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索引 妃

妃(ひ)は、後宮における后妃の身分の一つ。日本の律令制では皇后に次ぐ第2位に位置づけられている。現代日本では転じて天皇以外の男性皇族の配偶者に対して用いられている(例:皇太子妃・親王妃)が、本項目では本来の意味である后妃身分について解説する。.

57 関係: 号禄后位多治比高子大宅内親王天子天智天皇外戚女御宣化天皇宇多天皇尊子内親王岸俊男中宮平城天皇延喜式後宮律令制律令法嵯峨天皇カバネ品位 (位階)円融天皇内親王元明天皇光孝天皇光仁天皇皇后皇太子妃皇室典範皇位継承真人為子内親王鎌倉時代草壁皇子親王妃高志内親王高津内親王貴族贈位薬子の変藤原基経藤原穏子藤原百川藤原氏藤原旅子醍醐天皇酒人内親王桓武天皇河内祥輔...淳和天皇朝原内親王昌泰の変日本日本後紀摂関政治時服 インデックスを展開 (7 もっと) »

号禄

号禄(ごうろく)とは、日本の律令制において天皇の配偶者であった妃・夫人・嬪に支給された禄のこと。.

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后位

后位(こうい)は、日本の朝廷において天皇の配偶者や母・祖母等に与えられた太皇太后・皇太后・皇后の地位の総称で、三宮(さんぐう)・三后(さんごう)とも言う。妃位(妃・皇太妃・太皇太妃)や夫人位(夫人・皇太夫人・太皇太夫人)よりも格上に相当する。.

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多治比高子

多治比 高子(たじひ の たかこ、延暦7年(788年) - 天長3年3月2日(826年4月12日))は、平安時代の嵯峨天皇の妃。官位は贈従一位。.

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大宅内親王

大宅内親王(おおやけないしんのう、生年不詳 - 嘉祥2年2月14日(849年3月17日))は、平安時代初期の皇族。桓武天皇の第八皇女。母は女御・橘常子(兵部大輔・橘島田麻呂の娘)。平城天皇妃。品位は三品。.

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天子

天子(てんし)とは、中国や日本で用いられた君主の称号。天命を受けて天下を治める者の意。中国の周王や漢代以降の皇帝、日本の大王・天皇の別号として用いられた。 王は天(天帝)の子であり天命により天下を治めるとする古代中国の思想を起源とする。周代、周公旦によって「天帝がその子として王を認め王位は家系によって継承されていく。王家が徳を失えば新たな家系が天命により定まる」という「天人相関説」が唱えられ、天と君主の関係を表す語として「天子」が用いられるようになったという。秦の始皇帝により、天下を治める者の呼称が神格化された皇帝へと変わると、天子の称は用いられなくなったが、漢代にいたり儒教精神の復活をみると、再び天子の称が用いられるようになり、それは皇帝の別名となった。 皇帝の支配は、空間(領土)の支配と時間(暦と年号)に及び、皇帝以外の者の支配は許されなかった。前漢の武帝は、太陰暦と太陽暦を合体した太初暦を制定。皇帝の下した暦を用いるのが、皇帝の主権を認めた証拠となり、これを「正朔を奉ずる」と言った。皇帝は天帝に対しては天の子=天子として天を祭る儀礼を司り、それは皇帝だけに許された神聖儀礼として清朝に至るまで連綿と引き継がれた。密教における十二天の日天子・月天子としても用いられそれらが支配する太陽と月の世界のことを指す。 中国の影響を多く受けた日本でも、天子は大王・天皇の別名として用いられ、聖徳太子は「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや」と記した国書を隋の煬帝に送っている。律令においては天皇が祭祀において用いる称号として規定されているが、天皇を指す語の1つとして広く使われるようになる。.

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天智天皇

天智天皇(てんじてんのう/てんぢてんのう、推古天皇34年(626年) - 天智天皇10年12月3日(672年1月7日))は、第38代天皇(在位:天智天皇7年1月3日(668年2月20日) - 10年12月3日(672年1月7日))。和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる。.

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外戚

外戚(がいせき)とは、皇帝、王の母親または妃の一族のことである。.

