ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
インストール
ブラウザよりも高速アクセス!
 

藤原せい子

索引 藤原せい子

藤原 娍子(ふじわら の せいし/すけこ)、天禄3年(972年) - 万寿2年3月25日(1025年4月25日))は平安時代中期の人物。第67代三条天皇皇后。父は贈右大臣藤原済時、母は源延光の娘。.

57 関係: 右大臣大納言天禄女御宣耀殿寛仁寛弘左大臣中宮万寿三条天皇平安時代当子内親王後宮後一条天皇従四位和泉式部公卿倉本一宏皇后皇太子禔子内親王花山天皇贈位藤原妍子藤原実資藤原隆家藤原道長藤原道雅藤原通任藤原済時藤原懐平藤原教通長徳長和正暦源延光斎宮日本の皇后一覧敦平親王敦道親王敦明親王性信入道親王1004年1011年1012年1016年1017年1018年...1025年2010年3月25日 (旧暦)4月25日972年991年995年 インデックスを展開 (7 もっと) »

右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

新しい!!: 藤原せい子と右大臣 · 続きを見る »

大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

新しい!!: 藤原せい子と大納言 · 続きを見る »

天禄

天禄(てんろく)は、日本の元号の一つ。安和の後、天延の前。西暦の970年から973年までに対応する。この時代の天皇は円融天皇。.

新しい!!: 藤原せい子と天禄 · 続きを見る »

女御

女御(にょうご)は、天皇の後宮の身位の一つで、天皇の寝所に侍した。官名は中国・周代の官制を記した『周礼』に由来し、位は皇后・中宮に次ぐ。また、女御のうち、女性皇族たる女王が女御となった場合の呼称を王女御という。 初見は『日本書紀』雄略天皇の条であるが、実際は桓武天皇の代に紀乙魚・百済王教法などを女御としたのに始まる。当初、その位は低かったが次第に高まり、平安時代中期以降は、皇后は女御から昇進する慣例が確立した。最後の女御は孝明天皇の女御である九条夙子(英照皇太后)。 定員はなく、複数の女御がいる場合は住まう殿舎の名を取って「承香殿女御」などと呼んだ。 応仁の乱以後、上流貴族の娘の入内が絶えると、女御も存在しなくなった。後陽成朝に近衛前久の娘の前子が豊臣秀吉の養女として女御となり、ついで後水尾朝に徳川秀忠の娘の和子が女御になり、さらに中宮へ昇った。江戸時代には歴代天皇の正妻として摂家や世襲親王家の娘が一人だけ女御となり、しばしば准三宮となった。しかし霊元天皇や光格天皇などは女御を中宮に立てたものの、立后させない例の方が多かった。.

新しい!!: 藤原せい子と女御 · 続きを見る »

宣耀殿

宣耀殿(せんようでん)とは、平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つ。女御などが居住した。 内裏の北辺に位置し、麗景殿の北、淑景舎(桐壺)の西。 宣耀殿を賜っていたのが知られるのは、.

新しい!!: 藤原せい子と宣耀殿 · 続きを見る »

寛仁

寛仁(かんにん)は、日本の元号の一つ。長和の後、治安の前。1017年から1020年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇。.

新しい!!: 藤原せい子と寛仁 · 続きを見る »

寛弘

寛弘(かんこう)は、日本の元号の一つ。長保の後、長和の前。1004年から1011年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇、三条天皇。.

新しい!!: 藤原せい子と寛弘 · 続きを見る »

左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

新しい!!: 藤原せい子と左大臣 · 続きを見る »

中宮

中宮(ちゅうぐう)は、日本の天皇の妻たちの呼称の一つ。.

新しい!!: 藤原せい子と中宮 · 続きを見る »

万寿

万寿(まんじゅ、正字体:萬壽)は、日本の元号の一つ。治安の後、長元の前。1024年から1028年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇。.

新しい!!: 藤原せい子と万寿 · 続きを見る »

三条天皇

三条天皇(さんじょうてんのう、天延4年1月3日(976年2月5日) - 寛仁元年5月9日(1017年6月5日))は第67代天皇。諱は居貞(おきさだ / いやさだ)。享年42。在位は寛弘8年6月13日(1011年7月16日)から長和5年1月29日(1016年3月10日)まで。 冷泉天皇の第二皇子。母は摂政太政大臣藤原兼家の長女・贈皇太后超子。花山天皇の異母弟。.

新しい!!: 藤原せい子と三条天皇 · 続きを見る »

平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

新しい!!: 藤原せい子と平安時代 · 続きを見る »

当子内親王

当子内親王(とうし(まさこ) ないしんのう、長保3年(1001年) - 治安2年9月12日(1022年10月10日)は、第67代三条天皇の第1皇女。母は藤原済時の娘、皇后・娍子。伊勢斎宮。同母兄弟に敦明親王、性信入道親王など。 寛弘8年(1011年)三条天皇の即位により、内親王宣下を受ける。長和元年(1012年)12月4日、13歳で斎宮に卜定され、翌長和2年(1013年)8月21日に初斎院(宮内省)、同年9月27日に野宮に入る。長和3年(1014年)9月20日、14歳で伊勢下向。長和5年(1016年)1月29日、三条天皇の譲位により17歳で退下し、9月3日に帰京。寛仁元年(1017年)出家。治安2年(1022年)薨去。享年23。 当時、三条天皇は、執権者である藤原道長との関係の悪化に加え、眼病を患い、皇位の危機にあった。当子内親王は、父帝を思い、「内親王を斎姫に立てるとは志が深いことです。近年は、内親王が斎宮にならない例が多いばかりです(斎宮には天皇の娘である内親王が選定されることが多い)。皇位は18年続くでしょう」という託宣を報告させた。また、伊勢に下向してからも、「伊勢神宮に怪異が無いので、治世は長く続くでありましょう」と伝えている。当子内親王が斎宮として群行(「別れの御櫛」)に臨んだ際、天皇も斎宮も互いに振り返ってはならない決まりであったのを、三条天皇は別れがたさに思わず振り返ってしまったという。それほど鍾愛の皇女であったが、伊勢から帰京した長和5年(1016年)、当子内親王に藤原道雅が密通しているという噂が立った。これに激怒した三条天皇は皇后や親王らのとりなしも聞きいれずに道雅を勅勘、二人の手引きをしていた乳母の中将内侍をも追放し、内親王は母・娍子のもとに引き取られて道雅との仲を裂かれてしまう。世間では「伊勢神宮の斎宮であればともかく、この内親王は既に斎宮を退下しているのだから」と同情する声もあったが、内親王は悲しみのうちに自ら落飾し、その6年後に短い生涯を閉じた。なお、道雅が内親王と引き裂かれた後に贈った別れの歌、「今はただ思ひ絶えなんとばかりを人づてならで言ふよしもがな」(『後拾遺集』)は後に『百人一首』に採られている。.

新しい!!: 藤原せい子と当子内親王 · 続きを見る »

後宮

後宮(こうきゅう)は、皇帝や王などの后妃が住まう場所。日本では、平安京内裏の七殿五舎、江戸城大奥が該当する。 一般的に、後宮は男子禁制というイメージがあるが、日本の内裏では必ずしもそうではなく、平安時代中期に書かれたとされる『源氏物語』や『枕草子』といった物語や随筆では殿上人のうちでも家族や親しい人間は頻繁に出入りしていたように描写されている。平安時代には天皇やそのきさきの側に控えた女房と呼ばれる女性たちが、内裏を舞台とした内容の宮廷文学を生み出したことはよく知られている(それらが書かれた場所が後宮であったとは限らない。実家などに戻った際に書いたものとされることもある)。ただし、平安末から鎌倉時代頃から徐々に男子禁制の場となり、江戸時代においては男性が入る余地はなくなってしまっていた。江戸時代の江戸城大奥は、完全な男性禁制の場であり、火事など緊急時以外の男性の出入りは厳しく制限された。 男子禁制をとっているのはオスマン帝国などのイスラム諸王朝や中国などであり、去勢された宦官が、家政一般にあたった。これに対して日本では、宦官は置かれずに宮人とも呼ばれる女官が発達して女性たちによって秩序が維持された。 また、後宮を意味するハレム(harem)は、オスマン帝国の後宮がそう呼ばれていたところから来ている。.

新しい!!: 藤原せい子と後宮 · 続きを見る »

後一条天皇

後一条天皇(ごいちじょうてんのう、寛弘5年9月11日(1008年10月12日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))は、平安時代中期の第68代天皇(在位:長和5年2月7日(1016年3月18日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))。諱は敦成(あつひら)。一条天皇の第二皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母弟に後朱雀天皇。.

新しい!!: 藤原せい子と後一条天皇 · 続きを見る »

従四位

従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.

新しい!!: 藤原せい子と従四位 · 続きを見る »

和泉式部

菊池容斎『前賢故実』より 小倉百人一首56番「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」 和泉 式部(いずみ しきぶ、天元元年(978年)頃 - 没年不詳)は平安時代中期の歌人である。越前守・大江雅致の娘。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。.

新しい!!: 藤原せい子と和泉式部 · 続きを見る »

公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

新しい!!: 藤原せい子と公卿 · 続きを見る »

倉本一宏

倉本 一宏(くらもと かずひろ、1958年(昭和33年)6月14日 - )は、日本の歴史学者。専門は日本古代政治史、古記録学。国際日本文化研究センター(日文研)教授、総合研究大学院大学(総研大)文化科学研究科 国際日本研究専攻教授。三重県津市生まれ。 1997年(平成9年)「日本古代国家成立期の政権構造」で博士(文学、東京大学)。.

新しい!!: 藤原せい子と倉本一宏 · 続きを見る »

皇后

皇后(こうごう、Empress)は、天皇や皇帝の正妃(正妻)、およびその人物に与えられる称号。 一夫多妻制のもとでは、天皇や皇帝の複数の妻のうち最上位の者となる。.

新しい!!: 藤原せい子と皇后 · 続きを見る »

皇太子

皇太子(こうたいし、Crown Prince)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号。一般的には皇室ならびに海外の王室における君主位の法定推定相続人の敬称として使われる。.

新しい!!: 藤原せい子と皇太子 · 続きを見る »

禔子内親王

子内親王(ししないしんのう / ただこないしんのう、長保5年(1003年)- 永承3年閏1月29日(1048年3月16日))は、平安時代中期の皇族。三条天皇の第2皇女。母は藤原娍子(藤原済時の長女)。同母兄姉に、敦明親王(小一条院、後一条天皇の廃太子)、敦儀親王、敦平親王、当子内親王、同母弟に、師明親王(性信入道親王)がおり、異母妹に、後朱雀天皇の皇后、後三条天皇の母である禎子内親王(陽明門院)がいる。.

新しい!!: 藤原せい子と禔子内親王 · 続きを見る »

箏(そう)は、日本の伝統楽器。十三本の糸を有するが、十七絃箏など種々の多絃箏がある。箏は一面、二面(いちめん、にめん)と数える。弦楽器のツィター属に分類される。 一般的に、「箏(こと)」と呼ばれ、「琴(きん)」の字を当てることもあるが、「箏」と「琴」は別の楽器である。最大の違いは、箏は柱(じ)と呼ばれる可動式の支柱で弦の音程を調節するのに対し、琴は柱が無く弦を押さえる場所で音程を決める。ただし、箏の柱(箏の駒)は「琴柱」とするのが一般的で(商品名も琴柱)、箏の台は琴台(きんだい)と必ず琴の字を使う。 箏 総象牙巻繰り甲の箏(金子誠次作).

新しい!!: 藤原せい子と箏 · 続きを見る »

花山天皇

花山天皇(かざんてんのう/かさんてんのう、安和元年10月26日(968年11月29日) - 寛弘5年2月8日(1008年3月17日)、在位:永観2年10月10日(984年11月5日) - 寛和2年6月23日(986年8月1日))は、日本(平安時代中期)の第65代天皇。諱は師貞(もろさだ)。花山院(かさんいん)や花山法皇とも呼ばれる。 冷泉天皇の第一皇子。母は、摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子。三条天皇の異母兄。花山源氏(神祇伯を世襲した伯王家、のち断絶)の祖。.

新しい!!: 藤原せい子と花山天皇 · 続きを見る »

贈位

贈位(ぞうい)とは、生前に功績を挙げた者に対して、没後に位階を贈る制度。追贈、追賜ともいう。官職を贈る場合は贈官(ぞうかん)という(例:贈太政大臣)。 将棋や囲碁の世界では、大会での優勝や功績に応じてタイトルを贈られることを贈位と呼ぶこともある。就位ともいう。この際に贈られる賞状を贈位状とも呼ぶ。.

新しい!!: 藤原せい子と贈位 · 続きを見る »

藤原妍子

藤原 妍子(ふじわら の けんし/きよこ、正暦5年3月(994年4月) - 万寿4年9月14日(1027年10月16日))は、摂政藤原道長の次女。母は源倫子。第67代三条天皇中宮。別名枇杷殿皇太后。子女は禎子内親王(後朱雀天皇皇后)。同母の兄弟に頼通・教通、上東門院彰子・威子・嬉子。.

新しい!!: 藤原せい子と藤原妍子 · 続きを見る »

藤原実資

藤原 実資(ふじわら の さねすけ)は、平安時代の公卿。 藤原北家嫡流の小野宮流の膨大な家領を継ぎ、有職故実に精通した当代一流の学識人であった。藤原道長が権勢を振るった時代に筋を通した態度を貫き、権貴に阿らぬ人との評価を受けた。最終的に従一位・右大臣に昇り、「賢人右府」と呼ばれた。実資の残した日記『小右記』はこの時代を知る貴重な資料となっている。.

新しい!!: 藤原せい子と藤原実資 · 続きを見る »

藤原隆家

藤原 隆家(ふじわら の たかいえ)は、平安時代中期の貴族。藤原道隆の四男(高階貴子を母とする兄弟では次男).

新しい!!: 藤原せい子と藤原隆家 · 続きを見る »

藤原道長

藤原 道長(ふじわら の みちなが)は、平安時代の中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男(または四男)。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。 父・兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男・伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。 一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが三条天皇とは深刻な対立が生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。さらには、六女の嬉子を後の後朱雀天皇となる敦良親王に入侍させた。晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けた。.

新しい!!: 藤原せい子と藤原道長 · 続きを見る »

藤原道雅

藤原 道雅(ふじわら の みちまさ)は、平安時代中期の公卿・歌人。儀同三司・伊周の長男。小倉百人一首では左京大夫道雅。.

新しい!!: 藤原せい子と藤原道雅 · 続きを見る »

藤原通任

藤原 通任(ふじわら の みちとう)は、平安時代中期の公卿。藤原北家小一条流、大納言・藤原済時の子。官位は正三位・権中納言。.

新しい!!: 藤原せい子と藤原通任 · 続きを見る »

藤原済時

藤原 済時(ふじわら の なりとき)は、平安時代中期の公卿。左大臣・藤原師尹の次男。官位は正二位・大納言、左大将、贈右大臣。.

新しい!!: 藤原せい子と藤原済時 · 続きを見る »

藤原懐平

藤原 懐平(ふじわら の かねひら)は、平安時代中期の公卿。参議・藤原斉敏の三男。.

新しい!!: 藤原せい子と藤原懐平 · 続きを見る »

藤原教通

藤原 教通(ふじわら の のりみち)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の五男。官位は従一位・関白、太政大臣、贈正一位。.

新しい!!: 藤原せい子と藤原教通 · 続きを見る »

長徳

長徳(ちょうとく)は、日本の元号の一つ。正暦の後、長保の前。995年から999年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.

新しい!!: 藤原せい子と長徳 · 続きを見る »

長和

長和(ちょうわ)は、日本の元号の一つ。寛弘の後、寛仁の前。1012年から1016年までの期間を指す。この時代の天皇は三条天皇、後一条天皇。.

新しい!!: 藤原せい子と長和 · 続きを見る »

正暦

正暦(しょうりゃく)は、日本の元号の一つ。永祚の後、長徳の前。990年から995年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.

新しい!!: 藤原せい子と正暦 · 続きを見る »

源延光

源 延光(みなもと の のぶみつ)は平安時代中期の公卿、歌人。代明親王の第3王子。枇杷大納言と号す。.

新しい!!: 藤原せい子と源延光 · 続きを見る »

斎宮

斎宮の復元擬態(斎王まつり)三重県明和町 斎宮(さいぐう/さいくう/いつきのみや/いわいのみや)は古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所(現在の斎宮跡)であるが、平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指した。後者は伊勢斎王や伊勢斎宮とも称する。.

新しい!!: 藤原せい子と斎宮 · 続きを見る »

日本の皇后一覧

日本の皇后一覧(にっぽんのこうごういちらん)は、日本の皇后の一覧。.

新しい!!: 藤原せい子と日本の皇后一覧 · 続きを見る »

敦平親王

敦平親王(あつひらしんのう、長保元年(999年) - 永承4年3月18日(1049年4月22日))は平安時代中期の皇族。三条天皇の第三皇子。官位は二品・式部卿。.

新しい!!: 藤原せい子と敦平親王 · 続きを見る »

敦道親王

敦道親王(あつみち しんのう、天元4年(981年) - 寛弘4年10月2日(1007年11月14日))は、平安時代中期の皇族・歌人。冷泉天皇の第四皇子。母は藤原兼家の娘・超子。三条天皇の同母弟。官位は三品・大宰帥。.

新しい!!: 藤原せい子と敦道親王 · 続きを見る »

敦明親王

敦明親王(あつあきらしんのう、正暦5年5月9日(994年6月20日) - 永承6年1月8日(1051年2月21日))は、平安時代中期の皇族。第67代三条天皇の第一皇子。母は皇后・藤原娍子(大納言・藤原済時の女)。尊号は小一条院(こいちじょういん)。藤原道長の圧力の前に自ら皇太子の身位を辞退し、その見返りに准太上天皇としての待遇を得たことで知られる。.

新しい!!: 藤原せい子と敦明親王 · 続きを見る »

性信入道親王

性信入道親王(しょうしんにゅうどうしんのう、寛弘2年6月1日(1005年7月1日) - 応徳2年9月27日(1085年10月18日))は、平安時代中期の皇族・僧。父は三条天皇、母は藤原済時の娘娍子。三条天皇第4皇子。真言宗仁和寺の第2世門跡。通称は大御室。諱は師明、号は光明寿院、密号は金剛行。.

新しい!!: 藤原せい子と性信入道親王 · 続きを見る »

1004年

記載なし。

新しい!!: 藤原せい子と1004年 · 続きを見る »

1011年

記載なし。

新しい!!: 藤原せい子と1011年 · 続きを見る »

1012年

記載なし。

新しい!!: 藤原せい子と1012年 · 続きを見る »

1016年

記載なし。

新しい!!: 藤原せい子と1016年 · 続きを見る »

1017年

記載なし。

新しい!!: 藤原せい子と1017年 · 続きを見る »

1018年

記載なし。

新しい!!: 藤原せい子と1018年 · 続きを見る »

1025年

記載なし。

新しい!!: 藤原せい子と1025年 · 続きを見る »

2010年

この項目では、国際的な視点に基づいた2010年について記載する。.

新しい!!: 藤原せい子と2010年 · 続きを見る »

3月25日 (旧暦)

旧暦3月25日は旧暦3月の25日目である。六曜は先負である。.

新しい!!: 藤原せい子と3月25日 (旧暦) · 続きを見る »

4月25日

4月25日(しがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から115日目(閏年では116日目)にあたり、年末まではあと250日ある。誕生花はシャガ、モッコウバラ。.

新しい!!: 藤原せい子と4月25日 · 続きを見る »

972年

記載なし。

新しい!!: 藤原せい子と972年 · 続きを見る »

991年

記載なし。

新しい!!: 藤原せい子と991年 · 続きを見る »

995年

記載なし。

新しい!!: 藤原せい子と995年 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

藤原娍子

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »