度も改正されることはなかった。1947年(昭和22年)5月2日まで存続し、1946年(昭和21年)11月3日に第73条の憲法改正手続による公布を経て、翌1947年(昭和22年)5月3日に日本国憲法が施行された。.
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天子
天子(てんし)とは、中国や日本で用いられた君主の称号。天命を受けて天下を治める者の意。中国の周王や漢代以降の皇帝、日本の大王・天皇の別号として用いられた。 王は天(天帝)の子であり天命により天下を治めるとする古代中国の思想を起源とする。周代、周公旦によって「天帝がその子として王を認め王位は家系によって継承されていく。王家が徳を失えば新たな家系が天命により定まる」という「天人相関説」が唱えられ、天と君主の関係を表す語として「天子」が用いられるようになったという。秦の始皇帝により、天下を治める者の呼称が神格化された皇帝へと変わると、天子の称は用いられなくなったが、漢代にいたり儒教精神の復活をみると、再び天子の称が用いられるようになり、それは皇帝の別名となった。 皇帝の支配は、空間(領土)の支配と時間(暦と年号)に及び、皇帝以外の者の支配は許されなかった。前漢の武帝は、太陰暦と太陽暦を合体した太初暦を制定。皇帝の下した暦を用いるのが、皇帝の主権を認めた証拠となり、これを「正朔を奉ずる」と言った。皇帝は天帝に対しては天の子=天子として天を祭る儀礼を司り、それは皇帝だけに許された神聖儀礼として清朝に至るまで連綿と引き継がれた。密教における十二天の日天子・月天子としても用いられそれらが支配する太陽と月の世界のことを指す。 中国の影響を多く受けた日本でも、天子は大王・天皇の別名として用いられ、聖徳太子は「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや」と記した国書を隋の煬帝に送っている。律令においては天皇が祭祀において用いる称号として規定されているが、天皇を指す語の1つとして広く使われるようになる。.
天下
華夷思想に基づくもの。「天下」概念は時代および国によってその定義が異なるため、これはあくまで実例の一つである。赤の範囲が「華」あるいは「夏」の領域で、一般庶民に至るまで漢の礼制・法制にしたがう。青は漢の徳の及ぶ「外臣」および「朝貢国」の領域で、「外臣」とは漢皇帝に臣属した夷狄の君主たち。「外臣」の国では外臣のみが漢の礼制・法制にしたがう。その外側にはいまだ漢の徳の及んでいない「化外」の領域がある。外臣・朝貢国・化外は基本的に「夷」の領域である。一般に「天下」概念は観念上にこのような同心円的構造をもって成立する 天下(てんか、てんが、てんげ、あめのした)は、全世界を意味する概念。字義的には「普天の下」という意味で、地理的限定のない空間のことであるが、用法によっては一定の地理概念と同じ意味に用いられることもある。また一般に天下は、一定の秩序原理を伴い、その対象とされる地域・民衆・国家という形で捉えられる。すなわち一般に「世界」は「世界観」がなくても客観的に存在しているものと認識されるが、「天下」は一定の秩序原理によって観念的に成立している。.
天皇
天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.
天皇の一覧
天皇の一覧(てんのうのいちらん)は、日本の歴代天皇およびその他の天皇の一覧である。.
天皇大帝
天皇大帝の像(岡山寿天宮、台湾) 北極星を中心として回転する星々 こぐま座とりゅう座。現在の北極星は図中の「Polaris」 天皇大帝(てんおうだいてい、てんのうたいてい、てんのうだいてい)は神格化された北辰(天の北極)のこと。後述するように、日本における天皇という称号の起源の有力な候補の一つと考えられている。北斗七星と混同されることもある。.
天照大神
天照大神(あまてらすおおみかみ、あまてらすおおかみ)は、日本神話に登場する神。皇室の祖神で、日本国民の総氏神ともされる。『延喜式』では自然神として神社などに祀られた場合の「天照」は「あまてる」と称されている。 天岩戸の神隠れで有名であり、記紀によれば太陽を神格化した神であり、皇室の祖神(皇祖神)とされる。神社としては伊勢神宮が特に有名『八百万の神々』。.
天武天皇
天皇系図38~50代 天武天皇(てんむてんのう、? - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。.
天智天皇
天智天皇(てんじてんのう/てんぢてんのう、推古天皇34年(626年) - 天智天皇10年12月3日(672年1月7日))は、第38代天皇(在位:天智天皇7年1月3日(668年2月20日) - 10年12月3日(672年1月7日))。和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる。.
女帝
アの女帝エカテリーナ2世。 女帝(じょてい、にょたい)は、女性の皇帝、あるいは天皇のこと。後者の現代的表現としては女性天皇がある。.
女王
女王(じょおう、ラテン語:regina、フランス語:reine、英語:queen、ドイツ語:Königin)は、一般に「王」のうち女性であるもの、または男性の「王」に相当する女性の地位。 「王」は、君主の一般的な称号として用いられるほか皇族や諸侯の称号として、あるいは転じて第一人者の意味で用いられるが、これは「女王」についても同様である。ここでは、君主としての女王の意味のほか、その派生的用法について記述する。.
女性
パイオニア探査機の金属板(部分)に描かれた女性像 女性器の構造 女性器の外観 成長した女性の下半身 女性(じょせい、γυναίκα、woman)は、男性と対比されるヒト(人間)の性別のこと。一般には生物学のメスと同義だが、社会・個人の価値観や性向に基づいた多様な見方が存在する。.
始皇帝
始皇帝(しこうてい、紀元前259年 - 紀元前210年Wood, Frances.
子嬰
子嬰(しえい)は、中国秦の最後の君主(王)。史料では秦王子嬰とも呼称される。.
孝謙天皇
孝謙天皇(こうけんてんのう)、重祚して称徳天皇(しょうとくてんのう;稱德天皇、養老2年(718年) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日))は、日本の第46代・第48代天皇。 在位期間は、孝謙天皇として天平勝宝元年7月2日(749年8月19日) - 天平宝字2年8月1日(758年9月7日)、称徳天皇として天平宝字8年10月9日(764年11月6日) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日)。 父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。即位前の名は「阿倍内親王」。生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られている。『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)」とも称された。 史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代明正天皇(在位:1629年 - 1643年)に至るまで、850余年、女帝が立てられることはなかった。.
宝亀
宝亀(ほうき、正字体:寶龜)は、日本の元号の一つ。神護景雲の後、天応の前。770年から781年までの期間を指す。この時代の天皇は光仁天皇。.
宇宙
宇宙(うちゅう)とは、以下のように定義される。.
宇文化及
宇文 化及(うぶん かきゅう)は隋の政治家、軍人。隋末の混乱期に独立して皇帝を僭称し許を建国した。宇文智及、宇文恵及の兄、宇文士及の異母兄。.
安禄山
安 禄山(あん ろくざん)は、唐代の軍人、大燕国皇帝。本姓は康で、康国(サマルカンド)出身のソグド人と突厥系の混血。「禄山」はソグド語の「ロクシャン(rwxšn/roxš(a)n 明るい・光の意味)」の音訳。唐の玄宗に対し安禄山の乱(安史の乱)を起こし、大燕皇帝に即位したが、最後は次男の安慶緒に殺害された。.
尊号
尊号(そんごう)とは、君主およびその祖先とその一族、貴族や高僧など、その国家や社会においてその遺徳の顕彰や哀悼の祈念を込めて贈られる尊称のこと。.
岡本隆司
岡本 隆司(おかもと たかし、1965年(昭和40年)12月13日 -)は、日本の歴史学者。専門は中国近代史、東アジア国際関係史。京都府立大学教授。.
帝国
1900年の帝国主義諸国および植民地 鷲の紋章は多くの西洋の帝国でシンボルとして使われている 帝国は、以下の2つの意味で使用されている。.
帝王
帝王(ていおう)は、以下のものを意味する。.
中央アフリカ帝国
中央アフリカ帝国(ちゅうおうアフリカていこく、)は、1976年12月4日に中央アフリカ共和国の大統領ジャン=ベデル・ボカサが国号の改称を宣言してから、1979年9月20日にクーデターにより帝政崩壊するまでの間に用いられた国号である。.
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中央アフリカ共和国
中央アフリカ共和国(ちゅうおうアフリカきょうわこく、République centrafricaine、Ködörösêse tî Bêafrîka)、通称中央アフリカは、アフリカ中央部にある国家。北東にスーダン、東に南スーダン、南にコンゴ民主共和国、南西にコンゴ共和国、西にカメルーン、北にチャドと国境を接する内陸国で、首都のバンギはウバンギ川河畔に位置している。人口は550万人ほどで、独立以来クーデターが多発しており政情は常に不安定である。その影響から経済は低迷し続けており、後発開発途上国あるいは失敗国家のひとつにも数えられる。.
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中国
中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.
中国の歴史
中国の歴史(ちゅうごくのれきし)、あるいは中国史(ちゅうごくし)とは、中国または中国大陸における歴史のこと。 中国の黄河文明は古代の世界四大文明の一つに数えられ、また、黄河文明よりもさらにさかのぼる長江文明が存在した。以降、現代までの中国の歴史を記す。 なお、その対象は、中国大陸の歴史であり、漢民族の歴史ではない。.
中国帝王一覧
ここでは中国帝王一覧(ちゅうごくていおういちらん)について述べる。 中国の古来の君主の号は「王」だった。中国で「皇帝」の号がはじめて用いられるのは、秦の始皇帝の時である。この一覧でも、基本的に秦の始皇帝以降は「皇帝」を名乗り、それ以前は、「王」である。そして、前漢以降は、「皇帝」が皇族や功臣を「王」に封じるようになった。このような「皇帝」によって「封ぜられた王」(諸侯王)は基本的にこの一覧には載っていない。ただし、五胡十六国時代・十国は載せている。 また、歴史上、例えば「太祖」といった名は、複数の人物によって使われている。よって、自分がどの王朝の人物を調べたいのかを知ることも重要である。もし、王朝名が分からず諡号や廟号しか分からないのならば、Wikipediaの検索機能を用いるか、同諡号廟号一覧(未完成)の記事を見ると良い。 しかし、「皇帝」と「王」の称号について、例外もある。.
中国語
記載なし。
中華帝国 (1915年-1916年)
洪憲元年」と入った中華帝国の10文硬貨 中華帝国(ちゅうかていこく、中華帝國、)は、中華民国の政治家・袁世凱による帝政復活の企てによって樹立され、1915年末から1916年初めまで続いた短命政権。この企ては結局失敗したが、革命運動の進行は長年にわたって遅れ、中国は割拠した軍閥の各地方勢力に分裂した。.
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中華思想
中華思想の概念図 中華思想(ちゅうかしそう)は、中華の天子が天下 (世界) の中心であり、その文化・思想が神聖なものであると自負する考え方で、漢民族が古くから持った自民族中心主義の思想。自らを夏、華夏、中国と美称世界大百科事典,コトバンクし、王朝の庇護下とは異なる周辺の辺境の異民族を文化程度の低い夷狄 (蛮族) であるとして卑しむことから華夷思想(かいしそう)とも称す百科事典マイペディア。実際には、「中華思想」とは、華夷思想という誤った印象で、日本人の造語である。 周辺民族を文化程度の別に東夷、南蛮、西戎、北狄と呼んだ。漢民族はこれらの民族を異民族ととらえたが、多くは民族的に同一である。また、これらの言葉には当初は蔑視の意味はなかったが、宋代になると北方民族の侵入、宋代の朱子学では中国支配の正当性を強調するため、華夷思想で華夷の別を強調するようになった。 ただし「漢民族」の意味が古代と現代では異なる点には留意である。古代のオリジナルの漢民族は黄河文明に住む極めて限られた。 中国語では「華夷秩序」(簡体字:、英語:)、また中国中心主義(簡体字:、英語:) とも呼ばれる。.
世界大百科事典
世界大百科事典(せかいだいひゃっかじてん)は、平凡社が出版する百科事典のひとつ。最新版は2007年9月に発売された『改訂新版 世界大百科事典』であり、全35巻、総項約24,900、総項目数約9万、索引項目数約49万である。最新版の編集長は、加藤周一。.
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世襲
世襲(せしゅう)とは、特定の地位(官位や爵位など)や職業、財産等を、子孫が代々承継することである。家に伝わる爵位を継承することを襲爵、位階・地位などを世襲することを襲位、先祖伝来の名跡などを世襲することを襲名という。法的な根拠を有する場合に限らず、事実上の場合についていうこともある。近代の政治家の世襲については、世襲政治家も参照のこと。.
三十年戦争
三十年戦争(さんじゅうねんせんそう、Dreißigjähriger Krieg)は、ボヘミア(ベーメン)におけるプロテスタントの反乱をきっかけに勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として、1618年から1648年に戦われた国際戦争。ドイツとスイスでの宗教改革による新教派(プロテスタント)とカトリックとの対立のなか展開された最後で最大の宗教戦争といわれる中村賢二郎「三十年戦争」日本大百科全書(ニッポニカ)。中村賢二郎「三十年戦争」世界大百科事典 第2版Sigfrid 1973。当初は神聖ローマ帝国内で局所的に起きた小国家同士のプロテスタントとカトリックの戦争が、ドイツ以外のデンマーク、スウェーデン、フランス、スペインなどヨーロッパ中を巻き込む国際戦争へと発展した。戦争はカトリックの国であるフランス王国がプロテスタント側につくなど、次第に宗教とは関係のない争いに突き進んだ。統一的な様相としては、フランス王国ブルボン家およびネーデルラント連邦共和国と、スペイン・オーストリア両ハプスブルク家のヨーロッパにおける覇権をかけた戦いであった。.
三国時代 (中国)
三国時代(さんごくじだい)は、中国の時代区分の一つ。広義では黄巾の乱の蜂起(184年)による漢朝の動揺から西晋による中国再統一(280年)までを指し、狭義では後漢滅亡(220年)から晋が天下を統一した280年までを指し、最狭義では三国が鼎立した222年から蜀漢が滅亡した263年までを指す。当項目では広義の三国時代について記載する。 229年までに魏(初代皇帝:曹丕)、蜀(蜀漢)(初代皇帝:劉備)、呉(初代皇帝:孫権)が成立し、中国内に3人の皇帝が同時に立った。三国時代については、陳寿が著した『三国志』、明代に書かれた『三国志演義』及びさらに後世の三国時代を扱った書物によって広く知られている。.
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三国時代 (朝鮮半島)
朝鮮の歴史における三国時代(さんごくじだい)は、朝鮮半島および満州に高句麗、百済、新羅の三国が鼎立した紀元前1世紀から紀元後7世紀の時代をいう。後者の時代区分は高麗時代の史書に依拠する。 三国以前に、また三国と並行して小国や部族国家があった。扶余、沃沮、伽耶、于山国、耽羅国などである。 それぞれの建国神話によれば、韓国では伝統的にこの時代は紀元前57年に、斯盧(後の新羅)が朝鮮半島の南東部で、高句麗は鴨緑江以北にあり、紀元前37年に建国、紀元前18年に高句麗の二王子が王位の継承争いから逃れ、東明聖王の朝鮮子温祚が半島の南西部(今日のソウル特別市周辺)に百済を建国した。百済の都ははじめ熊津(今日の公州)であったが、のちに泗沘(今日の扶余)へ遷都した。 三国は皆同じ文化を共有していた。1世紀から儒教が朝鮮半島の上流階級に広がった。後に儒教は仏教に入れ替わった。三国のうちで最大であった高句麗は、鴨緑江沿いの国内城とその山城である丸都城の二つの並存された都をもっていた。建国の始めには高句麗は漢との国境沿いにあり、ゆっくりと満州の広大な土地を征服していき、313年に楽浪郡・玄菟郡を滅ぼし領域に入れた。 4世紀には百済が栄え、半島の南半分を支配した。斯盧国は503年新羅と国号を改めた。4世紀の始めに、新羅は国境を接していた伽耶を吸収した。新羅の都は徐羅伐(今日の慶州)であった。 仏教は528年新羅の国教となった。新羅は唐と結んで(羅唐連合)、660年に百済を668年に高句麗を滅ぼした。これによって三国時代は終わり、統一新羅の時代がはじまった。滅ぼされた百済と高句麗の王族は日本にのがれた。、百済の王族は百済王(くだらのこにきし)の姓を賜った。百済王氏からは陸奥国で金を発見した百済王敬福などが出た。高句麗の王族は'''高麗'''王(こま の こにきし)の姓を賜った。高麗王氏は埼玉日高市一帯(高麗本郷・高麗神社)を開拓、日本に先進文化を伝えた。これらを記述した歴史書に高麗時代の『三国史記』および『三国遺事』がある。.
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三皇五帝
三皇五帝(さんこうごてい)は、古代中国の神話伝説時代の8人の帝王。 三皇と五帝に分かれ(誰が該当するかについては諸説ある)、三皇は神、五帝は聖人としての性格を持つとされ、理想の君主とされた。 伝説では、最初の世襲王朝・夏より以前の時代とされる。.
三省堂
株式会社三省堂(さんせいどう)は、日本の出版社である。辞典・事典・六法・教科書などの出版で知られる。 本社はJR水道橋駅と神田川に挟まれたエリアにある。この場所は、かつて自社印刷工場の倉庫として使われていた場所であった。.
下関条約
下関条約(しものせきじょうやく)は、日清戦争で日本が清国に戦勝したことにより、1895年4月17日に下関の春帆楼(しゅんぱんろう)での講和会議を経て調印された条約である。正式名称は日清講和条約(にっしんこうわじょうやく)。 会議が開かれた山口県の赤間関市(現下関市)の通称だった「馬関」をとって、一般には馬関条約(ばかんじょうやく)と呼ばれた。「下関条約」は、日本で戦後定着した呼称である。もう一方の当事国である中国では、現在でも「馬関条約」()という。.
一人称
一人称(いちにんしょう)とは、人称の一つで、話し手自身を指す。自称とも呼ぶ。一般に数の区別がある。.
一神教
一神教(いっしんきょう、monotheism)とは、ただひとつの神的存在者のみを認めてこれを信仰する宗教。 通常、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つがその典型だとされるブリタニカ百科事典【一神教】。.
平将門
平 将門(たいら の まさかど、-將門)は、平安時代中期の関東の豪族。 平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。第50代桓武天皇の5世子孫祖父・平高望の父が葛原親王の場合は4世子孫。。 下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。 しかし即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。 死後は御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られる。武士の発生を示すとの評価もある。合戦においては所領から産出される豊富な馬を利用して騎馬隊を駆使した。.
幼主
幼主(ようしゅ)は、年少の君主のことであるが、中国史において以下の皇帝を指す。.
五代十国時代
五代十国時代(ごだいじっこくじだい、907年 - 960年)は、中国の唐の滅亡から北宋の成立までの間に黄河流域を中心とした華北を統治した5つの王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代である。.
五胡十六国時代
五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)は、中国の時代区分のひとつ。304年の漢(前趙)の興起から、439年の北魏による華北統一までを指す。五胡十六国(ごこじゅうろっこく)は、当時、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。十六国とは北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づくものであり、実際の国の数は16を超える。 後漢末期から北方遊牧民族の北方辺境への移住が進んでいたが、西晋の八王の乱において諸侯がその軍事力を利用したため力をつけ、永嘉の乱でそれを爆発させた。.
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仁明天皇
仁明天皇(にんみょうてんのう、弘仁元年(810年) - 嘉祥3年3月21日(850年5月6日)、在位:天長10年3月6日(833年3月30日) - 嘉祥3年3月19日(850年5月4日))は、平安時代初期の第54代天皇。諱は正良(まさら)。 嵯峨天皇の第二皇子。母は橘清友の娘、皇后橘嘉智子(檀林皇后)。正子内親王は同父母の妹でありかつ同年の生まれのため、双子の妹と推測される。.
後漢
後漢(ごかん、東漢、、25年 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。.
北宋
北宋(ほくそう、拼音:Bĕisòng、960年 - 1127年)は、中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた。国号は宋であるが、金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。北宋期の首都は開封であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋で解説することにする。.
ナポレオン3世
ナポレオン3世(Napoléon III, 1808年4月20日 - 1873年1月9日)は、フランス第二共和政の大統領(在任:1848年 - 1852年)、のちフランス第二帝政の皇帝(在位:1852年 - 1870年)。本名はシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(Charles Louis-Napoléon Bonaparte)であり、皇帝に即位して「ナポレオン3世」を名乗る以前については一般にルイ・ナポレオンと呼ばれている。本項でもそのように記述するものとする。 ナポレオン・ボナパルトの甥にあたり、1815年のナポレオン失脚後、国外亡命生活と武装蜂起失敗による獄中生活を送ったが、1848年革命で王政が消えるとフランスへの帰国が叶い、同年の大統領選挙でフランス第二共和政の大統領に当選した。第二共和政の大統領の権力は弱く、はじめ共和派、のち王党派が牛耳るようになった国民議会から様々な掣肘を受けたが、1851年に国民議会に対するクーデタを起こし、独裁権力を掌握。1852年に皇帝に即位して「ナポレオン3世」となり、第二帝政を開始した。1850年代は「権威帝政」と呼ばれる強圧支配を敷いたが、1860年代頃から「自由帝政」と呼ばれる議会を尊重した統治へと徐々に移行した。内政面ではパリ改造計画、近代金融の確立、鉄道網敷設などに尽くした。外交ではクリミア戦争によってウィーン体制を終焉させ、ヨーロッパ各地の自由主義ナショナリズム運動を支援することでフランスの影響力を拡大を図った。またアフリカ・アジアにフランス植民地を拡大させた。しかしメキシコ出兵の失敗で体制は動揺。1870年に勃発した普仏戦争でプロイセン軍の捕虜となり、それがきっかけで第二帝政は崩壊し、フランスは第三共和政へ移行した。 以降2018年現在までフランスは共和政であるため、彼がフランスにおける最後の君主にあたる。.
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ナポレオン・ボナパルト
ダヴィッド『ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト』 ナポレオン一世皇家の紋章 ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte、1769年8月15日 - 1821年5月5日)または、省略して、ナポレオンは、革命期のフランスの軍人・政治家である。ナポレオン1世(Napoléon Ier、在位:1804年 - 1814年、1815年)としてフランス第一帝政の皇帝にも即位した。 フランス革命後の混乱を収拾して軍事独裁政権を樹立した。大陸軍(グランダルメ)と名付けた巨大な軍隊を築き上げてナポレオン戦争を引き起こし、幾多の勝利と婚姻政策によって、イギリス、ロシア、オスマン帝国の領土を除いたヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置いたが、最終的には敗北して失脚した。.
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ペルシア語
ペルシア語のファールシー ペルシア語(ペルシアご、فارسی, پارسی; Fārsī, Pārsī)は、イランを中心とする中東地域で話される言語。ペルシャ語、ファールシー語、パールシー語ともいう。 言語学的にはインド・ヨーロッパ語族-インド・イラン語派-イラン語群に分類される。ペルシア語は高度な文明を持っていた古代ペルシア帝国から現在に至るまでイラン高原を中心に使われ続けてきた言語であり、文献によって非常に古くまで系統をさかのぼることができる。ただし、現在のペルシア語にはアラビア語からの借用語が非常に多く、その形態は古代ペルシア語とはかなりの断絶がある。.
ペドロ1世 (ブラジル皇帝)
ペドロ1世(Pedro I、1798年10月12日 - 1834年9月24日)は、ブラジル帝国初代皇帝(在位:1822年 - 1831年)。ポルトガル国王としてはペドロ4世(Pedro IV、在位:1826年)と呼ばれる。ブラジルでは一般にドン・ペドロ1世(ドン・ペドロ・プリメイロ)、「解放者」とよばれ、ポルトガルでは「戦争王」と呼ばれている。.
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ペドロ2世 (ブラジル皇帝)
ペドロ2世(Pedro II、1825年12月2日 - 1891年12月5日)は、ブラジル帝国の第2代かつ最後の皇帝(在位:1831年 - 1889年)。初代ブラジル皇帝ペドロ1世とオーストリア皇帝フランツ1世の次女マリア・レオポルディナ皇后の長男で、ポルトガル女王マリア2世の弟である。ブラジル本国では一般にドン・ペドロ2世(ドン・ペドロ・セグンド)と呼ぶ。.
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ミハエル・シューマッハ
ミハエル・シューマッハ/ミヒャエル・シューマッハ(Michael Schumacher, 1969年1月3日 - )は、ドイツの元F1ドライバーである。愛称はシューミー (Schumi)、マイケル (Michael)。 ドイツ人初のF1ドライバーズチャンピオン。最多優勝91回、チャンピオン獲得7度などF1の主な記録を更新した。2006年に一度引退したが2010年に復帰、2012年に再度現役を退いた。 その冷徹で正確なドライビングから、日本では「ターミネーター」、日本国外では「サイボーグ」と呼ばれる時期があった。フェラーリ在籍期には、フジテレビのF1中継で「赤い皇帝」の愛称が使われた。 6歳年下の実弟ラルフ・シューマッハはウィリアムズなどで6勝を挙げた元F1ドライバーである。.
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ミヒャエル・バラック
ミヒャエル・バラック(Michael Ballack, 1976年9月26日 - )は、ドイツ・ザクセン州ゲルリッツ(旧東ドイツ)出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダーで、ドイツ代表であった。.
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ミカエル8世パレオロゴス
ミカエル8世パレオロゴス(Μιχαήλ Η' Παλαιολόγος, ローマ字転写:Michaēl VIII Palaiologos, 1225年 - 1282年12月11日)は、東ローマ帝国最後の王朝であるパレオロゴス王朝の初代皇帝(在位:1261年 - 1282年)。後に「最も狡猾なギリシア人」と呼ばれる程の策略家で、ラテン帝国に奪われていたコンスタンティノポリスを奪回して東ローマ帝国を再興した。彼の開いたパレオロゴス王朝は1453年にオスマン帝国によって帝国が滅亡するまで約200年間続いた。ミカエル8世パライオロゴスと表記される場合もある。中世ギリシア語表記ではミハイル8世パレオロゴス。.
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マリ帝国
マリ帝国(1230年代 - 1645年)又はマリ王国は、中世西アフリカのサヘル地帯に栄えた王国の一つ。王権の担い手は諸説あるが、少なくともである。現代のマンディンカ人はマリ帝国人の末裔というアイデンティティを持った民族集団である。マリ王国の歴史についてはわかっていないことが多く、首都がどこにあったのかすら確定的な説はない、「マリ帝国」の項(執筆者:川田順造)。。13世紀中ごろに英雄スンジャタ・ケイタが現れ、支配域の帝国的膨張を見た。支配域の膨張は交易を盛んにし、14世紀中ごろにマンサ・ムーサ王が派手なメッカ巡礼を行うなど王国は最盛期を迎えた。イスラームとマリとの関係について、マリが「イスラーム国家」であったか否か、いつごろからどのような人々がイスラームを受容していたかなどについて諸説あるが、少なくとも14世紀中ごろには「イスラーム国家」の外観を備えていた。現在のマリ共和国の国号はマリ帝国に由来する。スンジャタがマリに服属ないし同盟した各クランの代表を集めて定めたが世代を超えて受け継がれ、2009年にユネスコが「人類の口承及び無形遺産の傑作」宣言をした。.
マリア・テレジア
マリア・テレジア (Maria Theresia, 1717年5月13日 - 1780年11月29日)は神聖ローマ帝国のローマ皇帝カール6世の娘で、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位:1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同じ)、ボヘミア女王(在位:1740年 - 1741年、1743年 - 1780年)で、ハプスブルク帝国の領袖であり、実質的な「女帝」として知られる(下記参照)。 オーストリア系ハプスブルク家の男系の最後の君主であり、彼女の次代から、つまり子供たちの代からが正式に、夫の家名ロートリンゲン(ロレーヌ)との複合姓(二重姓)でハプスブルク=ロートリンゲン家となる。なお、マリア・テレジア本人が好んで使用した称号(サイン)は「Königin(女王)」と「Kaiserin(皇后)」の頭文字を取った「K.K」であり、以後のハプスブルク家で慣例的に用いられるようになった。.
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マリク
マリク(ملك Malik、複数形: ملوك Mulūk)は、アラビア語で王を意味する称号。女性形はマリカ(ملكة Malikah)となり、女性が王位に就く慣習のないイスラーム圏ではもっぱら「王妃」を意味するが、非イスラーム圏の「女王」のことをマリカと翻訳することはある。。 なお、定冠詞付きのアル・マリク(Al-Malik الملك)はアッラーフの99の美名のうちの1つ。.
マルティヌス1世 (ローマ教皇)
マルティヌス1世(Martinus I、? - 655年9月16日)は第74代ローマ教皇(在位649年7月5日 - 653年)。カトリック教会・正教会で聖人で、カトリック教会での記念日は4月13日。日本のカトリック教会では聖マルティノ一世、聖マルチノ1世教皇殉教者などとも呼ばれる。 東ローマ帝国皇帝コンスタンス2世が両性単意論を支持する勅令(テュポス)を発布した際、ラテラン教会会議でこれを異端と決議したため、653年に東ローマ帝国のラヴェンナ総督府によって捕縛された上コンスタンティノープルに連行された。裁判の結果、クリミア半島のケルソンに配流され、その地で没する。 彼の逮捕は、7世紀の半ばになってもコンスタンティノープルの皇帝の権威・権力が西方にも及んでいたことを示す一つの例である。.
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マルクス・アウレリウス・アントニヌス
マルクス・アウレリウス・アントニヌス(古典ラテン語:Marcus Aurelius Antoninus 121年4月26日 - 180年3月17日)は、第16代ローマ皇帝(在位:161年 - 180年)。ネルウァ=アントニヌス朝では第五代皇帝。第15代皇帝アントニヌス・ピウスの后妃ファウスティナ・マイヨル(大ファウスティナ)の甥で先帝の外戚にあたり、また大ファウスティナはハドリアヌスとトラヤヌスの傍系血族でもある。 外叔父アントニヌスの皇女で自身の従姉妹であるファウスティナ・ミノル(小ファウスティナ)と結婚して帝位を継承したが、共同皇帝としてハドリアヌスの重臣の子ルキウス・ウェルスが立てられていた。アウレリウスは小ファウスティナとの長女を嫁がせて両皇帝の結束を固めたが、169年にウェルスが死んだ事で単独の皇帝となった。 ストア哲学などの学識に長け、良く国を治めた事からネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌスに並ぶ皇帝(五賢帝)と評された。対外政策ではパルティアとの戦争に勝利を収めたが、蛮族への予防戦争として始めたマルコマンニ人、クアディ人、サルマティア人などへの遠征(マルコマンニ戦争)は長期戦となり、国力を疲弊させ、自らも陣中で没した。 軍事よりも学問を好んだ皇帝という姿は、彼の著作である『自省録』への評価を通じて今日も維持されている。これはプラトンの時代から学識者にとって理想とされた「哲人君主」の実現例と見なされているからである。 また、後漢書に見られる大秦国王の安敦とは、彼のことだとされている 。.
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マクシミリアン (メキシコ皇帝)
マクシミリアーノ1世(Maximiliano I、1832年7月6日 - 1867年6月19日)は、ハプスブルク=ロートリンゲン家出身のメキシコ皇帝(在位:1864年 - 1867年)。全名は、フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフ・マリア・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(Ferdinand Maximilian Joseph Maria von Habsburg-Lothringen)、フェルナンド・マクシミリアーノ・ホセ・マリア・デ・アブスブルゴ=ロレーナ(Fernando Maximiliano José María de Habsburgo-Lorena)。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟。妻はベルギー国王レオポルド1世の王女シャルロッテ・フォン・ベルギエン。 優れた海軍の軍歴ののち、1864年4月10日、フランスのナポレオン3世と帝政復活を望むメキシコの王党派の支援の下、メキシコ皇帝に即位した。アメリカ合衆国を含む多くの国々は彼の帝国を承認しなかった。これはベニート・フアレス率いる共和派軍の成功を確かなものにし、1867年に捕虜となり処刑された。.
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ハンガリー王国
ハンガリー王国(ハンガリーおうこく、Magyar Királyság)は、現在のハンガリーを中心とする地域をかつて統治した王国。.
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ハーン
ハーン(可汗、合罕、qaġan/qaγan、khaan)は、北アジア、中央アジア、西アジア、南アジアにおいて、主に遊牧民の君主や有力者が名乗る称号。古い時代の遊牧民の君主が名乗った称号カガン(古テュルク語: - qaġan/qaγan)はその古形である。.
ハプスブルク家
ハプスブルク家の旗 ハプスブルク家の紋章 ハプスブルク家()は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系(アルザス系)の貴族。.
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ハプスブルク帝国
ハプスブルク帝国(ハプスブルクていこく)大津留厚「ハプスブルク帝国」世界民族問題事典、平凡社、2002年は、オーストリア系ハプスブルク家(のちハプスブルク=ロートリンゲン家)の君主により統治された、神聖ローマ帝国内外の領邦国家などの国家群による同君連合である。単一の「帝国」ではなかった、あるいは推戴する君主が「皇帝」でなかった時代もあるが、日本語ではこの呼称が用いられることが多い。ドイツ語では Habsburgermonarchie または Habsburgisches Reich であるが、前者は直訳するとハプスブルク君主国であり、後者の場合もライヒ (Reich) は必ずしも「帝国」を意味しない。 成立年はハプスブルク家がオーストリア大公国に加えてハンガリー王国、ボヘミア王国(ボヘミア王冠領)を獲得した1526年とされる。1804年までは公式の名称を持っていなかったが、同時代の人々ですらこれを事実上の国家として認識し、オーストリアと呼称していた。1804年から1867年まではオーストリア帝国、1867年から1918年まではオーストリア=ハンガリー帝国を総称とした。 ただし、これより古い時代の、神聖ローマ皇帝とスペイン王を兼ねたカール5世を君主とする国家群なども、広く「ハプスブルク家の帝国」といった意味で「ハプスブルク帝国」と呼ばれることがある。 ハプスブルク帝国(ハプスブルク家)の旗.
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ハプスブルク=ロートリンゲン家
ハプスブルク=ロートリンゲン家の紋章 ハプスブルク=ロートリンゲン家(独:Haus Habsburg-Lothringen)は、ロレーヌ家出身の神聖ローマ皇帝兼トスカーナ大公(元ロレーヌ公)フランツ・シュテファン(フランツ1世)とハプスブルク家のオーストリア大公兼ハンガリー・ボヘミア女王マリア・テレジア夫妻に始まる家系である。 神聖ローマ皇帝カール6世は男子に恵まれず、長女マリア・テレジアの婿としてロレーヌ公フランツ・シュテファンを迎えて帝位を継がせた。従ってハプスブルク家はマリア・テレジアの代で男系が絶えており、以後はハプスブルク=ロートリンゲン家と呼ぶのが正しい。実際、現在でもハプスブルク家の正式名称はハプスブルク=ロートリンゲン家である。これは紋章にも表れており、そこには神聖ローマ帝国の双頭の鷲とともにロレーヌの公章も描かれている。 現在の家長は、最後のオーストリア皇帝カール1世の孫のカール・ハプスブルク=ロートリンゲンである。.
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ハイチ
ハイチ共和国(ハイチきょうわこく、Repiblik d Ayiti、République d'Haïti)、通称ハイチは、中央アメリカの西インド諸島の大アンティル諸島内のイスパニョーラ島西部に位置する共和制国家である。東にドミニカ共和国と国境を接し、カリブ海のウィンドワード海峡を隔てて北西にキューバが、ジャマイカ海峡を隔てて西にジャマイカが存在する。首都はポルトープランス。 1804年の独立はラテンアメリカ初、かつアメリカ大陸で二番目であり、世界初の黒人による共和制国家でもある。独立以来現在まで混乱が続いており、大規模災害と復興の遅れが混乱に拍車をかけている。.
ハイレ・ゲブレセラシェ
ハイレ・ゲブレセラシェ(Haile Gebrselassie, 1973年4月18日 - )は、エチオピアの陸上選手。専門は長距離走・マラソン。 彼の名前は「ハイレ」が本人の名前、「ゲブレセラシェ」は姓(ファミリーネーム)ではなく父親の名前(父称)である(人名#その他の文化圏における名前を参照)。その意味では本人を特定するのに「ゲブレセラシェ」と略するのは正しくないが、日本も含めたマスメディアにおいてはこれを姓とみなして表記することが多い。「ゲブレセラシェ」は日本語では「ゲブレシラシエ」とも表記される。.
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ハイレ・セラシエ1世
タイムの表紙 伝統的な戦士の服を着たハイレ・セラシエ1世 ハイレ・セラシエ1世(, Haile Selassie I, 1892年7月23日 - 1975年8月27日)は、エチオピア帝国最後の皇帝(在位:1930年11月2日(戴冠式が行われた月日) - 1974年9月12日)。アフリカ統一機構初代議長。.
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バチカン
バチカン市国(バチカンしこく、Status Civitatis Vaticanae、Stato della Città del Vaticano)、通称バチカンは、ヨーロッパにある国家で、国土面積は世界最小である(ただし、国際連合加盟国のみの場合はモナコになる)。ヴァチカンやバティカン、ヴァティカンとも表記される。 なお、経済指標はイタリアに統合される。.
バトゥ
バトゥ (Batu, 1207年 - 1256年) は、ジョチ家の2代目(ハン:在位1225年 - 1256年)で、キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の実質的な創設者。チンギス・カンの長男ジョチの次男である。漢語では抜都、巴禿、八都罕。ペルシア語ではباتو bātūと書かれる。カナ表記ではバツ、バト。.
バシレウス
+LEOn En ΘEO bASILEVS ROMEOn"(レオーン、神に(忠実なる)ローマ人のバシレウス)と書かれている。 バシレウス(Βασιλεύς; Basiléus)は、ギリシア語の君主の称号。元は「王」を意味するギリシア語であり、古代ギリシア世界ではラテン語の "rex" にあたるものであった。中世東ローマ帝国においては皇帝の称号となった。中世~現代ギリシア語では「ヴァシレフス」。.
ポルトガル王国
ポルトガル王国(ポルトガルおうこく、)は、現在のポルトガルにあたる地域(当初はその一部)に、1139年から1910年まで存在した王国。.
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ムラト1世
ムラト1世(مراد اول, I., 1319年羽田「ムラト1世」『アジア歴史事典』9巻、14頁もしくは1326年小山「ムラト1世」『岩波イスラーム辞典』、988-989頁マントラン『改訳 トルコ史』、44頁 - 1389年6月15日)、オスマン帝国の第3代皇帝(在位: 1360年頃 - 1389年即位年は1362年とされているが、複数の説が出されており明確になってはいない(永田雄三、羽田正『成熟のイスラーム社会』(世界の歴史15, 中央公論社, 1998年1月)、53頁)。1359年(羽田「ムラト1世」『アジア歴史事典』9巻、14頁および三橋『トルコの歴史』、104頁)、1360年(小山「ムラト1世」『岩波イスラーム辞典』、988-989頁および鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、44頁))。第2代君主オルハンの子。母はアナトリアのアクリタイ(アナトリア辺境を守備するキリスト教徒の軍人)の娘ホロフィラ永田雄三、羽田正『成熟のイスラーム社会』(世界の歴史15, 中央公論社, 1998年1月)、53頁。 オスマン帝国の君主の中で、初めてスルタンの称号を用いた人物とされている。父オルハンの政策を継承し、バルカン半島での勢力の拡大を積極的に進めた三橋『トルコの歴史』、104頁。キリスト教国に対する戦勝はイスラーム世界におけるオスマン帝国の名声を高め、ヨーロッパ諸国は新興のオスマン帝国の動向に注意を向け始めるようになった。 「支配者」「神の代理人」を意味する「ヒュダヴェンディギャール(Hüdavendigar)」の別名で呼ばれる。.
ムガル帝国
ムガル帝国(ムガルていこく、شاهان مغول、Mughal Empire)は、16世紀初頭から北インド、17世紀末から18世紀初頭にはインド南端部を除くインド亜大陸を支配し、19世紀後半まで存続したトルコ系イスラーム王朝(1526年 - 1858年)。ムガル朝(Mughal dynasty)とも呼ばれる。首都はデリー、アーグラなど。.
メネリク1世
メネリク1世(Menelik I、エブナ・ラ・ハキム: Ebna la-Hakim, "Son of the Wise", 知恵の息子)は、エチオピア初代王。.
メフメト2世
メフメト2世(トルコ語: II.
メキシコ
メキシコ合衆国(メキシコがっしゅうこく、)、通称メキシコは、北アメリカ南部に位置する連邦共和制国家。北にアメリカ合衆国と南東にグアテマラ、ベリーズと国境を接し、西は太平洋、東はメキシコ湾とカリブ海に面する。首都はメキシコシティ。メキシコの総人口は約1億3千万人(2016年時点)で、スペイン語圏においては最も人口の多い国で、GDPは中南米2位である。しかし、人口の40%が貧困層である。.
メキシコ皇帝
アグスティン1世の紋章 マクシミリアーノ1世のモノグラム メキシコ皇帝(-こうてい、)は19世紀における、一貫性のなかった2つのメキシコ帝国の国家元首及び支配者である。 1821年のスペインからのによりメキシコは独立し、君主制(メキシコ第一帝政、1822年 – 1823年)が敷かれた。第一帝制はまもなく第一共和制に取って代わられた。1860年代にフランスの後ろ盾を得た保守派により、メキシコに君主制が復活した(メキシコ第二帝政、1864年 – 1867年)。.
メソポタミア
メソポタミアに関連した地域の位置関係 メソポタミア(、ギリシャ語で「複数の河の間」)は、チグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野である。現在のイラクの一部にあたる。 古代メソポタミア文明は、メソポタミアに生まれた複数の文明を総称する呼び名で、世界最古の文明であるとされてきた。文明初期の中心となったのは民族系統が不明のシュメール人である。 地域的に、北部がアッシリア、南部がバビロニアで、バビロニアのうち北部バビロニアがアッカド、下流地域の南部バビロニアがシュメールとさらに分けられる。南部の下流域であるシュメールから、上流の北部に向かって文明が広がっていった。土地が非常に肥沃で、数々の勢力の基盤となったが、森林伐採の過多などで、上流の塩気の強い土が流れてくるようになり、農地として使えない砂漠化が起きた。 古代メソポタミアは、多くの民族の興亡の歴史である。 例えば、シュメール、バビロニア(首都バビロン)、アッシリア、アッカド(ムロデ王国の四つの都市のひとつ)、ヒッタイト、ミタンニ、エラム、古代ペルシャ人の国々があった。古代メソポタミア文明は、紀元前4世紀、アレクサンドロス3世(大王)の遠征によってその終息をむかえヘレニズムの世界の一部となる。.
モナコ
モナコ公国(モナコこうこく、プランシポテ・ドゥ・モナコ、仏:)、通称モナコ()は、西ヨーロッパの立憲君主制国家。.
モンテネグロ公国
モンテネグロ公国(モンテネグロこうこく、キリル文字:Књажевина Црнa Горa)は、1852年から1910年の間、バルカン半島の現在のモンテネグロに存在した公国である。.
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モンゴル帝国
モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。 モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・カンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。 中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライは1271年に、大都(現在の北京)に遷都して緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年の北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カンの末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。.
モスクワ大公国
1390年から1525年にかけてのロシア大公国の領土の変遷 モスクワ大公国(モスクワたいこうこく、ロシア語: Московское великое княжество モスコーフスコエ・ヴェリーコエ・クニャージェストヴォ)は、キエフ・ルーシの北東辺境地にあったルーシ系のウラジーミル・スズダリ公国のもとに成立した国家である。ロシア帝国の前身。モスクワ・ルーシ(Московская Русь モスコーフスカヤ・ルーシ)とも呼ばれる。.
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ヤハウェ
ヤハウェ(יהוה、フェニキア語: 𐤉𐤄𐤅𐤄、: 𐡉𐡄𐡅𐡄)は旧約聖書および新約聖書における唯一神の名である。 この名はヘブライ語の4つの子音文字で構成され、神聖四文字、テトラグラマトンと呼ばれる。神聖四文字とこれを「アドナイ」(わが主)と読み替えるための母音記号とを組み合わせた字訳に基づいて「Jehovah」とも転写され、日本語ではエホヴァ、エホバ(文語訳聖書ではヱホバ)とも表記される。遅くとも14世紀には「原文ママ」という表記が使われ、16世紀には多くの著述家が Jehovah の綴りを用いている。近代の研究によって復元された原音に基づいて、これを「Yahweh(ヤハウェ)」と読むのが主流となっている。 本項に示す通り、この神を指す様々な表現が存在するが、特に意図がある場合を除き、本項での表記は努めてヤハウェに統一する。また本項では、ヤハウェを表す他の語についても述べる。.
ユスティニアヌス1世
ユスティニアヌス1世(Justinianus I, 483年 - 565年11月14日)は、東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝の第2代皇帝(在位:527年 - 565年)。正式名は、フラウィウス・ペトルス・サッバティウス・ユスティニアヌス(Flavius Petrus Sabbatius Iustinianus)。 後世「大帝」とも呼ばれたように、古代末期における最も重要な人物の一人である。その治世は東ローマ帝国史における画期的な時代をなし、当時の帝国の版図を押し広げた。これは、野心的だが最終的には失敗した「帝国の再建」(renovatio imperii)に特徴づけられる。この野望はローマを含む西ローマ帝国の領土を部分的に回復したことに表される。しかしその栄光の時代も、543年の黒死病()が終わりの印となった。帝国は領土的縮小の時代に入り、9世紀まで回復することはなかった。 ユスティニアヌスの遺産の重要な側面は、ローマ法を統合して書き直した『ローマ法大全』(Corpus Iuris Civilis)であり、これは多くの現代国家の大陸法の基礎であり続けている。彼の治世はまた初期ビザンティン文化の興隆にも印され、彼の建築事業はハギア・ソフィア大聖堂のような傑作を生みだし、これは800年以上にわたって東方正教会の中心となった。 東方正教会では聖者と見なされており、ルーテル教会の一部からも祝福されている。反対に同時代のプロコピオスはユスティニアヌスを「残忍で強欲そして無能な統治者」として見ていた。 ユスティニアヌス1世の治世に関する主な史料は、歴史家プロコピオスが提供している。散逸したシリア語によるエフェソスのヨハネスの年代記は後代の年代記の史料となり、多くの付加的な詳細を知ることに貢献している。この2人の歴史家は、ユスティニアヌスと皇后テオドラに対して非常に辛辣である。また、プロコピオスは『秘史』(Anekdota)を著しており、ここではユスティニアヌスの宮廷における様々なスキャンダルが述べられている。ほかの史料としては、アガティアス、メナンデル・プロテクトル、ヨハネス・マララス、復活祭年代記、マルケリヌス・コメス、トゥンヌナのウィクトルが挙げられる。.
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ヨハネス12世 (ローマ教皇)
ヨハネス12世(Ioannes XII、937年 - 964年5月14日)は、ローマ教皇(在位:955年 - 964年)。教会慣用名はヨハネ。.
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ヨーロッパ
ヨーロッパ日本語の「ヨーロッパ」の直接の原語は、『広辞苑』第5版「ヨーロッパ」によるとポルトガル語・オランダ語、『デジタル大辞泉』goo辞書版「」によるとポルトガル語。(、)又は欧州は、地球上の七つの大州の一つ。漢字表記は欧羅巴。 地理的には、ユーラシア大陸北西の半島部を包括し、ウラル山脈およびコーカサス山脈の分水嶺とウラル川・カスピ海・黒海、そして黒海とエーゲ海を繋ぐボスポラス海峡-マルマラ海-ダーダネルス海峡が、アジアと区分される東の境界となる増田 (1967)、pp.38–39、Ⅲ.地理的にみたヨーロッパの構造 ヨーロッパの地理的範囲 "Europe" (pp. 68-9); "Asia" (pp. 90-1): "A commonly accepted division between Asia and Europe...
ラージャ
ラージャあるいはラージャー(Raja, Rajah, 羅闍)とは、サンスクリット語の語彙で、君主号または貴族の称号のことである。強大な権勢を持つラージャは、「マハーラージャ(Maharaja)」という。日本語に訳せば「王」・意訳して「豪族」の意味。インドのみでなくその影響を強く受けたヒンドゥー教時代の東南アジアにも伝播し、王または王族・貴族の称号として定着した。日本では閻魔大王が、閻魔羅闍と訳されたことがある。.
ラテン帝国
ラテン帝国(ラテンていこく、1204年 - 1261年)は、第4回十字軍がコンスタンティノポリスを攻めて東ローマ帝国をひとたび滅亡させた後、コンスタンティノポリスに立てられたカトリック国家である。いわゆる十字軍国家の1つ。正式名はロマニア帝国(Imperium Romaniae)という。ロマニアとは「ローマ人の地」の意味で東ローマ帝国の後継国家を目指す意味を持っていた。 1261年、東ローマ帝国の亡命政権のひとつであるニカイア帝国に滅ぼされた。.
ラテンアメリカ
ラテンアメリカ(Latinoamérica, América Latina, Latinoamerica, América Latina, Latin America, Amérique latine)は、アングロアメリカに対する概念で、アメリカ大陸の北半球中緯度から南半球にかけて存在する独立国及び非独立地域を指す総称である。 ここでの「ラテン」という接頭語は「イベリア(系)の」という意味であり、これらの地を支配していた旧宗主国が、ほぼスペインとポルトガルであったことに由来している。 多くの地域がスペイン語、ポルトガル語、フランス語などのラテン系言語を公用語として用いており、社会文化もそれに沿ったものであったことから名付けられた。。--> 右図に見るようにラテンアメリカは北アメリカ大陸のメキシコをふくみ、南米大陸のガイアナ・スリナム・フランス領ギアナをふくまない。ラテンアメリカは中南米と呼称される場合もあるが、図に合う正確な表現ではない大貫1987、p.473。.
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ラテン語
ラテン語(ラテンご、lingua latina リングア・ラティーナ)は、インド・ヨーロッパ語族のイタリック語派の言語の一つ。ラテン・ファリスク語群。漢字表記は拉丁語・羅甸語で、拉語・羅語と略される。.
ライン同盟
1808年のライン同盟 1812年のライン同盟 ライン同盟(ラインどうめい、Rheinbund、Confédération du Rhin)は、19世紀のドイツにおいて、フランス皇帝ナポレオン1世の圧力により成立した国家連合である。1813年に起きたライプツィヒの戦いで、ナポレオンの敗退とともに解体した。ライン連邦とも訳される。.
ラストエンペラー
『ラストエンペラー』(The Last Emperor)は、1987年公開のイタリア、中華人民共和国、イギリス合作による、清朝最後の皇帝で後に満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀の生涯を描いた歴史映画。.
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ルーシ
ルーシとは、以下のようなものに用いられた名称である。.
ルクセンブルク大公
ルクセンブルク大公(,, )は、ルクセンブルク大公国の君主で国家元首である。.
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レオ3世 (ローマ教皇)
レオ3世(ラテラノ宮殿のモザイク画) レオ3世(Papa Leo III、750年? - 816年6月12日)は、ローマ教皇(在位:795年12月26日 - 816年6月12日)。.
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ローマ帝国
ーマ帝国(ローマていこく、Imperium Romanum)は、古代ローマがイタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展した段階以降を表す言葉である。従って厳密には古代ローマの体制が共和制だった頃を含んでいる。最盛期には地中海沿岸全域に加え、ブリタンニア、ダキア、メソポタミアなど広大な領域を版図とした。シルクロードの西の起点であり、古代中国の文献では大秦の名で登場する。 帝国という訳語があてられている事から、狭義にはオクタウィアヌスがアウグストゥスの尊称を与えられた紀元前27年からの古代ローマを指す場合もある。しかし、本来の表現からすればこの場合は帝政ローマ、またはローマ帝政期とした方が正確である。.
ローマ人
ーマ人は、.
ローマ皇帝
ーマ皇帝(ローマこうてい)とは、紀元前27年に元老院より「アウグストゥス(Augustus)」の尊称を授与されたオクタウィアヌスと、この尊称を帯びた彼の後継者をさす。「ローマ皇帝」というひとつの職位があるのではなく、多くの重要な職位を一人が集中して兼任した状態のことをいう。初代ローマ皇帝とされるオクタウィアヌスは、実際に様々な官職や権限を一身に集め、彼の後継者に同一の権限を与えた。オクタウィアヌス以降の歴代ローマ皇帝は、「Imperator Caesar Augustus」を自分の名前に付加することで、権限を集中した兼任者(つまり皇帝)が誰であるかを明確にしていた。.
ローマ皇帝一覧
帝政ローマの最大領域 西ローマ帝国・東ローマ帝国 ローマ皇帝一覧(ローマこうていいちらん)では、古代ローマ帝国で正当と見なされたローマ皇帝を年代順に列挙する。.
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ローマ王
ーマ王は、古代ローマや神聖ローマ帝国における君主の呼称である。神聖ローマ帝国のローマ王はドイツ王とも通称される。.
ロシア帝国
ア帝国(ロシアていこく、 ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、1721年から1917年までに存在した帝国である。ロシアを始め、フィンランド、リボニア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、カフカーズ、中央アジア、シベリア、外満州などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシア(ていせいロシア)とも呼ばれる。通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。統治王家のロマノフ家にちなんでロマノフ朝とも呼ばれるがこちらはミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位した1613年を成立年とする。.
ロシア・ツァーリ国
ア・ツァーリ国(ロシア・ツァーリこく、ロシア語:Царство Русское)は、1547年にイヴァン4世がツァーリの称号を帯びて以後、1721年にピョートル1世がロシア帝国建国を宣言するまで用いられていたロシア国家の公称である。.
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ロシア皇帝
ア皇帝(ロシアこうてい、Императоры России)は、1721年から1917年までのロシア帝国で用いられた君主号である。正式名称は全ロシアのインペラートルないし全ロシアのインペラトリーツァ。 インペラトルの称号は大北方戦争にて勝利したことにより採用され、ヨーロッパにおける皇帝号に適応させる形で出現した。 «всероссийский»(全ルーシの)の接頭辞はウラジーミル・スーズダリ大公国時代のロシアの君主が用いていたвсея Руси»という表現を継続しているという意味合いが含まれていた。.
ロシア連邦大統領
ア連邦大統領(ロシアれんぽうだいとうりょう、)は、ロシアの大統領で、元首である。.
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僭称
僭称(せんしょう)とは、身分制度のある社会において、本人の身分を越えた地位、称号を名乗ることをいう。.
ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)
ヴィルヘルム1世( 1797年3月22日 - 1888年3月9日)は、第7代プロイセン王(在位:1861年1月2日 - 1888年3月9日)、北ドイツ連邦主席(在任:1867年7月1日 - 1871年1月18日)、初代ドイツ皇帝(在位:1871年1月18日 - 1888年3月9日)。 第5代プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の次男。兄である第6代プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に子供がなかったため、1861年の兄王の崩御でプロイセン王に即位した。軍制改革をめぐって衆議院との対立が深まる中の1862年にオットー・フォン・ビスマルクをに任じ、軍制改革を無予算統治で断行。ドイツ統一戦争に乗り出し、1871年の普仏戦争の勝利でドイツ皇帝に即位してドイツ統一を達成した。ビスマルクとはしばしば意見対立しながらも、崩御まで彼を首相として重用し続けた。.
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トラスカラ王国
トラスカラ王国(Tlaxcallān)とは、かつてメキシコにあったアメリカ先住民(インディオ)の都市国家。メキシコ中央部を支配していたアステカと敵対しており、アステカの王モクテスマ2世からの攻撃を何度か受けていた。両者ともに生贄を捧げる習慣があったので、生贄の確保と戦士の訓練のため、儀式的に戦争をしていたりもした。人口25万人、面積4,500km²(1519年)だったと推定されている。 1519年にメキシコに上陸したエルナン・コルテス率いるスペイン軍との戦闘の末、コルテスに降伏した。その後アステカに対抗するためにコルテスの同盟者となり、アステカ滅亡に大きな役割を果たした。.
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トルコ革命
トルコ革命(トルコかくめい)は、トルコにおいて、第一次世界大戦後のオスマン帝国解体の危機において、アンカラに樹立された大国民議会政府が祖国解放戦争に勝利、オスマン帝国を打倒して新たにトルコ共和国を樹立する過程で行われた一連の運動。ムスタファ・ケマル・アタテュルクがその指導者となり、トルコ共和国の初代大統領に就任した。 トルコ革命によりトルコは共和制を宣言し、オスマン家を頂点としイスラム教を国教とする帝国からトルコ民族による近代的・西欧的・世俗的な国民国家への転換がはかられた。この革命の結果、トルコは中東諸国において支配的なイデオロギーであったイスラムを政治の場から引き離すことに成功し、国民国家の要件である均質化された国民と自国民による自立的な国民経済の創出をかなりの程度に実現したが、東部の経済開発の遅れ、都市と農村の経済格差などの問題は先送りにされ、クルド人問題やイスラムの社会参加をめぐる軋轢が21世紀まで大きな課題として残された。.
トルコ語
トルコ語(トルコご、)は、アゼルバイジャン語やトルクメン語と同じチュルク諸語の南西語群(オグズ語群)に属する言語。.
トレビゾンド帝国
トレビゾンド帝国(トレビゾンドていこく、Empire of Trebizond, Trapezuntine Empire 1204年 - 1461年)は、1204年に東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスが第4回十字軍の攻勢によって陥落した際に、東ローマの皇族が各地に樹立した亡命政権のひとつ。首都はトラペズス(現在のトルコ共和国トラブゾン。英語名トレビゾンド)。トラペザス帝国とも表記される。.
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ヘラクレイオス
ヘラクレイオスまたはヘラクレイオス1世(希:Ἡράκλειος, Hērakleios, 羅:Heraclius, 575年頃 - 641年2月11日)は、東ローマ帝国中期の皇帝(在位:610年 - 641年)。ヘラクレイオス朝の開祖。「ヘラクレイオス」はギリシア神話の英雄ヘラクレスにちなんだ名で、中世ギリシア語読みでは「イラクリオス」。ラテン語では「ヘラクリウス」となる。また、称号として「バシレウス」を名乗った。 サーサーン朝ペルシア帝国との6年にわたる戦いに勝利し、奪われた領土を回復したものの、当時勃興してきたイスラム帝国に敗れ、サーサーン朝から奪い返した領土は再び失われた。 また彼の治世は、東ローマ帝国の公用語がラテン語からギリシア語へ変わり、軍事権と行政権が一体化したテマ(軍管区)制が始まるなど(テマ制の起源に付いては諸説あり)、古代のローマ帝国から「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と呼ばれるような、ギリシア的要素の強い「中世ローマ帝国」の幕開けとなった。.
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ブラジル
ブラジル連邦共和国(ブラジルれんぽうきょうわこく、República Federativa do Brasil)、通称ブラジルは、南アメリカに位置する連邦共和制国家である。南米大陸で最大の面積を占め、ウルグアイ、アルゼンチン、パラグアイ、ボリビア、ペルー、コロンビア、ベネズエラ、ガイアナ、スリナム、フランス領ギアナ(つまりチリとエクアドル以外の全ての南米諸国)と国境を接している。また、大西洋上のフェルナンド・デ・ノローニャ諸島、トリンダージ島・マルティン・ヴァス島、セントピーター・セントポール群島もブラジル領に属する。その国土面積は日本の約22.5倍で、アメリカ合衆国よりは約110万km2(コロンビア程度)小さいが、ロシアを除いたヨーロッパ全土より大きく、インド・パキスタン・バングラデシュの三国を合わせた面積の約2倍に相当する。首都はブラジリア。 南アメリカ大陸最大の面積を擁する国家であると同時にラテンアメリカ最大の領土、人口を擁する国家で、面積は世界第5位である。南北アメリカ大陸で唯一のポルトガル語圏の国であり、同時に世界最大のポルトガル語使用人口を擁する国でもある。公用語はポルトガル語ではあるがスペイン語も比較的通じる。ラテンアメリカ最大の経済規模であり、同時に世界で7番目の経済規模でもある。 ブラジルは全体的に低緯度(北部は赤道直下)で、尚且つ海流等の影響もあり気候は大変温暖であり、ポルトガルによる植民地支配が厳格化する17世紀半頃までは、ほとんどの原住民は男女とも全裸に首飾り等の装飾品を付けた状態で生活していたという。.
ブラジル帝国
ブラジル帝国(ブラジルていこく、Império do Brasil)は、1822年から1889年まで南米ブラジルを統治した立憲君主制国家。1828年までは現在のウルグアイも含まれていた。.
ブリタニカ百科事典
ブリタニカ百科事典(ブリタニカひゃっかじてん、)は、英語で書かれた百科事典である。110人のノーベル賞受賞者と5人のアメリカ合衆国大統領を含む4,000人以上の寄稿者と専任の編集者約100人によって書かれており、学術的に高い評価を受けている。 英語の百科事典としては最古のものであり、今もなお製作されている。1768年から1771年にかけて、エディンバラで3巻の百科事典として発行されたのが始まりである。収録された記事は増えていき、巻数は第2版で10巻、第4版(1801年から1810年)では20巻となった。学術的な地位の向上は高名な寄稿者を招くのに役立ち、第9版(1875年から1889年)と第11版(1911年)は、文体と学術的知識において画期的なものとなった。版権が米国に移った第11版からは北米市場に売り込むため短く簡潔な記事となっていった。1933年、ブリタニカは百科事典としては初めて継続的な改訂が行われるようになった。2012年3月ブリタニカ社は、紙の書籍としての発行を取り止めオンライン版 に注力すると発表し、2010年に32巻で印刷されたものが紙の書籍としては最後となった。 1972年より日本語版もあり、『ブリタニカ国際大百科事典』(Britannica International Encyclopædia)として出版されている。 第15版からは三部構成となっている。短い記事(ほとんどが750語以下からなる)のマイクロペディア(小項目事典)12巻、長い記事(2~310ページ)のマクロペディア(大項目事典)19巻、そして知識を系統立てる、もしくは概観を示すプロペディア(総論・手引き)1巻である。マイクロペディアは簡単な調べ物やマクロペディアの手引書としての役割を担っている。記事の概観や詳細を知るためにはプロペディアを閲覧することが推奨されている。ブリタニカはおよそ50万の記事が約4000万語で記述されており、70年以上ほぼ一定に保たれている。1901年以降は米国を拠点に出版されてきたが、主にイギリス英語で書かれている。.
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ブルネイ
ブルネイ・ダルサラーム国(ブルネイ・ダルサラームこく)、通称ブルネイは、東南アジアのイスラム教国で、イギリス連邦加盟国である。ボルネオ島(カリマンタン島)北部に位置し、北側が南シナ海に面するほかは陸地ではマレーシアに取り囲まれている。首都はバンダルスリブガワン。元首はハサナル・ボルキア国王(スルターン)。 石油や天然ガスなどの資源を多く埋蔵しており、ASEANの一員になっている。環太平洋戦略的経済連携協定の原加盟国でもある。.
ブルガリア帝国
ブルガリア帝国(ブルガリアていこく)は、現在のブルガリアを中心にバルカン半島の東部を支配したブルガリア人の帝国である。 原住地の中央アジア西部を経てアゾフ海沿岸付近の広大な草原地帯から移住してきたテュルク系遊牧民のブルガール人によって建設された第一次ブルガリア帝国(681年 - 1014年)のもとでキリスト教を受け入れ、支配者のブルガール人と現地の南スラヴ人とが一体化してブルガリア人を形成、第二次ブルガリア帝国(1187年 - 1396年)のもとではイヴァン・アセン2世の時代に最大版図を実現したが、14世紀にオスマン帝国の度重なる侵略を受け、同世紀の終わりまでに併合し尽くされて消滅した。 19世紀にオスマン帝国から独立して成立したブルガリア王国も1908年から1946年までの君主制時代にツァーリを君主の正式な称号とし、ブルガリア帝国と呼ばれることもある。.
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ブルガリア王国 (近代)
二次世界大戦で獲得した領土 ブルガリア王国(ブルガリアおうこく、Царство България / Tsarstvo Bulgaria, Kingdom of Bulgaria)は、1908年10月に大ブルガリア公国の大公フェルディナンド1世がツァール(国王)を称することで誕生したブルガリアの王国。君主号のツァールは皇帝の意味も持つため、第一次ブルガリア帝国、第二次ブルガリア帝国に次ぐものとして第三次ブルガリア帝国とも呼ばれる。.
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プリンキパトゥス
プリンキパトゥス(Principatus)は、帝政ローマ初期における政治形態の呼称である。「プリンケプス(元首)による統治」を意味し、日本語では元首政(げんしゅせい)と訳される。.
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プロトコル
プロトコルまたはプロトコール(protocol, 、protocole )とは、複数の者が対象となる事項を確実に実行するための手順について定めたもの。 もともとは「人間同士のやりとり」だけに関する用語であった。戦間期の学術的批判を経て、情報工学分野でマシンやソフトウェア同士のやりとりに関する取り決め(通信規約)を指すためにも用いられるようになった。 日本語に意訳した語として、「規定」、「議定書」、「儀典」などがある。.
プロイセン王国
プロイセン王国(プロイセンおうこく、Königreich Preußen)は、ホーエンツォレルン家の君主が統治したヨーロッパの王国。現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とし、首都はベルリンにあった。 プロイセンの語源となったプルーセンはドイツ騎士団に征服され、1224年にドイツ騎士団国が作られた。ドイツ騎士団国は1525年にプロシア公領ないしプロイセン公国となる。1618年、公国はブランデンブルク選帝侯領とともに、同君連合であるブランデンブルク=プロイセンを構成した。君主フリードリヒ・ヴィルヘルムは、オランダ総督との姻戚関係によって威勢を増した。1701年にプロイセン王国となった。王国は北ドイツ連邦の盟主となるまで軍事国家として成長し続け、普仏戦争に勝利した。そのときプロイセンを盟主とするドイツ帝国ができた。1918年からドイツ革命によりヴァイマル共和政のプロイセン州となった。(#歴史).
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パルティア
パルティア(、前247年-後224年)は古代イランの王朝。王朝の名前からアルサケス朝とも呼ばれ、日本語ではしばしばアルサケス朝パルティアという名前でも表記される。前3世紀半ばに中央アジアの遊牧民の族長アルサケス1世(アルシャク1世)によって建国され、ミトラダテス1世(ミフルダート1世、在位:前171年-前138年)の時代以降、現在のイラク、トルコ東部、イラン、トルクメニスタン、アフガニスタン西部、パキスタン西部にあたる、西アジアの広い範囲を支配下に置いた。前1世紀以降、地中海世界で勢力を拡大するローマと衝突し、特にアルメニアやシリア、メソポタミア、バビロニアの支配を巡って争った。末期には王位継承を巡る内乱の中で自立したペルシスの支配者アルダシール1世(在位:226年-240年)によって滅ぼされ、新たに勃興したサーサーン朝に取って代わられた。.
パーディシャー
パーディシャーあるいはパードシャー(トルコ語: padişah; ペルシア語: پادشاه' pādshāh)は、ペルシア語で「皇帝」もしくは「君主」一般を意味する語。.
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ヒスパニア
ーマ帝国初期の行政区分 ヒスパニア(Hispania)は、イベリア半島(現在のスペインとポルトガルや、アンドラ・ジブラルタルの領域)の古名である。なお、スペインの現代語での名称(España、Espanha、Espagne、Spagna、Spain、Spanien、Испания、إسبانياなど)は全てこのヒスパニアを語源とする。.
ビン王 (斉)
湣王(びんおう、? - 紀元前284年)は、中国戦国時代の田斉第6代の君主(在位:紀元前300年 - 紀元前284年)。姓は嬀、氏は田、諱は地。宣王の子。宣王から継いだ権力を振るい、宋を滅ぼし燕・楚を攻めて支配下に置いた。秦と共に2強時代を生み、東帝を名乗るが、燕の楽毅に斉が滅亡寸前まで追い詰められ、最後は部下の淖歯に殺された。.
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ピョートル1世
ピョートル1世(Пётр I Алексеевич;ラテン文字表記の例: Pyotr I Alekseevich, 1672年6月9日(ユリウス暦5月30日) - 1725年2月8日(ユリウス暦1月28日))は、モスクワ・ロシアのツァーリ(在位:1682年 - 1725年)、初代ロシア皇帝(インペラートル / 在位:1721年 - 1725年)。大北方戦争での勝利により、ピョートル大帝(ピョートル・ヴェリーキイ / Пётр Вели́кий)と称される。ツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチの六男で、母はナタリヤ・ナルイシキナ。 ロシアをヨーロッパ列強の一員とし、スウェーデンからバルト海海域世界の覇権を奪取してバルト海交易ルートを確保。また黒海海域をロシアの影響下におくことを目標とした。これらを達成するために治世の半ばを大北方戦争に費やし、戦争遂行を容易にするため行政改革、海軍創設を断行。さらに貴族に国家奉仕の義務を負わせ、正教会を国家の管理下におき、帝国における全勢力を皇帝のもとに一元化した。また歴代ツァーリが進めてきた西欧化改革を強力に推進し、外国人を多く徴用して、国家体制の効率化に努めた。 1721年11月2日には大北方戦争の勝利を記念し、元老院にインペラートルの称号を贈らせ、国家名称をロシア帝国に昇格させた。ロシアを東方の辺境国家から脱皮させたその功績は大きくトロワイヤ (1981), p. 435、工藤庸子「訳者あとがき」、「ロシア史はすべてピョートルの改革に帰着し、そしてここから流れ出す」とも評される。 なお、ピョートルの存命時のロシアはグレゴリオ暦を採用しておらず、文中の日付はユリウス暦である。.
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ツァレーヴィチ
ツァレーヴィチ(Царе́вич)は、主にロシアのツァーリの息子に与えられる称号。娘の場合はツァレーヴナ(Царе́вна)となる。それぞれ「皇子」「皇女」と訳される。西欧関係の文献では「ツァーレヴィチ」と表記されることがあるが、ロシア語のアクセント位置からすれば誤りである。.
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ツァーリ
ツァーリ(царь)あるいはツァール(ブルガリア語、セルビア語、ウクライナ語:цар)は、ブルガリア・ロシアなどスラヴ語圏で使用された君主の称号。当初は、ギリシャ語の「バシレウス」と同様に東ローマ皇帝や聖書に登場する王を指す語であったが、やがて(大公の称号より上ではあるが皇帝の称号より下である)一部の国の王やハーンを指す語としても用いられるようになった。 ラテン語「カエサル」やギリシア語「カイサル」のスラヴ語形。そもそもは、ローマ皇帝やその継承者である東ローマ皇帝の有する称号として「カエサル」という語が用いられており、その称号を周辺の国家が用いたもの。その際に発音が変化して「ツァーリ」や「ツァール」となった。モスクワ大公らが用いたこの称号を西欧語において「王」と訳すか「皇帝」と訳すかについては中世ヨーロッパにおいても外交上の問題として議論があった。漢語においても「王」とも「皇帝」とも訳す。 民話においては、「善き王」を意味する。.
テトラルキア
テトラルキア(τετραρχία, tetrarkhía, tetrarchia, 英語:tetrarchy, 「4名の支配」の意)は、古代ローマにおける政治体制の一つで、帝政ローマ後期に即位した皇帝ディオクレティアヌスが西暦293年に行ったのが始まりとなる。本来は寡頭制において4名による支配を行う場合を指すが、単に「テトラルキア」と呼ぶ場合はディオクレティアヌスに始まる分担統治を意味する。 軍人皇帝時代に終止符を打ったディオクレティアヌスは、長い内乱によって疲弊し政治的に不安定な中で、広大な領土を支配する必要があった。まず共同皇帝制(これもローマにおける寡頭制の一種である)を利用して帝国領を2分し、その上でそれぞれの副帝(皇帝の補佐官)に互いの領域を更に分与することで帝国領を4分した。 ディオクレティアヌスの死後も、皇帝権の分散という方策は細部を変えながらも後継者であるガレリウス帝へ継承され、コンスタンティヌス1世の即位まで継続されたと考えられている。.
テオドシウス1世
テオドシウス1世(フラウィウス・テオドシウス、Flavius Theodosius, 347年1月11日 - 395年1月17日)は、古代ローマ帝国の皇帝(在位:379年 - 395年)。テオドシウス大帝とも呼ばれる。わずか4か月ではあったが、東西に分裂していたローマ帝国を 実質的に1人で支配した最後の皇帝となった。 392年にキリスト教を東ローマ帝国の国教に定め、のちに西ローマ帝国においても同じくした。.
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ディオクレティアヌス
イウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌス(Gaius Aurelius Valerius Diocletianus、244年12月22日 - 311年12月3日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:284年 - 305年)である。帝国の安定化に努め『3世紀の危機』と呼ばれる軍人皇帝時代を収拾した。その過程でドミナートゥス(専制君主制)を創始し、テトラルキア(四分割統治、四分治制)を導入した。また、帝国内に勢力を伸ばすキリスト教とマニ教に対して弾圧を加えた。.
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フランツ2世
フランツ2世(、1768年2月12日 - 1835年3月2日)は、神聖ローマ帝国最後のローマ皇帝(在位:1792年 - 1806年)。最初のオーストリア皇帝フランツ1世(、在位:1804年 - 1835年)でもある。ハンガリー国王としてはフェレンツ1世(、在位:1792年 - 1835年)、ベーメン国王としてはフランティシェク2世(、在位:1792年 - 1835年)である。ハプスブルク=ロートリンゲン家の君主で、全名はフランツ・ヨーゼフ・カール・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(ドイツ語:Franz Joseph Karl von Habsburg-Lothringen)。.
フランツ・ベッケンバウアー
フランツ・アントン・ベッケンバウアー(Franz Anton Beckenbauer, 1945年9月11日 - )は、ドイツ(旧西ドイツ)の元サッカー選手、サッカー指導者。ドイツサッカー連盟(DFB)副会長、バイエルン・ミュンヘンクラブ元名誉会長。2006 FIFAワールドカップドイツ大会では組織委員長を務めた。現役時代はリベロ(攻撃に参加するスイーパー)システムを確立させ名声を得た人物である。 ピッチ上で味方の選手達を操る姿と、『神よ、皇帝フランツを守り給え』に詠われたオーストリア皇帝フランツ1世(最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世)と同じファーストネームであることから、「皇帝()」と呼ばれた。.
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フランク・ローマ皇帝
フランク・ローマ皇帝ないし西方帝位 (Empereur d’Occident)は、フランク国王カール1世が800年12月25日にローマにてローマ教皇レオ3世によりローマ皇帝として戴冠されて以降のカロリング朝()における君主号の仮定上の表記である。最後のフランク・ローマ皇帝は924年に死去したベレンガーリオ1世である。 フランク・ローマ皇帝は大概は«ローマ人の皇帝» (imperator Romanorum) ないし«ローマ帝国の皇帝» (imperator Romanum gubernans imperium)の称号を帯びている。962年のオットー1世大帝の戴冠によって始まる神聖ローマ皇帝はフランク・ローマ皇帝の後継者であることを自認している。.
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フランク王国
フランク王国の時代別の領土 フランク王国(フランクおうこく、Royaumes francs、Fränkisches Reich)は、5世紀後半にゲルマン人の部族、フランク人によって建てられた王国。カール1世(大帝)の時代(8世紀後半から9世紀前半)には、現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・オーストリアおよびスロベニアに相当する地域を支配し、イベリア半島とイタリア半島南部、ブリテン諸島を除く西ヨーロッパのほぼ全域に勢力を及ぼした。カール1世以降のフランク王国は、しばしば「フランク帝国」「カロリング帝国」などとも呼ばれる。 この王国はキリスト教を受容し、その国家運営は教会の聖職者たちが多くを担った。また、歴代の王はローマ・カトリック教会と密接な関係を構築し、即位の際には教皇によって聖別された。これらのことから、西ヨーロッパにおけるキリスト教の普及とキリスト教文化の発展に重要な役割を果たした。 フランク王国はメロヴィング朝とカロリング朝と言う二つの王朝によって統治された。その領土は、成立時より王族による分割相続が行われていたため、国内は恒常的に複数の地域(分王国)に分裂しており、統一されている期間は寧ろ例外であった。ルートヴィヒ1世(敬虔王、ルイ1世とも)の死後の843年に結ばれたヴェルダン条約による分割が最後の分割となり、フランク王国は東・中・西の3王国に分割された。その後、西フランクはフランス王国、東フランクは神聖ローマ帝国の母体となり、中フランクはイタリア王国を形成した。 このようにフランク王国は政治的枠組み、宗教など多くの面において中世ヨーロッパ社会の原型を構築した。.
フランス
フランス共和国(フランスきょうわこく、République française)、通称フランス(France)は、西ヨーロッパの領土並びに複数の海外地域および領土から成る単一主権国家である。フランス・メトロポリテーヌ(本土)は地中海からイギリス海峡および北海へ、ライン川から大西洋へと広がる。 2、人口は6,6600000人である。-->.