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女御

女御(にょうご)は、天皇の後宮の身位の一つで、天皇の寝所に侍した。官名は中国・周代の官制を記した『周礼』に由来し、位は皇后・中宮に次ぐ。また、女御のうち、女性皇族たる女王が女御となった場合の呼称を王女御という。 初見は『日本書紀』雄略天皇の条であるが、実際は桓武天皇の代に紀乙魚・百済王教法などを女御としたのに始まる。当初、その位は低かったが次第に高まり、平安時代中期以降は、皇后は女御から昇進する慣例が確立した。最後の女御は孝明天皇の女御である九条夙子(英照皇太后)。 定員はなく、複数の女御がいる場合は住まう殿舎の名を取って「承香殿女御」などと呼んだ。 応仁の乱以後、上流貴族の娘の入内が絶えると、女御も存在しなくなった。後陽成朝に近衛前久の娘の前子が豊臣秀吉の養女として女御となり、ついで後水尾朝に徳川秀忠の娘の和子が女御になり、さらに中宮へ昇った。江戸時代には歴代天皇の正妻として摂家や世襲親王家の娘が一人だけ女御となり、しばしば准三宮となった。しかし霊元天皇や光格天皇などは女御を中宮に立てたものの、立后させない例の方が多かった。.

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宣化天皇

宣化天皇(せんかてんのう、雄略天皇11年?(467年?) - 宣化天皇4年2月10日(539年3月15日?))は、第28代天皇(在位:宣化天皇元年12月(536年1月?) - 宣化天皇4年2月10日(539年3月15日?))。.

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宇多天皇

宇多天皇(うだてんのう、貞観9年5月5日(867年6月10日) - 承平元年7月19日(931年9月3日))は、日本の第59代天皇(在位:仁和3年8月26日(887年9月17日) - 寛平9年7月3日(897年8月4日))。 諱は定省(さだみ)。後の佐々木氏などに代表される宇多源氏の祖先にもあたる(詳細は皇子女の欄参照)。.

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尊子内親王

尊子内親王(そんしないしんのう、康保3年(966年) - 永観3年5月2日(985年5月24日))は、第63代冷泉天皇の第2皇女。母は女御・藤原懐子。賀茂斎院、のち第64代円融天皇妃。別名火の宮、承香殿女御。同母弟に花山天皇。.

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岸俊男

岸 俊男(きし としお、1920年9月15日 - 1987年1月21日)は、日本史学者、京都大学名誉教授、古代史専攻。.

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中宮

中宮(ちゅうぐう)は、日本の天皇の妻たちの呼称の一つ。.

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平城天皇

平城天皇(へいぜいてんのう、宝亀5年旧8月15日(774年9月25日) - 弘仁15年旧7月7日(824年8月5日))は第51代天皇(在位:延暦25年旧3月17日(806年4月9日) - 大同4年旧4月1日(809年5月18日))。小殿(おて)親王、後に安殿親王(あてのみこ)。 桓武天皇の第1皇子。母は皇后・藤原乙牟漏。同母弟に嵯峨天皇。.

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延喜式

延喜式(えんぎしき)は、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。.

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後宮

後宮(こうきゅう)は、皇帝や王などの后妃が住まう場所。日本では、平安京内裏の七殿五舎、江戸城大奥が該当する。 一般的に、後宮は男子禁制というイメージがあるが、日本の内裏では必ずしもそうではなく、平安時代中期に書かれたとされる『源氏物語』や『枕草子』といった物語や随筆では殿上人のうちでも家族や親しい人間は頻繁に出入りしていたように描写されている。平安時代には天皇やそのきさきの側に控えた女房と呼ばれる女性たちが、内裏を舞台とした内容の宮廷文学を生み出したことはよく知られている(それらが書かれた場所が後宮であったとは限らない。実家などに戻った際に書いたものとされることもある)。ただし、平安末から鎌倉時代頃から徐々に男子禁制の場となり、江戸時代においては男性が入る余地はなくなってしまっていた。江戸時代の江戸城大奥は、完全な男性禁制の場であり、火事など緊急時以外の男性の出入りは厳しく制限された。 男子禁制をとっているのはオスマン帝国などのイスラム諸王朝や中国などであり、去勢された宦官が、家政一般にあたった。これに対して日本では、宦官は置かれずに宮人とも呼ばれる女官が発達して女性たちによって秩序が維持された。 また、後宮を意味するハレム(harem)は、オスマン帝国の後宮がそう呼ばれていたところから来ている。.

