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津軽氏

索引 津軽氏

津軽氏(つがるし、)は、16世紀末から廃藩置県まで、現在の青森県のうち津軽地方を支配した大名の氏族。通字は「信(のぶ)」。.

129 関係: 南部氏口宣参考諸家系図大名大道寺為久大道寺直秀大道寺直英大永大浦守信大浦光信大浦為則大浦盛信大浦政信天正奥州藤原氏子爵宗家安東氏寛永寛永諸家系図伝小倉藩小笠原忠忱小笠原信浄上総国三河吉田藩一町田氏九戸政実の乱久留里藩久慈氏京職庶家延徳廃藩置県伯爵弘前市弘前藩徳川義恕保元兼平信孝兼平綱則兼平氏国文学研究資料館国書刊行会皇室石田重成種里城糠部郡細川斉護猶子...甲斐源氏熊本藩華族青森県西田幾多郎西浜 (青森県)豊前国黒田直亨鼻和郡近衛家近衛尚通近衛忠房近衛信尋藤原基衡藤原北家那須資徳肥後国陸奥国松平信明 (三河吉田藩主)森岡信元森岡為治森岡氏正仁親王妃華子武家氏族江戸時代池田仲律池田仲雅池田源沼田祐光津軽寧親津軽寿世津軽尹子津軽一統志津軽建広津軽信堅津軽信寧津軽信寿津軽信建津軽信義津軽信隆津軽信順津軽信興津軽信著津軽信英津軽信枚津軽信明津軽信政津軽信敏津軽地方津軽典暁津軽義孝津軽為信津軽熊千代津軽順朝津軽順承津軽親足津軽郡 (陸奥国)津軽薫津軽著高津軽著教津軽英麿津軽政たけ津軽承叙津軽承保津軽承祐津軽承昭清和源氏満天姫服部康成新人物往来社慶長1157年1491年1526年1567年1591年1600年1641年 インデックスを展開 (79 もっと) »

卍(まんじ)は、ヒンドゥー教や仏教で用いられる吉祥の印であるとともに、日本では仏教を象徴する記号としてよく知られ、漢字であり家紋でもある。同様の記号は世界各地にあり、西洋では太陽十字からも発生した。.

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南部氏

南部氏(なんぶし)は、陸奥の武家で本姓は源氏。本貫地は甲斐国南部郷で家祖は南部光行。南部氏初代の光行は、平安時代に活躍した清和源氏の一流である河内源氏 源義光や、その孫で平安時代末期に活躍した黒源太清光、その子である甲斐源氏・加賀美遠光の子孫である。.

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口宣

口宣(くぜん)とは、平安時代中期から用いられるようになった非公式な公文書書式で、天皇の勅旨を口頭で受けた蔵人所職事(職事蔵人・蔵人頭もしくは五位蔵人)がその内容を文書化して太政官上卿に伝える目的のために使われた。宣旨と共通する部分が多く、宣旨の一種・派生と捉えることもできるが、その書式に異なる部分がある。.

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参考諸家系図

『参考諸家系図』(さんこうしょけけいず)は、南部藩(盛岡、八戸藩)南部氏一門をはじめ、藩士2,700余名にも及ぶ所伝の家系図集である。.

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大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

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大道寺為久

大道寺 為久(だいどうじ ためひさ)は、江戸時代前期の武士。陸奥国弘前藩2代藩主・津軽信枚の七男(または十一男)。.

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大道寺直秀

大道寺 直秀(だいどうじ なおひで、慶長11年(1606年) - 寛永13年9月24日(1636年10月22日))は、江戸時代の人物。.

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大道寺直英

大道寺 直英(だいどうじ なおひで)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。弘前藩津軽氏の家臣。舎人経忠の子。大道寺政繁の養子。通称の大道寺隼人で知られる。.

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大永

大永(だいえい、たいえい)は、日本の元号の一つ。永正の後、享禄の前。1521年から1527年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇、後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義稙、足利義晴。.

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大浦守信

大浦 守信(おおうら もりのぶ)は、戦国時代の武将。大浦(後の津軽)為信の実父とされる人物。 大浦政信の次男として誕生。兄・為則が堀越城の武田氏を降すと、養子として同氏に入る。後に病弱な為則に代わって政務を取り仕切ったと言われている。 しかし、津軽氏の資料以外に確認できる記録がないこと、没年にも異説が多い事、更に実子とされる大浦為信(津軽氏の祖)が実は南部氏庶流の久慈氏出身であると言う説があることから、津軽氏が南部氏と為信との血縁関係を否定するために作られた架空の人物とする説もある。 category:津軽氏 category:戦国武将 Category:陸奥国の人物 Category:1524年生 Category:1568年没.

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大浦光信

大浦 光信(おおうら みつのぶ)は、戦国時代の武将。陸奥国種里城主。 延徳3年(1491年)、南部信時は南部久慈氏の一族・南部光信を津軽西浜の種里城(西津軽郡鰺ヶ沢町)に配置し安東氏への押さえとした『弘前市史』。文亀2年(1502年)、光信は大浦城を築き養子・大浦盛信に守らせた。 大永6年(1526年)、種里城で死去。享年67(51とも)。 死後、盛信によって長勝寺に祭られた。なお、遺言として「死後も西の備えたらん」と述べたため、盛信によって甲冑姿のままで埋葬されたと伝えられている。 実子との説もある大浦政信は、津軽家の公称系図では孫(光信の長女・阿久と津軽に来た近衛尚通の間に生まれた)にあたる。.

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大浦為則

大浦 為則(おおうら ためのり)は、戦国時代の武将。津軽為信の養父。 大浦政信の嫡男として誕生。天文10年(1541年)、父・政信が戦死したため家督を相続する。堀越城の武田氏を降すと、弟・守信を同氏に養子として送り込む。 生来、病弱なため政務を家臣に任せていたと言う。娘・阿保良(戌姫)を津軽為信に娶わせて養嗣子として迎えた。 青森県史では為信以前の大浦家の史料が少ないことから、為則から為信の家督相続が円滑に行われていなかったのではないかと推測している。 なお、天正13年(1585年)頃、為則の五男・六男(津軽為信の正室・阿保良の弟2人)が川遊び中に溺死したが、これは為信が後の家督争いを避けるため彼らを暗殺させたといわれている。.

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大浦盛信

大浦 盛信(おおうら もりのぶ、文明15年(1483年) - 天文7年9月26日(1538年10月18日))は、戦国時代の武将。光信の子とされている。 1502年に父の光信の命で、新しく築城された大浦城に入る。1526年に父が死去すると、1528年には菩提を弔うために、西津軽郡に長勝寺を建立している。 子がいなかったため(森岡為治の父?)、甥(光信の実子とも)の政信を養子とし跡継ぎに定めた。.

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大浦政信

大浦 政信(おおうら まさのぶ)は、戦国時代の武将。大浦光信の子または孫。 天文10年(1541年)、三味線河原の戦いで和徳城を攻め城主・小山内満春を討ち取るも、満春の子・永春が加勢し盛り返されて、大浦方は敗れて政信は家臣・森岡為治と共に討ち取られた。 なお津軽家の公称系図では、政信が摂関家近衛尚通と大浦光信の長女・阿久の間にできた子とし、以来本姓が源氏(清和源氏)から藤原氏に変わったとされる。.

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天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

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奥州藤原氏

毛越寺所蔵の三衡画像(江戸時代) 奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)は、前九年の役・後三年の役の後の寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)までの間、陸奥(後の陸中国)平泉を中心に出羽を含む東北地方一帯に勢力を張った豪族。藤原北家秀郷流を称した。.

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子爵

子爵(ししゃく、 )は、中国で儒教の経典によって古代より用いられたと主張された爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。近代日本の華族の爵位にも取り入れられた。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の訳語にも使われる。.

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宗家

宗家(そうけ)は、ある一族、一門において正嫡(嫡流)の家系。またその家系の当主。本家。 日本ではこれから転じて、能楽などの伝統芸能や古武道などで家元の言いかえとして用いられる称号として用いられる。もとは能楽のシテ方観世流で観世銕之丞家に対して家元家を宗家と呼んだところからおこったものである。宗家位、宗家号とも。流派の経営、普及活動及び一門の統率、門下生の教育を旨とする。流派により宗家自ら師範となる場合、弟子に門下生の指導を委ねる場合とがある。.

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安東氏

安東氏(あんどううじ、あんどうし)は、日本の鎌倉時代から戦国時代の末まで、陸奥国・出羽国の北部に勢力を張った武士の一族である。本姓は安倍を称した。 なお諸史料に現れるアンドウの表記について、主として鎌倉時代から南北朝時代にかけての津軽時代には「安藤氏」、室町時代中期以降の秋田時代には「安東氏」とされている例が多いことから世界大百科事典第2版 1998、個人名表記は概ね15世紀半ばまでを「安藤」、以降を「安東」とするが、本稿では便宜上、他氏族との混同を避けるため、氏族名を「安東」で統一して叙述する。なお、安藤氏と表記する場合、他の家系と区別するため津軽安藤氏と呼ぶ例がある小口 1995,書名。.

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寛永

寛永(かんえい)は日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

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寛永諸家系図伝

寛永諸家系図伝(かんえいしょかけいずでん)は、江戸時代の寛永18-20年(1641年-1643年)に江戸幕府により編纂された、諸大名と旗本以上諸士の系譜集。.

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小倉藩

小倉藩(こくらはん)は、江戸時代の豊前国にあった藩。藩庁は小倉城(福岡県北九州市小倉北区)に置かれた。幕末から明治維新にかけては香春藩(かわらはん)、のち豊津藩(とよつはん)となった。.

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小笠原忠忱

小笠原 忠忱(おがさわら ただのぶ)は、江戸時代末期の大名。豊前国小倉藩の第10代(最後の)藩主。小笠原家宗家11代。 第9代藩主・小笠原忠幹の次男。正室は上杉斉憲の娘。子に小笠原長幹(長男)、小笠原長丕(次男、兄・小笠原貞孚の養子)、小笠原豊(三男)、照子(津軽英麿正室)、百子(尚昌室)。幼名は豊千代丸。号は錦陵。官位は従三位。兄に貞孚(安志藩主)。.

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小笠原信浄

小笠原 信浄(おがさわら のぶきよ、生年未詳 - 慶長4年4月19日(1599年6月11日))は、安土桃山時代の武将。津軽氏(大浦氏)の家臣。諱は「信清」とも。伊勢守。 元々は信濃国深志郷の出身で、天文年間に陸奥国南部領の明野に移り、明野與四郎と名乗る。天文22年(1553年)頃より大浦為信に仕えた重臣で、さまざまな戦いで貢献したといわれる。森岡信元や兼平綱則らと並んで、大浦三老の一人に数えられている。文禄元年(1592年)、木庭袋(きばくら)と改姓し、居土村に隠居した。.

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上総国

上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。.

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三河吉田藩

三河吉田藩(みかわよしだはん)は、三河国吉田(現在の愛知県豊橋市今橋町)を領した藩。藩庁は吉田城。明治維新後に豊橋藩(とよはしはん)と改称された。譜代大名が歴代藩主を務め、吉田藩に入部することは、幕閣になるための登竜門のひとつであった。.

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一町田氏

一町田氏(いっちょうだし)は、津軽氏の支流で戦国時代から江戸時代にかけて同家に仕えた。江戸時代に「西館」に改姓した。通し字は「森」。.

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九戸政実の乱

九戸政実の乱(くのへまさざねのらん)は天正19年(1591年)、南部氏一族の有力者である九戸政実が、南部家当主の南部信直および奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱である。近年では「九戸政実の決起」などと称することもある。.

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久留里藩

久留里藩(くるりはん)は、上総国望陀郡久留里(現在の千葉県君津市久留里)に存在した藩。.

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久慈氏

久慈氏(くじし)は、日本の氏族。摂待氏などがこの一族という。.

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京職

京職(きょうしき)とは、日本の律令制において京(みやこ)の司法、行政、警察を行った行政機関である。古訓はミサトヅカサ。京は碁盤の目状に大路・小路が整備され(条坊制)、京内の東側を「左京(さきょう=南面する玉座より見て左)」、西側を「右京(うきょう=南面する玉座より見て右)」と呼び、「左京職(さきょうしき)」・「右京職(うきょうしき)」に分かれていた。なお、京職(きょうしょく)は京都所司代の別称。.

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庶家

庶家(しょけ)とは、宗家ないし本家より別れた一族のことをいう。嫡流に対し庶流の家柄。主に日本の封建時代においてみられた血族集団である。分家、庶流、庶子家ともいう。なお、ときたま混同されるが、傍系とは、本家・分家とは無関係に、ある人物から見て共通の祖先のいる者たちを言う(例えば、兄弟姉妹、直系尊属の兄弟姉妹の子孫など)。.

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延徳

延徳(えんとく)は、日本の元号の一つ。長享の後、明応の前。1489年から1491年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義尚、足利義材。.

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廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

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伯爵

伯爵(はくしゃく、、)とは爵位の一つである。侯爵の下位、子爵の上位に相当する。もともとは古代中国で使われていた名称で、近代日本の華族の五爵第3位として採用され、転じてヨーロッパの貴族の称号の訳語にも用いられるようになった。.

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弘前市

弘前市(ひろさきし)は、青森県西部の市である。日本で最初に市制施行地に指定された都市のひとつ。弘前藩の城下町として発展し、現在も津軽地方の中心都市として、周辺自治体に広がる人口約31万人(2005年時点)の弘前都市圏を形成している。.

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弘前藩

弘前藩の拠点であった弘前城 弘前藩(ひろさきはん)は、陸奥国にあった藩である。通称は津軽藩(つがるはん)。弘前改称以前を鷹岡藩(高岡藩)、鷹岡移転以前を堀越藩ともいう。藩主は津軽氏で、家格は柳間詰め外様大名、幕末に家格向上して大広間詰めもある国主に準ずる扱いを受けた。藩庁は 弘前城(青森県弘前市下白銀町)に置いた。.

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徳川義恕

徳川 義恕(とくがわ よしくみ、1878年11月1日 - 1946年11月4日)は日本の陸軍軍人、侍従、男爵。.

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保元

保元(ほうげん、ほげん)は、日本の元号の一つ。久寿の後、平治の前。1156年から1158年までの期間を指す。この時代の天皇は後白河天皇、二条天皇。.

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兼平信孝

兼平 信孝(かねひら のぶたか)は、江戸時代前期の武士。陸奥国弘前藩士。.

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兼平綱則

兼平 綱則(かねひら つなのり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。津軽氏の家臣。森岡信元・小笠原信浄と並ぶ大浦三老の一人。 兼平氏は、大浦氏当主・大浦盛信の弟である父・兼平盛純が兼平村(現在の弘前市兼平)を領し、そこに館(兼平館)を構え、兼平を姓としたことに始まる。 大浦三老の一人として、大浦為信(津軽為信)に尽力し、数々の武功を上げた。参陣した主な戦としては和徳城攻め・浪岡城攻め・大光寺城攻め・天正7年(1579年)7月4日の六羽川合戦・田舎館城攻めがある。 慶長19年(1614年)に隠居するが、その後も重大な政事には関与した。元和5年(1619年)7月、信濃国川中島藩への国替えの内示が来た際には、綱則が登城し、断固反対したと伝わる。 子・信秋、孫・信孝も津軽氏の家老職を務めている。 つなのり Category:津軽氏 Category:戦国武将 Category:弘前藩士 Category:生年不明 Category:1625年没.

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兼平氏

兼平氏(かねひらし)は、津軽氏の支流で戦国時代から江戸時代にかけて同家に仕えた。.

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国文学研究資料館

国文学研究資料館(こくぶんがくけんきゅうしりょうかん、英:National Institute of Japanese Literature)は、東京都立川市にある大学共同利用機関。大学共同利用機関法人人間文化研究機構を構成する6機関のうちの1つ。国立大学法人総合研究大学院大学文化科学研究科日本文学研究専攻が設置されている。本稿では2004年に国文学研究資料館の附置組織から内部組織に統合された「史料館」(文部省史料館・国立史料館)についても併せて述べる。.

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国書刊行会

株式会社国書刊行会(こくしょかんこうかい、Kokushokankokai Inc.)は、東京都板橋区に本社を置く日本の出版社。1971年設立。.

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皇室

皇室(こうしつ)は、天皇および皇族の総称。 狭義には内廷皇族、広義には天皇とその近親である皇族を意味するが、皇族の範囲は時期によって異なる。 近代(明治維新)以降は、天皇と内廷皇族を家族とする内廷と皇太子以外の皇族男子及びその家族で構成される宮家を意味する。 皇室典範第五条に定める、天皇の配偶者である皇后、先代の天皇の未亡人である皇太后、先々代の天皇の未亡人である太皇太后、また、皇太子(皇太孫)、皇太子妃(皇太孫妃)、皇族男子たる親王、王、さらには生まれながらの皇族女子である内親王、女王がある。親王妃、王妃は親王、王の配偶者となることをもって、皇族とされる。戦前(大日本帝国憲法下、日本国憲法施行まで)においては、帝室(ていしつ)とも呼ばれていた。 一般国民の女性は、皇族男子との婚姻により皇族になることができる。また、15歳以上の内親王、王、女王はその意思により、皇太子、皇太孫を除く親王、内親王、王、女王は、その意思によるほかにやむをえない特別の事由があるとき、皇室会議の議決を経て皇族の身分を離脱できる。なお、皇族女子は天皇、皇族以外の者と婚姻したとき皇族の身分を離れる(臣籍降下・臣籍降嫁)。.

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石田重成

石田 重成(いしだ しげなり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての人物。石田三成の次男。諱は吉成(よしなり)ともする。.

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種里城

里城(たねさとじょう)は、青森県西津軽郡鯵ヶ沢町種里町にあった日本の城(山城)で、国の史跡に指定されている。.

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糠部郡

糠部郡(ぬかのぶぐん)とは、かつて陸奥国にあった郡。現在の青森県東部から岩手県北部にかけて広がっていた。.

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細川斉護

細川 斉護(ほそかわ なりもり、文化元年9月16日(1804年10月19日) - 万延元年4月17日(1860年6月6日))は、肥後宇土藩の第8代藩主、のち肥後熊本藩の第10代藩主。熊本藩細川家11代。 宇土藩主・細川立之の長男で、第8代熊本藩主・細川斉茲の孫にあたる。母は土井利厚の娘。正室は広島藩主・浅野斉賢の娘。子に護前(長男、のち慶前に改名)、護順(次男、のち慶順、韶邦に改名)、護久(三男)、護明(四男、津軽順承養子)、長岡護美(六男、熊本藩執政)、勇姫(三女、越前松平慶永(春嶽)正室)などがいる。 幼名は与松。宇土藩主時代は細川 立政(ほそかわ たつまさ)と名乗る。官位は従四位下、中務少輔、越中守、左近衛権中将。侍従。 文政元年(1818年)、父の死により跡を継いで宇土藩主となる。文政9年(1826年)に叔父の熊本藩主・細川斉樹の養嗣子となって本家の家督を継いだ。この時、名を立政から斉護(「斉」は将軍・徳川家斉からの偏諱、斉護以降「護」は細川家の通字となり現在に至っている)に改め、宇土藩は弟の行芬が継いでいる。 当時、熊本藩では代々の藩主による出費などで、すでに80万両という膨大な借金を抱え、財政は破綻寸前となっていた。しかもこのような中で、アメリカやイギリスなどの日本接近もあって、幕府から天草地方や相模湾警備を命じられ、その出費で財政はさらに悪化した。このため、斉護は財政再建のために藩政改革に取りかかるが、その方針をめぐって横井小楠・長岡是容ら改革派と松井佐渡(=10代当主松井章之(てるゆき))ら保守派が対立し、かえって藩内が二分された。このような混乱と苦悩の中で万延元年(1860年)、斉護は57歳で死去した。長男の慶前は早世していたため、跡は次男の護順改め慶順(のちの韶邦)が継いだ。.

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猶子

子(ゆうし)とは、兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度。漢文訓読では「なほ子のごとし」(訳:あたかも実子のようである)という意味。 中国における本義は兄弟の子の意味。養子との違いは、家督や財産などの相続を必ずしも目的の第一義とはせず、実力や「徳」に優れた仮親の権勢を借りたり、一家・同族内の結束を強化するために行われた。具体的には、官位などの昇進上の便宜、婚姻上の便宜、他の氏族との関係強化が図られる場合に組まれるようである。そのため、子供の姓は変わらない場合があったり、単なる後見人としての関係であるなど、養子縁組と比べて単純かつ緩やかで擬制的な側面が大きい。 ただし、相続に関しての実際は明確な区別はなく、猶子であっても相続がなされる場合も多い。ときに両者をまったく同義で使用している場合がある。.

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甲斐源氏

斐源氏(かいげんじ)は、甲斐国に土着した清和源氏の河内源氏系一門で、源義光(新羅三郎義光)を祖とする諸家のうち武田氏をはじめとする、甲斐を発祥とする諸氏族の総称。 同じ義光を祖とする佐竹氏(常陸源氏)や平賀氏(信濃源氏)とは同族である。また、武田氏と同祖となる加賀美氏流の小笠原氏系統は早い時期に隣国信濃に移ったため、信濃源氏にも含まれる。 「甲斐源氏」の呼称について、治承・寿永の乱期の史料には一切見られず、甲斐源氏の一族を指す呼称には「武田党」などが用いられている。鎌倉時代には『吾妻鏡』をはじめ『帝王編年記』、『日蓮遺文』などにおいて「甲斐源氏」の呼称が用いられはじめ、軍記物語などにおいても頻出する。.

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熊本藩

本藩(くまもとはん)は、1600年から1871年まで存在した藩。52万石。1871年肥後国(熊本県)の球磨郡・天草郡を除く地域と豊後国(大分県)の一部(鶴崎・佐賀関等)を知行した。肥後藩(ひごはん)とも呼ばれる。藩庁は熊本城(熊本市)に置かれた。.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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青森県

青森県(あおもりけん)は、日本の本州最北端に位置する県。県庁所在地は青森市である。県の人口は全国31位、面積は全国8位。令制国の陸奥国(むつのくに、りくおうのくに)で構成されている。.

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西田幾多郎

哲学の道(春)哲学の道にある歌碑 西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870年5月19日(明治3年4月19日) - 1945年(昭和20年)6月7日)は、日本を代表する哲学者である。京都大学教授、名誉教授。京都学派の創始者。学位は文学博士(京都大学・1913年)。 同郷の鈴木大拙(本名 貞太郎)、山本良吉、藤岡作太郎とは石川県専門学校(第四高等中学校の前身、のちの第四高等学校)以来の友人であり、西田、鈴木、藤岡の三人は「加賀の三太郎」と称された。 石川県の女生徒として最初の帝国大学生(東北帝国大学)となった高橋ふみは西田の姪で、西田の論文をドイツ語に訳した。.

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西浜 (青森県)

西浜(にしはま)は、青森県津軽半島西部の日本海沿岸を指す地名である。別称 津軽西浜。.

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豊前国

豊前国(ぶぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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黒田直亨

黒田 直亨(くろだ なおゆき)は、上総久留里藩の第2代藩主。久留里藩黒田家3代。 享保14年(1729年)閏9月11日、先々代の黒田家の当主・黒田直邦の次男として、江戸常盤橋藩邸において生まれる。 享保20年(1735年)に父が死去したとき、まだ7歳という幼少の上に妾腹の息子で、さらに養子としてすでに直純が迎えてられていたため、家督を継げなかった。 寛保3年(1743年)11月、直純の養子として迎えられる。 延享元年(1744年)12月、従五位下、豊前守に叙位・任官する。 安永4年(1775年)、直純の死去により家督を継いだ。 天明4年(1784年)閏1月17日に死去した。享年56。養子の直弘(直純の長男)が家督相続を辞退したため廃嫡し、直亨の長男の直英が跡を継いだ。 なおゆき Category:久留里藩主 category:譜代大名 Category:1729年生 Category:1784年没.

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鼻和郡

鼻和郡(はなわぐん、はなわのこおり)は、かつて陸奥国の津軽半島南部からその南方の岩木川左岸地域に存在した『浪岡町史』 p.699-700郡である。.

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近衛家

近衛家(このえけ、近衞家)は、公家の五摂家のひとつ。家名は平安京の近衛大路に由来する。通称にがある。本姓は藤原氏で藤原北家近衛流の嫡流にあたる。摂関家には近衛流と九条流があるが、藤原氏の分家で初めて藤氏長者をつとめたのが近衛流である。.

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近衛尚通

近衛 尚通(このえ ひさみち)は、戦国時代の公卿、関白。父は近衛政家。母は家女房であった越前国の加治能登入道の娘・俊子(北小路俊宣養女)。妻は徳大寺実淳の娘・維子。子に近衛稙家、久我晴通、大覚寺義俊、慶寿院(足利義晴室)、近衛殿(北条氏綱室)ら。猶子に足利義輝、足利義昭(共に慶寿院の子)。 文明14年(1482年)に元服、当時の室町幕府の将軍であった足利義尚より偏諱を受けて尚通と名乗る。延徳2年(1490年)に右大臣に就任、以降は関白に二度就く。その後永正11年(1514年)に太政大臣、同16年(1519年)に准三宮となった。天文2年(1533年)に出家し、大証と号した。天文13年(1544年)、薨去。日記『後法成寺関白記』を残した。.

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近衛忠房

近衛 忠房(このえ ただふさ、天保9年8月6日(1838年9月24日)- 明治6年(1873年)7月16日)は、幕末期の公卿。近衛忠熙の四男。母は島津斉興の養女(実妹)・興子とされているが、庶子との説もある。正室は島津斉彬の養女・貞姫(実父は島津久長)。子に篤麿(長男)、英麿(次男、津軽承昭養子)、泰子(長女、徳川家達夫人)。号は光山。官位は従一位・左大臣。.

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近衛信尋

近衞 信尋(このえ のぶひろ)は、江戸時代前期の公家・藤氏長者。官位は従一位関白。幼称は二宮。法号は応山。 後陽成天皇の第四皇子。五摂家のひとつ近衛家の養子になり、第19代目当主となる。これにより近衛家は皇別摂家となった。.

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藤原基衡

藤原 基衡(ふじわら の もとひら)は、平安時代後期の豪族。奥州藤原氏第2代当主。藤原清衡の次男に当たる。.

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藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

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那須資徳

那須 資徳(なす すけのり)は、江戸時代前期から中期にかけての旗本・大名。下野国烏山藩2代藩主。 陸奥国弘前藩4代藩主・津軽信政の三男として誕生。天和3年(1683年)閏5月1日、母方の大叔父・那須資弥の養子となる。同年7月11日、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉に御目見する。貞享4年(1687年)8月25日、資弥の死去により家督を相続するが、同年10月14日、改易となり、実父・津軽信政の許に預けられた。 元禄7年(1694年)閏5月から翌年3月にかけて、信政に従って弘前城に赴き、寺社参詣・湯治などをする 元禄13年(1700年)5月20日、信政の運動により旗本に取り立てられて、小普請に所属する。後に寄合に所属する。元禄14年(1701年)12月25日、下野那須郡内1000石を与えられた。宝永2年(1705年)6月3日、津軽家より合力米3000石を得る。宝永5年(1708年)4月5日、交代寄合となる。同年6月25日、死去、享年37。.

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肥後国

肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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陸奥国

奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.

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松平信明 (三河吉田藩主)

松平 信明(まつだいら のぶあきら)は、三河吉田藩の第4代藩主。江戸幕府の老中・老中首座を務めた。松平伊豆守系大河内松平家7代。.

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森岡信元

森岡 信元(もりおか のぶもと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。津軽氏の家臣。.

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森岡為治

森岡 為治(もりおか ためはる)は、戦国時代の武将。津軽氏の家臣。 大浦氏一門の家老として3000石を領した。天文10年(1541年)6月9日、主君・大浦政信に従い、和徳城攻めに参加した。その際、岩木川畔の三味線河原で戦いとなり、和徳城主・小山内満春が討ち取られたが、満春の子・永春が加勢すると戦況は逆転し、大浦政信と共に討ち死にした。 Category:戦国武将 Category:陸奥国の人物 Category:戦国時代に戦死した人物 Category:森岡氏 Category:1500年生 Category:1541年没.

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森岡氏

森岡氏(もりおかし)は、津軽氏の支流で戦国時代から江戸時代にかけて同家に仕えた。.

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正仁親王妃華子

石南花 正仁親王妃華子(まさひとしんのうひ はなこ、1940年〈昭和15年〉7月19日 - )は、日本の皇族。常陸宮正仁親王の妃。旧名は津軽華子(つがる はなこ)。身位は親王妃(常陸宮妃)。皇室典範における敬称は殿下。お印は石南花(しゃくなげ)。勲等は勲一等。戦後皇室に嫁いだ妃の中で、唯一の旧華族家出身者である。 2007年9月5日から現在まで皇室会議の議員を務めている。.

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武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

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氏族

氏族(しぞく、うじぞく、clan)とは、共通の祖先を持つ血縁集団、または、共通の祖先を持つという意識・信仰による連帯感の下に結束した血縁集団のこと。 単系出自集団(unilineal descent group。特定の祖先から男性または女性のみを通じて親子関係がたどれる子孫の作る集団)の一つ。特定の男性祖先から男性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を父系出自集団といい、特定の女性祖先から女性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を女系出自集団という。 これらの集団のうち、成員が互いの系譜関係、あるいは共通祖先との系譜関係を把握している集団はリニエッジ(lineage)といい、伝説上・神話上の共通祖先を持っているという意識・信仰があるのみで、系譜関係がはっきりしない集団をクラン(clan)と呼んで、両者を区別する。 同じ氏族の男女の結婚を禁じる結婚規制が広く見られる(氏族外婚)。これは、互いの系譜関係がたどれぬ場合であっても同じ氏族であれば血縁関係を擬制して規制することから、必ずしも近親婚の禁止とは重ならない。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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池田仲律

池田 仲律(いけだ なかのり)は、因幡鹿奴藩(鳥取東館新田藩)の第8代藩主。.

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池田仲雅

池田 仲雅(いけだ なかまさ)は、因幡鹿奴藩(鳥取東館新田藩)の第7代藩主。 安永9年(1780年)4月22日、本家の因幡鳥取藩の第5代藩主・池田重寛の四男として鳥取城で生まれる。天明5年(1785年)に異母兄で鹿奴藩の第6代藩主である澄時が死去したため、その養子として家督を継いだ。寛政7年(1795年)12月17日に従五位下・豊前守に叙位・任官され、文化4年(1807年)10月26日に飛騨守に遷任される。文政2年(1819年)4月3日に摂津守に遷任された。 文政7年(1824年)9月26日、三男・仲律に家督を譲って隠居する。天保12年(1841年)6月24日、江戸で死去した。享年62。.

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池田源

池田 源(いけだ はじめ、弘化3年1月29日(1846年2月24日) - 明治36年(1903年)12月13日)は、明治期の華族(子爵)。因幡国鹿奴藩(鳥取東館新田藩)池田家第11代当主。.

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沼田祐光

沼田 祐光(ぬまた すけみつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。津軽氏の家臣。沼田面松斎とも。 津軽為信の軍師として活躍したといわれているが、詳細については不明な点が多い。.

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津軽寧親

津軽 寧親(つがる やすちか)は、江戸時代中期から後期の旗本、大名。交代寄合陸奥黒石領の第6代当主。のち陸奥弘前藩の第9代藩主。.

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津軽寿世

津軽 寿世(つがる ひさよ、旧字体:津軽 壽世)は、陸奥弘前藩分家・黒石領4,000石の第4代当主。父は弘前藩4代藩主・津軽信政(寿世は五男)。正室は3代当主・津軽政兕の娘。子に著高(次代当主)、朝儀(とものり、津軽家一門及び家老・津軽百助家養子、津軽順朝の祖父)、多門信照(多門信良養子)、伊達為清(伊達為親養子)、黒石尚央、娘(今大路寿国室)。 正徳4年(1714年)7月12日、旗本・津軽政兕の婿養子となる。同年12月28日、将軍徳川家継にお目見えする。享保19年(1734年)6月21日、弘前藩分家黒石領4,000石第4代当主となった。この家の慣例により、宗家弘前藩主(当時は実兄で5代藩主の津軽信寿(信壽))から偏諱(「寿(壽)」の字)の授与を受けて寿世(壽世)と名乗る。元文4年(1739年)8月15日、館林城の在番を命じられる。宝暦4年(1754年)12月10日、隠居し、長男著高に家督を譲る。隠居後、泰翁と号する。 ひさよ Category:江戸幕府旗本 Category:弘前藩の人物 Category:1698年生 Category:1758年没.

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津軽尹子

津軽 尹子(つがる ただこ、嘉永元年12月11日(1849年1月5日) - 明治33年(1900年)6月6日)は、幕末の津軽藩主(のち伯爵)津軽承昭の継室。信君と称す。 関白近衛忠煕の六女。当初は、かねて関係の深かった薩摩藩主島津氏との関係で、島津斉彬の嫡子虎寿丸と婚約する手はずだったが、安政5年(1854年)虎寿丸が早世したために破談となった。 慶応2年(1866年)5月、津軽藩主・津軽承昭と婚約。承昭は、文久元年(1861年)に前室の常姫を亡くしており、継室となる。明治2年(1869年)に結婚。明治18年、名を信から尹子に改める。 明治33年死没。東京上野寛永寺に葬られた。.

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津軽一統志

津軽一統志(つがるいっとうし)は、弘前藩(津軽藩)が編纂した官撰史書。1731年(享保16年)刊行、全10巻(首巻・附巻除く)。.

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津軽建広

津軽 建広(つがる たけひろ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武士、医師。.

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津軽信堅

津軽 信堅(つがる のぶかた)は、安土桃山時代の武士。津軽弘前藩初代藩主・津軽為信の次男。 早世した、とされており、事跡はほとんど伝わらない。『津軽藩旧記伝類』によれば天正3年(1575年)生まれ。徳川家康の小姓、徳川秀忠の近習を務めたとされる。 慶長元年(1596年)、弟・信枚と共にキリシタンに改宗している。慶長2年(1597年)1月26日に江戸において23歳で死去。 浅草にある曹洞宗萬隆寺は、元は湯島の津軽家屋敷付近にあり、江戸における津軽家の菩提寺であったとされる。開基が信堅とされているが、詳細は不明である。.

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津軽信寧

津軽 信寧(つがる のぶやす)は、江戸時代後期の大名。陸奥弘前藩(津軽藩)の第7代藩主。 元文4年(1739年)2月27日、第6代藩主・津軽信著の長男として生まれる。延享元年(1744年)8月2日、父・信著の跡を継いで藩主となった。また、一族の津軽著教に3000俵を分け与える。宝暦3年(1753年)2月18日、将軍徳川家重にお目見えする。同年12月18日、従五位下土佐守に叙任する。 信寧の治世中、弘前藩は飢饉といった天災が相次いで領地は荒廃し、借金は35万両にも及んでいた。しかも重臣である3名が商人と結託して藩内の米を買い占めて江戸へ売却して暴利をむさぼるなど、不正も起こった。明和3年(1766年)7月8日、地震のために弘前城が壊れて、幕府から4000両を借り入れた。さらに天明元年(1781年)から起こった天明の大飢饉は藩にとどめを刺すこととなる。天明3年12月25日、幕府から飢饉対策のために1万両を借り入れる。このため信寧は財政改革に乗り出そうとしたが、その矢先の天明4年(1784年)に急死し、跡を長男の信明が継いだ。.

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津軽信寿

津軽 信寿(つがる のぶひさ・津軽 信壽)は、陸奥弘前藩の第5代藩主。.

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津軽信建

津軽 信建(つがる のぶたけ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。津軽為信の長男。.

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津軽信義

津軽 信義(つがる のぶよし)は、江戸時代の大名。陸奥弘前藩の第3代藩主。.

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津軽信隆

津軽 信隆(つがる のぶたか、元和6年(1620年) - 万治元年12月17日(1659年1月9日))は、弘前藩主津軽家の家老。通称、百助(ももすけ)。津軽百助家の始祖である。.

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津軽信順

津軽 信順(つがる のぶゆき)は、陸奥弘前藩の第10代藩主。.

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津軽信興

津軽 信興(つがる のぶおき、元禄8年7月28日(1695年9月6日) - 享保15年11月25日(1731年1月3日))は、陸奥国弘前藩第5代藩主・津軽信寿の長男。母は松平忠尚養女・法雲院。従五位下、右京亮、越中守。正室は醍醐冬基の娘で近衛家煕の養女・梅応院。子は信著、女子(脇坂安興正室)、女子(松平忠恒正室)。 幼名は磐麻呂。弘前藩の嫡男として生まれる。宝永3年(1706年)4月25日、徳川綱吉に拝謁。宝永7年(1710年)12月23日、従五位下右京亮に叙任。享保15年(1730年)7月13日、越中守に改称。しかし麻疹を患い、同年11月25日、藩主就任前に死去した。享年36。墓所は寛永寺津梁院。法号は端巌院。藩主は信興の長男・信著へと継承された。信著は藩主就任当時13歳であった。.

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津軽信著

津軽 信著(つがる のぶあき)は、陸奥弘前藩の第6代藩主。.

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津軽信英

津軽 信英(つがる のぶふさ)は、江戸時代の旗本。陸奥黒石領5,000石の初代当主。陸奥弘前藩2代藩主・信枚の次男。母は徳川家康の養女満天姫(実父は家康の異父弟、松平康元)。 ただし生母は別の女性で、なかなか子に恵まれなかった満天姫が手元に引き取って育てた、という説もある。江戸神田の津軽藩藩邸にて生まれた。兄に弘前藩3代藩主・信義(生母は石田三成の娘、辰姫)がいる。.

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津軽信枚

津軽 信枚(つがる のぶひら)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。陸奥国弘前藩2代藩主。信牧(のぶひら)とも。.

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津軽信明

津軽 信明(つがる のぶあきら)は、江戸時代後期の大名。陸奥弘前藩(津軽藩)の第8代藩主。.

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津軽信政

津軽 信政(つがる のぶまさ)は、陸奥国弘前藩の第4代藩主。.

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津軽信敏

津軽 信敏(つがる のぶとし、正保2年(1646年) - 天和3年9月13日(1683年11月1日))は、江戸時代の旗本。陸奥津軽黒石領の2代当主。初代当主・津軽信英の長男。領地は相続時点で5,000石、のち弟・信純に上野領半分など1,000石を分知(黒石支藩、黒石別家)。妻は津軽信義の娘・美与。子は政兕、次男、信隣(主税)。 黒石は英邁で聞こえた先代信英の治世により、業種別の町割を奨めていたが、信敏はさらに「一町一業種一年間無税のお触れ」を出すなど、商業振興に勤めた。.

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津軽地方

南部地方 津軽地方(つがるちほう)とは、現在の青森県西部を指して言う地域呼称。江戸時代に津軽氏が支配した領域(弘前藩・黒石藩の領域)および津軽郡の領域にほぼ相当する。 明治維新で陸奥国(むつのくに)が分割されて設置された陸奥国(りくおうのくに。青森県全域と岩手県西北部)の異称「津軽国」とは異なる。.

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津軽典暁

津軽 典暁(つがる つねとし、寛政元年9月15日(1789年11月2日) - 文化2年8月8日(1805年8月31日))は、陸奥弘前藩分家・黒石領4,000石7代当主。陸奥弘前藩9代藩主・津軽寧親(黒石領6代当主)の長男。母は杉浦正勝の娘・福姫。生年は天明7年(1787年)とも。 先代当主だった父の本藩継承により、寛政3年(1791年)に黒石領4,000石を相続したが、文化2年(1805年)に17歳(あるいは19歳)で死去した。その後は、上総久留里藩主・黒田直亨の四男・親足が末期養子として継承した。 つねとし Category:江戸幕府旗本 Category:弘前藩の人物 Category:1789年生 Category:1805年没.

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津軽義孝

津軽 義孝(つがる よしたか、1907年12月18日 - 1994年8月22日)は、日本の馬事関係者。旧弘前藩津軽家第14代当主・伯爵。正仁親王妃華子の父。.

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津軽為信

津軽 為信(つがる ためのぶ、)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。陸奥国弘前藩初代藩主。.

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津軽熊千代

津軽 熊千代(つがる くまちよ)は、江戸時代前期の武士。津軽信建の嫡男。弘前藩初代藩主津軽為信の孫。.

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津軽順朝

津軽 順朝(つがる ゆきとも、文化11年(1814年) - 天保11年11月17日(1840年12月10日))は、津軽家一門・津軽百助家の当主。書院大番頭兼参政。津軽承祐、津軽承叙の実父。 名前の「順」の字は、本家・弘前藩第10代藩主・津軽信順からの偏諱である。 幕末、弘前・黒石両家で藩祖・為信の血統が途絶えたため、その血を引くこの家から血統の復活がはかられ、順朝の二人の子息がそれぞれの家を継ぐこととなった。しかし、弘前藩主家の養子となった長男・承祐は早世してしまい跡を継ぐことが叶わず、熊本藩主の細川家から養子を迎えるという結果になった。黒石藩主家を継いだ次男・承叙の血統も、その長男である津軽類橘(るいきつ)の代に途絶えている(類橘の跡は池田源の子・津軽益男が継いだ)。.

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津軽順承

津軽 順承(つがる ゆきつぐ、寛政12年1月13日(1800年2月6日) - 元治2年2月5日(1865年3月2日))は、陸奥黒石藩の第2代藩主。のち陸奥弘前藩の第11代藩主。 三河吉田藩の松平信明の五男。母は側室の恵覚院。正室は有馬久保の娘・彰信院(泉姫)。側室に梶文左衛門の叔母・諦信院(清瀬)。官位は従四位下、左近将監・大隅守。子は常姫(初名たま姫。はじめ津軽承祐婚約者、後津軽承昭正室)、養子・津軽承祐。.

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津軽親足

津軽 親足(つがる ちかたり)は、陸奥国黒石藩の初代藩主。元は4000石の旗本。歌道に優れていたと言われている。 天明8年(1788年)8月29日、上総国久留里藩主黒田直亨の四男として江戸で生まれる。文化2年(1805年)12月4日、縁戚関係にあった津軽典暁の養嗣子となって4000石の家督を継いだ。この時、先々代当主でこの当時は本家弘前藩主であった津軽寧親(典暁の父、母が黒田直純(直亨の養父)の娘)より偏諱を受け、親足と改名した。文化6年(1809年)4月5日に寧親の計らいで6000石加増の上で1万石の大名として諸侯に列し、弘前藩の支藩である黒石藩を立藩した。文政8年(1825年)11月5日、家督を養嗣子の順徳(後の順承)に譲って隠居し、嘉永2年(1849年)7月晦日に江戸で死去した。享年62。 ちかたり Category:譜代黒田氏 Category:江戸幕府旗本 ちかたり Category:1788年生 Category:1849年没.

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津軽郡 (陸奥国)

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津軽薫

津軽 薫(つがる かおる、1853年 - 1918年)は日本の士族。菊池楯衛らが結成した津軽果樹研究会のメンバー『りんごを拓いた人々』 51頁。。.

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津軽著高

津軽 著高(つがる あきたか)は、陸奥弘前藩分家・黒石領4,000石の第5代当主。父は4代当主・津軽寿世(著高は長男)、母は3代当主・津軽政兕の娘・綾姫。正室は上総久留里藩主・黒田直純の娘。子に寧親、杉浦寿武、娘(北条氏乾(後北条氏一族)室)、娘(今大路正福室)。 元文3年(1738年)7月23日、将軍徳川吉宗にお目見えする。宝暦4年(1754年)12月10日、父寿世の隠居により、弘前藩分家・黒石領4,000石5代当主となった。諱の「著」の字は、家の慣例により、本家弘前藩6代藩主・津軽信著から偏諱を賜ったものである。尚、信著の父・信興とは従兄弟である。宝暦10年2月2日、本所深川の火事場見廻を命じられる。安永6年(1777年)1月29日、本所深川の火事場見廻を辞職する。 あきたか Category:江戸幕府旗本 Category:弘前藩の人物 Category:1726年生 Category:1778年没.

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津軽著教

津軽 著教(つがる あきのり、1721年(享保6年) - 1745年2月15日(延享2年1月15日))は、津軽家一門の人物。弘前藩第5代藩主・津軽信寿の四男。幼名は豊次郎、通称は内記。 延享元年(1744年)4月28日、将軍徳川吉宗にお目見えする。同年8月2日、弘前藩主津軽信寧から3000俵が分与されて、寄合に所属した。また、偏諱を受けて「著教」と名乗った。しかし、翌年になって死去、3000俵は本家へ返還された。.

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津軽英麿

津軽 英麿(つがる ふさまろ、1872年4月2日〈明治5年2月25日〉- 1919年〈大正8年〉4月5日)は、日本の伯爵、貴族院議員。旧姓は近衛。.

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津軽政たけ

津軽 政兕(つがる まさたけ)は、江戸時代前期から中期にかけての旗本。陸奥国弘前藩分家・黒石領(4,000石)3代当主。日本最古の釣り指南書『何羨録』の著者として知られる。.

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津軽承叙

津軽 承叙(つがる つぐみち、津輕承敍、天保11年8月29日(1840年9月24日)- 明治36年(1903年)12月7日)は、陸奥黒石藩の第4代(最後)の藩主、のち華族(子爵)。官位は正三位。江戸幕府では従五位下式部少輔。.

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津軽承保

津軽 承保(つがる つぐやす、文政4年11月29日(1821年12月23日)- 嘉永4年9月24日(1851年10月18日))は、陸奥国黒石藩の第3代藩主。初代藩主・津軽親足の次男。正室は高秭の娘。官位は従五位下、出雲守。 文政4年(1821年)11月29日、黒石にて生まれる。幼名は斧勝。初名は正足(まさたり)。天保10年(1839年)に、父の養嗣子として黒石藩第2代藩主となっていた津軽順徳が津軽順承として本家弘前藩の家督を継ぐこととなったため、同年5月16日にその後を受けて藩主となった。この時、順承から偏諱を受け、承保と改名した。嘉永4年(1851年)9月24日、31歳で死去し、跡を養子の承叙が継いだ。墓所は東京都台東区上野の津梁院。.

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津軽承祐

津軽 承祐(つがる つぐとみ、天保9年2月23日(1838年3月18日) - 安政2年7月28日(1855年9月9日))は、陸奥弘前藩の世子。.

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津軽承昭

津軽 承昭(つがる つぐあきら)は、陸奥国弘前藩の第12代(最後)の藩主。和歌にも優れていたと言われている。.

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清和源氏

清和源氏(せいわげんじ)は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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満天姫

満天姫(まてひめ、天正17年(1589年)? - 寛永15年3月22日(1638年5月5日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性で、徳川家康の異父弟・下総関宿藩主松平康元の娘。福島正之の正室として大道寺直秀をもうけ、のち津軽信枚の正室として津軽信英をもうけた。院号は葉縦院(ようじゅういん)。.

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服部康成

服部 康成(はっとり やすなり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。陸奥弘前藩の家老。.

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新人物往来社

株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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1157年

記載なし。

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1491年

記載なし。

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1526年

記載なし。

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1567年

記載なし。

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1591年

記載なし。

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1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1641年

記載なし。

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