フランス皇帝
フランス皇帝(フランスこうてい、仏語: Empereur des Français)、より正確にはフランス人民の皇帝は、ナポレオン・ボナパルトが1804年5月14日にフランス元老院から授けられ、同年12月2日にパリのノートルダム大聖堂にてナポレオンの帝冠で皇帝に戴冠したことに始まる、ボナパルト朝で用いられた称号である。後述するように、「フランスの」(de France)君主ではなく、あくまで「フランス人民の」(des Français)君主であることを強調した称号であるが、日本語訳ではフランス皇帝と縮められることも多い。.
フランス第一共和政
フランス第一共和政(フランスだいいちきょうわせい、Première République française、French First Republic)は、フランス史上初の共和政体である。8月10日事件によるブルボン王政打倒を経て国民公会によって王政廃止が宣言された1792年9月21日から、ナポレオン1世の下で帝政が宣言された1804年5月18日まで存続した後世、この日の帝政の宣言において一応の第一共和政の終わりとしているが、ナポレオン1世の帝政は共和国の上に立脚しており、政体が代わっても共和国自体が消滅したというわけではない。。 第一共和政は、少なくとも3つの時期に分けられ、3つの政体があった。すなわち、1792年9月20日から1795年10月26日までの国民公会期、1795年11月2日から1799年11月9日までの総裁政府期、1799年12月24日から1804年5月17日までの統領政府期である。.
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フランス第二帝政
フランス第二帝政(フランスだいにていせい、Second Empire Français)は、1852年から1870年まで存在した君主政体。ナポレオン・ボナパルトの甥であるルイ=ナポレオン(ナポレオン3世)が1851年12月2日にによって議会を解散し、新たな憲法を制定した上で国民投票によってフランス皇帝に即位した。 第二共和政期において、とりわけ六月蜂起後に保守・反動化した議会は、幅広い民衆の支持を得ることに失敗していた。こうして反議会に傾いた民衆をルイ=ナポレオン大統領は取り込むことに成功した。クーデターによる議会打倒を経て成立した第二帝政(第二帝国)は、権威主義的・反議会主義的な統治体制である一方、国民投票によって指導者を選出し、幅広い民衆に支持基盤をおいた点で、人民主権的、民主主義的な性格も有していた。.
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フランス革命
フランス革命(フランスかくめい、Révolution française, French Revolution)は、18世紀(1789年5月5日 – 1799年11月9日)にフランス王国(ブルボン朝)で起きた市民革命。 世界史上の代表的な市民革命で、前近代的な社会体制を変革して近代ブルジョア社会を樹立した革命。フランス革命戦争を通して、カリブ海から中東まで戦争が波及した。歴史家はフランス革命を世界史の中で最も重要な出来事の一つであると見なしている。 1787年にブルボン朝の絶対王権に対する貴族の反抗に始まった擾乱は、1789年から全社会層を巻き込む本格的な革命となり、政治体制は絶対王政から立憲王政、そして共和制へと移り変わった。さらに1794年のテルミドール反動ののち退潮へ向かい、1799年にナポレオン・ボナパルトによるクーデターと帝政樹立に至る(1799年11月9日のブリュメール18日のクーデター)。一般的には1787年の貴族の反抗から1799年のナポレオンによるクーデターまでが革命期とされている。 フランスの王政とアンシャン・レジームが崩壊する過程で、封建的諸特権が撤廃されて近代的所有権が確立される一方、アッシニア紙幣をめぐって混乱が起こった。.
フランス語
フランス語(フランスご)は、インド・ヨーロッパ語族のイタリック語派に属する言語。ロマンス諸語のひとつで、ラテン語の口語(俗ラテン語)から変化したフランス北部のオイル語(またはウィ語、langue d'oïl)が母体と言われている。日本語では、仏蘭西語、略して仏語とも書く。 世界で英語(約80の国・地域)に次ぐ2番目に多くの国・地域で使用されている言語で、フランス、スイス、ベルギー、カナダの他、かつてフランスやベルギーの領域だった諸国を中心に29カ国で公用語になっている(フランス語圏を参照)。全世界で1億2,300万人が主要言語として使用し、総話者数は2億人以上である。国際連合、欧州連合等の公用語の一つにも選ばれている。このフランス語の話者を、'''フランコフォン''' (francophone) と言う。.
ファラオ
ファラオ(英語:Pharaoh)は、古代エジプトの君主の称号。しばしば王と和訳される。.
フェルナンド1世 (カスティーリャ王)
フェルナンド1世(Fernando I, 1017年 - 1065年12月27日)は、カスティーリャ伯(在位:1035年 - 1037年)、後に初代カスティーリャ王(在位:1037年 - 1065年)、およびレオン王(在位:1037年 - 1065年)。1056年に「全ヒスパニアの皇帝」として戴冠した。「大王」(El Magno)と呼ばれる。 父はナバラ王サンチョ3世(大王)、母はカスティーリャ伯サンチョ・ガルシアの娘ムニア・エルビラ。アラゴン王ラミロ1世は異母兄、ナバラ王ガルシア3世(5世)は同母兄、ソブラルベ伯ゴンサロは同母弟。.
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フェルディナンド1世 (ブルガリア王)
フェルディナンド1世(1928年) フェルディナンド1世(、1861年2月26日 - 1948年9月10日)は、ブルガリア公(クニャズ、在位:1887年7月7日 - 1908年10月5日)、後にブルガリア国王(ツァール、在位:1908年10月5日 - 1918年10月3日)。.
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ドイツ
ドイツ連邦共和国(ドイツれんぽうきょうわこく、Bundesrepublik Deutschland)、通称ドイツ(Deutschland)は、ヨーロッパ中西部に位置する連邦制共和国である。もともと「ドイツ連邦共和国」という国は西欧に分類されているが、東ドイツ(ドイツ民主共和国)の民主化と東西ドイツの統一により、「中欧」または「中西欧」として再び分類されるようになっている。.
ドイツ帝国
ドイツ帝国(ドイツていこく、)は、1871年1月18日から1918年11月9日まで存続した、プロイセン国王をドイツ皇帝に戴く連邦国家を指す歴史的名称である。帝政ドイツ(ていせいドイツ)とも呼ばれる。普仏戦争において、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿でプロイセン王ヴィルヘルム1世の皇帝戴冠式が行われて成立した。しかし第一次世界大戦の敗北とドイツ革命の勃発により、皇帝ヴィルヘルム2世がオランダに亡命して崩壊した。オランダ資本は、帝国の勢力範囲拡大政策(#世界政策)とルール地方における工業開発(#経済)の両面に貢献している。.
ドイツ皇帝
ヴィルヘルム1世 ドイツ皇帝(ドイツこうてい、Deutscher Kaiser)は1871年1月18日のプロイセン国王ヴィルヘルム1世の皇帝宣言に始まり、1918年11月18日のヴィルヘルム2世の公的な退位で終わったドイツ帝国の元首及び最高権力者である。ドイツ皇帝を称したヴィルヘルム1世、フリードリヒ3世、ヴィルヘルム2世の3人は、いずれも物的同君連合(Realunion)におけるプロイセン国王であった。.
ニニギ
ニニギ(アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギ)は、日本神話に登場する神戸部民夫 『八百万の神々 日本の神霊たちのプロフィール』 新紀元社、25,92,94,286頁。。.
ニカイア帝国
ニカイア帝国(ニカイアていこく、1204年 - 1261年)は、1204年に東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスが第4回十字軍によって陥落した際に、東ローマ帝国の皇族達が建てた亡命政権の一つ。ニカイア(古代ギリシア語読み、中世ギリシア語ではニケア。現在のトルコ共和国イズニク)を首都とした。他にもローマ帝国を称した亡命政権にはトレビゾンド帝国やエピロス専制侯国などがあったが、1261年にコンスタンティノポリスを奪回して東ローマ帝国を復活させたのがニカイア帝国であるため、この国が東ローマ帝国の正統な亡命政権とみなされる。 正式な国号は東ローマ帝国同様「ローマ帝国」であり、君主も「ローマ皇帝」を称し続けた。中世ギリシア語の発音に従ってニケア帝国、あるいは皇室の姓を取ってラスカリス王朝とも呼ばれる。自称を重視する立場からニカイアの「中世ローマ帝国」とも呼ぶ説もある。.
ホノリウス
フラウィウス・アウグストゥス・ホノリウス(Flavius Augustus Honorius, 384年9月9日 - 423年8月15日)は、西ローマ帝国テオドシウス王朝の最初の皇帝(在位:393年 - 423年)。テオドシウス1世の次男。西ローマ帝国の実質的な滅亡の一因を作った暗君として知られる。.
ベトナム
ベトナム社会主義共和国(ベトナムしゃかいしゅぎきょうわこく、)、通称 ベトナム()は、東南アジアのインドシナ半島東部に位置する社会主義共和国。首都はハノイ。ASEAN加盟国、通貨はドン、人口9,250万人(2014年末)。 国土は南北に細長く、北は中華人民共和国、西はラオス、南西はカンボジアと国境を接する。東は南シナ海に面し、フィリピンと相対する。.
周
周(しゅう、、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。紀元前771年の洛邑遷都を境に、それ以前を西周、以後を東周と、2つの時期に区分される。国姓は姫(き)。周代において中国文明が成立したとみられる。.
呉 (三国)
呉(ご、、222年 - 280年)は、中国の三国時代に孫権が長江流域に建てた王朝。姓は孫(そん)氏で、首都は建業(現在の南京付近)。孫呉、東呉とも呼ばれる。 222年というのは、それまで魏に対して称臣していた孫権が黄武と言う新しい元号を使い始め、魏からの独立を宣言した年である。正式には呉の建国としては孫権が皇帝に即位した229年を採る場合もある。しかし孫権が勢力を張ったのは父孫堅・兄孫策が築いたものを受け継いでのことであり、この項では孫堅の代から説明する。.
アミール
アミール()は、イスラム世界で用いられる称号である。君主号のひとつとしても用いられる。.
アメリカ合衆国
アメリカ合衆国(アメリカがっしゅうこく、)、通称アメリカ、米国(べいこく)は、50の州および連邦区から成る連邦共和国である。アメリカ本土の48州およびワシントンD.C.は、カナダとメキシコの間の北アメリカ中央に位置する。アラスカ州は北アメリカ北西部の角に位置し、東ではカナダと、西ではベーリング海峡をはさんでロシアと国境を接している。ハワイ州は中部太平洋における島嶼群である。同国は、太平洋およびカリブに5つの有人の海外領土および9つの無人の海外領土を有する。985万平方キロメートル (km2) の総面積は世界第3位または第4位、3億1千7百万人の人口は世界第3位である。同国は世界で最も民族的に多様かつ多文化な国の1つであり、これは多くの国からの大規模な移住の産物とされているAdams, J.Q.;Strother-Adams, Pearlie (2001).
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アルブレヒト2世 (神聖ローマ皇帝)
アルブレヒト2世(Albrecht II., 1397年8月10日 - 1439年10月27日)は、神聖ローマ帝国のローマ王(ドイツ王、在位:1438年 - 1439年)、またオーストリア公、ボヘミア王、ハンガリー王。オーストリア公としてはアルブレヒト5世。ハンガリー名はアルベルト(Albert)。 ハプスブルク家ではフリードリヒ3世(美王)以来108年ぶり、単独君主に限ればアルブレヒト1世以来130年ぶりに神聖ローマ帝国の君主位についた人物である。 1404年に父アルブレヒト4世の後を継いでオーストリア公となり、1411年から親政を行った。1422年にボヘミア王およびハンガリー王を兼ねるルクセンブルク家のローマ王ジギスムント(後にローマ皇帝)の娘(女相続人)エリーザベトと結婚した。 1437年にジギスムントが没するとハンガリー王と名目上のボヘミア王になったが、ボヘミアでは反乱が続いており、実効支配はできなかった。1438年3月18日にローマ皇帝の前段階であるローマ王に選ばれたが、皇帝としての戴冠をはたさないまま1439年10月、オスマン帝国との戦争中にハンガリーので赤痢によって急死した。 オーストリアの所領とボヘミア王位はアルブレヒトの死後に生まれた息子ラディスラウス・ポストゥムスが継承したが、ハンガリー王位は一旦ポーランド王ヴワディスワフ3世に渡り(ヴワディスワフが1444年に戦死したため、ラディスラウスが継承した)、新たなローマ王には又従弟に当たる傍系のフリードリヒ3世が選ばれた(後に皇帝としての戴冠も果たした)。.
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アルカディウス
アルカディウス(Ἀρκάδιος, Arcadius, 377年1月1日 - 408年5月1日)は、東ローマ帝国テオドシウス王朝の初代皇帝。ローマ皇帝テオドシウス1世の長男(在位383年 - 408年)。.
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アントニヌス・ピウス
ティトゥス・フルウィウス・アエリウス・ハドリアヌス・アントニヌス・アウグストゥス・ピウス(Titus Fulvius Aelius Hadrianus Antoninus Augustus PiusWeigel, Antoninus Pius、86年9月19日 - 161年3月7日)は、第15代ローマ皇帝で、ネルウァ=アントニヌス朝の第4代皇帝。彼はアウレリウス氏族の出身者として最初の皇帝であり、また皇妃大ファウスティナを通じてネルウァ=アントニヌス朝と外戚関係を持っていたBowman, pg.
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アッラーフ
アッラーフ (الله, Allāh) 或いはアラー、アッラーは、アブラハムの宗教の唯一神ヤハウェに対するアラビア語呼称のひとつ。.
アウグストゥス
アウグストゥス(Imperator Caesar Divi Filius Augustus インペラートル・カエサル・ディーウィー・フィーリウス・アウグストゥス、Gaius Julius Caesar Octavianus Augustus ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス、紀元前63年9月23日 - 紀元14年8月19日)は、ローマ帝国の初代皇帝(在位:紀元前27年 - 紀元14年)。志半ばにして倒れた養父カエサルの後を継いで内乱を勝ち抜き、地中海世界を統一して帝政(元首政)を創始、パクス・ロマーナ(ローマの平和)を実現した。ちなみにアウグストゥスは、ラテン語で「尊厳ある者」を意味しており、現在のギリシア語では「8月」の意になっている。.
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アウグストゥス (称号)
アウグストゥス(Augustus)は、歴代のローマ皇帝の称号のひとつ。この語はラテン語で「威厳者」または「尊厳者」を意味する。アウグストゥスの名は、初代ローマ皇帝アウグストゥス(オクタウィアヌス)を指すことが多いが、彼の後はローマ帝国の皇帝を示す最高の称号として用いられるようになった。ローマ帝国が崩壊した後も、特に神聖ローマ帝国などヨーロッパでは貴族の男性の名前(アウグスト)に用いられることがある。女性形はアウグスタ(Augusta)。.
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アグスティン・デ・イトゥルビデ
アグスティン・コスメ・ダミアン・デ・イトゥルビデ・イ・アランブル(Agustín Cosme Damián de Iturbide y Arámburu, 1783年9月27日 - 1824年7月19日)は、メキシコ独立革命の指導者。メキシコ帝国の皇帝アグスティン1世(Agustín I、在位:1822年 - 1823年)として君臨した。.
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アケメネス朝
アケメネス朝(古代ペルシア語: 𐏃𐎧𐎠𐎶𐎴𐎡𐏁 ハカーマニシュ、Ἀχαιμένης アカイメネース)は、古代オリエントに存在した王朝・帝国・遊牧国家。.
アステカ
アステカ(Azteca、: Aztēcah)とは1428年頃から1521年までの約95年間北米のメキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明の国家。メシカ(古典ナワトル語: mēxihcah )、アコルワ、の3集団の同盟によって支配され、時とともにメシカがその中心となった。言語は古典ナワトル語(ナワトル語)。.
イラン
イラン・イスラム共和国(イラン・イスラムきょうわこく、جمهوری اسلامی ایران)、通称イランは、西アジア・中東のイスラム共和制国家。ペルシア、ペルシャともいう。北にアゼルバイジャン、アルメニア、トルクメニスタン、東にパキスタン、アフガニスタン、西にトルコ、イラクと境を接する。また、ペルシア湾をはさんでクウェート、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦に面する。首都はテヘラン。 1979年のルーホッラー・ホメイニー師によるイラン・イスラーム革命により、宗教上の最高指導者が国の最高権力を持つイスラム共和制を樹立しており、シーア派イスラームが国教である。世界有数の石油の産出地でもある。.
インペラトル
インペラトル(、インペラートル)は、古代ローマとくに共和政ローマにおけるローマ軍の最高司令官・将軍の称号である。のちに皇帝もしくは帝権保持者の称号となり、ローマ帝国における皇帝あるいは帝権の一部を成した。共和政期には対外戦争で成功を収めた軍事指導者の称号としても使用された。字義的には「インペリウムを保持する者」という意味で、平時における「最高命令権者」あるいは戦時における「最高司令官」のことを指す。.
インペリウム
インペリウム()とは、古代ローマにおいて、ローマ法によって承認された全面的な命令権のことをいう。命令権と訳されることが多い。.
インド
インドは、南アジアに位置し、インド洋の大半とインド亜大陸を領有する連邦共和制国家である。ヒンディー語の正式名称भारत गणराज्य(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ、Republic of India)を日本語訳したインド共和国とも呼ばれる。 西から時計回りにパキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、バングラデシュ、ミャンマー、スリランカ、モルディブ、インドネシアに接しており、アラビア海とベンガル湾の二つの海湾に挟まれて、国内にガンジス川が流れている。首都はニューデリー、最大都市はムンバイ。 1947年にイギリスから独立。インダス文明に遡る古い歴史、世界第二位の人口を持つ。国花は蓮、国樹は印度菩提樹、国獣はベンガルトラ、国鳥はインドクジャク、国の遺産動物はインドゾウである。.
インド皇帝
インド皇帝の紋章 インド皇帝(女帝)(インドこうてい〔じょてい〕、英語:Emperor/Empress of India, ヒンドゥスターニー語:Padishah-e-Hind)は、ムガル帝国最後の皇帝バハードゥル・シャー2世と、その後インドを統治したイギリスの君主達が保持した称号。 場合によっては、アショーカ王やマウリヤ朝、アクバル、ムガル帝国などの君主達も「インド皇帝」と呼称する場合があるが、当人達自身はこの様な称号を名乗ったことは無い。.
インカ帝国
インカ帝国(インカていこく、スペイン語:Imperio Inca、ケチュア語:タワンティン・スウユ(Tawantinsuyo, Tahuantinsuyo))は、南アメリカのペルー、ボリビア(チチカカ湖周辺)、エクアドルを中心にケチュア族が築いた国。文字を持たない社会そして文明であった。 首都はクスコ。世界遺産である15世紀のインカ帝国の遺跡「マチュ・ピチュ」から、さらに千メートル程高い3,400mの標高にクスコがある。1983年12月9日、クスコの市街地は世界遺産となった。 前身となるクスコ王国は13世紀に成立し、1438年のパチャクテク即位による国家としての再編を経て、1533年にスペイン人のコンキスタドールに滅ぼされるまで約200年間続いた。最盛期には、80の民族と1,600万人の人口をかかえ、現在のチリ北部から中部、アルゼンチン北西部、コロンビア南部にまで広がっていたことが遺跡および遺留品から判明している。 インカ帝国は、アンデス文明の系統における最後の先住民国家である。メキシコ・グアテマラのアステカ文明、マヤ文明と対比する南米の原アメリカの文明として、インカ文明と呼ばれることもある。その場合は、巨大な石の建築と精密な石の加工などの技術、土器や織物などの遺物、生業、を含めたすぐれた統治システムなどの面を評価しての呼称である。なお、インカ帝国の版図に含まれる地域にはインカ帝国の成立以前にも文明は存在し、プレ・インカと呼ばれている。 インカ帝国は、被征服民族についてはインカ帝国を築いたケチュア族の方針により比較的自由に自治を認めていたため、一種の連邦国家のような体をなしていた。.
イヴァン3世
イヴァン3世ヴァシーリエヴィチ(ロシア語:Иван III Васильевич;ラテン文字転写の例:Ivan III Vasilevich, 1440年1月22日 - 1505年10月27日)は、モスクワ大公(在位1462年 - 1505年)。 ヴァシーリー2世とセルプホフ公ウラジーミルの孫娘であるボロフスクの公女マリヤ・ヤロスラヴナの長男。イヴァン大帝(Иван Великий)の異称で知られ、ルーシ北東部を「タタールのくびき」から解放し、モスクワ大公国の支配領域を東西に大きく広げて即位時から4倍増とし、強力な統一国家を建設した名君と評価される。.
イヴァン4世
イヴァン4世(Иван IV Васильевич / Ivan IV Vasil'evich、1530年8月25日-1584年3月18日 / グレゴリオ暦3月28日)は、モスクワ大公(在位1533年 - 1547年)、モスクワ・ロシアの初代ツァーリ(在位1547年 - 1574年、1576年 - 1584年)。イヴァン雷帝(Иван Грозный / Ivan Groznyi)という異称でも知られる。当時の表記はヨアン4世またはイオアン4世(Иоан IV / Ioan IV)。ヴァシーリー3世の長男、母はエレナ・グリンスカヤ。.
イベリア半島
イベリア半島(スペイン語・ポルトガル語・ガリシア語:Península Ibérica、カタルーニャ語:Península Ibèrica、バスク語:Iberiar penintsula)は、ヨーロッパの南西に位置する半島である。.
イエス・キリスト
イエス・キリスト(紀元前6年から紀元前4年頃 - 紀元後30年頃、Ίησοῦς Χριστός、יְהוֹשֻׁעַ/יֵשׁוּעַ הַמָּשִׁיחַ, )は、ギリシア語で「キリストであるイエス」、または「イエスはキリストである」という意味である。すなわち、キリスト教においてはナザレのイエスをイエス・キリストと呼んでいるが、この呼称自体にイエスがキリストであるとの信仰内容が示されているX.
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イギリス
レートブリテン及び北アイルランド連合王国(グレートブリテンおよびきたアイルランドれんごうおうこく、United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)、通称の一例としてイギリス、あるいは英国(えいこく)は、ヨーロッパ大陸の北西岸に位置するグレートブリテン島・アイルランド島北東部・その他多くの島々から成る同君連合型の主権国家である。イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの4つの国で構成されている。 また、イギリスの擬人化にジョン・ブル、ブリタニアがある。.
イギリスの君主
イギリスの君主(イギリスのくんしゅ、Monarch of the United Kingdom)はイギリスとその海外領土の立憲君主である。現在の君主はエリザベス2世であり、1952年2月6日から王位に就いている。エリザベス2世とその直近の王族は、さまざまな公務、儀式、国の代表としての職務を行う。勲章の授与、議会の解散、首相の任命といった女王の権能は、立憲君主として特定の党派や主義に偏らないよう制限されている。イギリス政府の行政権は究極的には君主の大権によっているが、これらの権限は議会の制定した法律にのっとってのみ用いることができ、しかも実際には慣習と先例によっても制約を受けている。.
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イギリス帝国
イギリス帝国(イギリスていこく、British Empire)は、イギリスとその植民地・海外領土などの総称である。大英帝国(だいえいていこく)ともいう。 帝国は時代ごとの性質により、以下のように区分できる。.
イギリス領インド帝国
イギリス領インド帝国(イギリスりょうインドていこく)は、1858年にイギリスがインドに成立させたインド帝国(英語:Indian Empire)を指す。1877年以降はイギリスの君主がインド皇帝を兼ねる同君連合の形式が取られたが、事実上イギリスの植民地であった。英領インド・英印とも呼ばれる。またイギリスによる統治を指してヒンディー語で「」(英語ではBritish Raj)と呼ぶ。 その領域はインド・パキスタン(後のバングラデシュを含む)のみならず、現在のミャンマー、ネパール、スリランカも版図とした。.
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イクノ・アムラク
イクノ・アムラク(Yekuno Amlak)は、エチオピアを支配したソロモン朝の創始者で、一時中断するものの1975年まで続くエチオピア帝国の初代皇帝(在位:1270年 - 1285年)。その先祖をたどるとアクスム王国の最後の王デイルナード(en)に繋がるとされている。.
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イコノクラスム
イコノクラスム(iconoclasm, εικονομαχία)とは、宗教的に崇められる画像を破壊する運動である(英語の意味においては「悪習の打破」等の他の意味も含意されるが、本項では「破壊運動」の語義に当たる事項のみを扱う)。聖像破壊運動(せいぞうはかいうんどう)ともいう。 キリスト教で有名なイコノクラスムには、東ローマ帝国におけるイコノクラスムと、宗教改革時に西ヨーロッパで起こったビルダーシュトゥルム(絵画嵐)がある。場合によってはイコノクラスムと言えば、東ローマ帝国において8世紀から9世紀にかけて行われたものを特に指すことがある。「偶像破壊」というとキリスト教の運動を中心としていうこともあるが、包括的に宗教的な「偶像」の破壊を指すこともある。.
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イスラム帝国
イスラム帝国(イスラムていこく、خلافة, caliphate)は、イスラム教(イスラーム)の教えに従って生まれたイスラム共同体(ウンマ)の主流派政権が形成した帝国のこと。.
イスラム世界
イスラム世界とは、イスラム教(イスラーム)とそれを信仰・実践する人々であるムスリム(イスラム教徒)が社会の中心に立って活動する地域を指し、イスラム法(シャリーア)の用語に言うダール・アル=イスラーム(「イスラムの家」)とほぼ等しい概念を意味する語である。歴史的な対象を指すのにしばしば使われるが、イスラム世界の中に法としてシャリーアを用いない国も少なくない現代を指しては、イスラム圏(イスラーム圏)、イスラム諸国などの言葉を用いることも多い。.
イタリア
イタリア共和国(イタリアきょうわこく, IPA:, Repubblica Italiana)、通称イタリアは南ヨーロッパにおける単一国家、議会制共和国である。総面積は301,338平方キロメートル (km2) で、イタリアではロスティバル(lo Stivale)と称されるブーツ状の国土をしており、国土の大部分は温帯に属する。地中海性気候が農業と歴史に大きく影響している。.
