ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
インストール
ブラウザよりも高速アクセス!
 

南部氏

索引 南部氏

南部氏(なんぶし)は、陸奥の武家で本姓は源氏。本貫地は甲斐国南部郷で家祖は南部光行。南部氏初代の光行は、平安時代に活躍した清和源氏の一流である河内源氏 源義光や、その孫で平安時代末期に活躍した黒源太清光、その子である甲斐源氏・加賀美遠光の子孫である。.

402 関係: 加賀美遠光加賀美氏加藤章原敬側用人側衆えんぶり千徳氏南巨摩郡南北朝時代 (日本)南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上南部実信南部実光南部実継南部実長南部家文書南部守行南部宗継南部宗経南部安信南部師行南部広信南部信依南部信光南部信義南部信真南部信直南部信順南部信行南部信誉南部信興南部信鄰南部信長南部信恩南部信民南部信房南部信方南部信政南部信時南部利幹南部利克南部利剛南部利祥南部利義南部利用 (吉次郎)南部利用 (大膳大夫)南部利直南部利視南部利謹南部利英...南部利雄南部利恭南部利正南部利淳南部利済南部利昭南部利文南部利敬南部元時南部光行南部勝信南部祐長南部義元南部義行南部義重南部義政南部為重南部町 (山梨県)南部甕男南部直房南部直政南部行信南部麻子南部茂時南部重信南部重直南部重清南部長継南部通信南部栄信南部清政南部政康南部政光南部政行南部政行 (12代当主)南部政行 (鎌倉時代)南部政長南部晴継南部晴政南部時長南部時政南氏南朝 (日本)参考諸家系図吾妻鏡吉野吉良貞家士族多々良浜の戦い大名大審院大永大晦日天寿天下統一天正天文 (元号)太平記外が浜奥南旧指録奥州奥州合戦奥州仕置婿養子嫡流子爵宝治合戦宣旨室町幕府室町時代宮司家督家系宗家宇都宮安土桃山時代安田氏安東氏富士川富士郡寛永寛文尊卑分脈尊良親王小笠原貞宗小笠原長清小笠原氏小田原征伐山下宏明山科言継山梨県山本勘助岩手県岩手郡島津氏工藤氏巨摩郡上杉憲顕上洛中先代の乱中野康実中野氏七戸家国七戸藩七戸氏七戸朝清三戸町三戸郡三戸氏下北地方一条実輝一戸氏九戸城九戸実親九戸氏九戸政実九戸政実の乱平安時代平賀郡平成平成・南部藩幕府幕藩体制久遠寺久慈郡久慈氏享保康永二戸市今川範国今川氏延元建久建武 (日本)建武の新政伊達行朝伯爵弘文天皇御内人徳川家綱徳川綱吉後三年の役後陽成天皇後村上天皇得宗土岐頼遠地頭地方競馬北信愛北信景北秀愛北畠顕家北畠顕信北致愛北条氏 (伊具流)北条泰家北条時頼北条時行北氏北朝 (日本)マイルチャンピオンシップ南部杯ダートグレード競走分倍河原の戦い和賀郡むつ市八戸市八戸藩八戸氏八戸政栄公爵六条河原元中元弘元弘の乱元和 (日本)光明天皇前九年の役前田利家勤王国人四條畷の戦い四戸氏矢作川の戦い石川高信石川氏石川政信石亀信房石亀氏砺波市福士氏秋山氏秋田魁新報稗貫郡穴山氏立憲政友会笛吹峠 (埼玉県)箱根・竹ノ下の戦い糠部郡系図纂要紫波郡織田信長結城宗広田舎郡由比ヶ浜甲陽軍鑑甲斐国甲斐源氏男爵監禁盛岡市盛岡競馬場盛岡藩花山院鎮守府将軍鎌倉公方鎌倉時代遠野市華族華族令靖国神社青野原の戦い青森県蠣崎氏行幸観応観応の擾乱言継卿記高師直高重茂護良親王豊島河原合戦豊臣秀吉豊臣政権貞和足利基氏足利義詮足利義輝足利義満足利義昭足利直義足軽大将鹿角郡身延町鼻和郡近衛家鈴木かほる興国赤坂城の戦い薩た峠の戦い (南北朝時代)薩摩国閉伊郡藤原氏藤原泰衡藩鎮葛西貞清長男長牛友義雄山閣通 (南部藩)陸奥国IBC岩手放送押領恒良親王東奥日報東京都東氏根城根城 (八戸市)桃井直常棟梁楠木正成横田行長櫛引清長正平 (日本)正月武家武田信広武田信玄武田信虎武田氏武蔵野合戦毛馬内秀範毛馬内氏氏族江戸時代河内源氏波木井長義津軽地方津軽石氏津軽為信津軽郡 (陸奥国)津軽氏清和源氏湊川の戦い源義家源義光源頼義源氏源清光持明院統本貫惣無事令戊辰戦争戦国時代 (日本)明徳明治明治維新浅利氏斯波家長新田新田分知新田義貞新田義興新田政盛文中文治文明 (日本)文政日記日露戦争日蓮日蓮宗承久1189年1191年1219年1261年1392年1487年14世紀1523年1527年1548年1570年1581年1582年1590年1591年1617年1627年1634年1664年1719年17世紀1818年1884年1896年1月7日2009年3月24日 (旧暦) インデックスを展開 (352 もっと) »

加賀美遠光

加賀美 遠光(かがみ とおみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。甲斐源氏の祖とされる源義光の孫源清光の四男(清光の父義清の子とする説もある)。 加賀美氏の初代であり、武田氏初代武田信義の弟(あるいは叔父)となる。甲斐国巨麻郡加賀美郷(現在の山梨県南アルプス市の一部)一帯に所在する加々美荘を本領とした。.

新しい!!: 南部氏と加賀美遠光 · 続きを見る »

加賀美氏

加賀美氏(かがみし)は、日本の氏族のひとつ。鏡・各務・加々美などとも表記されることがある。.

新しい!!: 南部氏と加賀美氏 · 続きを見る »

加藤章

加藤 章(かとう あきら、明治35年(1902年)11月 - 昭和57年(1982年))は日本の実業家。元加藤商事会長。 大正12年(1923年)東京商科大学専門部を卒業後、父業の建材卸売業を継ぐと共に山陰の経済界発展に寄与した『鳥取県人名録』709頁。昭和26年(1951年)以来米子商工会議所副会頭を務めた。昭和45年(1970年)藍綬褒章、昭和51年(1976年)勲四等瑞宝章を受章。米子国際ホテル、赤碕生コン各社長、加藤商事、山陰生コンクリート各会長、米子信用金庫理事なども務めた。.

新しい!!: 南部氏と加藤章 · 続きを見る »

原敬

原 敬(はら たかし、安政3年2月9日(1856年3月15日) - 大正10年(1921年)11月4日)は、日本の外交官、政治家。位階勲等は正二位大勲位。幼名は健次郎。号は一山、逸山。 外務次官、大阪毎日新聞社社長、立憲政友会幹事長、逓信大臣(第11・16代)、衆議院議員、内務大臣(第25・27・29代)、立憲政友会総裁(第3代)、内閣総理大臣(第19代)、司法大臣(第22代)などを歴任した。 郵便報知新聞記者を経て外務省に入省。後に農商務省に移って陸奥宗光や井上馨からの信頼を得た。 陸奥外務大臣時代には外務官僚として重用されたが、陸奥の死後退官。その後、発足時から政友倶楽部に参加して政界に進出。大正7年(1918年)に総理大臣に就任。爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と渾名された。 大正10年(1921年)11月4日、東京駅丸の内南口コンコースにて、大塚駅の駅員であった右翼青年・中岡艮一に襲撃され、殺害された。満。墓所は岩手県盛岡市の大慈寺。 有職読みの「はら けい」が用いられるケースもある(原敬記念館、原敬日記など)。 足尾銅山の副社長にも就いていた。.

新しい!!: 南部氏と原敬 · 続きを見る »

側用人

側用人(そばようにん)は、江戸時代、幕府および諸藩に置かれた役職。.

新しい!!: 南部氏と側用人 · 続きを見る »

側衆

側衆(そばしゅう)は、江戸幕府の役職のひとつ。御側衆(おそばしゅう)とも呼ばれた。.

新しい!!: 南部氏と側衆 · 続きを見る »

えんぶり

えんぶり(朳)とは、初春の神事として青森県八戸市一円を中心とする東北各地で広く行われる予祝芸能の一種である。八戸市における保護団体は八戸地方えんぶり連合協議会。.

新しい!!: 南部氏とえんぶり · 続きを見る »

千徳氏

千徳氏(せんとくし)または浅瀬石千徳氏(あせいしせんとくし)は陸奥国を本拠とした氏族。.

新しい!!: 南部氏と千徳氏 · 続きを見る »

南巨摩郡

山梨県南巨摩郡の範囲(1.早川町 2.身延町 3.南部町 4.富士川町 薄緑:後に他郡から編入した区域) 南巨摩郡(みなみこまぐん)は、山梨県の郡。 以下の4町を含む。.

新しい!!: 南部氏と南巨摩郡 · 続きを見る »

南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

新しい!!: 南部氏と南北朝時代 (日本) · 続きを見る »

南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上

南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上(なんぶだいぜんのだいぶぶんこくのうちしょじょうはきゃくともかきあげ)は、天正20年の南部領における城わりについての書上。.

新しい!!: 南部氏と南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上 · 続きを見る »

南部実信

南部 実信(なんぶ さねのぶ、延宝4年(1676年) - 元禄13年2月29日(1700年4月18日))は、陸奥盛岡藩第4代藩主・南部行信の次男。母は毛利光広の娘、清浄院。従四位下、隼人正。通称・隼人。.

新しい!!: 南部氏と南部実信 · 続きを見る »

南部実光

南部 実光(なんぶ さねみつ)は、鎌倉時代の武士。南部光行の次男。 承久3年(1221年)の承久の乱では、武田信光、小笠原長清、小山朝長等と北条泰時の軍に加わり宇治川で戦っている。史料における初見としては、嘉禎4年(1238年)、4代将軍藤原頼経が上洛した際に随兵を務めたこと、建長4年(1252年)には、新たな将軍として迎えられた宗尊親王の鶴岡八幡宮参詣の供奉人を嫡男の時実と共に務めたことが『吾妻鏡』に記されている。 この時代、既に将軍は傀儡化して権力を喪失しつつあり、権限は得宗に集中していった。栄達を望む御家人達は、陪臣であるはずの御内人として得宗に近侍することを望むようになった。実光もその一人であり、柔軟な処世術によって権力を掌握していた北条時頼に接近していった。 文応元年(1261年)、鎌倉由比ヶ浜で的始めの儀式が催され、時頼嫡男の時宗が臨監を担当した。この儀式で実光は工藤光泰や小笠原彦次郎と共に奉行として参加し、時宗の脇を固めていた。弘長3年(1263年)の時頼臨終の際には、尾藤景氏、宿屋光則ら他の得宗被官らと共に臨席し、時頼の看病を行った。『吾妻鏡』のこれらの記述から、実光は御内人に昇進して幕府内に相応の地位を築いていたこと、時流に乗るのに長けていた人物であったことと考えられている。.

新しい!!: 南部氏と南部実光 · 続きを見る »

南部実継

南部 実継(なんぶ さねつぐ、弘長2年(1262年前後) - 元弘2年12月13日(1332年12月31日))は、鎌倉時代末期の武士。南部実長の子。別名=源清長、通称=次郎、六郎次郎、波木井南部氏2代目。子に南部長継、南部政行室。.

新しい!!: 南部氏と南部実継 · 続きを見る »

南部実長

南部 実長(なんぶ さねなが)は、鎌倉時代中期の御家人。南部光行の三男。八戸氏(根城南部氏)の祖。日蓮の有力壇越として知られ、また甲斐国波木井(はきり)に居住したことから波木井実長とも呼ばれる。.

新しい!!: 南部氏と南部実長 · 続きを見る »

南部家文書

南部家文書(なんぶけもんじょ)は、奥州南部氏に伝えられる文書。.

新しい!!: 南部氏と南部家文書 · 続きを見る »

南部守行

南部 守行(なんぶ もりゆき、延文4年/正平14年(1359年) - 永享9年4月9日(1437年5月13日))は三戸南部氏第13代当主。12代遠江守政行の子とされ、初め左馬権守、後に大膳大夫を称したとある。子に第14代当主南部義政、南部政盛、南部助政、久慈威信(大浦則信)。.

新しい!!: 南部氏と南部守行 · 続きを見る »

南部宗継

南部 宗継(なんぶ むねつぐ、生没年不詳)は、鎌倉時代末期から南北朝時代頃にかけて活動した武士。南部長継の子で、波木井南部氏4代目?、伊勢南部氏の祖。.

新しい!!: 南部氏と南部宗継 · 続きを見る »

南部宗経

南部 宗経(なんぶ むねつね、寛元4年(1246年) - 弘安6年5月17日(1283年6月13日))は、鎌倉時代中期の武将。南部氏宗家第5世当主(『南部系譜』)。第3代当主南部時実の三男、幼名彦三郎。(『南部史要』)。.

新しい!!: 南部氏と南部宗経 · 続きを見る »

南部安信

南部 安信(なんぶ やすのぶ、1493年(明応2年) - 1541年(天文10年))は、戦国時代の陸奥国の大名。南部氏の第23代当主。南部政康の長男。次弟に石川高信阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典 コンパクト版』(新人物往来社、1990年9月)P590でその子(安信にとり甥)が南部信直。.

新しい!!: 南部氏と南部安信 · 続きを見る »

南部師行

南部 師行(なんぶ もろゆき)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将で根城南部氏の当主。.

新しい!!: 南部氏と南部師行 · 続きを見る »

南部広信

南部 広信(なんぶ ひろのぶ、宝永6年3月7日(1709年4月16日) - 寛保元年5月2日(1741年6月14日))は、陸奥国八戸藩の第4代藩主。父は第3代藩主・南部通信(広信は長男)。母は桂七郎大夫の妹。正室は松平信庸の娘。幼名は宮内。官位は従五位下、甲斐守。子は南部信興(長男)、南部信之(三男)。 享保元年(1716年)、父の死去により跡を継いで藩主となる。藩政においては検地を行なったり、八戸三社大祭の基礎を作ったりした。また、家老の中里幸生に命じて「南部中興記三冊」や「南部家譜一冊」を編纂させている。 しかしその治世期に凶作が33度にわたって発生するなど、治世は多難を極めた。寛保元年(1741年)5月2日、33歳で死去し、跡を嫡男・信興が継いだ。墓所は東京都港区芝の金地院。 ひろのふ ひろのふ Category:1709年生 Category:1741年没.

新しい!!: 南部氏と南部広信 · 続きを見る »

南部信依

南部 信依(なんぶ のぶより、延享4年2月10日(1747年3月20日) - 天明元年6月7日(1781年7月27日))は、江戸時代後期の大名。陸奥国八戸藩の第6代藩主。.

新しい!!: 南部氏と南部信依 · 続きを見る »

南部信光

南部 信光(なんぶ のぶみつ)は、日本の南北朝時代の武将。 南朝方の武将として活躍し、正平10年(1355年)に北畠顕信の推挙により大炊助に任命され、翌正平11年(1356年)11月19日に薩摩守に叙任されている。 父信政が祖父政長に先立ち死去したため、政長から所領を譲られ家督を継承する。祖父政長同様に八戸根城を拠点として南朝方の中核として奮戦、正平15年(1360年)には陸奥国田舎郡黒石郷、鼻和郡目谷郷を安堵されている。 その後本領の甲斐国波木井郷に帰ったが、正平20年(1367年)に北朝方の神大和守に波木井城を攻められる。しかし逆襲して神城を陥落させた。戦功により後村上天皇から甲冑と太刀一腰、感状を賜り、所領を加増された。 嫡男長経が幼少であったので、家督は弟の政光が継承した。没年は天授2年(1376年)1月23日とされるが、南北朝合一後は八戸に住み、更に子政慶のいる七戸に隠遁したとも言われる。ただし子孫の八戸氏の家伝では政慶は信光の子ではなく弟政光の子としている。 『余目旧記』は信光が留守氏の遺児家任を後援し、留守氏の復興に尽力したことを伝えている。.

新しい!!: 南部氏と南部信光 · 続きを見る »

南部信義

南部 信義(なんぶ のぶよし、1462年(寛正3年)阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典 コンパクト版』(新人物往来社、1990年9月)、P591 - 1503年6月18日(文亀3年5月24日))は、陸奥の戦国大名南部氏の第21代当主。第20代当主・南部信時の嫡男。官位は修理大夫。子に北致愛がいる阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典コンパクト版』(新人物往来社、1990年9月)、P589。.

新しい!!: 南部氏と南部信義 · 続きを見る »

南部信真

南部 信真(なんぶ のぶまさ、安永9年2月1日(1780年3月6日) - 弘化3年12月29日(1847年2月14日))は、陸奥八戸藩の第8代藩主。第6代藩主・南部信依の三男として江戸にて生まれる。幼名は安吉のちに主水、左衛門尉。母は鈴木幸右衛門の娘、織瀬。正室は小田原藩主・大久保忠顕の娘。側室に貴子がいる。.

新しい!!: 南部氏と南部信真 · 続きを見る »

南部信直

南部 信直(なんぶ のぶなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての陸奥国の武将、戦国大名。南部氏第26代当主で中興の祖といわれる。.

新しい!!: 南部氏と南部信直 · 続きを見る »

南部信順

南部 信順(なんぶ のぶゆき)は、陸奥八戸藩の第9代(最後)の藩主。.

新しい!!: 南部氏と南部信順 · 続きを見る »

南部信行

南部 信行(なんぶ のぶいき)は、鎌倉時代から南北朝時代頃に活躍した武将。 別名を六郎・祐時。薩摩守 『南部系譜』が採用されている「南部史談会誌」によれば、南部義行の子にして南部義重・南部茂時・南部信長・南部仲行・南部茂行らの弟で、.

新しい!!: 南部氏と南部信行 · 続きを見る »

南部信誉

南部 信誉(なんぶ のぶのり)は、江戸時代後期から末期にかけての大名。陸奥国七戸藩2代藩主。.

新しい!!: 南部氏と南部信誉 · 続きを見る »

南部信興

南部 信興(なんぶ のぶおき、享保10年9月22日(1725年10月27日) - 安永2年8月13日(1773年9月29日))は、江戸時代後期の大名。陸奥国八戸藩の5代藩主。4代藩主南部広信の長男として生まれる。遠江守、左衛門尉。 生年は享保8年(1723年)とも。寛保元年(1741年)、父の死により家督を相続。明和2年(1765年)隠居し、安永2年(1773年)死去。跡を長男の南部信依が継いだ。 正室は織田長亮の娘。子は、長男・南部信依、三男・南部信充、四男・南部興長、五男・南部興春。 のふおき のふおき Category:1725年生 Category:1773年没.

新しい!!: 南部氏と南部信興 · 続きを見る »

南部信鄰

南部 信鄰(なんぶ のぶちか)は、江戸時代後期の旗本、のち陸奥国七戸藩(盛岡新田藩)の初代藩主。.

新しい!!: 南部氏と南部信鄰 · 続きを見る »

南部信長

南部 信長(なんぶ のぶなが)は、日本の武将。.

新しい!!: 南部氏と南部信長 · 続きを見る »

南部信恩

南部 信恩(なんぶ のぶおき)は、陸奥盛岡藩の第5代藩主。.

新しい!!: 南部氏と南部信恩 · 続きを見る »

南部信民

南部 信民(なんぶ のぶたみ )は、江戸時代末期の大名。陸奥国七戸藩3代藩主。盛岡藩の家老・三戸式部の従兄弟にあたる。.

新しい!!: 南部氏と南部信民 · 続きを見る »

南部信房

南部 信房(なんぶ のぶふさ、明和2年6月15日(1765年8月1日) - 天保6年5月12日(1835年6月7日))は、陸奥国八戸藩の第7代藩主。第6代藩主南部信依の長男として生まれる。官位は従五位下、伊勢守。正室は溝口直養の娘(寳體院)。.

新しい!!: 南部氏と南部信房 · 続きを見る »

南部信方

南部 信方(なんぶ のぶかた、安政5年5月12日(1858年6月22日) - 大正12年(1923年)7月29日)は、陸奥国七戸藩の第4代(最後)の藩主。父は本家盛岡藩の藩主・南部利剛(信方は三男)。正室は土井利善の娘・亀、継室は細川行真の娘・澄子。.

新しい!!: 南部氏と南部信方 · 続きを見る »

南部信政

南部 信政(なんぶ のぶまさ)は南北朝時代の武将。南部政長の子とされる。.

新しい!!: 南部氏と南部信政 · 続きを見る »

南部信時

南部 信時(なんぶ のぶとき、1442年(嘉吉2年)阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典 コンパクト版』(新人物往来社、1990年9月)、P590 - 1502年1月11日(文亀元年12月3日))は、南部氏の第20代当主。第16代当主・南部助政の嫡男。通称は左衛門。子に南部信義、南部政康、野沢重義、南部光康がいる。.

新しい!!: 南部氏と南部信時 · 続きを見る »

南部利幹

南部 利幹(なんぶ としもと)は、陸奥盛岡藩の第6代藩主。 元禄2年(1689年)、第4代藩主・南部行信の四男として生まれる。初め、父の命令により三戸氏を称した。宝永5年(1706年)1月5日、兄で5代藩主の信恩が死去したため、末期養子として、家督を継いで藩主となった。同年1月15日、将軍・徳川綱吉にお目見えする。同年12月18日、従五位下信濃守に叙任する。 領内の銅減産も重なって財政難が進行し、江戸の借財が10余万両にまで膨らみ、参勤交代費用にも窮する事態となった。これにより、享保8年(1723年)には家老以下を更迭し、諸役人を減員する倹約政策を断行して一定の効果を得た。しかし、他方では強引な政策に家臣の不満が高まった。 享保10年(1725年)に死去し、跡を養子の利視(兄・信恩の次男)が継いだ。また、次男の南部信起は家格旗本寄合席の旗本となった。.

新しい!!: 南部氏と南部利幹 · 続きを見る »

南部利克

南部 利克(なんぶ としなり、明治5年10月17日(1872年11月17日) – 昭和25年(1950年)5月6日)は、八戸南部氏12代当主。.

新しい!!: 南部氏と南部利克 · 続きを見る »

南部利剛

南部 利剛(なんぶ としひさ)は、陸奥国盛岡藩の第15代藩主。第13代盛岡藩主・南部利済の三男。.

新しい!!: 南部氏と南部利剛 · 続きを見る »

南部利祥

南部 利祥(なんぶ としなが、1882年(明治15年)1月25日 - 1905年(明治38年)3月4日)は、日本の陸軍軍人。 第15代盛岡藩主南部利恭の長男で南部家第42代当主にあたる。階級は陸軍騎兵中尉。位階勲等功級は正四位功五級金鵄勲章受章。爵位は伯爵。.

新しい!!: 南部氏と南部利祥 · 続きを見る »

南部利義

南部 利義(なんぶ としとも)は、陸奥国盛岡藩の第13代藩主。第12代盛岡藩主・南部利済の長男。諱は藩主時代は信侯、利道であり、隠居後に利義と改名。.

新しい!!: 南部氏と南部利義 · 続きを見る »

南部利用 (吉次郎)

南部 利用(なんぶ としもち)は、陸奥盛岡藩の第11代藩主。ただし、公式には同一人物とされたが、この名を名乗った人物は2人いた。本記事ではその1人目の人物について記述する。幼名は駒五郎、のち吉次郎で、いわば本物の南部利用である。.

新しい!!: 南部氏と南部利用 (吉次郎) · 続きを見る »

南部利用 (大膳大夫)

南部 利用(なんぶ としもち)は、陸奥盛岡藩の第11代藩主。ただし、公式には同一人物とされたが、この名を名乗った人物は2人いた。本記事ではその2人目の人物について記述する。幼名は善太郎。文政4年(1821年)に不慮の死を遂げた1人目の利用(幼名:吉次郎)の替え玉として藩主に擁立された。.

新しい!!: 南部氏と南部利用 (大膳大夫) · 続きを見る »

南部利直

南部 利直(なんぶ としなお)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。南部氏第27代(盛岡南部家2代)当主。陸奥盛岡藩の初代藩主。.

新しい!!: 南部氏と南部利直 · 続きを見る »

南部利視

南部 利視(なんぶ としみ)は、陸奥盛岡藩の第7代藩主。.

新しい!!: 南部氏と南部利視 · 続きを見る »

南部利謹

南部 利謹(なんぶ としのり、延享3年8月16日(1746年9月30日) - 文化11年11月19日(1814年12月30日))は、陸奥盛岡藩第8代藩主・南部利雄の長男。母は前田利章の娘。正室は黒田継高の息女、麻姫。官位従四位下、信濃守。通称は三郎。諱は嵩信→利謹。子は12代藩主南部利済(次男)など。側室で利済生母である石原氏(清鏡院)は俗称「油御前」といわれる庶民出の女性で、塗師の寡婦であり、利謹の死後に聖寿寺に出家し、妙白尼と称した。.

新しい!!: 南部氏と南部利謹 · 続きを見る »

南部利英

南部 利英(なんぶ としひで、1907年(明治40年)9月19日 - 1980年(昭和55年)12月15日)は、南部家第44代当主。現当主の南部利文の祖父。爵位は伯爵。貴族院議員。後陽成天皇の男系子孫にあたる。.

新しい!!: 南部氏と南部利英 · 続きを見る »

南部利雄

南部 利雄(なんぶ としかつ)は、陸奥盛岡藩の第8代藩主。.

新しい!!: 南部氏と南部利雄 · 続きを見る »

南部利恭

南部 利恭(なんぶ としゆき、安政2年10月9日(1855年11月18日) - 明治36年(1903年)10月19日)は、陸奥国盛岡藩第15代(最後の)藩主。第14代藩主・南部利剛の長男。官位は従二位、甲斐守。伯爵。 幼名は彦太郎、初名は剛毅。文久3年(1863年)9月、幕府に丈夫届を提出する。明治元年(1868年)10月9日、戊辰戦争に際し、南部信民とともに官軍に降伏を申し入れる。同年12月2日、父利剛とともに東京に護送されて、金地院で謹慎する。同年12月17日、父利剛が明治新政府から隠居を命じられたため、家督を相続した。同年12月24日、戊辰戦争で官軍と交戦したため、陸奥国白石13万石に減転封された。明治2年6月18日、版籍奉還により、白石藩知事に就任する。同年6月28日、従五位下甲斐守に叙任する。 明治2年7月22日、盛岡藩知事に転任する。盛岡復帰のため、政府に70万両の献金を約束した。しかし、大半は調達できず、政府は廃藩の圧力をかけて、利恭は辞表を提出するにいたった。明治3年7月、政府は辞表を受理し、盛岡県を設置した。明治17年7月、伯爵となる。 正室は伊達宗城の娘、継室は溝口直溥の娘、浅野懋昭(としてる)の娘・喜久子(1856-1902、長勲の実妹にあたる)。子は、長男・南部利祥(南部家第42代当主)、次男・南部利淳(南部家第43代当主)、庸子(毛利元秀室)。.

新しい!!: 南部氏と南部利恭 · 続きを見る »

南部利正

南部 利正(なんぶ としまさ)は、陸奥盛岡藩の第9代藩主。第7代藩主・南部利視の六男。.

新しい!!: 南部氏と南部利正 · 続きを見る »

南部利淳

南部 利淳(なんぶ としあつ、明治17年(1884年)6月25日 - 昭和5年(1930年)1月1日)は、南部家第43代当主。第15代盛岡藩主南部利恭の次男。兄は第42代当主南部利祥。爵位は伯爵。.

新しい!!: 南部氏と南部利淳 · 続きを見る »

南部利済

南部 利済(なんぶ としただ)は、陸奥国盛岡藩の第12代藩主。廃嫡された南部利謹(第8代藩主・南部利雄の長男)の次男。三閉伊一揆を誘発した。横沢兵庫を登用して武備充実や殖産興業策などの積極的な政策を推進したが、経済振興のために盛岡城下に遊郭を建設するなど、藩内感情を無視した膨大急激な計画は反感を買い、凶作の中での奢侈と増税で、最終的には三閉伊一揆を誘発して隠居したにもかかわらず、隠居後も俗に「三奸」と呼ばれた田鎖左膳、石原汀、川島杢左衛門を重用して藩政に介入した。.

新しい!!: 南部氏と南部利済 · 続きを見る »

南部利昭

南部 利昭(なんぶ としあき、1935年9月16日 - 2009年1月7日)は、南部家の第45代当主。第9代靖国神社宮司。後陽成天皇の男系子孫。.

新しい!!: 南部氏と南部利昭 · 続きを見る »

南部利文

南部 利文(なんぶ としふみ、1970年4月8日 - )は、南部家の第46代当主。東北銀行非常勤監査役。後陽成天皇の男系子孫。.

新しい!!: 南部氏と南部利文 · 続きを見る »

南部利敬

南部 利敬(なんぶ としたか)は、陸奥盛岡藩の第10代藩主。第9代藩主・南部利正の次男。.

新しい!!: 南部氏と南部利敬 · 続きを見る »

南部元時

南部 元時(なんぶ もととき)は、室町時代から戦国時代初期頃の南部義元を初代とする甲斐南部氏第7世の武将で当主。.

新しい!!: 南部氏と南部元時 · 続きを見る »

南部光行

南部 光行(なんぶ みつゆき)は、日本の平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。加賀美遠光の三男。南部氏の始祖。.

新しい!!: 南部氏と南部光行 · 続きを見る »

南部勝信

南部 勝信(なんぶ かつのぶ、寛文9年(1669年) - 享保17年4月24日(1732年5月18日))は江戸時代の旗本。陸奥盛岡藩の第3代藩主・南部重信の子。幼名鶴之助。通称、主計、右近。三田南部家祖。兄に七戸秀信、七戸定信、行信、七戸英信、政信、弟に通信、七戸愛信、坪内定信、七戸舜信(兄・英信養子)および姉に式姫(池田綱清正室)、七姫(本多忠英正室のち有馬豊祐正室)、妹に慶姫(八戸利戡室)、恵岐姫(桜庭兵三郎直良)らがいる。室は南部直政の娘。娘は南部信尹正室。 元禄7年(1694年)8月21日、兄・行信より陸奥国和賀・二戸二郡内の新田3,000石を分知、旗本となり寄合に列する。宝永3年知行地を蔵米に改められた。中村藩主・山内豊明の七男・信尹を婿養子として家を継がせている。 かつのふ Category:江戸幕府旗本 Category:1669年生 Category:1732年没.

新しい!!: 南部氏と南部勝信 · 続きを見る »

南部祐長

南部 祐長(なんぶ すけなが)は、南北朝時代から室町時代の武将。.

新しい!!: 南部氏と南部祐長 · 続きを見る »

南部義元

南部 義元(なんぶ よしもと)は、鎌倉時代の武将。甲斐南部氏初代当主。南部氏宗家、第3世当主南部時実の五男。.

新しい!!: 南部氏と南部義元 · 続きを見る »

南部義行

南部 義行(なんぶ よしゆき)は、鎌倉時代末の甲斐南部氏の武将。南部義元の嫡男で甲斐南部氏第2世当主。.

新しい!!: 南部氏と南部義行 · 続きを見る »

南部義重

南部 義重(なんぶ よししげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期に活躍した甲斐南部氏の第3代当主。南部義行の嫡男。奥氏や河西氏、仙洞田氏の祖とされる。ただし系譜によって記載・不記載が異なる。.

新しい!!: 南部氏と南部義重 · 続きを見る »

南部義政

南部 義政(なんぶ よしまさ、文中3年/応安7年(1374年) - 永享12年7月12日(1440年8月9日))は三戸南部氏第14代当主。初め南部庄司、後に遠江守、大膳大夫を号したとある。南部守行の嫡男。弟に政盛、助政、久慈威信(大浦則信)。室は安藤盛季の娘。子に東信政。.

新しい!!: 南部氏と南部義政 · 続きを見る »

南部為重

南部 為重(なんぶ ためしげ)は南北朝時代の武将。南部氏初期の系譜は異同が激しいため、系譜位置については一定しない。.

新しい!!: 南部氏と南部為重 · 続きを見る »

南部町 (山梨県)

南部町(なんぶちょう)は、山梨県南巨摩郡の町。山梨県の最南端に位置する。町の中央部を富士川が縦断するように流れる。陸奥国の南部氏の発祥地として知られる。江戸時代には舟運で栄えた。.

新しい!!: 南部氏と南部町 (山梨県) · 続きを見る »

南部甕男

南部 甕男(なんぶ みかお、弘化2年6月15日(1845年7月19日) - 1923年(大正12年)9月19日)は、明治期の日本の司法官僚。正二位勲一等男爵。号は南陽。.

新しい!!: 南部氏と南部甕男 · 続きを見る »

南部直房

南部 直房(なんぶ なおふさ)は、陸奥八戸藩の初代藩主。陸奥盛岡藩初代藩主・南部利直の七男として生まれる。八戸立藩以前には中里直好(中里数馬)を名乗った。.

新しい!!: 南部氏と南部直房 · 続きを見る »

南部直政

南部 直政(なんぶ なおまさ)は、陸奥国八戸藩の第2代藩主。.

新しい!!: 南部氏と南部直政 · 続きを見る »

南部行信

南部 行信(なんぶ ゆきのぶ)は、陸奥盛岡藩の第4代藩主。.

新しい!!: 南部氏と南部行信 · 続きを見る »

南部麻子

南部 麻子(なんぶ あさこ、安政5年(1858年) – 大正2年(1913年)12月12日)は、八戸南部氏11代当主。.

新しい!!: 南部氏と南部麻子 · 続きを見る »

南部茂時

南部 茂時(なんぶ しげとき、正安元年(1299年) - 元弘3年/正慶2年5月22日(1333年7月4日))は、鎌倉時代末期の南部氏宗家、第10世当主とされる武将。ただし南部氏一族ではないとも指摘される。.

新しい!!: 南部氏と南部茂時 · 続きを見る »

南部重信

南部 重信(なんぶ しげのぶ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名で、陸奥盛岡藩の第3代藩主。南部氏の第29代当主。父は南部利直。母は閉伊氏の一族、花輪政朝の娘・松。幼名は彦六郎。別名は、乙松、鍋松丸など。地元の人々からは親しみを持って「花輪殿様」と呼ばれている。.

新しい!!: 南部氏と南部重信 · 続きを見る »

南部重直

南部 重直(なんぶ しげなお)は、南部氏第28代(盛岡南部家第3代)当主。陸奥盛岡藩の第2代藩主。.

新しい!!: 南部氏と南部重直 · 続きを見る »

南部重清

南部 重清(なんぶ しげきよ)は、室町時代後期の甲斐南部氏の武将で北面武士。甲斐の高下村で隠居後、仙洞田氏を興す。.

新しい!!: 南部氏と南部重清 · 続きを見る »

南部長継

南部 長継(なんぶ ながつぐ、生年不詳 - 1352年(正平7年)?)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活動した武士。南部実継の子で、波木井南部氏第3代当主。 幼名は梅平次、後に入道法達、右馬頭、四郎を名乗る。法名は劫岳曠公。子に南部貞継、女(南部師行妻)、南部宗継?、南部宗治?、.

新しい!!: 南部氏と南部長継 · 続きを見る »

南部通信

南部 通信(なんぶ みちのぶ、寛文13年2月11日(1673年3月29日) - 享保元年8月24日(1716年10月9日))は、陸奥国八戸藩の第3代藩主。実父は盛岡藩主・南部重信(通信は四男)。生母は栃内金右衛門の娘・澤(浄生院)。正室は前田利明の娘。幼名は内匠。官位は従五位下、遠江守。子は南部広信(長男)。 元禄12年(1699年)、先代藩主で従兄にあたる南部直政の末期養子となり、同年5月に跡を継いで藩主となった。通信は有能な人物で、文武に優れ、馬術を得意とし、さらに茶道や和歌、蹴鞠にも通じた豊かな教養人でもあった。 藩政においては、倹約令の制定、物価の統制、凶作対策や買占めの取り締まり、文武の奨励など様々な藩政改革に着手して、藩政の発展に貢献した。享保元年(1716年)8月24日、44歳で死去し、跡を長男・広信が継いだ。墓所は青森県八戸市の南宗寺。 みちのふ みちのふ Category:1673年生 Category:1716年没.

新しい!!: 南部氏と南部通信 · 続きを見る »

南部栄信

南部 栄信(なんぶ さきのぶ、安政5年5月15日(1858年6月25日) – 明治9年(1876年)3月26日)は、八戸南部氏10代当主。.

新しい!!: 南部氏と南部栄信 · 続きを見る »

南部清政

南部 清政(なんぶ きよまさ)は、南北朝時代から室町時代の武将。甲斐南部氏第3代当主南部義重の曾孫。.

新しい!!: 南部氏と南部清政 · 続きを見る »

南部政康

南部 政康(なんぶ まさやす、1461年(寛正2年) - 1507年3月23日(永正4年2月10日)?)は陸奥の戦国大名南部氏の第22代当主阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典 コンパクト版』(新人物往来社、1990年9月)、P591。第20代当主・南部信時の次男で、第21代当主・南部信義の兄(弟とも)。官位は右馬頭。通称は彦四郎。.

新しい!!: 南部氏と南部政康 · 続きを見る »

南部政光

南部 政光(なんぶ まさみつ)は、.

新しい!!: 南部氏と南部政光 · 続きを見る »

南部政行

南部 政行.

新しい!!: 南部氏と南部政行 · 続きを見る »

南部政行 (12代当主)

南部 政行(なんぶ まさゆき)は、南北朝時代の武将。三戸南部氏第12代当主。第11代当主・南部信長の子。信長の養嗣子となったとする説もある。.

新しい!!: 南部氏と南部政行 (12代当主) · 続きを見る »

南部政行 (鎌倉時代)

南部 政行(なんぶ まさゆき)は、鎌倉時代末期の武将。南部氏第3代当主南部時実の次男(『続群書類従』)。次郎行長。.

新しい!!: 南部氏と南部政行 (鎌倉時代) · 続きを見る »

南部政長

南部 政長(なんぶ まさなが)は、南北朝時代の武将。南部政行の四男。.

新しい!!: 南部氏と南部政長 · 続きを見る »

南部晴継

南部 晴継(なんぶ はるつぐ)は、陸奥の戦国大名。南部氏の第25代当主。.

新しい!!: 南部氏と南部晴継 · 続きを見る »

南部晴政

南部 晴政(なんぶ はるまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。陸奥の戦国大名。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系、河内源氏の傍系、甲斐源氏の流れを汲む。南部氏第24代当主。.

新しい!!: 南部氏と南部晴政 · 続きを見る »

南部時長

南部 時長(なんぶ ときなが)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武士。南部政行の嫡男。.

新しい!!: 南部氏と南部時長 · 続きを見る »

南部時政

南部 時政(なんぶ ときまさ、応永17年(1410年) - 文明5年3月5日(1473年4月2日))は室町時代の陸奥の大名南部氏の第18代当主。南部通継、南部信実の父。.

新しい!!: 南部氏と南部時政 · 続きを見る »

南氏

南氏(みなみし).

新しい!!: 南部氏と南氏 · 続きを見る »

南朝 (日本)

南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。.

新しい!!: 南部氏と南朝 (日本) · 続きを見る »

参考諸家系図

『参考諸家系図』(さんこうしょけけいず)は、南部藩(盛岡、八戸藩)南部氏一門をはじめ、藩士2,700余名にも及ぶ所伝の家系図集である。.

新しい!!: 南部氏と参考諸家系図 · 続きを見る »

吾妻鏡

『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮の序文 『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。 編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。.

新しい!!: 南部氏と吾妻鏡 · 続きを見る »

吉野

吉野(よしの)は、大和国南部(現在の奈良県南部)一帯を指す地名である。特に吉野山から大峰山にかけての山岳地帯をいう。狩りに適した良い野という意味である。吉野は口吉野と奥吉野に分かれる。奥吉野は山々が連なる山岳地帯で、古くは大峰とよばれ、厳密には吉野に含まれなかった。大峰の山々は熊野まで連なる。大峰への道は修験者によって、熊野から開かれた。 記紀には応神や雄略の吉野での狩りの伝承が載せられている。.

新しい!!: 南部氏と吉野 · 続きを見る »

吉良貞家

吉良 貞家(きら さだいえ)は、南北朝時代の武将。初代奥州管領。陸奥国の南朝勢力の制圧に努めた。.

新しい!!: 南部氏と吉良貞家 · 続きを見る »

士族

士族(しぞく)は、明治維新以降、江戸時代の旧武士階級や地下家、公家や寺院の使用人のうち、原則として禄を受け取り、華族とされなかった者に与えられた身分階級の族称である。士族階級に属する者には、『壬申戸籍』に「士族」と身分表示が記され、第二次世界大戦後1947年(昭和22年)の民法改正による家制度廃止まで戸籍に記載された。.

新しい!!: 南部氏と士族 · 続きを見る »

多々良浜の戦い

多々良浜の戦い(たたらはまのたたかい)は、南北朝時代の1336年(建武3年)に行われた合戦である。.

新しい!!: 南部氏と多々良浜の戦い · 続きを見る »

大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

新しい!!: 南部氏と大名 · 続きを見る »

大審院

大審院(だいしんいん、たいしんいんNHK放送文化研究所編『ことばのハンドブック 第2版』では放送上の表現としては「だいしんいん」ではなく「たいしんいん」と読むと解説されている(NHK放送文化研究所編 『ことばのハンドブック 第2版』 p.122 2005年))は、明治時代初期から昭和時代前期まで日本に設置されていた最高裁判所。.

新しい!!: 南部氏と大審院 · 続きを見る »

大永

大永(だいえい、たいえい)は、日本の元号の一つ。永正の後、享禄の前。1521年から1527年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇、後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義稙、足利義晴。.

新しい!!: 南部氏と大永 · 続きを見る »

大晦日

夜の鐘 なまはげ 大晦日(おおみそか)は、1年の最後の日。天保暦(旧暦)など日本の太陰太陽暦では12月30日、または12月29日である。現在のグレゴリオ暦(新暦)では12月31日。翌日は新年(1月1日)である。大つごもりともいう。日本では、年神を迎えることにちなむ行事が行われる。.

新しい!!: 南部氏と大晦日 · 続きを見る »

天寿

天寿(てんじゅ).

新しい!!: 南部氏と天寿 · 続きを見る »

天下統一

天下統一(てんかとういつ/てんがとういつ)は統治すべき地域を一人の権力者の下で統治すること。.

新しい!!: 南部氏と天下統一 · 続きを見る »

天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

新しい!!: 南部氏と天正 · 続きを見る »

天文 (元号)

天文(てんぶん、てんもん)は、日本の元号の一つ。享禄の後、弘治の前。1532年から1555年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴、足利義輝。.

新しい!!: 南部氏と天文 (元号) · 続きを見る »

太平記

『太平記』(たいへいき)は、日本の古典文学作品の1つである。歴史文学に分類され、日本の歴史文学の中では最長の作品とされる。 全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。 第二次世界大戦後、「太平記」を称する小説やテレビドラマが多く作られたため、混同を避けるために『古典太平記』と呼ばれることもある。.

新しい!!: 南部氏と太平記 · 続きを見る »

外が浜

外が浜(そとがはま)は、青森県東津軽郡・青森市に相当する地域の陸奥湾沿岸を指す古来の地名である。 現代の区分では青森市・蓬田村・外ヶ浜町・今別町・平内町にほぼ相当する地域名でもある。外ヶ浜、外浜とも表し、外の浜ともいう。.

新しい!!: 南部氏と外が浜 · 続きを見る »

奥南旧指録

奥南旧指録(おうなんきゅうしろく)は、南部家始祖光行の文治5年(1189年)糠部五郡拝領から、南部藩5代藩主信恩死去の宝永4年(1707年)までの歴代の事蹟を記している資料。.

新しい!!: 南部氏と奥南旧指録 · 続きを見る »

奥州

奥州(おうしゅう).

新しい!!: 南部氏と奥州 · 続きを見る »

奥州合戦

奥州合戦(おうしゅうかっせん)は、文治5年(1189年)7月から9月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏との間で東北地方にて行われた一連の戦いの総称である。この戦役により、源頼朝による武士政権が確立した。また治承4年(1180年)に始まる内乱時代(治承・寿永の乱)の最後にあたる戦争でもある。.

新しい!!: 南部氏と奥州合戦 · 続きを見る »

奥州仕置

奥州仕置(おうしゅうしおき)は、天正18年(1590年)7月から8月にかけて行なわれた、豊臣秀吉による奥羽地方に対する領土仕置。奥羽仕置(おううしおき)ともいう。.

新しい!!: 南部氏と奥州仕置 · 続きを見る »

婿養子

婿養子(むこようし)は、婚姻と同時に夫が妻の親と養子縁組すること、またその場合に養子になった夫のことをいう。本記事では主に日本の民法における規定を説明する。歴史的な事柄は入婿を参照。.

新しい!!: 南部氏と婿養子 · 続きを見る »

嫡流

嫡流(ちゃくりゅう)とは、氏族の本家を継承する家筋・家系のことをいう。正嫡、正系、嫡系ともいう。対義語は庶流という。敬って「御嫡々の家系」という場合もある。嫡流の家を宗家、総本家、嫡家、大本家、本家という。  ちなみに、「直系」を嫡流の意味で用いるのは誤用で、直系とは正しくは親の親もしくは子の子といった関係の連鎖で結ばれる生物学的関係をいい、直系・傍系はあくまで純粋な生物学的血統上の語であり家筋・家系とは関係がない。例えば、ある人物から見たときその子孫はすべて直系卑属であるから、分家・庶流の子孫も直系であるし、また、傍系は相対的な系統上の関係をいうから、分家からみた本家は傍系である。詳しくは、 親族を参照。  あくまで当家の祭祀を継承する家系を意味するのであるから、長男が継承者となることが多いものの、必ずしも長男が継承するとは限らず、次男以下あるいは養子の子孫が嫡流となる場合もある点に注意。.

新しい!!: 南部氏と嫡流 · 続きを見る »

子爵

子爵(ししゃく、 )は、中国で儒教の経典によって古代より用いられたと主張された爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。近代日本の華族の爵位にも取り入れられた。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の訳語にも使われる。.

新しい!!: 南部氏と子爵 · 続きを見る »

宝治合戦

宝治合戦(ほうじかっせん)は、鎌倉時代中期に起こった鎌倉幕府の内乱。執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立から宝治元年(1247年)6月5日に鎌倉で武力衝突が起こり、北条氏と外戚安達氏らによって三浦一族とその与党が滅ぼされた。三浦氏の乱とも呼ばれる。この事件は、得宗専制政治が確立する契機として評価されている。また、この事件の推移、経過を記述する史料は、『吾妻鏡』しか現存しない。.

新しい!!: 南部氏と宝治合戦 · 続きを見る »

宣旨

宣旨(せんじ)は、律令期以降の日本において天皇・太政官の命令を伝達する文書の形式名。朝廷が出す文書の形態の一つ。詔勅の変体。.

新しい!!: 南部氏と宣旨 · 続きを見る »

室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

新しい!!: 南部氏と室町幕府 · 続きを見る »

室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

新しい!!: 南部氏と室町時代 · 続きを見る »

宮司

宮司(ぐうじ、みやづかさ)とは神職や巫女をまとめる神社の長(おさ)である神職の職階(職名・職称)である。.

新しい!!: 南部氏と宮司 · 続きを見る »

家督

家督(かとく)とは、家父長制における家長権を意味する。鎌倉時代に家督の嫡子単独相続、遺産の分割相続が原則とされた。室町時代に両者とも嫡子相続を原則としたが、現実には完全な制度として確立しておらず、内紛が発生した。のち江戸幕府の絶対的な権力を背景として、家督の嫡子単独相続が確立した。 なお、主に武家においては、断絶した家名を他氏の者が相続することを名跡を継ぐといい、実子または血縁者が相続する場合の家督継承と区別された。主な例としては平姓畠山氏を源氏の足利義純が相続し、源姓畠山氏に変わった事などが知られている。 また、鎌倉時代には家督権は財産権とあわせて跡職(跡式)・跡目と称して嫡子が継いだが、庶子に分割する相続財産をも跡職と称した。その後、江戸時代には先代の死亡にともなう相続の場合を跡目相続、先代の隠居による場合を家督相続と呼び分けた。 明治憲法下においても家制度の一環として法制度として存続したが、日本国憲法施行直後の民法大改正によって廃止された。とはいえそれから70年以上経った今日でも家督を重んじる社会通念が西日本を中心に残っている。.

新しい!!: 南部氏と家督 · 続きを見る »

家系

家系(かけい)または血統(けっとう)とは、親子・兄弟・婚姻・養子など様々な関係性で結ばれる特定の家族、血族集団を指す。一定の血族集団の中で同一の階級または地位、氏、家名、家格、家業、家財を世襲で継承する場合に使われることが多い。類似概念に家柄などがある。.

新しい!!: 南部氏と家系 · 続きを見る »

宗家

宗家(そうけ)は、ある一族、一門において正嫡(嫡流)の家系。またその家系の当主。本家。 日本ではこれから転じて、能楽などの伝統芸能や古武道などで家元の言いかえとして用いられる称号として用いられる。もとは能楽のシテ方観世流で観世銕之丞家に対して家元家を宗家と呼んだところからおこったものである。宗家位、宗家号とも。流派の経営、普及活動及び一門の統率、門下生の教育を旨とする。流派により宗家自ら師範となる場合、弟子に門下生の指導を委ねる場合とがある。.

新しい!!: 南部氏と宗家 · 続きを見る »

宇都宮

宇都宮(うつのみや).

新しい!!: 南部氏と宇都宮 · 続きを見る »

安土桃山時代

安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。 なお、美術史では1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡までを「安土桃山時代」と称するのが一般的である。.

新しい!!: 南部氏と安土桃山時代 · 続きを見る »

安田氏

安田氏(やすだし).

新しい!!: 南部氏と安田氏 · 続きを見る »

安東氏

安東氏(あんどううじ、あんどうし)は、日本の鎌倉時代から戦国時代の末まで、陸奥国・出羽国の北部に勢力を張った武士の一族である。本姓は安倍を称した。 なお諸史料に現れるアンドウの表記について、主として鎌倉時代から南北朝時代にかけての津軽時代には「安藤氏」、室町時代中期以降の秋田時代には「安東氏」とされている例が多いことから世界大百科事典第2版 1998、個人名表記は概ね15世紀半ばまでを「安藤」、以降を「安東」とするが、本稿では便宜上、他氏族との混同を避けるため、氏族名を「安東」で統一して叙述する。なお、安藤氏と表記する場合、他の家系と区別するため津軽安藤氏と呼ぶ例がある小口 1995,書名。.

新しい!!: 南部氏と安東氏 · 続きを見る »

富士川

富士川(ふじかわ)は、長野県・山梨県及び静岡県を流れる河川。一級水系富士川の本流であり日本三大急流の一つに数えられている。 甲斐と駿河を結ぶ水運としての要路であり、古くから人々の暮らしに密着してきた。.

新しい!!: 南部氏と富士川 · 続きを見る »

富士郡

*.

新しい!!: 南部氏と富士郡 · 続きを見る »

寛永

寛永(かんえい)は日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

新しい!!: 南部氏と寛永 · 続きを見る »

寛文

寛文(かんぶん)は日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1673年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

新しい!!: 南部氏と寛文 · 続きを見る »

尊卑分脈

『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく、異体字で『尊卑分脉』とも)は、日本の初期の系図集。正式名称は『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(しんぺん さんず ほんちょう そんぴぶんみゃく けいふざつるい ようしゅう、旧字体:新編纂圖本朝尊卑分脈系譜雜類要集)、また『諸家大系図』(しょか だいけいず)あるいは単に『大系図』(だいけいず)とも呼ばれる。 姓氏調査の基本図書のひとつで、南北朝時代から室町時代初期に完成した。編者は洞院公定で、主に永和3年(1377年)から応永2年(1395年)にかけて編纂された。ただし、公定死後も養子満季、孫の実煕ら洞院家の人によって編集・改変・訂正・追加が行われた。室町時代以降、広く増補改訂されたため、異本が多く、30巻本・20巻本・14巻本が流布した。 成立当初は帝皇系図・神祇道系図・宿曜道系図を伴ったらしいが失われ、現存する部分は源平藤橘のうちいずれも長く宮廷社会の中枢にいた藤原・源の両氏に詳しい。直線で父系を結び、女性は后妃など極めて一握りの人を除き「女子」と省略されている。系図に名の見える男性官人には、実名とともに生母・官歴・没年月日と享年の注記を含む略伝が付され、貴重である。平安時代および鎌倉時代に関する記載は一級史料として採用される。 ただし当時の記録や公卿の日記に見える人物の名がなかったり、また逆に実在が疑わしい人物が記載されていたり、年代的におかしい部分もある(例えば平忠盛の娘が源義忠に嫁いだと書かれているが、これは忠盛の父平正盛の娘の誤り)等、一部信憑性に欠ける部分もあり、公定死後の部分や加筆された部分に関しては他の史料との整合性や比較批評が必要である。.

新しい!!: 南部氏と尊卑分脈 · 続きを見る »

尊良親王

尊良親王(たかよししんのう / たかながしんのう、1310年(延慶3年)? - 1337年4月7日(延元2年 / 建武4年3月6日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。母は二条為世の娘・為子。宗良親王の同母兄。名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の読みを参照。.

新しい!!: 南部氏と尊良親王 · 続きを見る »

小笠原貞宗

小笠原 貞宗(おがさわら さだむね)は、鎌倉時代後期から室町時代前期の武将。信濃小笠原氏の当主。信濃守護。.

新しい!!: 南部氏と小笠原貞宗 · 続きを見る »

小笠原長清

小笠原 長清(おがさわら ながきよ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の甲斐国の武将。甲斐源氏の一族である加賀美遠光の次男。 信濃守護家小笠原氏、弓馬術礼法小笠原流の祖。.

新しい!!: 南部氏と小笠原長清 · 続きを見る »

小笠原氏

小笠原氏(おがさわらし、おがさわらうじ)は、日本の氏族。清和源氏の河内源氏の流れをくみ、武家の有職故実を伝える一族としても知られる。通字は、「長」・「貞」・「忠」などである。.

新しい!!: 南部氏と小笠原氏 · 続きを見る »

小田原征伐

小田原征伐(おだわらせいばつ)は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が後北条氏を征伐し降した歴史事象・戦役。後北条氏が秀吉の沼田領裁定の一部について武力をもっての履行を惣無事令違反とみなされたことをきっかけに起こった戦いである。後陽成天皇は秀吉に後北条氏討伐の勅書を発しなかったものの、遠征を前に秀吉に節刀を授けており 、関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ下山(1996) pp.91-96。。ここでは小田原城の攻囲戦だけでなく、並行して行われた後北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。 小田原合戦、小田原攻め、小田原の役、北条征伐、小田原の戦い、小田原の陣、小田原城の戦い(天正18年)とも呼ばれた。.

新しい!!: 南部氏と小田原征伐 · 続きを見る »

山下宏明

山下 宏明(やました ひろあき、1974年12月19日 - )は、日本の作曲家。神奈川県出身。.

新しい!!: 南部氏と山下宏明 · 続きを見る »

山科言継

山科言継墓所、京都市上京区清浄華院 山科 言継(やましな ときつぐ、永正4年4月26日(1507年6月6日)- 天正7年3月2日(1579年3月28日))は、戦国時代の公家。山科言綱の子。内蔵頭から正二位・権大納言に昇った。現存する『歴名土代』の編纂者であり、多くの戦国大名との交友でも知られている。.

新しい!!: 南部氏と山科言継 · 続きを見る »

山梨県

山梨県(やまなしけん)は、本州の内陸部に位置する日本の県の一つ。県庁所在地は甲府市。令制国の甲斐国に相当する。.

新しい!!: 南部氏と山梨県 · 続きを見る »

山本勘助

山本 勘助(やまもと かんすけ)は、戦国時代の武将。 『甲陽軍鑑』においては名を勘助、諱を晴幸、出家後道鬼を称したという。勘助の諱・出家号については文書上からは確認されていなかったが、近年、沼津山本家文書「御証文之覚」「道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」により、江戸時代段階で山本菅助子孫が諱を「晴幸」、出家号を「道鬼」と認識していたことは確認された。ただし「晴幸」の諱については、明治25年(1892年)に星野恒が「武田晴信(信玄)が家臣に対し室町将軍足利義晴の偏諱である「晴」字を与えることは社会通念上ありえなかった」とも指摘している。 『甲陽軍鑑』巻九では天文16年に武田晴信が『甲州法度之次第』を定めた際に勘助の年齢を55歳としており、これに従うと生年は明応2年(1493年)となる平山(2006)、p.44。一方、『甲陽軍鑑』末書下巻下の「山本勘介うハさ。五ヶ条之事」によれば、勘助の生年を明応9年(1500年)としている。「五ヶ条之事」では勘助が本国を出て武者修行を行い、駿河で滞在し今川家に仕官を望み、甲斐へ移り武田家に仕官し、出家し川中島の戦いで戦死する一連の履歴の年齢を記しているが、これには矛盾が存在していることが指摘される。生年には、文亀元年(1501年)説もある。『甲陽軍鑑』によれば、没年は永禄4年( 1561年)9月10日の川中島の戦いで討死したとされる。 近世には武田二十四将に含められ、武田の五名臣の一人にも数えられて、武田信玄の伝説的軍師としての人物像が講談などで一般的となっているが、「山本勘助」という人物は『甲陽軍鑑』やその影響下を受けた近世の編纂物以外の確実性の高い史料では一切存在が確認されていないために、その実在について長年疑問視されていた。しかし近年は「山本勘助」と比定できると指摘される「山本菅助」の存在が複数の史料で確認されている「山本菅助」文書については後述。。.

新しい!!: 南部氏と山本勘助 · 続きを見る »

岩手県

岩手県(いわてけん)は、東北地方に属する日本の都道府県の一つ。県庁所在地は盛岡市である。.

新しい!!: 南部氏と岩手県 · 続きを見る »

岩手郡

*.

新しい!!: 南部氏と岩手郡 · 続きを見る »

島津氏

島津氏(しまづし)は、日本の氏族。鎌倉時代から江戸時代まで続いた、薩摩を根拠地とする大名家のほかに、多数の分家がある。通字に「忠」「久」(初名も含めると基本的な通字は全時代を通じて「忠」の字が多く、江戸時代初期までは執権や将軍の偏諱を受けた場合に『「偏諱」+「久」』が多い。明治以降現在は嫡男に「忠」、次男に「久」)を用いる。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。本項は主に、薩摩の島津氏を主軸とした記述である。その他の島津氏についてはそれぞれ越前島津氏、信濃島津氏、若狭島津氏、江州島津氏などの項目または島津氏族の段を参照の事。.

新しい!!: 南部氏と島津氏 · 続きを見る »

工藤氏

工藤氏(くどうし)は、藤原南家の流れをくむ日本の氏族のひとつ。.

新しい!!: 南部氏と工藤氏 · 続きを見る »

巨摩郡

*.

新しい!!: 南部氏と巨摩郡 · 続きを見る »

上杉憲顕

上杉 憲顕(うえすぎ のりあき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将・守護大名。初代関東管領。山内上杉家の始祖。上野・越後・伊豆の守護を兼ねた。足利尊氏の母清子は父方の叔母であり、尊氏とは従兄弟の関係であった。.

新しい!!: 南部氏と上杉憲顕 · 続きを見る »

上洛

上洛(じょうらく)とは、主に京都に入ることを意味する言葉である。入洛とも言った。.

新しい!!: 南部氏と上洛 · 続きを見る »

中先代の乱

中先代の乱(なかせんだいのらん)は、1335年(建武2年)7月、北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児時行が、御内人の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから中先代の乱と呼ばれている。また、鎌倉支配が20日余りしか続かなかったことから、廿日先代(はつかせんだい)の異名もある。.

新しい!!: 南部氏と中先代の乱 · 続きを見る »

中野康実

中野 康実(なかの やすざね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。南部氏の家臣。.

新しい!!: 南部氏と中野康実 · 続きを見る »

中野氏

中野氏は日本の氏族。.

新しい!!: 南部氏と中野氏 · 続きを見る »

七戸家国

七戸 家国(しちのへ いえくに)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。南部氏の家臣。陸奥国上北郡七戸城主。.

新しい!!: 南部氏と七戸家国 · 続きを見る »

七戸藩

七戸藩(しちのへはん)は、居所を七戸城(青森県上北郡七戸町)とする分知大名の創設を幕府に願って認められて以後の呼称である。別称 盛岡新田藩。.

新しい!!: 南部氏と七戸藩 · 続きを見る »

七戸氏

七戸氏(しちのへし)は、七戸地方(現青森県七戸町周辺)に拠った南部氏の一族にして家臣。居城は七戸城。時代によって血筋の異なる家が存在する。.

新しい!!: 南部氏と七戸氏 · 続きを見る »

七戸朝清

七戸 朝清(しちのへ ともきよ)は鎌倉時代の武士。南部光行の三男(あるいは六男とも)。七戸氏と久慈氏の祖。.

新しい!!: 南部氏と七戸朝清 · 続きを見る »

三戸町

三戸町(さんのへまち)は、青森県三戸郡の南端、岩手県との境に位置する町である。 古くより三戸郡の中核機能を有する町として栄えてきた。.

新しい!!: 南部氏と三戸町 · 続きを見る »

三戸郡

*.

新しい!!: 南部氏と三戸郡 · 続きを見る »

三戸氏

三戸氏(みとし、みつし、さんのへし)は、日本の氏族。 三戸(みと、みつ)氏.

新しい!!: 南部氏と三戸氏 · 続きを見る »

下北地方

■:下北地方 下北地方(しもきたちほう)は、青森県の地方名のひとつ。.

新しい!!: 南部氏と下北地方 · 続きを見る »

一条実輝

一条 実輝(いちじょう さねてる、旧字体:一條實輝、慶応2年8月24日(1866年10月2日) - 大正13年(1924年)7月9日)は、日本の華族、海軍軍人。海軍大佐・正二位・公爵に上り、東宮侍従長を務める。陸軍中将・侯爵の四条隆謌七男。一条家は藤原北家、九条道家の三男実経を始祖とし、五摂家の一つに数えられる。実輝は、自身のはとこにあたる一条忠貞の跡を受け家督を継ぐ。昭憲皇太后は義理の叔母。.

新しい!!: 南部氏と一条実輝 · 続きを見る »

一戸氏

一戸氏(いちのへし)は、日本の氏族。.

新しい!!: 南部氏と一戸氏 · 続きを見る »

九戸城

九戸城(くのへじょう)は、岩手県二戸市福岡城ノ内にあった日本の城である。後に盛岡へと移るまで南部氏の居城となり福岡城と改められたが、九戸城と呼ぶのが普通である。別名「宮野城」。国の史跡に指定されている。.

新しい!!: 南部氏と九戸城 · 続きを見る »

九戸実親

九戸 実親(くのへ さねちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。南部氏の家臣。.

新しい!!: 南部氏と九戸実親 · 続きを見る »

九戸氏

九戸氏(くのへし)は、日本の氏族のひとつ。陸奥国を本拠とした武家。九戸党とも。「九戸政実の乱」を起こした、11代目(説により14代目)の九戸政実が有名。中野氏・高田氏・坂本氏・上野氏・小軽米氏・江刺氏・姉帯氏などがこの一族という。.

新しい!!: 南部氏と九戸氏 · 続きを見る »

九戸政実

九戸 政実(くのへ まさざね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。南部氏の家臣。九戸城主。九戸信仲の子。.

新しい!!: 南部氏と九戸政実 · 続きを見る »

九戸政実の乱

九戸政実の乱(くのへまさざねのらん)は天正19年(1591年)、南部氏一族の有力者である九戸政実が、南部家当主の南部信直および奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱である。近年では「九戸政実の決起」などと称することもある。.

新しい!!: 南部氏と九戸政実の乱 · 続きを見る »

平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

新しい!!: 南部氏と平安時代 · 続きを見る »

平賀郡

平賀郡(ひらかぐん、ひらかのこおり)は、かつて陸奥国の津軽半島の岩木川上流地域に存在した『浪岡町史』p.699-700郡である。.

新しい!!: 南部氏と平賀郡 · 続きを見る »

平成

平成(へいせい)は日本の元号の一つ。昭和の後。今上天皇在位中の1989年(平成元年)1月8日から現在に至る。2001年(平成13年)の始まりには西暦における20世紀から21世紀への世紀の転換もあった。2019年(平成31年)4月30日に今上天皇退位により終了する予定であり、予定通り終了した場合、30年113日間(=11,070日間)にわたることとなる。なお、日本の元号では昭和(64年)、明治(45年)、応永(35年)に次いで4番目の長さである(5番目は延暦の25年)。 西暦2018年(本年)は平成30年に当たる。本項では平成が使われた時代(平成時代)についても記述する。.

新しい!!: 南部氏と平成 · 続きを見る »

平成・南部藩

平成・南部藩とは南部氏ゆかりの自治体が結成したバーチャル合併により設立した架空の自治体である。.

新しい!!: 南部氏と平成・南部藩 · 続きを見る »

幕府

幕府(ばくふ)は、日本の中世及び近世における征夷大将軍などの武家の最高権力者を首長とする武家政権のことをいう。あるいはその武家政権の政庁、征夷大将軍の居館・居城を指す名称としても用いられる。近衛大将の唐名。.

新しい!!: 南部氏と幕府 · 続きを見る »

幕藩体制

幕藩体制(ばくはんたいせい)とは、近世日本の社会体制のあり方を、幕府(将軍)と藩(大名)という封建的主従関係を基点にとらえた歴史学上の概念である。戦前段階には狭義に政治体制自体を指していたが、戦後の歴史学の進展に伴い、近世日本の社会体制全体の特色を示す概念として使われるようになった。幕藩制(ばくはんせい)ともいう。.

新しい!!: 南部氏と幕藩体制 · 続きを見る »

久遠寺

師堂の御影 本堂内陣 祖師堂(撮影:2006年2月) 三門(撮影:2006年2月) 五重塔外観 五重塔内部 久遠寺(くおんじ)は、山梨県南巨摩郡身延町にある、日蓮宗の総本山(祖山)。山号は身延山。.

新しい!!: 南部氏と久遠寺 · 続きを見る »

久慈郡

*.

新しい!!: 南部氏と久慈郡 · 続きを見る »

久慈氏

久慈氏(くじし)は、日本の氏族。摂待氏などがこの一族という。.

新しい!!: 南部氏と久慈氏 · 続きを見る »

享保

享保(きょうほう、きょうほ)は日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

新しい!!: 南部氏と享保 · 続きを見る »

京(きょう、けい、みやこ).

新しい!!: 南部氏と京 · 続きを見る »

康永

康永(こうえい)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。暦応の後、貞和の前。1342年から1344年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

新しい!!: 南部氏と康永 · 続きを見る »

二戸市

二戸市中心部周辺の空中写真。馬淵川沿いに市街地が形成され周囲は山に囲まれている。1977年撮影の8枚を合成作成。国土航空写真。 上空からの二戸市 二戸市(にのへし)は、岩手県の内陸部北端に位置する市である。 旧・二戸市域は中央を馬淵川(まべちがわ)が流れ、東に折爪岳を擁する。旧・浄法寺町域はほぼ中心を南西から北東に向かって流れる安比川の流れにそって交通が発展し、やや川下の開けた部分に総合支所などが存在し、西に稲庭岳を擁する。九戸郡軽米町、九戸村、一戸町と共に、カシオペア連邦を形成する。.

新しい!!: 南部氏と二戸市 · 続きを見る »

今川範国

今川 範国(いまがわ のりくに)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての守護大名。駿河今川氏の初代当主。.

新しい!!: 南部氏と今川範国 · 続きを見る »

今川氏

今川氏(いまがわうじ)は、日本の武家。本姓は源氏で、家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏御一家・吉良家の分家にあたる。吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有しており、斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあった。今川家はその分家として、駿河の守護に代々任命された。さらに遠江守護家も分流する。初期の分家である今川関口家は幕府の奉公衆であった。.

新しい!!: 南部氏と今川氏 · 続きを見る »

延元

延元(えんげん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。建武の後、興国の前。1336年から1339年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後醍醐天皇、後村上天皇。北朝方が光明天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

新しい!!: 南部氏と延元 · 続きを見る »

建久

建久(けんきゅう)は、日本の元号の一つ。文治の後、正治の前。1190年から1198年までの期間を指す。この時代の天皇は後鳥羽天皇、土御門天皇。.

新しい!!: 南部氏と建久 · 続きを見る »

建武 (日本)

建武(けんむ)は、日本の元号の一つ。南朝方では元弘の後、延元の前で日_(旧暦)|1月29日〜1336年2月19日までの期間を指す。北朝方では正慶の後、暦応の前で、1334年1月29日〜1338年8月28日までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方後醍醐天皇、北朝方光明天皇。.

新しい!!: 南部氏と建武 (日本) · 続きを見る »

建武の新政

建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。 名は、翌年の元弘4年/建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。近年の歴史学では「建武政権」という表現もある。後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。.

新しい!!: 南部氏と建武の新政 · 続きを見る »

伊達行朝

伊達 行朝(だて ゆきとも)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。後年、行宗(ゆきむね)に改称した。南朝側の武将として各地を転戦した。.

新しい!!: 南部氏と伊達行朝 · 続きを見る »

伯爵

伯爵(はくしゃく、、)とは爵位の一つである。侯爵の下位、子爵の上位に相当する。もともとは古代中国で使われていた名称で、近代日本の華族の五爵第3位として採用され、転じてヨーロッパの貴族の称号の訳語にも用いられるようになった。.

新しい!!: 南部氏と伯爵 · 続きを見る »

弘文天皇

弘文天皇(こうぶんてんのう、大化4年(648年) - 天武天皇元年7月23日(672年8月21日))は、第39代天皇(在位:天智天皇10年12月5日(672年1月9日) - 天武天皇元年7月23日(672年8月21日))。諱は大友(おおとも)または伊賀(いが)。明治3年(1870年)に諡号を贈られ、天皇として認められたが、即位したかどうか定かではなく、大友皇子と表記されることも多い。.

新しい!!: 南部氏と弘文天皇 · 続きを見る »

御内人

御内人(みうちびと、みうちにん)は、鎌倉時代に執権北条氏の家督・得宗に仕えた、武士、被官、従者。.

新しい!!: 南部氏と御内人 · 続きを見る »

徳川家綱

徳川 家綱(とくがわ いえつな)は、江戸幕府の第4代将軍である(在職:慶安4年(1651年) - 延宝8年(1680年))。 父は第3代将軍徳川家光、母は側室のお楽の方(宝樹院)で、竹千代の幼名を与えられ、世子とされた。.

新しい!!: 南部氏と徳川家綱 · 続きを見る »

徳川綱吉

徳川 綱吉(とくがわ つなよし)は、江戸幕府の第5代将軍である。.

新しい!!: 南部氏と徳川綱吉 · 続きを見る »

後三年の役

後三年の役(ごさんねんのえき)は、平安時代後期の陸奥・出羽(東北地方)を舞台とした戦役である。前九年の役の後、奥羽を実質支配していた清原氏が消滅し、奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦いである。後三年合戦(ごさんねんかっせん)ともいう。.

新しい!!: 南部氏と後三年の役 · 続きを見る »

後陽成天皇

後陽成天皇(ごようぜいてんのう、元亀2年12月15日(1571年12月31日) - 元和3年8月26日(1617年9月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての第107代天皇(在位:天正14年11月7日(1586年12月17日) - 慶長16年3月27日(1611年5月9日))。諱は初め和仁(かずひと)、慶長3年(1598年)12月に周仁(かたひと)と改めた。.

新しい!!: 南部氏と後陽成天皇 · 続きを見る »

後村上天皇

後村上天皇(ごむらかみてんのう)は、南北朝時代の第97代天皇にして、南朝の第2代天皇(在位:延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日) - 正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日))。諱は初め義良(のりよし / のりなが)、後に憲良に改めた。名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。父・後醍醐天皇の遺志を継いで南朝の京都回復を図り、大和(奈良県)の吉野・賀名生、摂津(大阪府)の住吉などを行宮とした。 明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として認定されるようになった。.

新しい!!: 南部氏と後村上天皇 · 続きを見る »

得宗

得宗(とくそう)は、鎌倉幕府の北条氏惣領の家系。徳崇、徳宗とも(読みは同じ)。幕府の初代執権の北条時政を初代に数え、2代義時からその嫡流である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9代を数える。「得宗」とは2代義時に関係する言葉で、研究者によって義時の別称、戒名、追号など意見が異なる。近年では「徳崇」の当て字・略字で、禅宗に帰依した5代時頼が、浄土宗系の宗派を信仰していた義時に贈った禅宗系の追号の可能性が指摘されている。義時流、得宗家という呼び方もある。史料においては北条氏嫡流の当主を「得宗」と指した例は少なく、行政用語であったとも考えられている。.

新しい!!: 南部氏と得宗 · 続きを見る »

保(ほ/ほう)は、古代から中世の日本に存在した地域行政の単位。時代・地域によって異なる意味で用いられた。.

新しい!!: 南部氏と保 · 続きを見る »

土岐頼遠

土岐 頼遠(とき よりとお)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、守護大名。美濃守護。土岐頼貞の七男。兄弟に頼清、長山頼基、頼兼、頼明など多数。子に氏光、光明、光行、直頼。.

新しい!!: 南部氏と土岐頼遠 · 続きを見る »

地頭

地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。地頭職という。守護とともに設置された。 平氏政権期以前から存在したが、源頼朝が朝廷から認められ正式に全国に設置した。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。.

新しい!!: 南部氏と地頭 · 続きを見る »

地方競馬

地方競馬(ちほうけいば)とは、日本で勝馬投票券の発売を伴う競馬における法令上の興行形式のひとつである。本記事では主に日本の都道府県や地方公共団体等が主催する競馬(平地競走)について詳述しているが、外国における比較的小規模の競馬についても触れる。.

新しい!!: 南部氏と地方競馬 · 続きを見る »

北信愛

北 信愛(きた のぶちか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。南部氏の家臣。.

新しい!!: 南部氏と北信愛 · 続きを見る »

北信景

北 信景(きた のぶかげ、天正3年(1575年)- 元和元年(1615年))は、江戸時代初期の武将。兄弟に桜庭直綱がいる。通称は十左衛門、名は信連、愛信とも伝わる。後に直吉と改名した。.

新しい!!: 南部氏と北信景 · 続きを見る »

北秀愛

北 秀愛(きた ひでちか、生年不詳 - 慶長3年(1598年))は戦国時代の武将。南部氏の家臣。北信愛の子。兄に北愛一、弟に北直継、愛邦、愛久がいる。妻は南部晴政の五女。通称は主馬。.

新しい!!: 南部氏と北秀愛 · 続きを見る »

北畠顕家

北畠 顕家(きたばたけ あきいえ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将。 『神皇正統記』を著した准三后北畠親房の長男、母は不詳。官位は正二位、権大納言兼鎮守府大将軍、贈従一位、右大臣。 建武親政下において、義良親王を奉じて陸奥国に下向した。足利尊氏が建武政権に叛したため西上し、新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝が分立するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。 以後、伊勢・大和などを中心に北朝軍相手に果敢に挑むも遂に和泉国堺浦・石津に追い詰められ、奮戦の末に討ち取られて戦死した。 死後、明治時代に顕家を主祭神とする霊山神社と阿部野神社が建設され、これらは建武中興十五社となった。.

新しい!!: 南部氏と北畠顕家 · 続きを見る »

北畠顕信

北畠 顕信(きたばたけ あきのぶ)は、南北朝時代の公卿。北畠親房の次男。北畠顕家の弟。左近衛少将に任ぜられ、春日少将と称した。また土御門入道と号す。南朝で従一位・右大臣に任ぜられたともされる。.

新しい!!: 南部氏と北畠顕信 · 続きを見る »

北致愛

北 致愛(きた むねちか、文亀3年5月25日(1503年6月19日) - 天文9年(1540年)?)は三戸南部氏一族の武将。三戸南部氏21代惣領南部信義の嫡男。母は南部氏一門の北氏出身と言われている。.

新しい!!: 南部氏と北致愛 · 続きを見る »

北条氏 (伊具流)

伊具流北条氏(いぐりゅうほうじょうし)は、鎌倉時代の北条氏の一門。鎌倉幕府2代執権・北条義時の四男である北条有時を祖とする。有時が陸奥国の伊具郡を領有したことから伊具流を創設した。 有時は義時の側室の所生であり、また病のために政治活動を引退したことから、伊具家は要職就任者を出す家の中での家格は低く、多くの子孫の中で幕府要職に就いたのは有時の子・通時の子である斎時のみであった。その他には、『建治三年記』12月19日条で、六波羅探題評定衆に「駿河次郎」という人物があり、駿河守であった有時の一門、伊具家の人物であると見られている。.

新しい!!: 南部氏と北条氏 (伊具流) · 続きを見る »

北条泰家

北条 泰家(ほうじょう やすいえ)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての北条氏の一族。鎌倉幕府の第9代執権・北条貞時の四男。14代執権・北条高時の同母弟に当たる。.

新しい!!: 南部氏と北条泰家 · 続きを見る »

北条時頼

北条 時頼(ほうじょう ときより)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第5代執権(在職:1246年 - 1256年)である。北条時氏の次男で、4代執権北条経時の弟。北条時輔、第8代執権北条時宗、北条宗政、北条宗頼らの父。通称は五郎、五郎兵衛尉、武衛、左近大夫将監、左親衛、相州、また出家後は最明寺殿、最明寺入道とも呼ばれた。.

新しい!!: 南部氏と北条時頼 · 続きを見る »

北条時行

北条 時行(ほうじょう ときゆき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。 鎌倉幕府最後の得宗北条高時の遺児。北条氏復興のため、鎌倉幕府の残党を糾合して中先代の乱を引き起こし、一時鎌倉を奪還した。その後、後醍醐天皇から朝敵を赦免されて南朝方の武将として戦い、武蔵野合戦で再び鎌倉を奪還したが、遂には足利方に捕らえられ処刑されたと伝わる。.

新しい!!: 南部氏と北条時行 · 続きを見る »

北氏

北氏(きたし)は、日本の氏族の一つ。かつては喜多・城田とも表記されることもあった。幾つかの流れがある。.

新しい!!: 南部氏と北氏 · 続きを見る »

北朝 (日本)

北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代に、足利氏を頂点に、全国の多くの武士、及び大多数の公家が支持した持明院統の朝廷である。同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統の南朝(吉野朝廷)に対比する。 南北朝の分裂は後醍醐天皇の建武政権が崩壊した建武3年/延元元年(1336年)以後であるが、鎌倉幕府末期の元弘の乱時に鎌倉幕府が後醍醐天皇に代わって擁立し、後醍醐天皇の京都復帰後にその即位の事実を否認した持明院統の光厳天皇を含んだ6代の天皇が北朝の天皇とされている。.

新しい!!: 南部氏と北朝 (日本) · 続きを見る »

マイルチャンピオンシップ南部杯

マイルチャンピオンシップ南部杯(マイルチャンピオンシップなんぶはい)は、岩手県競馬組合が盛岡競馬場で施行する地方競馬の重賞競走(JpnI、ダートグレード競走)である。農林水産大臣が賞を提供、またRoad to JBCに指定されているため、正式名称は「農林水産大臣賞典日本中央競馬会(JRA)主催となった2011年度は「農林水産省賞典」と表記。 Road to JBC マイルチャンピオンシップ南部杯」と表記される。通称:南部杯。また中央競馬でのマイルチャンピオンシップと区別するためマイルCS南部杯、マイル南部杯、MCS南部杯と表記される事がある。 競走名は江戸時代に盛岡藩を治めていた南部氏に由来し45代当主・南部利昭の許可の下、名付けられた。表彰式には毎年南部家当主が出席し、南部杯を授与している。 副賞は、南部杯、農林水産大臣賞、日本中央競馬会理事長賞、日本馬主協会連合会長奨励賞、日本地方競馬馬主振興協会会長賞、地方競馬全国協会理事長賞、全国公営競馬主催者協議会会長賞、岩手県知事賞(2017年)。.

新しい!!: 南部氏とマイルチャンピオンシップ南部杯 · 続きを見る »

ダートグレード競走

ダートグレード競走(ダートグレードきょうそう)とは、日本の競馬において、地方競馬・中央競馬のダート交流重賞競走にGI〜GIIIならびにJpnI〜JpnIIIの格付けを行ったものである。.

新しい!!: 南部氏とダートグレード競走 · 続きを見る »

分倍河原の戦い

分倍河原の戦い(ぶばいがわらのたたかい, 分倍河原の合戦 とも)は、武蔵国多摩郡分倍河原(現在の東京都府中市)で行われた合戦で、歴史上 2度記録されている。.

新しい!!: 南部氏と分倍河原の戦い · 続きを見る »

和賀郡

*.

新しい!!: 南部氏と和賀郡 · 続きを見る »

むつ市

むつ市(むつし)は、青森県東北部、下北地方に位置する市である。.

新しい!!: 南部氏とむつ市 · 続きを見る »

八戸市

八戸市(はちのへし)は、青森県東部に位置し、太平洋に面する中核市。青森市・弘前市と共に、青森県主要3市の一角を構成する。 三八地域県民局が設置されており、三戸郡を包含する八戸圏域連携中枢都市圏の中心となっている。.

新しい!!: 南部氏と八戸市 · 続きを見る »

八戸藩

八戸藩(はちのへはん)は、陸奥国三戸郡八戸に藩庁を置いた南部氏族の藩。.

新しい!!: 南部氏と八戸藩 · 続きを見る »

八戸氏

八戸氏(はちのへし)は、南部氏の一族で盛岡藩士の氏族。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流で河内源氏の傍流・甲斐源氏南部氏流にあたる。八戸根城を根拠地としたため、根城南部氏・八戸南部氏ともいい、また江戸時代に遠野に移ったため、遠野南部氏ともいう。.

新しい!!: 南部氏と八戸氏 · 続きを見る »

八戸政栄

八戸 政栄(はちのへ まさよし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。三戸南部氏の家臣。八戸氏18代当主。.

新しい!!: 南部氏と八戸政栄 · 続きを見る »

公爵

公爵(こうしゃく、、)は、爵位(五爵)の第1位である。侯爵の上位に相当する。ヨーロッパの貴族の称号の訳語、古代中国の諸侯の称号、また明治以降から戦前まで使われた日本の華族の称号として用いられる。 日本ではこの「公」によって(英語の場合であれば)princeとdukeの両方の称号を表そうとしたため混乱を生じることとなった。princeは基本的には小国の君主や諸侯、王族の称号であり、dukeは諸侯の称号である。日本語では、例えばモナコやリヒテンシュタインの君主、マルタ騎士団長などのprinceを「公」ではなく「大公」と訳すことで「公爵」(duke)との区別をつけようとする場合がある。ただし、こうして便宜的に使用された場合の「大公」は、ルクセンブルクの君主がもつ称号grand dukeやロシア等のgrand prince、オーストリアのarchdukeと区別される必要が改めて生じてくる。逆に、日本の華族制度における「公爵」の公式英訳にはdukeではなくprinceが当てられたが、たとえば伊藤博文や近衛文麿の爵位が英米ではprinceと訳されることとなり、皇族と誤解されるような場合があった。 日本語では侯爵と発音が同じであることから区別する必要があるときは「おおやけ-こうしゃく」と呼ばれた。.

新しい!!: 南部氏と公爵 · 続きを見る »

六条河原

六条河原(ろくじょうがわら)は、京都市内を流れる鴨川の河原に存在した刑場。古戦場(六条河原の戦い)。現在の五条通(五条大橋)から正面通(正面橋)の辺り。.

新しい!!: 南部氏と六条河原 · 続きを見る »

元中

元中(げんちゅう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。弘和の後。1384年から1392年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後亀山天皇、北朝方が後小松天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

新しい!!: 南部氏と元中 · 続きを見る »

元弘

元弘(げんこう)は、日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年から1333年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

新しい!!: 南部氏と元弘 · 続きを見る »

元弘の乱

元弘の乱(げんこうのらん)は、元弘元年(1331年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府倒幕運動である。元弘3年/正慶2年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱を含めることも多い。以下では1331年から1333年までの戦乱について述べる。元弘の変(げんこうのへん)とも呼ばれる。.

新しい!!: 南部氏と元弘の乱 · 続きを見る »

元和 (日本)

元和(げんな)は日本の元号の一つ。慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。.

新しい!!: 南部氏と元和 (日本) · 続きを見る »

光明天皇

光明天皇(こうみょうてんのう、元亨元年12月23日(1322年1月11日) - 天授6年6月24日(1380年7月26日))(在位:延元元年8月15日(1336年9月20日)- 正平3年10月27日(1348年11月18日))は、南北朝時代の天皇で、諱を豊仁(ゆたひと)という。 その即位によって北朝が成立したので北朝最初の天皇ということになるが、鎌倉時代末期に在位した兄の光厳天皇が後醍醐天皇によって即位を否定され、歴代天皇125代に含まれない北朝初代天皇として扱われているため、光明は北朝第2代とされている。.

新しい!!: 南部氏と光明天皇 · 続きを見る »

前九年の役

前九年の役(ぜんくねんのえき)は、平安時代後期の陸奥国(東北地方)で起こった戦争である。.

新しい!!: 南部氏と前九年の役 · 続きを見る »

前田利家

前田 利家(まえだ としいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。.

新しい!!: 南部氏と前田利家 · 続きを見る »

勤王

勤王(きんのう、勤皇とも言う)とは、王や天皇に忠義を尽くすことである。.

新しい!!: 南部氏と勤王 · 続きを見る »

国人

国人(こくじん、くにびと、くにゅうど)とは、広くその国の国民、住民のこと大辞泉(小学館)。 六国史(日本後紀および三代実録)において国衙領の国民または住民を指す言葉として用いられ、越前国人、大和国人、河内国人などが見える日本後紀三代実録。 また、国人領主(こくじんりょうしゅ)は中世の史料において、在京の名目上の領主である中央官吏に対して在地の実質上の領主を指す言葉として用いられ(国人領主制)、国衆(くにしゅう)や在国衆(ざいこくしゅう)とほぼ同義ないし明確な違いは無い。.

新しい!!: 南部氏と国人 · 続きを見る »

四條畷の戦い

四條畷の戦い(しじょうなわてのたたかい)は、南北朝時代の1348年(正平3年/貞和4年)1月5日、河内国北條(大阪府四條畷市・大東市)における、南朝方の楠木正行と足利尊氏の家臣高師直との間の戦い。 また、四條縄手という地名や、味方であった水走氏が東大阪市五条町に館があったことなどから、大阪府東大阪市の四条(縄手)付近で戦いがあったという説もある。.

新しい!!: 南部氏と四條畷の戦い · 続きを見る »

四戸氏

四戸氏(しのへし)は、本姓は源氏。家系は清和源氏の一流で河内源氏の傍流・甲斐源氏南部氏流にあたる。.

新しい!!: 南部氏と四戸氏 · 続きを見る »

矢作川の戦い

作川の戦い(やはぎがわのたたかい)は、建武2年11月25日(1336年1月8日)から27日にわたり、後醍醐天皇の命をうけた新田義貞とその弟・脇屋義助ら京方の軍勢6万余騎と、北条時行を討伐したのち、鎌倉を占拠していた足利尊氏旗下の足利直義・高師泰ら軍勢20万7000千騎の間で戦われた合戦。 三河国矢作川(愛知県岡崎市)で京方1万9000騎と、足利勢3万6000騎が川を挟んで布陣し、これに敗れた足利勢は遠江国に退却、鷺坂・手越河原の戦いと、京方の勝利が続いた。.

新しい!!: 南部氏と矢作川の戦い · 続きを見る »

石川高信

石川 高信(いしかわ たかのぶ)は、戦国時代の武将。.

新しい!!: 南部氏と石川高信 · 続きを見る »

石川氏

石川氏(いしかわし)とは、石川を苗字とする一族のことである。 主に、次の5系統の石川氏が存在する。.

新しい!!: 南部氏と石川氏 · 続きを見る »

石川政信

石川 政信(いしかわ まさのぶ、弘治2年(1556年) - 元亀3年(1572年)/天正16年(1588年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。南部氏の家臣。父は石川高信、兄に南部信直がいる。室に北信愛娘。子に高殿院(七戸直時室)。 天正9年(1581年)に病死した父・高信から津軽郡代を継承し浅瀬石城主・千徳政吉、大光寺城主・大光寺光愛、そして大浦為信(後の津軽為信)の補佐を受け浪岡城を居城に南部氏の津軽地方統治の中心となっていたが、千徳政吉は間もなく病死し、大光寺光愛は為信の讒言により追放され、そして天正16年(1588年)、為信の手により毒殺されたと言われている。 しかし、元亀2年(1571年)~天正10年(1582年)頃には既に津軽地方は大浦為信が掌握しており、石川政信が津軽に入れる状況ではない事から、政信の存在そのものに疑義を挟む学者もいる。その一方で、南部氏の重鎮・石川家の嫡男である信直が宗家南部晴政の養子に迎えられた後に、石川家を無嗣のまま放置しておいたとも考えられない。津軽氏の記録には大浦為信に、元亀2年(1571年)石川城を攻められて父・高信が討たれ、政信は翌元亀3年(1572年)に討たれたという記載もあるが、没年については異論もあるところである。 諸系図によると政信は北信愛の娘との間に七戸直時に嫁ぎ高殿院と称した女子がおり、高殿院の娘は毛馬内政次の室となっている。.

新しい!!: 南部氏と石川政信 · 続きを見る »

石亀信房

石亀 信房(いしがめ のぶふさ、明応8年(1499年) - 天正11年(1583年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。受領名は紀伊守。南部政康の四男。兄に安信、石川高信、南長義、弟に毛馬内秀範がいる。子は政頼、楢山義実、楢山義治。 兄安信に三戸郡三戸石亀の領地を与えられて石亀氏を名乗った。不来方城代として南に勢力を有する斯波氏に備えた。 Category:戦国武将 Category:南部氏の庶家 Category:陸奥国の人物 Category:1499年生 Category:1583年没.

新しい!!: 南部氏と石亀信房 · 続きを見る »

石亀氏

石亀氏(いしがめし)は、三戸南部氏の庶族。 初代は、三戸南部氏22代惣領南部政康の四男・石亀信房である。三戸地方石亀村を領有した。不来方城城代として南方の斯波氏に備えた。 信房の跡は嫡男・政頼が継ぎ南部藩士として250石を知行した。政頼の嫡男・直徳の代には400石となって家老を務めた。直徳の跡は嫡男・貞次が死去していたため貞次の子・政直へ嫡孫継承されたが、政直は明暦3年(1657年)に罪を得て家名断絶処分となり本家は断絶した。 政直の弟・政勝は分家しており50石(のち73石)を知行し、子孫が加増され200石となって幕末に至っている。また、貞次の弟の直方・政次・政房は分家した。直方の家は2代で断絶したが、残り2家は幕末まで続いた。また政次の娘の子・成喜は、藩主南部行信の娘・光源院付の老女となった母の名跡を継いで石亀氏を称した。 信房の次子・義実は楢山氏の祖となった。子孫には幕末の楢山佐渡がいる。義実の孫・宗隆の弟で分家した隆章の家は、慶応年間に至って石亀に復している。 上記の石亀氏一族との関係は不明だが、同じ石亀村を発祥とする石亀家がある。石亀政明、泉山康朝の兄弟を祖とする家である。この兄弟の出自は不明(『参考諸家系図』)とされるが、石亀信房の庶子であった可能性も否定できない。政明の次男であり、康朝の養子となった泉山古康の娘は南部信直室の慈照院で、南部利直の母である。その縁により南部信直・利直体制下では、古康は家老に抜擢され藩政に携わるようになっている。.

新しい!!: 南部氏と石亀氏 · 続きを見る »

砺波市

波市(となみし)は、富山県西部の市。農家が田園に点々と散在する散居村の美しい風景、チューリップの球根の生産で有名。 砺波平野の中心に位置し、北陸自動車道砺波ICが立地することから、大型の郊外型商業施設が多い。.

新しい!!: 南部氏と砺波市 · 続きを見る »

福士氏

福士氏(ふくしし)は鎌倉時代から戦国時代に活動していた氏族。南部氏の家臣であり、三上、安芸、桜庭の三氏と並んで譜代の家柄で、「南部四天王」と称された。.

新しい!!: 南部氏と福士氏 · 続きを見る »

秋山氏

秋山氏(あきやまし)は日本の氏族。 甲斐源氏武田氏の分流で西郡へ拠った加賀美遠光の嫡男光朝を祖とし、巨摩郡秋山(現・山梨県南アルプス市秋山)を本貫として秋山氏を名乗った。.

新しい!!: 南部氏と秋山氏 · 続きを見る »

秋田魁新報

秋田魁新報(あきたさきがけしんぽう)は秋田魁新報社の発行する秋田県の日刊新聞である。.

新しい!!: 南部氏と秋田魁新報 · 続きを見る »

稗貫郡

*.

新しい!!: 南部氏と稗貫郡 · 続きを見る »

穴山氏

山氏(あなやまし)は、武田氏一族で甲斐国の国人領主。家紋は三つ花菱。戦国時代末期まで甲斐南部の河内地方(現在の西八代郡と南巨摩郡の一帯)を領して甲斐国内で領域権力を及ぼした勢力の一つ。婚姻や養子縁組で代々武田宗家と姻戚関係を結んで甲斐武田勢の重臣となり、甲州征伐で宗家が滅亡した後はその名跡を継承して武田氏を名乗った。.

新しい!!: 南部氏と穴山氏 · 続きを見る »

立憲政友会

立憲政友会(りっけんせいゆうかい)は、戦前の帝国議会において日本最初の本格的政党政治を行った政党。略称は政友会(せいゆうかい)。.

新しい!!: 南部氏と立憲政友会 · 続きを見る »

笛吹峠 (埼玉県)

峠にある石碑 笛吹峠(ふえふきとうげ)は、埼玉県鳩山町と同県嵐山町の境にある峠。標高80m。.

新しい!!: 南部氏と笛吹峠 (埼玉県) · 続きを見る »

箱根・竹ノ下の戦い

箱根・竹ノ下の戦い(はこねたけのしたのたたかい)は、建武の新政時代の1336年1月24日(ユリウス暦)(建武2年12月11日)に、足利尊氏の呼びかけに応じた足利軍と、後醍醐天皇の宣旨を受けた新田義貞に、参集した軍勢との間で行われた合戦。後醍醐天皇が建武政権に反旗を翻した足利尊氏を討つために新田義貞を派遣したが失敗し、建武政権崩壊の第一幕となった。現在の静岡県小山町竹之下周辺で行なわれた。.

新しい!!: 南部氏と箱根・竹ノ下の戦い · 続きを見る »

糠部郡

糠部郡(ぬかのぶぐん)とは、かつて陸奥国にあった郡。現在の青森県東部から岩手県北部にかけて広がっていた。.

新しい!!: 南部氏と糠部郡 · 続きを見る »

系図纂要

『系図纂要』(けいずさんよう)は、江戸時代末期の系譜集成。全102巻(103冊)。著者は『大日本野史』の著者でもある飯田忠彦とみられる。既存の系譜集や記録などを広く集めて再編纂しており、史料価値が高いとされる。.

新しい!!: 南部氏と系図纂要 · 続きを見る »

紫波郡

*.

新しい!!: 南部氏と紫波郡 · 続きを見る »

織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

新しい!!: 南部氏と織田信長 · 続きを見る »

結城宗広

結城 宗広(ゆうき むねひろ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。白河結城氏2代当主。.

新しい!!: 南部氏と結城宗広 · 続きを見る »

田舎郡

舎郡(いなかぐん、いなかのこおり)は、青森県の津軽平野の黒石市・南津軽郡尾上町(現平川市)・田舎館村付近に存在した『浪岡町史』p.699-700郡である。.

新しい!!: 南部氏と田舎郡 · 続きを見る »

由比ヶ浜

由比ヶ浜(ゆいがはま)は、現在の神奈川県鎌倉市南部の相模湾に面した海岸の名称。海水浴場として有名。.

新しい!!: 南部氏と由比ヶ浜 · 続きを見る »

甲陽軍鑑

『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)は、甲斐国の戦国大名である武田氏の戦略・戦術を記した軍学書である。本編20巻全59品(59章)、末書2巻。武田信玄・勝頼期の合戦記事を中心に、軍法、刑法などを記している。.

新しい!!: 南部氏と甲陽軍鑑 · 続きを見る »

甲斐国

斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

新しい!!: 南部氏と甲斐国 · 続きを見る »

甲斐源氏

斐源氏(かいげんじ)は、甲斐国に土着した清和源氏の河内源氏系一門で、源義光(新羅三郎義光)を祖とする諸家のうち武田氏をはじめとする、甲斐を発祥とする諸氏族の総称。 同じ義光を祖とする佐竹氏(常陸源氏)や平賀氏(信濃源氏)とは同族である。また、武田氏と同祖となる加賀美氏流の小笠原氏系統は早い時期に隣国信濃に移ったため、信濃源氏にも含まれる。 「甲斐源氏」の呼称について、治承・寿永の乱期の史料には一切見られず、甲斐源氏の一族を指す呼称には「武田党」などが用いられている。鎌倉時代には『吾妻鏡』をはじめ『帝王編年記』、『日蓮遺文』などにおいて「甲斐源氏」の呼称が用いられはじめ、軍記物語などにおいても頻出する。.

新しい!!: 南部氏と甲斐源氏 · 続きを見る »

男爵

男爵(だんしゃく、)は、爵位の一つである。古代中国と近代日本で用いられ、子爵の下位に相当する。ヨーロッパ諸国の最下位の貴族称号の日本語・中国語訳にも用いられ、イギリスのbaronの訳にはこの語が用いられる。.

新しい!!: 南部氏と男爵 · 続きを見る »

監禁

監禁(かんきん、confinement)とは、人を一定の区画などに閉じ込め、そこから出る自由を奪うこと。.

新しい!!: 南部氏と監禁 · 続きを見る »

盛岡市

盛岡市(もりおかし)は岩手県の県庁所在地。中核市に指定されている。.

新しい!!: 南部氏と盛岡市 · 続きを見る »

盛岡競馬場

盛岡競馬場(もりおかけいばじょう Morioka Racecourse)は岩手県盛岡市にある地方競馬の競馬場である。主催者は岩手県競馬組合。愛称はOROパーク(オーロパーク)。 本項では併設されている中央競馬の場外勝馬投票券発売所であるウインズ盛岡(盛岡競馬場内)(ウインズもりおか もりおかけいばじょうない)についても記述する。.

新しい!!: 南部氏と盛岡競馬場 · 続きを見る »

盛岡藩

盛岡藩(もりおかはん)は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩。一般に南部藩とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万石であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた。 同じ南部氏領の八戸藩、支藩の七戸藩(盛岡新田藩)があるが、八戸藩の詳細を除き、ここにまとめて記述する。.

新しい!!: 南部氏と盛岡藩 · 続きを見る »

花山院

花山院(かざんいん)は、平安京左京一条四坊三町(現在の京都御苑敷地内)にあった邸宅。花山法皇の後院となった後に、花山院家の所有となり、明治維新による東京奠都まで存続した。 当初は清和天皇皇子貞保親王の邸宅であったとされている。後に藤原忠平の邸宅となり、外曾孫の憲平親王(後の冷泉天皇)の立太子礼を執り行った。冷泉天皇の子・花山天皇は出家後にここを後院とした。1008年(寛弘5年)、ここで崩御したことにより、追号が「花山院」とされた。 その後、三条天皇皇后の藤原娍子とその子敦儀親王らが入ったが、1014年(長和3年)に火災で焼失した。その後、再建されて藤原頼通から師実に継承されて後冷泉天皇皇后の藤原寛子が居住したが、後に師実が改築して同母兄の藤原定綱に譲り、定綱はこれを師実の子で自分の娘婿でもあった藤原家忠に譲った。家忠は「花山院」と号し、その子孫は花山院流と呼ばれて、その宗家である花山院家が代々花山院を領した。建武の新政の崩壊後、後醍醐天皇が足利尊氏によって花山院に幽閉された後、壊れた築地から秘かに脱出して吉野に向かったことが、『太平記』などに書かれている。 何度も火災に遭いながらも、そのたびに再建されて明治に至ったが、東京奠都によってその歴史的役目を終えて取り壊された。ちなみに、京都御苑内にある宗像神社は、かつての花山院の邸内社であった。.

新しい!!: 南部氏と花山院 · 続きを見る »

鎮守府将軍

鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)は、奈良時代から平安時代にかけて陸奥国に置かれた軍政府である鎮守府の長官。令外官である。平安時代中期以降は武門の最高栄誉職と見なされたが、鎌倉幕府の成立で征夷大将軍が武家の首長職として常置されるに及び、鎮守府将軍の権限と地位はその中に吸収された。.

新しい!!: 南部氏と鎮守府将軍 · 続きを見る »

鎌倉公方

明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉公方管轄国 新編鎌倉志-関東公方屋敷図 鎌倉公方(かまくらくぼう)とは、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東十か国を統治するために設置した鎌倉府の長官。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称するが、この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれた呼称となる。関東十か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐。 鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となった。 ※鎌倉公方は歴史学用語及び鎌倉公方の自称であって当時の一般呼称ではない。当時の一般呼称は“鎌倉御所”か“鎌倉殿”である。.

新しい!!: 南部氏と鎌倉公方 · 続きを見る »

鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

新しい!!: 南部氏と鎌倉時代 · 続きを見る »

遠野市

遠野市(とおのし)は、岩手県内陸部にある都市である。 柳田國男の『遠野物語』の舞台となった町であり、河童や座敷童子などが登場する「遠野民話」が伝わる。.

新しい!!: 南部氏と遠野市 · 続きを見る »

華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

新しい!!: 南部氏と華族 · 続きを見る »

華族令

華族令(かぞくれい)は、日本の法令。1884年(明治17年)7月7日に制定された明治17年宮内省達無号と、それを廃して1907年(明治40年)に制定された皇室令がある。明治40年制定の華族令(明治40年皇室令第2号)は昭和22年(1947年)に廃止された。.

新しい!!: 南部氏と華族令 · 続きを見る »

靖国神社

(靖國神社、やすくにじんじゃ)は、東京都千代田区九段北にある神社である。.

新しい!!: 南部氏と靖国神社 · 続きを見る »

青野原の戦い

青野原の戦い(あおのがはらのたたかい)は、南北朝時代の1338年(延元3年/暦応元年)1月20日から1月29日にかけて、美濃国青野原(現、岐阜県大垣市、不破郡垂井町)において、上洛を目指す北畠顕家率いる南朝方の軍勢(北畠勢)と、土岐頼遠ら北朝方の軍勢(足利勢)との間で行われた一連の合戦である。.

新しい!!: 南部氏と青野原の戦い · 続きを見る »

青森県

青森県(あおもりけん)は、日本の本州最北端に位置する県。県庁所在地は青森市である。県の人口は全国31位、面積は全国8位。令制国の陸奥国(むつのくに、りくおうのくに)で構成されている。.

新しい!!: 南部氏と青森県 · 続きを見る »

蠣崎氏

蠣崎氏(かきざきし)/松前氏(まつまえし)は、戦国時代から蝦夷地を本拠とした大名の氏族。糠部郡蠣崎(青森県むつ市川内町)を領して蠣崎氏を称する家系があり、その子孫との説がある。江戸時代に松前と改姓したが、庶流の中には引き続き蠣崎と名乗る者もいた。本姓は源氏で、清和源氏(河内源氏)義光流で甲斐源氏の庶流と称した。実際には陸奥の土豪が蝦夷へ移住して甲斐源氏武田氏を仮冒したとする説もある。.

新しい!!: 南部氏と蠣崎氏 · 続きを見る »

行幸

行幸(ぎょうこう、みゆき)とは、天皇が外出することである。目的地が複数ある場合は特に巡幸(じゅんこう)と言う。 また、御幸(ごこう、ぎょこう、みゆき)と言う場合もあるが、これは上皇・法皇・女院に対しても使う。.

新しい!!: 南部氏と行幸 · 続きを見る »

観応

観応(かんのう、かんおう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方が使用した。貞和の後、文和の前。1350年から1352年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が崇光天皇・後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。正平一統による4か月間の中断を経たのち復活している。.

新しい!!: 南部氏と観応 · 続きを見る »

観応の擾乱

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた抗争で、観応年間に頂点に達した足利政権(室町幕府)の内紛。実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、それを支持する武家や、公家と武家どうしの確執なども背景とする。 この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である正平一統についても併せて解説する。.

新しい!!: 南部氏と観応の擾乱 · 続きを見る »

言継卿記

『言継卿記』(ときつぐきょうき)は、戦国期の公家、山科言継の日記。1527年(大永7年)から1576年(天正4年)の50年に渡って書かれているが、散逸部分も少なくない。有職故実や芸能、戦国期の政治情勢などを知る上で貴重な史料。 一年分をまとめて冊子にして、表紙の扉の表には甲子・土用入など注意を要する日付を列記し、扉の裏には天皇の年齢と「御哀日」、自身の家族の年齢と「衰日」を列記している。 なお山科言継は上泉信綱と親しく来訪の記録がある。また、言継は医療にも精通しており、彼自身が治療に携わった医療行為に関する詳細な記録も残されており、現存する日本で最古のまとまった診療録であるとも言われている。 現在、京都大学や東京大学史料編纂所などに保管されている。.

新しい!!: 南部氏と言継卿記 · 続きを見る »

高師直

師直(こう の もろなお)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。足利尊氏時代に執事をつとめた。本姓は高階氏だが、一般的には名字である「高」と、諱である「師直」の間に「の」を入れて呼ばれる。.

新しい!!: 南部氏と高師直 · 続きを見る »

高重茂

重茂(こう の しげもち、生没年不詳)は、南北朝時代の武将、守護大名。関東執事、武蔵守護。本姓は高階氏。高師重の子(異説として高師茂の子とも)。高師直と高師泰の弟。官位は駿河守、大和権守。 兄達と共に足利尊氏に仕え、建武2年(1335年)から始まる新田義貞との戦いにおいて武功を挙げた。その後も尊氏の九州落ちにも従い、多々良浜の戦いで菊池武敏とも戦い、武功を挙げている。この時のエピソードとして、尊氏は「敗れた菊池軍の捕虜が信用できない」として一部を殺害しようとしたが、重茂は「寛大な処置を示すためにも、信用して殺害をやめるべきである」と尊氏に進言して、多くの捕虜を救ったと言われている。 その後も京都における戦いなどで武功を挙げたため、延元2年/建武4年(1337年)に武蔵守護に任じられ、延元3年/暦応元年(1338年)にも北畠顕家との戦いで功績を挙げた。その後は尊氏の天龍寺建立に尽力した。また、尊氏の弟直義の与力となって所領訴訟に関する奉行などを務めている。興国4年/康永2年(1343年)に駿河守に叙任、翌年から従兄弟の高師冬に代わって関東執事を務めている。 観応の擾乱での重茂の詳しい動きは不明であるが、重茂は直義と親しい仲にあったことから、直義に与していたのではないかと推測される。兄や師冬を始め高氏一族の多くがこの乱で殺害されているのに対し重茂は生き延びており、以後は鎌倉公方足利基氏の家臣として仕えているからである。 正平23年/応安元年(1368年)、武蔵で宇都宮氏らが首謀した鎌倉府への反乱が起こった際に、重茂もこの反乱に与していたと言われている。反乱は9月に鎮圧されたが、この時に重茂は死亡したと言われている。生存説もあるが、この反乱の後の重茂の消息は不明である。.

新しい!!: 南部氏と高重茂 · 続きを見る »

護良親王

護良親王 護良親王(もりよししんのう / もりながしんのう)、延慶元年(1308年) - 建武2年7月23日(1335年8月12日)は、鎌倉時代後期から建武の新政期の人物。後醍醐天皇の皇子、母は源師親の娘親子。妃は北畠親房の娘。または藤原保藤の娘である南方(みなみのかた)。興良親王の父。大塔宮(だいとうのみや / おおとうのみや)と呼ばれた。天台座主。 名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。.

新しい!!: 南部氏と護良親王 · 続きを見る »

豊島河原合戦

豊島河原合戦(てしまがわらがっせん)は、建武3年(1336年)に行われた新田義貞・北畠顕家を総大将とする後醍醐天皇軍と足利尊氏を総大将とする反乱軍の戦い。豊島河原の戦いとも言う。.

新しい!!: 南部氏と豊島河原合戦 · 続きを見る »

豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

新しい!!: 南部氏と豊臣秀吉 · 続きを見る »

豊臣政権

豊臣政権(とよとみせいけん)は、天正18年(1590年)、(ただし、実質的には天正13年(1585年))から、慶長8年(1603年)まで成立していた豊臣氏による日本国の政権。豊臣氏政権(とよとみしせいけん)とも言われる。また羽柴氏政権とも言われる。.

新しい!!: 南部氏と豊臣政権 · 続きを見る »

貞和

貞和(じょうわ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。康永の後、観応の前。1345年から1349年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、崇光天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

新しい!!: 南部氏と貞和 · 続きを見る »

足利基氏

足利 基氏(あしかが もとうじ)は、南北朝時代の武将。初代鎌倉公方(在職:正平4年/貞和5年9月9日(1349年10月21日) - 正平22年/貞治6年4月26日(1367年5月25日))。後の古河公方の家系の祖でもある。室町幕府初代将軍足利尊氏の四男で、母は正室の赤橋登子(登子の子としては次男)。.

新しい!!: 南部氏と足利基氏 · 続きを見る »

足利義詮

足利 義詮(あしかが よしあきら)は、南北朝時代の室町幕府第2代将軍。初代将軍足利尊氏の嫡男足利竹若丸、足利直冬という二人の庶兄に次いで三男とされる。。母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹で正室の赤橋登子。.

新しい!!: 南部氏と足利義詮 · 続きを見る »

足利義輝

足利 義輝(あしかが よしてる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第13代征夷大将軍(在職:天文15年(1546年) - 永禄8年5月19日(1565年6月17日))。.

新しい!!: 南部氏と足利義輝 · 続きを見る »

足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.

新しい!!: 南部氏と足利義満 · 続きを見る »

足利義昭

足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代(最後)の将軍(在職:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))。 父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。 足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶(かくけい)と名乗り一乗院門跡となった。兄・義輝らが三好三人衆らに暗殺されると、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたがやがて京都から追われ備後国に下向し、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。 信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。.

新しい!!: 南部氏と足利義昭 · 続きを見る »

足利直義

足利 直義(あしかが ただよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の三男。室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟。 将軍尊氏を補佐して政務面を統括し、草創期室町幕府の体制は尊氏・直義兄弟による「二頭政治」だったと言われるが、実際は将軍就任当初から尊氏はすでに隠居状態にあり、幕政の運営は直義の下で行われていた。それでも、清和源氏の嫡流であり武将としての器量にも優れる尊氏は全国の武士を統合する機能を果たしており、直義が取って代わることはできなかった。 尊氏の執事高師直との間に派閥対立を生じ、師直の追い落としを図り却って失脚したものの、やがて南朝と結んで師直一族を討ち幕政を掌握した。しかし対立は尊氏・直義両者による全国を巻き込む戦乱に発展し、直義は東国に逃れたが最後は鎌倉に幽閉され急死を遂げた(観応の擾乱)。.

新しい!!: 南部氏と足利直義 · 続きを見る »

足軽大将

足軽大将(あしがるたいしょう)とは、日本の戦国時代に、戦国大名のもとで足軽隊を率いた部将及びその職のことをいう。足軽頭(あしがるがしら)ともいう。また、江戸時代には物頭(ものがしら)と称した藩もある。 応仁の乱以降、戦国時代にかけて合戦の集団戦化が進み、戦闘規模も大きくなった。訓練された槍・弓・鉄砲の足軽隊が組織され主力軍として活躍するようになった。足軽大将は配下である足軽小頭(足軽組頭)をはじめとする足軽を率いた。.

新しい!!: 南部氏と足軽大将 · 続きを見る »

鹿角郡

*.

新しい!!: 南部氏と鹿角郡 · 続きを見る »

身延町

身延町(みのぶちょう)は、山梨県の南西部に位置する南巨摩郡の町。日蓮宗総本山の身延山久遠寺の門前町。千円紙幣E号券、五千円紙幣D号券にある本栖湖の逆さ富士は、身延町の中ノ倉峠から撮影された写真がモデルである。.

新しい!!: 南部氏と身延町 · 続きを見る »

鼻和郡

鼻和郡(はなわぐん、はなわのこおり)は、かつて陸奥国の津軽半島南部からその南方の岩木川左岸地域に存在した『浪岡町史』 p.699-700郡である。.

新しい!!: 南部氏と鼻和郡 · 続きを見る »

近衛家

近衛家(このえけ、近衞家)は、公家の五摂家のひとつ。家名は平安京の近衛大路に由来する。通称にがある。本姓は藤原氏で藤原北家近衛流の嫡流にあたる。摂関家には近衛流と九条流があるが、藤原氏の分家で初めて藤氏長者をつとめたのが近衛流である。.

新しい!!: 南部氏と近衛家 · 続きを見る »

鈴木かほる

鈴木 かほる(すずき かほる、1946年 - )は、日本史研究家。三浦一族研究会特別研究員。専門は中世史。中世史をはじめ近世史に至るまでの幅広い著書がある。神奈川県出身。國學院大學文学部史学科卒。国家公務員(非常勤) 著者プロフィール。.

新しい!!: 南部氏と鈴木かほる · 続きを見る »

興国

興国(こうこく)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。延元の後、正平の前。1340年から1346年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後村上天皇、北朝方が後光厳天皇、光明天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

新しい!!: 南部氏と興国 · 続きを見る »

赤坂城の戦い

赤坂城の戦い(あかさかじょうのたたかい)は、鎌倉時代末期1331年9月11日に起こった戦い。河内国・赤坂城に於いて、楠木正成が笠置山を落ち延びた護良親王を擁し、およそ500人の兵をもって鎌倉幕府の軍とわたり合った籠城戦である。     .

新しい!!: 南部氏と赤坂城の戦い · 続きを見る »

薩た峠の戦い (南北朝時代)

薩埵峠の戦い(さったとうげのたたかい、薩埵山の戦いとも)は、南北朝時代の1351年(正平6年/観応2年)12月、駿河国の由比(静岡県静岡市清水区)・内房(静岡県富士宮市)一帯において、足利尊氏の軍勢と足利直義の軍勢とで行われた合戦である。戦の行われた場所から桜野の戦いとも言う。.

新しい!!: 南部氏と薩た峠の戦い (南北朝時代) · 続きを見る »

薩摩国

薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

新しい!!: 南部氏と薩摩国 · 続きを見る »

閉伊郡

*.

新しい!!: 南部氏と閉伊郡 · 続きを見る »

藤原氏

藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.

新しい!!: 南部氏と藤原氏 · 続きを見る »

藤原泰衡

藤原 泰衡(ふじわら の やすひら)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。奥州藤原氏第4代(最後)の当主。藤原秀衡の嫡男(次男)。兄(庶長兄、異腹の兄)に国衡、弟に忠衡、高衡、通衡、頼衡がいる。.

新しい!!: 南部氏と藤原泰衡 · 続きを見る »

藩鎮

藩鎮(はんちん)とは、中国唐から北宋代まで存在した地方組織の名称である。節度使や観察使などを頂点とし、地方の軍と財政を統括した。節度使そのものを指すことも多い。.

新しい!!: 南部氏と藩鎮 · 続きを見る »

葛西貞清

葛西 貞清(かさい さだきよ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代前期の武将。葛西氏の当主。葛西 清貞(かさい きよさだ)とも呼ばれる。.

新しい!!: 南部氏と葛西貞清 · 続きを見る »

長男

長男(ちょうなん)とは、親から見て最も年長の男子をいう。長男についで親から二番目、三番目の男子を二男(次男)、三男という。 長子(ちょうし)ともいい、史的には「はじめに生まれた男子、総領」を長子と呼ぶ。.

新しい!!: 南部氏と長男 · 続きを見る »

長牛友義

長牛 友義(ながうし ともよし)は、戦国時代の武将。南部氏の家臣。陸奥国長牛館主。.

新しい!!: 南部氏と長牛友義 · 続きを見る »

雄山閣

山閣(ゆうざんかく)は、東京都千代田区にある出版社。創業は1916年で、以来日本の歴史、宗教、民俗学、考古学などに関する書籍を出版し続けている。.

新しい!!: 南部氏と雄山閣 · 続きを見る »

通 (南部藩)

通(とおり)は、南部藩政初期は単に方面とか、その地方を表現した言葉であったが、天和年間(1681~83年)には、代官所統治区域を指した。.

新しい!!: 南部氏と通 (南部藩) · 続きを見る »

陸奥国

奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.

新しい!!: 南部氏と陸奥国 · 続きを見る »

IBC岩手放送

株式会社 IBC岩手放送(アイビーシーいわてほうそう、登記上法人名:株式会社 アイビーシー岩手放送、Iwate Broadcasting Co., Ltd.)は、岩手県を放送対象地域とした中波放送(AM放送)事業とテレビジョン放送事業を兼営している特定地上基幹放送事業者である。略称はIBC。 岩手県(庁)や岩手日報などが出資し、設立された。.

新しい!!: 南部氏とIBC岩手放送 · 続きを見る »

押領

押領(おうりょう)は、古代・中世日本の法律用語。.

新しい!!: 南部氏と押領 · 続きを見る »

恒良親王

恒良親王(つねよししんのう、つねながしんのう、正中元年(1324年) - 延元3年/建武5年4月13日(1338年5月3日))は、後醍醐天皇の皇子。母は後醍醐の寵姫阿野廉子。成良親王、義良親王の同母兄。後醍醐天皇と足利尊氏との内戦の中で、一時的に天皇となる。 名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の読みを参照。.

新しい!!: 南部氏と恒良親王 · 続きを見る »

東奥日報

東奥日報(とうおうにっぽう)は、主に青森県内で購読されている新聞(地方紙)。本項では発行者である株式会社東奥日報社についても述べる。.

新しい!!: 南部氏と東奥日報 · 続きを見る »

東京都

東京都シンボルマーク。1989年(平成元年)に旧東京市の成立100周年を記念して同年6月1日に制定。「東京都の頭文字の「T」を中央に秘めている『都政 2012』東京都生活文化局広報広聴部広報課 編集・発行、2012年3月発行。東京都が作成した、240ページほどの冊子。」と解説されている。(都の木はイチョウではあるが)イチョウの葉の形を象ったわけではない、という。 東京都(とうきょうと)は、日本の首都事実上の首都。詳細後述であり、関東地方に位置する東京都区部(東京23区)、多摩地域(市部、西多摩郡)、島嶼部(大島支庁・三宅支庁・八丈支庁・小笠原支庁)を管轄する広域地方公共団体(都道府県)の一つである。都庁所在地は新宿区(東京と表記する場合もある)。 都公認の英語の表記はTokyo Metropolis (Tokyo Met.) 。他にはTokyo PrefectureとTokyo Metropolitan Prefectureがある。.

新しい!!: 南部氏と東京都 · 続きを見る »

東氏

東氏.

新しい!!: 南部氏と東氏 · 続きを見る »

根城

復元主殿 根城(ねじょう)は、日本の城。所在地は青森県八戸市根城。国の史跡に指定。日本100名城の一つ。.

新しい!!: 南部氏と根城 · 続きを見る »

根城 (八戸市)

根城(ねじょう)は、青森県八戸市の地名。現行行政地名は根城一丁目から根城九丁目(住居表示実施済み区域)及び大字根城(住居表示未実施)。郵便番号039-1166。.

新しい!!: 南部氏と根城 (八戸市) · 続きを見る »

桃井直常

桃井 直常(もものい ただつね)は、南北朝時代の武将、守護大名。足利氏一門で家臣。父は桃井貞頼。弟に直信、直弘。子に直和、直知、橋本直安、直久、直政、康儀、直藤、正雲禅師(高岡国泰寺住持)、養子:直弘 桃井氏は下野の足利氏の支族で、上野国群馬郡桃井(現在の群馬県榛東村、旧名桃井村)を苗字の地とする。.

新しい!!: 南部氏と桃井直常 · 続きを見る »

棟梁

棟梁(とうりょう)は、組織や仕事を束ねる、中心人物である。 棟(むね)と梁(はり)という、建物において重要な構造を譬えに用いた言葉。昔は、武士や僧侶の社会の筆頭格を指すことが多かった(例:将軍職は源氏の棟梁である)。現代社会では大工・石工の元締めや現場監督、現場代理人などを指すことが多く尊称として扱われる。単なる土木工事現場の現場監督などが棟梁と言われることはない。親方と類義語であるが、大工・石工以外の親方を棟梁と呼ぶことは少ない。.

新しい!!: 南部氏と棟梁 · 続きを見る »

楠木正成

楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。父は楠木正遠とされる。息子に正行、正時、正儀がいる。 後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の新政の立役者として足利尊氏らとともに天皇を助けた。尊氏の反抗後は新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。 明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。.

新しい!!: 南部氏と楠木正成 · 続きを見る »

横田行長

横田 行長(よこた ゆきなが、生没年不詳)は、室町時代の陸奥国の武将。南部守行の子。兄にそれぞれ南部氏の家督を継いだ南部義政、南部政盛、南部助政がいる。.

新しい!!: 南部氏と横田行長 · 続きを見る »

櫛引清長

櫛引 清長(くしびき きよなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。南部氏の家臣。陸奥国八戸櫛引城主。.

新しい!!: 南部氏と櫛引清長 · 続きを見る »

正平 (日本)

正平(しょうへい)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。興国の後、建徳の前。1346年から1370年までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方が後村上天皇、長慶天皇。北朝方が光明天皇、崇光天皇、後光厳天皇。室町幕府将軍は足利尊氏、足利義詮、足利義満。 昭和、明治、応永、平成、延暦に次ぎ、歴代で6番目に長い元号である。一世一元の制制定以前の元号では3番目に長い。.

新しい!!: 南部氏と正平 (日本) · 続きを見る »

正月

正月(しょうがつ)は、各暦の年初のことである。文化的には旧年が無事に終わった事と新年を祝う行事である。正月飾りをし、正月行事を行ったり御節料理を食べて、盛大に祝う。 日本では、1月1日の元日のみを国民の祝日としているが、実際には少なくとも3日までの三箇日は事実上の祝日と同じ状態となる。.

新しい!!: 南部氏と正月 · 続きを見る »

武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

新しい!!: 南部氏と武家 · 続きを見る »

武田信広

武田 信広(たけだ のぶひろ)は、室町時代後期の武将。若狭武田氏の一族とされることもあるが、実際には詐称とする説もある。また、陸奥国の南部氏の一族ともいわれる。.

新しい!!: 南部氏と武田信広 · 続きを見る »

武田信玄

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。 甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化し国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて領国を拡大したものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。.

新しい!!: 南部氏と武田信玄 · 続きを見る »

武田信虎

武田 信虎(たけだ のぶとら)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。武田信玄の父。甲斐源氏の宗家・武田氏第18代当主。.

新しい!!: 南部氏と武田信虎 · 続きを見る »

武田氏

武田氏(たけだし)は、平安時代末から戦国時代の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流・河内源氏の一門、源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家である。安芸国・若狭国に分派が存在し、上総国などにも庶流があったが、いずれも通字として「信」(のぶ)が使用されている。古代の国造である武田臣(皇別)の後裔が河内源氏義光流の棟梁と婚姻したという説も伝わっている。 河内源氏の名族の一つとして戦国時代には戦国大名化し、武田晴信(信玄)の頃には領国拡大し中央の織田・徳川勢力に対抗するが勝頼期には領国の動揺を招いて宗家は滅亡し、江戸時代には庶家だけがわずかに残った。 家宝は御旗(後冷泉天皇から下賜された日章旗)・楯無(楯無の鎧、源頼義が御旗とともに授けられたという)。.

新しい!!: 南部氏と武田氏 · 続きを見る »

武蔵野合戦

武蔵野合戦(むさしのかっせん)は、南北朝時代の観応の擾乱における合戦の一つ。1352年(正平7年/文和元年)閏2月から3月にかけて、武蔵国・相模国(現、東京都・埼玉県・神奈川県)の各地において、足利尊氏ら北朝方の軍勢と、新田義興・新田義宗、ら南朝方の軍勢との間で行われた一連の合戦である。.

新しい!!: 南部氏と武蔵野合戦 · 続きを見る »

毛馬内秀範

毛馬内 秀範(けまない ひでのり、永正18年/大永元年(1521年) - 天正13年(1585年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。別名に信次。靭負佐。『参考諸家系図』・『系胤譜考』では南部氏22代南部政康の五男、『寛政重修諸家譜』では23代南部安信の五男。兄に南部安信(前述のように異説有り)、石川高信、南長義、石亀信房がいる。子に政次、直次。 『参考諸家系図』では、南部氏から鹿角郡毛馬内2,000石の領地を与えられ、毛馬内氏を名乗る。南部氏に仕えていたが、安東愛季とも交流を持っていた。 Category:戦国武将 Category:南部氏の庶家 Category:陸奥国の人物 Category:1521年生 Category:1585年没.

新しい!!: 南部氏と毛馬内秀範 · 続きを見る »

毛馬内氏

毛馬内氏(けまないし)は、日本の氏族のひとつ。本姓は源氏で、清和源氏の一門・河内源氏の傍系にあたる甲斐源氏の流れ。南部氏の支流の一族である。陸奥国鹿角郡毛馬内村(現 秋田県鹿角市)の在名により氏とした。.

新しい!!: 南部氏と毛馬内氏 · 続きを見る »

氏族

氏族(しぞく、うじぞく、clan)とは、共通の祖先を持つ血縁集団、または、共通の祖先を持つという意識・信仰による連帯感の下に結束した血縁集団のこと。 単系出自集団(unilineal descent group。特定の祖先から男性または女性のみを通じて親子関係がたどれる子孫の作る集団)の一つ。特定の男性祖先から男性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を父系出自集団といい、特定の女性祖先から女性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を女系出自集団という。 これらの集団のうち、成員が互いの系譜関係、あるいは共通祖先との系譜関係を把握している集団はリニエッジ(lineage)といい、伝説上・神話上の共通祖先を持っているという意識・信仰があるのみで、系譜関係がはっきりしない集団をクラン(clan)と呼んで、両者を区別する。 同じ氏族の男女の結婚を禁じる結婚規制が広く見られる(氏族外婚)。これは、互いの系譜関係がたどれぬ場合であっても同じ氏族であれば血縁関係を擬制して規制することから、必ずしも近親婚の禁止とは重ならない。.

新しい!!: 南部氏と氏族 · 続きを見る »

江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

新しい!!: 南部氏と江戸時代 · 続きを見る »

河内源氏

河内源氏(かわちげんじ)は、河内国(現在の大阪府の一部)に根拠地を置いた清和源氏の一流。一般的に武士で「源氏」という場合、この系統を指す。また、「平家」と称される伊勢平氏と併称される場合には源家(げんけ)という呼称も古くは用いられていた。.

新しい!!: 南部氏と河内源氏 · 続きを見る »

波木井長義

波木井 長義(はきり ながよし、生年不詳 - 正和2年(1313年))は、鎌倉時代後期の御家人。南部実長の四男(あるいは長男)。兄弟に南部実継、南部実氏、南部祐光らがあり、子に波木井長氏、波木井光氏、波木井実義、波木井政義、波木井行義、波木井光長らがある。仮名は弥六郎。諱は清長ともいう。 父実長より甲斐国波木井郷の地頭職を継承し、長義も父や兄弟と同じく日蓮に深く帰依した。日蓮の入滅後、父実長との意見の相違により日興が身延を下山すると、長義は誓状を立てて引き続き日興に師事し続けたといわれる。この為、日蓮宗富士門流では今日に至るまで正法堅持の人物であったとされている。出家後は日教と称した。 甲斐国波木井郷は長男の長氏の家系が継承し波木井氏(波木井南部氏)として中世を通して存続した。.

新しい!!: 南部氏と波木井長義 · 続きを見る »

津軽地方

南部地方 津軽地方(つがるちほう)とは、現在の青森県西部を指して言う地域呼称。江戸時代に津軽氏が支配した領域(弘前藩・黒石藩の領域)および津軽郡の領域にほぼ相当する。 明治維新で陸奥国(むつのくに)が分割されて設置された陸奥国(りくおうのくに。青森県全域と岩手県西北部)の異称「津軽国」とは異なる。.

新しい!!: 南部氏と津軽地方 · 続きを見る »

津軽石氏

津軽石氏(つがるいしし)は、陸奥国を本拠とした氏族。.

新しい!!: 南部氏と津軽石氏 · 続きを見る »

津軽為信

津軽 為信(つがる ためのぶ、)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。陸奥国弘前藩初代藩主。.

新しい!!: 南部氏と津軽為信 · 続きを見る »

津軽郡 (陸奥国)

*.

新しい!!: 南部氏と津軽郡 (陸奥国) · 続きを見る »

津軽氏

津軽氏(つがるし、)は、16世紀末から廃藩置県まで、現在の青森県のうち津軽地方を支配した大名の氏族。通字は「信(のぶ)」。.

新しい!!: 南部氏と津軽氏 · 続きを見る »

清和源氏

清和源氏(せいわげんじ)は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

新しい!!: 南部氏と清和源氏 · 続きを見る »

湊川の戦い

湊川の戦い(みなとがわのたたかい)は、南北朝時代の建武3年(1336年)5月25日に、摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦である。.

新しい!!: 南部氏と湊川の戦い · 続きを見る »

源義家

源 義家(みなもと の よしいえ)は、平安時代後期の武将。伊予守・源頼義の長男。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる。 比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となった時、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約10年間は閉塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された。 その活動時期は摂関政治から院政に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。このため歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ、後三年の役の朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な憶測がされてきた。生前の極位は正四位下。.

新しい!!: 南部氏と源義家 · 続きを見る »

源義光

源 義光(みなもと の よしみつ)は、平安時代後期の武将。河内源氏の2代目棟梁である源頼義の三男。兄に源義家(八幡太郎)や源義綱(賀茂次郎)がいる。近江国の新羅明神(大津三井寺新羅善神堂)で元服したことから新羅三郎(しんらさぶろう)と称した。.

新しい!!: 南部氏と源義光 · 続きを見る »

源頼義

源 頼義(みなもと の よりよし)は、平安時代中期の武士。河内源氏初代棟梁・源頼信の嫡男で河内源氏2代目棟梁。.

新しい!!: 南部氏と源頼義 · 続きを見る »

源氏

源氏(げんじ、みなもとうじ)は、「源」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。 日本において皇族が臣下の籍に降りる(臣籍降下)際に名乗る氏の1つで、多数の流派がある。清和天皇の子孫である清和源氏が有名である。.

新しい!!: 南部氏と源氏 · 続きを見る »

源清光

源 清光(みなもと の きよみつ)は、平安時代末期の武将。甲斐源氏の祖。黒源太、逸見清光、武田清光とも呼ばれる。.

新しい!!: 南部氏と源清光 · 続きを見る »

持明院統

持明院統(じみょういんとう)とは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた日本の皇室の系統で、第88代後嵯峨天皇の子である第89代後深草天皇の子孫である。.

新しい!!: 南部氏と持明院統 · 続きを見る »

本貫

本貫(ほんがん、ほんかん)は古代東アジアにおいて戸籍の編成(貫籍)が行われた土地をいう。転じて、氏族集団の発祥の地を指すようになった。 日本には律令制下の戸籍制度とともに概念が導入された。中世以降、武家の名字(苗字)の由来となった土地(名字の地, 一所懸命の土地)を「本貫」、「本貫地」(ほんがんち)と呼ぶようになった。 中国・朝鮮半島では、個人の戸籍の所在地の意味を離れ、氏族集団(宗族)の始祖の発祥地として使用された。とくに大韓民国では現在も家族制度上大きな意味を持つ。.

新しい!!: 南部氏と本貫 · 続きを見る »

惣無事令

惣無事令(そうぶじれい)は、豊臣秀吉が大名間の私闘を禁じた法令とされるもの。藤木久志によって提唱され定説化した。.

新しい!!: 南部氏と惣無事令 · 続きを見る »

戊辰戦争

戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。 明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった。 以下の日付は、断りのない限り旧暦でしるす。.

新しい!!: 南部氏と戊辰戦争 · 続きを見る »

戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

新しい!!: 南部氏と戦国時代 (日本) · 続きを見る »

明徳

明徳(めいとく)は、日本の元号の一つ。元中・康応の後、応永の前。1390年から1393年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後小松天皇。南朝方が後亀山天皇。室町幕府将軍は足利義満。 足利義満は、土岐康行の乱や2年の山名氏を挑発して蜂起させた明徳の乱、さらに応永期の応永の乱で有力守護大名を討伐して将軍権力を固めていく。1392年(元中9年/明徳3年)には北朝が南朝の持つ三種の神器を接収し、後亀山天皇が譲位して南北朝合一(明徳の和約)が成し遂げられ、元号も明徳に統一された。 康暦の政変で失脚した後に幕政に復帰した細川頼之は明徳の乱でも戦い3年に没しており、弟の細川頼元が管領に就任している。4年には斯波義将が管領に就任しており、幕府の将軍を頂点とする三管領体制が整いつつある時期である。.

新しい!!: 南部氏と明徳 · 続きを見る »

明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

新しい!!: 南部氏と明治 · 続きを見る »

明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

新しい!!: 南部氏と明治維新 · 続きを見る »

浅利氏

浅利氏(あさりし)は、日本の氏族である。本姓は清和源氏義光流を称し、甲斐国八代郡浅利郷(現・山梨県)を本拠とした甲斐浅利氏と、それから分かれ、出羽国比内郡(現・秋田県)を本拠とした出羽浅利氏の2流がある。.

新しい!!: 南部氏と浅利氏 · 続きを見る »

斯波家長

斯波 家長(しば いえなが)は南北朝時代の武将。斯波高経の長男。.

新しい!!: 南部氏と斯波家長 · 続きを見る »

新田

新田(しんでん)とは、新たに田や畑などとするため開墾して出来た農地のことである。また、その地名。その開墾までの流れを新田開発といい、本項では新田開発も含めて解説する。.

新しい!!: 南部氏と新田 · 続きを見る »

新田分知

新田分知(しんでんぶんち)は、江戸時代における武家の分家形態の一つである。分家の創設の際に、主君から与えられた領地ではなく入封後新規に開発した領地(新田)を分知する方式である。これにより、本家の表高を減少させずに分家を創設する事が出来る。大名および旗本の分家の際に多く認められる。大名家の新田分知において分家も1万石以上の石高がある場合、分家のことを○○新田藩と称することがある。以下においては、大名家の事例を中心に記述するが、特に注釈しない場合は旗本の場合も同様である。 新田分知の形態には、.

新しい!!: 南部氏と新田分知 · 続きを見る »

新田義貞

新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。 鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった。ただし、鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。 鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗した。これにより各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。 死後、江戸時代に義貞が着用していた兜が偶然見つかり、福井藩主松平光通は兜が発見された場所に新田塚を建てた。明治時代、福井知藩事・松平茂昭は新田義貞のために新田塚に祠を建て、のち義貞を主祭神する藤島神社となり、建武中興十五社の一つに列せられた。.

新しい!!: 南部氏と新田義貞 · 続きを見る »

新田義興

新田 義興(にった よしおき)とは、南北朝時代の武将。新田義貞の次男。.

新しい!!: 南部氏と新田義興 · 続きを見る »

新田政盛

新田 政盛(にいだ まさもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。南部氏の家臣。.

新しい!!: 南部氏と新田政盛 · 続きを見る »

文中

文中(ぶんちゅう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。建徳の後、天授の前。1372年から1375年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が長慶天皇、北朝方が後円融天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

新しい!!: 南部氏と文中 · 続きを見る »

文治

文治(ぶんじ)は、日本の元号の一つ。元暦の後、建久の前。1185年から1189年までの期間を指す。この時代の天皇は後鳥羽天皇。.

新しい!!: 南部氏と文治 · 続きを見る »

文明 (日本)

文明(ぶんめい)は、日本の元号の一つ。応仁の後、長享の前。1469年から1486年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政、足利義尚。.

新しい!!: 南部氏と文明 (日本) · 続きを見る »

文政

文政(ぶんせい)は日本の元号の一つ。文化の後、天保の前。1818年から1831年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。.

新しい!!: 南部氏と文政 · 続きを見る »

日記

日記(にっき)とは、日々の出来事を紙などに記録したものである。単なる記録として扱われるものから、文学として扱われるものまで、その内容は様々である。ある人物の生涯にわたって記されるような長期にわたるものから、ある旅、ある職務、ある事件などの間だけ記された短期のものまで、期間・分量も様々であり、西洋・東洋を問わず、世界的に存在する。.

新しい!!: 南部氏と日記 · 続きを見る »

日露戦争

日露戦争(にちろせんそう、Русско-японская война 、Russo-Japanese War、1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。講和の結果、ロシア領の南樺太は日本領となり樺太庁が設置され、ロシアの租借地があった関東州については日本が租借権を得て、関東都督府が設置されるなど日本の勝利で終わった。.

新しい!!: 南部氏と日露戦争 · 続きを見る »

日蓮

妙傳寺 本蓮寺 日蓮(にちれん、貞応元年(1222年)2月16日には、「その誕生日の2月16日については自ら記すところではないが、『本門宗要抄』の下巻と、この書と大体同時代の成立と思われる日道の『御伝土代』に誕生を2月16日と記している」とある(但し、漢数字は算用数字に改めた)。なお、『本門宗要抄』には偽書説があるが、それについてはで「日蓮の事蹟・生涯についてはおそらく日蓮の直弟たちの間の周知のこと、またその伝承されていたことがつづられたもので、この両書は日蓮宗の初期の伝承を伝える珍重すべきものである。したがって2月16日の誕生は真を伝えているとみて良い。」としている。 - 弘安5年(1282年)10月13日)ユリウス暦では1222年3月30日 - 1282年11月14日、グレゴリオ暦に換算すると1222年4月6日 - 1282年11月21日。グレゴリオ暦の施行は1582年で日蓮はそれ以前に亡くなっているが、日蓮宗諸派では日蓮の事跡をグレゴリオ暦換算の日付で祝うため、グレゴリオ暦の日付を併記している。なお、換算はによる。は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗後に十三宗のひとつとなる。(法華宗)の宗祖。滅後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。.

新しい!!: 南部氏と日蓮 · 続きを見る »

日蓮宗

日蓮宗(にちれんしゅう)は、.

新しい!!: 南部氏と日蓮宗 · 続きを見る »

承久

承久(じょうきゅう)は、日本の元号の一つ。建保の後、貞応の前。1219年から1221年までの期間を指す。この時代の天皇は順徳天皇、仲恭天皇、後堀河天皇。後鳥羽上皇の院政、鎌倉幕府将軍は空位、執権は北条義時。.

新しい!!: 南部氏と承久 · 続きを見る »

1189年

記載なし。

新しい!!: 南部氏と1189年 · 続きを見る »

1191年

記載なし。

新しい!!: 南部氏と1191年 · 続きを見る »

1219年

記載なし。

新しい!!: 南部氏と1219年 · 続きを見る »

1261年

記載なし。

新しい!!: 南部氏と1261年 · 続きを見る »

1392年

記載なし。

新しい!!: 南部氏と1392年 · 続きを見る »

1487年

記載なし。

新しい!!: 南部氏と1487年 · 続きを見る »

14世紀

ナスル朝。イベリア半島最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有のアラベスクに彩られたアルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」。 Gilles Le Muisitの年代記』の挿絵)。 エドワード3世率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いたジャン・フロワサールの『年代記』写本の挿絵。 ユダヤ人迫害。中世末期の不穏な情勢の中でスケープゴートとして標的にされたのがユダヤ人であった。画像は15世紀にまとめられた『ニュルンベルク年代記』の木版挿絵で、1338年に起きたバイエルン地方のデッゲンドルフでの「聖餅󠄀冒瀆」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。 カルマル同盟。デンマーク摂政(事実上の女王)マルグレーテ1世がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像はロスキレ大聖堂に安置されたマルグレーテの石棺。 七選帝侯。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は金印勅書で法制化されることになる。 原初同盟は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。 アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口。 ダンテとベアトリーチェ。ダンテは地獄・煉獄・天国をまわる壮大な『神曲』を書いた詩人。画像は19世紀のヘンリー・ホリデーによるもの(ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)。 シエナ。この街は黒死病の被害の影響が大きかったため景観が変化せず中世都市の面影を強く残した街となっている。画像はアンブロージョ・ロレンツェッティによるシエナのプブリコ宮殿(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。 セルビア人の帝国。ネマニッチ朝のステファン・ウロシュ4世ドゥシャンは東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建されたコソボのデチャニ修道院にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。 Codex Mendoza」。 後醍醐天皇。鎌倉幕府を亡ぼし建武の新政を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は清浄光寺所蔵の肖像画。 足利義満。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は鹿苑寺所蔵の肖像画。 西アフリカのマリ王国の王マンサ・ムーサ。イスラム教徒としてメッカに巡礼に向かう旅路で黄金を惜しみなく使った逸話で知られる。 Baptistère de Saint Louis」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、マムルーク朝時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在はルーヴル美術館が所蔵している。 歴史家ラシードゥッディーン。その当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主ガザンとオルジェイトゥの兄弟を描いた『集史』の挿絵。 草原の英雄ティムール。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本の挿絵。 ハンピ)のヴィルーパークシャ寺院。 チベット仏教の改革者ツォンカパ。綱紀粛正に努め左道密教を退けて現在のダライラマに連なるゲルク派(黄帽派)を大成した。 青花の誕生。元朝後期に西アジア産のコバルト顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺(ブルックリン美術館蔵)」。 明の洪武帝朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画(台北国立故宮博物院蔵)。 14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。.

新しい!!: 南部氏と14世紀 · 続きを見る »

1523年

記載なし。

新しい!!: 南部氏と1523年 · 続きを見る »

1527年

記載なし。

新しい!!: 南部氏と1527年 · 続きを見る »

1548年

記載なし。

新しい!!: 南部氏と1548年 · 続きを見る »

1570年

記載なし。

新しい!!: 南部氏と1570年 · 続きを見る »

1581年

日曜日から始まる。.

新しい!!: 南部氏と1581年 · 続きを見る »

1582年

記載なし。

新しい!!: 南部氏と1582年 · 続きを見る »

1590年

記載なし。

新しい!!: 南部氏と1590年 · 続きを見る »

1591年

記載なし。

新しい!!: 南部氏と1591年 · 続きを見る »

1617年

記載なし。

新しい!!: 南部氏と1617年 · 続きを見る »

1627年

記載なし。

新しい!!: 南部氏と1627年 · 続きを見る »

1634年

記載なし。

新しい!!: 南部氏と1634年 · 続きを見る »

1664年

記載なし。

新しい!!: 南部氏と1664年 · 続きを見る »

1719年

記載なし。

新しい!!: 南部氏と1719年 · 続きを見る »

17世紀

ルイ14世の世紀。フランスの権勢と威信を示すために王の命で壮麗なヴェルサイユ宮殿が建てられた。画像は宮殿の「鏡の間」。 スペインの没落。国王フェリペ4世の時代に「スペイン黄金時代」は最盛期を過ぎ国勢は傾いた。画像は国王夫妻とマルガリータ王女を取り巻く宮廷の女官たちを描いたディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」。 ルネ・デカルト。「我思う故に我あり」で知られる『方法序説』が述べた合理主義哲学は世界の見方を大きく変えた。画像はデカルトとその庇護者であったスウェーデン女王クリスティナ。 プリンキピア』で万有引力と絶対空間・絶対時間を基盤とするニュートン力学を構築した。 オランダの黄金時代であり数多くの画家を輩出した。またこの絵にみられる実験や観察は医学に大きな発展をもたらした。 チューリップ・バブル。オスマン帝国からもたらされたチューリップはオランダで愛好され、その商取引はいつしか過熱し世界初のバブル経済を生み出した。画像は画家であり園芸家でもあったエマヌエル・スウェールツ『花譜(初版は1612年刊行)』の挿絵。 三十年戦争の終結のために開かれたミュンスターでの会議の様子。以後ヨーロッパの国際関係はヴェストファーレン体制と呼ばれる主権国家を軸とする体制へと移行する。 チャールズ1世の三面肖像画」。 ベルニーニの「聖テレジアの法悦」。 第二次ウィーン包囲。オスマン帝国と神聖ローマ帝国・ポーランド王国が激突する大規模な戦争となった。この敗北に続いてオスマン帝国はハンガリーを喪失し中央ヨーロッパでの優位は揺らぐことになる。 モスクワ総主教ニーコンの改革。この改革で奉神礼や祈祷の多くが変更され、反対した人々は「古儀式派」と呼ばれ弾圧された。画像はワシーリー・スリコフの歴史画「貴族夫人モローゾヴァ」で古儀式派の信仰を守り致命者(殉教者)となる貴族夫人を描いている。 スチェパン・ラージン。ロシアではロマノフ朝の成立とともに農民に対する統制が強化されたが、それに抵抗したドン・コサックの反乱を率いたのがスチェパン・ラージンである。画像はカスピ海を渡るラージンと一行を描いたワシーリー・スリコフの歴史画。 エスファハーンの栄華。サファヴィー朝のシャー・アッバース1世が造営したこの都市は「世界の半分(エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン・アスト)」と讃えられた。画像はエスファハーンに建てられたシェイク・ロトフォラー・モスクの内部。 タージ・マハル。ムガル皇帝シャー・ジャハーンが絶世の美女と称えられた愛妃ムムターズ・マハルを偲んでアーグラに建てた白亜の霊廟。 アユタヤ朝の最盛期。タイでは中国・日本のみならずイギリスやオランダの貿易船も来訪し活況を呈した。画像はナーラーイ王のもとで交渉をするフランス人使節団(ロッブリーのプラ・ナーライ・ラーチャニーウエート宮殿遺跡記念碑)。 イエズス会の中国宣教。イエズス会宣教師は異文化に対する順応主義を採用し、中国の古典教養を尊重する漢人士大夫の支持を得た。画像は『幾何原本』に描かれたマテオ・リッチ(利瑪竇)と徐光啓。 ブーヴェの『康熙帝伝』でもその様子は窺える。画像は1699年に描かれた読書する40代の康熙帝の肖像。 紫禁城太和殿。明清交代の戦火で紫禁城の多くが焼亡したが、康熙帝の時代に再建がなされ現在もその姿をとどめている。 台湾の鄭成功。北京失陥後も「反清復明」を唱え、オランダ人を駆逐した台湾を根拠地に独立政権を打ち立てた。その母が日本人だったこともあり近松門左衛門の「国姓爺合戦」などを通じて日本人にも広く知られた。 江戸幕府の成立。徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利して征夷大将軍となり、以後260年余にわたる幕府の基礎を固めた。画像は狩野探幽による「徳川家康像」(大阪城天守閣蔵)。 日光東照宮。徳川家康は死後に東照大権現の称号を贈られ日光に葬られた。続く三代将軍徳川家光の時代までに豪奢で絢爛な社殿が造営された。画像は「日暮御門」とも通称される東照宮の陽明門。 歌舞伎の誕生。1603年に京都北野社の勧進興業で行われた出雲阿国の「かぶき踊り」が端緒となり、男装の女性による奇抜な演目が一世を風靡した。画像は『歌舞伎図巻』下巻(名古屋徳川美術館蔵)に描かれた女歌舞伎の役者采女。 新興都市江戸。17世紀半ばには江戸は大坂や京都を凌ぐ人口を擁するまでとなった。画像は明暦の大火で焼失するまで威容を誇った江戸城天守閣が描かれた「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)。 海を渡る日本の陶磁器。明清交代で疲弊した中国の陶磁器産業に代わり、オランダ東インド会社を通じて日本から陶磁器が数多く輸出された。画像は1699年に着工されたベルリンのシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」。 海賊の黄金時代。西インド諸島での貿易の高まりはカリブ海周辺に多くの海賊を生み出した。画像はハワード・パイルが描いた「カリブ海のバッカニーア」。 スペイン副王支配のリマ。リマはこの当時スペインの南米支配の拠点であり、カトリック教会によるウルトラバロックとも呼ばれる壮麗な教会建築が並んだ。画像は1656年の大地震で大破したのちに再建されたリマのサン・フランシスコ教会・修道院。 17世紀(じゅうしちせいき、じゅうななせいき)は、西暦1601年から西暦1700年までの100年間を指す世紀。.

新しい!!: 南部氏と17世紀 · 続きを見る »

1818年

記載なし。

新しい!!: 南部氏と1818年 · 続きを見る »

1884年

記載なし。

新しい!!: 南部氏と1884年 · 続きを見る »

1896年

記載なし。

新しい!!: 南部氏と1896年 · 続きを見る »

1月7日

1月7日(いちがつなのか)はグレゴリオ暦で年始から7日目に当たり、年末まであと358日(閏年では359日)ある。誕生花はチューリップ(白)。.

新しい!!: 南部氏と1月7日 · 続きを見る »

2009年

この項目では、国際的な視点に基づいた2009年について記載する。.

新しい!!: 南部氏と2009年 · 続きを見る »

3月24日 (旧暦)

旧暦3月24日は旧暦3月の24日目である。六曜は友引である。.

新しい!!: 南部氏と3月24日 (旧暦) · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

南部家

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »