161 関係: せん子女王、右大臣、参議、大納言、大河ドラマ、天喜、太政大臣、女御、官位、寛仁、寛弘、寛徳、尚侍、小式部内侍、尾張兼時、左大臣、上奏、中宮、中宮職、中納言、三条天皇、一条天皇、平安時代、康平、延久、侍従、御堂流、後宮、後三条天皇、後一条天皇、後冷泉天皇、後朱雀天皇、従三位、従一位、従二位、従四位、別当、和泉式部、ケン子内親王、内大臣、公卿、具平親王、元服、兵衛府、四納言、皇后、皇太后宮職、皇太子、皇女、皇子、...、禎子内親王、禁色、禔子内親王、炎立つ (NHK大河ドラマ)、白河天皇、荘園整理令、衛門府、贈位、践祚、近衛大将、近衛府、舞、関白、藤原げん子、藤原妍子、藤原威子、藤原嬉子、藤原定頼、藤原寛子 (藤原道長女)、藤原尊子 (藤原道長女)、藤原師実、藤原彰子、藤原信家、藤原信長、藤原北家、藤原公任、藤原経家、藤原経家 (権中納言)、藤原経通、藤原隆家、藤原道長、藤原頼宗、藤原頼通、藤原行成、藤原顕家、藤原顕信、藤原能信、藤原通基 (侍従)、藤原歓子、藤原氏、藤原斉信、藤氏長者、藤木孝、蔭位、長徳、長信、長和、長元、長暦、長氏、東宮傅、栄花物語、検非違使、橘道貞、正三位、正一位、正二位、正五位、殿上人、永承、治暦、源師房、源倫子、源雅信、朝廷、春宮坊、昇殿、斎宮、旺文社、摂家、摂政、敦明親王、数研出版、承保、1006年、1007年、1008年、1009年、1010年、1011年、1012年、1013年、1014年、1015年、1017年、1019年、1020年、1021年、1030年、1037年、1039年、1045年、1046年、1047年、1049年、1051年、1057年、1060年、1062年、1064年、1067年、1068年、1069年、1070年、1071年、1075年、11月6日、6月7日 (旧暦)、7月29日、996年、9月25日 (旧暦)。 インデックスを展開 (111 もっと) »
せん子女王
嫥子女王(せんしじょおう、寛弘2年(1005年) - 永保元年6月16日(1081年7月24日))は村上天皇第7皇子具平親王の三女。母は為平親王の次女。後一条天皇時の斎宮、後に藤原教通の正室。弟に源師房、姉に隆姫女王(藤原頼通室)、敦康親王妃がいる。.
新しい!!: 藤原教通とせん子女王 · 続きを見る »
右大臣
右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.
参議
参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.
大納言
大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.
大河ドラマ
『大河ドラマ』(たいがドラマ)は、1963年(昭和38年)から放送されているNHKのテレビドラマシリーズ。略称は大河。 1984年から1986年にかけて放送されたNHK新大型時代劇と2009年から2011年にかけて放送されたスペシャルドラマ『坂の上の雲』についてもこの項で述べる。.
新しい!!: 藤原教通と大河ドラマ · 続きを見る »
天喜
天喜(てんぎ)は、日本の元号のひとつで永承の後、康平の前。1053年〜1058年の期間を指す。この時代の天皇は後冷泉天皇。.
太政大臣
太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.
女御
女御(にょうご)は、天皇の後宮の身位の一つで、天皇の寝所に侍した。官名は中国・周代の官制を記した『周礼』に由来し、位は皇后・中宮に次ぐ。また、女御のうち、女性皇族たる女王が女御となった場合の呼称を王女御という。 初見は『日本書紀』雄略天皇の条であるが、実際は桓武天皇の代に紀乙魚・百済王教法などを女御としたのに始まる。当初、その位は低かったが次第に高まり、平安時代中期以降は、皇后は女御から昇進する慣例が確立した。最後の女御は孝明天皇の女御である九条夙子(英照皇太后)。 定員はなく、複数の女御がいる場合は住まう殿舎の名を取って「承香殿女御」などと呼んだ。 応仁の乱以後、上流貴族の娘の入内が絶えると、女御も存在しなくなった。後陽成朝に近衛前久の娘の前子が豊臣秀吉の養女として女御となり、ついで後水尾朝に徳川秀忠の娘の和子が女御になり、さらに中宮へ昇った。江戸時代には歴代天皇の正妻として摂家や世襲親王家の娘が一人だけ女御となり、しばしば准三宮となった。しかし霊元天皇や光格天皇などは女御を中宮に立てたものの、立后させない例の方が多かった。.
官位
日本における官位(かんい)は、日本史では人が就く官職と、人の貴賤を表す序列である位階の総称、古代朝鮮史(高句麗・百済・新羅)においては人の貴賤の序列として定められた位のことである。ともに中国の影響を受けたものだが、中国史では官位という言葉は用いない。 官職と位階との相当関係を定めたものを官位相当といい、各官職には相当する位階(品階)に叙位している者を任官する制度を官位制(官位制度、官位相当制)という『日本歴史大事典 1』小学館、2000年(平成12年)、768頁。日本において、官職と位階は律令法(律令制)によって体系的に整備された。位階制度については「位階」の項目を、官職については「日本の官制」を参照のこと。以下、日本における官位制について概説する。.
寛仁
寛仁(かんにん)は、日本の元号の一つ。長和の後、治安の前。1017年から1020年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇。.
寛弘
寛弘(かんこう)は、日本の元号の一つ。長保の後、長和の前。1004年から1011年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇、三条天皇。.
寛徳
寛徳(かんとく)は、日本の元号の一つ。長久の後、永承の前。1044年から1045年までの期間を指す。この時代の天皇は後朱雀天皇、後冷泉天皇。.
尚侍
尚侍(ないしのかみ/しょうじ)とは、日本の律令制における官職で、内侍司の長官(かみ)を務めた女官の官名。.
小式部内侍
小式部内侍(こしきぶ の ないし、長保元年(999年)頃 - 万寿2年(1025年)11月)は平安時代の女流歌人。掌侍。女房三十六歌仙の一人。父は橘道貞、母は和泉式部。母の和泉式部と共に一条天皇の中宮・彰子に出仕した。そのため、母式部と区別するために「小式部」という女房名で呼ばれるようになった。.
新しい!!: 藤原教通と小式部内侍 · 続きを見る »
尾張兼時
尾張 兼時(おわり の かねとき、生没年不詳)は、平安時代中期の官人・楽人。官職は左近衛将監。.
左大臣
左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.
上奏
上奏(じょうそう)とは、天子(皇帝・天皇)に意見・事情等を申し上げることである。奏上ともいう。.
中宮
中宮(ちゅうぐう)は、日本の天皇の妻たちの呼称の一つ。.
中宮職
中宮職(ちゅうぐうしき)は、律令制において中務省に属して后妃に関わる事務などを扱う役所。元来は、全ての后妃の世話を行うために設置されたが後には皇后と中宮、皇太后などとの並立によりそれぞれに太皇太后宮職、皇太后宮職、皇后宮職と専属の職が置かれる。.
中納言
中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.
三条天皇
三条天皇(さんじょうてんのう、天延4年1月3日(976年2月5日) - 寛仁元年5月9日(1017年6月5日))は第67代天皇。諱は居貞(おきさだ / いやさだ)。享年42。在位は寛弘8年6月13日(1011年7月16日)から長和5年1月29日(1016年3月10日)まで。 冷泉天皇の第二皇子。母は摂政太政大臣藤原兼家の長女・贈皇太后超子。花山天皇の異母弟。.
一条天皇
一条天皇(いちじょう てんのう、天元3年6月1日(980年7月15日) - 寛弘8年6月22日(1011年7月25日))は、平安時代中期の第66代天皇(在位:寛和2年6月23日(986年8月1日) - 寛弘8年6月13日(1011年7月16日))。諱は懐仁(やすひと)。 円融天皇の第1皇子。母は藤原兼家の娘、詮子。兄弟姉妹はない。.
平安時代
平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.
康平
康平(こうへい)は、日本の元号の一つ。天喜の後、治暦の前。1058年から1064年までの期間を指す。この時代の天皇は後冷泉天皇。.
延久
延久(えんきゅう)は、日本の元号の一つ。治暦の後、承保の前。1069年から1073年までの期間を指す。この時代の天皇は後三条天皇、白河天皇。.
侍従
服をまとった侍従(大阪歴史博物館) 侍従(じじゅう)とは、広義では(しばしば高貴な立場の)ある人物に付き従い、身の回りの世話などをする行為、または従う者そのものを指す。日本においては、特に天皇に側近奉仕する文官や位を意味するため、この項目ではこれについて解説する。なお、武官による侍従武官や皇太子に付される東宮侍従については、それぞれ項目を参照のこと。.
御堂流
御堂流(みどうりゅう)とは、藤原北家九条流藤原道長(摂政・太政大臣)の子孫の一門及び彼を祖とする有職故実及び作法の流派の呼称。「御堂」とは、道長が法成寺を創建して「御堂関白」の異名を得ていたことに由来する(ただし、実際に関白には就任していない)。.
後宮
後宮(こうきゅう)は、皇帝や王などの后妃が住まう場所。日本では、平安京内裏の七殿五舎、江戸城大奥が該当する。 一般的に、後宮は男子禁制というイメージがあるが、日本の内裏では必ずしもそうではなく、平安時代中期に書かれたとされる『源氏物語』や『枕草子』といった物語や随筆では殿上人のうちでも家族や親しい人間は頻繁に出入りしていたように描写されている。平安時代には天皇やそのきさきの側に控えた女房と呼ばれる女性たちが、内裏を舞台とした内容の宮廷文学を生み出したことはよく知られている(それらが書かれた場所が後宮であったとは限らない。実家などに戻った際に書いたものとされることもある)。ただし、平安末から鎌倉時代頃から徐々に男子禁制の場となり、江戸時代においては男性が入る余地はなくなってしまっていた。江戸時代の江戸城大奥は、完全な男性禁制の場であり、火事など緊急時以外の男性の出入りは厳しく制限された。 男子禁制をとっているのはオスマン帝国などのイスラム諸王朝や中国などであり、去勢された宦官が、家政一般にあたった。これに対して日本では、宦官は置かれずに宮人とも呼ばれる女官が発達して女性たちによって秩序が維持された。 また、後宮を意味するハレム(harem)は、オスマン帝国の後宮がそう呼ばれていたところから来ている。.
後三条天皇
大炊御門万里小路殿址、源高房、後三条天皇はこの地で崩御、京都府京都市中京区富小路通夷川上る西側 後三条天皇(ごさんじょうてんのう、長元7年7月18日(1034年9月3日) - 延久5年5月7日(1073年6月15日))は、第71代天皇(在位:治暦4年4月19日(1068年5月22日) - 延久4年12月8日(1073年1月18日))。諱は尊仁(たかひと)。宝算40。 後朱雀天皇の第二皇子。母は三条天皇第三皇女・皇后禎子内親王(陽明門院)。後冷泉天皇の異母弟。宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇である(ただし、生母の禎子内親王は藤原道長の外孫である)。.
