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栄花物語

索引 栄花物語

『栄花物語』(えいがものがたり)は、平安時代の歴史物語。仮名文。女性の手になる編年体物語風史書。.

75 関係: 古活字本堀河天皇増鏡大宰府大鏡実隆公記宇多天皇寛永寛治岩波文庫中宮万寿三条天皇三条西実隆三条西家一条天皇九州国立博物館平安時代今鏡後三条天皇後一条天皇後冷泉天皇後朱雀天皇応徳周防内侍円融天皇出家出羽弁六国史元和 (日本)国宝禎子内親王章子内親王紫式部日記相模女子大学白河天皇花山天皇鎌倉時代裳着西本願寺譲位赤染衛門藤原妍子藤原威子藤原嬉子藤原安子藤原寛子 (藤原道長女)藤原師実藤原師輔藤原伊周...藤原彰子藤原忠実藤原北家藤原兼家藤原道長藤原頼通藤原詮子藤原通房藤原教通重要文化財陽明文庫村上天皇歴史物語水鏡法成寺源倫子源氏物語明暦春日大社日本古典文学大系日本古典文学全集摂関政治敦明親王1935年1955年 インデックスを展開 (25 もっと) »

古活字本

『吾妻鏡』古活字本寛永版・林羅山の跋文 古活字本(こかつじぼん)または古活字版(―はん)とは、文禄より慶安ごろ(16世紀末から17世紀初め)までの間に日本で刊行された活字印刷本の総称である。.

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堀河天皇

堀河天皇内裏跡 堀河天皇(ほりかわてんのう、承暦3年7月9日(1079年8月8日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))は平安時代後期の第73代天皇(在位:応徳3年11月26日(1087年1月3日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))。諱は善仁(たるひと)。 白河天皇の第二皇子、母は藤原師実の養女・中宮賢子。准母に同母姉媞子内親王(郁芳門院)。.

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増鏡

『増鏡』(ますかがみ)は、歴史物語。成立は南北朝時代と推定される。作者は未詳だが、二条良基説や洞院公賢説、四条家関係者説などがある。いわゆる「四鏡」の成立順では最後に位置する作品である。内容的には最も新しい時代を扱っている。.

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大宰府

大宰府(だざいふ)は、7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。多くの史書では太宰府とも記され、おもに8世紀の大和朝廷内部で作られた史書で「大宰府」と記されている。.

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大鏡

『大鏡』(おおかがみ)は、平安時代後期(白河院政期)に成立したとされている紀伝体の歴史物語である。.

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実隆公記

『実隆公記』(さねたかこうき)は、室町時代後期の公家、三条西実隆の記した日記。期間は、文明6年(1474年)から天文5年(1536年)までの60年以上に及ぶ。同時代の一級資料。記述は京都の朝廷、公家や戦国大名の動向、和歌、古典の書写など多岐に及ぶ。自筆本が現存し、1995年(平成7年)に重要文化財に指定された。.

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宇多天皇

宇多天皇(うだてんのう、貞観9年5月5日(867年6月10日) - 承平元年7月19日(931年9月3日))は、日本の第59代天皇(在位:仁和3年8月26日(887年9月17日) - 寛平9年7月3日(897年8月4日))。 諱は定省(さだみ)。後の佐々木氏などに代表される宇多源氏の祖先にもあたる(詳細は皇子女の欄参照)。.

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寛永

寛永(かんえい)は日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

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寛治

寛治(かんじ)は、日本の元号の一つ。応徳の後、嘉保の前。1087年から1094年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.

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岩波文庫

岩波文庫(いわなみぶんこ)は、株式会社岩波書店が発行する文庫本レーベル。1927年(昭和2年)7月10日に、ドイツのレクラム文庫を模範とし、書物を安価に流通させ、より多くの人々が手軽に学術的な著作を読めるようになることを目的として創刊された日本初の文庫本のシリーズ。最初の刊行作品は『新訓万葉集』などであった。.

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中宮

中宮(ちゅうぐう)は、日本の天皇の妻たちの呼称の一つ。.

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万寿

万寿(まんじゅ、正字体:萬壽)は、日本の元号の一つ。治安の後、長元の前。1024年から1028年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇。.

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三条天皇

三条天皇(さんじょうてんのう、天延4年1月3日(976年2月5日) - 寛仁元年5月9日(1017年6月5日))は第67代天皇。諱は居貞(おきさだ / いやさだ)。享年42。在位は寛弘8年6月13日(1011年7月16日)から長和5年1月29日(1016年3月10日)まで。 冷泉天皇の第二皇子。母は摂政太政大臣藤原兼家の長女・贈皇太后超子。花山天皇の異母弟。.

