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藤原公季

索引 藤原公季

藤原 公季(ふじわら の きんすえ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・師輔の十一男(十二男とも)。官位は従一位、太政大臣、贈正一位。閑院大臣と号す。漢風諡号は仁義公、国公は甲斐公。閑院流の祖。.

105 関係: 右大臣参議堂上家大納言大鏡天元 (日本)天暦太政大臣女御如源安寿と厨子王丸寛仁寛和尋禅山椒大夫崇徳天皇中宮中納言三条天皇三条家一条天皇九条流平安時代康子内親王康保延暦寺弘徽殿侍従徳大寺家後一条天皇後白河天皇従三位従一位冷泉天皇円融天皇内大臣公卿白河天皇花山天皇西園寺家貞元 (日本)鳥羽天皇贈位近衛大将近衛府閑院流藤原実成藤原安子藤原師輔...藤原伊尹藤原伊周藤原忠君藤原北家藤原冬嗣藤原公実藤原公成藤原兼家藤原兼通藤原義子藤原為光藤原登子藤原遠度藤原遠量藤原道長藤原高光藤原茂子藤原能信藤原陳政醍醐天皇重明親王長徳長元院政東大寺村上天皇正三位正一位正暦永祚 (日本)治安 (元号)清華家源高明源重信朱雀天皇有明親王春宮坊摂家愛宮1017年1021年1029年10月17日 (旧暦)11月25日956年967年977年981年983年986年989年991年995年996年997年 インデックスを展開 (55 もっと) »

右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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参議

参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.

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堂上家

堂上家(とうしょうけ、どうじょうけ)は、公家の家格の一つ。御所の清涼殿南廂にある殿上間に昇殿する資格を世襲した家柄。また、公卿になれる家柄。同時に上級貴族とも呼ばれる。 中級貴族である地下の官人を除く公家を指す。江戸時代末期には137家があった。.

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大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

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大鏡

『大鏡』(おおかがみ)は、平安時代後期(白河院政期)に成立したとされている紀伝体の歴史物語である。.

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天元 (日本)

天元(てんげん)は、日本の元号の一つ。貞元の後、永観の前。978年から983年までの期間を指す。この時代の天皇は円融天皇。.

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天暦

天暦(てんりゃく)は、日本の元号の一つ。天慶の後、天徳の前。947年から957年までの期間を指す。この時代の天皇は村上天皇。.

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太政大臣

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.

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女御

女御(にょうご)は、天皇の後宮の身位の一つで、天皇の寝所に侍した。官名は中国・周代の官制を記した『周礼』に由来し、位は皇后・中宮に次ぐ。また、女御のうち、女性皇族たる女王が女御となった場合の呼称を王女御という。 初見は『日本書紀』雄略天皇の条であるが、実際は桓武天皇の代に紀乙魚・百済王教法などを女御としたのに始まる。当初、その位は低かったが次第に高まり、平安時代中期以降は、皇后は女御から昇進する慣例が確立した。最後の女御は孝明天皇の女御である九条夙子(英照皇太后)。 定員はなく、複数の女御がいる場合は住まう殿舎の名を取って「承香殿女御」などと呼んだ。 応仁の乱以後、上流貴族の娘の入内が絶えると、女御も存在しなくなった。後陽成朝に近衛前久の娘の前子が豊臣秀吉の養女として女御となり、ついで後水尾朝に徳川秀忠の娘の和子が女御になり、さらに中宮へ昇った。江戸時代には歴代天皇の正妻として摂家や世襲親王家の娘が一人だけ女御となり、しばしば准三宮となった。しかし霊元天皇や光格天皇などは女御を中宮に立てたものの、立后させない例の方が多かった。.

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如源

如源(にょげん、貞元2年(977年) - 治安元年4月18日(1021年6月1日))は平安時代中期の天台宗の僧。太政大臣・藤原公季の子で、母は兵部卿・有明親王の娘。三昧房と号す。 延暦寺に入り、天台座主・明救の弟子となる。長保4年(1002年)に参議・藤原行成を訪ね、法を問われている。長保6年(1004年)5月27日に明救の譲りで権律師に任ぜられた『僧綱補任』。寛弘8年(1011年)4月27日には権少僧都に進み、寛仁元年12月18日(1018年1月14日)には少僧都を務めた。治安元年(1021年)4月18日入滅。.

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安寿と厨子王丸

安寿と厨子王丸(あんじゅ-ずしおうまる)は日本の童話。『安寿と厨子王』とも言う。悲劇的な運命にもてあそばれる姉と弟を描く。.

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寛仁

寛仁(かんにん)は、日本の元号の一つ。長和の後、治安の前。1017年から1020年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇。.

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寛和

寛和(かんな)は、日本の元号の一つ。永観の後、永延の前。985年から987年までの期間を指す。この時代の天皇は花山天皇、一条天皇。.

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尋禅

尋禅(じんぜん、天慶6年(943年) - 永祚2年2月17日(990年3月16日))は、平安時代中期の天台宗の僧。藤原師輔の十男。母は醍醐天皇皇女雅子内親王。.

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山椒大夫

山椒大夫」(さんしょうだゆう)は、説話「さんせう太夫」をもとにした森鴎外による小説で、鴎外の代表作の一つである。.

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崇徳天皇

崇徳天皇(すとくてんのう、元永2年5月28日(1119年7月7日) - 長寛2年8月26日(1164年9月14日))は日本の第75代天皇(在位保安4年2月19日(1123年3月18日) - 永治元年12月7日(1142年1月5日))。譲位後は新院、 配流後は讃岐院とも呼ばれた。諱を顕仁(あきひと)という。 鳥羽天皇の第一皇子。母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。.

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中宮

中宮(ちゅうぐう)は、日本の天皇の妻たちの呼称の一つ。.

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中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

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三条天皇

三条天皇(さんじょうてんのう、天延4年1月3日(976年2月5日) - 寛仁元年5月9日(1017年6月5日))は第67代天皇。諱は居貞(おきさだ / いやさだ)。享年42。在位は寛弘8年6月13日(1011年7月16日)から長和5年1月29日(1016年3月10日)まで。 冷泉天皇の第二皇子。母は摂政太政大臣藤原兼家の長女・贈皇太后超子。花山天皇の異母弟。.

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三条家

三条家(さんじょうけ、正字体:三條)は、藤原氏北家閑院流の嫡流にあたる日本の公家。公家としての家格は清華家。明治以降は華族として三条実美の功により公爵を授けられた。家業は笛と香道。家紋は唐菱花(三条花角、三条家花角とも)。通字は「公」と「実」を交互に用いる。やはり家号を略して単に「三条」と呼ばれることもあった正親町三条家や三条西家とは区別して、転法輪三条家(てんぽうりんさんじょうけ、てぼりさんじょうけ)と呼ぶこともある。 明治維新までに三条家が輩出した公卿の数は39名。うち太政大臣まで昇った者が5名、左大臣まで昇った者が5名、右大臣まで昇った者が8名、内大臣まで昇った者が7名となっている。大臣家の正親町三条家と三条西家を筆頭に分流も多くある。.

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一条天皇

一条天皇(いちじょう てんのう、天元3年6月1日(980年7月15日) - 寛弘8年6月22日(1011年7月25日))は、平安時代中期の第66代天皇(在位:寛和2年6月23日(986年8月1日) - 寛弘8年6月13日(1011年7月16日))。諱は懐仁(やすひと)。 円融天皇の第1皇子。母は藤原兼家の娘、詮子。兄弟姉妹はない。.

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九条流

藤原頼通 |支流.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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康子内親王

康子内親王(やすこないしんのう/こうしないしんのう、延喜19年(919年) - 天暦11年6月6日(957年7月10日)は、平安時代の皇族、藤原師輔の4番目の正妻とされる。一品、准三后。.

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康保

康保(こうほう)は、日本の元号の一つ。応和の後、安和の前。964年から968年までの期間を指す。この時代の天皇は村上天皇、冷泉天皇。.

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延暦寺

延暦寺(えんりゃくじ、正字: 延曆寺)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので南都の興福寺と対に北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。1994年には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。.

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弘徽殿

弘徽殿(こきでん)とは、平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つ。転じて、弘徽殿を賜った后妃の称としても使われる。後者で女御の場合は「弘徽殿女御(こきでんのにょうご)」とも呼ぶ。 清涼殿に近く、後宮で最も格の高い殿舎であり、皇后・中宮・女御などが居住した。清涼殿の北、登華殿の南。西庇は細殿と呼ばれる女房らの居室空間で、『源氏物語』では光源氏と朧月夜がここで出逢ったことになっている。細殿は簀子がなく直に遣り戸から入れる構造になっており、清涼殿に出勤する男性官人の通路に面した弘徽殿や登華殿の細殿は男女の接点となる開放的な空間だった。 弘徽殿を賜っていたのが知られるのは、.

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侍従

服をまとった侍従(大阪歴史博物館) 侍従(じじゅう)とは、広義では(しばしば高貴な立場の)ある人物に付き従い、身の回りの世話などをする行為、または従う者そのものを指す。日本においては、特に天皇に側近奉仕する文官や位を意味するため、この項目ではこれについて解説する。なお、武官による侍従武官や皇太子に付される東宮侍従については、それぞれ項目を参照のこと。.

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徳大寺家

徳大寺家(とくだいじけ、正字体:德大寺)は、日本の公家、藤原氏北家閑院流。公家としての家格は清華家で、三条家や西園寺家とは兄弟筋にあたる。明治以降は華族として徳大寺実則が侯爵を授けられ、のちにその功により公爵に陞爵した。家業は笛。家紋は木瓜花菱浮線綾(徳大寺家花角)。通字は「公」と「実」を交互に用いる。 家祖の左大臣徳大寺実能は、閑院流の流祖である太政大臣藤原公季の五世孫・権大納言藤原公実の四男で、平安時代末期に崇徳・後白河両帝の国母となった待賢門院の同母兄にあたる。実能は葛野郡衣笠岡(現在の京都市北区)の西南麓に山荘を営み、その中に持仏堂を建ててこれを得大寺あるいは徳大寺と呼んでいたが、のちにはこの山荘自体が徳大寺殿と呼ばれるようになり、これが家名の由来となった。 江戸時代には禁裏北の公家屋敷の一角、今出川烏丸東入北側に屋敷を構えていた。その跡地には明治になって華族会館が建てられ、戦後は同志社大学が取得して同大学大学院の図書館が建てられたが、烏丸今出川交差点と京都市バスの烏丸今出川停留所の間に今日もたたずむ旧徳大寺家の表門がかろうじて往時の名残をその地に留めている。.

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後一条天皇

後一条天皇(ごいちじょうてんのう、寛弘5年9月11日(1008年10月12日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))は、平安時代中期の第68代天皇(在位:長和5年2月7日(1016年3月18日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))。諱は敦成(あつひら)。一条天皇の第二皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母弟に後朱雀天皇。.

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後白河天皇

後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。.

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従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

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従一位

従一位(じゅいちい)は、日本の位階及び神階の位の一つ。正一位の下に位し、正二位の上位にあたる。.

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冷泉天皇

冷泉天皇(れいぜいてんのう、天暦4年5月24日(950年6月12日)- 寛弘8年10月24日(1011年11月21日)、在位:康保4年10月11日(967年11月15日) - 安和2年8月13日(969年9月27日))は、日本(平安時代中期)の第63代天皇。村上天皇の第二皇子で、諱は憲平(のりひら)。母は藤原師輔の娘・中宮安子。円融天皇の同母兄。.

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円融天皇

円融天皇(えんゆうてんのう、天徳3年旧3月2日(959年4月12日) - 正暦2年旧2月12日(991年3月1日); 在位:安和2年旧9月23日(969年11月5日) - 永観2年旧8月27日(984年9月24日))は、第64代天皇。諱は守平(もりひら)。 村上天皇の第五皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘・中宮安子。冷泉天皇の同母弟。.

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内大臣

内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。.

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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白河天皇

白河天皇(しらかわ てんのう)は、第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日) - 応徳3年11月26日(1087年1月3日))。諱を貞仁(さだひと)という。 後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。.

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花山天皇

花山天皇(かざんてんのう/かさんてんのう、安和元年10月26日(968年11月29日) - 寛弘5年2月8日(1008年3月17日)、在位:永観2年10月10日(984年11月5日) - 寛和2年6月23日(986年8月1日))は、日本(平安時代中期)の第65代天皇。諱は師貞(もろさだ)。花山院(かさんいん)や花山法皇とも呼ばれる。 冷泉天皇の第一皇子。母は、摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子。三条天皇の異母兄。花山源氏(神祇伯を世襲した伯王家、のち断絶)の祖。.

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西園寺家

西園寺家(さいおんじけ)は、清華家の家格を有する公家。藤原北家閑院流の一門で、支流に洞院家・今出川家(菊亭家)・伊予西園寺氏などがある。家名は、4代公経が北山に建立した西園寺(北山殿)にちなむ。家紋は左三つ巴を使用。.

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諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。.

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貞元 (日本)

貞元(じょうげん)は、日本の元号の一つ。天延の後、天元の前。976年から978年までの期間を指す。この時代の天皇は円融天皇。.

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鳥羽天皇

鳥羽天皇(とばてんのう、旧字体:鳥羽、康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日(1107年8月9日) - 保安4年正月28日(1123年2月25日))。諱は宗仁(むねひと)。 堀河天皇の皇子。母は贈皇太后・藤原苡子。子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年に渡り院政を敷いた。.

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贈位

贈位(ぞうい)とは、生前に功績を挙げた者に対して、没後に位階を贈る制度。追贈、追賜ともいう。官職を贈る場合は贈官(ぞうかん)という(例:贈太政大臣)。 将棋や囲碁の世界では、大会での優勝や功績に応じてタイトルを贈られることを贈位と呼ぶこともある。就位ともいう。この際に贈られる賞状を贈位状とも呼ぶ。.

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近衛大将

近衛大将(このえ の だいしょう)は、日本の律令官制における令外官の一つ。宮中の警固などを司る左右の近衛府の長官。左近衛府には左近衛大将(さこんえのだいしょう)、右近衛府には右近衛大将(うこんえのだいしょう)が置かれ、それぞれ略して「左大将」「右大将」ともいう。定員は各1名で、権官はない。官位相当は従三位。常設武官の最高職で、馬御監の兼任とされた。和訓は「ちかきまもりのつかさのかみ」。.

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近衛府

近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。.

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閑院流

閑院流(かんいんりゅう)とは、三条家・西園寺家・徳大寺家をはじめとする藤原北家支流の公家の一門。院政期に外戚の立場を得たことで大きな勢力を獲得した。.

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藤原実成

藤原 実成(ふじわら の さねなり)は、平安時代中期の公卿。藤原北家閑院流、太政大臣藤原公季の長男。正二位、中納言、大宰権帥。.

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藤原安子

藤原 安子(ふじわら の あんし(やすこ)、延長5年(927年) - 応和4年4月29日(964年6月11日))は、右大臣藤原師輔の長女。母は武蔵守藤原経邦の女盛子。第62代村上天皇中宮。第63代冷泉天皇・第64代円融天皇、為平親王、承子内親王、輔子内親王、資子内親王、選子内親王らの生母。同母兄弟に伊尹・兼通・兼家・忠君、登子(重明親王妃)・藤原師輔三女(源高明先妻、俊賢母)・怤子(冷泉天皇女御)など。.

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藤原師輔

藤原 師輔(ふじわら の もろすけ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白太政大臣・藤原忠平の次男。官位は正二位・右大臣。 有職故実・学問に優れた人物として知られ、村上天皇の時代に右大臣として朝政を支えた。師輔の没後に長女・中宮安子所生の皇子が冷泉天皇・円融天皇としてそれぞれ即位し、師輔の家系は天皇の外戚として大いに栄えた。.

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藤原伊尹

藤原 伊尹(ふじわら の これただ/これまさ)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、右大臣・藤原師輔の長男。 妹の中宮・安子が生んだ冷泉天皇・円融天皇の即位に伴って栄達し、摂政・太政大臣にまで上り詰めたが、まもなく病気により早逝した。孫に書家として名高い藤原行成がおり、子孫は世尊寺家として書道を世業とした。.

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藤原伊周

藤原 伊周(ふじわらの これちか)は平安時代中期の公卿。摂政関白内大臣藤原道隆の嫡男(三男)。.

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藤原忠君

藤原 忠君(ふじわら の ただきみ)は、平安時代中期の貴族・歌人。名は忠尹とも記される。藤原北家、右大臣・藤原師輔の五男。官位は正四位下・右兵衛督。冷泉天皇・円融天皇の外叔父。.

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藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

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藤原冬嗣

藤原 冬嗣(ふじわら の ふゆつぐ)は、平安時代初期の公卿・歌人。藤原北家、右大臣・藤原内麻呂の次男。官位は正二位・左大臣、贈正一位・太政大臣。閑院大臣と号す。.

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藤原公実

藤原 公実(ふじわら の きんざね)は、平安時代の後期の公卿、歌人。正二位、権大納言に至り、三条大納言と称す。.

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藤原公成

藤原 公成(ふじわら の きんなり)は、平安時代中期の公卿。藤原北家閑院流の流れをつくる。中納言藤原実成の長男。従二位、参議、権中納言。滋野井別当と号す。.

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藤原兼家

東三条院跡、藤原兼家邸、京都市中京区押小路通釜座西北角 藤原 兼家(ふじわら の かねいえ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・藤原師輔の三男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。 策略によって花山天皇を退位させて、娘が生んだ一条天皇を即位させて摂政となった。その後右大臣を辞して摂政のみを官職として、摂関の地位を飛躍的に高め、また子・道隆にその地位を譲って世襲を固める。以後、摂関は兼家の子孫が独占し、兼家は東三条大入道殿と呼ばれて尊重された。 兄・兼通との激しい確執や、室の一人に『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母がいる事でも知られている。.

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藤原兼通

藤原 兼通(ふじわら の かねみち)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・藤原師輔の次男。官位は従一位・関白太政大臣、贈正一位。.

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藤原義子

藤原 義子(ふじわら の ぎし/よしこ、天延2年(974年) - 天喜元年(1053年)閏7月)は平安時代中期から後期にかけての女性。太政大臣・藤原公季の長女で、母は有明親王女。一条天皇の女御。従二位(または正二位)。弘徽殿女御と呼ばれた。 長徳2年(996年)7月20日夕に入内し、8月9日に女御となる。長保2年(1000年)に従三位、寛弘2年(1005年)に従二位に昇った。万寿3年12月18日(1027年1月28日)に出家。天喜元年(1053年)閏7月に薨去。享年80。.

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藤原為光

藤原 為光(ふじわら の ためみつ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・藤原師輔の九男。官位は従一位・太政大臣、贈正一位。法住寺の建立で知られる。.

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藤原登子

藤原 登子(ふじわら の とうし/なりこ)、生年不詳 - 天延3年3月29日(975年5月12日))は、平安時代中期の女性。右大臣藤原師輔の次女。母は武蔵守藤原経邦の女盛子。式部卿重明親王の継室。のち村上天皇の後宮に入る。さらに円融天皇の母代りとなり、尚侍に任官。従二位。同母兄弟に伊尹・兼通・兼家、安子(村上天皇中宮)など。継子に徽子女王(村上天皇女御)がいる。貞観殿の尚侍。.

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藤原遠度

藤原 遠度(ふじわら の とおのり)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・藤原師輔の七男(六男とも)。官位は従三位・播磨権守。北野三位と号す。.

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藤原遠量

藤原 遠量(ふじわら の とおかず)は、平安時代中期の貴族。藤原北家、右大臣・藤原師輔の四男。官位は従四位上・大蔵卿。.

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藤原道長

藤原 道長(ふじわら の みちなが)は、平安時代の中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男(または四男)。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。 父・兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男・伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。 一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが三条天皇とは深刻な対立が生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。さらには、六女の嬉子を後の後朱雀天皇となる敦良親王に入侍させた。晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けた。.

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藤原高光

藤原 高光(ふじわら の たかみつ)は、平安時代中期の貴族・歌人。藤原北家、右大臣・藤原師輔の八男。官位は従五位上・右近衛少将。三十六歌仙の一人。.

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藤原茂子

藤原 茂子(ふじわら の もし/しげこ、生年不詳 - 康平5年6月22日(1062年7月30日))は、第71代後三条天皇の皇太子時代の妃、第72代白河天皇生母。中納言藤原公成の娘で、大納言藤原能信の養女となった。母は藤原知光女。別名は滋野井御息所。.

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藤原能信

藤原 能信(ふじわら の よしのぶ)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の四男。官位は正二位・権大納言、贈正一位、太政大臣。.

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藤原陳政

藤原 陳政(ふじわら の のぶまさ)は平安時代中期の貴族。藤原北家山蔭流、参議・藤原安親の子。官位は正四位下・内蔵頭。.

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醍醐天皇

醍醐天皇(だいごてんのう、元慶9年1月18日(885年2月6日)- 延長8年9月29日(930年10月23日))は、平安時代の第60代天皇(在位:寛平9年7月13日(897年8月14日)- 延長8年9月22日(930年10月16日))。臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源 維城(みなもと の これざね)といった。のち父の即位とともに皇族に列し親王宣下ののちに敦仁(あつぎみ・あつひと)に改めた。 宇多天皇の第一皇子。母は内大臣藤原高藤の女藤原胤子。養母は藤原温子(関白太政大臣基経の女)。.

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重明親王

重明親王(しげあきらしんのう、延喜6年(906年) - 天暦8年9月14日(954年10月13日))は、平安時代の皇族。醍醐天皇の第四皇子。官位は三品・式部卿。別名吏部王(式部卿の唐名)。.

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長徳

長徳(ちょうとく)は、日本の元号の一つ。正暦の後、長保の前。995年から999年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.

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長元

長元(ちょうげん)は、日本の元号の一つ。万寿の後、長暦の前。1028年から1036年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇、後朱雀天皇。.

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院政

院政(いんせい)は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治である。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治形態である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。.

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東大寺

東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。 金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である。現別当(住職・222世)は狹川普文。 奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。 東大寺は1998年12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。.

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村上天皇

村上天皇(むらかみてんのう、延長4年旧6月2日(926年7月14日)- 康保4年旧5月25日(967年7月5日))、は、平安時代中期の第62代天皇(在位:天慶9年(946年)旧4月28日 - 康保4年(967年)旧5月25日)。諱は成明(なりあきら)。 第60代醍醐天皇の第十四皇子。母は藤原基経女中宮穏子。第61代朱雀天皇の同母弟。.

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正三位

正三位(しょうさんみ)とは、位階及び神階のひとつ。従二位の下、従三位の上に位する。日本では「おおいみつのくらい」とも読む。.

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正一位

正一位(しょういちい)は、位階及び神階のひとつ。諸王及び人臣における位階・神社における神階の最高位に位し、従一位の上にあたる。.

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正暦

正暦(しょうりゃく)は、日本の元号の一つ。永祚の後、長徳の前。990年から995年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.

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永祚 (日本)

永祚(えいそ)は、日本の元号の一つ。永延の後、正暦の前。989年から990年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.

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治安 (元号)

治安(じあん、ちあん)は、日本の元号の一つ。寛仁の後、万寿の前。1021年から1023年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇。.

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清華家

清華家(せいがけ)とは、公家の家格のひとつ。最上位の摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることのできる7家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)を指すが、のちに、広幡・醍醐を加えて9家となった。また、豊臣政権時に五大老だった徳川・毛利・小早川・前田・宇喜多・上杉らも清華成を果たしており、清華家と同等の扱い(武家清華家)を受けている。.

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源高明

源 高明(みなもと の たかあきら)は、平安時代の公卿。醍醐天皇の第10皇子。母は源周子。法名は覚念。官位は正二位・左大臣。京都右京四条に壮麗な豪邸を建設し、西宮左大臣と呼ばれた。 一世源氏の尊貴な身分であり、学問に優れ朝儀に通じており、また実力者藤原師輔、その娘の中宮安子の後援も得て朝廷で重んじられた。師輔・安子の死後、藤原氏に忌まれて安和の変で失脚し、政界から退いた。.

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源重信

源 重信(みなもと の しげのぶ)は、平安時代中期の公卿。宇多天皇の皇子である式部卿・敦実親王の四男。官位は正二位・左大臣、贈正一位。六条左大臣と号す。.

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朱雀天皇

朱雀天皇(すざくてんのう、延長元年7月24日(923年9月7日) - 天暦6年8月15日(952年9月6日)、在位:延長8年11月22日(930年12月14日) - 天慶9年4月13日(946年5月16日))は第61代天皇。諱は寛明(ゆたあきら)。 第60代醍醐天皇の第十一皇子。母は藤原基経の娘、中宮藤原穏子。.

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有明親王

有明親王(ありあきらしんのう)は、平安時代中期の皇族。醍醐天皇の第七皇子。母は女御源和子。四品・大宰帥。.

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春宮坊

春宮坊(とうぐうぼう)は日本古代の律令制において存在した機関。和訓は「みこのみやのつかさ」。.

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摂家

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.

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愛宮

愛宮(あいみや/あいのみや、生没年不詳)は、平安時代中期の女性。左大臣源高明の継室。右大臣藤原師輔の五女で、母は雅子内親王(醍醐天皇第十皇女)。実名は不明。「愛宮」というのはおそらくは幼名であると推察される。藤原伊尹・藤原兼通・藤原兼家・藤原公季・藤原安子(村上天皇中宮)・源高明室(源俊賢母)らの異母姉妹。同母兄弟に藤原高光・藤原為光・尋禅がいた。 応和元年(961年)12月、仲の良かった兄高光が出家したため、大いに悲しんだ(このことは『多武峯少将物語』にも語られている)。叔父にあたる源高明に嫁いでいた異母姉(師輔三女)が没した後、後妻として高明に嫁ぎ、明子(藤原道長室)・経房を産んだ。安和2年(969年)3月の安和の変の後、高明と離別した。夫と離別後も西宮殿(高明の邸宅)に居住していたが、その後、西宮殿が焼失したため桃園に移住。その後の消息は不明である。 『蜻蛉日記』には、出家して桃園に隠棲する愛宮の様子が記述されている。 Category:九条流 Category:平安時代の公卿の妻室 Category:10世紀生.

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1017年

記載なし。

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1021年

記載なし。

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1029年

記載なし。

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10月17日 (旧暦)

旧暦10月17日は旧暦10月の17日目である。六曜は友引である。.

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11月25日

11月25日(じゅういちがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から329日目(閏年では330日目)にあたり、年末まであと36日ある。.

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956年

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967年

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977年

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981年

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983年

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986年

記載なし。

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989年

丸谷才一『男のポケット』、「空白の年」の章では、「世界中で、ちつとも事件が起らなかつた年」として紹介されている。元文献は「紀元前5000年から現在までを収め」ているイギリスの年表とのことだが詳細は不明。.

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991年

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995年

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996年

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997年

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