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律令制

律令制(りつりょうせい)は、律令に基づく制度のこと。主に古代東アジアで見られた中央集権的な統治制度であるといわれることもあるが、唐制に倣った体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである山内昌之・古田博司。日本では律令制または律令体制や律令国家と呼ばれるが、中国にはこのような呼称は存在しない菊池秀明p8 (日中歴史共同研究報告書 p153)。中国において「律令」という言葉は秦から明まで長期にわたって使われており、その間にその内容や位置づけは大きな変遷をみている。そのため、日本の律令制の直接的モデルとなった隋や唐の国家体制をもって「律令制」と定義することは、中国の律令の変遷の実情を無視することとなり、また秦から明までのおよそ1800年間(律のみ存在した清も加えれば2100年間)の制度を一括りにすることにはあまり意味がないとする考えもある廣瀬薫雄『秦漢律令研究』2010年、汲古書院、第一部第一章「律令史の時代區分について」。.

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律令法

律令法(りつりょうほう)とは、律令格式などの制定法および平安時代になって律令を基礎にして成立した各種の慣習法をふくめたもの。大化の改新以後の中央集権的国家の制定した公法を中心とする法体系である。 なお、律令それ自体については律令の項を、律令に基づく制度各般については律令制の項を、それぞれ参照されたい。.

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嵯峨天皇

嵯峨天皇(さがてんのう、延暦5年9月7日(786年10月3日) - 承和9年7月15日(842年8月24日))は、日本の第52代天皇(在位:大同4年4月1日(809年5月18日) - 弘仁14年4月16日(823年5月29日))。 諱は神野(賀美能・かみの)。 桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子(檀林皇后)。 嵯峨天皇宸翰『哭澄上人詩』部分(最澄の死を悼む詩)釈文:(香煙は)像爐に(続く) 蒼生橋梁に少なく 緇侶(しりょ)律儀疎(うと)し 法軆何ぞ久しく住(とど)まらん 塵心傷みて餘り有り.

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カバネ

姓(カバネ、可婆根)は、古代日本の大和王権において、大王(おおきみ、天皇)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示す称号である。 以下、特別の補足がない限り「氏」は「うじ」、「姓」は「かばね」と読む。.

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品位 (位階)

品位(ほんい)とは、日本の律令制において定められていた親王・内親王の位階のことをいう。奈良時代から江戸時代にかけて存在した。 「品位」は、中国の王朝における分類法(九品)に由来する。中国では位階を一品以下九品までに分類し、これを正位と従位にわけていた。この品位は朝鮮の歴代王朝でも用いられ、特に新羅以降については骨品制という独自の位階制が存在した。 しかし、日本の律令制では、臣下の位は「位」で分類し、これとは別体系の親王・内親王の位階に「品」(ほん)を用いた。品位には一品から四品があり、正位と従位にわけない。品位に叙せられていない親王は「無品」(むぼん、むほん)と称した。なお、諸王は臣下と同じ位階体系において、正一位から従五位までに叙せられた。 品位を授けられた親王は、品位に応じて品田が支給され、品封(封戸)を賜る 。 明治時代以降は親王の品位および諸王の位階は廃止され、皇族には勲等と功級のみが授与されることとなった。.

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唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

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円融天皇

円融天皇(えんゆうてんのう、天徳3年旧3月2日(959年4月12日) - 正暦2年旧2月12日(991年3月1日); 在位:安和2年旧9月23日(969年11月5日) - 永観2年旧8月27日(984年9月24日))は、第64代天皇。諱は守平(もりひら)。 村上天皇の第五皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘・中宮安子。冷泉天皇の同母弟。.

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内親王

内親王(ないしんのう、うちのみこ、ひめみこ、Princess)は、皇族女子の身位または称号の一つ。現行の皇室典範では天皇からみて直系で2親等以内の者に与えられる。かつては、親王宣下を受けた皇族女子に与えられた。.

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元明天皇

元明天皇(げんめいてんのう、斉明天皇7年(661年) - 養老5年12月7日(721年12月29日))は、日本(飛鳥時代 - 奈良時代)の第43代天皇。女帝(在位:慶雲4年7月17日(707年8月18日) - 和銅8年9月2日(715年10月3日))。名は阿閇皇女(あへのひめみこ)。阿部皇女とも。和風諡号は「日本根子天津御代豊国成姫天皇」(やまと ねこ あまつみよ(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと、旧字体:−豐國成姬−)である。 天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)。持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文天皇)は異母兄。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母。 藤原京から平城京へ遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。.