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三条西実隆

三条西 実隆(さんじょうにし さねたか)は、室町時代後期から戦国時代の公家。内大臣・三条西公保の次男。.

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三条西家

三条西家(さんじょうにし け)は、藤原北家 閑院流 嫡流・転法輪三条家の分家である正親町三条家のそのまた分家で、大臣家の家格を持つ公家。西三条家(にしさんじょう け)ともいう。正親町三条家の分家でありながら家格は本家のそれをしのぎ、三大臣家の中でも別格とみなされていたばかりか、室町時代から江戸時代初期にかけて右大臣をたびたび出したため、その家格は清華家とほぼ同格とみなされていた。閑院家嫡流の転法輪三条家にもたびたび養子を出したため、戦国時代以後の転法輪三条家の直接の血統は三条西家のものとなっている。江戸時代の家禄は502石。 維新までは三条西と西三条の双方を比較的自由に使っており、明治になって17代公允が伯爵に授爵されたのを機にこれを西三条に一本化したが、しばらくしてこれを三条西に替えている。通字は「公」「実」「季」。分家に押小路家・武者小路家・高松家がある。.

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一条天皇

一条天皇(いちじょう てんのう、天元3年6月1日(980年7月15日) - 寛弘8年6月22日(1011年7月25日))は、平安時代中期の第66代天皇(在位:寛和2年6月23日(986年8月1日) - 寛弘8年6月13日(1011年7月16日))。諱は懐仁(やすひと)。 円融天皇の第1皇子。母は藤原兼家の娘、詮子。兄弟姉妹はない。.

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九州国立博物館

九州国立博物館(きゅうしゅうこくりつはくぶつかん)は、福岡県太宰府市石坂にある歴史系の博物館。独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館の1つで、2005年10月16日に開館。太宰府天満宮裏で、同宮所有の丘陵地に建設された。通称「九博」(きゅうはく)。館長は島谷弘幸。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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今鏡

『今鏡』(いまかがみ)は、歴史物語。10巻。成立は平安時代末期であり、『今鏡』序文によれば、高倉天皇の嘉応2年(1170年)とされるが、それ以降とする説もある。作者は藤原為経(寂超)とするのがほぼ定説になっている。ほかに、中山忠親、源通親説もある。『今鏡』は『続世継』(しょくよつぎ)とも『小鏡』(こかがみ)とも呼ばれる。『続世継』は、『大鏡』の続きであるという意味で、『小鏡』とは、現在の歴史という意味である。『つくも髪の物語』ともいう。 いわゆる「四鏡」の成立順では2番目に位置する作品である。内容的には『大鏡』の延長線上に位置し、3番目に古い時代を扱う。なお、描く年代が4番目の『増鏡』との間には13年間の空白があり、藤原隆信(寂超在俗の子)の著である歴史物語『弥世継』(いやよつぎ、現存しない)がその時代を扱っていたためとされる。.

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後三条天皇

大炊御門万里小路殿址、源高房、後三条天皇はこの地で崩御、京都府京都市中京区富小路通夷川上る西側 後三条天皇(ごさんじょうてんのう、長元7年7月18日(1034年9月3日) - 延久5年5月7日(1073年6月15日))は、第71代天皇(在位:治暦4年4月19日(1068年5月22日) - 延久4年12月8日(1073年1月18日))。諱は尊仁(たかひと)。宝算40。 後朱雀天皇の第二皇子。母は三条天皇第三皇女・皇后禎子内親王(陽明門院)。後冷泉天皇の異母弟。宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇である(ただし、生母の禎子内親王は藤原道長の外孫である)。.

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後一条天皇

後一条天皇(ごいちじょうてんのう、寛弘5年9月11日(1008年10月12日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))は、平安時代中期の第68代天皇(在位:長和5年2月7日(1016年3月18日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))。諱は敦成(あつひら)。一条天皇の第二皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母弟に後朱雀天皇。.

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後冷泉天皇

後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう、万寿2年8月3日(1025年8月28日) - 治暦4年4月19日(1068年5月22日))は、日本の第70代天皇(在位:1045年 - 1068年)。後朱雀天皇の第一皇子。母は藤原道長女藤原嬉子(贈皇太后)。諱を親仁(ちかひと)。紫式部の娘大弐三位が乳母である。.

