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但馬国

索引 但馬国

但馬国(たじまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

339 関係: 加賀藩城崎城崎郡垣屋氏古事記名神大社吉良貞家大垣藩大和国大国実頼大田文大江嘉言大日本国一宮記天仁天領天長天武天皇天承太田垣氏宝亀室町時代宮部継潤寛弘小島藩小出吉政小出秀政小松藩尾張藩山口弘封山口弘隆山口弘道山口弘豊山口弘致山口重政山名堯熙山名宗全山名師義山名祐豊山名致豊山名氏山名氏清山名政豊山名教豊山名時義山名時熙山形藩山陰道岩城宣隆岩城隆韶岩城隆永...岩城氏島田秀満島津久雄島津忠雅川越藩上国上野国常陸国丹後国丹波亀山藩丹波国丹波国造七美郡三上藩一宮一柳頼寿平忠盛平経正平生昌平重衡平正盛平有親平方キロメートル久美浜代官所久美浜県交代寄合二方郡広島藩五奉行亀田藩仁寿令制国令制国一覧延喜式延喜式神名帳延暦建保廃藩置県弘仁佐土原藩佐野宗綱佐野氏彦坐王但馬弁但馬国の式内社一覧但馬国分寺但馬県民局但馬牛徳山藩徳川宗勝土屋英直土屋陳直土屋数直土浦藩地方知行和名類聚抄備中国出石神社出石町出石郡出石藩出羽国出雲国造八幡藩八木豊信八木藩八木氏元永先代旧事本紀兵庫県前田重煕前野長康国人国立歴史民俗博物館国造矢沢頼康福本藩秋元久朝秋元志朝秋元喬知秋元喬房秋元凉朝秋元礼朝秋元永朝秋元泰朝竹田藩篠山藩粟鹿神社紀州藩総社総社藩美含郡美方郡真田昌幸生野奉行生野県牛久藩直江兼続鎌倉時代遠藤胤城遠藤胤統遠藤胤親遠藤慶利遠藤慶隆飛地養父市養父神社養父郡 (兵庫県)館林藩香美町角川日本地名大辞典谷村藩豊岡豊岡城豊岡市豊岡県豊岡藩豊臣秀吉豊臣秀長鳥取城越前勝山藩越前松平家足守藩黒田節近国近江国関長広関長道関長輝開化天皇藤原忠隆藤原刷雄藤原内麻呂藤原隆季藤原顕綱藤原魚名藤原長岡藤原朝経藤堂高虎藩庁長尾定景 (足利長尾氏)長尾当長長尾景人長尾景長長徳長保長和長承良岑安世JST柳生宗矩柳生俊峯柳生俊平柳生俊則柳生俊章柳生俊益柳生俊順柳生藩柳生氏柳生新陰流松平友著松平信孝 (小島藩主)松平信義 (丹波亀山藩主)松平直常松平直良松平直泰村岡藩橘俊綱正暦此隅山城歴史的仮名遣母里友信毛利広豊水谷神社永延永祚 (日本)気多神社 (豊岡市)気多郡 (兵庫県)池田徳潤池田喜通清富藩源家長源則理源経基源頼光源満頼朝来市朝来郡木村礎木本藩有子山城成務天皇戸田氏西明石則実明石藩明治明治維新春澄善縄浅野宗恒浅野長晟新見藩新温泉町日高町 (兵庫県)日本日本後紀日本書紀旧高旧領取調帳慶応拾芥抄1006年1007年1009年1010年1011年1016年1108年1118年1131年1133年1182年1185年1197年11月2日1218年1221年1223年1224年1285年12月13日1321年1331年1332年1336年1338年1340年1351年1361年1365年1366年1372年1376年1389年1390年1391年1392年1433年1454年1458年1472年1499年1536年1569年1577年1580年1581年1868年1869年1871年1876年1896年1975年4月19日 (旧暦)4月28日 (旧暦)5月11日675年6月18日6月20日 (旧暦)770年796年7世紀7月14日7月29日 (旧暦)804年813年831年852年8月10日 (旧暦)8月21日8月29日8月8日960年986年987年989年993年998年999年9月15日 インデックスを展開 (289 もっと) »

加賀藩

金沢城石川門(重文) 加賀藩(かがはん)は、江戸時代に加賀、能登、越中の3国の大半を領地とした藩。藩祖前田利家の妻である芳春院(まつ)の死後、芳春院の化粧料(婦女に対して生活補助として与えられた領地(石高))だった近江弘川村(現在の滋賀県高島市今津町)を飛び地として加える。.

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城崎

*(きのさき)兵庫県豊岡市の地名。旧城崎町。城崎温泉が有名。.

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城崎郡

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垣屋氏

垣屋氏(かきやうじ)は、桓武平氏の分家であり、のちに山名氏、脇坂氏の家老の家系である。.

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古事記

真福寺収蔵の国宝・『古事記』。信瑜の弟子の賢瑜による写本 古事記(こじき、ふることふみ、ふることぶみ)は、日本最古の歴史書である。その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上された。.

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名神大社

名神大社(みょうじんたいしゃ)とは、日本の律令制下において、名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社である。古代における社格の1つとされ、その全てが大社(官幣大社・国幣大社)に列していることから「名神大社」と呼ばれる。『延喜式』巻3の「臨時祭」の「名神祭」の条下(以下「名神祭式」という)と、同巻9・10の「神名式」(「延喜式神名帳」)に掲示され、後者の記載に当たっては「名神大」と略記されている。.

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吉良貞家

吉良 貞家(きら さだいえ)は、南北朝時代の武将。初代奥州管領。陸奥国の南朝勢力の制圧に努めた。.

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大垣藩

大垣藩(おおがきはん)は、美濃国大垣周辺を支配した藩。藩庁は大垣城(現在の岐阜県大垣市郭町2丁目)に置かれた。 江戸時代初期には短期間で藩主として4家が交替したが、寛永12年(1635年)以降は戸田氏が10万石で入り、幕末・明治維新期まで存続した。.

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大和国

大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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大国実頼

大国 実頼(おおくに さねより)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。上杉氏の家臣。直江兼続の弟に当たる。.

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大田文

大田文(おおたぶみ)とは、中世日本とくに鎌倉時代に国単位で作成された国内の公領・荘園別の田地面積、所有関係などを記載した文書(土地台帳)。田文(たぶみ)・田数帳(でんすうちょう)・田数目録(でんすうもくろく)などの別名がある。.

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大江嘉言

大江 嘉言(おおえ の よしとき、生年不詳 - 寛弘6年(1009年)?)は、平安時代中期の歌人。氏姓は弓削朝臣のち大江朝臣。大江千古の孫にあたる大隅守・弓削仲宣の子。官位は従五位上・対馬守。中古三十六歌仙の一人。.

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大日本国一宮記

大日本国一宮記(だいにほんこくいちのみやき)は群書類従 第二輯 神祇部 巻第二十三 に編纂されている日本国内の一宮一覧で、室町時代の成立とされる。 諸国一宮の社名、祭神、鎮座地を記した史料は「一宮記」と呼ばれ同種の本が多数存在するが、『大日本国一宮記』はその内の一つである。『大日本国一宮記』自体にも写本が多数存在する。一宮の研究における重要な資料であり、現代においても巡拝や取材する一宮の選定基準とされることがある。大林太良 『私の一宮巡詣記』 青土社 2001年9月 出版 では論社を整理するためと前置し、巡詣する一宮の条件として以下2つを上げている。①『大日本国一宮記』や橘三喜の『諸国一宮巡詣記』で一宮として取り上げられていること。②『延喜式神名帳』に記載されていること。.

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天仁

天仁(てんにん)は、日本の元号の一つ。嘉承の後、天永の前。1108年から1109年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇。.

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天領

天領(てんりょう)は、江戸時代における江戸幕府の直轄地の俗称で、このほか幕府直轄領、徳川幕府領、徳川支配地、幕府領、幕領など様々な呼称があり、必ずしも絶対的な単一の歴史用語ではない村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。幕府直轄領は元禄以降、全国で約400万石あった。その領地は日本全国に散らばっており、江戸時代を通じて何らかの形で幕府直轄地が存在した国は51ヶ国と1地域(蝦夷地)に及び、年貢収取の対象となる田畑以外に交通・商業の要衝と港湾、主要な鉱山、城郭や御殿の建築用材の産出地としての山林地帯が編入され江戸幕府の主要な財源であった村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。 幕府直轄地が「天領」と呼ばれるようになったのは明治時代である。大政奉還後に幕府直轄地が明治政府に返還された際に、「天朝の御料(御領)」などの略語として「天領」と呼ばれたのがはじまり。その後、この呼称が江戸時代にもさかのぼって使われるようになった。よって、江戸時代に使われていた呼称ではない。江戸幕府での正式名は御料・御領(ごりょう)であり、その他、江戸時代の幕府法令には御料所(ごりょうしょ、ごりょうじょ)、代官所、支配所(しはいしょ、しはいじょ)とある。江戸時代の地方書では大名領や旗本領を私領としたのに対して公領・公料、また公儀御料所(こうぎごりょうしょ)とある。 大政奉還後の慶応4年(1868年、同年明治元年)には徳川支配地を天領と呼んだ布告があるが、同時期の別の布告では「これまで徳川支配地を天領と称し居候は言語道断の儀に候、総て天朝の御料に復し、真の天領に相成候間」とある。 幕府の直轄地についての呼称については、従来は「天領」と表記していたが、この「天領」という呼称が明治以降の俗称であるという点から、近年では「幕領」と呼ぶ傾向になっており、全国の歴史教科書なども「幕領」への表記の変更が進められている。.

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天長

天長(てんちょう)は、日本の元号の一つ。弘仁の後、承和の前。824年から834年までの期間を指す。この時代の天皇は淳和天皇、仁明天皇。.

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天武天皇

天皇系図38~50代 天武天皇(てんむてんのう、? - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。.

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天承

天承(てんしょう)は、日本の元号の一つ。大治の後、長承の前。1131年の期間を指す。この時代の天皇は崇徳天皇。.

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太田垣氏

太田垣氏(おおたがきし)は、但馬国に栄えた日下部氏の一族の国人。竹田城主。.

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宝亀

宝亀(ほうき、正字体:寶龜)は、日本の元号の一つ。神護景雲の後、天応の前。770年から781年までの期間を指す。この時代の天皇は光仁天皇。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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宮部継潤

宮部 継潤(みやべ けいじゅん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名、豊臣秀吉の側近。豊臣政権の五奉行の一人。 初代豊岡城主、鳥取城主。 秀吉による九州征伐において、島津家久軍を撃退し大軍を防いだことから、「日本無双」の感謝状を与えられた。 「豊後国にて防備を固めよ」という秀吉の命令を順守せず、独断で会戦(戸次川の戦い)に望んだ上で敗北した仙石秀久の失態を挽回、秀吉による九州平定を盤石なものにし、窮地に陥っている大友義鎮を救った。.

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寛弘

寛弘(かんこう)は、日本の元号の一つ。長保の後、長和の前。1004年から1011年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇、三条天皇。.

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小島藩

陣屋跡石垣 小島藩(おじまはん)は、駿河国庵原郡・有渡郡・安倍郡に存在した藩。現在の静岡県静岡市清水区小島地区が中心地にあたる。 小島藩は2万石以下であったため、城を構えることが許されず、藩主の居所は陣屋として構築された。陣屋跡の遺構があり、石垣が残っている。 なお、松會版や山泉堂、須原屋版の武鑑での在所(陣屋所在地)の記載は、立藩以降から少なくとも享保3年(1718年)までは駿州阿部入であったが、享保17年(1732年)の武鑑では駿州小島となり、以降は駿州小島や駿州庵原郡小島となる。.

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小出吉政

小出 吉政(こいで よしまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。但馬出石藩主のち和泉岸和田藩2代藩主。出石藩小出家2代。.

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小出秀政

小出 秀政(こいで ひでまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名。豊臣秀頼の傅役の1人。和泉岸和田藩主。出石藩小出家初代。.

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小松藩

小松藩(こまつはん)は、伊予国東部に所在した藩。藩庁は周布郡新屋敷村(現・愛媛県西条市小松町)の小松陣屋に置かれた。 石高1万石の小藩で、江戸時代初期の1636年から廃藩置県まで、外様大名の一柳氏が9代約230年にわたって治めた。.

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尾張藩

尾張名古屋藩屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 名古屋城(1979年) 尾張藩(おわりはん)は、愛知県西部にあって尾張一国と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、明治の初めには「名古屋藩」とも呼ばれた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石。.

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山口弘封

山口 弘封(やまぐち ひろくに、1808年(文化5年)- 1869年8月21日(明治2年7月14日))は、常陸牛久藩の第9代藩主。第8代藩主・山口弘致の長男。正室は越前松平斉孝の娘。官位は従五位下、伊豆守、但馬守。幼名は長次郎。 文政10年(1827年)11月15日、将軍徳川家斉に御目見する。同年12月16日、従五位下伊豆守に叙任する。後に但馬守に改める。文政12年(1829年)10月3日、父弘致の死去によって藩主となる。 弘封が藩主に就任した頃から牛久藩の財政は悪化の兆しを見せ始め、天保の大飢饉が起こるとその窮乏化は隠せないものとなった。このため、弘封は厳しい倹約令を出し、さらに藩士の借米制を中心とした藩政改革に取り組んだが、あまり効果がのぞめなかったため、天保10年(1839年)8月16日に弟の弘穀に家督を譲って隠居した。天保14年(1843年)12月3日、剃髪して閑寿斎と称した。明治2年(1869年)7月14日、牛久において病死した。法号は閑山道寿弘封院。 ひろくに *09 Category:1808年生 Category:1869年没.

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山口弘隆

山口 弘隆(やまぐち ひろたか、1603年7月19日(慶長8年6月11日) - 1677年10月1日(延宝5年9月5日))は、常陸牛久藩の第2代藩主。初代藩主・山口重政の四男。母は小坂雄吉の娘。正室は諏訪忠恒の娘。子は山口重貞(長男)、山口政信(次男)、山口重治(三男)、山口重富(四男)、娘(久永勝晴正室のち谷頼衛室)。官位は従五位下。但馬守。修理亮。幼名は国丸。 慶長18年(1613年)、父と長兄・重信が改易された後、重信は大坂の陣で戦死したため、嫡子となった。元和8年(1622年)、父や弟の重恒と共に本多忠政に身柄を預けられたが、寛永5年(1628年)に赦免されて父は牛久に1万5000石を領する藩主となった。そして寛永12年(1635年)に父が死去したため、その跡を継いだ。このとき、弟の重恒に5000石を分与している。水口城の城番を務めて、延宝5年(1677年)9月5日に75歳で死去し、跡を長男・重貞が継いだ。法号は一灯見性弘隆院。墓所は東京都港区南麻布の曹渓寺。 ひろたか *02 Category:1603年生 Category:1677年没.

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山口弘道

山口 弘道(やまぐち ひろみち、1740年(元文5年)- 1783年10月7日(天明3年9月12日))は、常陸牛久藩の第6代藩主。第4代藩主・山口弘豊の五男。正室は一柳末栄の娘。側室は鈴木氏ほか。子に山口弘致(長男)。通称は政之進、中務。官位は従五位下、但馬守、修理亮。 明和5年(1768年)9月7日、兄の弘倉が早世したため第5代藩主・弘長の養嗣子となる。同年12月25日、養父弘長の死去により家督を継いだ。明和6年1月15日、将軍徳川家治に拝謁した。同年12月18日、従五位下但馬守に叙任する。後に修理亮に改める。藩政では文治政治を重んじ、名木の保護を行なっている。天明3年(1783年)9月12日、44歳で病死し、家督は養嗣子の弘務が継いだ。 ひろみち *06 Category:1740年生 Category:1783年没.

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山口弘豊

山口 弘豊(やまぐち ひろとよ、1684年(貞享元年)- 1755年12月25日(宝暦5年11月23日))は、常陸牛久藩の第4代藩主。山口重治(第2代藩主・山口弘隆の三男)の長男。母は谷氏。正室は越前松平直堅の娘、継室は戸田光正の娘。側室は近藤氏ほか多数。子に山口豊隆(長男)、山口弘倉(四男)、山口弘道(五男)、娘(山口弘長正室)、娘(諏訪頼一正室)、娘(諏訪頼一継室)、娘(柴田康哉室)、娘(服部保命室)、娘(織田秀行正室)。官位は従五位下、伊豆守、但馬守、周防守。 第3代藩主・重貞には長男が早世した後に男児がなかったため、弟の重治を養嗣子にしていた。しかし、重治は後継者にふさわしくないとして廃嫡され、代わりにその子である弘豊が養子となり、元禄11年(1698年)の重貞の死去により跡を継いだ。享保10年(1725年)には牛久沼干拓工事などで手腕を見せた。また、藩主時代が33年の長きにわたったため、藩政が安定化した時代でもあった。享保16年(1731年)8月27日、病を理由に家督を養嗣子の弘長に譲って隠退し、宝暦5年(1755年)11月23日に死去した。享年72。法号は真竜定淵弘豊院。 ひろとよ *04 Category:1684年生 Category:1755年没.

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山口弘致

山口 弘致(やまぐち ひろむね、1781年(天明元年)- 1829年9月9日(文政12年8月12日))は、常陸牛久藩の第8代藩主。第6代藩主・山口弘道の長男。母は鈴木氏。正室は京極高備の娘、継室は本多忠雄の娘(本多忠誠の養女)。子に山口弘封(長男)、山口弘穀(三男)、山口弘敞(四男)、天野重教(五男)、娘(京極高景正室)。通称は仲之進。官位は従五位下、周防守、但馬守。 天明7年(1787年)12月13日、第7代藩主・山口弘務が嗣子無くして若死にしたため、その養子となって家督を継いだ。寛政9年(1797年)10月15日、将軍徳川家斉にお目見えした。同年12月18日、従五位下周防守に叙任した。藩主としては有能で、天明の大飢饉で大被害を受けた藩内を再建した上で囲米制度を設置して、藩政を幾分かは立て直した。しかし牛久助郷一揆も起こるなど、藩政は多難を極めた。大坂定番を勤めていた文政11年(1828年)頃から病がちとなり、翌年8月12日に死去した。享年49。家督は長男・弘封が継いだ。 ひろむね *08 Category:1781年生 Category:1829年没.

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山口重政

山口 重政(やまぐち しげまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。尾張国星崎城主。常陸国牛久藩初代藩主。家紋は大内菱。.

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山名堯熙

山名 堯熙(やまな あきひろ / たかひろ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。.

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山名宗全

山名宗全公之墓、南禅寺在真乗院、京都市左京区 山名 宗全 / 山名 持豊(やまな そうぜん/やまな もちとよ)は、室町時代の武将、守護大名。家系は新田氏庶流の山名氏。室町幕府の四職の家柄で侍所頭人。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。山名時熙の3男で、母は山名氏清の娘。諱は持豊で、宗全は出家後の法名。応仁の乱の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。.

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山名師義

山名 師義(やまな もろよし)は、南北朝時代の武将・守護大名。室町幕府小侍所所司、丹後国・伯耆国・但馬国守護。.

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山名祐豊

山名 祐豊(やまな すけとよ)は、戦国時代の武将、戦国大名。但馬国守護。.

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山名致豊

山名 致豊(やまな むねとよ/おきとよ、応仁2年(1468年) - 天文5年7月3日(1536年7月20日))は、戦国時代の大名。但馬・備後守護。山名政豊の子。兄弟に常豊、俊豊、誠豊。子に安豊、祐豊、豊定。.

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山名氏

日本の氏族。幾つかの流れがある。.

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山名氏清

山名 氏清(やまな うじきよ)は、南北朝時代の武将・守護大名。室町幕府侍所頭人、丹波国・和泉国・山城国・但馬国守護。.

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山名政豊

山名 政豊(やまな まさとよ)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名。山城・安芸・但馬・備後守護。応仁の乱の西軍総大将で知られる山名宗全の後継者。「政」の字は8代将軍足利義政より偏諱を賜ったものと思われる。.

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山名教豊

山名 教豊(やまな のりとよ)は、室町時代後期の守護大名。但馬・播磨・備後・安芸守護。山名宗全(持豊)の嫡男。 応永31年(1424年)、山名宗全の嫡男として生まれる。室町幕府第6代将軍・足利義教と父・宗全(持豊)より1字ずつ賜り教豊と名乗る。嘉吉元年(1441年)に義教が赤松満祐に暗殺されると父と共に播磨へ侵攻(嘉吉の乱)、文安4年(1447年)に将軍家の椀飯を務めた。 享徳3年(1454年)、父が第8代将軍・足利義政の怒りを買い但馬へ下向し隠居した為、家督を譲られて山名氏当主となり、但馬・播磨・備後・安芸4ヶ国の守護となる。翌康正元年(1455年)5月、父が失脚した際に赤松則尚が播磨奪回をはかり山名領へ侵攻すると、父と共に赤松軍を備前へ追い払った。以後、長禄2年(1458年)に父が赦免されるまで京都へ向かい、幕府に出仕した。 畠山氏の内紛に際しては、畠山義就を支持する父に難色を示しており、寛正元年(1460年)に父と仲違いして播磨へ下向した。その後対立は解消したが、弟の是豊が父に不満を抱き、山名氏の対立も応仁の乱へ影響した。 応仁元年(1467年)9月9日、父に先立って陣没。享年44。父が一旦当主に復帰した後に、家督を嫡男(弟とも)の政豊が継いだ。.

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山名時義

山名 時義(やまな ときよし)は、南北朝時代の武将・守護大名。室町幕府侍所頭人・小侍所別当、美作国・伯耆国・但馬国・備後国守護。応仁の乱で有名な山名宗全(持豊)は孫に当たる。.

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山名時熙

山名 時熙(やまな ときひろ)は、南北朝時代から室町時代の武将、守護大名。室町幕府相伴衆、侍所頭人、但馬・備後・安芸・伊賀守護。父は山名時義で長男。養子として入った兄弟(従兄)に氏之。正室は山名氏清の娘(山名師義の娘とも)。子に満時、持熙、持豊(宗全)。猶子に熙高(ひろたか)。官位は宮内少輔、右衛門佐、右衛門督。法名、常熙(じょうき)。.

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山形藩

山形藩(やまがたはん)は、出羽(羽前)村山郡山形(現在の山形県山形市)に居城(山形城)を置いた藩。本項目では山形藩と関係の深い大森藩(おおもりはん)、朝日山藩(あさひやまはん)についても記述する。.

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山陰道

山陰道(さんいんどう、せんいんどう、そとものみち)は、五畿七道の一つ。本州日本海側の西部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。.

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岩城宣隆

岩城 宣隆(いわき のぶたか)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。出羽亀田藩2代藩主。久保田藩士多賀谷氏初代。.

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岩城隆韶

岩城 隆韶(いわき たかつぐ)は、江戸時代中期の大名。出羽国亀田藩5代藩主。.

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岩城隆永

岩城 隆永(いわき たかなが)は、江戸時代後期の大名。出羽国亀田藩9代藩主。 天保8年(1837年)6月4日、8代藩主・岩城隆喜の四男として生まれる。嘉永2年(1849年)9月11日、兄・隆興の死去により嫡男となる。嘉永3年(1850年)9月15日、江戸幕府12代将軍・徳川家慶に御目見する。嘉永5年(1852年)12月28日、従五位下・但馬守に叙位・任官する。部屋住でありながら叙任されたのは、父・隆喜の城主格昇進に伴う措置であった。 嘉永7年(1854年)2月28日、隆喜の死去により家督を継いだが、安政2年(1855年)5月14日、死去。享年19。子女が無かったため弟・隆信が跡を継いだ。 たかなか *09 Category:幕末の大名 Category:1837年生 Category:1855年没.

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岩城氏

岩城氏(いわきし)は、日本の氏族。常陸平氏の庶流と称した「海道平氏」の嫡流ともいわれる。.

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島田秀満

島田 秀満(しまだ ひでみつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武士。織田氏の家臣。 織田信長に奉行として仕えた。弘治2年(1556年)8月に信長の母・土田御前から末盛城に招かれ、織田信行の降参を村井貞勝と共に信長に伝える。天正2年(1571年)4月25日に信長の命で東大寺八幡宮社人と大仏寺人の諸役を免除する。 秀満は兼見卿記(吉田兼見著)の天正3年(1575年)4月11日条に載ったのを最後に史料からは登場しなくなったため、この後、間もなく没したとされる。.

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島津久雄

島津 久雄(しまづ ひさたか)は、日向国佐土原藩の第3代藩主。.

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島津忠雅

島津 忠雅(しまづ ただまさ)は、日向佐土原藩の第7代藩主。.

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川越藩

川越藩(かわごえはん)は、武蔵国入間郡(現在の埼玉県川越市)周辺を領した藩。武蔵国一の大藩。藩庁は川越城に置かれた。.

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上国

上国(じょうこく、じょうごく)とは、律令国の等級区分の一つである。.

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上野国

上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 常陸国・上総国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上野介であった類聚三代格。.

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常陸国

常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。.

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丹後国

丹後国(たんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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丹波亀山藩

亀山藩(かめやまはん)は、江戸時代に丹波国にあった藩のうちの一つ。現在の京都府亀岡市を拠点とした。山陰道の入り口に当たるため、江戸幕府から特に重要視された。伊勢亀山藩との区別から丹波亀山藩とも呼ばれる。明治時代に亀山の地名を亀岡に改称したため、これ以降は亀岡藩(かめおかはん)と呼ばれる。藩庁は亀山城。.

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丹波国

丹波国(たんばのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陰道に属する。.

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丹波国造

丹波国造(たんばのくにのみやつこ)は、後の令制国の丹波国および但馬国と丹後国、現在の京都府中部および北部から兵庫県北部と中部東辺に加え大阪府の一部に相当する地域を支配した国造。.

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七美郡

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三上藩

三上藩(みかみはん)は、現在の滋賀県野洲市三上に存在した藩。藩庁は三上陣屋(城主格)。.

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一宮

一宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。一の宮・一之宮などとも書く。.

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一柳頼寿

一柳 頼寿(ひとつやなぎ よりかず)は、江戸時代中期の大名。伊予小松藩の第5代藩主。.

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平忠盛

平 忠盛(たいら の ただもり)は、平安時代末期の武将。平清盛の父。烏帽子親は義兄の源義忠。 伊勢平氏で初めて昇殿を許された。北面武士・追討使として白河院政・鳥羽院政の武力的支柱の役割を果たすとともに、諸国の受領を歴任し、日宋貿易にも従事して莫大な富を蓄えた。その武力と財力は次代に引き継がれ、後の平氏政権の礎となった。歌人としても知られ、家集『平忠盛集』がある。.

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平経正

平 経正(たいら の つねまさ)は、平安時代末期の平家一門の武将。歌人。平経盛の長男で、平敦盛の兄。平清盛の甥にあたる。.

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平生昌

平 生昌(たいら の なりまさ、生没年不詳)は、日本の平安時代中期の公家。桓武平氏高棟王流、贈従三位美作介・平珍材の次男。官位は正四位下・播磨守。.

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平重衡

東大寺盧舎那仏像 神戸市須磨区にある平重衡捕らわれの遺跡 平 重衡(たいら の しげひら)は、平安時代末期の平家の武将・公卿。平清盛の五男。母は清盛の継室・平時子。三位中将と称された。 平氏の大将の一人として各地で戦い、南都焼討を行って東大寺大仏や興福寺を焼亡させた。墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍するが、一ノ谷の戦いで捕虜になり鎌倉へ護送された。平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首された。その将才は「武勇の器量に堪ふる」(『玉葉』治承5年閏2月15日条)と評される一方、その容姿は牡丹の花に例えられたという。.

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平正盛

平 正盛(たいら の まさもり)は、平安時代後期の伊勢平氏の武将。北面武士。父は平正衡。平清盛の祖父にあたる。.

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平有親

平 有親(たいら の ありちか)は、鎌倉時代初期から中期にかけての公卿。.

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平方キロメートル

平方キロメートル(へいほうキロメートル、記号km)は、国際単位系の面積の単位(SI組立単位)で、一辺の長さが1キロメートルである正方形の面積。平方キロと略称することもある。.

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久美浜代官所

久美浜代官所(くみはまだいかんしょ)は、現在の京都府京丹後市久美浜町西本町城山の久美浜小学校付近にあった代官所。 久美浜が寛文6年(1666年)に天領となり、当時の代官所は京都府加佐郡にあった。 その後寛文9年(1669年)宮津藩領、延宝8年(1680年)天領、天和元年(1681年)宮津藩領天領とめまぐるしく変わり、従来あった湊宮船見番所を代官の海上弥兵衛が、享保20年(1735年)天領になった際に久美浜に移転し陣屋と改めた。丹後、但馬2ヶ国に亘る7万石余りを管轄した、明治元年(1868年)置県の制が設けられ、久美浜県となり県庁所在地となった。.

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久美浜県

旧久美浜縣庁舎・玄関棟(現:参考館) 久美浜県(くみはまけん)は、1868年(慶応4年)に丹後国、丹波国、但馬国、播磨国、美作国内の幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって設置された県。管轄地域は、当初は現在の京都府北部、兵庫県西部、岡山県東北部、のちに京都府北部に分布していた。.

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交代寄合

交代寄合(こうたいよりあい)は、江戸幕府における旗本の家格の一つ。広義の寄合に含まれる。江戸定府の旗本寄合に対して参勤交代を行う寄合の意。.

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二方郡

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広島藩

広島藩(ひろしまはん)は、安芸国一国と備後国の半分を領有した大藩で、現在の広島県の概ね半分にあたる。藩庁は広島城(現在の広島市)に置かれた。芸州藩(または安芸藩)と呼ばれることも多い。.

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五奉行

五奉行(ごぶぎょう)は、安土桃山時代の豊臣政権末期に秀吉遺言覚書体制に基き、主に政権の実務を担った浅野長政、石田三成ら5人の政治家(奉行職にあたる)的人物達を指して呼ばれる言葉。ただし当時は「五奉行」などの特定の呼称は存在せず、「奉行」「年寄」などと呼ばれており、秀吉は三成らの側近を政権運営の要とするため、奉行を「年寄」として名目的に重みを加えておく必要性を感じ、反対に家康以下の宿老を「御奉行」とよばせることで勢威の減殺を図ったのではないかと指摘されている。.

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亀田藩

亀田藩(かめだはん)は、出羽国(羽後国)由利郡亀田(現在の秋田県由利本荘市岩城亀田)の亀田城に政庁を置いた藩。藩主は岩城氏。.

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仁寿

仁寿(にんじゅ、正字体:仁壽)は、日本の元号の一つ。嘉祥の後、斉衡の前。851年から854年までの期間を指す。この時代の天皇は文徳天皇。.

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令制国

北海道11か国(ただし、千島を除く)追加を反映した。 令制国(りょうせいこく)とは、日本の律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分である。律令国(りつりょうこく)ともいう。奈良時代から明治初期まで、日本の地理的区分の基本単位だった。 令制国の行政機関を国衙(こくが)または国庁(こくちょう)といい、国衙の所在地や国衙を中心とする都市域を国府(こくふ)といった。また、国府は府中と呼ばれることもあった。.

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令制国一覧

大宝元年)から702年(大宝2年)まで。黄色で示す地域が制度の及ぶ範囲。 鎌倉時代から1868年(明治元年)まで 明治初期の令制国の配置 令制国一覧(りょうせいこくいちらん)は、7世紀後半からの日本国内の地方行政区分、国(令制国)の一覧である。 令制国の改廃は、奈良時代までと明治時代になされ、その間の平安時代から江戸時代には長期にわたって変更がなかった。.

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延喜式

延喜式(えんぎしき)は、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。.

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延喜式神名帳

延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である。.

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延暦

延暦(えんりゃく、正字体:延曆)は、日本の元号の一つ。昭和、明治、応永、平成に次いで、歴代で5番目に長い元号である。天応の後、大同の前。782年から806年までの期間を指す。この時代の天皇は桓武天皇。 1418年(応永25年)までの600年以上にわたって、最も長い日本の元号であった。その後1892年(明治25年)まで、日本で2番目に長い元号であった。1950年(昭和25年)までは3番目、2013年(平成25年)までは4番目に長い日本の元号であり、2014年(平成26年)以降は歴代で5番目に長い元号となっている。.

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建保

建保(けんぽう)は、日本の元号の一つ。建暦の後、承久の前。1213年から1218年までの期間を指す。この時代の天皇は順徳天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源実朝、執権は北条義時。.

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廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

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弘仁

弘仁(こうにん)は、日本の元号の一つ。大同の後、天長の前。810年から824年までの期間を指す。この時代の天皇は嵯峨天皇、淳和天皇。.

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佐土原藩

佐土原藩庁が置かれていた佐土原城跡 佐土原藩(さどわらはん)は、江戸時代に日向国那珂郡および児湯郡を領有した藩。藩庁は佐土原城(宮崎県宮崎市佐土原町)。島津氏支族佐土原島津家が藩主であり、薩摩藩の支藩とされるが、その関係の正確性は薩摩藩との関係を参照。.

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佐野宗綱

佐野 宗綱(さの むねつな)は、戦国時代の武将。佐野氏の第16代当主。佐野昌綱の嫡男。.

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佐野氏

佐野氏(さのし)は、平安時代末期から江戸時代初期にかけて下野国を中心に栄えた一族。.

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彦坐王

彦坐王(ひこいますのみこ/ひこいますのおう、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。 『日本書紀』では「彦坐王」、『古事記』では「日子坐王」、他文献では「彦坐命」「彦今簀命」とも表記される。 第9代開化天皇の第三皇子で、第12代景行天皇の曾祖父である。事績に関する記載は少ないが、『古事記』において詳細な系譜が記される人物である。.

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但馬弁

但馬弁(たじまべん)は、兵庫県北部の但馬地方(南東部から順に朝来市・養父市・豊岡市・美方郡)で話される日本語の方言。方言区画上の分類としては、中国方言の東山陰方言に属する。 歓迎看板。八鹿駅にて.

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但馬国の式内社一覧

但馬国の式内社一覧(たじまのくにのしきないしゃいちらん)は、『延喜式』第9巻・第10巻「神名帳上下」(延喜式神名帳)に記載のある神社、いわゆる「式内社」およびその論社のうち、但馬国に分類されている神社の一覧。 また『延喜式』神名帳の編纂当時に存在したが同帳に記載の無い神社、いわゆる「式外社」についても付記する。.

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但馬国分寺

但馬国分寺(たじまこくぶんじ)は、兵庫県豊岡市日高町国分寺にある浄土宗の寺院。山号は護国山。 奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、但馬国国分僧寺の後継寺院にあたる。本項では現寺院とともに、古代寺院跡である但馬国分寺跡(国の史跡)と、但馬国分尼寺跡(史跡指定なし)についても解説する。.

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但馬県民局

兵庫県豊岡総合庁舎 但馬県民局(たじまけんみんきょく)は日本の地方自治法155条に基づいて設置されている兵庫県の支庁。所在地は豊岡市の兵庫県豊岡総合庁舎で、他に3箇所の庁舎を設置している。.

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但馬牛

但馬牛(たじまうし)は、兵庫県産の黒毛和種の和牛のこと。このうち、神戸肉流通推進協議会による基準を満たして生産され、同協議会が定める格付け基準を満たした牛肉を、但馬牛(たじまぎゅう)という。.

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徳山藩

徳山藩(とくやまはん)は、江戸時代の藩。長州藩(萩藩)の支藩。当初の名称は下松藩(くだまつはん)。 藩庁は最初は周防国下松(現在の山口県下松市)、後に同国徳山(改称前は野上村。現在の山口県周南市)。藩庁の置かれた徳山陣屋(徳山城)は、飯野陣屋、敦賀陣屋と共に日本三大陣屋の一つに数えられる。.

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徳川宗勝

徳川 宗勝(とくがわ むねかつ)は、尾張徳川家の尾張藩第8代藩主。御連枝川田久保松平家第2代当主、高須藩四谷松平家の第3代藩主でもあった。 川田久保松平家初代・松平友著(尾張徳川家第2代当主・徳川光友の十一男)の長男。母は側室湯本氏(繁、円珠院)。尾張徳川家第4・6・7代当主である吉通・継友・宗春兄弟の従弟に当たる。正室は第4代藩主・徳川吉通の次女・三姫(宝蓮院)。側室は倉林氏(すめ・寿光院)・馬場氏(とせ・清光院)・寺嶋氏(そよ・仙宥院)と多数。.

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土屋英直

土屋 英直(つちや ひでなお)は、常陸土浦藩の第7代藩主。 明和6年(1769年)11月28日、第4代藩主土屋篤直の三男として生まれる。寛政2年(1790年)に同母兄で第6代藩主の泰直が死去したため、その養子として家督を継ぎ、11月27日に従五位下・但馬守に叙位・任官する。 内桜田御門番、紅葉山火の番、西の丸大手御門番などを歴任した。寛政3年(1791年)には12か条の触れを出して経費節減や貯蓄を呼びかけ、また人口増加対策として困窮者に対する子供への養育米などを支給するなど、積極的な藩政改革を推し進めた。寛政11年(1799年)8月には稽古所(藩校・郁文館の前身)を設置し、学問を奨励した。自らも和歌に優れた文化人だったといわれる。 享和3年(1803年)8月12日に死去した。享年35。跡を長男の寛直が継いだ。 ひてなお Category:土浦藩主 Category:1769年生 Category:1803年没.

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土屋陳直

土屋 陳直(つちや のぶなお)は、常陸土浦藩の第3代藩主。 元禄8年(1695年)12月11日、第2代藩主土屋政直の四男として生まれる。兄の昭直、定直が早世したため嫡子となり、宝永6年(1709年)に従五位下・左京亮に叙位・任官する。享保4年(1719年)5月28日、父が隠居したため家督を継いだ。6月9日に紅葉山三の丸火の番に任じられ、8月16日に大手御門番に任じられる。 享保8年(1723年)3月25日に奏者番に任じられる。享保11年(1726年)2月16日に西の丸大手御門番に任じられる。藩政では新田開発(森沖新田・下沼新田)や城下町の拡大などに尽力している。しかし、享保15年から翌年にかけて洪水により領内が大被害を受けたため、享保16年(1731年)12月には岩間領で強訴が起きている。 享保19年(1734年)1月16日に死去した。享年40。跡を次男の篤直が継いだ。 のふなお Category:土浦藩主 Category:1696年生 Category:1734年没.

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土屋数直

土屋 数直(つちや かずなお)は、江戸時代前期の大名。常陸土浦藩の初代藩主。江戸幕府の若年寄・老中である。.

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土浦藩

土浦藩(つちうらはん)は、常陸国に存在した藩。藩庁は土浦城(現在の茨城県土浦市)。.

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地方知行

地方知行(じがたちぎょう)とは、江戸時代に将軍あるいは大名が家臣に対して禄として与える知行を、所領(地方と呼ばれる土地)及びそこの付随する百姓の形で与え、支配させること。将軍が大名に土地を与える場合には特に大名知行(だいみょうちぎょう)と呼ばれている。 ここにおける地方知行の解説に大名知行は含めないが、必要に応じて大名知行の例についても言及するものとする。.

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和名類聚抄

和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。承平年間(931年 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。略称は和名抄(わみょうしょう)。.

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備中国

備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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出石神社

出石神社(いずしじんじゃ)は、兵庫県豊岡市出石町宮内にある神社。式内社(名神大社)、但馬国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。.

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出石町

出石町(いずしちょう)は、かつて兵庫県北東部の出石郡に存在した町。 2005年4月1日、豊岡市、城崎町、竹野町、日高町、但東町と合併し、新「豊岡市」が成立したため消滅した。 現在は豊岡市の6地区の1つ「出石」で、出石支所が管轄する。地区内各町の町名には「出石町」の冠称がつく。 旧出石藩の城下町。現在も残る風情のある町並みは、「但馬の小京都」と呼ばれている。.

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出石郡

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出石藩

出石藩(いずしはん)は、但馬国に存在した藩。藩庁は出石城(兵庫県豊岡市出石町)。 出石城本丸から城下町を俯.

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出羽国

出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.

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出雲国造

出雲国造(いずものくにのみやつこ、いずもこくそう)は、出雲国(現在の島根県東部地方)を上古に支配した国造。その氏族の長が代々出雲大社の祭祀と出雲国造の称号を受け継いだ。 『先代旧事本紀』の巻10『国造本紀』によれば、第10代崇神天皇のとき、天穂日命(あめのほひのみこと)の11世の孫である宇賀都久怒(うかつくぬ)を国造に定めたとある。『古事記』によれば、无邪志国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造・遠江国造も天穂日命の子神・建比良鳥命(たけひらとりのみこと)を同祖とする。 祭祀継承は、『古事記』・『日本書紀』と『出雲国風土記』、千家家が伝える系譜書『出雲国造伝統略』に記されている。.

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八幡藩

八幡藩(はちまんはん、やわたはん)は江戸時代の藩。.

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八木豊信

八木 豊信(やぎ とよのぶ、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。但馬国の国人八木氏の当主。八木城主。 八木氏は守護の山名氏に属し、山名四天王の1人に数えられる家柄であったが、山名氏の衰退に伴い独立性を高めた。.

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八木藩

八木城の石垣 八木藩(やぎはん)は、但馬国(現在の兵庫県養父郡八鹿町八木)に存在した藩。戦国大名で播磨三木城主だった別所氏の一族が立藩したものの、後述のように江戸初期に藩主が不行跡で改易され、廃藩となった。.

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八木氏

八木氏(やぎし / やぎ の うじ)は、古代日本の神別氏族。姓(かばね)は八木造(やぎのみやつこ)で造(みやつこ)姓。「やぎ」は陽疑、陽枳、矢木にも作る。.

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元永

元永(げんえい)は、日本の元号の一つ。永久の後、保安の前。1118年から1119年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇。.

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先代旧事本紀

『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ、先代舊事本紀)は、日本の史書であり、神道における神典である。『旧事紀』(くじき)、『旧事本紀』(くじほんぎ)ともいう。全10巻からなり、天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されている。 序文に聖徳太子、蘇我馬子らが著したとあるが、江戸時代の国学者である多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らによって偽書とされた。現在では大同年間(806年~810年)以後、延喜書紀講筵(904年~906年)以前に成立したとみられている。 物部氏の氏族伝承など部分的に資料価値があると評価する立場の者もいる。.

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兵庫県

兵庫県(ひょうごけん)は、日本の都道府県の一つ。本州の中西部に位置し、近畿地方に属する。県庁所在地は神戸市。.

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前田重煕

前田 重煕(まえだ しげひろ、享保14年7月24日(1729年8月18日) - 宝暦3年4月8日(1753年5月10日))は、加賀藩の第7代藩主。加賀前田家8代。第5代藩主前田吉徳の次男。母は側室の民(鏑木氏・心鏡院)。幼名は亀次郎、初名は利安(としやす)。婚約者に高松藩主松平頼恭の娘・長姫。吉徳の息子で藩主についた5人(宗辰、重煕、重靖、重教、治脩)のうち2番目の藩主である。.

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前野長康

前野 長康(まえの ながやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の家臣。但馬国出石城主。.

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国人

国人(こくじん、くにびと、くにゅうど)とは、広くその国の国民、住民のこと大辞泉(小学館)。 六国史(日本後紀および三代実録)において国衙領の国民または住民を指す言葉として用いられ、越前国人、大和国人、河内国人などが見える日本後紀三代実録。 また、国人領主(こくじんりょうしゅ)は中世の史料において、在京の名目上の領主である中央官吏に対して在地の実質上の領主を指す言葉として用いられ(国人領主制)、国衆(くにしゅう)や在国衆(ざいこくしゅう)とほぼ同義ないし明確な違いは無い。.

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国立歴史民俗博物館

国立歴史民俗博物館(こくりつれきしみんぞくはくぶつかん)は、千葉県佐倉市城内町にある、大学共同利用機関法人人間文化研究機構が運営する博物館。日本の考古学、歴史、民俗について総合的に研究・展示する博物館である。通称、歴博(れきはく)。佐倉城趾の一角にある。 法的根拠は、国立大学法人法第2条第3項及び第4項並びに第5条である。.

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国造

国造(くに の みやつこ・こくぞう・こくそう)は、古代日本の行政機構において地方を治める官職のこと。また、その官職に就いた人のこと。軍事権、裁判権などを持つその地方の支配者であったが、大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった。 訓の「みやつこ」とは「御奴(ミヤツコ)」または「御家つ子」の意味とされる。.

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矢沢頼康

沢 頼康(やざわ よりやす)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。真田氏の家臣。真田幸隆の弟・矢沢頼綱の嫡男。真田信綱や真田昌幸の従兄弟にあたる。.

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福本藩

福本陣屋跡の回遊式庭園遺構 福本藩(ふくもとはん)は、播磨国神東郡の福本陣屋(現在の兵庫県神崎郡神河町福本)に藩庁を置いた藩。ただし、藩(大名の所領)であったのは江戸時代初期および明治維新期のごく短期間であり、その間は交代寄合(参勤交代を行う格式の旗本)池田家の知行地であった。 鳥取藩に預けられた池田輝澄を祖に持つ経緯から、鳥取藩との関係が強く、その支藩的立場であった。1870年、鳥取藩に吸収された。.

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秋元久朝

秋元 久朝(あきもと ひさとも)は、出羽山形藩の第3代藩主。館林藩秋元家9代。 寛政4年(1792年)閏2月23日、第2代藩主秋元永朝の五男として生まれる。兄の修朝、知朝が相次いで早世したため世継とされ、文化4年(1807年)、従五位下、左衛門佐に叙位・任官する。文化7年(1810年)、父の死により家督を継いだ。文政6年(1823年)、但馬守に遷任する。天保10年(1839年)4月13日、甥で養子の志朝に家督を譲って隠居し、若狭守に遷任する。 弘化3年(1846年)に大膳亮に遷任し、剃髪して休翁と号する。弘化4年(1847年)10月19日に死去した。享年56。 ひさとも Category:山形藩主 Category:譜代大名 Category:1792年生 Category:1847年没.

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秋元志朝

秋元 志朝(あきもと ゆきとも)は、江戸時代後期の大名。出羽山形藩4代藩主、後に上野館林藩初代藩主。館林藩秋元家10代。.

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秋元喬知

秋元 喬知(あきもと たかとも)は、江戸時代前期から中期の大名。甲斐谷村藩主、武蔵川越藩主。老中を元禄12年(1699年)から正徳4年(1714年)まで務めた。館林藩秋元家4代。実父の戸田忠昌、実弟の戸田忠真共に老中を務めた。.

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秋元喬房

秋元 喬房(あきもと たかふさ)は、武蔵川越藩の第2代藩主。.

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秋元凉朝

秋元 凉朝(あきもと すけとも)は、江戸時代中期の大名、老中。武蔵国川越藩主、のち出羽国山形藩主。諱は「すみとも」とも読む。隠居後は休弦と号する。.

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秋元礼朝

秋元 礼朝(あきもと ひろとも)は、江戸時代末期(幕末)の大名。上野館林藩の第2代(最後)の藩主。館林藩秋元家11代。.

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秋元永朝

秋元 永朝(あきもと つねとも)は、出羽山形藩の第2代藩主。館林藩秋元家8代。.

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秋元泰朝

秋元 泰朝(あきもと やすとも)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。館林藩秋元家2代。徳川家康の近習出頭人と呼ばれた。.

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竹田藩

竹田藩は但馬国を領した藩。藩庁は竹田城(兵庫県朝来市和田山町竹田)。.

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篠山藩

再建された篠山城篠山藩(ささやまはん)は、丹波国(現在の兵庫県篠山市北新町城内)に存在した藩。藩庁は篠山城。.

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粟鹿神社

粟鹿神社 鳥居 粟鹿神社(あわがじんじゃ)は、兵庫県朝来市にある神社。式内社(名神大社)、但馬国一宮。旧社格は県社。.

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紀州藩

紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 和歌山城 紀州藩(きしゅうはん)は、江戸時代に紀伊国一国と伊勢国の南部(現在の和歌山県と三重県南部)を治めた藩。紀伊藩(きいはん)とも呼ばれる。 版籍奉還後に定められた正式名称は和歌山藩(わかやまはん)。藩庁は和歌山城(和歌山県和歌山市)。藩主は紀州徳川家。紀州家は徳川御三家の一つで、石高は55万5千石。紀伊一国37万石のほか、伊勢国内の17万9千石を統括するために松坂城に城代を置いた。その他、大和国に約1千石の所領があった(石高には御附家老の水野家新宮領と安藤家田辺領を含む)。.

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総社

備中国総社宮(岡山県総社市)創祀当時に備中国にあった神社計304社を合祀する。 総社、惣社(そうじゃ、そうしゃ、すべやしろ)とは、日本で、特定地域内の神社の祭神を集めて祀った(.

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総社藩

総社藩(そうじゃはん)は、上野(現在の群馬県前橋市元総社町、もしくは総社町植野)に存在した藩。.

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美含郡

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美方郡

美方郡(みかたぐん)は兵庫県の郡。 以下の2町を含む。.

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真田昌幸

真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。 甲斐国の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。 軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像として現在でもよく知られ、武田二十四将の一人にも数えられることがある。子に真田信之(上田藩初代藩主)、真田信繁(真田幸村)ほかがいる。.

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生野奉行

生野奉行(いくのぶぎょう)は、織田信長、豊臣秀吉および江戸幕府により置かれ、生野銀山を管理した。1716年(享保元年)、生野銀山の産出量減少のため、生野代官(いくのだいかん)に組織変更された。 奉行所・代官所は、現在の兵庫県朝来市生野町口銀谷の生野小学校付近にあった。 江戸時代の生野奉行は11代、代官に改組後は28人が勤めた。代官には旗本が任命され、生野銀山の後背地となっていた但馬国、播磨国、美作国の天領も統治した。なお、統治規模は但馬国最大の藩である出石藩よりも大きく、江戸時代初期は5万2千石、江戸時代末期には8万2千石に達していた。 江戸時代後期の1863年(文久3年)10月には生野の変での挙兵によって代官所が占領されてしまっている。生野の変は、天誅組の変とともに明治維新の導火線となったと評価されている。 明治維新後の生野代官所支配地は、府中裁判所、久美浜県、生野県となった後、豊岡県、姫路県、北条県に分割・編入された。現在は、兵庫県および岡山県の一部となっている。.

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生野県

生野県(いくのけん)は、1869年(明治2年)に但馬国、播磨国、美作国内の幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって設置された県。管轄地域は現在の兵庫県北部、岡山県北東部に分布していた。本項では前身である府中裁判所についても記す。.

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牛久藩

牛久藩(うしくはん)は、常陸国河内郡に存在した藩。藩庁は牛久陣屋(現在の茨城県牛久市)。.

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直江兼続

江 兼続(なおえ かねつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。米沢藩(主君 上杉景勝)の家老。兜は「錆地塗六十二間筋兜」 立物は「愛字に端雲の立物」。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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遠藤胤城

遠藤 胤城(えんどう たねき、天保9年6月5日(1838年7月25日)- 明治42年(1909年)11月9日)は、近江三上藩の第6代藩主、和泉吉見藩主、三上藩遠藤家11代。明治11年(1878年)正月、遠藤氏の旧姓である東氏(とうし)を名乗った『平成新修旧華族家系大成』下巻、135-136頁。。第5代藩主・遠藤胤統の三男。母は小谷氏。正室は堀親寚六女・教子。子に東胤禄(長男)、東常任(次男)、娘・鍈子(酒井忠宝正室)、娘・富貴子(居初富三郎室)、娘・昭子(山田軍太郎室)。官位は従五位下、美濃守、備前守、但馬守。死後に正三位。.

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遠藤胤統

遠藤 胤統(えんどう たねのり)は、近江三上藩の第5代藩主。三上藩遠藤家10代。江戸幕府の若年寄を務めた。.

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遠藤胤親

遠藤 胤親(えんどう たねちか)は、近江三上藩の初代藩主。徳川綱吉の側室・お伝の方(瑞春院)の甥にあたる。.

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遠藤慶利

遠藤 慶利(えんどう よしとし、1609年5月11日(慶長14年4月8日) - 1646年8月9日(正保3年6月28日))は、美濃八幡藩の第2代藩主。三上藩遠藤家2代。 飛騨の戦国大名・姉小路氏の一門で徳川義直に仕えていた森直綱の次男。母は遠藤慶隆の娘・清洲。正室は板倉重宗の娘。子に遠藤常友(長男)、遠藤常昭(次男)、遠藤常紀(三男)、娘(小笠原貞信継室)。官位は従五位下、伊勢守、但馬守。 外祖父の遠藤慶隆には嫡子・遠藤慶勝がいたが大坂冬の陣で発病して翌年に京都で病死した。慶隆には他に男子が無かったため、慶利が養嗣子とされた。寛永9年(1632年)6月28日、慶隆の死去により家督を継ぐ。寛永11年(1634年)、将軍・徳川家光の3度目の上洛に供奉する。寛永13年(1636年)、朝鮮通信使御馳走役を命ぜられる。正保3年(1646年)6月28日、38歳で死去し、跡を長男の常友が継いだ。 Category:三木氏 よしとし Category:郡上藩主 Category:外様大名 Category:1609年生 Category:1646年没.

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遠藤慶隆

遠藤 慶隆(えんどう よしたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。美濃国の国人で郡上郡八幡城主。美濃八幡藩初代藩主。三上藩遠藤家初代。諱は天正(1573年 - 1592年)初年頃は盛枝と署名している。.

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飛地

飛地(とびち、飛び地)とは、一つの国の領土や行政区画、町会等の内、地理的に分離している一部分である。土地の一部が「他所に飛んでいる」と見られることからこう呼ばれる。 オエクシ)が飛地にあたる。.

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養父市

八鹿地区周辺の空中写真。1976年撮影の2枚を合成作成。国土航空写真。 養父市(やぶし)は、兵庫県の北部に位置する市である。但馬県民局管轄区域。中山間地農業の改革拠点として国家戦略特区に指定されている。.

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養父神社

鳥居・手水舎 養父神社(やぶじんじゃ)は、兵庫県養父市にある神社。但馬国三宮、式内社(名神大社)で、旧社格は県社。 「養父の明神さん」と呼ばれ、農業の神として知られる。養父神社のある養父市場は古くから但馬牛の牛市の中心地であり、現在でも近隣の大藪で但馬牛のせり市が開かれている。.

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養父郡 (兵庫県)

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館林藩

林藩(たてばやしはん)は、上野邑楽郡にあった徳川家と関わりが深い藩。石高は、短い一時期を除いておおむね5万石から11万石の中藩で、御両典のひとつとして御三家に継ぐ高い家格を持った徳川綱吉とその子・徳松の時代は例外的に25万石だった。藩庁は館林城(現在の群馬県館林市城町)。.

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香美町

香美町(かみちょう)は、兵庫県の北部、美方郡の町。但馬県民局管轄地域。.

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角川日本地名大辞典

『角川日本地名大辞典』(かどかわにほんちめいだいじてん)は、角川書店の出版による日本の地名辞典である。 著者は「角川日本地名大辞典」編纂委員会で、委員長を務めた竹内理三は本書を制作する目的として「民族遺産としての地名を将来に伝えること」、現代の地名を収録したことについては「現代の社会生活上の必要を満たし、地域の現状を歴史として後世に伝えること」としている(それぞれ本書冒頭の「編纂のことば」より引用)。.

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谷村藩

谷村藩(やむらはん)は、江戸時代初期に甲斐国にあった藩。 甲斐国4郡のうち東部の都留郡一帯にあたる郡内地方を支配した。古くから独立性の強い郡内領を治め、別名郡内藩(ぐんないはん)と呼ばれる。領内支配の中心であった谷村城は、郡内地域では数少ない城跡として現在でも残されている。.

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豊岡

豊岡(とよおか).

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豊岡城

豊岡城(とよおかじょう)は、兵庫県豊岡市にあった日本の城。別名・亀城。.

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豊岡市

豊岡市(とよおかし)は、兵庫県の北部(但馬地域)に位置する市。但馬県民局管轄地域。豊岡都市圏を形成する県北部の中心都市で、兵庫県で最も面積が大きい市でもある。 日本で最後の野生コウノトリの生息地として知られ、コウノトリの保護・繁殖・共生の事業が行われている。市内には城崎温泉、重伝建の出石、竹野浜などの海水浴場、神鍋高原のキャンプ場・スキー場がある。.

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豊岡県

豊岡県庁正門 豊岡県(とよおかけん)とは、丹後国、但馬国および丹波国西部を範囲とした県である。県庁所在地は豊岡。1871年8月29日(旧暦7月14日)に設置され、1876年8月21日に分割されて廃止された。現在の京都府北部と兵庫県北部に当たる。.

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豊岡藩

豊岡藩(とよおかはん)は、但馬国城崎郡周辺を領有した藩。藩庁は当初、豊岡城(現在の兵庫県豊岡市)のち豊岡陣屋。 豊岡県庁正門と豊岡市立図書.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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豊臣秀長

豊臣 秀長(とよとみ ひでなが / とよとみ の ひでなが)または羽柴 秀長(はしば ひでなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 豊臣秀吉の異父弟(同父弟説もある)。豊臣政権において内外の政務および軍事面で活躍を見せ、天下統一に貢献した。 最終的には大和・紀伊・和泉の3ヶ国に河内国の一部を加え、約110余万石の大名となるに至る。また官位も従二位権大納言に栄進したことから、大和大納言と尊称された。秀吉は秀長を隣に配して重用し、また秀長も秀吉に異を唱え制御できる人物であった。短期間で成長を遂げ、徳川家康や伊達政宗など外様大名を抱える豊臣政権における調整役であり、政権の安定には欠かせぬ貴重な人物だった。.

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鳥取城

鳥取城(とっとりじょう)は、鳥取県鳥取市(旧・因幡国邑美郡)に築かれた戦国時代から江戸時代の日本の城。国の史跡に指定されている。別名、久松山城。戦国時代から江戸末期にかけての城郭形態の変化を窺うことができることから「城郭の博物館」の異名を持つ細田隆博「烏取城」、学習研究社編『【決定版】図説 厳選 日本名城探訪ガイド』学習研究社、2009年、ISBN 978-4-05-605328-9 。織田信長の中国攻めでは、家臣の羽柴秀吉が兵糧攻めを用いて攻略した。開城後、入城した宮部継潤によって山上ノ丸の改修が行われ、江戸時代には鳥取藩池田氏の治下に入り、麓の二の丸以下の曲輪が拡張された。現在は天守台、石垣、堀、井戸などが残る。城址から望む市街.

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越前勝山藩

越前勝山藩(えちぜんかつやまはん)は、越前国勝山周辺を支配した藩。居城は勝山城。.

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越前松平家

越前松平家(えちぜんまつだいらけ)は、越前国を発祥とする徳川氏の支流で、御家門のひとつ。単に越前家ともいう。越前松平家または越前家という呼称は、徳川家康の次男秀康を家祖とする一門全体を指す場合と、その領地の場所から福井松平家(福井藩)のみを指す場合とがある。幕末の福井藩主と津山藩主は徳川将軍家から養子を迎えたため、御家門筆頭とほぼ同等の扱いを受けた。.

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足守藩

陣屋遺構 藩主庭園・近水園(おみずえん) 足守藩(あしもりはん)は、備中国賀陽郡及び上房郡の一部を領有した藩。一時は領地の大半が陸奥国に移された。藩庁を足守陣屋(岡山県岡山市北区足守)に置いた。.

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黒田節

博多駅前にある黒田節像 黒田節(くろだぶし)は、福岡県福岡市の民謡。「〽酒は呑め呑め 呑むならば 日本一(ひのもといち)のこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士」の歌詞で有名。酒宴などでよく謡われる定番の唄である。なお、初期にレコード販売された頃は「黒田武士」と表記された。 御香宮神社前にある黒田節誕生の地の立札(京都市伏見区).

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近国

近国(きんごく)とは、律令国の等級区分の一つである。 律令制のもとで国家体制を整えていた古代の日本において、地方行政区画の一環として、畿内からの距離によって国を分けた。その結果、「近い位置にある国」が近国とされた(畿内の国は分類されない)。.

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近江国

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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閏(うるう、じゅん)とは、暦において一年の日数や月数が普段の年(平年)よりも多いこと、または一日の秒数が普段の日よりも多いことをいう。またはその余分な日・月・秒のこと。.

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関長広

関 長広(せき ながひろ)は、備中新見藩の第2代藩主。新見藩関家3代。 元禄7年(1694年)6月29日、初代藩主・関長治の兄・森長俊の次男として美作に生まれる。 宝永3年(1706年)4月、叔父長治の養子となる。享保10年(1725年)3月5日、養父の隠居により家督を継いだ。しかし生来から病弱で政務が執れず、惰弱な藩主の下で家臣団は博打に走るなど綱紀が乱れ、財政難も起こった。 享保17年(1732年)5月4日、養父に先立って死去した。享年39。跡を長男の政富が継いだ。 なかひろ なかひろ *02 Category:1694年生 Category:1732年没.

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関長道

関 長道(せき ながみち)は、備中国新見藩の第8代藩主。新見藩関家9代。 文化12年(1815年)1月15日、第5代藩主・関長誠の次男である播磨国三日月藩主・森長義の次男(四男との説もある)として生まれる。幼名は亀寿。通称は主計。 天保9年(1838年)8月16日、第7代藩主・成煥の養子となる。天保11年10月1日、将軍徳川家慶に拝謁する。天保12年(1841年)閏1月20日、養父成煥の隠居により、家督を継いだ。天保13年10月29日、従五位下備前守に叙任する。 藩政に見るところはないが、家庭的に不幸だった。長男千菊ら4人いた男児はいずれも早世したため、先代・成煥の甥にあたる一門の長克に長女の亭以を娶わせることで跡継ぎとした。 安政5年(1858年)8月13日に死去した。享年44。跡を婿養子の長克が継いだ。 なかみち なかみち *08 Category:幕末の大名 Category:1815年生 Category:1858年没.

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関長輝

関 長輝(せき ながてる)は、備中新見藩の第6代藩主。新見藩関家7代。 安永6年(1777年)6月17日、第5代藩主・関長誠の長男として生まれる。寛政2年4月1日、将軍徳川家斉に拝謁する。寛政7年(1795年)11月24日、父長誠の隠居により家督を継いだ。同年12月17日、従五位下備前守に叙任する。父と違って有能ではなく、また領民に対して御用銀を課すなどの一面を見せた。 文政2年(1819年)11月21日に家督を次男・成煥に譲って隠居する。文政9年(1826年)9月20日に死去した。享年50。 なかてる *06 Category:1777年生 Category:1826年没.

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開化天皇

開化天皇(かいかてんのう、孝元天皇7年 - 開化天皇60年4月9日)は、日本の第9代天皇(在位:孝元天皇57年11月12日 - 開化天皇60年4月9日)。 和風諡号は、『日本書紀』では「稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと)」、『古事記』では「若倭根子日子大毘毘命」。 『日本書紀』・『古事記』とも系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。.

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藤原忠隆

藤原 忠隆(ふじわら の ただたか)は、平安時代後期の公卿。藤原基隆(藤原家範の子、師家の孫)の長男。.

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藤原刷雄

藤原 刷雄(ふじわら の よしお)は、奈良時代の貴族。藤原南家、太師・藤原仲麻呂(恵美押勝)の六男。官位は正五位下・図書頭。.

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藤原内麻呂

藤原 内麻呂(ふじわら の うちまろ)は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿。藤原北家、大納言・藤原真楯の三男。官位は従二位・右大臣。 桓武・平城・嵯峨の三帝に仕え、いずれの天皇にも信頼され重用された。伯父である永手の系統に代わって北家の嫡流となり、傍流ゆえに大臣になれなかった父・真楯より一階級上の右大臣に至り、平城朝~嵯峨朝初期にかけては台閣の首班を務めた。また、多くの子孫にも恵まれ、後の藤原北家繁栄の礎を築いた。.

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藤原隆季

藤原 隆季(ふじわら の たかすえ)は、平安時代後期の公卿。中納言・藤原家成の長男。官位は正二位・権大納言。四条または大宮を号す。四条家の祖。.

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藤原顕綱

藤原 顕綱(ふじわら の あきつな)は、平安時代中期から後期にかけての貴族・歌人。藤原北家道綱流、参議・藤原兼経の三男。官位は正四位下・丹波守、讃岐守、但馬守。.

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藤原魚名

藤原 魚名(ふじわら の うおな)は、奈良時代の公卿。藤原北家、参議・藤原房前の五男。官位は正二位・左大臣。.

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藤原長岡

藤原 長岡(ふじわら の ながおか)は、平安時代初期の貴族。藤原北家、右大臣・藤原内麻呂の六男『続日本後紀』嘉祥2年2月6日条。官位は従四位上・大和守。  .

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藤原朝経

藤原 朝経(ふじわら の あさつね)は、平安時代中期の公卿。藤原北家兼通流、大納言・藤原朝光の長男。官位は正二位・権中納言。.

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藤堂高虎

津城址にある藤堂高虎像 藤堂 高虎(とうどう たかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。 何度も主君を変えた戦国武将として知られる。築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城し黒田孝高、加藤清正とともに名人として知られる。高虎の築城は石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。.

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藩庁

藩庁(はんちょう)とは、江戸時代の幕藩体制から明治初期の府藩県制にかけての、藩の役所を表す用語。語としては県の「県庁」等にあたる。 江戸時代の藩政の拠点のことを、明治時代以降に当てた用語である。類義語に藩府(はんぷ)があるが、この語は、江戸時代に藩が江戸に置いた役所をさすことがある。また、明治時代の府藩県三治制下で地方行政の区画として設置された、藩の知藩事が政務を行う役所のこと。 江戸時代の藩の藩庁は、大名の居城や居所のことで、城や屋敷に設置して大名が支配する領内の行政業務を執り行う。城持大名以上の藩は城に、城主格以下の城主格と無城大名の藩は城を構えることが許されなかったことから、領内に屋敷を置いて藩庁とした。こうした無城大名の屋敷のことを俗に陣屋というが、江戸時代では居所や在所と称した。なかには、藩庁を設けない藩もあった。藩庁を中心に栄えた町を陣屋町といい、城の場合は城下町と呼ばれた。.

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長尾定景 (足利長尾氏)

長尾 定景(ながお さだかげ)は、室町時代後期の武士。山内上杉家の家臣である足利長尾氏2代当主。 長尾景人の嫡男として誕生。文明4年(1472年)に父の死により家督を継ぎ、主君である関東管領・上杉顕定の偏諱を受け「定景」と名乗るが、病弱であったらしく僅か3年で急死した。 このため、叔父・長尾房清の後見を受けた弟・景長が後を継いだ。 さたかけ Category:室町時代の人物 Category:15世紀生 Category:1475年没.

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長尾当長

長尾 当長(ながお まさなが)は、戦国時代の武将。足利長尾氏当主。.

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長尾景人

長尾 景人(ながお かげひと)は、室町時代後期の武将。山内上杉家の家臣である足利長尾氏の祖。下野国勧農城主。.

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長尾景長

長尾 景長(ながお かげなが)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。山内上杉家の家宰。下野国足利庄勧農城主。画家としても知られている。.

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長徳

長徳(ちょうとく)は、日本の元号の一つ。正暦の後、長保の前。995年から999年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.

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長保

長保(ちょうほう)は、日本の元号の一つ。長徳の後、寛弘の前。999年から1003年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.

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長和

長和(ちょうわ)は、日本の元号の一つ。寛弘の後、寛仁の前。1012年から1016年までの期間を指す。この時代の天皇は三条天皇、後一条天皇。.

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長承

長承(ちょうしょう)は、日本の元号の一つ。天承の後、保延の前。1132年から1134年までの期間を指す。この時代の天皇は崇徳天皇。.

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良岑安世

良岑 安世(よしみね の やすよ)は、平安時代初期の皇族・貴族。桓武天皇の皇子。官位は正三位・大納言、贈従二位。.

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JST

JSTとは.

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柳生宗矩

柳生 宗矩(やぎゅう むねのり)は、江戸時代初期の武将、大名、剣術家。徳川将軍家の兵法指南役。大和柳生藩初代藩主。剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した。.

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柳生俊峯

柳生 俊峯(やぎゅう としみね、享保4年(1719年)- 宝暦13年8月29日(1763年10月6日))は、大和柳生藩の第7代藩主。 信濃松代藩主・真田信弘の四男。正室は牧野康重の娘。子に娘(柳生俊則正室)、娘(池田政朗正室)、娘(秋月種穀正室)。官位は従五位下、但馬守、備前守。幼名は亀之丞、采女。 享保18年(1733年)12月22日、先代藩主の柳生俊平の養嗣子となる。享保19年3月13日、将軍徳川吉宗にお目見えする。寛保2年(1742年)11月16日、養父俊平の隠居により跡を継いだ。同年12月18日、従五位下但馬守に叙任する。しかし、宝暦元年(1751年)12月12日、江戸藩邸の失火により処罰されている。宝暦13年(1763年)8月29日に死去し、跡を養嗣子の俊則が継いだ。 芳徳寺境内にある柳生一族の墓所。左が俊峯の墓 法号は随転紹幽大心院。墓所は東京都練馬区桜台の広徳寺と奈良県奈良市柳生町の芳徳寺。.

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柳生俊平

柳生 俊平(やぎゅう としひら、元禄12年(1699年) - 明和5年3月18日(1768年5月4日))は、大和国柳生藩の第6代藩主。 芳徳寺境内にある柳生一族の墓所。中央右が俊平の墓 伊勢国桑名藩主・松平定重の十一男。正室は稲葉恒通の娘。官位は従五位下、但馬守、飛騨守。 幼名は六弥。通称は靭負。先代藩主・柳生俊方の2人目の養嗣子・矩美が早世したため、享保6年(1721年)11月13日に養嗣子として迎えられた。同年11月28日、将軍徳川吉宗にお目見えする。享保15年(1730年)5月29日、養父俊方の死去により跡を継ぐ。同年12月18日、従五位下但馬守に叙任する。後に飛騨守に改める。寛保2年(1742年)11月16日、養嗣子の俊峯に家督を譲って隠居し、明和5年(1768年)3月18日に70歳で死去した。 法号は心源妙証得心院。墓所は東京都練馬区広尾の広徳寺と奈良県奈良市柳生町の芳徳寺。 としひら Category:久松松平氏 *06 Category:1699年生 Category:1768年没.

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柳生俊則

柳生 俊則(やぎゅう としのり、享保15年(1730年)- 文化13年6月5日(1816年6月29日))は、大和柳生藩の第8代藩主。 蝦夷松前藩主松前邦広の次男。正室は柳生俊峯の娘。子は柳生俊永(次男)、柳生俊睦(三男)。官位は従五位下、采女正、能登守、但馬守。 松前で生まれる。通称は為次郎、采女。初名は賢広、満広、俊満。延享4年(1747年)1月15日、将軍徳川家重にお目見えする。宝暦3年(1753年)7月29日、先代藩主の俊峯の娘と結婚して婿養子となる。同年9月18日、将軍徳川家重にお目見えする。宝暦13年(1763年)10月22日、養父俊峯の死去により跡を継いだ。同年12月9日、従五位下采女正に叙任した。天明8年(1788年)、将軍徳川家斉の剣術指南役を務めている。文化4年(1807年)8月5日、養嗣子の俊豊に家督を譲って隠居し、文化13年(1816年)6月5日に87歳で死去した。 芳徳寺境内にある柳生一族の墓所。右端が俊則の墓 墓所は東京都練馬区桜台の広徳寺と奈良県奈良市柳生町の芳徳寺。 *08 としのり Category:松前氏 Category:松前藩の人物 Category:1730年生 Category:1816年没.

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柳生俊章

柳生 俊章(やぎゅう としあきら、文化6年(1809年) - 文久2年閏8月17日(1862年10月10日))は、大和国柳生藩の第10代藩主。 第9代藩主・柳生俊豊の長男。正室は田沼意正の娘。官位は従五位下、但馬守、飛騨守。幼名は英次郎。 文政3年(1820年)11月8日、父俊豊の死去により跡を継ぐ。日光祭礼奉行、大坂青屋口御加番、半蔵口御門番などを勤めた。江戸城普請などでも功を挙げている。嘉永2年(1849年)11月14日、岳父田沼意正の次男で養嗣子の俊能に家督を譲って隠居した。嘉永5年10月7日、不行跡により謹慎を命じられる。文久2年(1862年)閏8月17日に54歳で死去した。法号は智峰紹転大機院。 芳徳寺境内にある柳生一族の墓所。中央が俊章の墓 墓所は東京都練馬区桜台の広徳寺と奈良県奈良市柳生町の芳徳寺。 *10 としあきら Category:1809年生 Category:1862年没.

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柳生俊益

柳生 俊益(やぎゅう とします)は、大和柳生藩の第13代(最後)の藩主。.

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柳生俊順

柳生 俊順(やぎゅう としむね)は、大和柳生藩の第12代藩主。.

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柳生藩

柳生藩(やぎゅうはん)は、大和国添上郡柳生郷(現奈良市柳生地区)を治めた藩。石高1万石程度の小藩であったが、藩主家の柳生氏は代々将軍家の剣術指南役として幕閣に重きをなした。藩庁は柳生陣屋。.

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柳生氏

柳生氏(やぎゅうし)は、日本の氏族。.

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柳生新陰流

新陰流兵法目録事/宝山寺所蔵 柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)は、柳生宗厳以降の新陰流の俗称。正式な流儀名は新陰流。.

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松平友著

松平 友著(まつだいら ともあき、延宝6年10月7日(1678年11月20日) - 享保13年3月30日(1728年5月8日))は、川田久保松平家初代当主。尾張藩第2代藩主徳川光友の十一男。母は梅香院(鈴木氏または大橋氏)、幼名は大蔵、初名は友親。徳川宗勝の実父。官位は従四位下但馬守。.

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松平信孝 (小島藩主)

松平 信孝(まつだいら のぶなり)は、駿河小島藩の初代藩主。小島藩滝脇松平家初代。石高は初め6000石、後に1万石。江戸幕府の小姓組番頭・御側衆・書院番頭・若年寄を務める。.

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松平信義 (丹波亀山藩主)

松平 信義(まつだいら のぶよし)は、幕末の老中、丹波亀山藩の第7代藩主。丹波亀山藩形原松平家12代。.

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松平直常

松平 直常(まつだいら なおつね)は、江戸時代中期の大名。播磨明石藩第2代藩主。直良系越前松平家3代。.

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松平直良

松平 直良(まつだいら なおよし)は、江戸時代前期の大名。越前国木本藩主、越前勝山藩主、越前大野藩初代藩主。直良系越前松平家初代。.

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松平直泰

松平 直泰(まつだいら なおひろ)は、江戸時代中期から後期の大名。播磨明石藩第4代藩主。直良系越前松平家5代。.

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村岡藩

村岡藩(むらおかはん)は、明治時代初期の藩の一つ。但馬国七美郡を領した。藩庁は村岡陣屋に置かれた。 室町時代には全国の6分の1を支配した守護大名山名氏の末裔である山名豊国が、関ヶ原の戦いの戦功により、徳川家康から七美郡6700石を与えられたのが藩の始まりである。その後の領主は新田開発や産業の振興などをすすめて実高を増やしていき、1868年、明治政府によって1万1000石への高直しが認められて立藩した。.

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橘俊綱

橘 俊綱(たちばな の としつな)は、平安時代中期から後期にかけての貴族・歌人。藤原北家、関白・藤原頼通の次男。官位は正四位上・修理大夫。讃岐守・橘俊遠の養子。.

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正暦

正暦(しょうりゃく)は、日本の元号の一つ。永祚の後、長徳の前。990年から995年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.

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此隅山城

此隅山城(このすみやまじょう)は、兵庫県豊岡市の出石にある日本の城(山城)跡。別名は子盗城、此隅城。有子山城跡と合わせて「山名氏城跡」として国の史跡に指定されている。.

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歴史的仮名遣

歴史的仮名遣(れきしてきかなづかい)とは、仮名遣の一種。現代仮名遣いと対比して旧仮名遣(きゅうかなづかい)とも呼ばれるが、別称として「復古仮名遣い」とも、また「古典仮名遣い」とも呼ばれる。 1986年7月1日に告示、訓令された「現代仮名遣い(内閣告示第一号)」の巻頭部においては、歴史的仮名遣いと記されている。.

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母里友信

母里 友信(もり とものぶ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。黒田氏の家臣。通称は太兵衛(たへえ)、多兵衛(たひょうえ)。幼名は万助。但馬守を称す。 槍術に優れた剛力の勇将として知られ、栗山利安と共に黒田軍の先手両翼の大将を務めた。黒田二十四騎の中でも特に重用された黒田八虎の一人である。また、「黒田節」に謡われる名槍「日本号」を福島正則から呑み獲った逸話でも知られる。 「もり」という読みから江戸幕府の文書などに「毛利」と誤記され、実際に一時期「毛利」と改姓したため毛利但馬、毛利太兵衛と表記されることも多い。なお、黒田家中での正式な読みは「ぼり」であり、福岡県内(福岡市博物館など)では現在でもこう読まれることもある。.

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毛利広豊

毛利 広豊 (もうり ひろとよ)は、周防徳山藩の第5代藩主。就隆系毛利家5代。3代藩主・毛利元次の三男。兄は4代藩主・毛利元堯。毛利輝元の男系の曾孫にあたる。.

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水谷神社

水谷神社(みずたにじんじゃ)は、兵庫県養父市奥米地(おくめいじ)に鎮座する神社。「みたに」神社とも通称される。奥米地集落の北西部、3段に分かたれた境内地の最上段に東面して鎮座する。式内名神大社で、旧社格は村社。.

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永延

永延(えいえん)は、日本の元号の一つ。寛和の後、永祚の前。987年から989年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.

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永祚 (日本)

永祚(えいそ)は、日本の元号の一つ。永延の後、正暦の前。989年から990年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.

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気多神社 (豊岡市)

気多神社(けたじんじゃ)は、兵庫県豊岡市日高町上郷にある神社。式内社、但馬国総社で、旧社格は郷社。 旧称は「惣社気多大明神」。.

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気多郡 (兵庫県)

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池田徳潤

池田 喜延(いけだ よしのぶ)または池田 徳潤(いけだ のります)は、幕末維新期の大名。播磨福本藩主。維新後は男爵。.

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池田喜通

池田 喜通(いけだ よしみち)は、江戸時代後期から末期の寄合旗本、大名。播磨福本藩主。.

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清富藩

清富藩(きよどめはん)は、江戸時代の前期に但馬国二方郡に存在した藩。同郡清富村(現在の兵庫県新温泉町)に陣屋があった。.

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源家長

源 家長(みなもと の いえなが、嘉応2年(1170年)? - 文暦元年(1234年))は、鎌倉前期の貴族・歌人。醍醐源氏高明流、大膳亮・源時長の子。官位は従四位上・但馬守。新三十六歌仙の一人。.

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源則理

源 則理(みなもと の のりまさ、生没年不詳)は、平安時代後期の貴族。醍醐源氏、権大納言・源重光の三男。兄弟に四位左少将明理・民部大輔方理らがいる。官位は正四位下・但馬守。.

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源経基

源 経基(みなもと の つねもと、源 經基)は、平安時代中期の皇族・武将。経基流清和源氏の初代。 『保元物語』によれば、父は清和天皇の第 6皇子・貞純親王で、母は右大臣・源能有の娘。皇族に籍していたとき「六孫王」と名乗ったとされるが、当時の文献には見られない。居館は六宮とも八条御所ともいう。.

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源頼光

源 頼光(みなもと の よりみつ)は、平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍・源満仲、母は嵯峨源氏の近江守・源俊の娘。諱はしばしば「らいこう」と有職読みされる。 満仲の長子で清和源氏の3代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる。異母弟に大和源氏の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいる。.

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源満頼

源 満頼(みなもと の みつより)は、平安時代中期の武士。源経基または源満季の子。.

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朝来市

市川(生野町口銀谷) 朝来市(あさごし)は、兵庫県北部に位置する市。但馬県民局管轄地域。但馬地方の南端に位置する。.

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朝来郡

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木村礎

木村 礎(きむら もとい、1924年 - 2004年11月27日)は、日本の歴史学者、明治大学名誉教授。地方史・村落史を専門とした。.

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木本藩

木本藩(このもとはん)は、越前国(現在の福井県大野市木本)に存在した藩。.

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有子山城

有子山城(ありこやまじょう)は、兵庫県豊岡市出石(但馬国)にある日本の城(山城)跡。此隅山城跡と合わせて「山名氏城跡」として国の史跡に指定されている。.

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成務天皇

成務天皇(せいむてんのう、景行天皇14年 - 成務天皇60年6月11日)は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる第13代天皇(在位:成務天皇元年1月5日 - 同60年6月11日)。和風諡号は稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)、『古事記』は若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらみこと)とする。『日本書紀』にはこの天皇の事績として、日本全国に数多くの国造を任命したり、稲城を設置したり、国や郡の境を定めたりしたことが記されている。.

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戸田氏西

戸田 氏西(とだ うじあき、寛永4年11月1日(1627年12月8日) - 貞享元年6月7日(1684年7月19日))は、江戸時代前期の大名。美濃大垣藩の第3代藩主。大垣藩戸田家4代。 第2代藩主・戸田氏信の長男。母は牧野忠成の娘。正室は内藤忠政の娘。子に戸田氏定(長男)、戸田氏成(次男)。官位は従四位下、但馬守、肥後守。 寛永4年(1627年)11月1日生まれ。幼名は新二郎。寛文11年(1671年)11月に父から家督を譲られ、藩主となった。氏西が家督を相続した頃には、大垣藩の財政はかなり逼迫していた。氏西はこれに対し、改革を断行する。同年、不破郡の検地を実施して幕府から賞賛された。その後も郡奉行制から代官制への移行、「延宝の大暇」と呼ばれた176人にも及ぶ家臣団の整理(リストラ)や藩財政の経費節減などに努めた。天和元年(1681年)には半知借上げも実施。また、藩札なども発行しているが、氏西の藩政改革の効果は薄く、大垣藩の藩財政はさらに悪化していった。 延宝4年(1676年)、遠藤常友の死去により家督を継いだ郡上八幡藩主遠藤常春が未だ幼年のため、幕府により遠藤常春の生母の兄弟である氏西らが後見とされた。 貞享元年(1684年)6月7日に江戸にて死去した。享年58。死後、家督は長男の氏定が継いだ。 Category:大垣藩主 Category:譜代大名 うしあき Category:1627年生 Category:1684年没.

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明石則実

明石 則実(あかし のりざね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。 織田氏の家臣・羽柴秀吉が播磨国に入国して姫路城主になった際、従兄弟の黒田孝高と共に秀吉に属した。 天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いに参加し、天正13年(1585年)3月の紀州征伐では紀伊国太田城攻めで功があり1万石となる。ついで四国征伐にも参加。戦後に但馬国豊岡城において2万2,000石を領し、左近将監に叙任された。天正15年(1587年)の九州平定では兵800を率いる。翌年の聚楽第行幸では関白となった豊臣秀吉の牛車に供奉している。小田原征伐では秀吉の馬廻として従軍する。 文禄元年(1592年)の文禄の役にも兵800を率いて朝鮮へ渡海し、大邱など釜山から漢城に向かう慶尚道内の要路の防衛を担当するなどしている。しかし、文禄の役後、秀次事件に連座して切腹を命じられた。 のりさね Category:戦国武将 Category:織豊政権の大名 Category:播磨国の人物 Category:切腹した人物 Category:16世紀生 Category:1595年没.

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明石藩

明石藩(あかしはん)は、播磨国明石郡(兵庫県明石市、神戸市西区、神戸市垂水区など)を領した藩。藩庁は明石城に置かれた。 明石城跡.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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春澄善縄

春澄 善縄(はるすみ の よしただ、延暦16年(797年) - 貞観12年2月19日(870年3月24日))は、平安時代初期から前期にかけての学者・公卿。氏姓は猪名部造のち春澄宿禰、春澄朝臣。字は名達(めいたつ)。周防国大目・猪名部豊雄の長男。官位は従三位・参議。.

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浅野宗恒

浅野 宗恒(あさの むねつね)は、安芸広島藩の第6代藩主。浅野家宗家7代。将軍徳川吉宗より偏諱を賜って宗恒と名乗った。.

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浅野長晟

浅野 長晟(あさの ながあきら)は、江戸時代前期の大名。備中足守藩主、紀伊和歌山藩の第2代藩主、安芸広島藩の初代藩主。浅野氏宗家2代。.

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新見藩

新見藩(にいみはん)は、江戸時代中期より廃藩置県まで備中国にあった藩。藩庁は阿賀郡(現:岡山県新見市)の新見陣屋。立藩以来、外様大名の関氏が藩主を務め、石高は1万8千石であった。.

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新温泉町

新温泉町(しんおんせんちょう)は、兵庫県の北部に位置する美方郡の町。但馬県民局の管轄地域で、2005年10月1日に浜坂町と温泉町が合併して発足した。.

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日高町 (兵庫県)

日高町(ひだかちょう)は、かつて兵庫県北東部に存在した城崎郡の町。旧気多郡。本項では町制前の名称である日高村(ひだかむら)についても述べる。 2005年4月1日、豊岡市および城崎郡城崎町・竹野町、出石郡出石町・但東町と合併し新しい豊岡市になったため、消滅した。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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日本後紀

『日本後紀』(にほんこうき)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『続日本紀』に続く六国史の第三にあたる。承和7年(840年)に完成し、延暦11年(792年)から天長10年(833年)に至る42年間を記す。編者は藤原緒嗣ら。編年体、漢文、全40巻(現存10巻)。.

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日本書紀

日本書紀(平安時代の写本) 『日本書紀』(にほんしょき)は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体にて記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。.

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旧高旧領取調帳

旧高旧領取調帳(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)とは、明治時代初期に政府が各府県に作成させた、江戸時代における日本全国の村落の実情を把握するための台帳である。.

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慶応

慶応(けいおう、旧字体: 慶應)は日本の元号の一つ。元治の後、明治の前。1865年から1868年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。日本での「一世一元の詔」発布以前では最後の元号。.

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拾芥抄

拾芥抄(しゅうがいしょう)は、中世日本にて出された類書(百科事典)。全3巻。元は拾芥略要抄とも呼ばれ、略要抄とも略されていた。.

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1006年

記載なし。

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1007年

記載なし。

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1009年

記載なし。

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1010年

記載なし。

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1011年

記載なし。

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1016年

記載なし。

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1108年

記載なし。

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1118年

記載なし。

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1131年

記載なし。

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1133年

記載なし。

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1182年

記載なし。

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1185年

記載なし。

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1197年

記載なし。

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11月2日

11月2日(じゅういちがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から306日目(閏年では307日目)にあたり、年末まであと59日ある。.

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1218年

記載なし。

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1221年

記載なし。

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1223年

記載なし。

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1224年

記載なし。

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1285年

記載なし。

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12月13日

12月13日(じゅうにがつじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から347日目(閏年では348日目)にあたり、年末まであと18日ある。.

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1321年

記載なし。

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1331年

記載なし。

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1332年

記載なし。

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1336年

記載なし。

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1338年

記載なし。

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1340年

記載なし。

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1351年

記載なし。

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1361年

記載なし。

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1365年

記載なし。

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1366年

記載なし。

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1372年

記載なし。

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1376年

記載なし。

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1389年

記載なし。

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1390年

記載なし。

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1391年

記載なし。

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1392年

記載なし。

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1433年

記載なし。

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1454年

記載なし。

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1458年

記載なし。

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1472年

記載なし。

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1499年

記載なし。

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1536年

ユリウス暦の.

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1569年

記載なし。

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1577年

記載なし。

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1580年

金曜日から始まる。.

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1581年

日曜日から始まる。.

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1868年

記載なし。

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1869年

記載なし。

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1871年

記載なし。

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1876年

記載なし。

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1896年

記載なし。

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1975年

記載なし。

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4月19日 (旧暦)

旧暦4月19日は旧暦4月の19日目である。六曜は仏滅である。.

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4月28日 (旧暦)

旧暦4月28日(きゅうれきしがつにじゅうはちにち)は、旧暦4月の28日目である。六曜は先勝である。.

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5月11日

5月11日(ごがつじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から131日目(閏年では132日目)にあたり、年末まではあと234日ある。誕生花はニセアカシア。.

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675年

記載なし。

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6月18日

6月18日(ろくがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から169日目(閏年では170日目)にあたり、年末まであと196日ある。誕生花はスイセンノウ、サギソウ。.

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6月20日 (旧暦)

旧暦6月20日は旧暦6月の20日目である。六曜は先勝である。.

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770年

記載なし。

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796年

記載なし。

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7世紀

ブリールから啓示を受けるムハンマドで、14世紀に描かれた『集史』「預言者ムハンマド伝」載録の細密画(エディンバラ大学蔵)。 聖地メッカ。ムハンマドはメッカからメディナに逃れた後、イスラム教共同体(ウンマ)を組織し、再びこの都市に現れてイスラム教の支配下に置いた。画像はメッカのカアバとそれを取り囲むマスジド・ハラーム。 岩のドーム。ユダヤ教徒やキリスト教徒にとって重要な聖地であるエルサレムはイスラム教徒にとっては預言者ムハンマドが「夜の旅(イスラー)」を行った場所であり、それを記念してこの建物が建てられた。 ハルシャ王に歓待された。旅の記録は『大唐西域記』にまとめられ、有名な伝奇小説『西遊記』のもとともなった。 ナーランダ寺院。創立はグプタ朝時代にさかのぼるが、この時代までにインド随一の仏教総合大学に発展し、唐僧玄奘もこの地で唯識派のシーラバドラ(戒賢)に学んでいる。画像は現在のビハール州に残るナーランダ寺院跡。 シュリーヴィジャヤ王国。スマトラ島を中心にマレー半島周辺に交易圏を築き上げた海洋王国で、唐僧義浄が『南海寄帰内法伝』で記録したように多くの寺院が立ち並ぶ大乗仏教の拠点でもあった。画像はシュリーヴィジャヤ様式の青銅鍍金四臂観世音菩薩像。 「天寿国繍帳」。飛鳥時代を代表する工芸の一つで聖徳太子の妃である橘大郎女の発願で作成されたとされ、斑鳩中宮寺に伝来した。 吐蕃の王ソンツェン・ガンポと二人の妃(唐から来た文成公主とネパールから来たチツン)。吐蕃はチベットを統一し唐に倣った律令体制を発展させた。 太宗。父李淵の後を継いで二代皇帝となった太宗李世民は、唐の律令体制を完成させ「貞観の治」と呼ばれる安定期をもたらした。画像は台湾国立故宮博物院が所蔵する太宗の肖像画。 洛陽郊外の龍門にある奉先寺大仏。則天武后の命で造営されたもので、大仏の顔は則天武后をモデルにしているといわれる。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 「ギリシア火」。イスラム軍の猛攻で劣勢に置かれた東ローマ帝国もこの新兵器を用いて帝都の防衛に成功する。画像は『スキュリツェス年代記(歴史概観)』の挿絵(マドリッド国立図書館蔵)。 スペイン国立考古学博物館蔵)。 7世紀(ななせいき、しちせいき)とは、西暦601年から西暦700年までの100年間を指す世紀。.

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7月14日

7月14日(しちがつじゅうよっか、しちがつじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から195日目(閏年では196日目)にあたり、年末まであと170日ある。誕生花はノウゼンカズラ、ハナトラノオ。.

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7月29日 (旧暦)

旧暦7月29日は旧暦7月の29日目である。年によっては7月の最終日となる。六曜は大安である。.

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804年

記載なし。

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813年

記載なし。

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831年

記載なし。

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852年

記載なし。

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8月10日 (旧暦)

旧暦8月10日(きゅうれきはちがつとおか)は、旧暦8月の10日目である。六曜は大安である。.

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8月21日

8月21日(はちがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から233日目(閏年では234日目)にあたり、年末まであと132日ある。.

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8月29日

8月29日(はちがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から241日目(閏年では242日目)にあたり、年末まであと124日ある。.

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8月8日

8月8日(はちがつようか)はグレゴリオ暦で年始から220日目(閏年では221日目)にあたり、年末まではあと145日ある。.

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960年

記載なし。

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986年

記載なし。

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987年

記載なし。

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989年

丸谷才一『男のポケット』、「空白の年」の章では、「世界中で、ちつとも事件が起らなかつた年」として紹介されている。元文献は「紀元前5000年から現在までを収め」ているイギリスの年表とのことだが詳細は不明。.

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993年

記載なし。

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998年

記載なし。

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999年

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9月15日

9月15日(くがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から258日目(閏年では259日目)にあたり、年末まであと107日ある。.

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