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藤原為光

索引 藤原為光

藤原 為光(ふじわら の ためみつ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・藤原師輔の九男。官位は従一位・太政大臣、贈正一位。法住寺の建立で知られる。.

93 関係: 右大臣参議吉川弘文館大納言天延天皇天禄天暦天慶太政大臣外戚女御女房官位安和寛和尋禅左大臣中納言一条天皇九条流平安時代弁官従三位従一位従五位冷泉天皇円融天皇公卿皇女禎子内親王相模国花山天皇貞元 (日本)贈位関白藤原妍子藤原安子藤原師輔藤原伊尹藤原伊周藤原忠君藤原北家藤原儼子藤原公季藤原公信藤原兼家藤原兼通藤原義懐...藤原登子藤原隆家藤原遠度藤原遠量藤原道信藤原道隆藤原道長藤原詮子藤原誠信藤原高光藤原斉信藤原敦敏蔵人蔵人頭醍醐天皇重明親王雅子内親王村上天皇正三位正一位正二位正暦法住寺 (京都市)源兼資源高明源重信源雅信摂政愛宮2003年6月16日 (旧暦)7月23日942年957年968年970年973年975年977年986年987年991年992年 インデックスを展開 (43 もっと) »

右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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参議

参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

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天延

天延(てんえん)は、日本の元号の一つ。天禄の後、貞元の前。973年から976年までの期間を指す。この時代の天皇は円融天皇。.

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天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

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天禄

天禄(てんろく)は、日本の元号の一つ。安和の後、天延の前。西暦の970年から973年までに対応する。この時代の天皇は円融天皇。.

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天暦

天暦(てんりゃく)は、日本の元号の一つ。天慶の後、天徳の前。947年から957年までの期間を指す。この時代の天皇は村上天皇。.

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天慶

天慶(てんぎょう、てんけい、てんきょう)は、日本の元号の一つ。承平の後、天暦の前。938年から947年までの期間を指す。この時代の天皇は朱雀天皇、村上天皇。.

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太政大臣

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.

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外戚

外戚(がいせき)とは、皇帝、王の母親または妃の一族のことである。.

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女御

女御(にょうご)は、天皇の後宮の身位の一つで、天皇の寝所に侍した。官名は中国・周代の官制を記した『周礼』に由来し、位は皇后・中宮に次ぐ。また、女御のうち、女性皇族たる女王が女御となった場合の呼称を王女御という。 初見は『日本書紀』雄略天皇の条であるが、実際は桓武天皇の代に紀乙魚・百済王教法などを女御としたのに始まる。当初、その位は低かったが次第に高まり、平安時代中期以降は、皇后は女御から昇進する慣例が確立した。最後の女御は孝明天皇の女御である九条夙子(英照皇太后)。 定員はなく、複数の女御がいる場合は住まう殿舎の名を取って「承香殿女御」などと呼んだ。 応仁の乱以後、上流貴族の娘の入内が絶えると、女御も存在しなくなった。後陽成朝に近衛前久の娘の前子が豊臣秀吉の養女として女御となり、ついで後水尾朝に徳川秀忠の娘の和子が女御になり、さらに中宮へ昇った。江戸時代には歴代天皇の正妻として摂家や世襲親王家の娘が一人だけ女御となり、しばしば准三宮となった。しかし霊元天皇や光格天皇などは女御を中宮に立てたものの、立后させない例の方が多かった。.

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女房

女房(にょうぼう)とは、平安時代から江戸時代頃までの貴族社会において、朝廷や貴顕の人々に仕えた奥向きの女性使用人。女房の名称は、仕える宮廷や貴族の邸宅で彼女らにあてがわれた専用の部屋に由来する。 もっぱら主人の身辺に直接関わる雑務を果たす身分の高い使用人であり、場合によっては乳母、幼児や女子の主人に対する家庭教師、男子の主人に対する内々の秘書などの役割を果たした。主人が男性の場合には主人の妾(召人)となったり、女性の場合には主人の元に通う男と関係を持つことが多く、結婚などによって退職するのが一般的であった。 尚、内裏で働く女房のうち、天皇に仕えるのは「上の女房」(内裏女房)と呼ばれる女官で、後宮の妃(ひいてはその実家)に仕える私的な女房とは区別される。後宮の妃に仕える女房である「宮の女房」のほとんどが、妃の実家から妃に付けられて後宮に入った人々で、清少納言や紫式部なども女叙位は受けていたものの、この身分であったと考えられている。かつて、「女房の中に女官としての性格を持つ公的な女房と、私的な女房に分かれる」とする、加納重文と、「全ての女房は、朝廷から位階と禄を受ける公的存在」とする角田文衛による論争が存在したが、今日の研究においては収入面においては、中宮や皇后に仕える女房には、妃自身の封戸や年給からの収入などからも給与を受けていたと考えられるものの、大勢の女房の生活を支えるためには、妃の実家の支援も必要としていたと考えられている。一方、宮中に仕える主立った女房は女叙位は受けていたと考えられるが、全ての女房に女官としての公的な地位を与えられていたのか否かについては、今日でも議論がある。 平安時代中期以降の社会においては、受領階級などの中級貴族の娘が出仕することが多く、そのため教養に優れていた。ひらがなの使用など国風文化に大きな影響を与えた。和歌や和文文学に優れた人物も多く、平安時代から鎌倉時代にかけての、この階層の作者の手になるものを、特に「女房文学」と呼ぶ。.

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官位

日本における官位(かんい)は、日本史では人が就く官職と、人の貴賤を表す序列である位階の総称、古代朝鮮史(高句麗・百済・新羅)においては人の貴賤の序列として定められた位のことである。ともに中国の影響を受けたものだが、中国史では官位という言葉は用いない。 官職と位階との相当関係を定めたものを官位相当といい、各官職には相当する位階(品階)に叙位している者を任官する制度を官位制(官位制度、官位相当制)という『日本歴史大事典 1』小学館、2000年(平成12年)、768頁。日本において、官職と位階は律令法(律令制)によって体系的に整備された。位階制度については「位階」の項目を、官職については「日本の官制」を参照のこと。以下、日本における官位制について概説する。.

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安和

安和(あんな)は、日本の元号の一つ。康保の後、天禄の前。968年から970年までの期間を指す。この時代の天皇は冷泉天皇、円融天皇。.

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寛和

寛和(かんな)は、日本の元号の一つ。永観の後、永延の前。985年から987年までの期間を指す。この時代の天皇は花山天皇、一条天皇。.

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尋禅

尋禅(じんぜん、天慶6年(943年) - 永祚2年2月17日(990年3月16日))は、平安時代中期の天台宗の僧。藤原師輔の十男。母は醍醐天皇皇女雅子内親王。.

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左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

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一条天皇

一条天皇(いちじょう てんのう、天元3年6月1日(980年7月15日) - 寛弘8年6月22日(1011年7月25日))は、平安時代中期の第66代天皇(在位:寛和2年6月23日(986年8月1日) - 寛弘8年6月13日(1011年7月16日))。諱は懐仁(やすひと)。 円融天皇の第1皇子。母は藤原兼家の娘、詮子。兄弟姉妹はない。.

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九条流

藤原頼通 |支流.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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弁官

弁官(べんかん、辨官)は、朝廷の最高機関、太政官の職である左大弁(さだいべん)・右大弁(うだいべん)・左中弁(さちゅうべん)・右中弁(うちゅうべん)・左少弁(さしょうべん)・右少弁(うしょうべん)の総称である。唐名(漢風名称)は尚書。通説においては四等官の中の判官(じょう)に相当するが、異説として弁官を含めた弁官局を太政官の別局として捉え、元は本来の四等官の系列には含まない品官であったする説もある。また、『延喜式』においても、季禄・時服・馬料・要劇料などの給与の支給手続やそのために必要な上日の集計・考文の送付などが太政官とは別個に行われ、人事・財政体系における太政官からの独立性が確認できる。 大弁は従四位上、中弁は正五位上相当、少弁は正五位下相当(養老令官位令)。 官庁を指揮監督する役を負っていたため、後には少納言より高位に位置づけられ、参議と大弁を兼任する者もいた。また、蔵人頭と大弁または中弁を兼ねる者もおり、特に頭弁(とうのべん)と称された。 左中弁以上の経験者には参議に昇進する資格があり(右中弁以下にはない)、将来三位以上に昇る道が開かれた出世の登竜門であった。.

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従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

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従一位

従一位(じゅいちい)は、日本の位階及び神階の位の一つ。正一位の下に位し、正二位の上位にあたる。.

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従五位

従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.

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冷泉天皇

冷泉天皇(れいぜいてんのう、天暦4年5月24日(950年6月12日)- 寛弘8年10月24日(1011年11月21日)、在位:康保4年10月11日(967年11月15日) - 安和2年8月13日(969年9月27日))は、日本(平安時代中期)の第63代天皇。村上天皇の第二皇子で、諱は憲平(のりひら)。母は藤原師輔の娘・中宮安子。円融天皇の同母兄。.

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円融天皇

円融天皇(えんゆうてんのう、天徳3年旧3月2日(959年4月12日) - 正暦2年旧2月12日(991年3月1日); 在位:安和2年旧9月23日(969年11月5日) - 永観2年旧8月27日(984年9月24日))は、第64代天皇。諱は守平(もりひら)。 村上天皇の第五皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘・中宮安子。冷泉天皇の同母弟。.

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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皇女

皇女(ひめみこ/こうじょ/おうじょ)とは、天皇または皇帝の女子(娘)を指す。日本においては、内親王号が成立する以前に存在した女性皇族の身位でもある。これに対して男子(息子)を皇子という。.

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禎子内親王

子内親王(ていし ないしんのう、長和2年7月6日(1013年8月15日) - 寛治8年1月16日(1094年2月3日))は、第67代三条天皇の第3皇女で、第69代後朱雀天皇の皇后、女院。「ていし」は仮の読みで、実際の読みは「さだこ」または「よしこ」だったと推測されている。 母は摂政藤原道長女・皇后妍子。院号は陽明門院(ようめいもんいん)。所生の子女に、尊仁親王(後三条天皇)、伊勢斎宮良子内親王、賀茂斎院娟子内親王がいる。.

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相模国

模国(さがみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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花山天皇

花山天皇(かざんてんのう/かさんてんのう、安和元年10月26日(968年11月29日) - 寛弘5年2月8日(1008年3月17日)、在位:永観2年10月10日(984年11月5日) - 寛和2年6月23日(986年8月1日))は、日本(平安時代中期)の第65代天皇。諱は師貞(もろさだ)。花山院(かさんいん)や花山法皇とも呼ばれる。 冷泉天皇の第一皇子。母は、摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子。三条天皇の異母兄。花山源氏(神祇伯を世襲した伯王家、のち断絶)の祖。.

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諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。.

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貞元 (日本)

貞元(じょうげん)は、日本の元号の一つ。天延の後、天元の前。976年から978年までの期間を指す。この時代の天皇は円融天皇。.

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贈位

贈位(ぞうい)とは、生前に功績を挙げた者に対して、没後に位階を贈る制度。追贈、追賜ともいう。官職を贈る場合は贈官(ぞうかん)という(例:贈太政大臣)。 将棋や囲碁の世界では、大会での優勝や功績に応じてタイトルを贈られることを贈位と呼ぶこともある。就位ともいう。この際に贈られる賞状を贈位状とも呼ぶ。.

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関白

関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.

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藤原妍子

藤原 妍子(ふじわら の けんし/きよこ、正暦5年3月(994年4月) - 万寿4年9月14日(1027年10月16日))は、摂政藤原道長の次女。母は源倫子。第67代三条天皇中宮。別名枇杷殿皇太后。子女は禎子内親王(後朱雀天皇皇后)。同母の兄弟に頼通・教通、上東門院彰子・威子・嬉子。.

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藤原安子

藤原 安子(ふじわら の あんし(やすこ)、延長5年(927年) - 応和4年4月29日(964年6月11日))は、右大臣藤原師輔の長女。母は武蔵守藤原経邦の女盛子。第62代村上天皇中宮。第63代冷泉天皇・第64代円融天皇、為平親王、承子内親王、輔子内親王、資子内親王、選子内親王らの生母。同母兄弟に伊尹・兼通・兼家・忠君、登子(重明親王妃)・藤原師輔三女(源高明先妻、俊賢母)・怤子(冷泉天皇女御)など。.

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藤原師輔

藤原 師輔(ふじわら の もろすけ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白太政大臣・藤原忠平の次男。官位は正二位・右大臣。 有職故実・学問に優れた人物として知られ、村上天皇の時代に右大臣として朝政を支えた。師輔の没後に長女・中宮安子所生の皇子が冷泉天皇・円融天皇としてそれぞれ即位し、師輔の家系は天皇の外戚として大いに栄えた。.

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藤原伊尹

藤原 伊尹(ふじわら の これただ/これまさ)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、右大臣・藤原師輔の長男。 妹の中宮・安子が生んだ冷泉天皇・円融天皇の即位に伴って栄達し、摂政・太政大臣にまで上り詰めたが、まもなく病気により早逝した。孫に書家として名高い藤原行成がおり、子孫は世尊寺家として書道を世業とした。.

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藤原伊周

藤原 伊周(ふじわらの これちか)は平安時代中期の公卿。摂政関白内大臣藤原道隆の嫡男(三男)。.

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藤原忠君

藤原 忠君(ふじわら の ただきみ)は、平安時代中期の貴族・歌人。名は忠尹とも記される。藤原北家、右大臣・藤原師輔の五男。官位は正四位下・右兵衛督。冷泉天皇・円融天皇の外叔父。.

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藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

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藤原儼子

藤原 儼子(ふじわら の たけこ、? - 長和5年正月21日(1016年3月8日))は、平安時代の女性。藤原為光の四女。母は藤原伊尹の娘『小右記』長和5年正月21日条。 花山法皇の愛人で、法皇の死後、藤原妍子の女官、ついで藤原道長の妾となる。長和5年(1016年)1月21日に道長の子を産むが、死産で母子共々死去したという。.

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藤原公季

藤原 公季(ふじわら の きんすえ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・師輔の十一男(十二男とも)。官位は従一位、太政大臣、贈正一位。閑院大臣と号す。漢風諡号は仁義公、国公は甲斐公。閑院流の祖。.

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藤原公信

藤原公信(ふじわら の きみのぶ/きんのぶ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、太政大臣・藤原為光の四男。官位は従二位・権中納言。兄で大納言・藤原斉信の養子となる。.

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藤原兼家

東三条院跡、藤原兼家邸、京都市中京区押小路通釜座西北角 藤原 兼家(ふじわら の かねいえ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・藤原師輔の三男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。 策略によって花山天皇を退位させて、娘が生んだ一条天皇を即位させて摂政となった。その後右大臣を辞して摂政のみを官職として、摂関の地位を飛躍的に高め、また子・道隆にその地位を譲って世襲を固める。以後、摂関は兼家の子孫が独占し、兼家は東三条大入道殿と呼ばれて尊重された。 兄・兼通との激しい確執や、室の一人に『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母がいる事でも知られている。.

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藤原兼通

藤原 兼通(ふじわら の かねみち)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・藤原師輔の次男。官位は従一位・関白太政大臣、贈正一位。.

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藤原義懐

藤原 義懐(ふじわら の よしちか)は、平安時代中期の公卿。摂政太政大臣・藤原伊尹の五男。 花山天皇の治世にその外叔父として権勢を奮うが、天皇の出家・退位に従い出家し、政界を引退した。.

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藤原登子

藤原 登子(ふじわら の とうし/なりこ)、生年不詳 - 天延3年3月29日(975年5月12日))は、平安時代中期の女性。右大臣藤原師輔の次女。母は武蔵守藤原経邦の女盛子。式部卿重明親王の継室。のち村上天皇の後宮に入る。さらに円融天皇の母代りとなり、尚侍に任官。従二位。同母兄弟に伊尹・兼通・兼家、安子(村上天皇中宮)など。継子に徽子女王(村上天皇女御)がいる。貞観殿の尚侍。.

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藤原隆家

藤原 隆家(ふじわら の たかいえ)は、平安時代中期の貴族。藤原道隆の四男(高階貴子を母とする兄弟では次男).

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藤原遠度

藤原 遠度(ふじわら の とおのり)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・藤原師輔の七男(六男とも)。官位は従三位・播磨権守。北野三位と号す。.

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藤原遠量

藤原 遠量(ふじわら の とおかず)は、平安時代中期の貴族。藤原北家、右大臣・藤原師輔の四男。官位は従四位上・大蔵卿。.

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藤原道信

藤原 道信(ふじわら の みちのぶ)は、平安時代中期の公家・歌人。藤原北家、太政大臣・藤原為光の三男。官位は従四位上・左近衛中将。中古三十六歌仙の一人。.

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藤原道隆

藤原 道隆(ふじわら の みちたか)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の長男。官位は正二位・摂政・関白・内大臣。 花山天皇退位事件(寛和の変)で父兼家の意を受けて宮中で活動。甥にあたる一条天皇の即位後は急速に昇進した。娘・定子を女御として入内させ、後に中宮となす。父・兼家が死ぬと後を継いで関白となる。朝政を主導するが僅か5年ほどで病に倒れ、嫡男・伊周を後任の関白にと願うが、天皇からは許されず、薨御した。.

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藤原道長

藤原 道長(ふじわら の みちなが)は、平安時代の中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男(または四男)。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。 父・兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男・伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。 一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが三条天皇とは深刻な対立が生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。さらには、六女の嬉子を後の後朱雀天皇となる敦良親王に入侍させた。晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けた。.

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藤原詮子

東三条殿跡・藤原詮子居住地、京都市中京区押小路通釜座西北角 藤原 詮子(ふじわら の せんし/あきこ、応和2年(962年) - 長保3年閏12月22日(1002年2月7日))は、平安時代、第64代円融天皇女御。第66代一条天皇生母(国母)。院号は東三条院(ひがしさんじょういん)。 摂政関白・太政大臣藤原兼家の次女で、母は摂津守藤原中正の娘時姫。先後して摂関に在職した道隆・道兼・道長、また冷泉天皇女御超子は同母の兄弟。.

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藤原誠信

藤原 誠信(ふじわら の さねのぶ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、太政大臣・藤原為光の長男。官位は従三位・参議。.

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藤原高光

藤原 高光(ふじわら の たかみつ)は、平安時代中期の貴族・歌人。藤原北家、右大臣・藤原師輔の八男。官位は従五位上・右近衛少将。三十六歌仙の一人。.

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藤原斉信

藤原 斉信(ふじわら の ただのぶ)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、太政大臣・藤原為光の次男。官位は正二位・大納言。四納言の一人。.

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藤原敦敏

藤原 敦敏(ふじわら の あつとし)は平安時代中期の貴族。藤原北家、摂政太政大臣・藤原実頼の嫡男。三蹟の一人藤原佐理の父。.

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蔵人

蔵人(くろうど、藏人)は日本の律令制下の令外官の一つ。天皇の秘書的役割を果たした。唐名は侍中(じちゅう)、夕郎(せきろう)、夕拝郎(せきはいろう)。蔵人所は事務を行う場所のことで、内裏校書殿の北部に置かれた。また、蔵人は百官名或いは人名の一つでもあり、この場合は「くらんど」と読む。.

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蔵人頭

蔵人頭(くろうどのとう)とは、令外官の役職で、蔵人所の実質的な長である。大同5年(810年)、蔵人所の設置に伴い、初代の蔵人頭に藤原冬嗣と巨勢野足が任命され、その後、天皇の首席秘書として、また公卿への昇進を約束された地位として、朝廷内に重要な位置を占めた。 蔵人所の長官は大臣が兼任する「蔵人別当」であったが、これは名目的なもので、実務上は蔵人頭が殿上人の首座として蔵人および殿上人を指揮し、勅旨や上奏の伝達や、天皇身辺の世話等を取り仕切った。通常、四位の者が補任されるが、官位相当は無い。定員は2名。殿上の首席に座を占めることから「貫首」(かんず)とも呼ばれた(「貫主」と表記されることもある)。また、蔵人として禁色の使用が許された。参議に欠員が出た場合、蔵人頭が即参議に就任するようになり、公卿への昇進への登竜門ともいえる役職となった。また、その際に参議に就任するものが後任の適格者を推挙する例があり、源俊賢が藤原行成を推したことが知られている。 蔵人頭は武官である近衛中将と、文官である弁官の大弁または中弁から1名ずつ選ばれることが多くなり、それぞれ「頭中将(とうのちゅうじょう)」、「頭弁(とうのべん)」と呼ばれた。藤原俊憲の『貫首秘抄』には、頭中将は「禁中万事」を申し行い、頭弁は「天下巨細」を執奏するとされ、頭中将は宮中における側近奉仕を担当し、頭弁は天皇と太政官の間で政務に関する連絡を担当したと記されている。頭中将は上流貴族出身者が務めたのに対し、頭弁は実務処理能力が重視された。このため、朝廷や摂関家政所において実務官僚を務めた勧修寺流・日野流などの藤原北家や高棟流平氏などの中級貴族の家系から輩出され、後にこれが通例となった。ただしそれ以外の職から選ばれることもあり、その場合には、それぞれの職にあわせて「頭亮(とうのりょう)」、「頭頭(とうのとう)」等と呼ばれた。10世紀頃までは、近衛少将で蔵人頭に補される例もよく見られ、2名とも頭中将である例や2名とも頭弁である例もあり、頭中将と頭弁1名ずつの原則が定着したのは平安時代末期の頃であった。院政期には、官職の推挙に院の近臣が容喙することが増えたためか、再びこの慣習が乱れ、安元2年(1176年)12月5日の除目において、蔵人頭に左中将藤原定能と右中将藤原光能が任ぜられたという例がある。 良岑衆樹は54歳になって任じられた。.

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醍醐天皇

醍醐天皇(だいごてんのう、元慶9年1月18日(885年2月6日)- 延長8年9月29日(930年10月23日))は、平安時代の第60代天皇(在位:寛平9年7月13日(897年8月14日)- 延長8年9月22日(930年10月16日))。臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源 維城(みなもと の これざね)といった。のち父の即位とともに皇族に列し親王宣下ののちに敦仁(あつぎみ・あつひと)に改めた。 宇多天皇の第一皇子。母は内大臣藤原高藤の女藤原胤子。養母は藤原温子(関白太政大臣基経の女)。.

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重明親王

重明親王(しげあきらしんのう、延喜6年(906年) - 天暦8年9月14日(954年10月13日))は、平安時代の皇族。醍醐天皇の第四皇子。官位は三品・式部卿。別名吏部王(式部卿の唐名)。.

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雅子内親王

雅子内親王(がしないしんのう、延喜10年(910年) - 天暦8年8月29日(954年9月28日))は、第60代醍醐天皇第10皇女。母は更衣・源周子。伊勢斎宮、のち藤原師輔室。西四条斎宮と呼ばれた。同母兄弟に源高明、時明親王、盛明親王、同母姉妹に勤子内親王、郁子内親王(都子内親王とも)、源兼子がいる。子女は藤原高光、藤原為光、尋禅、愛宮。.

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村上天皇

村上天皇(むらかみてんのう、延長4年旧6月2日(926年7月14日)- 康保4年旧5月25日(967年7月5日))、は、平安時代中期の第62代天皇(在位:天慶9年(946年)旧4月28日 - 康保4年(967年)旧5月25日)。諱は成明(なりあきら)。 第60代醍醐天皇の第十四皇子。母は藤原基経女中宮穏子。第61代朱雀天皇の同母弟。.

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正三位

正三位(しょうさんみ)とは、位階及び神階のひとつ。従二位の下、従三位の上に位する。日本では「おおいみつのくらい」とも読む。.

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正一位

正一位(しょういちい)は、位階及び神階のひとつ。諸王及び人臣における位階・神社における神階の最高位に位し、従一位の上にあたる。.

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正二位

正二位(しょうにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。従一位の下、従二位の上に位する。.

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正暦

正暦(しょうりゃく)は、日本の元号の一つ。永祚の後、長徳の前。990年から995年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.

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法住寺 (京都市)

法住寺(ほうじゅうじ)は、日本の京都市東山区にある天台宗の仏教寺院である。.

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源兼資

源 兼資(みなもと の かねすけ、天徳4年(960年) - 長保4年8月6日(1002年9月15日))は平安時代中期の貴族。文徳源氏、参議・源惟正の三男。母は従三位藤原国章娘。官位は正四位下・左馬権頭。子に『尊卑分脈』には頼仲・頼兼を挙げるが、『権記』では三女はあっても一男も無しとされる。娘に藤原隆家室、源成信室。妻に藤原為光の娘(『小右記』長保5年4月24日条など)。 はじめ近江掾に任官した後、蔵人・治部輔を経て薩摩守に任ぜられる。その後は頻りに美濃国司に任ぜられ、重ねて伊予守に任ぜられた。伊予守の任期が満了して京に戻ると、伊予の諸郡の郡吏らが上洛して、兼資の治能をもって重任を請ったという。任中、左馬権頭を兼任。 長保4年(1002年)7月の末から寝食が通常を失い、左馬権頭の辞職を請ってこれを辞任。長保4年(1002年)8月6日の辰刻に出家し、同日の巳刻に死去した。享年43。.

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源高明

源 高明(みなもと の たかあきら)は、平安時代の公卿。醍醐天皇の第10皇子。母は源周子。法名は覚念。官位は正二位・左大臣。京都右京四条に壮麗な豪邸を建設し、西宮左大臣と呼ばれた。 一世源氏の尊貴な身分であり、学問に優れ朝儀に通じており、また実力者藤原師輔、その娘の中宮安子の後援も得て朝廷で重んじられた。師輔・安子の死後、藤原氏に忌まれて安和の変で失脚し、政界から退いた。.

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源重信

源 重信(みなもと の しげのぶ)は、平安時代中期の公卿。宇多天皇の皇子である式部卿・敦実親王の四男。官位は正二位・左大臣、贈正一位。六条左大臣と号す。.

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源雅信

源 雅信(みなもと の まさざね、延喜20年(920年) - 正暦4年7月29日(ユリウス暦993年8月19日))は、平安時代中期の貴族。宇多天皇の皇子である敦実親王の三男で宇多源氏の祖。藤原氏全盛期を築いた藤原道長の正室である源倫子の父。従一位・左大臣。贈正一位。一条左大臣又は鷹司左大臣と号した。出家後の法名は覚実。.

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摂政

摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことが出来ない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。 多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。.

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愛宮

愛宮(あいみや/あいのみや、生没年不詳)は、平安時代中期の女性。左大臣源高明の継室。右大臣藤原師輔の五女で、母は雅子内親王(醍醐天皇第十皇女)。実名は不明。「愛宮」というのはおそらくは幼名であると推察される。藤原伊尹・藤原兼通・藤原兼家・藤原公季・藤原安子(村上天皇中宮)・源高明室(源俊賢母)らの異母姉妹。同母兄弟に藤原高光・藤原為光・尋禅がいた。 応和元年(961年)12月、仲の良かった兄高光が出家したため、大いに悲しんだ(このことは『多武峯少将物語』にも語られている)。叔父にあたる源高明に嫁いでいた異母姉(師輔三女)が没した後、後妻として高明に嫁ぎ、明子(藤原道長室)・経房を産んだ。安和2年(969年)3月の安和の変の後、高明と離別した。夫と離別後も西宮殿(高明の邸宅)に居住していたが、その後、西宮殿が焼失したため桃園に移住。その後の消息は不明である。 『蜻蛉日記』には、出家して桃園に隠棲する愛宮の様子が記述されている。 Category:九条流 Category:平安時代の公卿の妻室 Category:10世紀生.

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2003年

この項目では、国際的な視点に基づいた2003年について記載する。.

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6月16日 (旧暦)

旧暦6月16日は旧暦6月の16日目である。六曜は先負である。.

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7月23日

7月23日(しちがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から204日目(閏年では205日目)にあたり、年末まであと161日ある。誕生花はブーゲンビレア、ツリガネソウ。.

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942年

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957年

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968年

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970年

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973年

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975年

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977年

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986年

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987年

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991年

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992年

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