218 関係: 基王、吉川真司、塩焼王、墾田永年私財法、壬午、壬申、大宝 (日本)、天平、天平勝宝、天平感宝、天皇、天皇陵、天然痘、天武天皇、天智天皇、太上天皇、太政大臣、夫人、外戚、奈良市、奈良県、奈良時代、奉先寺、姪娘、孝謙天皇、宮中三殿、宮内庁、宸翰、宇佐八幡宮神託事件、安禄山、安積親王、尊号、崩御、己卯、己巳、己丑、丁卯、丁丑、丁亥、不破内親王、中西進、中臣御食子、丙子、丙寅、丙戌、干支、平城宮、平城京、平安京、年齢、...、乙丑、乙亥、乙酉、庚午、庚辰、井上内親王、仏教、他戸親王、伊勢国、後宮、後嵯峨天皇、律令制、ユリウス暦、和銅、グレゴリオ暦、唐、出家、八幡神、元号、元正天皇、元服、元明天皇、光仁天皇、光明皇后、国分寺、皇后、皇子、皇居、皇族、知識 (仏教)、神亀、神仏習合、空海、立太子、紫香楽宮、続日本紀、美濃国、県犬養三千代、県犬養広刀自、甲子、甲申、甲戌、牟漏女王、癸酉、癸未、鎌倉時代、遠智娘、遷都、聖武天皇社、道祖王、道鏡、草壁皇子、行基、行幸、行信、飯沼賢司、養老、詔、諡、講談社、譲位、辛巳、辛未、霊亀、鈴鹿王、舒明天皇、蘇我倉山田石川麻呂、閏、開眼法要、藤原宮子、藤原不比等、藤原広嗣の乱、藤原仲麻呂、藤原四兄弟、藤原鎌足、藤原武智麻呂、藤原氏、藤原房前、鑑真、脚気、長屋王、酒人内親王、難波京、恭仁京、東大寺、東大寺盧舎那仏像、桓武天皇、森本公誠、橘古那可智、橘佐為、橘諸兄、正倉院、武則天、氷上川継、氷上志計志麻呂、持統天皇、最澄、戊子、戊寅、戊辰、戒名、明治、文武天皇、斉明天皇、日本、日本の書家一覧、改暦、慶雲、扶桑略記、10月3日、1873年、1907年、1908年、2012年、2月4日 (旧暦)、3月3日、3月7日、4月14日 (旧暦)、4月9日 (旧暦)、5月2日 (旧暦)、5月30日、5月8日、6月15日 (旧暦)、6月4日、6月7日、6月8日、701年、707年、714年、715年、720年、724年、725年、726年、727年、728年、729年、730年、731年、732年、733年、734年、735年、736年、737年、738年、739年、740年、741年、742年、743年、744年、745年、746年、747年、748年、749年、752年、754年、756年、7月17日 (旧暦)、7月18日、7月2日 (旧暦)、8月18日、8月19日、8月5日 (旧暦)、9月2日 (旧暦)、9月6日。 インデックスを展開 (168 もっと) »
基王
基王(もといおう、神亀4年閏9月29日(727年11月20日) - 神亀5年9月13日(728年10月24日))は、奈良時代の皇族。聖武天皇の第1皇子。基皇子(もといのみこ)とも。また『本朝皇胤紹運録』にはただ「親王」とのみ掲げられており、その説明書きとして「諱基王」と記されていることから、これは「諱某王」の誤記であり、実名は不明であるとする説もある。「基」と命名されたのであれば、まだ親王宣下の慣行が存在しない当時、誕生とともに自動的に「基親王」とされたはずだからである。.
吉川真司
吉川 真司(よしかわ しんじ、1960年 - )は、日本の歴史学者、京都大学教授。専攻は日本古代史。奈良県出身。.
塩焼王
塩焼王(しおやきおう)は、日本の奈良時代の皇族。のち臣籍降下し氷上 塩焼(ひがみ の しおやき)と称した。天武天皇の孫で、一品・新田部親王の子。.
墾田永年私財法
墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)は、奈良時代中期の聖武天皇の治世に、天平15年5月27日(743年6月23日)に発布された勅(天皇の名による命令)で、墾田(自分で新しく開墾した耕地)の永年私財化を認める法令である。古くは墾田永世私有法と呼称した。荘園発生の基礎となった法令である。1897年にも開墾地無償付与という似た制度が実施されている。.
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壬午
壬午(みずのえうま、じんご)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの19番目で、前は辛巳、次は癸未である。陰陽五行では、十干の壬は陽の水、十二支の午は陽の火で、相剋(水剋火)である。.
壬申
壬申(みずのえさる、じんしん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの9番目で、前は辛未、次は癸酉である。陰陽五行では、十干の壬は陽の水、十二支の申は陽の金で、 相生(金生水)である。.
大宝 (日本)
大宝(たいほう、だいほう、正字体:大寶)は、日本の元号のひとつで慶雲の前。701年 - 704年の期間を指す。この時代の天皇は文武天皇。 大宝年間には完成した大宝律令が施行され、都城としての藤原京や遣唐使派遣ならび、元号制定も律令国家成立の一環として行われた。『日本書紀』に拠れば、大宝以前にも大化(645年 - 650年)、白雉(650年 - 654年)、1年だけ存在した朱鳥(686年)などの年号があったとされるが、日本における元号制度は断絶状態にあり、「大宝」の改元により元号使用は再開される。以降、元号制度は途切れることなく現在に至るまで続いている。.
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天平
天平(てんぴょう)は、日本の元号の一つ。神亀の後、天平感宝の前。729年から749年までの期間を指す。この時代の天皇は聖武天皇。 奈良時代の最盛期にあたるため、東大寺、唐招提寺などに残るその時代の文化を天平文化と呼ぶことが多い。.
天平勝宝
天平勝宝(てんぴょうしょうほう、正字体:天平勝寶)は、日本の元号の一つ。天平感宝の後、天平宝字の前。749年から757年までの期間を指す。この時代の天皇は孝謙天皇。 天平勝宝7年1月4日、勅命により「年」が「歳」に改められた。このため以後は、天平勝宝七歳・天平勝宝八歳・天平勝宝九歳と表記されたが、天平宝字へ改元した際に「歳」を「年」へ復している。.
天平感宝
天平感宝(てんぴょうかんぽう、正字体:天平感寶)は、日本の元号の一つ。天平の後、天平勝宝の前。日本で初めて使われた四文字年号でもある。この時代の天皇は聖武天皇。 749年のことであるが、同年のうちに天平勝宝に改元されたため、後に書かれた書物では天平感宝の元号が使われることはない。『正倉院文書』や木簡には「天感」「感宝」と省略されている例が見られる。.
天皇
天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.
天皇陵
大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵) 天皇陵(てんのうりょう)は、天皇の墓。.
天然痘
天然痘(てんねんとう、smallpox)は、天然痘ウイルス(Variola virus)を病原体とする感染症の一つである。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。疱瘡の語は平安時代、痘瘡の語は室町時代、天然痘の語は1830年の大村藩の医師の文書が初出である。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残す。天然痘は世界で初めて撲滅に成功した感染症である。1805年にはナポレオンが、全軍に種痘を命じた。以降は羊毛の流通に乗って発疹チフスが猛威をふるった。.
天武天皇
天皇系図38~50代 天武天皇(てんむてんのう、? - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。.
天智天皇
天智天皇(てんじてんのう/てんぢてんのう、推古天皇34年(626年) - 天智天皇10年12月3日(672年1月7日))は、第38代天皇(在位:天智天皇7年1月3日(668年2月20日) - 10年12月3日(672年1月7日))。和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる。.
太上天皇
太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)とは、譲位により皇位を後継者に譲った天皇の尊号、または、その尊号を受けた天皇。由来は、中国の皇帝が位を退くと「太上皇」と尊称されたことにあるとされる。元々は譲位した天皇が自動的に称する尊号であったが、嵯峨天皇の譲位以降は新天皇から贈られる尊号に変化した。 略称は「上皇」である。また、出家した太上天皇を、「太上法皇(法皇)」と称する。ただし、これは法的な根拠のある身位ではなく、太上法皇も太上天皇に含まれる。また、太上法皇の称号が用いられた初例は宇多法皇とされており、聖武上皇や清和上皇などそれ以前の退位後に出家した太上天皇には太上法皇(法皇)を用いるのは正確な表現ではない。 「院」とも称され、太上天皇が治天の君として政務を執った場合、その政治を院政という(太上天皇がみな院政をしいた訳ではない)。三宮(后位)と合わせて「院宮」といい、更に、皇族や有力貴族を含めた総称を「院宮王臣家」といった。院の御所が仙洞御所と呼ばれたことから、「仙洞」も上皇の謂として用いられる。.
太政大臣
太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.
夫人
夫人(ふじん、ぶにん).
外戚
外戚(がいせき)とは、皇帝、王の母親または妃の一族のことである。.
奈良市
奈良市(ならし)は、日本の奈良県の北部に位置する市で、同県の県庁所在地である。中核市に指定されている。.
奈良県
奈良県(ならけん)は、日本の都道府県の一つ。本州中西部、紀伊半島内陸部、近畿地方の中南部に位置する県である。 令制国の大和国の領域を占め、県庁所在地は奈良市。北西部の盆地部を除き、険しい山々がそびえている。都道府県面積は全国で8番目に狭く内陸8県では最も狭いが、最小の香川県の約2倍でもある。.
奈良時代
奈良時代(ならじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つで、平城京(奈良)に都が置かれた時代である。平城時代(へいじょうじだい)ともいう。日本仏教による鎮護国家を目指して、天平文化が花開いた時代である。.
奉先寺
奉先寺(ほうせんじ)は、中国の洛陽郊外、龍門最大の規模をほこる寺院である。 本尊である大仏の仏座の北側に、唐の玄宗・開元10年(722年)に補刻された「河洛上都龍門之陽大盧舎那像龕記」碑の碑文の記述によれば、大仏龕は高宗の時の創建であるという。 大仏の肉髻から仏座までの高さが17.14m、向背まで含めると約20m。仏龕の東西の深さが38.7m、南北の広さが33.5mである。 碑記によれば、咸亨3年(672年)に、皇后の武氏が脂粉銭20,000貫を施助し、上元2年(675年)に完成したという。さらに、調露元年(679年)に、勅を奉じて大像龕の南に大奉先寺を置き、翌年の正月に、高宗が寺額を書した、と続いている。 その本尊の面貌は、武皇后、のちの則天武后のそれを写したという説がある。また、造営の責任者は、中国浄土教の祖の一人である善導であった。 Category:中国の寺 Category:唐朝 Category:洛陽市 Category:中華人民共和国の世界遺産 Category:仏教建築物の世界遺産 Category:洛陽の歴史 Category:7世紀の建築物 Category:河南省の建築物.
姪娘
姪娘(めいのいらつめ、生没年不詳)は、蘇我倉山田石川麻呂の娘。 天智天皇の妃となり、御名部皇女と阿閇皇女(後の元明天皇)を生む。姉には、同じく天智天皇の妃となった遠智娘がいる。同じ天智天皇の妃となった、蘇我赤兄の娘常陸娘・天武天皇に嫁いだ大蕤娘姉妹とは従姉妹にあたる。 姉の死後は、自身の2人の娘とともに、姉の遺した2人の皇女も一緒に育てたといわれる。そのため、姉の子供である鸕野讃良皇女(持統天皇)は、のちに、我が子草壁の妃に姪娘の娘の阿陪皇女(元明天皇)を、草壁の死後、片腕となった高市皇子の妃に御名部皇女を迎えた。.
孝謙天皇
孝謙天皇(こうけんてんのう)、重祚して称徳天皇(しょうとくてんのう;稱德天皇、養老2年(718年) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日))は、日本の第46代・第48代天皇。 在位期間は、孝謙天皇として天平勝宝元年7月2日(749年8月19日) - 天平宝字2年8月1日(758年9月7日)、称徳天皇として天平宝字8年10月9日(764年11月6日) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日)。 父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。即位前の名は「阿倍内親王」。生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られている。『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)」とも称された。 史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代明正天皇(在位:1629年 - 1643年)に至るまで、850余年、女帝が立てられることはなかった。.
宮中三殿
宮中三殿(きゅうちゅうさんでん)は、皇居にある、賢所(かしこどころ、けんしょ)、皇霊殿(こうれいでん)、神殿(しんでん)の総称。吹上御苑の東南にある。.
宮内庁
宮内庁(くないちょう、Imperial Household Agency)は、日本の行政機関の一つである。 「皇室関係の国家事務、天皇の国事行為にあたる外国の大使・公使の接受に関する事務、皇室の儀式に係る事務をつかさどり、御璽・国璽を保管する内閣府の機関」である。 なお、宮内庁はかつて総理府の外局」であったが、現在は内閣府の外局(内閣府設置法第49条・第64条)ではなく「内閣府に置かれる独自の位置づけの機関」とされている(内閣府設置法48条)。官報の掲載では内閣府については「外局」ではなく「外局等」として宮内庁を含めている。.
宸翰
嵯峨天皇宸翰 光定戒牒(延暦寺) 後宇多天皇宸翰御手印遺告(大覚寺) 高倉天皇宸翰消息(仁和寺) 後嵯峨天皇宸翰消息(仁和寺) 宸翰(しんかん)は、天皇自筆の文書のこと。宸筆(しんぴつ)、親翰(しんかん)ともいう。鎌倉時代以降、室町時代までの宸翰を特に宸翰様と呼ぶ。中世以前の天皇の真跡で現存するものは数が少なく、国宝や重要文化財に指定されているものが多い。.
宇佐八幡宮神託事件
宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)は、奈良時代の神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮より称徳天皇(孝謙天皇)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、弓削道鏡が天皇位を得ようとしたとされ、紛糾が起こった事件。道鏡事件とも呼ばれる。同年10月1日(11月7日)に称徳天皇が詔を発し、道鏡には皇位は継がせないと宣言したため、事件の決着がついた。.
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安禄山
安 禄山(あん ろくざん)は、唐代の軍人、大燕国皇帝。本姓は康で、康国(サマルカンド)出身のソグド人と突厥系の混血。「禄山」はソグド語の「ロクシャン(rwxšn/roxš(a)n 明るい・光の意味)」の音訳。唐の玄宗に対し安禄山の乱(安史の乱)を起こし、大燕皇帝に即位したが、最後は次男の安慶緒に殺害された。.
安積親王
安積親王(あさかしんのう、神亀5年(728年) - 天平16年閏1月13日(744年3月7日))は、奈良時代の皇族。聖武天皇の第2皇子。母は県犬養広刀自。.
尊号
尊号(そんごう)とは、君主およびその祖先とその一族、貴族や高僧など、その国家や社会においてその遺徳の顕彰や哀悼の祈念を込めて贈られる尊称のこと。.
崩御
崩御(ほうぎょ)は、天皇、皇帝、国王、太皇太后、皇太后、皇后、君主等の死亡を表す敬語。.
己卯
己卯(つちのとう、きぼう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの16番目で、前は戊寅、次は庚辰である。陰陽五行では、十干の己は陰の土、十二支の卯は陰の木で、相剋(木剋土)である。.
己巳
己巳(つちのとみ、きし)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの6番目で、前は戊辰、次は庚午である。陰陽五行では、十干の己は陰の土、十二支の巳は陰の火で、相生(火生土)である。.
己丑
己丑(つちのとうし、きちゅう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの26番目で、前は戊子、次は庚寅である。陰陽五行では、十干の己は陰の土、十二支の丑は陰の土で、比和である。.
