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小野宮流

索引 小野宮流

小野宮流(おののみやりゅう)は、平安時代に始まった有職故実の流派。藤原実頼を祖とする小野宮家に伝わる。.

44 関係: 嫡流実範山城国平安時代土佐田村氏公家兵衛佐局藤原千古藤原季仲藤原定頼藤原実季藤原実頼藤原実資藤原師輔藤原佐理藤原忠平藤原北家藤原公実藤原公任藤原公房 (小野宮流)藤原経子 (藤原経平の女)藤原経季藤原経家 (権中納言)藤原経平藤原経任藤原経通藤原遵子藤原頼忠藤原頼通藤原顕実藤原高遠藤原資平藤原資仲藤原資房藤原苡子藤原通俊藤原斉敏藤原懐平藤原敦敏藤原慶子良円 (天台宗)毛呂季光源経仲有職故実

嫡流

嫡流(ちゃくりゅう)とは、氏族の本家を継承する家筋・家系のことをいう。正嫡、正系、嫡系ともいう。対義語は庶流という。敬って「御嫡々の家系」という場合もある。嫡流の家を宗家、総本家、嫡家、大本家、本家という。  ちなみに、「直系」を嫡流の意味で用いるのは誤用で、直系とは正しくは親の親もしくは子の子といった関係の連鎖で結ばれる生物学的関係をいい、直系・傍系はあくまで純粋な生物学的血統上の語であり家筋・家系とは関係がない。例えば、ある人物から見たときその子孫はすべて直系卑属であるから、分家・庶流の子孫も直系であるし、また、傍系は相対的な系統上の関係をいうから、分家からみた本家は傍系である。詳しくは、 親族を参照。  あくまで当家の祭祀を継承する家系を意味するのであるから、長男が継承者となることが多いものの、必ずしも長男が継承するとは限らず、次男以下あるいは養子の子孫が嫡流となる場合もある点に注意。.

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実範

実範(しっぱん、生年不詳 - 天養元年9月10日(1144年10月8日))は、平安時代後期の僧。父は参議藤原顕実。字は本願。蓮光少将上人・中川中将上人・中川律師とも称される。 興福寺で法相教学を、醍醐寺の厳覚と高野山の教真に真言密教を、比叡山横川の明賢から天台教学を学んだ。一時大和国忍辱山円成寺に隠棲したが、のちに中川成身院を開いて真言密教・天台・法相兼学の道場とした。また唐招提寺の荒廃を嘆き、戒律復興を唱えて1122年(保安3年)「東大寺戒壇院受戒式」を定めている。藤原忠実・藤原頼長・藤原宗忠などの帰依を受け、晩年は浄土教に傾倒し、山城国光明寺に移った。 Category:小野宮流 Category:平安時代の僧 Category:1144年没.

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山城国

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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土佐田村氏

土佐田村氏(とさたむらし)とは、土佐田村庄の豪族で戦国大名長宗我部氏の家臣。鎌倉時代、陸奥田村庄(田村市、三春町)を藤原仲教が領して田村姓を名乗り、子孫は鎌倉幕府評定衆等になった。室町時代、幕府の奉公衆になり、近江国野路村(草津市)の地頭を経て、戦国時代に土佐田村庄に入る。時を経て長宗我部氏の家臣となり、江戸時代は山内氏に仕えて下茅(土佐清水市下ノ加江)大庄屋となったり、宿毛領にて武士になった。秀郷流となってはいるが尊卑分脈には、小野宮流の系譜に藤原仲祐の子、仲教と記載されており本来は小野宮流藤原氏であったが秀郷流に養子に行った事などが推察できる。 藤原実頼-斉敏-懐平-資平-義綱-仲季-仲祐-田村仲教-仲能-重教.

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公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

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兵衛佐局

兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね、生没年未詳)は、平安時代末期の女性。法印・信縁の女。源行宗(源基平の子、大僧正・行尊の兄)の養女。曽祖父は藤原経季。崇徳天皇の寵妃となり、重仁親王を産んだ。.

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藤原千古

藤原 千古(ふじわら の ちふる/ちこ、生没年不詳)は、平安時代の右大臣藤原実資の娘。母親は不明であるが、義弟である源頼定の乳母の娘と言われている。.

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藤原季仲

藤原 季仲(ふじわら の すえなか)は、平安時代後期の公卿。権中納言藤原経季の子。.

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藤原定頼

藤原 定頼(ふじわら の さだより)は平安時代中期の公家・歌人。権大納言・藤原公任の長男。中古三十六歌仙の一人。小倉百人一首では権中納言定頼。.

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藤原実季

藤原 実季(ふじわら の さねすえ)は、平安時代後期の公卿。藤原北家閑院流、権中納言・藤原公成の次男。官位は正二位・大納言、贈正一位・太政大臣。後閑院贈太政大臣と呼ばれた。.

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藤原実頼

藤原 実頼(ふじわら の さねより)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原忠平の長男。 村上天皇の時に左大臣として右大臣の弟・師輔と共に朝政を指導して天暦の治を支えた。しかし、後宮の争いでは師輔に遅れをとり、外戚たる事ができなかった。冷泉天皇が即位すると、その狂気のために関白職が復活し実頼が任じられた。次いで円融天皇が即位すると摂政に任じられている。また、有職故実に通じ、小野宮流を創始した。.

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藤原実資

藤原 実資(ふじわら の さねすけ)は、平安時代の公卿。 藤原北家嫡流の小野宮流の膨大な家領を継ぎ、有職故実に精通した当代一流の学識人であった。藤原道長が権勢を振るった時代に筋を通した態度を貫き、権貴に阿らぬ人との評価を受けた。最終的に従一位・右大臣に昇り、「賢人右府」と呼ばれた。実資の残した日記『小右記』はこの時代を知る貴重な資料となっている。.

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藤原師輔

藤原 師輔(ふじわら の もろすけ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白太政大臣・藤原忠平の次男。官位は正二位・右大臣。 有職故実・学問に優れた人物として知られ、村上天皇の時代に右大臣として朝政を支えた。師輔の没後に長女・中宮安子所生の皇子が冷泉天皇・円融天皇としてそれぞれ即位し、師輔の家系は天皇の外戚として大いに栄えた。.

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藤原佐理

藤原 佐理(ふじわら の すけまさ/さり)は、平安時代中期の公卿・能書家。太政大臣・藤原実頼の孫。左近衛少将・藤原敦敏の長男。三跡の一人で草書で有名。.

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藤原忠平

貞信公(百人一首より) 藤原 忠平(ふじわら の ただひら)は、平安時代前期から中期にかけての公卿。藤原基経の四男。 兄・時平の早世後に朝政を司り、延喜の治と呼ばれる政治改革を行った。朱雀天皇の時に摂政、次いで関白に任じられる。以後、村上天皇の初期まで長く政権の座にあった。兄・時平と対立した菅原道真とは親交を持っていたとされる。平将門は忠平の家人として仕えていた時期もあった。.

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藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

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藤原公実

藤原 公実(ふじわら の きんざね)は、平安時代の後期の公卿、歌人。正二位、権大納言に至り、三条大納言と称す。.

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藤原公任

藤原 公任(ふじわら の きんとう)は、平安時代中期の公卿・歌人。関白太政大臣・藤原頼忠の長男。小倉百人一首では大納言公任。.

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藤原公房 (小野宮流)

藤原公房(ふじわら の きみふさ)は、日本の平安時代中期から後期にかけての公卿。.

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藤原経子 (藤原経平の女)

藤原 経子(ふじわら の けいし/ つねこ、生没年不詳)は、平安時代後期の女官。父は従三位大宰大弐・藤原経平。兄弟に通俊、通宗がいる。 後三条・白河両天皇に典侍として仕える。承保2年(1075年)4月、白河天皇の寵愛を受けて皇子(覚行法親王)を産む。後に参議・藤原公定の室となった。 けいし Category:平安時代の女官 Category:平安時代の后妃後宮 Category:11世紀生.

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藤原経季

藤原 経季(ふじわら の つねすえ)は平安時代中期から後期にかけての公卿。権中納言・藤原経通の次男。.

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藤原経家 (権中納言)

藤原経家(ふじわら の つねいえ)は、日本の平安時代の公卿。.

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藤原経平

藤原 経平(ふじわら の つねひら)は平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家小野宮流、権中納言・藤原経通の子。官位は従三位・非参議。.

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藤原経任

藤原 経任(ふじわら の つねとう)は、平安時代中期の公卿。藤原北家小野宮流、権中納言・藤原懐平の三男。官位は正二位・権大納言。九条流、大納言・藤原斉信の養子。.

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藤原経通

藤原 経通(ふじわら の つねみち)は、平安時代の公卿。藤原懐平の長男。土御門帥と号す。.

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藤原遵子

藤原 遵子(ふじわら の じゅんし(のぶこ)、天徳元年(957年) - 寛仁元年6月1日(1017年6月27日))は平安時代中期、関白藤原頼忠の次女。母は代明親王(醍醐天皇皇子)の娘厳子女王。円融天皇中宮。別名は四条宮。同母弟妹に公任、諟子(花山天皇女御)。 貞元3年(978年)円融天皇に入内、女御宣下を受ける。同5年(982年)中宮に冊立。正暦元年(990年)皇后宮。長徳3年(997年)出家。長保2年(1000年)皇太后、長和元年(1012年)太皇太后。寛仁元年(1017年)、61歳で崩御。 遵子が入内した当時、後宮には既に中宮媓子がいた。しかし天元2年(979年)に媓子が没したため、空いた中宮位を遵子ともう一人の女御詮子が争った結果、第一皇子の懐仁親王を産んだ詮子ではなく関白頼忠の娘遵子が中宮となった。遵子立后の日、弟の公任は得意になって詮子方に「こちらの女御(詮子)はいつ立后なさるのかな」と言い放ち、詮子とその父兼家の恨みを買ったが、遵子はその後もついに皇子を産むことはなく、一条天皇の即位で詮子が皇太后になった際、公任は逆に詮子の女房から「姉君の素腹の后はどちらにおいでで?」と皮肉られたという(『大鏡』)。 円融天皇の譲位後は里邸の四条第で暮らしたことから四条宮とも呼ばれ、仏道に専念しつつ公任の娘を養女にして余生を送った。 Category:日本の皇后 Category:日本の皇太后 Category:日本の太皇太后 しゆんし category:平安時代の后妃後宮 Category:957年生 Category:1017年没.

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藤原頼忠

藤原 頼忠(ふじわら の よりただ)は、平安時代中期の公卿。藤原実頼の次男。 円融・花山両天皇の関白で、後に太政大臣となる。しかし、天皇と外戚関係を得ることができず、藤原兼家との政争に敗れて、一条天皇の即位とともに関白を辞し、失意のうちに薨御した。.

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藤原頼通

藤原 頼通(ふじわら の よりみち)は、平安時代中期から後期にかけての公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣藤原道長の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。 父・道長から若くして後一条天皇の摂政を譲られ、その後見を受ける。父の死後は朝政の第一人者として後朱雀天皇・後冷泉天皇の治世にて、関白を50年の長きに亘って務め、父道長と共に藤原氏の全盛時代を築いた。現代に残るその栄華の象徴が頼通が造営した平等院鳳凰堂である。 しかし、天皇の后にした娘が男子に恵まれなかったばかりか、刀伊の入寇・平忠常の乱・前九年の役など戦乱が相次ぐなど、朝廷の内外からそれまでの絶対的な権力体制を揺さぶられる事態が生じた。そこに加えて晩年には頼通と疎遠な後三条天皇が即位したこともあり、摂関家の権勢は衰退へ向かい、やがて院政と武士の台頭の時代へと移ることになる。.

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藤原顕実

藤原 顕実(ふじわら の あきざね)は平安時代中期から後期にかけての公卿。権中納言・藤原資仲の長男。官位は従三位・参議。.

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藤原高遠

藤原 高遠(ふじわら の たかとお)は、平安時代中期の公卿・歌人。参議・藤原斉敏の子。中古三十六歌仙の一人。.

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藤原資平

藤原 資平(ふじわら の すけひら)は、平安時代中期の公卿。藤原懐平の次男。.

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藤原資仲

藤原 資仲(ふじわら の すけなか)は平安時代中期から後期にかけての公卿、歌人、漢詩人。大納言・藤原資平の二男。.

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藤原資房

藤原 資房(ふじわら の すけふさ)は、平安時代中期の公卿。大納言・藤原資平の長男。五位蔵人時代から晩年に至るまでの日記『春記』、蔵人の除目奉仕についてまとめた『資房抄』を編んでいる。.

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藤原苡子

藤原 苡子(ふじわら の いし、承保3年(1076年) - 康和5年1月25日(1103年3月5日))は平安時代後期の皇妃。第73代堀河天皇女御、第74代鳥羽天皇生母。父は大納言藤原実季、母は藤原睦子(藤原経平女)。同母兄に藤原公実がいる。 承徳2年(1098年)堀河天皇に入内、女御の宣旨を受ける。康和2年(1100年)従四位下。 康和5年(1103年)第一皇子宗仁親王(鳥羽天皇)を出産するが、難産のため死去。同年従二位を追贈。嘉承2年(1108年)鳥羽天皇の即位で皇太后を追贈。 苡子は白河院の従姉妹(院の生母茂子の姪)で、入内に当たっては院自ら世話をしたという。中宮篤子内親王は高齢で子女に恵まれず、皇子出産の期待をかけられた苡子はめでたく宗仁親王を産んだが、産後の肥立ちが悪く28歳の若さで亡くなった。しかし苡子の兄公実は鳥羽天皇の外戚に、また姪の璋子は鳥羽天皇の中宮となるなど、閑院流発展の元となった。 いし category:平安時代の后妃後宮 Category:1076年生 Category:1103年没 Category:難産死した人物.

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藤原通俊

藤原 通俊(ふじわら の みちとし)は、平安時代後期の公家・歌人。従三位大宰大弐・藤原経平の次男。.

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藤原斉敏

藤原 斉敏(ふじわら の ただとし)は平安時代中期の公卿。摂政・藤原実頼の三男。.

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藤原懐平

藤原 懐平(ふじわら の かねひら)は、平安時代中期の公卿。参議・藤原斉敏の三男。.

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藤原敦敏

藤原 敦敏(ふじわら の あつとし)は平安時代中期の貴族。藤原北家、摂政太政大臣・藤原実頼の嫡男。三蹟の一人藤原佐理の父。.

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藤原慶子

藤原 慶子(ふじわら の よしこ、延文3年/正平13年(1358年) - 応永6年5月8日(1399年6月12日))は、室町時代前期の女性。室町幕府第3代将軍・足利義満の側室。同第4代将軍・足利義持と同第6代将軍・足利義教らの生母。通称は北向殿 臼井信義 著『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.235。.

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良円 (天台宗)

良円(りょうえん、永観元年(983年) - 永承5年(1050年)7月)は、平安時代中期の天台宗僧侶。右大臣藤原実資の庶子。 母親については、宮仕えをしていた女性であると『大鏡』に載せられており、藤原朝成の縁者とする説もあるが不詳。母親の出自によるものか、小野宮家の後継者とはみなされておらず、永祚元年(989年)に7歳にして延暦寺の慶円(実資の母方伯父)の元に預けられた。その後、出家して内供に補される。長和4年(1015年)、大僧正となっていた慶円は自分の辞任と引き換えに良円の律師就任を申請したが、慶円と不仲であった藤原道長が反対したため実現しなかった。4年後に同様の申請を行って藤原頼通の許可を得るが、またも道長の反対によりまたも見送られた。寛仁3年12月9日(1020年1月6日)作成された実資の処分状にて良円の異母妹千古に財産を継承させるために「道俗子等一切不可口入」を宣言しているが、この「道俗」とは良円(=道)と養嗣子資平(=俗)のことと考えられている。道長没後の長元元年(1028年)に漸く権律師となり、翌年法性寺東北院別当となる。更に長元6年(1033年)には権少僧都に任ぜられた。ところが、長暦2年(1038年)、天台座主に園城寺明尊が任ぜられたことから勃発した「山相論」において、頼通から延暦寺大衆の説得を期待された良円は説得に失敗したのみならず、翌年には彼らに擁されて頼通の高倉殿に大衆3千人と強訴する事件を引き起こして罪に問われる。これによって、事実上失脚して権少僧都のまま病没した。.

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毛呂季光

毛呂 季光(もろ すえみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武士。大宰権帥藤原季仲の孫。武蔵国入間郡毛呂郷(現在の埼玉県入間郡毛呂山町)の住人。鎌倉幕府御家人。.

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源経仲

源 経仲(みなもと の つねなか)は、平安時代後期の貴族・歌人。権中納言・藤原経通の子。権中納言・源経房の養子となる。.

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有職故実

有職故実(ゆうそくこじつ)とは、古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束などのこと。また、それらを研究すること。.

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