ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
インストール
ブラウザよりも高速アクセス!
 

細川勝元

索引 細川勝元

細川 勝元(ほそかわ かつもと)は、室町時代の武将・守護大名。第16、18、21代室町幕府管領。土佐・讃岐・丹波・摂津・伊予守護。第11代細川京兆家当主。父は第14代室町幕府管領、細川持之。政元の父。応仁の乱の東軍総大将として知られている。.

176 関係: 加賀国古市胤仙吉川弘文館吉野大和国大内政弘大内教弘大河ドラマ季瓊真蘂宝徳室町幕府室町時代宮本義己守護守護大名宇高有光安芸国富樫泰高富樫成春富樫教家寛正小川信小和田哲男小笠原宗康小笠原光康小笠原持長 (信濃小笠原氏)小泉重弘山城国山名宗全山名熙貴山名豊久山名氏山名是豊山名政豊嶽山城の戦い川岡勉上京の戦い上御霊神社上杉氏上杉憲忠丹波国享年享徳享徳の乱京職京都市京都府京極高光京極持清人物叢書...仮名 (通称)伊予国伊勢貞親伊達騒動伽羅先代萩但馬国征夷大将軍御霊合戦後土御門天皇後花園天皇従五位従四位信濃国応仁応仁の乱応仁記土佐国別当嘉吉嘉吉の乱コイ備後国六角久頼六角時綱国人福井城 (摂津国)筒井順永管領箸尾宗信細川元有細川勝之細川勝氏細川四天王細川氏細川持之細川持賢細川成之細川政元細川政国経覚畠山義就畠山氏畠山持国畠山政久畠山政長花の乱鎌倉公方讃岐国豊田頼英越前国越智家栄足利将軍家足利義尚足利義勝足利義視足利義政足利義教足利成氏龍安寺近江国興福寺阿波国赤松則尚赤松義雅赤松氏赤松満祐赤松政則関東地方関東管領野村萬斎長禄暗殺板倉重矩武将武衛騒動武蔵国司永享河野通春河野教通洞松院朝倉孝景 (7代当主)成身院光宣戦国時代 (日本)斯波義廉斯波義敏斯波氏新人物往来社文安文正文正の政変文明 (日本)日野富子日明貿易摂津国11月13日 (旧暦)12月23日 (旧暦)1430年1442年1445年1447年1449年1450年1451年1452年1453年1454年1455年1459年1460年1462年1464年1466年1467年1468年1471年1472年1473年1474年3月24日 (旧暦)4月3日 (旧暦)5月11日 (旧暦)6月6日7月10日 (旧暦)9月5日 (旧暦) インデックスを展開 (126 もっと) »

加賀国

加賀国(かがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

新しい!!: 細川勝元と加賀国 · 続きを見る »

古市胤仙

古市 胤仙(ふるいち いんせん、生年不詳 - 享徳2年6月24日(1453年8月8日))は、室町時代の武将。大和の国人で興福寺衆徒。古市氏嫡流古市胤憲の子。宣胤の兄。胤栄、澄胤の父。 同じ興福寺衆徒の筒井氏とは対立しており、嘉吉3年(1443年)の摂津河上五ヶ関務代官職を巡って大乗院門跡経覚と成身院光宣、筒井順永兄弟が対立した時、胤仙は経覚に与して光宣を破り、同年に管領畠山持国の指示で豊田頼英、小泉重弘らと共に大和の支配を任された。文安元年(1444年)2月には3名が経覚から改めて3名に官符衆徒棟梁・奈良中雑務検断職に任ぜられている(『経覚私要鈔』文安元年2月27日条)。 しかし、その後光宣が勢いを盛り返し、経覚派を打ち破った。胤仙も光宣の弟の筒井実憲を討ち取ったが、文安2年(1445年)に光宣に敗北、経覚派の拠点・鬼薗山城を奪われた。以降、胤仙は居城の古市城に拠って光宣との戦いを続け、文安4年(1447年)には経覚を強引に古市に迎え入れ、その権威を利用して筒井氏や一族内の反対派を抑え込もうとした。享徳2年(1453年)3月には光宣の弟・筒井尊覚(実憲の兄)を討ち取ったが、5月には自身も熱病に倒れて6月に死去。これをきっかけに筒井氏と経覚派は歩み寄り、翌享徳3年(1454年)に和睦した。 文化人でもあり、文安4年(1447年)には経覚を招待して連歌会を催した。この気質は2人の息子にも受け継がれていく。.

新しい!!: 細川勝元と古市胤仙 · 続きを見る »

吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

新しい!!: 細川勝元と吉川弘文館 · 続きを見る »

吉野

吉野(よしの)は、大和国南部(現在の奈良県南部)一帯を指す地名である。特に吉野山から大峰山にかけての山岳地帯をいう。狩りに適した良い野という意味である。吉野は口吉野と奥吉野に分かれる。奥吉野は山々が連なる山岳地帯で、古くは大峰とよばれ、厳密には吉野に含まれなかった。大峰の山々は熊野まで連なる。大峰への道は修験者によって、熊野から開かれた。 記紀には応神や雄略の吉野での狩りの伝承が載せられている。.

新しい!!: 細川勝元と吉野 · 続きを見る »

大和国

大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

新しい!!: 細川勝元と大和国 · 続きを見る »

大内政弘

大内 政弘(おおうち まさひろ)は、室町時代の守護大名。大内氏第14代当主。父は大内教弘、母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘。最盛期には周防・長門・豊前・筑前と、安芸・石見の一部を領有し、強大を誇った。応仁の乱には西軍側の主力として参戦する。文化にも造詣が深く、後年山口が西の京と呼ばれる基礎を築く。.

新しい!!: 細川勝元と大内政弘 · 続きを見る »

大内教弘

大内 教弘(おおうち のりひろ)は、室町時代中期の守護大名。周防・長門・筑前・豊前・肥前守護。大内氏第13代当主。第11代当主大内盛見の子(一説には大内持盛の次男)。教幸の弟。妻は山名宗全の養女(山名熙貴の娘)。政弘、娘(大友政親室)、娘(山名政理室)、娘(佐伯親春室)の父。 幼名は六郎、のち元服に際して6代将軍・足利義教より偏諱を受け教弘と名乗る。通称は新介、周防介。官位は左京大夫、大膳大夫、従五位下、従四位下、死後に従三位。.

新しい!!: 細川勝元と大内教弘 · 続きを見る »

大河ドラマ

『大河ドラマ』(たいがドラマ)は、1963年(昭和38年)から放送されているNHKのテレビドラマシリーズ。略称は大河。 1984年から1986年にかけて放送されたNHK新大型時代劇と2009年から2011年にかけて放送されたスペシャルドラマ『坂の上の雲』についてもこの項で述べる。.

新しい!!: 細川勝元と大河ドラマ · 続きを見る »

季瓊真蘂

季瓊 真蘂(きけい しんずい、応永8年(1401年) - 文明元年8月11日(1469年9月16日))は、室町時代の臨済宗の僧、相国寺塔頭鹿苑院内の蔭涼軒主(蔭涼職)。蔭涼軒真蘂とも。播磨の赤松氏の支族にあたる上月氏の生まれだが、父母は不明。 雲頂院の叔英宗播に師事、永享7年(1435年)に将軍と鹿苑院主(僧録)の連絡役である蔭涼軒主となり、将軍に近侍する側近となる。嘉吉元年(1441年)に赤松満祐らが6代将軍足利義教を暗殺した嘉吉の乱では、満祐の居城である播磨坂本城に赴き義教の首級を受け取っている。直後に引退するが、長禄2年(1458年)に8代将軍足利義政の引き立てで復帰、伊勢貞親らと共に義政の政治顧問となり、京都五山の人事権を握り幕政に影響力を持つ。 同年、赤松氏遺臣が長禄の変で功績を挙げると赤松氏復帰を義政に取り立て、赤松政則を当主として再興させた。寛正6年(1465年)に義政夫人の日野富子に子(足利義尚)が誕生した後は義政が次期将軍と約束していた弟の足利義視を排斥しようとして策謀し、三管領の1つの斯波氏の家督問題(武衛騒動)にも介入し(一時的に当事者の1人、松王丸を稚児として預かっていた)、文正元年(1466年)に対立する細川勝元・山名宗全らによる文正の政変で貞親・斯波義敏・赤松政則らと共に失脚した。応仁元年(1467年)からの応仁の乱で近江へ逃れ、応仁2年(1468年)に義政の命令で京都へ戻ったが、政治に復帰出来ないまま翌文明元年(1469年)に死去。享年69。 『応仁記』などでは否定的評価で書かれている一方、政則の家臣浦上則宗や宗湛らと交流があり、失脚前の文正元年2月から閏2月に休暇で彼らと侍所所司代多賀高忠を交えて有馬温泉に滞在したことを書き残した。また、公式日記である『蔭涼軒日録』の一部を執筆。.

新しい!!: 細川勝元と季瓊真蘂 · 続きを見る »

宝徳

宝徳(ほうとく)は、日本の元号の一つ。文安の後、享徳の前。1449年から1451年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

新しい!!: 細川勝元と宝徳 · 続きを見る »

室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

新しい!!: 細川勝元と室町幕府 · 続きを見る »

室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

新しい!!: 細川勝元と室町時代 · 続きを見る »

宮本義己

宮本 義己(みやもと よしみ、1947年 - )は、日本の日本史学者。 茨城県生まれ。國學院大學大学院日本史学専攻博士課程満期退学。帝京大学講師、鳩山町史編集委員会専門調査員を経て、國學院大學文学部・芝浦工業大学システム工学部講師。日本中世・近世史を専攻するかたわら、独自の日本医道史の研究を進め、学会誌に多くの論文を発表している。.

新しい!!: 細川勝元と宮本義己 · 続きを見る »

守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

新しい!!: 細川勝元と守護 · 続きを見る »

守護大名

守護大名(しゅごだいみょう)は、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していった室町時代の守護を表す日本史上の概念。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期 - 16世紀初頭ごろに一部は戦国大名となり、一部は没落していった。.

新しい!!: 細川勝元と守護大名 · 続きを見る »

宇高有光

宇高 有光(うだか ありみつ、?-宝徳2年9月27日(1450年11月1日))は、室町時代中期の武士。宇高光勝の子、宇高光成の父。和泉国上守護代。.

新しい!!: 細川勝元と宇高有光 · 続きを見る »

安芸国

安芸国(あきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

新しい!!: 細川勝元と安芸国 · 続きを見る »

富樫泰高

富樫 泰高(とがし やすたか)は、室町時代中期から戦国時代にかけての武将・守護大名。富樫氏17・19・24代当主。加賀国守護。.

新しい!!: 細川勝元と富樫泰高 · 続きを見る »

富樫成春

富樫 成春(とがし しげはる)は、室町時代中期の武将・守護大名。富樫氏18・20代当主。加賀国守護。.

新しい!!: 細川勝元と富樫成春 · 続きを見る »

富樫教家

富樫 教家(とがし のりいえ)は、室町時代前期から中期にかけての武将・守護大名。富樫氏16代当主。加賀国守護。出家して以降は甫柏と名乗る。.

新しい!!: 細川勝元と富樫教家 · 続きを見る »

寛正

寛正(かんしょう)は、日本の元号の一つ。長禄の後、文正の前。1461年から1466年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇、後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

新しい!!: 細川勝元と寛正 · 続きを見る »

小川信

小川 信(おがわ まこと、1920年12月31日 - 2004年11月15日)は、日本の日本史学者。日本学士院賞受賞者。 専門は日本中世史。室町時代政治史をテーマとし、考証に重きをおいた。晩年、歴史地理的な研究にも取り組んだ。中心となって『久我家文書』編纂・刊行に従事した。.

新しい!!: 細川勝元と小川信 · 続きを見る »

小和田哲男

小和田 哲男(おわだ てつお、1944年(昭和19年)2月1日 - )は、日本の歴史学者、文学博士。静岡大学名誉教授。日本の戦国時代(特に今川氏)に関する研究で知られる。.

新しい!!: 細川勝元と小和田哲男 · 続きを見る »

小笠原宗康

小笠原 宗康(おがさわら むねやす)は、室町時代の守護大名。信濃守護、小笠原氏当主。小笠原政康の長男。 嘉吉2年(1442年)に父が死去、小笠原氏惣領職をめぐって従兄(伯父の小笠原長将の子)の小笠原持長との間で争いが起きた。持長は結城合戦や赤松満祐の討伐(嘉吉の乱)でも功績があり、幕府の実力者・管領畠山持国とも縁戚関係にあり、問題を複雑化させた。 しかし、当時の現状に鑑みれば、在京期間が長く、信濃と縁の薄い持長では信濃の国人を治めきれないと判断され、文安2年(1445年)11月、幕府問注所は宗康を信濃守護職に任命した。だが、小笠原氏は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、それにともない国人衆も二派に分裂して対立が続いた。 文安3年(1446年)、宗康は弟の光康に後援を頼み、自身が討ち死にした場合は光康に惣領職を譲り渡すと取り決め、水内郡漆田原で持長軍と戦ったが敗れ討ち死にしてしまった(漆田原の戦い)。 持長は宗康を討ち取りはしたが、家督は既に光康に譲られていたため、幕府も守護職と小笠原氏惣領職を光康に与えた結果、持長と光康の対立は続いた。やがて光康と宗康の子孫同士も争うようになり、小笠原氏は持長系の府中小笠原家、宗康系の鈴岡小笠原家、光康系の松尾小笠原家との三家に分裂し、再統一は戦国時代初期の小笠原長棟(府中家)の登場を待つことになる。.

新しい!!: 細川勝元と小笠原宗康 · 続きを見る »

小笠原光康

小笠原 光康(おがさわら みつやす)は室町時代の守護大名。信濃守護、小笠原氏当主。小笠原政康の3男。松尾城主。松尾小笠原家の祖。 父の死後、小笠原氏惣領職を巡って光康の兄の宗康と従兄の小笠原持長との争いが起きていた。小笠原氏は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、それにともない国人衆も2派に分裂して対立が続いた。 文安3年(1446年)、光康は兄に後援を頼まれ、自身が討ち死にした場合は光康に惣領職を譲り渡すと取り決めをした。宗康は漆田原(長野市中御所)で持長と戦ったが敗れ討ち死にしていたため(漆田原の戦い)、約束通り家督は光康に譲られ、幕府もまた信濃守護職と小笠原氏惣領職を光康に与えた。 しかし、持長と光康の対立は以後も継続し、一時は持長(府中小笠原家)が守護職を襲うなど混乱は続いた。甥で宗康の遺児の小笠原政秀もまた勢力をもち(鈴岡小笠原家)、政秀と光康の子家長もまた争うようになる。長年の守護家の混乱は信濃における守護の権威そのものの失墜につながり、信濃においては、守護に代わりそれぞれの地域の有力国人が独自の安堵状を発付するようになった。 関東で享徳3年(1455年)にはじまる享徳の乱が発生した時、光康は幕府から駿河守護今川範忠・越後守護上杉房定と共に、堀越公方足利政知を支持して関東へ出陣することを度々命じられたが、古河公方足利成氏に通じる府中の小笠原清宗が国人衆と結託して光康の出陣に反対し、なかなか発向できない有様であったとされる。 将軍足利義政は康正2年(1456年)、光康に対し清宗討伐を、また寛正6年(1465年)、光康と上杉房定に対し、成氏に通じる村上政清と高梨政高の討伐を命ずる御教書を発した。.

新しい!!: 細川勝元と小笠原光康 · 続きを見る »

小笠原持長 (信濃小笠原氏)

小笠原 持長(おがさわら もちなが)は、室町時代中期の武将、守護大名。信濃守護。父は小笠原長基の長男小笠原長将、母は側室。子に清宗。信濃府中(現在の長野県松本市)を本拠とした府中小笠原氏の祖。 応永18年(1411年)に幕命により、京極高数に従って飛騨の乱の鎮圧に参加、嘉吉元年(1441年)の結城合戦や赤松満祐の討伐(嘉吉の乱)でも功績を挙げた。応永29年(1422年)9月には将軍足利義持の伊勢神宮参詣に供奉した。.

新しい!!: 細川勝元と小笠原持長 (信濃小笠原氏) · 続きを見る »

小泉重弘

小泉 重弘(こいずみ しげひろ、生年不詳 - 文安2年6月13日(1445年7月26日))は、室町時代後期の武将。大和の国人で興福寺衆徒。父は小泉重尋。弟に重栄、子に今力丸。 嘉吉3年(1443年)の大和は成身院光宣・筒井順永兄弟と大乗院門跡経覚が摂津河上五ヶ関務代官職を巡って戦っていた。重弘は経覚と古市胤仙・豊田頼英らと組んで筒井氏と争い、光宣を筒井城に追い込んだ。この年、重弘は胤仙、頼英と共に室町幕府から雑務権断職を与えられ、大和の支配を任された。 ところが、経覚派を支援してきた管領畠山持国が文安2年(1445年)に辞職、代わって細川勝元が就任すると状況が筒井氏有利に傾き、一進一退の最中、6月13日に戦死した。 死後、弟の重栄が重弘の遺児・今力丸を後見しながら筒井順永と戦ったが、長禄3年(1459年)に順永及び成身院光宣らの反攻を受けて小泉館で今力丸と重栄は切腹した。 Category:室町時代の人物 Category:大和国の人物 Category:生年不明 Category:1445年没.

新しい!!: 細川勝元と小泉重弘 · 続きを見る »

山城国

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

新しい!!: 細川勝元と山城国 · 続きを見る »

山名宗全

山名宗全公之墓、南禅寺在真乗院、京都市左京区 山名 宗全 / 山名 持豊(やまな そうぜん/やまな もちとよ)は、室町時代の武将、守護大名。家系は新田氏庶流の山名氏。室町幕府の四職の家柄で侍所頭人。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。山名時熙の3男で、母は山名氏清の娘。諱は持豊で、宗全は出家後の法名。応仁の乱の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。.

新しい!!: 細川勝元と山名宗全 · 続きを見る »

山名熙貴

山名 熙貴(やまな ひろたか、生年不詳 - 嘉吉元年6月24日(1441年7月12日))は、室町時代の武将、守護大名。石見守護。山名氏家の子。子に娘(大内教弘室)、娘(細川勝元室)。官位は中務大輔。 室町幕府の番衆を務め、永享9年(1437年)に石見守護に補任されたが、嘉吉元年(1441年)、6代将軍足利義教と共に赤松満祐の屋敷に訪れた際に義教と共に殺害された(嘉吉の乱)。同族の山名宗全・山名教之・山名教清らが満祐討伐で功績を挙げ、石見は教清が獲得した。 熙貴の2人の娘は宗全に養女として引き取られ、それぞれ大内教弘、細川勝元に嫁いだ。また、宗全の息子勝豊が熙貴の養子となり因幡守護を継いだとされているが、熙貴は因幡守護に就いていないため、同族の因幡守護山名熙高と混同されている可能性がある。.

