目次
130 関係: 即位、千早城、南北朝時代 (日本)、南朝 (日本)、南方紀伝、名和顕興、向嶽寺、吉野行宮、壬申、大友親世、大覚寺、大覚寺統、天皇、奥付、女院、室町幕府、家集、守護代、宗良親王、宇土城、小山城 (下野国)、小山若犬丸、小田城、小田孝朝、山名氏、山名氏清、己巳、上杉朝宗、丁卯、常陸国、丹生都比売神社、市河家文書、三種の神器、下野国、一色詮範、丙寅、平尾合戦、平和条約、乙丑、庚午、京都、康応、今川貞臣、仁木義長、伊勢国、弘和、征夷大将軍、後小松天皇、後亀山天皇、後醍醐天皇、... インデックスを展開 (80 もっと) »
- 1380年代の日本
- 1390年代の日本
即位
即位(そくい)とは位に即(つ)いて皇帝・天皇・国王など君主に成ること。また、ローマ教皇など宗教職にも用いる。稀に「しょくい」と読むこともある。
見る 元中と即位
千早城
千早城と周辺地域の空中写真/国土航空写真 千早城(ちはやじょう)は、大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早にあった日本の城。国の史跡に指定されている。鎌倉時代末期より南北朝時代に存在した楠木正成・築城の城である。四方を絶壁に囲まれ要塞堅固を誇ったといわれる連郭式山城である。金剛山城。楠木七城の一つ。
見る 元中と千早城
南北朝時代 (日本)
日本の歴史における南北朝時代(なんぼくちょうじだい、)は、日本の歴史区分の一つ。鎌倉時代と(狭義の)室町時代に挟まれる時代で、広義の室町時代に含まれる。始期は、建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が京都で新たに光明天皇(北朝・持明院統)を擁立したのに対抗して、京都を脱出した後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)が吉野行宮に遷った建武3年/延元元年12月21日(1337年1月23日)、終期は、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位する形で両朝が合一した明徳3年/元中9年閏10月5日(1392年11月19日)である。始期を建武の新政の始まりである1333年とする場合もある。
南朝 (日本)
南朝(なんちょう)または吉野朝廷(よしのちょうてい)は、日本の南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1337年(和暦との対応上は1336年)から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。
見る 元中と南朝 (日本)
南方紀伝
『南方紀伝』(なんぽうきでん)は、南北朝時代における南朝の盛衰とその後胤(後南朝)を扱った史書・軍記。江戸時代前期の成立とみられるが、作者は不詳である。書名に「紀伝」とあるとおり、あたかも天皇列伝の如き形態を採るが、内実は全て編年体の構成である。類書に『桜雲記』がある。南朝紀伝・南朝記とも。
見る 元中と南方紀伝
名和顕興
名和 顕興(なわ あきおき)は、南北朝時代の武将。名和基長の子。子に名和顕年。法名は紹覚。検非違使、伯耆守、弾正大弼、従四位下に任ぜられた。
見る 元中と名和顕興
向嶽寺
向嶽寺(こうがくじ)は、山梨県甲州市にある禅寺で臨済宗向嶽寺派の大本山。山号は塩山。本尊は釈迦如来。 非公開寺院のため建物内部や庭園は原則的に拝観不可である。
見る 元中と向嶽寺
吉野行宮
250px 吉野行宮(よしののあんぐう/よしのあんぐう)とは、大和国吉野山山中で、現在の奈良県吉野町大字吉野山にあった南朝の行宮。
見る 元中と吉野行宮
壬申
壬申(みずのえさる、じんすいのさる、じんしん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの9番目で、前は辛未、次は癸酉である。陰陽五行では、十干の壬は陽の水、十二支の申は陽の金で、 相生(金生水)である。
見る 元中と壬申
大友親世
大友 親世(おおとも ちかよ)は、南北朝時代・室町時代の武将・守護大名。豊後国大友氏の10代当主。式部家の祖。 応安元年/正平23年(1368年)、父の氏時が死去した後、後を継いだ兄の氏継が南朝方に味方したので、北朝方として同年のうちに当主となった。 応安4年/建徳2年(1371年)、第3代将軍足利義満の命を受けて九州探題として赴任してきた今川貞世(了俊)の九州平定に協力して田原氏能らと共に南朝勢力の排除に努めたが、永和元年/天授元年(1375年)に島津氏久と共に了俊の元に招かれた際、同席した少弐冬資が了俊に暗殺されたため了俊に不信感を抱き(水島の変)、次第に了俊の勢力が拡大してきたことを恐れ、了俊に九州下向以来従っていた吉弘氏輔の弟・氏郷を殺害するなどした上、将軍義満や妻の兄弟大内義弘と共謀して了俊の失脚に一役を買った。
見る 元中と大友親世
大覚寺
大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨大沢町にある真言宗大覚寺派の大本山の寺院。山号は嵯峨山。本尊は不動明王を中心とする五大明王。開山は恒寂入道親王である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。また、嵯峨天皇を流祖と仰ぐ華道嵯峨御流の総司所(家元)である。 時代劇の撮影所が多い太秦の近くということもあり、寺の境内(大沢池や明智門など)は(特に時代劇の)映画やテレビなどの撮影によく使われている(#舞台となった作品)。
見る 元中と大覚寺
大覚寺統
大覚寺統(だいかくじとう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて(南北朝時代には南朝として)皇位に即いた皇室の系統で、持明院統と対立していた。名の由来は、第88代後嵯峨天皇の皇子であり第89代後深草天皇の実弟にあたる第90代亀山天皇の子、後宇多天皇が京都の外れの嵯峨野(京都市右京区)の大覚寺の再興に尽力したこと、及び、出家後は大覚寺に住んで院政を行ったことによる。
見る 元中と大覚寺統
天皇
天皇(てんのう)は、 古代以来の血統を受け継ぐ日本の君主ならびにその称号。称号としては7世紀頃に大和朝廷の大王が用いたことに始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 2019年(令和元年)5月1日より在位中の天皇は徳仁(明仁第1皇男子)。 皇位の象徴である高御座。
見る 元中と天皇
奥付
とは、本の本文が終わった後や巻末に設けられる書誌に関する事項(書誌事項)が記述されている部分。 和書には奥書を付ける慣習がある。洋書には通常は奥付はなく扉に標題、著者名、出版社、出版年等を記す図書館用語辞典編集委員会『最新図書館用語大辞典』柏書房、2004年、433頁。
見る 元中と奥付
女院
女院(にょいん/にょういん)は、三后(太皇太后・皇太后・皇后)や、それに準ずる身位(准后、内親王など)の女性に宣下された称号を指し、平安時代中期から明治維新まで続いた制度である。「院」はすなわち太上天皇のことを指し、「女院」とはそれに準ずる待遇を受けた女性のことである。上皇に倣って院庁を置き、別当・判官代・主典代その他諸司を任じ、殿上を定め、蔵人を補した。
見る 元中と女院
室町幕府
は、室町時代における日本の武家政権。征夷大将軍となる足利尊氏が京都で創始した。 その称は3代将軍足利義満が移した、花の御所に由来する。ともいう。 義満の時代に南北朝が合一(明徳の和約)され、全盛期を迎える。嘉吉の乱によって白昼堂々と6代将軍足利義教が殺害されると、足利将軍の権威は低下、管領細川氏、細川氏の家臣三好長慶に実権を奪われ、最後は織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。
見る 元中と室町幕府
家集
家集(かしゅう)は、王朝和歌の世界において、個人または一家の和歌をまとめて収めた歌集を指す。「家の集」ともいい、家集の語はこれを漢語ふうに表現したもの。自撰・他撰の別は問わないが、初期には子孫が先祖の家集を編むことが多く、自撰家集が盛んになるのは院政期から新古今期前後にかけてである。鎌倉時代には勅撰集と並んで盛行した。 家集のもっとも古い例は10世紀前半ごろに編纂されたと思われる人丸集・赤人集・家持集・猿丸集の四種で、これらはいずれも『万葉集』巻十四以降あたりから、当該歌人の作品を抜き出して編まれたものである。が内容的には、その名を冠された歌人以外の作品も含まれるなど不備は多いものの、和歌が撰集形式ではなく、個人の著作物として鑑賞される機運が高まってきたことを示す重要な事例であるといえる。
見る 元中と家集
守護代
守護代(しゅごだい)とは、鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職である。
見る 元中と守護代
宗良親王
宗良親王(むねよししんのう/むねながしんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。母は二条為子。一品中務卿。天台座主。南朝の征夷大将軍もしくは征東将軍。同母兄弟に尊良親王、異母兄弟に護良親王、懐良親王、義良親王(後村上天皇)など。信濃の宮、大草の宮、幸坂の宮(庇護者となった香坂氏に由来)と呼ばれた。法名は尊澄法親王。二条派の代表的歌人で、南朝歌壇の中心であり、准勅撰和歌集『新葉和歌集』の撰者となった他、私歌集に『李花集』がある。
見る 元中と宗良親王
宇土城
宇土城(うとじょう)は、熊本県宇土市にあった日本の城。別名城山・鶴城ともいう。同市にあった中世期の宇土城である宇土古城についても併記する。
見る 元中と宇土城
小山城 (下野国)
小山城(おやまじょう)は、栃木県小山市城山町(下野国都賀郡小山)にあった日本の城。別名祇園城(ぎおんじょう)。地元では主に祇園城と呼ばれている。城跡は「小山氏城跡(鷲城跡・祇園城跡・中久喜城跡)」の1つ祇園城跡の名称で国の史跡に指定されている。また、関東の富士見百景の一つに選ばれている。
見る 元中と小山城 (下野国)
小山若犬丸
小山 若犬丸(おやま わかいぬまる、生年未詳 - 応永4年(1397年)1月25日?)は、室町時代の小山氏の武将。小山義政の嫡男。小山 隆政(おやま たかまさ)とも。 幼名の若犬丸で知られる。ただし、「隆政」の名を後世の作為として、反逆者として追われていたために元服出来なかった、あるいは指導者としての神秘性を示すために意図的に元服しなかった説もある(彼の死去を伝える『本土寺過去帳』には「小山若犬明賢」とあり、幼名と法号のみが記されている)。 小山義政の乱の際、一時隠居した父に代わり家督を継いだといわれる。義政の敗死後、至徳3年(1386年)に挙兵、祇園城に立てこもったものの討伐され逃亡。この頃小田孝朝に匿われたが、後に所在が発覚し、小田氏が鎌倉公方足利氏満の討伐を受ける事になった。しかし彼は、所在が発覚した時点で既に逃亡しており、しばらく姿をくらました。
見る 元中と小山若犬丸
小田城
小田城(おだじょう)は、茨城県つくば市にあった日本の城。国の史跡に指定されている。
見る 元中と小田城
小田孝朝
小田 孝朝(おだ たかとも、延元2年/建武4年12月4日(1337年12月26日) - 応永21年6月16日(1414年7月3日)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。小田氏の第9代当主。第8代当主・小田治久の子。太郎。讃岐入道。
見る 元中と小田孝朝
山名氏
日本の氏族。幾つかの流れがある。
見る 元中と山名氏
山名氏清
山名 氏清(やまな うじきよ)は、南北朝時代の武将・守護大名。室町幕府侍所頭人、丹波国・和泉国・山城国・但馬国守護。
見る 元中と山名氏清
己巳
己巳(つちのとみ、きどのみ、きし)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの6番目で、前は戊辰、次は庚午である。陰陽五行では、十干の己は陰の土、十二支の巳は陰の火で、相生(火生土)である。
見る 元中と己巳
上杉朝宗
上杉 朝宗(うえすぎ ともむね)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将・守護大名。室町幕府関東管領、上総国・武蔵国守護。犬懸上杉家3代当主。
見る 元中と上杉朝宗
丁卯
丁卯(ひのとう、ていかのう、ていかのうさぎ、ていぼう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの4番目で、前は丙寅、次は戊辰である。 陰陽五行では、十干の丁は陰の火、十二支の卯は陰の木で、相生(木生火)である。
見る 元中と丁卯
常陸国
常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。現在の茨城県の南西部を除いた地域にあたる。
見る 元中と常陸国
丹生都比売神社
丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ、丹生都比賣神社)は、和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある神社。式内社(名神大社)、紀伊国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 別称として「天野大社」「天野四所明神」とも。全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社である神社由緒書によれば、全国に社名を「丹生神社」とする神社は88社、丹生都比売神を祀る神社は108社(摂末社を入れると180社あまり)あり、丹生都比売神社はそれらの総本社という。。。:特筆性なし-->「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されている。
見る 元中と丹生都比売神社
市河家文書
『市河家文書』(いちかわけもんじょ)は、信濃国志久見郷(現下水内郡栄村を中心とする一帯)の地頭職であった市河氏と、外戚の豪族中野氏が残した書簡や古文書の総称。平安時代末期から戦国時代に至る市河氏の動向を示した武家文書群。中野氏は市河氏と縁戚関係を結んだ志久見郷出身の氏族で、両家の資料が市河氏に代々伝えられたことから、この名称で呼ばれる。
見る 元中と市河家文書
三種の神器
新宮殿正殿)松の間にて。 三種の神器(さんしゅのじんぎ「神器」の読み方は「じんぎ」以外にも「しんぎ」や「じんき」など揺れがある。なお類似した読み方として、13世紀ごろの「還幸なからんにおいては、三種(さんジュ)の神器(しんキ)いかでか玉体をはなち奉るべきや」(出典:高野本平家〈13世紀前半〉10)という一節に登場する「さんじゅのしんき」という古い読み方は存在する。, the Three Sacred Treasures)は、日本神話において、天孫降臨の際にアマテラス(天照大神)がニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)に授けた三種類の宝物、すなわち八咫鏡・天叢雲剣(草薙剣)・八尺瓊勾玉の総称。また、これと同一とされる、日本の歴代天皇が古代よりレガリアとして伝世してきた三種類の宝物を指す。
見る 元中と三種の神器
下野国
下野国(しもつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属し、現在の栃木県にあたる。
見る 元中と下野国
一色詮範
一色 詮範(いっしき あきのり)は、南北朝時代の武将、守護大名。一色氏6代当主。
見る 元中と一色詮範
丙寅
丙寅(ひのえとら、へいかのとら、へいいん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの3番目で、前は乙丑、次は丁卯である。陰陽五行では、十干の丙は陽の火、十二支の寅は陽の木で、相生(木生火)である。
見る 元中と丙寅
平尾合戦
平尾合戦(ひらおかっせん)は、南北朝時代の元中5年/嘉慶2年(1388年)8月17日に行われた合戦。室町幕府第3代将軍・足利義満への奇襲を試みた南朝の楠木正勝を、河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)において、北朝の山名氏清が迎え撃ち破った。 同合戦での敗北により南朝の滅亡は決定的となり、4年後の元中9年/明徳3年(1392年)には楠木氏の根拠地である千早城が陥落し、最終的に南北朝合一(明徳の和約)に至った。
見る 元中と平尾合戦
平和条約
平和条約(へいわじょうやく、peace treaty)とは、戦争状態を終結させるための条約。講和条約(こうわじょうやく)、和約(わやく)ともいう。二つの敵対する勢力(通常は国家や政府)が、戦争や武力紛争の公式な終結を合意するものである。平和条約は、敵対状態の一時的な停止を合意する休戦協定(armistice)や、軍隊が武装を放棄することを合意する降伏(surrender)とは異なるものである。
見る 元中と平和条約
乙丑
乙丑(きのとうし、おつぼくのうし、いっちゅう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの2番目で、前は甲子、次は丙寅である。陰陽五行では、十干の乙は陰の木、十二支の丑は陰の土で、相剋(木剋土)である。
見る 元中と乙丑
庚午
庚午(かのえうま、こうきんのうま、こうご)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの7番目で、前は己巳、次は辛未である。陰陽五行では、十干の庚は陽の金、十二支の午は陽の火で、相剋(火剋金)である。
見る 元中と庚午
京都
京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyoto)は、日本の地名、都市。794年以降日本の首都であった平安京が位置し、都もしくは京などとも呼ばれていた。古くから日本の政治・文化の中心地として栄え、金閣寺や清水寺をはじめとする文化財が多く残る地域である。 現在京都といえば、広義では京都府を、狭義ではその府庁所在地たる自治体の京都市、もしくはその中心部の地域を指す。
見る 元中と京都
康応
は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。嘉慶の後、明徳の前。1389年から1390年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後小松天皇。南朝方が後亀山天皇。室町幕府将軍は足利義満。
見る 元中と康応
今川貞臣
今川 貞臣(いまがわ さだおみ)は、南北朝時代から室町時代初期の武将。遠江今川氏第3代当主。今川貞世(了俊)の嫡男。父の絶大な政治力と文化面での功績に加え、長期に君臨した存在に埋没しがちの人物だが、戦略、軍略に長けた名将という評価がある。 初めは義範(よしのり、「義」の字は足利将軍家(室町幕府第2代将軍・足利義詮か)より偏諱を受けたものとみられる)と名乗り、のちに父・貞世の1字により貞臣に改名するが、本項では後者に統一する。父貞世が応永の乱に加担したとされる際の懲罰で、今川性を称することが禁じられたため、以降は堀越貞臣と称している。
見る 元中と今川貞臣
仁木義長
仁木 義長(にき よしなが、正安2年(1300年)? - 天授2年/永和2年9月10日(1376年10月23日))は、室町時代前期(南北朝時代)の武将。通称は仁木次郎四郎。越後守、右馬権頭、修理亮、右馬助、右京大夫。父は仁木義勝。子は仁木義員、仁木満長。兄に仁木頼章がいる。
見る 元中と仁木義長
伊勢国
伊勢国(いせのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。
見る 元中と伊勢国
弘和
は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方で使用された。天授の後、元中の前。1381年から1384年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が長慶天皇・後亀山天皇、北朝方が後円融天皇・後小松天皇。室町幕府将軍は足利義満。
見る 元中と弘和
征夷大将軍
江戸幕府を創設した徳川家康(在任:慶長8年 - 同10年) は、「征夷(=蝦夷を征討する)大将軍」を指す。朝廷の令外官の一つであり、武人の最高栄誉職である。唐名は大樹(たいじゅ)、柳営(りゅうえい)、幕府(ばくふ)、幕下(ばくか、ばっか)。 朝廷は、武人を歴史的に朝廷を支えたことが際立った征夷大将軍へ補任することで、源頼朝以降、江戸幕府が倒れるまで、武家の棟梁と認めることが通例となった。合わせて公卿(三位以上)へ時間の前後はあるが補任され公権力の行使や荘園所有なども正当に認められた存在だった。この将軍が首班となる政治体制はのちに幕府政治と呼ばれる。
見る 元中と征夷大将軍
後小松天皇
後小松天皇(ごこまつてんのう、、1377年8月1日〈永和3年6月27日〉 - 1433年12月1日〈永享5年10月20日〉)は、日本の第100代天皇および北朝第6代天皇(在位:1382年5月24日〈永徳2年4月11日〉- 1392年11月19日〈明徳3年閏10月5日〉 - 1412年10月5日〈応永19年8月29日〉)。諱は幹仁(もとひと)。 後円融天皇の第一皇子。母は内大臣三条公忠の女の三条厳子(通陽門院)。禅僧一休宗純は後小松の落胤と伝わる。
見る 元中と後小松天皇
後亀山天皇
後亀山天皇(ごかめやまてんのう、、1350年〈正平5年〉 - 1424年5月10日〈応永31年4月12日〉)は、日本の第99代天皇、および南朝第4代天皇(在位:1383年〈弘和3年/永徳3年〉冬 - 1392年11月19日〈元中9年/明徳3年閏10月5日〉)。諱は熙成(ひろなり)。 北朝を擁護する将軍足利義満が提示した講和条件を受諾して、三種の神器を北朝の後小松天皇に伝えて、南北朝合一を実現した。 長らく皇位が否定されてきたが、1911年(明治44年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇に加えられることとなった。
見る 元中と後亀山天皇
後醍醐天皇
後醍醐天皇(ごだいごてんのう、1288年11月26日〈正応元年11月2日〉 - 1339年9月19日〈延元4年/暦応2年8月16日〉)は、日本の第96代天皇、および南朝初代天皇(在位:1318年3月29日〈文保2年2月26日〉 - 1339年9月18日〈延元4年/暦応2年8月15日〉、治天:1321年12月28日〈元亨元年12月9日〉 - 1339年9月18日〈延元4年/暦応2年8月15日〉)。諱は尊治(たかはる)。
見る 元中と後醍醐天皇
応長
は、日本の元号の一つ。延慶の後、正和の前。1311年から1312年までの期間を指す。この時代の天皇は花園天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条師時、北条宗宣。
見る 元中と応長
北畠顕統
北畠 顕統(きたばたけ あきもと/― あきむね)は、南北朝時代の公卿・歌人。参議冷泉持房の次男で、伯父親房の養子となった。南朝に仕え、官職は内大臣。暦術に通じ、能筆であったと伝えられる。冷泉顕統とも。
見る 元中と北畠顕統
北畠顕泰
北畠 顕泰(きたばたけ あきやす)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての公卿・武将。右大臣北畠顕能の二男。父から伊勢国司を継ぎ、南朝方として多気を拠点に活躍したが、南北朝合一後は室町幕府に帰順した。
見る 元中と北畠顕泰
北朝 (日本)
北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代に、足利氏を頂点に、全国の多くの武士、及び大多数の公家や大覚寺統を含む皇族が支持した、持明院統の朝廷である。同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統後醍醐流の南朝(吉野朝廷)に対比する。 南北朝の分裂は後醍醐天皇の建武政権が崩壊した建武3年/延元元年(1336年)以後であるが、鎌倉時代末期の元弘の乱時に鎌倉幕府が後醍醐天皇に代わって擁立し、後醍醐天皇が京都復帰後にその即位の事実を否認した持明院統の光厳天皇を含んだ6代の天皇が北朝の天皇とされている。
見る 元中と北朝 (日本)
ユリウス暦
ユリウス暦(ユリウスれき、、、)は、共和政ローマの最高神祇官・独裁官・執政官ガイウス・ユリウス・カエサルにより紀元前45年1月1日循環論法となってしまうため、参考として他の暦法の期日を示す。同日は中国暦初元3年11月29日、ユダヤ暦3716年4月29日である。計算はhttp://hosi.orgによる。 から実施された、1年を365.25日とする太陽暦である。もともとは共和政ローマおよび帝政ローマの暦であるが、キリスト教の多くの宗派が採用し、西ローマ帝国滅亡後もヨーロッパを中心に広く使用された。 ローマ教皇グレゴリウス13世が1582年10月4日の翌日から、ユリウス暦に換えて太陽年との誤差を修正したグレゴリオ暦を制定・実施したが、今でもグレゴリオ暦を採用せずユリウス暦を使用している教会・地域が存在する。グレゴリオ暦を導入した地域では、これを新暦(ラテン語: Ornatus)と呼び、対比してユリウス暦を旧暦と呼ぶことがある。
見る 元中とユリウス暦
嘉慶 (日本)
は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。至徳の後、康応の前。1387年から1389年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後小松天皇。南朝方が後亀山天皇。室町幕府将軍は足利義満。
見る 元中と嘉慶 (日本)
嵯峨野
竹林の小径 嵯峨野(さがの)は、京都府京都市右京区の地名。太秦・宇多野の西、桂川の北、小倉山の東、愛宕山麓の南に囲まれた付近に広がる広い地域の名称で、単に「嵯峨(さが)」と呼称される事もある。ただし、観光地としての「嵯峨(野)」は嵐山から小倉山に沿った社寺の立ち並ぶ地域(概ね車折神社より西側)を指す。平安京の西方の郊外になることから別名、西郊と公家達はよんだ。 地名の由来については坂あるいは険し(さがし)などの地形に由来するという説と中国西安(長安)郊外の「巀嶭山(さつがつさん)」を「嵯峨山」とも書いたからだという説がある。
見る 元中と嵯峨野
和田氏
和田氏(わだし)は、日本の氏族。桓武平氏の流れをくむ三浦氏の庶流。
見る 元中と和田氏
八代城
八代城(やつしろじょう)は、熊本県八代市(旧 肥後国八代郡)にあった日本の城。江戸時代初期に球磨川河口の松江に幕府の許可を得て建築されたことから松江城(現八代城趾)とも言う。 熊本県史跡であったが、同じく八代城とも呼ばれた南北朝時代の古麓城と安土桃山時代の麦島城の三つの城跡を併せて、平成26年(2014年)に「八代城跡群(やつしろしろあとぐん)」との名称で一括して国の史跡に指定された平成26年3月18日文部科学省告示第30号。指定区域には、麦島城の瓦を製造していた平山瓦窯跡(八代市平山新町)も含まれる。。 2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(190番)に選定された。
見る 元中と八代城
公卿
公卿(くぎょう)は日本の律令の規定に基づく太政官の高官で、国政を担う最高の職位をさす。 すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官を指す(総称して議政官という)。 平安時代に、「公」は大臣、「卿」は参議または三位以上の廷臣を指すことから、合わせて、公卿と呼ばれるようになり、京都御所に仕える上級廷臣を指した。 公卿は、国政の公務に準ずる職位として、政所・荘園を持つことが許された。
見る 元中と公卿
元号
内閣が元号を選定した。また、元号の発表が史上初めてテレビ中継された。 インターネット配信された。 元号(げんごう、、)または年号(ねんごう、)とは、古代中国で創始された紀年法の一種。特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は年の途中でも行われ、1年未満で改元された元号もある。 2024年(令和6年)時点、公的には世界では日本のみで制定、使用されている。ただし、台湾を統治する中華民国の民国紀元に基づく「民国」や、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の主体年号による「主体」が事実上は元号的な機能をしている。 日本における元号の使用は、孝徳天皇などの宮とする難波宮で行われた大化の改新時の「大化」から始まり、「大化」の年号と前後して「日本」という国号の使用も始まった。
見る 元中と元号
元亨
は、日本の元号の一つ。元応の後、正中の前。1321年から1324年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。
見る 元中と元亨
元弘
元弘(げんこう)は、日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年から1334年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。
見る 元中と元弘
元徳
は、日本の元号の一つ。嘉暦の後。大覚寺統(南朝)では元弘の前で、1329年から1331年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。 後醍醐天皇が元弘に改元した直後に倒幕の兵を挙げて失敗、隠岐に流され(元弘の乱)、持明院統(北朝)の光厳天皇が立てられた。光厳天皇と幕府は元弘改元を認めず、1332年に正慶に改元した。
見る 元中と元徳
勅願寺
勅願寺(ちょくがんじ)は、時の天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺のことで、寺格の一つ。 実際には、寺が創建されてから、勅許によって「勅願寺になった」寺も数多い。また勅願寺になれば寺領が得られることもあり、戦国時代頃からは寺の側から働きかけて勅許をもらうという例もあった。 明治時代初期まで勅願寺の指定が行われていたが、神仏分離令によって指定が廃止された。
見る 元中と勅願寺
国宝
神社建築:宇治上神社本殿覆屋(宇治市) 寺院建築:法隆寺金堂・五重塔(斑鳩町) 城郭建築:姫路城連立天守(姫路市) 絵画:源氏物語絵巻(徳川美術館) 彫刻:臼杵磨崖仏(阿弥陀三尊像) 工芸品:天寿国繡帳(中宮寺) 書跡・典籍:秋萩帖(東京国立博物館) 弘法大師筆尺牘「風信帖」(東寺) 考古資料:人物画像鏡(隅田八幡神社) 歴史資料:慶長遣欧使節関係資料のうちローマ市公民権証書(仙台市博物館) 国宝(こくほう)とは、日本語の第1義には、国の宝。第2義には、近代以降の日本において文化史的・学術的価値が極めて高いものとして法令に基づき指定された有形文化財を指し、具体的には、重要文化財のなかから特に価値の高いものとして指定した建造物、美術工芸品などをいう。
見る 元中と国宝
皇族
皇室儀制令19条では「親王旗親王妃旗内親王旗王旗王妃旗女王旗」。 皇族(こうぞく、Imperial Family)は、皇帝の一族、あるいは日本の天皇の親族のうち、既婚の女子を除く男系の嫡出の血族およびその配偶者の総称。すなわち皇室典範の規定するところの三后(皇后、太皇太后、皇太后)、親王、親王妃、内親王、王、王妃、女王、天皇の退位等に関する皇室典範特例法の規定するところの上皇后の総称である。
見る 元中と皇族
紀伊国
紀伊国(きいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属し、和歌山県と三重県南西部に属する。
見る 元中と紀伊国
続史愚抄
続史愚抄(ぞくしぐしょう)は、江戸時代後期に権大納言柳原紀光によって記された編年体歴史書。全81冊。亀山天皇が譲位を受けた正元元年(1259年)から、後桃園天皇が崩御した安永8年(1779年)までの33代521年間を記す。体裁としては、六国史及び『百錬抄』を継承する形となっているが、構想としてはそこから遡って六国史最後の『日本三代実録』の巻末にあたる仁和3年(887年)とつなげる意図を有していたことは紀光自身の自序に記され、また朱雀天皇・三条天皇の時代を記した草稿も現存している。 父・柳原光綱は六国史以後、正史が完成しなかったことを嘆いてその続編を編纂することを意図していたが果たせずに死去、紀光はその遺志を継ぐ形で安永6年(1777年)から執筆を始めた。ところが、天明8年(1789年)になって突如勅勘解官処分を受け、その後許されたものの以後は出仕せずに歴史書の編纂に務めた。
見る 元中と続史愚抄
綸旨
綸旨(りんじ)とは、蔵人所(くろうどどころ)が天皇の意を受けて発給する命令文書。 綸旨とは本来は「綸言の旨」の略であり、天皇の意そのものを指していたが、平安時代中期以後は天皇の口宣を元にして蔵人が作成・発給した公文書の要素を持った奉書を指すようになった。御綸旨(ごりんじ・ごりんし)とも呼ぶ。 後光厳天皇の綸旨。
見る 元中と綸旨
甲子
甲子(きのえね、こうし、かっし)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの1番目で、前は癸亥、次は乙丑である。陰陽五行では十干の甲は陽の木、十二支の子は陽の水で、相生(水生木)である。
見る 元中と甲子
無文元選
無文元選(むもんげんせん、元亨3年2月15日(1323年3月22日) - 明徳元年/元中7年閏3月22日(1390年5月7日))は、南北朝時代の臨済宗の僧。父は後醍醐天皇と伝えられる。勅諡号は聖鑑国師・円明大師。 父と伝わる後醍醐天皇が崩御した翌年の1340年に建仁寺で出家し、明窓宗鑑・雪村友梅などに師事した。1343年、中国の元に渡ることを志し、博多聖福寺の無隠元晦(むいんげんかい)に参禅した。その後、元に渡り福州大覚寺で古梅正友に参禅し、各地を巡拝した。日本に帰国した後は、教化のため各地を巡国し、遠江国方広寺などを開創している。遠江国方広寺には、奥山半増坊が祀られている Category:後醍醐天皇の子女と伝えられる人物 Category:室町・安土桃山時代の僧 Category:日本の禅僧 (臨済宗) Category:1323年生 Category:1390年没。
見る 元中と無文元選
畠山基国
畠山 基国(はたけやま もとくに)は、南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。室町幕府の6代管領。家系は足利氏一門の畠山氏。基国は畠山氏で初めて管領となった人物であり、室町時代に畠山氏が三管領家となったことから、畠山氏の中興の祖と言われている。 侍所頭人、引付頭人、越前国・越中国・河内国・能登国・紀伊国・山城国守護などを歴任した。通称は三郎。官途は右衛門佐(『続群書類従』では、左衛門佐)、右衛門督。法名は徳元。
見る 元中と畠山基国
畠山氏
畠山氏(はたけやまし/はたけやまうじ)は、武家・士族だった日本の氏族。桓武平氏系と清和源氏系の2家系あり、前者は秩父氏一族で平安時代末から鎌倉時代初期の豪族だが、北条氏に滅ぼされた(こちらについては畠山氏 (平姓)参照)。後者は足利氏一族で室町時代に守護大名、幕府管領家として栄えた。しかし同家の家督争いが応仁の乱の一因となり、その後も内紛が続いて没落した。江戸時代には高家として残り、明治維新後「足利」に復姓して士族。分家に能登の守護を代々世襲した能登畠山氏もあり、こちらも江戸時代の高家を経て維新後士族となった(こちらは畠山姓のまま)。
見る 元中と畠山氏
花山院長親
花山院 長親(かさんのいん ながちか)は、南北朝時代から室町時代にかけての公卿・学者・歌人・禅僧。大納言・花山院師賢の孫で、内大臣花山院家賢の子。母は出自不詳だが、歌人の「花山院長親母」である。南朝に歴仕、やがて出家して子晋明魏(ししんみょうぎ)と号し、4代将軍・足利義持から厚遇された。別号の耕雲(こううん)でも著名。
見る 元中と花山院長親
菊池武朝
菊池 武朝(きくち たけとも)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。肥後守護代。菊池氏の第17代当主。16代当主菊池武政の子。幼名は加賀丸。別名に武興。
見る 元中と菊池武朝
領家
領家(りょうけ)は、日本の荘園制において、荘園を開発した開発領主(かいはつりょうしゅ)から寄進を受けた荘園領主である。中央の有力貴族や有力寺社が荘園寄進を受けて領家となっていた。
見る 元中と領家
高麗
高麗(こうらい、コリョ、; )は、918年に王建(太祖)が後高句麗王弓裔を易姓革命で追放することで建国し、936年に朝鮮半島の後三国の統一を成し遂げ、1392年の李氏朝鮮建国まで続いた国家である。首都は開京。
見る 元中と高麗
高野山
壇上伽藍 壇上伽藍 不動堂(国宝) 高野山(こうやさん)は、和歌山県北部、和歌山県伊都郡高野町にある地域の名称である。周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの山上盆地に町並みが広がる。 「高野"山"」という名ではあるものの、地理学上の山ではない。高野山内は「一山境内地」といわれ高野山全域が寺の境内地とされ、境内の中に発展した町であり、元来は高野山全体と金剛峯寺は同義である。そのため高野山内の歴史、伽藍、文化財関連については、金剛峯寺で詳述している。 平安時代の弘仁7年(816年)に嵯峨天皇から空海(弘法大師)が下賜され、修禅の道場として開いた日本仏教における聖地の1つである。
見る 元中と高野山
譲位
譲位(じょうい、)は、君主が存命中の間に、その地位を後継者へ譲り渡す行為である。 本項では、主に日本の天皇の譲位について記述する。
見る 元中と譲位
足利義満
足利 義満(あしかが よしみつ)は、室町時代前期の室町幕府第3代征夷大将軍。将軍職を辞した後、清和源氏で初の太政大臣。父は第2代将軍・足利義詮、母は側室・紀良子。祖父に足利尊氏。正式な姓名は源 義満(みなもと の よしみつ)。室町幕府第2代征夷大将軍・足利義詮の長男で足利満詮の同母兄にあたる。 南北朝合一を果たし、有力守護大名の勢力を抑えて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治・経済・文化の最盛期を築いた。 邸宅を北小路室町へ移したことにより義満は「室町殿」とも呼ばれた。後代には「室町殿」は足利将軍家当主の呼称となった。歴史用語の「室町幕府」や「室町時代」もこれに由来する。
見る 元中と足利義満
足利直冬
足利 直冬(あしかが ただふゆ)は、南北朝時代の武将。 室町幕府将軍・足利尊氏の落胤。尊氏の同母弟・直義の養子となる。観応の擾乱を機に尊氏と対立・抗争を繰り広げて南北朝時代を激化させたが、尊氏の死後は勢力が衰え、備後宮内合戦を最後に消息不明となった。
見る 元中と足利直冬
足利氏満
足利 氏満(あしかが うじみつ)は、南北朝時代から室町時代にかけての武将。第2代鎌倉公方(在職:正平22年/貞治6年5月29日(1367年6月26日) - 応永5年11月4日(1398年12月12日))。父は足利基氏、母は畠山家国の娘。
見る 元中と足利氏満
辛未
辛未(かのとひつじ、しんきんのひつじ、しんび)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの8番目で、前は庚午、次は壬申である。陰陽五行では、十干の辛は陰の金、十二支の未は陰の土で、相生(土生金)である。
見る 元中と辛未
近衛経家
近衛 経家(このえ つねいえ)は、南北朝時代の公卿。関白左大臣・近衛経忠の子。官位は従三位・左近衛中将。南朝へ出仕し、関白に昇った。大和国平田荘に住していたことから、平田関白と号する。名は冬経(ふゆつね)とも。
見る 元中と近衛経家
興国
は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。延元の後、正平の前。1340年から1346年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後村上天皇、北朝方が光明天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。
見る 元中と興国
阿野実為
阿野 実為(あの さねため)は、南北朝時代の公卿。権大納言・阿野季継の子。官位は従一位・内大臣(南朝)。祖父・阿野公廉の女・廉子(新待賢門院)が後醍醐天皇の寵妃であった関係から、阿野家は代々南朝方公卿として活躍した。
見る 元中と阿野実為
肥後国
肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、熊本県に属する。
見る 元中と肥後国
肥前国
肥前国(ひぜんのくに、)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、現在の佐賀県と長崎県(壱岐・対馬を除く)にあたる。
見る 元中と肥前国
臨済宗
臨済宗(臨濟宗、りんざいしゅう、Linji school)は、中国の禅宗五家(臨済・潙仰・曹洞・雲門・法眼)の一つ。中国、日本、台湾、韓国などに信徒を持つ。 日本仏教においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の一つ。また鎌倉仏教の一つである。曹洞宗が単一教団であるのに対して、十五派に分かれて活動している。
見る 元中と臨済宗
至徳 (日本)
は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。永徳の後、嘉慶の前。1384年から1387年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後小松天皇。南朝方が後亀山天皇。室町幕府将軍は足利義満。
見る 元中と至徳 (日本)
長慶天皇
長慶天皇(ちょうけいてんのう、1343年〈興国4年/康永2年〉- 1394年8月27日〈応永元年8月1日〉)は、日本の第98代天皇、および南朝第3代天皇(在位:1368年〈正平23年/応安元年)〉3月鴨脚本『皇代記』によるが、日付を欠くため、3月11日の後村上天皇崩御を受けたものか、あるいは先だって行われた譲位を受けたものか、確認しがたい。 - 1383年〈弘和3年/永徳3年)冬〉)。諱は寛成(ゆたなり)。 南朝関係史料の少なさから、近世以来諸家の間で天皇の在位・非在位をめぐる議論があり、1911年(明治44年)3月に明治天皇が南朝を正統とする勅裁を下した際も在位認定されないままであったが、大正時代に入って、八代国治・武田祐吉の実証的研究が決定的な在位説として評価される。これを受けて宮内省の調査が行われ、1926年(大正15年)10月21日に皇統加列についての詔書発布があり、ここにようやく長慶天皇の在位の事実が公認されるに至った。
見る 元中と長慶天皇
良成親王
良成親王(よしなりしんのう/ながなりしんのう)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての南朝の皇族。 近世の南朝系図によると、後村上天皇の第六皇子で、母は越智家栄の女・冷泉局(新待賢門院冷泉)とされるが、同時代史料には名が見えないため、親王の実在自体を疑う説は少なくない。だが、征西将軍懐良親王(後醍醐天皇皇子)の跡を継承して九州南軍を指揮した後征西将軍宮(のちのせいせいしょうぐんのみや)とは、良成親王に比定されるのが旧来の通説であり征西将軍良成親王について、宮内省図書寮編『後村上天皇実録』(『天皇皇族実録75』所収)の按文には、「親王ノ名、他ニ所見ナキモ、懐良親王ノ後ヲ受ケテ九州ニ号令セル将軍宮ハ蓋シ此親王ナルベケレバ、今姑ク南朝事跡抄所引ノ古本帝王系図、古物屋本皇胤紹運録ニ拠リ掲記ス、」とあり、また、『大日本史料』(6編41冊、文中3年12月25日条)の按文には、「征西将軍宮ノ御諱、泰成・師成等ノ異説アリテ一定シ難キモ、今姑ク通説ニ従フ、」とある。
見る 元中と良成親王
院宣
院宣(いんぜん)とは、上皇からの命令を受けた院司が、奉書形式で発給する文書。天皇の発する宣旨に相当する。院庁下文よりも私的な形式。
見る 元中と院宣
楠木正儀
楠木 正儀(くすのき まさのり)は、南北朝時代の武将、公卿。楠木氏棟梁。 南朝総大将として北朝から京を4度奪還。また、槍を用いた戦術を初めて普及させ、兵站・調略・後詰といった戦略を重視し、日本の軍事史に大きな影響を与えた。一方、後村上天皇の治世下、和平派を主宰し、和平交渉の南朝代表を度々担当。後村上天皇とは初め反目するが、のち武士でありながら綸旨の奉者を務める等、無二の寵臣となった。しかし、次代、主戦派の長慶天皇との不和から、室町幕府管領細川頼之を介し北朝側に離反。外様にもかかわらず左兵衛督・中務大輔等の足利将軍家や御一家に匹敵する官位を歴任した。三代将軍足利義満に仕え、幕府の枢要河内・和泉・摂津住吉郡(合わせてほぼ現在の大阪府に相当)の二国一郡の守護として、南朝臨時首都天野行宮を陥落させた。頼之失脚後には南朝に帰参し、議政官である参議に任官している。正儀の南朝への攻撃と復帰は南朝内部の和平派伸長につながり、和平派の後亀山天皇の即位と南北朝和約につながったと評価されている。
見る 元中と楠木正儀
楠木正元
楠木 正元(くすのき まさもと)は室町時代の武将。贈従四位。楠木正成の孫で楠木正儀の子。将軍足利義満を暗殺しようとして露見、処刑されたという説がある。
見る 元中と楠木正元
楠木正勝
楠木 正勝(くすのき まさかつ)は、南北朝時代、南朝および後南朝の武将。南北朝合一(明徳の和約)時の南朝方の総大将。楠木氏の当主。楠木正儀の嫡男で、楠木正成の孫にあたる。極位極官は従五位上(贈正四位)・右馬頭。
見る 元中と楠木正勝
楠木正秀
楠木 正秀(くすのき まさひで)は、室町時代の武将。楠木正成三男楠木正儀の子。子に大饗氏の祖大饗正盛、その子孫が織田信長の右筆である大饗正虎(楠木正虎)。
見る 元中と楠木正秀
楠木氏
楠木氏(くすのきし)は、河内国を中心に、南北朝時代に活躍した南朝方の武家。「楠氏」と表記される事もある。
見る 元中と楠木氏
武将
武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。特に日本の戦国時代における武将を戦国武将という。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。
見る 元中と武将
河内国
河内国(かわちのくに、かはちのくに、)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。
見る 元中と河内国
戊辰
戊辰(つちのえたつ、ぼどのたつ、ぼしん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの5番目で、前は丁卯、次は己巳である。辰(龍)は、十二支で唯一の架空の動物。陰陽五行では、十干の戊は陽の土、十二支の辰は陽の土で、比和である。
見る 元中と戊辰
明徳
は、日本の元号の一つ。元中・康応の後、応永の前。1390年から1394年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後小松天皇。南朝方が後亀山天皇。室町幕府将軍は足利義満。 足利義満は、土岐康行の乱や2年の山名氏を挑発して蜂起させた明徳の乱、さらに応永期の応永の乱で有力守護大名を討伐して将軍権力を固めていく。1392年(元中9年/明徳3年)には北朝が南朝の持つ三種の神器を接収し、後亀山天皇が譲位して南北朝合一(明徳の和約)が成し遂げられ、元号も明徳に統一された。 康暦の政変で失脚した後に幕政に復帰した細川頼之は明徳の乱でも戦い3年に没しており、弟の細川頼元が管領に就任している。4年には斯波義将が管領に就任しており、幕府の将軍を頂点とする三管領体制が整いつつある時期である。
見る 元中と明徳
明徳の和約
明徳の和約(めいとくのわやく)は、日本の南北朝時代の内乱の講和条約で、明徳3年/元中9年10月27日(ユリウス暦1392年11月12日)に南朝と北朝(室町幕府)との間で、和議と皇位継承について締結された約定。 南北合体条件(なんぼくがったいじょうけん)とも。
見る 元中と明徳の和約
易経
『易経』(えききょう、正字体:易經、)は、古代中国の書物で五経の一つ。著者は厳密には不明だが、『周易正義』等に載せる伝説では六十四卦を作ったのが伏羲、本文(卦爻辞)を作ったのが周公旦とされている高田眞治『易経(上)』岩波文庫、1969による。高田によれば本文は周の文王の作とする説など、古来から複数の異説がある。。 中心思想は、陰陽二つの元素の対立と統合により、森羅万象の変化法則を説き、人間処世上の指針・教訓の書とされる。語句は簡潔で、含蓄が有るとされる。 「玄学」の立場からは『老子道徳経』・『荘子』と合わせて「三玄(の書)」と呼ばれる。 また、中国では『黄帝内經』・『山海經』と合わせて「上古三大奇書」とも呼ぶ。
見る 元中と易経
新宣陽門院
新宣陽門院(しんせんようもんいん)は、南北朝時代の南朝の皇族・女院・歌人。院号宣下以前には、一品宮(いっぽんのみや)・一品内親王と称した。 その出自について、近世の南朝系図では、後村上天皇第一皇女で中宮・顕子(北畠親房の女)所生の憲子内親王(けんしないしんのう)とされていたが、それを裏付ける史料はない。 20世紀後半以降は、後醍醐天皇と阿野廉子との間に生まれた皇女であるとする説が有力である。その中でも特に、末娘である惟子内親王(いしないしんのう)に比定する説が比較的根強い。これが正しければ、祥子内親王(日本最後の伊勢神宮斎宮)や後村上天皇の同母妹となる。 阿野廉子と関わりが深く、その崩御に際し、七七忌御願文を奉献している。また、和歌に秀で、南朝の有力歌人として、准勅撰集『新葉和歌集』に20首が入集した。
見る 元中と新宣陽門院
新田氏
新田氏(にったし)は、武家・華族だった日本の氏族。清和源氏の一流河内源氏の源義家の孫新田義重を祖とする。上野国新田荘を本貫とした。鎌倉時代末の当主新田義貞は後醍醐天皇に従い鎌倉幕府倒幕に功績を上げ、南北朝時代にも南朝方武将として活躍したが、新田義興の死後には衰退。明治になると支流の岩松氏が新田の正統と認められて新田に改姓し、義貞の功により華族(男爵)に列せられた。
見る 元中と新田氏
日本
日本国(にほんこく、にっぽんこく、Japan)、または日本(にほん、にっぽん)は、東アジアに位置する民主制国家。首都は東京都。 全長3500キロメートル以上にわたる国土は、主に日本列島北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々。および南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などの弧状列島により構成される。大部分が温帯に属するが、北部や島嶼部では亜寒帯や熱帯の地域がある。地形は起伏に富み、火山地・丘陵を含む山地の面積は国土の約75%を占め、人口は沿岸の平野部に集中している。国内には行政区分として47の都道府県があり、日本人(大和民族・琉球民族・アイヌ民族現代、アイヌにルーツをもつ日本国民のうち、アイヌ語を話す能力もしくはアイヌとしてのアイデンティティーを持っている者は少数である一方、近年は政策的にアイヌ文化の復興と発展のための活動が推進されている。
見る 元中と日本
懐良親王
懐良親王(かねよししんのう、1329年?〈元徳元年〉- 1381年頃〈天授7年/弘和元年〉)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。官位は一品・式部卿。征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)と呼ばれる。外交上は明の日本国王として良懐(りょうかい)を名乗った。 南朝の征西大将軍として、肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いた。歌人としては、准勅撰和歌集『新葉和歌集』に1首が入集。
見る 元中と懐良親王
10月13日 (旧暦)
旧暦10月13日は旧暦10月の13日目である。六曜は仏滅である。
10月28日 (旧暦)
旧暦10月28日は旧暦10月の28日目である。六曜は先勝である。
10月2日 (旧暦)
旧暦10月2日(きゅうれきじゅうがつふつか)は、旧暦10月の2日目である。六曜は大安である。
10月5日 (旧暦)
旧暦10月5日(きゅうれきじゅうがついつか)は旧暦10月の5日目である。六曜は友引である。
10月8日 (旧暦)
旧暦10月8日(きゅうれきじゅうがつようか)は、旧暦10月の8日目である。六曜は大安である。
11月19日
11月19日(じゅういちがつじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から323日目(閏年では324日目)にあたり、年末まであと42日ある。
見る 元中と11月19日
1月18日 (旧暦)
旧暦1月18日は旧暦1月の18日目である。六曜は赤口である。
3月18日 (旧暦)
旧暦3月18日は旧暦3月の18日目である。六曜は友引である。
3月1日 (旧暦)
旧暦3月1日(きゅうれきさんがつついたち)は旧暦3月の1日目である。六曜は先負である。
見る 元中と3月1日 (旧暦)
3月22日 (旧暦)
旧暦3月22日は旧暦3月の22日目である。六曜は赤口である。
4月28日 (旧暦)
旧暦4月28日(きゅうれきしがつにじゅうはちにち)は、旧暦4月の28日目である。六曜は先勝である。
4月5日 (旧暦)
旧暦4月5日(きゅうれきしがついつか)は旧暦4月の5日目である。六曜は友引である。
見る 元中と4月5日 (旧暦)
5月18日
5月18日(ごがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から138日目(閏年では139日目)にあたり、年末まではあと227日ある。
見る 元中と5月18日
5月29日 (旧暦)
旧暦5月29日は、旧暦5月の29日目である。年によっては5月の最終日となる。六曜は先負である。
6月6日 (旧暦)
旧暦6月6日(きゅうれきろくがつむいか)は旧暦6月の6日目である。六曜は大安である。
見る 元中と6月6日 (旧暦)
7月19日 (旧暦)
旧暦7月19日(きゅうれきしちがつじゅうくにち)は、旧暦7月の19日目である。六曜は先勝である。
7月2日 (旧暦)
旧暦7月2日(きゅうれきしちがつふつか)は旧暦7月の2日目である。六曜は友引である。
見る 元中と7月2日 (旧暦)
7月4日 (旧暦)
旧暦7月4日(きゅうれきしちがつよっか)は旧暦7月の4日目である。六曜は仏滅である。
見る 元中と7月4日 (旧暦)
8月10日 (旧暦)
旧暦8月10日(きゅうれきはちがつとおか)は、旧暦8月の10日目である。六曜は大安である。
8月22日 (旧暦)
旧暦8月22日は旧暦8月の22日目である。六曜は大安である。
9月10日 (旧暦)
旧暦9月10日は旧暦9月の10日目である。六曜は赤口である。

