301 関係: 南天山城、南北朝時代 (日本)、南部信恩、吉備国、吉備津神社、吉備津神社 (福山市)、大江維時、天平宝字、天平勝宝、天徳 (日本)、天領、天暦、天武天皇、太宰、太田資始、太田資直、太田資言、外様大名、奥出雲町、奴可郡、室町時代、宮氏、守護代、安中藩、安国寺 (福山市)、安芸国、安閑天皇、安那郡、安房勝山藩、寿永、寛平、小田県、小早川煕平、小早川貞平、小早川正平、小早川氏、尼子氏、尼子晴久、尾張国、尾道、尾道市、山名宗全、山名誠豊、山名致豊、山名是豊、山名政豊、山名教豊、山名時義、山名時熙、山上藩、...、山内氏、山陽道、岡山市、岡山県、岡部長泰、岸和田藩、峰山藩、島根県、川越藩、上国、上総国、上道斐太都、上杉重季、中国 (令制国)、中津藩、丹波雅忠、世羅郡、三原市、三吉氏、三宅康之、三上郡、三谿郡、三次市、三次郡、三河吉田藩、三浦弘次、三浦前次、三浦矩次、三浦義次、三浦顕次、三浦誠次、三浦毘次、三浦明喬、三浦明次、一宮、久安、久代氏、京極高長、京極高明、康平、府中市 (広島県)、二ッ山城、広島県、広島藩、五井藩、庄原市、今川貞世、今出川公直、仁多郡、仁木義長、令制国、令制国一覧、延岡藩、延喜式、延喜式神名帳、延長 (元号)、延暦、廃藩置県、伯耆国、御調郡、保元、土石流、土肥実平、刈谷藩、周防国、和名類聚抄、備中国、備中高松城の戦い、備後国の式内社一覧、備後国府、備後福山藩、備後護国神社、備前国、品治郡、内藤政和、内藤政順、内藤政脩、内藤政樹、内藤政挙、出雲国、児島高徳、児島郡、元弘、倉敷県、倉敷支配所、石川王 (吉備大宰)、石川貞通、石見国、石橋和義、神石郡、神護景雲、神辺町、福山市、福山県、福島忠勝、福島正則、福島氏、稲垣重定、稲葉正善、笠岡市、笠間藩、素盞嗚神社 (福山市新市町戸手)、細川頼之、細川頼有、細川頼春、総社、織田信秀、織田信長、織田良信、織田氏、織田敏信、美作勝山藩、美作国、田原藩、田中藩、甲奴郡、牧野貞長、牧野貞通、牧野成央、牧野成貞、盛岡藩、瀬戸内海、芦田郡、鎌倉時代、鞆の浦、鞆町、遠江国、飛地、館山藩、西条藩、角川日本地名大辞典、高師泰、高井野藩、高徳藩、高槻藩、譜代大名、豊前国、貞元 (日本)、越境合併、郡衙、阿部氏 (徳川譜代)、赤座直保、関宿藩、藤原実宗、藤原宮、藤原忠平、藤原園人、藤原元名、藤原祐家、藤原為通、藤原道隆、藤原行成、藤原致忠、藤原朝成、長井頼重、長井貞重、長井泰重、長井時広、長保、長門国、酒井忠利、酒井忠胤、掛川藩、恵蘇郡、東広島市、松平忠雅、正暦、比婆郡、毛利隆元、毛利氏、水野元綱、水野勝貞、水野勝成、永井直英、永治、江戸時代、沼隈郡、波多氏 (古代)、深安郡、深津郡、渡辺氏、渋川義行、源家長、源信明、源行家、源資賢、木下氏、木簡、有馬久保、有馬氏久、有馬氏保、有馬氏郁、戊辰戦争、戦国時代 (日本)、戸田忠綱、明治、明治維新、昭和、浅野氏、新城藩、新市町、新見氏、日向国、日本、日本書紀、旧高旧領取調帳、慶応、拾芥抄、曾我野藩、1059年、10月1日、1142年、1146年、1159年、1183年、11月15日 (旧暦)、11月1日、12月1日、12月20日、12月26日、1332年、1868年、1871年、1872年、1875年、1876年、1898年、1953年、1966年、4月18日、4月1日、5月16日 (旧暦)、6月5日 (旧暦)、754年、764年、789年、7世紀、7月10日、7月14日 (旧暦)、7月5日、889年、897年、8月29日、923年、927年、947年、949年、959年、976年、990年、999年。 インデックスを展開 (251 もっと) »
南天山城
南天山城(なんてんざんじょう)は備後国三谿郡(現・広島県三次市吉舎町)にあった日本の城(山城)。吉舎の市街地と馬洗川を隔ててすぐ西のところに位置する、南天山に広がって残り、戦国時代のこの地方を代表する本格的なものである。.
南北朝時代 (日本)
南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.
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南部信恩
南部 信恩(なんぶ のぶおき)は、陸奥盛岡藩の第5代藩主。.
吉備国
吉備国(きびのくに)は、古代日本の地方国家である。現在の岡山県全域と広島県東部と香川県島嶼部および兵庫県西部(佐用郡の一部と赤穂市の一部など)にまたがり、筑紫、出雲、大和などと並ぶ有力な勢力の一つだった。 別名は、吉備道(きびのみち、きびどう)、備州(びしゅう)。.
吉備津神社
吉備津神社(きびつじんじゃ)は、岡山県岡山市北区吉備津にある神社。式内社(名神大社)、備中国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 「吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)」とも称したが、現在は「吉備津神社」が正式名である。.
吉備津神社 (福山市)
吉備津神社(きびつじんじゃ)は、広島県福山市新市町宮内にある神社。備後国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。 地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と通称される。.
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大江維時
大江 維時(おおえ の これとき)は、平安時代の貴族、学者。伊予権守・大江千古の三男。官位は従三位・中納言、贈従二位。.
天平宝字
天平宝字(てんぴょうほうじ、正字体:天平寶字)は、日本の元号の一つ。天平勝宝の後、天平神護の前。757年から765年までの期間を指す。この時代の天皇は孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇(孝謙天皇重祚)。.
天平勝宝
天平勝宝(てんぴょうしょうほう、正字体:天平勝寶)は、日本の元号の一つ。天平感宝の後、天平宝字の前。749年から757年までの期間を指す。この時代の天皇は孝謙天皇。 天平勝宝7年1月4日、勅命により「年」が「歳」に改められた。このため以後は、天平勝宝七歳・天平勝宝八歳・天平勝宝九歳と表記されたが、天平宝字へ改元した際に「歳」を「年」へ復している。.
天徳 (日本)
天徳(てんとく)は、日本の元号の一つ。天暦の後、応和の前。957年から961年までの期間を指す。この時代の天皇は村上天皇。.
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天領
天領(てんりょう)は、江戸時代における江戸幕府の直轄地の俗称で、このほか幕府直轄領、徳川幕府領、徳川支配地、幕府領、幕領など様々な呼称があり、必ずしも絶対的な単一の歴史用語ではない村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。幕府直轄領は元禄以降、全国で約400万石あった。その領地は日本全国に散らばっており、江戸時代を通じて何らかの形で幕府直轄地が存在した国は51ヶ国と1地域(蝦夷地)に及び、年貢収取の対象となる田畑以外に交通・商業の要衝と港湾、主要な鉱山、城郭や御殿の建築用材の産出地としての山林地帯が編入され江戸幕府の主要な財源であった村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。 幕府直轄地が「天領」と呼ばれるようになったのは明治時代である。大政奉還後に幕府直轄地が明治政府に返還された際に、「天朝の御料(御領)」などの略語として「天領」と呼ばれたのがはじまり。その後、この呼称が江戸時代にもさかのぼって使われるようになった。よって、江戸時代に使われていた呼称ではない。江戸幕府での正式名は御料・御領(ごりょう)であり、その他、江戸時代の幕府法令には御料所(ごりょうしょ、ごりょうじょ)、代官所、支配所(しはいしょ、しはいじょ)とある。江戸時代の地方書では大名領や旗本領を私領としたのに対して公領・公料、また公儀御料所(こうぎごりょうしょ)とある。 大政奉還後の慶応4年(1868年、同年明治元年)には徳川支配地を天領と呼んだ布告があるが、同時期の別の布告では「これまで徳川支配地を天領と称し居候は言語道断の儀に候、総て天朝の御料に復し、真の天領に相成候間」とある。 幕府の直轄地についての呼称については、従来は「天領」と表記していたが、この「天領」という呼称が明治以降の俗称であるという点から、近年では「幕領」と呼ぶ傾向になっており、全国の歴史教科書なども「幕領」への表記の変更が進められている。.
天暦
天暦(てんりゃく)は、日本の元号の一つ。天慶の後、天徳の前。947年から957年までの期間を指す。この時代の天皇は村上天皇。.
天武天皇
天皇系図38~50代 天武天皇(てんむてんのう、? - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。.
太宰
太宰(たいさい、だざい).
太田資始
太田 資始(おおた すけもと)は、江戸時代後期から幕末にかけての大名、老中。遠江掛川藩第5代藩主。掛川藩太田家9代。.
太田資直
太田 資直(おおた すけなお)は、駿河田中藩の初代藩主。掛川藩太田家3代。.
太田資言
太田 資言(おおた すけとき、明和6年(1769年)- 文化7年6月2日(1810年7月3日))は、遠江掛川藩の第4代藩主。掛川藩太田家8代。 第2代藩主・太田資愛の四男。母は側室と言われている。正室は長岡藩・牧野忠精の娘。子は娘(太田資始正室)。官位は従五位下、備後守。.
外様大名
外様大名(とざまだいみょう)は、譜代大名に対して、関ヶ原の戦い前後に新しく徳川氏の支配体系に組み込まれた大名を指す。.
奥出雲町
奥出雲おろちループ 奥出雲町(おくいずもちょう)は、島根県の東部、仁多郡の町。.
奴可郡
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室町時代
室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.
宮氏
宮氏(みやし)は中世日本の備後国の国人。南北朝時代の一時期に備中国の守護を務めたこともある。.
守護代
守護代(しゅごだい)とは、鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職である。.
安中藩
安中藩(あんなかはん)は、上野に存在した藩。藩庁は安中城(現在の群馬県安中市安中3丁目)。.
安国寺 (福山市)
安国寺(あんこくじ)は、広島県福山市鞆町後地にある臨済宗妙心寺派の仏教寺院。山号は瑞雲山。 釈迦堂は国の重要文化財に指定されている。.
