73 関係: 十和田市、十和田町、南部師行、南部信光、南部氏、南部政長、吾妻鏡、大間町、外が浜、奥州藤原氏、奥六郡、安藤宗季、安藤師季、寛元、寛永、山辺郡 (陸奥国)、岩手県、上北郡、七戸町、市町村、三沢市、三戸町、三戸郡、三浦盛時、下北郡、一戸町、九戸郡、九戸村、平賀郡、久慈市、二戸市、二戸郡、五戸町、延久蝦夷合戦、建武 (日本)、伊達行朝、御家人、後白河天皇、北畠顕家、北郡、北条茂時、北条泰家、むつ市、八戸市、六戸町、元弘、四戸氏、結城親朝、結城朝祐、田舎郡、...、遠野市、青森市、青森県、西浜、足利尊氏、鹿角市、鹿角郡、鼻和郡、郡、都道府県、閉伊郡、藤原清衡、陸奥国、比内郡、消滅した郡の一覧、清原真衡、源頼朝、浪岡町、文治、1189年、1246年、1334年、1634年。 インデックスを展開 (23 もっと) »
十和田市
十和田市(とわだし)は、青森県上北、南部地方の内陸部に位置する市である。.
十和田町
十和田町(とわだまち)は、かつて秋田県鹿角郡にあった町。1972年に市町村合併により鹿角市となり消滅した。合併後は鹿角市十和田として地域名が残っている。.
南部師行
南部 師行(なんぶ もろゆき)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将で根城南部氏の当主。.
南部信光
南部 信光(なんぶ のぶみつ)は、日本の南北朝時代の武将。 南朝方の武将として活躍し、正平10年(1355年)に北畠顕信の推挙により大炊助に任命され、翌正平11年(1356年)11月19日に薩摩守に叙任されている。 父信政が祖父政長に先立ち死去したため、政長から所領を譲られ家督を継承する。祖父政長同様に八戸根城を拠点として南朝方の中核として奮戦、正平15年(1360年)には陸奥国田舎郡黒石郷、鼻和郡目谷郷を安堵されている。 その後本領の甲斐国波木井郷に帰ったが、正平20年(1367年)に北朝方の神大和守に波木井城を攻められる。しかし逆襲して神城を陥落させた。戦功により後村上天皇から甲冑と太刀一腰、感状を賜り、所領を加増された。 嫡男長経が幼少であったので、家督は弟の政光が継承した。没年は天授2年(1376年)1月23日とされるが、南北朝合一後は八戸に住み、更に子政慶のいる七戸に隠遁したとも言われる。ただし子孫の八戸氏の家伝では政慶は信光の子ではなく弟政光の子としている。 『余目旧記』は信光が留守氏の遺児家任を後援し、留守氏の復興に尽力したことを伝えている。.
南部氏
南部氏(なんぶし)は、陸奥の武家で本姓は源氏。本貫地は甲斐国南部郷で家祖は南部光行。南部氏初代の光行は、平安時代に活躍した清和源氏の一流である河内源氏 源義光や、その孫で平安時代末期に活躍した黒源太清光、その子である甲斐源氏・加賀美遠光の子孫である。.
南部政長
南部 政長(なんぶ まさなが)は、南北朝時代の武将。南部政行の四男。.
吾妻鏡
『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮の序文 『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。 編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。.
大間町
太平洋から昇る朝日(大間崎) 本州最北端の石碑(大間崎) 大間町(おおままち)は、青森県下北郡の町。下北半島の先端に位置し、本州最北端の自治体である。津軽海峡に面し、天気の良い日には対岸北海道を見渡す事ができる。大間まぐろはグルメのブランドとして人気が高い。建設中の大間原子力発電所がある。.
外が浜
外が浜(そとがはま)は、青森県東津軽郡・青森市に相当する地域の陸奥湾沿岸を指す古来の地名である。 現代の区分では青森市・蓬田村・外ヶ浜町・今別町・平内町にほぼ相当する地域名でもある。外ヶ浜、外浜とも表し、外の浜ともいう。.
奥州藤原氏
毛越寺所蔵の三衡画像(江戸時代) 奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)は、前九年の役・後三年の役の後の寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)までの間、陸奥(後の陸中国)平泉を中心に出羽を含む東北地方一帯に勢力を張った豪族。藤原北家秀郷流を称した。.
奥六郡
奥六郡(おくろくぐん)は、律令制下に陸奥国中部(東北地方太平洋側、後の陸中国)に置かれた胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡の六郡の総称。 現在の岩手県奥州市から盛岡市にかけての地域に当たる。.
安藤宗季
安藤 宗季(あんどう むねすえ)は、鎌倉時代末期の武将・御内人。初名を五郎三郎季久、宗久とする系図も存在する。父は安藤元親とする系図があるが信憑性に乏しく詳細は不明。安藤季久と同一人物とする説が有力村井章介他 02年。本姓は安倍。 宗季と同一人物とされる季久は従兄弟とも従兄弟の子とも伝わる安藤季長と蝦夷代官職を争い、安藤氏の乱を引き起こした。 季長と季久の争いは、文保2年(1318年)以前から続いていたと見られている。元亨2年(1322年)には得宗家公文所の裁定にかけられたが、『保暦間記』等によれば、内管領の長崎高資が双方から賄賂を受け双方に下知したため紛糾したという。 季久は、得宗家により正中2年6月6日(1325年7月16日)に蝦夷代官職を与えられ、ほぼ同時期に宗季と改名したと見られているが、このこともあり安藤氏の内紛から季長の得宗に対する反乱に繋がったと見られている。 季長は得宗家の裁定に服さず戦乱は収まらなかったため、嘉暦元年(1326年)に御内侍所工藤貞祐が追討に派遣された。貞祐は同年7月に季長を捕縛し鎌倉へ帰還したが、季長の郎党季兼や悪党が引き続き蜂起し、同2年(1327年)には幕府軍として宇都宮高貞、小田高知、南部長継らが派遣された。翌3年(1328年)に至り安藤氏の内紛については和談が成立した。 この間、正中2年9月11日(1325年10月18日)には子の犬法師に、元徳2年6月14日(1330年6月30日)には高季あてと二度にわたる譲り状が残っており、その史料(「新渡戸文書」)によると宗季の所領は陸奥鼻和郡絹家島、尻引郷、片野辺郷、蝦夷の沙汰、糠部郡宇曾利郷、中浜御牧、湊、津軽西浜であった。犬法師にあてた譲り状には西浜が含まれていなかったが、その理由を季長の実効支配下にあったためとする見解がある。 なお、むつ市教育委員会では宗季と季久を別人とし、正中2年に犬法師季久が所領を相続したとしている。この見解では宗季は季長の別名か安藤氏内部の第三者となるが、「米良文書」によると安藤又太郎宗季、師季、法季、盛季、泰季を「奥州下國(しものくに)殿之代々」と記録しており、宗季譲り状に見える犬法師は師季の幼名と見る意見が有力である。 また、本史料からは、この頃の安藤氏宗家が下国を名字としていたことが分かる。従来は法季の子の代に盛季の系統の下国家、鹿季の系統の上国家とに分裂したと考えられてきたが、近年、安藤氏の乱における季長の系統が上国家の祖と見なす見解が出されている。.
安藤師季
安藤 師季(あんどう もろすえ、生没年不詳)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての陸奥国の武将。幼名を犬法師、初名を高季、安藤五郎太郎、安藤又太郎と称した。父は安藤氏の乱の一方の当事者であると思われる安藤宗季と伝えられる。弟は家季、子は法季と伝わる。本姓は安倍。最初南朝方、後に北朝方に与した。.
寛元
寛元(かんげん)は、日本の元号の一つ。仁治の後、宝治の前。1243年から1247年までの期間を指す。この時代の天皇は後嵯峨天皇、後深草天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、藤原頼嗣、執権は北条経時、北条時頼。.
寛永
寛永(かんえい)は日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.
山辺郡 (陸奥国)
山辺郡(やまべのぐん)は、かつて青森県の黒石市、南津軽郡浪岡町(現 青森市)付近に存在した、限時的に史料に見える郡。.
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岩手県
岩手県(いわてけん)は、東北地方に属する日本の都道府県の一つ。県庁所在地は盛岡市である。.
上北郡
青森県上北郡の範囲(1.野辺地町 2.七戸町 3.六戸町 4.横浜町 5.東北町 6.六ヶ所村 7.おいらせ町) 上北郡(かみきたぐん)は、青森県の郡。 以下の6町1村を含む。.
七戸町
七戸庁舎(2008年5月撮影) 七戸町(しちのへまち)は、八甲田山の東側に位置する青森県上北郡の町である。.
市町村
市町村(しちょうそん)とは、地方公共団体である市・町・村の総称。日本の基礎的地方公共団体(地方自治法2条3項では「基礎的な地方公共団体」)として、包括的(広域的)地方公共団体である都道府県に対比される。 市町村は基礎自治体でもあるが、日本の基礎自治体にはほかに特別区(都の区)があり、合わせて市区町村(しくちょうそん)または市町村区(しちょうそんく)という。東京都では、都内で人口最多の基礎自治体が市ではなく特別区(23区)なので、公的には区市町村(くしちょうそん)という。 2016年(平成28年)10月10日現在の数 である。 地方自治法は、以下で条数のみ記載する。.
三沢市
三沢市(みさわし)は、青森県東部にある市。在日米軍三沢基地が所在し、そこに所属の軍人・軍属とその家族で約1万人も住む。基地所属部隊は米国各軍(主に空軍)および航空自衛隊。 また、詩人・劇作家の寺山修司の故郷であり、寺山修司記念館がある。.
三戸町
三戸町(さんのへまち)は、青森県三戸郡の南端、岩手県との境に位置する町である。 古くより三戸郡の中核機能を有する町として栄えてきた。.
三戸郡
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三浦盛時
三浦 盛時(みうら もりとき)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人。三浦氏佐原流の出身で、義連の孫。.
下北郡
青森県下北郡の範囲(1.大間町 2.東通村 3.風間浦村 4.佐井村) 下北郡(しもきたぐん)は、青森県の郡で、本州最北の郡。 以下の1町3村を含む。.
一戸町
一戸町(いちのへまち)は、岩手県の北に位置する町である。.
九戸郡
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九戸村
九戸村の水田 九戸村(くのへむら)は、岩手県の北部に位置する村である。.
平賀郡
平賀郡(ひらかぐん、ひらかのこおり)は、かつて陸奥国の津軽半島の岩木川上流地域に存在した『浪岡町史』p.699-700郡である。.
久慈市
久慈市(くじし)は、岩手県北東部に位置し、北上山地を背に太平洋に面する市。市の中心部は久慈湾の奥部にある。.
二戸市
二戸市中心部周辺の空中写真。馬淵川沿いに市街地が形成され周囲は山に囲まれている。1977年撮影の8枚を合成作成。国土航空写真。 上空からの二戸市 二戸市(にのへし)は、岩手県の内陸部北端に位置する市である。 旧・二戸市域は中央を馬淵川(まべちがわ)が流れ、東に折爪岳を擁する。旧・浄法寺町域はほぼ中心を南西から北東に向かって流れる安比川の流れにそって交通が発展し、やや川下の開けた部分に総合支所などが存在し、西に稲庭岳を擁する。九戸郡軽米町、九戸村、一戸町と共に、カシオペア連邦を形成する。.
二戸郡
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五戸町
五戸町(ごのへまち)は、青森県の三戸郡の町。.
延久蝦夷合戦
延久蝦夷合戦(えんきゅうえぞかっせん)は平安時代、前九年の役(1051年-1062年)と後三年の役(1083年-1087年)の間で陸奥国を主な舞台に起こされた戦役で、延久二年合戦、延久合戦とも言う。 1070年(延久2年)に、陸奥守源頼俊が清原貞衡と共に兵を率い蝦夷を攻略したとされる戦い。.
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建武 (日本)
建武(けんむ)は、日本の元号の一つ。南朝方では元弘の後、延元の前で日_(旧暦)|1月29日〜1336年2月19日までの期間を指す。北朝方では正慶の後、暦応の前で、1334年1月29日〜1338年8月28日までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方後醍醐天皇、北朝方光明天皇。.
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伊達行朝
伊達 行朝(だて ゆきとも)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。後年、行宗(ゆきむね)に改称した。南朝側の武将として各地を転戦した。.
御家人
御家人(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の家人の身分を指す語であるが、中世と近世では意味合いが異なる。.
後白河天皇
後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。.
北畠顕家
北畠 顕家(きたばたけ あきいえ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将。 『神皇正統記』を著した准三后北畠親房の長男、母は不詳。官位は正二位、権大納言兼鎮守府大将軍、贈従一位、右大臣。 建武親政下において、義良親王を奉じて陸奥国に下向した。足利尊氏が建武政権に叛したため西上し、新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝が分立するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。 以後、伊勢・大和などを中心に北朝軍相手に果敢に挑むも遂に和泉国堺浦・石津に追い詰められ、奮戦の末に討ち取られて戦死した。 死後、明治時代に顕家を主祭神とする霊山神社と阿部野神社が建設され、これらは建武中興十五社となった。.
北郡
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北条茂時
北条 茂時(ほうじょう しげとき 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、p.540/もちとき『鎌倉将軍・執権・連署列伝』P.192(「北条茂時」の項、執筆:鈴木由美)による。)は、鎌倉時代末期の北条氏の一門。鎌倉幕府の最後の連署である。 父は政村流で鎌倉幕府の第12代執権・北条煕時。母は第9代執権・北条貞時の娘。.
北条泰家
北条 泰家(ほうじょう やすいえ)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての北条氏の一族。鎌倉幕府の第9代執権・北条貞時の四男。14代執権・北条高時の同母弟に当たる。.
むつ市
むつ市(むつし)は、青森県東北部、下北地方に位置する市である。.
八戸市
八戸市(はちのへし)は、青森県東部に位置し、太平洋に面する中核市。青森市・弘前市と共に、青森県主要3市の一角を構成する。 三八地域県民局が設置されており、三戸郡を包含する八戸圏域連携中枢都市圏の中心となっている。.
六戸町
六戸町(ろくのへまち)は、青森県上北郡の東南部に位置する町である。一面が平坦な地形にて形成されており、目立った高山・湖沼はない。十和田湖を源流とする奥入瀬川が東西を流れ、流域には農地が広がる。積雪は多くなく年間を通して穏やかな気候である。.
元弘
元弘(げんこう)は、日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年から1333年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.
四戸氏
四戸氏(しのへし)は、本姓は源氏。家系は清和源氏の一流で河内源氏の傍流・甲斐源氏南部氏流にあたる。.
結城親朝
結城 親朝(ゆうき ちかとも)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。小峰氏初代当主。.
結城朝祐
結城 朝祐(ゆうき ともすけ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。下総結城氏6代当主。.
田舎郡
舎郡(いなかぐん、いなかのこおり)は、青森県の津軽平野の黒石市・南津軽郡尾上町(現平川市)・田舎館村付近に存在した『浪岡町史』p.699-700郡である。.
遠野市
遠野市(とおのし)は、岩手県内陸部にある都市である。 柳田國男の『遠野物語』の舞台となった町であり、河童や座敷童子などが登場する「遠野民話」が伝わる。.
青森市
青森市(あおもりし)は、青森県の中央部に位置する市である。津軽地方・東青地域に属する。同県の県庁所在地であり、中核市に指定されている。青森湾に臨む交通の要地。中心市街は江戸初期に建設された港町に由来。三内丸山遺跡や青森ねぶた祭が知られる。.
青森県
青森県(あおもりけん)は、日本の本州最北端に位置する県。県庁所在地は青森市である。県の人口は全国31位、面積は全国8位。令制国の陸奥国(むつのくに、りくおうのくに)で構成されている。.
西浜
西浜(にしはま、ようすな); 地名.
足利尊氏
足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.
鹿角市
八幡平大沼 鹿角市(かづのし)は、秋田県北東部に位置する市。 青森県・岩手県・秋田県三県の県境に位置する。古くは「上津野」と表記していた。古墳も多く遺され、大湯環状列石は全国でも著名な縄文遺跡の1つである。.
鹿角郡
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鼻和郡
鼻和郡(はなわぐん、はなわのこおり)は、かつて陸奥国の津軽半島南部からその南方の岩木川左岸地域に存在した『浪岡町史』 p.699-700郡である。.
郡
郡(ぐん)は、行政区画の一種。中国・日本・朝鮮などの漢字文化圏に導入されたものである。 なお、欧米などの行政区画の一部を日本語に翻訳するときに、訳語としてこの語を当てることがある(カウンティも参照)。.
都道府県
都道府県(とどうふけん)は、日本の広域普通地方公共団体である「都」、「道」、「府」、「県」の総称である。現在では、都が東京都の1、道が北海道の1、府が京都府および大阪府の2、県が43で、「1都1道2府43県」、総数は「47都道府県」である。市町村とともに普通地方公共団体(ふつうちほうこうきょうだんたい)の一種で、包括的地方公共団体(ほうかつてきちほうこうきょうだんたい)、広域的地方公共団体(こういきてきちほうこうきょうだんたい)ともいう。.
閉伊郡
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藤原清衡
藤原 清衡(ふじわら の きよひら)は、平安時代後期の武将で奥州藤原氏初代当主。.
陸奥国
奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.
比内郡
比内郡(ひないぐん)は出羽国にあった郡。概ね現在の大館市、北秋田市、北秋田郡にあたる。.
消滅した郡の一覧
消滅した郡の一覧は、属していた町村が全て市制施行または市に編入されたことなどにより、消滅した郡の一覧である。(朝鮮半島は除外) 年月日は消滅した年月日(すなわち、その前日まで郡があった)を、括弧内は消滅した事由を示す。 消滅した郡の都道府県別一覧も参照のこと。 なお、沖縄県は郡消滅が1つもないが、宮古郡は2005年の宮古島市誕生により1村(多良間村)を残すのみで、八重山郡との再編が検討されている。.
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清原真衡
清原 真衡(きよはら の さねひら)は、平安時代後期の武将。奥州の豪族、清原武貞の子。清原家衡の異母兄、藤原清衡の継兄。 延久年間に行われた延久蝦夷合戦などで活躍し鎮守府将軍従五位下であったとの史料がある清原貞衡と同一人物とする説がある。.
源頼朝
源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.
浪岡町
浪岡町(なみおかまち)は、青森県西部・津軽地方の町である。2005年4月1日に青森市と対等合併し、消滅した。ただし、現在も「青森市浪岡」として地名は残る。.
文治
文治(ぶんじ)は、日本の元号の一つ。元暦の後、建久の前。1185年から1189年までの期間を指す。この時代の天皇は後鳥羽天皇。.
1189年
記載なし。
1246年
記載なし。
1334年
記載なし。
1634年
記載なし。