丁卯
丁卯(ひのとう、ていぼう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの4番目で、前は丙寅、次は戊辰である。陰陽五行では、十干の丁は陰の火、十二支の卯は陰の木で、相生(木生火)である。.
丁丑
丁丑(ひのとうし、ていちゅう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの14番目で、前は丙子、次は戊寅である。陰陽五行では、十干の丁は陰の火、十二支の丑は陰の土で、相生(火生土)である。.
丁亥
丁亥(ひのとい、ていがい)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの24番目で、前は丙戌、次は戊子である。陰陽五行では、十干の丁は陰の火、十二支の亥は陰の水で、相剋(水剋火)である。.
不破内親王
不破内親王(ふわないしんのう、生没年不詳)は、奈良時代から平安時代初期にかけての皇族。聖武天皇の皇女。母は夫人・県犬養広刀自。光仁天皇の皇后・井上内親王の同母妹。.
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中西進
文化勲章受章に際して文部科学省より公表された肖像写真 中西 進(なかにし すすむ、1929年8月21日 - )は、日本文学者、比較文学者、万葉学者、奈良県立万葉文化館名誉館長、池坊短期大学学長、国際日本文化研究センター・京都市立芸術大学・大阪女子大学各名誉教授、高志の国文学館館長。.
中臣御食子
中臣 御食子(なかとみ の みけこ、生没年不詳)は、飛鳥時代の貴族。名は彌気、美気古とも記される。中臣可多能祜の長男。冠位は小徳冠。中臣氏第一門の祖。.
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丙子
丙子(ひのえね、へいし)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの13番目で、前は乙亥、次は丁丑である。陰陽五行では、十干の丙は陽の火、十二支の子は陽の水で、相剋(水剋火)である。.
丙寅
丙寅(ひのえとら、へいいん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの3番目で、前は乙丑、次は丁卯である。陰陽五行では、十干の丙は陽の火、十二支の寅は陽の木で、相生(木生火)である。.
丙戌
丙戌(ひのえいぬ、へいじゅつ)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの23番目で、前は乙酉、次は丁亥である。陰陽五行では、十干の丙は陽の火、十二支の戌は陽の土で、相生(火生土)である。.
干支
干支(かんし、えと、中国語:干支、ピンイン:gānzhī)は、十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞。暦を始めとして、時間、方位などに用いられる。六十干支(ろくじっかんし)、十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)ともいう。.
平城宮
大極殿(復元) 平城宮(へいぜいきゅう、へいじょうきゅう)は奈良の古都平城京の大内裏。1998年(平成10年)12月、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産に登録された(考古遺跡としては日本初)。.
平城京
平城宮跡 平城京(へいじょうきょう/へいぜいきょう)は、奈良時代の日本の首都。唐の都「長安」や北魏洛陽城などを模倣して建造されたとされ、現在の奈良県奈良市及び大和郡山市近辺に位置していた。.
平安京
平安京復元模型写真(大内裏付近) 平安京(へいあんきょう/たいらのみやこ)は、延暦13年10月22日(西暦794年11月22日)から、一説には明治2年(1869年)まで日本の首都であった都市である。平安城ともいい、桓武天皇によって長岡京からの遷都地に選ばれ、唐の首都長安城に倣って計画都市として建設された。現在の京都府京都市・京都市街であり、当時の街路をほぼそのままに主要都市として現存している。明治2年(1869年)に政府(太政官)が東京(旧江戸)に移転して首都機能を失った。平安京が置かれてから鎌倉幕府が成立するまでの約400年間を日本史では「平安時代」という。.
年齢
年齢(ねんれい)とは、出生からの経過時間を年単位で表したものをいう。齢(よわい)とも呼ばれる。.
乙丑
乙丑(きのとうし、いっちゅう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの2番目で、前は甲子、次は丙寅である。陰陽五行では、十干の乙は陰の木、十二支の丑は陰の土で、相剋(木剋土)である。.
乙亥
乙亥(きのとい、いつがい)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの12番目で、前は甲戌、次は丙子である。陰陽五行では、十干の乙は陰の木、十二支の亥は陰の水で、相生(水生木)である。.
乙酉
乙酉(きのととり、いつゆう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの22番目で、前は甲申、次は丙戌である。陰陽五行では、十干の乙は陰の木、十二支の酉は陰の金で、相剋(金剋木)である。.
庚午
庚午(かのえうま、こうご)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの7番目で、前は己巳、次は辛未である。陰陽五行では、十干の庚は陽の金、十二支の午は陽の火で、相剋(火剋金)である。.
庚辰
庚辰(かのえたつ、こうしん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの17番目で、前は己卯、次は辛巳である。陰陽五行では、十干の庚は陽の金、十二支の辰は陽の土で、相生(土生金)である。.
井上内親王
井上内親王(いのえないしんのう/いがみないしんのう、養老元年(717年) - 宝亀6年4月27日(775年5月30日))は、第45代聖武天皇の第1皇女。母は夫人県犬養広刀自。伊勢斎王、のち第49代光仁天皇の皇后。別名井上廃后、吉野皇后。.
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仏教
仏教寺院 仏教(ぶっきょう、旧字体:佛敎、サンスクリット:बौद्धधर्मः 、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、もしくはガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。キリスト教・イスラム教と並んで、日本では出版点数の多い宗教の一つに数えられる。仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである。 その教義は、苦しみの輪廻から解脱することを目指している。原因と結果の理解に基づいており、諸々の現象が縁起するとされる。 仏教は仏、その教えである法、その実践者である僧からなる三宝を中心に組織されている。実践における戒定慧の三学は、戒律、心を集中する禅定、ものごとの縁起を観察する智慧であり、後ろ二つは併せて止観とも呼ばれる仏教の瞑想法である。実践にて重要となる能力は六波羅蜜や八正道のように、いくつかの方法でまとめらている。 紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、今では初期仏教として研究されている。釈迦は、他の苦行などの実践者の主張であるアートマン(真我)の存在を否定して無我とした。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、大きく大衆部と上座部とに、さらに細かく分かれたが、今なお大きな勢力として続いているのは南伝した上座部仏教であり、初期の教えを模範としている。紀元前の終わりごろには北伝し日本にも伝わることになる大乗仏教が開始され、教義や団体は多彩に発展しており、禅の瞑想法の様々、チベットや日本の真言宗に残る密教、一方で浄土信仰のような信仰形態の変化など多様である。『日本書紀』によれば仏教が伝来したのは飛鳥時代552年(欽明天皇13年)である(日本の仏教)。.
他戸親王
他戸親王(おさべしんのう、天平宝字5年(761年)? - 宝亀6年4月27日(775年6月3日)は、奈良時代末期の皇族・皇太子。父は光仁天皇(当時は白壁王)、母は井上内親王。聖武天皇の外孫にあたる。 『水鏡』の年齢記事によれば「宝亀三(772年)十二(歳)になる」とあり、逆算すれば生年は天平宝字5年となる。この場合母親の井上内親王が45歳の時の子となってしまい年齢が不自然であるとして、水鏡の記事は「二十二(歳)」の間違いとして天平勝宝3年(751年)とする説がある。だが、称徳天皇亡き後に最も皇位に近い立場にいた筈の他戸親王の『続日本紀』における初出が、父・光仁天皇の即位後であること(つまり称徳朝における記録が存在しない)や姉の酒人内親王も井上内親王が37歳の時の子であることを考えた場合、当時でも稀な高齢出産があった可能性も排除出来ない。このため、本項では天平宝字5年説で解説する。.
伊勢国
伊勢国(いせのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
後宮
後宮(こうきゅう)は、皇帝や王などの后妃が住まう場所。日本では、平安京内裏の七殿五舎、江戸城大奥が該当する。 一般的に、後宮は男子禁制というイメージがあるが、日本の内裏では必ずしもそうではなく、平安時代中期に書かれたとされる『源氏物語』や『枕草子』といった物語や随筆では殿上人のうちでも家族や親しい人間は頻繁に出入りしていたように描写されている。平安時代には天皇やそのきさきの側に控えた女房と呼ばれる女性たちが、内裏を舞台とした内容の宮廷文学を生み出したことはよく知られている(それらが書かれた場所が後宮であったとは限らない。実家などに戻った際に書いたものとされることもある)。ただし、平安末から鎌倉時代頃から徐々に男子禁制の場となり、江戸時代においては男性が入る余地はなくなってしまっていた。江戸時代の江戸城大奥は、完全な男性禁制の場であり、火事など緊急時以外の男性の出入りは厳しく制限された。 男子禁制をとっているのはオスマン帝国などのイスラム諸王朝や中国などであり、去勢された宦官が、家政一般にあたった。これに対して日本では、宦官は置かれずに宮人とも呼ばれる女官が発達して女性たちによって秩序が維持された。 また、後宮を意味するハレム(harem)は、オスマン帝国の後宮がそう呼ばれていたところから来ている。.
後嵯峨天皇
後嵯峨天皇(ごさがてんのう、承久2年2月26日(1220年4月1日) - 文永9年2月17日(1272年3月17日))は、鎌倉時代の第88代天皇(在位:仁治3年1月20日(1242年2月21日) - 寛元4年1月29日(1246年2月16日))。諱は邦仁(くにひと)。 土御門天皇の皇子。母は、源通宗の娘、通子。.
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律令制
律令制(りつりょうせい)は、律令に基づく制度のこと。主に古代東アジアで見られた中央集権的な統治制度であるといわれることもあるが、唐制に倣った体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである山内昌之・古田博司。日本では律令制または律令体制や律令国家と呼ばれるが、中国にはこのような呼称は存在しない菊池秀明p8 (日中歴史共同研究報告書 p153)。中国において「律令」という言葉は秦から明まで長期にわたって使われており、その間にその内容や位置づけは大きな変遷をみている。そのため、日本の律令制の直接的モデルとなった隋や唐の国家体制をもって「律令制」と定義することは、中国の律令の変遷の実情を無視することとなり、また秦から明までのおよそ1800年間(律のみ存在した清も加えれば2100年間)の制度を一括りにすることにはあまり意味がないとする考えもある廣瀬薫雄『秦漢律令研究』2010年、汲古書院、第一部第一章「律令史の時代區分について」。.
ユリウス暦
ユリウス暦(ユリウスれき、、、)は、共和政ローマの最高神祇官・独裁官・執政官ガイウス・ユリウス・カエサルにより紀元前45年1月1日から実施された、1年を365.25日とする太陽暦である。もともとは共和政ローマおよび帝政ローマの暦であるが、キリスト教の多くの宗派が採用し、西ローマ帝国滅亡後もヨーロッパを中心に広く使用された。 ローマ教皇グレゴリウス13世が1582年、ユリウス暦に換えて、太陽年との誤差を修正したグレゴリオ暦を制定・実施したが、今でもグレゴリオ暦を採用せずユリウス暦を使用している教会・地域が存在する。グレゴリオ暦を導入した地域では、これを新暦(ラテン語: Ornatus)と呼び、対比してユリウス暦を旧暦と呼ぶことがある。 なお、天文学などで日数計算に用いられるユリウス通日があるが、これはユリウス暦とは全く異なるものである。.
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和銅
和銅(わどう)は、日本の元号のひとつで慶雲の後、霊亀の前。708年から715年までの期間を指す。この時代の天皇は女帝元明天皇である。.
グレゴリオ暦
レゴリオ暦(グレゴリオれき、、、)は、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ、1582年10月15日(グレゴリオ暦)から行用されている暦法である。現行太陽暦として世界各国で用いられている。グレゴリオ暦を導入した地域では、ユリウス暦に対比して新暦()と呼ばれる場合もある。紀年法はキリスト紀元(西暦)を用いる。 大辞林 第三版、など。、暦法と紀年法とが混同されている。--> グレゴリオ暦の本質は、平年では1年を365日とするが、400年間に(100回ではなく)97回の閏年を置いてその年を366日とすることにより、400年間における1年の平均日数を、365日 + (97/400)日.
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唐
唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.
出家
出家(しゅっけ、pabbajja、pravrajyaa、प्रव्रज्या) とは、師僧から正しい戒律である『沙弥戒』や『具足戒』を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教に入ることである。落飾(らくしょく)ともいう。対義語は還俗(げんぞく、“俗界に還る”の意)。 在家(ざいけ)と対比される。インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行にいそしんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、釈迦もその沙門の1人であった。 仏教における出家の伝統はこれに由来する。仏教教団において剃髪(ていはつ)して袈裟を被い、「正式に受戒(じゅかい)して入門した沙弥や沙弥尼」になることを言うが、その後、「具足戒を受けて正規の僧となった比丘や比丘尼」を呼ぶ場合にも使う。.
八幡神
八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)は、日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、神社内に神宮寺が作られた。.
元号
元号(げんごう)とは、日本を含むアジア東部における紀年法の一種。特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は一年の途中でも行われ、一年未満で改元された元号もある。日本においては年号(ねんごう)とも呼ばれることもある。公称としては、江戸時代まで「年号」が多く使われ、明治時代以降は一世一元の制が定着し、「元号」が法的用語となった。現代では元号法が制度の裏付けとなっている。.
元正天皇
元正天皇(げんしょうてんのう、天武天皇9年(680年) - 天平20年4月21日(748年5月22日))は日本(奈良時代)の第44代天皇。女帝(在位:霊亀元年9月2日(715年10月3日) - 養老8年2月4日(724年3月3日))。父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇。文武天皇の姉。諱は氷高(ひたか)・日高、又は新家(にいのみ)。和風諱号は日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたまみずきよたらしひめのすめらみこと)である。日本の女帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。.
元服
元服(げんぶく、げんぷく)とは、奈良時代以降の日本で成人を示すものとして行われた儀式。通過儀礼の一つである。 「元」は首(=頭)、「服」は着用を表すので、「頭に冠をつける」という意味。加冠とも初冠(ういこうぶり)とも言われる。なお、公家の女子の成人式は裳着(もぎ)と言う。民間においては褌親(へこおや・ふんどしおや)の元で、初めてふんどしを付け、性に関する知識を授かる褌祝(ふんどしいわい)と呼ばれる儀式がある。.
元明天皇
元明天皇(げんめいてんのう、斉明天皇7年(661年) - 養老5年12月7日(721年12月29日))は、日本(飛鳥時代 - 奈良時代)の第43代天皇。女帝(在位:慶雲4年7月17日(707年8月18日) - 和銅8年9月2日(715年10月3日))。名は阿閇皇女(あへのひめみこ)。阿部皇女とも。和風諡号は「日本根子天津御代豊国成姫天皇」(やまと ねこ あまつみよ(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと、旧字体:−豐國成姬−)である。 天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)。持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文天皇)は異母兄。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母。 藤原京から平城京へ遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。.
光仁天皇
光仁天皇(こうにんてんのう、和銅2年10月13日(709年11月18日) - 天応元年12月23日(782年1月11日))は、第49代天皇(在位:宝亀元年10月1日(770年10月23日) - 天応元年4月3日(781年4月30日))。和風諡号は「天宗高紹天皇」(あまつむねたかつぎのすめらみこと)。天智天皇の第7皇子・施基親王(志貴皇子)の第6子で白壁王と称した。母は紀橡姫(贈太政大臣紀諸人の娘)。.
