527 関係: 加佐郡、加賀美遠光、原虎胤、原昌胤、ひたちなか市、偽書、千葉日報、南北朝時代 (日本)、南部氏、南条元続、南松院、古代、古河公方、古文書、右筆、吾妻鏡、墨、士族、多田三八郎、大島城、大久保長安事件、大和国、大内義興、大内氏、大聖寺、大飯郡、大阪府、大正、大正天皇、天真正伝香取神道流、天正、天文 (元号)、奥野高廣、奉公衆、嫡流、室住虎光、室町幕府、家督、家系、家紋、家柄、守山藩、守護、守護代、官職、宗家、安土桃山時代、安国寺恵瓊、安田義定、安芸国、...、富士川の戦い、小山田信茂、小山田信有 (出羽守)、小山田信有 (越中守)、小幡信貞、小幡昌盛、小幡憲重、小弓公方、小笠原氏、小田原征伐、小畠虎盛、小諸城、小浜市、尼子勝久、尼子氏、山名誠通、山名豊国、山名豊数、山名豊時、山名氏、山中幸盛、山県昌景、山梨県、山梨県立博物館、山本勘助、岡山藩、岩手縄美、川中島の戦い、巨摩郡、上原城、上総国、上野国、上野晴朗、上杉禅秀、上杉禅秀の乱、上杉謙信、上杉景勝、上洛、中巨摩郡、中先代の乱、常陸国、丹後国、丹羽基二、丹羽長秀、布勢天神山城、市川三郷町、三好氏、三上藩、三韓征伐、三枝昌貞、三河国、一乗谷朝倉氏遺跡、一蓮寺、一色義貫、一色氏、一条忠頼、一条信龍、一条信長、平安時代、幕末、京極高次、庶家、二階堂氏、広島市、今川氏、今井氏、仁科信基、仁科信久、仁科盛信、仁科氏、令旨、以仁王、延徳、建武の新政、伊豆大島、伊豆国、伴繁清、住吉大社、佐和山城、佐東銀山城、影印本、御家人、徳川家康、徳川将軍家、徳川氏、徳川斉昭、後北条氏、後冷泉天皇、後醍醐天皇、信濃国、応安、応仁、応仁の乱、志田諄一、土屋昌続、土佐国、土豪、地下家、地下家の一覧、北前船、北辰一刀流、北条氏綱、北条時行、北杜市、北海道、分国、分郡守護、切腹、周防国、和名類聚抄、備前国、円光院 (甲府市)、内藤昌豊、写本、出雲国、入間田宣夫、八代郡 (甲斐国)、八ヶ岳、元寇、元弘、元弘の乱、前九年の役、剣術、勝山記、勝沼信友、因幡国、因幡民談記、国人、国府台合戦、国衙、国造、皇別、磯貝正義、神功皇后、秋山虎繁、秋山敬、穴山信君、穴山勝千代、穴山氏、穴山満春、笹本正治、箕輪城、系図、細川氏、網野善彦、織田信長、織田長裕、織田氏、美作国、美濃国、羽織、羽曳野市、真田幸隆、真田信尹、真田信綱、真田氏、真田昌幸、真田昌輝、真里谷城、真里谷信応、真里谷信勝、真里谷信隆、真里谷信興、真里谷信政、真里谷全方、真里谷恕鑑、真里谷朝信、結城合戦、田中義成、甲州征伐、甲府駅、甲陽軍鑑、甲斐国、甲斐国志、甲斐源氏、甘利虎泰、甘利氏、熊本藩、畿内、相模国、発掘調査、銀山城、韮崎市、鎌倉幕府、鎌倉府、鎌倉公方、鎌倉時代、遠藤氏、遠江国、遠敷郡、荻野三七彦、菱紋、蠣崎季繁、蠣崎氏、飯富虎昌、飛騨国、西八代郡、馬場信春、見聞諸家紋、香宗我部氏、駿河国、駒井高白斎、駒井政直、諱、諸侯、高家 (江戸時代)、高遠城、高杉城、高杉晋作、高澤等、高浜町、講談社、豊臣秀吉、豊臣氏、鳥取城、贈位、越中国、越前国、足利尊氏、足利将軍家、足利義稙、足利義澄、足利義明、足利義昭、足利義教、足利持氏、足利成氏、足利政氏、跡部氏、鹿島新當流、鹿野城、躑躅ヶ崎館、黒田基樹、近世、近代、近江国、茨城県、郡、郡山藩、郷士、鵯尾城、関東管領、閥閲録、藩士、葛山信貞、那珂郡、那須氏、肥後国、里見義堯、里見氏、金丸氏、長篠の戦い、長男、色部清長、若狭国、逸見光長、逸見氏、院司、陰徳太平記、陸奥国、JR東日本E257系電車、柳生俊益、柳生俊順、柳沢吉保、柳沢保光、柳沢保申、柳沢信鴻、柳沢光邦、柳沢氏、柴辻俊六、東京堂出版、松尾信是、松平頼亮、松代城、松前藩、板垣信方、板垣兼信、板垣氏、村岡藩、校倉書房、栗原氏、桜井信忠、楯無、極位極官、横田高松、樋口清之、橋津川の戦い、正室、正六位、正四位、武家、武田助信、武田宗慶、武田崇信、武田信友、武田信吉、武田信実、武田信守、武田信宗、武田信安、武田信之 (高家)、武田信之 (武田信玄三男)、武田信広、武田信廉、武田信在、武田信典、武田信光、武田信勝、武田信玄、武田信縄、武田信繁、武田信繁 (安芸武田氏)、武田信義、武田信道、武田信親、武田信高、武田信豊 (甲斐武田氏)、武田信豊 (若狭武田氏)、武田信貞、武田信賢、武田信興、武田信重、武田信重 (安芸武田氏)、武田信長、武田信虎、武田信栄、武田信正、武田信武、武田信清、武田信満、武田信成、武田信明、武田信春、武田信昌、武田信方、武田信政、武田信景 (若狭武田氏)、武田信時、武田八幡宮、武田元信、武田元光、武田元綱、武田元繁、武田元明、武田光和、武田勝信、武田勝頼、武田勝親、武田国信、武田義信、武田義統、武田道安、武田高信、武田護信、武田豊信、武田茂、武田邦信、武田耕雲斎、武田氏、武田氏信、武田有義、武田流、武田政綱、武田政義、武田時綱、武野紹鴎、毒、毛利元就、毛利秀包、毛利氏、水戸徳川家、水戸藩、永享、永享の乱、永禄、江尻城、江戸時代、池田忠雄、河内源氏、河窪信実、油川信恵、治承、清和源氏、湯所口の戦い、源義家、源義光、源義業、源義清 (武田冠者)、源盛義、源頼信、源頼義、源頼朝、源親義、源氏、源清光、朝廷、朝倉氏、木曾義康、木曾義昌、本姓、本家、本庄重長、本貫、本能寺の変、戎光祥出版、戦国大名、戦国遺文、戦国時代 (日本)、戸石城、明徳、明治、明治維新、明智光秀、春日虎綱、昭和、昭和町、海野信親、浅利信種、浅利義遠、浅野長賢 (広島新田藩主)、新宮党、新人物往来社、新府城、日本の国旗、旗本、承久、承久の乱、曽根昌世、思文閣出版、智頭郡、1029年、1130年、1180年、1221年、1331年、1335年、1368年、1392年、1416年、1440年、1441年、1467年、1471年、1491年、1508年、1515年、1541年、1545年、1563年、1566年、1568年、1572年、1573年、1575年、1578年、1582年、1590年、1630年、1700年、1868年、1915年、1966年、1968年、1969年、1981年、1987年、1988年、1991年、1993年、1997年、2000年、2003年、2005年、2006年、2007年、2008年、2016年。 インデックスを展開 (477 もっと) »
加佐郡
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加賀美遠光
加賀美 遠光(かがみ とおみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。甲斐源氏の祖とされる源義光の孫源清光の四男(清光の父義清の子とする説もある)。 加賀美氏の初代であり、武田氏初代武田信義の弟(あるいは叔父)となる。甲斐国巨麻郡加賀美郷(現在の山梨県南アルプス市の一部)一帯に所在する加々美荘を本領とした。.
原虎胤
原 虎胤(はら とらたね)は戦国時代の武将。はじめ千葉氏当主千葉勝胤の家臣、後に甲斐国武田氏の家臣で足軽大将。「虎胤」は諱で、ほかに信知とする記録もある。美濃守、後に剃髪して清岩と号す。武田の五名臣および武田二十四将の一人。.
原昌胤
川中島の原隼人正(歌川国芳画) 原 昌胤(はら まさたね)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。武田二十四将の一人。.
ひたちなか市
ひたちなか市(ひたちなかし)は、茨城県北部の市である。1994年(平成6年)11月1日に勝田市と那珂湊市が合併して発足した。.
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偽書
偽書(ぎしょ)とは、製作者や製作時期などの由来が偽られている文書・書物のこと。主として歴史学において(つまりはその文献の史的側面が問題とされる場合に)用いられる語である。単に内容に虚偽を含むだけの文書は偽書と呼ばれることはない。 偽書という概念は、美術的な書の贋作も含んでいる。ちなみに英語でもforgeryは偽書、贋作どちらの意味もある。 本項目では、偽書全般について記述する。 (註:なお、例示には偽書として評価の定まっているもののほか、「専門家によって偽書の疑いを提示されたことがあるもの」も含む。偽書としての疑いの程度やその根拠については、リンクされている各記事を参照のこと。).
千葉日報
千葉日報(ちばにっぽう)は、千葉県の県域地方新聞。1956年社団法人として設立・創刊。1958年株式会社化。.
南北朝時代 (日本)
南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.
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南部氏
南部氏(なんぶし)は、陸奥の武家で本姓は源氏。本貫地は甲斐国南部郷で家祖は南部光行。南部氏初代の光行は、平安時代に活躍した清和源氏の一流である河内源氏 源義光や、その孫で平安時代末期に活躍した黒源太清光、その子である甲斐源氏・加賀美遠光の子孫である。.
南条元続
南条 元続(なんじょう もとつぐ)は、安土桃山時代の武将、大名。.
南松院
南松院(なんしょういん)は、山梨県南巨摩郡身延町下山にある臨済宗妙心寺派の寺院、山号は正福寿山。本尊は釈迦如来。.
古代
古代(こだい、)とは、世界の歴史の時代区分で、文明の成立から古代文明の崩壊までの時代を指す。「歴史の始まり」を意味する時代区分である。古典的な三時代区分の一つであり、元来は古代ギリシア・古代ローマを指した(古典古代)。歴史家にとっては語ることのできる歴史の始まり(書き出し)を意味した。考古学の発達が歴史記述の上限を大幅に拡大したと言える。.
古河公方
古河公方(こがくぼう)は、室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となった。(享徳の乱) その後も政氏・高基・晴氏・義氏へと約130年間引き継がれる。御所は主に古河城。古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。.
古文書
羽柴秀吉朱印状(25ヵ条の大陸国割計画書)/前田育徳会所蔵 古文書 (こもんじょ)とは、広く「古い文書」の意味でも使われるが、歴史学上は、特定の対象(他者)へ意思を伝達するために作成された近世以前の文書を指す。特定の相手に向けたものではない文書、例えば日記や書物などは古記録と呼んで区別される。日本史の分野で多く用いられる用語であり、日本以外をフィールドとする場合、古記録とまとめて文書史料、略して文書(もんじょ)と呼ぶことが多い。.
右筆
右筆(ゆうひつ)は、中世・近世に置かれた武家の秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来の職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた。.
吾妻鏡
『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮の序文 『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。 編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。.
墨
'''墨''' 写真左手奥から「墨」「筆」。中央には「硯」。硯の一部分は窪み、硯の表面で水とすられた墨は窪みの「海」へ溜まる 墨(すみ)とは、菜種油やゴマ油の油煙や松煙から採取した煤を香料と膠で練り固めた物(固形墨)、またこれを硯で水とともに磨りおろしてつくった黒色の液体をいい、書画に用いる。 また墨を液状にしたものを墨汁(ぼくじゅう)または墨液と呼ぶ。 墨汁の原材料には化学的な合成物が使われている場合もある。化学的には墨汁の状態はアモルファス炭素の分散したコロイド溶液である。.
士族
士族(しぞく)は、明治維新以降、江戸時代の旧武士階級や地下家、公家や寺院の使用人のうち、原則として禄を受け取り、華族とされなかった者に与えられた身分階級の族称である。士族階級に属する者には、『壬申戸籍』に「士族」と身分表示が記され、第二次世界大戦後1947年(昭和22年)の民法改正による家制度廃止まで戸籍に記載された。.
多田三八郎
多田淡路守満頼(部分)(恵林寺蔵、松本楓湖筆。写真は白黒だが、実際は着色画) 多田 三八郎(ただ さんぱちろう、生年不詳 - 永禄6年(1563年))は、戦国時代の武将。甲斐武田氏家臣で足軽大将。武田信虎・武田信玄の2代に仕える。三八・三八郎、淡路守平山(2008)、p.329。諱は『寛永諸家系図伝』に拠れば「昌澄」、『甲斐国志』人物部第五に拠れば「満頼」としているが、文書上からは確認されない。法名は宗樊。妻は不詳だが、『寛永諸家系図伝』に拠れば土屋昌続の妹とする説がある平山(2008)、p.330。子は『甲陽軍鑑』に拠れば新蔵・久蔵、『寛永諸家系図伝』に拠れば新八郎(八右衛門)、昌俊とされる。また、同じく武田家の足軽大将である治部左衛門も縁者と考えられている。後代には武田の5名臣に含まれる。.
大島城
大島城(おおしまじょう)は信濃国伊奈郡(現在の長野県下伊那郡松川町元大島)にあった日本の城である。別名台城 (だいじょう)。.
大久保長安事件
大久保長安事件(おおくぼながやすじけん)は、慶長18年(1613年)4月に起こった江戸時代初期の粛清事件。.
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大和国
大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.
大内義興
大内 義興(おおうち よしおき)は、室町時代後期から戦国時代にかけての周防(山口)の戦国大名。周防の在庁官人・大内氏の第15代当主。 父は周防守護で大内氏の第14代当主・大内政弘。弟(一説に庶兄とも)に大内高弘(隆弘とも、初めは出家して大護院尊光)がいる。正室は長門守護代・内藤弘矩の娘。子に義隆(第16代当主)、娘(大友義鑑正室、後に大友義鎮(宗麟)や大内義長(第17代当主)がこの間に生まれる)。室町幕府の管領代となって将軍の後見人となり、周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護職を兼ねた。.
大内氏
大内氏(おおうちし、おおうちうじ)は、日本の氏族・名字の一つ。.
大聖寺
大聖寺(だいしょうじ、たいしょうじ).
大飯郡
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大阪府
大阪府(おおさかふ)は、近畿地方に属する日本の都道府県の一つ。府庁所在地は大阪市。.
大正
大正(たいしょう)は日本の元号の一つ。明治の後、昭和の前。大正天皇の在位期間である1912年(明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。.
大正天皇
大正天皇(たいしょうてんのう、1879年(明治12年)8月31日 - 1926年(大正15年)12月25日)は、日本の第123代天皇。諱は嘉仁(よしひと)。幼少時の御称号は明宮(はるのみや)。お印は壽(じゅ)。 明治以降で初の一夫一妻制を採った天皇。.
天真正伝香取神道流
天真正伝香取神道流(てんしんしょうでんかとりしんとうりゅう)とは室町時代中期に飯篠家直によって創始された武術流儀で兵法三大源流の一つである。流儀の興った頃から江戸時代初期迄新當流、天真正新當流、或いは神道流、香取神道流とも呼ばれる。古い伝書では香取新当流となっているものもある。旧字表記では天眞正傳香取神道流。なお、神道夢想流杖術の併伝武術として伝えられている剣術も神道流という名称だが、上記の神道流とは別系統のものである。.
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天正
天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.
天文 (元号)
天文(てんぶん、てんもん)は、日本の元号の一つ。享禄の後、弘治の前。1532年から1555年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴、足利義輝。.
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奥野高廣
奥野 高廣(おくの たかひろ、1904年8月21日 - 2000年5月5日)は、日本の歴史学者。東京大学史料編纂所助教授。文学博士。現在でも織田信長研究の権威と評されている。.
奉公衆
奉公衆(ほうこうしゅう)は、室町幕府に整備された幕府官職の1つである。将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた。番衆(小番衆)とも。 鎌倉時代の御所内番衆の制度を継承するもので、一般御家人や地頭とは区別された将軍に近侍(御供衆)する御家人である。奉行衆が室町幕府の文官官僚であるとすれば、奉公衆は武官官僚とも呼ぶべき存在であった。後年、豊臣秀吉も奉公衆の制度を設けている。.
嫡流
嫡流(ちゃくりゅう)とは、氏族の本家を継承する家筋・家系のことをいう。正嫡、正系、嫡系ともいう。対義語は庶流という。敬って「御嫡々の家系」という場合もある。嫡流の家を宗家、総本家、嫡家、大本家、本家という。 ちなみに、「直系」を嫡流の意味で用いるのは誤用で、直系とは正しくは親の親もしくは子の子といった関係の連鎖で結ばれる生物学的関係をいい、直系・傍系はあくまで純粋な生物学的血統上の語であり家筋・家系とは関係がない。例えば、ある人物から見たときその子孫はすべて直系卑属であるから、分家・庶流の子孫も直系であるし、また、傍系は相対的な系統上の関係をいうから、分家からみた本家は傍系である。詳しくは、 親族を参照。 あくまで当家の祭祀を継承する家系を意味するのであるから、長男が継承者となることが多いものの、必ずしも長男が継承するとは限らず、次男以下あるいは養子の子孫が嫡流となる場合もある点に注意。.
室住虎光
室住 虎光(もろずみ とらみつ)は、戦国時代の武将。甲斐の戦国大名武田氏の譜代家臣。豊後守。姓は諸角(両角)とする記録も多いが、近年では自筆史料に見られる「室住」が採用されている。諱に関しても「虎定」あるいは「昌清」とする説もあるが、確実な同時代文書の『安道寺文書』によれば「虎光」とされる。子に室住昌守がいる。.
室町幕府
花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.
家督
家督(かとく)とは、家父長制における家長権を意味する。鎌倉時代に家督の嫡子単独相続、遺産の分割相続が原則とされた。室町時代に両者とも嫡子相続を原則としたが、現実には完全な制度として確立しておらず、内紛が発生した。のち江戸幕府の絶対的な権力を背景として、家督の嫡子単独相続が確立した。 なお、主に武家においては、断絶した家名を他氏の者が相続することを名跡を継ぐといい、実子または血縁者が相続する場合の家督継承と区別された。主な例としては平姓畠山氏を源氏の足利義純が相続し、源姓畠山氏に変わった事などが知られている。 また、鎌倉時代には家督権は財産権とあわせて跡職(跡式)・跡目と称して嫡子が継いだが、庶子に分割する相続財産をも跡職と称した。その後、江戸時代には先代の死亡にともなう相続の場合を跡目相続、先代の隠居による場合を家督相続と呼び分けた。 明治憲法下においても家制度の一環として法制度として存続したが、日本国憲法施行直後の民法大改正によって廃止された。とはいえそれから70年以上経った今日でも家督を重んじる社会通念が西日本を中心に残っている。.
家系
家系(かけい)または血統(けっとう)とは、親子・兄弟・婚姻・養子など様々な関係性で結ばれる特定の家族、血族集団を指す。一定の血族集団の中で同一の階級または地位、氏、家名、家格、家業、家財を世襲で継承する場合に使われることが多い。類似概念に家柄などがある。.
家紋
家紋(かもん)とは、日本固有の紋章である。.
家柄
家柄(いえがら)とは、先祖からの家すじを意味する。家格と同義とされることもある。.
守山藩
守山藩(もりやまはん)は、陸奥国南部(磐城国)田村郡(現在の福島県郡山市)に存在した藩。水戸藩の御連枝で支藩である。藩庁は守山陣屋である。また、常陸国にも所領を有し、松川陣屋を置いた。.
守護
守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.
守護代
守護代(しゅごだい)とは、鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職である。.
官職
官職(かんしょく)とは、官吏の職のことをいう。具体的には以下の通りに分類される。また、官職の名称のことを官名(かんめい)という。.
宗家
宗家(そうけ)は、ある一族、一門において正嫡(嫡流)の家系。またその家系の当主。本家。 日本ではこれから転じて、能楽などの伝統芸能や古武道などで家元の言いかえとして用いられる称号として用いられる。もとは能楽のシテ方観世流で観世銕之丞家に対して家元家を宗家と呼んだところからおこったものである。宗家位、宗家号とも。流派の経営、普及活動及び一門の統率、門下生の教育を旨とする。流派により宗家自ら師範となる場合、弟子に門下生の指導を委ねる場合とがある。.
安土桃山時代
安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。 なお、美術史では1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡までを「安土桃山時代」と称するのが一般的である。.
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安国寺恵瓊
安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗の僧で、武将および外交僧。道号(字)は瑶甫、法諱(諱)は恵瓊、号は一任斎または正慶。一般に広く知られる“安国寺恵瓊”の名は、住持した寺の名に由来する別名であり、禅僧としての名乗りは瑶甫 恵瓊(ようほ えけい)という。 毛利氏に仕える外交僧として豊臣(羽柴)秀吉との交渉窓口となり、豊臣政権においては秀吉からも知行を貰って大名に取り立てられたとするのが通説だが、異説もある。.
安田義定
安田 義定(やすだ よしさだ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。甲斐源氏の祖とされる源義光の孫源清光の子(清光の父義清の子とする説もある)。.
安芸国
安芸国(あきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.
富士川の戦い
富士川の戦い(ふじかわのたたかい)は、平安時代後期の治承4年10月20日(ユリウス暦1180年11月9日、グレゴリオ暦16日)に駿河国富士川で源頼朝、武田信義と平維盛が戦った合戦である。治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の1つである。 石橋山の戦いで敗れた源頼朝は安房国で再挙し、進軍しながら東国武士がこれに参集して大軍に膨れ上がり、鎌倉に入る。一方、甲斐国で挙兵した武田信義らは駿河国目代を討ち取った。その両者が駿河国で合流し、都から派遣された平維盛率いる追討軍と戦い勝利し、頼朝は南坂東で、武田信義ら甲斐源氏は甲斐・駿河・遠江での割拠を確立させた。.
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小山田信茂
小山田 信茂(おやまだ のぶしげ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。甲斐東部郡内領の国衆。武田二十四将の一人に数えられる。.
小山田信有 (出羽守)
小山田 信有(おやまだ のぶあり、永正16年(1519年) - 天文21年1月23日(1552年2月17日)は、戦国時代の武将。甲斐国東部の郡内地方の有力国人である小山田氏当主。出羽守を称した。 父は越中守を称した小山田信有、母は甲斐国守護武田信虎の妹と伝わる。弥三郎を称した小山田信有・小山田信茂の父。桓武平氏・秩父党の末裔(異説もある)。法名は長生寺殿契山存心大禅定門。.
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小山田信有 (越中守)
小山田 信有(おやまだ のぶあり、長享2年(1488年) - 天文10年2月12日(1541年3月9日)?)は、室町時代後期の武将。甲斐国東部の郡内領主(国人)。桓武平氏・秩父氏(異説もある)の小山田氏の一族。孫三郎。越中守を称した。父(又は兄)は小山田弥太郎(信隆)。妻は武田信縄の娘もしくは武田信虎の娘。子に小山田虎親、出羽守を称した小山田信有、小山田信義がいる。弥三郎を称した小山田信有・小山田信茂は孫にあたる。.
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小幡信貞
小幡 信貞(おばた のぶさだ、天文9年(1540年) - 文禄元年11月21日(1592年12月24日))は、戦国時代の武将。別名に信実、信真、信定。通称は尾張守、上総介。正室は長野業正の娘。養嗣子に小幡信定。.
小幡昌盛
小幡 昌盛(おばた まさもり)は、戦国時代の武将。甲斐国武田氏家臣で足軽大将。武田信玄、武田勝頼の2代に仕える。父は小畠虎盛(小幡虎盛)で次男。叔父に小幡光盛がいる。仮名は孫十郎だが、『甲陽軍鑑』や『軍鑑』に基づいた『甲斐国志』では孫次郎としている。武田二十四将の一人に数えられる。.
小幡憲重
小幡 憲重(おばた のりしげ、永正14年(1517年?) - 没年不詳)は、戦国時代の武将。上野国甘楽郡小幡郷の国衆。小幡顕高の子。小幡信貞(信実)の父。別名重貞、重定ともされる。信竜斎全賢。妻は長野業正の娘(妹とも)。子に信貞・信重がいる。娘は甲斐武田氏の親族衆・武田信豊の妻。憲重の孫である信氏の室を武田信豊娘とする系図もある。尾張守。国峯城城主。.
小弓公方
小弓城跡 小弓公方(おゆみくぼう)は、関東における足利氏基氏流の公方家のひとつ。古河公方の分家筋にあたる足利義明が一代で急成長して本家と関東の覇権を争うまでになったもので、彼が下総国千葉郡小弓城(現在の千葉市中央区生実と同緑区おゆみ野の一帯)を本拠地にしていたことがその名の由来。足利義明・頼純の2代にわたって受け継がれ、後の喜連川氏の元となった。.
小笠原氏
小笠原氏(おがさわらし、おがさわらうじ)は、日本の氏族。清和源氏の河内源氏の流れをくみ、武家の有職故実を伝える一族としても知られる。通字は、「長」・「貞」・「忠」などである。.
小田原征伐
小田原征伐(おだわらせいばつ)は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が後北条氏を征伐し降した歴史事象・戦役。後北条氏が秀吉の沼田領裁定の一部について武力をもっての履行を惣無事令違反とみなされたことをきっかけに起こった戦いである。後陽成天皇は秀吉に後北条氏討伐の勅書を発しなかったものの、遠征を前に秀吉に節刀を授けており 、関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ下山(1996) pp.91-96。。ここでは小田原城の攻囲戦だけでなく、並行して行われた後北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。 小田原合戦、小田原攻め、小田原の役、北条征伐、小田原の戦い、小田原の陣、小田原城の戦い(天正18年)とも呼ばれた。.
小畠虎盛
小畠 虎盛(おばた とらもり)は、戦国時代の武将。武田信虎、武田信玄の2代に仕える。父は小畠日浄(盛次)。 武田の五名臣、武田二十四将の一人としてそれぞれ数えられる。なお小幡姓とするのは誤り(小幡氏は上野国の武家の名で、子の昌盛が信玄に許されて名乗ったもの。なお、虎盛は上野小幡氏の遠縁とする系図もある)。 娘婿に市川等長(梅隠斎)の子・平右衛門、原与左衛門尉(『甲陽軍鑑』)。.
小諸城
小諸城(こもろじょう)は、長野県小諸市にある日本の城跡。別名、酔月城、穴城、白鶴城。.
小浜市
小浜市(おばまし)は、福井県南西部(嶺南)、旧若狭国の市である。.
尼子勝久
尼子 勝久(あまご かつひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。.
尼子氏
尼子氏(あまごし)は、京極氏の一族で代々出雲守護代を務めた。京極氏から室町時代中期に分かれた家であり、京極尼子家とも呼ばれる。山陰地方で活動し、戦国大名となった一族である。こちらの一族は出雲尼子氏と呼ばれ最盛期には中国八カ国を領域に起き120万石の広大な領土を支配した。通字は「久」(ひさ)。.
山名誠通
山名 誠通(やまな のぶみち)は、戦国時代の武将。因幡国守護。.
山名豊国
山名 豊国(やまな とよくに)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名、武将。.
山名豊数
山名 豊数(やまな とよかず)は、因幡守護の戦国大名。.
山名豊時
山名 豊時(やまな とよとき)は室町時代の因幡守護。.
山名氏
日本の氏族。幾つかの流れがある。.
山中幸盛
山中 幸盛(やまなか ゆきもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将。尼子氏の家臣。通称は鹿介(しかのすけ)。巷間では山中鹿介の名でよく知られる。幼名は甚次郎(じんじろう)。尼子三傑の1人。優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」の異名を取る。 尼子十勇士の筆頭にして、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話で有名。.
山県昌景
山県 昌景(やまがた まさかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての日本の武将。甲斐武田氏の家臣で、譜代家老衆。後代には武田四天王の一人に数えられる。.
山梨県
山梨県(やまなしけん)は、本州の内陸部に位置する日本の県の一つ。県庁所在地は甲府市。令制国の甲斐国に相当する。.
山梨県立博物館
山梨県立博物館(やまなしけんりつはくぶつかん)は、山梨県笛吹市御坂町成田にある総合博物館である。2005年(平成17年)10月15日に開館した。愛称は甲斐とミュージアムをかけた「かいじあむ」。2018年現在、館長は守屋正彦である。前館長の平川南は名誉館長に就任した。 基本テーマは「山梨の自然と人」であり、自然系展示と歴史系展示を分けずに展示や資料の収集、調査研究活動、社会教育活動を行っている。常設展示は原始時代から現代という時系列に沿った展示であるが、観覧順序は自由導線であり、「水に取り組む」「信仰の足跡」といったテーマを設定した展示になっている。.
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山本勘助
山本 勘助(やまもと かんすけ)は、戦国時代の武将。 『甲陽軍鑑』においては名を勘助、諱を晴幸、出家後道鬼を称したという。勘助の諱・出家号については文書上からは確認されていなかったが、近年、沼津山本家文書「御証文之覚」「道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」により、江戸時代段階で山本菅助子孫が諱を「晴幸」、出家号を「道鬼」と認識していたことは確認された。ただし「晴幸」の諱については、明治25年(1892年)に星野恒が「武田晴信(信玄)が家臣に対し室町将軍足利義晴の偏諱である「晴」字を与えることは社会通念上ありえなかった」とも指摘している。 『甲陽軍鑑』巻九では天文16年に武田晴信が『甲州法度之次第』を定めた際に勘助の年齢を55歳としており、これに従うと生年は明応2年(1493年)となる平山(2006)、p.44。一方、『甲陽軍鑑』末書下巻下の「山本勘介うハさ。五ヶ条之事」によれば、勘助の生年を明応9年(1500年)としている。「五ヶ条之事」では勘助が本国を出て武者修行を行い、駿河で滞在し今川家に仕官を望み、甲斐へ移り武田家に仕官し、出家し川中島の戦いで戦死する一連の履歴の年齢を記しているが、これには矛盾が存在していることが指摘される。生年には、文亀元年(1501年)説もある。『甲陽軍鑑』によれば、没年は永禄4年( 1561年)9月10日の川中島の戦いで討死したとされる。 近世には武田二十四将に含められ、武田の五名臣の一人にも数えられて、武田信玄の伝説的軍師としての人物像が講談などで一般的となっているが、「山本勘助」という人物は『甲陽軍鑑』やその影響下を受けた近世の編纂物以外の確実性の高い史料では一切存在が確認されていないために、その実在について長年疑問視されていた。しかし近年は「山本勘助」と比定できると指摘される「山本菅助」の存在が複数の史料で確認されている「山本菅助」文書については後述。。.
岡山藩
後楽園と岡山城 岡山藩(おかやまはん)は、備前一国及び備中の一部を領有した外様の大藩である。藩庁は岡山城(備前国御野郡、現 岡山県岡山市北区)。ほとんどの期間を池田氏が治めた。国主、本国持。支藩に鴨方藩と生坂藩、また短期間児島藩があった。.
岩手縄美
岩手 縄美(いわて つなよし/つなみつ)は、戦国時代の武将。武田氏の一族。武田信玄の大叔父に当たる。「縄美」の読みは「つなみつ」である可能性が指摘される。.
川中島の戦い
川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。最大の激戦となった第四次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われたことから、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いと呼ばれる。.
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巨摩郡
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上原城
上原城(うえはらじょう)は、信濃国諏訪郡(現在の長野県茅野市茅野上原)にあった中世の日本の城(山城)。長野県指定史跡。上原城の支城として桑原城がある。.
上総国
上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。.
上野国
上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 常陸国・上総国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上野介であった類聚三代格。.
上野晴朗
上野晴朗(うえの はるお、1923年(大正12年)-2011年(平成23年)12月2日)は、日本の郷土史家・作家。山梨郷土研究会会員。.
上杉禅秀
上杉 禅秀(うえすぎ ぜんしゅう) / 上杉 氏憲(うえすぎ うじのり)は、室町時代前期の武将、守護大名。関東管領。禅秀は出家名。.
上杉禅秀の乱
上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)とは、室町時代の応永23年(1416年)に関東地方で起こった戦乱。前関東管領である上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に対して起した反乱である。禅秀とは上杉氏憲の法名。.
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上杉謙信
上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国の大名。関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。最強の戦国武将の1人といわれ、後世、軍神や越後の虎、越後の龍と称された。 越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として生まれ、初名は長尾 景虎(ながお かげとら)。1561年(景虎31歳)、関東管領・上杉憲政の養子となり山内上杉氏の家督を譲られ(「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられ)上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、上杉氏が世襲していた室町幕府の重職関東管領を引き継いだ。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)と名乗った。謙信は、さらに後に称した法号である。 内乱続きであった越後国を統一し、戦や政だけではなく、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に宿敵武田信玄との5回にわたる川中島の戦いはよく知られている。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大したが48歳で志半ばで死去した。兜は、飯綱明神前立鉄錆地張兜。謙信には実子がおらず、謙信の死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発した。 謙信は、「義」を重んじ、戦乱の世にあっても侵略のための戦いはしない一方、他国から救援を要請されると出兵し、「依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す」(私利私欲で合戦はしない。ただ、道理をもって誰にでも力を貸す)『白河風土記』と述べている。また、謙信が敵将武田信玄の領国甲斐が塩不足に苦しんでいるのを知り、塩を送った逸話から、「敵に塩を送る」という故事も生まれた。.
上杉景勝
上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権の五大老の一人。米沢藩の初代藩主。上杉宗家(山内上杉家)17代目で、同家16代目上杉謙信を家祖とする米沢上杉家2代目。 上田長尾家出身で、初名は長尾顕景。同じ長尾家出身の叔父・上杉謙信の養子となり、名を上杉景勝と改めた。実子のいない謙信の死後、上杉家の家督相続を争った御館の乱で勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となった。 豊臣秀吉に仕え、豊臣家五大老の1人として、会津藩120万石を領した。秀吉の死後、徳川家康が景勝討伐に向かい関ヶ原の戦いが幕開け。景勝は、石田三成ら西軍に付き敗北。戦後に、徳川家康から上杉氏の存続は許されたが米沢藩30万石へ減封となった。.
上洛
上洛(じょうらく)とは、主に京都に入ることを意味する言葉である。入洛とも言った。.
中巨摩郡
山梨県中巨摩郡の範囲(緑:昭和町 薄黄:後に他郡に編入された区域) 中巨摩郡(なかこまぐん)は、山梨県の郡。 。 以下の1町を含む。.
中先代の乱
中先代の乱(なかせんだいのらん)は、1335年(建武2年)7月、北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児時行が、御内人の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから中先代の乱と呼ばれている。また、鎌倉支配が20日余りしか続かなかったことから、廿日先代(はつかせんだい)の異名もある。.
常陸国
常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。.
丹後国
丹後国(たんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.
丹羽基二
丹羽 基二(にわ もとじ、1919年9月5日 - 2006年8月7日)は、日本の民俗学者、苗字・家紋研究家。イタリアのオリエンタル大学名誉教授、文学博士。日本家系図学会会長。.
丹羽長秀
丹羽 長秀(にわ ながひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。織田氏の宿老。朝廷より惟住(これずみ)の姓を賜ったので惟住長秀ともいう。羽柴越前守とも称した。.
布勢天神山城
布勢天神山城(ふせてんじんやまじょう)は因幡国高草郡(現在の鳥取県鳥取市湖山町南、布勢)にあった日本の城(丘城)で、戦国期の因幡国守護所とされる。布勢は布施とも表記される。.
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市川三郷町
市川三郷町(いちかわみさとちょう)は、山梨県西八代郡にある町。.
三好氏
三好氏(みよしし)は、日本の氏族の一つ。信濃源氏の一族で鎌倉時代の阿波守護・小笠原氏の支流。室町時代には阿波守護細川氏の守護代を務め、戦国時代に細川氏に対して下剋上を起こし、阿波をはじめとする四国東部のみならず畿内一円に大勢力を有し、三好政権を築いた。.
三上藩
三上藩(みかみはん)は、現在の滋賀県野洲市三上に存在した藩。藩庁は三上陣屋(城主格)。.
三韓征伐
三韓征伐(さんかんせいばつ)は、神功皇后が新羅出兵を行い、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる戦争を指す。神功皇后は、仲哀天皇の后で応神天皇の母である。経緯は『古事記』『日本書紀』に記載されているが、朝鮮や中国の歴史書にも関連するかと思われる記事がある。新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれるが、直接の戦闘が記されているのは対新羅戦だけなので新羅征伐と言う場合もある。吉川弘文館の『国史大辞典』では、「新羅征討説話」という名称で項目となっている。ただし三韓とは馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)を示し高句麗を含まない朝鮮半島南部のみの征服とも考えられる。.
三枝昌貞
三枝 昌貞(さいぐさ まささだ)は、戦国時代の武将。甲斐国武田氏の家臣で足軽大将。武田二十四将の一人に数えられる。 諱は「守友(もりとも)」とされてきたが、近年は確実な文書上の表記から「昌貞」であることが指摘される。.
三河国
三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部。.
一乗谷朝倉氏遺跡
一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだに あさくらし いせき)は、福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代の遺跡(日本の城)である。戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡。一乗谷城(山城)と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなる。 遺跡全体(面積278ヘクタール)が国の特別史跡で、そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定を受けている。.
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一蓮寺
一蓮寺(いちれんじ)は、山梨県甲府市太田町に所在する寺院。時宗系寺院(単立)で、山号は稲久山。一条道場。.
一色義貫
一色 義貫(いっしき よしつら)は、室町時代の武将、守護大名。丹後一色氏の当主。 室町幕府第4代将軍・足利義持より偏諱を受け、初めは父の1字と合わせて義範を名乗り、のち義貫と改名する。尚、上の「義」の字を与えられていることから、下の「持」の字を与えられた兄・持範、弟・持信に比べ、良い待遇を受けていたものと推測される。.
一色氏
一色氏(いっしきし)は、日本の氏族(武士)。清和源氏義国流で足利氏の一門。足利泰氏の子一色公深は、三河国吉良荘一色(愛知県西尾市一色町)を本貫とし、一色氏を名乗った。 室町幕府開府当初は九州探題として筑前国にあったが、後には侍所所司に任ぜられる四職の筆頭となり、また若狭国・三河国・丹後国などの守護職を世襲した。戦国時代にも丹後の大名として続いたが、安土桃山時代に至り細川藤孝・忠興らの侵攻によって滅亡した。 他に.
一条忠頼
一条 忠頼(いちじょう ただより)は、平安時代末期の武将。甲斐国山梨郡一条郷を領し、一条氏と名乗った。.
一条信龍
一条 信龍(いちじょう のぶたつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐国武田氏当主・武田信虎の八男(九男とする説もある 柴辻俊六 著『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.40)。武田信玄の異母弟。武田二十四将の1人。甲斐市川郷上野城(山梨県市川三郷町上野)主。.
一条信長
一条 信長(いちじょう のぶなが、生没年不詳)は、鎌倉時代中期の武将。 甲斐源氏武田氏の一族。武田信義の孫で、武田信光の次男。通称は武田六郎。または一条六郎。武田信長とも呼ばれる。同母兄は武田信政、生母は新田義重の娘という。子に一条頼長、一条信経。.
平安時代
平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.
幕末
幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.
京極高次
京極 高次(きょうごく たかつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期の武将、大名。若狭小浜藩の初代藩主。.
庶家
庶家(しょけ)とは、宗家ないし本家より別れた一族のことをいう。嫡流に対し庶流の家柄。主に日本の封建時代においてみられた血族集団である。分家、庶流、庶子家ともいう。なお、ときたま混同されるが、傍系とは、本家・分家とは無関係に、ある人物から見て共通の祖先のいる者たちを言う(例えば、兄弟姉妹、直系尊属の兄弟姉妹の子孫など)。.
二階堂氏
二階堂氏(にかいどうし)は公家、武家の一氏族。特に陸奥国の岩瀬郡を支配し須賀川城を居城とした戦国大名が著名。.
広島市
広島市(ひろしまし)は日本の広島県の都市。政令指定都市であり、同県の県庁所在地。中国地方の中南部、広島県西部(安芸国)に位置し、中国・四国地方で最大の人口を有する市でもある。.
今川氏
今川氏(いまがわうじ)は、日本の武家。本姓は源氏で、家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏御一家・吉良家の分家にあたる。吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有しており、斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあった。今川家はその分家として、駿河の守護に代々任命された。さらに遠江守護家も分流する。初期の分家である今川関口家は幕府の奉公衆であった。.
今井氏
今井氏(いまいし)は、日本の氏族の一つである。.
仁科信基
仁科 信基(にしな のぶもと 天正2年(1574年) - 元和9年(1623年))は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。通称は勝五郎。 仁科盛信の長男で母は武田信綱の娘とされ、武田信玄の孫。弟に仁科信貞、子に仁科盛忠。.
仁科信久
仁科信久(にしな のぶひさ、生没年不詳)は、仁科盛信の四男。母は福知新右衛門の娘。子に仁科信衡。 出自は清和源氏義光流武田支流。家紋は沢鶴。この系統は旗本として明治を迎え、大正期に大阪府に移住している。.
仁科盛信
仁科 盛信(にしな もりのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐国の戦国大名・武田信玄の五男。母は油川信守の娘で側室の油川夫人。 異母兄に武田義信・武田勝頼、同母の弟妹に葛山信貞・松姫(織田信忠婚約者)・菊姫(上杉景勝正室)がいる。信濃国安曇郡の国人領主である仁科氏を継承し、武田親族衆に列する。 勝頼末期に織田信長の甲州征伐に際して一族・重臣の逃亡や寝返りが続く中、高遠城において最後まで抵抗し、討死した。 諱は盛信のほか、近世の系図類・編纂物では「晴近」とする資料もあるが、信玄が将軍・足利義晴から授与された「晴」の偏諱を授与することは社会通念上ありえないことから、疑問視されている。また、天正9年(1581年)5月7日付霊松寺宛禁制や『甲乱記』では「信盛」とする用例があり、天正9年2月から同年5月の間に、高遠入城を契機に改名した可能性が考えられている。.
仁科氏
仁科氏(にしなうじ)は、日本の氏族。系統は仁品王系・皇極太子系・桓武平氏繁盛流(信濃平氏)・清和源氏・義光流・武田支流。また、清和源氏頼季流乙葉氏族の仁科氏もある。.
令旨
令旨(りょうじ)とは、律令制のもとで出された、皇太子・三后(太皇太后・皇太后・皇后)の命令を伝えるために出した文書。 中国(唐)では皇太子の命令を伝える文書を「令」といったが、それが日本に伝わり、日本では皇太子の命令を伝える文書を令旨といい、太皇太后・皇太后・皇后の出す文書もこれに準じた。平安時代中期以降は、皇太子・三后に加えて女院や親王などの皇族の命令も令旨と呼ばれるようになった。 歴史上有名な令旨としては、治承・寿永の乱(源平合戦)の際に諸国の源氏に挙兵を命じるために以仁王が発した「以仁王の令旨」があるが、これは皇太子でも親王でもない以仁王が命令の正統性を高めるためにあえて親王の身位を冒して発したもので、本来ならば王の命令書は「御教書」と呼ばれるべきものだった。 なお、天皇の命令を伝える文書に宣旨・綸旨などがある。.
以仁王
以仁王(もちひとおう、仁平元年(1151年) - 治承4年5月26日(1180年6月20日))は、平安時代末期の皇族。後白河天皇の第三皇子。「以仁王の令旨」を出して源氏に平氏打倒の挙兵を促した事で知られる。邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮、高倉宮と称された。.
延徳
延徳(えんとく)は、日本の元号の一つ。長享の後、明応の前。1489年から1491年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義尚、足利義材。.
建武の新政
建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。 名は、翌年の元弘4年/建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。近年の歴史学では「建武政権」という表現もある。後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。.
伊豆大島
伊豆大島(いずおおしま)は、伊豆諸島北部に位置する伊豆諸島最大の島。本州で最も近い伊豆半島からは南東方約25kmに位置する。大島と名のつく島は日本各地にあるが、国土地理院では伊豆大島と表記する。面積は91.06km2。行政区域は、東京都大島町である。.
伊豆国
伊豆国(いずのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
伴繁清
伴/武田 繁清(とも/たけだ しげきよ)は、戦国時代の武将。安芸武田氏の一族で、武田元繁の子とも弟とも、娘婿とも言われている。.
住吉大社
住吉大社(すみよしたいしゃ)は、大阪府大阪市住吉区住吉にある神社。式内社(名神大社)、摂津国一宮、二十二社(中七社)の1つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 全国にある住吉神社の総本社である。本殿4棟は国宝に指定されている。.
佐和山城
佐和山城(さわやまじょう)は、中世中期から近世初期にかけて、近江国坂田郡(現・滋賀県彦根市)の佐和山に存在した日本の城(山城)である。現・佐和山城址。 坂田郡および直近の犬上郡のみならず、織豊政権下において畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも重要な拠点であり、16世紀の末には織田信長の配下の丹羽長秀、豊臣秀吉の奉行石田三成が居城とし、関ヶ原の合戦後は井伊家が一時的に入城したことでも知られる。.
佐東銀山城
佐東銀山城(さとうかなやまじょう)は、安芸国佐東郡(現在の広島市安佐南区)にあった日本の城(山城)である。.
影印本
影印本(えいいんぼん)とは、底本(通常は古い時代の貴重な書物)を写真撮影し、それを原版にしてオフセット印刷などの方法によって印刷した「複製本」のこと。景印本あるいは影印とも言う。 底本が書かれた当時の絵や文字をそのまま参照することができ、また、複製による新たな誤植や書き換えの生じる恐れが無いため、専ら研究用の資料として使用される。 木版印刷によって複製した場合は、覆刻本と呼ばれて区別される。また、複製本に限らないが、活字を用いて印刷した本は排印本あるいは鉛印本と呼ばれる。 底本は印刷本でも書写本でも関係なく、その複製本の寸法は原寸通りに再現されていなくてもよい。ただし、原本よりも縮刷されるのは構わないが、拡大印刷を行うことは好まれない。.
御家人
御家人(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の家人の身分を指す語であるが、中世と近世では意味合いが異なる。.
徳川家康
徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.
徳川将軍家
徳川将軍家の略系図 徳川将軍家(德川將軍家、とくがわしょうぐんけ)は、江戸幕府の征夷大将軍を世襲した徳川氏の宗家(徳川宗家、とくがわそうけ)。明治維新後の1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられて徳川公爵家となった。華族制度廃止後は、単に徳川宗家と呼ばれる。.
徳川氏
徳川氏(とくがわし/とくがわうじ、)は、徳川家康が創始した日本の氏族。新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称した際に嘉字を用いて徳川と称したことが始まりとなり、江戸幕府将軍家と親族の家名とした。しかし『徳川家譜』に記される家系に関しては『尊卑分脈』の該当記録に似通った流れはあるものの、当代史料による検証がならず、得川氏と家康の家系との同一性は実証できていない。.
徳川斉昭
茨城県水戸市の千波公園にある徳川斉昭と息子の七郎麿(後の将軍徳川慶喜)の像 徳川 斉昭(とくがわ なりあき)は、江戸時代後期の大名(親藩)。常陸水戸藩の第9代藩主。江戸幕府第15代(最後)の将軍・徳川慶喜の実父である。.
後北条氏
後北条氏(ごほうじょうし/ごほうじょううじ、旧字体表記:後北條氏)は、関東の戦国大名の氏族。本姓は平氏。家系は武家の桓武平氏伊勢氏流。室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる「北条早雲」こと伊勢盛時(1432年/1456年 - 1519年)をその祖とする。正式な名字は「北条(北條)」だが、代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏とは傍系の遠い血縁関係にあるとされるものの直接の後裔ではないことから、後代の史家が両者を区別するため伊勢氏流北条家には「後」を付して「後北条」と呼ぶようになった。また居城のあった相模国小田原の地名から小田原北条氏(おだわら ほうじょうし/おだわら ほうじょううじ)あるいは相模北条氏とも呼ばれる。最大時(氏政)には関八州で240万石の一大版図を支配していた。 通字は「氏(うじ)」。代々の家督は御本城様(ごほんじょうさま)と呼ばれ、「祿壽應穏(禄寿応穏)」と刻銘された「虎の印章」を使用した。これは「禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし、領民全ての禄を寿を北条氏が守っていく」という政治宣言であった。 近代には、初代・早雲(盛時)の素性が伊勢の素浪人と誤認され、下克上を初めて現実のものとして伊豆一国の主となり、そこから戦国大名にまでのし上がったとされていたが、後述のように近年の研究で否定されている。.
後冷泉天皇
後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう、万寿2年8月3日(1025年8月28日) - 治暦4年4月19日(1068年5月22日))は、日本の第70代天皇(在位:1045年 - 1068年)。後朱雀天皇の第一皇子。母は藤原道長女藤原嬉子(贈皇太后)。諱を親仁(ちかひと)。紫式部の娘大弐三位が乳母である。.
後醍醐天皇
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.
信濃国
信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.
応安
応安(おうあん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。貞治の後、永和の前。1368年から1374年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇、後円融天皇。南朝方が長慶天皇。室町幕府将軍は足利義満。.
応仁
応仁(おうにん)は、日本の元号の一つ。文正の後、文明の前。1467年から1468年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政。.
応仁の乱
応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.
志田諄一
志田 諄一(しだ じゅんいち、1929年(昭和4年) - 2011年(平成23年)12月21日、82歳没)は、日本の歴史学者、史学博士、茨城キリスト教大学名誉教授、元日立市郷土博物館館長、日本古代史・古代中世氏族研究の研究者。 茨城県文化財保護審議会委員を務め、茨城キリスト教大学長、県教育委員長を歴任。 2005年(平成17年)、瑞宝中綬章を受章した。 現在では、1968年に志田諄一が『勝田市史』において発祥を清光(新羅三郎義光)の三男(次男とも)である源義清が常陸国那珂郡武田郷を本貫として武田姓を名乗ったとする説が提唱され、以来定説として支持されている。.
土屋昌続
土屋昌続戦死之地(愛知県新城市) 土屋 昌続(つちや まさつぐ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。諱については『甲斐国志』等で「昌次」としていて土屋昌次の名で知られているが、文書上では「昌続」であることが史料的に確認されている。.
土佐国
土佐国(とさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.
土豪
土豪(どごう)とは、広義には広域を支配する領主や在地の大豪族に対して、特定の「土地の小豪族」を指す。 土豪という用語は、室町・戦国期に頻出する歴史用語であるが、大和朝廷時代の歴史用語として、地方首長である国造層を指す語としても使用されている。 下記は日本、特に中世期の土豪を中心とした説明である。.
地下家
地下家(じげけ)は、昇殿が許されない廷臣の家格。江戸時代には約460余家あった。.
地下家の一覧
地下家の一覧(じげけのいちらん) 地下家の大半は明治に入り士族となった(ごく一部は華族に列し男爵を賜わる)。.
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北前船
北前船(きたまえぶね)とは、江戸時代から明治時代にかけて日本海海運で活躍した、主に買積みの北国廻船(かいせん)の名称コトバンク。買積み廻船とは商品を預かって運送をするのではなく、航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。当初は近江商人が主導権を握っていたが、後に船主が主体となって貿易を行うようになる。上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)及び、この航路を行きかう船のことである。西廻り航路(西廻海運)の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地(北海道・樺太)にまで延長された。.
北辰一刀流
開祖 千葉周作平成政 坂本龍馬 北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)は、江戸時代後期に千葉周作成政(屠龍)が創始した剣術と薙刀術の流派。.
北条氏綱
北条 氏綱(ほうじょう うじつな)は、戦国時代の武将、戦国大名。後北条氏第2代当主。 伊豆国・相模国を平定した北条早雲(伊勢盛時)の後を継いで領国を武蔵半国、下総の一部そして駿河半国にまで拡大させた。また、「勝って兜の緒を締めよ」の遺言でも知られる。 当初は父同様に伊勢氏を称しており、北条氏を称するようになるのは父の死後の大永3年(1523年)か大永4年(1524年)からである。父の早雲は北条氏を称することは生涯なく、伊勢盛時、伊勢宗瑞などと名乗ったが、後北条氏としては氏綱を2代目と数える。なお、氏綱以降の当主が代々通字として用いることとなる「氏」の字は、早雲の別名として伝わる「長氏」・「氏茂」・「氏盛」の偏諱に由来するものと考えられるが、氏綱の元服時に父はまだ今川氏の姻族・重臣であったことから従兄である今川氏当主・今川氏親からの偏諱として与えられたとのではないかとする説がある。.
北条時行
北条 時行(ほうじょう ときゆき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。 鎌倉幕府最後の得宗北条高時の遺児。北条氏復興のため、鎌倉幕府の残党を糾合して中先代の乱を引き起こし、一時鎌倉を奪還した。その後、後醍醐天皇から朝敵を赦免されて南朝方の武将として戦い、武蔵野合戦で再び鎌倉を奪還したが、遂には足利方に捕らえられ処刑されたと伝わる。.
北杜市
北杜市(ほくとし)は、山梨県の北西部に位置する市である。山梨県内の自治体として最北端にあたる。.
北海道
北海道(ほっかいどう)は、日本の北部に位置する島。また、同島および付随する島を管轄する地方公共団体(道)である。島としての北海道は日本列島を構成する主要4島の一つである。地方公共団体としての北海道は47都道府県中唯一の「道」で、道庁所在地は札幌市。.
分国
分国(ぶんこく)とは、日本の中世における1国の単位。平安時代の知行国にあたる。 平安時代中期以降の上皇や法皇、皇族の所領となった院宮御分国、源頼朝の知行国である関東御分国、南北朝時代以降の守護大名の知行した領国などが当たる。 戦国時代には、戦国大名は領内を対象とした分国法を制定して統治。 Category:行政区画の単位 ふんこく.
分郡守護
分郡守護(ぶんぐんしゅご)とは、室町時代に国ごとに置かれた守護とは別に郡単位で設置された守護のこと。ただし、近年その存在を否定する新説も出されている(後述)。 本来であれば、国ごとの守護にその国が属する全ての郡の支配権が与えられるの原則になっていたが、当該国の守護の牽制などを目的として一部の郡を切り離して分郡として、他の者を守護に任じたとされる。 分郡の守護にはその郡が隣接する他の国の守護大名やその守護家の庶流、将軍の側近(守護家の庶流出身者が多い)や幕府機関の頭人(長官)を務める評定衆などが起用された。 代表的な例として、摂津国では本来の守護である細川氏京兆家以外に最大6名の分郡守護が置かれたとされ、中でも有馬郡を支配した赤松氏庶流の有馬氏は戦国時代末期まで支配を維持した。他にも大和国宇智郡を支配した畠山氏、尾張国知多郡および三河国渥美郡を支配した一色氏、遠江国の東側3郡の支配を認められた今川氏などが知られ、戦国時代に入るまで守護が設置されなかった陸奥国では郡検断奉行が分国守護の役目を果たしたとされている。 だが、2013年に山田徹が分郡守護の存在を否定する論文を発表して注目されている。山田説の特徴としては、これまで分郡守護としてみなされてきた事例は領主が郡単位で知行しているだけに過ぎず、国の守護の権限が及ばなかったためにあたかも守護権が分割されているように見えるだけの現象であり、更に実際には分郡に対してもその国の守護が遵行権を行使している事例も確認できるために分郡の領主が守護の権限を排除出来ていないことを指摘して、「分郡守護」という概念は分郡支配の実態を反映しておらず、当時の文書にも実際に登場する「郡主」を用いるのが適切であるとしている。.
切腹
切腹(せっぷく)は、自分の腹部を短刀で切り裂いて死ぬ自殺の一方法。腹切り(はらきり)・割腹(かっぷく)・屠腹(とふく)ともいう。主に武士などが行った日本独特の習俗。 外国でも日本の風習としてよく知られ、hara-kiriやseppukuとして辞書に載っている。.
周防国
周防国(すおうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.
和名類聚抄
和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。承平年間(931年 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。略称は和名抄(わみょうしょう)。.
備前国
備前国(びぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.
円光院 (甲府市)
円光院(えんこういん)は、山梨県甲府市岩窪町にある寺院。臨済宗妙心寺派寺院。山号は瑞岩山。本尊は釈迦如来。戦国期に武田信玄が制定した甲府五山のひとつで、信玄正室三条夫人の菩提寺として知られる。.
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内藤昌豊
内藤 昌豊(ないとう まさとよ)は、戦国時代の武将。武田氏の家臣で武田四天王の一人。「内藤昌豊」の名で伝わるが、1977年に服部治則は正しい実名は「内藤 昌秀(まさひで)」であると指摘している。.
写本
13世紀ヨーロッパの彩色写本 写本(しゃほん、Manuscript)とは、手書きで複製された本や文書、またはその行為そのものを指して示す用語。時に、原本(オリジナル)である正本(しょうほん・せいほん)と対応させて、それを書き写した書写本であることを強調するために用いられることもある。.
出雲国
出雲国(いずものくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.
入間田宣夫
入間田 宣夫(いるまだ のぶお、1942年3月31日 - )は、日本の歴史学者、東北大学名誉教授。専門は、日本中世史。.
八代郡 (甲斐国)
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八ヶ岳
八ヶ岳(やつがたけ、八ケ岳とも表記される)は、山梨県と長野県に跨る山塊。南北30 km余りの山体で、大火山群である。深田久弥が選定した日本百名山の一つ。 「八ヶ岳」は特定の一峰を指して呼ぶ名前ではなく、山梨・長野両県に跨る山々の総称であるが、その範囲は「夏沢峠以南のいわゆる南八ヶ岳のみ」「南八ヶ岳及び北八ヶ岳の領域(蓼科山を除いた領域)」「蓼科山まで含んだ八ヶ岳連峰全体」など様々な定義がある。日本百名山でいう八ヶ岳は南八ヶ岳のみを指す。 「八ヶ岳」の由来は、「八百万」などと同じように、山々が多く連なる様子から「たくさん」という意味で「八」としたとも、幾重もの谷筋が見える姿から「谷戸(やと)」にちなんで名づけられたとも、文字通り八つの峰に見えるからとも、複数のいわれが存在する。.
元寇
元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時中国大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。 特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の艦隊であった村井章介『北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む』日本放送出版協会 2001年 126頁。 主に九州北部が戦場となった。.
元弘
元弘(げんこう)は、日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年から1333年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.
元弘の乱
元弘の乱(げんこうのらん)は、元弘元年(1331年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府倒幕運動である。元弘3年/正慶2年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱を含めることも多い。以下では1331年から1333年までの戦乱について述べる。元弘の変(げんこうのへん)とも呼ばれる。.
前九年の役
前九年の役(ぜんくねんのえき)は、平安時代後期の陸奥国(東北地方)で起こった戦争である。.
剣術
剣術(けんじゅつ)は、日本における刀剣(日本刀)で戦う武術である。.
勝山記
河口湖と富士山 勝山記・妙法寺記(かつやまき・みょうほうじき)は、戦国時代の年代記。甲斐国(山梨県)の河口湖地方を中心とした富士山北麓地域の年代記。.
勝沼信友
勝沼 信友(かつぬま のぶとも)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の一族で、武田信虎の同母弟。武田信玄(晴信)の叔父にあたる。.
因幡国
因幡国(いなばのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.
因幡民談記
『因幡民談記』(『稲葉民談記』、『稲場民談記』、いなばみんだんき)は、因幡国に関するものとしては最古とされる史書である。1688年(貞享5年・元禄1年)に完成し、8部10巻からなる。原本は焼失して現存しないが写本が複数伝えられている。.
国人
国人(こくじん、くにびと、くにゅうど)とは、広くその国の国民、住民のこと大辞泉(小学館)。 六国史(日本後紀および三代実録)において国衙領の国民または住民を指す言葉として用いられ、越前国人、大和国人、河内国人などが見える日本後紀三代実録。 また、国人領主(こくじんりょうしゅ)は中世の史料において、在京の名目上の領主である中央官吏に対して在地の実質上の領主を指す言葉として用いられ(国人領主制)、国衆(くにしゅう)や在国衆(ざいこくしゅう)とほぼ同義ないし明確な違いは無い。.
国府台合戦
国府台合戦(こうのだいかっせん)は、戦国時代に下総国の国府台城(現在の千葉県市川市)一帯で北条氏と里見氏をはじめとする房総諸将との間で戦われた合戦である。天文7年(1538年)の第一次合戦と永禄6年(1563年)と7年(1564年)の第二次合戦に大別される(「第二次合戦」は近年まで同じ国府台で行われた2回の合戦を同一の合戦のものと誤解されてきたために1個の合戦として扱われている)。.
国衙
国衙(こくが)は、日本の律令制において国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画である。 国衙に勤務する官人・役人(国司)や、国衙の領地(国衙領)を「国衙」と呼んだ例もある。 各令制国の中心地に国衙など重要な施設を集めた都市域を国府、またその中心となる政務機関の役所群を「国衙」、さらにその中枢で国司が儀式や政治を行う施設を国庁(政庁)と呼んだ。.
国造
国造(くに の みやつこ・こくぞう・こくそう)は、古代日本の行政機構において地方を治める官職のこと。また、その官職に就いた人のこと。軍事権、裁判権などを持つその地方の支配者であったが、大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった。 訓の「みやつこ」とは「御奴(ミヤツコ)」または「御家つ子」の意味とされる。.
皇別
皇別(こうべつ)もしくは王孫(おうそん)とは、王家や帝家、とりわけ日本の皇室の一門の中で臣籍降下した分流・庶流の氏族を指す言葉である。皇室同様男子血統でつながらなければならない。皇別とは弘仁6年(815年)に朝廷が編纂した古代氏族の系譜集『新撰姓氏録』が、皇別(天皇・皇子の子孫)・神別(天津神・国津神の子孫)・諸蕃(朝鮮半島・中国大陸その他から渡来した人々の子孫)の3種に氏族を分類していることにちなむ用語である。江戸時代以降は王孫という呼び名も用いられた。.
磯貝正義
磯貝 正義(いそがい まさよし、1912年5月25日 - 2008年7月25日)は、日本の歴史学者。山梨大学名誉教授。山梨県立考古博物館初代館長、武田氏研究会会長、山梨県史編さん委員会委員長。.
神功皇后
功皇后(じんぐうこうごう、成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は、仲哀天皇の皇后。『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は天日矛(あめのひぼこ)裔・葛城高顙媛。応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫あり。 三韓征伐を指揮した逸話で知られる。.
秋山虎繁
秋山 虎繁(あきやま とらしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐国武田氏家臣で譜代家老衆。武田信玄・武田勝頼期に活動が見られる。武田二十四将にも数えられる。 諱は『甲斐国志』による「信友(のぶとも)」や、近世の軍記物に拠る「春近(はるちか)」「晴近(はるちか)」「信近(のぶちか)」とする説もあったが、近年は『戦国遺文』『山梨県史』の編纂事業に伴う文書調査によって武田家臣の実名の確定作業が行われ、確実な諱は署判部分の写により「虎繁」であることが指摘されている。「虎」は武田信虎からの偏諱であると考えられている。また、実名の誤伝のうち「晴近」は虎繁の同心である「春近衆」が訛伝したと考えられている。.
秋山敬
秋山敬(あきやま たかし、1946年(昭和21年) - 2011年(平成23年)5月23日)、は、日本の都道府県職員・歴史学者。専門は日本中世史。武田氏研究会会長、山梨郷土研究会常任理事、山梨県文化財保護審議会・有形文化財部会長などを務める。.
穴山信君
山 信君(あなやま のぶただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏の家臣で御一門衆の一人。穴山氏7代当主。 壮年期(永禄8年頃)に剃髪して梅雪斎不白と号したので、穴山 梅雪(あなやま ばいせつ)の名でも知られる。後代には武田二十四将の一人に含まれており、南松院所蔵本では信玄の傍らに配置されている。信玄末期より仕え勝頼期にも重臣として仕えたが、織田信長の甲州征伐が始まると武田氏を離反した.
穴山勝千代
山 勝千代/武田 信治(あなやま かつちよ/たけだ のぶはる)は、安土桃山時代の武士。武田信玄の外孫にあたる。「勝千代」は幼名で名は「信治」とされるが、確実な史料からは確認できない。穴山氏、甲斐武田氏当主。.
穴山氏
山氏(あなやまし)は、武田氏一族で甲斐国の国人領主。家紋は三つ花菱。戦国時代末期まで甲斐南部の河内地方(現在の西八代郡と南巨摩郡の一帯)を領して甲斐国内で領域権力を及ぼした勢力の一つ。婚姻や養子縁組で代々武田宗家と姻戚関係を結んで甲斐武田勢の重臣となり、甲州征伐で宗家が滅亡した後はその名跡を継承して武田氏を名乗った。.
穴山満春
山 満春(あなやま みつはる、生没年不詳)は、室町時代の武将。武田氏の一族。四郎。受領名は信濃守、官途名は修理大夫。『卜部本武田系図』『若州武田系図』では「信秋」、別名は「信元」(『浅羽本武田系図』。「満春」は『武田源氏一統系図』に見られる名で渡邉(2007)、p.226、はじめは穴山姓であったと考えられている。父は武田信春。武田系図類では次男、『甲斐国志』では末子としている。兄に信満、弟に下条信継、市部信久、吉田成春、観音寺遠大西堂、法弥陀仏(一蓮寺住持)、姉妹に上杉禅秀正室、小笠原長基正室、武田信繁室などがいる。.
笹本正治
笹本 正治(ささもと しょうじ、1951年(昭和26年)12月19日 - )は、日本の歴史学者。前信州大学人文学部教授・副学長。2016年4月1日から長野県立歴史館長。専攻は日本の中世史・近世史。.
箕輪城
箕輪城(みのわじょう)は、群馬県高崎市箕郷町にあった日本の城(平山城跡)で、国の史跡に指定されている。日本100名城の一つ。.
系図
系図(けいず)は、ある一族の代々の系統を書き表した図表。系譜(けいふ)ともいうが、系譜と言った場合は血縁関係のみならず、学芸の師匠から弟子への師承関係を表した図表をいう場合も多い。特定の家の家督相続の継承の系統(家系)を記した系図は家系図(かけいず)、家譜(かふ)ともいう。.
細川氏
細川氏(ほそかわし)は、本姓は源氏、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏の名門足利氏の支流。名字は鎌倉時代に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことに由来する。 南北朝時代に足利尊氏に従って発展し、嫡流は室町幕府の管領家に列する有力守護大名となる。また江戸時代には、傍流から肥後熊本藩54万石の藩主家を出した。.
網野善彦
網野 善彦(あみの よしひこ、1928年(昭和3年)1月22日 - 2004年(平成16年)2月27日)は、日本の歴史学者。専攻は中世日本史。.
織田信長
織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.
織田長裕
織田 長裕(おだ ながひろ、生没年不詳)は、江戸時代の旗本。高家旗本織田長孺の次男。生母は南部信依の娘。通称は仁作、専次郎。官位は従五位下侍従・淡路守。 天保6年(1835年)12月10日、父長孺の隠居により家督を相続する。天保11年(1840年)7月20日高家職に就任、従五位下侍従・淡路守に叙任する。嘉永7年(1854年)10月9日、病気を理由に高家職を辞任する。高家末席に列する。安政2年(1855年)3月26日隠居し、息子信真に家督を譲る。 正室は毛利高標の娘。継室は田村村資の次女常子(離婚)。息子は信真、鐡之丞。 なかひろ Category:江戸幕府旗本 Category:生年不明 Category:19世紀没.
織田氏
家紋あげはちょう'''揚羽蝶''' 織田氏(おだし)は、日本の氏族・武家。斯波氏の家臣の家柄。家紋は揚羽蝶、織田木瓜など。通し字は嫡流・伊勢守家の「広」、大和守家の「定」、後に近世大名となる弾正忠家の「信」など。.
美作国
美作国(みまさかのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.
美濃国
美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.
羽織
羽織 羽織(はおり)は、丈の短い着物の一種 特許庁。防寒・礼装などの目的から、長着・小袖の上にはおって着る。室町時代後期頃から用いられたが、現在のような形が一般的になったのは近世に入ってからである。 動詞「はおる」の連用形が名詞化したものが語源で、羽織は当て字。.
羽曳野市
羽曳野市(はびきのし)は、大阪府南河内地域に位置する市。ぶどう栽培が盛ん。また古墳などの古代史跡の多い地としても知られる。本項では市制前の名称である南大阪町(みなみおおさかちょう)、市制当日の名称である南大阪市(みなみおおさかし)についても述べる。.
真田幸隆
真田 幸隆 / 幸綱(さなだ ゆきたか / ゆきつな)は、戦国時代の武将。信濃の在地領主で、甲斐国の戦国大名である武田氏の家臣。息子三人と共に、武田二十四将にも数えられる。 幼名は次郎三郎、通称は源太左衛門、剃髪して一徳斎と号す。諸系図では幸隆と記されるが、確実な同時代史料においては幸綱と記され、また子に“隆”を通字とする者がまったく居ない事などから、永禄5年頃までは幸綱と名乗り、幸隆は晩年に改めたものであると考えられている。「幸隆」の名に関して、『高野山蓮華定院過去帳』では一徳斎の道号に伴い「一徳斎幸隆」と記されており、道号は原則として音読みされることから、「幸隆」の読みは「こうりゅう」であるとも考えられている 出身は信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失うが信濃に侵攻した武田晴信に仕えて旧領を回復。以後も武田家の信濃先方衆として活躍し、後の真田氏の礎を築いた。.
真田信尹
真田 信尹(さなだ のぶただ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。真田幸綱(幸隆)の四男。後に松代藩となる大名・真田家とは別に分家である旗本真田家を興した。真田昌幸の実弟である。.
真田信綱
真田 信綱(さなだ のぶつな)は戦国時代の武将。武田信玄、勝頼の2代に仕える。幼名は源太。官途は左衛門尉。武田家の騎馬200騎持の侍大将。武田二十四将にも数えられる。.
真田氏
真田氏(さなだし)は、信濃国の豪族として興った氏族である。.
真田昌幸
真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。 甲斐国の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。 軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像として現在でもよく知られ、武田二十四将の一人にも数えられることがある。子に真田信之(上田藩初代藩主)、真田信繁(真田幸村)ほかがいる。.
真田昌輝
真田 昌輝(さなだ まさてる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田家の家臣。 甲斐武田家の騎馬50騎持の侍大将。父は真田幸隆で次男。同母兄に信綱、同母弟に昌幸、信尹らがいる。幼名を徳次郎。兵部丞、兵部少輔。名は信輝とも。武田二十四将にも数えられる。長篠合戦で奮戦するも戦死した。.
真里谷城
真里谷城(まりやつじょう/まりがやつじょう)は、現在の千葉県木更津市真里谷にあった日本の城(山城)である。真里谷城址は房総丘陵の山中の周囲の峰々と比較しても高い位置(海抜161m)にあり、現在、木更津市立少年自然の家(キャンプ場)として利用されている。 上総武田氏の祖武田信長が築城したとされており、真里谷城と庁南城(長南町)を拠点として上総国一帯に勢力を広げ、真里谷武田氏の政治・軍事的拠点としての役割を果たすが、1590年の小田原征伐の際に廃城となる。.
真里谷信応
真里谷 信応(まりやつ のぶまさ、永正12年(1515年) - 天文21年11月7日(1552年11月22日))は、戦国時代の上総国の戦国大名。本姓は源氏。清和源氏の一家系、河内源氏の庶流、甲斐源氏武田氏の傍系にあたる。上総武田氏、または真里谷氏という。真里谷恕鑑(信清)子、真里谷信高の父。.
真里谷信勝
真里谷 信勝(まりやつ のぶかつ、? - 大永3年(1523年))は、戦国時代の武将。真里谷城の城主。 上総武田氏の真里谷武田家当主。真里谷信興の子。別名は信嗣。通称は八郎五郎。官職は式部丞・式部大夫・三河守。法号は全舜・三河入道。真里谷恕鑑(信清)、真里谷全方、女子(簗田政助室)、女子(三浦義意室、異説あり)の父。 真里武田家は上総武田氏の一家で、長南(庁南)武田家とは武田信長を祖とする同族である。信勝は信長の曾孫にあたる。父の信興の没年は永正8年(1511年)であると伝わるが、それ以前から信勝が当主として活動している。 同族の武田宗信(庁南家)と共に三上氏や原氏と抗争した。千葉氏の後ろ盾を持つ原氏と対抗するため、1517年に古河公方第2代足利政氏の子である空然を擁立し、原氏の居城である小弓城を奪取し、城主の原胤隆や一族の原友胤・原虎胤父子を追放した。空然は還俗し足利義明と名乗り、小弓公方を称した。その後古河公方第3代の足利高基が攻め寄せてくるとこれと戦った。 以上の小弓公方擁立事件の際の真里谷武田家の中心人物は信勝とも子の信清であったともされている。.
真里谷信隆
真里谷 信隆(まりやつ のぶたか、? - 天文20年8月2日(1551年9月2日)『真里谷殿位牌継図』)は、上総国の戦国大名。上総武田氏(真里谷家)の一族。真里谷恕鑑(信清)の子(庶長子)。峰上城、造海城、椎津城城主。通称は、八郎太郎。祥山全吉。兄弟に、真里谷全鑑(武田大夫?)、弟に真里谷信応がいる。子に真里谷信政。.
真里谷信興
真里谷 信興(まりやつ のぶおき、永享5年(1433年)? - 永正8年6月24日(1511年7月28日))は、室町時代・戦国時代の大名。上総武田氏の武田信長の孫、武田信高(伊豆千代丸?)の子。真里谷信勝、真里谷信清の父。真里谷城城主。通称は八郎五郎。官位は三河守。法号は道鑑。 祖父の信長は元々甲斐武田氏出身だったが、享徳の乱の混乱に乗じ、古河公方に味方し、元々上杉氏の領国であった上総に勢力を築くことに成功し、上総武田氏の祖となった。後に信長は子の信高を庁南城に置き、自身は真里谷城に孫の信興と共に拠り、真里谷家を興した。信興の事蹟は祖父信長の在世時から確認されており、1462年、『飯富宮梵鐘銘』の銘文にある「三河守清嗣」に比定されている。1464年には真如寺の開基にもなったという。 祖父と父が亡くなった後は、弟の武田道信(庁南家)と共に上総の両武田と称される存在であったという(『鎌倉大草紙』)。1479年には扇谷上杉家の太田道灌が千葉自胤を擁立し、千葉孝胤など古河公方側の将を討伐するため上総に侵攻し、上総武田氏も攻撃を受けた。信興は庁南家の道信と共に抵抗したものの、道灌の攻勢の前に降参を余儀なくされたが、後に道灌の勢力が衰え、自胤が武蔵に撤退し勢力を保つことができた。 永正8年(1511年)に死去。戒名は真如寺殿照堂道鑑大居士。.
真里谷信政
真里谷 信政(まりやつ のぶまさ、?-天文21年11月4日(1552年11月19日))は、戦国時代の武将。房総半島を拠点とする真里谷武田家の一族。真里谷信隆の子。上総国造海城、椎津城城主。娘に上杉義勝(足利義勝)室がいる(宮原義照、義久の母)。 父の信隆が叔父の真里谷信応と家督を争い相模の後北条氏と結んで蜂起したときは、造海城を任され峰上城に拠った父を支援した。小弓公方足利義明の介入により劣勢になった信隆が峰上城を放棄し造海城に逃れてきたが、里見義堯が攻め寄せてきたため、百首の和歌を詠むことを条件に開城に応じ、後北条氏を頼って武蔵国に逃れたという。このとき、信政は父と行動をともにしたと思われる。 第一次国府台合戦により北条氏綱に敗れた義明が戦死すると、信応の勢力も弱まり、父の信隆は上総に復権を果たし、椎津城に拠った。まもなく、真里谷一族の内紛は再発し、後北条氏と里見氏が支援を名目に上総に介入するようになり、真里谷家は勢力を弱めていった。 1551年、父の信隆が死去する。1552年、後北条氏の北条氏康は里見氏に対抗するため信政と万喜城の土岐氏を味方にしようと画策したが、里見氏の里見義堯はこれに反発し、正木時茂に命じて信政を攻撃、土岐氏も里見氏に呼応した。信政は叔父の信応の支援を得たものの敗れ、椎津城内で自刃。3日後には叔父・信応も討たれたという。これにより、真里谷武田家は没落の色を深めた。.
真里谷全方
真里谷 全方(まりやつ ぜんほう、? - 天文18年2月3日(1549年3月2日)?)は、戦国時代の人物。真里谷氏(上総武田氏)の一族。真里谷信勝(信嗣)の子。真里谷恕鑑(信清)の弟。出家後は全方(全芳)、心盛斎を名乗った。大学頭。真里谷義信の父。 実名は不明だが、信保ではないかと推測されている。信秋とする場合もある。 1534年、兄である怒鑑の死後に、その嫡子の真里谷信応と庶長子の真里谷信隆との間で家督争いが起きたが、全芳は信応を補佐し活躍、1537年に家督騒動は信応の勝利で終結した。里見義堯の仲介により、信隆に味方した北条氏綱と和解し、信隆の居城であった峰上城が全芳に預けられたという。以後、信応の補佐役として小弓公方との交渉にあたった。確かな史料においては1542年以降の動静は明らかではない。法名は源松であると推測されている。義信という名の子がおり、佐貫城主となっている。.
真里谷恕鑑
真里谷 恕鑑(まりやつ じょかん、? - 天文3年7月1日(1534年8月10日))は、上総国の戦国大名。真里谷武田氏(上総武田氏の一族)の当主。真里谷信勝(信嗣)の子。真里谷全方(信保、信秋)、女子(三浦義意妻)の兄(異説あり)。真里谷全鑑?、真里谷信隆、真里谷信応の父。八郎五郎、式部丞、式部大夫、三河守。法名は寿里庵恕鑑又は円邦恕鑑。.
真里谷朝信
真里谷 朝信(まりやつ とものぶ、生年不詳 - 天文13年8月7日(1544年8月25日))は、戦国時代の人物。真里谷武田家(上総武田氏)の一族。上総小田喜城(後の大多喜城)の城主。.
結城合戦
結城合戦(ゆうきかっせん)は、永享12年(1440年)に関東地方で起こった室町幕府と結城氏ら関東の諸豪族との間の戦いである。.
田中義成
中 義成(たなか よしなり、安政7年3月15日(1860年4月5日) - 大正8年(1919年)11月5日)は、国史学者。.
甲州征伐
州征伐(こうしゅうせいばつ)は、1582年(天正10年)、織田信長とその同盟者の徳川家康、北条氏政が長篠の戦い以降勢力が衰えた武田勝頼の領地である駿河・信濃・甲斐・上野へ侵攻し、甲斐武田氏一族を攻め滅ぼした一連の合戦である。武田征伐とも言われる。.
甲府駅
| 甲府駅(こうふえき)は、山梨県甲府市丸の内一丁目にある東日本旅客鉄道(JR東日本)、東海旅客鉄道(JR東海)の駅である。.
甲陽軍鑑
『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)は、甲斐国の戦国大名である武田氏の戦略・戦術を記した軍学書である。本編20巻全59品(59章)、末書2巻。武田信玄・勝頼期の合戦記事を中心に、軍法、刑法などを記している。.
甲斐国
斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
甲斐国志
斐国志(かいこくし)は、江戸時代の地誌。文化11年(1814年)に成立。 甲斐国(山梨県)に関する総合的な地誌で、全124巻。編者は甲府勤番の松平定能(伊予守)。1914年(大正4年)に若尾謹之助により編纂か企図された民間の修史事業である『山梨県志』や、平成期の『山梨県史』など近代に行われた編纂事業の先駆であり、現在でも山梨県史研究の基礎史料となっている。 「志」は紀伝体の歴史書における項目を意味する。紀伝体の歴史書は本紀・列伝・表・志から構成され、「志」は、社会地理や制度、文化等の記述にあたる。.
甲斐源氏
斐源氏(かいげんじ)は、甲斐国に土着した清和源氏の河内源氏系一門で、源義光(新羅三郎義光)を祖とする諸家のうち武田氏をはじめとする、甲斐を発祥とする諸氏族の総称。 同じ義光を祖とする佐竹氏(常陸源氏)や平賀氏(信濃源氏)とは同族である。また、武田氏と同祖となる加賀美氏流の小笠原氏系統は早い時期に隣国信濃に移ったため、信濃源氏にも含まれる。 「甲斐源氏」の呼称について、治承・寿永の乱期の史料には一切見られず、甲斐源氏の一族を指す呼称には「武田党」などが用いられている。鎌倉時代には『吾妻鏡』をはじめ『帝王編年記』、『日蓮遺文』などにおいて「甲斐源氏」の呼称が用いられはじめ、軍記物語などにおいても頻出する。.
甘利虎泰
利 虎泰(あまり とらやす)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣で譜代家老。後代には武田二十四将、信虎時代の武田四天王の一人とされる。 甘利氏は甲斐源氏・一条忠頼の流れをくむ武田氏の庶流にあたる一族。平安時代後期には甘利荘が設置された、甲斐国巨摩郡甘利郷を領していたと考えられている。著名な子孫に政治家の甘利明がいる。.
甘利氏
利氏(あまりし)は日本の氏族の1つ。甲斐源氏の分家・甲斐一条氏の一族である。.
熊本藩
本藩(くまもとはん)は、1600年から1871年まで存在した藩。52万石。1871年肥後国(熊本県)の球磨郡・天草郡を除く地域と豊後国(大分県)の一部(鶴崎・佐賀関等)を知行した。肥後藩(ひごはん)とも呼ばれる。藩庁は熊本城(熊本市)に置かれた。.
畿内
畿内(きない、きだい、うちつくに)とは、.
相模国
模国(さがみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
発掘調査
掘調査(はっくつちょうさ、)とは、.
銀山城
銀山城は日本の城の名前。.
韮崎市
韮崎市(にらさきし)は、山梨県の北部に位置する市。.
鎌倉幕府
鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.
鎌倉府
明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉府管轄国 浄妙寺〈鎌倉市〉) 鎌倉府(かまくらふ)は、室町時代(南北朝時代)に、室町幕府が関東10か国を統治するために設置した機関である。長官の鎌倉公方は足利基氏とその子孫、それを補佐する関東管領は上杉氏が世襲した。.
鎌倉公方
明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉公方管轄国 新編鎌倉志-関東公方屋敷図 鎌倉公方(かまくらくぼう)とは、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東十か国を統治するために設置した鎌倉府の長官。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称するが、この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれた呼称となる。関東十か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐。 鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となった。 ※鎌倉公方は歴史学用語及び鎌倉公方の自称であって当時の一般呼称ではない。当時の一般呼称は“鎌倉御所”か“鎌倉殿”である。.
鎌倉時代
伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).
遠藤氏
遠藤氏(えんどうし)は、日本の氏族、武士の家系。江戸時代には譜代大名家や旗本となった。.
遠江国
遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。.
遠敷郡
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荻野三七彦
荻野 三七彦 (おぎの みなひこ、1904年3月18日 - 1992年8月12日)は、日本古文書学者。 文化財保護行政の荻野仲三郎の次男として東京市に生まれる。1929年早稲田大学文学部史学科卒業。東京帝国大学文学部史料編纂所嘱託、1948年「聖徳太子伝古今目録抄の基礎的研究」で早大文学博士。早稲田大学教授、1974年定年退職、名誉教授、聖徳太子奉讃会理事、永青文庫理事。.
菱紋
菱紋(ひしもん)は、日本の家紋の一種である。主に菱形を単数または複数組み合わせて用いる。花菱紋も菱紋に加えることがあるが、ここでは区別して主に菱紋について記した。.
蠣崎季繁
蠣崎 季繁(かきざき すえしげ)は、室町時代中期の武将。上之国花沢館(現在の北海道檜山郡上ノ国町)主。上国守護職。 若狭国の守護武田信繁の近親で、蝦夷地に渡って下之国安東政季の娘婿となり、蠣崎氏を名乗って花沢館に住んだとされるが、様々な伝承があり定かではない。 『新羅之記録』によれば、政季は康正2年(1456年)、分家で秋田郡の領主・秋田城介安東尭季(惟季)の招きに応じ秋田小鹿島(現秋田県男鹿市)に移る際に、茂別館主の安東家政(下国守護)、大館館主の下国定季(松前守護)、花沢館館主の季繁(上国守護)の3名を「守護」に任じたとされているが、実態は安東家政或いは安東定季が一人守護として統括していたとする見解も出されている。 長禄元年(1457年)のコシャマインの戦いの際、客将・武田信広が和人軍の総大将としてこれを鎮圧したことから、養女(安東政季の娘)を嫁がせ家督を継がせたとされる。.
蠣崎氏
蠣崎氏(かきざきし)/松前氏(まつまえし)は、戦国時代から蝦夷地を本拠とした大名の氏族。糠部郡蠣崎(青森県むつ市川内町)を領して蠣崎氏を称する家系があり、その子孫との説がある。江戸時代に松前と改姓したが、庶流の中には引き続き蠣崎と名乗る者もいた。本姓は源氏で、清和源氏(河内源氏)義光流で甲斐源氏の庶流と称した。実際には陸奥の土豪が蝦夷へ移住して甲斐源氏武田氏を仮冒したとする説もある。.
飯富虎昌
飯富 虎昌(おぶ とらまさ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の重臣。 武田信虎の時代から武田家の譜代家老衆として仕え、信濃国佐久郡内山城を領した。信虎追放後は、信玄に仕えた。信玄の信任厚く、嫡男武田義信の傅役や赤備えを率いる大任を務めたが、義信事件に連座し、切腹させられた。名は虎昌とされるが、義信側近が連署した「二宮祭礼帳」にその名は見当たらず、検討の余地がある。.
飛騨国
飛騨国(ひだのくに、)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.
西八代郡
山梨県西八代郡の範囲(緑:市川三郷町 薄黄:後に他郡に編入された区域) 西八代郡(にしやつしろぐん)は、山梨県の郡。 。 以下の1町を含む。.
馬場信春
場 信春 / 馬場 信房(ばば のぶはる / ばば のぶふさ)は、戦国時代の武将。後代には武田四天王の一人に数えられる。.
見聞諸家紋
『見聞諸家紋』(けんもんしょかもん)は、日本の武家の家紋を集録した家紋集で、家紋を集録した書物としては日本最古のものである秋田四郎 「「見聞緒家紋」群の系譜」、弘前大学國史研究会編『弘前大学國史研究(99号)』、弘前大学國史研究会、1995年。『見聞諸家文』(「聞」は異体字。米部に耳)とも書く。別名『東山殿御紋帳』ともいう。.
香宗我部氏
香宗我部氏(こうそかべし)は、日本の氏族。土佐国の豪族であり土佐七雄の一つ。甲斐源氏の子孫と伝えられ、室町時代初期から勢力を伸ばすが、戦国時代末期に長宗我部元親の弟親泰を養子として迎え、以降は長宗我部氏の一族となった。.
駿河国
駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
駒井高白斎
駒井 高白斎(こまい こうはくさい)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏家臣。譜代家老衆。武田信虎・晴信(信玄)期の武田家用務日誌を基に成立したとされる『高白斎記(甲陽日記)』原本の作者と考えられている人物。「高白斎」は出家名で、出家前の諱は政武(まさたけ)・昌頼など諸説あり、人物比定についても異説がある。.
駒井政直
駒井 政直(こまい まさなお、天文11年(1542年) - 文禄4年6月8日(1595年7月14日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏の家臣。父は駒井高白斎。孫三郎。名は昌直とも。戒名・全可。右京亮、右京進。子に親直。 武田信玄、勝頼の2代に仕える。譜代家老衆の侍大将として、55騎と在郷の近習50騎の合わせて105騎を率いた。永禄6年5月晦日には高野山成慶院で父・高白斎の供養を行っている。高白斎と同様に信濃諏訪郡との取次を務めている。『甲陽軍鑑』によれば、永禄13年(1570年)、駿河国深沢城(静岡県御殿場市)の城代に任命され、駒井宮内大輔・小山田大学助らと在城する。 天正10年(1582年)3月の甲州征伐によって武田氏が滅亡した後は、徳川家康に降り榊原康政に属して武田遺臣の代表格となり、家康に対する忠誠を誓った「天正壬午起請文」の提出にも携わっている。徳川家康の関東移封に伴い甲斐を離れ、天正19年(1591年)7月、上野国那波郡(現在の伊勢崎市)に1500石を領す。 文禄4年(1595年)6月8日、死去。享年54。墓所は政直開祖と伝わる那波郡連取村(群馬県伊勢崎市)の竹芳寺。 子に親直がおり、子孫は旗本として存続している。娘は跡部昌秀室となっている。.
諱
諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.
諸侯
諸侯(しょこう)とは、主君である君主の権威の範囲内で一定の領域を支配することを許された臣下である貴族のことである。 原義においては、古代中国において、春秋時代まで天子である周王朝などの王から封土を与えられて、封土の内側(国家)において天子にかわって「君」として振る舞うことが許された、あるいは許されたと観念されていた諸都市国家や都市国家連合の世襲的な首長のことであった。戦国時代に整理された周の理想的制度においては、諸侯は公・侯・伯・子・男の五等の爵位を与えられていたと考えられ、前漢以後は郡国制において王・公などの爵位と「藩国」と呼ばれる封土を与えられた者を諸侯と呼んだ。.
高家 (江戸時代)
家(こうけ)は、江戸幕府における儀式や典礼を司る役職。また、この職に就くことのできる家格の旗本(高家旗本)を指す。 役職としての高家を「高家職」と記すことがある。高家旗本のうち、高家職に就いている家は奥高家、非役の家は表高家と呼ばれた。.
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高遠城
遠城(たかとおじょう)は、長野県伊那市高遠町にある日本の城跡。兜山城の別名をもつ。桜の名所としても有名である。国の史跡に指定されている。.
高杉城
髙杉城(たかすぎじょう)は、備後国三谿郡(現・広島県三次市高杉町)にあった城郭。現在は知波夜比古神社となっている。.
高杉晋作
杉 晋作(たかすぎ しんさく、天保10年8月20日(1839年9月27日)- 慶應3年4月14日(1867年5月17日))は、江戸時代後期の長州藩士。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。 諱は春風(はるかぜ)。通称は晋作、東一、和助。字は暢夫(ちょうふ)。号は初め楠樹、後に東行(とうぎょう)と改め、東行狂生、西海一狂生、東洋一狂生とも名乗った。他に些々などがある。変名を谷 潜蔵、谷 梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助など。のち、谷 潜蔵と改名。 栄典は贈正四位(1891年(明治24年)4月8日)。.
高澤等
澤 等(たかさわ ひとし、旧姓:千鹿野等 1959年6月12日 - )は、日本の歴史研究家。日本家紋研究会会長。 1959年埼玉県飯能市に生まれ、錦城高校卒業、城西大学中退。.
高浜町
中山寺から望む高浜町中心部 高浜町(たかはまちょう)は、福井県の南西部にある町。嶺南地方にあり、大飯郡に属している。.
講談社
株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.
豊臣秀吉
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.
豊臣氏
豊臣氏(とよとみし/とよとみうじ)は、日本の氏(ウジ)のひとつ。姓(カバネ)は朝臣。豊臣政権下での官位叙任では優先的にこの豊臣姓が使用され、源平藤橘など既存の他姓に優越して扱われた。.
鳥取城
鳥取城(とっとりじょう)は、鳥取県鳥取市(旧・因幡国邑美郡)に築かれた戦国時代から江戸時代の日本の城。国の史跡に指定されている。別名、久松山城。戦国時代から江戸末期にかけての城郭形態の変化を窺うことができることから「城郭の博物館」の異名を持つ細田隆博「烏取城」、学習研究社編『【決定版】図説 厳選 日本名城探訪ガイド』学習研究社、2009年、ISBN 978-4-05-605328-9 。織田信長の中国攻めでは、家臣の羽柴秀吉が兵糧攻めを用いて攻略した。開城後、入城した宮部継潤によって山上ノ丸の改修が行われ、江戸時代には鳥取藩池田氏の治下に入り、麓の二の丸以下の曲輪が拡張された。現在は天守台、石垣、堀、井戸などが残る。城址から望む市街.
贈位
贈位(ぞうい)とは、生前に功績を挙げた者に対して、没後に位階を贈る制度。追贈、追賜ともいう。官職を贈る場合は贈官(ぞうかん)という(例:贈太政大臣)。 将棋や囲碁の世界では、大会での優勝や功績に応じてタイトルを贈られることを贈位と呼ぶこともある。就位ともいう。この際に贈られる賞状を贈位状とも呼ぶ。.
越中国
越中国(えっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。北陸道に属する。現在の富山県にあたる地域である。.
越前国
越前国(えちぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.
足利尊氏
足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.
足利将軍家
足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)は、足利氏の惣領家(宗家)のうち、とくに足利尊氏以来の、代々室町幕府の将軍職を世襲した一家(軍事貴族)。初代尊氏の後は2代として嫡男義詮が継ぎ、3代足利義満を経て、15代義昭まで続く。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。.
足利義稙
足利 義稙(あしかが よしたね)は、室町幕府第10代将軍。父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた足利義視。母は裏松重政の娘(日野富子の妹に当たる人物であるが名は伝わらない)。 初名は義材(よしき)。将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)、将軍職復帰後の永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名している。 将軍在職は2つの時期に分かれており、1度目は延徳2年7月5日(1490年7月22日)から明応3年12月27日(1495年1月23日)まで在職した後、約13年半の逃亡生活を送る。2度目は永正5年7月1日(1508年7月28日)から大永元年12月25日(1522年1月22日)まで在職した。.
足利義澄
足利 義澄(あしかが よしずみ)は、室町幕府第11代将軍。在任:明応3年12月27日(1495年1月23日) - 永正5年4月16日(1508年5月15日)。父は8代将軍・足利義政の異母兄である堀越公方・足利政知。はじめ法名を清晃(せいこう)といい、還俗して義遐(よしとお)、義高(よしたか)、そして義澄。正室は日野富子の姪にあたる日野阿子(富子の兄弟である僧永俊の娘)。 明応2年(1493年)に従兄の10代将軍・足利義材(義稙)が細川政元によって追放されると、11代将軍として擁立された。しかし、永正5年(1508年)に前将軍・義稙を擁立する大内義興が上洛の軍を起こしたため、近江国へ逃れて将軍職を廃され、復帰できないまま死去した。.
足利義明
足利 義明(あしかが よしあき)は、室町時代後期(戦国時代)の武将。足利氏の一門。第2代古河公方足利政氏の子。第3代古河公方足利高基の弟。小弓公方を自称。.
足利義昭
足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代(最後)の将軍(在職:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))。 父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。 足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶(かくけい)と名乗り一乗院門跡となった。兄・義輝らが三好三人衆らに暗殺されると、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたがやがて京都から追われ備後国に下向し、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。 信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。.
足利義教
足利 義教(あしかが よしのり、義)は、室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の五男。母は側室の藤原慶子で、第4代将軍・足利義持の同母弟。僧侶時代は義円(ぎえん、義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。.
足利持氏
足利 持氏(あしかが もちうじ)は、室町時代の武将。第4代鎌倉公方(在職:1409年 - 1439年)。第3代鎌倉公方・足利満兼の子。.
足利成氏
足利 成氏(あしかが しげうじ)は、室町時代から戦国時代の武将。第5代鎌倉公方(1449年 - 1455年)、初代古河公方(1455年 - 1497年)。父は永享の乱で敗死した第4代鎌倉公方足利持氏。鎌倉公方就任時期は文安4年(1447年)とする説も有力。 父持氏と同様、鎌倉公方の補佐役である関東管領及び室町幕府と対立したが、持氏と異なり、約30年間の享徳の乱を最後まで戦い抜き、関東における戦国時代の幕を開ける役割を担った。.
足利政氏
足利 政氏(あしかが まさうじ)は、戦国時代の武将。2代目古河公方(在職:延徳元年(1489年) - 永正9年(1512年))。父は足利成氏。母は伝心院(簗田満助の養女、満助の兄・簗田直助(なおすけ)の娘)。.
跡部氏
跡部氏(あとべし)は日本の氏族。甲斐源氏庶流、小笠原氏の分流で、信濃国佐久郡跡部(長野県佐久市跡部)を本貫地とする。小笠原氏の嫡家であった伴野時長の次男、跡部長朝に始まる。.
鹿島新當流
鹿島新當流(かしましんとうりゅう)は、戦国時代に塚原卜伝が興した剣術の流派。 鹿島中古流の流れを汲む。.
鹿野城
鹿野城(しかのじょう)は鳥取県鳥取市鹿野町鹿野(旧・因幡国気多郡)にある日本の城(平山城跡)跡。.
躑躅ヶ崎館
躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は、山梨県甲府市古府中(甲斐国山梨郡古府中)にあった戦国期の居館(または日本の城)。甲斐国守護武田氏の居館で、戦国大名武田氏の領国経営における中心地となる。.
黒田基樹
黒田 基樹(くろだ もとき、1965年4月 - )は、日本の歴史学者、駿河台大学法学部教授。専門は日本の戦国時代・織豊時代史で、相模後北条氏や甲斐武田氏に関する研究を展開する。.
近世
近世(きんせい、英語:early modern period)とは、歴史学における時代区分のひとつ。中世よりも後で、近代よりも前の時期を指す。.
近代
近代(きんだい、英語:modern history)は、世界の歴史における時代区分の一つで、近世よりも後で、現代よりも前の時代を指す。日本語の「近代」は、元々は英語の「modern」、ドイツ語の「Neuzeit」の訳語として考案された和製漢語である。.
近江国
近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.
茨城県
茨城県(いばらきけん)は、日本の県の一つ。関東地方の北東に位置し、東は太平洋に面する。県庁所在地は水戸市。都道府県人口は全国11位、面積は全国24位である。.
郡
郡(ぐん)は、行政区画の一種。中国・日本・朝鮮などの漢字文化圏に導入されたものである。 なお、欧米などの行政区画の一部を日本語に翻訳するときに、訳語としてこの語を当てることがある(カウンティも参照)。.
郡山藩
郡山藩(こおりやまはん)は、大和国に存在した藩。藩庁は郡山城(奈良県大和郡山市)に置かれた。.
郷士
郷士(ごうし)は、江戸時代の武士階級(士分)の下層に属した人々を指す。江戸時代、武士の身分のまま農業に従事した者や、武士の待遇を受けていた農民を指す。平時は農業、戦時には軍事に従った。郷侍(ごうざむらい)とも。.
鵯尾城
鵯尾城(ひよどりおじょう)は鳥取市玉津に存在した日本の城。因幡武田氏の拠点の城のひとつ。.
関東管領
関東管領(かんとうかんれい)は、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名である。鎌倉公方の下部組織でありながら、任免権等は将軍にあった。当初は関東執事(かんとうしつじ)と言っていた。上杉氏が世襲した。.
閥閲録
『閥閲録』(ばつえつろく)は、萩藩主毛利吉元が家臣の永田政純に命じて、藩の諸家が所蔵している古文書や家系図を編纂させた、江戸時代の史料集。享保5年(1720年)に着手、享保10年(1725年)から翌年にかけて成立した。毛利家臣や町人なども含め789家が記載されており、全170巻、204冊。原本名は『閥閲録』であるが、後に山口県文書館が昭和42年(1967年)に再編して出版した際に『萩藩閥閲録』と名づけられたため、こちらの名で呼ばれることも多い。.
藩士
藩士(はんし)は、江戸時代の各藩に仕えた武士及びその構成員を指す歴史用語。 江戸時代には「藩」という言葉自体と同様、「藩士」も呼称として用いられなかった。例えば、薩摩藩の藩士なら自らのことを「薩摩藩士某」と名乗るのではなく「島津家家臣某」と名乗った。.
葛山信貞
葛山 信貞(かつらやま のぶさだ、? - 天正10年(1582年)3月)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。駿河国葛山領の分郡領主で、葛山城城主。甲斐国の戦国大名・武田信玄の六男(武田氏系図類による)、生母は油川夫人と伝わる。通称は六郎・十郎、初名は義久。「信」は武田氏の通字。生年は不詳であるが、永禄2年(1559年)以前の出生と推定されている。 駿相国境に位置する駿河駿東郡領主である葛山氏元の養子となり、氏元の次女「おふち」を正室に迎え葛山領を継承する。信玄前期には、信濃侵攻において服従させた信濃国名族に対し実子に名跡を継がせて懐柔させる支配政策を行っており、信貞の異母兄の勝頼は諏訪氏を、同母兄の盛信は仁科氏をそれぞれ継承しており、葛山氏を継承した信貞も駿河における同様の支配方針であると位置づけられている。.
那珂郡
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那須氏
那須氏(なすし)は、日本の氏族のひとつ。下野国那須郡を発祥とする。.
肥後国
肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
里見義堯
里見 義堯(さとみ よしたか)は、戦国時代の武将、安房の戦国大名。安房里見氏の第5代当主。 父は里見実堯、母は佐久間盛氏(正木通綱の同族で、三浦・正木とも称したという)の娘。正室は土岐為頼の娘。子に義弘、堯元、堯次、義政(一説に孫の義頼も義堯の子といわれる)。幼名は権七郎、官職は刑部少輔。 上杉謙信、佐竹義重等と結び後北条氏と関東の覇権をめぐって争い続けたが勝敗はつかず、房総半島に勢力を拡大し、里見氏の全盛期を築き上げた。.
里見氏
里見氏(さとみし)は、日本の氏族のひとつ。中世に日本の武家としてはじまった。本姓は源氏(河内源氏)。源(新田)義重の子・義俊を祖とする氏族で、新田氏の庶宗家である。戦国時代、一族からは房総地方を領する戦国大名・安房里見氏が出た。.
金丸氏
金丸氏(かねまるし/かなまるし)は、日本の氏族の一つ。.
長篠の戦い
長篠の戦い(ながしののたたかい、長篠の合戦・長篠合戦とも)は、戦国時代の天正3年5月21日(1575年6月29日)、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、3万8千の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千の武田勝頼の軍勢が戦った合戦。 決戦地が設楽原(設楽ヶ原、したらがはら)および有海原(あるみ原)(『藩翰譜』、『信長公記』)だったため長篠設楽原(設楽ヶ原)の戦い(ながしの したらがはら の たたかい)と記す場合もある。.
長男
長男(ちょうなん)とは、親から見て最も年長の男子をいう。長男についで親から二番目、三番目の男子を二男(次男)、三男という。 長子(ちょうし)ともいい、史的には「はじめに生まれた男子、総領」を長子と呼ぶ。.
色部清長
色部 清長(いろべ きよなが)は、江戸時代前期の米沢藩士。武田信玄は清長の曽祖父に当たる。 万治2年(1659年)、姉婿・色部利長の家督を相続するも、寛文6年(1666年)5月11日、19歳で夭折した。 家督は同じく姉の嫁ぎ先の長尾景光の次男・安長が相続した。 Category:米沢藩士 きよなか Category:米沢武田氏 Category:1648年生 Category:1666年没.
若狭国
若狭国(わかさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.
逸見光長
逸見 光長(へんみ みつなが)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。逸見氏の祖。 大治(1128年)8月15日、新羅三郎義光の孫である源清光の長男として誕生。母は駿河国手越宿の遊女とされ、武田信義は双子の弟と伝わる。 武田信義とは一卵性双生児として生まれた。逸見光長は巳刻に生まれ、武田信義は午刻に生まれる。.
逸見氏
逸見氏(へみし、へんみし)は、日本の氏族。以下の2つの流れがある。.
院司
院司(いんし、いんのつかさ)は、日本の中世・古代において、上皇や女院の直属機関として設置された院庁の職員。中流貴族が任命されることが多く、他の官職と兼任する兼官だった。平安時代後期に院政が開始すると、上皇の政務機関である院庁の院司は、政治の枢要を担う重要職とされた。 本項では、院政の院司について詳述する。.
陰徳太平記
『陰徳太平記』(いんとくたいへいき)は享保2年(1717年)に出版された日本の古典文学書の1つである。.
陸奥国
奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.
JR東日本E257系電車
E257系電車(E257けいでんしゃ)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)の直流特急形電車である。.
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柳生俊益
柳生 俊益(やぎゅう とします)は、大和柳生藩の第13代(最後)の藩主。.
柳生俊順
柳生 俊順(やぎゅう としむね)は、大和柳生藩の第12代藩主。.
柳沢吉保
柳沢 吉保(やなぎさわ よしやす、正字体:柳澤吉保、正仮名遣:やなぎさはよしやす)は、江戸時代前期の幕府側用人・譜代大名。第5代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格として幕政を主導した。.
柳沢保光
柳沢 保光(やなぎさわ やすみつ)は、江戸時代中期の大名。大和郡山藩第3代藩主。郡山藩柳沢家4代。2代藩主柳沢信鴻の長男。.
柳沢保申
柳沢 保申(やなぎさわ やすのぶ)は、幕末から明治期の大名、華族。大和郡山藩の第6代(最後)の藩主。郡山藩柳沢家7代。藩主としてよりの事蹟より、明治以降の奈良県の繁栄に貢献した業績のほうが高く評価されている人物である。.
柳沢信鴻
200px 柳沢 信鴻(やなぎさわ のぶとき)は、江戸時代中期の大名。大和国郡山藩第2代藩主。郡山藩柳沢家3代。初代藩主柳沢吉里の四男。.
柳沢光邦
柳沢 光邦(やなぎさわ みつくに)は、越後黒川藩の第8代(最後)の藩主。.
柳沢氏
柳沢氏(やなぎさわし)は、日本の氏族。武士の家系。甲斐武田氏の遺臣で、近世には柳沢吉保(房安、保明)が将軍徳川綱吉に仕え、甲府城主15万1200石となる。.
柴辻俊六
柴辻 俊六(しばつじ しゅんろく、1941年9月10日 - )は、日本の歴史学者・古文書学者・図書館員。元早稲田大学図書館司書。専門は日本の戦国時代史。.
東京堂出版
株式会社 東京堂出版(とうきょうどうしゅっぱん)は、東京都千代田区にある日本の出版社。.
松尾信是
松尾 信是(まつお のぶこれ)は、戦国時代の武将。甲斐国武田氏の一族。.
松平頼亮
松平 頼亮(まつだいら よりあきら、延享元年4月7日(1744年5月18日) - 享和元年9月8日(1801年10月15日))は、陸奥守山藩の第3代藩主。水戸支流頼元系松平家4代。守山藩2代藩主・松平頼寛の三男。母は側室益田氏。 正室は松平頼順(水戸藩主・徳川宗堯の長男)の娘。子は松平頼孝(長男)、松平頼慎(次男)、武田信典(三男)、由良貞靖(四男)、知久頼衍(五男)、伴(秋月種徳婚約者のち小笠原貞温継室)、都(佐竹義知正室)。官位は従四位下、大学頭、侍従。 嫡子だった兄・頼篤が夭折し、嫡子となる。宝暦13年(1763年)、父の死により家督を相続した。藩財政の立て直しのため、安永3年(1774年)に矢野庄兵衛を郡奉行に任命して農村人口の減少防止、他の領への奉公人規制、風俗取締、博奕禁止などに当たらせた他、倹約令を定めた。 享和元年(1801年)死去し、次男・頼慎が後を継いだ。.
松代城
松代城(まつしろじょう)は、長野県長野市松代町松代にある日本の城跡である。元々は海津城(かいづじょう)と呼ばれていたが貝津城とも言われた。また茅津城(かやつじょう)とも言われ茅の生い茂った地であったと伝える説もある。形式は輪郭式平城。国の史跡に指定されている。.
松前藩
松前藩(まつまえはん)は、渡島国津軽郡(現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩である。藩主は江戸時代を通じて松前氏であった。後に城主となり同所に松前福山城を築く。居城の名から福山藩とも呼ばれる。慶応4年、居城を領内の檜山郡厚沢部町の館城に移し、明治期には館藩と称した。家格は外様大名の1万石格、幕末に3万石格となった。 江戸時代初期の領地は、現在の北海道南西部。渡島半島の和人地に限られた。残る北海道にあたる蝦夷地は、しだいに松前藩が支配を強めて藩領化した。藩と藩士の財政基盤は蝦夷地のアイヌとの交易独占にあり、農業を基盤にした幕藩体制の統治原則にあてはまらない例外的な存在であった。江戸時代後期からはしばしば幕府に蝦夷地支配をとりあげられた。.
板垣信方
板垣 信方(いたがき のぶかた)は、戦国時代の武将。武田信虎、晴信(信玄)の2代に仕えた。武田二十四将、武田四天王の一人。家紋は「花菱(裏花菱)」、馬標は「三日月」。 武田晴信が父信虎を追放して家督を継ぐと家臣団の筆頭格となる。晴信が諏訪氏を滅ぼすと諏訪郡代(上原城城代)となり、諏訪衆を率いて信濃経略戦で戦功をあげた。村上義清との上田原の戦いで先陣となり初戦で村上勢を破るが、逆襲を受けて討死した。.
板垣兼信
板垣 兼信(いたがき かねのぶ、生没年不詳)は平安時代末期の武将。清和源氏義光流、甲斐源氏の武田信義の三男。通称は板垣三郎。板垣氏の始祖。.
板垣氏
板垣氏(いたがきし)は、日本の氏族のひとつ。 人皇第56代清和天皇の苗裔、新羅三郎義光の後胤で武田氏の支流である。本姓は源氏。家紋は「地黒花菱」。甲斐を本貫とするが、本流武田氏の安芸・若狭増封に従い下向したため、甲斐のみならず両国においても繁栄した。.
村岡藩
村岡藩(むらおかはん)は、明治時代初期の藩の一つ。但馬国七美郡を領した。藩庁は村岡陣屋に置かれた。 室町時代には全国の6分の1を支配した守護大名山名氏の末裔である山名豊国が、関ヶ原の戦いの戦功により、徳川家康から七美郡6700石を与えられたのが藩の始まりである。その後の領主は新田開発や産業の振興などをすすめて実高を増やしていき、1868年、明治政府によって1万1000石への高直しが認められて立藩した。.
校倉書房
校倉書房(あぜくらしょぼう)は、東京都新宿区西早稲田に本社を置く出版社。日本史を中心とした歴史書の出版及び販売を行っている 1959年設立。歴史書懇話会に加盟し、歴史科学協議会の会誌である『歴史評論』を刊行している。.
栗原氏
栗原氏(くりはらし)は、日本の氏族。室町・戦国時代の甲斐国の国衆で、武田氏の支族。 諸系図に拠れば、栗原氏は甲斐守護・武田信成の子である武続(十郎、重郎)を祖とし、東郡栗原郷(現在の山梨市下栗原)に拠り栗原氏を称したという。栗原郷の一帯には栗原氏の菩提寺が分布しており、上栗原には海島寺、中栗原には養安寺、下栗原には大翁寺が所在している。特に養安寺と大翁寺は栗原氏の館跡に創建された寺院であるという。 室町時代には嘉吉元年(1441年)9月の嘉吉の乱に際して栗原信通が西郡の国人・大井氏とともに甲斐守護・武田信重に随行して上京している。また、武田氏と守護代・跡部氏の抗争では跡部氏に通じていたと考えられている。また、『一蓮寺過去帳』には栗原氏の一族37名の名前が入帳されている。 戦国時代には甲斐国の有力国人として武田氏の甲斐統一に抵抗し、武田信昌の子息である守護・信縄と油川信恵の対立においては「栗原大輔」が信恵方に加担しており、これは栗原信遠に比定される。信縄・信恵の対立は明応7年(1498年)に信縄方優位のもと和睦が成立するが、明応10年(1501年)2月27日には栗原氏の一族が粛清され、『高白斎記』に拠れば同日に信縄方の「栗原式部大輔」(信友、栗原伊豆守か)が家督を相続したと考えられている。 戦国期には武田氏の譜代家老として栗原伊豆守の活動が見られる。系図類によれば、同じ伊豆守を称する栗原信友の子息・信重にあたると考えられている。『甲陽軍鑑』に登場する「栗原左兵衛」とする説もある。伊豆守の初見は永禄11年(1568年)3月で、伊豆守は武田勝頼に今川義元の生母である寿桂尼の死去を伝え、勝頼が出陣中の信玄にこれを伝えている。さらに同年8月に伊豆守は武田氏の駿河侵攻に際していずれかの城の普請を命じられている。 永禄末年に推定されている武田信玄陣立書では旗本に属している。天正3年(1575年)8月には織田氏・徳川氏に対して信濃伊那郡・木曽郡の防備のため日向玄徳斎(虎頭)・小山田昌盛とともに伊那の大島城(長野県下伊那郡松川町)へ派遣されている。 それ以降の動向は不明で、次代の人物として栗原信盛が登場する。.
桜井信忠
桜井 信忠(さくらい のぶただ、天正元年(1532年)? - 慶長15年(1610年)?)は、戦国時代の武将・江戸時代初期の幕臣。甲斐国武田氏家臣・徳川氏の奉行。初名は信富、官途名は右近助、受領名は安芸守。父は信貞あるいは信富。室は小幡虎盛の娘。.
楯無
楯無(たてなし)とは、源義光伝来の鎧とされる源氏八領の一つ。特に甲斐国の武田家に伝わる大鎧で名高い。.
極位極官
極位極官(きょくいきょっかん、ごくいごっかん)は、人物が受けた叙任の中で最高の官位を指す。最高の位階を極位、最高の官職を極官と呼ぶが、極官の一語で極位極官を表す場合も多い。 律令制においては、最高の官職を指して極官と呼ばれることがある。制度上は太政大臣がそれに相当するが、平安時代中期以後に人臣の摂政・関白が任ぜられると、極官として認識されるようになる。平安時代後期以後、家職が形成されるようになると貴族・官人の極位極官は家ごとで概ね定まる様になり、それに基づいて摂家・清華家・大臣家・羽林家・名家・半家と公家の家格が決定されるようになる。公家社会では自己の家格の極官を越えて任命されると非難の対象になり、また却って不幸な出来事があるとする「官打ち」の思想が形成され、極位極官制度によって身分秩序の統制が図られるようになり、それが幕末に至るまで続いた。もっとも、治天の君や武家政権(将軍)と個々の公家との関係によっては、この原則が無視される場合もあった。 また、武家は羽林家に準じた家格が定められた。.
横田高松
横田 高松(よこた たかとし)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。武田の五名臣の一人。.
樋口清之
樋口 清之(ひぐち きよゆき、1909年1月1日 - 1997年2月21日)は日本の考古学者・歴史作家。國學院大學名誉教授。國學院大學文学博士。専門は考古学・民俗学。紫綬褒章受章。.
橋津川の戦い
橋津川の戦い(はしづがわのたたかい)は天文15年(1546年)6月28日に武田国信・伯耆国人衆と尼子氏との間で起きた戦いのこと。.
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正室
正室(せいしつ)は、高貴な人物の正式な妻のこと。正妻、本妻とも言う。律令制の元では嫡妻(ちゃくさい)とも呼ばれていた(原則一人)。これに対し、正室以外を側室(『大辞泉』)という。.
正六位
正六位(しょうろくい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。従五位の下、従六位の上に位する。勲等では勲五等に、功級では功五級に相当。 律令制下において六位は下国の国司及び国府の次官である介が叙せられる位であった。地下人の位階とされ、五位以上の貴族(通貴)とは一線を画する位階であり昇殿は許されなかった。但し、蔵人の場合、その職務上、六位であっても昇殿が許され、五位以上の者と六位蔵人の者を合わせて殿上人と称した。神階においては、正六位が最下位となる。 明治時代以降は、少佐の階級にある者などがこの位に叙せられた。また、今日では警察官では警視正、消防吏員では消防監などがこの位に叙せられる他、市町村議会議長にあった者、特別施設や学校創立者その他、業種等で功労ある者などが没後に叙せられる。.
正四位
正四位(しょうしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。 従三位の下、従四位の上に位する。贈位の場合、贈正四位という。.
武家
武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.
武田助信
武田 助信(たけだ すけのぶ)は安土桃山時代の武将。.
武田宗慶
武田 宗慶(たけだ そうけい)は、戦国時代の武将。安芸武田氏の一族で周防武田氏の祖。武田光和の三男。母は熊谷氏の娘というが不明。正室は安国寺恵瓊の娘という説がある。仮名は小三郎。俗名は不明。官位は刑部少輔。子に武田光信。.
武田崇信
武田 崇信(たけだ たかのぶ、文政10年(1827年) - 明治7年(1874年)12月)は、幕末の高家旗本。武田信典の子。武田信之の養子となる。通称は采女。官位は従五位下侍従、大膳大夫。 嘉永元年(1848年)11月28日、将軍徳川家慶に御目見する。安政4年(1857年)8月12日、部屋住ながら高家見習に召し出される。同年9月28日、従五位下侍従・安芸守に叙任し、後に大膳大夫に改める。同年10月28日、高家職に就く。安政5年(1858年)11月24日、養父信之の隠居により家督を相続した。慶応4年(1868年)3月11日、高家職を辞任する。明治3年(1870年)に元高家・織田信真の弟鐡之丞を婿養子とするが、明治4年(1871年)に鐡之丞と離縁の後、元浦賀奉行・遠山景高の五男信任を婿養子とする。明治7年12月死去する。 大正期に下橋敬長の語った高家旗本の話で、明治維新後に没落し「他所の二階におるというような」事例で挙げられる「武田大膳大夫正四位上左近衛少将」とは、崇信と推測される。実父信典の官位と崇信の通称を混同したようである。 たかのふ Category:幕末の旗本 Category:1827年生 Category:1874年没.
武田信友
武田 信友(たけだ のぶとも)は、戦国時代の武将。.
武田信吉
武田 信吉(たけだ のぶよし) / 松平 信吉(まつだいら のぶよし)は、江戸時代初期の大名。徳川家康の五男。妻は木下勝俊の娘。幼名は福松丸ちなみに福松丸は、信吉の兄・松平忠吉(忠康)の幼名である。、武田万千代丸。正しくは松平信吉であるが、同名の松平信吉がいるため、区別するため武田信吉と呼ばれる。.
武田信実
武田 信実(たけだ のぶざね)は、戦国時代の武将。国人領主としての安芸武田氏最後の当主。若狭守護武田元光の子。.
武田信守
武田 信守(たけだ のぶもり).
武田信宗
武田 信宗(たけだ のぶむね)は、鎌倉時代の武将。甲斐源氏武田氏の第9代当主。第8代当主・武田時綱の子。母は名越朝時の娘と伝わる。第10代当主・武田信武の父。.
武田信安
武田 信安(たけだ のぶやす、宝永4年(1707年) - 天明8年4月11日(1788年5月16日))は、江戸時代中期の高家旗本。武田信興の長男。母は大久保忠鎮の娘。通称は市之丞、主水、菫山。 享保20年(1735年)12月12日将軍徳川吉宗に御目見する。元文3年(1738年)10月4日父信興の死去により、家督を相続する。表高家衆に列し、生涯高家職に就くことはなかった。安永8年(1779年)12月3日隠居し、養子信明に家督を譲る。天明8年(1788年)4月11日死去、享年82。 正室は梶川頼照の娘。一男あり。長男信用は早世した。そのため、上述のとおり、同根で旧臣の柳沢氏から養子を迎え、信玄の血脈は、信安の死を以て途絶えた。 のふやす Category:江戸幕府旗本 Category:1707年生 Category:1788年没.
武田信之 (高家)
武田 信之(たけだ のぶゆき、文化4年(1807年) - 明治4年10月2日(1871年11月14日))は、幕末の高家旗本。大和国郡山藩主柳沢保光の七男で、3代前の武田家当主信明は父の実弟にあたる。通称は啓之丞、舜山。官位は従四位下侍従、左京大夫。.
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武田信之 (武田信玄三男)
武田 信之(たけだ のぶゆき)は、甲斐国の戦国大名武田信玄と正室・三条の方の三男。西保三郎とも称した。.
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武田信広
武田 信広(たけだ のぶひろ)は、室町時代後期の武将。若狭武田氏の一族とされることもあるが、実際には詐称とする説もある。また、陸奥国の南部氏の一族ともいわれる。.
武田信廉
逍遥院にある逍遙軒信綱の墓所 武田 信廉(たけだ のぶかど)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏第18代当主・武田信虎の子。母は大井の方で、信玄や信繁の同母弟。後に出家して逍遙軒信綱と号す。武田二十四将の一人。一般に逍遙軒(しょうようけん)として知られる。.
武田信在
武田 信在(たけだ のぶあり)は、室町時代前期の安芸分郡守護。安芸武田氏の第2代当主。.
武田信典
武田 信典(たけだ のぶのり、安永5年2月24日(1776年4月12日) - 万延元年11月18日(1860年12月29日))は、江戸時代後期の高家旗本。陸奥国守山藩主松平頼亮の三男。生母は川上氏。初名は頼典。通称は貞之丞、鶴翁。官位は従四位上左少将、大膳大夫。小笠原忠真の女系子孫であり、武田氏と同じ甲斐源氏の支流である小笠原氏とつながりを有した。 文化4年(1807年)12月16日、高家武田護信の養子となる。文化5年(1808年)4月6日、養父の隠居により家督を相続する。文化8年(1811年)11月24日、高家職に就任、従五位下侍従・左京大夫に叙任する。後に従四位上左少将に昇進する。文政11年(1828年)11月27日、高家肝煎に就任する。安政3年(1856年)10月22日、隠居して養子信之に家督を譲り、同日高家肝煎も辞職する。以後鶴翁と称する。万延元年(1860年)11月18日死去、享年85。 実弟に高家旗本由良貞靖ら、子女に養子信之(柳沢保光の七男)、実子崇信(信之養子)がいる。 のふのり のふのり Category:江戸幕府旗本 Category:守山藩の人物 Category:1776年生 Category:1860年没.
武田信光
武田 信光(たけだ のぶみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。源義光(新羅三郎)を始祖とする甲斐武田氏の第5代当主。第4代当主・武田信義の5男。伊豆守。甲斐国・安芸国守護。甲斐国八代郡石和荘に石和館を構えて勢力基盤とし、石和五郎と称する。 馬術・弓術に優れた才能を発揮し、小笠原長清、海野幸氏、望月重隆らと共に弓馬四天王と称された。.
武田信勝
武田 信勝(たけだ のぶかつ)は、安土桃山時代の人物。甲斐武田氏の第21代当主。父は武田勝頼、母は美濃国衆・遠山直廉の娘で織田信長の養女である龍勝院。戦国大名としての甲斐武田家の最後の当主であると考えられている。.
武田信玄
武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。 甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化し国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて領国を拡大したものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。.
武田信縄
武田 信縄(たけだ のぶつな)は、戦国時代の甲斐国の守護大名・戦国大名。甲斐守護職・武田氏の第17代当主。武田信玄の祖父、武田勝頼の曾祖父。 室は実名不詳の崇昌院殿(広厳院殿)。父は不詳であるが、山梨郡の国人・栗原氏の娘とする説がある。天文14年(1545年)6月19日に死去しており、信縄の孫にあたる武田晴信(信玄)は弘治2年(1556年)11月に崇昌院殿の菩提を弔うために一宮郷(笛吹市一宮町)の地を同地の広厳院に寄進し、「崇昌院殿」の法名を「広厳院殿」と改めている。 側室に山梨郡岩下村(山梨市岩下)の地侍・岩下越前守の娘がいる。実名・生没年は不詳で、『菊隠録』によれば法名は「桂岩妙英大姉」。岩下氏は武田信虎の生母とする説がある。.
武田信繁
武田 信繁(たけだ のぶしげ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏18代・武田信虎の子で、武田信玄の同母弟。 官職である左馬助の唐名から「典厩(てんきゅう)」と呼ばれ、嫡子・武田信豊も典厩を名乗ったため、後世「古典厩」と記される。武田二十四将においては武田の副大将として位置づけられている。.
武田信繁 (安芸武田氏)
武田 信繁(たけだ のぶしげ)は、室町時代の武将。安芸分郡守護で佐東郡・安南郡・山県郡守護。安芸武田氏第4代当主。2代当主武田信在の子で3代当主武田信守の弟(子とも)。信栄、信賢、国信、元綱らの父。.
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武田信義
武田 信義(たけだ のぶよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。源清光の次男。逸見光長は双子の兄になる(一説に逸見光長とは異母兄弟)。甲斐源氏4代当主であり、武田氏の初代当主である。.
武田信道
武田 信道(たけだ のぶみち、天正2年(1574年) - 寛永20年3月5日(1643年4月23日))は、戦国時代から江戸時代初期の武士。高家武田氏の実質的初代当主。法号は顕了道快。武田信玄の次男・海野信親(竜芳)の子。母は穴山信君の娘。室は馬場信盛の娘。子に武田信正ほか女子2名がいる。.
武田信親
武田 信親(たけだ のぶちか、長禄2年(1458年) - 文明17年(1485年)8月22日/永正11年(1514年)8月22日?)は、戦国時代の大名。若狭武田氏の第4代当主。官位は治部少輔。室町幕府若狭守護・御相伴衆。大膳大夫と称した。.
武田信高
武田 信高(たけだ のぶたか、応永23年(1416年)- 文明12年(1480年))は、室町時代の武将で上総武田氏第2代当主。。武田信興(真里谷家)、武田道信(庁南家)らの父。上総介。.
武田信豊 (甲斐武田氏)
武田 信豊(たけだ のぶとよ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の親族衆で庶流の吉田氏を継いだ武田信繁の次男。信豊は武田信玄の甥で、武田勝頼の従弟に当たる。父・信繁が第4次川中島の戦いで戦死し、望月家に養子に入っていた兄・義勝(望月信頼)も父の死の直後に早世したため、信豊が跡を継ぐ。『甲陽軍鑑』に拠れば幼名は「長老」、諱は当初は「信元」で後に「信豊」に改名したとされるが確認されない。正室は西上野の国衆・小幡憲重の娘。.
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武田信豊 (若狭武田氏)
武田 信豊(たけだ のぶとよ)は、戦国時代の武将、大名。若狭武田氏の第7代当主。武田元光の子。.
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武田信貞
武田 信貞(たけだ のぶさだ、弘治3年(1557年)丸島(2015)、p.52 - 寛永3年(1626年)6月23日)は、戦国時代の武将、江戸時代初期の旗本。父は油川信次もしくは武田信玄の五男・仁科盛信(信盛)。幼名は勝松、通称は源兵衛。『寛政重修諸家譜』によれば、妻は大井虎昌の娘で、信貞の子には信忠(信成)がいるという丸島(2015)、p.53。別称に油川信貞。 父とされる油川信次は甲斐守護・武田信昌の子・油川信恵の子孫で、信恵が永正5年(1508年)に滅亡した後に生き残った信友の孫にあたる。『寛永諸家系図伝』によれば、信次は天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにおいて討死したとされるが、仁科盛信の子孫が作成した正徳2年(1712年)の「八王子信松院江納候由緒之控」では長篠合戦以降も存命し、天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後に仁科盛信の次男・信貞を保護したとする異説を記している。 武田氏滅亡後は天正壬午の乱を経て甲斐を領した徳川家康に仕官し、知行38貫文を安堵された。関ヶ原の戦いにも東軍に属して参陣し、大坂の陣では伏見城在番を務めたという。寛永2年10月には武蔵国都筑郡・上総国埴生郡・武射郡に350石を与えられたという。『寛永伝』によれば寛永3年に70歳で死去したという。 信貞の没年に関して『寛政重修諸家譜』では享年を「今の呈譜五十五」と記し、これは武田奉行人の浄円と法名が一致することから、同一人物である可能性が指摘される。浄円は武田家の奉行人で、長篠合戦以降に駿東郡東部において活動している所見が見られる。浄円が信貞と同一人物である場合には出家していたことになり、信次の嫡男も長篠合戦で戦死し、仏門に入っていた浄円が還俗して家督を継いだ経緯などが考えられている。 また、「八王子信松院江納候由緒之控」の所蔵者は家伝文書と菩提寺の長竜寺過去帳を基に系譜を作成しており、これによれば信貞は寛永3年6月28日に享年50で死去し、法名は「活巌院殿相心浄円居士」としており、命日は数日異なっているものの法名の「浄円」が共通することが指摘される。また、寛政3年に死去したとする説から生年は天正5年となり、仁科盛信と親子としては世代的に矛盾がないことが指摘される。 子孫は明治時代に兵庫県に移住し、血を受け継いでいる。.
武田信賢
武田 信賢(たけだ のぶかた)は、室町時代の武将、守護大名。若狭・丹後守護、安芸佐東郡・安南郡・山県郡守護。若狭武田氏第2代当主。安芸武田氏の武田信繁の次男。兄に信栄、弟に国信、元綱。家系には異説がある。.
武田信興
武田 信興(たけだ のぶおき、寛文12年(1672年) - 元文3年7月9日(1738年8月23日))は、江戸時代の高家旗本。武田信正の子(武田信玄の玄孫)。初名は信冬。通称は虎之助、織部。 はじめは内藤忠興のもとにあった。父信正の死後、柳沢吉保のもとに寓居する。元禄13年(1700年)12月27日幕府に召し出されて、甲斐国八代郡内500石を与えられる。寄合に所属する旗本となる。元禄14年(1701年)1月15日将軍徳川綱吉に御目見する。同年9月11日表高家衆に列する。こうして武田氏は高家旗本として再興したが、信興自身は生涯高家職に就くことはなかった。宝永2年(1705年)8月19日領地を相模国高座郡内に移される。元文3年(1738年)7月9日死去、享年67。葬地は芝の西信寺。長男信安が家督を相続した。 正室は大久保忠鎮の娘。長男に武田信安がいる。 のふおき Category:江戸幕府旗本 Category:1672年生 Category:1738年没.
武田信重
武田 信重(たけだ のぶしげ)は、室町時代中期の守護大名。甲斐武田氏の第14代当主。.
武田信重 (安芸武田氏)
武田 信重(たけだ のぶしげ)は、戦国武将の武将。安芸武田氏の一族である。武田信実が逃亡した後に、安芸武田氏の家督を継いで当主になったとする説や、安国寺恵瓊の実父の説がある。.
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武田信長
武田 信長(たけだ のぶなが、生年不詳 - 文明9年(1477年)?)は、室町時代中期の武将。甲斐における国人領主。甲斐守護武田信満の次男で武田信重の弟、武田信元の甥に当たる。母は小山田氏の娘か。官位は右馬助。悪八郎、豊三と称したという。子に伊豆千代丸(信高?)、上総介(道信?、道卜?)、清嗣、某、宮内少輔、里見義実室、築田持助室がいる。上総武田氏の祖にあたる。.
武田信虎
武田 信虎(たけだ のぶとら)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。武田信玄の父。甲斐源氏の宗家・武田氏第18代当主。.
武田信栄
武田 信栄(たけだ のぶひで)は、室町時代後期の武将、守護大名。室町幕府相伴衆、若狭守護。若狭武田氏初代当主。安芸武田氏4代当主武田信繁の嫡男。弟に信賢、国信、元綱がいる。.
武田信正
武田 信正(たけだ のぶまさ、慶長5年(1600年) - 延宝3年(1675年))は、江戸時代の武士。武田信道の子。武田信玄の曾孫にあたる。子に武田信興。室は内藤忠興の娘。.
武田信武
武田 信武(たけだ のぶたけ)は、南北朝時代の武将。武田信政の子信時にはじまる信時流武田氏の生まれ。甲斐源氏嫡流甲斐武田氏の第10代当主。『甲斐国志』によれば、「生山系図」を引用し室を足利尊氏の姪とする。室町幕府の引付衆にも任じられた。.
武田信清
武田 信清(たけだ のぶきよ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。武田氏、上杉氏の家臣。.
武田信満
武田 信満(たけだ のぶみつ、?-応永24年2月6日(1417年2月22日))は、室町時代前期の守護大名。甲斐国・安芸国守護。甲斐武田氏の第13代当主。甲斐守護 武田信春の嫡男。息子に甲斐守護 刑部大輔 武田信重、悪八郎 武田信長、江草兵庫助 信康、仁勝寺 宗印、今井孫六 左馬助 信景、巨瀬村宮内 信賢、倉科治部少輔 信広、上杉禅秀室(『武田系図』)がいる。官位は安芸守。通称は武田二郎。.
武田信成
武田 信成(たけだ のぶなり、生年不詳 - 応永元年6月13日(1394年7月11日))は、南北朝時代の武将。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の傍系 甲斐源氏嫡流武田氏。甲斐武田氏の第11代当主。甲斐国守護・守護代。第10代当主・武田信武の嫡男。第12代当主・武田信春、武田基信、武田武春、布施満春、栗原武続の父。安芸武田氏当主武田氏信の兄。.
武田信明
武田 信明(たけだ のぶはる、宝暦3年(1753年) - 天明8年9月26日(1788年10月25日))は、江戸時代中期の高家旗本。柳沢信鴻の三男。生母は小林氏。通称は大三郎、織部。官位は従五位下侍従、安芸守。 柳沢氏は武田氏と同じ甲斐源氏の流れを汲んだ武田の遺臣の末裔であり、また信鴻の祖父の吉保の働きにより武田は高家として再興していた。 明和8年(1771年)3月25日、将軍徳川家治に御目見した。安永8年(1779年)12月3日、養父信安の隠居により家督を相続した。安永9年(1780年)6月17日、高家職に就任し、従五位下侍従・安芸守に叙任された。天明8年(1788年)9月26日死去、享年36。長男護信が家督を相続した。 正室は長沢資倍の娘。護信のほか一女あり。.
武田信春
武田 信春(たけだ のぶはる、? - 応永20年10月23日(1413年11月16日))は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。甲斐武田氏第12代当主。信時流武田氏の子孫で武田信成の子。官位は陸奥守及び伊豆守。 兄弟に基信、武春、布施満春、栗原武続がいる。子は信満、穴山満春(武田信元)、下条信継、市部信久、吉田成春、観音寺遠大西堂、法弥陀仏(一蓮寺住持)、上杉禅秀正室、小笠原長基正室、武田信繁室など(信春の系譜・子女については「円光院武田家系図」をはじめとする武田家系図類に拠る)。.
武田信昌
武田 信昌(たけだ のぶまさ)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名(戦国大名)。甲斐守護。本姓は源氏。家系は甲斐源氏の嫡流武田氏で武田宗家である甲斐武田氏第16代当主。武田信玄の曾祖父。 第15代当主武田信守(弥三郎)の子。正室は河内領主穴山信介の娘(兄弟に穴山信懸)。子に信縄、油川信恵、岩手縄美、松尾信賢、帰雲軒宗存、娘(小笠原清宗妻)など。『寺記』によれば諸角昌清(虎定)と山梨県甲斐市竜王の有富山慈照寺開山の真翁宗見は庶子であるとされるが、真翁宗見に関しては武蔵国の岡部氏の出自であるため、誤伝であることが指摘される。通称は五郎、落合殿。官位は刑部大輔、従五位下。.
武田信方
武田 信方(たけだ のぶかた、生没年不詳)は、戦国時代の武将。若狭武田氏の家臣。通称は彦五郎。武田信豊の子。兄に武田義統、弟に信景がいる。.
武田信政
;武田 信政(たけだ のぶまさ).
武田信景 (若狭武田氏)
武田 信景(たけだ のぶかげ、生年不詳 - 天正10年(1582年)?)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。足利氏の家臣。若狭の守護大名武田信豊の子。兄に武田義統。母は六角氏の娘とされる。通称は右衛門佐。正室は不詳。.
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武田信時
武田 信時(たけだ のぶとき、承久2年5月17日(1220年6月19日) - 正応2年2月9日(1289年3月2日)「甲斐信濃源氏綱要」(『系図綜覧』所収)武田信時項の傍注による。)は、鎌倉時代中期の武将。甲斐武田氏の第7代当主。室町・戦国期の甲斐国守護武田宗家に至る信時流武田氏の祖。通称は武田五郎次郎。 父は第6代当主・武田信政。母は大内惟義の娘と伝わる。兄弟に政綱(五郎三郎)。子に武田時頼、武田政頼、武田時綱、武田信実などがいる。.
武田八幡宮
武田八幡宮(たけだはちまんぐう)は山梨県韮崎市にある神社。同市神山町北宮地集落の西部にあり、旧社格は県社。本殿は国の重要文化財に指定されている。.
武田元信
武田 元信(たけだ もとのぶ)は、戦国時代の守護大名。若狭国・丹後国守護、安芸国分郡守護。若狭武田氏の第5代当主。武田国信の次男。妻は伊勢貞祐(政所執事伊勢貞宗の弟)の娘。.
武田元光
武田 元光(たけだ もとみつ)は、戦国時代の大名。若狭武田氏の第6代当主。第5代武田元信の次男。幼名は彦次郎。出家して宗勝。.
武田元綱
武田 元綱(たけだ もとつな)は、室町時代から戦国時代の武将。安芸武田氏当主武田信繁の四男で、信栄、信賢、国信の弟。元繁の父。安芸佐東銀山城主。.
武田元繁
武田 元繁(たけだ もとしげ)は、日本の戦国時代の武将。安芸武田氏当主。安芸国の分郡守護。智勇に優れた武将で、全盛期には.
武田元明
武田 元明(たけだ もとあき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。若狭武田氏最後の第9代当主。後瀬山城(旧・若狭小浜城)主。諱は元次(もとつぐ)ともいう。.
武田光和
武田 光和(たけだ みつかず)は、戦国時代の武将。安芸武田氏当主。武田元繁の嫡男。正室は熊谷元直の娘。官位は刑部少輔、安芸守。子に武田小太郎、武田小次郎、武田小三郎(宗慶)がいる。仮名は太郎。別名は光貞(みつさだ)。.
武田勝信
武田 勝信(たけだ かつのぶ)は、江戸時代前期の米沢藩士。米沢武田家2代当主。武田信安 、長尾景貞は孫にあたる。.
武田勝頼
武田 勝頼(たけだ かつより) / 諏訪 勝頼(すわ かつより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国大名。甲斐武田家第20代当主。 通称は四郎。当初は諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎、武田四郎勝頼とも言う。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。.
武田勝親
武田 勝親(たけだ かつちか、天正8年(1580年) - 天和2年6月19日(1682年7月23日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の人物。甲斐武田氏の当主・武田勝頼の三男で武田信勝の異母弟。『甲斐国志』では勝頼の三男であったことから初名が「勝三」であったとし、幼名であるとも考えられている丸島(2015)、p.445。勝千代。実名は「勝近」とする説もある。『系図纂要』によれば、通称は左衛門。 号は「善悦」。 天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍の武田領侵攻により、父の勝頼や兄の信勝は天目山で自害する。『甲斐国志』『系図纂要』によれば、勝親は家臣の栗原氏に救出され、大菩薩峠を越え鎌倉へ落ち延びたという。『系図纂要』には「又還住」と記されていることから、武田氏滅亡・天正壬午の乱を経て甲斐へ帰国していた可能性も考えられている。『摂津名所図会』では勝親を救出したのは栗原左衛門尉で、醍醐寺密経院の配慮で富田村へ移り、大坂城へ入城して織田信長と戦ったとされているが、これは誤伝であることが指摘される。 その後、『甲斐国志』『系図纂要』によれば摂津国尼崎藤田村(兵庫県尼崎市)へ移り、「善悦」と号して浄土真宗本願寺派の僧となったという。『系図纂要』では天和2年(1682年)に享年103で死去したとしている。 『摂津名所図会』によれば勝親は富田村に善念寺を送検し、善念寺は江戸時代の供養塔がある。.
武田国信
武田国信(たけだ くにのぶ).
武田義信
武田 義信(たけだ よしのぶ)は、戦国時代の武将。武田信玄の嫡男で武田氏を嗣ぐはずであったが、廃嫡された。.
武田義統
武田 義統(たけだ よしずみ/よしむね)は、戦国時代の若狭国の守護大名・戦国大名。若狭武田氏の当主。.
武田道安
武田 道安(たけだ どうあん、天正12年(1584年) - 寛文5年(1665年))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての医師。道安、猟徳院は号で、諱は信重。安芸武田氏に繋がる系譜とされる。父は武田信治で、母は杉原春良の娘。.
武田高信
武田 高信(たけだ たかのぶ、享禄2年(1529年)? - 天正元年(1573年)5月以前)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての因幡国の武将。.
武田護信
武田 護信(たけだ もりのぶ、安永8年(1779年) - 安政5年9月17日(1858年10月23日))は、江戸時代後期の高家旗本。高家旗本武田信明の長男。生母は長沢氏。通称は虎之助、織部。 天明8年(1788年)12月2日、父信明の死去により家督を相続する。表高家衆に列したものの、生涯高家職に就くことはなかった。寛政8年(1796年)8月15日、将軍徳川家斉に御目見する。文化5年(1808年)4月6日、隠居して養子信典に家督を譲り、以後鼎山と称する。安政5年(1858年)9月17日死去、享年80。 正室は柳沢吉里の七男青木信周の娘かた。かたは、大塩平八郎の乱に際し反乱に加わった小泉淵次郎の親類であり、調査対象になったものの、お構い無しとされた。嗣子がなかったため、守山藩主松平頼亮の三男信典を養子に迎えた。 もりのふ Category:江戸幕府旗本 Category:1779年生 Category:1858年没.
武田豊信
武田 豊信(たけだ とよのぶ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。上総武田氏当主。武田清信の養子とされている。一説には甲斐武田氏の武田信玄の三男信之が養子として入ってきたとも言われている。 第2次国府台合戦では里見義弘に従って出陣したが大敗している。上杉謙信と北条氏康が越相同盟を結んだときに、これに対抗する里見義堯と武田信玄の同盟(甲房同盟)の仲介をしたとされている。 1590年に行われた豊臣秀吉の小田原征伐には後北条氏に与力して参陣しなかった。このため、秀吉の討伐軍に攻められて、切腹したとされているが、一説には信濃国松代に逃亡し蟄居したと言われている。.
武田茂
武田 茂(たけだ しげる)は米沢武田氏の当主。 茂所有となっていた祖武田信清墓所は、1953年2月13日に米沢市文化財に認定された。 本来、「信茂」と名付けられる予定だったが、「名前に“信”があると早死にすることが多い」という母の願いで、「茂」の一文字になったと本人が語っている。また、武田家伝来の刀を「軍刀」に改造して第二次大戦に出征。捕虜になる直前に、米軍に奪われることを避けるために、南方の地に埋めたとのこと。.
武田邦信
武田 邦信(たけだ くにのぶ、1948年 - )は、高家武田家16代当主。武田昌信の子。武田英信の父。武田信玄の次男竜芳の子孫の系統で、信玄から数えて16代目にあたる。ただし、この家系は江戸時代後期以降にたびたび養子を迎えており、信玄と血統上のつながりが保たれてきたわけではない。.
武田耕雲斎
武田 耕雲斎(たけだ こううんさい、享和3年(1803年)- 元治2年2月4日(1865年3月1日))は、幕末の人。水戸藩の天狗党の首領。名は正生。通称は彦九郎。号は如雲。位階は贈正四位。官位は伊賀守。松原神社 (敦賀市)の祭神。靖国神社合祀明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社、1986年)、334頁)。.
武田氏
武田氏(たけだし)は、平安時代末から戦国時代の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流・河内源氏の一門、源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家である。安芸国・若狭国に分派が存在し、上総国などにも庶流があったが、いずれも通字として「信」(のぶ)が使用されている。古代の国造である武田臣(皇別)の後裔が河内源氏義光流の棟梁と婚姻したという説も伝わっている。 河内源氏の名族の一つとして戦国時代には戦国大名化し、武田晴信(信玄)の頃には領国拡大し中央の織田・徳川勢力に対抗するが勝頼期には領国の動揺を招いて宗家は滅亡し、江戸時代には庶家だけがわずかに残った。 家宝は御旗(後冷泉天皇から下賜された日章旗)・楯無(楯無の鎧、源頼義が御旗とともに授けられたという)。.
武田氏信
武田 氏信(たけだ うじのぶ)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将・守護大名。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系、河内源氏の傍系、甲斐源氏の流れを汲む安芸武田氏の初代当主。甲斐武田氏第10代当主・武田信武の次男。.
武田有義
武田 有義/逸見 有義(たけだ ありよし/へみ ありよし)は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。清和源氏義光流、甲斐源氏の棟梁・武田信義の四男(あるいは長男、三男)。後に伯父の逸見光長の養子になった。.
武田流
バマ米大統領訪日時、明治神宮で披露された武田流(大日本弓馬会)流鏑馬(2014年4月) 武田流(たけだりゅう)は弓術・馬術・礼法などからなる弓馬軍礼故実(弓馬故実・武家故実)の流派。細川流とも呼ばれた。小笠原流と同じく、流鏑馬に代表される弓馬故実を伝える流派である。 現在は起源を同じくする3団体、武田流騎射流鏑馬(武田流騎射流鏑馬保存会:熊本市)、武田流弓馬道(社団法人大日本弓馬会:鎌倉市)、武田流鎌倉派(日本古式弓馬術協会:鎌倉市)が存在し、それぞれ武田流を名乗り活動している。.
武田政綱
武田 政綱(たけだ まさつな)は、鎌倉時代の武士。北条氏得宗家被官である御内人。清和源氏の出身で石和流武田氏の祖。「吾妻鏡」の1263年の記述では「政直」と呼称されているが、これは誤植と言われる。 『吾妻鏡』では、政綱は仁治から弘長年間に活動しており、その事績は鶴岡八幡宮放生会の供奉人や弓始、笠懸における射手としての活動に集中する。建長3年(1251年)正月、弓始の儀式で射手を務める。同年8月、犬追物、笠懸の射手を担当。弘長元年(1261年)、笠懸を披露する北条時宗の為に的を拵える。同3年11月22日(1263年12月24日)、北条時頼の臨終の際、最後の看病を許された得宗被官7人の中に政綱の名が見える。 兄の信時は安芸国守護となり甲斐国から移住するが、政綱は甲斐に残留し石和)を本拠として石和流武田氏の一族となった。なお、黒田基樹は「石和三郎」は祖父である信光以来の名乗りであり、信時流が惣領を継承したものの、政綱流も北条氏と結びつくことで惣領家から自立して「甲斐武田氏」を形成したとする。 鎌倉時代末期には政義が甲斐守護となっているが、南北朝期には信時流武田氏の政武が甲斐へ再土着し、室町期に甲斐守護を継承し戦国大名化した武田宗家となる。.
武田政義
武田 政義(たけだ まさよし、生年不詳 - 興国4年/康永2年(1343年))は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。甲斐国守護。甲斐源氏の惣領武田氏のうち、安芸守護職を継承し安芸へ移った信時流武田氏とは異なり、甲斐国へ在留し山梨郡石和(山梨県笛吹市石和町)を本拠地とした石和流武田氏の出自。尊卑分脈所載「武田氏系図」に拠れば父は貞信、弟に貞政。子に福寿丸がいる。.
武田時綱
武田 時綱(たけだ ときつな、寛元3年1月3日(1245年2月1日) - 徳治2年7月3日(1307年8月1日)「甲斐信濃源氏綱要」(『系図綜覧』所収)武田時綱項の傍注による。)は、鎌倉時代の武将。武田氏の第8代当主。第7代当主・武田信時の子。母は右馬権頭頼茂(源頼茂か)の娘と伝わる。第9代当主・武田信宗の父。.
武野紹鴎
大仙公園内の武野紹鴎像 武野 紹鴎(たけの じょうおう、文亀2年(1502年) - 弘治元年閏10月29日(1555年12月12日))は、戦国時代の堺の豪商(武具商あるいは皮革商)、茶人。正しくは紹鷗だが、一部の日本語環境では表示できないため、本項では「武野紹鴎」と表記する。 幼名は松菊丸。通称は新五郎。名乗は仲材。 子に同じく茶人の武野宗瓦がいる。.
毒
GHSの高い急性毒性を示す標章 EUでの一般的な毒のシンボル(2015年までの使用)。 毒(どく)、毒物(どくぶつ)は、生物の生命活動にとって不都合を起こす物質の総称である。 毒物及び劇物指定令で定められる「毒物」については毒物及び劇物取締法#分類の項を参照のこと。.
毛利元就
毛利 元就(もうり もとなり)は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸の国人領主で、後の戦国大名。本姓は大江氏で、毛利氏の家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする血筋。寒河江氏などは一門にあたる。家紋は一文字三星紋。 安芸(現在の広島県西部)の小規模な国人領主に過ぎなかったが、暗殺や買収、婚姻や養子縁組など様々な権謀術数を駆使して中国地方のほぼ全域に勢力を拡大し、一代で大国を築き上げた。用意周到かつ合理的な策略および危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く策略家として知られている。子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられる人物である。.
毛利秀包
毛利 秀包(もうり ひでかね)は、戦国時代から安土桃山時代の武将、筑後国久留米の大名。.
毛利氏
毛利氏(もうりし)は、日本の武家の氏族で、本姓は大江氏。家紋は一文字三星。.
水戸徳川家
水戸徳川家(みととくがわけ)は、常陸国水戸にあった徳川氏の一支系で、徳川御三家のひとつ。単に水戸家ともいう。徳川家康の十一男である徳川頼房を家祖とする。.
水戸藩
水戸藩邸跡石碑(京都市上京区下長者町通烏丸西入北側) 水戸藩(みとはん)は、常陸にあって現在の茨城県中部・北部を治めた藩。藩庁は水戸城(水戸市)に置かれた。.
永享
永享(えいきょう)は、日本の元号の一つ。正長の後、嘉吉の前。1429年9月5日から1441年2月17日までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義教。.
永享の乱
永享の乱(えいきょうのらん)は、室町時代の永享10年(1438年)に関東地方で発生した戦乱。鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発する、室町幕府6代将軍足利義教が持氏討伐を命じた事件、戦いである。.
永禄
永禄(えいろく)は、日本の元号の一つ。弘治の後、元亀の前。1558年から1570年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝、足利義栄、足利義昭。.
江尻城
江尻城(えじりじょう)は駿河国庵原郡江尻(現在の静岡県静岡市清水区江尻町)にかつてあった日本の城である。.
江戸時代
江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.
池田忠雄
忠雄墓碑(通称・芋墓) 池田 忠雄(いけだ ただかつ)は、江戸時代前期の大名。淡路国洲本藩主、のち備前国岡山藩第2代藩主。鳥取藩池田家宗家2代。播磨姫路藩主・池田輝政の三男(実は六男)。母は徳川家康の次女・督姫。岡山藩初代藩主・池田忠継の同母弟。.
河内源氏
河内源氏(かわちげんじ)は、河内国(現在の大阪府の一部)に根拠地を置いた清和源氏の一流。一般的に武士で「源氏」という場合、この系統を指す。また、「平家」と称される伊勢平氏と併称される場合には源家(げんけ)という呼称も古くは用いられていた。.
河窪信実
河窪 信実(かわくぼ のぶざね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏の一族で、武田信玄の異母弟に当たる。親族衆に属した。.
油川信恵
油川 信恵(あぶらかわ のぶよし/のぶさと)は、戦国時代の武将。甲斐国勝山城主。武田信玄の大叔父。.
治承
治承(じしょう / ちしょう)は、日本の元号の一つ。安元の後、養和の前。1177年から1181年までの期間を指す。この時代の天皇は高倉天皇、安徳天皇。 治承期は、平氏政権の本格的な確立期および、それに反発して起こった全国的な内乱、すなわち治承・寿永の乱の初期に当たる。源頼朝の関東政権では、この先の養和・寿永の元号を使わず、治承を引き続き使用した。.
清和源氏
清和源氏(せいわげんじ)は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.
湯所口の戦い
湯所口の戦い(ゆところぐちのたたかい)は永禄6年(1563年)4月3日に武田高信と山名豊数率いる布施(勢)屋形勢の間で起こった戦い。湯所合戦とも言われ、武田高信の勢力が因幡一円に広がるきっかけとなった。.
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源義家
源 義家(みなもと の よしいえ)は、平安時代後期の武将。伊予守・源頼義の長男。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる。 比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となった時、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約10年間は閉塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された。 その活動時期は摂関政治から院政に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。このため歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ、後三年の役の朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な憶測がされてきた。生前の極位は正四位下。.
源義光
源 義光(みなもと の よしみつ)は、平安時代後期の武将。河内源氏の2代目棟梁である源頼義の三男。兄に源義家(八幡太郎)や源義綱(賀茂次郎)がいる。近江国の新羅明神(大津三井寺新羅善神堂)で元服したことから新羅三郎(しんらさぶろう)と称した。.
源義業
源 義業(みなもと の よしなり)は、平安時代後期の武将。実質的な佐竹氏初代。佐竹義業とも呼ばれる。.
源義清 (武田冠者)
源 義清(みなもと の よしきよ、承保2年4月16日(1075年5月3日) - 久安5年7月23日(1149年8月27日))は、平安時代後期の武将。『尊卑分脈』によれば、河内源氏の一族で甲斐源氏の祖となる源義光(新羅三郎義光)の三男(次男とも)佐藤(1986)、p.22。母は平清幹の娘(平成幹の姉または妹にあたる)。 『尊卑分脈』によれば源義光には七男がおり、義清の兄には佐竹氏の祖となった義業・石井氏の祖となった源実光、弟には盛義(形部四郎・平賀冠者)・親義(形部五郎・岡田冠者)・祐義(形部六郎・覚義(寺阿闍梨)がいる。 幼名は音光丸。通称は刑部三郎・武田冠者で、「形部」は義光が形部丞であったことに由来していると考えられている。武田義清・逸見義清とも。子に清光(逸見清光)、師光、加賀美遠光、安田義定らがある。.
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源盛義
源 盛義(みなもと の もりよし)は、平安時代末期の武将。源義光の四男。平賀盛義とも呼ばれる。平賀氏の祖。 信濃国佐久郡平賀郷に本拠を置いて平賀冠者を称した。父義光は平賀郷に隣接する甲斐国の国司を務めた事があり、兄の源義清は甲斐国に配流されて以降、甲斐北西部に勢力を扶植して甲斐源氏の祖になっている事から、盛義は兄の勢力と連携しながら甲斐国から信濃国への進出の流れで平賀郷に所領を形成したと考えられる。 子の平賀義信は17歳で源義朝の下で平治の乱に加わり、義朝の遺児・源頼朝が挙兵して東国を支配したのち、鎌倉幕府において御家人筆頭の地位を占め、源氏門葉として頼朝に重用されている。.
源頼信
源 頼信(みなもと の よりのぶ)は、平安時代中期の武将。摂津国多田現・兵庫県川西市多田。の地に源氏武士団を形成した源満仲の三男。河内国石川郡壺井現・大阪府羽曳野市壺井。を本拠地とする河内源氏の祖。.
源頼義
源 頼義(みなもと の よりよし)は、平安時代中期の武士。河内源氏初代棟梁・源頼信の嫡男で河内源氏2代目棟梁。.
源頼朝
源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.
源親義
源 親義(みなもと の ちかよし、生年不詳 - 寿永2年(1183年))は、平安時代末期の武将。源義光の五男。岡田親義とも呼ばれる。通称は刑部五郎。兄に義業、義清、盛義らがいる。 仕官を求めて上洛後、左衛門尉となった。保元元年(1156年)に平野神社領(のちに岩清水八幡宮領)であった信濃国筑摩郡岡田郷の浅間神社領の荘官として下向し、岡田冠者と称した。 治承4年(1180年)に以仁王の令旨での指名を受け、同族の源義仲の重臣として、子の太郎重義・小次郎久義を率いて挙兵した。会田・麻績の戦いや横田河原の戦いで信濃の平氏軍を破るが、寿永2年(1183年)に越中国倶利伽羅峠の戦いで、平知度と相打ちとなり戦死した。.
源氏
源氏(げんじ、みなもとうじ)は、「源」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。 日本において皇族が臣下の籍に降りる(臣籍降下)際に名乗る氏の1つで、多数の流派がある。清和天皇の子孫である清和源氏が有名である。.
源清光
源 清光(みなもと の きよみつ)は、平安時代末期の武将。甲斐源氏の祖。黒源太、逸見清光、武田清光とも呼ばれる。.
朝廷
朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。.
朝倉氏
朝倉氏(あさくらし)は、但馬国を拠点とした豪族。越前国を拠点とし、後に発展して戦国大名となった越前朝倉氏が有名。 藤原氏流等の朝倉氏もあるとされるが、別項にて扱う。.
木曾義康
木曾 義康(きそ よしやす、1514年(永正11年) - 1579年(天正7年))は、戦国時代の武将。信濃国南部の国衆である木曾氏の当主。義在の子。官位は中務大輔。子に義昌、上松義豊、岩姫らがいる。信濃四大将のひとり。.
木曾義昌
木曾 義昌(きそ よしまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。信濃国木曾谷の領主木曾氏の第19代当主。幼名は宗太郎。左馬頭、伊予守。木曾義康の長子。弟に上松義豊。正室は武田信玄の娘・真竜院(真理姫)。子に千太郎、義利、義春、義通、娘(毛利高政正室)などがいる。.
本姓
本姓(ほんせい)は、日本において、古代以来の氏族名。氏を参照。名字(苗字)や家名とは異なる「本来の姓」という意味である。単純に姓(せい)とも言うが、「姓(かばね)」のことではない。.
本家
本家(ほんけ)は、日本の荘園制における重層的土地支配構造(荘園公領制、職の体系を参照)上、最上位に位置づけられる土地の名義上の所有権者である。開発領主(かいほつりょうしゅ)から寄進を受けた領家から更に寄進を受けた院宮家、摂関家、大寺社が本家となっていた。宗家ともいう。.
本庄重長
本庄 重長(ほんじょう しげなが、1602年(慶長7年) - 1654年11月10日(承応3年10月2日))は、江戸時代初期の米沢藩藩士で福島城代。上杉氏家臣・本庄繁長の六男。兄に本庄顕長、本庄充長(大宝寺義勝)、本庄長房、本庄久長。正室は武田信清の娘。子に次男・本庄政長、三男・武田信秀他。幼名は市丸。通称は与市郎、出羽。 元和9年(1623年)、兄の充長が嗣子無きまま没し、寛永2年(1625年)に藩主定勝の命で兄の家督を継いで福島城代、禄高3333石となる。寛永5年侍頭。承応3年10月2日没。享年53。 Category:米沢藩士 Category:揚北衆 しけなか Category:1602年生 Category:1654年没.
本貫
本貫(ほんがん、ほんかん)は古代東アジアにおいて戸籍の編成(貫籍)が行われた土地をいう。転じて、氏族集団の発祥の地を指すようになった。 日本には律令制下の戸籍制度とともに概念が導入された。中世以降、武家の名字(苗字)の由来となった土地(名字の地, 一所懸命の土地)を「本貫」、「本貫地」(ほんがんち)と呼ぶようになった。 中国・朝鮮半島では、個人の戸籍の所在地の意味を離れ、氏族集団(宗族)の始祖の発祥地として使用された。とくに大韓民国では現在も家族制度上大きな意味を持つ。.
本能寺の変
本能寺の変(ほんのうじのへん)とは、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃された事件である。。。。。 信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、やはり館に火を放って自刃した。。。。2人の非業の死によって織田政権は崩壊し、天下人となった光秀であったが、中国大返しで畿内に戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、僅か13日後に光秀もまた同様の運命を辿った。この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、戦国時代における最後の下剋上とも言われる。 光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、「日本史の謎」「永遠のミステリー」などと呼ばれ、様々な人々が多種多様な説を発表している。(各説については変の要因を参照).
戎光祥出版
戎光祥出版株式会社(えびすこうしょうしゅっぱん)は、東京都千代田区にある神道、日本史、鉄道、銭湯などに関する書籍を刊行する出版社。.
戦国大名
戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.
戦国遺文
戦国遺文(せんごくいぶん)は、東京堂出版から発行されている戦国時代の古文書を集めた史料集。.
戦国時代 (日本)
日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.
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戸石城
戸石城(といしじょう)は、信濃国小県郡(現在の長野県上田市上野)にあった日本の城(城郭)。形式は山城。別名は砥石城。長野県指定史跡。.
明徳
明徳(めいとく)は、日本の元号の一つ。元中・康応の後、応永の前。1390年から1393年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後小松天皇。南朝方が後亀山天皇。室町幕府将軍は足利義満。 足利義満は、土岐康行の乱や2年の山名氏を挑発して蜂起させた明徳の乱、さらに応永期の応永の乱で有力守護大名を討伐して将軍権力を固めていく。1392年(元中9年/明徳3年)には北朝が南朝の持つ三種の神器を接収し、後亀山天皇が譲位して南北朝合一(明徳の和約)が成し遂げられ、元号も明徳に統一された。 康暦の政変で失脚した後に幕政に復帰した細川頼之は明徳の乱でも戦い3年に没しており、弟の細川頼元が管領に就任している。4年には斯波義将が管領に就任しており、幕府の将軍を頂点とする三管領体制が整いつつある時期である。.
明治
明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.
明治維新
Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.
明智光秀
明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖において落ち武者狩りで殺害されたとも致命傷を受けて自害したともされる。これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」ともいう。 光秀の本姓は源氏、清和源氏(摂津源氏)の家系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏の出身。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。官途は日向守。朝廷より惟任(これとう)の姓を賜ったので惟任光秀ともいう。妻は妻木煕子。その間には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。 領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社)もある。江戸時代の文楽「絵本太功記」や歌舞伎「時桔梗出世請状」をはじめ、後世、小説・映画・テレビドラマなど様々な作品でとりあげられている。.
春日虎綱
春日 虎綱 / 高坂(香坂) 昌信(かすが とらつな / こうさか まさのぶ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏家臣で譜代家老衆。幼名は春日源五郎(かすがげんごろう)。武田晴信 (信玄)・勝頼に仕え、武田四天王の一人として数えられる。.
昭和
昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.
昭和町
昭和町(しょうわちょう)は、山梨県中央部にある町である。中巨摩郡に属する。昭和町の周辺の町村は同じ中巨摩郡に属していたが、いわゆる平成の大合併によりそれぞれ甲斐市、南アルプス市、中央市となり、昭和町は現在の中巨摩郡唯一の自治体である。.
海野信親
海野 信親(うんの のぶちか、天文10年(1541年)- 天正10年3月11日(1582年4月3日))は、戦国時代の人物。甲斐の戦国大名で武田氏当主の武田信玄(晴信)の次男。幼名は二郎。母は三条の方(三条院殿)で、晴信嫡男の義信、夭折した信之は同母兄弟、晴信4男で武田家家督を継承する武田勝頼は異母弟にあたる。武田 竜芳(たけだ りゅうほう)とも、諱は勝重(かつしげ)とも呼ばれる。.
浅利信種
浅利 信種(あさり のぶたね)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。譜代家老衆。.
浅利義遠
浅利 義遠(あさり よしとお)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。浅利氏の祖。.
浅野長賢 (広島新田藩主)
浅野 長賢(あさの ながかた、元禄6年(1693年) - 延享元年9月25日(1744年10月30日))は、安芸国広島新田藩の初代藩主。 広島藩主浅野綱長の三男。子に浅野長喬(長男)、養寿院(小笠原忠総正室)、瑞仙院(毛利広寛正室)。幼名は万吉、民部、大膳。官位は従五位下。兵部少輔。宮内少輔。 宝永7年(1710年)9月18日、将軍徳川家宣に拝謁し、松平姓を名乗ることを許される。同年12月18日、従五位下兵部少輔に任官する。後に宮内少輔に改める。享保15年(1730年)5月11日、兄で広島藩主の吉長から3万石を分与されて、支藩である広島新田藩を立藩した。延享元年(1744年)9月25日、52歳で死去し、跡を長男・長喬が継いだ。法号は大通院。墓所は東京都品川区北品川の東海寺。 なかかた *01 Category:1693年生 Category:1744年没.
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新宮党
新宮党館跡地 尼子国久、誠久、敬久のものと伝えられる墓 新宮党(しんぐうとう)は、出雲の戦国大名尼子氏家中の精鋭として知られた軍事集団。居館を月山富田城(島根県安来市広瀬町)の北麓、新宮谷に構えていたため、新宮党を称した。.
新人物往来社
株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.
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新府城
新府城(しんぷじょう)は、現在の山梨県韮崎市中田町にかつてあった日本の城である。1973年(昭和48年)には「新府城跡」として国の史跡に指定されており、保存のため公有地化された。本丸跡地には藤武稲荷神社が建立されている。.
日本の国旗
日本の国旗(にっぽんのこっき、にほんのこっき)は、法律上は日章旗(にっしょうき)と呼ばれ、日本では古くから、また今日でも一般的に日の丸(ひのまる)と呼ばれる旗である。 1999年(平成11年)に公布・施行された「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法)の規定によれば、旗の形は縦が横の3分の2の長方形。日章の直径は縦の5分の3で中心は旗の中心。色地は白色、日章は紅色とされている。上下・左右対称である。 日章と旭光を意匠化した旗については旭日旗を参照。.
旗本
旗本(はたもと)は、中世から近世の日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれた。 元は中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、主家からすると最も信頼できる「近衛兵」の扱いであった。.
承久
承久(じょうきゅう)は、日本の元号の一つ。建保の後、貞応の前。1219年から1221年までの期間を指す。この時代の天皇は順徳天皇、仲恭天皇、後堀河天皇。後鳥羽上皇の院政、鎌倉幕府将軍は空位、執権は北条義時。.
承久の乱
承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。承久の変、承久合戦ともいう。 日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。 1185年に鎌倉幕府が成立した以降、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていた。その間、幕府の初代将軍の源頼朝が落馬で死亡、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺され、天皇家の血を引く源氏将軍が鎌倉から滅亡した。その1219年以降、鎌倉は伊豆を収める世襲一族の北条氏が実権を握り、さらに北条氏は、幕府内で朝廷の代理人である執権であったが、幕府を実質的に手中に収めるに至り、日本を統治するのは朝廷であり朝廷主導の政治が本来の姿とする朝廷側の怒りが高まっていった。この2年後に起きた承久の乱の結果、鎌倉幕府主導の政治体制が固まり、朝廷を監視する六波羅探題を京都に置き、朝廷の権力は制限され、皇位継承等にも鎌倉幕府が影響力を持つようになった。.
曽根昌世
曽根 昌世(そね まさただ、生没年不詳)は戦国時代の武将。武田二十四将の1人に数えられることもある。奥近習六人衆の一人。幼名は孫次郎。内匠助。下野守。子に曽根周防守。名は「まさよ」ともいわれる。.
思文閣出版
思文閣出版(しぶんかくしゅっぱん)は、京都府京都市左京区にある出版社。美術商思文閣の出版部で、人文系・美術系の書籍を刊行している。絶版となった古書や花道、歴史、国文、芸術などのオリジナル企画書を刊行している。ベストセラーにならなくても、命の長い本を出版していく方針を取っている[こんな出版社]思文閣出版 命の長い本作る 読売新聞 2007年9月27日 大阪夕刊7頁。所在地同ビルに企画展をメインとする美術館・思文閣美術館(しぶんかくびじゅつかん、2011年4月10日より休館中)、京都市東山区古門前通大和大路東入元町386にぎゃらりぃ思文閣を運営する。.
智頭郡
*.
1029年
記載なし。
1130年
記載なし。
1180年
記載なし。
1221年
記載なし。
1331年
記載なし。
1335年
記載なし。
1368年
記載なし。
1392年
記載なし。
1416年
記載なし。
1440年
記載なし。
1441年
記載なし。
1467年
記載なし。
1471年
記載なし。
1491年
記載なし。
1508年
土曜日から始まる。.
1515年
記載なし。
1541年
記載なし。
1545年
記載なし。
1563年
記載なし。
1566年
記載なし。
1568年
記載なし。
1572年
記載なし。
1573年
記載なし。
1575年
記載なし。
1578年
記載なし。
1582年
記載なし。
1590年
記載なし。
1630年
記載なし。
1700年
17世紀最後の年である100で割り切れてかつ400では割り切れない年であるため、閏年ではない(グレゴリオ暦の規定による)。。.
1868年
記載なし。
1915年
記載なし。
1966年
記載なし。
1968年
記載なし。
1969年
記載なし。
1981年
この項目では、国際的な視点に基づいた1981年について記載する。.
1987年
この項目では、国際的な視点に基づいた1987年について記載する。.
1988年
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1991年
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1993年
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1997年
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2000年
400年ぶりの世紀末閏年(20世紀および2千年紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年のままとなる(グレゴリオ暦の規定による)。。Y2Kと表記されることもある(“Year 2000 ”の略。“2000”を“2K ”で表す)。また、ミレニアムとも呼ばれる。 この項目では、国際的な視点に基づいた2000年について記載する。.
2003年
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2005年
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2006年
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2007年
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2008年
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2016年
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上総武田氏、安芸武田氏、武田家、武田源氏、真里谷氏、甲斐武田家、甲斐武田氏、若狭武田氏。