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後朱雀天皇

後朱雀天皇(ごすざくてんのう、寛弘6年11月25日(1009年12月14日) - 寛徳2年1月18日(1045年2月7日))は、平安時代中期の第69代天皇(在位:長元9年4月17日(1036年5月15日) - 寛徳2年1月16日(1045年2月5日))。諱は敦良(あつなが)。 一条天皇の第三皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母兄に後一条天皇。.

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応徳

応徳(おうとく)は、日本の元号の一つ。永保の後、寛治の前。1084年から1086年までの期間を指す。この時代の天皇は白河天皇、堀河天皇。.

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周防内侍

周防内侍(『大日本國風會編小倉百人一首』) 周防内侍(すおうのないし、1037年(長暦元年)頃 - 1109年(天仁2年)以後 1111年(天永2年)以前)は、平安時代後期の歌人である。女房三十六歌仙の一人。本名は平 仲子(たいらの ちゅうし)。掌侍 正五位下に至る。父は「和歌六人党」の一人、桓武平氏の周防守 従五位上 平棟仲。母は加賀守 従五位下 源正職の女で、後冷泉院の女房となり小馬内侍と呼ばれた者だという。.

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円融天皇

円融天皇(えんゆうてんのう、天徳3年旧3月2日(959年4月12日) - 正暦2年旧2月12日(991年3月1日); 在位:安和2年旧9月23日(969年11月5日) - 永観2年旧8月27日(984年9月24日))は、第64代天皇。諱は守平(もりひら)。 村上天皇の第五皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘・中宮安子。冷泉天皇の同母弟。.

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出家

出家(しゅっけ、pabbajja、pravrajyaa、प्रव्रज्या) とは、師僧から正しい戒律である『沙弥戒』や『具足戒』を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教に入ることである。落飾(らくしょく)ともいう。対義語は還俗(げんぞく、“俗界に還る”の意)。 在家(ざいけ)と対比される。インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行にいそしんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、釈迦もその沙門の1人であった。 仏教における出家の伝統はこれに由来する。仏教教団において剃髪(ていはつ)して袈裟を被い、「正式に受戒(じゅかい)して入門した沙弥や沙弥尼」になることを言うが、その後、「具足戒を受けて正規の僧となった比丘や比丘尼」を呼ぶ場合にも使う。.

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出羽弁

出羽弁(でわのべん、寛弘4年(1007年)頃? - 没年不詳)は、平安時代中期の女流歌人。読み方についてはいでわのべんともいう。父については出羽守平季信とも、加賀守平秀信ともされる。 一条天皇の中宮上東門院彰子・その妹で後一条天皇の中宮威子、その娘章子内親王に仕えた。1033年(長元6年)には源倫子の70歳の祝賀で屏風歌を進詠したほか、多くの歌合で活躍した。 「後拾遺和歌集」以下の勅撰和歌集に入集。家集に「出羽弁集」がある。なお、「栄花物語」続編の巻31から巻37までは出羽弁の作という説がある。また「六条斎院禖子内親王家物語合」によれば、物語「あらば逢ふ夜の」の作者とされる。 Category:平安時代の女性 Category:平安時代の歌人 Category:堂上平氏.

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六国史

六国史(りっこくし)とは、古代日本の律令国家が編纂した6つの一連の正史のことである。一部に紀伝体的要素をとりいれつつも、概ね編年体で記されている。.

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元和 (日本)

元和(げんな)は日本の元号の一つ。慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。.

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国宝

建築:宇治上神社本殿覆屋(宇治市) 寺院建築:法隆寺金堂・五重塔(斑鳩町) 城郭建築:姫路城連立天守(姫路市) 絵画:源氏物語絵巻(徳川美術館) 彫刻:臼杵磨崖仏(阿弥陀三尊像) 工芸品:天寿国繍帳(中宮寺) 書跡・典籍:秋萩帖(東京国立博物館) 弘法大師筆尺牘「風信帖」(東寺) 考古資料:人物画像鏡(隅田八幡神社) 歴史資料:慶長遣欧使節関係資料のうちローマ市公民権証書(仙台市博物館) 国宝(こくほう)とは、日本の文化財保護法によって国が指定した有形文化財(重要文化財)のうち、世界文化の見地から価値の高いものでたぐいない国民の宝たるものであるとして国(文部科学大臣)が指定したものである(文化財保護法第27条第2項)。建造物、絵画、彫刻、工芸品、書跡・典籍、古文書、考古資料および歴史資料が指定されている。 法的には、国宝は重要文化財の一種である。国宝・重要文化財の指定手続、指定制度の沿革などについては、重要文化財の項を参照。 なお、いわゆる「人間国宝」とは重要無形文化財に指定された芸能、工芸技術などの保持者として各個認定された者の通称であり、本項で解説する国宝とは異なる。.