新しい!!: 細川勝元と山名熙貴 · 続きを見る »

山名豊久

山名 豊久(やまな とよひさ)は、室町時代の武士。山名宗全の子。.

新しい!!: 細川勝元と山名豊久 · 続きを見る »

山名氏

日本の氏族。幾つかの流れがある。.

新しい!!: 細川勝元と山名氏 · 続きを見る »

山名是豊

山名 是豊(やまな これとよ)は、室町時代の武将、守護大名。備後・安芸・山城守護。山名持豊(宗全)の次男。子に頼忠(よりただ)がいる。 父とは不仲であり、寛正元年(1460年)に兄の教豊が父と対立して播磨へ下向した時に家督を譲られることを望んだが却下されたこと、寛正3年(1462年)に細川勝元から備後・安芸守護職に任じられて河内嶽山城で畠山義就と戦ったこと(嶽山城の戦い)、寛正5年(1464年)に山城守護職にも任命されたことなどが原因で応仁の乱では東軍の細川勝元方につき、父の率いる西軍と争った。 猛将として知られる吉川経基や毛利豊元を従え上洛、応仁2年(1468年)に備後へ戻り西軍勢力と交戦、翌文明元年(1469年)に再上洛して摂津で大内政弘軍を迎撃し破り、西軍の拠点の1つ船岡山を攻撃し奪取、摂津神呪寺や山城西岡・勝竜寺城で西軍と戦うなど在京中の戦いにおいては活躍するが、文明2年(1470年)に備後に西軍が乱入したため12月23日に再度備後に戻り西軍と戦う。文明7年(1475年)に東軍である小早川煕平が篭もる高山城への援護にむかったものの遅参し、備後に到着時には既に東西両軍が和睦をした後であるなど失態を演じ人望を失い、備後を追放された。以後の消息は不明、甥とも弟ともされる山名政豊が備後・安芸・山城守護となった。 備後山名氏は政豊の子である山名俊豊が継承するも、俊豊は父と対立し、度重なる内訌を見た傘下の国人領主は続々と山名氏から離反、備後における山名氏の力はその後急速に衰退した。戦国時代、山名理興に滅ぼされたとされる山名忠勝(氏政)は備後山名氏の末裔とされるがその系譜ははっきりとはしない。.

新しい!!: 細川勝元と山名是豊 · 続きを見る »

山名政豊

山名 政豊(やまな まさとよ)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名。山城・安芸・但馬・備後守護。応仁の乱の西軍総大将で知られる山名宗全の後継者。「政」の字は8代将軍足利義政より偏諱を賜ったものと思われる。.

新しい!!: 細川勝元と山名政豊 · 続きを見る »

嶽山城の戦い

嶽山城の戦い(だけやまじょうのたたかい)は、寛正元年(1460年)12月19日から寛正4年(1463年)4月15日にかけて河内国嶽山城(現在の大阪府富田林市)で行われた戦闘で、室町幕府から反逆者として追われた畠山義就が嶽山城に籠城して2年以上幕府の追討軍と戦った。.

新しい!!: 細川勝元と嶽山城の戦い · 続きを見る »

川岡勉

川岡勉(かわおか つとむ、1956年 - )は、日本の歴史学者、愛媛大学教授。.

新しい!!: 細川勝元と川岡勉 · 続きを見る »

上京の戦い

上京の戦い(かみぎょうのたたかい)は、応仁の乱における戦闘の1つで、応仁元年(1467年)5月26日から27日にかけて現在の京都府京都市上京区で東軍と西軍が衝突した。.

新しい!!: 細川勝元と上京の戦い · 続きを見る »

上御霊神社

上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)は、京都市上京区にある神社である。旧社格は府社。上御霊神社という社名は下御霊神社に対応するもので、現在は宗教法人としての正式名を「御靈神社」としている。.

新しい!!: 細川勝元と上御霊神社 · 続きを見る »

上杉氏

上杉氏(うえすぎし / うえすぎうじ)は、公家である藤原家の支族の一つ。1252年、公家である藤原重房が、宗尊親王の鎌倉幕府・将軍(皇族初の征夷大将軍)就任に従って京都から鎌倉へ下向して、武家化し「上杉」姓を賜われたのが上杉氏の祖。室町時代には関東管領を世襲し、越後・上野・武蔵・相模の守護を務める有力守護大名として栄えた。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母は上杉家出身。鎌倉時代、室町時代から江戸時代にかけて栄えた武家の一族(山内上杉家)が著名。山内上杉家15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。豊臣政権の五大老の一人であった山内上杉家17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いにて西軍に付いて敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。本貫地は丹波国何鹿郡上杉荘(現在の京都府綾部市上杉)。 江戸時代には、大名2家、旗本4家(うち高家1家)があり、子孫は現代まで続いている。.

新しい!!: 細川勝元と上杉氏 · 続きを見る »

上杉憲忠

上杉 憲忠(うえすぎ のりただ)は、室町時代中期の武士・守護大名。山内上杉家9代当主。関東管領。5代鎌倉公方・足利成氏に謀殺されて、享徳の乱のきっかけとなる。.

新しい!!: 細川勝元と上杉憲忠 · 続きを見る »

丹波国

丹波国(たんばのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陰道に属する。.

新しい!!: 細川勝元と丹波国 · 続きを見る »

享年

享年(きょうねん)とは人が「天から享(う)けた年数」という意味であり、この世に存在した年数である。「行年(ぎょうねん)」ともいい「娑婆で修行した年数」、「行(時が進むの意味)『漢字源』学研、「行」の項を参照。の年数」の意味。「享年70(満68歳)」(数え年の場合)のように用いる。享年を数え年ではなく満年齢で表し「享年68(歳)」と表すこともある。.

新しい!!: 細川勝元と享年 · 続きを見る »

享徳

享徳(きょうとく)は、日本の元号の一つ。宝徳の後、康正の前。1452年から1454年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

新しい!!: 細川勝元と享徳 · 続きを見る »

享徳の乱

享徳の乱(きょうとくのらん、享徳3年12月27日(1455年1月15日) - 文明14年11月27日(1483年1月6日))は、室町幕府8代将軍・足利義政の時に起こり、28年間断続的に続いた内乱。第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方・足利成氏と争い、関東地方一円に拡大し、関東地方における戦国時代の遠因(もしくは直接の発端)となった。.

新しい!!: 細川勝元と享徳の乱 · 続きを見る »

京職

京職(きょうしき)とは、日本の律令制において京(みやこ)の司法、行政、警察を行った行政機関である。古訓はミサトヅカサ。京は碁盤の目状に大路・小路が整備され(条坊制)、京内の東側を「左京(さきょう=南面する玉座より見て左)」、西側を「右京(うきょう=南面する玉座より見て右)」と呼び、「左京職(さきょうしき)」・「右京職(うきょうしき)」に分かれていた。なお、京職(きょうしょく)は京都所司代の別称。.

新しい!!: 細川勝元と京職 · 続きを見る »

京都市

京都タワーと京都中心部 京都市中心部四条河原町 京都市(きょうとし )は、京都府南部に位置し、同府最大の市で、府庁所在地である。政令指定都市に指定されており、11区を置く。日本の市で8番目の人口を有する。延暦十三年(794年)から明治二年(1869年)までの1,000年以上にわたって日本の都が置かれていたため、古都として認識されている。.

新しい!!: 細川勝元と京都市 · 続きを見る »

京都府

京都府(きょうとふ)は、日本の近畿地方の都道府県の一つ。延暦13年(794年)の平安京遷都以来、天皇の御所がある。令制国でいう山城国の全域、丹波国の東部および丹後国の全域を府域とする。府庁所在地は京都市。.

新しい!!: 細川勝元と京都府 · 続きを見る »

京極高光

京極高光(きょうごく たかみつ)は、室町時代中期の守護大名。室町幕府侍所頭人、出雲国・隠岐国・飛騨国守護。.

新しい!!: 細川勝元と京極高光 · 続きを見る »

京極持清

京極 持清(きょうごく もちきよ)は、室町時代中期から後期の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人兼山城守護、出雲・隠岐・飛騨・近江守護。京極高光の次男。兄弟に持高、細川持之室。子に勝秀、政光、政経、娘(畠山政長室)。細川勝元は甥にあたる。官位は従四位上中務少輔、大膳大夫。.

新しい!!: 細川勝元と京極持清 · 続きを見る »

人物叢書

『人物叢書』(じんぶつそうしょ)とは、吉川弘文館より刊行されている日本史上の人物の学術伝記叢書。1958年に刊行開始し、1980年代後半に新装版に切り替わった。日本歴史学会編集。100冊を刊行した時点で第11回(1963年)の菊池寛賞を受賞している。 日本史上の人物が対象のため、大半は日本人が対象となっているが、日本史での活動が見られる来日外国人や、国姓爺のように日本と関わりのあるのみの外国人もごく稀に対象となる。また、1冊で複数人や一族(奥州藤原氏・菊池氏・浅井氏)を題材としているものもある。.

新しい!!: 細川勝元と人物叢書 · 続きを見る »

仮名 (通称)

仮名(けみょう)は、江戸時代以前に諱を呼称することを避けるため、便宜的に用いた通称のこと。.

新しい!!: 細川勝元と仮名 (通称) · 続きを見る »

伊予国

伊予国(いよのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。.

新しい!!: 細川勝元と伊予国 · 続きを見る »

伊勢貞親

伊勢 貞親(いせ さだちか)は、室町時代中期の武士で室町幕府政所執事である。桓武平氏の流れを汲む伊勢氏。父は伊勢貞国、母は蜷川親俊の娘。弟に貞藤。子に貞宗・貞祐。.

新しい!!: 細川勝元と伊勢貞親 · 続きを見る »

伊達騒動

酒井家上屋敷跡千代田区、丸の内伊達騒動(だてそうどう)は、江戸時代前期に伊達氏の仙台藩で起こったお家騒動である。黒田騒動、加賀騒動または仙石騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。騒動は3期に分類され、それぞれが関連性を持っている。.

新しい!!: 細川勝元と伊達騒動 · 続きを見る »

伽羅先代萩

六代目尾上梅幸の政岡をモデルにしたといわれている。 『伽蘿先代萩』(めいぼく せんだいはぎ)は、伊達騒動を題材とした人形浄瑠璃および歌舞伎の演目。通称「先代萩」。.

新しい!!: 細川勝元と伽羅先代萩 · 続きを見る »

但馬国

但馬国(たじまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

新しい!!: 細川勝元と但馬国 · 続きを見る »

征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

新しい!!: 細川勝元と征夷大将軍 · 続きを見る »

御霊合戦

御霊合戦または上御霊神社の戦い(ごりょうがっせん/かみごりょうじんじゃのたたかい)は、応仁の乱における戦闘の1つで、文正2年(1467年、後に応仁に改元)1月18日から19日にかけて現在の京都府京都市上京区上御霊神社で畠山義就軍と畠山政長軍が衝突した。この合戦が応仁の乱開始の契機となり、本格的な戦乱の幕開けとなった。.

新しい!!: 細川勝元と御霊合戦 · 続きを見る »

後土御門天皇

後土御門天皇(ごつちみかどてんのう、嘉吉2年5月25日(1442年7月3日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日))は、室町時代の第103代天皇(在位寛正5年7月19日(1464年8月21日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日))。諱は成仁(ふさひと)。.

新しい!!: 細川勝元と後土御門天皇 · 続きを見る »

後花園天皇

後花園天皇(ごはなぞのてんのう)は、室町時代の第102代天皇である(在位:正長元年7月28日(1428年9月7日) - 寛正5年7月19日(1464年8月21日))。諱は彦仁(ひこひと)。 本来は皇統を継ぐ立場にはなかったが、称光天皇の死後に皇位を継いだ。8親等以上離れた続柄での皇位継承は南北朝合一を除くと53代658年ぶりである(称徳天皇→光仁天皇以来)。以後、この天皇の系統が今上天皇をはじめとする現在の皇室に連なっている。.

新しい!!: 細川勝元と後花園天皇 · 続きを見る »

従五位

従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.

新しい!!: 細川勝元と従五位 · 続きを見る »

従四位

従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.

新しい!!: 細川勝元と従四位 · 続きを見る »

信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

新しい!!: 細川勝元と信濃国 · 続きを見る »

応仁

応仁(おうにん)は、日本の元号の一つ。文正の後、文明の前。1467年から1468年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

新しい!!: 細川勝元と応仁 · 続きを見る »

応仁の乱

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.

新しい!!: 細川勝元と応仁の乱 · 続きを見る »

応仁記

応仁記(おうにんき)は、室町時代の軍記である。足利将軍家や畠山氏、斯波氏の家督争いなどから発展した「応仁の乱」を描いた軍記物語。全3巻で、各種の諸系統本がある。「太平記」の影響を受け、漢字カタカナ交じり文。作者未詳。成立年は15世紀末から16世紀中ごろと諸説ある。.

新しい!!: 細川勝元と応仁記 · 続きを見る »

土佐国

土佐国(とさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

新しい!!: 細川勝元と土佐国 · 続きを見る »

別当

別当(べっとう)は、本来、律令制において本官を持つ者が他の官司の職務全体を統括・監督する地位に就いた時に補任される地位。後に官司の長官一般を指すようになり、このことから転じて、以下のような複数の意味を持つ。.

新しい!!: 細川勝元と別当 · 続きを見る »

嘉吉

嘉吉(かきつ)は、日本の元号の一つ。永享の後、文安の前。1441年から1444年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義教、足利義勝。.

新しい!!: 細川勝元と嘉吉 · 続きを見る »

嘉吉の乱

嘉吉の乱(かきつのらん)は、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が、室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。主に嘉吉の変(かきつのへん)と呼ばれることが多い。 この事件については伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』に義教暗殺当日の事情が記されている。全一巻の『嘉吉記』には、嘉吉の乱から後の神器奪還までの赤松氏の事情が記されている。.

新しい!!: 細川勝元と嘉吉の乱 · 続きを見る »

コイ

イ飼育型 コイ飼育型とソウギョ(中央はニシキゴイ) コイ(鯉、学名:Cyprinus carpio)は、コイ目・コイ科に分類される魚で、比較的流れが緩やかな川や池、沼、湖、用水路などにも広く生息する淡水魚である。ニゴイとは同科異亜科の関係にある。.

新しい!!: 細川勝元とコイ · 続きを見る »

備後国

備後国(びんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

新しい!!: 細川勝元と備後国 · 続きを見る »

六角久頼

六角 久頼(ろっかく ひさより)は、室町時代の武将・守護大名。近江国守護。六角氏11代当主。.

新しい!!: 細川勝元と六角久頼 · 続きを見る »

六角時綱

六角 時綱(ろっかく ときつな)は、室町時代中期の武将。.

新しい!!: 細川勝元と六角時綱 · 続きを見る »

国人

国人(こくじん、くにびと、くにゅうど)とは、広くその国の国民、住民のこと大辞泉(小学館)。 六国史(日本後紀および三代実録)において国衙領の国民または住民を指す言葉として用いられ、越前国人、大和国人、河内国人などが見える日本後紀三代実録。 また、国人領主(こくじんりょうしゅ)は中世の史料において、在京の名目上の領主である中央官吏に対して在地の実質上の領主を指す言葉として用いられ(国人領主制)、国衆(くにしゅう)や在国衆(ざいこくしゅう)とほぼ同義ないし明確な違いは無い。.

新しい!!: 細川勝元と国人 · 続きを見る »

福井城 (摂津国)

福井城(ふくいじょう)は、大阪府茨木市にあった日本の城。.

新しい!!: 細川勝元と福井城 (摂津国) · 続きを見る »

禅(ぜん)は、大乗仏教の一派である禅宗(ぜんしゅう)の略、もしくは、サンスクリット語の dhyāna (ディヤーナ)の音写、禅那(ぜんな)の略である『広辞苑』「禅」。また坐禅(座禅)の略としての意もある。本項では宗派についての禅宗について述べる。.

新しい!!: 細川勝元と禅 · 続きを見る »

筒井順永

筒井 順永(つつい じゅんえい、 応永26年(1419年) - 文明8年4月5日(1476年5月7日)は、室町時代後期の武将。大和の国人筒井氏当主で、興福寺衆徒でもある。筒井順覚の末子。順弘、成身院光宣、尊覚、実憲らの弟。子に順尊、成身院順盛、箸尾為国室。舜良坊。 嘉吉元年(1441年)、長兄の順弘と次兄の光宣が摂津河上五ヶ関代官職を巡って争い、順弘が敗れて行方をくらますと、相国寺僧侶だった順永は還俗、筒井氏当主となった。初め光宣は納得しなかったが、後に和睦して共に順弘と対峙した。以降、順永は光宣と行動を共にするようになる。 嘉吉3年(1443年)に順弘が越智家栄の力を借りて筒井城に復帰するも殺害され、代わって大乗院門跡経覚が五ヶ関を直接支配下に置こうと古市胤仙、豊田頼英、小泉重弘らが光宣・順永兄弟を打ち破り、筒井城に追い込んだが文安2年(1445年)に光宣兄弟も反撃、経覚派の鬼薗山城を落として五ヶ関代官職を獲得、享徳3年(1454年)に両派は和解した。 河内守護畠山氏のお家騒動では弥三郎を支持した為、康正元年(1455年)に弥三郎に勝利した畠山義就に攻められ、領地は没収されたが、長禄3年(1459年)に管領細川勝元によって幕府から赦免された。これを機に順永は小泉館で小泉今力丸と小泉重栄を討ち取り、領土を取り戻した。翌年、義就が将軍足利義政によって家督を弥三郎の弟・政長に替えられると順永は政長に従い義就追討軍に参加(嶽山城の戦い)、応仁の乱で引き続き大和で義就方の越智家栄・古市胤栄らと戦ったが文明8年(1476年)に死去、享年58。 死後、嫡男の順尊が後を継いだが、翌文明9年(1477年)に義就が河内を制圧すると大和も義就派が占拠、順尊は没落する事になる。 しゆんえい Category:室町時代の人物 Category:大和国の人物 Category:還俗した人物 Category:1419年生 Category:1476年没.

新しい!!: 細川勝元と筒井順永 · 続きを見る »

管領

管領(かんれい)は、以下の役職・地位およびその座にあった者を指す名称。.

新しい!!: 細川勝元と管領 · 続きを見る »

箸尾宗信

箸尾 宗信(はしお むねのぶ、生年不詳 - 応仁元年8月27日(1467年9月26日))は、室町時代後期の武将。大和の国人箸尾氏当主。箸尾為征の次男。箸尾為憲(次郎左衛門?)の弟。子に為国。別名は為隆。 大和永享の乱で兄の為憲が越智維通、大覚寺門跡義昭と共に筒井氏を後援した室町幕府に殺害されると、宗信は嘉吉3年(1443年)に甥の春代丸を殺害して惣領の地位を奪った。原因は一族の方針を巡って対立、越智氏側の春代丸に対して宗信は筒井氏寄りだったからと言われている。 筒井順弘と成身院光宣・筒井順永兄弟の対立では光宣についたが、河内守護畠山氏のお家騒動では弥三郎についた為、享徳4年(1455年)、弥三郎は追放、後を追った畠山義就に大和に侵攻され、康正3年(1457年)には奪われた所領が幕府御料所となり、代官に義就が任じられるという事になった。 宗信は没落を余儀なくされたが、長禄3年(1459年)、弥三郎の赦免に伴い、幕府から知行回復の御教書を賜り、細川勝元の軍勢に守られて大和に入国した。弥三郎は急死するものの、弟の政長が畠山氏当主に擁立された。そして、宗信は所領を回復する為、義就方の越智家栄と戦い着実に所領を取り戻していった。 応仁元年(1467年)、応仁の乱の最中に急死。後は嫡男の為国が継承した。 Category:室町時代の人物 Category:大和国の人物 Category:生年不明 Category:1467年没.

新しい!!: 細川勝元と箸尾宗信 · 続きを見る »

細川元有

細川 元有(ほそかわ もとあり)は、室町時代中期から戦国時代にかけての武将。和泉半国の守護。細川藤孝(幽斎)の祖父にあたる。 長禄3年(1459年)、細川常有(つねあり、細川教春の弟)の四男として生まれる。兄に細川頼常(よりつね)、細川政有(まさあり、将軍・足利義政より「政」の字を賜う)がいる。初めは兄の政有が家督を継承していたため、し禅僧として建仁寺に入って雪渓源猷と号した。文明12年(1480年)に還俗し、その翌年に政有が死去したため、父の命令で家督を継ぐことになった。 明応4年(1495年)、同じ和泉半国守護(下守護)であった細川政久(まさひさ)と共に畠山尚順と手を結び、本家筋の細川政元と敵対したが、政元に敗れて降伏し、その家臣となった。しかしこのため、明応9年(1500年)9月2日に畠山尚順によって居城の和泉岸和田城を攻められることとなり、城は落城して戦死した。享年42。 死後は嫡男の元常が跡を継いだ。.

新しい!!: 細川勝元と細川元有 · 続きを見る »

細川勝之

細川 勝之(ほそかわ かつゆき、生没年不詳)は、室町時代の武士。細川氏一族の野州家出身で、応仁の乱において東軍の大将となった細川勝元の猶子。実父は細川教春(勝元の再従兄弟)で生母は不詳。弟に細川政春。子に湯浅宗正。諱(実名)の「勝之」は、養父・勝元と同じく将軍足利義勝から偏諱(「勝」の字)を賜って名乗ったものと思われる。.

新しい!!: 細川勝元と細川勝之 · 続きを見る »

細川勝氏

細川 勝氏(ほそかわ かつうじ)は、『海東諸国紀』にのみ記載される室町幕府の人物。細川氏の一族であり、細川勝元の従兄弟とある(この場合、勝元の叔父・細川持賢が父ということになるだろうが、今のところ確認されていない)。諱の「勝」の字は、勝元と同じく室町幕府第7代将軍・足利義勝より偏諱を受けたものであろう。.

新しい!!: 細川勝元と細川勝氏 · 続きを見る »

細川四天王

細川四天王(ほそかわしてんのう)は、応仁の乱の際に室町幕府管領の細川勝元の家臣として畿内で活躍した4名の武将を顕彰して呼んだものである。.

新しい!!: 細川勝元と細川四天王 · 続きを見る »

細川氏

細川氏(ほそかわし)は、本姓は源氏、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏の名門足利氏の支流。名字は鎌倉時代に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことに由来する。 南北朝時代に足利尊氏に従って発展し、嫡流は室町幕府の管領家に列する有力守護大名となる。また江戸時代には、傍流から肥後熊本藩54万石の藩主家を出した。.

新しい!!: 細川勝元と細川氏 · 続きを見る »

細川持之

細川 持之(ほそかわ もちゆき 1400年~1442年9月8日)は、室町時代の武将・守護大名。第14代室町幕府管領。摂津・丹波・讃岐・土佐守護。第10代細川京兆家当主。細川満元の次男で兄に持元、弟に持賢がいる。妻は京極高光の娘。嫡男に勝元、成賢(しげかた、持賢養子)。.

新しい!!: 細川勝元と細川持之 · 続きを見る »

細川持賢

細川 持賢(ほそかわ もちかた)は、室町時代後期の武将。細川典厩家の祖。細川満元の3男で持元、持之の弟。.

新しい!!: 細川勝元と細川持賢 · 続きを見る »

細川成之

細川 成之(ほそかわ しげゆき)は、室町時代から戦国時代の武将、守護大名。室町幕府相伴衆、阿波・三河・讃岐守護。細川氏の一門で阿波細川家当主。細川教祐(のりすけ)の子で、伯父・細川持常の養嗣子。官位は兵部少輔、讃岐守。政之、義春の父。後に本家に当たる京兆家を継いだ細川澄元は孫に当たる。.

新しい!!: 細川勝元と細川成之 · 続きを見る »

細川政元

細川 政元(ほそかわ まさもと)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、室町幕府守護大名であり、第24、26、27、28代管領。細川氏の第12代当主。丹波・摂津・土佐守護。足利将軍家の在職将軍10代義材を追放して11代義澄を擁立し、政権を掌握。事実上の最高権力者となり、「半将軍」とも呼ばれた。 室町幕府の三管領(足利一門の斯波、畠山、細川)である細川氏本家・京兆家の生まれ。父は応仁の乱時に東軍を率いた細川勝元。母は勝元の正室・山名熙貴の娘(養父は山名宗全)とされるが、根拠となる史料は無い。修験道に没頭して女性を近づけず独身を貫いたため実子はおらず、政元をもって細川家の嫡流は途絶え、養子に澄之、澄元、高国がいる。 将軍を挿げ替え(明応の政変)、管領として幕政を牛耳り(京兆専制)、比叡山焼き討ちを行ったり畿内周辺にも出兵するなど、細川京兆家の全盛期を築き当時日本での最大勢力に広げたが、3人の養子を迎えたことで家督争いが起こり、自らもその争いに巻き込まれる形で家臣に暗殺された(永正の錯乱)。応仁の乱の混乱以来、実力者政元の登場によって小康状態にあった京・畿内周辺は、その死と澄元・高国両派の争いによって再び長期混迷していくこととなる。.

新しい!!: 細川勝元と細川政元 · 続きを見る »

細川政国

細川 政国(ほそかわ まさくに)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。細川典厩家当主。細川持春の子。.

新しい!!: 細川勝元と細川政国 · 続きを見る »

経覚

経覚(きょうかく/ぎょうかく、応永2年(1395年)- 文明5年8月27日(1473年9月19日))は、室町時代の法相宗の僧侶。父は関白九条経教、母は浄土真宗本願寺(後の大谷家)の出身。母方の縁で後に本願寺8世となる蓮如を弟子として預かり、宗派の違いを越えて生涯にわたり師弟の関係を結んだ。興福寺別当である寺務大僧正を4度務めた事でも知られている。諡号は後五大院。.

新しい!!: 細川勝元と経覚 · 続きを見る »

畠山義就

山 義就(はたけやま よしひろ/よしなり)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名である。河内・紀伊・山城・越中守護。足利氏(足利将軍家)の一門にて室町幕府の三管領家の1つである畠山氏出身。父は管領畠山持国、母は側室。幼名は次郎、初名は義夏(よしなつ)。子に修羅、義豊(基家)。猶子に政国。 家督相続を巡って、従兄弟の弥三郎政久・政長一派と対立、応仁の乱を引き起こす。.

新しい!!: 細川勝元と畠山義就 · 続きを見る »

畠山氏

山氏(はたけやまし/はたけやまうじ)は、武蔵国を本貫地とする武家の一族。主に桓武平氏系と清和源氏系の2家系があるが、両者は間接的な血縁関係である(後述)。読みには他に「はたやま」もある。 室町時代には畠山金吾家が大和宇智郡・河内・紀伊(管領就任時には山城も)などの畿内およびその周辺国に該当する重要な地域を守護として治め、また幕府の管領として国の政務を執った。しかし、家督争いにより、総州家と尾州家に分かれて、応仁の乱勃発の一因となり、その後も激しく争い続けた。 また、北陸の越中の守護も兼ね、分家は能登の守護を代々世襲する。著名な末裔として実業家の畠山一清がいる。.

新しい!!: 細川勝元と畠山氏 · 続きを見る »

畠山持国

山 持国(はたけやま もちくに)は、室町時代の守護大名。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・山城守護。足利氏一門の畠山氏出身。畠山満家の嫡男。義就の父。 危機的状況を脱して管領に就任、勢力拡大を目指すも晩年にお家騒動を発生させ、畠山氏衰退の元を生み出してしまった。.

新しい!!: 細川勝元と畠山持国 · 続きを見る »

畠山政久

山 政久(はたけやま まさひさ、生年不詳 - 長禄3年(1459年)9月)は、室町時代後期の人物。本姓は源氏。畠山持富の長男。弟に政長。従兄に義就。通称は弥三郎。別名、義富(よしとみ)。実名に関しては諸説あるため、畠山 弥三郎(はたけやま やさぶろう)の名で呼ばれることが多い。.

新しい!!: 細川勝元と畠山政久 · 続きを見る »

畠山政長

山 政長(はたけやま まさなが)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将・守護大名。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・山城守護。足利氏の一門畠山氏出身。畠山持富の次男で政久(弥三郎)の弟。妻は京極持清の娘。子に尚順(尚長)。お家騒動で従兄の畠山義就と争い、応仁の乱を引き起こした。.

新しい!!: 細川勝元と畠山政長 · 続きを見る »

花の乱

『花の乱』(はなのらん)は、1994年4月3日から同年12月11日にかけて放送された33作目のNHK大河ドラマ。放送回数は全37話。.

新しい!!: 細川勝元と花の乱 · 続きを見る »

鎌倉公方

明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉公方管轄国 新編鎌倉志-関東公方屋敷図 鎌倉公方(かまくらくぼう)とは、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東十か国を統治するために設置した鎌倉府の長官。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称するが、この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれた呼称となる。関東十か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐。 鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となった。 ※鎌倉公方は歴史学用語及び鎌倉公方の自称であって当時の一般呼称ではない。当時の一般呼称は“鎌倉御所”か“鎌倉殿”である。.

新しい!!: 細川勝元と鎌倉公方 · 続きを見る »

諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

新しい!!: 細川勝元と諱 · 続きを見る »

讃岐国

讃岐国(さぬきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

新しい!!: 細川勝元と讃岐国 · 続きを見る »

豊田頼英

豊田 頼英(とよだ らいえい、応永10年(1403年) - 延徳2年8月23日(1490年9月16日))は、室町時代の武将。大和の国人で、興福寺衆徒。覚英、憲英、慶英、英寛の父。大和豊田城主。下野公と称した。 豊田氏は山辺郡を拠点とした一族で、大和永享の乱で井戸氏と対立した豊田中坊は惣領とされる。頼英は分家の豊岡氏出身で豊田中坊が没落した後に台頭したとされるが、はっきりしていない。嘉吉3年(1443年)の摂津河上五ヶ関務代官職を巡る大乗院門跡経覚と成身院光宣、筒井順永兄弟の争いでは経覚に与して光宣を追い落とし、古市胤仙・小泉重弘と共に管領畠山持国から雑務権断職を与えられ、光宣が復帰するまで大和の支配を任せられた。 康正元年(1455年)、畠山持国の死後に起こった畠山義就と畠山政久の家督争いでは義就を支持、政久派の筒井順永を追い、長禄3年(1459年)まで官符衆徒筆頭となる。寛正3年(1462年)には東寺の領土である河原城荘の代官職を請負い、晩年には権律師に任ぜられた。延徳2年(1490年)に死去。享年88。.

新しい!!: 細川勝元と豊田頼英 · 続きを見る »

越前国

越前国(えちぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

新しい!!: 細川勝元と越前国 · 続きを見る »

越智家栄

越智 家栄(おち いえひで)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将。大和の国人越智氏当主。大和高取城主。越智維通(家経?)の子。子に家令、娘(古市澄胤室)。幼名は春童丸。官位は弾正忠、伊賀守、修理大夫、刑部少輔。.

新しい!!: 細川勝元と越智家栄 · 続きを見る »

足利将軍家

足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)は、足利氏の惣領家(宗家)のうち、とくに足利尊氏以来の、代々室町幕府の将軍職を世襲した一家(軍事貴族)。初代尊氏の後は2代として嫡男義詮が継ぎ、3代足利義満を経て、15代義昭まで続く。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。.

新しい!!: 細川勝元と足利将軍家 · 続きを見る »

足利義尚

足利 義尚(あしかが よしひさ)は、室町時代後期の室町幕府第9代将軍(在職:文明5年(1473年) - 1489年)。 『尊卑分脈』や『足利家官位記』により、晩年に足利義煕(- よしひろ)と改名したことが確認できるが、一般的には義尚の名で知られる。応仁の乱では、叔父の足利義視と将軍職をめぐる対立候補として擁立された。乱後は衰退した幕府権力を回復すべく、六角征伐などの積極的な幕政改革を行なったが、在陣していた近江国の陣中にて病死した。.

新しい!!: 細川勝元と足利義尚 · 続きを見る »

足利義勝

足利 義勝(あしかが よしかつ)は、室町時代中期の室町幕府第7代将軍(在任:1442年 - 1443年)。幼名は千也茶丸(せんやちゃまる)。6代将軍足利義教の嫡男で庶子。.

新しい!!: 細川勝元と足利義勝 · 続きを見る »

足利義視

足利 義視(あしかが よしみ)は、室町時代中期から後期にかけての人物・武将。室町幕府6代将軍足利義教の子で、異母兄に7代将軍義勝と8代将軍義政、堀越公方足利政知(実際は次兄にあたる)がいる。子に10代将軍・足利義稙(初め義材・義尹)などがいる。.

新しい!!: 細川勝元と足利義視 · 続きを見る »

足利義政

足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は足利 義成(- よししげ)。 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。.

新しい!!: 細川勝元と足利義政 · 続きを見る »

足利義教

足利 義教(あしかが よしのり、義)は、室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の五男。母は側室の藤原慶子で、第4代将軍・足利義持の同母弟。僧侶時代は義円(ぎえん、義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。.

新しい!!: 細川勝元と足利義教 · 続きを見る »

足利成氏

足利 成氏(あしかが しげうじ)は、室町時代から戦国時代の武将。第5代鎌倉公方(1449年 - 1455年)、初代古河公方(1455年 - 1497年)。父は永享の乱で敗死した第4代鎌倉公方足利持氏。鎌倉公方就任時期は文安4年(1447年)とする説も有力。 父持氏と同様、鎌倉公方の補佐役である関東管領及び室町幕府と対立したが、持氏と異なり、約30年間の享徳の乱を最後まで戦い抜き、関東における戦国時代の幕を開ける役割を担った。.

新しい!!: 細川勝元と足利成氏 · 続きを見る »

龍安寺

山門 龍安寺(りょうあんじ)は、京都府京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺院。妙心寺との関係が深く、山内塔頭と同様の扱いを受けている。山号は大雲山と号し、石庭で知られる。本尊は釈迦如来、開基(創建者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承である。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。.

新しい!!: 細川勝元と龍安寺 · 続きを見る »

近江国

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

新しい!!: 細川勝元と近江国 · 続きを見る »

興福寺

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。.

新しい!!: 細川勝元と興福寺 · 続きを見る »

阿波国

阿波国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

新しい!!: 細川勝元と阿波国 · 続きを見る »

赤松則尚

赤松 則尚(あかまつ のりなお(のりひさ))は、室町時代中期の武将。父は赤松祐尚(祐之)。嘉吉の乱の首謀者である赤松満祐は伯父に当たる。.

新しい!!: 細川勝元と赤松則尚 · 続きを見る »

赤松義雅

赤松 義雅(あかまつ よしまさ)は、室町時代中期の武将。赤松満祐の実弟。.

新しい!!: 細川勝元と赤松義雅 · 続きを見る »

赤松氏

赤松氏(あかまつし)は、日本の氏族の1つ。鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した武家である。.

新しい!!: 細川勝元と赤松氏 · 続きを見る »

赤松満祐

赤松 満祐(あかまつ みつすけ/まんゆう)は、室町時代中期の武将、守護大名である。室町幕府侍所頭人、播磨・備前・美作守護。赤松義則の嫡男。兄弟に義雅、祐尚(祐之)、則繁など。従兄弟に有馬持家、満政。子に教康。生年は文中2年/応安6年(1373年)説もある。.

新しい!!: 細川勝元と赤松満祐 · 続きを見る »

赤松政則

赤松 政則(あかまつ まさのり)は、室町時代後期の武将・大名。加賀半国・播磨・美作・備前の守護大名・戦国大名。赤松家の第9代当主(当主在職:長禄2年(1458年)9月 - 明応5年4月25日(1496年6月6日))。 嘉吉の乱で滅亡した赤松家を再興した中興の英主で、管領の細川家に接近して中央政界での影響力を高めて従三位まで登り詰めた。一方で赤松家の戦国大名化も務め、1代で赤松家の全盛期を築き上げた。.

新しい!!: 細川勝元と赤松政則 · 続きを見る »

関東地方

関東地方(かんとうちほう)は、日本の地域区分のひとつであり、本州の東部に位置している。その範囲について法律上の明確な定義はないが、一般的には茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県の1都6県を指して関東地方と呼ぶ『日本地名大百科』p.350。。 首都・東京を擁する関東地方は日本の政治・経済の中心となっており、日本の総人口の3分の1が集中している。 首都圏整備法が定義する「首都圏」には、関東地方に山梨県を加えた1都7県が含まれる。また、「関東地方知事会」には、首都圏1都7県に加えて、中部圏知事会議にも加わっている静岡県、長野県の両県知事がオブザーバー参加している。関東地方は人口・面積が多数・広大なので、利根川を境界線に北を北関東(茨城県・栃木県・群馬県)地方、南を南関東地方(埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県)に分割することもある。.

新しい!!: 細川勝元と関東地方 · 続きを見る »

関東管領

関東管領(かんとうかんれい)は、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名である。鎌倉公方の下部組織でありながら、任免権等は将軍にあった。当初は関東執事(かんとうしつじ)と言っていた。上杉氏が世襲した。.

新しい!!: 細川勝元と関東管領 · 続きを見る »

野村萬斎

二世野村 萬斎(のむら まんさい、本名・野村 武司〈のむら たけし〉、1966年(昭和41年)4月5日 - )は、狂言方和泉流の能楽師、俳優。能楽狂言方和泉流野村万蔵家の名跡である。二世野村万作と詩人阪本若葉子の長男として生まれる。野村裕基は萬斎の長男。.

新しい!!: 細川勝元と野村萬斎 · 続きを見る »

長禄

長禄(ちょうろく)は、日本の元号の一つ。康正の後、寛正の前。1457年から1461年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

新しい!!: 細川勝元と長禄 · 続きを見る »

暗殺

リンカーン大統領の暗殺を描いた絵画(米国) ガンディー・暗殺されたインドの政治家 金玉均・暗殺された李氏朝鮮の政治家 ジョン・レノン・イングランド出身の音楽家、銃弾を受け死去 坂本龍馬・幕末の英雄、盟友の中岡と共に死去 暗殺(あんさつ)は、主に政治的、宗教的または実利的な理由により、要人殺害を密かに計画・立案し、不意打ちを狙って実行する殺人行為(謀殺)のこと。 見せしめや弾圧、粛清の一種としても存在する。.

新しい!!: 細川勝元と暗殺 · 続きを見る »

板倉重矩

板倉 重矩(いたくら しげのり)は、江戸時代初期の大名。老中・京都所司代。三河深溝藩主、中島藩主、下野烏山藩主。重昌流板倉家第2代。.

新しい!!: 細川勝元と板倉重矩 · 続きを見る »

武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

新しい!!: 細川勝元と武将 · 続きを見る »

武衛騒動

武衛騒動(ぶえいそうどう)とは、寛正6年(1465年)に発生した室町幕府の内紛のことである。 将軍家家宰の伊勢貞親は8代将軍足利義政の信任を良いことに、管領家の一つ斯波氏(武衛家)のお家騒動に介入し斯波義敏と斯波義廉の間をとりなして私腹を肥やし、幕政を混乱に陥れた。将軍家家宰の身分でありながら管領家家督に口をはさむ貞親の横暴に激怒した有力者細川勝元と山名宗全は協力して文正元年(1466年)に貞親を幕府から追放した(文正の政変)。背景に、次期将軍を予定されていた足利義視の排斥問題も絡んでいると伝えられる。 また、当時関東で反抗していた古河公方足利成氏征伐軍の組織の為に家督交代を繰り返したとも推測される。関東における幕府の出先機関の堀越公方足利政知は直轄軍を持たない為、幕府は斯波軍を関東に派遣しようとしたが、義敏が命令違反をして執事の甲斐常治と合戦に及んで廃嫡されると(長禄合戦)、義敏の子松王丸を家督とした。しかしその後、政知の執事渋川義鏡の子義廉が新たに家督になったのは、渋川義鏡が斯波軍を操れる立場にする狙いがあったとされる。 ところが、義鏡が扇谷上杉家と対立、失脚すると義廉の家督の意味はなくなり、再び義敏中心の遠征軍を作り出そうとして復権を画策したのが貞親だとされる。一方的に廃嫡された義廉や宗全一派は反撃に打って出て貞親と季瓊真蘂、義敏や赤松政則を追放、計画は失敗した。 後に勝元と宗全が対立し応仁の乱が勃発すると、義敏父子と政則は将軍義政を戴く東軍に属し、それぞれ武衛家家督・赤松氏家督及び守護職を奪還し、貞親と真蘂も赦免されて帰京するなど、それぞれ復権した。ただし貞親と真蘂に活躍の場は与えられず、真蘂は文明元年(1469年)に、貞親は文明5年(1473年)に世を去る。 category:室町時代の事件 category:斯波氏 Category:1465年の日本.

新しい!!: 細川勝元と武衛騒動 · 続きを見る »

武蔵国司

武蔵国司(むさしこくし)は武蔵国の国司。武蔵は延喜式の定める大国(たいごく)であるため、守(1名)・介(1名)・掾(大・少、各1名)・目(大・少、各1名)の他に司生(3名)など9名前後を置いた。但し、宝亀6年(775年)には少目2員と増員している。。養老律令の官位令が定める大国の官位相当は守が従五位上、大介が正六位下、大掾が正七位下、少掾が従七位上、大目が従八位上、少目が従八位下である。10世紀末には武蔵国府が衰亡し、令制における国司の実質は廃れたと推定される。.

新しい!!: 細川勝元と武蔵国司 · 続きを見る »

永享

永享(えいきょう)は、日本の元号の一つ。正長の後、嘉吉の前。1429年9月5日から1441年2月17日までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義教。.

新しい!!: 細川勝元と永享 · 続きを見る »

河野通春

河野 通春(こうの みちはる)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将、守護大名。伊予守護。居城は港山城。河野氏宗家と対抗した分家の予州家当主。 当初は細川氏の支持を受け、嘉吉の乱後、幕府からの命令を引き出して又従兄弟で本家の河野教通を討とうとするが、教通には吉川経信や小早川盛景の援軍があったため、うまく進まなかった。文安6年(1449年)に伊予守護に就任したが、翌年に教通に交替、享徳2年(1453年)に守護職に再任されたが、享徳4年(1455年)に細川勝元に交替させられた。 長禄3年(1459年)に3度目の伊予守護職に補任されたが、寛正3年(1462年)に勝元の同族の阿波守護細川成之と戦い勝元と対立、寛正5年(1464年)には伊予の混乱を見た勝元の軍勢が攻め込んで来たため危機に陥ったが、細川氏と対立関係にある大内教弘の援軍を受けて細川氏を撃退する。直後に教弘は興居島で死去したが、なおも子の大内政弘の援助を受けた。 応仁元年(1467年)からの応仁の乱では西軍に与したが、通春の在京中に東軍についた教通が勝元死後の文明5年(1473年)に伊予の守護職を確保し、伊予における基盤を固めてしまう。乱後に伊予に帰国し文明9年(1477年)に4度目の伊予守護に任じられ、翌文明10年(1478年)にも教通と和気郡にて戦ったが、敗れている。その後も教通と抗争を繰り返しながら、文明14年(1482年)閏7月14日に港山城で病没した。子の通篤が後を継いだが、本家に対抗出来ず没落していった。 通春と教通の抗争は河野氏の衰退を招き、河野氏が守護大名から戦国大名へ成長できなかった一因を成した。.

新しい!!: 細川勝元と河野通春 · 続きを見る »

河野教通

河野 教通(こうの のりみち/かわの のりみち)は、室町時代から戦国時代の武将、守護大名。伊予守護。河野通久の嫡男。 父・通久(初め持通)が足利将軍家(足利義持)から偏諱の授与を受けたのに倣い、室町幕府第6代将軍・足利義教(義持の弟)から「教」の1を受けて教通と名乗るが、嘉吉元年(1441年)の義教の死後は通直(みちなお)に改名した。 永享7年(1435年)、大友持直征伐のさなかに父通久が戦死したため、家督を継ぐ。永享11年(1439年)、将軍義教の命を受け永享の乱・大和永享の乱に出陣、嘉吉元年(1441年)に義教が赤松満祐に暗殺されると(嘉吉の乱)、満祐討伐のため播磨に遠征した。前述の通り、同年中には「通直」に改名している。しかし、文安3年(1449年)に守護職を又従兄弟で予州家の河野通春に交替させられ、幕府の命令を受けた小早川盛景・吉川経信らの援軍で盛り返した。教通を守護から解任した幕府が教通を再起を助けると言う矛盾した方針は、教通を支持する足利義政・畠山徳本と通春を支持する細川勝元の間で河野氏家督に対する意見対立があったとみられている。 勝元が管領に在任中の享徳2年(1453年)に守護職を再度通春に替えられるが、実は勝元が管領の職権を利用して御教書・奉書が偽造した上での任命であり、義政に叱責された勝元が辞意を表明するものの、最終的に慰留されて守護の交替が認められた。その後、享徳4年(1455年)には勝元に、長禄3年(1459年)に通春に戻され、教通は守護職奪還のため通春と争った。ところが、勝元と通春が対立して勝元が一族の細川賢氏(土佐守護代家庶流上野家出身)を伊予守護に任命すると、大内教弘・政弘父子が通春を支持して、細川・大内両軍が伊予に侵攻したため、どちらにも与し得ない教通は蚊帳の外に置かれる形になった。 応仁元年(1467年)の応仁の乱が発生すると、大内政弘と盟友であった通春は西軍の一員として上洛した。教通は当初は静観していたものの、西軍が通春を伊予守護に任じると、細川勝元の誘いに応じて東軍について通春に対抗している。文明5年(1473年)に勝元が亡くなった後の伊予守護に任命され、文明11年(1479年)には阿波守護・細川成之の次男・義春が伊予に攻め寄せてきたが、通春と和睦し国内の諸豪族と連携して撃退した。文明14年(1482年)に通春が没して子の通篤と争ったが、伊予の主導権を掌握して予州家を圧倒した。後に出家し道治、道基と改名した。 明応9年(1500年)に湯築城で没し、子の通宣が跡を継いだ。.

新しい!!: 細川勝元と河野教通 · 続きを見る »

洞松院

洞松院(とうしょういん、寛正元年(1460年)、2年(1461年)、もしくは4年(1463年) - 没年不詳)は、戦国時代の女性。細川勝元の娘。細川政元の異母姉。赤松政則の妻(後室)。名は「めし」。「めし殿」「局(つぼね)殿」「赤松うばの局」などと呼ばれた。義子・赤松義村の後見人として赤松家を支えた女戦国大名。.

新しい!!: 細川勝元と洞松院 · 続きを見る »

朝倉孝景 (7代当主)

朝倉 孝景(あさくら たかかげ)は、室町時代中期の武将。朝倉氏の7代目当主。当初は祖父や父も名乗った教景(のりかげ)を名乗り、次いで敏景(としかげ)→教景→孝景の順で改名している。よって同名の曾孫と区別するために代表的な名乗りの1つである「朝倉敏景」(あさくら としかげ)と表記する事がある。また、法名から「英林孝景(えいりんたかかげ)」と呼ばれることも多い。以下、本項においては原則「孝景」で統一する。.

新しい!!: 細川勝元と朝倉孝景 (7代当主) · 続きを見る »

成身院光宣

成身院光宣(じょうしんいん こうせん、明徳元年(1390年) - 文明元年11月20日(1470年1月1日))は、室町時代中期から後期の僧・武将である。大和国人・興福寺衆徒筒井順覚の次男。兄に順弘、弟に尊覚、実憲、順永。興福寺末寺の衆徒・六方衆の棟梁。僧官としては律師、僧位は法印。.

新しい!!: 細川勝元と成身院光宣 · 続きを見る »

戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

新しい!!: 細川勝元と戦国時代 (日本) · 続きを見る »

斯波義廉

斯波 義廉(しば よしかど)は、室町時代中期から後期の武将、守護大名。室町幕府管領、越前・尾張・遠江守護。斯波氏(武衛家)11代当主。足利氏一門の渋川氏出身で、三管領筆頭の斯波武衛家を相続した。父は渋川義鏡、母は山名氏出身で山名宗全の伯父に当たる山名摂津守(実名不詳)の娘とされている。.

新しい!!: 細川勝元と斯波義廉 · 続きを見る »

斯波義敏

斯波 義敏(しば よしとし)は、室町時代後期の武将、守護大名。越前・尾張・遠江守護。斯波氏(武衛家)10代当主。父は斯波(大野)持種、義父は斯波義健。子に義寛、斯波義孝室、寛元、義雄。.

新しい!!: 細川勝元と斯波義敏 · 続きを見る »

斯波氏

斯波氏(しばし)は、日本の武家のひとつ。室町幕府将軍足利氏の有力一門であり、かつ細川氏・畠山氏と交替で管領に任ぜられる有力守護大名であった。越前・尾張・遠江などの守護を世襲し、また分家の大崎氏は奥州探題、最上氏は羽州探題を世襲した。明治維新後に男爵家となった源姓津田氏も、その末裔の一つである。.

新しい!!: 細川勝元と斯波氏 · 続きを見る »

新人物往来社

株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.

新しい!!: 細川勝元と新人物往来社 · 続きを見る »

文安

文安(ぶんあん、ぶんなん)は、日本の元号の一つ。嘉吉の後、宝徳の前。1444年から1449年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は空位。.

新しい!!: 細川勝元と文安 · 続きを見る »

文正

文正(ぶんしょう)は、日本の元号の一つ。寛正の後、応仁の前。1466年の期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

新しい!!: 細川勝元と文正 · 続きを見る »

文正の政変

文正の政変(ぶんしょうのせいへん)とは、文正元年(1466年)9月6日に室町幕府8代将軍足利義政の側近伊勢貞親と季瓊真蘂らが諸大名の反発で追放された事件である。この政変で義政は側近を中心とした政治を行えなくなり、残った諸大名は応仁の乱を起こしていく。.

新しい!!: 細川勝元と文正の政変 · 続きを見る »

文明 (日本)

文明(ぶんめい)は、日本の元号の一つ。応仁の後、長享の前。1469年から1486年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政、足利義尚。.

新しい!!: 細川勝元と文明 (日本) · 続きを見る »

日野富子

日野 富子(ひの とみこ、永享12年(1440年) - 明応5年5月20日(1496年6月30日))は、室町時代後期から戦国時代前期の女性。室町幕府8代将軍足利義政の正室。父は蔵人右少弁・贈内大臣日野重政、母は従三位北小路苗子(北小路禅尼)。兄弟に勝光(兄)、永俊(11代将軍足利義澄の義父)、資治(日野兼興の養子)、妹に良子(足利義視室)。9代将軍足利義尚の母。従一位。.

新しい!!: 細川勝元と日野富子 · 続きを見る »

日明貿易

日明貿易(にちみんぼうえき)は、室町時代に日本が中国の明朝と行った貿易。特に室町幕府や大内氏との朝貢貿易は、倭寇や密貿易と区別し正式な遣明使船である事が確認できるよう勘合(勘合符)を使用したことから勘合貿易(かんごうぼうえき)とも呼ばれる。.

新しい!!: 細川勝元と日明貿易 · 続きを見る »

摂津国

摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.

新しい!!: 細川勝元と摂津国 · 続きを見る »

11月13日 (旧暦)

旧暦11月13日は旧暦11月の13日目である。六曜は大安である。.

新しい!!: 細川勝元と11月13日 (旧暦) · 続きを見る »

12月23日 (旧暦)

旧暦12月23日は旧暦12月の23日目である。六曜は仏滅である。.

新しい!!: 細川勝元と12月23日 (旧暦) · 続きを見る »

1430年

記載なし。

新しい!!: 細川勝元と1430年 · 続きを見る »

1442年

記載なし。

新しい!!: 細川勝元と1442年 · 続きを見る »

1445年

記載なし。

新しい!!: 細川勝元と1445年 · 続きを見る »

1447年

記載なし。

新しい!!: 細川勝元と1447年 · 続きを見る »

1449年

記載なし。

新しい!!: 細川勝元と1449年 · 続きを見る »

1450年

記載なし。

新しい!!: 細川勝元と1450年 · 続きを見る »

1451年

記載なし。

新しい!!: 細川勝元と1451年 · 続きを見る »

1452年

記載なし。

新しい!!: 細川勝元と1452年 · 続きを見る »

1453年

記載なし。

新しい!!: 細川勝元と1453年 · 続きを見る »

1454年

記載なし。

新しい!!: 細川勝元と1454年 · 続きを見る »

1455年

記載なし。

新しい!!: 細川勝元と1455年 · 続きを見る »

1459年

記載なし。

新しい!!: 細川勝元と1459年 · 続きを見る »

1460年

記載なし。

新しい!!: 細川勝元と1460年 · 続きを見る »

1462年

記載なし。

新しい!!: 細川勝元と1462年 · 続きを見る »

1464年

記載なし。

新しい!!: 細川勝元と1464年 · 続きを見る »

1466年

記載なし。

新しい!!: 細川勝元と1466年 · 続きを見る »

1467年

記載なし。

新しい!!: 細川勝元と1467年 · 続きを見る »

1468年

記載なし。

新しい!!: 細川勝元と1468年 · 続きを見る »

1471年

記載なし。

新しい!!: 細川勝元と1471年 · 続きを見る »

1472年

記載なし。

新しい!!: 細川勝元と1472年 · 続きを見る »

1473年

記載なし。

新しい!!: 細川勝元と1473年 · 続きを見る »

1474年

記載なし。

新しい!!: 細川勝元と1474年 · 続きを見る »

3月24日 (旧暦)

旧暦3月24日は旧暦3月の24日目である。六曜は友引である。.

新しい!!: 細川勝元と3月24日 (旧暦) · 続きを見る »

4月3日 (旧暦)

旧暦4月3日(きゅうれきしがつみっか)は旧暦4月の3日目である。六曜は赤口である。.

新しい!!: 細川勝元と4月3日 (旧暦) · 続きを見る »

5月11日 (旧暦)

旧暦5月11日は旧暦5月の11日目である。六曜は先負である。.

新しい!!: 細川勝元と5月11日 (旧暦) · 続きを見る »

6月6日

6月6日(ろくがつむいか)はグレゴリオ暦で年始から157日目(閏年では158日目)にあたり、年末まであと208日ある。誕生花はジギタリス、スターチス。.

新しい!!: 細川勝元と6月6日 · 続きを見る »

7月10日 (旧暦)

旧暦7月10日(きゅうれきしちがつとおか)は、旧暦7月の10日目である。六曜は仏滅である。.

新しい!!: 細川勝元と7月10日 (旧暦) · 続きを見る »

9月5日 (旧暦)

旧暦9月5日(きゅうれきくがついつか)は旧暦9月の5日目である。六曜は先勝である。.

新しい!!: 細川勝元と9月5日 (旧暦) · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »