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日本美術史

索引 日本美術史

日本美術史(にほんびじゅつし)とは、日本の美術の流れ、様式の変遷、各時代の代表的な作品や作家の研究、相互の影響関係、作品や作家を生んだ時代背景(政治、経済、信仰、風俗、社会、文学などとの関連)などについて述べたもの、またはそうした分野を研究する学問のこと。 本項では日本美術史の概観を述べるにとどめ、各時代の美術についてはそれぞれ別項目を設けて詳説する(予定)。.

561 関係: 功山寺城郭城郭建築埴輪原田直次郎原色現代日本の美術厳島神社お雇い外国人十大弟子十一面観音十二天印象派千利休千手観音南北朝時代 (日本)南画南都古墳古墳時代古代司馬江漢吉山明兆吉祥天吉野ヶ里遺跡堂本印象塑像墨摺絵夏島貝塚夢二郷土美術館大原美術館大坂の陣大安寺大仏大仏様大仙院大徳寺大和絵大倉集古館大覚寺大英博物館大逆事件大正大正期新興美術運動天守天寿国繍帳天平文化天武天皇天智天皇太陽の塔奥村土牛...女神奈良奈良国立博物館奈良時代如庵如意輪観音如拙妙喜庵姫路城宣教師室生寺室町幕府室町時代宮本三郎宮本武蔵守護安井曾太郎安土桃山時代安田靫彦寺社富岡鉄斎富嶽三十六景富本憲吉密教寛永文化小出楢重小磯良平小林古径尾形光琳山口県立萩美術館・浦上記念館山種美術館山本芳翠屈原岐阜県美術館岡倉天心岡田三郎助岡本太郎岩宿遺跡岩佐又兵衛岸田劉生川合玉堂川端康成工芸工部美術学校上品蓮台寺上野上村松園上方与謝蕪村不空羂索観音両界曼荼羅中尊寺中国中国美術中部地方中村彝中村研一串本応挙芦雪館常滑焼丹波立杭焼世阿弥三の丸尚蔵館三井記念美術館三内丸山遺跡三遊亭圓朝下村観山一乗寺一遍聖絵九州国立博物館平家納経平安時代平等院平賀源内平重衡平櫛田中平成幸徳秋水幕末久隅守景京焼庭園庶民康勝康慶二条城五島美術館仁徳天皇仏画仏教仏教公伝仏教美術建仁寺建築建長寺廃仏毀釈伊藤若冲伝統弥勒菩薩半跏思惟像弥生土器弥生時代伴大納言絵詞似絵住吉如慶佐伯祐三佐竹本三十六歌仙絵巻佐野常民彦根城博物館彦根屏風彫刻彭城百川作家作品征夷大将軍御用絵師御殿徳川家康徳川美術館往生要集信仰信貴山縁起信楽焼快慶俳画俵屋宗達志野焼土偶土佐光信土佐光起土佐派土田麦僊地獄草紙地頭化政文化北山文化北野天満宮北海道北斎漫画園城寺ハート形土偶ハプニングメトロポリタン美術館ランド・アートヴァスィリー・エロシェンコボストン美術館ブリヂストン美術館パトロンパフォーマンスアートビデオ・アートフュウザン会フランスフリーア美術館ファインアートフォーヴィスムニューヨークホノルル美術館刀剣喜多川歌麿善福院周文呉春和様和歌和泉市久保惣記念美術館わび茶アントニオ・フォンタネージアーネスト・フェノロサアール・ヌーヴォーアイヌアカデミック美術アジアインドウィーン万国博覧会エッチングオランダキュビスムキアロスクーログラフィックコンセプチュアル・アートジャポニスムスケッチサンリツ服部美術館備前焼唐古・鍵遺跡唐物唐招提寺円山応挙円山派円空円覚寺内国勧業博覧会写真出光美術館公家公募展六古窯六波羅蜜寺元禄文化元興寺兵庫県立美術館前田寛治前田青邨前衛前方後円墳動植綵絵国宝絵画の一覧国家国分寺国立劇場国粋主義国際博覧会国風文化四天王寺四条派矢代幸雄知恩院玉虫厨子火焔型土器現代琳派琉球研究社会神護寺神護寺三像神戸市立博物館祇園南海禅宗様禅林寺 (京都市)秋山光和空也空海竹久夢二竹内栖鳳笹山遺跡米沢市上杉博物館粉河寺縁起絵巻紫禁城縄文土器縄文時代美学美術美術史美術学校美術家美術家の一覧美術出版社美術商美術館経済絵巻物絵因果経絵画用明天皇町人無量寺當麻寺物部氏版画狩野山雪狩野山楽狩野秀頼狩野芳崖狩野長信狩野探幽狩野正信狩野永徳狩野派瀟湘八景瀬戸焼発掘調査登呂遺跡白鳳文化白樺 (雑誌)白樺派百済百済観音芸能芹沢けい介銅鐸鎌倉鎌倉時代遠近法遣唐使聖徳太子聖観音聖武天皇道元運慶荻原碌山荒神谷遺跡草双紙草庵鏡獅子菱川師宣菱田春草鏑木清方萬鉄五郎青蓮院青木繁靉光静嘉堂文庫頂相風俗風俗画風神雷神図装飾経飛鳥寺西大寺 (奈良市)西周 (啓蒙家)西芳寺西洋西本願寺観心寺観阿弥高山寺高野山高村光太郎高村光雲高橋由一護国寺谷文晁豊臣氏貴族鳥獣人物戯画鳥浜貝塚越前焼足利義満足利義政鹿苑寺黒田清輝龍安寺龍池会辰馬考古資料館近世近代化近代美術と現代美術錦絵茶器茶道都市計画鈴木春信興福寺阿弥陀如来阿修羅阿倍仲麻呂蘇我氏関根正二薬師寺藤島武二藤田嗣治葛飾北斎那智滝肉筆浮世絵醍醐寺野々村仁清重源金属加工金山平三金剛寺 (河内長野市)長谷川等伯長次郎長沢芦雪酒井田柿右衛門酒井抱一雪舟速水御舟逸翁美術館退蔵院院政陶磁器陶芸MOA美術館柳沢淇園染織枯山水林忠正林武東大寺東大寺盧舎那仏像東寺東山魁夷東山文化東京東京大学東京国立博物館東京国立近代美術館東京美術学校 (旧制)東京芸術大学東京芸術大学大学美術館東京文化財研究所東洲斎写楽東海道五十三次 (浮世絵)松島図屏風松林図屏風村上華岳根津美術館桂離宮梅原龍三郎棟方志功棟方志功記念館楽焼楽焼白片身変茶碗横山大観橋本雅邦正倉院武士武家武具歌川広重歌川国芳歌舞伎毛利邸毛越寺水墨画永青文庫民芸江戸江戸幕府江戸時代池大雅河井寛次郎沖縄県法隆寺法華寺洋画洋風画洛中洛外図深大寺渡辺崋山清浄光寺湛慶源信 (僧侶)源頼朝源氏物語源氏物語絵巻滝精一漆工朝護孫子寺朝鮮半島木喰末法思想本阿弥光悦有田焼最澄戦争画戦後戦前明菴栄西明恵明治維新明治美術会是川遺跡浦上玉堂浮世絵浄土寺 (小野市)浄土式庭園浄土教浄瑠璃寺浅井忠斎藤与里新薬師寺新潟県文学文人画文化文化庁日展日光東照宮日露戦争日本日本人日本建築史日本列島日本美術日本美術全集日本美術院日本画日本芸術院日本書紀旧石器時代放射性炭素年代測定政治慶派慈照寺扇面法華経冊子書道書院書院造曼荼羅曾我蕭白普賢菩薩智積院時代1180年1192年1573年1603年1615年1872年1873年1877年1889年1900年1907年 インデックスを展開 (511 もっと) »

功山寺

毛利家墓所 功山寺(こうざんじ)は、山口県下関市長府にある曹洞宗の寺。長府毛利家の菩提寺。山号は金山(きんざん)。中国三十三観音霊場第十九番札所、山陽花の寺二十四か寺第九番。 仏殿は、善福院釈迦堂とともに鎌倉時代の禅宗様建築を代表するもので、国宝に指定されている。.

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城郭

城郭(じょうかく)とは、城のこと。または城と曲輪の総称。本来、城は内城、郭は外城を指した。城郭で囲まれた都市を城壁都市という。.

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城郭建築

城郭建築(じょうかくけんちく)とは、日本建築における軍事・政治目的に発展した様式の一種である。.

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埴輪

武装男子立像(群馬県太田市出土)東京国立博物館蔵、国宝 埴輪(はにわ)とは、日本の古墳時代に特有の素焼の焼き物。古墳上に並べ立てられた。日本各地の古墳に分布している。.

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原田直次郎

原田 直次郎(はらだ なおじろう、1863年10月12日(文久3年8月30日) - 1899年(明治32年)12月26日)は、洋画家。父は兵学者の原田一道、兄は地質学者の原田豊吉。兄の遺児で、のちに元老西園寺公望の秘書となる原田熊雄を引き取っていた。また、森鴎外の小説『うたかたの記』の主人公、巨勢のモデルでもある。.

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原色現代日本の美術

『原色現代日本の美術』(げんしょくげんだいにほんのびじゅつ)とは、1977年から1980年にかけて小学館から刊行された美術全集。戦前と戦後の日本美術について取り上げたもの。全十八巻。.

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厳島神社

境内 全景(弥山中腹より) 2016年G7広島外相会合における平舞台での雅楽。 厳島神社(いつくしまじんじゃ、公式表記:嚴島神社)は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社。式内社(名神大社)、安芸国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」。 古くは「伊都岐島神社」とも記された。全国に約500社ある厳島神社の総本社である。ユネスコの世界文化遺産に「厳島神社」として登録されている。.

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お雇い外国人

お雇い(御雇)外国人(おやといがいこくじん)は、幕末から明治にかけて、「殖産興業」などを目的として、欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用された外国人で、欧米人を指すことが多い。江戸幕府や諸藩、明治政府や府県によって官庁や学校に招聘された。お抱え外国人とも呼ばれることもある。.

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十大弟子

十大弟子 (じゅうだいでし)とは、釈迦(釈尊)の弟子達の中で主要な10人の弟子のこと。.

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十一面観音

十一面観音(じゅういちめんかんのん)、梵名エーカダシャムカ (एकदशमुख)は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身(へんげしん)の1つであり、六観音の1つでもある。頭部に11の顔を持つ菩薩である。梵名は「11の顔」、「11の顔を持つもの」の意。.

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十二天

十二天(じゅうにてん)は、仏教の護法善神である「天部」の諸尊12種の総称である。密教では四天王とともに重視されている。十二天のうち、特に八方(東西南北の四方と東北・東南・西北・西南)を護る諸尊を八方天あるいは護世八方天といい、更に天地を護る諸尊を加えて十天ともいう児玉義隆『印と梵字ご利益・功徳事典』学研パブリッシングpp256、2009、ISBN 9784054041875。.

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印象派

モネ『印象・日の出』 印象派(いんしょうは)または印象主義(いんしょうしゅぎ)は、19世紀後半のフランスに発した絵画を中心としたであり、当時のパリで活動していた画家たちのグループが起源である。フランスの保守的な美術界からの激しい批判にさらされながらも、独立した展覧会を連続して開催することで、1870年代から1880年代には突出した存在になった。この運動の名前はクロード・モネの作品『印象・日の出』に由来する。この絵がパリの風刺新聞「」で批評家ルイ・ルロワの槍玉に挙げられ、その結果「印象派」という新語が生まれた。 印象派の絵画の特徴としては、小さく薄い場合であっても目に見える筆のストローク、戸外制作、空間と時間による光の質の変化の正確な描写、描く対象の日常性、人間の知覚や体験に欠かせない要素としての動きの包摂、斬新な描画アングル、などがあげられる。 印象派は登場当初、この時代には王侯貴族に代わって芸術家たちのパトロン役になっていた国家(芸術アカデミー)にも評価されず、印象派展も人気がなく絵も売れなかったが、次第に金融家、百貨店主、銀行家、医者、歌手などに市場が広がり、さらにはアメリカ合衆国市場に販路が開けたことで大衆に受け入れられていった。ビジュアルアートにおける印象派の発展によって、他の芸術分野でもこれを模倣する様式が生まれ、印象主義音楽や として知られるようになった。 ドガ『舞台の踊り子』(1878年、オルセー美術館).

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千利休

千利休(せん の りきゅう、せん りきゅう、大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。 わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久、津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えた。子孫は茶道の三千家として続いている。天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもった。しかしやがて秀吉との関係に不和が生じ、最後は切腹へと追い込まれた。切腹を命ぜらるに至った真相については諸説あって定まっていない。.

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千手観音

千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ)、सहस्रभुज、、サハスラブジャ)は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。 「サハスラブジャ」とは「千の手」あるいは「千の手を持つもの」の意味である。この名はヒンドゥー教のヴィシュヌ神やシヴァ神、女神ドゥルガーといった神々の異名でもあり、インドでヒンドゥー教の影響を受けて成立した観音菩薩の変化身(へんげしん)と考えられている。六観音の一尊でもある。 三昧耶形は開蓮華(満開のハスの花。聖観音の初割蓮華と対をなす)、蓮華上宝珠。種字はキリーク(ह्रीः hrīḥ)。 眷属として二十八部衆を従える。.

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南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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南画

南画(なんが)は、中国の南宗画に由来する 日本的解釈の江戸時代中期以降の画派・画様の用語である。文人画ともいう。.

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南都

南都(なんと)は、複都制において「南の都」を意味する語である。.

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古墳

前方後円墳の例・仁徳天皇陵とされる「大仙陵古墳」 国土航空写真 古墳(こふん)とは、古代の墳墓の1種。土を高く盛り上げた墳丘を持つ墓を指し、特に東アジアにおいて位の高い者や権力者の墓として盛んに築造された。日本史では一般に、3世紀半ばから7世紀代にかけて日本で築造された墓を指す(弥生時代の墓は「墳丘墓」、奈良時代の墓は「墳墓」と呼び区別される)。 後述するように、天皇陵とされている古墳への立ち入りは厳しく制限されており、日本史研究会や歴史学研究会等の学術団体の調査要求さえも宮内庁が拒否しているため、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)など、古代のものについては実際に天皇あるいは皇族の墓であるか検証されていないものもある。.

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古墳時代

古墳時代(こふんじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つである。古墳、特に前方後円墳が盛んに造られた時代を意味する。縄文時代、弥生時代に次ぐ考古学上の時期区分である。ほぼ同時代を表している「大和時代」は日本書紀や古事記による文献上の時代区分である。現在は研究が進んだこともあって、この時代の呼び方は「古墳時代」がより一般的となっている。 古墳時代の時期区分は、古墳の成り立ちとその衰滅をいかに捉えるかによって、僅かな差異が生じる。例えば、前方後円墳が造営され始めた年代に関しても、議論が大きく揺れ動いてきた。現在のところ一般的に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い。中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方南部から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の時代と呼ばれることもある。 前方後円墳が造られなくなった7世紀に入っても、方墳・円墳、八角墳などが造り続けられるが、この時期を古墳時代終末期と呼ぶこともある。 西暦266年から413年にかけて中国の歴史文献における倭国の記述がなく詳細を把握できないため、この間は「空白の4世紀」とも呼ばれている。日本国家の成立を考察すれば、倭国のヤマト王権が拡大し、王権が強化統一されていった時代と考えられている。古墳時代終末期に倭国から日本国へ国名を変更した。.

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古代

古代(こだい、)とは、世界の歴史の時代区分で、文明の成立から古代文明の崩壊までの時代を指す。「歴史の始まり」を意味する時代区分である。古典的な三時代区分の一つであり、元来は古代ギリシア・古代ローマを指した(古典古代)。歴史家にとっては語ることのできる歴史の始まり(書き出し)を意味した。考古学の発達が歴史記述の上限を大幅に拡大したと言える。.

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司馬江漢

寒柳水禽図 (パワーズコレクション旧蔵) 絹本油彩 寛政初期 司馬 江漢(しば こうかん、延享4年(1747年) - 文政元年10月21日(1818年11月19日))は、江戸時代の絵師、蘭学者。浮世絵師の鈴木春重(すずき はるしげ)は同一人物。本名は安藤峻。俗称は勝三郎、後に孫太夫。字は君嶽、君岡、司馬氏を称した。また、春波楼、桃言、無言道人、西洋道人と号す。.

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吉山明兆

吉山 明兆(きつさん みんちょう、正平7年/文和元年(1352年) - 永享3年8月20日(1431年9月26日))は、室町時代前・中期の臨済宗の画僧。.

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吉祥天

吉祥天(きっしょうてん / きちじょうてん、Śrī-mahādevī 、音写:摩訶室利など)は、仏教の守護神である天部の1つ。もとヒンドゥー教の女神であるラクシュミー()が仏教に取り入れられたもの。功徳天、宝蔵天女ともいう。ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神の妃とされ、また愛神カーマの母とされる。 仏教においては、父は徳叉迦(とくさか)、母は鬼子母神であり、夫を毘沙門天とする。妹に黒闇天がいる。 毘沙門天の脇侍として善膩師童子と共に祀られる事もある。 早くより帝釈天や大自在天などと共に仏教に取り入れられた。後には一般に弁才天と混同されることが多くなった。 北方・毘沙門天の居所を住所とする。不空訳の密教経典『大吉祥天女十二契一百八名無垢大乗経』では、未来には成仏して吉祥摩尼宝生如来(きちじょうまにほうしょうにょらい)になると説かれる。 吉祥とは繁栄・幸運を意味し幸福・美・富を顕す神とされる。また、美女の代名詞として尊敬を集め、金光明経から前科に対する謝罪の念(吉祥悔過・きちじょうけか)や五穀豊穣でも崇拝されている。 天河大弁財天社の創建に関わった天武天皇は天河の上空での天女.

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吉野ヶ里遺跡

吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵にある遺跡。国の特別史跡に指定されている。 およそ50ヘクタールにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落(環壕集落)跡で知られる。1986年(昭和61年)からの発掘調査によって発見された。現在は国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理する公園となっている。.

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堂本印象

堂本 印象(どうもと いんしょう、1891年12月25日 - 1975年9月5日)は京都市生れの日本画家。帝室技芸員。日本芸術院会員。本名:堂本三之助。.

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塑像

如意寺の仁王像・阿形 塑像(そぞう)は、塑造によって作成した彫像などの立体造形のこと。広義には紙粘土による作品なども含まれる。鋳造作品の原型作りは通常、塑造の手法を使って行われる。 以下では、粘土を素材とした、日本の歴史的な仏像彫刻について述べる。.

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墨摺絵

墨摺絵(すみずりえ)とは、江戸時代に描かれた浮世絵の様式のひとつである。.

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夏島貝塚

夏島貝塚(なつしまかいづか)は、神奈川県横須賀市夏島町に所在する縄文時代早期・初期に属する最古級の貝塚である。第一貝塚と第二貝塚に分かれ、1972年(昭和47年)1月27日、島全体が国の史跡に指定された。また、出土品についても1998年(平成10年)に国の重要文化財に指定された。.

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夢二郷土美術館

竹久夢二(1884-1934) 夢二郷土美術館(ゆめじきょうどびじゅつかん、Yumeji Art Museum)は岡山県岡山市中区(本館)と瀬戸内市(別館)にある岡山県の登録博物館。運営は、両備グループが設立した公益財団法人両備文化振興財団。館長は両備グループ代表の小嶋光信。.

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大原美術館

大原美術館(おおはらびじゅつかん)は、岡山県倉敷市にある美術館で、公益財団法人大原美術館が運営する。倉敷美観地区の一角をなす。館長は西洋美術史家の高階秀爾(2002年〜)。 2003年には分館が、DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選ばれている。.

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大坂の陣

大坂の陣(おおさかのじん)は、江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)から成る。大坂の役(おおさかのえき)とも呼ばれる。.

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大安寺

大安寺(だいあんじ)は、奈良市中心部にある高野山真言宗の仏教寺院。本尊は十一面観音。開基(創立者)は聖徳太子と伝える。南都七大寺の1つで、奈良時代(平城京)から平安時代前半は東大寺、興福寺と並ぶ大寺であった。.

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大仏

大仏(だいぶつ)とは、大きな仏像を指す通称。中国などアジアの仏教圏では、天然の岩壁を彫刻した磨崖仏などが古くから造られてきた。日本においては、奈良時代に聖武天皇が、国家の安寧と民の幸福を祈願して東大寺に奈良の大仏(東大寺大仏)を造立したのを嚆矢とする。以降、現代に至るまで、大きな功徳を求めた願主によって各地に大きな仏像が造られてきた。 釈迦の背丈が1丈6尺あったという伝説から、その高さで造られた仏像を丈六仏(じょうろくぶつ)という。背丈を基準としているため坐像の場合は、約半分の大きさになる。一般的には「丈六仏」より大きい仏像を「大仏」というが、その定義より小さくても「大仏」と称するものもある。 また、大仏を安置する仏堂を大仏殿(だいぶつでん)と呼ぶことがあり、東大寺の大仏殿(金堂)が有名である。.

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大仏様

大仏様(だいぶつよう)は、日本の伝統的な寺院建築様式の一つ。かつては天竺様と呼ばれていた。 平重衡らによる南都焼討で焼け落ちた東大寺の再建の際、入宋経験のある僧重源によってもたらされた建築様式。従来の寺院建築様式である和様、また鎌倉時代後期から禅宗寺院に採用された禅宗様に対する言葉。禅宗様とは共通する部分も多く、あわせて鎌倉新様式または宋様式と総称される。.

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大仙院

大仙院(だいせんいん)は、京都府京都市北区にある臨済宗の大徳寺内にある塔頭寺院。.

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大徳寺

大徳寺(だいとくじ、旧字体:大德寺)は、京都府京都市北区紫野大徳寺町にある寺で、臨済宗大徳寺派大本山である。山号は龍宝山(りゅうほうざん)。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。 京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。.

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大和絵

源氏物語絵巻(東屋)徳川美術館蔵 大和絵(やまとえ)は日本絵画の様式概念の1つ。中国風の絵画「唐絵」(からえ)に対する呼称であり平安時代の国風文化の時期に発達した日本的な絵画のこと。「やまと絵」「倭絵」「和絵」などとも表記され、「日本画」と書いて「やまとえ」と読むこともある。源氏物語絵巻などの絵巻物に典型的に見られる。土佐派などの流派に受け継がれ、近代・現代の日本画にも影響を及ぼしている。狩野派は大和絵の伝統と、中国の水墨画の技法・主題を統合したと評される。.

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大倉集古館

大倉集古館(おおくらしゅうこかん)は、東京都港区虎ノ門二丁目にある、日本・東洋の古美術が中心の私立美術館である。運営は、公益財団法人大倉文化財団。.

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大覚寺

大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。山号を嵯峨山と称する。本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。また、嵯峨天皇を流祖と仰ぐ華道嵯峨御流の総司所(家元)である。 時代劇の撮影所が多い太秦の近くということもあり、寺の境内(大沢池や明智門など)は(特に時代劇の)映画やテレビなどの撮影によく使われている (#舞台となった作品)。.

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大英博物館

大英博物館(だいえいはくぶつかん、British Museum)は、イギリス・ロンドンにある博物館である。.

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大逆事件

大逆事件(たいぎゃくじけん、だいぎゃくじけん)とは、1882年に施行された旧刑法116条、および大日本帝国憲法制定後の1908年に施行された刑法73条(1947年に削除)が規定していた、天皇、皇后、皇太子等を狙って危害を加えたり、加えようとする罪、いわゆる大逆罪が適用され、訴追された事件の総称。日本以外では皇帝や王に叛逆し、また謀叛を企てた犯罪を、大逆罪と呼ぶことがある。.

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大正

大正(たいしょう)は日本の元号の一つ。明治の後、昭和の前。大正天皇の在位期間である1912年(明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。.

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大正期新興美術運動

大正期新興美術運動(たいしょうきしんこうびじゅつうんどう)とは、海外の美術動向(特に未来派とダダ)の強い影響のもと、大正期(1910年代後半から1920年代前半。ただし、主として、1920年代前半)に興った前衛的な美術運動のこと。美術史家五十殿利治により提唱された用語。.

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天守

天守(てんしゅ)とは、日本の戦国時代以降の城に建てられた象徴的な建造物の名称。日本の建築学の学術用語である。俗語は天守閣(てんしゅかく)。ヨーロッパの城の象徴的建築である「keep tower」の日本語訳として使われることもある。後述するが、建物の用途については諸説ある。.

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天寿国繍帳

天寿国繍帳 天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)は、奈良県斑鳩町の中宮寺が所蔵する、飛鳥時代(7世紀)の染織工芸品。天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)とも呼ばれる。 銘文によれば、聖徳太子の死去を悼んで妃の橘大郎女が作らせたという。「天寿国繍帳」とは「聖徳太子が往生した天寿国のありさまを刺繍で表した帳(とばり)」の意であり、「天寿国」とは、阿弥陀如来の住する西方極楽浄土を指すものと考証されている。古記録に基づく考証によれば、制作当初は縦2メートル、横4メートルほどの帳2枚を横につなげたものであったと推定されるが、現存するのは全体のごく一部にすぎず、さまざまな断片をつなぎ合わせ、縦88.8センチメートル、横82.7センチメートルの額装仕立てとなっている。このほかに断片2点が別途保存されている。断片のみの現存であるが、飛鳥時代の染織工芸、絵画、服装、仏教信仰などを知るうえで貴重な遺品であり、国宝に指定されている。.

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天平文化

東大寺盧舎那仏像 天平文化(てんぴょうぶんか)は、時期では8世紀の中頃までをいい、奈良の都平城京を中心にして華開いた貴族・仏教文化である。この文化を、聖武天皇のときの元号天平を取って天平文化と呼ぶ。.

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天武天皇

天皇系図38~50代 天武天皇(てんむてんのう、? - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。.

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天智天皇

天智天皇(てんじてんのう/てんぢてんのう、推古天皇34年(626年) - 天智天皇10年12月3日(672年1月7日))は、第38代天皇(在位:天智天皇7年1月3日(668年2月20日) - 10年12月3日(672年1月7日))。和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる。.

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太陽の塔

太陽の塔(たいようのとう)は、芸術家の岡本太郎が制作した芸術作品であり建造物である。岡本太郎の代表作として同時期に制作された『明日の神話』とで双璧をなす。1970年に大阪府吹田市で開催された日本万国博覧会(EXPO'70・大阪万博)のテーマ館の一部として建造され、万博終了後も引き続き万博記念公園に残された。 高さ70mの塔で、その上部の顔についた目は日没とともに光る仕様であり、万博後中断されたものの2010年3月末ごろより再び毎晩点灯している。塔の内部は「生命の樹」と呼ばれる生物の進化というテーマに沿った展示物が置かれており、万博後非公開とされたが、何度かの限定公開を経て2018年3月19日に再び公開された。これに合わせて万博開催当時、テーマ館地下展示「いのり」に設置されていたが、閉幕後行方不明となっていた「地底の太陽」が復元された。.

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奥村土牛

奥村 土牛(おくむら とぎゅう、1889年(明治22年)2月18日 - 1990年(平成2年)9月25日)は現代の代表的な日本画家の一人。本名:義三(よしぞう)。号である「土牛」は、出版社を営んでいた父が寒山詩の一節「土牛石田を耕す」から引用してつけられた。 刷毛で胡粉などを100回とも200回ともいわれる塗り重ねをし、非常に微妙な色加減に成功した作品が特徴とされる。<富士山図>(または「富士」)が著名で、皇居にも飾られている。.

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女神

リシア神話の女神アプロディーテー 女神(めがみ)とは、女性の姿を持つ神のこと。.

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奈良

奈良(なら)は、日本国の発祥とされる歴史的地名である。 異表記として那羅・平城・寧楽などがある(読みは全て「なら」)。平安京(京都)に都が遷った後は南都(なんと)とも呼ばれた。古くは大和と呼ばれ、また平城京にも相当した。.

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奈良国立博物館

奈良国立博物館(ならこくりつはくぶつかん)は、奈良県奈良市登大路町にある、独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館である。館長は松本伸之。.

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奈良時代

奈良時代(ならじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つで、平城京(奈良)に都が置かれた時代である。平城時代(へいじょうじだい)ともいう。日本仏教による鎮護国家を目指して、天平文化が花開いた時代である。.

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如庵

茶室如庵 如庵(じょあん)は、愛知県犬山市の有楽苑にある茶室である。昭和47年(1972年)に、名古屋鉄道によって現在地に移築された。国宝指定は昭和26年(1951年)。この如庵という名称は、一説によれば庵主織田有楽斎のクリスチャンネーム「Joan」または「Johan」から付けられたという。なお、有楽斎はこれより前に如庵の名を持つ茶室を大坂天満屋敷にも好んで(造って)おり、同じ有楽苑内に「元庵」の名で復元されている。.

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如意輪観音

如意輪観音(にょいりんかんのん)、梵名チンターマニチャクラ (चिन्तामणिचक्र)は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身(へんげしん)の一つであり、六観音の一尊に数えられる。 三昧耶形は如意宝珠、紅蓮華。種字はキリーク(ह्रीः、)。.

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如拙

代表作「瓢鮎図」 如拙(じょせつ、生没年不詳)は、南北朝時代から室町時代中期の画僧。道号は大巧(たいこう)。絶海中津(ぜっかいちゅうしん)が『老子』の「大巧は拙なるが如し」にちなんで名づけたという。.

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妙喜庵

妙喜庵(みょうきあん)は京都府乙訓郡大山崎町にある仏教寺院。山号は豊興山。妙喜禅庵とも称する。江戸時代一時地蔵寺の塔頭であったが、現在は臨済宗東福寺派に属する。 室町時代の明応年間(1492年 - 1501年)の開創。開山は東福寺開創聖一国師法嗣・春嶽士芳。国宝の茶室「待庵(たいあん)」があることで知られる。連歌師の山崎宗鑑の屋敷(對月庵)を宗鑑退去(大永3年(1524年)ごろ)後寺庵に改めたとの伝えもあるが、春嶽は永正6年(1510年)にすでに没している。また、大山崎集落の大阪府側(島本町山崎)には宗鑑旧居跡(宗鑑井戸)の伝えもある。これらのことから「妙喜庵.

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姫路城

代表紋章:揚羽蝶 姫路城(ひめじじょう)は、兵庫県の姫路市にある日本の城。江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存し、国宝や重要文化財に指定されている。また、主郭部を含む中堀の内側は「姫路城跡」として国の特別史跡に指定されている。また、ユネスコの世界遺産リストにも登録され、日本100名城などに選定されている。別名を白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう。詳細は名称の由来と別名を参照)という。坂東三津五郎 (10代目)『三津五郎城めぐり』(三月書房2010年11月)では数多くの城の最初に紹介している。。.

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宣教師

宣教師(せんきょうし)は、ある特定の思想や宗教を伝えるために、自分の属する共同体を離れて活動する者のこと。もともとはキリスト教用語で、イエス・キリストの高弟たちのことを使徒と呼ぶが、そのギリシア語表現であるアポストロス(απόστολος)本来の意味は「遣わされた者」であり、これがラテン語に訳された際に、同じ意味を持つ"missio"の語が充てられた。宣教師を意味するヨーロッパの各言語における表記は、このラテン語表記に由来する。(missionary、Missionarなど。)現代では本来のキリスト教用語として意味だけでなく、広義で新思想の普及者を指してそう呼ぶことがある。.

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室生寺

室生寺(むろうじ)は、奈良県宇陀市にある真言宗室生寺派大本山の寺院。山号を宀一山(べんいちさん)と号する。開基(創立者)は賢憬(賢璟)、本尊は釈迦如来である。奈良盆地の東方、三重県境に近い室生の地にある山岳寺院である。宇陀川の支流室生川の北岸にある室生山の山麓から中腹に堂塔が散在する。平安時代前期の建築や仏像を伝え、境内はシャクナゲの名所としても知られる。女人禁制だった高野山に対し、女性の参詣が許されていたことから「女人高野」の別名がある。なお、山号の「宀一」は「室」のうかんむりと「生」の最後の一画だという。仏塔古寺十八尊第十八番。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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宮本三郎

宮本 三郎(みやもと さぶろう、1905年5月23日 - 1974年10月13日)は石川県能美郡末佐美村(現・小松市)生まれの洋画家である。.

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宮本武蔵

宮本 武蔵(みやもと むさし)は、江戸時代初期の剣術家、兵法家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。 京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が後世、演劇、小説、様々な映像作品の題材になっている。著書『五輪書』は外国語にも翻訳され出版されている。国の重要文化財に指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』をはじめ『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』など水墨画・鞍・木刀などの工芸品が各地の美術館に収蔵されている。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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安井曾太郎

安井曾太郎の胸像(於東京藝術大学) 安井 曾太郎(やすい そうたろう、1888年5月17日 - 1955年12月14日)は、大正~昭和期の洋画家。.

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安土桃山時代

安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。 なお、美術史では1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡までを「安土桃山時代」と称するのが一般的である。.

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安田靫彦

安田 靫彦(やすだ ゆきひこ、本名:安田 新三郎、1884年(明治17年)2月16日 - 1978年(昭和53年)4月29日)は、大正~昭和期の日本画家、能書家。東京府出身。 靫彦は前田青邨と並ぶ歴史画の大家で、青邨とともに焼損した法隆寺金堂壁画の模写にも携わった。「飛鳥の春の額田王」「黎明富士」「窓」はそれぞれ1981年、1986年、1996年に切手に用いられた。良寛の書の研究家としても知られ、良寛の生地新潟県出雲崎町に良寛堂を設計した。また靫彦自らも皇居新宮殿千草の間に書、『万葉の秀歌』を揮毫した。.

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寺社

寺社(じしゃ)は、日本における寺院と神社の総称である。社寺(しゃじ)あるいは神社仏閣(じんじゃ ぶっかく)とも呼ばれる。 寺社という言葉は江戸時代までの仏主神従の考えによるもので、一方、社寺という言葉は平安時代頃から使われた形跡があるが、主に神社優先の考えに基づいた明治期以降に多く使われた。.

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富岡鉄斎

富岡 鉄斎(とみおか てっさい、1837年1月25日(天保7年12月19日)- 1924年12月31日)は、明治・大正期の文人画家、儒学者。日本最後の文人と謳われる。.

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富嶽三十六景

『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』 落款 『富嶽三十六景』(ふがくさんじゅうろっけい)は、江戸時代後期の浮世絵師・葛飾北斎の手になる名所浮世絵揃物の一つで、北斎の代表作である。大錦横判『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』(横大判錦絵)、全46図。「富嶽」は富士山の別名であり、本作は、富士見のできる各地を織り交ぜながら富士山の在る景観を描いたものである。 漢字「富」には異体字「冨」があるが、作品自体の示すとおり、出版当時の題名表記は異体字を用いた「冨嶽三十六景」である(■右列の「落款」画像を参照)。一方で、現代に多く見られる表記は正体字を用いた「富嶽三十六景」である『中学社会 歴史』(中学校社会科用教科書。平成8年2月29日文部省検定済。教科書番号:17教出・歴史762)p 149には、「葛飾北斎の風景画(「富嶽三十六景」)」と記載されている。『新しい社会 歴史』(中学校社会科用教科書。平成13年3月30日文部科学省検定済。教科書番号:2東書 歴史702)p 107には、「葛飾北斎の風景画(富嶽三十六景より「凱風快晴」)」と記載されている。『詳解日本史B 改訂版』(高等学校地理歴史科用教科書。平成10年3月31日文部省検定済。教科書番号:15三省堂 日B 625)p 194には、「葛飾北斎 『富嶽三十六景ー尾州不二見原』」と記載されている。『総合日本史図表』(高等学校日本史資料集。第一学習社。2000年1月10日 改訂11版発行)p 146には、「富嶽三十六景凱風快晴(葛飾北斎筆)」と記載されている。。ほかにも、「岳」が「嶽」の異体字であることから、「富岳三十六景」という表記も見られる小学館『日本大百科全書:ニッポニカ』。 19世紀のヨーロッパ文化圏に到来したジャポニスムを通じて、ヨーロッパの芸術シーンに多大な影響を与えたことでも、世界的に知られる。.

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富本憲吉

富本 憲吉(とみもと けんきち、1886年(明治19年)6月5日 - 1963年(昭和38年)6月8日)は、日本の陶芸家。人間国宝、文化勲章受章者。映画監督・テレビ演出者の富本壮吉は長男にあたる。.

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密教

密教(みっきょう)とは、秘密の教えを意味し、一般的には、大乗仏教の中の秘密教を指し、秘密仏教の略称とも言われる。金剛乗、あるいは金剛一乗教、金剛乗教ともいう。中国語圏では一般に密宗(ミイゾン)という。.

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寛永文化

寛永文化(かんえいぶんか)とは、16世紀の桃山文化と17世紀後半の元禄文化に挟まれた17世紀前半(江戸時代初期)の文化。寛永年間を中心として、慶長あるいは元和から寛文年間の約80年前後の時期を指す。 寛永文化の中心は京都であったとされ、中世以来の伝統を引き継ぐ町衆勢力と後水尾天皇を中心とする朝廷勢力が、封建制を強化する江戸幕府に対抗する形で古典文芸・文化の興隆を生み出し、後に江戸においても儒学・武家を中軸とした文化が形成され、東西に2焦点の楕円形の文化構造が互いに交錯しながら各地に広がり、金沢などの地方都市を巻き込んでいった。 初期には出雲阿国や古田重然に代表されるように桃山文化の影響を受けた「かぶき」の文化が一世を風靡したが、元和偃武後には各階層において様々なサロンが形成されるようになった。 代表的な人物としては、茶の湯(千宗旦・金森宗和・小堀遠州)、生け花(後水尾天皇・池坊専好)、文学(安楽庵策伝・三浦為春・松永貞徳・烏丸光広など)、儒学(石川丈山・林羅山・堀正意)、禅(沢庵宗彭・一糸文守・鈴木正三)、寛永の三筆(近衛信尹・松花堂昭乗・本阿弥光悦)、書(角倉素庵・近衛信尋)、絵画(俵屋宗達・狩野探幽・狩野山雪・雲谷等益)、陶芸(野々村仁清)などが挙げられる。また当時の建築物としては智仁親王の桂離宮・後水尾天皇の修学院離宮・徳川家光の日光東照宮などが著名である。 だが、身分文化の進行に加えて、内陸都市であった京都は水運ネットワークに乗る事が出来ずに経済的に低迷期に入り、代わりに上方の経済的中心となった大坂を中心とした元禄文化が花開く事になる。.

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小出楢重

小出 楢重(こいで ならしげ、1887年10月13日 - 1931年2月13日)は、大正から昭和初期の洋画家。.

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小磯良平

アトリエ(1949年、小磯記念美術館) 小磯 良平(こいそ りょうへい、1903年7月25日 - 1988年12月16日)は、日本の昭和期に活躍した洋画家である。 肖像画、特に群像を多く手がけたことで知られる。.

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小林古径

小林 古径(旧字:古徑、こばやし こけい、1883年(明治16年)2月11日 - 1957年(昭和32年)4月3日)は、大正~昭和期の日本画家。 本名は茂(しげる)。 1883年(明治16年)、新潟県高田(現上越市)に生まれる。早期に家族を亡くし、16歳の1899年(明治32年)に上京して梶田半古に日本画を学ぶ。39歳の1922年(大正11年)より前田青邨と共に渡欧留学。翌1923年(大正12年)、大英博物館で中国・東晋の名画「女史箴図巻」(じょししんずかん)を模写している。「蚕の吐く糸のような」と評される線描が特色のこの中国古典を研究することによって、古径は東洋絵画の命である線描の技術を高めた。代表作「髪」は、このような古径の線描の特色をいかんなく発揮した名作である。簡潔に力強く描かれた線と単純な色彩で、髪の毛一本一本や美しく縁取られた顔の輪郭、半裸の女性の体温や皮膚の柔らかい感触まで、繊細に描き出している。「髪」は、裸体画として、日本で初めて切手のデザインとなった。1935年(昭和10年)、帝国美術院会員。1944年(昭和19年)、東京美術学校教授に就任。同年7月1日帝室技芸員となる。1950年(昭和25年)、文化勲章受章。1957年(昭和32年)4月3日、死去、贈従三位、贈勲二等旭日重光章(没時叙位叙勲)。 古径の住居として東京都大田区南馬込に建築された小林古径邸は新潟県上越市の高田公園内に移築・復原され、国の登録有形文化財に登録されている。古径は、「私が好きになるような家を建ててください。」と言っただけで一切注文を出さなかった、古径邸ができあがってもすぐには移り住まずに通ってきては眺めて楽しんだというエピソードが残っている。 また、古径は絵画における写生の重要性を認識しており、庭の植物や庭で飼育した鳥などを写生したという。.

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尾形光琳

尾形 光琳(おがた こうりん、万治元年(1658年) - 享保元年6月2日(1716年7月20日))は、江戸時代の画家、工芸家。.

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山口県立萩美術館・浦上記念館

山口県立萩美術館・浦上記念館(やまぐちけんりつはぎびじゅつかん・うらがみきねんかん)は山口県萩市にある美術館。.

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山種美術館

山種美術館(やまたねびじゅつかん)は、東京都渋谷区広尾にある日本画専門の美術館であり、公益財団法人山種美術財団によって管理・運営されている。.

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山本芳翠

山本 芳翠(やまもと ほうすい、嘉永3年7月5日(1850年8月12日) - 明治39年(1906年)11月15日、朝日日本歴史人物事典、朝日新聞出版、コトバンク、2009年11月11日閲覧。)は、明治時代の日本の洋画家である。.

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屈原

楚の屈原(清代) 屈原の肖像画(17世紀) 屈 原(くつ げん、紀元前343年1月21日頃 - 紀元前278年5月5日頃)は、中国戦国時代の楚の政治家、詩人。姓は羋、氏は屈。諱は平または正則。字が原。秦の張儀の謀略を見抜き、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して入水自殺した。春秋戦国時代を代表する詩人としても有名である。.

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岐阜県美術館

実習棟 庭園 岐阜県美術館(ぎふけんびじゅつかん、Museum of Fine Arts,GIFU)は、岐阜県が運営している公立の美術館である。1982年(昭和57年)11月開館。 岐阜県出身者やゆかりのある画家(大橋翠石、川合玉堂など)・芸術家の作品を多数収蔵する一方、オディロン・ルドンの作品「眼を閉じて」、「あずまやの下の二人の女」などを多数収蔵している。展示は常設展示と企画展示があり、企画展示については年に6回程度行われている。 庭内には幾多のモニュメントが展示してあり、鑑賞しながら散策することができる。また、ミュージアムショップでは書籍やポストカードなどの他に、地元作家の小品や雑貨も販売されている。2010年(平成22年)から展示室の増築工事が行われ、2012年(平成24年)1月にリニューアルオープンした。.

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岡倉天心

岡倉 天心(おかくら てんしん、1863年2月14日(文久2年12月26日) - 1913年(大正2年)9月2日)は、日本の思想家、文人。本名は岡倉覚三(かくぞう)。幼名は岡倉角蔵。.

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岡田三郎助

岡田 三郎助(おかだ さぶろうすけ、1869年1月22日(明治2年1月12日) - 1939年(昭和14年)9月23日)は佐賀県に生まれ、明治~昭和にかけて活躍した洋画家である。女性像を得意とし、日本的な感覚の洋画に秀作を残している。東京美術学校(現・東京藝術大学)教授。第1回文化勲章を受章。 妻・岡田八千代は小説家・劇作家で、小山内薫の妹である。.

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岡本太郎

岡本 太郎(おかもと たろう、1911年(明治44年)2月26日 - 1996年(平成8年)1月7日)は、日本の芸術家。血液型はO型新潮社「岡本太郎が、いる」"フェミニスト・自由人"より。1930年(昭和5年)から1940年(昭和15年)までフランスで過ごす。抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも接触した。第二次世界大戦後、日本で積極的に絵画・立体作品を制作するかたわら、縄文土器論や沖縄文化論を発表するなど文筆活動も行い、雑誌やテレビなどのメディアにも1950年代から積極的に出演した。1960年代後半にメキシコに滞在していた頃、壁画運動などから影響を受けたとされる。大阪の太陽の塔と渋谷駅に設置された壁画「明日の神話」などが代表的な作品。.

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岩宿遺跡

岩宿遺跡(いわじゅくいせき)は、群馬県みどり市にある旧石器時代の遺跡である。1946年(昭和21年)頃、当時在野の考古学者であった相沢忠洋によって発見された。この発見によって、それまで土器時代以前の日本列島に人類は居住していなかったとされた定説を覆し、日本にも旧石器時代が存在したことが証明された。これ以降、日本全国において旧石器時代の遺跡の発見が相次ぐことになる。1979年(昭和54年)8月17日、国の史跡に指定された。.

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岩佐又兵衛

伝岩佐又兵衛(自画像) MOA美術館 岩佐 又兵衛(いわさ またべえ、 天正6年(1578年) - 慶安3年6月22日(1650年7月20日))は、江戸時代初期の絵師。又兵衛は通称で、諱は勝以(かつもち)。通称「吃の又平(どものまたへい).

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岸田劉生

岸田 劉生(きしだ りゅうせい、男性、1891年6月23日 - 1929年12月20日)は、大正~昭和初期の洋画家。父親はジャーナリストの岸田吟香。.

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川合玉堂

川合 玉堂(かわい ぎょくどう、1873年(明治6年)11月24日 - 1957年(昭和32年)6月30日)は、日本の明治から昭和にかけて活躍した日本画家。本名は川合芳三郎(かわいよしさぶろう)。.

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川端康成

川端 康成(かわばた やすなり、1899年(明治32年)6月14日 - 1972年(昭和47年)4月16日)は、日本の小説家、文芸評論家。大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。大阪府出身。東京帝国大学国文学科卒業。 大学時代に菊池寛に認められ文芸時評などで頭角を現した後、横光利一らと共に同人誌『文藝時代』を創刊。西欧の前衛文学を取り入れた新しい感覚の文学を志し「新感覚派」の作家として注目され、詩的、抒情的作品、浅草物、心霊・神秘的作品、少女小説など様々な手法や作風の変遷を見せて「奇術師」の異名を持った原善「川端康成」()。その後は、死や流転のうちに「日本の美」を表現した作品、連歌と前衛が融合した作品など、伝統美、魔界、幽玄、妖美な世界観を確立させ、人間の醜や悪も、非情や孤独も絶望も知り尽くした上で、美や愛への転換を探求した数々の日本文学史に燦然とかがやく名作を遺し、日本文学の最高峰として不動の地位を築いた羽鳥徹哉「作家が愛した美、作家に愛された美―絶望を希望に転じ、生命の輝きを見出す」()羽鳥徹哉「川端文学の世界――美についての十章」()。日本人として初のノーベル文学賞も受賞し、受賞講演で日本人の死生観や美意識を世界に紹介した。 代表作は、『伊豆の踊子』『抒情歌』『禽獣』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』など。初期の小説や自伝的作品は、川端本人が登場人物や事物などについて、随想でやや饒舌に記述している。そのため、多少の脚色はあるものの、純然たる創作(架空のできごと)というより実体験を元にした作品として具体的実名や背景が判明し、研究・追跡調査されている「第三章 精神の傷あと―『みち子もの』と『伊豆の踊子』―」()。 川端は新人発掘の名人としても知られ、ハンセン病の青年・北條民雄の作品を世に送り出し、佐左木俊郎、武田麟太郎、藤沢桓夫、少年少女の文章、山川彌千枝、豊田正子、岡本かの子、中里恒子、三島由紀夫などを後援し、数多くの新しい才能を育て自立に導いたことも特記できる「新感覚――『文芸時代』の出発」()「第一編 評伝・川端康成――非情」()「第二部第五章 新人才華」()。また、その鋭い審美眼で数々の茶器や陶器、仏像や埴輪、俳画や日本画などの古美術品の蒐集家としても有名で、そのコレクションは美術的価値が高い。 多くの名誉ある文学賞を受賞し、日本ペンクラブや国際ペンクラブ大会で尽力したが、多忙の中、1972年(昭和47年)4月16日夜、72歳でガス自殺した(なお、遺書はなかった)「『美しい日本の私』――ノーベル賞受賞」()「第三部第八章 末期」()。.

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工芸

工芸(こうげい)とは、実用品に芸術的な意匠を施し、機能性と美術的な美しさを融合させた工作物のこと。多くは、緻密な手作業によって製作される手工業品である。あくまでも実用性を重視しており、鑑賞目的の芸術作品とは異なる。ただし両者の境界は曖昧であり、人によって解釈は異なり得る。.

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工部美術学校

工部美術学校(こうぶびじゅつがっこう)は、日本最初の美術教育機関であり、工部省の管轄である「工部大学校」の付属機関として設置された。1883年に廃校。 設置された学科は「画学科」「彫刻科」の二科である。純粋な西洋美術教育のみの機関であり、日本画や木彫は行われなかった。当時の「美術」が近世以前の日本文化を含んでいないこと、また、工部省が設置したことからも、日本の近代化に必要な技術として絵画・彫刻が捉えられていたことが窺える。なお、造家学科(建築科)は工部大学校に設置されていた。また、殖産興業の一環としての輸出工芸も美術の枠組みには含まれていない。.

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上品蓮台寺

上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)は、京都市北区にある真言宗智山派の寺院。山号は蓮華金宝山。院号は九品三昧院。本尊は延命地蔵菩薩。.

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上野

上野(うえの)は、東京都台東区の地名で、旧下谷区にあたる下谷地域内である。現行行政地名は上野一丁目から上野七丁目。郵便番号は110-0005。.

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上村松園

上村 松園(うえむら しょうえん、1875年(明治8年)4月23日 - 1949年(昭和24年)8月27日)は、日本画家。 本名は上村 津(うえむら つね、「」は「示」ヘンに「爾」)、常子(つねこ)と名乗っていたこともある。 明治の京都下京に生まれ育ち、女性の目を通して「美人画」を描いた。1948年(昭和23年)女性として初めて文化勲章を受章。 子の上村松篁、孫の上村淳之と三代続く日本画家である。.

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上方

上方(かみがた・かみかた)は、江戸時代に京都や大阪を初めとする畿内を呼んだ名称である。広義では、畿内を初めとする近畿地方一帯を指す語としても使われる。.

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与謝蕪村

与謝 蕪村(よさ ぶそん、享保元年(1716年) - 天明3年12月25日(1784年1月17日))は、江戸時代中期の日本の俳人、画家。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章。通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩「帰去来辞」に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」、「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」、「謝寅(しゃいん)」など複数ある。 鳶鴉図(重要文化財) 紙本着色.

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不空羂索観音

不空羂索観音坐像(香川県・法蓮寺、重要文化財) 不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん/ふくうけんじゃくかんのん)、梵名アモーガパーシャ(अमोघपाश )は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。六観音あるいは七観音の一尊に数えられる。三昧耶形は羂索(狩猟用の投げ縄、または両端に金具を付けた捕縛縄)、開蓮華(満開のハスの花。聖観音の初割蓮華と対をなす)。種字は(サ、)「印と真言の本」、学研、2004年2月、 p.105。 日本では「不空羂索観音菩薩」や、「不空羂索観世音菩薩」などさまざまな呼称がある。尊名の「不空」とは「むなしからず」、「羂索」は鳥獣等を捕らえる縄のこと。従って、不空羂索観音とは「心念不空の索をもってあらゆる衆生をもれなく救済する観音」を意味する。.

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両界曼荼羅

両界曼荼羅(りょうかいまんだら)は、日本密教の中心となる仏である大日如来の説く真理や悟りの境地を、視覚的に表現した曼荼羅である。.

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中尊寺

中尊寺(ちゅうそんじ)は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗東北大本山の寺院。奥州三十三観音番外札所。山号は関山(かんざん)、本尊は釈迦如来 。寺伝では円仁の開山とされる。実質的な開基は藤原清衡。 奥州藤原氏三代ゆかりの寺として著名であり、平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めた金色堂を始め、多くの文化財を有する。 境内は「中尊寺境内」として国の特別史跡に指定されている。2011年(平成23年)6月26日、「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の構成資産の一つとして世界遺産に登録された。 平泉毛越寺、松島瑞巌寺、山形立石寺と共に「四寺廻廊」という巡礼コースを構成している。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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中国美術

中国美術(ちゅうごくびじゅつ)とは、中国の各時代の美術である。また、中国美術に関する記事の一覧である。.

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中部地方

中部地方(ちゅうぶちほう)は、日本の地方区分(全国八地方区分)の一つで、近代における本州中部の総称。東海地方・中央高地(東山地方)・北陸地方から成り、9つの県がある。.

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中村彝

中村 彝(なかむら つね、1887年7月3日 - 1924年12月24日)は、大正期にかけての洋画家である。.

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中村研一

中村 研一(なかむら けんいち、1895年(明治28年)5月14日 - 1967年(昭和42年)8月28日)は、日本の洋画家。日本芸術院会員。.

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串本応挙芦雪館

串本応挙芦雪館(くしもとおうきょろせつかん)は和歌山県東牟婁郡串本町にある美術館。.

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常滑焼

常滑焼(とこなめやき)は、愛知県常滑市を中心とし、その周辺を含む知多半島内で焼かれる炻器。日本六古窯の一つ。 常滑市栄町の窯業施設.

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丹波立杭焼

中尾城跡で出土した丹波立杭焼の甕(室町時代、兵庫県立考古博物館蔵) 丹波立杭焼(たんばたちくいやき)は兵庫県篠山市今田地区付近で焼かれる陶器、炻器。主に生活雑器を焼いてきた。丹波焼、または立杭焼ともいう。起源は平安時代にまで遡るといわれ、六古窯の一つに数えられる。 中世の丹波焼の特徴は赤っぽい土肌にかかる、焼き締めによる自然釉に特徴がある。備前焼、信楽焼に比べ、若緑色のおとなしめで爽やかな作品が多い。江戸時代以後は釉薬や技法が多様になったが、現代の丹波焼でもその風合いを引き継いだ民芸調の作品が多く見られる。.

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世阿弥

世阿弥(ぜあみ、世阿彌陀佛、正平18年/貞治2年(1363年)? - 嘉吉3年8月8日(1443年9月1日)?)は、日本の室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師。父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽(申楽とも。現在の能)を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。 幼名は鬼夜叉、そして二条良基から藤若の名を賜る。通称は三郎。実名は元清。父の死後、観世大夫を継ぐ。40代以降に時宗の法名(時宗の男の法名(戒名)は阿弥陀仏(阿彌陀佛)号。ちなみに世は観世に由来)である世阿弥陀仏が略されて世阿弥と称されるようになった。世の字の発音が濁るのは、足利義満の指示によるもの。正しくは「世阿彌」。.

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三の丸尚蔵館

狩野永徳 唐獅子図屏風 三の丸尚蔵館(さんのまるしょうぞうかん、Museum of the Imperial Collections)とは、東京都千代田区千代田の皇居東御苑内にある博物館施設。宮内庁が所管する。 昭和天皇の崩御後の1989年(平成元年)6月に皇室から寄贈されて国庫に帰属した美術品を保存、研究、公開するための施設として1993年(平成5年)11月3日に開館した。.

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三井記念美術館

三井記念美術館 (みついきねんびじゅつかん) は、東京都中央区日本橋室町にある、旧財閥三井家の伝来品を収蔵展示するために設立された私立美術館である。1985年、東京都中野区上高田に「三井文庫別館」(三井文庫本館は史料館)として開館し、2005年10月8日より、東京都中央区日本橋室町の三井本館(重要文化財建造物)7階に移転し、「三井記念美術館」と改称した。運営は、公益財団法人三井文庫。.

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三内丸山遺跡

三内丸山遺跡 三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、青森県青森市大字三内字丸山にある、縄文時代前期中頃から中期末葉の大規模集落跡。沖館川右岸の河岸段丘上に立地する。2000年に国の特別史跡に指定。遺跡には住居群、倉庫群のほか、シンボル的な3層の掘立柱建物が再現されており、資料館もある。青森県教育庁文化財保護課三内丸山遺跡保存活用推進室が発掘調査を行っている。.

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三遊亭圓朝

初代三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう/天保10年4月1日(1839年5月13日) - 明治33年(1900年)8月11日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代に活躍した落語家。本名は出淵 次郎吉(いずぶち じろきち)。江戸・東京の落語・三遊派の大名跡。円朝とも表記。三遊派の総帥、宗家。三遊派のみならず落語中興の祖として有名。敬意を込めて「大圓朝」という人もいる。二葉亭四迷が『浮雲』を書く際に圓朝の落語口演筆記を参考にしたとされ、明治の言文一致運動にも大きな影響を及ぼした、現代の日本語の祖でもある。.

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下村観山

下村 観山 下村 観山(しもむら かんざん、1873年(明治6年)4月10日 - 1930年(昭和5年)5月10日)は、明治 - 昭和初期の日本画家。本名は晴三郎。 1873年(明治6年)、和歌山県和歌山市に生まれる。8歳のとき東京へ移住。最初狩野芳崖に、その没後は芳崖の親友である橋本雅邦に師事する。東京美術学校(現・東京藝術大学)を第一期生として卒業後、同校で教えていたが、1898年に岡倉覚三(天心)が野に下ったときに行動を共にし横山大観、菱田春草とともに日本美術院の創設に参加した。 1906年、天心が日本美術院を茨城県北部の五浦海岸へ移した際、大観、春草、木村武山とともに同地へ移住し画業を深めた。1917年6月11日、帝室技芸員となる。 1930年 死去。.

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一乗寺

三重塔 (国宝) 弁天堂(左)と妙見堂(ともに重要文化財) 一乗寺(いちじょうじ)は、兵庫県加西市にある天台宗の寺院。西国三十三所第26番。山号は法華山、本尊は聖観音菩薩である。 寺伝では孝徳天皇の勅願で650年に創建、開基(創立者)は法道仙人とされる。 国宝に指定されている三重塔(1171年建立)は平安時代後期を代表する和様建築の塔であり、日本国内屈指の古塔である。 境内は山深く、春は桜、秋は紅葉の名所としても知られている。.

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一遍聖絵

一遍聖絵」第7巻 四条釈迦堂 一遍聖絵(いっぺんひじりえ)または、一遍上人絵伝(いっぺんしょうにんえでん) は、伊予国(現在の愛媛県)に生まれ浄土宗を修めたのち、新しく独自の宗旨である時宗を興した開祖一遍(遊行上人)を描いた絵巻。国宝。.

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九州国立博物館

九州国立博物館(きゅうしゅうこくりつはくぶつかん)は、福岡県太宰府市石坂にある歴史系の博物館。独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館の1つで、2005年10月16日に開館。太宰府天満宮裏で、同宮所有の丘陵地に建設された。通称「九博」(きゅうはく)。館長は島谷弘幸。.

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平家納経

観普賢経 見返し 『平家納経』(へいけのうきょう)は、平安時代に平家一門がその繁栄を願い、厳島神社に奉納した経典類の総称。 『法華経』30巻、『阿弥陀経』1巻、『般若心経』1巻、平清盛自筆の願文1巻と、経箱・唐櫃からなる。経典に施された装飾は絢爛豪華で、平家の栄華を今に伝えている。平安時代の装飾経の代表作で、当時の工芸を現代に伝える一級史料でもある。 経典を筆写したのは平家の一族で、清盛・重盛・頼盛・教盛など。それぞれ一巻を分担する形で筆写した。長寛2年(1164年)に厳島神社に奉納されたが、各巻の奥書を参照すると、全体の完成には仁安2年(1167年)までかかったことがわかる。 全点が昭和29年(1954年)、国宝に指定された。現在厳島神社が所蔵しており、複製が厳島神社宝物館で公開されている。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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平等院

平等院(びょうどういん)は、京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院。平安時代後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園等を今日に伝え、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。山号を朝日山と称する。宗派は17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね、現在は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院となっている。本尊は阿弥陀如来、開基は藤原頼通、開山は明尊である。.

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平賀源内

平賀 源内(ひらが げんない、享保13年(1728年) - 安永8年12月18日(1780年1月24日))は、江戸時代中頃の人物。本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家として知られる。.

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平重衡

東大寺盧舎那仏像 神戸市須磨区にある平重衡捕らわれの遺跡 平 重衡(たいら の しげひら)は、平安時代末期の平家の武将・公卿。平清盛の五男。母は清盛の継室・平時子。三位中将と称された。 平氏の大将の一人として各地で戦い、南都焼討を行って東大寺大仏や興福寺を焼亡させた。墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍するが、一ノ谷の戦いで捕虜になり鎌倉へ護送された。平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首された。その将才は「武勇の器量に堪ふる」(『玉葉』治承5年閏2月15日条)と評される一方、その容姿は牡丹の花に例えられたという。.

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平櫛田中

平櫛 田中(ひらくし(又は ひらぐし) でんちゅう、1872年2月23日(明治5年1月15日) - 1979年(昭和54年)12月30日)は、日本の彫刻家。本名は平櫛倬太郎(ひらくし たくたろう)。旧姓は田中。井原市名誉市民(1958年)、福山市名誉市民(1965年)、小平市名誉市民(1972年)。.

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平成

平成(へいせい)は日本の元号の一つ。昭和の後。今上天皇在位中の1989年(平成元年)1月8日から現在に至る。2001年(平成13年)の始まりには西暦における20世紀から21世紀への世紀の転換もあった。2019年(平成31年)4月30日に今上天皇退位により終了する予定であり、予定通り終了した場合、30年113日間(=11,070日間)にわたることとなる。なお、日本の元号では昭和(64年)、明治(45年)、応永(35年)に次いで4番目の長さである(5番目は延暦の25年)。 西暦2018年(本年)は平成30年に当たる。本項では平成が使われた時代(平成時代)についても記述する。.

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幸徳秋水

幸徳 秋水(こうとく しゅうすい、1871年11月5日(明治4年9月23日) - 1911年(明治44年)1月24日)は、明治時代のジャーナリスト、思想家、社会主義者、無政府主義者である。 本名は、幸徳 傳次郎(こうとく でんじろう)。秋水の名は、師事していた中江兆民から与えられたもの。大逆事件(幸徳事件)で処刑された12名の1人。.

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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久隅守景

久隅 守景(くすみ もりかげ、生没年不詳)は江戸時代前期の狩野派の絵師。通称は半兵衛、号は無下斎、無礙斎、一陳斎。狩野探幽の弟子で、最も優秀な後継者。娘に閨秀画家として謳われた清原雪信がいる。その画力や寛永から元禄のおよそ60年にも及ぶ活動期間、現存する作品数(200点以上)に比べて、人生の足跡をたどれる資料や手がかりが少なく謎が多い画家である。.

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京焼

京焼(きょうやき)は、日本の陶磁器のうち、京都で焼かれる作品の総称。.

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庭園

庭園(ていえん)は、見て、歩いて楽しむために、樹木を植えたり、噴水・花壇を作ったりなど、人工的に整備された施設。日本では、自然を模して川・池・築山などが作られ、木や草が植えられているものもある。.

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庶民

庶民(しょみん)とは、人口の多数を占める一般的な人々のことである。 庶民には、通例、平民などが該当し、貴族などの特権階級に対して、一般階級の人々を指すことが多い。現代社会においては、一般市民とも呼ばれることも多い。また庶民と言う言葉を大衆と同義で用いられることもあるが、厳格に区別して用いられることもある。庶民は、風俗の担い手でもあり、民俗学や文化人類学などにおいても注目されている。 古代中国では、士大夫以上の階級に対して「庶民に落とす」という処罰が存在し、これを恥辱として自殺した例もあった。.

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康勝

康勝(こうしょう、生没年不詳)は、日本の鎌倉時代の仏師。運慶の四男。湛慶は兄。慶派。.

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康慶

康慶(こうけい、生没年不詳)は、平安時代末期 - 鎌倉時代初期の仏師。運慶の父。平重衡の南都焼き討ち(治承4年(1180年))後の復興造仏の中心人物として活躍し慶派の基礎を築いたが、詳しい経歴には不明の部分が多い。.

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二条城

二条城(にじょうじょう)は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある、江戸時代に造営された日本の城である。京都市街の中にある平城で、後述する足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏によるものがあるが、現在見られるものは徳川氏によるものである。また、後の近代において二条城は京都府の府庁や皇室の離宮として使用された。城内全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録されている。 徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終わりの場所でもある。.

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五島美術館

五島美術館(ごとうびじゅつかん)は、東京都世田谷区上野毛(かみのげ)にある美術館。1960年(昭和35年)4月18日に開館し、所蔵品は日本・東洋の古美術を中心に国宝5件、重要文化財50件を含む約5000件にのぼる。運営主体は公益財団法人五島美術館で、同法人は五島美術館および大東急記念文庫の運営を行っている。.

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仁徳天皇

仁徳天皇(にんとくてんのう、神功皇后摂政57年 - 仁徳天皇87年1月16日)は、日本の第16代天皇(在位:仁徳天皇元年1月3日 - 同87年1月16日)。善政を敷き、大規模な土木事業を行ったと伝わる。 名は大雀命(おほさざきのみこと)(『古事記』)、大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)・大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)・聖帝(『日本書紀』)・難波天皇(『万葉集』)。.

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仏画

仏画(ぶつが)とは、広義には、仏教絵画全般を指し、仏伝、本生譚、浄土変相図(当麻曼陀羅など)、来迎図、二河白道図、六道絵などの仏教説話画、祖師絵伝、絵巻、祖師図、禅宗僧の肖像画でいう頂相、一般僧の肖像画なども含む。 狭義には仏教、特に密教系宗派の礼拝・儀式で使用される絵画。仏(如来)や菩薩、仏教で信仰される、インド古来の神々をはじめ、中国、日本の神々など、それ等を描いた絵画(単身像または群像)や曼荼羅(両界曼荼羅、別尊曼荼羅など)を含む。.

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仏教

仏教寺院 仏教(ぶっきょう、旧字体:佛敎、サンスクリット:बौद्धधर्मः 、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、もしくはガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。キリスト教・イスラム教と並んで、日本では出版点数の多い宗教の一つに数えられる。仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである。 その教義は、苦しみの輪廻から解脱することを目指している。原因と結果の理解に基づいており、諸々の現象が縁起するとされる。 仏教は仏、その教えである法、その実践者である僧からなる三宝を中心に組織されている。実践における戒定慧の三学は、戒律、心を集中する禅定、ものごとの縁起を観察する智慧であり、後ろ二つは併せて止観とも呼ばれる仏教の瞑想法である。実践にて重要となる能力は六波羅蜜や八正道のように、いくつかの方法でまとめらている。 紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、今では初期仏教として研究されている。釈迦は、他の苦行などの実践者の主張であるアートマン(真我)の存在を否定して無我とした。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、大きく大衆部と上座部とに、さらに細かく分かれたが、今なお大きな勢力として続いているのは南伝した上座部仏教であり、初期の教えを模範としている。紀元前の終わりごろには北伝し日本にも伝わることになる大乗仏教が開始され、教義や団体は多彩に発展しており、禅の瞑想法の様々、チベットや日本の真言宗に残る密教、一方で浄土信仰のような信仰形態の変化など多様である。『日本書紀』によれば仏教が伝来したのは飛鳥時代552年(欽明天皇13年)である(日本の仏教)。.

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仏教公伝

仏教の東方伝播 仏教公伝(ぶっきょうこうでん)は、国家間の公的な交渉として仏教が伝えられることを指す。上代の日本においては6世紀半ばの欽明天皇期、百済から古代日本(大和朝廷)への仏教公伝のことを指すのが一般的であり、この項でもそれについて説明する。単に仏教伝来と称されて来たが、後述のごとく公伝以前に、すでに私的な信仰としては伝来していたと考えられるため、「公伝」と称されることが多い。.

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仏教美術

仏教美術(ぶっきょうびじゅつ)とは、仏教に関係する美術である。.

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建仁寺

建仁寺(けんにんじ)は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。山号を東山(とうざん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。 京都五山の第3位に列せられている。俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や、漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られる両足院などが見られる。また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺である。寺号は「けんにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。なお、しばしば日本最初の禅寺と言われるが、これは間違いで博多の聖福寺が最初の禅寺である。.

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建築

建築(けんちく)とは、人間が活動するための空間を内部に持った構造物を、計画、設計、施工そして使用するに至るまでの行為の過程全体、あるいは一部のこと。また、そのような行為によって作られた構造物そのものを指すこともある。後者は建築物とも呼ばれる。.

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建長寺

建長寺(けんちょうじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山。山号を巨福山(こふくさん)と称し、寺号は詳しくは建長興国禅寺(けんちょう こうこく ぜんじ)。 鎌倉時代の建長5年(1253年)の創建で、本尊は地蔵菩薩。開基(創立者)は鎌倉幕府第5代執権・北条時頼、開山(初代住職)は南宋の禅僧・蘭渓道隆で、第二世は同じく南宋の兀庵普寧である。鎌倉五山の第一位。境内は「建長寺境内」として国の史跡に指定。.

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廃仏毀釈

廃仏毀釈(廢佛毀釋、排仏棄釈、はいぶつきしゃく)とは、仏教寺院・仏像・経巻(経文の巻物)を破毀(破棄)し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃することを指す。「廃仏」は仏を廃(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。日本においては一般に、神仏習合を廃して神仏分離を押し進める、明治維新後に発生した一連の動きを指す。.

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伊藤若冲

プライス・コレクションの「紫陽花双鶏図」英語表題:"Rooster and Hen with Hydrangeas". 伊藤 若冲(いとう じゃくちゅう、正徳6年2月8日(1716年3月1日) - 寛政12年9月10日(1800年10月27日))は、近世日本の画家の一人。江戸時代中期の京にて活躍した絵師。名は汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)。初めは春教(しゅんきょう)と号したという記事があるが、その使用例は見出されていない。斗米庵(とべいあん)、米斗翁(べいとおう)、心遠館(しんえんかん)、錦街居士とも号す。 写実と想像を巧みに融合させた「奇想の画家」として曾我蕭白、長沢芦雪と並び称せられる。.

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伝統

伝統(でんとう)は、信仰、風習、制度、思想、学問、芸術などの様々な分野において、古くからのしきたり・様式・傾向、血筋、などの有形無形の系統を受け伝えることをいう。.

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弥勒菩薩半跏思惟像

中宮寺 木造菩薩半跏像(国宝) 弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしゆいぞう、みろくぼさつはんかしいぞう) は、仏像の一形式で、台座に腰掛けて左足を下げ、右足先を左大腿部にのせて足を組み(半跏)、折り曲げた右膝頭の上に右肘をつき、右手の指先を軽く右頰にふれて思索する(思惟)姿の弥勒菩薩像である。日本には大陸より6世紀から7世紀の弥勒信仰の流入と共に伝えられ、飛鳥、奈良時代の作品が多く残されている。.

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弥生土器

弥生土器(やよいどき)は、弥生時代に使われた素焼きの土器。.

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弥生時代

弥生時代(やよいじだい)は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れる。 2003年に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにした。当時、弥生時代は紀元前5世紀に始まるとされており、歴博の新見解はこの認識を約500年もさかのぼるものであった。当初歴博の新見解について研究者の間でも賛否両論があった。しかし、その後研究がすすめられた結果、この見解はおおむね妥当とされ、多くの研究者が弥生時代の開始年代をさかのぼらせるようになってきている。 弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海、北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成され、2世紀末畿内に倭国が成立。3世紀中頃古墳時代に移行した。.

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伴大納言絵詞

伴大納言絵詞(部分、火事場に駆けつける群衆) 伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば、とものだいなごんえことば)とは、応天門の変を題材にした平安時代末期の絵巻物。『伴大納言絵巻』ともいう。日本の国宝。『源氏物語絵巻』、『信貴山縁起絵巻』、『鳥獣人物戯画』と並んで四大絵巻物と称される。作者は常盤光長(ときわみつなが)とされている。.

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似絵

似絵(にせえ)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけて流行した大和絵系の肖像画を指す絵画用語。.

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住吉如慶

住吉 如慶(すみよし じょけい、慶長4年(1599年) - 寛文10年6月2日(1670年7月18日))は、江戸時代前期の大和絵の絵師。江戸幕府の御用絵師を務めた住吉派の祖。泉州・堺出身。幼名は千夜叉丸、長十郎(長重麿)。名は広通、広道、或いは忠俊。通称は内記。旧姓は土佐。.

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佐伯祐三

佐伯 祐三(さえき ゆうぞう、1898年4月28日 - 1928年8月16日)は、大正~昭和初期の洋画家である。大阪府大阪市出身。.

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佐竹本三十六歌仙絵巻

佐竹本三十六歌仙絵巻(さたけぼんさんじゅうろっかせんえまき)は、鎌倉時代・13世紀に制作された絵巻物。鎌倉時代の肖像画、歌仙絵を代表する作品である。元は上下2巻の巻物で、各巻に18名ずつ、計36名の歌人の肖像が描かれていたが、1919年(大正8年)に各歌人ごとに切り離され、掛軸装に改められた。.

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佐野常民

佐野 常民(さの つねたみ、1823年2月8日(文政5年12月28日) - 1902年(明治35年)12月7日)は、日本の武士(佐賀藩士)、政治家。日本赤十字社の創始者。官職は枢密顧問官、農商務大臣、大蔵卿、元老院議長。勲等は勲一等。爵位は伯爵。「佐賀の七賢人」の1人。名は栄寿、栄寿左衛門。子は佐野常羽。.

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彦根城博物館

彦根城博物館(ひこねじょうはくぶつかん)は滋賀県彦根市金亀町にある彦根市立の歴史博物館である。.

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彦根屏風

彦根屏風 彦根屏風(ひこねびょうぶ)は、江戸時代初期に描かれた風俗画。紙本金地著色、六曲一隻、縦94.0cm横271.0cm(本紙のみ)の中屏風画である。1955年に国宝に指定。国宝指定名称は「紙本金地著色風俗図(彦根屏風)」。滋賀県・彦根市所蔵、彦根城博物館保管。近世初期風俗画の代表作の1つで、浮世絵の源流とも言われる。.

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彫刻

彫刻(ちょうこく)とは、木、石、土、金属などを彫り刻んで、物の像を立体的に表すこと。または、それらの表面に書画や図版などを掘り込むこと。あるいは美術的な鑑賞を目的として、様々な素材を用いて立体的に制作された芸術作品のこと。また、その表現領域を指す。以下では西洋美術の概念における、芸術作品としての彫刻(スカルプチャー、英語:sculpture)について述べる。 硬い素材を彫り刻む技法も彫刻(カーヴィング、carving)と呼び、それに対して、可塑性素材を盛りつけて形を作る技法を彫塑(モデリング、modeling)という。彫塑で作られた作品を特に塑像と呼び分けることもある。 使われる素材は、石、木、土、フェルト、石膏、紙、繊維、金属(鉄、銅など)、樹脂、ガラス、蝋など、多種にわたり、また、複数の素材を組み合わせる作品も多い。 彫刻の対象(モチーフ)は元来、人間や身近な動物など具体物であった(具象彫刻)が、20世紀になると、心象を表したもの(抽象彫刻)も多く制作されるようになった。 現在では、表現が多様化し、従来の彫刻の概念では収まらないケースもあり、それらを「立体」、「立体アート」と呼ぶこともあるほか、表現が設置空間全体へ拡散したものは、特に「空間表現」や「インスタレーション」と呼び分けられる。.

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彭城百川

彭城 百川(さかき ひゃくせん、元禄10年10月28日(1697年12月11日) - 宝暦2年8月25日(1752年10月2日))は、江戸時代中期の南画家。服部南郭、祇園南海、柳沢淇園とともに日本南画の祖であり、日本で初めて本格的な中国南宗画様式による山水画を描いた画家とされる。画人として法橋に叙されている。また俳人としても活躍した。.

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作家

作家(さっか)とは、芸術や趣味の分野で作品を創作する者のうち作品創作を職業とする者または職業としていない者でも専門家として認められた者をいう。 芸術家に含まれる者の多くはこの意味での作家であるが、職種・肩書きとして、○○作家と呼ぶかどうかは、すでに固有の職業名称が確立しているか否かによる。すなわち伝統的芸術分野では詩人・画家・作曲家・映画監督などの呼称が確立しているため○○作家とは呼ばないが、新しい芸術分野や趣味の分野では、○○作家、○○創作家、○○クリエイターという用い方がされる。ただし伝統的芸術分野においても、○○作家という語を用いる場合がある。 ただ単に「作家」と言った場合、著作家、とくに小説家を指す場合が多い。だが、「作家」という職業は様々に枠が広いため、そう呼称されるのを嫌うものもいる。逆に、小説は書いていないが単に作家と称するケースが多い(猪瀬直樹、麻生千晶など)。.

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作品

『作品』(さくひん)は、1930年から1940年まで刊行された文芸同人誌。 横光利一、堀辰雄の『文学』と、『1930年』が合併してできた。ほかに小林秀雄・三好達治・井伏鱒二らが参与、作品社から刊行された。1930年5月が創刊号で、堀辰雄「ルウベンスの偽画」の改作版が掲載された。ほか牧野信一、河上徹太郎、今官一、今日出海、深田久弥、中村正常、梶井基次郎「交尾」、尾崎士郎、尾崎翠、中里恒子、寺崎浩、榊山潤、嘉村磯多、坂口安吾、上林暁、中山義秀、中谷孝雄、稲垣足穂、石塚友二、大岡昇平、木山捷平、那須辰造ら新進作家が作品を寄せた。振興芸術派に対抗する正統芸術派の雑誌で、横光の弟子が多く書いた。 出版社の作品社はこの雑誌から社名をとっている。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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御用絵師

御用絵師(ごようえし)とは、江戸時代に江戸幕府や諸大名に仕えた絵師のこと。ただし、中世や明治以後において同様の待遇にあった絵師に対しても用いられる場合がある。江戸幕府の御用絵師のうち、最も格式の高い職位は「奥絵師」と呼ばれ、世襲された。.

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御殿

御殿(ごてん).

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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徳川美術館

徳川美術館(とくがわびじゅつかん)は、愛知県名古屋市東区徳川町の徳川園内にある、公益財団法人 徳川黎明会が運営する私立美術館。1935年に開設された。収蔵品は駿府御分物(徳川家康の遺品)など尾張徳川家伝来の大名道具や他の大名家の売立てでの購入品、名古屋の豪商らからの寄贈品など。2016年現在で、国宝9件、重要文化財59件を収蔵する。国宝・源氏物語絵巻のほか、西行物語絵巻、豊国祭図屏風、「初音の調度」などの所蔵品で知られる。.

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往生要集

往生要集(おうじょうようしゅう)は、比叡山中、横川(よかわ)の恵心院に隠遁していた源信が、寛和元年(985年)に、浄土教の観点より、多くの仏教の経典や論書などから、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書で、1部3巻からなる。 死後に極楽往生するには、一心に仏を想い念仏の行をあげる以外に方法はないと説き、浄土教の基礎を創る。また、この書物で説かれた、地獄・極楽の観念、厭離穢土・欣求浄土の精神は、貴族・庶民らにも普及し、後の文学思想にも大きな影響を与えた。 一方、易行とも言える称名念仏とは別に、瞑想を通じて行う自己の肉体の観想と、それを媒介として阿弥陀仏を色身として観仏する観想念仏という難行について多くの項が割かれている。源信の構想する念仏には観想対象としての仏と、救済するための仏が併存しており、その矛盾的な対立は解消できていない。 また、その末文によっても知られるように、本書が撰述された直後に、北宋台州の居士で周文徳という人物が、本書を持って天台山国清寺に至り、中国の僧俗多数の尊信を受け、会昌の廃仏以来、唐末五代の混乱によって散佚した教法を、中国の地で復活させる機縁となったことが特筆される。.

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信仰

信仰(しんこう、英語 faith)とは、.

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信貴山縁起

信貴山縁起(しぎさんえんぎ)は、平安時代末期の絵巻物で、2016年現在、日本の国宝に指定されている。『源氏物語絵巻』、『鳥獣人物戯画』、『伴大納言絵詞』と並ぶ四大絵巻物の1つと称される。朝護孫子寺が所蔵(原本は奈良国立博物館に寄託されており、当山内の霊宝館では複製を展示)。「信貴山縁起絵巻」とも称する。後述のごとく、表題は寺社縁起絵に属するものであるが、内容は高僧絵伝の範疇に入る。.

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信楽焼

信楽焼の店舗(信楽町) 信楽焼(しがらきやき)は、滋賀県甲賀市信楽を中心に作られる炻器で、日本六古窯のひとつに数えられる。一般には狸の置物が著名であるが、後述のように多様な発展を遂げている。 信楽は、付近の丘陵から良質の陶土がでる土地柄である。長い歴史と文化に支えられ、伝統的な技術によって今日に伝えられて、日本六古窯のひとつに数えられている。信楽特有の土味を発揮して、登窯、窖窯の焼成によって得られる温かみのある火色(緋色)の発色と自然釉によるビードロ釉と焦げの味わいに特色づけられ、土と炎が織りなす芸術として“わび・さび”の趣を今に伝えている。信楽の土は、耐火性に富み、可塑性とともに腰が強いといわれ、「大物づくり」に適し、かつ「小物づくり」においても細工しやすい粘性であり、多種多様のバラエティーに富んだ信楽焼が開発されている。.

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快慶

快慶(かいけい、生没年不詳)は、鎌倉時代に活動した仏師。運慶とともに鎌倉時代を代表する仏師の一人である。この流派の仏師は多く名前に慶の字を用いるところから慶派と呼ばれる。快慶は安阿弥陀仏とも称し、その理知的、絵画的で繊細な作風は「安阿弥様」(あんなみよう)と呼ばれる。三尺前後の阿弥陀如来像の作例が多く、在銘の現存作も多い。.

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俳画

俳画(はいが)は、俳句を賛した簡略な絵(草画)のこと。一般には俳諧師の手によるものであり、自分の句への賛としたり(自画賛)、他人の句への賛として描かれるが、先に絵がありこれを賛するために句がつけられる場合や、絵と句が同時に成るような場合もある。さらに敷衍して、句はなくとも俳趣を表した草画全般をも指す言葉としても用いられる尾形仂 「俳画」『俳文学大辞典』 角川書店、1995年、665-666頁。。「俳画」という呼称は渡辺崋山の『全楽堂俳諧画譜』にはじまるとされており、それ以前の与謝蕪村などは「俳諧物の草画」と称していた。.

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俵屋宗達

俵屋 宗達(たわらや そうたつ、生没年不詳)は、江戸時代初期の画家。通称は野々村宗達。号は「伊年」あるいは「対青軒」など。.

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志野焼

伏見城下町より出土した志野水差/京都市埋蔵文化財研究所蔵 志野焼(しのやき)は、美濃焼の一種で、美濃(岐阜県)にて安土桃山時代に焼かれた白釉を使った焼物。赤志野や鼠志野などいくつかの種類があり、同じく美濃焼の一種である瀬戸黒とともに重要無形文化財に指定されている技法や、岐阜県の重要無形文化財に指定されている技法がある。.

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土偶

土偶 青森県亀ヶ岡遺跡出土(通称:遮光器土偶) 土偶(どぐう)は、人間(特に女性)を模して、あるいは精霊を表現して作られたと考えられる土製品で、日本では、縄文時代に沖縄県を除く地域で製作された。古墳時代に製作された埴輪とは区別される(これは古墳に埋葬されるなどするものである)。また、故意に破壊されたと見られる状態で出土することが多い。本項では特記無き場合日本の土偶について述べる。.

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土佐光信

重文。本作はかつて光信筆とされていたが、近年は作画の粗さや、『実隆公記』では実隆自筆と記載されている詞書の書風が本絵巻では実隆のものと全く異なる点が指摘され、光信の原本制作直後の忠実な模本とされる榊原悟 「「星光寺縁起絵」私見」、「MUSEUM(東京国立博物館研究誌)423」所収、1986年。 土佐 光信(とさ みつのぶ、永享6年(1434年)? - 大永5年5月20日(1525年6月10日)?)は、室町時代中期から戦国時代にかけての大和絵の絵師。土佐広周の嗣子で、実際は土佐光弘の子。子に土佐光茂がいる。土佐(常盤)光長、土佐光起とともに土佐派三筆と称され、土佐派中興の祖とされる。官位は従四位下・刑部大輔。.

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土佐光起

源氏物語絵巻、二十帖『朝顔』、バーク・コレクション 土佐光起(とさ みつおき、元和3年10月23日(1617年11月21日)-元禄4年9月25日(1691年11月14日))は、江戸時代の土佐派を代表する絵師。和泉国堺出身。父は土佐光則。本姓は藤原、幼名は藤満丸。住吉如慶は父の門人(叔父説あり)。子は土佐光成、土佐光親。.

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土佐派

土佐派(とさは)とは、.

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土田麦僊

土田 麦僊(つちだ ばくせん、 1887年(明治20年)2月9日 - 1936年(昭和11年)6月10日)は大正~昭和期の日本画家である。.

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地獄草紙

地獄草紙 東博本 雲火霧 地獄草紙(じごくぞうし)は、地獄を描いた12世紀の絵巻物。地獄草紙と呼ばれる絵巻物は、東京国立博物館本(国宝)、奈良国立博物館本(国宝)、旧益田家本甲巻、旧益田家本乙巻の4巻があった。このうち旧益田家本乙巻は、現在では、地獄を描いたものではないとされ、「辟邪絵」(へきじゃえ)と呼ばれるようになっている。 東博本は、髪火流地獄、火末虫地獄、雲火霧地獄、雨炎火石地獄の4図がある。奈良博本は、屎糞所、函量所、鉄磑所、鶏地獄、黒雲沙、膿血所、狐狼地獄の7図がある。旧益田家本甲巻は、火象地獄、咩声地獄、飛火地獄、剥肉地獄、沸屎地獄、解身地獄、鉄山地獄の7図がある。 奈良国立博物館本、東京国立博物館本は、『餓鬼草紙』、『病草紙』、『辟邪絵』(いずれも国宝)などとともに、後白河法皇が制作させ、蓮華王院の宝蔵に納められていたことが記録されている「六道絵」の一部であったとする説がある。これらが蓮華王院の宝蔵にあったものだと断定はできないが、時代的には後白河の時代、すなわち12世紀頃の制作と考えられている。.

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地頭

地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。地頭職という。守護とともに設置された。 平氏政権期以前から存在したが、源頼朝が朝廷から認められ正式に全国に設置した。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。.

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化政文化

化政文化(かせい ぶんか)とは、江戸時代後期の文化文政時代(1804年-1830年)を最盛期として、江戸を中心として発展した町人文化を指す 「化政文化」コトバンク。化政とは文化・文政を略した言葉。浮世絵や滑稽本、歌舞伎、川柳など、一般に現代に知られる江戸期の町人文化の全盛期にあたり、国学や蘭学の大成した時期でもある。広義の定義では、18世紀後半から19世紀前半の非常に長い期間を含む場合がある。 史学上は、江戸前期に上方を中心に起こった町人文化である元禄文化と対比され、享楽的色彩が強いとする。また、従来においては江戸の三大改革を基点に、寛政の改革と天保の改革の間の時期と見なされてきた上に、享保の改革と寛政の改革の間の田沼時代(宝暦-天明期)が軽視されたため、本来であれば宝暦-天明期に属する事柄の多くが、化政文化のものとして取り扱われてきた経緯がある。そのため、近年は宝暦・天明文化と新たな時代区分が定義されており、従来、杉田玄白や本居宣長、与謝蕪村といった化政文化の代表人物として扱われることも多かったものが、宝暦・天明期のものに変更されている部分もある。.

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北山文化

金閣寺 北山文化(きたやまぶんか)とは、室町時代初期の文化で、三代将軍足利義満(1358年~1408年)の北山山荘に代表され、14世紀末~15世紀前半までをさす。東山文化に対して使われる言葉である。 ただし、今日の歴史学では東山文化と合わせて「室町文化」と呼ぶのが一般的だという。(→東山文化#室町文化).

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北野天満宮

北野天満宮(きたのてんまんぐう)は、京都市上京区にある神社。旧称は北野神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「星梅鉢紋」。 通称として天神さん・北野さんとも呼ばれる。福岡県太宰府市の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、当社から全国各地に勧請が行われている。近年は学問の神として多くの受験生らの信仰を集めている。.

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北海道

北海道(ほっかいどう)は、日本の北部に位置する島。また、同島および付随する島を管轄する地方公共団体(道)である。島としての北海道は日本列島を構成する主要4島の一つである。地方公共団体としての北海道は47都道府県中唯一の「道」で、道庁所在地は札幌市。.

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北斎漫画

『北斎漫画』(ほくさいまんが)は、葛飾北斎が絵手本として発行したスケッチ画集である。海外では「ホクサイ・スケッチ」とも呼ばれるゴマブックス『北斎漫画 風景・建築物・歴史編』「北斎漫画について」より。 初編の序文によると、1812年秋頃、後援者で門人の牧墨僊(1775年 - 1824年)宅に半年ほど逗留し300余りの下絵を描いた。これをまとめ1814年(文化11年)、北斎55歳のとき、名古屋の版元永楽屋東四郎(永楽堂)から初編が発行され好評であった。その後1878年(明治11年)までに全十五編が発行された。人物、風俗、動植物、妖怪変化まで約4000図が描かれている。北斎はこの絵のことを「気の向くままに漫然と描いた画」とよんだ。ただし、絵手本集という企画自体も北尾政美の『略画式』から着想を得ている。 この絵手本は国内で好評を博しただけでなく、1830年代ヨーロッパに磁器、陶器の輸出の際、緩衝材として浮世絵と共に偶然に渡り、フランスの印象派の画家クロード・モネ、ゴッホ、ゴーギャンなどに影響を与えたとされる。.

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園城寺

園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗の総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。 開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩である。日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。 なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。.

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ハート形土偶

ハート形土偶 (ハートがたどぐう)は、縄文時代に制作された人物土偶の一つ。顔面がハート形を呈することからこの通称がある。.

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ハプニング

ハプニングは、1950年代から1970年代前半を中心に、北米・西ヨーロッパ・日本などで展開された、ギャラリーや市街地で行われる非再現的で一回性の強いパフォーマンスアートや作品展示などを総称するのに用いられる美術用語。ハプニングの創始者と言われているアラン・カプローによると「きまった時間と空間の中で演じられる点では演劇に関連をもった芸術形式」。.

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メトロポリタン美術館

メトロポリタン美術館(メトロポリタンびじゅつかん、The Metropolitan Museum of Art、通称:The Met)は、アメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタンにある世界最大級の美術館。5番街(ミュージアム・マイルの区間)に面するセントラル・パークの東端に位置する。.

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ランド・アート

ランド・アート (land art)とは、岩、土、木、鉄などの「自然の素材」を用いて砂漠や平原などに作品を構築する美術のジャンル、またはその作品のこと。 規模の大きなものは、アース・アート (earth art)、アースワーク (earthworks)などとも呼ばれるが、その区別は厳密ではない。.

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ヴァスィリー・エロシェンコ

ェンコ(ハルビンにて、1921年) ヴァスィリー・ヤコヴレヴィチ・エロシェンコ(ウクライナ語:Василь Якович Єрошенко;ロシア語:Василий Яковлевич Ерошенко;ラテン翻字例 Vasiliy Yakovlevich Eroshenko、1890年1月12日 - 1952年12月23日)はロシアのエスペランティスト、作家、言語学者、教育者。1908年から1910年の間にエスペランティストになったと推定される。ウクライナ人。日本ではワシリー・エロシェンコとしても知られるが、名前の冒頭の発音はV音に相当する。なお、中国で作品を発表した際は「愛羅先珂」を名乗った。.

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ボストン美術館

内部 ボストン美術館 (Museum of Fine Arts, Boston、略称はMFA) は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン市にある、全米有数の規模を持つ美術館。.

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ブリヂストン美術館

ブリヂストン美術館 (ブリヂストンびじゅつかん) (英称:Bridgestone Museum of Art)は、東京都中央区京橋にある、西洋美術、日本近代美術を中心とした私立美術館である。公益財団法人石橋財団が運営している。.

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パトロン

パトロン(patron)とは、後援者、支援者、賛助者、奨励者、または特権を持つ人や財政支援をする人をいう。現代でのパトロンは、必ずしも金銭援助に限るわけではなく、パトロンの人脈や影響力によって貢献するケースもある。後援、支援、賛助、奨励の行為そのものは、パトロネージュ(パトロネージ/パトロネッジ/パトロネジ/パトロナージュ)(patronage、patronage)と呼ぶ。 美術史や音楽史においてのパトロネージュは、王や教皇、資産家が、音楽家、画家や彫刻家等に与えた支援を指す。また、教会聖職禄授与権、得意客が店に与えるひいきや愛顧、また守護聖人を指すこともある。.

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パフォーマンスアート

ヨゼフ・ボイスによるパフォーマンス(1978年) パフォーマンスアート(performance art)は、芸術家自身の身体が作品を構成し、作品のテーマになる芸術である。また、特定の場所や時間における、ある個人や集団の「動き」が作品を構成する芸術の一分野である。パフォーマンスアートは美術・視覚芸術の一分野であるが、絵画や彫刻等のような、物体が作品を構成する芸術とは異なったものである。.

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ビデオ・アート

ビデオ・アート (video art) とは、映像と音声を扱う芸術ジャンルのひとつ。ディスプレイ(展示・上映)の媒体に映像機器、記録媒体にかつてはビデオテープ、現在はDVDなどの電磁的記録媒体を使うことがある。これによってスクリーンとフィルムを使う実験映画と区別されている。1960年代半ばに始まり、機材が低価格化した1980年代以降は、爆発的に制作者の数を増やし、現在に至っている。 一般的な劇映画・テレビ放送ともっとも異なる点は、観客を楽しませることを目的としていないことである。そのため、作品にもよるが観客に忍耐を強いる作品が多い。.

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フュウザン会

フュウザン会は、大正時代に結成された美術家集団。発起人は斎藤与里、岸田劉生、清宮彬、高村光太郎など。フュウザン(仏fusain)は木炭の意味。設立時は、ヒュウザン会であったが、後にフュウザン会へ改名した。 1912年(大正元年)9月に結成、10月15日から11月3日まで第1回ヒュウザン会展を開催した(会場は銀座の読売新聞社)。1913年3月11日から同月30日まで第2回フュウザン会展を開催(会場は読売新聞社)し、同年7月に解散した。また、1912年11月には雑誌『フュウザン』を刊行する。 活動期間は短いが、日本で初めての表現主義的な美術運動として、先駆的な意義を持つ。参加者は斎藤、岸田、清宮、高村のほか木村荘八、萬鉄五郎、川上凉花、岡本帰一、清宮彬、バーナード・リーチら。ポスト印象派、フォービズムの影響がみられる。斉藤与里と岸田劉生の主張が食い違ったため、2回の展覧会を開いたのみで解散した。.

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フランス

フランス共和国(フランスきょうわこく、République française)、通称フランス(France)は、西ヨーロッパの領土並びに複数の海外地域および領土から成る単一主権国家である。フランス・メトロポリテーヌ(本土)は地中海からイギリス海峡および北海へ、ライン川から大西洋へと広がる。 2、人口は6,6600000人である。-->.

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フリーア美術館

フリーア美術館(フリーアびじゅつかん、英語名Freer Gallery of Art)は、アメリカ合衆国首都ワシントンD.C.にある美術館の名称。首都中心部のナショナル・モールに沿って建てられており、スミソニアン協会が管理・運営するスミソニアン博物館群の一つである。隣接するアーサー・M・サックラー・ギャラリーと同様に、日本を含む中国やインドを中心としたアジアの古美術品が展示されている美術館である。.

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ファインアート

ファインアート(fine art, fine arts)は、芸術的価値を専らにする活動や作品を指す概念。日本語の芸術とほぼ同義であるが、とくに応用芸術、大衆芸術と区別して純粋芸術を意味する場合に使われる。芸術の中でも美術について使われることが多く、この場合、応用美術に対して純粋美術とも。 ファインアートは、ハイカルチャーを構成する一部分である。ハイアート(high art)はファインアートとほぼ同義だが、ファインアートは応用芸術との対比で、ハイアートは大衆芸術との対比で使われることが多い。 1911年のブリタニカ百科事典第11版は、ファインアートの5大領域を建築、彫刻、絵画、音楽、詩(Poetry)とし、補助的領域としてダンスと演劇をあげている。 美術分野の代表的なファインアートは絵画、彫刻であり、これに対するイラストレーションやデザイン、工芸と峻別されるが、20世紀最後の四半期以降、その領域は互いに浸透し、区分は曖昧なものになりつつある。.

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フォーヴィスム

フォーヴィスム(Fauvisme、野獣派)は、20世紀初頭の絵画運動の名称。.

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ニューヨーク

ニューヨーク市(New York City)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州にある都市。 1790年以来、同国最大の都市であり、市域人口は800万人を超え、都市圏人口では定義にもよるが2000万人以上である.

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ホノルル美術館

ホノルル美術館(ホノルルびじゅつかん、Honolulu Museum of Art)は、アメリカ合衆国ハワイ州ホノルルに所在する総合美術館である。.

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19世紀 フランス海軍将校が使用していた刀 刀「ラハイヤン」とアラビア語の信仰告白「アラーの他に神はなし。ムハンマドはアラーの使徒である」が描かれたサウジアラビアの国旗 刀(かたな)は武器(刀剣)の一種であり、剣の内でもとくに片側にしか刃のない物を指し、切断力を増す為に反りのついた構造のものが多い。反りのついていないものは特に直刀と称する。日本語としては「かた・な」と分解できてそれぞれ片、刃をあらわす。日本の刀に関する詳細は日本刀の項を参照。.

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刀剣

刀剣(とうけん)とは、握りと同じ位かそれより長い刃もしくは剣身を備えている武器の総称。一般的には剣は両刃のものを指し刀は片刃のものを指すが、これに限らないものも存在する。 詳細はそれぞれの項目を参照。.

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喜多川歌麿

寛政三美人」 歌麿画 「江戸の花 娘浄瑠璃」 歌麿画 歌麿画。英国ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館所蔵 「山姥と金太郎 盃」歌麿画 喜多川 歌麿(きたがわ うたまろ、宝暦3年(1753年)頃? - 文化3年9月20日(1806年10月31日))とは、江戸時代の日本で活躍した浮世絵師。画名の読みは「うたまる」が正しいが見出しは慣例に従う。.

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善福院

善福院(ぜんぷくいん)は和歌山県海南市下津町梅田にある仏教寺院。天台宗、山号は宝遊山。 1215年、栄西禅師により廣福寺五ヶ院の一つとして創建されて以来廣福禅寺という寺号であったが、明治初期の廃仏毀釈を経て現在の寺号に改められた。安土桃山時代は加茂氏の菩提寺として栄え七堂伽藍を有していたが、釈迦堂が現存するのみである。釈迦堂は、功山寺仏殿とともに鎌倉時代の禅宗様建築を代表するもので、国宝の指定を受けている。.

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周文

水色巒光図(山水画の部分、1445年) 周文(しゅうぶん、生没年不詳)は、室町時代中期の禅僧・画僧。周文は字で、道号は天章。画号は越渓。俗姓は藤倉氏。.

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呉春

呉春(ごしゅん、 宝暦2年3月15日(1752年4月28日) - 文化8年7月17日(1811年9月4日))は江戸時代中期の絵師である。四条派の始祖。本姓は松村(まつむら)、名は豊昌(とよまさ)。字を裕甫、のち伯望(はくぼう)、通称を文蔵(ぶんぞう)、嘉左衛門。号には呉春のほかに月溪(げっけい)、可転(かてん)、允白(いんぱく)、存允白、孫石(そんせき)、軒号に百昌堂、蕉雨亭など。初期の画号・松村月渓も広く知られる。.

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和様

和様(わよう)とは、日本風あるいは、日本様式の事物を意味し、中国風・中国様式を意味する唐様に対して用いられる。狭義では和様建築を指して用いられる場合が多いが、書道をはじめとして絵画や彫刻など、日本美術史において日本風が顕著になった平安時代中期から後期にかけての作品に対して広く用いられる用語である。ただし、和様とされるものの多くは純粋な意味での日本古来のものではなく、その原形は飛鳥・奈良時代に唐から受容された文物を日本の風土と日本人の感性に合わせる形で改良することによって成立した文化様式である。 9世紀半ば以後、中国を支配してきた唐の衰退に伴って遣唐使が派遣されることが無くなり(894年に正式に廃止)、代わって日本独自の文化(国風文化)が登場するようになった。特に日本語表記が確立された点が大きく、平仮名の使用は長い間女性に限定されていたと言われてきたが、実際には和歌を中心として男性が非公式の場において平仮名を用いる事もあり、日本最初の勅撰和歌集『古今和歌集』も平仮名交じりの文体が採用されている。日本語の表記において漢字と仮名が交用されていく中で漢字の点画も平仮名のような曲線を帯びるようになっていった。こうした中で書道において、和様の書道が形成されるようになる。王羲之の書法を範としながらも新たな書法を生み出した小野道風をはじめ、藤原行成・藤原佐理らによって上代風とも呼ばれる新たな書風を生み出し、後に法性寺流・世尊寺流などの和様書法が出現した。また、大仏様などの大陸の影響を受けた寺院の建築様式に代わって日本独自の要素を取り込んだ和様建築が出現するようになった。.

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和歌

和歌(わか)とは、短歌型式の古典詩。古典短歌。広義には『万葉集』に所収される歌体の総称。 「和歌」の訓は「やまとうた」である。「和」の代わりに「倭」の字が、「歌」の代わりに「謌」、「哥」の字が宛てられたこともある。なお、歌謡と混同されるおそれがない文脈においては「歌」「うた」と表記され、呼ばれることもある。 長連歌、俳諧、狂歌、川柳風狂句は定型の古典詩であるが、和歌には含まれない。また、明治の和歌革新家とその後継者の短歌作品、すなわち近現代短歌は「短歌」と称され、「和歌」とは称されない。近現代短歌はこの項では取り上げない。.

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和泉市久保惣記念美術館

和泉市久保惣記念美術館 (いずみしくぼそうきねんびじゅつかん) は、大阪府和泉市内田町にある、東洋古美術を中心とした市立美術館である。.

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わび茶

わび茶(わびちゃ、侘茶、侘び茶)は、狭義には茶の湯の一様式。書院における豪華な茶の湯に対し、村田珠光以後、安土桃山時代に流行し、千利休が完成させた茶の湯で、簡素簡略の境地すなわち「わび」の精神を重んじたもの。また広義には、千利休系統の茶道全体を指す。.

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アントニオ・フォンタネージ

アントニオ・フォンタネージ(Antonio Fontanesi 1818年2月23日 - 1882年4月17日)はイタリアの画家。 1876年(明治9年)に日本で開校した工部大学校のお雇い外国人教師で、日本人に洋画を指導した。.

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アーネスト・フェノロサ

アーネスト・フェノロサ フェノロサの墓(法明院) アーネスト・フランシスコ・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa、1853年2月18日 - 1908年9月21日)は、アメリカ合衆国の東洋美術史家、哲学者で、明治時代に来日したお雇い外国人。日本美術を評価し、紹介に努めたことで知られる。.

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アール・ヌーヴォー

ドームの壺(ナンシー派、1900年頃) アール・ヌーヴォー(Art Nouveau)は、19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動。「新しい芸術」を意味する。花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用などが特徴。分野としては建築、工芸品、グラフィックデザインなど多岐にわたった。 第一次世界大戦を境に、装飾を否定する低コストなモダンデザインが普及するようになると、アール・デコへの移行が起き、アール・ヌーヴォーは世紀末の退廃的なデザインだとして美術史上もほとんど顧みられなくなった。しかし、1960年代のアメリカ合衆国でアール・ヌーヴォーのリバイバルが起こって以降、その豊かな装飾性、個性的な造形の再評価が進んでおり、新古典主義とモダニズムの架け橋と考えられるようになった。ブリュッセルやリガ歴史地区のアール・ヌーヴォー建築群は世界遺産に指定されている。.

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アイヌ

アイヌは、北海道・樺太・千島列島およびカムチャツカ半島南部にまたがる地域に居住していた民族。母語はアイヌ語。 1878年(明治11年)、イギリス人旅行家・イザベラ・バードが北海道の日高地方でスケッチしたアイヌ民族の男性。 アイヌは、元来は物々交換による交易を行う狩猟採集民族である。文字を持たない民族であったが1923年(大正12年)に出版された知里幸恵のアイヌ神謡集では、その発音を、ローマ字で表記するなどの工夫がされている。、生業の毛皮や海産物などをもって、アムール川下流域や沿海州そしてカムチャツカ半島、これらの地域と交易を行い、永く、このオホーツク海地域一帯に経済圏を有していた。 1855年2月7日(安政元年12月21日)の当時のロシア帝国との日露和親条約での国境線決定により、当時の国際法の下、各々の領土が確定した以降は、大半が日本国民、一部がロシア国民となった。21世紀初頭の現在、日本国内では、北海道地方の他に首都圏等にも広く居住している。.

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アカデミック美術

アレクサンドル・カバネル『ヴィーナスの誕生』(1863年) アカデミック美術(アカデミック美術、 英語:Academic art )とは、.

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アジア

アジア アジアの地図 東南アジア アジア(ラテン語: Asia古典ラテン語では「アシア」だが、現代ラテン語では「アジア」とも発音する。)は、世界の大州のひとつ。現在では一般的にヨーロッパを除くユーラシア大陸全般を指すが、政治的・経済的な立場の違いにより、様々な定義がなされる場合がある。亜州。 アッシリア語で東を意味する「アス」に語源をもつ。古代では現在の小アジアを指した。.

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インド

インドは、南アジアに位置し、インド洋の大半とインド亜大陸を領有する連邦共和制国家である。ヒンディー語の正式名称भारत गणराज्य(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ、Republic of India)を日本語訳したインド共和国とも呼ばれる。 西から時計回りにパキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、バングラデシュ、ミャンマー、スリランカ、モルディブ、インドネシアに接しており、アラビア海とベンガル湾の二つの海湾に挟まれて、国内にガンジス川が流れている。首都はニューデリー、最大都市はムンバイ。 1947年にイギリスから独立。インダス文明に遡る古い歴史、世界第二位の人口を持つ。国花は蓮、国樹は印度菩提樹、国獣はベンガルトラ、国鳥はインドクジャク、国の遺産動物はインドゾウである。.

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ウィーン万国博覧会

ウィーン万国博覧会(ウィーンばんこくはくらんかい, Weltausstellung 1873 Wien, Expo 1873)は、1873年5月1日から10月31日までオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーン中心部にあるリングシュトラーセ内・プラーター公園で、開催された国際博覧会である。.

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エッチング

ッチング(英: Etching)または食刻(しょっこく)とは、化学薬品などの腐食作用を利用した塑形ないし表面加工の技法。使用する素材表面の必要部分にのみ(防錆)レジスト処理を施し、腐食剤によって不要部分を溶解侵食・食刻することで目的形状のものを得る。 銅版による版画・印刷技法として発展してきた歴史が長いため、銅や亜鉛などの金属加工に用いられることが多いが、腐食性のあるものであれば様々な素材の塑形・表面加工に応用可能である。 金属の試験片をナイタール(エタノールと硝酸の混合液)などの腐食液によって表面を腐食することで、金属組織の観察や検査などに用いられている。.

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オランダ

ランダ(Nederland 、; Nederlân; Hulanda)は、西ヨーロッパに位置する立憲君主制国家。東はドイツ、南はベルギーおよびルクセンブルクと国境を接し、北と西は北海に面する。ベルギー、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。憲法上の首都はアムステルダム(事実上の首都はデン・ハーグ)。 カリブ海のアルバ、キュラソー、シント・マールテンと共にオランダ王国を構成している。他、カリブ海に海外特別自治領としてボネール島、シント・ユースタティウス島、サバ島(BES諸島)がある。.

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キュビスム

ュビスム(Cubisme; Cubism「キュビズム、キュービズム」、立体派)は、20世紀初頭にパブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックによって創始され、多くの追随者を生んだ現代美術の大きな動向である。それまでの具象絵画が一つの視点に基づいて描かれていたのに対し、いろいろな角度から見た物の形を一つの画面に収め、ルネサンス以来の一点透視図法を否定した。.

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キアロスクーロ

絵画館(ベルリン)蔵 キアロスクーロ(Chiaroscuro)とはイタリア語で「明-暗」という意味で、美術においては、明暗のコントラスト(対比)を指す言葉。それを用いた技法が「明暗法(めいあんほう)」「陰影法(いんえいほう)」である。 この言葉はいろいろな意味で使われる。.

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グラフィック

ラフィック(graphic)とは、出版・広告・印刷・映像・ゲームなどの媒体・コンテンツにおける視覚表現のこと。主に情報伝達を目的とし、デザインやレイアウトが計画・検討され、特定のコンセプトやトーン&マナーが表現されたもの。文字・写真・イラスト・図・記号などのあらゆる視覚要素により構成、あるいは時としてそれぞれ単体で用いられる場合もある。 コンピュータを用いてグラフィックを制作することを特にコンピュータグラフィックスと呼ぶが、表現技法としての意味合いが強く、グラフィックデザインにおけるフィニッシュワークとしてのコンピュータの使用はDTPと呼び、区別される。 出版・広告分野においてグラフィックによる表現を考案する職業はグラフィックデザイナーと呼ばれるが、コンピュータグラフィックスや映像分野ではグラフィッカーやCGクリエイターと呼ばれる。 また、パーソナルコンピュータやゲーム機の画像処理能力のことを指す場合もある。.

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コンセプチュアル・アート

ンセプチュアル・アート (Conceptual art) は、1960年代から1970年代にかけて世界的に行われた前衛芸術運動。イデア・アート (Idea art) とも呼ばれる。日本では概念芸術や観念芸術と訳されることも多い。1966年から1972年にかけてが最盛期。この項では、当時もっとも先鋭的だった欧米の動きについて概観する。.

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ジャポニスム

ャポニスム()は19世紀にヨーロッパで流行した日本趣味のこと。英語でジャポニズム()と表記されることもあるが、ヨーロッパ全土における一大潮流であることから、本稿では仏語の「ジャポニスム」に表記を統一する。.

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スケッチ

ッチ スケッチ (sketch) は、人物や風景などを大まかに描写すること。写生(しゃせい)、粗描・素描(そびょう)とも言う。また、画稿ともいい、肉筆画の一種である。 絵画における基本的な作業で、美術の訓練としても行われる。主に鉛筆を使用し、スケッチブックに描き留める。彩色を行う場合もあり、スケッチしたものを、水彩や油彩、版画の作品に仕上げることもある。 特に、簡単にスケッチすることをラフスケッチ、素早くより簡潔に描写することをクロッキーと言う。.

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サンリツ服部美術館

ンリツ服部美術館(さんりつはっとりびじゅつかん)は、長野県諏訪市にある美術館。運営は、公益財団法人サンリツ服部美術館。隣には北澤美術館本館がある。.

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備前焼

備前焼 備前焼(びぜんやき)は、岡山県備前市周辺を産地とする炻器。日本六古窯の一つに数えられる。備前市伊部地区で盛んであることから「伊部焼(いんべやき)」との別名も持つ。同地区で数多く見られる煉瓦造りの四角い煙突は備前焼の窯のものである。.

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唐古・鍵遺跡

復元楼閣 唐古・鍵遺跡(からこ・かぎいせき)は、奈良盆地中央部、標高約48メートル前後の沖積地、奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵に立地する弥生時代の環濠集落遺跡。 現段階の調査で認知されている遺跡面積は約30万平方メートル。規模の大きさのみならず、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見され、話題となった。明治34年、高橋健自が『大和考古雑録』の中で「磯城郡川東村大字鍵の遺跡」として紹介した事を始め、全国からヒスイや土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られている。平成11年(1999年)に国の史跡に指定され、ここから出土した土器に描かれていた多層式の楼閣が遺跡内に復元されている。 平成16年11月24日、田原本青垣生涯学習センター2階に「唐古・鍵考古学ミュージアム」を開設し、出土品などの展示を行っている。 平成30年に周辺が唐古・鍵遺跡史跡公園として整備された。また同時期に道の駅レスティ 唐古・鍵が開業している。.

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唐物

唐物(からもの)とは、中世から近世にかけて尊ばれた中国製品の雅称である。狭義には宋、元、明時代の美術作品を指す場合もある。なおこの場合の「唐」は広く中国のことを指し、唐時代に作られたという意味ではない。 また、江戸時代以後「唐物屋」など長崎貿易で扱う舶来品全般を唐物とする場合がある。.

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唐招提寺

唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良市五条町にある鑑真が建立した寺院。南都六宗の1つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を始め、多くの文化財を有する。 唐招提寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。.

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円山応挙

円山 応挙(まるやま おうきょ、旧字表記では圓山應擧、享保18年5月1日(1733年6月12日)- 寛政7年7月17日(1795年8月31日))は、江戸時代中期~後期の絵師。 近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した親しみやすい画風が特色である。 諸説あるが「足のない幽霊」を描き始めた画家とも言われている。.

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円山派

円山派(まるやまは)は、江戸時代中期の円山応挙を祖とする画派。日本画の代表的な流派のひとつ。.

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円空

円空(えんくう、寛永9年(1632年) - 元禄8年7月15日(1695年8月24日))は、江戸時代前期の修験僧(廻国僧)・仏師・歌人。特に、各地に「円空仏」と呼ばれる独特の作風を持った木彫りの仏像を残したことで知られる。 円空は一説に生涯に約12万体の仏像を彫ったと推定され、現在までに約5,300体以上の像が発見されている。円空仏は全国に所在し、北は北海道・青森、南は三重県、奈良県までおよぶ。多くは寺社、個人所蔵がほとんどである。その中でも、岐阜県、愛知県をはじめとする各地には、円空の作品と伝えられる木彫りの仏像が数多く残されている。そのうち愛知県内で3,000体以上、岐阜県内で1,000体以上を数える。また、北海道、東北に残るものは初期像が多く、岐阜県飛騨地方には後期像が多い。多作だが作品のひとつひとつがそれぞれの個性をもっている。円空仏以外にも、多くの和歌や大般若経の扉絵なども残されている。.

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円覚寺

円覚寺(えんがくじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある寺院。山号を瑞鹿山(ずいろくさん)と称し、正式には瑞鹿山 円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)と号する。臨済宗円覚寺派の大本山であり、鎌倉五山第二位に列せられる。本尊は宝冠釈迦如来、開基は北条時宗、開山は無学祖元である。なお、寺名は「えんがくじ」と濁音で読むのが正式である。 鎌倉時代の弘安5年(1282年)に鎌倉幕府執権・北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護された。 JR北鎌倉駅の駅前に円覚寺の総門がある。境内には現在も禅僧が修行をしている道場があり、毎週土曜・日曜日には、一般の人も参加できる土日坐禅会が実施されている。かつて夏目漱石や島崎藤村、三木清もここに参禅したことが知られる。.

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内国勧業博覧会

内国勧業博覧会(ないこくかんぎょうはくらんかい)は明治時代の日本で開催された博覧会である。国内の産業発展を促進し、魅力ある輸出品目育成を目的として、東京(上野)で3回、京都・大阪で各1回(計5回)政府主導で開催された。.

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写真

写真(しゃしん、古くは寫眞)とは、.

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出光美術館

出光美術館(いでみつびじゅつかん)は、東京都千代田区丸の内及び福岡県北九州市門司区の門司港レトロ地区にある、東洋古美術を中心とした美術館である。運営は、東京の「出光美術館」が公益財団法人出光美術館、門司の「出光美術館(門司)」が公益財団法人出光佐三記念美術館。.

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公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

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公募展

公募展(こうぼてん)とは、主催者が作品を広く公募した上で、集まった作品に対し関係者および審査員などによる審査を経た入選作品を一般展示する展覧会の総称である。 大半の場合、特定の美術団体が主催し、審査員もまたその美術団体の構成員であり、美術団体の会員による作品と公募・審査を経た入選作品が同時に展示される形態を取る。美術展覧会の形態のひとつでもある。.

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六古窯

日本六古窯(にほんろっこよう)とは、日本古来の陶磁器窯のうち、中世から現在まで生産が続く代表的な6つの窯の総称。.

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六波羅蜜寺

本堂正面 弁財天堂 六波羅蜜寺 (ろくはらみつじ)は、京都府京都市東山区にある真言宗智山派の寺院である。山号は補陀洛山。本尊は十一面観音。開基(創建)は空也。西国三十三所第17番札所。.

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元禄文化

尾形光琳筆 「燕子花図屏風」 元禄文化(げんろくぶんか)とは、江戸時代前期、元禄年間(1688年 - 1704年)前後の17世紀後半から18世紀初頭にかけての文化。 17世紀中ごろ以降の日本列島は、農村における商品作物生産の発展と、それを基盤とした都市町人の台頭による産業の発展および経済活動の活発化を受けて、文芸・学問・芸術の著しい発展をみた深井(2012)pp.12-15高埜「元禄の社会と文化」(2003)pp.85-90。とくに、ゆたかな経済力を背景に成長してきた町人たちが、大坂・京など上方の都市を中心にすぐれた作品を数多くうみだした深谷(2000)pp.80-89。そこでは庶民の生活・心情・思想などが出版物や劇場を通じて表現された。ただし、その担い手は武士階級出身の者も多かった尾藤『元禄時代』(1975)pp.16-25。また、同じ上方でも京より大坂に重心がうつると同時に、文化の東漸運動も進展し、江戸・東国が文化に占める重要性が高まっていく端緒となった原田 他(1981)p.247。 元禄文化は、しばしば「憂き世から浮世へ」と称せられるように、現世を「浮世」として肯定し、現実的・合理的な精神がその特徴とされる尾藤『元禄時代』(1975)pp.26-51小澤(1993)pp.60-69。もとより貴族的な雅を追求する芸術の成果も一方には存在したが、「民勢さし潮のごとく」と評された民衆の情緒を作品化したものが多く、世間(社会)の現実をみすえた文芸作品もうみ出された。とりわけ、小説の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門は日本文学史上に燦然と輝く存在である。また、実証的な古典研究や実用的な諸学問が発達し、芸術分野では、日本的な装飾画の様式を完成させたとされる尾形光琳や浮世絵の始祖といわれる菱川師宣があらわれ、従来よりも華麗で洗練さを増した美術工芸品もまた数多くつくられた。音楽では生田流箏曲や新浄瑠璃、長唄などの新展開がみられた。さらに、音曲と組み合わせて視聴覚に同時に訴えかける人形浄瑠璃や歌舞伎狂言も、この時代に姿がととのえられた。元禄時代は、めざましい創造の時代だったのである。 なお、日本における1960年代の高度経済成長期の文化隆盛を指すものとして、「昭和元禄」(しょうわげんろく)という言葉が生まれている1964年に政治家福田赳夫が言いだした、経済成長下での天下泰平・奢侈安逸の風潮を評した言葉。。.

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元興寺

日本最古、飛鳥時代の瓦(極楽坊禅室・本堂) 元興寺(がんごうじ)は、奈良市にある、南都七大寺の1つに数えられる寺院。蘇我馬子が飛鳥に建立した、日本最古の本格的仏教寺院である法興寺がその前身である。.

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兵庫県立美術館

企画展示室入口 館内通路 兵庫県立美術館(ひょうごけんりつびじゅつかん)は、2002年に開館した兵庫県神戸市「HAT神戸」にある美術館である。愛称は「芸術の館」。現館長は蓑豊。.

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前田寛治

前田 寛治(まえた かんじ、1896年10月1日 - 1930年4月16日)は、日本の洋画家。 人物写実画の名手として知られ、33歳という若さで早逝し10年に満たない短い活動期間であったが、彼の古典的構図でのフォーヴィスム的筆致が「前寛ばり」という流行語を生むなど当時の芸術家に多大な影響を与えた。 なお、名字の読みは「まえた」である。.

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前田青邨

前田 青邨(まえだ せいそん、1885年1月27日 - 1977年10月27日)は、岐阜県中津川市出身の日本画家。妻は荻江節の5代目荻江露友。.

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前衛

前衛(ぜんえい、advance guard, vanguard、avant-garde)とは、.

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前方後円墳

前方後円墳 (ぜんぽうこうえんふん)は、古墳の形式の1つ。円形の主丘に方形の突出部が接続する形式で、双丘の鍵穴形をなす。 主に日本列島で3世紀中頃から7世紀初頭頃(畿内大王墓は6世紀中頃まで)にかけて築造され、日本列島の代表的な古墳形式として知られる。.

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動植綵絵

『動植綵絵』の内「群鶏図」 『動植綵絵』の内「老松白鳳図」 『動植綵絵』(どうしょく さいえ)は、近世日本の画家・伊藤若冲の代表作の一つ。江戸時代中期にあたる宝暦7年頃(1757年)から明和3年(1766年)頃にかけての時期に制作された、30幅からなる日本画であり、動植物を描いた彩色画。三の丸尚蔵館蔵。.

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国宝絵画の一覧

本項では、日本国の文化財保護法により1951年以降に国宝に指定された絵画作品を国宝絵画の一覧(こくほうかいがのいちらん)として概説する。 日本では1897年以来、特に優れた有形文化財を「国宝」として指定してきた。国宝の定義、評価基準は年代とともに変化し、1950年に施行された文化財保護法のもと、それまでの国宝は重要文化財となり、重要文化財の中からあらためて国宝が指定されるようになった。同法に基づく国宝(いわゆる「新国宝」)の最初の指定は1951年6月9日に行われた。 国宝絵画は譲渡が制限されており、日本国外への輸出は文化財保護法第44条で禁止されている -->。所有者は絵画が損傷、紛失した場合には公表する義務があり、所有者の変更や、絵画の修復に必要な移動であっても、許可を得る必要がある 。 国宝は「重要文化財のうち世界文化の見地から価値の高いもので、たぐいない国民の宝たるもの」として文部科学大臣が指定するもので、国宝絵画は8世紀の奈良時代から19世紀の江戸時代までの159件となっている(2012年9月指定分まで)。絵画で国宝指定されているのは159件だが、これは作品点数ではなく、文化財としての指定件数である。『十二天像』のように、複数の作品が1件の国宝に指定されている場合もあるため、実際の作品点数は159よりも多い。描かれている題材は、仏教画、山水画、肖像画、風俗画などがあり『源氏物語絵巻(隆能源氏)』のように特定の文学作品に取材した作品もある。中国から伝来した絵画も国宝に指定されている。国宝指定名称としての各絵画の題名は、『凍雲篩雪図』(浦上玉堂筆)など一部を除いて作者によるものではなく、各絵画の内容に基づいて後に命名されたものである。 6世紀半ばに百済から日本へ仏教が伝来し、同時に中国から仏教画ももたらされた。飛鳥時代前期から後期(白鳳期)にかけて(7世紀末頃まで)の日本絵画の遺品はきわめて少なく、法隆寺にある玉虫厨子(工芸品部門の国宝)の装飾画、絵画的表現を有するものとして中宮寺の天寿国繍帳(工芸品部門の国宝)などが挙げられるにすぎない。これら最初期の仏教画には中国の作風、特に南北朝時代から隋(581年 - 618年)の仏教画の影響がみられる。白鳳期から奈良時代(7世紀末から8世紀)に日本で描かれた絵画には唐(615年 - 907年)の影響が見られ、『'''高松塚古墳壁画'''』や『麻布著色吉祥天像』などは、典型的な唐様式の絵画となっている。奈良時代に描かれた現存する絵画のほとんどは仏教を主題としており、その作者は不明なものがほとんどである。奈良時代の芸術作品は、彫刻の現存するものが比較的多いのに対し、絵画の現存例は少ない。法隆寺金堂壁画(重要文化財)はこの期の作品であったが1949年に焼損した。9世紀はじめの平安時代以降、中国風の絵画は「唐絵」として日本絵画の中で一つの様式を形成するにいたった。。 8世紀から9世紀の平安時代初期には純粋密教である真言宗、密教の要素をもつ天台宗がそれぞれ空海と最澄によって唐からもたらされ、曼荼羅が多く描かれるようになる。浄土教の発展は来迎図の様式を発達させ、1053年に平等院の『鳳凰堂中堂壁扉画』に描かれた「九品来迎図」に見られるように、西方浄土の阿弥陀如来を題材とした絵画も多く描かれるようになった。平安時代中期にはそれまでの唐絵から、襖絵や屏風絵に見られるように日本独自の「大和絵」が主流になっていく。平安時代末期の1185年ごろには、大和絵が絵巻物の挿絵として描かれることが盛んになった。『源氏物語』を題材にした『源氏物語絵巻』が特に有名で、他にも応天門の変を描いた『伴大納言絵詞』などの歴史的事件を題材にしたものや『紙本著色餓鬼草紙』のように宗教を題材とした絵巻物が存在する。絵巻物は鎌倉時代(1185年頃 - 1333年)になるまで作成されていたが、奈良時代と同様に絵画よりも彫刻のほうが芸術作品としては好まれていた。 その後、宋、元の影響を受けた、墨のみの単色で描かれた水墨画が、それまでの多色絵巻物よりも隆盛を見せ始める。室町時代の14世紀終わりには、中国で様式が完成された山水画が、画僧によって日本独自の発展を遂げた。国宝指定の『竹斎読書図』、『山水図(水色巒光図)』の作者に帰される室町時代の禅僧の周文と、その弟子で『四季山水図巻(山水長巻)』ほか6点が国宝絵画に指定されている雪舟が、もっともよく知られる当時の画僧である。初期の日本絵画と同様に水墨画の多くは寺院のために描かれたものであったが、室町時代後期の1573年ごろには禅寺から散逸し、狩野派の画家たちの手本となっていった。 それまでの時代と対照的に、安土桃山時代(1568年 - 1603年)の絵画は金銀箔を大量に使用した、極彩色で雄大なものである。大規模な絵画が戦国大名の城郭の装飾として用いられた。この時代以降、有力武家の保護を受けた狩野派は300年にわたって日本絵画の主流を占めることになる。大規模で多色使いの絵画の流行は江戸時代(1603年 - 1868年)になっても続き、俵屋宗達、尾形光琳を代表とする琳派は、平安時代の古典的日本文学を主題とした題材を鮮やかな色使いで描き出している。18世紀には宋の文人画が日本にもたらされ、南画として成立した。南画の代表的な画家としては池大雅、与謝蕪村があげられる。.

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国家

国家(こっか)とは、国境線で区切られた国の領土に成立する政治組織で、その地域に居住する人々に対して統治機構を備えるものである。領域と人民に対して、排他的な統治権を有する(生殺与奪の権利を独占する)政治団体もしくは政治的共同体である。 政治機能により異なる利害を調整し、社会の秩序と安定を維持していくことを目的にし社会の組織化をする。またその地域の住民は国家組織から国民あるいは公民と定義される。.

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国分寺

国分寺(こくぶんじ)は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれる。 正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」。なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられた。.

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国立劇場

日本の国立劇場(こくりつげきじょう、英語:National Theatre of Japan)は、東京都千代田区隼町にある劇場である。独立行政法人日本芸術文化振興会が運営する。日本の伝統芸能を上演するほか、伝承者の養成や調査研究も行っている。 歌舞伎・日本舞踊・演劇が演じられる大劇場、文楽・邦楽・琉球舞踊・日本舞踊(小規模公演)・雅楽・声明・民俗芸能が演じられる小劇場で構成されている。また、伝統芸能の公演の他これに携わる人材育成も行っている(歌舞伎俳優や囃子方など。文楽関係は国立文楽劇場で行う)。落語・漫才などが演じられる国立演芸場が隣接しており、2003年には国立劇場裏にが開館した。 なお毎年4月に行われる日本国際賞の授賞式には、天皇・皇后や首相、衆参両議院議長らが出席する。 2012年から毎年3月11日には政府主催による東日本大震災追悼式がここで行われ、天皇・皇后(2012年~2016年度)、秋篠宮夫妻(2017年、2018年度)、首相、衆参両議院議長らが出席している。 国立演芸場 伝統芸能情報.

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国粋主義

錦旗。 国粋主義(こくすいしゅぎ、Japanese nationalism)とは、近代の日本における国家主義の一形態で、衆議院議員の志賀重昂が1888年に雑誌『日本人』にて発表した論文「国粋保存旨義」の中で使用された用語。明治維新に始まる極端な西欧文化の流入による近代化に警笛を鳴らし、当時の明治政府の政策を欧化主義として非難したもので、日本人の本来の文化や歴史、その長所を尊ぶことを主張している。即ち天皇を頂点とする日本の国家体制を支持し、その優越性と長久性を強調する国体論が主となっている。 一般論としての国粋主義は、国家に固有の文化・伝統を礼賛して愛国心や愛郷心で意識の発揚をはかる、思想や運動のことで、一般的には保守思想の一つとされる。.

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国際博覧会

国際博覧会(こくさいはくらんかい、, )は、国際博覧会条約(BIE条約)に基づいて行われる複数の国が参加する博覧会である。万国博覧会(ばんこくはくらんかい)とも呼ばれ、略称は国際博、万国博、万博(ばんぱく)など。.

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国風文化

国風文化(こくふうぶんか)とは、日本の歴史的文化の一つである。10世紀の初め頃から11世紀の摂関政治期を中心とする文化であり、12世紀の院政期文化にも広く影響を与えた。 江戸時代から用例はあるが、「国風文化」という用法は小島憲之の『国風暗黒時代の文学』により国文学史の分野で一般的となり、その後歴史や美術史へ転用された。原義の「国風」とはくにぶり(地方の習俗)の意味であり「雅(みやび)」に対置される概念であるが、日本での国風文化は雅風への展開という意味合いで使われている。.

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四天王寺

四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区四天王寺にある寺院。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音菩薩(くせかんのんぼさつ)である。「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)ともいう。 『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている。 宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に「和宗」の総本山として独立している。.

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四条派

四条派(しじょうは)は、日本画界でも大きな派閥である。江戸時代中期頃、呉春(松村月渓)を祖とし、岡本豊彦や松村景文らが発展させ、京都画壇で一大勢力となり、その後塩川文麟、幸野楳嶺、竹内栖鳳、西山翠嶂、堂本印象などと現代まで続いている。.

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矢代幸雄

代 幸雄(やしろ ゆきお、1890年11月5日 - 1975年5月25日)は、日本の美術史家、美術評論家である。音楽家矢代秋雄は長男。ギリシャ美術史研究者平山東子(矢代秋雄長女)は孫。妻の弟が木村健二郎。.

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知恩院

遠景(左三門、右本堂、後方比叡山) 知恩院(ちおんいん)は、京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院。山号は華頂山(かちょうざん)。詳名は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)。本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)、開基(創立者)は法然である。 浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。 なお他流で門跡に当たる当主住職を、知恩院では浄土門主(もんす)と呼ぶ。.

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玉虫厨子

玉虫厨子 玉虫厨子(たまむしのずし)は奈良県斑鳩町の法隆寺が所蔵する飛鳥時代(7世紀)の仏教工芸品。装飾に玉虫の羽を使用していることからこの名がある。国宝に指定されている。.

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火焔型土器

火焔型土器(かえんがたどき)は、縄文時代中期を代表する縄文土器の1種。燃え上がる炎を象ったかのような形状の土器を指す。装飾的な縄文土器の中でも特に装飾性豊かな土器である。.

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現代

代(げんだい)は、その時代が言及される時点において、現に今、進行している時代である。.

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琳派

俵屋宗達 風神雷神図 琳派(りんぱ)とは、桃山時代後期に興り近代まで活躍した、同傾向の表現手法を用いる造形芸術上の流派、または美術家・工芸家らやその作品を指す名称である。.

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琉球

琉球(りゅうきゅう)、りゅうきゅう、リュウキュウ.

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研究

(けんきゅう、research リサーチ)とは、ある特定の物事について、人間の知識を集めて考察し、実験、観察、調査などを通して調べて、その物事についての事実を深く追求する一連の過程のことである。語義としては「研ぎ澄まし究めること」の意。.

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社会

会(しゃかい)は、人間と人間のあらゆる関係を指す。 社会の範囲は非常に幅広く、単一の組織や結社などの部分社会から国民を包括する全体社会までさまざまである。社会の複雑で多様な行為や構造を研究する社会科学では人口、政治、経済、軍事、文化、技術、思想などの観点から社会を観察する。.

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神護寺

護寺(じんごじ)は、京都市右京区高雄にある高野山真言宗遺迹(ゆいせき)本山の寺院で、山号を高雄山と号する。本尊は薬師如来、開基は和気清麻呂である。.

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神護寺三像

護寺三像(じんごじさんぞう)は、京都神護寺が所蔵する三幅の肖像画。「絹本著色伝源頼朝像、絹本著色伝平重盛像、絹本著色伝藤原光能像」の名称で1951年(昭和26年)に国宝に指定された。.

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神戸市立博物館

ライトアップされた神戸市立博物館 フランシスコ・ザビエル像 神戸市立博物館(こうべしりつはくぶつかん、Kobe City Museum)は、神戸市中央区京町にある人文科学系博物館である。現在の館長は大谷幸正。.

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祇園南海

祇園 南海(ぎおん なんかい、延宝4年(1676年)- 宝暦元年9月8日(1751年10月26日)、生年について延宝5年(1677年)の説あり))は、江戸時代中期の日本の儒学者、漢詩人、文人画家。服部南郭、柳沢淇園、彭城百川とともに日本文人画の祖とされる。また、紀州藩に仕え、野呂介石、桑山玉州とともに紀州三大南画家と呼ばれている。名を与一郎、正卿、瑜とし、字は白玉、号は南海のほか、蓬莢、鉄冠道人、箕踞人、湘雲、信天翁、観雷亭など。通称は余一と呼ばれた。本姓が源であることから、中国風に修して源瑜、阮瑜と称した。.

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禅(ぜん)は、大乗仏教の一派である禅宗(ぜんしゅう)の略、もしくは、サンスクリット語の dhyāna (ディヤーナ)の音写、禅那(ぜんな)の略である『広辞苑』「禅」。また坐禅(座禅)の略としての意もある。本項では宗派についての禅宗について述べる。.

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禅宗様

功山寺仏殿(山口県、国宝) 禅宗様(ぜんしゅうよう)は、日本の伝統的な寺院建築の様式の一つ。唐様とも言う。 鎌倉時代初期から禅宗寺院で取り入れられ始め、武士の帰依を受けたことで13世紀後半から盛んになった様式で、当時の中国建築の直写が目指された。従来の寺院建築様式である和様、また鎌倉時代初期にもたらされた大仏様に対する言葉。大仏様とは共通する部分も多く、あわせて鎌倉新様式または宋様式と総称される。.

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禅林寺 (京都市)

禅林寺(ぜんりんじ)は、京都市左京区永観堂町にある浄土宗西山禅林寺派総本山の寺院。一般には通称の永観堂(えいかんどう)の名で知られる。山号を聖衆来迎山(しょうじゅらいごうさん)、院号を無量寿院と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は、空海の高弟の真紹僧都である。当寺は紅葉の名所として知られ、古くより「秋はもみじの永観堂」といわれる。また、京都に3箇所あった勧学院(学問研究所)の一つでもあり、古くから学問(論義)が盛んである。.

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秋山光和

秋山 光和(あきやま てるかず、1918年5月17日 - 2009年3月10日)は、日本の美術史学者、東京大学名誉教授。日本美術史専攻。.

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空也

也(くうや)は、平安時代中期の僧。阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人と称される。口称念仏の祖、民間における浄土教の先駆者と評価される。空也流の念仏勧進聖は鎌倉仏教の浄土信仰を醸成したとされる。 俗に天台宗空也派と称する一派において祖と仰がれるが、空也自身は複数宗派と関わりを持つ超宗派的立場を保ち、没後も空也の法統を直接伝える宗派は組織されなかった。よって、空也を開山とする寺院は天台宗に限らず、在世中の活動拠点であった六波羅蜜寺は現在真言宗智山派に属する(空也の没後中興した中信以降、桃山時代までは天台宗であった)。 踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれるが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したという確証はない。 門弟は、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に多大な影響を与えた。  .

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空海

海(くうかい、宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日(835年4月22日))は、平安時代初期の僧。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号(921年、醍醐天皇による)で知られる真言宗の開祖である。俗名(幼名)は佐伯 眞魚(さえき の まお)。日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。.

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竹久夢二

竹久 夢二(たけひさ ゆめじ、1884年(明治17年)9月16日 - 1934年(昭和9年)9月1日)は、日本の画家・詩人。本名は竹久 茂次郎(たけひさ もじろう)。.

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竹内栖鳳

竹内 栖鳳(たけうち せいほう、1864年12月20日(元治元年11月22日) - 1942年(昭和17年)8月23日)は、戦前の日本画家。近代日本画の先駆者で、画歴は半世紀に及び、戦前の京都画壇を代表する大家である。帝室技芸員。第1回文化勲章受章者。 本名は恒吉。最初は棲鳳と号した。霞中庵の号もある。動物を描けば、その匂いまで描くといわれた達人であった。.

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笹山遺跡

笹山遺跡出土 深鉢形土器(火焔型土器)(十日町市博物館蔵、国宝)本個体は、笹山遺跡出土の火焔型土器のなかでも造形的に優れ、保存状態もよい代表作と評され、「縄文雪炎」(ゆきほむら)の愛称があるhttp://www.tokamachi-museum.jp/bunka01_kokuho/kokuho_001.html 「新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器」(十日町市博物館サイト、2017年9月22日閲覧)http://www.tokamachi-museum.jp/information01.html 「新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器」(十日町市博物館サイト、2017年9月22日閲覧)。 京都大学総合博物館企画展示にて撮影。 笹山遺跡(ささやまいせき)は、新潟県十日町市中条乙3081番地ほかにある、縄文時代と中世の重層する遺跡である。縄文時代の火焔型土器が出土した代表的遺跡のひとつで、十日町市の史跡に指定されている。現在、遺跡には市営陸上競技場、笹山野球場、笹山縄文館などが建設されているが、未発掘の範囲を中心にして遺跡広場として利用されており、復元竪穴住居跡2棟が設置されている。.

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米沢市上杉博物館

米沢市上杉博物館(よねざわしうえすぎはくぶつかん、Yonezawa city Uesugi Museum)は、山形県米沢市に所在する文化施設「伝国の杜」に位置する市立の博物館である。本項では、併設の置賜文化ホールについても記述する。.

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粉河寺縁起絵巻

一段、猟師孔子古の自宅を訪れた童(右端) 第二段、孔子古は千手観音像出現の奇瑞を家族に伝える 第二段、千手観音を拝する老若男女 第三段、病に苦しむ長者の娘のために加持を行う童行者(左端) 第四段、長者夫妻と娘は童行者に病気平癒のお礼をしようとするが、童行者は娘の袴と提鞘だけを受け取る。 第五段、粉河を渡り、千手観音の庵を探す長者一行 第五段、庵の前で千手観音にひれ伏す長者一行、観音の手には娘の紅の袴がある 粉河寺縁起絵巻(こかわでら えんぎ えまき)は、和歌山県にある粉河寺の縁起を描いた絵巻物である。紙本著色、1巻、縦30.8cm、横1984.2cm。恐らく天正年間、豊臣秀吉の根来寺焼き討ちにより罹災し、巻首部分と、全巻にわたる上下に甚だしい焼損が見られる。 作者不詳で、成立は12世紀後半頃と推定されている。絵巻物の代表的作品の一つに数えられ、国宝に指定されている。現在の所有者は粉河寺であるが、京都国立博物館に寄託されている。.

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紫禁城

紫禁城(しきんじょう、、、満州語:、転写:dabkūri dorgi hoton)または故宮(こきゅう、、)は、中華人民共和国北京市に所在する明清朝の旧王宮である歴史的建造物。「北京と瀋陽の明・清王朝皇宮」の一つとしてユネスコの世界遺産(文化遺産)となっている。面積は 725,000m2 あり、世界最大の木造建築群である。別称の故宮とは「古い宮殿、昔の宮殿」という意味で、現在は博物館(故宮博物院)になっている。.

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縄文土器

縄文土器(じょうもんどき)は、北海道から沖縄諸島を含む現在でいう日本列島各地で縄文時代に作られた土器である。 縄文時代の年代は流動的ながら、約1万6000年前から約2300年前とされる。.

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縄文時代

縄文時代(じょうもんじだい)は、約1万5,000年前(紀元前131世紀頃)から約2,300年前(紀元前4世紀頃)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられる。 縄文時代の終わりについては、地域差が大きいものの、定型的な水田耕作を特徴とする弥生文化の登場を契機とするが、その年代については紀元前数世紀から紀元前10世紀頃までで、多くの議論がある。 なお、沖縄県では貝塚時代前期に区分される。次の時代は同地域では貝塚時代後期となり、貝塚文化と呼ばれる。また東北北部から北海道では縄文時代の生活様式が継承されるため、続縄文時代と呼ばれる。.

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美学

美学(びがく、aesthetics、またæsthetics、estheticsとも、Αισθητική (本文の2. 名称の項、参照)、「感性の学問」)とは美の本質や構造を、その現象としての自然・芸術及びそれらの周辺領域を対象として、経験的かつ形而上学的に探究する哲学の一領域である。森鴎外により「審美学」という訳語が与えられた美学が日本に輸入された際の訳語の確定までの経緯については、浜下昌宏「森鴎外『審美学』の研究(1)ー序説」, "Studies" 45(1), pp.69-78 (神戸女学院大学, 1998年7月) を参照。西周、中江兆民らも各々「善美学」「佳趣論」等の訳語を創出した。なお、明治14年(1881年)初版の井上哲次郎編『哲学字彙』(東洋館)では、美学の訳語として「美妙学」が採用されていた。が、現在では美学と呼称される。.

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美術

美術(びじゅつ)は、視覚によってとらえることを目的として表現された造形芸術(視覚芸術)の総称。英語ではファインアート、ビジュアルアート、あるいは アート。.

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美術史

美術史(びじゅつし、Art history)という言葉は、.

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美術学校

美術学校(art school)とは、視覚芸術(イラストレーション、絵画、写真、彫刻、グラフィックデザインなど)に特化した教育機関である。初等教育、中等教育、高等教育の各段階の美術教育機関が存在する。 混同されがちではあるが、音楽系学部などを含む場合もある芸術大学は、厳密には美術大学とは区別される。また、音楽学部だけを持つ単科大学は音楽大学と呼ばれ、区別される。大学の種別としての美術大学・芸術大学は「美大/芸大(げいだい)」と略され、後記する各大学については、学生・関係者や近隣住民により、その大学の省略形呼称を「〇〇美術大学/芸術大学」を「〇〇美術大/芸術大」「〇〇美大/芸大」などとする場合も多い(大学の略称については本稿の説明範疇ではないので詳細については当該項目を参照の事)。 フランスのエコール・デ・ボザールが今日の美術教育機関の最初のモデルであると考えられ、徒弟制度に基づく伝統的な美術教育に代わる組織として登場した。.

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美術家

美術家(びじゅつか)とは、.

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美術家の一覧

美術家の一覧は、主要な美術家の一覧である。なお、イラストレーターおよび絵本作家についてはそれぞれイラストレーター一覧、絵本作家一覧を参照。.

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美術出版社

株式会社美術出版社(びじゅつしゅっぱんしゃ)は、日本の出版社。.

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美術商

美術商(びじゅつしょう)、またはアートディーラー(Art Dealer)とは、美術家から美術品を仕入れ、それをコレクターなどの顧客に販売する業者である。また、他の業者やコレクター、オークションなどから美術品を買い取って、さらに他業者への転売も行う者もある。規模は百貨店の美術部や商社系ギャラリーなど大きなものから、先祖代々続く古美術商、美術愛好家やビルオーナーなど個人が営業するギャラリーまで、大小さまざまである。 絵画を扱う美術商は画商ともいう。また、美術商が自前の作品展示・販売スペース(ギャラリー)を持っている場合は画廊やギャラリー、あるいはギャラリスト(Gallerist)などと呼ばれることもある(かつて日本では、自前の店を持つ美術商のことを、画廊を持たない美術商である「旗師」に対し、「箱師」という俗称で呼んだ)。ギャラリスト(画廊主)は、自前のスペースを持ち、自ら見出した契約作家を育成しギャラリーで最高の状態で展示するというリスクを抱えながら、美術家をプロモートし美術家と共に歩んで美術を育成する存在であり、単に作品を安く買い高く転売することを目的とするブローカーやディーラーとは区別すべき存在である。ギャラリストは、いい美術品を求める顧客と美術品を売りたい作家を仲立ちし、結果、社会と美術界をともに発展させる仕事といえる。 それぞれの美術商には分野や時代、地域などの専門分野があり、たとえば古美術を扱う美術商や、現存作家や物故作家など比較的最近の作品を扱う美術商などがいる。茶道具と現代美術といった異なる分野を同時に扱う美術商はめったにいない。質や専門性、信頼性を保つためには、画廊としての専門分野や取り扱い作家や見識を決め、それに沿った企画展示をすることで顧客に訴えることも重要である。 美術商は、価値を見抜くために、すぐれた美術を数多く見て「見る眼」を鍛えておくこと、また、見る眼と資金を持つ顧客といった良質の販売ルートを抑えることが望ましい。.

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美術館

美術館(びじゅつかん、Art museum)とは、博物館の一種 であり、美術作品を中心とした文化遺産や現代の文化的所産を収集・保存・展示し、またそれらの文化に関する教育・普及・研究を行なう施設である。.

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経済

経済(けいざい、οικονομία、oeconomia、economy)とは、社会が生産活動を調整するシステム、あるいはその生産活動を指す。.

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絵巻物

源氏物語絵巻(東屋)徳川美術館蔵 平治物語絵巻(三条殿夜討の巻)ボストン美術館蔵 蒙古襲来絵詞 三の丸尚蔵館蔵 鳥獣人物戯画 高山寺蔵(甲巻、兎と蛙の相撲の場面) 絵巻物(えまきもの)は、日本の絵画形式の1つで、横長の紙(または絹)を水平方向につないで長大な画面を作り、情景や物語などを連続して表現したもの。「絵巻」とも言う。絵画とそれを説明する詞書が交互に現われるものが多いが、絵画のみのものもある。 最初の絵巻物は、奈良時代に制作された『絵因果経』であると言われる。これは巻物の下段に経文、上段にそれを絵解きする絵画を配したものである。 平安時代になると、王朝文学の物語、説話などを題材とした絵巻が制作されるようになった。これらは、金銀箔や野毛、砂子を撒き、花鳥などの下絵をあしらった料紙に連綿体で書かれた詞書と、それに対する絵を交互に配する独特の様式を生み出した。 物語絵巻は、『枕草子』『伊勢物語』『源氏物語』『宇治拾遺物語』などを、独特の表現で描写し、特に『源氏物語絵巻』は、濃厚な色彩で貴族の生活を描き、家屋は屋根を省略した吹抜屋台で描かれていて、当時の住居の状況や建具の使用状況などが一望できる。 鎌倉時代には、歌仙絵巻、戦記絵巻、そして寺社縁起や高僧の伝記絵巻などが多く制作された。 『源氏物語絵巻』・『信貴山縁起』・『伴大納言絵巻』・『鳥獣人物戯画』を、日本の四大絵巻物と称される。.

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絵因果経

絵因果経(えいんがきょう)は仏伝経典の代表的なものの1つである『過去現在因果経』の写本の一種で、巻子本の下段に経文を書写し、上段に経文の内容を説明した絵画を描いたもので、日本において平安時代以降盛行する絵巻物の原初的形態とみなされている。.

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絵画

絵画(かいが)は、物体の形象を平面に描き出したもの広辞苑。 日本語では類語の絵が幅広く用いられ、絵画という語は、特に芸術作品としての絵を指す場合がある。ただし、絵と絵画を区別して用いるとは限らない。また画を後ろにつけて描写の技法や対象を示す用語もある(水墨画、静物画など)。 フランス語の peinture(パンチュール)、英語の painting(ペインティング)、日本語の雅言的表現で絵と呼ぶこともある。 文字などを「書く」ことより早く、絵画を「描く」行動は幼少期から見られる行動である。発達心理学などの分野では、14歳から18歳程度で完成期と呼ばれる時期を迎え、多くの人はその頃から、ほとんど描かなくなる。子どもの絵に関する社会科学的研究は豊富だが、大人の絵に関する同様の研究は少ない。その一方で、多くの人が描かなくなる年齢を過ぎても活動的に絵を描く人々が居る。歴史的に代表的なのは画家であると言えるが、現代ではより多くの業種に見出される傾向である。なお、人間の発達には個人差があり、柔軟な姿勢が必要である。.

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用明天皇

明天皇(ようめいてんのう、生年不詳 - 用明天皇2年4月9日(587年5月21日?))は、日本の第31代天皇(在位:敏達天皇14年9月5日(585年10月3日?) - 用明天皇2年4月9日(587年5月21日?))。.

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町人

人(ちょうにん、まちにん)は、江戸時代に都市に居住していた職人、商人の総称である。.

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無量寺

無量寺(むりょうじ)は、日本の寺院。.

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當麻寺

麻寺(たいまでら、常用漢字体:当麻寺)は、奈良県葛城市にある7世紀創建の寺院。法号は「禅林寺」。山号は「二上山」。創建時の本尊は弥勒仏(金堂)であるが、現在信仰の中心となっているのは当麻曼荼羅(本堂)である。宗派は高野山真言宗と浄土宗の並立となっている。開基(創立者)は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされるが、草創については不明な点が多い。 西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」の信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫伝説で知られる古寺である。毎年5月14日に行われる練供養会式(ねりくようえしき)には多くの見物人が集まるが、この行事も当麻曼荼羅と中将姫にかかわるものである。奈良時代 - 平安時代初期建立の2基の三重塔(東塔・西塔)があり、近世以前建立の東西両塔が残る日本唯一の寺としても知られる。 大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の一つに数えられる。 本項では寺号と行政地名については現地における表記を尊重して「當麻」とし、人名、作品名等については「当麻」の表記を用いる。.

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物部氏

物部氏(もののべうじ)は、「物部」を氏の名とする氏族。姓(かばね)は、始め物部連、後に物部朝臣。 大和国山辺郡・河内国渋川郡あたりを本拠地とした有力な豪族で、神武天皇よりも前に大和入りをした饒速日命が祖先と伝わる神別氏族。穂積氏や采女氏とは同族の関係にある。饒速日命は登美夜須毘売を妻とし物部氏の初代の宇摩志麻遅命(可美真手命)をもうけた。.

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版画

画(はんが)とは、印刷を行う紙以外に、彫刻や細工を施した版を作り、インクの転写・透写等によって複数枚の絵画を製作する技法、またはそれにより製作された絵画のこと。版画はその版の仕組みから大きく4つに分類される。凸版画、凹版画、平版画、孔版画である。また、印刷する版面の種類によって木版画、銅版画、石版画に分類される。.

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狩野山雪

狩野 山雪(かのう さんせつ、天正18年(1590年) - 慶安4年3月12日(1651年5月1日))は、江戸時代初期の狩野派の絵師。京狩野の画人狩野山楽(光頼)の婿養子で後継者。本姓は秦氏。諱は光家。号は「蛇足軒」「桃源子」「松柏山人」。息子は狩野永納。垂直や水平、二等辺三角形を強調した幾何学的構図で知られる。.

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狩野山楽

狩野山楽像 伝木村香雪筆 京都国立博物館蔵 狩野 山楽(かのう さんらく、永禄2年(1559年) - 寛永12年8月19日(1635年9月30日)は、安土桃山時代~江戸時代初期の狩野派の絵師。狩野山雪は養子。.

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狩野秀頼

観風図」 東京国立博物館蔵 国宝 狩野 秀頼(かのう ひでより、生没年不詳)は、16世紀日本の室町時代から安土桃山時代にかけて活躍した狩野派の絵師。狩野元信の次男、あるいはその子供。現在は「ひでより」と呼ばれるが、当時は「すえより」または「すへより」と呼んだようだ。 近世初期風俗画の最も早い時期の名品「高雄観楓図屏風」の作者として知られる。.

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狩野芳崖

狩野 芳崖(かのう ほうがい、文政11年1月13日(1828年2月27日) - 明治21年(1888年)11月5日)は、幕末から明治期の日本画家で近代日本画の父。幼名は幸太郎。名は延信(ながのぶ)、雅道(ただみち)。号は松隣、皐隣。盟友たる橋本雅邦と共に、日本画において江戸時代と明治時代を橋渡しする役割を担うと共に、河鍋暁斎、菊池容斎らと狩野派の最後を飾った。.

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狩野長信

花下遊楽図(一双のうち左隻) 東京国立博物館 国宝 花下遊楽図(一双のうち右隻)中央2扇は修理中に関東大震災に遭い焼失 狩野 長信(かのう ながのぶ、天正5年(1577年) - 承応3年11月18日(1654年12月26日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した狩野派の絵師。江戸幕府御用絵師の一つ表絵師・御徒町狩野家などの祖。初め源七郎、あるいは左衛門と称す。号は休伯『古画備考』。桃山時代の風俗画の傑作『花下遊楽図屏風』の作者として知られる。.

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狩野探幽

狩野 探幽(かのう たんゆう、慶長7年1月14日(1602年3月7日) - 延宝2年10月7日(1674年11月4日))は、江戸時代初期の狩野派の絵師。狩野孝信の子。法号は探幽斎、諱は守信。早熟の天才肌の絵師、と評されることが多いが、桃山絵画からの流れを引き継ぎつつも、宋元画や雪舟を深く学び、線の肥痩や墨の濃淡を適切に使い分け、画面地の余白をに生かした淡麗瀟洒な画風を切り開き、江戸時代の絵画の基調を作った。.

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狩野正信

狩野 正信(かのう まさのぶ、祐清すけきよとも、 永享6年(1434年)? - 享禄3年7月9日(1530年8月2日)?)は、室町時代の絵師で、狩野派の祖である。 狩野派は、室町時代から明治に至るまで400年にわたって命脈を保ち、常に日本の絵画界の中心にあった画派であった。この狩野派の初代とされるのが、室町幕府に御用絵師として仕えた狩野正信である。古記録から、正信は寛正4年(1463年)には京で絵師として活動していたことが明らかで、この時すでに幕府御用絵師の地位にあったと思われる。没年は享禄3年(1530年)とされ、数え年97歳で没したことになる。長男は元信、次男は雅楽助。.

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狩野永徳

狩野 永徳(かのう えいとく、天文12年1月13日(1543年2月16日) - 天正18年9月14日(1590年10月12日))は、安土桃山時代の絵師。狩野派(室町時代から江戸時代まで日本画壇の中心にあった画派)の代表的な画人であり、日本美術史上もっとも著名な画人の1人である。現存する代表作に『唐獅子図屏風』、『洛中洛外図屏風』、『聚光院障壁画』などがある。.

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狩野派

狩野永徳筆 唐獅子図 宮内庁三の丸尚蔵館 狩野派(かのうは)は、日本絵画史上最大の画派であり、室町時代中期(15世紀)から江戸時代末期(19世紀)まで、約400年にわたって活動し、常に画壇の中心にあった専門画家集団である。室町幕府の御用絵師となった狩野正信を始祖とし、その子孫は、室町幕府崩壊後は織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍などに絵師として仕え、その時々の権力者と結び付いて常に画壇の中心を占め、内裏、城郭、大寺院などの障壁画から扇面などの小画面に至るまで、あらゆるジャンルの絵画を手掛ける職業画家集団として、日本美術界に多大な影響を及ぼした。.

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瀟湘八景

瀟湘八景(しょうしょう はっけい)とは、中国の山水画の伝統的な画題。またその8つの名所のこと。瀟湘は湖南省長沙一帯の地域。洞庭湖と流入する瀟水と湘江の合流するあたりを瀟湘といい、古より風光明媚な水郷地帯として知られる。北宋時代の高級官僚・宋迪はこの地に赴任したときにこの景色を山水図として画いた。後にこの画題が流行し、やがては日本にも及んだ。.

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瀬戸焼

戸焼(せとやき)は、愛知県瀬戸市とその周辺で生産される陶磁器の総称。日本六古窯の一つ(瀬戸窯)。東日本で広く流通し、瀬戸物は陶磁器を指す一般名詞化した。 瀬戸焼(織部釉)の蕎麦猪口.

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発掘調査

掘調査(はっくつちょうさ、)とは、.

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登呂遺跡

登呂遺跡(とろいせき)は、静岡県静岡市駿河区登呂五丁目にある、弥生時代の集落・水田遺跡。国の特別史跡に指定されている。 弥生時代後期に属し、1世紀ごろの集落と推定される。「登呂」はこの地域の小字(1973年、住居表示実施により町名にも採用)。.

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白鳳文化

薬師寺東塔。現存する白鳳時代唯一の建築と言われていたが2016年12月に科学的調査(年輪年代測定法)によって奈良時代の建築と判明した。 白鳳文化(はくほうぶんか)とは、645年(大化元年)の大化の改新から710年(和銅3年)の平城京遷都までの飛鳥時代に華咲いたおおらかな文化であり、法隆寺の建築・仏像などによって代表される飛鳥文化と、東大寺の仏像、唐招提寺の建築などによって代表される天平文化との中間に位置する。なお、白鳳とは日本書紀に現れない元号(逸元号や私年号という)の一つである(しかし続日本紀には白鳳が記されている)。天武天皇の頃に使用されたと考えられており(天智天皇のときに使用されたとする説もある)、白鳳文化もこの時期に最盛期を迎えた。.

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白樺 (雑誌)

『白樺』創刊号の表紙 『白樺』(しらかば)は、1910年4月に創刊され、1923年8月に廃刊された文芸雑誌・美術雑誌。 武者小路実篤、志賀直哉、木下利玄、正親町公和、細川護立ら上流階級の青年たちによって創刊された。有島武郎ら学習院の関係者が多く集い、岸田劉生も表紙装丁を担当したり、文章を掲載したりした。その他のメンバーに、有島生馬、里見弴、長與善郎、柳宗悦、園池公致、児島喜久雄、郡虎彦ら。 白樺派の活動の中心として第一次世界大戦期の日本文学で大きな役割を果たした。個性主義・自由主義を基調とした。1923年8月まで続き、全160号が発刊された。161号も刊行予定だったが、関東大震災の影響により廃刊となった。 創刊号の表紙には白樺の若木が描かれた。武者小路実篤による夏目漱石『それから』の評論や、志賀直哉の『網走まで』が掲載された。 上流階級の子弟による文学を否定的にとらえて、「白樺」をさかさに読み「ばからし」と批判する向きもあった。 オーギュスト・ロダン、ポール・セザンヌなどヨーロッパ美術の紹介や美術展の開催など、美術界にも大きな影響を与えた。.

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白樺派

『白樺』創刊号 白樺派のメンバー 白樺派(しらかばは)は、1910年(明治43年)創刊の同人誌『白樺』を中心にして起こった文芸思潮のひとつ。また、その理念や作風を共有していたと考えられる作家達のことである。.

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百済

済(くだら/ひゃくさい、旧字体:百濟、4世紀前半 - 660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。 百済の歴史はその首都の移動によって、大きく漢城期(475年まで)、熊津期(475-538年)、時代(538から)に分類される。漢城期には現在の京畿道を中心としていたが、高句麗の攻撃によって首都漢城が陥落し、一時的に滅亡した後は、現在の忠清南道にあった熊津(現:公州)へと遷って再興した。熊津時代の百済は弱体化していたが、武寧王が高句麗を撃退したことにより次第に国力を回復し、南方の伽耶(加羅)地方へと勢力を拡張した。538年には新たな首都としてを建設し、一層伽耶地方を含む周囲への拡大を図った。百済が存続していた時代には、朝鮮半島北部から満州地方にかけての地域に高句麗、朝鮮半島南東部に新羅、半島南部には多数の伽耶諸国が存在していた。この時代は朝鮮史の枠組みにおいて三国時代と呼ばれている。 中国の東晋や南朝と密接な関係を結び、仏教や各種の南朝文化・学問を導入して栄え、周辺諸国とも交流を持った。現在、百済の歴史は高麗時代に編纂された歴史書『三国史記』や、日本の『日本書紀』、中国の歴代の正史などによって知られており、また墓や寺院跡のような考古学的遺物からも学術的な調査が行われている。宋山里古墳群にある武寧王陵は百済の最も著名な墳墓で、20世紀に未盗掘のまま発見されたため、往時の文化遺産が多数残された。 中国で南北朝時代が終焉を迎え、隋が成立すると隋の高句麗遠征に加わるも逆に高句麗から侵攻されることになり、ついで唐がその支配を握ると、唐は高句麗を制圧するためその背後を抑えるべく百済攻略を企図し、聖王死後の百済と対立していた新羅を支援して百済を攻撃した。これによって660年に百済は滅亡し、王族や遺臣たちは倭国(日本)の支援を受けて百済復興運動を起こしたが、663年の白村江の戦いにおける敗戦とともに鎮圧された。その後唐は旧百済領の経営に乗り出したが、本国における問題と新羅による攻撃の結果、最終的に朝鮮半島から撤退し、百済の故地は新羅に組み入れられた。.

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百済観音

済観音(くだらかんのん)は、奈良県斑鳩町の法隆寺が所蔵する飛鳥時代(7世紀前半 - 中葉)作の仏像(木造観音菩薩像)である。日本の国宝に指定されている(指定名称は「木造観音菩薩立像(百済観音)1躯」)。日本における木造仏像彫刻の古例として貴重であるとともに、大正時代以降、和辻哲郎の『古寺巡礼』、亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』などの書物で紹介され著名になった。.

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芸能

芸能(げいのう)とは、芸術の諸ジャンルのうち人間の身体をもって表現する技法のことである『大百科事典 4』、1202頁。。職業として芸能に携わる者を芸能人と呼ぶ。 また、日本に古くからあった芸術と技能は特に日本伝統芸能を参照。.

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芹沢けい介

芹沢 銈介(芹澤銈介、せりざわ けいすけ、「けい」は金偏に圭、1895年(明治28年)5月13日 - 1984年(昭和59年)4月5日)は、日本の染色工芸家。.

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銅鐸

袈裟襷文銅鐸 静岡県出土(パリ、ギメ美術館蔵) 銅鐸(どうたく)は、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である。紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用された。.

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鎌倉

鎌倉(かまくら)は、現在の神奈川県鎌倉市の中心部に当たる地域。源頼朝を旗頭として、北条時政、北条義時らによって鎌倉幕府が置かれた都市であり、三浦半島の付け根に位置し、相模湾に面している。古くは鎌府(れんぷ)とも呼ばれた。三方を山に、一方を海に囲まれている。 鎌倉大仏.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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遠近法

遠近法(えんきんほう、perspective)は、広義には絵画や作図などにおいて、遠近感を持った表現を行う手法を指す。ここでは特に、目に映る像を平面に正確に写すための技法である「透視図法」(透視法、線遠近法ともいう)について記す。 透視図法によって描かれた図のことを透視図という。英語では「遠近法」「透視図法」「透視図」などを総称して perspective(パースペクティブ)といい、日本では遠近法、透視図のことをパースと称することが多い。(例:「建築パース」「パースがきつい」など) 遠近法の2大特徴として.

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遣唐使

遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と対等に交易・外交をしていたとされるが、『旧唐書』や『新唐書』の記述においては、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国では618年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。寛平6年(894年)に56年ぶりに再開が計画されたが、遣唐大使の菅原道真の建議により休止され、907年に唐が滅び、そのまま消滅する形となった。遣唐使船には、多くの留学生が同行し往来して、政治家・官僚・僧にも多くの人材を供給した。留学生井真成の墓も中国で発見された。.

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聖徳太子

聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日))・厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)は、飛鳥時代の皇族・政治家。「聖徳太子」は、後世の諡号。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。.

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聖観音

聖観音(しょうかんのん)、梵名アーリヤ・アヴァローキテーシュヴァラ (आर्यावलोकितेश्वर) は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。.

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聖武天皇

聖武天皇(しょうむ てんのう、大宝元年(701年) - 天平勝宝8歳5月2日(756年6月4日)、在位:神亀元年2月4日(724年3月3日) - 天平勝宝元年7月2日(749年8月19日))は、日本(奈良時代)の第45代天皇。即位前の名は首皇子(おびとのみこ)。 尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)、沙弥勝満(しゃみしょうまん)とも言う。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。.

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道元

道元(どうげん、正治2年1月2日(1200年1月19日)- 建長5年8月28日(1253年9月22日))は、鎌倉時代初期の禅僧。日本における曹洞宗の開祖。晩年に希玄という異称も用いた。同宗旨では高祖と尊称される。諡号は仏性伝燈国師、承陽大師。諱は希玄。一般には道元禅師と呼ばれる。徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅を伝えた。『正法眼蔵』は、和辻哲郎など西洋哲学の研究家からも注目を集めた。.

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運慶

東大寺金剛力士像(阿形像) 運慶(うんけい、生年不詳 - 貞応2年12月11日(1224年1月3日))は、平安時代末期、鎌倉時代初期に活動した仏師。.

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荻原碌山

荻原碌山(おぎわら ろくざん、1879年(明治12年)12月1日 - 1910年(明治43年)4月22日)は、明治期の彫刻家。本名は守衛(もりえ)、「碌山」は号である。.

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荒神谷遺跡

荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)は、島根県出雲市斐川町神庭の小さな谷間にある遺跡。国の史跡に指定されている。.

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草双紙

草双紙(くさぞうし)とは、江戸時代中頃から江戸で出版された絵入り娯楽本、赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻の総称である。 この「草」は、草競馬・草相撲・草野球などの「草」とおなじ「一般の〜」という意味合いを含むものである。絵草紙(えぞうし)・絵双紙(えぞうし)・絵本(えほん)とも呼んだ。各頁の挿画の余白に平仮名の説明を添え、童話から始まり、次第に成人向けに進化した。江戸の大衆本・江戸地本の中心を占めた。.

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草庵

草庵(そうあん)とは、日本の上古から中世期に出現する建築様式で、「草」は草葺ないし草壁を意味する。 古来から日本では農事用の仮小屋をイホ、イホリ、カリホと呼び、万葉集など上代の文学では「故郷を離れた孤独な住まい」という情趣を込めて詠み込まれている。 日本に寺院が造られるようになった飛鳥時代から奈良時代にかけて、本院とは別に人里離れた山林に庵を結んで修行を行う山林修行が行われていた。山林修行は教学と併せて修めるべきものと考えられ、空海や最澄も草庵を結んで修行を行っている。密教や修験道が隆盛した平安時代には、山林修行はますます盛んとなった。 山林修行に使われた草庵も農事用の仮小屋と「仮初めの住宅」という共通する意味からイホと呼ばれた。当時のもので現存する草庵はないが、廃寺となった山林寺院の遺跡や、現在山林にある寺院には草庵の系譜を引くものもあると考えられる。 中世にも出家した僧や隠遁者が人里離れて草庵に住んだ。鴨長明『方丈記』などの文学や絵巻物に見られ、明恵や一遍、西行や日蓮らが草庵を拠点とした宗教活動を行なっている。 撰集抄などの仏教説話に見られる草庵の描写では、木の枝や木の葉、竹、筵など粗末な材料で周囲を囲っただけの住処であったという。これは行者の生活が貧しいほど物欲や我執から遠く、聖性や陰徳が高いという仏教説話ならではの文学的な表象であり、実際の草庵が粗末な小屋ばかりということではない。 小泉和子に拠れば草庵は宗教空間である持仏堂と日常生活を送る居間、世辞の三つの空間で構成されるという。.

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鏡獅子

鏡獅子(かがみじし).

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菱川師宣

『見返り美人図』 菱川師宣筆。1948年(昭和23年)発行、および1991年(平成3年)発行の「切手趣味週間」、1996年(平成8年)発行の「郵便切手の歩みシリーズ・第6集」の各図案にそれぞれ採用されている。 菱川 師宣(ひしかわ もろのぶ、元和4年〈1618年〉 - 元禄7年6月4日〈1694年7月25日〉)とは、近世日本の画家。江戸初期に活動した浮世絵師の一人。生年は寛永7-8年(1630年-1631年)ともいわれる。享年64-65あるいは77。浮世絵を確立した人物であり、すなわち最初の浮世絵師である。.

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菱田春草

菱田 春草(ひしだ しゅんそう、1874年(明治7年)9月21日 - 1911年(明治44年)9月16日)は、明治期の日本画家。横山大観、下村観山とともに岡倉天心(覚三)の門下で、明治期の日本画の革新に貢献した。本名は三男治(みおじ)。明治以降の日本画家としては一番重要文化財が多く指定されており、最も人気の日本画家の一人。.

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鏑木清方

鏑木 清方(かぶらき きよかた、1878年(明治11年)8月31日 - 1972年(昭和47年)3月2日)は、明治~昭和期の浮世絵師、日本画家。なお、姓は「かぶらぎ」でなく「かぶらき」と読むのが正しい。 近代日本の美人画家として上村松園、門下より出た伊東深水と並び称せられる。清方の作品は風景画などはまれで、ほとんどが人物画であり、単なる美人画というよりは明治時代の東京の風俗を写した風俗画というべき作品が多い。.

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萬鉄五郎

萬 鉄五郎(よろず てつごろう、萬 鐵五郎、1885年11月17日 - 1927年5月1日)は大正~昭和初期の画家。 岩手県和賀郡東和町(現在の花巻市)出身。1907年、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。1912年、岸田劉生や高村光太郎らの結成したフュウザン会に参加している。萬は、その頃日本に紹介されつつあった、ポスト印象派やフォーヴィスムの絵画にいち早く共鳴した。特にフィンセント・ファン・ゴッホやアンリ・マティスらの影響が顕著である。黒田清輝らのアカデミックな画風が支配的であった日本洋画界に、当時の前衛絵画であったフォーヴィスムを導入した先駆者として、萬の功績は大きい。晩年は日本画の制作や南画の研究も行った。.

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青蓮院

宸殿前庭、右近の橘、左近の桜 青蓮院(しょうれんいん)は、京都市東山区粟田口(あわたぐち)三条坊町にある天台宗の寺院。青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)とも称する。山号はなし。開基(創立者)は伝教大師最澄、本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)である。現在の門主(住職)は、旧伯爵東伏見家出身の東伏見慈晃。.

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青木繁

青木 繁(あおき しげる、1882年(明治15年)7月13日 - 1911年(明治44年)3月25日)は日本の洋画家。号は香葩。 明治期の日本絵画のロマン主義的傾向を代表する画家であり、代表作『海の幸』はその記念碑的作品と評されている。若くして日本美術史上に残る有名作を次々と描き上げた一方で、名声を得ることなく放浪の末に胸を患い、28歳で早世した。その生涯については虚実取り混ぜたエピソードが多く、半ば伝説化している。短命だったこともあって残された作品の数は多くはなく、代表作『海の幸』を含め、未完成の作品が多い。.

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靉光

靉光(あいみつ、1907年6月24日 - 1946年1月19日)は、日本の洋画家。昭和前期(戦前・戦中期)に活動した。本名は石村 日郎(いしむら にちろう)。 靉光はシュールレアリズム風や宋元画風など特異な画風で知られるが、生前に多くの作品を破棄した上、残された作品も原爆で失われたことからその数は非常に少ない。将来性を大いに嘱望されていたが敗戦後に戦地からの復員を待たず、38歳で病死した。 戦時下の状況から、靉光は戦争画を描く事を当局より迫られ「わしにゃあ、戦争画は(よう)描けん。どがあしたら、ええんかい」と泣くようにいったという。.

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静嘉堂文庫

静嘉堂文庫(せいかどうぶんこ)は、東京都世田谷区岡本2丁目23番1号にある専門図書館及び美術館。日本および東洋の古典籍及び古美術品を収蔵する。事業主体は公益財団法人静嘉堂。同財団は三菱財閥の第2代総帥岩崎弥之助・第4代総帥岩崎小弥太父子の所有した庭園と遺品の古典籍・古美術コレクションを基礎として発足した。「静嘉堂」は弥之助の堂号である。東京都世田谷区岡本の岡本静嘉堂緑地にある。 数多くの貴重な古典籍と古美術品を収蔵しており内外の古典籍を研究者向けに公開する私立の専門図書館であると同時に、併設する静嘉堂文庫美術館を通じて収蔵品を広く一般に公開する美術館活動を行っている。.

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頂相

無準師範像 蘭渓道隆像 大燈国師像 頂相(ちんぞう/ちんそう/ちょうそう)または頂像は、禅僧の肖像画、または肖像彫刻のこと。.

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風俗

俗(ふうぞく、ふぞく) 風俗の定義・意味は主として次から成る。.

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風俗画

俗画(ふうぞくが、Genre painting, petit genre)は、庶民の普段の生活を描写し日常生活のさまざまな面を描いた作品のことである。表現は写実的なものから理想化あるいは想像されたものまで様々である。親しみ易く、感傷的な主題が多いこともありブルジョワ階級や中産階級に昔から人気のあるジャンルだった。風俗画を表すプティ・ジャンル(petit genre)の "petit" (小さな)は 歴史画などの偉大なジャンル(grand genre)の "grand"(大きな)に対して付けられたものである。 風俗の主題はほぼすべての美術の伝統に見られる。古代エジプトの王墓の装飾には、宴、レクリエーションや農作業の様子が描かれている。中世の時祷書(『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』)のような祈祷書にも農民の日常生活が描かれている。フランドルのルネサンスの画家ピーテル・ブリューゲル(父)は農民やその生活を主題とした多くの絵を描いた。彼の影響で北ヨーロッパでは風俗画が流行するようになる。17世紀にネーデルラントで風俗画を専門とした多くの画家の中にはアドリアーン・ファン・オスターデ、イサーク・ファン・オスターデ、ダヴィッド・テニエルス、アルバート・カイプ、ヨハネス・フェルメール、ピーテル・デ・ホーホがいる。彼らの一般的に小さめの絵は、購入者層の中産階級の人々の家に飾るのに相応しいものであった。 イタリアでは、オランダの画家ピーテル・ファン・ラールが1625年にローマに来たことにより風俗画 "派" と呼ぶべきものが隆盛をみる。ラールがイル・バンボッチオというあだ名で呼ばれたため、彼の追随者はバンボッチャンティと呼ばれた。彼の影響を受けた多くの画家の中にはギアコモ・セルチ、アントニオ・シフロンディ、ジュゼッペ・クレスピがいた。 ルイ・ル・ナンは17世紀フランスで風俗画を手がけた代表的作家である。フランスでは18世紀、日常生活を描くことへの興味が更に高まる事となる。もっともその描写にはヴァトーやジャン・オノレ・フラゴナールの感傷的なものからジャン・シメオン・シャルダンの入念な写実主義まで幅があった。 イギリスではウィリアム・ホガースが庶民についての話を連作で描いた作品に、社会風刺や教訓を盛り込んだ。ウィリアム・フリスはイギリスの最も有名な風俗画で、同時代の人々からも尊敬を集めていた。イギリスの風俗画家には他にオーガスタス・エッグ、ジョージ・ヒックス、ウィリアム・ハント、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、デイヴィッド・ウィルキーがいる。 スペインの画家フランシスコ・デ・ゴヤは風俗画を人間の条件(人間として生きていくこと)の暗い記録手段として利用した。 中国では漢代の画像石などに原初的な図像が認められる。唐代以降、士女図が描かれ、北宋末期には張択端が首都汴京の市街風物を《清明上河図》として描き、以後中国の風俗画の画題として受け継がれた。日本では平安、鎌倉時代に絵卷物などの一部に風俗的な表現が見られるが、中世以降独立した画題として成立する。洛中洛外図、 遊楽図などが描かれ、近世初期風俗画として隆盛する。遊里に取材する美人風俗画は江戸時代には浮世絵として発展した。日本の浮世絵には、余暇を楽しむ人や働く人の姿が多く描かれている。特にこれらの作品は18世紀に描かれた。 アメリカの本当の意味での最初の風俗画家は、ドイツ移民のジョン・ルイス・クリメルである。ウィルキーやホガースから学んだ彼は1812年から1821年のフィラデルフィアの生活のちょっとユーモラスな情景を描いた。 19世紀に歴史画、宗教画が衰退するにつれ、画家は自分の身の回りの生活に画題を求めるようになった。ギュスターヴ・クールベのような写実主義の画家は、それまでは "重要な" 主題にしか使われなかったような巨大なカンバスに日常生活を描き常識を覆した。歴史画自体も社会の重大な出来事ばかりでなく、歴史時代を舞台として大人物のプライベートな姿や、普通の人の日々の生活を描いたりと変化して来ていた。続いて印象派やピエール・ボナール、エドワード・ホッパー、デイビッド・パークといった20世紀美術の芸術家が日常生活を描くようになると、「風俗画」という言葉は現代美術の中では、伝統的な写実的なテクニックで描かれた逸話的またはセンチメンタルな作品のことを指すようになった。アメリカの画家アーニー・バーンズやノーマン・ロックウェルのようなイラストレーターはより新しいタイプの風俗画の代表といえるかもしれない。 風俗画には、庶民の日々の生活が映し出されているので、過去の時代を知る貴重な資料となっている。.

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風神雷神図

雷神図(ふうじんらいじんず)とは、風袋から風を吹き出し、下界に風雨をもたらす風神と、太鼓を叩いて雷鳴と稲妻をおこす雷神の活動の姿を描写する絵画である。 俵屋宗達筆の屏風画が有名で、琳派の絵師をはじめ、多くの画家によって作られた模作や模写が多数ある。.

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装飾経

装飾経(そうしょくきょう)は、仏教で使用される経典のうち、料紙に美麗な装飾を施したものを指す。紫、紺などの染紙を用い、金銀泥で経文を書写したもの、料紙に金銀泥などで下絵を描き、金銀の箔を散らした上に書写したものなどがある。美術史、書道史で「装飾経」という場合、日本の平安時代に貴族などの発願によって制作された美麗な経典を指すことが多い。.

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飛鳥寺

本堂 飛鳥寺(あすかでら)は、奈良県高市郡明日香村にある寺院。蘇我氏の氏寺である法興寺(仏法が興隆する寺の意)の後身である。本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来、開基(創立者)は蘇我馬子である。山号を鳥形山(とりがたやま)と称する。現在の宗派は真言宗豊山派。.

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西大寺 (奈良市)

西大寺(さいだいじ)は、奈良県奈良市西大寺芝町にある真言律宗総本山の寺院。奈良時代に孝謙上皇(重祚して称徳天皇)の発願により、僧・常騰を開山(初代住職)として建立された。南都七大寺の1つとして奈良時代には壮大な伽藍を誇ったが、平安時代に一時衰退し、鎌倉時代に叡尊によって復興された。山号は勝宝山。現在の本尊は釈迦如来である。.

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西周 (啓蒙家)

西周 西周 西 周 (にし あまね、文政12年2月3日(1829年3月7日) - 明治30年(1897年)1月31日) は、江戸時代後期から明治時代初期の日本の哲学者、教育家、啓蒙思想家、幕臣、官僚である。貴族院議員、男爵、錦鶏間祗候でもあった。西 周助ともいう。.

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西芳寺

西芳寺(さいほうじ)は、京都市西京区松尾にある臨済宗の寺院。天龍寺の境外塔頭である。一般には苔寺(こけでら)の通称で知られる。山号を洪隠山と称する。本尊は阿弥陀如来、開山は行基と伝え、中興開山は夢窓疎石である。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。.

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西洋

西洋(せいよう、)は、キリスト教文明に根ざしたヨーロッパ諸国、及び北アメリカを指すが、その指し示す範囲は多様である。歴史的にはオクシデント(Occident)とも呼ばれ、その対立概念は東洋(the East, Orient、オリエント)である。.

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西本願寺

西本願寺(にしほんがんじ)は、京都市下京区にある仏教寺院。浄土真宗本願寺派の本山である。山号は龍谷山(りゅうこくざん)。 西本願寺は通称であり、正式名称は「龍谷山 本願寺」、宗教法人としての名称は「本願寺」である。京都市民からは「お西さん」の愛称でも親しまれている。真宗大谷派の本山である「東本願寺」(正式名称「真宗本廟」)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。文永7年(1272年)、親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建されたがその後比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、現在地には天正19年(1591年)、豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転した(詳細は後述「歴史」の項参照)。 境内は国の史跡に指定され、「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録されている。「本願寺」のローマ字表記は、ヘボン式ローマ字では「Hongan-ji」であり、世界遺産「古都京都の文化財」登録時の英文名称も「Hongan-ji」であるが(参照:)、西本願寺自身は「Hongwan-ji」の綴りを採用しており(参照:)、URLもその綴りを採用している。 本願寺住職が浄土真宗本願寺派の門主となる。.

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観心寺

観心寺(かんしんじ)は、大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺院。山号を檜尾山と称し、遺跡本山である。本尊は如意輪観音、開基(創立者)は実恵である。 仏塔古寺十八尊第十三番。奥河内の観光地の一つ。大阪みどりの百選に選定されている。.

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観阿弥

観阿弥(かんあみ/かんなみ 觀阿彌陀仏 正慶2年/元弘3年(1333年) - 至徳元年/元中元年5月19日(1384年6月8日))は日本の南北朝時代から室町時代にかけての申楽師。息子の世阿弥とともに、いわゆる能を大成した人物である。名は清次。時宗の法名(時宗の男の法名(戒名)は阿弥陀仏(阿彌陀佛)号。ちなみに観は観世に由来)は観阿弥陀仏。その略称が観阿弥で、早くから観世大夫、あるいは観阿弥、観阿として記録に登場する。観世家の祖。観阿弥最後の舞台となった静岡市葵区宮ヶ崎町の静岡浅間神社には、26世宗家観世清和による顕彰碑がある。.

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詩(し、うた、poetry, poem; poésie, poème; Gedicht)は、言語の表面的な意味(だけ)ではなく美学的・喚起的な性質を用いて表現される文学の一形式である。多くの地域で非常に古い起源を持つ。多くは韻文で一定の形式とリズムを持つが、例外もある。一定の形式に凝縮して言葉を収め、また効果的に感動・叙情・ビジョンなどを表すための表現上の工夫(修辞技法)が多く見られる。詩は独立したものとして書かれる場合も、詩劇・聖歌・歌詞・散文詩などに見られるように他の芸術表現と結び付いた形で書かれる場合もある。 英語のpoetryやpoem、フランス語のpoésieやpoèmeなどの語は、「作ること」を意味するギリシア語ποίησις (poiesis)に由来し、技術を以て作り出された言葉を意味した。漢字の「詩」は思いや記憶を言葉にしたものを意味し、元々は西周のころの古代中国の歌謡を編纂したものを言った(のちに詩経と称される)。日本では明治になるまでは「詩」といえば漢詩を指し、「歌」は日本古来の歌謡から発したものを指した。文学の一形式として「詩」の語を使うようになったのは、西洋文学の影響から作られた『新体詩抄』などを起源とする。 印刷技術が普及した後は詩の多くは活字で提供され「読まれる」ようになったが、詩は文字の発明以前から存在したとも言われFor one recent summary discussion, see Frederick Ahl and Hannah M. Roisman.

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高山寺

境内風景 高山寺(こうざんじ、こうさんじ)は、京都市右京区梅ヶ畑栂尾町(とがのおちょう)にある寺院。栂尾は京都市街北西の山中に位置する。高山寺は山号を栂尾山と称し、宗派は真言宗系の単立である。創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基(創立者)は、鎌倉時代の明恵である。もともとここにあった神護寺の子院が荒廃した跡に神護寺の文覚の弟子であった明恵が入り寺としたものである。「鳥獣人物戯画」をはじめ、絵画、典籍、文書など、多くの文化財を伝える寺院として知られる。境内が国の史跡に指定されており、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。.

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高野山

壇場伽藍 壇場伽藍 不動堂(国宝) 高野山(こうやさん)は、和歌山県北部、和歌山県伊都郡高野町にある周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地を指す。平安時代の弘仁7年(816年)に嵯峨天皇から空海(弘法大師)が下賜され、修禅の道場として開いた日本仏教における聖地の1つである。現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺(山号は高野山)、大本山宝寿院のほか、子院が117か寺に及び、その約半数が宿坊を兼ねている。 2004年(平成16年)7月7日、高野山町石道と金剛峯寺境内(6地区)、建造物12件が熊野、吉野・大峯と共に『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録された。さらに2016年(平成28年)10月24日、高野参詣道(町石道を含み登録名称変更)として黒河道、女人道、京大坂道不動坂、三谷坂が世界遺産に追加登録された。.

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高村光太郎

村 光太郎(たかむら こうたろう、1883年(明治16年)3月13日 - 1956年(昭和31年)4月2日)は、日本の詩人・歌人・彫刻家・画家。東京府東京市下谷区下谷西町三番地(現在の東京都台東区東上野一丁目)出身。本名は光太郎と書いて「みつたろう」と読む。 日本を代表する彫刻家であり、画家でもあったが、今日にあって『道程』、『智恵子抄』等の詩集が著名で、教科書にも多く作品が掲載されており、日本文学史上、近現代を代表する詩人として位置づけられる。著作には評論や随筆、短歌もある。能書家としても知られる。弟は鋳金家の高村豊周。甥は写真家の高村規で、父である高村光雲等の作品鑑定も多くしている。.

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高村光雲

西郷隆盛像(上野恩賜公園) 高村 光雲(たかむら こううん、1852年3月8日(嘉永5年2月18日) - 1934年(昭和9年)10月10日)は、日本の仏師、彫刻家。幼名は光蔵。高村光太郎は長男、高村豊周は三男。写真家の高村規(ただし)は孫(豊周の息子)。.

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高橋由一

橋 由一(たかはし ゆいち、文政11年2月5日(1828年3月20日) - 明治27年(1894年)7月6日)は江戸生まれの日本の洋画家。幼名は猪之助、のち佁之介。名は浩、字は剛。明治維新後に由一を名乗る。号は藍川、華陰逸人。居庵号は、石蒼波舎、伝神楼。 近世にも洋画や洋風画を試みた日本人画家は数多くいたが、由一は本格的な油絵技法を習得し江戸後末期から明治中頃まで活躍した、日本で最初の「洋画家」といわれる。.

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護国寺

月光殿入口(重要文化財の月光殿(旧日光院客殿)はこの建物の背後にあり、この画像では見えない) 護国寺(ごこくじ)は、東京都文京区大塚五丁目にある真言宗豊山派の寺。神齢山悉地院大聖護国寺と称する。.

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谷文晁

谷文晁(たに ぶんちょう、宝暦13年9月9日(1763年10月15日) - 天保11年12月14日(1841年1月6日))は、江戸時代後期の日本の画家。 諱は正安。はじめ号は文朝・師陵、後に文晁とし字も兼ねた。通称は文五郎または直右衛門。別号には写山楼・画学斎・無二・一恕。薙髪して法眼位に叙されてからは文阿弥と号した。江戸下谷根岸の生まれ。.

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豊臣氏

豊臣氏(とよとみし/とよとみうじ)は、日本の氏(ウジ)のひとつ。姓(カバネ)は朝臣。豊臣政権下での官位叙任では優先的にこの豊臣姓が使用され、源平藤橘など既存の他姓に優越して扱われた。.

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貴族

貴族(きぞく)とは、特権を備えた名誉や称号を持ち、それ故に他の社会階級の人々と明確に区別された社会階層に属する集団を指す。 その社会的特権はしばしば強大であるが、同時に国や地域により異なり、同じ国・地域であっても時代によって変遷する。また貴族階級は伝統的な概念ではあるものの、時に新たな人員を迎え入れ、常に人員は更新され続けている。 貴族階級は多くの場合は君主制の下に維持され、称号の付与や特権の保証なども君主によって行われる。一般的に、貴族などという特権階級を認めてしまうということは反民主主義とされている。フランスでは、貴族階級をものともしないヴォルテールの姿勢がフランス的民主主義の基礎となり、フランス革命でそうした考え方は公認のもの、正統なものとなり、ここに民主主義が実現したとされている。しかし共和制など君主の存在を持たない制度においても貴族制度が存在した場合もある。 西洋では特に青い血という言葉が貴族の血筋を意味する慣用句として用いることがある。ただし、これはあくまでもスペイン語由来のものであるため限定的ではある。日本の場合、貴族の起源について穀物の貯蔵が貴族制度の遠因となったと考える論者もある。.

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鳥獣人物戯画

鳥獣人物戯画(甲巻、部分) 鳥獣人物戯画(ちょうじゅうじんぶつぎが)は京都市右京区の高山寺に伝わる紙本墨画の絵巻物。国宝。鳥獣戯画とも呼ばれる。現在の構成は、甲・乙・丙・丁と呼ばれる全4巻からなる。内容は当時の世相を反映して動物や人物を戯画的に描いたもので、嗚呼絵(おこえ)に始まる戯画の集大成といえる。特にウサギ・カエル・サルなどが擬人化して描かれた甲巻が非常に有名である。一部の場面には現在の漫画に用いられている効果に類似した手法が見られることもあって、「日本最古の漫画」とも称される。 成立については、各巻の間に明確なつながりがなく、筆致・画風も違うため、12世紀 - 13世紀(平安時代末期 - 鎌倉時代初期)の幅のある年代に複数の作者によって、別個の作品として制作背景も異にして描かれたが、高山寺に伝来した結果、鳥獣人物戯画として集成したものとされる。 作者には戯画の名手として伝えられる鳥羽僧正覚猷(とばそうじょう かくゆう)が擬されてきたが、それを示す資料はなく、前述の通り各巻の成立は年代・作者が異なるとみられることからも、実際に一部でも鳥羽僧正の筆が加わっているかどうかは疑わしい。おそらく歴史上無名の僧侶などが、動物などに仮託して、世相を憂いつつ、ときには微笑ましく風刺したものであろう。 現在は甲・丙巻が東京国立博物館、乙・丁巻が京都国立博物館に寄託保管されている。.

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鳥浜貝塚

鳥浜貝塚(とりはまかいづか)は、福井県三方上中郡若狭町に所在する縄文時代草創期から前期にかけて(今から約12,000〜5,000年前)の集落遺跡。保存良好な木製遺物等1376点が国の重要文化財に指定されている。若狭町の若狭三方縄文博物館に遺物が展示されている。.

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越前焼

越前焼(えちぜんやき)は、福井県丹生郡越前町の主に宮崎地区(旧宮崎村)・織田地区(旧織田町)で焼かれる陶磁器(炻器)。釉薬を用いずに高温で焼成されるときに薪の灰が器に流れ出し、溶け込む自然釉の風合いで知られる。 歴史は非常に古く、平安時代から始まったといわれるが、長く無名であったが第二次世界大戦後小山富士夫等により日本六古窯の一つにあげられた際に越前焼と名付けられた。それまでは「織田焼」と呼ばれていた。当初から壺や甕、擂り鉢などの台所用品が作られていき、他の古窯が江戸時代に茶器などを焼いていった中で、越前焼だけは決して趣向を変えることなく、雑器を焼き続けていった。そのため江戸末期から明治には衰退の一途を辿り、一時は廃絶の危機に追い込まれた。  復興の契機は1970年(昭和45年)に作られた越前陶芸村で、これを境に窯元が急増、観光客が多く訪れるようになった。今日では若い感覚の作品も多く見受けられるが、基本は古くからの焼き締めが中心となっている。1986年(昭和61年)に通商産業省(現在の経済産業省)から伝統工芸品の指定を受けている。 越前焼の興隆と時を同じくして衰退し消滅した能登半島の珠洲焼とは流通範囲がほぼ重なる点と自然釉等の共通点から、越前焼による珠洲焼の駆逐、或いは珠洲焼の技術者達の集団移動等が研究されている。.

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足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.

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足利義政

足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は足利 義成(- よししげ)。 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。.

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鹿苑寺

足利義満 鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺。建物の内外に金箔を貼った3層の楼閣建築である舎利殿は金閣(きんかく)、舎利殿を含めた寺院全体は金閣寺(きんかくじ)として知られる。相国寺の山外塔頭寺院である。 寺名は開基(創設者)である室町幕府3代将軍足利義満の法号・鹿苑院殿にちなむ。山号は北山(ほくざん)。寺紋は五七桐。義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築であったが、昭和25年(1950年)に放火により焼失し、昭和30年(1955年)に再建された。平成6年(1994年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録されている。.

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黒田清輝

黒田 清輝(くろだ せいき、1866年8月9日(慶応2年6月29日) - 1924年(大正13年)7月15日)は、日本の洋画家、政治家。位階は従三位。勲等は勲二等。爵位は子爵。通称は新太郎(しんたろう)。名の清輝は、本名は「きよてる」だが、画名は「せいき」と読む。 教え子からは「メートル(先生)」とフランス語(maître)で呼ばれた。 東京美術学校教授、帝国美術院院長(第2代)、貴族院議員などを歴任した。.

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龍安寺

山門 龍安寺(りょうあんじ)は、京都府京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺院。妙心寺との関係が深く、山内塔頭と同様の扱いを受けている。山号は大雲山と号し、石庭で知られる。本尊は釈迦如来、開基(創建者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承である。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。.

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龍池会

龍池会(りゅうちかい)は、明治時代初期の美術団体。「竜池会」と書かれる場合もある。明治20年(1887年)に「日本美術協会」(にほんびじゅつきょうかい)へと改称した(日本美術協会は現在も存続している)。.

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辰馬考古資料館

公益財団法人辰馬考古資料館(こうえきざいだんほうじんたつうまこうこしりょうかん)は、兵庫県西宮市にある人文科学系で兵庫県の登録博物館。 東側(夙川公園より).

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近世

近世(きんせい、英語:early modern period)とは、歴史学における時代区分のひとつ。中世よりも後で、近代よりも前の時期を指す。.

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近代化

近代化(きんだいか)とは、社会を近代的な状態に変えること。即ち、政治・経済が、国民国家と産業化を特徴とする形態に変えることである。.

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近代美術と現代美術

近代美術(きんだいびじゅつ)と現代美術(げんだいびじゅつ)はそれぞれ英語では、modern art、contemporary art。翻訳語であるが例外もあり、その意味は事例によって様々である。同様の語に近現代美術がある。 一般に、時代区分の近代と現代には不変の境界が設けられることはなく、その時々の現代が時間の経過とともに近代に変化するという傾向が不可避であり、近代美術と現代美術の定義の曖昧さの大きな原因ともなっていると言える。.

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錦絵

錦絵(にしきえ)とは江戸時代に確立した浮世絵版画の最終形態である。およそ明治30年代のころまで多く描かれている。.

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日本で一般的な煎茶 抹茶を点てる様子 広見町) 茶(ちゃ)、チャノキ(学名: Camellia sinensis (L.) Kuntze)の葉や茎風味の違いなどから日本茶や中国茶、紅茶などは別の植物の葉であると誤解されることもあるが、種の違いを除き、分類学上はすべて同一(ツバキ目ツバキ科ツバキ属に分類される常緑樹)である。を加工して作られる飲み物である。 また、これに加えて、チャノキ以外の植物の部位(葉、茎、果実、花びら、根等)や真菌類・動物に由来する加工物から作られる飲み物(「茶ではない「茶」」の節、茶外茶を参照)にも「茶」もしくは「○○茶」と称するものが数多くある。.

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茶器

茶器(ちゃき)とは、広義には茶の湯において用いられる器全般を指すものであり、狭義には抹茶を入れる容器を指す。 本項では、狭義の茶器について解説する、 茶器は抹茶をいれる容器であるが、とくに、濃茶を点てるときに用いる茶器を濃茶器と呼び、薄茶を点てる時に用いる茶器を薄茶器と呼んでいる。現在は、濃茶器には主に陶磁器製の茶入を用いることが多く、薄茶器には棗を用いることが多い。 なお、点茶に用いる茶道具全体を指して「茶器」と呼ぶこともあるが、一般には(狭義には)茶器とは抹茶をいれておく容器である上記の濃茶器と薄茶器のことを指す用語である。.

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茶道

茶を点てる様子。写真は、盆と鉄瓶を使った簡略的な点茶の例。 茶道(さどう、ちゃどう)は、日本伝統の湯を沸かし、茶を点(た)て、茶を振る舞う行為(茶の儀式)。また、それを基本とした様式と芸道。 元来「茶湯」(ちゃとう)、「茶の湯」といった。千利休は「数寄道」、小堀政一(遠州)は「茶の道」という語も使っていたが、江戸時代初期には茶道と呼ばれた(『茶話指月集』『南方録』など)。「茶道」の英語訳としては tea ceremony のほか、茶道の裏千家と表千家ではそれぞれ the way of tea、chanoyu を用いている。岡倉覚三(天心)は英文の著書 The Book of Tea(『茶の本』)において、Teaism と tea ceremony という用語を使い分けている。 主客の一体感を旨とし、茶碗に始まる茶道具や茶室の床の間にかける禅語などの掛け物は個々の美術品である以上に全体を構成する要素として一体となり、茶事として進行するその時間自体が総合芸術とされる。 現在一般に、茶道といえば抹茶を用いる茶道のことだが、江戸期に成立した煎茶を用いる煎茶道も含む。 広間の茶室の例 道具は左から風炉と釜、建水、柄杓立と柄杓、水指、煙草盆と火入・灰吹。床の間には掛物(一行書「明月和水流」)と花入、香合を飾る。 草庵風茶室の例(高台寺遺芳庵) 草庵風茶室の例(如庵).

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能(のう)は、日本の伝統芸能である能楽の一分野。江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治維新後のことである。 能(翁奉納 春日神社 (篠山市)).

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都市計画

都市計画(としけいかく、urban planning, city planning)とは、都市の将来あるべき姿(人口、土地利用、主要施設等)を想定し、そのために必要な規制、誘導、整備を行い、都市を適正に発展させようとする方法や手段のことである。歴史的には、産業革命以後、劣悪な都市環境が社会問題となり、やがて近代都市計画が生まれることとなった。 都市計画は「都市の健全な発展と秩序ある運営を図る」、「劣悪な居住環境に起因する国民の健康問題を防止する」、「都市景観を改善し、保守する」などの必要から、土地利用のあり方、都市施設(道路・公園等)の整備、市街地開発について計画を策定し、その実現を図ることであるといえる。.

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鈴木春信

鈴木 春信(すずき はるのぶ、享保10年〈1725年〉 ?- 明和7年6月15日〈1770年7月7日〉)とは、江戸時代中期の浮世絵師。細身で可憐、繊細な表情の美人画で人気を博し、今日浮世絵というとまず思い浮かべる木版多色摺りの錦絵誕生に決定的な役割を果たし、後の浮世絵の発展に多大な影響を及ぼした。.

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興福寺

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。.

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阿弥陀如来

阿弥陀如来(あみだにょらい)は、大乗仏教の如来の一つである。梵名はアミターバ()、あるいはアミターユス ()といい、それを阿弥陀と音写する。阿弥陀仏(阿弥陀佛)ともいい、また略して弥陀仏ともいう。 梵名のアミターバは「量(はかり)しれない光を持つ者」、アミターユスは「量りしれない寿命を持つ者」の意味で、これを漢訳して・無量光仏、無量寿仏ともいう。西方にある極楽浄土という仏国土(浄土)を持つ(東方は薬師如来)。.

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阿修羅

興福寺阿修羅像(奈良時代)。国宝 阿修羅(あしゅら、あすら、)は、八部衆または二十八部衆(中国では二十八天)に属する、仏教の守護神。略して修羅(しゅら)ともいう。六道の一つであり、戦闘をこととする鬼類。.

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阿倍仲麻呂

阿倍 仲麻呂(あべ の なかまろ、文武天皇2年〈698年〉 - 宝亀元年〈770年〉1月)は、奈良時代の遣唐留学生。姓は朝臣。筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の孫。中務大輔・阿倍船守の長男。弟に阿倍帯麻呂がいる。 唐名を「朝衡/晁衡」(ちょうこう)とする。唐で国家の試験に合格し仲麻呂が科挙を受験し合格した、との説には異論もある。唐朝において諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果たせずに唐で客死した。.

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蘇我氏

蘇我氏(そがうじ/そがし)は、「蘇我」を氏の名とする氏族。姓は臣(おみ)。 古墳時代から飛鳥時代(6世紀 - 7世紀前半)に勢力を持ち、代々大臣(おおおみ)を出していた有力豪族である。.

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関根正二

関根 正二(せきね しょうじ、本名読み:まさじ、1899年4月3日 - 1919年6月16日)は、日本の洋画家である。.

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薬師寺

薬師寺(やくしじ)は、奈良県奈良市西ノ京町に所在する寺院であり、興福寺とともに法相宗の大本山である。南都七大寺のひとつに数えられる。本尊は薬師如来、開基(創立者)は天武天皇。1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。.

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藤島武二

藤島 武二(ふじしま たけじ、1867年10月15日(慶応3年9月18日) - 1943年(昭和18年)3月19日)は、明治末から昭和期にかけて活躍した洋画家である。明治から昭和前半まで、日本の洋画壇において長らく指導的役割を果たしてきた重鎮でもある。ロマン主義的な作風の作品を多く残している。.

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藤田嗣治

藤田 嗣治(ふじた つぐはる、1886年11月27日 - 1968年1月29日)は日本生まれの画家・彫刻家。第一次世界大戦前よりフランスのパリで活動、猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びたエコール・ド・パリの代表的な画家である。フランスに帰化後の洗礼名はレオナール・フジタ(Léonard Foujita)。.

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葛飾北斎

天保13年(1842年)、82歳(数え年83歳)頃の自画像(一部) 飾 北斎(かつしか ほくさい、飾 北齋、宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉? - 嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉)とは、江戸時代後期の浮世絵師。化政文化を代表する一人。.

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那智滝

那智滝(なちのたき)は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の那智川中流にかかる滝。石英斑岩からなるほとんど垂直の断崖に沿って落下し、落ち口の幅13メートル、滝壺までの落差は133メートルに達し、その姿は熊野灘からも望見することができる。総合落差では日本12位だが、一段の滝としては落差日本1位。華厳滝、袋田の滝と共に日本三名瀑に数えられている。 国の名勝に指定されている(1972年7月11日指定、指定名は「那智大滝〈なちのおおたき〉」)。ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年〈平成16年〉7月登録)の一部。.

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肉筆浮世絵

肉筆浮世絵(にくひつうきよえ)とは、江戸時代に成立した浮世絵のジャンルのひとつ。通常、一般的に錦絵と呼ばれる浮世絵版画と区別して、浮世絵師が自らの筆で直接絵絹や紙に描いた浮世絵を指す美術用語である。形式上、肉筆浮世絵は屏風絵、絵巻、画帖、掛物絵、扇絵、絵馬、画稿、版下絵の8種類に分類される。また、ガラス絵、鏝絵、泥絵、凧絵なども含まれる。.

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醍醐寺

醍醐寺(だいごじ)は、京都府京都市伏見区醍醐東大路町にある仏教寺院、真言宗醍醐派総本山で、山号を醍醐山(深雪山とも)と称する。本尊は薬師如来、開基(創立者)は理源大師聖宝である。古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内を持つ。豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られている。.

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野々村仁清

野々村 仁清(ののむら にんせい、生没年不詳)は、江戸時代前期の陶工である。通称清右衛門(せいえもん)。17世紀の人物である。.

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重源

俊乗房重源上人坐像のレプリカ(大阪府立狭山池博物館所蔵。原品は新大仏寺所蔵で重要文化財) 重源(ちょうげん、保安2年(1121年) - 建永元年6月5日(1206年7月12日))は、中世初期(平安時代末期から鎌倉時代)の日本の僧。房号は俊乗房(しゅんじょうぼう、俊乗坊とも記す)。 東大寺大勧進職として、源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした。.

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金属加工

金属棒を旋盤加工しているところ 金属加工で作られたチェス駒 金属加工用の旋盤 グラインダー 金属加工(きんぞくかこう)とは、金属材料にほどこす加工である。木工と対比される。 そのスケールは船や橋のような巨大なものから、精巧なエンジン部品、さらにはジュエリーの製作まで含む。したがってそれらに対応して、幅広い技能・工程・道具を含む。 金属加工は科学であり、技能であり、趣味であり、産業である。その歴史的起源は様々な文化や文明に広がっており、数千年の歴史がある。金属加工の始まりは各種鉱石の精錬法の発見であり、それによって道具や装飾に使える可鍛性と延性のある金属を生み出せるようになった。現代の機械加工では精密な部品を製作できる各種工作機械を使用する。.

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金山平三

金山 平三(かなやま へいぞう,1883年 (明治16年) 12月18日 - 1964年 (昭和39年) 7月15日)は、大正・昭和期の洋画家である。.

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金剛寺 (河内長野市)

金堂 多宝塔 摩尼院 庭園 金剛寺(こんごうじ)は大阪府河内長野市にある真言宗御室派の大本山である。山号は天野山(あまのさん)。高野山が女人禁制だったのに対して女性も参詣ができたため、「女人高野」とも呼ばれる。奥河内の観光地の一つ。大阪みどりの百選に選定されている。.

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長谷川等伯

長谷川 等伯(はせがわ とうはく、天文8年(1539年) - 慶長15年2月24日(1610年3月19日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師。幼名は又四郎、のち帯刀。初期は信春と号した。狩野永徳、海北友松、雲谷等顔らと並び桃山時代を代表する画人である。 能登国・七尾の生まれ。20代の頃から七尾で日蓮宗関係の仏画や肖像画を描いていたが、元亀2年(1571年)頃に上洛して狩野派など諸派の画風を学び、牧谿、雪舟らの水墨画に影響を受けた。千利休や豊臣秀吉らに重用され、当時画壇のトップにいた狩野派を脅かすほどの絵師となり、等伯を始祖とする長谷川派も狩野派と対抗する存在となった。金碧障壁画と水墨画の両方で独自の画風を確立し、代表作『松林図屏風』(東京国立博物館蔵、国宝)は日本水墨画の最高傑作として名高い。晩年には自らを「雪舟五代」と称している。慶長15年(1610年)に江戸で没した。代表作は他に『祥雲寺(現智積院)障壁画』(国宝)、『竹林猿猴図屏風』(相国寺蔵)など。画論に日通が筆録した『等伯画説』がある。長谷川久蔵ら4人の息子も長谷川派の絵師となった。 楓図(旧祥雲寺障壁画のうち)智積院蔵 松林図(右隻) 松林図(左隻).

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長次郎

長次郎(ちょうじろう、? - 天正17年(1589年))は、安土桃山時代を代表する京都の陶芸家。楽焼の創始者であり、千家十職の一つ・樂吉左衛門家の初代とされる佐々木(1994)pp.180-181。.

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長沢芦雪

錦江山無量寺障壁画 (和歌山県串本町、串本応挙芦雪館)のうち『虎図』 長沢 芦雪(ながさわ ろせつ、宝暦4年(1754年) - 寛政11年6月8日(1799年7月10日))は、江戸時代の絵師。円山応挙の高弟。長沢蘆雪、長澤蘆雪とも表記される。名は、政勝、魚。字は氷計、引裾。通称、主計。芦雪の他、別号に千洲漁者、千緝なども用いた。円山応挙の弟子で、師とは対照的に、大胆な構図、斬新なクローズアップを用い、奇抜で機知に富んだ画風を展開した「奇想の絵師」の一人。.

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酒井田柿右衛門

酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん、初代:1596年11月15日(慶長元年9月25日) - 1666年7月20日(寛文6年6月19日))は、江戸時代、肥前国(佐賀県)有田の陶芸家、および代々その子孫(後継者)が襲名する名称。 2015年3月現在、第十五代酒井田柿右衛門(1968年 - 、旧名:浩(ひろし)、2014年に襲名)が当代である。.

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酒井抱一

酒井 抱一(さかい ほういつ、 宝暦11年7月1日(1761年8月1日) - 文政11年11月29日(1829年1月4日))は、江戸時代後期の絵師、俳人。 権大僧都。本名は忠因(ただなお)、幼名は善次、通称は栄八、字は暉真(きしん)。ほか、屠牛、狗禅、鶯村、雨華庵、軽挙道人、庭柏子、溟々居、楓窓とも号する。また俳号は、ごく初期は白鳧・濤花、後に杜陵(綾)。狂歌名は、尻焼猿人。屠龍(とりょう)の号は俳諧・狂歌、さらに浮世絵美人画でも用いている 尾形光琳に私淑し琳派の雅な画風を、俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻案し江戸琳派の祖となった。.

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雪舟

雪舟自画像(模本) 重要文化財 藤田美術館雪舟(せっしゅう、応永27年(1420年) - 永正3年8月8日(諸説あり)(1506年))は、室町時代に活躍した水墨画家・禅僧。「雪舟」は号で、諱は「等楊(とうよう)」と称した。 備中国に生まれ、京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護のもと周防国に移る。その後、遣明船に同乗して中国(明)に渡り、李在より中国の画法を学んだ。 現存する作品の大部分は中国風の水墨山水画であるが、肖像画の作例もあり、花鳥画もよくしたと伝える。宋・元の古典や明代の浙派の画風を吸収しつつ、各地を旅して写生に努め、中国画の直模から脱した日本独自の水墨画風を確立した点での功績が大きい。後の日本画壇へ与えた影響は大きい。 現存する作品のうち6点が国宝に指定されており、日本の絵画史において別格の高評価を受けているといえる。このほか、花鳥図屏風など「伝雪舟筆」とされる作品は多く、真筆であるか否か、専門家の間でも意見の分かれる作品も多い。代表作は、「四季山水図(山水長巻)」「秋冬山水図」「天橋立図」「破墨山水図」「慧可断臂図」など。弟子に周徳、等悦、秋月、宗淵、等春らがいる。.

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速水御舟

速水 御舟(はやみ ぎょしゅう、1894年(明治27年)8月2日 - 1935年(昭和10年)3月20日)は、大正期~昭和初期の日本画家である。本名は蒔田 栄一(まきた えいいち、後に速水に改姓)。 1894年(明治27年)8月2日、東京府東京市浅草区に生まれる。従来の日本画にはなかった徹底した写実、細密描写からやがて代表作「炎舞」のような象徴的・装飾的表現へと進んだ。長くない生涯に多くの名作を残し、「名樹散椿」(めいじゅちりつばき)は昭和期の美術品として最初に重要文化財に指定された。1935年(昭和10年)3月20日、腸チフスにより急逝した。。.

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逸翁美術館

逸翁美術館(いつおうびじゅつかん)は、大阪府池田市にある美術館。設置者は公益財団法人阪急文化財団。.

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退蔵院

方丈(重要文化財) 元信の庭 余香苑 瓢鮎図 退蔵院(たいぞういん)は、京都市右京区花園にある臨済宗の寺院。臨済宗妙心寺派大本山妙心寺の塔頭である。初期水墨画の代表作である国宝「瓢鮎図」を所蔵することで知られる。.

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院政

院政(いんせい)は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治である。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治形態である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。.

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陶磁器

野々村仁清『色絵藤花茶壺』(国宝) 陶磁器(とうじき、pottery and porcelain)は、セラミックの一種で、土を練り固め焼いて作ったものの総称。やきもの。 陶磁器に使われる粘土には、加熱することでアルミニウムやカルシウムなど他の物質と化合しガラス化する珪酸を主成分とする石英などが含まれる。成形後に加熱することで、土粒子の間に溶けて流体となったガラスが入り込み、冷めると固体化し土粒子同士をくっつける。『古陶磁の科学』の著者内藤匡は、この過程をおこしに喩えている。おおまかに言えば、陶器と磁器の違いはこのガラスになる成分と量の違いである。.

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陶芸

陶芸(とうげい、Pottery)とは、粘土を成形して高温で焼成することにより陶磁器などをつくる技術のこと。焼きものとも呼ばれる。生業として陶芸を行う者を陶工もしくは陶芸家と呼ぶ。 焼きものは施釉しない土器(および高温で焼成したせっ器)と、施釉した陶磁器(陶器と磁器)とに大別されるが、この区分には地域や文化によりばらつきがあり、欧米では施釉されたものもせっ器(ストーンウェア)に含み、また中国では土器と陶器を区別しない。 九谷焼で使用された窯 造形方法には、手びねり、型を用いて土の形を整える方法、轆轤(ろくろ)の上に置き手足や機械で回しながら両手で皿や壷などの形を作っていく方法などがある。焼き方には、窯を用いない「野焼き」や、七輪を用いる「七輪陶芸」などという手法もある。土の種類やこね方、釉、そして焼く温度など、様々な要素が作品に貢献する。したがって、世界中にいろいろな技法が存在する。 陶芸は人類の最も古いテクノロジーおよび芸術形式のうちの1つであり、今日もなお主要な産業であり続けている。考古学者たちのよる定義では、人形などの器ではないものや、轆轤によって作られたのではないものは、同様の過程で、恐らくは同じ人々によって作られたセラミックス製品であっても陶芸品に含めない傾向がある。.

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MOA美術館

MOA美術館 (エムオーエーびじゅつかん、MOA Museum of Art、旧:熱海美術館) は、静岡県熱海市にある私立美術館である。.

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柳沢淇園

柳沢 淇園(やなぎさわ きえん、元禄16年7月18日(1703年8月30日) - 宝暦8年9月5日(1758年10月6日))は、江戸時代中期の武士、文人画家、漢詩人。服部南郭、祇園南海、彭城百川らとともに日本文人画の先駆とされる。 幼名は権之助、名ははじめ貞貴、元服後は里恭(さととも)と名乗る。後に中国風に修して柳里恭(りゅうりきょう)と名乗ることを好んだ。代々権太夫と称し、字は広美(こうび)もしくは公美、淇園と号し、ほかに竹渓、玉桂の別号がある。よく知られた淇園の号は、40歳頃から使用したと推測される。.

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染織

染織(せんしょく)とは、布等の繊維製品を生産する技術および工芸である。語源としては布を「染める」ことと「織る」ことの総称であるが、組み紐や刺繡等も含まれる。英語のテキスタイル・アート(テキスタイル技法、textile arts)に相当する概念とも言えるが、東アジアでは伝統的に布の生産が主に織物によっていたため、日本語の「染織」には編物や不織布の技法は含まれない場合もある。より広義に布帛生産技法を指す語として「繊維工芸」等がある。 染織は工芸もしくは工業に属し、優れた染織品は美術品と認識される。また、世界各地に多種多様な染織の様式があり、衣装等の形で民族文化を象徴する場合がある。染織を専門に行う人を「染織家」と呼ぶ。 染織を染色と機織の工程に分けた場合、.

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枯山水

龍安寺 方丈庭園(石庭) 龍吟庵 東庭(赤砂の枯山水) 枯山水(かれさんすい、かれせんずい)とは日本庭園や日本画の様式・風のひとつである。仮山水(かさんすい)、故山水(ふるさんすい)、乾泉水(あらせんすい)、涸山水(かれさんすい)ともいう。.

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林忠正

林が執筆した絵入り雑誌『パリ・イリュストレ』誌の日本特集号(1886年5月)。日本人自身による西欧への初の日本紹介記事となった 林 忠正(はやし ただまさ、1853年12月7日(嘉永6年11月7日) - 1906年(明治39年)4月10日)は、明治時代に活躍した日本の美術商。越中国高岡(現在の富山県高岡市)出身。 1878年(明治11年)に渡仏。多くの芸術的天才を生んだ19世紀末のパリに本拠を置き、オランダ、ベルギー、ドイツ、イギリス、アメリカ合衆国、中国(清)などを巡って、日本美術品を売り捌いた。美術品の販売ばかりではなく、日本文化や美術の紹介にも努め、研究者の仕事を助けたり、各国博物館の日本美術品の整理の担当をしたりした。1900年(明治33年)のパリ万国博覧会では日本事務局の事務官長を務めた。その文化的貢献に対し、フランス政府からは1894年(明治27年)に「2級」を、1900年(明治33年)に「教育文化功労章1級」及び「レジオン・ドヌール3等章」を贈られた。また、浮世絵からヒントを得て、新しい絵画を創りつつあった印象派の画家たちと親交を結び、日本に初めて印象派の作品を紹介した。1883年(明治16年)に死没したエドゥアール・マネと親しんだのも、日本人として彼一人である。1905年(明治38年)の帰国に際し、500点もの印象派のコレクションを持ち帰り、自分の手で西洋近代美術館を建てようと計画したが、その翌年に果たせぬまま東京で死没した。。.

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林武

林 武(はやし たけし、1896年(明治29年)12月10日 - 1975年(昭和50年)6月23日)は、東京都出身の日本の洋画家。本名は武臣(たけおみ)といった。大正末期から洋画家として活動を始め戦後には原色を多用し絵具を盛り上げた手法で女性や花、風景などを描き人気を得た。晩年には国語問題審議会の会長も務めている。なお、孫に元衆議院議員の林潤がいる。.

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東大寺

東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。 金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である。現別当(住職・222世)は狹川普文。 奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。 東大寺は1998年12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。.

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東大寺盧舎那仏像

東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿(金堂)の本尊である仏像(大仏)。一般に奈良の大仏(ならのだいぶつ)として知られる。 聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われた。その後、中世、近世に焼損したため大部分が補作されており、当初に制作された部分で現在まで残るのはごく一部である。 「銅造盧舎那仏坐像」の名で彫刻部門の国宝に指定されている。 正式には大仏は「盧舎那仏坐像」、大仏殿は「金堂」というが、本項では以下「大仏」、「大仏殿」とする。また、文中の( )の年はユリウス暦、月日は全て和暦、宣明暦の長暦による。.

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東寺

東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある東寺真言宗の仏教寺院。東寺は真言宗の根本道場であり、東寺真言宗の見解では、真言宗全体の総本山としている。「教王護国寺」(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる(名称については「寺号」の節を参照)。山号は八幡山。本尊は薬師如来。寺紋は雲形紋(東寺雲)。 東寺は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。昭和9年(1934年)に国の史跡に指定、平成6年(1994年)12月には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。.

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東山魁夷

東山 魁夷(ひがしやま かいい、1908年(明治41年)7月8日 - 1999年(平成11年)5月6日)は、日本の画家、著述家。昭和を代表する日本画家の一人といわれる。文化勲章受章者。千葉県市川市名誉市民。本名は東山 新吉(ひがしやま しんきち)。.

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東山文化

銀閣寺庭園 東山文化期に和室(畳、障子、襖、床の間)や枯山水が様式化された。 茶道 龍安寺石庭 東山文化(ひがしやまぶんか)とは、室町時代中期の文化を指す用語。八代将軍足利義政(1436年-1490年)が築いた京都の東山山荘を中心に、武家、公家、禅僧らの文化が融合して生まれたとされる。慈照寺銀閣は東山文化を代表する建築である。.

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東京

西新宿東京スカイツリー/レインボーブリッジ渋谷/国会議事堂 東京(とうきょう、)は、日本の関東平野中央部の東京湾に面する都市、あるいは都市圏であり、江戸幕府の所在地・江戸が慶応4年7月(1868年9月)に「東京」に名称変更されたものである。 明治2年3月28日に、日本の都(みやこ)が京都から「東京」に遷された。そして現在の日本の事実上の首都である。 現在の東京は世界都市であり、都市圏として世界最大の人口・経済力を擁している。.

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東京大学

記載なし。

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東京国立博物館

東京国立博物館(とうきょうこくりつはくぶつかん)は、日本と東洋の文化財(美術品、考古遺物など)の収集保管、展示公開、調査研究、普及などを目的として独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館である。館長は銭谷真美。 1872年(明治5年)に創設された、日本最古の博物館である。東京都台東区の上野恩賜公園内にある。本館、表慶館、 東洋館、平成館、法隆寺宝物館の5つの展示館と資料館その他の施設からなる。2017年3月31日時点で、国宝88件、重要文化財636件を含む収蔵品の総数は117,190件(2017年11月時点では国宝89件、重文640件)。これとは別に、国宝55件、重要文化財258件を含む総数3,075件の寄託品を収蔵している。2017年度の陳列総件数は約7,200件。2016年度の来館者数は約191万人である。.

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東京国立近代美術館

東京国立近代美術館(とうきょうこくりつきんだいびじゅつかん、英語:The National Museum of Modern Art, Tokyo、英略称:MoMAT)は、東京都千代田区北の丸公園内にある、独立行政法人国立美術館が運営する美術館である。.

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東京美術学校 (旧制)

東京美術学校(とうきょうびじゅつがっこう)は、1887年(明治20年)に東京府に設立された官立(唯一)の美術専門学校である。略称は「美校」。.

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東京芸術大学

1878年(明治11年)伊沢修二は、目賀田種太郎と連名で音楽教育の意見書を文部大臣に提出。1879年(明治12年)、文部省に伊沢修二を御用掛とする音楽取調掛が設立され、日本の音楽教育に関する諸調査等を目的とした。 翌年以降、東京師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)生や東京女子師範学校附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)生への音楽教育を行う教員の育成を行い、音楽専門教育機関の役割を果たすようになった。その後数回の名称変更を経て、1887年(明治20年)10月4日に「東京音楽学校」と改称される。1890年5月12日には新校舎(現在の旧東京音楽学校奏楽堂が含まれていた校舎)が現在の奏楽堂の位置に落成された。 また1893年(明治26年)に、一時東京高等師範学校(東京教育大学を経た、現在の筑波大学)の附属学校となったが1899年(明治32年)に独立。数回に渡る機構改革を経て「東京藝術大学」開学の2年後(1952年(昭和27年))に閉校した。 Ongakutorishirabekakari.jpg|音楽取調掛(1879年頃) Luther Whiting Mason.jpg|お雇い外国人ルーサー・メーソン Teachers of Tokyo music school.jpg|初期の教員(中央左がメーソン) Tokyomusicschool1890Feb.jpg|新設時の東京音楽学校正門(1890年) Sogakudo1926.jpg|東京音楽学校(1926年) Orchestra of Tokyo school of music.jpg|東京音楽学校の教員と学生 Portrait of Mr.

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東京芸術大学大学美術館

東京藝術大学大学美術館(とうきょうげいじゅつだいがく だいがくびじゅつかん)は、東京都台東区上野公園の東京藝術大学美術学部構内にある美術館である。東京藝術大学の前身である東京美術学校以来のコレクションや歴代卒業生の作品などを収蔵展示している。.

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東京文化財研究所

東京文化財研究所(とうきょうぶんかざいけんきゅうしょ)は独立行政法人国立文化財機構の下部組織。東京都台東区上野公園に所在する。日本及び東洋の美術、伝統芸能、文化財の保存科学と修復技術について基礎研究を行い、博物館や美術館などからの要請に応じて技術指導や調査を行う。また中華人民共和国、大韓民国、タイ王国、ドイツ、米国などの文化財研究機関と広く学術交流も展開している。現所長は亀井伸雄(元文化庁文化財鑑査官)。.

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東洲斎写楽

東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、とうじゅうさい しゃらく、生没年不詳)とは、江戸時代中期の浮世絵師。約10か月の短い期間に役者絵その他の作品を版行したのち、忽然と画業を絶って姿を消した謎の絵師として知られる。その出自や経歴については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、宝暦13年〈1763年〉 - 文政3年〈1820年〉)とする説が有力となっている。.

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東海道五十三次 (浮世絵)

『東海道五十三次』または『東海道五拾三次』(とうかいどうごじゅうさんつぎ)は、歌川広重による浮世絵木版画の連作。右の図は保永堂版(1833年 - 1834年)。1832年、東海道を初めて旅した後に作製したといわれている。東海道は、将軍在所の江戸と、天皇在所の京都を結ぶ道で、かつての日本の大動脈であり、江戸時代の主要道路であった五街道の中でも、最も重要な街道であった。五街道は、将軍を中心とした国家支配を強化する目的で、江戸期に整備されたものである。 保永堂版が圧倒的な知名度を誇っているが、東海道五十三次は非常にポピュラーな題材であり、広重作のものだけでも30種あまりの木版画シリーズが作られ、大版・中版など大きさやデザイン、少ないものでは数枚と含まれる宿場数にまで、さまざまな違いがあった。 『東海道五十三次』保永堂版は、広重の作品のうち最もよく知られたものであり、もっともよく売れた浮世絵木版画でもある。葛飾北斎の『富嶽三十六景』シリーズとともに、名勝を写して、浮世絵に名所絵(風景画)のジャンルを確立した。これらの名所絵には西洋の構成表現が取り入れられ、日本風に消化されて、新しい可能性を生み出している。広重の東海道五十三次のシリーズは、日本だけでなく、のちの西洋美術にも影響を与えた。.

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松島図屏風

松島図屏風(まつしまずびょうぶ)は、著名な以下の2つの屏風画で用いられている名称。.

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松林図屏風

松林図屏風(しょうりんずびょうぶ)は、安土桃山時代の絵師・長谷川等伯の代表作。紙本墨画、六曲一双、各縦156.8cm横356.0cm(本紙部分のみ)の屏風画である。「美術史上日本の水墨画を自立させた」と称される、近世日本水墨画の代表作の1つ。国宝。東京国立博物館蔵。.

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村上華岳

村上華岳 村上 華岳(むらかみ かがく、1888年(明治21年)7月3日 - 1939年(昭和14年)11月11日)は、大正~昭和期の日本画家。.

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根津美術館

初代 根津嘉一郎 根津美術館(ねづ びじゅつかん)は、東京都港区南青山に所在する私立美術館である。現在の英称は Nezu Museum、以前は Nezu Institute of Fine Arts であった。 1941年(昭和16年)11月、※下層の「略年表」も出典に含む。初代根津嘉一郎の古美術コレクションを引き継いだ財団法人根津美術館が邸宅を改装して開館した。藤井斉成会有鄰館、大倉集古館、白鶴美術館、大原美術館などと共に、第二次世界大戦以前からの歴史をもつ、日本では数少ない美術館のひとつである。.

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桂離宮

桂離宮(かつらりきゅう)は、京都市西京区桂にある皇室関連施設。江戸時代の17世紀に皇族の八条宮の別邸として創設された建築群と庭園からなる。総面積は付属地を含め約6万9千平方メートルで、うち庭園部分は約5万8千平方メートルである。離宮とは皇居とは別に設けた宮殿の意であるが、「桂離宮」と称するのは明治16年(1883年)に宮内省所管となってからで、それ以前は「桂別業」などと呼ばれていた。江戸時代初期の造営当初の庭園と建築物を遺しており、当時の朝廷文化の粋を今に伝えている。回遊式の庭園は日本庭園の傑作とされる。また、建築物のうち書院は書院造を基調に数寄屋風を採り入れている。庭園には茶屋が配されている。現在は宮内庁京都事務所により管理されている。創建以来火災に遭うこともなく、ほぼ完全に創建当時の姿を今日に伝えてる。昭和39年(1964年)に農地7千平方メートルを買い上げ景観保持の備えにも万全を期している。.

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梅原龍三郎

梅原 龍三郎(うめはら りゅうざぶろう、1888年(明治21年)3月9日 - 1986年(昭和61年)1月16日)は、日本の洋画家。京都府京都市下京区生まれ。1914年(大正3年)までは梅原 良三郎(うめはら りょうざぶろう)を名乗った。 ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術・琳派・南画といった日本の伝統的な美術を自由奔放に取り入れ、絢爛な色彩と豪放なタッチが織り成す装飾的な世界を展開。昭和の一時代を通じて日本洋画界の重鎮として君臨した。.

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棟方志功

棟方 志功(むなかた しこう、1903年(明治36年)9月5日 - 1975年(昭和50年)9月13日)は、日本の板画家。20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人。 青森県出身。川上澄生の版画「初夏の風」を見た感激で、版画家になることを決意。1942年(昭和17年)以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。.

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棟方志功記念館

棟方志功記念館(むなかたしこうきねんかん)は青森県青森市松原にある板画(版画)作家棟方志功の作品を展示する博物館である。棟方の文化勲章受章を記念し、その業績を永く伝えるため青森県・青森市をはじめ各方面の協力のもとに1975年11月開館した。運営は、一般財団法人棟方志功記念館。.

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楽焼

楽焼(らくやき).

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楽焼白片身変茶碗

楽焼白片身変茶碗(らくやきしろかたみがわりちゃわん)は、日本の国宝。楽焼の茶碗で、銘は不二山(ふじさん)。17世紀(江戸時代)、本阿弥光悦の作。別名に振袖茶碗(ふりそでちゃわん)がある。.

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横山大観

横山 大観(よこやま たいかん、正字体:大觀、1868年11月2日(明治元年9月18日) - 1958年(昭和33年)2月26日)は、日本の美術家、日本画家。常陸国水戸(現在の茨城県水戸市下市)出身。近代日本画壇の巨匠であり、今日「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した。帝国美術院会員。第1回文化勲章受章。死後、正三位勲一等旭日大綬章を追贈された。茨城県名誉県民。東京都台東区名誉区民。本名、横山 秀麿(よこやま ひでまろ)。.

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橋本雅邦

橋本 雅邦(はしもと がほう、男性、天保6年7月27日(1835年8月21日) - 明治41年(1908年)1月13日)は、明治期の日本画家。本名は長郷。幼名は千太郎。号は勝園。別号に、十雁斎、克己斎、酔月画生など。.

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正倉院

正倉院正倉 正倉院(しょうそういん)は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿の北北西に位置する、校倉造(あぜくらづくり)の大規模な高床式倉庫。聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた建物で、1997年(平成9年)に国宝に指定され、翌1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。.

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武士

武士(ぶし)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在した、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。「もののふ」(cf. wikt) とも読み倣わすが、その起源については大伴氏や物部氏の名に求めるなど諸説がある。 同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(用例:武者絵、武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者などさらには、「影武者」のように、本義のほかに一般用語としても使われるようになった語もある。)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士とは言え、呼ぶことが間違いというわけではない。はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、侍、兵/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は性別を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、女性の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って女武者(おんなむしゃ)という呼び方をする「女武士」や「姫武士」などという呼称は見られない。。 武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめ、古代を終焉させたとする理解が通常されている。旧来の政権を傀儡として維持したまま自らが実質的に主導する中世社会を構築した後は、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。近代に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府(明治政府)であった。.

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武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

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武具

武具(ぶぐ)とは、戦いに使われる道具のうち、主に柄物、飛び道具(古来日本にある物)鎧、兜、甲冑、小手、手甲、具足などをいう。いわゆる武器に含まれるもので、兵器に対して武具であり、その中でも白兵戦や格闘戦などの戦闘の際に用いられる武器や防具ほか、シンボル的存在の軍旗、(幟旗等)軍艦旗や纏、指揮用具である軍配団扇、采配の他に火薬フラスコ(en)、馬具等、戦の身の回り品等を含め、特に日本語としての武具は歴史的軍装品のことをいう場合が多い。当記事では、歴史的軍装品について扱う。.

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歌川広重

歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)は、江戸時代の浮世絵師。本名は安藤重右衛門。江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。かつては安藤広重(あんどう ひろしげ)とも呼ばれたが、安藤は本姓、広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない。ゴッホやモネなどの画家に影響を与え、世界的に著名な画家である。.

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歌川国芳

歌川 国芳(うたがわ くによし、寛政9年11月15日(1798年1月1日 ) - 文久元年3月5日(1861年4月14日))は、江戸時代末期の浮世絵師。.

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歌舞伎

歌舞伎(かぶき)は、日本固有の演劇で、伝統芸能の一つ。重要無形文化財(1965年4月20日指定同日文化財保護委員会告示第18号「無形文化財を重要無形文化財に指定する等の件」)。歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は2005年にユネスコにおいて傑作宣言され、2009年9月に無形文化遺産の代表一覧表に記載された。.

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毛利邸

毛利邸(もうりてい)は、毛利氏が近代(江戸時代後)に建てた邸宅である。現存する毛利邸には、山口県防府市にある毛利宗家の本邸(現在の毛利氏庭園と毛利博物館)と、下関市にある長府毛利家の邸宅(長府毛利邸)がある。.

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毛越寺

毛越寺(もうつうじ)は、日本の岩手県西磐井郡平泉町(創建時は陸奥国磐井郡平泉)に所在する、天台宗の寺院。山号は医王山(いおうざん)。開山は円仁(慈覚大師)と伝える。現在の本尊は源義経が拝んでいたであろう当時の本尊は嘉禄2年(1226年、鎌倉時代中期)に焼失した。しかしその後、義経が生きていた時代に造られたという薬師如来像を譲り受け、以来、本尊として今に到る。薬師如来立像(平安時代後期の作。脇侍は日光菩薩・月光菩薩)。建築は平安様式。 境内は「毛越寺境内 附 鎮守社跡」(もうつうじけいだい つけたり ちんじゅしゃあと)として国の特別史跡2005年(平成17年)7月14日、追加指定および名称変更。、庭園は「毛越寺庭園」(もうつうじていえん)として特別名勝に指定されている。2011年(平成23年)6月26日、「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」の構成資産の一つとして世界遺産に登録された。 平泉中尊寺、松島瑞巌寺、山形立石寺と共に「四寺廻廊」という巡礼コースを構成している。.

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水墨画

水墨画(すいぼくが)または墨絵(すみえ)は、「墨」一色で表現される絵画である。墨線だけでなく、墨を面的に使用し、ぼかしで濃淡・明暗を表す。 中国で唐代後半に山水画の技法として成立し、宋代には、文人官僚の余技としての、四君子(梅兰竹菊)の水墨画が行われた。また、禅宗の普及に伴い、禅宗的故事人物画が水墨で制作された。明代には花卉、果物、野菜、魚などを描く水墨雑画も描かれた。 日本には鎌倉時代に禅とともに伝わった。日本に伝わった絵画は、『達磨図』・『瓢鮎図』などのように禅の思想を表すものであったが、徐々に変化を遂げ、「山水画」も書かれるようになった。.

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永青文庫

永青文庫(えいせいぶんこ)とは、東京都文京区目白台にある、日本・東洋の古美術を中心とした美術館である。旧熊本藩主細川家伝来の美術品、歴史資料や、16代当主細川護立の蒐集品などを収蔵し、展示、研究を行っている。運営主体は公益財団法人永青文庫。理事長は18代当主の細川護煕(元内閣総理大臣)。 熊本市の熊本城二の丸にある熊本県立美術館が「永青文庫展示室」を設け、永青文庫所蔵品の一部を年に数回入れ替えながら展示しているほか、東京国際空港第2旅客ターミナル内にある「ディスカバリーミュージアム」でも所蔵品の一部が企画を替えながら展示されている。.

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民芸

民芸(みんげい).

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江戸

江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど) は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。 現在の東京都区部に位置し、その前身及び原型に当たる。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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池大雅

福原五岳筆 池大雅像 楼閣山水図 左隻 十便十宜図のうち、釣便図 Fishing in Springtime クリーブランド美術館 池 大雅(いけの たいが、 享保8年5月4日(1723年6月6日) - 安永5年4月13日(1776年5月30日))は、日本の江戸時代の文人画家、書家。幼名は又次郎(またじろう)など。諱は勤(きん)、無名(ありな)、字は公敏(こうびん)、貨成(かせい)。日常生活には池野 秋平(いけの しゅうへい)の通称を名乗った。雅号は数多く名乗り、大雅堂(たいがどう)、待賈堂(たいかどう)、三岳道者(さんがくどうしゃ)、霞樵(かしょう)などが知られている。 妻の玉瀾(ぎょくらん)も画家として知られる。弟子に木村兼葭堂などがいる。与謝蕪村とともに、日本の文人画(南画)の大成者とされる。.

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河井寛次郎

河井 寛次郎(かわい かんじろう、1890年(明治23年)8月24日 - 1966年(昭和41年)11月18日)は、日本の陶芸家。陶芸のほか、彫刻、デザイン、書、詩、詞、随筆などの分野でも作品を残している。.

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沖縄県

沖縄県(おきなわけん)は、日本で最も西に位置する県。沖縄本島・宮古島・石垣島など多くの島々から構成される。県庁所在地は那覇市。.

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法隆寺

法隆寺(ほうりゅうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある寺院。聖徳宗の総本山である。別名は斑鳩寺(いかるがでら、鵤寺とも)、法隆学問寺など。 法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。 法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。.

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法華寺

南門 法華寺(ほっけじ)は、奈良県奈良市法華寺町にある仏教寺院。奈良時代には日本の総国分尼寺とされた。山号はなし。本尊は十一面観音、開基は光明皇后である。元は真言律宗に属したが、平成11年(1999年)に同宗を離脱し、光明宗と称する。.

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洋画

日本において、洋画(ようが)とは、.

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洋風画

洋風画(ようふうが)は、江戸時代に、油彩画の道具が日本にまだ輸入されていなかった頃に、西洋画を見よう見真似で描いた絵。 絵画技法は西洋画と同じ技法だが、絵画道具は日本にあるものだった。代表的な洋風画としては、小田野直武・佐竹曙山を中心とする一連の「秋田蘭画」が挙げられる。他には平賀源内・司馬江漢・渡辺崋山などの作品もよく知られる。 Category:江戸時代の絵画 Category:南蛮文化 Category:蘭学.

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洛中洛外図

洛中洛外図(らくちゅうらくがいず)は、京都の市街(洛中)と郊外(洛外)の景観や風俗を描いた屏風絵である。2点が国宝、5点が重要文化財に指定される(2016年現在)など、文化史的・学術的な価値が高く評価され、美術史や建築史、および都市史や社会史の観点から研究されている。戦国時代にあたる16世紀初頭から江戸時代にかけて制作された。現存するものの中で良質なものは30〜40点とされる。.

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深大寺

深大寺(じんだいじ)は、東京都調布市深大寺元町五丁目にある仏教寺院。天台宗別格本山で、山号は浮岳山。 日本三大だるま市の1つ「深大寺だるま市」で知られている。隣接する東京都立神代植物公園は旧寺領であった。.

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渡辺崋山

渡辺崋山像。崋山の弟子、椿椿山によって崋山の死後12年後の嘉永6年(1853年)に描かれたもの。田原市博物館蔵。重要文化財。 渡辺 崋山(わたなべ かざん、寛政5年9月16日(1793年10月20日) - 天保12年10月11日(1841年11月23日))は、江戸時代後期の武士、画家。三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩士であり、のち家老となった。通称は登(のぼり・ただし一部の絵には「のぼる」と揮毫)、諱は定静(さだやす)。号ははじめ華山で、35歳ころに崋山と改めた。号は他にも全楽堂、寓画堂など。贈正四位。.

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清浄光寺

清浄光寺(しょうじょうこうじ)は、神奈川県藤沢市にある時宗総本山の寺院。藤沢山無量光院清浄光寺と号す。近世になって遊行寺(ゆぎょうじ)と通称され、明治時代より法主(ほっす)・藤沢上人と遊行上人が同一上人であるために通称の遊行寺の方が知られている。藤沢道場ともいう。.

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湛慶

湛慶(たんけい、 承安3年(1173年) - 建長8年5月19日(1256年6月13日))は、鎌倉時代の慶派仏師。運慶のもうけた男子、次男康運、三男康弁、四男康勝など皆、仏師になったが、なかでも嫡男の湛慶は、運慶、快慶とならぶ大家として知られる。.

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源信 (僧侶)

源信(げんしん)は、平安時代中期の天台宗の僧。恵心僧都(えしんそうず)と尊称される。 浄土真宗では、七高僧の第六祖とされ、源信和尚、源信大師と尊称される。.

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源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.

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源氏物語

土佐光起筆『源氏物語画帖』より「若紫」。飼っていた雀の子を逃がしてしまった幼い紫の上と、柴垣から隙見する源氏。 朝顔」。雪まろばしの状景。邸内にいるのは源氏と紫の上。 『源氏物語』(げんじものがたり)は、平安時代中期に成立した日本の長編物語、小説。文献初出は1008年(寛弘五年)。作者の紫式部にとって生涯で唯一の物語作品である物語の他には「紫式部日記」や和歌集の「紫式部集」があり「小倉百人一首」にも和歌が収められている(*)。後に、紫式部の「源氏物語」と「紫式部日記」の2作品は絵画化された。約150年後の平安時代末期に「源氏物語絵巻」、約200年後の鎌倉時代初期に「紫式部日記絵巻」が制作された。(*)「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」。主人公の光源氏を通して、恋愛、栄光と没落、政治的欲望と権力闘争など、平安時代の貴族社会を描いた上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。紫式部日記。。 下級貴族出身の紫式部は、20代後半で藤原宣孝と結婚し一女をもうけたが、結婚後3年ほどで夫と死別し、その現実を忘れるために物語を書き始めた。これが『源氏物語』の始まりである。最初は、当時紙が貴重で紙の提供者がいれば、その都度書き江戸時代の松永貞徳の源氏物語の写本全54冊(54帖)の1冊1冊の厚みが示すように、紫式部は当初多くの分量は書けず1冊(1帖)の厚みは薄いが、支援者の藤原道長により安定した紙の供給が行なわれて以降は34帖「若菜」のように1冊(1帖)の厚みが急激に増した。上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。(参考)『源氏物語』与謝野晶子訳、各帖の総ページ数より、1帖「桐壷」26、2帖「帚木」44、3帖「空蝉」12、そして、34帖「若菜」上192、下190。(角川文庫 1999年(平成11年)5月10日)所収、仲間内で批評し合うなどして楽しんでいたが紫式部日記より、当初、紫式部は仲間内で意見を言い合ったり手紙のやり取りで批評し合って楽しんでいたことから「最初は現代の同人誌のような楽しみ方だった」。上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。、その物語の評判から藤原道長が娘の中宮彰子の家庭教師として紫式部を呼んだ。それを機に宮中に上がった紫式部は宮仕えをしながら藤原道長の支援の下で物語を書き続け、54帖からなる『源氏物語』を完成させた中宮彰子は一条天皇の妻であったが、一条天皇のもう一人の妻であり後に亡くなった藤原定子の家庭教師は清少納言だった。なお、藤原道長の要請で宮中に上がった紫式部は、宮中の様子を中心に書いた「紫式部日記」を残している。。 なお、源氏物語は文献初出から150年ほど後の平安時代末期に「源氏物語絵巻」として絵画化された 五島美術館。現存する絵巻物の内、徳川美術館と五島美術館所蔵のものは国宝となっている。また現在、『源氏物語』は日本のみならず20ヶ国語を超える翻訳を通じ世界各国で読まれている 総合研究大学院大学教授 伊藤鉃也 日本文学研究専攻。2009年3月時点、刊行されたもの24種類、現在進行中のもの4種類、未確認(あるらしい、というもの)6種類。。.

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源氏物語絵巻

'''東屋一''' 手前は女房に髪を梳かせている宇治の中の君(後姿)。中の君の右に横顔の見えるのは女房の右近。奥は浮舟。匂宮に強引に言い寄られて傷心の浮舟をなぐさめようと、異母姉の中の君は物語絵を持ち出す。右近が物語の詞書を朗読し、浮舟はそれを聞きながら冊子の物語絵に見入る。この図は、当時の物語鑑賞や絵画鑑賞のあり方を具体的に伝える貴重な資料である。 源氏物語絵巻(げんじものがたりえまき)は、源氏物語を題材にした絵巻物である。源氏物語を題材とする絵巻物は複数存在するが、本項では通称「隆能源氏」(たかよしげんじ)と呼ばれている平安時代末期の作品で、国宝に指定されている作品について述べる。.

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滝精一

滝 精一(たき せいいち、1873年12月23日 - 1945年5月17日)は、日本の美術史家、東京帝国大学教授。.

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漆 漆(うるし)とは、ウルシ科のウルシノキ(漆の木;Poison oak)やブラックツリーから採取した樹液を加工した、ウルシオールを主成分とする天然樹脂塗料である。塗料とし、漆工などに利用されるほか、接着剤としても利用される。.

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漆工

漆工(しっこう)は、ウルシの樹液から精製される漆(うるし)を器物の表面に塗り重ね、様々な加飾を施す、東洋独特の伝統的技法。漆工芸(うるしこうげい)ともいう。日本、中国、朝鮮半島で盛行し、東南アジアなどでも用いられた。器物に漆を塗る髹漆(きゅうしつ)が基本に挙げられる。これに加え、最近ではスクリーン印刷なども用いられる。.

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朝護孫子寺

朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)は、奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)の信貴山にある信貴山真言宗総本山の寺である。本尊は毘沙門天(多聞天とも称する)。「信貴山寺」とも称し、一般には「信貴山の毘沙門さん」として知られる。毎年初詣時期には多くの参拝客でにぎわう。 大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の一つに数えられる。.

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朝鮮半島

朝鮮半島(ちょうせんはんとう、)は、ユーラシア大陸の中緯度の東端に位置する半島。 陸地の幅が最も狭くなるのは平壌のやや北の平安南道 - 咸鏡南道だが、とくに人文地理学で「朝鮮半島」と言った場合は半島最狭部より北の、豆満江や鴨緑江などによって隔てられる伝統的な中朝国境より南を指すのが普通であり、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)を擁する。済州島を含めた朝鮮地域全体を指して用いられることも多い。このように、自然地形の名称というよりは政治的・文化的・歴史的な文脈において、朝鮮の同義語として使われることが少なくない。1948年に建国された韓国における呼称は韓半島(かんはんとう、)である。.

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木喰

木喰(もくじき 1718年(享保3年)- 1810年7月6日(文化7年6月5日)は、江戸時代後期の仏教行者・仏像彫刻家・歌人。 日本全国におびただしい数の遺品が残る、「木喰仏」(もくじきぶつ)の作者である。生涯に三度改名し、木喰五行上人、木喰明満上人などとも称する。特定の寺院や宗派に属さず、全国を遍歴して修業した仏教者を行者あるいは遊行僧(ゆぎょうそう)などと称したが、木喰はこうした遊行僧の典型であり、日本全国を旅し、訪れた先に一木造の仏像を刻んで奉納した。 木喰の作風は伝統的な仏像彫刻とは全く異なった様式を示し、ノミの跡も生々しい型破りなものであるが、無駄を省いた簡潔な造形の中に深い宗教的感情が表現されており、大胆なデフォルメには現代彫刻を思わせる斬新さがある。日本各地に仏像を残した遊行僧としては、木喰より1世紀ほど前の時代に活動した円空がよく知られるが、円空の荒削りで野性的な作風に比べると、木喰の仏像は微笑を浮かべた温和なものが多いのも特色である。.

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末法思想

末法思想(まっぽうしそう)とは、釈迦が説いた正しい教えが世で行われ修行して悟る人がいる時代(正法)が過ぎると、次に教えが行われても外見だけが修行者に似るだけで悟る人がいない時代(像法)が来て、その次には人も世も最悪となり正法がまったく行われない時代(=末法)が来る、とする歴史観のこと岩波 哲学思想事典 1998年 p.1523。.

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本阿弥光悦

本阿弥光悦 本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ、永禄元年(1558年) - 寛永14年2月3日(1637年2月27日))は、江戸時代初期の書家、陶芸家、芸術家。書は寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる。.

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有田焼

18世紀に作られたと見られる有田焼(伊万里焼) 有田焼(ありたやき)は、佐賀県有田町を中心に焼かれる磁器である。その積み出しが伊万里港からなされていたことにより、「伊万里(いまり)」や伊万里焼とも呼ばれる。泉山陶石、天草陶石などを原料としているが、磁器の種類によって使い分けている。作品は製造時期、様式などにより、初期伊万里、古九谷様式、柿右衛門様式、金襴手(きんらんで)などに大別される。また、これらとは別系統の献上用の極上品のみを焼いた作品があり藩窯で鍋島藩のものを「鍋島様式」、皇室に納められたものを「禁裏様式」と呼んでいる。江戸時代後期に各地で磁器生産が始まるまで、有田は日本国内で唯一、長期にわたって磁器の生産を続けていた。1977年(昭和52年)10月14日に経済産業大臣指定伝統工芸品に指定。 九州旅客鉄道(JR九州)佐世保線有田駅-上有田駅間の沿線から煙突の立ち並ぶ風景が見られる。.

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最澄

最澄像(能福寺) 哭澄上人詩(嵯峨天皇宸翰)(部分) 最澄(さいちょう)は、平安時代の僧(766/767年 - 822年)。日本の天台宗の開祖であり、伝教大師として広く知られる。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。生年に関しては天平神護2年(766年)説も存在する。 中国に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて天台宗の開祖となった。 先祖は後漢の孝献帝に連なる(真偽は不明)といわれる登萬貴王(とまきおう)なる人物で、応神天皇の時代に日本に渡来したといわれている。.

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戦争画

『ワーテルローの戦い』 『デラウェア川を渡るワシントン』(エマヌエル・ロイツェ) 戦争画(せんそうが)は、戦争を題材として描かれた戦争記録絵画。ナポレオン戦争など、軍の宣伝や戦意高揚に利用された作品を指すことが多い。戦闘場面や戦士の出征や凱旋、戦時下の市民生活など戦争の諸場面が描かれた 有名なものに「平家物語絵巻」、宮本三郎の「山下・パーシバル両司令官会見図」、ピカソの「ゲルニカ」、戦後のものでは丸木位里・丸木俊の「原爆の図」「沖縄戦の図」など。.

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戦後

戦後(せんご)は、戦争の終結後の短期または長期的な期間を指す言葉・概念。戦争では多くの破壊や社会システムの大変革が行われるため、戦争が終結した後は社会体制などが新しく作り直され、価値観まで変化する。このため、大きな戦争を一つの時代の区切りとして、戦前・戦中・戦後という区分をする。「戦後」はしばしば、戦争による混乱を抜けきっていない時代という意味合いをもつ。しかし終わりを設けず現在までを含めることもある韓国人慰安婦問題や沖縄の米軍基地問題など、第二次世界大戦によって生じた問題が解決を見ていないため、右翼、左翼問わず現在を戦後に含めることがある。。一時は流行語となった。.

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戦前

戦前(せんぜん、antebellum、prewar、Vorkriegszeit)とは、ある戦争が始まる前の時代。対義語は戦後。.

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明菴栄西

栄西が再建した東大寺鐘楼(奈良市) 茶碑、建仁寺、京都市東山区 明菴栄西(みょうあん えいさい/ようさい、永治元年4月20日(1141年5月27日) - 建保3年7月5日1215年8月1日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧。日本における臨済宗の開祖、建仁寺の開山。天台密教葉上流の流祖。字が明菴、諱が栄西。また、廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られる。.

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明恵

紙本著色明恵上人像」(高山寺蔵、国宝) ---- 高弁(明恵)が山中の松林の樹上で坐禅を組むすがたを、弟子の恵日房成忍が筆写したものといわれる。 明恵(みょうえ)は、鎌倉時代前期の華厳宗の僧。法諱は高弁(こうべん)。明恵上人・栂尾上人とも呼ばれる。父は平重国。母は湯浅宗重の四女。現在の和歌山県有田川町出身。華厳宗中興の祖と称される華厳宗は、華厳経にもとづく南都六宗の一学派。奈良時代に隆盛したが平安時代にはいると勢力を失い、天暦元年(947年)に光智が華厳専修道場として東大寺尊勝院を設立してやや衰勢を取り戻したが、それ以後、再び不振に陥った。藤田(1966)p.178。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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明治美術会

明治美術会(めいじびしゅつかい)は、明治22年(1889年)に発足した日本国最初の洋風美術団体である。.

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是川遺跡

是川遺跡(これかわいせき)は、青森県八戸市大字是川中居にある縄文時代晩期の遺跡。別称是川石器時代遺跡ともいう。1957年(昭和32年)7月1日、国の史跡に指定されている。.

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浦上玉堂

浦上玉堂(うらかみ ぎょくどう、延享2年(1745年) - 文政3年9月4日(1820年10月10日))は、江戸時代の文人画家、備中鴨方藩士。諱は孝弼(たかすけ)、字は君輔(きんすけ)、通称は兵右衛門。35歳の時、「玉堂清韻」の銘のある中国伝来の七弦琴を得て「玉堂琴士」と号した。父は宗純。.

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浮世絵

浮世絵(うきよえ)は、江戸時代に成立した絵画のジャンルである。本来、「浮世」という言葉には「現代風」「当世」「好色」という意味もあり、当代の風俗を描く風俗画である。大和絵の流れを汲み、総合的絵画様式としての文化的背景を保つ一方で、人々の日常の生活や風物などを多く描いている。演劇、古典文学、和歌、風俗、地域の伝説と奇談、肖像、静物、風景、文明開化、皇室、宗教など多彩な題材がある。大別すると、版本の挿絵、一枚摺の木版画、肉筆浮世絵の3種類に分けられる。当然、木版画が量産されるようになる以前には肉筆画のみしか存在しなかったわけで、巻物などの肉筆浮世絵が含まれる。肉筆浮世絵は、形式上、屏風絵、絵巻、画帖、掛け物、扇絵、絵馬、画稿、版下絵の8種類に大別される。また、浮世絵師は和装本の挿絵、表紙の仕事も並行して行った。広義には引き札、鏝絵、泥絵、ガラス絵、凧絵 ねぶた絵なども浮世絵の一種といえる。ただし、現代においては一般的には多色摺りの木版画錦絵のことを指すことが多い。.

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浄土寺 (小野市)

浄土寺(じょうどじ)は、兵庫県小野市にある高野山真言宗の寺院。山号を極楽山と称する。本尊は薬師如来と阿弥陀如来、開山は重源で、建久年間(1190年~1198年)の創建である。多数の文化財を所有する古刹として知られ、大仏様建築の浄土堂と仏師快慶の大作「阿弥陀三尊像」は特に著名である。.

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浄土式庭園

平等院庭園 浄土式庭園(じょうどしきていえん)とは、平安時代から鎌倉時代にかけて築造された日本庭園の形式である。学術論文ではよく「浄土庭園」という名称が用いられる。この方式の庭園は、仏教の浄土思想の影響を大きく受けたものであり、平等院鳳凰堂に代表されるように、極楽浄土の世界を再現しようとしたため金堂や仏堂をはじめとした寺院建築物の前に園池が広がる形をとっており、寝殿造形庭園、書院造庭園とともに、自然風景式庭園に分類される庭園形式である。.

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浄土教

浄土教(じょうどきょう)とは、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く教え。浄土門、浄土思想ともいう。阿弥陀仏の本願に基づいて、観仏や念仏によってその浄土に往生しようと願う教え。.

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浄瑠璃寺

浄瑠璃寺(じょうるりじ)は、京都府木津川市加茂町西小札場(にしお ふたば)にある真言律宗の寺院。山号を小田原山と称し、本尊は阿弥陀如来と薬師如来、開基(創立者)は義明上人である。寺名は薬師如来の居所たる東方浄土「東方浄瑠璃世界」に由来する長谷川周、2000、『仏塔巡礼 西国編』、東京書籍 ISBN 4487795966 p.34。 本堂に9体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺(くたいじ)の通称があり、古くは西小田原寺とも呼ばれた。緑深い境内には、池を中心とした浄土式庭園と、平安末期の本堂および三重塔が残り、平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。本堂は当時京都を中心に多数建立された九体阿弥陀堂の唯一の遺構として貴重である。堀辰雄の『浄瑠璃寺の春』にも当寺が登場する。.

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浅井忠

浅井 忠(あさい ちゅう、1856年7月22日(安政3年6月21日) - 1907年(明治40年)12月16日)は、明治期の洋画家。教育者としても貢献した。.

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斎藤与里

斎藤 与里(さいとう より、1885年(明治18年)9月7日-1959年(昭和34年)5月3日)は、大正・昭和期の洋画家、美術評論家。.

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新薬師寺

南門 新薬師寺(しんやくしじ)は、奈良市高畑町にある華厳宗の寺院である。本尊は薬師如来、開基(創立者)は光明皇后または聖武天皇と伝える。山号は日輪山(ただし、古代の寺院には山号はなく、後世に付したものである)。奈良時代には南都十大寺の1つに数えられ、平安時代以降は規模縮小したが、国宝の本堂や奈良時代の十二神将像をはじめ、多くの文化財を伝えている。.

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新潟県

新潟県(にいがたけん)は、日本の県の一つ。中部地方の日本海側に位置する。県庁所在地は新潟市。.

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文学

ジャン・オノレ・フラゴナール『読書する女』(1772年) 文学(ぶんがく)とは、言語表現による芸術作品のこと。文芸ともいう。それらを研究する学問も文学と称されるが、これについては文芸学で扱う。狭義には、詩・小説・戯曲・随筆・文芸評論などを典型的な文学の例とする。 西洋での文学(、、、、)はラテン語のlittera(文字)及びその派生語litteratura(筆記、文法、教養)を語源とし、現在では主に以下の意味を持つ。.

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文人画

文人画(ぶんじんが)とは、中国において職業画家の画(院体画)に対し、文人が余技として描いた絵画のことをいう。.

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文化

文化(ぶんか、)にはいくつかの定義が存在するが、総じていうと人間が社会の成員として獲得する振る舞いの複合された総体のことである。社会組織(年齢別グループ、地域社会、血縁組織などを含む)ごとに固有の文化があるとされ、組織の成員になるということは、その文化を身につける(身体化)ということでもある。人は同時に複数の組織に所属することが可能であり、異なる組織に共通する文化が存在することもある。もっとも文化は、次の意味で使われることも多い。.

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文化庁

文化庁(ぶんかちょう、Agency for Cultural Affairs、略称:ACA)は、日本の文部科学省の外局の一つで、文化の振興及び国際文化交流の振興を図るとともに、宗教に関する行政事務を適切に行うことを任務とする(文部科学省設置法第18条)。.

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日展

日展(にってん)は官展の流れを汲む日本最大の総合美術展覧会である。名称の意味は「日本美術展覧会」であることが公式サイト上で説明されている。 また同展覧会を年1回で通年主催する団体名が展覧会通称と同じ日展の名を冠するため、ここでは開催団体の歴史的変遷と美術展覧会の開催歴を合わせて解説する。.

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日光東照宮

日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)は、日本の関東地方北部、栃木県日光市に所在する神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮との区別のために、「日光東照宮」と呼ばれることが比較的多い。 その歴史は少なくとも源義朝による日光山造営までさかのぼり得るもので、源頼朝がその母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて、東国の宗教的権威となっていた。こうした歴史を背景に、徳川氏は東照宮を造営したと考えられる。.

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日露戦争

日露戦争(にちろせんそう、Русско-японская война 、Russo-Japanese War、1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。講和の結果、ロシア領の南樺太は日本領となり樺太庁が設置され、ロシアの租借地があった関東州については日本が租借権を得て、関東都督府が設置されるなど日本の勝利で終わった。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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日本人

日本人(にほんじん、にっぽんじん、Japanese)は、日本の国籍(日本国籍)を持つ日本国民。または祖先が日本列島に居住していた民族集団を指す。.

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日本建築史

日本建築史(にほんけんちくし)では、日本における建築の歴史を記述する。 住宅について詳しくは日本の住宅、神社については神社建築を参照。.

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日本列島

日本列島(狭義)の地形図ユーラシア大陸東の沿岸沖に位置し、4つの比較的大きな島と、その周辺の3700程の島々で構成されている大辞林第3販 項目「日本列島」。日本海、オホーツク海、太平洋、東シナ海に囲まれている。NASA's Blue Marble project'' ''(*)'' 左端はカムチャツカ半島 日本列島(にほんれっとう、にっぽんれっとう、Japanese archipelago)は、ユーラシア大陸東端の沿岸沖、東アジアに位置、また太平洋北西の沿海部に位置する弧状列島の一つである。範囲にはいくつかの説があるが、いずれもほぼ全域が日本の領土となっている。日本列島は列島の名前であり、国家や領土とは独立した概念であるが、日本においては日本の領土を意味する語としても混同して使用されている。日本の領土としての日本列島については日本の地理を参照。 列島は広いところで300km程度の幅があり、長さは3500km程ある。陸地面積の75%に及ぶ範囲が山地、山麓で、平地に乏しい。大部分は温暖湿潤気候に属し、梅雨や台風、また季節風の影響による豪雪の影響などにより侵食が激しい。 周囲は日本海、オホーツク海、太平洋、フィリピン海に囲まれている。列島の太平洋側には千島・カムチャツカ海溝、日本海溝、伊豆・小笠原海溝、南海トラフなどの深い海溝があり、全体が地殻変動、造山活動が盛んな活動地域となっている。また、地球上に確認されている火山の10%程度が日本列島内にあると言われている。 地質学的には、ユーラシアプレートの東端および北アメリカプレートの南西端に位置する。これら2つの大陸プレートの下に太平洋プレートとフィリピン海プレートの2つの海洋プレートが沈み込む運動によって、大陸から切り離された弧状列島になったと考えられている。 始新世(5,600万年前 - 3,400万年前)頃からその原型が形成され、中新世(2,300万年前 - 530万年前)に日本海が形成されてユーラシア大陸と分離した。.

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日本美術

仏教美術(興福寺の阿修羅、734年) 日本美術には実に多様な種類がある。陶磁器、彫刻、絵画など、その種類は非常に多い。また長い歴史をもっており、日本に人間が住み始めた紀元前10000年頃から現在まで継承されている。.

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日本美術全集

『日本美術全集』(にほんびじゅつぜんしゅう)は、1990年から1994年に講談社から刊行された日本美術史に関する全集。.

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日本美術院

公益財団法人日本美術院(にほんびじゅついん)は、1898年創立の美術家の団体であり、公益財団法人。院展は日本美術院の公募展(展覧会)の名称として現在も使われており、院展と日本美術院はほぼ同義に扱われることが多い。現在は日本画のみを対象としている。.

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日本画

日本画(にほんが)は、日本の伝統的な様式を汲んだ絵画である。明治期に洋画が発展するなかで生まれた概念。多くは岩絵具や和紙、絵絹などの伝統的材料や技法が用いられる。彩色画と水墨画に分けられる。 狭義では、明治維新から第二次世界大戦終結までの77年間において、油彩に依らず、旧来の日本の伝統的な技法や様式の上に育てられた絵画を指す。これに対して、油絵は「洋画」と呼ばれていた。 広義では、明治維新前の物や、第二次世界大戦後の物にも拡張して呼ぶこともある。その場合、中国に由来しながらも主題や様式において日本的特徴を持つ物を意味するのか、あるいは油彩技法が到来する以前に日本で制作された図画一般まで指すのか、定義があいまいなまま使われることも多い。.

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日本芸術院

日本芸術院(にほんげいじゅついん、旧字体:日本藝術院、英語:The Japan Art Academy)は、美術・文芸・音楽・演劇など芸術のさまざまな分野において優れた功績のある芸術家を優遇し顕彰するために置かれた国の栄誉機関で、文化庁の特別の機関である。.

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日本書紀

日本書紀(平安時代の写本) 『日本書紀』(にほんしょき)は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体にて記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。.

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旧石器時代

旧石器時代(きゅうせっきじだい、Pal(a)eolithic Age)とは、ホモ・ハビリスなどヒト科による石器(打製石器)の使用が始まった時代で、石器時代の初期・前期にあたる。年代的には200万年前に始まる。旧石器時代は石器の出現から農耕の開始までの時代(完新世)をさす。旧石器時代の語源はギリシャ語で παλαιός (palaios, 古い)+ λίθος (lithos, 石)である。.

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放射性炭素年代測定

放射性炭素年代測定(ほうしゃせいたんそねんだいそくてい、)は、自然の生物圏内において放射性同位体である炭素14 (14C) の存在比率が1兆個につき1個のレベルと一定であることを基にした年代測定方法であるアリソン 2011 p.71。対象は動植物の遺骸に限られ、無機物及び金属では測定が出来ない。 C14年代測定(シーじゅうよんねんだいそくてい、シーフォーティーンねんだいそくてい)に同じ。単に炭素年代測定、炭素14法、C14法などともいう。.

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政治

本記事では政治(せいじ)とは何かについて解説していく。.

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慶派

慶派(けいは)は、平安時代末期から江戸時代の仏師の一派。定朝の孫頼助に始まる奈良仏師の傍系出身だが、七条仏所を形成、主流派をなす。.

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慈照寺

東山慈照寺(じしょうじ)は、京都府京都市左京区にある、臨済宗相国寺派の寺院。相国寺の境外(けいがい)塔頭である。室町時代後期に栄えた東山文化を代表する建築と庭園を有する。 室町幕府8代将軍足利義政が鹿苑寺の舎利殿(金閣)を模して造営した楼閣建築である観音殿は銀閣(ぎんかく)、観音殿を含めた寺院全体は銀閣寺(ぎんかくじ)として知られる。「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。銀閣は、金閣、飛雲閣(西本願寺境内)とあわせて京の三閣と呼ばれる。 山号は東山(とうざん)。開基(創立者)は足利義政、開山は夢窓疎石とされている。夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物(故人)であり、このような例を勧請開山という。.

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扇面法華経冊子

四天王寺蔵 扇面法華経冊子(せんめんほけきょうさっし)または扇面古写経(せんめんこしゃきょう)は、大阪市・四天王寺に伝来した装飾経の遺品。扇形に切った料紙(扇面)に絵を描いて2つに折り、折り目で貼り合わせて冊子とし、そこに法華経・無量義経・観普賢経の経典の経文を書写したものである。.

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書(しょ)は、次のような意味で使われている。.

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書道

京都・東寺蔵 『蘭亭序』(部分)王羲之 書道(しょどう)または書(しょ)とは、書くことで文字の美しさを表そうとする東洋の造形芸術である。カリグラフィーの一種。中国が起源であるが、日本語圏においては漢字から派生した仮名、ベトナム語圏では同じく漢字から派生したチュノムやローマンアルファベットを使用するクォック・グーなどでも創作活動が行われている。2009年に中国の書道が、ユネスコの無形文化遺産に登録された。 本項では主に中国語圏及び日本語圏の書道について述べる。その他の文字・地域における書道は他の文字による書道を参照。.

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書院

書院(しょいん).

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書院造

慈照寺東求堂 書院造(しょいんづくり)は、日本の室町時代から近世初頭にかけて成立した住宅の様式である。寝殿を中心とした寝殿造に対して、書院を建物の中心にした武家住宅の形式のことで、書院とは書斎を兼ねた居間の中国風の呼称である。その後の和風住宅は、書院造の強い影響を受けている。かつては「武家造」とも呼ばれたように、中世以降、武士の住居が発展する中で生まれた。.

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曼荼羅

曼荼羅(まんだら、梵語:मण्डल 、チベット語:མཎྜལ(めんでる, maNDal), དཀྱིར་འཁོར་(きんこる, dkyir 'khor))とは、密教の経典にもとづき、主尊を中心に諸仏諸尊の集会(しゅうえ)する楼閣を模式的に示した図像。ほとんどの密教経典は曼荼羅を説き、その思想を曼荼羅の構造によって表すので、その種類は数百にのぼる。古代インドに起源をもち、中央アジア、日本、中国、朝鮮半島、東南アジア諸国などへ伝わった。21世紀に至っても、密教の伝統が生きて伝存するチベット、ネパール、日本などでは盛んに制作されている。 漢字による表記のバリエーションとして「曼陀羅」があるが、日本の重要文化財等の指定名称は「曼荼羅」に統一されており、ここでも「曼荼羅」と表記する。 日本では、密教の経典・儀軌に基づかない、神仏が集会(しゅうえ)する図像や文字列にも、曼荼羅の呼称を冠する派生的な用法が生じた。またチベットでは、須弥山を中心とする全世界を十方三世の諸仏に捧げる供養の一種を「曼荼羅供養」と称し、この供養に用いる金銅製の法具や、この法具を代替する印契に対しても、「曼荼羅」の呼称が使用されている。 画像:Mandala1 detail.jpg|胎蔵曼荼羅中央部の中台八葉院 画像:Vishnu Mandala.jpg|ヴィシュヌ神の曼荼羅 画像:Hokke mandala.jpg|文字曼荼羅(法華曼荼羅) 画像:Painted 19th century Tibetan mandala of the Naropa tradition, Vajrayogini stands in the center of two crossed red triangles, Rubin Museum of Art.jpg|金剛瑜伽女の曼荼羅(チベット仏教).

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曾我蕭白

曾我蕭白(そが しょうはく、 享保15年(1730年) - 天明元年1月7日(1781年1月30日))は、江戸時代中期の絵師。蛇足軒と自ら号した。高い水墨画の技術を誇る一方、観る者を驚かせる強烈な画風で奇想の絵師と評される。.

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普賢菩薩

普賢菩薩像(東京国立博物館蔵) 普賢菩薩像(鳥取・豊乗寺蔵) 普賢菩薩像 伊藤若冲筆(相国寺蔵) 普賢菩薩(ふげんぼさつ)、梵名: サマンタ・バドラ (समन्तभद्&#x0930)は、大乗仏教における崇拝の対象である菩薩の一尊。文殊菩薩とともに釈迦如来の脇侍として祀られることが多い(参照:釈迦三尊)。法要では四七日の仏とされる。 三昧耶形は剣、五鈷杵。種子(種子字)はアン (aM)、ウーン (huuM)。.

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智積院

名勝庭園 智積院(ちしゃくいん)は、京都市東山区にある真言宗智山派総本山の寺院である。山号を五百佛山(いおぶさん)、寺号を根来寺(ねごろじ)という。本尊は金剛界大日如来、開基は玄宥である。智山派の大本山寺院としては、千葉県成田市の成田山新勝寺(成田不動)、神奈川県川崎市の川崎大師平間寺(初詣の人出で例年日本一を争う)及び東京都八王子市の高尾山薬王院がある。寺紋は桔梗紋。.

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時代

時代(じだい)とは、時間の継続性の観点で特徴を持った1区切りを指す。観点によって様々な使われ方がある。 歴史の分野では、政治や社会の形態の変化によって時代を区切る(時代区分)。国家体制が明確になっている時代であれば、政権の在処の変遷によって時代を区分する。日本の江戸時代、鎌倉時代などは当時の実質的中央政府である幕府の所在地を時代の名としている。飛鳥時代のように権力者にとって主流な文化として体系化され、普及し、栄えていた文化を時代の名とする場合もある。 平成時代や昭和時代は、天皇の在位によって区分されている(一世一元の制)。 それ以前の歴史(先史時代)では、生活の状態を規定する道具を持ってその生活状態を代表させ、時代の名としている。旧石器時代(打製石器)や弥生時代(弥生土器)等がその例である。時代の名としては使わないが、石器、青銅器、鉄器などの使用も時代を分けるものと見なされる。同様に、広い範囲に影響を与えるような道具や機械などによって時代を分けることもある(テレビの時代など)。 より古い時代は、地質学の分野であるが、そこでは代と紀を用いて体系的に名前を付ける。ただしやや通俗的に上記のような、たとえば恐竜時代といった表現は存在する。 その他にも、象徴的な事柄や社会の情勢、流行、栄えたもの、あるものの幕開けや区分、終わりを「時代」と表現する場合がある。また、最近では、通俗的な表現にとどまってはいるが、ファッションなどの風俗の在り方で時代を区切る考え方も普及している。.

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1180年

記載なし。

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1192年

記載なし。

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1573年

記載なし。

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1603年

記載なし。

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1615年

記載なし。

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1872年

記載なし。

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1873年

記載なし。

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1877年

記載なし。

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1889年

記載なし。

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1900年

19世紀最後の年である。100で割り切れるが400では割り切れない年であるため、閏年ではなく、4で割り切れる平年となる。.

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1907年

記載なし。

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