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禎子内親王

子内親王(ていし ないしんのう、長和2年7月6日(1013年8月15日) - 寛治8年1月16日(1094年2月3日))は、第67代三条天皇の第3皇女で、第69代後朱雀天皇の皇后、女院。「ていし」は仮の読みで、実際の読みは「さだこ」または「よしこ」だったと推測されている。 母は摂政藤原道長女・皇后妍子。院号は陽明門院(ようめいもんいん)。所生の子女に、尊仁親王(後三条天皇)、伊勢斎宮良子内親王、賀茂斎院娟子内親王がいる。.

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章子内親王

子内親王(しょうし(あきこ)ないしんのう、万寿3年12月9日(1027年1月19日) - 長治2年9月17日(1105年10月26日))は第68代後一条天皇第一皇女。母は藤原道長女・中宮藤原威子。第70代後冷泉天皇中宮、女院。院号は二条院(にじょういん)。同母妹に馨子内親王(後三条天皇中宮)。.

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紫式部日記

『紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)は、紫式部によって記された日記とされる。藤原道長の要請で宮中に上がった紫式部が、1008年(寛弘5年)秋から1010年(寛弘7年)正月まで、宮中の様子を中心に書いた日記と手紙からなる。 写本は宮内庁書陵部蔵の黒川本が最もよいとされているが一部記載については他の写本がすぐれているとも。写本の表紙の表題は『紫日記』とあり、内容にも紫式部の名の記載はなく、いつから『紫式部日記』とされたかは不明。 全2巻であり1巻は記録的内容、2巻は手紙と記録的内容である。『源氏物語』の作者が紫式部であるという通説は、伝説とこの『紫日記』にでてくる記述に基づいている。 鎌倉時代初期の13世紀前半ころに、紫式部日記のほぼ全文を絵画化した「紫式部日記絵巻」が制作された。.

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相模女子大学

記載なし。

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白河天皇

白河天皇(しらかわ てんのう)は、第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日) - 応徳3年11月26日(1087年1月3日))。諱を貞仁(さだひと)という。 後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。.

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花山天皇

花山天皇(かざんてんのう/かさんてんのう、安和元年10月26日(968年11月29日) - 寛弘5年2月8日(1008年3月17日)、在位:永観2年10月10日(984年11月5日) - 寛和2年6月23日(986年8月1日))は、日本(平安時代中期)の第65代天皇。諱は師貞(もろさだ)。花山院(かさんいん)や花山法皇とも呼ばれる。 冷泉天皇の第一皇子。母は、摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子。三条天皇の異母兄。花山源氏(神祇伯を世襲した伯王家、のち断絶)の祖。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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裳着

裳着(もぎ)は、平安時代から安土桃山時代にかけて、女子が成人したことを一族および他氏に対して示すことを目的をとして行われた通過儀礼。 なお、通説では初潮を迎えた後の10歳代前半の女子が対象とされている。成人したものとして当該の女子に初めて裳を着せる式で、裳着を済ませることで結婚などが許可された。 女子に裳を着せる役は腰結(こしゆい)と称され、徳望のある者から選ばれた。日取りは吉日が選ばれ、裳の腰紐を結び、髪上げをするほか、「鉄漿親」(かねおや)の立ち会いのもと、女子は初めてお歯黒を付け、眉を剃り、厚化粧をして殿上眉を描いた(引眉)。これ以降、裳着を済ませた者は、小袖は白を、袴は緋(ただし江戸時代以降は結婚まで引き続き濃紫)を着ることとされた。 江戸時代以降、武家と庶民において女性の成人儀礼は男性同様に元服と称し、実施年齢も18歳から20歳位に引き上げられ、または結婚と同時に行うようになった。.

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西本願寺

西本願寺(にしほんがんじ)は、京都市下京区にある仏教寺院。浄土真宗本願寺派の本山である。山号は龍谷山(りゅうこくざん)。 西本願寺は通称であり、正式名称は「龍谷山 本願寺」、宗教法人としての名称は「本願寺」である。京都市民からは「お西さん」の愛称でも親しまれている。真宗大谷派の本山である「東本願寺」(正式名称「真宗本廟」)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。文永7年(1272年)、親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建されたがその後比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、現在地には天正19年(1591年)、豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転した(詳細は後述「歴史」の項参照)。 境内は国の史跡に指定され、「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録されている。「本願寺」のローマ字表記は、ヘボン式ローマ字では「Hongan-ji」であり、世界遺産「古都京都の文化財」登録時の英文名称も「Hongan-ji」であるが(参照:)、西本願寺自身は「Hongwan-ji」の綴りを採用しており(参照:)、URLもその綴りを採用している。 本願寺住職が浄土真宗本願寺派の門主となる。.

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譲位

譲位(じょうい)は、君主が生きている間に、その地位を後継者へ譲り渡す行為である。.

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赤染衛門

赤染衛門 『前賢故実』より '''赤染衛門'''(小倉百人一首より) 『やすらはで寝なましものを 小夜ふけて かたふく迄の月を見しかな』(月岡芳年『月百姿』) 赤染衛門(あかぞめえもん、天暦10年(956年)頃? - 長久2年(1041年)以後)は、平安時代中期の女流歌人。大隅守・赤染時用の娘。中古三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人。.

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藤原妍子

藤原 妍子(ふじわら の けんし/きよこ、正暦5年3月(994年4月) - 万寿4年9月14日(1027年10月16日))は、摂政藤原道長の次女。母は源倫子。第67代三条天皇中宮。別名枇杷殿皇太后。子女は禎子内親王(後朱雀天皇皇后)。同母の兄弟に頼通・教通、上東門院彰子・威子・嬉子。.

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藤原威子

藤原 威子(ふじわら の いし/たけこ、長保元年12月23日(1000年2月1日) - 長元9年9月6日(1036年9月28日))は、平安時代中期の女性。摂政藤原道長の娘。母は源倫子。第68代後一条天皇中宮。別名大中宮。子女は章子内親王(後冷泉天皇中宮)、馨子内親王(後三条天皇中宮)。同母の兄弟に頼通・教通、上東門院彰子・妍子・嬉子。.

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藤原嬉子

藤原 嬉子(ふじわら の きし/ よしこ、寛弘4年1月5日(1007年1月26日) - 万寿2年8月5日(1025年8月30日))は、摂政藤原道長の六女。母は源倫子。尚侍。第69代後朱雀天皇の東宮妃、第70代後冷泉天皇生母。贈皇太后。同母の兄弟に頼通・教通、上東門院彰子・妍子・威子。.

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藤原安子

藤原 安子(ふじわら の あんし(やすこ)、延長5年(927年) - 応和4年4月29日(964年6月11日))は、右大臣藤原師輔の長女。母は武蔵守藤原経邦の女盛子。第62代村上天皇中宮。第63代冷泉天皇・第64代円融天皇、為平親王、承子内親王、輔子内親王、資子内親王、選子内親王らの生母。同母兄弟に伊尹・兼通・兼家・忠君、登子(重明親王妃)・藤原師輔三女(源高明先妻、俊賢母)・怤子(冷泉天皇女御)など。.

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藤原寛子 (藤原道長女)

藤原 寛子(ふじわら の かんし/ ひろこ、長保元年(999年) - 万寿2年7月9日(1025年8月5日))は、藤原道長の三女。母は源明子。敦明親王(小一条院)妃。別名高松殿女御。なお、長和2年9月16日(1013年10月23日)に道長の娘たちが叙位された件について『御堂関白記』には、提子、『小右記』には媞子という名称で登場(従三位に叙任された)しており、寛子は後の改名であったと考えられている。.

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藤原師実

藤原 師実(ふじわら の もろざね)は、平安時代中期から後期(院政期)にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原頼通の六男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。.

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藤原師輔

藤原 師輔(ふじわら の もろすけ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白太政大臣・藤原忠平の次男。官位は正二位・右大臣。 有職故実・学問に優れた人物として知られ、村上天皇の時代に右大臣として朝政を支えた。師輔の没後に長女・中宮安子所生の皇子が冷泉天皇・円融天皇としてそれぞれ即位し、師輔の家系は天皇の外戚として大いに栄えた。.

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藤原伊周

藤原 伊周(ふじわらの これちか)は平安時代中期の公卿。摂政関白内大臣藤原道隆の嫡男(三男)。.

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藤原彰子

藤原 彰子(ふじわら の しょうし/あきこ、永延2年(988年) - 承保元年10月3日(1074年10月25日)は、第66代一条天皇の皇后(号は中宮)。第68代後一条天皇・第69代後朱雀天皇の生母(国母)、女院。院号を上東門院(じょうとうもんいん)といい、のちには大女院(おおにょいん)とも呼ばれた。 女房に『源氏物語』作者の紫式部、王朝有数の歌人として知られた和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門、続編の作者と伝えられる出羽弁、そして「古の奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬる哉」の一句が有名な歌人の伊勢大輔などを従え、華麗な文芸サロンを形成していた。.

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藤原忠実

藤原 忠実(ふじわら の ただざね)は、平安時代後期から末期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原師通の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。日記『殿暦』の著者。.

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藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

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藤原兼家

東三条院跡、藤原兼家邸、京都市中京区押小路通釜座西北角 藤原 兼家(ふじわら の かねいえ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・藤原師輔の三男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。 策略によって花山天皇を退位させて、娘が生んだ一条天皇を即位させて摂政となった。その後右大臣を辞して摂政のみを官職として、摂関の地位を飛躍的に高め、また子・道隆にその地位を譲って世襲を固める。以後、摂関は兼家の子孫が独占し、兼家は東三条大入道殿と呼ばれて尊重された。 兄・兼通との激しい確執や、室の一人に『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母がいる事でも知られている。.

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藤原道長

藤原 道長(ふじわら の みちなが)は、平安時代の中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男(または四男)。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。 父・兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男・伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。 一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが三条天皇とは深刻な対立が生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。さらには、六女の嬉子を後の後朱雀天皇となる敦良親王に入侍させた。晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けた。.

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藤原頼通

藤原 頼通(ふじわら の よりみち)は、平安時代中期から後期にかけての公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣藤原道長の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。 父・道長から若くして後一条天皇の摂政を譲られ、その後見を受ける。父の死後は朝政の第一人者として後朱雀天皇・後冷泉天皇の治世にて、関白を50年の長きに亘って務め、父道長と共に藤原氏の全盛時代を築いた。現代に残るその栄華の象徴が頼通が造営した平等院鳳凰堂である。 しかし、天皇の后にした娘が男子に恵まれなかったばかりか、刀伊の入寇・平忠常の乱・前九年の役など戦乱が相次ぐなど、朝廷の内外からそれまでの絶対的な権力体制を揺さぶられる事態が生じた。そこに加えて晩年には頼通と疎遠な後三条天皇が即位したこともあり、摂関家の権勢は衰退へ向かい、やがて院政と武士の台頭の時代へと移ることになる。.

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藤原詮子

東三条殿跡・藤原詮子居住地、京都市中京区押小路通釜座西北角 藤原 詮子(ふじわら の せんし/あきこ、応和2年(962年) - 長保3年閏12月22日(1002年2月7日))は、平安時代、第64代円融天皇女御。第66代一条天皇生母(国母)。院号は東三条院(ひがしさんじょういん)。 摂政関白・太政大臣藤原兼家の次女で、母は摂津守藤原中正の娘時姫。先後して摂関に在職した道隆・道兼・道長、また冷泉天皇女御超子は同母の兄弟。.

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藤原通房

藤原 通房(ふじわら の みちふさ)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原頼通の長男。官位は正二位・権大納言、右近衛大将。.

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藤原教通

藤原 教通(ふじわら の のりみち)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の五男。官位は従一位・関白、太政大臣、贈正一位。.

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重要文化財

建造物の例(通潤橋) 歴史資料の例(123号機関車 京都・宮津海陸運輸所有) 彫刻の例(塑造金剛力士立像 法隆寺蔵) 考古資料の例(埴輪子持家 東京国立博物館蔵) 絵画の例(黒田清輝筆「湖畔」) 建造物(民家)の例:荒井家住宅(栃木県矢板市) 重要文化財(じゅうようぶんかざい)は、日本に所在する建造物、美術工芸品、考古資料、歴史資料等の有形文化財のうち、歴史上・芸術上の価値の高いもの、または学術的に価値の高いものとして文化財保護法に基づき日本国政府(文部科学大臣)が指定した文化財を指す。重文(じゅうぶん)と略称されることが多い。文化庁による英語表記はImportant Cultural Properties。 日本の地方公共団体(都道府県、市町村)がそれぞれの文化財保護条例に基いて指定する有形文化財についても「県指定重要文化財」「市指定重要文化財」等と呼称される場合があるが、文化財保護法に規定する「重要文化財」とは国(日本国文部大臣)が指定した有形文化財のことを指す。本項では特記なき限り、文化財保護法第27条の規定に基づき日本国(文部科学大臣)が指定した重要文化財(いわゆる「国の重要文化財」)について記述する。.

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陽明文庫

陽明文庫(ようめいぶんこ)は、京都市右京区宇多野上ノ谷町にある歴史資料保存施設。 公家の名門で「五摂家」の筆頭である近衛家伝来の古文書(こもんじょ)、典籍、記録、日記、書状、古美術品など約10万件に及ぶ史料を保管している。昭和13年(1938年)、当時の近衛家の当主で内閣総理大臣であった近衛文麿が京都市街地の北西、仁和寺の近くの現在地に財団法人陽明文庫設立した。近衛家の遠祖にあたる藤原道長(966 - 1028)の自筆日記『御堂関白記』から、20世紀の近衛文麿の関係資料まで、1,000年以上にわたる歴史資料を収蔵し、研究者に閲覧の便を図るとともに、調査研究事業、展示出陳事業、複製本の刊行などの事業を行っている。2012年4月より公益財団法人に移行した。.

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村上天皇

村上天皇(むらかみてんのう、延長4年旧6月2日(926年7月14日)- 康保4年旧5月25日(967年7月5日))、は、平安時代中期の第62代天皇(在位:天慶9年(946年)旧4月28日 - 康保4年(967年)旧5月25日)。諱は成明(なりあきら)。 第60代醍醐天皇の第十四皇子。母は藤原基経女中宮穏子。第61代朱雀天皇の同母弟。.

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歴史物語

歴史物語(れきしのもがたり)とは、日本文学において、実際の歴史に基づいて物語風に書かれた作品のこと。 仮名文で書かれている事が原則であり、漢文によって書かれた史論書とは区別されている。 歴史の流れに従っているため、物語を全て史実のように錯覚してしまうケースもあるが、作者による演出の挿入や作者が当時知っている範囲で書かれていることも多いために、作中のエピソードと史実が合致しない事例も有り得る(軍記物語にも同様のことが言える)。.

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水鏡

『水鏡』(みずかがみ)は、歴史物語。成立は鎌倉時代初期(1195年頃)と推定される。.

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法成寺

法成寺址、京都市上京区 荒神口通寺町通東入ㇽ北側 荒神町 法成寺(ほうじょうじ)は、平安時代中期に藤原道長によって創建された、摂関期最大級の寺院。道長の主邸土御門殿の東にあたる鴨川西岸(東京極大路の東)に建てられ、京極御堂とも称され、道長の異称「御堂殿」「御堂関白」やその子孫御堂流の由来ともなった。現在の京都市上京区東端にあった。荒神口通寺町東入の路傍、京都府立鴨沂高等学校校庭の塀際に法成寺跡を示す石標が立てられている。.

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源倫子

源 倫子(みなもと の りんし、康保元年(964年)- 天喜元年6月1日(1053年6月19日))は、平安時代中期の貴族女性で、藤原道長の正室。父は左大臣源雅信、母は藤原穆子。兄弟に源時中、源時通、源扶義、源時方、源通義、大僧正済信、寂源など。法名は清浄法。.

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源氏物語

土佐光起筆『源氏物語画帖』より「若紫」。飼っていた雀の子を逃がしてしまった幼い紫の上と、柴垣から隙見する源氏。 朝顔」。雪まろばしの状景。邸内にいるのは源氏と紫の上。 『源氏物語』(げんじものがたり)は、平安時代中期に成立した日本の長編物語、小説。文献初出は1008年(寛弘五年)。作者の紫式部にとって生涯で唯一の物語作品である物語の他には「紫式部日記」や和歌集の「紫式部集」があり「小倉百人一首」にも和歌が収められている(*)。後に、紫式部の「源氏物語」と「紫式部日記」の2作品は絵画化された。約150年後の平安時代末期に「源氏物語絵巻」、約200年後の鎌倉時代初期に「紫式部日記絵巻」が制作された。(*)「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」。主人公の光源氏を通して、恋愛、栄光と没落、政治的欲望と権力闘争など、平安時代の貴族社会を描いた上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。紫式部日記。。 下級貴族出身の紫式部は、20代後半で藤原宣孝と結婚し一女をもうけたが、結婚後3年ほどで夫と死別し、その現実を忘れるために物語を書き始めた。これが『源氏物語』の始まりである。最初は、当時紙が貴重で紙の提供者がいれば、その都度書き江戸時代の松永貞徳の源氏物語の写本全54冊(54帖)の1冊1冊の厚みが示すように、紫式部は当初多くの分量は書けず1冊(1帖)の厚みは薄いが、支援者の藤原道長により安定した紙の供給が行なわれて以降は34帖「若菜」のように1冊(1帖)の厚みが急激に増した。上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。(参考)『源氏物語』与謝野晶子訳、各帖の総ページ数より、1帖「桐壷」26、2帖「帚木」44、3帖「空蝉」12、そして、34帖「若菜」上192、下190。(角川文庫 1999年(平成11年)5月10日)所収、仲間内で批評し合うなどして楽しんでいたが紫式部日記より、当初、紫式部は仲間内で意見を言い合ったり手紙のやり取りで批評し合って楽しんでいたことから「最初は現代の同人誌のような楽しみ方だった」。上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。、その物語の評判から藤原道長が娘の中宮彰子の家庭教師として紫式部を呼んだ。それを機に宮中に上がった紫式部は宮仕えをしながら藤原道長の支援の下で物語を書き続け、54帖からなる『源氏物語』を完成させた中宮彰子は一条天皇の妻であったが、一条天皇のもう一人の妻であり後に亡くなった藤原定子の家庭教師は清少納言だった。なお、藤原道長の要請で宮中に上がった紫式部は、宮中の様子を中心に書いた「紫式部日記」を残している。。 なお、源氏物語は文献初出から150年ほど後の平安時代末期に「源氏物語絵巻」として絵画化された 五島美術館。現存する絵巻物の内、徳川美術館と五島美術館所蔵のものは国宝となっている。また現在、『源氏物語』は日本のみならず20ヶ国語を超える翻訳を通じ世界各国で読まれている 総合研究大学院大学教授 伊藤鉃也 日本文学研究専攻。2009年3月時点、刊行されたもの24種類、現在進行中のもの4種類、未確認(あるらしい、というもの)6種類。。.

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明暦

明暦(めいれき)は日本の元号の一つ。承応の後、万治の前。1655年から1658年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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春日大社

一の鳥居 春日大社(かすがたいしゃ)は、中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年に創設された奈良県奈良市にある神社。旧称は春日神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「下がり藤」。 全国に約1000社ある春日神社の総本社である。武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の1つとして登録されている。.

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日本古典文学大系

日本古典文学大系(にほんこてんぶんがくたいけい)は1967年までに、また新日本古典文学大系は2005年までに岩波書店が出版した日本の古典文学を対象とした全集である。.

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日本古典文学全集

日本古典文学全集(にほんこてんぶんがくぜんしゅう)は、小学館が出版した日本の古典文学を対象とした全集である。1970年から1976年にかけて出版され、全51巻からなる。書目は概ね古い時期のものから並んでいる。本文、注釈及び現代語訳から構成される。 その後1983年から1988年にかけて軽装版に位置づけられる『完訳・日本の古典』が刊行された。そして、1994年から2002年にかけて、最新の研究成果に基づいた注釈と、現代語訳の併載という方針を踏襲した 『新編日本古典文学全集』が刊行された。この新版の構成も、引き続き、上段に注釈、下段に現代語訳を記載し、中央に本文ならびに、存在すれば挿絵を挿入するというものであった。 その後、装いを新たにし、かつ、有名な書物類に的を絞った軽装版『日本の古典をよむ』が2007年から2008年に出版された。 岩波書店の『日本古典文学大系』と並びよく利用される。.

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摂関政治

摂関政治(せっかんせいじ)とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、天皇の外戚として摂政や関白あるいは内覧といった要職を占め、政治の実権を代々独占し続けた政治形態である。.

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敦明親王

敦明親王(あつあきらしんのう、正暦5年5月9日(994年6月20日) - 永承6年1月8日(1051年2月21日))は、平安時代中期の皇族。第67代三条天皇の第一皇子。母は皇后・藤原娍子(大納言・藤原済時の女)。尊号は小一条院(こいちじょういん)。藤原道長の圧力の前に自ら皇太子の身位を辞退し、その見返りに准太上天皇としての待遇を得たことで知られる。.

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1935年

記載なし。

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1955年

記載なし。

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