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北条泰家

索引 北条泰家

北条 泰家(ほうじょう やすいえ)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての北条氏の一族。鎌倉幕府の第9代執権・北条貞時の四男。14代執権・北条高時の同母弟に当たる。.

46 関係: 執権南北朝時代 (日本)太平記守邦親王安達氏小笠原貞宗市河家文書京都建武 (日本)後醍醐天皇得宗従五位信濃国北条千代寿丸北条守時北条兼寿丸北条菊寿丸北条高時北条貞顕北条貞時北条金寿丸北条氏北条氏 (金沢流)北条時行分倍河原の戦い (鎌倉時代)嘉暦の騒動内管領元弘鎌倉鎌倉幕府鎌倉時代西園寺公宗覚海円成近衛府関戸の戦い長崎高資長崎氏陸奥国村上信貞正中 (元号)正慶新田義貞文藝春秋1326年1333年1335年

執権

執権(しっけん)は、鎌倉幕府の職名。鎌倉殿を助け政務を統轄した。元来は、政所の別当の中心となるものの呼称であった。 ただし、朝廷においても用いられた語であり、鎌倉幕府独自の職名ではないことに注意を要する。.

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南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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太平記

『太平記』(たいへいき)は、日本の古典文学作品の1つである。歴史文学に分類され、日本の歴史文学の中では最長の作品とされる。 全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。 第二次世界大戦後、「太平記」を称する小説やテレビドラマが多く作られたため、混同を避けるために『古典太平記』と呼ばれることもある。.

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守邦親王

守邦親王(もりくにしんのう)は、鎌倉幕府9代(最後の)征夷大将軍で、鎌倉幕府将軍の中で24年9カ月と在職期間が最長であった。8代将軍久明親王の子。.

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安達氏

安達氏(あだちし、あだちうじ)は、鎌倉幕府の有力御家人の氏族。藤原氏魚名流を称する。 家紋は連銭。.

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小笠原貞宗

小笠原 貞宗(おがさわら さだむね)は、鎌倉時代後期から室町時代前期の武将。信濃小笠原氏の当主。信濃守護。.

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市河家文書

『市河家文書』(いちかわけもんじょ)は、信濃国志久見郷(現・長野県下高井郡北部)の地頭職であった市河氏と豪族中野氏が残した書簡や古文書の総称。平安時代末期から戦国時代に至る市河氏の動向を示した武家文書群。中野氏は市河氏と縁戚関係を結んだ志久見郷出身の氏族で、両家の資料が市河氏に代々伝えられたことから、この名称で呼ばれる。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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建武 (日本)

建武(けんむ)は、日本の元号の一つ。南朝方では元弘の後、延元の前で日_(旧暦)|1月29日〜1336年2月19日までの期間を指す。北朝方では正慶の後、暦応の前で、1334年1月29日〜1338年8月28日までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方後醍醐天皇、北朝方光明天皇。.

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後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.

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得宗

得宗(とくそう)は、鎌倉幕府の北条氏惣領の家系。徳崇、徳宗とも(読みは同じ)。幕府の初代執権の北条時政を初代に数え、2代義時からその嫡流である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9代を数える。「得宗」とは2代義時に関係する言葉で、研究者によって義時の別称、戒名、追号など意見が異なる。近年では「徳崇」の当て字・略字で、禅宗に帰依した5代時頼が、浄土宗系の宗派を信仰していた義時に贈った禅宗系の追号の可能性が指摘されている。義時流、得宗家という呼び方もある。史料においては北条氏嫡流の当主を「得宗」と指した例は少なく、行政用語であったとも考えられている。.

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従五位

従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.

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信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

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北条千代寿丸

北条 千代寿丸(ほうじょう ちよじゅまる)は、鎌倉時代後期の執権北条氏(得宗家)の一族である。同時代に2人存在し、叔父と甥の関係にあたる。.

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北条守時

州崎古戦場蹟に建てられた石碑 北条 守時(ほうじょう もりとき)は、鎌倉時代末期の武将。北条氏の一門。鎌倉幕府第16代・最後の執権(在職:正中3年4月24日(1326年5月26日) - 正慶2年/元弘3年5月18日(1333年6月30日))。赤橋 守時(あかはし もりとき)とも呼ばれる。 鎌倉幕府第6代執権・北条長時の曾孫にあたる。父は赤橋流の北条久時。同幕府を滅ぼし、室町幕府初代将軍となった足利尊氏は妹婿(義弟)にあたる。.

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北条兼寿丸

北条 兼寿丸(ほうじょう かねじゅまる)は、鎌倉時代後期の執権北条氏の一族。北条泰家の子。母は不明。北条貞時の孫。第14代執権・北条高時の甥。早世した。生没年不詳。.

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北条菊寿丸

北条 菊寿丸(ほうじょう きくじゅまる)とは、鎌倉時代後期の執権北条氏(得宗家)の一族。同時期に2人存在し、この2人は伯父、甥の関係にあたる。.

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北条高時

北条 高時(ほうじょう たかとき)は、鎌倉時代末期の北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第14代執権(在職:1316年 - 1326年)。第9代執権・北条貞時の三男。.

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北条貞顕

北条 貞顕(ほうじょう さだあき)は、鎌倉時代末期の武将。北条氏の一門で鎌倉幕府第12代連署(在職:正和4年(1315年)7月12日 - 嘉暦元年(1326年)3月16日)、第15代執権(在職:正中3年3月16日(1326年4月19日) - 正中3年3月26日(1326年4月29日))。 父は金沢流の北条顕時。母は摂津の御家人である遠藤為俊の娘・入殿。金沢文庫で有名な北条実時の孫に当たる。金沢 貞顕(かねさわ さだあき)とも呼ばれる。.

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北条貞時

北条 貞時(ほうじょう さだとき)は、鎌倉時代後期の北条氏一門の武将。北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第9代執権(在職:弘安7年(1284年) - 正安3年(1301年))。 第8代執権・北条時宗の嫡男。母は安達義景の娘・堀内殿(覚山尼)。.

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北条金寿丸

北条 金寿丸(ほうじょう かねじゅまる)は、鎌倉時代後期の執権北条氏の一族。同姓同名の人物が同時期に2人存在し、叔父と甥の関係になる。.

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北条氏

北条氏(ほうじょうし、)は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。戦国大名後北条氏との混同を避けるため、代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏もしくは鎌倉北条氏と呼ばれることもある。通字は時(とき)。.

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北条氏 (金沢流)

金沢流北条氏(かねさわりゅうほうじょうし)は、鎌倉時代の北条氏の一族。武蔵国久良岐郡六浦庄金沢郷(現在の神奈川県横浜市金沢区)の地が家名の由来とされているが、通称として使われるのは南北朝以後。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の五男・'''実泰'''(初め実義)から分かれ、家格は実泰の同母兄・政村の嫡系に次ぎ、'''実時'''が政村の娘を、'''貞顕'''が時村(政村の子)の娘を正室に迎えて姻戚関係を持っている。居館は、'''顕時'''が鎌倉赤橋邸を賜り、以後も使われている。菩提寺は金沢郷の称名寺。.

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北条時行

北条 時行(ほうじょう ときゆき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。 鎌倉幕府最後の得宗北条高時の遺児。北条氏復興のため、鎌倉幕府の残党を糾合して中先代の乱を引き起こし、一時鎌倉を奪還した。その後、後醍醐天皇から朝敵を赦免されて南朝方の武将として戦い、武蔵野合戦で再び鎌倉を奪還したが、遂には足利方に捕らえられ処刑されたと伝わる。.

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分倍河原の戦い (鎌倉時代)

分倍河原の戦い(ぶばいがわらのたたかい)は、鎌倉時代後期の元弘3年(1333年)5月15日・5月16日に、武蔵国多摩川河畔の分倍河原(現在の東京都府中市)において、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦である。.

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嘉暦の騒動

嘉暦の騒動 (かりゃくのそうどう)は、鎌倉時代末期の正中3年(1326年)、鎌倉幕府の執権である北条氏得宗家の家督継承を巡る内管領の長崎氏と、外戚安達氏の抗争による内紛。.

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内管領

内管領(ないかんれい/うちのかんれい)とは、鎌倉幕府の執権北条氏の宗家である得宗家の執事で、得宗被官である御内人の筆頭である。御内頭人(みうちとうにん)ともいう。「得宗の家政を司る長」の意味であり、幕府の役職名ではない。.

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元弘

元弘(げんこう)は、日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年から1333年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

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鎌倉

鎌倉(かまくら)は、現在の神奈川県鎌倉市の中心部に当たる地域。源頼朝を旗頭として、北条時政、北条義時らによって鎌倉幕府が置かれた都市であり、三浦半島の付け根に位置し、相模湾に面している。古くは鎌府(れんぷ)とも呼ばれた。三方を山に、一方を海に囲まれている。 鎌倉大仏.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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西園寺公宗

西園寺 公宗(さいおんじ きんむね)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初頭(建武の新政期)にかけての公家。.

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覚海円成

覚海円成(かくかいえんじょう、生年未詳 - 興国6年/康永4年8月12日(1345年9月9日))は、鎌倉時代末期、南北朝時代初期の女性。安達氏の一族で安達(大室)泰宗の娘。鎌倉幕府9代執権北条貞時の側室。北条氏最後の得宗、北条高時の母。子は他に泰家など。覚海円成は出家後の法名で、実名は不明。覚海尼、大方殿とも。鎌倉の山内に住んでいた事から山内禅尼とも呼ばれる。.

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近衛府

近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。.

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関戸の戦い

関戸の戦い(せきどのたたかい)は、鎌倉時代後期の1333年(元弘3年)5月16日に霞ノ関(現在の東京都多摩市関戸)一帯で、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦である。関戸(の)合戦とも言う。.

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長崎高資

長崎 高資(ながさき たかすけ)は、鎌倉時代末期の武士。北条氏得宗家の被官である御内人・内管領。長崎円喜の嫡男。鎌倉幕府の実権を握って父と共に権勢を振るった。.

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長崎氏

長崎氏(ながさきし)は、鎌倉時代の北条氏得宗家の御内人。桓武平氏と称して、得宗被官である同族とされる平氏についてもこの項で扱う。.

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陸奥国

奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.

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村上信貞

村上 信貞(むらかみ のぶさだ、生没年不明)は南北朝時代の武将。清和源氏信濃村上氏当主。 蔵人、備中守、河内守。従五位下。村上信泰の三男。 兄の村上義光が元弘の乱で護良親王に従い、元弘3年/正慶2年(1333年)に大和国吉野で戦死すると、家督を相続。建武2年(1335年)に中先代の乱が勃発すると、信濃国内の北条氏残党を平定するため、朝廷から「信濃惣大将」に任じられ、京都から本領の更級郡村上郷に下向した。 同年7月、北条与党の保科氏、四宮氏らが埴科郡船山の守護所を攻めると、守護の小笠原貞宗に加勢して戦い、同年9月、同郡坂木北条城の工藤薩摩守(後の薩摩氏)を攻めた。信貞は延元の乱で後醍醐天皇から離反した足利尊氏に従うが、朝廷が東海道・東山道両道に大軍を発すると、佐久郡大井城を守る大井朝行に加勢し、落城して敗走した。 建武3年(1336年)1月、埴科郡清滝城を攻略し、更級郡牧城の香坂心覚を攻めた。同年2月には筑摩郡麻績御厨や安曇郡十日市場で北条時興や在庁官人深志介知光らと交戦した。建武4年(1337年)には高師泰に属して越前国で新田義貞軍と戦い、戦功として小県郡塩田荘を宛がわれた。 子の師貞、師国はいずれも高師直より偏諱を受けている。 .

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正中 (元号)

正中(しょうちゅう)は、日本の元号の一つ。元亨の後、嘉暦の前。1324年から1326年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。.

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正慶

正慶(しょうきょう、しょうけい)は、日本の元号の一つ。持明院統(後の北朝)方にて使用された。元徳の後、元弘の前。1332年から1333年5月25日までの期間を指す。この時代の天皇は大覚寺統(南朝)の後醍醐天皇だが、幕府方は持明院統の光厳天皇を立てた。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

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新田義貞

新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。 鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった。ただし、鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。 鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗した。これにより各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。 死後、江戸時代に義貞が着用していた兜が偶然見つかり、福井藩主松平光通は兜が発見された場所に新田塚を建てた。明治時代、福井知藩事・松平茂昭は新田義貞のために新田塚に祠を建て、のち義貞を主祭神する藤島神社となり、建武中興十五社の一つに列せられた。.

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文藝春秋

株式会社文藝春秋(ぶんげいしゅんじゅう、Bungeishunju Ltd.)は、日本の出版社。東京都千代田区紀尾井町に本社を置く。.

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1326年

記載なし。

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1333年

記載なし。

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1335年

記載なし。

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