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応仁の乱

索引 応仁の乱

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.

604 関係: 加賀一向一揆加賀国原田城お家騒動十市遠清即位の礼南禅寺古市胤栄古市澄胤古河城古河公方吉川弘文館吉川経基吉見信頼吉野吉良義真吉良義藤吉良氏堺市堀越公方売官多賀宗直多賀高忠多賀清直大友親繁大友氏大乗院大乗院寺社雑事記大喪の礼大和国大内氏大内政弘大内教幸大阪府大野郡 (福井県)大河ドラマ大津市天保暦天文 (元号)奈良市奉公衆奉行衆姉小路基綱季瓊真蘂実隆公記宝徳室町幕府室町通室町時代宮本義己...家督家永遵嗣守護大名守護代官軍宗祇宗貞国宗氏宇野政秀宇治市安富元家安富元綱安田元久安芸国富樫幸千代富樫氏富樫政親寛正小寺則職小島勝言小川信小川殿小倉宮小笠原家長小笠原氏小笠原清宗小笠原政秀小鹿範満小早川弘平小早川弘景 (二代)小早川煕平小早川盛景小早川敬平尼子経久尼子清定尾張国少弐氏少弐政資少弐教頼専順尋尊山城国山城国一揆山名宗全山名豊久山名豊之山名豊氏山名氏山名是豊山名政豊山名政清山名教之山名教豊山崎宿山内政綱山科区山陽新聞岐阜県岡山県岩波新書島津友久島津季久島津久逸島津忠昌島津国久島津立久島津氏嶽山城嶽山城の戦い川岡勉上京上京の戦い上御霊神社上杉顕定上杉持朝上杉房定中公文庫丹後国丹波国七口の関七頭世界文化社万里集九三好之長三好長之三宝院三条西実隆三木久頼下京区下克上下間蓮崇一向一揆一円知行一色義直一色義遠一色義春一色氏一色政照一色時家一条兼良一条教房九州九州探題九条家平成享徳享徳の乱京都京極孫童子丸京極勝秀京極騒乱京極高清京極氏京極持清京極政光京極政経人物叢書府中広島県今参局今川義忠今川氏今川氏親仁木氏代官延徳伊庭貞隆伊予国伊勢国伊勢盛定伊勢貞宗伊勢貞親伊勢貞藤伊勢氏伊豆国伊東祐堯伊東氏伏見宮貞常親王佐々木氏但馬国征夷大将軍侍所御一家御前沙汰御霊合戦徳川氏後南朝後土御門天皇後北条氏後花園天皇従三位信越地方信濃国応仁応仁記土岐氏土岐成頼土岐政康地子地蔵院 (京都市北区)北畠家北畠政郷北畠教具北陸地方ロマンコミックス 人物日本の女性史ドナルド・キーン別当嘉吉嘉吉の乱喧嘩両成敗周防国呉座勇一ウォーゲーム日本史グレゴリオ暦ゲリラセガ・インタラクティブ備後国備前国内ヶ島為氏内裏内藤弘矩内藤元貞内藤湖南出羽国公家公方六角高頼六角氏六角政堯六角政頼兵庫兵庫県勝竜寺城国人国衙領四国四職知恩寺石丸利光石見国神人神保長誠神保氏神呪寺祇園祭福井県笠原一男笠懸筑前国筒井順尊筒井順永管領箸尾為国精華町細川勝久細川勝之細川勝元細川勝益細川四天王細川氏細川持之細川成之細川成春細川政元細川政国細川政権 (戦国時代)紀伊国織田郷広織田氏織田敏定織田敏広美作国美濃国真宗高田派経覚疫病甲斐常治甲斐国甲斐氏甲斐敏光町広光町衆甘露寺親長畠山義就畠山義統畠山氏畠山持富畠山持国畠山政久畠山政国 (総州家)畠山政長畿内益田兼堯相国寺の戦い相良為続相良正任花の乱花の御所鎌倉市鎌倉府鎌倉公方鎌倉時代遊佐就家遊佐長直遊佐氏遠江国荘園菊池重朝菊池氏青空文庫静岡県行願寺飯尾為数西岡西岡の戦い西陣南帝西陣織観音寺城駿河国誠文堂新光社骨皮道賢高尾城 (加賀国)高山城 (安芸国)講談社学術文庫豊後国豊前国賊軍越後国越前市越前国越智家栄足利義尚足利義勝足利義稙足利義視足利義持足利義政足利義教足利氏足利成氏足利政知足軽足軽大将軍記物軍記物語近衛大将近江国茨木城蜷川親元能登国鈴木良一 (歴史学者)船岡山船田合戦興福寺阿部猛阿蘇惟歳阿野家赤松氏赤松満祐赤松政則関白関東地方関東管領葉室家葉室光忠蒲生貞秀蓮如長宗我部文兼長享長享・延徳の乱長禄長禄の変長禄合戦長野藤継長江氏酒屋役若狭国若江城若江城の戦い (室町時代)雪舟逸見繁経院宣陶弘護陸奥国暗殺恩赦法東寺東岩倉の戦い東常縁東条国氏東海地方松平信光松田元成桜井英治榊山潤正広正親町三条家正親町三条公治武田信賢武田元綱武田国信武田氏武衛騒動歴史漫画段銭比叡山毛利豊元水軍永原慶二永島福太郎永享永正池田城 (摂津国)河内国河野通春河野氏河野教通法華宗法華一揆渋川義鏡渋川氏渋川教直朝倉孝景朝倉孝景 (7代当主)朝倉氏朝倉氏景 (8代当主)木造教親木津木津川 (京都府)木曽谷木曾家豊木曾氏有馬元家成身院光宣戦国大名戦国大戦戦国時代 (日本)戸田宗光明応明応の政変昭和浦上則宗浄土真宗浄土真宗本願寺派斎藤妙純斎藤妙椿斎藤利藤斎藤親基日記斯波義寛斯波義廉斯波義敏斯波氏斯波持種新人物往来社文安文正文正の政変文明 (日本)日野家日野富子日野勝光日野重子日明貿易早島大祐摂津国播磨国改元政所慈照寺扇谷上杉家手打ち10月16日 (旧暦)10月3日 (旧暦)11月10日 (旧暦)11月11日 (旧暦)11月20日 (旧暦)11月23日 (旧暦)11月26日 (旧暦)12月11日12月13日 (旧暦)12月16日12月19日12月19日 (旧暦)12月24日12月31日12月5日 (旧暦)12月6日 (旧暦)1437年1441年1447年1448年1449年1451年1452年1454年1455年1457年1458年1459年1460年1461年1463年1464年1465年1466年1467年1468年1469年1470年1471年1472年1473年1474年1475年1476年1477年1478年1479年1481年1483年1485年1486年1488年1493年1498年1500年1508年1533年1536年1969年1973年1978年1979年1981年1984年1985年1987年1988年1991年1993年1994年1996年1997年1月18日 (旧暦)1月2日 (旧暦)1月5日 (旧暦)1月7日2001年2002年2006年2008年2009年2010年2014年2016年2月22日2月6日3月17日 (旧暦)3月18日 (旧暦)3月26日 (旧暦)3月5日 (旧暦)4月12日4月15日4月15日 (旧暦)4月19日4月23日 (旧暦)4月3日 (旧暦)5月11日 (旧暦)5月20日 (旧暦)5月21日 (旧暦)5月27日 (旧暦)5月28日 (旧暦)5月2日 (旧暦)5月8日 (旧暦)6月11日 (旧暦)6月14日 (旧暦)6月19日 (旧暦)6月3日 (旧暦)6月6日6月8日 (旧暦)7月10日 (旧暦)7月20日 (旧暦)7月23日 (旧暦)8月1日 (旧暦)8月21日 (旧暦)8月23日 (旧暦)8月25日 (旧暦)8月28日 (旧暦)9月14日 (旧暦)9月18日 (旧暦)9月1日 (旧暦)9月20日 (旧暦)9月22日 (旧暦)9月6日 (旧暦) インデックスを展開 (554 もっと) »

加賀一向一揆

加賀一向一揆(かがのいっこういっき)とは、長享2年(1488年)頃から天正8年(1580年)にかけて、加賀の本願寺門徒らが中心となった信徒による一揆。.

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加賀国

加賀国(かがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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原田城

原田城(はらだじょう)は、大阪府豊中市曽根西町及び原田元町付近にあった日本の城(平山城、丘城)。.

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お家騒動

お家騒動(御家騒動、おいえそうどう)は、江戸時代の大名家における内紛である。現代においては、比喩的に企業(同族経営の会社に多い)や家族といった組織における内部抗争をお家騒動に擬えて呼ぶことがある。.

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十市遠清

十市 遠清(とおち/とおいち とおきよ、生年不詳 - 明応4年10月13日(1495年11月8日))は、室町時代後期から戦国時代前期の武将。十市遠栄の子。八田遠勝の兄。子に遠相、遠為等。孫に遠治。大和十市城主。幼名は加賀寿丸。官位は播磨守。 永享12年(1440年)に父が自殺し、嘉吉2年(1442年)、室町幕府管領畠山持国の取りなしで十市氏の家督を継いで遠清と名乗った。遠清は播磨守を称し、興福寺に重用され寛正2年(1461年)には羽津黒井・草川両庄の検断職に任じられ、弟の遠勝を八田氏の養子に入れる等着実に勢力を拡大していった。独自の立場を維持する目的から当時の大乗院門跡経覚と筒井氏の内乱及び畠山氏のお家騒動には中立の立場を取っていた(持病説もあり)。 文正元年(1466年)11月、成身院光宣・筒井順永と越智家栄の対立を和解させたが、翌年に応仁の乱が勃発した。 遠清は筒井氏らと共に京都で東軍に属して行動したが、大和に転戦して越智家栄、古市澄胤らと戦った。文明3年(1471年)、楊本城を攻めて楊本範満父子を殺害すると楊本庄を押領、後に龍王山城を築く元を作った。同年8月、嫡男の遠相に家督を譲る。 ところが、文明9年(1477年)9月に畠山義就が河内に侵攻、越智氏も大和を制圧した為、遠清父子は筒井順尊・箸尾為国らが大和から逃れた後も十市城に留まったが、文明11年(1479年)、次男の遠為が西軍に通じたことから遠為を討ったが、やはり大和を去っていった。 以後、勢力回復を試みたが、筒井氏と共に逼塞する事態が続き、延徳3年(1491年)に遠相に先立たれ、4年後に自身も世を去った。後は孫の遠治(遠相の遺児)が継いだ。 Category:室町時代の人物 Category:戦国武将 Category:大和国の人物 とおきよ Category:生年不明 Category:1495年没.

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即位の礼

即位の礼で天皇が使用する高御座 即位の礼(そくいのれい)または即位礼(そくいれい)は、天皇が践祚(せんそ)後、皇位を継承したことを内外に示す儀典で、最高の皇室儀礼とされる。諸外国における戴冠式にあたる。即位式(そくいしき)の後に、五穀豊穣を感謝し、その継続を祈る一代一度の大嘗祭が行われる。即位の礼・大嘗祭と一連の儀式を合わせ御大礼(ごたいれい)または御大典(ごたいてん)とも称される。.

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南禅寺

南禅寺 (なんぜんじ)は、京都市左京区南禅寺福地町にある、臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)である。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門(大明国師)。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ。.

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古市胤栄

古市 胤栄(ふるいち たねひで/いんえい、永享11年(1439年) - 永正2年11月13日(1505年12月18日))は、室町時代から戦国時代の僧・武将。大和興福寺の衆徒。父は古市胤仙。弟に澄胤。娘に胤子。幼名は春童丸、通称は丹後公、諱は藤勝で、胤栄は法名。.

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古市澄胤

古市 澄胤(ふるいち ちょういん)は、戦国時代の僧、武将。大和国古市郷の土豪であり、東山時代の文化人大名でもある。興福寺の官符衆徒。.

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古河城

古河城(こがじょう)は、現在の茨城県古河市(下総国)の渡良瀬川東岸にあった日本の城。 室町時代には、古河御陣とも呼ばれ、北朝足利氏の拠点の一つであった。古河公方の本拠となった時期については古河御所(こがごしょ)とも呼ばれる。なお、古河鴻巣の古河公方館も御所と呼ばれるため、混同しないように注意する必要がある。.

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古河公方

古河公方(こがくぼう)は、室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となった。(享徳の乱) その後も政氏・高基・晴氏・義氏へと約130年間引き継がれる。御所は主に古河城。古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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吉川経基

吉川 経基(きっかわ つねもと)は、戦国時代の武将。安芸国の国人・吉川氏11代当主。.

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吉見信頼

吉見 信頼(よしみ のぶより)は、室町時代の武将。大内氏の家臣。石見吉見氏8代当主。.

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吉野

吉野(よしの)は、大和国南部(現在の奈良県南部)一帯を指す地名である。特に吉野山から大峰山にかけての山岳地帯をいう。狩りに適した良い野という意味である。吉野は口吉野と奥吉野に分かれる。奥吉野は山々が連なる山岳地帯で、古くは大峰とよばれ、厳密には吉野に含まれなかった。大峰の山々は熊野まで連なる。大峰への道は修験者によって、熊野から開かれた。 記紀には応神や雄略の吉野での狩りの伝承が載せられている。.

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吉良義真

吉良 義真(きら よしざね、応永29年(1422年)? - 文明13年7月21日(1481年8月16日))は、室町時代の武将。三河西条吉良氏(上吉良)4代目当主。西条城主。官位は従四位下左兵衛佐、治部少輔。吉良俊氏の3男。義尚、頼氏の弟。他に本光院に入り禅僧となった弟がいる。妻は細川持賢の娘。子に義信。.

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吉良義藤

吉良 義藤(きら よしふじ)は、室町時代後期の武将。後期東条吉良(下吉良)氏5代当主。三河国東条城主。.

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吉良氏

吉良氏(きらし)は、日本における武士の氏族の一つであり、代表的なものに下の三つの流れがある。.

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堺市

堺市(さかいし)は大阪府泉北地域に位置する日本の政令指定都市。 大阪府による地域区分では泉北地域とされるが、市制施行時の堺市域や南河内郡の旧郡域など歴史的に泉北郡ではなかった地域が多く含まれており、他の泉北地域3市1町とは区別されることもある。大阪府内で人口・面積ともに第2の都市であり、人口は2015年4月時点で山梨県・佐賀県・福井県・徳島県・高知県・島根県・鳥取県を上回る。一方、居住人口に比べて昼間人口の割合が低く、大阪市の衛星都市としての特徴も併せ持っている。.

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堀越公方

堀越公方(ほりごえくぼう/ほりこしくぼう)とは、室町時代に関東で勢力を持った公方の一。伊豆堀越(静岡県伊豆の国市)を本拠地とした。『国史大辞典』『日本史大事典』によると、地名は「ほりごえ」だが、慣用として「ほりこしくぼう」と読んでいる。『日本史広事典』(角川書店)では「ほりごえくぼう」となっている。.

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売官

売官(ばいかん)とは、官職を売ること。.

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多賀宗直

多賀 宗直(たが むねなお、生年不詳 - 長享元年5月1日(1487年6月1日))は、室町時代後期から戦国時代前期の武将。多賀清直の子。通称は兵衛四郎。号は大成。京極氏の家臣多賀氏の一族で多賀出雲守家の出身。諱の「宗」の字は(後述の和睦時に)京極材宗から偏諱(一字)を賜ったものと思われる。 京極氏のお家騒動(京極騒乱)では父と共に京極乙童子丸(後の高清)を擁立して乙童子丸の叔父京極政経(材宗の父)及び多賀高忠と衝突を繰り返し、父が文明11年(1479年)に亡くなった後も抵抗を続けたが、文明13年(1481年)に室町幕府の仲介で高忠と和睦、高清の補佐として事実上北近江の実権を握った。文明17年(1485年)に出家、大成と号した。 文明18年(1486年)8月、京極政経・材宗父子が出雲から上洛すると政経父子と結んで高清に反乱を起こし、高清を甲賀郡三雲に追放したが、10月に高清の反撃に遭い美濃へ逃亡、翌長享元年(1487年)に北近江に戻ったが、5月1日に国友河原で敗北、浅井郡月ヶ瀬の城館に逃れたが包囲され自殺した。 宗直の自殺で多賀出雲守家は断絶、高忠の豊後守家が存続した。.

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多賀高忠

多賀 高忠(たが たかただ)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将。京極高数の子。多賀氏の一派・多賀豊後守家当主で近江京極氏の重臣。2度にわたって室町幕府京都侍所所司代を務め、名所司代として知られる。 通称は新左衛門、あるいは官位である豊後守。法号は宗本(むねもと)。号は大源(たいげん)。.

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多賀清直

多賀 清直(たが きよなお)は、室町時代の武将。多賀高直(たかなお、昌宗入道)の子。京極氏の家臣多賀氏の一族で多賀出雲守家の出身。 応仁の乱の最中の文明2年(1470年)に持清が没し、持清の嫡孫孫童子丸を擁立した孫童子丸の叔父京極政経と義弟の多賀高忠に反発、政経の兄政光と共に孫童子丸の庶兄乙童子丸(後の高清)を擁立して西軍に寝返り、六角高頼・斎藤妙椿らと組んで政経・高忠と交戦した(京極騒乱)。一時は高忠の前に苦戦を強いられるが、文明4年(1472年)9月に六角高頼・斎藤妙椿らの加勢で高忠を破った。 文明7年(1475年)に出雲国人を率いた高忠が反撃したが、11月に土岐成頼・斯波義廉の援軍で勝利、北近江の領有を確実とした。文明4年に政光が亡くなってからは子の宗直と共に文明11年(1479年)に死去するまで乙童子丸の補佐と北近江の統治を行った。.

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大友親繁

大友 親繁(おおとも ちかしげ)は、室町時代から戦国時代にかけての武将・守護大名。大友氏の15代当主。豊後・筑後守護。11代当主・大友親著の四男。初名は親重(ちかしげ)、のち親職(ちかもと)。その後に親繁に改名するがその時期などは不明。.

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大友氏

大友氏(おおともし)は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、九州の豊後国(現大分県)を本拠とした一族。豊後・筑後など北九州を支配した守護職・守護大名で、戦国時代には戦国大名に成長し、最盛期には豊後・筑後に加え豊前・肥前・肥後・筑前の6ヶ国と日向・伊予の各半国を領有したが、豊臣政権期に除封された。江戸時代には江戸幕府の旗本(高家)や大名家の家臣となって存続した。.

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大乗院

大乗院(だいじょういん)は奈良県奈良市の興福寺にあった塔頭の一つ。.

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大乗院寺社雑事記

大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃぞうじき)は、興福寺大乗院で室町時代に門跡を務めた、尋尊・政覚・経尋が三代に渡って記した日記。約190冊。原本は1450年(宝徳2年)から1527年(大永7年)までが現存しており、国立公文書館が所蔵し、重要文化財に指定されている。尋尊の書いた部分は特に「尋尊大僧正記」「尋尊大僧正記補遺」などとも呼ばれ、応仁の乱前後の根本史料とされている。またほとんどの項に紙背文書があり、あわせて貴重な資料となっている。.

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大喪の礼

大喪の礼(たいそうのれい)は、国の儀式として行われる天皇の葬儀。「喪」は「うしなう」という原義から人の死、さらにその追悼と葬儀を意味する字であり「大喪」で「君主の死とその服喪と葬儀」を意味する。日本では「大喪」だけで「天皇の崩御と斂葬」を指す(反対語は君主(天皇)の即位を指す「大典」)。 現日本国憲法下において「天皇の葬儀」は、皇室典範第25条の規定に基づき国の儀式(国事行為)として執り行われる「大喪の礼」と、皇室の儀式として執り行われる「大喪儀」とに区別される。.

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大和国

大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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大内氏

大内氏(おおうちし、おおうちうじ)は、日本の氏族・名字の一つ。.

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大内政弘

大内 政弘(おおうち まさひろ)は、室町時代の守護大名。大内氏第14代当主。父は大内教弘、母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘。最盛期には周防・長門・豊前・筑前と、安芸・石見の一部を領有し、強大を誇った。応仁の乱には西軍側の主力として参戦する。文化にも造詣が深く、後年山口が西の京と呼ばれる基礎を築く。.

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大内教幸

大内 教幸(おおうち のりゆき、生没年不詳)は、室町時代の武将。弟・教弘と同じく6代将軍・足利義教の偏諱を受けて教幸と名乗る。法名は道頓(どうとん)。応仁の乱の最中に主君政弘に対して反乱を起こした。.

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大阪府

大阪府(おおさかふ)は、近畿地方に属する日本の都道府県の一つ。府庁所在地は大阪市。.

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大野郡 (福井県)

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大河ドラマ

『大河ドラマ』(たいがドラマ)は、1963年(昭和38年)から放送されているNHKのテレビドラマシリーズ。略称は大河。 1984年から1986年にかけて放送されたNHK新大型時代劇と2009年から2011年にかけて放送されたスペシャルドラマ『坂の上の雲』についてもこの項で述べる。.

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大津市

大津市(おおつし)は、滋賀県の南西端に位置する市で、同県の県庁所在地である。中核市に指定されている。.

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天保暦

天保暦(てんぽうれき)は、かつて日本において使用された太陰太陽暦の暦法である。過去に中国に同名の「天保暦」が存在するため、「天保壬寅元暦」(てんぽうじんいんげんれき)と呼ぶこともある。太陰太陽暦は、日本において改暦を繰り返しながら何度か採用されたが、天保暦はそれらの中で最後に使用された暦法である。 明治改暦(グレゴリオ暦#日本におけるグレゴリオ暦導入)により新暦のグレゴリオ暦に改暦され、天保暦は旧暦となった。その後現在まで日本では改暦が無いことから、「旧暦」で狭義には天保暦を指すことがある。なお明治維新の際、陰陽頭・土御門晴雄が太陽暦導入に反対して太陰太陽暦に基づく改暦を企図したが、晴雄の急逝により計画が中止されたため、天保暦に代わる太陰太陽暦への改暦は実施されなかった。 以下、明治5年以前の和暦の日付は天保暦により、西暦および明治6年以降の和暦の日付はグレゴリオ暦による。.

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天文 (元号)

天文(てんぶん、てんもん)は、日本の元号の一つ。享禄の後、弘治の前。1532年から1555年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴、足利義輝。.

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奈良市

奈良市(ならし)は、日本の奈良県の北部に位置する市で、同県の県庁所在地である。中核市に指定されている。.

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奉公衆

奉公衆(ほうこうしゅう)は、室町幕府に整備された幕府官職の1つである。将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた。番衆(小番衆)とも。 鎌倉時代の御所内番衆の制度を継承するもので、一般御家人や地頭とは区別された将軍に近侍(御供衆)する御家人である。奉行衆が室町幕府の文官官僚であるとすれば、奉公衆は武官官僚とも呼ぶべき存在であった。後年、豊臣秀吉も奉公衆の制度を設けている。.

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奉行衆

奉行衆(ぶぎょうしゅう)は、右筆方(ゆうひつかた)とも呼ばれ、室町幕府の法曹官僚である奉行人の集団である。幕府直属の文官集団として、武官集団である奉公衆と対応される。.

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姉小路基綱

姉小路 基綱(あねがこうじ もとつな)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿・大名・歌人。飛騨国司。姉小路家(古川家)当主。.

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季瓊真蘂

季瓊 真蘂(きけい しんずい、応永8年(1401年) - 文明元年8月11日(1469年9月16日))は、室町時代の臨済宗の僧、相国寺塔頭鹿苑院内の蔭涼軒主(蔭涼職)。蔭涼軒真蘂とも。播磨の赤松氏の支族にあたる上月氏の生まれだが、父母は不明。 雲頂院の叔英宗播に師事、永享7年(1435年)に将軍と鹿苑院主(僧録)の連絡役である蔭涼軒主となり、将軍に近侍する側近となる。嘉吉元年(1441年)に赤松満祐らが6代将軍足利義教を暗殺した嘉吉の乱では、満祐の居城である播磨坂本城に赴き義教の首級を受け取っている。直後に引退するが、長禄2年(1458年)に8代将軍足利義政の引き立てで復帰、伊勢貞親らと共に義政の政治顧問となり、京都五山の人事権を握り幕政に影響力を持つ。 同年、赤松氏遺臣が長禄の変で功績を挙げると赤松氏復帰を義政に取り立て、赤松政則を当主として再興させた。寛正6年(1465年)に義政夫人の日野富子に子(足利義尚)が誕生した後は義政が次期将軍と約束していた弟の足利義視を排斥しようとして策謀し、三管領の1つの斯波氏の家督問題(武衛騒動)にも介入し(一時的に当事者の1人、松王丸を稚児として預かっていた)、文正元年(1466年)に対立する細川勝元・山名宗全らによる文正の政変で貞親・斯波義敏・赤松政則らと共に失脚した。応仁元年(1467年)からの応仁の乱で近江へ逃れ、応仁2年(1468年)に義政の命令で京都へ戻ったが、政治に復帰出来ないまま翌文明元年(1469年)に死去。享年69。 『応仁記』などでは否定的評価で書かれている一方、政則の家臣浦上則宗や宗湛らと交流があり、失脚前の文正元年2月から閏2月に休暇で彼らと侍所所司代多賀高忠を交えて有馬温泉に滞在したことを書き残した。また、公式日記である『蔭涼軒日録』の一部を執筆。.

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実隆公記

『実隆公記』(さねたかこうき)は、室町時代後期の公家、三条西実隆の記した日記。期間は、文明6年(1474年)から天文5年(1536年)までの60年以上に及ぶ。同時代の一級資料。記述は京都の朝廷、公家や戦国大名の動向、和歌、古典の書写など多岐に及ぶ。自筆本が現存し、1995年(平成7年)に重要文化財に指定された。.

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宝徳

宝徳(ほうとく)は、日本の元号の一つ。文安の後、享徳の前。1449年から1451年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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室町通

室町通で準備中の菊水鉾 室町通(御池通との交差点付近から南方面を望む)、京都市中京区 室町通(むろまちどおり)は京都市の南北の通りの一つ。平安京の室町小路にあたる。地下鉄が通っている烏丸通のすぐ西側の通りである。北は北山通から南は久世橋通まで。途中東本願寺と京都駅で分断されている。 1378年に足利3代将軍義満が、「花の御所」と讃えられた豪奢な室町殿を室町通今出川付近に造営したため、室町幕府の名前の由来となる。応仁の乱で室町幕府が衰退するまで、政治・文化の中心地として賑わった。応仁の乱の後京都は荒廃し上京と下京に分裂するが、これらを結ぶ唯一の道が室町通であった。江戸時代になると呉服店が立ち並ぶ問屋街として発展。現在でも、創業数百年という老舗店が軒を連ねている。祇園祭では四条室町の交差点付近が山鉾町の中心であり、菊水鉾をはじめとする山鉾が並ぶ。 室町通はほぼ1車線道路だが、下京区鶏鉾町(にわとりぼこちょう)域の四条通と綾小路通の間は、太平洋戦争中の建物疎開により東側に並ぶ建物が取り壊され、2車線に拡幅されている。この場所では終戦の日後しばらく、相撲やサーカス興業が行われたという『伝統脈々 魅惑の懸装品』 京都新聞2016年7月14日朝刊。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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宮本義己

宮本 義己(みやもと よしみ、1947年 - )は、日本の日本史学者。 茨城県生まれ。國學院大學大学院日本史学専攻博士課程満期退学。帝京大学講師、鳩山町史編集委員会専門調査員を経て、國學院大學文学部・芝浦工業大学システム工学部講師。日本中世・近世史を専攻するかたわら、独自の日本医道史の研究を進め、学会誌に多くの論文を発表している。.

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家督

家督(かとく)とは、家父長制における家長権を意味する。鎌倉時代に家督の嫡子単独相続、遺産の分割相続が原則とされた。室町時代に両者とも嫡子相続を原則としたが、現実には完全な制度として確立しておらず、内紛が発生した。のち江戸幕府の絶対的な権力を背景として、家督の嫡子単独相続が確立した。 なお、主に武家においては、断絶した家名を他氏の者が相続することを名跡を継ぐといい、実子または血縁者が相続する場合の家督継承と区別された。主な例としては平姓畠山氏を源氏の足利義純が相続し、源姓畠山氏に変わった事などが知られている。 また、鎌倉時代には家督権は財産権とあわせて跡職(跡式)・跡目と称して嫡子が継いだが、庶子に分割する相続財産をも跡職と称した。その後、江戸時代には先代の死亡にともなう相続の場合を跡目相続、先代の隠居による場合を家督相続と呼び分けた。 明治憲法下においても家制度の一環として法制度として存続したが、日本国憲法施行直後の民法大改正によって廃止された。とはいえそれから70年以上経った今日でも家督を重んじる社会通念が西日本を中心に残っている。.

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家永遵嗣

家永 遵嗣(いえなが じゅんじ、1957年4月 - )は日本の歴史学者。学習院大学文学部教授。専門は日本中世史。.

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守護大名

守護大名(しゅごだいみょう)は、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していった室町時代の守護を表す日本史上の概念。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期 - 16世紀初頭ごろに一部は戦国大名となり、一部は没落していった。.

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守護代

守護代(しゅごだい)とは、鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職である。.

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官軍

官軍(かんぐん)は、君主に属する正規の軍のこと。日本においては天皇及び朝廷に属する軍を指す。.

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宗祇

宗祇(そうぎ、応永28年(1421年)- 文亀2年7月30日(1502年9月1日))は、室町時代の連歌師。号は自然斎、種玉庵。姓は飯尾(いのお/ いいお)というが定かではない。生国は、紀伊とも近江とも言われている。.

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宗貞国

宗 貞国(そう さだくに、1422年(応永29年) - 1494年8月18日(明応3年7月9日))は、室町時代中期から戦国時代にかけての武将。対馬の守護大名で、宗氏の第11代当主。第9代当主宗貞盛の弟・盛国(もりくに)の次男。貞盛の子で第10代当主となっていた宗成職(しげもと)の養嗣子。官位は刑部少輔。 幼名は彦七。1468年、成職の没後に家督を継いだ。この頃、宗氏では一族が分裂していたが、貞国はこれら一族の大半を服従させて対馬の支配権を確立した。また、李氏朝鮮との通交も盛んにした。そして主筋の少弐教頼・少弐政資らを助けて大内氏と戦い、北九州にまでその勢威を広げたが、やがて大内政弘の反攻にあって、少弐氏は敗れ、貞国の筑前国における所領も奪われた。1492年、隠居して家督を宗材盛(きもり、「材」は足利義材からの偏諱)に譲り、1494年に死去した。享年73。.

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宗氏

宗氏(そうし、むねし)は、日本の氏族のひとつ。中世から近世にかけて対馬国を支配した守護・戦国大名・近世大名の氏族。秦氏の末裔惟宗氏の支族だが、室町時代中期頃より平知盛を祖とする桓武平氏を名乗るようになった。.

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宇野政秀

宇野 政秀(うの まさひで)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。赤松氏の一族で赤松則祐の6世の孫。高枕軒性喜(こうちんけんしょうき)と号する。塩屋城主。 赤松政秀ともいい、玄孫が同名・同官途である。政秀は赤松姓を名乗るもその出自には不明な点が多く、宇野と書かれることもあり、本姓はこちらの可能性もあるという。.

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宇治市

朝日山から宇治市市街地 宇治市(うじし)は、日本の近畿地方中部、京都府の南端近くに所在する市。京都盆地の東南部に位置し、京都市や大津市と隣接する。京都市に次いで京都府内第2位の人口を擁する都市である。 ユネスコ世界遺産ともなっている平等院、宇治上神社等の文化財や宇治茶等の特産品で知られる。西側に非常に大きな巨椋池があったが、豊臣秀吉により干拓地となり、現在は農地と住宅街になっている。京都市への通勤率は29.1%(平成22年国勢調査)。.

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安富元家

安富 元家(やすとみ もといえ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。細川京兆家の家宰。.

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安富元綱

安富 元綱(やすとみ もとつな)は、室町時代後期の武将。細川氏本家・京兆家の重臣として東讃守護代を世襲していた安富氏の一族、もしくは惣領。細川京兆家の家宰・執事。.

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安田元久

安田 元久(やすだ もとひさ、1918年10月19日 - 1996年1月23日)は、日本の歴史学者。元学習院大学学長。文学博士(東京大学、1962年)。専門は日本中世史・鎌倉時代史研究。.

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安芸国

安芸国(あきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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富樫幸千代

富樫 幸千代(とがし こうちよ)は、室町時代後期の武将。富樫氏22代当主。 富樫成春の次男として誕生。文明5年(1473年)、応仁の乱の影響で兄・政親と争い真宗高田派や甲斐敏光と結んで勝利した。しかし翌6年(1474年)、本願寺と結んだ政親に加賀国から追放された。これ以降、一向一揆と結び再三加賀に侵入しては戦った。 元服したかも定かでなく、その後の詳細は不明である。文明8年(1476年)9月には加賀半国を与えられたというが、文明6年に一向一揆勢に攻められ敗死したとの説もある。.

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富樫氏

富樫氏(とがしし)は、藤原利仁に始まるといわれる氏族である。室町時代に加賀国(現在の石川県南部)を支配した守護大名である。。.

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富樫政親

富樫 政親(とがし まさちか)は、室町時代後期の武将・守護大名。富樫氏21代当主。加賀国守護。.

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寛正

寛正(かんしょう)は、日本の元号の一つ。長禄の後、文正の前。1461年から1466年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇、後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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小寺則職

小寺 則職(こでら のりもと).

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小島勝言

小島 勝言(こじま かつとき)は、室町時代後期の武将。飛騨国司・姉小路家宗家小島家当主。.

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小川信

小川 信(おがわ まこと、1920年12月31日 - 2004年11月15日)は、日本の日本史学者。日本学士院賞受賞者。 専門は日本中世史。室町時代政治史をテーマとし、考証に重きをおいた。晩年、歴史地理的な研究にも取り組んだ。中心となって『久我家文書』編纂・刊行に従事した。.

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小川殿

小川殿(おがわどの)は、足利将軍家の邸宅の1つ。京都市上京区の宝鏡寺の隣地にあったと推定され、現在は同寺の敷地の一部になっている。小川御所(おがわのごしょ)とも呼ばれる。 なお、足利義満の実弟満詮は兄弟の生母である紀良子とともに、武者小路小川の邸宅に住んで、それぞれ「小川殿」「小川殿大御所」と呼ばれているが、本項邸宅とは別の建物である。 元は細川勝元が所有していた邸宅の1つで、応仁の乱(1467年-1477年)最中の文明3年(1471年)頃より足利義政が利用していたが、将軍職を息子の義尚に譲った後の文明6年(1474年)に居宅とした。2年後の文明8年(1476年)、室町御所の焼失とともに義政正室の日野富子、義尚、そして応仁の乱を避けて室町御所に避難中であった後土御門天皇が退避した。その後、富子の為の居室が増築されたが、義政・義尚ともに富子との不仲から最終的にはこの御所から離れ、文明15年(1483年)以降は富子のみの居宅となった。 延徳元年(1489年)に義尚の急逝によって、富子は対立していた足利義視(義政の弟)と和解してその息子足利義材(義政・富子の甥にあたる)を迎え入れて後継者とし、翌年に義政も没すると富子はそのまま小川殿で夫の菩提を弔っていたが、義材ではなく別の甥で僧侶になっていた清晃に小川殿を譲ろうとする。これを知った義視は激怒して富子の居室を除いて全てを破却してしまったのである。富子はその後もここで居住し、後に義材に代わって清晃を将軍に擁立しようとする明応の政変に関わることになる。 小川殿の敷地後を占める宝鏡寺には現在も日野富子の木像が安置されている。.

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小倉宮

小倉宮(おぐらのみや)は室町時代に存在した宮家の一つ。南朝の系統に属する宮家で、始祖は後亀山天皇の子、実名は同時代史料によると恒敦とされる(親王宣下があったかどうか不明)。 室町時代の皇位継承や室町幕府の政権闘争に翻弄され、また自らも政権奪取を試み翻弄されたすえに断絶した。.

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小笠原家長

小笠原 家長(おがさわら いえなが)は、戦国時代の武将。信濃小笠原氏分家・松尾小笠原家当主。松尾城主。父は信濃守護小笠原光康。子に小笠原定基(さだもと)。.

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小笠原氏

小笠原氏(おがさわらし、おがさわらうじ)は、日本の氏族。清和源氏の河内源氏の流れをくみ、武家の有職故実を伝える一族としても知られる。通字は、「長」・「貞」・「忠」などである。.

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小笠原清宗

小笠原 清宗(おがさわら きよむね)は、戦国時代の武将。信濃小笠原氏(府中小笠原家)当主。小笠原持長の子。 父の代から続く宗家の家督巡って、小笠原光康の子家長及び宗康の遺児政秀と対立、小笠原氏は清宗の府中小笠原家、家長の松尾小笠原家と政秀の鈴岡小笠原家に分裂、衝突を繰り返して衰退していった。小笠原氏の統一は清宗の曾孫長棟が光康の曾孫貞忠を降伏させる天文3年(1534年)までかかることになる。 清宗は信濃井川館に生まれた。永享元年(1429年)11月に元服、右馬助、大膳大夫、信濃守に任じられる。鈴岡小笠原家の政秀や諏訪氏と度々争い、府中に攻め込まれたため、長禄3年(1459年)頃に新たに林城を築き、居館を移す。応仁元年(1467年)からの応仁の乱では西軍を支持する。文明6年(1474年)7月、上洛して9代将軍足利義尚に拝謁する。文明10年(1478年)没、享年62。.

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小笠原政秀

小笠原 政秀(おがさわら まさひで)は、戦国時代の大名。信濃守護。小笠原氏の一族で、鈴岡小笠原氏当主。小笠原宗康の子。.

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小鹿範満

小鹿 範満(おしか のりみつ)は、室町時代後期の武将。小鹿範頼(のりより)の子。.

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小早川弘平

小早川 弘平(こばやかわ ひろひら、生没年不詳)は、戦国時代の安芸国の国人領主。竹原小早川氏の第12代当主。室町幕府奉公衆。父は小早川弘景。元服時には、家の慣例に倣って大内政弘より偏諱を受け弘平と名乗る。.

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小早川弘景 (二代)

小早川 弘景(こばやかわ ひろかげ)は、室町時代から戦国時代の武将。安芸の国人領主で、竹原小早川氏11代当主。.

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小早川煕平

小早川 煕平(こばやかわ ひろひら)は、室町時代中期から後期の武将。安芸国を拠点に置く沼田小早川氏の当主。諱の「煕」の字は、同国守護・山名時熙の偏諱を受けたものと考えられる。.

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小早川盛景

小早川 盛景(こばやかわ もりかげ)は、室町時代の武将。竹原小早川氏の第10代当主。小早川弘景(初代)の嫡男。.

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小早川敬平

小早川 敬平(こばやかわ たかひら)は、室町時代中期から戦国時代にかけての武将。沼田小早川氏の当主。.

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尼子経久

尼子 経久(あまご つねひさ)は、戦国時代の武将・大名。出雲守護代。 下記の事から十一ヶ国太守と言われる。.

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尼子清定

尼子 清定(あまご きよさだ)は、室町時代中期から後期にかけての武将。出雲国守護代、月山富田城主。尼子氏3代当主。.

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尾張国

尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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少弐氏

少弐氏(しょうにし)は、日本の氏族の一つ。筑前、肥前など北九州地方の御家人・守護大名。藤原北家秀郷流と称した武藤氏の一族。.

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少弐政資

少弐 政資(しょうに まさすけ)は、室町時代から戦国時代初期にかけての武将。少弐氏15代当主。筑前国高祖城主。初名は頼忠、父の死後家督を継ぐ際に8代将軍・足利義政より偏諱を受け政尚を名乗り、後、政資に改名。.

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少弐教頼

少弐 教頼(しょうに のりより)は、室町時代の武将。少弐氏14代当主。.

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専順

専順(せんじゅん、1411年(応永18年) - 1476年4月14日(文明8年3月20日))は、室町時代中期の連歌師。京都六角堂(頂法寺)の僧。柳本坊・春陽坊などとも号する。華道で有名な池坊の26世といわれている。 30歳代半ばから「文安月千句」、「文安雪千句」に名をあらわし、「初瀬千句」、「小鴨千句」などがある。応仁の乱で美濃守護代斎藤妙椿を頼り、美濃の地に春楊坊を結庵、その地で没した。 晩年には、宗祇が専順に師事し、「美濃千句」、「表佐千句」がある。「新撰莬玖波集」の中で、心敬、宗砌についで連歌師では第3位の入宗句数である。連歌論書に「片端(かたはし)」等がある。.

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尋尊

尋尊(じんそん、永享2年8月7日(1430年8月25日)- 永正5年5月2日(1508年5月31日))は、室町時代中期から戦国時代にかけての奈良興福寺の僧。父は一条兼良。母は中御門宣俊の娘。興福寺180世別当。大乗院第20代門跡。.

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山城国

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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山城国一揆

山城国一揆(やましろのくにいっき)は、文明17年(1485年)、山城国(現在の京都府南部)南半の上三郡(久世郡、綴喜郡、相楽郡)で国人や農民が協力し、守護大名畠山氏の政治的影響力を排除し、以後8年間自治を行った事をいう。 一般的に国人が起こした一揆のことを国一揆というが、山城国一揆は惣の農民らが参加している点で惣国一揆ともいうことができる。 ○国人・・・室町時代の「在地領主」で多くの場合、守護の家臣になっていない、その国「はえぬきの武士」(地侍など).

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山名宗全

山名宗全公之墓、南禅寺在真乗院、京都市左京区 山名 宗全 / 山名 持豊(やまな そうぜん/やまな もちとよ)は、室町時代の武将、守護大名。家系は新田氏庶流の山名氏。室町幕府の四職の家柄で侍所頭人。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。山名時熙の3男で、母は山名氏清の娘。諱は持豊で、宗全は出家後の法名。応仁の乱の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。.

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山名豊久

山名 豊久(やまな とよひさ)は、室町時代の武士。山名宗全の子。.

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山名豊之

山名 豊之(やまな とよゆき)は、室町時代の守護大名。伯耆守護。.

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山名豊氏

山名 豊氏(やまな とようじ)は室町時代の因幡守護。.

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山名氏

日本の氏族。幾つかの流れがある。.

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山名是豊

山名 是豊(やまな これとよ)は、室町時代の武将、守護大名。備後・安芸・山城守護。山名持豊(宗全)の次男。子に頼忠(よりただ)がいる。 父とは不仲であり、寛正元年(1460年)に兄の教豊が父と対立して播磨へ下向した時に家督を譲られることを望んだが却下されたこと、寛正3年(1462年)に細川勝元から備後・安芸守護職に任じられて河内嶽山城で畠山義就と戦ったこと(嶽山城の戦い)、寛正5年(1464年)に山城守護職にも任命されたことなどが原因で応仁の乱では東軍の細川勝元方につき、父の率いる西軍と争った。 猛将として知られる吉川経基や毛利豊元を従え上洛、応仁2年(1468年)に備後へ戻り西軍勢力と交戦、翌文明元年(1469年)に再上洛して摂津で大内政弘軍を迎撃し破り、西軍の拠点の1つ船岡山を攻撃し奪取、摂津神呪寺や山城西岡・勝竜寺城で西軍と戦うなど在京中の戦いにおいては活躍するが、文明2年(1470年)に備後に西軍が乱入したため12月23日に再度備後に戻り西軍と戦う。文明7年(1475年)に東軍である小早川煕平が篭もる高山城への援護にむかったものの遅参し、備後に到着時には既に東西両軍が和睦をした後であるなど失態を演じ人望を失い、備後を追放された。以後の消息は不明、甥とも弟ともされる山名政豊が備後・安芸・山城守護となった。 備後山名氏は政豊の子である山名俊豊が継承するも、俊豊は父と対立し、度重なる内訌を見た傘下の国人領主は続々と山名氏から離反、備後における山名氏の力はその後急速に衰退した。戦国時代、山名理興に滅ぼされたとされる山名忠勝(氏政)は備後山名氏の末裔とされるがその系譜ははっきりとはしない。.

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山名政豊

山名 政豊(やまな まさとよ)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名。山城・安芸・但馬・備後守護。応仁の乱の西軍総大将で知られる山名宗全の後継者。「政」の字は8代将軍足利義政より偏諱を賜ったものと思われる。.

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山名政清

山名 政清(やまな まさきよ、生没年不詳)は、室町時代中期の武将、守護大名。石見・美作守護。山名教清の子。官位は兵部少輔。 長禄年間から石見・美作の守護を受け継ぎ、応仁元年(1467年)に応仁の乱が始まると宗家の当主山名宗全に従って西軍に所属して戦った。この際、美作を山名忠政に任せていたが後に忠政軍も京に上ったため、この隙に美作を赤松政則に奪われ、守護職も交代させられた。文明9年(1477年)の大乱終結時には石見も大内政弘に替えられたが、その後の消息は不明。.

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山名教之

山名 教之(やまな のりゆき)は室町時代の守護大名。伯耆・備前守護。 山名熙之の子として生まれる。幼名は鶴房、のち室町幕府第6代将軍足利義教より偏諱を受けて教之と名乗る。 父・熙之が家督を継承しなかった(継ぐことなく早世したか)ため、祖父の山名氏之から直接家督を譲られ、幼くして伯耆守護の座に就く。家督の譲渡時期は不明だが、応永34年(1426年)5月には「山名鶴房」として文献に現れ、永享10年(1438年)8月には兵部少輔として見える。それ以降、40年余りに渡って伯耆国に君臨、国人衆を支配体制に組み込み、強固な地盤を築いた。 嘉吉元年(1441年)、嘉吉の乱において同族の山名持豊(宗全)・山名教清と共に赤松満祐の領国に攻め入り、満祐の首を挙げた功績で教之は恩賞として備前が与えられ、伯耆・備前2か国の守護となった。享徳2年(1453年)頃に長男の豊之に家督を譲り、応仁の乱で宗全に従い西軍の部将として戦ったが、赤松政則に備前を奪われた。また、文明3年(1471年)に豊之が伯耆で殺害されている。 文明5年(1473年)死去。次男の豊氏は同族の因幡守護山名熈幸の養子になっていたため、3男の之弘が伯耆守護職を継いだが、文明8年(1476年)に赤松政則の支持を得た4男の元之が伯耆守護となり、山名政豊の支援を受けた孫の政之と争った。.

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山名教豊

山名 教豊(やまな のりとよ)は、室町時代後期の守護大名。但馬・播磨・備後・安芸守護。山名宗全(持豊)の嫡男。 応永31年(1424年)、山名宗全の嫡男として生まれる。室町幕府第6代将軍・足利義教と父・宗全(持豊)より1字ずつ賜り教豊と名乗る。嘉吉元年(1441年)に義教が赤松満祐に暗殺されると父と共に播磨へ侵攻(嘉吉の乱)、文安4年(1447年)に将軍家の椀飯を務めた。 享徳3年(1454年)、父が第8代将軍・足利義政の怒りを買い但馬へ下向し隠居した為、家督を譲られて山名氏当主となり、但馬・播磨・備後・安芸4ヶ国の守護となる。翌康正元年(1455年)5月、父が失脚した際に赤松則尚が播磨奪回をはかり山名領へ侵攻すると、父と共に赤松軍を備前へ追い払った。以後、長禄2年(1458年)に父が赦免されるまで京都へ向かい、幕府に出仕した。 畠山氏の内紛に際しては、畠山義就を支持する父に難色を示しており、寛正元年(1460年)に父と仲違いして播磨へ下向した。その後対立は解消したが、弟の是豊が父に不満を抱き、山名氏の対立も応仁の乱へ影響した。 応仁元年(1467年)9月9日、父に先立って陣没。享年44。父が一旦当主に復帰した後に、家督を嫡男(弟とも)の政豊が継いだ。.

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山崎宿

離宮八幡宮の近くにある、山城と摂津の国境の碑(京都・大阪府境)。 山崎宿(やまざきしゅく)は、山陽道西国街道の摂津国と山城国の境に位置した宿場町。堺と同様の自治都市で、山崎の戦い時には明智側、豊臣側双方から市街での戦闘を避けるよう協定がなされていた。 山陽道のみならず丹波街道の起点でもあり、古くは淀川対岸まで山崎橋がかかり、外国使節などが到着する港があったとされる。また、嵯峨天皇はこの地に離宮を設け、貞観3年6月7日(861年7月18日)にその施設が山城国の施設として転用されることになり、国府が山崎に移転した(『日本三代実録』)。 現在、関大明神社や離宮八幡宮、山崎駅(鉄道のそれとは無関係)の遺構などが残る。 廃藩置県時、山崎の地名を大阪府・京都府のどちらが継承するかが争われ、大阪側に山崎村、京都側に大山崎村が成立した。 Category:宿場 宿やまさきしゆく 宿やまさきしゆく Category:大阪府の交通史 Category:京都府の交通史 Category:大山崎町の歴史 Category:島本町の歴史 Category:西国街道.

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山内政綱

山内 政綱(やまうち まさつな)は、室町時代後期の武将。六角氏の家臣。.

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山科区

山科区(やましなく)は、京都市を構成する11の行政区の一つ。京都市の東側にある山科盆地の北部と、周辺の山地を区の範囲としている。 本項ではかつて同一地域に所在した宇治郡山科町(やましなちょう)、同町の町制前の名称である山科村(やましなむら)についても述べる。.

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山陽新聞

山陽新聞(さんようしんぶん)は、岡山市北区に本社を置く株式会社山陽新聞社(さんようしんぶんしゃ)が発行する新聞である。.

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岐阜県

岐阜県(ぎふけん)は、日本の中部地方に位置する県で内陸県の一つ。 日本の人口重心中央に位置し、その地形は変化に富んでいる。県庁所在地は岐阜市。.

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岡山県

岡山県(おかやまけん)は、日本の都道府県のひとつ。中国地方南東部に位置し、瀬戸内海に面する県。県庁所在地は岡山市である。.

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岩波新書

岩波新書(いわなみしんしょ)は、1938年(昭和13年)11月20日に岩波書店が創刊した新書赤版として。創刊の辞は、「岩波新書創刊50年、新版の発足に際して」(1998年1月)に「道義の精神に則らない日本の行動を深慮し、権勢に媚び偏狭に傾く風潮と他を排撃する驕慢な思想を戒め、批判的精神と良心的行動に拠る文化日本の躍進を求めての出発である」と引用されている。シリーズである。.

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島津友久

島津 友久(しまづ ともひさ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。薩摩国島津氏の分家・相州家初代当主。 島津宗家9代当主・島津忠国の庶長子であったため本家を継ぐことができず、田布施を与えられて相模守を称した。これに対し、新名一仁は忠国と弟の島津持久との内紛に関する論文の中で、友久の母方の叔父伊作教久は持久方、宗家10代当主となった異母弟の立久の外祖父新納忠臣は忠国方であった事実を指摘し、忠国陣営が自派の求心力を保つために対立する伊作家の血を引く友久ではなく、支持者である新納家の血を引く立久が後継に選んだとする。「相州家」の名は友久の受領名に由来している。 宗家11代当主・忠昌に対し反乱を起こすが、忠昌の討伐軍に敗れた後は宗家に従った。 明応2年(1493年)死去、享年63。.

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島津季久

島津季久(しまづ すえひさ、応永22年(1413年) - 文明9年6月27日(1477年8月6日))は、室町時代中期の薩摩の人。薩摩島津氏の分家、豊州家初代当主。父は島津宗家8代当主の島津久豊。 豊州家初代当主。島津宗家8代久豊の三子。季久が豊後守を称したことから「豊州家」と呼ばれる。享徳年間(1452 - 1455)、兄で島津宗家9代当主の島津忠国の命で平山氏を攻め帖佐を領土とすると瓜生野城(後の建昌城)を築いた。 応仁元年(1467年)、京都で応仁の乱が起きると、九州でも東西両軍に別れ争いが繰り広げられた。島津宗家第10代当主の島津立久は東軍についたが、季久は西軍に属していた。他家同様どちらが勝利してもよい様にという考えからであった。 忠国・立久親子にはよく仕えたが、第11代当主である島津忠昌の時に肥後方面の戦略について忠昌と対立。帖佐で挙兵すると、本家の居城清水城に迫った。忠昌はこれにより伊集院一宇治城に避難している。しかし同じくして乱を起こした相州家の島津友久が忠昌に敗れると恭順。文明9年(1477年)死去。享年65。 法号 柱道題橋 晩年、季久は豊州家の菩提寺として総禅寺(現姶良市)を建立したが、完成を待たずして病死する。遺骸は一時近くの雲門寺に埋葬され、完成後に総禅寺に改装されたと伝えられている。 Category:室町時代の人物 すえひさ Category:1413年生 Category:1477年没.

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島津久逸

島津 久逸(しまづ ひさやす)は、戦国時代の武将。薩摩国島津氏の分家・伊作家8代当主。.

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島津忠昌

島津 忠昌(しまづ ただまさ)は、室町時代後期の大名。島津氏の第11代当主。.

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島津国久

島津 国久(しまづ くにひさ)は、戦国時代の武将。薩摩国島津氏の分家・薩州家2代当主。 嘉吉2年(1442年)、薩州家初代当主・島津用久の長子として誕生。 島津宗家11代当主・島津忠昌と対立し、所領の出水で叛旗を翻す。国久は大隅国の国分方面に侵攻したが、忠昌が救援に出向いたため撤退。手薄になった加世田を占領する。同時期に国久に応じるように豊州家の島津季久・相州家の島津友久が反乱を起こす。友久は鎮圧され季久も降伏するが、国久は出水で勢力を保っていた。 文明16年(1484年)、伊作家の島津久逸が忠昌に背き鹿児島に侵攻すると、忠昌に従い鹿児島の守備についている。また季久の子で豊州家2代当主・忠廉が久逸と時を同じくして反乱を起こすとこれを説得。味方につけて共に久逸を攻撃、久逸の反乱を治めている。こうして一種の半独立状態にあった薩州家だったが、明応7年(1498年)、国久が没すると跡目を巡り御家騒動が勃発。各分家を巻き込む騒乱となった。.

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島津立久

島津 立久(しまづ たつひさ)は、室町時代の守護大名。薩摩・大隅・日向守護。島津氏第10代当主。9代当主・島津忠国の次男。子に忠昌。幼名は安房丸、通称は又三郎。官位は修理亮、陸奥守。 父が文明2年(1470年)に死ぬまで守護であったため、立久が当主としての治世は4年間に過ぎなかったとされているが、実際には父と家臣の対立から長禄2年(1458年)頃から家臣団によって忠国を排除する計画が進められ、長禄3年(1459年)10月以前には立久が新納忠治・樺山長久ら重臣の力を借りて父を追放して家督を奪取して、事実上の守護となっていた。 日向の伊東祐堯と和睦して婚姻を結んだことで、日向国への影響力は低下したもの、薩摩・大隅の経営に専念したため、領内は平穏な日々が続いていた。また、兄弟を領内の要地に配置するとともに、一族や重臣達に対しても伊作家を伊作城から櫛間城へ、新納家を志布志城から飫肥城へ移封させるなどの配置換えを行って彼らを牽制し、守護領を拡大させることで地位の安定化も図られた。更に琉球や李氏朝鮮とも交易を盛んに行っていた。応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こり、2年後には東軍の細川勝元に味方したが、勝元の出兵要請は拒否して出陣せず、名目上の東軍であった。一方、叔父の豊州家当主島津季久は西軍の山名宗全に味方していた。これは、応仁の乱に際して他の諸大名と同様に、どちらが負けても家が存続するようにしていたためである。 文明3年(1471年)、桜島が大規模な噴火を起こし、立久没後の文明8年(1476年)頃まで続いた。噴火による降灰は農地に多大な被害を与えたために被災地であった日向・大隅方面に所領を持つ家臣やその領民は困窮したとみられ、その後の領国経営に暗い影を落とすことになる。 文明6年(1474年)、43歳で死去。嫡男の忠昌が後を継いだが、立久の生前に薩州家の島津国久を養嗣子に迎えて実子である忠昌を市来雲竜寺に入れて僧にする予定であったとする記録(伊地知季安『御当家始書』)もあり、この際の混乱がその後の家中の内紛の一因になったと考えられる。墓所は市来雲竜寺跡、福昌寺跡。.

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島津氏

島津氏(しまづし)は、日本の氏族。鎌倉時代から江戸時代まで続いた、薩摩を根拠地とする大名家のほかに、多数の分家がある。通字に「忠」「久」(初名も含めると基本的な通字は全時代を通じて「忠」の字が多く、江戸時代初期までは執権や将軍の偏諱を受けた場合に『「偏諱」+「久」』が多い。明治以降現在は嫡男に「忠」、次男に「久」)を用いる。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。本項は主に、薩摩の島津氏を主軸とした記述である。その他の島津氏についてはそれぞれ越前島津氏、信濃島津氏、若狭島津氏、江州島津氏などの項目または島津氏族の段を参照の事。.

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嶽山城

嶽山城(だけやまじょう)は、元弘2年(1332年)に楠木正成が築城した南河内の日本の城。大阪府富田林市彼方の嶽山山頂にあった。中腹に龍泉寺があることから龍泉寺城とも呼ばれる。楠木七城の一つ。 上赤坂城・下赤坂城や千早城の正面入口にあたり、峰続きの南西には金胎寺城が、更に南西には烏帽子形城があった。現在は城のあった辺りにかんぽの宿富田林がある。 城跡の比定地ではかんぽの宿の建設に伴い1983年度に発掘調査が実施されたが、城の遺構と同時期の遺物は見つかっていない。かんぽの宿の西側にも城域が広がっていた可能性があるが、調査がおこなわれておらず詳細は不明である。北側には千畳敷という小字名の緩やかな傾斜地があり、畠山が練兵場としていたという伝承が残る。戦国時代前期は山岳寺院を城郭として利用していた事例が多くあり、嶽山城においても龍泉寺を城郭の中心としていたと想定されている。文献での記載は『多聞院日記』にある永正4年(1507年)に畠山義英が嶽山城に拠ったとする記述が最後であり、戦国時代末期まで城が機能していたと判断する材料は乏しいとする。.

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嶽山城の戦い

嶽山城の戦い(だけやまじょうのたたかい)は、寛正元年(1460年)12月19日から寛正4年(1463年)4月15日にかけて河内国嶽山城(現在の大阪府富田林市)で行われた戦闘で、室町幕府から反逆者として追われた畠山義就が嶽山城に籠城して2年以上幕府の追討軍と戦った。.

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川岡勉

川岡勉(かわおか つとむ、1956年 - )は、日本の歴史学者、愛媛大学教授。.

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上京

上京(じょうきょう、かみぎょう、じょうけい); じょうきょう; かみぎょう; じょうけい.

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上京の戦い

上京の戦い(かみぎょうのたたかい)は、応仁の乱における戦闘の1つで、応仁元年(1467年)5月26日から27日にかけて現在の京都府京都市上京区で東軍と西軍が衝突した。.

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上御霊神社

上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)は、京都市上京区にある神社である。旧社格は府社。上御霊神社という社名は下御霊神社に対応するもので、現在は宗教法人としての正式名を「御靈神社」としている。.

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上杉顕定

上杉 顕定(うえすぎ あきさだ) は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将・守護大名。山内上杉家11代当主。越後上杉家の出身で山内上杉家を継ぎ、関東争乱期の40年以上にわたって関東管領を務めた。.

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上杉持朝

上杉 持朝(うえすぎ もちとも)は、室町時代中期の武将・守護大名。扇谷上杉家当主。相模国守護。.

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上杉房定

上杉 房定(うえすぎ ふささだ)は、室町時代中期から戦国時代にかけての守護大名。越後国・信濃国守護。越後上杉家6代当主。 15世紀後半の約46年という長きにわたって越後を支配し、関東で享徳の乱や長享の乱を戦う過程で守護領国を完成させた。.

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中公文庫

中公文庫(ちゅうこうぶんこ)は、株式会社中央公論新社(読売新聞グループ)が発行している文庫レーベル。.

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丹後国

丹後国(たんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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丹波国

丹波国(たんばのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陰道に属する。.

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七口の関

七口の関(ななくちのせき)とは、中世に地方より京都に入る7つの街道(京都七口〈きょうとななくち)に設置された関所のこと。京都七口関(きょうとななくちのせき)という呼称も存在する。.

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七頭

七頭(しちとう)は、室町時代、管領家とともに幕政に参加できた七家の有力諸侯。 『南方紀伝』によると、応永5年(1398年)、室町幕府3代将軍足利義満によって公家の五摂家七清華家を擬した武家の三職七頭の家格が定められたとされる。三職とは執事別当(管領)たる斯波氏・畠山氏・細川氏の所謂三管領家で、一色氏・山名氏・土岐氏・赤松氏・京極氏・伊勢氏・上杉氏等が七頭として幕政に参加した。 七頭のうち一色氏・山名氏・赤松氏・京極氏の四家を四職という。この四家に土岐氏と今川氏を加えた六家が京都奉行(侍所所司)に就任した。また、伊勢氏は奏者(政所執事)、上杉氏は関東執事(関東管領)に就任する家柄となった。 「応永五年(戊寅)・・・此の年、義満は朝廷の五摂家七清華に准じて武家の三職七頭を定めた。いわゆる三職は斯波・細川・畠山で三管領(執事別当也)と号す。七頭とは山名・一色・土岐・赤松・京極・上杉・伊勢らで、そのうち山名・一色・赤松・京極を京都奉行(侍所別当)とし四職と号す。奏者は伊勢貞行である。また武田・小笠原の両人を弓馬礼式奉行とし、吉良・今川・渋川らを武頭とする。」(南方紀伝).

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世界文化社

世界文化社(せかいぶんかしゃ)は、日本の出版社である。.

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万里集九

万里集九(ばんりしゅうく、1428年10月17日(正長元年9月9日) - 没年不詳)は、室町時代の禅僧、歌人。近江国の速水氏の出自。「万里」は道号、「集九」は諱で、「集」は一山派の太清宗渭の法系であることを示す一字。.

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三好之長

三好 之長(みよし ゆきなが)は、戦国時代の武将。三好長慶の曽祖父(または祖父)にあたり、三好氏が畿内に進出するきっかけを作り出した名将である。.

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三好長之

三好 長之(みよし ながゆき)は、室町時代から戦国時代の武将。芝生城主。.

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三宝院

三宝院大玄関 三宝院(さんぼういん)は、京都市 伏見区 醍醐にある。真言宗醍醐派総本山醍醐寺の塔頭、大本山、門跡寺院である。また、真言宗系の修験道当山派を統括する本山であった(現在は修験道当山派なる宗教法人はない)。三宝院門跡は、醍醐寺座主を兼ね、真言宗醍醐派管長の猊座にある。.

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三条西実隆

三条西 実隆(さんじょうにし さねたか)は、室町時代後期から戦国時代の公家。内大臣・三条西公保の次男。.

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三木久頼

三木 久頼(みつき ひさより)は室町時代の武将。飛騨三木氏の当主。.

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下京区

下京区(しもぎょうく)は、京都市を構成する11区のひとつである。北辺を通る四条通の四条烏丸(烏丸通)から四条河原町(河原町通)までは京都府、京都市有数の繁華街となっている。 また、京都駅は、京都市周辺部のターミナルであり、周辺には京都タワー・京都駅ビルなどを中心に商業施設が集まっている。 早くから業務地化が進み、人口は30年以上にわたってドーナツ化現象により減り続けていたが、1995年以降都心回帰に伴う居住地再整備やマンション建設の増加に伴い再び人口が増加傾向に転じている。2005年に行われた国勢調査においても、隣接する中京区や南区などと並び人口増加区のひとつとなった。.

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下克上

下剋上 / 下克上 (げこくじょう)とは、日本史において下位の者が上位の者を政治的・軍事的に打倒して身分秩序(上下関係)を侵す行為をさす。.

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下間蓮崇

下間 蓮崇(しもつま れんそう、生年不詳 - 明応8年3月28日(1499年5月8日))は室町時代後期の浄土真宗本願寺派の僧。安芸法眼。 下間の姓は後に名乗ったものであり下間一門との血縁関係はない。.

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一向一揆

三河一向一揆 六字名号(蓮如筆)/本願寺所蔵 一向一揆(いっこういっき)とは、戦国時代に浄土真宗本願寺教団(一向宗)の信徒たちが起こした、権力に対する抵抗運動の一揆の総称。.

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一円知行

一円知行(いちえんちぎょう)とは、日本の中世で使用された用語で、荘園公領制の重層的に入り組んだ支配・権利関係の中で、ある者が一元的に土地を支配することを指す。一円進止(いちえんしんし)、一円管領(いちえんかんれい)、一円支配(いちえんしはい)ともいう。当時、「一円」の語は、一元的または完全を意味しており、一円的に支配されている土地を一円地(いちえんち)・一円領(いちえんりょう)・一円荘(いちえんのしょう)などと呼んだ。 中世の荘園公領制では、本家-領家-開発領主-荘官-地頭らの関係に見られるように、土地や百姓に対する支配関係、また土地からの収益に関する権利関係が重層的に絡み合っており、著しく複雑な様相を呈していた。こうした支配・権利関係は、大きく2種類に区分することができた。1つは、土地や百姓らから産み出される収益(年貢・公事など)の上分(じょうぶん)であり、もう1つは、支配する土地そのものの下地(したじ)である。 鎌倉時代、地頭は、荘園公領支配への進出を積極的に展開したが、特に下地の支配権(下地進止権という)の獲得に力を注いだ。そして地頭は、下地中分や地頭請などを通じて、下地進止権を手中に収めるのみならず、上分の支配権(上分知行という)も徐々に簒奪していった。このように、地頭の中には下地と上分の両方を獲得し、所領の一円支配を実現していく者が現れたのである。 室町時代の守護には、鎌倉期の地頭よりも非常に大きな権限が与えられていた。室町期の守護は、半済などを通じて、鎌倉期の地頭以上に土地支配の一円化を実施していき、守護領国制の形成と守護の守護大名化が進んでいった。戦国時代の戦国大名は、より一層の一円知行化を進展させた。これに見るとおり、一円知行は中世後期から加速度的に進行したのである。.

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一色義直

一色 義直(いっしき よしなお)は、室町時代から戦国時代にかけての守護大名。.

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一色義遠

一色 義遠(いっしき よしとお)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。.

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一色義春

一色 義春(いっしき よしはる)は、室町時代の守護大名。.

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一色氏

一色氏(いっしきし)は、日本の氏族(武士)。清和源氏義国流で足利氏の一門。足利泰氏の子一色公深は、三河国吉良荘一色(愛知県西尾市一色町)を本貫とし、一色氏を名乗った。 室町幕府開府当初は九州探題として筑前国にあったが、後には侍所所司に任ぜられる四職の筆頭となり、また若狭国・三河国・丹後国などの守護職を世襲した。戦国時代にも丹後の大名として続いたが、安土桃山時代に至り細川藤孝・忠興らの侵攻によって滅亡した。 他に.

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一色政照

一色 政照(いっしき まさてる)は、室町時代の武将。.

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一色時家

一色 時家(いっしき ときいえ)は、室町時代の武将。鎌倉公方足利持氏の家臣。 喜連川判鑑に、「一色刑部小輔 大草子ニ時家」と記載されているが、鎌倉大草紙には、「一色刑部大輔持家」と記載されている。前者の「一色刑部小輔」の名は、牛窪記・三河国二葉松にも記載がみられ、時家と同一人物とされる。一方、後者の持家は、時家が足利持氏に仕えてその偏諱を賜って名乗ったもので同一人物とみられる。更に一色持家が持氏によって相模国の守護に任じられていたことも判明している佐藤博信「室町時代の相模守護」『中世東国の支配構造』(思文閣出版、1989年)。.

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一条兼良

一条 兼良(いちじょう かねよし)は、室町時代の公卿・古典学者。名は一般には「かねら」と読まれることが多い。関白左大臣・一条経嗣の六男。官位は従一位・摂政関白太政大臣、准三宮。桃華叟、三関老人、後成恩寺などと称した。.

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一条教房

一条 教房(いちじょう のりふさ)は、室町時代後期から戦国時代の公卿(関白)で、土佐一条氏の祖。一条兼良の長男。 永享10年(1437年)元服。一条家歴代当主の中では初めて足利将軍家からの偏諱の授与を受け、当時の将軍足利義教(第6代将軍)から偏諱を受け教房と名乗る(弟の教賢(きょうけん、僧)も同様である)。長禄元年(1457年)左大臣。長禄2年(1458年)関白となる。寛正4年(1463年)に関白を辞す。応仁の乱が勃発した際、弟の興福寺大乗院門主尋尊を頼って奈良に避難する。さらに父兼良が奈良に避難してきたので、父に奈良の避難所を譲り、応仁2年(1468年)一条家領のあった土佐国幡多荘に下向し、四万十川下流の中村の館に住んだ。土佐国人に迎えられて生活の基盤を確保し、父兼良の下向を誘ってみたり、父が帰洛した後、土佐から邸宅を作るための木材を送ったりしている。文明12年(1480年)10月5日薨去。享年58。長男の政房は既に応仁の乱の中で戦死していたため、家督は40歳ほど年の離れた実弟の冬良が継いだ。 尚、次男・房家はそのまま土佐に土着して在地領主・大名化し、この子孫(系統)が土佐一条氏となった。 File:Tomb of Ichijo Norifusa.jpg|一条教房墓(高知県四万十市).

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九州

九州(きゅうしゅう)は、日本列島を構成する島の一つで島国 (領土がすべて島から成る国)である日本を構成する6,852の島に対する『国土交通省』による区分け ⇒ 6,852島(本土5島・離島6,847島)。<出典>『国土交通省』サイト 離島振興課 離島とは(島の基礎知識) 2009年11月27日閲覧。ただし、島について地理学上はこのような分類・区分けはない。、その南西部に位置する。 北海道・本州・四国とともに主要4島の一つでもあり、この中では3番目に大きい島で【参考】 日本の島の面積順に上位10島 ⇒ 本州、北海道、九州、四国、択捉島、国後島、沖縄本島、佐渡島、奄美大島、対馬。  国立天文台 (編)理科年表 平成19年版 P565、ISBN 4621077635。、世界の島の中では、スピッツベルゲン島(ノルウェー)に次ぐ第37位の大きさである。 地質学や考古学などでは九州島という名称も使用される。 九州とその付随する島を合わせて九州地方(きゅうしゅうちほう)と言う。九州の最高標高は1,791メートル (m) で、大分県の九重連山・中岳の標高である。また、九州地方の最高標高は1,936 mで、鹿児島県の屋久島・宮之浦岳の標高である。(「#地理」および「日本の地理・九州」を参照) 九州には7つの地方公共団体(県)があり、7県総人口は13,108,027人、沖縄県を含めた8県総人口は14,524,614人である。都道府県の人口一覧#推計人口(右表 九州地方のデータ参照) 九州の古代の呼称は、「筑紫島」・「筑紫洲」(つくしのしま)である(#歴史書における呼称)。.

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九州探題

九州探題(きゅうしゅうたんだい)とは、室町幕府の軍事的出先機関である。当初は鎮西管領(ちんぜいかんれい)とも称された。.

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九条家

九条家(くじょうけ)は、五摂家のひとつで公家である。.

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平成

平成(へいせい)は日本の元号の一つ。昭和の後。今上天皇在位中の1989年(平成元年)1月8日から現在に至る。2001年(平成13年)の始まりには西暦における20世紀から21世紀への世紀の転換もあった。2019年(平成31年)4月30日に今上天皇退位により終了する予定であり、予定通り終了した場合、30年113日間(=11,070日間)にわたることとなる。なお、日本の元号では昭和(64年)、明治(45年)、応永(35年)に次いで4番目の長さである(5番目は延暦の25年)。 西暦2018年(本年)は平成30年に当たる。本項では平成が使われた時代(平成時代)についても記述する。.

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享徳

享徳(きょうとく)は、日本の元号の一つ。宝徳の後、康正の前。1452年から1454年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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享徳の乱

享徳の乱(きょうとくのらん、享徳3年12月27日(1455年1月15日) - 文明14年11月27日(1483年1月6日))は、室町幕府8代将軍・足利義政の時に起こり、28年間断続的に続いた内乱。第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方・足利成氏と争い、関東地方一円に拡大し、関東地方における戦国時代の遠因(もしくは直接の発端)となった。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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京極孫童子丸

京極 孫童子丸(きょうごく まごどうじまる、文正元年(1466年) - 文明3年(1471年))は、室町時代後期の守護大名。出雲・隠岐・飛騨・近江守護、京極氏当主。京極勝秀の子、京極持清の孫。高清の弟。 応仁の乱の最中の応仁2年(1468年)に父が亡くなり、祖父も2年後の文明2年(1470年)に死去したため家督と守護職を継承した。補佐役は叔父政経と守護代多賀高忠が受け持った。しかし、もう1人の叔父政光と多賀清直がこれに反発、孫童子丸の庶兄・乙童子丸(高清)を擁立して六角高頼と組んで西軍へ寝返った(京極騒乱)。政経・多賀高忠は六角政堯と共に東軍へ留まったが、文明3年(1471年)に孫童子丸は夭折した。 家督は政経が継ぐが、乙童子丸派との抗争は応仁の乱終結後も継続し、京極氏の弱体化を招いた。.

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京極勝秀

京極 勝秀(きょうごく かつひで 永享5年(1433年) - 応仁2年6月17日(1468年7月6日))は、室町時代後期の京極氏の武将。京極持清の長男。兄弟に政光、政経、畠山政長室。子に孫童子丸、高清(弟とも)。 幼名は三郎。室町幕府第7代将軍足利義勝の存命中に元服、義勝から偏諱を賜って勝秀と名乗る。 その後、応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こると、父持清とともに、従兄弟にあたる細川勝元の率いる東軍に属する。翌応仁2年(1468年)に勝秀は近江で六角政堯と共に西軍についた六角高頼と戦うが、その最中に父に先立ち病死した。 2年後に持清も死去、京極氏は後継者を巡ってお家騒動(京極騒乱)を勃発させてしまった。.

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京極騒乱

京極騒乱(きょうごくそうらん)は、室町時代から戦国時代にかけて近江国において起こった京極氏の家督相続を巡る御家騒動の一つ。.

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京極高清

京極 高清(きょうごく たかきよ)は、室町時代末期から戦国時代初期の武将、守護大名(戦国大名)。飛騨・出雲・隠岐・近江守護、後に近江半国守護で北近江の大名。京極勝秀の子で、京極持清の孫。幼名・乙童子丸。 家中を2分した京極騒乱を収めたが、自分の2人の息子を巡る別のお家騒動を止められず、京極氏の弱体化と浅井氏の台頭を招いた。.

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京極氏

京極氏(きょうごくし)は、日本の武家の一つ。本姓は源氏。宇多源氏の流れを汲む近江源氏、佐々木氏の別家である。.

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京極持清

京極 持清(きょうごく もちきよ)は、室町時代中期から後期の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人兼山城守護、出雲・隠岐・飛騨・近江守護。京極高光の次男。兄弟に持高、細川持之室。子に勝秀、政光、政経、娘(畠山政長室)。細川勝元は甥にあたる。官位は従四位上中務少輔、大膳大夫。.

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京極政光

京極 政光(きょうごく まさみつ)は、室町時代の武将。京極持清の次男。 初めは佐々木氏庶流の黒田氏の養子に入ったが、応仁の乱の只中に父と兄がそれぞれ応仁2年(1468年)、文明2年(1470年)に死去した。そのため家督と守護職は甥の孫童子丸が継承、政経と守護代多賀高忠が補佐した。しかし、政光はこれに不満を覚え多賀清直と共に孫童子丸の庶兄・乙童子丸(高清)を擁立して六角高頼と組んで西軍へ寝返った(京極騒乱)。政経・多賀高忠は六角政堯と共に東軍へ留まった。文明3年(1471年)に孫童子丸が夭折したが、政経が次の当主になったため京極氏の抗争は継続した。 文明4年(1472年)に政経派を撃破、政経らを追放して乙童子丸を当主に据えて多賀清直と共に後見人となったが、翌年に死去。.

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京極政経

京極 政経(きょうごく まさつね)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名。室町幕府相伴衆、近江・出雲・隠岐・飛騨4ヶ国の守護。京極持清の3男。勝秀、政光は兄、高清は甥(弟とも)。姉妹に畠山政長室。子に経秀(材宗)。官位は従五位下大膳大夫。 次兄・政光と同様、室町幕府第8代将軍足利義政より偏諱の授与を受け、政経と名乗る。また、別名に政高(まさたか)。.

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人物叢書

『人物叢書』(じんぶつそうしょ)とは、吉川弘文館より刊行されている日本史上の人物の学術伝記叢書。1958年に刊行開始し、1980年代後半に新装版に切り替わった。日本歴史学会編集。100冊を刊行した時点で第11回(1963年)の菊池寛賞を受賞している。 日本史上の人物が対象のため、大半は日本人が対象となっているが、日本史での活動が見られる来日外国人や、国姓爺のように日本と関わりのあるのみの外国人もごく稀に対象となる。また、1冊で複数人や一族(奥州藤原氏・菊池氏・浅井氏)を題材としているものもある。.

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府中

府中(ふちゅう).

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広島県

広島県(ひろしまけん)は、日本の中国地方に位置する都道府県の一つ。瀬戸内海に面する。県庁所在地は広島市。.

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今参局

今参局(いままいりのつぼね、生年不詳 - 長禄3年1月19日(1459年2月22日))は、室町時代の女性。通称お今。室町幕府第8代将軍・足利義政の乳母。大舘満冬(みつふゆ)の娘、兄に大舘教氏(のりうじ)がいる。父と兄はそれぞれ、義政の祖父・義満(3代将軍)、父・義教(6代将軍)から偏諱の授与を受けている。今参局自身の本名は不明。義政側近の有力者として烏丸資任、有馬持家(有馬元家とも)と共に三魔(おいま、からすま、ありま)と称された。.

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今川義忠

今川 義忠(いまがわ よしただ)は室町時代から戦国時代の武将、守護大名。駿河国守護。駿河今川家第8代当主。義元の祖父にあたる。.

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今川氏

今川氏(いまがわうじ)は、日本の武家。本姓は源氏で、家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏御一家・吉良家の分家にあたる。吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有しており、斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあった。今川家はその分家として、駿河の守護に代々任命された。さらに遠江守護家も分流する。初期の分家である今川関口家は幕府の奉公衆であった。.

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今川氏親

今川 氏親(いまがわ うじちか)は戦国時代の武将・守護大名・戦国大名である。駿河今川家9代当主。駿河・遠江守護。父は今川義忠、母は幕臣伊勢盛定の娘・北川殿で、北条早雲の甥、今川義元の父に当たる。.

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仁木氏

仁木氏(につきし)は、清和源氏の一族で、足利氏の祖義康の長子義清の系統に属する。鎌倉時代に、足利氏嫡流の義氏が承久の乱の功で三河国の守護に任ぜられると、義清の孫実国は三河国額田郡仁木郷(現在の愛知県岡崎市仁木町周辺)に移り住み、仁木太郎を称した。実国の弟義季は、隣接する細川郷を領して細川氏の祖となり、ともに足利氏嫡流の譜代被官となった。.

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代官

代官(だいかん)とは、君主ないし領主に代わって任地の事務を司る者又はその地位をいう。日本では、武家政権における役職の1つとなった。.

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延徳

延徳(えんとく)は、日本の元号の一つ。長享の後、明応の前。1489年から1491年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義尚、足利義材。.

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伊庭貞隆

伊庭 貞隆(いば さだたか)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。近江国神崎郡伊庭の領主。.

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伊予国

伊予国(いよのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。.

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伊勢国

伊勢国(いせのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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伊勢盛定

伊勢 盛定(いせ もりさだ、生没年不詳)は、室町時代の武将。伊勢氏の一族の備中伊勢氏出身。伊勢盛綱の子。妻は政所執事伊勢貞国の娘。子に北川殿(今川義忠室)、盛時(北条早雲)など。通称は新左衛門尉、別名は盛次、官位は備中守・備前守と伝わる。 長年、北条早雲の出自は不明で一般には伊勢素浪人と考えられていたが、近年の研究で北条早雲の前身が幕臣伊勢盛時であることが定説化している。伊勢盛時の研究の過程でその父の盛定についても次第に明らかになってきている。.

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伊勢貞宗

伊勢 貞宗(いせ さだむね)は、室町時代中期から戦国時代の幕臣。政所執事を務めた。伊勢貞親の子。北条早雲とは従兄弟同士とされている(諸説あり)。伊勢流故実の大成者でもある。.

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伊勢貞親

伊勢 貞親(いせ さだちか)は、室町時代中期の武士で室町幕府政所執事である。桓武平氏の流れを汲む伊勢氏。父は伊勢貞国、母は蜷川親俊の娘。弟に貞藤。子に貞宗・貞祐。.

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伊勢貞藤

伊勢 貞藤(いせ さだふじ)は室町時代の武士。京都伊勢氏(山城伊勢氏)の一族。伊勢貞国の次男。政所執事伊勢貞親の弟。 画、連歌に優れた有職家で、室町幕府で要職を務めたが、8代将軍足利義政と対立して伊勢に出奔した。 江戸時代は『寛政重修諸家譜』の伊勢氏系譜などで「伊勢貞藤、新九郎、のち貞辰(さだとき)、相模の北条某に養われ北条を称す」などと書かれ、伊勢盛時(北条早雲)と混同されてきたが、別人とされる。また盛時と北川殿(今川義忠の室)の父親とも言われていたが、研究の結果盛時らの父は貞藤の義弟で備中伊勢氏の一族伊勢盛定であることが定説化している。詳しくは北条早雲の項を参照。 さたふし Category:室町・安土桃山時代の武士 Category:1432年生 Category:1491年没.

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伊勢氏

伊勢氏(いせし)は、日本の氏族で桓武平氏維衡流の氏族。室町時代には室町幕府の政所執事を世襲、江戸時代には旗本として仕え、武家の礼法である『伊勢礼法』を創始し、有職故実の家として知られた。.

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伊豆国

伊豆国(いずのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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伊東祐堯

伊東 祐堯(いとう すけたか)は、室町時代の武将。日向伊東氏6代(伊東氏11代)当主。 伊東祐立の子とされるが、一説には祐立には祐武という子が別におり、祐武の子が祐堯とも言われる。 文安元年(1444年)、伊東祐立の死去により36歳で家督を継ぐ(『日向記』によると、祐立の家督を継ぐ筈であった祐家を、家督簒奪を目論んだ祐郡が殺害、この不義を家臣が認めず、祐郡を追放し祐堯を擁立したとある)。反抗的な一族の討伐に乗り出し、まず宮崎城の曽井氏を攻め滅ぼした。翌文安2年(1445年)以降も土持氏の同意を得て門川、穆佐、清武など各地の城主を次々と破り、傘下に収めていく。 日向国内に武威を示すと次に守護職を求めたが、土持氏の反発によって実現しなかった。そのため康正2年(1456年)に開戦に踏み切り、財部土持金綱を滅ぼして平野部から土持氏の勢力を駆逐する。こうして北は門川、南は紫波洲崎までを支配するようになり、国内外に伊東氏の存在感を強めた。 寛正2年(1461年)には再び京に使者を送り、室町幕府8代将軍足利義政から「日薩隅三ヶ国の輩は伊東の家人たるべし、但し島津、渋谷はこれを除く」という内容の御教書を得ている(ただし、これは伊東氏によって創作された偽文書である可能性が高いとされる)。 島津氏とは友好的な関係にあり、寛正5年(1464年)には島津立久と鵜戸山で会見し和議を調えている。ところが文明2年(1480年)に島津氏が紫波洲崎城を攻めたことで、両家は再び敵対することになった。 文明17年(1485年)、島津氏の内紛に介入し、島津忠昌と対立した伊作家の島津久逸の求めに応じて飫肥城の新納忠続を攻撃するため子の祐国と共に出陣中に清武城で死去。享年77。 祐国、祐邑など男女合わせて25人の子に恵まれた。.

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伊東氏

伊東氏(いとうし、いとううじ)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて伊豆国田方郡伊東荘(現静岡県伊東市)を本貫地としていた豪族。藤原南家・藤原為憲の流れを汲む工藤氏の一支族。通字は「祐」(すけ)。 一族である工藤祐経の子孫が日向国へ下向して戦国大名の日向伊東氏・日向国飫肥藩藩主となり、伊東祐親の子孫が尾張国岩倉に移り住んで、後に備中伊東氏・備中国岡田藩藩主となる。.

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伏見宮貞常親王

伏見宮貞常親王(ふしみのみや さだつねしんのう)は、室町時代の皇族。二品式部卿。世襲親王家、伏見宮第4代当主。.

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佐々木氏

佐々木氏(ささきし)は、日本の氏族のひとつ。家系は宇多天皇の第8皇子・敦実親王の流れをくむ宇多源氏、源成頼の孫・佐々木経方を祖とする一族。近江国蒲生郡佐々木荘を発祥に、軍事貴族として繁栄した。後に源平合戦(治承・寿永の乱)で活躍し全国に勢力を広げた。.

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但馬国

但馬国(たじまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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侍所

侍所(さむらいどころ)は、鎌倉幕府と室町幕府において、軍事・警察を担った組織。 侍所は古く「さぶらいどころ」ともいわれ、「侍(さぶら)い」、すなわち貴人の傍に控え、家政を取り仕切ったり、その身辺を警護する従者の詰所という意味であった。平安時代末期には親王、内親王、摂関家の邸宅に置かれ、家人や東国武士などが常駐した。.

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御一家

御一家(ごいっか)とは、足利将軍家の同族の中でも征夷大将軍継承権を有し、室町幕府においては管領と同格もしくは上の家格として扱われた吉良氏・渋川氏・石橋氏のこと。特に吉良氏は御一家の中でも筆頭に位置づけられて、管領よりも上位に位置づけられていた。.

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御前沙汰

御前沙汰(ごぜんさた)とは、室町幕府において将軍が主宰・臨席した非公式な評定のこと。後に評定衆・引付衆による評定に代わって公的な決定もここにおいて行われるようになった。雑訴を扱ったことから雑訴沙汰(ざっそさた)ともいう。 観応の擾乱によって幕府官僚の分裂・離反が生じた事から、2代将軍足利義詮が崩壊した評定衆・引付衆に代わる合議体として恩賞方にて開いたのが起源とされている。3代将軍足利義満の時代には幕府組織の再編が進み一時御前沙汰は行われなくなるが、出家していた元管領細川頼之を幕府に呼び戻す際に、幕府役職になかった頼之を幕府の政策決定に関与させるために正式な評定ではなく、出席者の人選に決まりが無く主宰者である将軍の意向が反映しやすい非公式な評定である御前沙汰の形式で評定を行って幕府の政策に関する重要決定を行った。更に頼之の没後、義満は息子義持に将軍職を譲って自らは出家するが、幕府の実権を握り続け、表面上引退しているために自らは召集できない公式な評定に代わって自ら主宰する御前沙汰を開いて幕府の政策決定を行い、将軍義持はこれに従う存在となった。 6代将軍足利義教は、管領などに対抗して将軍の権威を高めるために、将軍が主宰・臨席する御前沙汰の権威強化に乗り出し、雑訴のみならず所務も御前沙汰の評定対象として加え、実務を担当する右筆・奉行人の中から御前沙汰衆を選んで御前沙汰への参加資格を与えた。これによって、御前沙汰は最終決裁者である将軍とその直臣官僚とも言える御前沙汰衆を中心とする室町幕府における事実上の最高評議機関となった。ただし、管領も自らの被官が務める賦奉行とともに御前沙汰に参加して訴状の受付や将軍への裁許手続に関与している。 だが、応仁の乱以後には将軍の臨席は減少し、管領も非常設化したことで御前沙汰に参加することがなくなった。11代将軍足利義澄の頃には将軍主宰とされながら実際には将軍が臨席する事は無く、側近である内談衆が決定事項を将軍に取り次いで裁可を得る仕組みとなった。.

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御霊合戦

御霊合戦または上御霊神社の戦い(ごりょうがっせん/かみごりょうじんじゃのたたかい)は、応仁の乱における戦闘の1つで、文正2年(1467年、後に応仁に改元)1月18日から19日にかけて現在の京都府京都市上京区上御霊神社で畠山義就軍と畠山政長軍が衝突した。この合戦が応仁の乱開始の契機となり、本格的な戦乱の幕開けとなった。.

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徳川氏

徳川氏(とくがわし/とくがわうじ、)は、徳川家康が創始した日本の氏族。新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称した際に嘉字を用いて徳川と称したことが始まりとなり、江戸幕府将軍家と親族の家名とした。しかし『徳川家譜』に記される家系に関しては『尊卑分脈』の該当記録に似通った流れはあるものの、当代史料による検証がならず、得川氏と家康の家系との同一性は実証できていない。.

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後南朝

後南朝(ごなんちょう)とは、1392年(明徳3年)の南北朝合一後、南朝の再建を図った南朝の皇統の子孫や遺臣による南朝復興運動とそれによって樹立された政権、皇室の総称である。 この名称は江戸時代末期に儒学者斎藤拙堂によって付けられたもので、それまで名称は特に決まっていなかった。また後南朝という呼び方も戦後広まったもので戦前までは定着してはいなかった。.

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後土御門天皇

後土御門天皇(ごつちみかどてんのう、嘉吉2年5月25日(1442年7月3日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日))は、室町時代の第103代天皇(在位寛正5年7月19日(1464年8月21日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日))。諱は成仁(ふさひと)。.

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後北条氏

後北条氏(ごほうじょうし/ごほうじょううじ、旧字体表記:後北條氏)は、関東の戦国大名の氏族。本姓は平氏。家系は武家の桓武平氏伊勢氏流。室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる「北条早雲」こと伊勢盛時(1432年/1456年 - 1519年)をその祖とする。正式な名字は「北条(北條)」だが、代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏とは傍系の遠い血縁関係にあるとされるものの直接の後裔ではないことから、後代の史家が両者を区別するため伊勢氏流北条家には「後」を付して「後北条」と呼ぶようになった。また居城のあった相模国小田原の地名から小田原北条氏(おだわら ほうじょうし/おだわら ほうじょううじ)あるいは相模北条氏とも呼ばれる。最大時(氏政)には関八州で240万石の一大版図を支配していた。 通字は「氏(うじ)」。代々の家督は御本城様(ごほんじょうさま)と呼ばれ、「祿壽應穏(禄寿応穏)」と刻銘された「虎の印章」を使用した。これは「禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし、領民全ての禄を寿を北条氏が守っていく」という政治宣言であった。 近代には、初代・早雲(盛時)の素性が伊勢の素浪人と誤認され、下克上を初めて現実のものとして伊豆一国の主となり、そこから戦国大名にまでのし上がったとされていたが、後述のように近年の研究で否定されている。.

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後花園天皇

後花園天皇(ごはなぞのてんのう)は、室町時代の第102代天皇である(在位:正長元年7月28日(1428年9月7日) - 寛正5年7月19日(1464年8月21日))。諱は彦仁(ひこひと)。 本来は皇統を継ぐ立場にはなかったが、称光天皇の死後に皇位を継いだ。8親等以上離れた続柄での皇位継承は南北朝合一を除くと53代658年ぶりである(称徳天皇→光仁天皇以来)。以後、この天皇の系統が今上天皇をはじめとする現在の皇室に連なっている。.

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従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

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信越地方

信越地方(しんえつちほう)は、長野県と新潟県の総称である。令制国名の信濃国・越後国に因むが、旧佐渡国である佐渡島も含まれる。 北陸地方(この場合、新潟県を含まない北陸3県(富山県、石川県、福井県)を指す)と併せて、北信越地方(ほくしんえつ)や北陸信越地方と呼ぶこともある。また、群馬県と併せて上信越地方、山梨県と併せて甲信越地方と呼ぶことがある。.

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信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

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応仁

応仁(おうにん)は、日本の元号の一つ。文正の後、文明の前。1467年から1468年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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応仁記

応仁記(おうにんき)は、室町時代の軍記である。足利将軍家や畠山氏、斯波氏の家督争いなどから発展した「応仁の乱」を描いた軍記物語。全3巻で、各種の諸系統本がある。「太平記」の影響を受け、漢字カタカナ交じり文。作者未詳。成立年は15世紀末から16世紀中ごろと諸説ある。.

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土岐氏

土岐氏(ときし)は、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏流摂津源氏系美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた軍事貴族の系統。 南北朝時代から戦国時代にかけて美濃国守護を務めるとともに室町幕府の侍所頭人として五職家の一角を占め、最盛期には美濃、尾張、伊勢の3か国の守護大名となった。戦国時代には近江の六角氏、京極氏、越前の朝倉氏・尾張の織田氏・伊勢の北畠氏など周辺大名と争うも、斎藤道三の下克上により没落した。庶流にあたる明智光秀・浅野長政・土岐定政(菅沼藤蔵)らは戦国武将として各地の大名に仕え頭角を現し、江戸時代には浅野家、土岐定政家が大名として存続した。.

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土岐成頼

土岐 成頼(とき しげより)は、室町時代から戦国時代の武将、守護大名。美濃守護。土岐氏第11代当主。土岐持益の養子。実父は一色義遠で一色義直は伯父とされているが、土岐氏の支族饗庭氏の饗庭元明(備中守)の子とする説、佐良木光俊(持益の従弟)の子とする説などに分かれている。 養子となる際に第8代将軍足利義成(後の義政)から偏諱(「成」の1字)を与えられて成頼と名乗る。法名は宗安(そうあん)。.

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土岐政康

土岐 政康(とき まさやす、生没年不詳)は、室町時代後期の武将、守護大名。伊勢守護。土岐持頼の子。通称、官位は不明。土岐氏の一族である土岐世保家の第4代当主。 元服時に将軍・足利義政より偏諱(「政」の字)を賜い、政康と名乗る(「康」の字は曽祖父・康行(初代当主)や祖父・康政(2代当主)の1字に由来する)。 父の死後世保家を継承、応仁の乱では東軍に所属、応仁元年(1467年)3月に伊勢に乱入、西軍に参加した伊勢守護一色義直に代わって東軍から伊勢守護に補任された。しかし、伊勢国司北畠教具と対立、文明3年(1471年)に北伊勢の国人、長野氏の長野政高と共に北上してきた北畠軍と戦ったが、同年に伊勢守護を解任、教具の息子政郷に交替させられた。文明5年(1473年)に室町幕府に出仕、美濃で西軍の土岐成頼・斎藤妙椿と戦ったが、以後の消息は不明。.

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地子

地子(じし/ちし)とは、日本の古代・中世から近世にかけて、領主が田地・畠地・山林・塩田・屋敷地などへ賦課した地代を指す。賦課した地目に応じて田地子・畠地子・塩浜地子・林地子・屋地子などと呼ばれた。元々、地子は生産物地代の性格を持ち、その土地の生産物が地子として納入されていたが、中世後期ごろから貨幣経済が進展していくと、貨幣による地子の納入が増加していった。そのため、米(稲)で納入する地子を地子米(地子稲)といい、銭で納入する地子を地子銭といって区別した。.

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地蔵院 (京都市北区)

地蔵院(じぞういん)は、京都市北区大将軍にある浄土宗の寺院。山号は昆陽山。本尊は五劫思惟の阿弥陀如来。椿寺の名で親しまれる。境内に観音堂があり、洛陽三十三所観音霊場第30番札所となっている。.

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北畠家

北畠家(きたばたけけ、または北畠氏(きたばたけし))は、公家の一つ。村上源氏中院家庶流。武家としての通字は「具(とも)」。 南北朝時代に南朝の忠臣として重きをなし、伊勢国に進出して南北朝合一後も国司として勢力を保ち、公家大名、戦国大名として戦国時代まで命脈を保った「三国司家」『世界大百科事典』。また、大名化しても公家としての意識は持ち続け、伊勢国司家の歴代当主の花押は武家ではなく公家のものであった (三重県HP)。 なお、明治維新後、北畠家の家名は中院流久我家の分家として再興され、男爵に叙されている。.

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北畠政郷

北畠 政郷(きたばたけ まささと)は、室町時代中期の武将・公家。伊勢国司北畠家第5代当主。居所は多気御所。.

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北畠教具

北畠 教具(きたばたけ のりとも)は、室町時代中期の公卿。権大納言、正二位。伊勢国司北畠家の第4代当主で、伊勢国の守護大名でもある。北畠満雅の子。.

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北陸地方

北陸地方(ほくりくちほう)は、本州中央部に位置する中部地方のうち日本海に面する地域である。新潟県、富山県、石川県、福井県の4県『日本地名大百科』、小学館、1996年、p.1041 ISBN 4-09-523101-7、あるいは富山県、石川県、福井県の3県を指す。区別のため前者を「北陸4県」「新潟県を含む北陸地方」、後者を「北陸3県」などと表現することがある。北陸3県の繋がりについては「北陸3県について」の節を参照。 名称は、畿内から見て北方にある五畿七道の北陸道に由来し、中世以前では、この地域を北国(ほっこく)と称していた。.

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ロマンコミックス 人物日本の女性史

『ロマンコミックス 人物日本の女性史』(ロマンコミックス じんぶつにほんのじょせいし)は、1986年に世界文化社より刊行された、全30巻にわたる歴史漫画のシリーズ。.

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ドナルド・キーン

ドナルド・キーン(1922年6月18日 - )は、アメリカ合衆国出身の日本文学者・日本学者。日本文学と日本文化研究の第一人者であり、文芸評論家としても多くの著作がある。日本国籍取得後、本名を出生名の「Donald Lawrence Keene」から、カタカナ表記の「キーン ドナルド」へと改めた。通称(雅号)として漢字で鬼怒鳴門(きーん どなるど)を使う。 コロンビア大学名誉教授。日本文化を欧米へ紹介して数多くの業績があり数多くの大学や研究施設から様々な受賞経歴を持つ。称号は東京都北区名誉区民、新潟県柏崎市名誉市民、ケンブリッジ大学、東北大学、杏林大学ほかから名誉博士。賞歴には全米文芸評論家賞受賞など。勲等は勲二等。2008年に文化勲章受章。また、日本ペンクラブの名誉会員であり、2012年11月26日の日本ペンクラブ創立記念懇談会では演説を行った。.

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別当

別当(べっとう)は、本来、律令制において本官を持つ者が他の官司の職務全体を統括・監督する地位に就いた時に補任される地位。後に官司の長官一般を指すようになり、このことから転じて、以下のような複数の意味を持つ。.

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嘉吉

嘉吉(かきつ)は、日本の元号の一つ。永享の後、文安の前。1441年から1444年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義教、足利義勝。.

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嘉吉の乱

嘉吉の乱(かきつのらん)は、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が、室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。主に嘉吉の変(かきつのへん)と呼ばれることが多い。 この事件については伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』に義教暗殺当日の事情が記されている。全一巻の『嘉吉記』には、嘉吉の乱から後の神器奪還までの赤松氏の事情が記されている。.

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喧嘩両成敗

喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)とは、中世および近世の日本の法原則の1つ。喧嘩に際してその理非を問わず、双方とも均しく処罰するという原則。.

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周防国

周防国(すおうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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呉座勇一

呉座 勇一(ござ ゆういち、1980年 - )は、日本史学者。国際日本文化研究センター助教。東京都出身。 大学での指導教員は村井章介。.

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ウォーゲーム日本史

『ウォーゲーム日本史』は、国際通信社が発行する解説書付きウォーシミュレーションゲームである。アナログゲームとしてのウォーゲームを扱う。1,4,7,10月の季刊として発行され、発売は発行前月の20日前後である。国際通信社ではコマンドマガジン日本版の姉妹誌として紹介している。2012年5月現在、一般書店で入手可能(取り扱いは星雲社)。26号を最後に休刊することが、ホームページで告知され無期休刊となった。2016年10月、単発刊行の27号がボックス仕様で発売された。.

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グレゴリオ暦

レゴリオ暦(グレゴリオれき、、、)は、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ、1582年10月15日(グレゴリオ暦)から行用されている暦法である。現行太陽暦として世界各国で用いられている。グレゴリオ暦を導入した地域では、ユリウス暦に対比して新暦()と呼ばれる場合もある。紀年法はキリスト紀元(西暦)を用いる。 大辞林 第三版、など。、暦法と紀年法とが混同されている。--> グレゴリオ暦の本質は、平年では1年を365日とするが、400年間に(100回ではなく)97回の閏年を置いてその年を366日とすることにより、400年間における1年の平均日数を、365日 + (97/400)日.

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ゲリラ

リラ(guerrilla)は、ゲリラ戦(遊撃戦)と呼ばれる不正規戦闘を行う民兵またはその組織のことでパルチザンとも呼ばれる。ゲリラ戦とは、予め攻撃する敵を定めず、戦線外において小規模な部隊を運用して、臨機応変に奇襲、待ち伏せ、後方支援の破壊といった、攪乱や攻撃を行う戦法、またはその戦法が用いられた戦闘を指す。 なお日本の警察用語では、上記と異なる定義がなされる。警察庁が発行する警察白書では、施設などを攻撃する対物テロを「ゲリラ」、個人を標的とする対人テロを「テロ」と区分している。もっとも、事件の中にはどちらに該当するか区分付きがたいケース(例:警視庁独身寮爆破事件)もあり、一般国民に対する広報では、「テロ・ゲリラ」と一括して取り扱っている。.

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セガ・インタラクティブ

株式会社セガ・インタラクティブ(SEGA Interactive Co., Ltd.)は、アーケードゲームやメダルゲームなどのアミューズメント機器、ゴルフ練習マシンの開発・製造・販売等を手掛ける日本の企業。セガサミーグループの企業であり、セガホールディングスの100%子会社。 本稿では株式会社セガ時代のアーケードゲーム機についても述べる。.

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備後国

備後国(びんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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備前国

備前国(びぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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内ヶ島為氏

内ヶ島 為氏(うちがしま ためうじ)は、室町時代の武将。内ヶ島季氏の子。子に雅氏。.

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内裏

内裏(だいり)とは、古代都城の宮城における天皇の私的区域のこと。御所(ごしょ)、禁裏(きんり)、大内(おおうち)などの異称がある。都城の北辺中央に 官庁エリアである宮城(皇城)があり、宮城内部に 天皇の私的な在所である内裏があった。.

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内藤弘矩

内藤 弘矩(ないとう ひろのり)は、日本の室町時代後期の武将で、周防長門の守護大名大内氏の家老として、代々長門守護代を務める内藤氏の当主。大内政弘、義興の2代に仕え重きをなす。娘(東向殿)はのちに義興の正室となり大内氏嫡子義隆を生む。.

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内藤元貞

内藤 元貞(ないとう もとさだ)は、室町時代の武将。細川氏の家臣。丹波国守護代。丹波八木城主。 丹波内藤氏は代々丹波守護・細川氏に仕え、守護代を務めた。 応仁元年(1467年)6月8日、応仁の乱の西軍山名氏の領国の但馬、因幡、伯耆、備後の軍勢が丹波に攻め入ると、東軍であった内藤備前守(元貞)は国境の天田郡夜久郷でこれを迎え撃ったが敗北し、叔父の内藤貞徳らが討ち取られ、上洛を許した(井鳥野合戦之事)『応仁記』。応仁2年(1468年)3月20日には、内藤(元貞)が但馬国朝来郡に攻め込み、太田垣氏と戦っている(但州合戦之事)。 同年9月3日、内藤備前守(元貞)は、久下、永澤、荻野、本庄、足立、蘆田を率い、大江山(大枝山)を越えて谷ノ堂、峯ノ堂、梅津、桂に兵を進め、嵯峨の天龍寺に火を放った。挟撃される形となった西軍の山名宗全は宮田教言を派遣し、斯波義廉、畠山義就、大内政弘の兵も嵯峨に向かった(醍醐山科合戦之事)。細川勝元は西軍本陣を超えて援軍を送れず代わりに船岡山を攻め落としたが、元貞は宮田教言らの兵に押され、大江山に退却し守りを固めた(舟岡山合戦之事)。 応仁の乱の終結後の文明11年(1479年)、一宮氏の年貢免除を守護代内藤(元貞)が認めず、一宮方三十人程が討たれたため、一宮宮内大輔が細川政元を拉致して、一揆を起こした。内藤元貞は政元の代わりに細川勝之を擁立し庄氏や安富氏と共に一宮氏討伐を行ったが、一宮賢長が一宮宮内大輔を討ち細川政元を解放したため、事無きを得た。 文明14年(1482年)、内藤元貞は罷免され、次の丹波守護代には上原賢家が就任した。しかし、上原賢家、元秀親子は度々、丹波国人と諍いを起こしたため、明応4年(1495年)、内藤氏は丹波守護代に復任した。.

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内藤湖南

内藤 湖南(ないとう こなん、1866年8月27日(慶応2年7月18日) - 1934年(昭和9年)6月26日)は日本の東洋史学者。名は虎次郎。字は炳卿(へいけい)。湖南は号。別号に黒頭尊者。白鳥庫吉と共に戦前を代表する東洋学者であり、戦前の邪馬台国論争、中国に於ける時代区分論争などで学会を二分した。.

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出羽国

出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.

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公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

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公方

公方(くぼう)とは、前近代の日本において、国家に関する公(おおやけ)のことを体現する方面及び国家的統治権、すなわち古い時代の天皇やその朝廷、鎌倉時代、室町時代の将軍に起源する言葉である。特に室町時代の後半には、将軍の公権力の代行者として君臨した足利将軍家の一族の者の肩書きとして用いられた。公方の称号を公方号という。また、将軍、公方の敬称として御所号が用いられた。.

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六角高頼

六角 高頼(ろっかく たかより)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将・守護大名。近江国守護、南近江の戦国大名。六角氏12代当主。.

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六角氏

六角氏(ろっかくし)は、日本の氏族。宇多源氏佐々木氏の流れで、鎌倉時代から戦国時代にかけて近江国南部を中心に勢力を持った武家(守護大名)。藤原北家流の公家・六角家とは血の繋がりは無い。佐々木六角氏とも言う。.

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六角政堯

六角 政堯(ろっかく まさたか)は、室町時代後期の武将・守護大名。近江国守護。.

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六角政頼

六角 政頼(ろっかくまさより)は、室町時代後期の人物。系譜の諸説のなかで、六角久頼と六角高頼の間にいたと推測される人物。ただし、成人後の名前は確定されておらず、政勝、高貞ともされ、はっきりしない。近江国守護。事蹟は六角高頼の前半生が想定されている。 室町時代後期から戦国時代初期の六角氏の系図は、六角氏が内紛を起こしていたため、はっきりしない部分が多い。このうち、応仁の乱の際に活動した「六角亀寿」(六角亀寿丸)と記録のある人物がどのような人物か推測した見解の一つが、六角政頼である。 六角久頼の没後、久頼の次兄・時綱の子である六角政堯と、久頼の子とみられる「六角亀寿」の間で守護職を巡り対立があった。政堯の後見で亀寿が守護となるが、政堯が亀寿を追い守護職を得る。のち幕府によって六角政堯が失脚させられ、亀寿が守護に返り咲くが、まもなく応仁の乱が勃発し、亀寿は西軍に所属した。戦乱により領内も混乱し、六角氏も、北近江の京極氏の力を背景に政堯、政信(久頼の長兄持綱の子)が東軍につくなど分裂状態となった。亀寿は文明3年(1471年)に政堯を自刃させ六角家家督を確保している。『応仁記』においては「六角四郎高頼」という名前がみえ、『滋賀県史』などは亀寿が元服して行高と名乗り、のち高頼と改めたとする。 しかし高頼の生年には諸説あり、このうちで久頼の没後の生まれとなるものがあった。この久頼没後の生年説を採ったときの矛盾を解決するため、久頼の子で高頼の父に当たる人物が想定された。これが「六角政頼」である。「政頼」は「甲賀二十一家之由来」にみえる。佐々木哲によれば、古文書に出る「政勝」が政頼だという。 また、義尚に討伐を受けた際(長享・延徳の乱)に伊賀に逃れたのは高頼とその嫡男の六角氏綱とされる。一方、佐々木哲は、氏綱は当時まだ出生していないとし、高頼と共に伊賀に逃れたのは高頼の父の政頼(政勝)とする。.

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兵庫

兵庫.

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兵庫県

兵庫県(ひょうごけん)は、日本の都道府県の一つ。本州の中西部に位置し、近畿地方に属する。県庁所在地は神戸市。.

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勝竜寺城

勝竜寺城(しょうりゅうじじょう)は、現在の京都府長岡京市勝竜寺に所在した、南北朝時代から江戸時代初期に存在していた日本の城である。城名は付近の同名古刹(勝竜寺)に由来する。.

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国人

国人(こくじん、くにびと、くにゅうど)とは、広くその国の国民、住民のこと大辞泉(小学館)。 六国史(日本後紀および三代実録)において国衙領の国民または住民を指す言葉として用いられ、越前国人、大和国人、河内国人などが見える日本後紀三代実録。 また、国人領主(こくじんりょうしゅ)は中世の史料において、在京の名目上の領主である中央官吏に対して在地の実質上の領主を指す言葉として用いられ(国人領主制)、国衆(くにしゅう)や在国衆(ざいこくしゅう)とほぼ同義ないし明確な違いは無い。.

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国衙領

国衙領(こくがりょう)は、平安時代中期頃以降の公領を、荘園に対して呼ぶ歴史学用語。国衙は国の役所の意味。.

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四国

四国内の高速道路網(緑線)および本四架橋を含む県境をまたぐ大規模架橋(青線)。赤星および赤丸は人口上位10都市 四国(しこく)は、日本列島を構成する島の一つである島国 (領土がすべて島から成る国)である日本を構成する6,852の島に対する『国土交通省』による区分け ⇒ 6,852島(本土5島・離島6,847島)。<出典>『国土交通省』サイト 離島振興課 離島とは(島の基礎知識) 2009年11月27日閲覧。 ただし、島について地理学上はこのような分類・区分けはない。。 北海道・本州・九州とともに主要4島の一つでもあり、この中では最も小さい 国土地理院(注:表中の「沖縄島 おきなわじま」は、通称名「沖縄本島」の正式名称)【参考】 日本の島の面積順に上位10島 ⇒ 本州、北海道、九州、四国、択捉島、国後島、沖縄本島、佐渡島、奄美大島、対馬。 国立天文台 (編)理科年表 平成19年版 P565、ISBN 4621077635。。最高標高は石鎚山の1,982mで、福井・石川・岐阜県境の両白山地三ノ峰 (2128m) 以西の西日本では最も高い。面積は18,297.78km2で、世界の島の中では、バナナル島(ブラジル)に次ぐ第50位の大きさである世界の島の面積順位より抜粋、出典 List of islands by area(島:オーストラリア大陸の面積未満で、四方を水域に囲まれる陸地) ------------------------- ------------------------- ------------------------- ------------------------- 四国とその付随する島(小豆島、大三島、大島、中島、伯方島、豊島など)を合わせて「四国地方」と言う地方公共団体(都道府県)別では、徳島県、香川県、愛媛県、高知県の4県が所在する。 。これら付随する島を含めないことを強調したい場合、「四国本土」あるいは「四国島」と呼ぶこともある。(日本の地理・四国、日本の地域・四国地方も参照) 四国には、徳島県、香川県、愛媛県、高知県の4つの地方公共団体(県)があり、4県総人口は3,762,941人であり、概ね横浜市人口に匹敵する,。(表右下 四国地方も参照) 四国の古代の呼称は、「伊予之二名島」・「伊予二名洲」(いよのふたなのしま)である。.

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四職

四職(ししき/ししょく)は、室町時代の武家の家格。.

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知恩寺

知恩寺(ちおんじ)は、京都市左京区田中門前町にある浄土宗七大本山の寺院。百万遍知恩寺(ひゃくまんべんちおんじ)と称され、単に百万遍とも通称する。山号は長徳山。院号は功徳院。本尊は阿弥陀如来。京都における浄土宗四ヶ本山のひとつであり、法然上人二十五霊跡第22番札所でもある。御詠歌「われはただ仏にいつか葵草 心のつまに掛けぬ日ぞなき」。「百万遍」は付近の交差点名及び通称地名にもなっている。.

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石丸利光

石丸 利光(いしまる としみつ、生年不明 ‐ 明応5年5月30日(1496年7月10日))は、戦国時代の武将。官位は丹波守。父は石丸実光とされている。子に利元、利高、織田寛定室がいる。美濃国の実権を握っていた持是院家の斎藤妙椿に仕え、船田城を本拠として、小守護代と呼ばれた。また、後に斎藤氏の名乗りを許されて斎藤 利光(さいとう としみつ)と名乗った。.

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石見国

石見国(いわみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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神人

人(じにん、じんにん / しんじん、かみびと / かみんちゅ)とは日本(琉球を含む)の神職である。読みにより意味が異なる。; じにん、じんにん; しんじん、かみびと; かみんちゅ.

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神保長誠

保 長誠(じんぼう ながのぶ、生年不詳 - 文亀元年11月18日(1501年12月28日))は、室町時代から戦国時代の武将。越中放生津城を拠点とする射水・婦負郡守護代及び紀伊分郡守護代であり、畠山政長(畠山尾州家)の家臣である。 父については、畠山持国の後継者を巡って息子の畠山義就を推す遊佐国助達と争い没落した持国の甥の畠山弥三郎派の神保国宗であると推測されるが定かではない。通称は越前守、宗右衛門尉、孫三郎。子に慶宗、長茂。.

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神保氏

保氏(じんぼうし)は、本姓惟宗氏で、上野国多胡郡辛科郷神保邑が名字発祥の地という。家紋は「竪二引両」。越中国の越中神保氏が有名。.

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神呪寺

呪寺(かんのうじ、神咒寺)は兵庫県西宮市甲山山麓にある仏教寺院。山号は武庫山。真言宗御室派別格本山。甲山大師とも呼ばれ、地元では「お大師さん」とも呼ばれている。 寺号の「神呪寺」は、「神を呪う」という意味ではなく、甲山を神の山とする信仰があり、この寺を神の寺(かんのじ)としたことによるという。なお、「神呪」(じんしゅ)とは、呪文、マントラ、真言とほぼ同義で、仏の真の言葉という意味がある。開山当時の名称は「摩尼山・神呪寺(しんじゅじ)」であり、「感応寺」という別称もあったようだ。.

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祇園祭

祇園祭(ぎおんまつり)は、京都市東山区の八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治までは祇園御霊会(ぎおんごりょうえ、御霊会)と呼ばれた。貞観年間(9世紀)より続く。京都の夏の風物詩で、7月1日から1か月間にわたって行われる長い祭である。 祭行事は八坂神社が主催するものと、山鉾町が主催するものに大別される。一般的には山鉾町が主催する行事が「祇園祭」と認識されることが多く、その中の山鉾行事だけが重要無形民俗文化財に指定されている。山鉾町が主催する諸行事の中でもハイライトとなる山鉾行事は、山鉾が設置される時期により前祭(さきのまつり)と後祭(あとのまつり)の2つに分けられる。山鉾行事は「宵山」(よいやま、前夜祭の意。前祭:7月14日 - 16日・後祭:7月21日 - 23日)、「山鉾巡行」(前祭:7月17日・後祭:7月24日)が著名である。八坂神社主催の神事は 「神輿渡御」(神幸:7月17日・還幸:7月24日)や「神輿洗」(7月10日・7月28日)などが著名で、「花傘連合会」が主催する花傘巡行(7月24日)も八坂神社側の行事といえる。 宵山、宵々山、宵々々山には旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露も行われるため、屏風祭の異名がある。また、山鉾巡行ではさまざまな美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、「動く美術館」とも例えられる。 祇園祭は数々の三大祭のひとつに挙げられる。京都三大祭(他は上賀茂神社・下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭)、日本三大祭(他は大阪の天神祭、東京の山王祭、神田祭)、日本三大曳山祭(他は岐阜県高山市の高山祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭)、日本三大美祭(他は前述の高山祭と秩父夜祭)のうちの一つであり、日本を代表する祭りである。.

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福井県

福井県(ふくいけん)は、日本海や若狭湾に面する日本の県。県庁所在地は福井市である。.

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笠原一男

原 一男(かさはら かずお、1916年6月2日 - 2006年8月19日)は、日本の歴史学者。東京大学教養学部名誉教授。.

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笠懸

懸(かさがけ)とは、疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を放ち的を射る、日本の伝統的な騎射の技術・稽古・儀式・様式のこと。流鏑馬と比較して笠懸はより実戦的で標的も多彩であるため技術的な難易度が高いが、格式としては流鏑馬より略式となり、余興的意味合いが強い。流鏑馬、犬追物と並んで騎射三物と称された。現在は笠掛とも表記する。群馬県新田郡笠懸(かさかけ)町(現みどり市)の名は、源頼朝がこの地で笠懸を行ったことに由来するという。.

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筑前国

筑前国(ちくぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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筒井順尊

筒井 順尊(つついじゅんそん、宝徳3年(1451年) - 長享3年7月22日(1489年8月27日))は、室町時代後期から戦国時代前期の武将。大和の国人筒井氏当主。筒井順永の子。成身院順盛、安楽坊順憲、遊佐長直の妻の兄。順賢、順興の父。栄藤。舜覚坊。 当時の大和は畠山義就と畠山政長が対立した影響で国人も2派に分かれて抗争していた。筒井氏は政長派に属し、応仁の乱では順尊は父順永と共に義就派の越智家栄、古市澄胤と大和で戦った。 しかし、文明8年(1476年)に父が死去、翌年9月に畠山義就が河内に下向して政長派を撃滅・制圧すると越智家栄らも勢いづいて順尊・箸尾為国らを大和から追放、河内と大和は義就の手に入った(正式な守護は政長と興福寺だが、義就が実力で取得した)。結果、順尊ら政長派は流浪の身となってしまった。後に十市遠清・遠相父子も大和から脱出した。 その後は大和で度々ゲリラを仕掛けるがその度に敗北、復帰を果たせぬまま長享3年(1489年)7月22日、京都で死去。享年39。 しゆんそん Category:戦国武将 Category:大和国の人物 Category:1451年生 Category:1489年没.

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筒井順永

筒井 順永(つつい じゅんえい、 応永26年(1419年) - 文明8年4月5日(1476年5月7日)は、室町時代後期の武将。大和の国人筒井氏当主で、興福寺衆徒でもある。筒井順覚の末子。順弘、成身院光宣、尊覚、実憲らの弟。子に順尊、成身院順盛、箸尾為国室。舜良坊。 嘉吉元年(1441年)、長兄の順弘と次兄の光宣が摂津河上五ヶ関代官職を巡って争い、順弘が敗れて行方をくらますと、相国寺僧侶だった順永は還俗、筒井氏当主となった。初め光宣は納得しなかったが、後に和睦して共に順弘と対峙した。以降、順永は光宣と行動を共にするようになる。 嘉吉3年(1443年)に順弘が越智家栄の力を借りて筒井城に復帰するも殺害され、代わって大乗院門跡経覚が五ヶ関を直接支配下に置こうと古市胤仙、豊田頼英、小泉重弘らが光宣・順永兄弟を打ち破り、筒井城に追い込んだが文安2年(1445年)に光宣兄弟も反撃、経覚派の鬼薗山城を落として五ヶ関代官職を獲得、享徳3年(1454年)に両派は和解した。 河内守護畠山氏のお家騒動では弥三郎を支持した為、康正元年(1455年)に弥三郎に勝利した畠山義就に攻められ、領地は没収されたが、長禄3年(1459年)に管領細川勝元によって幕府から赦免された。これを機に順永は小泉館で小泉今力丸と小泉重栄を討ち取り、領土を取り戻した。翌年、義就が将軍足利義政によって家督を弥三郎の弟・政長に替えられると順永は政長に従い義就追討軍に参加(嶽山城の戦い)、応仁の乱で引き続き大和で義就方の越智家栄・古市胤栄らと戦ったが文明8年(1476年)に死去、享年58。 死後、嫡男の順尊が後を継いだが、翌文明9年(1477年)に義就が河内を制圧すると大和も義就派が占拠、順尊は没落する事になる。 しゆんえい Category:室町時代の人物 Category:大和国の人物 Category:還俗した人物 Category:1419年生 Category:1476年没.

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管領

管領(かんれい)は、以下の役職・地位およびその座にあった者を指す名称。.

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箸尾為国

箸尾 為国(はしお ためくに、生没年不詳)は、室町時代後期から戦国時代前期にかけての武将。大和の国人。箸尾宗信の子。妻は筒井順永の娘。箸尾為時の父。幼名は藤徳丸。官位は上野介。 応仁の乱の直後に父が急死した為、後を継いで筒井氏と協力して越智家栄と戦った。 しかし文明7年(1475年)、筒井氏と共に万歳氏を攻撃したが、逆に大敗北となり、箸尾氏は深刻な被害を受けた。しかも文明9年(1477年)、畠山義就が畠山政長勢を破ると、大和でも義就方が攻勢に出て、為国・筒井順尊・十市遠清ら筒井党は総崩れとなった。以後、箸尾氏らは復帰の為の戦いを繰り広げたが、筒井方は劣勢であり、文明19年(1487年)、為国は越智氏方に降参した。以後、大和では越智党の優勢が続いた。 畠山義就が延徳2年(1490年)に死去すると、後を継いだ基家は明応2年(1493年)に将軍足利義稙を奉じた政長に攻め込まれるが、留守を突いた細川政元のクーデターによって敗れた政長は自害した(明応の政変)。同年、越智家栄は大和国衆を率いて上洛したが、為国はその中に入っていた。永正3年(1506年)の安位寺再建の奉加帳に名前が載っているが、以降の消息は不明。同族に筒井順慶に仕えた箸尾高春がいる。 Category:室町・安土桃山時代の武士 Category:大和国の人物 Category:生没年不詳.

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精華町

精華町(せいかちょう)は、京都府の南西端に位置する町。.

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細川勝久

細川 勝久(ほそかわ かつひさ)、は室町時代から戦国時代の武将、守護大名。備中守護。細川氏一門である備中守護家出身で細川氏久(うじひさ)の子。養子に義春(之勝)。官位は兵部少輔、後に兵部大輔。また上総介を称した。 応仁の乱では細川氏一門として本家の京兆家当主で管領・細川勝元の下で東軍として戦う。しかし後に勝元の子細川政元と対立するようになり、備中に在国し領国統制に苦闘することになる。 「勝」の字は勝元と同様、将軍・足利義勝から偏諱を賜ったものと思われ、この頃に元服を済ませたと考えられる(「久」は父・氏久から1字を取ったもの)。.

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細川勝之

細川 勝之(ほそかわ かつゆき、生没年不詳)は、室町時代の武士。細川氏一族の野州家出身で、応仁の乱において東軍の大将となった細川勝元の猶子。実父は細川教春(勝元の再従兄弟)で生母は不詳。弟に細川政春。子に湯浅宗正。諱(実名)の「勝之」は、養父・勝元と同じく将軍足利義勝から偏諱(「勝」の字)を賜って名乗ったものと思われる。.

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細川勝元

細川 勝元(ほそかわ かつもと)は、室町時代の武将・守護大名。第16、18、21代室町幕府管領。土佐・讃岐・丹波・摂津・伊予守護。第11代細川京兆家当主。父は第14代室町幕府管領、細川持之。政元の父。応仁の乱の東軍総大将として知られている。.

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細川勝益

細川 勝益(ほそかわ かつます、生年未詳 - 文亀2年6月4日(1502年7月8日))は、室町時代から戦国時代にかけての武将。細川遠州家当主および土佐守護代。細川頼種の子孫にあたる。通称は三郎。官位は治部少輔・遠江守。.

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細川四天王

細川四天王(ほそかわしてんのう)は、応仁の乱の際に室町幕府管領の細川勝元の家臣として畿内で活躍した4名の武将を顕彰して呼んだものである。.

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細川氏

細川氏(ほそかわし)は、本姓は源氏、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏の名門足利氏の支流。名字は鎌倉時代に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことに由来する。 南北朝時代に足利尊氏に従って発展し、嫡流は室町幕府の管領家に列する有力守護大名となる。また江戸時代には、傍流から肥後熊本藩54万石の藩主家を出した。.

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細川持之

細川 持之(ほそかわ もちゆき 1400年~1442年9月8日)は、室町時代の武将・守護大名。第14代室町幕府管領。摂津・丹波・讃岐・土佐守護。第10代細川京兆家当主。細川満元の次男で兄に持元、弟に持賢がいる。妻は京極高光の娘。嫡男に勝元、成賢(しげかた、持賢養子)。.

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細川成之

細川 成之(ほそかわ しげゆき)は、室町時代から戦国時代の武将、守護大名。室町幕府相伴衆、阿波・三河・讃岐守護。細川氏の一門で阿波細川家当主。細川教祐(のりすけ)の子で、伯父・細川持常の養嗣子。官位は兵部少輔、讃岐守。政之、義春の父。後に本家に当たる京兆家を継いだ細川澄元は孫に当たる。.

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細川成春

細川 成春(ほそかわ しげはる)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。淡路守護細川家の一族である。淡路守護の細川家は細川師氏を祖とする。.

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細川政元

細川 政元(ほそかわ まさもと)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、室町幕府守護大名であり、第24、26、27、28代管領。細川氏の第12代当主。丹波・摂津・土佐守護。足利将軍家の在職将軍10代義材を追放して11代義澄を擁立し、政権を掌握。事実上の最高権力者となり、「半将軍」とも呼ばれた。 室町幕府の三管領(足利一門の斯波、畠山、細川)である細川氏本家・京兆家の生まれ。父は応仁の乱時に東軍を率いた細川勝元。母は勝元の正室・山名熙貴の娘(養父は山名宗全)とされるが、根拠となる史料は無い。修験道に没頭して女性を近づけず独身を貫いたため実子はおらず、政元をもって細川家の嫡流は途絶え、養子に澄之、澄元、高国がいる。 将軍を挿げ替え(明応の政変)、管領として幕政を牛耳り(京兆専制)、比叡山焼き討ちを行ったり畿内周辺にも出兵するなど、細川京兆家の全盛期を築き当時日本での最大勢力に広げたが、3人の養子を迎えたことで家督争いが起こり、自らもその争いに巻き込まれる形で家臣に暗殺された(永正の錯乱)。応仁の乱の混乱以来、実力者政元の登場によって小康状態にあった京・畿内周辺は、その死と澄元・高国両派の争いによって再び長期混迷していくこととなる。.

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細川政国

細川 政国(ほそかわ まさくに)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。細川典厩家当主。細川持春の子。.

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細川政権 (戦国時代)

細川政権(ほそかわせいけん)は、明応2年(1493年)から天文18年(1549年)まで存在した日本の戦国時代における武家政権である。この時期に足利将軍の権威は弱体化していた室町幕府で、細川家宗家の京兆家当主が管領を独占して実権を握っており、足利将軍を推戴しつつも実質的に政権を担った。細川京兆家による専制であることから「京兆専制」とも呼称される。.

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紀伊国

紀伊国(きいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

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織田郷広

織田 郷広(織田 郷廣、おだ さとひろ、? - 宝徳3年(1451年))は、室町時代の武将、尾張守護代。父は織田教信『信長公記』の系図(または織田常松『清州町史』掲載の織田氏推定系図を父とする説もある)。兄弟に織田教長、織田常信、織田久長?、織田良信?。子は織田敏広、織田広近、織田広遠。「郷」の一字は斯波義郷から偏諱を賜ったもの推定される。 織田郷広の被官坂井七郎右衛門広道(号:性通)が公卿万里小路時房の代官と称して寺社領・本所領を横領。その後、郷広の推挙で時房はこの坂井を実際に代官としたが、横領行為を止めないため時房は管領細川持之に陳情した。嘉吉元年(1441年)、その責任を逃れるため、郷広は逐電した。嘉吉2年(1442年)、郷広の跡を受け、次代勘解由左衛門尉久広(弟。甥または嫡男とされる敏広と同一人物とも)が尾張守護代となる。郷広は守護代の再任をはかるため8代将軍足利義政の乳母・今参局に働きかけ、今参局の進言で義政より赦免の内諾を得る。しかし、甲斐常治の意を受けた義政の生母日野重子がこれに怒り、困惑した義政が赦免を反故にしたことにより断念した。幕府の後ろ盾を得ることを諦め、宝徳3年(1451年)、直接主家の斯波義健に許しを請うが受け入れられなかった。後に越前にて将軍・義政の上意を得た甲斐常治に派遣された久広らに殺害された。.

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織田氏

家紋あげはちょう'''揚羽蝶''' 織田氏(おだし)は、日本の氏族・武家。斯波氏の家臣の家柄。家紋は揚羽蝶、織田木瓜など。通し字は嫡流・伊勢守家の「広」、大和守家の「定」、後に近世大名となる弾正忠家の「信」など。.

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織田敏定

織田 敏定(おだ としさだ)は、戦国時代の武将。尾張下四郡の守護代。室町幕府の管領斯波氏の家臣。清洲織田氏(織田大和守家)の当主。清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」の織田信定(織田信長の祖父)の父とする系図もあるが仮冒の可能性も指摘されており、真偽は不明。.

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織田敏広

織田 敏広(おだ としひろ、織田敏廣)は、戦国時代の武将。室町幕府の管領斯波氏の家臣で尾張上四郡の守護代。織田伊勢守家(岩倉織田氏)の祖とされる。また、従兄弟の織田久広と同一人物という説がある。.

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美作国

美作国(みまさかのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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美濃国

美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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真宗高田派

真宗高田派(しんしゅうたかだは)は、三重県津市の専修寺を本山とする浄土真宗の一派。親鸞の門弟真仏、顕智が率いる下野国高田(現在の栃木県真岡市高田)の専修寺を中心とする高田門徒の流れを汲む。末寺数、約640寺。.

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経覚

経覚(きょうかく/ぎょうかく、応永2年(1395年)- 文明5年8月27日(1473年9月19日))は、室町時代の法相宗の僧侶。父は関白九条経教、母は浄土真宗本願寺(後の大谷家)の出身。母方の縁で後に本願寺8世となる蓮如を弟子として預かり、宗派の違いを越えて生涯にわたり師弟の関係を結んだ。興福寺別当である寺務大僧正を4度務めた事でも知られている。諡号は後五大院。.

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疫病

疫病とは、集団発生する伝染病・流行のこと。.

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甲斐常治

斐 常治(かい じょうち)は、室町時代中期の武将。常治は落飾後の法名で、諱は将久(ゆきひさ「将」の字は元々斯波義将の偏諱に由来するものであり、これを将教、将久父子が用いていた。義将には「よしゆき/よしまさ」の2通りの読みがあるので、後者にならって「将教(まさのり)」「将久(まさひさ)」という読みも考えられる。)、永享年間に常治と名乗る。官途は美濃守。父は甲斐将教(ゆきのり)、子に甲斐敏光。近江守の官途を持つ弟がいる(実名不詳)。応永27年(1420年)から斯波氏執事、越前・遠江守護代を務めた。.

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甲斐国

斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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甲斐氏

斐氏(かいし)は、日本の氏族の一つ。肥後の藤原北家菊池氏流と、越前の守護代甲斐氏の二流ほかが確認される。.

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甲斐敏光

斐 敏光(かい としみつ、生没年不詳)は、室町時代中期の武将である。越前・遠江守護代。甲斐将久(常治)の子、信久(のぶひさ)の父。通称は八郎。.

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町広光

広光(まち ひろみつ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿。町家3代当主。官位は正二位、権大納言。室町大納言と呼ばれる興福寺別当次第による。。.

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町衆

衆(まちしゅう/ちょうしゅう)とは、室町時代から戦国時代にかけての、特に土倉などの京都の裕福な商工業者である。応仁の乱後の京都復興においての重要な階層である。自治と団結を進め、文化を作った。主に法華経を信仰する。その本山が本能寺である。 平安時代の京童などを継承する概念で近世、江戸時代の町人へと継承される。 今日では「まちしゅう」と読まれることが多いが、『節要集』『日葡辞書』などの同時代史料によれば「ちょうしゅう」と発音されていたようである。.

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甘露寺親長

露寺 親長(かんろじ ちかなが)は、室町時代中期から戦国時代にかけての公家である。実務家公卿を輩出した藤原北家勧修寺流甘露寺家の当主。出家後は蓮空。一字名は鬼。官位は正二位・権大納言。.

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畠山義就

山 義就(はたけやま よしひろ/よしなり)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名である。河内・紀伊・山城・越中守護。足利氏(足利将軍家)の一門にて室町幕府の三管領家の1つである畠山氏出身。父は管領畠山持国、母は側室。幼名は次郎、初名は義夏(よしなつ)。子に修羅、義豊(基家)。猶子に政国。 家督相続を巡って、従兄弟の弥三郎政久・政長一派と対立、応仁の乱を引き起こす。.

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畠山義統

山 義統(はたけやま よしむね)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名。室町幕府相伴衆、能登守護。能登畠山氏の第3代当主。2代当主畠山義忠の嫡男畠山義有の嫡男。弟に政国。子に義元、慶致、義智。.

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畠山氏

山氏(はたけやまし/はたけやまうじ)は、武蔵国を本貫地とする武家の一族。主に桓武平氏系と清和源氏系の2家系があるが、両者は間接的な血縁関係である(後述)。読みには他に「はたやま」もある。 室町時代には畠山金吾家が大和宇智郡・河内・紀伊(管領就任時には山城も)などの畿内およびその周辺国に該当する重要な地域を守護として治め、また幕府の管領として国の政務を執った。しかし、家督争いにより、総州家と尾州家に分かれて、応仁の乱勃発の一因となり、その後も激しく争い続けた。 また、北陸の越中の守護も兼ね、分家は能登の守護を代々世襲する。著名な末裔として実業家の畠山一清がいる。.

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畠山持富

山 持富(はたけやま もちとみ、生年不詳 - 宝徳4年(1452年))は、室町時代後期の武将。河内畠山家当主・畠山満家の三男。異母兄に持国、同母兄に持永。子に弥三郎(政久)、政長がいる。幼名は弥三郎。官位は尾張守。.

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畠山持国

山 持国(はたけやま もちくに)は、室町時代の守護大名。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・山城守護。足利氏一門の畠山氏出身。畠山満家の嫡男。義就の父。 危機的状況を脱して管領に就任、勢力拡大を目指すも晩年にお家騒動を発生させ、畠山氏衰退の元を生み出してしまった。.

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畠山政久

山 政久(はたけやま まさひさ、生年不詳 - 長禄3年(1459年)9月)は、室町時代後期の人物。本姓は源氏。畠山持富の長男。弟に政長。従兄に義就。通称は弥三郎。別名、義富(よしとみ)。実名に関しては諸説あるため、畠山 弥三郎(はたけやま やさぶろう)の名で呼ばれることが多い。.

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畠山政国 (総州家)

山 政国(はたけやま まさくに、生年不詳 - 文明2年10月5日(1470年11月6日))は、室町時代の武将。能登畠山氏の出身で能登守護畠山義有の子(畠山義忠の孫で畠山義統の弟にあたる)。畠山総州家・畠山義就の猶子。通称は次郎。室町幕府第8代将軍足利義政より偏諱を受けて政国(旧字体:政國)と名乗る。.

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畠山政長

山 政長(はたけやま まさなが)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将・守護大名。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・山城守護。足利氏の一門畠山氏出身。畠山持富の次男で政久(弥三郎)の弟。妻は京極持清の娘。子に尚順(尚長)。お家騒動で従兄の畠山義就と争い、応仁の乱を引き起こした。.

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畿内

畿内(きない、きだい、うちつくに)とは、.

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益田兼堯

兼堯(ますだ かねたか)は石見の国人領主。益田氏当主で第15代七尾城(益田城)城主。.

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相国寺の戦い

国寺の戦い(しょうこくじのたたかい)は、応仁元年(1467年)10月3日から4日にかけて現在の京都府京都市上京区で起こった戦い。応仁の乱中で最も激しかった戦闘とされていて、この戦いの後両軍は京都での戦闘は控え、代わりに戦場を山城周辺に移していった。.

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相良為続

良 為続(さがら ためつぐ、文安4年(1447年)- 明応9年6月4日(1500年6月30日))は、相良氏の第12代当主。第11代当主・相良長続の3男。母は犬童兼長の娘。官位は従五位下・左衛門尉。通称は次郎三郎。初名は頼元、後に肥後守護菊池為邦と長続からそれぞれ偏諱を受け、為続と改名した。.

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相良正任

良 正任(さがら ただとう)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。周防・長門国の守護大名大内氏家臣。肥後国の国人領主相良氏一門、多良木相良氏(上相良氏)の一族とされる。.

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花の乱

『花の乱』(はなのらん)は、1994年4月3日から同年12月11日にかけて放送された33作目のNHK大河ドラマ。放送回数は全37話。.

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花の御所

花の御所(はなのごしょ)は、現在の京都府京都市上京区にあった足利将軍家の邸宅の通称()であり、敷地は東側を烏丸通、南側を今出川通、西側を室町通、北側を上立売通に囲まれた東西一町南北二町を占めた。京都御所()がある京都御苑の北西、烏丸今出川交差点を挟んで斜め向かいの一角に位置した。.

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鎌倉市

鎌倉大仏(高徳院) 建長寺 鎌倉宮(大塔宮) 荏柄天神社 鎌倉市(かまくらし)は、神奈川県、三浦半島西側の付け根に位置し、鎌倉を中心部とする市である。.

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鎌倉府

明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉府管轄国 浄妙寺〈鎌倉市〉) 鎌倉府(かまくらふ)は、室町時代(南北朝時代)に、室町幕府が関東10か国を統治するために設置した機関である。長官の鎌倉公方は足利基氏とその子孫、それを補佐する関東管領は上杉氏が世襲した。.

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鎌倉公方

明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉公方管轄国 新編鎌倉志-関東公方屋敷図 鎌倉公方(かまくらくぼう)とは、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東十か国を統治するために設置した鎌倉府の長官。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称するが、この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれた呼称となる。関東十か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐。 鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となった。 ※鎌倉公方は歴史学用語及び鎌倉公方の自称であって当時の一般呼称ではない。当時の一般呼称は“鎌倉御所”か“鎌倉殿”である。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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遊佐就家

遊佐 就家(ゆさ ひろいえ/なりいえ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。総州畠山氏の家臣。河内国守護代。.

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遊佐長直

遊佐 長直(ゆさ ながなお)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。尾州畠山氏の家臣。河内国守護代。.

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遊佐氏

遊佐氏(ゆさし)は、日本の氏族。南北朝時代に三管領と呼ばれた畠山氏に仕え、子孫は河内国、能登国、越中国の守護代を務めた。.

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遠江国

遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。.

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荘園

荘園(しょうえん)は、公的支配を受けない(あるいは公的支配を極力制限した)一定規模以上の私的所有・経営の土地である。なお、中世の西ヨーロッパ・中央ヨーロッパに見られたmanor(英語)、Grundherrschaft(ドイツ語)の訳語としても用いられている。.

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菊池重朝

菊池 重朝(きくち しげとも、宝徳元年(1449年)- 明応2年10月29日(1493年12月7日))は、菊池氏の第21代当主。第20代当主・菊池為邦の嫡男。子に菊池武運(のち能運)、米良重房。官位は従四位下。肥後守。幼名は藤菊丸。通称は十郎。菊池氏隆盛期時の当主・武重より一字取って重朝を称す。この偏諱は、一族の菊池重安(政隆の父)とその弟重順、重基父子や宇土重光(為光の子)も賜っている。 一説によれば、父・為邦は晩年、次男(重朝の実弟)である武邦に豊福城を奪われており、為邦の子である重朝が武邦から奪還したとされている。このように父の代から菊池氏の衰退が始まる中、1466年に家督を継いで当主となる。翌年から始まる応仁の乱では東軍に与したが、それは表面上のことであり、実際は筑後国などへの勢力拡大を目論み、応仁の乱の勢力争いとは別に自領の拡大を図るが、結局は失敗に終わる。その後は寺社勢力の統制に力を注ぐ一方で、桂庵玄樹を招聘して学問の普及などに努めた。連歌の才にも優れ、肥後の豪族を招いては連歌会を開催した。1493年10月29日、45歳で死去し、後を嫡男・武運(たけゆき)が継いだ。法名は竜雲院梅屋祥英。墓地は玉祥寺。 大正6年(1917年)11月10日、従三位を贈られた。.

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菊池氏

菊池氏(きくち し)は、日本の氏族の一つ。本姓を藤原氏とし、九州の肥後国菊池郡(熊本県菊池市)を本拠としていた一族である。明治維新の立役者(維新の十傑の一人)西郷隆盛も菊池一族の末裔と伝わる。.

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青空文庫

青空文庫(あおぞらぶんこ)は、著作権が消滅した作品や著者が許諾した作品のテキストを公開しているインターネット上の電子図書館である。富田倫生、野口英司、八巻美恵、らんむろ・さてぃの4人が呼びかけ人となって発足した。日本で著作権切れ作品をオンライン公開する動きの先駆者。2017年の年間アクセス数の合計は920万件以上。 収録作品はボランティアの手によりJIS X 0208漢字の範囲で青空文庫形式テキストファイルやHTMLとして電子化されている。また、「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に従い自由に利用出来るため、その収録作品はパーソナルコンピュータのみならずPDAや携帯電話などの環境でも利用されている。テキストファイルである事から、大きな文字で印刷したり、テキストを読み上げるソフトウェアと組み合わせるなど、視覚障害者向けとしても利用が期待されている。 青空文庫として閲覧ソフトウェアを開発したり提供したりはしていないが、電子辞書やiPhoneアプリなどで専用ビューアーがサードパーティによって開発されている。.

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静岡県

静岡県(しずおかけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は静岡市。中部地方及び東海地方に含まれる。2017年(平成29年)現在、県の人口は約367万人であり都道府県別で第10位である。.

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行願寺

行願寺(ぎょうがんじ)は、京都府京都市中京区にある天台宗の寺院。山号は霊麀山。本尊は千手観音。通称革堂(こうどう)。西国三十三所第十九番札所である。.

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飯尾為数

飯尾 為数(いいのお ためかず、?-応仁元年6月11日(1467年7月12日))は、室町時代後期の室町幕府幕臣。飯尾為種の長男。之種の兄。子に為脩(新左衛門尉)・為修(三郎左衛門尉)。下総守と称する。 弟の之種(文明5年(1473年)に51歳で没)の生年より、応永30年(1423年)以前生まれと推定される。嘉吉3年(1443年)12月、父・為種が公人奉行に任じられているにも関わらず、彼も御前奉行に任ぜられ、「父子相並奉行之条、依器量被仰出歟、眉目之至」と評された。宝徳2年(1450年)12月に政所執事代に任ぜられ、康正元年(1455年)頃に家督を継承、父が没した翌年にあたる長禄2年(1458年)7月には「諸奉行頭」の異名を持つ公人奉行に任じられるが、翌長禄3年(1459年)には「山名相州(教之)之訴訟」により出仕を止められて、家督を弟の之種に譲らされた。その後、寛正4年(1463年)に赦免されて公務に復帰するが、応仁の乱開始直後に東軍側の足利義視・細川勝元らに西軍への内通を疑われて殺害された。.

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西岡

西岡(にしおか)は地名。.

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西岡の戦い

西岡の戦い(にしおかのたたかい)は、応仁の乱における戦闘の1つで、文明元年(1469年)4月22日に現在の京都府乙訓郡西岡で東軍と西軍が衝突した。 山城西部の乙訓郡は丹波・摂津に近い地域であり、国人は2ヶ国守護の細川氏と深い繋がりを持っていた。この縁で応仁の乱では細川勝元が率いる東軍に味方して、野田泰忠ら国人衆は西岡を始めとする乙訓郡で上洛する西軍の軍勢と戦っていた。しかし、戦闘が京都から周辺地域に移ると西岡が狙われる状況になり、応仁2年から東西両軍が入り乱れて合戦を繰り返すようになった。 文明元年4月19日、谷の堂(京都市)を根拠とする西岡国人衆は鶏冠井城(向日市)に籠城する西軍を襲撃したが、僅か3日後の22日に畠山義就が出撃、谷の堂は落とされ西岡国人衆は丹波へ逃亡した。西岡を含む乙訓郡は西軍が制圧、義就は勝竜寺城で乙訓郡及び山城の支配に取り掛かった。6月16日に大内政弘も摂津へ向かい東軍の拠点を殆ど奪い取り、山城周辺は西軍に押さえられた。 西岡を失った野田泰忠らは奪還のため山名是豊を山崎に迎え入れ、勝竜寺城の義就と交戦を続けたが、文明2年(1470年)12月に是豊が領国備後へ下向してからは大きな合戦がないまま小競り合いとなり、終戦まで乙訓郡は義就の占領下にあった。また、大内軍も文明2年7月に南山城へ遠征、山城と大和の境界付近にある木津を巡り両軍が攻防戦を繰り広げていった。.

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西陣南帝

西陣南帝(にしじん なんてい/にしじん の なんてい、享徳3年(1454年)? - 没年不詳)は、後南朝最後の天皇。小倉宮を称していた。 諱は不明であり、この南朝皇胤がどのような系譜をたどるのかも定かではない。 第二次大戦後に現れた自称天皇の熊沢寛道は、この西陣南帝の子孫を自称している。熊沢によると、西陣南帝は「熊野宮信雅王」を名乗ったとされるが、これは定かではない。.

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西陣織

西陣織で作られた糸人形(北野天満宮) 西陣織(にしじんおり)とは、京都の先染め織物をまとめた呼び名である。 西陣とは、応仁の乱時に西軍(山名宗全側)が本陣を置いたことにちなむ京都の地名。 行政区域は特別にはないが、この織物に携る業者がいる地区は、京都市街の北西部、おおよそ、上京区、北区の、南は今出川通、北は北大路通、東は堀川通、西は千本通に囲まれたあたりに多い。応仁の乱を期に大きく発展したが、応仁の乱より昔の、5世紀末からこの伝統が伝えられている。 また、「西陣」と「西陣織」は「西陣織工業組合」の登録商標。.

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観音寺城

観音寺城(かんのんじじょう)は、滋賀県近江八幡市安土町にあった日本の城(山城)である。支城に和田山城、佐生城、箕作城、長光寺城などがある。城跡は国の史跡に指定されている。.

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駿河国

駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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誠文堂新光社

株式会社誠文堂新光社(せいぶんどうしんこうしゃ)は、東京都文京区に本社を置く日本の出版社である。.

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骨皮道賢

道賢(ほねかわ どうけん、生年不詳 - 応仁2年3月21日(1468年4月13日))は、室町時代の傭兵、足軽大将。.

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高尾城 (加賀国)

尾城(たこじょう/たこうじょう)は、石川県金沢市に存在した日本の城。 高尾城が築かれている高尾山一帯は、「ジョウヤマ」と呼ばれ付近住民から親しまれていた。.

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高山城 (安芸国)

山城(たかやまじょう)は、現在の広島県三原市本郷町にあった日本の城である。城跡は国の史跡に指定されている。.

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講談社学術文庫

講談社学術文庫(こうだんしゃがくじゅつぶんこ)は、講談社刊の文庫判・学術書レーベル、1976年(昭和51年)に発足。シンボルマークは、古代エジプトで知識や学問の象徴とされていた「トキ」(アフリカクロトキ)の姿をした神トートである。 単行判・選書新書の(改訂・改題も含む)再刊、古典新訳のみならず、文庫書き下ろしでの出版も多い。約40年間で2000冊代を刊行、重版多数の書目がある一方で、初版のみで品切絶版となった書目も多い。 2011年(平成23年)より、電子書籍版を購入できるiOS用のアプリケーション「選書メチエ&学術文庫」をApp Storeを配信している。.

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豊後国

豊後国(ぶんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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豊前国

豊前国(ぶぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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賊軍

賊軍(ぞくぐん)とは、「官軍」の対語で、日本史上その軍の正当性を否定する言葉。天皇(朝廷)の意思にそぐわないとされた側の軍(反乱軍)のこと。朝敵とほぼ同じ意味だが、多く幕末・明治維新以後に用いられた。 明治政府成立後は、反政府軍の事を意味するようになった。.

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越後国

越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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越前市

越前市(えちぜんし)は、福井県嶺北地方の中南部に位置する市。.

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越前国

越前国(えちぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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越智家栄

越智 家栄(おち いえひで)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将。大和の国人越智氏当主。大和高取城主。越智維通(家経?)の子。子に家令、娘(古市澄胤室)。幼名は春童丸。官位は弾正忠、伊賀守、修理大夫、刑部少輔。.

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足利義尚

足利 義尚(あしかが よしひさ)は、室町時代後期の室町幕府第9代将軍(在職:文明5年(1473年) - 1489年)。 『尊卑分脈』や『足利家官位記』により、晩年に足利義煕(- よしひろ)と改名したことが確認できるが、一般的には義尚の名で知られる。応仁の乱では、叔父の足利義視と将軍職をめぐる対立候補として擁立された。乱後は衰退した幕府権力を回復すべく、六角征伐などの積極的な幕政改革を行なったが、在陣していた近江国の陣中にて病死した。.

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足利義勝

足利 義勝(あしかが よしかつ)は、室町時代中期の室町幕府第7代将軍(在任:1442年 - 1443年)。幼名は千也茶丸(せんやちゃまる)。6代将軍足利義教の嫡男で庶子。.

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足利義稙

足利 義稙(あしかが よしたね)は、室町幕府第10代将軍。父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた足利義視。母は裏松重政の娘(日野富子の妹に当たる人物であるが名は伝わらない)。 初名は義材(よしき)。将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)、将軍職復帰後の永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名している。 将軍在職は2つの時期に分かれており、1度目は延徳2年7月5日(1490年7月22日)から明応3年12月27日(1495年1月23日)まで在職した後、約13年半の逃亡生活を送る。2度目は永正5年7月1日(1508年7月28日)から大永元年12月25日(1522年1月22日)まで在職した。.

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足利義視

足利 義視(あしかが よしみ)は、室町時代中期から後期にかけての人物・武将。室町幕府6代将軍足利義教の子で、異母兄に7代将軍義勝と8代将軍義政、堀越公方足利政知(実際は次兄にあたる)がいる。子に10代将軍・足利義稙(初め義材・義尹)などがいる。.

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足利義持

足利 義持(あしかが よしもち)は、室町幕府第4代将軍(在任:応永元年(1394年) - 応永30年(1423年))。父は3代将軍・足利義満。母は安芸法眼の娘で側室の藤原慶子。 父の死後、勢力を盛り返す守護大名の中にあって調整役として機敏に立ち回った将軍で、室町幕府の歴代将軍の中で比較的安定した政権を築き上げた。なお、義持の将軍在職28年は歴代室町将軍中最長の在任期間である。.

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足利義政

足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は足利 義成(- よししげ)。 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。.

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足利義教

足利 義教(あしかが よしのり、義)は、室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の五男。母は側室の藤原慶子で、第4代将軍・足利義持の同母弟。僧侶時代は義円(ぎえん、義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。.

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足利氏

足利氏(あしかがし)は、日本の武家のひとつの軍事貴族。本姓は源氏。家系は清和天皇清和源氏の一族の河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府においては御家人であると同時に将軍家一門たる御門葉の地位にあった。室町時代には嫡流が足利将軍家として天下人となった。藤原秀郷の子孫の藤原姓足利氏(藤姓足利氏)に対して源姓足利氏という場合がある。 通字は、「義」(よし、足利将軍家ほか)または「氏」(うじ、鎌倉時代の歴代当主および鎌倉公方・古河公方家など)。.

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足利成氏

足利 成氏(あしかが しげうじ)は、室町時代から戦国時代の武将。第5代鎌倉公方(1449年 - 1455年)、初代古河公方(1455年 - 1497年)。父は永享の乱で敗死した第4代鎌倉公方足利持氏。鎌倉公方就任時期は文安4年(1447年)とする説も有力。 父持氏と同様、鎌倉公方の補佐役である関東管領及び室町幕府と対立したが、持氏と異なり、約30年間の享徳の乱を最後まで戦い抜き、関東における戦国時代の幕を開ける役割を担った。.

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足利政知

足利 政知(あしかが まさとも)は、室町時代後期の武将。足利将軍家の一族で、初代堀越公方である。室町幕府6代将軍足利義教の次男で母は幕府奉公衆斎藤氏の娘少弁殿。7代将軍足利義勝の異母弟で8代将軍足利義政と足利義視の異母兄。11代将軍足利義澄の父であり、以後の将軍は政知の家系から続いた。 室町幕府公認の鎌倉公方として下向するが、享徳の乱による関東の混乱及び幕府権力の衰退と上杉氏の内紛などで鎌倉に入れず、手前の伊豆の堀越に留まった。このため、堀越公方と称される。.

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足軽

蓑を身に着け、雨中を火縄銃の射撃姿勢をとる足軽 火縄銃の一斉射撃を行う足軽部隊 射撃姿勢をとる足軽 足軽行列のパフォーマンス 足軽(あしがる)は、平安時代から江戸時代の日本に存在した歩兵の一種。.

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足軽大将

足軽大将(あしがるたいしょう)とは、日本の戦国時代に、戦国大名のもとで足軽隊を率いた部将及びその職のことをいう。足軽頭(あしがるがしら)ともいう。また、江戸時代には物頭(ものがしら)と称した藩もある。 応仁の乱以降、戦国時代にかけて合戦の集団戦化が進み、戦闘規模も大きくなった。訓練された槍・弓・鉄砲の足軽隊が組織され主力軍として活躍するようになった。足軽大将は配下である足軽小頭(足軽組頭)をはじめとする足軽を率いた。.

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軍記物

# 中世末期から近世初期にかけて、戦国武将や大名家の武勲・武功について記述した書物。本項で解説する。.

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軍記物語

軍記物語(ぐんきものがたり)とは、鎌倉時代から室町時代にかけて書かれた歴史上の合戦を題材とした文芸のこと。実際の史実を元にしているが、説話的な題材や虚構も交えられていることもある。語り物の題材にもされ、『平家物語』は琵琶法師によって広く伝えられた。軍記物、戦記物語ともいう。合戦などの歴史上の背景を探る史料ともなる。.

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近衛大将

近衛大将(このえ の だいしょう)は、日本の律令官制における令外官の一つ。宮中の警固などを司る左右の近衛府の長官。左近衛府には左近衛大将(さこんえのだいしょう)、右近衛府には右近衛大将(うこんえのだいしょう)が置かれ、それぞれ略して「左大将」「右大将」ともいう。定員は各1名で、権官はない。官位相当は従三位。常設武官の最高職で、馬御監の兼任とされた。和訓は「ちかきまもりのつかさのかみ」。.

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近江国

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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茨木城

茨木城(いばらきじょう)は大阪府茨木市にあった日本の城である。現在の城跡は宅地化され、茨木神社に移築されたと言われている搦手門と茨木小学校に復元された櫓門がある程度で、城をしのばせるものはほとんど残っていない。.

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蜷川親元

蜷川 親元(にながわ ちかもと、永享5年(1433年) - 長享2年5月25日(1488年7月4日))は、室町時代の幕府官僚・歌人。足利義政・足利義尚将軍期の政所代。蜷川新右衛門親当(智蘊)の子で、法名は道寿、号は不白。また、蜷川氏当主は代々「新右衛門尉(しんえもんのじょう)」を名乗っている。子に親孝。 政所執事伊勢貞親・貞宗に仕える。文明5年(1473年)8月に政所執事代に就任し、将軍家の家産を司った。能書家として知られ、武家故実にも通じていた。日記に『親元日記』がある。 ちかもと Category:室町・安土桃山時代の歌人 Category:日本の能書家 Category:1433年生 Category:1488年没.

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能登国

能登国(のとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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鈴木良一 (歴史学者)

鈴木 良一(すずき りょういち、1909年9月12日 - 2001年4月)は、日本の歴史学者。専攻は中世史。土一揆・国一揆の研究で先駆的業績をあげる。.

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船岡山

船岡山(ふなおかやま)は、京都府京都市北区に所在する山。.

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船田合戦

船田合戦(ふなだがっせん)は、戦国時代前期に発生した、美濃守護土岐成頼の後継者を巡る斎藤妙純と石丸利光の合戦。近隣の近江・越前・尾張も巻き込んでの争乱となった。.

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興福寺

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。.

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阿部猛

阿部 猛(あべ たけし、1928年8月15日-2016年5月27日 )は、日本の歴史学者、元・東京学芸大学学長。.

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阿蘇惟歳

阿蘇 惟歳(あそ これとし)は、室町時代の武将。阿蘇氏14代当主。南朝系阿蘇大宮司3代目。.

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阿野家

阿野家(あのけ)は、羽林家の家格を有する公家。藤原北家閑院流・滋野井庶流。 家業は神楽・有職故実。家紋は唐花。近衛家の家礼。江戸時代の家禄は478石。(旧家、外様)明治維新後は子爵。 阿野の家名は草創期における武家との相続関係に由来しており、源義朝の七男で義経の同母兄である今若丸が駿河国駿東郡阿野荘(静岡県沼津市西部)を領し、その地名を苗字の地として阿野全成と称したことがもともとの始まりである。.

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赤松氏

赤松氏(あかまつし)は、日本の氏族の1つ。鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した武家である。.

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赤松満祐

赤松 満祐(あかまつ みつすけ/まんゆう)は、室町時代中期の武将、守護大名である。室町幕府侍所頭人、播磨・備前・美作守護。赤松義則の嫡男。兄弟に義雅、祐尚(祐之)、則繁など。従兄弟に有馬持家、満政。子に教康。生年は文中2年/応安6年(1373年)説もある。.

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赤松政則

赤松 政則(あかまつ まさのり)は、室町時代後期の武将・大名。加賀半国・播磨・美作・備前の守護大名・戦国大名。赤松家の第9代当主(当主在職:長禄2年(1458年)9月 - 明応5年4月25日(1496年6月6日))。 嘉吉の乱で滅亡した赤松家を再興した中興の英主で、管領の細川家に接近して中央政界での影響力を高めて従三位まで登り詰めた。一方で赤松家の戦国大名化も務め、1代で赤松家の全盛期を築き上げた。.

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関白

関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.

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関東地方

関東地方(かんとうちほう)は、日本の地域区分のひとつであり、本州の東部に位置している。その範囲について法律上の明確な定義はないが、一般的には茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県の1都6県を指して関東地方と呼ぶ『日本地名大百科』p.350。。 首都・東京を擁する関東地方は日本の政治・経済の中心となっており、日本の総人口の3分の1が集中している。 首都圏整備法が定義する「首都圏」には、関東地方に山梨県を加えた1都7県が含まれる。また、「関東地方知事会」には、首都圏1都7県に加えて、中部圏知事会議にも加わっている静岡県、長野県の両県知事がオブザーバー参加している。関東地方は人口・面積が多数・広大なので、利根川を境界線に北を北関東(茨城県・栃木県・群馬県)地方、南を南関東地方(埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県)に分割することもある。.

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関東管領

関東管領(かんとうかんれい)は、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名である。鎌倉公方の下部組織でありながら、任免権等は将軍にあった。当初は関東執事(かんとうしつじ)と言っていた。上杉氏が世襲した。.

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葉室家

葉室家(はむろけ)は、名家の家格を有する公家。藤原北家勧修寺流の支流。藤原高藤の後裔で、参議藤原為房の二男・顕隆を家祖とする。家名は、3代光頼が洛西葉室(京都市西京区山田)に営んだ別業に因む。分家に姉小路家などがある。.

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葉室光忠

葉室 光忠(はむろ みつただ)は、室町時代後期の公卿。権大納言葉室教忠の子にして、母は葉室頼時の女。室町将軍足利義材の側近公家衆として権勢を振るったが、明応の政変に敗れて細川政元の命により殺害された。.

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蒲生貞秀

蒲生 貞秀(がもう さだひで)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将・歌人。.

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蓮如

蓮如(れんにょ)は、室町時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首。大谷本願寺住職。諱は兼壽。院号は信證院。法印権大僧都。本願寺中興の祖。同宗旨では、「蓮如上人」と尊称される。明治15年(1882年)に、明治天皇より慧燈大師の諡号を追贈されている。しばしば本願寺蓮如と呼ばれる。文献によっては「如」と辶 」(二点之繞)で表記される場合がある。真宗大谷派では「如」と表記するのが正式である 。父は第7世存如。広橋兼郷の猶子。第9世実如は5男。 親鸞の嫡流とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎなかった。他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺教団の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いたことから、「本願寺中興の祖」と呼ばれる。.

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長宗我部文兼

長宗我部 文兼(ちょうそかべ ふみかね、生没年不詳)は、室町時代の武将。.

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長享

長享(ちょうきょう)は、日本の元号の一つ。文明の後、延徳の前。1487年から1488年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義尚。.

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長享・延徳の乱

長享・延徳の乱(ちょうきょう・えんとくのらん)とは、室町時代後期の長享元年(1487年)と延徳3年(1491年)の2度に亘って室町幕府が行った近江守護・六角行高(後の六角高頼)に対する親征で、六角征伐とも称される。なお、1度目の出陣は近江国栗太郡鈎(まがり)(滋賀県栗東市)に在陣したため、別に鈎の陣とも称される。.

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長禄

長禄(ちょうろく)は、日本の元号の一つ。康正の後、寛正の前。1457年から1461年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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長禄の変

長禄の変(ちょうろくのへん)は、室町時代の長禄元年12月2日(1457年12月18日)に赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮を襲い、南朝の皇胤である自天王と忠義王(後南朝の征夷大将軍)の兄弟を討って、神璽を持ち去った事件。.

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長禄合戦

長禄合戦(ちょうろくかっせん)とは、長禄2年(1458年)7月頃から長禄3年(1459年)8月11日までの間、越前を舞台として勃発した越前守護斯波義敏と越前守護代甲斐常治の間に勃発した合戦群の総称。.

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長野藤継

長野 藤継(ながの ふじつぐ)は、室町時代後期の武将。長野工藤氏11代当主。.

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長江氏

長江氏(ながえし)とは、日本の氏族。.

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酒屋役

酒屋役(さかややく)とは、室町幕府によって京都を中心とする酒屋に課された課税のこと。 鎌倉時代中期から酒屋が商業として登場するが、鎌倉幕府によって禁じられていた。しかし、京都では酒屋は延暦寺などの有力寺社の影響下にあり、また朝廷でも壷銭などの形で臨時の課税を行う代わりに営業を認める方針を採った。後醍醐天皇の元亨2年(1322年)以後、壷銭を通常の課税とする議論は度々行われてきたが、延暦寺などの反対もあり漸く南北朝時代に入って以後、造酒正によって徴税が行われるようになったが、延暦寺などの支援を受けて課税忌避を図る酒屋もあり対立が続いた。 室町幕府は主に御料所などからの収入で財政を維持してきたが、全国的な内乱のために年貢輸送が途絶えたり、あるいは南朝軍に占領されたり、自軍への恩賞に回されたりしてその範囲は小さくなる一方であった。そこで幕府も酒屋に対する課税に目をつけた。 これに対して造酒正も延暦寺なども激しく抵抗したが、足利義満のもとで強力な軍事力を保っていた幕府の圧力に屈し、明徳4年(1393年)には「洛中辺土散在土倉并酒屋役条々」という5ヶ条からなる法令を出した。これによって延暦寺などの有力権門の権益は否定され、造酒正による課税も最低限に制限された。その代わりに酒屋と土倉が年間6,000貫を幕府に納める代わりに原則的にはその他の課税を免除した。酒壷10壷以上の酒屋が対象になったと考えられ、諸記録から酒壷毎に100文が課されたと推定されている。この他に大きな行事や造営の際には臨時の課税が存在した。当初は幕府が直接徴収していたものの、後には有力酒屋を納銭方に任じて数十軒単位ごとに酒屋役を徴収させた。また、室町時代後期以後に「請酒」と呼ばれる小売専門の酒屋や地方からの名酒の流入もあったが、幕府はこれらに対しても課税を行った。応仁の乱後、収入は低迷したものの室町幕府末期まで継続され、変遷を経つつも同様の税制が織田政権以後も継続された。 Category:中世の税制 Category:室町幕府.

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若狭国

若狭国(わかさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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若江城

若江城(わかえじょう)は南北朝時代(1382年)から安土桃山時代(1583年)の約200年間にわたって河内国若江郡(現在の大阪府東大阪市若江南町)に所在した日本の城(平城)。畠山氏の河内経営の拠点で、河内国の経営を担当した守護代遊佐氏が歴代城主となった。.

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若江城の戦い (室町時代)

若江城の戦い(わかえじょうのたたかい)は、応仁の乱における戦闘の1つで、文明9年(1477年)10月9日に河内若江郡(現在の大阪府東大阪市若江南町)にあった若江城で東軍と西軍が衝突した。.

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雪舟

雪舟自画像(模本) 重要文化財 藤田美術館雪舟(せっしゅう、応永27年(1420年) - 永正3年8月8日(諸説あり)(1506年))は、室町時代に活躍した水墨画家・禅僧。「雪舟」は号で、諱は「等楊(とうよう)」と称した。 備中国に生まれ、京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護のもと周防国に移る。その後、遣明船に同乗して中国(明)に渡り、李在より中国の画法を学んだ。 現存する作品の大部分は中国風の水墨山水画であるが、肖像画の作例もあり、花鳥画もよくしたと伝える。宋・元の古典や明代の浙派の画風を吸収しつつ、各地を旅して写生に努め、中国画の直模から脱した日本独自の水墨画風を確立した点での功績が大きい。後の日本画壇へ与えた影響は大きい。 現存する作品のうち6点が国宝に指定されており、日本の絵画史において別格の高評価を受けているといえる。このほか、花鳥図屏風など「伝雪舟筆」とされる作品は多く、真筆であるか否か、専門家の間でも意見の分かれる作品も多い。代表作は、「四季山水図(山水長巻)」「秋冬山水図」「天橋立図」「破墨山水図」「慧可断臂図」など。弟子に周徳、等悦、秋月、宗淵、等春らがいる。.

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逸見繁経

逸見 繁経(へんみ しげつね、生年不詳 - 文明2年7月19日(1470年8月15日))は、室町時代の武将。若狭の守護若狭武田氏被官逸見氏の一族。逸見真正の子とも弟ともいわれる。弾正忠と称す。.

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院宣

院宣(いんぜん)とは、上皇からの命令を受けた院司が、奉書形式で発給する文書。天皇の発する宣旨に相当する。院庁下文よりも私的な形式。 『法曹至要抄』によれば、養老律詐偽律の解釈を巡る明法家の先例の学説として「太上天皇宣」の偽造は詔書と同一の罪に当たるとする説を挙げており早くから知られていた可能性があるが、院宣に関する記録の初見は延長7年(927年)の宇多上皇が伊勢神宮に宣旨を下されたことを受けて神宮側がその指示を神郡に向けて発した「延長七年大神宮勘注」(『大日本史料』一之六)である。院宣の重要度は、天皇の宣旨と同等、またはそれ以上とされていた。平安時代後期に院政が始まると、治天の君(院政を行う上皇)は、院宣や院庁下文を発給することで、自らの政治意思を明示・具現化していった。 院庁下文が、詔勅や太政官符などの政府として最終決定意思を表示する文書と、同等の効力が認められていたのに対し、院宣は形式の面でも効力の面でも、簡易なものとして発給されていた。すなわち、政府の重要事項については院庁下文で対応し、より即効的または柔軟な対応が必要なときは院宣を発給していたのである。.

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陶弘護

陶 弘護(すえ ひろもり)は、室町時代の武将で大内氏重臣。.

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陸奥国

奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.

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暗殺

リンカーン大統領の暗殺を描いた絵画(米国) ガンディー・暗殺されたインドの政治家 金玉均・暗殺された李氏朝鮮の政治家 ジョン・レノン・イングランド出身の音楽家、銃弾を受け死去 坂本龍馬・幕末の英雄、盟友の中岡と共に死去 暗殺(あんさつ)は、主に政治的、宗教的または実利的な理由により、要人殺害を密かに計画・立案し、不意打ちを狙って実行する殺人行為(謀殺)のこと。 見せしめや弾圧、粛清の一種としても存在する。.

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恩赦法

恩赦法(おんしゃほう)は、恩赦について定めた日本の法律である。.

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東寺

東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある東寺真言宗の仏教寺院。東寺は真言宗の根本道場であり、東寺真言宗の見解では、真言宗全体の総本山としている。「教王護国寺」(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる(名称については「寺号」の節を参照)。山号は八幡山。本尊は薬師如来。寺紋は雲形紋(東寺雲)。 東寺は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。昭和9年(1934年)に国の史跡に指定、平成6年(1994年)12月には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。.

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東岩倉の戦い

東岩倉の戦い(ひがしいわくらのたたかい)は、応仁の乱における戦闘の1つで、応仁元年(1467年)9月1日から2日にかけて現在の京都府京都市東山区粟田口大日町 東岩倉山で東軍と西軍が衝突した。 5月26日から27日にかけての上京の戦いで東軍は花の御所を確保して官軍としての立場を取り、西軍は追討令を受ける側に追いやられたが、7月20日、西軍総大将山名宗全の招聘に応じた大内政弘が摂津の兵庫に上陸、8月23日に上洛して西軍の士気を高めた。一方の東軍は総大将だった足利義視が出奔したり、後花園上皇・後土御門天皇が内裏から花の御所に避難するなど危機感を募らせていった。戦況が有利になった西軍は攻勢に出て9月1日に畠山義就が武田信賢の守る三宝院を放火して落とし、6日の将軍足利義政からの停戦勧告にも耳を貸さず13日に内裏を占拠した。 翌14日には、東軍の筆頭格である細川勝元の家臣秋庭元明と赤松政則の家臣浦上則宗が上洛した。両者は8月中に勝元の命令を受けて摂津で大内軍の上洛を防ごうとして果たせず、大内軍の後を追って入京したのだが、下京がほとんど西軍に占拠されていた状況で正面突入を諦め、東寺を経由して東へ迂回、16日に京都郊外の東岩倉・南禅寺の裏山に布陣した所で西軍に察知され、18日から西軍の南禅寺山攻撃が始まった。東軍は激しく抵抗、10月2日に西軍は攻撃を中止して京都へ戻り、東軍はその隙に北から迂回して入京、御霊神社を通り東軍本陣へ辿り着いた。この戦いで南禅寺・青蓮院が炎上した。 細川勝元と赤松政則はそれぞれの家臣と再会したことを喜んだが、西軍は三宝院と内裏の占拠などで下京を制圧、東軍は花の御所・相国寺・細川勝元邸など残る上京の拠点に追い詰められていった。西軍はさらに勢いに乗り、翌3日から上京に攻めかかった(相国寺の戦い)。.

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東常縁

東 常縁(とう つねより)は、室町時代中期から戦国時代初期の武将、歌人。美濃篠脇城主。官職が下野守だったため一般には東野州(とうやしゅう)と称される。生年については、応永12年(1405年)説、同14年(1407年)説もある。 東氏は千葉氏一族の武士の家柄であったが、先祖の東胤行は藤原為家の娘婿にあたり、藤原定家の血を受け継いでいる。.

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東条国氏

東条 国氏(とうじょう くにうじ、生年不詳 - 文明8年(1476年)9月)は室町時代の武将。三河守護細川成之の守護代を務めた。近江守。.

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東海地方

東海地方(とうかいちほう)は、本州中央部に位置し太平洋に面する地域である。愛知県、岐阜県、三重県、静岡県の4県、あるいは愛知県、岐阜県、三重県の3県を指す。区別のため前者を「東海4県」「静岡県を含む東海地方」、後者を「東海3県」「中京地方」などと表現することがある。後者の繋がりについては「東海3県」の項目を参照。 名称は、五畿七道の東海道に由来してこのように呼ばれている『日本地名大百科』、小学館、1996年、p.768 ISBN 4-09-523101-7。.

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松平信光

大樹寺(愛知県岡崎市)内にある松平八代墓の信光の墓 松平 信光(まつだいら のぶみつ/しんこう)は、室町時代中期から戦国時代初期頃の武将。三河松平氏の第3代当主で、岩津松平家の祖。妻は一色氏(一色満範あるいは一色宗義平野明夫 「信光の妻子」『三河松平一族』 新人物往来社、97 - 101頁。)の娘。 信光は、『朝野旧聞裒藁』や江戸期の系譜類は第2代当主・松平泰親の子とされるが、『松平氏由緒書』では初代当主・松平親氏の子であるとする。生母は賀茂氏の系統の松平信重の娘とする。当時の資料では源姓新田氏、あるいは賀茂朝臣を称していたことが知られる。.

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松田元成

松田 元成(まつだ もとなり)は、室町時代後期の武将。.

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桜井英治

桜井 英治(さくらい えいじ、1961年11月 - )は、日本の歴史学者、東京大学教授。専門は日本中世史・流通経済史。茨城県出身。.

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榊山潤

榊山 潤(さかきやま じゅん、1900年11月21日 - 1980年9月9日)は、日本の作家。神奈川県出身、本名は源蔵。歴史小説を得意とし、代表作に『歴史』『毛利元就』。囲碁にも関心が深く、関連する著作も多い。.

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正広

正広(しょうこう、1412年 - 1493年?)は、室町時代中期の僧・歌人。号は招月庵。法号ははじめ正晄・正晃と称した。日比(ひごろ)の正広とも称された。没年については1494年ともされる。 初め飛鳥井家のもとで歌道を学んだが、その後東福寺の清巌正徹の有心歌風に傾倒してその門弟になり、1459年(長禄3年)正徹がなくなると、招月庵を継いだ。応仁の乱(1466年-1476年)では難を避けるため京都を離れたが、師正徹の歌集である「草根集」の編纂や歌会の指導を行ったりしている。家集『松下集』があり、他に『正広詠歌』や文明5年(1473年)に駿河国に下った際の紀行文である『正広日記』等もある。 Category:室町・安土桃山時代の僧 Category:室町・安土桃山時代の歌人 Category:1412年生 Category:1493年没.

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正親町三条家

正親町三条家(おおぎまちさんじょう け、旧字体:–三條–)、現在の嵯峨家は、大臣家の家格をもつ公家。藤原北家閑院流 三条家庶流。左大臣三条実房の三男公氏を家祖とする。 実房の長男公房が継承した嫡流三条家(転法輪三条家)と区別するために公氏流を正親町三条と呼ぶようになったものだが、この家名が定着するのは7代公豊の頃だと考えられている。「正親町」は邸宅が正親町東洞院に面していたことに由来する。なお家祖の公氏はこの正親町三条のほかにも、嵯峨(さが)や西郊(にしむら)を名乗ることもあった。このことを先例として、明治時代になると漢字5文字の長い家名が至便性に劣ることを痛感した28代実愛は、以後その家名を嵯峨家(さが け)と改めている。墓所は二尊院(京都市右京区)。 5代公秀の孫に崇光天皇と後光厳天皇、25代実同・26代公則の子孫に大正天皇がおり、現皇室に繋がる系譜である。.

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正親町三条公治

正親町三条 公治(おおぎまちさんじょう きんはる)は、室町時代から戦国時代の公卿。正親町三条家当主。 正親町三条実雅の子。叔母(実雅の妹)の尹子(ただこ)は室町幕府第6代将軍足利義教の正室となるなど、足利将軍家とのつながりが深く、義教が暗殺された嘉吉の乱(1441年)では、同席していた実雅も太刀を抜いて応戦したが負傷している(幸い一命は取り留めた)。子である公治が生まれたのはちょうどこの年である。 文安3年(1446年)、幼年にして叙爵。侍従・甲斐権介・右近衛少将・右近衛中将・下野権介・蔵人頭を経て、長禄2年(1458年)には参議となり、公卿に列する。その後、越前権守・讃岐権守・権中納言を経て、文明13年(1481年)に権大納言となり、延徳元年(1489年)まで務めた。 きんはる Category:室町・安土桃山時代の公家 Category:1441年生 Category:1495年没.

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武田信賢

武田 信賢(たけだ のぶかた)は、室町時代の武将、守護大名。若狭・丹後守護、安芸佐東郡・安南郡・山県郡守護。若狭武田氏第2代当主。安芸武田氏の武田信繁の次男。兄に信栄、弟に国信、元綱。家系には異説がある。.

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武田元綱

武田 元綱(たけだ もとつな)は、室町時代から戦国時代の武将。安芸武田氏当主武田信繁の四男で、信栄、信賢、国信の弟。元繁の父。安芸佐東銀山城主。.

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武田国信

武田国信(たけだ くにのぶ).

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武田氏

武田氏(たけだし)は、平安時代末から戦国時代の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流・河内源氏の一門、源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家である。安芸国・若狭国に分派が存在し、上総国などにも庶流があったが、いずれも通字として「信」(のぶ)が使用されている。古代の国造である武田臣(皇別)の後裔が河内源氏義光流の棟梁と婚姻したという説も伝わっている。 河内源氏の名族の一つとして戦国時代には戦国大名化し、武田晴信(信玄)の頃には領国拡大し中央の織田・徳川勢力に対抗するが勝頼期には領国の動揺を招いて宗家は滅亡し、江戸時代には庶家だけがわずかに残った。 家宝は御旗(後冷泉天皇から下賜された日章旗)・楯無(楯無の鎧、源頼義が御旗とともに授けられたという)。.

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武衛騒動

武衛騒動(ぶえいそうどう)とは、寛正6年(1465年)に発生した室町幕府の内紛のことである。 将軍家家宰の伊勢貞親は8代将軍足利義政の信任を良いことに、管領家の一つ斯波氏(武衛家)のお家騒動に介入し斯波義敏と斯波義廉の間をとりなして私腹を肥やし、幕政を混乱に陥れた。将軍家家宰の身分でありながら管領家家督に口をはさむ貞親の横暴に激怒した有力者細川勝元と山名宗全は協力して文正元年(1466年)に貞親を幕府から追放した(文正の政変)。背景に、次期将軍を予定されていた足利義視の排斥問題も絡んでいると伝えられる。 また、当時関東で反抗していた古河公方足利成氏征伐軍の組織の為に家督交代を繰り返したとも推測される。関東における幕府の出先機関の堀越公方足利政知は直轄軍を持たない為、幕府は斯波軍を関東に派遣しようとしたが、義敏が命令違反をして執事の甲斐常治と合戦に及んで廃嫡されると(長禄合戦)、義敏の子松王丸を家督とした。しかしその後、政知の執事渋川義鏡の子義廉が新たに家督になったのは、渋川義鏡が斯波軍を操れる立場にする狙いがあったとされる。 ところが、義鏡が扇谷上杉家と対立、失脚すると義廉の家督の意味はなくなり、再び義敏中心の遠征軍を作り出そうとして復権を画策したのが貞親だとされる。一方的に廃嫡された義廉や宗全一派は反撃に打って出て貞親と季瓊真蘂、義敏や赤松政則を追放、計画は失敗した。 後に勝元と宗全が対立し応仁の乱が勃発すると、義敏父子と政則は将軍義政を戴く東軍に属し、それぞれ武衛家家督・赤松氏家督及び守護職を奪還し、貞親と真蘂も赦免されて帰京するなど、それぞれ復権した。ただし貞親と真蘂に活躍の場は与えられず、真蘂は文明元年(1469年)に、貞親は文明5年(1473年)に世を去る。 category:室町時代の事件 category:斯波氏 Category:1465年の日本.

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歴史漫画

歴史漫画(れきしまんが)は、漫画作品をテーマ別に分類したもののひとつ。歴史上の出来事や人物などを題材としたもの。なお、教育的意図をもって歴史を扱った漫画に関しては学習漫画を参照のこと。.

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段銭

段銭(たんせん)とは日本の中世における税の一種。 仁治2年(1241年)に鎌倉幕府が課した例が初出といわれる。国家的行事や寺社の造営など、臨時の支出が必要な時に地域を限定(多くは国ごと)し、臨時に課する。銭納が原則で、「田畑一反あたり何文」という形で課せられる。大田文に記載されている公田の数量に応じて課税する段銭を公田段銭(こうでんだんせん)と呼ぶ。一方、都市では地口銭(じくちせん)と呼ばれる税が課された。地口銭は、土地の広狭を標準にして、それを利用する人に賦課したものである。 室町時代になると度々課せられるようになり、次第に恒常的税に変貌する。段銭が賦課された国には幕府から奉行が派遣されて徴収にあたるのが原則であるが、守護に代行させて徴収させる場合もある。ただし、奉行や守護による徴収の場合、実際には彼らが算定した賦課額に上乗せをした金額を徴収して差額を得る場合もある。そのため、公家や寺院、奉公衆・奉行衆などの室町幕府官僚集団などは、段銭免除や京都の幕府倉奉行への直接納付(京済・直進)の特権を幕府から得た。 また、守護や荘園領主なども私段銭と呼ばれる私的な段銭を徴収するようになる。各領主は段銭帳を作成し、領内で賦課する段銭の基礎資料や記録とした。後に私段銭は守護大名・戦国大名による領主的な賦課へと転換していくことになる。.

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比叡山

比叡山(ひえいざん)は、滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山。大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡(848.3m)と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、838m)の二峰から成る双耳峰の総称である。高野山と並び古くより信仰対象の山とされ、延暦寺や日吉大社があり繁栄した。東山三十六峰に含まれる場合も有る。別称は叡山、北嶺、天台山、都富士など。.

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毛利豊元

毛利 豊元(もうり とよもと)は、室町時代の安芸国の国人。毛利氏当主。備後守護山名是豊の麾下として、河内・紀伊を転戦した。「豊元」の名も山名是豊から偏諱を受けて名乗ったもの。.

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水軍

水軍(すいぐん)は、東アジアの漢字文化圏における伝統的な水上兵力の称である。西洋・近代の軍事における海軍に相当するが、東洋の水軍においては河川や湖沼における水上兵力の比重も大きい。水師、船師、舟師ともいう。集団化・組織化すると、海賊衆、警固衆(けごしゅう)、船手組(ふなてぐみ)、船党などの呼称もある。.

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永原慶二

永原 慶二(ながはら けいじ、1922年7月12日 - 2004年7月9日)は、日本の歴史学者。一橋大学名誉教授、和光大学名誉教授。専門は日本中世史。一橋大学経済学博士。妻の永原和子は女性史研究者である。.

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永島福太郎

永島 福太郎(ながしま ふくたろう、1912年12月22日 - 2008年8月19日)は、日本の歴史学者。関西学院大学名誉教授。.

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永享

永享(えいきょう)は、日本の元号の一つ。正長の後、嘉吉の前。1429年9月5日から1441年2月17日までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義教。.

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永正

永正(えいしょう)は、日本の元号の一つ。文亀の後、大永の前。1504年から1521年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義澄、足利義稙。.

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池田城 (摂津国)

池田城(いけだじょう)は、大阪府池田市にあった日本の城。建武元年(1334年)前後に現在の池田市にある五月山南麓の丘陵地に、豊島の土着豪族池田教依が築き、代々池田氏が城主を務めた。現在は「城跡の歴史を感じられる憩いの場」として池田城跡公園が整備されている。.

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河内国

河内国(かわちのくに/かはちのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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河野通春

河野 通春(こうの みちはる)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将、守護大名。伊予守護。居城は港山城。河野氏宗家と対抗した分家の予州家当主。 当初は細川氏の支持を受け、嘉吉の乱後、幕府からの命令を引き出して又従兄弟で本家の河野教通を討とうとするが、教通には吉川経信や小早川盛景の援軍があったため、うまく進まなかった。文安6年(1449年)に伊予守護に就任したが、翌年に教通に交替、享徳2年(1453年)に守護職に再任されたが、享徳4年(1455年)に細川勝元に交替させられた。 長禄3年(1459年)に3度目の伊予守護職に補任されたが、寛正3年(1462年)に勝元の同族の阿波守護細川成之と戦い勝元と対立、寛正5年(1464年)には伊予の混乱を見た勝元の軍勢が攻め込んで来たため危機に陥ったが、細川氏と対立関係にある大内教弘の援軍を受けて細川氏を撃退する。直後に教弘は興居島で死去したが、なおも子の大内政弘の援助を受けた。 応仁元年(1467年)からの応仁の乱では西軍に与したが、通春の在京中に東軍についた教通が勝元死後の文明5年(1473年)に伊予の守護職を確保し、伊予における基盤を固めてしまう。乱後に伊予に帰国し文明9年(1477年)に4度目の伊予守護に任じられ、翌文明10年(1478年)にも教通と和気郡にて戦ったが、敗れている。その後も教通と抗争を繰り返しながら、文明14年(1482年)閏7月14日に港山城で病没した。子の通篤が後を継いだが、本家に対抗出来ず没落していった。 通春と教通の抗争は河野氏の衰退を招き、河野氏が守護大名から戦国大名へ成長できなかった一因を成した。.

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河野氏

河野氏(こうのし/かわのし)は、日本の氏族。.

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河野教通

河野 教通(こうの のりみち/かわの のりみち)は、室町時代から戦国時代の武将、守護大名。伊予守護。河野通久の嫡男。 父・通久(初め持通)が足利将軍家(足利義持)から偏諱の授与を受けたのに倣い、室町幕府第6代将軍・足利義教(義持の弟)から「教」の1を受けて教通と名乗るが、嘉吉元年(1441年)の義教の死後は通直(みちなお)に改名した。 永享7年(1435年)、大友持直征伐のさなかに父通久が戦死したため、家督を継ぐ。永享11年(1439年)、将軍義教の命を受け永享の乱・大和永享の乱に出陣、嘉吉元年(1441年)に義教が赤松満祐に暗殺されると(嘉吉の乱)、満祐討伐のため播磨に遠征した。前述の通り、同年中には「通直」に改名している。しかし、文安3年(1449年)に守護職を又従兄弟で予州家の河野通春に交替させられ、幕府の命令を受けた小早川盛景・吉川経信らの援軍で盛り返した。教通を守護から解任した幕府が教通を再起を助けると言う矛盾した方針は、教通を支持する足利義政・畠山徳本と通春を支持する細川勝元の間で河野氏家督に対する意見対立があったとみられている。 勝元が管領に在任中の享徳2年(1453年)に守護職を再度通春に替えられるが、実は勝元が管領の職権を利用して御教書・奉書が偽造した上での任命であり、義政に叱責された勝元が辞意を表明するものの、最終的に慰留されて守護の交替が認められた。その後、享徳4年(1455年)には勝元に、長禄3年(1459年)に通春に戻され、教通は守護職奪還のため通春と争った。ところが、勝元と通春が対立して勝元が一族の細川賢氏(土佐守護代家庶流上野家出身)を伊予守護に任命すると、大内教弘・政弘父子が通春を支持して、細川・大内両軍が伊予に侵攻したため、どちらにも与し得ない教通は蚊帳の外に置かれる形になった。 応仁元年(1467年)の応仁の乱が発生すると、大内政弘と盟友であった通春は西軍の一員として上洛した。教通は当初は静観していたものの、西軍が通春を伊予守護に任じると、細川勝元の誘いに応じて東軍について通春に対抗している。文明5年(1473年)に勝元が亡くなった後の伊予守護に任命され、文明11年(1479年)には阿波守護・細川成之の次男・義春が伊予に攻め寄せてきたが、通春と和睦し国内の諸豪族と連携して撃退した。文明14年(1482年)に通春が没して子の通篤と争ったが、伊予の主導権を掌握して予州家を圧倒した。後に出家し道治、道基と改名した。 明応9年(1500年)に湯築城で没し、子の通宣が跡を継いだ。.

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法華宗

法華宗(ほっけしゅう)とは、妙法蓮華経を依拠教典とする仏教の宗旨に対して使用される呼称のひとつ。以下の各種の用法で用いられる。.

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法華一揆

法華一揆(ほっけいっき)は、日本の戦国時代の京都における天文年間に起きた宗教一揆である。「天文法乱(てんぶんほうらん、てんもんほうらん)」「天文法華の乱(てんぶんほっけのらん、てんもんほっけのらん)」「天文法難(てんぶんほうなん、てんもんほうなん)」などと呼ばれる一連の出来事についてもここで解説する。.

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渋川義鏡

渋川義鏡(しぶかわ よしかね/よしみ)は、室町時代中期から後期にかけての武将。 享徳の乱を鎮める為に室町幕府から関東に派遣された堀越公方・足利政知の補佐役として共に下向するも、扇谷上杉家と対立、失脚した。.

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渋川氏

渋川氏(しぶかわし)は、日本の氏族(武士)。清和源氏義国流で足利氏の一門。室町時代に肥前、備前、備中、安芸、豊前、摂津などの守護職に任ぜられ、また九州探題職を世襲した。 足利将軍家御一家の家格を有した他、一族は九州、関東、中国など各地に点在した。.

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渋川教直

渋川 教直(しぶかわ のりなお)は、室町時代中期から後期にかけての武将・九州探題。.

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朝倉孝景

朝倉 孝景(あさくら たかかげ)は、越前国の戦国大名で朝倉氏の当主。.

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朝倉孝景 (7代当主)

朝倉 孝景(あさくら たかかげ)は、室町時代中期の武将。朝倉氏の7代目当主。当初は祖父や父も名乗った教景(のりかげ)を名乗り、次いで敏景(としかげ)→教景→孝景の順で改名している。よって同名の曾孫と区別するために代表的な名乗りの1つである「朝倉敏景」(あさくら としかげ)と表記する事がある。また、法名から「英林孝景(えいりんたかかげ)」と呼ばれることも多い。以下、本項においては原則「孝景」で統一する。.

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朝倉氏

朝倉氏(あさくらし)は、但馬国を拠点とした豪族。越前国を拠点とし、後に発展して戦国大名となった越前朝倉氏が有名。 藤原氏流等の朝倉氏もあるとされるが、別項にて扱う。.

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朝倉氏景 (8代当主)

朝倉 氏景(あさくら うじかげ)は、室町時代から戦国時代にかけての越前の戦国大名。朝倉氏の第8代当主。朝倉孝景(英林孝景)の嫡男で、母は朝倉将景の娘。子に貞景。.

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木造教親

木造 教親(こづくり のりちか)は、室町時代の武将・公家。木造家5代当主。「教」の字は室町幕府第8代将軍足利義教より偏諱を賜ったものである。.

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木津

木津 近畿地方を中心として日本各地に存在する固有名詞だが、複数の読み方がある。.

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木津川 (京都府)

京都府木津川市の恭仁大橋にて。 木津川(きづがわ)は、三重県および京都府を流れる淀川水系の支流で一級河川。 三重県伊賀市で柘植川と服部川を、京都府相楽郡南山城村で名張川を集める。名張川合流点よりも上流を伊賀川と称することもある。.

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木曽谷

木曽山脈から望む木曽谷(大桑村周辺の地域) 木曽谷(木曾谷、きそだに)とは、木曽川上流の流域を表す名称である。木曽川の浸食により形成されたV字谷状地形が延長約60kmにわたっており、その主線はおおむね北北東から南南西の方角に沿う。東南方面には木曽山脈(中央アルプス)が、西北方面には御嶽山系がある。現在の長野県南西部が主な地域である。地形的には鳥居峠以南の木曽川上流の流域をさすが、歴史的には木曽路をさすことがある。木曽谷、木曾谷の表記については木曽を参照。.

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木曾家豊

木曾 家豊(きそ いえとよ、生没年不詳)は、室町時代の武将。木曾氏の当主。家賢の子。子に義元がいる。.

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木曾氏

木曾氏(きそし)は、日本の氏族の一つ。.

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有馬元家

有馬 元家(ありま もといえ、生年不明 - 応仁2年11月10日(1469年1月1日))は、室町時代中期の武将。通称は上総介。摂津有馬郡分郡守護。赤松氏の支流である有馬氏出身で有馬持家の子。子に則秀。 室町幕府8代将軍足利義成(後の義政)に近侍しその寵臣となったと言われ、義政の乳母今参局(御今)及び義政の母日野重子の従弟烏丸資任と共に義政側近の有力者となり「三魔」と呼ばれた(おいま、からすま、ありまと、「ま」がつく3人)。相国寺の瑞渓周鳳の日記『臥雲日件録』康正元年1月6日(1455年1月23日)条には「政は三魔より出づ」と記されている。 文安元年(1444年)から翌2年(1445年)に同族の赤松満政が播磨守護山名宗全に反乱を起こし、父持家は一旦満政に味方したがその後幕府側に寝返って満政を討ち取り、態度を咎められて隠居したため元家が有馬郡守護職を継いだ。しかし、享徳3年(1454年)に又従兄弟の赤松則尚が赤松氏復帰を掲げて播磨で反乱を起こし、翌4年(康正元年、1455年)に宗全に討ち取られ、元家も連座して12月13日に出家遁世した。その後足利義視に仕えていたが、応仁の乱の最中に義政の命令を受けた赤松政則に殺害された。 三魔のうち有馬については長らく持家だとされていたが、持家に関しては特に専横の振る舞いは記録されていないこともあり、近年では元家が三魔の1人であると言われている。.

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成身院光宣

成身院光宣(じょうしんいん こうせん、明徳元年(1390年) - 文明元年11月20日(1470年1月1日))は、室町時代中期から後期の僧・武将である。大和国人・興福寺衆徒筒井順覚の次男。兄に順弘、弟に尊覚、実憲、順永。興福寺末寺の衆徒・六方衆の棟梁。僧官としては律師、僧位は法印。.

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戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

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戦国大戦

『戦国大戦』(せんごくたいせん)は、2010年11月10日に稼働を開始したセガ・インタラクティブ(2015年3月まではセガ)のトレーディングカードアーケードゲームである。日本の戦国時代を舞台としており、織田信長をはじめ戦国時代の武将がカードとして多数登場する。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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戸田宗光

戸田 宗光(とだ むねみつ)は、室町時代中期から戦国時代初期の武将。入道名は全久(ぜんきゅう)。応仁の乱では西軍として活動する一方で三河・尾張に勢力を拡大、戸田氏中興の祖とされる。.

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明応

明応(めいおう)は、日本の元号の一つ。延徳の後、文亀の前。1492年から1501年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇、後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義材、足利義澄。.

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明応の政変

明応の政変(めいおうのせいへん)は、室町時代の明応2年(1493年)4月に細川政元が起こした室町幕府における将軍の擁廃立事件。 この政変により、将軍は足利義材(義稙)から足利義遐(義澄)へと代えられ、以後将軍家は義稙流と義澄流に二分された。なお、近年の日本史学界においては戦国時代の始期をこの事件に求める説がある。.

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昭和

昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.

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浦上則宗

浦上 則宗(うらがみ のりむね)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。赤松氏の家臣。.

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浄土真宗

浄土真宗(じょうどしんしゅう)は、大乗仏教の宗派のひとつで、浄土信仰に基づく日本仏教の宗旨である。鎌倉仏教のひとつ。鎌倉時代初期の僧である親鸞が、その師である法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え『岩波仏教辞典』第二版、P.541「浄土真宗」より引用。を継承し展開させる。親鸞の没後にその門弟たちが、教団として発展させる。「浄土真宗」の英訳は、浄土真宗本願寺派ではJodo Shinshuとし、真宗大谷派・真宗佛光寺派ではShin Buddhismとしている。.

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浄土真宗本願寺派

浄土真宗本願寺派(じょうどしんしゅうほんがんじは)は、浄土真宗の宗派の1つで、宗教法人法による宗教法人(包括宗教法人)である。宗祖親鸞の墓所である「大谷廟堂」を発祥とする「本願寺」(「西本願寺」)を本山とする。2014年12月31日現在の被包括宗教団体数は10,329被包括宗教団体数は、別院含む寺院の他、教会などを含んだ宗教団体(宗教法人を含む)の総数である。平成26年12月31日現在、寺院10,206(うち宗教法人10,185)、教会8(うち宗教法人2)、布教所2(うち宗教法人0)、その他94(うち宗教法人71)である。(を参照。)。.

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斎藤妙純

斎藤 妙純(さいとう みょうじゅん) / 斎藤 利国(さいとう としくに)は、室町時代から戦国時代の武将。美濃守護代斎藤利永の子。叔父にあたる斎藤妙椿の養子となる。通称は新四郎。諱は利国で、妙純は入道名である。右馬丞と称す。妻は野間入道の娘(甘露寺親長の養女)で、後に剃髪して利貞尼と名乗った。子に利親、又四郎、彦四郎、斎藤利茂?・長井利隆?、朝倉貞景室、京極高清室。.

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斎藤妙椿

斎藤 妙椿(さいとう みょうちん)は、室町時代から戦国時代にかけての武将・僧。斎藤宗円の子。甥・斎藤利藤の後見役を務めた。妻は伊勢北畠氏の出身で一女をもうけている。養女に甘露寺元長の娘(織田敏広室)。妙椿は法名(実名は不明)で、善恵寺に持是院(じぜいん)という子院を構えたため、持是院妙椿と呼ばれた。斎藤氏の惣領家に対し、妙椿の家系を持是院家という。 従来、美濃守護代とされてきたが実際には就任していない(後述)。.

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斎藤利藤

斎藤 利藤(さいとう としふじ、生年不詳 - 明応7年1月12日(1498年2月3日))は、室町時代の武将。美濃守護代。斎藤利永の嫡男。典明、利国(妙純)、利安、利綱の兄。通称は帯刀左衛門尉、官位は越前守と称す。子に源四郎、日運。以前は叔父斎藤妙椿と同一人物と考えられてきたが、別人とされる。 父の死後、守護代職を継承するが、実権は叔父の斎藤妙椿に握られ、守護代として力を揮う事は出来なかった。妙椿が死ぬと、室町幕府に接近し幕府の権威を借りて、異母弟で妙椿の養子となった利国(妙純)と争い、文明12年(1480年)8月には遂に合戦を始める(美濃文明の乱)。利藤は墨俣城を拠点にして戦うが、同年11月には敗れて近江の六角氏の元に亡命、更に京都へ赴き幕府の庇護を受けた。長享元年(1487年)5月、守護土岐成頼と妙純との和議が成立し、美濃守護代職に返り咲く。 しかし、成頼の後継を巡る争い(船田合戦)で土岐元頼、石丸利光に与したため、2人が戦死すると明応5年(1496年)6月に隠居させられ、失意の内に世を去った。法名玉堂宗珊居士。 利藤の嫡男源四郎(帯刀左衛門尉)は船田合戦以前に早世し、嫡孫の斎藤利春(帯刀左衛門尉)は船田合戦で石丸利光に迎えられたものの、風邪のため明応4年(1495年)6月6日に没している。また、末子の毘沙童も利春没後に石丸方に迎えられたが、敗戦時年少(13歳)のため助命され、仏門に入り日運と名乗った。永正13年(1516年)に常在寺の住職となっている。 実子の外に養子と思われる斎藤利為がいるが、船田合戦では勝者となった妙純に味方しているので、利藤没後にその名跡を継ぐよう命ぜられたものだろう。.

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斎藤親基日記

斎藤親基日記(さいとうちかもとにっき)は、室町幕府の奉行衆の1人である斎藤親基の日記。 寛正6年(1465年)8月から応仁元年(1467年)5月 (旧暦)までの日記を長享元年(1487年)に書写したものが残されている。ただし、現行本には書写時ないし後世(戦国時代初期)の加筆が含まれている。足利義政期の政務・軍事・儀式の様子、朝幕関係、社会的事件や災害などが詳細に記されている。.

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斯波義寛

斯波 義寛(しば よしひろ / - よしとお)は室町時代後期から戦国時代初期の武将、守護大名(戦国大名)。尾張・越前・遠江守護。斯波氏(武衛家)12代当主。幼名は松王丸、初名は義良(よしすけ/よしなが)。父は斯波義敏、母は家女房といわれる。子に義達、足利義澄室、村上顕国室。.

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斯波義廉

斯波 義廉(しば よしかど)は、室町時代中期から後期の武将、守護大名。室町幕府管領、越前・尾張・遠江守護。斯波氏(武衛家)11代当主。足利氏一門の渋川氏出身で、三管領筆頭の斯波武衛家を相続した。父は渋川義鏡、母は山名氏出身で山名宗全の伯父に当たる山名摂津守(実名不詳)の娘とされている。.

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斯波義敏

斯波 義敏(しば よしとし)は、室町時代後期の武将、守護大名。越前・尾張・遠江守護。斯波氏(武衛家)10代当主。父は斯波(大野)持種、義父は斯波義健。子に義寛、斯波義孝室、寛元、義雄。.

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斯波氏

斯波氏(しばし)は、日本の武家のひとつ。室町幕府将軍足利氏の有力一門であり、かつ細川氏・畠山氏と交替で管領に任ぜられる有力守護大名であった。越前・尾張・遠江などの守護を世襲し、また分家の大崎氏は奥州探題、最上氏は羽州探題を世襲した。明治維新後に男爵家となった源姓津田氏も、その末裔の一つである。.

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斯波持種

斯波 持種(しば もちたね)は室町時代中期の武将。斯波氏の有力一族・斯波満種の嫡男で、母は京極氏の娘。.

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新人物往来社

株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.

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文安

文安(ぶんあん、ぶんなん)は、日本の元号の一つ。嘉吉の後、宝徳の前。1444年から1449年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は空位。.

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文正

文正(ぶんしょう)は、日本の元号の一つ。寛正の後、応仁の前。1466年の期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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文正の政変

文正の政変(ぶんしょうのせいへん)とは、文正元年(1466年)9月6日に室町幕府8代将軍足利義政の側近伊勢貞親と季瓊真蘂らが諸大名の反発で追放された事件である。この政変で義政は側近を中心とした政治を行えなくなり、残った諸大名は応仁の乱を起こしていく。.

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文明 (日本)

文明(ぶんめい)は、日本の元号の一つ。応仁の後、長享の前。1469年から1486年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政、足利義尚。.

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日野家

日野家(ひのけ)は、日本の貴族の家系のひとつ。藤原北家に属し、名家の家格を有した堂上家である。.

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日野富子

日野 富子(ひの とみこ、永享12年(1440年) - 明応5年5月20日(1496年6月30日))は、室町時代後期から戦国時代前期の女性。室町幕府8代将軍足利義政の正室。父は蔵人右少弁・贈内大臣日野重政、母は従三位北小路苗子(北小路禅尼)。兄弟に勝光(兄)、永俊(11代将軍足利義澄の義父)、資治(日野兼興の養子)、妹に良子(足利義視室)。9代将軍足利義尚の母。従一位。.

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日野勝光

日野 勝光(ひの かつみつ、永享元年(1429年) - 文明8年6月15日(1476年7月6日))は室町時代の公卿。本姓は藤原氏。家系は藤原北家の出で名家の家柄、日野家の当主。日野重政の子で、母は北小路苗子。室。兄弟に永俊(第11代将軍足利義澄の義父)・資治(日野兼興の養子)。妹の日野富子は第8代将軍・足利義政の正室となって足利義尚を生む。もう一人の妹・良子は義政の弟・足利義視に嫁いでいる。子に政資(まさすけ)、娘(足利義尚室)がいる。.

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日野重子

日野 重子(ひの しげこ、応永18年(1411年) - 寛正4年8月8日(1463年9月20日))は、室町時代中期の女性。日野家出身。室町幕府6代将軍・足利義教の側室。日野重光の子。7代将軍・足利義勝、8代将軍・足利義政の生母。兄は日野義資で、その孫が日野勝光、日野富子。義教の正室宗子は姉で、烏丸資任は従弟にあたる。 永享6年(1434年)に義勝、永享8年(1436年)に義政を産む。嘉吉の乱で夫・義教が殺害された後、幼年の義勝や義政を補佐して幕政に関与し、義政の寵愛を受けた乳母・今参局と対立した。今参局は義政正室富子の産んだ子が早世したのが彼女の呪詛のためとされて流刑にされ、長禄3年(1459年)、自害させられるが、これは富子の指示とも重子の指示とも言われる。 寛正4年8月8日(1463年9月20日)に死去。それに伴い、斯波義敏、畠山義就が赦免された。.

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日明貿易

日明貿易(にちみんぼうえき)は、室町時代に日本が中国の明朝と行った貿易。特に室町幕府や大内氏との朝貢貿易は、倭寇や密貿易と区別し正式な遣明使船である事が確認できるよう勘合(勘合符)を使用したことから勘合貿易(かんごうぼうえき)とも呼ばれる。.

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早島大祐

早島 大祐(はやしま だいすけ、1971年 - )は、日本の歴史学者、京都女子大学教授。専門は日本中世史。.

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摂津国

摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.

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播磨国

播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.

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改元

改元(かいげん)とは、元号を変更すること。.

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政所

政所(まんどころ)は、.

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慈照寺

東山慈照寺(じしょうじ)は、京都府京都市左京区にある、臨済宗相国寺派の寺院。相国寺の境外(けいがい)塔頭である。室町時代後期に栄えた東山文化を代表する建築と庭園を有する。 室町幕府8代将軍足利義政が鹿苑寺の舎利殿(金閣)を模して造営した楼閣建築である観音殿は銀閣(ぎんかく)、観音殿を含めた寺院全体は銀閣寺(ぎんかくじ)として知られる。「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。銀閣は、金閣、飛雲閣(西本願寺境内)とあわせて京の三閣と呼ばれる。 山号は東山(とうざん)。開基(創立者)は足利義政、開山は夢窓疎石とされている。夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物(故人)であり、このような例を勧請開山という。.

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扇谷上杉家

扇谷上杉家と白井長尾家の関係図 扇谷上杉管領屋敷跡(鎌倉市) 扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。戦国時代には河越城に本拠を移し、武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。.

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手打ち

手打ち(てうち)は文字通り手を打ち鳴らす意味の他、.

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10月16日 (旧暦)

旧暦10月16日は旧暦10月の16日目である。六曜は先勝である。.

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10月3日 (旧暦)

旧暦10月3日(きゅうれきじゅうがつみっか)は旧暦10月の3日目である。六曜は赤口である。.

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11月10日 (旧暦)

旧暦11月10日(きゅうれきじゅういちがつとおか)は、旧暦11月の10日目である。六曜は友引である。.

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11月11日 (旧暦)

旧暦11月11日は旧暦11月の11日目である。六曜は先負である。.

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11月20日 (旧暦)

旧暦11月20日は旧暦11月の20日目である。六曜は赤口である。.

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11月23日 (旧暦)

旧暦11月23日は旧暦11月の23日目である。六曜は先負である。.

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11月26日 (旧暦)

旧暦11月26日は旧暦11月の26日目である。六曜は赤口である。.

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12月11日

12月11日(じゅうにがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から345日目(閏年では346日目)にあたり、年末まであと20日ある。.

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12月13日 (旧暦)

旧暦12月13日は旧暦12月の13日目である。六曜は赤口である。.

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12月16日

12月16日(じゅうにがつじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から350日目(閏年では351日目)にあたり、年末まであと15日ある。.

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12月19日

12月19日(じゅうにがつじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から353日目(閏年では354日目)にあたり、年末まであと12日ある。.

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12月19日 (旧暦)

旧暦12月19日は旧暦12月の19日目である。六曜は赤口である。.

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12月24日

12月24日(じゅうにがつにじゅうよっか、じゅうにがつにじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から358日目(閏年では359日目)にあたり、年末まであと7日ある。.

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12月31日

12月31日(じゅうにがつさんじゅういちにち)はグレゴリオ暦において年始・1月1日から365日目(閏年においては366日目)にあたり、12月の末日、1年の最終日(大晦日)である。この日の23時59分を過ぎると翌日0時0分から翌年1月1日となる。.

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12月5日 (旧暦)

旧暦12月5日(きゅうれきじゅうにがついつか)は旧暦12月の5日目である。六曜は仏滅である。.

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12月6日 (旧暦)

旧暦12月6日(きゅうれきじゅうにがつむいか)は旧暦12月の6日目である。六曜は大安である。.

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1437年

記載なし。

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1441年

記載なし。

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1447年

記載なし。

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1448年

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1449年

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1451年

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1452年

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1454年

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1455年

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1457年

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1458年

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1459年

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1460年

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1461年

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1463年

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1464年

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1465年

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1466年

記載なし。

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1467年

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1468年

記載なし。

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1469年

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1470年

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1471年

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1472年

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1473年

記載なし。

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1474年

記載なし。

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1475年

記載なし。

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1476年

記載なし。

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1477年

記載なし。

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1478年

記載なし。

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1479年

記載なし。

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1481年

記載なし。

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1483年

記載なし。

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1485年

記載なし。

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1486年

記載なし。

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1488年

記載なし。

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1493年

記載なし。

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1498年

記載なし。

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1500年

15世紀最後の年である。.

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1508年

土曜日から始まる。.

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1533年

記載なし。

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1536年

ユリウス暦の.

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1969年

記載なし。

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1973年

記載なし。

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1978年

記載なし。

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1979年

記載なし。

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1981年

この項目では、国際的な視点に基づいた1981年について記載する。.

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1984年

この項目では、国際的な視点に基づいた1984年について記載する。.

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1985年

この項目では、国際的な視点に基づいた1985年について記載する。.

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1987年

この項目では、国際的な視点に基づいた1987年について記載する。.

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1988年

この項目では、国際的な視点に基づいた1988年について記載する。.

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1991年

この項目では、国際的な視点に基づいた1991年について記載する。.

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1993年

この項目では、国際的な視点に基づいた1993年について記載する。.

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1994年

この項目では、国際的な視点に基づいた1994年について記載する。.

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1996年

この項目では、国際的な視点に基づいた1996年について記載する。.

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1997年

この項目では、国際的な視点に基づいた1997年について記載する。.

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1月18日 (旧暦)

旧暦1月18日は旧暦1月の18日目である。六曜は赤口である。.

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1月2日 (旧暦)

旧暦1月2日(きゅうれきいちがつふつか)は、旧暦1月の2日目である。六曜は友引である。.

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1月5日 (旧暦)

旧暦1月5日(きゅうれきいちがついつか)は旧暦1月の5日目である。六曜は大安である。.

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1月7日

1月7日(いちがつなのか)はグレゴリオ暦で年始から7日目に当たり、年末まであと358日(閏年では359日)ある。誕生花はチューリップ(白)。.

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2001年

また、21世紀および3千年紀における最初の年でもある。この項目では、国際的な視点に基づいた2001年について記載する。.

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2002年

この項目では、国際的な視点に基づいた2002年について記載する。.

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2006年

この項目では、国際的な視点に基づいた2006年について記載する。.

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2008年

この項目では、国際的な視点に基づいた2008年について記載する。.

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2009年

この項目では、国際的な視点に基づいた2009年について記載する。.

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2010年

この項目では、国際的な視点に基づいた2010年について記載する。.

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2014年

この項目では、国際的な視点に基づいた2014年について記載する。.

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2016年

この項目では、国際的な視点に基づいた2016年について記載する。.

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2月22日

2月22日(にがつにじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から53日目にあたり、年末まであと312日(閏年では313日)ある。.

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2月6日

2月6日(にがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から37日目に当たり、年末まであと328日(閏年では329日)ある。.

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3月17日 (旧暦)

旧暦3月17日は旧暦3月の17日目である。六曜は先勝である。.

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3月18日 (旧暦)

旧暦3月18日は旧暦3月の18日目である。六曜は友引である。.

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3月26日 (旧暦)

旧暦3月26日は旧暦3月の26日目である。六曜は仏滅である。.

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3月5日 (旧暦)

旧暦3月5日(きゅうれきさんがついつか)は旧暦3月の5日目である。六曜は先勝である。.

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4月12日

4月12日(しがつじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から102日目(閏年では103日目)にあたり、年末まではあと263日ある。誕生花はアンズ、カタクリ。.

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4月15日

4月15日(しがつじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から105日目(閏年では106日目)にあたり、年末まではあと260日ある。誕生花はモクレン、タンポポ。.

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4月15日 (旧暦)

旧暦4月15日は旧暦4月の15日目である。六曜は赤口である。.

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4月19日

4月19日(しがつじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から109日目(閏年では110日目)にあたり、年末まではあと256日ある。誕生花はキショウブ、カリフォルニアポピー。.

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4月23日 (旧暦)

旧暦4月23日は旧暦4月の23日目である。六曜は友引である。.

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4月3日 (旧暦)

旧暦4月3日(きゅうれきしがつみっか)は旧暦4月の3日目である。六曜は赤口である。.

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5月11日 (旧暦)

旧暦5月11日は旧暦5月の11日目である。六曜は先負である。.

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5月20日 (旧暦)

旧暦5月20日は旧暦5月の20日目である。六曜は赤口である。.

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5月21日 (旧暦)

旧暦5月21日は旧暦5月の21日目である。六曜は先勝である。.

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5月27日 (旧暦)

旧暦5月27日は旧暦5月の27日目である。六曜は先勝である。.

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5月28日 (旧暦)

旧暦5月28日は旧暦5月の28日目である。六曜は友引である。.

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5月2日 (旧暦)

旧暦5月2日(きゅうれきごがつふつか)は旧暦5月の2日目である。六曜は赤口である。.

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5月8日 (旧暦)

旧暦5月8日は旧暦5月の8日目である。六曜は赤口である。.

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6月11日 (旧暦)

旧暦6月11日は旧暦6月の11日目である。六曜は仏滅である。.

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6月14日 (旧暦)

旧暦6月14日は旧暦6月の14日目である。六曜は先勝である。.

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6月19日 (旧暦)

旧暦6月19日は旧暦6月の19日目である。六曜は赤口である。.

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6月3日 (旧暦)

旧暦6月3日(きゅうれきろくがつみっか)は、旧暦6月の3日目である。六曜は友引である。.

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6月6日

6月6日(ろくがつむいか)はグレゴリオ暦で年始から157日目(閏年では158日目)にあたり、年末まであと208日ある。誕生花はジギタリス、スターチス。.

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6月8日 (旧暦)

旧暦6月8日(きゅうれきろくがつようか)は、旧暦6月の8日目である。六曜は先勝である。.

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7月10日 (旧暦)

旧暦7月10日(きゅうれきしちがつとおか)は、旧暦7月の10日目である。六曜は仏滅である。.

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7月20日 (旧暦)

旧暦7月20日(きゅうれきしちがつはつか)は、旧暦7月の20日目である。六曜は友引である。.

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7月23日 (旧暦)

旧暦7月23日は旧暦7月の23日目である。六曜は大安である。.

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8月1日 (旧暦)

旧暦8月1日(きゅうれきはちがつついたち)は旧暦8月の1日目である。六曜は友引である。.

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8月21日 (旧暦)

旧暦8月21日は旧暦8月の21日目である。六曜は仏滅である。.

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8月23日 (旧暦)

旧暦8月23日は旧暦8月の23日目である。六曜は赤口である。.

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8月25日 (旧暦)

旧暦8月25日は旧暦8月の25日目である。六曜は友引である。.

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8月28日 (旧暦)

旧暦8月28日(きゅうれきはちがつにじゅうはちにち)は、旧暦8月の28日目である。六曜は大安である。.

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9月14日 (旧暦)

旧暦9月14日は旧暦9月の14日目である。六曜は仏滅である。.

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9月18日 (旧暦)

旧暦9月18日(きゅうれきくがつじゅうはちにち)は、旧暦9月の18日目である。六曜は友引である。.

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9月1日 (旧暦)

旧暦9月1日(きゅうれきくがつついたち)は旧暦9月の1日目である。六曜は先負である。.

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9月20日 (旧暦)

旧暦9月20日(きゅうれきくがつはつか)は旧暦9月の20日目である。六曜は仏滅である。.

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9月22日 (旧暦)

旧暦9月22日は旧暦9月の22日目である。六曜は赤口である。.

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9月6日 (旧暦)

旧暦9月6日(きゅうれきくがつむいか)は旧暦9月の6日目である。六曜は友引である。.

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