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足利義教

索引 足利義教

足利 義教(あしかが よしのり、義)は、室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の五男。母は側室の藤原慶子で、第4代将軍・足利義持の同母弟。僧侶時代は義円(ぎえん、義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。.

307 関係: 加東市くじ側室まんが日本史 (日本テレビ)あっかんべェ一休十念寺 (京都市)南部義政双葉社参議名和教長坂口尚坂本 (大津市)堀越公方大友氏大崎教兼大和永享の乱大内義弘大内盛見大内持世大内教幸大内教弘大内教祐大納言大衆 (仏教)大覚寺大舘尚氏大舘持房大阪市大河ドラマ大慈院聖久天台座主太政大臣奉公衆妙興寺宝鏡寺室町幕府室町時代宮氏信守護安国寺 (加東市)安部龍太郎寺社勢力富士山富樫氏富樫教家小倉宮聖承小林勝也小早川煕平少弐氏少弐教頼...山名宗全山名熙貴山名氏山名氏清山名教之山名教豊山名教清山名時義山田風太郎岡田秀文島津忠国島津教久崇禅寺 (大阪市)左大臣上野国上杉氏上杉憲実上杉教朝上杉教房世阿弥万里小路時房三時知恩寺一色義貫一色教親一条兼良一条教房九州探題九条政忠平成幼名幕府京都市京極高数京極氏京極持高庭師二条家二条良基二条持基井沢元彦今川氏今出川教季今出川晴季今谷明仁木氏仁木満長延暦寺延暦寺根本中堂建内記伊豆国伏見宮貞成親王引付衆佐々木銀弥佐渡征夷大将軍侍女御前沙汰御成御教書徳大寺実盛徳川家康後南朝後小松天皇後花園天皇得度従三位従一位従二位従五位従四位応永土岐持頼北畠教具園城寺僧正テレビアニメニワトリ嘉吉嘉吉の乱呪いウメ内大臣准后六角満綱元服兵庫県光文社勧修寺教秀勅使皇位継承短歌石清水八幡宮玉川宮王権神授説硫黄島 (鹿児島県)神明裁判称光天皇等持院管領粟飯原氏紫波郡細川頼久細川持常細川持之細川成之細川教春 (和泉上守護家)細川教春 (野州家)綸旨織田信長義昭猶子猿楽看聞日記結城合戦田中義成畠山家国畠山義忠畠山義深畠山氏畠山満家異形コレクション盟神探湯直垂花の乱花山院持忠音阿弥蟄居鎌倉五山鎌倉公方遣明船聖護院青蓮院飯尾為種馬寮駿河国角川学芸出版評定衆高梨政高講談社講談社学術文庫講談社文庫護良親王越智氏 (大和国)足利将軍家足利義久足利義嗣足利義勝足利義稙足利義視足利義量足利義満足利義持足利義政足利義晴足利氏足利持氏足利政知近衛大将近衛府近衛教基赤松義雅赤松貞村赤松氏赤松満祐赤松教康赤松教政関東管領薩戒記門跡藤原慶子闘鶏鑁阿寺還俗重要文化財自業自得長禄の変長慶天皇逆説の日本史虎山永隆恐怖政治束帯東坊城益長東京大学史料編纂所桜井英治梶井義承森茂暁横井清正親町三条実雅正親町三条公治正長正長の土一揆正林寺 (京都市)武家執奏武家伝奏永享永享の乱河野教通法尊法観寺渋川氏渋川教直源氏長者満済満済准后日記朝松健朝敵木造教親本郷和人明応の政変明石散人昭和流罪斯波義豊斯波義郷斯波義淳斯波詮教斯波氏新続古今和歌集料理料理人日向国日親日蓮宗日野宗子日野義資日野西資子日野重子日野有光日明貿易摂政1394年1403年1408年1413年1419年1425年1428年1429年1430年1432年1433年1434年1435年1437年1438年1439年1440年1441年1983年1989年2008年2月8日 (旧暦)6月14日 (旧暦)7月12日 インデックスを展開 (257 もっと) »

加東市

加東市(かとうし)は、兵庫県の播磨地方の東側に位置する市で、兵庫県北播磨県民局に区分されている。.

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くじ

くじ(籤・鬮)とは、正負や順序が割り当てられる対象について、その割り当て情報をあらかじめ与えずに選択させること、またはその対象のこと。割り当て情報は、対象に見えないよう封入されていてもよく、選択の後に無作為な手段で割り当ててもよい。 通常、くじ引きの確率はくじを引く順番にかかわらず平等である(確率保存)。 宗教的に神の意志を問うために用いられることもあるが、世俗世界では確率の上で平等な割り当てを行うために用いられることが多い。この場合は結果について、あらかじめ公にされている単純な確率計算以上の予測を行えないことが必要である。 賭博の手段として用いられることもある。この場合は娯楽性を高めるため、戦略的な選択によって勝率を高められる可能性を持たせることもある。.

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側室

側室(そくしつ)とは、一夫多妻制の下の身分の高い階層における夫婦関係において、夫たる男性の本妻である正室に対する概念で、本妻以外の公的に認められた側妻や妾にあたる女性を指す。.

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まんが日本史 (日本テレビ)

『まんが日本史』(まんがにほんし)は、1983年4月3日から1984年4月8日まで毎週日曜日午前10:30~同11:00の枠にて日本テレビ系列で放送されたテレビアニメである。.

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あっかんべェ一休

『あっかんべェ一休』(あっかんべェいっきゅう)は、坂口尚の漫画。1993年から1996年まで月刊アフタヌーン(講談社)に連載された。単行本全4巻のほか、文庫判(上下巻)もある。.

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十念寺 (京都市)

十念寺(じゅうねんじ)は、京都市上京区にある西山浄土宗の寺院。山号は華宮山。本尊は阿弥陀如来。.

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南部義政

南部 義政(なんぶ よしまさ、文中3年/応安7年(1374年) - 永享12年7月12日(1440年8月9日))は三戸南部氏第14代当主。初め南部庄司、後に遠江守、大膳大夫を号したとある。南部守行の嫡男。弟に政盛、助政、久慈威信(大浦則信)。室は安藤盛季の娘。子に東信政。.

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双葉社

株式会社双葉社(ふたばしゃ)は、東京都新宿区に本社を置く日本の出版社である。.

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参議

参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.

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名和教長

名和 教長(なわ のりなが、応永23年(1416年) - 宝徳4年5月21日(1452年6月8日))は、室町時代の武将。名和氏の第17代当主。父は名和顕真(あきざね)。長弟に名和七郎、二弟は某、三妹に某(のち阿蘇惟忠室)、四弟に名和三郎がいるがいずれも実名は解っていない。子に名和義興、名和顕忠がいる。.

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坂口尚

坂口 尚(さかぐち ひさし、男性、1946年5月5日 - 1995年12月22日)は、日本の漫画家・アニメーター。東京都出身。.

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坂本 (大津市)

坂本(さかもと)は、滋賀県大津市の町名、地区名。延暦寺および日吉大社の門前町(鳥居前町)として古くから栄えた。現行行政町名では坂本一-八丁目が置かれているほか、広義の坂本には町名変更前の所属であった坂本本町や隣接する下阪本なども含まれる。.

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堀越公方

堀越公方(ほりごえくぼう/ほりこしくぼう)とは、室町時代に関東で勢力を持った公方の一。伊豆堀越(静岡県伊豆の国市)を本拠地とした。『国史大辞典』『日本史大事典』によると、地名は「ほりごえ」だが、慣用として「ほりこしくぼう」と読んでいる。『日本史広事典』(角川書店)では「ほりごえくぼう」となっている。.

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大友氏

大友氏(おおともし)は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、九州の豊後国(現大分県)を本拠とした一族。豊後・筑後など北九州を支配した守護職・守護大名で、戦国時代には戦国大名に成長し、最盛期には豊後・筑後に加え豊前・肥前・肥後・筑前の6ヶ国と日向・伊予の各半国を領有したが、豊臣政権期に除封された。江戸時代には江戸幕府の旗本(高家)や大名家の家臣となって存続した。.

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大崎教兼

大崎 教兼(おおさき のりかね)は、室町時代の守護大名。奥州探題。大崎氏の第7代当主。父持詮と同じく、教兼についても諸説紛糾しているが、以下、通説に従う。.

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大和永享の乱

大和永享の乱(やまとえいきょうのらん)は、室町時代の正長2年(1429年)に大和で発生した戦乱。興福寺大乗院衆徒の豊田氏と興福寺一乗院衆徒の井戸氏の対立に端を発し、大和一国に広がった。.

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大内義弘

大内 義弘(おおうち よしひろ)は、南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊守護。大内家の第25代当主。 第24代当主・大内弘世の嫡子。弟に満弘、盛見(第26代当主)、弘茂など。子に持世(第27代当主)、持盛、教祐がいる。幼名は孫太郎、のち元服して室町幕府第2代将軍・足利義詮より偏諱を受け義弘と名乗る。 室町幕府に従って多くの功績を立てた名将で、大内家の守護領国を6か国にまで増加させて大内家最初の全盛期を築く。しかし功を立てすぎ、さらに領国を増やしすぎた事が有力守護大名を危険視する足利義満に目をつけられ、応永の乱を起こすも敗死した。.

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大内盛見

大内 盛見(おおうち もりはる)は、室町時代前期の武将、守護大名。室町幕府相伴衆、周防・長門・豊前守護。大内氏の第11代当主。大内弘世の子。兄に義弘、満弘、弟に弘茂、道通(みちなお?/ひろみち?)など。子に教弘、教幸、盛持(もりもち)など。.

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大内持世

大内 持世(おおうち もちよ)は、室町時代中期の武将、守護大名。周防・長門・豊前・筑前守護。大内氏の第12代当主。.

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大内教幸

大内 教幸(おおうち のりゆき、生没年不詳)は、室町時代の武将。弟・教弘と同じく6代将軍・足利義教の偏諱を受けて教幸と名乗る。法名は道頓(どうとん)。応仁の乱の最中に主君政弘に対して反乱を起こした。.

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大内教弘

大内 教弘(おおうち のりひろ)は、室町時代中期の守護大名。周防・長門・筑前・豊前・肥前守護。大内氏第13代当主。第11代当主大内盛見の子(一説には大内持盛の次男)。教幸の弟。妻は山名宗全の養女(山名熙貴の娘)。政弘、娘(大友政親室)、娘(山名政理室)、娘(佐伯親春室)の父。 幼名は六郎、のち元服に際して6代将軍・足利義教より偏諱を受け教弘と名乗る。通称は新介、周防介。官位は左京大夫、大膳大夫、従五位下、従四位下、死後に従三位。.

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大内教祐

大内 教祐(おおうち のりすけ、?-永享8年(1436年)6月『室町期大名権力論』、177頁)は、室町時代中期の武将。守護大名・大内氏の一族。父は応永の乱を起こしたことで有名な、大内氏の第10代当主・大内義弘で持世・持盛の弟。.

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大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

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大衆 (仏教)

大衆(だいしゅ)とは、多くの仏僧の集まり、また僧侶のこと。のちに主として僧兵のことを指すようになった。.

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大覚寺

大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。山号を嵯峨山と称する。本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。また、嵯峨天皇を流祖と仰ぐ華道嵯峨御流の総司所(家元)である。 時代劇の撮影所が多い太秦の近くということもあり、寺の境内(大沢池や明智門など)は(特に時代劇の)映画やテレビなどの撮影によく使われている (#舞台となった作品)。.

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大舘尚氏

大舘 尚氏(おおだち ひさうじ)は、室町時代後期(戦国時代)の武将。大舘教氏(のりうじ、「教」字は足利義教の偏諱)の子。叔母に大舘佐子。初名は重信(しげのぶ)、のち尚氏に改名。また、法名の常興(じょうこう)でも知られている。.

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大舘持房

大舘 持房(おおだち もちふさ)は、室町時代中期の武将。室町幕府の幕臣。大舘満信(みつのぶ、義冬の子)の子。.

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大阪市

大阪市(おおさかし)は、日本の近畿地方、大阪府のほぼ中央に位置する市で、同府の府庁所在地である。政令指定都市に指定されている。.

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大河ドラマ

『大河ドラマ』(たいがドラマ)は、1963年(昭和38年)から放送されているNHKのテレビドラマシリーズ。略称は大河。 1984年から1986年にかけて放送されたNHK新大型時代劇と2009年から2011年にかけて放送されたスペシャルドラマ『坂の上の雲』についてもこの項で述べる。.

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大慈院聖久

大慈院 聖久(だいじいん せいきゅう、応永2年(1395年) - 永享5年閏7月13日(1433年8月27日)は、室町時代前期の女性。比丘尼御所・大慈院の住持。室町幕府第3代将軍・足利義満の娘。同第4代将軍・足利義持と同第6代将軍・足利義教らの異母妹。南御所、大慈院殿と称される。.

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天台座主

天台座主(てんだいざす)は、日本の天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職。「山の座主」とも呼ばれた。ただし、比叡山に居住することは少なく、重要な修法、儀式の時のみ入山する座主が多かった。.

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太政大臣

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.

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奉公衆

奉公衆(ほうこうしゅう)は、室町幕府に整備された幕府官職の1つである。将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた。番衆(小番衆)とも。 鎌倉時代の御所内番衆の制度を継承するもので、一般御家人や地頭とは区別された将軍に近侍(御供衆)する御家人である。奉行衆が室町幕府の文官官僚であるとすれば、奉公衆は武官官僚とも呼ぶべき存在であった。後年、豊臣秀吉も奉公衆の制度を設けている。.

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妙興寺

妙興寺(みょうこうじ)は、愛知県一宮市にある臨済宗妙心寺派の大寺院。山号は、長嶋山(ちょうとうさん)、寺号は詳しくは妙興報恩禅寺と称する。本尊は釈迦三尊、開山は滅宗宗興である。周囲には、五つの塔頭がある。古より「尾張に杉田(過ぎた)の妙興寺」と言われる。 新陰流開祖上泉信綱が修行した。無刀取り発祥の地。修行道場として僧堂が設置されている。.

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宝鏡寺

宝鏡寺(ほうきょうじ)は、京都市上京区にある禅宗寺院。宗旨は臨済宗系の単立。近世には皇女が入寺する尼門跡寺院であった。山号は西山(せいざん)。通称人形寺(にんぎょうでら)。普段は拝観できないが、定期的に特別拝観が行われる。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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宮氏信

宮 氏信(みや うじのぶ、生年不詳 - 応永6年(1399年))は、南北朝時代から室町時代前期の武将。宮兼信の子。通称は下野次郎、後に次郎左衛門尉、上野介入道と称した。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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安国寺 (加東市)

安国寺(あんこくじ)は、兵庫県加東市にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は東渓山。 室町幕府の6代将軍足利義教の首塚(宝篋印塔)がある。.

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安部龍太郎

安部 龍太郎(あべ りゅうたろう、1955年6月20日 - )は、日本の小説家。福岡県八女市(旧・黒木町)生まれ。国立久留米工業高等専門学校機械工学科卒。本名 良法。日本文芸家協会会員日外アソシエーツ現代人物情報より。日本ペンクラブ会員朝日新聞人物データベース。 学生時代から太宰治、坂口安吾などの作品を読み、作家を志して卒業後上京日外アソシエーツ現代人物情報より。東京都大田区役所に就職、後に図書館司書を務める。その間に数々の新人賞に応募し、「師直の恋」でデビュー。 1987年、退職し、執筆に専念する読売人物データベース。 『週刊新潮』に連載した「日本史 血の年表」(1990年に『血の日本史』として刊行)で注目を集め、「隆慶一郎が最後に会いたがった男」という伝説ができた。 著作に、『彷徨える帝』『関ヶ原連判状』『信長燃ゆ』など。2004年、『天馬、翔ける』で第11回中山義秀文学賞を受賞。2013年、『等伯』で第148回直木賞受賞。2016年、『等伯』で第5回歴史時代作家クラブ賞実績功労賞を受賞。.

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寺社勢力

寺社勢力(じしゃせいりょく)とは社寺勢力(しゃじせいりょく)とも呼ばれ、日本中世において、武家政権・朝廷とともに権力を三分した、大寺院・神社(当時は神仏習合のために一体)による軍事・行政・経済・文化パワーである。武家政権や朝廷のように権力中枢があったわけではなく、各寺社が独立して行動し、また一寺社内でもさまざまな集団がせめぎ合っていたため、「勢力」と呼ぶ。.

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富士山

富士山(ふじさん、Mount Fuji)は、静岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。標高3776.24 m2等三角点「富士山」の標高は3775.51mである。最高地点はこの三角点から北へ約12mのところにある岩の頂上であり、その高さは、三角点より0.61mだけ高い(1991年の観測)。、日本最高峰(剣ヶ峰)日本が玉山(新高山)のある台湾を領有していた時期を除く。の独立峰で、その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。数多くの芸術作品の題材とされ芸術面で大きな影響を与えただけではなく、気候や地層など地質学的にも大きな影響を与えている。懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。 古来霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。また、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場としても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。これら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった一派を形成するに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季シーズンには富士登山が盛んである。 日本三名山(三霊山)、日本百名山『日本百名山』 深田久弥(著)、朝日新聞社、1982年、ISBN 4-02-260871-4、pp269-272、日本の地質百選に選定されている。また、1936年(昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定されている。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、2011年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25年)6月22日には関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された。日本の文化遺産としては13件目である。富士の山とは詠んだとしても、「ふじやま」という呼称は誤りである。.

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富樫氏

富樫氏(とがしし)は、藤原利仁に始まるといわれる氏族である。室町時代に加賀国(現在の石川県南部)を支配した守護大名である。。.

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富樫教家

富樫 教家(とがし のりいえ)は、室町時代前期から中期にかけての武将・守護大名。富樫氏16代当主。加賀国守護。出家して以降は甫柏と名乗る。.

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小倉宮聖承

小倉宮 聖承(おぐらのみや せいしょう、応永13年(1406年)頃 - 嘉吉3年5月7日(1443年6月4日))は、室町時代前期の皇族であり、後南朝勢力の中心人物。。小倉宮家2代であるが、個人としての「小倉宮」は一般にこの聖承を指すことが多い。樋口宮とも。聖承は出家後の法名であり、俗名は不明である。時に良泰(よしやす)や泰仁(やすひと)とされることがあるが、何れも近世に作られた南朝系図に拠るもので信用できない。 南朝最後の天皇である後亀山天皇の孫で、小倉宮恒敦(恒敦宮)の子。子に小倉宮教尊(- きょうそん)などがいる。.

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小林勝也

小林 勝也(こばやし かつや、1943年3月25日 - )は、日本の俳優、声優。東京都出身。身長168cm。文学座所属。.

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小早川煕平

小早川 煕平(こばやかわ ひろひら)は、室町時代中期から後期の武将。安芸国を拠点に置く沼田小早川氏の当主。諱の「煕」の字は、同国守護・山名時熙の偏諱を受けたものと考えられる。.

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少弐氏

少弐氏(しょうにし)は、日本の氏族の一つ。筑前、肥前など北九州地方の御家人・守護大名。藤原北家秀郷流と称した武藤氏の一族。.

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少弐教頼

少弐 教頼(しょうに のりより)は、室町時代の武将。少弐氏14代当主。.

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山名宗全

山名宗全公之墓、南禅寺在真乗院、京都市左京区 山名 宗全 / 山名 持豊(やまな そうぜん/やまな もちとよ)は、室町時代の武将、守護大名。家系は新田氏庶流の山名氏。室町幕府の四職の家柄で侍所頭人。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。山名時熙の3男で、母は山名氏清の娘。諱は持豊で、宗全は出家後の法名。応仁の乱の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。.

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山名熙貴

山名 熙貴(やまな ひろたか、生年不詳 - 嘉吉元年6月24日(1441年7月12日))は、室町時代の武将、守護大名。石見守護。山名氏家の子。子に娘(大内教弘室)、娘(細川勝元室)。官位は中務大輔。 室町幕府の番衆を務め、永享9年(1437年)に石見守護に補任されたが、嘉吉元年(1441年)、6代将軍足利義教と共に赤松満祐の屋敷に訪れた際に義教と共に殺害された(嘉吉の乱)。同族の山名宗全・山名教之・山名教清らが満祐討伐で功績を挙げ、石見は教清が獲得した。 熙貴の2人の娘は宗全に養女として引き取られ、それぞれ大内教弘、細川勝元に嫁いだ。また、宗全の息子勝豊が熙貴の養子となり因幡守護を継いだとされているが、熙貴は因幡守護に就いていないため、同族の因幡守護山名熙高と混同されている可能性がある。.

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山名氏

日本の氏族。幾つかの流れがある。.

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山名氏清

山名 氏清(やまな うじきよ)は、南北朝時代の武将・守護大名。室町幕府侍所頭人、丹波国・和泉国・山城国・但馬国守護。.

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山名教之

山名 教之(やまな のりゆき)は室町時代の守護大名。伯耆・備前守護。 山名熙之の子として生まれる。幼名は鶴房、のち室町幕府第6代将軍足利義教より偏諱を受けて教之と名乗る。 父・熙之が家督を継承しなかった(継ぐことなく早世したか)ため、祖父の山名氏之から直接家督を譲られ、幼くして伯耆守護の座に就く。家督の譲渡時期は不明だが、応永34年(1426年)5月には「山名鶴房」として文献に現れ、永享10年(1438年)8月には兵部少輔として見える。それ以降、40年余りに渡って伯耆国に君臨、国人衆を支配体制に組み込み、強固な地盤を築いた。 嘉吉元年(1441年)、嘉吉の乱において同族の山名持豊(宗全)・山名教清と共に赤松満祐の領国に攻め入り、満祐の首を挙げた功績で教之は恩賞として備前が与えられ、伯耆・備前2か国の守護となった。享徳2年(1453年)頃に長男の豊之に家督を譲り、応仁の乱で宗全に従い西軍の部将として戦ったが、赤松政則に備前を奪われた。また、文明3年(1471年)に豊之が伯耆で殺害されている。 文明5年(1473年)死去。次男の豊氏は同族の因幡守護山名熈幸の養子になっていたため、3男の之弘が伯耆守護職を継いだが、文明8年(1476年)に赤松政則の支持を得た4男の元之が伯耆守護となり、山名政豊の支援を受けた孫の政之と争った。.

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山名教豊

山名 教豊(やまな のりとよ)は、室町時代後期の守護大名。但馬・播磨・備後・安芸守護。山名宗全(持豊)の嫡男。 応永31年(1424年)、山名宗全の嫡男として生まれる。室町幕府第6代将軍・足利義教と父・宗全(持豊)より1字ずつ賜り教豊と名乗る。嘉吉元年(1441年)に義教が赤松満祐に暗殺されると父と共に播磨へ侵攻(嘉吉の乱)、文安4年(1447年)に将軍家の椀飯を務めた。 享徳3年(1454年)、父が第8代将軍・足利義政の怒りを買い但馬へ下向し隠居した為、家督を譲られて山名氏当主となり、但馬・播磨・備後・安芸4ヶ国の守護となる。翌康正元年(1455年)5月、父が失脚した際に赤松則尚が播磨奪回をはかり山名領へ侵攻すると、父と共に赤松軍を備前へ追い払った。以後、長禄2年(1458年)に父が赦免されるまで京都へ向かい、幕府に出仕した。 畠山氏の内紛に際しては、畠山義就を支持する父に難色を示しており、寛正元年(1460年)に父と仲違いして播磨へ下向した。その後対立は解消したが、弟の是豊が父に不満を抱き、山名氏の対立も応仁の乱へ影響した。 応仁元年(1467年)9月9日、父に先立って陣没。享年44。父が一旦当主に復帰した後に、家督を嫡男(弟とも)の政豊が継いだ。.

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山名教清

山名 教清(やまな のりきよ、生没年不詳)は、室町時代中期の武将、守護大名。石見・美作守護。山名義清(よしきよ)の子で、山名義理の孫に当たる。子に政清。官位は修理大夫、法名は浄勝。 元服時に室町幕府第6代将軍・足利義教より偏諱を受けて教清と名乗る。永享元年(1429年)から石見の守護に任じられていたが、永享9年(1437年)に同族の山名熙貴に交代させられた。嘉吉元年(1441年)に将軍・義教と熙貴が共に赤松満祐の部下の者に殺害されると(嘉吉の乱)、同族の山名持豊(宗全)・山名教之と共に満祐討伐軍に加わり、恩賞として満祐の領土美作と熙貴の領土石見を獲得した。以後の消息は不明で、子の政清が美作守護職を受け継いでいる。.

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山名時義

山名 時義(やまな ときよし)は、南北朝時代の武将・守護大名。室町幕府侍所頭人・小侍所別当、美作国・伯耆国・但馬国・備後国守護。応仁の乱で有名な山名宗全(持豊)は孫に当たる。.

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山田風太郎

山田 風太郎(やまだ ふうたろう、1922年(大正11年)1月4日 - 2001年(平成13年)7月28日)は、日本の小説家。本名は山田 誠也(せいや)。伝奇小説、推理小説、時代小説の3分野で名を馳せた、戦後日本を代表する娯楽小説家の一人である。東京医科大学卒業、医学士号取得。 『魔界転生』や忍法帖シリーズに代表される、奇想天外なアイデアを用いた大衆小説で知られている。『南総里見八犬伝』や『水滸伝』をはじめとした古典伝奇文学に造詣が深く、それらを咀嚼・再構成して独自の視点を加えた作品を多数執筆した。 2010年、その名を冠した「山田風太郎賞」が創設された。.

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岡田秀文

岡田 秀文(おかだ ひでふみ、1963年11月15日 - )は、日本の小説家・推理作家。東京都生まれ。明治大学農学部卒業後、製薬会社に勤務。.

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島津忠国

島津 忠国(しまづ ただくに)は、室町時代の武将、守護大名。薩摩・大隅・日向守護。島津氏第9代当主。父は8代当主島津久豊、母は伊東祐安の娘。子に友久、立久、久逸、勝久、忠経、守棟、忠弘、頼久、娘(伊集院煕久室)。幼名は虎寿丸、初名は貴久。官職は修理大夫、陸奥守。法名は大岳玄誉。.

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島津教久

島津 教久(しまづのりひさ)は、室町時代の武将。薩摩国島津氏の分家・伊作家6代当主。年代的に考えると「教」の字は当時の室町幕府の将軍・足利義教から下賜されたものと推測される。 応永29年(1422年)、祖父であり伊作家4代当主・島津久義が弟の十忠により殺害されると、久義と共にいた教久の身にも危険が及ぶが、家臣に守られ居城の伊作亀丸城に篭城。島津宗家8代当主・島津久豊はこの騒動の原因が教久の父・勝久にあるとしたため、勝久は肥後国へ追放される。教久は縁故の市来氏に預けられることになった。永享5年(1433年)、島津宗家9代当主・島津忠国の弟・用久(当時守護代)の命で領地は大幅に減ったものの伊作へ復帰することになった。 嘉吉2年(1442年)、伊作にて死去。家督を継いだ子・犬安丸が長禄2年12月4日(1459年1月8日)に急死すると、島津忠国の三男・久逸が養子に入り、伊作家を継承した。 のりひさ Category:室町時代の人物 Category:薩摩国の人物 Category:生年不明 Category:1442年没.

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崇禅寺 (大阪市)

崇禅寺(そうぜんじ)は大阪市東淀川区にある曹洞宗の仏教寺院。山号は「凌雲山」。.

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左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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上野国

上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 常陸国・上総国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上野介であった類聚三代格。.

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上杉氏

上杉氏(うえすぎし / うえすぎうじ)は、公家である藤原家の支族の一つ。1252年、公家である藤原重房が、宗尊親王の鎌倉幕府・将軍(皇族初の征夷大将軍)就任に従って京都から鎌倉へ下向して、武家化し「上杉」姓を賜われたのが上杉氏の祖。室町時代には関東管領を世襲し、越後・上野・武蔵・相模の守護を務める有力守護大名として栄えた。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母は上杉家出身。鎌倉時代、室町時代から江戸時代にかけて栄えた武家の一族(山内上杉家)が著名。山内上杉家15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。豊臣政権の五大老の一人であった山内上杉家17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いにて西軍に付いて敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。本貫地は丹波国何鹿郡上杉荘(現在の京都府綾部市上杉)。 江戸時代には、大名2家、旗本4家(うち高家1家)があり、子孫は現代まで続いている。.

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上杉憲実

上杉 憲実(うえすぎ のりざね)は、室町時代中期の武将・守護大名。関東管領、上野国・武蔵国・伊豆国守護。山内上杉家8代当主。足利学校や金沢文庫を再興したことで知られる。.

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上杉教朝

上杉 教朝(うえすぎ のりとも)は、室町時代中期の武将。関東執事(堀越公方)。.

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上杉教房

上杉 教房(うえすぎ のりふさ)は、室町時代中期の武将。足利将軍家の家臣。.

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世阿弥

世阿弥(ぜあみ、世阿彌陀佛、正平18年/貞治2年(1363年)? - 嘉吉3年8月8日(1443年9月1日)?)は、日本の室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師。父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽(申楽とも。現在の能)を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。 幼名は鬼夜叉、そして二条良基から藤若の名を賜る。通称は三郎。実名は元清。父の死後、観世大夫を継ぐ。40代以降に時宗の法名(時宗の男の法名(戒名)は阿弥陀仏(阿彌陀佛)号。ちなみに世は観世に由来)である世阿弥陀仏が略されて世阿弥と称されるようになった。世の字の発音が濁るのは、足利義満の指示によるもの。正しくは「世阿彌」。.

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万里小路時房

万里小路 時房(までのこうじ ときふさ、応永元年12月27日(1395年1月18日)-長禄元年11月20日(1457年12月6日))は、室町時代の公卿。従一位内大臣。父は万里小路嗣房、母は家女房(実母は見周信如、養母は無偽禪尼との名で『建内記』に記され、忌日に祈祷が行われている)。息子は万里小路冬房・玄周・中権の三人、娘は慈俊・慈照(算子)の二人。法号を建聖院。日記『建内記』(『建聖院内大臣記』或いは『建聖院内府記』、10巻)の著者として知られている(生年の西暦換算については、月日まで厳密に換算せず1394年とする文献もある)。.

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三時知恩寺

三時知恩寺(さんじちおんじ)は、京都市上京区上立売町にある浄土宗の寺院(尼寺)。門跡寺院。本尊は阿弥陀如来。.

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一色義貫

一色 義貫(いっしき よしつら)は、室町時代の武将、守護大名。丹後一色氏の当主。 室町幕府第4代将軍・足利義持より偏諱を受け、初めは父の1字と合わせて義範を名乗り、のち義貫と改名する。尚、上の「義」の字を与えられていることから、下の「持」の字を与えられた兄・持範、弟・持信に比べ、良い待遇を受けていたものと推測される。.

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一色教親

一色 教親(いっしき のりちか)は、室町時代中期の武将、守護大名。.

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一条兼良

一条 兼良(いちじょう かねよし)は、室町時代の公卿・古典学者。名は一般には「かねら」と読まれることが多い。関白左大臣・一条経嗣の六男。官位は従一位・摂政関白太政大臣、准三宮。桃華叟、三関老人、後成恩寺などと称した。.

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一条教房

一条 教房(いちじょう のりふさ)は、室町時代後期から戦国時代の公卿(関白)で、土佐一条氏の祖。一条兼良の長男。 永享10年(1437年)元服。一条家歴代当主の中では初めて足利将軍家からの偏諱の授与を受け、当時の将軍足利義教(第6代将軍)から偏諱を受け教房と名乗る(弟の教賢(きょうけん、僧)も同様である)。長禄元年(1457年)左大臣。長禄2年(1458年)関白となる。寛正4年(1463年)に関白を辞す。応仁の乱が勃発した際、弟の興福寺大乗院門主尋尊を頼って奈良に避難する。さらに父兼良が奈良に避難してきたので、父に奈良の避難所を譲り、応仁2年(1468年)一条家領のあった土佐国幡多荘に下向し、四万十川下流の中村の館に住んだ。土佐国人に迎えられて生活の基盤を確保し、父兼良の下向を誘ってみたり、父が帰洛した後、土佐から邸宅を作るための木材を送ったりしている。文明12年(1480年)10月5日薨去。享年58。長男の政房は既に応仁の乱の中で戦死していたため、家督は40歳ほど年の離れた実弟の冬良が継いだ。 尚、次男・房家はそのまま土佐に土着して在地領主・大名化し、この子孫(系統)が土佐一条氏となった。 File:Tomb of Ichijo Norifusa.jpg|一条教房墓(高知県四万十市).

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九州探題

九州探題(きゅうしゅうたんだい)とは、室町幕府の軍事的出先機関である。当初は鎮西管領(ちんぜいかんれい)とも称された。.

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九条政忠

九条 政忠(くじょう まさただ)は、室町時代の関白。 関白九条満家の子。弟に九条政基・尋実がいる。子に政超(室町幕府第6代将軍足利義教の猶子・権僧正)・忠厳(准三宮・東大寺別当)・桓昭(法成寺平等院執印)・忠承(延暦寺大僧正)がいる。 室町幕府第8代将軍足利義成から偏諱「成」を与えられ成家(しげいえ)と名乗る。のちに義成が「義政」に改名すると、重ねて「政」の字を与えられて政忠と名乗った。普門寺と号す。 宝徳3年(1451年)12歳で従三位に叙せられる。康正2年(1456年)正二位に昇叙される。25歳で内大臣となるが、弟の政基との間に家督争いが生じ、隠居を余儀なくされる(公卿補任)。その後宮廷に復帰して、長享元年(1487年)関白に就任、長享2年(1488年)に藤氏長者となるが、同年8月23日に49歳で薨去した。.

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平成

平成(へいせい)は日本の元号の一つ。昭和の後。今上天皇在位中の1989年(平成元年)1月8日から現在に至る。2001年(平成13年)の始まりには西暦における20世紀から21世紀への世紀の転換もあった。2019年(平成31年)4月30日に今上天皇退位により終了する予定であり、予定通り終了した場合、30年113日間(=11,070日間)にわたることとなる。なお、日本の元号では昭和(64年)、明治(45年)、応永(35年)に次いで4番目の長さである(5番目は延暦の25年)。 西暦2018年(本年)は平成30年に当たる。本項では平成が使われた時代(平成時代)についても記述する。.

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幼名

幼名(ようみょう/ようめい)は、幼少時の名前の事。おさな名・童名・小字とも言う。 主に平安時代~江戸時代にかけて、武士や貴族の子が幼児である期間につけられる名前で、だいたい元服して諱をつけるまでその名前でいる。江戸期では、多くの慈善活動をした豪商が、その活動を認められ、公での苗字帯刀を許された場合、その商人の子も幼名を持つ例がある。農民の名前も幼名と呼ばれるが、武士とは違って諱をつける事は無い。 現在でも幼少時に改名した場合は、以前の名前を幼名と呼ぶ。.

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幕府

幕府(ばくふ)は、日本の中世及び近世における征夷大将軍などの武家の最高権力者を首長とする武家政権のことをいう。あるいはその武家政権の政庁、征夷大将軍の居館・居城を指す名称としても用いられる。近衛大将の唐名。.

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京都市

京都タワーと京都中心部 京都市中心部四条河原町 京都市(きょうとし )は、京都府南部に位置し、同府最大の市で、府庁所在地である。政令指定都市に指定されており、11区を置く。日本の市で8番目の人口を有する。延暦十三年(794年)から明治二年(1869年)までの1,000年以上にわたって日本の都が置かれていたため、古都として認識されている。.

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京極高数

京極 高数(きょうごく たかかず)は、室町時代中期の武将・守護大名。室町幕府侍所頭人兼山城国守護、出雲国・隠岐国・飛騨国守護。.

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京極氏

京極氏(きょうごくし)は、日本の武家の一つ。本姓は源氏。宇多源氏の流れを汲む近江源氏、佐々木氏の別家である。.

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京極持高

京極 持高(きょうごく もちたか)は、室町時代中期の武将、守護大名。出雲・隠岐・飛騨・山城守護。京極高光の嫡男で弟に持清、妹に細川持之室。 持高の「高」の字は京極氏の通字であるものを父・高光から取ったものであるが、高光のもう片方の1字(「光」の字)により持光(もちみつ)を別名とするものもある。いずれにせよ、「持」の字は室町幕府第4代将軍足利義持から偏諱を賜ったものである。 応永20年(1413年)に父が亡くなり出雲・隠岐・飛騨3ヶ国の守護職を継ぐ。応永31年(1424年)から正長元年(1428年)まで山城守護にも補任された。 永享6年(1434年)に6代将軍足利義教から反抗する延暦寺への攻撃を命じられ、六角満綱と共に山門を囲み降伏させる。さらに近江国内に多くあった延暦寺領の差し押さえを命じられている。 永享11年(1439年)に子を残さないまま亡くなった。享年は39とされる。後を継いだのは薩戎記によれば叔父の高数とされ、西讃府史によれば弟の持清とされる。.

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庭師

庭師(にわし)とは、庭を造る人のこと。古くは園丁(えんてい)やガーデナーと呼ばれる。庭石、樹木や池、水路から芝などを含めて、庭を一つの造形空間として設計施工、製作する人、またその樹木などの植物の生育を管理し、定期的に剪定したりする管理の仕事もする専門家である。.

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二条家

二条家(にじょうけ)は、五摂家のひとつで公家である。.

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二条良基

二条良基邸・二条殿址・京都市中京区両替町通御池上る東側 二条良基邸・二条殿御池址・京都市中京区室町通押小路下る東側 二条 良基(にじょう よしもと)は、の公卿、歌人であり連歌の大成者である。従一位。摂政、関白、太政大臣。 最初の関白は在任13年間の長期にわたり、死の間際まで通算5度(数え方によっては4度(理由は後述))にわたって北朝4代の天皇の摂政・関白を務めた。.

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二条持基

二条 持基(にじょう もちもと)は、室町時代中期の公卿・歌人。.

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井沢元彦

井沢 元彦(いざわ もとひこ、1954年2月1日 - )は、日本の歴史小説作家・推理作家・歴史研究家。元TBS報道記者。愛知県名古屋市出身。.

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今川氏

今川氏(いまがわうじ)は、日本の武家。本姓は源氏で、家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏御一家・吉良家の分家にあたる。吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有しており、斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあった。今川家はその分家として、駿河の守護に代々任命された。さらに遠江守護家も分流する。初期の分家である今川関口家は幕府の奉公衆であった。.

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今出川教季

今出川 教季(いまでがわ のりすえ)は、室町時代から戦国時代の公卿。 今出川実富の次男として生まれるが、初めは慈雲院(妙心寺内)に入れられていたようである松薗斉「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に-」(『愛知学院大学人間文化研究所紀要・人間文化』25、2010年、p.3、参考史料は『看聞日記』)。。史料によれば、教季が生まれる前の応永28年(1421年)には当時流行りの疫病によって祖父・公行や兄・公富が既に亡くなっており、そして正長元年(1428年)には父・実富までもが相次いで死去したため、家の中核である左馬寮領が他家に分け与えられたり、家芸である琵琶の楽器や楽譜が本家筋の西園寺家に接収されかけたりと、今出川家は断絶の危機を迎えていたが、同じく1428年に将軍が足利義持から足利義教に代替わりし、今出川家と関係の深い伏見宮貞成親王の子・彦仁王が後花園天皇として即位したことが影響して、永享5年(1433年)頃には、当時9歳の教季に家督の相続が許された。 やがて永享7年(1435年)、将軍・義教の後見の下で元服し、教季と名乗る。「教」の字は義教から偏諱を受けたものと考えられ、これが今出川家歴代当主の中で初めて足利将軍家からの偏諱の授与を受けた事例である。 その翌年の永享8年(1436年)に叙爵。以降累進して左近衛少将・左近衛中将・美濃権守を経て文安3年(1446年)に従三位となり、公卿に列する。参議・権中納言を経て、宝徳2年(1450年)に権大納言に任じられる。寛正元年(1460年)までの10年間にわたり権大納言に在職した。その間の長禄2年(1458年)には内教坊別当と親王家勅別当を兼務している。さらに寛正4年(1463年)には権大納言に再任している。同年右近衛大将に任官。寛正6年(1465年)内大臣に任じられるも、文正元年(1466年)に辞す。応仁元年(1467年)従一位を授与される。文明12年(1480年)に右大臣。さらに文明13年(1481年)には左大臣に任じられるもその翌年に官職を辞す。.

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今出川晴季

今出川 晴季(いまでがわ はるすえ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての公卿。菊亭 晴季(きくてい はるすえ)としても知られる。.

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今谷明

今谷 明(いまたに あきら、 1942年 - )は、日本の歴史学者。帝京大学文学部特任教授、国際日本文化研究センター名誉教授。専門は中世日本史。 京都市出身。官僚を経験した後に歴史学者に転じた。戦国時代における天皇の権威が、従来の説で論じられていたよりも強かったと主張する一連の著作で知られる。近年は、ヨーロッパ・オリエントの封建制と日本中世の封建制との比較研究もおこなっている。.

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仁木氏

仁木氏(につきし)は、清和源氏の一族で、足利氏の祖義康の長子義清の系統に属する。鎌倉時代に、足利氏嫡流の義氏が承久の乱の功で三河国の守護に任ぜられると、義清の孫実国は三河国額田郡仁木郷(現在の愛知県岡崎市仁木町周辺)に移り住み、仁木太郎を称した。実国の弟義季は、隣接する細川郷を領して細川氏の祖となり、ともに足利氏嫡流の譜代被官となった。.

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仁木満長

仁木 満長(にき みつなが、生没年不詳)は、南北朝、室町時代の武将。仁木義長の子。庶兄に仁木義員(よしかず)。右馬助、越後守。室町幕府第3代将軍足利義満より偏諱を受けて満長と名乗った。子の仁木満将(満持)も義満あるいはその子義持の偏諱を受けている。孫の仁木教将もおなじく義満の子義教の偏諱を受けている。.

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延暦寺

延暦寺(えんりゃくじ、正字: 延曆寺)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので南都の興福寺と対に北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。1994年には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。.

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延暦寺根本中堂

延暦寺根本中堂 延暦寺根本中堂(えんりゃくじこんぽんちゅうどう)は、比叡山延暦寺の総本堂である。.

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建内記

『建内記』(けんないき)は、室町時代の公卿万里小路時房の日記。「けんだいき」とも読まれる。書名は時房の法号である「建聖院」と、時房の極官である内大臣に由来。後世の人が時房の日記を「建聖院内府記」と呼び、この呼称が略されて「建内記」の呼称が定着した。「満済准后日記」「薩戒記」「看聞日記」と並び、室町時代中期の日記を代表する。 記述は1414年(応永21年)から1455年(康正元年)まで及ぶが、現在する記述は断片的である。1429年(永享元年)から1449年(宝徳元年)の20年分の記述が、最も欠落が少なく、現存状態が良好とされる。筆者時房は南都伝奏、勧修寺氏長者などを担当し、幕府とも密接な関係にあった。そのため、伝奏、氏長者としての仕事や、幕府、公武関係の動向に関する記述が豊富。将軍足利義教が横死した嘉吉の乱、嘉吉の徳政一揆の経緯についても詳らかに記述する。また万里小路家が保有する荘園が年貢滞納のために武士、商人、僧侶らに代官請に移行しなければならなくなった経緯など、社会経済に関する記述が多い。これは公家の日記の中でも特色とされ、室町中期の社会経済史研究に有益な情報を提供する。 時房の死後、日記は実子の冬房、甘露寺家から養子に入った春房、さらに勧修寺家から養子に入った賢房の手に渡り、賢房の実父である勧修寺教秀の所有するところとなっていた。中御門宣胤の1489年(延徳元年)の日記から、この時教秀が『建内記』を所有していたことが確認される。 その後、どのようにして伝来したのかは不明。伝来する過程で散逸、欠落もあった。最終的には伏見宮、菊亭家の手に渡ったらしく、伏見本は宮内庁書陵部に、菊亭本は京都大学付属図書館に所蔵されている。.

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伊豆国

伊豆国(いずのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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伏見宮貞成親王

伏見宮貞成親王(ふしみのみや さだふさ しんのう、応安5年3月5日(1372年4月9日) - 康正2年8月29日(1456年9月28日))は、室町時代の皇族。世襲親王家の一つ、伏見宮3代目当主。出家後の法名は道欽入道親王(どうきん にゅうどう しんのう)。太上法皇としての院号は後崇光院(ごすこう いん)。 現在の皇室と旧皇族11宮家の最後の共通の男系祖先として知られる。著作に『看聞日記』『椿葉記』がある。.

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引付衆

引付衆(ひきつけしゅう)は、鎌倉幕府の職名の一つ。.

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佐々木銀弥

佐々木 銀弥(ささき ぎんや、1925年 - 1992年9月5日)は、日本史学者。名は「銀彌」とも。.

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佐渡

佐渡(さど).

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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侍女

侍女(じじょ、handmaid)は、王族・貴族または上流階級の婦人に個人的に仕えて雑用や身の回りの世話をする女性である。.

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御前沙汰

御前沙汰(ごぜんさた)とは、室町幕府において将軍が主宰・臨席した非公式な評定のこと。後に評定衆・引付衆による評定に代わって公的な決定もここにおいて行われるようになった。雑訴を扱ったことから雑訴沙汰(ざっそさた)ともいう。 観応の擾乱によって幕府官僚の分裂・離反が生じた事から、2代将軍足利義詮が崩壊した評定衆・引付衆に代わる合議体として恩賞方にて開いたのが起源とされている。3代将軍足利義満の時代には幕府組織の再編が進み一時御前沙汰は行われなくなるが、出家していた元管領細川頼之を幕府に呼び戻す際に、幕府役職になかった頼之を幕府の政策決定に関与させるために正式な評定ではなく、出席者の人選に決まりが無く主宰者である将軍の意向が反映しやすい非公式な評定である御前沙汰の形式で評定を行って幕府の政策に関する重要決定を行った。更に頼之の没後、義満は息子義持に将軍職を譲って自らは出家するが、幕府の実権を握り続け、表面上引退しているために自らは召集できない公式な評定に代わって自ら主宰する御前沙汰を開いて幕府の政策決定を行い、将軍義持はこれに従う存在となった。 6代将軍足利義教は、管領などに対抗して将軍の権威を高めるために、将軍が主宰・臨席する御前沙汰の権威強化に乗り出し、雑訴のみならず所務も御前沙汰の評定対象として加え、実務を担当する右筆・奉行人の中から御前沙汰衆を選んで御前沙汰への参加資格を与えた。これによって、御前沙汰は最終決裁者である将軍とその直臣官僚とも言える御前沙汰衆を中心とする室町幕府における事実上の最高評議機関となった。ただし、管領も自らの被官が務める賦奉行とともに御前沙汰に参加して訴状の受付や将軍への裁許手続に関与している。 だが、応仁の乱以後には将軍の臨席は減少し、管領も非常設化したことで御前沙汰に参加することがなくなった。11代将軍足利義澄の頃には将軍主宰とされながら実際には将軍が臨席する事は無く、側近である内談衆が決定事項を将軍に取り次いで裁可を得る仕組みとなった。.

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御成

御成(おなり・御成り)とは、貴人が外出すること。.

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御教書

御教書(みぎょうしょ、みきょうしょ)とは平安時代後期から室町時代にかけて、三位以上及びそれに准じる地位にある人の家司が主の意思を奉じて発給した古文書の形態。四位以下の公家や守護大名クラスの武士の家司・家僕が主の意思を奉じて発給した同形式の文書は奉書という。.

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徳大寺実盛

徳大寺 実盛(とくだいじ さねもり、応永7年8月5日(1400年8月24日) - 応永35年4月23日(1428年6月6日))は、室町時代の公卿。主に後小松天皇(100代)・称光天皇(101代)の二帝にわたり仕え、官位は正二位権大納言まで進んだ。父は太政大臣徳大寺公俊。室は右兵衛督持明院基親の娘。子に右大臣徳大寺公有、教覚(天台座主)、尊任(仁和寺大僧正)。 応永11年(1404年)叙爵。以降累進して、侍従・右近衛少将・加賀介・右近衛中将・播磨介となり、応永21年(1414年)に従三位となり、公卿に列する。権中納言をへて、応永28年(1421年)に権大納言に任じられる。応永35年(1428年)に踏歌節会内弁をつとめたが、同年に薨去。享年29。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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後南朝

後南朝(ごなんちょう)とは、1392年(明徳3年)の南北朝合一後、南朝の再建を図った南朝の皇統の子孫や遺臣による南朝復興運動とそれによって樹立された政権、皇室の総称である。 この名称は江戸時代末期に儒学者斎藤拙堂によって付けられたもので、それまで名称は特に決まっていなかった。また後南朝という呼び方も戦後広まったもので戦前までは定着してはいなかった。.

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後小松天皇

後小松天皇(ごこまつてんのう、天授3年6月27日(1377年8月1日) - 永享5年10月20日(1433年12月1日))は、室町時代北朝最後の第6代、歴代第100代の天皇(在位:弘和2年4月11日(1382年5月24日) - 応永19年8月29日(1412年10月5日))。諱は幹仁(もとひと)。.

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後花園天皇

後花園天皇(ごはなぞのてんのう)は、室町時代の第102代天皇である(在位:正長元年7月28日(1428年9月7日) - 寛正5年7月19日(1464年8月21日))。諱は彦仁(ひこひと)。 本来は皇統を継ぐ立場にはなかったが、称光天皇の死後に皇位を継いだ。8親等以上離れた続柄での皇位継承は南北朝合一を除くと53代658年ぶりである(称徳天皇→光仁天皇以来)。以後、この天皇の系統が今上天皇をはじめとする現在の皇室に連なっている。.

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得度

得度(とくど)は仏教における僧侶となるための出家の儀式。 本来、僧侶になるには、仏教教団の10名の先輩構成員(三師七証)の承認があり、戒律を護る事を誓えば誰にでもなれるものであったが、中国や日本に於いては、労働、納税、兵役を免除されていたため、僧侶になる者が続出し、国家の財政を脅かす事態となった。そこで国家は年度や地域毎に僧侶になる人数を制限するために、得度を国家の許可制とした。.

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従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

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従一位

従一位(じゅいちい)は、日本の位階及び神階の位の一つ。正一位の下に位し、正二位の上位にあたる。.

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従二位

従二位(じゅにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。正二位の下、正三位の上に位する。.

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従五位

従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.

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従四位

従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.

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応永

応永(おうえい、旧字体:應永)は、日本の元号の1つ。明徳の後、正長の前。1394年から1427年までの期間を指す。この時代の天皇は後小松天皇、称光天皇。室町幕府将軍は足利義満、足利義持、足利義量。日本の元号の中では、昭和、明治に次いで3番目の長さ(35年)であり、一世一元の制導入以前では最長である。また、応永10年から22年までの約10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われる。.

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土岐持頼

土岐 持頼(とき もちより、生年不詳 - 永享12年5月16日(1440年6月15日))は、室町時代中期の守護大名。伊勢守護。父は土岐康政(やすまさ)。子に政康、東陽英朝。祖父の土岐康行を祖とする土岐世保家の3代目当主で、世保 持頼(よやす もちより)とも記される。「持」の字は室町幕府第4代将軍足利義持から偏諱を賜ったものである。また、土岐世保家歴代当主で唯一名前に「康」の字が付かず、土岐氏の通字である「頼」の字を使用している。.

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北畠教具

北畠 教具(きたばたけ のりとも)は、室町時代中期の公卿。権大納言、正二位。伊勢国司北畠家の第4代当主で、伊勢国の守護大名でもある。北畠満雅の子。.

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園城寺

園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗の総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。 開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩である。日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。 なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。.

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僧正

僧正(そうじょう)は、中国の南朝と日本で仏教の僧と尼を統括するために僧侶が任命された官職(僧官)の一つである。.

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テレビアニメ

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ニワトリ

ニワトリ(鶏、学名:Gallus gallus domesticus「仮名転写:ガルス・ガルス・ドメスティカス」)は、鳥類の種のひとつ。代表的な家禽として世界中で飼育されている。ニワトリを飼育することを養鶏と呼ぶ。.

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嘉吉

嘉吉(かきつ)は、日本の元号の一つ。永享の後、文安の前。1441年から1444年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義教、足利義勝。.

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嘉吉の乱

嘉吉の乱(かきつのらん)は、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が、室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。主に嘉吉の変(かきつのへん)と呼ばれることが多い。 この事件については伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』に義教暗殺当日の事情が記されている。全一巻の『嘉吉記』には、嘉吉の乱から後の神器奪還までの赤松氏の事情が記されている。.

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呪い

呪い(のろい)とは、人または霊が、物理的手段によらず精神的あるいは霊的な手段で、悪意をもって他の人や社会全般に対し災厄や不幸をもたらせしめようとする行為をいう。 特に人が人を呪い殺すために行うものは、古来日本では呪詛(じゅそ/ずそ/しゅそ)、あるいは調伏(ちょうぶく/じょうぶく)と言われることもあった。.

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ウメ

ウメ(梅、学名:Prunus mume、Japanese apricot)は、バラ科サクラ属の落葉高木、またはその果実のこと。花芽はモモと異なり、一節につき1個となるため、モモに比べ、開花時の華やかな印象は薄い。毎年2月から4月に5枚の花弁のある1センチメートルから3センチメートルほどの花を葉に先立って咲かせる。花の色は白、またはピンクから赤。葉は互生で先がとがった卵形で、周囲が鋸歯状。樹木全体と花は主に鑑賞用、実は食用とされ、枝や樹皮は染色に使われる。.

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内大臣

内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。.

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准后

准后(じゅごう)は、日本の朝廷において、太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられた者、またその待遇・称号。正式には准三宮(じゅさんぐう)といい准三后(じゅさんごう)ともいう。准后は略称である。清和天皇外祖父の藤原良房に三宮に準じた待遇を与えたのをはじめとし、当初は経済的処遇が主であったが、のちには称号を与えるだけとなった。.

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六角満綱

六角満綱(ろっかく みつつな)は、室町時代前期から中期にかけての武将・守護大名。近江国守護。六角氏9代当主。.

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元服

元服(げんぶく、げんぷく)とは、奈良時代以降の日本で成人を示すものとして行われた儀式。通過儀礼の一つである。 「元」は首(=頭)、「服」は着用を表すので、「頭に冠をつける」という意味。加冠とも初冠(ういこうぶり)とも言われる。なお、公家の女子の成人式は裳着(もぎ)と言う。民間においては褌親(へこおや・ふんどしおや)の元で、初めてふんどしを付け、性に関する知識を授かる褌祝(ふんどしいわい)と呼ばれる儀式がある。.

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兵庫県

兵庫県(ひょうごけん)は、日本の都道府県の一つ。本州の中西部に位置し、近畿地方に属する。県庁所在地は神戸市。.

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光文社

株式会社光文社(こうぶんしゃ)は、日本の出版社。.

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勧修寺教秀

勧修寺 教秀(かじゅうじ のりひで)は、室町時代中期から戦国時代の公卿。勧修寺家第7代当主。武家伝奏を務めた.

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勅使

勅使(ちょくし)とは、天皇・皇帝・王など国の元首が出す使者のこと。 上皇の使者は院使(いんし)、皇后の使者は皇后宮使(こうごうぐうし)、中宮の使者は中宮使(ちゅうぐうし)、皇太后の使者は皇太后宮使(こうたいごうぐうし)、女院の使者は女院使(にょいんし)と呼ばれる。.

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皇位継承

1928年(昭和3年)11月、即位の礼の時の昭和天皇 皇位継承(こういけいしょう)は、一般的に皇位(天皇の位)を皇太子もしくは皇位継承者に譲ることである。諸外国における国王・皇帝の地位を継承を意味する王位継承あるいは帝位継承とほぼ同義語である。大日本帝国憲法及び日本国憲法で明文規定された。.

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短歌

短歌(たんか)とは、和歌の一形式で五・七・五・七・七の五句体の歌体のこと。ただし短歌は古より詠まれている歌体であるが、この項目では明治以降の短歌すなわち近代短歌と現代の短歌について取り上げる。.

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石清水八幡宮

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、京都府八幡市にある神社。旧称は「男山八幡宮」。二十二社(上七社)の1つで、伊勢神宮(三重県伊勢市)とともに二所宗廟の1つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 宇佐神宮(大分県宇佐市)・筥崎宮(福岡市東区)または鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)とともに日本三大八幡宮の1つ。また宮中の四方拝で遥拝される神社の1つである。本殿を含む建造物10棟が国宝に指定されている。.

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玉川宮

玉川宮(たまがわのみや)は、室町時代に存在した南朝系の世襲宮家の一つ。一般には、長慶天皇の皇子(諱不詳)を家祖とすると考えられている。南北朝合一後、皇位回復を目指して反幕姿勢を崩さなかった小倉宮家とは対照的に、概して幕府体制に順応的な態度を取っていたが、史料が少ないために系譜に関してはあいまいな点が多い。玉河宮とも。 宮号は、長慶天皇が晩年を過ごしたとの伝説がある紀伊国伊都郡玉川(和歌山県九度山町)に由来するとされるが、この玉川の地と宮家との直接的な関わりは明らかでない。.

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王権神授説

王権神授説(おうけんしんじゅせつ、divine right of kings, divine right, God's mandate)とは、「王権は神から付与されたものであり、王は神に対してのみ責任を負い、また王権は人民はもとよりローマ教皇や神聖ローマ皇帝も含めた神以外の何人によっても拘束されることがなく、国王のなすことに対しては人民はなんら反抗できない」とする政治思想のことである。 ヨーロッパの絶対王政期において、長らく「神の代理人」とされてきたローマ教会の権威・権力からの王権の独立と、国民に対する絶対的支配の理論的根拠となった。代表的な論者に、フランスのボダンやボシュエ、イングランドのフィルマーなどがいる。.

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硫黄島 (鹿児島県)

硫黄島(いおうじま)は、薩南諸島北部に位置する島である。郵便番号は890-0901。人口は114人、世帯数は61世帯(2010年2月1日現在) - 三島村HP 2010年11月21日閲覧。。薩摩硫黄島(さつまいおうじま)とも呼ばれる。大隅諸島には、含まれるとする説と含まれないとする説とがある。 地名(行政区画)としての「硫黄島」の呼称は鹿児島県鹿児島郡三島村の大字となっており、全島がこれに該当する。 火山島であり火山噴火予知連絡会によって火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山に選定されている。 鬼界ヶ島と推定される島の一つである。.

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神明裁判

明裁判。中央の女性が熱した鉄棒を握って見せているロベール、p.162。 神明裁判(しんめいさいばん)とは、神意を得ることにより、物事の真偽、正邪を判断する裁判方法である。古代、中世(一部の地域では近世まで)において世界の各地で類似の行為が行われているが、その正確な性質は各々の神、宗教によって異なる。ヨーロッパでは神判西洋史ではほぼ神判と呼ばれるので、西洋の神判の節ではそれに倣う。たとえば、勝田[他]『概説西洋法制史』、バートレット『中世の神判』、山内『決闘裁判』、赤阪『神に問う』などはいずれも「神判」としている。()、日本では盟神探湯(くがたち)が行われた。 試罪法とも。.

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称光天皇

光天皇(しょうこうてんのう、応永8年3月29日 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.59(1401年5月12日) - 正長元年7月20日(1428年8月30日)は、室町時代の第101代天皇(在位: 応永19年8月29日(1412年10月5日) - 正長元年7月20日(1428年8月30日)。諱ははじめ躬仁(みひと)、のち實仁(みひと)に改めた。.

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等持院

等持院(とうじいん)は、京都府京都市北区にある臨済宗天龍寺派の寺院。山号は萬年山。足利氏の菩提寺であり、足利尊氏の墓所としても知られる。.

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管領

管領(かんれい)は、以下の役職・地位およびその座にあった者を指す名称。.

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粟飯原氏

粟飯原氏(あいはらし/あいばらうじ)は、日本の氏族。中世に活躍した武家。.

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紫波郡

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細川頼久

細川 頼久(ほそかわ よりひさ、生没年不詳)は、室町時代の武将。父は細川基之(もとゆき、満之の子)。細川和泉下守護家当主。阿波守、兵部大輔。子に4代将軍足利義持の一字を受けた持久(もちひさ)、弟に6代将軍足利義教(義持の弟)の一字を受けた教久(のりひさ)がいる。 基久没後の文安5年(1448年)10月から応仁3年(1469年)頃まで和泉半国守護を務めた。 頼久は応仁3年には在国しており、子の持久が在京したという。文明年間初頭に没したと推測されている。.

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細川持常

細川 持常(ほそかわ もちつね)は、室町時代の守護大名。室町幕府相伴衆、阿波・三河守護。細川氏の分家・阿波細川家の当主。父は、細川満之の子・細川満久(みつひさ)。弟に教祐(のりすけ)、その子の成之は持常の養子となる。官位は従五位下、兵部少輔、讃岐守。.

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細川持之

細川 持之(ほそかわ もちゆき 1400年~1442年9月8日)は、室町時代の武将・守護大名。第14代室町幕府管領。摂津・丹波・讃岐・土佐守護。第10代細川京兆家当主。細川満元の次男で兄に持元、弟に持賢がいる。妻は京極高光の娘。嫡男に勝元、成賢(しげかた、持賢養子)。.

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細川成之

細川 成之(ほそかわ しげゆき)は、室町時代から戦国時代の武将、守護大名。室町幕府相伴衆、阿波・三河・讃岐守護。細川氏の一門で阿波細川家当主。細川教祐(のりすけ)の子で、伯父・細川持常の養嗣子。官位は兵部少輔、讃岐守。政之、義春の父。後に本家に当たる京兆家を継いだ細川澄元は孫に当たる。.

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細川教春 (和泉上守護家)

細川 教春(ほそかわ のりはる、応永30年(1423年) - 宝徳2年4月27日(1450年6月7日))は、室町時代の武将、守護大名。細川和泉上守護家当主。父は細川持有(もちあり)。母は最勝院。弟に常有(つねあり、元有の父)。仮名は九郎。和泉上守護家の通字により、教有(のりあり)ともいう。教春、教有いずれも「教」の字は将軍足利義教から偏諱の授与を受けたものである。等観院と号す。刑部大輔。.

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細川教春 (野州家)

細川 教春(ほそかわ のりはる、生没年不詳)は、室町時代の武将、守護大名。細川野州家当主。下野守。丹波国を領していたとされる。.

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綸旨

綸旨(りんじ)とは、蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文書。 綸旨とは本来は「綸言の旨」の略であり、天皇の意そのものを指していたが、平安時代中期以後は天皇の口宣を元にして蔵人が作成・発給した公文書の要素を持った奉書を指すようになった。御綸旨(ごりんじ・ごりんし)とも呼ぶ。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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義昭

義昭(ぎしょう、応永11年(1404年) - 嘉吉元年旧3月13日(1441年4月4日))は、室町時代の僧。室町幕府第3代将軍・足利義満の子息。大覚寺門跡となり、官職は大僧正に昇り、たびたび東寺長者を務めた。.

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猶子

子(ゆうし)とは、兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度。漢文訓読では「なほ子のごとし」(訳:あたかも実子のようである)という意味。 中国における本義は兄弟の子の意味。養子との違いは、家督や財産などの相続を必ずしも目的の第一義とはせず、実力や「徳」に優れた仮親の権勢を借りたり、一家・同族内の結束を強化するために行われた。具体的には、官位などの昇進上の便宜、婚姻上の便宜、他の氏族との関係強化が図られる場合に組まれるようである。そのため、子供の姓は変わらない場合があったり、単なる後見人としての関係であるなど、養子縁組と比べて単純かつ緩やかで擬制的な側面が大きい。 ただし、相続に関しての実際は明確な区別はなく、猶子であっても相続がなされる場合も多い。ときに両者をまったく同義で使用している場合がある。.

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猿楽

猿楽(さるがく、猿樂)は、平安時代に成立した日本の伝統芸能。能は江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである。.

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看聞日記

『看聞日記』(かんもんにっき)は、伏見宮貞成親王(後崇光院、1372年 - 1456年)の日記。日記41巻と御幸記1巻、別記1巻、目録1巻から構成され、全44巻から成る。一部は散逸しているが、応永23年(1416年)より文安5年(1448年)まで33年間に渡る部分が現存する。『看聞日記』は宮内庁書陵部所蔵の貞成親王自筆の原本の題名で、一般には『看聞御記』(かんもんぎょき)とも呼ばれる。 貞成親王は伏見宮3代で、後花園天皇の実父にあたる人物である。将軍足利義教時代の幕政や世相、貞成親王の身辺などについて記されており、政治史だけでなく文化史においても注目される。 一部は消失しているが、原本は宮内庁書陵部に所蔵されている。1930年(昭和5年)に続群書類従完成会により宮内庁書陵部所蔵原本が翻刻され、以来室町期の政治・社会・文化を知る史料として活用されている。.

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結城合戦

結城合戦(ゆうきかっせん)は、永享12年(1440年)に関東地方で起こった室町幕府と結城氏ら関東の諸豪族との間の戦いである。.

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田中義成

中 義成(たなか よしなり、安政7年3月15日(1860年4月5日) - 大正8年(1919年)11月5日)は、国史学者。.

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畠山家国

山 家国(はたけやま いえくに、生年不詳 - 建武2年(1335年))は、鎌倉時代末期の武将。足利氏の支流畠山氏の5代当主(実質的初代当主の足利義純を除くと4代当主)。通称二郎。畠山貞国の子。国清、義深、義熈、清義、国頼、義輝、清渓尼(足利基氏妻)の父。後に出家して西蓮と称す。治部大輔。位階は従五位下。 当時の畠山氏の嫡流は家国の伯父とされる畠山高国であるが、家国の子孫が後に室町幕府の管領を輩出する家柄となった。.

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畠山義忠

山 義忠(はたけやま よしだた)は、室町時代の守護大名。室町幕府相伴衆、能登守護。能登畠山氏2代当主。能登七尾城主。畠山満慶の子。子に義有。官位は左馬助、阿波守、修理大夫。法名は賢良。 永享元年(1429年)に6代将軍足利義教の元服で理髪役を務める。(ちなみに、義忠の弟はのちに義教の1字を受けて畠山教国(のりくに)と名乗り、御供衆の一人に名を連ねている(『長禄二年以来申次記』より)。) 翌2年(1430年)から父に代わって守護の役割を代行、永享4年(1432年)に父が亡くなり家督を継いだ。永享6年(1434年)に相伴衆に任じられ幕閣に参加、翌7年(1435年)に修理大夫に任じられた。しかし、永享12年(1440年)頃に子の義有が義忠に先立ち戦没したため、嫡孫の義統を後継者と定めた。嘉吉年間に出家し、賢良と号した。 享徳3年(1454年)、本家である従兄の畠山持国の後継を巡り甥の弥三郎、政長兄弟と子の義就が対立した時、義忠は義就に味方して弥三郎の追討に参戦している。翌4年(1455年)に義統に家督を譲って隠居、寛正4年(1463年)に京都の屋敷で亡くなった。 文化に関心が深く、幕府の和歌会に列席、尭孝、冷泉為之、正徹らと交わった。蹴鞠、松噺子にも関心があり、当時の大名の中でも文化人として知られていた。 義忠の孫には義統の他に政国がおり、政国は義就の猶子となっている。.

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畠山義深

山 義深(はたけやま よしふか/よしとお安田(1990)p407 、元弘元年(1331年) - 康暦元年/天授5年10月12日(1379年11月21日))は、南北朝時代の武将。畠山氏6代当主。畠山家国の子。兄弟に畠山国清、足利基氏室が、子に畠山基国、畠山深秋がいる。通称、三郎。増福寺と号。 国清とともに幕政に参与、関東で兄とともに北朝方として戦う。以降兄と行動を共にし、康安元年(1361年)11月、兄国清が伊豆で挙兵した際もこれに従うが(畠山国清の乱)、敗北し降伏 。貞治5年(1366年)、幕府に許され、貞治の変で失脚した斯波高経の分国であった越前守護に任命され、高経を打ち破った。のち、能登守、越中守、河内守、和泉守、紀伊守、伊豆、越前の守護を歴任した。.

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畠山氏

山氏(はたけやまし/はたけやまうじ)は、武蔵国を本貫地とする武家の一族。主に桓武平氏系と清和源氏系の2家系があるが、両者は間接的な血縁関係である(後述)。読みには他に「はたやま」もある。 室町時代には畠山金吾家が大和宇智郡・河内・紀伊(管領就任時には山城も)などの畿内およびその周辺国に該当する重要な地域を守護として治め、また幕府の管領として国の政務を執った。しかし、家督争いにより、総州家と尾州家に分かれて、応仁の乱勃発の一因となり、その後も激しく争い続けた。 また、北陸の越中の守護も兼ね、分家は能登の守護を代々世襲する。著名な末裔として実業家の畠山一清がいる。.

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畠山満家

山 満家(はたけやま みついえ)は、南北朝時代から室町時代にかけての武将、守護大名。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・伊勢・山城守護。畠山基国の嫡男で満慶の兄。子に持国、持永、持富。.

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異形コレクション

『異形コレクション』(いぎょうコレクション)は、作家井上雅彦が監修するホラーアンソロジーのシリーズである。 常に完全書き下ろしで、国内外の作家から、30巻「蒐集家」から36巻「進化論」までは一般読者からの投稿作品も掲載されている。 文庫サイズで、1巻から15巻までは廣済堂から、16巻からは光文社より刊行されている。 また、同じ光文社・カッパ・ノベルスから「異形コレクション・綺賓館(きひんかん)」というシリーズが刊行されており、こちらは書き下ろし作品と再録作品が半々で収録されている。他に徳間書店からは「異形ミュージアム」、角川書店からは「タロット・ボックス」という作品も数冊刊行されている。 本来の巻数表記はローマ数字だが、本項では通常のアラビア数字を代用する。.

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盟神探湯

盟神探湯(くかたち、くかだち、くがたち)は、古代日本で行われていた神明裁判のこと。ある人の是非・正邪を判断するための呪術的な裁判法(神判)である。探湯・誓湯とも書く。.

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直垂

垂 『和漢三才図会』(1702年) thumb 直垂(ひたたれ)は、主に武家社会で用いられた男性用衣服、日本の装束の一つである。 直垂からは「大紋直垂」・「素襖直垂」・鎧下に着る「鎧直垂」・「肩衣」などが時代と共に生じていく。.

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花の乱

『花の乱』(はなのらん)は、1994年4月3日から同年12月11日にかけて放送された33作目のNHK大河ドラマ。放送回数は全37話。.

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花山院持忠

花山院 持忠(かざんいん もちただ)は、室町時代の公卿。 応永29年(1422年)に従三位となり公卿に列する。参議・伊予権守・権中納言を経て、正長元年(1428年)に権大納言となる。永享2年(1430年)従二位・造営上卿となる。永享9年(1437年)右近衛大将に、永享13年(1440年)には内大臣に任じられる。嘉吉2年(1442年)に右大将を辞し、翌年には内大臣も辞した。文安5年(1448年)に44歳で出家。薨去後に太政大臣が追贈された。 なお『看聞御記』には、父・忠定に相続人がおらず花山院家の家門が断絶しかかったため、「南方近衛息」(南朝関白近衛経忠の末裔)を密かに迎えて、将軍足利義持の加冠によって元服してその偏諱を受けたとする記述があるが、真相は不明である。.

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音阿弥

音阿弥(おんあみ、またはおんなみ、応永5年(1398年)- 文正2年1月2日(1467年2月6日))は室町時代の猿楽能役者。観世三郎元重。観阿弥の孫、世阿弥の甥に当たる。三世観世大夫。.

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蟄居

蟄居(ちっきょ)とは、中世から近世(特に江戸時代)武士または公家に対して科せられた刑罰のひとつで、閉門の上、自宅の一室に謹慎させるもの。 幕府や領主などから命じられて行う場合と、命じられる前などに自発的に自宅で謹慎する場合もあった。江戸時代には蟄居・蟄居隠居・永蟄居(解除なし)などに分けられていた。また、減封などが付加される場合もあった。.

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鎌倉五山

鎌倉五山(かまくらござん)とは、禅宗の寺格。.

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鎌倉公方

明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉公方管轄国 新編鎌倉志-関東公方屋敷図 鎌倉公方(かまくらくぼう)とは、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東十か国を統治するために設置した鎌倉府の長官。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称するが、この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれた呼称となる。関東十か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐。 鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となった。 ※鎌倉公方は歴史学用語及び鎌倉公方の自称であって当時の一般呼称ではない。当時の一般呼称は“鎌倉御所”か“鎌倉殿”である。.

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遣明船

遣明船(けんみんせん)は室町時代の応永11年(1404年)から天文16年(1547年)まで約1世紀半で17次(のべ84隻)に渡り、日明貿易(勘合貿易)に用いられた船のことである。日明貿易には、両国により正式の渡航船であることを証明する勘合符が用いられたことから、勘合船とも呼ばれた。 足利義満は、応永8年(1401年)に僧の祖阿と博多商人の肥富を遣明使として派遣し、明との交易を申し入れ、明の使者から「永楽の勘合符」を得て、勘合貿易が始まる。遣明船は当初、幕府が直接船主となり運航していたが、幕府の力がしだいに弱まるようになると有力寺社(相国寺、三十三間堂など)や有力守護大名(細川氏、大内氏など)が船主となり、これに博多や堺の商人、瀬戸内海の町、水夫が結びついて貿易を行った。最終的には貿易の主導権を巡り細川氏と大内氏は争い、大永3年(1523年)には寧波で衝突(寧波の乱)し、大内氏は貿易を独占することになる。結果、大内氏の本拠である山口は応仁の乱で荒廃した京都よりはるかに繁栄することとなった。.

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聖護院

本堂 宸殿 聖護院(しょうごいん)は京都府京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗総本山(本庁)の寺院。聖護院門跡( - もんぜき)とも称する。山号はなし。開基(創立者)は増誉、本尊は不動明王である。 日本の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の霞を統括する総本山である。1872年(明治5年)の修験道廃止令発布後、一時天台寺門宗に属したが、1946年(昭和21年)修験宗(のち本山修験宗)として再び独立して現在に至る。天台宗に属した後も聖護院の格は大本山であった。.

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鍋(なべ)とは、一般には熱源を併せ持っていない加熱調理用容器である 特許庁。ただし、電気鍋のように熱源を併せ持っているものも存在する。食材に火を通すための調理器具であり、煮物・茹で物・揚げ物等の調理法に利用される。片手付きのもの(片手鍋)、両手付きのもの(両手鍋)、吊り手付きのものなどがある。やっとこ鍋(後述)のように取っ手がなくやっとこで掴んで操作するものもある。また、鍋には蓋付きのものと蓋無しのものがある。日本では家庭用品品質表示法の適用対象とされており雑貨工業品品質表示規程に定めがある。 「○○鍋」というときは、鍋の種類名称である場合と、鍋を使って食卓上で作る煮物料理(鍋料理、鍋物)の名称を指す場合がある。.

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青蓮院

宸殿前庭、右近の橘、左近の桜 青蓮院(しょうれんいん)は、京都市東山区粟田口(あわたぐち)三条坊町にある天台宗の寺院。青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)とも称する。山号はなし。開基(創立者)は伝教大師最澄、本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)である。現在の門主(住職)は、旧伯爵東伏見家出身の東伏見慈晃。.

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飯尾為種

飯尾 為種(いいのお ためたね、? - 長禄2年5月20日(1458年6月30日))は室町時代中期の室町幕府幕臣。奉行衆として活動した。飯尾為継(肥前守)の長男であるが、宗家筋の飯尾為永の官途名である「備中守」を継いでいることからその後継とみられている。法号は永祥。弟に為秀、子に飯尾為数・之種がいる。 生年は不詳であるが、為種の没後の文正元年(1466年)に次男の之種の屋敷を将軍足利義政が御成した時に母親(すなわち為種の未亡人)が80歳であったと伝えられるため、その生年と推定される嘉慶元年/元中4年(1387年)頃であったと推定する説(森幸夫説)もある。.

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馬寮

寮(めりょう/うまのつかさ)は、律令制における官司の一つ。唐名では典厩(てんきゅう)。左馬寮(さめりょう/さまりょう)と右馬寮(うめりょう/うまりょう)に分かれていた。.

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駿河国

駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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角川学芸出版

角川学芸出版(かどかわがくげいしゅっぱん)は、日本の出版社・KADOKAWAと角川文化振興財団の共通ブランド。 本項では、ブランドカンパニー化以前の株式会社角川学芸出版についても解説する。.

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評定衆

評定衆(ひょうじょうしゅう)とは、鎌倉・室町時代に置かれた役職の一つである。鎌倉時代においては幕府の最高政務機関であり、行政・司法・立法のすべてを司っていた。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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高梨政高

梨 政高(たかなし まさたか)は、室町時代中期から後期にかけての武将。.

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講談社

株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.

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講談社学術文庫

講談社学術文庫(こうだんしゃがくじゅつぶんこ)は、講談社刊の文庫判・学術書レーベル、1976年(昭和51年)に発足。シンボルマークは、古代エジプトで知識や学問の象徴とされていた「トキ」(アフリカクロトキ)の姿をした神トートである。 単行判・選書新書の(改訂・改題も含む)再刊、古典新訳のみならず、文庫書き下ろしでの出版も多い。約40年間で2000冊代を刊行、重版多数の書目がある一方で、初版のみで品切絶版となった書目も多い。 2011年(平成23年)より、電子書籍版を購入できるiOS用のアプリケーション「選書メチエ&学術文庫」をApp Storeを配信している。.

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講談社文庫

講談社文庫(こうだんしゃぶんこ)は、株式会社講談社が発行している文庫レーベル。1971年に創刊された。広義では講談社学術文庫や講談社文芸文庫などを含む講談社から出されている文庫全体を指し、狭義では講談社文庫のみを指す。.

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護良親王

護良親王 護良親王(もりよししんのう / もりながしんのう)、延慶元年(1308年) - 建武2年7月23日(1335年8月12日)は、鎌倉時代後期から建武の新政期の人物。後醍醐天皇の皇子、母は源師親の娘親子。妃は北畠親房の娘。または藤原保藤の娘である南方(みなみのかた)。興良親王の父。大塔宮(だいとうのみや / おおとうのみや)と呼ばれた。天台座主。 名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。.

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越智氏 (大和国)

越智氏(おちし)は、大和国高市郡越智荘を支配した豪族である。.

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足利将軍家

足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)は、足利氏の惣領家(宗家)のうち、とくに足利尊氏以来の、代々室町幕府の将軍職を世襲した一家(軍事貴族)。初代尊氏の後は2代として嫡男義詮が継ぎ、3代足利義満を経て、15代義昭まで続く。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。.

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足利義久

足利 義久(あしかが よしひさ)は、室町時代中期の人物。関東公方・足利持氏の嫡男。「大若君」と呼称された。.

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足利義嗣

足利 義嗣(あしかが よしつぐ)は、室町時代の足利将軍家の人物。室町幕府3代将軍足利義満の四男で、4代将軍足利義持の弟にあたる。.

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足利義勝

足利 義勝(あしかが よしかつ)は、室町時代中期の室町幕府第7代将軍(在任:1442年 - 1443年)。幼名は千也茶丸(せんやちゃまる)。6代将軍足利義教の嫡男で庶子。.

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足利義稙

足利 義稙(あしかが よしたね)は、室町幕府第10代将軍。父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた足利義視。母は裏松重政の娘(日野富子の妹に当たる人物であるが名は伝わらない)。 初名は義材(よしき)。将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)、将軍職復帰後の永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名している。 将軍在職は2つの時期に分かれており、1度目は延徳2年7月5日(1490年7月22日)から明応3年12月27日(1495年1月23日)まで在職した後、約13年半の逃亡生活を送る。2度目は永正5年7月1日(1508年7月28日)から大永元年12月25日(1522年1月22日)まで在職した。.

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足利義視

足利 義視(あしかが よしみ)は、室町時代中期から後期にかけての人物・武将。室町幕府6代将軍足利義教の子で、異母兄に7代将軍義勝と8代将軍義政、堀越公方足利政知(実際は次兄にあたる)がいる。子に10代将軍・足利義稙(初め義材・義尹)などがいる。.

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足利義量

足利 義量(あしかが よしかず)は、室町時代中期の室町幕府第5代征夷大将軍(在職:応永30年3月18日(1423年4月28日) - 応永32年2月27日(1425年3月17日))。.

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足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.

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足利義持

足利 義持(あしかが よしもち)は、室町幕府第4代将軍(在任:応永元年(1394年) - 応永30年(1423年))。父は3代将軍・足利義満。母は安芸法眼の娘で側室の藤原慶子。 父の死後、勢力を盛り返す守護大名の中にあって調整役として機敏に立ち回った将軍で、室町幕府の歴代将軍の中で比較的安定した政権を築き上げた。なお、義持の将軍在職28年は歴代室町将軍中最長の在任期間である。.

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足利義政

足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は足利 義成(- よししげ)。 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。.

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足利義晴

足利 義晴(あしかが よしはる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第12代将軍(在職:1521年 - 1546年)。第11代将軍足利義澄の長男。母は日野永俊の娘で日野富子の姪とされるが、永俊娘は永正2年(1505年)に義澄と離縁しているため、義晴の生母としては疑問が残る。これに対して将軍家で御末を務めていた「阿与」という女性が母親であった『菅別記』とする説もあり、母親の身分が低くて記録に残さなかった可能性も高い。.

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足利氏

足利氏(あしかがし)は、日本の武家のひとつの軍事貴族。本姓は源氏。家系は清和天皇清和源氏の一族の河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府においては御家人であると同時に将軍家一門たる御門葉の地位にあった。室町時代には嫡流が足利将軍家として天下人となった。藤原秀郷の子孫の藤原姓足利氏(藤姓足利氏)に対して源姓足利氏という場合がある。 通字は、「義」(よし、足利将軍家ほか)または「氏」(うじ、鎌倉時代の歴代当主および鎌倉公方・古河公方家など)。.

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足利持氏

足利 持氏(あしかが もちうじ)は、室町時代の武将。第4代鎌倉公方(在職:1409年 - 1439年)。第3代鎌倉公方・足利満兼の子。.

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足利政知

足利 政知(あしかが まさとも)は、室町時代後期の武将。足利将軍家の一族で、初代堀越公方である。室町幕府6代将軍足利義教の次男で母は幕府奉公衆斎藤氏の娘少弁殿。7代将軍足利義勝の異母弟で8代将軍足利義政と足利義視の異母兄。11代将軍足利義澄の父であり、以後の将軍は政知の家系から続いた。 室町幕府公認の鎌倉公方として下向するが、享徳の乱による関東の混乱及び幕府権力の衰退と上杉氏の内紛などで鎌倉に入れず、手前の伊豆の堀越に留まった。このため、堀越公方と称される。.

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近衛大将

近衛大将(このえ の だいしょう)は、日本の律令官制における令外官の一つ。宮中の警固などを司る左右の近衛府の長官。左近衛府には左近衛大将(さこんえのだいしょう)、右近衛府には右近衛大将(うこんえのだいしょう)が置かれ、それぞれ略して「左大将」「右大将」ともいう。定員は各1名で、権官はない。官位相当は従三位。常設武官の最高職で、馬御監の兼任とされた。和訓は「ちかきまもりのつかさのかみ」。.

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近衛府

近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。.

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近衛教基

近衛 教基(このえ のりもと)は、室町時代の公卿。関白近衛房嗣の一男で、母は家女房播磨局(父不詳)。聖護院道興・関白政家の兄。父から家督を継いで右大臣に至ったが、摂関に昇ることなく早世した。後九条と号する。.

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舌(ぜつ、した)は、動物の口の中にある器官。脊椎動物の舌は、筋肉でできた突起物である。筋肉を様々に動かすことで、形や位置を自在に変えることができ、食物を飲み込む際、言葉をしゃべる(構音)際などに使われるので、消化器、運動器の働きをもつといえる。その運動は非常に細かく、正確にコントロールすることが可能。また、哺乳類の舌には、味覚を感じる受容器である味蕾(みらい)があり、感覚器でもある。 脊椎動物以外にあって舌と名づけられた構造は、脊椎動物の舌の形などとの類似性から名づけられたものが多く、その構造、役割などは様々である。中でも有名なものに、軟体動物の歯舌(しぜつ)がある。.

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赤松義雅

赤松 義雅(あかまつ よしまさ)は、室町時代中期の武将。赤松満祐の実弟。.

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赤松貞村

赤松 貞村(あかまつ さだむら)は、室町時代中期の武士。足利将軍家の近習。.

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赤松氏

赤松氏(あかまつし)は、日本の氏族の1つ。鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した武家である。.

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赤松満祐

赤松 満祐(あかまつ みつすけ/まんゆう)は、室町時代中期の武将、守護大名である。室町幕府侍所頭人、播磨・備前・美作守護。赤松義則の嫡男。兄弟に義雅、祐尚(祐之)、則繁など。従兄弟に有馬持家、満政。子に教康。生年は文中2年/応安6年(1373年)説もある。.

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赤松教康

赤松 教康(あかまつ のりやす)は、室町時代中期の武将。嘉吉の乱で有名な赤松満祐の子。.

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赤松教政

赤松 教政(あかまつ のりまさ)は、室町時代中期の武将。 赤松満政の子。赤松系図では嘉吉の乱ののちに赤松家惣領に任命された満直の兄とされているが、弟とする説もある。嘉吉3年(1443年)7月28日、赤松家残党に奉じられて山名宗全の守護国となっていた播磨で挙兵したが、宗全により討伐された。教政は摂津に逃亡して自殺した。 ただし、父の満政と共に殺害されたともされている。.

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関東管領

関東管領(かんとうかんれい)は、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名である。鎌倉公方の下部組織でありながら、任免権等は将軍にあった。当初は関東執事(かんとうしつじ)と言っていた。上杉氏が世襲した。.

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薩戒記

『薩戒記』(さっかいき)は藤原北家花山院流の公卿中山定親の日記。『霜台記』『定親卿記』『中山霜台禅門記』などの別名で呼ばれることもある。書名の「薩戒」は、筆者名である「さだちか」の唐風反名、すなわち名前の最初の文字「さ」と最後の文字「か」に由来する。別名『霜台記』の書名は、定親が権大納言と共に兼任した弾正尹の唐名、「霜台」に由来する。 1418年(応永25年)から1443年(嘉吉3年)までの記載があるが、抜書、部類抄、消息、宣下などを含むと収録範囲は1448年にまで及ぶ。完全に存在するのは、1425年-26年(応永32・33年)のみであるが、古くから目録・抜書・部類記などの形での引用が多くなされたことがあり、途中の7年分を除けばその内容の多くが把握できる。定親は有職故実に詳しく後小松院から重用され、武家伝奏も務めたことから朝廷・幕府双方の動向に通じていたため、内容は豊富で文献としての価値は高く、『満済准后日記』『建内記』『看聞日記』と並んで、室町時代中期の重要な史料とされる。 原本は東大史料編纂所に6巻、京都大学に1巻、写本は宮内庁書陵部、尊経閣文庫などに所収されている。全8巻の予定で『大日本古記録』の一として刊行中。.

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門跡

跡(もんせき、もんぜき)は、皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことである。寺格の一つ。元来は、日本の仏教の開祖の正式な後継者のことで「門葉門流」の意であった(この場合は門主とも)。鎌倉時代以降は位階の高い寺院そのもの、つまり寺格を指すようになり、それらの寺院を門跡寺院と呼ぶようになった。 浄土宗の知恩院門跡は浄土門主(もんす)という。 浄土真宗本願寺派の本願寺住職は門主(もんしゅ)、真宗大谷派の僧侶及び門徒の代表者は門首(もんしゅ)と書き、いずれも親鸞の子孫の大谷家から出ている。.

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藤原慶子

藤原 慶子(ふじわら の よしこ、延文3年/正平13年(1358年) - 応永6年5月8日(1399年6月12日))は、室町時代前期の女性。室町幕府第3代将軍・足利義満の側室。同第4代将軍・足利義持と同第6代将軍・足利義教らの生母。通称は北向殿 臼井信義 著『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.235。.

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闘鶏

鶏(ベトナム) 闘鶏(とうけい)は、鶏と鶏が戦う競技。チキンファイトともいう。通常、戦うのは雄鶏同士である。脚に小型の刃物を括り付けて戦わせることもある。.

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鑁阿寺

鑁阿寺(ばんなじ)は、栃木県足利市家富町にある真言宗大日派の本山である。「足利氏宅跡(鑁阿寺)」(あしかがしたくあと(ばんなじ))として国の史跡に指定されている。日本100名城の一つ。.

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還俗

還俗(げんぞく)とは、僧侶になった者が、戒律を堅持する僧侶であることを捨て、在俗者・俗人に戻る事をいう。「復飾」(ふくしょく)とも。自らの意志で還俗する場合と、教団側から還俗させられる場合がある。 日本では、律令「僧尼令」における刑罰の一つでもあった。武士・公家の家督や棟梁、氏長者といったものを相続していた当主が亡くなり、謀反防止のためなどの理由で出家していた子弟・縁者などが相続して家名存続させる目的のものもあるなど、背景はさまざまである。明治時代初頭には神仏分離に端を発する廃仏毀釈により、全国で神宮寺の社僧などが還俗した。 また、宮門跡となって入寺得度(出家)した親王が再び皇親に戻り、宮家を継承することもあった。特に幕末維新期にはその数は増えていった。.

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重要文化財

建造物の例(通潤橋) 歴史資料の例(123号機関車 京都・宮津海陸運輸所有) 彫刻の例(塑造金剛力士立像 法隆寺蔵) 考古資料の例(埴輪子持家 東京国立博物館蔵) 絵画の例(黒田清輝筆「湖畔」) 建造物(民家)の例:荒井家住宅(栃木県矢板市) 重要文化財(じゅうようぶんかざい)は、日本に所在する建造物、美術工芸品、考古資料、歴史資料等の有形文化財のうち、歴史上・芸術上の価値の高いもの、または学術的に価値の高いものとして文化財保護法に基づき日本国政府(文部科学大臣)が指定した文化財を指す。重文(じゅうぶん)と略称されることが多い。文化庁による英語表記はImportant Cultural Properties。 日本の地方公共団体(都道府県、市町村)がそれぞれの文化財保護条例に基いて指定する有形文化財についても「県指定重要文化財」「市指定重要文化財」等と呼称される場合があるが、文化財保護法に規定する「重要文化財」とは国(日本国文部大臣)が指定した有形文化財のことを指す。本項では特記なき限り、文化財保護法第27条の規定に基づき日本国(文部科学大臣)が指定した重要文化財(いわゆる「国の重要文化財」)について記述する。.

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自業自得

記載なし。

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長禄の変

長禄の変(ちょうろくのへん)は、室町時代の長禄元年12月2日(1457年12月18日)に赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮を襲い、南朝の皇胤である自天王と忠義王(後南朝の征夷大将軍)の兄弟を討って、神璽を持ち去った事件。.

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長慶天皇

長慶天皇(ちょうけいてんのう)は、南北朝時代の第98代天皇にして、南朝の第3代天皇(在位:正平23年/応安元年(1368年) 3月鴨脚本『皇代記』によるが、日付を欠くため、3月11日の後村上天皇崩御を受けたものか、あるいは先だって行われた譲位を受けたものか、確認しがたい。 - 弘和3年/永徳3年(1383年)冬)。諱は寛成(ゆたなり)。 南朝関係史料の少なさから、近世以来諸家の間で天皇の在位・非在位をめぐる議論があり、明治44年(1911年)3月に明治天皇が南朝を正統とする勅裁を下した際も在位認定されないままであったが、大正時代に入って、八代国治・武田祐吉の実証的研究が決定的な在位説として評価される。これを受けて宮内省の調査が行われ、大正15年(1926年)10月21日に皇統加列についての詔書発布があり、ここにようやく長慶天皇の在位の事実が公認されるに至った。.

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逆説の日本史

『逆説の日本史』(ぎゃくせつのにほんし)は、小説家の井沢元彦による日本史を扱った書籍。 小学館発行の『週刊ポスト』誌平成4年(1992年)1月1日号から連載されており、ある程度内容がたまると小学館から単行本として刊行され、さらに小学館文庫に収録されている。 日本の歴史を創るのは「言霊、和、怨霊、穢れ」への無意識の信仰に基づく非論理的な日本人の行動と分析し、史料絶対主義を排し、その書かれた、書かれなかった背景をも深く考察すべきこと、「時代で常識とされていたことは記録されなかった」こと及び通史的考察の重要性を強調し、シリーズ全体を貫くテーマとしている。.

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虎山永隆

永隆(えいりゅう)または虎山永隆(こざんえいりゅう)は、室町時代の僧。足利将軍家の一族であり、第3代将軍・足利義満の子。第4代将軍・足利義持と第6代将軍・足利義教の弟に当たる。相国寺永隆(しょうこくじえいりゅう)、聯輝軒永隆(れんきけんえいりゅう)としても知られる。.

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恐怖政治

恐怖政治(きょうふせいじ)とは、.

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束帯

束帯a:冠 b:袍 c:飾太刀 d:笏 e:平緒 f:下襲の裾 g:表袴 h:大口袴 江戸期の縫腋の袍(阿部正弘) 束帯(そくたい)は、平安時代以降の、天皇以下公家の正装(平安装束)。衣冠を「宿直(とのい)装束」と呼ぶのに対し、束帯は「昼(ひの)装束」と呼ばれる。.

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東坊城益長

東坊城 益長(ひがしぼうじょう ますなが、応永14年(1407年)-文明6年12月18日(1475年1月25日)は、室町時代の公卿。東坊城長遠の長子。子に東坊城長清(従三位参議)など。.

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東京大学史料編纂所

東京大学史料編纂所(とうきょうだいがくしりょうへんさんじょ、英称:Historiographical Institute, the University of Tokyo)は、東京大学の附置研究所(共同利用・共同研究拠点)の一つであり、日本史に関する史料の編纂と刊行を行っている。.

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桜井英治

桜井 英治(さくらい えいじ、1961年11月 - )は、日本の歴史学者、東京大学教授。専門は日本中世史・流通経済史。茨城県出身。.

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梶井義承

義承(ぎしょう)または梶井 義承(かじい ぎしょう)は、室町時代の僧。足利将軍家の一族であり、父は室町幕府第3代将軍・足利義満。母は側室の藤原誠子。同第4代将軍・足利義持と同第6代将軍・足利義教の異母弟にあたる 臼井信義 著『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.244。.

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森茂暁

森 茂暁(もり しげあき、1949年9月9日 - )は、日本の歴史学者。福岡大学教授 。専門は中世日本の政治と文化。文学博士(1985年、九州大学にて取得)。.

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横井清

横井 清(よこい きよし、1935年10月31日 - )は、日本中世史学者。 京都市生まれ。1958年立命館大学文学部卒、1962年同大学院文学研究科博士課程中退、京都市史編纂補助、1970年代花園大学文学部助教授、1980年代富山大学人文学部教授、1990年代桃山学院大学文学部教授。1989年『的と胞衣』で毎日出版文化賞受賞。中世民衆史を専攻し、差別、穢れなどの問題を実証的に論じた。.

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正親町三条実雅

正親町三条 実雅(おおぎまちさんじょう さねまさ)は室町時代中期の公卿。内大臣、従一位。青蓮華院と号す。父は権大納言正親町三条公雅。母は家女房。妹の尹子(瑞春院)は室町幕府第6代将軍足利義教室となった。 子には共に権大納言に至った公綱と公治、女子(右大臣三条公敦の母)がいる。.

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正親町三条公治

正親町三条 公治(おおぎまちさんじょう きんはる)は、室町時代から戦国時代の公卿。正親町三条家当主。 正親町三条実雅の子。叔母(実雅の妹)の尹子(ただこ)は室町幕府第6代将軍足利義教の正室となるなど、足利将軍家とのつながりが深く、義教が暗殺された嘉吉の乱(1441年)では、同席していた実雅も太刀を抜いて応戦したが負傷している(幸い一命は取り留めた)。子である公治が生まれたのはちょうどこの年である。 文安3年(1446年)、幼年にして叙爵。侍従・甲斐権介・右近衛少将・右近衛中将・下野権介・蔵人頭を経て、長禄2年(1458年)には参議となり、公卿に列する。その後、越前権守・讃岐権守・権中納言を経て、文明13年(1481年)に権大納言となり、延徳元年(1489年)まで務めた。 きんはる Category:室町・安土桃山時代の公家 Category:1441年生 Category:1495年没.

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正長

正長(しょうちょう)は、日本の元号の一つ。応永の後、永享の前。1428年の期間を指す。この時代の天皇は称光天皇、後花園天皇。室町幕府将軍は空位。.

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正長の土一揆

正長の土一揆(しょうちょうのどいっき、-つちいっき)は、1428年(正長元年)8月から9月に起きた、室町時代の一揆の一つ。別名は正長の徳政一揆。農民が起こした初めての一揆でもある。.

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正林寺 (京都市)

正林寺(しょうりんじ)は、京都市東山区渋谷(しぶたに)通東大路東入3丁目上馬町(かみうまちょう)にある、浄土宗の寺院である。ここには、平重盛(小松殿)の別邸で、48の灯籠をともして念仏させたという灯籠堂のあったところで、平家没落後、九条兼実の山荘となっていた。ここに法然を招き、法談をし、法然を戒師として兼実が剃髪出家した旧跡である。法然がここに居住していたこともあるという。法然上人二十五霊跡第14番。.

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武家執奏

武家執奏(ぶけしっそう)とは、武家政権である室町幕府と公家政権である北朝(朝廷)の公武関係(朝幕関係)に関連する用語で次の2つの意味がある。.

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武家伝奏

武家伝奏(ぶけてんそう)は、室町時代から江戸時代にかけての朝廷における職名の一つ。公卿が任じられ、武家の奏請を朝廷に取り次ぐ役目を果たした。.

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永享

永享(えいきょう)は、日本の元号の一つ。正長の後、嘉吉の前。1429年9月5日から1441年2月17日までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義教。.

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永享の乱

永享の乱(えいきょうのらん)は、室町時代の永享10年(1438年)に関東地方で発生した戦乱。鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発する、室町幕府6代将軍足利義教が持氏討伐を命じた事件、戦いである。.

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河野教通

河野 教通(こうの のりみち/かわの のりみち)は、室町時代から戦国時代の武将、守護大名。伊予守護。河野通久の嫡男。 父・通久(初め持通)が足利将軍家(足利義持)から偏諱の授与を受けたのに倣い、室町幕府第6代将軍・足利義教(義持の弟)から「教」の1を受けて教通と名乗るが、嘉吉元年(1441年)の義教の死後は通直(みちなお)に改名した。 永享7年(1435年)、大友持直征伐のさなかに父通久が戦死したため、家督を継ぐ。永享11年(1439年)、将軍義教の命を受け永享の乱・大和永享の乱に出陣、嘉吉元年(1441年)に義教が赤松満祐に暗殺されると(嘉吉の乱)、満祐討伐のため播磨に遠征した。前述の通り、同年中には「通直」に改名している。しかし、文安3年(1449年)に守護職を又従兄弟で予州家の河野通春に交替させられ、幕府の命令を受けた小早川盛景・吉川経信らの援軍で盛り返した。教通を守護から解任した幕府が教通を再起を助けると言う矛盾した方針は、教通を支持する足利義政・畠山徳本と通春を支持する細川勝元の間で河野氏家督に対する意見対立があったとみられている。 勝元が管領に在任中の享徳2年(1453年)に守護職を再度通春に替えられるが、実は勝元が管領の職権を利用して御教書・奉書が偽造した上での任命であり、義政に叱責された勝元が辞意を表明するものの、最終的に慰留されて守護の交替が認められた。その後、享徳4年(1455年)には勝元に、長禄3年(1459年)に通春に戻され、教通は守護職奪還のため通春と争った。ところが、勝元と通春が対立して勝元が一族の細川賢氏(土佐守護代家庶流上野家出身)を伊予守護に任命すると、大内教弘・政弘父子が通春を支持して、細川・大内両軍が伊予に侵攻したため、どちらにも与し得ない教通は蚊帳の外に置かれる形になった。 応仁元年(1467年)の応仁の乱が発生すると、大内政弘と盟友であった通春は西軍の一員として上洛した。教通は当初は静観していたものの、西軍が通春を伊予守護に任じると、細川勝元の誘いに応じて東軍について通春に対抗している。文明5年(1473年)に勝元が亡くなった後の伊予守護に任命され、文明11年(1479年)には阿波守護・細川成之の次男・義春が伊予に攻め寄せてきたが、通春と和睦し国内の諸豪族と連携して撃退した。文明14年(1482年)に通春が没して子の通篤と争ったが、伊予の主導権を掌握して予州家を圧倒した。後に出家し道治、道基と改名した。 明応9年(1500年)に湯築城で没し、子の通宣が跡を継いだ。.

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法尊

法尊(ほうそん、応永3年12月30日(1397年1月29日) - 応永25年2月15日(1418年3月22日))は、室町時代前期の真言宗の僧侶。仁和寺門跡・准后。室町幕府第3代将軍足利義満の子。母は『系図纂要』によれば御台所・日野業子だが異説もある。また生年については応永4年(1398年)説もある。 義満の後継を巡って義持・義嗣と並ぶ第3の候補者的な立場にあったとする見方もあるが、義満の死の翌年応永16年(1409年)11月7日に仁和寺門跡永助法親王から得度を受けて仁和寺に入る。応永19年(1412年)4月16日には准后宣下を受けている。これは3歳年上で後に天台座主となった義円(後の6代将軍足利義教)よりも早い待遇だった。苦修錬行を重ね、応永20年(1413年)4月22日に永助法親王から伝法潅頂を受けて仁和寺門跡を継承する。天皇の子以外で仁和寺門跡になったのは鎌倉時代に摂政関白九条道家の子法助の例があるのみという異例の昇進だったが、その5年後に師に先立って23歳で死去した。このため歴代の御室門跡には数えられていない。 法尊の異例の速さの昇進は将軍職の継承を放棄した代償だと言われている。また原則として天皇の子しか就けない仁和寺門跡の地位に父・義満ではなく異母兄・義持の後ろ盾で就いた事実も注目される。.

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法観寺

塔内部 法観寺(ほうかんじ)は京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は霊応山。観音霊場として知られる清水寺の近隣に位置する。街中にそびえ立つ五重塔は通称「八坂の塔」と呼ばれ、周辺のランドマークとなっている。境内は狭く、塔以外に目だった建築物がないことから、「八坂の塔」は寺自体を指す通称ともなっている。.

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渋川氏

渋川氏(しぶかわし)は、日本の氏族(武士)。清和源氏義国流で足利氏の一門。室町時代に肥前、備前、備中、安芸、豊前、摂津などの守護職に任ぜられ、また九州探題職を世襲した。 足利将軍家御一家の家格を有した他、一族は九州、関東、中国など各地に点在した。.

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渋川教直

渋川 教直(しぶかわ のりなお)は、室町時代中期から後期にかけての武将・九州探題。.

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源氏長者

源氏長者(げんじのちょうじゃ)は、源氏一族全体の氏長者の事を指す。原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が源氏長者となる(現任上首)。源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの諸権利を持つ。一般的には、奨学院・淳和院の両別当を兼任するといわれているが、自身も源氏長者だった北畠親房の『職原鈔』によれば、奨学院別当のみでも要件を満たす(その場合、次席が淳和院別当となる)と解説している。.

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満済

満済(まんさい/まんぜい)は、南北朝時代から室町時代中期にかけての醍醐寺(真言宗)の僧。僧としては破格の准三后を授かったことから、満済准后(まんさい じゅごう)、法身院准后(ほっしんいん じゅごう)、三宝院満済(さんぼういん -)としても知られる。安土桃山時代の義演准后と並んで醍醐寺中興の祖として知られる。.

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満済准后日記

満済准后日記(まんさいじゅごうにっき)は、室町時代前期の醍醐寺座主であった満済の日記。法身院准后記(ほっしんいんじゅごうき)とも。 記名は本来なく、いずれも後人の命名による。自筆本の大部分が現存し、応永18年(1411年)1月及び同20年(1413年)から同29年(1422年)までの巻子本11軸が国立国会図書館に、応永30年(1423年)から永享7年(1435年)までの冊子本38冊が醍醐寺三宝院に所蔵される(ともに重要文化財)他、1軸が東京大学史料編纂所に、1冊が京都大学に所蔵される。巻子本が当年の具注暦を用いて覚書のような簡略な記述を行うに留まる一方、冊子本が白紙や反故文書の紙背を用いて詳密な記事を残していることから、恐らく満済が日記を書いていく過程で、次第に記事が増えたために暦に書き切れず、途中から改めて冊子を用いることになったと推測される。 満済は将軍足利義持・義教の護持僧として近侍したので、初期には禳災祈祷の記事が多いが、やがて「黒衣の宰相」と称されるごとく幕政の枢密にも携わるようになると、幕府内外の政治・外交の機微に関わる記述が豊富となる。また、満済は将軍と管領以下の諸大名との意思疎通の役割を果たしていたため、守護大名の複雑な動向を窺う上で格好の史料である。当時の記録として貞成親王の『看聞日記』と双璧を成すが、彼が好奇心から噂話までも書き留めたのに対し、満済は情報を客観的に捉えようとし、直接関与・見聞したことにのみ記述を限定しようとする自制的な態度すら認められる。したがって、史料としての信憑性は極めて高いと言えよう。当代きっての学僧・文化人であるゆえに、将軍・朝廷から民衆に至るまでその見識は広く、室町前期の年中行事や世相・文化・思想を知る上でも欠かせない根本史料である。 刊本としては、『京都帝国大学文科大学叢書4』(全3冊)・『続群書類従補遺1』(全2冊)の2種が出版されており、後者の方が比較的普及しているものの、誤字・脱字がまま見られる。なお、冊子本には奉公衆の書状など840通余りの紙背文書があり、これらも『大日本古文書』醍醐寺文書別集(全3冊)として既刊である。.

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朝松健

朝松 健(あさまつ けん、1956年4月10日 - )は、北海道札幌市生まれの小説家、怪奇小説家。本名、松井克弘。ペンネームの由来は作家アーサー・マッケンから。妻は魔女思想家の松尾未来。 密教立川流と室町時代をベースにした小説を精力的に発表している。またクトゥルフ神話についてのアンソロジー編纂についても内外から高い評価を得ている。.

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朝敵

朝敵(ちょうてき)は、日本において天皇とその朝廷に敵対する勢力を意味する呼称である。.

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木造教親

木造 教親(こづくり のりちか)は、室町時代の武将・公家。木造家5代当主。「教」の字は室町幕府第8代将軍足利義教より偏諱を賜ったものである。.

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本郷和人

本郷 和人(ほんごう かずと、1960年10月12日 - )は、日本中世史を専門とする日本の歴史学者である。東京都生まれ。学位は博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所教授。.

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明応の政変

明応の政変(めいおうのせいへん)は、室町時代の明応2年(1493年)4月に細川政元が起こした室町幕府における将軍の擁廃立事件。 この政変により、将軍は足利義材(義稙)から足利義遐(義澄)へと代えられ、以後将軍家は義稙流と義澄流に二分された。なお、近年の日本史学界においては戦国時代の始期をこの事件に求める説がある。.

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明石散人

明石 散人(あかし さんじん、1945年 - )は日本の作家。 東京都築地生まれ。中央大学文学部卒業。1990年以降、歴史を主題とする作品を多数発表している。またテレビ番組、美術展等の企画監修を手掛ける。公益社団法人全日本テコンドー協会理事相談役。財団法人日本青少年文化センター評議員。日本オリンピック委員会評議員。デビューを控えていた時期の京極夏彦と師弟関係の契約を結んだ(本人曰く、「彼の方がもう格が上だというのに未だに約束を守り続けてくれる」)。.

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昭和

昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.

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流罪

ダンテ』 流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺境や島に送る追放刑である。流刑(るけい、りゅうけい)、配流(はいる)とも言う。特に流刑地が島の場合には島流し(しまながし)とも呼ばれる事もある。 歴史的には、本土での投獄より、遠いところに取り残された方が自分一人の力だけで生きていかなければならなくなり、苦痛がより重い刑罰とされていた。ほか、文化人や戦争・政争に敗れた貴人に対して、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合に用いられた。配流の途中や目的地で独り生涯を終えた流刑者は多いが、子孫を残したり、赦免されたりした例もある。脱走を企てた流刑者や、源頼朝、後醍醐天皇、ナポレオン・ボナパルトのように流刑地から再起を遂げた(一時的な成功も含めて)政治家・武人もいた。 日本では離島への文化伝播に大きな役割を果たしたほか、海外ではシベリアやオーストラリアといった植民地に労働力を送り込む強制移民としても機能した。.

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斯波義豊

斯波 義豊(しば よしとよ、応永22年(1415年)- 永享4年6月13日(1432年7月10日))は室町時代の武将。斯波義淳の子。官途は従五位下治部大輔。.

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斯波義郷

斯波 義郷(しば よしさと)は室町時代中期の守護大名。斯波氏(武衛家)8代当主。斯波義教(初め斯波義重)の次男。母は甲斐教光の娘で甲斐常治は従兄弟にあたる。7代当主の斯波義淳は異母兄。同母弟に斯波持有がいる。子に義健。官位履歴は従五位下から従四位下。治部大輔そして左衛門佐。.

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斯波義淳

斯波 義淳(しば よしあつ)は、室町時代中期の武将・守護大名。室町幕府管領、越前・尾張・遠江守護。斯波氏(武衛家)7代当主。管領斯波義重の嫡男で、室町幕府前期の有力者斯波義将の孫に当たる。.

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斯波詮教

斯波 詮教(しば あきのり)は、室町時代中期の高水寺斯波氏(斯波氏陸奥守家/奥州斯波氏の庶流)の当主。陸奥守を官途されたかは不明。『続群書類従』「奥州斯波系図」では詮教より奥州斯波氏が始まるとしている。.

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斯波氏

斯波氏(しばし)は、日本の武家のひとつ。室町幕府将軍足利氏の有力一門であり、かつ細川氏・畠山氏と交替で管領に任ぜられる有力守護大名であった。越前・尾張・遠江などの守護を世襲し、また分家の大崎氏は奥州探題、最上氏は羽州探題を世襲した。明治維新後に男爵家となった源姓津田氏も、その末裔の一つである。.

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新続古今和歌集

『新続古今和歌集』(しんしょくこきんわかしゅう)は、室町時代の勅撰集。二十一代集の最後にあたる。.

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料理

料理(りょうり)は、食物をこしらえることで、同時に、こしらえた結果である食品そのもの広辞苑第5版。調理ともいう。 すなわち、食材、調味料などを組み合わせて加工を行うこと、およびそれを行ったものの総称である。.

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料理人

料理人(りょうりにん).

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日向国

日向国(ひゅうがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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日親

日親像(本法寺蔵 伝狩野正信筆) 日親(にっしん、応永14年9月13日(1407年10月14日) - 長享2年9月17日(1488年10月21日))は、室町時代の日蓮宗の僧である。埴谷重継の子。「不受不施義」を初めて唱えたとされている。久遠成院と号す。.

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日蓮宗

日蓮宗(にちれんしゅう)は、.

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日野宗子

日野 宗子(ひの むねこ、生年不詳 - 文安4年4月29日(1447年6月12日))は、室町幕府第6代将軍・足利義教の正室(御台所)。父は大納言日野重光。後に離別させられて出家、観智院と名乗った。 第4代将軍であった足利義持の死後、弟の義円が還俗して将軍を継いで「義教」と称した。ところが、僧侶であった義教は妻帯しておらず、直ちに正室を立てる必要が生じた。そこで義持の正室日野栄子が甥の日野義資(重光嫡男)と図って正室として嫁がせたのが義資の妹で、栄子の姪である宗子であった。還俗から1ヶ月も経たない応永35年(1428年)閏3月6日に正式に御台所に定められ、継いで正長元年(1428年)6月21日に婚儀が執り行われた。永享元年(1429年)3月12日には女子を出産し、翌年1月28日には三位に叙せられた。ところが、この婚姻そのものが義教の後見人である日野栄子によって決められたものであり、その夫婦仲は良くなかった。義教は次第に側室の正親町三条尹子に心を移していく。 そして永享3年(1431年)6月5日、義教は突如として尹子に御台所の身分を与えることを宣言する。以後、宗子は「本台所」、尹子は「新台所」と呼ばれ、正室が2人いる状態となった。更に7月26日には2人の間の唯一の子供である娘が死去、続く翌27日には日野栄子も病死した。これを機に義教は宗子との離別を決意、同年中に宗子は離別を言い渡されて御所を去り、日野家に対してはその妹の日野重子(後の義勝・義政の生母)を側室に迎えることで代償とした。 その後の動向は不詳であるが、『康富記』に文安4年4月29日条に、出家して観智院と名乗った宗子がこの日に死去したことが記されている。 Category:室町幕府将軍の御台所 むねこ Category:生年不明 Category:1447年没.

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日野義資

日野 義資(ひのよしすけ、応永4年(1397年) - 永享6年6月9日(1434年7月15日))は室町時代の公家。藤原北家日野流の一家裏松家当主。裏松重光の三男。正三位権大納言。 応永14年(1407年)11月19日、足利義満の北山第において義満自身が烏帽子親となって元服が行われ、義満は偏諱として「義」の字を与えた。これは義資が義満の正室日野康子の甥であったことによるが、武家で「義」の字を与えられていたのは斯波氏のみであり、公家に対しては摂関家の当主でさえ「満」の字しか与えられておらず、破格の厚遇であった。 足利義持の死後、弟の青蓮院義円(足利義教)が後継者に選出されると、青蓮院を退出した義円の住まいとして自宅である裏松邸を提供した。また、義持の未亡人栄子と協議して、妹の宗子を義教の正室としている。しかし、義教が本格的に政権を始動させると、義資は、青蓮院門跡であった時代に不忠のかどがあったとして所領を2ヶ所没収され、蟄居を命じられた。また宗子は義教と不仲であり、永享3年(1431年)には離縁されている。その後、もう一人の妹重子が義教の側室となった。 重子がのちに義教の跡を継ぐことになる千也茶丸を産んだ時、蟄居していた義資の屋敷に人々が次々と祝いに訪れた。しかし、義教はこれに激怒し、祝いに訪れた者を調べあげて全員を処罰するという挙に出ている。そして永享6年(1434年)6月9日、義資は自邸で就寝中、侵入した何者かに殺害され、首を持ち去られた。犯人は捕まらず、当時から義教の指示であるという噂が流れていた。参議高倉永藤はこの噂話を口にしたことが義教に知られ、たちまち硫黄島へ流罪となった。 家督を継いでいた嫡男重政もこの際に所領を没収されて出家しており、裏松家はまだ幼い重政の子勝光を残して断絶の危機に瀕することになった。 Category:室町時代の人物 Category:1397年生 Category:1434年没 よしすけ Category:殺人被害者.

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日野西資子

日野西 資子(ひのにし すけこ、元中元年(1384年) - 永享12年9月8日(1440年10月3日))は、室町時代の貴族。後小松天皇の後宮、女院。称光天皇の母。後花園天皇の准母。日野西資国の娘。権大納言日野資教養女。院号は光範門院。.

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日野重子

日野 重子(ひの しげこ、応永18年(1411年) - 寛正4年8月8日(1463年9月20日))は、室町時代中期の女性。日野家出身。室町幕府6代将軍・足利義教の側室。日野重光の子。7代将軍・足利義勝、8代将軍・足利義政の生母。兄は日野義資で、その孫が日野勝光、日野富子。義教の正室宗子は姉で、烏丸資任は従弟にあたる。 永享6年(1434年)に義勝、永享8年(1436年)に義政を産む。嘉吉の乱で夫・義教が殺害された後、幼年の義勝や義政を補佐して幕政に関与し、義政の寵愛を受けた乳母・今参局と対立した。今参局は義政正室富子の産んだ子が早世したのが彼女の呪詛のためとされて流刑にされ、長禄3年(1459年)、自害させられるが、これは富子の指示とも重子の指示とも言われる。 寛正4年8月8日(1463年9月20日)に死去。それに伴い、斯波義敏、畠山義就が赦免された。.

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日野有光

日野 有光(ひの ありみつ、元中4年/嘉慶元年(1387年)- 嘉吉3年9月27日(1443年10月20日))は、室町時代前期の公卿。父は権大納言の日野資教。子に日野資親。号を祐光。.

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日明貿易

日明貿易(にちみんぼうえき)は、室町時代に日本が中国の明朝と行った貿易。特に室町幕府や大内氏との朝貢貿易は、倭寇や密貿易と区別し正式な遣明使船である事が確認できるよう勘合(勘合符)を使用したことから勘合貿易(かんごうぼうえき)とも呼ばれる。.

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摂政

摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことが出来ない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。 多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。.

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1394年

記載なし。

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1403年

記載なし。

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1408年

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1413年

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1419年

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1425年

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1428年

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1429年

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1430年

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1432年

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1433年

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1434年

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1435年

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1437年

記載なし。

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1438年

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1439年

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1440年

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1441年

記載なし。

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1983年

この項目では、国際的な視点に基づいた1983年について記載する。.

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1989年

この項目では、国際的な視点に基づいた1989年について記載する。.

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2008年

この項目では、国際的な視点に基づいた2008年について記載する。.

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2月8日 (旧暦)

旧暦2月8日(きゅうれきにがつようか)は、旧暦2月の8日目である。六曜は先負である。.

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6月14日 (旧暦)

旧暦6月14日は旧暦6月の14日目である。六曜は先勝である。.

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7月12日

7月12日(しちがつじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から193日目(閏年では194日目)にあたり、年末まであと172日ある。誕生花はゼニアオイ、パッションフラワー。.

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源義教悪御所籤引き将軍足利義宣

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