554 関係: 加藤景廉、原撫松、千種忠顕、千葉常胤、千手の前、南北朝時代 (日本)、南江久子、南淵永河、古事記、古今和歌集、右田年英、名和長年、吉備真備、吉田兼好、吉田経房、坂上田村麻呂、坂上瀧守、坂上貞守、坂上苅田麻呂、坂上浄野、堀口貞満、塩冶高貞、塩飽聖遠、壬生忠岑、壬生忠見、壱岐真根子、多治見国長、多治比縣守、大姫 (源頼朝の娘)、大中臣輔親、大中臣能宣、大中臣清麻呂、大庭景義、大伴狭手彦、大伴駿河麻呂、大伴金村、大伴旅人、大和長岡、大神虎主、大舘氏明、大蔵善行、大野果安、大野東人、大江以言、大江匡衡、大江匡房、大江維時、大江音人、大江朝綱、大江挙周、...、大春日真野麻呂、天保、太安万侶、孝明天皇、学習材、宗良親王、宇都宮公綱、安倍宗任、安倍安仁、安倍兄雄、安倍泰親、安倍晴明、安田靫彦、安東聖秀、富士名雅清、尊良親王、小堀鞆音、小宰相、小山田高家、小山朝政、小式部内侍、小笠原長清、小野好古、小野小町、小野岑守、小野篁、小野道風、小野恒柯、小野春風、小林古径、小林清親、尾張浜主、尾形月耕、山下裕二、山田古嗣、山田重忠、山田春城、島田忠臣、川部酒麻呂、工藤行光、巨勢広高、巨勢麻呂、巨勢金岡、巴御前、上古、上官周、上毛野形名、上毛野穎人、丸部明麻呂、丹塀門成、丹波雅忠、万多親王、万里小路藤房、三宅克己、三善清行、三輪高市麻呂、三輪逆、三条実美、三条実行、三条公教、三浦義澄、三浦義明、下河辺行平、九条兼実、平家貞、平忠度、平忠盛、平兼盛、平知盛、平維茂、平経正、平盛俊、平行盛、平高棟、平賀義信、平重盛、平重衡、平通盛、平清盛、平敦盛、平教経、平教盛、幼学綱要、二条師基、二条道平、広井女王、今川貞世、今井兼平、今村紫紅、仁田忠常、仏御前、廬井鯨、伊伎是雄、伊勢 (歌人)、伊勢大輔、伊勢義盛、伊賀局 (篠塚重広の娘)、伊東祐清、弟橘媛、伝記、伴友足、佐原義連、佐奈田義忠、佐々木盛綱、佐々木高綱、佐藤忠信、佐藤継信、彦五瀬命、彦国葺命、彫刻、微妙 (白拍子)、徳大寺実定、後亀山天皇、後藤実基、後深草院少将内侍、待宵の小侍従、忠貞王、修身、土岐頼兼、土肥実平、在原行平、在原業平、北畠具行、北畠顕家、北畠顕信、北畠顕能、北畠親房、北条貞時、北条政子、北条時宗、北条時頼、バイブル、ヤマトタケル、ヴィンチェンツォ・ラグーザ、嘉永、喜三太、和田義盛、和田賢秀、和田正武、和気真綱、和気貞臣、和気清麻呂、和泉式部、ウマシマジ、儒学者、凡河内躬恒、児島高徳、八田知家、具平親王、兼明親王、元田永孚、兵庫県立美術館、前田青邨、勾当内侍、勅使河原直重、国立国会図書館、四条隆俊、四条隆資、皇族、石川年足、石上宅嗣、石上麻呂、石井鼎湖、王仁、王辰爾、神奈川県立近代美術館、秦酒公、秦河勝、稚足姫皇女、篠塚重広、粟田真人、紫式部、細川頼之、細川斉護、紀友則、紀夏井、紀安雄、紀小弓、紀貫之、紀長谷雄、紀淑人、紀最弟、紀斉名、練馬区立美術館、結城宗広、結城親光、結城朝光、絵画モデル、瓜生保、田代信綱、田道間守、田辺小隅、由利維平、由良具滋、甘南備高直、熊谷直実、畠山重忠、畑時能、物部守屋、物部尾輿、物部目、物部麁鹿火、百済河成、花山院師賢、花山院長親、花園左大臣家小大進、鎌倉景正、鎌田政清、聖徳太子、道首名、道臣命、菊池容斎、菊池武吉、菊池武光、菊池武重、菊池武朝、菊池武房、菊池武政、菊池武敏、菊池武時、菟道稚郎子、鏡久綱、菅原古人、菅原峯嗣、菅原為長、菅原道真、菅原輔正、菅原梶成、菅原淳茂、菅原清公、菅原是善、菅原文時、菅野真道、青砥藤綱、静御前、頓阿、西行、調伊企儺、高橋文室麻呂、護良親王、讃岐永直、賀陽親王、賀陽豊年、鴨長明、足助重範、足利忠綱、足利義兼、鷹司政通、都良香、舎人親王、鈴木華邨、船田義昌、興世書主、阿保親王、阿倍仲麻呂、阿知使主、赤染衛門、赤松則祐、関白、藤原基経、藤原吉野、藤原多美子、藤原定家、藤原実頼、藤原実資、藤原実方、藤原家隆 (従二位)、藤原宗輔、藤原宇合、藤原富士麻呂、藤原山蔭、藤原岳守、藤原不比等、藤原師輔、藤原師長、藤原師通、藤原常嗣、藤原三守、藤原広嗣、藤原伊通、藤原佐理、藤原俊家、藤原俊成、藤原俊成女、藤原保則、藤原保昌、藤原忠平、藤原忠通、藤原忠文、藤原信実、藤原在衡、藤原園人、藤原利仁、藤原冬嗣、藤原内麻呂、藤原公任、藤原兼家、藤原兼光、藤原光頼、藤原秀衡、藤原範永、藤原継縄、藤原緒嗣、藤原真楯、藤原為家、藤原為隆、藤原百川、藤原鎌足、藤原道隆、藤原道長、藤原行成、藤原衛、藤原諸葛、藤原高光、藤原高房、藤原豊成、藤原貞主、藤原貞敏、藤原麻呂、藤原関雄、藤原葛野麻呂、藤原蔵下麻呂、藤原長良、藤原長方、藤原良仁、藤原良縄、藤原良相、藤原良近、藤原良房、藤原通俊、藤原松影、藤原正家、藤原武智麻呂、藤原永手、藤原清輔、藤原清河、藤原朝俊、藤原成範、藤原成通、藤原房前、藤原春津、藤原是公、藤原斉信、藤原政則、藤原敦光、葛原親王、葛野王、那須与一、肖像、脇屋義助、脇屋義治、野見宿禰、里見時成、金子家忠、金刺盛澄、長崎高重、長谷部信連、良岑安世、良忠 (二条家)、難波日香蚊、集古十種、考証、柿本人麻呂、恒貞親王、捕鳥部万、東久世通禧、東京国立博物館、松下禅尼、松本楓湖、村上義光、村国男依、栗生顕友、桜山茲俊、梶原景季、梶田半古、椎根津彦、楠木正儀、楠木正元、楠木正勝、楠木正行、楠木正成、橘安麻呂、橘広相、橘諸兄、橘良基、橘正通、橋本雅邦、檜垣嫗、武内宿禰、武田信義、武蔵坊弁慶、歴史画、歴史書、水野年方、江戸時代、池田春野、河野通信、洞院実世、洞院公賢、洋画、淡海三船、渡辺競、渡辺省亭、渡里忠景、清原夏野、清原頼業、清原武則、清原滝雄、清少納言、源博雅、源師頼、源師房、源常、源仲頼、源延光、源弘、源俊頼、源俊賢、源俊明、源信 (公卿)、源範頼、源義家、源義平、源義経、源義重、源経基、源経信、源経成、源為朝、源為憲、源隆俊、源隆国、源隆綱 (醍醐源氏)、源融、源頼信、源頼光、源頼義、源頼朝、源頼政、源順、源顕基、源重成、源雅定、源雅実、源雅信、源氏物語、源清、源満仲、滋善宗人、滋野貞主、漢文、朝野鹿取、朝比奈義秀、本多錦吉郎、本間重氏、月岡芳年、有職故実、有智子内親王、惟喬親王、明治、明治天皇、明治美術会、明日香親王、春澄善縄、浦島太郎、浮世絵、浜離宮恩賜庭園、浅利義遠、斎部広成、斎藤実盛、新田義宗、新田義顕、新田義貞、新田義興、文室巻雄、文室綿麻呂、文室浄三、文屋善友、文覚、文政、日野俊基、日野資朝、日野邦光、日本書紀、悳俊彦、懐良親王、慶応、慶滋保胤、手塚光照、曾我祐成、曾我時致、智尊、時代考証、1818年、1836年、1843年、1850年、1867年、1868年、1875年、1881年、1891年、1894年、1903年。 インデックスを展開 (504 もっと) »
加藤景廉
加藤 景廉(かとう かげかど)は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の御家人。藤原利仁の流れを汲む加藤景員の次男。.
原撫松
原 撫松(はら ぶしょう、慶応2年3月7日(1866年4月21日) - 大正元年(1912年)10月27日)は、明治期の洋画家。今日、知名度は高いとはいえないが、明治期において本格的な油彩技法を修得した最も優れた画家の一人とされ、肖像画を得意とした。.
千種忠顕
千種 忠顕(ちぐさ ただあき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿(公家)。権中納言六条有忠の次男。千種家の祖。官位は従三位参議、贈従二位。.
千葉常胤
千葉 常胤(ちば つねたね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武将。千葉氏を地方豪族から大御家人の地位まで登らしめた千葉家中興の祖といわれる。常胤以降、一族は諱に「胤」の一字を受け継ぐことが多くなる。.
千手の前
千手の前/江戸時代『前賢故実』より。画:菊池容斎 千手の前(せんじゅのまえ、永万元年(1165年) - 文治4年4月25日(1188年5月23日))は平安時代末期の女性。『平家物語』によると駿河国手越長者の娘。ただし『平家物語』や『吾妻鏡』は捏造部分も多いため実在については怪しまれている。.
南北朝時代 (日本)
南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.
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南江久子
南江 久子(みなみえ ひさこ)は、明治時代の農政家・織田完之『楠公夫人伝』の推説の流布による、楠木正成の妻、楠木正行、楠木正時、楠木正儀の母とされる人物。楠木久子とも称される。.
南淵永河
南淵 永河(みなぶち の ながかわ、宝亀8年(777年) - 天安元年10月12日(857年11月2日))は、平安時代初期の貴族。氏姓は坂田宿祢のち坂田朝臣、南淵朝臣。従四位下・坂田奈弖麻呂の三男。官位は正四位下・因幡権守。.
古事記
真福寺収蔵の国宝・『古事記』。信瑜の弟子の賢瑜による写本 古事記(こじき、ふることふみ、ふることぶみ)は、日本最古の歴史書である。その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上された。.
古今和歌集
『古今和歌集』(こきんわかしゅう)とは、平安時代前期の勅撰和歌集。全二十巻。勅撰和歌集として最初に編纂されたもの。略称を『古今集』(こきんしゅう)という。.
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右田年英
右田 年英(みぎた としひで、文久3年6月17日〈1863年8月1日〉 - 大正14年〈1925年〉2月4日)とは、明治時代から大正時代にかけての浮世絵師、日本画家。ただし生年は文久2年(1862年)ともいわれる。.
名和長年
名和 長年(なわ ながとし)は、日本の南北朝時代の武将。伯耆(キ)守であったことから、同じく建武の新政下で重用された楠木(キ)正成、結城(キ)親光、千種(クサ)忠顕と合わせて「三木一草」と称された。 長年が発給した文書は現存数が少なく、その他の長年、及び名和氏に関する史料も少ない。.
吉備真備
吉備 真備(きび の まきび)は、日本の奈良時代の学者・公卿。元の名は下道 真備(しもつみち の まきび)。氏姓は下道朝臣のち吉備朝臣。右衛士少尉・下道圀勝の子。官位は正二位・右大臣。勲等は勲二等。.
吉田兼好
吉田 兼好(よしだ けんこう)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家。治部少輔・卜部兼顕の子。本名は卜部兼好(うらべ かねよし/うらべ の かねよし)。 卜部氏の嫡流は兼好より後の時代に吉田家と称するようになり、江戸時代以降は吉田兼好と通称されるようになった。また出家したことから兼好法師(けんこうほうし)とも呼ばれ、中学校国語の検定済み教科書ではすべて「兼好法師」と表している。また、兼好と呼ぶこともある。 日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者であり、また私家集に『兼好法師家集』がある。.
吉田経房
吉田 経房(よしだ つねふさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。権右中弁・藤原光房の子。 源頼朝の鎌倉政権(後の鎌倉幕府)より初代関東申次に任ぜられた。吉田家(後の甘露寺家)の祖。.
坂上田村麻呂
坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の公卿、武官。名は田村麿とも書く。姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。父は左京大夫・坂上苅田麻呂。官位は大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位。 忠臣として名高く、桓武天皇に重用されて、軍事と造作を支えた一人であり、桓武朝では二度にわたり征夷大将軍を勤める。蝦夷征討に功績を残し、薬子の変では大納言へ昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、軍神として信仰の対象となる。現在は武芸の神として親しまれ、多くの伝説、物語を生んだ。 坂上宝剣では坂家。.
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坂上瀧守
坂上 瀧守(さかのうえ の たきもり、天長2年(825年) - 元慶5年11月9日(881年12月3日))は、平安時代初期から前期にかけての貴族。大和守・坂上鷹養の孫。正六位上・坂上氏勝の子。官位は従四位下・大和守。.
坂上貞守
坂上 貞守(さかのうえ の さだもり、延暦24年(805年) - 貞観18年9月9日(876年9月30日)は、平安時代の貴族。左京大夫・坂上苅田麻呂の孫。但馬守・坂上鷹主の子。官位は従五位上・丹波守。.
坂上苅田麻呂
坂上 苅田麻呂(さかのうえ の かりたまろ、神亀4年(727年)- 延暦5年1月7日(786年2月14日))は、奈良時代の公卿・武人。姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。大和守・坂上犬養の子。官位は従三位・左京大夫。勲等は勲二等。.
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坂上浄野
坂上 浄野(さかのうえ の きよの、延暦8年(789年) - 嘉祥3年8月4日(850年9月13日))は、平安時代初期の貴族。名は清野とも記される、大納言・坂上田村麻呂の四男。官位は正四位下・右兵衛督。.
堀口貞満
堀口 貞満(ほりぐち さだみつ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。清和源氏の一門で上野国に土着した新田氏の支族。上野国新田郡(新田荘)の東南端にある堀口郷(現在の群馬県太田市堀口町)を支配していた。.
塩冶高貞
花輪違(七宝に花角) 塩冶 高貞(えんや たかさだ、旧字体:鹽冶 髙貞、生年不詳 -1341年(興国2年/暦応4年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。出雲守護として、後醍醐天皇の挙兵に呼応し、鎌倉幕府との戦いに貢献する。建武の新政ののちは、足利尊氏に味方し、南朝方制圧に力を奮ったが、1341年3月に京都を出奔すると謀反として北朝に追討され、同年翌月出雲国で自害した。 江戸時代に『仮名手本忠臣蔵』に引用されたことで有名。通称が大夫判官だったことから、物語では塩谷「や」の漢字表記は冶ではなく谷となっている。判官(えんや はんがん)として広く知られた。家紋は「花輪違」。.
塩飽聖遠
塩飽 聖遠(しあく しょうえん/しょうおん、生年不明 - 元弘3年/正慶2年5月22日(1333年7月4日))は、鎌倉時代末期の武士。北条氏得宗家被官である御内人。通称は新左近入道。子に忠頼、四郎。 元弘3年/正慶2年(1333年)、聖遠は幕府方として従軍し、鎌倉へ侵攻してきた反幕府勢力である新田義貞軍と戦うも敗北する。 『太平記』によると、東勝寺で北条氏に殉じて聖遠も自刃した。自刃の際、嫡男である忠頼に出家をして生き延び自身の弔いを促すも、忠頼は拒絶し袖の下から抜いた刀で自害した。忠頼の弟である四郎も兄に続こうとするが聖遠が制止し、自らの辞世の漢詩を書き付けた後、四郎に首を落とさせたという。 「提持吹毛 截断虚空 大火聚裡 一道清風」(辞世).
壬生忠岑
壬生 忠岑(みぶ の ただみね)は、平安時代前期の歌人。三十六歌仙の一人。.
壬生忠見
壬生 忠見(みぶ の ただみ、生没年不詳)は、平安時代中期の歌人。右衛門府生・壬生忠岑の子。父・忠岑とともに三十六歌仙の一人に数えられる。.
壱岐真根子
壱岐 真根子(いき の まねこ)は、『日本書紀』等に伝わる古代日本の人物。姓は直。 『日本書紀』では「壱伎直祖真根子(いきのあたいがおや まねこ)」、他文献では「真根子命」とも表記される。『古事記』に記載はない。 壱岐直(壱岐氏/壱伎氏/伊伎氏/伊吉氏)の遠祖である。.
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多治見国長
多治見 国長(たじみ くになが)は、鎌倉時代末期の武将。.
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多治比縣守
多治比 縣守(たじひ の あがたもり)は、奈良時代の貴族。左大臣・多治比嶋の子。 養老の遣唐使(717年-718年)で遣唐押使として渡唐を果たしたのち、按察使・征夷将軍などを歴任して地方行政に従事する。 神亀6年(729年)の長屋王の変に際して臨時の参議になると、藤原四子政権で昇進し正三位・中納言に至った。.
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大姫 (源頼朝の娘)
大姫(江戸時代、菊池容斎画『前賢故実』より) 大姫(おおひめ、治承2年(1178年) - 建久8年7月14日(1197年8月28日))は、平安時代末期、鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の長女で母は北条政子(頼朝の子としては第2子で長女、政子の子としては第1子で長女)。大姫というのは「長女」を意味する通称で、本名は一幡とする説があるが不明。 6歳の時に頼朝と対立した源義仲との和睦のため、義仲の嫡男・義高と婚約するが、義仲の敗北に伴い義高が処刑されたことに衝撃を受け心を病む。のちの縁談も拒み通し、後鳥羽天皇への入内の話も持ち上がったが実現する事無く20歳で早世した。.
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大中臣輔親
大中臣 輔親(おおなかとみ の すけちか、天暦8年(954年) - 長暦2年6月2日(1038年7月6日))は、平安時代中期の貴族・歌人。神祇大副・大中臣能宣の長男。官位は正三位・祭主・神祇伯。中古三十六歌仙の一人。四条または岩出を号す。.
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大中臣能宣
大中臣 能宣(おおなかとみ の よしのぶ、延喜21年(921年)正暦2年(991年)8月)は、平安時代中期の貴族・歌人。神祇大副・大中臣頼基の子。三十六歌仙の一人。官位は正四位下・祭主・神祇大副。.
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大中臣清麻呂
大中臣 清麻呂(おおなかとみ の きよまろ、大宝2年(702年) - 延暦7年7月28日(788年9月6日))は、奈良時代の公卿。名は清万呂・浄万呂とも書く。氏姓は中臣朝臣のち大中臣朝臣。中納言・中臣意美麻呂の七男。官位は正二位・右大臣。.
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大庭景義
大庭 景義(おおば かげよし)は平安時代後期から鎌倉時代初期の武将。景能とも表記。桓武平氏支流、鎌倉景正の曾孫(『尊卑分脈』)。.
大伴狭手彦
大伴 狭手彦(おおとも の さてひこ、生没年不詳)は、6世紀中頃(古墳時代後期)の豪族。「佐弖彦」「佐提比古郎子」などとも表記される。 カバネは連。大伴金村の子で、『新撰姓氏録』によれば道臣命(大伴氏祖)の十世孫とされる。.
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大伴駿河麻呂
大伴 駿河麻呂(おおとも の するがまろ、生年不詳 - 宝亀7年7月7日(776年7月26日)は、奈良時代の公卿。大納言・大伴御行の孫『勅撰作者部類』。父は不詳だが参議・兄麻呂と推定する文献もある。官位は正四位上・参議、贈従三位。勲等は勲三等。.
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大伴金村
大伴 金村(おおとも の かなむら、生没年不詳)は、5世紀から6世紀にかけての豪族(大連)。大伴室屋の孫で、大伴談の子とされるが、大伴室屋の子とする系図もある。.
大伴旅人
大伴旅人(菊池容斎・画、明治時代) 大伴 旅人(おおとも の たびと、天智天皇4年(665年) - 天平3年7月25日(731年8月31日)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族・歌人。名は多比等とも記される。大納言・大伴安麻呂の長男。官位は従二位・大納言。.
大和長岡
大和 長岡(やまと の ながおか、持統天皇3年(689年)- 神護景雲3年10月29日(769年12月1日))は、奈良時代の貴族・明法家。初名は小東人。姓は忌寸のち宿禰。刑部少輔・大倭五百足の子。官位は正四位下・大和国造。.
大神虎主
大神 虎主(おおみわ の とらぬし、延暦17年(798年) - 貞観2年12月29日(861年2月12日))は、平安時代初期から前期にかけての貴族・医師。氏姓は神直のち大神朝臣。官位は従五位下・内薬正。.
大舘氏明
大舘 氏明(おおだち うじあき、嘉元3年(1303年)? - 興国元年/暦応3年9月3日(1340年9月24日)もしくは興国3年/康元2年9月3日(1342年10月3日))は、南北朝時代の武士。大舘宗氏の子。舎弟の幸氏が新田義貞と同年代かそれより上の年代の生まれと考えられており、そのため氏明も義貞より年齢は上であると推定されている。.
大蔵善行
大蔵 善行(おおくら の よしゆき、天長9年(832年) - 延喜21年(921年)?)は、平安時代前期の貴族・学者。姓は忌寸(伊美吉)のち朝臣。豊前権介・大蔵浄明の子。官位は従四位下・民部大輔。菅原道真とは当時の学界の双璧で、「天神」道真に対して地仙と呼ばれた。唐名は蔵外史大夫。.
大野果安
大野 果安(おおの の はたやす、生没年不明)は、日本の飛鳥時代の人物である。姓は君のち朝臣。大野狭手の子とする系図がある鈴木真年『百家系図稿』巻1,大野 および 鈴木真年『諸系譜』第一冊,大野朝臣。子に東人がいる。官位は直広肆・糾職大夫。 672年の壬申の乱では大友皇子(弘文天皇)側の将となり、及楽山(奈良)で大伴吹負を破ったが、倭京を前にして引き上げた。.
大野東人
大野 東人(おおの の あずまびと、生年不詳 - 天平14年11月2日(742年12月7日))は奈良時代の武人。糺職大夫・大野果安の子。姓は君のち朝臣。官位は従三位・参議。.
大江以言
大江 以言(おおえ の もちとき、天暦9年(955年) - 寛弘7年7月24日(1010年9月5日))は、平安時代中期、一条朝の貴族・文人。大隅守・大江仲宣の子。子に成賢・公賢がいる。官位は従四位下・式部権大輔。.
大江匡衡
大江 匡衡(おおえ の まさひら、天暦6年(952年) - 寛弘9年7月16日(1012年8月6日))は、平安時代中期の儒者・歌人。中納言・大江維時の孫で、左京大夫・大江重光の子。官位は正四位下・式部大輔。中古三十六歌仙の一人。.
大江匡房
大江 匡房(おおえ の まさふさ)は、平安時代後期の公卿、儒学者、歌人。大学頭・大江成衡の子。官位は正二位・権中納言。江帥(ごうのそつ)と号す。藤原伊房・藤原為房とともに白河朝の「三房」と称された。小倉百人一首では前中納言匡房。.
大江維時
大江 維時(おおえ の これとき)は、平安時代の貴族、学者。伊予権守・大江千古の三男。官位は従三位・中納言、贈従二位。.
大江音人
大江 音人(おおえ の おとんど /おとひと、弘仁2年(811年) - 元慶元年11月3日(877年12月15日))は、平安時代の貴族・学者。備中権介・大枝本主の嫡男。大枝諸上の孫。官位は従三位・参議。江相公と号する。.
大江朝綱
大江 朝綱(おおえ の あさつな)は平安時代中期の公卿、学者、書家。丹後守大江玉淵の子。 同じく参議に至った祖父音人が江相公と称されたことから、後江相公と称された。.
大江挙周
大江 挙周(おおえ の たかちか、生年不詳 - 永承元年(1046年)6月)は、平安時代の貴族。式部大輔・大江匡衡の子。正四位下・式部大輔。.
大春日真野麻呂
大春日 真野麻呂(おおかすが の まのまろ、生没年不詳)は、平安時代初期から前期にかけての貴族・暦学者。大春日船主の孫。官位は従五位上・陰陽頭。.
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天保
天保(てんぽう)は日本の元号の一つ。文政の後、弘化の前。1831年から1845年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉、徳川家慶。.
太安万侶
太 安万侶(おお の やすまろ、生年不詳 - 養老7年7月6日(ユリウス暦723年8月11日(12日)))は、奈良時代の文官。名は安萬侶、安麻呂とも記される。姓は朝臣。多品治の子とする後世の系図がある。官位は民部卿従四位下。贈従三位。.
孝明天皇
孝明天皇(こうめいてんのう、天保2年6月14日(1831年7月22日) - 慶応2年12月25日(1867年1月30日))は、第121代天皇(在位:弘化3年2月13日(1846年3月10日)‐ 慶応2年12月25日(1867年1月30日))。諱は統仁(おさひと)。仁孝天皇の皇子、明治天皇の父。.
学習材
学習材(がくしゅうざい)とは、学ぶにあたって考察などに使用するもののことである。教育の場においては、教えるにあたって解説などに使用する教材(きょうざい)が学習材としても機能する。.
宗良親王
宗良親王(むねよししんのう/むねながしんのう、応長元年(1311年)/正和元年(1312年) - 元中2年/至徳2年8月10日( 1385年9月14日)?)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。母は二条為子。一品中務卿。同母兄弟に尊良親王、異母兄弟に護良親王、懐良親王、義良親王(後村上天皇)など。信濃の宮、大草の宮、幸坂の宮(庇護者となった香坂氏に由来)と呼ばれた。法名は尊澄法親王。名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。.
宇都宮公綱
宇都宮 公綱(うつのみや きんつな)は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。宇都宮氏第九代当主。父は宇都宮貞綱。母は長井時秀の娘か。子に宇都宮氏綱。名将・楠木正成に坂東一の弓取りと評され恐れられるほどの武勇を誇ったといわれている。 楠木正成との戦いは、宇都宮氏を中心とした東国武士の武勇を示すものとして名高い。.
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安倍宗任
安倍宗任の墓(宗像市大島) 安倍 宗任 (あべ の むねとう)は、平安時代中期の武将。陸奥国の俘囚の長とされる豪族、安倍氏の安倍頼時の子(三男)。鳥海柵の主で、鳥海三郎とも呼ばれる。嫡妻であった清原氏の子として嫡子格の地位にあったと推察する説もある。.
安倍安仁
安倍 安仁(あべ の やすひと)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。参議・安倍寛麻呂の次男。官位は正三位・大納言。.
安倍兄雄
安倍 兄雄(あべ の あにお / えお)は、平安時代初期の公卿。中納言・阿倍広庭の曾孫。無位・安倍道守の子。.
安倍泰親
安倍 泰親(あべ の やすちか、天永元年(1110年)-寿永2年3月20日(1183年4月14日)?)は、平安時代末期の貴族・陰陽師。陰陽頭・安倍泰長の子。官位は正四位下・陰陽頭兼大膳権大夫。安倍晴明の5代目の子孫にあたる。.
安倍晴明
安倍 晴明(あべ の せいめい/ はるあき/ はるあきら、延喜21年1月11日〈921年2月21日〉 - 寛弘2年9月26日〈1005年10月31日〉)は、平安時代の陰陽師。「晴明」を「せいめい」と読むのは有職読みであり、本来の読み方は確定していない。鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖。官位は従四位下・播磨守。.
安田靫彦
安田 靫彦(やすだ ゆきひこ、本名:安田 新三郎、1884年(明治17年)2月16日 - 1978年(昭和53年)4月29日)は、大正~昭和期の日本画家、能書家。東京府出身。 靫彦は前田青邨と並ぶ歴史画の大家で、青邨とともに焼損した法隆寺金堂壁画の模写にも携わった。「飛鳥の春の額田王」「黎明富士」「窓」はそれぞれ1981年、1986年、1996年に切手に用いられた。良寛の書の研究家としても知られ、良寛の生地新潟県出雲崎町に良寛堂を設計した。また靫彦自らも皇居新宮殿千草の間に書、『万葉の秀歌』を揮毫した。.
安東聖秀
安東 聖秀(あんどう せいしゅう/しょうしゅう、生年不明 - 元弘3年/正慶2年(1333年))は、鎌倉時代末期の武士。北条氏得宗家被官である御内人。通称は左衛門入道。姪に新田義貞室。 正中元年(1324年)、正中の変で捕縛され鎌倉へ連行された日野資朝・日野俊基の尋問を担当する。元弘3年/正慶2年(1333年)、幕府方として従軍し、鎌倉へ侵攻してきた新田義貞軍と稲村ヶ崎の稲瀬川で戦うも敗北した。 『太平記』によると、北条高時ら一門が東勝寺で自害した事を知った聖秀は、稲村ヶ崎から僅かな手勢を率い、死に場所として灰燼と帰した高時の邸宅へ向かった。焼け落ちた高時の屋敷前で、義貞から降伏を促す書状が届くも、聖秀は項羽と王陵の故事を引き合いに出し、降伏を拒絶して自刃した。.
富士名雅清
富士名 雅清(ふじな まさきよ、永仁4年(1296年) - 建武3年(1336年)1月)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武士。通称は三郎。若狭守護。『太平記』では富士名義綱、富士名判官で知られる。父は湯信清、或いは湯宗清とも。 富士名氏は佐々木氏から出た湯氏の支流で、出雲八束郡布志名(富士名)の地頭。 元弘2年/正慶元年(1332年)、鎌倉幕府打倒を志した後醍醐天皇が隠岐へ流刑となった(元弘の変)。雅清は、北条氏の命により後醍醐の警固役の一人となったが翻意し、後醍醐の隠岐脱出を計画する。(『太平記』巻七「先帝船上臨幸事」) 脱出に向けて雅清は、同族で出雲守護塩冶高貞の助力を請おうと出雲へ帰還するが、高貞により幽閉された。翌元弘3年/正慶2年(1333年)、雅清の帰島を待たず隠岐を脱出した後醍醐は、名和長年に迎えられ船上山に築いた行宮へ入り、追跡してきた隠岐守護佐々木清高と交戦する(船上山の戦い)。この情勢を知り、腹を括った高貞は雅清と共に後醍醐の元へ馳せ参じた。その後も、後醍醐に随行し上洛するなど宮方として倒幕に貢献した。 建武政権では若狭守護に補任された(『若狭国守護職次第』・『大徳寺文書』)。南北朝の争乱が起こると、南朝側として足利尊氏ら北朝方と各地で戦い、建武3年(1336)正月、京都で二条師基軍の武将として北朝方と戦うも戦死した。享年41。 明治31年(1898年)、顕彰碑が意宇郡判官山の頂に建立され、大正4年(1915年)、正四位上を追贈された。.
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尊良親王
尊良親王(たかよししんのう / たかながしんのう、1310年(延慶3年)? - 1337年4月7日(延元2年 / 建武4年3月6日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。母は二条為世の娘・為子。宗良親王の同母兄。名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の読みを参照。.
小堀鞆音
小堀 鞆音(こぼり ともと、文久4年2月19日(1864年3月26日) - 昭和6年(1931年)10月1日)は、日本画家、故実家。東京美術学校助教授、文展審査員、帝室技芸員などを務めた。.
小宰相
小宰相/江戸時代『前賢故実』より。画:菊池容斎 小宰相(こざいしょう、嘉応元年(1164年)? - 寿永3年2月14日(1184年3月27日))は平安時代末期の女性。父は刑部卿藤原憲方、母は按察使藤原顕隆の娘。平通盛の妻。 一ノ谷の戦いでの通盛の死と小宰相が後を追って入水したエピソードは、『平家物語』で一章が割かれ、一ノ谷の戦いでの象徴的な悲話になっている。.
小山田高家
小山田 高家(おやまだ たかいえ、生年不詳 - 建武3年5月25日(1336年7月4日))は、南北朝時代の武将。秩父平氏・小山田氏の出自と見られている。名は「隆家」とも。.
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小山朝政
小山 朝政(おやま ともまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。小山氏2代当主。 下野国寒河御厨(小山庄)を本貫地とする。源頼朝に挙兵の頃から仕え、下野国守護の他、播磨国守護に補されたほか、晩年に下野守にも任ぜられた。.
小式部内侍
小式部内侍(こしきぶ の ないし、長保元年(999年)頃 - 万寿2年(1025年)11月)は平安時代の女流歌人。掌侍。女房三十六歌仙の一人。父は橘道貞、母は和泉式部。母の和泉式部と共に一条天皇の中宮・彰子に出仕した。そのため、母式部と区別するために「小式部」という女房名で呼ばれるようになった。.
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小笠原長清
小笠原 長清(おがさわら ながきよ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の甲斐国の武将。甲斐源氏の一族である加賀美遠光の次男。 信濃守護家小笠原氏、弓馬術礼法小笠原流の祖。.
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小野好古
小野 好古(おの の よしふる、884年(元慶8年) - 968年3月20日(康保5年2月14日))は平安時代中期の公卿。参議・小野篁の孫で、大宰大弐・小野葛絃の子。弟に三蹟の一人小野道風がいる。異名は「野大弐」。官位は従三位・参議。.
小野小町
小野小町(『前賢故実』菊池容斎画、明治時代) 歌碑(京都随心院)「花の色は」の歌が刻まれている。 小野 小町(おの の こまち、生没年不詳)は、平安時代前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。.
小野岑守
小野 岑守(おの の みねもり)は、平安時代初期の貴族・文人。征夷副将軍・小野永見の三男。.
小野篁
小野篁(『前賢故実』より) 小野 篁(おの の たかむら、延暦21年(802年) - 仁寿2年12月22日(853年2月3日))は、平安時代前期の公卿・文人。 参議・小野岑守の長男。官位は従三位・参議。異名は野相公、野宰相、その反骨精神から野狂とも称された。小倉百人一首では参議篁(さんぎたかむら)。.
小野道風
小野 道風(おの の みちかぜ/とうふう)は、平安時代中期の貴族・能書家。参議・小野篁の孫で、大宰大弐・小野葛絃の三男。 それまでの中国的な書風から脱皮して和様書道の基礎を築いた人物と評されている。後に、藤原佐理と藤原行成と合わせて「三跡」と称され、その書跡は野跡と呼ばれる。.
小野恒柯
小野 恒柯(おの の つねえだ、大同3年(808年) - 貞観2年5月18日(860年6月10日)は、平安時代初期から前期にかけての貴族・書家。出羽守・小野滝雄の子。官位は従五位上・播磨守。.
小野春風
小野春風 /『前賢故実』より 小野 春風(おの の はるかぜ、生没年不詳)は、平安時代前期の貴族・歌人。従五位上・小野石雄の子。子に小野清如がいる。官位は正五位下・右近衛少将。.
小林古径
小林 古径(旧字:古徑、こばやし こけい、1883年(明治16年)2月11日 - 1957年(昭和32年)4月3日)は、大正~昭和期の日本画家。 本名は茂(しげる)。 1883年(明治16年)、新潟県高田(現上越市)に生まれる。早期に家族を亡くし、16歳の1899年(明治32年)に上京して梶田半古に日本画を学ぶ。39歳の1922年(大正11年)より前田青邨と共に渡欧留学。翌1923年(大正12年)、大英博物館で中国・東晋の名画「女史箴図巻」(じょししんずかん)を模写している。「蚕の吐く糸のような」と評される線描が特色のこの中国古典を研究することによって、古径は東洋絵画の命である線描の技術を高めた。代表作「髪」は、このような古径の線描の特色をいかんなく発揮した名作である。簡潔に力強く描かれた線と単純な色彩で、髪の毛一本一本や美しく縁取られた顔の輪郭、半裸の女性の体温や皮膚の柔らかい感触まで、繊細に描き出している。「髪」は、裸体画として、日本で初めて切手のデザインとなった。1935年(昭和10年)、帝国美術院会員。1944年(昭和19年)、東京美術学校教授に就任。同年7月1日帝室技芸員となる。1950年(昭和25年)、文化勲章受章。1957年(昭和32年)4月3日、死去、贈従三位、贈勲二等旭日重光章(没時叙位叙勲)。 古径の住居として東京都大田区南馬込に建築された小林古径邸は新潟県上越市の高田公園内に移築・復原され、国の登録有形文化財に登録されている。古径は、「私が好きになるような家を建ててください。」と言っただけで一切注文を出さなかった、古径邸ができあがってもすぐには移り住まずに通ってきては眺めて楽しんだというエピソードが残っている。 また、古径は絵画における写生の重要性を認識しており、庭の植物や庭で飼育した鳥などを写生したという。.
小林清親
小林 清親(こばやし きよちか、弘化4年8月1日〈1847年9月10日〉 - 大正4年〈1915年〉11月28日)は、明治時代の版画家、浮世絵師。月岡芳年、豊原国周と共に明治浮世絵界の三傑の一人に数えられ、しばしば「最後の浮世絵師」、「明治の広重」と評された。.
尾張浜主
尾張 浜主(おわり の はまぬし、天平5年(733年)- 没年不詳)は、奈良時代から平安時代初期にかけての楽人。姓は連。位階は従五位下。大戸清上らと、日本雅楽の形成に重要な役割を果たす。.
尾形月耕
龍昇天」(『月耕随筆』) 尾形 月耕(おがた げっこう、OGATA Gekko、安政6年9月15日〈1859年10月10日〉 - 大正9年〈1920年〉10月1日)とは、日本の明治から大正期の浮世絵師、日本画家。.
山下裕二
山下 裕二(やました ゆうじ、1958年6月15日 - )は、日本の美術史家、美術評論家、明治学院大学教授。.
山田古嗣
山田 古嗣(やまた の ふるつぐ、延暦17年(798年) - 仁寿3年12月21日(854年1月24日))は、平安時代初期の貴族。姓は造のち宿禰。越後介・山田益人の長男。官位は従五位上・相模権介。 能吏として知られ、内記・外記を歴任して文筆をもって朝廷に仕えたのち、地方官としても治績を挙げた。『日本後紀』の編纂にも携わっている。.
山田重忠
山田 重忠(やまだ しげただ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。山田重満の次男。仮名は二郎。史料によっては重広、重定、重貞と記されるほか、泉重忠とも呼ばれる。承久の乱で宮方の武将として活躍した。尾張国星崎城主。.
山田春城
山田 春城(やまだ の はるき、弘仁元年(810年) - 天安2年6月20日(858年8月2日))は、平安時代初期の貴族。姓は連。明法博士・山田白金の曾孫。官位は従五位下・大学助。字は連城。.
島田忠臣
島田 忠臣(しまだ の ただおみ、天長5年(828年)- 寛平4年(892年))は、平安時代前期の貴族・詩人。伊賀守・島田清田の孫。弟に島田良臣がいる。官位は正五位下・伊勢介。号は田達音(でんたつおん)。 菅原道真の師として知られ、娘宣来子はその正室となった。また、この時代を代表する漢詩詩人でもある。.
川部酒麻呂
川部 酒麻呂(かわべ の さかまろ、生没年不詳)は、奈良時代の人物。姓はなし。官位は外従五位下・松浦郡員外主帳。 肥前国松浦郡の人。天平勝宝4年(752年)遣唐使第4船の舵取として唐に渡る。天平勝宝6年(754年)帰国の途中、海上で強い順風が吹いていた所、突如船尾から出火して艫に燃え広がる火災が発生。この際、酒麻呂は舵を回して船首を風上に向け、すぐ傍に火が燃え広がり手が焼け爛れるのにも構わず、舵を掴んだまま動かなかった。その結果ようやく火を消し止めることができ、乗員や物品は無事であった。この功労により酒麻呂は10階の昇叙を受け、松浦郡員外主帳に任じられた。 宝亀6年(775年)外従五位下に叙せられている。.
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工藤行光
工藤 行光(くどう ゆきみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。厨川工藤氏の祖。 治承4年(1180年)、源頼朝に呼応して一家を挙げて挙兵し、頼朝に仕える。 文治5年(1189年)の奥州合戦では親子で従軍し軍功をたて、同年9月12日に岩手郡厨川に頼朝が進軍した際に岩手郡に領地を与えられ、中務丞に改めた。.
巨勢広高
巨勢 広高(こせ の ひろたか、生没年不詳)は平安時代中期の絵師。巨勢深江の子で、采女正・巨勢金岡の曾孫にあたる。息男に是重がいた。名は弘高や広貴、広孝とも書く。 一条天皇の時代に宮廷絵師として活躍した。采女正に任ぜられ、長保2年(1000年)に絵所長者となる。長保4年(1002年)には花山上皇の命により書寫山の「性空上人」を写生した。『今昔物語集』の逸話によれば、広高には出家の意志があったため、病となった際に出家したという。しかし、平癒すると一条天皇の命により不本意ながら還俗して、以後も長く朝廷に絵師として仕えたとされる。寛弘7年(1010年)頃までの活動が見られ、大和絵の作例が多い。.
巨勢麻呂
巨勢 麻呂(こせ の まろ)は、飛鳥時代後期から奈良時代前期にかけての貴族。小徳・巨勢大海の孫で、京職・巨勢紫檀の子。.
巨勢金岡
菊池容斎『前賢故実』より巨勢 金岡(こせ の かなおか、生没年未詳)は平安時代前期の宮廷画家。巨勢有行または采女正・巨勢氏宗の子とする系図がある。官位は従五位下・采女正。.
巴御前
巴御前(ともえごぜん/ともゑごぜん、鞆絵御前とも、生没年不詳)は、平安時代末期の信濃国の女性。女武者として伝えられている。.
上古
上古(じょうこ、または、しょうこ)は、時代区分の1つ。ただし古語では単に「昔」の意味もある。 歴史時代の前期(およそ古代と中世)を上古・中古・近古に三分した最初である。歴史時代の最初であり、文献記録をたどれる最初の時代である。.
上官周
上官周(じょうかん しゅう、1665年 - 1752年)は、清朝・中国の画家。字は文佐、竹荘と号す。.
上毛野形名
教導立志基」より『上毛野形名』小林清親筆 上毛野 形名(かみつけの の かたな、生没年不詳)は、飛鳥時代の武人。姓は君。上毛野池邉の子とする系図がある鈴木真年『諸系譜』第12冊,上毛野君。冠位は大仁。.
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上毛野穎人
上毛野 穎人(かみつけの の かいひと/ ひでひと、天平神護2年(766年) - 弘仁12年8月18日(821年9月17日))は、平安時代初期の貴族。姓は公のち朝臣。従五位下・上毛野大川の子。官位は従四位上・東宮学士。.
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丸部明麻呂
丸部 明麻呂(わにべ の あきまろ、弘仁10年(819年) - 没年不詳)は、平安時代前期の官人。姓は臣。外従八位上・丸部己西成の子。官位は従四位上・三野郡大領。.
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丹塀門成
丹墀 門成(たじひ の かどなり、生年不詳 - 仁寿3年3月22日(853年5月3日))は、平安時代初期の貴族。氏姓は多治比真人のち丹墀真人。内蔵助・多治比豊長の子。官位は正五位下・大和守。.
丹波雅忠
丹波 雅忠(たんば の まさただ、治安元年(1021年) - 寛治2年2月18日(1088年3月13日))は、平安時代中期の医師。丹波康頼の曽孫。典薬頭・丹波忠明の子。官位は正四位下・主税頭。.
万多親王
万多親王(まんだしんのう/まんたしんのう、延暦7年(788年) - 天長7年4月21日(830年5月16日))は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての皇族。桓武天皇の第五皇子。初名は茨田。官位は二品・大宰帥、贈一品。.
万里小路藤房
万里小路 藤房(までのこうじ ふじふさ)は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけての公卿。大納言万里小路宣房の一男。後醍醐天皇の側近として倒幕運動に参画し、建武政権では要職を担ったが、政権に失望して出家した。藤原藤房とも言う。 江戸時代の儒学者安東省菴によって、平重盛・楠木正成とともに日本三忠臣の1人に数えられている。.
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三宅克己
三宅 克己(みやけ こっき、1874年1月8日 - 1954年6月30日)は、明治から昭和初期に活動していた日本の洋画家。.
三善清行
三善 清行(みよし の きよゆき/きよつら)は平安時代中期の公卿、漢学者。淡路守三善氏吉の三男。正義感に溢れた経世家で権威に屈せず、そのために官位が停滞したと言われている。.
三輪高市麻呂
三輪 高市麻呂(みわ の たけちまろ、斉明天皇3年(657年) - 慶雲3年2月6日(706年3月24日)は、日本の飛鳥時代の人物である。氏は大三輪・大神とも表記される。姓は君のち朝臣。三輪文屋の孫で『三輪高宮家系』・『大神朝臣本系牒略』による。、三輪利金の子。 天武天皇元年(672年)の壬申の乱のとき大海人皇子(天武天皇)の側について戦い、箸陵と中つ道の戦いで活躍し、大海人側の勝利に貢献した。のち、持統天皇6年(692年)には農事に行幸しようとする持統天皇を自らの官職をかけて諫める等、、天武・持統・文武の三天皇に仕え、従四位上・左京大夫に昇った。贈従三位。.
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三輪逆
三輪 逆(みわ の さかう、生年不詳 - 用明天皇元年(586年)5月)は、飛鳥時代の豪族。姓は君。三輪特牛(矢口)の子。敏達天皇の寵臣。.
三条実美
若き日の三条実美(『幕末・明治・大正 回顧八十年史』より) 三条 実美(さんじょう さねとみ、旧字:三條實美、天保8年2月7日(1837年3月13日) - 明治24年(1891年)2月18日)は、日本の公卿、政治家。位階勲等爵位は、正一位大勲位公爵。号は梨堂(りどう)。変名は梨木 誠斉。 右大臣、太政大臣、内大臣、内閣総理大臣兼任、貴族院議員などを歴任した明治政府の最高首脳人物の一人。元勲。.
三条実行
三条 実行(さんじょう さねゆき)は、平安時代後期の公卿。藤原北家閑院流、権大納言・藤原公実の次男。三条家の始祖。.
三条公教
三条 公教(さんじょう きみのり/さんじょう きんのり)は、平安時代後期の公卿。藤原北家閑院家流三条家当主。太政大臣三条実行の子。正二位・内大臣。.
三浦義澄
三浦 義澄(みうら よしずみ)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の御家人。桓武平氏の流れを汲む三浦氏の一族で、三浦介義明の次男。十三人の合議制の一人。.
三浦義明
三浦 義明(みうら よしあき)は、平安時代末期の相模国三浦郡衣笠城の武将。三浦荘(現神奈川県横須賀市)の在庁官人。桓武平氏の平良文を祖とする三浦氏の一族。相模介・三浦義継の子。三浦義村の祖父。.
下河辺行平
下河辺 行平(しもこうべ ゆきひら)は、 平安時代末期(1180年頃)から鎌倉時代初期の武将。源頼朝の近臣で鎌倉幕府の御家人。父は下河辺行義。 記録は十分ではないが、『吾妻鏡』などの記述で、その行跡を知ることができる。.
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九条兼実
九条 兼実(くじょう かねざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原忠通の六男。官位は従一位・摂政・関白・太政大臣。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれる。通称は後法性寺関白(ごほっしょうじ かんぱく)。五摂家の一つ、九条家の祖であり、かつその九条家から枝分かれした一条家と二条家の祖でもある。五摂家のうちこの3家を九条流という。 摂政・関白藤原忠通の六男。母は、家女房で太皇太后宮大進・藤原仲光の娘・加賀。同母兄弟4人の中の長子である。同母弟には、太政大臣となった兼房・天台座主となった慈円などが、また異母兄には近衛基実、松殿基房が、異母弟には興福寺別当となった信円らがいる。 兼実が40年間書き綴った日記『玉葉』は、当時の状況を知る上での一級史料となっている。.
平家貞
平 家貞(たいら の いえさだ)は、平安時代後期の武将。伊賀を本拠とする伊勢平氏譜代の有力家人である。平忠盛・平清盛の二代に渡って仕え、「一ノ郎等」(『愚管抄』)といわれた。.
平忠度
平 忠度(たいら の ただのり)は、平安時代の平家一門の武将。平忠盛の六男。平清盛の異母弟。.
平忠盛
平 忠盛(たいら の ただもり)は、平安時代末期の武将。平清盛の父。烏帽子親は義兄の源義忠。 伊勢平氏で初めて昇殿を許された。北面武士・追討使として白河院政・鳥羽院政の武力的支柱の役割を果たすとともに、諸国の受領を歴任し、日宋貿易にも従事して莫大な富を蓄えた。その武力と財力は次代に引き継がれ、後の平氏政権の礎となった。歌人としても知られ、家集『平忠盛集』がある。.
平兼盛
平兼盛(菊池容斎画/江戸時代) 平 兼盛(たいら の かねもり、生年不詳 - 正暦元年12月28日(991年1月16日))は、平安時代中期の歌人・貴族。臣籍降下前は兼盛王と称す。光孝平氏、大宰大弐・平篤行の三男。官位は従五位上・駿河守。三十六歌仙の一人。.
平知盛
平 知盛(たいら の とももり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の四男。母は継室の平時子で、時子の子としては次男となる。同母兄に平宗盛、同母妹に平徳子がいる。世に新中納言と称された。.
平維茂
平維茂と悪鬼(歌川国芳『武勇擬源氏』) 平維茂と悪鬼(歌川国芳『本朝武者鏡』) 上田市別所の将軍塚、平維茂の墓との伝承があるが、実際には古墳時代の円墳。 国の天然記念物、幹周り日本一将軍杉と手前は保科正之が建てた平維茂の墓碑。 平 維茂(たいら の これもち)は、平安時代中期の武将。大掾維茂とも呼ばれる。.
平経正
平 経正(たいら の つねまさ)は、平安時代末期の平家一門の武将。歌人。平経盛の長男で、平敦盛の兄。平清盛の甥にあたる。.
平盛俊
平 盛俊(たいら の もりとし)は、平安時代末期の武将。伊勢国一志郡須賀郷を基盤とする伊勢平氏に連なる有力家人。「彼の家、第一の勇士」(『玉葉』寿永2年6月5日条)といわれた。.
平行盛
平 行盛(たいら の ゆきもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の次男である平基盛の長男。.
平高棟
平 高棟(たいら の たかむね/高棟王(たかむねおう)、延暦23年(804年) - 貞観9年5月19日(867年6月24日))は、平安時代初期の賜姓皇族。桓武天皇の皇子である一品・葛原親王の長男。官位は正三位・大納言。桓武平氏高棟流の祖。.
平賀義信
平賀 義信(ひらが よしのぶ/源 義信 みなもと の よしのぶ)は、平安時代末期の河内源氏の武将。父は新羅三郎義光の四男で、平賀氏の祖である源盛義。諱は義宣とも。.
平重盛
『紫宸殿の橘』(尾形月耕『日本花図絵』)平重盛と源義平 平 重盛(たいら の しげもり)は、平安時代末期の武将・公卿。平清盛の嫡男。 保元・平治の乱で若き武将として父・清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身に伴って累進していき、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。嫡男ではあったが継室の時子の子である宗盛や徳子とは母が異なり有力な外戚の庇護はなく、正室が藤原成親の妹・経子であったため、成親失脚後は一門のなかでは孤立気味であった。政治的には平氏一門の中で最も後白河法皇に近い立場にあった。清盛の後継者として期待されながらも、清盛と後白河法皇の対立では有効な対策を取ることができないまま、父に先立ち病没した。 六波羅小松第に居を構えていたことから、小松殿ないし小松内大臣とも、またその邸宅に48の灯籠(灯篭)を建てていたことから灯籠大臣とも称された。.
平重衡
東大寺盧舎那仏像 神戸市須磨区にある平重衡捕らわれの遺跡 平 重衡(たいら の しげひら)は、平安時代末期の平家の武将・公卿。平清盛の五男。母は清盛の継室・平時子。三位中将と称された。 平氏の大将の一人として各地で戦い、南都焼討を行って東大寺大仏や興福寺を焼亡させた。墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍するが、一ノ谷の戦いで捕虜になり鎌倉へ護送された。平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首された。その将才は「武勇の器量に堪ふる」(『玉葉』治承5年閏2月15日条)と評される一方、その容姿は牡丹の花に例えられたという。.
平通盛
平 通盛(たいら の みちもり)は、平安時代末期の平家の武将。平教盛の嫡男。平教経らの兄。妻の1人は小宰相。越前三位と呼ばれた。本名は公盛。.
平清盛
平 清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の武将・公卿。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。.
平敦盛
平 敦盛(たいら の あつもり)は、平安時代末期の武将。平清盛の弟・経盛の末子。位階は従五位下。官職にはついておらず、無官大夫と称された。.
平教経
平 教経(たいら の のりつね)は、平安時代末期の平家一門の武将。平教盛の次男。平清盛の甥である。初名は国盛。.
平教盛
平 教盛(たいら の のりもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平忠盛の四男。平清盛の異母弟。母は藤原家隆の娘(待賢門院に仕えた女房)。平通盛、平教経の父。 保元の乱、平治の乱で兄の清盛に従って戦う。邸宅が六波羅の総門にあったことから門脇殿と通称され、さらに平氏政権での栄達に従って門脇宰相・門脇中納言と呼ばれた。鹿ケ谷の陰謀事件では娘婿の藤原成経が罪に問われたため、その赦免に奔走した。治承・寿永の乱では主に後方の守りについた。一ノ谷の戦いで嫡男の通盛を始め子息を失う。壇ノ浦の戦いの敗戦の中で兄の経盛とともに入水した。.
幼学綱要
『幼学綱要』(ようがくこうよう)とは、明治天皇の勅命を受けた侍講元田永孚によって編纂され、1882年(明治15年)12月2日に宮内省より頒布された勅撰修身書。同書に見られる儒教主義に基づく皇国思想は教育勅語の発布に発展したといわれている。.
二条師基
二条 師基(にじょう もろもと、正安3年(1301年) - 正平20年/貞治4年1月26日(1365年2月17日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿。南北分裂後は南朝方に属し、正平一統の際には後村上天皇の下で関白を務めるなど、南朝政権における重鎮の一人であった。.
二条道平
二条 道平(にじょう みちひら)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期の公家。摂政・関白二条兼基の子。官位は従一位・関白・左大臣。号に後光明照院関白。.
広井女王
広井女王(ひろいじょおう、生年不詳 - 貞観元年10月23日(859年11月21日))は、平安時代前期の女官。天武天皇の皇子・長親王の後裔で、従五位上・雄河王の娘。従三位・尚侍。催馬楽の名手であった。.
今川貞世
今川 貞世(いまがわ さだよ)は、鎌倉時代後期から南北朝・室町時代の武将、守護大名。室町幕府の九州探題、遠江、駿河半国守護。九州探題赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ねた。歌人としても名高い。法名は了俊(りょうしゅん)で、今川了俊と呼ばれる事も多い。没年は異説あり。.
今井兼平
今井 兼平(いまい かねひら)は、平安時代末期の武将。正式な名のりは中原 兼平(なかはら の かねひら)。父は中原兼遠。木曾義仲の乳母子で義仲四天王の一人。兄に樋口兼光、弟に今井兼光、妹に巴御前がいる。信濃国今井の地を領して今井を称した。.
今村紫紅
今村 紫紅(いまむら しこう、 1880年(明治13年)12月16日 - 1916年(大正5年)2月28日)は、神奈川県横浜市出身の日本画家。本名は寿三郎。35歳(数え年で37歳)で夭折したが、大胆で独創的な作品は画壇に新鮮な刺激を与え、後進の画家に大きな影響を与えた。.
仁田忠常
仁田 忠常(にった ただつね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。通称は四郎。父母は不詳。名は新田忠常とも、日田忠常とも言われ、『平家物語』では「にたんのただつね」と読まれる。.
仏御前
仏御前(ほとけごぜん、永暦元年1月15日(1160年2月23日) - 治承4年8月18日(1180年9月14日))は、平安時代末期の白拍子。.
廬井鯨
廬井 鯨(いおい の くじら、生没年不詳)は、日本の飛鳥時代の人物である。姓(カバネ)は造。壬申の乱(672年)において、大友皇子(弘文天皇)側の別将となり、中道で戦って敗れた。.
伊伎是雄
伊伎 是雄(いき の これお、弘仁10年(819年) - 貞観14年4月24日(872年6月3日))は、平安時代前期の貴族。氏姓は卜部(無姓)のち伊伎宿禰。神祇権少副・壹伎氏成の子とする系図がある。官位は従五位下・宮主。.
伊勢 (歌人)
佐竹本三十六歌仙絵巻より 伊勢(百人一首より) 伊勢 (いせ、872年(貞観14年)頃 - 938年(天慶元年)頃)は平安時代の日本の女性歌人。三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。藤原北家真夏流、伊勢守藤原継蔭の娘。伊勢の御(いせのご)、伊勢の御息所とも呼ばれた。.
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伊勢大輔
伊勢大輔(いせのたいふ/いせのおおすけ、永祚元年〈989年〉頃? - 康平3年〈1060年〉頃?)は、平安時代中期の日本の女流歌人。大中臣輔親の娘。高階成順に嫁し、康資王母・筑前乳母・源兼俊母など優れた歌人を生んだ。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。 '''伊勢大輔'''(小倉百人一首より).
伊勢義盛
西福寺の墓所 伊勢 義盛(いせ よしもり)は、平安時代末期の武士で源義経の郎党。『吾妻鏡』では能盛と表記されている。.
伊賀局 (篠塚重広の娘)
伊賀局(いがのつぼね、生年不詳 - 元中元年/至徳元年10月13日(1384年11月26日))は、南北朝時代の勇女とされる女性。篠塚重広の娘。 後醍醐天皇の女院阿野廉子に女官として出仕する。後に楠木正成の三男楠木正儀の妻となった。 室町時代の説話集『吉野拾遺』では、正平2年/貞和3年(1347年)6月10日、藤原基任の幽霊と邂逅したことが記入されている(『吉野拾遺』 伊賀局化物ニ遭フ事)。 翌正平3年/貞和4年(1348年)1月24日、北朝方の高師直に吉野行宮を攻められ、後村上天皇が母である廉子と共に賀名生行宮へ落ち延びた時、伊賀局も付き従った。途中、吉野川に架かる橋が崩れていたが、伊賀局は大力を以て近辺の桜や松の枝を折り川へ投げ込み橋を作り、廉子を背負って対岸へ渡った(『吉野拾遺』 同局芳野川ニテ高名ノ事)。.
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伊東祐清
伊東 祐清(いとう すけきよ)は、平安時代末期の武将。伊豆国の豪族・伊東祐親の次男。諱は祐兼、祐長(『曽我物語』)、祐氏(『平家物語』)、祐忠(『尊卑分脈』)とも。.
弟橘媛
弟橘媛(おとたちばなひめ)は、日本武尊(倭建命)の妃。『日本書紀』は弟橘媛とするが、『古事記』では弟橘比売命とする。.
伝記
伝記(でんき)とは、広義には書き記された記録の総称だが、狭義には個人の事績の記録を指す。現代においては、狭義に使われることが多い。以下にそれぞれについて記す。英語名は biography である。 語源である中国語(中期漢語)としての伝記については伝(儒教における伝記)の記事を参照。.
伴友足
伴 友足(とも の ともたり、宝亀7年(776年) - 承和10年1月5日(843年2月7日)は、平安時代初期の貴族。姓は宿禰。官位は従四位上・左衛門佐。.
佐原義連
佐原 義連(さわら よしつら)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。相模国の豪族・三浦義明の子。三浦氏の本拠・相模国衣笠城の東南・佐原城(現在の神奈川県横須賀市佐原)に居住していたため、佐原氏を称する。.
佐奈田義忠
佐奈田 義忠(さなだ よしただ)は、平安時代末期の相模国大住郡(現神奈川県平塚市真田)の武将。岡崎義実の嫡男。真田義忠(『吾妻鏡』)、岡崎義忠とも称される。諱は義貞とも(『源平盛衰記』)。.
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佐々木盛綱
漁師を殺す盛綱(歌川国芳画) 佐々木 盛綱(ささき もりつな)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。加地 盛綱とも呼ばれる。 近江の宇多源氏佐々木氏棟梁である佐々木秀義の三男として生まれる。幼名(初名)は父の1字を取って秀綱(ひでつな)といった。源頼朝に伊豆の流人時代から仕え、その挙兵に従い治承・寿永の乱で活躍。備前国児島の藤戸の戦いでは、島に篭もる平行盛を破った。 能の『藤戸』、歌舞伎の『盛綱陣屋』にも登場する。.
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佐々木高綱
佐々木 高綱(ささき たかつな)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将である。 近江国の佐々木庄を地盤とする佐々木氏の棟梁である佐々木秀義の4男。母親を通じて源頼朝、源義経、源義仲らは従兄弟にあたる。『平家物語』や『源平盛衰記』にその活躍が描かれ、宇治川の戦いにおける梶原景季との先陣争いで知られる。歌舞伎の『鎌倉三代記』にも登場し、非常に人気のある武士である。.
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佐藤忠信
佐藤 忠信(さとう ただのぶ)は、平安時代末期の武将で、源義経の家臣。『源平盛衰記』では義経四天王の1人。佐藤継信の弟。父は奥州藤原氏に仕えた佐藤基治、もしくは藤原忠継。.
佐藤継信
屋島での継信最後(赤間神宮所蔵) 佐藤 継信(さとう つぐのぶ)は、平安時代末期の武将で、源義経の家臣。『源平盛衰記』では義経四天王に数えられる。奥州藤原氏の家臣・佐藤基治の子。.
彦五瀬命
彦五瀬命(ひこいつせのみこと)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。 『日本書紀』では「彦五瀬命」や「五瀬命(いつせのみこと)」、『古事記』では「五瀬命」と表記される。 神武天皇(初代天皇)の長兄である。 関係略系図(表記・記載は『日本書紀』本文による).
彦国葺命
彦国葺命(ひこくにふくのみこと、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の人物。 『日本書紀』では「彦国葺」、『古事記』では「日子国夫玖命」、他文献では「彦訓服命」とも表記される。 第5代孝昭天皇皇子の天足彦国押人命の三世孫または四世孫で、和珥臣(和珥氏)の遠祖である。垂仁天皇朝では五大夫の1人に数えられる。.
彫刻
彫刻(ちょうこく)とは、木、石、土、金属などを彫り刻んで、物の像を立体的に表すこと。または、それらの表面に書画や図版などを掘り込むこと。あるいは美術的な鑑賞を目的として、様々な素材を用いて立体的に制作された芸術作品のこと。また、その表現領域を指す。以下では西洋美術の概念における、芸術作品としての彫刻(スカルプチャー、英語:sculpture)について述べる。 硬い素材を彫り刻む技法も彫刻(カーヴィング、carving)と呼び、それに対して、可塑性素材を盛りつけて形を作る技法を彫塑(モデリング、modeling)という。彫塑で作られた作品を特に塑像と呼び分けることもある。 使われる素材は、石、木、土、フェルト、石膏、紙、繊維、金属(鉄、銅など)、樹脂、ガラス、蝋など、多種にわたり、また、複数の素材を組み合わせる作品も多い。 彫刻の対象(モチーフ)は元来、人間や身近な動物など具体物であった(具象彫刻)が、20世紀になると、心象を表したもの(抽象彫刻)も多く制作されるようになった。 現在では、表現が多様化し、従来の彫刻の概念では収まらないケースもあり、それらを「立体」、「立体アート」と呼ぶこともあるほか、表現が設置空間全体へ拡散したものは、特に「空間表現」や「インスタレーション」と呼び分けられる。.
微妙 (白拍子)
微妙/江戸時代『前賢故実』より。画:菊池容斎 微妙(びみょう、生没年未詳)は、鎌倉時代前期の白拍子。父は右兵衛尉・藤原為成。.
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徳大寺実定
徳大寺 実定(とくだいじ さねさだ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人。右大臣・徳大寺公能の長男。官位は正二位・左大臣。後徳大寺左大臣(ごとくだいじの さだいじん)として知られる。.
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後亀山天皇
後亀山天皇(ごかめやまてんのう)は、南北朝時代の第99代天皇にして、南朝最後の第4代天皇(在位:弘和3年/永徳3年(1383年)冬 - 元中9年/明徳3年閏10月5日(1392年11月19日))。諱は熙成(ひろなり)。 北朝を擁護する将軍足利義満が提示した講和条件を受諾して、三種の神器を北朝・後小松天皇に伝えて譲位し、南北朝合一を実現した。 明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として公認されるようになった。.
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後藤実基
後藤実基と坊門姫/江戸時代『前賢故実』より。画:菊池容斎 後藤 実基(ごとう さねもと、生没年未詳)は、平安時代末期の武将。藤原秀郷の流れを汲む北面武士・藤原実遠の子。兵衛尉と称す。 京において源義朝に仕え、平治の乱では義朝の長男義平に従軍する。乱の後の動向は明確ではないが、『平治物語』によると京において義朝の娘・坊門姫(後に一条能保室となる)を養育したとされる。 治承4年(1180年)に義朝の遺児・頼朝が挙兵すると、養子の基清とともにその麾下に参加。平家追討の戦いでは源義経軍に加わり、屋島の戦いに際しては、平家軍が海上に逃れた後にその城塞を焼き払い、反撃意欲を絶つという活躍を見せている。またこの戦いの際、扇の的の射手に那須与一を推挙し、その人を見る眼の確かさを大いに賞賛されたという。.
後深草院少将内侍
木製の櫛(明治〜大正期の装飾品) 後深草院少将内侍(ごふかくさのいんのしょうしょうないし、生年不詳 - 1265年(文永2年)頃没)は、鎌倉時代初期に活躍した歌人である。女房三十六歌仙の一人。藤原信実の娘。藻璧門院少将、弁内侍の妹。花山源氏の資光王の妻。.
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待宵の小侍従
小侍従の顕彰碑(中央)と供養塔(右奥)- 大阪府三島郡島本町 小侍従(こじじゅう、生没年不詳:1121年(保安2年)頃 - 1202年(建仁2年)頃)は、平安時代後期から鎌倉時代の歌人である。女房三十六歌仙の一人。石清水八幡宮護国寺別当光清の娘。母は小大進。太皇太后藤原多子の女房として出仕したため太皇太后宮小侍従あるいは大宮小侍従と呼ばれ、また『平家物語』等に記されたエピソードから待宵の小侍従(まつよいのこじじゅう)として知られる。『源平盛衰記』では、高倉天皇の在位中は阿波の局と名乗っていたとする。.
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忠貞王
忠貞王(たださだおう、弘仁11年(820年) - 元慶8年8月27日(884年9月20日))は、平安時代初期から前期にかけての皇族。桓武天皇の皇孫。二品・賀陽親王の子。官位は正四位下・参議。.
修身
修身(しゅうしん)は、「身を修めること」を意味し、第二次世界大戦前の日本の小学校(戦前期は尋常小学校、第二次世界大戦中は国民学校)における科目のひとつ。1890年(明治23年)の教育勅語発布から、1945年(昭和20年)の敗戦まで存在した。イギリス等の宗教教育や戦後日本の道徳教育に相当するものである。個人主義や自由主義、物質主義の考えが増える中で 夢野久作 1925年、いかに不良少年少女を減らすかが課題となった。.
土岐頼兼
土岐 頼兼(とき よりかね)は、鎌倉時代末期の武将。土岐頼貞の十男。.
土肥実平
土肥の椙山の「しとどの窟」。真鶴にも「しとどの窟」跡がある 土肥 実平(どひ さねひら / どい - )は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。桓武平氏良文流中村宗平の次男。相模土肥氏の祖であり、小早川氏の祖とされる。 相模国の有力豪族中村氏の一族で、足下郡(現在の神奈川県足柄下郡湯河原町および真鶴町)土肥郷を本拠とし早川庄預所を務め、父や弟の土屋宗遠と共に相模国南西部において「中村党」と称される有力な武士団を形成していた。 現在のJR東海道本線湯河原駅から城願寺の辺りが居館であったと言われている。.
在原行平
在原 行平(ありわら の ゆきひら、弘仁9年(818年) - 寛平5年7月19日(893年9月6日))は、平安時代初期から前期にかけての貴族・歌人。平城天皇の第一皇子である弾正尹・阿保親王の次男(または三男)。官位は正三位・中納言。在中納言・在民部卿とも呼ばれた。小倉百人一首では中納言行平。.
在原業平
在原 業平(ありわら の なりひら)は、平安時代初期の貴族・歌人。平城天皇の孫。贈一品・阿保親王の五男。官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将。 六歌仙・三十六歌仙の一人。別称の在五中将は在原氏の五男であったことによる。 全百二十五段からなる『伊勢物語』は、在原業平の物語であると古くからみなされてきた。.
北畠具行
北畠 具行(きたばたけ ともゆき、正応3年(1290年) - 正慶元年/元弘2年6月19日(1332年7月12日))は、鎌倉時代末期の公卿。村上源氏北畠家庶流・北畠師行の次男。兄に雅行。.
北畠顕家
北畠 顕家(きたばたけ あきいえ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将。 『神皇正統記』を著した准三后北畠親房の長男、母は不詳。官位は正二位、権大納言兼鎮守府大将軍、贈従一位、右大臣。 建武親政下において、義良親王を奉じて陸奥国に下向した。足利尊氏が建武政権に叛したため西上し、新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝が分立するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。 以後、伊勢・大和などを中心に北朝軍相手に果敢に挑むも遂に和泉国堺浦・石津に追い詰められ、奮戦の末に討ち取られて戦死した。 死後、明治時代に顕家を主祭神とする霊山神社と阿部野神社が建設され、これらは建武中興十五社となった。.
北畠顕信
北畠 顕信(きたばたけ あきのぶ)は、南北朝時代の公卿。北畠親房の次男。北畠顕家の弟。左近衛少将に任ぜられ、春日少将と称した。また土御門入道と号す。南朝で従一位・右大臣に任ぜられたともされる。.
北畠顕能
北畠 顕能(きたばたけ あきよし)は、南北朝時代の公卿・武将。准三后北畠親房の三男で、顕家や顕信の弟とするのが通説だが、一説には中院貞平の子で、親房の養子になったともいう。建武政権期に父兄とともに伊勢国へ下り、同国司に任じられた後、多気を拠点に退勢著しい南朝軍事力の支柱として武家方に対抗した。伊勢北畠氏の祖。.
北畠親房
北畠 親房(きたばたけ ちかふさ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。著書の『神皇正統記』で名高い。.
北条貞時
北条 貞時(ほうじょう さだとき)は、鎌倉時代後期の北条氏一門の武将。北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第9代執権(在職:弘安7年(1284年) - 正安3年(1301年))。 第8代執権・北条時宗の嫡男。母は安達義景の娘・堀内殿(覚山尼)。.
北条政子
北条政子(菊池容斎画、江戸時代) 北条 政子(ほうじょう まさこ、保元2年(1157年) - 嘉禄元年7月11日(1225年8月16日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。伊豆国の豪族、北条時政の長女。子は頼家、実朝、大姫、三幡。兄弟姉妹には宗時、義時、時房、阿波局、時子など。 周囲の反対を押し切り、伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所と呼ばれる。夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名を安養院(あんにょういん)といった。頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。 なお、「政子」の名は建保6年(1218年)に朝廷から従三位に叙された際に、父・時政の名から一字取って命名されたものであり、それより前の名前は不明。.
北条時宗
北条 時宗(ほうじょう ときむね)は、鎌倉時代中期の武将・政治家。鎌倉幕府第8代執権。 鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家に生まれ、世界帝国であったモンゴル帝国(大元朝)の圧力が高まるなかで執権に就任。内政にあっては得宗権力の強化を図る一方、モンゴル帝国(大元朝)の2度にわたる侵攻を退け(元寇)、戦前までは日本の国難を救った英雄と評された。官位は、正五位下相模守。贈従一位。.
北条時頼
北条 時頼(ほうじょう ときより)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第5代執権(在職:1246年 - 1256年)である。北条時氏の次男で、4代執権北条経時の弟。北条時輔、第8代執権北条時宗、北条宗政、北条宗頼らの父。通称は五郎、五郎兵衛尉、武衛、左近大夫将監、左親衛、相州、また出家後は最明寺殿、最明寺入道とも呼ばれた。.
バイブル
バイブル(bible).
ヤマトタケル
ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。 『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本武尊」の用字が通用される宮内庁治定墓(能褒野墓・大和白鳥陵・河内白鳥陵)での公式表記、および『国史大辞典』(吉川弘文館)の項目名、『日本古代氏族人名辞典』(吉川弘文館)の項目名、『日本人名大辞典』(講談社)の項目名において、「日本武尊」の用字が採用される。。 第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。.
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ヴィンチェンツォ・ラグーザ
ラグーザ ヴィンチェンツォ・ラグーザ(Vincenzo Ragusa, 1841年7月8日-1927年3月13日)はイタリアの彫刻家。シチリア島のパレルモ郊外パルタンナ・モンデルロに生まれた。幼いころより絵画に興味をもち、1865年に本格的に彫刻をはじめた。1872年、ミラノで開かれた全イタリア美術展に石膏作品「装飾暖炉」を出品、最高賞である「ウンベルト殿下賞」に輝いた。1876年(明治9年)に明治政府に招かれて来日し、1882年(明治15年)まで工部美術学校で彫刻指導にあたった。教え子に大熊氏廣(1856年-1934年)や藤田文蔵(1861年-1934年)がいる。妻は、江戸芝新堀生まれで画家の清原多代(ラグーザ玉、エレオノーラ・ラグーザ)である。離日後、ラグーザはお玉を連れてシチリア島パレルモに帰り、そこで工芸学校を創立して校長となった。お玉はラグーザ死去後に日本に帰った。 1941年のイタリア文化会館竣工の際には、甥で画家のチロ・ラグーザが来日した『朝日新聞の記事にみる恋愛と結婚』朝日新聞社、1997, p130。.
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嘉永
嘉永(かえい)は日本の元号の一つ。弘化の後、安政の前。1848年から1855年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶、徳川家定。.
喜三太
喜三太/江戸時代『前賢故実』より。画:菊池容斎 喜三太(きさんた/きさんだ)は、室町時代初期に成立した軍記・伝記物語『義経記』に登場する架空の人物。源義経の郎党の一人である。.
和田義盛
和田 義盛(わだ よしもり)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。初代侍所別当。 三浦氏の一族で源頼朝の挙兵に参加。鎌倉に頼朝の初期武家政権がつくられると初代侍所別当に任じられる。治承・寿永の乱では源範頼の軍奉行となり、山陽道を遠征し九州に渡り、平家の背後を遮断した。平家滅亡後は奥州合戦に従軍して武功を立てた。頼朝の死後、梶原景時の変での景時弾劾追放では中心的な役割を果たし、比企能員の変や畠山重忠の乱などの御家人の乱では北条氏に与した。しかし、2代執権・北条義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、幕府軍を相手に鎌倉で戦うが敗死し、和田一族も滅亡した(和田合戦)。館は若宮大路にあった。.
和田賢秀
和田 賢秀(にぎた けんしゅう)は、南北朝時代の武将。名は「かたひで」とも読まれ、また源秀(げんしゅう)とも記される。四條畷市の墓所石碑には、正面に『和田源秀戦死墓』と刻まれている。 和田賢秀墓(四條畷神社管理下).
和田正武
和田 正武(にぎた/みぎた/わだ まさたけ、生没年不詳)は、南北朝時代の武将。子に正忠。.
和気真綱
和気 真綱(わけ の まつな)は、平安時代初期の公卿。民部卿・和気清麻呂の五男。官位は従四位上・参議、贈正三位。.
和気貞臣
和気 貞臣(わけ の さだおみ)は、平安時代前期の貴族。播磨守・和気仲世の三男。官位は従五位下・大内記。.
和気清麻呂
和気 清麻呂(わけ の きよまろ)は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族。磐梨別乎麻呂(または平麻呂)の子。.
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和泉式部
菊池容斎『前賢故実』より 小倉百人一首56番「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」 和泉 式部(いずみ しきぶ、天元元年(978年)頃 - 没年不詳)は平安時代中期の歌人である。越前守・大江雅致の娘。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。.
ウマシマジ
ウマシマジ命(-のみこと)は、物部氏、穂積氏、采女氏らの祖とされる人物。『日本書紀』では「可美真手命(うましまでのみこと)」と『古事記』では「宇摩志麻遅命」、『先代旧事本紀』では「味間見命(うましまみのみこと)」と表記する。饒速日命が長髄彦の妹である三炊屋媛(みかしきやひめ)を娶って生んだ子で、天香山命(尾張氏の祖)が異母兄であるとする伝えがある(『旧事本紀』)。彦湯支命の父。 『古事記』によれば、始め長髄彦に従っていたが、神武天皇の東征に際して長髄彦を殺し天皇に帰服し、以後自らの部族である物部(もののべ)を率いて皇城守護の任に当たったという。また『旧事本紀』によれば、神武天皇即位の後、饒速日命の遺した10種の天璽瑞宝(あまつしるしのみづたから)を献上し、それを使って天皇と皇后の魂を鎮める呪術を行ったとされ、これを後世の鎮魂祭の初めとしている。 物部神社の社伝によれば、美濃国・越国を平定した後に石見国で没し、現在の社殿の裏に埋葬されたという。越国の平定は、異母兄の天香山命の事績として知られる(彌彦神社を参照)。これら物部神社や彌彦神社では、宮中でも行われる鎮魂祭が行われていることでも知られる(石上神宮も同様)。 鈴木眞年の『史略名称訓義』では、ウマシマジは大和国十市郡に居て天皇に天瑞宝を献じ、この正統は同郡穂積里に居て穂積の姓を負いそれより物部氏などが分かれたとし、ウマシマジの正統は穂積氏としている。.
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儒学者
儒学者(じゅがくしゃ)とは、儒教を自らの行為規範にしようと儒教を学んだり、研究・教授する人のことである。一般的には儒者(じゅしゃ、ずさ)と称され、特に儒学を学ぶものは儒生(じゅせい)と呼ばれる。.
凡河内躬恒
凡河内躬恒(百人一首より) 凡河内 躬恒(おおしこうち の みつね、貞観元年(859年)? - 延長3年(925年)?)は、平安時代前期の歌人・官人。姓は宿禰『三十六人歌仙伝』。一説では淡路権掾・凡河内諶利の子。官位は六位宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年・和泉大掾。三十六歌仙の一人。.
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児島高徳
児島 高徳(兒嶋 髙德、こじま たかのり)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍したとされる武将。備前国児島郡林村出身。従五位下・備後守を賜る。『太平記』中では和田、今木といった苗字で表記される場合もあり、「児島」を「小島」と書き換える表記も散見される。 元弘元年(1331年)の元弘の乱以降、後醍醐天皇に対して忠勤を励み、南北朝分裂後も一貫して南朝側に仕えた。晩年は出家し、志純義晴と号したという。正式な法名は志純義晴大徳位。 江戸時代以降、南朝の忠臣として讃えられ、国民的英雄のひとりとなった。その一方で具体的な活動を示す文献が軍記物語の『太平記』以外にはないために、近代的考証史学の観点から実在性を否定している学説も根強い。また、同書の編者である小島法師(1374年没)と同一人物とする説や、地元の勢力がある山伏出身、あるいは悪党出身と見る説もある。.
八田知家
八田 知家(はった ともいえ)は平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府御家人。下野宇都宮氏の当主・宇都宮宗綱(八田宗綱)の四男。 系図などによる異説としては源義朝の落胤で、母は宇都宮朝綱の娘八田局で初め朝家(読み同じ)と名乗ったという記述もある。鎌倉幕府の十三人の合議制の一人。小田氏の始祖であり小田城の築城者。.
具平親王
具平親王(ともひら しんのう)は、平安時代中期の皇族。第62代村上天皇の第七皇子、母は女御荘子女王(醍醐天皇の第三皇子代明親王の次女)。官位は二品・中務卿。後中書王(のちの ちゅうしょ おう)、千種殿(ちぐさ どの)、六条宮(ろくじょうの みや)左京六条に営んだ豪邸に因む。の通称がある。.
兼明親王
兼明親王(かねあきらしんのう)は、平安時代中期の公卿、皇族。 醍醐天皇の第十六皇子。朱雀天皇・村上天皇・源高明の異母兄弟にあたる。一時期臣籍降下して源 兼明(みなもと の かねあきら)と名乗ったが、晩年になって皇籍に復帰し中務卿となったことから中書王(ちゅうしょおう)あるいは前中書王(さきの ちゅうしょおう)と呼ばれる。「後中書王」と呼ばれた甥の具平親王と共に並び称される博学多才の主で、藤原佐理・藤原行成と共に三蹟の一人に数えられる場合もある。.
元田永孚
元田 永孚(もとだ ながざね、文政元年10月1日(1818年10月30日) - 明治24年(1891年)1月22日)は、日本の武士・熊本藩士、儒学者。男爵。名は「えいふ」ともいう。幼名は大吉。通称は伝之丞、八右衛門。雅号は東野。字は子中。号は東皐、樵翁。.
兵庫県立美術館
企画展示室入口 館内通路 兵庫県立美術館(ひょうごけんりつびじゅつかん)は、2002年に開館した兵庫県神戸市「HAT神戸」にある美術館である。愛称は「芸術の館」。現館長は蓑豊。.
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前田青邨
前田 青邨(まえだ せいそん、1885年1月27日 - 1977年10月27日)は、岐阜県中津川市出身の日本画家。妻は荻江節の5代目荻江露友。.
勾当内侍
勾当内侍(こうとうのないし、生没年不詳)は、南北朝時代の女性である。本名は不詳。公家の世尊寺家の一族で、一条経尹あるいは一条行尹の娘、または一条行房の娘もしくは妹ともいう。『太平記』に新田義貞の妻の一人正妻は安東氏の娘。として登場する。.
勅使河原直重
勅使河原 直重(てしがわら なおしげ、生年不明 - 建武3年(1336年))は、日本の鎌倉時代から南北朝時代にかけての武士。左衛門尉。『太平記』では勅使河原丹三郎で知られる。子に貞直、光重か。 勅使河原氏は武蔵七党の一つ丹党の流れを汲む。 南北朝の動乱が勃発すると、直重は南朝方として新田義貞に従う。後醍醐天皇や義貞と対立し一時は九州へ没落していた足利尊氏が、勢力を巻き返し軍勢を率い京へ進軍してくると、義貞は迎撃するが大渡で敗れた。『太平記』によると、大渡で敗れた直重は三条河原で奮戦するも、後醍醐が比叡山へ脱出したことを知ると悲嘆し、羅城門近くで子と共に自刃した。.
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国立国会図書館
国立国会図書館(こくりつこっかいとしょかん、英称:)は、日本の国会議員の調査研究、行政、ならびに日本国民のために奉仕する図書館である。また、納本制度に基づいて、日本国内で出版されたすべての出版物を収集・保存する日本唯一の法定納本図書館である。設置根拠は国会法第130条及び国立国会図書館法第1条。 国立国会図書館は、日本の立法府である国会に属する国の機関であり、国会の立法行為を補佐することを第一の目的とする議会図書館である。同時に、納本図書館として日本で唯一の国立図書館としての機能を兼ねており、行政・司法の各部門および日本国民に対するサービスも行っている。バーチャル国際典拠ファイルに参加している。 施設は、中央の図書館と、国立国会図書館法3条に定められた支部図書館からなる。中央の図書館として東京本館(東京都千代田区永田町)および関西館(京都府相楽郡精華町精華台)が置かれ、また東京本館に付属して国会分館がある。 支部図書館としては国際子ども図書館(東京都台東区上野公園)のほか、司法機関に1館(最高裁判所図書館)、国立国会図書館法の規定により行政各部門に置かれる支部図書館及びその職員に関する法律(昭和24年法律第101号。支部図書館法)に基づいて行政機関に26館が置かれる。.
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四条隆俊
四条 隆俊(しじょう たかとし、生年不詳 - 文中2年/応安6年8月10日(1373年8月28日))は、南北朝時代の公卿。父は四条隆資。兄に隆量、隆貞、弟に有資がいる。官位は従一位・内大臣。南朝に仕え、公卿でありながら北朝や足利氏との戦いで度々功を挙げるなど活躍するが、最後は長慶天皇を守って討死。父同様の最期を遂げた。.
四条隆資
四条 隆資(しじょう たかすけ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。南朝の実務における中心人物であり、最後は後村上天皇を守るために自ら足利軍と戦って戦死した。.
皇族
女王旗)皇室儀制令19条では「親王旗親王妃旗内親王旗王旗王妃旗女王旗」。 皇族(こうぞく)は、天皇の親族のうち、男系の嫡出の血族(既婚の女子を除く)およびその配偶者の総称。すなわち、皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃および女王の総称であり、天皇は含まれない。天皇を含む場合は「皇室」という。.
石川年足
石川 年足(いしかわ の としたり、持統天皇2年(688年) - 天平宝字6年9月30日(762年10月21日)は、飛鳥時代末期から奈良時代中期の貴族。壬申の乱以降蘇我氏の嫡流となった少納言・蘇我安麻呂の孫、権参議・石川石足の長男。官位は正三位・御史大夫。勲等は勲十二等。.
石上宅嗣
石上 宅嗣(いそのかみ の やかつぐ、天平元年(729年) - 天応元年6月24日(781年7月23日))は、奈良時代後期の公卿・文人。姓は石上朝臣、のち物部朝臣、石上大朝臣。左大臣・石上麻呂の孫。中納言・石上乙麻呂の子。官位は正三位・大納言、贈正二位。.
石上麻呂
石上 麻呂(いそのかみ の まろ、舒明天皇12年(640年) - 霊亀3年3月3日(717年4月22日))は、日本の飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族。麻呂は麿とも書く。氏姓は物部連、のち物部朝臣、石上朝臣。大華上・物部宇麻乃の子。官位は正二位・左大臣、贈従一位。 壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)の側につき、皇子の自殺まで従った。のちに赦されて遣新羅大使となり、その後法官の仕事につき、筑紫総領になった。701年に大納言となって以後、政治の中枢に携わり、右大臣、左大臣に任じられた。717年で死去するまでの数年は太政官の最高位者であった。 なお、『竹取物語』においてかぐや姫に求婚する5人の貴族の一人である「石上まろたり」のモデルであるとされる。.
石井鼎湖
石井 鼎湖(いしい ていこ、嘉永元年(1848年)3月‐明治30年(1897年)11月2日)は、明治時代の日本画家、版画家。.
王仁
大阪府枚方市の伝 王仁墓 王仁(わに、生没年不詳)は、辰孫王と共に百済から日本に渡来し、千字文と論語を伝えたとされる記紀等に記述される伝承上の人物である。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されている。伝承では、百済に渡来した中国人であるとされ鈴木靖民『朝日日本歴史人物事典』「王仁の名から6世紀ごろ、中国系百済人が先進文化を携えた博士として百済から倭に渡来した事実を想像させる」大辞林「祖は漢の高祖」志田諄一『日本大百科全書』「王仁は高句麗に滅ぼされた楽浪郡の漢人系統の学者らしく、朝廷の文筆に従事した西文首の祖とされている。」「王の姓は楽浪出土の印章、漆器、せん、封泥、墓壁銘などに多く記されており、楽浪郡の有力豪族であったことが知られる。」加藤謙吉『大和政権とフミヒト制』吉川弘文館「かかる事実に基づき王仁後裔氏族や家氏、東漢氏を中国系とする説が古くから存在する。」『世界大百科事典』「伝承によると、漢の高祖の子孫」石田博『漢文学槪論』雄山閣出版「王仁の家系を述べているが、それによると、王仁は漠の高帝の後であるという。漢の高帝の後を蠻といい、鷥の後胤の王狗は、転じて百済に至った。」八幡和郎『最終解答 日本古代史』PHP研究所「そこで、天皇が『お前に勝る学者はいるのか』と聞いたところ王仁を推薦したので、百済から招聘したといいます。王仁博士は、漢の高祖の子孫と称しています。山東省から楽浪郡に移住し、さらに百済に移ったので、平安時代の『新撰姓氏録』には、文、武生、櫻野、来栖、古志といった名字の人々が王仁の子孫で漢族として登録されています。」徳川恒孝『日本人の遺伝子』PHP研究所「御存知、漢末の群雄割拠の時代から日本に漢字をもたらしたのは百済からの渡来人の王仁という方だったと伝えられています。彼は漢の高祖(先ほどの漢王朝の創設者、劉邦)の子孫と言われています。」関裕二『鬼の帝聖武天皇の謎』PHP研究所「最大の理由は、行基の祖歌位が、百済王家出身ではなく、中国の漢から百済をへて、渡来したという伝承を持っていたことであろう。」日笠護『日鮮關係の史的考察と其の硏究』四海書房「後漢孝靈帝の後裔と稱する阿知使博士王仁(漢高祖の後裔)の來朝を見るに至つた。」駒井和愛『楽浪』中央公論社「東京大学の歴史学者坪井九馬三博士は、かの日本に論語をもたらしたといわれる王仁ももと漢人の子孫」馬渕和夫、出雲朝子『国語学史』笠間書院「最初の師直岐・王仁は中国系もしくは準中国系の百済人であったから、漢字の発音も中国音に近かったであろう」蔡毅『日本における中国伝統文化』勉誠出版「この『和邇吉師』とは、漢名を王仁と称す。彼の姓氏とその文化教養の点から推測されることは、王仁は朝鮮で生活していた漢民族の移民であるか、あるいは移民の末裔であろうと。」佐伯有清『日本の古代国家と東アジア』雄山閣「井上光貞氏は、王仁の王は中国的な姓で王氏ではないかと指摘」竹内理三『政治と文化』吉川弘文館「漢高帝の後裔王狗という者が百済に来ったが、王仁はその孫にあたるという。楽浪郡跡の発掘の遣品に王光、王肝など王姓の名をしるしたものがあるので、王仁もその名はともかくとしても、その一族のものであろうと言われている。」「こうしたことから、わが国に文運を最初にもたらした王仁も、じつはまったくの仮空の人物ではなくて、この王氏の子孫として実在したものと考えても、案外さしつかえないのではないか。楽浪の王氏は、いずれも平、宜、雲、光などめでたい文字の一字名である。」黒板勝美『岩波講座 日本歴史8』岩波書店「弓月君は秦始皇帝の後だと云はれ、王仁は漢高祖の後裔で百濟に歸化した王豹と云ふ者の子孫だと云ひ、阿知使主はこれ等三國の歸化人の外に支那の歸化人がある。」柿村重松、山岸德平『上代日本漢文學史』日本書院「當時百濟には王仁の如く漢人の支那北部より轉住し居りしものも少からざりしなる」、この場合姓である王氏から楽浪郡の王氏とする見解がある。 韓国や在日韓国人社会においても、王仁は日本の文化を育み、発展に大きく貢献した人物として扱われ、日韓両国で王仁に関する催し物が開かれている。 王仁が伝えたとされる千字文が、王仁の時代には成立していないことなど史料解釈上実在を疑問視する説も多数存在する田中健夫、石井正敏『対外関係史辞典』吉川弘文館「応神朝に百済の和通吉師(王仁)が『諭箱』などの典籍をもたらしたという王仁伝説や、继体欽明朝に五経博士が百済から交代派遣されたとする伝承は、そのままでは事実とは認め難い」斎藤正二『斎藤正二著作選集4』八坂書房「王仁の実在を疑う論者は、津田左右吉以来、それこそ無数にある。『千字文』そのものが三世紀終わりにはいまだ成立していないのに日本に渡来するはずはないとの疑問は、早く江戸時代に新井白石、伊勢貞丈らによつて提起されていた。」中村新太郎『日本と中国の2000年』東邦出版社「阿直岐や王仁が実在の人物であったかどうかはわからない(津田左右吉博士は、後人の造りごととしている)。」菅原信海『日本思想と神仏習合』春秋社「和邇吉師が実在の人物でないとすれば、やはり事実とは認められないと述べており、『論語』、『千字文』の阿直岐や王仁は到底実在の人物とは考えられないこと、また和邇吉師が論語、千字文を献上したといふのも、津田左右吉博士は、『王仁の名は阿直岐に対して作られたものであらう』と、架空の名を作り出したもの」星野五彦『万葉の諸相と国語学』おうふう「天皇名とその時代との関わりを示す何かが隠されているように思えなくもないが、それについての穿鑿は当面の問考えてみれば、応神時代に音読すればォウジンとなる王仁の来朝も実在人物なのだろうかと疑問が生じてくる。」 日韓歴史共同研究報告書(第1期)「ところで、韓国の学界では、『日本書紀』に読まれる百済が倭国に送ったとされる王仁や『論語』、『千字文』を代表事例として、百済は倭国より進んだ文化先進国とする文化優越論が根強い。王仁の『千字文』将来説には王仁より後世の作であることや『日本書紀』の歴史構成を批判的に検討する文献学的な批判がある。百済からの知識人や経典の倭国への伝来を百済と倭国との2国間の関係のみに限定してしまい、この背後にある中国王朝との相互の関係に目を向けることの弱さから生まれた『文化優越論』である。」。.
王辰爾
王辰爾(おうじんに、王智仁)は第16代百済王辰斯王の子辰孫王を発祥とする渡来系氏族船氏の祖で、学問に秀で、儒教の普及にも貢献したとされる人物。.
神奈川県立近代美術館
奈川県立近代美術館(かながわけんりつきんだいびじゅつかん)は、神奈川県にある日本最古の公立近代美術館。1951年に鎌倉市雪ノ下に開館し、のちに鎌倉館となったが2016年(平成28年)3月31日に鎌倉館は閉館。以後は葉山館(2003年開館、葉山町)と鎌倉別館(1984年開館、鎌倉市)からなる。.
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秦酒公
酒 公(はたの さけ の きみ)とは、日本古代の、5世紀後半ころの豪族。.
秦河勝
河勝(はた の かわかつ、生没年不詳)は、飛鳥時代の人物。姓は造。秦丹照『惟宗系図』東大史料編纂所蔵(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』)または秦国勝「秦氏系図」『山城州葛野郡楓野大堰郷広隆寺来由記』所収(太田亮『姓氏家系大辞典』)の子とする系図がある。冠位は大花上。.
稚足姫皇女
足姫皇女(わかたらしひめ の ひめみこ、生年不詳 - 雄略天皇3年(推定481年))は、『記紀』に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。雄略天皇と葛城円(かずらき の つぶら)大臣の娘、葛城韓媛との間の子。同母兄に白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこ の すめらみこと、(清寧天皇)。別名は栲幡姫皇女(たくはたひめ の ひめみこ)。『古事記』では「若帯比売命」。.
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篠塚重広
塚 重広(しのづか しげひろ)は、南北朝時代の南朝方の武将。重廣とも。篠塚伊賀守としても名を知られている。新田義貞の側近で、後代に新田四天王の一人に数えられた。 篠塚氏の出自は畠山氏とされる。.
粟田真人
粟田 真人(あわた の まひと、生年不詳 - 養老3年2月5日(719年2月28日))は、飛鳥時代後期から奈良時代にかけての貴族。姓は臣のち朝臣。春日粟田百済『日本書紀』白雉4年5月12日条。森2010、86頁。の子。官位は正三位・中納言。.
紫式部
紫式部 (土佐光起筆 石山寺蔵) 紫式部(むらさきしきぶ、生没年不詳)は、平安時代中期の女性作家、歌人。正確な誕生年は特定できないが、近年の研究では、970年(天禄元年)から978年(天元元年)の間に生まれ、1019年(寛仁3年)までは存命したことがわかっている上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK出版「100分de名著」ブックス 紫式部『源氏物語』P26(2015/12/25発行)。。 「源氏物語」の作者とされ、藤原道長の要請で宮中に上がった際に宮中の様子を書いた「紫式部日記」も残している。源氏物語と紫式部日記の2作品は、後に「源氏物語絵巻」、「紫式部日記絵巻」として絵画化された。また、歌人である紫式部には、子供時代から晩年に至るまで自らが詠んだ歌から選び収めた「紫式部集」がある。「小倉百人一首」にも和歌が収められており、中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人でもある。 父の藤原為時は、官位は正五位下と下級貴族ながら上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。、花山天皇に漢学を教えた漢詩人、歌人である。紫式部は藤原宣孝に嫁ぎ、一女(大弐三位)を産んだ。1001年(長保3年)に結婚後3年程で夫が死去する。その後「源氏物語」を書き始め紫式部日記より、当初、紫式部は仲間内で意見を言い合ったり手紙のやり取りで批評し合って楽しんでいたことから「最初は現代の同人誌のような楽しみ方だった」。上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。、その評判を聞いた藤原道長に召し出されて、一条天皇の中宮であり藤原道長の娘でもある中宮彰子(藤原彰子)に仕えている間に「源氏物語」を完成させた。 なお、「紫式部集」には、夫の藤原宣孝の死去に伴い詠んだ和歌「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」が収められている和歌の意「夫が火葬により煙となった夜から塩釜をとても身近に思う」(塩釜:海藻を焼き塩を取ることで知られる地名で、現在の宮城県塩竈市)。.
細川頼之
細川 頼之(ほそかわ よりゆき)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての武将、政治家。第2代室町幕府管領、中国管領、四国管領。阿波・伊予・備後・讃岐・土佐守護。第6代細川京兆家当主。幼名は弥九郎。はじめ武蔵守、後に相模守時野谷(1979)p.555。 足利氏の一門である細川氏の武将として、阿波、讃岐、伊予など四国地方における南朝方と戦い、観応の擾乱では幕府方に属す。管領への就任で幕政を指導し、幼少の足利義満を補佐して半済令の施行や南朝との和睦などを行う。天授5年/康暦元年(1379年)の康暦の政変で失脚するが、その後は赦免されて幕政に復帰する。.
細川斉護
細川 斉護(ほそかわ なりもり、文化元年9月16日(1804年10月19日) - 万延元年4月17日(1860年6月6日))は、肥後宇土藩の第8代藩主、のち肥後熊本藩の第10代藩主。熊本藩細川家11代。 宇土藩主・細川立之の長男で、第8代熊本藩主・細川斉茲の孫にあたる。母は土井利厚の娘。正室は広島藩主・浅野斉賢の娘。子に護前(長男、のち慶前に改名)、護順(次男、のち慶順、韶邦に改名)、護久(三男)、護明(四男、津軽順承養子)、長岡護美(六男、熊本藩執政)、勇姫(三女、越前松平慶永(春嶽)正室)などがいる。 幼名は与松。宇土藩主時代は細川 立政(ほそかわ たつまさ)と名乗る。官位は従四位下、中務少輔、越中守、左近衛権中将。侍従。 文政元年(1818年)、父の死により跡を継いで宇土藩主となる。文政9年(1826年)に叔父の熊本藩主・細川斉樹の養嗣子となって本家の家督を継いだ。この時、名を立政から斉護(「斉」は将軍・徳川家斉からの偏諱、斉護以降「護」は細川家の通字となり現在に至っている)に改め、宇土藩は弟の行芬が継いでいる。 当時、熊本藩では代々の藩主による出費などで、すでに80万両という膨大な借金を抱え、財政は破綻寸前となっていた。しかもこのような中で、アメリカやイギリスなどの日本接近もあって、幕府から天草地方や相模湾警備を命じられ、その出費で財政はさらに悪化した。このため、斉護は財政再建のために藩政改革に取りかかるが、その方針をめぐって横井小楠・長岡是容ら改革派と松井佐渡(=10代当主松井章之(てるゆき))ら保守派が対立し、かえって藩内が二分された。このような混乱と苦悩の中で万延元年(1860年)、斉護は57歳で死去した。長男の慶前は早世していたため、跡は次男の護順改め慶順(のちの韶邦)が継いだ。.
紀友則
紀友則(百人一首より) 紀 友則(き の とものり、承和12年(845年)? - 延喜7年(907年))は、平安時代前期の歌人・官人。宮内権少輔・紀有友(有朋)の子。官位は六位・大内記。三十六歌仙の一人。.
紀夏井
紀 夏井(き の なつい、生没年不詳)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。大納言・紀古佐美の曾孫。美濃守・紀善峯の三男。母は石川氏。官位は従五位上『日本三代実録』貞観8年9月22日条・右中弁。.
紀安雄
紀 安雄(き の やすお、弘仁13年(822年) - 仁和2年5月28日(886年7月3日))は、平安時代前期の貴族・儒学者。氏姓は苅田首のち紀朝臣。助教・苅田種継の子。官位は従五位上・周防守。.
紀小弓
紀 小弓(き の おゆみ、生年不詳 - 465年3月)は、古墳時代の豪族。紀田鳥の子。子に紀大磐がいる。.
紀貫之
紀 貫之(き の つらゆき)は、平安時代前期の歌人・貴族。下野守・紀本道の孫。紀望行の子。『古今和歌集』の選者の一人で、三十六歌仙の一人。.
紀長谷雄
紀 長谷雄(き の はせお)は、平安時代前期の公卿・文人。弾正大忠・紀貞範の子。 『竹取物語』の作者の候補者の一人であり、『長谷雄草紙』の主人公。.
紀淑人
紀 淑人(き の よしと/よしひと、生没年不詳)は、平安時代中期の貴族。中納言・紀長谷雄の次男。子に宗定がいる。官位は従四位下・河内守。.
紀最弟
紀 最弟(き の いやおと、延暦14年(795年) - 仁寿2年2月27日(852年3月21日))は、平安時代初期の貴族。右兵衛督・紀木津魚の十一男。官位は従五位下・右兵衛佐。.
紀斉名
紀 斉名(き の ただな、天徳元年(957年) - 長保元年12月15日(1000年1月24日))は、平安時代中期の貴族・文人。氏姓は田口朝臣のち紀朝臣。図書允・田口斉利の子とする系図がある。官位は従五位上・式部少輔。.
練馬区立美術館
練馬区立美術館(ねりまくりつびじゅつかん 英表記:Nerima Art Museum)は東京都練馬区貫井の美術の森緑地にある美術館である。1985年(昭和60年)10月1日に開館した。 練馬区にゆかりのある作家の作品をはじめ、近・現代の日本の洋画、前衛美術等の作品約6700点を収蔵する(寄託品含む)。 「美術品を保管・展示するだけでなく、区民が美術に対する理解を深め、発展させ、主体的に参加できる、開かれた美術館とする」として設立されたこともあり、区民への展示室の貸し出しや各種講座を開講するなど広く文化拠点として利用されている。 また、練馬区内の公立小中学校生の中から選ばれた優秀な書き初め作品、絵画作品も展示する。 建物は練馬区立貫井図書館と合築されており、1Fが図書館、2F、3Fが美術館となっている。.
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結城宗広
結城 宗広(ゆうき むねひろ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。白河結城氏2代当主。.
結城親光
結城 親光(ゆうき ちかみつ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。.
結城朝光
結城 朝光(ゆうき ともみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代中期にかけての武将・有力御家人。下総結城氏初代当主。 書物によっては小山朝光(おやま ともみつ)と記されている場合もあるが、結城家の家祖であるため、後の名乗りである結城朝光の方が、世上よく知られた名前である。.
絵画モデル
絵画モデル(かいが - )はクロッキーやデッサン、水彩画や油絵製作において、ヌードあるいは着衣でモデルをする者の総称である(彫刻を除く)。.
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瓜生保
生 保(うりゅう たもつ 生年不詳 - 延元2年/建武4年1月12日(1337年2月13日))は、日本の南北朝時代の武将。父は瓜生衡、弟に瓜生義鑑坊、瓜生重、瓜生照らがいる。通称を判官という。.
田代信綱
田代 信綱(たしろ のぶつな)は源頼朝挙兵時の武士の一人。伊豆国司と伊豆の豪族・狩野茂光の娘との間の子。田代冠者信綱と言われる。前田青邨画伯の代表作「洞窟の頼朝」にも描かれている。平家物語の三草山の合戦の場面にも登場。 Category:生没年不詳.
田道間守
道間守(たじまもり/たぢまもり)は、記紀に伝わる古代日本の人物。 『日本書紀』では「田道間守」、『古事記』では「多遅摩毛理」「多遅麻毛理」と表記される。 天日槍の後裔で、三宅連(三宅氏)祖。現在は菓子の神・菓祖としても信仰される浜本年弘(2014年4月20日).
田辺小隅
田辺小隅(たなべ の おすみ、生没年不詳)は、日本の飛鳥時代の人物である。旧仮名遣いでは「たなべのをすみ」。姓(カバネ)はなし。672年の壬申の乱のとき大友皇子(弘文天皇)側につき、別将として倉歴と莿萩野で戦った。 田辺小隅が壬申の乱勃発時にどのような官職にあったかは不明である。乱の最中の7月5日、田辺小隅は近江国から伊賀に向けて攻撃に出た。その頃大海人皇子側の軍事拠点は美濃国と倭(大和国)の二つに分かれており、伊賀は両者を連絡する要地であった。 近江から伊賀に出るときに通るのは倉歴道で、田中足麻呂が守っていた。小隅は隠密裏に前進し、田中の陣に夜襲をかけた。敵陣に突入した軍勢は、敵味方の区別のために「金」を合言葉とし、「金」と呼びかけて「金」と答えれば味方、答えなければ敵とみなした。足麻呂の軍は混乱して抵抗できなかった。 翌6日に、小隅は進んで莿萩野に到達した。莿萩野は伊賀の北部にあり、ここを占領すれば上述の連絡線を遮断できる。しかしそこは多品治が三千の兵とともに守備しており、小隅の進撃を阻止した。敗れた小隅の軍は追撃を受け、小隅は独り免れて逃げた。これ以後伊賀方面で戦闘はなかった。小隅のその後の行動、乱後の処遇は不明である。 なお、苗字や名前の類似性などから、『尊卑分脈』に見える藤原不比等の乳父・田辺史大隅との血縁関係が指摘されている。 Category:壬申の乱 Category:飛鳥時代の人物 Category:生没年不詳.
由利維平
由利 維平(ゆり これひら、生年不詳 - 文治6年(1190年)斎藤寿胤「由利氏【維平 これひら】」『秋田大百科事典』 秋田魁新報社、1981年、ISBN 4870200074)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。出羽国(秋田県)を本拠地とした豪族で、藤原泰衡の郎党から御家人となったと見られている。由利維安(維友とも)の八男で、子に維久。中八と号した。.
由良具滋
由良 具滋(ゆら ともしげ、生年不詳 - 延元2年/建武4年3月6日(1337年4月7日))は南北朝時代の南朝方の武将。新左衛門。新田義貞の側近で、後代に新田四天王の一人に数えられた。出自は武蔵七党の一つ猪俣党。 新田義貞の家人として元弘3年/正慶2年(1333年)の鎌倉攻めに従軍した。以降、建武2年(1335年)の箱根・竹ノ下の戦い、京都での戦いなど常に義貞に従って各地を転戦した。延元元年(1336年)、白旗城攻めに参加する。同年、義貞は北朝方と戦う拠点を北国に作るため恒良親王、尊良親王を奉じて越前金ヶ崎城に入城するも、北朝方の斯波高経らに包囲される(金ヶ崎の戦い)。 翌延元2年/建武4年(1337年)、城内の兵糧が尽きる中、具滋は自身の血を飲み戦死者の肉を啖い、多勢の北朝方を相手に奮戦する。最期は兵50余を率い打って出て激闘の末、長浜顕寛らと共に戦死した。 敦賀市金ヶ崎町の絹掛神社に、義貞の子義顕、瓜生保、里見時成、気比氏治らと共に合祀されている。.
甘南備高直
南備 高直(かんなび の たかなお、宝亀6年(775年) - 承和3年4月18日(836年5月6日))は、平安時代初期の貴族。初名は高継。姓は真人。正五位下・甘南備清野の三男。官位は従四位下・摂津守。.
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熊谷直実
谷 直実(くまがい なおざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。武蔵国熊谷郷(現埼玉県熊谷市)を本拠地とした。熊谷直貞の次男。 熊谷氏は桓武平氏・平貞盛の孫・維時(これとき)の六代の孫を称するが、武蔵七党の私市党、丹波党の分かれともされ、彰かではない。直実の祖父・平盛方(もりかた)が勅勘をうけたのち、父直貞の時代から大里郡熊谷郷の領主となり、熊谷を名乗った。 平家に仕えていたが、石橋山の戦いを契機として源頼朝に臣従し御家人となる。のちに出家して法然の門徒となり蓮生(れんしょう / れんせい)と号した。 『平家物語』「敦盛最期」の段における平敦盛との一騎討ちは、直実は敦盛とともにこの故事の主人公として、能の演目『敦盛』、幸若舞の演曲『敦盛』といった作品に取り上げられている。.
畠山重忠
山 重忠(はたけやま しげただ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。 源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して治承・寿永の乱で活躍。知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられて子とともに討たれ(畠山重忠の乱)た。館は、鎌倉筋替橋の東南。 存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された。.
畑時能
畑 時能(はた ときよし、正安元年9月15日(1299年10月10日) - 興国2年/暦応4年(1341年))は南北朝時代・南朝方の武将。六郎左衛門。畑胤時の次男。母は久納養哲娘。子に時純、或いは能速。兄に時継。新田義貞の側近で、後代に新田四天王の一人に数えられた。 畑氏の出自は『姓氏家系大辞典』では秦氏、『苗字尽略解』では多治比氏とされるなど諸説ある。.
物部守屋
物部 守屋(もののべ の もりや)は、古墳時代の大連(有力豪族)。物部尾輿の子。母は弓削倭古の娘、阿佐姫。.
物部尾輿
物部 尾輿(もののべ の おこし、生没年不詳)は、6世紀半ばの豪族。安閑・欽明両天皇の頃の大連。父は物部荒山。兄は物部奈洗大連。子に物部大市御狩大連、物部守屋、太媛、物部石上贄古大連などがいる。.
物部目
物部目(もののべ の め、生没年不詳)は、日本書紀に見える豪族。大連。物部伊莒弗の子。子に物部荒山がいる。 『日本書紀』によれば、雄略天皇の即位により大連となる。雄略天皇元年、采女の童女君が雄略天皇の娘・春日大娘皇女を生んだ際、天皇は一晩召しただけで童女君が妊娠したため、春日大娘皇女を自分の子と認めないでいたが、目は「妊娠しやすい人は一晩でも妊娠する場合がある」とそれを諫め、春日大娘皇女を娘として認知させた。 雄略天皇13年、狭穂彦王の玄孫の歯田根命が采女の山辺小嶋子と密通し、それが発覚すると天皇は歯田根命を目に預け、謝罪させた。 雄略天皇18年、天皇の命により、物部菟代と共に伊勢の豪族・朝日郎の討伐を命じられた。菟代は敢えて進撃せず2日対峙したが、目は物部大斧手に盾を持たせて自ら進撃し、朝日郎を捕縛して斬った。菟代は命令を完遂できなかったことを恥じ、7日間にわたり天皇のもとに報告に訪れなかった。天皇が何故菟代が報告に来ないのか側近に尋ねたところ、讃岐田虫別が「菟代はおびえて2日間朝日郎を捕らえることができず、目が物部大斧手を率いて進撃し、朝日郎を捕縛して斬った」と述べた。天皇はそれを聞いて激怒し、菟代が所有していた猪名部を没収し、目に与えた。.
物部麁鹿火
物部 麁鹿火(麤鹿火 もののべ の あらかび/ あらかい、生年不詳 - 宣化天皇元年(536年)7月)は、古墳時代の豪族。父は物部麻佐良、母は須羽直(すわのあたい)女・妹古『先代旧事本紀』。子に石弓若子(いわゆみわくご)・毛等若子(もとわくご)・影姫(かげひめ)がいる(物部氏の系図を参照)。 麁鹿火の大連初任の時期は不明だが、『日本書紀』の武烈即位前紀に大連として初めて名が現れる。武烈天皇の崩御後、継体天皇の擁立を働きかけ、その即位後に大伴金村と共に再び大連に任ぜられる。継体天皇6年(512年)12月、百済へ任那四県の割譲の際、麁鹿火は百済の使者に割譲の容認を伝える宣勅使となるが、妻からの諫めにより考えを改め、病と称してその役を辞退する。同21年(527年)6月、九州北部で反乱を起こした筑紫国造磐井の征討将軍に就任、天皇から筑紫以西の統治を委任された。翌年11月に筑紫三井郡にて磐井を破って処刑し、磐井の乱を平定した。その後の安閑天皇・宣化天皇の代にも大連を務め、宣化天皇元年(536年)7月に没する。 『古事記』にも物部荒甲の表記で記述され、金村と共に竺紫君石井(磐井)討伐の任に当たったことが見える。『新撰姓氏録』によると後裔に高岳首ら氏族がいる。.
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百済河成
済 河成(くだら の かわなり、延暦元年(782年) - 仁寿3年8月24日(853年9月30日))は、平安時代初期の貴族・画家。氏姓は余(あぐり。無姓)のち百済朝臣。百済の第28代の王である恵王の後裔で、余時善の子で、子に岑人がいたとする系図がある。官位は従五位下・安芸介。.
花山院師賢
花山院 師賢(かざんいん もろかた)は、鎌倉時代後期の公卿・歌人。内大臣花山院師信の二男で、母は僧恵一(五辻忠継の子)の女である。後醍醐天皇の討幕計画に参加したが、幕府に拘束されて配所の下総で没した。.
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花山院長親
花山院 長親(かざんいん ながちか)は、南北朝時代から室町時代にかけての公卿・学者・歌人・禅僧。贈太政大臣花山院師賢の孫で、内大臣花山院家賢の子。母は出自不詳だが、歌人の「花山院長親母」である。南朝に歴仕、やがて出家して子晋明魏(ししんみょうぎ)と号し、将軍足利義持から厚遇された。別号の耕雲(こううん)でも著名。.
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花園左大臣家小大進
小大進と小侍従母娘に縁の深い岩清水八幡宮(上院参道の石灯籠群) 花園左大臣家小大進(はなぞのさだいじんけのこだいしん、生没年不詳)は、平安時代後期の歌人である。式部大輔・菅原在良の娘。母は三宮大進。石清水別当光清の妻。小侍従と石清水別当成清の母。三宮小大進、内大臣家小大進とも呼ばれる。.
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鎌倉景正
鎌倉 景正(かまくら かげまさ/平 景正(たいら の かげまさ))は、平安時代後期の武将。父は桓武平氏の流れをくむ平景成とするが、平景通の子とする説もある。通称は権五郎。名は景政とも書く。.
鎌田政清
鎌田 政清(かまた まさきよ)は、平安時代末期の武将。名は正清、正家、政家とも。藤原秀郷流首藤氏の一族で、相模国の住人鎌田権守通清の子。 源義朝の第一の郎党。政清の母が義朝の乳母だったため乳兄弟として最も信頼された。.
聖徳太子
聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日))・厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)は、飛鳥時代の皇族・政治家。「聖徳太子」は、後世の諡号。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。.
道首名
道 首名(みち の おびとな、天智天皇2年(663年) - 養老2年4月10日(718年5月18日))は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての貴族。姓は君または公。官位は正五位下・筑後守、贈従四位下。 大宝律令の選定に携わる一方、地方官としても治績を挙げ、死後も長く良吏として記憶された。.
道臣命
道臣命(みちのおみのみこと)は記紀に登場する人物。初名は日臣命(ひのおみのみこと)。天忍日命(あまのおしひのみこと)の後裔。「古屋家家譜」では刺田比古の子。大伴氏の祖。神武天皇の東征の先鋒を務め、神武天皇即位の際には宮門の警衛を務めた。.
菊池容斎
菊池 容斎(きくち ようさい、天明8年11月1日(1788年11月28日) - 明治11年(1878年)6月16日)は、幕末から明治時代初期にかけての絵師。旧姓は河原。本名は量平または武保、別号に雲水无尽庵など。『前賢故実』の作者として広く知られている。.
菊池武吉
菊池 武吉(きくち たけよし、生年不詳 - 延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。菊池氏第12代当主・菊池武時の七男。第13代当主・菊池武重の弟。通称は菊池七郎。.
菊池武光
菊池 武光(きくち たけみつ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。菊池氏第15代当主。第12代当主・菊池武時の子で九男とも。.
菊池武重
菊池 武重(きくち たけしげ)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。菊池氏の第13代当主。菊池武時の嫡男。.
菊池武朝
菊池 武朝(きくち たけとも、正平18年/貞治2年(1363年) - 応永14年3月18日(1407年4月25日))は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。肥後守護代。菊池氏の第17代当主。16代当主菊池武政の子。兼朝の父。幼名は加賀丸。別名に武興。官位は右京大夫、肥後守。.
菊池武房
菊池 武房(きくち たけふさ)は、鎌倉時代中期の武将。菊池氏の第10代当主。第9代当主・菊池隆泰の次男。蒙古襲来に際して一族を挙げて戦い、その活躍が『蒙古襲来絵詞』に描かれている。.
菊池武政
菊池 武政(きくち たけまさ、興国3年/康永元年(1342年) - 文中3年/応安7年5月26日(1374年7月6日))は南北朝時代の武将。菊池氏の第16代当主。第15代当主菊池武光の子。良政の兄。通称は菊池次郎。.
菊池武敏
菊池 武敏(きくち たけとし、生年不詳 - 興国2年/暦応4年(1341年)?)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての南朝の武将。菊池氏第12代当主・菊池武時の九男。第13代当主・菊池武重の弟。通称は菊池九郎。.
菊池武時
菊池 武時(きくち たけとき)は鎌倉時代末期の武将。菊池氏の第12代当主。菊池隆盛の次男。第10代当主・菊池武房の孫で、第11代当主・菊池時隆の弟にあたる。.
菟道稚郎子
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ/うぢのわきいらつこ、生年不詳 - 壬申年壬申年は応神天皇41年(崩御時)の2年後で、仁徳天皇元年(即位時)の前年にあたる(いずれも『日本書紀』による)。)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。 第15代応神天皇皇子(『日本書紀』では皇太子)で、第16代仁徳天皇の異母弟。.
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鏡久綱
鏡 久綱(かがみ ひさつな、生年不明 - 承久3年6月6日(1221年6月27日))は、日本の鎌倉時代の武士。右衛門尉。佐々木定綱の次男佐々木定重の子。鏡荘を領有したことから鏡氏を称する。『尊卑分脈』によると子に定廣。近江井上館(鏡城)館主。 承久3年(1221年)に勃発した承久の乱で、後鳥羽上皇に味方し宮方として従軍する。美濃尾張川の大井戸渡に布陣した大内惟信に属し、武田信光・小笠原長清率いる幕府方東山道軍と戦うも敗れる。『美濃国諸旧記』によれば、久綱は美濃方県郡河渡村の河渡城へ撤退し戦ったとされる。 この後、久綱は藤原秀康の軍に属し、近江で北条泰時ら幕府方の東海道軍を迎撃するも、秀康は支えきれないと判断し早々に宇治への退却を決断する。久綱は味方が撤退するなか、幕府方の大江佐房と戦うも敗れ自刃した。.
菅原古人
菅原 古人(すがわら の ふるひと、生年不詳 - 延暦4年(785年)?)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。氏姓は土師宿禰のち菅原宿禰、菅原朝臣。阿波守・土師宇庭の子。官位は従五位下・遠江介。.
菅原峯嗣
菅原 峯嗣(すがわら の みねつぐ、延暦12年(793年) - 貞観12年3月30日(870年5月4日))は、平安時代初期から前期にかけての貴族・医師。名は岑継とも記される。氏姓は出雲朝臣のち菅原朝臣。信濃権守・出雲広貞の子。官位は従五位上・典薬頭。.
菅原為長
菅原 為長(すがわら の ためなが)は平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。.
菅原道真
菅原道真(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。 忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣・藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。 小倉百人一首では菅家。.
菅原輔正
菅原 輔正(すがわら の すけまさ)は、日本の平安時代中期の公卿・歌人。右中弁・菅原淳茂の孫。勘解由長官・菅原在躬の長男。中古三十六歌仙の一人。.
菅原梶成
菅原 梶成(すがわら の かじなり、生年不詳 - 仁寿3年6月2日(853年7月11日))は、平安時代前期の医師。姓は宿禰のち朝臣。官位は外従五位下・侍医。.
菅原淳茂
菅原 淳茂(すがわら の あつしげ)は平安時代初期から中期にかけての貴族、漢詩人、学者。官位は正五位下・右中弁。.
菅原清公
菅原 清公(すがわら の きよきみ / きよとも)は、平安時代初期の貴族・文人。遠江介・菅原古人の四男。官位は従三位・左京大夫。.
菅原是善
菅原是善邸跡、道真の産湯井戸と言われている井戸が現存する、京都市上京区 菅原 是善(すがわら の これよし)は、平安時代初期から前期にかけての貴族・文人。従三位・菅原清公の四男。官位は従三位・参議。.
菅原文時
菅原 文時(すがわら の ふみとき、昌泰2年(899年)- 天元4年9月8日(981年10月8日))は、平安時代中期の文人・政治家。右大臣・菅原道真の孫で、大学頭・菅原高視の次男。官位は従三位・式部大輔。菅三品と称される。.
菅野真道
菅野 真道(すがの の まみち、天平13年(741年) - 弘仁5年6月29日(814年7月23日))は、平安時代初期の公卿。津山守の子。姓は津連のち菅野朝臣。官位は従三位・参議。.
青砥藤綱
青砥 藤綱(あおと ふじつな、生没年不詳)は、鎌倉時代後期の武士。名は三郎・左衛門。.
静御前
肉筆画で描写された白拍子姿の静御前(葛飾北斎筆、北斎館蔵、文政3年(1820年)頃) 時代祭での扮装 静御前(しずかごぜん、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性、白拍子。母は白拍子の磯禅師。源義経の妾。.
頓阿
頓阿(二階堂貞宗) 頓阿(とんあ / とんな、正応2年(1289年) - 文中元年/応安5年3月13日(1372年4月17日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代の僧・歌人。父は二階堂氏一族の二階堂光貞(みつさだ)とされるが、藤原師実の子孫という説もある。俗名は二階堂貞宗(にかいどう さだむね、「貞」字は父・光貞または生まれた当時の執権北条貞時の1字、「宗」字は光貞の父・二階堂宗実(むねざね)の1字と思われる)。子に僧・歌人の経賢がいる。 若い頃に比叡山で篭居して天台教学を学び、その後高野山でも修行。20歳代後半に金蓮寺の真観に師事し時衆となった。西行を史蹟を慕って諸国を行脚、京都東山双林寺の西行の旧跡に草庵を構えるなど隠遁者の生活を送った。二条為世に師事して活躍、二条派(歌道)再興の祖とされ、20歳代で慶運・浄弁・吉田兼好とともに和歌四天王の一人とされた。地下(じげ)の歌人であり、歌壇での活躍は晩年であった。「新拾遺和歌集」撰進の際には撰者二条為明(ためあき、為世の次男・為藤の子)が選集の途中で亡くなったことから、頓阿がそれを引き継いで完成させたが、撰者となったのは76歳の時である。北朝の実力者二条良基(二条派とは別系の五摂家の一つ、二条家の当主)の保護を受けた。 『続千載集』以下の勅撰和歌集に44首が入集。著書に『井蛙抄』、『愚問賢註』などがある。 Category:鎌倉時代の僧 Category:鎌倉時代の歌人 Category:室町・安土桃山時代の歌人 Category:南北朝時代の人物 (日本) Category:二階堂氏 Category:1289年生 Category:1372年没.
西行
西行像(MOA美術館蔵) 西行(さいぎょう)、元永元年(1118年) - 文治6年2月16日(1190年3月31日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。父は左衛門尉・佐藤康清、母は監物・源清経女。同母兄弟に仲清があり、子に隆聖、女子(単に西行の娘と呼ばれる)がある。俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。出家して法号は円位、のちに西行、大本房、大宝房、大法房とも称す。 勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)『山家心中集』(自撰)『聞書集』、その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と目される。.
調伊企儺
教導立志基」より『伊企儺』大蘇芳年筆 調 伊企儺(つき の いきな、生年不詳 - 欽明天皇23年(562年)7月)は、日本の6世紀中頃の武将。姓は吉士(きし)で調吉士伊企儺(つきのきしいきな)と称する。大葉子の夫。.
高橋文室麻呂
橋 文室麻呂(たかはし の ふんやまろ、弘仁7年(816年) - 貞観6年2月1日(864年3月12日))は、平安時代前期の貴族・雅楽家。姓は朝臣。備前掾・高橋彦公の子。官位は従五位下・越後介。.
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護良親王
護良親王 護良親王(もりよししんのう / もりながしんのう)、延慶元年(1308年) - 建武2年7月23日(1335年8月12日)は、鎌倉時代後期から建武の新政期の人物。後醍醐天皇の皇子、母は源師親の娘親子。妃は北畠親房の娘。または藤原保藤の娘である南方(みなみのかた)。興良親王の父。大塔宮(だいとうのみや / おおとうのみや)と呼ばれた。天台座主。 名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。.
讃岐永直
讃岐 永直(さぬき の ながなお)は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての貴族・ 明法家。姓は公のち朝臣。讃岐権介・讃岐浄直の子。官位は従五位下、大判事。.
賀陽親王
賀陽親王(かやしんのう、延暦13年(794年) - 貞観13年10月8日(871年11月23日))は、平安時代初期の皇族。桓武天皇の第十皇子。官位は二品・大宰帥。.
賀陽豊年
賀陽 豊年(かや の とよとし、天平勝宝3年(751年) - 弘仁6年6月27日(815年8月5日))は、平安時代初期の貴族・文人・漢学者。姓は朝臣。官位は従四位下・播磨守、贈正四位下。.
鴨長明
長明 (菊池容斎画、明治時代) 下鴨神社境内にある摂社。河合神社は鴨長明ゆかりの社 河合神社内にある長明の方丈 鴨 長明(かも の ちょうめい、久寿2年(1155年) - 建保4年閏6月10日(1216年7月26日))は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての日本の歌人・随筆家。俗名はかものながあきら。禰宜・鴨長継の次男。位階は従五位下。法名は蓮胤。南大夫、菊大夫とも称される。.
足助重範
足助 重範(あすけ しげのり、正応5年(1292年) - 正慶元年/元弘2年5月3日(1332年5月27日))は、鎌倉時代末期の武将。三河国加茂郡足助庄を拠点とした足助氏の七代目惣領。仮名は三郎。足助六郎次郎貞親(重成)の嫡男。兄に重治、弟に重春。子に九郎重政、二条良基との間に犬山城主成瀬氏の祖・成瀬基久を産んだとされる娘・滝野らがいる。.
足利忠綱
足利 忠綱(あしかが ただつな)は、平安時代末期の武将。鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏5代当主。治承・寿永の乱において、平氏方について戦った猛将。.
足利義兼
足利 義兼(あしかが よしかね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府の御家人。足利氏2代当主。.
鷹司政通
鷹司 政通(たかつかさ まさみち)は、江戸時代の公家、政治家。父は関白・鷹司政煕、母は正室・蜂須賀儀子。正室は徳川治紀の娘・鄰姫(清子)。.
都良香
都 良香(みやこ の よしか、承和元年(834年) - 元慶3年2月25日(879年3月21日))は、平安時代前期の貴族・文人。姓は宿禰のち朝臣。初名は言道。主計頭・都貞継の子。官位は従五位下・文章博士。.
舎人親王
舎人親王(とねりしんのう)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族。舎人皇子(とねりのみこ)とも記される。天武天皇の皇子。淳仁天皇の父。 天武天皇の諸皇子の中で最後まで生き残り、奈良時代初期に長屋王とともに皇親勢力として権勢を振るう。『日本書紀』の編集も総裁した。子孫の清原氏は高市皇子裔の高階氏と共に、天武系後裔氏族として長く血脈が続いた。.
鈴木華邨
鈴木 華邨(すずき かそん、安政7年2月17日(1860年3月9日) - 大正8年(1919年)1月3日)は、明治から大正にかけて活躍した日本画家。名は茂雄、通称は惣太郎。華邨は号で、しばしば華村とも表記される。別号として「魚友」、「忍青」東京成徳大学 を用いた。はじめ容斎派の人物画を学んだが、のちに四条派から土佐派や浮世絵の要素を加えた独自の画法を立ち上げ、特に花鳥画に優れた。20世紀初頭ヨーロッパで北斎以来の日本画家とされ、もっとも知られた日本画家と称された。小林一三が評価していたため、大阪府池田市の逸翁美術館にまとまって収蔵されている。.
船田義昌
船田 義昌(ふなだ よしまさ)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将。新田義貞の執事。『梅松論』では「一人当千」と形容されている。.
興世書主
興世 書主(おきよ の ふみぬし、宝亀9年(778年) - 嘉祥3年11月6日(850年12月12日))は、平安時代前期の貴族。名は文主とも記される。氏姓は吉田連、のち興世朝臣。内薬正・吉田古麻呂の子。官位は従四位下・治部大輔。.
阿保親王
阿保親王(あぼしんのう、延暦11年(792年) - 承和9年10月22日(842年12月1日)は、平安時代初期の皇族。平城天皇の第一皇子。.
阿倍仲麻呂
阿倍 仲麻呂(あべ の なかまろ、文武天皇2年〈698年〉 - 宝亀元年〈770年〉1月)は、奈良時代の遣唐留学生。姓は朝臣。筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の孫。中務大輔・阿倍船守の長男。弟に阿倍帯麻呂がいる。 唐名を「朝衡/晁衡」(ちょうこう)とする。唐で国家の試験に合格し仲麻呂が科挙を受験し合格した、との説には異論もある。唐朝において諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果たせずに唐で客死した。.
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阿知使主
阿知使主(あちのおみ、3世紀 - 4世紀頃、または5世紀前半朝日日本歴史人物事典、kotobank「'阿知使主」鈴木靖民筆)は、応神天皇時代の漢人系渡来人で、東漢氏の祖と言われる。 阿智使主、阿知王、阿知吉師ともいう。.
赤染衛門
赤染衛門 『前賢故実』より '''赤染衛門'''(小倉百人一首より) 『やすらはで寝なましものを 小夜ふけて かたふく迄の月を見しかな』(月岡芳年『月百姿』) 赤染衛門(あかぞめえもん、天暦10年(956年)頃? - 長久2年(1041年)以後)は、平安時代中期の女流歌人。大隅守・赤染時用の娘。中古三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人。.
赤松則祐
赤松 則祐(あかまつ のりすけ/そくゆう)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将・守護大名。室町幕府禅律方、播磨国・備前国・摂津国守護。赤松氏6代当主。.
関白
関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.
藤原基経
藤原 基経(ふじわら の もとつね)は、平安時代前期の公卿。藤原北家、中納言・藤原長良の三男。 摂政であった叔父・藤原良房の養子となり、良房の死後、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握った。陽成天皇を暴虐であるとして廃し、光孝天皇を立てた。次の宇多天皇のとき阿衡事件(阿衡の紛議)を起こして、その権勢を世に知らしめた。天皇から大政を委ねられ、日本史上初の関白に就任した。.
藤原吉野
藤原 吉野(ふじわら の よしの)は、平安時代初期の公卿。藤原式家、参議・藤原綱継の長男。官位は正三位・中納言。.
藤原多美子
藤原 多美子(ふじわら の たみこ、生年不明 - 仁和2年10月29日(886年11月28日))は平安時代中期の女官。清和天皇の女御。父は右大臣・藤原良相。 貞観5年(863年)に無位から従四位下に叙される。翌貞観6年(864年)正月27日に詔によって清和天皇の女御となる。同年8月に従三位、貞観9年(867年)には正三位、元慶元年(877年)従二位に叙された。元慶7年(883年)にはさらに正二位に昇叙されるが、仁和2年(886年)10月に俄かに熱を発して薨去。.
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藤原定家
藤原 定家(ふじわら の さだいえ/ていか)は、鎌倉時代初期の公家・歌人。諱は「ていか」と音読みされることが多い。小倉百人一首の撰者で権中納言定家を称する。.
藤原実頼
藤原 実頼(ふじわら の さねより)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原忠平の長男。 村上天皇の時に左大臣として右大臣の弟・師輔と共に朝政を指導して天暦の治を支えた。しかし、後宮の争いでは師輔に遅れをとり、外戚たる事ができなかった。冷泉天皇が即位すると、その狂気のために関白職が復活し実頼が任じられた。次いで円融天皇が即位すると摂政に任じられている。また、有職故実に通じ、小野宮流を創始した。.
藤原実資
藤原 実資(ふじわら の さねすけ)は、平安時代の公卿。 藤原北家嫡流の小野宮流の膨大な家領を継ぎ、有職故実に精通した当代一流の学識人であった。藤原道長が権勢を振るった時代に筋を通した態度を貫き、権貴に阿らぬ人との評価を受けた。最終的に従一位・右大臣に昇り、「賢人右府」と呼ばれた。実資の残した日記『小右記』はこの時代を知る貴重な資料となっている。.
藤原実方
藤原 実方(ふじわら の さねかた)は、平安時代中期の貴族・歌人。左大臣・藤原師尹の孫、侍従・藤原定時の子。官位は従四位上・左近衛中将。中古三十六歌仙の一人。.
藤原家隆 (従二位)
藤原 家隆(ふじわら の いえたか)は、鎌倉時代初期の公卿、歌人。有職読みで「かりゅう」とも呼ばれる。初名は顕隆。法名は仏性。壬生二位と号する。中納言・藤原兼輔の末裔で、権中納言・藤原光隆の次男。官位は従二位・宮内卿。『新古今和歌集』の撰者の一人。小倉百人一首では従二位家隆「風そよぐ 楢の小川の 夕暮は 御禊ぞ夏の しるしなりける」。.
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藤原宗輔
藤原 宗輔(ふじわら の むねすけ)は、平安時代後期の公卿。右大臣藤原俊家の嫡男で後年中御門家の祖とされた権大納言藤原宗俊の子。堀河または京極と号する。「蜂飼大臣(はちかいおとど)」の異名で『今鏡』『十訓抄』にも登場する。.
藤原宇合
藤原 宇合(ふじわら の うまかい)は、奈良時代の公卿。初名は馬養。右大臣・藤原不比等の三男。藤原式家の祖。官位は正三位・参議。勲等は勲二等。.
藤原富士麻呂
藤原 富士麻呂(ふじわら の ふじまろ、延暦23年(804年) - 嘉祥3年2月16日(850年4月2日)は、平安時代初期の貴族。藤原南家、参議・藤原巨勢麻呂の曾孫。讃岐守・藤原村田の次男。子に敏行がいる。官位は従四位下・陸奧出羽按察使。.
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藤原山蔭
藤原 山蔭(ふじわら の やまかげ)は、平安時代前期の公卿。越前守・藤原高房の三男。.
藤原岳守
藤原 岳守(ふじわら の おかもり、大同3年(808年) - 仁寿元年9月26日(851年10月24日)は、平安時代初期の貴族。藤原南家、春宮亮・藤原三成の長男。官位は従四位下・右近衛中将。.
藤原不比等
藤原 不比等(ふじわら の ふひと)は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿。藤原鎌足の次男。文献によっては史(ふひと)と記されている場合もある。『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇の落胤と書かれる。諡号は文忠公、国公は淡海公。.
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藤原師輔
藤原 師輔(ふじわら の もろすけ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白太政大臣・藤原忠平の次男。官位は正二位・右大臣。 有職故実・学問に優れた人物として知られ、村上天皇の時代に右大臣として朝政を支えた。師輔の没後に長女・中宮安子所生の皇子が冷泉天皇・円融天皇としてそれぞれ即位し、師輔の家系は天皇の外戚として大いに栄えた。.
藤原師長
嶋川稲荷(名古屋市瑞穂区)の境内にある尾張配流時代の師長の屋敷跡 藤原 師長(ふじわら の もろなが)は、平安時代末期の公卿。藤原北家御堂流、左大臣藤原頼長の長男。官位は従一位・太政大臣。妙音院太相国と号す。.
藤原師通
藤原 師通(ふじわら の もろみち)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、関白・藤原師実の子。官位は従一位、関白、内大臣。.
藤原常嗣
藤原 常嗣(ふじわら の つねつぐ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。藤原北家、中納言・藤原葛野麻呂の七男『続日本後紀』承和7年4月23日条。官位は従三位・参議。.
藤原三守
藤原 三守(ふじわら の ただもり/みもり)は、平安時代初期の公卿。藤原南家の祖である左大臣・藤原武智麻呂の曾孫。阿波守・藤原真作の五男『続日本後紀』承和7年7月7日条。官位は従二位・右大臣、贈従一位。後山科大臣と号す。.
藤原広嗣
藤原 広嗣(ふじわら の ひろつぐ)は、奈良時代の貴族。藤原式家の祖である参議・藤原宇合の長男。官位は従五位下・大宰少弐。.
藤原伊通
藤原 伊通(ふじわら の これみち、寛治7年(1093年) - 長寛3年2月15日(1165年3月28日))は平安時代末期の公卿。中御門流権大納言藤原宗通の次男で、藤原道長は高祖父にあたる。正二位・太政大臣。九条に邸宅を構えていたことから九条大相国(くじょう だいしょうごく)あるいは大宮大相国と号した。.
藤原佐理
藤原 佐理(ふじわら の すけまさ/さり)は、平安時代中期の公卿・能書家。太政大臣・藤原実頼の孫。左近衛少将・藤原敦敏の長男。三跡の一人で草書で有名。.
藤原俊家
藤原 俊家(ふじわら の としいえ)は平安時代中期の公卿、歌人。右大臣藤原頼宗の次男。正二位・右大臣。大宮右大臣と号す。中御門流の祖であり、子孫からは中御門家(松木家)・持明院家を始めとして、9家の堂上家(羽林家)を出した。.
藤原俊成
藤原俊成歌碑「又や見む交野の御野の桜狩 花の雪散る春の曙」(枚方市) 愛知県蒲郡市竹島園地の藤原俊成卿像。『吾妻鏡』(元暦二年二月十九日条)に竹谷・蒲形荘(現在の蒲郡市)の開発領主として「散位俊成」の名がある蒲郡市ホームページ(http://www.city.gamagori.lg.jp/site/museum/shunzei.html)久曽神昇「特別展『藤原俊成の古典』に寄せて」(蒲郡市博物館『特別展 藤原俊成の古典』、1991年 p.62-64) 藤原 俊成(ふじわら の としなり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。名は有職読みで「しゅんぜい」とも読む。藤原北家御子左流、権中納言・藤原俊忠の子。はじめ勧修寺流・藤原顕頼の猶子となり顕広(あきひろ)を名乗ったが、後に実家の御子左家に戻り、俊成と改名した。法名は釈阿。最終官位は正三位・皇太后宮大夫。『千載和歌集』の撰者として知られる。.
藤原俊成女
皇太后宮大夫俊成女 - 嘉永四年版女百人一首 藤原俊成女(ふじわら-の-としなり/しゅんぜい-の-むすめ、生没年不詳:1171年(承安元年)頃 - 1251年(建長3年)以後)は、鎌倉時代前期の歌人である。新三十六歌仙及び女房三十六歌仙の一人。実父は藤原北家末茂流(善勝寺流)出身の尾張守藤原盛頼。実母は藤原俊成の娘、八条院三条。祖父俊成の養女となった。堀川大納言源通具の妻。皇太后宮太夫俊成女、俊成卿女の名で歌壇で活躍、後には侍従具定母、三位侍従母、晩年出家してからは嵯峨禅尼、越部禅尼と呼ばれた。また、藤原定家の明月記においては、後鳥羽院出仕以降出家までは、俊成女の住んだ押小路万里小路宅から押小路女房と記されている。.
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藤原保則
藤原保則 藤原 保則(ふじわら の やすのり、天長2年(825年) - 寛平7年4月21日(895年5月23日))は、平安時代初期の公卿。藤原南家、中納言・藤原乙叡の孫。左兵衛佐・藤原貞雄の子。官位は従四位上・参議。 地方官として善政により治績をあげ良吏として知られ、良二千石と謳われた。.
藤原保昌
藤原 保昌(ふじわら の やすまさ)は、平安時代中期の貴族。藤原南家巨勢磨流、右京大夫・藤原致忠の子。官位は正四位下・摂津守。摂津守となり同国平井に住したことから平井 保昌とも呼ばれる。.
藤原忠平
貞信公(百人一首より) 藤原 忠平(ふじわら の ただひら)は、平安時代前期から中期にかけての公卿。藤原基経の四男。 兄・時平の早世後に朝政を司り、延喜の治と呼ばれる政治改革を行った。朱雀天皇の時に摂政、次いで関白に任じられる。以後、村上天皇の初期まで長く政権の座にあった。兄・時平と対立した菅原道真とは親交を持っていたとされる。平将門は忠平の家人として仕えていた時期もあった。.
藤原忠通
藤原 忠通(ふじわら の ただみち)は、平安時代後期から末期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原忠実の次男。官位は従一位・摂政 関白・太政大臣。通称は法性寺関白(ほっしょうじ かんぱく)。小倉百人一首では法性寺入道前関白太政大臣。.
藤原忠文
藤原 忠文(ふじわら の ただぶみ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿。藤原式家、参議・藤原枝良の三男。官位は正四位下・参議、贈正三位・中納言。宇治民部卿とも呼ばれる。.
藤原信実
藤原 信実(ふじわら の のぶざね)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公家・画家・歌人。藤原北家長良流、左京権大夫・藤原隆信の子。官位は正四位下・左京権大夫。.
藤原在衡
藤原 在衡(ふじわら の ありひら)は、平安時代中期の公卿。藤原北家魚名流、中納言・藤原山蔭の孫。大僧都・如無の子、叔父の但馬介・藤原有頼の養子。官位は従二位・左大臣、贈従一位。粟田左大臣、あるいは万里小路大臣と称す。.
藤原園人
藤原 園人(ふじわら の そのひと)は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての公卿。藤原北家、参議・藤原楓麻呂の長男。官位は従二位・右大臣、贈正一位・左大臣。前山科大臣(さきのやましなのおとど)とも称された。.
藤原利仁
藤原 利仁(ふじわら の としひと)は、平安時代中期の武将。民部卿藤原時長(中納言藤原山蔭の同母兄弟)の子。越前国敦賀の豪族藤原有仁(忌部姓?)の娘婿ともなっていた。.
藤原冬嗣
藤原 冬嗣(ふじわら の ふゆつぐ)は、平安時代初期の公卿・歌人。藤原北家、右大臣・藤原内麻呂の次男。官位は正二位・左大臣、贈正一位・太政大臣。閑院大臣と号す。.
藤原内麻呂
藤原 内麻呂(ふじわら の うちまろ)は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿。藤原北家、大納言・藤原真楯の三男。官位は従二位・右大臣。 桓武・平城・嵯峨の三帝に仕え、いずれの天皇にも信頼され重用された。伯父である永手の系統に代わって北家の嫡流となり、傍流ゆえに大臣になれなかった父・真楯より一階級上の右大臣に至り、平城朝~嵯峨朝初期にかけては台閣の首班を務めた。また、多くの子孫にも恵まれ、後の藤原北家繁栄の礎を築いた。.
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藤原公任
藤原 公任(ふじわら の きんとう)は、平安時代中期の公卿・歌人。関白太政大臣・藤原頼忠の長男。小倉百人一首では大納言公任。.
藤原兼家
東三条院跡、藤原兼家邸、京都市中京区押小路通釜座西北角 藤原 兼家(ふじわら の かねいえ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・藤原師輔の三男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。 策略によって花山天皇を退位させて、娘が生んだ一条天皇を即位させて摂政となった。その後右大臣を辞して摂政のみを官職として、摂関の地位を飛躍的に高め、また子・道隆にその地位を譲って世襲を固める。以後、摂関は兼家の子孫が独占し、兼家は東三条大入道殿と呼ばれて尊重された。 兄・兼通との激しい確執や、室の一人に『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母がいる事でも知られている。.
藤原兼光
藤原 兼光(ふじわら の かねみつ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人。藤原北家真夏流日野家、権中納言・藤原資長の子。官位は従二位・権中納言。姉小路と号す。日野家13代。.
藤原光頼
藤原 光頼(ふじわら の みつより、天治元年(1124年) - 承安3年1月5日(1173年2月18日))は平安時代後期の公卿。藤原北家勧修寺流の出身で、権中納言藤原顕頼の長男。正二位・権大納言。葉室大納言入道、桂大納言と称す。葉室光頼とも呼ばれる。 白河院の近臣藤原顕隆に始まる葉室家の嫡男として世に出る。久寿3年(1156年)参議、保元3年(1158年)権中納言、永暦元年(1160年)権大納言。能吏としての評価が高く、何事にも公正をもって対処し、朝野の人望も厚かった。『愚管抄』においては、「末代ニヌケデテ人ニホメラレシ」人物として高く評価されている。 『平治物語』によれば、平治元年(1159年)に勃発した平治の乱に際しては、甥に当たる藤原信頼に与同して軍事行動を起こした弟の惟方を叱責し、その離反の遠因を作ったとされる。同書の「光頼卿参内の事」の段には、得意絶頂の信頼に対して一歩も臆することなく堂々と正論を述べる光頼と、その態度に面目を失う信頼の姿とが、対照的な筆致で描き出されている。 晩年は出家して桂の里に退隠した。 和歌にも優れ、家集として『桂大納言集』を残す。また、『新勅撰和歌集』以下の勅撰和歌集に8首が採録されている。.
藤原秀衡
藤原 秀衡(ふじわら の ひでひら)は、平安時代末期の武将。奥州藤原氏第3代当主。鎮守府将軍、陸奥守。藤原基衡の嫡男。.
藤原範永
藤原 範永(ふじわら の のりなが)は、平安時代中期から後期にかけての貴族・歌人。和歌六人党の一人。藤原北家長良流、内匠頭・藤原中清(仲清)の子。官位は正四位下・摂津守。.
藤原継縄
藤原 継縄(ふじわら の つぐただ)は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての公卿。藤原南家の祖である左大臣・藤原武智麻呂の孫。右大臣・藤原豊成の次男。官位は正二位・右大臣、贈従一位。桃園右大臣あるいは中山を号す。.
藤原緒嗣
藤原 緒嗣(ふじわら の おつぐ)は平安時代の政治家。藤原式家、参議・藤原百川の長男。官位は正二位・左大臣、贈従一位。山本大臣と号す。.
藤原真楯
藤原 真楯(ふじわら の またて)は、奈良時代の公卿。初名は八束(やつか)。藤原北家の祖・藤原房前の三男。官位は正三位・大納言、贈太政大臣。.
藤原為家
藤原 為家(ふじわら の ためいえ)は、鎌倉時代中期の公家・歌人。正二位・権中納言藤原定家の三男。官位は正二位・権大納言。.
藤原為隆
藤原 為隆(ふじわら の ためたか)は平安時代末期の公卿。参議・藤原為房の長男。日記『永昌記』を記した。.
藤原百川
藤原 百川(ふじわら の ももかわ)は、奈良時代の公卿。初名は雄田麻呂。藤原式家の祖である、参議・藤原宇合の八男。官位は従三位・参議、贈正一位・太政大臣。.
藤原鎌足
中臣 鎌足(なかとみ の かまたり)のち藤原 鎌足(ふじわら の かまたり)は、飛鳥時代の政治家。日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖。 大化の改新の中心人物であり、改新後も中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いた。『藤氏家伝』には「偉雅、風姿特秀」と記されている。字は仲郎。.
藤原道隆
藤原 道隆(ふじわら の みちたか)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の長男。官位は正二位・摂政・関白・内大臣。 花山天皇退位事件(寛和の変)で父兼家の意を受けて宮中で活動。甥にあたる一条天皇の即位後は急速に昇進した。娘・定子を女御として入内させ、後に中宮となす。父・兼家が死ぬと後を継いで関白となる。朝政を主導するが僅か5年ほどで病に倒れ、嫡男・伊周を後任の関白にと願うが、天皇からは許されず、薨御した。.
藤原道長
藤原 道長(ふじわら の みちなが)は、平安時代の中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男(または四男)。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。 父・兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男・伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。 一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが三条天皇とは深刻な対立が生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。さらには、六女の嬉子を後の後朱雀天皇となる敦良親王に入侍させた。晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けた。.
藤原行成
藤原 行成(ふじわら の ゆきなり/こうぜい)は、平安時代中期の廷臣。藤原北家、右少将・藤原義孝の長男。官位は正二位・権大納言。一条朝四納言(「寛弘の四納言」)の一。世尊寺家の祖。 当代の能書家として三蹟の一人に数えられ、その書は後世「権蹟」(ごんせき)と称された。書道世尊寺流の祖。.
藤原衛
藤原 衛(ふじわら の まもる)は、平安時代初期の貴族。藤原北家、右大臣・藤原内麻呂の十男。官位は正四位下・右京大夫。.
藤原諸葛
藤原 諸葛(ふじわら の もろくず/もろかず、天長3年(826年) - 寛平7年6月20日(895年7月16日))は、平安時代前期の公卿。藤原南家、右大臣・藤原三守の孫。侍従・藤原有統の長男。官位は従三位・中納言。.
藤原高光
藤原 高光(ふじわら の たかみつ)は、平安時代中期の貴族・歌人。藤原北家、右大臣・藤原師輔の八男。官位は従五位上・右近衛少将。三十六歌仙の一人。.
藤原高房
藤原 高房(ふじわら の たかふさ)は、平安時代初期の貴族。藤原北家魚名流、参議・藤原藤嗣の三男。官位は正五位下・越前守。.
藤原豊成
藤原 豊成(ふじわら の とよなり)は、奈良時代の貴族。藤原南家、左大臣・藤原武智麻呂の長男。官位は従一位・右大臣。別名難波大臣、横佩大臣(よこはぎのおとど)。.
藤原貞主
藤原 貞主(ふじわら の さだぬし)は、平安時代初期の貴族。名は真主とも記される。藤原北家、参議・藤原楓麻呂の孫。三河守・藤原園主の子。官位は従四位下・近江権守。.
藤原貞敏
藤原 貞敏(ふじわら の さだとし)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。藤原京家、刑部卿・藤原継彦の六男。官位は従五位上・掃部頭。.
藤原麻呂
藤原 麻呂(ふじわら の まろ)は、奈良時代の公卿。名は万里とも記される。右大臣・藤原不比等の四男で、藤原四兄弟の末弟。官位は従三位・参議。藤原京家の祖。.
藤原関雄
藤原 関雄(ふじわら の せきお)は、平安時代初期の貴族・文人。藤原北家、参議・藤原真夏の五男。官位は従五位下・治部少輔。.
藤原葛野麻呂
藤原 葛野麻呂(ふじわら の かどのまろ)は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿。藤原北家、大納言・藤原小黒麻呂の長男。官位は正三位・中納言。.
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藤原蔵下麻呂
藤原 蔵下麻呂(ふじわら の くらじまろ)は、奈良時代の公卿。藤原式家の祖である、参議・藤原宇合の九男。官位は従三位・参議。.
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藤原長良
藤原 長良(ふじわら の ながら/ながよし)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の長男。官位は従二位・権中納言、贈正一位、太政大臣。陽成天皇の外祖父にあたる。.
藤原長方
藤原 長方(ふじわら の ながかた)は、平安時代末期の公卿・歌人。父は権中納言・藤原顕長(「夜の関白」藤原顕隆の子)。また母は藤原俊忠女であるため、藤原俊成の甥、藤原定家の従兄に当たる。.
藤原良仁
藤原 良仁(ふじわら の よしひと)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の七男。官位は従四位下・中宮大夫。.
藤原良縄
藤原 良縄(ふじわら の よしただ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。藤原北家、備前守・藤原大津の長男。官位は正四位下・参議。.
藤原良相
藤原 良相(ふじわら の よしみ/よしあう)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の五男。官位は正二位・右大臣、贈正一位。西三条大臣と号す。文徳天皇の外叔父。.
藤原良近
藤原 良近(ふじわら の よしちか/まさちか)は、平安時代前期の貴族。藤原式家、中納言・藤原吉野の四男。官位は従四位下・神祇伯。.
藤原良房
東三条殿跡・藤原良房が創設、京都市中京区押小路通釜座西北角 藤原 良房(ふじわら の よしふさ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の次男。官位は従一位・摂政太政大臣、贈正一位。染殿、白河殿と称される。漢風諡号は忠仁公 、国公は美濃公。 皇族以外の人臣として初めて摂政の座に就いた。また、藤原北家全盛の礎を築いた存在であり、良房の子孫達は相次いで摂関となった。.
藤原通俊
藤原 通俊(ふじわら の みちとし)は、平安時代後期の公家・歌人。従三位大宰大弐・藤原経平の次男。.
藤原松影
藤原 松影(ふじわら の まつかげ)は、平安時代初期の貴族。藤原北家魚名流、刑部少輔・藤原星雄の子。官位は従五位下・山城守。.
藤原正家
藤原 正家(ふじわら の まさいえ、万寿3年(1026年) - 天永2年10月12日(1111年11月14日))は、平安時代後期の貴族・学者。藤原北家真夏流、式部権大輔・藤原家経の子。官位は正四位下・右大弁。.
藤原武智麻呂
藤原 武智麻呂(ふじわら の むちまろ)は、飛鳥時代から奈良時代前期にかけての貴族。藤原不比等の長男。藤原南家の祖。官位は正一位・左大臣、贈太政大臣。.
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藤原永手
藤原 永手(ふじわら の ながて)は、奈良時代の公卿。藤原北家、参議・藤原房前の次男。官位は正一位・左大臣、贈太政大臣。長岡大臣と称する。.
藤原清輔
藤原 清輔(ふじわら の きよすけ)は、平安時代末期の公家・歌人。藤原北家末茂流、左京大夫・藤原顕輔の次男。官位は正四位下・太皇太后宮大進。初名は隆長。六条を号す。六条藤家3代。.
藤原清河
藤原 清河(ふじわら の きよかわ)は、奈良時代の公卿。藤原北家の祖である参議・藤原房前の四男。唐名は河清かせい。官位は従三位・参議、贈従一品。 遣唐大使として入唐し、阿倍仲麻呂と唐朝に仕えたが、暴風や安史の乱により日本への帰国は叶わず、在唐のまま死去した。.
藤原朝俊
藤原 朝俊(ふじわら の ともとし、生年未詳 - 承久3年6月14日(1221年7月5日))は、鎌倉時代初期の廷臣。藤原北家勧修寺流、侍従藤原朝経の子(またはその兄朝定の子とも)。権大納言藤原朝方は祖父。母は中納言藤原親信の娘。常陸介、右衛門佐。 後鳥羽上皇、順徳天皇の近臣として仕える。承応2年(1208年)に鳩を取るために朱雀門に昇り、その火が延焼して門が炎上した記事が『明月記』に見えるが、その際「ただ弓馬相撲をもって芸となす。殊に近臣なり」と紹介されており、武芸の才をもって重用されていたことがうかがわれる。 承久3年(1221年)の承久の乱においては、後鳥羽上皇の討幕計画に参加。 高倉範茂らとともに宇治方面の防衛に当たるが、宇治川の戦いにおいて鎌倉幕府軍と衝突。八田知尚や佐々木高重ら諸将とともに奮戦するが、乱戦の中で三浦義村の郎党・小河経村によって討ち取られた。『六代勝事記』においてはその果敢な戦いぶりを賞賛されている。.
藤原成範
藤原 成範(ふじわら の しげのり)は、平安時代末期の公卿。初名は成憲。藤原南家、少納言・藤原通憲(信西)の三男。官位は正二位・中納言。桜町中納言と号す。.
藤原成通
藤原 成通(ふじわら の なりみち、承徳元年(1097年) - 応保2年(1162年))は、平安時代後期の公卿。権大納言・藤原宗通の四男。初名・宗房。法名・栖蓮。正二位・大納言。蹴鞠・今様の達人として知られ、特に前者においては後世まで「蹴聖」と呼ばれて、長く蹴鞠の手本とされた。.
藤原房前
藤原 房前(ふじわら の ふささき)は、飛鳥時代から奈良時代前期にかけての貴族。藤原不比等を父とする藤原四兄弟の次男で藤原北家の祖。官位は正三位・参議。贈正一位・太政大臣。.
藤原春津
藤原 春津(ふじわら の はるつ)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。藤原式家、左大臣・藤原緒嗣の次男。官位は従四位上・刑部卿。.
藤原是公
藤原 是公(ふじわら の これきみ)は、奈良時代後期の公卿。初名は黒麻呂。藤原南家、武部卿・藤原乙麻呂の長男。官位は従二位・右大臣、贈従一位。牛屋大臣と称された。.
藤原斉信
藤原 斉信(ふじわら の ただのぶ)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、太政大臣・藤原為光の次男。官位は正二位・大納言。四納言の一人。.
藤原政則
藤原 政則(ふじわら の まさのり)は、平安時代中期から後期の武将。藤原経輔の子、あるいは経輔の父隆家の子ともされている。菊池氏の祖菊池則隆の父。.
藤原敦光
藤原 敦光(ふじわら の あつみつ)は、平安時代後期の貴族・文人・儒学者。藤原式家、右京大夫・藤原明衡の子。官位は正四位下・式部大輔。.
葛原親王
葛原親王(かずらわらしんのう、延暦5年11月7日(786年12月1日) - 仁寿3年6月4日(853年7月13日))は、平安時代初期の皇族。桓武天皇の第三皇子。官位は一品・大宰帥。桓武平氏の祖。.
葛野王
葛野王(かどののおう/かどののおおきみ、天智天皇8年(669年) - 慶雲2年12月20日(706年1月9日))は、飛鳥時代の皇族。弘文天皇(大友皇子)の第一皇子。孫に淡海三船がいる。官位は正四位上・式部卿。.
那須与一
那須 与一(なす の よいち)は、平安時代末期の武将・御家人。系図上は那須氏二代当主と伝えられる。一般的に宗隆と紹介されることも多いが、家督を相続した後は資隆と名乗ったと伝えられる(この項目での呼称は「与一」で統一する)。.
肖像
肖像(しょうぞう)とは、特定の人間の外観を表現した絵画や写真、彫刻である。それぞれ肖像画(絵画)、肖像写真(写真)、肖像彫刻と呼ばれる。肖似性(類似)が求められる場合もあれば、理想化が求められる場合もある。芸術的な造形や精神性を示すこともある。.
脇屋義助
脇屋 義助(わきや よしすけ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期の武将。新田朝氏の次男。新田義貞の弟。兄 義貞に従い鎌倉幕府の倒幕に寄与するとともに、兄の死後は南朝軍の大将の一人として北陸・四国を転戦した。.
脇屋義治
脇屋 義治(わきや よしはる)は、南北朝時代の武将。脇屋義助の子。新田義貞の甥。.
野見宿禰
野見宿禰像(荒川亀斎作) 野見宿禰(のみのすくね)は、土師氏の祖として『日本書紀』などに登場する人物である。阿陀勝、来日田維穂命の父。.
里見時成
里見 時成(さとみ ときなり、生年不明 - 延元2年/建武4年1月12日(1337年2月13日))は、日本の鎌倉時代から南北朝時代にかけての武士。伊賀守。 時成は新田氏庶宗家の里見氏の流れを汲み、その中でも越後新田党を形成した越後里見氏の出身。 元弘3年/正慶2年(1333年)5月、上野で挙兵した新田義貞の元に参陣し義貞の鎌倉攻めに従軍する。以後も義貞に従い、建武の中興後の建武2年(1335年)11月、足利尊氏追討軍に従軍した。 延元元年/建武3年(1336年)から延元2年/建武4年(1337年)にかけて起こった金ヶ崎の戦いでは、瓜生保・義鑑坊兄弟と共に義貞の甥脇屋義治から5千の兵を授けられ、金ヶ崎城に籠る義貞の救援へ向かうが、延元2年/建武4年1月12日、この動きを察知した今川頼貞に急襲され討たれた。 敦賀市金ヶ崎町の絹掛神社に、義貞の子義顕、瓜生保、由良具滋、気比氏治らと共に合祀されている。.
金子家忠
金子 家忠(かねこ いえただ)は、平安時代末期・鎌倉時代初期の武蔵国入間郡の武将である。武蔵七党村山党・金子氏の一族。父は金子家範。兄弟に金子親範がいる。.
金刺盛澄
諏訪盛澄(金刺盛澄)/江戸時代『前賢故実』より。菊池容斎画 金刺 盛澄(かなさし の もりずみ、生没年未詳)は、平安時代後期の諏訪大社下宮の神官・武士。諏訪盛澄とも呼ばれる。弟に手塚光盛がいる。.
長崎高重
長崎 高重(ながさき たかしげ、生年不詳 - 元弘3年/正慶2年5月22日(1333年7月4日))は、鎌倉時代後期の武将で、北条氏得宗家の被官(御内人)。内管領・長崎高資の嫡男。通称は二郎。諱「高重」の「高」の字は主君である北条高時の偏諱とみられる。.
長谷部信連
長谷部 信連(はせべ のぶつら)は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。右馬允・長谷部為連の子。長氏の祖。.
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良岑安世
良岑 安世(よしみね の やすよ)は、平安時代初期の皇族・貴族。桓武天皇の皇子。官位は正三位・大納言、贈従二位。.
良忠 (二条家)
良忠(りょうちゅう、生年未詳 - 建武元年(1334年)12月?)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての天台宗の僧。一般的には「殿法印」(とののほういん、表記は「殿ノ法印」「殿の法印」とも)の呼び名の方が有名である。.
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難波日香蚊
難波 日香蚊(なにわ の ひかか、生年不明 - 推定454年(安康天皇元年2月))は『日本書紀』などに伝わる古代日本の豪族。姓は吉士。『古事記』には彼に関する記載は存在しない。名は 日香香とも記される。.
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集古十種
集古十種(しゅうこじっしゅ)は、江戸時代に刊行された古美術の木版図録集(目録)。.
考証
考証(こうしょう)とは、伝承や二次資料などにより広く一般に知られている事件や出来事について、その客観的な証拠となりうる古い文献や器物を入念に調査することにより、その事件は実際にはどのようにして起きたどんな事件だったのか、その出来事とは実は何だったのかを明らかにすること。類義語に実証(じっしょう)、論証(ろんしょう)。.
柿本人麻呂
柿本人麻呂(百人一首より) 柿本人麻呂(かきのもと の ひとまろ、斉明天皇6年(660年)頃 - 神亀元年(724年)3月18日)は、飛鳥時代の歌人。名は「人麿」とも表記される。後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。.
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恒貞親王
恒貞親王(つねさだしんのう、天長2年(825年) - 元慶8年9月20日(884年10月12日))は、平安時代前期の皇族。淳和天皇の第二皇子。仁明天皇の皇太子(のち廃される)。品位は三品。異称は亭子親王。法名は恒寂。.
捕鳥部万
捕鳥部 万(ととりべ の よろず、生年不詳 - 用明天皇2年(587年)7月)は、飛鳥時代の武人。姓はなし。.
東久世通禧
東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ、天保4年11月22日(1834年1月1日) - 明治45年(1912年)1月4日『平成新修旧華族家系大成』下、384-385頁。)は、日本の江戸時代末期から明治時代にかけての公家、政治家。 七卿落ちで長州に逃れた尊王攘夷派公卿の1人。王政復古後は外国事務総督を務め、発足したばかりの新政府の外交折衝にあたる。神奈川府知事、開拓長官、侍従長などの要職を歴任し、後に貴族院副議長・枢密院副議長に至った。華族(伯爵)。号は竹亭、古帆軒。.
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東京国立博物館
東京国立博物館(とうきょうこくりつはくぶつかん)は、日本と東洋の文化財(美術品、考古遺物など)の収集保管、展示公開、調査研究、普及などを目的として独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館である。館長は銭谷真美。 1872年(明治5年)に創設された、日本最古の博物館である。東京都台東区の上野恩賜公園内にある。本館、表慶館、 東洋館、平成館、法隆寺宝物館の5つの展示館と資料館その他の施設からなる。2017年3月31日時点で、国宝88件、重要文化財636件を含む収蔵品の総数は117,190件(2017年11月時点では国宝89件、重文640件)。これとは別に、国宝55件、重要文化財258件を含む総数3,075件の寄託品を収蔵している。2017年度の陳列総件数は約7,200件。2016年度の来館者数は約191万人である。.
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松下禅尼
松下禅尼(江戸時代菊池容斎画) 松下禅尼(まつしたぜんに、生没年未詳)は鎌倉時代中期の女性。鎌倉幕府の御家人・安達景盛の娘 高橋慎一朗 著『人物叢書‐北条時頼』吉川弘文館、2013年、p.2。北条時氏の正室。鎌倉幕府の第4代執権・北条経時、第5代執権・北条時頼の母。子は他に時定(為時)、檜皮姫、女子(北条時定 (時房流)室)など。.
松本楓湖
松本 楓湖(まつもと ふうこ、天保11年9月14日(1840年10月9日) - 大正12年(1923年)6月22日)は幕末から大正時代の日本画家である。.
村上義光
村上 義光(むらかみ よしてる、生年不詳 - 元弘3年/正慶2年1月18日(1333年2月3日)/閏2月1日(3月17日))は、鎌倉時代末期の武将。村上信泰の子。兄弟に国信、信貞らがあり、子に朝日、義隆らがある。官位は従五位下、右馬権頭。通称は彦四郎。諱は義日とも記される。大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)の忠臣として知られる。.
村国男依
村国 男依(むらくに の おより、? - 天武天皇5年(676年)7月)は、日本の飛鳥時代の人物である。名は雄依、小依とも書く。姓は連。子に村国志我麻呂がいる。冠位は贈外小紫。 672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)に属して戦い、近江方面の諸将の筆頭として連戦連勝し、最大の功を立てた。.
栗生顕友
栗生 顕友(くりゅう あきとも、生没年不明)は、南北朝時代の南朝方の武将。通称は左衛門。新田義貞の側近で、後代に新田四天王の一人に数えられた。 栗生氏は清和源氏の一族河内源氏・足利氏庶流の源姓畠山氏の流れを汲む。 本名 栗生左衛門頼方 上野出身。義貞の側近として仕えた。建武の新政後の建武3年(1336年)、恒良親王や尊良親王を奉じ北国へ向かった義貞に従う。『太平記』によると、越前金ヶ崎城を包囲する北朝方の軍勢を、顕友の進言した策を以て欺き、義貞の金ヶ崎城入城に成功したとされる。.
桜山茲俊
桜山 茲俊(さくらやま これとし、生年不詳 - 元弘2年1月21日(1332年2月17日))は鎌倉時代末期の武将。 通称は四郎。元弘の乱の際、楠木正成の挙兵に呼応する形で備後国一ノ宮にて挙兵し、一時は破竹の勢いを示すも、笠置山の戦いにおける官軍敗戦の報に部下は四散し、桜山軍は弱体化。吉備津宮で妻子を殺害後、一族郎党と共に自刃した。.
梶原景季
梶原 景季(かじわら かげすえ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。梶原景時の嫡男。梶原源太景季とも。 源頼朝に臣従し、治承・寿永の乱で活躍。父とともに鎌倉幕府の有力御家人となるが、頼朝の死後に没落して滅ぼされた。.
梶田半古
梶田 半古(かじた はんこ、明治3年6月25日〈1870年7月23日〉 - 大正6年〈1917年〉4月23日)とは、明治時代から大正時代にかけての日本画家。本名は錠次郎(ていじろう)。初め英洲と号す。二度目の妻は尾崎紅葉門下の閨秀作家北田薄氷。.
椎根津彦
椎根津彦(しいねつひこ、『日本書紀』)、槁根津日子(さおねつひこ、『古事記』)、または珍彦(うずひこ)は、記紀に登場する国つ神。神武東征において登場する。倭国造(倭直部)の祖。.
楠木正儀
楠木 正儀(くすのき まさのり)は、南北朝時代の武将。南朝の有力武将楠木正成の三男。楠木正行、正時の弟。.
楠木正元
楠木 正元(くすのき まさもと、生年不詳 - 1392年)は室町時代の武将。楠木正成の孫で楠木正儀の子とされる。 1392年、畠山基国が率いる室町幕府軍によって本拠千早城が落とされた後、将軍足利義満の暗殺をたくらみ逆転を狙ったが、失敗して翌日に処刑された。 正元の子孫は河内氏として河内国、その後紀伊国に本拠を置いた。 まさもと category:室町時代の人物 category:1392年没.
楠木正勝
楠木 正勝(くすのき まさかつ、生没年不詳)は南北朝時代の武将。正能とも。官名は右馬頭か。楠木正儀の子で、楠木正成の孫にあたる。正秀、正元、正則、津田正信らの兄。子に伊勢楠木氏の祖となる正顯(正盛)、また盛信などの名が伝わっている。正秀を弟ではなく子とする説もある。北朝、室町幕府に徹底抗戦した。.
楠木正行
楠木 正行(くすのき まさつら)は、南北朝時代の武将。楠木正成の嫡男。「大楠公」と尊称された正成に対して「小楠公(しょうなんこう)」と呼ばれる。初名は正之(まさより、まさこれ)と伝わる。父の意志を継ぎ、足利尊氏と戦った。.
楠木正成
楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。父は楠木正遠とされる。息子に正行、正時、正儀がいる。 後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の新政の立役者として足利尊氏らとともに天皇を助けた。尊氏の反抗後は新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。 明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。.
橘安麻呂
橘 安麻呂(たちばな の やすまろ、天平11年(739年) - 弘仁12年7月11日(821年8月12日))は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。参議・橘奈良麻呂の長男。母は従三位・大原明娘。官位は正四位上・播磨守。.
橘広相
橘 広相(たちばな の ひろみ、承和4年(837年) - 寛平2年5月16日(890年6月10日))は、平安時代前期の公卿・学者。初名は博覧。橘氏長者、若狭守・橘峯範の次男。官位は正四位上・参議、贈従三位・中納言。.
橘諸兄
橘 諸兄(たちばな の もろえ)は、奈良時代の皇族・公卿。初名は葛城王(葛木王)で、臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となる。敏達天皇の後裔で、大宰帥・美努王の子。母は橘三千代で、光明子(光明皇后)は異父妹にあたる。官位は正一位・左大臣。井手左大臣または西院大臣と号する。初代橘氏長者。.
橘良基
橘 良基(たちばな の よしもと、天長2年(825年) - 仁和3年6月8日(887年7月2日))は、平安時代前期の貴族。参議・橘常主の孫。摂津守・橘安吉雄の子。官位は従四位下・信濃守。.
橘正通
橘 正通(たちばな の まさみち、生没年不詳)は、平安時代中期の歌人、漢詩人。右大臣・橘氏公の玄孫『尊卑分脈』である大舎人頭・橘実利の子。官位は正四位下・宮内卿。 大学寮にて学び、源順に師事する。加賀掾・宮内少丞を歴任。具平親王の侍読を務め、門下に紀斉名らを育てた。 『本朝神仙伝』によると、晩年は高麗へと渡ったという。天禄3年(972年)の「女四宮歌合」などへの出詠が知られ、『詞花和歌集』『本朝文粋』『類聚句題抄』『善秀才宅詩合』などにその詩作が残っている。.
橋本雅邦
橋本 雅邦(はしもと がほう、男性、天保6年7月27日(1835年8月21日) - 明治41年(1908年)1月13日)は、明治期の日本画家。本名は長郷。幼名は千太郎。号は勝園。別号に、十雁斎、克己斎、酔月画生など。.
檜垣嫗
檜垣嫗(桧垣媼、ひがきのおうな)は生没年不詳、平安時代中期(10世紀)の女性歌人。様々な伝説に包まれ、その正体は詳らかでない。『檜垣嫗集』は、歌物語風に仕立てられた家集である。ただし、檜垣の歌と認められているものは3首のみであり、同書は後人による仮託の書であることが定説となっている。 『後撰和歌集・巻第十七・雑三』、1219番の詞書と付記によれば、筑紫の白河という所に住んでいた「名高く、事好む女」で、大宰大弐・藤原興範(844年 - 917年)に水を汲むよう乞われると、「年ふればわが黒髪も白河の みづはくむまで老いにけるかも」と詠んだという。この歌は零落した身の上を詠んだものだが、歌を詠みかけた相手が、家集では肥後守・清原元輔(908年 - 990年)、『大和物語』では藤原純友の乱の追捕使・小野好古(884年 - 968年)となっており、歌の本文も、.
武内宿禰
武内宿禰(たけしうちのすくね/たけうちのすくね読みに関しては、「タケシ(猛し)」はク活用であるため、「タケウチ」としか読めないとする指摘がある。なお、弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)の「ウマシ」はク活用・シク活用の両用があるため、「ウマシウチ」と読みうる (『新編日本古典文学全集 1 古事記』小学館、2004年(ジャパンナレッジ版)、p. 173)。/たけのうちのすくね、景行天皇14年 - 没年不詳)は、記紀に伝わる古代日本の人物。 『日本書紀』では「武内宿禰」、『古事記』では「建内宿禰」、他文献では「建内足尼」とも表記される。「宿禰」は尊称で、名称は「勇猛な、内廷の宿禰」の意とされる。 景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣である。紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる。.
武田信義
武田 信義(たけだ のぶよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。源清光の次男。逸見光長は双子の兄になる(一説に逸見光長とは異母兄弟)。甲斐源氏4代当主であり、武田氏の初代当主である。.
武蔵坊弁慶
『和漢英勇画伝』より「義経 弁慶と五条の橋で戦ふ」(歌川国芳画)五条大橋での戦いを描いた江戸時代の浮世絵 武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい、武藏坊辨慶、? - 文治5年閏4月30日〈1189年6月15日〉?)は、平安時代末期の僧衆(僧兵)。源義経の郎党。 『義経記』では熊野別当の子で、紀伊国出身だと言われるが詳細は不明。元は比叡山の僧で武術を好み、五条の大橋で義経と出会って以来、郎党として彼に最後まで仕えたとされる。講談などでは、義経に仕える怪力無双の荒法師として名高く、ほか創作の世界でも義経と並んで主役格の人気があり、怪力の者や豪傑の代名詞としても広く用いられている。.
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歴史画
歴史画(れきしが)とは、西洋絵画においては歴史上の事件や神話・宗教に取材した絵画を指す。歴史画を厳密に歴史上の一事件を描いたものと捉え、宗教画・神話画とは区分することもある。西洋画のヒエラルキーの中では、宗教画・神話画も含めた歴史画は、肖像画・風俗画・静物画・風景画をおさえて、もっとも評価されるものとして君臨した。.
歴史書
歴史書(れきししょ)とは歴史を記述した書物のことである。 歴史書を記述するのは目的意識を持った、そして多くの場合職業的な歴史家である。執筆の目的は歴史そのものへの興味、過去を後世に伝えるため、独自の史観を表現するためなどさまざまである。為政者の支配の正統性を主張するなど、政治的動機による場合も多い。 時系列に従って事件が記述される。記述される内容は政治史・軍事史を主とすることが多い。基本的なスタイルとして、事項が時系列順に並べられたもの(編年体)と重要な個人の事績を追って記述するもの(紀伝体)の2つがある。 歴史書を記述する歴史家は既存の史料を収集・比較・批判し、ある基準によって取捨選択を行う。この作業がなされない場合は歴史書とは言えず単なる記述にとどまる。また、歴史家の想像はできる限り排除される。想像が勝つ場合は歴史文学となる。例えば『三国志演義』など。 原理的に歴史書は二次史料以下の史料となるが当時の史料が失われていることも多く、その場合一次史料並みの扱いを受けることもある。 上記の例外として、歴史記述を目的としたわけではない重要事件の記録がのちに歴史書と見なされることも多い。ガイウス・ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』などは、その顕著な例である。.
水野年方
水野 年方(みずの としかた、慶応2年1月20日(1866年3月6日) - 明治41年(1908年)4月7日)は、 明治時代の浮世絵師、日本画家。.
江戸時代
江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.
池田春野
池田 春野(いけだ の はるの、天平宝字元年(757年) - 承和5年3月8日(838年4月5日)は、奈良時代から平安時代初期の貴族。姓は朝臣。官位は従四位下・掃部頭。.
河野通信
河野 通信(こうの みちのぶ/かわの みちのぶ)は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての伊予国の武将。河野通清の子。伊予水軍の将。一遍の祖父にあたる。.
洞院実世
洞院 実世(とういん さねよ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿。太政大臣洞院公賢の子にして、実夏の庶兄に当たる。北畠親房・四条隆資・二条師基とともに、南朝の重鎮として政務を指導した公家大将である。.
洞院公賢
洞院 公賢(とういん きんかた、正応4年8月(1291年) - 延文5年/正平15年4月6日(1360年4月21日))は、南北朝時代の公家。正式な名乗りは藤原公賢。父は左大臣洞院実泰。母は実泰の叔父にあたる小倉公雄の娘・季子。洞院家は藤原氏北家閑院流西園寺家の庶流。通称は中園相国。出家して空元。また遍昭光院とも称された。.
洋画
日本において、洋画(ようが)とは、.
淡海三船
淡海 三船(おうみ の みふね、養老6年(722年) - 延暦4年7月17日(785年8月26日))は、奈良時代後期の皇族・貴族・文人。はじめ御船王を名乗るが、臣籍降下し淡海真人姓となる。大友皇子の曽孫。式部卿・葛野王の孫、内匠頭・池辺王の子。官位は従四位下・刑部卿。勲等は勲三等。.
渡辺競
渡辺 競(わたなべ きおう/きそう)は、平安時代末期の武将。源頼政の家臣。.
渡辺省亭
渡辺 省亭(わたなべ せいてい、嘉永4年12月27日(1852年1月18日) - 大正7年(1918年)4月2日)は、明治時代から大正時代にかけての日本画家。洋風表現を取り入れた、洒脱な花鳥画を得意とした。.
渡里忠景
渡里 忠景(わたり ただかげ、生没年不明)は、日本の鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将。通称は新左衛門、藤左衛門。姓は度里、亘理とも。後に姓を先祖の鳥居へ復した。父は渡里忠吉。子に鳥居重政。 忠景より九代前の渡里氏・鳥居氏の祖である熊野新宮第19代別当行範(重氏)は紀伊熊野権現神職の家系であった。行範は平清盛から平氏姓を賜り平氏を称し、通称「鳥居法眼」と呼ばれた。行範の子・行忠は承久3年(1221年)の承久の乱後に、三河矢作庄へ移り土着し名も渡里忠氏と改めた。 南北朝の動乱の中、三河渡里を本拠としていた忠景は南朝方の新田義貞に従った。忠景は大力で弓にも秀でていたが、延元3年/建武5年(1338年)に義貞が越前藤島の燈明寺畷で戦死すると(藤島の戦い)、渡利村へ帰還し鳥居藤左衛門と名を改めた。 子孫に鳥居忠吉や元忠がいる。.
清原夏野
清原 夏野(きよはら の なつの)は、平安時代初期の宗室・貴族・政治家。舎人親王の孫である内膳正・小倉王の五男。.
清原頼業
清原 頼業(きよはら の よりなり)は、平安時代末期の貴族・儒学者。元の名は顕長のち頼滋。大外記兼助教・清原祐隆の子。官位は正五位上・大外記。死後、車折明神として祀られた。.
清原武則
清原 武則(きよはら の たけのり、生没年不詳)は、平安時代中期の武将。出羽の豪族、兵部大輔清原光方「清原系図」(『続群書類従』巻第173所収) の子(平安忠「桓武平氏諸流系図」(中条家文書)所収、野口実「平安期における奥羽諸勢力と鎮守府将軍」『古代世界の諸相』1993年・清原武頼の子ともいう)。官位は鎮守府将軍従五位下。.
清原滝雄
清原 滝雄(きよはら の たきお、延暦18年(799年) - 貞観5年1月11日(863年2月2日))は、平安時代初期から前期にかけての貴族。右大臣・清原夏野の次男。官位は従四位上・中務大輔。.
清少納言
清少納言(せいしょうなごん-->、康保3年頃〈966年頃〉 - 万寿2年頃〈1025年頃〉)は、平安時代中期の女流作家、歌人。随筆『枕草子』は平安文学の代表作の一つ。.
源博雅
源 博雅(みなもと の ひろまさ)は、平安時代中期の公卿・雅楽家。醍醐天皇の孫。兵部卿・克明親王の長男。官位は従三位・皇后宮権大夫。博雅三位(はくがのさんみ)、長秋卿と呼ばれる。管弦の名手。.
源師頼
源 師頼(みなもと の もろより、治暦4年(1068年) - 保延5年12月4日(1139年12月26日))は、平安時代後期の公卿・歌人。村上源氏、左大臣・源俊房の嫡男。修理大夫・橘俊綱の養子。官位は正二位・大納言。小野宮大納言と号す。.
源師房
源 師房(みなもと の もろふさ)は、平安時代中期の公卿・歌人。村上源氏中院流の祖。村上天皇の皇子具平親王の子。従一位・右大臣。土御門右大臣と号した。幼名は万寿宮。.
源常
源 常(みなもと の ときわ)は、平安時代初期の公卿。嵯峨天皇の子(嵯峨第三源氏)。官位は正二位・左大臣、贈正一位。東三条左大臣とも呼ばれる。.
源仲頼
源 仲頼(みなもと の なかより、生没年不詳)は、平安時代末期の貴族。卜部兼仲の子で源資遠の養子。従五位下筑後守。 鳥羽法皇・後白河法皇の北面武士として活躍し、保元2年(1157年)に左衛門少尉となり、承安年間には検非違使となる。『尊卑分脈』の柱には平清盛の訴えで讃岐国に配流されたと記されている。記録上の裏付けは取れないものの、院近臣として反平家活動に加担していた可能性は否定できない。その後、源頼朝にも接近し、文治元年(1185年)の勝長寿院供養に参列して鎌倉幕府の御家人として認識されている。この頃、叙爵を受け(『玉葉』文治2年10月20日条)、建久年間に筑後守に任ぜられた。『千載和歌集』に2首採録されるなど、歌人としても知られた。.
源延光
源 延光(みなもと の のぶみつ)は平安時代中期の公卿、歌人。代明親王の第3王子。枇杷大納言と号す。.
源弘
源 弘(みなもと の ひろむ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。嵯峨天皇の皇子(第二源氏)。官位は正三位・大納言。広幡大納言と号す。.
源俊頼
源 俊頼(みなもと の としより、天喜3年(1055年) - 大治4年1月1日(1129年1月22日))は、平安時代後期の官人・歌人。宇多源氏。大納言・源経信の三男。官位は従四位上・木工頭。.
源俊賢
源 俊賢(みなもと の としかた)は平安時代中期の廷臣。西宮左大臣源高明の三男。藤原公任、同斉信、同行成と並んで一条朝の四納言と呼ばれ、摂関政治の一角を担う能吏として知られた。.
源俊明
源 俊明(みなもと の としあき、寛徳元年(1044年) - 永久2年12月2日(1114年12月30日))は平安後期の公卿。醍醐源氏で、源隆国(宇治大納言)の三男。官位は正二位大納言。 祖父・源俊賢以来、3代続けて大納言の顕官に至った。『古事談』などに能吏としての逸話を残す一方、『続後撰和歌集』『続拾遺和歌集』等の勅撰和歌集に和歌が入集している。.
源信 (公卿)
源 信(みなもと の まこと、弘仁元年(810年) - 貞観10年閏12月28日(869年2月13日))は、平安時代前期の公卿。嵯峨天皇の七男(第一源氏)。官位は正二位・左大臣、贈正一位。初代源氏長者。北辺大臣と号した。.
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源範頼
源 範頼(みなもと の のりより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。 遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため、とも呼ばれる。その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経と共にこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。その後も源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ伊豆国に流された。 武蔵国横見郡吉見(現在の埼玉県比企郡吉見町)のあたりを領して吉見御所と尊称された。.
源義家
源 義家(みなもと の よしいえ)は、平安時代後期の武将。伊予守・源頼義の長男。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる。 比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となった時、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約10年間は閉塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された。 その活動時期は摂関政治から院政に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。このため歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ、後三年の役の朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な憶測がされてきた。生前の極位は正四位下。.
源義平
源 義平(みなもと の よしひら)は、平安時代末期の武将。源義朝の庶子で長男。通称は鎌倉悪源太(悪源太、鎌倉源太とも)。母は京都郊外の橋本の遊女または三浦義明の娘であり、源頼朝・義経らの異母兄にあたる。.
源義経
源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。 河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名をと呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。 その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき判官とは義経が後白河法皇より任じられた左衛門尉・検非違使を兼ねた官職名。通常は「はんがん」だが、『義経』の伝説や歌舞伎などでは「ほうがん」と読む。)という言葉を始め、多くの伝説、物語を生んだ。.
源義重
源 義重(みなもと の よししげ / 新田 義重 にった よししげ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。新田氏の祖。武家の棟梁として名を馳せた八幡太郎義家の孫。新田氏本宗家(上野源氏)の初代であり、上野国新田荘を本拠としたため新田義重と称する。.
源経基
源 経基(みなもと の つねもと、源 經基)は、平安時代中期の皇族・武将。経基流清和源氏の初代。 『保元物語』によれば、父は清和天皇の第 6皇子・貞純親王で、母は右大臣・源能有の娘。皇族に籍していたとき「六孫王」と名乗ったとされるが、当時の文献には見られない。居館は六宮とも八条御所ともいう。.
源経信
源 経信(みなもと の つねのぶ)は、平安時代後期の公家・歌人。宇多源氏、権中納言・源道方の六男。官位は正二位・大納言。桂大納言と号す。小倉百人一首では大納言経信。.
源経成
源 経成(みなもと の つねなり)は、日本の平安時代の公卿。.
源為朝
源 為朝(みなもと の ためとも、旧字体:爲朝)は、平安時代末期の武将。源為義の八男。母は摂津国江口(現・大阪市東淀川区江口)の遊女。源頼朝、義経兄弟の叔父にあたる。 身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛弓の使い手で剛勇無双を謳われた。生まれつき乱暴者で父の為義に持てあまされ、九州に追放されたが手下を集めて暴れまわり、一帯を制覇して鎮西八郎を名乗る。保元の乱では父とともに崇徳上皇方に参加し、強弓と特製の太矢で大いに奮戦するが敗れ、伊豆大島へ流される。しかしそこでも国司に従わず、大暴れして伊豆諸島を事実上支配したので、追討を受け自害した。.
源為憲
源 為憲(みなもと の ためのり、生年不詳 - 寛弘8年(1011年)8月)は、平安時代中期の官人・文学者・漢詩人。光孝源氏で筑前守・源忠幹の子。字は源澄。官位は正五位下・美濃守。 文章生から内記・蔵人・式部丞や、三河権守・伊賀守・美濃守・遠江守などの地方官を歴任した。 『北山抄』『吏途指南(りとしなん)』に遠江守在任時の功過定のことがみえる。源順に師事し、文章・漢詩・和歌に秀で、『本朝文粋』に受領申文を載せ、『本朝麗藻』『類聚句題抄』などに漢詩作品を、『拾遺和歌集』(1首)に和歌作品を残している。そのほか『口遊(くちずさみ)』『世俗諺文』などの教養書も撰している。また仏教にも造詣が深く、『三宝絵詞』『空也誄(くうやるい)』などを撰している。 Category:平安時代の歌人 Category:平安時代の漢学者 Category:10世紀の学者 Category:11世紀の学者 ためのり Category:生年不明 Category:1011年没.
源隆俊
源隆俊(みなもと の たかとし)は、日本の平安時代の公卿。.
源隆国
源 隆国(みなもと の たかくに)は、平安時代後期の公卿。醍醐源氏、大納言源俊賢の子。幼名は宗国。官位は正二位権大納言。宇治大納言と称された。.
源隆綱 (醍醐源氏)
源隆綱(みなもと の たかつな)は、日本の平安時代中期から後期にかけての公卿。.
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源融
源 融(みなもと の とおる)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。嵯峨天皇の皇子(嵯峨第十二源氏)。嵯峨源氏融流初代。.
源頼信
源 頼信(みなもと の よりのぶ)は、平安時代中期の武将。摂津国多田現・兵庫県川西市多田。の地に源氏武士団を形成した源満仲の三男。河内国石川郡壺井現・大阪府羽曳野市壺井。を本拠地とする河内源氏の祖。.
源頼光
源 頼光(みなもと の よりみつ)は、平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍・源満仲、母は嵯峨源氏の近江守・源俊の娘。諱はしばしば「らいこう」と有職読みされる。 満仲の長子で清和源氏の3代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる。異母弟に大和源氏の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいる。.
源頼義
源 頼義(みなもと の よりよし)は、平安時代中期の武士。河内源氏初代棟梁・源頼信の嫡男で河内源氏2代目棟梁。.
源頼朝
源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.
源頼政
源 頼政(みなもと の よりまさ)は、平安時代末期の武将・公卿・歌人。兵庫頭源仲政の長男。朝廷で平家が専横を極める中、それまで正四位下を極位としていた清和源氏としては突出した従三位に叙せられたことから源三位(げんざんみ)と称された。また、父と同じく「馬場」を号とし馬場頼政(ばば の よりまさ)ともいう。 保元の乱と平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まった。平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列した。だが、平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えた。計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、そのまま平家の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れ自害した(以仁王の挙兵)。.
源順
源 順(みなもと の したごう、延喜11年(911年) - 永観元年(983年))は、平安時代中期の学者・歌人・貴族。嵯峨源氏、大納言・源定の曾孫。左馬允・源挙(みなもと の こぞる)の次男。官位は従五位上・能登守。.
源顕基
源 顕基(みなもと の あきもと)は平安時代中期の公卿。醍醐源氏、安和の変で失脚した源高明の孫で、権大納言・源俊賢の子。後一条天皇の側近として仕えた。.
源重成
源 重成(みなもと の しげなり)は、平安時代末期の武将。源重実の長男。八島重成とも。.
源雅定
源 雅定(みなもと の まささだ)は平安時代後期の公卿、歌人。中院右大臣と号す。右大臣、正二位、左近衛大将。源雅実の次男。.
源雅実
源 雅実(みなもと の まさざね)は、平安時代後期の公卿。源顕房の長男。久我家の祖。源氏初の太政大臣まで昇進したほか、舞楽や文学に長じた文化人としても名を残す。『久我相国記』を著す。.
源雅信
源 雅信(みなもと の まさざね、延喜20年(920年) - 正暦4年7月29日(ユリウス暦993年8月19日))は、平安時代中期の貴族。宇多天皇の皇子である敦実親王の三男で宇多源氏の祖。藤原氏全盛期を築いた藤原道長の正室である源倫子の父。従一位・左大臣。贈正一位。一条左大臣又は鷹司左大臣と号した。出家後の法名は覚実。.
源氏物語
土佐光起筆『源氏物語画帖』より「若紫」。飼っていた雀の子を逃がしてしまった幼い紫の上と、柴垣から隙見する源氏。 朝顔」。雪まろばしの状景。邸内にいるのは源氏と紫の上。 『源氏物語』(げんじものがたり)は、平安時代中期に成立した日本の長編物語、小説。文献初出は1008年(寛弘五年)。作者の紫式部にとって生涯で唯一の物語作品である物語の他には「紫式部日記」や和歌集の「紫式部集」があり「小倉百人一首」にも和歌が収められている(*)。後に、紫式部の「源氏物語」と「紫式部日記」の2作品は絵画化された。約150年後の平安時代末期に「源氏物語絵巻」、約200年後の鎌倉時代初期に「紫式部日記絵巻」が制作された。(*)「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」。主人公の光源氏を通して、恋愛、栄光と没落、政治的欲望と権力闘争など、平安時代の貴族社会を描いた上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。紫式部日記。。 下級貴族出身の紫式部は、20代後半で藤原宣孝と結婚し一女をもうけたが、結婚後3年ほどで夫と死別し、その現実を忘れるために物語を書き始めた。これが『源氏物語』の始まりである。最初は、当時紙が貴重で紙の提供者がいれば、その都度書き江戸時代の松永貞徳の源氏物語の写本全54冊(54帖)の1冊1冊の厚みが示すように、紫式部は当初多くの分量は書けず1冊(1帖)の厚みは薄いが、支援者の藤原道長により安定した紙の供給が行なわれて以降は34帖「若菜」のように1冊(1帖)の厚みが急激に増した。上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。(参考)『源氏物語』与謝野晶子訳、各帖の総ページ数より、1帖「桐壷」26、2帖「帚木」44、3帖「空蝉」12、そして、34帖「若菜」上192、下190。(角川文庫 1999年(平成11年)5月10日)所収、仲間内で批評し合うなどして楽しんでいたが紫式部日記より、当初、紫式部は仲間内で意見を言い合ったり手紙のやり取りで批評し合って楽しんでいたことから「最初は現代の同人誌のような楽しみ方だった」。上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。、その物語の評判から藤原道長が娘の中宮彰子の家庭教師として紫式部を呼んだ。それを機に宮中に上がった紫式部は宮仕えをしながら藤原道長の支援の下で物語を書き続け、54帖からなる『源氏物語』を完成させた中宮彰子は一条天皇の妻であったが、一条天皇のもう一人の妻であり後に亡くなった藤原定子の家庭教師は清少納言だった。なお、藤原道長の要請で宮中に上がった紫式部は、宮中の様子を中心に書いた「紫式部日記」を残している。。 なお、源氏物語は文献初出から150年ほど後の平安時代末期に「源氏物語絵巻」として絵画化された 五島美術館。現存する絵巻物の内、徳川美術館と五島美術館所蔵のものは国宝となっている。また現在、『源氏物語』は日本のみならず20ヶ国語を超える翻訳を通じ世界各国で読まれている 総合研究大学院大学教授 伊藤鉃也 日本文学研究専攻。2009年3月時点、刊行されたもの24種類、現在進行中のもの4種類、未確認(あるらしい、というもの)6種類。。.
源清
源 清(みなもと の きよし、源淸、生没年不詳)は、平安時代初期の貴族。嵯峨天皇の皇子。母は更衣秋篠高子。官位は散位正四位下。.
源満仲
JR川西池田駅前にある満仲のブロンズ像 源 満仲(みなもと の みつなか)は、平安時代中期の武将。清和源氏、六孫王経基の嫡男。多田源氏の祖で、多田 満仲(ただ の みつなか、ただ の まんじゅう)とも呼ばれる。諱は満中とも記される。神号は多田大権現。.
滋善宗人
滋善 宗人(しげよし の むねひと、延暦19年(800年) - 貞観5年1月20日(863年2月11日))は、平安時代初期から前期にかけての貴族・儒学者。氏姓は西漢人のち滋善宿禰。官位は従五位上・助教。.
滋野貞主
滋野 貞主(しげの の さだぬし、延暦4年(785年) - 仁寿2年2月8日(852年3月2日))は、平安時代初期の公卿。姓は宿禰のち朝臣。尾張守・滋野家訳の子。官位は正四位下・参議。.
漢文
漢文(かんぶん)とは、古代中国の文語体の文章のこと。または近代中国人・朝鮮人・日本人・ベトナム人によって書かれる古典的な文章語のうち、漢字を用いて中国語の文法で書かれたものをいう。.
朝野鹿取
朝野 鹿取(あさの の かとり)は、平安時代初期の公卿。氏姓は忍海原連のち朝野宿禰、朝野朝臣。正六位上・忍海原鷹取の子。.
朝比奈義秀
朝比奈 義秀(あさひな よしひで)は、鎌倉時代初期の武将・御家人。安房国朝夷郡に領地としたことで朝比奈を苗字とする。朝比奈氏(和田氏一族)の当主。 父・和田義盛が北条氏打倒を企てて起こした和田合戦で、最もめざましく奮戦した武将。『吾妻鏡』はこの合戦での義秀の活躍を詳細に記述している。.
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本多錦吉郎
本多 錦吉郎(ほんだ きんきちろう、嘉永3年12月2日(1851年1月3日) - 大正10年(1921年)5月26日)は、明治初期からの洋画家。画家としては寡作であったが、多くの著書を書き、画塾で後進を育てた。趣味で始めた造園もプロ級だった。号は契山。.
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本間重氏
本間 重氏(ほんま しげうじ、生年不明 - 建武3年/延元元年(1336年))は、日本の鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将。通称は孫四郎。本間資氏とも。 本間氏は武蔵七党横山党海老名氏の流れを汲む。 元弘元年(1331年)の元弘の乱では、当初重氏は鎌倉幕府に従属していたが後に離反し足利尊氏を経て新田義貞に従う。元弘3年(1333年)の義貞による鎌倉攻略に参陣した。建武の新政後は南朝方として、建武3年/延元元年(1336年)の湊川の戦い、後醍醐天皇の比叡山遷幸に従軍するなど各地を転戦する。同年、北国へ向かう義貞には従わず北朝方に降伏するも、京六条河原で斬首された。 『太平記』によると、湊川の戦いの折、義貞が摂津和田岬一帯に布陣した際、沖に尊氏の軍船が現れ対陣した。この時、弓の名手である重氏が和田岬の波打ち際から、沖の船に向かって遠矢を放ち命中させ両軍の喝采を浴びたという。このことから周辺の地は「遠矢」や「遠矢浜」と呼ばれるようになり、和田岬小学校校内には「本間重氏遠射之跡」を記した碑が建てられている。.
月岡芳年
月岡 芳年(つきおか よしとし、1839年4月30日(天保10年3月17日) - 1892年(明治25年)6月9日)は、幕末から明治前期にかけて活動した浮世絵師。姓は吉岡(よしおか)、のちに月岡。本名は米次郎(よねじろう)。画号は、一魁斎芳年(いっかいさい よしとし)、魁斎(かいさい)、玉桜楼(ぎょくおうろう)、咀華亭(そかてい)、子英、そして最後に大蘇芳年(たいそ よしとし)を用いた。 河鍋暁斎、落合芳幾、歌川芳藤らは歌川国芳に師事した兄弟弟子の関係にあり、特に落合芳幾は競作もした好敵手であった。また、多くの浮世絵師や日本画家とその他の画家が、芳年門下もしくは彼の画系に名を連ねている(後述)。.
有職故実
有職故実(ゆうそくこじつ)とは、古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束などのこと。また、それらを研究すること。.
有智子内親王
有智子内親王(うちこないしんのう、大同2年(807年) - 承和14年10月26日(847年12月7日))は、第52代嵯峨天皇の第8皇女 。母は交野女王。平安時代初期の皇族、漢詩人。初代賀茂斎院。.
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惟喬親王
惟喬親王(これたかしんのう、承和11年(844年) - 寛平9年2月20日『日本紀略』(897年3月30日)は、平安時代前期の皇族。文徳天皇の第一皇子。官位は四品・弾正尹。小野宮を号す。.
明治
明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.
明治天皇
明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)- 1912年(明治45年)7月30日)は日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれる。功績・人物像から明治大帝(Meiji the Great)・明治聖帝・睦仁大帝(Mutsuhito the Great) とも呼ばれる。.
明治美術会
明治美術会(めいじびしゅつかい)は、明治22年(1889年)に発足した日本国最初の洋風美術団体である。.
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明日香親王
明日香親王(あすかしんのう、生年不詳 - 承和元年2月23日(834年4月5日))は、平安時代初期の皇族。桓武天皇の第七皇子。官位は三品・上野太守。.
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春澄善縄
春澄 善縄(はるすみ の よしただ、延暦16年(797年) - 貞観12年2月19日(870年3月24日))は、平安時代初期から前期にかけての学者・公卿。氏姓は猪名部造のち春澄宿禰、春澄朝臣。字は名達(めいたつ)。周防国大目・猪名部豊雄の長男。官位は従三位・参議。.
浦島太郎
浦島太郎(うらしまたろう)は、日本の伽話(おとぎばなし)、およびその伽話内の主人公名。 一般に知られるあらすじでは、亀を助けた報恩として海中(海の果て)に連れてゆかれ(伝承によっては遭難して流れ着いた乙姫を舟で送り届け)、乙姫の饗応を受ける龍宮譚で、浦島太郎が、開けてはならない玉手箱を渡されて帰郷を許されるが、箱を開けてしまい、白髪の老人に化するというものである。 浦島子伝説が原話とされ、上代の文献(『日本書紀』、『万葉集』、『丹波国風土記逸文』)にその記録が残る。それらは、名称や設定が異なり、報恩の要素も欠け、行き先は「竜宮」ではなく「蓬莱(とこよのくに)」なので、異郷淹留譚(仙境淹留譚)に分類される。 日本各地には、浦島太郎が居たと伝える伝承や縁起譚があり、浦島の名の出ない類話も存在する。.
浮世絵
浮世絵(うきよえ)は、江戸時代に成立した絵画のジャンルである。本来、「浮世」という言葉には「現代風」「当世」「好色」という意味もあり、当代の風俗を描く風俗画である。大和絵の流れを汲み、総合的絵画様式としての文化的背景を保つ一方で、人々の日常の生活や風物などを多く描いている。演劇、古典文学、和歌、風俗、地域の伝説と奇談、肖像、静物、風景、文明開化、皇室、宗教など多彩な題材がある。大別すると、版本の挿絵、一枚摺の木版画、肉筆浮世絵の3種類に分けられる。当然、木版画が量産されるようになる以前には肉筆画のみしか存在しなかったわけで、巻物などの肉筆浮世絵が含まれる。肉筆浮世絵は、形式上、屏風絵、絵巻、画帖、掛け物、扇絵、絵馬、画稿、版下絵の8種類に大別される。また、浮世絵師は和装本の挿絵、表紙の仕事も並行して行った。広義には引き札、鏝絵、泥絵、ガラス絵、凧絵 ねぶた絵なども浮世絵の一種といえる。ただし、現代においては一般的には多色摺りの木版画錦絵のことを指すことが多い。.
浜離宮恩賜庭園
浜離宮恩賜庭園(はまりきゅう おんし ていえん)は、東京都中央区浜離宮庭園にある都立庭園である。.
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浅利義遠
浅利 義遠(あさり よしとお)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。浅利氏の祖。.
斎部広成
斎部 広成(いんべ の ひろなり、生没年不詳)は、平安時代初期の貴族。氏姓は忌部宿禰のち斎部宿禰。民部少丞・斎部浜成の子。官位は従四位下・神祇大副。.
斎藤実盛
原古戦場近くにある実盛の首を洗ったとされる池 斎藤 実盛(さいとう さねもり)は、平安時代末期の武将。藤原利仁の流れを汲む斎藤則盛(また斎藤実直とも)の子。越前国の出で、武蔵国幡羅郡長井庄(埼玉県熊谷市)を本拠とし、長井別当と呼ばれる。.
新田義宗
新田 義宗(にった よしむね)は、南北朝時代の武将。新田義貞の三男。 生母は義貞の正室、小田真知の娘。生年は諸説がある。.
新田義顕
新田 義顕(にった よしあき)は、南北朝時代の武将。 新田義貞の長男。生母は諸説がある(安東入道聖秀の女、同族の上野国甘羅令(甘楽郡地頭)の安藤五郎重保(左衛門少尉)の女など)。幼名は小太郎(辰千代の説もある)。.
新田義貞
新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。 鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった。ただし、鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。 鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗した。これにより各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。 死後、江戸時代に義貞が着用していた兜が偶然見つかり、福井藩主松平光通は兜が発見された場所に新田塚を建てた。明治時代、福井知藩事・松平茂昭は新田義貞のために新田塚に祠を建て、のち義貞を主祭神する藤島神社となり、建武中興十五社の一つに列せられた。.
新田義興
新田 義興(にった よしおき)とは、南北朝時代の武将。新田義貞の次男。.
文室巻雄
文室 巻雄(ふんや の まきお)は、平安時代前期の貴族。中納言・文室綿麻呂の九男。.
文室綿麻呂
文室 綿麻呂(ふんや の わたまろ)は、平安時代前期の公卿。従四位下・三諸大原の長男。.
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文室浄三
文室 浄三(ふんや の きよみ、持統天皇7年(693年) - 宝亀元年10月9日(770年10月31日))は、奈良時代の皇族(後に臣籍降下)。初名は智努王または知努王、珍努王、茅野王(ちぬおう)。天武天皇の孫。一品・長親王の子。.
文屋善友
文屋 善友(ふんや の よしとも、生没年不詳)は、平安時代の官人。能登守・文室能雄の子とする系図がある。官職は上総大掾、対馬守。.
文覚
文覚(もんがく、保延5年(1139年) - 建仁3年7月21日(1203年8月29日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧。父は左近将監茂遠(もちとお)。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)。文学、あるいは文覚上人、文覚聖人、高雄の聖とも呼ばれる。弟子に上覚、孫弟子に明恵らがいる。.
文政
文政(ぶんせい)は日本の元号の一つ。文化の後、天保の前。1818年から1831年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。.
日野俊基
日野 俊基(ひの としもと、生年不詳 - 元弘2年/正慶元年6月3日(1332年6月26日))は、鎌倉時代末期の廷臣。刑部卿・日野種範の子。子に俊業・俊孝がいる。官位は従四位下・右中弁、贈従三位。.
日野資朝
日野 資朝(ひの すけとも)は、鎌倉時代後期の公卿。権大納言・日野俊光の次男。.
日野邦光
日野 邦光(ひの くにみつ)は、南北朝時代の公卿。権中納言日野資朝の子だが、母は不詳である。南朝に仕えた。幼名を阿新丸(くまわかまる)といい、『太平記』巻2「阿新殿事」に見える敵討の逸話によって古来著名である。.
日本書紀
日本書紀(平安時代の写本) 『日本書紀』(にほんしょき)は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体にて記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。.
悳俊彦
悳 俊彦(いさお としひこ、1935年 - )は、日本の洋画家、浮世絵研究家(国際浮世絵学会会員)。浮世絵研究ではとりわけ、歌川国芳の研究において定評がある。.
懐良親王
懐良親王(かねよししんのう、かねながしんのう、元徳元年(1329年)? - 弘和3年/永徳3年3月27日(1383年4月30日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。官位は一品・式部卿。征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)と呼ばれる。 南朝の征西大将軍として、肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いた。.
慶応
慶応(けいおう、旧字体: 慶應)は日本の元号の一つ。元治の後、明治の前。1865年から1868年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。日本での「一世一元の詔」発布以前では最後の元号。.
慶滋保胤
慶滋 保胤(よししげ の やすたね、承平3年(933年)以後長保4年10月21日(1002年11月27日)は、平安時代中期の文人・儒学者。字は茂能。唐名は定潭。法名は寂心。父は陰陽家の丹波権介・賀茂忠行であるが、家学であった陰陽道を捨てて紀伝道を志し、姓の賀茂を読み替えて慶滋とした。子に忠順がいる。官位は従五位下・大内記。.
手塚光照
手塚 光照(てづか みつてる、享和元年(1801年) - 文久2年5月21日(1862年6月18日))は、幕末の医師、蘭学者。名は「光照」であるが、手塚家の世襲の通称で良仙という名乗りをした。漫画家の手塚治虫の高祖父にあたる。父は武蔵国大里郡代村出身の手塚光行(富田与八郎の4男)で、彼も良仙を名乗り、息子の良庵(後に父を継ぎ良仙を名乗る)も同様である。.
曾我祐成
曾我 祐成(そが すけなり)は、鎌倉時代初期の武士。曾我兄弟の仇討ちで知られる。 安元2年(1176年)、祐成が5歳の時、実父・河津祐泰が同族の工藤祐経に暗殺された。その後、母が自身と弟を連れ相模国曾我荘(現神奈川県小田原市)の領主・曾我祐信に再嫁した。のち養父・祐信を烏帽子親に元服して祐成を名乗り、その後は北条時政の庇護の下にあったという。 建久4年(1193年)、富士の巻狩りが行われた際、弟・時致と共に父の敵・工藤祐経を殺害したが、仁田忠常に討たれた。.
曾我時致
曾我 時致(そが ときむね)は、鎌倉時代初期の武士。曾我兄弟の仇討ちで知られる。 安元2年(1176年)、3歳の時、実父・河津祐泰が同族の工藤祐経に暗殺される。その後、母が兄と自身を連れ相模国曾我荘(現神奈川県小田原市)の領主・曾我祐信に再嫁する。建久元年(1190年)9月7日、北条時政を烏帽子親として元服、その偏諱を賜って時致と名乗ったとされ、その後は時政の庇護の下にあったという。 建久4年(1193年)富士の巻狩りが行われた際、兄・祐成と共に父の敵・工藤祐経を殺害した。兄は仁田忠常に討たれたが、時致は将軍源頼朝を襲おうとし、その宿所に侵入したが女装した小舎人の御所五郎丸によって捕らえられた。翌日、頼朝の取調べを受けた際、仇討ちに至った心情を述べて頼朝は助命を考えたが、祐経の遺児・犬房丸の要望により処刑された。.
智尊
智尊(ちそん、?-天武天皇元年7月22日(672年8月20日)は、日本の飛鳥時代の人物である。旧仮名遣いでの読みは同じ。姓(カバネ)はなし。672年の壬申の乱のとき大友皇子(弘文天皇)側の将となり、瀬田の戦いで先鋒となったが、戦死した。 『日本書紀』の瀬田の戦いの箇所に登場するのみで、系譜などは一切不明である。当時の日本人に似つかわしくない名から、渡来人ではないかという推測がある。 壬申の年(672年)の7月22日、壬申の乱の戦況は大友皇子に不利となり、都である近江大津宮のそばまで村国男依らの敵軍が押し寄せた。皇子は群臣を従え自ら出陣し、瀬田の橋の西に陣取って東からくる敵を迎え撃った。戦闘は川を隔てて矢を飛ばしあう射撃戦となった。このとき智尊は先鋒の将となり、精兵を率いて瀬田の橋を守った。橋の中を三丈切断して、長い板を一つおき、これに綱を結びつけた。もし板を踏んで敵が渡ろうとしたら、すぐに綱を引いて落とそうというのである。敵軍はしばらく進めなかったが、やがて大分稚臣が進み出て、鎧を重ね着して突進し、板を渡って綱を切った。これを見た軍勢は乱れて逃げ出した。智尊は刀を抜いて退く者を斬ったが、止めることができなかった。かくして智尊は橋のそばで斬られた。大友皇子は翌日自殺し、壬申の乱は終わった。.
時代考証
時代考証(じだい こうしょう)とは、映画・テレビの時代劇や時代小説などで描かれる歴史的な過去の言葉遣い・名称や呼称・生活習慣・建築様式・美術様式・政治制度などが、史実として適正なものか否かについてを検証すること。 専門分野に応じて美術考証(びじゅつ こうしょう)・衣装考証(いしょう こうしょう)などともいい、また略して単に考証(こうしょう)ともいう。.
1818年
記載なし。
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1836年
記載なし。
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1843年
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1850年
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1867年
記載なし。
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1868年
記載なし。
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1875年
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1881年
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1891年
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1894年
記載なし。
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1903年
記載なし。
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