ウラジーミル・プーチン
ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン(、ラテン文字表記例:、1952年10月7日 - )は、ロシア連邦の政治家。現在は第4代ロシア連邦大統領(2012年5月7日 - )を務める。 第4代大統領就任以前には、第2代大統領(在任2000年 - 2008年)、第5代および第9代政府議長(首相)(1999年 - 2000年、2008年 - 2012年)、統一ロシア党首(2008年 - 2012年)、ベラルーシ・ロシア連合国家(正式名称は「連合国家」)の閣僚会議議長(首相に相当、2008年 - )など政府・政党の要職を歴任している。このほか、サンクトペテルブルクの副市長を務めたこともある。 元KGBのエージェントであり、現在のロシア連邦の政治家でもあり、その中でも特に大きな影響力を持っている政治家である。最終学歴はレニングラード大学(現・サンクトペテルブルク大学)法学部卒業。学位は法学士(サンクトペテルブルク大学)、経済学博士候補ロシアにおける「博士候補」は欧米諸国の「博士(Ph.D.)」に相当する(1997年)。階級は予備役大佐。 1999年12月31日のボリス・エリツィンの大統領辞任により大統領代行を務めたのち、2000年ロシア大統領選挙に勝利して正式に大統領に就任した。2004年の大統領選挙では再選を果たし、2008年5月7日まで大統領を務めた。そして後任の大統領であるドミトリー・メドヴェージェフの指名により同月8日に首相に就任した。 8年間のプーチン政権でロシア経済は危機を脱して大きく成長し、ロシア社会から高い支持と評価を受けている。国内総生産(GDP)は6倍に増大(購買力平価説では72%)し、貧困は半分以下に減り、平均月給が80ドルから640ドルに増加し、実質GDPが150%になった。 その一方で、第二次チェチェン紛争での人権侵害などにより、ロシア国外の政府や人権団体からロシアの人権と自由について追及されている。また、非民主的(反民主的)で、非合法な(謀略的な)手法で支配力を行使し政治を行っていることも様々な調査で明らかになっている。また統計上は良くなったともされるロシア経済についても、その実態としてはウラジーミル・ヤクーニンのような一部のプーチンと親密な関係にある人物たちによって統制が行われてしまっていることがマスメディアの取材で明らかになっている。こうした統制は、ボリス・ネムツォフらプーチン政権の反対派によって厳しく批判されている。 なおKGBに入るためにはスポーツ(格闘技)を身につけるのが有利であったために柔道も身につけているという面もあり、段位は柔道八段来日時に柔道六段を講道館柔道において贈られるも辞退。詳細は後述。称号は、サンボと柔道のロシア連邦スポーツマスター。2005年12月よりヨーロッパ柔道連盟名誉会長を務める。また国際柔道連盟(IJF)の名誉会長でもある。.
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エチオピア帝国
チオピア帝国(エチオピアていこく、)は、1270年から1974年まで存続したアフリカ東部の国家。現在のエチオピアおよびエリトリアにほぼ一致する領域を支配し、最大版図は現在のソマリア、ジブチ、ケニア、スーダン、南スーダン、エジプト、アラビア半島の一部まで及んだ。欧米のアフリカ分割の最中にあって独立を保ったアフリカ最古の独立国である。 実際は複数の王朝が交代し、また皇帝の存在しなかった時代もあるため、エチオピアの歴代王朝の総称ないし国家の系譜と考えることもできる。また、前身のザグウェ朝もエチオピア帝国の歴史の一部として捉える説もあり、その場合に推定される国家成立年は1137年である。軍事クーデターにより、最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世が1974年に倒れ、帝国は終焉した。.
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エメリヤーエンコ・ヒョードル
メリヤーエンコ・ヒョードル姓がエメリヤーネンコで名がヒョードルであるため通常であれば「ヒョードル・エメリヤーネンコ」となるはずであるが、日本でのリングネームがその逆なのはロシアではパスポートなど公式書面に「姓・名・父称」の順で表記するため、そのまま「エメリヤーエンコ・ヒョードル」となってしまったと本人は述べている。(、、1976年9月28日 - )は、ロシアウクライナとの二重国籍であり、ウクライナ国籍で出場していた時期もあったが、現在は現住地のあるロシア国籍での出場を選択している。の男性総合格闘家、サンビスト、元柔道家。レッドデビル・スポーツクラブ所属。元WAMMA世界ヘビー級王者。元PRIDEヘビー級王者。元RINGS無差別級王者。元RINGSヘビー級王者。.
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エンゲルベルト・ケンペル
ンペルの想像図 エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer, 現代ドイツ語読みではエンゲルベアト・ケンプファー、1651年9月16日 - 1716年11月2日)は、ドイツ北部レムゴー出身の医師、博物学者。ヨーロッパにおいて日本を初めて体系的に記述した『日本誌』の原著者として知られる。出島の三学者の一人。.
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エピロス専制侯国
ピロス専制侯国(エピロスせんせいこうこく、Δεσποτάτο της Ηπείρου, Despotate of Epirus)は、1204年の第4回十字軍によるコンスタンティノポリス攻撃で東ローマ帝国が一旦滅びた時、ニカイア帝国、トレビゾンド帝国などと共に出来た亡命政権の一つ。「専制公国」と表記される場合もある(以下、こちらの表記を優先する)。なお「エピロス」はギリシャ語に基づく慣用形で、古典ギリシャ語読みでは「エペイロス」、中世ギリシャ語では「イピロス」、ラテン語では「エピルス」である。.
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エフゲニー・プルシェンコ
フゲニー・ヴィクトロヴィチ・プルシェンコ(Евге́ний Ви́кторович Плю́щенко 、 、1982年11月3日 - )は、ロシアの男性フィギュアスケート選手(男子シングル)。2006年トリノオリンピック金メダリスト。2002年ソルトレークシティオリンピック及び2010年バンクーバーオリンピック銀メダリスト。2014年ソチオリンピック団体戦金メダリスト。世界選手権優勝3回、欧州選手権優勝7回、グランプリファイナル優勝4回。グランプリシリーズ通算22勝。ロシア連邦功労スポーツマスター。ロシア人名愛称ではジェーニャ(Женя)。名字はPLUSHENKOの他にPLYUSHCHENKOと表記されることもあり、オリンピックの際にはどちらも使われている。旧採点、新採点の両方でオリンピックメダルを手に入れた唯一の男子フィギュアスケート選手である。.
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エイレーネー (東ローマ女帝)
イレーネー“アテナイア”(ギリシア語:Ἐιρήνη ἡ Ἀθηναία, Eirēnē hē Athēnaiā、752年 - 803年8月9日)は、東ローマ帝国イサウリア王朝の第5代皇帝(在位:797年 - 802年)。同王朝第3代皇帝レオーン4世の皇后で、第4代皇帝コンスタンティノス6世の生母。ローマ帝国史上初の女帝である。中世ギリシア語読みでは「イリニ」で、「平和」の意である。渾名の“アテナイア”は「アテナイ人」の意であり、生地がアテナイであったことによる。.
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オマーン
マーン国(オマーンこく)、通称オマーンは、中東および西アジアの絶対君主制国家。首都はマスカット。アラビア半島の東端に位置し、アラビア海(インド洋)とオマーン湾に面する。また、石油ルートとして著名なホルムズ海峡の航路もオマーン領海内にある。 北西にアラブ首長国連邦(UAE)、西にサウジアラビア、南西にイエメンと隣接し、更にUAEを挟んだムサンダム半島先端部に飛地(ムサンダム特別行政区)を擁する。.
オーストリア大公
ーストリア大公(Erzherzog von Österreich)は、ハプスブルク家(ハプスブルク=ロートリンゲン家を含む)により用いられたオーストリア(オーストリア大公国)の領主としての称号(男性形)。16世紀以降は君主以外の一族の成員も用いた。.
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オーストリア皇帝
ーストリア皇帝(オーストリアこうてい、、カイザー・フォン・エスターライヒ)は、ハプスブルク=ロートリンゲン家の神聖ローマ皇帝フランツ2世によって1804年に宣言された、ハプスブルク=ロートリンゲン家の世襲の皇帝の称号である。.
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オーストリア=ハンガリー帝国
ーストリア=ハンガリー帝国(オーストリア=ハンガリーていこく、 または Kaiserliche und königliche Monarchie、)は、かつて欧州に存在した国家。ハプスブルク帝国の一つであり、その最後の形態である。.
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オットー1世 (神聖ローマ皇帝)
ットー1世(Otto I.、912年11月23日 - 973年5月7日)は中世ドイツの王(在位:936年 - 973年)及びイタリア王(在位:951年 - 973年)、並びに西ヨーロッパの皇帝(在位:962年 - 973年)。ザクセン朝第2代の王、初代皇帝で初代国王ハインリヒ1世の子。形骸化して消滅したローマ皇帝の称号を約40年ぶりに復活させて国制を確立し、神聖ローマ帝国の初代皇帝とも見なされる。オットー大帝(Otto I. der Große)とも呼ばれる。彼の時代にアブド・アッラフマーン3世から使節があった瀬原、p.
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オドアケル
オドアケルに帝冠を渡すロムルス・アウグストゥルス オドアケル(Odoacer, 433年 - 493年3月15日)は、西ローマ帝国の傭兵隊長を経てローマ帝国のイタリア領主となった人物。オドワカル(Odovacar)あるいはイタリア語でオドアクレ()とも言う。 その出自は不明で、ヘルール族の王であったとか、の出身であるとか、あるいはの出身であるなどとされる。父の名はEdeko(406年頃 - 454年)、兄弟にOnoulphus(430年頃 - 493年)がいる。 470年までにオドアケルはローマ軍の将軍となり、472年にはゲルマン人の将軍リキメルの下でローマ皇帝アンテミウスの討伐にも参加した。 476年、西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位し、ローマ元老院を通じて「もはや西ローマ帝国に皇帝は必要ではない」とする勅書を東ローマ帝国の皇帝ゼノンへ送り、西ローマ皇帝の帝冠と紫衣を返上した。ゼノンはオドアケルにローマ貴族とイタリア領主(dux Italiae)の称号、およびにローマ皇帝の代官としてイタリアを統治する法的権限を与えた。一方でゼノンは、オドアケルがゼノンの支持するユリウス・ネポスを西ローマ皇帝として受け入れるべきだとも提案した。オドアケルは提案を受け入れ、自らはローマ皇帝の代理としてラヴェンナを中心としてイタリアの統治を開始した。このことからオドアケルをローマ帝国の初代イタリア王(rex Italiae)と見なす場合もあるが、オドアケルをイタリア王に含めるかどうかついては議論がある。 480年にネポスが殺害されると、ゼノンは法的にも西ローマ皇帝と東ローマ皇帝の地位を廃止し、自身を西ローマ帝国と東ローマ帝国を合わせたローマ帝国全土のローマ皇帝とした。西ローマ皇帝位の廃止後も、ゼノンとオドアケルは元老院など西ローマ帝国の政府機構をそのまま残し、古代ローマ式の統治方法を継続した。オドアケルによる統治は、それまでローマ皇帝によって押さえつけられていた元老院議員達やらによって歓迎された。また、ヴァンダル王国の王ガイセリックとの和平を成し遂げるなど、イタリアに平和をもたらした。 しかし、484年から488年にかけての東ローマ帝国の内乱において、オドアケルはゼノンの対立皇帝側に与してゼノンと対立した。そのためゼノンは東ゴート王テオドリックにオドアケル討伐を命じ、翌年テオドリックはイタリアに侵攻を開始する。イゾンツォの戦いとヴェローナの戦いと相次いで敗れたオドアケルは首都ラヴェンナへと追い込まれ、493年に降伏した(ラヴェンナ包囲戦 (490年-493年))が、その直後に配下の兵たちと共に暗殺された。妻スニギルダは幽閉されて餓死、幼い息子のテーラ(Thela)はガリアに追放されやがて処刑された。兄のフンウルフは矢で針鼠にされた。テオドリックは、オドアケル討伐の功として東ローマ帝国の皇帝アナスタシウス1世からイタリア支配とイタリア王の地位を承認され、東ゴート王国が成立した。 今日ではオドアケルがイタリアの領主に任命されたことをもって西ローマ帝国の「滅亡」とする場合があるが、ら研究者はオドアケルによるイタリア統治の開始を西ローマ帝国の「滅亡」と呼ぶことには否定的である。それは西ローマ帝国政府は少なくとも6世紀中頃まではローマ帝国の政府機関としてオドアケルや東ゴート王らとは別々に存続しており、オドアケルへのイタリアの委任も、これまで帝国の各地でゴート族やヴァンダル族らの王を領主に任命して統治を委任してきたのと同じことが、皇帝ゼノンによってイタリアに適用されただけだと考えられるからである。 category:古代ゲルマン Category:5世紀の古代ローマ人 Category:中世イタリア王 Category:傭兵 Category:暗殺された人物 Category:433年生 Category:493年没.
オスマン帝国
マン帝国(オスマンていこく、)は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブールと通称されるようになる)。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域に及んだ。.
オスマン帝国の君主
マン帝国の君主は、オスマン家の成員によって世襲され、20世紀初頭まで広大な版図を誇ったオスマン帝国に君臨した。.
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カリフ
イスラム世界で承認された最後のカリフ、アブデュルメジト2世 カリフ(Caliph)あるいはハリーファ(خليفة khalīfa) は、預言者ムハンマド亡き後のイスラーム共同体、イスラーム国家の指導者、最高権威者の称号である。.
カール4世 (神聖ローマ皇帝)
ール4世(Karl IV.,1316年5月14日 - 1378年11月29日)は神聖ローマ帝国のローマ皇帝。ルクセンブルク家第2代の皇帝(在位:1355年 - 1378年)、ローマ王(ドイツ王)(在位:1346年 - 1378年)。ボヘミア(ベーメン)王カレル1世(Karel I., 在位:1346年 - 1378年)としても著名である。フランス語名ではシャルル(Charles)。 文人皇帝として知られ、しばしば、最初の「近代的」君主と称される坂井(2003)pp.63-66。金印勅書の発布やプラハ大学の創設、教皇のローマ帰還への尽力などで知られる。 ローマ皇帝ハインリヒ7世の孫で、父はボヘミア王ヨハン(ヤン)、母はボヘミア及びポーランドの王ヴァーツラフ2世の娘エリシュカ。 モラヴィア辺境伯(在位:1334年 - 1349年)、ルクセンブルク伯でもあった(在位:1346年 - 1353年)。 チェコで流通している100コルナ紙幣に肖像が使用されている。.
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カール大帝
ール大帝(カールたいてい、742年4月2日 - 814年1月28日)は、フランク王国の国王(在位:768年 - 814年)。西ローマ皇帝厳密にはコンスタンティノス6世の後継者としての「ローマ帝国全土の皇帝」であるが、同時代に存在した東ローマ皇帝との地理的関係から、現代においては西ローマ皇帝とも表記される。同じく西ローマ皇帝と表記されるロムルス・アウグストゥルス以降に途絶えた西方正帝の地位を復活させたものではないことに注意を要する。(在位:800年 - 814年)。初代神聖ローマ皇帝とも見なされる。カロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン)の子。フランス語でシャルルマーニュ といいラテン語ではカロルス・マグヌス 、ドイツ語ではカール・デア・グローセ 、英語ではフランス語綴りを英語読みでシャーレメイン、または英訳してチャールズ・ザ・グレート 、イタリア語ではカルロ・マーニョ 、スペイン語ではカルロマグノ 、ポルトガル語ではカルロス・マグノ 、トルコ語ではフランス語綴りを音訳してシャルルマン (Şarlman) という。日本ではカール大帝の名が世界史の教科書などで一般的に使用されているが、フランス語のシャルルマーニュもフランスの古典叙事詩や歴史書などからの翻訳でよく知られている。、またカール1世(シャルル1世)ともいう。ドイツ、フランス両国の始祖的英雄と見なされていることから、ドイツ風とフランス風の呼び方を共に避けて英語読みのチャールズ大帝という表記が用いられることもある。 768年に弟のカールマンとの共同統治(分国統治)としてカールの治世は始まり、カールマンが771年に早世したのちカールは43年間、70歳すぎで死去するまで単独の国王として長く君臨した。カールは全方向に出兵して領土を広げ、フランク王国の最盛期を現出させた。800年にはローマ教皇レオ3世によってローマ皇帝として戴冠されたが、東ローマ帝国ではカールのローマ皇帝位を承認せず、僭称とみなした。1165年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世によってカール大帝は列聖された。カール大帝は、古典ローマ、キリスト教、ゲルマン文化の融合を体現し、中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として扱われており、「ヨーロッパの父」とも呼ばれる。カール大帝の死後843年にフランク王国は分裂し、のちに神聖ローマ帝国・フランス王国・ベネルクス・アルプスからイタリアの国々が誕生した。.
カトリック教会
トリック教会(カトリックきょうかい、)は、ローマ教皇を中心として全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座に置くことからローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。.
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カエサル (称号)
イウス・ユリウス・カエサル カエサル(Caesar)は、ローマ帝国およびその継承国家で用いられた君主号である。 共和政ローマ末期の終身独裁官ガイウス・ユリウス・カエサルは、内戦での勝利を経て事実上の単独支配を確立し、帝政の礎を築いた。これを継承し、実際に帝政(プリンキパトゥス)を開始したオクタウィアヌス(アウグストゥス)もまた、カエサル家の養子となっておりガイウス・ユリウス・カエサルに後継者として選ばれた後は「カエサル」の名はオクタウィアヌスの名でもあった。 帝政を確立したアウグストゥスは自分の後継者も養子としてカエサルの名を継がせており、ユリウス・クラウディウス朝の皇帝たちは皆、カエサルの家族名を持っていた。このため「カエサル」は皇帝の家族名であると同時に徐々に皇帝そのものを指す一般名詞としても機能するようになっていった。イエス・キリストが語ったとされる言葉「カエサルのものはカエサルに」はこうした用法の例といえ、ここでの「カエサル」は具体的には当時のティベリウス帝を指しているものの、もっと広い意味でローマ皇帝=ローマ帝国一般を指しているともとることができる。 こうした皇帝を指す一般名詞としての「カエサル」の用法は、ユリウス・クラウディウス朝が断絶したあとの皇帝たちもカエサルを名乗ったことから確立されていった。また皇帝たちは自らの後継者にカエサルの名を与えたため「カエサル」は次期元首を意味するようにもなっていった。 次期元首としてのカエサルの用法はローマ帝国後期(専制君主制、ドミナートゥス)に入ると副帝をあらわす称号として使われるようになり、正帝(アウグストゥス)を補佐する者として使われるようになった。ビザンツ帝国でも当初は副帝を指すことば(ギリシア語では「カイサル」)だったが、11世紀後半のコムネノス王朝時代には、セバストクラトール・デスポテースなどの皇帝(バシレウス)の下位・カエサル(カイサル)より上位に位置づけられた爵位が多数新設されて、そのなかに埋没してしまった。 このように「カエサル」の名はローマ皇帝を指す語として使われてきたため、ヨーロッパ各国では皇帝を意味する語として「カエサル」に由来する単語が使用されることも多い。代表的なものとして、ドイツ語のカイザー (Kaiser) やロシア語のツァーリ (Царь, Tsar) がある。 イスラームの伝統的な歴史学においては、タバリー以前から初代ローマ皇帝アウグストゥス以来の歴代ローマ帝国皇帝やその後の西ローマ皇帝、東ローマ皇帝などをアラビア語でカイサル (قيصر, Qayṣar) と呼んでいた。東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン帝国では、オスマン語(およびトルコ語)でカイセル (قيصر, Qayṣar/Kayser) と言い、主にローマ皇帝を表すものとしてルーム・カイセリ (Kayser-i-Rûm) という称号が用いられ、スレイマン1世などの一部のスルタンは東ローマの継承者であることを示すためにこの称号を用いた。.
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カガン
ン(古テュルク語: qaγan、漢語:可汗、可寒)は、古代北方遊牧騎馬民族で用いられた君主号の一つ。後に訛ってカアン (qa'an / qaγan) →ハーン (хаан / khaan) となった。.
ガリヴァー旅行記
『ガリヴァー旅行記』(ガリヴァーりょこうき、Gulliver's Travels)は、アイルランドの風刺作家ジョナサン・スウィフトにより、仮名で執筆された風刺小説である。原版の内容が大衆の怒りを買うことを恐れた出版社により、大きな改変を加えられた初版が1726年に出版され、1735年に完全な版が出版された。正式な題名は、『船医から始まり後に複数の船の船長となったレミュエル・ガリヴァーによる、世界の諸僻地への旅行記四篇』 ("Travels into Several Remote Nations of the World, in Four Parts.)である。 本書は出版後間もなく非常な人気を博し、それ以来現在に至るまで版を重ね続けている。イングランドの詩人ジョン・ゲイは1726年にスウィフトに宛てた手紙の中で、「内閣評議会から子供部屋に至るまで、この本はあらゆる場所で読まれている」と述べている。.
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ガーナ王国
ーナ王国 (Ghana) 、もしくはガーナ帝国は、8世紀(4世紀頃とも)から11世紀(13世紀とも)にかけて、サハラ越えの金と岩塩の隊商貿易の中継地として繁栄した黒人王国である。金や岩塩のほかにも、銅製品・馬・刀剣・衣服・装身具などの各種手工業製品の交易路を押さえ、その中継貿易の利で繁栄した。 ノク文化にはじまると考えられる西アフリカの鉄器時代前半のニジェール川流域周辺には、ニジェール=コンゴ語族に属するマンデ人による kafu とよばれる政治的単位ないし小首長国が形成されていた。1つの kafu は、合計すると10000人–50000人の規模に達する村落の連合体であり、それぞれの kafu は、マンサ (mansa) と呼ばれる宗教的、世俗的権威を兼ね備えた王ないし首長によって支配されていた。ガーナ王国はそんな kafu のうち、マンデ人の北方のソニンケ語 (Sonink) を話す人々ソニンケ族の kafu の連合国家であった。.
ガイウス・ユリウス・カエサル
イウス・ユリウス・カエサル(古典ラテン語:Gaius Iulius Caesar、紀元前100年 - 紀元前44年3月15日)は、共和政ローマ期の政治家、軍人であり、文筆家。「賽は投げられた」(alea iacta est)、「来た、見た、勝った」(veni, vidi, vici) 、「ブルータス、お前もか (et tu, Brute?)」などの特徴的な引用句でも知られる。また暦で彼の名称が使用されていた(ユリウス暦)時期が存在していた。 古代ローマで最大の野心家と言われ、マルクス・リキニウス・クラッスス及びグナエウス・ポンペイウスとの第一回三頭政治と内戦を経て、ルキウス・コルネリウス・スッラに次ぐ終身独裁官(ディクタトル)となった。.
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ギリシア語
リシア語(ギリシアご、現代ギリシア語: Ελληνικά, または Ελληνική γλώσσα )はインド・ヨーロッパ語族ヘレニック語派(ギリシア語派)に属する言語。単独でヘレニック語派(ギリシア語派)を形成する。ギリシア共和国やキプロス共和国、イスタンブールのギリシア人居住区などで使用されており、話者は約1200万人。また、ラテン語とともに学名や専門用語にも使用されている。省略形は希語。.
クーデター
ーデター()は、一般に暴力的な手段の行使によって引き起こされる政変を言う。 フランス語で「国家の一撃」もしくは「国家に対する一撃」を意味し、発音は(ク・デタ) 、(クーデイター)である。日本語では「クーデタ」や「クー・デ・タ」と表記することもある。英語では単に「coup(クー)」と表記されることが多い。 社会制度と支配的なイデオロギーの政治的な転換については革命、統治機構に対する政治的な対抗については反乱、政治的な目的を達成するための計画的な暴力の行使についてはテロリズム、単一国家の国民が階級や民族・宗派などに分かれて戦う武力紛争については内戦をそれぞれ参照されたい。.
グレゴリウス1世 (ローマ教皇)
レゴリウス1世(Gregorius I, 540年? - 604年3月12日)は、ローマ教皇(在位:590年9月3日 - 604年3月12日)。問答者グレゴリウス(Dialogos Gregorios)、大聖グレゴリウスとも呼ばれる。典礼の整備、教会改革で知られ、中世初期を代表する教皇である。四大ラテン教父の一人。ローマ・カトリックでは聖人、教会博士であり、祝日は9月3日。 東方正教会でも聖人で記憶日は3月25日。日本ハリストス正教会では先備聖体礼儀の作成者・ロマの「パパ」問答者聖グリゴリイ(鍵括弧原典ママ)と呼ばれる。.
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グプタ朝
プタ朝(グプタちょう、Gupta Empire)は、古代インドにおいて、西暦320年から550年頃まで、パータリプトラを都として栄えた王朝である。4世紀に最盛期を迎え、インド北部を統一した。.
ゲルマン人
1世紀のゲルマニア。スエビ人(おそらくケルト系が主)やヴァンダル人(おそらくスラヴ系が主)など、母語がゲルマン語派の言語かどうかが怪しまれている民族も含まれている。 ゲルマン人(ゲルマンじん、ドイツ語:Germanen)は、現在のドイツ北部・デンマーク・スカンディナヴィア南部地帯に居住していたインド・ヨーロッパ語族 - ゲルマン語派に属する言語を母語とする諸部族・民族百科事典マイペディア、平凡社。。先史時代,歴史時代初めのゲルマン語を話す部族および部族連合を原始ゲルマン人、または古ゲルマン人と呼ぶ日本大百科全書(ニッポニカ)「ゲルマン人」平城照介。原始ゲルマン人は中世初期に再編されゲルマン民族となり、4世紀以降フン人の西進によって、ゲルマン系諸民族は大移動を開始し、ローマ領内の各地に建国して、フランク、ヴァンダル、東ゴート・西ゴート、ランゴバルドなどの新しい部族が形成された。 原始ゲルマン人は現在のデンマーク人、スウェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人、アングロ・サクソン人、オランダ人、ドイツ人などの祖先となった。アングロ・サクソン人になったゲルマン人系部族にはアングル人、サクソン人、ジュート人、フリース人がいた岩谷道夫「スエービーとアレマンネン」法政大学キャリアデザイン学部、2004。.
コンスタンティノープル
ンスタンティノープル(Constantinople、: Constantinopolis、: Κωνσταντινούπολις)は、東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブールの前身である。 強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。正教会の中心地ともなり、現在もコンスタンディヌーポリ総主教庁が置かれている。.
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コンスタンティノス11世
ンスタンティノス11世パレオロゴス・ドラガセス(ギリシア語:、ラテン文字転写:Kōnstantinos XI Palaiologos Dragasēs、1405年2月8日 - 1453年5月29日)は、東ローマ帝国パレオロゴス王朝の皇帝(在位:1449年 - 1453年)。東ローマ帝国最後、すなわちローマ帝国最後の皇帝である。中世ギリシア語読みではコンスタンディノス11世ドラガシス・パレオロゴス。後述する数え方の違いから「12世」ないし「13世」と呼ぶこともある。.
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コンスタンティノス6世
ンスタンティノス6世(ギリシア語:Κωνσταντίνος ΣΤ' (Kōnstantinos VI))、771年1月14日 - 797年?)は、東ローマ帝国イサウリア朝(シリア朝)の第4代皇帝(在位:780年 - 797年)。同王朝第3代皇帝レオーン4世の子。.
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コンスタンス2世
ンスタンス2世“ポゴナトス”(Κώνστας Βʹ ὁ Πωγώνατος、630年11月7日 - 668年9月15日)は、東ローマ帝国ヘラクレイオス王朝の皇帝(在位:641年 - 668年)。コンスタンティノス3世の子で、元の名はフラビオス・ヘラクレイオス。のち「コンスタンティノス」。「コンスタンス」は「小さなコンスタンティノスの意味」で、“ポゴナトス”は「髭が生えている」を意味するあだ名。本名から「コンスタンティノス4世」と呼ぶ場合もある。.
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シメオン1世
メオン1世が刻まれた銅貨 シメオン1世が刻まれたもう一種類の銅貨 シメオン1世(Симеон I, 863年頃 - 927年5月27日)は、第一次ブルガリア帝国の君主(在位:893年 - 927年)。ボリス1世の三男。一時期は東ローマ帝国を圧倒し、自らを「ローマ人とブルガリア人の皇帝にして専制君主」と称した。シメオン大帝とも呼ばれる。.
シメオン・ベクブラトヴィチ
メオン・ベクブラトヴィチ(, ? - 1616年1月5日)は、カシモフ・ハン国のハン(在位1567年 - 1573年)。ムスリム名はサイン・ブラト()。イヴァン4世の一時的な譲位により、全ルーシの大公(在位1574年 - 1576年)とされた。.
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シャー
ャー(shāh شاه)は、「王」を意味するペルシア語、または王の称号。古代ペルシア語の"χšāyaθiya-"に由来する。もともとイラン系の王の称号であったが、イスラーム時代以降はイラン系のみならずイラン・イスラーム文化の影響を受けたテュルク・モンゴル系の王侯でも称号や人名などに使われるようになった。また「シャーハンシャー」 شاهنشاه shāhan-shāh とはパフラヴィー語のシャーハーン・シャー šāhān-šāh 「šāh-ān(「王」の複数形)+šāh(王);"諸王の王"、"王の中の王"の意味」のアラビア語転写ないしアラビア語形である。.
シンボリルドルフ
ンボリルドルフ (Symboli Rudolf) は、日本の競走馬である。日本競馬史上4頭目の中央競馬クラシック三冠馬(無敗で三冠達成した初の馬)であり、その他のGI競走を含めると史上初の七冠馬でもある。1984年度優駿賞年度代表馬および最優秀4歳牡馬、1985年度同年度代表馬および最優秀5歳以上牡馬。主戦騎手は岡部幸雄。1987年、顕彰馬に選出された。 馬名「シンボリ英語で「象徴」を意味する「Symbol」を変形させた造語。」は馬主の冠名、「ルドルフ」は神聖ローマ帝国の皇帝ルドルフ1世にちなんで名づけられた。その競走成績・馬名から「皇帝」、または「七冠馬」と称される。 ※以下、馬齢はすべて2000年以前に使用された旧表記(数え年)にて記述する。.
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ジャン=ベデル・ボカサ
ャン=ベデル・ボカサ(Jean-Bédel Bokassa, 1921年2月22日 - 1996年11月3日)は、中央アフリカ共和国の大統領(在任:1966年 - 1976年)、中央アフリカ帝国皇帝としてはボカサ1世(Bokassa I, 在位:1977年 - 1979年)。 Imperial_Standard_of_Bokassa_I_(1976–1979).svg|中央アフリカ帝国の皇帝旗.
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ジャン=ジャック・デサリーヌ
ポルトープランスに残るデサリーヌの壁画 ジャン=ジャック・デサリーヌ (Jean-Jacques Dessalines,1758年9月20日 - 1806年10月17日)は、ハイチ独立運動指導者、独立後最初の統治者であり、1805年には自らジャック1世として皇帝の座に就いた。今日もハイチ建国の父として敬愛されている。 ハイチ革命において、フランス植民地だったサン=ドマングで、トゥーサン・ルーヴェルチュールの部下として活躍した。1802年に彼が拘束されると反乱軍の新たな指導者として再蜂起し、1803年11月18日ヴェルティエールの戦いでナポレオンの派遣したジャン=バティスト・ド・ロシャンボーの子ドナチアン=マリ=ジョゼフ・ド・ロシャンボー率いるフランス軍を破り、サン=ドマング領内から駆逐した。1804年に独立宣言し、国名をサン=ドマングから先住民であるタイノ人がつけた名であったハイチに変更した。ムラートと黒人の将校による議会から総督に選ばれ、さらにナポレオンに倣って皇帝として即位した。権力を掌握すると報復として白人を大量に殺した。しかし、皇帝になったものの、北部のアンリ・クリストフと南部のアレクサンドル・ペションらの勢力に圧迫され、1806年に暗殺された。.
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ジョチ・ウルス
ョチ・ウルス()は、13世紀から18世紀にかけて、黒海北岸のドナウ川、クリミア半島方面から中央アジアのカザフ草原、バルハシ湖、アルタイ山脈に至る広大なステップ地帯を舞台に、チンギス・カンの長男ジョチの後裔が支配し興亡した遊牧政権(ウルス)。一般にキプチャク・ハン国の名で知られる国とほぼ同じものである。.
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ジョアン6世 (ポルトガル王)
ョアン6世(João VI, 1767年5月13日 - 1826年3月10日)は、ポルトガル王(在位:1816年 - 1826年)。マリア1世と王配ペドロ3世の子。1792年から摂政を務める。王妃はスペイン王カルロス4世の長女カルロッタ・ジョアキナ。.
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ジョシュア・ノートン
ョシュア・エイブラハム・ノートン(Joshua Abraham Norton、1819年? - 1880年1月8日)は19世紀のアメリカに実在した王位僭称者。 自身を皇帝ノートン1世(Emperor Norton I)と称し、更には当時アメリカと敵対状態にあったメキシコの保護者として帝位請求を行った。.
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スラヴ語派
ラヴ語派(スラヴごは)とは、インド・ヨーロッパ語族バルト・スラヴ語派の一派で、スラヴ系諸民族が話す言語の総称。かつては同民族の祖先スラヴ人に話される「スラヴ祖語」が存在したと想定されるが、スラヴ人の民族大移動の頃(5 - 6世紀)から分化が進み、次第に各語群が独自の特徴を明確にし始め、12世紀には単一言語としての統一は完全に失われた。.
スルターン
ルターン(سلطان sultān)は、イスラム世界における君主号(君主の称号)のひとつ。アラビア語で「権力(者)」、「権威(者)」を意味する。マレー語・トルコ語などの発音に準じてスルタンと書かれることも多く、「国王」、「皇帝」などとも訳される。古くは英語における発音の音訳によってサルタンとも書かれたが、近年では稀である。.
スレイマン1世
レイマン1世(,, I. Süleyman.、 1494年11月6日 - 1566年9月7日)は、オスマン帝国の第10代皇帝(在位:1520年 - 1566年)。9代皇帝セリム1世の子。 46年の長期にわたる在位の中で13回もの対外遠征を行い、数多くの軍事的成功を収めてオスマン帝国を最盛期に導いた。英語では「壮麗帝(the Magnificent)」のあだ名で呼ばれ、日本ではしばしばスレイマン大帝と称される。トルコでは法典を編纂し帝国の制度を整備したことから「立法帝(カーヌーニー、, Kanuni)」のあだ名で知られている。 名前のスレイマン(Süleyman)とは、ユダヤ教やキリスト教と共にイスラム教でも聖典とされる旧約聖書に記録された古代イスラエルの王、「ソロモン王」のアラビア語形である「スライマーン」(سليمان, Sulaymān)のトルコ語発音である。 またオスマン帝国の歴史において「スレイマン」の名を持つ最初の皇帝であることから「スレイマン1世」と呼ばれるが、まれにバヤズィト1世がアンカラの戦いでティムールに敗れた直後にエディルネで君臨したバヤズィト1世の長男スレイマン・チェレビーを1世に数えることがあるので、その場合は「スレイマン2世」と呼ばれることもある。.
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ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン
テファン・ウロシュ4世ドゥシャン(Цар Стефан Душан силни, Stefan Uroš IV Dušan Silni, 1308年 - 1355年12月20日)は、セルビア王国、セルビア帝国のネマニッチ朝の君主(国王在位:1331年9月8日 - 1346年、皇帝在位:1346年 - 1355年12月5日)。ステファン・ウロシュ3世デチャンスキの子。.
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セルビア帝国
セルビア帝国(Српско Царство)は、セルビア王国ネマニッチ朝の君主ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの皇帝即位により1346年に成立した帝国。 東ローマ帝国ではアンドロニコス2世パレオロゴスとアンドロニコス3世パレオロゴスによる内紛が起こり、勢力が減退していた。一方、ウロシュ4世はアルバニアとマケドニアを奪取して、セルビア王国の最大領土を形成した。さらにその拡大した勢力を背景として1345年、「セルビア人とローマ人の皇帝」と称してセルビア主教を総主教に格上げし、翌年には皇帝として即位した。そして1349年には『ドゥシャン法典』を発布して、セルビア帝国の最盛期を築き上げた。 しかしウロシュ4世の死後、セルビア帝国は急速に衰退する。ウロシュ4世の息子ステファン・ウロシュ5世は単独で帝位を維持しきれず、ムルニャヴチェヴィチ家のヴカシンとの共同統治となる。その後ウロシュ5世が死去してネマニッチ朝は断絶し、帝国は解体した。 その後、国家はラザル・フレベリャノヴィチのセルビア公国に引き継がれる。 Category:セルビアの歴史 Category:かつてバルカンに存在した国家 *ていこく.
セルビア王国 (中世)
ルビア王国(セルビアおうこく、Краљевина Србија)は、現在のセルビアを中心とした中世の王国。.
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ゼノン (東ローマ皇帝)
ノン(Ζήνων, Zenon, 426年 - 491年4月9日)は、東ローマ帝国の皇帝(在位:474年 - 491年)。アナトリア半島イサウリア地方の少数民族の族長で、本名はタラシコデッサ。.
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ソンガイ帝国
ンガイ帝国(Songhay、1464年–1590年)は、15世紀後半から16世紀にニジェール川湾曲部を中心に西スーダンのほぼ全域を事実上支配した黒人王国である。ソンガイ帝国の歴史は、イスラム的伝統が優位にたつ王の治世とソンガイ的伝統が優位にたつ王の治世が交互に繰り返されている。前者はアスキア・ムハンマド1世(位1493年 - 1528年)と(位1549年 – 83年)の治世であり、後者は、スンニ・アリ大王(位1464年–93年)やその後のスンニ朝の王たちの治世である。.
ゾイ・パレオロギナ
ゾイ・パレオロギナ、頭蓋骨を元に復元された容貌 ゾイ・パレオロギナまたはゾエ・パレオロギナ(Ζωή Παλαιολογίνα, 1440年から1449年の間、または1455年頃 - 1503年4月7日)は、モスクワ大公イヴァン3世の2番目の妃。最後のビザンツ皇帝コンスタンティノス11世の姪にあたる。ロシア名ソフィヤ・フォミーニチナ・パレオローク(Софи́я Фоми́нична Палеоло́г)。.
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サンチョ3世 (ナバラ王)
ンチョ3世ガルセス(Sancho III Garcés, 10世紀以降 - 1035年10月18日)は、ヒメノ朝ナバラ王国の第6代国王(在位:1004年 - 1035年)。バスク人の民族的英雄である初代国王イニゴ・アリスタの末裔にあたる。積極的な婚姻外交によってカスティーリャ、アラゴン、レオンと北イベリアの多くのキリスト教国家を支配下に収めバード、P60。、「イベリア王」を名乗ったことから「大王(el Mayor)」と称される。.
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サーサーン朝
ーサーン朝(サーサーンちょう、Sassanid、ساسانيان - 、226年 - 651年)はイラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝・帝国。首都はクテシフォン(現在のイラク)。.
サパ・インカ
9代目サパ・インカ '''パチャクテク'''の像(ペルー) サパ・インカ(Sapa Inka、Sapa Inca、ケチュア語で唯一の王)は、インカ帝国で使用された君主の称号(君主号)。一般に『皇帝』と訳されることが多い。.
サファヴィー朝
ファヴィー朝(ペルシア語:صفويان Safaviyān)は、16世紀から18世紀前半にかけてペルシア (現在のイランを中心とした地域)を支配したイスラーム王朝(1501年 - 1736年)。.
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唐
唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.
冊封
冊封(さくほう、さっぽう)とは、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係の一種。「天子」とは「天命を受けて、自国一国のみならず、近隣の諸国諸民族を支配・教化する使命を帯びた君主」のこと。中国の歴代王朝の君主(元朝、清朝を含む)たちが自任した。 冊封が宗主国側からの行為であるのに対し、「朝貢国」の側は.
公
公(こう)とは、古代の中国語では個々に細かく分かれた「私」を包括した全体を意味する語である。また、一部に偏らないという意味を含む。このことから「公平」という熟語を生ずる。 この項目では中国に限らず、「公」に相当する日本やヨーロッパにおける称号、爵位、尊称などについても述べる。.
公国
公国(こうこく)は、「公」すなわち貴族を君主として有する国。「王国」(Kingdom)が一般に「国王」を君主として有するのに対し、公国は「公」を君主として有する。英語のduchy(dukeが治める国、領地)とprincipality(Princedom, princeが治める国、領地)が「公国」と訳される。.
公用語
公用語(こうようご)とは、国、州など、ある集団・共同体内の公の場において用いることを公式に規定した言語を指す。その集団が有する公的機関には義務が課され、公的情報を発信する際等には公用語を用いなければならない。「公共言語」というように間違えないよう注意。 ある国において公用語として複数の言語が定められた場合には、その全ての言語を用いて公的情報を国民へ伝えなければならない。従ってこの場合、国家(あるいは集団)の公的機関は、全ての公用語を併記し通訳して伝えることになる。これによって、指定された複数の言語のうちどれか一つの言語だけを理解する国民(や構成員)に対しても不利益を生じさせないという原則が守られる。 一言語集団が大多数を占める国家や圧倒的に強い力を持っている国家の場合、公用語を法律で定めていない場合もある。.
共同体
共同体(きょうどうたい)とは.
共和制
共和政(きょうわせい、republic)は、人民または人民の大部分が統治上の最高決定権を持つ政体で、政体のとる制度を共和制(きょうわせい、republic)という 。現代の一般的な定義では、「君主ではない元首を持っている政体」「君主制ではない政体」である。 共和制では政府の大半の意思決定が元首の裁量によらず制定法を参照して行われることから、現在では君主制は共和制では無いとされる場合が多い。.
共和政ローマ
共和政ローマ(きょうわせいローマ)は、紀元前509年の王政打倒から、紀元前27年の帝政の開始までの期間の古代ローマを指す。 この時期のローマは、イタリア中部の都市国家から、地中海世界の全域を支配する巨大国家にまで飛躍的に成長した。帝政成立以後ではなく地中海にまたがる領域国家へと発展して以降を「ローマ帝国」と呼ぶ場合もある。また、1798年に樹立されたローマ共和国 (18世紀)、1849年に樹立されたローマ共和国 (19世紀)と区別するために「古代ローマ共和国」と呼ばれることもある。.
元首
元首(げんしゅ)または国家元首(こっかげんしゅ、dux civitatis、chef d’État、head of state)とは、.
元老院 (ローマ)
チェーザレ・マッカリ画(1888年) 現存する帝政ローマ期の元老院議事堂であるフォルム・ロマヌムのクリア・ユリア 元老院(げんろういん、senātus、セナートゥス)は、古代ローマの統治機関。.
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元老院 (日本)
元老院(げんろういん)は、明治初期の日本の立法機関。新法の制定と旧法の改定を行うこととしたが、議案は天皇の命令として正院(後に内閣)から下付され、緊急を要する場合は事後承認するだけになるなど権限は弱かった。構成者は元老院議官と称した。.
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光仁天皇
光仁天皇(こうにんてんのう、和銅2年10月13日(709年11月18日) - 天応元年12月23日(782年1月11日))は、第49代天皇(在位:宝亀元年10月1日(770年10月23日) - 天応元年4月3日(781年4月30日))。和風諡号は「天宗高紹天皇」(あまつむねたかつぎのすめらみこと)。天智天皇の第7皇子・施基親王(志貴皇子)の第6子で白壁王と称した。母は紀橡姫(贈太政大臣紀諸人の娘)。.
前漢
前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。 7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。 漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「漢字」)。 文中の単位については以下の通り。距離・1里=30歩=1800尺=415m 面積・1畝=1/100頃=4.65a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖.
国
国(くに、こく)は、一般的に、住民・領土・主権及び外交能力(他国からの承認)を備えた地球上の地域のこと。ほとんどの国が憲法を成文法で作成し、自国の権利や能力を他国に表明している。新しい国を作ることに関し、すでに在る国が憲法改正や革命など「新憲法制定」によって生まれ変わる場合もある。.
国史大辞典
国史大辞典(こくしだいじてん)は、吉川弘文館が明治時代と昭和時代に2度にわたって刊行した日本史の辞典である。.
国家
国家(こっか)とは、国境線で区切られた国の領土に成立する政治組織で、その地域に居住する人々に対して統治機構を備えるものである。領域と人民に対して、排他的な統治権を有する(生殺与奪の権利を独占する)政治団体もしくは政治的共同体である。 政治機能により異なる利害を調整し、社会の秩序と安定を維持していくことを目的にし社会の組織化をする。またその地域の住民は国家組織から国民あるいは公民と定義される。.
国家主席
国家主席(こっかしゅせき)とは、アジアにおける社会主義国の国家元首の役職名である。1990年までのソビエト連邦における元首は「最高会議幹部会議長」であり、他の旧「東欧」の社会主義国では「国家評議会議長」あるいは「大統領」が国家元首の役職名であった。 なお、英語では「President」(「大統領」の意)と訳される。.
国王
国王(こくおう、英語:king, フランス語:roi, ドイツ語:König, ノルド語:kong, ラテン語:rex)は、国の君主(王)を指し、その称号(君主号)でもある。特に男性である場合(男王)を指す。.
国際関係
国際関係(こくさいかんけい、International relations, IR)とは、国家と国家の間に生じるさまざまな関係を指す。 二国間関係から多国間関係までを包括する概念であり、政治的、経済的、社会的、文化的、軍事的な関係性を含んでいる。これを研究する学問に国際関係論がある。.
国民投票
国民投票(こくみんとうひょう、referendum、レファレンダム、国民表決)は、国民が直接的な投票によって、国家的な議案を意思決定する制度。 国民投票は直接民主主義の制度の1つで、国民が直接決定するものである。このため間接民主主義の制度である議員の選挙や議会での議決などとは異なる。多くの国では間接民主主義と直接民主主義が併用されている。.
皇后
皇后(こうごう、Empress)は、天皇や皇帝の正妃(正妻)、およびその人物に与えられる称号。 一夫多妻制のもとでは、天皇や皇帝の複数の妻のうち最上位の者となる。.
皇太子
皇太子(こうたいし、Crown Prince)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号。一般的には皇室ならびに海外の王室における君主位の法定推定相続人の敬称として使われる。.
皇室
皇室(こうしつ)は、天皇および皇族の総称。 狭義には内廷皇族、広義には天皇とその近親である皇族を意味するが、皇族の範囲は時期によって異なる。 近代(明治維新)以降は、天皇と内廷皇族を家族とする内廷と皇太子以外の皇族男子及びその家族で構成される宮家を意味する。 皇室典範第五条に定める、天皇の配偶者である皇后、先代の天皇の未亡人である皇太后、先々代の天皇の未亡人である太皇太后、また、皇太子(皇太孫)、皇太子妃(皇太孫妃)、皇族男子たる親王、王、さらには生まれながらの皇族女子である内親王、女王がある。親王妃、王妃は親王、王の配偶者となることをもって、皇族とされる。戦前(大日本帝国憲法下、日本国憲法施行まで)においては、帝室(ていしつ)とも呼ばれていた。 一般国民の女性は、皇族男子との婚姻により皇族になることができる。また、15歳以上の内親王、王、女王はその意思により、皇太子、皇太孫を除く親王、内親王、王、女王は、その意思によるほかにやむをえない特別の事由があるとき、皇室会議の議決を経て皇族の身分を離脱できる。なお、皇族女子は天皇、皇族以外の者と婚姻したとき皇族の身分を離れる(臣籍降下・臣籍降嫁)。.
皇帝 (中国)
中国史における皇帝(こうてい、)とは、一般に、紀元前221年に秦朝の政王が中国統一を機に始皇帝と号してから、辛亥革命を受けて1912年に愛新覚羅溥儀が清皇帝を退位するまでの中国の君主を指す。皇帝はまた、皇帝号が用いられる以前の周や殷の君主を含めて天子とも称され、天下(地上世界)の支配者とみなされた。実際には、すべての皇帝が中国全土における最高権力を握っていたわけではないが、その場合でも通常は「天子」と呼ばれた。 皇帝を同一の家系ごとに歴史上の各区分に分けたものを王朝と呼ぶ。中国の大半の帝政支配者は、漢民族に属すると通常考えられているものの、近年の学界では、現在の民族分類を過去の歴史的状況に適用することに慎重な傾向がある。モンゴル系民族および満州民族に支配された元王朝と清王朝は、史学上の通説では、外来の王朝が中国化されたものと考えられているが、近年の一部学者(たとえば新清史学派 New Qing History schoolの学者ら)は、両王朝では、通説よりもはるかに複雑なかたちで政治と民族とが互いに影響を与え合ったと主張する。とは言え、この両王朝の支配者はともに、中国本土を支配するのに、天命という伝統的な儒教に基づく皇帝の概念を必要とした。.
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皇帝 (タロット)
ウェイト版タロットの皇帝 マルセイユ版タロットの皇帝 皇帝(こうてい、英:The Emperor, 仏:L'Empereur)は、タロットの大アルカナに属するカードの1枚。 カード番号は「4」。前のカードは「3 女帝」。次のカードは「5 教皇」。.
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皇帝祭祀
天壇明清時代に南郊が行われた。世界遺産に登録されている 皇帝祭祀(こうていさいし)とは、中国の皇帝が執り行った国家祭祀。中国の皇帝は皇帝祭祀を行うことにより、祭祀王権としての側面も持った。.
皇族
女王旗)皇室儀制令19条では「親王旗親王妃旗内親王旗王旗王妃旗女王旗」。 皇族(こうぞく)は、天皇の親族のうち、男系の嫡出の血族(既婚の女子を除く)およびその配偶者の総称。すなわち、皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃および女王の総称であり、天皇は含まれない。天皇を含む場合は「皇室」という。.
王
王(おう)は、おおむね国の君主(国王)を指し、その君主号である。また、特定の領土を持たずとも、ある部族や種族の長たる者を王と呼ぶ。転じて、ある特定の分野での頂点あるいは頂点に近い位置にある者、または物を指すこともある。 または、主に東アジア地域において用いられた爵位の一つ。.
王権
ア皇帝のレガリア(王権の象徴) 王権(おうけん)は、人々に君臨する王の権力、統治権のこと。.
王政ローマ
王政ローマ(おうせいローマ、羅:Regnum Romanum)は、古代ローマ最初期の政体である王政期を指す。のちに共和政ローマ、そして帝政ローマへと変遷する。.
社会秩序
会秩序(しゃかいちつじょ)は、社会学、歴史学、その他の社会科学において用いられる概念である。.
神聖ローマ帝国
聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、,,, Holy Roman Empire)は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家。9~10世紀に成立し、1806年まで続いた。西ローマ帝国の後継国家を称した。.
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神聖ローマ皇帝一覧
聖ローマ皇帝一覧(しんせいローマこうていいちらん)では、中世から近代にヨーロッパに存在した神聖ローマ帝国の統治者を、時代順に列挙している。歴史学においては神聖ローマ皇帝の系譜はカール大帝から始めるのが通例ではあるが、ローマ帝国期のローマ皇帝、すなわちカール大帝からベレンガーリオ1世までの皇帝の一覧についてはフランク・ローマ皇帝の項目に譲る。 ザクセン朝からヴェルフェン朝までの系図.
