ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
インストール
ブラウザよりも高速アクセス!
 

後嵯峨天皇

索引 後嵯峨天皇

後嵯峨天皇(ごさがてんのう、承久2年2月26日(1220年4月1日) - 文永9年2月17日(1272年3月17日))は、鎌倉時代の第88代天皇(在位:仁治3年1月20日(1242年2月21日) - 寛元4年1月29日(1246年2月16日))。諱は邦仁(くにひと)。 土御門天皇の皇子。母は、源通宗の娘、通子。.

152 関係: 執権がい子内親王南北朝時代 (日本)右京区吾妻鏡大友親秀大覚寺大覚寺統天台座主天子摂関御影天皇天皇陵天龍寺太上法皇女院姉小路実世姉小路顕朝宝治宝治合戦宮将軍宮中三殿宮人宮内庁宗尊親王寛元山陵志岩倉宮忠成王中宮中御門経任中院通方三条公房一条能保九条道家九条良平平棟基平棟子平滋子平戸記京都京都市京都府亀山天皇仁和寺仁治仲恭天皇建長寺体子内親王征夷大将軍後南朝後堀河天皇...後宇多天皇後白河天皇後鳥羽天皇後深草天皇土佐国土御門天皇土御門定通土御門家北条重時北条氏北条泰時北条時宗 (NHK大河ドラマ)北条時頼園城寺ユリウス暦嵯峨グレゴリオ暦円満院出家公卿六波羅探題典侍元治元服四天王寺四条天皇四条隆衡皇居皇位継承火葬竹殿綜子内親王鎌倉幕府鎌倉時代聖護院聖武天皇順徳天皇西園寺きつ子西園寺実氏西園寺家西園寺公経覚助法親王高峰顕日高倉天皇譲位谷森善臣鶴岡八幡宮能円藤原家成藤原俊盛藤原忠雅藤原信隆藤原兼房 (太政大臣)藤原範子藤原範兼藤原殖子蒲生君平院政掌侍正元 (日本)治天の君法住寺 (京都市)源在子源頼政源雅通源通子源通宗源通親持明院統朝廷明治斎宮文永摂家将軍懌子内親王慶応承久承久の乱性助入道親王1220年1242年1243年1246年1247年1259年1268年1272年1月19日 (旧暦)1月20日 (旧暦)1月29日 (旧暦)1月9日 (旧暦)2012年2月16日2月17日 (旧暦)2月21日2月26日 (旧暦)3月17日3月24日3月25日4月1日 インデックスを展開 (102 もっと) »

執権

執権(しっけん)は、鎌倉幕府の職名。鎌倉殿を助け政務を統轄した。元来は、政所の別当の中心となるものの呼称であった。 ただし、朝廷においても用いられた語であり、鎌倉幕府独自の職名ではないことに注意を要する。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と執権 · 続きを見る »

がい子内親王

愷子内親王(がいし(やすこ)ないしんのう、建長元年(1249年) - 弘安7年2月15日(1284年3月3日))は、鎌倉時代中期の皇族。後嵯峨天皇第2皇女、母は二条局(大友親秀の女)。異母兄弟に後深草天皇、亀山天皇。伊勢斎宮。 弘長2年12月4日(1263年1月22日)、14歳で亀山天皇の斎宮に卜定。同3年(1263年)9月26日、野宮に入る。文永元年(1264年)9月9日、伊勢へ群行(長奉送使は権中納言藤原長雅)。同4年(1267年)、准后。同9年(1272年)2月27日、父後嵯峨上皇崩御により24歳で退下、同年8月13日帰京。弘安7年(1284年)2月15日、36歳で薨去。 『増鏡』『とはずがたり』等によると、斎宮を退下し帰京した愷子内親王の美貌に異母兄後深草院が目をとめて関係を結び、その後西園寺実兼が通ったとされる。なお、伊勢へ群行を果たした斎宮は愷子内親王が最後であった。.

新しい!!: 後嵯峨天皇とがい子内親王 · 続きを見る »

南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と南北朝時代 (日本) · 続きを見る »

右京区

右京区(うきょうく)は、京都市を構成する11区のひとつ。市内西北部に位置し、旧京北町合併後は京都市の区の中では最大の面積である(それまでは左京区が最大だった)。 区南部は古くは都の皇族や公家の別荘が点在していたが、現在は主として住宅地になっている。 区西部や北部は山間地である。かつては山国郷(京北山国・黒田地区)の木材が桂川を下り、下流の嵯峨・梅津などで陸揚げされて京都に運ばれた。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と右京区 · 続きを見る »

吾妻鏡

『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮の序文 『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。 編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と吾妻鏡 · 続きを見る »

大友親秀

大友 親秀(おおとも ちかひで)は、鎌倉時代前期の武士・御家人。大友氏の2代当主。 鎌倉幕府に御家人として仕え、源氏将軍が絶えた後は摂家将軍藤原頼経に仕える。嘉禎4年(1238年)には頼経の上洛に随行した。大友氏の基盤を固めるため、弟の詫摩能秀と共に協力して国政を行い、嘉禎2年(1236年)には家督を子の頼泰に譲って隠居し、次代を磐石にするなどして大友氏の基礎を固めた。宝治2年(1248年)10月24日、54歳で死去。 Category:鎌倉幕府御家人 ちかひて Category:1195年生 Category:1248年没.

新しい!!: 後嵯峨天皇と大友親秀 · 続きを見る »

大覚寺

大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。山号を嵯峨山と称する。本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。また、嵯峨天皇を流祖と仰ぐ華道嵯峨御流の総司所(家元)である。 時代劇の撮影所が多い太秦の近くということもあり、寺の境内(大沢池や明智門など)は(特に時代劇の)映画やテレビなどの撮影によく使われている (#舞台となった作品)。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と大覚寺 · 続きを見る »

大覚寺統

大覚寺統(だいかくじとう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた皇室の系統で、持明院統と対立していた。名の由来は、第88代後嵯峨天皇の子である第90代亀山天皇の子孫である、亀山天皇の子である後宇多天皇が京都の外れの嵯峨にあった大覚寺の再興に尽力したこと、及び、出家後は大覚寺に住んで院政を行ったことによる。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と大覚寺統 · 続きを見る »

天台座主

天台座主(てんだいざす)は、日本の天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職。「山の座主」とも呼ばれた。ただし、比叡山に居住することは少なく、重要な修法、儀式の時のみ入山する座主が多かった。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と天台座主 · 続きを見る »

天子摂関御影

天子摂関御影(てんしせっかんみえい)は、平安時代後期から鎌倉時代に及ぶ天皇・摂関・大臣の肖像を描き連ねた画巻(絵巻)。似絵の主要作品の1つ。曼殊院門跡に伝来したが、明治11年(1878年)皇室に献上され、現在は宮内庁三の丸尚蔵館所蔵。全4巻。各巻ともに紙本着色で、縦幅は約29cm。天皇摂関大臣影(てんのうせっかんだいじんえい)とも。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と天子摂関御影 · 続きを見る »

天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と天皇 · 続きを見る »

天皇陵

大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵) 天皇陵(てんのうりょう)は、天皇の墓。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と天皇陵 · 続きを見る »

天龍寺

亀山天皇陵 後嵯峨天皇陵 天龍寺(てんりゅうじ)は、京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(すすきのばばちょう)にある、臨済宗天龍寺派大本山の寺院。山号は霊亀山(れいぎざん)。寺号は正しくは霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位とされてきた。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と天龍寺 · 続きを見る »

太上法皇

太上法皇(だじょうほうおう、だいじょうほうおう)とは、出家した太上天皇(上皇)、またはその称号。法皇と略す事も多い。 制度上、世俗に在る上皇と、仏門に在る法皇の間に、身位の違いはなく、法皇の称号は平安時代の宇多天皇が初めて使った。平安時代には白河法皇、鳥羽法皇、後白河法皇などが法皇として院政を行った。花山法皇などが著名である。江戸時代の霊元法皇がこの称号を使った最後の上皇である。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と太上法皇 · 続きを見る »

女院

女院(にょいん/にょういん)とは、三后(太皇太后・皇太后・皇后)や、それに準ずる身位(准后、内親王など)の女性に宣下された称号を指し、平安時代中期から明治維新まで続いた制度である。「院」はすなわち太上天皇、「女院」とはそれに準ずる待遇を受けた女性のことである。上皇に倣って院庁を置き、別当・判官代・主典代その他諸司を任じ、殿上を定め、蔵人を補した。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と女院 · 続きを見る »

姉小路実世

姉小路 実世(あねがこうじ さねよ)は鎌倉時代初期から中期にかけての公卿。権大納言・姉小路公宣の長男。姉小路家2代当主にあたる。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と姉小路実世 · 続きを見る »

姉小路顕朝

姉小路 顕朝(あねがこうじ あきとも、建暦2年(1212年) - 文永3年9月20日(1266年10月19日))は、鎌倉時代中期の公卿。参議・姉小路宗房の長男。官位は正二位・権大納言。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と姉小路顕朝 · 続きを見る »

宝治

宝治(ほうじ)は、日本の元号の一つ。寛元の後、建長の前。1247年から1249年までの期間を指す。この時代の天皇は後深草天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼嗣、執権は北条時頼。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と宝治 · 続きを見る »

宝治合戦

宝治合戦(ほうじかっせん)は、鎌倉時代中期に起こった鎌倉幕府の内乱。執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立から宝治元年(1247年)6月5日に鎌倉で武力衝突が起こり、北条氏と外戚安達氏らによって三浦一族とその与党が滅ぼされた。三浦氏の乱とも呼ばれる。この事件は、得宗専制政治が確立する契機として評価されている。また、この事件の推移、経過を記述する史料は、『吾妻鏡』しか現存しない。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と宝治合戦 · 続きを見る »

宮将軍

宮将軍(みやしょうぐん)は、鎌倉時代後期に征夷大将軍に任じられた宗尊親王・惟康親王・久明親王・守邦親王の4親王を指す歴史用語。現代では皇族将軍(こうぞくしょうぐん)、親王将軍(しんのうしょうぐん)とも呼ぶ。また彼らを総称して鎌倉宮家(かまくらのみやけ)と表現することもある。 なお、建武の新政期に後醍醐天皇より任じられた護良親王と成良親王も宮将軍と呼ぶことがある。しかし前者の4親王は鎌倉政権の形式上の長で実権を持たないのに対し、後者の2親王は建武政権において短期間ではありながら重要なその一翼を担った実務者だったことが根本的に異なる。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と宮将軍 · 続きを見る »

宮中三殿

宮中三殿(きゅうちゅうさんでん)は、皇居にある、賢所(かしこどころ、けんしょ)、皇霊殿(こうれいでん)、神殿(しんでん)の総称。吹上御苑の東南にある。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と宮中三殿 · 続きを見る »

宮人

宮人(きゅうじん/くにん)とは、律令制において宮中に奉仕する女性職員のこと。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と宮人 · 続きを見る »

宮内庁

宮内庁(くないちょう、Imperial Household Agency)は、日本の行政機関の一つである。 「皇室関係の国家事務、天皇の国事行為にあたる外国の大使・公使の接受に関する事務、皇室の儀式に係る事務をつかさどり、御璽・国璽を保管する内閣府の機関」である。 なお、宮内庁はかつて総理府の外局」であったが、現在は内閣府の外局(内閣府設置法第49条・第64条)ではなく「内閣府に置かれる独自の位置づけの機関」とされている(内閣府設置法48条)。官報の掲載では内閣府については「外局」ではなく「外局等」として宮内庁を含めている。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と宮内庁 · 続きを見る »

宗尊親王

宗尊親王(むねたかしんのう)は、鎌倉幕府6代将軍(在任:建長4年(1252年)4月 - 文永3年(1266年)6月、皇族で初めての征夷大将軍)。後嵯峨天皇の第一皇子。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と宗尊親王 · 続きを見る »

寛元

寛元(かんげん)は、日本の元号の一つ。仁治の後、宝治の前。1243年から1247年までの期間を指す。この時代の天皇は後嵯峨天皇、後深草天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、藤原頼嗣、執権は北条経時、北条時頼。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と寛元 · 続きを見る »

山陵志

『山陵志』(さんりょうし)は、江戸時代後期に蒲生君平が著した書物で、天皇陵(山陵)に関する研究調査結果を記した史料である。 特に、この書物の中では「宮車説」を記している。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と山陵志 · 続きを見る »

岩倉宮忠成王

岩倉宮忠成王(いわくらのみやただなりおう、承久3年(1221年) - 弘安2年3月11日(1279年4月23日))は、鎌倉時代の皇族。順徳天皇の第五皇子。品位は無品。岩倉宮、広御所宮を号す。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と岩倉宮忠成王 · 続きを見る »

中宮

中宮(ちゅうぐう)は、日本の天皇の妻たちの呼称の一つ。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と中宮 · 続きを見る »

中御門経任

中御門 経任(なかみかど つねただ、天福元年(1233年) - 永仁5年1月19日(1297年2月12日))は、鎌倉時代中期の公卿。初名は経嗣。中納言・吉田為経の次男。官位は正二位・権大納言。中御門大納言と号す。中御門家の祖。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と中御門経任 · 続きを見る »

中院通方

中院 通方(なかのいん みちかた)は、鎌倉時代前期の公卿、故実家で歌人。正二位・源通親の五男。中院家の祖とされている。土御門通方とも。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と中院通方 · 続きを見る »

三条公房

三条 公房(さんじょう きんふさ、治承3年(1179年) - 建長元年8月16日(1249年9月23日))は鎌倉時代の公卿。左大臣・三条実房の長男。官位は従一位・太政大臣。浄土寺相国と呼ばれ、三条家が清華家となる基礎を築いた。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と三条公房 · 続きを見る »

一条能保

一条 能保(いちじょう よしやす)は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原北家中御門流、藤原通重の長男。一条二位入道と号す。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と一条能保 · 続きを見る »

九条道家

九条 道家(くじょう みちいえ)は、鎌倉時代前期の公卿。摂政九条良経の長男。妻は太政大臣西園寺公経の娘等。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経の父。官位は従一位・准三宮・摂政・関白・左大臣。光明峯寺殿、峯殿を号す。通称に光明峯寺関白(こうみょうぶじ かんぱく)。京都九条通に東福寺を建立した。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と九条道家 · 続きを見る »

九条良平

九条 良平(くじょう よしひら、元暦元年4月19日(1184年5月30日) - 延応2年3月17日(1240年4月10日))は、鎌倉時代の公卿。九条兼実の三男で、母は藤原頼輔の女。兄九条良経の養子となり、醍醐太政大臣と呼ばれる。 侍従、右少将、左中将などを経て、元久元年(1204年)に参議となり、その後権中納言、権大納言、大納言と歴任。元仁元年(1224年)、内大臣に就任。安貞元年(1227年)には、左大臣となったが、病のため辞任。しかし、暦仁元年(1238年)太政大臣として官界に復帰した。暦仁2年(1239年)再び病を得て出家。翌年播磨で没した。 よしひら Category:1184年生 Category:1240年没 Category:鎌倉時代の公家.

新しい!!: 後嵯峨天皇と九条良平 · 続きを見る »

平棟基

平 棟基(たいら の むねもと、生没年不詳)は、鎌倉時代前期の廷臣。桓武平氏高棟王流、右大弁・平棟範の子。官位は正五位下・木工頭。鎌倉幕府6代将軍・宗尊親王の外祖父。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と平棟基 · 続きを見る »

平棟子

平 棟子(たいら の むねこ、生年不詳 - 徳治3年旧9月16日(1308年11月7日))は、後嵯峨天皇の内侍で、鎌倉六代将軍宗尊親王の母。従一位。高棟王流平氏の出自で、父は木工頭 平棟基、兄弟に参議 平成俊がいる。京極准后(きょうごく じゅごう)として知られるほか、大納言二位局(だいなごんの にいのつぼね)、宰相三位(さいしょうのさんみ)、兵衛内侍(ひょうえのないし)などの通称がある。 当初は四条天皇の内侍として出仕したが、若年の四条天皇が急死したため、新たに後嵯峨天皇に仕えて宗尊親王を産んだ。大変な美貌の持ち主で後嵯峨天皇の寵愛厚く、仁治3年(1242年)4月14日には掌侍に任じられ、寛元3年(1245年)2月18日典侍に進む。建長2年(1250年)10月13日には従二位を授けられ、さらに後年従一位准三后に上った。晩年は京極殿に居住し、京極准后と呼ばれた。徳治3年(1308年)9月16日薨じた。 『増鏡』では父を平棟範と記しているが、これは棟範の娘で順徳天皇の乳母だった同名の女性を混同したものである。 むねこ Category:鎌倉時代の后妃後宮 Category:鎌倉時代の女官 Category:生年不明 Category:1308年没.

新しい!!: 後嵯峨天皇と平棟子 · 続きを見る »

平滋子

平 滋子(たいら の しげこ、康治元年(1142年) - 安元2年7月8日(1176年8月14日))は、後白河天皇の譲位後の妃。高倉天皇の生母。女御、皇太后、女院。桓武平氏高棟流、いわゆる堂上平氏の生まれ。父は兵部権大輔・平時信(贈左大臣)、母は中納言・藤原顕頼の娘、祐子(すけこ)。兄弟に時忠・親宗、姉妹に二位尼時子(平清盛継室)・冷泉局(建春門院女房)・清子(宗盛の室)・坊門殿(重盛の室、維盛母の可能性あり)・藤原親隆の室(権少僧都・全真の母)・帥局(建礼門院女房)がいる。院号は建春門院(けんしゅんもんいん)。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と平滋子 · 続きを見る »

平戸記

『平戸記』(へいこき)は正二位民部卿平経高が記した日記。『経高卿記』とも。平姓と民部卿の唐名「戸部尚書」を書名の由来とする。内閣文庫に22冊が所蔵されており、史料大成にも収録されている。経高の自筆本は消失してしまっており、現存するのは写本のみである。写本はいくつか存在するが、南北朝時代に成立した伏見宮本と呼ばれる写本が最も信頼性が高いとされる。 現存する内容は嘉禄3年(1227年)から寛元4年(1246年)までをカバーしている。欠落が多数見られ、記述は断片的であるものの、鎌倉時代前期の時代の流れを描いた史料は少なく、価値は高いとされる。経高が民部卿に就任した直後の記録が、最も保存状態が良好である。 経高の広汎な知識が反映され、控訴制度に関する深湛な記述が多く、鎌倉時代の法の研究に役立っている。『吾妻鏡』をはじめとする他の史料が欠損している年代も補填しており、交渉をはじめとする公武の関係に関する記述も豊富であるため、鎌倉時代初期の京都の朝議や政局、朝廷の視点から見た幕府などを検証、研究するための史料としても重宝される。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と平戸記 · 続きを見る »

京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と京都 · 続きを見る »

京都市

京都タワーと京都中心部 京都市中心部四条河原町 京都市(きょうとし )は、京都府南部に位置し、同府最大の市で、府庁所在地である。政令指定都市に指定されており、11区を置く。日本の市で8番目の人口を有する。延暦十三年(794年)から明治二年(1869年)までの1,000年以上にわたって日本の都が置かれていたため、古都として認識されている。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と京都市 · 続きを見る »

京都府

京都府(きょうとふ)は、日本の近畿地方の都道府県の一つ。延暦13年(794年)の平安京遷都以来、天皇の御所がある。令制国でいう山城国の全域、丹波国の東部および丹後国の全域を府域とする。府庁所在地は京都市。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と京都府 · 続きを見る »

亀山天皇

亀山上皇像(福岡市博多区、東公園) 亀山天皇(かめやまてんのう、建長元年5月27日(1249年7月9日) - 嘉元3年9月15日(1305年10月4日))は、鎌倉時代の第90代天皇(在位:正元元年11月26日(1260年1月9日) - 文永11年1月26日(1274年3月6日))。諱は恒仁(つねひと)。 後嵯峨天皇の第七皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。后腹では後深草天皇に次ぐ次男。大覚寺統の祖。父母から鍾愛され、兄の後深草天皇を差し置いて治天の君となり、やがて亀山系の大覚寺統と後深草系の持明院統との対立が生じる端緒となった。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と亀山天皇 · 続きを見る »

仁和寺

双ヶ岡より仁和寺を望む 仁和寺(にんなじ)は、京都府京都市右京区御室にある真言宗御室派総本山の仏教寺院。山号は大内山。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は宇多天皇。「古都京都の文化財」として、世界遺産に登録されている。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と仁和寺 · 続きを見る »

仁治

仁治(にんじ)は、日本の元号の一つ。延応の後、寛元の前。1240年から1242年までの期間を指す。この時代の天皇は四条天皇、後嵯峨天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時、北条経時。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と仁治 · 続きを見る »

仲恭天皇

仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう、建保6年10月10日(1218年10月30日) - 天福2年5月20日(1234年6月18日))は、鎌倉時代の第85代天皇(在位:承久3年4月20日(1221年5月13日) - 承久3年7月9日(1221年7月29日))。諱は懐成(かねなり)。 順徳天皇の第四皇子。母は、九條良経の娘、中宮・立子(東一条院)。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と仲恭天皇 · 続きを見る »

建長寺

建長寺(けんちょうじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山。山号を巨福山(こふくさん)と称し、寺号は詳しくは建長興国禅寺(けんちょう こうこく ぜんじ)。 鎌倉時代の建長5年(1253年)の創建で、本尊は地蔵菩薩。開基(創立者)は鎌倉幕府第5代執権・北条時頼、開山(初代住職)は南宋の禅僧・蘭渓道隆で、第二世は同じく南宋の兀庵普寧である。鎌倉五山の第一位。境内は「建長寺境内」として国の史跡に指定。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と建長寺 · 続きを見る »

体子内親王

体子内親王(たいし ないしんのう、寛喜3年(1231年) - 正安3年旧12月17日(1302年1月16日))は、鎌倉時代前期から後期にかけての皇族。後堀河天皇の第二皇女で、母は持明院家行の娘。女院号は神仙門院(しんせんもんいん)。正字体は體子內親王。 建長8年(1256年)2月6日、内親王宣下。2月7日には准后、即日女院となり、神仙門院と号した。弘長元年12月28日(1262年1月20日)に出家して妙智覚と号した。71歳で崩御。 『増鏡』第十「老いの波」には、後嵯峨天皇との間に生まれた皇女がおり、その皇女は弘安4年(1281年)夏に薨去したことが語られている。「後堀河院の御むすめにて、神仙門院と聞えし女院の御腹なれば、故院もいとおろかならずかしづき奉らせ給ひけり」とあり、皇女は後嵯峨天皇に鍾愛されていたと記されているが、『増鏡』以外の当時の諸記録にはこの皇女のことは記されていない。このため、体子内親王と後嵯峨天皇との関係は公的な入内ではなく、いわゆる私通だったと考えられる。なおこの皇女の死は乳母子との子を妊娠、流産したことによるものとあるので、弘安4年時点で皇女は成人に達していたとも考えられる。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と体子内親王 · 続きを見る »

征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と征夷大将軍 · 続きを見る »

後南朝

後南朝(ごなんちょう)とは、1392年(明徳3年)の南北朝合一後、南朝の再建を図った南朝の皇統の子孫や遺臣による南朝復興運動とそれによって樹立された政権、皇室の総称である。 この名称は江戸時代末期に儒学者斎藤拙堂によって付けられたもので、それまで名称は特に決まっていなかった。また後南朝という呼び方も戦後広まったもので戦前までは定着してはいなかった。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と後南朝 · 続きを見る »

後堀河天皇

後堀河天皇(ごほりかわてんのう、建暦2年2月18日(1212年3月22日) - 天福2年8月6日(1234年8月31日))は、鎌倉時代の第86代天皇(在位:承久3年7月9日(1221年7月29日) - 貞永元年10月4日(1232年11月17日))。諱は茂仁(とよひと)。 高倉天皇の第二皇子の守貞親王(後高倉院)の第三皇子。母は、持明院基家の娘、北白河院・陳子。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と後堀河天皇 · 続きを見る »

後宇多天皇

後宇多天皇(ごうだてんのう、文永4年12月1日(1267年12月17日) - 元亨4年6月25日(1324年7月16日)は、鎌倉時代の第91代天皇(在位:文永11年1月26日(1274年3月6日) - 弘安10年10月21日(1287年11月27日 ))。諱は世仁(よひと)。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と後宇多天皇 · 続きを見る »

後白河天皇

後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と後白河天皇 · 続きを見る »

後鳥羽天皇

後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇(在位:寿永2年8月20日(1183年9月8日) - 建久9年1月11日(1198年2月18日))。諱は尊成(たかひら・たかなり)。高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。 文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが、この承久の乱で朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と後鳥羽天皇 · 続きを見る »

後深草天皇

後深草天皇(ごふかくさてんのう)は、鎌倉時代中期の第89代天皇(在位:寛元4年1月29日(1246年2月16日) - 正元元年11月26日(1260年1月9日))。諱は久仁(ひさひと)。 後嵯峨天皇の皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。持明院統の祖。父母が自身より弟の亀山天皇を寵愛し、亀山天皇を治天の君としたことに不満を抱き、やがて後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立が生じる端緒となった。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と後深草天皇 · 続きを見る »

土佐国

土佐国(とさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と土佐国 · 続きを見る »

土御門天皇

土御門天皇(つちみかどてんのう、建久6年11月1日または12月2日(1195年12月4日または1196年1月3日) - 寛喜3年10月11日(1231年11月6日))は、鎌倉時代の第83代天皇(在位:建久9年1月11日 (1198年2月18日) - 承元4年11月25日(1210年12月12日))。諱は為仁(ためひと)。 後鳥羽天皇の第一皇子。母は、源通親の養女(法勝寺執行法印能円の女)承明門院・源在子。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と土御門天皇 · 続きを見る »

土御門定通

土御門 定通(つちみかど さだみち)は、鎌倉時代前期から中期の公卿。源通親の四男。村上源氏土御門家の祖。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と土御門定通 · 続きを見る »

土御門家

土御門家(つちみかどけ)は日本の朝廷に仕えた公家である。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と土御門家 · 続きを見る »

北条重時

北条 重時(ほうじょう しげとき)は、鎌倉時代前期の北条氏の一門・武将・政治家。極楽寺 重時(ごくらくじ しげとき)とも呼ばれる。 鎌倉幕府2代執権・北条義時の3男。母は正室で比企朝宗の娘・姫の前。初代執権・北条時政の孫。尼将軍・尼御前と呼ばれた北条政子の甥にあたる。極楽寺流の祖。 六波羅探題北方・鎌倉幕府連署など幕府の要職を歴任し、第3代執権の異母兄・北条泰時から娘婿の第5代執権・北条時頼を補佐して幕政を主導しながら鎌倉幕府政治の安定に大きく寄与した。『六波羅殿御家訓』『極楽寺殿御消息』等の家訓の作者でも知られる。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と北条重時 · 続きを見る »

北条氏

北条氏(ほうじょうし、)は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。戦国大名後北条氏との混同を避けるため、代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏もしくは鎌倉北条氏と呼ばれることもある。通字は時(とき)。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と北条氏 · 続きを見る »

北条泰時

北条 泰時(ほうじょう やすとき)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の長男。鎌倉幕府第3代執権(在職:貞応3年(1224年) - 仁治3年6月15日(1242年7月14日))。鎌倉幕府北条家の中興の祖として、御成敗式目を制定した人物で有名である。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と北条泰時 · 続きを見る »

北条時宗 (NHK大河ドラマ)

『北条時宗』(ほうじょうときむね)は、2001年1月7日から12月9日にNHKで放送された第40作目の大河ドラマ。全49回。12月16日・23日に総集編が放送された。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と北条時宗 (NHK大河ドラマ) · 続きを見る »

北条時頼

北条 時頼(ほうじょう ときより)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第5代執権(在職:1246年 - 1256年)である。北条時氏の次男で、4代執権北条経時の弟。北条時輔、第8代執権北条時宗、北条宗政、北条宗頼らの父。通称は五郎、五郎兵衛尉、武衛、左近大夫将監、左親衛、相州、また出家後は最明寺殿、最明寺入道とも呼ばれた。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と北条時頼 · 続きを見る »

園城寺

園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗の総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。 開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩である。日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。 なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と園城寺 · 続きを見る »

ユリウス暦

ユリウス暦(ユリウスれき、、、)は、共和政ローマの最高神祇官・独裁官・執政官ガイウス・ユリウス・カエサルにより紀元前45年1月1日から実施された、1年を365.25日とする太陽暦である。もともとは共和政ローマおよび帝政ローマの暦であるが、キリスト教の多くの宗派が採用し、西ローマ帝国滅亡後もヨーロッパを中心に広く使用された。 ローマ教皇グレゴリウス13世が1582年、ユリウス暦に換えて、太陽年との誤差を修正したグレゴリオ暦を制定・実施したが、今でもグレゴリオ暦を採用せずユリウス暦を使用している教会・地域が存在する。グレゴリオ暦を導入した地域では、これを新暦(ラテン語: Ornatus)と呼び、対比してユリウス暦を旧暦と呼ぶことがある。 なお、天文学などで日数計算に用いられるユリウス通日があるが、これはユリウス暦とは全く異なるものである。.

新しい!!: 後嵯峨天皇とユリウス暦 · 続きを見る »

嵯峨

嵯峨(さが).

新しい!!: 後嵯峨天皇と嵯峨 · 続きを見る »

グレゴリオ暦

レゴリオ暦(グレゴリオれき、、、)は、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ、1582年10月15日(グレゴリオ暦)から行用されている暦法である。現行太陽暦として世界各国で用いられている。グレゴリオ暦を導入した地域では、ユリウス暦に対比して新暦()と呼ばれる場合もある。紀年法はキリスト紀元(西暦)を用いる。 大辞林 第三版、など。、暦法と紀年法とが混同されている。--> グレゴリオ暦の本質は、平年では1年を365日とするが、400年間に(100回ではなく)97回の閏年を置いてその年を366日とすることにより、400年間における1年の平均日数を、365日 + (97/400)日.

新しい!!: 後嵯峨天皇とグレゴリオ暦 · 続きを見る »

円満院

円満院(えんまんいん、旧字体:圓滿院、新旧混用:圓満院)は、滋賀県大津市園城寺町33にある天台宗系の単立寺院(元天台宗寺門派)。門跡寺院。近畿三十六不動尊第二十五番。円満院では自らを圓満院門跡(えんまんいん もんぜき)と表すことも多い。 水子供養の寺として「日本水子供養霊場会総霊廟所」を自称する。寺内には本堂や宸殿のほか、宿坊・三密殿と大津絵美術館を併設している。 寛和3年(987年)に村上天皇の皇子悟円法親王により創建されたと伝わるが、平安時代中期の参議・藤原資房の日記『春記』には、園城寺の明尊が長久元年(1040年)に後朱雀天皇の支援を受けてこの地に新しい寺を創建し「圓滿院」と命名したという消息が記されている。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と円満院 · 続きを見る »

出家

出家(しゅっけ、pabbajja、pravrajyaa、प्रव्रज्या) とは、師僧から正しい戒律である『沙弥戒』や『具足戒』を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教に入ることである。落飾(らくしょく)ともいう。対義語は還俗(げんぞく、“俗界に還る”の意)。 在家(ざいけ)と対比される。インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行にいそしんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、釈迦もその沙門の1人であった。 仏教における出家の伝統はこれに由来する。仏教教団において剃髪(ていはつ)して袈裟を被い、「正式に受戒(じゅかい)して入門した沙弥や沙弥尼」になることを言うが、その後、「具足戒を受けて正規の僧となった比丘や比丘尼」を呼ぶ場合にも使う。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と出家 · 続きを見る »

公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と公卿 · 続きを見る »

六波羅探題

六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つ。承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。探題と呼ばれた初見が鎌倉末期であり、それまでは単に六波羅と呼ばれていた。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と六波羅探題 · 続きを見る »

典侍

典侍(ないしのすけ/てんじ)とは、律令制における官職で、内侍司(後宮)の次官(女官)。単に「すけ」とも呼ばれた。 長官は、尚侍であったが、後に后妃化して設置されなくなったため、典侍が実質的に長官となった。准位では、従四位であったが、実際には女叙位を受けて二、三位に昇る者も多かった。なお、「藤典侍」、「源典侍」や「大納言典侍」などと、前に姓や、父親の官職名を付けて称する者が多かった。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と典侍 · 続きを見る »

元治

元治(げんじ)は日本の元号の一つ。文久の後、慶応の前。1864年から1865年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と元治 · 続きを見る »

元服

元服(げんぶく、げんぷく)とは、奈良時代以降の日本で成人を示すものとして行われた儀式。通過儀礼の一つである。 「元」は首(=頭)、「服」は着用を表すので、「頭に冠をつける」という意味。加冠とも初冠(ういこうぶり)とも言われる。なお、公家の女子の成人式は裳着(もぎ)と言う。民間においては褌親(へこおや・ふんどしおや)の元で、初めてふんどしを付け、性に関する知識を授かる褌祝(ふんどしいわい)と呼ばれる儀式がある。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と元服 · 続きを見る »

四天王寺

四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区四天王寺にある寺院。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音菩薩(くせかんのんぼさつ)である。「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)ともいう。 『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている。 宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に「和宗」の総本山として独立している。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と四天王寺 · 続きを見る »

四条天皇

四条天皇(しじょうてんのう)は、鎌倉時代の第87代天皇(在位:貞永元年10月4日(1232年11月17日) - 仁治3年1月9日(1242年2月10日))。諱は秀仁(みつひと)。 後堀河天皇の第一皇子。母は、九条道家の娘、中宮・竴子(藻璧門院、竴は「立尊」)。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と四条天皇 · 続きを見る »

四条隆衡

四条 隆衡(しじょう たかひら、藤原 隆衡(ふじわら の たかひら))は、鎌倉時代の公卿。藤原北家魚名流、大納言藤原隆房の長男。元名は長雅。正二位・権大納言。善勝寺長者(四条家当主)。鷲尾大納言といわれる。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と四条隆衡 · 続きを見る »

皇居

皇居の正門石橋(この奥に正門鉄橋(通称二重橋が架かる) 皇居(こうきょ)は、天皇の平常時における宮殿・住居である。現在は東京都千代田区にある。「皇居」の呼称が広く用いられるようになったのは現在の皇居からである。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と皇居 · 続きを見る »

皇位継承

1928年(昭和3年)11月、即位の礼の時の昭和天皇 皇位継承(こういけいしょう)は、一般的に皇位(天皇の位)を皇太子もしくは皇位継承者に譲ることである。諸外国における国王・皇帝の地位を継承を意味する王位継承あるいは帝位継承とほぼ同義語である。大日本帝国憲法及び日本国憲法で明文規定された。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と皇位継承 · 続きを見る »

火葬

火葬(かそう)とは、葬送の一手段として遺体を焼却することである。また、遺体の焼却を伴う葬儀全体も指す。 火葬を行う施設や建築物を火葬場と呼ぶ。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と火葬 · 続きを見る »

竹殿

竹殿(たけどの、生没年未詳)は、鎌倉時代前期の女性。北条氏の一門。鎌倉幕府の2代執権、北条義時の娘。母は正室の姫の前。同母兄に朝時、重時。 子に顕親、顕雲など。 はじめは大江親広の側室であったが、承久3年(1221年)承久の乱において親広が失脚。離別して京都の土御門定通に再嫁してその側室となる。『葉黄記』(宝治元年6月3日条)によれば遅くとも貞応元年(1222年)までには定通に嫁しており、甥の土御門上皇を流刑にされ政治基盤を失った定通も次第に復権する。 長兄の北条泰時は乱後に設置された六波羅探題に就任し、京方の監視にあたった。父義時の死後に鎌倉へ戻って3代執権となった泰時に代わり、同母兄の重時が六波羅探題となる。仁治3年(1242年)、幕府の意向による後嵯峨天皇擁立にあたり、竹殿は鎌倉の泰時と京の定通との間の仲介役となっている。 天福元年(1247年)5月、定通と竹殿の子で山僧となっていた顕雲が内裏の最勝講で興福寺の僧と乱闘騒ぎを起こし、顕雲方の侍で因幡守広盛(竹殿の乳母父で元は大江親広の従者)が重時によって六波羅探題に召し出されている。同年6月には「年来、道心あり」とされていた子の中納言顕親が26歳(28歳説もあり)の若さで突然出家を遂げて周囲を驚かせ、父定通を嘆かせている。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と竹殿 · 続きを見る »

綜子内親王

綜子内親王(そうしないしんのう、宝治元年10月9日(1247年11月7日) - 文永6年3月1日(1269年4月3日))は、鎌倉時代中期の皇族・女院・女流歌人。女院号は月華門院(げっかもんいん)。後嵯峨天皇の第一皇女。母は中宮・西園寺姞子(大宮院)。後深草天皇の同母妹で、亀山天皇の同母姉。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と綜子内親王 · 続きを見る »

鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と鎌倉幕府 · 続きを見る »

鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

新しい!!: 後嵯峨天皇と鎌倉時代 · 続きを見る »

聖護院

本堂 宸殿 聖護院(しょうごいん)は京都府京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗総本山(本庁)の寺院。聖護院門跡( - もんぜき)とも称する。山号はなし。開基(創立者)は増誉、本尊は不動明王である。 日本の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の霞を統括する総本山である。1872年(明治5年)の修験道廃止令発布後、一時天台寺門宗に属したが、1946年(昭和21年)修験宗(のち本山修験宗)として再び独立して現在に至る。天台宗に属した後も聖護院の格は大本山であった。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と聖護院 · 続きを見る »

聖武天皇

聖武天皇(しょうむ てんのう、大宝元年(701年) - 天平勝宝8歳5月2日(756年6月4日)、在位:神亀元年2月4日(724年3月3日) - 天平勝宝元年7月2日(749年8月19日))は、日本(奈良時代)の第45代天皇。即位前の名は首皇子(おびとのみこ)。 尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)、沙弥勝満(しゃみしょうまん)とも言う。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と聖武天皇 · 続きを見る »

順徳天皇

順徳天皇(じゅんとくてんのう)は、鎌倉時代の第84代天皇(在位:承元4年11月25日(1210年12月12日) - 承久3年4月20日(1221年5月13日)) - コトバンク - コトバンク 『秋山喜代子』 - コトバンク 『山本博也』。諱は守成(もりなり)。 後鳥羽天皇の第三皇子。母は、藤原範季の娘・重子(修明門院)。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と順徳天皇 · 続きを見る »

西園寺きつ子

西園寺 姞子(さいおんじ きつし、嘉禄元年(1225年) - 正応5年9月9日(1292年10月20日))は、後嵯峨天皇の中宮で後に皇太后。西園寺実氏の長女で、母は四条隆衡の娘・四条貞子(北山准后)。後深草・亀山両天皇の生母、女院。院号は大宮院(おおみやいん)。法名は遍智覚(へんちかく)。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と西園寺きつ子 · 続きを見る »

西園寺実氏

西園寺 実氏(さいおんじ さねうじ)は、鎌倉時代前期の公卿。従一位太政大臣。常盤井相國と号す。父は准三宮太政大臣西園寺公経。旧字で實氏。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と西園寺実氏 · 続きを見る »

西園寺家

西園寺家(さいおんじけ)は、清華家の家格を有する公家。藤原北家閑院流の一門で、支流に洞院家・今出川家(菊亭家)・伊予西園寺氏などがある。家名は、4代公経が北山に建立した西園寺(北山殿)にちなむ。家紋は左三つ巴を使用。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と西園寺家 · 続きを見る »

西園寺公経

小倉百人一首より 西園寺 公経(さいおんじ きんつね、正字体:西園寺公經)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿・歌人。西園寺家の実質的な祖とされている。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇の中宮姞子の祖父、四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・5代将軍藤原頼嗣の曾祖父となった稀有な人物である。また、姉は藤原定家の後妻で、定家の義弟でもある。 小倉百人一首では入道前太政大臣。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と西園寺公経 · 続きを見る »

覚助法親王

覚助法親王(かくじょほっしんのう、宝治元年(1247年) - 延元元年9月17日(1336年10月22日))は鎌倉時代から建武の新政、南北朝時代初頭にかけての天台宗の僧、歌人。後嵯峨天皇の皇子で、母は刑部局・藤原孝時の娘、博子。 幼くして聖護院に入って文永3年(1266年)に門跡に就任、園城寺長吏、天王寺別当などを歴任した。正安2年(1300年)二品に叙され、後に一品に至る。建武の新政崩壊後の延元元年(1336年)9月17日に90歳で薨去。 歌人としても活躍し、権大納言・二条為世などと交流があった。また、『続拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に89首が残っている。自邸でも歌会を開いたという。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と覚助法親王 · 続きを見る »

諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と諡 · 続きを見る »

諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と諱 · 続きを見る »

高峰顕日

高峰顕日(こうほうけんにち、仁治2年(1241年)- 正和5年10月20日(1316年11月5日))は、鎌倉時代後期の臨済宗の僧。後嵯峨天皇の第二皇子。諱は顕日。字は高峰。密道と号した。諡号は仏国禅師・仏国応供広済国師。 1256年(康元元年)円爾に従って出家し、その後、兀庵普寧・無学祖元に師事した。下野国那須の雲巌寺の開山にもなっている。南浦紹明とともに天下の二甘露門と称された。鎌倉幕府執権北条貞時・高時父子の帰依を受け、鎌倉万寿寺・浄妙寺・浄智寺・建長寺の住持を歴任している。門下には夢窓疎石などの俊才を輩出し、関東における禅林の主流を形成した。 Category:日本の禅僧 (臨済宗) Category:鎌倉時代の僧 Category:1241年生 Category:1316年没.

新しい!!: 後嵯峨天皇と高峰顕日 · 続きを見る »

高倉天皇

倉天皇(たかくらてんのう、応保元年9月3日(1161年9月23日) - 治承5年1月14日(1181年1月30日))は、平安時代末期の第80代天皇(在位:仁安3年2月19日(1168年4月9日) - 治承4年2月21日(1180年3月18日))。諱は憲仁(のりひと)という。 後白河天皇の第7皇子。母は皇太后平滋子(建春門院)。安徳天皇、後鳥羽天皇らの父。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と高倉天皇 · 続きを見る »

譲位

譲位(じょうい)は、君主が生きている間に、その地位を後継者へ譲り渡す行為である。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と譲位 · 続きを見る »

谷森善臣

谷森 善臣(たにもり よしおみ、文化14年12月28日(1818年2月3日) - 1911年(明治44年)11月16日)は、幕末から明治時代にかけての国学者。陵墓・南朝史・皇室系譜の研究に業績を残した。本姓は平氏、初名は松彦だが、28歳の時に種松(種万都・種梥とも)へ改名。通称は二郎・外記。菫壺・靖斎とも号した。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と谷森善臣 · 続きを見る »

鶴岡八幡宮

岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、神奈川県鎌倉市にある神社。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 別称として鎌倉八幡宮とも呼ばれる。武家源氏、鎌倉武士の守護神。鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社として全国の八幡社の中では関東界隈で知名度が高く、近年では三大八幡宮の一社に入ることがある俗に三大八幡とは「大分の宇佐神宮・京都の石清水八幡宮」に「福岡の筥崎宮」または当社のいずれかを合わせた三社を指す。幕末から明治期の資料では、1868年(慶応4年)4月24日付け太政官達に示す八幡宮の例示3社(田中恆清『謎多き神 八幡神のすべて』 p.198 新人物往来社、2010年、ISBN 4404038291。)として官幣大社に列せられている3社は「宇佐・石清水・筥崎」であるが、近年発行された書籍中では「宇佐・石清水・鶴岡」を八幡神社の代表例としている(『全国八幡神社名鑑(別冊歴史読本―神社シリーズ (99))』新人物往来社、2004年、ISBN 4404030991。白井永二、土岐昌訓『神社辞典』東京堂出版、1997年、ISBN 449010474X。)。境内は国の史跡に指定されている。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と鶴岡八幡宮 · 続きを見る »

能円

能円(のうえん、保延6年(1140年) - 正治元年8月24日(1199年9月16日)は平安時代末期の僧侶。皇后宮亮・藤原顕憲(藤原盛実の子)の子。母は令子内親王に仕えた下女(一説には藤原家範の娘)で、異父兄姉に平時子・平時忠らがある。異母兄弟には藤原盛憲・憲親・経憲・玄顕らがあり、息女には在子(承明門院)・信子(堀川通具室)らがある。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と能円 · 続きを見る »

藤原家成

藤原 家成(ふじわら の いえなり)は、平安時代末期の公家。参議・藤原家保の三男。官位は正二位・中納言。中御門を号す。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と藤原家成 · 続きを見る »

藤原俊盛

藤原 俊盛(ふじわら の としもり)は、平安時代後期の公卿。藤原北家末茂流、尾張守・藤原顕盛の子。官位は正三位・非参議。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と藤原俊盛 · 続きを見る »

藤原忠雅

藤原 忠雅(ふじわら の ただまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家、権中納言・藤原忠宗の次男。官位は従一位・太政大臣。花山院太政大臣と号す。花山院家3代。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と藤原忠雅 · 続きを見る »

藤原信隆

藤原 信隆(ふじわら の のぶたか)は平安時代後期の公卿。藤原北家道隆流、右京大夫藤原信輔の子。後鳥羽天皇の外祖父。従三位・修理大夫。贈従一位・左大臣。七条修理大夫と号す。坊門家の祖であり、坊門 信隆とも記される。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と藤原信隆 · 続きを見る »

藤原兼房 (太政大臣)

藤原 兼房(ふじわら の かねふさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原忠通の十男。官位は従一位・太政大臣。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と藤原兼房 (太政大臣) · 続きを見る »

藤原範子

藤原 範子(ふじわら の はんし/ のりこ、1152年頃? - 正治2年8月4日(1200年9月13日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期の女官。刑部卿藤原範兼の娘。後鳥羽天皇の乳母。同じく乳母で権勢を誇ったことで知られる兼子(卿局)は妹。能円の妻、のち源通親の妻。後鳥羽天皇の妃である源在子の母で、土御門天皇の外祖母にあたる。従三位。通称は刑部卿局。子は他に源通光、源定通、源通方。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と藤原範子 · 続きを見る »

藤原範兼

藤原 範兼(ふじわら の のりかね)は、平安時代末期の公家。藤原南家貞嗣流。従三位大学頭、刑部卿。従四位下式部少輔藤原能兼(1086年 - 1139年)の長男。弟に範季。子に従二位権中納言範光、後鳥羽天皇の乳母で権勢を誇った事で知られる範子・兼子姉妹がいる。叔母(能兼の妹)は源頼政の母。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と藤原範兼 · 続きを見る »

藤原殖子

藤原 殖子(ふじわら の しょくし(たねこ)、保元2年(1157年) - 安貞2年9月16日(1228年10月15日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。高倉天皇の後宮。後高倉院(守貞親王)と後鳥羽天皇の母。女院。坊門 殖子とも。父は従三位藤原(坊門)信隆。母は藤原休子(大蔵卿藤原(持明院)通基の女)。内大臣坊門信清は同母弟。院号は七条院(しちじょういん)。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と藤原殖子 · 続きを見る »

蒲生君平

蒲生 君平(がもう くんぺい、明和5年〈1768年〉 - 文化10年7月5日〈1813年7月31日〉)は、江戸時代後期の儒学者。尊王論者、海防論者。同時代の仙台藩の林子平・上野国の郷士高山彦九郎と共に、「寛政の三奇人」の一人に数えられる(「奇」は「優れた」という意味)。生涯を赤貧と波乱に満ちながら、忠誠義烈の精神を貫いた。姓は、天明8年(17歳)に祖先が会津藩主蒲生氏郷であるという家伝(氏郷の子・蒲生帯刀正行が宇都宮から会津に転封の際、福田家の娘を身重のため宇都宮に残し、それから4代目が父の正栄という)に倣い改めた。君平は字で、諱は秀実、通称は伊三郎。号に修静庵。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と蒲生君平 · 続きを見る »

院政

院政(いんせい)は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治である。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治形態である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と院政 · 続きを見る »

掌侍

掌侍(ないしのじょう)とは、律令制における女官の1つ。本来は内侍司の判官だったが、後に尚侍・典侍とともに後宮全体の実務を取り仕切る立場となった。掌侍の第一臈を特に勾当内侍(こうとうのないし)といった。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と掌侍 · 続きを見る »

正元 (日本)

正元(しょうげん)は、日本の元号の一つ。正嘉の後、文応の前。1259年から1260年までの期間を指す。この時代の天皇は後深草天皇、亀山天皇。鎌倉幕府将軍は宗尊親王、執権は北条長時。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と正元 (日本) · 続きを見る »

治天の君

治天の君(ちてんのきみ)は、日本の古代末期から中世において、天皇家の家督者として政務の実権を握った上皇又は天皇を指す用語。治天の君は事実上の君主として君臨した。但し、「治天の君」については在位の天皇を含める立場美川圭 『院政―もう一つの天皇制―』中公新書 (2006年)ISBN 4-12-101867-2 黒田俊雄『日本の歴史 蒙古襲来』中公文庫 (1974年)ISBN 4-12-200071-8と在位の天皇を含めず院政を行う上皇に限る立場とがある。 上皇が治天の君である場合、天皇は在位の君とよばれる。また上皇が治天の君として行う院政に対して、天皇が治天の君として政務に当たることを親政という。治天の君は、治天下(ちてんか)、治天(ちてん)、政務(せいむ)などとも呼ばれた。以下、本項では治天の君を「治天」という。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と治天の君 · 続きを見る »

法住寺 (京都市)

法住寺(ほうじゅうじ)は、日本の京都市東山区にある天台宗の仏教寺院である。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と法住寺 (京都市) · 続きを見る »

源在子

源 在子(みなもと の ありこ/ざいし、承安元年(1171年) - 正嘉元年7月5日(1257年8月15日))は、第82代後鳥羽天皇の妃で第83代土御門天皇の国母、女院。院号は承明門院(しょうめいもんいん)。父は法勝寺執行能円で母は藤原範兼の女藤原範子。源通親の養女。同母弟に久我通光、土御門定通、中院通方がいる。法名は真如妙。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と源在子 · 続きを見る »

源頼政

源 頼政(みなもと の よりまさ)は、平安時代末期の武将・公卿・歌人。兵庫頭源仲政の長男。朝廷で平家が専横を極める中、それまで正四位下を極位としていた清和源氏としては突出した従三位に叙せられたことから源三位(げんざんみ)と称された。また、父と同じく「馬場」を号とし馬場頼政(ばば の よりまさ)ともいう。 保元の乱と平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まった。平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列した。だが、平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えた。計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、そのまま平家の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れ自害した(以仁王の挙兵)。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と源頼政 · 続きを見る »

源雅通

源 雅通(みなもと の まさみち)は、平安時代後期の公卿。権大納言源顕通(1081-1122)の次男。 幼少時に父を失い、叔父の右大臣源雅定の養嗣子となる。兵部権大輔・近江権介・皇后宮権亮・備後権守などを歴任し、久寿2年(1155年)大嘗会国司賞として従三位となる。また、奨学院別当・検非違使別当なども務めた。正二位内大臣まで昇進したが、嘉応元年(1169年)以降は病気になり、承安5年(1175年)に久我別荘にて薨去した。享年58。 歌人としては、『千載和歌集』以下の勅撰集に10首入集する他、『続詞花集』などの私撰集にも入集がある。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と源雅通 · 続きを見る »

源通子

源 通子(みなもと の つうし、生年未詳 - 承久3年(1221年)8月)は、第83代土御門天皇の後宮で第88代後嵯峨天皇の生母。父は参議正四位下左近衛中将源通宗(源通親の長男、贈従一位左大臣)。 典侍となり、土御門天皇の寵愛を受けた。建暦元年(1211年)春子女王、建保元年(1213年)覚子内親王(准三宮、正親町院)、建保2年(1214年)仁助法親王、建保4年(1216年)静仁法親王、承久2年(1220年)邦仁王(のちの後嵯峨天皇)を産む。承久3年(1221年)8月、死去。後嵯峨天皇の即位により仁治3年(1243年)7月11日、贈皇太后。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と源通子 · 続きを見る »

源通宗

源 通宗(みなもと の みちむね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。内大臣・源通親の長男。後嵯峨天皇の外祖父。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と源通宗 · 続きを見る »

源通親

源 通親(みなもと の みちちか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。七朝にわたり奉仕し、村上源氏の全盛期を築いた。内大臣正二位右大将。土御門 通親(つちみかど -)と呼ばれるのが一般的で、曹洞宗などでは久我(こが)通親と呼ばれている。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と源通親 · 続きを見る »

持明院統

持明院統(じみょういんとう)とは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた日本の皇室の系統で、第88代後嵯峨天皇の子である第89代後深草天皇の子孫である。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と持明院統 · 続きを見る »

朝廷

朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と朝廷 · 続きを見る »

明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と明治 · 続きを見る »

斎宮

斎宮の復元擬態(斎王まつり)三重県明和町 斎宮(さいぐう/さいくう/いつきのみや/いわいのみや)は古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所(現在の斎宮跡)であるが、平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指した。後者は伊勢斎王や伊勢斎宮とも称する。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と斎宮 · 続きを見る »

文永

文永(ぶんえい)は、日本の元号の一つ。弘長の後、建治の前。1264年から1274年までの期間を指す。この時代の天皇は亀山天皇、後宇多天皇。鎌倉幕府将軍は宗尊親王、惟康親王、執権は北条長時、北条政村、北条時宗。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と文永 · 続きを見る »

摂家将軍

摂家将軍(せっけしょうぐん)は、鎌倉幕府将軍のうち、摂家から迎えられた将軍のこと。源氏将軍が絶えた後を継いだ第4代・藤原頼経と、その嫡男の第5代・藤原頼嗣の2人がこれにあたる。藤原将軍あるいは公卿将軍とも呼ばれる。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と摂家将軍 · 続きを見る »

懌子内親王

懌子内親王(えきしないしんのう、弘長2年(1262年) - 永仁2年11月25日(1294年12月13日))は、鎌倉時代の皇族、女院。後嵯峨天皇の第6皇女。母は掌侍・藤原博子(勾当内侍)。院号は五条院。同母兄に覚助法親王、異母兄に後深草天皇、亀山天皇。 文永9年(1272年)、父・後嵯峨上皇が崩御。正応2年(1289年)12月7日、26歳で内親王宣下を受け、同月10日准三后、女院となる。 永仁2年(1294年)崩御。享年33。 亀山天皇の後宮に入り、皇女を産んだ。なお『増鏡』では、懌子内親王の美しさに目を留めた亀山院が密かに関係を結び、生まれた皇女は母の素性を秘して院の乳母の下へ預けられたとしている。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と懌子内親王 · 続きを見る »

慶応

慶応(けいおう、旧字体: 慶應)は日本の元号の一つ。元治の後、明治の前。1865年から1868年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。日本での「一世一元の詔」発布以前では最後の元号。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と慶応 · 続きを見る »

承久

承久(じょうきゅう)は、日本の元号の一つ。建保の後、貞応の前。1219年から1221年までの期間を指す。この時代の天皇は順徳天皇、仲恭天皇、後堀河天皇。後鳥羽上皇の院政、鎌倉幕府将軍は空位、執権は北条義時。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と承久 · 続きを見る »

承久の乱

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。承久の変、承久合戦ともいう。 日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。 1185年に鎌倉幕府が成立した以降、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていた。その間、幕府の初代将軍の源頼朝が落馬で死亡、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺され、天皇家の血を引く源氏将軍が鎌倉から滅亡した。その1219年以降、鎌倉は伊豆を収める世襲一族の北条氏が実権を握り、さらに北条氏は、幕府内で朝廷の代理人である執権であったが、幕府を実質的に手中に収めるに至り、日本を統治するのは朝廷であり朝廷主導の政治が本来の姿とする朝廷側の怒りが高まっていった。この2年後に起きた承久の乱の結果、鎌倉幕府主導の政治体制が固まり、朝廷を監視する六波羅探題を京都に置き、朝廷の権力は制限され、皇位継承等にも鎌倉幕府が影響力を持つようになった。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と承久の乱 · 続きを見る »

性助入道親王

性助入道親王(しょうじょ にゅうどうしんのう、宝治元年旧暦7月23日(1247年8月25日) - 弘安5年旧暦12月19日(1283年1月19日))は鎌倉時代の僧侶。後嵯峨天皇の第6皇子。母は従一位・太政大臣三条公房の女・御匣殿。出家前の諱は省仁親王(さだひと しんのう)。性助法親王(しょうじょ ほっしんのう)としたものも多いが、親王宣下は出家前にすでに受けているので正しくは入道親王である。 第十一世仁和寺門跡として後中御室と呼ばれ、また甘露王院宮とも呼ばれる。和歌が『続古今和歌集』などに収録されている。 なお後深草院二条の随筆『とはずがたり』に登場する「有明の月」はこの性助入道親王がモデルの一人と考えられている。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と性助入道親王 · 続きを見る »

1220年

記載なし。

新しい!!: 後嵯峨天皇と1220年 · 続きを見る »

1242年

記載なし。

新しい!!: 後嵯峨天皇と1242年 · 続きを見る »

1243年

記載なし。

新しい!!: 後嵯峨天皇と1243年 · 続きを見る »

1246年

記載なし。

新しい!!: 後嵯峨天皇と1246年 · 続きを見る »

1247年

記載なし。

新しい!!: 後嵯峨天皇と1247年 · 続きを見る »

1259年

記載なし。

新しい!!: 後嵯峨天皇と1259年 · 続きを見る »

1268年

記載なし。

新しい!!: 後嵯峨天皇と1268年 · 続きを見る »

1272年

記載なし。

新しい!!: 後嵯峨天皇と1272年 · 続きを見る »

1月19日 (旧暦)

旧暦1月19日(きゅうれきいちがつじゅうくにち)は、旧暦1月の19日目である。六曜は先勝である。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と1月19日 (旧暦) · 続きを見る »

1月20日 (旧暦)

旧暦1月20日(きゅうれきいちがつはつか)は、旧暦1月の20日目である。六曜は友引である。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と1月20日 (旧暦) · 続きを見る »

1月29日 (旧暦)

旧暦1月29日は旧暦1月の29日目である。年によっては1月の最終日となる。六曜は大安である。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と1月29日 (旧暦) · 続きを見る »

1月9日 (旧暦)

旧暦1月9日(きゅうれきいちがつここのか)は、旧暦1月の9日目である。六曜は先負である。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と1月9日 (旧暦) · 続きを見る »

2012年

この項目では、国際的な視点に基づいた2012年について記載する。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と2012年 · 続きを見る »

2月16日

2月16日(にがつじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から47日目にあたり、年末まであと318日(閏年では319日)ある。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と2月16日 · 続きを見る »

2月17日 (旧暦)

旧暦2月17日は旧暦2月の17日目である。六曜は赤口である。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と2月17日 (旧暦) · 続きを見る »

2月21日

2月21日(にがつにじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から52日目にあたり、年末まであと313日(閏年では314日)ある。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と2月21日 · 続きを見る »

2月26日 (旧暦)

旧暦2月26日は旧暦2月の26日目である。六曜は先負である。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と2月26日 (旧暦) · 続きを見る »

3月17日

3月17日(さんがつじゅうななにち、さんがつじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から76日目(閏年では77日目)にあたり、年末まであと289日ある。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と3月17日 · 続きを見る »

3月24日

3月24日(さんがつにじゅうよっか、さんがつにじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から83日目(閏年では84日目)にあたり、年末まであと282日ある。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と3月24日 · 続きを見る »

3月25日

3月25日(さんがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から84日目(閏年では85日目)にあたり、年末まであと281日ある。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と3月25日 · 続きを見る »

4月1日

4月1日(しがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から91日目(閏年では92日目)にあたり、年末まであと274日ある。誕生花はカスミソウ、クロッカス。 日本や一部の国では4月1日は会計年度・学校年度の初日である。この日は政府機関、企業などで多くの制度の変更、新設、発足が行われ、異動や新入学など大きな変化が起こる日である。.

新しい!!: 後嵯峨天皇と4月1日 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

後嵯峨後嵯峨上皇後嵯峨法皇後嵯峨院邦仁王邦仁親王

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »