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後深草天皇

索引 後深草天皇

後深草天皇(ごふかくさてんのう)は、鎌倉時代中期の第89代天皇(在位:寛元4年1月29日(1246年2月16日) - 正元元年11月26日(1260年1月9日))。諱は久仁(ひさひと)。 後嵯峨天皇の皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。持明院統の祖。父母が自身より弟の亀山天皇を寵愛し、亀山天皇を治天の君としたことに不満を抱き、やがて後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立が生じる端緒となった。.

138 関係: とはずがたり即位坊門姫 (一条能保室)坊門信清大覚寺統天子摂関御影天皇天皇陵太政大臣奉免町宝治宮中三殿宮内庁宗尊親王寛元崩御中宮三条公親一条実経一条能保平清盛久明親王京都市京都府康元亀山天皇仁和寺仁明天皇建長伏見天皇伏見区征夷大将軍後宇多天皇後二条天皇後土御門天皇後嵯峨天皇後鳥羽天皇後深草院二条嘉元れい子内親王円満院内親王出家四条隆衡四条貞子皇后皇居立太子猶子鎌倉...鎌倉幕府鎌倉時代西園寺きつ子西園寺実兼西園寺実氏西園寺公子西園寺公経西園寺公相覲子内親王高倉天皇譲位鷹司兼平践祚近衛兼経能円関白関東申次藤原実宗藤原忠雅藤原公保藤原範子藤原隆房藤原殖子長講堂領院号院政正嘉正元 (日本)治天の君洞院いん子洞院実雄源在子源通子源通宗源通親持明院基家持明院統朝廷明治摂政10月24日10月5日 (旧暦)11月24日 (旧暦)11月26日 (旧暦)1243年1246年1247年1249年1251年1252年1253年1256年1257年1259年1260年1267年1268年1272年1274年1280年1287年1290年1304年1月29日 (旧暦)1月2日1月3日 (旧暦)1月9日2月16日2月28日 (旧暦)2月2日3月11日 (旧暦)3月14日 (旧暦)3月18日 (旧暦)3月26日 (旧暦)3月29日3月31日4月20日4月5日5月2日6月10日 (旧暦)6月28日6月28日 (旧暦)7月16日7月16日 (旧暦)7月17日 (旧暦)8月17日8月18日 インデックスを展開 (88 もっと) »

とはずがたり

『とはずがたり』(とわずがたり)は、鎌倉時代の中後期に後深草院二条が綴ったとみられる日記および紀行文。.

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即位

即位(そくい)とは、亡くなったり、譲位した君主(皇帝、国王など)の跡を継いで、その君主位に就くことである。君主の第一子や弟が皇太子(王太子)や皇太弟(王太弟)に就任し、先代君主が亡くなった後に継ぐことがある。最大の式典という意味の「大典(たいてん)」の語を以て即位を指す(反対語は君主の死と葬儀を指す「大喪」)。 即位に際して儀式を執り行うことも多く、戴冠式(即位式)と呼ばれる。一般的に即位時期に合わせて行われるが、国内の政情不安や先代君主への服喪、財政難などを理由に数年後に実施されることもある。.

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坊門姫 (一条能保室)

後藤実基と坊門姫/明治時代『前賢故実』より。画:菊池容斎 坊門姫(ぼうもんひめ、久寿元年(1154年)または久安元年(1145年) - 建久元年4月20日(1190年5月25日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。『平治物語』で坊門の姫と呼ばれる。本名は不明。.

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坊門信清

坊門 信清(ぼうもん のぶきよ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の公卿。修理大夫・藤原信隆の子。同母姉に高倉天皇妃の殖子(七条院)がおり、後鳥羽天皇の外叔父にあたる。四条壬生と三条坊門にそれぞれ邸宅を所有していた。また、京都の太秦にも山荘があったことから、太秦内府と称した。.

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大覚寺統

大覚寺統(だいかくじとう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた皇室の系統で、持明院統と対立していた。名の由来は、第88代後嵯峨天皇の子である第90代亀山天皇の子孫である、亀山天皇の子である後宇多天皇が京都の外れの嵯峨にあった大覚寺の再興に尽力したこと、及び、出家後は大覚寺に住んで院政を行ったことによる。.

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天子摂関御影

天子摂関御影(てんしせっかんみえい)は、平安時代後期から鎌倉時代に及ぶ天皇・摂関・大臣の肖像を描き連ねた画巻(絵巻)。似絵の主要作品の1つ。曼殊院門跡に伝来したが、明治11年(1878年)皇室に献上され、現在は宮内庁三の丸尚蔵館所蔵。全4巻。各巻ともに紙本着色で、縦幅は約29cm。天皇摂関大臣影(てんのうせっかんだいじんえい)とも。.

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天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

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天皇陵

大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵) 天皇陵(てんのうりょう)は、天皇の墓。.

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太政大臣

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.

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奉免町

奉免町(ほうめまち/ほうめんまち)は千葉県市川市の地名。住居表示未実施。郵便番号は272-0803。.

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宝治

宝治(ほうじ)は、日本の元号の一つ。寛元の後、建長の前。1247年から1249年までの期間を指す。この時代の天皇は後深草天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼嗣、執権は北条時頼。.

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宮中三殿

宮中三殿(きゅうちゅうさんでん)は、皇居にある、賢所(かしこどころ、けんしょ)、皇霊殿(こうれいでん)、神殿(しんでん)の総称。吹上御苑の東南にある。.

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宮内庁

宮内庁(くないちょう、Imperial Household Agency)は、日本の行政機関の一つである。 「皇室関係の国家事務、天皇の国事行為にあたる外国の大使・公使の接受に関する事務、皇室の儀式に係る事務をつかさどり、御璽・国璽を保管する内閣府の機関」である。 なお、宮内庁はかつて総理府の外局」であったが、現在は内閣府の外局(内閣府設置法第49条・第64条)ではなく「内閣府に置かれる独自の位置づけの機関」とされている(内閣府設置法48条)。官報の掲載では内閣府については「外局」ではなく「外局等」として宮内庁を含めている。.

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宗尊親王

宗尊親王(むねたかしんのう)は、鎌倉幕府6代将軍(在任:建長4年(1252年)4月 - 文永3年(1266年)6月、皇族で初めての征夷大将軍)。後嵯峨天皇の第一皇子。.

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寛元

寛元(かんげん)は、日本の元号の一つ。仁治の後、宝治の前。1243年から1247年までの期間を指す。この時代の天皇は後嵯峨天皇、後深草天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、藤原頼嗣、執権は北条経時、北条時頼。.

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崩御

崩御(ほうぎょ)は、天皇、皇帝、国王、太皇太后、皇太后、皇后、君主等の死亡を表す敬語。.

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中宮

中宮(ちゅうぐう)は、日本の天皇の妻たちの呼称の一つ。.

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三条公親

三条 公親(さんじょう きんちか)は鎌倉時代の公卿。後三条入道内府または白川前内府と号す。正二位内大臣。父は従一位右大臣三条実親。母は従一位太政大臣西園寺公経の女。.

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一条実経

一条 実経(いちじょう さねつね)は、鎌倉時代の公卿。従一位、摂政 関白、左大臣。五摂家の一つ一条家の祖。号に円明寺殿、後一条入道関白など。法名に行雅、行雄、行祚などがある。通称は円明寺関白(えんみょうじ かんぱく)。 九条道家の四男に生まれる。母は西園寺公経女准三后綸子。長兄に九条教実、次兄に二条家祖の二条良実、三兄に鎌倉幕府4代将軍となった藤原頼経がいる。.

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一条能保

一条 能保(いちじょう よしやす)は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原北家中御門流、藤原通重の長男。一条二位入道と号す。.

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平清盛

平 清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の武将・公卿。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。.

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久明親王

久明親王(ひさあきしんのう/ひさあきらしんのう)は、鎌倉幕府8代征夷大将軍。第89代後深草天皇の第六皇子。.

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京都市

京都タワーと京都中心部 京都市中心部四条河原町 京都市(きょうとし )は、京都府南部に位置し、同府最大の市で、府庁所在地である。政令指定都市に指定されており、11区を置く。日本の市で8番目の人口を有する。延暦十三年(794年)から明治二年(1869年)までの1,000年以上にわたって日本の都が置かれていたため、古都として認識されている。.

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京都府

京都府(きょうとふ)は、日本の近畿地方の都道府県の一つ。延暦13年(794年)の平安京遷都以来、天皇の御所がある。令制国でいう山城国の全域、丹波国の東部および丹後国の全域を府域とする。府庁所在地は京都市。.

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康元

康元(こうげん)は、日本の元号の一つ。建長の後、正嘉の前。1256年の期間を指す。この時代の天皇は後深草天皇。鎌倉幕府将軍は宗尊親王、執権は北条時頼、北条長時。.

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亀山天皇

亀山上皇像(福岡市博多区、東公園) 亀山天皇(かめやまてんのう、建長元年5月27日(1249年7月9日) - 嘉元3年9月15日(1305年10月4日))は、鎌倉時代の第90代天皇(在位:正元元年11月26日(1260年1月9日) - 文永11年1月26日(1274年3月6日))。諱は恒仁(つねひと)。 後嵯峨天皇の第七皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。后腹では後深草天皇に次ぐ次男。大覚寺統の祖。父母から鍾愛され、兄の後深草天皇を差し置いて治天の君となり、やがて亀山系の大覚寺統と後深草系の持明院統との対立が生じる端緒となった。.

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仁和寺

双ヶ岡より仁和寺を望む 仁和寺(にんなじ)は、京都府京都市右京区御室にある真言宗御室派総本山の仏教寺院。山号は大内山。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は宇多天皇。「古都京都の文化財」として、世界遺産に登録されている。.

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仁明天皇

仁明天皇(にんみょうてんのう、弘仁元年(810年) - 嘉祥3年3月21日(850年5月6日)、在位:天長10年3月6日(833年3月30日) - 嘉祥3年3月19日(850年5月4日))は、平安時代初期の第54代天皇。諱は正良(まさら)。 嵯峨天皇の第二皇子。母は橘清友の娘、皇后橘嘉智子(檀林皇后)。正子内親王は同父母の妹でありかつ同年の生まれのため、双子の妹と推測される。.

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建長

建長(けんちょう)は、日本の元号の一つ。宝治の後、康元の前。1249年から1256年までの期間を指す。この時代の天皇は後深草天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼嗣、宗尊親王、執権は北条時頼。.

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伏見天皇

伏見天皇(ふしみてんのう、文永2年4月23日(1265年5月10日) - 文保元年9月3日(1317年10月8日))は日本の第92代天皇(在位:弘安10年10月21日(1287年11月27日) - 永仁6年7月22日(1298年8月30日))。諱は熈仁(ひろひと)。書道の伏見院流の祖、京極派の有力歌人としても知られる。 後深草天皇の第二皇子。母は、左大臣洞院実雄の娘、愔子(玄輝門院)。.

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伏見区

伏見区(ふしみく)は、京都市を構成する11の行政区の一つで、京都市の南部に位置する。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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後宇多天皇

後宇多天皇(ごうだてんのう、文永4年12月1日(1267年12月17日) - 元亨4年6月25日(1324年7月16日)は、鎌倉時代の第91代天皇(在位:文永11年1月26日(1274年3月6日) - 弘安10年10月21日(1287年11月27日 ))。諱は世仁(よひと)。.

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後二条天皇

後二条天皇(ごにじょうてんのう、弘安8年旧2月2日(1285年3月9日) - 徳治3年旧8月25日(1308年9月10日))は、鎌倉時代の第94代天皇(在位:正安3年旧1月21日(1301年3月2日) - 徳治3年旧8月25日(1308年9月10日))。諱は邦治(くにはる)。大覚寺統の天皇である。 後宇多天皇の第一皇子。母は太政大臣堀川基具の養女で実孫の基子(西華門院)。後醍醐天皇の異母兄にあたる。 後二条天皇の即位は鎌倉幕府が朝廷に治天と天皇の交代を要求したことから実現したものだったが、ここまで半世紀以上にわたって持明院統と大覚寺統による両統迭立を重ねてきた結果、この天皇の即位後3年半にわたって史上最多となる5代の上皇(後深草院・亀山院・後宇多院・伏見院・後伏見院)が同時に存在することになった。.

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後土御門天皇

後土御門天皇(ごつちみかどてんのう、嘉吉2年5月25日(1442年7月3日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日))は、室町時代の第103代天皇(在位寛正5年7月19日(1464年8月21日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日))。諱は成仁(ふさひと)。.

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後嵯峨天皇

後嵯峨天皇(ごさがてんのう、承久2年2月26日(1220年4月1日) - 文永9年2月17日(1272年3月17日))は、鎌倉時代の第88代天皇(在位:仁治3年1月20日(1242年2月21日) - 寛元4年1月29日(1246年2月16日))。諱は邦仁(くにひと)。 土御門天皇の皇子。母は、源通宗の娘、通子。.

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後鳥羽天皇

後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇(在位:寿永2年8月20日(1183年9月8日) - 建久9年1月11日(1198年2月18日))。諱は尊成(たかひら・たかなり)。高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。 文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが、この承久の乱で朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。.

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後深草院二条

後深草院二条(ごふかくさいんのにじょう、正嘉2年(1258年) - 没年不詳)は鎌倉時代中期の女性。『とはずがたり』の作者とされている。没年は嘉元4年(1306年)以後とされる。.

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嘉元

嘉元(かげん)は、日本の元号の一つ。乾元の後、徳治の前。1303年から1305年までの期間を指す。この時代の天皇は後二条天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条師時。.

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れい子内親王

姈子内親王(れいしないしんのう、文永7年9月19日(1270年10月5日) - 徳治2年7月24日(1307年8月22日))は後深草天皇の皇女。皇后宮、後宇多天皇妃、女院。生母は中宮・東二条院西園寺(藤原)公子。院号は遊義門院。.

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円満院

円満院(えんまんいん、旧字体:圓滿院、新旧混用:圓満院)は、滋賀県大津市園城寺町33にある天台宗系の単立寺院(元天台宗寺門派)。門跡寺院。近畿三十六不動尊第二十五番。円満院では自らを圓満院門跡(えんまんいん もんぜき)と表すことも多い。 水子供養の寺として「日本水子供養霊場会総霊廟所」を自称する。寺内には本堂や宸殿のほか、宿坊・三密殿と大津絵美術館を併設している。 寛和3年(987年)に村上天皇の皇子悟円法親王により創建されたと伝わるが、平安時代中期の参議・藤原資房の日記『春記』には、園城寺の明尊が長久元年(1040年)に後朱雀天皇の支援を受けてこの地に新しい寺を創建し「圓滿院」と命名したという消息が記されている。.

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内親王

内親王(ないしんのう、うちのみこ、ひめみこ、Princess)は、皇族女子の身位または称号の一つ。現行の皇室典範では天皇からみて直系で2親等以内の者に与えられる。かつては、親王宣下を受けた皇族女子に与えられた。.

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出家

出家(しゅっけ、pabbajja、pravrajyaa、प्रव्रज्या) とは、師僧から正しい戒律である『沙弥戒』や『具足戒』を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教に入ることである。落飾(らくしょく)ともいう。対義語は還俗(げんぞく、“俗界に還る”の意)。 在家(ざいけ)と対比される。インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行にいそしんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、釈迦もその沙門の1人であった。 仏教における出家の伝統はこれに由来する。仏教教団において剃髪(ていはつ)して袈裟を被い、「正式に受戒(じゅかい)して入門した沙弥や沙弥尼」になることを言うが、その後、「具足戒を受けて正規の僧となった比丘や比丘尼」を呼ぶ場合にも使う。.

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四条隆衡

四条 隆衡(しじょう たかひら、藤原 隆衡(ふじわら の たかひら))は、鎌倉時代の公卿。藤原北家魚名流、大納言藤原隆房の長男。元名は長雅。正二位・権大納言。善勝寺長者(四条家当主)。鷲尾大納言といわれる。.

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四条貞子

四条 貞子(しじょう さだこ、藤原貞子(ふじわら の さだこ)、建久7年(1196年) - 正安4年10月1日(1302年10月22日))は、鎌倉時代の貴族女性で、西園寺実氏の正室。父は権大納言四条隆衡、母は坊門信清の女。同母弟に隆親、姉妹に灑子(儷子とも、二条良実室)、親子(西園寺公基室)がいる。准三宮。北山准后、今林准后といわれた。.

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皇后

皇后(こうごう、Empress)は、天皇や皇帝の正妃(正妻)、およびその人物に与えられる称号。 一夫多妻制のもとでは、天皇や皇帝の複数の妻のうち最上位の者となる。.

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皇居

皇居の正門石橋(この奥に正門鉄橋(通称二重橋が架かる) 皇居(こうきょ)は、天皇の平常時における宮殿・住居である。現在は東京都千代田区にある。「皇居」の呼称が広く用いられるようになったのは現在の皇居からである。.

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立太子

立太子(りったいし)は、広く東アジアにおいて広まった儀礼で、日本の天皇・中国の皇帝の皇子等を跡継ぎとして太子に立てることである。また、日本においてはこの概念が定着していることから、ヨーロッパの王家に対しても、「立太子」の語を用いることがある。.

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猶子

子(ゆうし)とは、兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度。漢文訓読では「なほ子のごとし」(訳:あたかも実子のようである)という意味。 中国における本義は兄弟の子の意味。養子との違いは、家督や財産などの相続を必ずしも目的の第一義とはせず、実力や「徳」に優れた仮親の権勢を借りたり、一家・同族内の結束を強化するために行われた。具体的には、官位などの昇進上の便宜、婚姻上の便宜、他の氏族との関係強化が図られる場合に組まれるようである。そのため、子供の姓は変わらない場合があったり、単なる後見人としての関係であるなど、養子縁組と比べて単純かつ緩やかで擬制的な側面が大きい。 ただし、相続に関しての実際は明確な区別はなく、猶子であっても相続がなされる場合も多い。ときに両者をまったく同義で使用している場合がある。.

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鎌倉

鎌倉(かまくら)は、現在の神奈川県鎌倉市の中心部に当たる地域。源頼朝を旗頭として、北条時政、北条義時らによって鎌倉幕府が置かれた都市であり、三浦半島の付け根に位置し、相模湾に面している。古くは鎌府(れんぷ)とも呼ばれた。三方を山に、一方を海に囲まれている。 鎌倉大仏.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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西園寺きつ子

西園寺 姞子(さいおんじ きつし、嘉禄元年(1225年) - 正応5年9月9日(1292年10月20日))は、後嵯峨天皇の中宮で後に皇太后。西園寺実氏の長女で、母は四条隆衡の娘・四条貞子(北山准后)。後深草・亀山両天皇の生母、女院。院号は大宮院(おおみやいん)。法名は遍智覚(へんちかく)。.

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西園寺実兼

西園寺 実兼(さいおんじ さねかね/さねかぬ)は、鎌倉時代後期の公卿。従一位太政大臣。西園寺入道前相国、又は北山入道相国と号す。父は太政大臣西園寺公相、母は大外記中原師朝の娘。.

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西園寺実氏

西園寺 実氏(さいおんじ さねうじ)は、鎌倉時代前期の公卿。従一位太政大臣。常盤井相國と号す。父は准三宮太政大臣西園寺公経。旧字で實氏。.

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西園寺公子

西園寺 公子(さいおんじ きみこ、寛喜4年(1232年) - 嘉元2年1月21日(1304年3月6日))は鎌倉時代の女性。後深草天皇の中宮。女院号は東二条院(ひがしにじょういん)、法名は円鏡智。.

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西園寺公経

小倉百人一首より 西園寺 公経(さいおんじ きんつね、正字体:西園寺公經)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿・歌人。西園寺家の実質的な祖とされている。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇の中宮姞子の祖父、四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・5代将軍藤原頼嗣の曾祖父となった稀有な人物である。また、姉は藤原定家の後妻で、定家の義弟でもある。 小倉百人一首では入道前太政大臣。.

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西園寺公相

西園寺 公相(さいおんじ きんすけ)は、鎌倉時代の公卿。従一位太政大臣。冷泉相国と号す。太政大臣西園寺実氏の二男。西園寺家では初めて左大臣に任ぜられた。.

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覲子内親王

覲子内親王(きんしないしんのう、養和元年10月5日(1181年11月13日) - 建長4年6月8日(1252年7月15日))は、平安時代後期の皇族、女院。後白河天皇の第六皇女で、女院号は宣陽門院(せんようもんいん)。母親は高階栄子(丹後局)。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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高倉天皇

倉天皇(たかくらてんのう、応保元年9月3日(1161年9月23日) - 治承5年1月14日(1181年1月30日))は、平安時代末期の第80代天皇(在位:仁安3年2月19日(1168年4月9日) - 治承4年2月21日(1180年3月18日))。諱は憲仁(のりひと)という。 後白河天皇の第7皇子。母は皇太后平滋子(建春門院)。安徳天皇、後鳥羽天皇らの父。.

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譲位

譲位(じょうい)は、君主が生きている間に、その地位を後継者へ譲り渡す行為である。.

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鷹司兼平

鷹司 兼平(たかつかさ かねひら)は、鎌倉時代中期の公卿。従一位、関白、太政大臣。鷹司家の祖。通称は照念院関白(しょうねんいん かんぱく)。関白近衛家実の四男。 暦仁元年(1238年)従二位権大納言兼右近衛大将となる。その後右大臣、左大臣を歴任。建長4年(1252年)摂政・藤氏長者宣下を賜り、太政大臣に任じられた。同6年(1254年)関白となる。一旦辞任するが建治元年(1275年)に再度摂政・藤氏長者となった。正応3年(1290年)出家し、覚理と号する。永仁2年(1294年)に智恵光院を開山するが、間もなく薨去。兼平は前後23年の長きにわたって摂関の任にあった。 能書家としても著名。日記に『称念院関白記(兼平公記)』、有職故実書に『照念院殿装束抄』がある。勅撰和歌集には4首入集している。 後深草院二条が綴った『とはずがたり』に登場する「近衛大殿」はこの兼平のことだと考えられている。.

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践祚

践祚(せんそ)とは、天子の位を受け継ぐことであり、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われる。古くは「践阼」と書き、「践」とは位に就くこと、「阼」は天子の位を意味する。これに続いて位に就いたことを内外に明らかにすることを即位という。.

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近衛兼経

近衛 兼経(このえ かねつね、承元4年(1210年) - 正元元年5月4日(1259年5月27日)) は、鎌倉時代の公卿。従一位・摂政 関白・太政大臣・藤原氏長者。通称は岡屋関白(おかのや かんぱく)。父は関白太政大臣の近衛家実。母は表向きには権中納言源雅頼(村上源氏)の女ということになっているが、実は兵部大輔藤原季定の女。正室は九条道家の女・仁子。子に関白左大臣近衛基平。 貞応元年(1222年)元服、正五位下侍従に任じられて昇殿禁色を許される。2年後に異母兄の左大臣近衛家通が急死したために後継者に立てられ、従三位権中納言となる。安貞元年(1227年)に内大臣、寛喜3年(1231年)に右大臣、嘉禎元年(1235年)に左大臣となる。嘉禎3年(1237年)に九条道家の娘・仁子を娶って長年不仲だった近衛家と九条家の和解に努め、同年に道家から四条天皇の摂政の地位を譲られた。暦仁元年(1238年)に左大臣を辞すが引き続き摂政を務める。翌年には従一位に叙せられる。仁治元年(1240年)に四条天皇元服加冠のための太政大臣に任じられ、元服の儀が終わる翌年まで務めた。 仁治3年(1242年)に四条天皇が崩御すると後嵯峨天皇の関白に転じるが、西園寺公経の圧力によって二条良実にその地位を譲った。後に義父とともに関東申次に就任する。道家が失脚すると兼経も巻き添えをくらって関東申次を解任されるが、ともに失脚した一条実経(良実の弟)の後釜を埋める形で宝治元年(1247年)に後深草天皇の摂政に再任される。建長4年(1252年)に異母弟の鷹司兼平に摂政を譲り、正嘉元年(1257年)に出家して法名を真理(しんり)と号して余生を宇治岡屋荘で過ごした。 日記に『岡屋関白記』がある。.

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能円

能円(のうえん、保延6年(1140年) - 正治元年8月24日(1199年9月16日)は平安時代末期の僧侶。皇后宮亮・藤原顕憲(藤原盛実の子)の子。母は令子内親王に仕えた下女(一説には藤原家範の娘)で、異父兄姉に平時子・平時忠らがある。異母兄弟には藤原盛憲・憲親・経憲・玄顕らがあり、息女には在子(承明門院)・信子(堀川通具室)らがある。.

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関白

関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.

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関東申次

関東申次(かんとうもうしつぎ)は、関東執奏(かんとうしっそう)とも言い、鎌倉時代の朝廷に設けられた役職で、鎌倉幕府側の六波羅探題とともに朝廷・院と幕府の間の連絡・意見調整を行った。.

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藤原実宗

藤原 実宗(ふじわら の さねむね)は、平安時代後期から鎌倉時代前期の公卿。西園寺家の第三代目とされる人物。按察使藤原公通の長男。正二位内大臣。坊城内大臣、大宮、五条と号す。.

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藤原忠雅

藤原 忠雅(ふじわら の ただまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家、権中納言・藤原忠宗の次男。官位は従一位・太政大臣。花山院太政大臣と号す。花山院家3代。.

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藤原公保

# 徳大寺公保(とくだいじ きんやす、1132-1176)- 平安時代後期の公卿。.

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藤原範子

藤原 範子(ふじわら の はんし/ のりこ、1152年頃? - 正治2年8月4日(1200年9月13日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期の女官。刑部卿藤原範兼の娘。後鳥羽天皇の乳母。同じく乳母で権勢を誇ったことで知られる兼子(卿局)は妹。能円の妻、のち源通親の妻。後鳥羽天皇の妃である源在子の母で、土御門天皇の外祖母にあたる。従三位。通称は刑部卿局。子は他に源通光、源定通、源通方。.

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藤原隆房

藤原 隆房(ふじわら の たかふさ)は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家善勝寺流の出身で藤原隆季の長男。母は藤原忠隆の娘。正二位・権大納言。四条隆房、冷泉隆房とも。.

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藤原殖子

藤原 殖子(ふじわら の しょくし(たねこ)、保元2年(1157年) - 安貞2年9月16日(1228年10月15日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。高倉天皇の後宮。後高倉院(守貞親王)と後鳥羽天皇の母。女院。坊門 殖子とも。父は従三位藤原(坊門)信隆。母は藤原休子(大蔵卿藤原(持明院)通基の女)。内大臣坊門信清は同母弟。院号は七条院(しちじょういん)。.