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神権政治
権政治(しんけんせいじ、θεοκρατια,theocracy シオクラシー)または神政政治、神聖政治(しんせいせいじ)とは、国家の政体の1種で、特定宗教を統括する組織と、国家を統治する機構が実体的に同等な場合である。対比概念は世俗主義である。ウェブスター辞典は「神の直接の導きによる、または神に導かれたと看做された高官による国家の統治」と定義している(Merriam-Webster).2017.3.13.検索。。 語源は、古典ギリシア語で「神」を意味する、theos (θεος) と、「支配する」という意味の動詞 kratein (κρατειν) から派生した名詞 kratia (κρατια) との合成語で、「theokratia (テオクラティア) 」とは文字通りには「神による支配」である。フラウィウス・ヨセフスが初めて用いたとされる。.
神武天皇
武天皇(じんむてんのう、庚午年1月1日 - 神武天皇76年3月11日『歴代天皇・年号事典』 吉川弘文館、2003年、p.
秦
(しん、、紀元前778年 - 紀元前206年)は、中国の王朝。周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に中国を統一したが、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間(紀元前221年 - 紀元前206年)を秦朝、秦代と呼ぶ。国姓の本姓は、氏は趙。統一時の首都は咸陽。.
称号
号(しょうごう、英語:Title)とは、主に個人または団体の公的な身分や資格、地位などを表す呼び名。.
立憲君主制
立憲君主制(りっけんくんしゅせい、Constitutional monarchy)または制限君主制とは、君主の権力が憲法により規制されている君主制。君主制とは、ある政治共同体において世襲の君主が主権を持つ政治形態。.
第4回十字軍
4回十字軍(だいよんかいじゅうじぐん、1202年 - 1204年)は、インノケンティウス3世によって呼びかけられ、フランスの諸侯とヴェネツィアを中心として行われた十字軍。当初の目的であった聖地には向かわず、キリスト教国の東ローマ帝国を攻略し、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル・現イスタンブール)を陥落させ、略奪・殺戮の限りを尽くしたため、最も悪名の高い十字軍として知られる。 東ローマ帝国を一旦滅亡させたため、この地域のキリスト教国家の力を削ぎ、後のオスマン帝国による東ヨーロッパの大部分の支配の伏線のひとつとなった。通常は1453年のコンスタンティノープル陥落をもって東ローマ帝国が滅亡したとされるが、この第4回十字軍で東ローマは実質的に滅亡したと見る歴史家もいる。.
第一次世界大戦
一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、World War I、略称WWI)は、1914年7月28日から1918年11月11日にかけて戦われた世界大戦である。.
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第一次ブルガリア帝国
一次ブルガリア帝国(ブルガリア語:Първа българска държава;英語:First Bulgarian Empire)は、7世紀より11世紀前半まで続いた東ヨーロッパのブルガリアに栄えた帝国。10世紀前半におけるシメオン1世の治世に全盛期を迎えたが、東ローマ帝国によって滅ぼされた。.
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第二次ブルガリア帝国
二次ブルガリア帝国(Второ българско царство, Second Bulgarian Empire)は、12世紀後半から14世紀末までブルガリアに存在した国家。14世紀末にオスマン帝国によって滅ぼされた。.
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糸部
糸部(べきぶ)は、漢字を部首により分類したグループの一つ。康熙字典214部首では120番目に置かれる(6画の3番目、未集の3番目)。 180px 「糸」字は細い絹糸を意味する。古字は2つの丸い束が連なった形であり、よりまとめられた糸の形に象る。「糸」の字音はベキであり、常用漢字の「糸」は「絲」(音はシ、絹糸の意)の略字である。『説文解字』に「糸は細い絲」とある。長さ・重さの単位として蚕が一回に吐くのを忽といい、十忽が絲であるので、「糸」は「絲」の半分とすると、5忽の細さということになる。ちなみに10絲が1毫、10毫が1厘である(尺貫法・市制を参照)。 偏旁の意符としては糸や縄、絹織物や麻織物、またその加工による衣服、染色の色や紋様などに関することを示す。このとき主として左の偏あるいは下の脚の位置に置かれる。楷書では偏の位置に来るとき「小」形を3点に変形させることが多い(下記参照)。.
紀元前10世紀
Jewish Museum (Manhattan)蔵)。 シバの女王。シバはイエメンかエチオピアに相当すると考えられ、この地と地中海東岸が紅海貿易で結ばれていたことを示す。 画像はピエロ・デラ・フランチェスカの「ソロモン王を訪問するシバの女王」(アレッツォの聖フランチェスコ聖堂フレスコ壁画)。 エジプト第21王朝の王プスセンネス1世。下エジプトのタニスを都とした第21王朝でこの王は半世紀近い治世を営んだ。またこの王の墓は古代エジプトを通じて唯一の未盗掘王墓だったことでも知られる。 紀元前10世紀(きげんぜんじゅうせいき)は、西暦による紀元前1000年から紀元前901年までの100年間を指す世紀。.
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紀元前27年
紀元前27年。.
紀元前7世紀
アッシリアの世界帝国。強力な軍事力と過酷な統治体制でアッシリアは最初の「世界帝国」を樹立した。画像は都ニネヴェの北宮殿を飾っていたアッシリア王アッシュールバニパルの浮き彫り(ロンドンの大英博物館蔵)。 第25王朝の崩壊とともにエジプトを離れ故地へと南下したヌビア人はこの地に幾つものピラミッドを造営した。 スパルタ。第二次メッセニア戦争でメッセニア人に勝利したことでスパルタは厳しい軍律を定める国民皆兵の社会を確立した。画像は現在のスパルタで、前景に古代の遺跡を、中景に新市街スパルティを、後景にタイゲトス山を望むことができる。 騎馬民族スキタイ。スキタイはユーラシア中央部に拠点を持ち交易や略奪を通じてオリエント諸国に大きな影響を与えた。画像はアゼルバイジャンのミンガチェヴィルで発見された黄金製動物意匠のベルトの留め金。 神武天皇。『日本書紀』『古事記』の神武東征の記録によると日向高千穂から出立し瀬戸内海を経て大和に入り、橿原宮で即位し初代の天皇になったとされる。画像は月岡芳年『大日本名将鑑』の金の鵄(とび)を従えて敵を圧倒する神武天皇。 紀元前7世紀(きげんぜんななせいき、きげんぜんしちせいき)は、西暦による紀元前700年から紀元前601年までの100年間を指す世紀。.
続日本紀
『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記である。略称は続紀(しょっき)。.
継体天皇
継体天皇(けいたいてんのう、允恭天皇39年(450年?) - 継体天皇25年2月7日(531年3月10日?))は、日本の第26代天皇。在位は継体天皇元年2月4日(507年3月3日?) - 同25年2月7日(531年3月10日?)。 諱はヲホド。『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記される。また、『筑後国風土記』逸文に「雄大迹天皇(をほどのすめらみこと)」、『上宮記』逸文に乎富等大公王(をほどのおおきみ)とある。 なお、隅田(すだ)八幡神社(和歌山県橋本市)蔵の人物画像鏡銘に見える「孚弟王(男弟王?)」は継体天皇を指すとする説がある(後述)別名として、『日本書紀』に彦太尊(ひこふとのみこと)とある。.
総統
総統(そうとう)とは、国家元首またはそれに匹敵する国家の最高指導者の地位を表す名称の1つ。日本語における「総統」の語義は「全体をすべくくること」 で、日本での用例は全体主義体制国家の最高指導者の地位を示す用例と、「President」の中国語訳として中華民国の国家元首を示す中華民国総統に大別される。.
義帝
義帝(ぎてい、生年不詳 – 紀元前206年)は、秦末の反秦勢力の名目上の盟主。西楚の君主。秦滅亡後の一時的な中国の傀儡皇帝。姓は羋(び)。名は心(しん)。楚の懐王の孫(一説では玄孫とも)。.
爵位
爵位(しゃくい、)とは主に古代から中世にかけての国家や現代における君主制に基づく国家において、貴族の血統による世襲または国家功労者への恩賞に基づき授与される栄誉称号のことである。別称として勲爵、爵号など。官職と爵位を総称して官爵ということもある。.
甲骨文字
文字(こうこつもじ)とは、中国・殷(商)時代の遺跡から出土する古代文字。 漢字の原初形態であり、現在確認できる漢字の最古の祖形を伝えている。古代中国で生まれ発達してきた文字(漢字)と獣骨を用いる占卜とが結びついて文字記録となったものである。亀甲獣骨文字、甲骨文ともいう。 殷後期(第22代殷王武丁以降)の考古学資料が小屯村(殷墟)で大量に出土した。亀の甲羅(腹甲)や牛や鹿の骨(肩胛骨)に刻まれた。 2017年、ユネスコが主催する世界記録遺産にも登録された。.
煬帝
帝(ようだい、ようてい)は、隋朝の第2代皇帝(在位:604年8月21日 - 618年4月11日)。中国史を代表する暴君といわれる。煬帝は唐王朝による追謚であり、本名は楊広である。.
白村江の戦い
白村江の戦い(はくそんこうのたたかい、はくすきのえのたたかい)は、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことである。.
銅貨
古代の銅貨 銅貨(どうか Copper coin)とは、銅を素材として作られた貨幣をいう。.
隋
隋(呉音: ずい、漢音: すい、 、581年 - 618年)は、中国の王朝。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城(現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。当時の日本である倭国からは遣隋使が送られた。.
選帝侯
ハインリヒ7世時代) 選帝侯(せんていこう、Kurfürst)は、神聖ローマ帝国において、ローマ王(ドイツ王)すなわち神聖ローマ帝国の君主に対する選挙権(選定権)を有した諸侯のことである。選挙権以外にも他の帝国諸侯とは一線を画した数々の特権を有した。選挙侯(せんきょこう)または選定侯(せんていこう)ともいう。.
遼
遼(りょう、簡体字:辽、拼音:Liáo)は、遼朝(りょうちょう)ともいい、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝。916年から1125年まで続いた。中原に迫る大規模な版図(現在の北京を含む)を持ち、かつ長期間続いた最初の異民族王朝であり、いわゆる征服王朝(金、元、清が続く)の最初とされる。ただし、後の3つの王朝と異なって中原を支配下にはおいていない。.
聖徳太子
聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日))・厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)は、飛鳥時代の皇族・政治家。「聖徳太子」は、後世の諡号。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。.
聖武天皇
聖武天皇(しょうむ てんのう、大宝元年(701年) - 天平勝宝8歳5月2日(756年6月4日)、在位:神亀元年2月4日(724年3月3日) - 天平勝宝元年7月2日(749年8月19日))は、日本(奈良時代)の第45代天皇。即位前の名は首皇子(おびとのみこ)。 尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)、沙弥勝満(しゃみしょうまん)とも言う。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。.
聖書
聖書(せいしょ)とは、キリスト教、ユダヤ教の教典、正典であり、イスラム教でも教典とされている。.
順 (王朝)
順(じゅん、1644年 - 1645年)は、大順(だいじゅん)ともいい、1644年に明朝を倒した李自成が建国を宣言した王朝。一時は現在の内地18省を実効支配し、満洲や新疆東部に羈縻機構を設置した。建国宣言当初は西安を首都と定めていたが、李自成が北京を攻略後、皇帝を称するにあたり北京を改めて首都と定めた。.
項籍
項 籍(こう せき、Xiàng Jí、紀元前232年 - 紀元前202年)は、秦末期の楚の武将。秦に対する造反軍の中核となり秦を滅ぼし、一時“西楚の覇王”(在位紀元前206年 - 紀元前202年)と号した。その後、天下を劉邦と争い(楚漢戦争)、当初は圧倒的に優勢であったが人心を得ず、次第に劣勢となって敗死した。 姓は項、名は籍、字が羽である。以下、一般に知られている項羽(こうう)の名で記す。.
袁世凱
袁 世凱(えん せいがい、 ユエン・シーカイ 1859年9月16日(咸豊9年8月20日) - 1916年6月6日)は、中国清末民初期の軍人・政治家。北洋軍閥の総帥。大清帝国第2代内閣総理大臣を務めたが、清朝崩壊後は第2代中華民国臨時大総統、初代中華民国大総統に就任。一時期中華帝国皇帝として即位し、その際に使用された元号より洪憲皇帝と呼ばれることもある。字は慰亭(いてい)、号は容菴(ようあん)。.
袁術
袁 術(えん じゅつ/すい、? - 建安4年(199年))は、中国後漢末期の武将・政治家。 父は袁逢(司空)。同母兄は袁基(太僕)。従兄(または異母兄とも)は袁紹。叔父は袁隗。 後漢の名門である汝南袁氏出身。当初は官界にあったが、董卓による動乱の中で群雄の1人として名乗りを上げ、反董卓連合の崩壊後は孫堅らの支持を受けて一族の袁紹と抗争を繰り広げた。一時は曹操に敗れ揚州に追いやられたが、孫策らの力により揚州を実効支配し勢力圏を再構築。やがて自らを、帝舜の血族である陳の宣公時代の大夫の轅濤塗の末裔と称した。皇帝を称し、国号を「仲」としたが、孫策らの離反や曹操の攻撃により数年で瓦解し、失意の内に没した。.
養老律令
養老律令(ようろうりつりょう)は、古代日本で757年(天平宝字元年)に施行された基本法令。構成は、律10巻12編、令10巻30編。大宝律令に続く律令として施行され、古代日本の政治体制を規定する根本法令として機能したが、平安時代に入ると現実の社会・経済状況と齟齬をきたし始め、平安時代には格式の制定などによってこれを補ってきたが、遅くとも平安中期までにほとんど形骸化した。廃止法令は特に出されず、形式的には明治維新期まで存続した。制定内容の資料が未発見である大宝律令は、この養老律令から学者らが内容を推測して概要を捉えている。.
西洋紀聞
『西洋紀聞』(せいようきぶん)は、新井白石が書いた西洋の研究書。自ら切支丹屋敷へ赴き、キリスト教布教のために来日したイタリア人宣教師ジョバンニ・シドッチを審問した白石が、その内容をまとめたもの。諸外国の歴史・地理・風俗やキリスト教の大意と、それに対する白石の批判などが記されている。1715年頃に完成したが鎖国下のため公にされず、秘かに写本によって伝えられたが、1807年以来広く流布されるようになり、鎖国下における世界認識に大いに役立った。.
観念
観念(かんねん、idea、ιδέα)は、プラトンに由来する語「イデア」の近世哲学以降の用法に対する訳語で、何かあるものに関するひとまとまりの意識内容のこと。元来は仏教用語。 「イデア」は、何かあるものに関するひとまとまりの意識内容を指し、デカルトによって近世哲学的な意味で再導入された。.
首長
首長(しゅちょう)は、行政機関(日本の場合は特に地方公共団体)の長を意味する用語で、広い意味では集団・組織を統率する長を意味する言葉である。.
覇王
覇王(はおう)とは徳によらず武力・策略で諸侯を従えて天下を治める人のことをいう。 元々は孟子によって提唱された覇道と王道から生まれた言葉。 儒家によって理想とされた夏・殷・周のように徳を持って世を治めることを王道と呼び、それを遂行する者を王者と呼んだ。 また、春秋時代の諸侯のように知力や武力を持って世を治めることを覇道と呼び、それを遂行する者を覇者と呼んだ。 孟子は王道こそを理想とし、覇道を賎しいものとした。これを尊王賎覇と言う。 戦国の形勢が進み、強大な武力を誇る秦の統一が間近に迫ってくると、最早王道政治は夢であり、両者の間の区別が消滅して覇王の語が登場した。秦滅亡後に項羽は西楚の覇王を名乗った。 尊王賎覇の考えが日本では、王=天皇・覇=武家政権(源氏・北条氏・平氏・細川氏・三好氏・織田氏・豊臣氏・足利氏・徳川氏)と解釈された。.
詔
詔(みことのり)は、天皇の命令、またその命令を直接に伝える文書。御言宣、大御言。首都を移す「東京奠都の詔」などがその例である。これを文書にしたものを詔書(しょうしょ)(英:Imperial Rescript)と言う。主に、広く一般に天皇の意思を伝えるために用いられた。言葉としては秦の始皇帝が初めて造った。おおみせ、おおみこと、とも言う。.
語源学
語源学(ごげんがく、etymologia、etymology)とは、ある語について、何に由来するのか、あるいはいつ借用されたのか、意味や形がどのように変化したのかを探る学問である。言語学の中では主要な分野ではなく、また一つ一つの語の由来を探ることは学問的に重視されていないが、その成果は言語の系統を調べる比較言語学で利用される。.
諸侯王
諸侯王(しょこうおう)は、中国において皇帝によって封じられた王号を持つ諸侯・貴族を指す歴史用語である。.
諸王の王
諸王の王(しょおうのおう、king of kings; lord of lords; emperor)または王の中の王、王中の王、王者の王、王の王.
高宗 (唐)
宗(こうそう)は、唐の第3代皇帝。太宗の第9子。母は唐の名臣として名高い鮮卑の拓跋を出自に持つ長孫無忌の妹の長孫皇后である。.
高麗
麗(こうらい、ハングル:고려;、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。 高麗の名称は朝鮮半島を表す「Korea(英語)」や「Corée(フランス語)」などの語源ともなった。 Map of Goryeo.
魏 (三国)
魏の系図 魏(ぎ、、220年 - 265年)は、中国の三国時代に華北を支配した王朝。首都は洛陽。曹氏の王朝であることから曹魏、あるいは北魏に対して前魏とも(この場合は北魏を後魏と呼ぶ)いう。 45年間しか続かなかった王朝だが、魏・蜀・呉の戦国史を描いた三国志(『三国志』・『三国志演義』など)などで後世に伝わり、日本で魏は卑弥呼を記述した「魏志倭人伝」で知られる。また、昭和に吉川英治が著した『三国志』を始め、この時代を描いた小説は今なお日本で人気があり、そのため知名度も高い王朝である。.
象徴
象徴(しょうちょう)は、抽象的な概念を、より具体的な物事や形によって表現すること、また、その表現に用いられたもの。一般に、英語 (フランス語 )の訳語であるが、翻訳語に共通する混乱がみられ、使用者によって、表象とも解釈されることもある。; 例.
賢者
賢者(けんじゃ)は、.
蜀漢
蜀漢(しょくかん、221年 - 263年)は、中国の三国時代に劉備が巴蜀の地(益州)に建てた国。 蜀は魏、呉と共に三国時代を形成した一国である。巴蜀(現在の四川省・湖北省一帯)を領土とし、成都を都に定めた。実際には魏の文帝曹丕が後漢を滅ぼして即位した時に、漢の正統を継ぐものとしたため、蜀漢と自ら名乗ったことはない『三国志』蜀志二「先主伝」。また、季漢(季は末っ子の意味)と称することもあった。.
郡国制
郡国制(ぐんこくせい)は、前漢の高祖が施行した地方制度。 前漢成立前の秦が施行した中央集権的独裁制たる郡県制の強行の失敗と、周代の封建制の復活の傾向を考慮して導入された。帝都長安の周辺は中央直轄地として郡県制を、地方には一族・功臣を諸侯王、諸侯として封じる封建制を併用したためこれを郡国制と称した。その後、歴代皇帝は諸侯勢力の削減に努め、すでに高祖の代に功臣の諸侯王はほとんどが滅ぼされた。第6代景帝の時代に勢力削減に反対する諸侯らによる呉楚七国の乱を鎮圧したのち、第7代武帝の頃に事実上の郡県制へと移行した。.
部族
部族(ぶぞく、tribe)とは、民族や氏族と同様に、同一の出自や歴史的背景を持ち、共通の文化や言語、価値観の上で共同生活を営むとされる集団の単位のこと。主に近代的民族概念と異なる社会形態をもつとされる集団に対して用いられる。.
舎人親王
舎人親王(とねりしんのう)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族。舎人皇子(とねりのみこ)とも記される。天武天皇の皇子。淳仁天皇の父。 天武天皇の諸皇子の中で最後まで生き残り、奈良時代初期に長屋王とともに皇親勢力として権勢を振るう。『日本書紀』の編集も総裁した。子孫の清原氏は高市皇子裔の高階氏と共に、天武系後裔氏族として長く血脈が続いた。.
阮朝
阮朝(グエンちょう、げんちょう、)は、1802年から1945年にかけて存在したベトナムの王朝である。1887年から1945年3月10日までは、フランス領インドシナとしてフランスの支配下にあった。 西山(タイソン)朝に敗れて滅亡した広南国の生き残り阮福暎(グエン・フク・アイン/げんふくえい)が、西山朝を打倒して樹立した。都は順化/トゥアンホア、富春/フースアン(いずれも現在のフエ)。.
金 (王朝)
金(きん、拼音:Jīn、女真語: 、1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、中国の北半を支配した女真族の征服王朝。 国姓は完顔氏。遼・北宋を滅ぼし、西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。都は初め会寧(上京会寧府、現在の黒竜江省)、のち燕京(中都大興府、現在の北京)。『金史』、欽定満洲源流考には「金の始祖函普は高麗からやって来た」とある。『函普』は阿骨打(あこつだ、女真音:アクダ)の7代祖である。.
金印勅書
1356年の金印勅書の金の印章 金印勅書(きんいんちょくしょ、ラテン語:bulla aurea)は、皇帝の命令が記され、黄金製の印章が付された公文書である。黄金文書(おうごんもんじょ)とも称する。中世からルネサンス期の中・西ヨーロッパや中世ビザンツ帝国において発布された。.
配偶者
配偶者(はいぐうしゃ)は、婚姻関係にある相手方。居住を共にし、場合によっては間に子供を持ち、それを養育しながら家庭生活を営む。男性配偶者を夫(おっと)、女性配偶者を妻(つま)という。.
英語
アメリカ英語とイギリス英語は特徴がある 英語(えいご、)は、イ・ヨーロッパ語族のゲルマン語派に属し、イギリス・イングランド地方を発祥とする言語である。.
TBSブリタニカ
TBSブリタニカ(登記上の商号は株式会社ティビーエス・ブリタニカ、英字表記:TBS-BRITANNICA Co.,Ltd.)は、かつて存在した日本の出版社である。東京都目黒区目黒1丁目に本社を置いていた。 2003年に阪急電鉄(現:阪急阪神ホールディングス)に買収され、阪急コミュニケーションズとなった後、現在はCCCメディアハウスとなっている(後述参照)。.
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李完用
李 完用(り かんよう、1856年7月17日(旧暦咸豊6年6月7日) - 1926年2月12日)は、李氏朝鮮末期から大韓帝国期の政治家。勲等は大勲位。爵位は侯爵。 大韓帝国の内閣総理大臣、大日本帝国の朝鮮総督府中枢院副議長などを歴任した。.
李自成
李 自成(り じせい)は、中国明末の農民反乱指導者。明に対して李自成の乱と呼ばれる反乱を起こして都北京を陥落させ、順王朝(大順)を建国して皇帝を称したが、清に滅ぼされた。.
李氏朝鮮
李氏朝鮮(りしちょうせん、朝鮮語ハングル表記:이씨조선)は、1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家。朝鮮王朝、朝鮮封建王朝とも呼ばれる。朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもある。李朝(りちょう)ともいう(「李王朝」の意)。高麗の次の王朝にあたる。 1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる)が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。東人派や西人派、老論派、南人派など党派対立が激しく、政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約は李氏朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と近代国家としての独立を形式的かつ実質的にもたらした。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後日本の影響下に置かれた。大韓帝国の国家主権は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと影響を受ける主体が変化するものであった。1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年8月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合され、朝鮮民族の国家は消滅した。.
東ローマ帝国
東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.
東ローマ帝国の皇帝一覧
東ローマ帝国皇帝の一覧.
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東海大学出版部
東海大学出版部(とうかいだいがくしゅっぱんぶ)は、神奈川県平塚市にある学校法人東海大学の出版機関。.
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松村明
松村 明(まつむら あきら、1916年9月3日 - 2001年11月22日)は、日本の国語学者。位階勲等は正四位勲三等瑞宝章。称号は文学士、東京大学名誉教授。『大辞林』の編纂者として知られる。.
植民地
植民地(しょくみんち、殖民地とも)とは、国外に移住者が移り住み、当事国政府の支配下にある領土のことで統治領(とうちりょう)とも呼ばれる。 古代史にはフェニキアや古代ギリシアにも見られるが多くは植民元との関係は維持しつつ独立した体制となっており、侵略によって獲得した海外領土の類型は古代ローマに見られる。近年はヴェネチアなどが行った東地中海における植民地経営をそれ以降の植民地支配と連続した流れと考える向きもある。 以下では16世紀に始まるいわゆる「大航海時代」以降ヨーロッパ各国が侵略によって獲得した海外領土を主として扱う。近現代においては、本国政府の憲法や諸法令が原則として施行されず、本国と異なる法的地位にあり、本国に従属する領土を植民地という。 また、植民地に対して従属させて、それらを所有している本国のことは「宗主国」と呼ばれる。.
楚 (春秋)
楚(そ - 紀元前223年)は、中国に周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した王国。現在の湖北省、湖南省を中心とした広い地域を領土とした。首都は郢と称したが、名前が同じだけで場所は何度か変わっている。.
模倣
模倣(もほう)とは、.
武則天
武 則天(ぶ そくてん)は、中国史上唯一の女帝。唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周朝を建てた。諱は照()。日本では則天武后(そくてんぶこう)と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。古来より「則天」と姓名をはっきりさせず呼ばれてきたが、現在の中国では姓を冠して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている。.
殷
殷(いん、、紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)は、中国の王朝である。文献には天乙が夏を滅ぼして王朝を立てたとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。商(しょう、)、商朝ともよばれる。紀元前11世紀に帝辛の代に周によって滅ぼされた(殷周革命)。.
氏族
氏族(しぞく、うじぞく、clan)とは、共通の祖先を持つ血縁集団、または、共通の祖先を持つという意識・信仰による連帯感の下に結束した血縁集団のこと。 単系出自集団(unilineal descent group。特定の祖先から男性または女性のみを通じて親子関係がたどれる子孫の作る集団)の一つ。特定の男性祖先から男性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を父系出自集団といい、特定の女性祖先から女性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を女系出自集団という。 これらの集団のうち、成員が互いの系譜関係、あるいは共通祖先との系譜関係を把握している集団はリニエッジ(lineage)といい、伝説上・神話上の共通祖先を持っているという意識・信仰があるのみで、系譜関係がはっきりしない集団をクラン(clan)と呼んで、両者を区別する。 同じ氏族の男女の結婚を禁じる結婚規制が広く見られる(氏族外婚)。これは、互いの系譜関係がたどれぬ場合であっても同じ氏族であれば血縁関係を擬制して規制することから、必ずしも近親婚の禁止とは重ならない。.
民族
民族(みんぞく)とは一定の文化的特徴を基準として他と区別される共同体をいう。土地、血縁関係、言語の共有(母語)や、宗教、伝承、社会組織などがその基準となるが、普遍的な客観的基準を設けても概念内容と一致しない場合が多いことから、むしろある民族概念への帰属意識という主観的基準が客観的基準であるとされることもある。また、日本語の民族の語には、近代国民国家の成立と密接な関係を有する政治的共同体の色の濃い nation の概念と、政治的共同体の形成や、集合的な主体をなしているという意識の有無とはかかわりなく、同一の文化習俗を有する集団として認識される ethnic group(ジュリアン・ハクスリーが考案)の概念の双方が十分区別されずに共存しているため、その使用においては一定の注意を要する。 .
江戸時代
江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.
法 (法学)
法(ほう、law)とは、道徳などと区別される社会規範の一種である。一般的にイメージされる法の属性としては、一定の行為を命令・禁止・授権すること、違反したときに強制的な制裁(刑罰、損害賠償など)が課せられること、裁判で適用される規範として機能することなどがあげられる。 もっとも、どのような点をもって他の社会規範と区別されるのか、何をして法を法たらしめるのかについては、これまで種々な見解が唱えられてきた。また、法学の各分野ごとに考察の着眼点が異なることもあり、ある分野で妥当する法の定義や内容が別の分野では必ずしも妥当しないこともある。 このような点から、以下の記述では法の定義や内容についての結論を論ずることを避け、伝統的に問題とされた主要な点について概観する。.
淡海三船
淡海 三船(おうみ の みふね、養老6年(722年) - 延暦4年7月17日(785年8月26日))は、奈良時代後期の皇族・貴族・文人。はじめ御船王を名乗るが、臣籍降下し淡海真人姓となる。大友皇子の曽孫。式部卿・葛野王の孫、内匠頭・池辺王の子。官位は従四位下・刑部卿。勲等は勲三等。.
淳仁天皇
淳仁天皇(じゅんにんてんのう、天平5年(733年) - 天平神護元年10月23日(765年11月10日))は、日本の第47代天皇(在位:天平宝字2年8月1日(758年9月7日) - 天平宝字8年10月9日(764年11月6日))。諡号は明治時代になってから付けられたもので、古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれる。諱は大炊(おおい)であり、践祚前は大炊王(おおいおう)と称された。.
清
清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.
漢
漢(かん、)は、中国の王朝である。通例、前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)の二つの王朝(両漢)を総称して「漢王朝」と呼ばれる。また、ここから転じて中国全土や中国の主要民族を指す名称ともなった。以下の記事では王朝について記述する。 中国初の統一王朝だった秦王朝が紀元前206年に滅亡すると、中国は秦を討った各軍の将帥による群雄割拠の状態に戻っていた。こうした中、漢中及び巴蜀に封じられていた劉邦が紀元前202年に垓下の戦いで項羽を討って中国を再統一した。中国を統一した劉邦は、皇帝として即位するにあたって旧来の国号であった漢をそのまま統一王朝の国号として用いた。この劉邦が開いた前漢と、いったん滅亡したのち劉秀によって再興された後漢の漢王朝は、あわせて400年の長きに渡った。初の統一王朝だった秦王朝が統一王朝としては実質的に一代で滅びたこともあり、漢王朝は中国の統一状態を実質的に確定した王朝となり、これから中国全土や中国の主要民族を指す名称として「漢」が用いられるようになった。 漢王朝の歴史の詳細については、前漢・後漢をそれぞれ参照。.
朝鮮
統一旗 朝鮮(ちょうせん、チョソン、조선)は、朝鮮半島および済州島、巨文島、鬱陵島など周囲の島嶼・海域を併せた地域を表す呼称。ユーラシア大陸の東端に位置し、北西に中華人民共和国、北東にロシア、南東に対馬海峡西水道(朝鮮海峡)を隔てて日本と隣接する。 この地の全域を、大韓民国(韓国)も朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)も共に自国の領土に定めており、両国の領土は完全に一致重複している。しかし現実は朝鮮戦争以降、軍事境界線(38度線)を境に北半部は北朝鮮が、南半部は韓国が実効支配している。.
朝貢
朝貢(ちょうこう)は、皇帝に対して周辺諸国(君主)が貢物を献上し、皇帝側は恩恵として返礼品をもたせて帰国させることで外交秩序を築くもので、使節(朝貢使)による単なる儀礼的外交にとどまらず、随行する商人による経済実体(朝貢貿易)を伴うこともあり経済秩序としての性格を帯びることもある。.
戦国時代 (中国)
中国の戦国時代(せんごくじだい)は、春秋時代に続く時代で、紀元前403年に晋が韓・魏・趙の3つの国に分かれてから、紀元前221年に秦による中国統一がなされるまでをいう。この名前は『戦国策』から取られている。 どの時点をもって春秋と戦国の境目とするかは、歴史家の間でも意見が分かれている。詳しくは春秋戦国時代の項目を参照。.
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明
明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.
明治
明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.
昭襄王 (秦)
昭襄王(しょうじょうおう)は、中国戦国時代・秦の第28代君主、第3代の王。姓は嬴(えい)、諱は稷(しょく)。孝文王 (柱)(安国君)の父。始皇帝(政)の曾祖父。昭王とも呼ばれる。.
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新井白石
新井 白石(あらい はくせき)は、江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者。一介の無役の旗本でありながら六代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。家宣の死後も幼君の七代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折し八代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。 学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に亘る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。白石は号で、諱は君美(きみよし、きんみ)。.
新皇
新皇(しんのう)とは天慶2年(939年)12月に平将門が「新しい天皇」の意で自称した称号。以後将門は平氏出身である事から「平新皇」と呼ばれたとされる。後世の書物等では訛って「平親王」とも呼ばれるが、これは誤称である。.
新羅
新羅(しらぎ/しんら、前57年- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「斯蘆」(しろ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした。朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一し、高麗、李氏朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。内乱や飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。 朝鮮の歴史区分では、新羅、高句麗、百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を三国時代、新羅が朝鮮半島唯一の国家であった時代(668年-900年)を統一新羅時代、新羅から後高句麗と後百済が分裂した10世紀の時代を後三国時代という。.
日米和親条約
日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)は、嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に江戸幕府とアメリカ合衆国が締結した条約である。神奈川条約とも呼ぶ。日本側全権は林復斎(大学頭)、アメリカ側全権は東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリーである。この条約によって日本は下田と箱館(現在の函館)を開港し、鎖国体制は終焉を迎えた。.
日韓議定書
日韓議定書(にっかんぎていしょ)は、日露戦争中の1904年(明治37年)2月23日に、日本と大韓帝国(韓国)との間で締結された条約である。.
日清修好条規
日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)は、1871年9月13日(明治4年7月29日)に、天津で、日本と清の間で初めて結ばれた対等条約。調印を行った公使(欽差全権大臣)は日本側は大蔵卿伊達宗城、清側は直隷総督李鴻章であった。.
日朝修好条規
日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)は、1876年(明治9年、時憲暦光緒2年=高宗13年)に日本と李氏朝鮮との間で締結された条約とそれに付随した諸協定を含めて指す。条約正文では「修好条規」とのみ記されているが通例として朝鮮國との修好条規、日朝修好条規、日鮮修好条規などと呼称する。江華島で調印されたため江華(島)条約(강화도조약)とも、丙子の年に結ばれたために丙子修交条約ともいう。当時東アジアで結ばれた多くの条約と同様、不平等条約であった。.
日本
日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.
日本国大君
日本国大君(にほんこくたいくん)または日本大君(にほんたいくん)は、日本の江戸時代に対外的に用いられた、征夷大将軍の外交称号。江戸幕府が外交文書(国書)において使用し、初めは朝鮮との間で用いられ、のちに琉球やヨーロッパ諸国との外交関係でも用いられた。略称は「大君」。.
日本国皇帝
日本国皇帝(にほんこくこうてい)は、古代から昭和時代前期までの日本で用いられていた天皇の称号の一つ。主として外交分野で使用された。.
日本国籍
日本の国籍である日本国籍(にほんこくせき、にっぽんこくせき)は、国籍法によって規定される。 国籍法(昭和25年法律第147号)では「日本国民たる要件」を定めており、日本国籍を所有する者が、すなわち日本国民であるとみなされる。原則として父母両系血統主義を採用しているが、一部帰化による取得も認められている。.
日本国憲法
日本国憲法(にほんこくけんぽう、にっぽんこくけんぽう)は、現在の日本の国家形態および統治の組織・作用を規定している憲法。1947年(昭和22年)5月3日に施行された。ブルジョア憲法(資本主義憲法)の一種。 昭和憲法(しょうわけんぽう)、あるいは単に現行憲法(げんこうけんぽう)とも呼ばれる。 1945年(昭和20年)に、ポツダム宣言を受諾して連合国に対し降伏した日本政府は、そこに要求された「日本軍の無条件降伏」「日本の民主主義的傾向の復活強化」「基本的人権の尊重」「平和政治」「国民の自由意思による政治形態の決定」などにより、事実上憲法改正の法的義務を負うことになった。そこで連合国軍占領中に連合国軍最高司令官総司令部の監督の下で「憲法改正草案要綱」を作成し『世界大百科事典』(平凡社)「日本国憲法」の項目より、その後の紆余曲折を経て起草された新憲法案は、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、1946年(昭和21年)5月16日の第90回帝国議会の審議を経て若干の修正を受けた後、同年1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法として公布され、その6か月後の翌年1947年(昭和22年)5月3日に施行された。 国民主権の原則に基づいて象徴天皇制を定め、個人の尊厳を基礎に基本的人権の尊重を掲げて各種の憲法上の権利を保障し、戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認という平和主義を定める。また国会・内閣・裁判所の三権分立の国家の統治機構と基本的秩序を定めている。「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の3つは、日本国憲法を特徴付ける三大要素と呼ばれることもある。 2017年現在、現行憲法としては世界で最も長い期間改正されていない憲法である(Webアーカイブ)出典元記事の記載では、施行されてから一度も改正されていないという立場であるが、日本国憲法が一度も改正されていないか否かは、行われた改正手続き通り、大日本帝国憲法の全面改正として日本国憲法を捉えるか、事実上大日本帝国憲法を破棄して制定された新憲法と捉えるかで異論がある。日本国憲法は、当用漢字表と現代かなづかいの告示より前に公布されたもので、原文の漢字表記は当用漢字以前の旧字体であり、仮名遣いは歴史的仮名遣である。 原本は国立公文書館に保管されており、不定期に公開されている。.
日本誌
『日本誌』(にほんし)とは、エンゲルベルト・ケンペル(エンゲルベアト・ケンプファー)が執筆した書物。17世紀末に日本に渡った際、日本での見聞をまとめたものである。エンゲルベルト・ケンペルは長崎の出島のオランダ商館に勤務したドイツ人医師である。.
日本文徳天皇実録
『日本文徳天皇実録』(にほんもんとくてんのうじつろく)は、平安時代の日本で編纂された歴史書。六国史の第五にあたり、文徳天皇の代である嘉祥3年(850年)から天安2年(858年)までの8年間を扱う。略して文徳実録ともいう。編年体、漢文、全10巻。.
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愛新覚羅溥儀
愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ、アイシンギョロ・プーイー、満州語:、転写:aisin gioro pu i、1906年2月7日 - 1967年10月17日)は、大清国第12代にして最後の皇帝(在位:1908年12月2日 - 1912年2月12日)、後に満州国執政(1932年3月9日 - 1934年3月1日)、皇帝(在位:1934年3月1日 - 1945年8月18日)。1960年から中華人民共和国中国人民政治協商会議(政協)文史研究委員会専門委員、1964年から政協全国委員を兼任。 字は「耀之」。号は「浩然」。辛亥革命後の呼称としては、廃帝と国民党政府から呼ばれる一方、旧清朝の立場からは遜帝(「遜」は「ゆずる」の意)とも呼ばれた。末代皇帝(末帝)と呼ばれる場合もある。また、唯一火葬された皇帝のため「火龍(龍は皇帝を指す)」とも呼ばれる。.
教皇
教皇(きょうこう、Pāpa、Πάπας Pápas、The Pope)は、キリスト教の最高位聖職者の称号。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。ヴァティカン市国の首長。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。現在の教皇はフランシスコ(第266代)。 日本語では「ローマ法王」と表記されることも多いが、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨している(後述)。またカトリックの内部では「教父」の呼称を用いる場合もある。なお、退位した教皇の称号は名誉教皇(名誉法王とも)という。 本項では主にローマ教皇について記述する。その他の教皇については称号の変遷とその他の「教皇」の節を参照。.
教義
教義(きょうぎ、、ドグマ)とは、宗教の教えを体系化したもの。多岐に亘る宗教があり、そのいずれにも独自のこれが存在し、各々の宗教を信奉する人が、これに則って物事を理解したり判断する助けとなるものとされる。教理とは相違がある。転じて、一定集団の中においてのみ支持されているルールや考え方も、比喩的に教義と呼ばれることがある。また教義を絶対化する、あるいは固執する傾向を教条主義()という。.
1018年
記載なし。
1188年
記載なし。
1224年
記載なし。
1345年
記載なし。
1356年
記載なし。
1371年
記載なし。
1396年
記載なし。
13世紀
チンギス・ハーン像。 モンゴル帝国の発展。 モンゴル帝国の最大領域。 13世紀(じゅうさんせいき)は、西暦1201年から西暦1300年までの100年間を指す世紀。.
1438年
記載なし。
1453年
記載なし。
1472年
記載なし。
14世紀
ナスル朝。イベリア半島最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有のアラベスクに彩られたアルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」。 Gilles Le Muisitの年代記』の挿絵)。 エドワード3世率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いたジャン・フロワサールの『年代記』写本の挿絵。 ユダヤ人迫害。中世末期の不穏な情勢の中でスケープゴートとして標的にされたのがユダヤ人であった。画像は15世紀にまとめられた『ニュルンベルク年代記』の木版挿絵で、1338年に起きたバイエルン地方のデッゲンドルフでの「聖餅󠄀冒瀆」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。 カルマル同盟。デンマーク摂政(事実上の女王)マルグレーテ1世がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像はロスキレ大聖堂に安置されたマルグレーテの石棺。 七選帝侯。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は金印勅書で法制化されることになる。 原初同盟は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。 アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口。 ダンテとベアトリーチェ。ダンテは地獄・煉獄・天国をまわる壮大な『神曲』を書いた詩人。画像は19世紀のヘンリー・ホリデーによるもの(ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)。 シエナ。この街は黒死病の被害の影響が大きかったため景観が変化せず中世都市の面影を強く残した街となっている。画像はアンブロージョ・ロレンツェッティによるシエナのプブリコ宮殿(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。 セルビア人の帝国。ネマニッチ朝のステファン・ウロシュ4世ドゥシャンは東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建されたコソボのデチャニ修道院にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。 Codex Mendoza」。 後醍醐天皇。鎌倉幕府を亡ぼし建武の新政を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は清浄光寺所蔵の肖像画。 足利義満。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は鹿苑寺所蔵の肖像画。 西アフリカのマリ王国の王マンサ・ムーサ。イスラム教徒としてメッカに巡礼に向かう旅路で黄金を惜しみなく使った逸話で知られる。 Baptistère de Saint Louis」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、マムルーク朝時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在はルーヴル美術館が所蔵している。 歴史家ラシードゥッディーン。その当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主ガザンとオルジェイトゥの兄弟を描いた『集史』の挿絵。 草原の英雄ティムール。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本の挿絵。 ハンピ)のヴィルーパークシャ寺院。 チベット仏教の改革者ツォンカパ。綱紀粛正に努め左道密教を退けて現在のダライラマに連なるゲルク派(黄帽派)を大成した。 青花の誕生。元朝後期に西アジア産のコバルト顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺(ブルックリン美術館蔵)」。 明の洪武帝朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画(台北国立故宮博物院蔵)。 14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。.
1502年
土曜日から始まる。.
1547年
記載なし。
1576年
記載なし。
15世紀
大航海時代。大西洋を渡り新世界を発見したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子ととされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 Musée des Augustins蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」。ロランはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 鄭和の南海大遠征。永楽帝時代には明の国威を示す大艦隊が各地に派遣された。画像は1417年にベンガルから運ばれたキリンを描いた「瑞應麒麟図」。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北故宮博物院蔵)。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 文化を極めた。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。.
1644年
記載なし。
16世紀
16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。 盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。 カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。 「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。.
1721年
記載なし。
1804年
記載なし。
1806年
記載なし。
1822年
記載なし。
1831年
記載なし。
1849年
記載なし。
1852年
記載なし。
1864年
記載なし。
1870年
記載なし。
1871年
記載なし。
1889年
記載なし。
1897年
記載なし。
1910年
記載なし。
1936年
記載なし。
1974年
記載なし。
1976年
記載なし。
1979年
記載なし。
19世紀
19世紀に君臨した大英帝国。 19世紀(じゅうきゅうせいき)は、西暦1801年から西暦1900年までの100年間を指す世紀。.
1月16日
1月16日(いちがつじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から16日目に当たり、年末まであと349日(閏年では350日)ある。誕生花はデンドロビューム、ラッパズイセン、ジンチョウゲ、黄色のヒヤシンス。.
20世紀
摩天楼群) 20世紀(にじっせいき、にじゅっせいき)とは、西暦1901年から西暦2000年までの100年間を指す世紀。2千年紀における最後の世紀である。漢字で二十世紀の他に、廿世紀と表記される場合もある。.
293年
記載なし。
395年
記載なし。
476年
記載なし。
628年
記載なし。
6世紀
地中海の再統一。画像はラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世と随臣のモザイク。 Cabinet des Médailles所蔵のもの。 無明時代のアラビア語詩人たち。イスラム教勃興直前のこの時代にアラビアでは優れた詩人たちが活躍した。画像はその代表的な詩人アンタラ・イブン・シャッダードの細密画で、勇猛な戦士の姿で描いている。 前期チャールキヤ朝。デカン地方から南インドに展開した王朝で都はバーダーミにあった。画像はキールティヴァルマン1世の弟マンガレーシャにより建立されたバーダーミのヒンドゥー教石窟寺院第3窟でヴィシュヌ神の像が安置されている。 禅宗の祖師達磨。仏教の保護者として有名な梁の武帝との問答でも知られるが、経歴に不明な点も多い。画像は雪舟等楊の「慧可断臂図」(愛知県常滑市斉年寺蔵)。 建康。現在の南京であるこの地は中国南朝の歴代の都となり、貴族による文化が花開いた。画像は南京にある梁の武帝の異母弟蕭恢の墓を守る辟邪の石刻。 文帝。南北朝時代を終わらせて300余年ぶりに中国を統一し、「開皇の治」と呼ばれる安定期をもたらした。 関東の人物埴輪。6世紀に畿内での埴輪作成は減少するが、関東では最盛期を迎える。画像は「国宝武装男子立像(群馬県太田市出土)」で東京国立博物館蔵となっている。 東ゴート王国の盛衰。オドアケルを倒した東ゴート王テオドリックのもとイタリアはつかの間の平和を享受した。やがてこの国は6世紀半ばには東ローマ帝国の膝下に屈服することになる。画像はラヴェンナにあるテオドリック廟。 『ロッサーノの福音書』。古代末期の混乱で散逸した写本は数知れないが、この福音書は『ウィーン創世記』や『シノペの福音書』と並び現存するこの世紀に造られた数少ない写本で、「コデックス・プルプレウス」という紫染めの羊皮紙を用いた豪華なものである。 コプト織でエジプトで熱心に崇敬された「神の母(テオトコス)」がデザインされている。 6世紀(ろくせいき)とは、西暦501年から西暦600年までの100年間を指す世紀。.
774年
記載なし。
797年
記載なし。
7世紀
ブリールから啓示を受けるムハンマドで、14世紀に描かれた『集史』「預言者ムハンマド伝」載録の細密画(エディンバラ大学蔵)。 聖地メッカ。ムハンマドはメッカからメディナに逃れた後、イスラム教共同体(ウンマ)を組織し、再びこの都市に現れてイスラム教の支配下に置いた。画像はメッカのカアバとそれを取り囲むマスジド・ハラーム。 岩のドーム。ユダヤ教徒やキリスト教徒にとって重要な聖地であるエルサレムはイスラム教徒にとっては預言者ムハンマドが「夜の旅(イスラー)」を行った場所であり、それを記念してこの建物が建てられた。 ハルシャ王に歓待された。旅の記録は『大唐西域記』にまとめられ、有名な伝奇小説『西遊記』のもとともなった。 ナーランダ寺院。創立はグプタ朝時代にさかのぼるが、この時代までにインド随一の仏教総合大学に発展し、唐僧玄奘もこの地で唯識派のシーラバドラ(戒賢)に学んでいる。画像は現在のビハール州に残るナーランダ寺院跡。 シュリーヴィジャヤ王国。スマトラ島を中心にマレー半島周辺に交易圏を築き上げた海洋王国で、唐僧義浄が『南海寄帰内法伝』で記録したように多くの寺院が立ち並ぶ大乗仏教の拠点でもあった。画像はシュリーヴィジャヤ様式の青銅鍍金四臂観世音菩薩像。 「天寿国繍帳」。飛鳥時代を代表する工芸の一つで聖徳太子の妃である橘大郎女の発願で作成されたとされ、斑鳩中宮寺に伝来した。 吐蕃の王ソンツェン・ガンポと二人の妃(唐から来た文成公主とネパールから来たチツン)。吐蕃はチベットを統一し唐に倣った律令体制を発展させた。 太宗。父李淵の後を継いで二代皇帝となった太宗李世民は、唐の律令体制を完成させ「貞観の治」と呼ばれる安定期をもたらした。画像は台湾国立故宮博物院が所蔵する太宗の肖像画。 洛陽郊外の龍門にある奉先寺大仏。則天武后の命で造営されたもので、大仏の顔は則天武后をモデルにしているといわれる。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 「ギリシア火」。イスラム軍の猛攻で劣勢に置かれた東ローマ帝国もこの新兵器を用いて帝都の防衛に成功する。画像は『スキュリツェス年代記(歴史概観)』の挿絵(マドリッド国立図書館蔵)。 スペイン国立考古学博物館蔵)。 7世紀(ななせいき、しちせいき)とは、西暦601年から西暦700年までの100年間を指す世紀。.
800年
記載なし。
812年
記載なし。
920年
記載なし。
939年
記載なし。
962年
記載なし。
9世紀
船葬用の船体(オスロのヴァイキング船博物館蔵)。 イングランドを襲撃するデーン人(ヴァイキング)。画像は12世紀に書かれた『聖エドマンド殉教王伝』の挿絵。 マルウィヤ・ミナレット(サーマッラーのミナレット)。アッバース朝第8代カリフのムウタスィムが建築したサーマッラーの大モスク付属の螺旋式のミナレット。 ハールーン・アッラシード。アッバース朝最盛期のカリフで、『千夜一夜物語』では夜ごとにバグダードの街に繰り出す風流な君主として描かれている。 「知恵の館(バイト・アル・ヒクマ)」。アッバース朝カリフ・マアムーンの治世にバグダードには翻訳事業や学問研究のための「知恵の館」が設置された。画像はここに集まる学者たちを描いた13世紀の細密画(フランス国立図書館蔵)。 インド最後の仏教王朝のパーラ朝。ダルマパーラ王により9世紀末に北インドの大半が支配下に置かれた。画像は9世紀に造られたパーラ様式の文殊菩薩石像(ホノルル美術館)。 敦煌文書。敦煌には3万とも4万とも数えられる膨大な古文書が収蔵されている。画像は大英博物館所蔵の「金剛般若波羅蜜経」。これは現存する世界最古の木版印刷の巻子本(書籍)で唐の懿宗の治世の868年に作成されたもの。 禁止出境展览文物でもある「八重宝函」。 密教招来。空海らによって日本に密教がもたらされ平安時代の仏教に大きな影響を与えた。画像は密教で用いる胎蔵界曼荼羅で京都東寺所蔵のもの。 応天門の変。藤原氏による他氏排斥が進んで摂関政治が確立し、律令国家体制から王朝国家体制へと政体が変化した。画像は12世紀に応天門の変の経緯を描いた「伴大納言絵詞」(出光美術館蔵)。 ラパス県の4000メートル近くの標高にある遺跡で、最盛期である9世紀には人口は1万人を越えたと想定されている。画像は半地下式方形広場で人面の装飾がなされている。 Galerie des Batailles蔵)。 ラドガにて東スラブ人と出会うヴァリャーグのリューリク一行を描いたヴィクトル・ヴァスネツォフの歴史画。 ハギア・ソフィア教会アプス半ドームにある聖母子のモザイク画。 スラブ人への宣教。東ローマ帝国出身のキュリロス・メトディオス兄弟はグラゴール文字を作成しキリスト教の宣教に努めた。画像は18-19世紀にロシアで描かれたこの兄弟のイコン(聖画像)。 プリスカ遺跡。 9世紀(きゅうせいき)は、西暦801年から西暦900年までの100年間を指す世紀。.