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北畠顕家

索引 北畠顕家

北畠 顕家(きたばたけ あきいえ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将。 『神皇正統記』を著した准三后北畠親房の長男、母は不詳。官位は正二位、権大納言兼鎮守府大将軍、贈従一位、右大臣。 建武親政下において、義良親王を奉じて陸奥国に下向した。足利尊氏が建武政権に叛したため西上し、新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝が分立するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。 以後、伊勢・大和などを中心に北朝軍相手に果敢に挑むも遂に和泉国堺浦・石津に追い詰められ、奮戦の末に討ち取られて戦死した。 死後、明治時代に顕家を主祭神とする霊山神社と阿部野神社が建設され、これらは建武中興十五社となった。.

267 関係: 埼玉県おうふう南北朝時代 (日本)南部師行南朝 (日本)右大臣参議叙爵名和義高吉川弘文館吉野拾遺堺市多賀城多賀城市多気大垣市大和大和国大納言大阪市大河ドラマ天王寺天王寺の戦い太平記太平記 (NHK大河ドラマ)奥富敬之女官室町幕府宮城県宴会官位相当制安井久善安藤貞季宋明理学少納言岐阜県峰岸純夫上杉憲顕師守記中宮職中御門為行中先代の乱中国大返し中納言常陸合戦 (南北朝時代)三木一草九州享保康元...二条道平仁徳天皇延喜・天暦の治延元建武 (日本)建武の新政建武中興十五社建武記伊勢国伊達市 (福島県)伊達行朝弁官佐々木道誉佐竹貞義佐藤和彦佐藤進一侍従後の三房後藤久美子後醍醐天皇後村上天皇従三位従一位従二位従五位従四位律令制土岐頼遠地頭北畠北畠家北畠神社北畠顕信北畠顕能北畠顕成北畠親房北条時行北朝 (日本)北方謙三園城寺嘉暦和泉国円観准后児玉町児玉郡公卿六角氏頼元亨元弘元徳元応光明寺残篇国司国衙皇国史観石津の戦い石津川琵琶湖神皇正統記福島県米沢藩系図纂要細川定禅細川頼春細川顕氏紀州街道綸旨美濃国結城親朝相馬市瀬戸内海鎮守府将軍鎌倉鎌倉時代遠江国職原抄荘園落馬青野原の戦い行幸衛門府風林火山西区 (堺市)西園寺公宗観応の擾乱高師冬高師直高師泰高重茂豊島河原合戦豊臣秀吉貞和貴族足利尊氏足利義詮近代社格制度近衛府霊山 (福島県)霊山城霊山神社蘭陵王 (雅楽)阿倍野阿倍野区阿部野神社阿蘇惟時阿野廉子脇屋義助長男集英社陸奥国陸奥国司暦応東北地方松平定信桃井直常検非違使楠木正成正中 (元号)正三位正平 (日本)正二位正五位正四位正慶武士武将武田信玄武蔵国武蔵国司水軍江戸時代河内国津軽地方湊川の戦い朝令暮改本庄市戦国時代 (日本)明治明治天皇明治維新昭和浪岡秀種浪岡氏斯波家長新人物往来社新田義貞新田義興文保文化 (元号)文芸社文観日野資朝10月10日 (旧暦)10月5日 (旧暦)11月12日 (旧暦)11月5日 (旧暦)11月9日 (旧暦)1257年12月17日 (旧暦)12月26日 (旧暦)12月30日 (旧暦)1318年1321年1322年1324年1325年1326年1327年1328年1330年1331年1332年1333年1334年1335年1336年1337年1338年1340年1343年1347年1352年1817年1868年1875年1876年1880年1881年1885年1990年1991年1993年1月13日 (旧暦)1月16日 (旧暦)1月5日 (旧暦)2003年2月19日 (旧暦)2月26日 (旧暦)2月4日 (旧暦)3月10日 (旧暦)3月16日 (旧暦)3月22日 (旧暦)3月24日 (旧暦)3月2日 (旧暦)4月19日 (旧暦)4月3日4月6日 (旧暦)4月9日 (旧暦)5月16日 (旧暦)5月22日5月22日 (旧暦)6月10日6月12日 (旧暦)8月5日 (旧暦)9月10日 (旧暦) インデックスを展開 (217 もっと) »

埼玉県

埼玉県(さいたまけん)は、関東地方の中央西側内陸部に位置する県。県庁所在地はさいたま市。都道府県別の人口は東京、神奈川、大阪、愛知に次ぐ全国第5位。人口密度は東京、大阪、神奈川に次ぐ全国第4位である。県の愛称は「彩の国」。.

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おうふう

おうふうは、東京都千代田区にある出版社で、国語学や国文学などに関する著作を刊行している学術出版社。旧社名の桜楓社でも知られている。桜楓社という社名は、日本大学の国文学者・鈴木知太郎がつけた。.

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南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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南部師行

南部 師行(なんぶ もろゆき)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将で根城南部氏の当主。.

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南朝 (日本)

南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。.

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右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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参議

参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.

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叙爵

叙爵(じょしゃく)とは、.

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名和義高

名和 義高(なわ よしたか、乾元元年(1302年) - 延元3年/建武5年5月22日(1338年6月10日))は、南北朝時代の武士。名和長年の長男。弟に基長、高光。通称、伯耆大夫利官。.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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吉野拾遺

吉野拾遺(よしのしゅうい)は、南朝(吉野朝廷)関係の説話を収録した室町時代の説話集。二巻本と三巻本とがあり、後者は芳野拾遺物語とも称する。.

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堺(さかい)は、大阪湾に面し、大阪市(大坂)の南に位置する都市。また、その市街地を中心とする地域。 地名は、方違神社付近がかつて摂津国・河内国・和泉国の3国の「境(さかい)」であったことに由来する。市街地はその西方に形成され、大小路通を境に摂津国住吉郡と和泉国大鳥郡に跨っていた。.

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堺市

堺市(さかいし)は大阪府泉北地域に位置する日本の政令指定都市。 大阪府による地域区分では泉北地域とされるが、市制施行時の堺市域や南河内郡の旧郡域など歴史的に泉北郡ではなかった地域が多く含まれており、他の泉北地域3市1町とは区別されることもある。大阪府内で人口・面積ともに第2の都市であり、人口は2015年4月時点で山梨県・佐賀県・福井県・徳島県・高知県・島根県・鳥取県を上回る。一方、居住人口に比べて昼間人口の割合が低く、大阪市の衛星都市としての特徴も併せ持っている。.

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多賀城

多賀城(たがじょう/たがのき、多賀柵)は、現在の宮城県多賀城市にあった日本の古代城柵。国の特別史跡に指定されている(指定名称は「多賀城跡 附 寺跡」)。 奈良時代から平安時代に陸奥国府や鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・文化・軍事の中心地であった。なお、多賀城が存在した頃は「平安海進」により、周囲は現在と大きく異なる地形をしていたため注意が必要。.

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多賀城市

多賀城市(たがじょうし)は、宮城県のほぼ中央に位置する都市である。旧宮城郡。市の名称は陸奥国府「多賀城」に因む。 仙台市の北東側に隣接するため、そのベッドタウンとしての性格も持ち合わせている。仙台市への通勤率は43.2%(平成22年国勢調査)。.

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多気

多気(たき、たけ、たげ)は日本の地名・人名(苗字)である。.

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大垣市

大垣市(おおがきし)は、岐阜県の西濃地方に位置する市の一つ。県庁所在地の岐阜市に次いで、県内第2位の約16万人の人口を擁しているほか、西濃地域、特に揖斐郡と海津市とを除いた地域では中心的存在となっている。.

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大和

大和(やまと)は、日本の古称・雅称。倭・日本とも表記して「やまと」と訓ずることもある。大和・大倭・大日本(おおやまと)とも呼ばれる。 ヤマト王権が大和と呼ばれる地(現在の奈良県内)に在ったことに由来する。初めは「倭」と書いたが、元明天皇の治世に国名は好字を二字で用いることが定められ、倭と同音の好字である「和」の字に「大」を冠して「大和」と表記し「やまと」と訓ずるように取り決められた。.

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大和国

大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

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大阪市

大阪市(おおさかし)は、日本の近畿地方、大阪府のほぼ中央に位置する市で、同府の府庁所在地である。政令指定都市に指定されている。.

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大河ドラマ

『大河ドラマ』(たいがドラマ)は、1963年(昭和38年)から放送されているNHKのテレビドラマシリーズ。略称は大河。 1984年から1986年にかけて放送されたNHK新大型時代劇と2009年から2011年にかけて放送されたスペシャルドラマ『坂の上の雲』についてもこの項で述べる。.

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天王寺

あべのハルカス あべのキューズモール 四天王寺 天王寺(てんのうじ)は、大阪府大阪市天王寺区南部と阿倍野区北部の地域名称。.

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天王寺の戦い

天王寺の戦い(てんのうじのたたかい)とは、摂津国(現在の大阪府)の天王寺周辺で行われた戦いのこと。.

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太平記

『太平記』(たいへいき)は、日本の古典文学作品の1つである。歴史文学に分類され、日本の歴史文学の中では最長の作品とされる。 全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。 第二次世界大戦後、「太平記」を称する小説やテレビドラマが多く作られたため、混同を避けるために『古典太平記』と呼ばれることもある。.

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太平記 (NHK大河ドラマ)

『太平記』(たいへいき)は、NHKで1991年に放送された第29作目の大河ドラマである。放送期間は1991年1月6日 - 12月8日で、全49回。.

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奥富敬之

奥富 敬之(おくとみ たかゆき、1936年9月2日 - 2008年7月7日)は、日本の歴史学者、日本医科大学名誉教授。日本中世史・日本医学史専攻。.

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女官

女官(にょかん/にょうかん)とは、官職を持ち宮廷に仕える女性のこと。官女(かんじょ)・宮女(きゅうじょ)ともいう。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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宮城県

地形図 宮城県(みやぎけん)は、日本の東北地方にある県。東は太平洋に面し、西は奥羽山脈に接する。県庁所在地は仙台市。.

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宴会

宴会場 宴会(えんかい)とは、飲食を共にすることによりお互いのコミュニケーションを深める行為をいう。通常2 - 3人程度で行うものは宴会とはいわず、ある程度まとまった人数で行う場合に宴会という。類義語として、宴(うたげ)、饗宴(きょうえん)、飲み会(のみかい)、パーティなどがある。.

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官位相当制

官位相当制(かんいそうとうせい)とは、日本の律令制において、官人に付与する位階と官職との間に一定の相当関係を設定した官僚序列システム。.

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安井久善

安井久善(やすい ひさよし、1925年1月 - 2001年7月14日)は、日本の国文学者、軍事史学者、日本大学名誉教授。 愛知県名古屋市生まれ。1944年4月、陸軍士官学校を卒業し(第57期)、陸軍中尉で終戦を迎える。1949年3月、日本大学法文学部国文科卒業。1951年4月、同大学院(旧制)終了し、1952年1月、宮内庁書陵部に入る。 1952年9月、保安隊に入る。1954年7月、陸上自衛隊発足とともに陸上自衛官。1960年、防衛大学校陸上防衞学助教授。この時代に軍事史の著作、論考を著しはじめる。 1965年日本大学商学部助教授、1970年教授、1976年「藤原光俊の研究」で日大文学博士。1989年名誉教授、いわき明星大学教授、1997年退職。 中世和歌が専門だが、陸上自衛隊時代から軍事史に関心を寄せ、1980年から1988年まで軍事史学会会長を務めた。『太平記』を現代語訳したが完成せず没。残りは長谷川端が完成させた。.

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安藤貞季

安藤 貞季(あんどう さだすえ)は、鎌倉時代の武将。陸奥国の豪族。安藤季長又は安藤宗季の別名とも季長の子ともされる。郷土史家は安藤法季の別名とする。 正和年間(1312年~1317年)、貞季は十三湊に福島城という城を築城したとされる。 建武の新政以後、貞季は南朝方に与し、北畠顕家に従ったとされる。.

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宋明理学

宋明理学(そうみんりがく)は、またの名を道学という。中国の宋代・明代の儒学を代表するテーマが理であったことから、理学(りがく)と名付けられた。清代の儒学者たちからは宋学(そうがく)と呼ばれた。欧米からは、英語のに代表されるように、「新儒学」と呼ばれる(現代の新儒家(現代新儒学)とは区別される)。.

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少納言

少納言(しょうなごん/すないものもうし)は、日本の朝廷の最高機関である太政官の職の一つ。.

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岐阜県

岐阜県(ぎふけん)は、日本の中部地方に位置する県で内陸県の一つ。 日本の人口重心中央に位置し、その地形は変化に富んでいる。県庁所在地は岐阜市。.

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峰岸純夫

峰岸 純夫(みねぎし すみお、1932年5月5日 - )は、日本の歴史学者である。専門は日本中世史。東京都立大学名誉教授、元歴史学研究会委員長、慶應義塾大学文学博士。.

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上杉憲顕

上杉 憲顕(うえすぎ のりあき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将・守護大名。初代関東管領。山内上杉家の始祖。上野・越後・伊豆の守護を兼ねた。足利尊氏の母清子は父方の叔母であり、尊氏とは従兄弟の関係であった。.

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師守記

師守記(もろもりき)は、日本の南北朝時代の日記。筆者は公家の中原師守。紙背は全て紙背文書。国立国会図書館に64巻が所蔵されている。 記述は暦応2年(1339年)から応安7年(1374年)にまで及んでいるが、所々に欠落があり、貞和5年(1349年)以降は顕著となる。また筆者の師守は応安3年(1370年)前後に没したと言われており、文脈や筆跡もその前後で相違が見られるので、応安以降の記述は別人の手によるものである可能性がある。 中原氏は代々外記を世襲した家柄で、筆者の師守も北朝で権少外記の役職にあったため、北朝の朝議や記録所関係の記述が精細である。 師守は外記に就任する前は大炊頭にあり、役職の関係から大炊寮領を統治しており、大炊寮を中心に、公領の経営やそこで起こった出来事に関する記述も多々ある。 師守の兄中原師茂は権大外記の役職にあり、師守は兄師茂を「家君」と称し、師茂の視点から書かれたような記述が多く散見される。そのため「師茂記」とも呼ばれることがある。 南北朝の戦争、公武間の軍事、また巷間での出来事に関する記述まで豊富な情報が収められているので、『園太暦』と並び、南北朝時代の一級史料として、貴重な扱いを受けている。『太平記』の研究においても、『園太暦』と並び貴重、有用な史料として重用される。.

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中宮職

中宮職(ちゅうぐうしき)は、律令制において中務省に属して后妃に関わる事務などを扱う役所。元来は、全ての后妃の世話を行うために設置されたが後には皇后と中宮、皇太后などとの並立によりそれぞれに太皇太后宮職、皇太后宮職、皇后宮職と専属の職が置かれる。.

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中御門為行

中御門 為行(なかみかど ためゆき、建治7年(1276年)-正慶元年/元弘2年9月10日(1332年9月30日))は、鎌倉時代後期の公卿。勧修寺流中御門為方の子。 正応4年(1291年)、16歳の若さで右少弁に任じられ、正安2年(1300年)1月5日には従三位に叙せられる。3年後に参議に任じられ、徳治元年(1306年)に父より後宇多上皇の院執権を譲られるが、同年の父の薨去により参議を辞任した。為行自身は持明院統に近く、延慶元年(1308年)の伏見院政復活と同時に参議に再任された。2年後、権中納言となったが同年に辞任している。 ためゆき Category:鎌倉時代の公家 Category:1276年生 Category:1332年没.

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中先代の乱

中先代の乱(なかせんだいのらん)は、1335年(建武2年)7月、北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児時行が、御内人の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから中先代の乱と呼ばれている。また、鎌倉支配が20日余りしか続かなかったことから、廿日先代(はつかせんだい)の異名もある。.

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中国大返し

中国大返し(ちゅうごくおおがえし)は、天正10年6月(西暦1582年6月-7月)、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での横死を知った後、速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、主君の仇明智光秀を討つため京に向けて全軍を取って返した約10日間にわたる軍団大移動のこと。備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約200 km を踏破した、日本史上屈指の大強行軍として知られる。この行軍の後、秀吉は摂津・山城国境付近の山崎の戦いにおいて明智光秀の軍を撃破した。.

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中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

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常陸合戦 (南北朝時代)

常陸合戦(ひたちかっせん)は、南北朝時代の1338年(延元3年/暦応元年)から1343年(興国4年/康永2年)にかけ、常陸国(現茨城県)の各地において北畠親房ら南朝方の軍勢と高師冬ら北朝方の軍勢の間で行われた、一連の合戦である。.

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三木一草

三木一草(さんぼくいっそう)は、後醍醐天皇の建武政権下で寵遇を受けた4人の寵臣の呼称。楠木正成、結城親光、名和長年、千種忠顕をあわせて呼ぶ。 名称の由来は、楠木は「クスノキ」、結城は「ユウキ」、名和は伯耆守であったことから「ホウキ」、千種は「チグサ」と4人の姓や官職名にちなむ。 4人に共通する点は、.

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九州

九州(きゅうしゅう)は、日本列島を構成する島の一つで島国 (領土がすべて島から成る国)である日本を構成する6,852の島に対する『国土交通省』による区分け ⇒ 6,852島(本土5島・離島6,847島)。<出典>『国土交通省』サイト 離島振興課 離島とは(島の基礎知識) 2009年11月27日閲覧。ただし、島について地理学上はこのような分類・区分けはない。、その南西部に位置する。 北海道・本州・四国とともに主要4島の一つでもあり、この中では3番目に大きい島で【参考】 日本の島の面積順に上位10島 ⇒ 本州、北海道、九州、四国、択捉島、国後島、沖縄本島、佐渡島、奄美大島、対馬。  国立天文台 (編)理科年表 平成19年版 P565、ISBN 4621077635。、世界の島の中では、スピッツベルゲン島(ノルウェー)に次ぐ第37位の大きさである。 地質学や考古学などでは九州島という名称も使用される。 九州とその付随する島を合わせて九州地方(きゅうしゅうちほう)と言う。九州の最高標高は1,791メートル (m) で、大分県の九重連山・中岳の標高である。また、九州地方の最高標高は1,936 mで、鹿児島県の屋久島・宮之浦岳の標高である。(「#地理」および「日本の地理・九州」を参照) 九州には7つの地方公共団体(県)があり、7県総人口は13,108,027人、沖縄県を含めた8県総人口は14,524,614人である。都道府県の人口一覧#推計人口(右表 九州地方のデータ参照) 九州の古代の呼称は、「筑紫島」・「筑紫洲」(つくしのしま)である(#歴史書における呼称)。.

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享保

享保(きょうほう、きょうほ)は日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

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康元

康元(こうげん)は、日本の元号の一つ。建長の後、正嘉の前。1256年の期間を指す。この時代の天皇は後深草天皇。鎌倉幕府将軍は宗尊親王、執権は北条時頼、北条長時。.

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二条道平

二条 道平(にじょう みちひら)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期の公家。摂政・関白二条兼基の子。官位は従一位・関白・左大臣。号に後光明照院関白。.

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仁徳天皇

仁徳天皇(にんとくてんのう、神功皇后摂政57年 - 仁徳天皇87年1月16日)は、日本の第16代天皇(在位:仁徳天皇元年1月3日 - 同87年1月16日)。善政を敷き、大規模な土木事業を行ったと伝わる。 名は大雀命(おほさざきのみこと)(『古事記』)、大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)・大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)・聖帝(『日本書紀』)・難波天皇(『万葉集』)。.

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延喜・天暦の治

延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)とは、平安時代中期(10世紀)の第60代醍醐、その皇子の第62代村上両天皇の治世を聖代視した呼称。延喜は醍醐の、天暦は村上の元号である。延喜の治および天暦の治も参照のこと。.

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延元

延元(えんげん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。建武の後、興国の前。1336年から1339年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後醍醐天皇、後村上天皇。北朝方が光明天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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建武 (日本)

建武(けんむ)は、日本の元号の一つ。南朝方では元弘の後、延元の前で日_(旧暦)|1月29日〜1336年2月19日までの期間を指す。北朝方では正慶の後、暦応の前で、1334年1月29日〜1338年8月28日までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方後醍醐天皇、北朝方光明天皇。.

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建武の新政

建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。 名は、翌年の元弘4年/建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。近年の歴史学では「建武政権」という表現もある。後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。.

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建武中興十五社

建武中興十五社(けんむちゅうこうじゅうごしゃ)とは、建武中興(建武の新政)に尽力した南朝側の皇族・武将などを主祭神とする15の神社である。これらの神社は「建武中興十五社会」を結成している。.

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建武記

建武記(けんむき・建武年間記(けんむねんかんき))とは、建武新政期において出された法令や諸機関の結番交名などを採録・編集した記録。全1巻。 編者は不明である。文書の宛先や写本の奥書から鎌倉幕府・建武政権・室町幕府において法曹官僚であった松田氏・太田氏などが挙げられているが不詳。建武年間から離れていない時期に成立したと考えられている。25の記録類が年代別に編纂されているが、一部の文書の配列が乱れているものがある。なお、著名な「二条河原落書」もこの書に所収されている。.

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伊勢国

伊勢国(いせのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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伊達市 (福島県)

旧伊達郡役所を再現した保原駅 伊達市(だてし)は、福島県中通り北部に位置する市。.

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伊達行朝

伊達 行朝(だて ゆきとも)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。後年、行宗(ゆきむね)に改称した。南朝側の武将として各地を転戦した。.

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弁官

弁官(べんかん、辨官)は、朝廷の最高機関、太政官の職である左大弁(さだいべん)・右大弁(うだいべん)・左中弁(さちゅうべん)・右中弁(うちゅうべん)・左少弁(さしょうべん)・右少弁(うしょうべん)の総称である。唐名(漢風名称)は尚書。通説においては四等官の中の判官(じょう)に相当するが、異説として弁官を含めた弁官局を太政官の別局として捉え、元は本来の四等官の系列には含まない品官であったする説もある。また、『延喜式』においても、季禄・時服・馬料・要劇料などの給与の支給手続やそのために必要な上日の集計・考文の送付などが太政官とは別個に行われ、人事・財政体系における太政官からの独立性が確認できる。 大弁は従四位上、中弁は正五位上相当、少弁は正五位下相当(養老令官位令)。 官庁を指揮監督する役を負っていたため、後には少納言より高位に位置づけられ、参議と大弁を兼任する者もいた。また、蔵人頭と大弁または中弁を兼ねる者もおり、特に頭弁(とうのべん)と称された。 左中弁以上の経験者には参議に昇進する資格があり(右中弁以下にはない)、将来三位以上に昇る道が開かれた出世の登竜門であった。.

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佐々木道誉

佐々木 道誉/佐々木 高氏(ささき どうよ/- たかうじ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、守護大名。若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津守護。 一般的に佐々木佐渡判官入道(佐々木判官)や佐々木道誉の名で知られる。後者の道誉(導誉とも)は法名であり、諱(実名)は高氏(たかうじ)という。鎌倉幕府創設の功臣で近江を本拠地とする佐々木氏一族の京極氏に生まれたことから、京極 道誉(導誉)(きょうごく どうよ)または 京極 高氏(きょうごく たかうじ)とも呼ばれる。.

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佐竹貞義

佐竹 貞義(さたけ さだよし)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。佐竹氏の第8代当主。.

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佐藤和彦

佐藤 和彦(さとう かずひこ、1937年3月17日 - 2006年5月13日)は、日本史学者。.

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佐藤進一

佐藤 進一(さとう しんいち、1916年11月25日 - 2017年11月9日)は、日本の歴史家。中央大学名誉教授。専門は、日本中世史、中世法制史、古文書学。.

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侍従

服をまとった侍従(大阪歴史博物館) 侍従(じじゅう)とは、広義では(しばしば高貴な立場の)ある人物に付き従い、身の回りの世話などをする行為、または従う者そのものを指す。日本においては、特に天皇に側近奉仕する文官や位を意味するため、この項目ではこれについて解説する。なお、武官による侍従武官や皇太子に付される東宮侍従については、それぞれ項目を参照のこと。.

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後の三房

後の三房(のちのさんぼう)は、鎌倉時代末期より南北朝時代にかけて、後醍醐天皇の側近として仕えた、北畠親房・万里小路宣房・吉田定房の3人を指す。 File:Kitabatake_Chikafusa.svg|北畠親房 File:Madenokoji Nobufusa.jpg|万里小路宣房 File:Yoshida Sadafusa.jpg|吉田定房.

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後藤久美子

後藤 久美子(ごとう くみこ、1974年3月26日 - )は、日本のモデル、タレント、元女優。愛称はゴクミ別冊宝島2611『80年代アイドルcollection』p.59.

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後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.

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後村上天皇

後村上天皇(ごむらかみてんのう)は、南北朝時代の第97代天皇にして、南朝の第2代天皇(在位:延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日) - 正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日))。諱は初め義良(のりよし / のりなが)、後に憲良に改めた。名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。父・後醍醐天皇の遺志を継いで南朝の京都回復を図り、大和(奈良県)の吉野・賀名生、摂津(大阪府)の住吉などを行宮とした。 明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として認定されるようになった。.

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従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

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従一位

従一位(じゅいちい)は、日本の位階及び神階の位の一つ。正一位の下に位し、正二位の上位にあたる。.

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従二位

従二位(じゅにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。正二位の下、正三位の上に位する。.

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従五位

従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.

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従四位

従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.

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律令制

律令制(りつりょうせい)は、律令に基づく制度のこと。主に古代東アジアで見られた中央集権的な統治制度であるといわれることもあるが、唐制に倣った体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである山内昌之・古田博司。日本では律令制または律令体制や律令国家と呼ばれるが、中国にはこのような呼称は存在しない菊池秀明p8 (日中歴史共同研究報告書 p153)。中国において「律令」という言葉は秦から明まで長期にわたって使われており、その間にその内容や位置づけは大きな変遷をみている。そのため、日本の律令制の直接的モデルとなった隋や唐の国家体制をもって「律令制」と定義することは、中国の律令の変遷の実情を無視することとなり、また秦から明までのおよそ1800年間(律のみ存在した清も加えれば2100年間)の制度を一括りにすることにはあまり意味がないとする考えもある廣瀬薫雄『秦漢律令研究』2010年、汲古書院、第一部第一章「律令史の時代區分について」。.

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土岐頼遠

土岐 頼遠(とき よりとお)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、守護大名。美濃守護。土岐頼貞の七男。兄弟に頼清、長山頼基、頼兼、頼明など多数。子に氏光、光明、光行、直頼。.

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地頭

地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。地頭職という。守護とともに設置された。 平氏政権期以前から存在したが、源頼朝が朝廷から認められ正式に全国に設置した。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。.

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北畠

北畠(きたばたけ)は、大阪市阿倍野区の町名。郵便番号は、545-0035。.

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北畠家

北畠家(きたばたけけ、または北畠氏(きたばたけし))は、公家の一つ。村上源氏中院家庶流。武家としての通字は「具(とも)」。 南北朝時代に南朝の忠臣として重きをなし、伊勢国に進出して南北朝合一後も国司として勢力を保ち、公家大名、戦国大名として戦国時代まで命脈を保った「三国司家」『世界大百科事典』。また、大名化しても公家としての意識は持ち続け、伊勢国司家の歴代当主の花押は武家ではなく公家のものであった (三重県HP)。 なお、明治維新後、北畠家の家名は中院流久我家の分家として再興され、男爵に叙されている。.

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北畠神社

北畠神社(きたばたけじんじゃ)は、三重県津市美杉町上多気にある神社。国の史跡「多気北畠氏城館跡」に鎮座し、初代伊勢国司として南朝奉護に尽くした北畠顕能を主祭神とする。建武中興十五社で唯一、近世以来の由緒を持つ。.

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北畠顕信

北畠 顕信(きたばたけ あきのぶ)は、南北朝時代の公卿。北畠親房の次男。北畠顕家の弟。左近衛少将に任ぜられ、春日少将と称した。また土御門入道と号す。南朝で従一位・右大臣に任ぜられたともされる。.

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北畠顕能

北畠 顕能(きたばたけ あきよし)は、南北朝時代の公卿・武将。准三后北畠親房の三男で、顕家や顕信の弟とするのが通説だが、一説には中院貞平の子で、親房の養子になったともいう。建武政権期に父兄とともに伊勢国へ下り、同国司に任じられた後、多気を拠点に退勢著しい南朝軍事力の支柱として武家方に対抗した。伊勢北畠氏の祖。.

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北畠顕成

北畠 顕成(きたばたけ あきなり)は、南北朝時代の公卿。贈右大臣北畠顕家の嫡男である。南朝に仕えたが、事績には不明な点が多い。後世の所伝では、『太平記』作者の一人、また浪岡氏や村上水軍の祖に擬せられる。.

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北畠親房

北畠 親房(きたばたけ ちかふさ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。著書の『神皇正統記』で名高い。.

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北条時行

北条 時行(ほうじょう ときゆき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。 鎌倉幕府最後の得宗北条高時の遺児。北条氏復興のため、鎌倉幕府の残党を糾合して中先代の乱を引き起こし、一時鎌倉を奪還した。その後、後醍醐天皇から朝敵を赦免されて南朝方の武将として戦い、武蔵野合戦で再び鎌倉を奪還したが、遂には足利方に捕らえられ処刑されたと伝わる。.

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北朝 (日本)

北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代に、足利氏を頂点に、全国の多くの武士、及び大多数の公家が支持した持明院統の朝廷である。同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統の南朝(吉野朝廷)に対比する。 南北朝の分裂は後醍醐天皇の建武政権が崩壊した建武3年/延元元年(1336年)以後であるが、鎌倉幕府末期の元弘の乱時に鎌倉幕府が後醍醐天皇に代わって擁立し、後醍醐天皇の京都復帰後にその即位の事実を否認した持明院統の光厳天皇を含んだ6代の天皇が北朝の天皇とされている。.

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北方謙三

北方 謙三(きたかた けんぞう、1947年10月26日 - )は、日本の小説家。.

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園城寺

園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗の総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。 開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩である。日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。 なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。.

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僧(そう、संघ Saṃgha)はサンガを音写した「僧伽」の略で仏教の戒律を守る、男性の出家修行者である「比丘(びく)」と女性の出家修行者である「比丘尼(びくに)」の集団のこと。仏教の三宝の一つ。在家信者を含めた教団を僧(サンガ)とは呼ばず、出家者が四人以上集まったとき僧となる。男性の出家修行者の集団を比丘僧といい、女性の場合は比丘尼僧という。衆あるいは和合衆と訳される。.

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嘉暦

嘉暦(かりゃく)は、日本の元号の一つ。正中の後、元徳の前。1326年から1329年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時、北条貞顕、北条守時。.

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和泉国

和泉国(いずみのくに/いづみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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円観

円観(えんかん、1281年9月1日(弘安4年閏7月17日) - 1356年4月2日(正平11年/延文元年3月1日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての天台宗の僧。字は慧鎮(えちん)。常用漢字を使って恵鎮と書かれることも多い。後伏見・花園・後醍醐・光厳・光明天皇の5帝に戒を授けたために「五国大師」の異名を得た。.

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准后

准后(じゅごう)は、日本の朝廷において、太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられた者、またその待遇・称号。正式には准三宮(じゅさんぐう)といい准三后(じゅさんごう)ともいう。准后は略称である。清和天皇外祖父の藤原良房に三宮に準じた待遇を与えたのをはじめとし、当初は経済的処遇が主であったが、のちには称号を与えるだけとなった。.

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児玉町

児玉町(こだままち) は、埼玉県北西部、児玉郡にあった人口約2万1千の町である。 2006年(平成18年)1月10日に(旧)本庄市と合併(新設合併)し、新たに本庄市(本庄市の一地区)となったことに伴い消滅するが、住所は依然として「本庄市児玉町○○」と「町」を含め表記する。(読みは「ほんじょうしこだまちょう○○」である。).

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児玉郡

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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六角氏頼

六角 氏頼(ろっかく うじより)は、南北朝時代の武将・守護大名。六角氏4代・6代当主。.

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元亨

元亨(げんこう、げんきょう)は、日本の元号の一つ。元応の後、正中の前。1321年から1323年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。.

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元弘

元弘(げんこう)は、日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年から1333年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

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元徳

元徳(元德、げんとく)は、日本の元号の一つ。嘉暦の後。大覚寺統(南朝)では元弘の前で、1329年から1330年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。 後醍醐天皇が元弘に改元した直後に倒幕の兵を挙げて失敗、隠岐に流され(元弘の乱)、持明院統(北朝)の光厳天皇が立てられた。光厳天皇と幕府は元弘改元を認めず、1331年まで元徳の元号を使用し、1332年に正慶に改元した。.

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元応

元応(げんおう)は、日本の元号の一つ。文保の後、元亨の前。1319年から1320年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。.

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光明寺残篇

光明寺残篇(こうみょうじざんぺん)とは、伊勢国(現在の三重県伊勢市)の光明寺に伝わる古文書をまとめて1冊にしたもの。国の重要文化財。.

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国司

国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す(詳細は古代日本の地方官制も併せて参照のこと)。守の唐名は刺史、太守など。 郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。任期は6年(のちに4年)であった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。.

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国衙

国衙(こくが)は、日本の律令制において国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画である。 国衙に勤務する官人・役人(国司)や、国衙の領地(国衙領)を「国衙」と呼んだ例もある。 各令制国の中心地に国衙など重要な施設を集めた都市域を国府、またその中心となる政務機関の役所群を「国衙」、さらにその中枢で国司が儀式や政治を行う施設を国庁(政庁)と呼んだ。.

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皇国史観

皇国史観(こうこくしかん)とは、日本の歴史が天皇を中心に形成されてきたことに着目し、「日本民族」の統合の中心を「万世一系の皇室」に求める思想である。.

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石津の戦い

石津の戦い(いしづのたたかい)とは、南北朝時代の延元3年/暦応元年5月22日(1338年6月10日)に和泉国堺浦・石津(現在の大阪府堺市一帯)において、南朝方の北畠顕家と北朝方の高師直が戦った合戦。石津合戦・堺浦合戦・堺浜合戦などの異名がある。.

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石津川

石津川(いしづがわ)は、大阪府堺市を流れる河川。大阪府が管理する二級河川である。.

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琵琶湖

琵琶湖(びわこ)は、滋賀県にある湖。日本で最大の面積と貯水量を持つ。湖沼水質保全特別措置法指定湖沼。ラムサール条約登録湿地。河川法上は一級水系「淀川水系」に属する一級河川であり、同法上の名称は「一級河川琵琶湖」で、滋賀県が管理している例えば、琵琶湖岸に構築物を無許可で設置すると、河川法に基づいて滋賀県から撤去命令が出される。例:。.

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神皇正統記

『神皇正統記』(じんのうしょうとうき)は、南北朝時代に公卿の北畠親房が、幼帝後村上天皇のために、吉野朝廷(いわゆる南朝)の正統性を述べた歴史書である。.

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福島県

福島県(ふくしまけん)は、日本の都道府県の一つ。県庁所在地は福島市。 東北地方の南部(南東北)に位置し、東北で宮城県に次ぐ2番目の人口と県内総生産を擁する。面積は北海道、岩手県に次ぐ全国3位、都道府県別の人口は全国21位、人口密度は全国40位である(いずれも2015年10月1日時点の国勢調査および全国都道府県市区町村別面積調による)。 市町村別では概ね、日本海側に面積の4割弱と人口の15%弱が、太平洋側に面積の6割強と人口の85%以上が分布する。.

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米沢藩

戦国時代から江戸時代初期にかけての上杉氏系図。米沢藩の初代藩主・上杉景勝から第3代藩主・上杉綱勝まで。 江戸時代中期から昭和時代までの上杉氏系図。4代藩主・上杉綱憲から現当主まで。 米沢藩(よねざわはん)は、出羽国(明治維新以降の羽前国)置賜郡(現在の山形県東南部置賜地方)を治めた藩。藩庁は米沢城(米沢市)。藩主は上杉氏。家格は外様で国主、石高は30万石、のち15万石から18万7千石。.

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系図纂要

『系図纂要』(けいずさんよう)は、江戸時代末期の系譜集成。全102巻(103冊)。著者は『大日本野史』の著者でもある飯田忠彦とみられる。既存の系譜集や記録などを広く集めて再編纂しており、史料価値が高いとされる。.

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細川定禅

細川 定禅(ほそかわ じょうぜん)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。細川頼貞の子。.

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細川頼春

細川 頼春(ほそかわ よりはる)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人。阿波・伊予・備後・日向・越前守護。名門細川氏の一門で、のちに代々室町幕府管領職を世襲する嫡流細川京兆家の祖である。父は細川公頼。兄に和氏、弟に師氏。妻に里沢禅尼ほか。子に頼之、詮春、頼有、頼元、満之。幼名は源九郎、通称は蔵人。官位は従四位下讃岐守、刑部大輔。.

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細川顕氏

細川 顕氏(ほそかわ あきうじ)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての足利直義側の武将。細川氏の一門。細川頼貞の子。.

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紀州街道

紀州街道(きしゅうかいどう)は、大坂と和歌山を結ぶ街道。.

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綸旨

綸旨(りんじ)とは、蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文書。 綸旨とは本来は「綸言の旨」の略であり、天皇の意そのものを指していたが、平安時代中期以後は天皇の口宣を元にして蔵人が作成・発給した公文書の要素を持った奉書を指すようになった。御綸旨(ごりんじ・ごりんし)とも呼ぶ。.

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美濃国

美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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結城親朝

結城 親朝(ゆうき ちかとも)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。小峰氏初代当主。.

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相馬市

市(そうまし)は、福島県浜通りの北部に位置する市。.

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瀬戸内海

戸内海(せとないかい)は、本州、四国、九州に挟まれた内海。山口県、広島県、岡山県、兵庫県、大阪府、和歌山県、徳島県、香川県、愛媛県、大分県、福岡県がそれぞれ海岸線を持つ。沿岸地域を含めて瀬戸内(せとうち)とも呼ばれている(ただし瀬戸内海の名称源ではない。瀬戸内海は「瀬戸の内海」の意である)。 古来、畿内と九州を結ぶ航路として栄えた。気候は瀬戸内海式気候と呼ばれ、温暖で雨量が少ない。.

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鎮守府将軍

鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)は、奈良時代から平安時代にかけて陸奥国に置かれた軍政府である鎮守府の長官。令外官である。平安時代中期以降は武門の最高栄誉職と見なされたが、鎌倉幕府の成立で征夷大将軍が武家の首長職として常置されるに及び、鎮守府将軍の権限と地位はその中に吸収された。.

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鎌倉

鎌倉(かまくら)は、現在の神奈川県鎌倉市の中心部に当たる地域。源頼朝を旗頭として、北条時政、北条義時らによって鎌倉幕府が置かれた都市であり、三浦半島の付け根に位置し、相模湾に面している。古くは鎌府(れんぷ)とも呼ばれた。三方を山に、一方を海に囲まれている。 鎌倉大仏.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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遠江国

遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。.

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職原抄

『職原抄』(しょくげんしょう)は、中世日本の有職故実書。全2巻。職原鈔とも。鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿北畠親房が、常陸国小田城で後村上天皇のために書いたものとされる。興国元年/暦応3年(1340年)成立。.

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荘園

荘園(しょうえん)は、公的支配を受けない(あるいは公的支配を極力制限した)一定規模以上の私的所有・経営の土地である。なお、中世の西ヨーロッパ・中央ヨーロッパに見られたmanor(英語)、Grundherrschaft(ドイツ語)の訳語としても用いられている。.

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落馬

落馬(らくば)とは、騎乗者が馬から落下することである。 一般的に騎乗者の足は鐙(あぶみ)に架かっているため落馬が発生すると上半身(特に頭)から落下することがよくあり、大きな怪我を負ったり、場合によっては死に至ることも少なからずある。.

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青野原の戦い

青野原の戦い(あおのがはらのたたかい)は、南北朝時代の1338年(延元3年/暦応元年)1月20日から1月29日にかけて、美濃国青野原(現、岐阜県大垣市、不破郡垂井町)において、上洛を目指す北畠顕家率いる南朝方の軍勢(北畠勢)と、土岐頼遠ら北朝方の軍勢(足利勢)との間で行われた一連の合戦である。.

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行幸

行幸(ぎょうこう、みゆき)とは、天皇が外出することである。目的地が複数ある場合は特に巡幸(じゅんこう)と言う。 また、御幸(ごこう、ぎょこう、みゆき)と言う場合もあるが、これは上皇・法皇・女院に対しても使う。.

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衛門府

衛門府(えもんふ)とは、律令制における官司。当初は1つであったが、大同3年(808年)に(左右)衛士府と統合されて一旦廃止され、弘仁3年(811年)に左右衛士府の改称に伴って復置された際、左衛門府と右衛門府の2つが置かれた。和訓にて「ゆげひのつかさ」と呼び、「靫負」という漢字をあてる場合がある。「ゆげひ」とは「ゆぎおひ(靫負ひ)」の転訛で「靫」とは弓を入れる容器のこと。「ゆげひ」がさらに訛って「ゆぎえ」とも称される。唐名は金吾。監門。監府。長は衛門督 (後に左衛門督・右衛門督)である。「柏木」は王朝和歌における衛門府、衛門督の雅称である。 ※当初、(左右)衛士府、(左右)兵衛府とあわせて「五衛府」と呼ばれ、復置後は(左右)近衛府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。ここでは便宜上、衛士府統合以前を「前期」、衛士府の改称による復置以後を「後期」と表記する。.

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風林火山

林火山(ふうりんかざん)は、甲斐の戦国大名・武田信玄の旗指物(軍旗)に記されたとされている「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」(疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し)の通称である。この通称については、後述のように現代の創作と考えられている。 江戸時代以降の軍記物などで武田軍をイメージするものとして盛んに取り上げられるが、その実態は後述のように非常に曖昧模糊としている。.

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西区 (堺市)

おおとりウイングス 西区(にしく)は、堺市を構成する7行政区のうちのひとつ。.

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西園寺公宗

西園寺 公宗(さいおんじ きんむね)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初頭(建武の新政期)にかけての公家。.

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観応の擾乱

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた抗争で、観応年間に頂点に達した足利政権(室町幕府)の内紛。実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、それを支持する武家や、公家と武家どうしの確執なども背景とする。 この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である正平一統についても併せて解説する。.

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高師冬

師冬(こう の もろふゆ、生年不詳 - 正平6年/観応2年1月17日(1351年2月13日))は、南北朝時代の武将、守護大名。関東執事、武蔵・伊賀守護。高師行(もろゆき)の子で兄弟に高師秋、三戸師澄(もろずみ)。高師直の従兄弟にあたる(後に師直の猶子となる)。妻は高師泰の娘明阿。甥(弟・師澄の子)にあたる師親(もろちか)を猶子としている。官位は播磨守、三河守。 従兄弟の師直と同じく足利尊氏に仕えた。尊氏の命を受けて延元3年/暦応元年(1338年)から関東の平定に乗り出し、翌年に関東執事に就任、北畠親房・小田治久と戦い、興国4年/康永2年(1343年)冬までに関東平定を成し遂げた。功績により武蔵、次いで伊賀の守護に任じられている。興国5年/康永3年(1344年)に関東執事職を従兄弟の高重茂に交代、翌興国6年/貞和元年(1345年)の天龍寺供養においても尽力した。 正平4年/貞和5年(1349年)、尊氏の次男基氏が鎌倉公方として関東に派遣されると、上杉憲顕と協力して幼少の基氏の補佐に当たる。しかし都で師直と足利直義による対立が発生すると、師冬も直義派であった憲顕と対立することになる。敗れた師冬は正平5年/観応元年(1350年)末に鎌倉から没落して甲斐国の須沢城(山梨県南アルプス市大嵐)に逃れたが、そこも諏訪氏(直義派の諏訪直頼)の軍勢に包囲されることとなり、翌年1月17日、逃げ切れないことを悟り、同地で自害して果てた。享年は30代か。.

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高師直

師直(こう の もろなお)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。足利尊氏時代に執事をつとめた。本姓は高階氏だが、一般的には名字である「高」と、諱である「師直」の間に「の」を入れて呼ばれる。.

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高師泰

師泰(こう の もろやす)は、南北朝時代の武将。高師直の兄弟(『高階系図』ではの師直の兄とされているが、同時代の史料である『園太暦』では「舎弟師泰」と記されている)。.

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高重茂

重茂(こう の しげもち、生没年不詳)は、南北朝時代の武将、守護大名。関東執事、武蔵守護。本姓は高階氏。高師重の子(異説として高師茂の子とも)。高師直と高師泰の弟。官位は駿河守、大和権守。 兄達と共に足利尊氏に仕え、建武2年(1335年)から始まる新田義貞との戦いにおいて武功を挙げた。その後も尊氏の九州落ちにも従い、多々良浜の戦いで菊池武敏とも戦い、武功を挙げている。この時のエピソードとして、尊氏は「敗れた菊池軍の捕虜が信用できない」として一部を殺害しようとしたが、重茂は「寛大な処置を示すためにも、信用して殺害をやめるべきである」と尊氏に進言して、多くの捕虜を救ったと言われている。 その後も京都における戦いなどで武功を挙げたため、延元2年/建武4年(1337年)に武蔵守護に任じられ、延元3年/暦応元年(1338年)にも北畠顕家との戦いで功績を挙げた。その後は尊氏の天龍寺建立に尽力した。また、尊氏の弟直義の与力となって所領訴訟に関する奉行などを務めている。興国4年/康永2年(1343年)に駿河守に叙任、翌年から従兄弟の高師冬に代わって関東執事を務めている。 観応の擾乱での重茂の詳しい動きは不明であるが、重茂は直義と親しい仲にあったことから、直義に与していたのではないかと推測される。兄や師冬を始め高氏一族の多くがこの乱で殺害されているのに対し重茂は生き延びており、以後は鎌倉公方足利基氏の家臣として仕えているからである。 正平23年/応安元年(1368年)、武蔵で宇都宮氏らが首謀した鎌倉府への反乱が起こった際に、重茂もこの反乱に与していたと言われている。反乱は9月に鎮圧されたが、この時に重茂は死亡したと言われている。生存説もあるが、この反乱の後の重茂の消息は不明である。.

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豊島河原合戦

豊島河原合戦(てしまがわらがっせん)は、建武3年(1336年)に行われた新田義貞・北畠顕家を総大将とする後醍醐天皇軍と足利尊氏を総大将とする反乱軍の戦い。豊島河原の戦いとも言う。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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貞和

貞和(じょうわ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。康永の後、観応の前。1345年から1349年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、崇光天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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貴族

貴族(きぞく)とは、特権を備えた名誉や称号を持ち、それ故に他の社会階級の人々と明確に区別された社会階層に属する集団を指す。 その社会的特権はしばしば強大であるが、同時に国や地域により異なり、同じ国・地域であっても時代によって変遷する。また貴族階級は伝統的な概念ではあるものの、時に新たな人員を迎え入れ、常に人員は更新され続けている。 貴族階級は多くの場合は君主制の下に維持され、称号の付与や特権の保証なども君主によって行われる。一般的に、貴族などという特権階級を認めてしまうということは反民主主義とされている。フランスでは、貴族階級をものともしないヴォルテールの姿勢がフランス的民主主義の基礎となり、フランス革命でそうした考え方は公認のもの、正統なものとなり、ここに民主主義が実現したとされている。しかし共和制など君主の存在を持たない制度においても貴族制度が存在した場合もある。 西洋では特に青い血という言葉が貴族の血筋を意味する慣用句として用いることがある。ただし、これはあくまでもスペイン語由来のものであるため限定的ではある。日本の場合、貴族の起源について穀物の貯蔵が貴族制度の遠因となったと考える論者もある。.

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足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.

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足利義詮

足利 義詮(あしかが よしあきら)は、南北朝時代の室町幕府第2代将軍。初代将軍足利尊氏の嫡男足利竹若丸、足利直冬という二人の庶兄に次いで三男とされる。。母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹で正室の赤橋登子。.

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近代社格制度

近代社格制度(きんだいしゃかくせいど)とは、明治維新以降、『延喜式』に倣って、新たに神社を等級化した制度である。第二次世界大戦後に廃止されたが、今日でも「旧社格」などの名称で神社の格を表す目安とされる。.

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近衛府

近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。.

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霊山 (福島県)

霊山(りょうぜん)は、福島県伊達市と相馬市との境にそびえる標高825メートルの山である。国の名勝、日本百景、およびうつくしま百名山に指定されている。また、南北朝時代の重要な城跡遺構として国の史跡に指定されている。.

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霊山城

霊山城(りょうぜんじょう)は、陸奥国伊達郡(現在の福島県伊達市霊山地域)にそびえる霊山の山頂付近にあった南北朝時代の日本の城。.

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霊山神社

霊山神社(りょうぜんじんじゃ)は、福島県伊達市霊山町大石にある神社である。旧社格は別格官幣社で、現在は神社本庁の別表神社。建武中興十五社の一社。.

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蘭陵王 (雅楽)

蘭陵王(らんりょうおう)は、雅楽の曲目の一つ。管絃にも舞楽にも奏される。別名蘭陵王入陣曲、短縮して陵王とも呼ばれる。 管絃演奏時には蘭陵王、舞楽演奏時には陵王と表す。 左方(唐楽)に属する壱越調(いちこつちょう)の一人舞で、華麗に装飾された仮面を被る勇壮な走り舞。答舞は納曽利(なそり)。 林邑の僧である仏哲が日本にもたらしたものと言われ、元は沙陀調(さだちょう)であったが日本で壱越調に転調した。中国風の感じが残ると言われる美しい曲。 北斉の蘭陵武王・高長恭の逸話にちなんだ曲目で、眉目秀麗な名将であった蘭陵王が優しげな美貌を獰猛な仮面に隠して戦に挑み見事大勝したため、兵たちが喜んでその勇士を歌に歌ったのが曲の由来とされている。 武人の舞らしい勇壮さの中に、絶世の美貌で知られた蘭陵王を偲ばせる優雅さを併せ持つ。.

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阿倍野

阿倍野(あべの).

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阿倍野区

阿倍野区(あべのく)は、大阪市を構成する24行政区のうちのひとつ。.

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阿部野神社

阿部野神社(あべのじんじゃ)は、大阪市阿倍野区北畠にある神社である。南朝方について各地を転戦した北畠顕家と、その父の北畠親房を祀る。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社である。.

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阿蘇惟時

阿蘇 惟時(あそ これとき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。阿蘇氏8代当主。.

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阿野廉子

阿野 廉子(あの れんし/やすこ/かどこ、正安3年(1301年) - 正平14年/延文4年4月29日(1359年5月26日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての後宮・女院。後醍醐天皇の寵妃にして、後村上天皇(義良親王)・恒良親王・成良親王・祥子内親王・惟子内親王などの母である。院号宣下を受けて、新待賢門院と号し、また三位局とも呼ばれた。 父は右近衛中将・阿野公廉、母は不詳だが、後に洞院公賢の養女となった。実家の阿野家は藤原北家閑院流の公家であり、阿野全成の外孫・実直を始祖としている。.

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脇屋義助

脇屋 義助(わきや よしすけ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期の武将。新田朝氏の次男。新田義貞の弟。兄  義貞に従い鎌倉幕府の倒幕に寄与するとともに、兄の死後は南朝軍の大将の一人として北陸・四国を転戦した。.

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長男

長男(ちょうなん)とは、親から見て最も年長の男子をいう。長男についで親から二番目、三番目の男子を二男(次男)、三男という。 長子(ちょうし)ともいい、史的には「はじめに生まれた男子、総領」を長子と呼ぶ。.

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集英社

株式会社集英社(しゅうえいしゃ)は、日本の総合出版社。『週刊少年ジャンプ』『週刊プレイボーイ』『non-no』『すばる』 『Myojo』などの雑誌を発行している。社名は「英知が集う」の意味。.

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陸奥国

奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.

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陸奥国司

奥国司(むつこくし)は、陸奥国の国司のことである。701年から775年までは、陸奥守、陸奥介、陸奥大掾、陸奥少掾、陸奥大目、陸奥少目の各1人を定員とした。775年に小目が2人に増えた。.

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暦応

暦応(りゃくおう、れきおう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。建武の後、康永の前。1338年から1341年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、南朝方が後醍醐天皇、後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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東北地方

東北地方(とうほくちほう)は、日本の地域のひとつであり、本州東北部に位置している。「奥羽地方(おううちほう)」ともいう。 その範囲に法律上の明確な定義はないものの「そもそも『〜地方』といわれる範囲に、法律上の明確な定義はない(総務省)」 首都圏と関東地方・山梨県を含むか含まないか 『日本経済新聞』 平成24年6月16日S3面、一般には青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県の6県を指す『日本地名大百科』、小学館、1996年、pp.776-777 ISBN 4-09-523101-7。これら6県は、本州の約3割の面積を占める。東北地方は東日本に位置するが、気象や歴史地理学などでは北海道と一緒に北日本とされる。.

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松平定信

松平 定信(まつだいら さだのぶ)は、江戸時代中期の大名、老中。陸奥白河藩第3代藩主。定綱系久松松平家第9代当主。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。1787年から1793年まで寛政の改革を行った。.

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桃井直常

桃井 直常(もものい ただつね)は、南北朝時代の武将、守護大名。足利氏一門で家臣。父は桃井貞頼。弟に直信、直弘。子に直和、直知、橋本直安、直久、直政、康儀、直藤、正雲禅師(高岡国泰寺住持)、養子:直弘 桃井氏は下野の足利氏の支族で、上野国群馬郡桃井(現在の群馬県榛東村、旧名桃井村)を苗字の地とする。.

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検非違使

『伴大納言絵詞』に描かれた検非違使 知恩院を警護する検非違使 検非違使(けびいし、けんびいし)は日本の律令制下の令外官の役職である。「非違(非法、違法)を検察する天皇の使者」の意。検非違使庁の官人。佐と尉の唐名は廷尉。京都の治安維持と民政を所管した。また、平安時代後期には令制国にも置かれるようになった。.

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楠木正成

楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。父は楠木正遠とされる。息子に正行、正時、正儀がいる。 後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の新政の立役者として足利尊氏らとともに天皇を助けた。尊氏の反抗後は新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。 明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。.

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正中 (元号)

正中(しょうちゅう)は、日本の元号の一つ。元亨の後、嘉暦の前。1324年から1326年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。.

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正三位

正三位(しょうさんみ)とは、位階及び神階のひとつ。従二位の下、従三位の上に位する。日本では「おおいみつのくらい」とも読む。.

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正平 (日本)

正平(しょうへい)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。興国の後、建徳の前。1346年から1370年までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方が後村上天皇、長慶天皇。北朝方が光明天皇、崇光天皇、後光厳天皇。室町幕府将軍は足利尊氏、足利義詮、足利義満。 昭和、明治、応永、平成、延暦に次ぎ、歴代で6番目に長い元号である。一世一元の制制定以前の元号では3番目に長い。.

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正二位

正二位(しょうにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。従一位の下、従二位の上に位する。.

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正五位

正五位(しょうごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。従四位の下、従五位の上に位する。贈位の場合、贈正五位という。.

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正四位

正四位(しょうしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。 従三位の下、従四位の上に位する。贈位の場合、贈正四位という。.

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正慶

正慶(しょうきょう、しょうけい)は、日本の元号の一つ。持明院統(後の北朝)方にて使用された。元徳の後、元弘の前。1332年から1333年5月25日までの期間を指す。この時代の天皇は大覚寺統(南朝)の後醍醐天皇だが、幕府方は持明院統の光厳天皇を立てた。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

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武士

武士(ぶし)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在した、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。「もののふ」(cf. wikt) とも読み倣わすが、その起源については大伴氏や物部氏の名に求めるなど諸説がある。 同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(用例:武者絵、武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者などさらには、「影武者」のように、本義のほかに一般用語としても使われるようになった語もある。)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士とは言え、呼ぶことが間違いというわけではない。はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、侍、兵/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は性別を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、女性の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って女武者(おんなむしゃ)という呼び方をする「女武士」や「姫武士」などという呼称は見られない。。 武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめ、古代を終焉させたとする理解が通常されている。旧来の政権を傀儡として維持したまま自らが実質的に主導する中世社会を構築した後は、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。近代に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府(明治政府)であった。.

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武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

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武田信玄

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。 甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化し国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて領国を拡大したものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。.

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武蔵国

武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。.

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武蔵国司

武蔵国司(むさしこくし)は武蔵国の国司。武蔵は延喜式の定める大国(たいごく)であるため、守(1名)・介(1名)・掾(大・少、各1名)・目(大・少、各1名)の他に司生(3名)など9名前後を置いた。但し、宝亀6年(775年)には少目2員と増員している。。養老律令の官位令が定める大国の官位相当は守が従五位上、大介が正六位下、大掾が正七位下、少掾が従七位上、大目が従八位上、少目が従八位下である。10世紀末には武蔵国府が衰亡し、令制における国司の実質は廃れたと推定される。.

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水軍

水軍(すいぐん)は、東アジアの漢字文化圏における伝統的な水上兵力の称である。西洋・近代の軍事における海軍に相当するが、東洋の水軍においては河川や湖沼における水上兵力の比重も大きい。水師、船師、舟師ともいう。集団化・組織化すると、海賊衆、警固衆(けごしゅう)、船手組(ふなてぐみ)、船党などの呼称もある。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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河内国

河内国(かわちのくに/かはちのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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津軽地方

南部地方 津軽地方(つがるちほう)とは、現在の青森県西部を指して言う地域呼称。江戸時代に津軽氏が支配した領域(弘前藩・黒石藩の領域)および津軽郡の領域にほぼ相当する。 明治維新で陸奥国(むつのくに)が分割されて設置された陸奥国(りくおうのくに。青森県全域と岩手県西北部)の異称「津軽国」とは異なる。.

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湊川の戦い

湊川の戦い(みなとがわのたたかい)は、南北朝時代の建武3年(1336年)5月25日に、摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦である。.

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朝令暮改

朝令暮改(ちょうれいぼかい、朝令夕改とも言う、中国語:、、)とは、法令等がすぐに変更されて一定しないこと。朝令夕改、朝改暮変ともいわれる。清時代の王念孫『讀書雜志』漢書四では『漢紀』で「朝令而暮改、改、本作得、言急徵暴賦、朝出令而暮已得、非謂其朝令而暮改也」と「令」を「得」とするのが正しいとするなど表記は各説ある。.

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本庄市

本庄早稲田駅 本庄市(ほんじょうし)は、埼玉県の北西部に位置する市である。 中山道の宿場・本庄宿が置かれた。本庄宿は中山道の中で最大の宿場町として栄え、明治時代には本庄への遷都が推薦されていた事がある。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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明治天皇

明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)- 1912年(明治45年)7月30日)は日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれる。功績・人物像から明治大帝(Meiji the Great)・明治聖帝・睦仁大帝(Mutsuhito the Great) とも呼ばれる。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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昭和

昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.

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浪岡秀種

浪岡 秀種(なみおか ひでたね)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の浪岡氏の武将とされる人物。.

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浪岡氏

浪岡氏(なみおかし)または浪岡北畠氏(なみおかきたばたけし)は、村上源氏の一族北畠家の流れを汲む陸奥の国司の一族。 浪岡における北畠氏の宗家は、「浪岡御所」「大御所」あるいは「北の御所」とあがめられ、天正年間まで力を持ち続けた。.

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斯波家長

斯波 家長(しば いえなが)は南北朝時代の武将。斯波高経の長男。.

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新人物往来社

株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.

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新田義貞

新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。 鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった。ただし、鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。 鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗した。これにより各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。 死後、江戸時代に義貞が着用していた兜が偶然見つかり、福井藩主松平光通は兜が発見された場所に新田塚を建てた。明治時代、福井知藩事・松平茂昭は新田義貞のために新田塚に祠を建て、のち義貞を主祭神する藤島神社となり、建武中興十五社の一つに列せられた。.

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新田義興

新田 義興(にった よしおき)とは、南北朝時代の武将。新田義貞の次男。.

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文保

文保(ぶんぽう)は、日本の元号の一つ。正和の後、元応の前。1317年から1318年までの期間を指す。この時代の天皇は花園天皇、後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。.

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文化 (元号)

文化(ぶんか)は日本の元号の一つ。享和の後、文政の前。1804年から1818年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇、仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。 町人文化が顕著に発展した時期であり、後続する文'''政'''期とあわせ、化政文化という。.

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文芸社

株式会社文芸社(ぶんげいしゃ)は、商業出版、流通出版、自費出版を行う日本の出版社。草思社および文芸社ビジュアルアートを100%完全子会社として所有する。.

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文観

文観(もんかん、弘安元年(1278年) - 正平12年/延文2年10月9日(1357年11月21日))は、鎌倉時代から南北朝時代の僧。小野僧正。殊音上人、弘真。醍醐座主。「文観」という僧名と「殊音上人」という上人号は「文殊」菩薩と「観音」菩薩に因むものという。 正安2年(1302年)には般若寺の律宗の僧で、西大寺に属する播磨国北条常楽寺(兵庫県加古川市)、大和国笠山竹山寺(奈良県桜井市笠)などで真言律を学ぶ。正和5年(1316年)に醍醐寺報恩院の道順から灌頂を受ける。邪教とされていた真言宗立川流の僧としても知られ、円観(恵鎮)とともに遁世僧で貧民救済なども行っている。 後醍醐天皇に重用されて醍醐寺座主・天王寺別当となる。元亨4年(1324年)には般若寺に文殊菩薩像を造り、嘉暦元年(1326年)から後醍醐天皇中宮藤原禧子の御産祈願と称して鎌倉幕府の調伏などを行っていた事が発覚し、元徳2年(1331年)には逮捕され硫黄島へ流罪となる。 正慶2年 / 元弘3年(1333年)に元弘の乱の後に鎌倉幕府が滅亡すると京都へ戻り東寺長者となり、建武の新政で栄華を極めた。しかし、高野山の僧らは文観と立川流を危険視し、1335年(建武2年)に立川流の僧の多くを殺害、書物を灰燼に帰するといった大規模な弾圧を加えた。文観自身もこの時期に東寺長者の地位をはく奪され甲斐国へ流された。その後京都へ戻り、南北朝時代となっても後醍醐方に属して吉野へ随行し、大僧正となる。河内国天野山金剛寺(大阪府河内長野市)で没、享年80。 、河内の悪党として知られる楠木正成と後醍醐天皇を仲介した人物とも考えられている。.

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日野資朝

日野 資朝(ひの すけとも)は、鎌倉時代後期の公卿。権大納言・日野俊光の次男。.

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10月10日 (旧暦)

旧暦10月10日(きゅうれきじゅうがつとおか)は、旧暦10月の10日目である。六曜は先勝である。.

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10月5日 (旧暦)

旧暦10月5日(きゅうれきじゅうがついつか)は旧暦10月の5日目である。六曜は友引である。.

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11月12日 (旧暦)

旧暦11月12日は旧暦11月の12日目である。六曜は仏滅である。.

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11月5日 (旧暦)

旧暦11月5日(きゅうれきじゅういちがついつか)は旧暦11月の5日目である。六曜は先負である。.

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11月9日 (旧暦)

旧暦11月9日は旧暦11月の9日目である。六曜は先勝である。.

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1257年

記載なし。

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12月17日 (旧暦)

旧暦12月17日は旧暦12月の17日目である。六曜は仏滅である。.

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12月26日 (旧暦)

旧暦12月26日は旧暦12月の26日目である。六曜は先勝である。.

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12月30日 (旧暦)

旧暦12月30日は、旧暦12月の30日目である。年によっては12月の最終日となる。六曜は大安である。.

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1318年

記載なし。

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1321年

記載なし。

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1322年

記載なし。

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1324年

記載なし。

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1325年

記載なし。

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1326年

記載なし。

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1327年

記載なし。

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1328年

記載なし。

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1330年

記載なし。

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1331年

記載なし。

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1332年

記載なし。

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1333年

記載なし。

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1334年

記載なし。

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1335年

記載なし。

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1336年

記載なし。

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1337年

記載なし。

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1338年

記載なし。

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1340年

記載なし。

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1343年

記載なし。

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1347年

記載なし。

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1352年

記載なし。

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1817年

記載なし。

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1868年

記載なし。

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1875年

記載なし。

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1876年

記載なし。

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1880年

記載なし。

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1881年

記載なし。

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1885年

記載なし。

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1990年

この項目では、国際的な視点に基づいた1990年について記載する。.

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1991年

この項目では、国際的な視点に基づいた1991年について記載する。.

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1993年

この項目では、国際的な視点に基づいた1993年について記載する。.

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1月13日 (旧暦)

旧暦1月13日は旧暦1月の13日目である。六曜は先勝である。.

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1月16日 (旧暦)

旧暦1月16日は、旧暦1月の16日目である。六曜は仏滅である。.

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1月5日 (旧暦)

旧暦1月5日(きゅうれきいちがついつか)は旧暦1月の5日目である。六曜は大安である。.

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2003年

この項目では、国際的な視点に基づいた2003年について記載する。.

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2月19日 (旧暦)

旧暦2月19日は旧暦2月の19日目である。六曜は友引である。.

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2月26日 (旧暦)

旧暦2月26日は旧暦2月の26日目である。六曜は先負である。.

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2月4日 (旧暦)

旧暦2月4日(きゅうれきにがつよっか)は旧暦2月の4日目である。六曜は大安である。.

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3月10日 (旧暦)

旧暦3月10日は旧暦3月の10日目である。六曜は赤口である。.

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3月16日 (旧暦)

旧暦3月16日は旧暦3月の16日目である。六曜は赤口である。.

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3月22日 (旧暦)

旧暦3月22日は旧暦3月の22日目である。六曜は赤口である。.

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3月24日 (旧暦)

旧暦3月24日は旧暦3月の24日目である。六曜は友引である。.

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3月2日 (旧暦)

旧暦3月2日(きゅうれきさんがつふつか)は旧暦3月の2日目である。六曜は仏滅である。.

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4月19日 (旧暦)

旧暦4月19日は旧暦4月の19日目である。六曜は仏滅である。.

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4月3日

4月3日(しがつみっか)はグレゴリオ暦で年始から93日目(閏年では94日目)にあたり、年末まであと272日ある。誕生花はゼラニウム、ラナンキュラス。.

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4月6日 (旧暦)

旧暦4月6日(きゅうれきしがつむいか)は旧暦4月の6日目である。六曜は先負である。.

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4月9日 (旧暦)

旧暦4月9日(きゅうれきしがつここのか)は、旧暦4月の9日目である。六曜は赤口である。.

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5月16日 (旧暦)

旧暦5月16日は旧暦5月の16日目である。六曜は友引である。.

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5月22日

5月22日(ごがつにじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から142日目(閏年では143日目)にあたり、年末まではあと223日ある。誕生花はフクシア。.

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5月22日 (旧暦)

旧暦5月22日は旧暦5月の22日目である。六曜は友引である。.

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6月10日

6月10日(ろくがつとおか)はグレゴリオ暦で年始から161日目(閏年では162日目)にあたり、年末まであと204日ある。誕生花はジャスミン、ラベンダー。.

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6月12日 (旧暦)

旧暦6月12日は旧暦6月の12日目である。六曜は大安である。.

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8月5日 (旧暦)

旧暦8月5日(きゅうれきはちがついつか)は旧暦8月の5日目である。六曜は赤口である。.

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9月10日 (旧暦)

旧暦9月10日は旧暦9月の10日目である。六曜は赤口である。.

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