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長講堂領

長講堂領(ちょうこうどう りょう)は、中世荘園公領制下における王家領荘園群の一つ。.

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院号

院号(いんごう)は、下に「院」の字が付く称号である。院(邸宅・寺院)に関係する、もしくは、歴史的には院に関係した。.

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院政

院政(いんせい)は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治である。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治形態である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。.

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正嘉

正嘉(しょうか)は、日本の元号の一つ。康元の後、正元の前。1257年から1258年までの期間を指す。この時代の天皇は後深草天皇。鎌倉幕府将軍は宗尊親王、執権は北条長時。.

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正元 (日本)

正元(しょうげん)は、日本の元号の一つ。正嘉の後、文応の前。1259年から1260年までの期間を指す。この時代の天皇は後深草天皇、亀山天皇。鎌倉幕府将軍は宗尊親王、執権は北条長時。.

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治天の君

治天の君(ちてんのきみ)は、日本の古代末期から中世において、天皇家の家督者として政務の実権を握った上皇又は天皇を指す用語。治天の君は事実上の君主として君臨した。但し、「治天の君」については在位の天皇を含める立場美川圭 『院政―もう一つの天皇制―』中公新書 (2006年)ISBN 4-12-101867-2 黒田俊雄『日本の歴史 蒙古襲来』中公文庫 (1974年)ISBN 4-12-200071-8と在位の天皇を含めず院政を行う上皇に限る立場とがある。 上皇が治天の君である場合、天皇は在位の君とよばれる。また上皇が治天の君として行う院政に対して、天皇が治天の君として政務に当たることを親政という。治天の君は、治天下(ちてんか)、治天(ちてん)、政務(せいむ)などとも呼ばれた。以下、本項では治天の君を「治天」という。.

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洞院いん子

洞院 愔子(とういん いんし、寛元4年(1246年) - 元徳元年旧8月30日(1329年10月1日))は、鎌倉時代の女性。後深草天皇の後宮で、伏見天皇の国母。女院として玄輝門院(げんきもんいん)。法名は自性智。父は従一位左大臣洞院実雄。.

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洞院実雄

洞院 実雄(とういん さねお)は、鎌倉時代前期から中期の公卿。洞院家の祖。従一位左大臣。山階左大臣と号す。 娘3人がそれぞれ3人の天皇(亀山天皇、後深草天皇、伏見天皇)の妃となって権勢を誇った。娘たちはいずれも皇子を産み、それぞれ即位したことから、3人の天皇(後宇多天皇、伏見天皇、花園天皇)の外祖父となった。.

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源在子

源 在子(みなもと の ありこ/ざいし、承安元年(1171年) - 正嘉元年7月5日(1257年8月15日))は、第82代後鳥羽天皇の妃で第83代土御門天皇の国母、女院。院号は承明門院(しょうめいもんいん)。父は法勝寺執行能円で母は藤原範兼の女藤原範子。源通親の養女。同母弟に久我通光、土御門定通、中院通方がいる。法名は真如妙。.

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源通子

源 通子(みなもと の つうし、生年未詳 - 承久3年(1221年)8月)は、第83代土御門天皇の後宮で第88代後嵯峨天皇の生母。父は参議正四位下左近衛中将源通宗(源通親の長男、贈従一位左大臣)。 典侍となり、土御門天皇の寵愛を受けた。建暦元年(1211年)春子女王、建保元年(1213年)覚子内親王(准三宮、正親町院)、建保2年(1214年)仁助法親王、建保4年(1216年)静仁法親王、承久2年(1220年)邦仁王(のちの後嵯峨天皇)を産む。承久3年(1221年)8月、死去。後嵯峨天皇の即位により仁治3年(1243年)7月11日、贈皇太后。.

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源通宗

源 通宗(みなもと の みちむね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。内大臣・源通親の長男。後嵯峨天皇の外祖父。.

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源通親

源 通親(みなもと の みちちか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。七朝にわたり奉仕し、村上源氏の全盛期を築いた。内大臣正二位右大将。土御門 通親(つちみかど -)と呼ばれるのが一般的で、曹洞宗などでは久我(こが)通親と呼ばれている。.

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持明院基家

持明院 基家(じみょういん もといえ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。大蔵卿・藤原通基の三男。初名は通基。後堀河天皇の外祖父。官位は正二位・権中納言。持明院家3代当主。.

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持明院統

持明院統(じみょういんとう)とは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた日本の皇室の系統で、第88代後嵯峨天皇の子である第89代後深草天皇の子孫である。.

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朝廷

朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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摂政

摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことが出来ない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。 多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。.

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10月24日

10月24日(じゅうがつにじゅうよっか、じゅうがつにじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から297日目(閏年では298日目)にあたり、年末まであと68日ある。.

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10月5日 (旧暦)

旧暦10月5日(きゅうれきじゅうがついつか)は旧暦10月の5日目である。六曜は友引である。.

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11月24日 (旧暦)

旧暦11月24日は旧暦11月の24日目である。六曜は仏滅である。.

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11月26日 (旧暦)

旧暦11月26日は旧暦11月の26日目である。六曜は赤口である。.

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1243年

記載なし。

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1246年

記載なし。

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1247年

記載なし。

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1249年

記載なし。

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1251年

記載なし。

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1252年

記載なし。

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1253年

記載なし。

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1256年

記載なし。

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1257年

記載なし。

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1259年

記載なし。

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1260年

記載なし。

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1267年

記載なし。

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1268年

記載なし。

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1272年

記載なし。

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1274年

記載なし。

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1280年

記載なし。

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1287年

記載なし。

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1290年

記載なし。

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1304年

記載なし。

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1月29日 (旧暦)

旧暦1月29日は旧暦1月の29日目である。年によっては1月の最終日となる。六曜は大安である。.

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1月2日

1月2日(いちがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から2日目に当たり、年末まであと363日(閏年では364日)ある。誕生花は孟宗竹、または蝋梅。.

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1月3日 (旧暦)

旧暦1月3日(きゅうれきいちがつみっか)は旧暦1月の3日目である。六曜は先負である。.

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1月9日

1月9日(いちがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から9日目に当たり、年末まであと356日(閏年では357日)ある。誕生花はパンジー。.

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2月16日

2月16日(にがつじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から47日目にあたり、年末まであと318日(閏年では319日)ある。.

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2月28日 (旧暦)

旧暦2月28日は旧暦2月の28日目である。六曜は大安である。.

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2月2日

2月2日(にがつふつか)は、グレゴリオ暦で年始から33日目に当たり、年末まであと332日(閏年では333日)ある。.

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3月11日 (旧暦)

旧暦3月11日は旧暦3月の11日目である。六曜は先勝である。.

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3月14日 (旧暦)

旧暦3月14日は旧暦3月の14日目である。六曜は仏滅である。.

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3月18日 (旧暦)

旧暦3月18日は旧暦3月の18日目である。六曜は友引である。.

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3月26日 (旧暦)

旧暦3月26日は旧暦3月の26日目である。六曜は仏滅である。.

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3月29日

3月29日(さんがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から88日目(閏年では89日目)にあたり、年末まであと277日ある。.

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3月31日

3月31日(さんがつさんじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から90日目(閏年では91日目)にあたり、年末まであと275日ある。3月の最終日。 日本では前年4月始まりの年度最終日とされている。.

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4月20日

4月20日(しがつはつか、しがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から110日目(閏年では111日目)にあたり、年末まではあと255日ある。誕生花はシバザクラ、ルピナス。.

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4月5日

4月5日(しがついつか)は、グレゴリオ暦で年始から95日目(閏年では96日目)にあたり、年末まであと270日ある。誕生花はカイドウ、コデマリ。.

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5月2日

5月2日(ごがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から122日目(閏年では123日目)にあたり、年末まではあと243日ある。誕生花はスズラン。.

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6月10日 (旧暦)

旧暦6月10日(きゅうれきろくがつとおか)は、旧暦6月の10日目である。六曜は先負である。.

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6月28日

6月28日(ろくがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から179日目(閏年では180日目)にあたり、年末まであと186日ある。誕生花はクチナシ、ツルハナナス。.

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6月28日 (旧暦)

旧暦6月28日は旧暦6月の28日目である。六曜は先負である。.

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7月16日

7月16日(しちがつじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から197日目(閏年では198日目)にあたり、年末まであと168日ある。誕生花はジンジャー、ツユクサ。.

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7月16日 (旧暦)

旧暦7月16日は、旧暦7月の16日目である。六曜は仏滅である。.

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7月17日 (旧暦)

旧暦7月17日は、旧暦7月の17日目である。六曜は大安である。.

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8月17日

8月17日(はちがつじゅうななにち、はちがつじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から229日目(閏年では230日目)にあたり、年末まであと136日ある。.

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8月18日

8月18日(はちがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から230日目(閏年では231日目)にあたり、年末まであと135日ある。.

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