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安芸国
安芸国(あきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.
安閑天皇
安閑天皇(あんかんてんのう、雄略天皇10年?(466年?) - 安閑天皇2年12月17日(536年1月25日?))は、第27代天皇(在位:継体天皇25年2月7日(531年3月10日?) - 安閑天皇2年12月17日(536年1月25日?))。.
安那郡
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安房勝山藩
安房勝山藩(あわかつやまはん)は、安房国平郡の勝山陣屋(現・千葉県安房郡鋸南町勝山)に藩庁を置いた藩。 1668年以降、酒井氏(若狭小浜藩の分家)が藩主を務め、廃藩置県まで9代約200年にわたって存続した。これは安房国に藩庁を置いた藩の中で最長である。酒井家時代の石高は1万2000石で、所領は越前国・上野国にも存在した。明治維新後は加知山藩(かちやまはん)に改称した。.
寿永
寿永(じゅえい、正字体:壽永)は、日本の元号の一つ。養和の後、元暦の前。1182年から1183年までの期間を指す。この時代の天皇は安徳天皇と後鳥羽天皇。後白河法皇の院政期。 源氏と平家が相争った治承・寿永の乱の時代。源頼朝の源氏方ではこの元号を使用せず以前の治承を引き続き使用していたが、源氏方と朝廷の政治交渉が本格化し、朝廷から寿永二年十月宣旨が与えられた寿永2年(1183年)以降、京都と同じ元号が鎌倉でも用いられるようになる。また、平家方では都落ちした後も次の元暦とその次の文治の元号を使用せず、この寿永をその滅亡まで引き続き使用した。.
寛平
寛平(かんぴょう、かんびょう、かんぺい、かんべい)は、日本の元号の一つ。仁和の後、昌泰の前。889年から898年までの期間を指す。この時代の天皇は宇多天皇、醍醐天皇。.
小田県
小田県(おだけん)は、1871年(明治4年)に備中国および備後国東部を管轄するために設置された県。現在の岡山県西部、広島県東部にあたる。設置当時は深津県(ふかつけん)と称した。.
小早川煕平
小早川 煕平(こばやかわ ひろひら)は、室町時代中期から後期の武将。安芸国を拠点に置く沼田小早川氏の当主。諱の「煕」の字は、同国守護・山名時熙の偏諱を受けたものと考えられる。.
小早川貞平
小早川 貞平(こばやかわ さだひら)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。沼田小早川氏の当主。.
小早川正平
小早川 正平(こばやかわ まさひら)は、戦国時代の武将。安芸の国人領主。沼田小早川氏の当主。 大永3年(1523年)、小早川興平の長男として生まれる。大永6年(1526年)、父の死去により家督を継いで当主となる。はじめ大内氏に従属していたが、天文8年(1539年)に大内氏を裏切って尼子氏に従属しようとした。しかし事前に大内義隆に事が露見したため、義隆によって派遣された大内軍によって居城の高山城を占領され、さらに大内氏の城番を派遣されて監視下に置かれることとなった。 天文11年(1542年)、大内義隆が出雲遠征を開始すると(月山富田城の戦い)、それに従軍した。しかし大内軍が大敗を喫して全軍撤退となったとき、義隆より殿軍を命じられ、天文12年(1543年)5月9日に尼子軍の攻撃を受けて出雲鳶巣川にて21歳で討死した。長男の繁平が跡を継いだ。後に義隆の横槍で平賀氏を継いだ平賀隆保は従弟に当たる。.
小早川氏
小早川氏(こばやかわうじ/こばやかわし)は、日本の氏族の一つ。著名な一族は中世から近世にかけての武家。.
尼子氏
尼子氏(あまごし)は、京極氏の一族で代々出雲守護代を務めた。京極氏から室町時代中期に分かれた家であり、京極尼子家とも呼ばれる。山陰地方で活動し、戦国大名となった一族である。こちらの一族は出雲尼子氏と呼ばれ最盛期には中国八カ国を領域に起き120万石の広大な領土を支配した。通字は「久」(ひさ)。.
尼子晴久
尼子 晴久(あまご はるひさ)は、戦国時代、出雲国の戦国大名、出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆の守護大名。尼子経久の嫡孫に当たる。山陰山陽十一カ国のうち、八カ国の守護を兼任し中国地方一の大大名となった。また大内、毛利両軍をよく制した。八カ国守護とも言われる。.
尾張国
尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
尾道
尾道(おのみち)は、広島県尾道市および備後国御調郡の歴史的地名。現在の尾道市の旧市街地にあたる。.
尾道市
尾道市(おのみちし)は、広島県の南東部、山陽地方のほぼ中南部に位置する市である。.
山名宗全
山名宗全公之墓、南禅寺在真乗院、京都市左京区 山名 宗全 / 山名 持豊(やまな そうぜん/やまな もちとよ)は、室町時代の武将、守護大名。家系は新田氏庶流の山名氏。室町幕府の四職の家柄で侍所頭人。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。山名時熙の3男で、母は山名氏清の娘。諱は持豊で、宗全は出家後の法名。応仁の乱の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。.
山名誠豊
山名 誠豊(やまな のぶとよ、明応2年(1493年) - 大永8年3月14日(1528年4月3日))は戦国時代の武将、大名。但馬・備後守護。父は山名政豊。兄に常豊、俊豊、致豊。養子に兄・致豊の子で甥にあたる祐豊。法名は光明院殿玄峰大通大居士。.
山名致豊
山名 致豊(やまな むねとよ/おきとよ、応仁2年(1468年) - 天文5年7月3日(1536年7月20日))は、戦国時代の大名。但馬・備後守護。山名政豊の子。兄弟に常豊、俊豊、誠豊。子に安豊、祐豊、豊定。.
山名是豊
山名 是豊(やまな これとよ)は、室町時代の武将、守護大名。備後・安芸・山城守護。山名持豊(宗全)の次男。子に頼忠(よりただ)がいる。 父とは不仲であり、寛正元年(1460年)に兄の教豊が父と対立して播磨へ下向した時に家督を譲られることを望んだが却下されたこと、寛正3年(1462年)に細川勝元から備後・安芸守護職に任じられて河内嶽山城で畠山義就と戦ったこと(嶽山城の戦い)、寛正5年(1464年)に山城守護職にも任命されたことなどが原因で応仁の乱では東軍の細川勝元方につき、父の率いる西軍と争った。 猛将として知られる吉川経基や毛利豊元を従え上洛、応仁2年(1468年)に備後へ戻り西軍勢力と交戦、翌文明元年(1469年)に再上洛して摂津で大内政弘軍を迎撃し破り、西軍の拠点の1つ船岡山を攻撃し奪取、摂津神呪寺や山城西岡・勝竜寺城で西軍と戦うなど在京中の戦いにおいては活躍するが、文明2年(1470年)に備後に西軍が乱入したため12月23日に再度備後に戻り西軍と戦う。文明7年(1475年)に東軍である小早川煕平が篭もる高山城への援護にむかったものの遅参し、備後に到着時には既に東西両軍が和睦をした後であるなど失態を演じ人望を失い、備後を追放された。以後の消息は不明、甥とも弟ともされる山名政豊が備後・安芸・山城守護となった。 備後山名氏は政豊の子である山名俊豊が継承するも、俊豊は父と対立し、度重なる内訌を見た傘下の国人領主は続々と山名氏から離反、備後における山名氏の力はその後急速に衰退した。戦国時代、山名理興に滅ぼされたとされる山名忠勝(氏政)は備後山名氏の末裔とされるがその系譜ははっきりとはしない。.
山名政豊
山名 政豊(やまな まさとよ)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名。山城・安芸・但馬・備後守護。応仁の乱の西軍総大将で知られる山名宗全の後継者。「政」の字は8代将軍足利義政より偏諱を賜ったものと思われる。.
山名教豊
山名 教豊(やまな のりとよ)は、室町時代後期の守護大名。但馬・播磨・備後・安芸守護。山名宗全(持豊)の嫡男。 応永31年(1424年)、山名宗全の嫡男として生まれる。室町幕府第6代将軍・足利義教と父・宗全(持豊)より1字ずつ賜り教豊と名乗る。嘉吉元年(1441年)に義教が赤松満祐に暗殺されると父と共に播磨へ侵攻(嘉吉の乱)、文安4年(1447年)に将軍家の椀飯を務めた。 享徳3年(1454年)、父が第8代将軍・足利義政の怒りを買い但馬へ下向し隠居した為、家督を譲られて山名氏当主となり、但馬・播磨・備後・安芸4ヶ国の守護となる。翌康正元年(1455年)5月、父が失脚した際に赤松則尚が播磨奪回をはかり山名領へ侵攻すると、父と共に赤松軍を備前へ追い払った。以後、長禄2年(1458年)に父が赦免されるまで京都へ向かい、幕府に出仕した。 畠山氏の内紛に際しては、畠山義就を支持する父に難色を示しており、寛正元年(1460年)に父と仲違いして播磨へ下向した。その後対立は解消したが、弟の是豊が父に不満を抱き、山名氏の対立も応仁の乱へ影響した。 応仁元年(1467年)9月9日、父に先立って陣没。享年44。父が一旦当主に復帰した後に、家督を嫡男(弟とも)の政豊が継いだ。.
山名時義
山名 時義(やまな ときよし)は、南北朝時代の武将・守護大名。室町幕府侍所頭人・小侍所別当、美作国・伯耆国・但馬国・備後国守護。応仁の乱で有名な山名宗全(持豊)は孫に当たる。.
山名時熙
山名 時熙(やまな ときひろ)は、南北朝時代から室町時代の武将、守護大名。室町幕府相伴衆、侍所頭人、但馬・備後・安芸・伊賀守護。父は山名時義で長男。養子として入った兄弟(従兄)に氏之。正室は山名氏清の娘(山名師義の娘とも)。子に満時、持熙、持豊(宗全)。猶子に熙高(ひろたか)。官位は宮内少輔、右衛門佐、右衛門督。法名、常熙(じょうき)。.
山上藩
山上藩(やまかみはん)は、近江国(現在の滋賀県東近江市山上町)に存在した藩。藩庁は山上陣屋。.
山内氏
山内氏(やまうちし、やまのうちし)は、日本の氏族の一つ。山内首藤氏(やまのうち すどう)や土佐藩藩主となった山内氏が知られる。.
山陽道
山陽道(さんようどう、かげとものみち)は、五畿七道の一つである。 本州西部の瀬戸内海側の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。 行政区分としては、影面道、光面道(かげとものみち)、または中国(ちゅうごく)とも称された。 街道においては江戸時代を中心に、.
岡山市
岡山市(おかやまし)は、中国地方、岡山県の南東部に位置する市。政令指定都市および同県の県庁所在地である。.
岡山県
岡山県(おかやまけん)は、日本の都道府県のひとつ。中国地方南東部に位置し、瀬戸内海に面する県。県庁所在地は岡山市である。.
岡部長泰
岡部 長泰(おかべ ながやす)は、和泉岸和田藩の第3代藩主。岸和田藩岡部家4代。 第2代藩主・岡部行隆の長男として江戸にて生まれる。初名は宣就。貞享3年(1686年)8月25日、父の隠居により跡を継いだ。藩財政は豊かで、祖父岡部宣勝や父の藩政のもとで岸和田藩は全盛期を迎えていたが、長泰は奢侈を戒めて倹約を主とした法令を定めている。また文武を奨励し、特に儒学を好んで林鳳岡に儒学を学び、自らも講師として藩士などに儒学を講じている。和歌をたしなみ、武芸を好むという智勇に優れた人物でもあった。民政においても善政を布いたことから、「誉ある将」と賞賛されている。 元禄16年(1703年)、京都の伏見稲荷大社を岸和田城三の丸に勧請し、五穀豊穣を祈願する稲荷祭を行った。これが全国的に有名な「岸和田だんじり祭」の起源となった。 宝永元年(1704年)、姫路藩主本多忠国の死去に伴い、大和川付け替え工事の引継ぎを幕府より命ぜられ、完遂するなど、水利・治水に精通するなど民政に手腕を認められていた。 享保6年(1721年)9月22日、家督を次男の長敬に譲って隠居し、享保9年(1724年)7月18日に岸和田で死去した。享年75。墓所は大阪府岸和田市の泉光寺。.
岸和田藩
和泉国岸和田城絵図/国立公文書館内閣文庫所蔵 岸和田藩(きしわだはん)は、かつて和泉国南郡・日根郡などを領有した藩。藩庁は南郡岸和田(現在の大阪府岸和田市)の岸和田城。.
峰山藩
峰山藩(みねやまはん)は、丹後国に存在した藩。小藩とはいえ、戦国大名の京極高知が関ヶ原の戦いの戦功で得た丹後一国の領土の一部を受け継いてきた藩である。.
島根県
島根県(しまねけん)は、日本の中国地方の日本海側である山陰地方の西部をなす県。県庁所在地は松江市。離島の隠岐島、竹島なども島根県の領域に含まれる。旧国名は出雲国・石見国・隠岐国であり、現在でも出雲地方・石見地方・隠岐地方の3つの地域に区分されることが多い。全国では鳥取県に次いで2番目に人口が少ない。.
川越藩
川越藩(かわごえはん)は、武蔵国入間郡(現在の埼玉県川越市)周辺を領した藩。武蔵国一の大藩。藩庁は川越城に置かれた。.
上国
上国(じょうこく、じょうごく)とは、律令国の等級区分の一つである。.
上総国
上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。.
上道斐太都
上道 斐太都(かみつみち の ひたつ、生年不詳 - 神護景雲元年9月23日(767年10月20日))は、奈良時代の貴族。名はのち正道。姓は臣のち朝臣。官位は従四位下・備前国造。.
上杉重季
上杉 重季(うえすぎ しげすえ)は、南北朝時代の武士。従来、実名は顕能(あきよし)とされてきたが、近年の研究によって、実名が重季と判明し、彼とは別に「顕能」と称する人物(重能の実子)がいたと考えられている。.
中国 (令制国)
中国(ちゅうごく)とは、律令国の等級区分の一つである。国力(規模)による分類と、畿内からの距離による分類の2種類の分け方が存在した。.
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中津藩
中津藩(なかつはん)は、豊前国下毛郡中津(現在の大分県中津市)周辺を領有した藩。藩庁は中津城に置かれた(一時、藩庁は小倉城に移る)。.
丹波雅忠
丹波 雅忠(たんば の まさただ、治安元年(1021年) - 寛治2年2月18日(1088年3月13日))は、平安時代中期の医師。丹波康頼の曽孫。典薬頭・丹波忠明の子。官位は正四位下・主税頭。.
世羅郡
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三原市
三原市(みはらし)は、広島県の南部に位置する市。.
三吉氏
三吉氏(みよしし、みよしうじ)は、日本の氏族の一つ。藤原鎌足の子孫、藤原兼範(かねのり、藤原行成の子)を祖とし、備後国の国人領主として成長した備後三吉氏が有名。.
三宅康之
三宅 康之(みやけ やすゆき)は、三河田原藩の第5代藩主。田原藩三宅家8代。.
三上郡
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三谿郡
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三次市
三次市(みよしし)は、広島県の北部に位置する市。.
三次郡
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三河吉田藩
三河吉田藩(みかわよしだはん)は、三河国吉田(現在の愛知県豊橋市今橋町)を領した藩。藩庁は吉田城。明治維新後に豊橋藩(とよはしはん)と改称された。譜代大名が歴代藩主を務め、吉田藩に入部することは、幕閣になるための登竜門のひとつであった。.
三浦弘次
三浦 弘次(みうら ひろつぐ)は、江戸時代幕末期の大名。美作勝山藩の第9代藩主。美作勝山藩三浦家14代。.
三浦前次
三浦 前次(みうら ちかつぐ)は、江戸時代中期から後期の大名。美作勝山藩の第3代藩主。美作勝山藩三浦家8代。.
三浦矩次
三浦 矩次(みうら のりつぐ)は、江戸時代中期の大名。美作勝山藩の第2代藩主。美作勝山藩三浦家7代。.
三浦義次
三浦 義次(みうら よしつぐ)は、江戸時代後期の大名。美作勝山藩の第7代藩主。美作勝山藩三浦家12代。.
三浦顕次
三浦 顕次(みうら たかつぐ/あきつぐ)は、江戸時代幕末期の大名。美作勝山藩(真島藩)の第10代(最後の)藩主。美作勝山藩三浦家15代。.
三浦誠次
三浦 誠次(みうら のぶつぐ)は、美作勝山藩の第5代藩主。美作勝山藩三浦家10代。 渡辺玄対に画を学び、「虎丘」と号していた。.
三浦毘次
三浦 毗次(みうら てるつぐ)は、美作勝山藩の第4代藩主。美作勝山藩三浦家9代。.
三浦明喬
三浦 明喬(みうら あきたか)は、江戸時代中期の大名。三河刈谷藩の第2代藩主。美作勝山藩三浦家第4代。.
三浦明次
三浦 明次(みうら あきつぐ)は、三河西尾藩の第2代藩主、美作勝山藩の初代藩主。美作勝山藩三浦家6代。.
一宮
一宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。一の宮・一之宮などとも書く。.
久安
久安(きゅうあん)は、日本の元号の一つ。天養の後、仁平の前。1145年から1150年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇。.
久代氏
久代氏(くしろし)は、備後国の大豪族、宮氏族、藤原氏北家房前の後裔である。.
京極高長
京極 高長(きょうごく たかなが、元禄8年5月1日(1695年6月12日)- 明和6年4月3日(1769年5月8日))は、丹後峰山藩の第5代藩主。陸奥棚倉藩主(のち越後村上藩主)内藤弌信の三男(四男との説もある)。正室は京極高之の娘。官位は従五位下、備後守、主膳正。 元禄8年(1695年)5月1日、陸奥棚倉で生まれる。正徳4年(1714年)、先代藩主・高之の婿養子となった。享保8年(1723年)、高之の死去で跡を継ぐ。明和2年(1765年)8月8日、養嗣子の高久に家督を譲って隠居し、明和6年(1769年)4月3日に江戸で死去した。享年75。 法号は源寥院廓誉常光道仙。墓所は東京都江東区白河の道本山霊巌寺。後に京都府京丹後市峰山町吉原の安泰山常立寺に改葬。 *05 たかなか Category:内藤家 (信成系) Category:棚倉藩の人物 Category:1695年生 Category:1769年没.
京極高明
京極 高明(きょうごく たかあき、万治3年4月25日(1660年6月2日)- 享保11年12月2日(1726年12月24日))は、丹後峰山藩の第3代藩主。第2代藩主・京極高供の長男。母は松平忠明の娘。正室は熊谷依貞の娘。子は京極高之(長男)、京極高重(次男)、本間季明(四男)。官位は従五位下、隼人正、備後守、主膳正。 万治3年(1660年)4月25日、近江にて生まれる。延宝2年(1674年)、父の死去により跡を継ぐ。藩政では検地に尽力した。元禄12年(1699年)4月29日、病気を理由に家督を長男・高之に譲って隠居し、宝永7年(1710年)閏8月に剃髪して道意と号した。享保11年(1726年)12月2日、67歳で死去した。 *03 たかあき Category:近江国の人物 Category:1660年生 Category:1726年没.
康平
康平(こうへい)は、日本の元号の一つ。天喜の後、治暦の前。1058年から1064年までの期間を指す。この時代の天皇は後冷泉天皇。.
府中市 (広島県)
府中市(ふちゅうし)は、広島県の南東部に位置する市である。 「府中」は国府所在地を表す一般名詞で日本各地にあり、また東京都には同一市名の府中市(武蔵府中)が、広島県内にも安芸郡府中町(安芸府中)が存在する。広島県府中市は備後国の府中であり、他の府中と区別するために「備後府中」とも呼ぶ。.
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二ッ山城
二ッ山 二ッ山城(ふたつやまじょう)は、備後国(現・広島県三次市和知町字尾越(おごえ))及び庄原市山内(やまのうち)町字尾引(おびき)の二ッ山(標高382m)にあった日本の城。.
広島県
広島県(ひろしまけん)は、日本の中国地方に位置する都道府県の一つ。瀬戸内海に面する。県庁所在地は広島市。.
広島藩
広島藩(ひろしまはん)は、安芸国一国と備後国の半分を領有した大藩で、現在の広島県の概ね半分にあたる。藩庁は広島城(現在の広島市)に置かれた。芸州藩(または安芸藩)と呼ばれることも多い。.
五井藩
五井藩(ごいはん)は、上総国市原郡五井(現在の千葉県市原市五井)の五井陣屋に藩庁を置いた藩。江戸時代後期、伊勢西条藩主の有馬家(1万石)が藩庁を五井に移すことで成立し、5代約60年間存続した。.
庄原市
帝釈峡の雄橋 庄原市(しょうばらし)は、広島県の北東部に位置する市。2016年4月現在、全国の市町村で13番目の面積を有する。近畿以西では最も広い。.
今川貞世
今川 貞世(いまがわ さだよ)は、鎌倉時代後期から南北朝・室町時代の武将、守護大名。室町幕府の九州探題、遠江、駿河半国守護。九州探題赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ねた。歌人としても名高い。法名は了俊(りょうしゅん)で、今川了俊と呼ばれる事も多い。没年は異説あり。.
今出川公直
今出川 公直(いまでがわ きんなお、建武2年(1335年) - 応永3年(1396年)5月)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての公卿。後村上天皇(97代)から後小松天皇(100代)にわたって仕え、官位は従一位右大臣まで昇る。父は権大納言今出川実尹。母は為基朝臣の娘。弟に右大臣今出川実直がいる。 延元2年/建武4年(1337年)叙爵。以降、侍従・左近衛少将・備後介・左近衛中将などを経て、正平4年/貞和5年(1349年)に従三位となり公卿に列する。その後も参議や権中納言・検非違使別当を経て、正平14年/延文4年(1359年)に権大納言に就任する。その後も大納言・右近衛大将・内教坊別当などを経て、天授3年/永和3年(1377年)に内大臣拝命。弘和元年/永徳元年(1381年)には従一位へと進む。応永元年(1394年)には右大臣に任じられたがすぐに辞す。その翌年に左大臣となるもやはりすぐに辞している。.
仁多郡
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仁木義長
仁木 義長(にっき よしなが、生年不詳 - 天授2年/永和2年9月10日(1376年10月23日))は、室町時代前期(南北朝時代)の武将。通称は仁木次郎四郎。越後守、右馬権頭、修理亮、右馬助、右京大夫。父は仁木義勝。子は仁木義員、仁木満長。兄に仁木頼章がいる。.
令制国
北海道11か国(ただし、千島を除く)追加を反映した。 令制国(りょうせいこく)とは、日本の律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分である。律令国(りつりょうこく)ともいう。奈良時代から明治初期まで、日本の地理的区分の基本単位だった。 令制国の行政機関を国衙(こくが)または国庁(こくちょう)といい、国衙の所在地や国衙を中心とする都市域を国府(こくふ)といった。また、国府は府中と呼ばれることもあった。.
令制国一覧
大宝元年)から702年(大宝2年)まで。黄色で示す地域が制度の及ぶ範囲。 鎌倉時代から1868年(明治元年)まで 明治初期の令制国の配置 令制国一覧(りょうせいこくいちらん)は、7世紀後半からの日本国内の地方行政区分、国(令制国)の一覧である。 令制国の改廃は、奈良時代までと明治時代になされ、その間の平安時代から江戸時代には長期にわたって変更がなかった。.
延岡藩
延岡藩(のべおかはん)は、日向国北部と現在の宮崎市の北部を領有した藩で、牧野氏以降明治維新までは豊後国等の一部をも領有した。また、有馬氏期までの延岡は縣(県)と称していたので縣(県)藩(あがたはん)とも呼ばれる。藩庁は縣城(延岡城)(宮崎県延岡市)。.
延喜式
延喜式(えんぎしき)は、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。.
延喜式神名帳
延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である。.
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延長 (元号)
延長(えんちょう)は、日本の元号の一つ。延喜の後、承平の前。923年から931年までの期間を指す。この時代の天皇は醍醐天皇、朱雀天皇。.
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延暦
延暦(えんりゃく、正字体:延曆)は、日本の元号の一つ。昭和、明治、応永、平成に次いで、歴代で5番目に長い元号である。天応の後、大同の前。782年から806年までの期間を指す。この時代の天皇は桓武天皇。 1418年(応永25年)までの600年以上にわたって、最も長い日本の元号であった。その後1892年(明治25年)まで、日本で2番目に長い元号であった。1950年(昭和25年)までは3番目、2013年(平成25年)までは4番目に長い日本の元号であり、2014年(平成26年)以降は歴代で5番目に長い元号となっている。.
廃藩置県
廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.
伯耆国
伯耆国(ほうきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.
御調郡
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保元
保元(ほうげん、ほげん)は、日本の元号の一つ。久寿の後、平治の前。1156年から1158年までの期間を指す。この時代の天皇は後白河天皇、二条天皇。.
土石流
土石流(どせきりゅう、英語:debris flow)とは、土砂が水(雨水や地下水)と混合して、河川・渓流などを流下する現象のこと。土砂災害の原因の一つ。山津波(やまつなみ)ともいう。.
土肥実平
土肥の椙山の「しとどの窟」。真鶴にも「しとどの窟」跡がある 土肥 実平(どひ さねひら / どい - )は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。桓武平氏良文流中村宗平の次男。相模土肥氏の祖であり、小早川氏の祖とされる。 相模国の有力豪族中村氏の一族で、足下郡(現在の神奈川県足柄下郡湯河原町および真鶴町)土肥郷を本拠とし早川庄預所を務め、父や弟の土屋宗遠と共に相模国南西部において「中村党」と称される有力な武士団を形成していた。 現在のJR東海道本線湯河原駅から城願寺の辺りが居館であったと言われている。.
刈谷藩
刈谷藩(かりやはん)は、三河国に存在した藩の一つ。江戸時代の名称は刈屋藩。藩庁は刈谷城(亀城。現在の愛知県刈谷市城町)に置かれた。.
周防国
周防国(すおうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.
和名類聚抄
和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。承平年間(931年 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。略称は和名抄(わみょうしょう)。.
備中国
備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.
備中高松城の戦い
備中高松城の戦い(びっちゅうたかまつじょうのたたかい)は、日本の戦国時代におきた戦い。天正10年(1582年)に織田信長の命を受けた家臣の羽柴秀吉が毛利氏配下の清水宗治の守備する備中国高松城を攻略した戦いである。秀吉は高松城を水攻めによって包囲したことから、高松城の水攻め(水責め)とも呼ばれる。 水攻めの最中に主君である織田信長が明智光秀に討たれる本能寺の変が起きた。その報を聞いた秀吉はただちに毛利方と和睦を結んで、城主清水宗治の切腹を見届けた後、明智光秀を討つために軍を姫路へ引き返した。.
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備後国の式内社一覧
備後国の式内社一覧(びんごのくにのしきないしゃいちらん)は、『延喜式』第9巻・第10巻「神名帳上下」(延喜式神名帳)に記載のある神社、いわゆる「式内社」およびその論社のうち、備後国に分類されている神社の一覧。 また『延喜式』神名帳の編纂当時に存在したが同帳に記載の無い神社、いわゆる「式外社」についても付記する。.
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備後国府
備後国府(びんごこくふ)は、古代備後国を統治するために置かれた地方行政府。広島県府中市市街地北部一帯に位置したとされ広報 ふちゅう 2016年7月1日(1214号) 府中市人事課秘書課編集発行2016年7月20日閲覧 、跡地の一部は「備後国府跡」として国の史跡に指定されている平成28年10月3日文部科学省告示第140号。。.
備後福山藩
福山城再建天守 正保城絵図「備後国福山城図」 福山藩(ふくやまはん)は、主に備後国(広島県東部)南部、備中国南西部周辺を領有した藩。藩庁は福山城(福山市)。石高(表高)は10万石で、阿部家7代藩主阿部正弘から11万石。.
備後護国神社
備後護国神社(びんごごこくじんじゃ)は広島県福山市丸之内の福山城北側にある護国神社である。旧社格は内務大臣指定護国神社で、戦後別表神社となった。旧称阿部神社。 祭神は備後国出身の護国の英霊、大彦命・武沼河別命・豊幹別命および阿部正弘をはじめとする歴代備後福山藩主である。.
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備前国
備前国(びぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.
品治郡
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内藤政和
内藤 政和(ないとう まさとも、天明7年6月2日(1787年7月16日)) - 文化3年10月17日(1806年11月26日))は、日向延岡藩の第5代藩主。延岡藩内藤家宗家10代。 第3代藩主内藤政脩の長男。官位は従五位下、備後守。幼名は亀之助。 天明7年(1787年)6月2日、江戸で生まれる。寛政12年(1800年)、先代藩主の政韶の養嗣子となり、享和2年(1802年)の政韶の死去により跡を継ぐ。しかし、文化3年(1806年)10月17日、20歳の若さで江戸にて死去した。嗣子がなく、跡を養父・政韶の長男の政順が継いだ。法号は敬徳院。墓所は神奈川県鎌倉市の光明寺。 まさとも Category:譜代大名 Category:延岡藩主 Category:1787年生 Category:1806年没.
内藤政順
内藤 政順(ないとう まさより、寛政8年2月15日(1796年3月23日)) - 天保5年8月21日(1834年9月23日))は、日向延岡藩の第6代藩主。延岡藩内藤家宗家11代。 第4代藩主内藤政韶の長男。正室は井伊直中の娘・繁子(允姫、後の充真院)。官位は従五位下、右京亮。備後守。幼名は亀之進。 寛政8年(1796年)2月15日、江戸で生まれる。文化3年(1806年)に先代藩主の政和が若死にしたため、その跡を継ぐこととなった。蝋・和紙・菜種などの生産にも力を注ぎ、物産方役所や紙方会所を開設し、専売制を強化した。一方で自らの倹約には熱心ではなく、当時延岡に滞在した佐藤信淵から批判を受けたとされる。1812年(文化9年)、宮崎神宮の社殿を造営した。 天保5年(1834年)8月21日に39歳で死去した。嗣子がなく、繁子の実弟で養嗣子の政義が跡を継いだ。法号は海上院明山居士。墓所は神奈川県鎌倉市の光明寺。 政順の没後、髪をおろし充真院と称した繁子は、紀行記である「五十三次ねむりの合の手」、「海陸返り咲ことばの手拍子」、「三下りうかぬ不調子」、「午のとし十二月より東京行記」、延岡の日常を記した随筆である「色々見聞きしたる事を笑ひに書」など多くの著を残した。 まさより Category:延岡藩主 Category:譜代大名 Category:1796年生 Category:1834年没.
内藤政脩
内藤 政脩(ないとう まさのぶ)は、日向延岡藩の第3代藩主。延岡藩内藤家宗家8代。.
内藤政樹
内藤 政樹(ないとう まさき、1703年12月7日(元禄16年10月29日)- 1766年10月27日(明和3年9月24日))は、陸奥国磐城平藩の第6代藩主、日向国延岡藩の初代藩主。延岡藩内藤家宗家6代。 磐城平藩世嗣だった内藤義英(露沾)の長男。子に内藤政堯(長男、早世)、娘(三浦明次継室のち小出有相継室)らがいる。官位は従五位下、備後守。.
内藤政挙
内藤 政挙(ないとう まさたか)日向延岡藩の第8代(最後)の藩主。延岡藩内藤家宗家13代。.
出雲国
出雲国(いずものくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.
児島高徳
児島 高徳(兒嶋 髙德、こじま たかのり)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍したとされる武将。備前国児島郡林村出身。従五位下・備後守を賜る。『太平記』中では和田、今木といった苗字で表記される場合もあり、「児島」を「小島」と書き換える表記も散見される。 元弘元年(1331年)の元弘の乱以降、後醍醐天皇に対して忠勤を励み、南北朝分裂後も一貫して南朝側に仕えた。晩年は出家し、志純義晴と号したという。正式な法名は志純義晴大徳位。 江戸時代以降、南朝の忠臣として讃えられ、国民的英雄のひとりとなった。その一方で具体的な活動を示す文献が軍記物語の『太平記』以外にはないために、近代的考証史学の観点から実在性を否定している学説も根強い。また、同書の編者である小島法師(1374年没)と同一人物とする説や、地元の勢力がある山伏出身、あるいは悪党出身と見る説もある。.
児島郡
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元弘
元弘(げんこう)は、日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年から1333年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.
倉敷県
倉敷県(くらしきけん)は、1868年(慶応4年)に美作国、備中国、備後国内の幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって設置された県。管轄地域は何度か変遷しているが、現在の岡山県、広島県、香川県に広く分布している。.
倉敷支配所
倉敷支配所(くらしきしはいしょ、くらしきしはいじょ)は、江戸時代の日本における領地の一つである。江戸幕府直轄領(天領)のうち、備中国窪屋郡倉敷村(現在の岡山県倉敷市中心部)に置かれた倉敷代官所(くらしきだいかんしょ、くらしきだいかんじょ)に着任した倉敷代官が管轄した領地である。.
石川王 (吉備大宰)
石川王(いしかわのおおきみ、生年不詳 - 天武天皇8年3月9日(679年4月24日))は、日本の飛鳥時代の皇族。系譜は明らかでないが、敏達天皇皇子の難波皇子の子とする系図がある鈴木真年『百家系図』巻59 路真人。天武天皇の治下で吉備大宰を務めた。.
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石川貞通
石川 貞通(いしかわ さだみち)は、安土桃山時代の武将、大名。諱は家清とも。.
石見国
石見国(いわみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.
石橋和義
石橋 和義(いしばし かずよし/まさよし)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。吉田義博の子。石橋氏初代当主。足利直義派の宿将と言われるが、観応の擾乱初期から尊氏派としての旗幟を鮮明にしている。斯波高経と足利尊氏は同年代であったが、高経と和義の官途の補任年代からみても和義も尊氏や高経と同年代であったと推察できる。子孫に、元警察官僚で資産家の石橋政広など。.
神石郡
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神護景雲
護景雲(じんごけいうん)は、日本の元号の一つ。天平神護の後、宝亀の前。767年から770年までの期間を指す。この時代の天皇は称徳天皇。 この年号以後、四文字元号が使われたことはない。四文字元号の中では唯一「天平」の文字が入らないが、天平神護から「神護」の名称を引き継いでおり、この年号までがいわゆる『天平文化』の範疇である。.
神辺町
辺町(かんなべちょう)はかつて広島県深安郡に存在した町である。 福山市と岡山県に囲まれた町で、福山市のベッドタウンであった。また、1975年以降は深安郡唯一の自治体になっていた。2006年3月1日に隣接する福山市に編入され消滅し、合併後の地名は、「広島県福山市神辺町」となっている。.
福山市
福山市(ふくやまし)は、広島県の東端に位置する市。.
福山県
福山県(ふくやまけん・ふくざんけん).
福島忠勝
福島 忠勝(ふくしま ただかつ)は、江戸時代前期の大名。信濃高井野藩第2代藩主。福島正則の次男。.
福島正則
福島 正則(ふくしま まさのり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍、七将の一人。.
福島氏
#福島氏(ふくしまし)→尾張系正則流.
稲垣重定
垣 重定(いながき しげさだ、慶安元年(1648年)- 宝永4年11月10日(1707年12月3日))は、近江山上藩の初代藩主。 大身旗本・稲垣重大の長男。正室は牧野康成の娘。子に稲垣重房(長男)、娘(大久保忠庸正室)、娘(市橋直方正室)。官位は従五位下、備後守。安芸守。.
稲葉正善
葉 正善(いなば まさよし、嘉永元年6月28日(1848年7月28日) - 明治35年(1902年)3月19日)は、江戸時代末期の大名。安房国館山藩第5代(最後)の藩主。館山藩知事。館山県知事。子爵。正室は中川久昭の娘。官位は従五位下、備後守。.
笠岡市
岡市(かさおかし)は、岡山県南西部に位置する市。瀬戸内海沿岸にある港町と、大小31の島々からなる笠岡諸島を含む井笠地方の中核都市である。 市域は旧備中国に含まれ、中世には源平合戦にも参加した陶山氏が本拠を置いた。また村上水軍の支配地で、現在のほとんどの市域は江戸時代初期は備後福山藩領、江戸時代中・後期は幕府代官所が置かれた幕府直轄地であった。現在は広島県福山市に隣接し、生活圏としては福山都市圏の一部である。.
笠間藩
間藩(かさまはん)は、江戸時代に常陸国茨城郡笠間(現在の茨城県笠間市)に存在した藩。藩庁は笠間城。.
素盞嗚神社 (福山市新市町戸手)
素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)は、広島県福山市新市町大字戸手にある神社。式内社で、備後国一宮を称する。旧社格は県社。.
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細川頼之
細川 頼之(ほそかわ よりゆき)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての武将、政治家。第2代室町幕府管領、中国管領、四国管領。阿波・伊予・備後・讃岐・土佐守護。第6代細川京兆家当主。幼名は弥九郎。はじめ武蔵守、後に相模守時野谷(1979)p.555。 足利氏の一門である細川氏の武将として、阿波、讃岐、伊予など四国地方における南朝方と戦い、観応の擾乱では幕府方に属す。管領への就任で幕政を指導し、幼少の足利義満を補佐して半済令の施行や南朝との和睦などを行う。天授5年/康暦元年(1379年)の康暦の政変で失脚するが、その後は赦免されて幕政に復帰する。.
細川頼有
細川 頼有(ほそかわ よりあり、元徳3年5月2日(1332年5月26日) - 明徳2年/元中8年8月9日(1391年9月7日))は、南北朝時代から室町時代の武将、守護大名。備後・阿波守護。父は細川頼春。兄に頼之、詮春、弟に頼元、満之。子に頼長、頼顕。通称は讃岐十郎。官職は掃部助、宮内少輔、右馬頭。『常楽記』は頼之と同腹の兄弟と伝えるが、他の史料の記述なども考慮すると頼之とは異腹の兄弟とみなされている。 近世細川家の祖となった細川藤孝(細川幽斎)、忠興(三斎)父子や熊本県知事・首相を務めた細川護熙は頼有の末裔にあたる。.
細川頼春
細川 頼春(ほそかわ よりはる)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人。阿波・伊予・備後・日向・越前守護。名門細川氏の一門で、のちに代々室町幕府管領職を世襲する嫡流細川京兆家の祖である。父は細川公頼。兄に和氏、弟に師氏。妻に里沢禅尼ほか。子に頼之、詮春、頼有、頼元、満之。幼名は源九郎、通称は蔵人。官位は従四位下讃岐守、刑部大輔。.
総社
備中国総社宮(岡山県総社市)創祀当時に備中国にあった神社計304社を合祀する。 総社、惣社(そうじゃ、そうしゃ、すべやしろ)とは、日本で、特定地域内の神社の祭神を集めて祀った(.
織田信秀
織田 信秀(おだ のぶひで)は、戦国時代の尾張国の武将、戦国大名。織田信長の父。.
織田信長
織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.
織田良信
織田 良信(おだ すけのぶ/よしのぶ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。官途は弾正左衛門、弾正忠。備後守。尾張の守護代である織田氏の一族で清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」(勝幡織田氏)の祖とされる。.
織田氏
家紋あげはちょう'''揚羽蝶''' 織田氏(おだし)は、日本の氏族・武家。斯波氏の家臣の家柄。家紋は揚羽蝶、織田木瓜など。通し字は嫡流・伊勢守家の「広」、大和守家の「定」、後に近世大名となる弾正忠家の「信」など。.
織田敏信
織田 敏信(おだ としのぶ、文正元年(1466年) - 永正14年1月26日(1517年2月16日?))は、戦国時代の武将。管領・斯波氏の家臣。法名は清巌、常清、常也、常巴。通称は左馬助『寛政重修諸家譜』、『公卿補任』、伊勢守、大和守。備後守 尾張下四郡を治めた守護代の「織田大和守家」当主の清洲城主・織田大和守敏定の嫡男とされ、尾張上四群を治めた「織田伊勢守家」当主の岩倉城主・織田信安の父とされるが、しかし、出自についてははっきりせず、定かではない。 文明17年(1485年)9月8日、室町時代の歌人である万里集九が江戸城に太田道灌を訪ねる中途、尾張春日井郡にある清洲城の織田敏信邸に立寄り、織田敏信の許で犬追物を見物して詩を作ったといわれる。 延徳3年(1491年)、10代将軍・足利義稙による六角高頼征伐のため、敏信は父とされる織田敏定とともに尾張守護斯波義寛に従軍したという(延徳の乱)。 また明応2年(1493年)、再び守護・斯波義寛に従い、織田敏信は上洛して京に滞在するなど各地で活躍したという(『蔭涼軒日録』)。 没年について岩倉市の龍潭寺にある敏信の位牌には永正14年(1517年)1月26日没。戒名「龍潭寺殿清巌常世大居士」。『前野家文書』「武功夜話」では明応4年(1495年)、船田合戦で討死とも。後に娘は織田信長の父織田信秀の側室となったといわれる。.
美作勝山藩
勝山藩(かつやまはん)は、美作国真島郡勝山(岡山県真庭市勝山)に拠点を置いた藩。藩庁は勝山城に置かれた。高田藩(たかだはん、たかたはん)、美作高田藩(みまさか たかだはん、みまさか たかたはん)とも称される。藩主家は三浦氏。.
美作国
美作国(みまさかのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.
田原藩
原藩(たはらはん)は、三河国田原(現在の愛知県東部・渥美半島)にあった譜代大名の藩である。本拠は室町時代末期に築かれた田原城。.
田中藩
中藩(たなかはん)は、駿河国益津郡の田中城(現在の静岡県藤枝市)に藩庁を置いた藩。 江戸時代初期に酒井忠利が入り、城下町・藤枝宿の整備を行ったが、以後藩主はめまぐるしく変わった。享保15年(1730年)に本多家が4万石で入り、明治維新まで7代約130年続いた。本多家時代には水戸藩の弘道館とともに武道の二関と呼ばれた藩校・日知館を有した。なお、田中藩の歴代藩主のほとんどは幕閣入りを果たしており、田中藩主になることは幕政参加への登竜門のひとつであったといえる。.
甲奴郡
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牧野貞長
牧野 貞長(まきの さだなが、享保18年11月21日(1733年12月26日) - 寛政8年9月30日(1796年10月30日))は、江戸時代中期の大名。奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代、老中。常陸笠間藩主。成貞系牧野家6代。.
牧野貞通
牧野 貞通(まきの さだみち)は、江戸時代中期の大名。日向延岡藩の第2代藩主、常陸笠間藩の初代藩主。成貞系牧野家4代。.
牧野成央
牧野 成央(まきの なりなか、元禄12年11月11日(1699年12月31日) - 享保4年5月16日(1719年7月3日))は、三河吉田藩の第2代藩主、日向延岡藩の初代藩主。成貞系牧野家3代。 初代吉田藩主牧野成春の長男。母は松平清照の娘。正室は壬生藩主鳥居忠英の娘。官位は従五位下、備後守。 宝永4年(1707年)、父の死により9歳で家督を相続した。しかし、幼少のため正徳2年(1712年)、日向延岡に転封された。翌正徳3年(1713年)、従五位下備後守に叙任されたが、享保4年(1719年)に21歳で早世した。家督は、義祖父牧野成貞の長男の貞通が継いだ。 なりなか Category:三河吉田藩主 Category:延岡藩主 Category:1699年生 Category:1719年没.
牧野成貞
牧野 成貞(まきの なりさだ、寛永11年11月29日(1635年1月17日) - 正徳2年6月5日(1712年7月8日))は、上野館林藩家老、のち第5代将軍・徳川綱吉の側用人、下総関宿藩主。名は成恒とも。通称は蔵人、兵部、大夢。越後長岡藩主、三河牧野氏の支族。成貞系牧野家初代。.
盛岡藩
盛岡藩(もりおかはん)は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩。一般に南部藩とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万石であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた。 同じ南部氏領の八戸藩、支藩の七戸藩(盛岡新田藩)があるが、八戸藩の詳細を除き、ここにまとめて記述する。.
瀬戸内海
戸内海(せとないかい)は、本州、四国、九州に挟まれた内海。山口県、広島県、岡山県、兵庫県、大阪府、和歌山県、徳島県、香川県、愛媛県、大分県、福岡県がそれぞれ海岸線を持つ。沿岸地域を含めて瀬戸内(せとうち)とも呼ばれている(ただし瀬戸内海の名称源ではない。瀬戸内海は「瀬戸の内海」の意である)。 古来、畿内と九州を結ぶ航路として栄えた。気候は瀬戸内海式気候と呼ばれ、温暖で雨量が少ない。.
芦田郡
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鎌倉時代
伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).
鞆の浦
鞆の浦(とものうら)は、広島県福山市鞆地区の沼隈半島南端にある港湾およびその周辺海域。 現在は鞆港の港周辺の市街を含めた範囲も「鞆の浦」と呼ぶことも多いが、本来「鞆の浦」とは「鞆にある入り江」という意味であり鞆港を中心とした海域のことである。 沿岸部と沖の島々一帯は「鞆公園」として国の名勝および国立公園に指定されている。 医王寺太子殿から望む鞆の浦 瀬戸内海国立公園指定時に発行された記念郵便切手(1939年).
鞆町
1939年当時の鞆町の中心部を描いた切手 鞆町(ともちょう)は、広島県沼隈郡にあった町である。1956年に福山市に編入された。観光地として鞆の浦が有名。.
遠江国
遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。.
飛地
飛地(とびち、飛び地)とは、一つの国の領土や行政区画、町会等の内、地理的に分離している一部分である。土地の一部が「他所に飛んでいる」と見られることからこう呼ばれる。 オエクシ)が飛地にあたる。.
館山藩
山藩(たてやまはん)は、安房国に存在した藩。藩庁は館山城・館山陣屋(現在の千葉県館山市城山)に置かれた。江戸時代初期、戦国大名を出自とする里見氏を藩主として安房一国を統治していた時期と、江戸時代後期に稲葉氏を藩主とする譜代の小藩であった時期の2つに分かれる。.
西条藩
西条藩(さいじょうはん)は、江戸時代に伊予国に存在した藩。藩庁は伊予国新居郡西条(現在の愛媛県西条市)の西条陣屋。 江戸時代初期には外様大名の一柳氏が治めたが3代約30年で改易。その後徳川御三家の一つ紀州徳川家(紀州藩)の一族が入り、その支藩として廃藩置県まで存続した。.
角川日本地名大辞典
『角川日本地名大辞典』(かどかわにほんちめいだいじてん)は、角川書店の出版による日本の地名辞典である。 著者は「角川日本地名大辞典」編纂委員会で、委員長を務めた竹内理三は本書を制作する目的として「民族遺産としての地名を将来に伝えること」、現代の地名を収録したことについては「現代の社会生活上の必要を満たし、地域の現状を歴史として後世に伝えること」としている(それぞれ本書冒頭の「編纂のことば」より引用)。.
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高師泰
師泰(こう の もろやす)は、南北朝時代の武将。高師直の兄弟(『高階系図』ではの師直の兄とされているが、同時代の史料である『園太暦』では「舎弟師泰」と記されている)。.
高井野藩
井野藩(たかいのはん)は、信濃国高井郡に存在した藩。藩庁は、現在の長野県上高井郡高山村堀之内に置かれ、高井野陣屋(高井野館とも)と呼ばれた。藩主家は福島氏。領地は現在の須坂市、高山村、小布施町、中野市、山ノ内町にまたがる。.
高徳藩
徳藩(たかとくはん)は、江戸時代幕末期に下野国に存在した藩。藩庁は高徳陣屋(現在の栃木県日光市高徳)に置かれた。成立は1866年で、江戸幕府のもとで最後に生まれた藩である坂本『シリーズ藩物語、宇都宮藩・高徳藩』、P132。明治維新後に下総国曽我野陣屋(現在の千葉市中央区蘇我)に移封、曽我野藩となる。.
高槻藩
槻藩(たかつきはん)は、摂津国に存在した藩の一つ。藩庁は高槻城(現在の大阪府高槻市)。本項目では関係のある山城長岡藩についても記述する。.
譜代大名
譜代大名(ふだいだいみょう)は、江戸時代の大名の出自による分類の一つである。もともと「譜第(譜代)の臣」と言うように、数代にわたり主家に仕え(譜第/譜代)、家政にも関わってきた家臣のことをさす。主家との君臣関係が強く、主家滅亡時に離反すると、世間から激しく非難されることが多かった。 譜代大名のはじまりは徳川家康が豊臣政権のもとで関東地方に移封された際に、主要な譜代の武将に城地を与えて大名格を与えて徳川氏を支える藩屏としたことに由来する。それに対してそれ以外の家臣は徳川氏の直轄軍に編成されて後の旗本や御家人の元となった。.
豊前国
豊前国(ぶぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
貞元 (日本)
貞元(じょうげん)は、日本の元号の一つ。天延の後、天元の前。976年から978年までの期間を指す。この時代の天皇は円融天皇。.
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越境合併
越境合併(えっきょうがっぺい)とは市町村合併の内、都道府県の境界にわたる市町村の合併で越県合併または県境合併ともいう。.
郡衙
郡衙(ぐんが)は、日本の古代律令制度の下で、郡の官人(郡司)が政務を執った役所である。国府や駅とともに地方における官衙施設で、郡家(ぐうけ・ぐんげ・こおげ・こおりのみやけ)とも表記され、考古学では郡衙、史料上(歴史学)では郡家と表記される傾向がある。.
阿部氏 (徳川譜代)
阿部氏(あべし)は、日本の氏族の一つ。 三河の松平氏(徳川氏)譜代の家臣。始祖は孝元天皇の第一皇子阿部大彦命とされる。.
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赤座直保
赤座 直保(あかざ なおやす)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。.
関宿藩
関宿藩(せきやどはん)は、下総国(現在の千葉県野田市関宿三軒家)に存在した藩。藩庁は関宿城にあったが、現在の茨城県猿島郡境町にあたる地域をも城下町とした。 利根川と江戸川の分岐点にあたり、利根川水運の要衝であることから、江戸幕府にとっては重要拠点だった。そのため信頼の厚い譜代大名がその藩主に任じられた。.
藤原実宗
藤原 実宗(ふじわら の さねむね)は、平安時代後期から鎌倉時代前期の公卿。西園寺家の第三代目とされる人物。按察使藤原公通の長男。正二位内大臣。坊城内大臣、大宮、五条と号す。.
藤原宮
列柱は実際位置から南30メートルで標示。奥に大極殿跡(樹叢)。 藤原宮(ふじわらのみや)は、古代の日本で大和の藤原の地(現在の奈良県橿原市)に営まれた宮殿である。5世紀のものと、7-8世紀(694年から710年まで)のものの2つがある。 最初の藤原宮は、允恭天皇の妃、弟姫(衣通郎姫)のために建てられたと伝えられる。『日本書紀』によれば、姫が住んだのは允恭天皇7年(418年)12月から8年(419年)2月までのわずかな期間で、その後天皇の居所からさらに離れた河内の茅渟に移された。これは多分に伝説的なものである。 二度目の、有名な藤原宮は、持統天皇が造った藤原京の宮殿である。持統天皇4年(690年)10月29日に太政大臣の高市皇子が宮の場所を視察し、8年(694年)12月6日に天皇が遷った。和銅3年(710年)3月10日に元明天皇が平城宮に遷るまで用いられた。宮地は発掘調査されている。詳しくは藤原京を参照のこと。.
藤原忠平
貞信公(百人一首より) 藤原 忠平(ふじわら の ただひら)は、平安時代前期から中期にかけての公卿。藤原基経の四男。 兄・時平の早世後に朝政を司り、延喜の治と呼ばれる政治改革を行った。朱雀天皇の時に摂政、次いで関白に任じられる。以後、村上天皇の初期まで長く政権の座にあった。兄・時平と対立した菅原道真とは親交を持っていたとされる。平将門は忠平の家人として仕えていた時期もあった。.
藤原園人
藤原 園人(ふじわら の そのひと)は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての公卿。藤原北家、参議・藤原楓麻呂の長男。官位は従二位・右大臣、贈正一位・左大臣。前山科大臣(さきのやましなのおとど)とも称された。.
藤原元名
藤原 元名(ふじわら の もとな)は、平安時代前期から中期にかけての公卿。藤原北家、参議・藤原清経の三男。官位は正四位下・参議。.
藤原祐家
藤原 祐家(ふじわら の さちいえ)は、日本の平安時代の公卿。.
藤原為通
藤原 為通(ふじわら の ためみち、天永3年(1112年) - 仁平4年6月13日(1154年7月25日))は、平安時代末期の公卿。藤原北家中御門流、太政大臣・藤原伊通の長男。母は右京大夫・藤原定実の女。幼名を次太君。正四位下・参議。.
藤原道隆
藤原 道隆(ふじわら の みちたか)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の長男。官位は正二位・摂政・関白・内大臣。 花山天皇退位事件(寛和の変)で父兼家の意を受けて宮中で活動。甥にあたる一条天皇の即位後は急速に昇進した。娘・定子を女御として入内させ、後に中宮となす。父・兼家が死ぬと後を継いで関白となる。朝政を主導するが僅か5年ほどで病に倒れ、嫡男・伊周を後任の関白にと願うが、天皇からは許されず、薨御した。.
藤原行成
藤原 行成(ふじわら の ゆきなり/こうぜい)は、平安時代中期の廷臣。藤原北家、右少将・藤原義孝の長男。官位は正二位・権大納言。一条朝四納言(「寛弘の四納言」)の一。世尊寺家の祖。 当代の能書家として三蹟の一人に数えられ、その書は後世「権蹟」(ごんせき)と称された。書道世尊寺流の祖。.
藤原致忠
藤原 致忠(ふじわら の むねただ)は、平安時代中期の貴族。藤原南家、大納言・藤原元方の子。官位は従四位下・右京大夫。.
藤原朝成
藤原 朝成(ふじわら の あさひら、延喜17年(917年) - 天延2年4月5日(974年3月6日))は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・藤原定方の六男。官位は従三位・中納言。三条中納言と号す。.
長井頼重
長井 頼重(ながい よりしげ、生没年未詳)は、鎌倉時代中期から後期にかけての人物、鎌倉幕府の御家人。.
長井貞重
長井 貞重(ながい さだしげ安田、1990年、p.431~432 「長井貞重」の項(執筆:下山忍)。、文永9年(1272年)長井氏泰重流の歴代当主については生没年等を伝える史料が残っていないためその元服時期を推定することは難しいが、『常楽記』元徳3年2月12日条に「長井縫殿頭他界。貞重六十」と貞重が60歳で死去したことが窺え、その元服時期を1281年~1286年と推定することができ、貞重がその当時の得宗家当主・北条貞時と烏帽子親子関係を結んだと考えることができる。よって、その名前からして泰重が泰時、頼重が時頼、貞重が貞時、高広が高時、といったように、嫡流(泰秀流)と同様に北条氏得宗家当主と烏帽子親子関係を結んでいたことが言える(以上、紺野淳論文(『中央史学』二、1979年、p.15系図・16~17)より)。貞重の生没年については服部、1995年、p.418にも同様の言及がなされている。長井氏は大江広元の次男・時広を始祖とする鎌倉幕府の有力御家人であり(『世界大百科事典 第2版』「」の項)、時広の子・泰重の系統も北条氏得宗家の烏帽子親関係による一字付与による統制下にあったことが窺える(山野龍太郎論文(山本、2012年、p.163)、→北条氏#北条氏による一字付与について)。- 元徳3年2月12日『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(コトバンク所収)「」の項 より。(1331年3月21日))は、鎌倉時代後期の人物、鎌倉幕府の御家人。長井氏の庶流、六波羅評定衆家(泰重流)の当主。.
長井泰重
長井 泰重(ながい やすしげ安田、1990年、p.433 「長井泰重」の項(執筆:下山忍)。、生没年未詳『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(コトバンク所収)「」の項 より。)は、鎌倉時代中期の人物、鎌倉幕府の御家人。.
長井時広
長井 時広(ながい ときひろ)は、鎌倉時代前期の朝臣、武将。鎌倉幕府の御家人。鎌倉幕府初代政所別当大江広元の次男。兄大江親広が承久の乱で失脚すると大江氏の惣領となり幕府中枢で活躍した。.
長保
長保(ちょうほう)は、日本の元号の一つ。長徳の後、寛弘の前。999年から1003年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.
長門国
長門国(ながとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.
酒井忠利
酒井 忠利(さかい ただとし)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。徳川氏の家臣。駿河田中藩主、武蔵川越藩初代藩主。老中。.
酒井忠胤
酒井 忠胤(さかい ただたね)は、安房勝山藩の第2代藩主。初代藩主・酒井忠国の長男。 天和3年(1683年)、父の死去により後を継ぐ。このとき、弟の忠成に3000石を分与した。宝永6年(1709年)3月に叙任する。正徳2年(1712年)7月20日、34歳で死去し、跡を長男の忠篤が継いだ。 たたたね Category:安房勝山藩主 Category:1679年生 Category:1712年没.
掛川藩
掛川藩(かけがわはん)は、遠江国掛川(現在の静岡県掛川市)に存在した藩。政庁は掛川城に置かれた。.
恵蘇郡
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東広島市
東広島市(ひがしひろしまし)は、広島県の中央部に位置する市。.
松平忠雅
松平 忠雅(まつだいら ただまさ)は、江戸時代前期から中期の大名。親藩であった松平家出羽山形藩2代藩主、備後福山藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。奥平松平家3代。.
正暦
正暦(しょうりゃく)は、日本の元号の一つ。永祚の後、長徳の前。990年から995年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.
比婆郡
比婆郡(ひばぐん)は、広島県にあった郡。.
毛利隆元
毛利 隆元(もうり たかもと)は、戦国時代の武将。安芸の守護大名、戦国大名。毛利家の当主。.
毛利氏
毛利氏(もうりし)は、日本の武家の氏族で、本姓は大江氏。家紋は一文字三星。.
水野元綱
水野 元綱(みずの もとつな、慶長6年(1601年) - 寛文5年5月16日(1665年6月29日))は、三河新城藩の第2代藩主。上野安中藩の初代藩主。新城藩初代藩主・水野分長の長男。母は山口重勝の娘。正室は中川秀成の娘。子は水野元倫(長男)、水野元知(次男)、娘(那須資国室)。官位は従五位下、大和守、備後守。新城城主。 慶長6年(1601年)、尾張に生まれる。慶長12年(1607年)から徳川秀忠に仕え、慶長17年(1612年)に大和守に任ぜられた。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では水野忠元に属して出陣し、夏の陣では首級を挙げた。元和2年(1616年)に近江伊香郡内で1000石を与えられた。 元和6年(1620年)に父・分長が徳川頼房に付けられて常陸水戸藩に移ると、三河新城藩1万石を相続する(この際に近江の領地は収公された)。この際に備後守に改めた。その後、大番頭・奏者番などを務め、寛永10年(1633年)に4000石を加増され1万4000石となる。慶安元年(1648年)に上野安中2万石に移封された。明暦3年(1657年)に琉球の使いが日光山に行く際にそこに赴く。 寛文4年(1664年)10月26日、次男の元知に家督を譲って隠居し、寛文5年(1665年)5月16日に死去した。享年65。法名は心源道要自雲院。墓所は東京都新宿区新宿の天龍寺。 もとつな Category:安中藩主 Category:三河国の藩主 Category:1601年生 Category:1665年没.
水野勝貞
水野 勝貞(みずの かつさだ)は、備後福山藩の第3代藩主。水野宗家3代。 第2代藩主・水野勝俊の次男。.
水野勝成
水野 勝成(みずの かつなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。三河刈谷藩主、大和郡山藩主を経て備後福山藩の初代藩主となる。.
永井直英
永井 直英(ながい なおひで)は、摂津高槻藩の第5代藩主。 元禄8年(1695年)4月、第3代藩主永井直種の長男として生まれる。同年同月に父が死去した際には幼少のため家督を継げなかったが、宝永3年(1706年)に第4代藩主であった従兄で姉婿の直達が早世すると、その養子として跡を継いだ。 しかし正徳5年(1715年)1月17日に死去した。享年21。実子がなく、直達の弟の直期が養子となり跡を継いだ。 なおひて Category:高槻藩主 Category:1695年生 Category:1715年没.
永治
永治(えいじ)は、日本の元号の一つ。保延の後、康治の前。1141年の期間を指す。この時代の天皇は崇徳天皇、近衛天皇。.
江戸時代
江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.
沼隈郡
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波多氏 (古代)
波多氏(はたうじ)は、「波多」を氏の名とする氏族。 波多の地名は日本各地に分布している。具体的な地名としては、大和国高市郡波多郷『日本書紀』推古天皇20年(612年)5月5日条に“薬猟(くすりがり)をして後、羽田に集い、引き続いて朝廷に赴いた”という記述がある。この時の羽田を『和名類聚抄』では大和国高市郡波多郷としている。また『大同類聚方』には高市郡の波多神社に新羅伝来の「志路木藥」が伝わるとある。、出雲国飯石郡波多郷『和名類聚抄』(のち波多庄)、肥後国天草郡波多郷があり、ほかに大和国(波多小北庄)、相模国(波多庄)、信濃国、土佐国、肥前国にもこの地名が存在する。これらの地名を由来とする波多姓の氏族が多数存在する。.
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深安郡
深安郡(ふかやすぐん)は、広島県にあった郡。.
深津郡
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渡辺氏
渡辺氏(わたなべし/わたべし).
渋川義行
渋川 義行(しぶかわ よしゆき)は、南北朝時代の武将・九州探題。渋川氏6代当主。.
源家長
源 家長(みなもと の いえなが、嘉応2年(1170年)? - 文暦元年(1234年))は、鎌倉前期の貴族・歌人。醍醐源氏高明流、大膳亮・源時長の子。官位は従四位上・但馬守。新三十六歌仙の一人。.
源信明
源 信明(みなもと の さねあきら、延喜10年(910年) - 天禄元年(970年))は、平安時代中期の貴族・歌人。光孝源氏、右大弁・源公忠の子。官位は従四位下・陸奥守。父と同じく三十六歌仙の一人。.
源行家
行家が大敗を喫した墨俣川の戦いの碑(岐阜県安八郡墨俣町) 源 行家(みなもと の ゆきいえ)は、平安時代末期の武将。河内源氏第五代源為義の十男。初めの名乗りを義盛(よしもり)という。新宮十郎、新宮行家とも。以仁王の挙兵に伴い、諸国の源氏に以仁王の令旨を伝え歩き、平家打倒の決起を促した。.
源資賢
源 資賢(みなもと の すけかた)は、平安時代末期の公卿・雅楽家。宇多源氏、宮内卿・源有賢の長男。官位は正二位・権大納言。.
木下氏
木下氏(きのしたし)は、日本の氏族の一つ。.
木簡
木簡(もっかん)とは、古代の東アジアで墨で文字を書くために使われた、短冊状の細長い木の板である。紙の普及により廃れたが、荷札には長く用いられた。.
有馬久保
有馬 久保(ありま ひさやす)は、江戸時代後期の大名。上総五井藩第3代藩主。氏倫系有馬家7代。.
有馬氏久
有馬 氏久(ありま うじひさ)は、江戸時代中期の大名。伊勢国西条藩2代藩主。氏倫系有馬家2代。.
有馬氏保
有馬 氏保(ありま うじやす)は、江戸時代後期の大名。上総五井藩第2代藩主。氏倫系有馬家6代。.
有馬氏郁
有馬 氏郁(ありま うじしげ)は、上総五井藩の第5代藩主、後に下野吹上藩の初代藩主。氏倫系有馬家9代。.
戊辰戦争
戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。 明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった。 以下の日付は、断りのない限り旧暦でしるす。.
戦国時代 (日本)
日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.
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戸田忠綱
戸田 忠綱(とだ ただつな)は、下野高徳藩の第2代藩主。後に下総曾我野藩知事。.
明治
明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.
明治維新
Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.
昭和
昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.
浅野氏
浅野氏(あさのし、)は、日本の氏族。関白豊臣秀吉の正室・北政所の養家。宗家は安芸広島藩主、分家は播磨赤穂藩主。通字は「長」。.
新城藩
新城藩(しんしろはん)は、三河国に江戸時代前期に存在した藩。藩主は水野氏。居城は新城城(現在の愛知県新城市字東入船)。徳川家家臣の水野分長が尾張国知多より1万石にて入封。その子元綱の時に上野国安中に移封となった。かわって徳川家家臣・菅沼氏が入府した。菅沼氏は旗本(交代寄合)であったため、以後江戸時代末期までの新城村は、菅沼氏の陣屋町となった。.
新市町
新市町(しんいちちょう)はかつて広島県芦品郡に存在した町である。 2003年2月3日に沼隈郡内海町とともに福山市に編入した。1975年2月1日に駅家町が福山市に、協和村が府中市にそれぞれ編入されてからは芦品郡に属する唯一の自治体となっており、新市町の消滅をもって芦品郡は1898年10月1日に芦田郡・品治郡の統合をもって成立して以来104年4ヶ月の歴史を閉じた。.
新見氏
新見氏(しんみし)は、日本の氏族。出自は三河国。通字は「正」。 新見正吉と、その子正勝が、天正年間に徳川家康の配下となり、幕末までに8家が旗本として存続した。 主な子孫に、甲府徳川家家老で江戸幕府六代将軍徳川家宣の養父新見正信、八十翁疇昔物語の著者新見正朝、長崎奉行や勘定奉行を務めた新見正榮、新見正路日記、新見文書の著者新見正路、その子で幕末の外国奉行新見正興、最後の飛騨郡代新見内膳などがいる。.
日向国
日向国(ひゅうがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
日本
日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.
日本書紀
日本書紀(平安時代の写本) 『日本書紀』(にほんしょき)は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体にて記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。.
旧高旧領取調帳
旧高旧領取調帳(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)とは、明治時代初期に政府が各府県に作成させた、江戸時代における日本全国の村落の実情を把握するための台帳である。.
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慶応
慶応(けいおう、旧字体: 慶應)は日本の元号の一つ。元治の後、明治の前。1865年から1868年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。日本での「一世一元の詔」発布以前では最後の元号。.
拾芥抄
拾芥抄(しゅうがいしょう)は、中世日本にて出された類書(百科事典)。全3巻。元は拾芥略要抄とも呼ばれ、略要抄とも略されていた。.
曾我野藩
曾我野藩(そがのはん)は、明治初期に下総国千葉郡曾我野村(現在の千葉県千葉市中央区蘇我)に成立した藩。藩庁は曾我野陣屋である。.
1059年
記載なし。
10月1日
10月1日(じゅうがつついたち)はグレゴリオ暦で年始から274日目(閏年では275日目)にあたり、年末まであと91日ある。.
1142年
記載なし。
1146年
記載なし。
1159年
記載なし。
1183年
記載なし。
11月15日 (旧暦)
旧暦11月15日は旧暦11月の15日目である。六曜は先勝である。.
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11月1日
11月1日(じゅういちがつついたち)はグレゴリオ暦で始から305日目(閏年では306日目)にあたり、年末まであと60日ある。.
12月1日
12月1日(じゅうにがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から335日目(閏年では336日目)にあたり、年末まであと30日ある。.
12月20日
12月20日(じゅうにがつはつか、じゅうにがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から354日目(閏年では355日目)にあたり、年末まであと11日ある。.
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12月26日
12月26日(じゅうにがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から360日目(閏年では361日目)にあたり、年末まであと5日ある。.
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1332年
記載なし。
1868年
記載なし。
1871年
記載なし。
1872年
記載なし。
1875年
記載なし。
1876年
記載なし。
1898年
記載なし。
1953年
記載なし。
1966年
記載なし。
4月18日
4月18日(しがつじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から108日目(閏年では109日目)にあたり、年末まではあと257日ある。誕生花はアカツメクサ、ワスレナグサ。.
4月1日
4月1日(しがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から91日目(閏年では92日目)にあたり、年末まであと274日ある。誕生花はカスミソウ、クロッカス。 日本や一部の国では4月1日は会計年度・学校年度の初日である。この日は政府機関、企業などで多くの制度の変更、新設、発足が行われ、異動や新入学など大きな変化が起こる日である。.
5月16日 (旧暦)
旧暦5月16日は旧暦5月の16日目である。六曜は友引である。.
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6月5日 (旧暦)
旧暦6月5日(きゅうれきろくがついつか)は旧暦6月の5日目である。六曜は仏滅である。.
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754年
記載なし。
764年
記載なし。
789年
記載なし。
7世紀
ブリールから啓示を受けるムハンマドで、14世紀に描かれた『集史』「預言者ムハンマド伝」載録の細密画(エディンバラ大学蔵)。 聖地メッカ。ムハンマドはメッカからメディナに逃れた後、イスラム教共同体(ウンマ)を組織し、再びこの都市に現れてイスラム教の支配下に置いた。画像はメッカのカアバとそれを取り囲むマスジド・ハラーム。 岩のドーム。ユダヤ教徒やキリスト教徒にとって重要な聖地であるエルサレムはイスラム教徒にとっては預言者ムハンマドが「夜の旅(イスラー)」を行った場所であり、それを記念してこの建物が建てられた。 ハルシャ王に歓待された。旅の記録は『大唐西域記』にまとめられ、有名な伝奇小説『西遊記』のもとともなった。 ナーランダ寺院。創立はグプタ朝時代にさかのぼるが、この時代までにインド随一の仏教総合大学に発展し、唐僧玄奘もこの地で唯識派のシーラバドラ(戒賢)に学んでいる。画像は現在のビハール州に残るナーランダ寺院跡。 シュリーヴィジャヤ王国。スマトラ島を中心にマレー半島周辺に交易圏を築き上げた海洋王国で、唐僧義浄が『南海寄帰内法伝』で記録したように多くの寺院が立ち並ぶ大乗仏教の拠点でもあった。画像はシュリーヴィジャヤ様式の青銅鍍金四臂観世音菩薩像。 「天寿国繍帳」。飛鳥時代を代表する工芸の一つで聖徳太子の妃である橘大郎女の発願で作成されたとされ、斑鳩中宮寺に伝来した。 吐蕃の王ソンツェン・ガンポと二人の妃(唐から来た文成公主とネパールから来たチツン)。吐蕃はチベットを統一し唐に倣った律令体制を発展させた。 太宗。父李淵の後を継いで二代皇帝となった太宗李世民は、唐の律令体制を完成させ「貞観の治」と呼ばれる安定期をもたらした。画像は台湾国立故宮博物院が所蔵する太宗の肖像画。 洛陽郊外の龍門にある奉先寺大仏。則天武后の命で造営されたもので、大仏の顔は則天武后をモデルにしているといわれる。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 「ギリシア火」。イスラム軍の猛攻で劣勢に置かれた東ローマ帝国もこの新兵器を用いて帝都の防衛に成功する。画像は『スキュリツェス年代記(歴史概観)』の挿絵(マドリッド国立図書館蔵)。 スペイン国立考古学博物館蔵)。 7世紀(ななせいき、しちせいき)とは、西暦601年から西暦700年までの100年間を指す世紀。.
7月10日
7月10日(しちがつとおか)はグレゴリオ暦で年始から191日目(閏年では192日目)にあたり、年末まであと174日ある。誕生花はグロキシニア、マツバボタン。.
7月14日 (旧暦)
旧暦7月14日(きゅうれきしちがつじゅうよっか)は、旧暦7月の14日目である。六曜は友引である。.
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7月5日
7月5日(しちがついつか)は、グレゴリオ暦で年始から186日目(閏年では187日目)にあたり、年末まであと179日ある。誕生花はアンスリウム、ロベリア。.
889年
記載なし。
897年
記載なし。
8月29日
8月29日(はちがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から241日目(閏年では242日目)にあたり、年末まであと124日ある。.
923年
記載なし。
927年
記載なし。
947年
記載なし。
949年
記載なし。
959年
記載なし。
976年
記載なし。
990年
記載なし。
999年
記載なし。