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皇太后

索引 皇太后

皇太后(こうたいごう、Empress Dowager)は、先代の天皇・皇帝の皇后であった者、およびその称号。ただし必ずしもこの定義にあてはまらない事例もある。.

163 関係: 劉邦即位史記后位堀河天皇大妃大宝律令大宮大宮御所大韓帝国大辞林大正大正天皇天皇天皇の退位等に関する皇室典範特例法天豊津媛命太皇太后女御女王始皇帝孝明天皇宮内庁宮内省寡婦岩波書店上皇后丁朝中宮中国世襲足媛万里小路栄子三省堂一条富子平滋子庭田朝子二条舎子広辞苑五十鈴依媛命仲姫命伊香色謎命御間城姫御息所後三条天皇後冷泉天皇律令忍坂大中姫バオ・ダイヨーロッパヒメタタライスズヒメツィタ・フォン・ブルボン=パルマ...嵯峨天皇呂雉イギリスの君主イギリス領インド帝国エリザベス2世エリザベス・ボーズ=ライアンオーストリア=ハンガリー帝国カール1世ジョージ6世 (イギリス王)准后八坂入媛命元首光仁天皇光緒帝光明皇后前漢国王国母皇后皇太后宮職皇室令皇室典範皇帝皇族石姫皇女王妃班子女王神功皇后神武天皇禎子内親王称号章子内親王細媛命純宗純貞孝皇后紀橡姫綏靖天皇編集白河天皇西園寺禧子香淳皇后高宗高野新笠貞明皇后贈位鷹司祺子身位近衛尚子近衛維子阿野廉子藤原多子藤原妍子藤原嬉子藤原宮子藤原安子藤原寛子藤原乙牟漏藤原彰子藤原忻子藤原呈子藤原穏子藤原遵子藤原聖子藤原順子藤原詮子藤原高子藤原賢子藤原超子藤原茂子藤原胤子藤原歓子藤原沢子藤原明子藤原旅子藤原懐子英照皇太后押媛松村明橘嘉智子欝色謎命欣子内親王正子内親王正室江戸時代法律淳和天皇渟名底仲媛源通子源懿子明治明治天皇明治神宮明治維新昭和昭憲皇太后昌子内親王新村出文武天皇敬称手白香皇女1895年1910年1920年1947年1963年1967年2002年2006年2011年 インデックスを展開 (113 もっと) »

劉邦

劉 邦(りゅう ほう、、)は、前漢の初代皇帝。 沛県の亭長(亭とは当時一定距離ごとに置かれていた宿舎のこと)であったが、反秦連合に参加した後に秦の都咸陽を陥落させ、一時は関中を支配下に入れた。その後項羽によって西方の漢中へ左遷され漢王となるも、東進して垓下に項羽を討ち、前漢を興した。正式には廟号が太祖、諡号が高皇帝であるが、通常は高祖と呼ばれることが多い。.

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即位

即位(そくい)とは、亡くなったり、譲位した君主(皇帝、国王など)の跡を継いで、その君主位に就くことである。君主の第一子や弟が皇太子(王太子)や皇太弟(王太弟)に就任し、先代君主が亡くなった後に継ぐことがある。最大の式典という意味の「大典(たいてん)」の語を以て即位を指す(反対語は君主の死と葬儀を指す「大喪」)。 即位に際して儀式を執り行うことも多く、戴冠式(即位式)と呼ばれる。一般的に即位時期に合わせて行われるが、国内の政情不安や先代君主への服喪、財政難などを理由に数年後に実施されることもある。.

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史記

『史記』(しき)は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書である。正史の第一に数えられる。二十四史のひとつ。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻から成る紀伝体の歴史書で、叙述範囲は伝説上の五帝の一人黄帝から前漢の武帝までである。このような記述の仕方は、中国の歴史書、わけても正史記述の雛形となっている。 二十四史の中でも『漢書』と並んで最高の評価を得ているものであり、単に歴史的価値だけではなく文学的価値も高く評価されている。 日本でも古くから読まれており、元号の出典として12回採用されている。.

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后位

后位(こうい)は、日本の朝廷において天皇の配偶者や母・祖母等に与えられた太皇太后・皇太后・皇后の地位の総称で、三宮(さんぐう)・三后(さんごう)とも言う。妃位(妃・皇太妃・太皇太妃)や夫人位(夫人・皇太夫人・太皇太夫人)よりも格上に相当する。.

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堀河天皇

堀河天皇内裏跡 堀河天皇(ほりかわてんのう、承暦3年7月9日(1079年8月8日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))は平安時代後期の第73代天皇(在位:応徳3年11月26日(1087年1月3日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))。諱は善仁(たるひと)。 白河天皇の第二皇子、母は藤原師実の養女・中宮賢子。准母に同母姉媞子内親王(郁芳門院)。.

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大妃

大妃(テビ)は、朝鮮王朝において用いられた、先代の国王のキサキ(后または妃)で、現に在位している国王の母である女性の地位・称号である。王大妃や大王大妃と同じ意味で使われることもある。 日本の王家ではこれに相当する称号として皇太后・太皇太后を用いている。また、1945年の敗戦以前は、宮家の当主が死去し、後継者が宮号を継承したとき、先代当主の妃を指して「○○宮大妃(たいひ)」と呼ぶことがあったが、朝鮮の大妃が国王から授与される正式な称号なのに対し、日本の大妃は単なる通称・新聞用語であり法的な根拠はいっさいない。 国王の母親であるため、国王が在位している間はほとんど存在していた。なかには国王に代わって実権を掌握した大妃もおり、睿宗の母后である貞熹王后や明宗の母后である文定王后などが挙げられる。.

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大宝律令

大宝律令(たいほうりつりょう)は、701年(大宝1年)に制定された日本の律令である。「律」6巻・「令」11巻の全17巻。唐の律令を参考にしたと考えられている。大宝律令は、日本史上初めて律と令が揃って成立した本格的な律令である。.

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大宮

大宮(おおみや)は、宮(皇居・神社)に対する敬称。また、そこから派生した皇族への敬称、地名、人名。 大宮には、以下のようなものがある。.

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大宮御所

大宮御所(おおみやごしょ)とは、皇太后(大宮)の御所(女院御所)を指す。仙洞御所も参照.

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大韓帝国

純宗 勲章を纏っている高宗 大日本帝国の大礼服と大勲位菊花章頸飾など様々な勲章を纏った純宗 大日本帝国の大礼服と勲章を纏って座っている純宗 『大韓全図』(1899、玄采『大韓地誌』附図) 大韓帝国(だいかんていこく、대한제국〈テハンジェグク〉)は、1897年から1910年までの間李氏朝鮮が使用していた国号。大韓国(だいかんこく、대한국〈テハングク〉)、韓国(かんこく、한국〈ハングク〉)とも言った。また、現在の大韓民国(韓国)と区別するため、「旧韓国(きゅうかんこく)」と呼ばれることもある。 朝鮮半島最後の専制君主国であるが、日露戦争後は日本の保護国となり、1910年8月の韓国併合によって滅亡した。 現在の韓国政府はこの「大韓帝国」の領土に竹島(韓国名: 独島〈독도; 獨島〉)も含まれていたと主張する。.

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大辞林

『大辞林』(だいじりん)は三省堂が発行する中型国語辞典。中型国語辞典としては、岩波書店の『広辞苑』と並ぶ双璧。2006年に11年ぶりの改訂を行い、Web上でも使えるデュアル・ディクショナリーとして発表され、新たな動きがみられる。書籍版は23万8000語、Web版は約26万5千語。.

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大正

大正(たいしょう)は日本の元号の一つ。明治の後、昭和の前。大正天皇の在位期間である1912年(明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。.

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大正天皇

大正天皇(たいしょうてんのう、1879年(明治12年)8月31日 - 1926年(大正15年)12月25日)は、日本の第123代天皇。諱は嘉仁(よしひと)。幼少時の御称号は明宮(はるのみや)。お印は壽(じゅ)。 明治以降で初の一夫一妻制を採った天皇。.

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天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

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天皇の退位等に関する皇室典範特例法

天皇の退位等に関する皇室典範特例法(てんのうのたいいとうにかんするこうしつてんぱんとくれいほう)は、2017年に制定された、今上天皇の退位等に関して皇室典範の特例を定めた日本の法律。通称は譲位特例法、退位特例法、皇室典範特例法。.

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天豊津媛命

天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)は、欠史八代、懿徳天皇の皇后。孝昭天皇と武石彦奇友背の生母。 『日本書紀』本文での皇后で、息石耳命の娘。 なお『古事記』での皇后は、師木県主の祖である賦登麻和訶比売(飯日比売)、『日本書紀』第1の一書では磯城県主葉江の男弟猪手の娘である泉媛、第2の一書では磯城県主太眞稚彦の娘である飯日媛である。 SVGで表示(対応ブラウザのみ).

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太皇太后

太皇太后(たいこうたいごう、Grand Empress Dowager)は、先々代の帝王の正妻(皇后)もしくは、当代の帝王の祖母に対して用いる尊称である。.

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女御

女御(にょうご)は、天皇の後宮の身位の一つで、天皇の寝所に侍した。官名は中国・周代の官制を記した『周礼』に由来し、位は皇后・中宮に次ぐ。また、女御のうち、女性皇族たる女王が女御となった場合の呼称を王女御という。 初見は『日本書紀』雄略天皇の条であるが、実際は桓武天皇の代に紀乙魚・百済王教法などを女御としたのに始まる。当初、その位は低かったが次第に高まり、平安時代中期以降は、皇后は女御から昇進する慣例が確立した。最後の女御は孝明天皇の女御である九条夙子(英照皇太后)。 定員はなく、複数の女御がいる場合は住まう殿舎の名を取って「承香殿女御」などと呼んだ。 応仁の乱以後、上流貴族の娘の入内が絶えると、女御も存在しなくなった。後陽成朝に近衛前久の娘の前子が豊臣秀吉の養女として女御となり、ついで後水尾朝に徳川秀忠の娘の和子が女御になり、さらに中宮へ昇った。江戸時代には歴代天皇の正妻として摂家や世襲親王家の娘が一人だけ女御となり、しばしば准三宮となった。しかし霊元天皇や光格天皇などは女御を中宮に立てたものの、立后させない例の方が多かった。.

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女王

女王(じょおう、ラテン語:regina、フランス語:reine、英語:queen、ドイツ語:Königin)は、一般に「王」のうち女性であるもの、または男性の「王」に相当する女性の地位。 「王」は、君主の一般的な称号として用いられるほか皇族や諸侯の称号として、あるいは転じて第一人者の意味で用いられるが、これは「女王」についても同様である。ここでは、君主としての女王の意味のほか、その派生的用法について記述する。.

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始皇帝

始皇帝(しこうてい、紀元前259年 - 紀元前210年Wood, Frances.

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孝明天皇

孝明天皇(こうめいてんのう、天保2年6月14日(1831年7月22日) - 慶応2年12月25日(1867年1月30日))は、第121代天皇(在位:弘化3年2月13日(1846年3月10日)‐ 慶応2年12月25日(1867年1月30日))。諱は統仁(おさひと)。仁孝天皇の皇子、明治天皇の父。.

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宮内庁

宮内庁(くないちょう、Imperial Household Agency)は、日本の行政機関の一つである。 「皇室関係の国家事務、天皇の国事行為にあたる外国の大使・公使の接受に関する事務、皇室の儀式に係る事務をつかさどり、御璽・国璽を保管する内閣府の機関」である。 なお、宮内庁はかつて総理府の外局」であったが、現在は内閣府の外局(内閣府設置法第49条・第64条)ではなく「内閣府に置かれる独自の位置づけの機関」とされている(内閣府設置法48条)。官報の掲載では内閣府については「外局」ではなく「外局等」として宮内庁を含めている。.

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宮内省

宮内省(くないしょう)は、1947年(昭和22年)まで日本に存在した官庁名。古代のものと近代のものがあり、近代のものが1949年(昭和24年)以降の宮内庁の前身となる。.

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寡婦

寡(やもめ)・寡婦(かふ、やもめ)・寡夫・寡男(かふ、やもお)とは配偶者と死別または離別し、再婚していない独身者のことである。口語的な別名では女寡(おんなやもめ)、男寡(おとこやもめ)、後家(ごけ)、未亡人(みぼうじん)などがある。寡婦を支援するための、税制上の優遇や公的な援助制度などが設けられているが、寡夫を支援する制度は皆無である。.

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岩波書店

株式会社岩波書店(いわなみしょてん、Iwanami Shoten, Publishers. )は、日本の出版社。.

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上皇后

上皇后(じょうこうごう)とは、.

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丁朝

丁朝(ディンちょう、、966年 - 980年)は、ベトナム北部を支配した王朝。首都は華閭(ホアルー、現在のニンビン省に位置する)。ベトナムで編纂された史書では呉朝がベトナム初の独立王朝とされているが、北ベトナムが真に中国の王朝から独立したのは、丁朝の時代からだとする意見もある。.

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中宮

中宮(ちゅうぐう)は、日本の天皇の妻たちの呼称の一つ。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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世襲足媛

世襲足媛(よそたらしひめ)は、欠史八代、孝昭天皇の皇后。孝安天皇と天足彦国押人命の生母。 『古事記』では尾張連祖奥津余曾の妹である余曾多本毘娘。『日本書紀』本文では尾張連祖瀛津世襲の娘である世襲足媛である。 なお『日本書紀』第1の一書での皇后は、磯城県主葉江の娘である渟名城津媛、第2の一書では、倭國豊秋狭太媛の娘である大井媛。 SVGで表示(対応ブラウザのみ).

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万里小路栄子

万里小路 栄子(までのこうじ えいこ、明応3年(1494年) - 大永2年10月10日(1522年11月8日))は、室町時代の女性。後奈良天皇の後宮で、正親町天皇・永寿女王の生母。父は参議右大弁、従三位万里小路賢房。院号は吉徳門院。 知仁親王(後の後奈良天皇)に入内し、方仁親王(後の正親町天皇)・永寿女王ら2男2女を出産した。しかし、知仁親王が践祚する前の大永2年(1522年)に29歳で薨去。その後、永禄元年(1558年)9月26日に皇太后を追贈された。 えいこ Category:室町・安土桃山時代の后妃後宮 category:日本の贈后 Category:1494年生 Category:1522年没.

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三省堂

株式会社三省堂(さんせいどう)は、日本の出版社である。辞典・事典・六法・教科書などの出版で知られる。 本社はJR水道橋駅と神田川に挟まれたエリアにある。この場所は、かつて自社印刷工場の倉庫として使われていた場所であった。.

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一条富子

一条 富子(いちじょう とみこ、寛保3年2月4日(1743年2月27日) - 寛政7年11月30日(1796年1月9日))は、桃園天皇の女御、後桃園天皇および伏見宮貞行親王の母。准三宮、皇太后、女院。院号は恭礼門院(きょうらい もんいん)。.

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平滋子

平 滋子(たいら の しげこ、康治元年(1142年) - 安元2年7月8日(1176年8月14日))は、後白河天皇の譲位後の妃。高倉天皇の生母。女御、皇太后、女院。桓武平氏高棟流、いわゆる堂上平氏の生まれ。父は兵部権大輔・平時信(贈左大臣)、母は中納言・藤原顕頼の娘、祐子(すけこ)。兄弟に時忠・親宗、姉妹に二位尼時子(平清盛継室)・冷泉局(建春門院女房)・清子(宗盛の室)・坊門殿(重盛の室、維盛母の可能性あり)・藤原親隆の室(権少僧都・全真の母)・帥局(建礼門院女房)がいる。院号は建春門院(けんしゅんもんいん)。.

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庭田朝子

庭田 朝子(にわた あさこ、永享9年(1437年) - 延徳4年7月20日(1492年8月13日))は後土御門天皇の典侍、贈皇太后。父は権大納言庭田長賢(政賢・重賢)。後柏原天皇・尊伝入道親王の生母。後花園天皇の生母敷政門院(庭田幸子)は大叔母にあたる。 元は「近衛局」と称して足利将軍家に仕えていたが、当時親王であった後土御門天皇に召されて寵愛を受け、後に後柏原天皇を儲けた。『親長卿記』文明5年(1473年)8月5日条によれば、この日甘露寺親長が参内した際に広橋綱光から庭田長賢の娘が典侍の宣下を受けたことを知らされたと記述されている。 延徳4年(1492年)7月20日に急逝、死因は中風によるものとされる(『親長卿記』延徳4年7月19日条)。後柏原天皇即位後の永正元年(1504年)7月17日に皇太后宮の称号が贈られた。.

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二条舎子

二条 舎子(にじょう いえこ、享保元年8月24日(1716年10月9日) - 寛政2年1月29日(1790年3月14日))は、桜町天皇の女御で、後桜町天皇の生母。後に皇太后。女院号は青綺門院(せいきもんいん)。.

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広辞苑

『広辞苑』(こうじえん)とは、岩波書店が発行している中型の日本語国語辞典である。編著者・新村出、新村猛。.

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五十鈴依媛命

五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)は、『日本書紀』、『旧事本紀』によれば、綏靖天皇の皇后で、事代主の娘(母の名は不詳)、安寧天皇の母、五十鈴依姫。姉の姫踏鞴五十鈴媛命は神武天皇の皇后となる。欠史八代であるため夫綏靖天皇とともに実在しないとの説がある。『日本書紀』の安寧紀によると、五十鈴依媛命は事代主神の少女(おとむすめ)とあり、これは綏靖紀二年条に「(安寧天皇の父である綏靖天皇は)五十鈴依媛を立てて皇后と為したまう。すなわち天皇の姨(みおば)なり」とあるのと合致する。なお、『古事記』には五十鈴依媛命は登場せず河俣毘売が綏靖天皇皇后。.

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仲姫命

仲姫命(なかつひめのみこと、生没年不詳)は、応神天皇の皇后。『古事記』は中日売命に作る。品陀真若王(五百城入彦皇子の王子、景行天皇の孫王)の王女で、母は金田屋野姫命(建稲種命の女)。応神天皇との間に仁徳天皇を儲ける。仲津姫命とも。ちなみに同母姉の高城入姫命や同母妹の弟姫命も応神天皇の妃となっている。 応神天皇2年2月3日(271年3月1日)、応神天皇の皇后に立后された。仁徳天皇元年1月3日(313年2月14日)、仁徳天皇の即位と同日に皇太后となった。.

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伊香色謎命

伊香色謎命(いかがしこめのみこと、生年不詳 - 崇神天皇元年1月13日(前97年2月17日)以降)は、孝元天皇の妃、開化天皇の皇后。古事記には伊迦賀色許売命(読み方同じ)とある。父は大綜麻杵命で、母は高屋阿波良姫。同母兄に伊香色雄命がいる。彦太忍信命(父は孝元天皇。武内宿禰の祖父(記では父)。磐之媛命の高祖父(記では曾祖父))・崇神天皇(父は開化天皇)の母。 孝元天皇2年(前213年)、孝元天皇の妃となった。開化天皇6年1月14日(前152年2月25日)、亡夫孝元天皇と叔母(伯母)・皇后欝色謎命の皇子である開化天皇の皇后となった。崇神天皇元年1月13日(前97年2月17日)、崇神天皇の即位と同日に皇太后となった。.

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御間城姫

御間城姫(みまきひめ、生没年不詳)は崇神天皇の皇后。古事記には御真津比売(みまつひめ)とある。父は大彦命。垂仁天皇の母。 父の大彦命は、崇神天皇の父開化天皇の兄(孝元天皇の第一皇子)なので(実際、古事記(武埴安彦の乱の条)では、崇神天皇は大彦命を伯父と呼んでいる)、夫・崇神天皇と従兄妹である。 「御間城姫」と崇神天皇の名「御間城入彦五十瓊殖尊」が同じ「御間城」を含んでおり、また、古事記の開化天皇条には崇神天皇(御真木入日子印恵命)の同母妹に后と同名の「御真津比売命」があることから、二人はもともと同母兄妹の伝承であったのを、記紀編纂時に変えたとの見方もある。 Category:日本の皇后 Category:日本の皇太后 Category:古墳時代以前の女性皇族 Category:生没年不詳.

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御息所

御息所(みやすんどころ、みやすどころ).

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後三条天皇

大炊御門万里小路殿址、源高房、後三条天皇はこの地で崩御、京都府京都市中京区富小路通夷川上る西側 後三条天皇(ごさんじょうてんのう、長元7年7月18日(1034年9月3日) - 延久5年5月7日(1073年6月15日))は、第71代天皇(在位:治暦4年4月19日(1068年5月22日) - 延久4年12月8日(1073年1月18日))。諱は尊仁(たかひと)。宝算40。 後朱雀天皇の第二皇子。母は三条天皇第三皇女・皇后禎子内親王(陽明門院)。後冷泉天皇の異母弟。宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇である(ただし、生母の禎子内親王は藤原道長の外孫である)。.

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後冷泉天皇

後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう、万寿2年8月3日(1025年8月28日) - 治暦4年4月19日(1068年5月22日))は、日本の第70代天皇(在位:1045年 - 1068年)。後朱雀天皇の第一皇子。母は藤原道長女藤原嬉子(贈皇太后)。諱を親仁(ちかひと)。紫式部の娘大弐三位が乳母である。.

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律令

律令(りつりょう)とは、東アジアでみられる法体系である。律は刑法、令はそれ以外(主に行政法。その他訴訟法や民事法も。)に相当する。律令国家の基本となる法典。成文法。日本統治下の台湾において台湾総督が法律に代わるものとして制定した律令については律令(日本統治下の台湾法制)を参照。.

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忍坂大中姫

忍坂大中姫関係系図 忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)は第19代允恭天皇の皇后であり、木梨軽皇子(允恭天皇の皇太子)・第20代安康天皇・第21代雄略天皇の母。父は稚野毛二派皇子(応神天皇の皇子)。母は弟日売真若比売命(日本武尊の曾孫)。意富富杼王(継体天皇の曾祖父)の同母妹。 日本書紀允恭紀に、允恭天皇2年春2月14日(413年3月31日)立后され、名代部として刑部(おっさかべ)が設定されたとある。このとき設定された名代部の一つが火葦北国(ひのあしきたのくに。熊本県八代・葦北地方)であるとする説がある。当地から阿蘇ピンク石という石材が産出しており、河内平野の古墳の石棺にこの石材が用いられていることから、何らかの関係があるとする見方もある。 允恭天皇42年12月14日(454年1月28日)、安康天皇の即位と同日に皇太后となった。.

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バオ・ダイ

バオ・ダイ(、1913年10月22日 - 1997年7月30日)は、阮朝大南国の第13代にして最後の皇帝(在位:1926年1月8日 - 1945年3月11日)、ベトナム帝国皇帝(在位:1945年3月11日 - 1945年8月30日)、ベトナム民主共和国最高顧問(1945年9月 - 1946年3月16日)、後にベトナム国国長(在任:1949年6月14日 - 1955年4月30日)。姓・諱は阮福永瑞(げんふく えいずい、グエン・フク・ヴィン・トゥイ、)、後に阮福晪(げん ふくてん、グエン・フク・ティエン、、晪は日偏に典)と改めた。バオ・ダイの名は治世の年号である保大(1926年 - 1945年)に由来し、保大帝(ほだいてい、ホアン・デ・バオ・ダイ、)とも称される。.

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ヨーロッパ

ヨーロッパ日本語の「ヨーロッパ」の直接の原語は、『広辞苑』第5版「ヨーロッパ」によるとポルトガル語・オランダ語、『デジタル大辞泉』goo辞書版「」によるとポルトガル語。(、)又は欧州は、地球上の七つの大州の一つ。漢字表記は欧羅巴。 地理的には、ユーラシア大陸北西の半島部を包括し、ウラル山脈およびコーカサス山脈の分水嶺とウラル川・カスピ海・黒海、そして黒海とエーゲ海を繋ぐボスポラス海峡-マルマラ海-ダーダネルス海峡が、アジアと区分される東の境界となる増田 (1967)、pp.38–39、Ⅲ.地理的にみたヨーロッパの構造 ヨーロッパの地理的範囲 "Europe" (pp. 68-9); "Asia" (pp. 90-1): "A commonly accepted division between Asia and Europe...

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ヒメタタライスズヒメ

ヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛命)/ヒメタタライスケヨリヒメ(比売多多良伊須気余理比売命)は、神武天皇の皇后である。 神武天皇は、東征以前の日向ですでに吾平津姫を娶り子供も二人いたが、大和征服後、在地の豪族の娘を正妃とすることで、天津神系と国津神系に分かれた系譜がまた1つに統合されることになった。.

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ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ

ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ(, 1892年5月9日 - 1989年3月14日)は、オーストリア=ハンガリー帝国最後の皇帝カール1世の皇后。ハプスブルク=ロートリンゲン家前当主オットー・フォン・ハプスブルクの母である。 ルクセンブルク大公マリー=アデライドとシャルロットの姉妹、ベルギー王アルベール1世妃エリザベートとはともに母方の従姉妹同士に当たる。また、シャルロットの夫フェリックスはすぐ下の弟である。.

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嵯峨天皇

嵯峨天皇(さがてんのう、延暦5年9月7日(786年10月3日) - 承和9年7月15日(842年8月24日))は、日本の第52代天皇(在位:大同4年4月1日(809年5月18日) - 弘仁14年4月16日(823年5月29日))。 諱は神野(賀美能・かみの)。 桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子(檀林皇后)。 嵯峨天皇宸翰『哭澄上人詩』部分(最澄の死を悼む詩)釈文:(香煙は)像爐に(続く) 蒼生橋梁に少なく 緇侶(しりょ)律儀疎(うと)し 法軆何ぞ久しく住(とど)まらん 塵心傷みて餘り有り.

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呂雉

呂 雉(りょ ち、紀元前241年 - 紀元前180年8月18日(旧暦7月1日(辛巳)))は、漢の高祖劉邦の皇后。恵帝の母。字は娥姁(女偏に句)。謚は高后(高皇后)。夫・劉邦の死後、皇太后・太皇太后となり、呂后、呂太后、呂妃とも呼ばれる。「中国三大悪女」として唐代の武則天(則天武后)、清代の西太后と共に名前が挙げられる。.

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イギリスの君主

イギリスの君主(イギリスのくんしゅ、Monarch of the United Kingdom)はイギリスとその海外領土の立憲君主である。現在の君主はエリザベス2世であり、1952年2月6日から王位に就いている。エリザベス2世とその直近の王族は、さまざまな公務、儀式、国の代表としての職務を行う。勲章の授与、議会の解散、首相の任命といった女王の権能は、立憲君主として特定の党派や主義に偏らないよう制限されている。イギリス政府の行政権は究極的には君主の大権によっているが、これらの権限は議会の制定した法律にのっとってのみ用いることができ、しかも実際には慣習と先例によっても制約を受けている。.

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イギリス領インド帝国

イギリス領インド帝国(イギリスりょうインドていこく)は、1858年にイギリスがインドに成立させたインド帝国(英語:Indian Empire)を指す。1877年以降はイギリスの君主がインド皇帝を兼ねる同君連合の形式が取られたが、事実上イギリスの植民地であった。英領インド・英印とも呼ばれる。またイギリスによる統治を指してヒンディー語で「」(英語ではBritish Raj)と呼ぶ。 その領域はインド・パキスタン(後のバングラデシュを含む)のみならず、現在のミャンマー、ネパール、スリランカも版図とした。.

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エリザベス2世

リザベス2世(、1926年4月21日とされる5月末から6月初め頃と実際の女王誕生日が異なることについては、当該項目を参照。 - )は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)を含む、16か国の主権国家(イギリス連邦王国)の君主であり、王室属領と海外領土の元首である。また、イングランド国教会の。イギリスの君主としてはウィンザー朝の第4代女王である。実名はエリザベス・アレクサンドラ・メアリー()。 1952年2月6日に即位してイギリス連邦に加盟する独立国家たる7か国、すなわち、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦、パキスタン、セイロンの女王になる。連合王国女王のレルムに属する国家および領土の数は1956年から1992年までに独立したり共和制に移行したりしたので少しずつ変わっていく。 2016年現在の今日においては、(現在まで存続している)前述の4か国(イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド)に加え、ジャマイカ、バルバドス、バハマ、グレナダ、パプアニューギニア、ソロモン諸島、ツバル、セントルシア、セントビンセント・グレナディーン、ベリーズ、アンティグア・バーブーダ、セントクリストファー・ネイビスが女王を君主としている。こうしてエリザベス2世は、合計16か国の君主を兼ねている。またクック諸島など、上記の国と自由連合制をとる国や、その一部となっている国・地域の中にも女王を元首としているところが存在する。 2015年、高祖母たるヴィクトリア女王を抜いて英国史上最高齢の君主になった。2015年1月23日にはサウジアラビア国王のアブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズが90歳で死去したことにより、88歳(当時)で存命する在位中の君主の中で世界最高齢になった。2015年9月9日には、在位期間が63年と216日となり、同じくヴィクトリア女王を抜いて英国史上最長在位の君主となった。さらに、2016年10月13日にはラーマ9世(タイ王国)の死去により、存命の君主では世界第1位の長期在位君主となった。.

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エリザベス・ボーズ=ライアン

リザベス・アンジェラ・マーガレット・ボーズ=ライアン姓は「バウエス=ライオン」「バウズ=ライアン」と表記される例もある。ノート:エリザベス・ボーズ=ライアンを参照のこと。(Elizabeth Angela Marguerite Bowes-Lyon、1900年8月4日 - 2002年3月30日)は、連合王国(イギリス)の王妃(在位:1936年12月11日 - 1952年2月6日)、およびインド皇后(在位:1936年 - 1947年) 1923年にヨーク公アルバート(ジョージ6世)と結婚。1936年に夫が国王に即位したため王妃となった。1952年に夫が肺癌で崩御し、長女のエリザベス2世 (HM Queen Elizabeth II)が即位したため、両者が同名であることによる混乱を避けるために、エリザベス2世の即位以降はエリザベス皇太后 (HM Queen Elizabeth The Queen Mother) と呼ばれるようになった。エリザベスは、最後のアイルランド王妃、インド皇后となっている。.

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オーストリア=ハンガリー帝国

ーストリア=ハンガリー帝国(オーストリア=ハンガリーていこく、 または Kaiserliche und königliche Monarchie、)は、かつて欧州に存在した国家。ハプスブルク帝国の一つであり、その最後の形態である。.

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カール1世

ール1世(Karl I.)はドイツ語圏の君主の名前。.

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ジョージ6世 (イギリス王)

ョージ6世(、アルバート・フレデリック・アーサー・ジョージ、、1895年12月14日 - 1952年2月6日)は、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)ならびに海外自治領(The British Dominions beyond the Sea)の国王(在位:1936年12月11日 - 1952年2月6日)。また、最後のインド皇帝(在位:1936年 - 1947年)にして、最初のイギリス連邦元首 (en:Head of the Commonwealth)(在位:1949年4月28日 - 1952年2月6日)でもあった。.

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准后

准后(じゅごう)は、日本の朝廷において、太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられた者、またその待遇・称号。正式には准三宮(じゅさんぐう)といい准三后(じゅさんごう)ともいう。准后は略称である。清和天皇外祖父の藤原良房に三宮に準じた待遇を与えたのをはじめとし、当初は経済的処遇が主であったが、のちには称号を与えるだけとなった。.

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八坂入媛命

八坂入媛命(やさかいりびめのみこと、生没年不詳)は、景行天皇の皇后。古事記には八尺之入日売命(やさかのいりひめのみこと)とある。父は八坂入彦命(崇神天皇の皇子)で、母は未詳。成務天皇・五百城入彦皇子ら七男六女の母。 景行天皇4年2月21日(74年4月5日)、景行天皇の妃となった。元々天皇に見初められたのは同母妹の弟媛であったが、固辞した彼女に推薦されて入内に至ったと伝えられる。同52年5月4日(122年6月25日)に当初皇后だった播磨稲日大郎姫が崩御したことを受け、同年7月7日(8月26日)に新たな皇后に立てられた。成務天皇2年11月10日(132年12月5日)、皇太后となった。.

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元首

元首(げんしゅ)または国家元首(こっかげんしゅ、dux civitatis、chef d’État、head of state)とは、.

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光仁天皇

光仁天皇(こうにんてんのう、和銅2年10月13日(709年11月18日) - 天応元年12月23日(782年1月11日))は、第49代天皇(在位:宝亀元年10月1日(770年10月23日) - 天応元年4月3日(781年4月30日))。和風諡号は「天宗高紹天皇」(あまつむねたかつぎのすめらみこと)。天智天皇の第7皇子・施基親王(志貴皇子)の第6子で白壁王と称した。母は紀橡姫(贈太政大臣紀諸人の娘)。.

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光緒帝

光緒帝(こうしょてい、こうちょてい)は、清の第11代皇帝(在位:1875年 - 1908年)。諱は載湉(湉はさんずいに恬)。廟号は徳宗(とくそう)。在世時の元号の光緒を取って光緒帝と呼ばれる。.

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光明皇后

光明皇后(こうみょうこうごう、大宝元年(701年) - 天平宝字4年6月7日(760年7月27日))は、奈良時代の聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養橘三千代の女子で、聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉。諱は安宿媛(あすかべひめ)。通称に光明子(こうみょうし)、藤三娘(とうさんじょう)。 正式な尊号は天平応真仁正皇太后(てんぴょう おうしん にんしょう こうたいごう)。皇族以外から立后する先例を開いた。.

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前漢

前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。 7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。 漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「漢字」)。 文中の単位については以下の通り。距離・1里=30歩=1800尺=415m 面積・1畝=1/100頃=4.65a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖.

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国王

国王(こくおう、英語:king, フランス語:roi, ドイツ語:König, ノルド語:kong, ラテン語:rex)は、国の君主(王)を指し、その称号(君主号)でもある。特に男性である場合(男王)を指す。.

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国母

国母(こくも/こくぼ)は、東アジアにおいて天皇や皇帝、国王の生母を指して用いられた呼称。また、「国の母」、「国民の母」の意で、皇后・王妃や国家指導者(国民の父)の配偶者等を指して使われることもある。.

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皇后

皇后(こうごう、Empress)は、天皇や皇帝の正妃(正妻)、およびその人物に与えられる称号。 一夫多妻制のもとでは、天皇や皇帝の複数の妻のうち最上位の者となる。.

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皇太后宮職

皇太后宮職(こうたいごうぐうしょく、こうたいごうぐうしき)は、日本の宮内庁にある皇太后の家政機関。皇后が、天皇崩御を経て皇太后の位につくことで、その后が崩御するまでの間のみ設置される。長は皇太后宮大夫。.

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皇室令

皇室令(こうしつれい)とは、旧皇室典範を根拠として、皇室典範に属する法体系いわゆる「宮務法」のもとで制定されていた、皇室に関係する一連の天皇の命令を指す。これは大日本帝国憲法に属する法体系いわゆる「国務法」とは異なり、皇室典範と同様、制定・改定には帝国議会は関与しない。 日本国憲法施行に伴い、1947年(昭和22年)5月2日を最後に廃止された。.

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皇室典範

皇室典範(こうしつてんぱん、昭和22年法律第3号)は、日本国憲法第2条及び第5条に基づき、皇位継承及び摂政に関する事項を中心に規律した皇室に関する法律である。 1947年(昭和22年)に、日本国憲法第100条及び第2条、第5条に基づき、日本国憲法施行前に、憲法に附属する法律の制定手続によって、枢密院の諮詢及び帝国議会(衆議院・貴族院)の協賛を経て、現在の「皇室典範」(昭和22年法律第3号)が制定された。.

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皇帝

皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.

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皇族

女王旗)皇室儀制令19条では「親王旗親王妃旗内親王旗王旗王妃旗女王旗」。 皇族(こうぞく)は、天皇の親族のうち、男系の嫡出の血族(既婚の女子を除く)およびその配偶者の総称。すなわち、皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃および女王の総称であり、天皇は含まれない。天皇を含む場合は「皇室」という。.

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石姫皇女

石姫皇女(いしひめのひめみこ/いしひめのおうじょ、生没年不詳)は、欽明天皇の皇后。『古事記』には石比売命(いしひめのみこと)とある。父は宣化天皇、母は橘仲皇女(仁賢天皇の皇女)。敏達天皇の母。 同母妹の小石姫皇女(記のみ)・倉稚綾姫皇女・日影皇女(以上紀のみ)と共に欽明天皇の妃となった。欽明天皇元年1月15日(540年2月8日)に欽明天皇の皇后に立てられた。敏達天皇元年4月3日(572年4月30日)、息子敏達天皇の即位と同日に皇太后に立てられた。.

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王妃

王妃(おうひ)は、王の正妃(第一夫人)のことである。君主としての王の妃の意味で用いられる場合と、諸侯または皇族としての王の妃の称号として用いられる場合がある。ヨーロッパの諸言語では前者の意味の王妃と、自身が君主である女王に同じ単語が用いられる。英語を例に挙げると、queen で両者を共に意味し、区別する場合には王妃を queen consort 、女王を queen regnant と呼び分ける。.

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班子女王

班子女王(はんし(なかこ)じょおう、天長10年(833年) - 昌泰3年4月1日(900年5月2日))は、平安時代の皇族。光孝天皇の女御。宇多天皇の母、皇太后。洞院后と称された。仲野親王(桓武天皇皇子)の娘で、母は贈正一位当宗氏。寛平御時后宮歌合の主催者。.

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神功皇后

功皇后(じんぐうこうごう、成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は、仲哀天皇の皇后。『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は天日矛(あめのひぼこ)裔・葛城高顙媛。応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫あり。 三韓征伐を指揮した逸話で知られる。.

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神武天皇

武天皇(じんむてんのう、庚午年1月1日 - 神武天皇76年3月11日『歴代天皇・年号事典』 吉川弘文館、2003年、p.

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禎子内親王

子内親王(ていし ないしんのう、長和2年7月6日(1013年8月15日) - 寛治8年1月16日(1094年2月3日))は、第67代三条天皇の第3皇女で、第69代後朱雀天皇の皇后、女院。「ていし」は仮の読みで、実際の読みは「さだこ」または「よしこ」だったと推測されている。 母は摂政藤原道長女・皇后妍子。院号は陽明門院(ようめいもんいん)。所生の子女に、尊仁親王(後三条天皇)、伊勢斎宮良子内親王、賀茂斎院娟子内親王がいる。.

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(しん、、紀元前778年 - 紀元前206年)は、中国の王朝。周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に中国を統一したが、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間(紀元前221年 - 紀元前206年)を秦朝、秦代と呼ぶ。国姓の本姓は、氏は趙。統一時の首都は咸陽。.

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称号

号(しょうごう、英語:Title)とは、主に個人または団体の公的な身分や資格、地位などを表す呼び名。.

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章子内親王

子内親王(しょうし(あきこ)ないしんのう、万寿3年12月9日(1027年1月19日) - 長治2年9月17日(1105年10月26日))は第68代後一条天皇第一皇女。母は藤原道長女・中宮藤原威子。第70代後冷泉天皇中宮、女院。院号は二条院(にじょういん)。同母妹に馨子内親王(後三条天皇中宮)。.

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細媛命

細媛命(くわしひめのみこと/ほそひめのみこと)は、欠史八代、孝霊天皇の皇后。孝元天皇の生母。 『日本書紀』本文における皇后で、磯城県主大目の娘。『古事記』では十市県主祖大目の娘である細比売。 なお、『日本書紀』第1の一書での皇后は春日千乳早山香媛(かすがのちちはややまかひめ)。第2の一書の皇后は十市県主等の祖である真舌媛(ましたひめ)。.

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純宗

純宗(じゅんそう)は、東アジアにおける君主の廟号の一つ。.

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純貞孝皇后

純貞孝皇后尹氏(じゅんていこうこうごう いんし、スンジョンヒョファンフ ユンシ)は、大韓帝国の第2代(最後の)皇帝・純宗の2番目の妃。本貫は海平尹氏。.

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紀橡姫

紀 橡姫(き の とちひめ、生年不詳 - 和銅2年9月14日(709年10月21日)?)は、飛鳥時代の女性。紀諸人の娘で、志貴皇子(施基親王)の妃。光仁天皇の生母。贈皇太后。.

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綏靖天皇

綏靖天皇(すいぜいてんのう、神武天皇29年 - 綏靖天皇33年5月10日)は、日本の第2代天皇(在位:綏靖天皇元年1月8日 - 綏靖天皇33年5月10日)。 和風諡号は、『日本書紀』では「神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと)」、『古事記』では「神沼河耳命」。 神武天皇(初代天皇)の皇子。『日本書紀』・『古事記』ともほぼ系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。.

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編集

編集(へんしゅう)とは、書物(書籍や雑誌)・文章・映画・ラジオ番組・テレビ番組・動画などの仕分け素材を、取捨選択、構成、配置、関連づけ、調整、などすることである。 古くから「編集」「編輯」「編緝」などの表記があり、特に戦前は「編輯」の表記が多かったが、当用漢字制定後に「編集」に統一された。当用漢字に「輯」の字がなく、似たような意味で同音の字である「集」(「輯」の新字体ではなく、全く別の字)に置き換えたためである(これを「俗用書換え」という)。なお書物の編集においては、全集や辞典・百科事典など大部なものを対象とするときは「編纂(へんさん)」、また歴史書・教科書などを対象とするときは「編修(へんしゅう)」の表記を使うことがある。 転じて、編集をやり直すことや、既存のものに変更を加える(改訂)ことをも編集ということもある。特にコンピュータ関連では、既存のファイルの一部(あるいは全部)を変更することを「ファイルを編集する」と言い表す。ウィキペディア内で散見される「記事(あるいはページ)を編集」という表現も、多くはこの意味である。.

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白河天皇

白河天皇(しらかわ てんのう)は、第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日) - 応徳3年11月26日(1087年1月3日))。諱を貞仁(さだひと)という。 後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。.

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西園寺禧子

西園寺 禧子(さいおんじ きし、藤原 禧子(ふじわら の きし)、 嘉元元年(1303年) - 元弘3年10月12日(1333年11月19日))は、鎌倉時代後期の女性。第96代後醍醐天皇の中宮。女院号は始め北朝側より礼成門院(れいせいもんいん)と称されるが、のちにそれは廃され、死後に改めて南朝側より後京極院(ごきょうごくいん)の号を追贈された。.

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香淳皇后

香淳皇后(こうじゅんこうごう、1903年(明治36年)3月6日 - 2000年(平成12年)6月16日)は、昭和天皇の皇后。今上天皇の実母。名は良子(ながこ)、久邇宮家出身で、皇后となる以前の身位は女王。 歴代皇后の中で最長寿である(満97歳没)。.

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諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。.

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高宗

宗(こうそう)は、東アジアにおける皇帝・王の廟号の一つ。.

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高野新笠

野 新笠(たかの の にいがさ、生年不詳 - 延暦8年12月28日(790年1月17日))は、光仁天皇の宮人、後に夫人。桓武天皇・早良親王・能登内親王の生母。桓武天皇の即位後、皇太夫人。薨去後に贈皇太后、贈太皇太后。諡号は天高知日之姫尊。 父は百済系渡来人の家系の出である和乙継(やまとのおとつぐ)、母は土師真妹(はじのまいも)。父方の和氏は百済武寧王の子孫を称する。高野朝臣(たかののあそみ)という氏姓は、光仁天皇の即位後に賜姓されたもの。.

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貞明皇后

貞明皇后(ていめいこうごう、1884年(明治17年)6月25日 - 1951年(昭和26年)5月17日)は、大正天皇の皇后。九条道孝(華族・公爵)の四女。ハンセン病の予防など救らい事業や福祉事業、蚕糸業(絹糸)奨励などに尽力した。旧名は、九条 節子(くじょう さだこ)。.

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贈位

贈位(ぞうい)とは、生前に功績を挙げた者に対して、没後に位階を贈る制度。追贈、追賜ともいう。官職を贈る場合は贈官(ぞうかん)という(例:贈太政大臣)。 将棋や囲碁の世界では、大会での優勝や功績に応じてタイトルを贈られることを贈位と呼ぶこともある。就位ともいう。この際に贈られる賞状を贈位状とも呼ぶ。.

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鷹司祺子

鷹司 祺子(たかつかさ やすこ、文化8年2月25日(1811年3月19日) - 弘化4年10月13日(1847年11月20日))は、江戸時代後期の仁孝天皇の女御。のち皇太后、女院。女院号は新朔平門院(しんさくへいもんいん)。.

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身位

身位(しんい)とは、日本の皇族の皇室内部での身分及び地位の差異を表現するためのことば。 日本の皇室において、皇族の身位とは、皇后、太皇太后、皇太后、皇太子、皇太子妃、皇太孫、皇太孫妃、親王、親王妃、内親王、王、王妃、女王をいう。 「皇族身位令」(明治43年皇室令第2号)では、皇族はそれぞれの身位に応じ、下記のとおり叙勲されることとされていた。.

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近衛尚子

近衛 尚子(このえ ひさこ、元禄15年3月9日(1702年4月5日) - 享保5年1月20日(1720年2月27日))は、江戸時代の中御門天皇の女御で、桜町天皇の生母。女院号は新中和門院(しんちゅうかもんいん)。.

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近衛維子

近衛 維子(このえ これこ、宝暦9年12月9日(1760年1月26日) - 天明3年10月12日(1783年11月6日))は、後桃園天皇の女御。関白太政大臣近衛内前の娘。弟に右大臣近衛経熙がいる。 明和5年(1769年)11月、皇太子英仁親王(のちの後桃園天皇)と結婚。明和7年(1770年)、英仁親王の即位に伴い、安永元年(1772年)12月に女御宣下を受ける。 安永8年(1779年)1月に第一皇女・欣子内親王を出産し、同年6月には准三后に叙される。しかし、同年11月に後桃園天皇が崩御。天皇には欣子内親王以外に子女がなかったため、急遽傍系の閑院宮典仁親王の第六王子・祐宮(のちの光格天皇)を維子の養子とし、皇位を継承させることとなった。 安永10年(1781年)3月、皇太后となり、名実ともに嫡母として新帝を補佐する立場に置かれるが、それから間もなく、天明3年10月12日(1783年11月6日)に崩御。享年24。同日、女院号を宣下され、盛化門院(せいかもんいん)と称される。陵墓は京都府京都市東山区の月輪陵。 Category:日本の皇太后 Category:女院 Category:江戸時代の后妃後宮 これこ Category:1760年生 Category:1783年没.

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阿野廉子

阿野 廉子(あの れんし/やすこ/かどこ、正安3年(1301年) - 正平14年/延文4年4月29日(1359年5月26日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての後宮・女院。後醍醐天皇の寵妃にして、後村上天皇(義良親王)・恒良親王・成良親王・祥子内親王・惟子内親王などの母である。院号宣下を受けて、新待賢門院と号し、また三位局とも呼ばれた。 父は右近衛中将・阿野公廉、母は不詳だが、後に洞院公賢の養女となった。実家の阿野家は藤原北家閑院流の公家であり、阿野全成の外孫・実直を始祖としている。.

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藤原多子

藤原 多子(ふじわら の まさるこ、保延6年(1140年) - 建仁元年12月24日(1202年1月19日))は平安時代末期の后妃。近衛天皇の皇后、次いで二条天皇の后となり「二代の后」と呼ばれた。父は徳大寺公能で、母は藤原豪子。養父は藤原頼長、養母は藤原幸子。21世紀現在においても最後の太皇太后である(近代以降の皇室典範には「太皇太后」に関する規定がある)。.

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藤原妍子

藤原 妍子(ふじわら の けんし/きよこ、正暦5年3月(994年4月) - 万寿4年9月14日(1027年10月16日))は、摂政藤原道長の次女。母は源倫子。第67代三条天皇中宮。別名枇杷殿皇太后。子女は禎子内親王(後朱雀天皇皇后)。同母の兄弟に頼通・教通、上東門院彰子・威子・嬉子。.

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藤原嬉子

藤原 嬉子(ふじわら の きし/ よしこ、寛弘4年1月5日(1007年1月26日) - 万寿2年8月5日(1025年8月30日))は、摂政藤原道長の六女。母は源倫子。尚侍。第69代後朱雀天皇の東宮妃、第70代後冷泉天皇生母。贈皇太后。同母の兄弟に頼通・教通、上東門院彰子・妍子・威子。.

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藤原宮子

藤原 宮子(ふじわら の みやこ、? - 天平勝宝6年7月19日〈754年8月11日〉)は、文武天皇の夫人。藤原不比等の長女。母は賀茂比売。異母妹で聖武天皇の皇后光明皇后とは、義理の親子関係にも当たる。.

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藤原安子

藤原 安子(ふじわら の あんし(やすこ)、延長5年(927年) - 応和4年4月29日(964年6月11日))は、右大臣藤原師輔の長女。母は武蔵守藤原経邦の女盛子。第62代村上天皇中宮。第63代冷泉天皇・第64代円融天皇、為平親王、承子内親王、輔子内親王、資子内親王、選子内親王らの生母。同母兄弟に伊尹・兼通・兼家・忠君、登子(重明親王妃)・藤原師輔三女(源高明先妻、俊賢母)・怤子(冷泉天皇女御)など。.

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藤原寛子

* 藤原寛子 (藤原忠平女) - 藤原忠平の娘、重明親王の正妻。.

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藤原乙牟漏

藤原乙牟漏(ふじわら の おとむろ、天平宝字4年(760年)『一代要記』に薨年三十九とあり、これに拠るなら天平勝宝4年(752年)生まれということになる。高島正人は、父藤原良継や桓武の年齢、平城の出生年(続日本紀の記述どおりだとすれば満13あるいは14歳で出産したことになる)からすれば、こちらのほうが合理的だとしている。高島「奈良時代における藤原氏一門の女性」『奈良時代諸氏族の研究』p.397。 - 延暦9年閏3月10日(790年4月28日))は、奈良時代末期の皇妃。第50代桓武天皇の皇后、第51代平城天皇・第52代嵯峨天皇の生母となった.

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藤原彰子

藤原 彰子(ふじわら の しょうし/あきこ、永延2年(988年) - 承保元年10月3日(1074年10月25日)は、第66代一条天皇の皇后(号は中宮)。第68代後一条天皇・第69代後朱雀天皇の生母(国母)、女院。院号を上東門院(じょうとうもんいん)といい、のちには大女院(おおにょいん)とも呼ばれた。 女房に『源氏物語』作者の紫式部、王朝有数の歌人として知られた和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門、続編の作者と伝えられる出羽弁、そして「古の奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬる哉」の一句が有名な歌人の伊勢大輔などを従え、華麗な文芸サロンを形成していた。.

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藤原忻子

藤原 忻子(ふじわら の きんし(よしこ)、長承3年(1134年) - 承元3年8月12日(1209年9月12日))は平安時代末期の后妃。第77代後白河天皇中宮。父は徳大寺公能で、母は藤原豪子。妹に近衛天皇皇后(のち二条天皇后)多子がいる。 久寿2年(1155年)に入内し、後白河天皇即位と共に従四位上女御となる。保元元年(1156年)、中宮に冊立。保元3年(1158年)、後白河天皇譲位。平治元年(1159年)、姝子内親王が二条天皇中宮に立后したのに伴い皇后宮。承安2年(1172年)、皇太后。承元3年(1209年)、76歳で崩御。『今鏡』は美貌であったと伝えるが、後白河天皇の寵愛は薄く子女もなかった。 Category:日本の皇后 Category:日本の皇太后 きんし1 category:平安時代の后妃後宮 Category:1134年生 Category:1209年没.

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藤原呈子

藤原 呈子(ふじわら の しめこ/ていし)、天承元年(1131年) - 安元2年9月19日(1176年10月23日))は平安時代末期の皇妃、女院。第76代近衛天皇中宮。父は藤原伊通、母は藤原顕隆の娘・立子。藤原得子(美福門院)と藤原忠通の養女。院号は九条院(くじょういん)。法名は静浄観。.

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藤原穏子

藤原穏子(ふじわら の おんし・やすこ、仁和元年(885年) - 天暦8年1月4日(954年2月9日))は、関白藤原基経女。母は人康親王女。第60代醍醐天皇中宮、第61代朱雀天皇・第62代村上天皇生母。別名五条后。.

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藤原遵子

藤原 遵子(ふじわら の じゅんし(のぶこ)、天徳元年(957年) - 寛仁元年6月1日(1017年6月27日))は平安時代中期、関白藤原頼忠の次女。母は代明親王(醍醐天皇皇子)の娘厳子女王。円融天皇中宮。別名は四条宮。同母弟妹に公任、諟子(花山天皇女御)。 貞元3年(978年)円融天皇に入内、女御宣下を受ける。同5年(982年)中宮に冊立。正暦元年(990年)皇后宮。長徳3年(997年)出家。長保2年(1000年)皇太后、長和元年(1012年)太皇太后。寛仁元年(1017年)、61歳で崩御。 遵子が入内した当時、後宮には既に中宮媓子がいた。しかし天元2年(979年)に媓子が没したため、空いた中宮位を遵子ともう一人の女御詮子が争った結果、第一皇子の懐仁親王を産んだ詮子ではなく関白頼忠の娘遵子が中宮となった。遵子立后の日、弟の公任は得意になって詮子方に「こちらの女御(詮子)はいつ立后なさるのかな」と言い放ち、詮子とその父兼家の恨みを買ったが、遵子はその後もついに皇子を産むことはなく、一条天皇の即位で詮子が皇太后になった際、公任は逆に詮子の女房から「姉君の素腹の后はどちらにおいでで?」と皮肉られたという(『大鏡』)。 円融天皇の譲位後は里邸の四条第で暮らしたことから四条宮とも呼ばれ、仏道に専念しつつ公任の娘を養女にして余生を送った。 Category:日本の皇后 Category:日本の皇太后 Category:日本の太皇太后 しゆんし category:平安時代の后妃後宮 Category:957年生 Category:1017年没.

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藤原聖子

藤原 聖子(ふじわら の きよこ、保安3年(1122年) - 養和元年12月4日(1182年1月10日))は平安末期の后妃。崇徳天皇の中宮、近衛天皇の養母、女院。院号は皇嘉門院(こうかもんいん)。 摂政関白太政大臣・藤原忠通の長女、母は北政所従一位・藤原宗子(権大納言・藤原宗通の娘)。忠通の嫡妻腹の子女は彼女一人である。.

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藤原順子

藤原 順子(ふじわら の のぶこ、大同4年(809年) - 貞観13年9月28日(871年11月14日)は、第54代仁明天皇女御。皇太后。藤原冬嗣の長女で母は尚侍藤原美都子。通称:五条后。.

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藤原詮子

東三条殿跡・藤原詮子居住地、京都市中京区押小路通釜座西北角 藤原 詮子(ふじわら の せんし/あきこ、応和2年(962年) - 長保3年閏12月22日(1002年2月7日))は、平安時代、第64代円融天皇女御。第66代一条天皇生母(国母)。院号は東三条院(ひがしさんじょういん)。 摂政関白・太政大臣藤原兼家の次女で、母は摂津守藤原中正の娘時姫。先後して摂関に在職した道隆・道兼・道長、また冷泉天皇女御超子は同母の兄弟。.

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藤原高子

藤原 高子(ふじわら の こうし/たかいこ、承和9年(842年) - 延喜10年3月24日(910年5月6日))は、平安時代、清和天皇の女御、のち皇太后。父は藤原長良。母は贈正一位大夫人藤原乙春。藤原基経の同母妹。通称、二条后。子は陽成天皇、貞保親王、敦子内親王。.

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藤原賢子

藤原 賢子(ふじわら の けんし/かたいこ、天喜4年(1057年) - 応徳元年9月22日(1084年10月24日))は、第72代白河天皇の中宮、第73代堀河天皇の国母。父は右大臣・源顕房、母は源隆俊の女・隆子。太政大臣・藤原師実の養女。.

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藤原超子

藤原 超子(ふじわら の ちょうし/とおこ、天暦8年(954年)頃 - 天元5年1月28日(982年2月24日))は、平安時代中期の女性。冷泉天皇の女御となり後の三条天皇を産んだが、その即位を見ることなく早世した。贈皇太后。藤原兼家の長女。母は藤原中正の女・時姫。同母兄弟妹に道隆・道兼・道長・詮子(東三条院)がいる。.

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藤原茂子

藤原 茂子(ふじわら の もし/しげこ、生年不詳 - 康平5年6月22日(1062年7月30日))は、第71代後三条天皇の皇太子時代の妃、第72代白河天皇生母。中納言藤原公成の娘で、大納言藤原能信の養女となった。母は藤原知光女。別名は滋野井御息所。.

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藤原胤子

藤原 胤子(ふじわら の いんし/たねこ、生年不詳 - 寛平8年6月30日(896年8月12日))は、内大臣藤原高藤(藤原北家冬嗣の孫)女。母は宮道列子。第59代宇多天皇女御、第60代醍醐天皇・敦慶親王・敦固親王・柔子内親王・敦実親王生母。同母兄弟に大納言右大将藤原定国・右大臣藤原定方。 元慶8年(884年)頃、光孝天皇の第七皇子源定省と結婚。同9年(885年)、長男維城(のち敦仁と改名)を産む。仁和3年(887年)、夫定省が皇族に復帰し即位する(宇多天皇)。同4年(888年)更衣となり、禁色を赦される。寛平4年(892年)1月、従四位下に叙され女御の宣旨を受ける。同年4月、敦仁親王が立太子。同8年(896年)に逝去。同9年、醍醐天皇の即位により皇太后を追贈された。 『今昔物語』によれば、父高藤が山科へ鷹狩に出かけた際雨宿りをした宇治郡司宮道弥益の家で、弥益の娘列子を見初め一夜の契りでもうけたのが胤子である。宇多天皇との間に四男一女をもうけながらも早世したが、所生の醍醐天皇が即位したことによって高藤は内大臣にまで昇進、胤子の兄弟定方も右大臣となり、同家は以後北家勧修寺流と称されることになった。 陵墓は小野陵(京都府京都市山科区勧修寺北大日町)。 いんし category:平安時代の后妃後宮 category:日本の贈后 Category:9世紀生 Category:896年没.

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藤原歓子

藤原 歓子(ふじわら の かんし、治安元年(1021年) - 康和4年8月17日(1102年9月30日))は平安時代後期の后妃。名は「よしこ」とも読む。第70代後冷泉天皇の皇后。通称、小野皇太后。 関白藤原教通の三女。母は大納言藤原公任の長女(1000年 - 1024年)。同母の兄弟に権大納言信家、侍従通基、太政大臣信長、権大僧都静覚(1024年 - 1083年)、同母姉に後朱雀天皇女御生子(1014年 - 1068年)、尚侍真子(1016年 - 1087年)、異母兄に権僧正静円(母は小式部内侍、1016年 - 1074年)がいる。.

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藤原沢子

藤原 沢子(ふじわら の たくし/さわこ、生年不詳 - 承和6年6月30日(839年8月12日))は、藤原総継と藤原数子の娘で仁明天皇の女御。光孝天皇の生母。姉妹の乙春は藤原長良室となり、基経および高子を産む。.

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藤原明子

藤原 明子(ふじわら の あきらけいこ、ふじわら の めいし).

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藤原旅子

藤原旅子(ふじわら の たびこ、天平宝字3年(759年) - 延暦7年5月4日(788年6月12日))は、平安時代の貴族。桓武天皇の夫人。淳和天皇の母。藤原百川の長女で、母は従三位尚膳藤原諸姉(藤原良継の娘)。.

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藤原懐子

藤原 懐子(ふじわら の かいし/ちかこ、天慶8年(945年) - 天延3年4月3日(975年5月16日))は平安時代中期、北家の摂政藤原伊尹の長女。母は代明親王(醍醐天皇皇子)の娘恵子女王。冷泉天皇女御、花山天皇国母。.

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英照皇太后

英照皇太后(えいしょうこうたいごう、天保5年12月13日(1835年1月11日)天保4年11月13日(1833年12月23日)誕生とする資料もあるが、これは誤り。皇太子統仁親王との婚姻時、親王との年齢差「中四つ」(3歳違い)を忌み嫌う風習があったので、一年早い天保4年を公式の生年としたのが真相である(小学館『日本大百科全書:ニッポニカ』「英照皇太后」の項目、河内八郎執筆)。 - 明治30年(1897年)1月11日)は、孝明天皇の女御にして明治天皇の嫡母(実母ではない)。旧名、九条 夙子(くじょう あさこ)。.

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押媛

SVGで表示(対応ブラウザのみ) 押媛(おしひめ)は、欠史八代、孝安天皇の皇后。孝霊天皇と大吉備諸進命の生母。 『日本書紀』本文の皇后で天足彦国押人の娘かつ孝安天皇の姪である。『日本書紀』第1の一書での皇后は磯城県主葉江の娘である長媛、第2の一書での皇后は十市県主五十坂彦の娘である五十坂媛。『古事記』の皇后は孝安天皇の姪の忍鹿比売。.

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松村明

松村 明(まつむら あきら、1916年9月3日 - 2001年11月22日)は、日本の国語学者。位階勲等は正四位勲三等瑞宝章。称号は文学士、東京大学名誉教授。『大辞林』の編纂者として知られる。.

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橘嘉智子

橘 嘉智子(たちばな の かちこ、延暦5年(786年) - 嘉祥3年5月4日(850年6月17日))は、第52代嵯峨天皇皇后。橘奈良麻呂の孫、贈太政大臣・橘清友の娘。母は田口家主の娘で、贈正一位・田口三千媛。兄弟に右大臣・橘氏公がいる。諡号は檀林皇后(だんりんこうごう)。.

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欝色謎命

欝色謎命(うつしこめのみこと、生年不詳 - 開化天皇元年1月4日(紀元前157年2月11日)以降)は、孝元天皇の皇后。古事記には内色許売命(読み方同じ)とある。父は大矢口宿禰命(大水口宿禰命とも)で、母は坂戸由良都姫命。同母兄に欝色雄命(穂積氏祖)がいる。大綜麻杵命(伊香色雄命・伊香色謎命の父)の同母姉(妹)。大彦命・開化天皇の母。 孝元天皇7年2月2日(紀元前208年3月20日)、皇后に立てられた。開化天皇元年1月4日(紀元前157年2月11日)、皇太后となった。.

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欣子内親王

欣子内親王(よしこないしんのう、安永8年1月24日(1779年3月11日) - 弘化3年6月20日(1846年8月11日))は、江戸時代の皇族。第119代光格天皇の中宮。幼称は女一宮(おんないちのみや)。女院号は新清和院(しんせいわいん)。.

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正子内親王

正子内親王(まさこないしんのう).

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正室

正室(せいしつ)は、高貴な人物の正式な妻のこと。正妻、本妻とも言う。律令制の元では嫡妻(ちゃくさい)とも呼ばれていた(原則一人)。これに対し、正室以外を側室(『大辞泉』)という。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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法律

法律(ほうりつ)は、以下のように様々な意味で用いられる。.

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淳和天皇

淳和天皇(じゅんなてんのう、延暦5年(786年) - 承和7年5月8日(840年6月11日)、在位:弘仁14年4月27日(823年6月9日) - 天長10年2月28日(833年3月22日))は、平安時代初期の第53代天皇。西院帝ともいう。諱は大伴(おおとも)。 桓武天皇の第七皇子。 母は、藤原百川の娘・旅子。平城天皇、嵯峨天皇は異母兄。.

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渟名底仲媛

渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと)は、安寧天皇の皇后。息石耳命と懿徳天皇と磯城津彦らの生母。 『日本書紀』本文での皇后。渟名襲媛とも。事代主の子鴨王の娘。母は不明。安寧3年に皇后になる。 『先代旧事本紀』では「三世孫 天日方奇日方命 亦名 阿田都久志尼命 此命娶日向賀牟度美良姬 生一男一女 兒 健飯勝命 妹 渟中底姬命 此命 片鹽浮穴宮天皇 安寧 片鹽浮穴宮 或本坐輕地曲峽宮 立為皇后 誕生四兒 即 大日本根子彥耜友天 懿德 次 常津命 次 磯城津彥命 次 手研彥奇友背命也」とあり渟中底姬命といい、天日方奇日方命の娘。 なお、『古事記』での皇后は、師木県主波延の娘 阿久斗比売、 『日本書紀』第1の一書での皇后は磯城県主葉江の娘である川津媛、第2の一書での皇后は大間宿禰の娘である糸井媛。 SVGで表示(対応ブラウザのみ).

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清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

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源通子

源 通子(みなもと の つうし、生年未詳 - 承久3年(1221年)8月)は、第83代土御門天皇の後宮で第88代後嵯峨天皇の生母。父は参議正四位下左近衛中将源通宗(源通親の長男、贈従一位左大臣)。 典侍となり、土御門天皇の寵愛を受けた。建暦元年(1211年)春子女王、建保元年(1213年)覚子内親王(准三宮、正親町院)、建保2年(1214年)仁助法親王、建保4年(1216年)静仁法親王、承久2年(1220年)邦仁王(のちの後嵯峨天皇)を産む。承久3年(1221年)8月、死去。後嵯峨天皇の即位により仁治3年(1243年)7月11日、贈皇太后。.

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源懿子

源 懿子(みなもと の よしこ).

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漢(かん、)は、中国の王朝である。通例、前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)の二つの王朝(両漢)を総称して「漢王朝」と呼ばれる。また、ここから転じて中国全土や中国の主要民族を指す名称ともなった。以下の記事では王朝について記述する。 中国初の統一王朝だった秦王朝が紀元前206年に滅亡すると、中国は秦を討った各軍の将帥による群雄割拠の状態に戻っていた。こうした中、漢中及び巴蜀に封じられていた劉邦が紀元前202年に垓下の戦いで項羽を討って中国を再統一した。中国を統一した劉邦は、皇帝として即位するにあたって旧来の国号であった漢をそのまま統一王朝の国号として用いた。この劉邦が開いた前漢と、いったん滅亡したのち劉秀によって再興された後漢の漢王朝は、あわせて400年の長きに渡った。初の統一王朝だった秦王朝が統一王朝としては実質的に一代で滅びたこともあり、漢王朝は中国の統一状態を実質的に確定した王朝となり、これから中国全土や中国の主要民族を指す名称として「漢」が用いられるようになった。 漢王朝の歴史の詳細については、前漢・後漢をそれぞれ参照。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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明治天皇

明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)- 1912年(明治45年)7月30日)は日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれる。功績・人物像から明治大帝(Meiji the Great)・明治聖帝・睦仁大帝(Mutsuhito the Great) とも呼ばれる。.

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明治神宮

明治神宮(めいじじんぐう)は、東京都渋谷区にある神社。明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする。初詣では例年日本一の参拝者数を誇る。正式な表記は「宮」の「呂」の中間の線が入らない「明治神宫」。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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昭和

昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.

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昭憲皇太后

昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう、嘉永2年4月17日(1849年5月9日) - 1914年(大正3年)4月9日)は、明治天皇の皇后。旧名・一条美子(いちじょう はるこ)。病弱で実子はなかったが、嫡妻として、明治天皇の側室(柳原愛子)が生んだ嘉仁親王(大正天皇)を養子とした。 欧州の王侯貴族・貴婦人と対峙できるよう近代女子教育を振興し、社会事業の発展、国産の奨励等に尽力した。史上初めて洋装をした皇后。1914年(大正3年)で崩御(64歳)。.

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昌子内親王

昌子内親王(しょうし(まさこ)ないしんのう 、天暦4年(950年) - 長保元年12月1日(1000年1月10日))は、平安時代中期の皇族。朱雀天皇第一皇女で、母は女御煕子女王。冷泉天皇の中宮となる。.

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新村出

新村 出(しんむら いずる、1876年(明治9年)10月4日 - 1967年(昭和42年)8月17日)は、日本の言語学者、文献学者。京都大学教授・名誉教授で、ソシュールの言語学の受容やキリシタン語の資料研究などを行った日本人の草分けである。.

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文武天皇

文武天皇(もんむてんのう、天武天皇12年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))は、日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))。 諱は珂瑠(かる)、軽(かる)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の707年(慶雲4年11月12日)に「倭根子豊祖父天皇」(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−豐祖父)と、『続日本紀』797年(延暦16年)に諡された「天之真宗豊祖父天皇」(あめの まむね とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−眞宗豐祖父)がある。 当時としては異例の14歳の若さで即位。祖母・持統太上天皇(史上初の太上天皇)のもとで政務を行っていた。後の院政形式の始まりである。.

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敬称

敬称(けいしょう)とは、話者が相手や第三者に対して敬意、尊敬の念を込めて用いられる名前(人名)や肩書きの後ろに付ける接尾語、またはその語自体で相手や第三者を表現する代名詞である。後者の場合は、職名などで、一つの名詞としての機能を持っていて、独立して用いられる。.

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手白香皇女

天皇系図 15~26代 手白香皇女(たしらかのひめみこ、仁賢天皇2年(489年)以前 - 没年不詳)は、古墳時代の皇族。継体天皇の皇后。仁賢天皇の皇女で、母は春日大娘皇女。同母弟に武烈天皇がいる。『古事記』の表記は手白髪郎女。子に欽明天皇。.

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1895年

記載なし。

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1910年

記載なし。

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1920年

記載なし。

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1947年

記載なし。

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1963年

記載なし。

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1967年

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2002年

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2006年

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2011年

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