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甲斐源氏

索引 甲斐源氏

斐源氏(かいげんじ)は、甲斐国に土着した清和源氏の河内源氏系一門で、源義光(新羅三郎義光)を祖とする諸家のうち武田氏をはじめとする、甲斐を発祥とする諸氏族の総称。 同じ義光を祖とする佐竹氏(常陸源氏)や平賀氏(信濃源氏)とは同族である。また、武田氏と同祖となる加賀美氏流の小笠原氏系統は早い時期に隣国信濃に移ったため、信濃源氏にも含まれる。 「甲斐源氏」の呼称について、治承・寿永の乱期の史料には一切見られず、甲斐源氏の一族を指す呼称には「武田党」などが用いられている。鎌倉時代には『吾妻鏡』をはじめ『帝王編年記』、『日蓮遺文』などにおいて「甲斐源氏」の呼称が用いられはじめ、軍記物語などにおいても頻出する。.

145 関係: 加賀美遠光加賀美氏ひたちなか市南アルプス市南部実長南部氏吾妻鏡大井氏大東流合気柔術大治 (日本)安田義定安田氏密教小笠原長清小笠原氏小笠原流山梨県立博物館巨摩郡常陸国市河荘三好氏三枝氏三村氏一ノ谷の戦い一遍聖絵一蓮寺平忠常の乱平賀氏平治平治の乱久我家仏教令旨以仁王他阿佐竹氏御坂町後三年の役後鳥羽天皇保元保元の乱信濃国信濃源氏応保志田諄一在庁官人北陸道北条義時北杜市八幡神...公家元暦前九年の役勝田市国衙秩父郡秋山氏秋山敬稲積荘竹内家竹内流立正安国論籠坂峠粟津の戦い美作国甲府市甲府盆地甲源一刀流甲斐善光寺甲斐国甲斐国の仏教甘利氏韮崎市鎌倉鎌倉幕府鎌倉仏教荘園蠣崎氏須玉町願成寺 (韮崎市)香宗我部氏諏訪郡諸大夫高倉天皇足利将軍家軍記物語茨城県葉室光親那珂郡野口実長寛勘文長元逸見氏柳沢氏柴辻俊六柔術板垣氏武田信光武田信義武田信虎武田八幡宮武田氏武田惣角武術武蔵国河内源氏治承・寿永の乱清和源氏源範頼源義家源義仲源義光源義清 (武田冠者)源義朝源為義源盛義源頼信源清光源有雅溝口派一刀流末法思想本地垂迹浄土教浅利氏文永日蓮日蓮宗放光寺 (甲州市)愛染明王承久承久の乱曽根氏時宗1030年1130年1156年1159年1162年1180年1183年1184年1221年1271年1274年1282年 インデックスを展開 (95 もっと) »

加賀美遠光

加賀美 遠光(かがみ とおみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。甲斐源氏の祖とされる源義光の孫源清光の四男(清光の父義清の子とする説もある)。 加賀美氏の初代であり、武田氏初代武田信義の弟(あるいは叔父)となる。甲斐国巨麻郡加賀美郷(現在の山梨県南アルプス市の一部)一帯に所在する加々美荘を本領とした。.

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加賀美氏

加賀美氏(かがみし)は、日本の氏族のひとつ。鏡・各務・加々美などとも表記されることがある。.

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ひたちなか市

ひたちなか市(ひたちなかし)は、茨城県北部の市である。1994年(平成6年)11月1日に勝田市と那珂湊市が合併して発足した。.

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南アルプス市

南アルプス市(みなみアルプスし)は、山梨県西部に位置する市。山梨県内の自治体としては最西端にあたる。人口は人。.

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南部実長

南部 実長(なんぶ さねなが)は、鎌倉時代中期の御家人。南部光行の三男。八戸氏(根城南部氏)の祖。日蓮の有力壇越として知られ、また甲斐国波木井(はきり)に居住したことから波木井実長とも呼ばれる。.

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南部氏

南部氏(なんぶし)は、陸奥の武家で本姓は源氏。本貫地は甲斐国南部郷で家祖は南部光行。南部氏初代の光行は、平安時代に活躍した清和源氏の一流である河内源氏 源義光や、その孫で平安時代末期に活躍した黒源太清光、その子である甲斐源氏・加賀美遠光の子孫である。.

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吾妻鏡

『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮の序文 『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。 編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。.

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大井氏

大井氏(おおいし).

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大東流合気柔術

大東流合気柔術(だいとうりゅうあいきじゅうじゅつ)は日本武術の一派、中興の祖とされる武田惣角により広められた。 陸奥会津藩の殿中武術を参考に編纂された武術とされている。 略称で合気柔術と呼ばれることが多い。.

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大治 (日本)

大治(だいじ)は、日本の元号の一つ。天治の後、天承の前。1126年から1130年までの期間を指す。この時代の天皇は崇徳天皇。.

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安田義定

安田 義定(やすだ よしさだ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。甲斐源氏の祖とされる源義光の孫源清光の子(清光の父義清の子とする説もある)。.

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安田氏

安田氏(やすだし).

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密教

密教(みっきょう)とは、秘密の教えを意味し、一般的には、大乗仏教の中の秘密教を指し、秘密仏教の略称とも言われる。金剛乗、あるいは金剛一乗教、金剛乗教ともいう。中国語圏では一般に密宗(ミイゾン)という。.

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小笠原長清

小笠原 長清(おがさわら ながきよ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の甲斐国の武将。甲斐源氏の一族である加賀美遠光の次男。 信濃守護家小笠原氏、弓馬術礼法小笠原流の祖。.

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小笠原氏

小笠原氏(おがさわらし、おがさわらうじ)は、日本の氏族。清和源氏の河内源氏の流れをくみ、武家の有職故実を伝える一族としても知られる。通字は、「長」・「貞」・「忠」などである。.

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小笠原流

小笠原流(おがさわらりゅう)は、武家故実(弓馬故実)、弓術、馬術、礼法の流派。また兵法、煎茶道、茶道にも小笠原流を名乗るものがある。礼儀作法の流派として知名度の高い流派であるが、本来的には弓術・馬術・礼法・軍陣故実などの武家社会の故実(武家故実)全般の流派である。 原型となったのは小笠原氏家伝の故実であり、室町時代中期以降、小笠原氏が武家社会における故実の指導的存在となったことから、同家の故実が武家に重んじられた。 「小笠原流」と呼称されるものは歴史上いくつか存在し、それぞれ内容、伝えた家系が異なる場合があるので区別が必要である。また、小笠原流の歴史に関しては後世の創作や仮託が広く流布しているため、史実との峻別も必要である。大別すると以下の7種に分類できる。.

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山梨県立博物館

山梨県立博物館(やまなしけんりつはくぶつかん)は、山梨県笛吹市御坂町成田にある総合博物館である。2005年(平成17年)10月15日に開館した。愛称は甲斐とミュージアムをかけた「かいじあむ」。2018年現在、館長は守屋正彦である。前館長の平川南は名誉館長に就任した。 基本テーマは「山梨の自然と人」であり、自然系展示と歴史系展示を分けずに展示や資料の収集、調査研究活動、社会教育活動を行っている。常設展示は原始時代から現代という時系列に沿った展示であるが、観覧順序は自由導線であり、「水に取り組む」「信仰の足跡」といったテーマを設定した展示になっている。.

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巨摩郡

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常陸国

常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。.

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市河荘

市河荘(いちかわしょうは、甲斐国の荘園。10世紀に成立し、荘域は時代により変遷しているが、おおむね甲府盆地底部に位置する。甲斐においては唯一の荘園公領制成立以前に立荘された免田型荘園と考えられている。.

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三好氏

三好氏(みよしし)は、日本の氏族の一つ。信濃源氏の一族で鎌倉時代の阿波守護・小笠原氏の支流。室町時代には阿波守護細川氏の守護代を務め、戦国時代に細川氏に対して下剋上を起こし、阿波をはじめとする四国東部のみならず畿内一円に大勢力を有し、三好政権を築いた。.

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三枝氏

三枝氏(さいぐさし)は、武家の一つ。古代甲斐国の在庁官人である三枝氏や、戦国時代の甲斐武田氏の家臣である三枝氏と、その子孫の三枝氏が存在する。.

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三村氏

三村氏(みむらし)は日本の氏族。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系である河内源氏の傍流・甲斐源氏小笠原氏の庶流にあたる太田亮著、上田萬年、三上参次監修『姓氏家系大辞典 第3巻』(角川書店、1934年)3907頁、5908頁参照。。.

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一ノ谷の戦い

一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)は、平安時代の末期の寿永3年/治承8年2月7日(1184年3月20日)に摂津国福原および須磨で行われた戦い。治承・寿永の乱(源平合戦)における戦いの一つ。.

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一遍聖絵

一遍聖絵」第7巻 四条釈迦堂 一遍聖絵(いっぺんひじりえ)または、一遍上人絵伝(いっぺんしょうにんえでん) は、伊予国(現在の愛媛県)に生まれ浄土宗を修めたのち、新しく独自の宗旨である時宗を興した開祖一遍(遊行上人)を描いた絵巻。国宝。.

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一蓮寺

一蓮寺(いちれんじ)は、山梨県甲府市太田町に所在する寺院。時宗系寺院(単立)で、山号は稲久山。一条道場。.

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平忠常の乱

平忠常の乱(たいらのただつねのらん)は、平安時代に房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で1028年に起きた反乱。平安時代の関東地方では平将門の乱以来の大規模な反乱であった。 平将門の叔父平良文の子孫に当たる平忠常が乱を起こし、朝廷は討伐軍を派遣するが3年にわたって鎮圧できなかった。有力武士の源頼信が起用されるに及び忠常は降伏した。この乱により房総三カ国は大いに荒廃した。長元の乱ともいう。.

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平賀氏

平賀氏(ひらがし)は、日本の氏族。.

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平治

平治(へいじ)は、日本の元号の一つ。保元の後、永暦の前。1159年の期間を指す。この時代は二条天皇による治世。.

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平治の乱

平治の乱(へいじのらん)は、平安時代末期の平治元年12月9日(1160年1月19日)、院近臣らの対立により発生した政変である。.

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久我家

久我家(こがけ)は、日本の氏族のひとつ。村上源氏(中院流)の総本家にあたる。貴族・公家・華族の家柄。公家としては清華家、華族としては侯爵家の家格を有した。源氏堂上十家のひとつ。家紋は竜胆紋のひとつである久我山竜胆こがやまりんどう/久我竜胆こがりんどう。 久我家が明治維新までに輩出した公卿の数は35名。うち内大臣まで昇った者6名、右大臣まで昇った者4名、太政大臣まで昇った者7名である。.

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仏教

仏教寺院 仏教(ぶっきょう、旧字体:佛敎、サンスクリット:बौद्धधर्मः 、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、もしくはガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。キリスト教・イスラム教と並んで、日本では出版点数の多い宗教の一つに数えられる。仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである。 その教義は、苦しみの輪廻から解脱することを目指している。原因と結果の理解に基づいており、諸々の現象が縁起するとされる。 仏教は仏、その教えである法、その実践者である僧からなる三宝を中心に組織されている。実践における戒定慧の三学は、戒律、心を集中する禅定、ものごとの縁起を観察する智慧であり、後ろ二つは併せて止観とも呼ばれる仏教の瞑想法である。実践にて重要となる能力は六波羅蜜や八正道のように、いくつかの方法でまとめらている。 紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、今では初期仏教として研究されている。釈迦は、他の苦行などの実践者の主張であるアートマン(真我)の存在を否定して無我とした。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、大きく大衆部と上座部とに、さらに細かく分かれたが、今なお大きな勢力として続いているのは南伝した上座部仏教であり、初期の教えを模範としている。紀元前の終わりごろには北伝し日本にも伝わることになる大乗仏教が開始され、教義や団体は多彩に発展しており、禅の瞑想法の様々、チベットや日本の真言宗に残る密教、一方で浄土信仰のような信仰形態の変化など多様である。『日本書紀』によれば仏教が伝来したのは飛鳥時代552年(欽明天皇13年)である(日本の仏教)。.

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令旨

令旨(りょうじ)とは、律令制のもとで出された、皇太子・三后(太皇太后・皇太后・皇后)の命令を伝えるために出した文書。 中国(唐)では皇太子の命令を伝える文書を「令」といったが、それが日本に伝わり、日本では皇太子の命令を伝える文書を令旨といい、太皇太后・皇太后・皇后の出す文書もこれに準じた。平安時代中期以降は、皇太子・三后に加えて女院や親王などの皇族の命令も令旨と呼ばれるようになった。 歴史上有名な令旨としては、治承・寿永の乱(源平合戦)の際に諸国の源氏に挙兵を命じるために以仁王が発した「以仁王の令旨」があるが、これは皇太子でも親王でもない以仁王が命令の正統性を高めるためにあえて親王の身位を冒して発したもので、本来ならば王の命令書は「御教書」と呼ばれるべきものだった。 なお、天皇の命令を伝える文書に宣旨・綸旨などがある。.

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以仁王

以仁王(もちひとおう、仁平元年(1151年) - 治承4年5月26日(1180年6月20日))は、平安時代末期の皇族。後白河天皇の第三皇子。「以仁王の令旨」を出して源氏に平氏打倒の挙兵を促した事で知られる。邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮、高倉宮と称された。.

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他阿

他阿(たあ、嘉禎3年(1237年)- 文保3年1月27日(1319年2月17日))は、鎌倉時代後期の時宗の僧。遊行上人2世。正しくは他阿弥陀仏と称し、他阿と略する。法諱は真教(ただし同時代史料にはみえず、初出は『本朝高僧伝』。燈心文庫に真教と署名のある文書があり、他阿に同定する説あり)。俗姓は源氏久我家ともいわれる。.

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佐竹氏

佐竹氏(さたけし)は、日本の氏族のひとつ。日本の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れをくみ、新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の嫡流。武田氏に代表される甲斐源氏と同族である。通字は「義」。佐竹氏は家紋として定紋の「扇に月」(一般的には日の丸扇と呼ばれている)の他に、源氏香(花散里)・笹竜胆・佐竹桐・丸に釘貫・丁子巴・鉄線を加えた七つの家紋を「御当家七ッ御紋」としている。源氏から中近世大名、華族として明確な系譜として現代まで残った中ではもっとも大きな流れの一つである。.

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御坂町

御坂町(みさかちょう)は、山梨県中部、東八代郡に属した町である。.

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後三年の役

後三年の役(ごさんねんのえき)は、平安時代後期の陸奥・出羽(東北地方)を舞台とした戦役である。前九年の役の後、奥羽を実質支配していた清原氏が消滅し、奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦いである。後三年合戦(ごさんねんかっせん)ともいう。.

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後鳥羽天皇

後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇(在位:寿永2年8月20日(1183年9月8日) - 建久9年1月11日(1198年2月18日))。諱は尊成(たかひら・たかなり)。高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。 文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが、この承久の乱で朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。.

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保元

保元(ほうげん、ほげん)は、日本の元号の一つ。久寿の後、平治の前。1156年から1158年までの期間を指す。この時代の天皇は後白河天皇、二条天皇。.

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保元の乱

保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代末期の保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変である。この公家の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。.

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信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

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信濃源氏

信濃源氏(しなのげんじ)は、中世に信濃国に土着し本拠とした源姓の氏族を指した呼称。いずれも清和源氏で、以下の数流がある。.

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応保

応保(おうほう)は、日本の元号の一つ。永暦の後、長寛の前。1161年から1162年までの期間を指す。この時代の天皇は二条天皇。.

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志田諄一

志田 諄一(しだ じゅんいち、1929年(昭和4年) - 2011年(平成23年)12月21日、82歳没)は、日本の歴史学者、史学博士、茨城キリスト教大学名誉教授、元日立市郷土博物館館長、日本古代史・古代中世氏族研究の研究者。 茨城県文化財保護審議会委員を務め、茨城キリスト教大学長、県教育委員長を歴任。 2005年(平成17年)、瑞宝中綬章を受章した。 現在では、1968年に志田諄一が『勝田市史』において発祥を清光(新羅三郎義光)の三男(次男とも)である源義清が常陸国那珂郡武田郷を本貫として武田姓を名乗ったとする説が提唱され、以来定説として支持されている。.

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在庁官人

在庁官人(ざいちょうかんにん、ざいちょうかんじん)とは、日本の平安中期から鎌倉期に、国衙行政の実務に従事した地方官僚の総称。在庁官人という名前の役職が存在したわけではない。在庁(ざいちょう)、庁官(ちょうのかん)とも。中央派遣の国司が現地で採用する実務官僚であり、国司の側近としての性格があった。国司の現地赴任そのものがほとんどなくなるようになり、そのうちで強大な実力を持ったものは在国司(ざいこくし)とも呼ばれるようになった。.

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北陸道

北陸道 北陸道(ほくりくどう、ほくろくどう、くぬがのみち)は、五畿七道の一つ。本州日本海側の中部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から近世)を指す。.

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北条義時

北条 義時(ほうじょう よしとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の第2代執権。伊豆国の在地豪族・北条時政の次男。源頼朝の正室・北条政子の弟。得宗家2代目当主。 源氏将軍が途絶えた後の、鎌倉幕府の実質的な最高指導者。幕府と朝廷の対立が激化すると、後鳥羽上皇より北条義時追討の宣旨が全国に発布され朝敵となるも、幕府軍は京都に攻め上り、朝廷を制圧(承久の乱)。戦後に天皇を廃し3人の上皇を配流した。.

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北杜市

北杜市(ほくとし)は、山梨県の北西部に位置する市である。山梨県内の自治体として最北端にあたる。.

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八幡神

八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)は、日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、神社内に神宮寺が作られた。.

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公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

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元暦

元暦(げんりゃく)は、日本の元号の一つ。寿永の後、文治の前。1184年・1185年の期間を指す。この時代の天皇は後鳥羽天皇。 源氏と平家の争乱の時代で、平家方ではこの元号を使用せず寿永を引き続き使用していた。.

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前九年の役

前九年の役(ぜんくねんのえき)は、平安時代後期の陸奥国(東北地方)で起こった戦争である。.

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勝田市

勝田市(かつたし)は、かつて茨城県県北地区に存在した市。1994年11月1日に那珂湊市と合併し、ひたちなか市となった。.

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国衙

国衙(こくが)は、日本の律令制において国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画である。 国衙に勤務する官人・役人(国司)や、国衙の領地(国衙領)を「国衙」と呼んだ例もある。 各令制国の中心地に国衙など重要な施設を集めた都市域を国府、またその中心となる政務機関の役所群を「国衙」、さらにその中枢で国司が儀式や政治を行う施設を国庁(政庁)と呼んだ。.

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秩父郡

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秋山氏

秋山氏(あきやまし)は日本の氏族。 甲斐源氏武田氏の分流で西郡へ拠った加賀美遠光の嫡男光朝を祖とし、巨摩郡秋山(現・山梨県南アルプス市秋山)を本貫として秋山氏を名乗った。.

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秋山敬

秋山敬(あきやま たかし、1946年(昭和21年) - 2011年(平成23年)5月23日)、は、日本の都道府県職員・歴史学者。専門は日本中世史。武田氏研究会会長、山梨郷土研究会常任理事、山梨県文化財保護審議会・有形文化財部会長などを務める。.

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稲積荘

積荘(いなづみのしょう)は、甲斐国の荘園。現在の甲府市南部一帯に比定される。.

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竹内家

竹内家(たけのうちけ)は公家のひとつ。本姓は源氏。いわゆる堂上源氏で家系は清和源氏の一家系・河内源氏傍流の信濃源氏平賀氏の一族の流れである。家格は半家、家業は弓箭と笙と和歌。.

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竹内流

竹内流(たけのうちりゅう)、正式名称「竹内流捕手腰廻小具足(たけのうちりゅうとりてこしのまわりこぐそく)」は、日本武術の流派。歴史を遡る事が出来る最古の日本柔術の流派と言われている。捕手と腰之廻小具足を中心に成立し、捕手術、羽手、小具足、捕縄術、棒術、剣術、居合、十手、薙刀などの総合的な技術を今に伝える。 日本古武道協会では「竹内流柔術腰廻小具足」という名称で登録しているが、1500年代に成立した竹内流は柔術という語は用いない柔術という語は1600年代に成立した関口新心流が使い始めた言葉であり、それ以前に成立した古い流派は、和、俰などを用いていた。竹内流では柔術の事を羽手という。。.

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立正安国論

『立正安国論』(巻頭部分、日蓮撰・筆、法華経寺蔵、国宝) 『立正安国論』(りっしょうあんこくろん)は日蓮が執筆し、文応元年7月16日(ユリウス暦1260年8月24日、グレゴリオ暦1260年8月31日)に時の最高権力者にして先の執権(得宗)である北条時頼(鎌倉幕府第5代執権)に提出した文書。.

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籠坂峠

坂峠(かごさかとうげ)は国道138号(旧鎌倉往還)の標高1104mの峠である。富士山と丹沢山地西端の三国山稜を結ぶ鞍部にあり、山梨県南都留郡山中湖村南西の旭日丘と静岡県駿東郡小山町須走の境目に位置する。古くは加古坂と表記された。「籠坂」は、峠を駕籠で越えたことに由来する説や、籠に石を詰め火山性の地盤を固めたことに由来する説がある。篭坂峠と表記することもある。 富士山の火山灰が厚く堆積し、雪で閉鎖されることもあるため東富士五湖道路でバイパスすることができる。山中湖村側は峠から数百メートルのところまで別荘地になっている。.

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粟津の戦い

粟津の戦い(あわづのたたかい)は、寿永3年1月20日(1184年3月4日)に近江国粟津にて行われた源義仲と源頼朝派遣の東国諸将との間の戦い。治承・寿永の乱の1つ。.

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美作国

美作国(みまさかのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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甲府市

府市(こうふし)は、山梨県の中部に位置する同県の県庁所在地。 市域は山梨県の中央を南北に三日月形に縦断しており、市街中心部は甲府盆地の中央北寄りに位置する。山梨県は首都圏整備法上の首都圏に属する県であり、その位置関係から東の関東地方への志向性が強い。 甲府という名称は、1519年(永正16年)に甲斐国の守護大名武田信虎が、居館を石和(現在の笛吹市石和町)、次いで川田(現在の甲府市川田町)から躑躅ヶ崎館(現在の武田神社・甲府市古府中町)へ移した際に、甲斐国の府中という意味から甲府と命名したことに始まるものである(律令制に基づく国衙が置かれたわけではない)。戦国時代には大名領国を形成した武田氏の本拠地となり、武田氏滅亡後は徳川氏や豊臣系大名浅野氏の甲斐国経営の中心となり、国中地域や甲斐国の政治的中心地と位置付けられる。江戸時代には江戸の西方の守りの要として重要視され、また甲州街道の宿場町としても盛えた。近年では、宝石研磨産業が盛んである。 2000年(平成12年)11月1日に特例市に指定され、現在は施行時特例市として2019年4月の中核市移行を目指している。2016年7月現在、全国の県庁所在地の中で人口が最も少ない。.

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甲府盆地

府盆地 桃の花咲く甲府盆地と南アルプス 大菩薩嶺から見た甲府盆地 甲府盆地(こうふぼんち)は、山梨県中央部に位置する盆地。やや東西に長い逆三角形の盆地形状で、面積は2115km2。長野県の松本盆地や諏訪盆地と続く構造盆地。中心部に県庁所在地甲府市が位置するほか、甲州市や山梨市など、多くの市域を含む。.

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甲源一刀流

源一刀流(こうげんいっとうりゅう)は、溝口派一刀流剣術を学んだ武蔵国の住人・逸見太四郎義年(義利と記されている史料もあり)が開いた剣術の流派。逸見氏の家系が甲斐源氏を祖とするところから、甲源一刀流と称した。 中里介山の小説『大菩薩峠』の主人公・机竜之助も甲源一刀流の使い手として描かれている。.

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甲斐善光寺

斐善光寺(かいぜんこうじ)は山梨県甲府市善光寺にある浄土宗の寺院。山号は定額山(じょうがくざん)。正式名称は定額山浄智院善光寺(じょうがくざんじょうちいんぜんこうじ)と称する。長野県長野市にある善光寺をはじめとする各地の善光寺と区別するため甲斐善光寺(かいぜんこうじ)と呼ばれることが多く、甲州善光寺(こうしゅうぜんこうじ)、甲府善光寺(こうふぜんこうじ)とも呼ばれている。.

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甲斐国

斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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甲斐国の仏教

斐国の仏教(かいのくにのぶっきょう)は、甲斐国(山梨県)に関する仏教史の総説。.

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甘利氏

利氏(あまりし)は日本の氏族の1つ。甲斐源氏の分家・甲斐一条氏の一族である。.

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韮崎市

韮崎市(にらさきし)は、山梨県の北部に位置する市。.

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鎌倉

鎌倉(かまくら)は、現在の神奈川県鎌倉市の中心部に当たる地域。源頼朝を旗頭として、北条時政、北条義時らによって鎌倉幕府が置かれた都市であり、三浦半島の付け根に位置し、相模湾に面している。古くは鎌府(れんぷ)とも呼ばれた。三方を山に、一方を海に囲まれている。 鎌倉大仏.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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鎌倉仏教

鎌倉仏教(かまくらぶっきょう)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて興起した日本仏教の変革の動きを指す。特に浄土思想の普及や禅宗の伝来の影響によって新しく成立した仏教宗派のことを鎌倉新仏教(かまくらしんぶっきょう)と呼称する場合がある。しかし、「鎌倉新仏教」の語をめぐっては後述のように研究者によって様々な見解が存在する(→ 「鎌倉仏教論」 節)。.

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荘園

荘園(しょうえん)は、公的支配を受けない(あるいは公的支配を極力制限した)一定規模以上の私的所有・経営の土地である。なお、中世の西ヨーロッパ・中央ヨーロッパに見られたmanor(英語)、Grundherrschaft(ドイツ語)の訳語としても用いられている。.

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蠣崎氏

蠣崎氏(かきざきし)/松前氏(まつまえし)は、戦国時代から蝦夷地を本拠とした大名の氏族。糠部郡蠣崎(青森県むつ市川内町)を領して蠣崎氏を称する家系があり、その子孫との説がある。江戸時代に松前と改姓したが、庶流の中には引き続き蠣崎と名乗る者もいた。本姓は源氏で、清和源氏(河内源氏)義光流で甲斐源氏の庶流と称した。実際には陸奥の土豪が蝦夷へ移住して甲斐源氏武田氏を仮冒したとする説もある。.

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須玉町

玉町(すたまちょう)は、山梨県北西部の北巨摩郡にあった町。 町名の由来は町内を流れる川、須玉川から。 2004年(平成16年)11月1日に須玉町を含めた北巨摩郡7町村が合併、北杜市となった。 須玉は「すたま」と読むのが正式であるが、「すだま」という読みも間違いではない。.

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願成寺 (韮崎市)

成寺(がんじょうじ)は、山梨県韮崎市神山町鍋山にある曹洞宗の寺院である。山号は鳳凰山。本尊は阿弥陀如来。.

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香宗我部氏

香宗我部氏(こうそかべし)は、日本の氏族。土佐国の豪族であり土佐七雄の一つ。甲斐源氏の子孫と伝えられ、室町時代初期から勢力を伸ばすが、戦国時代末期に長宗我部元親の弟親泰を養子として迎え、以降は長宗我部氏の一族となった。.

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諏訪郡

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諸大夫

諸大夫(しょだいぶ)は、日本の古代から中世、近世にかけての官人の階層の名称。.

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高倉天皇

倉天皇(たかくらてんのう、応保元年9月3日(1161年9月23日) - 治承5年1月14日(1181年1月30日))は、平安時代末期の第80代天皇(在位:仁安3年2月19日(1168年4月9日) - 治承4年2月21日(1180年3月18日))。諱は憲仁(のりひと)という。 後白河天皇の第7皇子。母は皇太后平滋子(建春門院)。安徳天皇、後鳥羽天皇らの父。.

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足利将軍家

足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)は、足利氏の惣領家(宗家)のうち、とくに足利尊氏以来の、代々室町幕府の将軍職を世襲した一家(軍事貴族)。初代尊氏の後は2代として嫡男義詮が継ぎ、3代足利義満を経て、15代義昭まで続く。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。.

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軍記物語

軍記物語(ぐんきものがたり)とは、鎌倉時代から室町時代にかけて書かれた歴史上の合戦を題材とした文芸のこと。実際の史実を元にしているが、説話的な題材や虚構も交えられていることもある。語り物の題材にもされ、『平家物語』は琵琶法師によって広く伝えられた。軍記物、戦記物語ともいう。合戦などの歴史上の背景を探る史料ともなる。.

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茨城県

茨城県(いばらきけん)は、日本の県の一つ。関東地方の北東に位置し、東は太平洋に面する。県庁所在地は水戸市。都道府県人口は全国11位、面積は全国24位である。.

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葉室光親

葉室 光親(はむろ みつちか、安元2年(1176年) - 承久3年7月23日(1221年8月12日))は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての公卿。藤原 光親とも言う。権中納言・藤原光雅の次男。官位は正二位・権中納言。1928年(昭和3年)11月10日、贈従一位.

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那珂郡

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野口実

野口 実(のぐち みのる、1951年2月23日- )は、日本の歴史学者。日本中世政治史・社会史専攻。京都女子大学宗教・文化研究所教授。.

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長寛勘文

長寛勘文(ちょうかんかんもん、ちょうかんのかんもん)は、平安時代の長寛年間(1163年 - 1164年)に編纂された勘文。勘文中に「熊野権現垂迹縁起」(くまのごんげんすいじゃくえんぎ)が引用されていることでも知られる。熊野社領である甲斐国八代荘で発生した八代荘停廃事件を機にまとめられたもので、平安後期における国衙と荘園の対立を物語ると同時に、熊野と伊勢との祭神が異なることが公式に確認された文書である。.

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長元

長元(ちょうげん)は、日本の元号の一つ。万寿の後、長暦の前。1028年から1036年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇、後朱雀天皇。.

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逸見氏

逸見氏(へみし、へんみし)は、日本の氏族。以下の2つの流れがある。.

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柳沢氏

柳沢氏(やなぎさわし)は、日本の氏族。武士の家系。甲斐武田氏の遺臣で、近世には柳沢吉保(房安、保明)が将軍徳川綱吉に仕え、甲府城主15万1200石となる。.

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柴辻俊六

柴辻 俊六(しばつじ しゅんろく、1941年9月10日 - )は、日本の歴史学者・古文書学者・図書館員。元早稲田大学図書館司書。専門は日本の戦国時代史。.

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柔術

柔術(じゅうじゅつ)は、徒手あるいは短い武器による攻防の技法を中心とした日本の武術である。相手を殺傷せずに捕らえたり、身を護ること(護身)を重視する流儀の多いことは、他国の武術と比較して大きな特徴である。このような技法は広く研究され、流派が多数存在した。.

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板垣氏

板垣氏(いたがきし)は、日本の氏族のひとつ。 人皇第56代清和天皇の苗裔、新羅三郎義光の後胤で武田氏の支流である。本姓は源氏。家紋は「地黒花菱」。甲斐を本貫とするが、本流武田氏の安芸・若狭増封に従い下向したため、甲斐のみならず両国においても繁栄した。.

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武田信光

武田 信光(たけだ のぶみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。源義光(新羅三郎)を始祖とする甲斐武田氏の第5代当主。第4代当主・武田信義の5男。伊豆守。甲斐国・安芸国守護。甲斐国八代郡石和荘に石和館を構えて勢力基盤とし、石和五郎と称する。 馬術・弓術に優れた才能を発揮し、小笠原長清、海野幸氏、望月重隆らと共に弓馬四天王と称された。.

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武田信義

武田 信義(たけだ のぶよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。源清光の次男。逸見光長は双子の兄になる(一説に逸見光長とは異母兄弟)。甲斐源氏4代当主であり、武田氏の初代当主である。.

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武田信虎

武田 信虎(たけだ のぶとら)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。武田信玄の父。甲斐源氏の宗家・武田氏第18代当主。.

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武田八幡宮

武田八幡宮(たけだはちまんぐう)は山梨県韮崎市にある神社。同市神山町北宮地集落の西部にあり、旧社格は県社。本殿は国の重要文化財に指定されている。.

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武田氏

武田氏(たけだし)は、平安時代末から戦国時代の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流・河内源氏の一門、源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家である。安芸国・若狭国に分派が存在し、上総国などにも庶流があったが、いずれも通字として「信」(のぶ)が使用されている。古代の国造である武田臣(皇別)の後裔が河内源氏義光流の棟梁と婚姻したという説も伝わっている。 河内源氏の名族の一つとして戦国時代には戦国大名化し、武田晴信(信玄)の頃には領国拡大し中央の織田・徳川勢力に対抗するが勝頼期には領国の動揺を招いて宗家は滅亡し、江戸時代には庶家だけがわずかに残った。 家宝は御旗(後冷泉天皇から下賜された日章旗)・楯無(楯無の鎧、源頼義が御旗とともに授けられたという)。.

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武田惣角

武田 惣角(たけだ そうかく、安政6年10月10日(1859年11月4日) - 昭和18年(1943年)4月25日)は、日本の武術家。武号は源正義。大東流合気柔術の実質的な創始者。.

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武術

武術(ぶじゅつ).

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武蔵国

武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。.

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河内源氏

河内源氏(かわちげんじ)は、河内国(現在の大阪府の一部)に根拠地を置いた清和源氏の一流。一般的に武士で「源氏」という場合、この系統を指す。また、「平家」と称される伊勢平氏と併称される場合には源家(げんけ)という呼称も古くは用いられていた。.

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治承・寿永の乱

治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模な内乱である。古代最後の内乱であり中世最初の内乱である。後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。 一般的には「源平合戦(げんぺいかっせん、げんぺいがっせん)」あるいは「源平の戦い(げんぺいのたたかい)」などの呼称が用いられることがあるが、こうした呼称を用いることは適当でないとする議論がある(詳しくは後述)。また、奥州合戦終結までを治承寿永の乱に含めるという見解もある。.

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清和源氏

清和源氏(せいわげんじ)は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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源範頼

源 範頼(みなもと の のりより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。 遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため、とも呼ばれる。その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経と共にこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。その後も源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ伊豆国に流された。 武蔵国横見郡吉見(現在の埼玉県比企郡吉見町)のあたりを領して吉見御所と尊称された。.

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源義家

源 義家(みなもと の よしいえ)は、平安時代後期の武将。伊予守・源頼義の長男。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる。 比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となった時、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約10年間は閉塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された。 その活動時期は摂関政治から院政に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。このため歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ、後三年の役の朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な憶測がされてきた。生前の極位は正四位下。.

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源義仲

源 義仲 (みなもと の よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。 以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。.

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源義光

源 義光(みなもと の よしみつ)は、平安時代後期の武将。河内源氏の2代目棟梁である源頼義の三男。兄に源義家(八幡太郎)や源義綱(賀茂次郎)がいる。近江国の新羅明神(大津三井寺新羅善神堂)で元服したことから新羅三郎(しんらさぶろう)と称した。.

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源義清 (武田冠者)

源 義清(みなもと の よしきよ、承保2年4月16日(1075年5月3日) - 久安5年7月23日(1149年8月27日))は、平安時代後期の武将。『尊卑分脈』によれば、河内源氏の一族で甲斐源氏の祖となる源義光(新羅三郎義光)の三男(次男とも)佐藤(1986)、p.22。母は平清幹の娘(平成幹の姉または妹にあたる)。 『尊卑分脈』によれば源義光には七男がおり、義清の兄には佐竹氏の祖となった義業・石井氏の祖となった源実光、弟には盛義(形部四郎・平賀冠者)・親義(形部五郎・岡田冠者)・祐義(形部六郎・覚義(寺阿闍梨)がいる。 幼名は音光丸。通称は刑部三郎・武田冠者で、「形部」は義光が形部丞であったことに由来していると考えられている。武田義清・逸見義清とも。子に清光(逸見清光)、師光、加賀美遠光、安田義定らがある。.

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源義朝

源 義朝(みなもと の よしとも)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の長男。母は白河院近臣である藤原忠清の娘。源頼朝・源義経らの父。 源義家の死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていた。都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で家人に裏切られ謀殺された。.

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源為義

源為義(みなもとのためよし)は、平安時代末期の武将。祖父は源義家、父は源義親。叔父の源義忠暗殺後に河内源氏の棟梁と称す。なお父は源義家で、源義親と義忠は兄にあたるという説もある。通称は六条判官、陸奥四郎。源頼朝・源義経らの祖父。 当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の源為朝の乱行により解官となる。保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の源義朝の手で処刑された。.

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源盛義

源 盛義(みなもと の もりよし)は、平安時代末期の武将。源義光の四男。平賀盛義とも呼ばれる。平賀氏の祖。 信濃国佐久郡平賀郷に本拠を置いて平賀冠者を称した。父義光は平賀郷に隣接する甲斐国の国司を務めた事があり、兄の源義清は甲斐国に配流されて以降、甲斐北西部に勢力を扶植して甲斐源氏の祖になっている事から、盛義は兄の勢力と連携しながら甲斐国から信濃国への進出の流れで平賀郷に所領を形成したと考えられる。 子の平賀義信は17歳で源義朝の下で平治の乱に加わり、義朝の遺児・源頼朝が挙兵して東国を支配したのち、鎌倉幕府において御家人筆頭の地位を占め、源氏門葉として頼朝に重用されている。.

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源頼信

源 頼信(みなもと の よりのぶ)は、平安時代中期の武将。摂津国多田現・兵庫県川西市多田。の地に源氏武士団を形成した源満仲の三男。河内国石川郡壺井現・大阪府羽曳野市壺井。を本拠地とする河内源氏の祖。.

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源清光

源 清光(みなもと の きよみつ)は、平安時代末期の武将。甲斐源氏の祖。黒源太、逸見清光、武田清光とも呼ばれる。.

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源有雅

源 有雅(みなもと の ありまさ)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての公卿。参議・源雅賢の長男。佐々木野を号し、佐々木野中納言と呼ばれた。.

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溝口派一刀流

溝口派一刀流(みぞぐちはいっとうりゅう)は、日本の剣術の流派。一刀流の分派の一つ。一刀流溝口派(いっとうりゅうみぞぐちは)とも呼ぶ。.

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末法思想

末法思想(まっぽうしそう)とは、釈迦が説いた正しい教えが世で行われ修行して悟る人がいる時代(正法)が過ぎると、次に教えが行われても外見だけが修行者に似るだけで悟る人がいない時代(像法)が来て、その次には人も世も最悪となり正法がまったく行われない時代(=末法)が来る、とする歴史観のこと岩波 哲学思想事典 1998年 p.1523。.

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本地垂迹

飯綱権現を祀る高尾山薬王院の権現堂 本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。.

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浄土教

浄土教(じょうどきょう)とは、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く教え。浄土門、浄土思想ともいう。阿弥陀仏の本願に基づいて、観仏や念仏によってその浄土に往生しようと願う教え。.

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浅利氏

浅利氏(あさりし)は、日本の氏族である。本姓は清和源氏義光流を称し、甲斐国八代郡浅利郷(現・山梨県)を本拠とした甲斐浅利氏と、それから分かれ、出羽国比内郡(現・秋田県)を本拠とした出羽浅利氏の2流がある。.

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文永

文永(ぶんえい)は、日本の元号の一つ。弘長の後、建治の前。1264年から1274年までの期間を指す。この時代の天皇は亀山天皇、後宇多天皇。鎌倉幕府将軍は宗尊親王、惟康親王、執権は北条長時、北条政村、北条時宗。.

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日蓮

妙傳寺 本蓮寺 日蓮(にちれん、貞応元年(1222年)2月16日には、「その誕生日の2月16日については自ら記すところではないが、『本門宗要抄』の下巻と、この書と大体同時代の成立と思われる日道の『御伝土代』に誕生を2月16日と記している」とある(但し、漢数字は算用数字に改めた)。なお、『本門宗要抄』には偽書説があるが、それについてはで「日蓮の事蹟・生涯についてはおそらく日蓮の直弟たちの間の周知のこと、またその伝承されていたことがつづられたもので、この両書は日蓮宗の初期の伝承を伝える珍重すべきものである。したがって2月16日の誕生は真を伝えているとみて良い。」としている。 - 弘安5年(1282年)10月13日)ユリウス暦では1222年3月30日 - 1282年11月14日、グレゴリオ暦に換算すると1222年4月6日 - 1282年11月21日。グレゴリオ暦の施行は1582年で日蓮はそれ以前に亡くなっているが、日蓮宗諸派では日蓮の事跡をグレゴリオ暦換算の日付で祝うため、グレゴリオ暦の日付を併記している。なお、換算はによる。は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗後に十三宗のひとつとなる。(法華宗)の宗祖。滅後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。.

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日蓮宗

日蓮宗(にちれんしゅう)は、.

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放光寺 (甲州市)

放光寺(ほうこうじ)は、山梨県甲州市塩山藤木にある寺院。山号は高橋山。真言宗智山派に属する。本尊は金剛界大日如来。 周防正行監督、本木雅弘主演の映画「ファンシイダンス」のロケ地でもある。.

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愛染明王

愛染明王(『図像抄』〈十巻抄〉より) 愛染明王(仏像図彙 1783年) 愛染明王(あいぜんみょうおう、rāgarāja)は、仏教の信仰対象であり、密教特有の憤怒相を主とする尊格である明王の一つ。.

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承久

承久(じょうきゅう)は、日本の元号の一つ。建保の後、貞応の前。1219年から1221年までの期間を指す。この時代の天皇は順徳天皇、仲恭天皇、後堀河天皇。後鳥羽上皇の院政、鎌倉幕府将軍は空位、執権は北条義時。.

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承久の乱

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。承久の変、承久合戦ともいう。 日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。 1185年に鎌倉幕府が成立した以降、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていた。その間、幕府の初代将軍の源頼朝が落馬で死亡、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺され、天皇家の血を引く源氏将軍が鎌倉から滅亡した。その1219年以降、鎌倉は伊豆を収める世襲一族の北条氏が実権を握り、さらに北条氏は、幕府内で朝廷の代理人である執権であったが、幕府を実質的に手中に収めるに至り、日本を統治するのは朝廷であり朝廷主導の政治が本来の姿とする朝廷側の怒りが高まっていった。この2年後に起きた承久の乱の結果、鎌倉幕府主導の政治体制が固まり、朝廷を監視する六波羅探題を京都に置き、朝廷の権力は制限され、皇位継承等にも鎌倉幕府が影響力を持つようになった。.

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曽根氏

曽根氏(そねし)は日本の氏族の1つ。甲斐源氏の分家である。別の表記に「曾禰」、「曾弥」、「曾根」などがあるが、どの段階で変更されたかは不明な点もある。.

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時宗

時宗(じしゅう)は、鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派の日本仏教。開祖は一遍。鎌倉仏教のひとつ。総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)。 時宗の開祖・一遍像。藤沢市清浄光寺。.

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1030年

記載なし。

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1130年

記載なし。

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1156年

記載なし。

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1159年

記載なし。

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1162年

記載なし。

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1180年

記載なし。

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1183年

記載なし。

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1184年

記載なし。

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1221年

記載なし。

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1271年

記載なし。

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1274年

記載なし。

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1282年

記載なし。

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