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清和源氏

索引 清和源氏

清和源氏(せいわげんじ)は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

512 関係: 加賀美遠光加賀美氏南部光行南部氏南部晴政及川氏古河公方受領吉川弘文館吉見正頼吉見氏吉良義央吉良氏君主堺公方堂上家堀越公方壺井八幡宮壇ノ浦の戦い多田多田神社多田荘多田頼盛多田頼憲多田行綱多田氏多田源氏夏目氏大友氏大名大崎氏大井氏大和国大和源氏大内氏 (源氏)大内惟信大内惟義大阪府大蔵合戦天暦太田道灌太田頼基太田氏奥富敬之奥州藤原氏奥州探題奈良県嫡流宍戸氏宝賀寿男...室町幕府室町時代宮氏家紋守護守護大名安倍氏 (奥州)安田元久安田義定安田氏安房国対馬氏小弓公方小国氏小笠原長清小笠原長時小笠原氏尾張国尾張源氏山城国山名宗全山名義範山名氏山入氏山県氏山田重忠山田重満山田氏山本義経山本氏岩松氏島津忠久島津氏崩御川西市川辺郡上総国中川清秀中野区三好長慶三刀屋氏三職推任問題三河国下総国下間氏一幡一門一色氏一条忠頼九州探題平安京平島公方平井氏平忠常の乱平忠盛平賀義信平賀氏平賀朝雅平賀有義平正盛平治の乱平清盛幕府人物叢書二十一流二条天皇二条院讃岐井上氏今川義元今川貞世今川氏仁木氏令旨以仁王以仁王の挙兵延朗伊奈氏伊勢平氏住蓮佐竹秀義佐竹義重佐竹隆義佐竹氏佐竹昌義征夷大将軍依田実信依田氏御一家徳川家基徳川家康徳川氏後三年の役後白河天皇後陽成天皇得宗保元の乱信実信西信濃村上氏信濃源氏快誉応神天皇志田氏土岐康行土岐光衡土岐頼遠土岐氏リンドウカバネ出羽国出羽清原氏公卿公暁六孫王神社六条斎院宣旨元木泰雄兵庫県前九年の役国人四職皇子皇別石塔氏石川光家石川氏石川源氏石川数正石橋氏石清水八幡宮王 (皇族)祐子内親王家駿河禅暁秩父氏秋山光朝秋山氏稲沢氏竹御所竹内家竹内理三竹紋笠谷和比古管領粟津の戦い細川幽斎細川勝元細川頼之細川氏織田信長美濃源氏義円義江彰夫羽州探題羽曳野市結城氏田部井氏甲斐一条氏甲斐源氏畠山氏畠山満家留守氏片切景重片桐氏白河天皇鎌倉将軍一覧鎌倉幕府鎌倉公方鎌倉時代鎌田政清聚楽第荘官落胤飯富季貞飯富虎昌飯富氏馬場信春馬場氏高屋氏高梨氏豪族貞保親王貞元親王貞純親王貞辰親王貞暁貞数親王貫達人鳥羽天皇賀茂氏足助重長足助氏足利尊氏足利将軍家足利義兼足利義満足利義昭足利義政足利氏鶴岡八幡宮近江源氏能勢氏能瀬高頼舜天舜天王統阿野家阿野全成阿野時元薩摩国薩摩藩門葉藤原信頼藤原北家藤原道長藤原頼経藤原氏葦敷重隆葦敷重頼野口実野長瀬氏臣籍降下里見義堯里見義成里見氏金津氏長田忠致長男酒呑童子逸見光長逸見氏院政陸奥国陸奥石川氏陽成天皇柏木義兼東京都松平信光松平氏松平清康板垣兼信板垣退助板垣氏村上義清村上氏村上水軍栄実桃井氏森氏森成利権記武士団武家武家の棟梁武家政権武田信光武田信玄武田信義武田氏武田有義歴史学毛利氏 (源氏)水野氏永承江戸時代河内国河内経国河内氏河内源氏治承・寿永の乱泉親衡泉親衡の乱清和天皇渋川氏源基宗源孝道源季遠源実国源実朝源宗綱源師光源希義源広綱源仲家源仲宗源仲光源仲綱源仲政源忠宗源忠国源忠隆源忠重源兼忠源兼綱源光基源光家源光宗源光保源光信源光国源光行源光重源光長源国基源国直源国房源国政源範頼源義家源義宗源義平源義康源義広 (志田三郎先生)源義仲源義忠源義信源義光源義国源義綱源義経源義親源義高 (左兵衛権佐)源義高 (清水冠者)源義賢源義門源義重源義雄源義業源義清 (左京権大夫)源義清 (矢田判官代)源義清 (武田冠者)源義朝源経基源経光源為基源為宗源為仲源為公源為国源為義源為満源為朝源為成源盛義源頼基源頼子源頼季源頼実源頼家源頼家 (摂津源氏)源頼平源頼仲源頼弘源頼俊源頼信源頼兼源頼光源頼国源頼範源頼綱源頼義源頼遠源頼行源頼親源頼貞源頼賢源頼資源頼茂源頼治源頼清源頼朝源頼成源頼房源頼明源頼政源行家源行国源顕清源親弘源親義源親行源親治源重実源重宗源重遠源重貞源重成源重時源氏源氏嫡流源氏将軍源氏三神社源氏長者源清光源満季源満仲源満快源満国源満頼源満政源朝長源有光源有綱源惟清源明国源斉頼源政綱満願寺 (川西市)滋野氏持明院基宗服部半蔵服部氏朝臣木田氏木曾氏最上氏惟宗広言惟宗忠康惟宗氏戦国大名戦国時代 (日本)房総半島星野恒明治明智光秀明智氏浦野重直浅利義遠浅利氏浅野氏斯波義将斯波氏新宮氏新田義兼新田義貞新田氏摂家摂関政治摂津国摂津源氏愛智義成承久の乱1028年1062年1087年1106年1109年1155年1156年1160年1180年1184年1185年1192年1221年1231年1234年1338年1588年1603年1939年1962年1989年5月953年 インデックスを展開 (462 もっと) »

加賀美遠光

加賀美 遠光(かがみ とおみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。甲斐源氏の祖とされる源義光の孫源清光の四男(清光の父義清の子とする説もある)。 加賀美氏の初代であり、武田氏初代武田信義の弟(あるいは叔父)となる。甲斐国巨麻郡加賀美郷(現在の山梨県南アルプス市の一部)一帯に所在する加々美荘を本領とした。.

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加賀美氏

加賀美氏(かがみし)は、日本の氏族のひとつ。鏡・各務・加々美などとも表記されることがある。.

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南部光行

南部 光行(なんぶ みつゆき)は、日本の平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。加賀美遠光の三男。南部氏の始祖。.

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南部氏

南部氏(なんぶし)は、陸奥の武家で本姓は源氏。本貫地は甲斐国南部郷で家祖は南部光行。南部氏初代の光行は、平安時代に活躍した清和源氏の一流である河内源氏 源義光や、その孫で平安時代末期に活躍した黒源太清光、その子である甲斐源氏・加賀美遠光の子孫である。.

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南部晴政

南部 晴政(なんぶ はるまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。陸奥の戦国大名。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系、河内源氏の傍系、甲斐源氏の流れを汲む。南部氏第24代当主。.

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及川氏

及川氏(おいかわし)は、日本の氏族。清和源氏(摂津源氏)頼綱流。源三位頼政より出、馬場氏の分流。及川の「及」は「およぶ」ではなく「笈」の異体字(または略字)。古くは及川だけでなく笈川・及河・笈河などいろいろに書かれ、現在でも笈川氏と書く家もあるが、どの書き方が正しいということはない。読みも現在はオイカワが一般的であるが、清音のオイカワと濁音のオイガワ、どちらが本来の読みだったのかは不明である。全国人口順位282位、現在の日本では約2万軒、人口78,400人。.

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古河公方

古河公方(こがくぼう)は、室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となった。(享徳の乱) その後も政氏・高基・晴氏・義氏へと約130年間引き継がれる。御所は主に古河城。古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。.

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受領

受領(ずりょう)とは、国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者を平安時代以後に呼んだ呼称。 実際に現地に赴任する国司が前任者から文書や事務の引継を受けることを「受領(する)」と言い、それが職名になった(なお、後任者に文書や事務の引継を行うことを「分付(する)」と称した)。.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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吉見正頼

吉見 正頼(よしみ まさより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大内氏、毛利氏の家臣。.

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吉見氏

吉見氏(よしみし)は、日本の氏族。.

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吉良義央

吉良 義央(きら よしひさ/よしなか(名前の読みについては後述を参照))は、江戸時代前期の高家旗本(高家肝煎)。赤穂事件の一方の当事者であり、同事件に題材をとった創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる。幼名は三郎、通称は左近。従四位上・左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)。吉良上野介と呼ばれることが多い。本姓は源氏(清和源氏)。家紋は丸に二つ引・五三桐。.

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吉良氏

吉良氏(きらし)は、日本における武士の氏族の一つであり、代表的なものに下の三つの流れがある。.

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君主

フランス国王ルイ14世 君主(くんしゅ)とは、一般に、世襲により国家を治める最高位の人。伝統的に、国家で特定の一人が主権を持つ場合、その主権者が君主であり、王・帝王・天子・皇帝・きみ等ともいう。.

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堺公方

堺公方(さかいくぼう)は、大永7年(1527年)から享禄5年(1532年)にかけての足利義維に対する呼称である。堺大樹(さかいたいじゅ)とも呼ばれた(大樹は将軍の意)。義維はこの時期和泉国堺にあって、異母兄の将軍足利義晴と対峙した。堺公方の奉行人はほとんど幕府同様に文書を発給していたことから、その体制を堺幕府と呼ぶ研究者もいる。 永正5年(1508年)以来曲がりなりにも室町幕府を担ってきた管領細川高国の陣営に内紛が起こり、それをきっかけに長らく阿波国に逼塞していた対立陣営の義維・細川晴元・三好元長らが堺に進出し、そこを拠点に将軍・細川管領家(京兆家)家督の座や畿内の支配を目指した。その活動期間中、将軍義晴はほぼ近江国内に亡命しており、江州大樹(ごうしゅうたいじゅ)などと呼ばれていた。巻き返しを図って奔走した高国は享禄4年(1531年)に敗れて(大物崩れ)自害したが、堺公方側は間もなく内訌を始め、将軍への接近を試みる細川晴元が三好元長を滅ぼすと、義維も阿波へ没落し、その活動に幕が下ろされた。 明応の政変以降、足利将軍家は将軍とその対抗者の両流に分かれたが、永正の錯乱・等持院の戦いと時に立場を入れ替え、やはり分裂していた京兆家の一方とそれぞれが結び付きながら相克を繰り返した。堺公方と幕府の両陣営が覇権を争って拮抗したのも、その流れの末に生じた事態であった。この時の堺公方陣営は、幕府並みの体制を敷いて畿内を勢力範囲に収め、しかも幕府側の中核であった細川高国を倒しながら、幕府(義晴政権)に取って代わる前に、あっけなく自壊したのであった。.

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堂上家

堂上家(とうしょうけ、どうじょうけ)は、公家の家格の一つ。御所の清涼殿南廂にある殿上間に昇殿する資格を世襲した家柄。また、公卿になれる家柄。同時に上級貴族とも呼ばれる。 中級貴族である地下の官人を除く公家を指す。江戸時代末期には137家があった。.

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堀越公方

堀越公方(ほりごえくぼう/ほりこしくぼう)とは、室町時代に関東で勢力を持った公方の一。伊豆堀越(静岡県伊豆の国市)を本拠地とした。『国史大辞典』『日本史大事典』によると、地名は「ほりごえ」だが、慣用として「ほりこしくぼう」と読んでいる。『日本史広事典』(角川書店)では「ほりごえくぼう」となっている。.

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壺井八幡宮

壺井八幡宮(つぼいはちまんぐう)は、大阪府羽曳野市にある神社である。武家棟梁・河内源氏の氏神である。 八幡神として誉田別尊(応神天皇)・仲哀天皇・神功皇后を主祭神とし、玉織姫・武内宿禰を配祀する。 源義家(八幡太郎義家)が愛用したとされる黒韋威胴丸(くろかわおどしどうまる・重要文化財)や天光丸の太刀(重要美術品)などが伝わっている。社家の高木氏は、河内源氏・八幡太郎義家の六男(五男とする見方もある)・源義時(陸奥六郎義時)の子孫である。 宮内の楠は大阪みどりの百選に選定されている。.

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壇ノ浦の戦い

壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)は、平安時代の末期の元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた戦闘。栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである。.

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多田

多田(ただ)は、日本各地の地名、また姓。.

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多田神社

橋越しに南門を望む 源満仲・源頼光廟 多田神社(ただじんじゃ)は兵庫県川西市にある神社。多田院として国の史跡に指定されている。元々は多田院という天台宗の寺院であった。六孫王神社(京都府京都市南区)、壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)とともに「源氏三神社」の1つ。.

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多田荘

多田荘(ただのしょう)は、摂津国川辺郡北部(現在の兵庫県川西市全域及び宝塚市北部、三田市東部、猪名川町の一部にあたる地域)に存在した荘園。摂関家(近衛家)領。初期清和源氏の拠点となった。.

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多田頼盛

多田 頼盛(ただ よりもり、生没年不詳)あるいは源 頼盛(みなもと の よりもり)は、平安時代末期の武将。摂津源氏(多田源氏)源行国の長男。弟に源国章・多田頼憲・源行智・源仲国らがあり、子に多田行綱・多田知実・能瀬高頼・多田高実らがある。従五位下、蔵人、摂津守。 平安中期に源満仲によって拓かれた多田荘を継承した多田源氏の7代目惣領であったが、弟の頼憲とは多田荘の相続を巡り対立した。当時、多田源氏が代々近侍してきた摂関家は、藤原忠通・頼長兄弟の対立により分裂状態にあった為、弟の頼憲が頼長に仕えたのに対し頼盛は忠通に仕えた。そして、仁平3年(1153年)に父行国が死去すると、頼憲との遺領を巡る対立は摂津国内において激しい合戦となるまでに発展した(『本朝世紀』同年閏12月1日条)。 その後の保元の乱では、頼盛は忠通に近侍していた事から後白河天皇方として参陣し、数百の郎党を率いて天皇の警護の任に就くなどした(『兵範記』保元元年(1156年)7月11日条)。一方、弟の頼憲は崇徳上皇方として出陣しており、天皇方の頼盛は勝利したが、敗れた上皇方の頼憲は嫡子と共に斬首された。これにより多田荘は頼盛の嫡子行綱に継承された。.

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多田頼憲

多田 頼憲(ただ よりのり、生年不詳 - 保元元年(1156年))は平安時代末期の武将。散位・源行国の三男。源 頼憲(みなもと の よりのり)とも。「多田蔵人大夫」を名乗る。兄に頼盛、甥に行綱・高頼らがある。従五位下、蔵人、文章生。 兄・頼盛と多田荘の相続を巡って対立し、頼憲も「多田」を号した。摂関家の内部で藤原忠通・頼長兄弟の対立が起こると、頼盛が忠通に従属したのに対して、頼憲は頼長に仕えその勾当となる。久安3年(1147年)には頼長の推挙により内昇殿を許されており、仁平元年(1151年)には頼長の命により、同じく頼長の家人である源為義の摂津国の旅亭を焼却したこともあった。 保元元年の保元の乱に際しては頼長の指揮の下、崇徳上皇方として参陣し、為義や平忠正らとともにその主力を形成する。しかし上皇方が敗北するとともに捕虜となり、嫡男・盛綱とともに斬首された。 なお、『平治物語』には「摂津守多田頼範」なる人物が源義朝方として戦ったとあるが、この人物が頼憲の事なのかは不明である。.

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多田行綱

多田 行綱(ただ ゆきつな/源 行綱、みなもと の ゆきつな)は、平安時代末期の武将。摂津源氏の流れを汲む多田源氏の多田頼盛の長男。官位は従五位下・伯耆守。 摂津国多田の地に武士団を形成した源満仲(多田満仲)より数えて八代目に当たる多田源氏の嫡流。.

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多田氏

多田氏(ただし)は、清和源氏の流れをくむ一族。摂津国川辺郡多田より発祥。家紋は獅子牡丹など。.

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多田源氏

多田源氏(ただげんじ)は、清和源氏において源満仲(多田満仲)に始まる摂津国多田の地を本拠とした系統を指した呼称。.

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夏目氏

夏目氏(なつめし)は、日本の氏族の一つ。.

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大友氏

大友氏(おおともし)は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、九州の豊後国(現大分県)を本拠とした一族。豊後・筑後など北九州を支配した守護職・守護大名で、戦国時代には戦国大名に成長し、最盛期には豊後・筑後に加え豊前・肥前・肥後・筑前の6ヶ国と日向・伊予の各半国を領有したが、豊臣政権期に除封された。江戸時代には江戸幕府の旗本(高家)や大名家の家臣となって存続した。.

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大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

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大崎氏

大崎氏(おおさきし)は、陸奥大崎5郡を支配した大名。本姓は源氏。家系は清和源氏のひとつ、河内源氏の流れを汲む足利一門で、南北朝時代に奥州管領として奥州に下向した斯波家兼を始祖とする斯波氏の一族。 斯波氏の一族であることから、斯波大崎氏ともいう。さらに、支流には最上氏、天童氏などがある。.

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大井氏

大井氏(おおいし).

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大和国

大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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大和源氏

大和源氏(やまとげんじ)は、清和源氏の一流であり、源満仲の次男の頼親に始まる。.

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大内氏 (源氏)

大内氏(おおうちし)は、日本の氏族のひとつ。本項では本姓を源氏とする一族について解説する。.

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大内惟信

大内 惟信(おおうち これのぶ)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府御家人。清和源氏義光流平賀氏の一族で、大内惟義の嫡男。母は藤原秀宗の妹(藤原秀康の叔母)。.

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大内惟義

大内 惟義(おおうち これよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・鎌倉幕府御家人。清和源氏一門の重鎮であった平賀義信の長男。新羅三郎義光の曾孫にあたる。 惟義が伊賀国に赴任した時期に大内姓を称したが、後に戦国大名となる周防国の多々良姓大内氏とは関係がない。.

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大阪府

大阪府(おおさかふ)は、近畿地方に属する日本の都道府県の一つ。府庁所在地は大阪市。.

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大蔵合戦

大蔵合戦(おおくらかっせん)は、久寿2年(1155年)8月16日、平安時代末期に武蔵国で源義平が源義賢の拠点であった大蔵館を襲撃し、義賢と秩父重隆を攻め殺した戦い。秩父氏の家督争いに源氏内部の同族争いが結びついたものである。保元の乱の前哨戦ともされる。.

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天暦

天暦(てんりゃく)は、日本の元号の一つ。天慶の後、天徳の前。947年から957年までの期間を指す。この時代の天皇は村上天皇。.

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太田道灌

太田 道灌(おおた どうかん)は、室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長(すけなが)。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城したことで有名である。武将としても学者としても一流という定評があっただけに、謀殺されてこの世を去った悲劇の武将としても名高い。 以降、本項では便宜上「道灌」の呼称を使用する。.

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太田頼基

太田 頼基(おおだ よりもと、生没年未詳)は、平安時代末期の武士。大和源氏の系譜を引く所雑色頼資の子で、兄弟に頼康がある。官位については不明。号は太田太郎。.

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太田氏

太田氏(おおたし、おおたうじ/おおだし、おおたうじ)は日本の氏族。主なものとして下記の流れがある。.

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奥富敬之

奥富 敬之(おくとみ たかゆき、1936年9月2日 - 2008年7月7日)は、日本の歴史学者、日本医科大学名誉教授。日本中世史・日本医学史専攻。.

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奥州藤原氏

毛越寺所蔵の三衡画像(江戸時代) 奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)は、前九年の役・後三年の役の後の寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)までの間、陸奥(後の陸中国)平泉を中心に出羽を含む東北地方一帯に勢力を張った豪族。藤原北家秀郷流を称した。.

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奥州探題

奥州探題(おうしゅうたんだい)とは、室町時代から戦国時代にかけて置かれた室町幕府の役職の一つ。守護に代わって設置され、陸奥国の統括を担った。奥州とは一般的には陸奥(青森、岩手、宮城、福島)を指す。出羽(秋田、山形)は羽州と呼ぶのが一般的で、現東北地方である両国をまとめて指す場合は奥羽と呼ぶのが通常である。.

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奈良県

奈良県(ならけん)は、日本の都道府県の一つ。本州中西部、紀伊半島内陸部、近畿地方の中南部に位置する県である。 令制国の大和国の領域を占め、県庁所在地は奈良市。北西部の盆地部を除き、険しい山々がそびえている。都道府県面積は全国で8番目に狭く内陸8県では最も狭いが、最小の香川県の約2倍でもある。.

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嫡流

嫡流(ちゃくりゅう)とは、氏族の本家を継承する家筋・家系のことをいう。正嫡、正系、嫡系ともいう。対義語は庶流という。敬って「御嫡々の家系」という場合もある。嫡流の家を宗家、総本家、嫡家、大本家、本家という。  ちなみに、「直系」を嫡流の意味で用いるのは誤用で、直系とは正しくは親の親もしくは子の子といった関係の連鎖で結ばれる生物学的関係をいい、直系・傍系はあくまで純粋な生物学的血統上の語であり家筋・家系とは関係がない。例えば、ある人物から見たときその子孫はすべて直系卑属であるから、分家・庶流の子孫も直系であるし、また、傍系は相対的な系統上の関係をいうから、分家からみた本家は傍系である。詳しくは、 親族を参照。  あくまで当家の祭祀を継承する家系を意味するのであるから、長男が継承者となることが多いものの、必ずしも長男が継承するとは限らず、次男以下あるいは養子の子孫が嫡流となる場合もある点に注意。.

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宍戸氏

宍戸氏(ししどし、ししどうじ)は、日本の氏族の一つ。.

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宝賀寿男

宝賀 寿男(ほうが としお、「寶賀壽男」とも表記。1946年4月17日 - )は、日本及び北東アジアの古代史・系譜の研究者。日本家系図学会及び家系研究協議会の会長。元大蔵省(現財務省)の官僚で、現在は弁護士。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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宮氏

宮氏(みやし)は中世日本の備後国の国人。南北朝時代の一時期に備中国の守護を務めたこともある。.

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家紋

家紋(かもん)とは、日本固有の紋章である。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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守護大名

守護大名(しゅごだいみょう)は、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していった室町時代の守護を表す日本史上の概念。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期 - 16世紀初頭ごろに一部は戦国大名となり、一部は没落していった。.

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安倍氏 (奥州)

安倍氏(あべ し)は、平安時代の陸奥国(後の陸中国)の豪族。.

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安田元久

安田 元久(やすだ もとひさ、1918年10月19日 - 1996年1月23日)は、日本の歴史学者。元学習院大学学長。文学博士(東京大学、1962年)。専門は日本中世史・鎌倉時代史研究。.

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安田義定

安田 義定(やすだ よしさだ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。甲斐源氏の祖とされる源義光の孫源清光の子(清光の父義清の子とする説もある)。.

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安田氏

安田氏(やすだし).

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安房国

安房国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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対馬氏

対馬氏(つしまし、)は、日本の氏族、姓、苗字のひとつ。 同音異姓に、対馬、津島、津嶋、津嶌、対島、對島、都島がある。.

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小弓公方

小弓城跡 小弓公方(おゆみくぼう)は、関東における足利氏基氏流の公方家のひとつ。古河公方の分家筋にあたる足利義明が一代で急成長して本家と関東の覇権を争うまでになったもので、彼が下総国千葉郡小弓城(現在の千葉市中央区生実と同緑区おゆみ野の一帯)を本拠地にしていたことがその名の由来。足利義明・頼純の2代にわたって受け継がれ、後の喜連川氏の元となった。.

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小国氏

小国氏(おぐにし)は、日本の氏族の一つ。.

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小笠原長清

小笠原 長清(おがさわら ながきよ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の甲斐国の武将。甲斐源氏の一族である加賀美遠光の次男。 信濃守護家小笠原氏、弓馬術礼法小笠原流の祖。.

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小笠原長時

小笠原 長時(おがさわら ながとき)は、戦国時代の武将。信濃国守護で戦国大名。信濃小笠原氏の当主。信濃林城主。小笠原長棟の長男。小笠原流弓馬術礼法宗家。信濃四大将のひとり。.

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小笠原氏

小笠原氏(おがさわらし、おがさわらうじ)は、日本の氏族。清和源氏の河内源氏の流れをくみ、武家の有職故実を伝える一族としても知られる。通字は、「長」・「貞」・「忠」などである。.

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尾張国

尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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尾張源氏

尾張源氏(おわりげんじ)は、平安時代後期に尾張国に土着した清和源氏の流れを汲む一族の呼称。.

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山城国

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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山名宗全

山名宗全公之墓、南禅寺在真乗院、京都市左京区 山名 宗全 / 山名 持豊(やまな そうぜん/やまな もちとよ)は、室町時代の武将、守護大名。家系は新田氏庶流の山名氏。室町幕府の四職の家柄で侍所頭人。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。山名時熙の3男で、母は山名氏清の娘。諱は持豊で、宗全は出家後の法名。応仁の乱の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。.

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山名義範

山名 義範(やまな よしのり)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。山名氏の祖。.

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山名氏

日本の氏族。幾つかの流れがある。.

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山入氏

山入氏(やまいりし)は、武家のひとつ。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の傍系常陸源氏 佐竹氏の一門。新羅三郎義光の流れである。.

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山県氏

山県氏(やまがたし、やまがたうじ)は日本の氏族。正確な表記は「山縣」。主な系統は下記の流れである。.

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山田重忠

山田 重忠(やまだ しげただ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。山田重満の次男。仮名は二郎。史料によっては重広、重定、重貞と記されるほか、泉重忠とも呼ばれる。承久の乱で宮方の武将として活躍した。尾張国星崎城主。.

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山田重満

山田 重満(やまだ しげみつ、生年不明 - 治承5年3月10日(1181年4月25日))は、平安時代末期の武将。浦野重直の長男。弟に彦坂重親、高田重宗(高田重家?)、白川重義、小島重平、足助重長らがあり、子に重義(泉太郎)、重忠がある。治部丞。号は山田太郎、和泉冠者など。諱は重光とも記される。 父より尾張国山田郡の所領を継承したほか「和泉」の地なども併せて領していたが、治承5年(1181年)の墨俣川の戦いで一族と共に源行家の軍勢に加勢し敗北、重満は高橋盛綱の弟・盛久に討ち取られた(『吾妻鏡』同年3月10日条)。.

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山田氏

山田氏(やまだし/やまだうじ)は、日本の氏族。.

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山本義経

山本 義経(やまもと よしつね)は、平安時代末期の武将。源義光の系譜を引く近江源氏。父は義光の長男で佐竹氏の祖となった源義業の次男山本義定。治承・寿永の乱の初期に近江国で挙兵した。本姓が源氏であるため正式な姓名は源義経であり、源頼朝の弟として有名な河内源氏の源義経と同姓同名であったため「義経二人説」で知られる。.

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山本氏

山本氏(やまもとし)は、日本の氏族。紀伊国の国人。.

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岩松氏

岩松氏(いわまつし)は、日本の武家。本姓は源氏。その家系は清和源氏のうち河内源氏の棟梁であった鎮守府将軍源義家の子、義国を祖とする足利氏の支流である。ただし、家祖である岩松時兼が弟の田中時朝と共に実父の足利義純から義絶されたため、時兼及び時朝は実母の実家である新田氏の一族と称し、新田惣領家の滅亡後は、室町幕府の足利将軍家から新田氏の後継として認められ、新田岩松氏または新田岩松家と通称されている。.

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島津忠久

島津 忠久(しまづ ただひさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。鎌倉幕府御家人。島津氏の祖。正式な名乗りは惟宗忠久(これむね の ただひさ)という。出自・生年については諸説ある。.

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島津氏

島津氏(しまづし)は、日本の氏族。鎌倉時代から江戸時代まで続いた、薩摩を根拠地とする大名家のほかに、多数の分家がある。通字に「忠」「久」(初名も含めると基本的な通字は全時代を通じて「忠」の字が多く、江戸時代初期までは執権や将軍の偏諱を受けた場合に『「偏諱」+「久」』が多い。明治以降現在は嫡男に「忠」、次男に「久」)を用いる。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。本項は主に、薩摩の島津氏を主軸とした記述である。その他の島津氏についてはそれぞれ越前島津氏、信濃島津氏、若狭島津氏、江州島津氏などの項目または島津氏族の段を参照の事。.

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崩御

崩御(ほうぎょ)は、天皇、皇帝、国王、太皇太后、皇太后、皇后、君主等の死亡を表す敬語。.

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川西市

JR川西池田駅前) 川西市中心部周辺の空中写真。1985年撮影の6枚を合成作成。国土航空写真。 川西市(かわにしし)は、兵庫県南東部の市。大阪府との県境に面する。阪神北県民局管轄区域。.

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川辺郡

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上総国

上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。.

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中川清秀

中川 清秀(なかがわ きよひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。 幼名は虎之助。通称は瀬兵衛(せびょうえ)。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系摂津源氏の流れを汲む多田行綱の子の明綱(あるいは河内源氏傍系石川源氏)の後裔と称した。父は中川重清、母は中川清村(重利)の娘父・重清はもともと高山氏で中川氏の婿養子となった。また、右近の父・高山友照は重清の兄弟である。。子に秀政、秀成、池田輝政先室(池田利隆母)・糸姫。妹は古田重然(織部)室。キリシタン大名である高山右近は従兄弟にあたる一説に荒木村重とも従兄弟関係にあるといわれる。。.

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中野区

中野区(なかのく)は、東京都の特別区のひとつで、23区西部に区分される。 郵便番号(上3桁)は、164・165。.

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三好長慶

三好 長慶(みよし ながよし)は、戦国時代の武将。畿内・阿波国の戦国大名。室町幕府の摂津国守護代、相伴衆。 細川政権を事実上崩壊させ、室町幕府将軍・足利義晴、足利義輝共々京都より放逐し、三好政権を樹立する。その後は足利義輝、六角義賢、畠山高政らと時に争い、時に和議を結び畿内の支配者として君臨した。.

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三刀屋氏

三刀屋氏が根拠地とした三刀屋城遠景 三刀屋氏(みとやし、みとやうじ)は、日本の氏族の一。清和源氏満快流信濃源氏一族を称した三刀屋氏が有名で、この一族は出雲国に住した後に三刀屋を名字とする。.

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三職推任問題

三職推任問題(さんしょくすいにんもんだい、さんしきすいにんもんだい)とは、天正10年(1582年)4月25日、5月4日両日付けの勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』(天正十年夏記)の記事の解釈を巡る問題と、その論を立脚点とした織田政権の将来構想や本能寺の変の背景に対する考察を含む、日本の歴史学上の論争である。.

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三河国

三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部。.

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下総国

下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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下間氏

下間氏(しもつまし)は摂津源氏を自称する一族であり、代々本願寺の坊官を務めてきた家柄で地下家である。戦国時代に一向一揆の指導者として活躍したものが一族に多い。なお加賀一向一揆の指導者の1人下間蓮崇は、蓮如から姓を下賜されたものであり、本姓も異なる。 下間氏の初代とされる源宗重は源頼政の玄孫である。承久元年(1219年)、同族の源頼茂(頼政の孫)が鎌倉幕府打倒を企てたとして討たれると、宗重も連座して処刑される事となった。だが、たまたま通りかかった親鸞が処刑する事の非を説いたため、親鸞が宗重を出家させる事を条件に助命された。宗重は親鸞に深く感謝してその弟子となって東国での伝道に随従する。親鸞が常陸国下妻(現在の茨城県下妻市)に庵を構えた時にこれを記念して宗重は「下妻」を名乗り、これが変化して「下間」になったのだという。 織田信長と石山本願寺11世法主顕如が衝突した石山合戦では主に下間頼廉・下間頼龍・下間仲孝らが顕如に従って織田軍と戦った。顕如の死後、東本願寺と西本願寺に分裂すると下間氏一族もまた分裂することとなり、頼廉の刑部卿家、仲孝の少進家、下間頼芸の宮内卿家が西本願寺に仕えた。頼龍・頼広父子は東本願寺に仕えたが、頼龍の死後、頼広は出奔して親族の池田輝政を頼り、のち池田姓を名乗り池田重利と改名した。池田氏の重臣としての扱いを受けていたが、池田氏に従軍した大坂の陣の戦功により徳川家康から摂津尼崎藩1万石を与えられ、独立大名待遇となった。本家格である池田氏の転封に伴い播磨鵤藩のち新宮藩1万石に移動した。重利から五代後に池田家から養子を迎え、この系譜の下間氏の血統は途絶えている。.

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一幡

一幡(いちまん、建久9年(1198年) - 建仁3年9月2日(1203年10月8日))は、鎌倉幕府第2代征夷大将軍、源頼家の嫡男。母は比企能員の娘若狭局。公暁、栄実、禅暁は異母弟、竹御所は同母妹と考えられている。.

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一門

一門(いちもん)は、氏族あるいは家系を同じくする同族あるいは同族集団のこと。.

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一色氏

一色氏(いっしきし)は、日本の氏族(武士)。清和源氏義国流で足利氏の一門。足利泰氏の子一色公深は、三河国吉良荘一色(愛知県西尾市一色町)を本貫とし、一色氏を名乗った。 室町幕府開府当初は九州探題として筑前国にあったが、後には侍所所司に任ぜられる四職の筆頭となり、また若狭国・三河国・丹後国などの守護職を世襲した。戦国時代にも丹後の大名として続いたが、安土桃山時代に至り細川藤孝・忠興らの侵攻によって滅亡した。 他に.

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一条忠頼

一条 忠頼(いちじょう ただより)は、平安時代末期の武将。甲斐国山梨郡一条郷を領し、一条氏と名乗った。.

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九州探題

九州探題(きゅうしゅうたんだい)とは、室町幕府の軍事的出先機関である。当初は鎮西管領(ちんぜいかんれい)とも称された。.

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平安京

平安京復元模型写真(大内裏付近) 平安京(へいあんきょう/たいらのみやこ)は、延暦13年10月22日(西暦794年11月22日)から、一説には明治2年(1869年)まで日本の首都であった都市である。平安城ともいい、桓武天皇によって長岡京からの遷都地に選ばれ、唐の首都長安城に倣って計画都市として建設された。現在の京都府京都市・京都市街であり、当時の街路をほぼそのままに主要都市として現存している。明治2年(1869年)に政府(太政官)が東京(旧江戸)に移転して首都機能を失った。平安京が置かれてから鎌倉幕府が成立するまでの約400年間を日本史では「平安時代」という。.

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平島公方

平島公方(ひらじまくぼう)、または阿波公方(あわくぼう)は、血統的には室町幕府11代将軍・足利義澄の次男足利義維(のちの義冬)の末裔で、家柄的には足利義視から義稙、そして義維と続く足利将軍家の別家である。 代々阿波国平島荘古津(那賀郡平島村古津(ふるつ)、那賀川町古津、現・阿南市那賀川町古津、及び隣接する南東の西原(西原駅)、大京原、三栗、苅屋(苅屋川流域)、赤池(平島小)、上福井(多くの小字を含む。旧・福井村)、北中島、中島(阿波中島駅の起源))に住した。なお、公方と称されるものの、この平島の系統で実際に将軍職に就任したのは第14代将軍足利義栄のみで、義栄以外の人物には将軍家一族という意味で使われる。平島源公または、平薹源公の敬称で呼ばれていた。.

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平井氏

平井氏は中九州の大友氏、南九州の島津氏と並ぶ鎌倉時代以来の三守護家であり、北部九州の大部分及び太宰府を統括した名族「少弐氏(武藤氏)」の一門(同族)である。 藤原鎌足を氏祖とし、鎌倉時代、武蔵国戸塚を領した事から武藤と称したとされる。初代武藤資頼は筑前・豊前・肥前・対馬の守護として大宰府に下る。建久7年(1196年)に官職「大宰少弐」に任ぜられることによって、名実ともに九州支配の最高責任者として赴任する。二度に渡る蒙古軍討伐の総大将としての戦功や、防塁の構築による国土防衛についても広く知られている。 平井氏は15世紀の中頃には佐賀県の須古(杵島郡白石町)周辺を支配していたとされ、一万余騎を従える地域の一大勢力を誇り、当時の佐賀県で最大級とされる「」、「」、「」と三つの城郭群で構成される難攻不落の居城を有した。 千葉氏の家臣となり有馬氏に備えてこの地へ配されたことに始まるという。 婚姻により、大永5年(1525年)、杵島の地にいた平井経則は有馬氏に寝返り、千葉氏や本家少弐氏とも対立。後に北部九州の覇者となる龍造寺氏から永禄6年(1563年)から天正2年(1574年)までの間に4度に渡る「」の攻防を受け天正2年(1574年)ついに落城し滅亡。『肥陽軍記』では城主平井経治は切腹して果てたとしているが詳細は不明。『直茂公譜』によると、残された遺児は鍋島直茂公により鍋島家で召し抱えられ、その末裔は蓮池鍋島藩に末長く仕えたという。 後に須古城は龍造寺氏の属城となり、龍造寺隆信が隠居すると移り住み居城とした。天正12年(1584年)龍造寺隆信は有馬・島津連合軍との戦いで討死したが、須古城は隆信の弟龍造寺信周の居城となり、須古鍋島家の祖となった。 現在、(佐賀県杵島郡白石町)の須古鍋島家御霊屋北側に、平井一族の墓とされる宝篋印塔5基がある。.

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平忠常の乱

平忠常の乱(たいらのただつねのらん)は、平安時代に房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で1028年に起きた反乱。平安時代の関東地方では平将門の乱以来の大規模な反乱であった。 平将門の叔父平良文の子孫に当たる平忠常が乱を起こし、朝廷は討伐軍を派遣するが3年にわたって鎮圧できなかった。有力武士の源頼信が起用されるに及び忠常は降伏した。この乱により房総三カ国は大いに荒廃した。長元の乱ともいう。.

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平忠盛

平 忠盛(たいら の ただもり)は、平安時代末期の武将。平清盛の父。烏帽子親は義兄の源義忠。 伊勢平氏で初めて昇殿を許された。北面武士・追討使として白河院政・鳥羽院政の武力的支柱の役割を果たすとともに、諸国の受領を歴任し、日宋貿易にも従事して莫大な富を蓄えた。その武力と財力は次代に引き継がれ、後の平氏政権の礎となった。歌人としても知られ、家集『平忠盛集』がある。.

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平賀義信

平賀 義信(ひらが よしのぶ/源 義信 みなもと の よしのぶ)は、平安時代末期の河内源氏の武将。父は新羅三郎義光の四男で、平賀氏の祖である源盛義。諱は義宣とも。.

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平賀氏

平賀氏(ひらがし)は、日本の氏族。.

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平賀朝雅

平賀 朝雅(ひらが ともまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての鎌倉幕府の御家人。新羅三郎義光流で源氏門葉として源頼朝に重用された平賀義信の次男。母は頼朝の乳母である比企尼の三女。.

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平賀有義

平賀 有義(ひらが ありよし、生没年未詳)は、平安時代後期の武将。清和源氏。源義光流と源義家流の人物がいる(『尊卑分脈』)。.

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平正盛

平 正盛(たいら の まさもり)は、平安時代後期の伊勢平氏の武将。北面武士。父は平正衡。平清盛の祖父にあたる。.

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平治の乱

平治の乱(へいじのらん)は、平安時代末期の平治元年12月9日(1160年1月19日)、院近臣らの対立により発生した政変である。.

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平清盛

平 清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の武将・公卿。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。.

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幕府

幕府(ばくふ)は、日本の中世及び近世における征夷大将軍などの武家の最高権力者を首長とする武家政権のことをいう。あるいはその武家政権の政庁、征夷大将軍の居館・居城を指す名称としても用いられる。近衛大将の唐名。.

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人物叢書

『人物叢書』(じんぶつそうしょ)とは、吉川弘文館より刊行されている日本史上の人物の学術伝記叢書。1958年に刊行開始し、1980年代後半に新装版に切り替わった。日本歴史学会編集。100冊を刊行した時点で第11回(1963年)の菊池寛賞を受賞している。 日本史上の人物が対象のため、大半は日本人が対象となっているが、日本史での活動が見られる来日外国人や、国姓爺のように日本と関わりのあるのみの外国人もごく稀に対象となる。また、1冊で複数人や一族(奥州藤原氏・菊池氏・浅井氏)を題材としているものもある。.

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二十一流

二十一流(にじゅういちりゅう)または源氏二十一流(げんじにじゅういちりゅう)は、源氏の21の系統。.

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二条天皇

二条天皇(にじょうてんのう、康治2年6月18日(1143年7月31日) - 永万元年7月28日(1165年9月5日))は第78代天皇(在位:保元3年8月11日(1158年9月5日) - 永万元年6月25日(1165年8月3日))。諱は守仁(もりひと)。 後白河天皇の第一皇子。母は、大炊御門経実の娘で、源有仁の養女・贈皇太后懿子。.

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二条院讃岐

二条院讃岐 - 土佐光貞画 芝山持豊筆 文化五年版百人一首 二条院讃岐(にじょういんのさぬき、生没年不詳:1141年(永治元年)頃 - 1217年(建保5年)以降)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての歌人である。女房三十六歌仙の一人。父は源頼政。母は源斉頼の娘。同母兄に源仲綱があり、従姉妹に宜秋門院丹後がある。内讃岐、中宮讃岐とも称される。.

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井上氏

井上氏(いのうえし)は日本の氏族のうちのひとつ。.

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今川義元

今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。.

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今川貞世

今川 貞世(いまがわ さだよ)は、鎌倉時代後期から南北朝・室町時代の武将、守護大名。室町幕府の九州探題、遠江、駿河半国守護。九州探題赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ねた。歌人としても名高い。法名は了俊(りょうしゅん)で、今川了俊と呼ばれる事も多い。没年は異説あり。.

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今川氏

今川氏(いまがわうじ)は、日本の武家。本姓は源氏で、家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏御一家・吉良家の分家にあたる。吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有しており、斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあった。今川家はその分家として、駿河の守護に代々任命された。さらに遠江守護家も分流する。初期の分家である今川関口家は幕府の奉公衆であった。.

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仁木氏

仁木氏(につきし)は、清和源氏の一族で、足利氏の祖義康の長子義清の系統に属する。鎌倉時代に、足利氏嫡流の義氏が承久の乱の功で三河国の守護に任ぜられると、義清の孫実国は三河国額田郡仁木郷(現在の愛知県岡崎市仁木町周辺)に移り住み、仁木太郎を称した。実国の弟義季は、隣接する細川郷を領して細川氏の祖となり、ともに足利氏嫡流の譜代被官となった。.

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令旨

令旨(りょうじ)とは、律令制のもとで出された、皇太子・三后(太皇太后・皇太后・皇后)の命令を伝えるために出した文書。 中国(唐)では皇太子の命令を伝える文書を「令」といったが、それが日本に伝わり、日本では皇太子の命令を伝える文書を令旨といい、太皇太后・皇太后・皇后の出す文書もこれに準じた。平安時代中期以降は、皇太子・三后に加えて女院や親王などの皇族の命令も令旨と呼ばれるようになった。 歴史上有名な令旨としては、治承・寿永の乱(源平合戦)の際に諸国の源氏に挙兵を命じるために以仁王が発した「以仁王の令旨」があるが、これは皇太子でも親王でもない以仁王が命令の正統性を高めるためにあえて親王の身位を冒して発したもので、本来ならば王の命令書は「御教書」と呼ばれるべきものだった。 なお、天皇の命令を伝える文書に宣旨・綸旨などがある。.

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以仁王

以仁王(もちひとおう、仁平元年(1151年) - 治承4年5月26日(1180年6月20日))は、平安時代末期の皇族。後白河天皇の第三皇子。「以仁王の令旨」を出して源氏に平氏打倒の挙兵を促した事で知られる。邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮、高倉宮と称された。.

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以仁王の挙兵

以仁王の挙兵(もちひとおうのきょへい)は、治承4年(1180年)に高倉天皇の兄宮である以仁王と、源頼政が打倒平氏のための挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発した事件。 計画は準備不足のために露見して追討を受け、以仁王と頼政は宇治平等院の戦いで敗死、早期に鎮圧された。しかしこれを契機に諸国の反平氏勢力が兵を挙げ、全国的な動乱である治承・寿永の乱が始まる。以仁王の乱、源頼政の挙兵とも呼ばれる。.

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延朗

延朗(えんろう、大治5年(1130年) - 承元2年(1208年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての僧侶。対馬太郎源義信の長男。松尾上人と号す。.

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伊奈氏

伊奈氏(いなし)は、日本の氏族。伊那氏、井奈氏とも呼ばれる。.

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伊勢平氏

伊勢平氏(いせへいし)は、承平天慶の乱に功のあった平貞盛の四男平維衡よりはじまる平氏一族の一つ、高望王流坂東平氏の庶流である。平氏の中でも伊勢平氏、特に平正盛の系統(六波羅家あるいは六波羅流)を平家(へいけ)と呼ぶ場合がある。.

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住蓮

住蓮(じゅうれん、生年不詳 - 建永2年2月9日(1207年3月9日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての法然門下の浄土宗の僧。大和源氏の流れを汲む東大寺の僧実遍を父として生まれる。.

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佐竹秀義

佐竹 秀義(さたけ ひでよし)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。清和源氏義光流。源義光(新羅三郎)の孫の源昌義が常陸国佐竹郷に住んで、佐竹を号したことに始まる佐竹氏第3代当主。2代当主佐竹隆義の三男。長兄・義政が金砂城の戦い以前に上総広常により謀殺され、次兄の義清は庶子のために、その嫡男となった。.

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佐竹義重

佐竹 義重(さたけ よししげ)は、佐竹氏の武将。.

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佐竹隆義

佐竹 隆義(さたけ たかよし)は平安時代末期の武将。佐竹氏の第2代当主。新羅三郎源義光の曾孫で、初代当主・佐竹昌義の三男。母は藤原清衡女。.

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佐竹氏

佐竹氏(さたけし)は、日本の氏族のひとつ。日本の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れをくみ、新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の嫡流。武田氏に代表される甲斐源氏と同族である。通字は「義」。佐竹氏は家紋として定紋の「扇に月」(一般的には日の丸扇と呼ばれている)の他に、源氏香(花散里)・笹竜胆・佐竹桐・丸に釘貫・丁子巴・鉄線を加えた七つの家紋を「御当家七ッ御紋」としている。源氏から中近世大名、華族として明確な系譜として現代まで残った中ではもっとも大きな流れの一つである。.

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佐竹昌義

佐竹 昌義(さたけ まさよし)は、平安時代後期の武将。清和源氏義光流、源義業(進士判官)の子。佐竹氏の祖。 嘉承元年(1106年)の常陸合戦の際には祖父の義光・父の義業、外祖父の大掾重幹とともに下野を地盤とする従父の源義国と戦い、義国の勢力の常陸への浸透を防いだ。義国は足利氏・新田氏の祖であり、以降、両氏は下野・上野にそれぞれ勢力基盤を築いている。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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依田実信

依田 実信(よだ さねのぶ)は、平安時代末期の武将。源為実(依田六郎)の子。信濃守源為公の孫にあたる。信濃国小県郡依田庄を本拠とする依田氏の当主。.

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依田氏

依田氏(よだし)は、日本の氏族。『尊卑分脈』によると清和源氏(多田源氏)満快流(源満仲の弟)。依田は信濃国小県郡依田荘に由来する。.

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御一家

御一家(ごいっか)とは、足利将軍家の同族の中でも征夷大将軍継承権を有し、室町幕府においては管領と同格もしくは上の家格として扱われた吉良氏・渋川氏・石橋氏のこと。特に吉良氏は御一家の中でも筆頭に位置づけられて、管領よりも上位に位置づけられていた。.

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徳川家基

徳川 家基(とくがわ いえもと)は、江戸幕府第10代将軍徳川家治の長男。将来の第11代将軍として期待されていたが、夭折した。徳川宗家の歴史の中で唯一「家」の一文字を賜りながら将軍位に就けなかったため、「幻の第11代将軍」とも言われる。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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徳川氏

徳川氏(とくがわし/とくがわうじ、)は、徳川家康が創始した日本の氏族。新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称した際に嘉字を用いて徳川と称したことが始まりとなり、江戸幕府将軍家と親族の家名とした。しかし『徳川家譜』に記される家系に関しては『尊卑分脈』の該当記録に似通った流れはあるものの、当代史料による検証がならず、得川氏と家康の家系との同一性は実証できていない。.

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後三年の役

後三年の役(ごさんねんのえき)は、平安時代後期の陸奥・出羽(東北地方)を舞台とした戦役である。前九年の役の後、奥羽を実質支配していた清原氏が消滅し、奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦いである。後三年合戦(ごさんねんかっせん)ともいう。.

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後白河天皇

後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。.

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後陽成天皇

後陽成天皇(ごようぜいてんのう、元亀2年12月15日(1571年12月31日) - 元和3年8月26日(1617年9月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての第107代天皇(在位:天正14年11月7日(1586年12月17日) - 慶長16年3月27日(1611年5月9日))。諱は初め和仁(かずひと)、慶長3年(1598年)12月に周仁(かたひと)と改めた。.

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得宗

得宗(とくそう)は、鎌倉幕府の北条氏惣領の家系。徳崇、徳宗とも(読みは同じ)。幕府の初代執権の北条時政を初代に数え、2代義時からその嫡流である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9代を数える。「得宗」とは2代義時に関係する言葉で、研究者によって義時の別称、戒名、追号など意見が異なる。近年では「徳崇」の当て字・略字で、禅宗に帰依した5代時頼が、浄土宗系の宗派を信仰していた義時に贈った禅宗系の追号の可能性が指摘されている。義時流、得宗家という呼び方もある。史料においては北条氏嫡流の当主を「得宗」と指した例は少なく、行政用語であったとも考えられている。.

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保元の乱

保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代末期の保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変である。この公家の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。.

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信実

信実(しんじつ、生没年未詳)は、平安時代末期の僧侶。父は大和源氏の源頼安(法華経太郎)。頼兼、義忠の兄、玄実、仲房(大和越智氏の祖)、頼清の父(奈良県史所収『越智氏略系図』と戦国大名系譜人名事典所収『越智氏系図』)。 興福寺の権寺主、寺主、上座を歴任し、別当の覚晴の死後は寺務を掌握する。「日本一悪僧武勇」と称され、大和国内にて同族の源親治と抗争した他、天養2年(1145年)には興福寺の大衆を率いて金峯山を襲撃するなど、武装化傾向を強める興福寺の中にあって中心的な役割を果たした。 藤原忠実、頼長父子との関係が深く、保元元年(1156年)の保元の乱においては崇徳上皇方に加勢する。上皇方が敗北した後は、南都に逃れてきた忠実を尋範・千覚らとともに守護し、朝廷から挙兵の疑いをかけられたという。このため、乱の直後は所領を没収されたが、保元3年(1158年)には法橋に任ぜられており、依然として朝廷から一目置かれる存在であったことが窺える。 Category:平安時代の僧 Category:大和源氏 Category:越智氏.

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信西

信西(しんぜい、嘉承元年(1106年) - 平治元年12月13日(1160年1月23日))は、平安時代後期の貴族、学者、僧侶。信西は出家後の法名、号は円空、俗名は藤原 通憲(ふじわら の みちのり)、または高階 通憲(たかしな-)。藤原南家貞嗣流、藤原実兼の子。正五位下、少納言。.

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信濃村上氏

信濃村上氏(しなのむらかみし)は、戦国時代の村上義清に代表される河内源氏の庶流村上氏の嫡流を指す。.

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信濃源氏

信濃源氏(しなのげんじ)は、中世に信濃国に土着し本拠とした源姓の氏族を指した呼称。いずれも清和源氏で、以下の数流がある。.

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快誉

快誉(かいよ、長元9年(1036年) - 天永3年8月14日(1112年9月6日))は、平安時代末期(院政期)の僧侶。源頼義の庶長子あるいは四男。園城寺に出家し、西蓮房阿闍梨、伊予阿闍梨と号す。兄あるいは弟に源義家、義綱、義光がいる。 特に義光と関係が懇意であり、天仁2年(1109年)に義光が甥の義忠を暗殺(源義忠暗殺事件)した際にはその計画と実行に深く関わったと伝わる。義忠暗殺の下手人である平成幹(鹿島三郎)は、暗殺実行の後この快誉の下に身を潜めるよう義光から指示を受けていたが、快誉は成幹を受け入れると生き埋めにして殺してしまった。これは事件の口封じのために、義光・快誉兄弟があらかじめ示し合わせた上での所業であったとされる。 Category:平安時代の僧 Category:河内源氏 Category:1036年生 Category:1112年没.

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応神天皇

応神天皇(おうじんてんのう、仲哀天皇9年12月14日 - 応神天皇41年2月15日)は、第15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日 - 同41年2月15日)。諱は誉田別尊(ほむたわけのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)。誉田天皇(ほむたのすめらみこと/ほんだのすめらみこと)、胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)とも称される。麛坂皇子と忍熊皇子は異母兄にあたる。.

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志田氏

志田氏(しだし、しだうじ)は、日本の氏族のひとつ。志太、斯田、志多、思田、志駄とも表記された。.

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土岐康行

土岐 康行(とき やすゆき)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、美濃・伊勢守護。土岐頼康の弟・頼雄の子。弟に満貞。子に康政、娘(土岐詮直室)。孫に康政の子の持頼と満康の子の持康がいる。.

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土岐光衡

土岐 光衡(とき みつひら)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。美濃源氏嫡流である土岐氏。伯耆守源光長の三男。鎌倉幕府御家人。.

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土岐頼遠

土岐 頼遠(とき よりとお)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、守護大名。美濃守護。土岐頼貞の七男。兄弟に頼清、長山頼基、頼兼、頼明など多数。子に氏光、光明、光行、直頼。.

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土岐氏

土岐氏(ときし)は、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏流摂津源氏系美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた軍事貴族の系統。 南北朝時代から戦国時代にかけて美濃国守護を務めるとともに室町幕府の侍所頭人として五職家の一角を占め、最盛期には美濃、尾張、伊勢の3か国の守護大名となった。戦国時代には近江の六角氏、京極氏、越前の朝倉氏・尾張の織田氏・伊勢の北畠氏など周辺大名と争うも、斎藤道三の下克上により没落した。庶流にあたる明智光秀・浅野長政・土岐定政(菅沼藤蔵)らは戦国武将として各地の大名に仕え頭角を現し、江戸時代には浅野家、土岐定政家が大名として存続した。.

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リンドウ

リンドウ(竜胆)とは、リンドウ科リンドウ属の多年生植物である。1変種 をさすことが多いが、近縁の他品種や他種を含む総称名のこともある。 古くはえやみぐさ(疫病草、瘧草)とも呼ばれた。.

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カバネ

姓(カバネ、可婆根)は、古代日本の大和王権において、大王(おおきみ、天皇)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示す称号である。 以下、特別の補足がない限り「氏」は「うじ」、「姓」は「かばね」と読む。.

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出羽国

出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.

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出羽清原氏

出羽清原氏(でわきよはらし)は、平安時代の豪族である。出羽国(後の羽後国)の在庁官人、清原令望が俘囚長に任ぜられ、仙北三郡を支配したとする説があるが定説はない。.

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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公暁

公暁(くぎょう、こうきょう、正治2年(1200年) - 建保7年1月27日(1219年2月13日))は、鎌倉時代前期の僧侶。鎌倉幕府2代将軍源頼家の次男(尊卑分脈等)または三男(『鶴岡八幡宮寺社務職次第』等)。 母は吾妻鏡によれば足助重長(加茂重長)の娘(源為朝の孫娘)、尊卑分脈等によれば一幡の母と同じく比企能員の娘、ある源氏系図(縣篤岐本『源氏系図』)によれば三浦義澄の娘。一幡とは異母兄弟または同母兄弟、栄実、禅暁は異母弟、竹御所は異母妹にあたる。幼名は善哉(ぜんざい)。 叔父である第3代将軍源実朝を「父の仇」として暗殺したが、自身も直後に討ち取られた(なお、公暁は実朝の猶子であったため、義理の父親を殺害したことになる)。 名前の読みは「くぎょう」とされてきたが、近年は「こうきょう」である可能性が高いとされている。.

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六孫王神社

六孫王神社(ろくそんのうじんじゃ)は、京都府京都市南区にある神社。旧社格は郷社。 清和源氏始祖の源経基を祭神とすることで知られる。多田神社(兵庫県川西市)、壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)とともに「源氏三神社」の1つとされる。.

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六条斎院宣旨

六条斎院宣旨(ろくじょうさいいんのせんじ、長保頃 - 寛治6年2月22日(1092年))は、平安時代後期の女流歌人・作家。父は源頼国。兄弟に頼弘、頼資、頼実、実国、頼綱、国房、師光らがある。六条斎院(禖子内親王)家女房。 主家である禖子内親王家で催された「六条斎院歌合」に16度出詠したことが確認される。はじめ藤原高定の妻となったが、後に源隆国と再婚したものと推測されている。天喜3年(1055年)の「六条斎院禖子内親王家物語合」では物語「玉藻に遊ぶ権大納言」を提出した。また『狭衣物語』の作者であると考えられている。 その詠歌は『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に入集している。.

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元木泰雄

元木 泰雄(もとき やすお、1954年12月7日 - )は、日本の歴史学者である。京都大学大学院人間・環境学研究科教授。兵庫県西宮市出身。.

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兵庫県

兵庫県(ひょうごけん)は、日本の都道府県の一つ。本州の中西部に位置し、近畿地方に属する。県庁所在地は神戸市。.

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前九年の役

前九年の役(ぜんくねんのえき)は、平安時代後期の陸奥国(東北地方)で起こった戦争である。.

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国人

国人(こくじん、くにびと、くにゅうど)とは、広くその国の国民、住民のこと大辞泉(小学館)。 六国史(日本後紀および三代実録)において国衙領の国民または住民を指す言葉として用いられ、越前国人、大和国人、河内国人などが見える日本後紀三代実録。 また、国人領主(こくじんりょうしゅ)は中世の史料において、在京の名目上の領主である中央官吏に対して在地の実質上の領主を指す言葉として用いられ(国人領主制)、国衆(くにしゅう)や在国衆(ざいこくしゅう)とほぼ同義ないし明確な違いは無い。.

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四職

四職(ししき/ししょく)は、室町時代の武家の家格。.

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皇子

皇子(みこ、おうじ)は、皇帝または天皇の男子。広義には男女を問わない(皇室典範第6条参照)が、かかる用法はまれである。国によって「親王」「郡王」「王」「大公」などの称号が与えられることがある。これに対して女子を皇女(おうじょ)という。.

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皇別

皇別(こうべつ)もしくは王孫(おうそん)とは、王家や帝家、とりわけ日本の皇室の一門の中で臣籍降下した分流・庶流の氏族を指す言葉である。皇室同様男子血統でつながらなければならない。皇別とは弘仁6年(815年)に朝廷が編纂した古代氏族の系譜集『新撰姓氏録』が、皇別(天皇・皇子の子孫)・神別(天津神・国津神の子孫)・諸蕃(朝鮮半島・中国大陸その他から渡来した人々の子孫)の3種に氏族を分類していることにちなむ用語である。江戸時代以降は王孫という呼び名も用いられた。.

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石塔氏

石塔氏(いしどうし)は足利氏の支族。.

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石川光家

石川光家(いしかわ みついえ、生没年不詳)は、平安時代後期の武将。.

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石川氏

石川氏(いしかわし)とは、石川を苗字とする一族のことである。 主に、次の5系統の石川氏が存在する。.

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石川源氏

石川源氏(いしかわげんじ)は、河内源氏の本拠地である河内国石川を相続したと言われる源氏。 源義家(八幡太郎義家)の六男の源義時を祖とする河内源氏の義時流石川氏のことだが、義時自身の官位や当時の知名度を考えると疑わしい部分もある。 河内源氏の本流が、義家以降に本拠地の河内国を離れた後、義時の一族が盤拠し、それらを源義家の荘園の石川荘の名称から石川源氏と呼ぶ。石川氏の他に、平賀氏、万部氏、万力氏、紺戸氏、板金氏、中川氏などがある。.

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石川数正

石川 数正(いしかわ かずまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 徳川家康の片腕として酒井忠次と共に活躍したが、小牧・長久手の戦いの後に出奔して豊臣秀吉に臣従した。深志城主10万石となり、信濃松本藩の初代藩主と見なすことが通説となっている。.

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石橋氏

石橋氏(いしばしし)は日本の武家の姓のひとつ。.

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石清水八幡宮

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、京都府八幡市にある神社。旧称は「男山八幡宮」。二十二社(上七社)の1つで、伊勢神宮(三重県伊勢市)とともに二所宗廟の1つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 宇佐神宮(大分県宇佐市)・筥崎宮(福岡市東区)または鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)とともに日本三大八幡宮の1つ。また宮中の四方拝で遥拝される神社の1つである。本殿を含む建造物10棟が国宝に指定されている。.

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王 (皇族)

王(おう、みこ、古くはおおきみ)は、皇族の身位または称号の一つ。または、王の身位を授けられた皇族のこと。現行の皇室典範では天皇からみて直系で嫡男系嫡出の三親等以遠の男性に与えられる。皇室典範で定められた敬称は殿下。.

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祐子内親王家駿河

子内親王家駿河(ゆうしないしんのうけ の するが、生没年未詳)は、平安時代後期の女官・女流歌人。清和源氏満政流。駿河守源忠重の娘。兄弟に定宗、定重らがある。一宮駿河とも呼ばれる。 母は美濃国の出身といわれ、後朱雀天皇の皇女祐子内親王に仕えた。歌人としては『夫木和歌抄』巻22に所収される歌から、祐子内親王家歌合に出詠したことが推察されている。『後拾遺和歌集』に1首が入集。.

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禅暁

禅暁(ぜんぎょう、生年未詳 - 承久2年4月14日(1220年5月17日))(仁和寺御日次記)または 承久2年4月11日(1220年5月14日))(尊卑分脈等)は、鎌倉時代前期の僧。鎌倉幕府二代将軍源頼家の四男。母は一品房昌寛の娘または足助重長(加茂重長)の娘とする。一幡、公暁の異母弟(もしくは同母兄)、竹御所の異母兄妹(もしくは異母姉弟)。同母兄に栄実。.

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秩父氏

秩父氏(ちちぶし)は、日本の武家のひとつ。本姓は平氏。桓武平氏の一門、坂東平氏の流れで、坂東八平氏のひとつに数えられる。鎮守府将軍・平良文の孫で、桓武天皇6世にあたる平将恒を祖とし、平将門の女系子孫でもある。後に秩父平氏と呼ばれる多くの支流を出した名族で、「武蔵国留守所総検校職」として武蔵国内の武士を統率・動員する権限を有し、秩父氏館(吉田城)を居城とした。秩父氏一門の諸氏族は主に「重」の字を通字とした。.

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秋山光朝

秋山 光朝(あきやま みつとも)は、平安時代末期の武将。秋山氏の祖。 甲斐源氏・加賀美遠光の長男として誕生。秋山氏は甲斐国巨摩郡秋山村に光朝が居住して「秋山太郎」を名乗ったこと始まるとされる。治承4年(1180年)4月、源頼朝挙兵後、源義経の指揮下に加わり、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いに参加。西上遠征の途中、平重盛の娘を室に迎える。 平家滅亡後、鎌倉に加賀美一党の館を構え頼朝警護の役職に就くも、甲斐源氏の勢力拡大を恐れる頼朝に疎まれ謀反の罪で鎌倉において処刑された。 みつとも Category:平安時代の武士 Category:甲斐国の人物 Category:刑死した人物 Category:12世紀生 Category:1185年没.

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秋山氏

秋山氏(あきやまし)は日本の氏族。 甲斐源氏武田氏の分流で西郡へ拠った加賀美遠光の嫡男光朝を祖とし、巨摩郡秋山(現・山梨県南アルプス市秋山)を本貫として秋山氏を名乗った。.

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稲沢氏

沢氏(いなさわし)は日本の氏族のひとつ。稲澤氏とも表記する。.

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竹御所

竹御所(たけのごしょ、建仁2年(1202年) - 天福2年7月27日(1234年8月23日))は、鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府第2代将軍源頼家の娘。位記の名は鞠子。妙本寺の寺伝よれば媄子(よしこ)。一幡の同母妹、公暁、栄実の異母妹、禅暁とは異母兄妹(もしくは異母姉弟)と考えられている。.

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竹内家

竹内家(たけのうちけ)は公家のひとつ。本姓は源氏。いわゆる堂上源氏で家系は清和源氏の一家系・河内源氏傍流の信濃源氏平賀氏の一族の流れである。家格は半家、家業は弓箭と笙と和歌。.

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竹内理三

竹内 理三(たけうち りぞう、1907年(明治40年)12月20日 - 1997年(平成9年)3月2日)は、日本の歴史学者。東京大学史料編纂所所長。東京大学名誉教授。文学博士。専門は日本古代史・中世史。号は竹犂(ちくり)。愛知県出身。.

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竹紋

竹紋(たけもん)とは、イネ科タケ連のおもにタケやササなどの植物を図案化した家紋である。「竹紋」、「笹紋」、「竹に雀紋」に細分類することがある。日本家紋研究会の調べによれば「丸に九枚笹」が最も使用されている高澤等著『家紋の事典』東京堂出版 2008年。 この項目で述べる「竹紋」は「笹紋」ともいうが便宜上「竹紋」に統一した。.

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笠谷和比古

谷 和比古(かさや かずひこ、1949年8月15日 - )は、日本の歴史学者。国際日本文化研究センター名誉教授。専攻は日本近世史・武家社会論。博士(文学)(京都大学、1994年)(学位論文「近世武家社会の政治構造」)。.

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管領

管領(かんれい)は、以下の役職・地位およびその座にあった者を指す名称。.

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粟津の戦い

粟津の戦い(あわづのたたかい)は、寿永3年1月20日(1184年3月4日)に近江国粟津にて行われた源義仲と源頼朝派遣の東国諸将との間の戦い。治承・寿永の乱の1つ。.

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細川幽斎

細川 幽斎(ほそかわ ゆうさい)/ 細川 藤孝(ほそかわ ふじたか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。歌人。幽斎は雅号。法名を玄旨という。 初め室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は15代将軍・足利義昭の擁立に尽力するが、後に織田信長に従い、長岡 藤孝(ながおか ふじたか)を名乗って丹後宮津11万石の大名となった。本能寺の変の後、主君・信長の死に殉じて剃髪し、家督を忠興に譲るが、その後も豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川家の礎となった。また、二条流の歌道伝承者・三条西実枝から古今伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもあった。.

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細川勝元

細川 勝元(ほそかわ かつもと)は、室町時代の武将・守護大名。第16、18、21代室町幕府管領。土佐・讃岐・丹波・摂津・伊予守護。第11代細川京兆家当主。父は第14代室町幕府管領、細川持之。政元の父。応仁の乱の東軍総大将として知られている。.

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細川頼之

細川 頼之(ほそかわ よりゆき)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての武将、政治家。第2代室町幕府管領、中国管領、四国管領。阿波・伊予・備後・讃岐・土佐守護。第6代細川京兆家当主。幼名は弥九郎。はじめ武蔵守、後に相模守時野谷(1979)p.555。 足利氏の一門である細川氏の武将として、阿波、讃岐、伊予など四国地方における南朝方と戦い、観応の擾乱では幕府方に属す。管領への就任で幕政を指導し、幼少の足利義満を補佐して半済令の施行や南朝との和睦などを行う。天授5年/康暦元年(1379年)の康暦の政変で失脚するが、その後は赦免されて幕政に復帰する。.

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細川氏

細川氏(ほそかわし)は、本姓は源氏、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏の名門足利氏の支流。名字は鎌倉時代に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことに由来する。 南北朝時代に足利尊氏に従って発展し、嫡流は室町幕府の管領家に列する有力守護大名となる。また江戸時代には、傍流から肥後熊本藩54万石の藩主家を出した。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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美濃源氏

美濃源氏(みのげんじ)とは、中世に美濃国に土着し本拠とした清和源氏の流れを汲む一族の呼称。.

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義円

義円公園入口(岐阜県大垣市)源義円供養塔(義円公園内) 義円または源義円(ぎえん, みなもとのぎえん、久寿2年(1155年) - 治承5年3月10日(1181年4月25日))は平安時代末期の僧侶で、源義朝の八男。 母は常盤御前で、幼名は乙若丸。に阿野全成(幼名:今若丸)、に源義経(幼名:牛若丸)がいる。源頼朝の異母弟。子に愛智義成。.

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義江彰夫

義江 彰夫(よしえ あきお、1943年11月7日 - )は、日本史学者。東京大学名誉教授。専門は中世史。文学博士(東京大学、1980年)(学位論文「鎌倉幕府地頭職成立史の研究」)。東京生まれ。.

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羽州探題

羽州探題(うしゅうたんだい)は、室町時代の出羽国に置かれた幕府の役職。正しくは羽州探題職(うしゅうたんだいしき)という。 奥州探題と並んで室町幕府における奥羽を統括する要職であり、それぞれ斯波氏の一門である大崎氏が奥州探題、最上氏が羽州探題を世襲した。 羽州探題の成立は正平11年(1356年)、奥州探題斯波家兼の次男・斯波兼頼が、出羽国按察使として山形に入部し、当時、寒河江氏等の南朝勢力が割拠していた出羽国の統治に当たったのが始まりである。正平22年(1367年)、漆川の戦いにより寒河江氏を下し、出羽国における南朝勢力を、北朝に従えた後も、その地に留まり、以後、最上屋形の称号を拝名し最上氏を称した。.

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羽曳野市

羽曳野市(はびきのし)は、大阪府南河内地域に位置する市。ぶどう栽培が盛ん。また古墳などの古代史跡の多い地としても知られる。本項では市制前の名称である南大阪町(みなみおおさかちょう)、市制当日の名称である南大阪市(みなみおおさかし)についても述べる。.

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結城氏

結城氏(ゆうきし)は、日本の氏族。平安時代末期から戦国時代にかけて、主に下総で活動した大身。通字として「朝」(とも)や「広」(ひろ)が名前に用いられている。.

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田部井氏

部井氏(ためがいし)は、上野国新田郡新田荘田部井郷を本拠とした清和源氏岩松氏(新田氏/足利氏)の一族。 詳細な時期は定かではないが、「たべい」と読むようになってからは日が浅い。古書には「田井」や「多目井」「為谷」「為我井」の表記などもある。現在では同地の屋敷跡が「館濠屋敷跡」として保存されている。.

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甲斐一条氏

斐一条氏(かいいちじょうし)は、甲斐源氏武田氏の一族。 平安時代後期には甲斐源氏の一族が甲府盆地各地へ土着し、武田信義の次男・一条忠頼は山梨郡一条郷(山梨県甲府市)に拠り、一条氏を称した。忠頼は甲斐源氏の惣領となるが、元暦元年(1184年)に源頼朝の甲斐源氏弾圧で謀殺され(『吾妻鏡』)、一時は断絶する。 一条氏は頼朝の弾圧を免れた武田信光(石和信光)の子・一条信長(武田六郎、忠頼の甥にあたる)により再興される。信長は幕府に近侍し、甲斐では武田八幡宮へ大般若経を寄進している事跡が知られる。信長の孫にあたる一条時信は甲斐守護となり、忠頼が館を構えた一条小山(近世初頭に甲府城が築かれる)に時宗道場の一蓮寺が建立された。 時信には9人の男子があり、釜無川右岸の巨摩郡武川筋に入部した時光の青木氏は教来石氏(馬場氏)、柳沢氏、折井氏、山寺氏、横手氏、入戸野氏、山高氏、白須氏、横根氏、牧原氏らの武川衆を支族として分出する。また、忠頼の次男・行忠は巨摩郡甘利庄(韮崎市)に拠り甘利氏を称し、行忠の子・頼安は上条氏の祖となる。.

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甲斐源氏

斐源氏(かいげんじ)は、甲斐国に土着した清和源氏の河内源氏系一門で、源義光(新羅三郎義光)を祖とする諸家のうち武田氏をはじめとする、甲斐を発祥とする諸氏族の総称。 同じ義光を祖とする佐竹氏(常陸源氏)や平賀氏(信濃源氏)とは同族である。また、武田氏と同祖となる加賀美氏流の小笠原氏系統は早い時期に隣国信濃に移ったため、信濃源氏にも含まれる。 「甲斐源氏」の呼称について、治承・寿永の乱期の史料には一切見られず、甲斐源氏の一族を指す呼称には「武田党」などが用いられている。鎌倉時代には『吾妻鏡』をはじめ『帝王編年記』、『日蓮遺文』などにおいて「甲斐源氏」の呼称が用いられはじめ、軍記物語などにおいても頻出する。.

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畠山氏

山氏(はたけやまし/はたけやまうじ)は、武蔵国を本貫地とする武家の一族。主に桓武平氏系と清和源氏系の2家系があるが、両者は間接的な血縁関係である(後述)。読みには他に「はたやま」もある。 室町時代には畠山金吾家が大和宇智郡・河内・紀伊(管領就任時には山城も)などの畿内およびその周辺国に該当する重要な地域を守護として治め、また幕府の管領として国の政務を執った。しかし、家督争いにより、総州家と尾州家に分かれて、応仁の乱勃発の一因となり、その後も激しく争い続けた。 また、北陸の越中の守護も兼ね、分家は能登の守護を代々世襲する。著名な末裔として実業家の畠山一清がいる。.

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畠山満家

山 満家(はたけやま みついえ)は、南北朝時代から室町時代にかけての武将、守護大名。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・伊勢・山城守護。畠山基国の嫡男で満慶の兄。子に持国、持永、持富。.

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留守氏

留守氏(るすし)は、日本の氏族。藤原北家道兼流を称した。後に伊達氏より養子を迎え、江戸時代には水沢伊達氏と呼ばれる。仙台藩一門第三席。.

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片切景重

片切 景重(かたぎり かげしげ、生年不詳 - 平治元年12月27日(1160年2月6日))は、平安時代末期の武将。兵庫助源為行(片切源八)の子。信濃守源為公の曾孫にあたる。兄弟に為重、行心(片切禅師)、為綱、為遠、行実、宗綱(大島八郎)らがあり、子に為安がある。信濃国伊那郡片切郷を本拠とする豪族・片切氏(片桐氏)の当主。仮名は小八郎大夫。.

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片桐氏

片桐氏・片切氏(かたぎりうじ、かたぎりし)は、日本の氏族の一つ。日本の武家、豪族、鎌倉御家人、国人領主、大名、旗本の氏族として知られる。清和源氏満快流。一族は平安末期には河内源氏嫡流家の郎党として従軍した。この時期の当主としては『保元物語』にその活躍が記される片切景重(片桐小八郎大夫景重)が著名である。なお、「片切」はすでに『平治物語』『吾妻鏡』から「片桐」とも記されており、一般には区別されず、早くから併用されていた(『保元物語』には「方切」の当て字も見える)。.

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白河天皇

白河天皇(しらかわ てんのう)は、第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日) - 応徳3年11月26日(1087年1月3日))。諱を貞仁(さだひと)という。 後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。.

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鎌倉将軍一覧

鎌倉将軍一覧(かまくらしょうぐんいちらん)では、鎌倉幕府の征夷大将軍の一覧を示す。.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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鎌倉公方

明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉公方管轄国 新編鎌倉志-関東公方屋敷図 鎌倉公方(かまくらくぼう)とは、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東十か国を統治するために設置した鎌倉府の長官。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称するが、この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれた呼称となる。関東十か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐。 鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となった。 ※鎌倉公方は歴史学用語及び鎌倉公方の自称であって当時の一般呼称ではない。当時の一般呼称は“鎌倉御所”か“鎌倉殿”である。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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鎌田政清

鎌田 政清(かまた まさきよ)は、平安時代末期の武将。名は正清、正家、政家とも。藤原秀郷流首藤氏の一族で、相模国の住人鎌田権守通清の子。 源義朝の第一の郎党。政清の母が義朝の乳母だったため乳兄弟として最も信頼された。.

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聚楽第

聚楽第(じゅらくてい、じゅらくだい)は、安土桃山時代、豊臣秀吉が「内野(うちの)」(平安京大内裏跡、現在の京都市上京区)に建てた政庁・邸宅・城郭。竣工後8年で取り壊されたため、不明な点が多い。.

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荘官

荘官(しょうかん)は、日本の荘園制において、荘園領主(本所)から現地管理を委ねられた者の総称である。荘園を開発した開発領主(かいはつりょうしゅ)が寄進先の荘園領主から荘官として荘園管理者の地位を保全されることもあれば、寄進を受けた荘園領主が自らの荘園支配を強めるために家臣を荘官に任命して現地へ派遣することもあった。.

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落胤

落胤(らくいん)とは父親に認知されない庶子、私生児のこと。歴史上では高貴な人物の出自でそれが話題になることが多い。落とし胤(だね)、落とし子とも。正式な血統の一族とはみなされないので、正当な系図には記載されていないことが多い。 このような子は一般民衆に混じって生活している。当時の実力者によって、正当な血統を継承する者とされて権力に利用されることがあるが、歴史の表舞台に出てくる人物の多くがそのような確証に乏しく(さらには天一坊改行のように落胤を自称した例もある)、研究上疑問視されている例が多数みられる。.

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飯富季貞

飯富 季貞(おぶ すえさだ/源 季貞(みなもと の すえさだ)、生没年不詳)は、平安時代末期の武将・歌人。清和源氏の河内源氏義忠流とも満政流、満快流ともいう。清和源氏の一族でありながら平家の侍大将であり、文武両道に秀でた武将。本拠地飯富庄(現千葉県)に由来し、飯富氏を称した。通称は源大夫判官。子孫に飯富虎昌がいる。.

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飯富虎昌

飯富 虎昌(おぶ とらまさ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の重臣。 武田信虎の時代から武田家の譜代家老衆として仕え、信濃国佐久郡内山城を領した。信虎追放後は、信玄に仕えた。信玄の信任厚く、嫡男武田義信の傅役や赤備えを率いる大任を務めたが、義信事件に連座し、切腹させられた。名は虎昌とされるが、義信側近が連署した「二宮祭礼帳」にその名は見当たらず、検討の余地がある。.

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飯富氏

飯富氏(おぶし)は、氏族の一つ。上総国望陀郡飯富庄(現在の千葉県袖ケ浦市飯富)を本官の地とする。初代は源義家の孫にあたる飯富源太忠宗(源忠宗)とも、その忠宗の孫、源大夫判官季貞(源季貞)、その子の源宗季であったともいう。『尊卑分脈』は源忠宗を初代とする。子孫は、甲斐国、安芸国、若狭国に繁茂した。.

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馬場信春

場 信春 / 馬場 信房(ばば のぶはる / ばば のぶふさ)は、戦国時代の武将。後代には武田四天王の一人に数えられる。.

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馬場氏

場氏.

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高屋氏

屋氏(たかやし)は、日本の氏族の一つ。大江氏の支流である寒河江大江氏(寒河江氏)の一族である。居城は高屋楯(現在の山形県寒河江市高屋)。.

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高梨氏

梨氏(たかなしし)は、信濃国北部(高井郡・水内郡)に割拠した武家の氏族。全盛期の本拠地は、現在の長野県中野市。.

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豪族

豪族(ごうぞく)とは、国家や諸侯などの広域政権の領域の内部に存在し、ある地方において多くの土地や財産や私兵を持ち一定の地域的支配権を持つ一族のこと。地域的支配権の源泉は自分自身の所有する財産や武力であり、広域政権の権威を権力の源泉とする地方官は豪族とは呼ばれない。ただし地方官と豪族は排他的なカテゴリーではなく、同一人物が双方を兼ねたり、カテゴリー間を移行したりするケースは多くある。広域政権側が政権安定のために豪族層の政権内への取り込みを行ったり、逆に広域政権の支配力が弱まると地方官が豪族化することがあるからである。.

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貞保親王

貞保親王(さだやすしんのう)は、平安時代前期から中期にかけての皇族。清和天皇の第四皇子で、母は藤原高子。陽成天皇の同母弟にあたる。南院式部卿宮、桂親王と号す。.

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貞元親王

貞元親王(さだもとしんのう、870年? - 910年1月10日(延喜9年11月26日))は、清和天皇の第三皇子。873年5月21日(貞観15年4月21日))親王宣下。887年1月(仁和3年1月))四品。887年2月(仁和3年2月17日))上野太守。号は閑院を号したといわれているが、明確ではない。 1678年(延宝6年)に、現在の千葉県君津市貞元に建立された貞元親王墓(ていげんしんのうはか)は、1970年9月21日に市指定文化財に指定された。.

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貞純親王

貞純親王(さだずみしんのう)は、日本の平安時代前期の皇族。清和天皇の第六皇子。母は棟貞王の娘。王子に経基王・経生王がある。桃園親王と号す。.

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貞辰親王

貞辰親王(さだときしんのう)は、平安時代前期から中期にかけての皇族。清和天皇の第七皇子で、母は藤原基経の娘である女御藤原佳珠子。 貞観17年に親王宣下を受ける。清和天皇の数多くの皇子の中で時の権力者である藤原基経の唯一の外孫であることから、陽成天皇退位後の有力な皇位継承者の一人だったが、結局皇位は光孝天皇から宇多天皇と継承され、貞辰が天皇になることはなかった。 光孝天皇は即位後に子女全員を臣籍降下しているが、これは基経と貞辰に配慮したとする説がある。.

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貞暁

貞暁(じょうぎょう/ていぎょう、文治2年2月26日(1186年3月18日) - 寛喜3年2月22日(1231年3月27日)) は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての僧侶。源頼朝の三男で第4子(庶子)。母は伊達氏の祖と言われる常陸入道念西の娘・大進局。異母兄頼家の4歳年下、異母弟実朝より6歳年長になる。通称を鎌倉法印といった。.

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貞数親王

貞数親王(さだかずしんのう、貞観17年(875年) - 延喜16年5月19日(916年6月22日))は、平安時代の皇親。清和天皇の第8皇子。品位は四品。.

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貫達人

貫 達人(ぬき たつと、1917年4月6日 - 2009年11月17日)は、日本の歴史学者。.

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鳥羽天皇

鳥羽天皇(とばてんのう、旧字体:鳥羽、康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日(1107年8月9日) - 保安4年正月28日(1123年2月25日))。諱は宗仁(むねひと)。 堀河天皇の皇子。母は贈皇太后・藤原苡子。子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年に渡り院政を敷いた。.

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賀茂氏

賀茂氏(かもうじ、加茂氏/鴨氏/加毛氏)は、賀茂(加茂・鴨・加毛)を氏の名とする氏族。以下の3系がある。.

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足助重長

足助 重長(あすけ しげなが)は、平安時代末期の武将。浦野重直の六男。号は加茂六郎。足助氏の祖。.

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足助氏

足助氏(あすけし)は、日本の氏族の一つ。清和源氏満政流浦野氏族。三河国加茂郡足助庄より発祥した。加茂氏とも呼ばれる。.

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足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.

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足利将軍家

足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)は、足利氏の惣領家(宗家)のうち、とくに足利尊氏以来の、代々室町幕府の将軍職を世襲した一家(軍事貴族)。初代尊氏の後は2代として嫡男義詮が継ぎ、3代足利義満を経て、15代義昭まで続く。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。.

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足利義兼

足利 義兼(あしかが よしかね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府の御家人。足利氏2代当主。.

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足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.

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足利義昭

足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代(最後)の将軍(在職:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))。 父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。 足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶(かくけい)と名乗り一乗院門跡となった。兄・義輝らが三好三人衆らに暗殺されると、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたがやがて京都から追われ備後国に下向し、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。 信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。.

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足利義政

足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は足利 義成(- よししげ)。 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。.

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足利氏

足利氏(あしかがし)は、日本の武家のひとつの軍事貴族。本姓は源氏。家系は清和天皇清和源氏の一族の河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府においては御家人であると同時に将軍家一門たる御門葉の地位にあった。室町時代には嫡流が足利将軍家として天下人となった。藤原秀郷の子孫の藤原姓足利氏(藤姓足利氏)に対して源姓足利氏という場合がある。 通字は、「義」(よし、足利将軍家ほか)または「氏」(うじ、鎌倉時代の歴代当主および鎌倉公方・古河公方家など)。.

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鶴岡八幡宮

岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、神奈川県鎌倉市にある神社。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 別称として鎌倉八幡宮とも呼ばれる。武家源氏、鎌倉武士の守護神。鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社として全国の八幡社の中では関東界隈で知名度が高く、近年では三大八幡宮の一社に入ることがある俗に三大八幡とは「大分の宇佐神宮・京都の石清水八幡宮」に「福岡の筥崎宮」または当社のいずれかを合わせた三社を指す。幕末から明治期の資料では、1868年(慶応4年)4月24日付け太政官達に示す八幡宮の例示3社(田中恆清『謎多き神 八幡神のすべて』 p.198 新人物往来社、2010年、ISBN 4404038291。)として官幣大社に列せられている3社は「宇佐・石清水・筥崎」であるが、近年発行された書籍中では「宇佐・石清水・鶴岡」を八幡神社の代表例としている(『全国八幡神社名鑑(別冊歴史読本―神社シリーズ (99))』新人物往来社、2004年、ISBN 4404030991。白井永二、土岐昌訓『神社辞典』東京堂出版、1997年、ISBN 449010474X。)。境内は国の史跡に指定されている。.

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近江源氏

近江源氏(おうみげんじ)とは、中世に近江国に土着し本拠とした源氏の流れを汲む一族の呼称。以下の数流がある。最も著名な佐々木氏一族については佐々木源氏などとも呼ばれる。.

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能勢氏

能勢氏(のせし)は、摂津国(北摂地方)の封建領主。清和源氏頼光流を称する。「能瀬」・「野瀬」・「能世」など複数の表記が存在する。家紋は切竹矢筈十字、獅子牡丹など。.

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能瀬高頼

能瀬 高頼(のせ たかより)は平安時代末期の武将。多田頼盛の三男。 摂津国能勢庄(現在の大阪府能勢町)の開発領主。多田源氏の一族であるが、一族の他の武士達のように京都の情勢に関心を持たず、領地の開発に邁進した。多田源氏の嫡流(多田氏)が本拠地の多田(現在の兵庫県川西市多田)から勢力を拡大していないのに対して、高頼の代には既に現在の大阪府能勢町および豊能町に勢力を拡大していた。それが後の多田氏と能勢氏の勢力の差につながったことから、能勢氏の最大の功労者といえる。 治承・寿永の乱においては『平家物語』に兄の知実と共にその名が挙がっており、『玉葉』の記述によると、治承4年(1180年)11月23日に福原にて「人宅」に火を放ち東国に向けて逐電したとある事から、高頼も当初は他の摂津源氏と同様平家に服属していたものと思われる。そして12月1日、反平家の狼煙が上がる近江国において近江源氏の軍勢と合流し挙兵を企てるも、平清盛による討伐の命を受けて近江に攻め込んできた平家の家人平家継によって討たれ、仲間及び郎党と合わせて16人が斬首、2人が捕縛されたとある。.

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舜天

舜天(しゅんてん、1166年(乾道2年) - 1237年(嘉煕元年))は、舜天王統の開祖とされる人物で、琉球の正史では初代琉球国王と位置づけられている。在位51年(1187年(淳煕14年) - 1237年(嘉煕元年))。神号は尊敦(そんとん)。 琉球に渡った源為朝を父とする出自伝説をもつが、舜天と彼を含む王統に関しては伝説上の人物と考えられる。舜天は15歳で浦添按司となり、その後、天孫氏を滅ぼした逆臣・利勇を討ち、22歳で琉球国中山王に即位したとされる。 72歳で死去し、世子の舜馬順煕が王位を継いだ。「舜天」という名は、死後に付けられた諡号ではないかと考えられている。.

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舜天王統

舜天王統(しゅんてんおうとう)は、舜天を祖とする王統で、1187年(淳煕14年)から1259年(開慶元年)の間、3代73年にわたり、「琉球国中山王」として王位に就いたとされる。.

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阿野家

阿野家(あのけ)は、羽林家の家格を有する公家。藤原北家閑院流・滋野井庶流。 家業は神楽・有職故実。家紋は唐花。近衛家の家礼。江戸時代の家禄は478石。(旧家、外様)明治維新後は子爵。 阿野の家名は草創期における武家との相続関係に由来しており、源義朝の七男で義経の同母兄である今若丸が駿河国駿東郡阿野荘(静岡県沼津市西部)を領し、その地名を苗字の地として阿野全成と称したことがもともとの始まりである。.

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阿野全成

阿野 全成(あの ぜんじょう / - ぜんせい)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶で、源義朝の七男。源義経の同母兄、源頼朝の異母弟。阿野氏の祖。通称醍醐禅師、もしくはその荒くれ者ぶりから悪禅師とも呼ばれた(『平治物語』)。.

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阿野時元

阿野 時元(あの ときもと)は、鎌倉時代初期の武将。源頼朝の異母弟である阿野全成の四男。『尊卑分脈』によると、隆元(たかもと)とも呼ばれる。.

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薩摩国

薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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薩摩藩

薩摩藩庁が置かれた鹿児島城 薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代に薩摩・大隅の2か国及び日向国諸県郡の大部分を領有し、琉球王国を支配下に置いた藩。現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部を領有したほか、間接的に沖縄県の大部分を服属させた。.

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門葉

葉(もんよう)とは、一般的に血縁関係がある一族を指す。後に、擬似的な血縁関係で編成された家臣団での格式を指す名称としても使用される。鎌倉幕府においては源頼朝(鎌倉殿)の一門としての処遇を受けた者をいう。御門葉(もんよう)とも。.

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藤原信頼

藤原 信頼(ふじわら の のぶより)は、平安時代末期の公卿。後白河天皇の寵臣として絶大な権力をふるうが、同じく上皇の近臣であった信西と対立。源義朝と平治の乱を起こし信西を斬首し、朝廷の最大の実力者となるが、二条天皇親政派と組んだ平清盛に敗北。六条河原で斬首された。.

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藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

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藤原道長

藤原 道長(ふじわら の みちなが)は、平安時代の中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男(または四男)。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。 父・兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男・伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。 一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが三条天皇とは深刻な対立が生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。さらには、六女の嬉子を後の後朱雀天皇となる敦良親王に入侍させた。晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けた。.

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藤原頼経

藤原 頼経(ふじわら の よりつね)は、鎌倉幕府の第4代征夷大将軍。摂家から迎えられた摂家将軍。九条頼経とも呼ばれる。 両親ともに源頼朝の同母妹坊門姫の孫であり、前3代の源氏将軍とは血縁関係にある。妻は源頼家の娘竹御所。 竹御所は難産の末、母子共に亡くなり、源頼朝直系である源氏将軍の血筋は断絶した。頼経は反執権勢力に利用されるようになり、第5代執権北条時頼によって京都へ追放された(宮騒動)。.

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藤原氏

藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.

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葦敷重隆

葦敷 重隆(あじき しげたか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。葦敷重頼の次男。源重隆とも記される。.

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葦敷重頼

葦敷 重頼(あじき しげより)は、平安時代末期の武将。安食重頼とも表記される。 源満政から七代の孫、源重遠(川辺重遠)の次男である。本拠地は尾張国安食(葦敷)荘(現在の名古屋市北区から春日井市にかかる地域)の広瀬島。長承年間に起こった墨俣合戦で、大きく功を挙げる。その時戦死した、子安食重義をはじめとする部下の菩提を弔うために安食荘内に聖徳寺を創建した。晩年出家し、常観坊隆憲を称す。聖徳寺に伝わる文書によれば官位は従六位下、右衛門少尉1176年(安元2年)2月21日に没した。また同荘内には葦敷・山田一族の菩提寺で重頼の法名にちなんだ常観寺があった。.

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野口実

野口 実(のぐち みのる、1951年2月23日- )は、日本の歴史学者。日本中世政治史・社会史専攻。京都女子大学宗教・文化研究所教授。.

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野長瀬氏

野長瀬氏(のながせし)は、日本の氏族のひとつ。.

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臣籍降下

臣籍降下(しんせきこうか)は、皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りることをいう。賜姓降下(しせいこうか)とも言い、そのような皇族を俗に賜姓皇族という。皇族女子が臣下に嫁すことで皇族でなくなる場合は臣籍降嫁(しんせきこうか)とも言った。また日本国憲法施行後は皇籍離脱(こうせきりだつ)の語が用いられる。.

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里見義堯

里見 義堯(さとみ よしたか)は、戦国時代の武将、安房の戦国大名。安房里見氏の第5代当主。 父は里見実堯、母は佐久間盛氏(正木通綱の同族で、三浦・正木とも称したという)の娘。正室は土岐為頼の娘。子に義弘、堯元、堯次、義政(一説に孫の義頼も義堯の子といわれる)。幼名は権七郎、官職は刑部少輔。 上杉謙信、佐竹義重等と結び後北条氏と関東の覇権をめぐって争い続けたが勝敗はつかず、房総半島に勢力を拡大し、里見氏の全盛期を築き上げた。.

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里見義成

里見 義成(さとみ よしなり)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての上野国の武将。里見義俊(里見氏の祖)の子。源義重の孫。妻は足利義清の娘。.

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里見氏

里見氏(さとみし)は、日本の氏族のひとつ。中世に日本の武家としてはじまった。本姓は源氏(河内源氏)。源(新田)義重の子・義俊を祖とする氏族で、新田氏の庶宗家である。戦国時代、一族からは房総地方を領する戦国大名・安房里見氏が出た。.

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金津氏

金津氏(かなづ うじ/かなつ し)は、日本の氏族の一つ。.

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長田忠致

長田 忠致(おさだ ただむね、生年不詳 - 建久元年(1190年)?)は、平安時代末期の武将。父は長田致俊、兄は長田親致、子に長田景致、鎌田政清室。.

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長男

長男(ちょうなん)とは、親から見て最も年長の男子をいう。長男についで親から二番目、三番目の男子を二男(次男)、三男という。 長子(ちょうし)ともいい、史的には「はじめに生まれた男子、総領」を長子と呼ぶ。.

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酒呑童子

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「酒顚童子」 酒呑童子(しゅてんどうじ)は、丹波国の大江山、または山城国京都と丹波国の国境にある大枝(老の坂)に住んでいたと伝わる鬼の頭領、あるいは盗賊の頭目。酒が好きだったことから、手下たちからこの名で呼ばれていた。文献によっては、酒顛童子、酒天童子、朱点童子などとも記されている。彼が本拠とした大江山では洞窟の御殿に住み棲み、数多くの鬼共を部下にしていたという。.

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逸見光長

逸見 光長(へんみ みつなが)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。逸見氏の祖。 大治(1128年)8月15日、新羅三郎義光の孫である源清光の長男として誕生。母は駿河国手越宿の遊女とされ、武田信義は双子の弟と伝わる。 武田信義とは一卵性双生児として生まれた。逸見光長は巳刻に生まれ、武田信義は午刻に生まれる。.

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逸見氏

逸見氏(へみし、へんみし)は、日本の氏族。以下の2つの流れがある。.

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院政

院政(いんせい)は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治である。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治形態である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。.

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陸奥国

奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.

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陸奥石川氏

石川氏(いしかわし)は、平安時代中期から戦国時代の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流・大和源氏の一門、源頼親の子源頼遠を祖とする。他氏との混同を避けるために陸奥石川氏または奥州石川氏と呼ぶことが多い。仙台藩一門首席。.

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陽成天皇

陽成天皇(ようぜいてんのう、貞観10年12月16日(868年1月2日) - 天暦3年9月29日(949年10月23日))は、平安時代前期の第57代天皇(在位:貞観18年11月29日(876年12月18日) - 元慶8年2月4日(884年3月4日))。諱は貞明(さだあきら)。.

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柏木義兼

柏木 義兼(かしわぎ よしかね、生没年不詳)は平安時代末期の武将。新羅三郎義光の系譜を引く近江源氏。父は山本義定。兄は山本義経(源頼朝の弟の源義経とは同名の別人)。治承・寿永の乱の初期に兄義経とともに近江国で挙兵した。 出家して甲賀入道を名乗る。『吉記』、『源平盛衰記』によると法名は成覚。 治承4年(1180年)11月21日、諸国の源氏の旗上に同調して、兄の山本義経とともに近江国の勢多・野路で挙兵。義経と義兼は琵琶湖をおさえて北陸道からの年貢を止め、水軍をもって三井寺に討ち入り、寺々に押し入った。九条兼実の『玉葉』は、義兼は左右なく(京へ?)打ち入ろうと欲するが、甲斐源氏が使者を送って、無勢で攻め寄せても追い返される恐れがあるので、援軍が到着するまで暫く攻撃を止めさせているという伝聞を記している。 12月1日、平氏方の平家継(平田入道)が近江へ攻め込み、源氏方の手嶋冠者を討ち、更に義兼の居城を落とした。美濃源氏の軍勢が義経・義兼の援軍に到着するが、12月5日に平知盛を大将軍とする追討使に追い散らされる。義経・義兼は三井寺に拠るが、平氏軍がこれを攻めて落とす。義経・義兼は逃れて山本城に籠るが、12月15日に知盛・資盛の軍勢に攻められて落城。『玉葉』は討ち取られた首級に義兼の首があったとの噂を伝えるが、これは誤報であったと訂正している。 この後、兄の義経は落ち延びて、鎌倉の源頼朝を頼っている。 『源平盛衰記』によると、寿永2年(1183年)義兼は源義仲の軍に加わり、信濃国、加賀国の住人とともに先陣の大将として越前国へ攻め込み、燧城を構えて立て籠もっている。 義仲が平氏を逐って入京すると、義兼は兄の義経とともに京の警護に任じられた(『吉記』『源平盛衰記』)。 以後の消息は不明。.

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東京都

東京都シンボルマーク。1989年(平成元年)に旧東京市の成立100周年を記念して同年6月1日に制定。「東京都の頭文字の「T」を中央に秘めている『都政 2012』東京都生活文化局広報広聴部広報課 編集・発行、2012年3月発行。東京都が作成した、240ページほどの冊子。」と解説されている。(都の木はイチョウではあるが)イチョウの葉の形を象ったわけではない、という。 東京都(とうきょうと)は、日本の首都事実上の首都。詳細後述であり、関東地方に位置する東京都区部(東京23区)、多摩地域(市部、西多摩郡)、島嶼部(大島支庁・三宅支庁・八丈支庁・小笠原支庁)を管轄する広域地方公共団体(都道府県)の一つである。都庁所在地は新宿区(東京と表記する場合もある)。 都公認の英語の表記はTokyo Metropolis (Tokyo Met.) 。他にはTokyo PrefectureとTokyo Metropolitan Prefectureがある。.

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松平信光

大樹寺(愛知県岡崎市)内にある松平八代墓の信光の墓 松平 信光(まつだいら のぶみつ/しんこう)は、室町時代中期から戦国時代初期頃の武将。三河松平氏の第3代当主で、岩津松平家の祖。妻は一色氏(一色満範あるいは一色宗義平野明夫 「信光の妻子」『三河松平一族』 新人物往来社、97 - 101頁。)の娘。 信光は、『朝野旧聞裒藁』や江戸期の系譜類は第2代当主・松平泰親の子とされるが、『松平氏由緒書』では初代当主・松平親氏の子であるとする。生母は賀茂氏の系統の松平信重の娘とする。当時の資料では源姓新田氏、あるいは賀茂朝臣を称していたことが知られる。.

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松平氏

松平氏(まつだいらし)は、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族であり、後に江戸幕府の征夷大将軍家となった徳川氏の母体である。室町時代は伊勢氏の被官として活躍した。江戸時代は徳川将軍家の一門、あるいは将軍家と祖先を同じくする譜代の家臣の姓となり、あるいは将軍家が勢力・格式ある外様大名に授けた称号としての役割をも果たした姓である。.

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松平清康

松平 清康(まつだいら きよやす)は、戦国時代の武将。三河松平氏(安祥松平家)の第7代当主。第6代当主・松平信忠の子。三河国安祥城城主および岡崎城主。安祥松平家は清康の代に安城岡崎を兼領し、武威をもって離反していた一族・家臣の掌握を進め西三河の地盤を固めた。徳川家康の祖父にあたる。.

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板垣兼信

板垣 兼信(いたがき かねのぶ、生没年不詳)は平安時代末期の武将。清和源氏義光流、甲斐源氏の武田信義の三男。通称は板垣三郎。板垣氏の始祖。.

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板垣退助

板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月17日(1837年5月21日) - 大正8年(1919年)7月16日)は、日本の武士(土佐藩士)、政治家。幼名は猪之助。退助は元は通称。諱は初め正躬(まさみ)、のち正形(まさかた)。号は無形(むけい)。栄典は従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲。自由民権運動の主導者として知られ、「庶民派」の政治家として国民から圧倒的な支持を受けていた。薨去後も民主政治の草分けとして人気が高く、第二次世界大戦後は50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられた。.

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板垣氏

板垣氏(いたがきし)は、日本の氏族のひとつ。 人皇第56代清和天皇の苗裔、新羅三郎義光の後胤で武田氏の支流である。本姓は源氏。家紋は「地黒花菱」。甲斐を本貫とするが、本流武田氏の安芸・若狭増封に従い下向したため、甲斐のみならず両国においても繁栄した。.

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村上義清

村上 義清(むらかみ よしきよ)は、戦国時代の武将。北信濃の戦国大名。父は左衛門督村上顕国(頼平・頼衝)。母は室町幕府三管領家の斯波義寛の娘。家臣の出浦国則の妻を乳母とする。正室は信濃守護・小笠原長棟の娘。 信濃埴科郡葛尾城主で、武田晴信(のちの信玄)の侵攻を2度撃退するなどの武勇で知られ、家督相続時には佐久郡・埴科郡・小県郡・水内郡・高井郡など信濃の東部から北部を支配下に収め、村上氏の最盛期に当主となった。実質的には戦国大名としての村上氏最後の当主。信濃四大将のひとり。.

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村上氏

村上氏(むらかみし)は、日本の氏族。複数の系統があり、血縁関係にある氏族もあれば、無関係な氏族もある。.

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村上水軍

村上水軍(むらかみすいぐん)は、日本中世の瀬戸内海で活動した水軍(海賊衆)である。その勢力拠点は芸予諸島を中心とした中国地方と四国地方の間の海域であり、その後大まかに能島村上家、因島村上家、来島村上家の三家へ分かれた。 彼らの多くは真言宗徒であり、京都などに数多く菩提寺が残されている。また、今も瀬戸内周辺地域には村上水軍の末裔が多く住む。主な活動は輸送、航行船の破壊・略奪や信書の開封・破棄等を通じた同盟関係の分断、それらを行わずに安全を保障する代わりに瀬戸内海各所の海峡を関所(札浦)に見立てた通航料の徴収である。平時は漁業にも従事した。20世紀まで瀬戸内海で見られた漂海民も、村上水軍の末裔ではないかといわれている。代表的な表紋は「丸に上文字」や「折敷に縮み三文字」など。 なお、2016年(平成28年)4月25日、日本遺産 第二期の19箇所の一つとして「“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶-」のタイトルで認定された。村上水軍が活躍した今治市本土と尾道市本土と芸予諸島に42項目の遺産対象がある。.

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栄実

栄実(えいじつ、建仁元年(1201年) - 建保2年11月13日(1215年1月14日))は、鎌倉幕府第2代将軍源頼家の三男(『尊卑分脈』等)または次男(『北条九代記』)。清和源氏。母は法橋・一品房昌寛の娘。一幡、公暁の異母弟であり、竹御所の異母兄でもあり、禅暁の同母兄。幼名を千寿丸(『尊卑分脈』等)または千手丸(『北条九代記』等)といった。 父頼家が没したときは僅か4歳だった。父の死後、尾張中務丞によって養育されていたところ、北条氏に反感を持つ信濃国(現在の長野県)の御家人泉親衡に大将軍として擁立されて北条義時誅殺の陰謀に加担させられるが、建保元年(1213年)2月にこれが露見して北条氏によって捕縛された(泉親衡の乱)。同年11月、祖母北条政子の命によって出家し、栄西の弟子になって法名を栄実とした。建保2年(1214年)、京都滞在時に和田氏の残党に擁立されて六波羅を襲撃しようとしたが計画が幕府方に露見し、同年11月13日、一条北辺の旅亭で幕府方の襲撃を受けて自殺した。享年14だったという。 ただし、『吾妻鏡』には、「栄実」、「千寿丸」、「千手丸」といった名前は登場せず、泉親衡に源頼家の「若君」が擁立され、北条政子の計らいによって頼家の「若公」が出家させられ、和田氏の残党に頼家の「御息」が擁立されたことが記載されているだけである。また、『尊卑分脈』等の多くの史料では、栄実は承久元年(1219年)10月6日に自害したことになっている。このため、従来の通説で栄実の事績とされてきたことには疑義が呈されている。.

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桃井氏

桃井氏(もものいうじ)は、日本の氏族。清和源氏足利氏の支族で、足利義兼の子である兵部少輔桃井義助が嘉元元年(1225年)に上野国群馬郡桃井郷(現在の群馬県北群馬郡榛東村、旧名・桃井村)の荘司(地頭補任は不詳)となり、苗字の地とし桃井氏を称した「桃井氏」『世界大百科事典』平凡社「桃井氏」『日本大百科全書』小学館「桃井氏」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』。 .

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森氏

森氏(もりし)は清和源氏の一流、河内源氏の流れを汲む武家である。八幡太郎源義家の七男源義隆が相模国愛甲郡毛利庄の領主となって、森冠者と名乗った。その三男、源頼隆は後に若槻を号するが、出家の後は森蔵人入道西阿と称した。本格的に森を名字としたのは、宝治合戦後に頼隆の次男であるとされる森頼定が森姓を称したことによるとされる。遠祖陸奥七郎義隆の長男・義広(頼定の伯父)にはじまる源姓毛利氏とは、名字に多少の差異はあるものの、「名字の地」即ち名字発祥の地を同じくするされる。森忠政を祖とする近世大名の家系はこの子孫である(ただし、仮冒という説もある)。.

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森成利

安土城にある森成利邸跡 本能寺で討ち死にする森蘭丸(右田年英画) 森蘭丸・坊丸・力丸の墓(可成寺) 森 成利(もり なりとし)は、安土桃山時代の武将。森 蘭丸(もり らんまる)という名で知られる織田信長の近習である。本能寺の変で主君と2人の弟と共に討死した。 名前については異説が多く、幼名を乱(らん)とするものや、諱を長定(ながさだ)や長康(ながやす)とするものなど幾つかあるが、本記事においては諱として有力とされる成利で統一する。.

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権記

『権記』(ごんき)は、平安時代中期に活躍した藤原行成の記した日記である。名の由来は、極官(ごくかん)の権大納言による。『行成卿記』、『権大納言記』とも。執筆時期は藤原道長の全盛期で、特に蔵人頭在任中(一条天皇期)の活動が詳細に記されており、当時の政務運営の様相や権力中枢・宮廷の深奥を把握するための第一級の史料。 正暦2年(991年)から寛弘8年(1011年)までのものが伝存し、これに万寿3年(1026年)までの逸文が残っている。自筆本は伝わらない。最も古い写本は、鎌倉時代以前に筆写された伏見宮本(宮内庁書陵部蔵)である。同時期の日記に『小右記』(藤原実資)、『御堂関白記』(藤原道長)がある。.

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武士団

武士団(ぶしだん)とは主に平安時代後半から、鎌倉時代、南北朝時代を中心に室町時代までの武士の集団を指す。1930年代から日本中世史での学術用語として使用され始めた。中世史研究史上においては「武士」と同義語として扱われることもあるが、「武士」は中世から近世(江戸時代)までを対象とし、また「武士」論は「武士団」を率いる「侍」のみを対象とすることもあるに対し、「武士団」ではその郎党も含めた社会的実態が問題とされる。 『後三年合戦絵詞』「雁行の乱れ」の騎馬武者 『後三年合戦絵詞』の「雁行の乱れ.

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武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

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武家の棟梁

武家の棟梁(ぶけのとうりょう)とは、武家(武士)の統率者である軍事貴族のこと。.

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武家政権

武家政権(ぶけせいけん)は、日本史の平安時代後期から江戸時代にかけて、武家の棟梁(軍事貴族)を長として、地方社会を実効支配する武士層を掌握した中央政権を指す。武士政権(ぶしせいけん)とも呼ぶ。.

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武田信光

武田 信光(たけだ のぶみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。源義光(新羅三郎)を始祖とする甲斐武田氏の第5代当主。第4代当主・武田信義の5男。伊豆守。甲斐国・安芸国守護。甲斐国八代郡石和荘に石和館を構えて勢力基盤とし、石和五郎と称する。 馬術・弓術に優れた才能を発揮し、小笠原長清、海野幸氏、望月重隆らと共に弓馬四天王と称された。.

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武田信玄

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。 甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化し国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて領国を拡大したものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。.

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武田信義

武田 信義(たけだ のぶよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。源清光の次男。逸見光長は双子の兄になる(一説に逸見光長とは異母兄弟)。甲斐源氏4代当主であり、武田氏の初代当主である。.

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武田氏

武田氏(たけだし)は、平安時代末から戦国時代の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流・河内源氏の一門、源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家である。安芸国・若狭国に分派が存在し、上総国などにも庶流があったが、いずれも通字として「信」(のぶ)が使用されている。古代の国造である武田臣(皇別)の後裔が河内源氏義光流の棟梁と婚姻したという説も伝わっている。 河内源氏の名族の一つとして戦国時代には戦国大名化し、武田晴信(信玄)の頃には領国拡大し中央の織田・徳川勢力に対抗するが勝頼期には領国の動揺を招いて宗家は滅亡し、江戸時代には庶家だけがわずかに残った。 家宝は御旗(後冷泉天皇から下賜された日章旗)・楯無(楯無の鎧、源頼義が御旗とともに授けられたという)。.

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武田有義

武田 有義/逸見 有義(たけだ ありよし/へみ ありよし)は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。清和源氏義光流、甲斐源氏の棟梁・武田信義の四男(あるいは長男、三男)。後に伯父の逸見光長の養子になった。.

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歴史学

歴史学(れきしがく)とは、過去の史料を評価・検証する過程を通して歴史の事実、及びそれらの関連を追究する学問である。.

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毛利氏 (源氏)

毛利氏(もうりし・源氏系)は、武家のひとつ。本姓は源氏。家系は清和源氏の流れをくむ。その流れには2つあり、一つは八幡太郎義家の3男・源義国を祖とする足利氏一門である斯波氏の庶流、もう一つは同じく八幡太郎義家の7男・陸奥七郎義隆の系統である。.

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水野氏

水野氏(みずのし)は、清和源氏を称する日本の氏族。戦国時代には緒川城、刈谷城を中心に尾張国南部の知多半島と三河国西部に領地を広げ、織田氏や徳川氏と同盟を結び最盛期には24万石と称される勢力となった。 宗家のほか、大高水野氏、常滑水野氏などの諸氏があった。宗家は徳川家康の母・伝通院の実家にあたり、江戸時代には徳川氏の外戚家として遇された。『柳営秘鑑』では、岡崎譜代とされる。近世大名家を輩出した一族の一つであり、また江戸時代中期から後期には幕府の老中に人物を輩出し続け、享保の改革や天保の改革に関与するなど、国政を握った。 幕末期においては、下総結城藩、駿河沼津藩、上総鶴牧藩、出羽山形藩の各藩の藩主が水野氏であった。その他、寛文7年(1667年)に改易となった上野安中藩の藩主や紀州藩の附家老であった紀伊新宮城主もこの一族であった。.

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永承

永承(えいしょう)は、日本の元号の一つ。寛徳の後、天喜の前。1046年から1052年までの期間を指す。この時代の天皇は後冷泉天皇。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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河内国

河内国(かわちのくに/かはちのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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河内経国

河内 経国(かわち つねくに)は平安時代後期から末期の武将。河内源氏第4代の源義忠の嫡男。 父方の祖父は河内源氏第3代の源義家、母方の祖父は伊勢平氏棟梁の平正盛という源平両氏の血を引く。父が河内守(『河源記』では、領地の地名、『稻澤氏家譜系図』では河内権守)であったことに由来して、河内源太と称した。.

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河内氏

河内氏(かわち/かわうち/こうち し)は日本の氏族の一つ。 河内氏には以下のものがある。記述は時代順に並べてある。.

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河内源氏

河内源氏(かわちげんじ)は、河内国(現在の大阪府の一部)に根拠地を置いた清和源氏の一流。一般的に武士で「源氏」という場合、この系統を指す。また、「平家」と称される伊勢平氏と併称される場合には源家(げんけ)という呼称も古くは用いられていた。.

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治承・寿永の乱

治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模な内乱である。古代最後の内乱であり中世最初の内乱である。後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。 一般的には「源平合戦(げんぺいかっせん、げんぺいがっせん)」あるいは「源平の戦い(げんぺいのたたかい)」などの呼称が用いられることがあるが、こうした呼称を用いることは適当でないとする議論がある(詳しくは後述)。また、奥州合戦終結までを治承寿永の乱に含めるという見解もある。.

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泉親衡

泉 親衡(いずみ ちかひら)は、鎌倉時代初期の信濃国の武将。鎌倉幕府御家人。信濃源氏の泉次郎公衡の子で泉親衡の乱の首謀者。名を親平とも書く。.

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泉親衡の乱

泉親衡の乱(いずみちかひらのらん)は、鎌倉時代初期の1213年(建暦3年)2月15日に発覚した内乱。鎌倉幕府御家人で信濃源氏の泉親衡が源頼家の遺児千寿丸を鎌倉殿に擁立し執権北条義時を打倒しようとした陰謀とそれに続いた合戦を指す。一般的には和田合戦の前哨戦とされている。.

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清和天皇

清和天皇(せいわてんのう、嘉祥3年3月25日(850年5月10日) - 元慶4年12月4日(881年1月7日))は、平安時代前期の第56代天皇。在位は天安2年11月7日(858年12月15日) - 貞観18年11月29日(876年12月18日)。諱は惟仁(これひと)。後世、武門の棟梁となる清和源氏の祖。 文徳天皇の第四皇子。母は太政大臣・藤原良房の娘、女御・明子。.

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渋川氏

渋川氏(しぶかわし)は、日本の氏族(武士)。清和源氏義国流で足利氏の一門。室町時代に肥前、備前、備中、安芸、豊前、摂津などの守護職に任ぜられ、また九州探題職を世襲した。 足利将軍家御一家の家格を有した他、一族は九州、関東、中国など各地に点在した。.

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源基宗

源 基宗(みなもと の もとむね).

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源孝道

源 孝道(みなもと の たかみち)は、平安時代中期の貴族・漢詩人。清和天皇の第九皇子である貞真親王の孫で、従五位下・源元亮の子。後に伯父(または叔父)の満仲の養子となった。官位は従五位上・越前守。.

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源季遠

源 季遠(みなもと の すえとお、生没年不詳)は平安時代後期の武士・歌人。実父は源義忠の三男源忠宗。後に源重時の養子に入った。子に光季(光遠とも、豊後守)、飯富季貞がいる。 平忠盛や清盛の郎党として近侍し右兵衛尉、安芸守、信濃守を歴任した。久寿2年(1155年)、後白河天皇の時代には北面武士、二条天皇が立太子されると帯刀舎人となった。 著名な歌人ではないが、勅撰和歌集(詞花和歌集)に入選している(子の季貞は千載和歌集に入選している)。.

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源実国

源 実国(みなもと の さねくに)は、平安時代中期の武士・官人。源頼国の四男。官位は従四位上、蔵人、検非違使、左衛門尉、春宮大進、備前守、土佐守、播磨守、常陸介(『尊卑分脈』)。.

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源実朝

源 実朝(みなもと の さねとも、實朝)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍。 鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡出の次男頼朝の子としては第6子で四男、北条政子の子としては第4子で次男として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。 歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として『金槐和歌集』がある。小倉百人一首では鎌倉右大臣とされている。.

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源宗綱

源 宗綱(みなもと の むねつな、生年不明 - 治承4年5月26日(1180年6月20日))は、平安時代末期の摂津源氏の武将。源仲綱の嫡男。源頼政の嫡孫。官職は従五位下、左衛門尉、肥後守。源宗仲の父。 治承4年(1180年)5月、祖父・頼政、父・仲綱らは以仁王を擁して平家に叛旗を翻す(以仁王の挙兵)。宗綱はこの戦いに一家の嫡男として参加し奮戦するが、やがて衆寡敵せず敗北し、宇治平等院にて一族もろとも自害して果てた。 宗綱本人は若くして死去したが、孫の源宗重(蓮位)が親鸞の弟子となったことを契機に、その子孫は本願寺の重臣下間氏として発展する。戦国時代には一向一揆において中心的役割を果たし、さらに降って江戸時代には一族から池田重利が出て一万石を領し、大名に列した。 むねつな Category:下間氏 Category:平安時代の武士 Category:生年不明 Category:1180年没 Category:切腹した人物.

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源師光

源師光(みなもと の もろみつ).

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源希義

源 希義(みなもと の まれよし)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源義朝の五男。源頼朝の同母弟で、同母姉妹に一条能保室の坊門姫がいる。.

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源広綱

源 広綱(みなもと の ひろつな、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。家系は清和源氏の一家系、摂津源氏の出である。源頼政の末子。長兄・仲綱の養子となる。官位は従五位下・駿河守。.

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源仲家

源 仲家(みなもと の なかいえ)は、平安時代末期の河内源氏の武将。八条院蔵人。帯刀先生・源義賢の嫡男。源義仲(木曾義仲)の異母兄。源頼朝・義経の従兄弟にあたる。 久寿2年(1155年)、父・義賢が大蔵合戦で甥の源義平に襲撃され戦死すると、父と共に大蔵にいた2歳の異母弟・駒王丸(義仲)は逃れて中原氏に庇護される。母と共に京にいたと思われる仲家は摂津源氏の源頼政に保護され、その養子となって京で成長した。朝廷の官職として八条院蔵人をつとめていた。ただし『平家物語』は六条院蔵人としている。 治承4年(1180年)5月、以仁王と養父・頼政による挙兵計画が露見して、仁和寺にこもった際に、嫡男の仲光とともに馳せ参じた。のち以仁王らと奈良へ向かったが、5月17日、宇治平等院のあたりで平家の追討軍に追いつかれて仲光ともども戦死した。.

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源仲宗

源 仲宗(みなもと の なかむね、生没年未詳)は、平安時代後期の武将。肥後守源頼清の長男。弟に兼宗、清宗、永源、家宗、季宗、憲宗、基宗があり、子に惟清、顕清、仲清、光清がある。『尊卑分脈』による官位は従四位下、蔵人、筑後守。 延久4年(1072年)、白河天皇の六位蔵人に任ぜられる(『蔵人補任』)。その後、甲斐守となり、承暦3年(1079年)6月の延暦寺大衆による強訴では源頼綱・頼俊・平季衡・正衡などと共に都の防衛に投入される(『為房卿記』同年6月6日条)。次いで筑前守に任じ、その任期を終えていた寛治6年(1093年)3月には六条高倉にあった仲宗邸の雑舎が焼亡した(『中右記』同年3月9日条)。また同年、筑前で捕らえた犯人を連行し上洛した際に関白藤原師通から鞍一具を与えられていることから摂関家とも繋がりを有していた可能性が推測されている(『後二条師通記』同年11月16日条・12月6日条)。 しかし嘉保元年(1094年)8月、白河院殿上人であった長子惟清が院を呪詛したとして、同じく院に仕えていた顕清、仲清、盛清ら子息達と共にこれに連座し仲宗は周防国への配流が言い渡された(『中右記』同年8月17日条)。以後の動静は未詳。.

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源仲光

源 仲光(みなもと の なかみつ、生年不詳 - 治承4年5月26日(1180年6月20日))は平安時代末期の武将。源仲家の嫡男で弟に仲賢がある。木曾義仲は叔父に当たる。九条院判官代。蔵人太郎と号した。 1180年、父の仲家の養父である摂津源氏の源頼政が挙兵すると、父と共にこれに従い、宇治平等院の戦いにおいて、頼政、仲家らとともに討死を遂げた。.

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源仲綱

源 仲綱(みなもと の なかつな)は、平安時代末期の武将・歌人。源頼政の嫡男。母は源斉頼女。官位は正五位下、隠岐守、伊豆守。.

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源仲政

源 仲政(みなもと の なかまさ)は、平安時代後期の武将・歌人。三河守源頼綱の次男。馬場仲政(ばば の なかまさ)ともいう。.

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源忠宗

源 忠宗(みなもと の ただむね、生没年不詳)は、平安時代の河内源氏の武将。 源義家(八幡太郎)の四男(三男)の源義忠の三男。飯富源太。内舎人(「尊卑分脈」)。正しくは「飫富」であるが、飯富と書かれることが多い。「尊卑分脈」には子孫が見えず、中世の飯富氏との関係は不詳である。 Category:平安時代の武士 たたむね Category:飯富氏 Category:生没年不詳.

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源忠国

源 忠国(みなもと の ただくに、生没年不詳)は、平安時代の武将。源満政の五男。兄に忠重、忠隆、姉妹に源重文室がいる。 『尊卑分脈』によると官位は従五位下、刑部大輔、出羽守。 治安2年(1022年)には、摂津豊能郡能勢町山田にある山田城(亀ノ屋城)を居城としていた(『多田社記』)。 たたくに Category:平安時代の武士 Category:生没年不詳.

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源忠隆

源 忠隆(みなもと の ただたか、生没年不詳)は、平安時代中期の武士・官人。源満政の次男。.

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源忠重

源 忠重(みなもと の ただしげ)は、平安時代中期の武士・官人。源満政の長男。.

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源兼忠

源 兼忠(みなもと の かねただ)は平安時代中期の公卿。清和天皇の孫で、貞元親王の子。.

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源兼綱

源 兼綱(みなもと の かねつな)は、平安時代末期の武将。丹後守源頼行の次男(あるいは三男、五男)。源頼政の養子。.

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源光基

源 光基(みなもと の みつもと)は、平安時代末期の武将。左衛門尉源光信の長男。土岐光基とも記される。.

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源光家

源 光家(みなもと の みついえ、生年不詳 - 文治2年5月13日(1186年6月2日))は、平安時代末期の武将。新宮十郎源行家の長男。『尊卑分脈』によれば、名は家光とも。通称を蔵人太郎と称す。源頼朝、範頼、義経兄弟、木曾義仲らの従兄弟にあたる。.

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源光宗

源 光宗(みなもと の みつむね、康治元年(1142年)頃 - 永暦元年(1160年))は、平安時代末期の武将。出雲守源光保の長男。兄弟に光盛、重子、土佐局(鳥羽天皇後宮)らがあり、子に宗保、兼綱がある。『尊卑分脈』による官位は従四位下、左衛門尉、伯耆守、備後守。また「木田」を号したとされる。 鳥羽院の近臣であった光保の嫡子として久寿2年(1155年)に14歳で蔵人に補され、その後も順調に昇進を重ねた。光宗も父と同じく守仁親王(二条天皇)に近侍したと考えられ、平治元年(1159年)の平治の乱では父と行動を共にする。しかし、乱の後に反院政派の排除を進める後白河上皇の手によって永暦元年(1160年)6月に父と共に薩摩国へ配流となり、護送中に父が誅殺されると光宗もその後を追って自害した(『尊卑分脈』)。.

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源光保

源 光保(みなもと の みつやす)は、平安時代末期の武将・院近臣。摂津源氏の流れを汲む出羽守源光国の三男。諱は光泰(『平治物語』)、光康(『愚管抄』)とも記される。.

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源光信

源 光信(みなもと の みつのぶ)は、平安時代末期の武将。出羽守源光国の長男。通称は出羽判官、土佐判官。鳥羽院四天王の一人。土岐光信とも記される。.

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源光国

源 光国(みなもと の みつくに)は、平安時代後期の武将。伊豆守源国房の長男。初名は師時(『尊卑分脈』)。.

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源光行

源 光行(みなもと の みつゆき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての政治家・文学者・歌人。源氏物語の研究者であり、河内方の創始者に位置付けられる。.

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源光重

源 光重(みなもと の みつしげ、生没年不詳)は、平安時代末期の武士。源光信(あるいは源基国)の子。源仲政の養子。義兄弟に頼政、頼行、泰政らがあり、子に重清、重高、頼重、光貞、仲重、保綱らがある。仮名は三郎。深栖氏の祖。 養父・仲政が国司として東国に下向した際、兄たちと共に同行し現地に所領を得て居住したとされる。しかし、所領の位置については下総国とも下野国とも云われており明確でない。『平治物語』には子の頼重が京から東国の深栖一族の所領にまで源義経を招き入れた際にこれを出迎える存在として登場している。『尊卑分脈』には光重が「波多野御曹司」と称したと記載されているが、その詳細については不明である。 本拠地・深栖の所領は五男仲重の子孫が代々相伝し、鎌倉時代以降も御家人として続いたことが『吾妻鏡』にみえている。.

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源光長

源 光長(みなもと の みつなが)は、平安時代末期の美濃源氏の武将。源光信の子。土岐光長とも記される。通称は「出羽判官」。.

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源国基

源国基は、.

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源国直

源 国直(みなもと の くになお、生没年不詳)は、平安時代後期の武将。三河守源頼綱の三男。山県国直とも記される。山県氏の祖。.

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源国房

源 国房(みなもと の くにふさ)は、平安時代中期から後期にかけての武将。源頼国の六男。後に摂津源氏を継いだ五兄・頼綱の養子となっていたとされる。美濃源氏の祖。.

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源国政

源 国政(みなもと の くにまさ)は、平安時代末期の武将。源国直の長男。山県国政とも記される。.

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源範頼

源 範頼(みなもと の のりより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。 遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため、とも呼ばれる。その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経と共にこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。その後も源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ伊豆国に流された。 武蔵国横見郡吉見(現在の埼玉県比企郡吉見町)のあたりを領して吉見御所と尊称された。.

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源義家

源 義家(みなもと の よしいえ)は、平安時代後期の武将。伊予守・源頼義の長男。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる。 比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となった時、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約10年間は閉塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された。 その活動時期は摂関政治から院政に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。このため歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ、後三年の役の朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な憶測がされてきた。生前の極位は正四位下。.

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源義宗

源 義宗(みなもと の よしむね)は、平安時代の河内源氏の武将。源義家の子。『尊卑分脈』では長男とされる。 若くして死去したが、戦死か病没かは不詳。兵庫允・左衛門少尉の官職に就任した(『尊卑分脈』)。また、甥の忠宗(次弟・義忠の子)が義宗の養子となっている。 『平泉志』巻之上(一関藩教成館學頭、高平眞藤編)によると、後三年の役の金澤柵の攻防の記事に、 との記事を載せるが、この記事の寛治4年(1090年)では、嫡子とされる源義忠はわずか7歳でしかないため、一軍を率いていたとは考え難い。そのため、義忠の他の兄弟であると考え、嫡子というのが単に長男であることを意味すると理解すれば、上記の記事の嫡子は義宗のことと考えられる。 Category:平安時代の武士 よしむね Category:生没年不詳.

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源義平

源 義平(みなもと の よしひら)は、平安時代末期の武将。源義朝の庶子で長男。通称は鎌倉悪源太(悪源太、鎌倉源太とも)。母は京都郊外の橋本の遊女または三浦義明の娘であり、源頼朝・義経らの異母兄にあたる。.

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源義康

源 義康(みなもと の よしやす/足利 義康 あしかが よしやす)は、平安時代末期の武将。足利氏の祖。陸奥判官とも称した。.

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源義広 (志田三郎先生)

源 義広(みなもと の よしひろ/志田 義広 しだ よしひろ)は、平安時代末期の武将。河内源氏第五代・源為義の三男。志田三郎先生(しだ さぶろう せんじょう)。またの名を義範、義憲(よしのり)とも。.

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源義仲

源 義仲 (みなもと の よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。 以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。.

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源義忠

源 義忠(みなもと の よしただ)は平安時代後期の武将。清和源氏の中の河内源氏四代目棟梁。源義家の死後河内源氏の家督を相続、伊勢平氏と和合して勢力の維持を図ったが、同族に暗殺された。.

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源義信

源 義信(みなもと の よしのぶ、生没年不詳)は、平安時代後期の河内源氏の武将。源義親の長男で、源義家の孫。通称対馬太郎。官位は『尊卑分脈』によると従四位下、左兵衛佐。.

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源義光

源 義光(みなもと の よしみつ)は、平安時代後期の武将。河内源氏の2代目棟梁である源頼義の三男。兄に源義家(八幡太郎)や源義綱(賀茂次郎)がいる。近江国の新羅明神(大津三井寺新羅善神堂)で元服したことから新羅三郎(しんらさぶろう)と称した。.

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源義国

源 義国(みなもと の よしくに)は、平安時代後期の河内源氏の武将。源義家の子。新田・足利両氏の祖にあたる。.

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源義綱

源 義綱(みなもと の よしつな)は、平安時代後期の河内源氏の武将。源頼義の子。母は平直方の娘で、兄の源義家(八幡太郎)、弟の源義光(新羅三郎)と同腹である。.

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源義経

源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。 河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名をと呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。 その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき判官とは義経が後白河法皇より任じられた左衛門尉・検非違使を兼ねた官職名。通常は「はんがん」だが、『義経』の伝説や歌舞伎などでは「ほうがん」と読む。)という言葉を始め、多くの伝説、物語を生んだ。.

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源義親

源 義親(みなもと の よしちか)は、平安時代後期の武将。源義家の子。尊卑分脈では次男、源為義の父とされるが異説あり。 河内源氏3代目棟梁・源義家の嫡男だったが、対馬守に任じられたとき九州で略奪を働き、官吏を殺害したため、隠岐国へ流された。だが、出雲国へ渡って再び官吏を殺して官物を奪ったために、平正盛の追討を受けて誅殺された。剛勇の義親が簡単に討たれたことを人々は疑い、その後に幾度も義親を名乗る者が現れている。.

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源義高 (左兵衛権佐)

源 義高(みなもと の よしたか、生没年不詳)は、平安時代末期の河内源氏の流れを汲む武将。源義忠の次男。 父が暗殺されると、母方の平家で育てられた。左兵衛尉、左馬允、兵庫助などを歴任し、ついに官位は父を凌ぎ、従四位下左兵衛権佐にまでなった。そのため、当時の史料では源氏の棟梁を自負していたともされる。 兄に経国がいるが、経国が関東に下ったのに対し、義高は都に住し、平家が勢力を強めるに従って順調な官途を進んだ。 子に、従五位上河内守源義成がいる。実質的に源義忠の系統の嫡流は兄の経国に代わり、義高の子孫が継承する。義高の子孫は代々北面武士で河内国に領地を持つ武士として続いた。 Category:平安時代の武士 よしたか Category:12世紀生 Category:没年不明.

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源義高 (清水冠者)

源 義高(みなもと の よしたか)は、平安時代末期の河内源氏の流れを汲む信濃源氏の武将。清水冠者(志水冠者)と号す。木曾義高とも。源義仲の嫡男。母は中原兼遠の娘。諱(実名)は文献によって異なり「義高」は『吾妻鏡』の記述によるものである。『尊卑分脈』では「義基」、『平家物語』では「義重」となっているが他の史料との整合性や比較批評が必要である。説話的な題材や虚構も交えられていることもあり信憑性に乏しい。.

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源義賢

源 義賢(みなもと の よしかた)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の次男。源義朝の異母弟。源義仲(木曾義仲)の父。.

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源義門

源 義門(みなもと の よしかど、生没年不詳)は、平安時代末期の河内源氏の棟梁源義朝の四男。 義門については早世したと伝わるのみで生没年や事績は明らかでない。頼朝のすぐ下の弟で、『系図纂要』によれば母は頼朝と同じ藤原季範の娘、由良御前とされているが、同時代的にそれを裏付ける資料は確認されていない。 ただし宮内丞の官職に任じられていることから、平治の乱で一時的に義朝軍が内裏を占拠した際には存命しており、その際に任官したのではないか、そして直後の源氏軍敗北の中において戦死したのではないか、などと推測されている(奥富敬之著「清和源氏の全家系」)。 みなもと の よしかと よしかと.

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源義重

源 義重(みなもと の よししげ / 新田 義重 にった よししげ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。新田氏の祖。武家の棟梁として名を馳せた八幡太郎義家の孫。新田氏本宗家(上野源氏)の初代であり、上野国新田荘を本拠としたため新田義重と称する。.

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源義雄

源 義雄(みなもと の よしかつ、生没年不詳)は、平安時代末期の河内源氏の流れを汲む武将。源義家(八幡太郎義家)の四男の源義忠の五男。 源義忠が暗殺されると、母方の平家で育てられた。兄に源経国、源義高、源忠宗、源義清がいるが、経国、忠宗が関東にあったのに比べ、義高らと同じく都に住し、平家が勢力を強めるに従って順調な官途を進んだ。 Category:平安時代の武士 よしかつ.

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源義業

源 義業(みなもと の よしなり)は、平安時代後期の武将。実質的な佐竹氏初代。佐竹義業とも呼ばれる。.

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源義清 (左京権大夫)

源 義清(みなもと の よしきよ、生没年未詳)は源義忠の四男。従五位下、左京権大夫。 『尊卑分脉』の系図によると母は平忠盛の娘とされているが、年代的に考えてこれは誤りであり、平正盛の娘、即ち忠盛の姉妹が正しいと思われる。いずれにせよこれは、義忠と伊勢平氏一族の繋がりを暗示する記述であり、後世治承・寿永の乱において、義忠の子孫の一部が平家方に与したことの遠因の一つとして考えられている。また、平清盛(忠盛の子)の「清」の一字は、義清が烏帽子親となったことに由来するともいい、清盛の父・忠盛の「忠」の一字も、義清の父・源義忠が烏帽子親であったことに由来し、忠盛、清盛親子と、義忠、義清親子の親密さを伝えている。 右衛門尉、兵庫助などを歴任した。子に従五位下左衛門尉、因幡介となった源義久がいる。義久には一子があり、従五位下宮内少輔源義高がそれである。 よしきよ Category:平安時代の武士.

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源義清 (矢田判官代)

源 義清(みなもと の よしきよ)は、平安時代末期の武将。仁木氏、細川氏、戸賀崎氏(戸崎氏)の祖。通称は矢田判官代(やたのはんがんだい)。.

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源義清 (武田冠者)

源 義清(みなもと の よしきよ、承保2年4月16日(1075年5月3日) - 久安5年7月23日(1149年8月27日))は、平安時代後期の武将。『尊卑分脈』によれば、河内源氏の一族で甲斐源氏の祖となる源義光(新羅三郎義光)の三男(次男とも)佐藤(1986)、p.22。母は平清幹の娘(平成幹の姉または妹にあたる)。 『尊卑分脈』によれば源義光には七男がおり、義清の兄には佐竹氏の祖となった義業・石井氏の祖となった源実光、弟には盛義(形部四郎・平賀冠者)・親義(形部五郎・岡田冠者)・祐義(形部六郎・覚義(寺阿闍梨)がいる。 幼名は音光丸。通称は刑部三郎・武田冠者で、「形部」は義光が形部丞であったことに由来していると考えられている。武田義清・逸見義清とも。子に清光(逸見清光)、師光、加賀美遠光、安田義定らがある。.

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源義朝

源 義朝(みなもと の よしとも)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の長男。母は白河院近臣である藤原忠清の娘。源頼朝・源義経らの父。 源義家の死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていた。都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で家人に裏切られ謀殺された。.

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源経基

源 経基(みなもと の つねもと、源 經基)は、平安時代中期の皇族・武将。経基流清和源氏の初代。 『保元物語』によれば、父は清和天皇の第 6皇子・貞純親王で、母は右大臣・源能有の娘。皇族に籍していたとき「六孫王」と名乗ったとされるが、当時の文献には見られない。居館は六宮とも八条御所ともいう。.

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源経光

源 経光(みなもと の つねみつ、生年未詳 - 久安2年3月9日(1146年4月21日))は、平安時代後期の武士。下野守源明国の次男。兄弟に源行国、源有頼、源盛隆らがあり、子に源清綱、源頼元、源頼定がある。蔵人であったとされる(『尊卑分脈』)。 久安2年(1146年)3月9日の夜半に経光の従兄妹にあたる官子内親王(白河天皇第五皇女)の邸宅が落雷により焼失した際、兵仗を手に執り轟く雷を追い払おうとしたところ邸に雷が落ちて震死(感電死)したとの記事が『本朝世紀』にみえている。事件の詳細については不明であるが、同書翌日条には経光が近江国建部大社の社務(具体的な経緯・詳細は不明)を執行した際に非法を行ったことから神罰が下ったとの噂が流布したとある。また、事件当日は経光の妻も側にあったが彼女は奇跡的に無事であり、官子内親王も無事で近隣の藤原定信宅に避難したという。 なお、『本朝世紀』にはこの経光の所持していた兵仗に対し「俗に之奈木奈多と号す」との記述があり、薙刀の初見とされている。.

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源為基

源 為基(みなもと の ためもと、生没年不詳)は、平安時代後期の武将。信濃守源為公の子。兄弟に為衡、為扶、為邦、為実、為氏らがあり、子に為行がある。通称は片切源八。蔵人であったとされる(『尊卑分脈』)。片切氏の祖。 父為公より信濃国伊那郡における勢力の一部を継承し郡内片切郷に入部したとされる。また片切氏累代の居城として知られる船山城の築城者とも目されるが明確でない。『尊卑分脈』には「蔵人大夫」との記述があり、これに従えば都で活動した時期を有し叙爵していたことになる。.

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源為宗

源 為宗(みなもと の ためむね、生年未詳 - 保元元年7月30日(1156年8月17日))は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の六男。母は源基実の娘。源頼賢、源頼仲は同母兄。通称は丹波冠者、また丹波六郎、賀茂六郎とも。.

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源為仲

源 為仲(みなもと の ためなか、康治元年(1142年)? - 保元元年7月30日(1156年8月17日))は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の九男。母は江口の遊女であり、鎮西八郎為朝は同母兄にあたる。通称は九郎。.

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源為公

源 為公(みなもと の ためとも)は、平安時代後期の武将。甲斐守源為満の子。母は河内守源頼信女。伊那源氏の祖。.

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源為国

源 為国(みなもと の ためくに、生没年不詳)は、平安時代末期の武士・官人。清和源氏頼清流。蔵人源盛満(盛清)の子。後に源顕清の養子となる。義兄弟に宗清、定国、業国、盛国らがあり、子に道清、基国、宗実、経業、信国、惟国、世延(安信?)、宗信らがある。室は信西女など。崇徳院判官代。号は村上判官代。信濃村上氏の祖。 嘉保元年(1094年)の白河院呪詛事件に連座して信濃国へ配流された大叔父顕清(村上顕清)の養子となり、都で崇徳院判官代を務めた(『尊卑分脈』)。こうした関係から保元元年(1156年)7月の保元の乱では崇徳上皇・藤原頼長方として平家弘らと共に白河北殿に参じたが、敗北後の罪名宣下にその名はなく処罰を免れたものと考えられている(『兵範記』同年7月10日条、同27日条)。これは自身が信西の婿であったことや合戦に深く関与していないことなどが関係したと推測されている。 後代、子孫は信濃村上氏として存続した。なお『尊卑分脈』には同じく信濃国を地盤とした源満快の子孫に源為邦(村上源判官代)という人物がみえ、頼清流村上氏からの養子とされる。子の源基国は高陽院判官代となり同じく「村上判官代」を号し、また弟の源盛国は八条院判官代となり、筑摩郡波多郷に拠って波多判官代を号し、国衙の在庁官人となった。.

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源為義

源為義(みなもとのためよし)は、平安時代末期の武将。祖父は源義家、父は源義親。叔父の源義忠暗殺後に河内源氏の棟梁と称す。なお父は源義家で、源義親と義忠は兄にあたるという説もある。通称は六条判官、陸奥四郎。源頼朝・源義経らの祖父。 当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の源為朝の乱行により解官となる。保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の源義朝の手で処刑された。.

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源為満

源 為満(みなもと の ためみつ)は、平安時代後期の武士。.

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源為朝

源 為朝(みなもと の ためとも、旧字体:爲朝)は、平安時代末期の武将。源為義の八男。母は摂津国江口(現・大阪市東淀川区江口)の遊女。源頼朝、義経兄弟の叔父にあたる。 身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛弓の使い手で剛勇無双を謳われた。生まれつき乱暴者で父の為義に持てあまされ、九州に追放されたが手下を集めて暴れまわり、一帯を制覇して鎮西八郎を名乗る。保元の乱では父とともに崇徳上皇方に参加し、強弓と特製の太矢で大いに奮戦するが敗れ、伊豆大島へ流される。しかしそこでも国司に従わず、大暴れして伊豆諸島を事実上支配したので、追討を受け自害した。.

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源為成

源 為成(みなもと の ためなり、生年未詳 - 保元元年7月30日(1156年8月17日))は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の七男。母は賀茂神社の神主・賀茂成宗の娘。通称は八幡七郎、また賀茂七郎とも。.

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源盛義

源 盛義(みなもと の もりよし)は、平安時代末期の武将。源義光の四男。平賀盛義とも呼ばれる。平賀氏の祖。 信濃国佐久郡平賀郷に本拠を置いて平賀冠者を称した。父義光は平賀郷に隣接する甲斐国の国司を務めた事があり、兄の源義清は甲斐国に配流されて以降、甲斐北西部に勢力を扶植して甲斐源氏の祖になっている事から、盛義は兄の勢力と連携しながら甲斐国から信濃国への進出の流れで平賀郷に所領を形成したと考えられる。 子の平賀義信は17歳で源義朝の下で平治の乱に加わり、義朝の遺児・源頼朝が挙兵して東国を支配したのち、鎌倉幕府において御家人筆頭の地位を占め、源氏門葉として頼朝に重用されている。.

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源頼基

源 頼基(みなもと の よりもと).

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源頼子

源 頼子(みなもと の らいし、生没年不詳)は、平安時代後期の女官。三河守・源頼綱の女。姉妹に三河内侍源盛子がいた。白河天皇の後宮に奉仕し、その寵愛を受けて官子内親王(清和院斎院)を産んだ。 永久3年(1115年)8月16日付の『源頼子家地相博券』という古文書によれば、頼子は当時左京七条坊門小路南・室町小路東に4戸主分の地所を所有していたらしい。長承元年(1132年)3月、官子内親王の邸宅清和院内に仏堂を建立供養した。 らいし Category:平安時代の后妃後宮 Category:平安時代の女官 Category:生年不明 Category:没年不明.

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源頼季

源 頼季(みなもと の よりすえ)は、平安時代中期の武将。信濃源氏・井上氏の祖。.

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源頼実

源 頼実(みなもと の よりざね)は、平安時代中期の官人・歌人。源頼国の三男。和歌六人党の一人。.

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源頼家

岡八幡宮参道の段葛 源 頼家(みなもと の よりいえ)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男で母は北条政子(頼朝の子としては第3子で次男、政子の子としては第2子で長男)。 父・頼朝の急死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、征夷大将軍となる。若年の頼家による従来の習慣を無視した独裁的判断が御家人たちの反発を招き、疎外された母方の北条氏を中心として十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられたとされるが、当事者である北条氏の史書以外にそういった記録は存在せず、真偽は定かではない。 合議制成立の3年後に頼家は重病に陥ったとされ、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡した。頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉された後、暗殺された。頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握る事になる。.

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源頼家 (摂津源氏)

源 頼家(みなもと の よりいえ)は、平安時代中期の官人・歌人。源頼光の次男。後に叔父頼範の養子となっていたとされる。『尊卑分脈』による官位は従四位下、蔵人、筑前守。.

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源頼平

源 頼平(みなもと の よりひら)は、平安時代中期の武士・官人。源満仲の四男。一説に兄・頼光の養子となっていたとされるほか、従兄弟・頼季(源満快の子)と同人物ともされる(『尊卑分脈』)。.

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源頼仲

源 頼仲(みなもと の よりなか、生年未詳 - 保元元年7月30日(1156年8月17日))は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の五男。母は源基実の娘。あるいは文徳源氏の源資遠(資道)の娘とも。同母兄に源頼賢、同母弟に源為宗。掃部助・左兵衛尉。通称は五郎掃部助、また掃部五郎とも。 保元の乱では父為義に従い、崇徳上皇・藤原頼長方として参戦。敗北し、父とともに兄義朝のもとに降参する。義朝によって助命嘆願されるも叶わず、義朝の手によって船岡山(京都市北区)において、父や兄弟らとともに斬られた。この時頼仲は、「兄上(義朝)は心狭く、自分一人生き残ろうとしている。万が一の事があれば後悔するであろう」と高笑いしていたという。 子の加茂冠者源義嗣は1183年に淡路で従兄弟の源義久とともに平教経と戦うが、義嗣は討ち取られてしまった(六ヶ度合戦)。.

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源頼弘

源 頼弘(みなもと の よりひろ)は、平安時代中期の武士・官人。美濃守源頼国の長男。官位は従五位下、讃岐守(『尊卑分脈』)。.

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源頼俊

源 頼俊(みなもと の よりとし、生没年不詳)は、平安時代後期の武将・歌人。加賀守源頼房の長男。.

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源頼信

源 頼信(みなもと の よりのぶ)は、平安時代中期の武将。摂津国多田現・兵庫県川西市多田。の地に源氏武士団を形成した源満仲の三男。河内国石川郡壺井現・大阪府羽曳野市壺井。を本拠地とする河内源氏の祖。.

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源頼兼

源 頼兼(みなもと の よりかね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。源頼政の次男。父に続き大内守護を務める。.

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源頼光

源 頼光(みなもと の よりみつ)は、平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍・源満仲、母は嵯峨源氏の近江守・源俊の娘。諱はしばしば「らいこう」と有職読みされる。 満仲の長子で清和源氏の3代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる。異母弟に大和源氏の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいる。.

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源頼国

源 頼国(みなもと の よりくに)は、平安時代中期の武将・官人。源頼光の長男。.

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源頼範

源 頼範(みなもと の よりのり)は、平安時代中期の武士・官人。源満仲の七男。長兄・頼光の養子となっていたとされる。.

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源頼綱

源 頼綱(みなもと の よりつな)は、平安時代後期の武将・歌人。美濃守源頼国の五男。母は尾張守藤原中清女。多田頼綱(ただ の よりつな)とも呼ばれる。.

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源頼義

源 頼義(みなもと の よりよし)は、平安時代中期の武士。河内源氏初代棟梁・源頼信の嫡男で河内源氏2代目棟梁。.

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源頼遠

源 頼遠(みなもと の よりとお)は、平安時代中期の武将。源頼親の三男。柳瀬氏を名乗ったとも。陸奥石川氏の祖。 父頼親の土佐配流の原因となった興福寺との合戦に加わらなかったため、処分を受けることはなかった。永承6年(1051年)、安倍頼良が乱を起こすと(前九年の役)、源頼義に従い陸奥に赴いて戦う。康平5年(1062年)、安倍氏の重要な拠点である厨川柵の攻略の際に戦死。兵の指揮は次男の有光が引き継ぎ戦功を挙げた。 戦功により陸奥仙道を下賜された有光は、岩峯寺を建てて父を葬った。また、末子有遠は矢吹氏(屋葺氏)を名乗ったとある。.

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源頼行

源 頼行(みなもと の よりゆき)は、平安時代末期の武将。兵庫頭源仲政の次男。母は藤原友実女。源頼政と同母兄弟。小国頼行とも記される。 蔵人を務めたとされるほか、丹後守となっていたことが確認できる(『尊卑分脈』『吾妻鏡』建暦2年正月10日条)。明確な動向は不明であるが、保元の乱を経た保元2年(1157年)7月16日に、濫りに軍兵を発したとして安芸国への配流を命じた官符が下され、翌17日に京都西七条辺で領送使の検非違使信澄(氏不詳)を殺害し自害して果てたという(『兵範記』各同年同月日条)。 これにより子息たちは兄頼政の養子となったとされる。また一子宗頼の子孫は頼行の代から関係があったともされる越後国刈羽郡小国保(現在の新潟県長岡市内旧小国町付近)を代々本拠とする豪族・小国氏として存続した。.

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源頼親

源 頼親(みなもと の よりちか)は、平安時代中期の武将。源満仲の次男。大和源氏の祖。河内源氏の祖・源頼信とは同母兄弟にあたる。.

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源頼貞

源 頼貞(みなもと の よりさだ)は、平安時代中期の武士・官人。.

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源頼賢

源 頼賢(みなもと の よりかた、生年未詳 - 保元元年7月30日(1156年8月17日))は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の四男。母は源基実の娘。あるいは文徳源氏の源資遠(資道)の娘とも。同母弟に源頼仲・源為宗がいる。左衛門尉。 次兄・義賢と仲がよく、父子の盟約を交わしたと言われる。久寿2年(1155年)、義賢が甥・義平に討ち取られると、その復仇を果たすべく信濃国に下向、鳥羽法皇領を侵犯する。これを知った法皇は、義平の父で頼賢の長兄にあたる義朝に対して、頼賢追討の院宣を下す。これにより、河内源氏一族内に緊張が高まったが、直前で義朝は頼賢追討を回避、頼賢もほどなく帰京した。 保元の乱では為義に従い、崇徳上皇・藤原頼長方として活躍。義朝軍を相手に奮闘する様が『保元物語』に活写されている。崇徳上皇方の敗北に伴い、乱の後捕らえられ、義朝の手によって船岡山(京都市北区)において斬首された。 子の淡路冠者源義久は、1183年に従兄弟の源義嗣とともに淡路国で平教経と戦うが、義久は捕虜にされてしまった(六ヶ度合戦)。.

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源頼資

源 頼資(みなもと の よりすけ)は、平安時代中期の武士・官人。源頼国の二男。.

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源頼茂

源頼茂(みなもと の よりしげ、治承3年(1179年)? - 承久元年7月13日(1219年8月24日))は、鎌倉時代前期の武将。源頼兼の長男。正五位下、大内守護、安房守、近江守、右馬権頭。 父頼兼と同じく都で大内裏守護の任に就く一方、鎌倉幕府の在京御家人となって双方を仲介する立場にあった。しかし、承久元年(1219年)7月13日、突如、頼茂が将軍職に就くことを企てたとして後鳥羽上皇の指揮する兵にその在所であった昭陽舎を襲撃される。頼茂は応戦し抵抗するものの仁寿殿に篭り火を掛け自害し、子の頼氏は捕縛された。 上皇が突如頼茂を攻め滅ぼした明確な理由はわかっていないが、鎌倉と通じる頼茂が京方の倒幕計画を察知した為であろうとする説もある。また、この合戦による火災で仁寿殿・宜陽殿・校書殿などが焼失し、仁寿殿の観音像や内侍所の神鏡など複数の宝物が焼失したという。 『尊卑分脈』には享年41であったと記されている。.

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源頼治

源頼治(みなもと の よりはる、生没年不詳)は平安時代後期の武将。大和源氏源頼俊の次男。母は播磨守藤原定輔女。通称宇野冠者。中務丞。子に頼隆、頼賢、親弘、親通らがある。宇野氏の祖。 嘉保2年(1095年)に延暦寺の僧兵が源義綱の配流を要求して強訴を起こした際に、関白藤原師通の命により賀茂川原の守備に就き、これを撃退する。しかしその際、頼治の手勢が日吉神社の神輿を射たことが、さらなる延暦寺側の態度の硬化を招くこととなった。降って4年後の承徳3年(1099年)には、師通が38歳にして急死。これを神罰と恐れた朝廷は、ついに頼治を処罰することを決断し、佐渡国(一説には土佐国)への配流とした。 曾祖父頼親、祖父頼房に次ぐ頼治の失脚は、大和源氏の勢力衰退に一層拍車をかけることとなった。 Category:平安時代の武士 よりはる.

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源頼清

源 頼清(みなもと の よりきよ).

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源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.

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源頼成

源 頼成(みなもと の よりなり、生没年不詳)は、平安時代中期の武将。通称は越智太郎。大和源氏の祖である源頼親の長子、宇野頼房奈良県史所収『越智氏略系図』と戦国大名系譜人名事典所収『越智氏系図』によると、頼房は頼成の子と記されている。・石川頼遠・太田頼基の兄、頼房・仲綱・成綱の父。 官職は左衛門尉・蔵人・肥後守などを歴任し、藤原道長に仕えたという。彼の子孫は越智氏と称して、大和国高市郡越智荘で勢力を保ったという。.

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源頼房

源 頼房(みなもと の よりふさ、生没年未詳)は、平安時代中期の武将。大和守源頼親の次男。兄弟に頼成、頼遠、頼基がある。頼俊、親宗、為房、清仁親王室の父。従五位下、蔵人、兵庫助、加賀守、肥前守。荒加賀と呼ばれた。 加賀守任期後の永承4年(1049年)12月、長らく対立関係にあった興福寺の大衆が国司である父頼親の邸宅に攻め寄せ、頼房がこれに矢で応戦して多数の僧を殺害したことから、激昂した興福寺の訴えにより翌年(1050年)正月、父頼親は土佐国に、頼房は隠岐国に配流されることとなった(『扶桑略記』)。 康平5年(1063年)12月、赦免されて、本位に復する。しかし承保3年(1076年)、再び興福寺の訴えにより肥前国へ配流となり、同地において間もなく没したという。.

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源頼明

源 頼明(みなもと の よりあき)は、平安時代中期の武士・官人。.

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源頼政

源 頼政(みなもと の よりまさ)は、平安時代末期の武将・公卿・歌人。兵庫頭源仲政の長男。朝廷で平家が専横を極める中、それまで正四位下を極位としていた清和源氏としては突出した従三位に叙せられたことから源三位(げんざんみ)と称された。また、父と同じく「馬場」を号とし馬場頼政(ばば の よりまさ)ともいう。 保元の乱と平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まった。平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列した。だが、平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えた。計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、そのまま平家の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れ自害した(以仁王の挙兵)。.

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源行家

行家が大敗を喫した墨俣川の戦いの碑(岐阜県安八郡墨俣町) 源 行家(みなもと の ゆきいえ)は、平安時代末期の武将。河内源氏第五代源為義の十男。初めの名乗りを義盛(よしもり)という。新宮十郎、新宮行家とも。以仁王の挙兵に伴い、諸国の源氏に以仁王の令旨を伝え歩き、平家打倒の決起を促した。.

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源行国

源 行国(みなもと の ゆきくに)は、平安時代後期の武将。摂津源氏(多田源氏)源明国の長男。号に「多田蔵人大夫」。.

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源顕清

源 顕清(みなもと の あききよ、生没年未詳)は、平安時代後期の武将。筑前守源仲宗の次男。兄弟に惟清、仲清、光清らがあり、子に宗清(村上蔵人)、定国、業国、盛国、養子に為国がある。白河院蔵人。村上顕清とも記される。 兄弟らと共に白河院蔵人を務め院昇殿者となっていたが、嘉保元年(1094年)8月に兄惟清が院を呪詛したとしてこれに連座し失脚、越前国への配流が言い渡された(『中右記』同年8月17日条)。なお『尊卑分脈』では配流先を信濃国とし、甥盛清の子為国を養子として信濃村上氏の嫡流を継承させたとあるが、同系図には混乱がみられ詳細は不明。.

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源親弘

源 親弘(みなもと の ちかひろ、生没年不詳)は、平安時代末期の武将。中務丞源頼治(宇野冠者)の子。陸奥守源頼俊の孫にあたる。源親治、源基親、源基弘、源基重、源親満、高倉院女房伊予内侍、源義重室らの父。対馬守、下野権守(『保元物語』によれば下野守)。摂津国豊島郡に住し「豊島権守」と号した。諱は後に宇野頼弘と改名したという。 本貫の地であった大和国宇野荘は子の親治との不和によりその弟妹に譲渡していたが、相論の末、久寿2年(1155年)に宣旨によって親治の知行が認められた。これにより親治は同荘を醍醐寺三宝院の勝尊に寄進し、自ら知行安泰を図っている。 子孫は大和と摂津に分かれ、それぞれ宇野氏、岑田氏、豊島氏となった。伊予国の大森氏の一族の大森彦七は親弘の玄孫と称した。.

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源親義

源 親義(みなもと の ちかよし、生年不詳 - 寿永2年(1183年))は、平安時代末期の武将。源義光の五男。岡田親義とも呼ばれる。通称は刑部五郎。兄に義業、義清、盛義らがいる。 仕官を求めて上洛後、左衛門尉となった。保元元年(1156年)に平野神社領(のちに岩清水八幡宮領)であった信濃国筑摩郡岡田郷の浅間神社領の荘官として下向し、岡田冠者と称した。 治承4年(1180年)に以仁王の令旨での指名を受け、同族の源義仲の重臣として、子の太郎重義・小次郎久義を率いて挙兵した。会田・麻績の戦いや横田河原の戦いで信濃の平氏軍を破るが、寿永2年(1183年)に越中国倶利伽羅峠の戦いで、平知度と相打ちとなり戦死した。.

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源親行

源 親行(みなもと の ちかゆき、生没年不詳)は、鎌倉時代前期の文人政治家・古典学者・歌人。いわゆる河内方のひとり。大和守源光行の子。清和源氏義忠流。子に源義行。.

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源親治

源 親治(みなもと の ちかはる、永久4年3月3日(1116年4月17日) - 文治2年8月7日(1186年9月21日))は、平安時代末期の武将。下野権守源親弘の子。兄弟に基親、基弘、基重、親満、伊予内侍、新田義重室らがあり、子に有治、清治、満治(光治)、義治(俊治)、親家、業治、頼基、季治らがある。大和源氏の祖源頼親から数えて五代目にあたる。または宇野七郎とも名乗る。 大和国宇智郡宇野荘に住した。久安元年(1145年)、興福寺の衆徒が金峰山寺を攻めた時には、金峰山側について戦った。保元元年(1156年)に勃発した保元の乱において、崇徳上皇、藤原頼長方に加担。兵を率いて京に入ろうとするところを、警護にあたっていた敵方の平基盛に見咎められ、合戦の末に敗れて捕虜となる。本戦の間は獄舎につながれていたが、戦後赦免されて本拠の大和国に帰された。これは、親治が大和国内で興福寺と対立関係にあることに目をつけた後白河天皇による、興福寺牽制のための政治的措置だったと言われている。治承4年(1180年)の以仁王の挙兵の際は、息子を源頼政に応じさせた。 後代、南北朝期の武将4代孫の大森彦七や戦国期の武将土方雄久、隈部親永などが親治の末裔を称している。.

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源重実

源 重実(みなもと の しげざね、生没年不詳)は、平安時代後期の武将。佐渡守源重宗の長男。通称は佐渡源太。八島重実とも称した。.

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源重宗

源 重宗(みなもと の しげむね、生没年不詳)は、平安時代後期の武将。駿河守源定宗(満政の嫡男・忠重の子)の子。母は大納言藤原斉信女。官位は従五位下、佐渡守(『尊卑分脈』)。八島氏(羽島氏)の祖。.

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源重遠

源 重遠(みなもと の しげとお、生没年不詳)は、平安時代末期の武将。源重実の子。尾張源氏の祖。.

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源重貞

源 重貞(みなもと の しげさだ)は、平安時代末期の武将。源重実の子。清和源氏満政流で、近江矢島(現在の滋賀県守山市矢島町)を本拠とする在京軍事貴族(京武者)である。保元の乱では源為朝を捕縛した。平治の乱で多くの軍事貴族が淘汰された後も活動を続け、平氏政権下においても一定の勢力を保持した。諱は重定とも記される。.

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源重成

源 重成(みなもと の しげなり)は、平安時代末期の武将。源重実の長男。八島重成とも。.

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源重時

源 重時(みなもと の しげとき)は、平安時代後期の武将。佐渡守源重宗の三男。.

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源氏

源氏(げんじ、みなもとうじ)は、「源」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。 日本において皇族が臣下の籍に降りる(臣籍降下)際に名乗る氏の1つで、多数の流派がある。清和天皇の子孫である清和源氏が有名である。.

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源氏嫡流

源氏嫡流(げんじちゃくりゅう)は、源氏の嫡流、すなわち本家・宗家(またはこれと認められた家)の血統をいう。ただし、そうした地位や名分があったわけではない。親子関係において「嫡子」のようなものは、父親の本拠地の相続した後継者に対してあったともいえるが、それが必ずしも系譜としての嫡流意識となったかどうかは問題がある。.

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源氏将軍

源氏将軍(げんじしょうぐん)は、源氏の血筋をひく将軍、特に清和源氏の中でも河内源氏出身の征夷大将軍をいう。.

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源氏三神社

源氏三神社(げんじさんじんじゃ)とは、清和源氏ともっとも所縁のある三つの神社のことである。後世「東国の源氏」と言われるが、源氏はもともと畿内(現在の近畿地方・関西地方)が本拠地であり、源氏三神社は、いずれも近畿にある。.

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源氏長者

源氏長者(げんじのちょうじゃ)は、源氏一族全体の氏長者の事を指す。原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が源氏長者となる(現任上首)。源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの諸権利を持つ。一般的には、奨学院・淳和院の両別当を兼任するといわれているが、自身も源氏長者だった北畠親房の『職原鈔』によれば、奨学院別当のみでも要件を満たす(その場合、次席が淳和院別当となる)と解説している。.

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源清光

源 清光(みなもと の きよみつ)は、平安時代末期の武将。甲斐源氏の祖。黒源太、逸見清光、武田清光とも呼ばれる。.

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源満季

源 満季(みなもと の みつすえ)は、平安時代中期の武将。清和源氏の初代・源経基の三男。満仲・満政の同母弟。兄満仲・満政らと同様に、武力をもって朝廷・上級貴族に仕えた「武勇輩」であった。.

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源満仲

JR川西池田駅前にある満仲のブロンズ像 源 満仲(みなもと の みつなか)は、平安時代中期の武将。清和源氏、六孫王経基の嫡男。多田源氏の祖で、多田 満仲(ただ の みつなか、ただ の まんじゅう)とも呼ばれる。諱は満中とも記される。神号は多田大権現。.

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源満快

源 満快(みなもと の みつよし/みつやす)は、平安時代中期の武将。源経基の五男。満扶(みつすけ)とも記される。.

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源満国

源 満国(みなもと の みつくに)は、平安時代中期の武士。.

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源満頼

源 満頼(みなもと の みつより)は、平安時代中期の武士。源経基または源満季の子。.

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源満政

源 満政(みなもと の みつまさ)は、平安時代中期の武将。源経基の次男。満仲、満季らの同母兄弟。八島大夫、村岡大夫などと号した。満正とも記される。.

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源朝長

源 朝長(みなもと の ともなが)は、平安時代末期の武将。源義朝の次男。母は波多野義通の妹。源頼朝・義経の異母兄。相模国松田郷を領して松田冠者(まつだのかじゃ)と号した。また、松田殿とも呼ばれた。 父や兄弟とともに平治の乱で平清盛らと戦うが敗れ、父や兄弟とともに東国へ落ちる途中で僧兵の落人狩りで負傷し、傷が悪化して死亡した。.

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源有光

源 有光(みなもと の ありみつ)は、平安時代後期の武将。大和源氏の流れを汲む柳瀬流源頼遠の次男。陸奥石川氏第2代当主。 摂津国物津荘に生まれる。松千代、河内右馬之允師任、源太有光を称し、柳津に住してから柳津源太を称した。永承6年(1051年)、父頼遠とともに源頼義に従い陸奥に下向して安倍氏と戦うが、康平5年(1062年)、厨川柵の戦いで父を失い兵の指揮を引き継ぎ、軍功を以て従五位下安芸守に任ぜられ、奥州仙道七郡(白河、石川、岩瀬、田村、安積、信夫)の中から、石川を中心とした六十六郷の地を与えられた。 当初、石川荘の泉郷(いずみごう)の南、川辺(かわべ)にあった保源城へ住した。 泉郷は、阿武隈川を挟んだ西側が古代の東山道が通じ賑わっていた三条目(三城目)郷であり、賑わった土地である事からこの地を本拠地と定めた。しかし保源城は三方を急勾配に囲まれた山頂にあり、守るに堅牢な城ではあったが、水・交通の便が悪く政務・居住には不向きであった。その為、南に2キロ程の中野の地に藤田城を築くが、ここも何某か不便があり本拠とは成らなかった。.

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源有綱

源 有綱(みなもと の ありつな)は、平安時代末期の武将。伊豆守源仲綱の次男。大内守護源頼政の孫。.

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源惟清

源 惟清(みなもと の これきよ、生没年未詳)は、平安時代後期の武将。筑前守源仲宗の長男。弟に顕清、仲清、光清らがある。子息の記録は伝わらず、妻は祇園女御か。『尊卑分脈』による官位は従五位下、検非違使、蔵人、三河守。 父と同じく白河院に近侍し院蔵人を務めた後、寛治7年(1092年)に堀河天皇の六位蔵人となる(『蔵人補任』)。嘉保元年(1094年)に三河守に任ぜられるが、同年8月、白河院を呪詛したとして伊豆国への配流が言い渡され、院の側近であった父仲宗及び三人の弟達もこれに連座し同時に失脚した(『中右記』同年8月17日条)。 この呪詛事件の詳細については不明であるが、『吾妻鏡』正治元年8月19日条に過去の事例として「鳥羽院が源仲宗の妻である祇園女御を奪った上で配流に処した」との記述があることが知られ、現在では整合性からこれにある「鳥羽院」は白河院、「源仲宗」は惟清を指すものと考えられている。.

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源明国

源 明国(みなもと の あきくに)は、平安時代後期の武将。初名は行光。三河守源頼綱の長男。「多田」を号したことから多田明国(ただ の あきくに)とも記される。.

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源斉頼

源 斉頼(みなもと の まさより、なりより)は、平安時代中期の武将・官人・鷹匠。清和源氏満政流。駿河守源忠隆の長男。諱は政頼、正頼とも記され「せいらい」とも呼称される。.

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源政綱

源 政綱(みなもと の まさつな、生没年不詳)は、平安時代末期の武士・官人。丹後守源頼行の四男。後に伯父源頼政の養子となった。兄弟に宗頼、政光、仲時、兼綱、光賢、宜秋門院丹後らがあり、子に長政がある。『尊卑分脈』に記載される官位は従五位下、右馬助、皇嘉門院判官代。諱は正綱とも記される。 治承2年(1178年)10月の春日祭に五位の共人の一人として随行しており、この時「散位」で「前相模権守、皇嘉門院殿上人」であった(『玉葉』同年10月29日条)。同4年(1180年)4月の除目で左馬権助に任ぜられる(『吉記』同年4月1日条)。同年5月に源頼政が以仁王を奉じ反平家の兵を挙げたが、政綱と兄の宗頼はこれに加わらなかったとある(『玉葉』同年5月22日条)。.

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満願寺 (川西市)

満願寺(まんがんじ)は兵庫県川西市満願寺町にある仏教寺院。山号は神秀山 、宗派は高野山真言宗。本尊は千手観音菩薩。満願寺町は川西市の飛地であり、周囲は宝塚市である。.

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滋野氏

滋野氏(しげのうじ)は、「滋野」を氏の名とする氏族。信濃国小県郡の氏族。姓(カバネ)は朝臣。.

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持明院基宗

持明院 基宗(じみょういん もとむね)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家中御門流庶流持明院家、持明院基家の子。官位は従三位・非参議。持明院家4代当主。.

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服部半蔵

服部 半蔵(はっとり はんぞう)は、戦国時代から江戸時代にかけて松平氏から徳川氏の麾下で活躍した者を指す。代々「半蔵」を通称の名乗りとした服部半蔵家の歴代当主である。詳細は不明であるが、忍者だったのは初代だけであり、2代目以降は忍者ではなかったとされる。 もともとの先祖は、伊賀国花垣村余野(現伊賀市)に居住し、そこで代々伊賀流忍者の首領を務めてきた一族とされる。.

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服部氏

服部氏(はっとりし)は、日本の氏族のひとつ。.

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朝臣

朝臣(あそん、あそみ)は、684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓の制度で新たに作られた姓(カバネ)で、上から二番目に相当する。一番上の真人(まひと)は、主に皇族に与えられたため、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたる。読みは「あそみ」が古い。古くは阿曽美、旦臣とも書いた。 この朝臣が作られた背景には、従来の臣(おみ)、連(むらじ)、首(おびと)、直(あたい)などの姓の上位に位置する姓を作ることで、姓に優劣、待遇の差をつけ、天皇への忠誠の厚い氏(うじ)を優遇し、皇室への権力掌握をはかったと思われる。 『日本書紀』には、684年(天武天皇13年)11月1日に初めて朝臣を賜った52氏として、大三輪氏、大春日氏、阿倍氏、巨瀬氏、膳氏、紀氏、波多氏、物部氏、平群氏、雀部氏、中臣氏、大宅氏、粟田氏、石川氏、桜井氏、采女氏、田中氏、小墾田氏、穂積氏、山背氏、鴨氏、小野氏、川辺氏、櫟井氏、柿本氏、軽部氏、若桜部氏、岸田氏、高向氏、宍人氏、来目氏、犬上氏、上毛野氏、角氏、星川氏、多氏、胸方氏、車持氏、綾氏、下道氏、伊賀氏、阿閉氏、林氏、波弥氏、下毛野氏、佐味氏、道守氏、大野氏、坂本氏、池田氏、玉手氏、笠氏が記されている。 朝臣は、主に壬申の乱で功績の有った主に臣の姓を持つ氏族(古い時代に皇室から分かれたものが多い)に優先的に与えられた。その次に位置する主に連の姓を持つ氏族には宿禰の姓を与えていた。しかしながら、その後も朝廷に功績が有った氏族には朝臣の姓を下賜していき、奈良時代にはほとんどの氏が朝臣の姓を持つようになった。 さらに時代が下ると、大半の貴族や武士は藤原朝臣、源朝臣、平朝臣などの子孫で占められてしまい、また、武家台頭による下級貴族の没落もあり、朝臣は、序列付けの為の姓としての意味を失ってしまい、公式文書で使う形式的なものになっていった。 平安時代以降、公卿(三位以上及び参議)は、氏の下に朝臣、諱の下に公(大臣)ないし卿という敬称を以って称した。四位以下の者は氏、諱の下に姓をつけて呼称した。氏ではなく諱の下に朝臣とつけた者は特に名乗り朝臣という。.

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木田氏

木田氏(きだし)は、日本の氏族の一つ。主なものに2つの流れがある。.

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木曾氏

木曾氏(きそし)は、日本の氏族の一つ。.

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最上氏

最上氏(もがみし)は、清和源氏の足利氏の支流である。三管領の一つ斯波氏の分家にあたる。室町幕府の羽州探題を世襲できる家柄で、のち出羽国の戦国大名として成長した。斯波最上氏とも斯波出羽家とも呼ばれることがある。.

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惟宗広言

惟宗 広言(これむね の ひろこと)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての歌人・官人。日向守・惟宗基言の子。.

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惟宗忠康

惟宗 忠康(これむね の ただやす)は、平安時代後期の摂関家(藤原北家)に仕えた京侍。秦氏の一族。父は忠友(八文字民部太夫)、子に忠広(上総前司)、忠久(豊後守)、忠季(兵衛尉)。橋口右衛門尉。 島津氏の祖である忠久の父とする説があり、忠久の母の丹後局が忠康の一族の惟宗広言の妻になった縁により、忠久・忠季も広言の養子となったものとする説がある。 .

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惟宗氏

惟宗氏(これむねうじ)は、日本の氏族のひとつ。平安時代に始まる氏族で、秦氏の子孫とされる。.

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戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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房総半島

房総半島(ぼうそうはんとう)は、関東地方の南東部、太平洋に面した半島。千葉県の大部分を占める。 「房総」という地名は、令制国の安'''房'''国と上'''総'''国と下'''総'''国の三国にまたがることに由来する。現在の千葉県と茨城県の間に「古鬼怒湾」があり、ほとんど「島」の状態であったのは、それほど古いことではない。 房総半島の位置。スペースシャトル 房総半島のランドサット。スペースシャトル.

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星野恒

星野 恒(ほしの ひさし、天保10年7月7日(1839年8月15日) - 大正6年(1917年)9月10日)は、国史学者・漢学者、東京帝国大学教授。名は世恒、字は徳天、通称は恒太郎(ひろたろう)、号は豊城。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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明智光秀

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖において落ち武者狩りで殺害されたとも致命傷を受けて自害したともされる。これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」ともいう。 光秀の本姓は源氏、清和源氏(摂津源氏)の家系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏の出身。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。官途は日向守。朝廷より惟任(これとう)の姓を賜ったので惟任光秀ともいう。妻は妻木煕子。その間には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。 領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社)もある。江戸時代の文楽「絵本太功記」や歌舞伎「時桔梗出世請状」をはじめ、後世、小説・映画・テレビドラマなど様々な作品でとりあげられている。.

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明智氏

明智氏(あけちし)は、清和源氏土岐氏の支流氏族。発祥地は現在の恵那市明智町であったが、土岐宗家 5代頼遠の岐阜長森移転に伴い、明智宗家は明智庄(可児市)へ移転した。.

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浦野重直

浦野 重直(うらの しげなお、生没年不詳)は、平安時代末期の武将。信濃守源重遠の長男。兄弟に葦敷重頼、小河重房、山田重弘らがあり、子に山田重満、彦坂重親、高田重宗(高田重家?)、白川重義、小島重平、足助重長らがある。浦野太郎、山田先生、河辺冠者などと号した。 その事跡が史料上にみえず系図類でのみ確認できる。ただ、『尊卑分脈』には父より尾張国春日井郡浦野の所領を継承する一方で同山田郡山田庄や同海部郡河辺庄などをも知行したことを示唆する記述がある。これに従えば、合わせて史料上に現れる一世代後以降の子孫たちの活動からも推して、弟たちと共にこの時期の尾張国内に一定の勢力を有していたことが窺われるが、その他の具体的な動向などは不明である。.

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浅利義遠

浅利 義遠(あさり よしとお)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。浅利氏の祖。.

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浅利氏

浅利氏(あさりし)は、日本の氏族である。本姓は清和源氏義光流を称し、甲斐国八代郡浅利郷(現・山梨県)を本拠とした甲斐浅利氏と、それから分かれ、出羽国比内郡(現・秋田県)を本拠とした出羽浅利氏の2流がある。.

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浅野氏

浅野氏(あさのし、)は、日本の氏族。関白豊臣秀吉の正室・北政所の養家。宗家は安芸広島藩主、分家は播磨赤穂藩主。通字は「長」。.

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斯波義将

斯波 義将(しば よしゆき「義将」の読みに関しては、一般的には「よしまさ」と読まれる(平将門などと同様)ことが多いが、実際は「よしゆき」のようである。偏諱(「将」の字)を賜った人物についても同様のことが言える。)は、南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。斯波氏5代当主。室町幕府創業の元勲である斯波高経の4男で室町幕府初代、3代、5代、7代管領。越前・越中・信濃守護。 幼少より父・高経の偏愛を受け、父の後見と推薦もあって13歳にして幕府管領職に就任する。後に父の失脚と同じくして自身も都を追われたが、まもなく復権し、政敵の細川頼之を康暦の政変にて失脚させると管領に再任。以後、足利義満・足利義持と2代の室町将軍を補佐し、およそ30年間にわたって幕府の重鎮であり続け、斯波氏の最盛期を築いた。.

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斯波氏

斯波氏(しばし)は、日本の武家のひとつ。室町幕府将軍足利氏の有力一門であり、かつ細川氏・畠山氏と交替で管領に任ぜられる有力守護大名であった。越前・尾張・遠江などの守護を世襲し、また分家の大崎氏は奥州探題、最上氏は羽州探題を世襲した。明治維新後に男爵家となった源姓津田氏も、その末裔の一つである。.

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新宮氏

新宮氏(しんぐう)は、日本の氏族の一つ。.

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新田義兼

新田 義兼(にった よしかね)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての武将・御家人。新田氏本宗家総領2代目。長兄・里見義俊が「大新田」と呼ばれたのに対し、惣領を継いだ義兼は「小新田」と呼ばれた。.

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新田義貞

新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。 鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった。ただし、鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。 鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗した。これにより各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。 死後、江戸時代に義貞が着用していた兜が偶然見つかり、福井藩主松平光通は兜が発見された場所に新田塚を建てた。明治時代、福井知藩事・松平茂昭は新田義貞のために新田塚に祠を建て、のち義貞を主祭神する藤島神社となり、建武中興十五社の一つに列せられた。.

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新田氏

新田氏(にったし)は、上野国発祥の豪族(軍事貴族)。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流河内源氏の棟梁 鎮守府将軍源義家の三男義国の長男新田義重を祖とする上野源氏の総称。義国流足利氏と同族である。上野国(群馬県)を本貫とした。家紋は「大中黒・新田一つ引(おおなかぐろ・にったひとつびき)」。.

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摂家

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.

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摂関政治

摂関政治(せっかんせいじ)とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、天皇の外戚として摂政や関白あるいは内覧といった要職を占め、政治の実権を代々独占し続けた政治形態である。.

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摂津国

摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.

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摂津源氏

摂津源氏(せっつげんじ)とは、摂津国の多田に根拠地を置いた清和源氏の嫡流(多田源氏と呼ばれることもある)。.

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愛智義成

愛智 義成/源 義成(あいち よしなり/みなもと の よしなり)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。源義円の長男。 外祖父の慶範は尾張国愛智郡(現在の愛知県愛知郡)の郡司であったとされる。この縁により、父義円が墨俣川の戦いで戦死した後は同地において養育され、長じた後は愛智蔵人を名乗り愛智氏の祖となったという。 子孫は数代に渡って尾張の豪族として存続、義円の兄全成後裔の阿野氏とも交流があり、少なくとも南北朝期までは続いていたことを『尊卑分脈』などで確認することができる。それ以降の尾張においても愛智姓(拾阿弥など)は散見されるが、系譜上の関連性は不明である。 Category:鎌倉時代の武士 よしなり Category:生没年不詳.

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承久の乱

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。承久の変、承久合戦ともいう。 日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。 1185年に鎌倉幕府が成立した以降、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていた。その間、幕府の初代将軍の源頼朝が落馬で死亡、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺され、天皇家の血を引く源氏将軍が鎌倉から滅亡した。その1219年以降、鎌倉は伊豆を収める世襲一族の北条氏が実権を握り、さらに北条氏は、幕府内で朝廷の代理人である執権であったが、幕府を実質的に手中に収めるに至り、日本を統治するのは朝廷であり朝廷主導の政治が本来の姿とする朝廷側の怒りが高まっていった。この2年後に起きた承久の乱の結果、鎌倉幕府主導の政治体制が固まり、朝廷を監視する六波羅探題を京都に置き、朝廷の権力は制限され、皇位継承等にも鎌倉幕府が影響力を持つようになった。.

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1028年

記載なし。

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1062年

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1087年

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1106年

記載なし。

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1109年

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1155年

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1156年

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1160年

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1180年

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1184年

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1185年

記載なし。

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1192年

記載なし。

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1221年

記載なし。

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1231年

記載なし。

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1234年

記載なし。

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1338年

記載なし。

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1588年

記載なし。

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1603年

記載なし。

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1939年

記載なし。

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1962年

記載なし。

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1989年

この項目では、国際的な視点に基づいた1989年について記載する。.

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5月

『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より5月 5月(ごがつ)はグレゴリオ暦で年の第5の月に当たり、31日ある。.

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953年

記載なし。

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