526 関係: 加納久徴、加納久恒、加納久慎、十市郡、十津川、南北朝時代 (日本)、南都焼討、南葛城郡、名神大社、吉野郡、坂上瀧守、堺県、堀親しげ、堀親義、堀親賢、堀親蔵、堀親長、堀親民、塙直政、増田長盛、壬生藩、壬申の乱、壱伎韓国、多品治、多聞山城、大同 (日本)、大多喜藩、大乗院、大伴古慈斐、大伴吹負、大和、大和 (スループ)、大和 (戦艦)、大和五条藩、大和国の式内社一覧、大和神社、大和路線、大和郡山市、大和新庄藩、大国 (令制国)、大神神社、大阪府、大野藩、大野果安、大野治房、大江公景、天安 (日本)、天平、天平宝字、天平神護、...、天王寺の戦い (1576年)、天領、天正、天武天皇、天智天皇、夷隅郡、奈良市、奈良県、奈良盆地、奈良時代、姫路藩、姉小路頼綱、宝亀、室町時代、宮津藩、守護所、宇都宮信房、宇都宮藩、宇陀郡、宇陀松山藩、宇智郡、安中藩、安房勝山藩、安房国、小出吉英、小出吉政、小出英益、小泉城 (大和国)、小泉藩、尾張国、山崎藩、山形藩、山辺郡、山村王、岸和田藩、島原藩、川越藩、工藤祐経、上下、上総国、上野城、上野国、常陸国、丹塀門成、丹後国、丹波亀山藩、丹波国、七日市藩、三好三人衆、三好義継、三島名継、三田藩、三芦城、三輪子首、三河吉田藩、三河国、三木直頼、三方楽所、下妻藩、下総国、下野国、一宮、一宮藩、一乗院、九鬼久隆、九鬼隆久、九鬼隆徳、平城京、平基盛、平安時代、平群郡、平重衡、平教盛、久世広之、久世広周、久世広誉、久世広明、久世重之、久留里藩、乙巳の変、庭瀬藩、広瀬郡、五島盛佳、五島盛繁、五島盛道、五島盛運、五島盛成、五條県、井上正岑、井上正経、仁寿、令制国、令制国一覧、延喜式、延喜式神名帳、延暦、廃藩置県、伊勢国、伊達政宗、伊達晴宗、伊東家、伊東尹祐、伊東祐堯、伊東祐実、伊東祐安 (室町時代)、伊東祐久、伊東祐之 (飫肥藩主)、伊東祐国、伊東祐福、伊東祐時、式上郡、式下郡、伴保平、弘宗王、弘仁、弘文天皇、佐久間信盛、佐伯今毛人、但馬国、御所市、御所藩、徳川家康、徳川将軍家、徳川秀忠、忍海郡、忠貞王、信貴山城、信貴山城の戦い、信濃国、信濃飯田藩、志摩国、土屋数直、土浦藩、土方義苗、土方雄永、在原安貞、在原善淵、地方知行、北畠家、北葛城郡、ヤマト王権、ユリウス暦、分郡守護、嘉祥、和名類聚抄、和家麻呂、和泉国、備中国、内藤頼寧、内藤頼以、内藤頼由、内藤頼直、内藤重頼、内藤長好、出石藩、出羽国、八幡藩、八田藩、公家、兵部省、前田利孝、前田利尚、前田利以、前田利和 (七日市藩主)、前田利理、前田利見、前田利豁、前橋藩、国府、国分寺 (橿原市)、倭国造、犬養五十君、石川基光、石川名足、石川元盛、石川光義、石川光長、石川義季、石川真守、石川盛義、石川郡、石川昭光、石川晴光、磐城平藩、磯城郡、神護景雲、福江藩、竜田藩、笠間藩、筒井城、筒井定次、筒井定慶、筒井順尊、筒井順永、筒井順斎、筒井順慶、筒井氏、箸尾高春、篠山藩、節用集、細川幽斎、紀今守、紀飯麻呂、紀阿閉麻呂、紀長江、紀末成、総社、織田尚長、織田久長、織田信及、織田信友、織田信忠、織田信長、織田信陽、織田秀綿、織田達定、織田達勝、織田敏定、置始菟、美濃国、生駒郡、田原本藩、田沼意知、田沼意次、畠山義就、畠山氏、畿内、直江兼続、直江景綱、白河藩、芝村藩、芝村陣屋、芳野監、鎌倉時代、遠山氏、遠山景任、遠国奉行、遠江国、菰野藩、青山幸道、飫肥藩、飛地、飛騨国、駿河国、角川日本地名大辞典、高取城、高取町、高取藩、高富藩、高師直、高市郡、高遠藩、高重茂、豊後国、豊前王、豊臣秀吉、豊臣秀保、豊臣秀頼、豊臣秀長、貞観 (日本)、鳥羽藩、越後国、越前勝山藩、越前国、越智家栄、越智家教、軍務官、転封、黒田直和、黒田直純、黒田直英、黒田直温、郡山城 (大和国)、郡山藩、郡上藩、能楽師、興福寺、興留藩、蘇我入鹿、蘇我蝦夷、関宿藩、関ヶ原の戦い、藤原家依、藤原安親、藤原師氏、藤原京、藤原仲成、藤原園人、藤原継業、藤原縄主、藤原真楯、藤原登任、藤原鎌足、藤原親盛 (左衛門尉)、藤原輔公、藤原長岡、藤原氏雄、藤原永貞、藤原本雄、藤原春岡、藩の一覧、藩庁、葛城、葛上郡、葛下郡、肥前国、長尾、酒井忠大、酒井忠嗣、酒井忠和、酒井忠国、酒井忠美、酒井忠鄰、良岑長松、陸奥国、陸奥石川氏、柏原藩、柳生藩、柳生氏、柳本藩、柳本陣屋、東大寺、東大寺大仏殿の戦い、松平基知、松平忠恕 (島原藩主)、松平典信、松平典則、松平直基、松平直侯、松平直克、松平直矩、松平直恒、松平直温 (川越藩主)、松平朝矩、松平明矩、松平斉典、松永久秀、村上藩、桜井市、橿原市、櫛羅藩、正躬王、水野忠義、水野忠武、水野忠成、水野元綱、池田勝正、沼津藩、法華寺、津藩、添上郡、添下郡、清原岑成、清原秋雄、清原長田、清洲城、清滝河根、源光行、源頼定、源頼親、源重時、滋野貞主、木下俊泰、木下俊愿、木下俊敦、本多忠堯、本多忠居、本多忠鄰、本多正信、本多政重、本庄道堅、本庄道信、本庄道矩、本庄氏、本庄房長、戸沢正庸、明治、明智光秀、浜松藩、新城藩、新庄藩、日向国、日出藩、日田藩、日本、旧高旧領取調帳、摂津国、播磨国、慶応、承和 (日本)、拾芥抄、1181年、11月22日 (旧暦)、11月4日、12月27日 (旧暦)、1455年、1466年、1477年、1483年、1516年、1565年、1567年、1568年、1571年、1575年、1576年、1577年、1615年、1868年、1869年、1870年、1871年、1872年、1876年、1881年、1887年、1月21日、1月2日、2月27日、2月27日 (旧暦)、2月5日 (旧暦)、2月7日、3月16日 (旧暦)、3月28日、3月6日 (旧暦)、4月17日、4月18日、4月27日 (旧暦)、4月29日、5月19日、5月19日 (旧暦)、5月21日 (旧暦)、645年、672年、6月17日、738年、747年、749年、757年、765年、768年、770年、782年、788年、792年、793年、797年、798年、7月10日、7月14日 (旧暦)、7月29日 (旧暦)、801年、806年、807年、808年、810年、821年、834年、839年、841年、843年、848年、850年、853年、857年、858年、859年、860年、861年、863年、865年、866年、867年、868年、8月29日、9月15日。 インデックスを展開 (476 もっと) »
加納久徴
加納 久徴(かのう ひさあきら)は、上総一宮藩の第2代藩主。一宮藩加納家6代。.
加納久恒
加納 久恒(かのう ひさつね)は、上総一宮藩の第3代藩主。一宮藩加納家7代。 弘化3年(1846年)、上総久留里藩主・黒田直静の四男として生まれる。一宮藩の第2代藩主・加納久徴の養子であった加納久成が早世したため、久徴の養子として迎えられた。文久3年(1863年)11月25日、将軍徳川家茂に拝謁する。同年12月26日、従五位下大和守に叙任する。元治元年(1864年)5月22日、養父久徴の死去により家督を継いだ。そして6月から8月まで江戸市中取締役を務めた。 慶応3年(1867年)7月29日に死去した。享年22。跡を養子の久宜が継いだ。 Category:譜代黒田氏 ひさつね *03 Category:幕末の大名 Category:1846年生 Category:1867年没.
加納久慎
加納 久慎(かのう ひさちか、安永5年(1776年) - 文政4年8月13日(1821年9月9日))は、江戸時代の大名。伊勢国八田藩第4代藩主。一宮藩加納家4代。 3代藩主加納久周の嫡男。母は大河内松平信礼の娘。正室は植村家長の娘。子は加納久儔(長男)。幼名は英次郎。初名は久敬。官位は従五位下・大和守。寛政11年(1799年)、久慎は実弟である第5代岩槻藩主・大岡忠正の家臣・児玉南柯の私塾・遷喬館(のち岩槻藩校)創設のとき、自ら筆を執り、塾名を大書したという(遷喬館扁額)。 寛政元年(1789年)2月23日、将軍徳川家斉に拝謁する。寛政3年12月16日、従五位下備中守に叙任する。後に大和守に改める。文化5年(1808年)6月20日、父久周の隠居により、家督を相続する。文化6年11月18日、大番頭に就任する。文政4年(1821年)に死去。享年46。その跡は嫡男の久儔が継いだ。 *04 ひさちか Category:1776年生 Category:1821年没.
十市郡
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十津川
十津川(とつかわ)は奈良県の地域及び河川の名称。地域名としては現在の吉野郡十津川村一帯をさし、河川名としては熊野川本流の十津川村内での呼称として使われる。.
南北朝時代 (日本)
南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.
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南都焼討
南都焼討(なんとやきうち)は、治承4年12月28日(1181年1月15日)に平清盛の命を受けた平重衡ら平氏軍が、東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした事件。平氏政権に反抗的な態度を取り続けるこれらの寺社勢力に属する大衆(だいしゅ)の討伐を目的としており、治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の1つである。.
南葛城郡
奈良県南葛城郡の範囲 南葛城郡(みなみかつらぎぐん)は、奈良県にあった郡。.
名神大社
名神大社(みょうじんたいしゃ)とは、日本の律令制下において、名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社である。古代における社格の1つとされ、その全てが大社(官幣大社・国幣大社)に列していることから「名神大社」と呼ばれる。『延喜式』巻3の「臨時祭」の「名神祭」の条下(以下「名神祭式」という)と、同巻9・10の「神名式」(「延喜式神名帳」)に掲示され、後者の記載に当たっては「名神大」と略記されている。.
吉野郡
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坂上瀧守
坂上 瀧守(さかのうえ の たきもり、天長2年(825年) - 元慶5年11月9日(881年12月3日))は、平安時代初期から前期にかけての貴族。大和守・坂上鷹養の孫。正六位上・坂上氏勝の子。官位は従四位下・大和守。.
堺県
堺県(さかいけん)は、明治元年(1868年)に和泉国(現・大阪府南西部)の旧幕府領・旗本領を管轄するために設置された県。のちに和泉国、河内国(現・大阪府東部)、大和国(現・奈良県)のそれぞれ全域を管轄した。.
堀親しげ
堀 親寚(ほり ちかしげ)は、江戸時代後期の大名、老中格、信濃飯田藩第10代藩主。信濃飯田藩堀家11代。目から鼻に抜けるような人物で「堀の八方睨み」と称された。.
堀親義
堀 親義(ほり ちかよし)は、江戸時代後期の大名。信濃飯田藩の第11代藩主。信濃飯田藩堀家12代。.
堀親賢
堀 親賢(ほり ちかかた)は、信濃飯田藩の第4代藩主。信濃飯田藩堀家5代。.
堀親蔵
堀 親蔵(ほり ちかただ、正徳5年12月18日(1716年1月12日) - 延享3年2月13日(1746年4月3日))は、信濃飯田藩の第6代藩主。信濃飯田藩堀家7代。 第4代藩主堀親賢の次男。母は井上甚五左衛門の娘(自涼院)。正室は加藤嘉矩の娘。子は堀親長(長男)、堀親豊(次男)、座光寺為明(三男)、有馬氏恒(四男)、堀親褒(五男)、安西親表(七男)、遠藤常郷(九男)、娘(戸田氏之正室のち石川総恒継々室)、娘(近藤政方正室のち藤枝教忠室)、娘(小笠原長孝室)、娘(竹内惟久室)。幼名・興之丞。官位は従五位下、右衛門佐、美作守、大和守。 享保13年(1728年)、兄で5代藩主の親庸が跡継ぎを儲けぬまま死去したため、養子となって家督を相続した。延享3年(1746年)死去した。跡を長男の親長が継いだ。 ちかたた Category:信濃飯田藩主 Category:外様大名 Category:1716年生 Category:1746年没.
堀親長
堀 親長(ほり ちかなが)は、信濃飯田藩の第7代藩主。信濃飯田藩堀家8代。 第6代藩主堀親蔵の長男。母は勅使河原直信の妹(慈眼院)。正室は柳沢吉里の娘。 延享3年(1746年)、父の死により家督を相続する。幼少だったため、藩の経営は、柳田為美(柳田国男が養子に入った柳田家の先祖)ら重臣たちが行なった鈴川 博、飯田市美術博物館 研究紀要、2012年3月。父の親蔵の教えに従い、飯田領民と堀家の関係強化を心掛け、財政再建と災害対策のために農業振興と築堤にも力を入れた。 家督相続直後、親長は黒須楠右衛門を普請奉行、中村惣兵衛を作事奉行として天竜川の治水を命じた。両人は惣兵衛堤防と天竜井という用水路からなる惣兵衛川除を1752年(宝暦2年)に完成させ、昭和36年の三六災害で惣兵衛堤防が流失するまで、飯田藩内の水害を軽減した。1756年に大坂城加番、1758年に駿府城加番を務めた。 郡奉行に転任した黒須楠右衛門は藩財政確保のため、藩が千人講を運営することを発案し、1761年(宝暦11年)12月に城下に千人講会所を設置した。しかし、会を重ねるごとに参加者が減ったため、楠右衛門は辞退者に田畑を差し出した上で立ち退くよう要求するなど、強硬な態度に打って出た。これに反発した領民によって、1762年(宝暦12年)2月22日に打毀しを決行されたため、講は廃止され、楠右衛門は罷免された。この一連の騒動を千人講騒動という。 安永8年(1779年)隠居し、家督を親忠に譲る。この時、右兵衛尉に改めた。文化5年(1808年)死去した。.
堀親民
堀 親民(ほり ちかたみ、安永6年6月17日(1777年7月21日) - 寛政8年4月22日(1796年5月28日))は、信濃飯田藩の第9代藩主。信濃飯田藩堀家10代。 第7代藩主堀親長の四男。正室は内藤信凭の娘、継室は浅野長員の娘。幼名・幸之進。初名・親幸。官位は従五位下、大和守。 天明4年(1784年)、兄で8代藩主の親忠が早世したため、養子となって家督を相続した。しかし、寛政8年(1796年)に死去した。男子がなかったため、弟の親寚が養子となって跡を継いだ。 ちかたみ Category:信濃飯田藩主 Category:外様大名 Category:1777年生 Category:1796年没.
塙直政
塙 直政(ばん なおまさ、生年不詳 - 天正4年5月3日(1576年5月30日))は、安土桃山時代の武将。織田氏の家臣。尾張国春日井郡大野木城(名古屋市西区大野木町2丁目)城主。通称は九郎左衛門、備中守。別名に正勝、重友。後に九州の名族・原田姓を下賜される。後妻は柴田勝家の娘。子に塙安友。妹の直子は織田信長の側室(信長の庶長子・信正の母とも)。 名字については『寛政重修諸家譜』などは「はなわ」と訓があるが、一次史料である『多聞院日記』は「ハン」、『言継卿記』は「伴」が当て字されているため、本項でも「ばん」とする。.
増田長盛
増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位は従五位下・右衛門少尉。.
壬生藩
壬生藩(みぶはん)は、下野国都賀郡壬生に存在した藩。藩庁は壬生城(現在の栃木県下都賀郡壬生町本丸一丁目)。.
壬申の乱
壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 - 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日)に起こった古代日本最大の内乱である。 天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。 名称の由来は、天武天皇元年が干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることによる。.
壱伎韓国
壱伎 韓国(いき の からくに、生没年不詳)は、日本の飛鳥時代の人物である。姓(カバネ)は史。672年の壬申の乱で、大友皇子(弘文天皇)側の将となり、河内から倭(大和)に進攻したが、葦池の側の戦いで敗れた。.
多品治
多 品治(おお の ほんじ、生年不詳 - 持統天皇10年 (696年) 8月?)は、日本の飛鳥時代の人物である。旧仮名遣いでの読みは「おほのほむぢ」。姓ははじめ臣、後に朝臣。672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)の側で戦い、莿萩野を守って敵を撃退した。.
多聞山城
多聞山城(たもんやまじょう)は、奈良県奈良市法蓮町の現・奈良市立若草中学校の敷地にあった松永久秀、松永久通、塙直政の居城となった日本の城(平山城)。多聞城とも呼ばれる。.
大同 (日本)
大同(だいどう)は、日本の元号の一つ。延暦の後、弘仁の前。806年から810年までの期間を指す。この時代の天皇は平城天皇、嵯峨天皇。 桓武天皇崩御後践祚した平城天皇が即座に改元したことについて「日本後紀」は、「臣子の心、一年に二君あるにしのびず」と非難している。.
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大多喜藩
大多喜藩(おおたきはん)は、上総国に存在した藩。藩庁を大多喜城(現在の千葉県夷隅郡大多喜町大多喜四八一)に置いた。.
大乗院
大乗院(だいじょういん)は奈良県奈良市の興福寺にあった塔頭の一つ。.
大伴古慈斐
大伴 古慈斐(おおとも の こしび、持統9年(695年) - 宝亀8年8月19日(777年9月24日))は、奈良時代の公卿。名は古慈備・祜信備・祜志備とも記される。越前按察使・大伴祖父麻呂の子。官位は従三位・大和守。.
大伴吹負
大伴 吹負(おおとも の ふけい、生年不明 - 天武天皇12年8月5日(683年9月1日))は、日本の飛鳥時代の人物。名は男吹負、小吹負(おふけい)とも記される。姓(カバネ)は連。大伴咋の子。官位は贈大錦中・常道頭。 672年の壬申の乱で、吹負は大海人皇子(天武天皇)側に立って兵を挙げ、飛鳥の倭京に集結中の敵軍を乗っ取って、倭(大和)の方面の将軍になった。及楽山で敗れたが、葦池と中つ道で連勝し、最終的に大和を制圧して難波に進出した。.
大和
大和(やまと)は、日本の古称・雅称。倭・日本とも表記して「やまと」と訓ずることもある。大和・大倭・大日本(おおやまと)とも呼ばれる。 ヤマト王権が大和と呼ばれる地(現在の奈良県内)に在ったことに由来する。初めは「倭」と書いたが、元明天皇の治世に国名は好字を二字で用いることが定められ、倭と同音の好字である「和」の字に「大」を冠して「大和」と表記し「やまと」と訓ずるように取り決められた。.
大和 (スループ)
初代・大和(やまと)は、初代・葛城型の二番艦、3本マストの汽帆兼用の鉄骨木皮スループ。日本海軍最初のケースとして民間の神戸小野浜造船所で建造された。.
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大和 (戦艦)
呉海軍工廠で建造中の戦艦大和。後尾から艦橋方向を捉えたショットで、工事も終盤を迎えて主砲、副砲、照準用の測距儀などは艤装(ぎそう.
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大和五条藩
大和五条藩(やまとごじょうはん)は、大和国二見城(現在の奈良県五條市二見)に存在した藩。別名に五條藩、五條二見藩(ごじょうふたみはん)、二見五条藩とも。.
大和国の式内社一覧
大和国の式内社一覧(やまとのくにのしきないしゃいちらん)は、『延喜式』第9巻・第10巻「神名帳上下」(延喜式神名帳)に記載のある神社、いわゆる「式内社」およびその論社のうち、大和国に分類されている神社の一覧。 また『延喜式』神名帳の編纂当時に存在したが同帳に記載の無い神社、いわゆる「式外社」についても付記する。.
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大和神社
大和神社(おおやまとじんじゃ)は、奈良県天理市新泉町星山にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(中七社)。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。.
大和路線
大和路線(やまとじせん)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)関西本線のうち、電化区間である京都府木津川市の加茂駅から大阪府大阪市浪速区のJR難波駅までの区間に付けられた愛称である。この愛称は1988年3月13日から使用されている。天王寺駅 - 今宮駅間は大阪環状線と並行している。.
大和郡山市
大和郡山市(やまとこおりやまし)は、奈良県北部に位置する市。1954年1月1日に生駒郡郡山町が市制施行した際、市名については福島県の郡山市と区別するために「大和郡山市」と定められた。また、「郡山」単体で大和郡山市を指すこともある。.
大和新庄藩
大和新庄藩(やまとしんじょうはん)は、大和国葛上・葛下二郡(現在の奈良県葛城市新庄)に存在した藩。旧称を布施藩(ふせはん)と言う。.
大国 (令制国)
大国(たいこく、たいごく)とは、律令国の等級区分の一つである。.
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大神神社
大神神社(おおみわじんじゃ)は、奈良県桜井市三輪にある神社。式内社(名神大社)、大和国一宮、二十二社(中七社)。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 別称を「三輪明神」・「三輪神社」とも。.
大阪府
大阪府(おおさかふ)は、近畿地方に属する日本の都道府県の一つ。府庁所在地は大阪市。.
大野藩
大野藩(おおのはん)は、越前国大野(現在の福井県大野市)に存在した藩。居城は大野城(亀山城)。.
大野果安
大野 果安(おおの の はたやす、生没年不明)は、日本の飛鳥時代の人物である。姓は君のち朝臣。大野狭手の子とする系図がある鈴木真年『百家系図稿』巻1,大野 および 鈴木真年『諸系譜』第一冊,大野朝臣。子に東人がいる。官位は直広肆・糾職大夫。 672年の壬申の乱では大友皇子(弘文天皇)側の将となり、及楽山(奈良)で大伴吹負を破ったが、倭京を前にして引き上げた。.
大野治房
大野 治房(おおの はるふさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。豊臣氏の家臣。.
大江公景
大江 公景(おおえ の きんかげ、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての貴族・歌人。大江公盛の子。没年については、『勅撰作者部類』は「元久元年(1204年)に至る」とし楠橋『平安時代史事典』、『明月記』には同2年2月27日条に彼が「飲水脚病」にかかっていた事が記され、その2年後の承元元年(1207年)4月28日条までその名前が見える中村、2005年、P406。正五位下隼人正。 久寿2年12月29日(1156年1月23日)に内舎人となり、以後後白河院・高倉院に仕える。建久2年(1191年)に行われた若宮社歌合には「従五位下大和守」として登場する。その後、建久9年(1198年)に後鳥羽院が院政を開始した際には北面武士の1人に加えられた。和歌にも優れており、『千載和歌集』に2首載せられている他、和歌所の歌合にも度々参加している。また、藤原定家とも親交があり、『明月記』には公景がしばしば定家の元を訪問して後鳥羽院の動向について話したことが記されている。.
天安 (日本)
天安(てんあん/てんなん)は、日本の元号の一つ。斉衡の後、貞観の前。857年から859年までの期間を指す。この時代の天皇は文徳天皇、清和天皇。.
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天平
天平(てんぴょう)は、日本の元号の一つ。神亀の後、天平感宝の前。729年から749年までの期間を指す。この時代の天皇は聖武天皇。 奈良時代の最盛期にあたるため、東大寺、唐招提寺などに残るその時代の文化を天平文化と呼ぶことが多い。.
天平宝字
天平宝字(てんぴょうほうじ、正字体:天平寶字)は、日本の元号の一つ。天平勝宝の後、天平神護の前。757年から765年までの期間を指す。この時代の天皇は孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇(孝謙天皇重祚)。.
天平神護
天平神護(てんぴょうじんご)は、日本の元号の一つ。天平宝字の後、神護景雲の前。765年から767年までの期間を指す。この時代の天皇は称徳天皇。.
天王寺の戦い (1576年)
天王寺の戦い(てんのうじのたたかい)は、石山合戦の一環として天正4年(1576年)5月7日に摂津天王寺(現在の大阪府大阪市)で行なわれた織田信長と一向一揆との戦いである。天王寺砦の戦いともいう。.
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天領
天領(てんりょう)は、江戸時代における江戸幕府の直轄地の俗称で、このほか幕府直轄領、徳川幕府領、徳川支配地、幕府領、幕領など様々な呼称があり、必ずしも絶対的な単一の歴史用語ではない村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。幕府直轄領は元禄以降、全国で約400万石あった。その領地は日本全国に散らばっており、江戸時代を通じて何らかの形で幕府直轄地が存在した国は51ヶ国と1地域(蝦夷地)に及び、年貢収取の対象となる田畑以外に交通・商業の要衝と港湾、主要な鉱山、城郭や御殿の建築用材の産出地としての山林地帯が編入され江戸幕府の主要な財源であった村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。 幕府直轄地が「天領」と呼ばれるようになったのは明治時代である。大政奉還後に幕府直轄地が明治政府に返還された際に、「天朝の御料(御領)」などの略語として「天領」と呼ばれたのがはじまり。その後、この呼称が江戸時代にもさかのぼって使われるようになった。よって、江戸時代に使われていた呼称ではない。江戸幕府での正式名は御料・御領(ごりょう)であり、その他、江戸時代の幕府法令には御料所(ごりょうしょ、ごりょうじょ)、代官所、支配所(しはいしょ、しはいじょ)とある。江戸時代の地方書では大名領や旗本領を私領としたのに対して公領・公料、また公儀御料所(こうぎごりょうしょ)とある。 大政奉還後の慶応4年(1868年、同年明治元年)には徳川支配地を天領と呼んだ布告があるが、同時期の別の布告では「これまで徳川支配地を天領と称し居候は言語道断の儀に候、総て天朝の御料に復し、真の天領に相成候間」とある。 幕府の直轄地についての呼称については、従来は「天領」と表記していたが、この「天領」という呼称が明治以降の俗称であるという点から、近年では「幕領」と呼ぶ傾向になっており、全国の歴史教科書なども「幕領」への表記の変更が進められている。.
天正
天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.
天武天皇
天皇系図38~50代 天武天皇(てんむてんのう、? - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。.
天智天皇
天智天皇(てんじてんのう/てんぢてんのう、推古天皇34年(626年) - 天智天皇10年12月3日(672年1月7日))は、第38代天皇(在位:天智天皇7年1月3日(668年2月20日) - 10年12月3日(672年1月7日))。和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる。.
夷隅郡
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奈良市
奈良市(ならし)は、日本の奈良県の北部に位置する市で、同県の県庁所在地である。中核市に指定されている。.
奈良県
奈良県(ならけん)は、日本の都道府県の一つ。本州中西部、紀伊半島内陸部、近畿地方の中南部に位置する県である。 令制国の大和国の領域を占め、県庁所在地は奈良市。北西部の盆地部を除き、険しい山々がそびえている。都道府県面積は全国で8番目に狭く内陸8県では最も狭いが、最小の香川県の約2倍でもある。.
奈良盆地
龍王山城、北城本丸から見た奈良盆地 奈良盆地(ならぼんち)は、日本の奈良県北西部に位置する標高100メートル以下の断層盆地を指す。「大和盆地」「大和平野」とも呼ばれる。 東西に約15キロメートル、南北に約30キロメートルの面積を持ち、菱形をなしている。またこの盆地を北から南へ流れる佐保川・富雄川など、南から北へ流れる寺川・曽我川・飛鳥川・高田川などは、いずれも大和川に合流し、西流して大阪湾に注いでいる。 一般的には盆地部の他に矢田丘陵・赤膚丘陵・京阪奈丘陵(奈良県域)・馬見丘陵などを含むことが多く、戦後は奈良市中心部や大阪市、京都市などへのベッドタウンとして盆地部の人口が増加し、矢田丘陵北部や赤膚丘陵や馬見丘陵ではニュータウンの開発がかなり進められた。京阪奈丘陵の一部はけいはんな学研都市の奈良県域として開発されている。これら丘陵地の一部には天野川や木津川など淀川水系に注ぐ河川もある。人口は奈良県全域(約140万人)の86%に当たる約120万人を占める。 平安京への遷都以前、奈良時代までは政治・文化の中心地として栄えた地域である。旧大和国の内で、奈良盆地に当たる場所を国中(くんなか)、山間部を山中(さんちゅう)とも呼ぶ。 Category:日本の盆地 Category:奈良県の地形.
奈良時代
奈良時代(ならじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つで、平城京(奈良)に都が置かれた時代である。平城時代(へいじょうじだい)ともいう。日本仏教による鎮護国家を目指して、天平文化が花開いた時代である。.
姫路藩
姫路藩歴代藩主居城姫路城 姫路藩(ひめじはん)は、播磨国飾東郡にあって現在の兵庫県西南部を治めた藩。藩庁は姫路城(姫路市)。藩主ははじめ外様の池田氏で、のち譜代大名が転々とした末に、1749年(寛延2年)から廃藩置県までは徳川譜代の名門酒井氏があった。石高ははじめ52万石、のち15万石。.
姉小路頼綱
姉小路 頼綱(あねがこうじ よりつな)は戦国時代・安土桃山時代の武将、大名。飛騨姉小路氏の当主。父は姉小路良頼(嗣頼)。妻が斎藤道三の娘であるため、織田信長とは相婿の間柄になる。.
宝亀
宝亀(ほうき、正字体:寶龜)は、日本の元号の一つ。神護景雲の後、天応の前。770年から781年までの期間を指す。この時代の天皇は光仁天皇。.
室町時代
室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.
宮津藩
宮津藩(みやづはん)は、江戸時代、丹後国にあった藩の一つ。京極高知の代は丹後一国を領したため丹後藩とも呼ばれた。藩庁は宮津城(現在の京都府宮津市)に置かれた。.
守護所
守護所(しゅごしょ)とは、中世日本において守護が居住した館の所在地のこと。守護の政治的権限の拡大とともに政庁所在地としての機能が国衙より移されていった。.
宇都宮信房
宇都宮 信房(うつのみや のぶふさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。宇都宮氏の祖である藤原宗円の次男中原宗房の長男。『吾妻鏡』の文治2年2月29日(1186年3月28日)の条によると信房は造酒司正(みきのつかさのかみ)宗房の孫とある。豊前宇都宮氏の祖。 治承4年(1180年)、下野国から源頼朝の挙兵に参陣する。同7年(1183年)、志田義広の謀反の際は義広討伐で功を挙げた。これらの功績により 元暦2年/文治元年(1185年)から文治2年(1186年)にかけて恩賞を与えられている。翌3年(1187年)9月、鎮西奉行として鬼界ヶ島の平氏残党討伐で功績を挙げた。建久3年(1192年)には豊後国・日向国内において所領を与えられた。 晩年は仏教に帰依した。天福2年(1234年)8月2日、79歳で死去した。 Category:平安時代の武士 Category:鎌倉幕府御家人 のふふさ Category:1156年生 Category:1234年没.
宇都宮藩
宇都宮藩(うつのみやはん)は、下野国宇都宮周辺を支配した藩である。藩庁は宇都宮城に置かれた。.
宇陀郡
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宇陀松山藩
宇陀松山藩(うだまつやまはん)は、大和国に存在した藩。藩庁として松山(奈良県宇陀市大宇陀)に陣屋が置かれた。 松山西口関門(国の史跡).
宇智郡
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安中藩
安中藩(あんなかはん)は、上野に存在した藩。藩庁は安中城(現在の群馬県安中市安中3丁目)。.
安房勝山藩
安房勝山藩(あわかつやまはん)は、安房国平郡の勝山陣屋(現・千葉県安房郡鋸南町勝山)に藩庁を置いた藩。 1668年以降、酒井氏(若狭小浜藩の分家)が藩主を務め、廃藩置県まで9代約200年にわたって存続した。これは安房国に藩庁を置いた藩の中で最長である。酒井家時代の石高は1万2000石で、所領は越前国・上野国にも存在した。明治維新後は加知山藩(かちやまはん)に改称した。.
安房国
安房国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
小出吉英
小出 吉英(こいで よしひで/よしひさ)は、江戸時代前期の大名。但馬出石藩2代および4代藩主、出石藩小出氏3代。和泉岸和田藩3代藩主。.
小出吉政
小出 吉政(こいで よしまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。但馬出石藩主のち和泉岸和田藩2代藩主。出石藩小出家2代。.
小出英益
小出 英益(こいで ふさえき、寛文7年2月26日(1667年3月20日) - 元禄5年10月10日(1692年11月17日))は、但馬出石藩の第7代藩主。出石藩小出家6代。 第6代藩主小出英安の長男。母は内藤頼長の娘。正室は安藤重博の娘。継室は立花鑑虎の娘。官位は従五位下、大和守。 幼名は鶴松。元禄4年(1691年)12月26日に父が死去したため、翌年3月11日に家督を継いだ。しかし元禄5年(1692年)10月10日に26歳で死去した。死後、家督は養嗣子の英長が継いだ。法号は浮岳紹貞集雲院。墓所は東京都港区南麻布の天真寺。 ふさえき Category:出石藩主 Category:外様大名 Category:1667年生 Category:1692年没.
小泉城 (大和国)
小泉城(こいずみじょう)は奈良県大和郡山市小泉町(大和国添下郡)にあった日本の城(平城)。別名、片桐城、小泉陣屋とも呼ばれている。小泉陣屋時代は小泉藩の藩庁でもあった。.
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小泉藩
小泉藩(こいずみはん)は、大和国に存在した藩。藩庁は小泉陣屋(現在の奈良県大和郡山市小泉町)。.
尾張国
尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
山崎藩
山崎藩(やまさきはん)は、播磨国宍粟郡周辺を知行した藩。藩庁として山崎(現在の兵庫県宍粟市山崎町)に山崎陣屋が置かれた。宍粟藩(しそうはん)とも呼ばれる。.
山形藩
山形藩(やまがたはん)は、出羽(羽前)村山郡山形(現在の山形県山形市)に居城(山形城)を置いた藩。本項目では山形藩と関係の深い大森藩(おおもりはん)、朝日山藩(あさひやまはん)についても記述する。.
山辺郡
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山村王
山村王(やまむらおう、養老6年(722年) - 神護景雲元年11月17日(767年12月16日))は、奈良時代の公卿。用明天皇の皇子・来目皇子の子孫『続日本紀』神護景雲元年11月17日条(一説では玄孫とし、筒城王の子とする鈴木真年『百家系図稿』巻9,登美真人。官位は従三位・参議。.
岸和田藩
和泉国岸和田城絵図/国立公文書館内閣文庫所蔵 岸和田藩(きしわだはん)は、かつて和泉国南郡・日根郡などを領有した藩。藩庁は南郡岸和田(現在の大阪府岸和田市)の岸和田城。.
島原藩
島原藩(しまばらはん)は、肥前国島原周辺を支配した藩。初期は日野江藩(ひのえはん)と呼ばれる。藩庁は初期は日野江城(長崎県南島原市)、のち島原城(長崎県島原市)。.
川越藩
川越藩(かわごえはん)は、武蔵国入間郡(現在の埼玉県川越市)周辺を領した藩。武蔵国一の大藩。藩庁は川越城に置かれた。.
工藤祐経
工藤 祐経(くどう すけつね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期のにかけての武士・御家人。藤原南家の流れを汲む工藤滝口祐継の嫡男。.
上下
上下(じょうげ、うえした)とは、六方位(六方)の名称の一つで、高さ・深さを指す方位の概念を表す言葉である。.
上総国
上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。.
上野城
上野城(うえのじょう)は、三重県伊賀市上野丸之内(上野公園)にあった日本の城(平山城)である。白鳳城、伊賀上野城とも呼ばれる。.
上野国
上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 常陸国・上総国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上野介であった類聚三代格。.
常陸国
常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。.
丹塀門成
丹墀 門成(たじひ の かどなり、生年不詳 - 仁寿3年3月22日(853年5月3日))は、平安時代初期の貴族。氏姓は多治比真人のち丹墀真人。内蔵助・多治比豊長の子。官位は正五位下・大和守。.
丹後国
丹後国(たんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.
丹波亀山藩
亀山藩(かめやまはん)は、江戸時代に丹波国にあった藩のうちの一つ。現在の京都府亀岡市を拠点とした。山陰道の入り口に当たるため、江戸幕府から特に重要視された。伊勢亀山藩との区別から丹波亀山藩とも呼ばれる。明治時代に亀山の地名を亀岡に改称したため、これ以降は亀岡藩(かめおかはん)と呼ばれる。藩庁は亀山城。.
丹波国
丹波国(たんばのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陰道に属する。.
七日市藩
七日市藩(なのかいちはん)は、上野甘楽郡(現在の群馬県富岡市七日市)に存在した藩。藩庁は七日市陣屋(現在、跡地は群馬県立富岡高等学校となっている)。遺構として正面玄関付近1棟、中門1棟が現地に現存する。以下はすべて個人宅に移築されている。大手門(下仁田町)、裏門(富岡市七日市)、伝承南門(富岡市内)である。.
三好三人衆
三好三人衆(みよしさんにんしゅう)は、戦国時代に三好長慶の死後に三好政権を支えて畿内で活動した三好長逸・三好宗渭・岩成友通の3人を指す。いずれも三好氏の一族・重臣であり、『言継卿記』や『多聞院日記』などの同時代の記録でも「三人衆」と表記されている。.
三好義継
三好 義継(みよし よしつぐ)は、戦国時代の武将・大名。河内の戦国大名。三好氏本家の事実上最後の当主である。.
三島名継
三島 名継(みしま の なつぐ、天平20年(748年) - 大同5年4月11日(810年5月17日))は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。名は奈継とも記される。姓は真人。舒明天皇の皇子・蚊屋皇子の後裔。官位は正四位下・左京大夫。.
三田藩
三田藩(さんだはん)は、摂津国有馬郡三田(現在の兵庫県三田市)周辺を領有した藩。藩庁は当初三田城、のち三田陣屋。.
三芦城
三芦城(みよしじょう)は、陸奥国石川郡泉郷(現在の福島県石川郡石川町下泉泉郷川流域)にあった城館(日本の城)の跡。平安時代後期から戦国時代にかけて石川郡を支配していた陸奥石川氏の居城である。別名は石川城。.
三輪子首
三輪 子首(みわ の こびと、生年不明 - 天武天皇5年(676年)8月)は、日本の飛鳥時代の人物である。大三輪真上田子人(おおみわのまかむだのこびと)、あるいは神麻加牟陀児首(みわのまかむだのこびと)ともいう。死後に大三輪真上田迎(おおみわのまかむだのむかえ)と諡された。姓は君。冠位は贈内小紫。 672年の壬申の乱に際して、伊勢で大海人皇子(天武天皇)を迎え、後に大和への増援軍の指揮官の一人になった。.
三河吉田藩
三河吉田藩(みかわよしだはん)は、三河国吉田(現在の愛知県豊橋市今橋町)を領した藩。藩庁は吉田城。明治維新後に豊橋藩(とよはしはん)と改称された。譜代大名が歴代藩主を務め、吉田藩に入部することは、幕閣になるための登竜門のひとつであった。.
三河国
三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部。.
三木直頼
三木 直頼(みつき なおより、明応6年(1497年)? - 天文23年6月14日(1554年7月13日))は戦国時代の武将。飛騨三木氏の当主。姉小路良頼の父。大和守。 飛驒国守護代三木氏の出自は多賀氏(佐々木氏の一族、つまり飛驒国守護京極氏とは血縁関係)とも藤原氏ともいわれはっきりしない。直頼の父は『飛州志』では三木重頼と伝わるが、系図では三木綱良とされる一方、二人は同一人物ともされるなど直頼以前の三木氏については不明な点が多い。 もともとは飛騨の一国人にすぎなかったが、室町時代に守護の京極氏や国司の姉小路家が戦乱や内紛などにより衰退したことに乗じて、隣国美濃の土岐氏と手を結んで実力をつけていった。やがて飛騨の南半分を征服し、三木氏が戦国大名として躍進する基礎を築いた。後には土岐頼芸に援軍を要請されたり、隣国信濃の木曾氏と争ったりし、その勢威は近隣諸国にも及んだ。晩年は飛騨北部を支配する国人の江馬時経と飛騨の覇権を巡り争ったが、時経の死後は江馬氏と和解している。桜洞城の築城者であるとされる。菩提寺は禅昌寺。.
三方楽所
三方楽所(さんぽうがくそ)は、江戸時代初期に制度化された雅楽の伝承組織で、一方17人ずつ計51人からなる。 三方とは宮中方(宮廷・京都)、南都方(興福寺・奈良)、天王寺方(四天王寺・大阪)のそれぞれの楽所を指し、これらの総称として江戸以前についても用いる。またここに属する雅楽家を三方楽人(さんぼうがくにん)と総称する。.
下妻藩
下妻藩(しもつまはん)は、常陸国(現在の茨城県下妻市下妻甲)に存在した藩。藩庁は下妻陣屋に置かれた。.
下総国
下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
下野国
下野国(しもつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.
一宮
一宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。一の宮・一之宮などとも書く。.
一宮藩
一宮藩(いちのみやはん)は、上総国長柄郡の一宮陣屋(現在の千葉県長生郡一宮町字城内)に藩庁を置いた藩。江戸時代後期の1826年、伊勢国八田藩が飛び地領であった当地に藩庁を移転して成立。以後、譜代大名の加納氏が4代約50年にわたって治め、廃藩置県を迎えた。石高は1万3000石。.
一乗院
一乗院(いちじょういん)は奈良県奈良市の興福寺にあった塔頭の一つ。天禄元年 (970年) 、興福寺別当定昭によって建立される。.
九鬼久隆
九鬼 久隆(くき ひさたか)は、志摩鳥羽藩の第2代藩主、摂津三田藩の初代藩主。九鬼家宗家2代。鳥羽藩初代藩主・九鬼守隆の五男。.
九鬼隆久
九鬼隆久の墓(兵庫県三田市心月院) 九鬼 隆久(くき たかひさ、延宝8年(1680年) - 享保7年6月23日(1722年8月4日))は、摂津三田藩の第5代藩主。九鬼家宗家6代。 大和柳生藩主柳生宗在の長男。母は五条為庸の娘。官位は従五位下。大和守。 幼名は内記。元禄10年(1697年)、先代藩主の九鬼副隆の死去に際し、その従弟に当たる関係から養嗣子として跡を継いだ。御小姓並、御小姓となった。享保2年(1717年)4月16日、養嗣子の隆抵に家督を譲って隠居し、享保7年(1722年)6月23日、43歳で死去した。墓所は東京都豊島区駒込の泰宗寺。 Category:三田藩主 Category:外様大名 たかひさ Category:柳生氏 Category:柳生藩の人物 Category:1680年生 Category:1722年没.
九鬼隆徳
九鬼隆徳の墓(兵庫県三田市心月院) 九鬼 隆徳(くき たかのり、寛政12年1月28日(1800年2月21日)- 元治元年7月27日(1864年8月28日))は、摂津三田藩の第11代藩主。九鬼家宗家12代。 第10代藩主九鬼隆国の長男。母は側室の像と言われている。正室は蜂須賀治昭の娘。側室に岡田氏など。子に九鬼精隆(長男)、娘(牧野誠成正室)、娘(西貢室)。官位は従五位下、大和守、長門守。 天保14年(1843年)6月19日、父の隠居により跡を継いだ。嘉永7年(1854年)1月20日、長男の精隆に家督を譲って隠居し、元治元年(1864年)7月27日に死去した。享年65。法号は楽只院。 たかのり Category:三田藩主 Category:外様大名 Category:幕末の大名 Category:1800年生 Category:1864年没.
平城京
平城宮跡 平城京(へいじょうきょう/へいぜいきょう)は、奈良時代の日本の首都。唐の都「長安」や北魏洛陽城などを模倣して建造されたとされ、現在の奈良県奈良市及び大和郡山市近辺に位置していた。.
平基盛
平 基盛(たいら の もともり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の次男。同母兄に重盛がいる。.
平安時代
平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.
平群郡
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平重衡
東大寺盧舎那仏像 神戸市須磨区にある平重衡捕らわれの遺跡 平 重衡(たいら の しげひら)は、平安時代末期の平家の武将・公卿。平清盛の五男。母は清盛の継室・平時子。三位中将と称された。 平氏の大将の一人として各地で戦い、南都焼討を行って東大寺大仏や興福寺を焼亡させた。墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍するが、一ノ谷の戦いで捕虜になり鎌倉へ護送された。平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首された。その将才は「武勇の器量に堪ふる」(『玉葉』治承5年閏2月15日条)と評される一方、その容姿は牡丹の花に例えられたという。.
平教盛
平 教盛(たいら の のりもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平忠盛の四男。平清盛の異母弟。母は藤原家隆の娘(待賢門院に仕えた女房)。平通盛、平教経の父。 保元の乱、平治の乱で兄の清盛に従って戦う。邸宅が六波羅の総門にあったことから門脇殿と通称され、さらに平氏政権での栄達に従って門脇宰相・門脇中納言と呼ばれた。鹿ケ谷の陰謀事件では娘婿の藤原成経が罪に問われたため、その赦免に奔走した。治承・寿永の乱では主に後方の守りについた。一ノ谷の戦いで嫡男の通盛を始め子息を失う。壇ノ浦の戦いの敗戦の中で兄の経盛とともに入水した。.
久世広之
久世 広之(くぜ ひろゆき、慶長14年(1609年) - 延宝7年6月25日(1679年8月1日))は、江戸時代前期の大名。若年寄、老中。下総関宿藩主。関宿藩久世家初代。 5000石の大身旗本久世広宣の三男。母は今川家家臣奥原経重の娘。兄弟に広当、勝宣、重利、大久保忠当室など。正室は戸田忠能の養女(戸田忠次の娘)。子に重之(三男)、娘(遠山友貞正室)、娘(松平重治正室)、娘(内田正衆正室)ら。養子に広次(甥、兄広当の子)。官位は従五位下大和守。.
久世広周
久世 広周(くぜ ひろちか)は、江戸時代末期の大名。下総関宿藩の第7代藩主。関宿藩久世家7代。.
久世広誉
久世 広誉(くぜ ひろやす)は、下総関宿藩の第5代藩主。関宿藩久世家5代。.
久世広明
久世広明(くぜ ひろあきら、1732年1月20日(享保16年12月23日) - 1785年3月4日(天明5年1月24日))は、江戸時代中期の大名。寺社奉行、大坂城代、京都所司代、老中。下総関宿藩第4代藩主。官位は従四位下、大和守。関宿藩久世家4代。 大身旗本・久世広武の長男。兄弟に土井利剛(四男)、娘(巨勢利永正室)。母は松平忠根(五井松平家)の娘。正室は岡部長著の娘。子に久世広誉(長男)、久世広備(六男)、長谷川勝孚(七男)、土井利豊(八男)、久世広才(九男)、鈴木重逵(十一男)、松平広徳(十二男)、久世広侶(十三男)、娘(久世広楽正室)、娘(伊達村芳正室)、娘(久世広孝正室)。 久世重之の五男広籌を初代とする旗本久世家に生まれる。実父広武は土井利良の三男として生まれて、広籌の養子に迎えられた。広明の幼名は熊太郎。1743年(寛保)3年7月9日、本家である関宿藩主久世暉之の養嗣子となった。7月28日、将軍徳川吉宗にお目見えした。1748年(寛延元年)8月22日、養父暉之が隠居し、家督を継ぐ。寺社奉行、京都所司代などを歴任後、1781年(天明元年)に老中となり、天明5年に死去するまで在任した。.
久世重之
久世 重之(くぜ しげゆき、万治2年(1659年) - 享保5年6月27日(1720年8月1日))は、江戸時代中期の大名、江戸幕府老中。官位は従四位下。官名は、はじめ讃岐守のち大和守。下総関宿藩第2代藩主、備中庭瀬藩主・丹波亀山藩主、三河吉田藩主、下総関宿藩(再封)初代藩主。関宿藩久世家2代。 関宿藩初代藩主・久世広之の三男。正室は大野藩主・土井利房の娘。子に暉之(四男)、広籌(五男)、広般(九男)、娘(松平康員正室)、娘(石川総慶正室)ら。.
久留里藩
久留里藩(くるりはん)は、上総国望陀郡久留里(現在の千葉県君津市久留里)に存在した藩。.
乙巳の変
具慶の合作によって描かれたもの。左上は皇極天皇。 談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』(奈良県桜井市) 乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)は、中大兄皇子、中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変。その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行した。俗に蘇我入鹿が殺された事件のことを指して「大化の改新」と言うこともあるが、厳密にはクーデターである「乙巳の変」の後に行われた一連の政治改革が「大化の改新」である。.
庭瀬藩
庭瀬陣屋跡(石垣と堀) 庭瀬藩(にわせはん)は、備中国賀陽郡庭瀬村(岡山県岡山市北区庭瀬)に藩庁(庭瀬陣屋)を構えた藩である。庭瀬陣屋は旧庭瀬城二の丸を使用して築かれた。.
広瀬郡
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五島盛佳
五島 盛佳(ごとう もりよし)は、肥前福江藩の第6代藩主。五島家第26代当主である。.
五島盛繁
五島 盛繁(ごとう もりしげ)は、肥前福江藩の第9代藩主。五島家第29代当主である。.
五島盛道
五島 盛道(ごとう もりみち)は、肥前福江藩の第7代藩主。五島家第27代当主である。.
五島盛運
五島 盛運(ごとう もりゆき)は、肥前福江藩の第8代藩主。五島氏の第28代当主である。.
五島盛成
五島 盛成(ごとう もりあきら)は、肥前福江藩の第10代藩主。五島家第30代当主、正五位・子爵。.
五條県
五條県(ごじょうけん)は、1870年(明治3年)に大和国南部・河内国南部の旧幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって設置された県。.
井上正岑
井上 正岑(いのうえ まさみね、承応2年(1653年) - 享保7年5月17日(1722年6月30日))は、江戸時代中期の大名、老中。美濃八幡藩第2代藩主、丹波亀山藩主、常陸下館藩主、常陸笠間藩初代藩主。浜松藩井上家4代。 美濃八幡藩初代藩主・井上正任の次男。母は本多忠義の娘。正室は伊予西条藩主松平頼純の娘・清姫。弟に甲府藩家老のち側衆の井上正長。養子に井上正富、井上正之。養女に水野忠輝正室。官位は従四位下大和守、のち侍従河内守。.
井上正経
井上 正経(いのうえ まさつね)は、江戸時代中期の大名・老中。常陸笠間第3代藩主、陸奥磐城平藩主、遠江浜松初代藩主。浜松藩井上家6代。.
仁寿
仁寿(にんじゅ、正字体:仁壽)は、日本の元号の一つ。嘉祥の後、斉衡の前。851年から854年までの期間を指す。この時代の天皇は文徳天皇。.
令制国
北海道11か国(ただし、千島を除く)追加を反映した。 令制国(りょうせいこく)とは、日本の律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分である。律令国(りつりょうこく)ともいう。奈良時代から明治初期まで、日本の地理的区分の基本単位だった。 令制国の行政機関を国衙(こくが)または国庁(こくちょう)といい、国衙の所在地や国衙を中心とする都市域を国府(こくふ)といった。また、国府は府中と呼ばれることもあった。.
令制国一覧
大宝元年)から702年(大宝2年)まで。黄色で示す地域が制度の及ぶ範囲。 鎌倉時代から1868年(明治元年)まで 明治初期の令制国の配置 令制国一覧(りょうせいこくいちらん)は、7世紀後半からの日本国内の地方行政区分、国(令制国)の一覧である。 令制国の改廃は、奈良時代までと明治時代になされ、その間の平安時代から江戸時代には長期にわたって変更がなかった。.
延喜式
延喜式(えんぎしき)は、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。.
延喜式神名帳
延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である。.
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延暦
延暦(えんりゃく、正字体:延曆)は、日本の元号の一つ。昭和、明治、応永、平成に次いで、歴代で5番目に長い元号である。天応の後、大同の前。782年から806年までの期間を指す。この時代の天皇は桓武天皇。 1418年(応永25年)までの600年以上にわたって、最も長い日本の元号であった。その後1892年(明治25年)まで、日本で2番目に長い元号であった。1950年(昭和25年)までは3番目、2013年(平成25年)までは4番目に長い日本の元号であり、2014年(平成26年)以降は歴代で5番目に長い元号となっている。.
廃藩置県
廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.
伊勢国
伊勢国(いせのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
伊達政宗
伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。 幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。.
伊達晴宗
伊達 晴宗(だて はるむね)は、陸奥の戦国大名。伊達氏の第15代当主。.
伊東家
伊東家.
伊東尹祐
伊東 尹祐(いとう ただすけ)は、戦国時代の武将、日向国の戦国大名。日向伊東氏8代(伊東氏13代)当主。室町幕府将軍足利義尹(義稙)から偏諱を受け尹祐を称す。.
伊東祐堯
伊東 祐堯(いとう すけたか)は、室町時代の武将。日向伊東氏6代(伊東氏11代)当主。 伊東祐立の子とされるが、一説には祐立には祐武という子が別におり、祐武の子が祐堯とも言われる。 文安元年(1444年)、伊東祐立の死去により36歳で家督を継ぐ(『日向記』によると、祐立の家督を継ぐ筈であった祐家を、家督簒奪を目論んだ祐郡が殺害、この不義を家臣が認めず、祐郡を追放し祐堯を擁立したとある)。反抗的な一族の討伐に乗り出し、まず宮崎城の曽井氏を攻め滅ぼした。翌文安2年(1445年)以降も土持氏の同意を得て門川、穆佐、清武など各地の城主を次々と破り、傘下に収めていく。 日向国内に武威を示すと次に守護職を求めたが、土持氏の反発によって実現しなかった。そのため康正2年(1456年)に開戦に踏み切り、財部土持金綱を滅ぼして平野部から土持氏の勢力を駆逐する。こうして北は門川、南は紫波洲崎までを支配するようになり、国内外に伊東氏の存在感を強めた。 寛正2年(1461年)には再び京に使者を送り、室町幕府8代将軍足利義政から「日薩隅三ヶ国の輩は伊東の家人たるべし、但し島津、渋谷はこれを除く」という内容の御教書を得ている(ただし、これは伊東氏によって創作された偽文書である可能性が高いとされる)。 島津氏とは友好的な関係にあり、寛正5年(1464年)には島津立久と鵜戸山で会見し和議を調えている。ところが文明2年(1480年)に島津氏が紫波洲崎城を攻めたことで、両家は再び敵対することになった。 文明17年(1485年)、島津氏の内紛に介入し、島津忠昌と対立した伊作家の島津久逸の求めに応じて飫肥城の新納忠続を攻撃するため子の祐国と共に出陣中に清武城で死去。享年77。 祐国、祐邑など男女合わせて25人の子に恵まれた。.
伊東祐実
伊東 祐実(いとう すけざね)は、江戸時代中期の大名。日向国飫肥藩の第5代藩主。 伊東祐久の4男として誕生。兄で4代藩主の祐由に嗣子が無かったため、その養嗣子となる。寛文元年(1661年)兄・祐由の死去によって家督を継いだ。 窮乏の色が見え始めた藩財政を再建するため、積極的な内治政策に取り組もうとしたが、寛文2年(1662年)に大地震・大津波が領内を襲って大被害を受け、さらに薩摩藩と領土の境界をめぐって争うなど、治世は多難を極めた。それでも飫肥城の改築、油津堀川運河の開削、植林事業の奨励、甘藷の食糧自給化、郷士制度の確立、薩摩藩に対する牛の峠境界論争の勝訴・境界確定などに尽力している。 嗣子が無かったため、分家で表向御礼衆交代寄合の兄:祐春の長男・祐崇(祐実の甥・駿河守)を最初は養嗣子としたが、病弱だったために廃嫡し、伊東左門祐信の長男・祐永に祐崇の娘を嫁がせて養嗣子とした。正徳4年(1714年)に祐永に家督を譲って隠居し、享保8年(1723年)9月18日、80歳で死去した。 すけさね *05 Category:1644年生 Category:1723年没.
伊東祐安 (室町時代)
伊東 祐安(いとう すけやす)は、室町時代の武将。日向伊東氏4代(伊東氏9代)当主。.
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伊東祐久
伊東 祐久(いとう すけひさ)は、江戸時代前期の大名。日向国飫肥藩の第3代藩主。 第2代藩主・伊東祐慶の長男として京都にて生まれた。寛永13年(1636年)5月29日、父・祐慶の死により家督を継承する。このとき、弟・祐豊(主膳正)に3000石を分与し旗本寄合とした。翌寛永14年(1637年)の島原の乱では2500人を率いて天草に出陣した。清武郷の松井五郎兵衛に井堰建設と用水路開削の認可を与え、用水路は寛永17年3月(1640年)に完成した。正保年間、潮嶽神社の修繕を行う。慶安3年(1650年)、外ノ浦に防波堤を築く。 明暦3年(1657年)10月27日、江戸藩邸にて49歳で死去し、家督は長男・祐由が継いだ。 生前、鵜戸権現より勧進し、榎原神社の建立に着手していたが、没後の万治元年(1658年)に完成した。 すけひさ *03 Category:1609年生 Category:1657年没.
伊東祐之 (飫肥藩主)
伊東 祐之(いとう すけゆき)は、江戸時代中期の大名。日向国飫肥藩の第7代藩主。 第6代藩主・伊東祐永の9男として江戸藩邸にて生まれた。元文4年(1739年)、父の死去により家督を継ぐ。この頃の藩政では、荒川稲や町人による渡船・踊興行などが広まったと言われている。寛保2年(1742年)、江戸で発生した寛保二年江戸洪水にて、西国大名の手伝い普請に参加した。 延享元年(1744年)9月2日、18歳で死去した。嗣子が無く、庶兄・祐隆が家督を継いだ。 すけゆき *07 Category:1727年生 Category:1744年没.
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伊東祐国
伊東 祐国(いとう すけくに)は、室町時代の武将。日向伊東氏7代(伊東氏12代)当主。 父・伊東祐堯に従って各地を転戦した。文明12年(1480年)、佐土原を知行する。同年、折生迫で島津氏との合戦となり、日高周防介の軍勢に大勝した。 文明16年(1484年)、父・祐堯が島津氏の内紛に介入。島津当主島津忠昌の方針に反発し、豊後国の大友氏や父に助力を請い新納忠続の守る飫肥城を攻撃し忠昌に叛旗を翻した島津久逸を援助するべく父と共に飫肥城を攻撃したが、翌文明17年(1485年)に祐堯が出陣中に清武城で急死、祐国が家督を継承する。 同年、弟・祐邑と共に新納忠続の守る飫肥城に再び侵攻した。その時に率いた軍勢は、「都於郡、佐土原、宮崎、木脇、八代、三納、穂北、富田、財部、高城、塩見、日知屋、門川、山陰、田代、神門、入下、宇納間、水清谷、銀鏡、小河、雄八重、中ノ俣、鵜戸、曾井、加江田」の兵だったとされる(これは現在の宮崎市・西都市・国富町・高鍋町・日向市・美郷町・西米良村などに相当する地域である。)。 祐国・祐邑は国見峠を越えてたちまち飫肥城を包囲し島津方の援軍・島津伯耆守を討ち取ったが、飫肥城の守りは堅く、自ら軍勢を率いて出陣して来た島津忠昌と楠原で交戦するも、祐国は乱戦の最中に討ち死にを遂げた。享年35。 すけくに Category:室町時代の人物 Category:日向国の人物 Category:戦国時代に戦死した人物 Category:1450年生 Category:1485年没.
伊東祐福
伊東 祐福(いとう すけよし)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。日向国飫肥藩の第9代藩主。 第8代藩主・伊東祐隆の長男として日向飫肥にて誕生。元文5年(1740年)12月5日生まれと言われているが、享保20年(1735年)生まれとも言われている。宝暦7年(1757年)、父の死去により家督を継いだ。明和8年(1771年)、仙洞御所の造営を担う。 天明元年(1781年)7月20日、42歳で死去。家督は長男・祐鐘が継いだ。 すけよし *09 Category:1741年生 Category:1781年没.
伊東祐時
伊東 祐時(いとう すけとき)は、鎌倉時代前期の武将・御家人。日向伊東氏の祖。.
式上郡
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式下郡
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伴保平
伴 保平(とも の やすひら)は、平安時代前期から中期にかけての貴族。播磨守・伴春雄の子。.
弘宗王
弘宗王(ひろむねおう)は、平安時代前期の皇族。伊予守・豊前王の子。官位は従四位下・越前守。.
弘仁
弘仁(こうにん)は、日本の元号の一つ。大同の後、天長の前。810年から824年までの期間を指す。この時代の天皇は嵯峨天皇、淳和天皇。.
弘文天皇
弘文天皇(こうぶんてんのう、大化4年(648年) - 天武天皇元年7月23日(672年8月21日))は、第39代天皇(在位:天智天皇10年12月5日(672年1月9日) - 天武天皇元年7月23日(672年8月21日))。諱は大友(おおとも)または伊賀(いが)。明治3年(1870年)に諡号を贈られ、天皇として認められたが、即位したかどうか定かではなく、大友皇子と表記されることも多い。.
佐久間信盛
佐久間 信盛(さくま のぶもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。平手政秀自害から主君の織田信長による折檻状で織田氏を離れるまでの約30年間、織田氏家臣団の筆頭家老として家中を率いた。佐久間氏の当主。通称は出羽介、右衛門尉。子に信栄・信実。従兄弟に佐久間盛次(佐久間盛政・佐久間安政・柴田勝政・佐久間勝之の父)がいる。.
佐伯今毛人
佐伯 今毛人(さえき の いまえみし)は、奈良時代の貴族。名は今蝦夷とも表記する。初名は若子。右衛士督・佐伯人足の子。.
但馬国
但馬国(たじまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.
御所市
御所市(ごせし)は、近畿・奈良県の中部に位置する市。都市名の由来は諸説あり、確定はされていない。奈良県内で一番人口が少ない市である。.
御所藩
御所藩(ごせはん)は、大和国葛上郡・葛下郡、和泉国日根郡の一部などを支配した藩。現在の奈良県御所市御所にあった。.
徳川家康
徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.
徳川将軍家
徳川将軍家の略系図 徳川将軍家(德川將軍家、とくがわしょうぐんけ)は、江戸幕府の征夷大将軍を世襲した徳川氏の宗家(徳川宗家、とくがわそうけ)。明治維新後の1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられて徳川公爵家となった。華族制度廃止後は、単に徳川宗家と呼ばれる。.
徳川秀忠
徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。.
忍海郡
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忠貞王
忠貞王(たださだおう、弘仁11年(820年) - 元慶8年8月27日(884年9月20日))は、平安時代初期から前期にかけての皇族。桓武天皇の皇孫。二品・賀陽親王の子。官位は正四位下・参議。.
信貴山城
信貴山城(しぎさんじょう)は、奈良県生駒郡平群町信貴畑にあった日本の城である。木沢長政・松永久秀の居城となった。 信貴山城は大和と河内の国境にある生駒山系に属する信貴山(標高433m)山上に築かれた山城である。信貴山は大和と河内を結ぶ要衝の地で、松永久秀はこの山上に南北880m、東西600mに及ぶ城郭を築いた。信貴山中腹には、朝護孫子寺がある。また、付近には、高安山城、南畑ミネンド城、立野城といった支城が存在した。.
信貴山城の戦い
信貴山城の戦い(しぎさんじょうのたたかい)は、天正5年(1577年)10月5日から10月10日にかけて、織田信長に対して謀反を起こした松永久秀の居城信貴山城で行われた攻城戦。別名「松永久秀討伐戦」とも言われている。.
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信濃国
信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.
信濃飯田藩
飯田藩(いいだはん、信濃飯田藩)は、信濃国伊那郡南部(現在の長野県飯田市追手町)に存在した藩。藩庁は飯田城に置かれた。.
志摩国
志摩国(しまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
土屋数直
土屋 数直(つちや かずなお)は、江戸時代前期の大名。常陸土浦藩の初代藩主。江戸幕府の若年寄・老中である。.
土浦藩
土浦藩(つちうらはん)は、常陸国に存在した藩。藩庁は土浦城(現在の茨城県土浦市)。.
土方義苗
土方 義苗(ひじかた よしたね)は、伊勢菰野藩の第9代藩主。.
土方雄永
土方 雄永(ひじかた かつなが)は、伊勢菰野藩の第12代藩主。 嘉永4年(1851年)3月21日、第11代藩主・雄嘉の長男として生まれる。安政5年(1858年)10月19日、父の死去により、家督を継いだ。しかし、父同様に病弱の上、幼少であったため、大叔父の土方義行が引き続いて補佐した。幕末期、はじめ菰野藩は佐幕派、尊王派で分裂して争った。慶応4年(1868年)2月27日、上洛し、新政府の支持姿勢を明らかにした。その後、戊辰戦争では新政府の東征軍に協力している。 明治2年(1869年)6月23日の版籍奉還で藩知事となる。しかし病気のため、明治3年(1870年)9月17日、家督を養子の雄志に譲って隠居した。明治4年(1871年)10月15日、東京へ移る。 明治27年(1884年)5月10日に死去した。享年34。 かつなか *12 Category:幕末の大名 Category:日本の華族 Category:1851年生 Category:1884年没.
在原安貞
在原 安貞(ありわら の やすさだ)は、平安時代初期の貴族。平城天皇の孫で、高岳親王の子。.
在原善淵
在原 善淵(ありわら の よしふち)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。平城天皇の孫で、四品・高岳親王の子。.
地方知行
地方知行(じがたちぎょう)とは、江戸時代に将軍あるいは大名が家臣に対して禄として与える知行を、所領(地方と呼ばれる土地)及びそこの付随する百姓の形で与え、支配させること。将軍が大名に土地を与える場合には特に大名知行(だいみょうちぎょう)と呼ばれている。 ここにおける地方知行の解説に大名知行は含めないが、必要に応じて大名知行の例についても言及するものとする。.
北畠家
北畠家(きたばたけけ、または北畠氏(きたばたけし))は、公家の一つ。村上源氏中院家庶流。武家としての通字は「具(とも)」。 南北朝時代に南朝の忠臣として重きをなし、伊勢国に進出して南北朝合一後も国司として勢力を保ち、公家大名、戦国大名として戦国時代まで命脈を保った「三国司家」『世界大百科事典』。また、大名化しても公家としての意識は持ち続け、伊勢国司家の歴代当主の花押は武家ではなく公家のものであった (三重県HP)。 なお、明治維新後、北畠家の家名は中院流久我家の分家として再興され、男爵に叙されている。.
北葛城郡
奈良県北葛城郡の範囲(1.上牧町 2.王寺町 3.広陵町 4.河合町) 北葛城郡(きたかつらぎぐん)は、奈良県の郡。 以下の4町を含む。.
ヤマト王権
ヤマト王権(ヤマトおうけん)とは、大伴氏が本拠を置いた難波 (なにわ) に都を定めた仁徳天皇など、3世紀から始まる古墳時代に「王」「大王」(おおきみ)などと呼称された倭国 (わこく) の王を中心として、いくつかの有力氏族が連合して成立した政治権力、政治組織である。今の大阪平野や奈良盆地を中心とする大倭地方の国がまわりの国を従えたことからこう呼ばれる。旧来より一般的に大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれてきたが、歴史学者の中で「大和」「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が1970年代以降に現れており、その歴史観を反映する用語として「ヤマト王権」の語等が用いられはじめた。 本記事では、これら「大和朝廷」および「ヤマト王権」について、解説をする。 呼称については、古墳時代の前半においては近年「倭王権」「ヤマト政権」「倭政権」などの用語も用いられている(詳細は「名称について」の節を参照)。古墳時代の後、飛鳥時代での天皇を中心とした日本国の中央集権組織のことは「朝廷」と表現するのが歴史研究でも世間の多くでも、ともに一般的な表現である。 ヤマト王権の語彙は「大阪平野や奈良盆地などの近畿地方中央部を念頭にした王権力」の意であるが、一方では出雲を代表格とする「地域国家」と称せられる日本列島各地の多様な権力(王権)の存在を重視すべきとの見解がある。.
ユリウス暦
ユリウス暦(ユリウスれき、、、)は、共和政ローマの最高神祇官・独裁官・執政官ガイウス・ユリウス・カエサルにより紀元前45年1月1日から実施された、1年を365.25日とする太陽暦である。もともとは共和政ローマおよび帝政ローマの暦であるが、キリスト教の多くの宗派が採用し、西ローマ帝国滅亡後もヨーロッパを中心に広く使用された。 ローマ教皇グレゴリウス13世が1582年、ユリウス暦に換えて、太陽年との誤差を修正したグレゴリオ暦を制定・実施したが、今でもグレゴリオ暦を採用せずユリウス暦を使用している教会・地域が存在する。グレゴリオ暦を導入した地域では、これを新暦(ラテン語: Ornatus)と呼び、対比してユリウス暦を旧暦と呼ぶことがある。 なお、天文学などで日数計算に用いられるユリウス通日があるが、これはユリウス暦とは全く異なるものである。.
分郡守護
分郡守護(ぶんぐんしゅご)とは、室町時代に国ごとに置かれた守護とは別に郡単位で設置された守護のこと。ただし、近年その存在を否定する新説も出されている(後述)。 本来であれば、国ごとの守護にその国が属する全ての郡の支配権が与えられるの原則になっていたが、当該国の守護の牽制などを目的として一部の郡を切り離して分郡として、他の者を守護に任じたとされる。 分郡の守護にはその郡が隣接する他の国の守護大名やその守護家の庶流、将軍の側近(守護家の庶流出身者が多い)や幕府機関の頭人(長官)を務める評定衆などが起用された。 代表的な例として、摂津国では本来の守護である細川氏京兆家以外に最大6名の分郡守護が置かれたとされ、中でも有馬郡を支配した赤松氏庶流の有馬氏は戦国時代末期まで支配を維持した。他にも大和国宇智郡を支配した畠山氏、尾張国知多郡および三河国渥美郡を支配した一色氏、遠江国の東側3郡の支配を認められた今川氏などが知られ、戦国時代に入るまで守護が設置されなかった陸奥国では郡検断奉行が分国守護の役目を果たしたとされている。 だが、2013年に山田徹が分郡守護の存在を否定する論文を発表して注目されている。山田説の特徴としては、これまで分郡守護としてみなされてきた事例は領主が郡単位で知行しているだけに過ぎず、国の守護の権限が及ばなかったためにあたかも守護権が分割されているように見えるだけの現象であり、更に実際には分郡に対してもその国の守護が遵行権を行使している事例も確認できるために分郡の領主が守護の権限を排除出来ていないことを指摘して、「分郡守護」という概念は分郡支配の実態を反映しておらず、当時の文書にも実際に登場する「郡主」を用いるのが適切であるとしている。.
嘉祥
嘉祥(かしょう、かじょう)は、日本の元号の一つ。承和の後、仁寿の前。848年から851年までの期間を指す。この時代の天皇は仁明天皇、文徳天皇。.
和名類聚抄
和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。承平年間(931年 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。略称は和名抄(わみょうしょう)。.
和家麻呂
和 家麻呂(やまと の いえまろ/ やかまろ、天平6年(734年) - 延暦23年4月27日(804年6月8日))は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。姓は史のち朝臣。贈正一位・高野弟嗣(和乙継)の孫。従五位上・和国守の子とする系図がある鈴木真年『百家系図稿』巻7,和朝臣。官位は従三位・中納言、贈従二位・大納言。桓武天皇の従兄弟。.
和泉国
和泉国(いずみのくに/いづみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.
備中国
備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.
内藤頼寧
内藤 頼寧(ないとう よりやす)は、信濃高遠藩の第7代藩主。高遠藩内藤家12代。.
内藤頼以
内藤 頼以(ないとう よりもち)は、江戸時代後期の大名。信濃高遠藩の第6代藩主。高遠藩内藤家11代。 安永5年(1776年)、陸奥福島藩主・板倉勝矩の五男として生まれる。寛政3年(1791年)12月、高遠藩主内藤長好が嫡子をもうけぬまま死去したため、その養子となって家督を相続する。寛政4年1月27日、将軍徳川家斉に拝謁する。同年12月16日、従五位下大和守に叙任する。文化5年(1808年)6月24日、奏者番に就任する。文政2年9月16日、奏者番を辞任する。文政3年(1820年)隠居し、三男・頼寧に家督を譲った。通称を左京亮に改め、後に静翁と号した。安政3年(1856年)没した。.
内藤頼由
内藤 頼由(ないとう よりゆき)は、信濃高遠藩の第3代藩主。高遠藩内藤家8代。.
内藤頼直
内藤 頼直(ないとう よりなお)は、幕末の大名。信濃高遠藩の第8代(最後)の藩主。高遠藩内藤家13代。.
内藤重頼
内藤 重頼(ないとう しげより)は、江戸時代初期の旗本、のち大名。河内富田林藩内藤氏の初代藩主。のちの高遠藩内藤氏第5代(第6代とする説あり)。.
内藤長好
内藤 長好(ないとう ながよし)は、江戸時代中期の大名。信濃高遠藩の第5代藩主。高遠藩内藤家10代。.
出石藩
出石藩(いずしはん)は、但馬国に存在した藩。藩庁は出石城(兵庫県豊岡市出石町)。 出石城本丸から城下町を俯.
出羽国
出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.
八幡藩
八幡藩(はちまんはん、やわたはん)は江戸時代の藩。.
八田藩
八田藩(はったはん、やつたはん)は、伊勢国(現在の三重県四日市市東阿倉川)に存在した藩。別名は東阿倉川藩(ひがしあくらがわはん)。.
公家
公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.
兵部省
兵部省(ひょうぶしょう、つわもののつかさ)はかつて日本にあった軍政(国防)を司る行政機関。.
前田利孝
前田 利孝(まえだ としたか、文禄3年(1594年)- 寛永14年6月4日(1637年7月25日))は、上野七日市藩の初代藩主。七日市藩前田家初代。 前田利家の五男。母は明運院(お幸和)。正室は本多康俊の娘。子に前田利意(長男)、前田孝矩(次男、旗本の苗木山前田家祖)、前田寄孝(三男、利世、加賀藩士となる前田監物家祖)、娘(浅野長賢正室)ら。官位は従五位下、大和守。 父・利家の死後、兄の利長が徳川家康と本多正信が画策した「家康暗殺計画」の疑惑をかけられたため、その弁明の証として利長の生母・芳春院(まつ)と共に人質として江戸に送られて幼年期を過ごした。大坂の陣では徳川方として参戦して武功を挙げたことから、元和2年(1616年)12月26日、七日市に1万石の所領を与えられた。 寛永14年(1637年)6月4日に死去し、跡を子の利意が継いだ。享年44。利孝の七日市藩領は、加賀の前田本家が参勤交代する際の中継地として、以後重要な役割を果たすこととなる。 としたか *01 Category:1594年生 Category:1637年没.
前田利尚
前田 利尚(まえだ としひさ)は、上野七日市藩の第7代藩主。七日市藩前田家7代。.
前田利以
前田 利以(まえだ としもち)は、上野七日市藩の第9代藩主。七日市藩前田家9代。.
前田利和 (七日市藩主)
前田 利和(まえだ としよし)は、上野七日市藩の第10代藩主。七日市藩前田家10代。.
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前田利理
前田 利理(まえだ としただ)は、上野七日市藩の第6代藩主。七日市藩前田家6代。.
前田利見
前田 利見(まえだ としあきら)は、上野七日市藩の第8代藩主。七日市藩前田家8代。名は利晃とも記される。.
前田利豁
前田 利豁(まえだ としあきら)は、上野七日市藩の第11代藩主。七日市藩前田家11代。.
前橋藩
前橋藩(まえばしはん)は、上野国群馬郡厩橋(現在の群馬県前橋市)に置かれた藩。はじめ厩橋藩(うまやばし/まやばし はん)といい、藩庁は厩橋城に置かれた。後に酒井家第5代藩主・酒井忠挙の時代に地名・藩名・城名を一括して前橋・前橋藩・前橋城と改めた。.
国府
国府(こくふ、こう)は、日本の奈良時代から平安時代に、令制国の国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた都市。 国府付近には国庁のほかにも国分寺・国分尼寺、総社(惣社)が設置され、各国における政治的中心都市であるとともに司法・軍事・宗教の中心部であった。なお『和名抄』によると、古くは「国」ではなく「島」とされた壱岐や対馬には「島府」が置かれたとされる(まだ確定はされていない)。 律令制の衰退にともない立地の優位性を失い廃れたり所在不明になった国府もある一方、いくつかの国府所在地は、現在でも静岡市・姫路市・岡山市・大分市など大きな都市として発展している。.
国分寺 (橿原市)
国分寺(こくぶんじ)は、奈良県橿原市北八木2丁目にある浄土宗の寺院。山号は勝満山、別名は満法院(まんぽういん)。 本尊の阿弥陀如来像および寺宝の十一面観音立像(重要文化財)は平安時代の作品とされている(ただし、十一面観音立像は元は延命院のものであったという)。江戸時代には高取藩の手厚い保護を受けた。宝暦11年(1761年)建立の本堂は平成15年(2003年)に焼失したが、重要文化財の仏像は収蔵庫に安置されていたため無事であった。 『寺田一生録』でその存在を辿れるのは天正年間までであるが、江戸時代に書かれた『大和志』で延喜式に記された大和国国分寺を通説であった東大寺ではなく、この寺であると比定して以後、いずれを国分寺とするかについての議論がある。実際に国分寺及びその周辺において古代に遡ることが可能な古瓦が出土されることや古代寺院の礎石と思われる石が残存していることから、全く根拠がない説とは言い難いが、今後の考古学的調査が必要とされるところである。.
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倭国造
倭国造(やまとのくにのみやつこ・やまとこくぞう)は、後世の大倭国(大和国)中央部にあたる領域を支配した国造。大倭国造や大和国造を称したともいわれるが不詳。.
犬養五十君
養 五十君(いぬかい の いきみ、生年不詳 - 天武天皇元年7月23日(672年8月21日))は、日本の飛鳥時代の人物である。姓は連。 646年に失政を犯した国司の部下として咎められた。672年の壬申の乱では大友皇子(弘文天皇)の将として活躍したが、敗れて殺された。.
石川基光
石川 基光(いしかわ もとみつ、生年不詳 - 建久10年4月3日(1199年4月29日))は、平安時代後期の武将。大和源氏の流れを汲む陸奥石川氏6代目当主。石川義季の次男(3代目当主元光とは別人)。松田重勝、広季、季光、光家、泰師らの父。従五位下大和守。夫人は夏目国平の妹。 治承3年(1179年)、一族の成田光治、石川兼雅を従えて上洛、従五位下大和守に任じられる。 治承5年(1181年)11月、2代有光の遺骨を岩峯寺に改葬し三重塔を建てた。同年、仏門に入り了全と号す。 なお、「尊卑分脈」には記載はない。.
石川名足
石川 名足(いしかわ の なたり、神亀5年(728年) - 延暦7年6月10日(788年7月17日))は、奈良時代の公卿。御史大夫・石川年足の子。子に石川真守がある。官位は従三位・中納言。.
石川元盛
石川 元盛(いしかわ もともり、生年不詳 - 徳治2年6月5日(1307年7月5日))は、鎌倉時代の武将。大和源氏の流れを汲む陸奥石川氏10代目当主。石川光長の次男。盛義、光好、義助、義衡らの父。従五位下大和守。夫人は蘆名光盛の娘。 幼名は千松丸、元服後に元盛と改める。 正応4年(1291年)8月、執権北条貞時によって将軍久明親王に拝謁。上洛して入朝し、従五位下大和守に任じられる。.
石川光義
石川 光義(いしかわ みつよし、生年不詳 - 保安2年4月1日(1121年4月19日))は、平安時代後期の武将。大和源氏の流れを汲む陸奥石川氏4代目当主。石川元光の次男。義季、義全、光治、全重らの父。従五位下左京大夫、従四位下大和守。夫人は従五位下相模守佐竹義業の娘。 兄の石川光忠が遁世したため父を継ぐ。晩年は仏門に入り道寬齊と号した。.
石川光長
石川 光長(いしかわ みつなが、生年不詳 - 正応3年12月8日(1291年1月9日))は、鎌倉時代の武将。大和源氏の流れを汲む陸奥石川氏9代目当主。石川光貞の長男。元盛、伊賀光春、光助らの父。従五位下大和守、従四位下左馬頭。夫人は太田頼遠の娘。 幼名は虎松丸。元服後に光長と改め、従五位下大和守に任じられる。 弘安4年(1281年)、元軍の襲来(元寇)を聞くと、一族と配下の兵とともに六波羅の軍に属して京都防衛に努め、宇都宮公綱に従って大宰府の防衛に加わった。戦功により、従四位下左馬頭に任じられる。.
石川義季
石川 義季(いしかわ よしすえ、生年不詳 - 治承元年7月6日(1177年8月1日))は、平安時代後期の武将。大和源氏の流れを汲む陸奥石川氏5代目当主。石川光義の長男。基光、光堯、光信、治曲らの父。従四位下大和守。夫人は民部大輔藤原基成の娘。 保元2年(1157年)、上洛して従四位下大和守に任ぜられる。.
石川真守
石川 真守(いしかわ の まもり)は、奈良時代中期から平安時代初期にかけての貴族。大臣・蘇我馬子の後裔で、中納言・石川名足または名足の叔父にあたる中納言・石川豊成の子。.
石川盛義
石川 盛義(いしかわ もりよし、生年不詳 - 文保2年8月2日(1318年8月28日))は、鎌倉時代の武将。大和源氏の流れを汲む陸奥石川氏11代目当主。石川元盛の長男。家光、家隆、光教、義尊、板橋光行らの父。従五位下信濃守、従四位下安芸守。夫人は北条経時の娘。 正和3年(1314年)10月、次男家隆、一族石川光助を引き連れて鎌倉を訪れ、将軍守邦親王に拝謁。上洛して盛義は従四位下大和守、光助は従五位下丹波守に任じられる。.
石川郡
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石川昭光
石川 昭光(いしかわ あきみつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。陸奥仙台藩重臣。角田石川氏初代当主。.
石川晴光
石川 晴光(いしかわ はるみつ)は、戦国時代の大名。陸奥石川氏第24代当主。陸奥国石川郡三芦城主。.
磐城平藩
城平藩(いわきたいらはん)は、江戸時代に旧陸奥国の菊多郡から楢葉郡まで(現在の福島県浜通り南部)を治めた藩である。藩庁は磐城平城(いわき市平)。.
磯城郡
奈良県磯城郡の範囲(1.川西町 2.三宅町 3.田原本町 薄黄:後に他郡に編入された区域) 磯城郡(しきぐん)は、奈良県の郡。 以下の3町を含む。.
神護景雲
護景雲(じんごけいうん)は、日本の元号の一つ。天平神護の後、宝亀の前。767年から770年までの期間を指す。この時代の天皇は称徳天皇。 この年号以後、四文字元号が使われたことはない。四文字元号の中では唯一「天平」の文字が入らないが、天平神護から「神護」の名称を引き継いでおり、この年号までがいわゆる『天平文化』の範疇である。.
福江藩
福江藩(ふくえはん)は、江戸時代の肥前国において、五島列島全域を治めた藩。五島藩(ごとうはん)とも呼ばれる。藩の成立から版籍奉還まで外様大名の五島氏が藩主を務めた。石高は1万5000余石(一時、富江領に3000石を分知し1万2000余石となる)で、藩庁は石田城(当初は江川城。現在の長崎県五島市)で城主大名だった。.
竜田藩
藩(たつたはん)は、大和国(現在の奈良県生駒郡斑鳩町竜田)に存在した藩。.
笠間藩
間藩(かさまはん)は、江戸時代に常陸国茨城郡笠間(現在の茨城県笠間市)に存在した藩。藩庁は笠間城。.
筒井城
井城(つついじょう)は奈良県大和郡山市筒井町にあった日本の城で、室町時代、戦国時代を通じて大和国の政治史の中心的存在であった興福寺衆徒筒井氏の居城であった。.
筒井定次
井 定次(つつい さだつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将・大名。伊賀上野藩主。.
筒井定慶
井 定慶(つつい じょうけい、1556年(弘治2年)? - 1615年6月6日(慶長20年5月10日)?)は戦国時代から江戸時代にかけての大名、武将。大和国出身。(つついさだよし)とも読む。.
筒井順尊
筒井 順尊(つついじゅんそん、宝徳3年(1451年) - 長享3年7月22日(1489年8月27日))は、室町時代後期から戦国時代前期の武将。大和の国人筒井氏当主。筒井順永の子。成身院順盛、安楽坊順憲、遊佐長直の妻の兄。順賢、順興の父。栄藤。舜覚坊。 当時の大和は畠山義就と畠山政長が対立した影響で国人も2派に分かれて抗争していた。筒井氏は政長派に属し、応仁の乱では順尊は父順永と共に義就派の越智家栄、古市澄胤と大和で戦った。 しかし、文明8年(1476年)に父が死去、翌年9月に畠山義就が河内に下向して政長派を撃滅・制圧すると越智家栄らも勢いづいて順尊・箸尾為国らを大和から追放、河内と大和は義就の手に入った(正式な守護は政長と興福寺だが、義就が実力で取得した)。結果、順尊ら政長派は流浪の身となってしまった。後に十市遠清・遠相父子も大和から脱出した。 その後は大和で度々ゲリラを仕掛けるがその度に敗北、復帰を果たせぬまま長享3年(1489年)7月22日、京都で死去。享年39。 しゆんそん Category:戦国武将 Category:大和国の人物 Category:1451年生 Category:1489年没.
筒井順永
筒井 順永(つつい じゅんえい、 応永26年(1419年) - 文明8年4月5日(1476年5月7日)は、室町時代後期の武将。大和の国人筒井氏当主で、興福寺衆徒でもある。筒井順覚の末子。順弘、成身院光宣、尊覚、実憲らの弟。子に順尊、成身院順盛、箸尾為国室。舜良坊。 嘉吉元年(1441年)、長兄の順弘と次兄の光宣が摂津河上五ヶ関代官職を巡って争い、順弘が敗れて行方をくらますと、相国寺僧侶だった順永は還俗、筒井氏当主となった。初め光宣は納得しなかったが、後に和睦して共に順弘と対峙した。以降、順永は光宣と行動を共にするようになる。 嘉吉3年(1443年)に順弘が越智家栄の力を借りて筒井城に復帰するも殺害され、代わって大乗院門跡経覚が五ヶ関を直接支配下に置こうと古市胤仙、豊田頼英、小泉重弘らが光宣・順永兄弟を打ち破り、筒井城に追い込んだが文安2年(1445年)に光宣兄弟も反撃、経覚派の鬼薗山城を落として五ヶ関代官職を獲得、享徳3年(1454年)に両派は和解した。 河内守護畠山氏のお家騒動では弥三郎を支持した為、康正元年(1455年)に弥三郎に勝利した畠山義就に攻められ、領地は没収されたが、長禄3年(1459年)に管領細川勝元によって幕府から赦免された。これを機に順永は小泉館で小泉今力丸と小泉重栄を討ち取り、領土を取り戻した。翌年、義就が将軍足利義政によって家督を弥三郎の弟・政長に替えられると順永は政長に従い義就追討軍に参加(嶽山城の戦い)、応仁の乱で引き続き大和で義就方の越智家栄・古市胤栄らと戦ったが文明8年(1476年)に死去、享年58。 死後、嫡男の順尊が後を継いだが、翌文明9年(1477年)に義就が河内を制圧すると大和も義就派が占拠、順尊は没落する事になる。 しゆんえい Category:室町時代の人物 Category:大和国の人物 Category:還俗した人物 Category:1419年生 Category:1476年没.
筒井順斎
井 順斎(つつい じゅんさい、生没年不詳)は、戦国時代・江戸時代初期の武将。父は福住順弘。兄に定慶、弟に慶之。官位は紀伊守。 兄や弟と同じく従兄に当たる筒井順慶の養子になるが、跡を継ぐことはなかった。後継の従兄筒井定次は徳川家康の命により切腹した。その後、大和郡山城1万石を家康から与えられた兄定慶は、大坂の陣で豊臣軍に敗れ逃亡、その後福住で切腹した。慶之も奈良で切腹した。 だが、徳川家康に仕えていた順斎は福住に領地を与えられて、家名を存続させた。その子孫は旗本になり、幕末まで栄えた。日露和親条約の交渉を行った筒井政憲は末裔である。.
筒井順慶
井 順慶(つつい じゅんけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。得度して順慶と称する前は、室町幕府13代将軍・足利義藤(後の義輝)の偏諱により藤勝(ふじかつ)、藤政(ふじまさ)と名乗っていた。大和筒井城主、後に大和郡山城主。事績については『多聞院日記』に詳らかに記述されている。.
筒井氏
井氏(つついし)は、大和の戦国大名。大和国添下郡(明治30年以降は生駒郡)筒井から起こったと伝える。.
箸尾高春
尾 高春(はしお たかはる)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。.
篠山藩
再建された篠山城篠山藩(ささやまはん)は、丹波国(現在の兵庫県篠山市北新町城内)に存在した藩。藩庁は篠山城。.
節用集
集(せつようしゅう)は、室町時代から昭和初期にかけて出版された日本の用字集・国語辞典の一種。「せっちょうしゅう」とも。漢字熟語を多数収録して読み仮名をつける形式をとっている。.
細川幽斎
細川 幽斎(ほそかわ ゆうさい)/ 細川 藤孝(ほそかわ ふじたか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。歌人。幽斎は雅号。法名を玄旨という。 初め室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は15代将軍・足利義昭の擁立に尽力するが、後に織田信長に従い、長岡 藤孝(ながおか ふじたか)を名乗って丹後宮津11万石の大名となった。本能寺の変の後、主君・信長の死に殉じて剃髪し、家督を忠興に譲るが、その後も豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川家の礎となった。また、二条流の歌道伝承者・三条西実枝から古今伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもあった。.
紀今守
紀 今守(き の いまもり、生年不詳 - 貞観14年3月29日(872年5月10日))は、平安時代中期の貴族。鍼博士・紀今人または常陸守・紀真人の子。子に数雄がいる。官位は正四位下・播磨権守。.
紀飯麻呂
紀 飯麻呂(き の いいまろ、持統天皇4年(690年)頃 - 天平宝字6年7月19日(762年8月13日))は、奈良時代の公卿。御史大夫・紀大人の孫で、式部大輔・紀古麻呂の長男。官位は従三位・参議。勲位は勲十二等。.
紀阿閉麻呂
紀 阿閉麻呂(き の あへまろ、生年不詳 - 天武天皇3年2月28日(674年4月9日))は、日本の飛鳥時代の人物。姓(カバネ)は臣。系譜は明らかでないが、倭国守・紀麻呂岐の子とする系図がある。冠位は贈大紫。 672年の壬申の乱では大海人皇子(天武天皇)に従い、東道将軍として大和方面への増援軍を率いた。.
紀長江
紀 長江(き の ながえ、生没年不詳)は、平安時代前期の貴族。参議・紀広浜の子。官位は従四位上・大宰大弐。.
紀末成
紀 末成(き の すえなり、天応元年(781年) - 天長2年12月4日(826年1月15日))は、平安時代初期の貴族。大納言・紀古佐美の九男。官位は従四位上・越前守、贈正四位上。.
総社
備中国総社宮(岡山県総社市)創祀当時に備中国にあった神社計304社を合祀する。 総社、惣社(そうじゃ、そうしゃ、すべやしろ)とは、日本で、特定地域内の神社の祭神を集めて祀った(.
織田尚長
織田 尚長(おだ なおなが、慶長元年(1596年)- 寛永14年11月3日(1637年12月19日))は、大和柳本藩の初代藩主。尚長流織田家初代。 織田信長の弟・織田長益の五男。正室はなし(一説には持明院氏ともいう)。子は織田長種(長男)、娘(坊城俊完室)、娘(神尾元珍室)、娘(甘露寺経長室)、娘(蜷川親房正室)の1男4女。官位は従五位下武蔵守、越後守、大和守。.
織田久長
織田 久長(おだ ひさなが、生没年不詳)は、室町時代の武将。父は織田勝久または織田常松・織田常竹。兄弟に織田敏貞、織田敏仁、織田常丈、織田教長?、織田郷広?、織田良信?。正室は朝倉教景女。子に織田敏定、織田常寛、織田達広。養子に織田敏仁。官位は従五位下大和守、近江守、兵庫助、通称は弾正左衛門。法名は常祐。清洲三奉行の1つ藤左衛門家(小田井織田氏)の祖とされる。尾張楽田城主。 横山住雄によると、朝倉教景の娘に「織田弾正忠久長室」とあり、「弾正忠」の官位が見えることから、織田良信の父であるというが、現時点では「弾正忠久長」による発給文書がないため推測の域を出ない。 文安5年(1448年)、『妙興寺文書』の「天祥庵規式案」によると条文に「織田兵庫助久長」とある。 応仁2年(1468年)2月28日、3月27日の「引付記録」に「織田大和守久長」とある。 永正元年(1504年)に尾張丹羽郡に楽田城を築城し、居城としたとされる。また「織田宝岩祐居士」の肖像画は織田久長とも。.
織田信及
織田 信及(おだ のぶひろ(のぶつぐ)、天保14年(1843年) - 明治22年(1889年)8月2日)は、日本の華族。大和柳本藩の第13代(最後)の藩主。尚長流織田家13代。 第11代藩主・織田信陽の十男。正室は片桐貞信の八女謙子。子は長男信愛、次男織田秀実など3男2女。通称は元丸、修理。初名は長依。官位は従五位下大和守。.
織田信友
織田 信友(おだ のぶとも)は戦国時代の武将。尾張下四郡の守護代。大和守として知られる織田達勝の後継者である。実父は織田達広(たつひろ、又はみちひろ、織田因幡守)とされるが不明。一説に伯父とされる織田敏定が養父になったという(『寛政重修諸家譜』)。諱は広信(ひろのぶ、初名か)、また信豊(のぶとよ)とも。通称は彦五郎。尾張清洲城城主。.
織田信忠
織田 信忠(おだ のぶただ)は、戦国時代~安土桃山時代の武将・大名。織田信長から生前に家督を譲られ織田家当主となったが、本能寺の変で自刃した。岐阜城主。.
織田信長
織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.
織田信陽
織田 信陽(おだ のぶあき(のぶあきら)、寛政7年6月29日(1795年8月13日) - 安政4年8月25日(1857年10月12日))は、大和柳本藩の第11代藩主。尚長流織田家11代。 第10代藩主・織田秀綿の七男。母は間部詮央の娘。正室は池田定常の八女鎮子(のち離婚)。子は長女(小笠原信学正室)、織田信宝(三男)、織田信成(九男)、織田信及(十男、信成養子)、己酉子(七女、織田長猷正室)、娘(谷衛昉継室)ら11男9女。初名は秀員、秀美、秀陽。通称は芳次郎。官位は従五位下大和守、越前守、安芸守。.
織田秀綿
織田 秀綿(おだ ひでつら、宝暦6年2月28日(1756年3月28日) - 文化3年9月20日(1806年10月31日))は、大和柳本藩の第10代藩主。尚長流織田家10代。 第8代藩主織田秀賢の三男。正室は鳥居忠意の九女虎子(のち離婚)。継室は間部詮央の長女菊子。子は織田秀便(次男)、日向正好(三男、日向正肥養子)、溝口秀久(六男)、織田信陽(七男)、娘(田中玄恵室)ら8男8女。幼名は富十郎。官位は従五位下筑前守、大和守。.
織田達定
織田 達定(おだ たつさだ/みちさだ、生年不詳 ‐ 永正10年(1513年)は戦国時代の武将。通称は五郎。官位は大和守。尾張下四郡守護代、清洲城主。父は織田寛定。養子に織田達勝。 継承時期については不明であるが、先代(叔父とされる)織田寛村の名が文献から途絶え、文亀3年(1503年)、清洲に勢力を持つ守護代として妙興寺に政札を出していることから、この頃に「大和守家」(清洲織田氏)を継いだと思われる。 また一説に嫡流「伊勢守家」(岩倉織田氏)の当主にもなった説もある。 初名については不明だが、後に尾張守護斯波義寛の跡を継いだその子斯波義達の一字「達」の偏諱を受け、達定と名乗った推定される。文明14年(1482年)、斯波義寛に従軍し、近江へ出陣したという。 永正10年(1513年)、義寛の跡を継いだ守護斯波義達に対して反乱を起こすが敗れて自害する(遠江遠征を巡って対立があったといわれている)。達定に代わり、一説に弟でその養子とされる達勝が新たな守護代となる。没年月日について『定光寺年代記』では4月14日、『東寺過去帳』には5月5日とあり、諸説ある。.
織田達勝
織田 達勝(おだ たつかつ/みちかつ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。室町幕府管領斯波氏の家臣。尾張下四郡の守護代。官位は大和守『寛政重修諸家譜』。『信長公記』によると父は織田寛定(織田勝秀とも)。尾張清洲城主。子または養子に織田信友(彦五郎)。娘は織田信秀正室(後に離縁される)。.
織田敏定
織田 敏定(おだ としさだ)は、戦国時代の武将。尾張下四郡の守護代。室町幕府の管領斯波氏の家臣。清洲織田氏(織田大和守家)の当主。清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」の織田信定(織田信長の祖父)の父とする系図もあるが仮冒の可能性も指摘されており、真偽は不明。.
置始菟
置始 菟(おきそめ の うさぎ、生没年不詳)は、日本の飛鳥時代の人物。名は宇佐伎とも書く。姓は連。典鑰・置始大伯の子とする系図がある。冠位は贈小錦上。 672年の壬申の乱では大海人皇子(天武天皇)側について大和方面への増援軍の指揮官の一人になり、騎兵を率い二度にわたって味方の危機を救った。.
美濃国
美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.
生駒郡
奈良県生駒郡の範囲(1.平群町 2.三郷町 3.斑鳩町 4.安堵町 水色:後に他郡から編入した区域) 生駒郡(いこまぐん)は、奈良県の郡。 以下の4町を含む。.
田原本藩
原本藩(たわらもとはん)は、大和国十市郡田原本(現在の奈良県磯城郡田原本町田原本)の田原本陣屋に藩庁を置いた藩。ただし、正式に藩(大名の所領)であったのは明治維新期のごく短期間であり、江戸時代を通じては交代寄合(参勤交代を行う格式の旗本)平野家の知行地であった。平野氏は鎌倉幕府の執権北条氏の庶流の子孫という。.
田沼意知
沼 意知(たぬま おきとも、1749年(寛延2年) - 1784年5月20日(天明4年4月2日))は、江戸幕府の若年寄。老中を務めた遠江国相良藩主田沼意次の嫡男。母は黒沢定紀の娘。正室は松井松平康福の娘。子に田沼意明(長男)、田沼意壱(次男)、田沼意信(四男)。官位は従五位下、大和守、播磨守、山城守。.
田沼意次
沼 意次(たぬま おきつぐ)は、江戸時代中期の旗本、のち大名、江戸幕府老中。遠江相良藩の初代藩主である。相良藩田沼家初代。.
畠山義就
山 義就(はたけやま よしひろ/よしなり)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名である。河内・紀伊・山城・越中守護。足利氏(足利将軍家)の一門にて室町幕府の三管領家の1つである畠山氏出身。父は管領畠山持国、母は側室。幼名は次郎、初名は義夏(よしなつ)。子に修羅、義豊(基家)。猶子に政国。 家督相続を巡って、従兄弟の弥三郎政久・政長一派と対立、応仁の乱を引き起こす。.
畠山氏
山氏(はたけやまし/はたけやまうじ)は、武蔵国を本貫地とする武家の一族。主に桓武平氏系と清和源氏系の2家系があるが、両者は間接的な血縁関係である(後述)。読みには他に「はたやま」もある。 室町時代には畠山金吾家が大和宇智郡・河内・紀伊(管領就任時には山城も)などの畿内およびその周辺国に該当する重要な地域を守護として治め、また幕府の管領として国の政務を執った。しかし、家督争いにより、総州家と尾州家に分かれて、応仁の乱勃発の一因となり、その後も激しく争い続けた。 また、北陸の越中の守護も兼ね、分家は能登の守護を代々世襲する。著名な末裔として実業家の畠山一清がいる。.
畿内
畿内(きない、きだい、うちつくに)とは、.
直江兼続
江 兼続(なおえ かねつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。米沢藩(主君 上杉景勝)の家老。兜は「錆地塗六十二間筋兜」 立物は「愛字に端雲の立物」。.
直江景綱
江 景綱(なおえ かげつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。越後国の守護代・戦国大名の長尾氏(上杉氏)の家臣。山東郡(三島郡)与板城城主。長尾為景・晴景・景虎(後の上杉謙信)の3代にわたって仕えた宿老で、奉行職を務め主に内政・外交面で活躍した。また七手組大将の一人として軍事面で活躍することもあった。.
白河藩
白河藩(しらかわはん)は、江戸時代に陸奥国白河郡白河(現在の福島県白河市)周辺を知行した藩。藩庁は白河城。支藩として、一時期存在した白河新田藩がある。.
芝村藩
芝村藩(しばむらはん)は、大和国式上郡芝村(現在の奈良県桜井市芝)に存在した藩。もとは戒重村(現在の奈良県桜井市戒重)に芝村陣屋を構えていたため、戒重藩(かいじゅうはん)とも呼ばれるが、第7代藩主・織田輔宜の代に移転した。.
芝村陣屋
芝村陣屋(しばむらじんや)は奈良県桜井市大字芝村(桜井市芝、大和国式上郡)にあったが、当初は戒重(かいじゅう)に陣屋を構えた。.
芳野監
芳野監(よしののげん)は、8世紀の日本で吉野地方に設けられた特別な地方行政区分、機関である。畿内に含まれる。領域は現在の奈良県南部にあたる。.
鎌倉時代
伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).
遠山氏
遠山氏(とおやまし)は、日本の氏族。美濃国恵那郡(現・岐阜県恵那市)によった利仁流加藤氏系が著名である。.
遠山景任
遠山 景任(とおやま かげとう)は、戦国時代の武将・大名。岩村遠山氏当主。美濃国恵那郡現・岐阜県恵那市岩村町。岩村城主。父は遠山景前。妻は織田信長の叔母(おつやの方)。.
遠国奉行
遠国奉行(おんごくぶぎょう)は、江戸幕府の役職の一つ。江戸以外の幕府直轄領(御料(幕領・天領))のうち重要な場所に置かれ、その土地の政務をとりあつかった奉行。役方に分類される。遠国奉行首座は長崎奉行。.
遠江国
遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。.
菰野藩
菰野藩(こものはん)は、伊勢国三重郡(現在の三重県三重郡菰野町菰野)に存在した藩。.
青山幸道
青山 幸道(あおやま よしみち)は、江戸時代中期の大名。丹後宮津藩2代藩主、美濃郡上藩初代藩主。郡上藩青山家5代。.
飫肥藩
飫肥藩(おびはん)は、日向国那珂郡と宮崎郡の一部(現在の宮崎県日南市の全域および宮崎市南部)を支配した藩。藩庁は飫肥城。藩主は伊東氏。家格は外様大名である。なお藩主家の日向伊東氏は備中国岡田藩主家の備中伊東氏と同族である。.
飛地
飛地(とびち、飛び地)とは、一つの国の領土や行政区画、町会等の内、地理的に分離している一部分である。土地の一部が「他所に飛んでいる」と見られることからこう呼ばれる。 オエクシ)が飛地にあたる。.
飛騨国
飛騨国(ひだのくに、)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.
駿河国
駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
角川日本地名大辞典
『角川日本地名大辞典』(かどかわにほんちめいだいじてん)は、角川書店の出版による日本の地名辞典である。 著者は「角川日本地名大辞典」編纂委員会で、委員長を務めた竹内理三は本書を制作する目的として「民族遺産としての地名を将来に伝えること」、現代の地名を収録したことについては「現代の社会生活上の必要を満たし、地域の現状を歴史として後世に伝えること」としている(それぞれ本書冒頭の「編纂のことば」より引用)。.
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高取城
取城古絵図/浅野文庫所蔵 高取城(たかとりじょう)は、奈良県高市郡高取町高取にあった日本の城である。別名、高取山城。江戸時代は高取藩の藩庁であった。国の史跡に指定されている。.
高取町
取町(たかとりちょう)は、奈良県の中部に位置する町。.
高取藩
取藩(たかとりはん)は、大和国(現在の奈良県高市郡高取町)に存在した藩。藩庁は高取城。.
高富藩
富藩(たかとみはん)は、美濃国(現在の岐阜県山県市高富)に存在した藩。藩庁は高富陣屋に置かれた。.
高師直
師直(こう の もろなお)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。足利尊氏時代に執事をつとめた。本姓は高階氏だが、一般的には名字である「高」と、諱である「師直」の間に「の」を入れて呼ばれる。.
高市郡
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高遠藩
遠藩(たかとおはん)は、信濃国南部(現在の長野県伊那市高遠町)に存在した藩。居城は高遠城。.
高重茂
重茂(こう の しげもち、生没年不詳)は、南北朝時代の武将、守護大名。関東執事、武蔵守護。本姓は高階氏。高師重の子(異説として高師茂の子とも)。高師直と高師泰の弟。官位は駿河守、大和権守。 兄達と共に足利尊氏に仕え、建武2年(1335年)から始まる新田義貞との戦いにおいて武功を挙げた。その後も尊氏の九州落ちにも従い、多々良浜の戦いで菊池武敏とも戦い、武功を挙げている。この時のエピソードとして、尊氏は「敗れた菊池軍の捕虜が信用できない」として一部を殺害しようとしたが、重茂は「寛大な処置を示すためにも、信用して殺害をやめるべきである」と尊氏に進言して、多くの捕虜を救ったと言われている。 その後も京都における戦いなどで武功を挙げたため、延元2年/建武4年(1337年)に武蔵守護に任じられ、延元3年/暦応元年(1338年)にも北畠顕家との戦いで功績を挙げた。その後は尊氏の天龍寺建立に尽力した。また、尊氏の弟直義の与力となって所領訴訟に関する奉行などを務めている。興国4年/康永2年(1343年)に駿河守に叙任、翌年から従兄弟の高師冬に代わって関東執事を務めている。 観応の擾乱での重茂の詳しい動きは不明であるが、重茂は直義と親しい仲にあったことから、直義に与していたのではないかと推測される。兄や師冬を始め高氏一族の多くがこの乱で殺害されているのに対し重茂は生き延びており、以後は鎌倉公方足利基氏の家臣として仕えているからである。 正平23年/応安元年(1368年)、武蔵で宇都宮氏らが首謀した鎌倉府への反乱が起こった際に、重茂もこの反乱に与していたと言われている。反乱は9月に鎮圧されたが、この時に重茂は死亡したと言われている。生存説もあるが、この反乱の後の重茂の消息は不明である。.
豊後国
豊後国(ぶんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
豊前王
豊前王(とよさきおう、延暦24年(805年) - 貞観7年2月2日(865年3月3日))は、平安時代初期から前期にかけての皇族。知太政官事・舎人親王の曾孫にあたる木工頭・栄井王の子。官位は従四位上・伊予守。.
豊臣秀吉
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.
豊臣秀保
豊臣 秀保(とよとみ ひでやす/とよとみ の ひでやす)/羽柴 秀保(はしば ひでやす)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣秀吉の姉・瑞龍院日秀(とも)の子で、後に豊臣秀長の婿養子となる。大和国の国主で大和大納言と呼ばれた秀長を継ぎ、官位が中納言であったことから、大和中納言(やまと ちゅうなごん)の通称で呼ばれた。.
豊臣秀頼
豊臣 秀頼(とよとみ ひでより / とよとみ の ひでより、)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。太閤・豊臣秀吉の三男。 秀吉の側室であった茶々(淀殿)の第二子。子は側室・和期の方(名は伊茶。渡辺氏)との間に国松と、小石の方(おいわのかた。成田氏)との間に天秀尼(彼女の生母については異説がある)。位階は正二位、官職は右大臣。幼名は拾丸(ひろいまる)。なお、豊臣とは名字ではなく、本姓である。乳母は宮内卿局・右京大夫局(一説に両者は同一人物共)・正栄尼が伝わる。また、淀殿の乳母である大蔵卿局も養育係を務めた。.
豊臣秀長
豊臣 秀長(とよとみ ひでなが / とよとみ の ひでなが)または羽柴 秀長(はしば ひでなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 豊臣秀吉の異父弟(同父弟説もある)。豊臣政権において内外の政務および軍事面で活躍を見せ、天下統一に貢献した。 最終的には大和・紀伊・和泉の3ヶ国に河内国の一部を加え、約110余万石の大名となるに至る。また官位も従二位権大納言に栄進したことから、大和大納言と尊称された。秀吉は秀長を隣に配して重用し、また秀長も秀吉に異を唱え制御できる人物であった。短期間で成長を遂げ、徳川家康や伊達政宗など外様大名を抱える豊臣政権における調整役であり、政権の安定には欠かせぬ貴重な人物だった。.
貞観 (日本)
貞観(じょうがん)は、日本の元号の一つ。天安の後、元慶の前。859年から877年までの期間を指す。この時代の天皇は清和天皇、陽成天皇。.
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鳥羽藩
鳥羽藩(とばはん)は、志摩国答志郡(現在の三重県鳥羽市鳥羽)に存在した藩。藩庁は鳥羽城に置かれた。.
越後国
越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.
越前勝山藩
越前勝山藩(えちぜんかつやまはん)は、越前国勝山周辺を支配した藩。居城は勝山城。.
越前国
越前国(えちぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.
越智家栄
越智 家栄(おち いえひで)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将。大和の国人越智氏当主。大和高取城主。越智維通(家経?)の子。子に家令、娘(古市澄胤室)。幼名は春童丸。官位は弾正忠、伊賀守、修理大夫、刑部少輔。.
越智家教
越智 家教(おち いえのり)は、戦国時代の武将。大和国の国人・越智氏当主。 永正4年(1507年)、父・越智家令が赤沢朝経の大和侵攻の最中に死去したとされ、跡を継いだ。同年、永正の錯乱で細川政元が暗殺、赤沢朝経も丹後国で戦死した。 しかし、翌年に前将軍足利義稙が大内義興の後ろ盾で上洛し、それに伴い大和に影響力を持つ細川氏と畠山氏も再び2派に分かれ、大和国人一揆も崩壊、家教と古市澄胤は足利義澄・細川澄元・畠山義英に、筒井順賢、十市遠治らは足利義稙・細川高国・畠山尚順についた。 永正13年(1516年)、筒井党に勝利するも翌14年(1517年)に死去。 Category:戦国武将 Category:大和国の人物 Category:1489年生 Category:1517年没.
軍務官
軍務官(ぐんむかん)とは、新政府の軍事防衛を司った機関である。1869年(明治2年)、兵部省に改組された。この項では軍務官に至る新政府初期の軍事防衛担当部門の変遷を含めて記述する。.
転封
転封(てんぽう)は、知行地、所領を別の場所に移すことである。国替(くにがえ)、移封(いほう)とほぼ同義である。 史料上は「国替」、「所替」(ところがえ)、「得替」(とくたい)等が使用された。.
黒田直和
黒田 直和(くろだ なおやす)は、上総久留里藩の第8代藩主。久留里藩黒田家9代。.
黒田直純
黒田 直純(くろだ なおずみ)は、上野沼田藩の第2代藩主、のちに上総久留里藩の初代藩主。久留里藩黒田家2代。 宝永2年(1705年)4月23日、本多正矩の次男として江戸で生まれる。 沼田藩の先代藩主黒田直邦の婿養子だった直基が早世したため、その未亡人(直邦の娘)と結婚して享保6年(1721年)12月に新たな養嗣子となる。 享保20年(1735年)の直邦の死去により家督を継いだ。 寛保2年(1742年)7月28日、沼田から久留里へ移封された。久留里城再建のため、5千両を給わる。 翌年6月に大坂城加番を命じられる。 寛延2年(1749年)12月18日、奏者番に任じられた。 宝暦13年(1763年)12月18日、従四位下に昇進する。同日、奏者番の職を解かれる。 安永4年(1775年)閏12月27日に死去した。享年71。 跡を先代の直邦の実子で養子の直亨が継いだ。 Category:本多氏 なおすみ Category:沼田藩主 Category:久留里藩主 Category:1705年生 Category:1776年没.
黒田直英
黒田 直英(くろだ なおひで)は、上総久留里藩の第3代藩主。久留里藩黒田家4代。 宝暦8年(1758年)4月25日、第2代藩主・黒田直亨の長男として江戸石原の下屋敷で生まれる。 はじめ父は初代藩主・直純の次男の直弘を養子として迎えていたが、安永5年(1776年)9月に直弘が病気を理由に家督相続を辞退したため、代わって世子に指名された。 安永6年(1777年)12月、従五位下、大和守に叙位・任官する。天明4年(1784年)、父の死去により家督を継ぐ。 藩財政再建に尽力するが、天明5年(1785年)に大坂加番に任じられて大坂に赴任していた最中の天明6年(1786年)7月18日、大坂城において死去した。享年29。跡を次男の直温が継いだ。 なおひて Category:久留里藩主 Category:譜代大名 Category:1758年生 Category:1786年没.
黒田直温
黒田 直温(くろだ なおあつ)は、上総久留里藩の第4代藩主。久留里藩黒田家5代。 天明4年(1784年)6月28日、第3代藩主・黒田直英の次男として江戸下谷藩邸で生まれる。 天明6年(1786年)の父の死去により家督を継いだ。 寛政11年(1799年)12月、従五位下、大和守に叙位・任官する。 藩政においては藩財政再建に尽力したが、効果を挙げることなく、享和元年(1801年)7月24日に死去した。享年18。嗣子がなく、叔父の直方が養子となって跡を継いだ。 なおあつ category:久留里藩主 category:譜代大名 Category:1784年生 Category:1801年没.
郡山城 (大和国)
郡山城(こおりやまじょう)は、奈良県大和郡山市にあった日本の城。豊臣政権の中初期には秀吉の実弟羽柴秀長の居城となり、その領国であった大和・紀伊・和泉100万石の中心であった。江戸時代には郡山藩の藩庁が置かれた。.
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郡山藩
郡山藩(こおりやまはん)は、大和国に存在した藩。藩庁は郡山城(奈良県大和郡山市)に置かれた。.
郡上藩
郡上藩(ぐじょうはん)は、江戸時代に美濃国(現在の岐阜県郡上市八幡町)に存在し郡上郡の大半と越前国の一部を統治した藩。藩庁は八幡城。八幡藩(はちまんはん)とも。.
能楽師
能楽師(のうがくし)は、職業的に能楽を演じる人。.
興福寺
興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。.
興留藩
興留藩(おきどめはん)は、大和国(現在の奈良県生駒郡斑鳩町興留)に存在した藩。.
蘇我入鹿
蘇我 入鹿(そが の いるか、不詳 - 皇極天皇4年(645年)6月12日)は、飛鳥時代の豪族。 大臣として大和朝廷の有力者であったが、乙巳の変において討たれ、その後蘇我氏が凋落するきっかけとなった。.
蘇我蝦夷
SVGで表示(対応ブラウザのみ) 蘇我 蝦夷(そが の えみし)は、飛鳥時代の政治家、貴族。大臣として権勢を振るうが乙巳の変で自害した。.
関宿藩
関宿藩(せきやどはん)は、下総国(現在の千葉県野田市関宿三軒家)に存在した藩。藩庁は関宿城にあったが、現在の茨城県猿島郡境町にあたる地域をも城下町とした。 利根川と江戸川の分岐点にあたり、利根川水運の要衝であることから、江戸幕府にとっては重要拠点だった。そのため信頼の厚い譜代大名がその藩主に任じられた。.
関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.
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藤原家依
藤原 家依(ふじわら の いえより)は、奈良時代の公卿。藤原北家、左大臣・藤原永手の長男。官位は従三位・参議。.
藤原安親
藤原 安親(ふじわら の やすちか)は、平安時代中期の公卿。藤原北家魚名流、摂津守・藤原中正の三男。一条天皇の大叔父。官位は正三位・参議。.
藤原師氏
藤原 師氏(ふじわら の もろうじ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。関白太政大臣・藤原忠平の四男。邸宅名の桃園第に因んで桃園大納言、あるいは枇杷大納言と称される。.
藤原京
藤原京条坊(拡大してご覧ください) 列柱は実際位置から南30メートルで標示。奥に大極殿跡(樹叢)。 藤原京(ふじわらきょう)は、飛鳥京の西北部、奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城。日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城でもある。平城京に遷都されるまでの日本の首都とされた。 『日本書紀』には新益京持統天皇6年正月12日(692年2月4日)条。読みを「あらましのみやこ」「あらましきょう」「しんやくのみやこ」「しんやくきょう」などとしている。と著されている。藤原京の名は、宮が同じく『日本書紀』で藤原宮と呼ばれていることから飛鳥京と同様に近世になって名づけた学術用語である。本項ではこの藤原宮についても述べる。.
藤原仲成
藤原 仲成(ふじわら の なかなり)は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての公卿。藤原式家、中納言・藤原種継の長男。官位は従四位下・参議。.
藤原園人
藤原 園人(ふじわら の そのひと)は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての公卿。藤原北家、参議・藤原楓麻呂の長男。官位は従二位・右大臣、贈正一位・左大臣。前山科大臣(さきのやましなのおとど)とも称された。.
藤原継業
藤原 継業(ふじわら の つぐなり)は、平安時代初期の公卿。名は嗣業または緒業とも表記する。藤原式家、参議・藤原百川の三男。官位は従三位・伊予権守。淳和天皇の外叔父。.
藤原縄主
藤原 縄主(ふじわら の ただぬし)は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿。藤原式家、参議・藤原蔵下麻呂の長男。藤原薬子の夫。官位は従三位・中納言、贈従二位。.
藤原真楯
藤原 真楯(ふじわら の またて)は、奈良時代の公卿。初名は八束(やつか)。藤原北家の祖・藤原房前の三男。官位は正三位・大納言、贈太政大臣。.
藤原登任
藤原 登任(ふじわら の なりとう、永延元年(987年) - 没年不詳)は、平安時代の貴族。藤原南家真作流、常陸守・藤原師長の子。官位は従四位下・大和守。.
藤原鎌足
中臣 鎌足(なかとみ の かまたり)のち藤原 鎌足(ふじわら の かまたり)は、飛鳥時代の政治家。日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖。 大化の改新の中心人物であり、改新後も中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いた。『藤氏家伝』には「偉雅、風姿特秀」と記されている。字は仲郎。.
藤原親盛 (左衛門尉)
藤原 親盛(ふじわら の ちかもり)は、平安時代末期の武士・歌人。藤原北家長良流。官位は従五位下、左衛門尉、大和守。後藤親盛とも称した。.
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藤原輔公
藤原 輔公(ふじわら の すけきみ)は、平安時代中期の貴族。藤原北家山蔭流、備中守・藤原清通の子。官位は従四位下・右馬頭。 参議・藤原安親の孫。寛仁年間(1017年-1020年)に大和守を務めた。.
藤原長岡
藤原 長岡(ふじわら の ながおか)は、平安時代初期の貴族。藤原北家、右大臣・藤原内麻呂の六男『続日本後紀』嘉祥2年2月6日条。官位は従四位上・大和守。 .
藤原氏雄
藤原 氏雄(ふじわら の うじお)は、平安時代初期の貴族。藤原北家楓麻呂流、右大臣・藤原園人の孫。従五位下・藤原並人の子。官位は正五位下・大和守。.
藤原永貞
藤原 永貞(ふじわら の ながさだ)は、平安時代初期の貴族。藤原北家、大納言・藤原真楯の孫。正六位上・藤原真永の子。官位は従五位上・山城守。.
藤原本雄
藤原 本雄(ふじわら の もとお)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。名は本緒とも記される。藤原式家、左大臣・藤原緒嗣の子。官位は従四位上・大和守。.
藤原春岡
藤原 春岡(ふじわら の はるおか)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。藤原北家魚名流、参議・藤原藤嗣の子。官位は正五位下・大和権守。.
藩の一覧
藩の一覧(はんのいちらん)では、江戸時代から明治時代の初期に日本の各地に存在した藩を地域ごとに一覧する。.
藩庁
藩庁(はんちょう)とは、江戸時代の幕藩体制から明治初期の府藩県制にかけての、藩の役所を表す用語。語としては県の「県庁」等にあたる。 江戸時代の藩政の拠点のことを、明治時代以降に当てた用語である。類義語に藩府(はんぷ)があるが、この語は、江戸時代に藩が江戸に置いた役所をさすことがある。また、明治時代の府藩県三治制下で地方行政の区画として設置された、藩の知藩事が政務を行う役所のこと。 江戸時代の藩の藩庁は、大名の居城や居所のことで、城や屋敷に設置して大名が支配する領内の行政業務を執り行う。城持大名以上の藩は城に、城主格以下の城主格と無城大名の藩は城を構えることが許されなかったことから、領内に屋敷を置いて藩庁とした。こうした無城大名の屋敷のことを俗に陣屋というが、江戸時代では居所や在所と称した。なかには、藩庁を設けない藩もあった。藩庁を中心に栄えた町を陣屋町といい、城の場合は城下町と呼ばれた。.
葛城
葛城(かつらぎ、かづらき)は、奈良盆地の南西部を指す地域の名称。上代からの地名であるが、明確な範囲や境界を示すことは難しく、北の大和国(奈良市近辺)から西端の和歌山市友ケ島までの範囲に「葛木」という漢字をあてる文献も多数あり、古くからの山岳信仰から生まれた名称の色合いも強い。.
葛上郡
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葛下郡
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肥前国
肥前国(ひぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
長尾
長尾(ながお).
酒井忠大
酒井 忠大(さかい ただもと)は、安房勝山藩の第4代藩主。 享保11年(1726年)、第3代藩主・酒井忠篤の長男として江戸で生まれる。元文2年(1737年)の父の死去により家督を継ぐ。寛保3年(1743年)12月、従五位下、大和守に叙任する。 延享3年(1746年)、家臣が若年寄の堀田正陳に対して無礼を働いたとして、幕府より出仕を止められた。同年6月に許され、寛延元年(1748年)11月、大番頭に任命されるが、宝暦2年(1752年)10月に辞任した。宝暦4年(1754年)10月、屋敷の失火を理由に再び幕府より出仕を止められたが、11月に許された。 宝暦6年(1756年)3月24日に死去した。享年31。跡を次男の忠鄰が継いだ。 たたもと Category:安房勝山藩主 Category:1726年生 Category:1756年没.
酒井忠嗣
酒井 忠嗣(さかい ただつぐ)は、安房勝山藩の第7代藩主。 寛政7年(1795年)、第6代藩主・酒井忠和の次男として江戸で生まれる。文化7年(1810年)7月に長兄の忠美(忠貞)が早世し、10月に父も死去したため家督を継いだ。12月には従五位下、大和守に叙任する。 文化13年(1816年)に大坂加番に任じられ、文政2年(1819年)8月に大番頭、弘化5年(1848年)1月には奏者番に任じられるなど、重職を歴任した。 嘉永4年(1851年)9月11日に死去した。享年57。跡を次男の忠一が継いだ。 たたつく Category:安房勝山藩主 Category:1795年生 Category:1851年没.
酒井忠和
酒井 忠和(さかい ただより)は、安房勝山藩の第6代藩主。 安永4年(1775年)、第5代藩主・酒井忠鄰の長男として生まれる。幼名は熊次郎、通称は隼人。寛政3年10月6日、将軍徳川家斉に拝謁する。寛政5年(1793年)5月6日、忠鄰の隠居により家督を継ぐ。同年12月16日、従五位下大和守に叙任する。 前年に死去した父、さらに7月に死去した嫡男の忠美の後を追うように、文化7年(1810年)10月12日に死去した。享年36。跡を次男の忠嗣が継いだ。 たたより Category:安房勝山藩主 Category:1775年生 Category:1810年没.
酒井忠国
酒井 忠国(さかい ただくに)は、安房勝山藩の初代藩主。.
酒井忠美
酒井 忠美(さかい ただよし)は、安房勝山藩の第9代(最後)の藩主。 安政5年(1858年)10月29日、第8代藩主・酒井忠一の長男として生まれる。万延元年(1860年)に父が死去したため、3歳で家督を継いだ。藩内は佐幕派と尊王派に分裂して抗争し、戊辰戦争でも抗争した上で新政府に恭順し、木更津に出兵している。慶応4年(1868年)5月、従五位下、大和守に叙任する。 明治2年(1869年)5月、同名の藩(越前勝山藩)が他にあるため、加知山藩と改名する。6月には版籍奉還により知藩事となるが、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官され、新たに加知山県知事となる。しかし11月の廃県により免職となった。 明治12年(1879年)、嫡男の忠勇に家督を譲って隠居する。大正12年(1923年)3月13日に死去、享年66。なお、明治17年(1884年)に忠勇は子爵となるものの、明治30年(1897年)に子爵の位を返上している。 たたよし Category:安房勝山藩主 Category:幕末の大名 Category:廃止された府県の知事 Category:日本の華族 Category:1858年生 Category:1923年没.
酒井忠鄰
酒井 忠鄰(さかい ただちか)は、安房勝山藩の第5代藩主。.
良岑長松
良岑 長松(よしみね の ながまつ)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。名は良松とも記される。大納言・良岑安世の次男。官位は従四位上・山城権守。.
陸奥国
奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.
陸奥石川氏
石川氏(いしかわし)は、平安時代中期から戦国時代の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流・大和源氏の一門、源頼親の子源頼遠を祖とする。他氏との混同を避けるために陸奥石川氏または奥州石川氏と呼ぶことが多い。仙台藩一門首席。.
柏原藩
柏原藩(かいばらはん)は、丹波国氷上郡柏原(現在の兵庫県丹波市柏原)に存在した藩。藩庁は柏原陣屋に置かれた。 柏原藩織田家旧邸長屋.
柳生藩
柳生藩(やぎゅうはん)は、大和国添上郡柳生郷(現奈良市柳生地区)を治めた藩。石高1万石程度の小藩であったが、藩主家の柳生氏は代々将軍家の剣術指南役として幕閣に重きをなした。藩庁は柳生陣屋。.
柳生氏
柳生氏(やぎゅうし)は、日本の氏族。.
柳本藩
柳本藩(やなぎもとはん)は、大和国式上郡・山辺郡・宇陀郡を領有した藩。藩庁は柳本陣屋(現在の奈良県天理市柳本町黒塚古墳)。なお、藩庁は陣屋であるが、家格は城主格大名であった。.
柳本陣屋
柳本陣屋(やなぎもとじんや)は、大和国式上郡(現 奈良県天理市柳本町)にあった陣屋で、柳本藩の藩庁である。.
東大寺
東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。 金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である。現別当(住職・222世)は狹川普文。 奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。 東大寺は1998年12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。.
東大寺大仏殿の戦い
東大寺大仏殿の戦い(とうだいじだいぶつでんのたたかい)は、永禄10年(1567年)4月18日から10月11日のおよそ半年間にわたり松永久秀、三好義継と三好三人衆、筒井順慶、池田勝正らが大和東大寺周辺で繰り広げた市街戦。松永久秀の居城であった多聞山城の周辺でも戦闘があったため「多聞山城の戦い」とも呼ばれている。.
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松平基知
松平 基知(まつだいら もとちか)は、江戸時代前期から中期の大名。陸奥白河藩の第2代藩主。直基系越前松平家3代。.
松平忠恕 (島原藩主)
松平 忠恕(まつだいら ただひろ)は、江戸時代中期の大名。下野宇都宮藩第2代藩主、のち肥前島原藩初代藩主。島原藩深溝松平家7代。.
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松平典信
松平 典信(まつだいら すけのぶ)は、丹波篠山藩の第2代藩主。丹波亀山藩形原松平家3代。諱の読みは「のりのぶ」ともいわれる。 寛永6年(1629年)2月24日、初代藩主・松平康信の長男として摂津高槻で生まれる。慶安4年(1651年)12月28日、従五位下・大和守に叙位・任官する。明暦元年4月、駿府守に改任され、寛文9年(1669年)9月29日、父の隠居により家督を継いで第2代藩主となった。襲封後、典信は領民の飲料水のため玉水の清泉を復活し、醸酒や灌漑にも使用した。しかし藩主在職わずか3年後の寛文12年(1672年)11月20日に江戸で死去した。享年44。 跡を次男・信利が継いだ。 すけのふ Category:篠山藩主 Category:1629年生 Category:1673年没.
松平典則
松平 典則(まつだいら つねのり)は、武蔵川越藩の第5代藩主。直基系越前松平家9代。.
松平直基
松平 直基(まつだいら なおもと)は、江戸時代前期の大名。直基系越前松平家初代。.
松平直侯
松平 直侯(まつだいら なおよし)は、武蔵川越藩の第6代藩主。直基系越前松平家10代。.
松平直克
松平 直克(まつだいら なおかつ)は、幕末期の大名。武蔵川越藩の第7代藩主で、江戸幕府の政事総裁職を務めた。のちに所領の上野国前橋に前橋城を修復して移り、前橋藩主となっている。直基系越前松平家11代。.
松平直矩
松平 直矩(まつだいら なおのり)は、江戸時代前期の大名。直基系越前松平家2代。.
松平直恒
松平 直恒(まつだいら なおつね)は、武蔵川越藩の第2代藩主。直基系越前松平家6代。.
松平直温 (川越藩主)
松平 直温(まつだいら なおのぶ)は、武蔵川越藩の第3代藩主。直基系越前松平家7代。.
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松平朝矩
松平 朝矩(まつだいら とものり)は、江戸時代中期の大名。はじめ播磨姫路藩主、ついで上野前橋藩主、さらに武蔵川越藩主。直基系越前松平家5代。松平明矩の長男。.
松平明矩
松平 明矩(まつだいら あきのり)は、江戸時代中期の大名。直基系越前松平家4代。.
松平斉典
松平 斉典(まつだいら なりつね)は、武蔵国川越藩の第4代藩主。直基系越前松平家8代。第2代藩主松平直恒の四男。.
松永久秀
松永 久秀(まつなが ひさひで)は、戦国時代の武将。大和国の戦国大名。官位を合わせた松永 弾正(まつなが だんじょう)の名で知られる。弟に長頼、嫡男に久通、養子に永種(貞徳の父)。.
村上藩
村上藩(むらかみはん)は、越後国に存在した藩。藩庁は村上城(現在の新潟県村上市)。 豊臣政権下の1598年に村上氏が当地に入ったが1618年に改易。外様大名の堀氏3代を経て、譜代・親藩の大名家が次々に入れ替わった。1720年に内藤氏が入り、以後廃藩置県まで9代150年にわたって内藤氏が5万石の藩を統治した。.
桜井市
桜井市(さくらいし)は、奈良県中部、中和地域に位置する市。 縄文時代や弥生時代の土器の欠片が一般の畑などでも見られるなど歴史の深さを窺わせる。また、弥生時代や古墳時代の前方後円墳などの古墳が多く今日まで残る。そのためヤマト王権の中心的な地域であったと考えられ、その前期は三輪王権とも言われるが、今日の三輪地域を指しているとされる。 日本で最も古い神社の一つともいわれる三輪の大神神社、初瀬の長谷寺、多武峰の談山神社、等弥神社などの由緒ある社寺も数多く見られる。宗教的にも歴史が深く古代信仰の形体を知る上でも重要な地区である。また、土舞台(現桜井公園)は日本芸能発祥の地と言われ、“万葉のあけぼのの地”などと呼称されることもある。.
橿原市
橿原市(かしはらし)は、奈良県中部の市である。総人口約124,000人と奈良市に次ぐ県下第二の都市でもある。市名は神武天皇が磐余(いわれ)の地において磯城の首長の兄磯城(えしき)を破り、饒速日命も天津瑞を献じて仕えることとなり、神武天皇即位紀元辛酉の年の春正月の庚辰の朔日に畝傍山東南「橿原の宮」に即位し建国したことに由来する。市章(シンボルマーク)の金鵄は、神武天皇の弓弭(ゆはず・弓の端)に止まって光り輝き、長髄彦の兵を追い払った鳶から意匠された。.
櫛羅藩
櫛羅藩(くじらはん)は、幕末に大和国(現在の奈良県御所市櫛羅)に存在した藩。藩庁は櫛羅陣屋。大和新庄藩の後身であり、領地は同じで、同じく永井氏が治めた。.
正躬王
正躬王(まさみおう、延暦18年(799年) - 貞観5年5月1日(863年5月22日))は、平安時代初期から前期にかけての皇族。桓武天皇の孫で、二品・万多親王の七男。官位は正四位下・参議。.
水野忠義
水野 忠義(みずの ただよし)は、駿河沼津藩の第3代藩主。沼津藩水野家10代。 寛政4年(1792年)9月26日、第2代藩主・水野忠成の三男として江戸浜町屋敷で生まれる。文化5年(1808年)12月11日に従四位下、大和守に叙任する。天保5年(1834年)の父の死去により家督を継ぎ、出羽守に転任した。 藩政においては家臣団統制に苦慮し、尽力した。幕命により天保6年(1835年)8月、江戸城普請に1万両、西の丸修理費用に1万両の提出を命じられるなど、苦しかった藩財政はさらに苦しくなった。 天保13年(1842年)1月19日に江戸外桜田屋敷で死去した。享年51。跡を次男の忠武が継いだ。 Category:沼津藩主 たたよし Category:1792年生 Category:1842年没.
水野忠武
水野 忠武(みずの ただたけ)は、駿河沼津藩の第4代藩主。沼津藩水野家11代。 文政7年(1824年)7月12日、第3代藩主水野忠義の次男として江戸浜町屋敷で生まれる。文政8年(1825年)に兄の惣兵衛が早世したため、天保5年(1834年)6月6日に世子として指名された。天保10年(1839年)12月18日に従五位下、大和守に叙任する。天保13年(1842年)、父の死去により家督を継ぎ、出羽守に転任する。 おりしも幕府では水野忠邦による天保の改革が始まり、祖父の水野忠成による幕政を否定する忠邦による粛清として、三河における新田開発など、様々な手伝い普請を幕命によって命じられ、藩財政難に陥った。 天保15年(1844年)7月10日に江戸外桜田屋敷で死去した。享年21。跡を弟で養子の忠良が継いだ。 Category:沼津藩主 たたたけ Category:1824年生 Category:1844年没.
水野忠成
水野 忠成(みずの ただあきら)は、江戸時代後期の老中、駿河国沼津藩第2代藩主。沼津藩水野家9代。通常は老中在籍時の出羽守の官名で呼ばれることが多い。老中在職期間は文化14年(1817年) - 天保5年(1834年)。.
水野元綱
水野 元綱(みずの もとつな、慶長6年(1601年) - 寛文5年5月16日(1665年6月29日))は、三河新城藩の第2代藩主。上野安中藩の初代藩主。新城藩初代藩主・水野分長の長男。母は山口重勝の娘。正室は中川秀成の娘。子は水野元倫(長男)、水野元知(次男)、娘(那須資国室)。官位は従五位下、大和守、備後守。新城城主。 慶長6年(1601年)、尾張に生まれる。慶長12年(1607年)から徳川秀忠に仕え、慶長17年(1612年)に大和守に任ぜられた。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では水野忠元に属して出陣し、夏の陣では首級を挙げた。元和2年(1616年)に近江伊香郡内で1000石を与えられた。 元和6年(1620年)に父・分長が徳川頼房に付けられて常陸水戸藩に移ると、三河新城藩1万石を相続する(この際に近江の領地は収公された)。この際に備後守に改めた。その後、大番頭・奏者番などを務め、寛永10年(1633年)に4000石を加増され1万4000石となる。慶安元年(1648年)に上野安中2万石に移封された。明暦3年(1657年)に琉球の使いが日光山に行く際にそこに赴く。 寛文4年(1664年)10月26日、次男の元知に家督を譲って隠居し、寛文5年(1665年)5月16日に死去した。享年65。法名は心源道要自雲院。墓所は東京都新宿区新宿の天龍寺。 もとつな Category:安中藩主 Category:三河国の藩主 Category:1601年生 Category:1665年没.
池田勝正
池田 勝正(いけだ かつまさ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将・大名。摂津池田氏当主、池田城主。.
沼津藩
沼津藩(ぬまづはん)は、江戸時代の藩の一つ。駿河国駿東郡(現:静岡県沼津市大手町)の沼津城を居城とした。.
法華寺
南門 法華寺(ほっけじ)は、奈良県奈良市法華寺町にある仏教寺院。奈良時代には日本の総国分尼寺とされた。山号はなし。本尊は十一面観音、開基は光明皇后である。元は真言律宗に属したが、平成11年(1999年)に同宗を離脱し、光明宗と称する。.
津藩
津藩(つはん)は伊勢安濃郡安濃津(現在の三重県津市)に置かれた藩。安濃津藩(あのつはん)と呼ばれることもある。藩庁は安濃津城(津城)。石高は伊勢・伊賀2国を合わせた22万石(大坂の陣後、32万3,000石に加増で大和国などにも飛び地領が存在)。.
添上郡
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添下郡
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清原岑成
清原 岑成(きよはら の みねなり)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。当初美能王次いで岑成王を称するが、臣籍降下して清原真人姓を賜与された。舎人親王の玄孫。筑後守・弟村王の子。.
清原秋雄
清原 秋雄(きよはら の あきお、弘仁3年(812年) - 貞観16年4月24日(874年5月13日))は、平安時代前期の貴族。右大臣・清原夏野の四男。官位は従四位上・右兵衛督。.
清原長田
清原 長田(きよはら の ながた、生没年不詳)は、平安時代初期から前期にかけての皇族・貴族。当初長田王を名乗るが、清原真人姓を与えられ臣籍降下。知太政官事・舎人親王の後裔(曾孫)か。官位は従四位上・加賀守。.
清洲城
五条川の桜 清洲城と桜 清洲城(きよすじょう)は、尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった日本の城。尾張国の中心部に位置し、一時期尾張国の守護所として栄え、京鎌倉往還と伊勢街道が合流し中山道にも連絡する交通の要所として重視された。.
清滝河根
清滝 河根(きよたき の かわね、生没年不詳)は、平安時代初期の貴族。姓は朝臣。官位は従五位上・大和守。.
源光行
源 光行(みなもと の みつゆき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての政治家・文学者・歌人。源氏物語の研究者であり、河内方の創始者に位置付けられる。.
源頼定
源 頼定(みなもと の よりさだ、貞元2年(977年) - 寛仁4年6月11日(1020年7月4日))は、平安時代中期の公卿。村上源氏。村上天皇の第四皇子・一品式部卿為平親王の次男。官位は正三位・参議。.
源頼親
源 頼親(みなもと の よりちか)は、平安時代中期の武将。源満仲の次男。大和源氏の祖。河内源氏の祖・源頼信とは同母兄弟にあたる。.
源重時
源 重時(みなもと の しげとき)は、平安時代後期の武将。佐渡守源重宗の三男。.
滋野貞主
滋野 貞主(しげの の さだぬし、延暦4年(785年) - 仁寿2年2月8日(852年3月2日))は、平安時代初期の公卿。姓は宿禰のち朝臣。尾張守・滋野家訳の子。官位は正四位下・参議。.
木下俊泰
木下 俊泰(きのした としやす、享保11年(1726年)- 明和5年7月29日(1768年9月9日))は、豊後日出藩の第9代藩主。 第4代藩主・木下俊量の十男。兄に俊在(第5代藩主)、俊監(第7代藩主)、俊能(第8代藩主)がいる。正室は沼田藩主・土岐頼稔の娘。官位は従五位下、大和守。幼名は千吉。内蔵助。 寛延元年(1748年)、先代藩主で兄の俊能が死去したため、その跡を継いだ。公家の接待役を務めたという。俊量の男児2人はいずれも早世していたため、同族の備中足守藩主・木下利忠の娘を養女とし、これに宇都宮藩主・戸田忠余の息子俊胤を結婚させ養嗣子とした。 明和5年(1768年)7月29日、43歳で死去し、跡を俊胤が継いだ。法号は霊詳院。墓所は東京都港区高輪の泉岳寺。 としやす *09 Category:1726年生 Category:1768年没.
木下俊愿
木下 俊愿(きのした としまさ、天保8年4月27日(1837年5月31日)- 明治13年(1880年)4月15日)は、豊後日出藩の第16代(最後)の藩主。 第13代藩主・木下俊敦の七男。兄に俊方(第14代藩主)、俊程(第15代藩主)がいる。正室は伏原宣諭の娘。子は木下俊忠(長男)、木下俊哲(次男)、木下俊義(三男)、柳沢俊信(四男)、恒子(大谷光瑩室)、娘(堀直紹正室)。官位は従五位下、大和守。 慶応3年(1867年)5月29日、養父俊程の隠居により家督を継いだ。幕末の動乱の中で、藩内では佐幕派と尊皇派に分裂して対立が起こったが、俊愿は藩論を尊皇派にまとめて戊辰戦争では新政府に与することにした。慶応4年(1868年)1月13日上洛、16日参内し、新政府支持の姿勢を示した。明治元年(1868年)9月2日、木下利恭とともに新政府に対し豊国神社造営を申し付けを願う。明治2年(1869年)6月20日、版籍奉還で藩知事となる。その後、藩の行政改革を行なったが、重税を強いたために領民による一揆が起こった。明治4年(1871年)、廃藩置県により日出藩は廃藩となった。 明治13年(1880年)4月15日、44歳で死去した。墓所は東京都港区の青山墓地。 としまさ *16 Category:幕末の大名 Category:日本の華族 Category:1837年生 Category:1880年没.
木下俊敦
木下 俊敦(きのした としあつ、享和2年2月28日(1802年3月31日)- 明治19年(1886年)10月12日)は、豊後日出藩の第13代藩主。 第11代藩主・木下俊懋の四男。母は側室の歌と言われている。正室は朽木倫綱の娘。継室は酒井忠進の娘。子に木下俊方(次男、14代藩主)、毛利元純(四男、長門清末藩8代藩主)、木下俊程(五男、15代藩主)、木下俊愿(七男、16代藩主)、娘(柳生俊順正室)、峯子(仙石政固正室)、娘(伊東祐帰正室)ほか。官位は従五位下、大和守、左衛門佐。幼名は銀之助、主計。 文化12年(1815年)12月9日、先代藩主で兄の俊良の死去により、その養嗣子となって跡を継いだ。この頃になると藩財政が窮乏化していたため、天保3年(1832年)から帆足万里を登用して藩政改革を行なったが失敗し、天保6年(1835年)から関勝之を登用して藩政改革を行なった。弘化4年(1847年)8月16日、病気を理由に次男・俊方に家督を譲って隠居した。 以後、廃藩まで3代続いた藩主はいずれも俊敦の子であるが、その全ての死後も俊敦は存命であり、明治3年7月18日に明治天皇に拝謁し、明治19年(1886年)10月12日に85歳で死去した。法号は秀真豊臣俊敦命。 としあつ *13 Category:1802年生 Category:1886年没.
本多忠堯
本多 忠堯(ほんだ ただとう、元文2年(1737年) - 宝暦11年2月25日(1761年3月31日))は、播磨山崎藩の第4代藩主。政信系本多家5代。 第3代藩主・本多忠辰の長男。母は松平乗賢の娘。正室は相良長在の娘。官位は従五位下。大和守。幼名は権次郎。 寛延3年(1750年)、父の死去により跡を継いだ。先々代藩主からの災難続きで藩財政は破綻寸前となっており、窮民は増加していたため、商人から銀90貫を借り入れて藩政改革を行なおうとしたが、筆頭家老が改革反対派から攻撃されて失脚するなどしたため、短期間で失敗に終わった。宝暦11年(1761年)2月25日、25歳の若さで死去し、跡を妹婿の忠可が継いだ。法号は広善院殿前和州宰吏定誉宗厳了演大居士。墓所は東京都江東区三好の雲光院。 Category:譜代大名 Category:山崎藩主 たたとう Category:1737年生 Category:1761年没.
本多忠居
本多 忠居(ほんだ ただおき、明和8年(1771年) - 文政2年2月14日(1819年3月9日))は、播磨山崎藩の第6代藩主。政信系本多家7代。 第5代藩主・本多忠可の長男。母は本多忠辰の娘・熊姫(本多忠堯の養女で異母妹)。正室は松平乗温の娘。継室は堀直教の養女(堀直泰の娘)。子に本多忠敬(次男)、本多忠告(三男)、本多忠鄰(四男)、娘(木下某室)。官位は従五位下、大和守。幼名は権次郎。 天明8年(1788年)、父の隠居により跡を継ぐ(隠居はなかったともいわれる)が、寛政6年(1794年)に父が死去するまでは実権は父が握っていた。寛政6年(1794年)から藩政を執るが、聡明な父と違って暗愚だった。翌寛政7年(1795年)11月12日、父の時代に改革を成功させた功臣である佐藤善五右衛門を、己の面前で藩士に斬り捨てさせた。これは、佐藤が生きている限り藩政を完全に掌握できないことと、先代における佐藤の功績を嫉妬した一派が忠居に讒言し、それを受け入れたためと言われているが、佐藤はこれが原因で3日後に世を去った。その後、大番頭となったが、文化5年(1808年)に将軍・徳川家斉に対して不敬な態度を取ったため、家斉の怒りを買って奉公する必要なしとまで言われた。 このため文化9年(1812年)10月18日、病気を理由に家督を次男の忠敬に譲って隠居した。そして文政2年(1819年)2月14日に49歳で死去した。法号は憲隆院前和州宰吏誉至誠忠道大居士。墓所は東京都江東区三好の雲光院。 忠可の時代に再建された財政は、この忠居の時代に再び破綻している。 Category:山崎藩主 category:譜代大名 たたおき Category:1771年生 Category:1819年没.
本多忠鄰
本多 忠鄰(ほんだ ただちか、文化8年(1811年) - 明治7年(1874年)1月12日)は、播磨山崎藩の第8代藩主。政信系本多家9代。 第6代藩主・本多忠居の四男。母は堀直教の養女(堀直泰の娘)。養母は本多忠顕の娘。正室は五島盛繁の娘・昌子(五島盛成の養女)。側室多数。子は本多忠明(次男)、有馬道純(三男)、本多忠肇(四男)、植村家壷(六男)、本多忠禎(八男)。官位は従五位下、肥前守、大和守、肥後守。幼名は貞之助。 文化9年(1812年)生まれとも言われている。天保5年(1834年)11月27日、先代藩主で兄の忠敬が病弱だったために隠居した後、その跡を継いだ。藩財政再建を目指して、家臣の片桐内蔵治を家老に登用して倹約、経費節減、金融改革などを行なっている。幕末においては大砲の鋳造や海防に尽力し、第一次長州征伐では参加して功を挙げた。しかし第二次長州征伐では軍費不足で出陣できなかった。 また、学問に興味を示して天保年間に堀内次右衛門や大爺円治らを登用して学問奨励を行ない、藩校である思斉館を創設した。これは現在の宍粟市立山崎小学校の基礎になったと言われている。 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、はじめ幕府側に与しようとしたが、後に思い直して新政府側についた。長男の寅次郎は早世していたため、次男の忠明を世子として、明治2年(1869年)正月晦日に家督を譲って隠居した。明治7年(1874年)正月12日に死去した。享年63。法号は大誠院殿前肥州宰吏徳護念徹実道大居士。墓所は兵庫県宍粟市山崎町上寺の大雲寺。 Category:山崎藩主 category:譜代大名 Category:幕末の大名 たたちか Category:1812年生 Category:1874年没.
本多正信
本多 正信(ほんだ まさのぶ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将・大名。徳川家康の家臣で、江戸幕府の老中。相模国玉縄藩主。正信系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。 徳川家康が抱える鷹匠から身を興したが、三河一向一揆に与して鎮圧後に三河を出奔。一時松永久秀に仕えた後に10年以上を流浪の身として送る。後に許されて家康のもとへ帰参し、江戸開府後は家康、2代将軍秀忠の側近として幕政の中枢にあり権勢を振るった。.
本多政重
本多 政重(ほんだ まさしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。本多正信の次男。子に榎本藩第2代藩主・本多政遂など。.
本庄道堅
本庄 道堅(ほんじょう みちかた、享保18年4月9日(1733年5月22日)- 宝暦10年4月26日(1760年6月9日))は、美濃高富藩の第4代藩主。 信濃小諸藩主・牧野康周の次男(実父・牧野康重は本庄宗資の五男)。母は大和田氏。婚約者は本庄道矩の娘(本庄道倫の養女、婚姻直前に死去)。正室は堀田正実の娘。官位は従五位下、大和守。 信州小諸に生まれる。先代藩主・道倫が嗣子なくして宝暦6年(1756年)に死去したため、その跡を継いで藩主となった。同年12月18日、大和守に叙任。宝暦7年(1757年)には日光御祭礼奉行、宝暦9年(1759年)に大坂御加番代などを歴任した。道堅にも嗣子がなく、宝暦10年(1760年)4月26日に28歳の若さで道堅が死去すると、跡を養嗣子の道信が継いだ。法号は真源院寂誉澄海覚竜。 *04 みちかた Category:牧野氏 Category:小諸藩の人物 Category:1733年生 Category:1760年没.
本庄道信
本庄 道信(ほんじょう みちのぶ、延享5年6月6日(1748年7月1日) - 明和3年12月18日(1767年1月18日))は、美濃高富藩の第5代藩主。 上総大多喜藩主・松平正温の次男。婚約者は先代・本庄道堅の娘・勝(婚姻前に死去)。官位は従五位下、大和守。 宝暦10年(1760年)6月24日、道堅の養嗣子となって跡を継いだ。明和元年(1764年)11月13日、叙任を受けて大和守を称する。明和3年(1766年)4月、日光御祭礼奉行となる。同年12月18日、数え19歳で死去し、跡を養嗣子の道揚が継いだ。法号は徳林院樹誉仙厳義然。墓所は東京都足立区伊興町狭間の法受寺。 みちのふ Category:大河内松平氏 *05 Category:大多喜藩の人物 Category:1748年生 Category:1767年没.
本庄道矩
本庄 道矩(ほんじょう みちのり、宝永6年1月25日(1709年3月6日)- 延享2年9月8日(1745年10月3日))は、美濃高富藩の第2代藩主。 初代藩主・本庄道章の長男。母は水島氏。正室は大田原扶清の娘。側室は松田氏、金沢氏。官位は従五位下・大和守。幼名は久太郎。 享保10年(1725年)、父の死去により跡を継ぐ。同年12月18日、従五位下・大和守に叙任。日光御祭礼奉行や大坂御加番代、大番頭などを歴任した。延享2年(1745年)9月8日、37歳で死去した。嗣子がなかったため、養嗣子の道倫が跡を継いだ。法号は円徳院覚誉本光涼然。墓所は東京都足立区伊興町狭間の法受寺(浅草の安養寺)。 *02 みちのり Category:1709年生 Category:1745年没.
本庄氏
本庄氏(ほんじょうし)は、日本の氏族の一つ。.
本庄房長
本庄 房長(ほんじょう ふさなが).
戸沢正庸
戸沢 正庸(とざわ まさつね)は、出羽新庄藩の第3代藩主。.
明治
明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.
明智光秀
明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖において落ち武者狩りで殺害されたとも致命傷を受けて自害したともされる。これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」ともいう。 光秀の本姓は源氏、清和源氏(摂津源氏)の家系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏の出身。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。官途は日向守。朝廷より惟任(これとう)の姓を賜ったので惟任光秀ともいう。妻は妻木煕子。その間には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。 領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社)もある。江戸時代の文楽「絵本太功記」や歌舞伎「時桔梗出世請状」をはじめ、後世、小説・映画・テレビドラマなど様々な作品でとりあげられている。.
浜松藩
浜松藩(はままつはん)は、江戸時代の藩の一つであり、遠江国の浜松宿(現在の静岡県浜松市中区)の浜松城を居城とした。.
新城藩
新城藩(しんしろはん)は、三河国に江戸時代前期に存在した藩。藩主は水野氏。居城は新城城(現在の愛知県新城市字東入船)。徳川家家臣の水野分長が尾張国知多より1万石にて入封。その子元綱の時に上野国安中に移封となった。かわって徳川家家臣・菅沼氏が入府した。菅沼氏は旗本(交代寄合)であったため、以後江戸時代末期までの新城村は、菅沼氏の陣屋町となった。.
新庄藩
新庄藩(しんじょうはん)は、出羽国(羽前国)最上郡全域(現在の山形県新庄市周辺)と村山郡の一部(現在の北村山郡大石田町・村山市・河北町)を統治した藩。居城は新庄城。.
日向国
日向国(ひゅうがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
日出藩
日出城跡(本丸石垣) 日出藩(ひじはん)は、豊後国速見郡に存在した藩。拠点は速見郡日出。居城は日出城。藩主は木下氏であった。.
日田藩
日田藩(ひたはん)は、日本の豊後国日田郡にあった江戸時代の藩である。永山城、日田陣屋を藩庁とする行政区分のことを特にいう。.
日本
日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.
旧高旧領取調帳
旧高旧領取調帳(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)とは、明治時代初期に政府が各府県に作成させた、江戸時代における日本全国の村落の実情を把握するための台帳である。.
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摂津国
摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.
播磨国
播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.
慶応
慶応(けいおう、旧字体: 慶應)は日本の元号の一つ。元治の後、明治の前。1865年から1868年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。日本での「一世一元の詔」発布以前では最後の元号。.
承和 (日本)
承和(じょうわ、しょうわ)は、日本の元号の一つ。天長の後、嘉祥の前。834年から848年までの期間を指す。この時代の天皇は仁明天皇。.
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拾芥抄
拾芥抄(しゅうがいしょう)は、中世日本にて出された類書(百科事典)。全3巻。元は拾芥略要抄とも呼ばれ、略要抄とも略されていた。.
1181年
記載なし。
11月22日 (旧暦)
旧暦11月22日は旧暦11月の22日目である。六曜は友引である。.
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11月4日
11月4日(じゅういちがつよっか)はグレゴリオ暦で年始から308日目(閏年では309日目)にあたり、年末まであと57日ある。.
12月27日 (旧暦)
旧暦12月27日は旧暦12月の27日目である。六曜は友引である。.
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1455年
記載なし。
1466年
記載なし。
1477年
記載なし。
1483年
記載なし。
1516年
記載なし。
1565年
記載なし。
1567年
記載なし。
1568年
記載なし。
1571年
記載なし。
1575年
記載なし。
1576年
記載なし。
1577年
記載なし。
1615年
記載なし。
1868年
記載なし。
1869年
記載なし。
1870年
記載なし。
1871年
記載なし。
1872年
記載なし。
1876年
記載なし。
1881年
記載なし。
1887年
記載なし。
1月21日
1月21日(いちがつにじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から21日目に当たり、年末まであと344日(閏年では345日)ある。.
1月2日
1月2日(いちがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から2日目に当たり、年末まであと363日(閏年では364日)ある。誕生花は孟宗竹、または蝋梅。.
2月27日
2月27日(にがつにじゅうななにち、にがつにじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から58日目にあたり、年末まであと307日(閏年では308日)ある。.
2月27日 (旧暦)
旧暦2月27日は旧暦2月の27日目である。六曜は仏滅である。.
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2月5日 (旧暦)
旧暦2月5日(きゅうれきにがついつか)は旧暦2月の5日目である。六曜は赤口である。.
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2月7日
2月7日(にがつなのか)はグレゴリオ暦で年始から38日目に当たり、年末まであと327日(閏年では328日)ある。.
3月16日 (旧暦)
旧暦3月16日は旧暦3月の16日目である。六曜は赤口である。.
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3月28日
3月28日(さんがつにじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から87日目(閏年では88日目)にあたり、年末まであと278日ある。.
3月6日 (旧暦)
旧暦3月6日(きゅうれきさんがつむいか)は旧暦3月の6日目である。六曜は友引である。.
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4月17日
4月17日(しがつじゅうななにち、しがつじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から107日目(閏年では108日目)にあたり、年末まではあと258日ある。誕生花はハナビシソウ、ユスラウメ。.
4月18日
4月18日(しがつじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から108日目(閏年では109日目)にあたり、年末まではあと257日ある。誕生花はアカツメクサ、ワスレナグサ。.
4月27日 (旧暦)
旧暦4月27日は旧暦4月の27日目である。六曜は赤口である。.
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4月29日
4月29日(しがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から119日目(閏年では120日目)にあたり、年末まではあと246日ある。誕生花はフジ、ミヤコグサ。.
5月19日
5月19日(ごがつじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から139日目(閏年では140日目)にあたり、年末まであと226日ある。誕生花はクルミ。.
5月19日 (旧暦)
旧暦5月19日は旧暦5月の19日目である。六曜は大安である。.
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5月21日 (旧暦)
旧暦5月21日は旧暦5月の21日目である。六曜は先勝である。.
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645年
記載なし。
672年
記載なし。
6月17日
6月17日(ろくがつじゅうななにち、ろくがつじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から168日目(閏年では169日目)にあたり、年末まであと197日ある。誕生花はバラ、ベニバナ。.
738年
記載なし。
747年
記載なし。
749年
記載なし。
757年
記載なし。
765年
記載なし。
768年
記載なし。
770年
記載なし。
782年
記載なし。
788年
記載なし。
792年
記載なし。
793年
記載なし。
797年
記載なし。
798年
記載なし。
7月10日
7月10日(しちがつとおか)はグレゴリオ暦で年始から191日目(閏年では192日目)にあたり、年末まであと174日ある。誕生花はグロキシニア、マツバボタン。.
7月14日 (旧暦)
旧暦7月14日(きゅうれきしちがつじゅうよっか)は、旧暦7月の14日目である。六曜は友引である。.
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7月29日 (旧暦)
旧暦7月29日は旧暦7月の29日目である。年によっては7月の最終日となる。六曜は大安である。.
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801年
記載なし。
806年
記載なし。
807年
記載なし。
808年
記載なし。
810年
記載なし。
821年
記載なし。
834年
記載なし。
839年
記載なし。
841年
記載なし。
843年
記載なし。
848年
記載なし。
850年
記載なし。
853年
記載なし。
857年
記載なし。
858年
記載なし。
859年
記載なし。
860年
記載なし。
861年
記載なし。
863年
記載なし。
865年
記載なし。
866年
記載なし。
867年
記載なし。
868年
記載なし。
8月29日
8月29日(はちがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から241日目(閏年では242日目)にあたり、年末まであと124日ある。.
9月15日
9月15日(くがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から258日目(閏年では259日目)にあたり、年末まであと107日ある。.
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