ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

藤原道長

索引 藤原道長

藤原 道長(ふじわら の みちなが)は、平安時代の中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男(または四男)。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。 父・兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男・伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。 一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが三条天皇とは深刻な対立が生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。さらには、六女の嬉子を後の後朱雀天皇となる敦良親王に入侍させた。晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けた。.

357 関係: 古事談召人右大臣参議后位吉川弘文館大原野神社大宰権帥大嘗祭大納言大炊御門家大鏡大臣 (日本)大極殿天元 (日本)天神天禄太伯・虞仲太皇太后太政大臣太政官外祖父外戚女御安和の変寛仁寛弘寛和寛和の変寛和二年内裏歌合尚侍小右記小野宮流少納言山車岩波新書左大臣上島享中宮中宮職中御門流中公文庫中納言世界の記憶万寿三条天皇一上一条天皇九条流平安時代...平岩弓枝年爵京職京都康保仏教估価法侍従御堂関白記御堂流御子左家後三条天皇後一条天皇後冷泉天皇後朱雀天皇従三位従一位従二位従五位土御門殿土田直鎮北山茂夫ミネルヴァ書房ユリウス暦呉 (春秋)和歌和泉式部備前国冷泉天皇円融天皇内大臣内裏内覧准后准太上天皇准摂政公卿公事兼俊兵衛府前賢故実勅撰集国宝国際連合教育科学文化機関四天王寺倉本一宏皇后皇太后禎子内親王章子内親王糖尿病紫式部紫式部日記猶子盛明親王瀧波ユカリ花山天皇花山院家道命馨子内親王親政馬寮講談社講談社学術文庫講談社現代新書讃岐国貞元 (日本)践祚麻疹近衛大将関白藤原げん子藤原せい子藤原妍子藤原威子藤原嬉子藤原定子藤原実頼藤原実資藤原安子藤原寛子 (藤原道長女)藤原寛子 (藤原頼通女)藤原尊子 (藤原道長女)藤原師輔藤原中正藤原伊尹藤原伊周藤原彰子藤原北家藤原儼子藤原公季藤原公任藤原兼家藤原兼経藤原兼隆藤原兼頼藤原兼通藤原穆子藤原綏子藤原為任藤原為光藤原隆家藤原遵子藤原道兼藤原道綱藤原道隆藤原頼宗藤原頼忠藤原頼通藤原行成藤原顕信藤原顕光藤原詮子藤原超子藤原能信藤原長家藤原通基 (侍従)藤原通任藤原歓子藤原氏の人物一覧藤原済時藤原朝忠藤原教通藤原時姫藤氏長者蔵人頭醍醐家致平親王長徳長徳の変長保長保元年令長信長和集英社院政除目陽明文庫東大寺村上天皇栄花物語極楽権記権門正三位正暦武家政権歌合永井路子永延永祚 (日本)永観法成寺清華家源師房源俊賢源倫子源経房源頼光源高明源重光源雅信源氏物語源成信源明子源扶義漢詩朧谷寿末法思想本朝世紀望月昭和昌子内親王浄土教新制新潮社摂家摂関政治摂津国摂政摂政・関白の一覧悪性腫瘍愚管抄敦康親王敦明親王拾遺和歌集書家1000年1008年1011年1012年1014年1015年1016年1017年1018年1019年1021年1025年1028年10月15日10月15日 (旧暦)10月16日10月16日 (旧暦)10月17日10月21日10月26日10月27日 (旧暦)10月5日 (旧暦)11月18日 (旧暦)11月19日11月26日12月11日12月21日12月24日12月4日 (旧暦)12月7日 (旧暦)1951年1970年1973年1984年1月10日 (旧暦)1月27日1月27日 (旧暦)1月29日 (旧暦)1月3日1月7日1月7日 (旧暦)2000年2003年2004年2007年2008年2009年2010年2011年2013年2014年2017年2月19日2月1日 (旧暦)2月27日2月5日2月6日2月7日2月8日 (旧暦)2月9日 (旧暦)3月10日3月14日3月16日 (旧暦)3月20日3月21日 (旧暦)3月4日 (旧暦)3月6日4月12日4月14日 (旧暦)4月15日4月27日 (旧暦)4月28日4月28日 (旧暦)5月17日5月29日5月31日6月23日 (旧暦)7月11日 (旧暦)7月20日 (旧暦)7月21日 (旧暦)7月23日 (旧暦)7月24日 (旧暦)7月27日 (旧暦)8月15日 (旧暦)8月1日8月22日8月30日8月6日8月7日8月8日8月9日 (旧暦)966年970年977年979年980年982年983年984年986年987年988年989年990年991年992年994年995年996年998年999年9月19日 (旧暦)9月20日 (旧暦)9月21日9月24日9月26日 (旧暦)9月29日9月3日9月4日 (旧暦)9月7日 (旧暦) インデックスを展開 (307 もっと) »

古事談

『古事談』(こじだん)は、鎌倉初期の説話集。村上源氏出身の刑部卿源顕兼(源顕房5代目の子孫、1160年-1215年)の編。建暦2年(1212年)から建保3年(1215年)の間に成立。 顕兼は、長年刑部卿を務める一方で、藤原定家や栄西らとも親交があった教養人であり、有職故実にも精通していた。 奈良時代から平安中期に至るまでの462の説話を収める。王道后宮・臣節・僧行・勇士・神社仏寺・亭宅諸道の6巻からなり、巻ごとに年代順で配列。文体は真字(まな)を主とし、仮名交じり文もある。 貴族社会の逸話・有職故実・伝承などに材を取り、『小右記』『扶桑略記』『中外抄』『富家語』などの先行文献からの引用が多い。同時期の作品と比べて尚古傾向が薄く、天皇を始めとする貴人に関しても憚らずその秘事を暴き、正史とは別世界の人間性あふれる王朝史を展開している。あまりな醜聞暴露に恐れをなしたためか、称徳と道鏡、宇多と京極御息所、花山と馬内侍らの淫猥な説話を削った略本もある。天皇・貴族・僧の世界の珍談・秘話集。 説話文学史上、重要な作品であり、承久元年(1219年)成立の『続古事談』を始め、『宇治拾遺物語』など以降の説話集に影響を及ぼした。.

新しい!!: 藤原道長と古事談 · 続きを見る »

召人

召人(めしうど)は、貴人のそばに召し使う人のこと。日本の平安時代においては、特に主人と男女の関係にある女房のことをさす。また、朝廷の和歌所に務め、和歌の選定をする寄人のこと、コトバンク、2016年3月16日閲覧。。現代でも歌会始において、天皇から特に選ばれて招かれ和歌を詠む、「広く各分野で活躍し貢献している」人物のことを指し、歌人として活動する者などが選ばれる。 愛人としての召人とは、阿部秋生によると、自分の家や妻の家の女房であり、主人との関係は、家の中の者にはもちろんのこと家の外の者にも知られているが、その関係は公然の秘密であり、当人の前ではそのことを口に出さないことが暗黙の了解となっていた。北の方には、召人の存在を黙認することが暗に求められていた。実質的には妻であるが、局住まいをしていて、表向きの身分はあくまでも女房であった。.

新しい!!: 藤原道長と召人 · 続きを見る »

右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

新しい!!: 藤原道長と右大臣 · 続きを見る »

参議

参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.

新しい!!: 藤原道長と参議 · 続きを見る »

后位

后位(こうい)は、日本の朝廷において天皇の配偶者や母・祖母等に与えられた太皇太后・皇太后・皇后の地位の総称で、三宮(さんぐう)・三后(さんごう)とも言う。妃位(妃・皇太妃・太皇太妃)や夫人位(夫人・皇太夫人・太皇太夫人)よりも格上に相当する。.

新しい!!: 藤原道長と后位 · 続きを見る »

吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

新しい!!: 藤原道長と吉川弘文館 · 続きを見る »

大原野神社

大原野神社(おおはらのじんじゃ)は、京都府京都市西京区大原野にある神社。二十二社(中七社)の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 奈良の春日社(現在の春日大社)から勧請を受けたもので、「京春日(きょうかすが)」の別称がある。.

新しい!!: 藤原道長と大原野神社 · 続きを見る »

大宰権帥

大宰権帥(だざいのごんのそち/だざいのごんのそつ)は、大宰府の長官である大宰帥(だざいのそち)の権官である。初代は弘仁元年(810年)の阿保親王、2代目は承和4年(837年)の藤原常嗣であるが、前者は薬子の変による連座、後者は遣唐大使としての功労による特殊事情による任命であるため、貞観15年(873年)に任じられた3代目の在原行平(阿保親王の子)が事実上の初代とされている。.

新しい!!: 藤原道長と大宰権帥 · 続きを見る »

大嘗祭

大嘗祭(だいじょうさい)は、天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭。大嘗祭は古くは「おほにへまつり」、「おほなめまつり」とも訓じたが、現在は「だいじょうさい」と音読みすることが多い。新嘗祭(にいなめさい)は毎年11月に、天皇が行う収穫祭で、その年の新穀を天皇が神に捧げ、天皇自らも食す祭儀であるが当初は「大嘗祭」とはこの新嘗祭の別名であった。後に、即位後初めての新嘗祭を一世一度行われる祭として、大規模に執り行うこととなり、律令ではこれを「践祚大嘗祭」とよび、通常の大嘗祭(=新嘗祭)と区別したものである。.

新しい!!: 藤原道長と大嘗祭 · 続きを見る »

大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

新しい!!: 藤原道長と大納言 · 続きを見る »

大炊御門家

大炊御門家(おおいのみかどけ)は、清華家の家格をもつ公家。家業は筆道・和歌・笛・装束。江戸時代の家禄は400石。家紋は菱に片喰。明治以降は侯爵。.

新しい!!: 藤原道長と大炊御門家 · 続きを見る »

大鏡

『大鏡』(おおかがみ)は、平安時代後期(白河院政期)に成立したとされている紀伝体の歴史物語である。.

新しい!!: 藤原道長と大鏡 · 続きを見る »

大臣 (日本)

大臣は、重要な国務に携わる高官。時代や制度により、その内実と読みが変遷する。.

新しい!!: 藤原道長と大臣 (日本) · 続きを見る »

大極殿

大極殿(だいごくでん)は、古代の日本における朝廷の正殿。.

新しい!!: 藤原道長と大極殿 · 続きを見る »

天元 (日本)

天元(てんげん)は、日本の元号の一つ。貞元の後、永観の前。978年から983年までの期間を指す。この時代の天皇は円融天皇。.

新しい!!: 藤原道長と天元 (日本) · 続きを見る »

天神

天神(てんじん、あまつかみ).

新しい!!: 藤原道長と天神 · 続きを見る »

天禄

天禄(てんろく)は、日本の元号の一つ。安和の後、天延の前。西暦の970年から973年までに対応する。この時代の天皇は円融天皇。.

新しい!!: 藤原道長と天禄 · 続きを見る »

太伯・虞仲

太伯(たいはく)・虞仲(ぐちゅう)は、中国周王朝の古公亶父の子で兄弟。后稷を始祖とすることから、姓は周宗家と同じ姫(き)。紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。二人とも季歴の兄、文王の伯父に当たる。 太伯は長男で、呉(句呉)の祖とされる人物。泰伯とも。 虞仲は次男。仲雍、呉仲とも。.

新しい!!: 藤原道長と太伯・虞仲 · 続きを見る »

太皇太后

太皇太后(たいこうたいごう、Grand Empress Dowager)は、先々代の帝王の正妻(皇后)もしくは、当代の帝王の祖母に対して用いる尊称である。.

新しい!!: 藤原道長と太皇太后 · 続きを見る »

太政大臣

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.

新しい!!: 藤原道長と太政大臣 · 続きを見る »

太政官

太政官.

新しい!!: 藤原道長と太政官 · 続きを見る »

外祖父

外祖父(がいそふ)は、ある人からみた母親の父親、母方の祖父。 日本の歴史においては、有力な貴族などが娘を天皇に嫁がせ、その子が幼くして天皇として即位すると外祖父となり、外戚の中でも特に大きな権力を握ることがしばしばあった。.

新しい!!: 藤原道長と外祖父 · 続きを見る »

外戚

外戚(がいせき)とは、皇帝、王の母親または妃の一族のことである。.

新しい!!: 藤原道長と外戚 · 続きを見る »

女御

女御(にょうご)は、天皇の後宮の身位の一つで、天皇の寝所に侍した。官名は中国・周代の官制を記した『周礼』に由来し、位は皇后・中宮に次ぐ。また、女御のうち、女性皇族たる女王が女御となった場合の呼称を王女御という。 初見は『日本書紀』雄略天皇の条であるが、実際は桓武天皇の代に紀乙魚・百済王教法などを女御としたのに始まる。当初、その位は低かったが次第に高まり、平安時代中期以降は、皇后は女御から昇進する慣例が確立した。最後の女御は孝明天皇の女御である九条夙子(英照皇太后)。 定員はなく、複数の女御がいる場合は住まう殿舎の名を取って「承香殿女御」などと呼んだ。 応仁の乱以後、上流貴族の娘の入内が絶えると、女御も存在しなくなった。後陽成朝に近衛前久の娘の前子が豊臣秀吉の養女として女御となり、ついで後水尾朝に徳川秀忠の娘の和子が女御になり、さらに中宮へ昇った。江戸時代には歴代天皇の正妻として摂家や世襲親王家の娘が一人だけ女御となり、しばしば准三宮となった。しかし霊元天皇や光格天皇などは女御を中宮に立てたものの、立后させない例の方が多かった。.

新しい!!: 藤原道長と女御 · 続きを見る »

安和の変

安和の変(あんなのへん)は、平安時代の969年(安和2年)に起きた藤原氏による他氏排斥事件。謀反の密告により左大臣源高明が失脚させられた。.

新しい!!: 藤原道長と安和の変 · 続きを見る »

寛仁

寛仁(かんにん)は、日本の元号の一つ。長和の後、治安の前。1017年から1020年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇。.

新しい!!: 藤原道長と寛仁 · 続きを見る »

寛弘

寛弘(かんこう)は、日本の元号の一つ。長保の後、長和の前。1004年から1011年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇、三条天皇。.

新しい!!: 藤原道長と寛弘 · 続きを見る »

寛和

寛和(かんな)は、日本の元号の一つ。永観の後、永延の前。985年から987年までの期間を指す。この時代の天皇は花山天皇、一条天皇。.

新しい!!: 藤原道長と寛和 · 続きを見る »

寛和の変

寛和の変(かんなのへん)とは、寛和2年6月23日(986年7月31日)に発生した花山天皇の退位・出家及びそれに伴う政変のこと。.

新しい!!: 藤原道長と寛和の変 · 続きを見る »

寛和二年内裏歌合

寛和二年内裏歌合(かんなにねんだいりうたあわせ)は、寛和2年6月10日(986年7月19日)、花山天皇によって行われた歌合。.

新しい!!: 藤原道長と寛和二年内裏歌合 · 続きを見る »

尚侍

尚侍(ないしのかみ/しょうじ)とは、日本の律令制における官職で、内侍司の長官(かみ)を務めた女官の官名。.

新しい!!: 藤原道長と尚侍 · 続きを見る »

小右記

『小右記』(おうき / しょうゆうき)は、平安時代の公卿藤原実資の日記。「小右記」とは小野宮右大臣(実資のことを指す)の日記という意味。全61巻。全文は漢文で書かれている。『野府記』(やふき)ともいう。.

新しい!!: 藤原道長と小右記 · 続きを見る »

小野宮流

小野宮流(おののみやりゅう)は、平安時代に始まった有職故実の流派。藤原実頼を祖とする小野宮家に伝わる。.

新しい!!: 藤原道長と小野宮流 · 続きを見る »

少納言

少納言(しょうなごん/すないものもうし)は、日本の朝廷の最高機関である太政官の職の一つ。.

新しい!!: 藤原道長と少納言 · 続きを見る »

山車

山車(だし、さんしゃ)は、日本で祭礼の際に引いたり担いだりする出し物の総称。花や人形などで豪華な装飾が施されていることが多い。地方によって呼称や形式が異なり、曳山(ひきやま)・祭屋台(まつりやたい、単に屋台とも)などとも称される。神幸祭などの行事では、この山車が町の中をねり歩き行列となることもある。 厳密に言うと、山の形状を模したり、上に木を立てて山の象徴としたものを「山」。それらがない屋根の付いた曳き物が「屋台」と分類される。 ただし、実際は祭礼ごとに形状に関係なく、名称がどちらかに統一されている場合が多い。.

新しい!!: 藤原道長と山車 · 続きを見る »

岩波新書

岩波新書(いわなみしんしょ)は、1938年(昭和13年)11月20日に岩波書店が創刊した新書赤版として。創刊の辞は、「岩波新書創刊50年、新版の発足に際して」(1998年1月)に「道義の精神に則らない日本の行動を深慮し、権勢に媚び偏狭に傾く風潮と他を排撃する驕慢な思想を戒め、批判的精神と良心的行動に拠る文化日本の躍進を求めての出発である」と引用されている。シリーズである。.

新しい!!: 藤原道長と岩波新書 · 続きを見る »

左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

新しい!!: 藤原道長と左大臣 · 続きを見る »

上島享

上島 享(うえじま すすむ、1964年 - )は、日本の歴史学者、京都大学教授。専門は日本中世史。京都市生まれ.

新しい!!: 藤原道長と上島享 · 続きを見る »

中宮

中宮(ちゅうぐう)は、日本の天皇の妻たちの呼称の一つ。.

新しい!!: 藤原道長と中宮 · 続きを見る »

中宮職

中宮職(ちゅうぐうしき)は、律令制において中務省に属して后妃に関わる事務などを扱う役所。元来は、全ての后妃の世話を行うために設置されたが後には皇后と中宮、皇太后などとの並立によりそれぞれに太皇太后宮職、皇太后宮職、皇后宮職と専属の職が置かれる。.

新しい!!: 藤原道長と中宮職 · 続きを見る »

中御門流

中御門流(なかみかどりゅう)は、藤原北家の流れを汲む公卿の一門。御堂流摂政藤原道長の子・右大臣頼宗の子孫。松木家(中御門家)を宗家とする。.

新しい!!: 藤原道長と中御門流 · 続きを見る »

中公文庫

中公文庫(ちゅうこうぶんこ)は、株式会社中央公論新社(読売新聞グループ)が発行している文庫レーベル。.

新しい!!: 藤原道長と中公文庫 · 続きを見る »

中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

新しい!!: 藤原道長と中納言 · 続きを見る »

世界の記憶

世界の記憶(せかいのきおく、Memory of the World: MoW)は、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が主催する事業の一つ。危機に瀕した古文書や書物などの歴史的記録物(可動文化財)を保全し、広く公開することを目的とした事業として、1992年に創設された。日本政府は2010年に日本ユネスコ国内委員会の小委員会で「記憶遺産」と訳すことを了承したが、「」など遺産を意味する英単語が正式名称に含まれていないことから、外務省や文部科学省では2016年6月から直訳である「世界の記憶」を用いている。.

新しい!!: 藤原道長と世界の記憶 · 続きを見る »

万寿

万寿(まんじゅ、正字体:萬壽)は、日本の元号の一つ。治安の後、長元の前。1024年から1028年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇。.

新しい!!: 藤原道長と万寿 · 続きを見る »

三条天皇

三条天皇(さんじょうてんのう、天延4年1月3日(976年2月5日) - 寛仁元年5月9日(1017年6月5日))は第67代天皇。諱は居貞(おきさだ / いやさだ)。享年42。在位は寛弘8年6月13日(1011年7月16日)から長和5年1月29日(1016年3月10日)まで。 冷泉天皇の第二皇子。母は摂政太政大臣藤原兼家の長女・贈皇太后超子。花山天皇の異母弟。.

新しい!!: 藤原道長と三条天皇 · 続きを見る »

一上

一上(いちのかみ)とは、筆頭の公卿を意味する一ノ上卿(いちの しょうけい)を略した語で、通常は左大臣のことを指した。.

新しい!!: 藤原道長と一上 · 続きを見る »

一条天皇

一条天皇(いちじょう てんのう、天元3年6月1日(980年7月15日) - 寛弘8年6月22日(1011年7月25日))は、平安時代中期の第66代天皇(在位:寛和2年6月23日(986年8月1日) - 寛弘8年6月13日(1011年7月16日))。諱は懐仁(やすひと)。 円融天皇の第1皇子。母は藤原兼家の娘、詮子。兄弟姉妹はない。.

新しい!!: 藤原道長と一条天皇 · 続きを見る »

九条流

藤原頼通 |支流.

新しい!!: 藤原道長と九条流 · 続きを見る »

平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

新しい!!: 藤原道長と平安時代 · 続きを見る »

平岩弓枝

平岩 弓枝(ひらいわ ゆみえ、1932年3月15日 - )は、日本の脚本家、小説家。代表作に『御宿かわせみ』シリーズ、『はやぶさ新八御用帳』シリーズなどがある。.

新しい!!: 藤原道長と平岩弓枝 · 続きを見る »

年爵

年爵(ねんしゃく)とは、日本の古代・中世前期において、治天の君及び三宮(太皇太后、皇太后、皇后)が保有していた叙位権を指す用語。毎年、治天ないし三宮に1人分の叙爵権を付与し、治天及び三宮は叙爵希望者より叙料を納めさせることで、従五位下に叙爵させることができるとされた。当該制度は平安時代初期にはじまり、次第に年爵の特典は女院や准后にも与えられることとなった。 寺社や宮司に対して叙料を納めさせる代わりに叙爵する栄爵と同じく売位によるものであったが、平安時代末期から鎌倉時代にかけて年爵による昇叙(加階)が盛んとなった。.

新しい!!: 藤原道長と年爵 · 続きを見る »

京職

京職(きょうしき)とは、日本の律令制において京(みやこ)の司法、行政、警察を行った行政機関である。古訓はミサトヅカサ。京は碁盤の目状に大路・小路が整備され(条坊制)、京内の東側を「左京(さきょう=南面する玉座より見て左)」、西側を「右京(うきょう=南面する玉座より見て右)」と呼び、「左京職(さきょうしき)」・「右京職(うきょうしき)」に分かれていた。なお、京職(きょうしょく)は京都所司代の別称。.

新しい!!: 藤原道長と京職 · 続きを見る »

京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

新しい!!: 藤原道長と京都 · 続きを見る »

康保

康保(こうほう)は、日本の元号の一つ。応和の後、安和の前。964年から968年までの期間を指す。この時代の天皇は村上天皇、冷泉天皇。.

新しい!!: 藤原道長と康保 · 続きを見る »

仏教

仏教寺院 仏教(ぶっきょう、旧字体:佛敎、サンスクリット:बौद्धधर्मः 、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、もしくはガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。キリスト教・イスラム教と並んで、日本では出版点数の多い宗教の一つに数えられる。仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである。 その教義は、苦しみの輪廻から解脱することを目指している。原因と結果の理解に基づいており、諸々の現象が縁起するとされる。 仏教は仏、その教えである法、その実践者である僧からなる三宝を中心に組織されている。実践における戒定慧の三学は、戒律、心を集中する禅定、ものごとの縁起を観察する智慧であり、後ろ二つは併せて止観とも呼ばれる仏教の瞑想法である。実践にて重要となる能力は六波羅蜜や八正道のように、いくつかの方法でまとめらている。 紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、今では初期仏教として研究されている。釈迦は、他の苦行などの実践者の主張であるアートマン(真我)の存在を否定して無我とした。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、大きく大衆部と上座部とに、さらに細かく分かれたが、今なお大きな勢力として続いているのは南伝した上座部仏教であり、初期の教えを模範としている。紀元前の終わりごろには北伝し日本にも伝わることになる大乗仏教が開始され、教義や団体は多彩に発展しており、禅の瞑想法の様々、チベットや日本の真言宗に残る密教、一方で浄土信仰のような信仰形態の変化など多様である。『日本書紀』によれば仏教が伝来したのは飛鳥時代552年(欽明天皇13年)である(日本の仏教)。.

新しい!!: 藤原道長と仏教 · 続きを見る »

估価法

估価法(こかほう・沽価法)とは、古代から中世にかけての日本において、朝廷・国衙・鎌倉幕府において、市場における公定価格及び物品の換算率を定めた法律。これに基づく価格を估価(こか、沽価)と呼び、租税の物納や日本国外との貿易の価格や交換の基準としても用いられた。.

新しい!!: 藤原道長と估価法 · 続きを見る »

侍従

服をまとった侍従(大阪歴史博物館) 侍従(じじゅう)とは、広義では(しばしば高貴な立場の)ある人物に付き従い、身の回りの世話などをする行為、または従う者そのものを指す。日本においては、特に天皇に側近奉仕する文官や位を意味するため、この項目ではこれについて解説する。なお、武官による侍従武官や皇太子に付される東宮侍従については、それぞれ項目を参照のこと。.

新しい!!: 藤原道長と侍従 · 続きを見る »

御堂関白記

『御堂関白記』(みどうかんぱくき)は、平安時代の貴族の摂政太政大臣・藤原道長が著した日記。『法成寺摂政記』『法成寺入道左大臣記』『御堂御記』『入道殿御日記』『御堂御暦』などとも称される。 「御堂」とは、藤原道長建立の法成寺無量寿院を指している。しかし、道長は生前、一度として関白となっておらず、御堂関白記の名称は後世付けられたものである。 道長は、政権を獲得した長徳元年(995年)から日記を記し始め、何回かの中断を経た後、寛弘元年(1004年)からは継続的に書き続けている。現存するものは、長徳4年(998年)から治安元年(1021年)の間の記事である。近衛家の陽明文庫が所蔵する自筆本十四巻、古写本十二巻が伝わり、国宝に指定されている。 『御堂関白記』は、意味不明な文章や、誤字・文法的誤りが多く、解釈が難しい。これは同じ藤原摂関家の藤原忠実による『殿暦』、藤原師通による『後二条師通記』にも見られる。また、当時の読み癖を窺うことができる。 道長が『御堂関白記』を記した契機として、「子供に対する意識」があったためであったという。同時代の貴族が記した日記、『小右記』(藤原実資)、『権記』(藤原行成)とともに、当時の貴族社会を知る上で、重要な意味を持つ史料である。 なお、寛弘5年12月20日(1009年1月18日)条の裏書には近衛道嗣の日記、『後深心院関白記』(『愚管記』とも)が抜書されている。これを記したのは近衛信尹とされ、折状の状態にしていた自筆本のうち寛弘5年(1008年)の裏にだけ日記を写したうえで、元の巻子本に戻し、表紙を付けた。嗣子の近衛信尋がこれを発見し、景紙の外題に「裏信尹公手跡/自延文元至三年抜書」と書き付けたという。 平成23年(2011年)5月、ユネスコ記憶遺産(世界の記憶)に推薦され、平成25年(2013年)6月18日に登録された。.

新しい!!: 藤原道長と御堂関白記 · 続きを見る »

御堂流

御堂流(みどうりゅう)とは、藤原北家九条流藤原道長(摂政・太政大臣)の子孫の一門及び彼を祖とする有職故実及び作法の流派の呼称。「御堂」とは、道長が法成寺を創建して「御堂関白」の異名を得ていたことに由来する(ただし、実際に関白には就任していない)。.

新しい!!: 藤原道長と御堂流 · 続きを見る »

御子左家

御子左家(みこひだりけ)は、藤原北家嫡流藤原道長の六男・権大納言 藤原長家を祖とする藤原氏の系流。御子左流(みこひだりりゅう)ともいう。ただし「御子左」を家名として名乗った者はない。 「御子左」は、醍醐天皇の第十六皇子で左大臣に上った兼明親王の通称「御子左大臣」(みこさだいじん、御子=皇子)に由来する。親王の邸宅・御子左第を伝領した長家が「御子左民部卿」と呼ばれたことから、彼以後その流れをこう呼ぶようになった。.

新しい!!: 藤原道長と御子左家 · 続きを見る »

後三条天皇

大炊御門万里小路殿址、源高房、後三条天皇はこの地で崩御、京都府京都市中京区富小路通夷川上る西側 後三条天皇(ごさんじょうてんのう、長元7年7月18日(1034年9月3日) - 延久5年5月7日(1073年6月15日))は、第71代天皇(在位:治暦4年4月19日(1068年5月22日) - 延久4年12月8日(1073年1月18日))。諱は尊仁(たかひと)。宝算40。 後朱雀天皇の第二皇子。母は三条天皇第三皇女・皇后禎子内親王(陽明門院)。後冷泉天皇の異母弟。宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇である(ただし、生母の禎子内親王は藤原道長の外孫である)。.

新しい!!: 藤原道長と後三条天皇 · 続きを見る »

後一条天皇

後一条天皇(ごいちじょうてんのう、寛弘5年9月11日(1008年10月12日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))は、平安時代中期の第68代天皇(在位:長和5年2月7日(1016年3月18日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))。諱は敦成(あつひら)。一条天皇の第二皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母弟に後朱雀天皇。.

新しい!!: 藤原道長と後一条天皇 · 続きを見る »

後冷泉天皇

後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう、万寿2年8月3日(1025年8月28日) - 治暦4年4月19日(1068年5月22日))は、日本の第70代天皇(在位:1045年 - 1068年)。後朱雀天皇の第一皇子。母は藤原道長女藤原嬉子(贈皇太后)。諱を親仁(ちかひと)。紫式部の娘大弐三位が乳母である。.

新しい!!: 藤原道長と後冷泉天皇 · 続きを見る »

後朱雀天皇

後朱雀天皇(ごすざくてんのう、寛弘6年11月25日(1009年12月14日) - 寛徳2年1月18日(1045年2月7日))は、平安時代中期の第69代天皇(在位:長元9年4月17日(1036年5月15日) - 寛徳2年1月16日(1045年2月5日))。諱は敦良(あつなが)。 一条天皇の第三皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母兄に後一条天皇。.

新しい!!: 藤原道長と後朱雀天皇 · 続きを見る »

従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

新しい!!: 藤原道長と従三位 · 続きを見る »

従一位

従一位(じゅいちい)は、日本の位階及び神階の位の一つ。正一位の下に位し、正二位の上位にあたる。.

新しい!!: 藤原道長と従一位 · 続きを見る »

従二位

従二位(じゅにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。正二位の下、正三位の上に位する。.

新しい!!: 藤原道長と従二位 · 続きを見る »

従五位

従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.

新しい!!: 藤原道長と従五位 · 続きを見る »

土御門殿

土御門殿(つちみかどどの)は、平安時代に平安京左京1条4坊16町(後に同15町にも拡張)(土御門大路南京極大路西)に建てられた寝殿造の邸宅。邸宅の名は上東門に至る土御門大路に面していることに由来し、土御門院、京極殿(院)、上東門殿(院)等とも呼ばれた。現在の京都市上京区京都御苑(京都大宮御所北側部分)にあたる。藤原道長の主要な邸宅で、道長の姉である東三条院詮子や、娘の藤原彰子の御所となり、特に彰子は出家後、この邸宅にちなんで上東門院を院号とした。また東には法成寺が建立された。.

新しい!!: 藤原道長と土御門殿 · 続きを見る »

土田直鎮

土田 直鎮(つちだ なおしげ、1924年1月16日 - 1993年1月24日)は、日本の歴史学者。東京大学名誉教授。元国立歴史民俗博物館長。.

新しい!!: 藤原道長と土田直鎮 · 続きを見る »

北山茂夫

北山 茂夫(きたやま しげお、1909年(明治42年)3月3日 - 1984年(昭和59年)1月30日)は、日本の日本史学者(日本古代史専攻)、立命館大学教授などを歴任する。.

新しい!!: 藤原道長と北山茂夫 · 続きを見る »

ミネルヴァ書房

株式会社ミネルヴァ書房(ミネルヴァしょぼう)は、日本の学術専門書出版社。京都市山科区に本社を置いている。.

新しい!!: 藤原道長とミネルヴァ書房 · 続きを見る »

ユリウス暦

ユリウス暦(ユリウスれき、、、)は、共和政ローマの最高神祇官・独裁官・執政官ガイウス・ユリウス・カエサルにより紀元前45年1月1日から実施された、1年を365.25日とする太陽暦である。もともとは共和政ローマおよび帝政ローマの暦であるが、キリスト教の多くの宗派が採用し、西ローマ帝国滅亡後もヨーロッパを中心に広く使用された。 ローマ教皇グレゴリウス13世が1582年、ユリウス暦に換えて、太陽年との誤差を修正したグレゴリオ暦を制定・実施したが、今でもグレゴリオ暦を採用せずユリウス暦を使用している教会・地域が存在する。グレゴリオ暦を導入した地域では、これを新暦(ラテン語: Ornatus)と呼び、対比してユリウス暦を旧暦と呼ぶことがある。 なお、天文学などで日数計算に用いられるユリウス通日があるが、これはユリウス暦とは全く異なるものである。.

新しい!!: 藤原道長とユリウス暦 · 続きを見る »

呉 (春秋)

呉(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。君主の姓は姫。元の国号は句呉(こうご、くご)。 勾呉の表記もなされる。 中国の周王朝の祖、古公亶父の長子の太伯(泰伯)が、次弟の虞仲(呉仲・仲雍)と千余家の人々と共に建てた国である。虞仲の子孫である寿夢が国名を「句呉」から「呉」に改めた。 紀元前12世紀から紀元前473年夫差王まで続き、越王の勾践により滅ぼされた。 国姓は姫(き)。.

新しい!!: 藤原道長と呉 (春秋) · 続きを見る »

和歌

和歌(わか)とは、短歌型式の古典詩。古典短歌。広義には『万葉集』に所収される歌体の総称。 「和歌」の訓は「やまとうた」である。「和」の代わりに「倭」の字が、「歌」の代わりに「謌」、「哥」の字が宛てられたこともある。なお、歌謡と混同されるおそれがない文脈においては「歌」「うた」と表記され、呼ばれることもある。 長連歌、俳諧、狂歌、川柳風狂句は定型の古典詩であるが、和歌には含まれない。また、明治の和歌革新家とその後継者の短歌作品、すなわち近現代短歌は「短歌」と称され、「和歌」とは称されない。近現代短歌はこの項では取り上げない。.

新しい!!: 藤原道長と和歌 · 続きを見る »

和泉式部

菊池容斎『前賢故実』より 小倉百人一首56番「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」 和泉 式部(いずみ しきぶ、天元元年(978年)頃 - 没年不詳)は平安時代中期の歌人である。越前守・大江雅致の娘。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。.

新しい!!: 藤原道長と和泉式部 · 続きを見る »

備前国

備前国(びぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

新しい!!: 藤原道長と備前国 · 続きを見る »

冷泉天皇

冷泉天皇(れいぜいてんのう、天暦4年5月24日(950年6月12日)- 寛弘8年10月24日(1011年11月21日)、在位:康保4年10月11日(967年11月15日) - 安和2年8月13日(969年9月27日))は、日本(平安時代中期)の第63代天皇。村上天皇の第二皇子で、諱は憲平(のりひら)。母は藤原師輔の娘・中宮安子。円融天皇の同母兄。.

新しい!!: 藤原道長と冷泉天皇 · 続きを見る »

円融天皇

円融天皇(えんゆうてんのう、天徳3年旧3月2日(959年4月12日) - 正暦2年旧2月12日(991年3月1日); 在位:安和2年旧9月23日(969年11月5日) - 永観2年旧8月27日(984年9月24日))は、第64代天皇。諱は守平(もりひら)。 村上天皇の第五皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘・中宮安子。冷泉天皇の同母弟。.

新しい!!: 藤原道長と円融天皇 · 続きを見る »

内大臣

内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。.

新しい!!: 藤原道長と内大臣 · 続きを見る »

内裏

内裏(だいり)とは、古代都城の宮城における天皇の私的区域のこと。御所(ごしょ)、禁裏(きんり)、大内(おおうち)などの異称がある。都城の北辺中央に 官庁エリアである宮城(皇城)があり、宮城内部に 天皇の私的な在所である内裏があった。.

新しい!!: 藤原道長と内裏 · 続きを見る »

内覧

内覧.

新しい!!: 藤原道長と内覧 · 続きを見る »

准后

准后(じゅごう)は、日本の朝廷において、太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられた者、またその待遇・称号。正式には准三宮(じゅさんぐう)といい准三后(じゅさんごう)ともいう。准后は略称である。清和天皇外祖父の藤原良房に三宮に準じた待遇を与えたのをはじめとし、当初は経済的処遇が主であったが、のちには称号を与えるだけとなった。.

新しい!!: 藤原道長と准后 · 続きを見る »

准太上天皇

准太上天皇(じゅんだいじょうてんのう)とは、太上天皇に准じた待遇のこと。 『源氏物語』に、主人公光源氏が「太上天皇になずらふ御位」に就いた旨の記述がなされていることから、しばしばあたかもそのような具体的な地位や称号が存在したかのように誤解されるが、准太上天皇は、地位や称号ではなくあくまでも待遇である。「じゅんだいじょうてんのう」という名詞はもともと存在せず、本来は「太上天皇に准ず」「太上天皇になずらふ」と文として読み下すのが正しい。 歴史上、准太上天皇の実例は、寛仁元年(1017年)に敦明親王が皇太子の地位を辞退する見返りとして、小一条院の院号と年官年爵を与えられ、上皇同様に院庁を設置されたのが唯一である。これも「准太上天皇」という具体的な称号が与えられたわけではない。院号の授与や院庁の設置、年爵の賦与により上皇に准じた待遇を与えられたにとどまる。 なお、女院も、院号の授与、年官年爵の賦与、院庁の設置などにより、ある意味で上皇に准じた立場と言うことができる。正暦2年(991年)に最初の女院となった東三条院藤原詮子の待遇を定めるについては、まったく前例がない新儀であったことと、一条天皇の生母ではあるが、皇后の経歴がないために権威において一段劣る彼女をあえて三宮よりも上位に位置づける必要があったことから、上皇の待遇が参考とされ、これがその後の女院の待遇の先例となった。もっとも、本来、天皇の生母への優遇措置であった女院の地位に至る要件が時代がくだるとともに次第に多様化したことから、すべての女院が上皇と同じ待遇を受けることができたわけではない。.

新しい!!: 藤原道長と准太上天皇 · 続きを見る »

准摂政

准摂政(じゅんせっしょう)は摂政に準じて国政を統べる権限またはその権限を与えられた者。.

新しい!!: 藤原道長と准摂政 · 続きを見る »

公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

新しい!!: 藤原道長と公卿 · 続きを見る »

公事

公事(くじ、くうじ、おほやけごと)とは日本史における用語の1つで、下記の意味で用いられている。.

新しい!!: 藤原道長と公事 · 続きを見る »

兼俊

兼俊(けんしゅん、康平5年(962年) - 没年不詳)は、平安時代後期の真言宗の僧。父は藤原兼家。字は円林。 嘉承元年(1006年)大和国金峰山の鳳閣寺で伝法灌頂を受け、その後は観法を修行し、霊験の証得に力を尽くした。 Category:九条流 Category:真言宗の僧 Category:平安時代の僧 Category:962年生.

新しい!!: 藤原道長と兼俊 · 続きを見る »

兵衛府

兵衛府(ひょうえふ)とは、律令制における官司。左兵衛府と右兵衛府の二つが存在する。長は兵衛督 (左兵衛督・右兵衛督)である。左右近衛府、左右衛門府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。和訓では「つはもののとねりのつかさ」という。唐名は武衛(ぶえい)。.

新しい!!: 藤原道長と兵衛府 · 続きを見る »

前賢故実

前賢故實(ぜんけんこじつ)は、江戸時代後期から明治時代に刊行された伝記集。全10巻20冊。菊池容斎筆。上古から南北朝時代(後亀山天皇の代)までの皇族、忠臣、烈婦など585人を時代を追って肖像化し、漢文で略伝を付す。日本の歴史上の人物を視覚化したものとしては画期的であり、明治中期頃から国家意識の高まりにつれ盛んに描かれた歴史画において、バイブルとしての役割を果たした。.

新しい!!: 藤原道長と前賢故実 · 続きを見る »

勅撰集

勅撰集(ちょくせんしゅう)は、帝王(日本においては天皇や上皇)の命によって編纂された書物、もしくは帝王が記した書物のうち特に公式のものとして認められているものを指す。 勅撰集に対して帝王の命によらずに編纂されたものを私撰集(しせんしゅう)と呼ぶ。.

新しい!!: 藤原道長と勅撰集 · 続きを見る »

国宝

建築:宇治上神社本殿覆屋(宇治市) 寺院建築:法隆寺金堂・五重塔(斑鳩町) 城郭建築:姫路城連立天守(姫路市) 絵画:源氏物語絵巻(徳川美術館) 彫刻:臼杵磨崖仏(阿弥陀三尊像) 工芸品:天寿国繍帳(中宮寺) 書跡・典籍:秋萩帖(東京国立博物館) 弘法大師筆尺牘「風信帖」(東寺) 考古資料:人物画像鏡(隅田八幡神社) 歴史資料:慶長遣欧使節関係資料のうちローマ市公民権証書(仙台市博物館) 国宝(こくほう)とは、日本の文化財保護法によって国が指定した有形文化財(重要文化財)のうち、世界文化の見地から価値の高いものでたぐいない国民の宝たるものであるとして国(文部科学大臣)が指定したものである(文化財保護法第27条第2項)。建造物、絵画、彫刻、工芸品、書跡・典籍、古文書、考古資料および歴史資料が指定されている。 法的には、国宝は重要文化財の一種である。国宝・重要文化財の指定手続、指定制度の沿革などについては、重要文化財の項を参照。 なお、いわゆる「人間国宝」とは重要無形文化財に指定された芸能、工芸技術などの保持者として各個認定された者の通称であり、本項で解説する国宝とは異なる。.

新しい!!: 藤原道長と国宝 · 続きを見る »

国際連合教育科学文化機関

フランス、パリのユネスコ本部庁舎と平和の庭園(日本庭園) 日本ユネスコ国内委員会が入居する東京都の霞が関コモンゲート東館(右側) 国際連合教育科学文化機関(こくさいれんごうきょういくかがくぶんかきかん、Organisation des Nations unies pour l'éducation, la science et la culture、United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization, UNESCO ユネスコ)は、国際連合の経済社会理事会の下におかれた、教育、科学、文化の発展と推進を目的とした専門機関である。 1945年11月に44カ国の代表が集い、イギリス・ロンドンで開催された国連会議 "United Nations Conference for the establishment of an educational and cultural organization" (ECO/CONF)において11月16日に採択された 「国際連合教育科学文化機関憲章」(ユネスコ憲章)に基づいて1946年11月4日に設立された。 分担金(2016年現在)の最大の拠出国はアメリカ合衆国(22%)、2位は日本(9%)である(米国は拠出金支払いを全額停止しているため、実質的に最大の拠出国は日本であるなおアメリカは2018年12月31日付でのユネスコ脱退を表明している。)。.

新しい!!: 藤原道長と国際連合教育科学文化機関 · 続きを見る »

四天王寺

四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区四天王寺にある寺院。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音菩薩(くせかんのんぼさつ)である。「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)ともいう。 『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている。 宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に「和宗」の総本山として独立している。.

新しい!!: 藤原道長と四天王寺 · 続きを見る »

倉本一宏

倉本 一宏(くらもと かずひろ、1958年(昭和33年)6月14日 - )は、日本の歴史学者。専門は日本古代政治史、古記録学。国際日本文化研究センター(日文研)教授、総合研究大学院大学(総研大)文化科学研究科 国際日本研究専攻教授。三重県津市生まれ。 1997年(平成9年)「日本古代国家成立期の政権構造」で博士(文学、東京大学)。.

新しい!!: 藤原道長と倉本一宏 · 続きを見る »

皇后

皇后(こうごう、Empress)は、天皇や皇帝の正妃(正妻)、およびその人物に与えられる称号。 一夫多妻制のもとでは、天皇や皇帝の複数の妻のうち最上位の者となる。.

新しい!!: 藤原道長と皇后 · 続きを見る »

皇太后

皇太后(こうたいごう、Empress Dowager)は、先代の天皇・皇帝の皇后であった者、およびその称号。ただし必ずしもこの定義にあてはまらない事例もある。.

新しい!!: 藤原道長と皇太后 · 続きを見る »

禎子内親王

子内親王(ていし ないしんのう、長和2年7月6日(1013年8月15日) - 寛治8年1月16日(1094年2月3日))は、第67代三条天皇の第3皇女で、第69代後朱雀天皇の皇后、女院。「ていし」は仮の読みで、実際の読みは「さだこ」または「よしこ」だったと推測されている。 母は摂政藤原道長女・皇后妍子。院号は陽明門院(ようめいもんいん)。所生の子女に、尊仁親王(後三条天皇)、伊勢斎宮良子内親王、賀茂斎院娟子内親王がいる。.

新しい!!: 藤原道長と禎子内親王 · 続きを見る »

章子内親王

子内親王(しょうし(あきこ)ないしんのう、万寿3年12月9日(1027年1月19日) - 長治2年9月17日(1105年10月26日))は第68代後一条天皇第一皇女。母は藤原道長女・中宮藤原威子。第70代後冷泉天皇中宮、女院。院号は二条院(にじょういん)。同母妹に馨子内親王(後三条天皇中宮)。.

新しい!!: 藤原道長と章子内親王 · 続きを見る »

糖尿病

糖尿病(とうにょうびょう、diabetes mellitus、DM)は、血糖値やヘモグロビンA1c(HbA1c)値が一定の基準を超えている状態をさす疾患である。東洋医学では消渇と呼ばれる。なお、腎臓での再吸収障害のため尿糖の出る腎性糖尿は別の疾患である。 糖尿病は高血糖そのものによる症状を起こすこともあるほか、長期にわたると血中の高濃度のグルコースがそのアルデヒド基の反応性の高さのため血管内皮のタンパク質と結合する糖化反応を起こし、体中の微小血管が徐々に破壊されていき、糖尿病性神経障害・糖尿病性網膜症・糖尿病性腎症などに繋がる。 糖尿病患者の90%は2型であり、これは予防可能な病気である。2型糖尿病の予防や軽減には、健康的な食事、適度な運動、適切な体重管理、禁煙が有効である。 世界における有病率は9%であり3億4,700万人、世界のDALYの19位を占め(1.3%)、2012年は150万人が糖尿病により死亡した。糖尿病による死者の8割は中低所得国であり、さらにWHOは2030年には世界第7位の死因となると推定している。.

新しい!!: 藤原道長と糖尿病 · 続きを見る »

紫式部

紫式部 (土佐光起筆 石山寺蔵) 紫式部(むらさきしきぶ、生没年不詳)は、平安時代中期の女性作家、歌人。正確な誕生年は特定できないが、近年の研究では、970年(天禄元年)から978年(天元元年)の間に生まれ、1019年(寛仁3年)までは存命したことがわかっている上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK出版「100分de名著」ブックス 紫式部『源氏物語』P26(2015/12/25発行)。。 「源氏物語」の作者とされ、藤原道長の要請で宮中に上がった際に宮中の様子を書いた「紫式部日記」も残している。源氏物語と紫式部日記の2作品は、後に「源氏物語絵巻」、「紫式部日記絵巻」として絵画化された。また、歌人である紫式部には、子供時代から晩年に至るまで自らが詠んだ歌から選び収めた「紫式部集」がある。「小倉百人一首」にも和歌が収められており、中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人でもある。 父の藤原為時は、官位は正五位下と下級貴族ながら上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。、花山天皇に漢学を教えた漢詩人、歌人である。紫式部は藤原宣孝に嫁ぎ、一女(大弐三位)を産んだ。1001年(長保3年)に結婚後3年程で夫が死去する。その後「源氏物語」を書き始め紫式部日記より、当初、紫式部は仲間内で意見を言い合ったり手紙のやり取りで批評し合って楽しんでいたことから「最初は現代の同人誌のような楽しみ方だった」。上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。、その評判を聞いた藤原道長に召し出されて、一条天皇の中宮であり藤原道長の娘でもある中宮彰子(藤原彰子)に仕えている間に「源氏物語」を完成させた。 なお、「紫式部集」には、夫の藤原宣孝の死去に伴い詠んだ和歌「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」が収められている和歌の意「夫が火葬により煙となった夜から塩釜をとても身近に思う」(塩釜:海藻を焼き塩を取ることで知られる地名で、現在の宮城県塩竈市)。.

新しい!!: 藤原道長と紫式部 · 続きを見る »

紫式部日記

『紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)は、紫式部によって記された日記とされる。藤原道長の要請で宮中に上がった紫式部が、1008年(寛弘5年)秋から1010年(寛弘7年)正月まで、宮中の様子を中心に書いた日記と手紙からなる。 写本は宮内庁書陵部蔵の黒川本が最もよいとされているが一部記載については他の写本がすぐれているとも。写本の表紙の表題は『紫日記』とあり、内容にも紫式部の名の記載はなく、いつから『紫式部日記』とされたかは不明。 全2巻であり1巻は記録的内容、2巻は手紙と記録的内容である。『源氏物語』の作者が紫式部であるという通説は、伝説とこの『紫日記』にでてくる記述に基づいている。 鎌倉時代初期の13世紀前半ころに、紫式部日記のほぼ全文を絵画化した「紫式部日記絵巻」が制作された。.

新しい!!: 藤原道長と紫式部日記 · 続きを見る »

猶子

子(ゆうし)とは、兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度。漢文訓読では「なほ子のごとし」(訳:あたかも実子のようである)という意味。 中国における本義は兄弟の子の意味。養子との違いは、家督や財産などの相続を必ずしも目的の第一義とはせず、実力や「徳」に優れた仮親の権勢を借りたり、一家・同族内の結束を強化するために行われた。具体的には、官位などの昇進上の便宜、婚姻上の便宜、他の氏族との関係強化が図られる場合に組まれるようである。そのため、子供の姓は変わらない場合があったり、単なる後見人としての関係であるなど、養子縁組と比べて単純かつ緩やかで擬制的な側面が大きい。 ただし、相続に関しての実際は明確な区別はなく、猶子であっても相続がなされる場合も多い。ときに両者をまったく同義で使用している場合がある。.

新しい!!: 藤原道長と猶子 · 続きを見る »

盛明親王

盛明親王(もりあきらしんのう、延長6年(928年) - 寛和2年5月8日(986年6月17日))は平安時代中期の皇族。醍醐天皇の皇子。一度臣籍降下して源盛明と名乗った。四品・上野太守。.

新しい!!: 藤原道長と盛明親王 · 続きを見る »

瀧波ユカリ

瀧波 ユカリ(たきなみ ゆかり、女性、1980年3月28日 - )は日本の漫画家。北海道釧路市出身、札幌市在住。日本大学芸術学部写真学科卒業。.

新しい!!: 藤原道長と瀧波ユカリ · 続きを見る »

花山天皇

花山天皇(かざんてんのう/かさんてんのう、安和元年10月26日(968年11月29日) - 寛弘5年2月8日(1008年3月17日)、在位:永観2年10月10日(984年11月5日) - 寛和2年6月23日(986年8月1日))は、日本(平安時代中期)の第65代天皇。諱は師貞(もろさだ)。花山院(かさんいん)や花山法皇とも呼ばれる。 冷泉天皇の第一皇子。母は、摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子。三条天皇の異母兄。花山源氏(神祇伯を世襲した伯王家、のち断絶)の祖。.

新しい!!: 藤原道長と花山天皇 · 続きを見る »

花山院家

花山院家(かざんいんけ/かざのいんけ/かさんのいんけ)は、清華家の家格を有する公家。藤原北家師実流の嫡流に当たる。京極摂政藤原師実の次男家忠を家祖とする。家名は、家忠が舅から花山院第(東一条殿)を伝領したことによる。.

新しい!!: 藤原道長と花山院家 · 続きを見る »

道命

道命(どうみょう、天延2年(974年) - 寛仁4年7月4日(1020年7月26日))は、平安時代中期の僧・歌人。父は藤原道綱。母は源近広の娘。阿闍梨、天王寺別当。中古三十六歌仙の一人。 若くして出家し、天台座主・良源の弟子となった。長和5年(1016年)天王寺別当。 花山上皇と親しく、上皇の死を悼む歌が残されている。『宇治拾遺物語』などには、和泉式部と親しかったという説話がある。『後拾遺和歌集』(16首)以下の勅撰和歌集に57首が入集。家集に『道命阿闍梨集』がある。読経の声に優れていたという。.

新しい!!: 藤原道長と道命 · 続きを見る »

馨子内親王

子内親王(けいし(かおるこ)ないしんのう、長元2年2月2日(1029年2月17日) - 寛治7年9月4日(1093年9月26日))は、第68代後一条天皇第2皇女。母は中宮藤原威子。賀茂斎院、のち後三条天皇中宮。号西院皇后。同母姉に章子内親王(後冷泉天皇中宮)。 長元4年(1031年)着袴、二品に叙される。同年賀茂斎院に卜定、准三宮。同9年(1036年)に父後一条天皇が崩御したため斎院を退下、さらにその後半年足らずで母威子も後を追うように他界した。 その後は上東門院彰子の元で養育され、永承6年(1051年)皇太子尊仁親王(のちの後三条天皇)に入内。治暦4年(1068年)後三条天皇が即位、それに伴い翌延久元年(1069年)中宮に冊立される。同4年(1072年)後三条天皇譲位、翌同5年(1073年)病の後三条上皇と共に出家するがまもなく上皇は崩御。延久6年(1074年)皇后宮となり、寛治7年(1093年)崩御。享年65。.

新しい!!: 藤原道長と馨子内親王 · 続きを見る »

親政

親政(しんせい)とは、君主(国王・皇帝・天皇など)自身が政治を行うこと、またはその政治形態(君主制の一形式)のことである。.

新しい!!: 藤原道長と親政 · 続きを見る »

馬寮

寮(めりょう/うまのつかさ)は、律令制における官司の一つ。唐名では典厩(てんきゅう)。左馬寮(さめりょう/さまりょう)と右馬寮(うめりょう/うまりょう)に分かれていた。.

新しい!!: 藤原道長と馬寮 · 続きを見る »

講談社

株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.

新しい!!: 藤原道長と講談社 · 続きを見る »

講談社学術文庫

講談社学術文庫(こうだんしゃがくじゅつぶんこ)は、講談社刊の文庫判・学術書レーベル、1976年(昭和51年)に発足。シンボルマークは、古代エジプトで知識や学問の象徴とされていた「トキ」(アフリカクロトキ)の姿をした神トートである。 単行判・選書新書の(改訂・改題も含む)再刊、古典新訳のみならず、文庫書き下ろしでの出版も多い。約40年間で2000冊代を刊行、重版多数の書目がある一方で、初版のみで品切絶版となった書目も多い。 2011年(平成23年)より、電子書籍版を購入できるiOS用のアプリケーション「選書メチエ&学術文庫」をApp Storeを配信している。.

新しい!!: 藤原道長と講談社学術文庫 · 続きを見る »

講談社現代新書

講談社現代新書(こうだんしゃげんだいしんしょ、Kodansha's new library of knowledge)とは、講談社が発行する教養新書のシリーズである。1964年(昭和39年)4月に創刊した。.

新しい!!: 藤原道長と講談社現代新書 · 続きを見る »

讃岐国

讃岐国(さぬきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

新しい!!: 藤原道長と讃岐国 · 続きを見る »

貞元 (日本)

貞元(じょうげん)は、日本の元号の一つ。天延の後、天元の前。976年から978年までの期間を指す。この時代の天皇は円融天皇。.

新しい!!: 藤原道長と貞元 (日本) · 続きを見る »

践祚

践祚(せんそ)とは、天子の位を受け継ぐことであり、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われる。古くは「践阼」と書き、「践」とは位に就くこと、「阼」は天子の位を意味する。これに続いて位に就いたことを内外に明らかにすることを即位という。.

新しい!!: 藤原道長と践祚 · 続きを見る »

麻疹

麻疹(ましん、measles, rubeola、別名・痲疹)とは、ウイルス感染症の一種で、麻疹ウイルスによる急性熱性発疹性疾患、中国由来の呼称で発疹が麻の実のようにみえる。日本では「麻しん」として感染症法に基づく五類感染症に指定して届出の対象としている(疹が常用漢字でない)。江戸時代以降の和語でははしか(漢字表記は同じく麻疹)と呼び、。古くから「はしかのようなもの」の慣用句があり、通過儀礼のようなもので2度なし病とも呼ばれたが、ワクチン時代の2000年代以降ではそうでもない。 麻疹は麻疹ウイルスウイルスは世界保健機関 (WHO) の分類により現在AからHの8群、22遺伝子型に分類されている。によるものであり、その感染力は極めて強く、その感染経路は空気感染を始めとして飛沫感染・接触感染と多彩である(空気感染もするので、たとえ患者に触れなくても、たとえ飛沫を浴びなくても、ただ患者がいる部屋の空気を吸うだけでも感染する)。 麻疹に関して麻疹ワクチンの予防接種は、効果がある唯一の予防法であり、世界では予防接種の実施により麻疹による死亡を2000-2013年の間に75%減少させた。世界児童のおよそ85%は接種を受けている。患者に接触してから3日以内であれば麻しんワクチンの接種により発病を予防できる可能性があり、 患者に接触してから6日以内であればガンマグロブリンの注射により発病を予防できる可能性がある。一度罹患するかワクチンによって、抗体価があるうちに感染すると症状は出ないが、抗体価が再び上昇するブースター効果がかかるが、現代では抗体価が減少し続けて再感染することがある。ワクチンによる獲得免疫の有効期間は約10年とされるが、ブースター効果による追加免疫が得られないこともある。 発病(発症)してからの治療法はなく、対症療法が行われる。先進国における栄養状態の改善、対症療法の発達によって死亡率は0.1-0.2%である。 世界の患者数は年間20万人ほどであり、主にアジア・アフリカの途上国である。流行株の変異によって、ワクチンで獲得した抗体での抑制効果が低くなることが懸念されている。定期的に流行しており、日本の江戸時代でも13回の大流行があり、ワクチン時代の2007-2008年に1万人の罹患者を超える流行が起きた。.

新しい!!: 藤原道長と麻疹 · 続きを見る »

近衛大将

近衛大将(このえ の だいしょう)は、日本の律令官制における令外官の一つ。宮中の警固などを司る左右の近衛府の長官。左近衛府には左近衛大将(さこんえのだいしょう)、右近衛府には右近衛大将(うこんえのだいしょう)が置かれ、それぞれ略して「左大将」「右大将」ともいう。定員は各1名で、権官はない。官位相当は従三位。常設武官の最高職で、馬御監の兼任とされた。和訓は「ちかきまもりのつかさのかみ」。.

新しい!!: 藤原道長と近衛大将 · 続きを見る »

関白

関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.

新しい!!: 藤原道長と関白 · 続きを見る »

藤原げん子

藤原 嫄子(ふじわら の げんし(もとこ)、長和5年7月19日(1016年8月24日) - 長暦3年8月28日(1039年9月19日))は、平安時代中期の皇妃。一品式部卿敦康親王の長女、母は具平親王の次女。後朱雀天皇中宮。初名は嫄子女王。.

新しい!!: 藤原道長と藤原げん子 · 続きを見る »

藤原せい子

藤原 娍子(ふじわら の せいし/すけこ)、天禄3年(972年) - 万寿2年3月25日(1025年4月25日))は平安時代中期の人物。第67代三条天皇皇后。父は贈右大臣藤原済時、母は源延光の娘。.

新しい!!: 藤原道長と藤原せい子 · 続きを見る »

藤原妍子

藤原 妍子(ふじわら の けんし/きよこ、正暦5年3月(994年4月) - 万寿4年9月14日(1027年10月16日))は、摂政藤原道長の次女。母は源倫子。第67代三条天皇中宮。別名枇杷殿皇太后。子女は禎子内親王(後朱雀天皇皇后)。同母の兄弟に頼通・教通、上東門院彰子・威子・嬉子。.

新しい!!: 藤原道長と藤原妍子 · 続きを見る »

藤原威子

藤原 威子(ふじわら の いし/たけこ、長保元年12月23日(1000年2月1日) - 長元9年9月6日(1036年9月28日))は、平安時代中期の女性。摂政藤原道長の娘。母は源倫子。第68代後一条天皇中宮。別名大中宮。子女は章子内親王(後冷泉天皇中宮)、馨子内親王(後三条天皇中宮)。同母の兄弟に頼通・教通、上東門院彰子・妍子・嬉子。.

新しい!!: 藤原道長と藤原威子 · 続きを見る »

藤原嬉子

藤原 嬉子(ふじわら の きし/ よしこ、寛弘4年1月5日(1007年1月26日) - 万寿2年8月5日(1025年8月30日))は、摂政藤原道長の六女。母は源倫子。尚侍。第69代後朱雀天皇の東宮妃、第70代後冷泉天皇生母。贈皇太后。同母の兄弟に頼通・教通、上東門院彰子・妍子・威子。.

新しい!!: 藤原道長と藤原嬉子 · 続きを見る »

藤原定子

藤原 定子(ふじわら の ていし/さだこ、貞元2年〈977年〉 - 長保2年12月16日〈1001年1月13日〉享年は同時代の公卿・藤原行成の日記『権記』による(『大鏡裏書』『一代要記』は入内の時14歳とするため『権記』の記す享年24と符合する)。『日本紀略』『扶桑略記』『栄花物語』は25とする。)は、平安時代、第66代一条天皇の皇后(号は中宮、のち皇后宮)。脩子内親王・敦康親王・媄子内親王の生母。通称は一条院皇后宮。女官に『枕草子』の作者である清少納言がいる。.

新しい!!: 藤原道長と藤原定子 · 続きを見る »

藤原実頼

藤原 実頼(ふじわら の さねより)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原忠平の長男。 村上天皇の時に左大臣として右大臣の弟・師輔と共に朝政を指導して天暦の治を支えた。しかし、後宮の争いでは師輔に遅れをとり、外戚たる事ができなかった。冷泉天皇が即位すると、その狂気のために関白職が復活し実頼が任じられた。次いで円融天皇が即位すると摂政に任じられている。また、有職故実に通じ、小野宮流を創始した。.

新しい!!: 藤原道長と藤原実頼 · 続きを見る »

藤原実資

藤原 実資(ふじわら の さねすけ)は、平安時代の公卿。 藤原北家嫡流の小野宮流の膨大な家領を継ぎ、有職故実に精通した当代一流の学識人であった。藤原道長が権勢を振るった時代に筋を通した態度を貫き、権貴に阿らぬ人との評価を受けた。最終的に従一位・右大臣に昇り、「賢人右府」と呼ばれた。実資の残した日記『小右記』はこの時代を知る貴重な資料となっている。.

新しい!!: 藤原道長と藤原実資 · 続きを見る »

藤原安子

藤原 安子(ふじわら の あんし(やすこ)、延長5年(927年) - 応和4年4月29日(964年6月11日))は、右大臣藤原師輔の長女。母は武蔵守藤原経邦の女盛子。第62代村上天皇中宮。第63代冷泉天皇・第64代円融天皇、為平親王、承子内親王、輔子内親王、資子内親王、選子内親王らの生母。同母兄弟に伊尹・兼通・兼家・忠君、登子(重明親王妃)・藤原師輔三女(源高明先妻、俊賢母)・怤子(冷泉天皇女御)など。.

新しい!!: 藤原道長と藤原安子 · 続きを見る »

藤原寛子 (藤原道長女)

藤原 寛子(ふじわら の かんし/ ひろこ、長保元年(999年) - 万寿2年7月9日(1025年8月5日))は、藤原道長の三女。母は源明子。敦明親王(小一条院)妃。別名高松殿女御。なお、長和2年9月16日(1013年10月23日)に道長の娘たちが叙位された件について『御堂関白記』には、提子、『小右記』には媞子という名称で登場(従三位に叙任された)しており、寛子は後の改名であったと考えられている。.

新しい!!: 藤原道長と藤原寛子 (藤原道長女) · 続きを見る »

藤原寛子 (藤原頼通女)

藤原 寛子(ふじわら の かんし/ ひろこ、長元9年(1036年) - 大治2年8月14日(1127年9月30日))は、関白藤原頼通の長女。母は藤原祇子。後冷泉天皇の皇后。別名四条宮。同母弟に藤原師実。.

新しい!!: 藤原道長と藤原寛子 (藤原頼通女) · 続きを見る »

藤原尊子 (藤原道長女)

藤原 尊子(ふじわら の そんし/たかこ、長保5年(1003年)? - 寛治元年7月7日(1087年8月7日)?)は、藤原道長の五女。母は源明子。太政大臣源師房正室。子に源俊房・顕房・仁覚・麗子(藤原師実正室)・妧子(藤原通房正室)・澄子らがいる。初名は隆子。なお、初名については父・道長の『御堂関白記』や藤原実資の『小右記』に記されており、婚姻時に夫の姉で尊子の異母兄藤原頼通の正室でもあった隆姫女王(具平親王女)の名前と重なるために改名したと考えられている。.

新しい!!: 藤原道長と藤原尊子 (藤原道長女) · 続きを見る »

藤原師輔

藤原 師輔(ふじわら の もろすけ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白太政大臣・藤原忠平の次男。官位は正二位・右大臣。 有職故実・学問に優れた人物として知られ、村上天皇の時代に右大臣として朝政を支えた。師輔の没後に長女・中宮安子所生の皇子が冷泉天皇・円融天皇としてそれぞれ即位し、師輔の家系は天皇の外戚として大いに栄えた。.

新しい!!: 藤原道長と藤原師輔 · 続きを見る »

藤原中正

藤原 中正(ふじわら の なかまさ)は、平安時代の官人。藤原北家魚名流、中納言・藤原山蔭の七男。官位は従四位上・左京大夫。名は仲正とも表記される。.

新しい!!: 藤原道長と藤原中正 · 続きを見る »

藤原伊尹

藤原 伊尹(ふじわら の これただ/これまさ)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、右大臣・藤原師輔の長男。 妹の中宮・安子が生んだ冷泉天皇・円融天皇の即位に伴って栄達し、摂政・太政大臣にまで上り詰めたが、まもなく病気により早逝した。孫に書家として名高い藤原行成がおり、子孫は世尊寺家として書道を世業とした。.

新しい!!: 藤原道長と藤原伊尹 · 続きを見る »

藤原伊周

藤原 伊周(ふじわらの これちか)は平安時代中期の公卿。摂政関白内大臣藤原道隆の嫡男(三男)。.

新しい!!: 藤原道長と藤原伊周 · 続きを見る »

藤原彰子

藤原 彰子(ふじわら の しょうし/あきこ、永延2年(988年) - 承保元年10月3日(1074年10月25日)は、第66代一条天皇の皇后(号は中宮)。第68代後一条天皇・第69代後朱雀天皇の生母(国母)、女院。院号を上東門院(じょうとうもんいん)といい、のちには大女院(おおにょいん)とも呼ばれた。 女房に『源氏物語』作者の紫式部、王朝有数の歌人として知られた和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門、続編の作者と伝えられる出羽弁、そして「古の奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬる哉」の一句が有名な歌人の伊勢大輔などを従え、華麗な文芸サロンを形成していた。.

新しい!!: 藤原道長と藤原彰子 · 続きを見る »

藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

新しい!!: 藤原道長と藤原北家 · 続きを見る »

藤原儼子

藤原 儼子(ふじわら の たけこ、? - 長和5年正月21日(1016年3月8日))は、平安時代の女性。藤原為光の四女。母は藤原伊尹の娘『小右記』長和5年正月21日条。 花山法皇の愛人で、法皇の死後、藤原妍子の女官、ついで藤原道長の妾となる。長和5年(1016年)1月21日に道長の子を産むが、死産で母子共々死去したという。.

新しい!!: 藤原道長と藤原儼子 · 続きを見る »

藤原公季

藤原 公季(ふじわら の きんすえ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・師輔の十一男(十二男とも)。官位は従一位、太政大臣、贈正一位。閑院大臣と号す。漢風諡号は仁義公、国公は甲斐公。閑院流の祖。.

新しい!!: 藤原道長と藤原公季 · 続きを見る »

藤原公任

藤原 公任(ふじわら の きんとう)は、平安時代中期の公卿・歌人。関白太政大臣・藤原頼忠の長男。小倉百人一首では大納言公任。.

新しい!!: 藤原道長と藤原公任 · 続きを見る »

藤原兼家

東三条院跡、藤原兼家邸、京都市中京区押小路通釜座西北角 藤原 兼家(ふじわら の かねいえ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・藤原師輔の三男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。 策略によって花山天皇を退位させて、娘が生んだ一条天皇を即位させて摂政となった。その後右大臣を辞して摂政のみを官職として、摂関の地位を飛躍的に高め、また子・道隆にその地位を譲って世襲を固める。以後、摂関は兼家の子孫が独占し、兼家は東三条大入道殿と呼ばれて尊重された。 兄・兼通との激しい確執や、室の一人に『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母がいる事でも知られている。.

新しい!!: 藤原道長と藤原兼家 · 続きを見る »

藤原兼経

藤原 兼経 (ふじわら の かねつね)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、大納言・藤原道綱の三男。官位は正三位・参議。.

新しい!!: 藤原道長と藤原兼経 · 続きを見る »

藤原兼隆

藤原 兼隆(ふじわら の かねたか)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、関白右大臣・藤原道兼の次男。官位は正二位・中納言。.

新しい!!: 藤原道長と藤原兼隆 · 続きを見る »

藤原兼頼

藤原 兼頼(ふじわら の かねより)は平安時代中期から後期にかけての公卿。右大臣・藤原頼宗の長男。小野宮中納言と号す。.

新しい!!: 藤原道長と藤原兼頼 · 続きを見る »

藤原兼通

藤原 兼通(ふじわら の かねみち)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・藤原師輔の次男。官位は従一位・関白太政大臣、贈正一位。.

新しい!!: 藤原道長と藤原兼通 · 続きを見る »

藤原穆子

藤原 穆子(ふじわら の ぼくし/あつこ、承平元年(931年)- 長和5年7月26日(1016年8月31日))は、平安時代の左大臣・源雅信の正室。中納言藤原朝忠の娘で、藤原道長正室である源倫子や源時通、源時叙、藤原道綱正室の母となった。 藤原道長が源倫子に求婚した折に夫の雅信は倫子を一条天皇の妃にしようと画策しており、これを断ろうとしたが、穆子が倫子と天皇とでは年齢的に不釣合いであるとしてこれに反対し、道長を婿に迎え入れさせた。このため、道長もこの義母には頭が上がらなかったと言われている。 夫の死後、出家したため、「一条尼(いちじょうのあま)」と呼ばれるようになる。その後、道長の昇進、孫娘の藤原彰子の入内などが続き、長保3年(1001年)の穆子の七十算の修法(70歳を祝う加持祈祷)は、道長夫妻の主催によって大規模に行われた。晩年は観音寺にしばしば籠ったという。 長和元年(1016年)、曾孫に当たる後一条天皇が即位するが、間もなく病状が悪化し、道長夫妻も看病にあたったものの、同年7月に86歳で病死した。 Category:平安時代の公卿の妻室 ほくし Category:931年生 Category:1016年没.

新しい!!: 藤原道長と藤原穆子 · 続きを見る »

藤原綏子

藤原 綏子(ふじわら の すいし・やすこ、天延2年(974年) - 寛弘元年2月7日(1004年2月29日))は平安時代中期、三条天皇皇太子時代の妃。公式の身分は正二位尚侍。摂政太政大臣藤原兼家の三女で、母は「対の御方」とよばれて兼家に寵愛された従三位藤原国章の娘。.

新しい!!: 藤原道長と藤原綏子 · 続きを見る »

藤原為任

藤原 為任(ふじわら の ためとう)は、平安時代中期の公家。藤原北家小一条流、大納言・藤原済時の子。官位は正四位下・伊予守。.

新しい!!: 藤原道長と藤原為任 · 続きを見る »

藤原為光

藤原 為光(ふじわら の ためみつ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・藤原師輔の九男。官位は従一位・太政大臣、贈正一位。法住寺の建立で知られる。.

新しい!!: 藤原道長と藤原為光 · 続きを見る »

藤原隆家

藤原 隆家(ふじわら の たかいえ)は、平安時代中期の貴族。藤原道隆の四男(高階貴子を母とする兄弟では次男).

新しい!!: 藤原道長と藤原隆家 · 続きを見る »

藤原遵子

藤原 遵子(ふじわら の じゅんし(のぶこ)、天徳元年(957年) - 寛仁元年6月1日(1017年6月27日))は平安時代中期、関白藤原頼忠の次女。母は代明親王(醍醐天皇皇子)の娘厳子女王。円融天皇中宮。別名は四条宮。同母弟妹に公任、諟子(花山天皇女御)。 貞元3年(978年)円融天皇に入内、女御宣下を受ける。同5年(982年)中宮に冊立。正暦元年(990年)皇后宮。長徳3年(997年)出家。長保2年(1000年)皇太后、長和元年(1012年)太皇太后。寛仁元年(1017年)、61歳で崩御。 遵子が入内した当時、後宮には既に中宮媓子がいた。しかし天元2年(979年)に媓子が没したため、空いた中宮位を遵子ともう一人の女御詮子が争った結果、第一皇子の懐仁親王を産んだ詮子ではなく関白頼忠の娘遵子が中宮となった。遵子立后の日、弟の公任は得意になって詮子方に「こちらの女御(詮子)はいつ立后なさるのかな」と言い放ち、詮子とその父兼家の恨みを買ったが、遵子はその後もついに皇子を産むことはなく、一条天皇の即位で詮子が皇太后になった際、公任は逆に詮子の女房から「姉君の素腹の后はどちらにおいでで?」と皮肉られたという(『大鏡』)。 円融天皇の譲位後は里邸の四条第で暮らしたことから四条宮とも呼ばれ、仏道に専念しつつ公任の娘を養女にして余生を送った。 Category:日本の皇后 Category:日本の皇太后 Category:日本の太皇太后 しゆんし category:平安時代の后妃後宮 Category:957年生 Category:1017年没.

新しい!!: 藤原道長と藤原遵子 · 続きを見る »

藤原道兼

藤原 道兼(ふじわら の みちかね)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の三男。官位は正二位・関白、右大臣、贈正一位、太政大臣。同母の弟妹に詮子、道長らがいる。 父・兼家の意を受けて花山天皇を唆して出家・退位させる(寛和の変)。一条天皇が即位すると外祖父の兼家は摂政となり、道兼も栄達した。兼家が死去すると道兼の期待に反して長兄・道隆が関白となった。5年後に道隆が病死すると、待望の関白になるが、その僅か数日後に病死した。そのため「七日関白」と呼ばれる。.

新しい!!: 藤原道長と藤原道兼 · 続きを見る »

藤原道綱

藤原 道綱(ふじわら の みちつな)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の次男。官位は正二位・大納言。.

新しい!!: 藤原道長と藤原道綱 · 続きを見る »

藤原道隆

藤原 道隆(ふじわら の みちたか)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の長男。官位は正二位・摂政・関白・内大臣。 花山天皇退位事件(寛和の変)で父兼家の意を受けて宮中で活動。甥にあたる一条天皇の即位後は急速に昇進した。娘・定子を女御として入内させ、後に中宮となす。父・兼家が死ぬと後を継いで関白となる。朝政を主導するが僅か5年ほどで病に倒れ、嫡男・伊周を後任の関白にと願うが、天皇からは許されず、薨御した。.

新しい!!: 藤原道長と藤原道隆 · 続きを見る »

藤原頼宗

藤原 頼宗(ふじわら の よりむね)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の次男。官位は従一位・右大臣。堀河右大臣と号す。.

新しい!!: 藤原道長と藤原頼宗 · 続きを見る »

藤原頼忠

藤原 頼忠(ふじわら の よりただ)は、平安時代中期の公卿。藤原実頼の次男。 円融・花山両天皇の関白で、後に太政大臣となる。しかし、天皇と外戚関係を得ることができず、藤原兼家との政争に敗れて、一条天皇の即位とともに関白を辞し、失意のうちに薨御した。.

新しい!!: 藤原道長と藤原頼忠 · 続きを見る »

藤原頼通

藤原 頼通(ふじわら の よりみち)は、平安時代中期から後期にかけての公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣藤原道長の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。 父・道長から若くして後一条天皇の摂政を譲られ、その後見を受ける。父の死後は朝政の第一人者として後朱雀天皇・後冷泉天皇の治世にて、関白を50年の長きに亘って務め、父道長と共に藤原氏の全盛時代を築いた。現代に残るその栄華の象徴が頼通が造営した平等院鳳凰堂である。 しかし、天皇の后にした娘が男子に恵まれなかったばかりか、刀伊の入寇・平忠常の乱・前九年の役など戦乱が相次ぐなど、朝廷の内外からそれまでの絶対的な権力体制を揺さぶられる事態が生じた。そこに加えて晩年には頼通と疎遠な後三条天皇が即位したこともあり、摂関家の権勢は衰退へ向かい、やがて院政と武士の台頭の時代へと移ることになる。.

新しい!!: 藤原道長と藤原頼通 · 続きを見る »

藤原行成

藤原 行成(ふじわら の ゆきなり/こうぜい)は、平安時代中期の廷臣。藤原北家、右少将・藤原義孝の長男。官位は正二位・権大納言。一条朝四納言(「寛弘の四納言」)の一。世尊寺家の祖。 当代の能書家として三蹟の一人に数えられ、その書は後世「権蹟」(ごんせき)と称された。書道世尊寺流の祖。.

新しい!!: 藤原道長と藤原行成 · 続きを見る »

藤原顕信

藤原 顕信(ふじわらの あきのぶ)は、平安時代中期の貴族・僧。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の三男。官位は従四位下・右馬頭。.

新しい!!: 藤原道長と藤原顕信 · 続きを見る »

藤原顕光

藤原 顕光(ふじわら の あきみつ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、関白太政大臣・藤原兼通の長男。官位は従一位・左大臣。 父・兼通が関白になると、昇進して公卿に列するが、兼通の死後はその弟・兼家(顕光の叔父)と道長(顕光の従弟)父子に実権を奪われる。無能者として知られ、朝廷の儀式で失態を繰り返して世間の嘲笑を買った。晩年、左大臣に上るが失意のうちに死去し、道長の家系に祟りをなしたと恐れられ、悪霊左府と呼ばれた。.

新しい!!: 藤原道長と藤原顕光 · 続きを見る »

藤原詮子

東三条殿跡・藤原詮子居住地、京都市中京区押小路通釜座西北角 藤原 詮子(ふじわら の せんし/あきこ、応和2年(962年) - 長保3年閏12月22日(1002年2月7日))は、平安時代、第64代円融天皇女御。第66代一条天皇生母(国母)。院号は東三条院(ひがしさんじょういん)。 摂政関白・太政大臣藤原兼家の次女で、母は摂津守藤原中正の娘時姫。先後して摂関に在職した道隆・道兼・道長、また冷泉天皇女御超子は同母の兄弟。.

新しい!!: 藤原道長と藤原詮子 · 続きを見る »

藤原超子

藤原 超子(ふじわら の ちょうし/とおこ、天暦8年(954年)頃 - 天元5年1月28日(982年2月24日))は、平安時代中期の女性。冷泉天皇の女御となり後の三条天皇を産んだが、その即位を見ることなく早世した。贈皇太后。藤原兼家の長女。母は藤原中正の女・時姫。同母兄弟妹に道隆・道兼・道長・詮子(東三条院)がいる。.

新しい!!: 藤原道長と藤原超子 · 続きを見る »

藤原能信

藤原 能信(ふじわら の よしのぶ)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の四男。官位は正二位・権大納言、贈正一位、太政大臣。.

新しい!!: 藤原道長と藤原能信 · 続きを見る »

藤原長家

藤原 長家(ふじわら の ながいえ)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の六男。官位は正二位・権大納言。大宮または三条を号す。御子左家の祖。母は源明子(高松殿)であるが、後に道長の嫡妻源倫子の養子となった。.

新しい!!: 藤原道長と藤原長家 · 続きを見る »

藤原通基 (侍従)

藤原 通基(ふじわら の みちもと)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、関白・太政大臣・藤原教通の次男。官位は正三位・侍従。.

新しい!!: 藤原道長と藤原通基 (侍従) · 続きを見る »

藤原通任

藤原 通任(ふじわら の みちとう)は、平安時代中期の公卿。藤原北家小一条流、大納言・藤原済時の子。官位は正三位・権中納言。.

新しい!!: 藤原道長と藤原通任 · 続きを見る »

藤原歓子

藤原 歓子(ふじわら の かんし、治安元年(1021年) - 康和4年8月17日(1102年9月30日))は平安時代後期の后妃。名は「よしこ」とも読む。第70代後冷泉天皇の皇后。通称、小野皇太后。 関白藤原教通の三女。母は大納言藤原公任の長女(1000年 - 1024年)。同母の兄弟に権大納言信家、侍従通基、太政大臣信長、権大僧都静覚(1024年 - 1083年)、同母姉に後朱雀天皇女御生子(1014年 - 1068年)、尚侍真子(1016年 - 1087年)、異母兄に権僧正静円(母は小式部内侍、1016年 - 1074年)がいる。.

新しい!!: 藤原道長と藤原歓子 · 続きを見る »

藤原氏の人物一覧

藤原氏の人物一覧(ふじわらしのじんぶついちらん) 藤原は姓であり、家名や苗字ではない。鎌倉時代以降の藤原氏は、近衛、三条、九条などの家名を称するようになった。つまり厳密な意味での藤原氏は明治維新まで続いたことになるが、ここでは姓として「藤原」を称していた平安時代までの人物を取り上げる。.

新しい!!: 藤原道長と藤原氏の人物一覧 · 続きを見る »

藤原済時

藤原 済時(ふじわら の なりとき)は、平安時代中期の公卿。左大臣・藤原師尹の次男。官位は正二位・大納言、左大将、贈右大臣。.

新しい!!: 藤原道長と藤原済時 · 続きを見る »

藤原朝忠

藤原 朝忠(ふじわら の あさただ、延喜10年(910年) - 康保3年12月2日(967年1月15日))は、平安時代中期の公家・歌人。藤原北家、三条右大臣・藤原定方の五男。三十六歌仙の一人。官位は従三位・中納言。土御門中納言または堤中納言と号する。小倉百人一首では中納言朝忠。.

新しい!!: 藤原道長と藤原朝忠 · 続きを見る »

藤原教通

藤原 教通(ふじわら の のりみち)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の五男。官位は従一位・関白、太政大臣、贈正一位。.

新しい!!: 藤原道長と藤原教通 · 続きを見る »

藤原時姫

藤原 時姫(ふじわら の ときひめ、生年不詳 - 天元3年1月15日(980年2月4日))は、平安時代中期の女性。摂津守藤原中正の娘。摂政太政大臣・藤原兼家の正室、一条・三条両天皇の祖母。贈正一位。 藤原兼家に嫁いで藤原道隆・道兼・道長・超子・詮子らを生むが、夫の兼家が摂政になる前に死去した。孫の一条天皇の即位後の永延元年(987年)に正一位を贈位された。また、中級官人であった兄の藤原安親も天皇の外戚として参議に任じられて公卿に列した。 また、兼家の妻の1人であった藤原道綱母の『蜻蛉日記』には、直接名指しされないものの、時姫と推測される女性が登場し、作者がライバル意識を抱いている描写が存在している。後に時姫とその子供達が兼家の邸宅東三条殿に招かれた事も書かれている。 ただし、道長ら兄弟の生母を兼家の側室の1人であった安親の娘(時姫の姪)とする異説もあるが、安親と時姫の長男とされる道隆の年齢差(31歳)を考慮すると、両者は伯父・甥の関係として、道隆らを時姫所生とするのが妥当とする反論がある。また、没日についても、1月21日とする説もあるなど、夫や子供の出世以前に没したために詳細な伝記については不明な部分が多い。.

新しい!!: 藤原道長と藤原時姫 · 続きを見る »

藤氏長者

藤氏長者(とうしのちょうじゃ)は、藤原氏一族全体の氏長者のこと。.

新しい!!: 藤原道長と藤氏長者 · 続きを見る »

蔵人頭

蔵人頭(くろうどのとう)とは、令外官の役職で、蔵人所の実質的な長である。大同5年(810年)、蔵人所の設置に伴い、初代の蔵人頭に藤原冬嗣と巨勢野足が任命され、その後、天皇の首席秘書として、また公卿への昇進を約束された地位として、朝廷内に重要な位置を占めた。 蔵人所の長官は大臣が兼任する「蔵人別当」であったが、これは名目的なもので、実務上は蔵人頭が殿上人の首座として蔵人および殿上人を指揮し、勅旨や上奏の伝達や、天皇身辺の世話等を取り仕切った。通常、四位の者が補任されるが、官位相当は無い。定員は2名。殿上の首席に座を占めることから「貫首」(かんず)とも呼ばれた(「貫主」と表記されることもある)。また、蔵人として禁色の使用が許された。参議に欠員が出た場合、蔵人頭が即参議に就任するようになり、公卿への昇進への登竜門ともいえる役職となった。また、その際に参議に就任するものが後任の適格者を推挙する例があり、源俊賢が藤原行成を推したことが知られている。 蔵人頭は武官である近衛中将と、文官である弁官の大弁または中弁から1名ずつ選ばれることが多くなり、それぞれ「頭中将(とうのちゅうじょう)」、「頭弁(とうのべん)」と呼ばれた。藤原俊憲の『貫首秘抄』には、頭中将は「禁中万事」を申し行い、頭弁は「天下巨細」を執奏するとされ、頭中将は宮中における側近奉仕を担当し、頭弁は天皇と太政官の間で政務に関する連絡を担当したと記されている。頭中将は上流貴族出身者が務めたのに対し、頭弁は実務処理能力が重視された。このため、朝廷や摂関家政所において実務官僚を務めた勧修寺流・日野流などの藤原北家や高棟流平氏などの中級貴族の家系から輩出され、後にこれが通例となった。ただしそれ以外の職から選ばれることもあり、その場合には、それぞれの職にあわせて「頭亮(とうのりょう)」、「頭頭(とうのとう)」等と呼ばれた。10世紀頃までは、近衛少将で蔵人頭に補される例もよく見られ、2名とも頭中将である例や2名とも頭弁である例もあり、頭中将と頭弁1名ずつの原則が定着したのは平安時代末期の頃であった。院政期には、官職の推挙に院の近臣が容喙することが増えたためか、再びこの慣習が乱れ、安元2年(1176年)12月5日の除目において、蔵人頭に左中将藤原定能と右中将藤原光能が任ぜられたという例がある。 良岑衆樹は54歳になって任じられた。.

新しい!!: 藤原道長と蔵人頭 · 続きを見る »

醍醐家

醍醐(だいご)家は、清華家の家格をもつ公家(新家)。五摂家の一つ一条家の支流。 江戸時代前期一条昭良の二男・冬基を祖に創立された。家禄は、312石。家紋は下り藤。.

新しい!!: 藤原道長と醍醐家 · 続きを見る »

致平親王

致平親王(むねひらしんのう、天暦5年(951年)- 長久2年2月20日(1041年3月24日))は、平安時代の皇族。村上天皇の第三皇子、母は更衣正妃(左大臣藤原在衡女)。冷泉天皇・円融天皇らの異母兄弟。同母兄弟姉妹に保子内親王(藤原兼家室)・昭平親王がいた。子に源成信(藤原道長の養子)、源致信、永円(園城寺平等院大僧正)。妻は源雅信の娘。法名は悟円。 康保2年(965年)、清涼殿において元服。このときの加冠を中納言源兼明が、理髪を頭中将源延光がそれぞれ務めた。同年、上野太守になる。康保4年、四品に叙される。安和2年(969年)帯剣を許される。天禄2年(971年)兵部卿に任ぜられる。貞元元年(976年)大宰帥になる。981年(天元4年)に園城寺の余慶に従って出家し、智弁に師事した。法名を悟円といい、明王院宮・法三宮と呼ばれた。出家に際し、徽子女王や中務から歌を贈られている。長久2年2月、91歳で薨去した。.

新しい!!: 藤原道長と致平親王 · 続きを見る »

長徳

長徳(ちょうとく)は、日本の元号の一つ。正暦の後、長保の前。995年から999年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.

新しい!!: 藤原道長と長徳 · 続きを見る »

長徳の変

長徳の変(ちょうとくのへん)とは長徳元年(995年)4月10日の藤原道隆の死後、弟の藤原道長が内覧の宣旨を得た後に起きた政変。道隆の一族、中関白家が排斥される結果となった。花山院闘乱事件(かざんいんとうらんじけん)とも。.

新しい!!: 藤原道長と長徳の変 · 続きを見る »

長保

長保(ちょうほう)は、日本の元号の一つ。長徳の後、寛弘の前。999年から1003年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.

新しい!!: 藤原道長と長保 · 続きを見る »

長保元年令

長保元年令(ちょうほがんねんれい)とは、長保元年7月27日(999年9月9日)に新制として出された太政官符である。全11条。 新制そのものの最古は天暦元年(947年)とされているが、中世における新制の基本的要素である「神社仏寺」「過差停止」「公事催勤」の3つの項目が揃った法令としては最初のものであった。.

新しい!!: 藤原道長と長保元年令 · 続きを見る »

長信

長信(ちょうしん、長和3年(1014年) - 延久4年9月30日(1072年11月12日))は、平安時代中期の真言宗の僧侶。父は摂政藤原道長。母は源重光の娘。通称は池辺僧正。 仁和寺観音院の延尋(源扶義の子)の元に入門して出家、永承3年(1047年)に同院で性信入道親王から灌頂を受ける。永承5年(1049年)に東寺に移って権少僧都・一身阿闍梨となる。天喜2年(1054年)には東寺と真言宗全体の長である第29代東寺長者に任じられて法印に昇進する。治暦2年(1066年)権僧正となり、この年の旱魃に際して僧侶20人を率いて雨乞いの修法を行った。延久2年(1070年)には僧正に任じられて、翌年には東寺内に池坊を建立してそこに居住する。後三条天皇の信任が厚く、この年には百官を連れて長信の元を訪れ、封戸25戸を下賜された。晩年は仁和寺などの別当を務めた。 Category:御堂流 Category:真言宗の僧 Category:平安時代の僧 Category:1014年生 Category:1072年没.

新しい!!: 藤原道長と長信 · 続きを見る »

長和

長和(ちょうわ)は、日本の元号の一つ。寛弘の後、寛仁の前。1012年から1016年までの期間を指す。この時代の天皇は三条天皇、後一条天皇。.

新しい!!: 藤原道長と長和 · 続きを見る »

集英社

株式会社集英社(しゅうえいしゃ)は、日本の総合出版社。『週刊少年ジャンプ』『週刊プレイボーイ』『non-no』『すばる』 『Myojo』などの雑誌を発行している。社名は「英知が集う」の意味。.

新しい!!: 藤原道長と集英社 · 続きを見る »

院政

院政(いんせい)は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治である。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治形態である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。.

新しい!!: 藤原道長と院政 · 続きを見る »

除目

(じもく/じょもく)とは、平安時代中期以降、京官、外官の諸官を任命すること。またその儀式自体である宮中の年中行事を指し、任官した者を列記した帳簿そのものを指す(除書ともいう)。「除」は前官を除いて新官を任ずる意味で、「目」は目録に記すことを意味する。 任命の儀式は、年中恒例の行事で通常、春と秋の年二回行われ、春の除目、秋の除目という。その他に小規模な臨時の除目も随時行われた。除目の儀は、行事を通じて、例えば紙の折り方や墨の磨り方にいたるまで、非常に細かい作法が決められた儀式であった。.

新しい!!: 藤原道長と除目 · 続きを見る »

陽明文庫

陽明文庫(ようめいぶんこ)は、京都市右京区宇多野上ノ谷町にある歴史資料保存施設。 公家の名門で「五摂家」の筆頭である近衛家伝来の古文書(こもんじょ)、典籍、記録、日記、書状、古美術品など約10万件に及ぶ史料を保管している。昭和13年(1938年)、当時の近衛家の当主で内閣総理大臣であった近衛文麿が京都市街地の北西、仁和寺の近くの現在地に財団法人陽明文庫設立した。近衛家の遠祖にあたる藤原道長(966 - 1028)の自筆日記『御堂関白記』から、20世紀の近衛文麿の関係資料まで、1,000年以上にわたる歴史資料を収蔵し、研究者に閲覧の便を図るとともに、調査研究事業、展示出陳事業、複製本の刊行などの事業を行っている。2012年4月より公益財団法人に移行した。.

新しい!!: 藤原道長と陽明文庫 · 続きを見る »

東大寺

東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。 金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である。現別当(住職・222世)は狹川普文。 奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。 東大寺は1998年12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。.

新しい!!: 藤原道長と東大寺 · 続きを見る »

村上天皇

村上天皇(むらかみてんのう、延長4年旧6月2日(926年7月14日)- 康保4年旧5月25日(967年7月5日))、は、平安時代中期の第62代天皇(在位:天慶9年(946年)旧4月28日 - 康保4年(967年)旧5月25日)。諱は成明(なりあきら)。 第60代醍醐天皇の第十四皇子。母は藤原基経女中宮穏子。第61代朱雀天皇の同母弟。.

新しい!!: 藤原道長と村上天皇 · 続きを見る »

栄花物語

『栄花物語』(えいがものがたり)は、平安時代の歴史物語。仮名文。女性の手になる編年体物語風史書。.

新しい!!: 藤原道長と栄花物語 · 続きを見る »

極楽

極楽(ごくらく、sukhāvatī, スカーヴァティー、蔵;, デワチェン)とは、阿弥陀仏の浄土であり、サンスクリット語「スカーヴァティー」は「スカー」(sukhā)に「ヴァティー」(vatī)を加えたもので「幸福のあるところ」「幸福にみちみちてあるところ」の意味。須呵摩提(しゅかまだい)、蘇珂嚩帝(そかばってい)、須摩提(しゅまだい)、須摩題などと音表され、安楽、極楽、妙楽などと訳出された。 『阿弥陀経』には「其の国の衆生、衆苦有ること無く、但だ諸楽を受くるが故に極楽と名づく」という。.

新しい!!: 藤原道長と極楽 · 続きを見る »

権記

『権記』(ごんき)は、平安時代中期に活躍した藤原行成の記した日記である。名の由来は、極官(ごくかん)の権大納言による。『行成卿記』、『権大納言記』とも。執筆時期は藤原道長の全盛期で、特に蔵人頭在任中(一条天皇期)の活動が詳細に記されており、当時の政務運営の様相や権力中枢・宮廷の深奥を把握するための第一級の史料。 正暦2年(991年)から寛弘8年(1011年)までのものが伝存し、これに万寿3年(1026年)までの逸文が残っている。自筆本は伝わらない。最も古い写本は、鎌倉時代以前に筆写された伏見宮本(宮内庁書陵部蔵)である。同時期の日記に『小右記』(藤原実資)、『御堂関白記』(藤原道長)がある。.

新しい!!: 藤原道長と権記 · 続きを見る »

権門

権門(けんもん)とは、古代末期から中世の日本において、社会的な特権を有した権勢のある門閥・家柄・集団を指す言葉。類似した意味を持つ勢家(せいか/せいけ)と組み合わせて、権門勢家ともいった。 「権門」と「勢家」はともに中国の古典に記された故事に由来する語で、平安時代初め頃から使われるようになる。902年(延喜2年)3月13日付太政官符(すなわち『延喜の荘園整理令』)には、「権門」「多勢之家(勢家)」などの語がすでに見られ、諸院諸宮王臣家あるいは五位以上の貴族の意味で用いられていたことがわかる。 摂関政治の時代に入ると、地方の在地領主が国司の介入を排除するため権門に土地を荘園として寄進して不輸権・不入権を獲得するようになった(荘園領主)。特に藤原北家でも摂関の地位を占める可能性のある一族に寄進が集中して格差が拡大し、それ以外の貴族が「寒門」として没落するようになった。当時の政治は権門によって運営されていたために、荘園整理などの権門抑制策には消極的だったが、一方で政治的権威の基盤である太政官 - 国衙の支配体制の崩壊も望まれるところではなく、官物率法の導入などによってその最低限の維持政策は取られ続けていた。 しかし院政の時代に入ると藤原北家への権力の集中に翳りが見え始め、それと平行して治天の君(皇室の家督)、興福寺や延暦寺などの大寺社勢力、そして桓武平家、清和源氏に代表される武士団を背景とした新しい武家勢力の棟梁などが、新たな権門として浮上するようになる。これらはしばらくの間互いを牽制するかたちで並列的に存在したが、やがて平安時代末期の源平合戦の動乱から鎌倉幕府の成立を経て、いわゆる「荘園公領制」の時代に入ると、「権門体制」と呼ばれる新秩序が確立されたと考えられている。 Category:平安時代 Category:日本の荘園制.

新しい!!: 藤原道長と権門 · 続きを見る »

正三位

正三位(しょうさんみ)とは、位階及び神階のひとつ。従二位の下、従三位の上に位する。日本では「おおいみつのくらい」とも読む。.

新しい!!: 藤原道長と正三位 · 続きを見る »

正暦

正暦(しょうりゃく)は、日本の元号の一つ。永祚の後、長徳の前。990年から995年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.

新しい!!: 藤原道長と正暦 · 続きを見る »

武家政権

武家政権(ぶけせいけん)は、日本史の平安時代後期から江戸時代にかけて、武家の棟梁(軍事貴族)を長として、地方社会を実効支配する武士層を掌握した中央政権を指す。武士政権(ぶしせいけん)とも呼ぶ。.

新しい!!: 藤原道長と武家政権 · 続きを見る »

歌合

歌合(うたあわせ)とは、歌人を左右二組にわけ、その詠んだ歌を一番ごとに比べて優劣を争う遊び及び文芸批評の会。.

新しい!!: 藤原道長と歌合 · 続きを見る »

永井路子

古河文学館の別館として利用されている永井路子旧宅(茨城県古河市) 永井 路子(ながい みちこ、1925年3月31日 - )は、日本の歴史小説家。本名は、黒板擴子 (くろいた ひろこ)読売人物データベース。.

新しい!!: 藤原道長と永井路子 · 続きを見る »

永延

永延(えいえん)は、日本の元号の一つ。寛和の後、永祚の前。987年から989年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.

新しい!!: 藤原道長と永延 · 続きを見る »

永祚 (日本)

永祚(えいそ)は、日本の元号の一つ。永延の後、正暦の前。989年から990年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.

新しい!!: 藤原道長と永祚 (日本) · 続きを見る »

永観

永観(えいがん、えいかん)は、日本の元号の一つ。天元の後、寛和の前。983年から985年までの期間を指す。この時代の天皇は円融天皇、花山天皇。.

新しい!!: 藤原道長と永観 · 続きを見る »

法成寺

法成寺址、京都市上京区 荒神口通寺町通東入ㇽ北側 荒神町 法成寺(ほうじょうじ)は、平安時代中期に藤原道長によって創建された、摂関期最大級の寺院。道長の主邸土御門殿の東にあたる鴨川西岸(東京極大路の東)に建てられ、京極御堂とも称され、道長の異称「御堂殿」「御堂関白」やその子孫御堂流の由来ともなった。現在の京都市上京区東端にあった。荒神口通寺町東入の路傍、京都府立鴨沂高等学校校庭の塀際に法成寺跡を示す石標が立てられている。.

新しい!!: 藤原道長と法成寺 · 続きを見る »

清華家

清華家(せいがけ)とは、公家の家格のひとつ。最上位の摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることのできる7家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)を指すが、のちに、広幡・醍醐を加えて9家となった。また、豊臣政権時に五大老だった徳川・毛利・小早川・前田・宇喜多・上杉らも清華成を果たしており、清華家と同等の扱い(武家清華家)を受けている。.

新しい!!: 藤原道長と清華家 · 続きを見る »

源師房

源 師房(みなもと の もろふさ)は、平安時代中期の公卿・歌人。村上源氏中院流の祖。村上天皇の皇子具平親王の子。従一位・右大臣。土御門右大臣と号した。幼名は万寿宮。.

新しい!!: 藤原道長と源師房 · 続きを見る »

源俊賢

源 俊賢(みなもと の としかた)は平安時代中期の廷臣。西宮左大臣源高明の三男。藤原公任、同斉信、同行成と並んで一条朝の四納言と呼ばれ、摂関政治の一角を担う能吏として知られた。.

新しい!!: 藤原道長と源俊賢 · 続きを見る »

源倫子

源 倫子(みなもと の りんし、康保元年(964年)- 天喜元年6月1日(1053年6月19日))は、平安時代中期の貴族女性で、藤原道長の正室。父は左大臣源雅信、母は藤原穆子。兄弟に源時中、源時通、源扶義、源時方、源通義、大僧正済信、寂源など。法名は清浄法。.

新しい!!: 藤原道長と源倫子 · 続きを見る »

源経房

源 経房(みなもと の つねふさ、安和2年(969年)治安3年10月12日(1023年11月27日))は、平安時代中期の廷臣。醍醐源氏。西宮左大臣・源高明の五男。官位は正二位・権中納言。.

新しい!!: 藤原道長と源経房 · 続きを見る »

源頼光

源 頼光(みなもと の よりみつ)は、平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍・源満仲、母は嵯峨源氏の近江守・源俊の娘。諱はしばしば「らいこう」と有職読みされる。 満仲の長子で清和源氏の3代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる。異母弟に大和源氏の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいる。.

新しい!!: 藤原道長と源頼光 · 続きを見る »

源高明

源 高明(みなもと の たかあきら)は、平安時代の公卿。醍醐天皇の第10皇子。母は源周子。法名は覚念。官位は正二位・左大臣。京都右京四条に壮麗な豪邸を建設し、西宮左大臣と呼ばれた。 一世源氏の尊貴な身分であり、学問に優れ朝儀に通じており、また実力者藤原師輔、その娘の中宮安子の後援も得て朝廷で重んじられた。師輔・安子の死後、藤原氏に忌まれて安和の変で失脚し、政界から退いた。.

新しい!!: 藤原道長と源高明 · 続きを見る »

源重光

源 重光(みなもと の しげみつ)は平安時代中期の公卿、歌人。代明親王の長男。致仕大納言と称す。.

新しい!!: 藤原道長と源重光 · 続きを見る »

源雅信

源 雅信(みなもと の まさざね、延喜20年(920年) - 正暦4年7月29日(ユリウス暦993年8月19日))は、平安時代中期の貴族。宇多天皇の皇子である敦実親王の三男で宇多源氏の祖。藤原氏全盛期を築いた藤原道長の正室である源倫子の父。従一位・左大臣。贈正一位。一条左大臣又は鷹司左大臣と号した。出家後の法名は覚実。.

新しい!!: 藤原道長と源雅信 · 続きを見る »

源氏物語

土佐光起筆『源氏物語画帖』より「若紫」。飼っていた雀の子を逃がしてしまった幼い紫の上と、柴垣から隙見する源氏。 朝顔」。雪まろばしの状景。邸内にいるのは源氏と紫の上。 『源氏物語』(げんじものがたり)は、平安時代中期に成立した日本の長編物語、小説。文献初出は1008年(寛弘五年)。作者の紫式部にとって生涯で唯一の物語作品である物語の他には「紫式部日記」や和歌集の「紫式部集」があり「小倉百人一首」にも和歌が収められている(*)。後に、紫式部の「源氏物語」と「紫式部日記」の2作品は絵画化された。約150年後の平安時代末期に「源氏物語絵巻」、約200年後の鎌倉時代初期に「紫式部日記絵巻」が制作された。(*)「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」。主人公の光源氏を通して、恋愛、栄光と没落、政治的欲望と権力闘争など、平安時代の貴族社会を描いた上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。紫式部日記。。 下級貴族出身の紫式部は、20代後半で藤原宣孝と結婚し一女をもうけたが、結婚後3年ほどで夫と死別し、その現実を忘れるために物語を書き始めた。これが『源氏物語』の始まりである。最初は、当時紙が貴重で紙の提供者がいれば、その都度書き江戸時代の松永貞徳の源氏物語の写本全54冊(54帖)の1冊1冊の厚みが示すように、紫式部は当初多くの分量は書けず1冊(1帖)の厚みは薄いが、支援者の藤原道長により安定した紙の供給が行なわれて以降は34帖「若菜」のように1冊(1帖)の厚みが急激に増した。上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。(参考)『源氏物語』与謝野晶子訳、各帖の総ページ数より、1帖「桐壷」26、2帖「帚木」44、3帖「空蝉」12、そして、34帖「若菜」上192、下190。(角川文庫 1999年(平成11年)5月10日)所収、仲間内で批評し合うなどして楽しんでいたが紫式部日記より、当初、紫式部は仲間内で意見を言い合ったり手紙のやり取りで批評し合って楽しんでいたことから「最初は現代の同人誌のような楽しみ方だった」。上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。、その物語の評判から藤原道長が娘の中宮彰子の家庭教師として紫式部を呼んだ。それを機に宮中に上がった紫式部は宮仕えをしながら藤原道長の支援の下で物語を書き続け、54帖からなる『源氏物語』を完成させた中宮彰子は一条天皇の妻であったが、一条天皇のもう一人の妻であり後に亡くなった藤原定子の家庭教師は清少納言だった。なお、藤原道長の要請で宮中に上がった紫式部は、宮中の様子を中心に書いた「紫式部日記」を残している。。 なお、源氏物語は文献初出から150年ほど後の平安時代末期に「源氏物語絵巻」として絵画化された 五島美術館。現存する絵巻物の内、徳川美術館と五島美術館所蔵のものは国宝となっている。また現在、『源氏物語』は日本のみならず20ヶ国語を超える翻訳を通じ世界各国で読まれている 総合研究大学院大学教授 伊藤鉃也 日本文学研究専攻。2009年3月時点、刊行されたもの24種類、現在進行中のもの4種類、未確認(あるらしい、というもの)6種類。。.

新しい!!: 藤原道長と源氏物語 · 続きを見る »

源成信

源 成信(みなもと の なりのぶ、天元2年(979年) - 没年不詳)は、平安時代中期の貴族。村上天皇の皇子である兵部卿・致平親王の子。官位は従四位上・右近衛権中将。.

新しい!!: 藤原道長と源成信 · 続きを見る »

源明子

源明子(みなもと の あきこ/あきらけいこ/めいし)は、平安時代の女性。.

新しい!!: 藤原道長と源明子 · 続きを見る »

源扶義

源 扶義(みなもと の すけのり)は、平安時代の貴族。官位は正四位下・参議。字は源叔。.

新しい!!: 藤原道長と源扶義 · 続きを見る »

漢詩

漢詩(かんし)とは、中国の伝統的な詩。韻文における文体の一つ。狭義には後漢時代に確立した中国の国家芸術としての詩のこと。中華文明の伝来に伴い、8世紀から日本でも詠まれた。.

新しい!!: 藤原道長と漢詩 · 続きを見る »

朧谷寿

朧谷 寿(おぼろや ひさし、1939年3月27日 - )は、日本の歴史学者、同志社女子大学名誉教授。 新潟県生まれ。同志社大学文学部文化学科文化史学専攻卒業、平安博物館助教授、同志社女子大学短期大学教授。2009年定年、名誉教授。京都府文化功労賞受賞。平安朝史、特に邸宅研究を専門とするが、一般向けの著書でも知られる。旧姓は鮎沢。.

新しい!!: 藤原道長と朧谷寿 · 続きを見る »

末法思想

末法思想(まっぽうしそう)とは、釈迦が説いた正しい教えが世で行われ修行して悟る人がいる時代(正法)が過ぎると、次に教えが行われても外見だけが修行者に似るだけで悟る人がいない時代(像法)が来て、その次には人も世も最悪となり正法がまったく行われない時代(=末法)が来る、とする歴史観のこと岩波 哲学思想事典 1998年 p.1523。.

新しい!!: 藤原道長と末法思想 · 続きを見る »

本朝世紀

『本朝世紀』(ほんちょうせいき)は、平安時代末期に編纂された歴史書。 『六国史』の後を継ぐ史書として、鳥羽上皇の命により、信西(藤原通憲)が編纂。成立は1150年-1159年。『史官記』『外記日記』ともいわれる。全20巻。 『日本三代実録』に続くもので、宇多天皇の877年以降、近衛天皇(在位1141年-1155年)までを扱う。諸家の日記・系図を原文のまま時代順に整頓したものであった。信西が平治の乱(1159年)で死亡したため、未定稿に終わったうえ、多くが散逸している。現存しているのは935年~1153年のうち一部であるが、同時代の歴史・世相風俗を伝える好史料である。さらに未完とはいえ『六国史』以後のまとまった史書として、かつ現在残り少ない宮府の記録の遺文として高い価値を持つ。.

新しい!!: 藤原道長と本朝世紀 · 続きを見る »

望月

望月(もちづき).

新しい!!: 藤原道長と望月 · 続きを見る »

昭和

昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.

新しい!!: 藤原道長と昭和 · 続きを見る »

昌子内親王

昌子内親王(しょうし(まさこ)ないしんのう 、天暦4年(950年) - 長保元年12月1日(1000年1月10日))は、平安時代中期の皇族。朱雀天皇第一皇女で、母は女御煕子女王。冷泉天皇の中宮となる。.

新しい!!: 藤原道長と昌子内親王 · 続きを見る »

浄土教

浄土教(じょうどきょう)とは、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く教え。浄土門、浄土思想ともいう。阿弥陀仏の本願に基づいて、観仏や念仏によってその浄土に往生しようと願う教え。.

新しい!!: 藤原道長と浄土教 · 続きを見る »

新制

新制(しんせい)とは、平安時代中期から南北朝時代にかけて天皇・上皇の勅旨に基づいて制定された成文法典(「公家新制」)。「新制の官符」という意味で制符(せいふ)とも呼ばれる。なお、鎌倉幕府や寺院でもこれを模範として似たような法典が整備され、前者を「武家新制/関東新制」、後者を「寺社新制/寺辺新制」と称して、広義の新制に含める場合がある。.

新しい!!: 藤原道長と新制 · 続きを見る »

新潮社

株式会社新潮社(しんちょうしゃ)は、日本の出版社。.

新しい!!: 藤原道長と新潮社 · 続きを見る »

摂家

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.

新しい!!: 藤原道長と摂家 · 続きを見る »

摂関政治

摂関政治(せっかんせいじ)とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、天皇の外戚として摂政や関白あるいは内覧といった要職を占め、政治の実権を代々独占し続けた政治形態である。.

新しい!!: 藤原道長と摂関政治 · 続きを見る »

摂津国

摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.

新しい!!: 藤原道長と摂津国 · 続きを見る »

摂政

摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことが出来ない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。 多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。.

新しい!!: 藤原道長と摂政 · 続きを見る »

摂政・関白の一覧

日本の摂政および関白(摂関)の一覧。 なお、摂政・関白の具体的な職掌などについてはそれぞれの項目を参照のこと。.

新しい!!: 藤原道長と摂政・関白の一覧 · 続きを見る »

悪性腫瘍

悪性腫瘍(あくせいしゅよう、malignant tumor)は、遺伝子変異によって自律的で制御されない増殖を行うようになった細胞集団(腫瘍)のなかで周囲の組織に浸潤し、または転移を起こす腫瘍である。悪性腫瘍のほとんどは無治療のままだと全身に転移して患者を死に至らしめる大西『スタンダード病理学』第3版、pp.139-141Geoffrey M.Cooper『クーパー細胞生物学』pp.593-595とされる。 一般に癌(ガン、がん、cancer)、悪性新生物(あくせいしんせいぶつ、malignant neoplasm)とも呼ばれる。 「がん」という語は「悪性腫瘍」と同義として用いられることが多く、本稿もそれに倣い「悪性腫瘍」と「がん」とを明確に区別する必要が無い箇所は、同一語として用いている。.

新しい!!: 藤原道長と悪性腫瘍 · 続きを見る »

愚管抄

『愚管抄』(ぐかんしょう)は、鎌倉時代初期の史論書。作者は天台宗僧侶の慈円。全7巻。承久の乱の直前、朝廷と幕府の緊張が高まった時期の承久2年(1220年)頃成立したが、乱後に修訂が加えられている。.

新しい!!: 藤原道長と愚管抄 · 続きを見る »

敦康親王

敦康親王(あつやす しんのう、長保元年11月7日(999年12月17日) - 寛仁2年12月17日(1019年1月25日))は平安時代中期の皇族。第66代一条天皇の第1皇子、母は皇后藤原定子。.

新しい!!: 藤原道長と敦康親王 · 続きを見る »

敦明親王

敦明親王(あつあきらしんのう、正暦5年5月9日(994年6月20日) - 永承6年1月8日(1051年2月21日))は、平安時代中期の皇族。第67代三条天皇の第一皇子。母は皇后・藤原娍子(大納言・藤原済時の女)。尊号は小一条院(こいちじょういん)。藤原道長の圧力の前に自ら皇太子の身位を辞退し、その見返りに准太上天皇としての待遇を得たことで知られる。.

新しい!!: 藤原道長と敦明親王 · 続きを見る »

拾遺和歌集

『拾遺和歌集』(しゅういわかしゅう)は、古今・後撰に次ぐ第三番目の勅撰和歌集で、いわゆる「三代集」の最後にあたる。一条天皇の代、寛弘三年(1006)頃の成立か?古来、花山院の親撰もしくは院が藤原長能・源道済に撰進させたといわれてきたが、確証はない。先行する二つの勅撰集と違い、和歌所が置かれなかった。藤原公任の撰という『拾遺抄』との命名の相似性を考え、それをベースに編まれたと思われる(両者の先後関係については、古来論争が続いて来たが、近代になって拾遺抄から拾遺集へとの説が固着した)。 春、夏、秋、冬、賀、別、物名、雑(上・下)、神楽歌、恋(五巻)、雑春、雑秋、雑賀、雑恋、哀傷の二十巻、約1350首からなる。雑春・雑恋といった部類を持つ構成はかなり独創的なものである。 「拾遺」の名は前代の勅撰集に漏れた秀歌を拾い集める意で、その名の通り、この集では紀貫之(107首)をはじめとする古今歌人が引き続き多数入集する一方、柿本人麿(104首)ら万葉歌人が再評価され、大中臣能宣(59首)・清原元輔(48首)・平兼盛(39首)ら後撰集時代の歌人の作が新たに補われた。また、斎宮女御・藤原道綱母・藤原公任などの当代歌人も登場する。物名部において、卑官の藤原輔相が37首も採られているのも興味深い。 『拾遺集』は当時の歌壇の流れに乗った平明優美な歌風で、賀歌・屏風歌・歌合など晴れの歌が多いが、殊に恋歌はすぐれ、小倉百人一首に8首も採られている。だが、花山院の個人的な好みによって選ばれた和歌が多いようであり、そのためか成立後約二百年もの間、勅撰集としての評価が得られなかった。ちなみに『拾遺集』のよさを述べ、勅撰集として初めてはっきり認めた人物は藤原定家である。 Category:平安時代の歌集 Category:11世紀の書籍 Category:11世紀の詩.

新しい!!: 藤原道長と拾遺和歌集 · 続きを見る »

書家

『蘭亭序』(部分)神龍半印本 王羲之 宸筆 書譜』(部分)孫過庭書 書家(しょか)は、書における高度な技術と教養を持った専門家のこと。日本では書人ともいい、近年、異称であるが書道家ともいわれるようになった。中国語では、書法家(繁体字)という。独自の感性で墨文字アート、墨象画を手掛けている書き手は、書家とは異なる。.

新しい!!: 藤原道長と書家 · 続きを見る »

1000年

月曜日から始まる。また、10世紀および1千年紀における最後の年でもある。.

新しい!!: 藤原道長と1000年 · 続きを見る »

1008年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と1008年 · 続きを見る »

1011年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と1011年 · 続きを見る »

1012年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と1012年 · 続きを見る »

1014年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と1014年 · 続きを見る »

1015年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と1015年 · 続きを見る »

1016年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と1016年 · 続きを見る »

1017年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と1017年 · 続きを見る »

1018年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と1018年 · 続きを見る »

1019年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と1019年 · 続きを見る »

1021年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と1021年 · 続きを見る »

1025年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と1025年 · 続きを見る »

1028年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と1028年 · 続きを見る »

10月15日

10月15日(じゅうがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から288日目(閏年では289日目)にあたり、年末まであと77日ある。.

新しい!!: 藤原道長と10月15日 · 続きを見る »

10月15日 (旧暦)

旧暦10月15日は旧暦10月の15日目である。六曜は赤口である。.

新しい!!: 藤原道長と10月15日 (旧暦) · 続きを見る »

10月16日

10月16日(じゅうがつじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から289日目(閏年では290日目)にあたり、年末まであと76日ある。.

新しい!!: 藤原道長と10月16日 · 続きを見る »

10月16日 (旧暦)

旧暦10月16日は旧暦10月の16日目である。六曜は先勝である。.

新しい!!: 藤原道長と10月16日 (旧暦) · 続きを見る »

10月17日

10月17日(じゅうがつじゅうななにち、じゅうがつじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から290日目(閏年では291日目)にあたり、年末まであと75日ある。.

新しい!!: 藤原道長と10月17日 · 続きを見る »

10月21日

10月21日(じゅうがつにじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から294日目(閏年では295日目)にあたり、年末まであと71日ある。.

新しい!!: 藤原道長と10月21日 · 続きを見る »

10月26日

10月26日(じゅうがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から299日目(閏年では300日目)にあたり、年末まであと66日ある。.

新しい!!: 藤原道長と10月26日 · 続きを見る »

10月27日 (旧暦)

旧暦10月27日は、旧暦10月の27日目である。六曜は赤口である。.

新しい!!: 藤原道長と10月27日 (旧暦) · 続きを見る »

10月5日 (旧暦)

旧暦10月5日(きゅうれきじゅうがついつか)は旧暦10月の5日目である。六曜は友引である。.

新しい!!: 藤原道長と10月5日 (旧暦) · 続きを見る »

11月18日 (旧暦)

旧暦11月18日は旧暦11月の18日目である。六曜は仏滅である。.

新しい!!: 藤原道長と11月18日 (旧暦) · 続きを見る »

11月19日

11月19日(じゅういちがつじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から323日目(閏年では324日目)にあたり、年末まであと42日ある。.

新しい!!: 藤原道長と11月19日 · 続きを見る »

11月26日

11月26日(じゅういちがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から330日目(閏年では331日目)にあたり、年末まであと35日ある。.

新しい!!: 藤原道長と11月26日 · 続きを見る »

12月11日

12月11日(じゅうにがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から345日目(閏年では346日目)にあたり、年末まであと20日ある。.

新しい!!: 藤原道長と12月11日 · 続きを見る »

12月21日

12月21日(じゅうにがつにじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から355日目(閏年では356日目)にあたり、年末まであと10日ある。.

新しい!!: 藤原道長と12月21日 · 続きを見る »

12月24日

12月24日(じゅうにがつにじゅうよっか、じゅうにがつにじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から358日目(閏年では359日目)にあたり、年末まであと7日ある。.

新しい!!: 藤原道長と12月24日 · 続きを見る »

12月4日 (旧暦)

旧暦12月4日(きゅうれきじゅうにがつよっか)は旧暦12月の4日目である。六曜は先負である。.

新しい!!: 藤原道長と12月4日 (旧暦) · 続きを見る »

12月7日 (旧暦)

旧暦12月7日(きゅうれきじゅうにがつなのか)は旧暦12月の7日目である。六曜は赤口である。.

新しい!!: 藤原道長と12月7日 (旧暦) · 続きを見る »

1951年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と1951年 · 続きを見る »

1970年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と1970年 · 続きを見る »

1973年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と1973年 · 続きを見る »

1984年

この項目では、国際的な視点に基づいた1984年について記載する。.

新しい!!: 藤原道長と1984年 · 続きを見る »

1月10日 (旧暦)

旧暦1月10日(きゅうれきいちがつとおか)は、旧暦1月の10日目である。六曜は仏滅である。.

新しい!!: 藤原道長と1月10日 (旧暦) · 続きを見る »

1月27日

1月27日(いちがつにじゅうななにち、いちがつにじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から27日目に当たり、年末まであと338日(閏年では339日)ある。.

新しい!!: 藤原道長と1月27日 · 続きを見る »

1月27日 (旧暦)

旧暦1月27日は旧暦1月の27日目である。六曜は先負である。.

新しい!!: 藤原道長と1月27日 (旧暦) · 続きを見る »

1月29日 (旧暦)

旧暦1月29日は旧暦1月の29日目である。年によっては1月の最終日となる。六曜は大安である。.

新しい!!: 藤原道長と1月29日 (旧暦) · 続きを見る »

1月3日

1月3日(いちがつみっか)はグレゴリオ暦で年始から3日目に当たり、年末まであと362日(閏年では363日)ある。日本ではこの日まで正月休みとされることがある。誕生花はクロッカス。.

新しい!!: 藤原道長と1月3日 · 続きを見る »

1月7日

1月7日(いちがつなのか)はグレゴリオ暦で年始から7日目に当たり、年末まであと358日(閏年では359日)ある。誕生花はチューリップ(白)。.

新しい!!: 藤原道長と1月7日 · 続きを見る »

1月7日 (旧暦)

旧暦1月7日(きゅうれきいちがつなのか)は、旧暦1月の7日目である。六曜は先勝である。.

新しい!!: 藤原道長と1月7日 (旧暦) · 続きを見る »

2000年

400年ぶりの世紀末閏年(20世紀および2千年紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年のままとなる(グレゴリオ暦の規定による)。。Y2Kと表記されることもある(“Year 2000 ”の略。“2000”を“2K ”で表す)。また、ミレニアムとも呼ばれる。 この項目では、国際的な視点に基づいた2000年について記載する。.

新しい!!: 藤原道長と2000年 · 続きを見る »

2003年

この項目では、国際的な視点に基づいた2003年について記載する。.

新しい!!: 藤原道長と2003年 · 続きを見る »

2004年

この項目では、国際的な視点に基づいた2004年について記載する。.

新しい!!: 藤原道長と2004年 · 続きを見る »

2007年

この項目では、国際的な視点に基づいた2007年について記載する。.

新しい!!: 藤原道長と2007年 · 続きを見る »

2008年

この項目では、国際的な視点に基づいた2008年について記載する。.

新しい!!: 藤原道長と2008年 · 続きを見る »

2009年

この項目では、国際的な視点に基づいた2009年について記載する。.

新しい!!: 藤原道長と2009年 · 続きを見る »

2010年

この項目では、国際的な視点に基づいた2010年について記載する。.

新しい!!: 藤原道長と2010年 · 続きを見る »

2011年

この項目では、国際的な視点に基づいた2011年について記載する。.

新しい!!: 藤原道長と2011年 · 続きを見る »

2013年

この項目では、国際的な視点に基づいた2013年について記載する。.

新しい!!: 藤原道長と2013年 · 続きを見る »

2014年

この項目では、国際的な視点に基づいた2014年について記載する。.

新しい!!: 藤原道長と2014年 · 続きを見る »

2017年

この項目では国際的な視点に基づいた2017年について記載する。.

新しい!!: 藤原道長と2017年 · 続きを見る »

2月19日

2月19日(にがつじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から50日目にあたり、年末まであと315日(閏年では316日)ある。.

新しい!!: 藤原道長と2月19日 · 続きを見る »

2月1日 (旧暦)

旧暦2月1日(きゅうれきにがつついたち)は旧暦2月の1日目である。六曜は友引である。.

新しい!!: 藤原道長と2月1日 (旧暦) · 続きを見る »

2月27日

2月27日(にがつにじゅうななにち、にがつにじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から58日目にあたり、年末まであと307日(閏年では308日)ある。.

新しい!!: 藤原道長と2月27日 · 続きを見る »

2月5日

2月5日(にがついつか)はグレゴリオ暦で年始から36日目に当たり、年末まであと329日(閏年では330日)ある。.

新しい!!: 藤原道長と2月5日 · 続きを見る »

2月6日

2月6日(にがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から37日目に当たり、年末まであと328日(閏年では329日)ある。.

新しい!!: 藤原道長と2月6日 · 続きを見る »

2月7日

2月7日(にがつなのか)はグレゴリオ暦で年始から38日目に当たり、年末まであと327日(閏年では328日)ある。.

新しい!!: 藤原道長と2月7日 · 続きを見る »

2月8日 (旧暦)

旧暦2月8日(きゅうれきにがつようか)は、旧暦2月の8日目である。六曜は先負である。.

新しい!!: 藤原道長と2月8日 (旧暦) · 続きを見る »

2月9日 (旧暦)

旧暦2月9日(きゅうれきにがつここのか)は、旧暦2月の9日目である。六曜は仏滅である。.

新しい!!: 藤原道長と2月9日 (旧暦) · 続きを見る »

3月10日

3月10日(さんがつとおか)はグレゴリオ暦で年始から69日目(閏年では70日目)にあたり、年末まであと296日ある。.

新しい!!: 藤原道長と3月10日 · 続きを見る »

3月14日

3月14日(さんがつじゅうよっか、さんがつじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から73日目(閏年では74日目)に当たり、年末まであと292日ある。.

新しい!!: 藤原道長と3月14日 · 続きを見る »

3月16日 (旧暦)

旧暦3月16日は旧暦3月の16日目である。六曜は赤口である。.

新しい!!: 藤原道長と3月16日 (旧暦) · 続きを見る »

3月20日

3月20日(さんがつはつか、さんがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から79日目 (閏年では80日目)にあたり、年末まであと286日ある。.

新しい!!: 藤原道長と3月20日 · 続きを見る »

3月21日 (旧暦)

旧暦3月21日は旧暦3月の21日目である。六曜は大安である。.

新しい!!: 藤原道長と3月21日 (旧暦) · 続きを見る »

3月4日 (旧暦)

旧暦3月4日(きゅうれきさんがつよっか)は旧暦3月の4日目である。六曜は赤口である。.

新しい!!: 藤原道長と3月4日 (旧暦) · 続きを見る »

3月6日

3月6日(さんがつむいか)はグレゴリオ暦で年始から65日目(閏年では66日目)にあたり、年末まであと300日ある。.

新しい!!: 藤原道長と3月6日 · 続きを見る »

4月12日

4月12日(しがつじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から102日目(閏年では103日目)にあたり、年末まではあと263日ある。誕生花はアンズ、カタクリ。.

新しい!!: 藤原道長と4月12日 · 続きを見る »

4月14日 (旧暦)

旧暦4月14日(きゅうれきしがつじゅうよっか)は、旧暦4月の14日目である。六曜は大安である。.

新しい!!: 藤原道長と4月14日 (旧暦) · 続きを見る »

4月15日

4月15日(しがつじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から105日目(閏年では106日目)にあたり、年末まではあと260日ある。誕生花はモクレン、タンポポ。.

新しい!!: 藤原道長と4月15日 · 続きを見る »

4月27日 (旧暦)

旧暦4月27日は旧暦4月の27日目である。六曜は赤口である。.

新しい!!: 藤原道長と4月27日 (旧暦) · 続きを見る »

4月28日

4月28日(しがつにじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から118日目(閏年では119日目)にあたり、年末まではあと247日ある。誕生花は日本サクラソウ、ローズマリー。.

新しい!!: 藤原道長と4月28日 · 続きを見る »

4月28日 (旧暦)

旧暦4月28日(きゅうれきしがつにじゅうはちにち)は、旧暦4月の28日目である。六曜は先勝である。.

新しい!!: 藤原道長と4月28日 (旧暦) · 続きを見る »

5月17日

5月17日(ごがつじゅうななにち、ごがつじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から137日目(閏年では138日目)にあたり、年末まであと228日ある。誕生花はジャガイモ。.

新しい!!: 藤原道長と5月17日 · 続きを見る »

5月29日

5月29日(ごがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から149日目(閏年では150日目)にあたり、年末まではあと216日ある。誕生花はナデシコ。.

新しい!!: 藤原道長と5月29日 · 続きを見る »

5月31日

5月31日(ごがつさんじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から151日目(閏年では152日目)にあたり、年末まであと214日ある。5月の最終日である。誕生花はルピナス。.

新しい!!: 藤原道長と5月31日 · 続きを見る »

6月23日 (旧暦)

旧暦6月23日は旧暦6月の23日目である。六曜は仏滅である。.

新しい!!: 藤原道長と6月23日 (旧暦) · 続きを見る »

7月11日 (旧暦)

旧暦7月11日は旧暦7月の11日目である。六曜は大安である。.

新しい!!: 藤原道長と7月11日 (旧暦) · 続きを見る »

7月20日 (旧暦)

旧暦7月20日(きゅうれきしちがつはつか)は、旧暦7月の20日目である。六曜は友引である。.

新しい!!: 藤原道長と7月20日 (旧暦) · 続きを見る »

7月21日 (旧暦)

旧暦7月21日(きゅうれきしちがつにじゅういちにち)は、旧暦7月の21日目である。六曜は先負である。.

新しい!!: 藤原道長と7月21日 (旧暦) · 続きを見る »

7月23日 (旧暦)

旧暦7月23日は旧暦7月の23日目である。六曜は大安である。.

新しい!!: 藤原道長と7月23日 (旧暦) · 続きを見る »

7月24日 (旧暦)

旧暦7月24日は旧暦7月の24日目である。六曜は赤口である。.

新しい!!: 藤原道長と7月24日 (旧暦) · 続きを見る »

7月27日 (旧暦)

旧暦7月27日は旧暦7月の27日目である。六曜は先負である。.

新しい!!: 藤原道長と7月27日 (旧暦) · 続きを見る »

8月15日 (旧暦)

旧暦8月15日は旧暦8月の15日目である。六曜は仏滅である。.

新しい!!: 藤原道長と8月15日 (旧暦) · 続きを見る »

8月1日

8月1日(はちがつついたち)はグレゴリオ暦で年始から213日目(閏年では214日目)にあたり、年末まではあと152日ある。.

新しい!!: 藤原道長と8月1日 · 続きを見る »

8月22日

8月22日(はちがつにじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から234日目(閏年では235日目)にあたり、年末まであと131日ある。.

新しい!!: 藤原道長と8月22日 · 続きを見る »

8月30日

8月30日(はちがつさんじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から242日目(閏年では243日目)にあたり、年末まであと123日ある。.

新しい!!: 藤原道長と8月30日 · 続きを見る »

8月6日

8月6日(はちがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から218日目(閏年では219日目)にあたり、年末まであと147日ある。.

新しい!!: 藤原道長と8月6日 · 続きを見る »

8月7日

8月7日(はちがつなのか)はグレゴリオ暦で年始から219日目(閏年では220日目)にあたり、年末まであと146日ある。.

新しい!!: 藤原道長と8月7日 · 続きを見る »

8月8日

8月8日(はちがつようか)はグレゴリオ暦で年始から220日目(閏年では221日目)にあたり、年末まではあと145日ある。.

新しい!!: 藤原道長と8月8日 · 続きを見る »

8月9日 (旧暦)

旧暦8月9日(きゅうれきはちがつここのか)は、旧暦8月の9日目である。六曜は仏滅である。.

新しい!!: 藤原道長と8月9日 (旧暦) · 続きを見る »

966年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と966年 · 続きを見る »

970年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と970年 · 続きを見る »

977年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と977年 · 続きを見る »

979年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と979年 · 続きを見る »

980年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と980年 · 続きを見る »

982年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と982年 · 続きを見る »

983年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と983年 · 続きを見る »

984年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と984年 · 続きを見る »

986年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と986年 · 続きを見る »

987年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と987年 · 続きを見る »

988年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と988年 · 続きを見る »

989年

丸谷才一『男のポケット』、「空白の年」の章では、「世界中で、ちつとも事件が起らなかつた年」として紹介されている。元文献は「紀元前5000年から現在までを収め」ているイギリスの年表とのことだが詳細は不明。.

新しい!!: 藤原道長と989年 · 続きを見る »

990年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と990年 · 続きを見る »

991年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と991年 · 続きを見る »

992年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と992年 · 続きを見る »

994年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と994年 · 続きを見る »

995年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と995年 · 続きを見る »

996年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と996年 · 続きを見る »

998年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と998年 · 続きを見る »

999年

記載なし。

新しい!!: 藤原道長と999年 · 続きを見る »

9月19日 (旧暦)

旧暦9月19日は旧暦9月の19日目である。六曜は先負である。.

新しい!!: 藤原道長と9月19日 (旧暦) · 続きを見る »

9月20日 (旧暦)

旧暦9月20日(きゅうれきくがつはつか)は旧暦9月の20日目である。六曜は仏滅である。.

新しい!!: 藤原道長と9月20日 (旧暦) · 続きを見る »

9月21日

9月21日(くがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から264日目(閏年では265日目)にあたり、年末まであと101日ある。.

新しい!!: 藤原道長と9月21日 · 続きを見る »

9月24日

9月24日(くがつにじゅうよっか、くがつにじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から267日目(閏年では268日目)にあたり、年末まであと98日ある。.

新しい!!: 藤原道長と9月24日 · 続きを見る »

9月26日 (旧暦)

旧暦9月26日は旧暦9月の26日目である。六曜は仏滅である。.

新しい!!: 藤原道長と9月26日 (旧暦) · 続きを見る »

9月29日

9月29日(くがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から272日目(閏年では273日目)にあたり、年末まであと93日ある。.

新しい!!: 藤原道長と9月29日 · 続きを見る »

9月3日

9月3日(くがつみっか)はグレゴリオ暦で年始から246日目(閏年では247日目)にあたり、年末まであと119日ある。.

新しい!!: 藤原道長と9月3日 · 続きを見る »

9月4日 (旧暦)

旧暦9月4日(きゅうれきくがつよっか)は旧暦9月の4日目である。六曜は赤口である。.

新しい!!: 藤原道長と9月4日 (旧暦) · 続きを見る »

9月7日 (旧暦)

旧暦9月7日(きゅうれきくがつなのか)は旧暦9月の7日目である。六曜は先負である。.

新しい!!: 藤原道長と9月7日 (旧暦) · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

御堂関白道長

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »