300 関係: 加藤鐐五郎、埼玉県、厚生大臣、原健三郎、原文兵衛、千種忠顕、南原繁、台北帝国大学、右大臣、参議院議長、名古屋大学、名誉教授、坂田道太、塾長、大審院、大内義隆、大納言、大鳥圭介、大阪大学、大野伴睦、大村純熈、大村益次郎、天野貞祐、外務大臣 (日本)、学習院、宮内庁、宮内庁式部職、宮内庁東宮職、宮澤俊義、官位相当制、宇佐美毅 (宮内庁長官)、宇野宗佑、安井謙、安倍晋太郎、安藤広太郎、寺田治郎、小原直、山田三良、山梨勝之進、岡原昌男、岡田忠彦、島津忠久、川島正次郎、左大臣、上杉謙信、中山伊知郎、中村梅吉、三谷隆信、三浦謹之助、下田武三、...、下条康麿、一橋大学、幣原坦、平岩外四、平清盛、平成、平成輔、平時子、京都大学、人事官、人事院、二階堂進、広島大学、広瀬久忠、井上裕、今出川公言、建設大臣、会計検査院、伊藤宗一郎、位階、佐藤尚武、佐藤達夫 (法制官僚)、侍従、御台所、御三卿、徳川将軍家、徳川御三家、徳川綱條、徳川義寛、徳川昭武、徳永正利、後藤文夫、従七位、従三位、従五位、従六位、従四位、律令制、保利茂、土屋義彦、土光敏夫、北里柴三郎、北条政子、ノーベル賞、内大臣、内務大臣 (日本)、内田祥三、内閣総理大臣、入江俊郎、入江相政、八代六郎、八木秀次、公卿、前尾繁三郎、前田利常、前田米蔵、前田綱紀、前田慶寧、副総理、勝沼精蔵、国務大臣、皇族、矢口洪一、石井光次郎、石田和外 (裁判官)、石黒忠篤、石橋湛山、灘尾弘吉、神階、福井謙一、福田一、福永健司、稲田周一、穂積重遠、立入宗継、立教大学、管領、紀貫之、羽田孜、羽田亨、真島利行、田中二郎、田中芳男、田中舘愛橘、田村元、由利公正、町村信孝、熊谷岱蔵、牧野英一、特命全権大使、片山哲、牛場信彦、益谷秀次、芦田均、芳澤謙吉、鎌倉公方、運輸通信省 (日本)、青木一男、衆議院議長、西岡武夫、西村英一、高倉天皇、高辻正己、高橋誠一郎、豊田貞次郎、豊臣秀吉、豊臣秀長、財務大臣、貴族院 (日本)、鳥養利三郎、足利将軍家、足利義輝、足利直義、農商務省 (日本)、霜山精一、茅誠司、船田中、阿蘇氏、阿蘇惟豊、関白、藤山愛一郎、藤田尚徳、葉室宗行、蔵人別当、野村吉三郎、重宗雄三、重光葵、金森徳次郎、長岡半太郎、林譲治 (政治家)、東久邇宮稔彦王、東京大学、東北大学、東畑精一、松平康昌、松野鶴平、松村謙三、村上朝一、栄典、森鴎外、森戸辰男、椎名悦三郎、楠木正行、横田喜三郎、横田正俊、櫻内義雄、正力松太郎、正室、正七位、正三位、正二位、正五位、正八位、正六位、正四位、正田建次郎、武井守成、水田三喜男、江戸時代、池田輝政、河井彌八、河野一郎、河野謙三、河本文一、法務大臣、渡辺美智雄、清瀬一郎、湯川秀樹、服部高顯、朝永振一郎、有松英義、最高裁判所裁判官、最高裁判所長官、戦国時代 (日本)、戸田忠至、戸沢正実、我妻栄、星島二郎、春宮坊、昭和、海軍大将、文部大臣 (日本)、日野資朝、日本学士院、日本学術会議、日本学術振興会、日本国憲法、日本経済団体連合会、日本芸術院、愛知揆一、慶應義塾、1949年、1950年、1951年、1952年、1953年、1954年、1955年、1957年、1958年、1959年、1960年、1961年、1962年、1963年、1964年、1965年、1966年、1967年、1969年、1970年、1971年、1972年、1973年、1974年、1975年、1976年、1977年、1978年、1979年、1980年、1981年、1982年、1983年、1984年、1985年、1986年、1987年、1988年、1990年、1991年、1993年、1994年、1995年、1996年、1997年、1998年、1999年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2006年、2007年、2008年、2011年、2014年、2015年、2017年。 インデックスを展開 (250 もっと) »
加藤鐐五郎
加藤 鐐五郎(かとう りょうごろう、1883年3月11日 - 1970年12月20日)は、日本の政党政治家。衆議院議長(第48代)、法務大臣(第4代)。.
埼玉県
埼玉県(さいたまけん)は、関東地方の中央西側内陸部に位置する県。県庁所在地はさいたま市。都道府県別の人口は東京、神奈川、大阪、愛知に次ぐ全国第5位。人口密度は東京、大阪、神奈川に次ぐ全国第4位である。県の愛称は「彩の国」。.
厚生大臣
厚生大臣(こうせいだいじん)は、主権国家において福祉政策の立案を補佐する政府の閣僚。または厚生相(こうせいしょう)とも。.
原健三郎
原 健三郎(はら けんざぶろう、1907年2月6日 - 2004年11月6日)は、日本の政治家。 衆議院議員(20期)、衆議院議長(第65代)、衆議院副議長(第43代)を務め、また国務大臣としては労働大臣(第29代・第31代)、国土庁長官(第9代)、北海道開発庁長官(第43代)を歴任。位階は従二位。勲等は勲一等旭日桐花大綬章。.
原文兵衛
原 文兵衛(はら ぶんべえ、1913年(大正2年)4月29日 - 1999年(平成11年)9月7日)は、日本の内務官僚、政治家。位階は従二位、勲等は勲一等旭日桐花大綬章。 参議院議長(第20代)、環境庁長官(第13代)、自由民主党参議院議員会長(第17代)、女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)の理事長等を歴任した。 妻の光子は町村農場創設者・町村敬貴の娘。元北海道知事の町村金五は妻の叔父、衆議院議員の町村信孝は妻の従弟にあたる。娘婿は参議院議員の中川雅治。.
千種忠顕
千種 忠顕(ちぐさ ただあき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿(公家)。権中納言六条有忠の次男。千種家の祖。官位は従三位参議、贈従二位。.
南原繁
南原 繁(なんばら しげる、1889年〈明治22年〉9月5日 - 1974年〈昭和49年〉5月19日)は、日本の政治学者。東京帝国大学の総長を務めた。東京大学名誉教授。.
台北帝国大学
在の国立台湾大学 正門 台北帝国大学(旧字体:臺北帝國大學 たいほくていこくだいがく)は、日本統治時代の台湾に設置された帝国大学。大学の略称は台大(たいだい)。1945年11月15日に中華民国が接収し国立台湾大学と改称、現在に至る。 日本統治時代の1928年(昭和3年)3月16日に7番目の帝国大学として設立される。 内地の帝国大学が文部省の管轄であったのに対し、台北帝国大学は台湾総督府の管轄であった。 当初は文政学部と理農学部の二学部が設置され、1928年4月より開講した。さらに1941年(昭和16年)には予科(豫科)も作られた。1945年(昭和20年)度時点での学部構成は、文政学部、理学部、農学部、医学部、工学部であった。.
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右大臣
右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.
参議院議長
参議院議長(さんぎいんぎちょう)は、参議院において秩序を保持し、議事を整理し、議院の事務を監督し、参議院を代表する役職(国会法19条)。なお、参議院議長の職務を代行する職である参議院副議長や仮議長についても述べる。.
名古屋大学
※ここまでは上記テンプレートへ入力すれば自動的に反映されます。 --> 文部科学省が実施しているスーパーグローバル大学事業のトップ型指定校であり、上海交通大学発行の世界大学ランキングにおいて世界84位と評される。.
名誉教授
名誉教授(めいよきょうじゅ、professor emeritus / emeritus professor)とは、国内法では大学(短期大学を含む)、高等専門学校などの高等教育機関に教授などとして勤務した者であって、功績のあった者に対して授与される称号。法的・国際的に認められた栄誉称号であり学術称号の一つ。日本では学校教育法にその根拠規定があり、それぞれ大学または高等専門学校の規程・規則の定めるところにより授与される。.
坂田道太
坂田 道太(さかた みちた、1916年7月18日 - 2004年1月13日)は、日本の政治家。 衆議院議長(第64代)、法務大臣(第40代)、防衛庁長官(第33代)、文部大臣(第91・92代)、厚生大臣(37代)、衆議院議員(17期)等を歴任した。 父は衆議院議員や八代市長を務めた坂田道男。.
塾長
塾長(じゅくちょう).
大審院
大審院(だいしんいん、たいしんいんNHK放送文化研究所編『ことばのハンドブック 第2版』では放送上の表現としては「だいしんいん」ではなく「たいしんいん」と読むと解説されている(NHK放送文化研究所編 『ことばのハンドブック 第2版』 p.122 2005年))は、明治時代初期から昭和時代前期まで日本に設置されていた最高裁判所。.
大内義隆
大内 義隆(おおうち よしたか)は、戦国時代の武将、守護大名・戦国大名。 周防国の在庁官人・大内氏の第16代当主 。第15当主・大内義興の嫡男。母は正室の内藤弘矩の娘。周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めた。官位は従二位兵部卿兼大宰大弐兼侍従。また義隆の時代には大内文化が爛熟し、西国の地方政権大内政権を築いて大内家は領土的に全盛期を迎えたが、文治政治に不満を抱いた一族でもある家臣の陶隆房に謀反を起こされ、義隆と一族は自害して、大内家は事実上滅亡した。.
大納言
大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.
大鳥圭介
大鳥 圭介(おおとり けいすけ、天保4年2月25日(1833年4月14日) - 明治44年(1911年)6月15日)は、日本の西洋軍学者、幕臣、軍人、官僚、外交官。正二位勲一等男爵。家紋は鶴の丸。.
大阪大学
文部科学省が実施しているスーパーグローバル大学事業のトップ型指定校である。.
大野伴睦
大野 伴睦(おおの ばんぼく、本名:大野 伴睦(おおの ともちか)、1890年(明治23年)9月20日 - 1964年(昭和39年)5月29日)は日本の政治家。 東京市会議員を経て衆議院議員となり、衆議院議長、国務大臣北海道開発庁長官、日本自由党幹事長、自民党副総裁を務めた。没後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。 典型的な党人政治家として知られ、「伴ちゃん」の愛称で親しまれた。また、「政治は義理と人情だ」「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」等の名言を残した。 タカ派の政策集団・青嵐会を結成し、後に農林水産大臣・科学技術庁長官などを務めた中川一郎の政界での師匠として知られる。.
大村純熈
大村 純熈(おおむら すみひろ)は、肥前大村藩の第12代(最後)の藩主。.
大村益次郎
大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政7年5月3日(1824年5月30日) - 明治2年11月5日(1869年12月7日)は、幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者である。維新の十傑の一人に数えられる。 長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。靖国神社の参道中央に像がある理由もこのためであるとされる。元の名字は村田、幼名は宗太郎、通称は蔵六、良庵(または亮庵)、のちに益次郎。雅号は良庵・良安・亮安。諱は永敏(ながとし)。位階は贈従二位。家紋は丸に桔梗。.
天野貞祐
天野 貞祐(あまの ていゆう、1884年9月30日 - 1980年3月6日)は、大正・昭和期の日本の哲学者・教育者・文学博士。京都帝国大学名誉教授。甲南高等学校校長。第二次世界大戦後は第一高等学校校長・文部大臣(第3次吉田内閣)を務めた後に獨逸学協会学校を母体として創立された獨協大学の初代学長を務めた。文化功労者。武蔵野市名誉市民。.
外務大臣 (日本)
外務省庁舎 外務大臣(がいむだいじん、)は、日本の外交を担当し、外務省を所管する国務大臣。略称は外相(がいしょう)。現在の外務大臣は、河野太郎(第138代)。.
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学習院
学習院初代校舎 学習院(がくしゅういん)は、旧宮内省の外局として設置された国立学校。1947年(昭和22年)に廃止・民営化され、新たに私立学校として再出発した。.
宮内庁
宮内庁(くないちょう、Imperial Household Agency)は、日本の行政機関の一つである。 「皇室関係の国家事務、天皇の国事行為にあたる外国の大使・公使の接受に関する事務、皇室の儀式に係る事務をつかさどり、御璽・国璽を保管する内閣府の機関」である。 なお、宮内庁はかつて総理府の外局」であったが、現在は内閣府の外局(内閣府設置法第49条・第64条)ではなく「内閣府に置かれる独自の位置づけの機関」とされている(内閣府設置法48条)。官報の掲載では内閣府については「外局」ではなく「外局等」として宮内庁を含めている。.
宮内庁式部職
式部職(しきぶしょく)は、宮内庁の内部部局のひとつである。.
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宮内庁東宮職
東宮職の事務室がある東宮御所。 東宮職(とうぐうしょく)は、宮内庁の内部部局のひとつ。皇太子と皇太子妃、またその子女らの家政機関。皇太子の別称である「東宮」に因む。.
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宮澤俊義
宮澤 俊義(みやざわ としよし、1899年(明治32年)3月6日 - 1976年(昭和51年)9月4日)は、日本の法学者。専攻は憲法。東京大学名誉教授。貴族院議員。長野県長野市出身。.
官位相当制
官位相当制(かんいそうとうせい)とは、日本の律令制において、官人に付与する位階と官職との間に一定の相当関係を設定した官僚序列システム。.
宇佐美毅 (宮内庁長官)
宇佐美 毅(うさみ たけし、1903年(明治36年)12月9日 - 1991年(平成3年)1月19日)は、日本の官僚。第2代宮内庁長官。従二位勲一等旭日大綬章。.
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宇野宗佑
宇野 宗佑(うの そうすけ、1922年(大正11年)8月27日 - 1998年(平成10年)5月19日)は、日本の政治家。位階は従二位。勲等は勲一等。 滋賀県議会議員(2期)、滋賀県議会副議長(第45代)、衆議院議員(12期)、防衛庁長官(第32代)、科学技術庁長官(第31代)、行政管理庁長官(第44代)、通商産業大臣(第44代)、外務大臣(第115代)、内閣総理大臣(第75代)、自由民主党国会対策委員長、自由民主党総裁(第13代)などを歴任。平成の内閣総理大臣で学士の学位を持たない唯一の人物である。.
安井謙
安井 謙(やすい けん、1911年3月22日 - 1986年3月10日)は、日本の政治家。参議院議長(第13代)、参議院副議長(第11代)、自治大臣(第4代)、国家公安委員会委員長(第13代)、総理府総務長官(第14代)、参議院議院運営委員長(第16代)、自由民主党参院議員会長(第9代)・参議院幹事長、参議院議員(6期)等を歴任した。 兄は戦後、公選の初代東京都知事を務めた安井誠一郎。.
安倍晋太郎
安倍 晋太郎(あべ しんたろう、1924年(大正13年)4月29日 - 1991年(平成3年)5月15日)は、日本の政治家。 衆議院議員、農林大臣、官房長官、通産大臣、外務大臣、自民党国対委員長、自民党政調会長、自民党総務会長、自民党幹事長を歴任。.
安藤広太郎
銅像(丹波市柏原町の生家跡地) 安藤 広太郎(あんどう ひろたろう、1871年9月15日(明治4年8月1日) - 1958年(昭和33年)10月14日)は、明治から昭和期における農政家、農学者。農学博士人事興信所、1921年、あ9頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年5月30日閲覧。。 加藤茂苞との共同研究で、世界で初めてイネの人為交配による新種の作成に成功したことで知られる。 九州帝国大学、東京帝国大学農学部教授を併任、農商務省農事試験場長、内閣顧問。文化勲章受章。.
寺田治郎
寺田 治郎(てらだ じろう、1915年(大正4年)11月4日 - 2002年(平成14年)3月17日)は、日本の裁判官。第10代最高裁判所長官。.
小原直
小原 直(おはら なおし、1877年(明治10年)1月24日 - 1967年(昭和42年)9月8日)は、日本の検察官、政治家、弁護士。岡田内閣、阿部内閣、第5次吉田内閣で司法大臣・法務大臣などの閣僚を務める。新潟県長岡市出身。.
山田三良
山田 三良(やまだ さぶろう、1869年12月10日(明治2年11月8日) - 1965年(昭和40年)12月17日)は、日本の国際私法学者。法学博士。法華会創立者。.
山梨勝之進
山梨 勝之進(やまなし かつのしん、1877年(明治10年)7月26日 - 1967年(昭和42年)12月17日)は、日本の海軍軍人。海兵25期次席。最終階級は海軍大将。従二位勲一等。 主だった軍歴を軍政部門に歩み、山本権兵衛・加藤友三郎の系譜を継ぐ人と目されていた、いわゆる条約派の1人。また帝国海軍の77名の大将のうち、艦隊司令長官職を経験していない9名のうちの1人である。.
岡原昌男
岡原 昌男(おかはら まさお、1909年(明治42年)4月1日 - 1994年(平成6年)7月14日)は、日本の検察官。第8代最高裁判所長官を務めた。.
岡田忠彦
岡田 忠彦(おかだ ただひこ、1878年3月21日 - 1958年10月30日)は、日本の官僚・政治家、衆議院議員(8期)。第35代衆議院議長。.
島津忠久
島津 忠久(しまづ ただひさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。鎌倉幕府御家人。島津氏の祖。正式な名乗りは惟宗忠久(これむね の ただひさ)という。出自・生年については諸説ある。.
川島正次郎
川島 正次郎(かわしま しょうじろう、1890年(明治23年)7月10日 - 1970年(昭和45年)11月9日)は日本の政治家。旧姓柳原。栄典は従二位勲一等旭日桐花大綬章。衆議院議員(14期)、自治庁長官(第5代)、行政管理庁長官(第13・22代)等を歴任した。.
左大臣
左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.
上杉謙信
上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国の大名。関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。最強の戦国武将の1人といわれ、後世、軍神や越後の虎、越後の龍と称された。 越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として生まれ、初名は長尾 景虎(ながお かげとら)。1561年(景虎31歳)、関東管領・上杉憲政の養子となり山内上杉氏の家督を譲られ(「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられ)上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、上杉氏が世襲していた室町幕府の重職関東管領を引き継いだ。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)と名乗った。謙信は、さらに後に称した法号である。 内乱続きであった越後国を統一し、戦や政だけではなく、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に宿敵武田信玄との5回にわたる川中島の戦いはよく知られている。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大したが48歳で志半ばで死去した。兜は、飯綱明神前立鉄錆地張兜。謙信には実子がおらず、謙信の死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発した。 謙信は、「義」を重んじ、戦乱の世にあっても侵略のための戦いはしない一方、他国から救援を要請されると出兵し、「依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す」(私利私欲で合戦はしない。ただ、道理をもって誰にでも力を貸す)『白河風土記』と述べている。また、謙信が敵将武田信玄の領国甲斐が塩不足に苦しんでいるのを知り、塩を送った逸話から、「敵に塩を送る」という故事も生まれた。.
中山伊知郎
中山 伊知郎(なかやま いちろう、1898年9月20日 - 1980年4月9日)は、日本の経済学者。一橋大学初代学長、一橋大学名誉教授。日本における近代経済学の導入に貢献した。1963年から1980年まで学士院会員。1968年文化功労者。第4期日本学術会議副会長。勲一等瑞宝章受章。.
中村梅吉
中村 梅吉(なかむら うめきち、1901年3月19日 - 1984年8月4日)は日本の政治家、弁護士、第57代衆議院議長(在任期間・1972年12月22日 - 1973年5月29日)。長男は元衆議院議員の中村靖。.
三谷隆信
三谷 隆信(みたに たかのぶ 1892年6月17日 - 1985年1月13日)は、日本の官僚、外交官、教育者。.
三浦謹之助
三浦 謹之助(みうら きんのすけ、1864年4月26日(元治元年3月21日) - 1950年(昭和25年)10月11日)は、日本の医学者(内科学)。東京帝国大学名誉教授。外人教師依存から独立した日本人による内科学を確立した。仏医学を日本に紹介した。神経学を主に、生化学、寄生虫学、脚気など多彩な研究を行った。日本神経学会(1903年)、日本内科学会(1904年)の創立に寄与した。1906年学士院会員、1949年文化勲章。.
下田武三
下田 武三(しもだ たけそう朝日新聞大阪版 1995年1月23日 1面、1907年4月3日 - 1995年1月22日)は、日本の外交官。外務事務次官、駐米大使、最高裁判所判事、日本野球機構コミッショナー。東京府出身。 外交官、外務省官僚としてポツダム宣言の翻訳を始め、日米安全保障条約、沖縄返還、日米繊維交渉など、戦後の日米交渉に深く関与した 。 プロ野球のコミッショナーとしては、時代の求めていたプロ野球と野球界の近代化に手腕を振るった。.
下条康麿
下条 康麿(しもじょう やすまろ、1885年(明治18年)1月20日 - 1966年(昭和41年)4月25日)は、日本の政治家、内務官僚、統計学および社会学者。経済学博士。貴族院議員、参議院議員、吉田茂内閣の文部大臣を歴任した。 厚生大臣を務めた下条進一郎は長男、衆議院議員の下条みつは孫に当たる。.
一橋大学
記載なし。
幣原坦
幣原 坦(しではら たいら、1870年10月12日(明治3年9月18日) - 1953年(昭和28年)6月29日)は、日本の東洋史学者、教育行政官。幼名・徳治郎(とくじろう)。名前の「坦」は「たん」と読まれることもある。 本職は朝鮮史を専攻する歴史家だが、戦前の植民地行政・植民地教育を推進した官僚、教育者としても知られている。.
平岩外四
平岩 外四(ひらいわ がいし、1914年(大正3年)8月31日 - 2007年(平成19年)5月22日)は、愛知県常滑市出身の財界人、経営者。東京電力会長、第7代日本経済団体連合会(経団連)会長(在任、1990年(平成2年)12月21日 - 1994年(平成6年)5月27日)。 財界随一の読書家でもあった。最晩年に城山三郎と共著で『人生に二度読む本』(講談社、2005年)を出版した。 1987年(昭和62年)に名誉大英帝国勲章KBE受勲。1997年(平成9年)、レジオンドヌール勲章受勲。2006年(平成18年)秋の叙勲にて桐花大綬章を受章。.
平清盛
平 清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の武将・公卿。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。.
平成
平成(へいせい)は日本の元号の一つ。昭和の後。今上天皇在位中の1989年(平成元年)1月8日から現在に至る。2001年(平成13年)の始まりには西暦における20世紀から21世紀への世紀の転換もあった。2019年(平成31年)4月30日に今上天皇退位により終了する予定であり、予定通り終了した場合、30年113日間(=11,070日間)にわたることとなる。なお、日本の元号では昭和(64年)、明治(45年)、応永(35年)に次いで4番目の長さである(5番目は延暦の25年)。 西暦2018年(本年)は平成30年に当たる。本項では平成が使われた時代(平成時代)についても記述する。.
平成輔
平 成輔 (たいら の なりすけ)は、鎌倉時代末期の公卿。権中納言平惟輔の子。後醍醐天皇の討幕計画に参加したが、鎌倉幕府に拘束されて斬罪に処された。邸宅地に因んで家名を烏丸と号する。また平宰相とも号した。.
平時子
平 時子(たいら の ときこ、大治元年(1126年) - 文治元年3月24日(1185年4月25日)は、平安時代末期の女性。平清盛の正室(継室)。位階は従二位。二位尼(にいのあま)と称される。中級貴族の平時信の娘で、母は二条大宮(令子内親王)の半物(氏素性は未詳)。権大納言・平時忠の同母姉、平滋子(建春門院)の異母姉。清盛との間に宗盛、知盛、徳子(建礼門院)、重衡らを生む。.
京都大学
記載なし。
人事官
人事官(じんじかん)とは、人事院を組織する国家公務員の特別職である。定数は3人で、うち1人は人事院を代表する人事院総裁を命ぜられる。.
人事院
人事院(じんじいん、National Personnel Authority、略称:NPA)は、日本の行政機関の一つである。 国家公務員法の第2章に基づいて設置された「中央人事行政機関」である。国家公務員の人事管理の公正中立と統一を確保し、労働基本権制約の代償機能を果たすため、いわゆる行政委員会として人事院規則の制定改廃や不利益処分審査の判定、給与に関する勧告など、人事行政に広汎な権限を有する。人事行政の公平を保つため、その権限は内閣から独立して行使することができる。.
二階堂進
二階堂 進(にかいどう すすむ、1909年(明治42年)10月16日 - 2000年(平成12年)2月3日)は、日本の政治家。 衆議院議員(13期)。科学技術庁長官、北海道開発庁長官、内閣官房長官、自由民主党総務会長、自由民主党幹事長、自由民主党副総裁などを歴任。鹿児島県肝属郡高山村(現、肝付町)出身。.
広島大学
文部科学省が実施しているスーパーグローバル大学事業のトップ型指定校であり、旧官立大学の一つでもある。.
広瀬久忠
広瀬 久忠(ひろせ ひさただ、1889年(明治22年)1月22日 - 1974年(昭和49年)5月22日)は日本の官僚、政治家。.
井上裕
井上 裕(いのうえ ゆたか、1927年11月17日 - 2008年6月22日)は、日本の政治家。位階は従二位、勲章は桐花大綬章。 参議院議長(第23・24代)、文部大臣(第115代)、参議院予算委員長、自由民主党参議院議員会長(第22代)、参議院議員(4期)、衆議院議員(1期)、千葉県議会議員(3期)等を歴任した。.
今出川公言
今出川 公言(いまでがわ きんこと、元文3年8月1日(1738年9月14日) - 安永5年8月25日(1776年10月7日))は、江戸時代中期の公卿。主に桜町朝(115代)と桃園朝(116代)の二朝にわたり仕え、官位は正三位権中納言まで昇った(死後、従二位追贈)。父は権大納言今出川誠季。母は権大納言今出川公詮の娘。養子に内大臣今出川実種(西園寺公晃の子)。娘に参議勧修寺良顕の室がいる。 延享3年(1746年)に叙爵されて以降、清華家当主として速いスピードで昇進し、侍従・左近衛権少将を経て、宝暦3年(1753年)には従三位・右近衛中将となり、公卿に列した。さらに宝暦6年(1756年)から宝暦8年(1758年)にかけては権中納言をつとめた。 尊王の志があり、宝暦10年(1760年)の宝暦事件の際には江戸幕府の弾圧により公言も出家させられた。公言を重用していた桃園天皇も幕府の圧力のため死去まで公言の官位も止めざるを得なくなったが、幕府崩壊後の明治24年(1891年)には晴れて名誉回復し、従二位の追贈を受けている。.
建設大臣
建設大臣(けんせつだいじん)は、2001年1月6日まで存在した日本の中央省庁の一つ、建設省の長の職名である。また、前身の建設院総裁同様に国務大臣をもって充てられた。.
会計検査院
会計検査院(かいけいけんさいん、Board of Audit of Japan、略称:BAJ)は、日本の国家機関の一つである。 「国や国の出資する政府関係機関の決算、独立行政法人等の会計、国が補助金等の財政援助を与えている地方公共団体の会計などの検査」を行い、会計検査院法第29条の規定に基づく「決算検査報告を作成すること」を主要な任務としている。作成された決算検査報告は内閣に送付され、内閣は送付された決算検査報告を国会に提出することとなっている。.
伊藤宗一郎
伊藤 宗一郎(いとう そういちろう、1924年3月21日 - 2001年9月4日)は、日本の政治家。衆議院議員を13期務め、在任中には科学技術庁長官、防衛庁長官や衆議院議長などを歴任した。.
位階
位階(いかい)とは、国家の制度に基づく個人の序列の標示である。位(くらい)ともいう。「位階」という語は、基本的には地位、身分の序列、等級といった意味広辞苑 第五版 p.121「位階」である。制度としての「位階」は、元は古代中国の政治行政制度である律令制や、それを継受した国における官僚・官吏の序列の標示(身分制度)である。後には、位階は、長く官職にあった者や特に功績のあった者などに与えられる栄典の一となった。位階を授与することを「位階に叙する」または叙位(じょい)という日本においては平安時代以後、宮中で例年正月5日頃に行われる五位以上の位階を授ける儀式のことも叙位(例の叙位)と言った。。.
佐藤尚武
佐藤 尚武(さとう なおたけ、1882年(明治15年)10月30日 - 1971年(昭和46年)12月18日)は、日本の外交官・政治家。林内閣で外務大臣、戦後には参議院議長等を歴任、第二次世界大戦末期のソ連対日参戦当時の駐ソビエト連邦大使でもあった。 1931年(昭和6年)、勲一等瑞宝章。1934年(昭和9年)、勲一等旭日大綬章、没後勲一等旭日桐花大綬章と従二位を追贈される。.
佐藤達夫 (法制官僚)
佐藤 達夫(さとう たつお、1904年5月1日 - 1974年9月12日)は、日本の法制官僚。法制局長官、人事院総裁。.
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侍従
服をまとった侍従(大阪歴史博物館) 侍従(じじゅう)とは、広義では(しばしば高貴な立場の)ある人物に付き従い、身の回りの世話などをする行為、または従う者そのものを指す。日本においては、特に天皇に側近奉仕する文官や位を意味するため、この項目ではこれについて解説する。なお、武官による侍従武官や皇太子に付される東宮侍従については、それぞれ項目を参照のこと。.
御台所
御台所(みだいどころ)は、大臣・将軍家など貴人の妻に対して用いられた呼称。奥方様の意。御台盤所(みだいばんどころ)も同じ。「御台」は身分の高い人の食事を載せる台の事で、「台盤所」とは宮中や貴族の邸宅の配膳室を指し、台所はその略で調理する場所を指した。.
御三卿
御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期に徳川氏の一族から分立した大名家である。以下の三家を指す。.
徳川将軍家
徳川将軍家の略系図 徳川将軍家(德川將軍家、とくがわしょうぐんけ)は、江戸幕府の征夷大将軍を世襲した徳川氏の宗家(徳川宗家、とくがわそうけ)。明治維新後の1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられて徳川公爵家となった。華族制度廃止後は、単に徳川宗家と呼ばれる。.
徳川御三家
徳川御三家(とくがわごさんけ)は、江戸時代において徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた3家のこと。単に御三家(ごさんけ)とも呼ばれる。.
徳川綱條
徳川 綱條(とくがわ つなえだ)は、江戸時代中期における常陸水戸藩の第3代藩主。.
徳川義寛
徳川 義寛(とくがわ よしひろ、1906年11月7日 - 1996年2月2日)は、昭和天皇の側近、侍従長。尾張(名古屋)藩主徳川慶勝の孫で、実弟津軽義孝は常陸宮正仁親王妃華子の父であり、妹祥子は北白川宮永久王の妃。.
徳川昭武
京都時代(1866年)の昭武 徳川昭武(1867年) ベルギーでの幕府使節団、中央左が昭武 徳川 昭武(とくがわ あきたけ)は、清水徳川家第6代当主、のち水戸藩第11代(最後)の藩主。 第9代水戸藩主・徳川斉昭の十八男で、第10代藩主・徳川慶篤、第15代将軍・徳川慶喜の異母弟にあたる。生母は側室・万里小路建房の六女・睦子(ちかこ)。 初名は松平 昭徳。字は子明。号は鑾山。諡号は節公。子は徳川武定など。正仁親王妃華子の曽祖父。.
徳永正利
徳永 正利(とくなが まさとし、1913年8月25日 - 1990年9月23日)は、日本の政治家、参議院議員。山口県出身。.
後藤文夫
後藤 文夫(ごとう ふみお、1884年(明治17年)3月7日 - 1980年(昭和55年)5月13日)は大正・昭和の官僚・政治家。「天皇陛下の警察官」を自称し、新官僚の代表と見られた。戦後、日本の原子力発電導入に尽力した。.
従七位
従七位(じゅしちい)は、日本の位階における位の一つ。正七位の下、正八位の上の位階である。 律令制においては、さらに従七位上と従七位下の二階に分けられた。明治時代初期の太政官制においては上下の別がなくされた。従七位は、神祇官の少史などに相当する。 栄典としての従七位には、イラク日本人外交官射殺事件で殉職した在イラク日本国大使館一等書記官の井ノ上正盛が叙されている。.
従三位
従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.
従五位
従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.
従六位
従六位(じゅろくい)は、日本の位階における位の一つ。正六位の下、正七位の上。.
従四位
従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.
律令制
律令制(りつりょうせい)は、律令に基づく制度のこと。主に古代東アジアで見られた中央集権的な統治制度であるといわれることもあるが、唐制に倣った体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである山内昌之・古田博司。日本では律令制または律令体制や律令国家と呼ばれるが、中国にはこのような呼称は存在しない菊池秀明p8 (日中歴史共同研究報告書 p153)。中国において「律令」という言葉は秦から明まで長期にわたって使われており、その間にその内容や位置づけは大きな変遷をみている。そのため、日本の律令制の直接的モデルとなった隋や唐の国家体制をもって「律令制」と定義することは、中国の律令の変遷の実情を無視することとなり、また秦から明までのおよそ1800年間(律のみ存在した清も加えれば2100年間)の制度を一括りにすることにはあまり意味がないとする考えもある廣瀬薫雄『秦漢律令研究』2010年、汲古書院、第一部第一章「律令史の時代區分について」。.
保利茂
保利 茂(ほり しげる、1901年(明治34年)12月20日 - 1979年(昭和54年)3月4日)は、日本の政治家。 衆議院議員(12期)、内閣官房長官(第8代)衆議院議長(第59代)、労働大臣(第45、46代)、農林大臣(第19代)、自由民主党幹事長(第12代)、自由民主党総務会長(第7代)を歴任。.
土屋義彦
土屋 義彦(つちや よしひこ、1926年(大正15年)5月31日 - 2008年(平成20年)10月5日)は、日本の政治家。 参議院議員(5期)、参議院議長(第17・18代)、環境庁長官、埼玉県知事(第54・55・56代)、埼玉県議会議員(2期)、自由民主党参議院議員会長を歴任。.
土光敏夫
土光 敏夫(どこう としお、1896年(明治29年)9月15日 - 1988年(昭和63年)8月4日)は、昭和時代の日本のエンジニア、実業家。 石川島重工業・石川島播磨重工業 社長、東芝 社長・会長を歴任、日本経済団体連合会第4代会長に就任し、「ミスター合理化」として土光臨調でも辣腕を振るった。 他方、橘学苑の理事長、校長を創設者の母から引き継ぎ、「メザシの土光さん」としても親しまれた。 位階勲等は従二位勲一等(勲一等旭日桐花大綬章・勲一等旭日大綬章・勲一等瑞宝章)。岡山県名誉県民、岡山市名誉市民。次男の土光哲夫は東芝タンガロイの元役員。.
北里柴三郎
北里 柴三郎(きたさと しばさぶろう、1853年1月29日(嘉永5年12月20日) - 1931年(昭和6年)6月13日)は、日本の医学者・細菌学者である。従二位・勲一等旭日大綬章・男爵・医学博士。 私立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)創立者兼初代所長、土筆ヶ岡養生園(現在の北里大学北里研究所病院)創立者兼運営者、第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補者(15名の内の1人)、私立北里研究所(現在の学校法人北里研究所)創立者兼初代所長並びに北里大学学祖、慶応義塾大学医学科(現在の慶應義塾大学医学部)創立者兼初代医学科長、慶應義塾大学病院初代病院長、日本医師会創立者兼初代会長。 「日本の細菌学の父」として知られ、ペスト菌を発見し、また破傷風の治療法を開発するなど感染症医学の発展に貢献した。門下生らはドンネル先生ドイツ語で「雷おやじ」(der Donner)の意。との愛称で畏れられ、かつ親しまれていた。.
北条政子
北条政子(菊池容斎画、江戸時代) 北条 政子(ほうじょう まさこ、保元2年(1157年) - 嘉禄元年7月11日(1225年8月16日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。伊豆国の豪族、北条時政の長女。子は頼家、実朝、大姫、三幡。兄弟姉妹には宗時、義時、時房、阿波局、時子など。 周囲の反対を押し切り、伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所と呼ばれる。夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名を安養院(あんにょういん)といった。頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。 なお、「政子」の名は建保6年(1218年)に朝廷から従三位に叙された際に、父・時政の名から一字取って命名されたものであり、それより前の名前は不明。.
ノーベル賞
ノーベル賞(ノーベルしょう)は、ダイナマイトの発明者として知られるアルフレッド・ノーベルの遺言に従って1901年から始まった世界的な賞である。物理学、化学、生理学・医学、文学、平和および経済学の「5分野+1分野」で顕著な功績を残した人物に贈られる。 経済学賞だけはノーベルの遺言にはなく、スウェーデン国立銀行の設立300周年祝賀の一環としてノーベルの死後70年後にあたる1968年に設立されたものであり、ノーベル財団は「ノーベル賞ではない」としているが、一般にはノーベル賞の一部門として扱われることが多い。.
内大臣
内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。.
内務大臣 (日本)
内務大臣(ないむだいじん、Ministers of Home Affairs)は、日本の旧内務省を指揮監督した国務大臣。通称は内相(ないしょう)。前身は内務卿(ないむきょう、Lords of Home Affairs)。.
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内田祥三
内田 祥三(うちだ よしかず、1885年2月23日 - 1972年12月14日)は、日本の建築学者、建築家。元東京帝国大学総長。.
内閣総理大臣
内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん、prime minister of Japan)とは、日本国において行政権の属する内閣の首長たる国務大臣である(憲法第66条1項)。したがって、日本国における政府の長である。文民(憲法第66条2項)かつ国会議員の中から国会の議決で指名され(憲法第67条)、これに基いて天皇によって任命される(憲法第6条)。略称は総理大臣ないしは総理。一般的には首相、またはまれに宰相とも言う。現任は安倍晋三。.
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入江俊郎
入江 俊郎(いりえ としお、1901年1月10日 - 1972年7月18日)は、日本の官僚、政治家、裁判官。法制局長官、貴族院議員、衆議院法制局長、最高裁判所判事。東京都出身。.
入江相政
入江 相政(いりえ すけまさ、1905年(明治38年)6月29日 - 1985年(昭和60年)9月29日)は、日本の官僚、歌人・随筆家である。昭和天皇の侍従・侍従長を長く務めた。従二位勲一等旭日大綬章、勲一等瑞宝章、紺綬褒章・賞杯。 堂上華族の入江家出身入江家は、藤原北家・長家流御子左家の支流、冷泉家(上冷泉家)の分家で、旧家格は羽林家である。鎌倉時代初期の歌人・藤原定家の子孫。。歌人・柳原白蓮の甥であり、元岩崎勝商事社長・岩崎勝太郎は相政の義弟にあたる。柳原前光の孫である。.
八代六郎
八代 六郎(やしろ ろくろう、安政7年1月3日(1860年1月25日)- 昭和5年(1930年)6月30日)は明治~大正期の日本海軍軍人。政治家。海軍大将。男爵。愛知県犬山市出身。兄は衆議院議員の松山義根。.
八木秀次
八木 秀次(やぎ ひでつぐ、1886年(明治19年)1月28日 - 1976年(昭和51年)1月19日)は、日本の工学者(電気工学)、実業家、政治家。一般的に八木アンテナとして知られる八木・宇田アンテナの発明家として知られる。 東京工業大学学長、千葉工業大学顧問、内閣技術院総裁、大阪帝国大学総長、八木アンテナ株式会社社長、参議院議員、武蔵工業大学学長などを歴任した。 陸軍における階級は工兵軍曹。日本学士院会員。勲一等瑞宝章受章、文化勲章受章、贈勲一等旭日大綬章(没時陞勲)。.
公卿
公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.
前尾繁三郎
前尾 繁三郎(まえお しげさぶろう、1905年12月10日 - 1981年7月23日)は、日本の政治家、官僚。宏池会第二代会長。第58代衆議院議長。.
前田利常
前田 利常(まえだ としつね)は、安土桃山時代末期から江戸時代初期の武将・大名。加賀藩第2代藩主。加賀前田家3代。.
前田米蔵
前田 米蔵(まえだ よねぞう『新訂 政治家人名事典 明治 - 昭和』、561頁。『コンサイス日本人名事典 第5版』、1227頁。、1882年2月17日 - 1954年3月18日)は、日本の政党政治家。.
前田綱紀
前田 綱紀(まえだ つなのり)は、加賀藩の第4代藩主。加賀前田家5代。先代藩主前田光高の長男。母は徳川家光の養女・水戸藩主徳川頼房の娘、清泰院。.
前田慶寧
前田 慶寧(まえだ よしやす)は、加賀藩の第13代(最後)の藩主、のち加賀藩知事。加賀前田家14代。第12代藩主前田斉泰の長男。.
副総理
副総理(ふくそうり)とは、日本において内閣総理大臣に事故のあるとき又は内閣総理大臣が欠けたときに臨時にその職務を代行する第1順位の国務大臣として内閣法第9条に基づき指定された者(内閣官房長官でない場合に限る。)の呼称。辞令等に記載される正式な官職名ではない。内閣において内閣総理大臣に次ぐ席次を与えるために用いられる。 現任は麻生太郎(第4次安倍内閣)。.
勝沼精蔵
勝沼 精蔵(かつぬま せいぞう、1886年(明治19年)8月28日 - 1963年(昭和38年)11月9日)は、兵庫県神戸市生まれの医学者。医学博士。専門は血液学、神経病学。 名古屋帝国大学医学部教授、第三代目名古屋大学総長、第三代目国立名古屋病院院長を務めた。 生前、1953年にノーベル生理学・医学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している。.
国務大臣
国務大臣(國務大臣.こくむだいじん)とは、日本国の内閣の構成員を指す。閣僚(かくりょう)、閣員(かくいん)とも言われる特別職国家公務員である。.
皇族
女王旗)皇室儀制令19条では「親王旗親王妃旗内親王旗王旗王妃旗女王旗」。 皇族(こうぞく)は、天皇の親族のうち、男系の嫡出の血族(既婚の女子を除く)およびその配偶者の総称。すなわち、皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃および女王の総称であり、天皇は含まれない。天皇を含む場合は「皇室」という。.
矢口洪一
口 洪一(やぐち こういち、1920年(大正9年)2月20日 - 2006年(平成18年)7月25日)は、日本の裁判官。第11代最高裁判所長官を務めた。父の矢口家治も裁判官。.
石井光次郎
石井 光次郎(いしい みつじろう、1889年(明治22年)8月18日 - 1981年(昭和56年)9月20日)は、日本の政治家。衆議院議長(第54代)、副総理、法務大臣、通商産業大臣、行政管理庁長官、北海道開発庁長官、運輸大臣、商工大臣、朝日放送社長などを歴任。久留米市名誉市民。.
石田和外 (裁判官)
石田 和外(いしだ かずと、明治36年(1903年)5月20日 - 昭和54年(1979年)5月9日)は、日本の裁判官(第5代最高裁判所長官)、剣道家(第2代全日本剣道連盟会長、一刀正伝無刀流第5代宗家)。位階勲等は従二位勲一等旭日大綬章。.
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石黒忠篤
石黒 忠篤(いしぐろ ただあつ、1884年(明治17年)1月9日 - 1960年(昭和35年)3月10日)は、日本の農林官僚、政治家。「農政の神様」と称せられ、彼が農商務省・農林省幹部として政策に関与した時期の農政は、「石黒農政」と呼ばれている。妻は穂積陳重の次女・光子。息子に石黒孝次郎、石黒光三。.
石橋湛山
石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年〈明治17年〉9月25日 - 1973年〈昭和48年〉4月25日)は、日本のジャーナリスト、政治家、教育者(立正大学学長)。階級は陸軍少尉(陸軍在籍時)。位階は従二位。勲等は勲一等。大蔵大臣(第50代)、通商産業大臣(第12・13・14代)、内閣総理大臣(第55代)、郵政大臣(第9代)などを歴任した。内閣総理大臣在任期間は65日であり、日本国憲法下では羽田孜に次いで2番目に短く、日本の憲政史上でも4番目の短かさである。 早稲田大学から名誉法学博士(Doctor of Laws)を贈られた。.
灘尾弘吉
尾 弘吉(なだお ひろきち、1899年(明治32年)12月21日 - 1994年(平成6年)1月22日)は、昭和時代の日本の内務・厚生官僚、政治家。衆議院議長(60・61代)、文部大臣(74・75・77・82・83・90代)、厚生大臣(41代)を歴任。.
神階
階(しんかい)または神位(しんい)は、日本において神道の神に授けられた位階。.
福井謙一
福井 謙一(ふくい けんいち、1918年10月4日 - 1998年1月9日)は、日本の化学者。京都大学・京都工芸繊維大学名誉教授。日本学士院会員、ローマ教皇庁科学アカデミー会員、全米科学アカデミー外国人客員会員。工学博士。奈良県奈良市出生(大和郡山市出生の説もある)。大阪市西成区出身。 アジアで初のノーベル化学賞 (1981) を受賞した。勲等は勲一等旭日大綬章、文化勲章受章。.
福田一
福田 一(ふくだ はじめ、1902年4月1日 - 1997年9月2日)は、日本の政治家。自民党衆議院議員、第62代衆議院議長(在任期間・1980年7月17日-1983年11月28日)。自民党では大野伴睦→船田中派に属した後に、無派閥。.
福永健司
福永 健司(ふくなが けんじ、1910年(明治43年)8月5日 - 1988年(昭和63年)5月31日)は、日本の政治家、第63代衆議院議長、内閣官房長官、労働大臣、厚生大臣、運輸大臣、自由民主党国会対策委員長、自由民主党総務会長を歴任。従二位勲一等旭日桐花大綬章。息子は元自民党衆議院議員の福永信彦。.
稲田周一
周一(いなだ しゅういち、1902年(明治35年)2月26日 - 1973年(昭和48年)2月5日『日本近現代人物履歴事典』57頁。)は、日本の内務・宮内官僚。侍従長、官選滋賀県知事。.
穂積重遠
積 重遠(ほづみ しげとお、1883年4月11日 - 1951年7月29日)は、東京府出身の法学者。専門は民法。東京帝国大学教授・法学部長、最高裁判所判事を歴任し、「日本家族法の父」といわれる。東宮大夫兼東宮侍従長。男爵。勲一等旭日大綬章。.
立入宗継
立入 宗継(たてり むねつぐ、大永8年1月8日(1528年2月8日) - 元和8年9月26日(1622年10月30日))は、禁裏御蔵職をあずかる戦国時代から安土桃山時代にかけての商人・官人。立入家三代目当主。六角氏に属した近江立入城主・立入宗長(立入家二代目当主)の子。子に康継・祇員がいる。幼名は幸夜叉丸(こうやしゃまる)。号は隆佐。官位は従五位下・左京亮、贈従二位。 宗継が見聞した出来事等の覚書を集成した記『立入左京亮入道隆佐記』(立入宗継記)があり、多くの戦国大名との交友があった人物として知られている。弟に東福寺住職の月渓聖澄がいる。.
立教大学
記載なし。
管領
管領(かんれい)は、以下の役職・地位およびその座にあった者を指す名称。.
紀貫之
紀 貫之(き の つらゆき)は、平安時代前期の歌人・貴族。下野守・紀本道の孫。紀望行の子。『古今和歌集』の選者の一人で、三十六歌仙の一人。.
羽田孜
羽田 孜(はた つとむ、1935年(昭和10年)8月24日 - 2017年(平成29年)8月28日)は、日本の政治家。 衆議院議員(14期)、内閣総理大臣(第80代)、農林水産大臣(第9代、第12代)、大蔵大臣(第88代)、外務大臣(第121代)、新生党党首、太陽党党首、民政党代表、民主党幹事長、同党特別代表、同党最高顧問などを歴任。2012年(平成24年)に政界引退し、晩年は民進党長野県連名誉顧問を務めていた。.
羽田亨
羽田 亨(はねだ とおる、1882年(明治15年)5月15日 - 1955年(昭和30年)4月13日)は東洋史学者。京都大学名誉教授。文化勲章受章者。 文学博士(京都帝国大学、1922年)。京都府峰山町(現・京丹後市)生まれ。.
真島利行
真島 利行(まじま としゆき、りこう、1874年(明治7年)11月13日 - 1962年(昭和37年)8月19日)は、日本の有機化学者。大阪帝国大学総長などを歴任。.
田中二郎
中 二郎(たなか じろう、1906年7月14日 - 1982年1月16日)は、兵庫県出身の法学者。専門は行政法、租税法。1964年 - 1973年最高裁判所判事。1976年日本学士院会員、1980年文化功労者。.
田中芳男
中 芳男(たなか よしお、天保9年8月9日(1838年9月27日) - 大正5年(1916年)6月22日)は、幕末から明治期に活躍した博物学者、物産学者、農学者、園芸学者、錦鶏間祗候、男爵。 明治期に動物園、植物園を構想し、上野で実現。「博物館」という名称を生み出し、殖産興業の指導に尽力、基礎博物学の啓蒙につとめた。パリで行われた第4回万国博覧会、ウィーン万国博覧会に責任者として派遣される。元老院議官、貴族院議員、大日本山林会会長、日本園芸会副会長を歴任している。.
田中舘愛橘
中舘 愛橘(たなかだて あいきつ、安政3年9月18日(1856年10月16日) - 1952年(昭和27年)5月21日)は、日本の地球物理学者。東京帝国大学教授、帝国学士院会員、文化勲章受章者。.
田村元
村 元(たむら はじめ、1924年5月9日 - 2014年11月1日)は、日本の政治家。衆議院議員、第66代衆議院議長、労働大臣、運輸大臣、通商産業大臣、自由民主党国会対策委員長を歴任。.
由利公正
由利 公正(ゆり きみまさ(こうせい)、文政12年11月11日(1829年12月6日) - 明治42年(1909年)4月28日)は、日本の武士(福井藩士)、政治家、財政家、実業家。子爵、麝香間祗候。旧姓は三岡。通称を石五郎、八郎。字を義由、雅号に雲軒など。.
町村信孝
村 信孝(まちむら のぶたか、1944年〈昭和19年〉10月17日 - 2015年〈平成27年〉6月1日)は、日本の政治家。 衆議院議員(当選12回)、文部大臣(第124・129代)、内閣総理大臣補佐官(教育改革担当)、科学技術庁長官(第62代)、原子力委員会委員長(第62代)、文部科学大臣(初代)、外務大臣(第136・137・140代)、内閣官房長官(第75代)、拉致問題担当大臣(福田康夫内閣)、衆議院議長(第75代)などを歴任した。 なお、名前の表記についてはこちらを参照のこと。.
熊谷岱蔵
谷 岱蔵(くまがい たいぞう、1880年(明治13年)7月19日 - 1962年(昭和37年)2月19日)は、内科医学者、医学博士。東北帝国大学医科大学(後の東北大学医学部)教授、総長。附属抗酸菌病研究所初代所長。興亜工業大学顧問を兼任。従二位、勲一等旭日大綬章。.
牧野英一
牧野 英一(まきの えいいち、1878年3月20日 - 1970年4月18日)は、岐阜県高山市出身の法学者。専門は刑事法。元東京帝国大学名誉教授、元東京商科大学(一橋大学の前身)名誉講師。従二位勲一等瑞宝章。.
特命全権大使
特命全権大使(とくめいぜんけんたいし、ambassadeur extraordinaire et plénipotentiaire、ambassador extraordinary and plenipotentiary)は、外交使節団の長で最上級の階級である。接受国の元首に対して派遣され、外交交渉、全権代表としての条約の調印・署名、滞在する自国民の保護などの任務を行う。国際連合などの国際機関の政府代表部に対しても派遣される。.
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片山哲
片山 哲(かたやま てつ、1887年(明治20年)7月28日 - 1978年(昭和53年)5月30日)は、日本の弁護士、政治家。位階は従二位。勲等は勲一等。 社会民衆党書記長(初代)、衆議院議員(12期)、社会大衆党執行委員、日本社会党書記長(初代)、日本社会党委員長(初代)、内閣総理大臣(第46代)、民主社会党常任顧問などを歴任した。.
牛場信彦
牛場 信彦(うしば のぶひこ、1909年11月16日 - 1984年12月31日)は、日本の外交官、対外経済担当大臣(福田赳夫改造内閣)。世界和平連合会発足当時の理事。 祖父は牛場卓蔵。兄に近衛文麿の秘書官を務めた牛場友彦がいる。弟は国家公安委員会委員を務めた牛場大蔵慶應義塾大学医学部教授。.
益谷秀次
谷 秀次(ますたに しゅうじ、1888年1月17日 - 1973年8月18日)は、日本の政治家。 衆議院議員(14期)、衆議院議長(第46代)、副総理、建設大臣、行政管理庁長官などを歴任した。.
芦田均
芦田 均(あしだ ひとし、1887年(明治20年)11月15日 - 1959年(昭和34年)6月20日)は、日本の外交官、政治家。位階は従二位。勲等は勲一等。学位は法学博士(東京帝国大学)。 衆議院議員(11期)、厚生大臣(第14代)、外務大臣(第76・77代)、副総理、内閣総理大臣(第47代)などを歴任した。.
芳澤謙吉
芳澤 謙吉(よしざわ けんきち、1874年(明治7年)1月24日 - 1965年(昭和40年)1月5日)は、日本の外交官、政治家。従二位勲一等旭日桐花大綬章。 新潟県中頸城郡高田(のち上越市)出身。.
鎌倉公方
明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉公方管轄国 新編鎌倉志-関東公方屋敷図 鎌倉公方(かまくらくぼう)とは、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東十か国を統治するために設置した鎌倉府の長官。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称するが、この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれた呼称となる。関東十か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐。 鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となった。 ※鎌倉公方は歴史学用語及び鎌倉公方の自称であって当時の一般呼称ではない。当時の一般呼称は“鎌倉御所”か“鎌倉殿”である。.
運輸通信省 (日本)
運輸通信省(うんゆつうしんしょう、旧字体:運󠄁輸󠄁通󠄁信省)は、第二次世界大戦中の日本に存在した中央官庁。.
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青木一男
青木 一男(あおき かずお、1889年(明治22年)11月28日 - 1982年(昭和57年)6月25日)は、日本の大蔵官僚、政治家。 貴族院議員(勅選)、参議院議員(4期)、大蔵大臣、大東亜大臣などを歴任。勲一等旭日大綬章。.
衆議院議長
衆議院議長(しゅうぎいんぎちょう)は、衆議院において秩序を保持し、議事を整理し、議院の事務を監督し、衆議院を代表する役職(国会法19条、旧・議院法10条)。なお、衆議院議長の職務を代行する職である衆議院副議長や仮議長についても述べる。 衆議院議場・中央が衆議院議長席.
西岡武夫
西岡 武夫(にしおか たけお、1936年(昭和11年)2月12日 - 2011年(平成23年)11月5日)は、日本の政治家。従二位桐花大綬章。 衆議院議員(11期)、参議院議員(2期)、文部政務次官(第3次佐藤内閣)、新自由クラブ幹事長、文部大臣(第111・112代)、自由民主党総務会長、新進党幹事長、参議院議長(第28代)などを歴任。.
西村英一
西村 英一(にしむら えいいち、1897年8月28日 - 1987年9月15日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(当選11回)。 閣僚として厚生大臣、建設大臣など、また党職として自民党副総裁を務めた。田中派(七日会)初代会長。「おじいちゃん」の愛称で知られ、佐藤栄作、田中角栄両元首相に対するご意見番的存在であった。.
高倉天皇
倉天皇(たかくらてんのう、応保元年9月3日(1161年9月23日) - 治承5年1月14日(1181年1月30日))は、平安時代末期の第80代天皇(在位:仁安3年2月19日(1168年4月9日) - 治承4年2月21日(1180年3月18日))。諱は憲仁(のりひと)という。 後白河天皇の第7皇子。母は皇太后平滋子(建春門院)。安徳天皇、後鳥羽天皇らの父。.
高辻正己
辻 正己(たかつじ まさみ、1910年1月19日 - 1997年5月20日)は、日本の官僚、裁判官。竹下改造内閣で法務大臣を務めた。甥に外交官の青木盛久がいる。.
高橋誠一郎
橋 誠一郎(たかはし せいいちろう、1884年(明治17年)5月9日 - 1982年(昭和57年)2月9日)は、戦前昭和から戦後黎明期にかけての経済学者(専攻は経済原論および経済学史)、教育者、政治家、慶應義塾大学名誉博士。日本藝術院院長、帝国学士院会員、日本舞踊協会会長、国立劇場会長、東京国立博物館長、第1次吉田内閣の文部大臣等を歴任し、戦後の文化行政を指導して古典芸能の保護に尽力。経済学者としてはアダム・スミス以前の西欧経済理論、特に重商主義経済学説を研究。 位階勲等は従二位勲一等。文化勲章受章。.
豊田貞次郎
豊田 貞次郎(とよだ ていじろう、1885年(明治18年)8月7日 - 1961年(昭和36年)11月21日)は、日本の海軍軍人、政治家、実業家。最終階級は海軍大将。海兵33期首席。和歌山県出身。紀伊田辺藩士・豊田信太郎の次男。従二位勲一等。.
豊臣秀吉
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.
豊臣秀長
豊臣 秀長(とよとみ ひでなが / とよとみ の ひでなが)または羽柴 秀長(はしば ひでなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 豊臣秀吉の異父弟(同父弟説もある)。豊臣政権において内外の政務および軍事面で活躍を見せ、天下統一に貢献した。 最終的には大和・紀伊・和泉の3ヶ国に河内国の一部を加え、約110余万石の大名となるに至る。また官位も従二位権大納言に栄進したことから、大和大納言と尊称された。秀吉は秀長を隣に配して重用し、また秀長も秀吉に異を唱え制御できる人物であった。短期間で成長を遂げ、徳川家康や伊達政宗など外様大名を抱える豊臣政権における調整役であり、政権の安定には欠かせぬ貴重な人物だった。.
財務大臣
財務大臣(ざいむだいじん)とは、各国において財務、財政、金融などを担当する大臣や長官のこと。 英語圏での「Minister of Finance」などの訳語。 「財務長官(ざいむちょうかん)」と訳すこともある。米国の「英:Secretary of the Treasury」は「財務長官」と訳すのが一般的。.
貴族院 (日本)
貴族院(きぞくいん)は、大日本帝国憲法下の日本における帝国議会の上院である。1890年(明治23年)11月29日から1947年(昭和22年)5月2日まで存在した。貴院と略称された。衆議院とは同格の関係にあったが、予算先議権は衆議院が持っていた『事典 昭和戦前期の日本』 37頁。。 非公選の皇族議員・華族議員・勅任議員によって構成され、解散はなく、議員の多くが終身任期であった。その一方、有識者が勅任により議員となる制度が存在していた。.
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鳥養利三郎
鳥養 利三郎(とりがい りさぶろう、1887年2月8日 - 1976年9月24日 )は、日本の電気工学者。元京都大学総長、京都大学名誉教授。従二位勲一等工学博士。元日本学士院会員。文化功労者。京都市名誉市民。徳島県生まれ。 黎明期の日本の電気工学界を支えた重鎮。高電圧過渡現象の測定や高周波焼入に関する研究で業績を挙げた。また、教育行政においても手腕を発揮し、京都大学総長・電気学会会長・大学基準協会副会長などを務めた。特に、京都大学総長としては、戦後の混乱期を支えた名総長として知られている。.
足利将軍家
足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)は、足利氏の惣領家(宗家)のうち、とくに足利尊氏以来の、代々室町幕府の将軍職を世襲した一家(軍事貴族)。初代尊氏の後は2代として嫡男義詮が継ぎ、3代足利義満を経て、15代義昭まで続く。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。.
足利義輝
足利 義輝(あしかが よしてる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第13代征夷大将軍(在職:天文15年(1546年) - 永禄8年5月19日(1565年6月17日))。.
足利直義
足利 直義(あしかが ただよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の三男。室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟。 将軍尊氏を補佐して政務面を統括し、草創期室町幕府の体制は尊氏・直義兄弟による「二頭政治」だったと言われるが、実際は将軍就任当初から尊氏はすでに隠居状態にあり、幕政の運営は直義の下で行われていた。それでも、清和源氏の嫡流であり武将としての器量にも優れる尊氏は全国の武士を統合する機能を果たしており、直義が取って代わることはできなかった。 尊氏の執事高師直との間に派閥対立を生じ、師直の追い落としを図り却って失脚したものの、やがて南朝と結んで師直一族を討ち幕政を掌握した。しかし対立は尊氏・直義両者による全国を巻き込む戦乱に発展し、直義は東国に逃れたが最後は鎌倉に幽閉され急死を遂げた(観応の擾乱)。.
農商務省 (日本)
農商務省、1890年 農商務省(のうしょうむしょう)は、かつて産業行政を推進するために設置されていた日本の中央官庁。このページでは、第二次世界大戦中に設置された農商省(のうしょうしょう)も併せて述べる。.
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霜山精一
山 精一(しもやま せいいち、1884年(明治17年)10月15日 - 1975年(昭和50年)3月12日)は、日本の司法官僚、弁護士。大審院長、最高裁判所判事、貴族院議員。従二位勲一等。.
茅誠司
茅 誠司(かや せいじ、1898年(明治31年)12月21日 - 1988年(昭和63年)11月9日)は、日本の物理学者。第17代東京大学総長(1957年 - 1963年)。.
船田中
船田 中(ふなだ なか、1895年(明治28年)4月24日 - 1979年(昭和54年)4月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(当選15回)。第51代・第56代衆議院議長、自由民主党副総裁、従二位勲一等旭日桐花大綬章。 政治家一家として知られた「船田三兄弟」の長兄。衆議院議員で行政管理庁長官をつとめた船田享二は次弟、やはり衆議院議員で運輸大臣や自治大臣などを歴任した藤枝泉介は三弟にあたる。澄夫人は第24代衆議院議長元田肇の五女。参議院議員や栃木県知事をつとめた船田譲は長男で、その長男(孫)の船田元も衆議院議員、その2度目の妻(孫嫁)の畑恵も参議院議員をつめとている。 なお名の「中」は「なか」が正しい読みで、「あたる」は誤読である。.
阿蘇氏
阿蘇氏(あそうじ/あそし)は、「阿蘇」を氏の名とする氏族。 肥後国の氏族で、阿蘇神社大宮司家(だいぐうじけ)である。名の通り熊本の阿蘇を出自とするが、最盛期は阿蘇の南、矢部郷(やべごう、熊本県上益城郡山都町の一部)に南阿蘇から拠点を移転した後の「浜の館」時代であり、菊池氏や相良氏と並び熊本を代表する一大豪族であった。朝廷から度々高位の職階を叙し、内紛を繰り返しながらも長らく系譜が受け継がれてきた。 大和朝廷の支配が及ぶ前からの地域の首長家で、皇室や出雲大社の千家家、北島家などと同様、神(火山神である健磐龍命)の子孫として神代の時代から現代に続く系譜を持つと自ら誇る家系である。.
阿蘇惟豊
阿蘇 惟豊(あそ これとよ)は、戦国時代の武将。肥後国の戦国大名。阿蘇氏18代当主(阿蘇神社大宮司)。甲斐親宣・親直(宗運)父子の補佐を受け、阿蘇氏の最盛期を築いた。阿蘇五ヶ所衆の一人。.
関白
関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.
藤山愛一郎
藤山 愛一郎(ふじやま あいいちろう、1897年5月22日 - 1985年2月22日)は、日本の政治家、実業家。 外務大臣、経済企画庁長官、日本商工会議所会頭、経済同友会代表幹事、初代日本航空会長、自民党総務会長を歴任した。 藤山コンツェルン二代目。位階は従二位。勲等は勲一等。.
藤田尚徳
藤田 尚徳(ふじた ひさのり、1880年(明治13年)10月30日 - 1970年(昭和45年)7月23日)は、日本の海軍軍人、神職、侍従長。軍人としての最終階級は海軍大将。.
葉室宗行
葉室 宗行(はむろ むねゆき、承安4年(1174年) - 承久3年7月14日(1221年8月3日))は、鎌倉時代の公卿。左大弁・藤原行隆の五男。権大納言・藤原宗頼の養子。官位は正三位・権中納言、贈従二位。.
蔵人別当
蔵人別当(くろうどのべっとう)とは、令外官の役職で、蔵人所の長官にあたる。組織上は蔵人頭以下を指揮する立場にあるが、所内の実務全般は蔵人頭が責任を負い、蔵人別当は対外的な代表者の地位として蔵人頭の任免や昇殿定、蔵人所の管轄下に置かれた所の人事などに関与したが、実際の実務には携わらなかった。 定員は1名。殿上人を束ねる役目なので「殿上の別当」とも言う。詔勅を各省に伝達することが役目である。なお、通常、大臣が兼職して二位の者が補任されるが、令外官であるものの官位相当は無い。 897年(寛平9年)、平安時代前期の公卿藤原時平が任じられたのが最初であるが、後に左大臣が兼任することとなる。ただし、一上と同様に左大臣が関白であった時は、右大臣が別当となる。例としては室町幕府の将軍である足利義満が1382年2月9日(弘和2年/永徳2年1月26日)に、左大臣就任の後、3月4日(閏1月19日)、蔵人別当を兼務している。.
野村吉三郎
野村 吉三郎(のむら きちさぶろう、1877年(明治10年)12月16日 - 1964年(昭和39年)5月8日)は、昭和初期に活躍した日本の海軍軍人、外交官、政治家。和歌山県和歌山市出身。位階勲功等は海軍大将従二位勲一等功二級。 国際法の権威として知られ、阿部内閣で外務大臣をつとめたのち、第二次近衛内閣のとき駐米大使に任じられ、真珠湾攻撃の日まで日米交渉に奔走して戦争回避を模索した。.
重宗雄三
重宗 雄三(しげむね ゆうぞう、1894年(明治27年)2月11日 - 1976年(昭和51年)3月13日)は、昭和期の政治家、実業家。参議院議長を3期9年間にわたり務めた。山口県岩国市出身。.
重光葵
重光 葵(しげみつ まもる、1887年(明治20年)7月29日 - 1957年(昭和32年)1月26日)は、第二次世界大戦期の、日本の外交官・政治家である。.
金森徳次郎
金森 徳次郎(かなもり とくじろう、1886年3月17日 - 1959年6月16日)は、日本の官僚、政治家、憲法学者。岡田内閣の法制局長官、第1次吉田内閣の国務大臣。初代国立国会図書館長も務めた。.
長岡半太郎
長岡 半太郎(ながおか はんたろう、1865年8月19日(慶応元年6月28日) - 1950年(昭和25年)12月11日)は、日本の物理学者。土星型原子モデル提唱などの学問的業績を残した。また、東京帝国大学教授として多くの弟子を指導し、初代大阪帝国大学総長や帝国学士院院長などの要職も歴任した。1937年(昭和12年)、第一回文化勲章受章。正三位勲一等旭日大綬章追贈。.
林譲治 (政治家)
林 譲治(はやし じょうじ、1889年(明治22年)3月24日 - 1960年(昭和35年)4月5日)は、日本の政治家。第41代衆議院議長、副総理、厚生大臣、内閣官房長官を歴任。位階勲等は従二位勲一等旭日桐花大綬章。.
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東久邇宮稔彦王
東久邇宮 稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年(明治20年)12月3日 - 1990年(平成2年)1月20日)は、日本の皇族(旧皇族)、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は大勲位。功級は功一級。皇籍離脱後は東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)を名乗った。世界連邦建設同盟(現世界連邦運動協会)名誉会長、第2代会長。千葉工業大学の創設発案者。 貴族院議員、陸軍航空本部長(第10代)、防衛総司令官(第2代)、内閣総理大臣(第43代)、陸軍大臣(第34代)などを歴任した。 父は久邇宮朝彦親王。香淳皇后(昭和天皇后)は姪、今上天皇は大甥に当たる。 日本の降伏、第二次世界大戦終結後の1945年(昭和20年)8月17日、敗戦の責任を取り辞職した鈴木貫太郎の後を継いで内閣総理大臣に就任、憲政史上最初で最後の皇族内閣を組閣した。 東久邇宮は内閣総理大臣として、連合国に対する降伏文書の調印、陸海軍の解体、復員の処理を実施した。また、「新日本建設に向けて活発な言論と公正な世論に期待する」とし、政治犯の釈放や言論・集会・結社の自由容認の方針を組閣直後に明らかにし、選挙法の改正と総選挙の実施の展望を示した。 その一方、昭和天皇への問責を阻止するため“一億総懺悔”を唱え、国内の混乱を収めようとするも自由化政策内相及び内務警察官僚4000名の罷免と治安維持法の撤廃、特別高等警察の廃止を巡るGHQと内務省による対立とGHQによる内政干渉に抵抗の意志を示すため、歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職した東久邇宮首相は、副総理格の緒方竹虎の意見を求めると「占領されている以上拒否はできないが、承服したのでは政府の威信がなくなる。承服できないという消極的な意思表示の意味で内閣総辞職しよう」と述べ、これに首相が同意し、内閣は総辞職した(産経新聞 2002年6月10日掲載)。歴代総理大臣では最高齢(死去時102歳48日)の首相経験者である。.
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東京大学
記載なし。
東北大学
記載なし。
東畑精一
東畑 精一(とうばた せいいち、1899年(明治32年)2月2日 - 1983年(昭和58年)5月6日)は、日本の農業経済学者。農学博士。.
松平康昌
松平 康昌(まつだいら やすまさ、1893年(明治26年)11月12日 - 1957年(昭和32年)1月4日)は、昭和期の日本の華族、官僚。旧福井藩主家(越前松平家)第19代当主。従二位勲一等侯爵。明治大学政治経済学部教授や相模女子大学学長を務めた。夫人は徳川家達二女の綾子。.
松野鶴平
松野 鶴平(まつの つるへい、明治16年(1883年)12月22日 - 昭和37年(1962年)10月18日)は日本の政治家。衆議院議員、鉄道大臣、参議院議長などを歴任。権謀術数に長けたことから「松のズル平」とあだ名された。また、実業家として菊池電気軌道(現・熊本電気鉄道)の社長も務めた。熊本県平民『人事興信録.
松村謙三
松村 謙三(まつむら けんぞう、1883年(明治16年)1月24日 - 1971年(昭和46年)8月21日)は、戦前昭和から戦後昭和にかけて活躍した日本の政党政治家。.
村上朝一
村上 朝一(むらかみ ともかず、1906年(明治39年)5月25日 - 1987年(昭和62年)2月13日)は、日本の裁判官。最高裁判所長官。.
栄典
栄典(えいてん)とは、.
森鴎外
森 外(もり おうがい、1862年2月17日(文久2年1月19日) - 1922年(大正11年)7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医(軍医総監=中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級・医学博士・文学博士。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。 石見国津和野(現・島根県津和野町)出身。東京大学医学部入学時は第一大学区医学校予科卒業。 大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごした。帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。その後、日清戦争出征や小倉転勤などにより、一時期創作活動から遠ざかったものの、『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表。乃木希典の殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」等も執筆した。 晩年、帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や帝国美術院(現日本芸術院)初代院長なども歴任した。.
森戸辰男
森戸 辰男(もりと たつお、1888年(明治21年)12月23日 - 1984年(昭和59年)5月28日)は、日本の学者、社会思想家、教育者(初代広島大学学長・名誉教授)、政治家(衆議院議員、文部大臣)。広島県広島市、福山市名誉市民。文化功労者(1971年)、勲一等旭日大綬章(1974年)。.
椎名悦三郎
椎名 悦三郎(しいな えつさぶろう、1898年(明治31年)1月16日 - 1979年(昭和54年)9月30日)は、日本の官僚、政治家。岸信介の腹心として満州国の運営に関わり、また商工次官として統制経済を推進、軍需次官も務めた。戦後は政界入りし、内閣官房長官(岸内閣)、通商産業大臣(21代・30代)、外務大臣(94-95代)、自由民主党において政調会長、総務会長、副総裁を歴任した。田中角栄の後継の総裁として三木武夫を指名した「椎名裁定」は世人を驚かせた。椎名素夫は次男、血縁のない叔父に後藤新平がいる。.
楠木正行
楠木 正行(くすのき まさつら)は、南北朝時代の武将。楠木正成の嫡男。「大楠公」と尊称された正成に対して「小楠公(しょうなんこう)」と呼ばれる。初名は正之(まさより、まさこれ)と伝わる。父の意志を継ぎ、足利尊氏と戦った。.
横田喜三郎
横田 喜三郎(よこた きさぶろう、1896年(明治29年)8月6日 - 1993年(平成5年)2月17日)は、日本の国際法学者、第3代最高裁判所長官。学位は法学博士(東京帝国大学)。栄典は従二位・勲一等・文化勲章・文化功労者・紺綬褒章・江南市名誉市民など。国務大臣を務めた猪口邦子は孫にあたる。.
横田正俊
横田 正俊(よこた まさとし、1899年(明治32年)1月11日 - 1984年(昭和59年)7月1日)は、日本の裁判官。第4代最高裁判所長官を務めた。位階勲等は従二位勲一等旭日大綬章。なお、前任の最高裁判所長官横田喜三郎と同姓だが、血縁関係はない。.
櫻内義雄
櫻内 義雄(さくらうち よしお、1912年(明治45年)5月8日 - 2003年(平成15年)7月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(18期)、衆議院議長(第67代)、通産大臣、農林大臣、建設大臣、国土庁長官、自民党政調会長、外務大臣、自由民主党幹事長などを歴任。元日蓮宗全国檀信徒協議会会長。従二位勲一等。 父は商工相、農林相、大蔵相などを歴任した櫻内幸雄。兄は中国電力会長を務めた櫻内乾雄。 .
正力松太郎
正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年(明治18年)4月11日 – 1969年(昭和44年)10月9日)は、日本の内務官僚、実業家、政治家。元読売新聞社社主。位階勲等は従二位勲一等。富山県高岡市名誉市民。京成電鉄OB。.
正室
正室(せいしつ)は、高貴な人物の正式な妻のこと。正妻、本妻とも言う。律令制の元では嫡妻(ちゃくさい)とも呼ばれていた(原則一人)。これに対し、正室以外を側室(『大辞泉』)という。.
正七位
正七位(しょうしちい)は、日本の位階における位の一つ。従六位の下、従七位の上に位する。.
正三位
正三位(しょうさんみ)とは、位階及び神階のひとつ。従二位の下、従三位の上に位する。日本では「おおいみつのくらい」とも読む。.
正二位
正二位(しょうにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。従一位の下、従二位の上に位する。.
正五位
正五位(しょうごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。従四位の下、従五位の上に位する。贈位の場合、贈正五位という。.
正八位
正八位(しょうはちい)は、日本の位階における位の一つ。従七位の下、従八位の上に位する。 律令制においては、さらに正八位上と正八位下の二階に分けられた。明治時代初期の太政官制においては上下の別がなくされた。正八位は、神祇官の権少史、太政官の主記などに相当する。.
正六位
正六位(しょうろくい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。従五位の下、従六位の上に位する。勲等では勲五等に、功級では功五級に相当。 律令制下において六位は下国の国司及び国府の次官である介が叙せられる位であった。地下人の位階とされ、五位以上の貴族(通貴)とは一線を画する位階であり昇殿は許されなかった。但し、蔵人の場合、その職務上、六位であっても昇殿が許され、五位以上の者と六位蔵人の者を合わせて殿上人と称した。神階においては、正六位が最下位となる。 明治時代以降は、少佐の階級にある者などがこの位に叙せられた。また、今日では警察官では警視正、消防吏員では消防監などがこの位に叙せられる他、市町村議会議長にあった者、特別施設や学校創立者その他、業種等で功労ある者などが没後に叙せられる。.
正四位
正四位(しょうしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。 従三位の下、従四位の上に位する。贈位の場合、贈正四位という。.
正田建次郎
正田 建次郎(しょうだ けんじろう、1902年(明治35年)2月25日 - 1977年(昭和52年)3月20日)は、日本の数学者。専門は代数学。群馬県邑楽郡館林町(現・群馬県館林市)出身。勲一等瑞宝章、文化勲章。.
武井守成
武井 守成(たけい もりしげ、1890年(明治23年)10月11日 - 1949年(昭和24年)12月14日)は、日本の作曲家、指揮者。男爵。宮内官僚。.
水田三喜男
水田 三喜男(みずた みきお、1905年4月13日 - 1976年12月22日)は、日本の政治家。城西大学創立者。自由民主党政務調査会長(初代)。大蔵大臣を数度に亘り務めたほか、経済審議庁長官や通商産業大臣など経済閣僚を歴任した。戦後日本の代表的な財政家である。.
江戸時代
江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.
池田輝政
池田 輝政(いけだ てるまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。美濃池尻城主、同大垣城主、同岐阜城主、三河吉田城主を経て、播磨姫路藩の初代藩主となる。姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことで知られる。.
河井彌八
河井 彌八(かわい やはち、1877年10月24日-1960年7月21日)は、日本の官僚・政治家。侍従次長や第4代参議院議長を歴任する。静岡県出身。.
河野一郎
河野 一郎(こうの いちろう、1898年(明治31年)6月2日 - 1965年(昭和40年)7月8日)は、日本の政治家。副総理、日本自由党幹事長、自由民主党総務会長。昭和中期の政界実力者の一人。河野派会長、領袖。 自由民主党の党人派の代表格として権勢を誇り、その政治行動は「横紙破り」 と呼ばれた。農林大臣、建設大臣、経済企画庁長官、行政管理庁長官、副総理、国務大臣(東京五輪担当)を務めた。また、地元神奈川県県政にも強い影響力を持ち、県は「河野王国」とも呼ばれた。栄典は従二位勲一等旭日桐花大綬章。 参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長、外務大臣、自由民主党総裁、新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。外務大臣を務める衆議院議員、河野太郎は孫にあたる。.
河野謙三
河野 謙三(こうの けんぞう、1901年(明治34年)5月14日 - 1983年(昭和58年)10月16日)は、日本の政治家。従二位勲一等旭日桐花大綬章。 参議院議員(5期)、衆議院議員(1期)、参議院議長(第11・12代)を歴任。.
河本文一
河本 文一(かわもと ぶんいち、1882年(明治15年)12月24日『国立公文書館所蔵 枢密院高等官履歴 第8巻』167-180頁。 - 1960年(昭和35年)2月22日『山口県百科事典』188頁。)は、日本の大蔵官僚。会計検査院長、枢密顧問官。.
法務大臣
法務大臣(ほうむだいじん、)は、法務省の長である国務大臣。略称は法相(ほうしょう)。.
渡辺美智雄
渡辺 美智雄(渡邉、わたなべ みちお、1923年(大正12年)7月28日 - 1995年(平成7年)9月15日)は、日本の政治家。元衆議院議員、自由民主党政務調査会長(第33代)。厚生相、農水相、蔵相、通産相、副総理兼外相と閣僚を歴任。中曽根派を継承して派閥の領袖。衆議院議員。税理士。千葉県習志野市生まれの、栃木県那須郡川西町(黒羽町を経て2005年以降大田原市)育ち。従二位勲一等旭日桐花大綬章。 「ミッチー」の愛称で親しまれた。 息子は、内閣府特命担当大臣や、みんなの党代表を務めた参議院議員の渡辺喜美。長女は、医師、公認会計士、税理士で第48回衆議院議員総選挙に出馬した渡辺美由紀。参議院議員の渡辺美知太郎は孫。.
清瀬一郎
清瀬 一郎(きよせ いちろう、1884年(明治17年)7月5日 - 1967年(昭和42年)6月27日)は大正、昭和時代の日本の弁護士、政治家。弁護士としては極東国際軍事裁判で東條英機の弁護人などを務め、また政治家としては文部大臣、衆議院議長を歴任。学位は法学博士。東京弁護士会会長。従二位勲一等旭日桐花大綬章。.
湯川秀樹
湯川 秀樹(ゆかわ ひでき、1907年(明治40年)1月23日 - 1981年(昭和56年)9月8日)は、日本の理論物理学者。 京都府京都市出身。 原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を1935年に理論的に予言した。1947年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からパイ中間子を発見したことにより、湯川の理論の正しさが証明され、これにより1949年(昭和24年)、日本人として初めてノーベル賞を受賞した。 京都大学・大阪大学名誉教授。京都市名誉市民。1943年(昭和18年)文化勲章。位階勲等は従二位勲一等旭日大綬章。学位は理学博士。.
服部高顯
服部 高顯(はっとり たかあき、1912年(大正元年)10月1日 - 1993年(平成5年)3月24日)は、第9代最高裁判所長官。愛知県出身。 .
朝永振一郎
朝永 振一郎(ともなが しんいちろう、1906年(明治39年)3月31日 - 1979年(昭和54年)7月8日)は、日本の物理学者。相対論的に共変でなかった場の量子論を超多時間論で共変な形にして場の演算子を形成し、場の量子論を一新した。超多時間論を基に繰り込み理論の手法を生み出し、量子電磁力学の発展に寄与した功績によってノーベル物理学賞を受賞した。また、非摂動論の一般理論である中間結合理論は、物性や素粒子の状態を調べる基本手法となった。東京生まれで京都育ち。なお、朝永家自体は長崎県の出身。武蔵野市名誉市民。.
有松英義
有松 英義(ありまつ ひでよし、1863年7月25日(文久3年6月10日)- 1927年(昭和2年)10月24日)は、日本の官僚。寺内内閣の法制局長官を務めた。通称は梅次郎。字は子華。.
最高裁判所裁判官
最高裁判所裁判官(さいこうさいばんしょさいばんかん)とは、最高裁判所の裁判官をいう。その長たる最高裁判所長官1名と最高裁判所判事14名からなる(裁判所法第5条第1項)。.
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最高裁判所長官
最高裁判所長官(さいこうさいばんしょちょうかん)は、日本の最高裁判所の長の官職名。最高裁判所裁判官の一人であると同時に、司法行政事務を行う裁判官会議を総括する。.
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戦国時代 (日本)
日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.
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戸田忠至
戸田 忠至(とだ ただゆき)は、江戸時代後期(幕末)から明治時代前期にかけての武士、大名。下野宇都宮藩の重臣、後に下野高徳藩の初代藩主。江戸幕府若年寄でもあった。.
戸沢正実
戸沢 正実(とざわ まさざね)は、出羽新庄藩の第11代藩主。.
我妻栄
我妻 榮(わがつま さかえ、1897年(明治30年)4月1日 - 1973年(昭和48年)10月21日)は、山形県米沢市出身の日本の民法学者。法学博士(東京大学)、東京大学名誉教授、米沢市名誉市民。文化勲章、贈従二位(没時叙位)・贈勲一等旭日大綬章(没時叙勲)。憲法改正に伴う家族法大改正の立案担当者の一人。.
星島二郎
星島 二郎(ほししま にろう、明治20年(1887年)11月6日 - 昭和55年(1980年)1月3日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員。元衆議院議長。従二位勲一等旭日桐花大綬章。.
春宮坊
春宮坊(とうぐうぼう)は日本古代の律令制において存在した機関。和訓は「みこのみやのつかさ」。.
昭和
昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.
海軍大将
海軍大将(かいぐんだいしょう)は、海軍の階級の一。海軍中将の上に位置する。一般に将官の最高位であり、海軍軍人の最高位である。 英呼称である“admiral”はアラビア語で「海の司令官」を意味するアミール・アルハル“amīr al-baḥr”に由来する。.
文部大臣 (日本)
初代文部卿、大木喬任 文部大臣(もんぶだいじん)および前身の文部卿(もんぶきょう)は、教育行政を担う日本の行政機関として設置されていた文部省(明治4年7月18日〈1871年9月2日〉から2001年〈平成13年〉1月5日まで)の長である。略称は文相(ぶんしょう)。大臣の職掌、文部省については、文部省の記事を参照のこと。 なお、2001年〈平成13年〉1月6日に文部省と科学技術庁を統合して設置された文部科学省の長である歴代の文部科学大臣については、同項目を参照のこと。 一覧表の凡例は、脚注を参照のこと。.
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日野資朝
日野 資朝(ひの すけとも)は、鎌倉時代後期の公卿。権大納言・日野俊光の次男。.
日本学士院
日本学士院(にっぽんがくしいん、)は、日本学士院法(以下「法」)に基づいて設置されている日本の国立アカデミーであり、文部科学省の特別の機関である。1879年に東京学士会院として発足し、その後帝国学士院に改組された。太平洋戦争後に日本学士院となり現在に至る。.
日本学術会議
日本学術会議(にほんがくじゅつかいぎ、英語:Science Council of Japan、略称:SCJ)は、日本の国立アカデミーであり、内閣府の特別の機関の一つである。日本の科学者の内外に対する代表機関であり、科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的とする(日本学術会議法第2条)。.
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日本学術振興会
立行政法人日本学術振興会(にほんがくじゅつしんこうかい、英名:Japan Society for the Promotion of Science)は、文部科学省所管の中期目標管理法人たる独立行政法人である。同省の外郭団体である。学術研究の助成、研究者の養成のための資金の支給、学術に関する国際交流の促進、学術の応用に関する研究等を行うことにより、学術の振興を図ることを目的とする(独立行政法人日本学術振興会法3条)。日本学術会議と緊密な連絡を図るものとされている(16条)。.
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日本国憲法
日本国憲法(にほんこくけんぽう、にっぽんこくけんぽう)は、現在の日本の国家形態および統治の組織・作用を規定している憲法。1947年(昭和22年)5月3日に施行された。ブルジョア憲法(資本主義憲法)の一種。 昭和憲法(しょうわけんぽう)、あるいは単に現行憲法(げんこうけんぽう)とも呼ばれる。 1945年(昭和20年)に、ポツダム宣言を受諾して連合国に対し降伏した日本政府は、そこに要求された「日本軍の無条件降伏」「日本の民主主義的傾向の復活強化」「基本的人権の尊重」「平和政治」「国民の自由意思による政治形態の決定」などにより、事実上憲法改正の法的義務を負うことになった。そこで連合国軍占領中に連合国軍最高司令官総司令部の監督の下で「憲法改正草案要綱」を作成し『世界大百科事典』(平凡社)「日本国憲法」の項目より、その後の紆余曲折を経て起草された新憲法案は、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、1946年(昭和21年)5月16日の第90回帝国議会の審議を経て若干の修正を受けた後、同年1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法として公布され、その6か月後の翌年1947年(昭和22年)5月3日に施行された。 国民主権の原則に基づいて象徴天皇制を定め、個人の尊厳を基礎に基本的人権の尊重を掲げて各種の憲法上の権利を保障し、戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認という平和主義を定める。また国会・内閣・裁判所の三権分立の国家の統治機構と基本的秩序を定めている。「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の3つは、日本国憲法を特徴付ける三大要素と呼ばれることもある。 2017年現在、現行憲法としては世界で最も長い期間改正されていない憲法である(Webアーカイブ)出典元記事の記載では、施行されてから一度も改正されていないという立場であるが、日本国憲法が一度も改正されていないか否かは、行われた改正手続き通り、大日本帝国憲法の全面改正として日本国憲法を捉えるか、事実上大日本帝国憲法を破棄して制定された新憲法と捉えるかで異論がある。日本国憲法は、当用漢字表と現代かなづかいの告示より前に公布されたもので、原文の漢字表記は当用漢字以前の旧字体であり、仮名遣いは歴史的仮名遣である。 原本は国立公文書館に保管されており、不定期に公開されている。.
日本経済団体連合会
一般社団法人日本経済団体連合会(にっぽんけいざいだんたいれんごうかい、Japan Business Federation)は、日本の東証第一部上場企業を中心に構成される団体。日本商工会議所、経済同友会と並ぶ「経済三団体」の一つである。以前は経済産業省所管の社団法人であったが、公益法人制度改革に伴い内閣府所管の一般社団法人へ移行した。.
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日本芸術院
日本芸術院(にほんげいじゅついん、旧字体:日本藝術院、英語:The Japan Art Academy)は、美術・文芸・音楽・演劇など芸術のさまざまな分野において優れた功績のある芸術家を優遇し顕彰するために置かれた国の栄誉機関で、文化庁の特別の機関である。.
愛知揆一
愛知 揆一(あいち きいち、1907年10月10日 - 1973年11月23日)は、日本の政治家である。初め参議院議員、後に衆議院議員に転じ、外務大臣や大蔵大臣などを歴任。.
慶應義塾
慶應義塾(けいおうぎじゅく)は、日本の学校法人。福沢諭吉が1858年(安政5年)に中津藩江戸藩邸で開いた蘭学塾が起源。シンボルマークはペンマーク。.
1949年
記載なし。
1950年
記載なし。
1951年
記載なし。
1952年
この項目では、国際的な視点に基づいた1952年について記載する。.
1953年
記載なし。
1954年
記載なし。
1955年
記載なし。
1957年
記載なし。
1958年
記載なし。
1959年
記載なし。
1960年
アフリカにおいて当時西欧諸国の植民地であった地域の多数が独立を達成した年であることに因み、アフリカの年と呼ばれる。.
1961年
記載なし。
1962年
記載なし。
1963年
記載なし。
1964年
記載なし。
1965年
記載なし。
1966年
記載なし。
1967年
記載なし。
1969年
記載なし。
1970年
記載なし。
1971年
記載なし。
1972年
協定世界時による計測では、この年は(閏年で)閏秒による秒の追加が年内に2度あり、過去最も長かった年である。.
1973年
記載なし。
1974年
記載なし。
1975年
記載なし。
1976年
記載なし。
1977年
記載なし。
1978年
記載なし。
1979年
記載なし。
1980年
この項目では、国際的な視点に基づいた1980年について記載する。.
1981年
この項目では、国際的な視点に基づいた1981年について記載する。.
1982年
この項目では、国際的な視点に基づいた1982年について記載する。.
1983年
この項目では、国際的な視点に基づいた1983年について記載する。.
1984年
この項目では、国際的な視点に基づいた1984年について記載する。.
1985年
この項目では、国際的な視点に基づいた1985年について記載する。.
1986年
この項目では、国際的な視点に基づいた1986年について記載する。.
1987年
この項目では、国際的な視点に基づいた1987年について記載する。.
1988年
この項目では、国際的な視点に基づいた1988年について記載する。.
1990年
この項目では、国際的な視点に基づいた1990年について記載する。.
1991年
この項目では、国際的な視点に基づいた1991年について記載する。.
1993年
この項目では、国際的な視点に基づいた1993年について記載する。.
1994年
この項目では、国際的な視点に基づいた1994年について記載する。.
1995年
この項目では、国際的な視点に基づいた1995年について記載する。.
1996年
この項目では、国際的な視点に基づいた1996年について記載する。.
1997年
この項目では、国際的な視点に基づいた1997年について記載する。.
1998年
この項目では、国際的な視点に基づいた1998年について記載する。.
1999年
1990年代最後の年であり、1000の位が1になる最後の年でもある。 この項目では、国際的な視点に基づいた1999年について記載する。.
2000年
400年ぶりの世紀末閏年(20世紀および2千年紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年のままとなる(グレゴリオ暦の規定による)。。Y2Kと表記されることもある(“Year 2000 ”の略。“2000”を“2K ”で表す)。また、ミレニアムとも呼ばれる。 この項目では、国際的な視点に基づいた2000年について記載する。.
2001年
また、21世紀および3千年紀における最初の年でもある。この項目では、国際的な視点に基づいた2001年について記載する。.
2002年
この項目では、国際的な視点に基づいた2002年について記載する。.
2003年
この項目では、国際的な視点に基づいた2003年について記載する。.
2004年
この項目では、国際的な視点に基づいた2004年について記載する。.
2006年
この項目では、国際的な視点に基づいた2006年について記載する。.
2007年
この項目では、国際的な視点に基づいた2007年について記載する。.
2008年
この項目では、国際的な視点に基づいた2008年について記載する。.
2011年
この項目では、国際的な視点に基づいた2011年について記載する。.
2014年
この項目では、国際的な視点に基づいた2014年について記載する。.
2015年
この項目では、国際的な視点に基づいた2015年について記載する。.
2017年
この項目では国際的な視点に基づいた2017年について記載する。.
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贈従二位。