230 関係: 加須市、お家騒動、千葉孝胤、千葉胤将、南総里見八犬伝、古河城、古河市、古河公方、古河公方館、古河総合公園、古河歴史博物館、吉川弘文館、堀越公方、境根原合戦、大井持光、大森実頼、大森氏頼、大森憲頼、太田道灌、太田資清、奥羽、宝徳、室町幕府、室町時代、家宰、守護、宇都宮等綱、宇都宮正綱、宇都宮氏、宇都宮成綱、宇野俊一、安房国、寛正、尊勝院 (古河市)、小山市、小山氏、小山持政、小山成長、小田氏、小田持家、小田成治、小栗城、山川出版社、山川氏、山内上杉家、岩松成兼、岩槻城、峰岸純夫、川越城、上総国、...、上野国、上杉顕実、上杉顕房、上杉氏、上杉持朝、上杉房定、上杉房顕、上杉房朝、上杉憲実、上杉憲忠、上杉憲秋、常陸国、三国橋 (渡良瀬川)、下総国、下野国、下河辺荘、一色氏、平井城、享徳、享徳の乱、京都市、京本政樹、康正、二階堂氏、五十子陣、今川範忠、今川義忠、建内記、伊豆国、佐久郡、佐々木氏、佐藤博信、佐野市、彰考館、征夷大将軍、徳政令、後花園天皇、信濃国、応仁の乱、土岐持益 (守護)、分倍河原の戦い (室町時代)、嘉吉、嘉吉の乱、八幡神社 (古河市北新町)、八幡神社 (古河市八幡町)、元禄、勝長寿院、国史大辞典、神奈川県、神宮寺 (古河市)、管領、簗田氏、簗田成助、細川勝元、細川持之、細川政元、群書類従、真光寺 (加須市)、結城城、結城合戦、結城直朝 (白河氏)、結城氏、結城氏広、結城成朝、瑞雲院 (曖昧さ回避)、田中琢、田代三喜、甘棠院、畠山持国、相模国、百瀬今朝雄、鎌倉、鎌倉大草紙、鎌倉市、鎌倉府、鎌倉公方、菖蒲城、駿河国、角川書店、諱、鳳桐寺、越後国、足利安王丸、足利市、足利義尚、足利義久、足利義稙、足利義政、足利義教、足利高基、足利氏、足利持氏、足利春王丸、足利政知、足利政氏、足利晴氏、鶴岡八幡宮、茨城県、関宿城、関東管領、門跡、那須資実、野田氏、野木町、里見八犬伝 (2006年のテレビドラマ)、里見成義、長尾景仲、長尾景信、長尾景春、長尾景春の乱、長享、長享の乱、長禄、長禄合戦、長谷観音 (古河市)、鉢形城、雀神社 (古河市)、暗殺、東京堂出版、杉山博、校倉書房、栃木県、栗橋城、正親町三条実雅、武将、武田信昌、武蔵国、永享、永享の乱、永享記、永仙院 (古河市)、江戸城、渡良瀬川、渋川義鏡、満福寺 (栃木県野木町)、朝尾直弘、成潤、戦国時代 (日本)、明応、明治、斯波義廉、斯波義敏、斯波氏、新三国橋 (国道354号)、文明 (日本)、日光山、扇谷上杉家、曲亭馬琴、10月25日、11月27日 (旧暦)、1434年、1438年、1439年、1440年、1441年、1445年、1446年、1447年、1449年、1450年、1451年、1452年、1454年、1455年、1456年、1457年、1458年、1459年、1465年、1471年、1476年、1477年、1478年、1483年、1489年、1497年、1696年、1月6日、2006年、9月30日 (旧暦)。 インデックスを展開 (180 もっと) »
加須市
加須市(かぞし)は、埼玉県の北東部に位置する市。旧・武蔵国埼玉郡。 東京都市圏(東京通勤圏)でありながら市内の工業団地などの産業・雇用で周辺の羽生市や旧・栗橋町などからの労働人口流入もあり、加須都市圏を形成している。 埼玉県内でも有数の米どころで中でも北川辺地域は県内一の米どころである。また小麦も県内トップクラスの作付け面積で加須うどんが有名。「加須の手打ちうどん」とも呼ばれる。 隣の久喜市と共に県北東部の中心的な都市のひとつでもある。.
お家騒動
お家騒動(御家騒動、おいえそうどう)は、江戸時代の大名家における内紛である。現代においては、比喩的に企業(同族経営の会社に多い)や家族といった組織における内部抗争をお家騒動に擬えて呼ぶことがある。.
千葉孝胤
千葉 孝胤(ちば のりたね)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての武将。千葉輔胤(岩橋輔胤)の嫡男。 生没年には諸説あり、嘉吉3年5月2日(1443年5月30日)生まれ、嘉吉3年7月18日(1443年8月13日)生まれ、文安元年(1444年)生まれともされる。永正2年8月19日(1505年9月26日)に没したとも言われている。.
千葉胤将
千葉 胤将(ちば たねまさ)は、室町時代中期の武将、守護大名。千葉氏第17代当主。.
南総里見八犬伝
『南総里見八犬伝』(なんそうさとみはっけんでん、)は、江戸時代後期に曲亭馬琴(滝沢馬琴)によって著わされた大長編読本。里見八犬伝、あるいは単に八犬伝とも呼ばれる。 文化11年(1814年)に刊行が開始され、28年をかけて天保13年(1842年)に完結した、全98巻、106冊の大作である。上田秋成の『雨月物語』などと並んで江戸時代の戯作文芸の代表作であり、日本の長編伝奇小説の古典の一つである。.
新しい!!: 足利成氏と南総里見八犬伝 · 続きを見る »
古河城
古河城(こがじょう)は、現在の茨城県古河市(下総国)の渡良瀬川東岸にあった日本の城。 室町時代には、古河御陣とも呼ばれ、北朝足利氏の拠点の一つであった。古河公方の本拠となった時期については古河御所(こがごしょ)とも呼ばれる。なお、古河鴻巣の古河公方館も御所と呼ばれるため、混同しないように注意する必要がある。.
古河市
古河市名の由来となった万葉歌碑「麻久良我の 許我の渡りの韓楫の 音高しもな寝なへ 兒ゆゑに」 古河市(こがし)は、関東地方のほぼ中央、茨城県の西端に位置する市である。人口約14万人。旧・下総国(千葉県)葛飾郡。 近隣の栃木県野木町などから労働人口流入があり、本市を中心とする古河都市圏を形成している。.
古河公方
古河公方(こがくぼう)は、室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となった。(享徳の乱) その後も政氏・高基・晴氏・義氏へと約130年間引き継がれる。御所は主に古河城。古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。.
古河公方館
古河公方館(こがくぼうやかた)は茨城県古河市鴻巣にあった中世の城館。鴻巣御所・鴻巣館とも呼ばれる。古河御所と呼ばれる場合もある。現在、古河公方館跡地の大半は古河総合公園にある。.
新しい!!: 足利成氏と古河公方館 · 続きを見る »
古河総合公園
古河総合公園(こがそうごうこうえん)は、茨城県古河市にある都市公園である。所在地は茨城県古河市鴻巣399-1。.
新しい!!: 足利成氏と古河総合公園 · 続きを見る »
古河歴史博物館
古河歴史博物館(こがれきしはくぶつかん)は、茨城県古河市にある博物館である。 古河城の諏訪曲輪(出城)跡地に建てられている。 建築家の吉田桂二が設計し、1992年の日本建築学会賞(作品賞)、1996年の公共建築賞(建設大臣表彰・文化施設部門)を受賞した。.
新しい!!: 足利成氏と古河歴史博物館 · 続きを見る »
吉川弘文館
吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.
新しい!!: 足利成氏と吉川弘文館 · 続きを見る »
堀越公方
堀越公方(ほりごえくぼう/ほりこしくぼう)とは、室町時代に関東で勢力を持った公方の一。伊豆堀越(静岡県伊豆の国市)を本拠地とした。『国史大辞典』『日本史大事典』によると、地名は「ほりごえ」だが、慣用として「ほりこしくぼう」と読んでいる。『日本史広事典』(角川書店)では「ほりごえくぼう」となっている。.
境根原合戦
right 境根原合戦(さかいねはらかっせん)とは、文明10年12月10日(1479年1月2日)、下総国境根原(現千葉県柏市酒井根)にて行われた合戦。上杉定正の重臣太田道灌が、下総の土豪千葉氏の内紛に絡む形で始まった。.
新しい!!: 足利成氏と境根原合戦 · 続きを見る »
大井持光
大井 持光(おおい もちみつ)は、南北朝時代、室町時代の武将。信濃佐久郡大井城主。大井光矩の嫡子。.
大森実頼
大森 実頼(おおもりさねより、生没年不詳)は、室町時代から戦国時代の武将。扇谷上杉家の家臣。大森氏当主。相模小田原城城主。 堀越公方足利政知と渋川義鏡の讒言によって室町幕府8代将軍足利義政から父・氏頼や三浦時高・千葉実胤と共に謀叛の疑いを受ける。これに憤って寛正5年(1464年)5月に隠退してしまうが、太田道灌の奔走と義政の慰留で復帰した。以後、道灌に従って長尾景春・豊島泰経・千葉孝胤らと戦うが、若くして没した。 没日については、文明15年(1483年)7月16日説と文明18年(1486年)10月19日説とがある。.
大森氏頼
大森 氏頼(おおもり うじより、生年不詳 - 明応3年8月26日(1494年9月25日))は、室町時代から戦国時代の武将。扇谷上杉家の家臣。大森氏当主。相模国小田原城城主、後に岩原城城主。 生年は不明であるが、父頼春が応永29年(1422年)に出家したとされているため、それ以前の誕生であると考えられる。初め兄の憲頼らと同じく鎌倉公方・足利持氏に仕え、永享の乱では持氏方として活躍した。 持氏敗死後も、大森氏は没落することなく勢力を維持した。しかし、享徳の乱以降は子の実頼と共に上杉方に属して活躍しており、足利義政に年来の忠節を称賛されている。一方で上洛を再三促されるなど、鎌倉公方との関係が深い大森氏と幕府との関係は不安定で、また兄憲頼とその子成頼は古河公方足利成氏方として活躍していたとされ、大森氏は兄弟で分裂していたと思われる。 太田道灌の助力により、寛正5年(1464年)に道灌に従って上洛して義政の赦免を受け、文明10年(1478年)5月には相模国平塚城に籠った大森伊豆守(成頼とされる)を攻略。伊豆守が箱根山中に逃亡したことにより大森氏の再統一と大森氏当主の地位を手に入れた。小田原城入城もこの頃と考えられ、以後、上杉定正に仕え、太田道灌と共に定正を支える扇ヶ谷上杉家の重臣として活躍した。 小田原入城後は、その拠点化に努め、嘉吉元年(1441年)に早川に海蔵寺、文安2年(1445年)に久野に総世寺を建立し、大窪に津田織部忠正を招聘するなど、城下に町場や職能集団を形成するように努め、相模国西部の支配を確立させた。鎌倉の名僧玉隠とも交流があり、延徳元年(1489年)に箱根湯本に湯治に来た際には親しく交友し、玉隠は漢詩を詠んでいる。 太田道灌が暗殺された後に氏頼は第一の重臣として家中において重きをなし、長享の乱における実蒔原の戦い、菅谷原の戦い、高見原の戦いではいずれも「大森寄栖庵入道」として長尾景春らと並ぶ活躍が伝えられている。一方で古河公方・足利成氏と和議を結びながらすぐにこれを破棄するなど定正の政治手法は家臣の離反を招くようになる。氏頼は扇谷上杉家の今後に不安を抱き、「大森教訓状」と呼ばれる諫言状を定正に送ったとされている。 法華経に通じ、法名に「日昇」と入るなど日蓮宗との接点があるが、曹洞宗寺院を建立して手厚く保護し、箱根神社を中心とした古義真言宗、浄居寺を中心とした臨済宗とも関係を深めるなど宗教面において高い識見を有し、また領地経営に生かした。後に嫡男の実頼に小田原城を譲って自身は『寄栖庵』を名乗って岩原城を守った。 明応3年(1494年)死去。実頼には先立たれていたので家督は次男の藤頼が継いだ。.
大森憲頼
大森 憲頼(おおもり のりより、生年不詳 - )は、室町時代から戦国時代の武将。鎌倉公方の家臣。大森氏当主。相模国小田原城城主。 父・頼春に従い、鎌倉公方方の有力国人として活躍。永享の乱では鎌倉公方足利持氏に付き、弟の箱根権現別当実雄らと共に箱根山での戦いで活躍した。持氏が敗死した後も没落することなく勢力を維持し、結城合戦が起きると下総結城城まで出兵しようとして、鎌倉に駐留していた駿河今川氏や蒲原氏らに警戒されている。 小田原城を整備し、近隣を横領したが、鎌倉公方足利成氏が古河へ逃亡し、相模国は扇谷上杉家の勢力が有力になると、扇谷上杉家を支持する弟氏頼らと対立。長尾景春の乱では景春方について相模国平塚城に籠ったが、太田道灌に攻略され、子の成頼と共に箱根山中に逃亡し没落したとされる。.
太田道灌
太田 道灌(おおた どうかん)は、室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長(すけなが)。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城したことで有名である。武将としても学者としても一流という定評があっただけに、謀殺されてこの世を去った悲劇の武将としても名高い。 以降、本項では便宜上「道灌」の呼称を使用する。.
太田資清
太田 資清(おおた すけきよ)は、室町時代中期から戦国時代前期の武将。相模守護代、扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の一門太田氏出身。長尾景仲とともに「関東不双の案者(知恵者)」と称された。父は太田資房。正室は長尾景仲の娘。子に資長(道灌)、資忠など。法号は道真(どうしん)。.
奥羽
奥羽(おうう)は、日本の令制国の陸奥国(奥州)と出羽国(羽州)を合わせた地域である。奥羽地方。基本的に、現在の東北地方と一致する。 1869年1月19日(明治元年12月7日)、陸奥国は磐城国・岩代国・陸前国・陸中国・陸奥国に5分割、出羽国は羽前国・羽後国に2分割された。これらを東北七州と呼ぶ。この後も「奥羽」の名は従来どおりの地域に対して用いられる。ただし高校野球の地方大会で「奥羽」の名が、新陸奥国+出羽国にほぼ一致する青森県+秋田県+山形県に対し(1925年~1934年)、あるいは青森県+秋田県に対し(1974年~1977年)使われたことがある。.
宝徳
宝徳(ほうとく)は、日本の元号の一つ。文安の後、享徳の前。1449年から1451年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.
室町幕府
花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.
室町時代
室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.
家宰
家宰(かさい)とは、室町時代の武家に多く見られた一家あるいは一門内の職責の一種。 家長に代わって家政を取りしきる職責の事で、家事を宰領するという意味合いからこの名が付いた。関東管領を務めた山内上杉家や扇谷上杉家では筆頭重臣として家宰が置かれ、山内上杉家では長尾氏一族が代々任命され、扇谷上杉家では太田氏が家宰を務めた。 室町期には武家の当主は京において在京奉公し領国の支配は家宰が担当する役割分担がなされていたが、戦国期に各地が乱国化すると当主自ら在国して支配に携わることが多いが、宝徳2年(1450年)に鎌倉公方の足利成氏と関東管領が対立した江ノ島合戦に際しては足利成氏が両上杉家の家宰を糾弾しているなど、在地支配においては依然家宰の権限が強大であった。そのため当主と家宰との間に対立関係が発生し、山内上杉家では文明9年(1477年)長尾景春が主君上杉顕定に対して反乱し(長尾景春の乱)、扇谷上杉家では文明18年(1486年)に家宰太田道灌が主君上杉定正により謀殺されている。 戦国時代から江戸時代に掛けては家老・宿老がより一般的になった。近世以降になると、家宰の権限を縮小して、純粋な家長の私事を統括する役職として、広敷用人・用人・側用人・家令・家扶長・執事などの呼称がみられるようになる。これら用人の職権は一様ではなく、幕府や藩によって異なる。例えば江戸幕府にあっては側用人は、老中との取次を第一の任務として、将軍家の大奥や細かい私事は、広敷用人や側衆の役目となる。 Category:家族制度 Category:武士 Category:室町時代 Category:戦国時代 (日本).
守護
守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.
宇都宮等綱
宇都宮 等綱(うつのみや ひとつな、応永27年(1420年) - 長禄4年3月1日(1460年3月23日))は、室町時代中期の大名で、下野の名門宇都宮氏第14代当主。父は13代当主宇都宮持綱、母は宇都宮満綱の娘。武茂綱家の孫。幼名は藤鶴丸、官位は下野守。妻は小山満泰の娘(小山持政の妹)、那須氏資の娘。15代当主明鋼・16代当主正鋼の父。.
新しい!!: 足利成氏と宇都宮等綱 · 続きを見る »
宇都宮正綱
宇都宮 正綱(うつのみや まさつな)は室町時代後期から戦国時代初期の武将・守護大名で、下野の宇都宮氏16代当主、宇都宮氏庶流の武茂氏の当主も兼ねていた。.
新しい!!: 足利成氏と宇都宮正綱 · 続きを見る »
宇都宮氏
宇都宮(うつのみや)氏は、日本の氏族。摂関家藤原北家道兼流を称する大族。下毛野氏、中原氏の流れを汲むともいわれる。.
宇都宮成綱
宇都宮 成綱(うつのみや しげつな)は戦国時代の武将・戦国大名で、下野の宇都宮氏17代当主。 戦国時代初期に、室町時代から続く度重なる内乱、戦乱で没落した下野宇都宮氏を立て直し、支配体制、家臣団を再編する。佐竹氏の中興の祖と呼ばれている佐竹義舜や蘆名氏の中興の祖蘆名盛高、那須氏や長沼氏、岩城氏など近隣の大名と争い大きく勢力を伸ばし、北関東最大の勢力にまで成長させ、下野宇都宮氏の最盛期を築き上げた。 また、下野宇都宮氏の戦国大名化に努めたため、宇都宮氏の中興の祖と呼ばれる。成綱は実質的に北関東の覇権を制した。.
新しい!!: 足利成氏と宇都宮成綱 · 続きを見る »
宇野俊一
宇野 俊一(うの しゅんいち、1928年12月20日 - 2012年7月26日)は、日本の歴史学者、千葉大学名誉教授。.
安房国
安房国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
寛正
寛正(かんしょう)は、日本の元号の一つ。長禄の後、文正の前。1461年から1466年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇、後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政。.
尊勝院 (古河市)
尊勝院(そんしょういん)は、茨城県古河市本町(二丁目)にある真言宗豊山派の寺院。山号を明王山、寺号を安楽寺、院号を尊勝院という。『古河市史 民俗編』824-825頁(尊勝院) 古河公方ゆかりの寺院。.
新しい!!: 足利成氏と尊勝院 (古河市) · 続きを見る »
小山市
思川 八幡町近辺(2006年7月) 国道50号に立ち並ぶロードサイドショップ(2007年5月) 小山市(おやまし)は、栃木県南部にある市。旧下都賀郡(境界変更を除く)。市域は首都圏に含まれ、人口は約16万7千人。2005年(平成17年)12月に宇都宮市に次いで栃木県第2位の人口をもつ都市となった。また、城南地区、美しが丘地区などの開発中のニュータウン地域もあり、周辺の市町と比較して労働人口が多く、人口増加がこれからも見込まれる都市である。 栃木県南部の中心都市であるとともに、東北新幹線・東北本線(宇都宮線)・両毛線・水戸線が通じ、東京方面と当地周辺部、栃木県南部及び茨城県西部を相互に結ぶ「結節点」、いわゆる玄関口となっている。 周辺の3市で小山都市圏を形成しており、その中心都市である。.
小山氏
小山氏(おやまし)は、平安時代に武蔵国に本領を有し藤原秀郷の後裔と称した太田氏を出自とする地方豪族。1150年頃、政光がはじめて下野国小山に移住して小山氏を名乗った。政光は八田宗綱の娘(後に源頼朝の乳母である寒河尼)を妻とし、頼朝の信頼厚く鎌倉幕府において重用されることとなった。関東八屋形の一つ。.
小山持政
小山 持政(おやま もちまさ、生没年不詳)は、室町時代から戦国時代初期にかけての武将、守護大名。下野の豪族小山氏当主で、下野守護。小山泰朝の長男・小山満泰(みつやす、「満」は足利氏満の偏諱を賜ったものとされる)の子。元服時に鎌倉公方・足利持氏より偏諱を受けて持政と名乗る。.
小山成長
小山 成長(おやま しげなが、生没年不詳)は、室町時代から戦国時代の武将。山川景胤(かげたね)の子。小山持政の養子。小山政長の父。下野守。.
小田氏
小田氏(おだし).
小田持家
小田 持家(おだ もちいえ、応永9年(1402年) - 文明13年(1481年))は、室町時代の人物。常陸小田氏当主。小田治朝の子。小田朝久、倉持治光(くらもち はるみつ)、女子(結城氏広妻)の父。幼名は金寿丸。通称は太郎。讃岐守。治部少輔。 父は早くに亡くなり、祖父の小田孝朝に養育された。のち元服時に鎌倉公方足利持氏より偏諱を受けて持家と名乗る。室町時代の小田氏は関東の政治においては非主流派であり、それに不満な持家は上杉禅秀の乱の際には上杉氏憲(禅秀)に味方し、禅秀らの敗北の後は降参したものの足利持氏により所領の一部を没収され、小田氏をさらに衰退させることになる。永享の乱と結城合戦の際は関東管領上杉氏(上杉憲実)に味方し持氏とその与党を滅ぼす。その後は旧領回復をめざして信太荘へ勢力を侵食させ、江戸崎土岐氏と戦うことになる。 享徳の乱の際には古河公方足利成氏(持氏の子)に味方し、関東管領上杉氏と戦ったが、1455年、子の朝久に先立たれることになる。その後は孫の小田成治を養育・後見した。1459年11月には常陸で佐竹実定(佐竹義人の子で上杉憲実の猶子)・江戸通房(実定の補佐役)を破っている。 もちいえ Category:室町時代の人物 Category:1402年生 Category:1481年没.
小田成治
小田 成治(おだ しげはる、文安6年6月22日(1449年7月12日) - 永正11年4月21日(1514年5月15日))は、戦国時代の人物。常陸小田氏当主。 小田朝久の子。小田治孝、小田顕家(北条顕家)、岡見義治、女子(宇都宮成綱妻)、女子(佐竹義篤妻)の父。小田政治の養父(実父説もある)。亀房丸。太郎。官位は左近衛中将など。 享徳4年(1455年)、父の朝久の戦死後、家督を継ぐ。幼少のため、当初は祖父の小田持家に養育・後見された。享徳の乱においては古河公方に従い活動する。続く長享の乱においては扇谷上杉家方として活動した。近隣の江戸氏や大掾氏、江戸崎土岐氏と抗争し勢力を保ったが、治世の後半は長子の治孝と次子の顕家との家督争いが勃発するなど振るわなかった。家督を継承した政治は成治の実子とも養子で足利政知の実子ともいわれる。 しけはる Category:戦国大名 Category:室町時代の人物 Category:常陸国の人物 Category:1449年生 Category:1514年没.
小栗城
小栗城(おぐりじょう)は、茨城県筑西市(かつての常陸国)にあった日本の城(山城)。小栗判官で有名な小栗氏の居城。戦国時代には宇都宮氏家臣小宅氏の居城にもなっている。.
山川出版社
山川出版社(やまかわしゅっぱんしゃ)は、高校教科書(地歴公民科)・参考書・歴史関係の一般書などを刊行する日本の出版社である。.
新しい!!: 足利成氏と山川出版社 · 続きを見る »
山川氏
山川氏(やまかわ し)は、結城朝光(結城氏始祖・小山政光三男)の子である山川重光(しげみつ)を祖とする結城氏の庶流である。.
山内上杉家
山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。上杉氏4代当主・上杉憲顕(初代関東管領)に始まる家で、鎌倉の山内に居館を置いたことに因む。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母・上杉清子は上杉家出身 (2代当主・上杉頼重の子)であり、上杉家は室町幕府の重職・関東管領を世襲した。上杉氏は公家である藤原氏の支族であるが、武家の足利将軍家との姻戚関係を背景として、室町時代を通し関東で勢力を拡大した。15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。豊臣政権の五大老の一人であった17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いで西軍に付き敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。.
新しい!!: 足利成氏と山内上杉家 · 続きを見る »
岩松成兼
岩松 成兼(いわまつ しげかね、生没年不詳)は室町時代中期の武将。父は岩松持国で、岩松次郎は兄にあたる。官位は左京亮。 幼名は三郎。のち古河公方足利成氏より偏諱を賜い成兼と名乗る。 長禄2年(1458年)、父が同族の岩松家純の誘いで足利成氏から堀越公方足利政知へと寝返ったので次郎・成兼兄弟も共に帰順した。 ところが、寛正2年(1461年)に父と兄が家純に暗殺された為、成兼は再度成氏に寝返った。成兼が無事だったのは長禄3年(1459年)に既に成氏側についていたからだと言われている。しかし、領地を巡って一族の鳥山家や重臣と対立し、成氏の仲介まで出されている。上野で新田荘を拠点に家純や上杉氏と戦うが、応仁2年(1468年)に綱取原合戦で上杉側が勝利する等、段々追い詰められていく。 この合戦の前後に成兼の消息は途絶える。文明元年(1469年)に家純によって新田荘から追放されたと言われている。また、後閑氏の祖になったとも言われているが定かではない。 しけかね Category:室町時代の人物.
岩槻城
岩槻城(いわつきじょう)は戦国時代に築かれた平山城。大宮台地岩槻支台上に立地。武蔵国埼玉郡岩槻(現在の埼玉県さいたま市岩槻区)にあった岩槻藩の藩庁(日本の城)。別称に岩付城、岩附城、浮城、白鶴城がある。県指定史跡。また周囲の大構(おおがまえ)は市指定史跡となっている。.
峰岸純夫
峰岸 純夫(みねぎし すみお、1932年5月5日 - )は、日本の歴史学者である。専門は日本中世史。東京都立大学名誉教授、元歴史学研究会委員長、慶應義塾大学文学博士。.
川越城
川越城(かわごえじょう)は、埼玉県川越市にある日本の城。江戸時代には川越藩の藩庁が置かれた。別名、初雁城、霧隠城。関東七名城・日本100名城。通常、川越城の名称を表記する場合、中世については河越城、近世以降は川越城と表記されることが多い。.
上総国
上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。.
上野国
上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 常陸国・上総国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上野介であった類聚三代格。.
上杉顕実
上杉 顕実(うえすぎ あきざね)は、戦国時代の武将。関東管領。山内上杉家12代当主。.
上杉顕房
上杉 顕房(うえすぎ あきふさ)は、室町時代中期の武将・守護大名。相模国守護。扇谷上杉家当主。.
上杉氏
上杉氏(うえすぎし / うえすぎうじ)は、公家である藤原家の支族の一つ。1252年、公家である藤原重房が、宗尊親王の鎌倉幕府・将軍(皇族初の征夷大将軍)就任に従って京都から鎌倉へ下向して、武家化し「上杉」姓を賜われたのが上杉氏の祖。室町時代には関東管領を世襲し、越後・上野・武蔵・相模の守護を務める有力守護大名として栄えた。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母は上杉家出身。鎌倉時代、室町時代から江戸時代にかけて栄えた武家の一族(山内上杉家)が著名。山内上杉家15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。豊臣政権の五大老の一人であった山内上杉家17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いにて西軍に付いて敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。本貫地は丹波国何鹿郡上杉荘(現在の京都府綾部市上杉)。 江戸時代には、大名2家、旗本4家(うち高家1家)があり、子孫は現代まで続いている。.
上杉持朝
上杉 持朝(うえすぎ もちとも)は、室町時代中期の武将・守護大名。扇谷上杉家当主。相模国守護。.
上杉房定
上杉 房定(うえすぎ ふささだ)は、室町時代中期から戦国時代にかけての守護大名。越後国・信濃国守護。越後上杉家6代当主。 15世紀後半の約46年という長きにわたって越後を支配し、関東で享徳の乱や長享の乱を戦う過程で守護領国を完成させた。.
上杉房顕
上杉 房顕(うえすぎ ふさあき)は、室町時代中期の武将・守護大名。関東管領。山内上杉家10代当主。.
上杉房朝
上杉 房朝(うえすぎ ふさとも)は、室町時代中期の守護大名。越後国守護。越後上杉家5代当主。.
上杉憲実
上杉 憲実(うえすぎ のりざね)は、室町時代中期の武将・守護大名。関東管領、上野国・武蔵国・伊豆国守護。山内上杉家8代当主。足利学校や金沢文庫を再興したことで知られる。.
上杉憲忠
上杉 憲忠(うえすぎ のりただ)は、室町時代中期の武士・守護大名。山内上杉家9代当主。関東管領。5代鎌倉公方・足利成氏に謀殺されて、享徳の乱のきっかけとなる。.
上杉憲秋
上杉 憲秋(うえすぎ のりあき)は、室町時代中期の武将。犬懸上杉家5代当主。.
常陸国
常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。.
三国橋 (渡良瀬川)
三国橋(みくにばし)は、渡良瀬川にかかる橋である。埼玉県加須市向古河から茨城県古河市桜町を結ぶ。通過している路線は、国道354号と栃木・群馬・埼玉・茨城県道9号佐野古河線である。.
新しい!!: 足利成氏と三国橋 (渡良瀬川) · 続きを見る »
下総国
下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
下野国
下野国(しもつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.
下河辺荘
下河辺荘(しもこうべのしょう)は、下総国葛飾郡に置かれた荘園である。.
一色氏
一色氏(いっしきし)は、日本の氏族(武士)。清和源氏義国流で足利氏の一門。足利泰氏の子一色公深は、三河国吉良荘一色(愛知県西尾市一色町)を本貫とし、一色氏を名乗った。 室町幕府開府当初は九州探題として筑前国にあったが、後には侍所所司に任ぜられる四職の筆頭となり、また若狭国・三河国・丹後国などの守護職を世襲した。戦国時代にも丹後の大名として続いたが、安土桃山時代に至り細川藤孝・忠興らの侵攻によって滅亡した。 他に.
平井城
平井城(ひらいじょう)は、現在の群馬県藤岡市にあった日本の城である。群馬県指定史跡。.
享徳
享徳(きょうとく)は、日本の元号の一つ。宝徳の後、康正の前。1452年から1454年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.
享徳の乱
享徳の乱(きょうとくのらん、享徳3年12月27日(1455年1月15日) - 文明14年11月27日(1483年1月6日))は、室町幕府8代将軍・足利義政の時に起こり、28年間断続的に続いた内乱。第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方・足利成氏と争い、関東地方一円に拡大し、関東地方における戦国時代の遠因(もしくは直接の発端)となった。.
京都市
京都タワーと京都中心部 京都市中心部四条河原町 京都市(きょうとし )は、京都府南部に位置し、同府最大の市で、府庁所在地である。政令指定都市に指定されており、11区を置く。日本の市で8番目の人口を有する。延暦十三年(794年)から明治二年(1869年)までの1,000年以上にわたって日本の都が置かれていたため、古都として認識されている。.
京本政樹
京本 政樹(きょうもと まさき、1959年1月21日 - )は、日本の俳優、タレント、歌手、ギタリスト。Ryus-up(リューズ・アップ)所属。血液型B型。身長178cm、体重61kg。 大阪府高槻市出身。小学生から中学2年生までは茨木市で過ごす。高槻市立柳川中学校を経て大阪府立高槻南高等学校卒、多摩美術大学中退。.
康正
康正(こうしょう)は、日本の元号の一つ。享徳の後、長禄の前。1455年から1457年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.
二階堂氏
二階堂氏(にかいどうし)は公家、武家の一氏族。特に陸奥国の岩瀬郡を支配し須賀川城を居城とした戦国大名が著名。.
五十子陣
五十子陣(いかっこ じん/いかっこのじん)とは、室町時代中期に武蔵国児玉郡五十子(現在の埼玉県本庄市、大字東五十子及び大字西五十子の一部)に所在していた平城。「いらこのじん」「いかごのじん」などと読まれることもある。.
今川範忠
今川 範忠(いまがわ のりただ)は、室町時代中期の守護大名。駿河今川氏の第5代当主。 第4代当主範政の嫡男として生まれたが、父が晩年に範忠を廃嫡して末弟の千代秋丸に譲ろうとしたため、これが原因で兄弟間の間で家督争いが起こった。永享5年(1433年)、父が死去すると鎌倉公方足利持氏との対抗上から、幼年の千代秋丸よりも成人した範忠が後を継いだほうがよいと考えた6代将軍足利義教の裁定により、在洛中の範忠が家督を継いで当主となった。この時、狩野氏や富士氏など一部の反対派が持氏の支援を受けて蜂起したが、義教の強い支持を背景にこれを鎮圧している。 これらの経緯から幕府に対する忠誠心が強く、関東の監視役を務め、永享の乱や結城合戦では常に幕府方として参戦し、武功を挙げた。この功によって義教より今川姓を範忠の子孫のみに許して同族庶流の今川姓使用を禁じる「天下一苗字」(この世に一家だけの姓とする)の恩賞が与えられ、以後範忠の直系子孫を今川氏の宗家とする事が保障された。これにより分家遠江今川氏の範将は堀越氏を名乗ったとされる(異説あり)。 康正元年(1455年)には8代将軍足利義政から鎌倉公方足利成氏討伐を任じられて後花園天皇から御錦旗を受け取ると直ちに領国に戻って、上杉氏討伐に向かっていて留守となっていた鎌倉を攻め落とした。このため、成氏は古河に逃れて古河公方と名乗った(享徳の乱)。 寛正元年(1460年)正月に駿河に帰国、翌年の3月20日に子の義忠に家督を譲った事が確認できるが、程なく死去(没年には異説がある)。.
今川義忠
今川 義忠(いまがわ よしただ)は室町時代から戦国時代の武将、守護大名。駿河国守護。駿河今川家第8代当主。義元の祖父にあたる。.
建内記
『建内記』(けんないき)は、室町時代の公卿万里小路時房の日記。「けんだいき」とも読まれる。書名は時房の法号である「建聖院」と、時房の極官である内大臣に由来。後世の人が時房の日記を「建聖院内府記」と呼び、この呼称が略されて「建内記」の呼称が定着した。「満済准后日記」「薩戒記」「看聞日記」と並び、室町時代中期の日記を代表する。 記述は1414年(応永21年)から1455年(康正元年)まで及ぶが、現在する記述は断片的である。1429年(永享元年)から1449年(宝徳元年)の20年分の記述が、最も欠落が少なく、現存状態が良好とされる。筆者時房は南都伝奏、勧修寺氏長者などを担当し、幕府とも密接な関係にあった。そのため、伝奏、氏長者としての仕事や、幕府、公武関係の動向に関する記述が豊富。将軍足利義教が横死した嘉吉の乱、嘉吉の徳政一揆の経緯についても詳らかに記述する。また万里小路家が保有する荘園が年貢滞納のために武士、商人、僧侶らに代官請に移行しなければならなくなった経緯など、社会経済に関する記述が多い。これは公家の日記の中でも特色とされ、室町中期の社会経済史研究に有益な情報を提供する。 時房の死後、日記は実子の冬房、甘露寺家から養子に入った春房、さらに勧修寺家から養子に入った賢房の手に渡り、賢房の実父である勧修寺教秀の所有するところとなっていた。中御門宣胤の1489年(延徳元年)の日記から、この時教秀が『建内記』を所有していたことが確認される。 その後、どのようにして伝来したのかは不明。伝来する過程で散逸、欠落もあった。最終的には伏見宮、菊亭家の手に渡ったらしく、伏見本は宮内庁書陵部に、菊亭本は京都大学付属図書館に所蔵されている。.
伊豆国
伊豆国(いずのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
佐久郡
*.
佐々木氏
佐々木氏(ささきし)は、日本の氏族のひとつ。家系は宇多天皇の第8皇子・敦実親王の流れをくむ宇多源氏、源成頼の孫・佐々木経方を祖とする一族。近江国蒲生郡佐々木荘を発祥に、軍事貴族として繁栄した。後に源平合戦(治承・寿永の乱)で活躍し全国に勢力を広げた。.
佐藤博信
佐藤 博信(さとう ひろのぶ、1946年 - )は、日本の歴史学者、千葉大学名誉教授。中世東国史を専門とする。.
佐野市
佐野市(さのし)は、栃木県の南西部(安足)に位置する市。旧安蘇郡および足利郡の一部であり、2005年2月28日に旧佐野市、安蘇郡田沼町、同郡葛生町の新設合併により発足した。人口は12万人で足利市に次ぎ栃木県では第5位、近年は佐野ラーメンとアウトレットモールでも有名である。.
彰考館
彰考館(しょうこうかん)は、江戸時代に常陸国にある水戸藩が『大日本史』を編纂するために置いた修史局(史局)である。 水戸市立第二中学校前の彰考館跡碑及び大日本史編纂之地碑.
征夷大将軍
征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.
新しい!!: 足利成氏と征夷大将軍 · 続きを見る »
徳政令
徳政令(とくせいれい)とは、日本の中世、鎌倉時代から室町時代にかけて、朝廷・幕府などが土倉などの債権者・金融業者に対して、債権放棄(債務免除)を命じた法令である。.
後花園天皇
後花園天皇(ごはなぞのてんのう)は、室町時代の第102代天皇である(在位:正長元年7月28日(1428年9月7日) - 寛正5年7月19日(1464年8月21日))。諱は彦仁(ひこひと)。 本来は皇統を継ぐ立場にはなかったが、称光天皇の死後に皇位を継いだ。8親等以上離れた続柄での皇位継承は南北朝合一を除くと53代658年ぶりである(称徳天皇→光仁天皇以来)。以後、この天皇の系統が今上天皇をはじめとする現在の皇室に連なっている。.
新しい!!: 足利成氏と後花園天皇 · 続きを見る »
信濃国
信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.
応仁の乱
応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.
土岐持益 (守護)
土岐 持益(とき もちます)は、室町時代の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、美濃守護。土岐頼益の子。子に持兼。「持」の字は将軍・足利義持からの偏諱。養子に成頼。通称は池田二郎。官職は美濃守、左京大夫。.
新しい!!: 足利成氏と土岐持益 (守護) · 続きを見る »
分倍河原の戦い (室町時代)
分倍河原の戦い(ぶばいがわらのたたかい)は、室町時代後期の享徳4年(1455年)1月21日・1月22日に、武蔵国多摩川河畔の分倍河原(現在の東京都府中市)において、足利成氏率いる鎌倉公方勢と上杉顕房率いる(総大将は在京の上杉房顕)関東管領勢との間で行われた合戦である。 この戦いをきっかけに応仁の乱と並んで室町時代最大の戦乱といわれる享徳の乱の幕が開かれる事となった。.
新しい!!: 足利成氏と分倍河原の戦い (室町時代) · 続きを見る »
嘉吉
嘉吉(かきつ)は、日本の元号の一つ。永享の後、文安の前。1441年から1444年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義教、足利義勝。.
嘉吉の乱
嘉吉の乱(かきつのらん)は、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が、室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。主に嘉吉の変(かきつのへん)と呼ばれることが多い。 この事件については伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』に義教暗殺当日の事情が記されている。全一巻の『嘉吉記』には、嘉吉の乱から後の神器奪還までの赤松氏の事情が記されている。.
八幡神社 (古河市北新町)
八幡神社(はちまんじんじゃ)は、茨城県古河市本町(北新町)にある神社古河市史民俗編、722頁(神社一覧・北新町の八幡神社)。「諏訪八幡神社」とも呼ばれる古河市史通史編、197頁(諏訪八幡神社)。.
新しい!!: 足利成氏と八幡神社 (古河市北新町) · 続きを見る »
八幡神社 (古河市八幡町)
八幡神社(はちまんじんじゃ)は、茨城県古河市本町(八幡町)にある古河公方ゆかりの神社。旧社格は村社である古河市史民俗編、720-722頁(神社一覧・八幡町の八幡神社)。.
新しい!!: 足利成氏と八幡神社 (古河市八幡町) · 続きを見る »
元禄
元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.
勝長寿院
勝長寿院(しょうちょうじゅいん)は、鎌倉時代初期に源頼朝が相模国鎌倉大御堂ヶ谷(現・神奈川県鎌倉市雪ノ下)に建立した寺院。阿弥陀山勝長寿院と号す。大御堂(おおみどう)、南御堂(みなみのみどう)とも言う。鶴岡八幡宮、永福寺と共に当時鎌倉の三大寺社の一つであった。.
国史大辞典
国史大辞典(こくしだいじてん)は、吉川弘文館が明治時代と昭和時代に2度にわたって刊行した日本史の辞典である。.
新しい!!: 足利成氏と国史大辞典 · 続きを見る »
神奈川県
奈川県(かながわけん)は、日本の県の一つ。関東地方の南西端、東京都の南に位置する。県庁所在地は横浜市。県名は東海道筋に古くから栄えた宿場町神奈川宿(現・横浜市神奈川区)、および幕末に戸部町(現・横浜市西区紅葉ヶ丘)に置かれた神奈川奉行所に由来する。これら「神奈川」の由来は、京急仲木戸駅近くに流れていた長さ300メートル (m) ほどの小川の名前からで、現在は道路になっている。 都道府県別の人口は東京都に次ぐ第2位、人口密度は東京都、大阪府に次ぐ第3位である。県内総生産も東京都、大阪府、愛知県に次ぐ第4位となっている。県内の政令指定都市数は3つと日本最多で、面積は第43位の規模である(平成19年度面積)、国土地理院。。.
神宮寺 (古河市)
宮寺(じんぐうじ)は、茨城県古河市横山町(二丁目)にある真言宗豊山派の寺院。山号を真龍山、院号を心城院、寺号を神宮寺という。『古河市史 民俗編』825頁(神宮寺).
新しい!!: 足利成氏と神宮寺 (古河市) · 続きを見る »
管領
管領(かんれい)は、以下の役職・地位およびその座にあった者を指す名称。.
簗田氏
簗田氏(やなだし)は、日本の武家。室町時代・戦国時代に下総国・関宿城(千葉県野田市)及び水海城(茨城県古河市)を根拠として活動した。鎌倉公方・古河公方の家臣であり、特に古河公方の時代には筆頭重臣になった。嫡流の関宿簗田家、傍流の水海簗田家に分かれた。.
簗田成助
簗田 成助(やなだ しげすけ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。足利氏(古河公方)の家臣。.
細川勝元
細川 勝元(ほそかわ かつもと)は、室町時代の武将・守護大名。第16、18、21代室町幕府管領。土佐・讃岐・丹波・摂津・伊予守護。第11代細川京兆家当主。父は第14代室町幕府管領、細川持之。政元の父。応仁の乱の東軍総大将として知られている。.
細川持之
細川 持之(ほそかわ もちゆき 1400年~1442年9月8日)は、室町時代の武将・守護大名。第14代室町幕府管領。摂津・丹波・讃岐・土佐守護。第10代細川京兆家当主。細川満元の次男で兄に持元、弟に持賢がいる。妻は京極高光の娘。嫡男に勝元、成賢(しげかた、持賢養子)。.
細川政元
細川 政元(ほそかわ まさもと)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、室町幕府守護大名であり、第24、26、27、28代管領。細川氏の第12代当主。丹波・摂津・土佐守護。足利将軍家の在職将軍10代義材を追放して11代義澄を擁立し、政権を掌握。事実上の最高権力者となり、「半将軍」とも呼ばれた。 室町幕府の三管領(足利一門の斯波、畠山、細川)である細川氏本家・京兆家の生まれ。父は応仁の乱時に東軍を率いた細川勝元。母は勝元の正室・山名熙貴の娘(養父は山名宗全)とされるが、根拠となる史料は無い。修験道に没頭して女性を近づけず独身を貫いたため実子はおらず、政元をもって細川家の嫡流は途絶え、養子に澄之、澄元、高国がいる。 将軍を挿げ替え(明応の政変)、管領として幕政を牛耳り(京兆専制)、比叡山焼き討ちを行ったり畿内周辺にも出兵するなど、細川京兆家の全盛期を築き当時日本での最大勢力に広げたが、3人の養子を迎えたことで家督争いが起こり、自らもその争いに巻き込まれる形で家臣に暗殺された(永正の錯乱)。応仁の乱の混乱以来、実力者政元の登場によって小康状態にあった京・畿内周辺は、その死と澄元・高国両派の争いによって再び長期混迷していくこととなる。.
群書類従
『群書類従』(ぐんしょるいじゅう)は、塙保己一が編纂した国文学・国史を主とする一大叢書。 塙保己一が古書の散逸を危惧し、1779年(安永8年)、菅原道真を祀る北野天満宮に刊行を誓った。江戸幕府や諸大名・寺社・公家などの協力を得て、収集・編纂した。古代から江戸時代初期までに成った史書や文学作品、計1273種を収めている。寛政5年(1793年) - 文政2年(1819年)に木版で刊行された。 歴史学・国文学等の学術的な研究に、多大な貢献をしている。.
真光寺 (加須市)
真光寺(しんこうじ)は、埼玉県加須市向古河にあった新義真言宗の寺院である。正観山薬法院慈眼坊と号する。隣接する茨城県古河市徳星寺の末寺(『新編武蔵風土記稿』)『ふるさとの文化財』 123-124頁(真光寺跡)。 「真光院」とも呼ばれた『古河市史 資料 別巻』 340-342頁(古河志・真光寺)。 現在は廃寺で、寺跡は加須市の指定文化財(史跡)になっている。古河公方ゆかりの寺院。.
新しい!!: 足利成氏と真光寺 (加須市) · 続きを見る »
結城城
結城城(ゆうきじょう)は茨城県結城市結城にあった日本の城。室町時代には結城合戦の舞台となった事で知られる。江戸時代には結城藩の藩庁が置かれた。.
結城合戦
結城合戦(ゆうきかっせん)は、永享12年(1440年)に関東地方で起こった室町幕府と結城氏ら関東の諸豪族との間の戦いである。.
結城直朝 (白河氏)
結城 直朝(ゆうき なおとも)は、室町時代後期の武将。白河結城氏6代当主。.
新しい!!: 足利成氏と結城直朝 (白河氏) · 続きを見る »
結城氏
結城氏(ゆうきし)は、日本の氏族。平安時代末期から戦国時代にかけて、主に下総で活動した大身。通字として「朝」(とも)や「広」(ひろ)が名前に用いられている。.
結城氏広
結城 氏広(ゆうき うじひろ)は、室町時代後期の武将。下総結城氏14代当主。.
結城成朝
結城 成朝(ゆうき しげとも)は、室町時代中期の武将。下総結城氏13代当主。.
瑞雲院 (曖昧さ回避)
雲院(ずいうんいん).
新しい!!: 足利成氏と瑞雲院 (曖昧さ回避) · 続きを見る »
田中琢
中 啄(たなか みがく、1933年12月29日 - )は、日本の考古学者。 滋賀県出身。京都大学卒、同大学院修士課程修了。59年奈良国立文化財研究所所員、のち同埋蔵文化財センター所長、文化庁文化財鑑査官をへて、94年奈良国立文化財研究所長。99年退官。平城宮跡の発掘調査では木簡第1号発見者となった。.
田代三喜
代 三喜(たしろ さんき、寛正6年4月8日(1465年5月3日) - 天文13年4月15日(1544年5月6日))は、室町・戦国時代の日本の医師。後世派医学の開祖であり、広く医聖と称された。 曲直瀬道三・永田徳本などと並んで日本における中医学の中興の祖である。三喜は通称で、名は導道、字(あざな)を祖範といった。範翁、廻翁、支山人、意足軒、江春庵、日玄、善道の多くの号がある。.
甘棠院
棠院(かんとういん)は埼玉県久喜市本町7丁目にある第2代古河公方、足利政氏が永正16年(1519年)に開いた寺院である。山号は永安山(えいあんざん)。臨済宗円覚寺派。.
畠山持国
山 持国(はたけやま もちくに)は、室町時代の守護大名。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・山城守護。足利氏一門の畠山氏出身。畠山満家の嫡男。義就の父。 危機的状況を脱して管領に就任、勢力拡大を目指すも晩年にお家騒動を発生させ、畠山氏衰退の元を生み出してしまった。.
相模国
模国(さがみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
百瀬今朝雄
今朝雄(ももせ けさお、1928年 - )は、日本の歴史学者。東京大学名誉教授。長野県出身。.
新しい!!: 足利成氏と百瀬今朝雄 · 続きを見る »
鎌倉
鎌倉(かまくら)は、現在の神奈川県鎌倉市の中心部に当たる地域。源頼朝を旗頭として、北条時政、北条義時らによって鎌倉幕府が置かれた都市であり、三浦半島の付け根に位置し、相模湾に面している。古くは鎌府(れんぷ)とも呼ばれた。三方を山に、一方を海に囲まれている。 鎌倉大仏.
鎌倉大草紙
鎌倉大草紙(かまくらおおぞうし)とは、室町時代の鎌倉・古河公方を中心とした関東地方の歴史を記した歴史書・軍記物。康暦2年(天授6年/1380年)より文明11年(1479年)の100年間の歴史を記している。『太平記』を継承するという意味から太平後記の別称がある。全3巻。 戦国時代初期の作品と推定されている。永享の乱から結城合戦について扱った中巻は『結城戦場記』(『永享記』)とほぼ同文であり、早い時期に逸失して別の書籍から補われた可能性が高い。 作者は不明だが、東常縁と斎藤妙椿との和歌問答や享徳の乱によって千葉氏の嫡流となったいわゆる「下総千葉氏」の存亡の危機となった臼井城攻略戦で締めくくられており、千葉氏のかつての嫡流であったいわゆる「武蔵千葉氏」を擁護する記載が見られることから、武蔵千葉氏を支援して下総千葉氏と争った東常縁の関係者を著者と推定する説が有力である。また上・中巻と下巻の1までには全体に鎌倉公方足利氏に忠実な臣下としての関東管領上杉氏を賛美する記述があり、このような傾向は千葉氏に関する記述が増える下巻の2にはみられないことから、上巻から下巻の1までと下巻の2では作者が異なる可能性も指摘されている。 上巻には上杉憲春の諫死事件に始まり、伊達政宗の乱・上杉禅秀の乱・小栗満重の乱、甲斐武田氏の内紛を扱い、中巻は永享の乱・結城合戦を扱い、下巻は享徳の乱を扱って臼井城の攻防で締めくくられている。.
新しい!!: 足利成氏と鎌倉大草紙 · 続きを見る »
鎌倉市
鎌倉大仏(高徳院) 建長寺 鎌倉宮(大塔宮) 荏柄天神社 鎌倉市(かまくらし)は、神奈川県、三浦半島西側の付け根に位置し、鎌倉を中心部とする市である。.
鎌倉府
明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉府管轄国 浄妙寺〈鎌倉市〉) 鎌倉府(かまくらふ)は、室町時代(南北朝時代)に、室町幕府が関東10か国を統治するために設置した機関である。長官の鎌倉公方は足利基氏とその子孫、それを補佐する関東管領は上杉氏が世襲した。.
鎌倉公方
明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉公方管轄国 新編鎌倉志-関東公方屋敷図 鎌倉公方(かまくらくぼう)とは、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東十か国を統治するために設置した鎌倉府の長官。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称するが、この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれた呼称となる。関東十か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐。 鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となった。 ※鎌倉公方は歴史学用語及び鎌倉公方の自称であって当時の一般呼称ではない。当時の一般呼称は“鎌倉御所”か“鎌倉殿”である。.
菖蒲城
菖蒲城址(2011年6月) 菖蒲城(しょうぶじょう)は、武蔵国埼玉郡新堀村(現在の埼玉県久喜市菖蒲町新堀)にあった日本の城。古河公方足利成氏が、康正2年(1456年)に金田式部則綱に命じて築城させた。城の竣工が5月5日の菖蒲の節句にであったために命名された。天正18年(1590年)小田原征伐ののち廃城となり、以降は徳川家康に仕えた内藤正成が栢間陣屋(現在の久喜市菖蒲町下栢間)を構えて5700石を知行し、上級旗本として14代、幕末まで同地を治めた。.
駿河国
駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
角川書店
角川書店(かどかわしょてん)は、日本の出版社・KADOKAWAのブランドの一つ。東京都千代田区に事業所を置く。 本項では、ブランドカンパニー化以前の株式会社角川書店についても解説する。.
諱
諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.
鳳桐寺
鳳桐寺(ほうとうじ)は、茨城県古河市牧野地にある日蓮宗の寺院。古河公方ゆかりの寺院である『古河市史 民俗編』836-837頁(鳳桐寺)。旧本山は、身延山久遠寺。.
越後国
越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.
足利安王丸
足利 安王丸(あしかが やすおうまる)は、室町時代中期の人物。関東公方足利持氏の子。.
新しい!!: 足利成氏と足利安王丸 · 続きを見る »
足利市
足利市中心部を流れる渡良瀬川 足利市中心部周辺の空中写真。市街地の中央を北西から南東方向へ渡良瀬川が流れる。1986年撮影の19枚を合成作成。国土航空写真。 足利市(あしかがし)は、栃木県南西部にある市。古くは足利庄が栄えて清和源氏義家流・足利氏発祥の地としても知られ、フランシスコ・ザビエルが「坂東の大学」と呼んだ有名な足利学校がある。また、足利学校は2015年4月に日本遺産に認定された。.
足利義尚
足利 義尚(あしかが よしひさ)は、室町時代後期の室町幕府第9代将軍(在職:文明5年(1473年) - 1489年)。 『尊卑分脈』や『足利家官位記』により、晩年に足利義煕(- よしひろ)と改名したことが確認できるが、一般的には義尚の名で知られる。応仁の乱では、叔父の足利義視と将軍職をめぐる対立候補として擁立された。乱後は衰退した幕府権力を回復すべく、六角征伐などの積極的な幕政改革を行なったが、在陣していた近江国の陣中にて病死した。.
足利義久
足利 義久(あしかが よしひさ)は、室町時代中期の人物。関東公方・足利持氏の嫡男。「大若君」と呼称された。.
足利義稙
足利 義稙(あしかが よしたね)は、室町幕府第10代将軍。父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた足利義視。母は裏松重政の娘(日野富子の妹に当たる人物であるが名は伝わらない)。 初名は義材(よしき)。将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)、将軍職復帰後の永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名している。 将軍在職は2つの時期に分かれており、1度目は延徳2年7月5日(1490年7月22日)から明応3年12月27日(1495年1月23日)まで在職した後、約13年半の逃亡生活を送る。2度目は永正5年7月1日(1508年7月28日)から大永元年12月25日(1522年1月22日)まで在職した。.
足利義政
足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は足利 義成(- よししげ)。 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。.
足利義教
足利 義教(あしかが よしのり、義)は、室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の五男。母は側室の藤原慶子で、第4代将軍・足利義持の同母弟。僧侶時代は義円(ぎえん、義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。.
足利高基
足利 高基(あしかが たかもと)は、戦国時代の武将。3代目古河公方(在職:永正9年(1512年) - 天文4年(1535年))。足利政氏の長男。母は不詳。妻は宇都宮成綱の娘・瑞雲院。.
足利氏
足利氏(あしかがし)は、日本の武家のひとつの軍事貴族。本姓は源氏。家系は清和天皇清和源氏の一族の河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府においては御家人であると同時に将軍家一門たる御門葉の地位にあった。室町時代には嫡流が足利将軍家として天下人となった。藤原秀郷の子孫の藤原姓足利氏(藤姓足利氏)に対して源姓足利氏という場合がある。 通字は、「義」(よし、足利将軍家ほか)または「氏」(うじ、鎌倉時代の歴代当主および鎌倉公方・古河公方家など)。.
足利持氏
足利 持氏(あしかが もちうじ)は、室町時代の武将。第4代鎌倉公方(在職:1409年 - 1439年)。第3代鎌倉公方・足利満兼の子。.
足利春王丸
足利 春王丸(あしかが しゅんおうまる/はるおうまる)は、室町時代中期の人物。関東公方足利持氏の子。.
新しい!!: 足利成氏と足利春王丸 · 続きを見る »
足利政知
足利 政知(あしかが まさとも)は、室町時代後期の武将。足利将軍家の一族で、初代堀越公方である。室町幕府6代将軍足利義教の次男で母は幕府奉公衆斎藤氏の娘少弁殿。7代将軍足利義勝の異母弟で8代将軍足利義政と足利義視の異母兄。11代将軍足利義澄の父であり、以後の将軍は政知の家系から続いた。 室町幕府公認の鎌倉公方として下向するが、享徳の乱による関東の混乱及び幕府権力の衰退と上杉氏の内紛などで鎌倉に入れず、手前の伊豆の堀越に留まった。このため、堀越公方と称される。.
足利政氏
足利 政氏(あしかが まさうじ)は、戦国時代の武将。2代目古河公方(在職:延徳元年(1489年) - 永正9年(1512年))。父は足利成氏。母は伝心院(簗田満助の養女、満助の兄・簗田直助(なおすけ)の娘)。.
足利晴氏
足利 晴氏(あしかが はるうじ)は、戦国時代の第4代古河公方(在職:1535年 - 1552年)。室町幕府が正式に認め、尚且つ影響力を持っていた古河公方としては最後の古河公方である。.
鶴岡八幡宮
岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、神奈川県鎌倉市にある神社。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 別称として鎌倉八幡宮とも呼ばれる。武家源氏、鎌倉武士の守護神。鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社として全国の八幡社の中では関東界隈で知名度が高く、近年では三大八幡宮の一社に入ることがある俗に三大八幡とは「大分の宇佐神宮・京都の石清水八幡宮」に「福岡の筥崎宮」または当社のいずれかを合わせた三社を指す。幕末から明治期の資料では、1868年(慶応4年)4月24日付け太政官達に示す八幡宮の例示3社(田中恆清『謎多き神 八幡神のすべて』 p.198 新人物往来社、2010年、ISBN 4404038291。)として官幣大社に列せられている3社は「宇佐・石清水・筥崎」であるが、近年発行された書籍中では「宇佐・石清水・鶴岡」を八幡神社の代表例としている(『全国八幡神社名鑑(別冊歴史読本―神社シリーズ (99))』新人物往来社、2004年、ISBN 4404030991。白井永二、土岐昌訓『神社辞典』東京堂出版、1997年、ISBN 449010474X。)。境内は国の史跡に指定されている。.
新しい!!: 足利成氏と鶴岡八幡宮 · 続きを見る »
茨城県
茨城県(いばらきけん)は、日本の県の一つ。関東地方の北東に位置し、東は太平洋に面する。県庁所在地は水戸市。都道府県人口は全国11位、面積は全国24位である。.
関宿城
関宿城(せきやどじょう)は、千葉県野田市関宿三軒家にあった日本の城である。室町時代に簗田満助または簗田成助によって築かれたとされ、以降から簗田氏の嫡流の関宿簗田家の居城になったと伝わる。江戸時代には関宿藩の藩庁が置かれた。.
関東管領
関東管領(かんとうかんれい)は、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名である。鎌倉公方の下部組織でありながら、任免権等は将軍にあった。当初は関東執事(かんとうしつじ)と言っていた。上杉氏が世襲した。.
門跡
跡(もんせき、もんぜき)は、皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことである。寺格の一つ。元来は、日本の仏教の開祖の正式な後継者のことで「門葉門流」の意であった(この場合は門主とも)。鎌倉時代以降は位階の高い寺院そのもの、つまり寺格を指すようになり、それらの寺院を門跡寺院と呼ぶようになった。 浄土宗の知恩院門跡は浄土門主(もんす)という。 浄土真宗本願寺派の本願寺住職は門主(もんしゅ)、真宗大谷派の僧侶及び門徒の代表者は門首(もんしゅ)と書き、いずれも親鸞の子孫の大谷家から出ている。.
那須資実
那須 資実(なす すけざね)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。那須氏(下那須家)当主。下野国烏山城主。 下那須家当主・那須資持の子として誕生。上那須家との対立は続いていたが、文明4年(1472年)に白河結城氏の結城直朝の仲介により上那須家当主・那須明資の娘を室に迎えるなど関係の修復に努めた。同年、古河城を追われた古河公方・足利成氏の古河復帰に結城氏広や千葉孝胤と共に協力し成し遂げた。 明応元年(1492年)から死去までの間に烏山城の増築を行った。 明応3年(1494年)、死去。家督は子・資房が継いだ。.
野田氏
野田氏(のだし)は日本の武家。 ここでは室町時代・戦国時代に活動した関東野田氏について解説する。野田氏は主に下総国・古河城および栗橋城を根拠とした。鎌倉公方・古河公方の家臣であり、特に古河公方の時代には簗田氏と並ぶ重臣であった。.
野木町
野木町(のぎまち)は、栃木県の南の玄関口とも呼ばれ、下都賀郡に属する町である。北に位置する小山市や、南に位置する茨城県古河市との交流が盛んである。通勤率は、古河市へ18.8%、東京都特別区部へ13.1%、小山市へ12.4%(いずれも平成22年国勢調査)。 もともと農業が盛んな町であったが、東京より約60キロと比較的近い地点に位置することもあり、近年は都心方面のベッドタウン化が進んでいる。また、優良な工業地としても発展を続けている。 森昌子が町賛歌と音頭の歌唱を担当している。.
里見八犬伝 (2006年のテレビドラマ)
『里見八犬伝』(さとみはっけんでん)は、TBS開局50周年記念スペシャルドラマとして、2006年1月2日前編、同1月3日後編で放送された日本のテレビドラマ。 滝沢馬琴著『南総里見八犬伝』を原作とする。 視聴率は (前編)1月2日(月):17.0% (後編)1月3日(火):16.8%.
新しい!!: 足利成氏と里見八犬伝 (2006年のテレビドラマ) · 続きを見る »
里見成義
里見 成義(さとみ しげよし)は、室町時代後期の武将。安房里見氏2代目当主とされる人物。名前は義成(よししげ)とも記される。後世に編纂された系譜や軍記物にその名が見られるが、史料上で実在したという裏づけが取れないため、系譜に付け加えられた架空の人物とする説が主流となっている。しかし生物学的な年代分析から見ての蓋然性からすると、むしろ里見成義の存在を架空とすること自体が里見氏の系譜関係を著しく不自然にする事情などから、この成義の実在が支持する説もある。.
長尾景仲
長尾 景仲(ながお かげなか)は、室町時代中期の武将。山内上杉家の家宰。上野国・武蔵国守護代。上野群馬郡白井城主。太田道真と共に「関東不双の案者(知恵者)」と称された。孫には長尾景春(嫡孫)・太田道灌(外孫)がいる。.
長尾景信
長尾 景信(ながお かげのぶ)は、室町時代中期から後期にかけての武将。山内上杉家の家宰。白井長尾氏4代当主。上野国・武蔵国守護代。.
長尾景春
長尾 景春(ながお かげはる)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。白井長尾氏5代当主。北条早雲と並ぶ関東における下克上の雄の一人である。.
長尾景春の乱
長尾景春の乱(ながおかげはるのらん)は、文明8年(1476年)から文明12年(1480年)にかけて起こった関東管領上杉氏の有力家臣長尾景春による反乱。太田道灌の活躍によって鎮圧された。.
新しい!!: 足利成氏と長尾景春の乱 · 続きを見る »
長享
長享(ちょうきょう)は、日本の元号の一つ。文明の後、延徳の前。1487年から1488年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義尚。.
長享の乱
長享の乱(ちょうきょうのらん)は、長享元年(1487年)から永正2年(1505年)にかけて、山内上杉家の上杉顕定(関東管領)と扇谷上杉家の上杉定正(没後は甥・朝良)の間で行われた戦いの総称。この戦いによって上杉氏は衰退し、駿河今川氏の客将・伊勢宗瑞(北条早雲)の関東地方進出を許す結果となった。.
長禄
長禄(ちょうろく)は、日本の元号の一つ。康正の後、寛正の前。1457年から1461年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.
長禄合戦
長禄合戦(ちょうろくかっせん)とは、長禄2年(1458年)7月頃から長禄3年(1459年)8月11日までの間、越前を舞台として勃発した越前守護斯波義敏と越前守護代甲斐常治の間に勃発した合戦群の総称。.
長谷観音 (古河市)
長谷観音(はせかんのん)は、茨城県古河市にある真言宗豊山派の寺院。正式には、山号を明観山、院号を観音院、寺号を長谷寺という。 古河公方ゆかりの寺院。.
新しい!!: 足利成氏と長谷観音 (古河市) · 続きを見る »
鉢形城
荒川と寄居町 本丸跡にある田山花袋漢詩碑 鉢形城(はちがたじょう)は、埼玉県大里郡寄居町大字鉢形にある戦国時代の日本の城跡である。構造は連郭式平山城。.
雀神社 (古河市)
(すずめじんじゃ)とは、茨城県古河市宮前町(厩町)にある神社。社名の「雀」は「鎮め」(しずめ)が変化したものとされる。旧古河町の総鎮守である。かつては茨城県西部の猿島郡で唯一の郷社であった古河市史民俗編、708-709頁(神社一覧・雀神社)。.
新しい!!: 足利成氏と雀神社 (古河市) · 続きを見る »
暗殺
リンカーン大統領の暗殺を描いた絵画(米国) ガンディー・暗殺されたインドの政治家 金玉均・暗殺された李氏朝鮮の政治家 ジョン・レノン・イングランド出身の音楽家、銃弾を受け死去 坂本龍馬・幕末の英雄、盟友の中岡と共に死去 暗殺(あんさつ)は、主に政治的、宗教的または実利的な理由により、要人殺害を密かに計画・立案し、不意打ちを狙って実行する殺人行為(謀殺)のこと。 見せしめや弾圧、粛清の一種としても存在する。.
東京堂出版
株式会社 東京堂出版(とうきょうどうしゅっぱん)は、東京都千代田区にある日本の出版社。.
新しい!!: 足利成氏と東京堂出版 · 続きを見る »
杉山博
杉山 博(すぎやま ひろし、1918年8月4日 - 1988年10月20日)は日本の歴史学者、東京大学名誉教授。専門は日本中世史。.
校倉書房
校倉書房(あぜくらしょぼう)は、東京都新宿区西早稲田に本社を置く出版社。日本史を中心とした歴史書の出版及び販売を行っている 1959年設立。歴史書懇話会に加盟し、歴史科学協議会の会誌である『歴史評論』を刊行している。.
栃木県
栃木県(とちぎけん)は、日本の都道府県の一つ。関東地方北部に位置する。県庁所在地は宇都宮市。県内には日光国立公園が立地し、日光・那須などの観光地・リゾート地を有する。.
栗橋城
栗橋城(くりはしじょう)は、下総国葛飾郡にあった古河公方ゆかりの日本の城。現在は茨城県猿島郡五霞町元栗橋地内、法宣寺の西から南西に位置する。.
正親町三条実雅
正親町三条 実雅(おおぎまちさんじょう さねまさ)は室町時代中期の公卿。内大臣、従一位。青蓮華院と号す。父は権大納言正親町三条公雅。母は家女房。妹の尹子(瑞春院)は室町幕府第6代将軍足利義教室となった。 子には共に権大納言に至った公綱と公治、女子(右大臣三条公敦の母)がいる。.
新しい!!: 足利成氏と正親町三条実雅 · 続きを見る »
武将
武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.
武田信昌
武田 信昌(たけだ のぶまさ)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名(戦国大名)。甲斐守護。本姓は源氏。家系は甲斐源氏の嫡流武田氏で武田宗家である甲斐武田氏第16代当主。武田信玄の曾祖父。 第15代当主武田信守(弥三郎)の子。正室は河内領主穴山信介の娘(兄弟に穴山信懸)。子に信縄、油川信恵、岩手縄美、松尾信賢、帰雲軒宗存、娘(小笠原清宗妻)など。『寺記』によれば諸角昌清(虎定)と山梨県甲斐市竜王の有富山慈照寺開山の真翁宗見は庶子であるとされるが、真翁宗見に関しては武蔵国の岡部氏の出自であるため、誤伝であることが指摘される。通称は五郎、落合殿。官位は刑部大輔、従五位下。.
武蔵国
武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。.
永享
永享(えいきょう)は、日本の元号の一つ。正長の後、嘉吉の前。1429年9月5日から1441年2月17日までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義教。.
永享の乱
永享の乱(えいきょうのらん)は、室町時代の永享10年(1438年)に関東地方で発生した戦乱。鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発する、室町幕府6代将軍足利義教が持氏討伐を命じた事件、戦いである。.
永享記
『永享記』(えいきょうき)は、室町時代の永享の乱・結城合戦からその後の東国情勢を描いた軍記である。内容は諸史料と比較しても正確で信頼性が高いとされ、現在まで多くの歴史学研究で利用されている。.
永仙院 (古河市)
永仙院(ようぜんいん)は、茨城県古河市桜町(猿島郡長谷村、猿島郡新郷村長谷)にあった臨済宗の寺院。鎌倉円覚寺の末寺。明治初期に廃寺となり、現在は跡地が文化財・史跡として保存されている。『古河市史 通史編』 194-195頁(永仙院) 山号を金蔵山、院号を永仙院という『古河市史 資料 別巻』 298-299頁(古河志・永僊院)。表記は「永僊院」が正字だが、略字の「永仙院」が常用されている。古河公方ゆかりの寺院。.
新しい!!: 足利成氏と永仙院 (古河市) · 続きを見る »
江戸城
江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった日本の城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。 江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。 徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。 国の特別史跡に指定されている。.
渡良瀬川
渡良瀬川(わたらせがわ)は、北関東を流れる利根川水系利根川支流の一級河川である。流路延長107.6kmは利根川の支流中で、鬼怒川、小貝川に次いで第3位の長さを持つ。流域面積2,621km2は利根川の支流中では最大である。.
渋川義鏡
渋川義鏡(しぶかわ よしかね/よしみ)は、室町時代中期から後期にかけての武将。 享徳の乱を鎮める為に室町幕府から関東に派遣された堀越公方・足利政知の補佐役として共に下向するも、扇谷上杉家と対立、失脚した。.
満福寺 (栃木県野木町)
満福寺(まんぷくじ)は、栃木県下都賀郡野木町野渡にある曹洞宗の寺院。正式には、山号を西光山、院号を乾亨院、寺号を満福寺という。古河公方ゆかりの寺院。.
新しい!!: 足利成氏と満福寺 (栃木県野木町) · 続きを見る »
朝尾直弘
朝尾 直弘(あさお なおひろ、 1931年12月17日 - )は、日本史学者、京都大学名誉教授、文化功労者。近世史。大阪府吹田市出身。住友史料館館長。.
成潤
成潤(せいじゅん、生没年不詳)は、室町時代の真言宗の僧侶。鎌倉公方足利持氏の子。鎌倉公方で後に初代の古河公方となった足利成氏は兄弟。成氏と同じく、将軍足利義成(のちの義政)より偏諱(「成」の字)の授与を受けた。.
戦国時代 (日本)
日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.
新しい!!: 足利成氏と戦国時代 (日本) · 続きを見る »
明応
明応(めいおう)は、日本の元号の一つ。延徳の後、文亀の前。1492年から1501年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇、後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義材、足利義澄。.
明治
明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.
斯波義廉
斯波 義廉(しば よしかど)は、室町時代中期から後期の武将、守護大名。室町幕府管領、越前・尾張・遠江守護。斯波氏(武衛家)11代当主。足利氏一門の渋川氏出身で、三管領筆頭の斯波武衛家を相続した。父は渋川義鏡、母は山名氏出身で山名宗全の伯父に当たる山名摂津守(実名不詳)の娘とされている。.
斯波義敏
斯波 義敏(しば よしとし)は、室町時代後期の武将、守護大名。越前・尾張・遠江守護。斯波氏(武衛家)10代当主。父は斯波(大野)持種、義父は斯波義健。子に義寛、斯波義孝室、寛元、義雄。.
斯波氏
斯波氏(しばし)は、日本の武家のひとつ。室町幕府将軍足利氏の有力一門であり、かつ細川氏・畠山氏と交替で管領に任ぜられる有力守護大名であった。越前・尾張・遠江などの守護を世襲し、また分家の大崎氏は奥州探題、最上氏は羽州探題を世襲した。明治維新後に男爵家となった源姓津田氏も、その末裔の一つである。.
新三国橋 (国道354号)
新三国橋(しんみくにばし)、柏戸陸橋(かしわどりっきょう)は、埼玉県加須市柏戸交差点から茨城県古河市牧野地に至る、国道354号のバイパス道路および当バイパスの橋である。.
新しい!!: 足利成氏と新三国橋 (国道354号) · 続きを見る »
文明 (日本)
文明(ぶんめい)は、日本の元号の一つ。応仁の後、長享の前。1469年から1486年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政、足利義尚。.
新しい!!: 足利成氏と文明 (日本) · 続きを見る »
日光山
日光山(にっこうさん)は、栃木県日光市にある輪王寺の山号である。江戸時代には日光寺社群を総称して日光山と呼んだが、明治時代の神仏分離令により輪王寺の山号となった。 日光山は、栃木県北西部にある男体山(2,486m)、女峰山(2,464m)、太郎山(2,368m)の三山を中心とする山岳の総称としても用いられる。.
扇谷上杉家
扇谷上杉家と白井長尾家の関係図 扇谷上杉管領屋敷跡(鎌倉市) 扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。戦国時代には河越城に本拠を移し、武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。.
新しい!!: 足利成氏と扇谷上杉家 · 続きを見る »
曲亭馬琴
曲亭 馬琴(きょくてい ばきん、明和4年6月9日(1767年7月4日) - 嘉永元年11月6日(1848年12月1日))は、江戸時代後期の読本作者。本名は滝沢興邦(たきざわ おきくに、)で、後に解(とく)と改める。号に著作堂主人(ちょさくどうしゅじん)など(#名前について参照)。 代表作は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』。ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできた日本で最初の著述家である。.
10月25日
10月25日(じゅうがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から298日目(閏年では299日目)にあたり、年末まであと67日ある。.
新しい!!: 足利成氏と10月25日 · 続きを見る »
11月27日 (旧暦)
旧暦11月27日は旧暦11月の27日目である。六曜は先勝である。.
新しい!!: 足利成氏と11月27日 (旧暦) · 続きを見る »
1434年
記載なし。
新しい!!: 足利成氏と1434年 · 続きを見る »
1438年
記載なし。
新しい!!: 足利成氏と1438年 · 続きを見る »
1439年
記載なし。
新しい!!: 足利成氏と1439年 · 続きを見る »
1440年
記載なし。
新しい!!: 足利成氏と1440年 · 続きを見る »
1441年
記載なし。
新しい!!: 足利成氏と1441年 · 続きを見る »
1445年
記載なし。
新しい!!: 足利成氏と1445年 · 続きを見る »
1446年
記載なし。
新しい!!: 足利成氏と1446年 · 続きを見る »
1447年
記載なし。
新しい!!: 足利成氏と1447年 · 続きを見る »
1449年
記載なし。
新しい!!: 足利成氏と1449年 · 続きを見る »
1450年
記載なし。
新しい!!: 足利成氏と1450年 · 続きを見る »
1451年
記載なし。
新しい!!: 足利成氏と1451年 · 続きを見る »
1452年
記載なし。
新しい!!: 足利成氏と1452年 · 続きを見る »
1454年
記載なし。
新しい!!: 足利成氏と1454年 · 続きを見る »
1455年
記載なし。
新しい!!: 足利成氏と1455年 · 続きを見る »
1456年
記載なし。
新しい!!: 足利成氏と1456年 · 続きを見る »
1457年
記載なし。
新しい!!: 足利成氏と1457年 · 続きを見る »
1458年
記載なし。
新しい!!: 足利成氏と1458年 · 続きを見る »
1459年
記載なし。
新しい!!: 足利成氏と1459年 · 続きを見る »
1465年
記載なし。
新しい!!: 足利成氏と1465年 · 続きを見る »
1471年
記載なし。
新しい!!: 足利成氏と1471年 · 続きを見る »
1476年
記載なし。
新しい!!: 足利成氏と1476年 · 続きを見る »
1477年
記載なし。
新しい!!: 足利成氏と1477年 · 続きを見る »
1478年
記載なし。
新しい!!: 足利成氏と1478年 · 続きを見る »
1483年
記載なし。
新しい!!: 足利成氏と1483年 · 続きを見る »
1489年
記載なし。
新しい!!: 足利成氏と1489年 · 続きを見る »
1497年
記載なし。
新しい!!: 足利成氏と1497年 · 続きを見る »
1696年
記載なし。
新しい!!: 足利成氏と1696年 · 続きを見る »
1月6日
1月6日(いちがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から6日目にあたり、年末まであと359日(閏年では360日)ある。誕生花はユズリハ。.
2006年
この項目では、国際的な視点に基づいた2006年について記載する。.
新しい!!: 足利成氏と2006年 · 続きを見る »
9月30日 (旧暦)
旧暦9月30日(きゅうれきくがつさんじゅうにち)は、旧暦9月の30日目である。年によっては9月の最終日となる。六曜は友引である。.
新しい!!: 足利成氏と9月30日 (旧暦) · 続きを見る »