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光孝天皇

光孝天皇(こうこうてんのう、天長7年(830年) - 仁和3年8月26日(887年9月17日)は、第58代天皇(在位:元慶8年2月23日(884年3月23日) - 仁和3年8月26日(887年9月17日))。諱は時康(ときやす)。 仁明天皇の第三皇子。母は藤原総継の娘、贈皇太后沢子。.

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光仁天皇

光仁天皇(こうにんてんのう、和銅2年10月13日(709年11月18日) - 天応元年12月23日(782年1月11日))は、第49代天皇(在位:宝亀元年10月1日(770年10月23日) - 天応元年4月3日(781年4月30日))。和風諡号は「天宗高紹天皇」(あまつむねたかつぎのすめらみこと)。天智天皇の第7皇子・施基親王(志貴皇子)の第6子で白壁王と称した。母は紀橡姫(贈太政大臣紀諸人の娘)。.

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皇后

皇后(こうごう、Empress)は、天皇や皇帝の正妃(正妻)、およびその人物に与えられる称号。 一夫多妻制のもとでは、天皇や皇帝の複数の妻のうち最上位の者となる。.

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皇太子妃

皇太子妃(こうたいしひ、Crown Princess)とは、皇太子の妃の身位、またその身位にある人をいう。.

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皇室典範

皇室典範(こうしつてんぱん、昭和22年法律第3号)は、日本国憲法第2条及び第5条に基づき、皇位継承及び摂政に関する事項を中心に規律した皇室に関する法律である。 1947年(昭和22年)に、日本国憲法第100条及び第2条、第5条に基づき、日本国憲法施行前に、憲法に附属する法律の制定手続によって、枢密院の諮詢及び帝国議会(衆議院・貴族院)の協賛を経て、現在の「皇室典範」(昭和22年法律第3号)が制定された。.

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皇位継承

1928年(昭和3年)11月、即位の礼の時の昭和天皇 皇位継承(こういけいしょう)は、一般的に皇位(天皇の位)を皇太子もしくは皇位継承者に譲ることである。諸外国における国王・皇帝の地位を継承を意味する王位継承あるいは帝位継承とほぼ同義語である。大日本帝国憲法及び日本国憲法で明文規定された。.

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真人

* 真人(しんじん)は、老荘思想・道教において人間の理想像とされる存在。仙人の別称として用いられることもある。.

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為子内親王

子内親王(ためこないしんのう、? - 昌泰2年3月14日(899年4月27日))は、平安時代前期の皇族。光孝天皇の皇女で醍醐天皇妃。母は班子女王、宇多天皇は同母兄にあたる。 元慶8年4月13日(884年5月11日)に同母兄定省王(後の宇多天皇)らとともに臣籍降下して源朝臣を賜る。寛平3年(891年)に宇多天皇の同母妹であることから内親王宣下を受けて皇族に復帰した。寛平9年(897年)に醍醐天皇の即位と同時に入内して皇后に次ぐ妃となった(この時、皇后は不設置であった)。宇多上皇は阿衡事件の教訓から藤原北家嫡流を外祖父とする皇子の出生を望まず、為子所生の男子を立太子する方針であったが、2年後に勧子内親王を生むと同時に死去した。このため、為子の次の后として藤原時平の妹穏子を入内させようとした醍醐天皇・藤原時平とこれに反対する宇多上皇との対立が発生(『九暦』)し、後の宇多上皇による斉世親王の皇位継承者指名問題及び菅原道真の大宰権帥左遷事件(いわゆる昌泰の変)に発生したとも言われている。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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草壁皇子

草壁皇子(くさかべのみこ(おうじ)、天智天皇元年(662年) - 持統天皇3年4月13日(689年5月7日)は、飛鳥時代の皇族。天武天皇と皇后・鸕野讃良皇女(後の持統天皇)の皇子。妃は天智天皇の皇女で持統天皇の異母妹である阿陪皇女(後の元明天皇)。元正天皇・吉備内親王・文武天皇の父。諡号は岡宮御宇天皇(おかのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと、おかのみやぎょうてんのう)。岡宮天皇、長岡天皇とも称される。 天皇系図38~50代.

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親王妃

親王妃(しんのうひ/みこのみめ、Princess)は、親王の妃、またはその身位にある人をいう。日本における親王妃は皇室典範第5条により皇族(女性皇族)と規定される。なお、皇太子妃も、親王妃に含まれる。敬称は「殿下」である(同法第23条第2項)。江戸時代までは御息所ともいわれた。 現在、親王妃は皇太子妃を含めて、皇太子徳仁親王妃雅子(皇太子妃)、文仁親王妃紀子(秋篠宮妃)、正仁親王妃華子(常陸宮妃)、崇仁親王妃百合子(三笠宮妃)、寛仁親王妃信子、憲仁親王妃久子(高円宮妃)の6名である。.

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高志内親王

志内親王(こしないしんのう、延暦8年(789年) - 大同4年5月7日(809年6月23日))は、第50代桓武天皇の皇女。母は皇后藤原乙牟漏。淳和天皇親王時の妃。同母兄に平城天皇、嵯峨天皇。贈皇后。贈一品。 桓武天皇にとって、皇后所生の唯一の皇女であり、桓武天皇鍾愛の皇女といわれる。延暦23年1月5日(804年)三品。異母兄大伴親王(のちの淳和天皇)の妃となり、延暦24年(805年)第一皇子恒世親王を産む。他に氏子内親王(斎宮)、有子内親王、貞子内親王の3皇女をもうけた。大同4年(809年)、21歳で薨去。のちに弘仁14年(823年)、淳和天皇の即位に伴い、皇后を追贈された。 所生の恒世親王は、両親とも桓武天皇の皇子であり、血筋の上では有力な皇太子候補であった。しかし、父淳和天皇は自身の皇太子として嵯峨天皇皇子の正良親王(仁明天皇)をたてた。恒世親王は父淳和天皇在位中の天長3年(826年)に薨去し、皇位継承にかかわることはなかった。高志内親王の死後、嵯峨天皇皇女正子内親王が淳和天皇皇后となり、所生の恒貞親王は仁明天皇の皇太子にたてられたが、承和の変により廃太子となった。.

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高津内親王

津内親王(こうづ/たかつないしんのう、生年不詳母の坂上又子が没した延暦9年(790年)7月21日以前の誕生。-承和8年4月17日(841年5月11日))は桓武天皇の第12皇女、母は従五位下・坂上又子(苅田麻呂の娘)。.

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貴族

貴族(きぞく)とは、特権を備えた名誉や称号を持ち、それ故に他の社会階級の人々と明確に区別された社会階層に属する集団を指す。 その社会的特権はしばしば強大であるが、同時に国や地域により異なり、同じ国・地域であっても時代によって変遷する。また貴族階級は伝統的な概念ではあるものの、時に新たな人員を迎え入れ、常に人員は更新され続けている。 貴族階級は多くの場合は君主制の下に維持され、称号の付与や特権の保証なども君主によって行われる。一般的に、貴族などという特権階級を認めてしまうということは反民主主義とされている。フランスでは、貴族階級をものともしないヴォルテールの姿勢がフランス的民主主義の基礎となり、フランス革命でそうした考え方は公認のもの、正統なものとなり、ここに民主主義が実現したとされている。しかし共和制など君主の存在を持たない制度においても貴族制度が存在した場合もある。 西洋では特に青い血という言葉が貴族の血筋を意味する慣用句として用いることがある。ただし、これはあくまでもスペイン語由来のものであるため限定的ではある。日本の場合、貴族の起源について穀物の貯蔵が貴族制度の遠因となったと考える論者もある。.

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贈位

贈位(ぞうい)とは、生前に功績を挙げた者に対して、没後に位階を贈る制度。追贈、追賜ともいう。官職を贈る場合は贈官(ぞうかん)という(例:贈太政大臣)。 将棋や囲碁の世界では、大会での優勝や功績に応じてタイトルを贈られることを贈位と呼ぶこともある。就位ともいう。この際に贈られる賞状を贈位状とも呼ぶ。.

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薬子の変

薬子の変(くすこのへん)は、平安時代初期に起こった事件。大同5年(810年)に平城上皇と嵯峨天皇とが対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着する。平城上皇の愛妾の尚侍・藤原薬子や、その兄である参議・藤原仲成らが処罰された。 なお名称について、かつては藤原薬子らが中心となって乱を起こしたものと考えられており、「薬子の変」という名称が一般的であった。しかし、律令制下の太上天皇制度が王権を分掌していることに起因して事件が発生した、という評価がなされるようになり、2003年頃から一部の高等学校用教科書では「平城太上天皇の変」という表現がなされている。.

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藤原基経

藤原 基経(ふじわら の もとつね)は、平安時代前期の公卿。藤原北家、中納言・藤原長良の三男。 摂政であった叔父・藤原良房の養子となり、良房の死後、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握った。陽成天皇を暴虐であるとして廃し、光孝天皇を立てた。次の宇多天皇のとき阿衡事件(阿衡の紛議)を起こして、その権勢を世に知らしめた。天皇から大政を委ねられ、日本史上初の関白に就任した。.

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藤原穏子

藤原穏子(ふじわら の おんし・やすこ、仁和元年(885年) - 天暦8年1月4日(954年2月9日))は、関白藤原基経女。母は人康親王女。第60代醍醐天皇中宮、第61代朱雀天皇・第62代村上天皇生母。別名五条后。.

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藤原百川

藤原 百川(ふじわら の ももかわ)は、奈良時代の公卿。初名は雄田麻呂。藤原式家の祖である、参議・藤原宇合の八男。官位は従三位・参議、贈正一位・太政大臣。.

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藤原氏

藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.

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藤原旅子

藤原旅子(ふじわら の たびこ、天平宝字3年(759年) - 延暦7年5月4日(788年6月12日))は、平安時代の貴族。桓武天皇の夫人。淳和天皇の母。藤原百川の長女で、母は従三位尚膳藤原諸姉(藤原良継の娘)。.

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醍醐天皇

醍醐天皇(だいごてんのう、元慶9年1月18日(885年2月6日)- 延長8年9月29日(930年10月23日))は、平安時代の第60代天皇(在位:寛平9年7月13日(897年8月14日)- 延長8年9月22日(930年10月16日))。臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源 維城(みなもと の これざね)といった。のち父の即位とともに皇族に列し親王宣下ののちに敦仁(あつぎみ・あつひと)に改めた。 宇多天皇の第一皇子。母は内大臣藤原高藤の女藤原胤子。養母は藤原温子(関白太政大臣基経の女)。.

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酒人内親王

酒人内親王(さかひとないしんのう、天平勝宝6年(754年) - 天長6年8月20日(829年9月25日))は、奈良時代から平安時代初期にかけての皇族。光仁天皇の皇女。母は皇后・井上内親王。伊勢斎王、のち桓武天皇妃。.

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桓武天皇

桓武天皇(かんむてんのう、天平9年(737年) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))は、日本の第50代天皇(在位:天応元年4月3日(781年4月30日) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))。.

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河内祥輔

河内 祥輔(こうち しょうすけ、1943年10月 - )は、日本の歴史学者。北海道大学名誉教授、元法政大学文学研究科教授。中世史専攻。.

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淳和天皇

淳和天皇(じゅんなてんのう、延暦5年(786年) - 承和7年5月8日(840年6月11日)、在位:弘仁14年4月27日(823年6月9日) - 天長10年2月28日(833年3月22日))は、平安時代初期の第53代天皇。西院帝ともいう。諱は大伴(おおとも)。 桓武天皇の第七皇子。 母は、藤原百川の娘・旅子。平城天皇、嵯峨天皇は異母兄。.

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朝原内親王

朝原内親王(あさはらないしんのう/あしたはらないしんのう、宝亀10年(779年) - 弘仁8年4月25日(817年5月14日))は、桓武天皇の第一皇女。母は妃酒人内親王。伊勢斎王、のち平城天皇妃。.

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昌泰の変

昌泰の変(しょうたいのへん)は、901年(昌泰4年)1月、左大臣藤原時平の讒言により醍醐天皇が右大臣菅原道真を大宰員外帥として大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将源善らを左遷または流罪にした事件。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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日本後紀

『日本後紀』(にほんこうき)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『続日本紀』に続く六国史の第三にあたる。承和7年(840年)に完成し、延暦11年(792年)から天長10年(833年)に至る42年間を記す。編者は藤原緒嗣ら。編年体、漢文、全40巻(現存10巻)。.

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摂関政治

摂関政治(せっかんせいじ)とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、天皇の外戚として摂政や関白あるいは内覧といった要職を占め、政治の実権を代々独占し続けた政治形態である。.

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時服

時服(じふく)は、毎年、春と秋とに、または夏と冬とに、朝廷から衣服の資を名目として皇親以下諸臣に支給された禄である。皇親に支給されたものをとくに王禄と呼び、特に対象を女王とする場合には女王禄と称した。.

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