光明皇后
光明皇后(こうみょうこうごう、大宝元年(701年) - 天平宝字4年6月7日(760年7月27日))は、奈良時代の聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養橘三千代の女子で、聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉。諱は安宿媛(あすかべひめ)。通称に光明子(こうみょうし)、藤三娘(とうさんじょう)。 正式な尊号は天平応真仁正皇太后(てんぴょう おうしん にんしょう こうたいごう)。皇族以外から立后する先例を開いた。.
国分寺
国分寺(こくぶんじ)は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれる。 正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」。なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられた。.
皇后
皇后(こうごう、Empress)は、天皇や皇帝の正妃(正妻)、およびその人物に与えられる称号。 一夫多妻制のもとでは、天皇や皇帝の複数の妻のうち最上位の者となる。.
皇子
皇子(みこ、おうじ)は、皇帝または天皇の男子。広義には男女を問わない(皇室典範第6条参照)が、かかる用法はまれである。国によって「親王」「郡王」「王」「大公」などの称号が与えられることがある。これに対して女子を皇女(おうじょ)という。.
皇居
皇居の正門石橋(この奥に正門鉄橋(通称二重橋が架かる) 皇居(こうきょ)は、天皇の平常時における宮殿・住居である。現在は東京都千代田区にある。「皇居」の呼称が広く用いられるようになったのは現在の皇居からである。.
皇族
女王旗)皇室儀制令19条では「親王旗親王妃旗内親王旗王旗王妃旗女王旗」。 皇族(こうぞく)は、天皇の親族のうち、男系の嫡出の血族(既婚の女子を除く)およびその配偶者の総称。すなわち、皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃および女王の総称であり、天皇は含まれない。天皇を含む場合は「皇室」という。.
知識 (仏教)
知識(ちしき・智識)とは、仏教の信者が善業を積み重ねるために寺院や仏像の建立や維持、写経や福祉などの事業のために金品などを寄進すること。また、寄進者や寄進物を指す場合もある。.
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神亀
亀(じんき、しんき、正字体:神龜)は、日本の元号の一つ。養老の後、天平の前。724年から729年までの期間を指す。この時代の天皇は聖武天皇。.
神仏習合
仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が混淆し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。明治維新に伴う神仏判然令以前の日本は、1000年以上「神仏習合」の時代が続いた。.
空海
海(くうかい、宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日(835年4月22日))は、平安時代初期の僧。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号(921年、醍醐天皇による)で知られる真言宗の開祖である。俗名(幼名)は佐伯 眞魚(さえき の まお)。日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。.
立太子
立太子(りったいし)は、広く東アジアにおいて広まった儀礼で、日本の天皇・中国の皇帝の皇子等を跡継ぎとして太子に立てることである。また、日本においてはこの概念が定着していることから、ヨーロッパの王家に対しても、「立太子」の語を用いることがある。.
紫香楽宮
紫香楽宮(しがらきのみや、信楽宮)は、奈良時代に聖武天皇が近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)に営んだ離宮。のちに「甲賀宮(こうかのみや)」とも。.
続日本紀
『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記である。略称は続紀(しょっき)。.
美濃国
美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.
県犬養三千代
養 三千代(あがた(の)いぬかい の みちよ、天智天皇4年(665年)? - 天平5年1月11日(733年2月4日))は、奈良時代前期の女官。橘三千代ともいう。.
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県犬養広刀自
養広刀自(あがたのいぬかい の ひろとじ、? - 762年11月8日(天平宝字6年10月14日))は、奈良時代中期の女性。聖武天皇の夫人。正三位。.
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甲子
子(きのえね、こうし、かっし)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの1番目で、前は癸亥、次は乙丑である。陰陽五行では、十干の甲は陽の木、十二支の子は陽の水で、相生(水生木)である。下記の通り固有名詞としては、「甲子」の字でさまざまな呼び方がなされる。.
甲申
申(きのえさる、こうしん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの21番目で、前は癸未、次は乙酉である。陰陽五行では、十干の甲は陽の木、十二支の申は陽の金で、相剋(金剋木)である。.
甲戌
戌(きのえいぬ、こうじゅつ)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの11番目で、前は癸酉、次は乙亥である。陰陽五行では、十干の甲は陽の木、十二支の戌は陽の土で、相剋(木剋土)である。.
牟漏女王
牟漏女王(むろ の おおきみ、生年不詳 - 天平18年1月27日(746年2月21日))は、日本の皇族。敏達天皇系皇親である美努王と県犬養三千代の娘。藤原房前の室。橘諸兄・橘佐為の同父母妹。光明皇后の異父姉。無漏女王とも。.
癸酉
酉(みずのととり、きゆう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの10番目で、前は壬申、次は甲戌である。陰陽五行では、十干の癸は陰の水、十二支の酉は陰の金で、相生(金生水)である。.
癸未
未(みずのとひつじ、きび)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの20番目で、前は壬午、次は甲申である。陰陽五行では、十干の癸は陰の水、十二支の未は陰の土で、相剋(土剋水)である。.
鎌倉時代
伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).
遠智娘
遠智娘(おちのいらつめ、生没年不詳)は、飛鳥時代の豪族蘇我氏の蘇我倉山田石川麻呂(蘇我入鹿のいとこ)の娘。またの名を造媛、美濃津子娘とも伝えられている。 遅くとも、大化の改新以前(644年という説有り)に中大兄皇子(後の天智天皇)に嫁した。妹に姪娘がおり、同じく中大兄皇子に嫁して御名部皇女と阿陪皇女(後の元明天皇)の二女を産む。同じ天智天皇に嫁いだ蘇我赤兄の娘、常陸娘と天武天皇に嫁いだ大蕤娘とは従姉妹にあたる。 当時、彼女は古人大兄皇子の娘で天智天皇の皇后である倭姫王に次ぐ高貴な血筋の夫人であった。649年(大化5年)、父蘇我倉山田石川麻呂が謀反の密告をされて自害。この事件は夫である中大兄皇子の陰謀であるという説が有力である。享年は定かではないが、建皇子を産んで間もなく亡くなったとの説が多い。.
遷都
遷都(せんと)は、都(みやこ)を他所へうつす(遷す)こと広辞苑 第五版。、都を替えることを意味する漢字文化圏の語。日本語では古くは都遷り大辞林 第三版。/都移り(みやこうつり)とも言った。反対に、かつて都であった場所に都を戻す(還す)ことは還都(かんと)と言い(cf. #還都の一覧)、日本語では古くは都還り(みやこがえり)とも言った。ただし、日本語に限っては、還都は遷都と同義で用いられることもある。現代では、首都機能の全部もしくは重要な一部を他に遷すことを指して首都機能移転という語も用いられる(後述)。.
聖武天皇社
聖武天皇社(しょうむてんのうしゃ)は、三重県四日市市大字松原小字畑屋に所在する神社。最寄駅はJR富田駅。富洲原地区の一つの松原地区の氏子大社であり、氏神として聖武天皇を祀っている。松原の石取祭が行われていて、鎌倉時代に創建された神社である。.
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道祖王
道祖王(ふなどおう、生年不詳 - 天平勝宝9歳7月4日(757年7月24日))は、奈良時代の皇族。天武天皇の孫で、一品・新田部親王の子。.
道鏡
道鏡(どうきょう、文武天皇4年(700年)? - 宝亀3年4月7日(772年5月13日))は、奈良時代の僧侶。俗姓は弓削氏(弓削連)で、弓削櫛麻呂の子とする系図がある。俗姓から、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも呼ばれる。.
草壁皇子
草壁皇子(くさかべのみこ(おうじ)、天智天皇元年(662年) - 持統天皇3年4月13日(689年5月7日)は、飛鳥時代の皇族。天武天皇と皇后・鸕野讃良皇女(後の持統天皇)の皇子。妃は天智天皇の皇女で持統天皇の異母妹である阿陪皇女(後の元明天皇)。元正天皇・吉備内親王・文武天皇の父。諡号は岡宮御宇天皇(おかのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと、おかのみやぎょうてんのう)。岡宮天皇、長岡天皇とも称される。 天皇系図38~50代.
行基
行基(ぎょうき/ぎょうぎ、天智天皇7年(668年) - 天平21年2月2日(749年2月23日)『大僧正舎利瓶記』、奈良時代の日本の僧。寺と僧侶を広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。そして行基集団を形成し、道場や寺院を49院、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、国家機関と朝廷が定めそれ以外の直接の民衆への仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。.
行幸
行幸(ぎょうこう、みゆき)とは、天皇が外出することである。目的地が複数ある場合は特に巡幸(じゅんこう)と言う。 また、御幸(ごこう、ぎょこう、みゆき)と言う場合もあるが、これは上皇・法皇・女院に対しても使う。.
行信
行信(ぎょうしん、生没年不詳)は、奈良時代の僧。 738年(天平10年)律師に任じられ、この頃から法隆寺東院の復興に尽力。748年(天平20年)大僧都として諸寺資財帳に署名している。750年(天平勝宝2年)に没したという所伝があるが、その後も生存していたことを示す資料もあり、754年(天平勝宝6年)厭魅(まじないで呪い殺す)の罪により下野薬師寺に左遷された薬師寺の行信と同一人物と見る説もある。没後に完成した神護景雲元年(=767年)九月の跋(あとがき)を持つ「行信発願経」が法隆寺に残されている。 Category:奈良時代の僧 Category:栃木県の歴史 Category:生没年不詳.
飯沼賢司
飯沼 賢司(いいぬま けんじ、1953年 - )は、日本史学者、別府大学教授。専攻、日本古代中世史、環境歴史学、家族史。.
養老
養老(ようろう)は、日本の元号。霊亀の後、神亀の前。717年から724年までの期間を指す。この時代の天皇は元正天皇。.
詔
詔(みことのり)は、天皇の命令、またその命令を直接に伝える文書。御言宣、大御言。首都を移す「東京奠都の詔」などがその例である。これを文書にしたものを詔書(しょうしょ)(英:Imperial Rescript)と言う。主に、広く一般に天皇の意思を伝えるために用いられた。言葉としては秦の始皇帝が初めて造った。おおみせ、おおみこと、とも言う。.
諡
諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。.
講談社
株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.
譲位
譲位(じょうい)は、君主が生きている間に、その地位を後継者へ譲り渡す行為である。.
辛巳
辛巳(かのとみ、しんし)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの18番目で、前は庚辰、次は壬午である。陰陽五行では、十干の辛は陰の金、十二支の巳は陰の火で、相剋(火剋金)である。.
辛未
辛未(かのとひつじ、しんび)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの8番目で、前は庚午、次は壬申である。陰陽五行では、十干の辛は陰の金、十二支の未は陰の土で、相生(土生金)である。.
霊亀
霊亀(れいき、正字体:靈龜)は、日本の元号のひとつで和銅の後、養老の前。715年から717年までの期間を指す。この時代の天皇は元正天皇。.
鈴鹿王
鈴鹿王(すずかのおおきみ/ すずかおう、生年不詳 - 天平17年9月4日(745年10月3日))は、奈良時代の皇族。太政大臣・高市皇子の次男。官位は従二位・知太政官事。.
舒明天皇
舒明天皇(じょめいてんのう、推古天皇元年(593年)? - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))は、日本の第34代天皇(在位:舒明天皇元年1月4日(629年2月2日) - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))。 諱は田村(たむら)。 和風諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)。.
蘇我倉山田石川麻呂
SVGで表示(対応ブラウザのみ) 蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだ の いしかわまろ/そがのくらのやまだのいしかわ の まろ、生年不詳 - 大化5年3月25日(649年5月15日))は、飛鳥時代の豪族。 名称は「蘇我倉山田麻呂」「倉山田臣」「山田臣」「山田大臣」などとも。 蘇我馬子の子である蘇我倉麻呂の子であり、蘇我蝦夷は伯父、蘇我入鹿は従兄弟に当たる。兄弟に日向・赤兄・連子・果安。.
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閏
閏(うるう、じゅん)とは、暦において一年の日数や月数が普段の年(平年)よりも多いこと、または一日の秒数が普段の日よりも多いことをいう。またはその余分な日・月・秒のこと。.
開眼法要
開眼法要(かいげんほうよう)は、仏像、仏画、仏壇、墓などの完成の際に営まれる法要のこと。開眼供養、入魂式、魂入れとも言う。 例外として浄土真宗では、「開眼法要」・「入魂式」は営まない(詳細は#御移徙を参照)。.
藤原宮子
藤原 宮子(ふじわら の みやこ、? - 天平勝宝6年7月19日〈754年8月11日〉)は、文武天皇の夫人。藤原不比等の長女。母は賀茂比売。異母妹で聖武天皇の皇后光明皇后とは、義理の親子関係にも当たる。.
藤原不比等
藤原 不比等(ふじわら の ふひと)は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿。藤原鎌足の次男。文献によっては史(ふひと)と記されている場合もある。『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇の落胤と書かれる。諡号は文忠公、国公は淡海公。.
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藤原広嗣の乱
藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)は、奈良時代に起きた内乱。藤原広嗣が政権への不満から九州の大宰府で挙兵したが、官軍によって鎮圧された。.
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藤原仲麻呂
藤原 仲麻呂(ふじわら の なかまろ)は、奈良時代の公卿。名は仲麿『尊卑分脈』『公卿補任』または仲丸とも記される。淳仁朝以降は改姓・改名し藤原恵美押勝(ふじわらえみ の おしかつ)。左大臣藤原武智麻呂の次男。官位は正一位太師。恵美大臣とも呼ばれた。.
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藤原四兄弟
藤原四兄弟(ふじわらしきょうだい、ふじわらよんきょうだい)は、奈良時代前半の天平年間に政権を握った藤原不比等の4人の息子を指す歴史用語。藤原四子(ふじわらしし、ふじわらよんし)などとも呼ばれる。.
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藤原鎌足
中臣 鎌足(なかとみ の かまたり)のち藤原 鎌足(ふじわら の かまたり)は、飛鳥時代の政治家。日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖。 大化の改新の中心人物であり、改新後も中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いた。『藤氏家伝』には「偉雅、風姿特秀」と記されている。字は仲郎。.
藤原武智麻呂
藤原 武智麻呂(ふじわら の むちまろ)は、飛鳥時代から奈良時代前期にかけての貴族。藤原不比等の長男。藤原南家の祖。官位は正一位・左大臣、贈太政大臣。.
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藤原氏
藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.
藤原房前
藤原 房前(ふじわら の ふささき)は、飛鳥時代から奈良時代前期にかけての貴族。藤原不比等を父とする藤原四兄弟の次男で藤原北家の祖。官位は正三位・参議。贈正一位・太政大臣。.
鑑真
鑑真(がんじん、旧字体: 鑑眞、、 688年〈持統天皇2年〉 - 763年6月25日〈天平宝字7年5月6日〉)は、奈良時代の帰化僧。日本における律宗の開祖。俗姓は淳于。唐招提寺に安置されている国宝「鑑真和上像.
脚気
脚気(かっけ、beriberi)は、ビタミン欠乏症の一つであり、ビタミンB1(チアミン)の欠乏によって心不全と末梢神経障害をきたす疾患である。心不全によって足のむくみ、神経障害によって足のしびれが起きることから脚気と呼ばれる。心臓機能の低下・不全(衝心、しょうしん)を併発したときは、脚気衝心と呼ばれる。最悪の場合には死亡に至る。 日本では、白米が流行した江戸において疾患が流行したため「江戸患い」と呼ばれた。大正時代には、結核と並ぶ二大国民亡国病と言われた。1910年代にビタミンの不足が原因と判明し治療可能となったが、死者が1千人を下回ったのは1950年代である。その後も1970年代にジャンクフードの偏食によるビタミン欠乏、1990年代に点滴輸液中のビタミン欠乏によって、脚気患者が発生し問題となった。.
長屋王
長屋王(ながやおう/ ながやのおおきみ、天武天皇5年(676年)/天武天皇13年(684年)? - 神亀6年2月12日(729年3月16日))は、飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族。太政大臣・高市皇子の長男。官位は正二位・左大臣。 皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で自殺した。.
酒人内親王
酒人内親王(さかひとないしんのう、天平勝宝6年(754年) - 天長6年8月20日(829年9月25日))は、奈良時代から平安時代初期にかけての皇族。光仁天皇の皇女。母は皇后・井上内親王。伊勢斎王、のち桓武天皇妃。.
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難波京
難波京(なにわきょう、なにわのみやこ)は、古代日本において難波(現在の大阪府大阪市)の地に設営された都城である。飛鳥時代に宮が設置された(前期難波宮)が、京の存在は確認されていない。奈良時代に設置された宮(後期難波宮)と合わせて京として実質を伴ったとする見解が有力である。.
恭仁京
恭仁京(くにきょう/くにのみやこ)は、奈良時代の都城の1つ。山背国相楽郡(現在の京都府木津川市加茂地区)に位置する。正式名称は「大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)」。宮跡は山城国分寺跡と重複し、合わせて国の史跡に指定されている(指定名称は「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」)。.
東大寺
東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。 金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である。現別当(住職・222世)は狹川普文。 奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。 東大寺は1998年12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。.
東大寺盧舎那仏像
東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿(金堂)の本尊である仏像(大仏)。一般に奈良の大仏(ならのだいぶつ)として知られる。 聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われた。その後、中世、近世に焼損したため大部分が補作されており、当初に制作された部分で現在まで残るのはごく一部である。 「銅造盧舎那仏坐像」の名で彫刻部門の国宝に指定されている。 正式には大仏は「盧舎那仏坐像」、大仏殿は「金堂」というが、本項では以下「大仏」、「大仏殿」とする。また、文中の( )の年はユリウス暦、月日は全て和暦、宣明暦の長暦による。.
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桓武天皇
桓武天皇(かんむてんのう、天平9年(737年) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))は、日本の第50代天皇(在位:天応元年4月3日(781年4月30日) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))。.
森本公誠
森本 公誠(もりもと こうせい 1934年 - )は華厳宗の僧侶・イスラム学者。文学博士。 2004年から2007年まで第218世東大寺別当・華厳宗管長を務める。現在は東大寺長老。 長年にわたり仏教者の立場から国内外でイスラム教との交流を重ねてきた。.
橘古那可智
橘 古那可智(たちばな の こなかち、? - 天平宝字3年7月5日(759年8月21日))は、聖武天皇の夫人。正四位下中宮大夫橘佐為の娘。県犬養三千代の孫娘で、正一位左大臣橘諸兄の姪。橘夫人と呼ばれた。 天平9年(737年)2月に無位から従三位に叙せられており、この時期に聖武天皇の夫人となったと思われる。同時に父佐為も従四位上から正四位下に昇進している。天平21年(749年)4月、正三位から従二位に昇進した。その後、正二位に昇叙される。橘奈良麻呂の乱が起こった2ヵ月後の天平宝字元年(757年)閏8月、妹真都我や同族とともに橘氏を改めて広岡朝臣姓を賜った。天平宝字3年(759年)7月5日に薨去したが、このときは「夫人正二位広岡朝臣古那可智」と記載されている。聖武天皇との間に皇子女はいなかった。 仏教に篤く帰依し、天平14年(742年)2月に韓櫃などの調度を、また同18年(746年)5月に『薬師経』などをそれぞれ法隆寺に施入した。また天平勝宝4年(752年)4月の大仏開眼法会にも刀子・琥碧誦数を献じた。大和国添上郡広岡(奈良県奈良市法蓮町)にある普光寺は、古那可智が聖武天皇のために建立したといわれている。.
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橘佐為
橘 佐為(たちばな の さい)は、奈良時代前期から中期にかけての賜姓皇族、貴族。従四位下・美努王(三野王)の子。天平年間初頭に風流侍従の一人とされた狭井王と同一人物と想定される。.
橘諸兄
橘 諸兄(たちばな の もろえ)は、奈良時代の皇族・公卿。初名は葛城王(葛木王)で、臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となる。敏達天皇の後裔で、大宰帥・美努王の子。母は橘三千代で、光明子(光明皇后)は異父妹にあたる。官位は正一位・左大臣。井手左大臣または西院大臣と号する。初代橘氏長者。.
正倉院
正倉院正倉 正倉院(しょうそういん)は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿の北北西に位置する、校倉造(あぜくらづくり)の大規模な高床式倉庫。聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた建物で、1997年(平成9年)に国宝に指定され、翌1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。.
武則天
武 則天(ぶ そくてん)は、中国史上唯一の女帝。唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周朝を建てた。諱は照()。日本では則天武后(そくてんぶこう)と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。古来より「則天」と姓名をはっきりさせず呼ばれてきたが、現在の中国では姓を冠して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている。.
氷上川継
氷上 川継(ひがみ の かわつぐ)は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての貴族。天武天皇の曾孫で、中納言・氷上塩焼の子。.
氷上志計志麻呂
氷上 志計志麻呂(ひかみ の しけしまろ、生没年不詳)は、奈良時代の貴族。天武天皇の曾孫。中納言・氷上塩焼の子。母は聖武天皇の娘・不破内親王。.
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持統天皇
持統天皇(じとうてんのう、大化元年(645年) - 大宝2年12月22日(703年1月13日))は、天武天皇の皇后で、日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(称制:朱鳥元年9月9日(686年10月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日) - 持統天皇11年8月1日(697年8月22日))。諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年(703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』の養老4年(720年)に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある(なお『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは冒頭の第4の一書とこの箇所のみである)。漢風諡号、持統天皇は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から持統と名付けられたという。.
最澄
最澄像(能福寺) 哭澄上人詩(嵯峨天皇宸翰)(部分) 最澄(さいちょう)は、平安時代の僧(766/767年 - 822年)。日本の天台宗の開祖であり、伝教大師として広く知られる。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。生年に関しては天平神護2年(766年)説も存在する。 中国に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて天台宗の開祖となった。 先祖は後漢の孝献帝に連なる(真偽は不明)といわれる登萬貴王(とまきおう)なる人物で、応神天皇の時代に日本に渡来したといわれている。.
戊子
戊子(つちのえね・ぼし)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの25番目で、前は丁亥、次は己丑である。陰陽五行では、十干の戊は陽の土、十二支の子は陽の水で、相剋(土剋水)である。.
戊寅
戊寅(つちのえとら、ぼいん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの15番目で、前は丁丑、次は己卯である。陰陽五行では、十干の戊は陽の土、十二支の寅は陽の木で、相剋(木剋土)である。.
戊辰
戊辰(つちのえたつ、ぼしん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの5番目で、前は丁卯、次は己巳である。辰(龍)は、十二支で唯一の架空の動物。陰陽五行では、十干の戊は陽の土、十二支の辰は陽の土で、比和である。.
戒名
戒名(かいみょう)は、仏教において受戒した者に与えられる名前である。仏門に入った証であり、戒律を守るしるしとして与えられる。 上座部仏教と大乗仏教の両方で行われており、多くの場合、出家修道者に対して授戒の師僧によって与えられる。上座部では出家後に南伝仏典に残る阿羅漢に変名するため、その意味で「法名」と呼ぶ。 また、仏弟子として新たに身につける真の名前という意義から「法諱」(ほうい、ほうき)ともいった。 また日本においては、死生観の変化により死後に成仏するという思想のもと、故人に戒名を授ける風習が生れた。(「成仏#日本文化のなかでの「成仏」」を参照。)死後の戒名は、特に日本において盛んに行われている。寺に支払った金額によって戒名のランクが変化する。とは言うものの、故人の社会的地位始め社会貢献度、またお寺への貢献度などによるため、高額を払ったからといって、高い位の戒名をもらえるわけではない。 一般にカナ文字を用いないため、転じて、「漢字のみの縦書き文字列」の俗的表現として用いられることがあり、特に新聞・雑誌編集においてカナ文字を含まない見出しをこう称し、読者に不快感を催しかねない表現とされる。; 戒名を用いない宗旨.
明治
明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.
文武天皇
文武天皇(もんむてんのう、天武天皇12年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))は、日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))。 諱は珂瑠(かる)、軽(かる)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の707年(慶雲4年11月12日)に「倭根子豊祖父天皇」(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−豐祖父)と、『続日本紀』797年(延暦16年)に諡された「天之真宗豊祖父天皇」(あめの まむね とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−眞宗豐祖父)がある。 当時としては異例の14歳の若さで即位。祖母・持統太上天皇(史上初の太上天皇)のもとで政務を行っていた。後の院政形式の始まりである。.
斉明天皇
皇極天皇(こうぎょくてんのう)、重祚して斉明天皇(さいめいてんのう;齊明天皇、推古天皇2年(594年) - 斉明天皇7年7月24日(661年8月24日))は、日本の第35代・第37代天皇。 在位期間は、皇極天皇として皇極天皇元年1月15日(642年2月19日) - 4年6月14日(645年7月12日)、斉明天皇として斉明天皇元年1月3日(655年2月14日) - 7年7月24日(661年8月24日)。 舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母である。推古天皇から一代おいて即位した女帝(女性天皇)になる。.
日本
日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.
日本の書家一覧
日本の書家一覧(にほんのしょかいちらん)は、飛鳥時代から江戸時代までの書名のある人物(能書)を時代別に分類した一覧である。.
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改暦
改暦(かいれき)とは、.
慶雲
慶雲(けいうん、きょううん)は、日本の元号のひとつで大宝の後、和銅の前。704年から708年までの期間を指す。この時代の天皇は文武天皇、元明天皇。「慶雲」とは夕空に現れ瑞兆とされる雲で、蚊柱のこととも。大宝2年(702年)に崩御した持統天皇の葬儀などが済んだ大宝4年(704年)に藤原京において現れ、改元される。大宝年間に律令の編纂や都城の完成など律令国家建設の諸改革を果たし、同年には大宝の遣唐使が帰国。慶雲年間には、遣唐使の報告や実際に律令を施行した上での諸問題を是正する政治改革が行われた(慶雲の改革)。また、平城遷都も立案される。.
扶桑略記
『扶桑略記』第21巻 『扶桑略記』(ふそうりゃくき)は、平安時代の私撰歴史書。総合的な日本仏教文化史であるとともに六国史の抄本的役割を担って後世の識者に重宝された。 寛治8年(1094年)以降の堀河天皇代に比叡山功徳院の僧・皇円が編纂したとされるが、異説もある。全30巻より成り、このうち巻二~六、巻二十~三十の計16巻と、巻一及び巻七~十四の抄記が現存する。 内容は、神武天皇より堀河天皇の寛治8年(1094年)3月2日までの国史について、帝王系図の類を基礎に和漢年代記を書入れ、さらに六国史や『慈覚大師伝』などの僧伝・流記・寺院縁起など仏教関係の記事を中心に、漢文・編年体で記している。多くの典籍を引用していることは本書の特徴の一つであるが、その大半が今日伝存せず、出典の明らかでない記事も当時の日記・記録によったと思われる。『水鏡』・『愚管抄』など鎌倉時代の歴史書にもしばしば引用され、後世に与えた史的意義は大きい。.
10月3日
10月3日(じゅうがつみっか)はグレゴリオ暦で年始から276日目(閏年では277日目)にあたり、年末まであと89日ある。.
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1873年
記載なし。
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1907年
記載なし。
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1908年
記載なし。
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2012年
この項目では、国際的な視点に基づいた2012年について記載する。.
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2月4日 (旧暦)
旧暦2月4日(きゅうれきにがつよっか)は旧暦2月の4日目である。六曜は大安である。.
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3月3日
3月3日(さんがつみっか)は、グレゴリオ暦で年始から62日目(閏年では63日目)にあたり、年末まであと303日ある。誕生花は花桃。.
3月7日
3月7日(さんがつなのか)は、グレゴリオ暦で年始から66日目(閏年では67日目)にあたり、年末まであと299日ある。.
4月14日 (旧暦)
旧暦4月14日(きゅうれきしがつじゅうよっか)は、旧暦4月の14日目である。六曜は大安である。.
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4月9日 (旧暦)
旧暦4月9日(きゅうれきしがつここのか)は、旧暦4月の9日目である。六曜は赤口である。.
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5月2日 (旧暦)
旧暦5月2日(きゅうれきごがつふつか)は旧暦5月の2日目である。六曜は赤口である。.
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5月30日
5月30日(ごがつさんじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から150日目(閏年では151日目)にあたり、年末まではあと215日ある。誕生花はオリーブ。.
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5月8日
5月8日(ごがつようか)はグレゴリオ暦で年始から128日目(閏年では129日目)にあたり、年末まではあと237日ある。誕生花はオダマキ。.
6月15日 (旧暦)
旧暦6月15日は旧暦6月の15日目である。六曜は友引である。.
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6月4日
6月4日(ろくがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から155日目(閏年では156日目)にあたり、年末まであと210日ある。誕生花はイロマツヨイグサ、マツバギク。.
6月7日
6月7日(ろくがつなのか)は、グレゴリオ暦で年始から158日目(閏年では159日目)にあたり、年末まであと207日ある。誕生花はイワカガミ、カルセオラリア。.
6月8日
6月8日(ろくがつようか)はグレゴリオ暦で年始から159日目(閏年では160日目)にあたり、年末まではあと206日ある。誕生花はクチナシ、ジャスミン、タイサンボクなどとされる。.
701年
記載なし。
707年
記載なし。
714年
記載なし。
715年
記載なし。
720年
記載なし。
724年
記載なし。
725年
記載なし。
726年
記載なし。
727年
記載なし。
728年
記載なし。
729年
記載なし。
730年
記載なし。
731年
記載なし。
732年
記載なし。
733年
記載なし。
734年
記載なし。
735年
記載なし。
736年
記載なし。
737年
記載なし。
738年
記載なし。
739年
記載なし。
740年
記載なし。
741年
記載なし。
742年
記載なし。
743年
記載なし。
744年
記載なし。
745年
記載なし。
746年
記載なし。
747年
記載なし。
748年
記載なし。
749年
記載なし。
752年
記載なし。
754年
記載なし。
756年
記載なし。
7月17日 (旧暦)
旧暦7月17日は、旧暦7月の17日目である。六曜は大安である。.
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7月18日
7月18日(しちがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から199日目(閏年では200日目)にあたり、年末まであと166日ある。誕生花はトルコキキョウ、ゲッカビジン。.
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7月2日 (旧暦)
旧暦7月2日(きゅうれきしちがつふつか)は旧暦7月の2日目である。六曜は友引である。.
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8月18日
8月18日(はちがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から230日目(閏年では231日目)にあたり、年末まであと135日ある。.
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8月19日
8月19日(はちがつじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から231日目(閏年では232日目)にあたり、年末まであと134日ある。.
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8月5日 (旧暦)
旧暦8月5日(きゅうれきはちがついつか)は旧暦8月の5日目である。六曜は赤口である。.
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9月2日 (旧暦)
旧暦9月2日(きゅうれきくがつふつか)は旧暦9月の2日目である。六曜は仏滅である。.
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9月6日
9月6日(くがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から249日目(閏年では250日目)にあたり、年末まであと116日ある。.