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後一条天皇と藤原道長

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後一条天皇と藤原道長の違い

後一条天皇 vs. 藤原道長

後一条天皇(ごいちじょうてんのう、寛弘5年9月11日(1008年10月12日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))は、平安時代中期の第68代天皇(在位:長和5年2月7日(1016年3月18日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))。諱は敦成(あつひら)。一条天皇の第二皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母弟に後朱雀天皇。. 藤原 道長(ふじわら の みちなが)は、平安時代の中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男(または四男)。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。 父・兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男・伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。 一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが三条天皇とは深刻な対立が生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。さらには、六女の嬉子を後の後朱雀天皇となる敦良親王に入侍させた。晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けた。.

後一条天皇と藤原道長間の類似点

後一条天皇と藤原道長は(ユニオンペディアに)共通で41ものを持っています: 外戚寛仁寛弘中宮万寿三条天皇一条天皇平安時代京都御堂流後三条天皇後冷泉天皇後朱雀天皇土御門殿円融天皇章子内親王糖尿病紫式部日記馨子内親王藤原威子藤原安子藤原師輔藤原中正藤原彰子藤原兼家藤原穆子藤原頼通藤原詮子藤原朝忠藤原時姫...長和村上天皇栄花物語源倫子源雅信摂政1008年1016年1017年1021年1028年 インデックスを展開 (11 もっと) »

外戚

外戚(がいせき)とは、皇帝、王の母親または妃の一族のことである。.

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寛仁

寛仁(かんにん)は、日本の元号の一つ。長和の後、治安の前。1017年から1020年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇。.

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寛弘

寛弘(かんこう)は、日本の元号の一つ。長保の後、長和の前。1004年から1011年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇、三条天皇。.

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中宮

中宮(ちゅうぐう)は、日本の天皇の妻たちの呼称の一つ。.

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万寿

万寿(まんじゅ、正字体:萬壽)は、日本の元号の一つ。治安の後、長元の前。1024年から1028年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇。.

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三条天皇

三条天皇(さんじょうてんのう、天延4年1月3日(976年2月5日) - 寛仁元年5月9日(1017年6月5日))は第67代天皇。諱は居貞(おきさだ / いやさだ)。享年42。在位は寛弘8年6月13日(1011年7月16日)から長和5年1月29日(1016年3月10日)まで。 冷泉天皇の第二皇子。母は摂政太政大臣藤原兼家の長女・贈皇太后超子。花山天皇の異母弟。.

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一条天皇

一条天皇(いちじょう てんのう、天元3年6月1日(980年7月15日) - 寛弘8年6月22日(1011年7月25日))は、平安時代中期の第66代天皇(在位:寛和2年6月23日(986年8月1日) - 寛弘8年6月13日(1011年7月16日))。諱は懐仁(やすひと)。 円融天皇の第1皇子。母は藤原兼家の娘、詮子。兄弟姉妹はない。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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御堂流

御堂流(みどうりゅう)とは、藤原北家九条流藤原道長(摂政・太政大臣)の子孫の一門及び彼を祖とする有職故実及び作法の流派の呼称。「御堂」とは、道長が法成寺を創建して「御堂関白」の異名を得ていたことに由来する(ただし、実際に関白には就任していない)。.

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後三条天皇

大炊御門万里小路殿址、源高房、後三条天皇はこの地で崩御、京都府京都市中京区富小路通夷川上る西側 後三条天皇(ごさんじょうてんのう、長元7年7月18日(1034年9月3日) - 延久5年5月7日(1073年6月15日))は、第71代天皇(在位:治暦4年4月19日(1068年5月22日) - 延久4年12月8日(1073年1月18日))。諱は尊仁(たかひと)。宝算40。 後朱雀天皇の第二皇子。母は三条天皇第三皇女・皇后禎子内親王(陽明門院)。後冷泉天皇の異母弟。宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇である(ただし、生母の禎子内親王は藤原道長の外孫である)。.

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後冷泉天皇

後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう、万寿2年8月3日(1025年8月28日) - 治暦4年4月19日(1068年5月22日))は、日本の第70代天皇(在位:1045年 - 1068年)。後朱雀天皇の第一皇子。母は藤原道長女藤原嬉子(贈皇太后)。諱を親仁(ちかひと)。紫式部の娘大弐三位が乳母である。.

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後朱雀天皇

後朱雀天皇(ごすざくてんのう、寛弘6年11月25日(1009年12月14日) - 寛徳2年1月18日(1045年2月7日))は、平安時代中期の第69代天皇(在位:長元9年4月17日(1036年5月15日) - 寛徳2年1月16日(1045年2月5日))。諱は敦良(あつなが)。 一条天皇の第三皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母兄に後一条天皇。.

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土御門殿

土御門殿(つちみかどどの)は、平安時代に平安京左京1条4坊16町(後に同15町にも拡張)(土御門大路南京極大路西)に建てられた寝殿造の邸宅。邸宅の名は上東門に至る土御門大路に面していることに由来し、土御門院、京極殿(院)、上東門殿(院)等とも呼ばれた。現在の京都市上京区京都御苑(京都大宮御所北側部分)にあたる。藤原道長の主要な邸宅で、道長の姉である東三条院詮子や、娘の藤原彰子の御所となり、特に彰子は出家後、この邸宅にちなんで上東門院を院号とした。また東には法成寺が建立された。.

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円融天皇

円融天皇(えんゆうてんのう、天徳3年旧3月2日(959年4月12日) - 正暦2年旧2月12日(991年3月1日); 在位:安和2年旧9月23日(969年11月5日) - 永観2年旧8月27日(984年9月24日))は、第64代天皇。諱は守平(もりひら)。 村上天皇の第五皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘・中宮安子。冷泉天皇の同母弟。.

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章子内親王

子内親王(しょうし(あきこ)ないしんのう、万寿3年12月9日(1027年1月19日) - 長治2年9月17日(1105年10月26日))は第68代後一条天皇第一皇女。母は藤原道長女・中宮藤原威子。第70代後冷泉天皇中宮、女院。院号は二条院(にじょういん)。同母妹に馨子内親王(後三条天皇中宮)。.

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糖尿病

糖尿病(とうにょうびょう、diabetes mellitus、DM)は、血糖値やヘモグロビンA1c(HbA1c)値が一定の基準を超えている状態をさす疾患である。東洋医学では消渇と呼ばれる。なお、腎臓での再吸収障害のため尿糖の出る腎性糖尿は別の疾患である。 糖尿病は高血糖そのものによる症状を起こすこともあるほか、長期にわたると血中の高濃度のグルコースがそのアルデヒド基の反応性の高さのため血管内皮のタンパク質と結合する糖化反応を起こし、体中の微小血管が徐々に破壊されていき、糖尿病性神経障害・糖尿病性網膜症・糖尿病性腎症などに繋がる。 糖尿病患者の90%は2型であり、これは予防可能な病気である。2型糖尿病の予防や軽減には、健康的な食事、適度な運動、適切な体重管理、禁煙が有効である。 世界における有病率は9%であり3億4,700万人、世界のDALYの19位を占め(1.3%)、2012年は150万人が糖尿病により死亡した。糖尿病による死者の8割は中低所得国であり、さらにWHOは2030年には世界第7位の死因となると推定している。.

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紫式部日記

『紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)は、紫式部によって記された日記とされる。藤原道長の要請で宮中に上がった紫式部が、1008年(寛弘5年)秋から1010年(寛弘7年)正月まで、宮中の様子を中心に書いた日記と手紙からなる。 写本は宮内庁書陵部蔵の黒川本が最もよいとされているが一部記載については他の写本がすぐれているとも。写本の表紙の表題は『紫日記』とあり、内容にも紫式部の名の記載はなく、いつから『紫式部日記』とされたかは不明。 全2巻であり1巻は記録的内容、2巻は手紙と記録的内容である。『源氏物語』の作者が紫式部であるという通説は、伝説とこの『紫日記』にでてくる記述に基づいている。 鎌倉時代初期の13世紀前半ころに、紫式部日記のほぼ全文を絵画化した「紫式部日記絵巻」が制作された。.

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馨子内親王

子内親王(けいし(かおるこ)ないしんのう、長元2年2月2日(1029年2月17日) - 寛治7年9月4日(1093年9月26日))は、第68代後一条天皇第2皇女。母は中宮藤原威子。賀茂斎院、のち後三条天皇中宮。号西院皇后。同母姉に章子内親王(後冷泉天皇中宮)。 長元4年(1031年)着袴、二品に叙される。同年賀茂斎院に卜定、准三宮。同9年(1036年)に父後一条天皇が崩御したため斎院を退下、さらにその後半年足らずで母威子も後を追うように他界した。 その後は上東門院彰子の元で養育され、永承6年(1051年)皇太子尊仁親王(のちの後三条天皇)に入内。治暦4年(1068年)後三条天皇が即位、それに伴い翌延久元年(1069年)中宮に冊立される。同4年(1072年)後三条天皇譲位、翌同5年(1073年)病の後三条上皇と共に出家するがまもなく上皇は崩御。延久6年(1074年)皇后宮となり、寛治7年(1093年)崩御。享年65。.

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藤原威子

藤原 威子(ふじわら の いし/たけこ、長保元年12月23日(1000年2月1日) - 長元9年9月6日(1036年9月28日))は、平安時代中期の女性。摂政藤原道長の娘。母は源倫子。第68代後一条天皇中宮。別名大中宮。子女は章子内親王(後冷泉天皇中宮)、馨子内親王(後三条天皇中宮)。同母の兄弟に頼通・教通、上東門院彰子・妍子・嬉子。.

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藤原安子

藤原 安子(ふじわら の あんし(やすこ)、延長5年(927年) - 応和4年4月29日(964年6月11日))は、右大臣藤原師輔の長女。母は武蔵守藤原経邦の女盛子。第62代村上天皇中宮。第63代冷泉天皇・第64代円融天皇、為平親王、承子内親王、輔子内親王、資子内親王、選子内親王らの生母。同母兄弟に伊尹・兼通・兼家・忠君、登子(重明親王妃)・藤原師輔三女(源高明先妻、俊賢母)・怤子(冷泉天皇女御)など。.

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藤原師輔

藤原 師輔(ふじわら の もろすけ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白太政大臣・藤原忠平の次男。官位は正二位・右大臣。 有職故実・学問に優れた人物として知られ、村上天皇の時代に右大臣として朝政を支えた。師輔の没後に長女・中宮安子所生の皇子が冷泉天皇・円融天皇としてそれぞれ即位し、師輔の家系は天皇の外戚として大いに栄えた。.

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藤原中正

藤原 中正(ふじわら の なかまさ)は、平安時代の官人。藤原北家魚名流、中納言・藤原山蔭の七男。官位は従四位上・左京大夫。名は仲正とも表記される。.

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藤原彰子

藤原 彰子(ふじわら の しょうし/あきこ、永延2年(988年) - 承保元年10月3日(1074年10月25日)は、第66代一条天皇の皇后(号は中宮)。第68代後一条天皇・第69代後朱雀天皇の生母(国母)、女院。院号を上東門院(じょうとうもんいん)といい、のちには大女院(おおにょいん)とも呼ばれた。 女房に『源氏物語』作者の紫式部、王朝有数の歌人として知られた和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門、続編の作者と伝えられる出羽弁、そして「古の奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬる哉」の一句が有名な歌人の伊勢大輔などを従え、華麗な文芸サロンを形成していた。.

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藤原兼家

東三条院跡、藤原兼家邸、京都市中京区押小路通釜座西北角 藤原 兼家(ふじわら の かねいえ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・藤原師輔の三男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。 策略によって花山天皇を退位させて、娘が生んだ一条天皇を即位させて摂政となった。その後右大臣を辞して摂政のみを官職として、摂関の地位を飛躍的に高め、また子・道隆にその地位を譲って世襲を固める。以後、摂関は兼家の子孫が独占し、兼家は東三条大入道殿と呼ばれて尊重された。 兄・兼通との激しい確執や、室の一人に『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母がいる事でも知られている。.

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藤原穆子

藤原 穆子(ふじわら の ぼくし/あつこ、承平元年(931年)- 長和5年7月26日(1016年8月31日))は、平安時代の左大臣・源雅信の正室。中納言藤原朝忠の娘で、藤原道長正室である源倫子や源時通、源時叙、藤原道綱正室の母となった。 藤原道長が源倫子に求婚した折に夫の雅信は倫子を一条天皇の妃にしようと画策しており、これを断ろうとしたが、穆子が倫子と天皇とでは年齢的に不釣合いであるとしてこれに反対し、道長を婿に迎え入れさせた。このため、道長もこの義母には頭が上がらなかったと言われている。 夫の死後、出家したため、「一条尼(いちじょうのあま)」と呼ばれるようになる。その後、道長の昇進、孫娘の藤原彰子の入内などが続き、長保3年(1001年)の穆子の七十算の修法(70歳を祝う加持祈祷)は、道長夫妻の主催によって大規模に行われた。晩年は観音寺にしばしば籠ったという。 長和元年(1016年)、曾孫に当たる後一条天皇が即位するが、間もなく病状が悪化し、道長夫妻も看病にあたったものの、同年7月に86歳で病死した。 Category:平安時代の公卿の妻室 ほくし Category:931年生 Category:1016年没.

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藤原頼通

藤原 頼通(ふじわら の よりみち)は、平安時代中期から後期にかけての公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣藤原道長の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。 父・道長から若くして後一条天皇の摂政を譲られ、その後見を受ける。父の死後は朝政の第一人者として後朱雀天皇・後冷泉天皇の治世にて、関白を50年の長きに亘って務め、父道長と共に藤原氏の全盛時代を築いた。現代に残るその栄華の象徴が頼通が造営した平等院鳳凰堂である。 しかし、天皇の后にした娘が男子に恵まれなかったばかりか、刀伊の入寇・平忠常の乱・前九年の役など戦乱が相次ぐなど、朝廷の内外からそれまでの絶対的な権力体制を揺さぶられる事態が生じた。そこに加えて晩年には頼通と疎遠な後三条天皇が即位したこともあり、摂関家の権勢は衰退へ向かい、やがて院政と武士の台頭の時代へと移ることになる。.

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藤原詮子

東三条殿跡・藤原詮子居住地、京都市中京区押小路通釜座西北角 藤原 詮子(ふじわら の せんし/あきこ、応和2年(962年) - 長保3年閏12月22日(1002年2月7日))は、平安時代、第64代円融天皇女御。第66代一条天皇生母(国母)。院号は東三条院(ひがしさんじょういん)。 摂政関白・太政大臣藤原兼家の次女で、母は摂津守藤原中正の娘時姫。先後して摂関に在職した道隆・道兼・道長、また冷泉天皇女御超子は同母の兄弟。.

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藤原朝忠

藤原 朝忠(ふじわら の あさただ、延喜10年(910年) - 康保3年12月2日(967年1月15日))は、平安時代中期の公家・歌人。藤原北家、三条右大臣・藤原定方の五男。三十六歌仙の一人。官位は従三位・中納言。土御門中納言または堤中納言と号する。小倉百人一首では中納言朝忠。.

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藤原時姫

藤原 時姫(ふじわら の ときひめ、生年不詳 - 天元3年1月15日(980年2月4日))は、平安時代中期の女性。摂津守藤原中正の娘。摂政太政大臣・藤原兼家の正室、一条・三条両天皇の祖母。贈正一位。 藤原兼家に嫁いで藤原道隆・道兼・道長・超子・詮子らを生むが、夫の兼家が摂政になる前に死去した。孫の一条天皇の即位後の永延元年(987年)に正一位を贈位された。また、中級官人であった兄の藤原安親も天皇の外戚として参議に任じられて公卿に列した。 また、兼家の妻の1人であった藤原道綱母の『蜻蛉日記』には、直接名指しされないものの、時姫と推測される女性が登場し、作者がライバル意識を抱いている描写が存在している。後に時姫とその子供達が兼家の邸宅東三条殿に招かれた事も書かれている。 ただし、道長ら兄弟の生母を兼家の側室の1人であった安親の娘(時姫の姪)とする異説もあるが、安親と時姫の長男とされる道隆の年齢差(31歳)を考慮すると、両者は伯父・甥の関係として、道隆らを時姫所生とするのが妥当とする反論がある。また、没日についても、1月21日とする説もあるなど、夫や子供の出世以前に没したために詳細な伝記については不明な部分が多い。.

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長和

長和(ちょうわ)は、日本の元号の一つ。寛弘の後、寛仁の前。1012年から1016年までの期間を指す。この時代の天皇は三条天皇、後一条天皇。.

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村上天皇

村上天皇(むらかみてんのう、延長4年旧6月2日(926年7月14日)- 康保4年旧5月25日(967年7月5日))、は、平安時代中期の第62代天皇(在位:天慶9年(946年)旧4月28日 - 康保4年(967年)旧5月25日)。諱は成明(なりあきら)。 第60代醍醐天皇の第十四皇子。母は藤原基経女中宮穏子。第61代朱雀天皇の同母弟。.

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栄花物語

『栄花物語』(えいがものがたり)は、平安時代の歴史物語。仮名文。女性の手になる編年体物語風史書。.

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源倫子

源 倫子(みなもと の りんし、康保元年(964年)- 天喜元年6月1日(1053年6月19日))は、平安時代中期の貴族女性で、藤原道長の正室。父は左大臣源雅信、母は藤原穆子。兄弟に源時中、源時通、源扶義、源時方、源通義、大僧正済信、寂源など。法名は清浄法。.

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源雅信

源 雅信(みなもと の まさざね、延喜20年(920年) - 正暦4年7月29日(ユリウス暦993年8月19日))は、平安時代中期の貴族。宇多天皇の皇子である敦実親王の三男で宇多源氏の祖。藤原氏全盛期を築いた藤原道長の正室である源倫子の父。従一位・左大臣。贈正一位。一条左大臣又は鷹司左大臣と号した。出家後の法名は覚実。.

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摂政

摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことが出来ない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。 多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。.

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1008年

記載なし。

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1016年

記載なし。

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1017年

記載なし。

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1021年

記載なし。

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1028年

記載なし。

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上記のリストは以下の質問に答えます

後一条天皇と藤原道長の間の比較

藤原道長が357を有している後一条天皇は、73の関係を有しています。 彼らは一般的な41で持っているように、ジャカード指数は9.53%です = 41 / (73 + 357)。

参考文献

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