新しい!!: 藤原教通と後三条天皇 · 続きを見る »
後一条天皇
後一条天皇(ごいちじょうてんのう、寛弘5年9月11日(1008年10月12日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))は、平安時代中期の第68代天皇(在位:長和5年2月7日(1016年3月18日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))。諱は敦成(あつひら)。一条天皇の第二皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母弟に後朱雀天皇。.
新しい!!: 藤原教通と後一条天皇 · 続きを見る »
後冷泉天皇
後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう、万寿2年8月3日(1025年8月28日) - 治暦4年4月19日(1068年5月22日))は、日本の第70代天皇(在位:1045年 - 1068年)。後朱雀天皇の第一皇子。母は藤原道長女藤原嬉子(贈皇太后)。諱を親仁(ちかひと)。紫式部の娘大弐三位が乳母である。.
新しい!!: 藤原教通と後冷泉天皇 · 続きを見る »
後朱雀天皇
後朱雀天皇(ごすざくてんのう、寛弘6年11月25日(1009年12月14日) - 寛徳2年1月18日(1045年2月7日))は、平安時代中期の第69代天皇(在位:長元9年4月17日(1036年5月15日) - 寛徳2年1月16日(1045年2月5日))。諱は敦良(あつなが)。 一条天皇の第三皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母兄に後一条天皇。.
新しい!!: 藤原教通と後朱雀天皇 · 続きを見る »
従三位
従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.
従一位
従一位(じゅいちい)は、日本の位階及び神階の位の一つ。正一位の下に位し、正二位の上位にあたる。.
従二位
従二位(じゅにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。正二位の下、正三位の上に位する。.
従四位
従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.
別当
別当(べっとう)は、本来、律令制において本官を持つ者が他の官司の職務全体を統括・監督する地位に就いた時に補任される地位。後に官司の長官一般を指すようになり、このことから転じて、以下のような複数の意味を持つ。.
和泉式部
菊池容斎『前賢故実』より 小倉百人一首56番「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」 和泉 式部(いずみ しきぶ、天元元年(978年)頃 - 没年不詳)は平安時代中期の歌人である。越前守・大江雅致の娘。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。.
ケン子内親王
儇子内親王(けんしないしんのう、寛仁2年12月9日(1019年1月17日) - 承徳元年12月28日(1098年2月2日))は平安中期の皇族。冷泉宮と号す。小一条院敦明親王の第二王女で、母は藤原道長の三女・高松殿女御寛子。 祖父三条天皇の猶子として、寛仁3年(1019年)3月4日に異母兄敦貞とともに親王宣下。万寿2年(1025年)、8歳で母を亡くす。長暦元年(1037年)母方の従弟にあたる同い年の権大納言藤原信家(寛子の兄教通の長男)に降嫁した。所生の子女はなし。源師房の四女麗子を養女として育て、のちに藤原師実(教通の兄頼通の男で信家・儇子両方の従弟にあたり、摂関家の嫡流を継いだ)に娶せた(麗子の生母尊子は儇子内親王の生母寛子の同母妹であるため、その縁によったものか。ちなみに師実の嫡母隆姫も師房の姉であるように、村上源氏師房流は摂関家と二重、三重の親族関係を有した)。.
新しい!!: 藤原教通とケン子内親王 · 続きを見る »
内大臣
内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。.
公卿
公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.
具平親王
具平親王(ともひら しんのう)は、平安時代中期の皇族。第62代村上天皇の第七皇子、母は女御荘子女王(醍醐天皇の第三皇子代明親王の次女)。官位は二品・中務卿。後中書王(のちの ちゅうしょ おう)、千種殿(ちぐさ どの)、六条宮(ろくじょうの みや)左京六条に営んだ豪邸に因む。の通称がある。.
元服
元服(げんぶく、げんぷく)とは、奈良時代以降の日本で成人を示すものとして行われた儀式。通過儀礼の一つである。 「元」は首(=頭)、「服」は着用を表すので、「頭に冠をつける」という意味。加冠とも初冠(ういこうぶり)とも言われる。なお、公家の女子の成人式は裳着(もぎ)と言う。民間においては褌親(へこおや・ふんどしおや)の元で、初めてふんどしを付け、性に関する知識を授かる褌祝(ふんどしいわい)と呼ばれる儀式がある。.
兵衛府
兵衛府(ひょうえふ)とは、律令制における官司。左兵衛府と右兵衛府の二つが存在する。長は兵衛督 (左兵衛督・右兵衛督)である。左右近衛府、左右衛門府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。和訓では「つはもののとねりのつかさ」という。唐名は武衛(ぶえい)。.
四納言
四納言(しなごん)とは、平安時代中期一条天皇の時代に活躍した4人の公卿(源俊賢・藤原公任・藤原斉信・藤原行成)の称。藤原斉信が大納言、他の3名が権大納言まで昇ったことからこの称がある。.
皇后
皇后(こうごう、Empress)は、天皇や皇帝の正妃(正妻)、およびその人物に与えられる称号。 一夫多妻制のもとでは、天皇や皇帝の複数の妻のうち最上位の者となる。.
皇太后宮職
皇太后宮職(こうたいごうぐうしょく、こうたいごうぐうしき)は、日本の宮内庁にある皇太后の家政機関。皇后が、天皇崩御を経て皇太后の位につくことで、その后が崩御するまでの間のみ設置される。長は皇太后宮大夫。.
新しい!!: 藤原教通と皇太后宮職 · 続きを見る »
皇太子
皇太子(こうたいし、Crown Prince)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号。一般的には皇室ならびに海外の王室における君主位の法定推定相続人の敬称として使われる。.
皇女
皇女(ひめみこ/こうじょ/おうじょ)とは、天皇または皇帝の女子(娘)を指す。日本においては、内親王号が成立する以前に存在した女性皇族の身位でもある。これに対して男子(息子)を皇子という。.
皇子
皇子(みこ、おうじ)は、皇帝または天皇の男子。広義には男女を問わない(皇室典範第6条参照)が、かかる用法はまれである。国によって「親王」「郡王」「王」「大公」などの称号が与えられることがある。これに対して女子を皇女(おうじょ)という。.
禎子内親王
子内親王(ていし ないしんのう、長和2年7月6日(1013年8月15日) - 寛治8年1月16日(1094年2月3日))は、第67代三条天皇の第3皇女で、第69代後朱雀天皇の皇后、女院。「ていし」は仮の読みで、実際の読みは「さだこ」または「よしこ」だったと推測されている。 母は摂政藤原道長女・皇后妍子。院号は陽明門院(ようめいもんいん)。所生の子女に、尊仁親王(後三条天皇)、伊勢斎宮良子内親王、賀茂斎院娟子内親王がいる。.
新しい!!: 藤原教通と禎子内親王 · 続きを見る »
禁色
禁色(きんじき)とは、日本の朝廷において、官人の官位等に応じて禁じられた服装である。特定の色のほか、地質等にも及んだ。平安時代の9世紀半ば以降、特定の官人に上位の衣服を許す「禁色勅許」が出されるようになり、特権として重視された。逆に誰でも使用できる色のことを「ゆるし色」と言った。.
禔子内親王
子内親王(ししないしんのう / ただこないしんのう、長保5年(1003年)- 永承3年閏1月29日(1048年3月16日))は、平安時代中期の皇族。三条天皇の第2皇女。母は藤原娍子(藤原済時の長女)。同母兄姉に、敦明親王(小一条院、後一条天皇の廃太子)、敦儀親王、敦平親王、当子内親王、同母弟に、師明親王(性信入道親王)がおり、異母妹に、後朱雀天皇の皇后、後三条天皇の母である禎子内親王(陽明門院)がいる。.
新しい!!: 藤原教通と禔子内親王 · 続きを見る »
炎立つ (NHK大河ドラマ)
『炎立つ』(ほむらたつ)は、1993年7月4日から1994年3月13日まで放送された第32作目のNHK大河ドラマ。三部構成。平安時代前期の朝廷と奥羽(東北地方)の関わりから、鎌倉時代に奥州合戦で奥州藤原氏が滅亡するまでを描く。.
新しい!!: 藤原教通と炎立つ (NHK大河ドラマ) · 続きを見る »
白河天皇
白河天皇(しらかわ てんのう)は、第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日) - 応徳3年11月26日(1087年1月3日))。諱を貞仁(さだひと)という。 後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。.
荘園整理令
荘園整理令(しょうえんせいりれい)は、平安時代に発布された一連の法令のこと。 特に有名なものは、1069年(治暦5年.
新しい!!: 藤原教通と荘園整理令 · 続きを見る »
衛門府
衛門府(えもんふ)とは、律令制における官司。当初は1つであったが、大同3年(808年)に(左右)衛士府と統合されて一旦廃止され、弘仁3年(811年)に左右衛士府の改称に伴って復置された際、左衛門府と右衛門府の2つが置かれた。和訓にて「ゆげひのつかさ」と呼び、「靫負」という漢字をあてる場合がある。「ゆげひ」とは「ゆぎおひ(靫負ひ)」の転訛で「靫」とは弓を入れる容器のこと。「ゆげひ」がさらに訛って「ゆぎえ」とも称される。唐名は金吾。監門。監府。長は衛門督 (後に左衛門督・右衛門督)である。「柏木」は王朝和歌における衛門府、衛門督の雅称である。 ※当初、(左右)衛士府、(左右)兵衛府とあわせて「五衛府」と呼ばれ、復置後は(左右)近衛府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。ここでは便宜上、衛士府統合以前を「前期」、衛士府の改称による復置以後を「後期」と表記する。.
贈位
贈位(ぞうい)とは、生前に功績を挙げた者に対して、没後に位階を贈る制度。追贈、追賜ともいう。官職を贈る場合は贈官(ぞうかん)という(例:贈太政大臣)。 将棋や囲碁の世界では、大会での優勝や功績に応じてタイトルを贈られることを贈位と呼ぶこともある。就位ともいう。この際に贈られる賞状を贈位状とも呼ぶ。.
践祚
践祚(せんそ)とは、天子の位を受け継ぐことであり、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われる。古くは「践阼」と書き、「践」とは位に就くこと、「阼」は天子の位を意味する。これに続いて位に就いたことを内外に明らかにすることを即位という。.
近衛大将
近衛大将(このえ の だいしょう)は、日本の律令官制における令外官の一つ。宮中の警固などを司る左右の近衛府の長官。左近衛府には左近衛大将(さこんえのだいしょう)、右近衛府には右近衛大将(うこんえのだいしょう)が置かれ、それぞれ略して「左大将」「右大将」ともいう。定員は各1名で、権官はない。官位相当は従三位。常設武官の最高職で、馬御監の兼任とされた。和訓は「ちかきまもりのつかさのかみ」。.
近衛府
近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。.
舞
舞(まい)とは、日本舞踊のうちメロディに合わせた旋回運動を主としたもの。明治以前には、踊りとは明確に区別されていたが、ダンスの和訳として舞踊という言葉ができ、区別が意識されなくなった「踊り」は跳躍運動から芸能化したものである。このことを指摘したのは折口信夫である。池田(1968)p.20。.
関白
関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.
藤原げん子
藤原 嫄子(ふじわら の げんし(もとこ)、長和5年7月19日(1016年8月24日) - 長暦3年8月28日(1039年9月19日))は、平安時代中期の皇妃。一品式部卿敦康親王の長女、母は具平親王の次女。後朱雀天皇中宮。初名は嫄子女王。.
新しい!!: 藤原教通と藤原げん子 · 続きを見る »
藤原妍子
藤原 妍子(ふじわら の けんし/きよこ、正暦5年3月(994年4月) - 万寿4年9月14日(1027年10月16日))は、摂政藤原道長の次女。母は源倫子。第67代三条天皇中宮。別名枇杷殿皇太后。子女は禎子内親王(後朱雀天皇皇后)。同母の兄弟に頼通・教通、上東門院彰子・威子・嬉子。.
藤原威子
藤原 威子(ふじわら の いし/たけこ、長保元年12月23日(1000年2月1日) - 長元9年9月6日(1036年9月28日))は、平安時代中期の女性。摂政藤原道長の娘。母は源倫子。第68代後一条天皇中宮。別名大中宮。子女は章子内親王(後冷泉天皇中宮)、馨子内親王(後三条天皇中宮)。同母の兄弟に頼通・教通、上東門院彰子・妍子・嬉子。.
藤原嬉子
藤原 嬉子(ふじわら の きし/ よしこ、寛弘4年1月5日(1007年1月26日) - 万寿2年8月5日(1025年8月30日))は、摂政藤原道長の六女。母は源倫子。尚侍。第69代後朱雀天皇の東宮妃、第70代後冷泉天皇生母。贈皇太后。同母の兄弟に頼通・教通、上東門院彰子・妍子・威子。.
藤原定頼
藤原 定頼(ふじわら の さだより)は平安時代中期の公家・歌人。権大納言・藤原公任の長男。中古三十六歌仙の一人。小倉百人一首では権中納言定頼。.
藤原寛子 (藤原道長女)
藤原 寛子(ふじわら の かんし/ ひろこ、長保元年(999年) - 万寿2年7月9日(1025年8月5日))は、藤原道長の三女。母は源明子。敦明親王(小一条院)妃。別名高松殿女御。なお、長和2年9月16日(1013年10月23日)に道長の娘たちが叙位された件について『御堂関白記』には、提子、『小右記』には媞子という名称で登場(従三位に叙任された)しており、寛子は後の改名であったと考えられている。.
新しい!!: 藤原教通と藤原寛子 (藤原道長女) · 続きを見る »
藤原尊子 (藤原道長女)
藤原 尊子(ふじわら の そんし/たかこ、長保5年(1003年)? - 寛治元年7月7日(1087年8月7日)?)は、藤原道長の五女。母は源明子。太政大臣源師房正室。子に源俊房・顕房・仁覚・麗子(藤原師実正室)・妧子(藤原通房正室)・澄子らがいる。初名は隆子。なお、初名については父・道長の『御堂関白記』や藤原実資の『小右記』に記されており、婚姻時に夫の姉で尊子の異母兄藤原頼通の正室でもあった隆姫女王(具平親王女)の名前と重なるために改名したと考えられている。.
新しい!!: 藤原教通と藤原尊子 (藤原道長女) · 続きを見る »
藤原師実
藤原 師実(ふじわら の もろざね)は、平安時代中期から後期(院政期)にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原頼通の六男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。.
藤原彰子
藤原 彰子(ふじわら の しょうし/あきこ、永延2年(988年) - 承保元年10月3日(1074年10月25日)は、第66代一条天皇の皇后(号は中宮)。第68代後一条天皇・第69代後朱雀天皇の生母(国母)、女院。院号を上東門院(じょうとうもんいん)といい、のちには大女院(おおにょいん)とも呼ばれた。 女房に『源氏物語』作者の紫式部、王朝有数の歌人として知られた和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門、続編の作者と伝えられる出羽弁、そして「古の奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬる哉」の一句が有名な歌人の伊勢大輔などを従え、華麗な文芸サロンを形成していた。.
藤原信家
藤原 信家(ふじわら の のぶいえ)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家、関白太政大臣・藤原教通の長男。官位は正二位・権大納言。山井第を伝領したことから山井大納言と号した。.
藤原信長
藤原 信長(ふじわら の のぶなが)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家、関白太政大臣・藤原教通の三男。官位は従一位・太政大臣。.
藤原北家
藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.
藤原公任
藤原 公任(ふじわら の きんとう)は、平安時代中期の公卿・歌人。関白太政大臣・藤原頼忠の長男。小倉百人一首では大納言公任。.
藤原経家
藤原 経家(經家)(ふじわら の つねいえ).
藤原経家 (権中納言)
藤原経家(ふじわら の つねいえ)は、日本の平安時代の公卿。.
新しい!!: 藤原教通と藤原経家 (権中納言) · 続きを見る »
藤原経通
藤原 経通(ふじわら の つねみち)は、平安時代の公卿。藤原懐平の長男。土御門帥と号す。.
藤原隆家
藤原 隆家(ふじわら の たかいえ)は、平安時代中期の貴族。藤原道隆の四男(高階貴子を母とする兄弟では次男).
藤原道長
藤原 道長(ふじわら の みちなが)は、平安時代の中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男(または四男)。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。 父・兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男・伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。 一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが三条天皇とは深刻な対立が生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。さらには、六女の嬉子を後の後朱雀天皇となる敦良親王に入侍させた。晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けた。.
藤原頼宗
藤原 頼宗(ふじわら の よりむね)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の次男。官位は従一位・右大臣。堀河右大臣と号す。.
藤原頼通
藤原 頼通(ふじわら の よりみち)は、平安時代中期から後期にかけての公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣藤原道長の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。 父・道長から若くして後一条天皇の摂政を譲られ、その後見を受ける。父の死後は朝政の第一人者として後朱雀天皇・後冷泉天皇の治世にて、関白を50年の長きに亘って務め、父道長と共に藤原氏の全盛時代を築いた。現代に残るその栄華の象徴が頼通が造営した平等院鳳凰堂である。 しかし、天皇の后にした娘が男子に恵まれなかったばかりか、刀伊の入寇・平忠常の乱・前九年の役など戦乱が相次ぐなど、朝廷の内外からそれまでの絶対的な権力体制を揺さぶられる事態が生じた。そこに加えて晩年には頼通と疎遠な後三条天皇が即位したこともあり、摂関家の権勢は衰退へ向かい、やがて院政と武士の台頭の時代へと移ることになる。.
藤原行成
藤原 行成(ふじわら の ゆきなり/こうぜい)は、平安時代中期の廷臣。藤原北家、右少将・藤原義孝の長男。官位は正二位・権大納言。一条朝四納言(「寛弘の四納言」)の一。世尊寺家の祖。 当代の能書家として三蹟の一人に数えられ、その書は後世「権蹟」(ごんせき)と称された。書道世尊寺流の祖。.
藤原顕家
藤原 顕家(ふじわら の あきいえ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人。従三位・藤原重家の次男。九條を号す。.
藤原顕信
藤原 顕信(ふじわらの あきのぶ)は、平安時代中期の貴族・僧。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の三男。官位は従四位下・右馬頭。.
藤原能信
藤原 能信(ふじわら の よしのぶ)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の四男。官位は正二位・権大納言、贈正一位、太政大臣。.
藤原通基 (侍従)
藤原 通基(ふじわら の みちもと)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、関白・太政大臣・藤原教通の次男。官位は正三位・侍従。.
新しい!!: 藤原教通と藤原通基 (侍従) · 続きを見る »
藤原歓子
藤原 歓子(ふじわら の かんし、治安元年(1021年) - 康和4年8月17日(1102年9月30日))は平安時代後期の后妃。名は「よしこ」とも読む。第70代後冷泉天皇の皇后。通称、小野皇太后。 関白藤原教通の三女。母は大納言藤原公任の長女(1000年 - 1024年)。同母の兄弟に権大納言信家、侍従通基、太政大臣信長、権大僧都静覚(1024年 - 1083年)、同母姉に後朱雀天皇女御生子(1014年 - 1068年)、尚侍真子(1016年 - 1087年)、異母兄に権僧正静円(母は小式部内侍、1016年 - 1074年)がいる。.
藤原氏
藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.
藤原斉信
藤原 斉信(ふじわら の ただのぶ)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、太政大臣・藤原為光の次男。官位は正二位・大納言。四納言の一人。.
藤氏長者
藤氏長者(とうしのちょうじゃ)は、藤原氏一族全体の氏長者のこと。.
藤木孝
藤木 孝(ふじき たかし、1940年3月5日 - )は、静岡県富士宮市出身の俳優、歌手。ホリプロ所属。本名は遠藤 與士彦(えんどう よしひこ)。 昭和40年代後半から50年代にかけて、藤木 敬士(読みは同じ)と芸名を改めて活動していた。.
蔭位
蔭位(おんい)とは日本の律令制体制のなかで、高位者の子孫を父祖である高位者の位階に応じて一定以上の位階に叙位する制度である。蔭階(おんかい)とも。父祖のお蔭で叙位するの意。この仕組を蔭位制(おんいのせい・蔭位の制)とも呼ぶ。 大宝律令によって制定される。選叙令によれば子孫が21歳以上になったとき叙位され、蔭位資格者は皇親・五世王の子、諸臣三位以上の子と孫、五位以上の子である。勲位・贈位も蔭位の適用を受ける。蔭位の制は唐の律令制にあった任子の制に倣った制度だが中国の制度よりも資格者の範囲は狭く、与えられる位階は高い。そこに、日本の家柄を重視する貴族社会の特性をみることができる。; 皇族・諸王.
長徳
長徳(ちょうとく)は、日本の元号の一つ。正暦の後、長保の前。995年から999年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.
長信
長信(ちょうしん、長和3年(1014年) - 延久4年9月30日(1072年11月12日))は、平安時代中期の真言宗の僧侶。父は摂政藤原道長。母は源重光の娘。通称は池辺僧正。 仁和寺観音院の延尋(源扶義の子)の元に入門して出家、永承3年(1047年)に同院で性信入道親王から灌頂を受ける。永承5年(1049年)に東寺に移って権少僧都・一身阿闍梨となる。天喜2年(1054年)には東寺と真言宗全体の長である第29代東寺長者に任じられて法印に昇進する。治暦2年(1066年)権僧正となり、この年の旱魃に際して僧侶20人を率いて雨乞いの修法を行った。延久2年(1070年)には僧正に任じられて、翌年には東寺内に池坊を建立してそこに居住する。後三条天皇の信任が厚く、この年には百官を連れて長信の元を訪れ、封戸25戸を下賜された。晩年は仁和寺などの別当を務めた。 Category:御堂流 Category:真言宗の僧 Category:平安時代の僧 Category:1014年生 Category:1072年没.
長和
長和(ちょうわ)は、日本の元号の一つ。寛弘の後、寛仁の前。1012年から1016年までの期間を指す。この時代の天皇は三条天皇、後一条天皇。.
長元
長元(ちょうげん)は、日本の元号の一つ。万寿の後、長暦の前。1028年から1036年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇、後朱雀天皇。.
長暦
長暦(ちょうりゃく)は、日本の元号の一つ。長元の後、長久の前。1037年から1040年までの期間を指す。この時代の天皇は後朱雀天皇。.
長氏
長氏(ちょうし)は、日本の氏族のひとつ。能登の国人領主。畠山七人衆であるとともに加賀八家の一つ。.
東宮傅
東宮傅(とうぐうのふ)は、律令制に定められた皇太子(東宮)付きの教育官の一つである。 皇太子に道徳を説いて輔導する常設官である。定員一名で官位は従四位上相当。大臣が兼ねることが多く、大納言が兼任する例も見られる。 唐の太子三師を模倣したものである。東宮において太政大臣に相当するが皇太子の家政を担当する春宮坊や東宮学士とは独立の関係にあり指揮権限はないに等しい。東宮学士同様、下部機構も上部機構も持たないため式部省が勤務評定を行う。平安時代中期から春宮坊に対して東宮学士と併せて「東宮職」と呼ばれることがある。皇太子傅とも。.
栄花物語
『栄花物語』(えいがものがたり)は、平安時代の歴史物語。仮名文。女性の手になる編年体物語風史書。.
検非違使
『伴大納言絵詞』に描かれた検非違使 知恩院を警護する検非違使 検非違使(けびいし、けんびいし)は日本の律令制下の令外官の役職である。「非違(非法、違法)を検察する天皇の使者」の意。検非違使庁の官人。佐と尉の唐名は廷尉。京都の治安維持と民政を所管した。また、平安時代後期には令制国にも置かれるようになった。.
橘道貞
橘 道貞(たちばな の みちさだ、生年不詳 - 長和5年4月16日(1016年5月24日))は、平安時代中期の官僚。橘仲任の子。官位は正四位下・陸奥守。 和泉守、陸奥守などを歴任した地方官僚でいわゆる受領階級に属する。他に京官として太皇太后宮権大進を務めた。藤原道長の側近で、兄とともに「道」の字を与えられたという。長保5年(1016年)朝卒去。享年不明。.
正三位
正三位(しょうさんみ)とは、位階及び神階のひとつ。従二位の下、従三位の上に位する。日本では「おおいみつのくらい」とも読む。.
正一位
正一位(しょういちい)は、位階及び神階のひとつ。諸王及び人臣における位階・神社における神階の最高位に位し、従一位の上にあたる。.
正二位
正二位(しょうにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。従一位の下、従二位の上に位する。.
正五位
正五位(しょうごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。従四位の下、従五位の上に位する。贈位の場合、贈正五位という。.
殿上人
殿上人(てんじょうびと)とは、9世紀以降の日本の朝廷において、天皇の日常生活の場である清涼殿の殿上間に昇ること(昇殿)を許された者である。狭義には、公卿を除いた四位以下の者を指す。またその中から更に蔵人も除いて指す場合もある。雲上人(くものうえびと、うんじょうびと)、上人(うえびと)、雲客(うんかく)、堂上(とうしょう)、簡衆(ふだのしゅう)などとも称す。殿上人に対する概念として、昇殿を許されない「地下」(じげ)がある。 狭義の殿上人は、蔵人とともに、殿上間に置かれた日給簡(殿上簡、仙籍)に登録され、蔵人頭の管理下に、交替で天皇の身辺に日夜、仕えた。昇殿制の始まった当初は数名の六位の殿上人もいたが、おおよそは四位・五位に限られた。これに対し、蔵人は六位からも任じられた。 また、院や東宮等にも昇殿の制度があり、昇殿を許されたものを「院殿上人」等と称した。院の殿上人と内裏の殿上人を区別して、後者を「内の殿上人」(うちのてんじょうびと)等とも言う。 昇殿を許されるのは、天皇や院、東宮の一代限りであり、代替わりにあたっては昇殿許可を失い、再び昇殿するには改めて勅許が必要であった。また殿上人本人の昇階の際にも、再度の勅許が必要であった。.
永承
永承(えいしょう)は、日本の元号の一つ。寛徳の後、天喜の前。1046年から1052年までの期間を指す。この時代の天皇は後冷泉天皇。.
治暦
治暦(じりゃく)は、日本の元号の一つ。康平の後、延久の前。1065年から1068年までの期間を指す。この時代の天皇は後冷泉天皇、後三条天皇。.
源師房
源 師房(みなもと の もろふさ)は、平安時代中期の公卿・歌人。村上源氏中院流の祖。村上天皇の皇子具平親王の子。従一位・右大臣。土御門右大臣と号した。幼名は万寿宮。.
源倫子
源 倫子(みなもと の りんし、康保元年(964年)- 天喜元年6月1日(1053年6月19日))は、平安時代中期の貴族女性で、藤原道長の正室。父は左大臣源雅信、母は藤原穆子。兄弟に源時中、源時通、源扶義、源時方、源通義、大僧正済信、寂源など。法名は清浄法。.
源雅信
源 雅信(みなもと の まさざね、延喜20年(920年) - 正暦4年7月29日(ユリウス暦993年8月19日))は、平安時代中期の貴族。宇多天皇の皇子である敦実親王の三男で宇多源氏の祖。藤原氏全盛期を築いた藤原道長の正室である源倫子の父。従一位・左大臣。贈正一位。一条左大臣又は鷹司左大臣と号した。出家後の法名は覚実。.
朝廷
朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。.
春宮坊
春宮坊(とうぐうぼう)は日本古代の律令制において存在した機関。和訓は「みこのみやのつかさ」。.
昇殿
昇殿(しょうでん)とは、平安時代以降の日本の朝廷において、内裏清涼殿の南廂にある殿上の間に昇ることを許すことである。昇殿による身分体系の制度を昇殿制(しょうでんせい)という。 公卿(三位以上および四位を含む参議以上の議政官)は原則的に昇殿が許され、この他に四位以下(参議を除く)の特定の官人および蔵人に、勅許(宣旨)によって昇殿が許された。この勅許は、天皇の代替わりによって効力を失なった。四位以下の昇殿を許された者は殿上人として特権的な待遇を受けたため、位階・官職を補う身分制度として、重要な意味を有した。中世以降には家格によって昇殿の対象者が決まるようになり、殿上人となり得る家を堂上家と呼んだ。 院や女院、皇后や東宮も、それぞれの御所において昇殿の制度があった。これらを内裏の昇殿と区別するには、内裏のものを「内の昇殿」(うちのしょうでん)、院のものを「院の昇殿」等と言う。 また、有力家の子弟が、元服前に小舎人として昇殿を許されて宮中に参仕する制度があり、童殿上(わらわてんじょう)と言った。.
斎宮
斎宮の復元擬態(斎王まつり)三重県明和町 斎宮(さいぐう/さいくう/いつきのみや/いわいのみや)は古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所(現在の斎宮跡)であるが、平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指した。後者は伊勢斎王や伊勢斎宮とも称する。.
旺文社
株式会社旺文社(おうぶんしゃ、Obunsha Co., Ltd.)は、1931年(昭和6年)に創業した教育専門の出版社。戦後日本の受験文化の成立に影響を与え、受験がひとつの産業になり得ることを証明した出版社でもある。.
摂家
摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.
摂政
摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことが出来ない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。 多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。.
敦明親王
敦明親王(あつあきらしんのう、正暦5年5月9日(994年6月20日) - 永承6年1月8日(1051年2月21日))は、平安時代中期の皇族。第67代三条天皇の第一皇子。母は皇后・藤原娍子(大納言・藤原済時の女)。尊号は小一条院(こいちじょういん)。藤原道長の圧力の前に自ら皇太子の身位を辞退し、その見返りに准太上天皇としての待遇を得たことで知られる。.
数研出版
数研出版株式会社(すうけんしゅっぱん)は、教科書(教科用図書)や参考書、問題集の発行を中心とした出版社である。 中学校、高等学校向けの文部科学省検定済教科書、教科書傍用問題集、参考書、受験用問題集や一般書のほか、学校向けソフトウェアなどを発行している。.
承保
承保(じょうほ、じょうほう)は、日本の元号の一つ。延久の後、承暦の前。1074年から1076年までの期間を指す。この時代の天皇は白河天皇。.
1006年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1006年 · 続きを見る »
1007年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1007年 · 続きを見る »
1008年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1008年 · 続きを見る »
1009年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1009年 · 続きを見る »
1010年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1010年 · 続きを見る »
1011年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1011年 · 続きを見る »
1012年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1012年 · 続きを見る »
1013年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1013年 · 続きを見る »
1014年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1014年 · 続きを見る »
1015年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1015年 · 続きを見る »
1017年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1017年 · 続きを見る »
1019年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1019年 · 続きを見る »
1020年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1020年 · 続きを見る »
1021年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1021年 · 続きを見る »
1030年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1030年 · 続きを見る »
1037年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1037年 · 続きを見る »
1039年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1039年 · 続きを見る »
1045年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1045年 · 続きを見る »
1046年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1046年 · 続きを見る »
1047年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1047年 · 続きを見る »
1049年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1049年 · 続きを見る »
1051年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1051年 · 続きを見る »
1057年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1057年 · 続きを見る »
1060年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1060年 · 続きを見る »
1062年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1062年 · 続きを見る »
1064年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1064年 · 続きを見る »
1067年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1067年 · 続きを見る »
1068年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1068年 · 続きを見る »
1069年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1069年 · 続きを見る »
1070年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1070年 · 続きを見る »
1071年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1071年 · 続きを見る »
1075年
記載なし。
新しい!!: 藤原教通と1075年 · 続きを見る »
11月6日
11月6日(じゅういちがつむいか)はグレゴリオ暦で年始から310日目(閏年では311日目)にあたり、年末まであと55日ある。.
新しい!!: 藤原教通と11月6日 · 続きを見る »
6月7日 (旧暦)
旧暦6月7日(きゅうれきろくがつなのか)は旧暦6月の7日目である。六曜は赤口である。.
新しい!!: 藤原教通と6月7日 (旧暦) · 続きを見る »
7月29日
7月29日(しちがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から210日目(閏年では211日目)にあたり、年末まであと155日ある。誕生花はサボテン、エキザカム。.
新しい!!: 藤原教通と7月29日 · 続きを見る »
996年
記載なし。
9月25日 (旧暦)
旧暦9月25日は旧暦9月の25日目である。六曜は先負である。.
新しい!!: 藤原教通と9月25日 (旧暦) · 続きを見る »